PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn [#表紙(表紙.jpg)] 松本清張 目 次 アンカレッジの「買物」 コペンハーゲンの「古城」 ロンドンの「公園」 スコットランドの「湖」 スイスの「高原」 アイガーの「壁」 [#改ページ] アンカレッジの「買物」 1 窓の外は窓になっている。隣のビルも昼じゅう天井の蛍光燈が点け放しだ った。秋の半ばから太陽の位置がずれて日蔭がつづく。来年の春にならない と日射しが戻ってくれない。この王冠観光旅行社では二階の窓に陽が当って くるのを日向《ひなた》の回帰線と呼んでいた。陽光は四階から順々に降り てくる。日照権が問題になるはるか以前の建物だった。京橋では目抜きの通 りであった。 営業部企画課の谷村が文章を練っていた。窓際でも終日スタンドが必要で、 ひろい机の上にはパンフレット類が散らばって、人工の光をうけ、ここだけ は花をならべたようである。パンフは自社のもあるし、他社のもある。ヨー ロッパの地図と、電話帳のような国際線の時刻表も横に開かれていた。片方 にはカラー写真が積み上げてある。手もとの灰皿に吸殻が堆積してまわりを 灰だらけによごしていた。 原稿用紙の最初に小説の題名のように「ローズ.ツア」と大きく書いてあ る。わきに "Rose Tour" ──英字のほうがうまかった。 コースその他が頭に書いてある。 □東京==コペンハーゲン==ロンドン──エジンバラ==ロンドン==チ ューリッヒ──ベルン(ユングフラウ登山電車で)──クライネシャイデッ ク──ジュネーブ==パリ==ローマ==アテネ==テヘラン==バンコッ ク==香港==東京。(※==は国際空路) 二十五日間。──595、000円。航空運賃はもちろん、国際列車、バ スの運賃、ホテル代全部を含みます。航空機はエコノミー、国際列車は一等、 ホテルは一流です。 当社と契約の銀行ローンをご利用下さると頭金は総経費の十分の一以上、 すぐに出発できます。分割回数は3.6.10.12.18.24 の6種類です。 出発──昭和四十×年四月十五日□ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ここまでは極り文句である。谷村の腕はそのキャッチフレーズにある。 □女性だけのグループが体験するヨーロッパの旅! あえて『ローズ.ツア』 と名づけました。 男性と混成の旅行ももちろん愉快には違いありませんが、純粋に女性だけ の外国の旅も気が置けなくて愉しいものです。女性のみの新鮮な感覚と繊細 なセンスが、旅によってかもし出される友情的な雰囲気によって、さらには その相互作用によって、|より《ヽヽ》磨かれ、洗練されると存じます。お しゃべりと解放感の海外旅行! 見知らぬ男性といっしょではと、とかく気 をお使いになる方には絶好の編成です□ □その上、女性旅行評論家としてみなさまご存じの江木奈岐子《えぎなぎこ》 先生がとくに講師として参加してくださいます。江木先生の深い知識と魅力 あるお話しぶりは、現地を見るのにいちだんと興味を深めることと存じます。 ヨーロッパの歴史、文学、芸術、民俗などについてみなさまは帰国の際には ひとかどの権威になられます。江木先生はみなさまのどのようなご質問にも 親切に答えてくださいます。先生はみなさまの顧問にも友人にもなりたいと いっておられます□ 「やれやれ」 声が頭の上から降った。いつのまにか谷村の横に津島が立っていた。 「こっちはこれから雪まじり霙《みぞれ》まじりの冬を寒いアパートで過そ うというのに、陽春四月ヨーロッパ花の旅かね。いくら商売でやっていると はいえ、こっちの身の哀れさを感じるね」 同じ企画課の津島はパンフレットなどのデザインや構成をしている。 「いちいちわが身とひきくらべていちゃ、こんな文句は一字も書けない よ。……どうだね、この文章の調子は?」 谷村も鉛筆を投げ出し、背を椅子にもたせて煙草をつまんだ。 「まあまあというところだな。こうしてみるとローズ.ツアという名前も悪 くはなさそうだ。広島さんが案を出したときは、甘すぎるってぼくは批判し たけどね」 「女ばかりだからそれでいいんだよ。夢を追っているロマンチックな女が集 るだろうからな」 「お金の余裕があって、会社からは四週間の年次休暇がいっぺんに取れて、 外国を見てこようという結婚前の贅沢なOLか。海外旅行を愉しんで、箔を つけて、ノータックスのあちらものをいっぱい買って帰りたい連中を狙った のか」 「若い女ばかりじゃあるまい。いつまで経っても亭主が連れて行く気配がな いので、しびれを切らしている有閑マダムも居るだろう。亭主も男のいる組 といっしょじゃ心配だけど、女ばかりのグループなら安心して無理してでも 出す気になるだろうからな。女だけだから気の置けない旅って書いたのは、 そういう含みだ。そのほかお金を溜めて独身の自由を満喫しているOL、次 の再婚まで亡夫の遺産で生活をエンジョイしている若い未亡人、中企業の女 社長とか学校の教師、それにバアのマダムとかホステス。こりゃァ、行けな い同性の羨望の的だよ。旅もデラックスをうたっているが、会員の構成も多 彩になりそうだ。役得のコンダクターはだれだね?」 「役得? とんでもない、統御するのにひと骨だろう。今度はベテランの門 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 田《かどた》良平に白羽の矢が立ったらしいね」 「門《かど》ちゃんか。うむ、けだし適任だな。広島さんの選定だな。けど、 あいつ正月から東南アジア.オーストラリアの旅に出るはずだがな」 「いまもハワイ.メキシコのコースに行って、あと二、三日で帰るはずだよ」 「あ、そうだった。ベテランは息つく間もないというわけか」 「適当にポーカーフェースで適当にウエットで、礼儀正しくて粗野《ラフ》 で、ビジネスには正確となると、女ばかりの引率では門田良平しかいないだ ろうな」 王冠観光旅行社は社長が村田巳太郎といって五十六歳、もと進駐軍の通訳 をしていたが、将校に気に入られて物資の横流しではかなりうまいことをし たという風評がある。そんな蔭口を同業者からきかれるのも村田がやり手だ からで、進駐軍勤めをやめてから十年ばかりはいろいろな事業に手を出した が、結局海外観光旅行ブームに乗ったいまの商売が当った。戦後の旅行代理 業として今では古いほうで、その後ブームに乗って簇出《そうしゆつ》した 同業では大手に次ぐ中堅どころになっている。大阪、福岡、札幌に支店をも って本社の従業員百数十名、そのうち三分の二が営業部。その大多数が客の 勧誘獲得と添乗要員を兼ねている。あとは普通の会社なみに経理部、総務部 に分れているが、特殊なものとしては航空券発行事務の発券課がある。常務 の広島淳平は創業当時の添乗員上りであるが、いまは功を買われて役員兼営 業部長になっていた。 企画課の谷村と津島の無駄話は四十×年の十一月のことであった。翌年春 の企画はおそくとも前年の夏ごろには立てられる。企画は営業の安全性に立 って対象を絞る。まとまった団体は料金が安いかわり数でこなせる。農協な どはその上客だったが、会社、工場関係、学校関係がある。学校でも普通の 学校より洋裁学校、美容学校、料理学校といった女性専門の「民間学校」が 案外な穴場で、町の学校といっても軽視はできず、ある小さな料理学校では 全生徒のほとんどが十二日間のヨーロッパ旅行に参加して勧誘する側をおど ろかせた。 このようにまとまった団体を対象にするほか、不特定な参加者を特定な目 的の旅で募集する方法がある。たとえば「ヨーロッパの古城めぐり」「ヨー ロッパの古建築と古美術」「ヨーロッパ陶磁器研修」「ヨーロッパ.ファッ ション」「ヨーロッパの味の旅」「英語研修と民宿の旅」「フランス語研修 と観劇」など。 これは不特定な客層から焦点をはっきり定めたもので、大量の参加者は望 めないが、その代りそれぞれの愛好者はどこにもいるから確実である。ただ、 予定人員に達しない場合は編成を中止する。いつぞや王冠観光旅行社でも「欧 亜シルクロードの旅」「インド古文明と高原の旅」を募集したところ会員が 足りなくて中止した。 今回の「ローズ.ツア」は女性ばかりというのが特徴で、それに合わせた 観光プランも、ショーウインドウに出した飾り見本のようなものだから、人 員が集る可能性は十分にあった。過去にも一回その企画で成功していた。営 業部員がルートの会社、学校などに当ったり、いままでの会員から紹介を求 めたりする一方、団体名簿から心当りの先にパンフレットや案内書をダイレ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn クトにして発送したりする。この事務所のウインドウに看板やポスターを掲 げる。この散漫とも見える宣伝がばかにはできず、案外にそれに心を動かさ れてくる客が多かった。 前の女性団体旅行では、べつに「講師」をつけなかった。ところが近ごろ は会員の知識欲を満足させるためか、あるいは権威をつけるためか、旅行社 のなかではその方面のちょっとした著名人を「講師」にして同行させるのが はやってきている。今度の「ローズ.ツア」に王冠観光旅行社が旅行評論家 の江木奈岐子を「起用」したのは、いわばその流行に立ちおくれないためで あった。 ──谷村と津島が企画課の冷たい窓ぎわの机のまわりで無駄話をしていた 翌日のことだが、この企画の立案者でもあり担当責任者でもある常務の広島 淳平が田園調布に江木奈岐子を訪ねていた。 広島は江木に交渉して「講師」を承諾させたのだが、それから日が経って いたので、企画進行についての中間報告と、確認を取りに来たのである。江 木も雑誌原稿とか講演とかで、けっこう忙しいので、途中で「申し訳ないけ ど、オロしてください」と云われないように、このへんで釘をさしておく必 要があった。 江木奈岐子は四十五歳だが、四十ぐらいにしか見えなかった。若いときア メリカにしばらく留学したことがあるというが、さだかな経歴はだれにも分 らない。そこが彼女の神秘的な魅力でもある。本名は坪内文子。英米で出版 された世界の旅行記や紀行文学を翻訳しているうち、彼女の書く随筆で売り 出した。江木奈岐子は翻訳者当時からのペンネームである。本名を知る人は 少ない。ずっと独身である。 ひとり者だから外国によく出かけた。それをエッセイに書く。 江木奈岐子は世界中の民芸品がいっぱい飾ってある応接間で、細巻きの煙 草を片手に広島の出した案内書やパンフレットの原稿を見ていた。ひらべっ たい顔で、眼も細い。外国ふうの派手さから若くみえるというだけで、あま り美人ではないから、ジャーナリズムにはロマンスめいた噂が出なかった。 他人の風聞でも、美しい女でないと雑誌の記者や編集者も興味が湧かない。 「ねえ、この企画、女ばかりなのに会員が集るかしら?」 江木奈岐子は指の間から原稿を落すようにテーブルに置いて、短い鼻髭の 広島の顔を見た。 「集りますよ。そりゃ、大丈夫。江木先生が講師じゃ魅力ですからね。断る くらいに申込みがあると思います」 広島がきんきんした声でいった。 「わたしなんかじゃ人集《ひとよ》せにはならないわ。このパンフレットの 原稿にはうまいこと書いてあるけど」 原稿は谷村が昨夜居残りしてまで苦労して書いたものである。 「五十九万五千円というのは、近ごろの募集にしてはちょっと高いわね。六 十万にしないところが心理的な効果ね。コースは面白そうだけど」 「豪華なんですよ。江木先生も、向うにいらしたら会いたいお友だちがある でしょう?」 「そりゃ、いっぱい居るけど……」 江木奈岐子は細い眼で壁の油絵を習慣的に眺めた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 2 三月五日は金曜日である。 天気のいい金曜日というのは長期の旅行計画に関係があるらしい。週末の 前日というのが心理的に作用するようだった。 午前十一時ごろ、梶原澄子が王冠観光旅行社に現われた。壁に外国の観光 ポスターを貼りめぐらし、青っぽい地球儀や銀色の旅客機の模型をならべた ロビーに彼女が姿を見せたとき、カウンターの受付に坐っていた杉山映子は、 その女客が四十三、四歳くらいで、頸《くび》が長いという特徴をすぐ知っ た。顔はぎすぎすした感じだった。 「あの、ローズ.ツアの団体は、もう締め切られましたか?」 女客は、ちょっと傲慢とも聞える口調で訊いた。市場で買物をする客にこ ういう口のききかたをする主婦がいる。 「いいえ。まだでございます。どうぞ、おかけ下さいませ」 杉山映子はカウンター越しに、青いビロードを貼ったパイプ製のしゃれた 椅子をすすめた。 杉山は横に積んである「ローズ.ツア」のパンフレットを一枚とってさし 出すと、客は一瞥くれただけでいった。 「これはもう読んでいますの。一週間前に人にたのんでこちらからもらって います」 一週間前からパンフで研究してきたのなら、今日は素見《ひやかし》では なく、本気に申込みにきたのだと杉山は察して、少々お待ちください、いま その係りの者を呼んで参ります、と二階に上って門田良平に知らせた。 門田良平が急いで「店」に降りると、ベージュのツーピースをきた痩せた 女は手帳をとり出していた。 「いらっしゃいませ」 門田は外国の土地を步いてもひけ目を感じないくらい背の高い男だが、惜 しいことに撫で肩なので細く見えた。 「ローズ.ツアに参加させていただこうと思って参りましたの」 客は手帳を持ったままで訊いた。 「ありがとうございます」 「それで、少し、おたずねしようと思います」 「どうぞ」 「行先は、この刷り物に書いてある通りで、変更はありませんか?」 「ございません。これは、どちらかと申しますと、インテリ好みのコースで ございます。イギリスでもエジンバラまで行くのは普通にはございませんし、 テヘランのような東西文明の接点も十分に見ていただこうと思いまして」 「そう?」 杉山映子はわきで、仕事をするふりをしながら女客の様子を観察していた。 「日程も変りありませんのね?」 「いまのところ、ございません。あまり強行軍でもないし、退屈するほど長 くもない、ちょうどいいような日程にしております。あの、失礼ですが、外 国旅行はこれまで……?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「行ったことはありません。もし、参加するとすれば、今度が初めてですわ」 「それでは、ぜひ、このコースをおすすめします。玄人好みと申しましたが、 もちろん初めての方にもたいへん興味が深いと存じます。これにも書いてあ りますように、講師として江木奈岐子先生がご同行なさいますから、ただ、 すうっと見て通るというのではなく、外国の歴史や文化がほんとうに自分の ものになります。……あの、江木奈岐子先生のことはご存じでしょう?」 「さあ、よく存じませんわ」 「あの、新聞雑誌などに旅行評論家として名前が出ている江木奈岐子さんで すが……」 もっとも江木奈岐子はジャーナリズムでは知られていたが、まだ広くは名 前が行きわたっていなかったので、その名を知らなくとも、さして無知とは いえなかった。 江木奈岐子は外国小説の翻訳家としても成功しなかった。日本の読者は外 国の小説に対しても妙な偏見があり、いわゆる純文学ものは尊敬するが、大 衆小説は読まない。もっとも推理小説は別でマニアのような愛好者がいる。 江木奈岐子も、せめてハードボイルドの小説を訳せばよかったのだが、彼女 の翻訳したのは通俗的な恋愛小説であった。これは日本では受けなかった。 せめてその小説にエロがあればまだしも売れたかもしれない。 しかし、アメリカ文学に詳しい評論家の佐田惣一郎氏は江木奈岐子は俗語 《スラング》を上手に訳していると賞めたことがある。だが、評論家が一人 ぐらい賞めたところで、その訳書が売れなければ仕方がない。誤訳があろう と拙い訳文であろうと、売れる本が勝ちである。 こうして江木奈岐子は、アメリカから出版される旅行記のようなものを訳 することに転じ、それが自分でも旅行随筆を書くようにさせた。いまでは「旅 行評論家」の肩書がジャーナリズムによってつけられている。 だが、旅行評論家といった存在はジャーナリズムにはまだ地味な存在で、 江木奈岐子はペンネームだが、坪内文子という本名を知る者は、記者や編集 者にすらいたって少なかった。その顔写真が頻繁に紙上に出ることもなかっ た。まして、雑誌の新聞広告に出るような派手な扱いはされなかった。 本人もべつにそれを不服と思わず、むしろそれを当然と思い、派手な扱い を嫌っているようだった。その点は、たいへん謙虚な人柄だった。東京の或 る私立英学塾を出たということだが、有名校でないためか、それも彼女は日 ごろからあまり口にしなかった。 「この旅行には、こちらからどなたか付き添っていらっしゃるんでしょう?」 女客は、江木奈岐子にはふれずに、パンフに出ている添乗員《コンダクタ ー》のことをきいた。 「はい。実は、わたしがお供させていただくことになっております」 「あなたが?」 彼女は細い眼を開けて門田の顔を見上げた。それからその眼はまた微笑に もどった。好奇心とも軽蔑ともつかぬ表情だった。 「どうも行き届きませんが、できるだけお世話させていただきます」 門田も笑顔でカウンターに両手を突いた。 「それじゃ、外国にはたびたび行ってらっしゃるんですのね?」 「はあ。仕事上の経験は積んでいるつもりです」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「今度の旅行は、どういう方がお集りですか?」 「いまのところ、会社などにおつとめの方が多うございます。それから一般 家庭の方々や学生さんですね」 「若い方が多いんですのね?」 「いえ、そうでもありません。やっぱり金額が張りますから、そう若い方は 居られません」 「じゃ、わたくしぐらいの年配の方が多いんですか?」 「そうですね、ちょうど同じくらいの方々じゃないですか」 門田は客を四十一、二歳か、それより少し下と思っていた。見たところ裕 福な家庭の奥さんのようであった。 「団体の方も入ってらっしゃるんですか?」 「そういう方は居られません。まあ、三、四人くらいはグループで申込まれ てはいますが、それは仲のいい友だちという程度で、団体というほどではあ りません」 「ホテルでの部屋は、一室に二人となっているようですが」 と、彼女は小さな活字に眼を落してきいた。 「それは、はじめから終りまで同じ方とごいっしょするんですか?」 「そうでございますね……」 一部屋に二人は、旅行社として、最も厄介な問題の一つであった。その面 倒は、添乗者がじかに押しつけられる負担でもあった。で、門田は説明した。 「もちろん、前から親しいお友だちどうしはごいっしょになれます。グルー プもそうです。それ以外に、この旅行ではじめてお顔を合わせたというよう な方は、だいたい年齢の同じ方で組み合わせるとか、あるいは抽籤《ちゆう せん》によって組をきめていただくとか、そういうふうにしていただいてお ります。そうして、原則としては、日本を出発して帰国なさるまで、変えな いことにしていただいております」 女客は軽く眉根に皺を寄せた。 「わたくしは、その点が心配です。いい方とごいっしょだとけっこうですが、 万一、気の合わない方との組合せになると憂鬱ですね。長い旅ですから、せ っかくの愉しみが台なしになります。そんなとき、あなたのほうで上手にチ ェンジしていただくことができますか?」 彼女の言い方は、どこか事務的で潤いがなかった。 「そうですね」門田は慎重に答えた。「どうしてもやむを得ない場合は考慮 しますが、少しくらいのことは我慢していただきたいですね。団体旅行です から」 「わたくしだって、できるだけ相手の方に合わせたいのですが」 「ぜひそうしていただきたいですね、お互いに仲よくして譲り合ってですね。 これまでの私の経験では、みなさんうまくいっていますよ。そうご心配にな ることはありません」 その経験は本当ではなかった。男女の混成でも、それは八〇パーセントが た女だったが、女性どうしの側に面倒《トラブル》が絶えなかった。ことに 今度は女性ばかりだから、門田もさばくのに覚悟を要するのである。彼はど んなときでも「中立」と「公平」の立場を崩してはならなかった。 「わたくし、人見知りするほうの性質《たち》なんです。それに口が上手で PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ありませんから、それでもし相手の方が不愉快を感じられて、それがまたこ っちにはね返ってくると困るんです」 女客はいった。 「どうしても、ご辛抱ができないようなお相手でしたら、そりゃ、ぼくが適 当な理由でほかの方とチェンジするようにはしますがね。しかし、いちいち そうしていると収拾がつかなくなりますから、原則としては初めから終りま で不変ということになっています。あなたのご希望に副《そ》うようにして も、そりゃ内緒ですから、ほかの方には黙っていてください」 「ありがとう。それさえ伺っておけば安心です」 女客の眼が明るくなって、門田から聞いた要領を手帳につけた。 「しかし、そう取り越し苦労をなさることはありませんよ。毎日毎晚、珍し い景色や変った所を見て步くんですから、そんな気持が起るヒマはないでし ょう」 「申込みます」 申込書に記入された姓名は梶原澄子、年齢四十三歳であった。住所は札幌 市だった。連絡先は梶原産婦人科病院の院長梶原二郎とあった。 「この人は、わたくしの亡くなった主人の弟です」 梶原澄子は説明した。 「主人は産婦人科病院を札幌市の近くに持っていましたが、昭和三十二年に 札幌市に新しく病院をつくりました。個人経営の病院としては市内でも大き いほうなのです。その主人が三年前に死んで、そのあとを同じ医者の弟につ がせました。わたくしと共同経営です。そんなわけで、わたくしも閑ができ ましたから、そこで海外旅行を思いたったのです。主人が生きているときは、 ずいぶん働いてきましたから」 彼女は、現在のめぐまれた身分を語るために、自身の事情にちょっぴりふ れた。 が、それは旅費の節約でこの旅行団に加入するのではないことを強調した いようだった。それはその通りに違いない。産婦人科は繁昌し、利益も大き いというのが世間の見る眼であった。 「ずいぶんぶってるみたいね。医者の未亡人って、みんなあんなのかしら」 杉山映子が客の帰ったあと、門田にいった。 それより約三時間後に訪れた藤野由美の場合は、ほかの同行者たちのこと はほとんど気にしていなかった。 「わたくしは、去年の春、ヨーロッパ旅行をするつもりでしたの」 藤野由美は、小柄だが、整った姿態であった。大きな眼のふちには、うっ すらと蒼い色を塗り、細い眉を鋭い弧線で描いていた。 「でも、仕事が忙しくていままでどうしても行けなかったので、こんどは決 心をつけました。だって、キリがありませんもの。それにこちらのは女性ば かりの団体だからと思って入ることにしましたの。女ひとりだと旅先でいろ んなことがありそうですから」 藤野由美は細く徹った鼻筋と、やや受け唇《くち》の、なまめいた感じの 顔であった。スーツの型や配色も洗練されていた。 「そういうことでしたら、みなさんとごいっしょのほうが何かにつけてご安 心です。これは、そういうための企画でもあります」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 女客のいう「旅先のいろんなこと」というのは、もちろん誘惑の心配であ った。フランス人はやさしく執拗に近づくし、イタリア人は露骨に追跡して くる。中近東の男たちには粘《ねば》っこい眼で見つめられる。この顔なら、 本人の自負的な杞憂《きゆう》ではなく、その恐れは十分にあった。女ひと りだと、それほどの容貌でないと門田が思っても、向うの男どもからは興味 の対象にされる。 藤野由美は、ちょっと眼を伏せたが、「何かにつけてご安心です」といっ た門田の言葉に、もう一つの意味があると感じたらしく、彼の誤解を訂正す るようにいった。 「わたくしは、言葉にはそれほど不自由はしませんの。ですから、コンダク ターの方にはご迷惑をかけないで済むつもりです」 「外国にいらしたことがあるんですか?」 「ええ、アメリカにちょっと。デンバーというところですが」 「ああ、ロッキー山脈の麓ですね。夏の保養地で有名ですね。あそこには大 学があるはずですから、学生さんのときか何かで?」 「いいえ。べつのときに。ほんのちょっとですが。……そんなわけで、コン ダクターの方はみなさんのお世話にたいへんでしょうから、わたくしは英語 の通じる国は自分のぶんの用事はできますわ」 「それは結構ですね。ぼくも助かります。仲よくなられた人たちの手助けを していただけたら、ありがたいですね」 団体だから安心というのは、自分に関する限り、言葉の問題ではないこと を彼女は云いたかったようだった。 「あら、そんなお世話はできませんわ。わたくしの自由な時間がなくなりま すもの。せっかく外国に遊びに行くのに、ほかの方のために時間をとられる なんて真平ですわ。一度、そういう癖をつけたら、みなさんでわたくしを頼 りになさいますもの。くだらないショッピングのお供なんかご免こうむりま すわ」 彼女は短い髪の毛を振っていった。 「ま、それは、そうですが……」 藤野由美は、他の同行者のことは気にしていないらしく、一切その質問は しなかった。それだけでなく、自分は自分の流儀で参加するのだから、同行 者たちとの交際は無視していいと考えているらしかった。 年齢は三十七歳で、外見はそれよりも三つか四つ若かった。申込書の職業 欄には「美容デザイナー」と書いていた。連絡先は東京郊外の姪の家にして あった。 午後四時半ごろにきた星野加根子の場合は、最近夫が死んでその遺産で海 外を遊んでくるといっていた。これも未亡人である。三十八歳の、大柄な、 眼も鼻も唇も造作が粗《あら》く見える女だった。彼女は、梶原澄子ほどで はないにしても、やはり連れの仲間のことを気にしていた。 三月五日の窓口の受付は、この三人の客だった。が、すでに六人は申込み があった。ほんとうは八人だったのだが、二人は取消してきた。 3 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 四月になると「ローズ.ツア」の団員は一応かたまった。十五日の出発だ から、そろそろ準備を完了しないと間に合わなくなるのである。 門田良平は、隣のビルの壁がボール紙のような風景になっている窓際の、 古びた机の上で、これまでに決定した団員一覧表をひろげていた。方眼紙に ボールペンで、氏名.年齢.職業などを几帳面な字体で書きこんである。な らべ方は申込順。 ①北村 宏子 二五 会社員 ②杉田 和江 二八 会社員 ③竹田 郁子 三一 教 師 ④深山かよ子 三二 無 職 ⑤曾我 千春 二四 服飾店 ⑥鈴木美智代 三五 商 店 ⑦梶原 澄子 四三 無 職 ⑧藤野 由美 三七 美容デザイナー ⑨星野加根子 三八 無 職 ⑩多田マリ子 四〇 飲食店 □佐藤 保子 二五 教 師 □本田 雅子 二〇 学 生 □西村ミキ子 二〇 学 生 □千葉 裕子 二〇 学 生 □浜野ひさ子 四一 無 職 □宮原 恵子 二五 服飾店 □金森 幸江 四五 商 店 □中川やす子 三六 会社員 □黒田 律子 三一 会社員 □日笠 朋子 三七 無 職 連絡先は都内がいちばん多く、大阪、横浜、福岡、京都、名古屋、関東各 県、その他の地方となっている。 門田がくわえ煙草でこれを眺めているとき、営業部企画課の谷村が後を通 りがかりにのぞきにきた。 「二十人になったね?」 と、谷村がいった。 「ああ、やっとね」 門田が短くなった煙草を灰皿に捨てた。 「これで固まりそうかね?」 谷村が訊いたのは、出発前になって解約が出るのが普通だからである。た だ、それがなん人で済むか、步《ぶ》どまりが問題である。 「いや、こんどは減らないだろう。これまでのキャンセルは六人だった。| ひやかし《ヽヽヽヽ》は少ない。こっちは正統派のコースでいった。それが かえってよかったね。よその社の企画は凝って奇を狙いすぎる」 「ぼくのつくった宣伝物の効果もあるかね?」 谷村が笑った。 「ああ、あるね。あと一週間のうちには、まだ四、五人はふえそうだ。問合 せがきている組に迷っているのがあるし、こっちから勧誘しているのに最後 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn の決断がつかないままのがいるからね。そういうのが流れてきそうだ」 「会社員というのはOLばかりだろうか。どういう筋だね?」 谷村がリストを見ていった。 「証券会社につとめているのもあるし設計事務所というのもあったな。商店 の店員さんも居る。いまは小さな商店でもバアでも株式会社を称しているの で、会社員には違いない」 「教師も居るね?」 「高校の教師だ。小中学校と大学の先生はいない」 「服飾店というのはデザイナーかね?」 「いや、経営者らしい。経営者兼デザイナー。例によってパリのショーウイ ンドウぐらいをちょっと見て箔をつけるんだな」 「美容デザイナーというのもある。これは新語だね」 「美容師のことじゃないかね。それもパリの美容院をのぞいて步き、箔をつ けるつもりだろうね」 門田は、店にきた藤野由美の垢ぬけした顔と服装を思い出していた。 「無職はだいたい奥さんがただね」 「そうらしい。未亡人が二人いる。一人は札幌の産婦人科病院長だった人の 未亡人。四十三歳のひと」 「ふうむ。年齢の最高が四十五歳、最年少が二十歳。四十歳のは料理店のお かみさんか。東京かね?」 「大阪の人だよ」 「二十歳は学生。並んで申込んだところをみると、同級生のようだね?」 「いや、違うんだ。学校は別々。偶然にその日につづけて申込みがあった」 「まとまった団体ではないから、いちいちの渡航手続の代行が面倒臭くてた いへんだな」 「みんなに手伝ってもらっている。それにしても厄介だが、仕方がないね。 それにね、お客さんによっては初步的な質問もあるし、いやにひねった質問 もある。女ばかりじゃ、みんなヒステリーを起しそうだから、緩和剤に男を 少数入れたらどうだと半分真面目に提案するのがいたよ。女ばかりというの が受けると思ったのに、これは案外だったな」 「提案者の気持も分らないではないな」 「そうかと思うと、同性ばかりだから安心だとよろこんでくれているのもい る。安心というよりも清潔でいいと賞めてくれるのがいてね。これは潔癖組 だろう。さまざまな性格、年齢、職業や生活の女性たちだから、ぼくもまと めて旅するのに骨が折れると思うが、何ごとも経験だ、やってみるよ」 印刷屋が校正刷を持ってきたという知らせで谷村は門田から離れた。 ひとりになった門田は、もう一度煙草に火をつけ人名表に眼を曝《さら》 した。 自分が会った客は、ひとりひとりの顔と様子が浮んでくる。梶原澄子、藤 野由美、星野加根子。この三人は同日の申込みだった。 病院長未亡人の梶原澄子は最初に組み合わされる室友を気にしていた。星 野加根子も同じような口ぶりだった。 実はこれが旅行団の厄介なことの一つで、同じ部屋に寝る室友で第一夜か ら仲違いするのがいる。同じ部屋のツインベッドに寝ながら日本に帰るまで PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 口を利かなかったという例はざらだった。その反対が、どこに行くのもお揃 いで、食卓も隣どうしでないと気に入らないという蜜のような、妙な蔭口が 起るくらいに仲のいいのもあった。客のいいなりになって途中で組を変えて いたらきりがなく、毎日でも組変えをしなければならなくなる。これは最初 から決定したパートナーには変更がないという原則をきびしく客に守らせな ければならない。 そのために添乗員は絶対に中立の立場を崩してはならなかった。どのよう なことがあっても、少しでも依怙贔屓《えこひいき》がある人間と見られて はならない。客たちに不公平と映ったら統率が利かなくなる。添乗員は、サ ービス業だが一方では団長でもある。団長の威厳と教師の指導力と|わけ《ヽ ヽ》知りの相談役を兼ね備えなければならない。 とくに今度は女ばかりの編成であった。神経質なくらい公平に気をつかう 必要がある。特定の女性に言葉をかけすぎるとか、笑顔が多いとか、面倒を 見すぎるとか、というようにひがまれると、蔭でどんなことを云われるか分 らない。反感や非難が起る。統制力を失うと収拾つかない状態になる。だか ら、ものを云うにも各人に平等に言葉を配らなければならない。Aに七語云 ったら、BにもCにもきっちり七語云わなければならぬ。それ以上でも以下 であってもならなかった。極端なようだが、それくらいの心構えでいなけれ ばならないのだ。笑顔にしても、世話にしても均等に配分することであった。 ベテランの門田だが、今回のは覚悟を要した。 梶原澄子、藤野由美、星野加根子の同日申込みのほかにも、門田が店で会 った数人がいる。 北村宏子は証券会社につとめている。彼女は一番の登録だから印象にある。 背の低い、まる顔の、まだ二十《はたち》くらいかと思うような童顔だった が、門田が渡航手続用紙に署名をもらいに日本橋の証券会社に行くと、彼女 は眼鏡をかけていて、ずっと大人《おとな》びていた。わたし、株で儲けた の、と彼女は内緒話を打明けた。三年間の年次休暇を貯めていたのでそれを いっぺんに取ったといった。 会社づとめの女性のほとんどが年次休暇の集中消化であった。二番目の杉 田和江は建築設計事務所の助手である。背の高い、痩せた女で、すぼんだ頬 をしている。きれいにすき徹った声だが、神経質そうだった。製図に適した 細長い指をしている。 竹田郁子は都内の私立高校の教師で、ものの言い方もていねいで、礼儀正 しかった。国語を担当しているといった。細くて、小さな身体である。とく べつにきれいというのではないが、どこか清潔な感じで好感がもてた。躾《し つけ》のいい家庭に育った女にみえる。 多田マリ子は大阪の飲食店のマダムである。長身で和服が似合った。顔も 面長で、古典的だった。着物の好みも悪くない。四十歳だが、六つくらいは 若く見えた。彼女はずっと和服で通したいが、いいだろうかと関西弁で質問 した。洋服は自分に似合わぬからという。惜しいことに胸のあたりが低かっ た。商売柄、高級な着物で、趣味も洗練されている。 この申出でに門田は実は当惑した。和服でくるのはほかにもいるが、あま り立派なものでこられるとほかの女性を刺戟する。目立ち過ぎて向うで衆人 の視線をひとりで集めることになったら、同行者の間から嫉妬が起り、トラ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ブルの種になる。門田は、旅行中はお召物がいたみますから、なるべく旅の 行動に対応できる身軽なお支度がいいでしょうと婉曲に洋服のほうを頼ん だ。彼女に後援者がいるのはきまっていた。 黒田律子は受付の杉山映子に反撥を感じさせた。ほどよい背丈だったが、 身体つきは豊かだった。昼間から濃いアイシャドウをし、その青色を金髪と 真黒なマキシに対照させていた。真赤な口紅が配色のアクセントになってい る。三十分間の話に外国煙草を二本喫った。書類に署名を求めに行った別の 係りの報告では、渋谷辺の高級マンションに住み、銀座の一流バアにつとめ ているということだった。バアは「株式会社クラウゼン」となっている。だ から申込書の職業欄が「会社員」だった。 それらと対照的なのは、本田雅子、西村ミキ子、千葉裕子の学生たちだっ た。本田雅子は横浜に住み都内の私立女子大生、西村ミキ子は名古屋の私立 女子大生、千葉裕子は福岡の私立女子大生であった。同日の申込みだが、互 いに関係はない。同じなのは、三人とも英文科であった。三週間ぐらい学校 のほうは「なんとかなる」といっていた。みんな子供であった。客がこうい う女の子ばかりだったら楽である。 黒田律子の翌日に加入を申込んできた日笠朋子は、表情も言葉も心細そう だった。顔も身体も細い。血色もよくなく、全体が薄いという感じの女だっ た。既婚者だが、身なりもあまりかまわないふうだった。夫の職業欄には紙 工業の社長とあって、中小企業の経営者のようだ。 最年長で四十五歳の金森幸江は魚屋である。「商店重役」とは西武沿線沼 袋駅近くの魚屋さんのかみさんのことだった。ぶくぶくと肥って真赤な顔を し、どんぐり眼《まなこ》で鼻が低く、唇の厚い、だが、下町弁の早口で、 いかにも庶民相手の商売人らしかった。申込みのときは、|ばつ《ヽヽ》が 悪そうににやにや笑っていた。── ここまで門田が申込者の名と風貌《ふうぼう》とを重ねていたとき、今回 「講師」として同行を依頼している江木奈岐子から電話がかかってきた。 「どうも、先生。恐縮です。二、三日前にこんどのローズ.ツアのメンバー.リ ストを使いの者に持たせましたが、ごらんになりましたか。明日あたり打合 せにお伺いしたいと思っていたところです」 門田はそう云いながら、旅行中に自分ひとりの手に余ることがあれば江木 奈岐子を助手にすることを思いついた。もちろん彼女の威厳を尊重しながら だが。 「わたしねえ、申訳ないけど、急に余儀ない事情が起って行けなくなったの。 ほんとに、ごめんなさい。それでお電話をしたんです」 江木奈岐子は謝るようにいった。 「え。そりゃ、たいへんだ。この期《ご》になって、それは困りますよ。と にかく、ぼく、そっちにこれから伺います」 4 門田良平は講師を電話で断ってきた江木奈岐子のことを、まず、企画担当 の広島淳平のところに報告に行った。広島常務は江木女史に交渉した責任者 である。広島は、それほどひろくもない二階の役員室でどこかの外国旅行社 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn との契約書に眼を通していた。 「マレーシアのペナンにある南十字星《サザン.クロス》旅行社というのと タイアップすることになった。これはその仮契約書だ」 広島は門田にいった。 「タイ.ツーリストは近ごろ鼻息が荒くなった。外国旅行社との契約がふえ たので強気なんだ。こっちの条件をだんだん悪くしてきている。ここ一年で 日米の他社との新契約を五つもしている。だから、シンガポールやマレーシ ア方面に手が回らなくなっていい加減なことをしている。客からの苦情が多 い。で、小さいけれどペナンのこの旅行社と手を握ることにした。これでマ レーシアの密度がこまかくなるね。向うからこっちにくる客は期待できない が」 広島はそう云って、で、何だね、と門田に短い髭の顔を向けた。門田は江 木奈岐子から都合で講師をオロさせてもらいたいという電話があったことを 云った。 「都合で? なんの都合だ?」 広島は眼を三角にした。 「はっきり云わないのです。とにかく、申訳ないがというだけです」 「断るなら初めから断るか、もう少し早くそう云えばいいのだ。無理に江木 奈岐子でなくてもこっちにはいくらでも頼める先はあったのに。せっぱ詰っ て云ってくるなんて生意気だ」 広島は怒った。自分が交渉した責任上、部下の前で余計に憤慨してみせる のかもしれなかった。近ごろ少し売れてきたらしいから自惚れが強くなった のだろう、女はこれだから度しがたい、江木奈岐子程度の知名度なら他にい くらでも人はいる、とくに彼女でなければならぬというほどの客の吸引力は ないのだ、なにを逆上《のぼ》せているのだと広島は江木奈岐子に悪態をつ いた。それは門田も同感だった。旅行に詳しいという程度でほうぼうの雑誌 などに案内記《ガイド》や軽い読物を書き、それで紀行文筆家とか旅行評論 家という肩書をつけられている者は多いのだ。それとて、その名前に惹《ひ》 かれてどれだけ団体旅行の応募者があっただろうか。客の知的な虚栄心をく すぐる商策だが、その効果はほとんど期待できない。旅行者は見|学《ヽ》 よりも見|物《ヽ》オンリーである。そうして次は買物である。とくに女の 場合だと見物よりも買物がしばしば先になる。添乗員ならそうした客の生態 をよく経験している。そういう旅行団に紀行文筆家や旅行評論家を付けるの は、会社の宣伝のためのアクセサリーであり、サービスである。悪くいうと 知的なアトラクションである。実は門田はそういうサービスは余計なものだ と考えていた。それよりも自分が気兼ねなしに自在に使える助手をつけても らったほうがどれだけいいか分らないと思っていた。 「だが、そういっても一度発表した手前、江木女史はどうしても使わんと困 る。このどたん場になってほかを当っても断られるにきまっている。第一、 江木女史が行くことになっているのはみんな知っているはずだから、補欠で 行くのは嫌がるよ。連中はそれぞれプライドを持っているからな」 「それは、そうです」 「君はこれから江木女史のところに行って、説き伏せてこい。先方に条件の 希望があったら、ある程度は呑んでもいい」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「条件というと?」 「江木女史は講師料の値上げを考えているかもしれん。少しくらいならイロ をつけてもいい」 「まさか、と思いますがね。そういう駈引だったら少々悪どいですね」 「近ごろは露骨なことが平気で通っている。もう一つは彼女がもったいぶっ ているのかもしれんということだな。十分に行く気があるのに、ちょっと渋 ってみせて自分に貫禄を持たせようというやつだ。旅費は全部当社持ちの上 に講師料をもらってヨーロッパを旅行してくるんだから、だれが聞いても悪 い話ではない」 「もしそういうお体裁で断ってきたのだったら話は簡単ですがね」 門田は、江木奈岐子が「余儀ない事情が急に起って」というのを繰り返す だけで、はっきりした理由を云わなかったのは、広島の想像が当っているの かもしれないと思った。 田園調布というのは都心からタクシーで行くのに遠くて不便な所である。 高速道路で渋谷に降りても、国道二四六号線は工事で混雑しているし、三軒 茶屋を過ぎると、渋滞がひどかった。面白くない用事で行くだけに門田はい らいらした。 田園調布の三差路を右に入ったところに江木奈岐子の小さいが、わりと瀟 洒な家があった。門には「坪内」と「江木奈岐子」と二つの表礼がならべて かけてあった。 門田は江木奈岐子の家のまん前にわざとタクシーをとめさせた。いかにも 違約を責めに乗りこんできたというのを音で聞かせた。 玄関には江木奈岐子が直接に出てきて、門田を見るとその場にへたへたと 坐って大仰に頭を下げた。が、顔は困ったように笑いかけていた。門田は、 その表情から、おや、これは駈引でなく断ったのだなと直感した。 世界各国の民芸品が飾ってある小さな、女の住居らしい応接用の座敷に通 された。 「いったい、どうなさったのですか、先生。急にお断りになったんで、びっ くりするやらあわてるやらで、早速駈けつけてきました」 姪《めい》だという女学生が持ってきた茶を一口すすって門田はすぐに切 り出した。 「ほんとにごめんなさい。これ、この通り」 と、江木奈岐子は門田に両手を合わせた。眼が細く、口が横にひろい。濃 い目の化粧でも笑うと無数の皺がむざんにも現われる年齢だった。 「拝まれても困ります。先生のお電話を広島常務に伝えたら、ぼくはこっぴ どく叱られました。社としても外部に先生のお名前を発表して会員を募集し たんですからね。もう二十人も申込者があります。あのリストをごらんにな りましたか?」 「ええ、ざっと拝見してます」 「あんなに申込者があるのも先生が講師だからというのですよ。それを今ご ろお断りになるんですからひどいですよ」 門田の語勢は、いきおい強くなり、詰問調となった。彼も責任がある。い い加減にされては困るという腹立ちが顔に出た。 江木奈岐子はうつむいた。眉の上に険しい皺を寄せたが、それは、半泣き PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn の表情だった。彼女は顔を横にむけて黙って立つと、座敷の隅に置いた机の 抽出しから、小さな、うすい函をとり出して、中の小粒な錠剤を掌の上に、 二つこぼした。彼女はそれを口に含んで仰向くと、水なしで呑みこんだ。常 用者らしい馴れた呑みかただった。門田が小函のラベルにそっと眼をやると、 薬はトランキライザーであった。精神安定剤である。 門田は、少々言い方が強すぎたかなと思った。女はこれだからやりにくい と弱った。 江木奈岐子は、しばらくものを云わなかった。眼を半眼に閉じ、片手を胸 のところに当て、薬の効目《ききめ》で精神の動揺と惑乱を鎮めようとして いた。 やがて、彼女は眼を開いた。その顔に動揺は去ったが、哀願にも似た表情 が代って出ていた。 「ほんとにあなたにも広島さんにも、また参加者の方々にも申訳ありません。 でも、門田さん、わたくしを助けてください。一生の浮沈に関する大事なこ とが起ったんですの」 彼女はしおらしい声で云ったが、その眼にはたしかに真剣な色が出ていた。 「一生の浮沈? それは大げさですな」 門田は呆れた。 「いえ、ほんと。わたしのこれからの運命を決定するようなことが起ったん です。電話では云えなかったのですが、こういうことです」 江木奈岐子の真摯《しんし》と技巧的な表情を交えた話を要約すると、知 的読者をもつことで一流といわれている婦人雑誌の『女性思潮』から紀行文 の長い原稿の依頼がはじめてあった。先方でも日本に新しい紀行文学を樹立 する意気込みで書いてほしいという熱のある注文だった。それが二日前のこ とである。自分はこれまで雑文しか書いてないので、この一流誌の依嘱に感 激し、何とかそれに応えられるようなものを書きたい。もしそれに成功した ら、自分の地步は固まる。単に名声だけでなく、他からの原稿依頼も多くな って生活的にも安定が得られる。しかも、その締切が来月七日までというこ となので、とうてい旅行はできない。約束を違えるのはまことに心苦しいけ れど、こういう運は二度とくるかどうか分らない。自分としてはこれに精魂 を傾けたいからこの気持をどうか理解して、この際助けてほしい、というの であった。 「それだけでは、わたしも申訳ないので、責任の百分の一でも果たさせてい ただくつもりで、お願いしたいことがあるんです」 当惑する門田の顔を見て、江木奈岐子ははねつけられない前にと思ってか、 彼女は急いで云った。 「わたしの代りの者をさし出したいのです。表向きは、日ごろからわたしの 協力者だということにして……あなたのおっしゃるように、この期《ご》に なっては知名の方はどなたもお断りになるでしょう。わたしが断ったあと釜 ということでは、みなさんプライドがあって、お嫌《いや》でしょうから」 門田は、自分一人では計らいかねるといって座を立った。 「そのかわり、この埋合せは、きっといたします。広島さんには、くれぐれ もよろしくおっしゃってください」 江木奈岐子は、門田を送りに玄関に出るまで、その肩に手でも置きそうな PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn くらい懇願調で云った。 「ええ。伝えるには一応伝えますが」 「ほんとに、それ以外の理由って、ありませんのよ。もし、だれかがこのこ とであなたの社に云いふらすようだったら、それはみんな中傷だと思ってく ださい。……わたしは、これまで中傷されてきましたし、近ごろはその悪口 がいっそうひどくなってきているようですわ」 「そりゃ、江木先生の思いすごしじゃありませんか」 「思いすごしなもんですか。わたしにはその声が聞えているんです」 「だれが先生にそう云ったんですか?」 「まさか。本人に面とむかって云うものはいませんわ。でも、それは直感で 分るんですよ。だれがどんなことを云っているか、その見当もついています わ。わたしの足を引張って、引きずり降そうとしてるんです」 門田は聞きながら、なるほど、これでは精神安定剤も必要なわけだと思っ た。 しかし、江木奈岐子の現在の位置では、そんな余計な気の遣いかたも分る ような気もする、と帰社のタクシーの中で思った。翻訳家でも三流ぐらいの ところである。それが紀行作家に転向して出発後間もないのだ。そういう同 じぐらいの執筆家の数は多い。マスコミでの地位は不安定であった。出版社 や新聞社にゆるぎのない位置を獲得するまでは、お互いが競争である。名声 と収入とふたつながら手にできるのだから、それに向っての努力もたいへん だが、マスコミが使う人間はきわめて限られているので、自分を売りこむ一 方、一步出た競争者をひきずりおろす策略も話に聞かないではなかった。 婦人雑誌では一流の『女性思潮』から声がかかったという江木奈岐子は、 たしかに望みの階段に足をかけたといえるが、それだけに彼女自身が見えぬ 敵を意識し、聞えぬ中傷や讒誣《ざんぶ》を耳にするのは、それなりに門田 も理解できる。女性だから殊にそうだろう。が、それにしても彼女は被害者 意識が少々強すぎると思った。 5 江木奈岐子が推薦した土方悦子《ひじかたえつこ》が、王冠観光旅行社に 姿を見せたのは、ローズ.ツア旅行団が出発する一週間前であった。旅行社 の応接室といっても一般社員用のは狭苦しい部屋で、表の客寄せのためのカ ウンターのほうが遥かに立派だった。この応接室にも抜け目なく泰西名画の ような観光ポスターが貼られていたが、それがこの殺風景な部屋のごまかし にもなっていた。 土方悦子は、小さな身体だった。卵がたの顔は顎《あご》が短くて尖って いた。眼は、何かにびっくりしたように大きかった。持参の履歴書を見ると、 二十七歳だったが、その年齢より稚《おさな》くみえるかわり、若い女とし ての魅力的な感じには乏しかった。 英語の強いことで知られているU大学英文科を四年前に卒業し、アメリカ 系の貿易会社に二年間つとめ、いまは何もしてなかった。趣味は、英文学と 文化人類学。 王冠観光旅行社では、コンダクター助手《アシスタント》として、そのと PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn きだけのアルバイトとしての女性を登録させていた。総勢で十二、三人はい た。いずれも私大の英文科か短大を出て、英会話が上手で、趣味といったら 揃って「英文学」だった。土方悦子は、そのほかに「文化人類学」という変 ったものを持っている。江木奈岐子の家には、ときどき遊びに行っていると いう。 女性の多い観光旅行団には、会社でこうしたアルバイトの社外助手をコン ダクターに付けていたが、ローズ.ツアの場合は講師として江木奈岐子を頼 んでいたので、助手を付けなかった。それは主として経済的理由からきてい る。団体旅行では客の人数によって会社側の添乗員の航空運賃は無料または 割引、ホテル代サービスが行われる慣例になっている。三十名の団体の場合、 会社側の人員は二名の枠しかないから、講師にそのぶんをふりむけると、助 手を添乗させる余裕がないというわけであった。それだけにコンダクターは 忙しくなる。門田が前に江木奈岐子を「助手代り」に使うつもりでいた理由 がそこにあった。 江木奈岐子が「講師」をオリたとすれば、社外アルバイトの助手要員を起 用すればいいのだが、当の江木奈岐子は、自分の代りにと土方悦子を強力に 推した。その人がらは、自分の家に遊びにくるから、推薦できるという。そ こらへんのいきさつは、門田が江木家を辞して、常務の広島淳平に報告した ときの会話で尽きている。 「江木さんがそんな事情で講師を辞退したのならやむを得ない。彼女にも本 職の舞台で脚光が得られるかどうかの瀬戸際だからね。わが社としては彼女 の不参加で募集の要項と違うことになり、外部に信を問われかねないから、 一時はぼくも江木さんに腹を立てたが、あのひとの立場を考慮することにし たよ。江木さんもそんなに詫びているならね。その土方さんを使うことにし ようよ」 「しかし、どこを回っても彼女には説明ひとつできず、何を訊かれても答え られなかったら、どうしますか」 「そんなことはない。江木女史が違約を謝って代理人として推薦したのだか ら、いい加減な女を紹介するわけはないよ。それに、観光客はそれほど熱心 に知識の吸収欲に燃えているかね?」 「………」 「ぼくの経験では、観光団体客は東京のはとバスの乗客と同じだ。有名な所 をこまぎれに見せてやって、ガイドブックに載っているようなことを、もっ ともらしく説明してやればいい。途中の名所、旧蹟の前を通過してもみんな くたびれて居睡りしている。文字通り見れども見えず、聞けども聞えずさ。 強行軍だから当り前だがね。どうだね、今はそれと変ったかね?」 「あんまり違いませんね。車内で講釈を聞くより睡ったほうがよさそうです」 「それ見たまえ。だれがついていても同じだ。たとえば江木奈岐子女史が行 ってもね。だが、そこは宣伝のアクセサリーだ。知的な味つけで特徴を出し た。競争激甚だから、何か特色を持たせないといけない」 「しかし、江木さんが講師だからといって、とくに参加を申込んできた客は あまりいませんでしたよ」 「口では云わなくとも心理的にはある。だから、代役もアルバイトを使うわ けにはいかん」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ……こうして江木奈岐子推薦の土方悦子が決定した。 「あなたは、海外旅行の経験がありますか?」 と、門田はいま眼の前にいる小さな顔の女に訊いた。 「一度だけヨーロッパを回りました。勤めていた貿易会社が二カ月間の体暇 をくれたときです。一人旅でした」 「いつごろですか?」 「二年前です」 「そのときのコースは?」 「デンマーク、オランダ、イギリス、ベルギー、フランス、スイス、西独、 イタリア、ギリシャ、トルコ、レバノン、アラブ連合、タイなどです。時間 の都合で、主な都市だけですが」 土方悦子はあまり弾《はず》まない声でいった。そのコースが今度のロー ズ.ツアのスケジュールと同じ所が多かったので、門田は胡散臭《うさんく さ》げな眼になった。彼女のほうは、やはりびっくりしたような眼で門田を 見返していた。 門田は、試しに彼女が步いたという先を訊いてみることにした。ハッタリ もあるかと思ったのである。 「デンマークはどこに?」 彼は気軽な調子で訊いた。 「コペンハーゲンから、オルフス、フレデリクスハウンに回りました」 門田はあとの二つを知らなかった。が、知ったような顔で訊いた。 「そんな田舎に何で行ったの?」 「スカエラック海峡を見に行ったんです。スカウンはその北端です」 門田は、内心あわてて、 「オランダは?」 と国を変えた。 「アムステルダム、ハーグ、西独国境に近いアルメロ、ユトレヒト、ロッテ ルダムです」 アルメロという聞いたこともない町の名を除けば、普通の旅行で、これは 門田を落ちつかせた。 「オランダから汽車でベルギーに入ったんですね。ブリュッセルのほかには どこに?」 「アントワープです」 「今の名前はアンベルスですよ」 「でも、イギリスの旧《ふる》い小説ではアントワープで出てきますから、 その名前のほうがわたくしにはなつかしいし、言いやすいのです」 「なるほどね。ブリュッセルに行ったら、ワーテルローを見たでしょうね」 そこは今度のローズ.ツアの予定にははいっていない。門田は狭い応接室 で、ナポレオン戦争の記念碑《モニユメント》になっている人工の丘から見 下ろした景色の、チョコレートのラベルのような牧場と草原を思い出してい る。あの前にはナポレオンの見世物小屋があって、日本の観光客は子供の土 産に玩具のサーベルや大砲や兵隊を買う。その値段とツリ銭の世話がひと面 倒だった。 「それは見ませんでした。ヘントを中心に田舎を步きました。フランドル派 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 画家の舞台ですから。山岳地方ではアルデンヌ高原の北の麓にあるスパに行 きました。温泉地ですが、花祭りを見たかったのです」 「じゃ、春だね?」 「五月です」 門田には平野部も高原も不案内だった。スパという温泉町がどこにあるか 見当もつかない。観光旅行団は有名な都会という点から点をひと飛びして、 途中をつなぐ線はいつも消えていた。絵葉書名所の詰合せセット。 「スコットランドには行ったことがありますか?」 「あります。エジンバラ、グラスゴー。それからローモンド湖のほうに行っ てきました」 門田は北方の湖水を知らない。 「そこにも何か関心があって」 「スコットの小説の舞台ですから。サー.ウォルター.スコットです」 「なるほど、十九世紀初頭の英文学だね。『湖上の麗人』かな」 「それだけじゃありません。あの辺の旅は徳冨蘆花の巡礼紀行にあるんです。 それでなつかしかったのです」 土方悦子は門田の知ったかぶりをいちいちはねかえすようにいった。 「あなたのような若い人がどうしてそんな旧い本を読んでいるんですか?」 「祖父がクリスチャンで、祖父の書斎にあったのを読んだのです」 「あなたは、外国の地方をよく回っているようだけど、そういうの日本の旅 行案内書で見るの?」 「ランド.マックナリイ社のブルー.ガイドやシエル.ガイドなど。そのほ かその土地土地に行って英文の案内書があれば買いました」 Rand McNally というのを土方悦子はきれいな発音でいった。 「でも」と悦子は云い直すように付け加えた。「文化人類学を趣味でやって いると、世界各地方の引例が出ますから、自然と田舎の地名をおぼえてしま うんです」 「たとえば、どんなところですか。あなたの興味のあるところというのは?」 「トルコなんかも興味がありますね」 「イスタンブールですか?」 「旧名はコンスタンチノープル。そこからアンカラに行き、ヒッタイト時代 の首都ハットーシャシュの遺跡を見ました。現在のボアズキョイです。西の シリアに入ってアレッポからダマスカスに行きました。ダマスカスでは博物 館におさめてあるパルミラの遺物を観て、旧約聖書の世界を見て步きました。 それからレバノンに入りバールベックのローマ時代の遺跡を見て、ベイルー トに着きました」 「タイは?」 と門田はうんざりしたついでに訊いた。 「チエンマイの北まで行きました。ほんとうはチエンダオ近くまで行きたか ったのですが、女ひとりでは治安が悪いというので。あのへんの少数民族、 メオ族とかヤオ族とかマオ族などの生活や宗教を見たかったのです」 「ずいぶんとほうぼうの辺境を步きましたね」と門田は多少の皮肉を含めて いった。「しかし、ヨーロッパの観光団には、そんなに高度な文化的知識は 必要ないのですよ。それはいろんなことを知っているのに越したことはあり PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ませんがね。だが、そんな質問者もあまりいないでしょう」 「はあ」 土方悦子は、きょとんとした顔でいた。彼女は江木奈岐子の代理に講師で 参加するという気負いがあって、それで知識の豊富な端くれをしゃべったら しかったが、門田に出鼻をくじかれて肩すかしされたようであった。 門田はいささか小気味よい気持になって、 「各国をまわるコースでは、現地で当社と特約している旅行社からガイドさ んがきます。日本人のいない土地では英語のガイドですが、あなたはそれを マイクでみなさんに通訳してください。ぼくもやりますが、ぼくはほかの事 務処理が忙しいのでね」 「分りました。でも、あの江木先生から伺うと、現地を回る前にホテルとか 乗物の中でレクチュアをしたり、現地に立って説明したりしなければならな いそうですが」 江木奈岐子だったら、そういうプランも持っていただろうから、彼女が悦 子にそう云ったにちがいない。だが、背も低く、身体つきも細い小娘のよう な感じの女がしゃべったところで観光団の連中が権威を感じるわけはなかっ た。第一、江木奈岐子自身が参加したところで、予備知識が貧弱で、買いも のと食べものに関心を奪われ、疲労と睡眠不足であくびばかりしている連中 の耳に、どれだけその「高級な」話が入るか分らなかった。 門田は、専門家のように「現場講演」に勢いこんでいる土方悦子をアルバ イトなみに使い走りさせることに決心をかため、彼女の小生意気な知性ぶり を破摧《はさい》し、助手として徹底的に叩き直してやろうと考えた。 門田は二階に上って広島に、いま江木奈岐子推薦するところの土方悦子が 来ているけれど、お会いになりますか、と訊いた。 書類の山を机の上にかかえて計算に没頭している広島は、横むきのまま、 「どうだね、感じは?」 と訊いた。短い髭に午《ひる》に食べたパンの屑が白く付いていた。 「まあまあです」 詳しく説明するのも面倒だから門田が適当にいうと、 「君さえよかったらそれでいい。今からでは、代りが間に合わないのだから ね。ぼくは会わなくてもいいよ」 と、これも面倒臭そうにいった。 門田が出ようとすると、広島はうしろから呼びとめた。 「君、その女の子はどんな感じだね?」 「外国のヘンな土地を步いてきたらしいです。ちょっと小生意気な娘です」 「江木女史だから、そのくらいの女は寄越すだろう。適当に使うんだね」 「はあ……」 「旅行団の参加者も締切ったし、これでメンバーはきまったね。結団式をあ げるばかりだ」 メンバーがきまり、「役者」は揃った。あとは出発である。 6 四月十五日夜七時四十分から羽田空港の国際線特別待合室で、王冠観光旅 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 行社のヨーロッパ観光旅行団「ローズ.ツア」の結団式が行われた。 出発は二十二時十五分のSAS機で、北回りのコペンハーゲン経由ロンド ン行である。アンカレッジ着が現地時間の十五日十時四十五分で空港|待合 室《トランジツト》で一時間の待ち、十一時四十五分に出発してコペンハー ゲンには十六日の六時三十分に着く予定だった。 特別待合室には三十人の団員と添乗員の門田良平、江木奈岐子の身代り「講 師」土方悦子のほか、見送りの家族や友人がきているのでスシ詰めの状況で、 もちろん見送り人は廊下に溢れている。これでもまだ時間が早いから見送り は少ないほうで、出発時間が近づくともっと多くなる。 女性ばかりの観光団は珍しい。しかも三十人という人数を集めたので、同 業間にも話題となった。ほかの旅行社もこれまで何度か同種のことを企画し たけれど成功しないで、結局男女混成となった。それだけに企画担当の広島 淳平は気をよくして、この結団式にも頗る上機嫌で出席した。 特別室は、団員だけでもあらゆる絵具の色をパレットに覆《くつがえ》し たようであった。若い人は洋装だったが、少し年輩の層は和装の人もいた。 締切三日前には二十三人だった申込者が、その後は門田の予想を超えて七 人もふえた。結団式では、メンバー各自が自己紹介をしたが、門田は自分の 持っている団員表と見くらべてチェックした。それは土方悦子も写しをもら っているので、ひとりひとりの自己紹介が済むたびに、名前の頭に鉛筆で印 を入れた。 三十人だから、ホテルの部屋割りは、一室二人ずつで、ちょうど十五組に 割り切れる。単独参加者が多いので、だいたい、居住地.年齢.職業などを 標準にして同室者を決めた。これは門田が決定したのであって、当人たちの 意志をいちいち確かめたのではない。というのは、お互いがまだ知り合って いないからで、それだけに途中からの苦情は覚悟せねばならなかった。 同室者つまり「ルーム.メート」(室友)は次のように決定された。 ①北村.杉田。②竹田.深山。③星野.多田。④原口.田村。⑤曾我.宮 原。⑥鈴木.中川。⑦浦辺.小林。⑧佐藤.川島。⑨本田.折原。⑩西村.金 森。□千葉.浜野。□喜多.福島。□黒田.日笠。□戸辺.上田。□梶原.藤 野。 年齢もだいたいのところで合わせたが、なかには西村ミキ子の女子大生と 金森幸江の魚屋主婦とが組合せになっているような組もある。女子大生は三 名だから同室者にすると一名あまることになり、それよりもばらばらにした ほうがよく、魚屋さんは外国語が分らぬだろうから、英文科の女子学生を同 室者にしたほうが便利だろうという考えになっている。こうした配慮は、ほ かにも見られる。 しかし、この「配慮」はどこまでも門田の机上のプランであって、参加申 込書を見ただけの配分であった。本人たちの性格、趣味を詳細に知っている わけではないから、旅行中には組合せによる不満が必ず起ってくる。室友が 気に入らないから、ほかの人と取りかえてくれという申込みはきっとある。 一件でもそうしたことを認めると、他の組にも大なり小なり同じ感情があ るから、苦情続出で収拾がつかなくなる。それで門田はこの「室友一覧表」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn を特別待合室で結団式のはじまる前に配布したとき、ひとりひとりに、 「こういうふうに決めましたから、二十五日間の旅行中はこれで通させてい ただきます。多少、お気に合わない方が居られましても、我慢してください。 団体旅行ですから、みなさんの気分をこわすようなことのないようにお願い します。みんな和気あいあいのうちに、愉しく旅したいと思います」 と頼んでおいた。 各自とも、それは承知している。いままで見ず知らずだった女性と二十五 日間も同じ部屋に寝起きするかと思えば好奇心よりも不安が先に立ち、室友 の名を少々心配そうに見ているのが多かった。 結団式では、広島常務が主催者側の代表として短い挨拶をした。 彼は、王冠観光旅行社がこの業務に古い歴史と経験をもち、これまで一度 も手違いがなく、ひろく信頼されていることを力説し、また今回の「ローズ.ツ ア」が女性のみの観光団という異色ある企画に成功したのもその深い経験と 信頼によるもので、業界羨望の的であると述べ、これもひとえにみなさまの ご参加を得た賜《たま》ものであると感謝したあと、講師のことにふれた。 「ここでお詫び申上げなければならないのは、講師としてみなさまとご同行 するはずの江木奈岐子先生に急によんどころない用事ができましてどうして も参加することができなくなったことでございます。事情やむを得ないこと で、わたくしどももまことに残念に思っている次第であります。しかしなが ら、江木先生はご自身の代理としてここにおいでの土方さんを推薦なさいま した。土方さんは、まだお若い方ですが、江木先生の高弟であり、先生のご 信頼の最も篤《あつ》い方でございます。みなさまとご一緒して、旅さきで その国その土地の歴史や文学、美術などの面白いお話をしてくださることと 存じます」 ここで広島は、自分のわきに門田といっしょにいる土方悦子を紹介した。 土方悦子が立って、 「みなさま、わたくしが江木奈岐子先生代理の土方でございます。よろしく お願いします」 と、ひどく簡単に挨拶して、ぺこんとお辞儀をして坐った。顔の小さい、 背の低い、そして痩せた女なので、その短い髪とともに二十歳《はたち》ぐ らいにしか見えず、「講師」としてはひどく頼りなげにみえ、事実、団員た ちの表情には失望の色が露骨に出ていた。みなは、江木奈岐子にそれほど期 待を寄せていたわけではないが、彼女だといちおう新聞や雑誌などには文章 が散見していたから名前ぐらいは知っていた。それが無名、しかも少女のよ うな代理人なので、なんだか自分たちが主催者に軽視されたような気がした ようだった。 門田がその空気を転換するように勢いよく立って、愛嬌のある中にも厳粛 な口調で、旅行中の「心得」を述べた。まさか教師が生徒に向って訓示する ようなわけにはゆかないので、注意すべき事項は過去の添乗経験から拾い出 して、「たとえ話」にして述べるのだった。 「みなさまには、もう先刻ご承知のことと存じますが、外国のホテルは建物 の構造の点や習慣の点で日本とはいろいろな点で違いますので、なかにはま ごつく方も居られます……」 食堂でのマナーを外国人は重要に考えるので、過去にある団体の日本流の PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 作法にはこういう困惑したことがあった、とまずスープを味噌汁のように音 を鳴らして吸ったこと、椅子の上にあぐらをかいたこと、風呂上りの人がた たんだ手拭いを頭に乗せて持参の浴衣がけで食堂に現われたことなどの例を 面白おかしく話した。廊下を端唄《はうた》をうたいながら千鳥足で通る人 の話、トイレには、同じような器物が二つあって(一つはビデ)使用を間違 った人の話、こういう他愛のない話を他人の失敗談として上手に述べて、団 員の自尊心を傷つけない程度に注意した。 「パスポートは、生命から二番目に大事なものですから、どんなときでも大 切にしまっておいてください。これを紛失しますと、旅行はおろか日本にも 帰れなくなると考えてください。旅先で再交付を受ける手続はたいそう面倒 ですから、ほかの人に迷惑をかけることになります。どんなときでも団体旅 行だということをお忘れにならないようにしていただきます」 と、最後に門田はいった。 「いちばん厄介なのはお荷物が混乱することです。ホテルのポーターがお荷 物を間違えてよその部屋に運ぶ場合が多いですから、その際は、騒がれずに、 すぐにお世話させていただく、わたくしにご連絡を願います。わたくしはホ テルに入れば、すぐにルームナンバーをみなさまにお知らせしますから、ご 用事の節はどんな時間でもお越しください。とくに、ご気分が悪くなったと きとか、急病の際は即刻にご連絡を願います。……なお、部屋割につきまし ては、お手もとにさし上げた表の通りに決めさせていただいておりますから、 途中でいろいろな事情が起りましても、そこは互譲の精神を発揮していただ き、最後まで愉しい旅になりますようご協力いただきとうございます。これ を機会に、日本に帰られましても新たに生れたその友情が永くつづきますこ とをお祈りいたします」 門田が、注意を兼ねた挨拶を終ると、頭を下げる者もあれば、拍手するも のもあった。それから一同は、渡された名札を胸に付けたが、それには王冠 観光のマークと社名が入っていた。 門田は、旅客機が出発する一時間前には出国手続を済ませ、トランジット に入らなければならないので、ゲートの前に二十一時に再び集合するように いい、各自が見送り人らと挨拶を交わすためにひとまず散会することになっ た。 一同が待合室をぞろぞろと出て行くと、あとは見送りの広島常務と営業部 員一人、それに門田と土方悦子となった。そのほか団員二、三名とそれをと りまく見送り人とが片隅に残っていた。 7 旅先の団員のことを添乗員に頼みにくる人は、参加者が女性ばかりなので、 ほとんどがその保護者であった。 もちろん、若い女にそれが多い。 「わたしどもは、本田雅子の親ですが」 と、横浜の会社役員夫妻は、門田に頭を下げていった。 「雅子が学生のうちにどうしてもヨーロッパを見たいといってきかないもの ですから、こうした女ばかりの観光団ならよかろうと判断して、思い切って PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 外国に出すことにしました。いままで、国内の旅行にも一人でやったことは ありませんので、よろしくお願いします。雅子は内気な子で、人見知りする 性質ですから、ひとりぼっちになって寂しがるかも分りません」 門田ばかりでなく、土方悦子も添乗員の助手ぐらいに見られているので、 そうした依頼をいっしょに受けた。 「学生のうちに、団体旅行で外国をごらんになるのはいいことですわ。卒業 後、海外旅行されるときの、いい予備知識になると思います」 土方悦子が応じた。 「はあ、娘も何ですか、そういうことを申しておりますの。娘は、S女学院 に通っていまして、画が好きで、それに英語ができます」 「S女学院なら、英語はお得意なんでしょうね」 「はあ、友だちとの電話でも英語で話し合っているような具合です」 母親が自慢しかけると、 「それは結構ですな。旅行先で、われわれの手の及ばないところは、お嬢さ んにお手伝いを願うことにしましょうか」 と、門田が横から如才なくいった。 「いえ、そんな実力はないと思いますが、まあ、英会話の勉強にはなると思 います。けど、内気な子ですから何ひとつしゃべれないかも知れません。ど うか、まあ、よろしく」 その本田雅子は、見送りの学校友だちと手をとり合って話していた。見る からに少女趣味の抜けない様子だった。 「英語が得意だという客には」と、門田は悦子にこっそりいった。「上手に 持ち上げて、いい気持にしてあげることです。下手《へた》でも、うまいと 讃めるんですよ。それがこの商売のコツでしてね。決して莫迦《ばか》にし たような顔をしたり、嗤《わら》ったりしてはいけません。ときには、うま くおだててね、忙しいときに使うと便利です」 旅行中にもあることだと門田は悦子に経験を語った。参加者のほとんどは、 添乗員を共同で「傭っている」意識がある。添乗員は、内心はどうあろうと、 とにかく表面では客の上に出過ぎないよう、絶えず控え目にすること、その ためには決して客のプライドを傷つけてはならないというのであった。 門田が悦子に、この添乗員の「心得」を伝えるのは筋違いなことで、おか しい。土方悦子は、江木奈岐子の身代りとして起用された「講師」である。 添乗員ではなく、旅行社側が要請して、いっしょに|乗ってもらっている《ヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽ》人だった。しかし、客へのサービスという共通目的と、 旅行社が|傭っている《ヽヽヽヽヽ》という金銭的な契約関係と、それに江 木奈岐子ほどには著名でなく、年齢も若く、見たところ小さな、貧弱な女な ので、門田はすっかり助手扱いのつもりでいた。そのことは、すでに広島常 務や江木奈岐子には諒解済みのつもりでいる。 同じ学生でも千葉裕子の場合は、その婚約者《フイアンセ》という青年が、 裕子を伴って門田たちに挨拶にきた。 「裕《ひろ》ちゃんは、まだ、ほんの子供ですから、ぼく、心配なんです。 ぼくが付いていないと、どこかではぐれそうなんです。それに、このひとは お嬢さん育ちで、だれかが横に付いていないと、自分ひとりでは何もできな いんです。ほんとうは、ぼくが一緒に行くといいんですが、ぼくは卒論の準 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 備があるし、それに女ばかりの団体じゃ資格がありませんからね」 「どうぞ安心して卒論の準備をなさってください」と、門田が婚約者の青年 に微笑していった。「それに、この土方さんがごいっしょしますから、裕子 さんのお手伝いなり、ご相談なりはいくらでもしてあげられると思います」 「どうもありがとう。よろしくお願いします。それで、裕ちゃんの|室 友 《ルーム.メイト》は、浜野さんという方でしたね。このプリントで見ると」 「そうです。浜野ひさ子さんです。この方は奥さんです。熊本のほうから参 加してらっしゃるので、千葉さんが福岡だから、同じ九州どうしということ で室友に組み合わさせていただきました」 「裕ちゃんは、お父さんの任地が福岡というだけで、もともと東京っ子なん ですよ」 髪を長く伸ばし、真赤なスェーターを着た蒼白い顔の大学生は、婚約者が 田舎者扱いにされたのを憤慨するように抗議した。 「それは、どうも。そこまでは、われわれは存じませんでしたから」 「正ちゃんはお節介やきなんです」 と、眼鏡をかけた千葉裕子は横から笑っていった。なるほど東京の言葉で あった。 「……わたしは、どんな方とでも、平気ですわ」 「いや、そうはいかない。君は世話のやけるひとだからね。ええと、浜野さ んはどこに居られますかね?」 青年は、婚約者のことを頼みに、その室友を探しに行った。 「門田さん、今晚は」 と、洋装の女が步み寄ってきた。ツバ広の帽子をかぶっているので、門田 は一瞬判らなかったが、その声を聞いて思い出した。 「あ、梶原さん」 営業の杉山映子の知らせで「店」に降りたとき梶原澄子はたしかベージュ のツーピースだったが、いまは帽子も洋服も喪服のような真黒である。が、 ところどころに臙脂《えんじ》色の縁どりがアクセントに配され、二連の真 珠の首飾りが陳列窓《ウインドウ》の中のように効果的に浮き出ていた。が、 その尖ったような顔には変りがなかった。札幌の産婦人科病院長の未亡人で あった。 「わたしが申込んだときより、ずいぶん参加者がふえましたね?」 そうだ、この女が申込みにきたのは三月の初めだった、と門田はうすら寒 い気候といっしょに記憶を起した。 「はあ、おかげさまで、賑かになりました」 「賑かなのは、結構ですが」 と、梶原澄子は、それがあまりうれしくないような表情でいった。 「……わたし、室友の方が気がかりです」 「ええと、どなたでしたっけ」 門田がプリントを見ると藤野由美の名になっていた。 「藤野さんですね。いい方ですよ。お話は合うと思います」 偶然だが、藤野由美は梶原澄子が参加申込みをすませて帰ったあと店に入 ってきた客だった。が、もちろんそれを梶原澄子に云う必要はなかった。 彼女はやはり事務的な口調できいた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「この藤野さん、おいくつぐらいの方?」 「ええと……」 藤野由美の戸籍抄本は三十七歳だった。梶原澄子は四十三歳である。むろ ん、婦人の年齢はいくら同性でも打明けるわけにはいかないから、 「だいたい、同じぐらいの方ですね」 と、門田はぼかした。 門田は、藤野由美についてもだんだん思い出す。申込みに来たとき、彼女 は可愛い感じの顔であった。うっすらと蒼くふちどりした大きな眼と、やや 受け唇とが印象的だった。アメリカのデンバーというところにちょっといた ことがあって、英語には不自由しないといっていた。「美容デザイナー」と 称していた。 「その方、何も職業はお持ちにならないんでしょうね?」 院長未亡人は軽蔑するような口調で云った。 「いえ、美容デザイナーということですが」 門田がいうと、果して梶原澄子はツバ広の帽子の下で眼を一瞬光らせた。 「美容デザイナーって、名称がありますの?」 「さあ。近ごろは新しい用語がいろいろとありますので」 「要するに、髪結《かみゆ》いさんのことね」 「美容デザイナー」の呼称がよほど癇に障ったらしく、梶原澄子は吐き出す ようにいった。 「ねえ、門田さん。さっきも一応は聞いたけど、この旅行中、室友は絶対に 変更しないんですって?」 「はあ、そうお願いしております。まあ、いろいろな事情は起ると思います が、二十五日間ですから、そこはお互いに友好的な協調精神で……」 門田は、この梶原澄子が最初にきたとき、万一、気の合わない人と室友に なったら、上手にチェンジしてくれるか、と訊いたのを思い出した。そのと き門田は、どうしてもやむを得ない場合は考慮する、と慎重に答えておいた が、それは一人でも参加者を得たい営業上の政策からで、はっきりそう確認 したわけではなかった。 「でも、あなたは、わたしが申込みに行ったとき、相手の方とうまくいかな かったら、組合せをチェンジしてもいいと云ったわ」 案の定、彼女は当日のやりとりを手帳にまでひかえていて、それを言質《げ んち》としていた。 「いや、まあ、はっきりとそう申上げたわけではありませんが……」 門田は、抑えるような手つきをし、しどろもどろになっていた。手帳にメ モされたのは痛かった。 「いいえ、たしかに、わたしはあなたからそう聞いて、手帳につけています よ。あのときは……」 と梶原澄子は横に立っている土方悦子にちらりと視線を流して、 「この方とは違う女のひとがカウンターの中にいて聞いていました。手帳の ほかにもそのひとが証人です」 と息巻くようにいった。 「まあまあ、お静かに」門田は往生した。「そりゃ、よっぽど気の合わない 室友と分ったら、あなたの場合、とくべつに理由をつけてチェンジしてもい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn いですがね……、でも、これはほかの方には絶対に内密にしてください。で ないと、みなさんの苦情をいちいち聞いていたら、ハチの巣をつついたよう な状態になって、われわれではおさまりがつかなくなりますからね。こっち の立場も察してくださいよ」 低い声で耳打ちしたが、幸い、あたりはざわめいていて、この秘密交渉に 気づくものはなかった。ゲートに入る時間がいよいよ迫り、あらためて見送 り人と別離の挨拶を交わす者、手荷物の中を検べ直している者、濃紺色の表 紙に金刷りご紋章の旅券を手に持ってやたらとうろうろ步き回っている者な ど、出発時の昂奮が活発に流れていた。 梶原澄子がその密約に満足して離れると、門田は溜息をつき、 「やれやれ、ああいうのがいると、さきが思いやられるよ」 と呟き、自分の鞄などの手荷物のとりまとめにかかった。その四角い書類 鞄の中には、団体客のための旅行先での必要書類や用紙がふくれ上るほど詰 っていた。 折からSAS(スカンジナビア航空)の放送が、ゲートに入るよう、きれ いな女の声で響き渡った。慌しいざわめきはいっそう高くなった。 このとき、土方悦子はうしろから肩の上を軽く叩かれた。ふり返ると、五 十年配の小肥りの紳士が真白な歯を出して愛想笑いをしていた。歯が真白だ という印象が先にきたのは、それが赭《あか》ら顔で、頭髪の半白とともに きわだった対照をなしていたからだった。彼はかなり整った容貌をしていた。 「あなたが、この観光団に添乗される方でっか?」 と、その紳士は眼を細めて悦子を見た。 「はあ……」 「ぼくは、こういう者です」 紳士には関西|訛《なまり》があった。しかし、渡された名刺には高輪が 住所の建設会社社長で原野三郎の活字があった。 「お忙しい最中に恐縮でんな。あんたさんのお名前は?」 悦子が答えると、社長はさらに寄ってきた。 「いや、実はでんな、この観光団に入っている多田マリ子、よろしか、多田 マリ子ですよ。わたしはその多田マリ子の親戚の者だす。……そこでお願い があるんですが、この旅行中、彼女の動静をあんさんに報告していただきた いのんだす。もちろん本人には気づかれんようにな。いやァ、これにはちょ っと事情がおましてな。面倒でも、毎日航空便にして、この名刺の会社宛に 出してもらえまへんやろか。絵ハガキなんぞでのうて封書で頼みます。なに、 わざわざ探偵のようなことはせんかて、あんさんが見やはったままで結構だ す。たとえば、彼女《あれ》が単独行動をとった場合、夜は何時ごろにホテ ルに戻ったかとか、ホテルに誘いにくる外人や日本人の男がいなかったかど うか、また、途中で観光団から離れて何処かに行てしもたら、その行先とか 日数とか、まあそないなことだす。毎日手紙を書くのが面倒臭かったら、三 日おきぐらいでも結構だす。……これは、えろう済みまへんが、そのお礼の 印としてとっておくんなはれ。ほんの気持だけだす。中にはドル紙幣にして 百ドル入れさせてもらいましたよってに」 社長は、悦子にそっと封筒を押しつけた。 「いけません、こんなことをなさっては」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「まあ、そう云わんと、どこかに分らんように入れておくんなはれ。さ、さ、 早うせんと、みんなぞろぞろゲートに入ってますがな」 8 SAS機は定刻に遅れること十二分で羽田空港を離陸した。強い照明に浮 き出た送迎用のデッキは、ひと刷けの白い光芒《こうぼう》のなかに色彩の ない人間が群がって手を振っているだけで、もとより、おのおのの顔が判別 できるわけではなかった。見送るほうも機体に流れる幾何学的な丸窓の点線 を眺めるだけで、どこに訣別の当人の顔が存在しているのやら見当もつかな いはずである。ただ、搭乗の前に添乗員の門田が、ウチの団体客は航空会社 と交渉して、中央から後部寄りに席を取ってあるとみなに云ってあったので、 関係見送り人たちの眼のやりどころが、だいたい翼の後に当てられたのは、 せめてもの慰めであったろうか。 門田と悦子は三十人の団員が背中を見せている座席の後尾に並んで腰かけ ていた。機が滑走路に出る間も、窓際の者はガラスに顔を密着させ、通路を 隔てた者はベルトで縛られた身体を伸び上らせるようにして、見送り人の群 を見ていた。それを門田は冷やかに横から眺めている。かくべつこの光景が 珍しいからではない。彼は添乗のたびにこうした場面を何十回となく見てき ているが、それでも凝然と眼を遣《や》っているのは、団員の動作で、その 表情やちょっとした素振りで、およその性格を掴みたいからであった。 三十人も居るのだから、もとよりいっぺんに見るわけにはいかなかった。 眼に入った限り、その印象を頭の中に登録しておけばよかった。あとは漸次 《ぜんじ》が他に及べばよい。 門田によると、こういう別れのときに示す人の動作は何でもないようであ るが、当人が横の人間に注意を払わないために、つまり自分だけのつもりに なっているために、本来の性格がのぞくというのである。情緒的、合理的と 大別できようが、それは細分化して類別される。単純、狡猾《こうかつ》、 感傷、ドライ、自尊、追随、細心、昂奮、狼狽などいくらでも型が分けられ る。門田は、だいたいこの直観は間違っていなかったことを、これまで付添 いの旅が終るごとに思うのだった。 もちろん予想と違っていた人間もいた。これはと眼を瞠《みは》ることが あったが、まあ、それは例外といってよかろう。意外性はどこにもある。お よそは間違っていない。 これは自信を持っていいので、彼は隣席の悦子にささやいて、それを伝え た。これからは彼女も「接客業者」としての同僚《パートナー》である。 「あら、そうですか?」 悦子は小さな顔を前にむけて、ハンカチを振ったり、手を動かしたり、何 もしないで凝視していたり、うつむいたりしている団員の姿に一瞥を走らせ た。 「わたくしなんか、そこまでは判りませんわ。それよりも、団員の方の顔と 名前を一致させるために一生懸命です。早く、一人一人の方をおぼえない と……」 彼女の膝の上には、団員リストが載っていた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「そんなものは自然に分りますよ」 「でも、早くおぼえたほうがお互いに親しみができていいでしょう。わたく しも、先でお話がしやすいんです」 門田は返事をしなかった。この女は、まだ江木奈岐子の代理人のつもりで いる。あれほど云ってやったのに、まだ推察ができないのだろうか。これは 遠回しに云ったのでは理解が出来ない女なのかもしれない。これからさきの 付き合いようもあると考えた。迂遠な暗示で判らなければ、遠慮なく直接法 をとらなければならない。繊細性《デリカシイ》の無い女は感受性に乏しい だろうから、少々なことには衝撃も受けないにちがいない。── 門田は頭の中でそう考えるだけで、眼は団員の動作に注がれていた。が、 悦子のことが入っているので、各自の性格の直観がいつもよりは遅れた。 機が上昇して、少しの間、下に東京の夜景を浮かせた。それが過ぎると闇 の中に淋しい灯が続いたり切れたりする。が、ここまでは札幌に向うときの 風景である。 百二十人乗りの機内は、空席が少しばかり目につく程度だった。中央部の 前にも、この団体客のうしろにも乗客がいる。外国人が多いのはさすがだっ たが、日本人も少ないとはいえなかった。前部の、カーテンで仕切った向う は、もちろん一等客室《フアースト.クラス》である。この二等客室《エコ ノミー.クラス》は前の椅子との間が狭く、脚を伸ばすにも窮屈だった。航 空運賃は普通よりも割引値だから文句はいえなかった。 機が水平飛行に移ると、レストランのサービス服に着かえたスウェーデン 人の乗務員とスチュワーデスとが飲みものの瓶を積んだ手押車を通路から押 してきた。客のそれぞれに飲みものの好みを訊いている。日本人のスチュワ ーデスが後から随っていた。男はスコッチ.ウイスキー。早速に本場ものが おどろくほど安いと二本買う者がいた。女性団体は紅茶かコーラかジュース。 日本人のスチュワーデスがいるから、門田は、その次の料理が配られて回っ ても、じっとしていればよかった。 門田が見るに、隣どうしではあまり話を交していなかった。座席はルー ム.メートの配分とは関係がない。これが男性のまじる組だと、初期の礼儀 的秩序の中で、何かと活発な交渉の徴候が見られるのだが、そうしたことも 眼に写らなかった。団員は、まだ、それぞれの殻の中にとじこもっていた。 「みなさん、お静かなんですのね」 悦子がいった。 「そう。このままの調子だと助かるんだけどな。しかし、まだ、飛行機がと び立ったばかりだから……」 猫を被《かぶ》っているというのを門田は呑みこんだ。添乗員の彼は女性 客の振舞いにさまざまな経験をもっている。そうした本性が現われてくるの は、これまでの知識からいって、だいたい外国の土地を踏んで二、三日経っ てからだった。そうすると、ロンドンからエジンバラあたりということにな る。 しかし、実際のところ、門田は女ばかりの団体を引率するのは初めてだっ たから、これまでの経験からは多少外れてくるかもしれないと思っていた。 男女混成の団体さんでは、夫婦者や恋人どうしは別として、相互の間に微妙 な交渉がある。多くは心理的なものだったが、内密に深い関係に発展したと PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 推測されるものもないではない。だが、このような場合、概して添乗員を困 惑させるトラブルまでにはならなかった。両性の組合せという精神的な安定 が、なんとなく苛立《いらだ》ちを鎮めているようにみえた。 なかには、好意をもつ相手が他の同性に惹かれることによって起る嫉妬、 仲間はずれにされた不満などから非常識な言動に出る人間もあるにはあった が、それには型にはまった処遇の方法があった。また、あの男とあの女の間 がおかしいという噂は、旅行期間中絶えず大小となく渦巻くものだが、添乗 員は団体としての節度を越えない限り、客の恋愛まで立ち入ることはできな い。幸い、いったんそういう仲が認定されてしまえば、穿鑿《せんさく》的 なルーモアは消え、かわりに当人たちにむかって嘲笑と軽蔑が集る。その優 越心が周囲を救うのである。優越心というのは、自分は冷静であり、超然と していて、あんな馬鹿な相手はえらばないという自己満足でもあった。 不道徳なことは団体行動以外のところに起る。しかし、男がホテルの外に 出て、朝こっそり戻ってきても、まあ、咎《とが》めるには当るまい。心配 なのは言葉もろくにできないのに妙なところで少数または単独で行動をし、 悪いポン引にひっかかりはしないか、泥棒に襲われはしないか、という点だ ったが、これまではたいした事故もなくて済んできている。困るのは、女が 外で不道徳な交渉を持つことだった。── 今度の旅は男性がいない。つまり、両性配分の精神的安定の要素がはじめ から欠けていた。男女混成のときですら、そうだったから、こんどはどんな 行動者が現われるだろうか。伝統的なモラルと秩序で日ごろからがんじがら めになっている女性のことで、外国旅行は男性の何倍という解放感がある。 男性は国内で小さな解放感を小出しで味わっているが、女性にはその機会が ない。抑えつけられていた重石《おもし》がいっぺんにはずされたようなも のだった。女性にも、旅の恥はかき捨ての諺が心理的に通用する。女だけの 団体を二十五日間、ヨーロッパから南にかけて引張り回している間に、いっ たいどんなことが起るのだろうか。年齢も、職業も、環境も千差万別である。 分っているのは、女ばかりが集ると、男よりも陰険で、残忍で、悪徳になり そうだということだった。土方悦子には、そういうことは分っていない。み なさん、お静かなんですのね、と行儀に感心しているが、このなかからホテ ルの深夜帰還者や暁の潜入者が出るのを知ったら、どんな顔をするだろうか。 機内では、スチュワーデスが食器をひきあげたあとは、しばらく食後の憩 いのひとときとなった。団員で煙草を喫う者はかなりあった。さすがに隣ど うしでは話がはじまっていた。頭を下げ合ったりしているのは、名乗ってか らよろしくと挨拶しているのであろう。もっとも窓の外は何も見えない。持 参の雑誌を読んでいる者もあった。 頃合いよしと門田は書類入れの手提鞄から「入国カード」をとり出した。 三十枚を数えて、半分は悦子に持たせようと傍を見ると、彼女は手帳に一心 に何か書いていた。 名所案内の「講義」のメモでもとっているのかと思い、いまから講師気ど りになられてはかなわぬと、 「これ、デンマークの入国カードだから、半分お客に配ってくれませんか」 と、十五枚を渡した。 わたしがスチュワーデスみたいにこれを配るんですかというような顔つき PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn をされるかと思うと、悦子はべつだん嫌な色もみせず、手帳を閉じて気軽に 腰を浮かした。 「あ、ちょっと。お客のなかには英字が書けない人がいるかもしれませんが、 それは、あんたが代筆してあげてください。それは、こういうふうに云うの です。ぼくのを聞いていてね」 門田は通路の左側の客に向った。土方悦子にはこれが雑用の押しつけはじ めだった。 「お疲れでしょう。あと四時間足らずでアンカレッジに着きます。少し早す ぎますが、カストルップ空港着の際に渡すデンマーク入国カードに記入して おいてください。税関に渡さなければなりません。|搭 乗 地《エンバー ケーシヨン》はトウキョウ、|目 的 地《デステイネーシヨン》はコペン ハーゲン、|永 久 住所《パーマネント.アドレス》は現住所でいいでし ょう。それから署名なども上手な崩し字でなく、なるべく几帳面なブロック 体、つまり英字を楷書みたいに判りやすいように書いてください。……もし、 面倒臭くてご自分で書くのはイヤだとお思いになる方は、わたくしどもが代 筆いたします。べつだん、代筆料はいただきませんからご遠慮なく」 うしろの悦子が感心したようにうなずき、右側の客の一人一人に同じこと をいってカードを配った。 「チーフ」 と、客がいった。自分に呼びかけるときはチーフと呼べ、と門田は云い渡 してある。 「いま、どの辺を飛んでいますの?」 大柄な女だった。ベージュのスーツには「星野加根子」の小さなネームプ レートが付いていた。 門田は横の窓に眼をやったが真暗である。雲の中に入っているようだった。 腕時計を見ていい加減なことを云おうと思ったが、前方でスチュワーデスが 棚から毛布を下ろしはじめているのが見えたので、そっちに步いた。団員た ちに対しての見せ場でもあった。背の高いスチュワーデスは嫣然《えんぜん》 として答える。ついでに余計なことを訊いたのは、英会話を長びかせるため であった。あんたがたはアンカレッジで交代か。ホテルはどこか。東京をど う思うか。勤めてからどのくらい経つか。団員がこっちを見ているのを計算 に入れて笑ったりした。 「あと四時間もありませんが、記入なさってから、ゆっくり睡ってください。 いまのうちに寝ておかないと、あとが疲れます」 隣の眼鏡をかけた女が、門田をちらりと見上げて微笑してうなずいた。「竹 田郁子」とある。たしかこの女は学校の教師だった。微笑に色気はなかった。 門田の受持ちで入国カードの記入ができないのは二人だった。もっとも書き 方について相談をうけたのは、五、六人もあった。 悦子は二十分くらい遅れて、自分の椅子に戻ってきた。 「代筆してあげたのが、三人ありましたわ」 と、彼女は隣の門田に報告した。 「そう。どうも、ご苦労さん」 はじめのうちは犒《ねぎら》っておかねばならなかった。 「でも、さすがに門田さんはご商売柄ですわね。代筆をしてあげますとはい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn わないで、自分で書くのが面倒臭い方は、なんて」 商売柄といわれて門田は、急に悦子に見下されたような気がして、不愉快 になった。こっちは助手がわりに彼女を使うつもりでいても、彼女のほうで はそうは考えていない。講師として「客分」の気持でいるかも分らなかった。 もっとも、考えてみれば悦子は会社の人間ではないから、部外者として感心 していったのであろう。彼女を早急に王冠観光旅行社の「雇員」意識にする ことが必要だと門田は思った。 「お客さんを決して傷つけないようにすること。英字が書けなくても、あん なふうにいえば、お客さんは恥しい思いをしなくとも済むからね。これが客 扱いのコツですよ。云いにくいことでもユーモアの味つけをすると客はすん なりと受け容れてくれる」 門田は低声でいったが、実はこれが彼女を「雇員」にする教育の手初めの つもりであった。 三人のスチュワーデスが客席の上の灯を一つずつ消して步いた。うす暗く なっても、団体客たちは椅子の上で頭を動かしていた。初めての外国の旅で (経験者は極く少数であろう)みんな胸が昂ぶって睡れないようだった。う しろで外人の高い鼾《いびき》が聞えていた。 悦子は頭上の読書|灯《ランプ》を点け、また手帳を開いてボールペンで 書きこんでいた。機体が揺れると、その手を休める。隣の門田は、眩しいの と、彼女が講義のメモをとっているのが気に障った。 「何を書いてるんですか?」 声も自然と突慳貪《つつけんどん》になった。 「あら、ごめんなさい。灯が邪魔になるでしょう? もう、すぐ済みますか ら」 「それは、いいけど、何を書いてるの?」 「羽田で、家族の方や知合いの方から注意をたのまれた団員たちの名前を書 いてるんです。いま、メモしておかないと忘れますから」 「名前ぐらい、簡単でしょう?」 「そうでもありませんわ。いろんな点をたのまれてるんですから。それも本 人に気づかれないようにって。そんなのが五、六人あります。多田マリ子さ んなんか、建設会社の社長がその行動を手紙に書いて高輪の会社宛に送って くれっていうんですもの。百ドル出されたけど、それはお返ししました。で も、依頼されたことは、約束ですから、果したいんです」 ──門田が眼を醒まして窓のカーテンを少し開けたとき、薄明の蒼いなか に、荒涼とした入江と雪の山岳が見えていた。山はマッキンレーの遠望だっ た。 9 アンカレッジ空港に到着する前から、女性団体客は窓ガラスに顔を寄せて いた。窓際の者はガラスに鼻の頭をひしゃげるくらいにしていた。蒼い霧の 中に透けているのは黒い針葉樹の森林と鱗《うろこ》のように光る入江の水 であった。細長い、川のような湾の対い岸にある丘の下には赤、青、白の建 物が砂粒をならべたように行儀よくならんでいたが、それもすぐに隠れて、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn あとは茶色っぽい寒帯の林が大地から浮き上りながら速力をつけて流れた。 「お家が無いわね」 と、一行のなかから誰かがいった。家はあっても小屋同然のものが林の間 にあるだけで、そのどれもがアメリカ空軍の施設のようだった。森の間に熊 が步いているのを見つけたという者がいたが、これは躁《はしや》いでの嘘 だろう。とにかく、一行が初めて接する外国の風景で、針葉樹の疎林と灌木 の湿地帯には、結構アメリカ文明の微風が眼にそよいでいた。 氷河の名残りの沼が散在する湿地帯の端が切れると、白い滑走路が機を抱 きかかえるように伸び上ってきた。着陸した機は建物のほうにのろのろと步 く。JAL(日本航空)が二機、パン.アメリカンが二機、SAS(スカン ジナビア航空)とKLM(オランダ航空)が一機ずつ停止し、雪の連山を背 景に尾翼のマークをそれぞれの色彩で浮き出していた。 ドアが、建物からカメラの蛇腹のように伸びた乗降口に接着するまでもな く、その前から「ローズ.ツア」の女たちが旅行バッグを肩にかけ、総立ち になっていた。 「みなさん、パスポートを用意してください。税関吏が出口に立っています からパスポートを見せるのです」 門田が早速にも後部からドアの近くに泳いで行き、身体のむきを変えて、 団員に叫んでいた。 「それから入国カードはコペンハーゲンの空港で渡しますから、今はしまっ ておいてください。いいですか。間違えないでください。あ、黄色い、うす っぺらな手帳のようなもの、予防注射の証明書ですね、これは見せる必要は ありません。よろしいですね」 門田は逸早く土方悦子に合図を送った。団員の間を步いて各自の質問があ れば聞くように、という指示だった。 ──本日はSAS機にご搭乗くださいましてありがとうございます。わた くしたち乗務員はこのアンカレッジで交替させていただきます。みなさまの つづけての愉しいご旅行をお祈りいたします。…… こんな日本語の機内放送が響き渡るなかを、悦子は人々がはみ出ている通 路をかき分けるようにして徐々に前部にすすんだ。 税関吏のいる入口には門田がまっさきにすすみ、あとから通る団員のため に役人のそばに立って、通関時の質問に備えていた。アメリカ人の税関吏は、 女たちの見せる旅券をのぞき、ついでに本人の顔に一瞥を走らせた。若い、 きれいな女には表情にとくべつな関心を示した。 いやらしいわ、と呟く団員もいたが、これはふた通りの反応で、米税関吏 に顔をのぞかれた者は内心得意そうだったし、それによって今後ヨーロッパ を旅している間、自分が異国人の観賞と興味──少なくとも好奇心の対象に なる保証を得たように考え、のぞかれなかった者は、これからもずっと無視 され、無愛想にされるのを予感したようで、その不当な差別に心平らかなら ざるものがあるようだった。 ともあれ、空港ロビーの窓にある風景は素晴らしかった。それはたとえば 信州の浅間温泉あたりから平野ごしに日本アルプスの連山を望むスケールの 何十倍もの迫力をもっていた。いちばん近いガーディン山が約三千八百メー トルで、正面の、ほどよい距離にみえるのが約六千メートルのマッキンレー PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 山であった。それに、このアラスカ山脈はまるでシネマスコープのように観 客席にむかって半円を描いていたから、雪山のふところに入りこんだ臨場感 といったらなかった。 ロビーは他の機の待合せ客でいっぱいだった。日本人も国内の空港と同じ くらいに多かった。JAL機が二機も着いているのだから、これは当然だっ た。で、早速、門田が、ぼんやりと窓ぎわに立って壮大な山を見物している 悦子を引張ってきて云い聞かせた。 「あと二十分したら、東京行のJALが出る。そのあと十分経ってもう一つ のJALがロンドンにむかって発つ。ここにいる日本人の客がぞろぞろと出 口に行くから、ウチの団員の中のあわて者はその列にくっついて行くかも分 らんからね。これから警告して回りたいから、あんたも協力してください。 こればかりは、大声を張り上げてアナウンスするわけにはいかないからね。 他の旅客の耳ざわりにならないように、ひとりひとりこっそりと注意して回 ってください」 門田はそういって場内を見回した。団員はロビーのほうぼうの椅子に坐っ ている者もあれば、そぞろ步きしている者もあった。が、つづきにある土産 物の売店には団員の姿がだいぶ入りこんでいた。 「あんたは売店のほうに行ってください。ぼくはロビーのほうを步いて回る から、いいですね。ぼくが小旗を振り上げるまでは絶対によその群にまぎれ こまないようにってね。われわれの出発は、あと四十分ばかりだから」 門田は、せかせかといった。 「いい案があります」 悦子は門田を見上げた。 「みなさんをここに集めて、わたしからアラスカの歴史と風土についてお話 ししたらどうでしょうか。きっと興味をもって聞いてくださるから、みなさ ん、ここから動かれないと思いますわ。一挙両得だと思いますけど」 「アラスカの歴史話だって?」 門田は呆れた眼で悦子を見下ろした。 「そんな話は、コーシンの晚にでもしてやってください。さあ、早いとこ向 うに行って、もう今から土産物を眼の色変えて見てる連中に注意しなさいよ」 悦子はコーシンを外国語と思ったらしくきょとんとしていた。門田には妙 な趣味があって、これは庚申《こうしん》という古い言葉なのである。庚申 にあたる日は禁忌で、夜の夫婦の交わりもタブーだったから、することもな く無駄話にひまをつぶした。つまり、庚申の晚とは無駄話をする時と同意語 なのだが、門田は何かの本でこういうことを知って以来、若い連中を煙に巻 くのを得意としていた。講師気どりでいる土方悦子の小賢しさを摧《くじ》 くには、今後もときおりこの種のものを使用するに限ると思った。 売店ではエスキモーの民芸品が幅をきかせていた。ローズ.ツアの団員た ちは、棚の間のあちこちに佇《たたず》んだり、步いたりしていたが、まだ 何人かがかたまって話し合うような仲にはなっていなかった。悦子は、一人 一人に近づいて門田に云われたようなことを低い声で伝えた。気の弱い者は、 それでロビーに引返すのもいたが、ほとんど鷹揚にうなずくだけだった。講 師として彼女に敬意を払っている者は一人もなかった。 名古屋の女子大生の西村ミキ子がエスキモーの手織りの壁掛けと、トナカ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn イの木彫りを買っていた。彼女は金を支払うところだったので、近づいた悦 子が偶然に瞥見するとその財布は二十ドル紙幣ばかりでふくれ上っていた。 その中には五十ドル紙幣も無造作にまじっているらしく、西村ミキ子はよほ どドルを持ってきたようだった。 ほかの女たちは宝石の棚の前に足をとめていた。旅の行手にオランダやス イスのダイヤモンド、フランスやイタリアのルビーやサファイヤといった宝 石の無税ものが待っているので、手出しする者はないと思われるが、赤毛の 女店員に、|これを見せてください《キヤン.ユウ.シヨウ.ミー.ジス.ワ ン》、と硝子ケースを指したのは、小柄ながらスタイルのいい女だった。甘 えたような発音は、その受け唇《くち》からなめらかに出て、なかなかのも のだった。胸の名札はコートにかくれていたが、悦子はその特徴のある顔を 憶えていた。 藤野由美は、まわりの団員たちの見て見ぬふりの視線を意識しながら、小 函からルビーの指輪を出させてつまんでいた。彼女がそれを買うかどうかは 分らない。悦子はロビーのほうに步いたので始終を見届けなかったのだが、 たぶんは藤野由美がぐるりにみせた示威のように思われた。自分の指には三 キャラットは十分にあると思われるダイヤが輝いていたから、あるいは、こ れを見せびらかすためかもしれなかった。 ロビーでは、多田マリ子が長椅子に初老の日本人紳士とならんで親しそう に話をしていた。紳士はべつの機でここに到着したらしいが、ロンドン行な のか東京に帰るのか分らない。偶然にここでお互いを見つけて話しこんでい るといった様子だった。それも紳士のほうがこの奇遇をよろこんでいる態度 で、やや頬のすぼんだ顔には、短い口髭があり、その下の唇に笑いが絶えな かった。マリ子のほうは何かしきりと話をしていたが、その恰好には習慣的 な媚態《しな》があって、相手を愉しませているようにみえた。どのような 間柄かは分らなかったが、少なくともマリ子のその態度には、他の団員たち の好奇的な視線を気にしないだけの開放的なものがみえた。 悦子は、多田マリ子の「親戚」だという建設会社の社長原野三郎の依頼を 脳裡に浮べずにはいられない。旅先でのマリ子の動静を逐一報告してくれと いうのである。三日おきくらいに手紙でこっそり報告してくれというのだか ら、熱心なものだった。 これだけでも、五十年輩の、小肥りの建設会社社長と、表面は独身となっ ている多田マリ子との間が単純な「親戚」関係でないことは容易に想像がつ く。社長の心配は、短い口髭の紳士と嫋々と語りあっているマリ子の様子か らも充分に根拠があるように思われた。 やがて東京行の出発を知らせるJALのアナウンスがあった。口髭の紳士 が椅子から立つと、マリ子のほうから握手を求めた。相手はよろこんでその 手をにぎった。同機の乗客がぞろぞろと出口に向うと、マリ子は紳士の横に 寄り添うようにして步いた。 べつを回っていた門田が戻ってきて、これを見つけ、 「あれ、あの人はウチの団員だろう? 東京行のJALの列に迷いこんで行 ってるよ。早く、呼び戻さなくちゃ」 と、悦子の見張りの怠慢を責めるようにいった。 「大丈夫ですよ。知った方を見送ってらっしゃるだけですから」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 悦子が答えると、横で声が聞えた。 「ねえ、ご参考までに伺いますけれど、あの女性、どういう職業の方ですか?」 切り口上めいた声にふりむくと、梶原澄子が立っていた。痩せた顔には小 皺があって、首が長い。この札幌の梶原産婦人科病院長未亡人は、募集発表 の初期に王冠観光旅行社のカウンターに現われ、門田が応対しているので、 彼にはとくべつな印象があった。 「あの方はレストランの経営者ですよ」 門田が引きとって答えた。 「そお?」 梶原澄子は眉をひそめた。 「わたしは、バアのマダムでいらっしゃるかと思いましたわ」 それだけをゆっくり云うと、彼女は少し気どった足どりで流れるように売 店のほうへ行った。 梶原澄子は、申込みのときからルーム.メートを気にしていた女だった。 万一、気の合わない方との組合せだったら、憂鬱ですわ、長い旅ですもの、 そんなとき、上手にチェンジしていただけますかしら、と眉をひそめて訊い たものだった。 「ちょっと。君、梶原澄子さんのルーム.メートは誰だったっけ?」 門田は気になって悦子に訊いた。 「藤野由美さんです」 悦子はリストを繰って答えた。 「うむ。そうだった……」 門田は唸《うな》った。これから先、梶原澄子の苦情が思いやられる。門 田の眼には沖の荒波を見つめているような表情があった。 東京行につづき、JALのロンドン行が出ると、ロビーから他の日本人の 姿がずっと少なくなった。あとは旅行馴れしているような外国機の日本人乗 客が落ちついて残っているだけだった。 アラスカ山脈の雪は、金色をとり払って銀色に煌《きら》めき、強い光線 は、空に接する連山を明暗に描きわけて、その細部をくっきりと浮き出した。 青い空は光に満ちてひろがり、白雲が山の麓をゆっくりとよぎっていた。 SAS機の出発アナウンスがあった。門田は、その英語放送を半分まで聞 かないうちに、出口近くに位置し、自社のマークである王冠が青地に白抜き されている手の小旗をさっと振り上げた。団員もほとんどロビーの一方にか たまっていた。 「土方さん、あんたも数を読んで」 と、門田がいった。 迷える羊の一頭が他の群にまぎれこんでそのままについて行かなかった か。彼は自分でも顎をいちいち動かしていたが、また、もう一度頭数を計算 しはじめた。 「門田さん。二人足りませんわ」 土方悦子は報告した。門田も自分で分っていたから、苛立たしそうにいっ た。 「どなたですか?」 「藤野由美さんと星野加根子さんのようですわ。藤野さんは、さっき、売店 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn で指輪を見てらしたようですけど……」 「手洗いかもしれない。土方さん、手洗いのほうを早く探してみてください」 門田は眼を光らせて命じ、小走りに走って行く悦子の姿を見送った。しば らくすると、星野加根子が売店のほうから一人で大急ぎで戻ってきた。 10 藤野由美の「失踪」は、二十分間の長きに亘《わた》った。旅客機出発時 の二十分間の空白は重大である。 門田が団員のうちの四人をゲートの入口に残したのは、うかうかするとS AS機が一人ぐらいは残して出発しかねないからであった。JALなら日本 人どうしの通じ合いで快く待ってくれるだろうが、合理主義の外国機では人 情も利かず冷酷に時間通り離陸しかねなかった。門田が四人を機内に入れな かったのは、自分たちを入れて七人も残っていればいくらなんでもそれを振 り切ってまで出発はしないだろうという知恵からだった。 機内からスウェーデン人と日本人のスチュワーデスが出てきて、ゲートの ところで蒼腿《あおざ》めている門田を詰問していた。管制塔からはすでに 離陸の指令が出ているので、機長の命をうけたスチュワーデス二人が添乗員 を責めているのは当然だった。ハネダほどではないにしても、このアンカレ ッジもけっこう世界各国機で混雑し、離着陸の時間帯も密集していた。 門田は、スチュワーデスに平謝りに謝りながら、もう少し、を繰り返し、 眼を吊り上げてロビーを睨んでいた。藤野由美は手洗いに入っているかもし れないと思われたので、そのほうの捜索には土方悦子をやっている。が、そ の悦子もロビーに容易に姿を見せなかった。 二十分間は門田にとって長かった。横でスチュワーデス二人が腕組みして 佇み、傍の四人の団員も不安そうな顔をしていた。機の胴体に密着した乗降 通路のためにここからは見えないが、操縦席の窓からは機長がこっちを睨ん でいるにちがいなかった。 門田は、いらいらしながらも事故の発生を考えていた。藤野由美は急に気 分でも悪くなってトイレで身動きできないでいるのではないか。それなら悦 子が報らせに早く戻って来そうなものだが、あの女も気がきかないからぐず ぐずしているのだろう。こればかりは男がトイレに見にゆくわけにはゆかな い。もし病気だと藤野由美はここに残していかなければならない。その場合 は、悦子もいっしょだが、悦子が現地の医者をさがして応急処置をとらせた 上、藤野由美を東京行の旅客機に乗せて、あとからコペンハーゲンに追って くるなり、あるいは癒《よ》くなった彼女といっしょにくるなりする芸当が できるだろうか。そんなことはとても悦子には覚束ない。 また、その処置を悦子に指示するにしても、その前に悦子との交渉がある。 ビザ無しの藤野由美だからアンカレッジの医者のところに行かせるには上陸 許可が必要だった。そういえば付き添わせる土方悦子もビザを持っていない。 その交渉を当局とするだけでも一時間は充分にかかりそうだった。 門田が額に脂汗を出しているときに、ロビーの一角から元気な藤野由美の 姿が悦子と手をつなぐような恰好で現われた。門田は、心臓の嵐がぴたりと 凪《な》いだようになったと同時に、けろりとした顔で近づいて来た藤野由 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 美に激しい憤りを覚えた。 「いったい、どうしたんです?」 恚《いか》りの眼は、横の土方悦子にもむけた。 「済みません。機に乗ってからお話しします」 と、藤野由美はタクシーでも待たせていたような調子で悠長にいった。 とにかく一秒を争う時で、門田も説明を求める余裕などなく、待っている 四人にも我に続けよとばかり通路を急いだ。北欧娘のスチュワーデスは眉を そびやかし、尻を振り振り先に立っていた。 門田は、機内に入ったが、他の乗客は気づかぬとしても、ローズ.ツアの 連中は一斉に不審と非難の眼をあとにつづく藤野由美の顔に注いだ。当人が どういう表情でいるかは門田には分らず、座席についても後頭しか見えない。 しばらくはベルトで身体を括《くく》られているので立つこともできず、横 の土方悦子にまず事情を訊いた。 「手洗いで、売店で買ったばかりのルビーの指輪を失くしたんだそうです」 と、悦子はけたたましい金属性のジェット.エンジンの騒音の中でいった。 「え、ルビーの指輪を?」 「そうなんです。洗面所で顔を洗い、それが済んだとき、見えなくなってい たんだそうです。こっちは指輪のサイズが大きいでしょう。だから、気がつ かないうちに脱けて下に落ちたんだろうとおっしゃってました。わたしが行 ったときは、タイルの床の上を這い回るようにして探してらっしゃいました わ」 悦子もまだ息切れがおさまらないように声を震わせて報告した。 「あんたもいっしょに探したんですね?」 「探しました。ころころと転がって、トイレのドアの下の隙間から中に入っ たんじゃないかと思い、いちいちドアを開けてみたんです」 「それで見つからないとはふしぎだな。だいたいどのくらいで買った指輪な んだね?」 「千ドルに五十ドル欠けていたんですって」 「九百五十ドル!」 と、門田は眼をむいた。 「わたしも、それを聞いておどろきましたわ」 「いったい、そんな高い買物をどうしてアンカレッジなんかでしたのか?」 「ノータックスだから安かったとおっしゃるんです」 「ばかな。ルビーはアメリカが原産地じゃあるまいし、アメリカだって輸入 税を値段に入れている。空港のトランジットの売店の品はみんな無税だと思 いこ んでるんだから、困ったものだ。みんなに注意して やる必要がある ね。……それにしても、まだヨーロッパにも着かない前に、いきなり千ドル に近い買いものをするなんて、どうかしてるね。彼女は、いったい、どのく らい、今度の旅行に持ってきたのだろう?」 「さあ、みなさんのお財布の中まではわたしは知りません」 「そりゃ、ま、そうだけどさ。やっぱり彼女は派手な商売だけのことはある ね、金を持ってるんだな」 と、門田は溜息を洩らしたが、また緊張の表情に戻った。 「で、とうとう判らない?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「そうなんです。盗られたわけでもないし……」 「盗られるわけはないだろう。ほかに人はいなかった?」 「ほんの、二分か三分のその間、だれも入ってこなかったそうです」 「どうしたんだろう。トランジットだから一般の送迎人は入っていないしね」 「わたしも、もっとよく探してあげればいいんですが、なにぶん出発時間が 迫っているので、気が気じゃありませんでした」 「こっちもそうだった。居ても立ってもいられなかった」 「それで、紛失届だけを空港事務所の人に出したら、と藤野さんにおすすめ したのですが、藤野さんは、それはいい、しなくてもいい、とおっしゃるん です」 「届を出さなくてもいい?」 「そうなんです。そういう届けを出したりすると、飛行機の出発が遅れて、 みなさんに迷惑をかけるからって」 「しかし、そりゃァ……」 といったが、門田はにわかに藤野由美を見直す気持になった。今まではさ んざん人に迷惑をかける女だと腹が立っていたが、千ドルの品を諦める気持 になったのはよほどのことで、利己心の強い女にはできないことだと感心し た。 機は上昇をつづけ、雲の切れ間にのぞいてゆっくりと動く雪のマッキンレ ー山脈を下に見ていた。禁煙のサインはとっくに消えたが、身体はまだ自由 にならなかった。座席の上にわずかに出ている女性団体の後頭も動かず、隣 どうしの話はあんまりはずんでないようだった。 ベルトが除《と》れると同時に門田は立って前にすすんだ。藤野由美はグ ループのほぼ中央あたりの席にいた。幸いなことに彼女が通路側で、真ん中 が北村宏子、窓際が星野加根子だった。 「藤野さん。土方さんから聞いたんですが、アンカレッジでは災難だったそ うですね?」 藤野由美は仰向き、揃った歯を見せた。 「ああ、あのこと? あれはもう、よろしいですわ」 災難だったそうですね、と云った瞬間から北村宏子も星野加根子も、藤野 由美の横顔に好奇的な一瞥をくれたが、すぐに北村宏子は眼鏡を指でずり上 げて読書に戻り、星野加根子は窓に鼻を寄せて下を見ていた。折から窓外は 白い山岳のうねりがひろがり、川の黒い紐が匍《は》っていた。色はこの世 界からまったく消えていた。 「一応、アンカレッジに事務長《パーサー》から連絡してもらって、指輪が 見つ かったら羽田空港止めに送ってもらうよう手配してもらいましょう か?」 指輪と聞いて、北村宏子と星野加根子の耳が猫のそれのようにひと震いし たようにみえた。 「いえ、もう、結構です。みなさんに大変ご迷惑をかけた上に、そんなお手 間をとらしたら、申訳ありません」 「手間をとるといっても、機のほうから無線で連絡をとってもらうのですか ら、ちっとも構いませんが、モノがモノですから、一応届けておいたほうが いいと思うんですがね。ご遠慮には及びませんよ」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「いえ、遠慮じゃありません。ほんとに、もうよろしいんです。あんまり大 袈裟になると、かえって恥しいですわ。わたくしの不注意なんですから。ヨ ーロッパに着いたら、もっといいのを買いますから。門田さん、どうぞもう お構いなく」 北村宏子はページをめくって「ヨーロッパ諸国の歴史」を読みつづけるふ りをし、星野加根子は窓下に移ってきたユーコン川支流の黒い蛇行を凝視し ているふりをしていたが、この会話を注意深く聴覚に吸収していたことはた しかだった。 コペンハーゲンまでは退屈の連続といってよかった。ただ、食事だけはや たらと頻繁に出た。黒パンの上に、キャビア、燻製の鮭、牛肉、ハム、スー プ、コーヒー、苺ジャムのアイスクリーム。外国人むけに量が多い上に、一 時間おきぐらいに供給されて、はじめはよろこんでいた団員も半分ぐらいを 残した。 「食いしんぼうの女性でも、さすがにうんざりしたようだな。これが日本の レストランだと、もったいないといって包ませて持ち帰るところだろうがね」 門田は、機内で買った小瓶のウイスキーをご機嫌で舐《な》めながらにや にやしていた。彼もあと当分は用事がないのだ。隣の悦子は苺ジャムをかけ たアイスクリームをいつまでもさじですくっていた。 機はアラスカをはなれ、雪原のような北極海の上を飛んでいる。スチュワ ーデスが北極通過の証明用紙を配って步いた。これに名前と宛先を記入して おくと、機長がサインして郵送してくれる。 団員がその記入を始めたのをうしろから眺めた門田は、 「ねえ、土方さん」 と、悦子に話しかけた。 「通過証明カードは一人に一枚だ。連中、だれに宛てて書くと思いますか?」 「ご主人とか、肉親とかでしょう」 「じゃ、女子学生の若いのは別にして、独身の女性は?」 「親しいお友だちでしょうね」 「ふむ。カードは一枚。わたしは、いま、北極をはるばると通過しています、 という記念すべき通報。それが問題ですな」 門田は含み笑いをしていた。 「ほら、あんたが羽田空港で大阪の建設会社の社長に多田マリ子さんのこと を頼まれたといってたですな。百ドルの袖の下を出されて」 「袖の下だなんて、いやですわ。あれは受けとりませんでしたわ」 「ま、ま。たとえばの話ですよ。つまり、独身女性にはそういうスポンサー もいる。スポンサー宛に出すか、恋人に出すか、そこが独身女性の決心の岐 れ目ですね。あんたは、多田さんのほかにも、だいぶん頼まれていて、メモ しているといったね?」 「ええ。……」 「そいつをぼくに見せてくれませんか?」 「それは困ります。それはわたくしが個人的に頼まれたんですから」 「プライバシーに関しますか」 門田が変な顔で笑った。 ──北極は同じような高さの山が無限にひろがっていた。断崖がほうぼう PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に見られた。太陽は地球のふちに沈みかけてそこで踏みとどまり、赤い光を 夕霞の中に暉《かがや》かしていた。氷の山々は淡い薔薇色に染まり、うす い霞がぼんやりと背景をぼかす。荒涼とした光景もいまは幻想的な抽象画と 化した。夕日はいちど上りかけて白く輝いたが、またもとの位置にずり下っ て停止した。 団員たちは睡っているのが大半だった。黒布の眼蔽いをかけて仰向きにな ったり、うつむいたりしていた。眠れないでいる女性もいた。門田は、舎監 のように通路をそっと往復して視察した。不眠の女性は、リストに従うと、 杉田和枝、星野加根子、梶原澄子、日笠朋子、と団員の中では年のいったの が多かった。若い女よりは考えごとを余計に持っているのか、それとも神経 質なのか。 うす暗い雲の下からスウェーデンの陸地が見えてきた。小さな灯の輝きは ストックホルムの街か。スカンジナビアの丘陵地帯が過ぎて、機は海岸線の 上に出た。 「見えた」 と、門田が暗い中に逼《せま》ってくる陸地を指した。コペンハーゲンだ、 と弾んだ声でいう。 「さあ、忙しくなるぞ。土方さん、頼みますよ」 [#改ページ] コペンハーゲンの「古城」 1 コペンハーゲンのカストルップ空港はヨーロッパでも大きいほうである。 滑走路の空には夜があけたばかりのうす明りがひろがっていた。曇り空のせ いもあるが、まだ午前六時二十分なのである。 構内の到着口まで、背の低い、若い日本人の男が王冠観光旅行団の一行を 出迎えていた。SASの営業部員で、門田は彼とは顔馴染らしく、親しそう に話していた。 赭ら顔で、図体の大きい税関吏たちは、日本女性ばかりの観光団を珍しそ うに眺め、団員たちが荷物を検査台に置いても、 「ファイン」 と云って微笑するだけで、眼もくれなかった。 空港ビル前の広場には、バスが待っていた。遠くに黄色と茶色の住宅が針 葉樹の木立とならんでいるのが見えた。この観光団にとっては、はじめて本 格的に踏む外国の土地から、女性らしい昂奮が一行の間に起った。早朝だし、 曇天のせいもあるが、風はまだ冷たかった。 バスは、河のような小さな海峡にかかった橋を渡った。 「これからが、コペンハーゲンの市内になります」 運転台の横に車掌のように立っていた門田が、団員たちに告げる。 住宅のほとんどは、屋根に無数の小さな煙突をもつ四階か五階ていどのア パートだった。煉瓦の色彩が焦茶色と黄色に統一されている。同じ茶色でも PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn オランダのは赤に近いが、デンマークのはチョコレート色である。黄といっ てもイエローオーカー、日本流にいえば朽葉色である。それだけにこちらは 暗鬱な感じがする。が、窓は額縁のように白く塗られ、その白線が清潔に浮 き立った。どの窓辺にも花の鉢植えが出ていた。赤い花の多いのが、暗い建 物の色に華やかさを点じる気持と見えた。 ロイヤル.ホテルは広場につながる大通りの角にあった。三十数階建だが、 これも外観は、伝統を守った色であった。この大通りも時刻のせいで、車が 少なかった。北欧人の特徴で、背のひょろ高い、勤め人らしい男と女とがま ばらに急ぎ足で步いていた。 ホテルからかなり離れた斜め前に、コペンハーゲンの中央駅があった。そ の恰好といい、赤煉瓦といい、丸の内側から見る東京駅にそっくりで女性観 光団の眼をひいた。ホテルの前には大きな区劃をとって、林の公園があった。 門の上には看板の虹がかかり、「TIVOLI」の大文字があった。 「ああ、チボリだわ!」 だれかが叫んだ。コペンハーゲンの象徴というよりも、世界名物の一つだ った。が、それにこたえる声はまわりから上らなかった。よく知らない団員 も多かったのだが、懶《ものう》そうに視線を投げただけであった。 時間が早いし、曇っているので、コペンハーゲンの朝は黄昏のようなうす 暗さだった。まだ感覚的に朝と夕とをとり違えるのは日本と八時間の時差が あるからで、いままさにデンマークに来たという実感や感慨とは別に、眼蓋 は痺《しび》れ、後頭部の脳髄には睡気が溜り、全身に倦怠感がゆき渡って いた。 風景に感動が伴わないのは、知覚の疲労に加えて、ホテル側がすぐに客室 に通してくれない不愉快さからもきていた。早朝の到着なので、前夜の宿泊 客がまだ部屋に残っている。もっとも、二室や三室ぐらいは空いているが、 門田としては、だれを先に入れようもなかった。クジ引きというわけにもゆ かず、彼が団員に説明すると、 「何時までロビーで待てばいいんですか?」 と、不平を露骨にみせた質問がとんだ。 「十一時がチェック.アウトですから、それまでお待ちねがいたいとフロン トではいっています。いかがでしょう、それまで三時間ほどありますが、よ ろしかったら近所の商店街を散步されたら? お疲れの方は、このロビーで ご自由にお休みになってくださって結構です」 散步に出てみるという組が若い五、六人で、そのほかは椅子に坐っている といった。バスから降ろされたみなの荷物はロビーの片隅に五つくらいの山 積みになって置かれ、網がかけられてあった。 「今日の予定を申し上げます。十二時までお部屋に憩《やす》んでいただい て、それから昼食をこのホテルの食堂で済ませ、一時半ごろからバスで市内 見物をいたします」 市内の見物は、まずは港にある人魚の像やアマリエンボール宮殿などであ る、と門田は不機嫌な女たちをなだめるためにも、愛嬌よく云った。 十一時に部屋に入れてもらっても、十二時からの昼食では一時間しか憩め ない。それからすぐにバス出発ではいかにも強行軍だが、このハード.スケ ジュールこそ団体観光旅行の眼目であった。短い期間にいかに多くの有名地 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn を瞥見《ヽヽ》するかというのが募集の際の献立料理であった。お仕着せの メニューは品目が賑かなほど客寄せになる。 「お疲れの方は、午後ずっと部屋で休養なさることはもちろんご自由でござ います」 自由だが、バス代も行先の入場料も全部コミで先払いしていると思えば、 無理をしてでも行きたくなる。 門田はフロントで三十二人ぶんのパスポートを出し、記帳を代行し、用意 の「室友表」にしたがってキイを十七本うけとった。二本は門田の部屋と土 方悦子の部屋のぶんである。団体は十八階と十九階とに分れ、門田は十八階、 悦子は十九階、いずれも団員たちの部屋がつづく端の一室をとった。 十一時まで待たされるかと思ったが、案外に早く、十時すぎには各室とも 空いた。が、二時間もロビーにいたのではさすがに退屈だった。クッション に崩れて睡った者は別としても、そのような場所では眼を閉じられない者は 強張《こわば》った表情でホテルの玄関を出たり入ったりしていた。横のア ーケードは九時をすぎると売店が開くので、一群はその前をのぞき見しなが らうろうろした。 部屋に全員が入ってからも、各自の荷物が安全に所有主の室に納まるまで がひと騒ぎであった。間違って運びこまれた荷物のとりかえ、迷っている荷 物の捜索と、門田も土方悦子も四十分は廊下をうろうろしなければならなか った。 空港からの世話のひきつづきなので、門田もさすがにぐったりとなったが、 食堂でのテーブルのぐあいを見に行かねばならないので、一階上にあがって 悦子の一九〇六号室をノックした。 ドアを開けると、中に藤野由美が来ていて悦子と立話をしていた。 「おや、失礼」 「あら、チーフ」 悦子が門田ののぞく顔に眼を走らせた。 「ちょうどよかったわ。藤野さんのお話をうかがってください」 助かったという口ぶりでいった。 門田はアンカレッジの指輪紛失の一件で藤野由美が電報で問い合せてくれ とでも云いにきたのかと思った。団員には何か用事があったら自分の部屋に きてくれと部屋番号を教えてあるが、団員が土方悦子を訪ねたのは、彼女を 「講師」とは思わず、門田の助手扱いにしている証拠であった。 「何でしょうか?」 門田は入っていった。 「いえね、わたしの階《フロア》は土方さんのお部屋と近いのでお話しに来 たんですけど……」 藤野由美は門田を訪ねなかった弁解をした。 「いや、そりゃ、どっちだってかまいませんが」 「実は、わたしの知合いの商社マンがこのコペンハーゲンに駐在してますけ ど、わたしの到着を知って、いまロビーに迎えに来てくださってますの。昼 食もその人といっしょにしますので、そのことを連絡に来ましたの」 藤野由美は、下からすくいあげるような眼つきで、微笑していった。上眼 づかいのほほ笑みには、客商売に訓れた媚《こび》があった。そういえばロ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ビーの長椅子にぐったりと睡っていた組の彼女も、いまは化粧をし直し、ス ーツケースから取り出した新しい派手な洋服に着更え、見違えるように生彩 をとり戻していた。 「そうですか。それじゃ、昼は一人ぶん減るわけですね。明日はクロンボー ル城など郊外の観光がありますが、そのほうは、どうなさいますか?」 「今晚はホテルに帰りますから、そっちのほうは参加します」 「分りました」 門田は、その迎えの男の名前を聞いておきたかったが、露骨にもいえず、 「その方は、もちろんコペンハーゲンには馴れておいででしょうが、こちら にはどのくらい住んでいらっしゃるんですか?」 と遠回しにたずねた。 「二年ぐらい経ってるはずですわ。奥さまがウチの店に来てくださる常連な んです。日本をお発ちの前は、大阪に本社のある一流商社の東京支店次長さ んでした。わたしがこの団体でくるのを支店の方がこちらに知らせて下さっ たんだそうです。わたしは何も知らなかったので、フロントから電話がかか ってびっくりしましたの」 藤野由美はいきいきと話した。 門田にはこれを制《と》める権限はない。午後十時ごろまでにはなるべく ホテルへ戻ってくるようにここでも頼んだが、これは釘をさしたのである。 アンカレッジでは出発に遅れて苛々させた女だった。それで思い出して、 「指輪のことを、アンカレッジに問合せの電報を打っておきましょうか?」 と訊くと、 「あ、あれ? あれはもう結構ですわ。諦めてますから。では、ちょっと、 行ってきます」 と踵をかえして出て行った。 門田は顎に指を当てた。なんとなく落ちつかなかった。 「土方さん、藤野さんのルーム.メートは梶原澄子さんだったね」 「はい、そうです」 梶原澄子は札幌市にある産婦人科の病院長未亡人だった。これと藤野由美 と同室にした。門田は、梶原澄子のとりすました顔を思い泛《うか》べた。 もし、藤野由美が外出のまま今夜部屋に戻らなかったらどうしよう、と門 田はほかの者への心理的な影響を考えて少々憂鬱になった。女ばかりの団体 だから一人の外泊は深刻な波紋を起すにちがいない。藤野由美ならそんな行 動をとりかねなかった。美容デザイナー、店の婦人客の亭主とコペンハーゲ ンでの邂逅《かいこう》、異郷の空が解放感をそそると外泊の可能性は十分 にあった。ことに性解放の本場とされているデンマークではないか。門田の 経験でも、それは男女混成の団体旅行だったが、女性団員に解放的な行動が あった。 窓辺に寄ると、下にはチボリ公園の木立がかたまり、樹間には東洋風なパ ゴダの屋根が見えた。 北欧名物のオープンサンドウィッチの昼食が終り、門田が市内見物の時間 が切迫していることを丁寧に宣告して立ち上ると、ばらばらと椅子を引いた 一同の中から梶原澄子が彼のそばに寄ってきた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「ルーム.メートの藤野由美さんがここに見えませんが、どうかなさいまし たか?」 「あ、藤野さんは、知合いの方が見えて外出されたのです」 門田は軽く云って気がつき、 「外から部屋の藤野さんに電話がかかったそうですね?」 と、梶原澄子の頬のすぼんだ顔を見た。 「いいえ。そんな電話なんか、かかってきませんでしたわ」 同じ部屋に居た室友の梶原澄子は、否定した。 2 藤野由美の単独行動は仕方がないだろうと門田は思った。彼女には店の客 の夫である一流商社の当地支店長が市内の案内に付いてくれるというのだ。 支店長はここぞとばかり自分の「顔」のきくさまをデンマークの首都で── 料理店とか服装品店とか遊び場所とかそういう所を──彼女に見せたいだろ うし、彼女は彼女のほうで、異郷で店の馴染客の夫にたかった上、あとあと までその夫人のグループをも自分の店につなぎとめておくことができる。コ ペンハーゲンで商売気の多い藤野由美と支店長との個人的な関係がどう発展 するかは門田にも興味深い想像はあっても、目下の希望は、藤野由美の個人 的な振舞いが同性ばかりの団員たちに心理的な悪い影響を与えることなく、 ひいては統率的な秩序を乱すことになってはならない警戒だった。すでにし て藤野由美にはアンカレッジ空港の指輪紛失事件がある。この先、何か起り そうな漠然たる危惧もあった。 三十一人は観光バスの乗場に步いたが、その広場がコペンハーゲン目抜き の場所でもあり、名所でもあった。 まず、ホテルの前からはチボリ公園の横を通った。チボリは、五月に入ら ないと開園しないので、いまは門が閉じられていた。だが、塀の中からは槌 音や木を打つ音がしきりとしていた。五月一日から十月十日ごろまでが開園 期間で、あとの寒い閉鎖期間は修理や準備に費やされる。 広場には、やはり赤煉瓦の古風な建物の市庁舎があった。噴水があり、花 壇があり、鳩が舞っている。二時近いので、人通りもずっとふえ、ベンチに 腰かけている人間も多かった。万国旗を掲げた対い側のホテル前にはバスが 頻繁に発着していたし、車は少なく、古い電車が通っていた。 「ここが市庁舎広場というのです。ここを中心にしてバスが市の八方に出て います」 門田が団員たちに云った。 「この市庁舎は、たいへん古く見えますが、実は十九世紀末から二十世紀の はじめにかけて出来上がったものです。古風に見えるのは、デザインが北イ タリアのルネッサンス調と、中世デンマークの建築様式をミックスしたから だといわれています」 彼は教科書《テキスト》どおりの説明をしたが、それを聞いているのは先 頭にいる者だけだった。 ストロエットの商店街、アマリエンボールの宮殿の衛兵の交替風景。おさ だまりのコースを門田は引具して步いた。ここまではバスを要しない。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 女ばかりの観光団を率いる門田にとって難物は、この狭くて賑やかな商店 街のなかに点在する書店で、これらの本屋にはポルノものがおおっぴらに売 られている。 門田も、前に男たちの多い観光旅行団に添乗してきたときは、このポルノ 出版物買いにきまって手伝わされてきたものだが、こんどの場合は、本屋の ウィンドウの前はなるべく早く素通りすることにした。いくら年増女の団員 がいるからといって、団体としての「風紀統制」もあった。 が、脚は素通りでも、ウィンドウに出ている本の表紙写真に女性たちの眼 は走ろう。写真はあきらかに性愛の場面を見せつけていた。コペンハーゲン のこの種の出版物は、この国の高名なフリーセックスと共に、日本の女性の 間にも知識がゆきわたっている。 門田はそれとなしに横について步いている土方悦子をそっと観察した。彼 女は、本屋の店先や陳列窓の前にさしかかるたびに、視線を電光のように当 てては急いで反対側に転回していた。その頬はどうやら紅潮しているようだ った。これが背後からつづいてくる女性たちの代表的な表情かなと考えて、 ひとりでにやりとした。 が、彼はここで藤野由美の行動を思わずにはいられなかった。たださえ旅 先の解放感が彼女にあるのに、商社の当地支店長は腕によりをかけて彼女を 「歓待」するにちがいなかった。中央駅の裏側には、一般的な観光ルート以 外の「観光」場所がある。 そこは、門田が男女観光団の添乗のときには夜に入って案内していたとこ ろで、ポルノ.ショップが店を連ねて、デンマーク語でリブ.ショーと呼ば れる映画から実演までがあきあきするほど見られた。べつに添乗員が教える こともなく、観光団の客のほうが日本でガイドブックの次のような紹介記事 を読んで、すすんで案内を要求した。 □ときどき、目のさめるような北欧美人が女友だちとポルノ.ショップに入 ってきて、店員となにやら笑いながら、例の器具をいじくりまわしているこ ともあるが、こんなことはまれで、あとは棚にならぶ本に次々と目を血走ら せている旅行者風情。通常の男と女のセックスから、ホモあり、レスビアン あり、SMあり、そして考えつく限りの獣姦ありで、日本でけっこう勇気あ る男性でも、少々当惑しかねないありさまである。みれば日本人も多く、本 やらスライドフィルムを懸命に買いこんでいる□ 商社の支店長も、そのような場所に、美容院のあるじを案内するにちがい なかった。同性の婦人客には上品を装っている美容デザイナーの藤野由美も、 ポルノ.ショップやポルノ劇場に連れこまれたあとは、どういう精神状態に 陥るか分らない。門田には、今夜の藤野由美の行動過程が心理学的に予測で きた。 もし、藤野由美が一晚じゅうホテルに戻らなかったら、団員たちの間に、 ちょっとした刺戟の波紋をひろげそうであった。梶原澄子がまず室友の外泊 を皆にふれまわるにちがいなかった。それにはたぶんに不行跡な意味が強調 されるだろう。 一般の観光団では、途中からはなれて単独旅行に移り、最後の搭乗地から 再び一行に復帰して帰国するという例が少なくない。が、それは初めから旅 行社なり添乗員なりに申入れがあって諒解済みの場合である。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 藤野由美のことは、もちろんその例にはならなかった。とくにこの「ロー ズ.ツア」は女ばかりの団体客ゆえ、個人の単独行動は原則的に禁じていた。 不慮の事故をおそれたのでもあるが、平和な秩序を保つためでもあった。女 ばかりの旅行団では、各人の間の心理が微妙で、過敏なのである。 しかし、観光団は旅行社の営業であって、法人団体のような強権的な規制 はない。個人の自由を束縛することはできなかった。そこに添乗員の統制力 に限界があり、むつかしさがあった。 もし、今夜、藤野由美が戻らなかったら、この女性観光団の秩序崩壊につ ながる蟻の穴になりそうだった。一人に認めたのだから、わたしにもという のが続出するかもしれない。だれにも「女のひとり旅」への好奇心と冒険心 とがひそんでいる。また、そうした行動のできる女と、できない女とがいる。 この二つの群の間に当然のことながら深い溝ができる。反感、無視、邪推、 嫉妬、軽蔑。旅行団の空気はとげとげしいものになり、隠微な邪悪さを帯び てゆくだろう。添乗員は何かといえば、そのトラブルに捲きこまれ、団員か ら突き上げられる。 しかし、門田の心配は、観光バスで一行を人魚の像に連れて行ったときに 解消した。 |人魚の像《リトル.マーメイド》は、港沿いにある。写真で見ると大き な彫像を思わせるが、実際は八十センチくらいのもので、これが波打際の岩 の上に坐っている。一行がそこに到着したときにも、各国の観光客がまわり に群れていた。 「案外に小さいのね」 ローズ.ツアの団員のなかからもいささか失望の声や、 「写真とそっくりね。でも、写真で見るよりも、ずっと実物のほうが可愛い わ」 と、感嘆の声が入りまじった。 人魚の背景はおよそ童話の世界らしくなかった。河口につながる港は細長 く、その対岸には、各国の貨物船が碇泊し、陸地にはドックなどがあって起 重機が頭をもたげ、金属性の音が騒々しく聞えていた。 「あら、あれは藤野由美さんですわ、チーフ」 目ざとく見つけて門田の注意を促したのは土方悦子だった。 門田が教えられた方向に視線をやると、いましも人魚の坐る岩の横で、ア メリカ人の男たち数人のかまえるカメラの被写体になっている日本女性が、 藤野由美であった。 「ほんとだ」 門田は眼をまるくした。 藤野由美は、カメラにむかって婉然と表情をつくり、艶然たる姿態をとっ ている。 これはたちまち他の団員たちの眼をひくことになった。みなはぼんやりと した顔つきで、藤野由美を見つめていた。彼女のほうはそれと気づかぬげに、 注文どおりのポーズを次々とつくっていた。アメリカ人の観光客は大よろこ びで、口笛を吹いたりして大騒ぎだった。 おりから天候がやや回復して雲の間からはうす陽が射し、黒い人魚の肌を 艶やかに光らせ、それとは対照的に、色彩豊かな日本女性を横にならべて、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 鮮やかに浮き出させたのだった。 藤野由美は少しも臆するところなく、いわば衆人環視の中に自信たっぷり といった様子であった。このときは来あわせた他の外国人も便乗して彼女に むけてしきりとシャッターを切りはじめ、それはモデルの居る撮影会のよう な風景を呈した。 アメリカ人たちが礼を云って立ち去ったあと、藤野由美は自分に集る団員 たちの眼にひるむ様子もなく、門田のところにまっすぐに步いてきた。彼女 は単独《ひとり》で、べつに日本の商社マンらしい男の姿はなかった。 藤野由美は、こんにちは、と門田に挨拶したげな顔つきで、羞恥をみせる どころか、外国人のモデルになったのが、むしろ誇らしげな様子であった。 その様子は門田よりも周囲の団員に示したいようであった。 「あなたは、今日はどなたかの案内でどこかに見物に回ってらしたんじゃな いですか?」 門田は呆れた思いで訊いた。 「いいえ、そちらのほうは、もういいんです。お会いしたら、あんまり面白 くもない方でしたの。それに、はじめから団体行動からはずれるのも、みな さんのお気持がどうかと思いましたので、タクシーでこっちに乗りつけてき ましたの。どうせみなさんもこの人魚の像を見にいらっしゃると思いました から。その勘はぴたりとあたりましたわ」 「ああ、そうですか」 「門田さんも、みなさんの思惑の上から、わたしが早く戻ってきたほうがご 安心でしょう?」 「そら、まあ、そうですが。いや、それに越したことはありませんがね」 「そうでしょう?」 彼女は門田の眼をのぞいたが、門田は自分の内心をのぞかれたような気が した。 「これで、今晚も外出はなさらないのですね?」 門田は思わず念を押した。 「ホテルにずっと居ります。わたしも飛行機では寝不足でしたから、今夜は 早く横になりたいんです」 「ごもっともです。みなさんも時差の加減で睡眠不足でおられます。今夜は 早くベッドに入って休養をとってください。そうして、明日からの行動に備 えてください」 「明日は郊外でしたわね」 「そうです。古城を訪れることにします」 今夜、藤野由美が外泊するのではないかという門田の憂鬱は、彼女の意外 に早い復帰で霽《は》れた。これで団員たちの間に、よぶんな感情の波紋を ひろげる心配もなくなったと彼は安堵した。 だが、門田は彼女の室友の梶原澄子の言葉をおぼえていた。梶原澄子は、 藤野由美に外から電話などかかってこなかったと答えた。同室者の云うこと だから、間違いはあるまい。しかし、藤野由美は商社の支店長から呼び出し の電話があったので、と門田に外出の諒承を求めたのだ。 これはどういうことだろう。門田は藤野由美の言葉よりも梶原澄子のそれ を信じたい気持だった。というのは、藤野由美の派手な性格からして、単独 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 行動で人魚の像のところに来てみなと合流するのが最初からの計算のように 思われてきたからである。 団体の場合、そこから脱ける単独行動というのは、たいそう目立つもので ある。藤野由美には、自分が一同に顕著な印象となりたい意識が強いようで ある。そう推定すれば、彼女がアメリカ人たちのカメラにとりまかれて、モ デルのように振舞った派手さもわかってくる。目立つ点からいえば、これほ ど目立つことはなかった。 門田が考えてみるに、──彼の引率した団体はストロエットの商店街を通 り、途中の小さな広場で小憩した。そこにも花屋があり、鳩が群れ、色の真 白い金髪娘たちがアイスクリームを舐め、蓬髪と無精髯のヒッピーらが隅の 地面に尻をすえていた。 が、少し行った教会近くの柵の前には、年老いた男女がベンチに腰かけて ならんでいた。老人も老婆も、ほとんど身じろぎもせず、放心した眼つきで 坐っていた。べつに通行人を眺めるでもなく、鳩に眼を遣るでもなく、眼は 虚《うつ》ろに一点に止まって、腑抜けた姿でいた。見ていて、まるで終日 《ひねもす》ここで無気力にじっと腰かけているようだった。 「デンマーク、スウェーデンなど北欧諸国は社会保障政策が行き届いていて、 老人は無料でなんの不自由もなく、養老院で余生を送ることができるように なっています。それなのに養老院などで自殺者が多いのはどういうわけでし ょう? それは独立して家庭をもった息子や娘たちと疎遠になるからだとい われています。社会保障はよくできていても、国家は老人たちの魂の空虚ま では救うことはできないのですね。日本の核家族も、次第に老人たちを孤独 化し、虚無感を与える同じような傾向を辿っているようです」 そのとき、土方悦子が傍から眺めて話し、年配の団員たちの共感の眼を得 ていた。 それから待たせてある観光バスに乗って、アマリエンボール宮殿に行き、 衛兵の交替風景を立ちん坊して見物した。旧市街にあるラウンドタワーは外 から眺めた。この三十五メートルの円柱形の塔は、クリスチャン四世が天文 台として建てたもので十九世紀の半ばまで使用され、その中の螺旋階段は帝 政ロシアのピョートル大帝が馬で、エカテリーナ女帝は馬車で駆け上ったと いう歴史上の挿話を門田は一同に披露したものだ。門田の説明は常にテキス トどおりであった。 (図省略) とにかく、そのような行程をとって人魚の像まで来たのであるから、その あいだ三時間は経っていた。藤野由美がホテルを出たのが正午だったから、 彼女の単独行動はここで遇うまで四時間にわたっている。 その四時間のあいだ、藤野由美は商社の支店長の案内につき合ったわけだ が、相手の男が気に染まなかったので別れてきたといっている。人間は、一 目見たときから好感をもてぬ相手もあることで、いちがいには云えぬにして も、四時間ぐらいで突放してきたとは、彼女の商売気のうえからいって短慮 に過ぎるのではなかろうか。店の上得意である人の亭主の好意にそむかぬの は、すなわち営業の繁栄につながることなのに。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn こう考えて、同室の梶原澄子の「証言」と思い合わせて、藤野由美の云う 支店長の案内云々は、まったくの虚言であると門田は断定した。すべては、 彼女の虚栄心から出たものであり、同性の団体仲間に対する自己顕示欲のな せるわざとの判断を得た。 虚栄といえば、紛失したルビーの指輪のこともそれに関連しそうだ。アン カレッジの空港売店で高い金を出して買ったのに、それの紛失にはさらに関 心のない云い方をした。好意的にとれば、同行の人々に心配をかけないため の奥床しい配慮にも考えられるけれど、彼女の場合は、それよりも高価な品 の紛失にもいっこう介意せぬといった見栄が強く感じられる。この旅行の第 一步に千ドルもの買いものをするのは、彼女の無邪気な無知というよりは、 経済的な豊かさをみなに見せびらかそうとしたところがある。その失った宝 石指輪に執着を見せないのも、その痩せ我慢はともかくとして、彼女の虚栄 心のあらわれではあるまいか。 門田はそう思った。 3 夕方、一同はホテルに帰ると、食堂でローストビーフやローストチキンの 夕食をとって、それぞれが早目に割り当てられた部屋に一組となってひきと った。門田が作製した室友リストにしたがっての最初の実践であった。門田 と土方悦子とはべつべつの個室だった。 機上での睡眠不足と疲労とが団員たちを強く支配したのか、翌朝までなに ごともなかった。 午前九時と決めた食堂集合には、全員の顔ぶれが揃った。昨夜はぐっすり と熟睡がとれたのか、みなの顔はいきいきとし、朝の化粧にも生彩があった。 朝食は、このごろ日本でもはやっているバイキング形式のセルフサービスだ った。さすがにチーズやバターは本場だけに、日本では味わえないうまさだ った。 「今日の観光スケジュールは、古城めぐりです」 食後の紅茶になって門田がみなに説明した。 「めぐりといっても古城は二つだけです。一つはフレデリックスボール城。 十七世紀初めの建築ですが、これはコペンハーゲンから西北にあたります。 次がクロンボール城。十六世紀の古城というよりもシェークスピアのハムレ ットの舞台として観光客を集めています。これは、このコペンハーゲンを含 めるジーランド島の東北端にあって、東のオーレンスンド海峡を隔ててスウ ェーデンの山々や町が指呼の間に見えます。それで、この市内からバスで西 北に行き、フレデリックスボール城を訪ね、そこから東に向い、クロンボー ル城を見て、南下してコペンに戻ります。つまりコースは逆三角形を描くわ けですな」 熱心な団員は、ハンドバッグから急いで地図をとり出してうなずいたりし た。 バスは五十席ぐらいあって、ゆっくりと坐れた。コペンハーゲンをはなれ ると、ゆるやかな起伏の田園風景となった。見わたす限り麦畑で、青の一色 だった。その間に白い柵をした牧場があり、赤茶色煉瓦の農家が点在してい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn る。今日は天気もよく、空気は冷たいが、陽光が平野に明るくそそいでいた。 「この農家の地下室には、どこも豊富にビールを貯えています」 門田が助手席のところに立ち、客席に対って説明しはじめた。 「ご承知のとおり、このデンマークはビールの産地であります。強いのも軽 いのもあります。ホップの軽いのは女性や甘口の人にはよろこばれます。こ の国の人は、女性でも十五、六歳ごろからビールを飲む習慣がつきます。そ こで、どの農家にも倉庫や床下の蔵に、二十ダースや三十ダースの瓶ビール を格納しています。未知の旅人が訪れても、そのビールを出してもてなして くれます。わたくしも、何度か農家の親切な主婦にビールのご馳走をうけま した。みなさんがビール党なら、このバスをちょいと農家の一軒に横づけさ せたいのですが、三十本以上もビールの振舞いをうけるのは、気がさすので 遠慮しましょう。というのは、それは農家の好意であって、絶対に代金は取 りませんから。デンマークのお百姓さんは、日本の農家のように、いや、そ れ以上に親切なんです」 団員のなかで、デンマークのビールが飲みたいと云いだしたのが女子学生 の三人だった。たぶん、門田の牧歌的な話に異国の旅情を誘い出されたので あろう。が、女子学生の希望は、門田を含めて、|おとな《ヽヽヽ》の団員 たちの明るい笑いにかき消えた。 緑色の銅の屋根と、三つの尖塔をもつフレデリックスボール城での見物で は、一行の間に話題になるような出来事は起らなかった。わずかに、内部の 壁に展示された世界各国の盾の紋章のなかに金色燦然たる菊花紋を見て魚屋 の専務で四十五歳の金森幸江が恭々しくおじぎをしたのが、同行者たちの眼 を惹いたにとどまった。 ここからクロンボール城への行程、門田のいう逆三角形の上辺を辿るバス からの眺めも、これまでの田園風景の延長であった。古城のあるヘルシンゴ ーの町に入ったのが午後一時近くだった。 この小さな地方都市も茶系統の色に塗りつぶされているが、非常に静かで、 伝統的なたたずまいを持っていた。昼食のために入ったレストランも大衆食 堂とは思えない上品さと清潔さをもっていた。食事は、例によってオープン サンドウィッチだが、これが十何種類も店の陳列ガラスケースの中にならん でいて、それらを選ぶのに団員たちはうれしそうに迷った。オープンサンド ウィッチは、SASの機上サービスでも出たが、ここはそれよりもずっと種 類が豊富だった。 「キャビアはここでも高いですから、遠慮してください。そのほかのオープ ンサンドなら、鮭でもチーズでもエビでも牛肉でも、ご自由に。どうしても キャビアを召し上りたい方は、ご自分でお金を支払ってください」 門田は、笑いながら団員たちに注意した。旅行社の会費は食事|こみ《ヽ ヽ》なので、予算を超過するものに対しては個人支払いとなっていた。 門田の|みみっちい《ヽヽヽヽヽ》注意で、一同が会費旅行の悲哀を少し ばかり味わっていると、列外の行動に出たのが、藤野由美であった。彼女は、 さすがにはじめは躊躇の様子は見せたが、勢いよくチョウザメの卵が真黒な 塊で載っているパンを七個ぐらいガラス棚から自分の皿にとりあげると、レ ジのほうに見せて、そのぶんの金を誇らしげに払った。 みなは、それを見て見ぬふりをしたが、内心では少なからぬ衝撃をうけた PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ようであった。まず、だれ一人として手を出さぬキャビアに彼女だけが敢然 と手を出したことの大胆さにおどろき、その人を人とも思わぬげな行動が、 昨日の人魚の像でのモデルぶりにも結びついたのだった。 キャビアを食べたい気持はだれにもあったし、個人支払いの余裕のある者 もいたにちがいないが、旅費の都合で倹約する人の立場を考えて、だれもが 遠慮していたのだった。そのみなの思慮をうち破ったということで、たしか に藤野由美の行動は大胆であった。 その大胆さは人目をひいた。人目をひくから、みなは食欲を抑えつけてキ ャビアへの手出しを我慢しているのに、彼女の場合は、まるで衆目を集める ことが目的のようであった。 「高いといっても、日本で買うのよりは、ずっと安いものですわ。東京だと、 キャビアは目がとび出るほど取られるんですから」 藤野由美は、七つのキャビア.サンドウィッチを眼の前の卓上にならべて、 ひとりごとを云った。それは周囲への言い訳のようでもあったが、高級レス トランで日ごろからキャビアを食べつけているといった自慢にもとれた。 このとき、食事半ばに席を立って、ガラスケースに行ってキャビアのサン ドウィッチを十個ほど皿にとりこんで、金を支払い、席に戻ったひとりの女 がいた。多田マリ子であった。彼女は美しい顔に余裕たっぷりの微笑を浮べ、 右隣にいる竹田郁子と左隣の星野加根子へ等分に顔を振って、 「いかがですやろ? よろしかったら、どうぞ」 と、チョウザメの卵をすすめたものだった。 一同は瞬間に寂然となった。竹田郁子も星野加根子も、多田マリ子の好意 を辞退したが、多田マリ子のキャビア買いは、あきらかに藤野由美に対する 一種の仕返しであり、挑戦のように見られた。 みなのなかには多田マリ子の「勇気ある行動」に対して内心で溜飲を下げ た者も少なくなかったであろう。昨日からの藤野由美に抱いていた反撥が、 その気分にさせたのだった。それに藤野由美は、キャビアをだれにもすすめ なかったが、多田マリ子はとにかく両隣の旅行仲間にお裾分けを申し出たの である。人間味の点では、多田マリ子がまさっていた。一同の表情からもそ れが分った。 門田は、急いでポケットからメンバー表をとり出し、卓の下で一瞥した。 記憶に間違いなく、多田マリ子は大阪の「レストラン経営者」であった。が、 その服装や、こぼれるような色気からみて、たぶんバアのマダムにちがいな い。そうだとすれば、彼女もまた金の使い方がきれいなはずであり、同性に 対する競争心も旺盛なわけであった。美容デザイナーとバアのマダムではか っこうな敵手になり得ると、この数分間のさりげない場面で門田は読み取っ た。 一方の藤野由美は、もっぱら食事に専念して、多田マリ子のほうには眼も くれなかった。彼女は、あきらかに挑戦者を無視する態度に出ていた。 しかし、門田はこの二人に興味を持ってばかりはいられなかった。彼はこ の旅行団の添乗者であり、添乗者はローズ.ツアという船の船長であった。 これから先、長い旅路には何よりも乗客たちの平和な秩序をねがわねばなら なかった。 「オープンサンドウィッチは、ここも種類が多いようですが、コペンハーゲ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ンのオスカー.ダビッドセンというレストランには百八十種類もとり揃えて います。お好きな方は、今夜のホテルでの夕食を抜いて、そこへおでかけく ださい。よりどりみどりで、何でも選択ができます。ただし、土産話にしよ うにも、個々の名前はデンマーク語ですから憶えきれませんよ」 笑いながら云ったが、こういう冗談口でもきかないととかく団員間の融和 は図れなかった。 だが、藤野由美の次の派手な行動は、クロンボールの古城のほとりで展開 された。 ちょうど土方悦子が、門田からみて、あたかも「講師」口調でハムレット の筋を団員たちの前で語っているときだった。 「デンマークの王子ハムレットは、父王を叔父のクローディアスに殺され、 その弑逆者《しいぎやくしや》は彼の生母であるガートルードと結婚して王 位に即きました。ハムレットは父の亡霊によってその死の秘密を知らされ、 復讐の使命を負わされます。けれど、道徳的で内省的な彼は何度か懐疑に捉 われて決行をためらいます。ですが、結局は似たような筋の劇を叔父に見せ ることによって、弑逆の真実をつきとめ、ついに復讐はとげますが、彼自身 も毒刃に仆《たお》れて死にます」 土方悦子は、自分でつくったメモを見ながら話すのだが、それに解説を加 えたものである。 「ハムレットは懐疑型人間の代名詞のようになっています。これまでの学者 の説では、ハムレットは中世の宗教的な人間観の残影を宿した内省型、憂鬱 型という解釈が主流を占めてきましたが、近年では、むしろそれが自己克服 を通しての行動人というふうになっています。つまり強いハムレットとなっ ています。その点ではむしろ近代のニイチェの超人主義に近づいているとい ってもよいでしょう」 この「講義」に熱心に聞き入っているのは、女子大生のグループと、ほか 数人だけであった。 土方悦子は、これも門田から見ての感想だが、女子大生の「聴講生」を得 ただけでも気をよくしたか、ハムレットの台辞のなかで有名な "to be, or not to be" のくだりで日本訳の相違をメモによって聞かせた。 「生きるか、死ぬか、そこが問題なのだ。暴虐な運命の矢玉を心にじっと堪 えるのと、海と寄せくるもろもろの困難に剣をとって立ち向い、抵抗してこ れを 終熄させるのと、どちらが立派な態度か? 死ぬるは眠るに過ぎな い。……これが坪内逍遙訳です。 長ろうべきか、死すべきか、それは疑問だ。……これは本多顕彰訳です。 生き続ける、生き続けない、それがむずかしいところだ。……これは木下 順二訳です。 生きる、死ぬ、それが問題だ。……三神勲訳です。 生か、死か、それが疑問だ。……これは福田恆存訳です」 生か、死か、と最後の訳を土方悦子が高らかに読むと、それがあたかもハ ムレットの声となって前面にある灰色の古城の頂上にならぶ凹凸の胸壁《パ ラペツト》のあたりを、ハムレットその人が腕を組み沈思な姿で彷徨してい るように思えた。 このとき、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「あれ、あれ、あそこに人が!」 と団員のなかで叫ぶものがあったので、門田は、土方悦子の坪内逍遙を偲 ばせる名朗読に(門田はもちろん逍遙の講義を聴いたことはないが)、ハム レットの幻影でも現われたか、と城壁を見上げると、そこにはたしかに人が 立っていた。 「あれ、あれは藤野さんじゃないの?」 つづく団員の昂ぶった声のとおり、藤野由美が気どった姿態で立っていた。 灰色の城壁上の一点の色彩は、まことに効果的であった。 よく見ると、城壁下の別なところにアメリカ人らしい男のグループがカメ ラをかまえていて、それが下から声をかけて上にひとりで彳《たたず》む藤 野由美にポーズの注文をつけているのだった。アメリカ男の陽気な要求にし たがって、藤野由美は、右をむいたり左をむいたり、身体を半回転させたり していた。撮影のグループは昨日の人魚の像のところで彼女を撮っていたの とは別人であった。 それにしても、藤野由美はアメリカ語がよく判るわいと、門田は呆れる一 方で感心した。彼女のこの行為は、再び団員たちの反感を起させるにちがい なかったが、 「あんな高いところにひとりで上って、カメラのモデルになったりして、怕 《こわ》くなかったですか?」 降りてきた藤野由美に、門田が多少の皮肉をこめて云うと、 「いいえ、なんともありませんでしたわ。わたしは、カメラなんか意識して ませんでした。あの上からは海峡ごしに対岸のスウェーデンの町がよく見え て、美しい景色でしたわ」 と、藤野由美は、けろりとしていた。 だが、彼女のその特別な癖は、それだけに終らなかった。 クロンボール城からコペンハーゲンまでの帰途は、ヘルシンゴーと最も狭 いところで対い合うスウェーデンのヘルシングボルイを北端に、エレサンド 海峡に沿って南下し、その間、絶えずスウェーデンの青い丘陵と、その麓に かたまる白い町を眺望するのである。こちらは針葉樹の森がハイウエイの傍 につづき、闊葉樹の木立があるかと思うと、その下には必ずリスが駆けめぐ っていた。 やがて一見して別荘地と分る町にバスはとまった。三時になったので、門 田がレストランの前に着けさせたのだった。店は深い木立に三方を囲まれて いた。ほうぼうに見える別荘は森の中にひっそりと静まっているが、婦人た ちが寒い風に黄色の髪をなびかせて自転車で走っていた。こういう風景の中 で見る金髪はやはり豪華であった。 ホテルもあったし、病院もあった。 「ここはクラペンボールというのです。コペンハーゲンの人たちは、ここを デンマークのリビエラと称して、ここに別荘を持つことを一生の夢にしてい るそうです」 門田は、コーヒーや紅茶をすする団員たちに云った。 海岸も木立の間から見え、海には白い鴎が飛翔したり浮んだりしていた。 ハイウエイには、車の通行する間をキジが長い尾を伸ばしてゆっくりと森に むかって步いていた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 団員たちが感嘆の眼をむけているなかで、ひときわ高い声が門田の横で聞 えた。 「わたし、できたら、此処に小さな別荘を持ちたいと思いますわ。ねえ、門 田さん。日本人がここに土地を買うのをデンマークの法律は許してくれるか しら。それとも、手続が面倒かしら?」 「さあ」 門田は、真面目な顔で問う藤野由美に面喰って、 「ちょっと、そのへんは知りませんね。調べてみないと、なんとも云えませ ん」 と、答えた。まわりにいる女たちの眼が鋭く藤野由美と自分の顔に集中し たのも、彼のあわてた原因であった。 4 コペンハーゲンのロイヤル.ホテルに帰ると、門田は今日の藤野由美の言 動が団員たちにどのような影響を与えているか、その具体的な反応が知りた くなった。これは一人一人についてたしかめるわけにはゆかないので、土方 悦子にまず聞いてみた。 「そんなことは気になさらなくてもいいと思いますわ」 土方悦子は、何でもないといった顔で答えた。 「そうかねえ?」 「ああいうタイプの女性は、どこのグループにもかならず一人や二人は居る ものですわ」 「ふうむ。しかしね、昨日の人魚の像のところといい、今日のクロンボール 城でのことといい、藤野由美さんは変っているよ。変りすぎているというの は、つまり、自己顕示欲が強いという意味でね」 「そういうひとは、いつも自分がグループの中心にならないと承知できない のです。話題はいつも自分が中心、集っているなかでは常に自分がイニシャ ーチーブをとらなければ納得できないんですわ。もし、人から少しでも無視 されようものなら、こんどは自分が積極的な発言をするなり行動に出るなり して、みなの注目を集めたくなるんです」 「そんなひとは、ほかの者から反感を買わないですかねえ?」 「それは好意はもたれないでしょう。けど、またはじまったかと思って、軽 蔑されるだけです」 「しかし、昼食に寄ったヘルシンゴーのレストランでは、多田マリ子さんが 藤野さんに対抗するようにキャビアのオープンサンドウィッチを買ったね。 しかも藤野さんよりは数が三つも多かったですよ。あれで、みんなは爽快な 顔になっていた。ぼくは観察していたけれど。あれなどは藤野さんに対する みんなの反感の現われだと思うね」 「チーフはよく見てらしたんですのね。たしかに多田マリ子さんはあの場合、 ちょっとした英雄になっていました。けれど、藤野さんの性格がみなさんに 分るにつれて、もう興味もなくなってくるんじゃないでしょうか?」 「そうなってくると、いいんだけどな。女性はとかく同性の仲間には感情過 多になるからねえ。ぼくは藤野さんの言動が反撥を呼び、波瀾を起さなけれ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ばいいがと思ってますよ」 門田はまだ憂いが完全には去らなかった。 「チーフこそナーバスですわ。みなさんは今日の藤野さんの言動をそう神経 質には捉えていませんよ」 「そうなら、ありがたいけど。添乗員というのは、取越し苦労が多いんです」 「それは分ります。責任がありますからねえ」 土方悦子は小さい顔に同情の色を見せた。 「そのつづきになるけど、クラペンボールのレストランで藤野由美さんから、 ここに別荘を持ちたいけど、デンマークの法律で日本人はどうかしらと真顔 で訊かれたのには毒気を抜かれたね」 門田は苦笑いをした。 「あれは、藤野さんがオープンサンドウィッチのことで、多田さんに捲き返 しを試みたのだと思いますわ。みなさんは、きっと心の中でばかばかしいと 思ってらっしゃるにちがいありません。それに、あのお二人はとくべつじゃ ありません?」 「とくべつとは?」 「藤野由美さんは美容デザイナーを称していらっしゃるでしょう。多田マリ 子さんは大阪のレストラン経営者ですが、あの様子ではバアのマダムといっ たところですね。美容院の経営者とバアのマダムでは、どちらも見栄を張る ご商売ですわ。だからお互いに触発されて、対抗的になるんじゃないでしょ うか。そりゃ、藤野由美さんのほうにチーフの云う自己顕示欲がより強いと 思いますけど」 「うむ。まあ、あの二人は似たりよったりでしょうがね」 門田は、小柄なために年若く見えるが、土方悦子も存外に人間観察が届い ていると思った。まるきり文学的なことばかり云っているようでもなかった。 門田がそう評価するのは、彼女の言葉によって、自分の取越し苦労の理由 のないことを保証されたような気になったからである。これは土方悦子の単 なる慰めだけでもあるまい。彼女はそういう追従《ついしよう》するような 性質の女ではない。女性の心理は、やはり女性が見ぬいている、と思った。 その日の夕食では、門田がヘルシンゴーの小レストランですすめたにもか かわらず、だれ一人としてオープンサンドウィッチが百八十種類もあるとい うオスカー.ダビッドセンには行かなかった。やはり個人的な食事に浪費す るよりも、前払いの会費でコミになっている定食のほうが気が休まるようで あった。藤野由美も多田マリ子も、今日の張り合いで気疲れがしたのか、そ れとも一同をあまり刺戟しても悪いと自省したのか、みなといっしょに、お 仕着せの料理の皿におとなしくうつむいていた。 このぶんなら、まずは心配ないと門田は安心した。土方悦子の確言の通り になりそうであった。 夕食が終ると、外がうす暗くなった。白夜の季節にはまだ早く、やはり夜 は日本なみに暗かった。これが普通の観光団体だと、男たちにポルノ.ショ ップに案内してくれとせがまれるのだが、このローズ.ツアではその気づか いはない。 門田はビールが飲みたくなった。このコペンには何度か仕事で来ているの で、穴場は分っていた。こんどは女ばかりなので、団員を誘うわけにはゆか PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn なかった。引率者がひとりで脱出するのは無責任だが、さいわい土方悦子が 助手代りに居た。 「どうぞ、ごゆっくりと行ってらっしゃい」 土方悦子はその留守を快く引きうけてくれた。 「チーフの心配なさるようなことは起りませんわ」 それでも明日は午前十一時の便でロンドンに出発するため、門田にはその 準備の仕事がいい加減にあった。このホテルの支払いは、団員のなかでルー ム.サービスを取ったものがないので計算は簡単だったが、あとは出国カー ドとイギリスの入国カードの点検があった。これらはすでに東京出発前に本 社で記入要項欄にタイプで叩いてあった。空白なのは酒、煙草などの税関申 告品の所持有無と、署名欄とであった。 申告品の有無は空港出発前は分らないにしても、酒や煙草を買ったとして も免税の制限数量以下であろう。貴金属、宝石などをコペンで買う気づかい はない。藤野由美も、もう二度とルビーの指輪は求めないだろう。かりにだ れかがそういう宝石やミンクの毛皮を買ったとしても、難儀なのは羽田であ って、ヨーロッパの各空港では問題でない。 署名欄《シグネチユア》だけは、本人の筆蹟でなければならなかった。こ の旅行参加のためにあわてて稽古したような幼稚なサインが半数近くあっ た。なにしろ三十枚である。 そのなかで、藤野由美と多田マリ子のサインは際立っていた。文字が上手 というのではなく、書き慣れた筆蹟だった。いわゆる枯れた筆である。 門田は、その二人のカードを抜き出して土方悦子に見せた。 「ぼくは、藤野由美さんも多田マリ子さんもこのローズ.ツアの申込みにき たときに営業所で会っているし、眼の前で申込書に字を書き入れたのを見て いるけれど、二人とも漢字は下手糞だったな。それなのに、どうしてこうも 英字のサインが上手なのだろう? これは、書き慣れている字です。けど、 藤野由美さんは美容デザイナーという名の美容師だし、多田マリ子さんはバ アのマダムらしいが、両方ともお客に外人がいるのかなあ」 「そうとも限りませんよ。逆に漢字や仮名だととてもきれいな筆蹟だけど、 英字だと同じ人とは思えぬぐらい幼稚な字を書く人がいます。わたくしの知 合いにもいますわ。それは人それぞれの違いじゃないでしょうか?」 「うむ。そうともいえるが、このサインはやはり書き慣れています。線が少 しも渋滞するところなく伸びている。ぼくは思うのだが、多田マリ子さんも 英語が話せるらしい。藤野さんはアメリカ人の注文に応じて、人魚の像の傍 や、クロンボール城でポーズをとっていたが、アメリカ人とのあれは注文者 の英語が分るからです。通くて聞きとれなかったが、短い会話がスムーズだ ったのは、唇の動きや、両者の対応の仕方で、かなり話せると分りました。 それに、彼女は日本の商社マンとどこかで別れて人魚の像のところにひとり で来たというが、それだって英語でないとタクシーの運転手には通じなかっ たろう。また、多田マリ子さんの場合も、藤野さん同様、通訳なしで店員と やりとりしていたからね」 「チーフの観察は当っていると思いますが」 土方悦子はおだやかに反論した。 「そうとも限らない見方だってあると思いますわ。カメラのポーズの注文ぐ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn らいは相手の手つきでも分ることだし、カンのいい人なら、単純な単語で諒 解します」 「まあ、それもそうだがね」 門田はそれ以上は争わなかった。いまは、どっちでもいいことであった。 それよりも飲みに行くほうに心が走っていた。 そんな事務的な手間に時間がかかったので、門田がホテルをひとりで出た のは九時をまわっていた。 タクシーをひろって、「ピーレゴード」と命じた。タクシーは市庁舎広場 からストロエットに入る道とは別な横町に走りこんだ。横町はさらに裏通り となり、その裏通りをぐるぐると回った。 降りたのは狭い道で、あたりの家は暗かった。疎らな外燈が石だたみの模 様を立体的に浮き出していた。門田は暗い家と家との間の路地を入って、や はり表の暗い一軒のドアを肩で押した。ドアには店の名が彫りこんであるが、 明りが乏しいので読めなかった。が、名が「ピーレゴーデン」とあるのを知 っていた。ピーレゴーデンとは、ピーレゴード通りの店というほどの意味で ある。 ドアを開けたとたんに、中の煙が渦巻いて流れてくるのが、吊りランプの 光に映った。それと檻《おり》の中で湧き立っているような話し声であった。 ドアを閉めると煙草の煙は外に出るのを遮られて逆戻りし、客の群の上で新 しい渦をつくった。 若い男女が身体をこすり合わせて室内に腰かけていた。あちこちに置いた 木の卓は、布も何もかけてなく、木目も分らぬくらい、斑点《しみ》をつけ てきたなくなっていた。それぞれの卓には裸蝋燭が空きビール瓶の口にさし こんであるが、瓶の口は垂れ落ちた蝋が白くもり上っていた。 すし詰めの若い男女は話に夢中になっていて、だれが入ってきても見むき もしなかった。顔をむけるのは仲間か恋人を待っている者だけなのである。 赤毛の長髪と口髭に顎髯の男、黄色い髪が肩を掩って垂れ下り、眼も頬も隠 れている女、よれよれの上衣やズボンに、ちぐはぐなシャツの重ね着、ゴミ 箱から出たような穢《よご》れかたとなると、その種族は一目瞭然であった。 門田が坐り場を眼でさがして立っていると、額は禿げ上っているが、赤い 頬髭だけが豊かな五十すぎのおやじが、つき出た腹の下に鼠色になったエプ ロンを当てて、にこりともせずに、ビールを運ぶついでに彼のそばに寄って きた。 「いつ?」 こっちに来たか、と酒場のおやじは門田にきいた。 「昨日、こっちに着いてね。例によって例の仕事さ」 日本語ではこう云うつもりの英語を門田はあやつった。 「あんたの坐るところなら、あすこにあるよ」 おやじは顎をしゃくった。デンマーク人の英語だから、ドイツ語のように 捲き舌で、アクセントが強かった。 おやじの指示だから、門田は若いヒッピーの間に割りこんで腰を下ろした。 先客は、ちょいと臀を動かしただけで、仲間との議論に夢中になっていた。 声は決して大きくはない。叫びもしないし、笑いもしない。普通の話し声が 集塊となって檻の中に居るような喧噪に聞えるのである。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田は、ビールを待ちながら、あたりをぼんやりと見回した。地元のデン マーク人が多いのは当然だが、各国人が集っている。東洋人は、いまのとこ ろ門田一人だった。が、べつに注目されることもなかった。 きたない卓上に置いたビール瓶の裸蝋燭は三センチくらいの短さになって いて、瓶のまわりは流れた蝋が結氷した滝のようにかたまっていた。門田の すぐ前にいる金髪のデンマーク女の半顔に火の影が揺らいでいた。照明とい えば、蝋燭のほかに、天井から一つだけ吊り下がっている洋燈《ランプ》だ けで、うすぐらい橙色の火がホヤの中にともっていた。 女には連れがなく、群のなかにひとりぽつんと坐っていた。傍が少しだけ 空いているのは、あきらかに待ち人の坐り場所を確保しているのだ。その女 は、まわりにいる娘たちよりも少し年齢がいっていて、二十五、六くらいに みえた。顔の造作の大きいのはこの国の女に普通だが、なかなかの美人だっ た。服装もほかの者よりはこざっぱりとしていた。その女はビール一本を置 いて、ゆっくりと飲んでいた。ときどき休んでは煙草を吸った。もっとも周 囲の男たちも痛飲することはない。ほとんどの者が笑っても声を出さず、ニ ヤリとするくらいで、陰気な笑いであった。 男たちの議論は、デンマーク語だから門田にはさっぱり分らない。いつか おやじから聞いたところによると、ほとんどが革命論かドライな猥談だとい う。彼らの表情からは、マルクス.レーニズムの理論闘争なのか性愛論なの か門田には読み取ることができなかった。もっとも後者では、男が女の乳を 長いことかかって撫でたり、耳朶を舐めたりするのがいるから分った。話合 いが決まると、両人で出て行く。フリーセックスの国だから、その行先は知 れていた。 やっとビールと、つまみものが門田の前に運ばれた。皿はなく、紙ナプキ ンに包んだフォークの先にハンバーグの団子が一つ刺さっている。暗いから、 よく近づけて見ないと団子の正体が分らない。 門田がコップの二杯目を飲んでいると、入口にむけた前の女の眼が輝いた。 蝋燭の火だから女の瞳はまさに真赤に光った。彼女は唇から煙草を放して、 その手を合図に高く挙げた。 飲み客の間を分けて女のそばに恋人は来た。黒い髪と黒い髭であった。顔 の色もここでは暗い。白い顔の女は、背の低い東洋人を嬉々として迎え、大 柄な身体を片寄せて男を坐らせた。 5 日本人だとは、お互いの顔つきで分るものである。外国の空港や街頭など で出遇って顔をそむけ合うのは、自分の顔が鏡に写ったように|てれ《ヽヽ》 臭いからである。が、飲み屋の卓を挟んで真正面に坐られたのでは、挨拶を しないわけにはゆかなかった。 「いつ、こっちにおいでになりましたか?」 門田が同じことを云う前に、前の男が口を切った。むろん日本語である。 対い合って、どちらもにやにやしていた。おかしくはない。まわりの人間が そういう笑い方であった。 「昨日です。あなたは?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田が訊いた。髪は普通の長さで、髭だけがこのごろの恰好だった。若い かもしれないが、この暗さでは三十前後にみえた。細い眼をしている。 「ぼくは、ずっと、こっちに居るんです」 男は黒い髭の間から白い歯を見せ、眼が糸のようになった。 「ずっと? ははあ、このコペンにですね?」 傍に恋人らしいデンマーク女がいるので当然にそう思った。女は、先刻と は見違えるように明るい表情になり、彼のために新しいビールを取りにカウ ンターへ立った。 「そうすると、商社の方ですか?」 門田の頭には、藤野由美の話に出る商社マンのことがよぎった。 「いや、そういう結構な身分じゃありません。病気していても身体を動かさ ないと食えない商売ですよ」 男は、ポケットをさぐって名刺を出した。 □日本スポーツ文化新聞.週刊「ヤング」.週刊「情報界」.月刊「新世界」 =ヨーロッパ特派駐在員□ これだけが右肩の上に小さな活字でならび、中央に「鈴木道夫」とあった。 左の下隅には□オランダ国アムステルダム.ニューベンダイク街一〇七番地 一七六八号□と虫のような活字がならぶ。裏側が英字なのはもちろんだった。 「ははあ、ジャーナリストの方ですか?」 門田は、名刺の鈴木道夫という髭の青年を見た。その顔にも火影がまだら に動いた。 「ジャーナリストというと体裁がいいのですが、実はフリーのルポ.ライタ ー兼カメラマンです。名刺に出ている雑誌とは一応の契約をしていますが、 定収入はありません。こっちから送るルポや写真に対して原稿料支払いなん です。それらの雑誌のむきむきに応じてルポと写真を送っていますがね」 ルポ.ライター鈴木道夫は東京弁の歯切れのいい口調で云った。煙と騒音 の中である。 「アムステルダムにお住いのようですね?」 「ヨーロッパじゅうを步くのに便利がいいからですよ。あそこだと、東西南 北どこへでもすぐに出かけられる。連絡場所にしています。契約した各社は もちろん、それ以外の雑誌社から注文があれば現地にとんで行きます。こう いうのは、旅費が請求できますから步《ぶ》がいいんです。ハイジャックと か金持の息子の誘拐事件とかね」 戻ってきた女の注ぐビールのコップを彼は一気に飲み干した。 「面白そうなお仕事ですね?」 「面白いときもあるが、つらいときが多いですな。東京から注文の電報がく るような大事件はそうやたらとありませんからね。小さな出版社は、大新聞 社のように特派員をおいてないから、ぼくのような人間をその代りに仕立て て、誌面では本社特派員などと肩書をつけていますが、生活費の保証はあり ません。まあ、便利屋みたいなものですな。だから、こっちでネタをさがし て步き、いま云ったように向き向きの社にルポと写真を送りつけ、送金して もらうのです。そのネタさがしが苦労なんですよ」 デンマーク女性は鈴木に肩を凭《よ》りかからせていたが、二人で何を日 本語で話しているのか訊きたげに視線を彼の横顔に当てていた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「ところで、失礼ですが、あなたはこっちのほうへは観光でいらしたのです か?」 鈴木はきいた。 「それだといいのですが、その観光団を案内してくる役なんです」 門田は名刺を出した。 鈴木は細い眼でその活字を読んだ。 「なるほど。そういうお仕事ですか。道理で、ピーレゴーデンに日本人が一 人で来ていると思いましたよ。このきたない居酒屋を知っておられるなんて、 よほどコペン通だと思いました」 「添乗員の先輩に教わったのがはじまりです。去年も二回はここに来ました。 おやじとも顔馴染になりましてね」 「観光団員の人はここに連れてこられないのですか?」 「男だとこれまでも連れてきました。こんな居酒屋だからよろこばれまして ね。ところが、こんどのは女ばかりの観光団ですから、連れてくるわけには ゆきません。で、ぼく一人だけで来たわけですよ」 「女ばかりの観光団ですって?」 ルポ.ライターは興味を示した。 「それはちょっと変っていますね。近ごろ、そういうのがはやっているんで すか?」 「いや、そう滅多にはありませんね」 「それじゃ、あなたはまるで女護が島に乗ってヨーロッパ旅行をしているよ うなものじゃありませんか?」 「そうはゆきません。仕事となりますとね。女ばかりの団体というと、いろ いろ面倒なことがあります」 門田は苦笑した。 「どちらを回られるのですか?」 「これからイギリスに行き、スイス、フランス、イタリア……」 と、門田は行先を述べた。 「女ばかりの団体で面倒なことといえば、どういうことですか?」 鈴木は細い眼を開けて門田をのぞきこんだ。すでに職業的な好奇心が光る 瞳に宿っているようにみえた。 「まあ、女性ばかりですからね。神経は細かいし、他人のすることが気にな るし、口はうるさいし、対抗意識のようなものは出てくるし、ぼくも気を使 うわけです。このコペンは旅行の第一步で、ヨーロッパに着いたばかりです から、まだ、そこまではゆきませんがね」 門田は、相手がルポ.ライターなので要心をした。鈴木は、面白そうなネ タを探して步いているといった。この女性観光団のことを取りあげて、興味 本位に潤色された読物的な記事を東京の雑誌社に送られでもしたら迷惑千万 であった。鈴木の名刺についている新聞でも雑誌でも、門田は名前だけは知 っているが、いずれも二流以下であった。そのうち「日本スポーツ文化新聞」 というのは、半分はスポーツ記事だが、半分は芸能界のスキャンダル的な噂 話、男の読者がよろこびそうな女の出来事で埋めていた。そんなところに、 王冠観光旅行社のローズ.ツアのことが、おもしろおかしく歪曲《わいきよ く》されて出されでもしたらたいへんである。団員の家族からは会社に問合 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn せと抗議が殺到するだろうし、門田は社に責任をとらされるだろう。── 鈴木は、名刺の各新聞.雑誌社とは名ばかりの「契約」で、定収入はない と云ったばかりである。彼は記事を各社に送りこむことによって生活してい る。逆にいえば、ヨーロッパで生活するために話の材料を求め、記事をでっ ち上げているのだ。アムステルダムに住んでいるというが、そこは郵便物な どの連絡先であって、実際はヨーロッパを浮浪する根なし草の生活であろう。 帰国の機会を失った留学生などがこの鈴木のような仕事をして暮していると 聞いたことがある。 げんに、横にデンマーク女を連れているが、これだって色恋半分、生活半 分の関係のように思われる。コペンでは彼女のアパートに転がりこんでいる のではなかろうか。 門田の警戒が鈴木にも分ったか、彼はそれ以上は質問してこなかったが、 こんどは女にせがまれて、いまの門田との会話をかいつまんで聞かせていた。 デンマーク語はかなり達者のようだった。 女は、話を聞いて、門田をちらちら見ていたが、鈴木に何か云った。それ を鈴木が紹介かたがた通訳した。 「このひとは、デンマークの女性ジャーナリストなんです。雑誌の編集者で、 そしてウーマン.リブの運動家でもあります」 門田は、へええ、といった面持で女を見た。女は長い金髪を波うたせて門 田にうなずき、にっこり笑った。魅力のある笑顔だった。 「で、彼女は、エギ.ナギコをあなたが識っているかと訊いています」 門田は、あっと思い、もう一度、彼女の顔を熟視した。 「江木奈岐子さんというのは、旅の随筆家でもあり、評論家でもあるあの婦 人のことですか?」 一応たしかめないと、同姓同名、この場合は同音ということがあった。 鈴木は、すぐ女にデンマーク語で云った。女は、鈴木に口早に何か云った。 彼はそれにまた口早に答えていた。そういう問答が二、三交わされた。前で 聞いている門田には何のことだか分らなかったが、たぶん鈴木も江木奈岐子 の名前を知っていて、彼なりの立場で女に同一人かどうかをたしかめたので あろうと思った。 「やはり、その江木奈岐子さんらしいですね」 鈴木は、微笑しながら門田に通訳した。 「このひとは、ミス.トルバルセンというのです。アンデルセンの銅像を製 作した有名な彫刻家と同姓ですが、もちろん関係はありません。さて、四年 前の夏に、江木奈岐子さんが、このコペンにひとりで見えたとき、このひと は江木さんと知り合ったのだそうです。日本の女性エッセイストとコペンの 女性編集者ですから気が合ったのでしょうね。で、二人きりでデンマークの ほうぼうを步いたそうです。そういえば、江木さんは『白夜の国.女のひと り旅』とかいった旅の随筆集を出版されましたね? ぼくはもう大分まえに 読んだので、すっかり忘れてしまいましたが……」 「ええ、そうです。あれはたしかデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの 北欧三国での紀行文だったと思います。実は、ぼくはまだ読んでいませんが。 江木さんは独身ですからね、海外旅行でも世界の辺鄙な土地に、ひとりでよ く出かけられます。女のひとり旅が読者に好評なんですね。……いや、ふし PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ぎですね。実は、こんどの観光団には江木奈岐子さんを講師におねがいして たんですが、江木さんの都合が悪くなって、途中でオリられてしまったんで す」 鈴木は、そのことを女に通訳した。女が眼をみはって何か云った。 「江木さんにお会いできなかったのは、たいへん残念だ、東京に帰られたら、 江木さんによろしく、といっています」 鈴木は、彼女の伝言をつたえた。 「承知しました。申し伝えます」 門田がミス.トルバルセンに軽く頭をさげると、彼女は、にっこりしてそ れに答えた。 門田は鈴木の顔に眼を戻した。 「鈴木さんは、江木奈岐子さんをご存じですか?」 「いや、お名前だけです。文章の上でね。ご本人にお遇いしたことはありま せん」 「ああ。なるほど。江木さんの書かれたものは、いかがですか?」 「そうですね。ちょっと云いにくいけど、やはり旅行者の眼ですね。それも 女のね。われわれのように、こっちに長く住んでいる者には、気になるとこ ろが多いです」 鈴木は、江木奈岐子を批判した。 「そうでしょうね。やっぱりこっちに住んでいらっしゃる人からみると、変 なところがあるでしょうね?」 門田は、それが当然だと思って同感した。 「ええ。やっぱり旅行者の表面《うわべ》の観察ですね。それに、こまかい ところでは事実上の間違いが少なくないです。あれは、今月の十日ごろの朝 陽新聞の文化欄でしたか、江木さんがノルウェーのフィヨルド地方の旅の想 い出を載せていましたが、あの短い文章のなかに間違いが少なくとも五つあ りましたよ。まあ、思い違いはだれにでもあることですが、あれはちょっと ヒドかったです」 鈴木の江木奈岐子批判はだんだん辛辣になっていった。 そこには、日本で著名な全国紙の文化欄にも登場できる随筆家兼評論家に 対する無名のルポ.ライターの反撥、敵意といったものが門田には感じられ た。鈴木は、自分でも云う通り、日本の二流新聞や雑誌にとっては「便利屋」 であり、根なし草であった。ヨーロッパを浮浪しているような下積みの境涯 では、江木奈岐子に対して|ひがみ《ヽヽヽ》も出てこようというものであ る。しかし、彼にもいつの日にかヨーロッパ通のジャーナリストとして浮び 上る期待と夢があろう。 門田はそれにうっかり相槌を打つこともできなかったので、 「朝陽新聞の今月十日ごろというと、まだ十日も経っていませんね。それは、 どこでお読みになったんですか?」 ときいた。鈴木は鼻を擦《こす》った。 「アムスです、朝陽新聞ぐらいになると、日本人の多いヨーロッパの都市な ら、どこにでも来ていますよ」 「ふむ。そうでしょうね。ところで、そういう新聞の政治面とか社会面を見 られて、日本が恋しいと思うことがありませんか?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「たしかに郷愁は感じますね。最近では、日本に三年前に帰っただけですか ら。そう、二年か三年ごとに、契約出版社などと仕事の打合せを兼ねて里帰 りしています」 鈴木は帰国をあえて「里帰り」といった。ヨーロッパにすっかり馴染んで いるのである。根なし草だが、それはヨーロッパという沼の中であった。デ ンマーク女といっしょになっている境涯も、風の立つ沼のさざなみにゆられ て押し寄せられたはずみであろう。同じように、オランダ娘やフランス女と もふれ合っているであろう。 門田は、鈴木と話しているのが何だかうら寂しくなった。 こちらの気持は顔に出るから、相手には伝わるものである。それかあらぬ か、鈴木は、ふいとこんなことをいった。 「ぼくもね。こんなふうにヨーロッパを放浪しているような不安定な独身生 活から、早く足を洗いたいと思いますよ。その希望の足音のようなものが、 遠くから近づいていますがね」 「ほう。それは、けっこうですね。では、いよいよ日本に帰られて結婚され るのですか」 門田は、裸蝋燭の灯に燿《かがや》く彼の瞳を見つめた。 「いや、必ずしも結婚とはいいませんがね。ま、形式はいろいろとあります からね」 鈴木は言葉少なに答えたが、その口吻は明るかった。 鈴木にしても、このヨーロッパの根なし草的な生活がイヤになってきたの であろう。若い時分には面白くてたまらなかったものが、次第に滞在が長く なり年齢《とし》をとるにつれて倦怠を感じ、さきざきの生活に不安をおぼ えるようになる。このままだと異国のどこかで野垂死《のたれじに》という 予感にも襲われるのであろう。実際、採用してくれるかどうか分らない通信 を「特約」の新聞社や週刊誌の雑誌社に送りつける生活にも彼は疲れたにち がいない。帰国して結婚し、落ちついた暮しに入りたいという心境になって いるのは、もっともだった。 が、結婚といってもヨーロッパの気儘な生活に馴れている彼には、固苦し い結婚生活には自信がないのかもしれない。そこで、いろいろな形式がある という。つまり同棲生活を意味しているようだ。これだと別れるのも自由で ある。同棲は、現に眼前でデンマーク娘と肩を寄せ合っているように、鈴木 の性分《しようぶん》に合った結婚形式なのだろう。 鈴木は、「希望の足音が遠くから近づいている」といった。そのいいかた には、漠然とした具体性といったものが感じられる。つまり、鈴木には、そ の|当て《ヽヽ》があるらしいのだ。だからこそ、瞳も灯にかがやき、言葉 も明るくなったのであろう。門田の同情的な表情に反撥して、思いつきでい ったのでもなさそうである。 「では、ごきげんよう」 門田はせまい腰かけから立ち上って、鈴木とデンマーク女に別れを告げた。 「帰ったら、江木奈岐子さんには、かならず、あなたに遇ったことを伝えま す」 これは女に云って、また鈴木に通訳してもらった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 6 朝、七時半に門田はベッドを起きた。後頭部に睡気が鈍く残っていたが、 今日は午前十一時発のロンドン行の飛行機に乗る。十時までにはカストルッ プ空港に入っていなければならず、そのためには一同が八時半に食堂へ集合 して朝食をとることになっていた。女性ばかりだから、ホテル出発までにも 化粧や準備に時間がかかるので、門田はそのぶんの余裕をみている。 八時すぎにドアがたたかれた。 「お早うございます」 土方悦子が入ってきた。あっさりと化粧をして、頬にも生気があった。昨 夜もよく睡ったらしかった。 その顔を見ただけで門田はまた安堵した。やはり昨夜は団員に面倒ごとは なかったと思った。 土方悦子は出発に際しての簡単な打合せをしたあと、 「昨夜は、遅かったのですか?」 と、眼もとをかすかに笑わせた。 「知った飲み屋に行ってね、帰ってきたのが十一時ごろでした」 「お酒のお帰りにしては、わりと早かったんですのね」 「やはり、こっちのほうが気になってね。あ、昨夜はべつに問題も起らなか ったのでしょうな?」 「ええ、みなさん、お静かでしたわ。古城めぐりが遠かったので、お疲れに なったのでしょう」 「けっこうでした」 門田は満足した。 では、二十分後に食堂で、と出て行こうとする土方悦子を門田は、ふと呼 びとめた。 「そうそう。あなたは、江木奈岐子さんの『白夜の国.女のひとり旅』とい うのを読みましたか?」 もちろん読んでいるだろう。土方悦子は江木奈岐子の家によく出入りし、 親しい間柄だという。そのために江木奈岐子は彼女を自分の代りとしてこの 観光団への参加を自分に推薦したほどだった。 「ええ、拝見してますわ」 果してその返辞であった。 「そのなかに、デンマークではトルバルセンという女性といっしょに步いた という文章がありましたか?」 土方悦子は、瞳を上のほうにむけて記憶をさぐるようにした。 「それはユラン半島のところだったと思います。オーフスからユーリングへ。 スカーエラック海峡に面した北端スカウンまでの旅。たしか、そこにデンマ ークの女性と同行したとありましたが、そのミス何とかという名前は出てい なかったと思います」 「ああそう。では、それだな」 「どういうことですか?」 「いや、昨夜の居酒屋でね。日本人のルポ.ライターというのに遇った。そ の男の伴れていたデンマーク女がミス.トルバルセンというのだった。四年 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 前に江木奈岐子さんといっしょに步いたと云ってね。日本に帰ったら、江木 奈岐子さんによろしくとことづかった。そうだ、あなたから江木さんにそう 伝えてくれませんか?」 「わかりました。ミス……?」 「トルバルセン」 土方悦子は手帳に控えた。 「チーフはデンマーク語も話されるんですか」 彼女は、メモしたあとで訊いた。 「いや、それは鈴木氏が日本語でぼくに取り次ぎましたね」 「あら、そうですか。私はまた、チーフがデンマーク語までおやりになるの かと思いましたわ……。それにしても、そういった挨拶はご本人の口から云 われたほうが親しい感情がこもるのに」 「彼女は、英語が分らないのかな。鈴木氏とはデンマーク語で、ひそひそと やっていたから」 「そんなことはないでしょう。江木先生の通訳で步いたという人だから。先 生は英語だったでしょう」 「あ、そうか。なるほどね。ちょっと妙だな。それなのに彼女、全然、英語 はぼくにしゃべらなかったですよ。鈴木氏とぼくの、彼女にとってはチンプ ンカンプンな日本語のやりとりを傍でじっと聞いているだけでしたから」 「そうですか……。その間、彼女はチーフにはちっとも話しかけてこなかっ たんですか」 「話しかけなかったですね。……いや、そういえば、彼女は何かぼくに云お うとした素振りはありましたね。けど、止《や》めましたよ」 「どうしてですか」 「どうも鈴木氏が止《と》めたようでしたね。彼はデンマーク語で彼女に口 早に何か云ってましたから」 「なぜでしょう?」 「女が初対面の日本人に余計なおしゃべりをすると、みっともないと鈴木氏 はぼくの手前を慮《おもんぱか》ったからじゃないですか。デンマークの女 は相当に饒舌ですからね。しゃべりはじめると際限がなくなります」 「そうですか」 土方悦子は眼をみはっていた。 「鈴木君は、もちろん英語も独仏語も達者でしょうが、デンマーク語も話せ るし、やっぱりヨーロッパのコスモポリタンだな」 「その鈴木さんという方は、こちらで、どういう仕事をなさっているのです か?」 「名刺をくれたけどね。それには日本スポーツ文化新聞とか週刊誌とか、そ ういうもののヨーロッパ通信員と書いてありましたよ。通信員といっても名 刺上の肩書だけで、実際はこっちの出来事を原稿にして送り、その原稿料の 送金で生活していると思いますね。そんな手合いはヨーロッパに長く居つい て、半分流浪生活のようなものだからね」 門田はポケットから昨夜もらった鈴木の名刺を出して土方悦子に見せた。 「あんまり聞いたことのない新聞や週刊誌ですね」 「二流新聞や二、三流の週刊誌ですよ。ポルノまがいのエロ記事で売ってい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn る週刊誌ばかりだ」 門田は軽蔑した口調で云った。 「でも、この方はアムステルダムに住所がありますわ」 土方悦子は名刺を門田に戻して云った。 「それは連絡場所でしょう。特約の新聞社や雑誌社との。ヨーロッパの各地 を回ってはアムステルダムに戻ってくるんでしょう。彼は、そのアムスで読 んだ朝陽新聞の四月十日付に載っていた江木さんのヨーロッパ紀行の随筆に は少なくとも五つの事実的な間違いがあると痛烈に批判してましたよ」 「そうですか」 「江木さんの『白夜の国.女のひとり旅』にもそれがあると云ってたな」 土方悦子は、ちょっと考える眼になった。 「四月十日付の朝陽新聞というと、わたくしたちが出発する五日前の新聞で すわね。そんな新聞がアムステルダムにも来ているのかしら」 「来ているでしょうな。日航機は毎日ヨーロッパに飛んでいるから、そのつ ど、日本の新聞を積んで来ていますよ」 「そうですか」 土方悦子は、ほかのことを考えているように気のない返辞をしていたが、 「鈴木さんは、日本女性ばかりが三十人も観光旅行団体で来たというので、 びっくりなさっていたでしょう?」 と、訊いた。自分たちの団体の評判は気になるものだなと門田は思った。 「いや、鈴木氏は、団体員の人数のことは何も訊かなかったですね」 「女ばかりでも、あんまり珍しくないのかしら」 土方悦子は少し失望の様子だった。 「あの男も、ヨーロッパずれがして、日本からの観光団には関心がないので しょうな」 門田は云った。 「でも、女性ばかりの観光団というのは、珍しいと思いますけれどね」 「こっちはそう考えてますがね。彼は、いまの根なし草的な不安定な生活が イヤになっているようだから、何ごとにも虚無的になっているのかな。…… そうそう、そういえば鈴木氏は日本に帰って結婚するようなことを云ってた な」 「近いうちにですか?」 「鈴木氏は云ってましたな。ぼくもこういうヨーロッパを放浪しているよう な不安定な独身生活から足を早く洗いたいと思いますよ。その希望の足音の ようなものが、いま、遠くから近づいていますがねって、それがうれしそう でしたな。何か、そういうアテが彼にあるのでしょう」 女だけに、そんな話を、土方悦子は興味深げに聞いていた。 土方悦子が部屋を出て行って間もない八時四十五分ごろだった。ホテルの ボーイが眼の色を変えて門田の部屋にとびこんできた。 日本女性が一階下の十七階の一七〇三号室で首を絞められて倒れていると いうのを上ずった声で告げたのだった。 背の高い、赤い制服のボーイが十七階の一七〇三号室から飛び出して、一 階上に昇る階段を長い脚で飛鳥のように駆け上り、添乗員の部屋の前に到着 するまでには少なくとも二分は要したろう。また、被害者の姿を発見するや PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 否や、眼をむいて瞬時にボーイがその部屋を飛び出したわけでもなく、彼は 床に横《よこた》わっている日本人婦人客の様子を凝視するのに一分はかか ったろうから、彼が彼女を発見したのは八時四十二分ごろということになる。 門田はボーイの急報に魂を消した。はじめは場所が一階下で、そこはどの 部屋もこの団体がとってなかったから、報告は見当違いだろうと思ったが、 ボーイはドイツ語のような英語でたしかにおたくのメンバーの婦人だと急 《せ》きこみのあまりに吃って云い、それよりも頻りと一階下を指さすのだ った。 門田は、土方悦子を探しに出たが、こんなときには影も形もなかった。も っとも、彼女は彼女なりに出発近くなって十九階の一同をまとめているのか もしれなかった。門田は女性の事故現場に男の自分だけが駆けつけるまずさ を考慮し、リフトを待つまでもなく悦子を呼びに階段を走り上ろうとしたが、 ボーイは彼の手を握って方向が逆だと云わんばかりに階下にむけて引張っ た。いや、こういうときには女性の立会いが必要だ、といった簡単な言葉も 出ず、門田が喘《あえ》ぐ思いで、どぎまぎしていると廊下に女が両手にス ーツケースを提げて現われた。 「あ、星野さん」 多田マリ子の室友を見て門田はいくらかほっとして、 「土方悦子さんをすぐに呼んでくれませんか。たしか十九階の部屋に居るは ずです。ぼくはこれから十七階の一七〇三号室に行きますから、急いでそこ にくるようにって」 と口早に告げた。大柄な星野加根子は、のっぽのボーイに手を把《と》ら れて蒼くなっている門田の異常な様子におどろいたようだった。 「まあ、どうしたんですの、門田さん?」 「いや、ちょっと。……土方さんに来てもらえば分ります」 ここでだれかが殺されたらしいと云おうものなら、団員が蜂の巣をつつい たように騒ぎ立てるのは目に見えているので、今は変事を気どられないよう にと奔出しそうな声を懸命に抑えた。 「でも、もうすぐにバスで空港に出発するんでしょう?」 星野加根子は片手のスーツケースをゆすって見せた。 「そら、そうですが。いや、とにかく土方さんに十七階一七〇三号室に大急 ぎで来るようにいってください」 「ええ、わかりました」 不審そうに見送る星野加根子の姿を残し、門田はボーイに引張られて階段 を駆け降りた。脚がもつれたが、彼の頭の中も混乱していた。彼としても団 員が殺されたのは初めての経験であった。 これからどういうことになるのか。警察から刑事がどやどやとやってきて、 被害者の検視、解剖、参考人の取調べ──引率責任者の自分は当然に一番先 に訊問される。それも二回や三回では済まないだろう。そうして三十人の団 員全部がその取調べを受けるだろう。刑事どもは、この三十人のなかに犯人 が居ると睨むかもしれない。むろん全員が足どめである。先のスケジュール は滅茶滅茶になる。旅行が出来ないばかりか、足どめを喰った期間中の滞在 費はどうなるのか。団員のなかから一人でも二人でも被疑者が出れば、コペ ンハーゲン発の至急電で外務省と警視庁に報告され、それが新聞に発表され PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn て新聞は一斉に大見出しをつけて書き立てるにちがいない。 □観光団殺人事件! 女性団員、コペンハーゲンのホテルで絞殺さる!□週 刊誌はもっと煽情的だ。□本誌独占□── こういう場合はどうすべきか。すぐに日本大使館に連絡したほうがよいか もしれぬ。正面玄関の上に日章旗の垂れ下っている大使館がこのホテルから 程遠からぬところにあるのを門田は知っていた。万一、被疑者が出て警察に 留置された場合、そのほうの面倒は大使館にまかせて、自分たちは予定通り の出発が可能かどうか。駐デンマーク大使館には日本から参事官の肩書で出 向している警察庁のアタッシェは居ないかもしれない。そうだ、フランスが 日本も参加している国際刑事警察機構《インターポール》の加盟国だ。する とパリから駐仏大使館参事官、実は警察庁の役人が飛行機でやってくる。怕 い眼つきをして、困ったことをしてくれたね、君、国際的な恥辱だよ、そう いう団員が事前にチェックできなかったのかね、とまるで共犯者のように睨 むだろう。営利事業の旅行代理店にそんな眼光が届くはずはありませんよ、 と抗弁しても重大事故を起した責任者としての弱い立場では、頭を下げるし かない。これが日本なら味方が多くて気丈夫だが、海外万里では孤立という ほかはなく、商売の観光旅行には馴れていても、団員が殺され、団員に犯人 が出るかもしれないとなっては、ただただ狼狽するばかりであった。本社に は至急に国際電話を入れて指揮を仰がねばなるまい。その本社の手前を恰好 づけるにはあまりに事故が重大すぎた。 団員との間には募集時の契約がある。かりに四、五日足どめを喰ったとし ても、そのあとの観光予定はきちんと済ませ、約束は履行しなければならな い。そうなるとこのホテルの払いは臨時ということになり、莫大な宿泊費.食 費が要求される。悪いことに、観光団は見栄を張って、実はそれが客募集の 策略でもあり、旅行社どうしの激甚な競争のためでもあるが、どこも一流ホ テルばかりを契約している。予算はほんの二晚くらいのつもりの、ぎりぎり だから、それ以上に滞在が延びれば延びるほど大きくアシが出る。電報為替 で送金してもらうにしても、なみたいていの金額ではなかった。社長、専務 の苦り切った顔が眼に見えるようであった。が、ことによると、それだけで はおさまらず、責任上から担当役員の広島淳平がやってくることになるかも しれなかった。 不可抗力の事故でやむを得ないと、団員も理屈では了解してくれようが、 感情は別で、そこは女ばかりのこと、期待外れの不満と、不愉快で陰惨な殺 人事件に足どめされた鬱憤とが昂じてヒステリー症状の激化が予想される。 よりによって、そんな|面倒を起す女《トラブル.メーカー》が何で自分の 団体に紛れこんできたのだろう。 いったいぜんたい、うちの団員が何で一七〇三号室なんかに入っていたの だろうか。十七階には一室も予約していないのだ。この団体は十八、九階で、 そのことはみんなにもよく判っているはずだ。このアメリカ式の建物はどこ の階《フロア》も部屋《ルーム》も外見がみんな同じだから間違わないよう にと団員一同に、コンダクターとして門田も注意している。それなのに団員 が一階下の部屋で殺されているという。どうしてそんな部屋に入りこんでい たのか。 ──この門田の思案はたいそう長い時間を要したように思われるが、十八 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 階から十七階への階段をボーイに引張られて駆け降り、降りたところから十 メートルとは離れていない一七〇三号室の半開きのドアの前に来るまで、実 際は三分ぐらいしかかかっていなかった。人間は危急の場合、脳味噌まで異 常に昂奮するのか、あらゆる想念.思考がいちどきに瀑布のように流れるも のらしかった。 ドアが半開きになっているのは、変事発見のボーイが部屋を飛び出したま まだったからで、ほかの部屋は全部閉まり、緋の絨毯を敷いた廊下の左右に ならんだ各室が遥か向うの一点に集中している状《さま》は、遠近図法によ る舞台の書割を眺めるようであった。 門田は、先に飛びこんだボーイの赤い制服の背中をおずおずと見ていたが、 まだその室内の情景がよく分らないうちに、彼の眼には、女の他殺死体の恰 好がまず浮んできて、脚を竦《すく》ませた。しかし、ボーイがこっちを振 り返り、指を上にむけて掬《すく》うように手招きするので、胸を戦《おの の》かせながら室内に入ったが、死体は見えなかった。 その部屋はツインベッドで、奥のほうのベッドは薄茶色のカバーが整然と してかかっていた。入口側のベッドはカバーこそかけてあったが、それは皺 が乱れ波打っていて、あきらかに凶行がこのベッドの上で遂行された形跡を 見せていた。門田は、そこには誰の姿も眼につかないので、あの忌《いま》 わしい殺害死体、二つのベッドの間から一方のベッドの下に押しこまれて隠 されている半裸の白い肉塊を想像し、膝頭を慄わせながらも、責任上、勇を 鼓してベッドの端を回って床に眼を落した。が、そこには死体の手も脚も出 てないばかりか、着衣の端すらも見えなかった。 このとき、入口近い横のドアが軋《きし》って開いたので、門田は心臓を 握られたようにびっくりした。洗面所に潜んでいた犯人が急に出てきたと思 ったのだ。 しかし眼の前にひらいた色彩が蹌踉《そうろう》として揺らいだ。 「あ、多田さん!」 門田が幻を見たように棒立ちになった。横のボーイもあっけにとられたよ うに呆然としていた。 多田マリ子は、よろよろしながら閉めたドアに背中を凭《も》たせかけ、 咽喉に片手を当て、瞳を宙にむけて、大きな息をいそがしく吐きつづけてい た。肩の背のあたりをドアにかけ、崩れ落ちるのをやっと踏みこたえている ようなそのかたちは、ほどよい弓状を描き、酔余の艶《あ》で姿にも錯覚さ れた。だが、その顔色は蒼白だった。 「多田さん、いったい、これは……」 どうしたのですか、と介抱半分、問い詰めようと近づきかけると、多田マ リ子は空いたほうの片手をゆっくりと二、三度大きく振って、それ以上自分 に寄らないでくれとの意志表示をした。 そうしている間も、彼女は自分の咽喉輪の前を片手で押え、いまにも嘔吐 しそうに、ゲイ、ゲイと咽喉から声を出し、上を仰いでは、深呼吸をするの だった。 「階《フロア》を間違えて……この階でエレベーターを降りて……」 苦しい息の間を縫うようにして、そこから瞬きもせずに見詰めている門田 に、彼女は喘ぎ喘ぎ云ったが、その声は老婆のように嗄《しやが》れていた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「この部屋の前を通りかかると……いきなり……うしろから、抱きすくめら れて……この部屋の中に引きずりこまれて……うしろから首を両手で……絞 められてしもて……そのまま、うしろから押されて突伏しに倒されたまでは、 ぼんやりおぼえてるけど……あとは、なんにもわからんようになりました」 ものを云うたびに、声を絞り出すように肩を上下させた。 「で、その男の顔は分っていますか?」 門田はせきこんで訊いた。 「へえ、顔はよう見てまへん。そんなひまなどはおまへんでしたわ。うしろ から羽交締めにされましたのやから」 抑えていた手の蓋をぱっと除《と》ると、その咽喉の前には皮膚の掻きむ しられたあとに血が滲んでいた。 門田が思わず一步退ったとき、入口から土方悦子の顔が入ってきた。 その後にも五、六人の女の顔があった。 7 以後の騒動──処理に向っての騒ぎは門田を中心に竜巻のようにホテルの 十七、八、九階の間を駆けめぐった。まず、十七階一七〇三号室から多田マ リ子のふらふらした身体を十九階の土方悦子の部屋にみんなで運んだ。みん なというのは門田のあとから凶行の部屋に駆けつけた悦子をはじめ藤野由 美、竹田郁子、日笠朋子といった顔ぶれだが、マリ子は肩を扶《たす》けら れ、背中を支えられて昇降機《リフト》によろめきながら入った。彼女の商 売柄、酔って介抱をうけている女が千鳥足で步いているみたいだった。 マリ子を彼女の部屋に戻さずに、悦子の部屋に入れたのは、同室者星野加 根子への気がねからで、悦子のとっさの計いだったが、適切な処置だった。 門田はここで決断を揮った。もし、空港行のバスがホテルの玄関に待って いなかったら、たとえ待っていても時間の余裕がたっぷりとあったら、門田 の勇断はこうまで決まらなかったろうが、なにぶんにも時間が切迫していた。 そのゆとりのない時間の中でこの突発事件の処理を完了せねばならなかっ た。自分がひき当てたこの貧乏|籤《くじ》を呪《のろ》ってばかりいるゆ とりはなく、せかせかした気持は心臓まで汗をかいているようだった。 彼はボーイにチップをはずみ、つづいて眼をまるくして馳せてきたホテル の支配人と|客 室 主 任《ルームズ.マネージヤー》とに手短に「事故」 について話した。 「さて、あなたがたはどうしますかね、当の婦人は頸を下手人の指によって 掻かれた程度で、それ以上の実害はないのです。われわれは冷静にこれをお さめたい。それにわれわれは、あと二十分以内にバスで空港に駆けつけなけ ればならない。予約したフライトをのがすともう一晚このホテルに滞在しな ければならないかもしれないが、そうなると三十二人ぶんの部屋を都合して もらわなければならない。するとこの騒ぎは当然にホテルの内外に伝わるで しょう。暴漢が部屋を間違えた泊り客の婦人を空室に引きずりこんだとなる と、このコペンハーゲン第一級のホテルとしても迷惑な事態を予想しなけれ ばならない。自分としては警察に被害を届ける気持はない。なにぶんにも出 発時間がさし迫っているのですよ。しかし、あとになってこの突発事故が警 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 察に知れたら被害届を出していないということでホテルのほうが大目玉を喰 うかもしれないので、われわれの今後の行先と宿泊ホテルは日付順に書き遺 しておくから、いつでも連絡してもらっていい。さて、あなたがたはどうし ますかね?」 切羽詰った状態が門田を能弁にさせた。 ホテル側幹部は顔を見合わせ、どうかそういうことに願いたいといった。 自分たちにしても他の客に無用な不快感を与えたくないというのだった。彼 らはすっかり下手に出て、まるで暴行者がホテルのボーイででもあるかのよ うに恐縮していた。もちろんこの椿事については全従業員に厳重な箝口令を 布くといった。 門田が十九階に飛び昇り、コンダクター助手としての土方悦子の個室を開 けると、多田マリ子が首に白い繃帯を巻いて椅子に凭りかかっていた。傍に 悦子と梶原澄子とが付添っていた。 「お医者さんか警官かがくるんですか?」 と、悦子は門田に訊いた。 「両方とも来ない。ホテル側とは話をつけた。何しろすぐに出発しなきゃ間 に合わない。さあさあ、みなさんに玄関にすぐ降りるように触れまわってく ださい」 門田は悦子をせき立てると多田マリ子に近づいた。 「大丈夫ですか?」 のぞきこむと、マリ子は力なくうなずいたが、蒼い顔をし、吐き気がくる ように咽喉元の繃帯の上を押えていた。 普通だったら、詳しい様子を聴取するところだが、いまはとてもそんな時 間はなく、なにしろ災難が軽くて済んだのは不幸中の幸いでした。詳細な話 は飛行機の中ででも伺うから、とりあえず自室の荷物をとりまとめて玄関に 出てほしい、動けますか、大丈夫ですかと訊いた。 「警官はきてくれはらへんのでっか?」 と、多田マリ子はいかにも不満そうな顔で門田を見上げた。これだけひど い目に遇ったのに、警察も来ずに放置されるのが忿懣に堪えないようだった。 当人にしてみればもっともなことだが、門田としては団体行動の上から我慢 してもらうより仕方がない。が、そう云うとマリ子が自分の災難を無視した といって憤りそうなので、門田は気が急く中にも言い訳をし、事件の調査結 果はたぶんコペンの警察からロンドンの警視庁に通報されるかもしれない。 警察でもこの観光団のスケジュールの動かせないことを十分に理解している ので、到着先の警察署が責任者、つまり門田に事情聴取なりしてコペンの警 察署に連絡し、それから署の腕利き刑事がこのホテルを中心に捜査を開始す るだろうと、マリ子の納得がゆくように説明した。 多田マリ子は不承不承に椅子から立ったが、門田を振り返り、 「わたしを絞め殺そうとした手は、日本人やおまへんで。大きな手で、あれ は外人ですわ。泊り客の一人ですやろ。たくさん泊ってはる外人のなかやか ら、このホテルを捜しても犯人は挙らへんと思います」 と、念を押すようにいってひとりで部屋を出て行った。 「あれ、大丈夫かな?」 門田は、多田マリ子の立ち直りかたの早さにおどろきもし、不安でもあっ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn た。 「もう大丈夫ですわ。わたしが応急手当てをしましたから」 声は梶原澄子だった。その声も眼も落ちついていた。 「ああ、あなたは……」 門田は梶原澄子が産婦人科病院長未亡人だったことに気がついた。 「ご主人がお医者さまでしたね? 助かりました」 亡夫が医者だから、その妻にも医術の簡単な知識や看護の心得があるとい うのは早呑みこみだが、門田の考えは世間一般の誤った常識どおりでもあっ た。 「いいえ、主人はそうでも、わたくしは医者ではありません」 梶原澄子は門田の錯覚を冷静に訂正した。 「でも、若いとき、主人の医療室を手伝っていましたから、怪我の手当ては 一般の方よりはいくらか|まし《ヽヽ》かもしれません」 梶原病院も、ずっと以前はまだ小さかったので、若いころ、夫人は夫の命 令でその医務を手伝わされたのであろう。看護の知識はそのとき身につけた のだ、と門田は察した。なんにしても、そういう女性が団員のなかに居たこ とで、門田はほっとした。外国を移動する旅先では、外部から看護婦を呼ぶ ことはできなかった。 「梶原さん。ありがとうございます。多田さんのことを、どうか、よろしく おねがいします」 門田は頭をさげた。 「わかりました。でも、こういう際は、お互いさまですわ。ご一緒している お仲間ですもの」 梶原澄子は善意に満ちた答えをした。 [#改ページ] ロンドンの「公園」 1 ロンドン行のSAS機は、定刻にコペンハーゲンのカストルップ空港を離 陸した。もとよりスチュワーデスたちの顔ぶれは前と変っていた。アンカレ ッジから乗務したのよりは美人ぞろいだったが、愛嬌のない点でも揃ってい た。 北の国の天候はさだめがたい。昨日は晴れていたのに、今日は朝から曇っ ていて、機が水平飛行に移ったころは、窓ガラスに雨が斜線で走った。 雲の中で、機内は梅雨《つゆ》の屋内のようにうす暗かった。門田は、団 員たちを観察するために通路を往復した。とくに気にかかるのは、多田マリ 子の様子だった。で、その座席の横には二度ほど立ちどまった。 多田マリ子は、窓ぎわの梶原澄子と、通路側の星野加根子の席にはさまれ て、まん中に坐っていた。梶原澄子には多田マリ子の介添役に門田が頼んで 隣に坐ってもらったのである。星野加根子は、多田マリ子の室友だった。 多田マリ子は元気だった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「おおきに。もう、疵《きず》の痛みもおまへんし、気分もよろしですわ」 彼女は門田の見舞に、その席から礼を云った。その見上げた瞳と、身体の 動かしかたに、客馴れした色気と嬌態《しな》とが見えていた。彼女の咽喉 首のあたりには、肉色の絆創膏が小さく上品に切って貼ってあった。梶原澄 子が手当てしたのであろう。もっとも、今日の彼女は襟の立ったスーツをき ていて、その頸を隠していた。 その梶原澄子は、スチュワーデスから借りたグラフ雑誌に見入り、星野加 根子は、旅行印象のメモか、小遣い銭の記入か、小さな手帳をひろげて臙脂 色の軸のボールペンで何か記入していた。門田に最も気にかかるこの一列の 座席は、なにごともなかった。 門田が自分の座席に戻ると、雨滴がたばしる窓を見ていた土方悦子が低く 声をかけてきた。 「多田さんの様子は、どうですか?」 「大丈夫らしい。すっかり元気ですよ」 門田は、ようやく煙草を一本とり出した。 「それはよかったですね。今朝の騒動では、一時はどうなることかと思いま したわ」 土方悦子も愁眉を開いたといった表情だった。 「ほんとうです。ぼくも気が気でなかったです」 いま、その心配も想い出になりかかっていた。 「ロンドンのホテルに着いたら、スコットランド.ヤード(ロンドン警視庁) から事情を聴きにくるでしょうか?」 「さあ。コペンハーゲンの警察が犯人を挙げたのなら別だが、そうでもない 限り国際刑事警察機構《インターポール》に通知することもないでしょう。 実害もないし、だれか泊り客の外人が人けのない廊下で日本女性を見かけて 出来心に悪戯をしかけたという、いってみれば小さな事件ですからね」 門田は、自分に云い聞かせるように、なるべく過小評価をした。 「わたくしも、ホテル側が警察に届け出ないと思いますわ。ロイヤル.ホテ ルといえば、コペンハーゲンでは日本の帝国ホテルのように格式のある一流 ホテルでしょう? 実害のなかった事故を届けて表沙汰になると、人気商売 にさし障りがありますからね」 「そりゃ、そうです」 門田は勢いよく同意した。 表沙汰になって困るのは、自分の立場であった。これがコペンハーゲン警 察署から発表されて、外電で日本の新聞に載ろうものなら、えらいことにな る。新聞は、女性だけの観光団に起ったというので派手な紙面をつくるだろ うし、そうなれば団員の家族から本社に問合せが殺到する。本社からもこっ ちにむけて、きびしい照会電報がくるにちがいない。女性団員が十七階の一 七〇三号室で□締め殺されている□とボーイに聞いたときから渦巻いた惑乱 が、またしても思い出された。 だが、たぶん警察の動きにはなるまいと土方悦子がその理由をあげた推定 に、門田も気分が明るくなった。 それに、門田自身もロイヤル.ホテルの支配人を巧みに説得してきたのだ。 「アンカレッジの指輪の紛失は藤野さん、今日の災難は多田さん。もうこれ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 以上の事故がみなさんの帰国まで起らなければいいと祈っていますわ」 土方悦子は眼を瞑《つむ》って云った。 門田もまったく同感で、祈りたいのは自分のほうだった。これが団員どう しのいざこざだと自分の手で処理できるが、高価な品の紛失だとか、襲撃を 受けるとかいったような事故は、警察沙汰につながることで、万一その強権 の介入をうければ、彼の力では、ことを穏便にというわけにはゆかなくなる。 団員にとってショックといえば、指輪の紛失よりも、暴力の襲撃のほうが、 はるかに度が大きかった。前者では、他人の持ち物が失くなったというだけ で、だれにとっても関係のないことだった。その紛失に盗難の疑いがあると いうのなら、話は別になる。団員間には、疑惑、猜疑、邪推といった暗い空 気が発生するが、藤野由美の場合は、化粧室に置き忘れたと具体的に言明し ているからそういうことはなかった。むしろ、彼女が宝石入りの指輪を失っ たということで、なかには小気味のいい思いをしている者があるかもしれな い。人によっては、とくに女性の中には、他人の不幸に対してひそかな喜び に浸る傾向があるようである。 しかし、多田マリ子の場合は、他人ごとだけでは済まされなかった。犯人 も分らず理由が分らないとすれば、この未遂事件は彼女に限定されたとはい えなくなる。女がひとりでホテルの廊下、その無人地帯を步いていたのが犯 罪の原因であったと考えられる。そうなると、将来、いつ、同じことが自分 の身に起るかもしれないという危惧がみなに抱かれる。犯行の原因が「女」 であれば、団員の三十人は、みな「原因」をもっていた。今日は他人《ひと》 の身、明日《あす》はわが身になりかねないのである。だれもが、いつでも、 多田マリ子と同じような被害者になり得るのだった。 ただ、その種の被害者の資格には多少の条件が考慮されよう。ひとしく女 だといっても、美醜の問題がある。襲撃者は、だれでもというわけではなか ろう。狙う対象に、選択が動くのだ。げんに、多田マリ子は、きれいで、魅 力のある女だった。その魅力は、職業上の自然の訓練で、男心を唆《そそ》 るものがあった。彼女は四十歳だということだが、外国人には、顔の皮膚が| きめ《ヽヽ》こまかくて、小柄な日本の女性が小娘に見えるから、彼女も二 十代に見られたのであろう。 しかも、女性はなべてどこかに自分の容貌に自信をもっているものである。 これが、団員たちに被害者資格の意識と不安とを抱かせていると思われる。 門田はそう推察した。 そのせいであろうか、三十人の女たちは一様に寡黙であった。隣席どうし で面白そうにしゃべり合う者はいなかった。みんな座席に身体を沈めこんで、 孤独な姿になりきっていた。 もっとも、窓には黒味がかった灰色の厚い雲がまだらに動いているだけで、 本を膝の上にひろげるか、思索するかしかない状況の中にあった。 門田は、機内のアナウンスにしたがって、いまオランダの沖を通過してい るとか、ドーバー海峡の東にさしかかっているとか、通路を往復して団員た ちにふれて步いたが、だれもが雲に視線を走らせるだけで興味を示さず、す ぐにもとの懶《ものう》げな表情と姿勢に戻った。 2 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ヒースロー空港からロンドン市内に入るまで高速道路ができていて、しば らく市内の建物を見おろして走る。イギリスの煉瓦は赤いが、煤煙にくすん だようにくろずみ、埃っぽい古色を帯びている。コペンハーゲンや郊外で見 たデンマークの煉瓦建は、赤味のかったチョコレート色だが、ずっと清潔で 明るい。これがオランダとなるともっと赤の絵具を強める。ヨーロッパの北 の国の建物が暖色系統なのは、眼で寒さをやわらげようというのであろうか。 ともかく、ロンドンの暗鬱で荘重な赤煉瓦の建物は、雲が重く垂れこめた空 とふしぎに似合う。みるからに質実な住宅のかまえがどこまでもつづき、門 内の小さな庭には八重桜に似た花が小雨の中に一、二本咲いていた。 高速道路を降りると、市内の中心地となった。車の渋滞と道路工事とはま るで東京の町なかを通っているようだった。ロンドンも中心街となると伝統 に固執してはいられず、高層建築物も商店もよほどアメリカふうになってい た。 商店街をようやくのことにふり切ると、バスの右側の窓に森林の間から川 が見えた。川かと思うとそれは細長い池で、水の上には霧雨がかすんでいた。 木立と池とはバスの方向回転につれていっしょについてまわった。 ハイドパークの北側に高層白堊で建っているランカスター.ホテルのスタ イルは純粋にアメリカ式であった。ベイズウォーター通り、ランカスター.ゲ ートのある前にバスはとまった。一同の荷物を降ろし、ロビーのフロント近 くに運んでひとかたまりにならべるボーイやポーターらの要領もよく、動作 もきびきびしていた。 ここではコペンハーゲンのホテルのように長いこと待たされることもな く、フロントの受付係は予約簿に眼を落すと、三十二枚の宿泊人カードを一 束にして門田の前に出した。むしろ客のほうが、門田の指示にハンドバッグ からパスポートをあわてて出すやら、その記載どおりをカードに書き写すや らでざわざわと手間どった。十七の部屋(十五室は団員二人ずつ、あと二室 は門田と土方悦子の各個室)の鍵は添乗員の責任で門田が一括してうけとり、 十五個は室友リストにしたがって団員に配分した。みなが各室に荷物を入れ て落ちついたのは、すでに夕方であった。 門田は、ロビーで鍵を渡すときに一同をまわりに集めて申し渡していた。 「みなさん。今日はロンドンに着いたばかりでお疲れでしょうから、七時に 食堂で夕食をとっていただいたあとは、お部屋で休養をとってください。わ たしも、今朝のことがあって(多田マリ子が襲撃された事件の意)くたびれ ていますから、今夜の市内見物のお伴はいたしかねます。グループのお出か けもご遠慮ください。また、ここはごらんのようにハイドパークがすぐ前に 大きくひろがっていて暗く、東京で云うならさしずめ神宮外苑のようなとこ ろ、女性のそぞろ步きは禁物です。それに、これより東に五百メートルばか り行ったところがマーブルアーチで、その南北の横町には安ホテルがならび、 各国のヒッピーをはじめえたいの知れぬ若者たちが木賃宿の宿泊人よろしく 雑居しています。どうか、ご注意をねがいます。なお、明日からの詳しいス ケジュールについては、今夜の夕食のときにお話し申上げます」 今晚の外出禁止に、夜の神宮外苑や木賃宿の浮浪若者の例を出したのは、 もちろん今朝の多田マリ子の事件に対応して利かせたのだった。これくらい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に警告しておかないと門田も気が休まらなかった。 一同の晚餐は屋上のレストランでとった。このときは、門田がちょっとし た癇癪を起した以外、みなは平穏にナイフとフォークを動かした。ロースト ビーフにヨークシャー.プディング、それに舌平目《ドーバー.ソール》と いうのが一同の択んだメイン.ディッシュだった。 門田が少々腹を立てたというのは、彼の言葉がボーイに通じなかったこと である。ボーイは、門田の言葉に耳を寄せ、入念に聞いていたが、 「あなたはフランス語が話せますか。話せるなら、どうぞフランス語でいっ てください」 とたのんだ。 門田は言葉を失い、顔色を変えて、ボーイを睨《ね》めつけていた。英語 に自信のある彼も、本場のロンドンのホテルに通じないとあっては、土方悦 子をはじめ観光団一行の手前、たいそうな恥辱であった。 門田は仕方なく、不得意なフランス語を手真似でいうと、給仕は鼻に皺を 寄せ、莫迦にしたようなうす笑いを浮べて、向うに行った。門田はその後姿 をなおも睨んで、 「あいつは愛蘭人《アイリツシユ》にちがいない。こういうところのボーイ やポーターにはアイリッシュが多いからな」 と、腹|癒《い》せに毒づいた。 門田の英語は、鼻にかかったアクセントの米語である。tの発音もはっき りしない。彼は、バスの中でこの白いホテルがハイドパークの黒い樹間から 見えてきたとき、「ヒアウイアーハン?」(Here we are, ha? やあ着いた ね)と鼻先で云っていたし、機内のスチュワーデスにむかってもこの調子で あった。 門田がアイリッシュのボーイに癇癪を起したとき、土方悦子は眼をそむけ るようにしてうつむいていた。 もっとも、ロンドンのホテルのボーイに米語が通じないからといって愛蘭 人とはかぎらない。このごろはホテルの従業員にもイタリアやギリシャから の出稼ぎ人がふえていた。 それはともかく、食後のデザートのとき、門田はロンドンでの明日からの 予定をこのように団員たちに話した。 「明日、四月十九日は、午前九時にこの食堂に集ってください。それまでは、 すぐ前のハイドパークを散步なさるのもけっこうです。夜は駄目ですが、朝 はきっと気分がよいでしょう。九時半にバスに乗って、トラファルガー広場、 ホワイトホールを通りウエストミンスター寺院に行きます。内部を見たあと、 バッキンガム宮殿前に行き衛兵の交替を見物します。これは十一時三十分か ら行われます。昼食は、セント.ジェームス通りの海産物料理で有名なレス トランのオーバートンズが予約してあります。午後はロンドン塔の見物です。 夜はピカデリーサーカスやトラファルガー広場の賑かなところをバスで観光 します」 (図省略) これは型通りの観光コースだったが、門田も旅行社のテキスト通りのスケ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ジュールではあきあきすることがあった。で、彼はときどき臨機応変に、自 分の好みを択ぶことがあった。 次の日は、午前中を市内見物、午後は自由行動。そのまた次の日は郊外を バス.ドライブ、ウインザー城を見て、夕方に戻り、ホテルで夕食、休息や ら荷物の準備やらをして十時にホテルをバスで出発して駅へ、十一時発のエ ジンバラ行の夜行列車に乗る。エジンバラ着が翌朝の六時半。すなわち四月 二十二日である。スコットランドの観光は二泊三日の予定で、それからは旅 客機でヒースロー空港に戻り、スイス航空機に乗りかえてチューリッヒに向 う。── こういうことを門田は、ときどき軽口を交えながら述べたのだった。 軽口は、女性団員たちの気持を引き立てるつもりだったのだが、テーブル に集っている表情を見ると、その配慮は余計なようだった。というのは、み なの顔には少しも沈んだ様子はなく、ロンドン一流のホテルでイギリスの典 型的な食事をとって充分に満足げであった。さらには明日からの市内見物や スコットランドの観光に眼をかがやかしているようだった。 藤野由美も多田マリ子も、その例外ではなかった。門田から見て、両人と も、けろりとした顔つきだった。 すると、コペンのホテルでの事件は、当の多田マリ子にとっても、他の団 員たちにとっても、さしたる衝撃ではなかったのか、と門田は案外な思いで あった。いろいろと考えてきたのは、考えすぎであり、女性団員たちの心理 を深読みしたのであったか。飛行機の中での団員たちの寡黙と沈思とは、窓 の外が雲ばかりで下界の眺望を諦めた末の不機嫌のなせるわざであったの か。あの事件にくよくよしていたのではなかった。 自分の取越し苦労だったと門田はさとった。が、杞憂で済んでよかったの だ。女性だけの観光団体に添乗したのは初めてなので、彼も団員たちの心理 の把握ができずに困惑した。 しかし、これからも長い日程の旅だった。そのうちに、次第に彼女らの心 理状態がつかめるようになるだろう。そうなれば、こっちのほうが積極的に みなをコントロールできる。いまはその機のくるのを待つしかなかった。 食卓がデザートに入る前だったが、横にいた土方悦子が、門田にそっと云 った。 「わたし、デザートのときにでもピーター.パンのお話でもしようと思いま すの。このハイドパークの隣にあるケンジントン公園の森がピーター.パン の舞台だったということを。有名な童話ですから、みなさんきっとおよろこ びになると思いますわ」 悦子がまだ「講師」気どりでいるのが門田には抵抗があった。彼女はとき どきいいことも云うが、この点が彼の気に入らなかった。何か一言云い返し てやりたかったが、すぐには適当な言葉がなかった。 「成人にならない妖精的な永遠の少年のピーター.パンが子供たちをつれ出 して、おとぎの島ネバ.ネバ.ランドに遊び、行方不明になった子供たちを 守ってやったり、海賊と戦ったりする児童劇だったんですが、作者ジェーム ス.バリーはのちに空想をふくらまして、あのケンジントン公園閉鎖後に小 さいときに行方不明になったままのピーター.パンが妖精たちと遊びまわる というふうに小説に書き直しましたの。そういうことをお話ししようと思い PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ますの。実際に舞台になった場所を見ながらですから、みなさん、きっと興 味をもってくださると思いますわ」 土方悦子は江木奈岐子のピンチヒッターとしての任務を自覚して云ってい るのだった。あれほど出発前に間接的に云い聞かせたのに彼女にはまだ通じ ていないと思うと、門田は、この小柄な女が意外に鈍感なのか、それとも我 意が強すぎるのか、判断ができなかった。 「その話は、みんなの食事が終ったときの様子を見てからにしたほうがいい」 と、門田は結局穏当な返辞をした。窓外の闇の下に沈む森の中に大人にな りきらないままの悦子が妖精の群と遊んでいるようにみえてきた。 だが、妖精の囁きにも似た声は、翌朝になって、まったく別人によって門 田の耳にもちこまれた。 3 八時ごろだったが、門田が自分専用にとった部屋で、コペンハーゲン以来 の支払いの覚書や領収証などを整理していると、ノックが聞えた。土方悦子 が来たと思いドアを開けると、梶原澄子の尖った顔が廊下に立っていた。彼 女はすっかり外出の支度でいた。 「お早うございます。これからハイドパークなどご散步ですか?」 門田は愛想よく挨拶した。この札幌の病院長未亡人には、多田マリ子のこ とで世話になっていた。 「ええ。それもありますけれど、ちょっとあなたにだけお耳に入れておきた いことがございますの。みなさんが散步にお出かけになってらっしゃる間に」 梶原澄子は、どこか真剣な眼つきで云った。 「そうですか。どうぞ、おはいりください」 門田は身をわきによけた。 梶原澄子は、門田の机の横にある来客用椅子に、少々威張った足どりでま っすぐに步いて行った。門田が廊下の見えるドアを開け放したままにしたの は、むろん男の部屋に婦人客を迎えたときのエチケットだった。もっとも、 ベッドが寝起きの乱れたままになっていたのは気にかかったが。 梶原澄子のほうは、そんなものには眼もくれず、椅子にかけると、対い合 いに坐った門田に、少し性急と思えるような速い口調で云った。 「わたくしが、ここに来て門田さんに何かしゃべっているところをほかの方 に見られると、変にカンぐられても困りますから、早速ですが申します。多 田マリ子さんのことですが」 「あ、多田さんのことでは、梶原さんにたいへんお世話になりました」 門田は、彼女の話の途中なので、急いで頭をさげた。 「いいえ。実はそれなんですが、門田さんは、あのコペンハーゲンのホテル で多田さんがほんとうにだれかにうしろから頸を締められたと思ってらっし ゃいますの?」 梶原澄子は、じっと門田の顔を見つめた。 「それはどういう意味ですか? 多田さんがそう云っているから、そう信じ ているのですが」 門田も相手の顔を見返した。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「いいえ。わたくしは多田さんが他人に背後から頸を締められていないと思 います」 「え?」 「わたくしは、多田さんの頸を手当てしてさしあげました。ところが、締め られた部分の疵というのは、前頸部の左右両側の表皮が少し剥離しているだ けでした。それは爪で掻かれた痕なんです」 □前頸部左右両側の表皮の剥離□などというところは、さすがに医者の妻で、 若いときに夫の医療仕事を手伝ったというだけはある、と門田は思った。咽 喉のあたりで右と左の両側の皮が剥けている、というのが普通の言い方であ ろう。 「それは、あのときに分っていましたが」 「疵のことはそうですが、状況についてはわたくしがほんとうのことを云っ てなかったのです。多田さんの前ではもちろんのこと、あのときの雰囲気で はいえなかったのですよ。いいですか、もし、他の者にうしろから頸を締め られたとすると、その両指が頸動脈を圧迫しますから、前頸部の両側には、 その部分の皮膚下に鬱血がみられます。チアノーゼといって、指の喰いこん だところが暗紫色を呈するものです」 「………」 「ところが、多田さんのはそのチアノーゼも見られず、うしろから両手の指 が喰いこんだ痕もありません。皮膚の色は変ってなく、きれいなものでした わ。ただ、爪で引き掻かれて、皮膚から血が滲み出ているだけでした。そん な扼殺の方法って、ありませんわ。ついでに申しますと、紐のようなもので 締め殺すのが絞殺で、手で締めて殺すのが扼殺です」 梶原澄子は、絞殺されかけたと騒ぐ多田マリ子の言葉と、同じことを云う 門田とを訂正した。 門田は、眼をひろげて聞いているだけだった。 「もっと、大事なことがありますわ」 梶原澄子は、門田のおどろきを冷やかに見てつづけた。 「爪で頸を掻くような扼殺の方法はないばかりか、多田さんの頸は、その爪 の方向がうしろから前にむかっているのではなく、前から上のほうにむかっ ていることです。背後から抱きつかれて両手の爪を咽喉に当てられると、爪 の先は前にむかっているものです。多田さんのはその逆でした」 門田は、自分の手でその状態を宙に試してみた。梶原澄子の云う通りだっ た。 「そうすると、多田さんは、自分の手で咽喉を締めたのですか?」 門田は、口の中で低く叫んだ。 「絞めるつもりが、爪で皮膚を傷つけるだけに終ったのですね。あの方のマ ニキュアした爪は、長くて先が三角に尖っていますわ。多田さんは、だれか 男にうしろから頸を手で絞められたと云ってらっしゃるけど、男の爪は女の ように伸ばしていませんわ」 「………」 「それに、多田さんの顔の色は蒼白でしたわね。あんなに長い間、十七階の 空き室で意識を失ったみたいに仆れていらしたんですから、顔色も暗赤色に なっていなければなりません。わたくしは、主人の手伝いをしていたときに、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 縊死をしかけた自殺未遂の患者さんを見たことがありますから、わかるんで す。そういう例に、顔の白い人って居ませんでしたわ」 「そうすると、多田さんは自分で絞殺、いや、その、扼殺されかけたという 狂言を工作したのですか?」 門田は呆然となって云った。 「狂言かどうか、そのへんの判断はあなたにお任せしますわ」 梶原澄子は口辺にうっすらと微笑を浮べていった。 「狂言だとすれば、どうして、そんな、人騒がせなことを」 門田は、多田マリ子に憤りが湧いてきた。 「人騒がせなことをする方は、いつも自分の存在を周囲《まわり》に目立つ ようにさせる人に多いというじゃありませんの?」 梶原澄子の言葉に、門田は唸った。たしかに多田マリ子は藤野由美と張り 合って、そういう自己顕示欲があった。クロンボールの古城のほとりで展開 されたキャビアをめぐる女のいくさが思い出された。 「でも、門田さんにとっても、わたくしたち旅行団にとっても、警察沙汰に ならなくて仕合せでしたわ。もし、コペンハーゲンの警察がホテルに乗りこ んでこようものなら、多田さんの偽装工作はすぐに看破されますもの。そう なったら、わたくしたちも迷惑します。わたくしは、コペンハーゲンの警察 がやって来はしないかと、ひやひやしていました」 梶原澄子は、ここで太い息を吐いた。 門田もそれに合わせて溜息をついた。まったく彼女の云うとおりであった。 「でも、門田さん。このことは、多田さんにはもちろん、どなたにも絶対に おっしゃらないでください。土方さんにもね。無用なショックを与えたくな いのです。この旅行団が羽田に帰るまで、わたくしは団体の平和を維持した いのです。そして、みなさんとご一緒に、たのしく見物してまわりたいです わ」 「わかりました。梶原さん。あなたのお気持には感謝します。だれにも絶対 に口外しません。もちろん、土方さんにも黙っています。ぼくの胸の中にた たみこんでおきます」 「多田マリ子さんにもこれを気づかれるようなことのないように、門田さん もいままでどおりに接してください」 「そうします」 門田は、梶原澄子の慎重な助言に頭をさげた。 「多田マリ子さんは、大阪の方ですね?」 梶原澄子の表情は、ふいと、それまでのものとは変った。ちょうど、雲の 通過で、景色の光線が変化したような具合だった。 「そうです。あのとおり大阪弁ですしね。大阪でレストラン経営というので すが、もしかすると、それよりも、やわらかい、バアのマダムかもわかりま せん」 門田は遠慮なく云った。万人の見るところがそうだからである。 「そう?」 梶原澄子は、首をかしげていたが、 「わたくし、あの方には、ずっと以前に、どこかでお目にかかったような気 がしますわ」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn と、ひとりごとのようにいった。 「ほう。やはり、大阪ですか?」 「いえ。もっと、違った所で」 梶原澄子は思案していた瞳を、前の門田との会話の眼に戻した。 「……でも、記憶違いかもしれません。もう、いいんです、そんなこと。そ れよりも、くどいようですが、いまお話ししたコペンでのことは、ご本人の 多田さんにはもちろん、どなたにもおっしゃらないでくださいね」 梶原澄子は念を押して、門田の見送りをうけ、ハイドパークの散策のため、 部屋を出て行った。入ってくるときと同じように步み方が威張った感じだっ た。 4 午前九時の朝食風景から、門田の眼にはそれまでと違った色合いとなった。 みなの中で、多田マリ子は何ごともない顔でいた。一行に男性がいないの で際立ったものではないが、それでも同性に対して嬌態を含んだ気どりを見 せた。彼女は自分の魅力を意識していた。 だが、彼女がホテルで襲撃されたのが自身の狂言であったと門田にわかっ てみれば、彼女への憤りもあったが、その事件の魅力に多少惹かれていただ けに、索然たる気持になった。 索然といえば、団員のすべてが女性なるがゆえに、コペンのホテルのよう な被害者の資格があると思っていたのが多田マリ子の偽装被害と分ってから は、門田の中にその観念が消えたことだった。もはや、団員には何の危険も 起り得ず、その種の不安もなくなった。そうなると、なべて平凡な女ばかり に見えてきた。多田マリ子と競争心のあるらしい藤野由美まで、そう映って きたから妙だった。 梶原澄子は知らぬ顔をしていた。普通は、ことあれかしとねがい、立てぬ でもよい波瀾をみんなの間に立てたがるのが女というものだが、彼女は一行 の平和をねがうといって口を閉ざし、門田にもそれを要求した。さすがに病 院長未亡人で、良識をもっていると門田は感動した。多田マリ子の咽喉首の 看破といい、その医学的知識も相当なものだわい、と彼は素人だけに感服し た。 しかし、多田マリ子はこの先も警戒しなければならないと門田は思った。 彼女の自己顕示欲が、いつまた人騒がせな事件を起すかしれないのだ。コペ ンのことは、梶原澄子との約束で黙っているが、次にまた何か妙なトラブル を起したら、そのときこそ、みっちりと云ってやらなければいけないと思っ た。 その再発の防止には、土方悦子にも多田マリ子の事件の真相を打ちあけて、 彼女にも協力させるのが万全というものだった。が、これも梶原澄子との確 約を破ることはできなかった。 朝食後、バスで、ピカデリーサーカスを経て、トラファルガー広場からウ エストミンスター寺院の参観、バッキンガム宮殿前での緋色の衛兵交替見物、 さらには北海産の魚料理店での昼食など、門田は一行をコース通りに無事に 引率することができた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ピカデリーサーカスでは、例の翼をひろげた天使《エンゼル》が弓に矢を つがえている銅像に、だれにも絵はがきなどでお馴染だったので車内に歓声 があった。その中で、五人ぐらいは声も出さず眼も笑わせなかったが、それ が気取りからきているのか、それともこの団体の旅にまで日本からの屈託を かかえてきているのかはまだ門田には判別がつかなかった。沼袋で魚屋をし ている金森幸江が血色のいい丸顔で、ピカデリーサーカスにさしかかったと の門田の車内放送で、あたしゃイギリスの軽業《かるわざ》なんかまだ見た かないよ、と下町言葉で不平をいったのはまわりの明るい失笑を招いた。 門田の説明は、一種の節《ふし》と抑揚《よくよう》を持ち、聞く者によ ってはイヤ味だったが、初めての人にはけっこうガイド風な名調子だった。 テームズ河に出てビクトリア.エンバンクメントの河岸通りを大きく回りな がら東に折れ曲ったところに長い橋がある。門田は片手をあげて映画「哀愁」 のウォータルロー橋《ブリツジ》を説明した。橋の上は車の往来《ゆきき》 が激しかったが黒ずんだ雲が層々と空にひろがり、暗い、淋しい色合いにな ったのはいくらかでも舞台の雰囲気を思わせた。 ロンドン塔に着くと、中世風の灰色の城壁に囲まれた塔の前で、卵大のダ イヤをちりばめた王冠見たさに観光客が順番を待って長蛇の列をつくってい る。ようやく順番がくると中世の赤い番人服をきた守衛が一組二十人くらい の割合いで塔の中に入れる。狭く、うす暗い階段を登ってゆくと、数人の守 衛が、早く、早くと下から急き立てる。それが恰も牢獄の房から断頭台にい そがせる獄卒の叱咤のようである。── 門田がそれとなく多田マリ子のほうに気を使っているとき、土方悦子は悠 然と文庫本を片手に持って読みながら脚を動かしていた。門田が憤《むつ》 として悦子に近よると、彼女は小さな本から眼を上げていった。 「門田さん。みなさんに漱石の『倫敦塔』の一節を読んでお聞かせしましょ うかしら? この実物を見るよりも漱石のこの文章のほうがどれだけ雰囲気 が出てるか分りませんわ」 □「朝ならば夜の前に死ぬと思へ。夜ならば明日ありと頼むな。覚悟こそ尊 べ。見苦しき死に様こそ恥の極みなる……」弟又「アーメン」と云ふ。その 声は顫へて居る。兄は静かに書をふせて、かの小さき窓の方《かた》へ步み よりて外《と》の面《も》を見様とする。窓が高くて背が足りぬ。床几《し ようぎ》を持つて来て其上につまだつ。百里をつつむ黒霧の奥にぼんやりと 冬の日が写る。屠《ほふ》れる犬の生血に染め抜いた様である。……「牢守 りは牢の掟を破りがたし。御子等は変る事なく、すこやかに月日を過させ給 ふ。心安く覚《おぼ》して帰り給へ」と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせ ぬ。鎖りばかりは敷石の上に落ちて鏘然《しようぜん》と鳴る。……「黒き 塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」と云ひながら女はさめざめと泣く□ 文庫本から悦子は気に入った文章だけを拾って読んで聞かせると門田に云 う。 「素敵と思いませんか、ここの部分?」 門田は、まるで幼いエドワード五世兄弟の母が背後の高い小窓の下に立つ 幻覚をつくるかのような悦子の朗読に苛々《いらいら》していった。 「そんな本は、庚申《こうしん》の晚にでもみんなに読んでやるんですね。 さあさあ、あんたも、団員に、はぐれて迷う人はいないか、よく見張ってい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn てください」 ほんとうは、多田さんに気をつけていてくれ、と云いたいところであった。 無事はその夜の観光と、翌日午前中の見物にもつづいた。門田には、あり がたいことであった。多田マリ子は、何ごともしなかった。 この午前中の予定はまことにスムーズにいった。九時には全員が揃って、 大型貸切バスに乗って、門田の指揮通り、羊の群のようにおとなしく動いた。 大英博物館も規模の壮大におどろくだけで滅多に行かない上野の博物館ほど にも興味を示さず、各室ともが素通りで、これは美術館も同様であった。 予定が一時間も早く済み、したがって、バスがゆるやかな坂を上って、閑 静な住宅街の、とある古めかしい家の前にとまったときは、まだ十一時十分 前であった。 予定を早め早めとこなしてゆくのは添乗員にとって大満足で、門田は土方 悦子を機嫌よく顧みて、 「土方さん、ディケンズについて、みなさんにちょっと説明してあげてくだ さい」 と頼んだ。講師としての機会を与えられた悦子はその文学好きの小さな顔 を急に明るくさせて、早速に日本にも馴染の深い『二都物語』の著者チャー ルズ.ディケンズについて説明をはじめ、この家は彼が一八三七年から九年 までの新婚時代を送り、同時に『オリバー.ツイスト』などの作品を書いた ことを述べた。西暦でいわれるとピンとこないけれど天保八年から十年なの で、「文豪」の幻影はいかにも古色蒼然とし、またシェークスピアほどに有 名でないから、屋内を見て回るのも一同はあまり気乗りがしてなかった。 一階の記念品売場、地下室の厨房《ちゆうぼう》、三階の書斎と寝室など、 狭い階段を三十人以上の女がぞろぞろと昇り降りするだけで、それも肩を押 し合うような混雑であった。自然と分散のかたちとなり、それに他の参観者 が混り合ったので、門田が多田マリ子の動静をこっそりと観察するにはまた とない機会になった。 門田は、脇腹をつつかれて横を見ると、梶原澄子がかすかな笑いを浮べな がら立っていた。地下室の厨房で、壁には赤銅色のフライパンだとか鍋だと かがレンブラントの画のようにうす暗いなかに鈍い金色の光で浮び上ってい た。 梶原澄子の微笑の意味は門田にもわかった。いましも多田マリ子は、同じ 厨房に降りてきたアメリカの中年男三人の観光客に愛嬌をふりまきながら何 やら話し合っているのだった。 アメリカ人たちはすっかりよろこんで、眼をかがやかしながら彼女の前に 集り、しゃべっていた。むずかしい話ではなく、冗談も入っている。その会 話はピンポンのように弾みのあるやりとりであった。多田マリ子の米語は決 して上品ではないが、達者なものだった。梶原澄子の微笑は冷嘲であった。 ちょうど、上の階段をこの地下室に他の団員と降りてきた土方悦子が、多 田マリ子の米語に聞き入っていた。それを多田マリ子が意識して得意でいる 様子だった。 門田は門田で、多田マリ子がこれから行く先々で、こういう自己満足のゆ く機会をとらえるなら、もう人騒がせなことをする必要もあるまいと思った。 午後は自由行動だが、ホテルに帰る道順なので、マダム.タッソー館の蝋 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 人形館に寄ることにした。これも団員の興味をひくと門田が判断したからで ある。 マダム.タッソー館は、ディケンズの旧宅のある山の手の閑静な住宅街を 東にむかえばよい。メアリレボーン通りの四つ角にあって、その南にあたる ベーカー街の坂道をさらにまっすぐに下ると、自分らのホテルの方向となる。 蝋人形館を、要するに見世物小屋さ、と片づけるのはたやすいが、このく らい世界的に有名になれば、堂々たるものだった。正面屋上に英国旗がなら び、前庭には一流ホテルなみに万国旗が林立していた。タッソー夫人は九つ のときから蝋人形の製作をはじめ、一八五〇年、八十一歳で死ぬまで似顔の 人形作りをつづけた。団員たちには、世界じゅうの歴史上の有名人物──そ れは政治家、芸術家、思想家、哲学者、科学者などである──を観ても、生 憎と映画スターや歌手の似顔に対面するほどの興味はなかった。聞いたよう な名前、たとえばロイド.ジョージとかマルクスとかアインシュタインとか、 このディケンズにいたっては、さっきその旧家庭を見てきたばかりなのに、 それらの説明札を見ても、蚊がとまったほどにも顔面の動きがなかった。 「さあ、この地下室から残酷場面になりますよ。暗殺、死刑、ギロチン、そ ういった場面がふんだんにありますから、気を失わないでくださいよ」 門田はみなの気持を少しでも刺戟するように呼びかけた。自分でも、昔、 浅草の奥山にあった見世物小屋の幽霊屋敷の呼び込みのようだと気がさした が、このときばかりは女たちの間にざわめきが起り、互いに顔を見合わせた り、尻ごみするような様子を見せたが、地下の「恐怖室」に降りるのを中止 する者は一人もなかった。 ここは一階や階上とは違い、通路はお定まり通りうす暗くしてあり、各場 面にも蒼白い、淡い照明が当っていた。妻殺しのクリプリン博士の肖像とい った犯罪者たちの顔はいずれも中年の紳士で、その知的な相貌から冷い血を 感じて、ぞっとした団員は果して幾人居たであろうか。ただ、二百八十四人 の婦女を欺し、そのうち九人を殺した「女性の敵」ランドルウの禿頭、髯面 の前に立ったとき、さすがにみなの眼は輝いていた。本もののギロチンに頭 から突込んでいる髪を乱した男の首、肩に短剣を刺しこまれて、裸体を朱に 染めているマラーの断末魔の顔、処刑者を椅子に坐らせていまや絞首刑の縄 の前に立っている死刑執行人といったところは、陰惨な背景と照明で、さす がに悲鳴に似た低い叫びを上げさせるに十分であった。最も同情を唆《そそ》 ったらしいのは、暗殺者が忍び寄っているとも知らずに、幼い兄弟が寝台に 寄り添って睡っているシーンで、弟は兄の頸に右手を軽くまわして抱きつい ている。 □兄「朝ならば夜の前に死ぬと思へ。夜ならば明日ありと頼むな。覚悟こそ 尊べ。見苦しき死に様こそ恥の極みなる……」弟又「アーメン」と云ふ。そ の声は顫《ふる》へて居る□ 『倫敦塔』の台辞《せりふ》が聴えてくるようである。 場面によっては舞台に引入れられたように参観者の三人が通路に佇《たた ず》んで凝視している。人品卑しからぬ老夫婦と若いアメリカ人であった。 その背後に人は移り動いても、その三人だけは魅せられたように立ったまま 微動だもしない。口も利かぬ。瞳も動かぬ、と気づいた誰かが、これも蝋人 形だ、と叫んだ。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 蝋人形館を出ると、バスに乗るまでもなく、だらだら坂の道を步いて下っ た。こんどは土方悦子が先頭に立っていた。 あたりを見回しても何の変哲もない煉瓦建の小店と住宅《しもたや》のな らぶ坂道の通りなので、だれもが怪訝《けげん》な顔をしていた。 「ここがベーカー.スツリートでございます」 土方悦子が笑顔で説明をはじめた。 「と申しましたら、みなさまは、きっとシャーロック.ホームズの下宿を思 い出されると思います。ロンドンにまだ自動車がないころ、ガス燈の光が濃 い霧に巻かれている晚、表に戛々《かつかつ》と四輪馬《コーチ》車の音が 聞えて家の前に停ります。重々しいノックの音が玄関に聞え、家主のハドソ ン夫人が取次に出て行く。室内のマントルピースの前では肘掛椅子《アー ム.チエア》にかけているホームズが傍らの親友でもあり記録係でもあるワ トソン医師を顧みて、ほら、ワトソン君、依頼人だぜ、どうやらお客さまは ボーア戦争から戻った退役軍人のようだね、なんて、まだ顔や姿を見ないう ちに推理をしてわがワトソンをおどろかせる。あのなつかしいホームズのベ ーカー街二二一番Bがあのあたりでございます。いまは保険会社の事務所が あって、少々がっかりでございますが……」 がっかりしたのは土方悦子自身にちがいない。せっかく、ホームズ探偵物 語の代表的な冒頭の一節を披露に及んだのに、団員の顔はいずれも無反応で あった。ホームズくらいは読んだことがあるに違いないと思われるのに、団 員の三十女には反応がなく、二十代の女には翻訳ものでも観念小説か純愛物 語しか愛読しないのか、これまた無表情であった。それでも悦子は何とかみ なの興味を起そうとして奮い立つ様子だった。 「ホームズ物語を愛読した世界中の旅行者がロンドンに来た機会にここを訪 れるそうでございます。なかには、大真面目で、ベーカー街のホームズさん の家を見たいとお巡りさんに訊く人が多いそうでございます。申すまでもな く、フィクションですから、現実にはそういう家はございません。熱海のお 宮の松のようなものでございます」 いかなる軽口も機知も団員一同には通ぜず、比喩《ひゆ》の熱海のお宮の 松で、ちょっとした反応、それも見当違いの反応があったにすぎなかった。 「講師」の悦子もそれ以上しゃべる意欲を失ったようだった。 もしかすると、女性団員たちは蝋人形館の虐殺や拷問場面に衝撃を受けた ので、ひきつづいて人殺しを推理する探偵小説の主人公が居た街などを見せ られてうんざりしているのかもしれなかった。 5 それにしても土方悦子は、変った女だと門田は彼女の小さな姿を見て思っ た。ハイドパークを見れば童話を云い、ロンドン塔を見れば漱石の『倫敦塔』 を朗読し、ディケンズの旧居では大衆小説を語り、ベーカー.スツリートで はシャーロック.ホームズ探偵を物語る。いや、まだあった、デンマークの クロンボール城では、シェークスピアの『ハムレット』からその一部の邦訳 を逍遙から現在までのものをならべてみせた。土方悦子はそれほどまでに英 文学が好きなのか。それにしては少しく焦点が拡散しすぎているようである。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 普通なら、古典に絞るとか、アイルランド文学に限定するとか、そのなかで も少数の作家にだけ対象をあてそうなものだった。 彼女は英文学の常識を広く浅く知っているのかもしれない。とくに、蝋人 形館の殺人場面のあと、シャーロック.ホームズの説明に力を入れたところ をみると、案外、探偵小説が好きなのかもしれないと門田は思った。女には 探偵小説の熱烈な愛読者が少なくない。 午前中の見物場所が多すぎたので、そのぶんの時間が午後の自由行動に食 いこんでしまった。ホテルで昼食をとったのは、屋上レストランが閉じる二 時に三十分前だった。 腹が空《す》いていたので、団員たちはいずれも食欲があった。これまで は食事のすすまぬ者もあって、不揃いだったが、ようやく外国の旅に馴れて きたせいもある。 自由行動は、前からの予定なので、みなの頭には活気と不安とがまちまち な表情になっていた。不安は、言葉の不便と、地理の不案内だった。王冠観 光旅行社では、その経験から二つの刷りものを用意していた。一つは最小限 度に必要な英会話集で、発音は片カナで付けてあるが、そんなものを読んで も英国人には通じないから、意味するところの英文活字をそのまま先方に見 せたほうがよいと門田は云った。 もう一つは、ロンドンの略図だが、これは地下鉄路線が主体になっている。 馴れない者には、あの黒い箱型の古典的な恰好のタクシーに乗るか、地下鉄 を利用するのがいちばん便利である、とくに、このランカスター.ホテルの 地階は、地下鉄ランカスターゲート駅になっているので重宝このうえない。 ここから東に三つ目、オックスフォード.サーカス駅でピカデリー線を南行 きに乗換えれば、ピカデリー.サーカス、トラファルガー、ウエストミンス ター、チャーリング.クロス、ウォータルロー(終点)となって繁華街が目 白押しなので都合がよく、迷うこともない、万一、迷い子になったら日本大 使館に駆けこみなさい、その住所《アドレス》と電話番号はこの略図の下に 印刷してある。門田は、そういうことを食事のあとにこまごまと云った。 「みなさんのお買物やご見物に、ぼくがお供をしてお手伝いすればよいので すが、午後はぼくも休養させていただきます。で、なるべくみなさんはグル ープごとに行動されることをおすすめします。そして、できればそのなかに 英語の話せるお方が一人か二人、はいっていただければ、いっそうけっこう でしょう」 自由行動となれば、当然に気の合った者どうしのグループに分れるが、そ の際、添乗員は通訳兼ガイド役として各グループから引張り凧になる。グル ープは七、八組、こっちは身一つで、どこにはいりようもなかった。とくに 女性の自由行動というと買物が主体となりがちである。門田の経験では、う っかりと一つの組に参加したばかりに、他の組から白い眼で見られ、買物の ときに何か袖の下をもらったのだろうなどというあらぬ嫌疑をかけられたこ ともあった。男女混成の団体にしてそうだったから、女ばかりの団体では、 その邪推や反感や怨恨をもっと強く持たれそうである。万事は平等、依怙贔 屓《えこひいき》のないようにしなければならないと、広島常務にこの勤務 を命じられたときから彼は心に決めていたのだった。 そうなるとよくしたもので、四人または五人と七つに分れた女性グループ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn には英語の出来る、あるいは出来そうな女がそれぞれ入った。女子学生など がそれだったが、その点では能力のある多田マリ子と藤野由美と、それに土 方悦子とは、各グループに取られて行った。 もっとも、藤野由美の場合は彼女をとりまく五人に云った。 「わたくしは、ナイトブリッジ街のハロッズに行ってみます。ロンドン一有 名なデパートで、女王陛下もそのお得意だそうです。高級品ばかり扱ってい て、ハンドバッグなんかは、お高いけど、無類にデザインも質もいいと聞い ていますので、それを買いたいと思います。それから、ピカデリーの Fortnum and Mason にまわります。ここも高級品ばかりあつかっていて、売場の男の 店員はモーニング、マネージャーは十八世紀の服装をしてるんですって。わ たくしは、そこで日本のお友だちにあげる贈りものを択ぼうと思いますの」 彼女はこの高級デパートの名をフォートナム.アンド.メイソンとは云わ ず、ちょっと聞くと、ファーナマンメースンというように発音した。アメリ カ人のようにTが舌にきわめて弱かった。彼女は王冠観光旅行社の受付にき たとき、コロラド州のデンバーにちょっと居たことがあると門田に云ってい た。 五人の団員は高級デパートまわりと聞いて困惑したが、デパートなら安物 売場もあろうと想像して、ぜひ連れて行ってくれと頼んだ。美容デザイナー 藤野由美の、これ見よがしのもったいぶった今までの言動に好感はもたなか ったが、この際、眼をつむるしかなかった。 多田マリ子は、六人の女たちに同行をたのまれたとき、藤野由美のほうへ、 ちらちら眼を送りながら云った。 「わたしはデューク街のアランズへ行ってみようとおもてます。そこは高級 専門店だすわ。なんぼ女王陛下のご指名店やいうても、デパートはデパート だすやろ。そら、高級専門店に越したことはおまへん。そのアランズは生地 の専門店で、なかには一メートルが八万円から十万円するのんがおますそう や。値段は高うても、生地さえ立派やったら、けっきょくは買い得でんね。 それから、ニューボンド街のアスペリーの店にまわります。こここそイギリ スの王室の御用達で、宝石、貴金属の女性用アクセサリーから高級時計がそ ろてます。わたしは、婦人用金側のパティックが一つ欲しいなとおもてます」 六人の女たちは溜息をついたが、高級専門店ばかりでなく、その近くには 一般専門店もあるだろうと推量して、ぜひ同行させてほしいとたのんだ。多 田マリ子が手づくりというパティックの時計を買っても、ルビーの指輪をア ンカレッジの空港で紛失させた藤野由美の二の舞をするのではないかと六人 はあやぶんだが、それは当人自身のこと、自分らには関係ないと割り切った。 スポンサーが居るにちがいないバアのマダムとは買物が違うのである。 土方悦子は、その点、まったく八人の女たちに重宝がられた。藤野由美と 多田マリ子とが、自分のまわりに集ったグループを引具してまわる格好とち がって、土方悦子は八人のグループのお供をして行くかたちだった。 有名レストランや名物料理店で晚餐をおとりになるのはご自由だが、九時 までにはかならずこのホテルにお帰りください、というのが各グループに対 してひとしく下した門田の鄭重な厳命だった。初めての土地で、女の夜ふか しは危険だというのである。 門田はひさしぶりに解放された気分になり、今夜はソホー地区にでも出か PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn けるつもりでいた。ピカデリー.サーカスに近いこの歓楽区には仕事でロン ドンにきてから顔馴染になった飲み屋がある。知り合いの商売女もいた。 その飲み屋には寄りたかったが、商売女とわびしい宿に行く気分にまでは なれなかった。女ばかりの団体にはいっていると、心理的に中和状態になる のか異性に接したい興味は減殺される。女どもに気を使い、その彼女らの欠 点《あら》ばかりが見えてくることも索然とさせた。 門田の知っている一人の商売女は赤毛で、背は一六五センチ、やせぎすで、 顔もどこか日本人に似ていて、二十八歳でイースト.エンドに住んでいる。 夜になるとそこから出動するのだが、外燈の少ないソホーの街角に立ったり、 下等なバアのカウンターに仲間と三、四人で凭《よ》りかかっては網を張っ ている。 門田がその女を初めて知ったのも街頭に佇んでいたときで、うす暗い場所 で目立つようにどぎつい化粧をし、けばけばしい色の安もの衣裳を着ていた。 このへんの裏通りには、そういう女がほうぼうに立っている。 門田は東京の西にあたる立川の生れで、米軍基地のまわりにはアメリカ兵 相手の特飲店があって、そこに巣喰っているのや、夜のゲート近くにたたず むアメリカ風にメーキャップした女たちを、小学生にならないころに見てい た。初めてソホー地区に足を踏み入れて立っている女らを見たときも、その 記憶が出てきたことだった。 暗くなるころまで、昼寝でもしようと思っている矢先に、ドアが遠慮げに かぼそく鳴った。 顔を半分のぞかせたのは星野加根子だった。おじぎするように背をかがめ ていた。 「やあ、星野さんですか。あなたは、まだ外出してなかったんですか?」 「これから出ようと思っているのですが、その前にちょっとチーフにお話が ありますので」 星野加根子は、小さな声で云った。 「それなら、どうぞ中におはいりください」 ひとりで来ての話なら歓迎する内容ではあるまい、と門田は思ったが、と にかく入室をすすめた。 「いえ、このままでけっこうですわ。一言だけ申し上げればいいんですから」 星野加根子は、半開きのドアの向うから動かなかった。 「はあ、そうですか。どういうお話でしょうか?」 星野加根子は口を開く前に、素早く顔を振って左右に眼を配った。仲間は ほとんどが出て行き、廊下に足音はなかった。 「藤野由美さんがアンカレッジ空港の店でお買いになったというルビーの指 輪のことなんです」 彼女は門田を正面から見て云った。 「ああ、洗面所に落して、わからなくなった指輪ですね?」 ルビーの指輪紛失は、一行の間には知れわたった「事件」だった。 「そうです。あの指輪は、もう永久に出てくることはありませんわ」 星野加根子は決定的な口調で云った。まるで秘密を告げるときのように低 く押えた声だった。 「紛失したまま、発見できないということですね?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「さあ、紛失したかどうか、とにかく出てきません」 「とおっしゃると、盗難に遇っているということですね?」 星野加根子は何か云いかけたが、それを口の中に呑むようにして、 「それは、ひとまずあなたのご想像に任せますわ」 と、暗示的な言葉に代えた。 「想像といわれても、ぼくにはよく分りませんが」 「いまは、それだけを申上げておきます。というのは、あの紛失したという 指輪のことを添乗員のあなたが、いつまでも気にかけてらっしゃるように思 ったからです。いま、みなさんが出払って、どなたも居られないので、それ だけを云いにきました」 「………」 「わたくしもこれから外に出ます。失礼しました」 半開きのドアの間から星野加根子の顔が逃げ、廊下を步む足音が向うで消 えた。 あの女は、ふしぎなことを告げにきたものだと門田は思い、新しい胸騒ぎ が起った。紛失したというルビーの指輪は藤野由美の手には戻らないと彼女 は云った。この紛失した|という《ヽヽヽ》言い方に門田は直感するものが あって、それは盗難ですか、と彼女に訊いたのだ。これまで考えてなかった 線だったからだ。 星野加根子は明答を避け、さりとて肯定も否定もせず、ひとまずあなたの 想像に任せると云った。想像にまかせるというのは、その質問に直接肯定し にくいときによく使われる言葉で、意味上、間接的な肯定の場合が多い。 星野加根子が、みなの留守にこっそり云いに来たことといい、盗難を暗示 的な肯定にとどめたことといい、団員のなかに指輪を盗んだ者があるのを、 彼女は密告にきたようである。 藤野由美は、手洗所で指輪を指から抜いてそのへんの棚に置き、手を洗っ たと主張していた。新しく買ったばかりの指輪だから、すぐに水に浸けるの がなんとなく惜しまれて指からはずしたのであろう。その女心は理解できな いでもないが、指輪は棚から落ち、タイルの床を転がって見えなくなった。 いくら探しても発見できなかった。機の出発時間が切迫しているので諦めた。 これが藤野由美の説明であり、あとから指輪さがしを手伝った土方悦子の云 うところでもあった。 その限りでは盗難が行われる余地はない。が、藤野由美には前後の記憶違 いがあるのではないか。つまり、手洗所に入る前にすでに盗難に遇っていた ことである。買った指輪を指にさしたつもりが、それは買ったときに売店で 指にはめてみただけで、あとはすぐケースにおさめ、ポケットに入れていた のを盗まれた。それを彼女は手洗所の出来事として錯覚したのではなかろう か。 初めての海外旅行であり、最初に着いた外国の地だ。だれしも気持が上ず っている。その昂奮が彼女に錯覚を起させたともいえなくはない。 もしそうだとすれば、藤野由美のポケットから指輪を盗《と》った者がこ の女性団員のなかに居る可能性となる。あのときは、売店に同じ機や他の機 で降りた旅客も多かったが、自分ら三十人も含めて、各売店とも混雑してい た。数機の乗客がいちどきにかち合ったときのアンカレッジ空港売店は、ひ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn やかし客を含めてたいそうな混みようである。上気しているとき、ポケット から取られても気がつかない。げんに、あのときは到着した旅客機の客が五、 六十人も群がって入ってきていた。 星野加根子は、問題のルビーの指輪を団員のだれかが隠し持っているのを 知っているのだ、と門田は判断した。彼女がどうしてそれを知ったかは分ら ないが、とにかくそれを確認しているからこそ、こっそりと告げに来たのだ。 門田が紛失指輪を気にしているのが気の毒だから、というのがその内報の理 由だが、それはおそらく表むきで、実際は自分ひとりが知っている事実をだ れかに云いたくて云いたくてしようがなかったのであろう。人間には、とく に女性には、云ってはならないことを洩らしたい衝動癖がある。星野加根子 の場合は、犯人もまじっている旅仲間に教えるわけにはゆかないから、添乗 員に密告して、その衝動癖を満足させたのかもしれない。 星野加根子は三十八歳の未亡人だった。大柄だが、行動は活発でない。ど んなものを見ても表情を変えず、おしゃべりの仲間にも入らなかった。その 眼は隅からいつも他人の素振りを観察しているようだった。わざと孤立をよ ろこんでいるようなふしがあり、何を考えているか分らないところがあった。 彼女の「見たもの」には、それだけに信憑性《しんぴようせい》があると門 田は思った。 星野加根子のような陰性の感じのする団員はほかにもいた。日笠朋子、竹 田郁子、杉田和江がそうだった。竹田郁子は高校の教師で独身であり、日笠 朋子は中小企業の社長夫人、杉田和江は勤続年限の長い独身の会社員であっ た。このころになると、添乗員の門田も団員の個々の性格がだいたいつかめ るようになっていた。 ところで、藤野由美の指輪をひそかに持っているのは誰だろうか。門田は それぞれの顔を浮べたが、こればかりは推定ができなかった。二、三はそれ らしい顔に見当をつけてみたが、もちろん当てずっぽうに近かった。確実な ことは星野加根子の言葉を聞くしかなかった。 門田にとって煩わしさが新しく起った。星野加根子から密告を聞かないう ちはともかく、聞いてからは思案にあまる面倒に捉われることになった。団 員のなかに盗人が居るというのだからおだやかでなかった。 しかし、これは団員には当分極秘にすることだから、いま急に波紋が起る わけではなかった。土方悦子にも黙っておこうと思った。梶原澄子から聞い た多田マリ子の狂言扼殺未遂といい、星野加根子から暗示された藤野由美の 紛失指輪の実態といい、ここしばらく、土方悦子に云えぬことが重なった。 6 とにかく面倒なことはあとでよく考えることにして、門田は上衣とズボン を脱ぎ、メイドがきれいに支度してくれたベッドに入った。窓のブラインド を下ろし、部屋を暗くして、すぐにも睡りに就くつもりでいると、電話が鳴 った。 ロンドンには部屋に電話をかけてくるような友だちはいない。自由行動で 迷い子になった団員のだれかが電話したのだと思い、舌打ちしたい気持で受 話器を取ると、いきなり男の声で日本語だった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「もしもし、王冠観光旅行社の門田さんですか?」 低音で、電話馴れのした声だった。 「はあ。そうですが。……」 「ぼくは、A─新聞ロンドン支局の浅倉ですが」 「はあ」 A─新聞は、日本の全国紙だった。 「いま、フロントまで来ています。ちょっとお目にかかってお話を伺いたい のですが。ぼくのほかにB─新聞の諏訪君、C─新聞の高村君、連合通信社 の内藤君もきています」 B─紙、C─紙も全国紙で、A─紙を入れて三大新聞などといわれている。 連合通信はいうまでもなくそれ以外の全国の地方紙やテレビ局にニュースを 供給している。 門田は胆をつぶした。これは共同記者会見であるらしい。 「ど、どういう話ですか?」 門田の語尾はふるえた。 「いえ、それはお会いしてから。けっしてご心配になるような取材ではあり ません。こちらからお部屋に参りましょうか。ルームナンバーは、いま、フ ロントで聞きましたから」 「それにはおよびません。ぼくのほうからロビーに下りて行きますから」 門田は急いで身支度をした。動悸が速くなっていた。 英国式の荘重な装飾を施したロビーの正面に四人の日本人記者が股をひろ げ、クッションに自堕落な恰好でかけていたが、門田を見ると立ち上って笑 いながら近づいてきた。四人ともカメラを持っているのを見て、門田はまた 怯えた。 「やあ、門田さん。わざわざ済みません。ぼくは、A─新聞支局員の浅倉で す」 浅倉は三十五、六、縮れ髪で、四角い顔は色黒で、がらがら声をしていた。 いかにも社会部にいそうな記者の型をしていた。 あとの三人がそれぞれ名刺をくれた。が、門田には、最初に声をかけてき た浅倉以外には、三枚の名刺と三つの顔とが容易に一致しなかった。彼は日 本の代表的マスコミの来襲に少々|逆上《あが》っていた。 「まわりには日本語の分る者はいませんから、ここで話しましょう」 周辺は欧米人の男女ばかりで、日本人は見当らなかった。浅倉は門田を長 椅子のクッションに落ち着かせた。その右隣に浅倉、左隣に諏訪、門田の前 に椅子を引きよせて高村と内藤がならんでかけた。門田は囲まれた。 「門田さんは、団体旅行の添乗員としてはベテランだそうですね?」 浅倉は、門田を気楽にさせるためか、手帳も出さず、煙草を喫いながら云 った。ほかの三人もダンヒルの煙草を出したり、パイプをくわえたりした。 「ええ、まあ、馴れているほうかもしれません」 質問の焦点がまだ分らないので門田は少々不安な気持で答えた。 「ヨーロッパは、これで何回目ですか?」 「五回目だと思います」 「団体の観光客を引張って回るのには、やはり、心配なこともあるでしょう な?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「楽ではありません。相当な人数のお世話をしなければなりませんから」 「そうでしょうな。初めて外国旅行に出た人が圧倒的でしょうから。こんど は、何人ぐらい連れておいでですか?」 「三十人です」 「三十人とは多いですな。女性ばかりだそうですね?」 「そうです」 「珍しいですな。そのなかで、男性はあなただけですか?」 浅倉が、にやにや笑いながらきいた。 「ぼくは、添乗員ですから」 「いや、それは分っています。しかし、女性ばかり三十人を引率なさるとは 羨しい。ぼくらもできたらその中の一コースだけでもあなたと代ってみたい ですな。ロンドンから何処へ行かれるのですか?」 「ロンドンから、スコットランドです。その次はスイスに行きます」 「スコットランドは何日?」 「今日は自由行動で、みんな出払っていますが、明日はウインザー城を見て、 そのあと夜行列車でエジンバラに向います」 「いい旅ですな。ぼくは、これでまだスコットランドに行ったことがないの ですよ。この機会にあなたの助手にしてもらいたいくらいですな」 浅倉が云うと、ほかの三人も笑いながら同感を示した。四人とも仕事が忙 しくて、スコットランド見物をしてないというのである。 「助手には、やはり女の子がいますから」 門田は当惑し、真面目にいった。 「冗談ですよ。ところで、門田さん、ロンドンの前はどこの観光でしたか?」 「コペンハーゲンです。二泊三日です」 「どこのホテルでした?」 「中央駅に近いロイヤル.ホテルです」 「一流ホテルですね。そこを出発されたのは?」 「一昨日の朝ですから、四月十八日です」 「その出発の朝、ホテルで団員の方に、何か変ったことは起りませんでした か?」 この質問に門田もはじめて事態を察した。あれだ、多田マリ子の一件にち がいない。 しかし、あんなことで、どうしてこんな「記者会見」をしなければならな いのか。第一、そのことをどうしてロンドンの各社支局が知ったかである。 国際的な権威と信用を誇るロイヤル.ホテルが軽率な発表をするはずはない のだ。 「変ったことは別にありませんでしたよ」 焦点が分れば、門田もようやく落ちつくことができた。いくらか気持の余 裕ができたので、そらとぼけた。 「そうですか。それなら伺いますが、団員に多田マリ子さんという方がおら れますか?」 やはり、あのことだった。 「おります」 「その多田マリ子さんが、十八日の朝七時ごろに、ホテルの十八階の部屋に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn いるところを怪漢に押し入られ、ピストルを横腹に押しつけられて一階下の 十七階の空部屋に連れこまれたそうですね。そしてクロロホルムをかがされ て、意識不明になったところを危うく乱暴されそうになったそうじゃありま せんか?」 浅倉はそう云って、はじめて手帳をポケットから出した。ほかの三人も同 じようにした。 門田は唖然となって、眼を三人の顔に往復させた。 「ピストルとクロロホルムですって? そんな安もののギャング映画のよう な話をだれが云いましたか?」 「東京の今日の夕刊に大きく出ているそうですよ。もちろん、ぼくらはまだ 読んでいませんが、今朝早く、本社から電話がかかってきたのです。ここに いる連中は、みんなそうです」 いうまでもなく、ロンドンと日本との時差は九時間である。東京本社のデ スクがその夕刊を見てすぐにロンドン支局に電話したのが午後六時ごろとし ても、ロンドンでは午前九時ごろである。 「そ、それは、なんという新聞に出ていたのですか?」 門田は呆れるとともに、うろたえた。日本の新聞に出たというのが彼を狼 狽させた。 「いや、それがね。ちょっと格の低い新聞でしてね。ぼくらも、ちょっと眉 ツバだとは思ってるんですが、本社から云ってきたのだから、捨ててはおけ ないので、門田さんのところに来たのです。夕刊の日本スポーツ文化新聞と いうのをご存知ですか?」 「日本スポーツ文化新聞……?」 「スポーツと芸能関係が主ですが。その新聞に大々的にいま云った記事が出 ているそうです」 門田の脳裡に、コペンハーゲンの居酒屋で遇った通信員兼ルポライターの 顔が電光のように閃いた。 あいつだ、と思った。たしかにもらった名刺の肩書には「日本スポーツ文 化新聞.特派員」という活字があった。ヨーロッパの根なし草的な日本人が 食うために、でっち上げの記事を送ったのだと知った。煙草の烟が、ビール の空瓶に立てた裸蝋燭の火に渦巻き、ヒッピー族の男女が群がり喋り合う中 で、髭面の黒い、扁平な顔が浮ぶ。たしか鈴木道夫という奴だった。デンマ ークの恋人を肩に凭りかからせ、うすぎたない歯を出して笑っていた。 しかし、どうしてあいつが多田マリ子の出来事を知ったのだろうか。しか し、これも容易に推定がつく。鈴木は、女ばかりの日本人観光団と聞いて、 何かの材料になると思って、ロイヤル.ホテルにのぞきに行ったのだろう。 材料さがしには彼の生活がかかっている。それが自分たち一行の出発したあ とだったから、彼は、しまった、と思ったにちがいない。そこで、ボーイを つかまえ、いろいろと様子を訊いた。ボーイらの見た観光団の行動から記事 をつくろうと考えたのだろう。ところが、ボーイの顔色や態度が違う。何か があったらしいと気づく。鈴木は、そのときもデンマーク女を連れて行った であろうから、この女がおもになってボーイを口説く。さしもヨーロッパに 聞えた誇り高いロイヤル.ホテルの支配人も、女の媚態に釣られたボーイの 軽口までは防ぎきれなかったのだ。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田が鈴木に思い当ってそう推測するまでには一分とかからなかった。 「その記事の材料を東京の日本スポーツ文化新聞とやらに電話で送った人間 には心当りがあります」 門田は四人の一流新聞社の支局員の前で色をなした。 「……しかし、それは、まったくの事実無根です。その人間のでっち上げで すよ。こっちはたいへんな迷惑です」 「そうすると、それは、根も葉もないことなんですか?」 B─社の諏訪がおだやかに門田に訊いた。彼は童顔をもっていた。 根も葉もないことか、と訊かれると門田も返事につかえた。多田マリ子が 「扼殺」されかかって、ホテル側を騒がせたのは事実である。事実だが、内 容は違う。それは「被害者」の自演であり、狂言であった。病院長未亡人の 梶原澄子の言だが、その疑いはきわめて強い。 難儀なことに、門田の立場からはそのことが新聞記者には明かせなかった。 この事実は、団員一同にも伏せていることなのだ。 門田は、ロイヤル.ホテルの名誉心と矜恃《きようじ》を信じた。で、一 か八か、逆に新聞記者に訊いてみた。 「それが根も葉も|ある《ヽヽ》ことかどうか、コペンのロイヤル.ホテル に国際電話ででも問い合せてみたら、いかがですか?」 コペンには各社の常駐特派員はいない。電話だと、ホテルの支配人は叮重 に、それが事実でないことを答えるかもしれない。 「いや、実は、もうそれはコペンのホテルに問合せ済みなんです」 連合通信社の内藤という、いかつい顔の男が云ったので、門田は心臓が一 つ大きく鳴ったのが自分の耳に聞えるくらいだった。 「……ところが、ホテルでは、そういう事実はないといっていました」 いちど大きく波をおこした鼓動は急にはおさまらなかったが、次第に平穏 にはなって行った。彼はロイヤル.ホテル側の信用防衛に感謝した。 「それごらんなさい。ホテルもそう云ったというんですから、ぼくの云うこ とに間違いないと分ったでしょう」 門田は、しぜんと上体が反った。 「そういうウラを取っておられながら、どうして、わたしのところに訊きに おいでになるのですか?」 「いや、それはですな」 A─社の浅倉が苦笑まじりに云った。 「その日本スポーツ文化新聞には、よっぽど派手に、大きく出たとみえまし てね。本社のデスクがあわてて電話してきたんですよ。ぼくらも、あの新聞 の性格からして、あなたの云われるようなことではないかと半信半疑ではい ましたがね。本社があんまり云うもんだから、コペンのホテル問合せだけで は済まなくなったのですよ。いや、お話をきいて、よく分りました」 ほかの記者もばたばたと手帳をポケットにしまった。 「すみませんでしたね」 彼らは急に姿勢を崩して云った。 「どういたしまして。ご納得いただけて、こんなうれしいことはありませ ん。……それでは、あなたがたは記事にはなさらないのですね?」 門田は念を押した。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「もちろんです。実態がわかったのですから。本社のデスクも、日本スポー ツ文化新聞なんかに煽られるなんて、どうかしてますよ」 浅倉のがらがら声は、他の三人を代表した。 「それにしても、門田さん」 連合通信の内藤が眼もとを笑わせて云った。 「女性観光団だから、こういうデマが報道されるんですな。ひとつは、冷や かし半分、嫉妬《やつかみ》半分ですよ」 それに浅倉が加わった。 「せっかく東京から取材を命令してきたのだから、あなたがたに随行して、 ぼくらもエジンバラに遊びに行くかな。こういう機会でないとスコットラン ドには社用で見物には行けないよ」 あとの言葉は仲間に云った。 「賛成だな。婦人欄用にでもすれば、本社もよろこぶだろう」 諏訪と内藤が云った。 冗談ともつかぬ新聞記者たちの話に門田はその真意を測りかねた。 7 東京から電話がかかってきたのは、門田が新聞社の四人と別れて部屋に戻 った直後だった。 「門田君か。広島だ」 王冠観光旅行社常務の声は、雑音に妨げられてはいたが、その感情を伝え るくらいにははっきりしていた。口調ははじめから性急だった。 「あ。こんにちは。いや、そっちは今晚は、ですね?」 広島淳平常務が何で真夜中の東京から電話をかけてきたか門田には分って いた。記者たちとの「会見」が終ったあとだけに、門田には気持のゆとりが あった。 「そんな挨拶なんかどっちでもいいけどね。そっちには何か変ったことはな いか?」 広島は言葉だけはまず落ちつきをみせようと努めているようだった。 「変ったことは、なんにもありません。お客さまは全員ご健康で、外国の旅 をたのしんでおられます」 門田は、いくぶん切り口上で答えた。 広島は黙った。門田が事実を隠し、体裁をつくっていると取って、質問の 言葉をさがしているように思われた。 「ほんとに、お客さんには変ったことがなかったかね?」 広島は、疑わしそうに声を出した。それには不安が混っていた。 「いま申し上げたとおりですよ、常務。目下、みなさんはロンドン市内の見 物や買物にこのホテルから全員出払っています。今日は自由行動なんです」 「そうか。それに間違いなければいいが」 広島の声には安堵と疑問が半々に出ていた。 「どうかしたんですか?」 門田から訊いた。余裕があった。 「実は、こっちの日本スポーツ文化新聞に君の添乗しているローズ.ツアの PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ことが大きく出ているんだ。団員の多田マリ子さんが、コペンハーゲンのロ イヤル.ホテルで何者かにピストルを突きつけられ、泊っている部屋の一階 下の空室に連れこまれてクロロホルムを嗅がせられて扼殺されかかったとこ ろを、折よくボーイに発見されたという記事なんだ」 広島の声は速くなった。 「デマですよ。日本スポーツ文化新聞なんて、低級な興味本位のいい加減な 新聞じゃありませんか? 第一、ピストルとかクロロホルムとか下手な悪漢 映画の道具立てそっくりじゃありませんか?」 「そりゃ、ま、そうだが、なにしろ、ここに派手に出ているのでね。ほとん ど一ページをそれにつぶしている。日本女性観光団員、ホテルで扼殺さる、 という大見出しが眼を剥いている」 広島は手もとに日本スポーツ文化新聞をひろげているようだった。 「扼殺さる、ですって?」 門田はびっくりした。 「いや、扼殺の下にカッコが入って、未遂、と小さく出ているがね」 「赤新聞がよくやる手だ」 門田は憤慨した。煽情的な紙面が眼に見えるようであった。 「それじゃ、嘘か?」 「まったくの出鱈目です」 門田は云い切った。多田マリ子の「狂言」をこの電話で云うのは広島常務 を混乱させるばかりだと思って止めた。帰国後に、ゆっくりと説明すればよ いのだ。 「さっきも、そのことで、A、B、C、連合のロンドン支局の記者がやって きましたよ」 門田は、内容をかいつまんで話した。コペンハーゲンのロイヤル.ホテル が事実無根を言明したという話が広島をいっぺんに安心させたらしかった。 彼の声がにわかに明るくなった。 門田は、さらに、その記事をコペンから送った人間に心当りがあること、 それはヨーロッパを浮浪同様にしている通信員であることをつけ加えた。 「たぶん、そんなことだろうとは思ったがね。だが、反響が大きいので、君 にたしかめてみたんだ。ひどい。さっそく日本スポーツ文化新聞社に抗議と 取消を要求するよ」 「反響が大きいですって?」 「うん。ローズ.ツアの家族からだ。いまのところ、東京関係からだけだが、 本社に問合せの電話が殺到している」 門田もそこまでは考えていなかった。が、聞いてみると、きわめてありそ うな事態だった。 「ぜひ、そうしてください。そのほか、その通信員は週刊誌などとも契約し ていると云ってましたから、あらかじめ、そのほうにも手を打っておいてく ださい。そうだ、いま、その雑誌名を云います」 門田は急いでハンガーにかけてある上衣のところに行き、名刺入れをとり 出した。鈴木道夫の名刺はあった。 「ええと、日本スポーツ文化新聞のほかには、週刊ヤング、週刊情報界、月 刊新世紀などの特派員とあります。むろん、特派員というのは名刺の上だけ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn で、原稿を送りつけてその稿料の送金で生活をしているらしいんです」 「よろしい。そういう雑誌社にも掲載を見合せるようたのんでおく。……実 はね、門田君、問合せは団員の家族からだけではなく、江木奈岐子さんがた いへん心配されてね、ぼくのところに何度も電話をかけてこられた。江木さ んは、自分の名代として土方悦子さんを団体に加えているので、責任上、心 配なんだよ」 江木奈岐子は、ローズ.ツアの団体結成直前になって「講師」を辞退した。 身代りとして弟子同様の土方悦子をさし出したのだから、日本スポーツ文化 新聞のセンセーショナルな記事を見て土方悦子の身を案じたのは当然であろ う。 「土方さんのことも、ご心配はいらないと江木さんに伝えてください。たい へん元気でおられますから」 「そう伝える。ところで、どうだね、この先、そういう不祥事が起る懸念は ないかね?」 「懸念ですって? そんなことはぜんぜん考えていませんよ」 「そんならいいがね。こんな報道があると、なんだか先が心配になってね。 こんどは実際に何かが起るんじゃないかとね」 「冗談じゃありませんよ。そんなことが起ってたまるものですか」 「そうだけど、やはり留守しているこっちのほうは取越し苦労になるよ」 「常務は、日本スポーツ文化新聞のおかげで、少々ナーバスになられました ね」 門田はそう云いながら、これは土方悦子に自分が云われた台辞だったと思 った。 「やはり、確度は低いと思っても活字で読むとショックだからね。それに、 あんな記事を出されると、わが社の信用にもかかわる。営業成績にもひびく よ。だから、この先にも何かが起らなければいいがとヒヤヒヤしてるわけだ」 「お気持は分ります。が、そのご心配はいりません。大丈夫です」 門田は強調したが、自分をも鼓舞するところがあった。 「たのむよ。団員どうしの仲はいいかね?」 「いいほうです」 絶対的に融和があるとは云い難かった。 「ところで、元気だということだが、土方悦子さんの調子はどうかね?」 「彼女はなかなかの才女ですね。ぼくも助かっています」 広島常務に、皮肉が分るはずもなかった。 「そりゃ、よかった。江木さんの不参加は残念だが、土方さんがそれならよ かった。さすがに江木さんの推薦だけはあったね?」 「はあ。……」 「ま、よろしくおねがいする。ローズ.ツアの無事帰国を祈っているよ」 東京との国際電話が切れて、門田はベッドの端に腰かけたままでゆっくり と煙草に火をつけた。 煙が肺の奥から頭のなかに這い上ってゆくようだった。彼はそのもやもや とした中で、コペンのルポ屋に対してまたも臓腑が沸いてきた。 いまにして、あの居酒屋で鈴木から名刺を渡され、それに「特派員」とな っている二流以下の新聞雑誌名に要心をしたのを思い出した。そんな印刷物 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に王冠観光旅行社のローズ.ツアのことがおもしろおかしく歪曲されて出さ れでもしたら団員の家族からは会社に問合せと抗議が殺到するだろうと空想 したものだが、それが空想に終らずに現実のものとなったのである。なんで あのとき「ピーレゴーデン」なんかに行ったのかと、こんどは自分の不運な 行動がくやまれた。そうしなければ、二流ジャーナリズムの「便利屋」通信 員で、ヨーロッパの「根なし草」に会うこともなかったのだ。 門田はソホー地区に出かける気勢もそがれたが、こうしてホテルで腐って いてもしようがないので、少し早いが部屋を出た。フロントにキイを預ける とき、正面のキイ.ボックスを見ると、団員のキイはすべてきれいに揃って 置かれてあった。ホテルに残っている者は一人もなく、全員の外出がたしか められたので、門田は少し気分を直し、客待ちのタクシーを軍装のようなド アマンに呼ばせた。それが四時すぎだった。 ソホー地区のまん中で降りて、寄席《よせ》に入り、エロがかったショー を見て時間を消した。外に出ると暗かった。前から知っているバアでスコッ チをオンザロックで飲んだが、妙に味がなかった。心に屈託があると酒もお いしくなかった。こういうときは馴染女に会いに行く意欲も起らない。この 辺は裏通りが鉤の手に曲ったままで行きどまりが多く、迷路のようになって いるが、例の女たちはその迷路の界隈に佇んだり、行きつ戻りつしている。 彼は早目に切りあげ、戻りのついでだからパークレーン通りに降りた。ヒ ルトン.ホテルの近くには「プレイ.ボーイ」などのカジノがある。紳士の 国で、ルーレットは設備されても大金は張れないし、会員制度である。が、 フリの客が入れる小さなカジノもある。門田は一時間ほどいて、二十ドルほ どすった。 ヒルトンの裏側のカーゾン通りの路地にも夜の女がそぞろ步きしているら しいが、これは値の高いほうだろう。高級の女の居場所は、テームズ川の西 側、チャリング.クロス駅の鉄橋下を中心にウォータルロー橋までのビクト リア河岸である。ただし、通っただけでは眼につかぬ。その道の者に案内し てもらうか、タクシーの運転手にチップをはずむかしなければならない。門 田は、前にこういうことを教えて観光旅行団の男たちに感謝されたことがあ った。 ランカスター.ホテルに戻ったのが十一時前だった。ロビーの照明は半分 消えていた。門田はフロントから鍵をうけとるとき、事務員の背中にあるキ イ.ボックスを見渡した。団員の部屋番号の鍵はすべてそこに無かった。全 員異常なく帰館しているのだった。「この先、また何かが起りそうな予感が する」という東京電話の広島の声が門田の耳底にこびりついていた。こんな| しんどい《ヽヽヽヽ》添乗の経験は初めてだった。 電燈が半分に消えたロビーには、五、六人の客が坐っていた。広い場所な ので、よく見ないと眼に入らないくらいだった。リフトのほうへ行きかけた 門田の足がそこで停った。ロビーの椅子にひとりでぽつんと掛けている影が、 どうやら日本人の女らしいのである。 「梶原さんじゃありませんか?」 近づいて行って門田は眼をまるくした。 梶原澄子は、膝に両手をおいて、ひとりで行儀よく腰かけていた。向うに いる外国人客ともだいぶん離れていた。まるで瞑想しているような、また、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 役所で名を呼ばれる順番を待っている主婦のような姿だった。 彼女は、門田を見上げたが、腰は上げなかった。半分の消燈で、その顔は 暗かった。 「わたくしは、ここで待っているのです」 梶原澄子は、そのままの姿勢で云った。 「待っている? どなたをですか?」 門田は彼女の横に立って訊いた。こんな時刻にまだ訪問客があるのだろう か、と思った。 「藤野由美さんですわ。わたくしのルーム.メートです」 彼女は冷たい口調で答えた。 「藤野由美さんですって?」 門田は眼をフロントのキイ.ボックスに投げた。 「藤野さんはまだ帰らないんですか? 部屋のキイはあなたがフロントから 受けとって行ったんじゃないのですか?」 「藤野さんは部屋のベッドに入っておられます」 「………」 「わたくしは、あの方が、眠られるのをここで待っているんです。眠ったと 思われる時間に上って、そっと隣のベッドに入るつもりです」 一部屋に二人は、むろんツイン.ベッドである。 「どうしてそんなことを? 藤野由美さんからいろいろと話しかけられて、 煩《うるさ》いんですか?」 室友にはそんな饒舌家がいて、相手を悩ますことがあった。 「いいえ。とんでもない。わたくしは藤野さんとは性《しよう》が合わない ので、口もききませんわ。それで藤野さんもわたくしには黙りこくっていま す。……ねえ、門田さん」 梶原澄子は突然椅子から立ち上ると、門田の顔を正面から見据え、激しい 語調で云った。 「あなたは、いつ、わたくしの希望を入れて、|室 友《ルーム.メイト》 をチェンジしてくださるんですか?」 「はあ。……」 「はあじゃありませんよ。あなたは約束したのです。いつでもチェンジして くださると云ったじゃありませんか。これで、わたくしが云うのは二回目で すよ」 とげとげした顔の梶原澄子は、喰ってかかった。 「まあまあ。それは分っています。心得ていますよ。しかし、室友の変更は、 他に及ぼす影響が少なくありませんから、いま、時機をみているんです。決 して放っているわけじゃありません」 門田は両手で彼女を抑えるようにした。 「時機をみるって、それは、いつまでですか? わたくしはその時機がくる まで、毎晚こうして部屋の外におそくまで起きていなければならないんです か?」 彼女は歯ぎしりをせんばかりだった。 「まあ、待ってください。あなたがそこまで藤野由美さんと合わないとは知 りませんでした」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn それは門田の嘘ではなかった。意外に思っているのは事実だった。 「よろしいです。では、明晚から、いや、明日の晚はグラスゴー行の夜行列 車ですから、明後日のエジンバラのホテルからチェンジすることにします。 それとなく、みなに目立たぬような具合にやりたいです。ですから、今夜ひ と晚だけは我慢してください」 「ほんとうですね?」 梶原澄子は、うなずいたうえで、門田の違約を封じるように睨んだ。 「ほんとうです。間違いはありません。ぼくがこれだけ云うんですから」 「あなたを信じましょう」 梶原澄子は、ようやく得心して、態度を柔らげた。 「梶原さん。あなたは、藤野由美さんのどこがお気に入らないのですか?」 門田は念のためにきいた。 「そうですね。いろいろありますが、あのかたの不潔な感じが、わたくしに は我慢できないのです」 「不潔ですって?」 門田は二度意外だった。 「藤野さんは綺麗なひとじゃありませんか。美容デザイナーとおっしゃるだ けあって、髪の手入れにしてもお化粧にしても美しくなさっているし、服装 だって洗練されたものを召してらっしゃると思いますが」 門田が云い終らないうちから梶原澄子は冷嘲を顔に浮べていたが、彼の言 葉が切れるのを待って云った。 「男の方には、それだけが、きれいに映るんですかねえ。そんなのは、形の うえだけで、美しくも、きれいでもありません。それと清潔とは違いますよ。 藤野由美さんが、どんなに厚化粧がお上手でも、あの方は不潔です。わたく しは、昨夜を入れて四晚ほど、あのひとといっしょに同室にいましたが、そ の不潔さが気になって、もう辛抱ができません。それは男性にはわからない でしょうが、敏感な同性には判るものです」 病院長の未亡人は顔をしかめ、胃液でも吐くような身振りだった。 藤野由美の自己顕示的な言動に好感がもてないことは門田にも理解できた が、「不潔」というのは分らなかった。人間、相手が嫌いになると、その嫌 悪感が生理的にまで昂進するものである。梶原澄子の使っている「不潔」と いう表現はその結果かもしれないと門田は思った。 二人はいっしょに夜ふけのリフトに乗り、同じ階に降りた。門田は梶原澄 子をその部屋の前まで送った。彼女は廊下に立ち止る門田をちょっとふり返 ったが、さも忌々しそうにドアをそっと開けて身体を暗い中にすべりこませ た。かすかに金属性の閉まる音が、これまた、いやいやながらのように聞え た。 8 バスで、ウインザー城の下に着いたのが二十一日の午前十一時すぎであっ た。 何回となく団体客の添乗員として来ている門田には丘にそびえる中世の灰 色の城を見ても何の感興もなかった。彼は西側城壁下に沿った坂道を一応み PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn なの先頭に立って步いた。城壁の角に出張った小さな塔(ソールズベリー.タ ワー)について曲ると、「ヘンリー八世の門」という古い、狭小な門の前に 出る。ここからは、すでに遠く下から見えていた大きな筒形のラウンド.タ ワーが、いよいよ巨大に映る。今日はその塔上には、金茶色の地に一隅を濃 紺に染めた女王旗が翻っていた。 門田は塔を境に東半分のアッパー.ウォードには足を運ばなくとも済むの をよろこんだ。そこで、皇居なら桜田門の半分くらいのヘンリー八世の門を くぐってローワー.ウォードの広場に出た。衛兵がいた。前には教会だの記 念礼拝堂だのがあるし、修道院もあった。右手、ラウンド.タワーからの向 うは高台のアッパー.ウォードで、そこにあるステート.アパートメンツ、 女王のアパートメンツなどの館が見える。門田が一同に、今日は女王さまが お城にお見えになっているので、ラウンド.タワーに登ることも、ステート.ア パートメンツを参観することも生憎と許されない、と云うと、団員たちは残 念がるどころか、女王さまがおいでになっているときに、お城の中を步ける とはありがたいと仲のいいどうしはお互いにうなずき合い、女子学生などは、 蔦葛《つたかずら》の蔽う女王のアパートメンツの窓辺に女王さまのお姿が 見えるのではないかと躁《はしや》ぎ、魚屋の金森幸江までが大口を開けて それに加わった。 門田は案内のほうはこれも初めての土方悦子に任せ、ラウンド.タワーの 北、ノルマン門と呼ばれる狭き門をくぐって北側テラスに出た。 ここは直下に緑の公園ホーム.パークがテームズ川のふちまでひろがり、 公園の西側にはウインザーの小さな街が俯瞰できた。このテラスから街の入 口までは、いわゆる「百段の階段」でつなぐ。 街は東西の主要道路一本のほかは南北ともいりくんだ小路になっていて、 表通りには赤煉瓦造りのレストランや土産品店がならんでいた。駐車場に車 が玩具のように整列し、人々の小さな群が動き、すぐ下の百段の階段にも上 ったり降りたりしていた。真向いには、街を底にして、丘陵地帯が青くひろ がり、斜面には住宅が点々としていた。この日は、空の半分が晴れて、ひさ しぶりの陽光がこの眺望に降りそそいでいた。 が、春のイギリスの天候は変りやすい。午前中は晴れていても、午後から は小雨となる。下に動いている人々も、たいていは細身の洋傘を腕にかけて いた。 門田がテラスの手摺りに凭《よ》りかかって眺めていると、日本女性が十 人ばかり左手の坂道をばらばらになって街のほうに下りているところだっ た。見ると、自分の旅行団である。そのなかに土方悦子の小さな姿もあった。 城内での見物は、いわば自由行動で、一時間後に下の駐車場にいるバスに 集合することになっているので、団員はばらばらになっている。いま、来た ときと同じ坂を戻っているのは十人ばかりだから、あとの二十人はまだ城内 に残っているはずだった。その連中をまとめてローワー.ウォードの広場へ 引返そうかと思っていると、眼が一つの情景をとらえた。 濃紺のレインコートをきた男が、土方悦子に近づいて彼女をよびとめ、話 しかけていた。遠いのでその男の顔も小さいが、小さくてもその髭面と背か っこうに見覚えがあった。 あいつだ、と門田は思わず手摺から身体をはなし、こんどは反射的に手摺 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に上体を折るようにして乗り出した。一心に瞳を凝らすと、おりから陽ざし が男の顔を真白に輝かしたので、距離はあっても人相を明確に浮き出した。 まさしくコペンハーゲンの居酒屋「ピーレゴーデン」で遇った三流ジャーナ リズムの「便利屋」通信員に違いなかった。 門田は頭に血が上って、すぐにでも百段の石段を駆け降りたくなったが、 その通信員と土方悦子とが何やら問答をはじめたので、まず、その様子をじ っと観察した。 土方悦子は、通信員がいろいろと質問するのに対して極めて消極的な態度 のようだった。通信員が三口も四口も口を開くのに、彼女は一口ぐらいしか 答えなかった。あきらかに通信員の問いを避けて、彼をふり切るように先に 步いていた。それを通信員がメモ帳を片手に追いすがり、なおも質問を発し ていた。 門田は、こんどこそ石の百の階段を蹴って走り下りるつもりでいると、う しろから軽く肩を叩くものがあった。 A─社の浅倉の笑顔がそこに立っていた。 「昨日はどうも」 浅倉はもじゃもじゃした髪をかいた。 「いや。どうも、失礼しました」 門田がうろたえたのは、浅倉にふいに挨拶されたこともあったが、それよ りも大新聞の支局員がここまで来ている事実だった。「便利屋」通信員のよ うな男といっしょに一流新聞社が現われたとなると、例のコペンのホテル事 件を追っていると考えるほかはない。 「あそこで、しきりと取材している男が、あなたの話したコペンハーゲンの 通信員ですな?」 浅倉は、おかしそうに土方悦子になおもまつわっている男の姿を見下ろし て、にやにやしていた。 「そうです。コペンで足りずに、あいつ、このロンドンまで追いかけてきた らしいです。あんな出鱈目記事を東京に送っただけでは足りずに、まだこの 上、われわれに迷惑をかけるつもりでいるようです。ひどい男だ」 門田は、通信員の姿に腹を立てて云った。 「しかし、あの鈴木君というのは、なかなかやるじゃないですか?」 浅倉もそれを眺めていたが、眼は細まっていた。 「おや、あなたは彼に遇われたのですか?」 「さっき、ここの修道院の前でね。彼はコペンからロンドンに飛んできて、 ランカスター.ホテルできいたところ、あなた方がこのウインザー城に行っ ているというので、あとを追ってきたと云ってました。そこで、あなたの団 員に取材しているわれわれとかち合ったんです」 「われわれ?」 「昨日、ランカスター.ホテルでお会いしたB─社の諏訪君、C─社の高村 君、連合の内藤君です」 門田は呆れ、これにもすぐには声が出なかった。 「誤解しないでください。われわれはコペンの事件を追っているんじゃない のです。本社からああいってきたのを機会に、女性ばかりの観光団を婦人欄 用のヒマ記事にしようと思っているのです。あなたや団員の人たちには絶対 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に迷惑はかけませんよ。そういう意味でわれわれの取材には協力してくださ い」 浅倉は、がらがら声だが、どこか鷹揚さがあった。その余裕《ゆとり》は 大新聞のせいかもしれなかった。 「そうですか」 門田は不本意だった。それで、せいぜいの抵抗だと思って云った。 「あんな、コペンのような根も葉もないようなことをきっかけにして、日本 のマスコミは少し騒ぎすぎるんじゃないですかね?」 「たしかにそうですがね」 浅倉はまず逆らわずにうなずいて、 「しかし、今回に関する限り、これはわれわれが遊びに時間をつくったので すよ。大きな声では云えませんがね。実は、日本の女性観光団の取材を口実 に、あなたがたといっしょにスコットランドに行ってみるつもりです。ホテ ルでもお話ししたように、こういうときででもないと、社用で遊びには行け ませんからね」 と、うちあけた。 「しかし、浅倉さん、それは……」 「まあ、心配しないでください。しつこくはつきまといません。実はね、エ ジンバラには居ないで、セント.アンドリュースに行って、みんなでゴルフ をしようという計画なんですよ」 浅倉は、子供みたいに眼をほそめた。 セント.アンドリュースはゴルフ発祥の地である。五百年以上も昔、この 地の羊飼いの少年が、羊を追いながら石を棒で打って遊んだのがゴルフの起 りだという。セント.アンドリュースは世界ゴルフの聖地《メツカ》であっ た。 「セント.アンドリュースでゴルフをしたといえば日本に帰ってゴルフ仲間 にハバが利きますからね。実は、そこの会員の一人で知った人間がエジンバ ラに住んで居るので、それにたのんでビジターにしてもらうように、もう話 がついているんです。エジンバラからセント.アンドリュースまでは車でも 汽車でも二時間くらいですからね」 「おどろきましたね」 門田もそう云うより仕方がなかった。 「われわれにとって千載一遇にも似たチャンスです。そういうチャンスのき っかけをつくってくれたのが鈴木君だと思うと、われわれは彼に感謝しなけ ればならないわけです。……おや、鈴木君の姿が見えませんね?」 浅倉は話の途中で気がついて云った。 云われてみて、門田はテラスの手摺から下を見た。そこには通信員の姿は 消えていた。というよりも、観光客の群に一時かくれていたのであって、通 信員の姿は土方悦子をはなれて、いまや一人の女性の傍にいることが分った。 門田がよく見るとそれが多田マリ子であった。 多田マリ子は、コペンの「扼殺未遂事件」を起した張本人である。鈴木「特 派員」はまさに本体にとりついて、ここぞとばかり取材しているのである。 門田は、多田マリ子がその妙な自慢心から、あの事件を得々として「特派員」 に語らなければいいがとひやひやした。その可能性は充分にある。彼女が話 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に尾ヒレをつけ、芝居気たっぷりに「談話」する可能性は充分にあった。 だが、梶原澄子の観察を信ずれば、その事件は彼女の自作自演であった。 そのことを病院長未亡人は彼女の前頸部に残る爪の痕から証明してみせた。 そうだとすれば、多田マリ子は、それがあばかれたとは知らずに、「遭難談」 を大げさに語るだろう。それが狂言であればあるほど、当人は話に輪をかけ るものだ。 門田は、浅倉にろくに挨拶もせず、テラスから出て「百段の階段」をとぶ ような勢いで、駆け降りた。本人の気持はそうでも、あたりに多くの観光客 が上ったり下りたりしているので、何ごとが起ったかと訝《あや》しまれそ うである。すべて取り澄ましている国民性のことで、ここで粗暴な振舞いは 禁物であった。門田は他人にぶっつからないように、また奇異な眼で見咎め られない程度に、大股に石段を降りていると、五十段ぐらいのところで、下 から登ってくる土方悦子と鉢合せになった。 「あ、チーフ」 土方悦子は眼を大きく開いて棒立ちとなった。 「どこへ? いま、チーフをさがしていたところですよ」 「なんですか?」 門田は気が急《せ》くので、ぶっきら棒に云った。 「新聞記者の方がたくさん見えて、わたくしたちの話を訊かれるんで、困っ てますわ」 土方悦子は当惑した表情で、額にはうっすらと汗さえ滲ませていた。 「どんな話です?」 「それが、コペンハーゲンのホテルで多田マリ子さんが扼殺されかかったと いうのを質問の中心にしているんです。とくに、しつこい訊きかたをする人 がひとり居て、困るんです」 門田がよほど眼に近くなった家なみのほうを見ると、その通信員の姿はま た消えていた。多田マリ子のほうは、ほかの団員仲間と、のんきに土産物屋 の窓などをのぞいていた。 土方悦子もいっしょにその方向に眼を放っていたが、 「あ、あの方です。赤煉瓦建のレストランから二軒ぐらい路地に入った民家 の前で、藤野由美さんに何かしきりと話している紺のレインコートをきた日 本人の男のひとです」 と指した。 そのときは、門田の眼にも、通信員の姿がとまっていた。通信員は、多田 マリ子からはなれて、こんどは藤野由美に取材しているのである。「便利屋」 とはいえ、なかなか精力的であった。 9 藤野由美からの取材だったら、まあまあだろうと思って、門田もそこで眼 下の様子を遠望しながら足をとめた。一つには、あの男がどういう取材の仕 方をしているか土方悦子に聞いてみたくなったからだ。彼女は先刻取材され ている。 「コペンのロイヤル.ホテルのボーイに聞いたけど、女性団員の一人が空部 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 屋でだれかに絞められかかったというが、そのときの様子を話してくれ、と いうんです。わたしをいきなり馴々しく、土方悦子さんですね、と呼びとめ て」 土方悦子は眉をひそめて報告した。 「ふうん。図々しい男の云いそうなことだ」 「名刺をもらいましたわ。例の日本スポーツ文化新聞とか週刊何々とか、た くさんの雑誌社の特派員の肩書がついている名刺です。そうそう、チーフに はコペンでお会いしたと云ってましたわ」 そんなことまでしゃべって取材しているのか、と門田は彼との居酒屋での 出逢いをまた後悔した。 「この前も話したけど、わざわざ会ったというのではなく、偶然にちょっと 言葉を交わしただけです」 門田は渋い顔で、弁明した。 「で、あなたは、どう答えました?」 「なんにも云いません。どんなに訊かれても、ノーコメントでした」 「ノーコメント?」 「ええ。返事もろくにしなかったんです」 土方悦子が髭の通信員からなるべく離れようとしている様子を門田は見て いたので、その話はうなずけた。しかし、何も返事をしなかったというのは、 相手に対して少々勘がよすぎると思った。 「実は、チーフには話す機会がなかったのですが、今朝の八時ごろ、東京か ら江木奈岐子さんが国際電話をかけてこられたんです」 土方悦子は、門田に一步寄ってきて云った。 「ああ。江木さんは日本スポーツ文化新聞を読んだといったのでしょう?」 「そうなんですよ。コペンハーゲン鈴木特派員発として、コペンのホテルで 多田マリ子さんがピストルで脅かされ麻酔薬をかがせられて扼殺されたよう な大見出しで書き立てられてあるといわれるんです。もっとも、扼殺の下に はカッコの中に未遂と小さく入ってはいるそうですが。それで江木さんは心 配して、わたしに国際電話をくださったんです。こっちのほうがびっくりし ましたわ」 土方悦子は大きな眼をさらにひろげた。 「それはね、ぼくのほうが早く、昨日の三時ごろに本社からの電話で聞いて いるんです。広島常務からの問合せでしたが、そのとき、江木さんが心配さ れていることを広島さんは云ってました。そうすると、江木さんは、代りに この旅行団に出したあなたのことが気にかかって、あとで直接あなたに電話 なさったんですね?」 「そうだと思います。わたくしが事情をお話しすると、ひとまず安心なさっ てらっしゃいました。そんなことを今朝の電話で聞いているものですから、 あの髭の人がくれた名刺に日本スポーツ文化新聞特派員とあったので、記事 を送ったのはこの人だなとピンときたんです」 「なるほど、そういうことでしたか。特派員といっても、あの通信員は……」 門田は下に眼を遣ったが、 「おや、あの男、まだ藤野由美さんから取材している。しつこい奴だ」 と、そこから睨んだ。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「ほんとに。まだ、話を取っていますわ」 土方悦子も眺めて云った。 「特派員といっても、一流新聞社のとは違って、あの男のは名目だけですよ。 日本スポーツ文化新聞が使える原稿を送ったときだけ、原稿料を送金しても らうのです。ほかの週刊誌でも同じことでね。これは当人が云ってたから間 違いはないが、自分で便利屋といっていた。外国によく居る手合いで、ヨー ロッパの根なし草です。どうせ、新聞か雑誌の記者崩れでしょうな」 「でも、大新聞の人たちもその取材に来ていますわ」 「その連中も昨日ホテルにぼくを訪ねてきた。あなたがたが自由行動で外出 しているときにね。やはり日本スポーツ文化新聞のその記事を見た本社のデ スクにハッパをかけられて、飛んできたというんです。どうも、日本のジャ ーナリズムは上調子で困る」 「大げさに騒ぎすぎますわね。何かがあると、わっと押し寄せるんです」 「A─の浅倉というのがさっきもぼくのところに来て云ってたが、四社の記 者も明日はエジンバラまで行って、われわれの女性観光団を取材すると云っ てましたよ」 「え、そりゃ、たいへんだわ」 「いや、内情を聞くと、それを口実にセント.アンドリュースにゴルフに行 きたいらしい。だから、そう心配はないでしょう」 「あの日本スポーツ文化新聞の通信員もスコットランドに行くんでしょう か?」 「さあ。それはどうかな。大新聞社の支局員とは違って、彼の場合は旅費も ホテル代も一応自費ですからなア」 「おや、やっと藤野由美さんからの取材が終ったようですわ。こんどは少し 長くかかったようですね?」 「まったく、しつこい」 通信員は、ようやく藤野由美を解放し、こんどは次の獲物を探しているら しいので、門田は本気に、あとの五十段を駆け降りた。 降り切ったところが、テームズ通りの角で、まっすぐ行けばジョージ五世 記念像があるが、そこへは向わず左にとって五十メートルも步き、次の角を 右に曲る。城の北側テラスから眺め下ろして見当をつけたところで、レスト ランや土産物屋がならんでいた。そこで、ひとりでぶらぶらと步いている通 信員を門田はつかまえた。 「あ、こんにちは」 鈴木は紺色レインコートの片袖を挙げた。その袖口はよごれていた。さす がの通信員も、門田の強い視線を受けたときは、顔に混乱を見せた。 先夜は、コペンの飲み屋で、どうも、と彼が云い出すのを、 「困るじゃありませんか」 と、門田は一撃した。 通信員は、はじめとぼけそうな様子だったが、門田の見幕に諦めて、髪を ごしごしと掻いて、頭をさげた。 「済みません。ご迷惑をかけました。けど、ちょっと釈明させてください。 誤解されたままでは、ぼくが浮ばれません」 彼は髭を動かして早口に云った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「なんですか?」 「ぼくは、コペンのロイヤル.ホテルにあなたがたの団体がロンドンに発た れた直後に行ったんです。女性観光団というのが珍しいと思って、何か記事 にならないかと思いましてね。それが出発後だというので、せめて話でもと 思い、あのホテルのポーターに聞いたんです。あそこのポーターやボーイの なん人かはあのピーレゴーデンの常連で、ぼくとは顔馴染なんです」 「………」 「結果だけをいえば、ぼくはボーイやポーターの話をそのまま日本スポーツ 文化新聞に電話で送ったんです。すると、デスクがたいそう派手な見出しの 読物記事にしてしまったらしいんです。ぼくは、いま、そこでA─の浅倉さ んやB─の諏訪さんたちからはじめて話を聞いてびっくりしました。それは 日本スポーツ文化新聞のデスクのでっち上げですよ。ピストルだのクロロホ ルムだのとね。ぼくの電話送稿にはそんなものはありません。まったくデス クの舞文曲筆です。これは信じてください」 鈴木は、眼も口も、その乞いに熱意を見せた。 「で、本社はあんまり反響が大きいのによろこんで、つづけて女性観光団を 取材しろと電報をくれたのです。珍しく稿料もはずむし、旅費も持つという んです」 「それで、あんたは、ここまでわれわれを追いかけてきて、もう一発、デス クがでっち上げできるような材料をつくろうというわけですな?」 「いえ、いえ。とんでもない」 通信員は激しく首を左右に振った。 「その逆ですよ。前の記事の訂正を送るつもりです」 「訂正を?」 「そうです。浅倉さんたちから聞いても、あんまりひどそうなので、いま、 あらためて団員さんの談話をとっているんです。こんどの取材が正確で、そ れによって前のを訂正するように日本スポーツ文化新聞のデスクに云ってや るつもりです」 門田は自分の中で忿懣が次第に融けてゆくのをおぼえた。本人の顔を見る と、気が弱くなってくる。正面から詫びられると、怒りをぶつけることもで きず、それに彼の言訳にも一理があった。鈴木は悪い人間ではなさそうだっ た。ただ、生活のためにルポの原稿料生活をしている。生活を保証され、取 材費を供給されている大新聞社の恵まれた海外支局員の環境とは違うのであ る。 「ぜひ、日本スポーツ文化のほうには訂正させてくださいよ。あの記事が出 たおかげで、団員の家族もずいぶん心配しているのです。昨日から、ぼくも 本社の電話に呼び出され、こっぴどく叱られている状態です」 門田は、まだふくれ面で云った。 「すみません。デスクがでっちあげたこととはいえ、ぼくにも責任がありま す、あなたにご迷惑をかけました」 鈴木は、また頭をさげた。 「それで、あなたはこんど日本スポーツ文化以外にも、あなたが契約を結ん でいる週刊誌などに、この観光団のことを書くつもりですか?」 門田は訊いた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「日スポ文化(日本スポーッ文化新聞の略称であるらしい)の記事を間接的 に|より《ヽヽ》強く訂正するためにも、女性週刊誌にこの観光団の動静を 送りたいと思います。浅倉さんに訊くと、全国紙のほうでも取材するそうで すね?」 鈴木は気弱そうな眼で云った。 「そうらしいです。ぼくのほうからは頼まないけど、先方がエジンバラまで 行くというのを中止させる権利はありませんからね」 各社支局の四人がセント.アンドリュースにゴルフをしに行くという内緒 話までは、門田は、鈴木に云えなかった。 「それはそうですね。全国紙が三人に連合通信まで加わってエジンバラに行 くとなれば、ぼくも行きたいですな」 髭の通信員は云った。 「え、あなたも行くんですか?」 「行きたいけど、ぼくの場合はすべて自費ですからね。それに、そのルポを 週刊誌が買ってくれるかどうかも分らないのです。東京に問い合わせた上で ないと、貧乏なぼくには行動ができません」 通信員はかなしそうな眼をした。ヨーロッパの「便利屋」の悲哀であった。 門田は同情したが、それを表明できなかった。あんまりつけ上らせるのは 禁物だった。 「それじゃ、これで」 門田は脚を動かした。 「そうですか。では、お元気に。門田さん、もし、エジンバラに行くような ことにでもなれば、その節はよろしく」 門田は、それには、否とも応とも云わず、 「コペンのトルバルセン嬢によろしくね」 と、最後は笑った。髭の通信員は叩頭して去った。 門田はそのあとで、多田マリ子に、通信員の取材質問にどんなことを答え たのかと訊いた。 「コペンハーゲンのホテルで聞いたと云やはって、いろんなことをたずねら れましたけど、わたしはみんないい加減な返事をして逃げました。だって、 日本の新聞に出たら、えろう迷惑しますがな。大阪のお客はんにえろう恥ず かしうて、顔むけができんようになります」 団体の同性に対しては自己顕示欲の強い多田マリ子も、大阪の男性には営 業上の配慮があるらしかった。彼女はもちろん日本スポーツ文化新聞の報道 を知っていないようだった。 藤野由美は、門田の問いに答えた。 「コペンのホテルのこと、云うだけでも、ばかばかしいですわ。日本スポー ツ文化新聞をはじめ、四社の特派員にいろいろと訊かれましたが、わたしは なんにも存じませんと答えるだけでした。新聞記者というのは、ずいぶんク レージイな話題に興味をもつものですわね」 ばかばかしいとか、気違いじみた話題だとか藤野由美が口にするのは、彼 女の意識に多田マリ子への対抗がまだ燃えているからだった。 いずれにしても、二人の答えに門田は安心した。 [#改ページ] PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn スコットランドの「湖」 1 ローズ.ツアはキングス.クロス駅発グラスゴー行二十三時二十分の列車 に乗った。エジンバラまでは約六時間かかる。 一等寝台車は贅沢だが、これも団体募集の条件になっていた。旅客機の二 等席《エコノミー》を除くと、ホテルにしても乗物にしてもすべてデラック スにしているのがローズ.ツア募集条件のウタイ文句であった。もっともイ ギリスの一等寝台車といっても、列車そのものが古めかしいので、たとえコ ンパートメントになっていても、日本ではとっくに廃車になっている時代も のだった。門田はバスの中で、コンパートメントの同室者はルーム.メート がそのまま組み合せになることを申渡した。 窓の外を見ると、照明燈に浮んだ無数の側線が次々と減ってゆき、複線の 線路だけになる。ロンドンの灯も少なくなり、最後の郊外が闇の中に消えて 行った。線路と並行した道路を走る車のヘッドライトも少なくなり、二、三 台が消えては一台が現われるというぐあいだった。夜行列車の窓はどこでも 同じである。ロンドンの郊外は東京よりもっと寂しい。 門田が暗い電燈の下でホテルや食事代の受取証を整理していると、ドアが 低く鳴った。列車ボーイかと思って扉を開けると、梶原澄子が身体を半分わ きに寄せて立っていた。 「入ってもいいですか?」 「どうぞ」 梶原澄子は、室内に半分しか進んでこなかった。 「門田さん。今晚も藤野由美さんと同じ部屋ですのね?」 早速の抗議であった。 「列車の中ですから、まあ我慢してください」 梶原澄子は、昨夜門田から言質をとっているつもりだった。 「でも、いっしょのコンパートメントですよ」 彼女の声は、その顔と同じに、ぎすぎすしていた。 「そうなんですが、今夜はどうにも都合がつかなかったのです。明晚のエジ ンバラ泊りからはかならずご希望のとおりにしますから」 門田はなだめたが、梶原澄子のわがままにも少し腹が立ってきた。藤野由 美の「不潔」を理由にするにしても限度があると思った。 「そうですか。じゃ、きっとですよ」 さすがに彼女もそれ以上は主張をつづけなかった。 彼女はドアの外に行きかけて門田を見返った。 「今日のウインザー城での騒ぎは何ですか。日本の新聞記者などが押しかけ たりして」 「ははあ。あなたも新聞記者につかまえられましたか?」 「つかまりました。コペンのホテルで起った多田マリ子さんのことを訊くん ですよ。わたしは、よっぽど、あれは多田さんの狂言だと云ってやりたくな PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn りました」 「それだけは止めてください」 門田は顔色を変えた。 「ええ、実際には云いませんでしたよ。あんなこと、口にするだけでも阿呆 らしいですからね」 梶原澄子は、唾でも吐きそうに云った。その限りでは、藤野由美と同じ答 えだった。 「どうか穏便にねがいます」 門田は頭をさげた。このとき、ふと気がついて、 「ところで、あなたは新しい室友として、どういう方がご希望ですか? も っとも、そのご希望通りになるかどうかは、いまのところ分りませんが、参 考として伺うのです」 と、訊いてみた。半分は機嫌とりの気持だった。 「そうですねえ。……」 梶原澄子は、ちょっと考えていたが、 「多田マリ子さんと室友にしていただいても結構ですわ」 と、急に微笑をつくって云った。 「え、多田さんですか?」 門田は意外だった。 多田マリ子も藤野由美も、その派手な面では似たり寄ったりだった。梶原 澄子が藤野由美に反撥するなら、多田マリ子にも反感をおぼえそうなもので あった。梶原澄子はニヤリと笑って出て行った。 五分もすると、土方悦子がドアを敲《たた》いてはいってきた。 「いま、梶原さんにわたしのコンパートメントをのぞかれ、通路へ呼び出さ れました」 土方は報告した。 「室友の変更のことでしょう?」 門田は察した。 「そうなんです。チーフに頼んであるけど、あなたにもお願いするわね、と わたしに云われるのです」 「しようのない人だな。たったいま、それをぼくに云いに来たばかりなのに。 じゃ、ここを出てすぐにあなたのところへ寄ったんだ」 「梶原さんは、藤野由美さんとは、よっぽど性分が合わないと見えますね。 いったい、変更の理由は何ですか?」 「それがよく分らないんだ。なんでも藤野さんが不潔だから嫌だと云ってま したがね」 「不潔ですって? あんなきれいな方が?」 土方悦子は眼を大きくした。 「ぼくもそう思うんだけどね。なんでも、生理的な感覚らしい、不潔という のがね。男にはそれが分らないが、同性にはそれが分ると梶原さんは云うん です。あなたは、どうですか?」 「わたくしは藤野さんが不潔とは思いませんわ。きれいで、美しい感じのひ とだと思っています。いいえ、これは、あのかたのおしゃれのことを云って いるんじゃありません。お化粧が美しくても、服装がおしゃれでも、清潔で PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ない方は、どこかにそれがのぞいているものです。ちょっと気づかないよう なところに、それがあるんです。でも、藤野さんにはちっともそれがありま せん」 「ぼくもそう思うんですがね」 「もしかすると、梶原さんは、藤野さんのおしゃれとか、少々人に目立つよ うな言葉や振舞に、反感を持ってそう云ってらっしゃるんじゃないですか?」 「それだったら、梶原さんは新しい室友として多田マリ子さんを希望するは ずがないと思いますがね」 「え、梶原さんは多田さんを室友に望んでらっしゃるのですか?」 「希望をきいてみたら、そう云ってましたよ。多田さんは藤野由美さんと同 型じゃないですかね? そこんところが、ぼくには理解しかねるんですよ」 列車の動揺の中で、門田はパイプに火をつけた。この旅行団中、たった一 人の男性という理由で門田が独占しているコンパートメントの一隅には、ス トーブのような燻《くす》んだ銀色のアルミの容器が置いてある。置いてあ るというよりも立ててあるといったほうが近い。実はこれが抽出し式の便器 であった。二段の抽出しになっている。ちょうど土方悦子はそのストーブ型 の便器の前に凭りかかるようにしていたので、門田はおかしくなった。彼女 も揺れ、容器も揺れている。 「それは、こうなんじゃないでしょうか」 土方悦子は、ゆらゆらする姿勢で考えた末に云った。 「藤野由美さんを毛嫌いなさっている梶原さんは、藤野さんと競《せ》り合 っている多田マリ子さんに好意をもっているから、そうおっしゃっているん じゃないでしょうか?」 「なるほど。そういう見方もできますね」 門田の気がつかないところだった。 「きっと、そんな梶原さんの心理からだと思いますわ。あの方は、藤野由美 さんとは、それこそ生理的に合わないんですね。そういう例は多いと思いま す。室友の変更をチーフに頼む理由がないものだから、不潔だという何だか よく分らないことを持ち出されたのでしょう」 「梶原さんにとっては、藤野由美さんが多田マリ子さんと共同の敵になるの で、二人の結合ということかね?」 「結合かどうかは分りませんが、梶原さんは多田さんに親近感をもったので はないでしょうか?」 「しかし、それにしては分らないことがある。実はね、梶原さんは、ぼくに 多田マリ子さんのコペンのホテルでの扼殺未遂事件の真相なるものをこっそ り告げに来たんです」 門田は、梶原澄子の「密告」をもう土方悦子にだけは洩らしてもいいと思 った。それは、多田マリ子の今後を土方悦子にも監視させるためだった。後 には広島常務が国際電話で云った「これから先も君の旅行団に何かが起りそ うな気がする」という言葉が耳底に残っていた。 門田は広島の「取越し苦労」をあのときは笑ったが、いまは笑えない気持 だった。いやな予感がしないでもなかったのだ。その予防のためにも、自分 一人では三十人の団員に眼が届かなかった。 土方悦子は、門田から梶原澄子の「密告」の内容を聞くと、口から叫び声 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn が出そうなくらいびっくりした。 「梶原さんは、札幌の病院長未亡人ですからね。亡くなったご主人の手伝い もしたことがあるらしいから、患者の怪我の様子も分るようですよ」 これは、前頸部に残った爪のあとから判断して、外部から扼殺の攻撃をう けたのではなく、自分の爪で咽喉を引っ掻いてつくった狂言のことだった。 土方悦子は、列車の動揺に身を任せて考えていたが、今後は多田マリ子に も気をつけてくれという門田の依頼に、 「よくわかりました」 と、かなしそうに云い、何ともいえぬ暗い表情で、そのまま外に出て行こ うとした。 が、その間際に、彼女は忘れものでもしたように一步戻ってきた。 「チーフ。今日の昼間、ウインザー城で遇った日本スポーツ文化新聞の通信 員に、わたくしの名前を教えましたか?」 「いや、ぼくは云わないけど」 「あの方は、わたくしに土方悦子さんですか、といきなり呼びかけましたわ」 「そりゃ、ほかの団員に聞いたのでしょうな。あの男は、団員たちにいろい ろと聞き回っていたから」 土方悦子はその答えにちょっと迷うような眼をした。が、すぐに、 「多田マリ子さんのことは、わたくしもそれとなく気をつけます。それから、 梶原さんの話は絶対に団員の人には知られないほうがいいと思います」 と述べ、おやすみなさいを云ってドアを出て行った。 門田はベッドの下段に入ったが、気にかかることがもう一つあるのを思い 出した。それは星野加根子の言葉である。 (藤野由美さんがアンカレッジで紛失されたというルビーの指輪は永久に出 てきませんわ) 空港の手洗所で落したまま指輪の行方が分らなくなったというから、たし かにそれは紛失である。あとで、入ってきた者が指輪を見つけて届けなかっ たら、それは紛失である。永久に出てこない可能性は充分にある。げんに、 あのときは、ローズ.ツアの団員は全部、機内に入るかゲートのところに待 っていたし、折から着いたルフトハンザ機の乗客五、六十人もが群をなして 待合室に入ってきた。それらのだれかが手洗所に行って、落ちていた指輪を 拾い、自分のものにしたという可能性もある。 それは、だれでもが考える推測なのに、どうして星野加根子は、指輪は永 久に出てこない、などと特に意味ありげに云ってきたのだろうか。 星野加根子は、目立たない女というよりも、陰気な女だ。珍しい風景を見 ても、ほかの団員のように感動を見せなかった。そういうのは世間にはよく いる。星野は未亡人だが、長らく会社勤めをしている独身の女などに多い。 彼女たちには何を考えているのかよく分らないところがある。また、何でも ないことを、さも意味ありげに、重要なことのように、ひそひそとささやき にくるものだ。 星野加根子の云った指輪のこともその一つだろうか。それとも、彼女だけ が本当に何か知っていることがあるのだろうか。── 思案しているうちに、門田は昼間の疲れで睡くなってきた。 次の停車は、ドンキャスター駅である。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 2 エジンバラのウェーバリー駅に着いたのが午前七時前、街は趣があった。 建物の窓の灯も少なく、街燈だけが輝いてならんでいるのも佗しい。街は駅 の上にあって石段を昇って行く。吐く息が白いくらいに空気が冷えている。 四月末のエジンバラの日中の気温は平均華氏四十八度、ロンドンよりは六度 くらい低い。緯度からすると樺太の北部に当る。暖流のせいで樺太よりは温 いが、それでも早朝は冷え込む。団員たちはコンダクター門田の注意で列車 の中で支度をした。厚着の上にコートを羽織り、厚い布のネッカチーフを頭 に被り、衿巻きをした。 手配したバスがひろい陸橋の傍に車内の灯をつけて待っていてくれたのに は、門田も胸を撫で下ろした。これで約束通りバスが来ていなかったらホテ ルにも入れず、戸を下ろして暗い早朝街を慄えながらうろつき、団員たちに どんなヒステリーを起されるか分らないところだった。ありがたいことに、 バスでは熱い紅茶とサンドウィッチを用意してくれていた。これも契約通り とはいえ、門田は英国人の律義さに感謝した。引率者というのは、自分はた とえ飲まず食わずでも団員たちには不自由させたくないというふしぎに英雄 的な犠牲者心理になる。この場合は商売気をはなれていた。 「みなさん。わたしたちはいよいよ憧れのスコットランドに参りました。エ ジンバラ市内の見物は、いまが早朝の時間という関係から、午後にし、これ より北の海岸線に沿って往復六時間ばかりの旅をたのしみたいと思います」 門田が車内朝食を頬張っている三十人の女性団員に微笑みながら云った。 「窓から見える海は北海です。このへんはファイフ地方、つまり横笛地方と いうんですが〝黄金に縁どりされた乞食のマント□という奇妙なあだ名があ ります。エジンバラからセント.アンドリュース、ほら有名な世界のゴルフ の発祥地ですが、そこへ行くまでの海岸線はスコットランドのリビエラと称 されています。おや、どうやら夜が明けてきましたね。では、ごゆっくりお くつろぎください」 運転席に背をむけて通路に立って一同に対き合う門田は故意にみなに仕合 せそうな身ぶりをみせた。何よ、あの言い方、ずいぶん気どっているわね、 という団員たち隣どうしの囁きもあったろう。バスの座席だけは室友の秩序 はなかった。土方悦子は荷物のバス積込みの点検にくたびれたのか、それと も夜行列車ではろくに睡れなかったのか、前列の座席で眼をうつらうつらと 閉じていた。 空の薄明の下に商店街は黒い影になっていたが、背後の丘にそびえたエジ ンバラ城は細部の輪郭を描き出しつつあった。街が終り、郊外がはじまって、 幅広い河口に架ったフォース.ブリッジの長い橋を渡るころはすっかり陽の 輝く朝となった。海の上も昼間に近い白い光線に変っていた。 団員でセント.アンドリュースの名を知っている者も知らない者もいた。 クラブを握れる女性でもそこが聖地《メツカ》であると心得るものは少なか った。道は農村地帯を走っていて、いっこうに海が見えなかった。案内書を 過信した門田の錯覚で、往還《ハイウエイ》は必ずしも風光明媚な蘇格土《ス コテイツシユ》のリビエラを通るとは限らなかった。無理もない、門田もこ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn の地方は初めてであった。 スコットランドといえば高地《ハイ.ランド》ばかりのように思われるが、 海岸寄りのこのへんはいわゆる低地《ロウ.ランド》地方で、なだらかな丘 陵は左手西側に起伏をゆるやかに繰り返していた。少しも変化のない景色だ が、幸いなことに、乗客のほとんどは座席に睡りこけていた。今朝の到着が 早かったのと、それに夜汽車の睡眠不足もあったりして、バスの動揺がけっ こう揺り籠の役目をつとめていた。 二時間かかってバスがセント.アンドリュースの静かな町に入ったころに は、乗客の半分が眼ざめていた。 ゴルフ場は北海に面した岩場の台地上にある。古めかしいホテルが建ちな らんでいるが、ゴルフ場はもっと古色をもっていた。地面《スペース》の関 係上、海岸に沿って横に長く、その先は鉤の手に曲っていた。眼も遥かな広々 とした芝生と人工的な枝ぶりの木立をもつ日本のゴルフ場からくらべると、 この世界の聖地《メツカ》は漁村の球ころがし場といってよかった。威厳を 添えているのは中央のロイヤル.ハウスの王朝風な建物で、時代がかったと ころが壮重である。ゴルファーも、ほんの三組ぐらいしかいなかった。 例の全国紙三社と連合通信の支局員の姿はなかった。いずれ、明日あたり にここにやってくるにちがいない。自分らは思わぬことで彼らに「恩恵」を 与えたものだ、と門田は内心くすぐったくなった。 門田の土地説明で、団員たちはゴルフ場をカメラで撮りはじめた。日本の 世界観光団多しといえども、ここまでくるのはおそらくあなたがただけであ ろうといい、帰国してゴルファーに話したらきっと驚きと羨望の的になるだ ろうと持ち上げたので、団員は余計に撮影の価値を見出したようだった。 「奇妙なものですわ」と土方悦子が門田とならんでいった。 「お互いの記念写真を撮り合っているのが自然といくつかのグループに別れ るんですのね。室友は案外少ないんじゃありませんか」 その現象に門田は気づいていた。しかし、彼も、経験からもうそろそろ分 裂と集合の現象が起るころだと思っていた。おおまかにいって、年齢の近い ものどうしがかたまるものだが、学生を除くと、ふしぎと同種の職業をもつ 女はいっしょにならない。まったく異なった職種が仲よくなりがちだった。 このローズ.ツアの会員《メンバー》は後者の現象がきわだっていた。 室友の点については悦子の観察通りだが、その原因は梶原澄子が藤野由美 に反撥するように、同じ部屋で寝起きしている間に気まずさが起るのである。 それに同室でいるときは双方で遠慮しているので、その鬱積がどうしても他 室の者に新鮮さをおぼえさせるらしいのである。もっとも、藤野由美の場合、 梶原澄子の反感には、さらに反応がないようだった。病院長の未亡人など歯 牙にもかけていないふうだった。 北海の沖は寒そうな海霧にかすんでいた。 海際は岩礁の断崖になっていて、步行路がそこで階段になって下にかくれ ている。崖下には夏季の海水浴場の施設、レスト.ハウス、プールなどがあ った。 ゴルフ場を窓硝子越しに見渡すホテルの食堂で早目の昼食になった。バス の中では朝食にサンドウィッチだけだったからみんな食欲がさかんだった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 土方悦子は隅に坐って悪戯書きのように何か紙片に書いている。門田が覗 くとそれぞれのテーブルに着いている顔ぶれの名前であった。門田は、はは あ、と思った。つまりはこれが仲よしのグループ別であった。その中には少 ない例だが、同室者《ルーム.メイト》の仲よしも含まれていた。それらは 非常にうまくいっている組で、早い話がどこに行くのも肩を寄せ合い手を握 り合っているのである。 門田が、土方悦子にそういうグループ別の人名を機会あるごとにメモして おいてくれとそっと頼んだのは統率の資料にするためだった。仲のいい組は 分裂と結合を繰り返すから、そのメモの変化はなかなか参考になる。 その逆が、星野加根子、竹田郁子、日笠朋子などの冷却型ないしは孤立組 であった。 むろん、別の意味で梶原澄子、藤野由美、多田マリ子の三人には門田の二 重圏点が付けられていた。 世界ゴルフの発祥地を眼の前にして、藤野由美と多田マリ子の口からゴル フ談義が出ないはずはなかった。 「わたくしのお顧客《とくい》さまは、みんないいところの奥さまやお嬢さ ま方ばかりでしょ? みなさまがゴルフにお誘いくださるので、つい、わた くしもゴルフを習いましたの」 美容デザイナーはいった。 「五年前からなんですが、いまではもう少しでシングルになれそうな腕にな りましたわ。現在、K─カントリークラブの個人会員なんですの。あそこの 譲渡価格はいま三千万円ぐらいするんですってね。いいえ、わたくしのは、 懇意にしていただいている方がタダで譲ってくださったんですけれど。あの クラブは有名人ばかりがいらっしゃるでしょう。政界や財界や文化人などの 奥さまやお嬢さま方ともお親しくしていただき、そのご主人さまとも昵懇《じ つこん》にしていただいてますの。でも、殿方とのお付合いは、正直いって 面倒ですわ、わたくしだけをこっそりお誘いくださったりして。そりゃ、奥 さまがたの微妙なお気持も、いろいろなかたちで出てきますから、そのへん の呼吸がとてもむずかしいんです。わたくし、ほんとに無心にクラブを振っ ていられたら、どんなにいいかと思うことがあるんです」 多田マリ子も、別のグループでだが、負けずにいった。 「わたしはゴルフをはじめて十年になります。三年前からハンディが9だす よってに、もちろんシングルだす。大阪というとこは、関西の財界人が集っ てはりますやろ。財界は、何やいうても、中心は関西ですわ。東京は、その 関西の支店みたいなものでっしゃろ。昔からそういいますがな。日本の財界 の中心は、やっぱり、大阪だす。わたしのお店には、その財界人のお歴々が お見えになりはるよってに、わたしの店を夜の工業倶楽部やいうて、世間で はいやらしい悪口をいわはります」 バアのマダムはそう自慢した。 「それというのも、一流の会社の社長さんがたが、わたしをほうぼうのゴル フ場に誘ってくれはるからでっしゃろ。そう、わたしも、自分の商売が大事 ですよってに、何とか時間を都合してくれんかといわれたら、五度に一度ぐ らいはお供することになりますわ。ひどいときには十回ぐらい、飛行機や新 幹線で大阪.東京を往復したり、北海道や九州のゴルフ場かて行きます。そ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn やけど、わたし一人で社長さんたちのお供をしたことおまへんえ。かならず、 店の者を連れて行きます。そんなことで、わたしを夜の工業倶楽部の会頭や いうて蔭口をいわはる人があるんですわ。はじめは、そら口惜《くや》しゅ うおましたけど、このごろは諦めて、なんとも思わんようになりました。あ れ、みんな嫉妬《やきもち》半分で悪口云わはるんですね。それやったら、 しよないわとさとりましてん」 ところで、門田が土方悦子にひそかに訊くと、藤野由美はロンドンのハロ ッズでは何一つ買わず、多田マリ子もアランズでは店内を見て回っただけと いうことだった。 ロンドンの高級店では気に入ったものがなかった、すべてはパリで択ぶ、 まだ旅程の途中なのに、荷物になるものをあわててロンドンで買うこともな い。そういう意味のことを両人とも云っていたそうである。 エジンバラに引き返したのが午後二時ごろであった。列車で着いたとき早 朝の霧に眠っていた街は、いまは見違えるように明るい陽光の下にいきいき と活動していた。プリンセス街という大通りは両側に大商店がならんだ目抜 きの繁華街だが、中央に車がめまぐるしく走り、両步道には銀座のように人 が雑踏していた。海抜一三四メートルの巌上にそびえている七世紀時代の古 城は市中のどこからでも見上げられるが、とくにプリンセス通りからのが偉 容をおぼえさせる。 (図省略) ところで、ここで門田は思わぬ蹉跌《さてつ》に遭遇した。せっかくうま くいっていたのに、何ということか、予約したホテルに宿泊を断られたので ある。責任は予約客をとりすぎたホテル側にあった。どこのホテルでも、多 少のブッキング.オーバー(予約客数超過)はやっているが、これはひどか った。先方の言訳では、連絡の手違いだといったが、アメリカの観光団にす でに十室を提供してキイも渡してある、三室なら何とかなるが、とフロント ではわざわざ支配人が出てきて謝る始末であった。 門田はここぞとばかり猛烈に抗議し、何とかほかのホテルを世話しろとい った。支配人は事務員を督励してほうぼうに電話していたが、スコットラン ドもそろそろ観光シーズンに入ったとみえ、エジンバラのホテルは全部|塞 《ふさ》がっている。あっちのホテルに二室、こっちのホテルに三室という ふうに分宿の方法があるがと支配人は云った。しかし、それではこちらが不 便で仕方がない。団員の多くは言葉も通じないので心細いこともあった。 そういった不便だけではなく、分宿は門田に不安であった。この先、何か が旅行団の中に起りそうな予感がすると電話で云った広島の声が、門田には すでに「警告」として脳裡に滲みこみつつあった。自分までが神経過敏にな っていると思いながらも、それを払うことができなかった。 長身の、いかにもスコットランド人らしい支配人が背をかがめ揉み手をし て云うには、ここから北十マイルのところにミルナソートという駅がある。 鉄道の南北線.東西線の中心で、そばにはレブン湖という湖もある。夏季の 客のためにレブン湖畔には立派なホテルがあるが、今だとまだ空いていて十 七室ぶんはいっぺんにとれる。この市内のホテルよりも静寂でどんなにいい PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn かしれない、そこに入っていただけるなら、こちらの手落ちだから往復のバ ス代は当方持ち、宿泊料も割引きする、と申出た。 門田も分宿よりはいいからそれに決めた。支配人は莞爾として、何しろス コットランドは湖が名物でしてな、湖畔の宿りのほうがどんなにロマンチッ クかもしれないと云い添えた。 日のあるうちにそんな場所に出かけても仕方がないから、二時間ばかりを 市内見物に過すことにした。 エジンバラは台地にできた街で、縦横に走る商店街の大通りも勾配《こう ばい》だが、ちょっとわきにそれると陥没した谷間になる。谷間は家で埋ま っているが、上部の街と低部の街とは高い石段で連絡している。石段に出る には必ず商店と商店の間の露地で、せまい両側には小さな居酒屋などあった りして、カスバのように薄気味悪かった。 こういうときだけ衆をたのんだ女性群は、もの珍しそうに露地を見つけて は摺鉢《すりばち》底の「貧民窟」をのぞきに行った。あとから思い合わせ ると、このあたりから彼女たちの好奇心が醸成されたようである。門田は気 が気でなかった。ホテルの違約のこともあって、ここで事故を起して、つま ずいてはならなかった。 「さあ、みなさん、ばらばらにならないで。一人になると迷って、どういう ことになるか分りませんよ。かたまって、かたまって」 と呼びかけていた。土方悦子は人数のまとめにかけまわった。 そういうことだから、二階つきのバスや車が走る大通りに出て、その小さ な広場に建っているサー.ウォルター.スコットの銅像の前に立ちどまり、 土方悦子が「講師」にもどって一同に説明するのを門田は苦々しく思うどこ ろか、頗る気持をゆるして聞いていた。 気をゆるすといえば、四人の新聞記者の姿がこの街に現われてないことも 門田には気が楽だった。正確には、日本スポーツ文化新聞の通信員を入れて 五人というべきだろう。全国紙と連合通信とは、明日あたりセント.アンド リュースに向う予定だろうし、ヨーロッパの「便利屋」通信員には金がない。 東京の契約雑誌社に旅費を電報で要請するといっていたが、そんなことに無 駄使いをさせる社もないであろう。 スコットというのは、と悦子はいまや小さな身体に高い声をあげていた。 ご存じの方もあろうけれど、日本では以前から叙事詩『湖上の麗人』の作者 として知られています。西洋ではあるいは小説『アイヴァンホー』のほうが 高く買われているかもしれないけれど、日本人には前者のほうが明治以来馴 染深いようです(明治二七年塩井雨江訳『湖上の佳人』として出された)。 中世の騎士と美姫とにまつわる恋愛と武勇譚は、スコットランドの山中カト リン湖の幽邃を舞台に人の心にこよなく浪曼の夢を植えつけたものです。と 彼女は、その荒筋を紹介していた。こういうときの土方悦子の眼の色も顔色 もまことに生彩があった。なにしろ繁華街の角にある狭い広場のこととて、 ぞろぞろ步く人の群が立ちどまって珍しそうに日本語のおしゃべりを聞いて いたが、知った顔のない強味で、彼女はいっこうに臆するところもなく、佇 んだまま半眼を閉じ『湖上の麗人』のなかの詩の一節をリズムを付けてうた いはじめた。 漕《こ》ぎゆく舟の水棹《みさお》にて/しぶきとぶ水泡《みなは》 あ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn はれ儚《はかな》し。/漕ぎゆく舟の跡《あと》の一条 水脉《みを》の光 は波に立てども/はかなく失《う》せて湖《うみ》静かなり。/噫《ああ》 思ひ出もはかなく消えて/往《い》にし昔の情《なさけ》を忘る。/さらば 旅人 寂しき島を/去りて忘れて 汝《な》が幸《さち》に酔へ。/噫 武 夫《もののふ》よ、さまよひ人の/悲しき胸をなだめ鎮めよ。/踏み迷ひた る山路の果に/仮寝結びし寂しき島の一と夜の幸《さち》を偲びがてらに。 (入江直祐訳) 悦子の半眼がびっくりしたように開いたのは、団員たちの一斉なる拍手の 響きで、どの表情も感動的な笑顔になっていた。思うに、遥か日本を離れて 異郷を步いている「旅人」の心境に、その詩が滲みこんだのであろう。女性 には「湖上の麗人」という名前からして詩的で、その陶酔は自らをヒロイン に擬しがちである。そこにはデザイナーも教師も事務員も水商売も独身も人 妻もなく、均《な》らされたロマンチシズムへの浸《ひた》りがあった。 とくに女子学生たちは悦子に駆け寄ってきて、 「素晴しいわ、土方さん。その湖というのはどこにありますの?」 と訊いた。悦子はそこまでは地理を調べていなかった。 「ねえ、もしかすると、今夜わたしたちが泊るホテルが湖畔だというから、 そこがカトリン湖じゃないかしら?」 女子学生は手を叩いて云い合うのであった。ほかの女性たちもそれを希望 する表情であった。 この変化を見て喜んだのが門田で、田舎のホテルに追いやられて嘸《さぞ》 かし団員一同の不平不満、憤りをぶっつけられるかと今夜を不安がっていた のだが、みんなしてその湖畔の宿を熱望してくれるのなら願ってもないこと であり、彼は羽根ペンを握って紙に向っているスコット(彼はバルザックと 同じように莫大な借金返済のために書いた)の銅像を見上げ、「文学」の偉 大さを認識したのであった。で、土方悦子に近づき、そっとささやいた。 「今夜のホテルの傍にあるレブン湖という湖をみんなには、そのカトリン湖 のように思わせておくことだね」 土方悦子は首を振った。彼女が再び一同に云ったのは、間接的には門田へ の答になっていた。 「みなさん、レブン湖も、スコットの小説の舞台になっているんです。スコ ットは中世イギリスのロマンチックな物語を歴史を背景に書いていますが、 レブン湖にも『湖上の麗人』と似たような美姫と武勇譚がくりひろげられて います。その作品が『ザ.アボット』です。いまでも、その湖上の小島には 十五世紀の小さな古城があります」 「湖上の古城!」 女子学生たちは夢みるような瞳をした。 「この城には、十六世紀の半ば、スコットランドの貴族たちに降伏したのち に捕われの身となったメアリ女王が幽閉されていました。女王を救い出そう とする計画は何度かありましたが、みんな成功しませんでした。やっとウィ リアム.ダグラスという勇士がメアリ女王を救助しましたが、それも束の間 で、メアリはイングランドのエリザベス女王によって再び捕われの身となり ました。メアリはスコットランドやイングランド各地の城を転々としていた のですが、とうとうエリザベス女王のために断首にされるのです」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn この物語の紹介で、レブン湖行が、なんの悶着も起らず、いっぺんにきま ってしまった。 門田も、レブン湖をカトリン湖といって団員を欺瞞する必要もなくて、こ の成行にひどく安心した。レブン湖の物語は日本人に『湖上の麗人』ほど有 名ではないのが門田に気がかりだったが、女性団員には湖上の島に古城が残 っているというのが、ロマンチックな強い魅力のようだった。 3 ミルナソート駅というよりキンロスの町にはホテルが多い。事実、キンロ スシャーの県都でもあった。この田舎町に似合わない立派なホテルがあるの は、夏になるとレブン湖の鱒《ます》釣りを兼ねて避暑客がくるからだった。 門田も「|鱒 荘《トロウト.ヴイラ》」というホテルに入ってパンフレ ットをもらい、初めてそれと知ったのだが、シーズンになると鱒釣りの競技 会が行われ、世界各国から挑戦者が集るとあった。わざわざそれを目指して くるのではなく、むろん避暑のついでである。 そのレブン湖はホテルのすぐ北裏にあった。東部スコットランドはキンロ ス半島の山地地帯に囲まれた狭い盆地の中の、ほぼ円形の淡水湖で、眺めて いると信州の諏訪湖に似ている。ただ、日本アルプスのような高い山は見え ず、およそなだらかな山容だが、東側だけはローモンド.ヒルというのが険 しい斜面を湖水になだれこませていた。 湖には小さな島が四つあってその島が水面に濃い影を刷《は》いている。 その一つに廃城があった。エジンバラからここまでバスで一時間あまりだが、 団員の女性たちはこの中世物語風な山湖の風景がすっかり気に入った。 「ほら、湖上に小島があり、その上に古めかしい塔をもった小さな城が見え るでしょ。あれが悲劇のメアリ女王の幽閉されていた古城ですわ。十五世紀 のままの姿で、ああして湖面に影を落しているんです」 みんなは、湖中の小島に古色に彩られて立っている滅亡の城を眺め、うっ とりと溜息をついた。衰亡や滅亡は、だれにとっても浪曼的で感傷的な心情 をゆり動かす。 幸いなことに、今は|季節外れ《シーズン.オフ》でホテルはがら空きで あった。不都合を詫びたエジンバラのホテルの支配人からの連絡もあって、 「鱒荘」の支配人は一人一室の提供を申出た。みんなに歓声が上ったのはも ちろんのことである。もっとも少数の団員には「気心が知れて安心だ」とい うことで二人同室を希望するものもあった。 さし当り梶原澄子と藤野由美との部屋の割り振りの問題が今夜だけは回避 されたので、門田は心を安んじていた。門田は、はからずも梶原澄子との約 束を履行したことになった。 彼はすでに夕景色と変りつつある湖畔を、三々五々と散策する女性たちを 穹窿《きゆうりゆう》形の窓から眺め下ろしながら、 「ねえ、土方さん。今夜は久しぶりにぼくも神経が休まりそうですよ。エジ ンバラで泊りを断られたときはどうしようかと思ったけれど、禍転じて福と なるというのはこのことだね。どうか今後の旅もこんなふうにあって欲しい ね」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn と、満足そうに云ったものだった。難物の梶原澄子が心にあったのはいう までもない。 湖岸にはこぢんまりとしたホテルが六軒ならんでいた。どこまでもイギリ ス式で、住宅かホテルか見分けがつかないくらい地味であった。どのホテル の裏にも湖の渚《なぎさ》に小さな桟橋が出ていた。それぞれボートが十隻 ぐらい舫《もや》ってあったり、岸に上っていたりした。なかには舟底を空 にむけて昼間の天日に乾されているのもあった。もちろん古城にも小島にも 灯がなく、対岸にも見えなかった。そこは暮色に影を深めてゆく山塊がひろ がっているだけであった。 (図省略) 食堂の夕食には当然に鱒の料理が出た。これまで魚といえば舌ビラメのフ ライかグラタンしか食べられなかった女性たちは手を拍って喝采した。 食後に、窓辺から湖水を眺めていた女子学生の本田雅子と千葉裕子とがボ ートを漕いで島に上陸してみたいと云い出した。彼女たちは、このレブン湖 が舞台となっているスコット作の『ザ.アボット』こそ知らぬが、『湖上の 麗人』のことは有名なので、この湖をカトリン湖になぞらえ、自分なりに空 想しているようであった。無理もないことで、十九世紀の物語詩と目前の風 景とはだれの心にも諧調をつくる。 意外なことに、年上の団員たちまで舟漕ぎによる島の周遊を続々と希望し たのだった。とくに島上の古城はロマンチシズムの凝結そのものだった。反 《そ》りのある小舟の舳先《へさき》にはランターンが下がっていて、げん にそうした赤い灯の舟が暗い湖上をさまよっていた。 門田は引率者として当然に慎重で、夜のボート遊びの危険を説いたが、多 数の団員たちの希望に押し切られた。彼が食堂のマネージャーを呼んで質《た だ》したところ、湖上は池のように静かだし、遠くにさえ行かなければ心配 はないということだった。なお、いちばん近い島には湖岸から橋が架かって いるので、それを渡ればさらに安全だと云った。昼間だと湖上には小さな周 遊船が出る。 門田は、そこで外出者に注意を与えた。 「決して単独には行動しないこと。二、三人でいても絶えず他のグループの 近くにいて、連絡が届きやすいようにすること。二時間以内には必ずホテル に戻ってくること。湖上はまだ寒いから、風邪をひかないように厚着するこ と」 鄭重ななかに威厳を含めた言葉だった。 ばかばかしい、まるで修学旅行の先生なみのつもりでいるわ、と団員で門 田をあざ笑う者はいたが、表面はおとなしくこの注意に従うようにみえた。 学校の先生と門田との違いは、自分らが金で傭った番頭なみに考えている点 であった。縁はこの旅行の間だけなのである。だから、門田が荘重に弁ずれ ば弁ずるほど彼は道化てみえそうだった。で、こういう抗議的な声が上った のも自然の成行だった。 「チーフ。わたしたちの自由をあまり束縛しないでください。子供じゃある まいし、私たちは外国をできるだけ愉しみにきたのですわ。あんまり訓示さ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn れるのは興ざめです」 声の主は星野加根子であった。 すると、ほかの女たちの眼が星野加根子を支援するように門田の顔に一斉 に集中したのだった。 「いや、わたしはべつにあなたがたを束縛するわけじゃありませんが……」 門田はたちまち弱気になった。 「その、みなさんの安全を考えるものですから」 彼には、みんなに云えないことがある。この団体旅行の将来には、何かが 起りそうだという悪い予感のことだった。東京からの広島常務の電話以来、 その声が彼の内心に怯えを形づくっていた。 「とにかくみんな大人ですから、あんまり拘束しないように願います」 星野加根子が門田にとどめをさすように云ったが、団員たちには、こちら の気持が分らなかった。 「やれやれ」 門田は団員たちがホテルの外に散って行くのを見送りながら煙草をふかし た。悪いほうに考えると、きりがない。門田は胸にこびりつく危惧を振り払 うように、土方悦子の傍に步み寄った。 「土方さん。ホテルに残っているのは、どういう人たちかね?」 「調べてくるんですか?」 小さな顔がふりむいた。 「調べるわけじゃないけど、掌握しておきたいのです」 「調べて回っているようにとられると、また自由を束縛していると文句が出 そうですわ」 「まあとにかく、それとなく見て回ってください」 「ドアの閉っている部屋もノックして在否を確かめるんですか?」 「さあ、それは拙《まず》いな。ロビーなどに降りて見るだけでいいかな」 不徹底な指示になったのは、門田がみなの反撃をおそれたからだった。 4 十五分もすると、土方悦子が戻ってきた。 「ロビーには、団員の姿はありません。そのかわりに、チーフに面会人が見 えています」 「面会人?」 門田は眼をまるくした。こんな場所に面会人があるはずはないと思った。 「昨日、ウインザー城に来ておられた新聞社の五人です」 ああ、あの記者連中か、と門田は合点した。が、五人というのにひっかか った。新聞社は四人のはずである。 「もう一人は、わたしにいろいろと質問した髭の人です。日本スポーツ文化 新聞の通信員さんです」 あの鈴木という男までがいっしょに来たと知って門田は意外に思った。四 人のロンドン支局員はいずれも大新聞社と大通信社、いわばエリート記者の なかに「便利屋」通信員がまじっているのである。 「わたしがフロントに出たとき、ちょうど五人が外から入ってこられて、顔 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn が合ったんです。みなさんは門田さんに会いたいといってらっしゃいます」 土方悦子はとりついだ。 鈴木は別として、支局の四人はセント.アンドリュースへゴルフをしに行 くといっていたので、そっちのほうだと思っていたのに、今日、早くもここ に現われるとは予期しなかった。 それだけに日本の新聞社がこの女性観光団に強い興味をもっていることが わかった。おそらく本社の指令で、早速にも、ローズ.ツアの動静を取材せ よといってきたのであろう。婦人欄用の読みもの的な記事にはうってつけな のである。こちらは少々気が重いが、これが各紙に出れば、王冠観光旅行社 にとってもこよなき宣伝となり、社長や広島常務も眼を細くするにちがいな かった。 全国紙がそうであれば、日本スポーツ文化新聞にしても二流週刊誌にして も、同様な興味を持つわけである。一流であろうと二流であろうと、ジャー ナリズムの興味は等質である。あとは表現の問題だ。「便利屋」通信員が偶 然にも四人の一流紙支局員といっしょにここにやってきたのは、契約の各社 から旅費や取材費がとれる諒解が来たからにちがいない。 「じゃ、ぼくはロビーに行って、連中と話してくる」 門田はネクタイに指を当てた。 「わたくしは、外に出ます。ロビーを通ると、またあの人たちにつかまりそ うですから、裏のほうに別な出入口があると思うので、そっちのほうにまい ります。……でも、日本のマスコミはどうしてこんなに大騒ぎをするんでし ょうか。ほんの、ちょっとしたことなのに」 土方悦子はウインザー城で取材攻めに遇って懲りたようだった。 門田にしても、記者連中と会っているときに、土方悦子に傍に居られると、 なんとなく気が詰って話しづらい。彼女からそう云い出したのは歓迎だった。 しかし、彼女の日本のマスコミ批判には同感だった。 「では、団員たちの様子によく気をつけて見てくれますか。暗いところで、 女性ばかりがばらばらに行動していますからね。それに湖もあるし、寂しい 小島もある。ボート遊びも各自に注意してもらわないとね」 門田がそう云ったのは、またしても心に漠然と不安の影が横切ったからで ある。 本来は自分がそうする立場なのだが、いまは新聞記者連中を引き受けてい る。やむなく土方悦子に代行させるのだが、記者らとの話はできるだけ短い 時間にして、そのあと、外に見回りに出ることに決めた。 ロビーには浅倉、諏訪、高村、内藤が一つところにかたまって坐っており、 鈴木は遠慮したように彼らと少しはなれた椅子にかけていた。一瞥しただけ でも、一流紙記者の仲間意識と、三流通信員の孤立とが分った。 が、ヨーロッパの根なし草は、そんなことぐらい馴れているのであろう。 それをあまり気にしていたのではその種の通信員はつとまらないにちがいな かった。 「やあ、いらっしゃい」 門田は愛想笑いをしながら日本のマスコミの出先機関員、五人の顔に云っ た。正確には四人を一つグループに等分に見て、最後に一人へ眼をむけたの だった。通信員の髭面は、心なしかへりくだった微笑をつくっていた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田は彼らの前に椅子を寄せた。 「昨日はどうも」 A─社の浅倉が、三人を代表したように、がらがら声で門田に云った。ウ インザー城での取材のことだった。鈴木もその尾についたように、これは少 し丁寧に頭をさげた。門田への詫び心であるらしかった。 「ご苦労さまでした」 門田も返した。つづいて、四人には、 「今日あたりは、セント.アンドリュースにお出かけじゃなかったのです か?」 と、やはり眼もとを笑わせて訊いた。 「そのつもりだったんですがね。やはりゴルフは道楽ですから、名目だけで も、まず、こちらの女性団体の様子を見て、それから、ゆっくりゴルフ場へ 向おうと思ったんです」 口実にしているほうを、まるきり放ったらかしてゴルフ遊びをするのも、 彼らにはやはり気がさすらしかった。 「ああそうですか。よく、こっちにわれわれが来ていることが分りました ね?」 門田は、パイプをとり出して煙草を詰めた。 「エジンバラのホテルに行ったんですよ。そうすると、こっちに宿が変った と聞いたもんですからね」 「ホテルがブッキング.オーバーをやらかして、われわれははじき出された んです」 門田はライターを横にしてパイプに火をつけた。 「そうですってね。向うのホテルの番頭も恐縮していました。しかし、こっ ちのホテルもなかなかいいじゃありませんか。湖水があったりして、まるで 芦ノ湖を前にした箱根のようじゃありませんか」 浅倉が窓の外に視線をむけて云った。まわりに針葉樹林をもった山湖は、 昏《く》れなずむ中にわずかな光を湛えて、すぐそこにあった。 「ええ。団員のみなさんは、エジンバラよりも、ここにきたのを、とてもよ ろこんでおられますよ。この湖は、サー.ウォルター.スコットの『ザ.ア ボット』という名作の舞台でもありますからね」 「その、『ザ.アボット』という小説の筋は、どういうことですか?」 末席といっていい位置にかけていた日本スポーツ文化新聞の通信員は、手 帳を出して訊いた。 門田は、一瞬こそたじろいだが、 「それはですね。スコットランドのメアリ女王の数奇な運命をめぐる物語で、 美女あり、英雄あり、勇士あり、悲恋あり、戦争ありの、いかにもスコット らしい雄大なロマンスです。そこの小島の上に古城が見えるでしょう。あれ が女王の幽閉されていた十五世紀の城なんです。そういうぐあいですから、 団員のみなさんは、とてもよろこんでおられますよ。いま、みんな湖畔のそ ぞろ步きに出ていますがね」 と、土方悦子から聞いた講釈をとり入れて云った。 「それは、女性だけの観光団にとっては、うってつけですね」 まる顔の諏訪が引きとって云った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「そうなんです。たいへんによろこばれています。これは、他の観光旅行社 には絶対にない企画ですよ」 このレブン湖畔にきたのは偶然のなりゆきだったが、門田は当初からのプ ランのように自慢した。これが全国紙に出れば、王冠観光旅行社にとっては たいした宣伝になるであろう。コペンハーゲンのロイヤル.ホテルでの「不 祥事」の印象も消えてしまうにちがいなかった。 「そうすると、今日はもう夜になるから、明日、出直して団員のみなさんか ら感想を聞いたり、行動を拝見することにしますかな」 浅倉が、門田と仲間の顔とを半々に見て云った。女性ばかりなので、夜の 取材を遠慮する気持から出ていた。 「そうしよう」 一流社の支局員たちは同意した。 「おや、では、あなたがたも、こっちのホテルにお泊りですか?」 門田は訊いた。 「そう。この町の近くにキンロス.ホテルというのがあるんです。そこへ四 人で泊ることにしています」 四人という言葉にとくべつの響きがあった。つまりは一流社だけの仲間と いう意味である。三流新聞の通信員は、てれ臭そうに口髭を撫でていた。 「では、セント.アンドリュース行は明日の午後からですか?」 門田は四人にむかってきいた。自分らの観光団も明日の午後にはこの地を 去るのである。 「そういうことになりますな。ま、今晚はホテルでマージャンでもやります よ」 浅倉が、不揃いな歯を出して笑った。 「マージャンを?」 「みんな好きな連中ですからな。牌《パイ》は携帯に及んでいますよ」 あとの三人も笑いに声を合わせた。 通信員は、もじもじしていたが、思い切ったように立ち上った。 「では、ぼくはこれで失礼します。門田さん。明日の午前中、ぼくもこちら に参りますから」 腰を折って云った。ウインザー城で門田が文句を云ってから、鈴木はすっ かり遠慮深くなっていた。 「そうですか。では、お待ちしています」 門田としては、とかく騒ぎ立てる日本の記者たちを平等に扱うつもりだっ た。ことに、この通信員は週刊誌にも観光団の記事を送って、コペンでの「誤 報」を訂正すると云っているのだ。その善意に対しても冷淡にはできなかっ た。女性向きの週刊誌の影響力は、ある意味では新聞を凌駕している。 だが、通信員の一流支局員らに対する違和感、劣等感は、彼をして一足先 に帰らせることになったのだろう。 「あなたも、キンロス.ホテルですか?」 門田が、椅子から立ち上った通信員にきくと、 「そうなんです。同じホテルです。では、お先に」 と、通信員は髪毛を額に垂れさせて四人におじぎをした。 「やあ、どうも」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 浅倉が快活にその挨拶に応えた。 通信員の姿が外に消えると、門田はその背中に孤独のようなものを感じた ので、 「あの通信員の人もひとりで寂しいでしょうな」 と、呟いた。 すると四人は、どういうわけか互いに眼を合わせて、にやにやと笑い出し た。 「いや、門田さん。あの人は、あれで、ちっとも退屈なさいませんよ。われ われよりは、ずっと愉しい状況にあります」 浅倉が意味ありげに云ったので、 「それ、どういうことですか?」 と、門田は訊き返した。 四人は、また顔を見合わせたが、C─社の高村が忍び笑いをして云い出し た。 「プライバシーに関することだが、あの鈴木君というのはガールフレンドを 同伴してきているんです。なかなかの美人ですよ。だから、野郎ばかりで今 夜マージャンをやってるよりも、よっぽど退屈しませんよ」 「ガールフレンドを伴れて?」 門田に思いあたることがあった。 「それ、北欧の美人じゃありませんかね? ブロンドで、色は白子のように 真白い、背の高い……」 門田が酒場「ピーレゴーデン」で見た女を描写しかけると、浅倉の言葉が それを崩した。 「いや、違いますな。あれはラテン系のロンドン娘です。髪は栗色で、美人 ではないが、眼がくりくりして愛嬌顔です。色は北欧女のように白くはあり ません。背丈もそんなに高くないです」 門田は心で唸った。「便利屋」通信員も女のほうはなかなかのようである。 コペンハーゲンにいてはデンマーク娘を、ロンドンに来てはイギリス娘をガ ールフレンドに持っている。本拠のアムステルダムには、むろんオランダ娘 を恋人に持っているにちがいない。このぶんでは、ドイツ、フランス、スペ イン、イタリアと、いたるところでその国の女と遊んでいるにちがいなかっ た。 ヨーロッパの根なし草になるには、そのくらいの腕でもないと資格がない のかもしれない。対手の女も、コペンの居酒屋で見たように、みんな貧しい 生活の、ヒッピー族に近い種類であろう。彼はルポを各社に書いては、その 稿料の送金で暮しているらしいが、ときには女から小遣いをせしめているの かもしれない。ヨーロッパ各国には留学生崩れの若い者が日本人旅行者のガ イドをしたり、ポン引きをしたりしているが、あの通信員も卒業できなかっ た留学生上りかも分らぬと思った。 私費の女子留学生の場合は、アルバイトにその地の日本料理店のお座敷女 中になったのがはじまりで、恋をし、欺されて、ヨーロッパ各地の日本料理 店の間を流れてゆく者もある。日本食レストランもちかごろおびただしく増 えた。門田はそういう日本の若い放浪者の姿を、添乗で回るたびに、ちらち らと見ている。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 四人のロンドン支局員たちは、それから五分ばかり自分たちだけでとりと めのない雑談をしていたが、それでは明日また、と門田に云って一斉に立ち 上った。 ようやく一人になった門田は、部屋には戻らず、ポケットからキイを出し てフロントに預け、そのまま外に步いた。湖畔を散步がてらに、団員たちの 様子を見るためだった。 水際にはホテルの灯や外燈の光が映っていたが、その先は暗かった。眼が 慣れると、闇の中に島も城も真黒で、両側にせまる谷の輪廓だけがおぼろに 分った。湖には点々とボートにつけたオレンジ色の灯が動き、女たちの躁《は しや》ぐ声が流れてきていた。 ホテルで借りたらしい懐中電燈の灯が七つ八つ、墨のかたまりのような島 の中に動き回っていた。そこからも女の声が水の上を流れて聞えていた。そ の小島は湖畔に近く、みんなは橋を渡って行ったのである。 □あやうき空に 見し火をも うちわすれつつ おだやかに ねむりにつけ よ この島の わがこの家は 汝《な》がために くすしきものの 枕とな り 床《とこ》をもしかむ□(塩井雨江訳) 夜と水のせいで、空気は冷たかった。上衣の下にチョッキを着込むのを忘 れた門田は、嚔《くさめ》をした。 背中にも寒気がしたので、風邪をひいてはたいへんだと思って門田は匆々 《そうそう》に湖辺から引返した。添乗員が万一寝込むようなことにでもな ったら一大事である。この三十頭の羊の群を迷わせることになる。 ロビーに入ると、そのあとを追うように小さな靴音が聞えたので、ふりか えると土方悦子だった。門田はそこで立ちどまった。 「チーフ。新聞記者の人たちは帰りましたか?」 彼女のほうから訊いてきた。 「ああ。三十分ぐらい前に、みんな引きあげましたよ」 「なにかまた、コペンのホテル騒動のことで質問しましたか?」 「いや、こんどは何もふれなかったですね。もう飽いたのでしょう。こちら の説明でも分ってくれたから。明日は朝からやってきて、この観光団体の見 物ぶりなどの生態を取材すると云ってたな。連中は、今夜キンロスの町にあ るキンロス.ホテルというのに泊っているそうです」 「熱心ですわね」 「なに、それは東京本社の手前で、ほんとうはすぐにでもセント.アンドリ ュースにゴルフに行きたいんです。だから、明日の取材もおざなりなものに なるだろうな」 「こんどのニュース騒動を起した日本スポーツ文化新聞の通信員の方は、ど うでした?」 ウインザー城でしつこく取材につきまとわれた土方悦子は、やはり彼に関 心があるようだった。 「ぼくがウインザーで一喝したせいか、こんどはひどくおとなしかったです よ。あの男も、四社の支局員と同じキンロス.ホテルに今夜は泊るそうです がね」 「みんな一緒なんですか?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「いや。通信員のほうは、四人の支局員からは仲間はずれにされてるようで す。そこは大新聞のエリート記者と、しがない三流通信員の違いだな。どう しても違和感がある」 「まあ、気の毒に」 土方悦子は、話を聞いて同情に回った。 「なあに、そう同情することもない。あの通信員はそれはそれで快適なんで す」 「どうしてですか?」 門田は顔に意味ありげな微笑をひろげた。 相手が若い女だからとためらったが、考えてみると、土方悦子も二十歳《は たち》前というわけではないのだ。顔も、身体も小さいから、小娘のように 見えるけれど、オトナには違いない。それに、門田のほうでもしゃべりたい 話題であった。相手にもその種の興味を起させたい。彼は椅子に腰をおろし た。 門田は、通信員が女づれできていること、それはコペンの居酒屋でいっし ょにいたデンマーク娘とは違うこと、四社の支局員の話によると、今度のは ラテン系のロンドン娘らしいことなどを、うすい笑いを眼もとに湛えたまま 話した。 土方悦子は聞いているうちに頬をかすかに赭《あか》らめたようだった。 男の眼にはそれもたのしかった。 が、彼女はその話には興味を示さなかった。あるいは興味を持たないふり をした。その話題にはふれないで、 「チーフは、もういちど外に出て見るおつもりですか?」 と、訊いた。 「いや、実は、なんだか寒気がしてね。風邪を引いてもつまらないと思って 引返してきたんですが、このまま部屋に戻ろうと思ってます」 「まあ、それはいけませんわ」 土方悦子は眉を寄せて、 「早くお寝みになったら、いかがですか?」 と、すすめた。 「ありがとう。外の様子は、どうですか?」 「みなさん、とても愉しそうですわ。あのぶんでは、あと一時間くらいしな いと、湖畔からお戻りにならないようです」 門田はフロントの電気時計を見上げた。 七時四十八分であった。 「八時半くらいまでに全員がホテルに戻れば申しぶんないのだが。おそくと も九時までにはね」 「大丈夫ですわ。みなさん、常識のある方ばかりですもの。あんまり云うと、 また自分たちの自由を束縛するといって、星野加根子さんのように抗議が出 ますわ」 「うむ」 門田は渋い顔をした。 「それよりも、チーフは早くおやすみください。風邪でもひかれて寝こまれ ると、みんなが困りますわ。みなさんのほうは、わたしがもういちど、外に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 出て様子を見てきます。なんだか咽喉がかわいたので、ジュースを飲みに戻 ったんですが」 「それでは、あとをおねがいしますかね」 こういうときは、土方悦子も居ないよりは|まし《ヽヽ》だと門田は思っ た。 彼はフロントの前に行った。額の禿げ上った事務員は日本人の顔に面倒臭 そうに視線を走らせただけで、キイをボックスから出してカウンターの上に 置いた。 キイ.ボックスには、土方悦子のぶんを含めて、三十一の鍵が揃って入っ ていた。 5 枕元の電話のベルで門田の眼が開いた。窓のブラインドの細い横縞に朝の 眩《まぶ》しい光線が走っている。半身をベッドから起し腕時計を透かして みると六時半であった。フロントに「|起 し《モーニング.コール》」 を頼んだ覚えはないが、と受話器をつかむと、いきなり男の大声が鼓膜を打 った。早口なので、すぐには分らなかったが、声はえらく昂奮していた。 「まだ、まだ」 その声はそう叫んでいた。(何が未だ未だ)だ、と門田が思ったのは彼も 半分は寝ぼけていたのである。スコットランドのホテルのフロントが、日本 語を云うはずはなかった。 「|人殺し《マーダー》?」 気づいて訊いた。 そうだ、とフロントはいった。 「誰が殺されたんだ?」 「|日本の婦人《ジヤパニーズ.レデイ》だ。すぐこっちに来るか?」 門田はベッドから転がるように下りて、パジャマを脱ぎ捨てズボンを穿い た。昂奮したときはズボンもうまく穿けないものだと知った。脚に縺《もつ》 れるのである。 日本の婦人というと、ウチの団員しかいない。殺された? まだ半信半疑 だったが、脳味噌を震わせたのはコペンハーゲンのホテルで襲われた多田マ リ子のことだった。ロイヤル.ホテルで彼女の首を絞めた犯人が執拗にも、 このスコットランドは湖畔の町、キンロスのホテルまで忍びこんで目的を達 したのか。 指先に感覚がないようで、ネクタイが上手に結べなかった。難儀して上着 に手を通している間に、こういう際、土方悦子が少しも役に立たないので苛 立った。男だったらすぐに叩き起せる。いや、女でも会社がつけてくれた助 手だったら命令できるのだが、江木奈岐子の「講師」代理とは何とも中途半 端な存在であった。 リフトからも階段からも遠い、端の部屋から廊下にとび出すと、この一階 の両側の部屋はドアが閉っていてまるで一つの壁を見るようだった。多田マ リ子の部屋は何号室だかおぼえていないが、たしか廊下の真ん中あたりと思 っている。步きながら耳を澄ましたが、どこからも人の騒ぐ声は聞えなかっ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn た。 フロントでは、眼のくぼんだ事務員《クラーク》が中年と若い刑事らしい 二人の男と話をし、その横に巡査が一人立っていた。玄関のドアごしに十人 ばかりの弥次馬がのぞいているのを見ただけでも、門田の胸は波濤のように 騒いだ。 事務員は門田に喰いつくような顔で近づいてきた。 「そこの湖で日本人の婦人が水死体で発見された。警察では|殺し《マーダ ー》だと見ている。あんたが連れてきている婦人たちの一人にちがいない。 昨夜ホテルに戻っていないのが一人居るはずだ」 引率者の門田に昨夜は人員の点検をしたかと訊いた。中年の刑事が事務員 の差出口を押えて、にこにこして門田に云った。 「まだ警察は殺人と決めたわけではない。事務員の云い過ぎである。団体の 日本婦人がこのような場所で自殺するはずはないから、殺しかもしれないと いったまでだ。過失死という可能性もある。とにかく死体を見てくれ」 門田は刑事と巡査に連れられて外に出た。朝の陽が湖面に燦《きらめ》い ていた。北に近いこの地方では夜明けが早い。夜もいつまでも薄明がつづく。 ホテルをふりかえると、団員の泊っている一階の後部も二階も窓にみんなカ ーテンが降りていた。まだこの騒ぎを知らずに眠っているらしかった。昨夜 湖水で遊んだ連中が多く、その疲れからだろうが、仲間がそこで死んだのを 気づかずにいるのがいかにも薄情に思えた。 刑事が道々説明した。 「死体の発見場所は、そこの橋を渡った小島の反対側である。一時間前に、 魚釣りの人が見つけて報らせてきた。あのへんは土地の不良どもが出没して、 一人でいる観光客の婦人を襲うことがある。四年前にもベルギーの婦人が殺 された」 警察の者と步いていると、橋までは遠かった。渚《なぎさ》を拾って進ん だが、客待ちのボートの群が水辺に舫《もや》ってあるのもあれば、用なし のボートが岸に上げられ、底を上に乾して、魚の腹をならべたようになって いるのも昨日見た通りであった。 かなり長い橋を渡ると森の繁った小島となり、そのまわりについた遊步道 に沿い橋とは反対側に出た。ここからは島の森林にかくれてホテルの建物も 見えなかった。 制服の巡査二人が立ち番しているので、死体が水ぎわに引き上げられてい ることがわかった。毛布をかぶせられた人のかたちが見えた。 ここまでくる間、門田の全身を襲っているのは、悪い予感が当ったという 衝撃であった。ロンドンのホテルに東京からつながれた広島常務の声がまた もや聴えてくるのである。「この先、何か起りそうな気がする。帰国するま では十分に注意するように」コペンのホテルでの多田マリ子の「扼殺未遂」 事件が日本スポーツ文化新聞に出て衝撃をうけた広島は神経過敏になってそ う云ってきたのだが、以来、門田も広島のナーバスが染《うつ》ってきた。 何かが起るかもしれない、そんなぼんやりとした不安におびやかされてきた のだが、そのおそれていたものがとうとう現実のこととして眼の前にあらわ れた。あの予感は、不吉な、避けることのできない予告であったという超自 然なものにさえ思われてくる。その超能力の前に、門田には敗北感とも慴伏 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 《しようふく》感とも知れぬものが意識の底から湧いてきた。これが夢であ ったら、どんなによかろうに。 実際の恐れがもう一つあった。もの見高い日本のマスコミがすぐ近くまで 来ていることだった。A、B、Cの全国紙と連合通信の支局員、それに、ご 丁寧にも三流紙と週刊誌の通信員とがキンロス.ホテルに泊っている。まる で、この事件を予知したような出動にみえた。日本じゅうがその記事の話で もちきりになるさまが眼に見えるようで、門田は心が戦《わなな》いた。 私服が中年の刑事の眼顔で毛布の端をめくった。肩を押されてのぞきこん だ門田の眼に映ったのは水の精のように髪を乱している日本女の顔だった。 藤野由美! 門田はびっくりして離れた。 藤野由美が水死した。自殺、他殺、事故死いずれともまだ決まっていない と刑事は云うが、とにかく藤野由美の死顔を此処で見るとは思いもよらぬこ とだった。門田には多田マリ子へは予感があったのだ。コペンの宿のことも あって、もし、次に犠牲者が出るとしたら多田マリ子だろうという予想のよ うなものがあった。 刑事は死人には外傷がないといった。現場には他からの犯行を証明するよ うな痕跡は発見されないと述べた。死後経過は検視時より七時間ないし九時 間という推定だった。検視は七時ごろに終っている。だから死亡時刻は昨夜 の十時から十二時ごろの間となる。遺留品はハンドバッグだけで、これは近 くの草の上に置いてあった。中に異状はなく、ドルの入った財布もそのまま だった。 朝のレブン湖は、周辺の谷にも、森林にも、小島にも、古城にも、湖面に も澄明な静寂をみなぎらせていた。森の中から小鳥の声がし、日本では見か けぬその小鳥の何羽かは水面にくちばしをさし入れては飛んでいた。そのた びに水に影を落す古城の塔のまんなかあたりが乱れた。断首された女王の精 霊がまだ古城に幽閉されて、その陰鬱な窓から湖面を覗き見しているようで あった。昨夜は女性たちが、あんなにロマンチックな鎮魂歌を唄ってあげた のに。 警察官は、とにかく変死人だから解剖に付したいと云った。遺骸の確認が 済んだので早速にはじめるのである。日本の家族に報らせること、遺骸の引 取りにくるかどうかの返事を取ること、もし誰もくることができないようだ ったら引率者たる門田が遺骸を持って帰国し家族に引渡すようにしてほしい こと、などを警察官は要求した。この難儀な事務的な問題が門田の昂奮をい くらか鎮めたかわり、彼を新しく憂鬱にさせた。 水死人のパスポートの提示、昨夜の行動、また彼女についての事情などを 聴取したいからホテルで話してくれとイギリスの刑事は門田にいった。この ころになると、さすがにこの椿事を聞きつけてか団員六、七人がきた。北村 宏子、宮原恵子、星野加根子、佐藤保子といった顔が見えたが、その中から 土方悦子が走り寄ってきた。 「チーフ。たいへんなことになりましたわねえ。だれですか?」 悦子は毛布を被った死体を見ておそろしそうにいった。 「藤野由美さんです」 「え、藤野さんが!」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 悦子は呆然としていた。 橋を渡ると、救急車がきていて、白服の係員二人が担架を持って降りると ころだった。救急車は步行者専用の狭い橋が渡れないのである。 「たいへんだわ、チーフ。いま人数を点検したら、もう一人ホテルに戻って いないのです」 悦子は門田の傍でいった。 門田が眼をむいて、 「だれです?」 と、恐ろしい形相をした。 「梶原澄子さんですよ」 門田は自分の耳を疑った。 「梶原澄子が?」 藤野由美と最も仲の悪い同室者だった。 「そりゃァ間違いじゃないですか。朝の早い散步に出ているんじゃないです か?」 「いいえ。フロントのキイ.ボックスには梶原さんのキイは預けてないので すが、室内電話をかけてもドアを叩いても返事がないのです。それでフロン トの人が合鍵で入ったところ、彼女は居ないのです。それだけでなく、ベッ ドには寝た跡がありませんわ。外出着もハンガーにはかかってなく、また寝 巻をとり出すためにスーツケースを開けた様子もありません。キイも見えま せん。きっと本人が持ったまま外出したと思うんです。今朝から梶原さんの 姿を見た者はだれもいませんわ」 日本語はわからなくても、昂奮した表情と語調で会話しているので、英国 の刑事が怪しむのは当然だった。 「何か変ったことがあったのか?」 「いや、べつに……」 それでも、門田は土方悦子に素早く訊いた。 「昨夜、あんたはロビーの前でぼくと別れて、もういちど外に出ましたね。 あのときがフロントの時計で七時四十八分だった。ぼくは部屋に戻ってトラ ンクの中から風邪薬をとり出して飲み、すぐにベッドで睡ったが、あんたは 何時ごろまで外に居たのかね?」 「八時半まで外を步いていたんです。そのころになると、団員の方もだいぶ んホテルのほうに帰っていましたから、わたくしも帰りました」 土方悦子は、イギリスの刑事のほうを横眼で、ちらちら見ながら云った。 「あとに残っていたのは、どれくらい?」 「さあ、点検はしませんでしたから、よく分りませんが、七、八人くらいだ ったんじゃないでしょうか?」 「そのひとたちの名前は?」 「暗い、ああいう広い場所ですから、それはとても分りませんわ。でも、フ ロントのキイ.ボックスを見たら、キイが七、八個くらい預けてあったので す。その人たちもすぐに戻ってらっしゃると思って、わたしはお部屋に入り、 お風呂をつかって、ベッドで本を読んでいるうちに睡ってしまったんです」 土方悦子の「無責任」さを門田が責めてもはじまらなかった。ただ、正式 な社員でもない者を助手扱いにして、あとを任せた自分がいけなかったのだ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn と思った。 もし、風邪気味でさえなかったら、自分が最後までホテルの前に立って戻 ってくる団員の人数を点検したものを。そうすれば、こんな事故は未然に防 げたであろうと思うと、門田は自分の不覚が悔まれた。 6 ホテルで調べると、今朝のキイ.ボックスには16号室と34号室のキイ が預けてなかった。16号室は一階の藤野由美の部屋で、34号室は梶原澄 子の部屋である。むろんほかの団員の部屋のキイも預けてあるのもあり、な いのもあった。預けてあるのはいま小島に水死人の死体を見にきた連中であ り、預けてないのは部屋に引込んでいる連中であった。 水死人のキイがボックスに預けてないというのは、本人がキイを持ったま ま外出したか、室内に置き去りにしているかである。藤野由美のハンドバッ グにはキイが入ってなかったから、室内に残っていることになる。パスポー トはみんなのといっしょにホテルが預かっていた。げんに事務員が金庫から 三十二人ぶんのパスポートをひと束にして持ち出してきた。門田がその中か ら藤野由美のを取り出した。梶原澄子のパスポートはまだ刑事に提示する段 階ではなかった。 中年の刑事は──これが日本でデカ長というところらしいが──藤野由美 の旅券に貼った顔写真を眺めて大きくうなずき、これは預かるといった。 刑事二人は16号室を見たいと事務員から合鍵を受け取った。門田はつい て行った。 16号室は一階でも奥に近いところにあった。フロントから食堂になり、 それから11号室からはじまって19号室まである。端の11号室が土方悦 子の部屋だった。 16号室の内部はあまり整頓されていなかった。が、ここで異常な事態が 発生したという跡は見えなかった。ベッドは支度されたままで、人が寝た形 跡はなかった。キイは机の上で見つかった。 16号室のキイは部屋の中に在ったのである。藤野由美は昨夜湖畔からホ テルに戻ってフロントからキイをうけとり、自室に入って机の上に置いたの だった。ドアは内側から閉めた。だが、これが「密室殺人」でないことはあ とで分った。 刑事はこの観光団の引率者でもあり責任者でもある門田からその場で事情 の聴取をはじめた。窓際にあるテーブルと椅子二つが臨時の取調室の設備に なった。 刑事は、藤野由美に不自然な行動は見られなかったかと訊いた。門田はべ つにそういうことはなかったと答えた。藤野由美の家族関係や友人関係は分 らぬかという質問には、彼女とはこの観光団が東京を出発してからの知合い であって、それも「客」としての関係である。それ以上、私的なことは何も 分らないと答えた。 団員の中で、彼女と親しい者はいないかと刑事は訊いた。それもお互いが 羽田以来のつき合いであって、とくに親しい者はいないといった。門田の頭 には藤野由美の同室者《ルーム.メイト》が浮んだが、彼女の迷惑になりそ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn うなので黙っていた。このホテルではじめて一人一室になったのは幸いだっ た。 刑事は遺書はないかといった。机の上にも抽出しにもそれがなかったので、 彼女のスーツケース二個を探すしかなかった。婦人の荷物を開けるのは憚《は ばか》られたので、この役のために門田は土方悦子を呼びに行った。 悦子は恰度二階から階段を降りてくるところだった。 「チーフ。梶原澄子さんはこのホテルのどこにも居ませんわ。やはり今朝か ら見た人はいないんです」 悦子は蒼白い顔でいった。 「梶原さんのほうはあと回しです。いまは藤野由美さんのことで手いっぱい だ。刑事の前で梶原さんの所在不明をひと言でもいっちゃ駄目ですよ。面倒 になるからな。日本語が分らなくとも、様子でもってべつな異変が起ったこ とを察するからな」 門田は悦子に注意した。これまでずっと藤野由美の室友はあの梶原澄子だ ったことが頭にあったのだ。 「ここのホテルの部屋割り表を」 門田が云うと、悦子はハンドバッグからメモを出した。このへんはなかな かの助手ぶりであった。 藤野由美の16号室を中心にして、両隣の15号室が魚屋の主婦の金森幸 江、17号室が教師の佐藤保子、廊下を隔てた16号室の真ん前の23号室 は学生の西村ミキ子、両隣の22号室が本田雅子、24号室が千葉裕子であ った。二階の34号室は梶原澄子だった。藤野由美の階下16号室の真上に あたっていた。一人一室がとれたばかりに、梶原澄子はやっと藤野由美と別 になることができたが、同時に藤野由美とは永遠の別れであった。 もう、梶原澄子から激しい要求をうけることはない、次のスイスからは梶 原澄子を多田マリ子と組み合せよう、多田マリ子と室友になりたいというの は、梶原澄子の希望だったのにと門田は思った。 門田につづいて土方悦子も16号室に入ってきた。彼女の立会いで、被害 者藤野由美の大型のカバン一個、化粧道具カバン一個、スーツケース一個が 開けられた。土地の部長刑事は東洋の婦人の秘め匣《ばこ》をのぞく好奇心 と殺人の手がかりを求める穿鑿心とを眼の片方ずつに現わしていた。婦人警 官を呼ぶところだろうが間に合わなかったようである。 大型カバンは着更えの衣裳と下着類がぎっしり詰っていた。藤野由美はや はり几帳面な性格ではなかった。その下着類も旅先の洗濯をしないままに突 込まれてあったので、土方悦子は異国の警察官の手前|赧《あか》い顔をし なければならなかったし、部長刑事は困惑した顔になった。が、その場を救 ったのは衣裳類の間にジョニーウォーカーの黒ラベルの瓶が包装されたまま 四本ならべられていたことだった。それとスーツケースからはダンヒル社製 のブライヤーのパイプが一つと金色のライターが十個! 化粧道具カバンの 内容物は国産品ばかりで、ロンドンのハロッズで買った高価な品は一つもな かった。藤野由美は紳士ものの土産品を優先的に整え、自分用の買物はあと まわしにしたようだった。 変ったものといえばマダム.タッソーの蝋人形館で買ったらしいパンフレ ットが一冊あった。年輩の刑事はそのパンフレットに載った残酷場面の写真 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn を迂散《うさん》臭そうに眺めていたが、その所持者が犯人ならともかく、 被害者なので手がかりにはならなかった。もっともたいていの女性は残酷な 絵画をひそかに好むものである。 藤野由美の職業は「美容デザイナー」になっているが、これが曖昧《あい まい》だというのが門田の当初からの直感であった。 外国の経験はアメリカのデンバーに住んだことがあると彼女は旅行社に初 めてきたとき云っていた。ロッキー山脈西麓の高原の町とは変っている、な ぜにニューヨークやロスアンゼルスでなく、そんな田舎町の名を口にしたの か。ともかく彼女はその経験から外国で男どもにつきまとわれた煩雑さを話 し、わざともの憂げな顔を見せていた。それなのに女ばかりの観光旅行団に 入って、誘惑するような伊達《だて》男の一人も居ない淋しい山湖の土地で 殺されたとは、どうした不運か。 こうしている間にも若い刑事二人は室内のほうぼうを検査してまわってい た。浴室のほうにも入っていた。 部長刑事は椅子に坐って部下二人の動きにときどき眼をくれながら門田に 被害者の事情を訊いた。 「わたしどもは旅行代理業でして、この観光旅行団の加入者の個人的な事情 は何一つ存じませんので。はい」 日本の警察の調べだと、こういう言葉になったろうが、イギリス警察の「事 情聴取」ではそんな卑屈な表現を用いる必要はない。幸い、英語には敬語が 日本語のように豊富ではなく、性別すらよくわからない。 日本の小説で、□……と彼は云った。……と彼女は云った□式の会話が書 かれているが、あれは翻訳の文章で、作者はしゃれた文体だと思っているの だろうが、たった二人だけの会話の場合、いちいち□と、彼が云った。…… と、彼女が云った□と断わらなくても、日本語だと男性の言葉と女性の言葉 がはっきりしているから、会話の言葉だけで区別できる。英語は性別が明瞭 でないから□と、彼が云った。と、彼女が云った□という断わりを会話の間 に挿入しないと、読者に混乱を起させるからだ。それを翻訳家が忠実に訳す。 その訳文がハイカラだと思って、小説家が真似をしている。□と、顔をしか めながら彼は云った。と、笑いながら彼女は云った□というふうに付帯状況 がついているならともかく、日本語の会話の場合、いちいち性別の説明が必 要だろうか。 門田はそんな余計なことを頭の隅で考えながら、眼のひっこんだ、顔骨の 張った、口髭もチェンバレン(チャーチルの前の英国首相。第二次大戦勃発 時の首相)風な部長刑事の事情聴取に答えていた。 問 その方《ほう》が被害者を最後に見たのは昨夜の何時ごろであったか。 答 正確には、ホテルの食堂で団員一同と夕食をとったときである。それ は五時二十分ごろにはじまって六時二十六分ごろに終った。そのあとは団員 の各自は湖畔の散步に全員出て行ったから、藤野由美も当然にその中に入っ ていた。しかし、自分は外に出ないうちに日本の新聞記者五人とロビーで会 見したので、湖畔でミス藤野を直接に見たり、または話したわけではない。 問 日本の新聞記者との会見が終ってから、その方はどうしたか。 答 会見が終ったのは七時十分ごろであった。新聞記者が帰ったあと、自 分はホテルの玄関を出て湖畔に行った。そのときは団員たちの愉しそうな声 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn が暗い中から聞えていた。自分は見まわりに行くつもりだったが、寒気がし たので、風邪をひいてはいけないと思い、ホテルのロビーに引返した。その とき、すぐあとから、この団体の講師でもあり、自分の補佐役でもあるミス 土方が入ってきたので、自分らはロビーで約二十分ばかり話をした。その間 に外から戻ってきた団員は一人もいなかった。自分は寒気がするので、あと のことはミス土方に頼み、フロントからキイをうけとった。そのときフロン トの時計は七時四十八分であった。キイ.ボックスには団員の鍵が全部預け られてあった。自分が部屋に戻って睡ったのは八時ごろであったと思う。今 朝、変事を報らせるフロントの電話で起されるまで、何ごとも知らずに熟睡 していた。 問 その方は、途中で起きて、団員を点検する意志はなかったのか。 答 点検は、団員の自由を束縛することにもなるので、昨夜は遠慮した。 ミス土方は八時半に外から帰ったが、そのときはまだ七、八人ぐらいの団員 が湖畔に残っていたとのことであった。そのなかに被害者のミス藤野が居た かどうかは分らない。 ──旧式を尊ぶ保守的なイギリスの警察のことだから、斯《か》く you を 「その方」と翻訳できる。 調査すると、湖畔に最後まで残っていたのは、本田雅子、西村ミキ子、千 葉裕子であった。三人とも八時五十分ごろまでは湖畔に残っていて、フロン トでキイをうけとったのが九時一分だったと云った。その時、キイ.ボック スの鍵は全部なくなっていた。 「藤野由美さんのことは知りません。なにぶん暗い中ですし、場所も広いの で、十メートル先を步く人の顔も分りませんでした。わたしたち三人は、い っしょにおしゃべりしながら散步していたのです」 三人は、口々に云った。 ほかの団員たちに、門田がいちいち当ったところ、三人と同じ理由で藤野 由美を見かけたというものはなかった。もっとも、団員の一人だけが、ちょ っとつかまらなかったが。外では見かけなかった団員で、ホテルに無事に戻 っている者も少なくなかった。 やはり、闇の中で広い場所に散っていたのが、相互目撃を阻害したようで ある。 刑事は、門田の話を聞き、その確認に団員リストを門田からとり寄せ、そ の一人一人を呼んだ。団員リストは英文タイプで打っているのがあった。通 訳は、こんどは門田以外の人間をという刑事の希望で土方悦子が当った。彼 女の英語は、学校で教わったとおりの、几帳面な表現と発音であった。門田 は興味深げな顔で横からそれに聞き入っていた。 「おそろしいことだわ」 と、「証言」が済んで竹田郁子は門田にむかって云った。 「……コペンハーゲンのホテルでは多田マリ子さんが首を絞められて殺され そうになるし、今度はほんとうに殺人事件が起るし、この次にはどうなるの かしら」 竹田郁子の顔は蒼ざめていた。 「いま、彼女は何と云ったのか?」 部長刑事は竹田郁子の私語を咎《とが》めたが、門田の通訳は適当なこと PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn を云ってごまかした。 「ここで余計なことをしゃべられては困ります。どうぞ部屋に帰ってくださ い」 門田が竹田郁子にいうと、 「わたしたち、いつ、ここを出発できるのですか?」 と、彼女は真剣な眼になって訊いた。これは団員全部の関心事だし、門田 の懸念でもあったから、彼は刑事に通訳した。 「そんなことを今は云えない。なにしろ殺人死体が発見されたばかりだから な。いろいろと調べることもあるし、聞かねばならぬこともある。捜査途中 での出発は自分の一存ではいかない。上司の命令次第だ。しかし、なるべく 早く出発できるようにとり計う」 部長刑事は、今はそれどころではないという顔で答えた。 「この団員リストによると、ミセス.カジワラの証言が脱けている。彼女だ けがここにこないようだが」 請求されるまでもなく土方悦子が部屋を飛び出して行っていたのだが、戻 ってきての報告はやはり梶原澄子の姿が見えないというのだった。藤野由美 の|室 友《ルーム.メイト》で藤野由美には反撥を持っている女であった。 仕方がないので門田は刑事にいった。 「ミセス梶原はこの変事前から朝の散步に出かけていると思う。たぶん小島 のほうを散策していると考えられるので、まもなくホテルに帰ってくると思 う」 「戻ったらすぐに呼んでくれ。ほかの人も別命あるまでホテルから外に出な いようにしてほしい」 チェンバレンに似た顔は少し苛立たしそうに云って全員の軟禁に出た。英 国の刑事にしても日本から来た観光団の殺人事件なので、少々勝手が違うよ うであった。 部屋に制服の警官に連れられて青服のボーイが入ってきた。 「ホテルの荷物運搬車が湖のそばに持ち出されて置かれてありました。この ポーターが見つけて裏口まで持って帰ったのですが、事件に関係があるかど うかわかりませんが、一応報告しておきます」 警官の横には、まだ、おさない顔のきちんと正装したボーイがもの云いた げな顔つきで立っていた。 「それはどういう荷物運搬車だな、君?」 部長刑事がユニフォームの青年に眼をむけた。 「二輪の|手押し車《プツシユ.カート》です。あれは少々古くなったので、 裏口の通路のところに置いてあったんですが、いつのまにか湖の岸のところ に持ち出し、抛《ほう》ってありました」 青年は勢いよく云った。 「古物の手押し車か」 部長刑事は考えて云った。 「そんなものは事件《これ》と関係はない。もとの位置に戻しておいたのな ら、それでいいよ」 青服のボーイはがっかりした様子で警官に促されて出て行った。 このとき、浴室を出てきた顔の長い、若い刑事がひどく昂奮した眼つきで PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ドアのところから先輩にサインを送ってきた。 門田は部屋主の代理として部長刑事のあとから立会いについて行った。 浴室は、浴槽、洗面場、便器、ビデと合理的に詰めこまれていた。そこに も一人の若い小肥りの刑事がいて、洗面台の白い陶器をのぞきこんでいた。 門田ははじめその刑事が顔を洗っているのではないかと思ったくらいであ る。 「イングルトンさん」 とその刑事は洗面台から顔をあげて部長刑事を呼んだ。 「この水の吸込みパイプの穴のところを見てください」 部長刑事は身体を退《の》かした部下に代って洗面台にかがみこんだ。 「何があるのか、デービス。おれにはよく見えんが」 と、尖った顔を突込んだまま部長刑事は訊いた。 「その吸込み穴のところに何か小さなものが引っかかっていませんか。青い、 糸屑のようなものですが」 「糸屑だって?」 「それに魚の鱗《うろこ》が二、三枚」 「鱗?」 部下のさし出した懐中電燈を奪うように取った部長刑事は、灯を点じて吸 込み穴を照らした。そこには金属性の十字形の輪がはまっていて光線を反射 した。 部長刑事は部下のさし出したピンセットの先を金属性の輪の内側にさし入 れて出すと、ピンセットの先には青々とした糸屑のような筋が挟まれていた。 筋には小さな小枝のような結節が生えていた。 「湖の藻だな」 窓からの外光に透かして見てイングルトン部長刑事は呟いた。 「まだ、そこには魚の鱗も付いていますよ」 イングルトンは少し自分の威厳を損《そこな》われたような顔になったが、 同じピンセットが鱗を三枚はさんで、さっきの藻といっしょに紙の上に標本 のようにならべたとき、機嫌をとり戻し、眼は輝いていた。 「なるほど、これは鱒の鱗だ」 湿った鱗は白い紙の上に、半透明に貼りついてきらめいていた。 「これは、どういうことだ」 部長刑事は独白調に呟いたのだが、部下に聞いているのは明らかであった。 「鱗は鱒の腹の真んなかあたりですな。全身四インチくらいなやつです。こ のレブン湖にはいちばん多い鱒です」 「それは知っている」 「藻も湖の水草です。この藻もレブン湖には普通に見られるものです」 「そんなことは分っている。デービス」 部長刑事は部下の意見を急いだ。 「つまり、こうです。いえ、わたしは、こう思います」 発見者の部下の刑事は謙遜を装いながら自信のほどを見せて云った。 「だれかが昨夜レブン湖の水を桶かバケツのような容器で運んでこの洗面器 の中に満たしたのです。たぶん、そのときは鱒が一尾と藻も少し混じってい たでしょう。その人物は、この部屋に早く帰ってきていたミス.フジノに、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 湖から魚をもってきてあげたといって部屋に入ってきた。もちろん人目につ くロビーは通らずに裏口からね。裏門にも裏口にも錠がかかってなかったこ とはフロントの事務員からわたしがたしかめています。ミス.フジノがその 人物の親切に感謝して洗面器の中に泳ぐ鱒を観賞しているとき、うしろから 頭を押えつけられて洗面器の水の中に強く突込まれたのだと思います。床は、 このとおりタイル張りなので、上半身を押え込まれると、下がすべって足が かりがない。つまり半分宙に浮いた形になります。洗面器の水でも窒息死は 容易です。死体はそれからホテルの外に運び出して湖水の発見現場に犯人が 棄てて溺死に見せかけたのだと思いますよ。ところで、犯人は死体を部屋か ら運び出すとき、外からドアを閉めた。それで自動的にドアはロックされた。 したがって、これは密室内の殺人ではありません」 7 小男ながら肩幅が広く、燃えるような赤い髪と水色の瞳をもったいかにも 敏捷な捜査係にみえる部下の刑事が滔々《とうとう》と述べる殺人方法の推 定を、のっぽの部長刑事は腕組みし、顎の下に人さし指を匍わせながら聞い ていた。 彼はそんな犯行の筋道くらい分っているという顔をしていたが、実際は部 下の意見に感服していたのだった。 「質問してもいいでしょうか?」 横から土方悦子が発言したので門田はびっくりした。素人の、しかも女の 分際でイギリス警察官どうしの会話の中に割りこんだので、そのもの怯《お》 じしない大胆さにも胆を冷やした。それと、助手(門田はそのつもりでいる) の立場を忘れて生意気な出しゃばりという気持もあった。 部長刑事もすばしこそうな刑事も悦子を見かえった。相手が婦人であるこ とと、被害者の一行であることから、 「|どうぞ《サンキユウ》」 と、部長刑事は鷹揚に質問を許可した。 「どうも。いまのお話では犯人が近くのレブン湖の水をくんできてこの部屋 の洗面器の中に充たしたということですが、その水を運んだ容器の桶かバケ ツはこの部屋の中にあるのでしょうか?」 部長刑事は彼女のきれいな発音に微笑を浮べて答えた。 「さあ、それはですな、ミス……」 「……ヒジカタです」 「ミス.ヒジカタ。それはですな、いまのところ見えないけど、必ずどこか から出てきますよ。この部屋になかったら、外に。……なあ、デービス、そ うだな?」 と、部下のほうを向いた。 「そうです」とデービス刑事は返事した。「ぼくはむしろミス.フジノの死 体を部屋から湖に捨てに行ったときに犯人が容器もいっしょに持ち出したと 思いますね。だから、湖か湖畔を探せばきっとバケツか水桶が出てくると思 います」 「水を運ぶ容器は桶やバケツとは限りませんわ。塩化ビニールの袋だってあ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn るでしょう? もし、桶やバケツだったら、犯人は前もってそれを準備して おかねばなりませんが、ビニールやポリエチレンの袋だったらたたんでポケ ットにしまいこんでおくこともできます」 「うむ、なるほど」 部長刑事は部下に眼を走らせて、 「それも一つの考えですな」 と、うなずいた。しかし、デービス刑事はちょっと抵抗を感じたとみえ、 「ビニールの袋とは婦人らしい推測ですな。ビニールは婦人が浴室で頭にか ぶるキャップにも使えるし……」 と、いったが、彼は途中で気がついたらしく、いそいで部屋の戸棚を開い た。 「この部屋のぶんはありますね」 手に持って見せたのは洗濯物を入れるビニールの大袋二枚であった。客が クリーニングをたのむときに使うもので、にぶい艶の表面には Trout Villa というこのホテルの名前が赤い色で印刷されていた。 袋ははじめから濡れた形跡はなかった。乾かしたのではなく、新品だった。 「その袋の寸法はどれくらいだな?」 部長刑事がきいた。刑事はポケットから洋服屋が使うような小型の巻尺を とり出して測った。タテが約六〇センチでヨコが約四五センチだった。 「これに水を入れると何ガロン入るだろう?」 口を残して満たすと三.二ガロン以上はたっぷりと入るというのが刑事二 人の一致した意見だった。一合は約〇.〇四ガロンだから、ほぼ八升だな、 と傍で見ている門田は暗算した。 「洗面器の容量は?」 部長刑事がいった。部下の刑事が実験するとその陶器製のふちいっぱいで 一.六ガロン(約四升)は入った。 「人の顔を浸して窒息死させるには〇.八ガロンもあれば十分だ」 と、部長刑事はかなり活発な顔になって云った。洗濯物入れのビニール袋 にはその四倍も水が入るのだから問題はない。 水は重い。〇.〇四ガロンは〇.一八リットル、すなわち一合である。〇.八 ガロンは二升になるから、三キロ六〇〇グラムが淡水の重量である。レブン 湖は淡水湖である。イギリスはガロン単位である。ガロンをリットルに直し、 リットルから合《ごう》に直し、さらにリットルとグラムとを照合させる門 田の頭は混乱を起すくらい忙しかった。 「ビニール袋で水を運んだとすれば」と、部長刑事が云った。「重いから袋 を二枚重ね合せたにちがいない。人間が単独で運搬する負担を考えると〇.八 ガロン(約二升)がせいぜいだろうな。それだと袋には四分の一くらいしか ないので、口を絞って運べる」 「まだ、単独かどうか分りませんよ」 デービス刑事はふくれ面をしていった。いつのまにかビニール袋のことを 云い出した土方悦子のペースになったので忌々《いまいま》しそうであった。 「ミスター.カドタ」 と、部長刑事はデービスの様子にかまわずに門田をふりむいた。 「君の引率している団員の全部について各自の部屋の備えつけのビニール袋 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn がどうなっているかを調査してもいいかね?」 どうやら藤野由美殺しの嫌疑はこの観光団の中にあると部長刑事は眼をつ けたようであった。 「どうぞ」 土方悦子がよけいなことを口出ししたばかりに、と門田は思ったが、捜査 権の行使を受け入れるより仕方がなかった。 門田は悦子をデービス刑事に付添わせた。 「団員には決して心配しないでもいい、念のためだからとよく云ってくださ い」 門田は案内役兼通訳係の悦子にいった。 「そうします。でも、チーフ、もし団員の中でビニール袋を紛失していた人 がいたら、どうしたらいいでしょう?」 門田は返答に詰った。 「そういうことはないと思うがなァ」 門田にも或いは団員の中に、という不安はあった。げんに梶原澄子の姿が 消えている。 「ま、そこは適当に。君の臨機応変で」 と、門田はさし当り不得要領なことをいう以外になかった。 デービスと悦子が出て行ったあと、門田は部長刑事と対い合った。こうい うときは間《ま》がもてないもので、口髭のチェンバレンは煙草函を出して 一本を門田にすすめた。日本でも売られているウインストンで、ウインスト ン.チャーチルとチェンバレンとでは絶妙の取合せとなる。 「ビニール袋に鱒の三、四尾も水といっしょに入れて洗面器に移せば、被害 者は珍しがって洗面台を上からのぞく。それを犯人がうしろから押して倒し かけ、頭を押えつけて洗面器の水に顔を漬《つ》ける。床はタイル張りで、 足がすべるから被害者の身体は宙に浮く。こうして窒息死させ、死体を湖に 捨てると溺死に見せかけられることは間違いなしだな。被害者の心臓や胃に 入っている水のプランクトンも同じだし、おそらく洗面台から発見された鱒 の鱗や藻の断片も気管に吸いこまれているにちがいない。解剖結果が分るの は今日の夕方だが、この推測は間違いなかろう」 部長刑事は煙草をふかしながらいった。 「人間の頭を押えつけて洗面器の水で窒息させるのは、一人でもできること ですか? たとえ、タイル床で足がすべっていても、被害者は苦しんで必死 にもがくにちがいないが」 門田はさっき部長刑事が、ビニール袋に入れた水の重さを単独の運搬の負 担から割り出して云っているのを聞いていたからそう訊ねた。 「被害者も必死だが、犯人も懸命だ。被害者に暴れられたらそれでおしまい だからね。犯人にもわが身の破滅がかかっている。わが国の例だが、かよわ い女がひとりで大の男を絞殺したことがあるよ。もっとも男は酔って寝てい たが、それでも首に紐がかかっていると知ると暴れたそうだ。女でも懸命な ときは意外な莫迦力が出る」 部長刑事が「女」といったので、門田は警察が団員に眼をつけているのを いよいよ知った。 「ところで、まだ帰らないミセス.カジワラは丈《せい》の高さがどれくら PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn いあるかね?」 門田は緊張し、 「はっきり分らないが、一五五センチくらいあると思います。日本女性とし ては普通のほうです」 「体重は?」 「肥えていないから四五キロぐらいと思います」 「体格はいいほうかね?」 「まあ普通でしょうな」 門田は行方の知れない梶原澄子の姿を眼に浮べて答えた。げんに死体とな って出た室友の藤野由美のことで何度も変更を要求に来た女だからその特徴 をはっきりと思い出すことができる。 「被害者のミス.フジノはもっと小さな女だね」 部長刑事は死体を見た感想で云った。たしかに藤野由美は丈が梶原澄子よ りも低く、身体つきが華奢《きやしや》にできていた。梶原澄子に頭を押え つけられたら、それをはねのけて、洗面器の水の中から顔をあげるだけの膂 力《りよりよく》はなかったかもしれない。 「しかし、死んだ人間はすごく重いと云いますからね。もしミセス梶原が犯 人だとしたら、女ひとりの力で死体を抱えてホテルから湖畔の島のところま で行けたでしょうか。犯人が二人だったら別ですがね」 門田は、犯人一人説だと梶原澄子になるので、二人説をのぞかしてみた。 現在、姿を見せないのは彼女だけである。 痩せて背の高い部長刑事は、門田の言葉を聞くと、何を思い出したか、す っくと椅子から立ち上り、部屋の外にいる部下を呼んだ。 「ボーイを呼んでこい。さっき|手押し車《プツシユ.カート》のことを証 言したボーイだ。それに支配人もだ」 部長刑事は自分のヒントから死体運びに荷物運搬用の手押し車に気づい た、と門田は知った。さっきは土方悦子の話からビニール袋の水運びに気づ いたり、イギリスの警察官はいつもシャーロック.ホームズにしてやられて いる小説の通りだと思った。もっとも此処はスコットランドの田舎警察で、| 警 視 庁《スコツトランド.ヤード》なみにはゆかないのかもしれない。 室内に働いていた三人の鑑識係が被害者の指紋以外、不審な指紋は一つも ないと報告した。とくに犯人が殺害後にロックしたと思われるドアのノブは 入念に調べられた。 「犯人は手袋をしていたのだ」 イングルトンは呟いた。 間もなく、ホテルのボーイが支配人に連れられて入ってきた。 「さっき君は手押し車のことを話していたな?」 部長刑事はその顔を見るや否や言葉を浴びせた。 「はい、云いました」 「よし、その手押し車のところに案内してくれ。マネージャー、君もいっし ょだ」 門田も三人のあとについて行った。フロントとは逆に通路を裏口に向った。 通路は二つあって、一つは一階の客室の廊下がそれで、一つは客室のならぶ 建物の外についていた。一方の側は鉄柵の中に煉瓦で囲んだ花壇がしつらえ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn てあり、柵越しに湖の風景が見えている。が、それも裏門のところにくると 景色は建物に遮断されていた。この建物は折れて客室の廊下にも通じ、一方 は裏門にも通じていて、本館からL字型になっている。その建物は雑多な道 具を仕舞いこんでいる倉庫代りのようだったが、客室の廊下からきたコンク リートの中央通路のわきに問題の手押し車が置かれていた。 「これか」 ボーイに指差されて、刑事部長は長い背を屈めその物体にハンカチの上か ら手をかけて検べた。 |手押し車《プツシユ.カート》というのは客の手荷物を運搬するため後 部に把手《とつて》のついている二輪車だが、荷物台は前のほうが下がって 地についている。台は木製である。ホテルのロビーでもボーイが、荷をのせ て押しているのを見かけるが、駅の構内でもよく見る普通のものだった。 その荷物台は死体をエビのように曲げさせて乗せればたしかにそのくらい の広さはある。台の本の一枚が半分ほど折りとられたようになくなっていた。 「台がこわれているので、修理に出そうと思いながらも、つい、ここに放っ て置いたのでございます」 支配人が弁解した。 台板が一枚欠けているからといって死体を乗せるぶんに支障はない。部長 刑事は自分から手押し車を土間に押して試《ため》してみたが車輪はなめら かに動いた。すると、その轍《わだち》のあとにうすい褐色の砂がこぼれて いるのがみえた。 おや、というように部長刑事が車輪のタイヤを指先で擦《こす》るとそこ からも同じ砂が土間にばらばらとこぼれ落ちた。 これだ! と部長刑事が叫ばないまでも、見ている門田はこの手押し車が 湖畔に放置されていたというさっきの話を思い出した。湖のそばがこの砂地 なのである。 チェンバレンの顔が英軍のノルマンディー上陸の第一報を聞いたときのよ うに颯爽としてきた。つい、五分ぐらい前に手押し車のことを報告にきたボ ーイを、事件と関係なしと斥《しりぞ》けた彼だったが、いまはその思いの 到らなかったのをさとったのだ。 そこへデービス刑事が土方悦子と、このあまり清潔でない現場にやってき た。 「部長、ここでしたか」 デービスは部長刑事に、日本人観光団の部屋でも洗濯物用ビニール袋は員 数が揃っていたと報告した。土方悦子も門田に失くなったビニール袋は一つ もないと告げた。 部長刑事はビニール袋のことではいっこうに落胆しなかった。 「デービス。これを見よ」 と、手押し車の車輪に付着した砂とコンクリートの土間に落ちた砂とを示 した。 「お前の云った通りだった。だれかが死体をホテルの外に運び出したのだ。 そして、その道具がこれだ!」 門田の耳の傍で土方悦子が、梶原澄子はまだホテルに戻ってこない、とさ さやいた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 8 門田は、最悪の事態になったと、また心が慄えた。藤野由美の他殺死体発 見で、かねて抱いていた不安な予感は的中したが、いまはそれをもう現実の こととして受けとめていた。だんだん受けとめざるを得ない気持になってい た。それだけの諦めはつきかけていた。絶望は、それなりに落ちつきをもた らすものだ。仕方がない、どうあがいても現実がこうなのだ、という神秘的 な諦念にも似た心境であった。 しかし、こんどは梶原澄子の姿が見えぬという。被害者藤野由美の室友。 あの、感じのあまりよくない病院長未亡人はどこに行ったのか。彼女もまた 仲の悪いルーム.メートと同じ運命になったのか。門田の胸には暴風が吹い ていた。 眼の前に浮ぶのは広島常務の顔だった。いや、それよりも先に、これから 再び聞えてくる広島の国際電話の声だった。 門田の恐怖にかかわりなく、部長刑事は事務的に、部下のデービス刑事に 云わせて鑑識課の刑事を呼び寄せ、荷物運搬用の|手押し車《プツシユ.カ ート》の指紋をとるように命じた。鑑識係が雪をまぶしたように車を粉だら けにして指紋の検出につとめた。とくに両手がかかる柄のところは入念を極 めた。 「どうだな?」 部長刑事のもどかしげな催促に指紋係は肩をすくめ、あまりはっきりした 指紋は出ないが、古そうなのが何個か不明瞭ながら採取された、と云った。 「犯人の指紋が古いはずはない。犯行から十五時間と経っていないぞ。しっ かりするんだ。この手押し車が荷物台の木製を別にして、あとは全部表面が 粗い鉄製だから指紋がよく付いていないだけだ。一部分でも付いていればそ れで手がかりになる。ここにいる日本人団体の全員から指紋を頂戴して照合 すれば、たちどころに下手人が判明するだろう。その手押し車から採れた指 紋をしっかりと記録しておけ。とくに柄のところをな」 部長刑事はほくそ笑んだ。 土方悦子がびっくりした眼で部長刑事に近づいた。 「あの、われわれ全員から指紋をお採りになるんですか?」 部長刑事は彼女のほうをむき、小腰をかがめ莞爾《かんじ》として鄭重に 云った。 「われわれとしてもご気分を悪くするようでまことに遺憾ですが、みなさん のご協力をねがうより仕方がないのですよ、お嬢さん。なに、みなさんの中 に可哀想なミス.フジノを無理に昇天させた……ああ、日本の女性は仏教徒 《ブツデイスト》でしたな?」 「ほとんどそうですが、人によって違います。クリスチャンもたくさんいま す」 「おお、ミス.フジノがクリスチャンでしたらなおさらですが、仏教徒でも この場合は同じことでしょう、当人の意志ではなく現世と別れを告げたので すからな。よりによって、このスコットランドの風光明媚な保養地でね。お 気の毒です、遠い異国で、不慮の死を遂げられるとは。……あ、わたしはあ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn なたからどういう抗議を受けていましたかな?」 「団体の婦人全員から容疑者扱いのように指紋をお採りになることですよ、 部長刑事さん」 「わたしの名は、エドワード.イングルトンです、お嬢さん」 「イングルトンさん。あなたが全員から指紋をお採りになろうとすることは、 わたしたち一同にとってどんなにかショックであることをお考えください」 「もちろん十分に考慮していますよ、お嬢さん」 「ヒジカタです」 「ミス.ヒジカタ。あなたからみなさんによく説明してあげてください。わ れわれは決してみなさんだけを強制的な指紋蒐集の対象にしていないことを ね。このホテルの他の宿泊客、従業員全員からも洩れなく指紋を採らせても らいます。どうぞみなさんの友人の霊を慰めるためにもご協力をおねがいし ます、とね」 イングルトン部長刑事は悦子に云ったあと、手押し車に眼を走らせ、もう 一度上衣のポケットとズボンのポケットから一枚ずつハンカチを出し、それ を手押し車の柄《ハンドル》に距離をあけて掛けた。手袋の代りだったこと は、その上に両手を掛けて、車の先を持ち上げて、二、三メートルばかりご ろごろと押して輪を転がしたことで分った。 「この通り、この車輪は故障していません。荷台の板が一部分はずれていま すが、人体を乗せるぶんにはさしつかえありません。おい、デービス。お前、 この荷台に坐ってみろ。なるべく死んだ人間のようにぐったりしてな」 デービス刑事はクサった顔で実験台になったが、手押し車は彼を乗せても 軽々と動いた。 「男ばかりでは信用されないかも分りません。わたしたちの代りに婦人が実 験されてもかまいませんよ。それでも手押し車は同じようにやすやすと動く はずです。被害者の体重は測定によると一〇五ポンドと少しですからな。手 押し車は力学的関係からいってうら若い婦人でも遠くまで死体が運べるわけ です」 イングルトン部長刑事が云ったのは、こうである。犯人はホテルの藤野由 美の部屋から、当人の洗面所での窒息溺死体を裏門内の通路に放置してあっ た手押し車に乗せて、湖の小島まで運搬した……。裏門から小島の死体発見 現場まで一キロは十分にあった。 「イングルトンさん」と土方悦子が口をはさんだ。「その手押し車に人間の 重量がかかると、それだけタイヤの轍《わだち》の跡が深くなるはずですけ れど、いまデービス刑事がそれに乗っても、それほどつきませんね?」 部長刑事は微笑《ほほえ》んだ。 「それはここの地盤が板のような岩でできているからですよ。砂浜はずっと 渚のほうですからね。だから、死体運搬の際には車輪の跡は初めから付いて ないくらいにほとんど消えます」 「死体発見の現場までずっとこうなんですか?」 門田が初めて口を開いた。彼は初期の動顛《どうてん》からやや立ち直っ たものの、不慮の事件の収拾を思い、それだけに理性的な苦悶が深まってい た。気がかりなのは、梶原澄子が昨夜からホテルに帰ってないことだった。 彼女はやはり逃亡したのだろうか。彼はもう一つ爆弾を抱えている心地であ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn った。 「さあ、ひとつ実地を検分してみますかな」 部長刑事はデービス刑事を従え、門田と悦子とを促して先に立った。 このレブン湖畔は砂地が少なく、ほとんど岩層でできていることが步くに つれて分った。用のない閑《ひま》なボートがその岩場の陸《おか》にひっ くりかえり、腹を見せて陽の下にならんでいた。上をむいた底の赤ペンキの 色が多少眼に毒々しかったが、その有閑ボートは十七、八隻もうつ伏せにな っていた。 検証では、現場まで軟い土が少しもないことがわかった。小島にかかった のも固いコンクリートの橋だし、島の水際も岩磐でできていた。手押し車の タイヤの跡は深さどころかその識別すら困難であった。 イングルトン部長刑事は顔をしかめ、何という土地だと岩場を靴の先で蹴 った。彼は「ジーザス.クライスト!」(こん畜生め)と呪いの言葉を吐い た。 「これで車輪の痕から証拠をつかむことには希望が遠くなったが、なに、犯 行ははっきりしているからいまにその尻尾をつかんでやるぞ」 彼は足もとの岸をのぞいた。水面までの距離が五フィートくらいだったが、 いちばん近いところの水深は二十フィート以上はあるということだった。こ こで藤野由美の溺死体が浮上していたのである。 「犯人は、賢そうにみえて、案外知られすぎているトリックをつかっている」 と、部長刑事はほくそ笑みを浮べていった。 「ここに溺死体が浮んでいた。だれでもこの場で誤って水に落ちて溺れたか、 自殺したか、突き落されたかと思うにちがいない。溺死体というやつは、よ ほどの外傷がない限り、自他殺の推定がつかないくらいだからな。わしもよ っぽどだまされるところだった。被害者の洗面台の落し水のパイプにひっか かっていたこの湖の鱒の鱗三枚と、糸くずのような藻を発見しなかったら な。……それは、まあデービスの手柄だが」 「部長|刑事《チーフ》さん。犯人はどうしてそんな面倒な方法をとったの でしょうか。被害者の部屋の洗面器にこの湖の水を汲み入れ、当人の顔をそ の水の中に押しつけて窒息死させ、その死体をこの湖に運んで捨てるよう な……?」 門田は訊いた。 「利点は二つある」とイングルトンは答えた。「一つはこの場で凶行を演じ たら、その闘争をだれに目撃されるか分らない。自分では気づかなくとも、 どこにだれがのぞき見しているか知れないからね。また、犯人の心理として その恐怖は十分に持っている。それにくらべると、野外よりも密閉した室内 で殺人をするのがはるかに安全だ。被害者を安心させて突然に襲えば凶行が 外部に洩れる気づかいはない。被害者は声をあげる余裕もなかったろう。死 体の運搬は少し危険だけれど、夜間に行えばわりあいに安全だ。死体は犯人 と格闘しないし、悲鳴も上げないからね」 「………」 「もう一つの利点は、捜査陣の眼をごまかすことだった。殺人現場が屋内で なく戸外、しかも死体の浮いていた小島の湖岸であったということをだね。 これは成功しそうな手だ。しかし、わが英国警察は微細なところまで入念に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 眼を届かせるのが伝統でね。捜査はアメリカのように派手ではなく極めて地 味だが実績は確実に上げている」 「はあ、なるほど」 「だいたいね、洗面器や浴槽《バス》に海水を入れて頭を押しつけて窒息さ せ、その死体を海に棄てて溺死のように見せかけるトリックは探偵小説でち ょいちょいお目にかかるよ。小説では海水のプランクトンの有無で、犯行が 暴露するようになっている。ところが今度の事件の犯人はそこを考慮して、 レブン湖の水をビニール袋に入れて持ってきて洗面器に満たしている。被害 者の肺や胃に溜った水のプランクトンはレブン湖のそれとまったく同じだか ら、だれだって現場の湖水で溺死したように思う。ただ犯人の失策は、さっ きも云ったように、洗面台の水を落すパイプの中に鱒の鱗と藻の屑とがひっ かかって残っていたことだね。われわれもあれを発見しなかったら、犯人の トリックは見抜けなかったろうね」 一行はもとの道に引返した。腹を返して陽に干されているボート群の横を 通り、巡査が番をしている手押し車の傍に戻った。 このとき、遠巻きの弥次馬の中から、五人の日本人記者の顔があわただし げに現われた。弥次馬を防いでいる制服の警官が制止するのも諾《き》かず、 門田の傍に殺到した。 「門田さん、団員の女性が殺されたというのは、ほんとうですか? ぼくら は、たったいま、キンロス.ホテルのボーイから話を聞いてびっくりしたの ですが」 A─社の浅倉が、がらがら声で怒鳴るように云った。B─社の諏訪、C─ 社の高村、連合通信社の内藤、これにあの日スポ文化紙と週刊誌の通信員鈴 木も加わって、みんな血走った眼になっていた。 五人とも、この変事を知ることが遅かった。日本のように、親切な市民が 新聞社の社会部に電話を入れて速報することもなかった。ロンドン支局員四 人は、マージャンで半徹夜になったにちがいない。例の通信員は、ロンドン 娘の恋人と深夜までベッドで愛を語り合ったであろう。五人とも寝不足な顔 で遅く起きて、朝食の食堂にでも現われたところを、ボーイからこの変事を 伝え聞いたのかもしれない。 遅れを取った日本のマスコミは、息まで喘《あえ》ぐように荒々しく吐い ていた。 「それは何という名前? 死体はいつ、どこで、だれが、どのようにして発 見したの? 殺害の方法は? 犯人の遺留品などは? 犯人は分ったのか? 殺害の原因は何か? 被害者のパスポートについている顔写真があるだろう からそれを撮させてくれ」 要約すると、彼らの質問と要求はこういうことだった。それを五人とも、 かわるがわる、途切れ途切れに口から出した。昂奮しているので、新聞記者 特有の無礼なくらい冷静な言葉も出ずに混乱していた。鉛筆とメモ帳をかま えているのはもちろんだった。ロンドンのホテル.ランカスターのロビーに 来て、椅子に傲慢《ごうまん》に大股をひろげてかけていた余裕はすっかり 失われていた。 門田もおどおどしていた。どこからどう考えていいか分らなかった。質問 されても、まだわからないことがあったし、判明したことでも、そのとおり PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に新聞記者に云っていいかどうか、思慮を要することもあった。日本の新聞 に出たときの「門田談話」の責任を考えなければならなかった。 イングルトン部長刑事が、そのとき、助け船を出した。というよりも、彼 は警察官の立場から日本の新聞記者たちを制したのだった。 「何も訊いてはいかん」 彼は眼を三角にして、手を横につき出して遮《さえぎ》った。 「しかし、警官《ポリス》、われわれは日本の新聞記者《プレス.マン》で して。これは日本女性が殺害されたのですよ。当然、母国に早く報道する義 務と責任があります」 浅倉はどもりながら部長刑事に喰ってかかった。英語の熟達者も、気持が 上ずっているので、とかくつかえがちだった。 「そういう話は、あとだ。いまは捜査中だからな」 部長刑事はそっけなく答えた。 「あなたのお名前は?」 「エドワード.イングルトンだ。キンロス警察分署の部長刑事だ」 ぶっきら棒に云うのを、新聞記者たちはメモに急いで書き取った。 「それではエドワード.イングルトンさん。あなたに、われわれはおたずね しますが、この事件は……」 諏訪がおだやかに発言するのを、 「この事件については、何も云えん」 と、部長刑事は無慈悲に拒絶した。 「では、あの、せめて、事件の輪廓でも……?」 鈴木が、その髭面に卑屈な微笑を機嫌とりに浮べていった。 「輪廓かね?」 エドワード.イングルトンは、じろりと鈴木の顔を見た。 「そうだな。ミス.フジノという日本婦人が今朝の六時ごろ、このレブン湖 の中で水死体となって発見された。自殺か、他殺か、それとも当人が散步中、 暗い中で過《あやま》って湖水に落ちたか、それはまだ分らん。そうだ、死 後経過時間から推定して、死亡時刻は昨夜の十時から十二時の間だな。アウ トラインは、そんなものだ」 彼は面倒臭そうに云った。五人は忙しく鉛筆を走らせた。 と、同時に、そんな遅い時間に女性の散步とはおかしいという日本語のさ さやきが起った。 「現在の見込みとしては、自殺、他殺、過失死、どの線が強いですか?」 浅倉が手帳から顔をあげて訊いた。 「そうだな。目下のところ、他殺の線で捜査しているとだけは云っておこう」 五人の顔が再び昂奮した。殺人事件である。 「門田さん」 浅倉が、門田を睨むように見た。 「このデカ長さんは、被害者はミス.フジノと云ったが、殺されたのは多田 マリ子さんではなかったんですか?」 コペンハーゲンのロイヤル.ホテルの一件が新聞記者の頭にこびりついて いるのは当然で、この疑問的な念押しもまた当然であった。 「それが違うんです。水死体として湖の水辺から発見されたのは、藤野由美 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn さんです。多田マリ子さんは、無事でいます」 門田はイングルトンに気を使いながら答えた。 新聞記者たちは、藤野由美の年齢、住所、職業の有無をきいた。門田は、 彼女の年齢と、それが「美容デザイナー」であることだけは即答したが、住 所は東京都の何処になっているか、部屋にもどってリストを見なければ分ら ないと云った。 「パスポートを貸してくださいよ。その顔写真を撮って東京に電送したいの です」 浅倉が門田にそっと手を合わせる真似をしたが、パスポートという語が耳 に入って、イングルトン刑事の眼が光った。 「パスポートを見せることはできない。まだ捜査中だ」 彼は、浅倉にどなった。 「し、しかし、イングルトンさん。こ、これは事故死には間違いないでしょ う。自.他殺、過失死いずれにしても。いまは、それだけでも報道して、顔 写真を付けたいのです。顔が載るのと載らないのとでは、紙面効果が違いま すからね」 英語に切りかえた浅倉は、はじめのほうで調子が狂った。 「駄目だ。いまの捜査が一段落ついてからだ。そうすれば、パスポートも貸 すし、捜査状況も発表していい」 「それは、何時ごろですか、イングルトンさん?」 「何時になるか分らん。発表の段階になれば共同記者会見する。それをこっ ちから知らせるまで、諸君はキンロス.ホテルで待機していてくれ。このへ んをあまり、うろつかんでもらいたい。ミスター.カドタや、旅行団の女性 たちに質問することも、それまでは禁止する」 部長刑事は威厳を見せていった。 あまりに官僚的だ、という日本語の非難が新聞記者の私語として起った。 アメリカの警察はもっと民主的だ、イギリスの警察は日本以上に官僚的で威 圧的だとワシントン支局員の経験のある高村が云ったが、イングルトンの耳 は理解しなかった。しかし、言葉は分らなくても、記者五人の仏頂面は彼に 分った。 「さあ、さあ、向うに行って」 イングルトンは彼らが不平を抱いていると知ると、余計に弾圧的となった。 「諸君が報道内容の正確を期すなら、わしの捜査経過発表まで待ちなさい。 勝手な臆測で記事を送ると、それこそ日本の読者に赤い顔をしなければなる まいな」 これは新聞記者たちの逸《はや》る心をいくぶんか冷却する効果があった。 が、浅倉は巡査が番をしている手押し車を不審そうに見た。 「イングルトンさん。この手押し車は、何か事件と関係があるのですか?」 「なんにもないよ。ただの手押し車さ。さあ、向うに行って。いまの間に、 レブン湖の写真でも撮っておくことだな。ミス.フジノの水死体が見つかっ た現場は、あの、いちばん手前の小島が正面に見える湖畔だ」 新聞記者たちがようやく立ち去る気配になった。 「もうその番をするのはいいよ。ナップ」 部長刑事は巡査に声をかけた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「盗まれないようにホテルの物置にでも入れて置け」 彼は記者五人の背中を見遣った。 ホテルの建物が近づくと、部長刑事は門田の気にかけていたことを口から 吐いた。 「ミスター.カドタ。昨夜からホテルに帰らない婦人の名前は何といったか ね」 「ミセス.カジワラです」 門田はおどおどして答えた。 「そうそう、そのミセス.カジワラが、われわれが実地検証で留守をしてい る間に、ホテルに戻ったかどうか見てくれるかね?」 悦子がさきに駆け出してホテルに入ったが、イングルトン部長刑事とデー ビス刑事に随って門田が臨時捜査本部用に警察がとった一室に入ると、悦子 が絶望と緊張を湛えた顔で現われた。 「梶原さんはまだホテルに戻っていません」 覚悟はしていたが、門田は心臓まで蒼ざめる思いだった。 梶原澄子が藤野由美を殺して逃げたのだろうか。あの病院長未亡人は、室 友の藤野由美との組合せ変更を執拗に申込んできていた。 理由をきくと、藤野由美が「不潔」だといっていた。別に具体的な原因は ないのである。人によっては好き嫌いの激しいのがある。なんとなく性《し よう》が合わないというか、嫌いとなると、さしたる理由もないのに、徹底 して毛嫌いする。梶原澄子は、それを「生理的な感情」と表現していた。 彼女の藤野由美に対する「生理的な」までの嫌悪感は、逆に衝動的な殺害 にまで上昇したのだろうか。太陽のせいで不条理な殺人を犯す小説(カミュ 『異邦人』)もあることだから、女性の「生理的な」憎悪が、不条理な殺人 へ瞬間的に奔騰することも、あながち否定はできない。── が、門田は「あまりに文学的な」思索に頭をゆだねている余裕はなかった。 団員どうしの殺人事件! これが日本の新聞や週刊誌に発表されるときを考 えると、眼の前《さき》の風景が半日蝕のように黝《くろず》んできた。 彼は、よろめく足どりで部長刑事に従い、藤野由美の部屋の真上にあたる 二階34号室に入った。 梶原澄子の部屋はよく整頓されていた。というのは、シングルのベッドが 少しも乱れていなかったからである。昨夜から一度もそこに横たわった形跡 はなかった。その持物を調べたが異状はなかった。 この部屋には犯罪の影が残っていなかった。 洗面所を調べていたデービスが戻ってきて、何ら異状のないことを告げた。 洗面台のパイプには鱒の鱗も藻も発見されなかったらしい。 「指紋は一応採っておけ」 と、イングルトンが鑑識係に云った。 「さてと……」 彼は顎の下に手を当てて思案していたが、決断をつけたように門田にむか った。 「君の団体から一人の殺害された婦人が出た。さらに一人の行方不明者が出 た。この部屋の主だ。彼女がどのようなわけで失踪したか君にも分らないと いう。してみれば、だれにもその理由が分らないわけだ。その失踪と殺人事 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 件とがどう関連しているのかも明瞭でない。しかし同じ夜に殺人と失踪とが 起ったのだから相互に何かの関連があるのは確かだ。これからわれわれの部 屋に戻って、君の団員の一人一人を呼んで事情を詳しく訊くことにする。と くに昨夜、小島に遊びに行った者についてはな。ついでにそのとき指紋もと る。このことをみんなに伝えてもらいたい」 悦子が気重そうな顔で先に出た。 前の部屋にみんなが戻った。ホテル側では気をきかしてコーヒーのルー ム.サービスをした。 窓の外は午《ひる》近い日光になっていた。門田はそっと腕時計を見た。 十一時三十二分だった。 「ミセス.カジワラの身もとから教えてもらおうかね?」 イングルトンが上品にコーヒーを啜ったあとで門田に顔をむけた。 観光団の客の身もとについては、その参加申込書の記載以外には旅行社は 何も知っていない、と門田が説明をはじめたとき、何やら騒々しい足音が急 いでこの部屋に近づいた。ノックもあわただしくドアを乱暴に開けて入って きたのは、表にいた警官の一人だった。 「部長刑事。日本婦人の死体がもう一つ発見されました。すぐ其処で」 9 イングルトン部長刑事は横の卓に置いた飲み残りのコーヒー茶碗を引っく り返して椅子から腰を浮かせた。茶色の液体は卓の木地を匍《は》い、うす 緑色の絨毯に滴り落ちたが、当人をはじめだれもそれに眼をむける者はなか った。みんなの凝視は若い警官の顔を射ていた。 「どこで見つけたのだ、ピーター?」 部長刑事は見張りの警官に急《せ》きこんで訊いた。 「ボートの下です」 イングルトンは瞬間にその状況を察したようであった。またしても水の中 である。一艘のボートが湖に浮び、その底の下に東洋婦人の死体がへばりつ いている。黒い髪は水中で藻のように揺らいでいるが、身体はボートの下に 押えられた恰好で水面に浮上することができずにいる。彼はそのように想像 した。だれかが小島の岸辺に佇んでか、鱒釣りのために近くを漕いで通るか して澄んだ水底の異変の影を知ったにちがいないと。 「水から引きあげても無駄なのか? 人工呼吸などの手当てをするまでもな いのか?」 部長刑事は蘇生の見込みを訊いた。 「水から引きあげるのですって? いいえ、死体は土の上ですよ」 警官は上司の誤解を訂正した。 「ボートが土の上」 イングルトンは眼をむいた。瞬間の想像はひっくり返された。彼は早合点 と錯覚をさとり、あやうくも立ち直った。 「ああ、陸《おか》に上げているボートか。その下敷きになっているのなら、 死体はボートの重量で潰《つぶ》されているのか?」 「いいえ、死体はどうもなっていません。わたしはのぞきこんで見ましたが、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 死体は安全にボートの下にうずくまっていました」 「死体は、あそこにひっくり返しにして乾されていたボートの下ですわ」 傍から土方悦子が叫んだ。 「その通りです、お嬢さん」 黒毛で垂直形の烏帽子《えぼし》を付けさせたらバッキンガム宮殿の衛兵 にしても似合いそうな端正な顔の若い田舎巡査は悦子のほうにむいて眼もと を笑わせた。 「あ、あそこの……」 立ち上っていた門田も叫び声が口を衝いて出た。彼の眼には岸辺に赤い底 を見せて太陽の光を吸っている伏せたボートの群が浮んでいた。 「それは梶原さん……いや、日本人婦人に間違いありませんか?」 門田が警官の前にすすむと、部長刑事は彼の肩をかなり乱暴な力で押えて 引き戻した。 「君らがいま口出ししてはいかん」 イングルトンは苦り切っていた。 「ピーター。お前がそれを発見したのか?」 「いえ、子供が知らせて来たのです。たった今、わたしが立ち番をしている ところに」 「日本の新聞記者どもは、どうした?」 「レブン湖の写真を撮っていましたが、引揚げて一人も居ませんでした」 イングルトンは安堵の太い息を吐いた。 「その子供は、どこに居る?」 「廊下に待たせてあります」 警官がドアを開くと、九つばかりの男の子が勢いよく入ってきた。少年は 黄色い髪を額に垂れかけ、眼は手柄と好奇心とに輝いていた。 「坊やの名前は何というのかね?」 「ロバート。家はそこの花屋」 「よしよし。それじゃ、坊や。おじさんたちを坊やの見つけたボートのとこ ろへ連れてっておくれ」 子供が駆け出したので、イングルトンを先頭にみんながそのあとを步いた。 デービス刑事が子供の背中で距離を縮めた。 ホテルから步いて十分もかからぬところで、ロバート坊やはデービス刑事 といっしょに立って部長刑事と日本人の男女二人を迎えた。 イングルトンは素早くあたりを眺めたが、日本の新聞記者の顔はなかった。 連中は、云うことを聞いて、自分らのホテルに引込んでいるとみえた。 「これだよ、おじさん」 男の子は指を下にむけてさした。 十七、八艘の暇なボートが裏返しにされてならび、日向ぼっこをしていた。 吃水線の赤いペンキがなかったら、それは市場で魚腹がならべられているの に似ていた。 この日干しにされたボートの光景だったら、昨日から門田は何度も見て横 を通っている。そこは水際から二十二フィート(七メートル)ぐらいはなれ た陸《おか》で、下は例の平らな岩磐だった。岩の割れ目には短い草が生え、 それが点々と散在しているところは砂漠の乾からびた灌木に似ているが、こ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn の岩磐の上には砂はなく、うすい土がばらばらと乗っていた。 まさか、こんなボートの下に死体が隠されようとは、と門田は眼をむいて いた。岸辺に乗りあげてならんでいるボートはある。が、椀のように伏せら れた遊休ボートにだれが注意しようか。 蒼い湖は彼方にあり、小島なる森の影を濃く落していた。一個の壮士湖辺 に道を失い、佳人湖心の島より舟を盪《とろか》し来る、とはスコットの『湖 上の麗人』の坪内逍遙翻訳「泰西活劇.春窓綺話」の一節だが、だれしも行 方不明の梶原澄子の不幸が報告されたときは、藤野由美と同様に湖心の島だ と思っていたのだが。 警察の一行が乾されたボートの列の端にある一艘をとり囲んだので、その 辺の散步者が早くも集った。警官がその弥次馬連を追い散らした。 「さあ、ロバート。お前がこのボートの中に人が隠れているのを見つけたと きのことを教えておくれ」 イングルトンが男の子の頭を撫でて云った。 「銅貨《コイン》を落したんだよ。そいつが転がってこのボートの下にもぐ りこんだので、ボートの端を持ち上げようとしたら重くて動かないんだ。そ れで果物屋のおじさんを呼んで、少し持ち上げてもらって、ぼくが中を見る と、人が奥にかくれていたんだよ」 男の子がいったとき、いままで離れて立っていた白い前垂れかけの四十男 が近づいてきて云った。 「そうなんですよ、旦那。あっしがボートの端を持ち上げたんです。コイン をさがしているこの子がそういうもんだからね。あっしが中をのぞきこむと 女の死体がうずくまっているじゃありませんか。それで、子供をこちらの旦 那に知らせにやったのです」 果物屋は若い警官を指した。 「なんだ、君が発見者なのか?」 「へえ、この子と二人なんで」 イングルトンが肩をすぼめると、警官がいった。 「それで、わたしもここへ来てボートの端をこの果物屋のおやじに持ち上げ させて中をのぞきこんだのです」 「よし。お前はホテルに行って鑑識係を呼んでこい。連中はまだ残って食堂 あたりで駄法螺《だぼら》でも吹いてるだろうからな」 部長刑事の不機嫌に、若い警官はあわてて駆け出した。イングルトンはデ ービスといっしょにボート周辺の地面を検べて回ったが、不審な足跡はつい ていなかった。なにぶんにも岩床の地面なので、土は少なく、砂はなかった。 到着した鑑識係によって、伏せたままのボートの状態が撮影され、ついで 例の白い粉がふり撒かれたが、指紋は浮いてこなかった。それから警察官た ちによって、入念にボートが起された。土方悦子はうしろを向き顔に両手を 当てた。 「やっぱり……」 梶原澄子だ、と門田は声より心のほうが先に叫んだ。顔はうつ伏せになっ ている。が、その洋服の柄で分った。身体つきも間違いなかった。洋服も髪 も土まみれになっていた。 死体が長く横たわらずに、うずくまった状態になっている理由は分った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ボートの横桟二つが邪魔をするからである。二つの横桟の間、そこだけがボ ートを伏せたときの空間であり、隠れ家になっていた。ハンドバッグが身体 の横にあった。 そのままで死体が検べられた。背部には外傷は見えなかった。うしろ頸に も索条溝のあとはなかった。絞殺ではない。死体が仰向けになったとき、イ ングルトンがひと眼見て、 「水死だな」 と呟いた。 ハンドバッグには自室の34号室のキイが入っていた。彼女はどういうわ けか、キイを部屋にも置かず、むろんフロントにもあずけずに、死の外出を したことになる。 水による窒息死というのは、あとの解剖でも証明された。死亡時刻は昨夜 の十時から十二時の間。藤野由美の死亡時刻とあまり違っていなかった。肺 臓や胃が呑んでいた水は、このレブン湖の水質と一致していた。 もちろん投身自殺ではなかった。溺死者が水から上ってひとりで步き、伏 せてあるボートの中にもぐりこむわけはない。札幌の病院長未亡人は、不仲 な室友、藤野由美と同様な悲運に遭遇したのだった。何者かによって湖水に 漬けられ、溺死状態になってからひき上げられて、この伏せたボートの下に 隠匿されていた。水死の間際の苦悶が梶原澄子の死顔に顕《あら》われてい た。 この犯行は一人ではなさそうだった。ボートは三人乗り用だった。伏せた このボートをいったん起し、死体を中に入れ、再びボートを上から伏せる。 一人の力でできる仕事ではない。 「犯人は複数だ」 と、イングルトン部長刑事が判断したのはその理由からだった。 門田は、梶原澄子が藤野由美を殺して逃亡したものとばかり思っていたが、 その梶原澄子がボートの下に死体となって匿されていたのには仰天した。の みならず、これは二人がかりの犯罪だとイングルトン部長刑事は推定を云っ た。被害者が団員二人となると、門田も、かえって自暴自棄的な度胸がすわ ってきた。日本の新聞も、週刊誌も、広島常務も、もう怕《こわ》くはなか った。どうにでもなれ、という心境だった。 梶原澄子が水死によって殺されたのならば、藤野由美を水死させたのも、 その同一犯人である。一晚のうちに、それもあまり時刻が違わないうちに、 二人の女性を殺したのだ。犯人も、原因もその推定は、まったくつかなくな った。想像すら浮ばなかった。 犯人二人は外部の者か、内部の者か、見当がつかない。外部の者といえば この土地の者だろうが、そんなことはとうてい考えられなかった。内部の者 なら、団員の女性である。このほうが、外部説よりも、まだ、関連性がある。 その原因も動機もよく分らないのだが、いわゆる「内輪の犯罪」の範疇に入 りそうである。 そうなると、この女性団員のなかに、少なくとも二人の犯人がいることに なる。二人の被害者と二人の犯人をこのローズ.ツアから出したのだ。門田 は、この観光団へ魔王に乗りこまれたように考える力も失ってしまった。 「ミスター.カドタ。君の団員全員を禁足する。すぐにも各自の取調べを開 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 始する」 部長刑事は顔を真赤にして云った。 札幌の病院長未亡人梶原澄子も水死だった。が、それが自殺でないことは 明確である。死んだ人間が自力で湖から匍《は》い出し、地面に伏せられた ボートの下にもぐりこむわけはないし、そのボートも一人ではとても持ち上 げられるものではなかった。たとえ死体に外傷がなくともその溺死状況は他 殺である。 解剖のために死体運搬車が二度目にやってきた。同じサー.ウォルター.ス コットの小説の舞台となった静かなカトリン湖ならぬレブン湖は、いまや「湖 上の死美人」のイメージに変り、ホテルのトロウト.ヴィラには東洋の魔女 群が巣くっているように見えた。 死体解剖に立会うかどうかを部長刑事は一応門田に訊いたが、門田は藤野 由美の場合同様辞退した。婦人の遺体解剖だからこれは当り前として、土方 悦子にもその資格はない。なぜなら彼女は旅行社の社員でも何でもなくその 責任がないからである。 観光団員全員に対するイングルトン部長刑事の事情聴取は難航をきわめ た。なにぶんにも「複数の犯人」という見込みだから「複数の嫌疑者」を想 定しなければならないが、これが容易に絞れなかった。イングルトンはどう やら日本婦人の弱い膂力を考慮に入れて二人、ないし三人の犯行と推定して いるらしくみえた。 ──訊問の前に、刑事たちは基本的な質問要点をきめた。 あとで分った藤野由美の解剖所見では、検視したときの推察通り、死亡時 刻が午後十時から十二時の間という推定結果になった。梶原澄子の検視でも だいたいその死亡が同じ時間帯ということになった。その前後は、はっきり と分らなかった。 同時間帯の中で、二人の女が殺された。しかも死体の発見場所は別々で、 藤野由美は湖にある小島の水際に、梶原澄子は岸辺のボートの下に、となっ ている。前者はホテルの自室で洗面器の中に顔を突込まれて、洗面器に湛え られたレブン湖のプランクトンの浮ぶ水で「溺死」を偽装された。後者は、 室内ではなくまさしく湖水そのものに水死して、その死体はボートの下にひ きずりこまれている。 時間的順序は、藤野由美の殺害が先でもよく、また梶原澄子のそれが先で もよい。なんとなれば、死亡時刻が同一時間帯だからである。ただし、この 場合は「手段の順序」は考慮に入れられていない。 藤野由美を殺した犯人と、梶原澄子を殺した犯人とが、別人とは思えない。 たとえ手を下した者が別人であっても、その相互間に連絡がなかったとはい えない。そのような偶然は考えられぬからである。そこに犯人多数の推測が 生れてくる。 では、なぜ二人の殺害方法が違っていたのだろうか。一人は室内の洗面器 で、一人は戸外の湖水においてである。犯人が同一ならばなぜそのように手 のこんだことをしたのだろうか。どうしていっしょに同じ方法をとらなかっ たのであろうか。 こうした基本要項を頭においたらしいイングルトン部長刑事の観光団の各 人に対する事情聴取が行われたが、通訳は門田がつとめ、悦子がその助手に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn なった。 各団員とも事件のあった夜は九時までに湖畔からホテルにひきあげたと云 った。 「それを証明できるのは?」 いっしょに遊び、いっしょにホテルに戻ったのは五、六組であり、その他 は一人ずつ夜の湖畔を眺めてぶらぶらし、お互いに姿を見ないまま九時ごろ までに、単独で戻っている。 ホテルに戻ってからは各自が個室に閉じこもった。この場合も相互にアリ バイを証明しあう者がいなかった。 二十八人について通訳つきの事情聴取だからおそろしく時間がかかった。 最後の一人が済んだときは午後二時を回っていた。 イングルトンは事情聴取からは有力な手がかりがつかめず、いらいらして いた。だいたい訊問は直接に言葉の往復がないと生きてこない。ピンポンゲ ームのように言葉の打ち合いによって心理の機微もつかめるし、不意を衝い て不用意な答弁をひき出すことによって、思わぬ収穫を得たりするものだ。 それは一問一答の緩急自在な呼吸から七縦七擒《しちじゆうしちきん》の技 巧も使用できるのである。 だが、それが通訳を通してだと、まことに迂遠なもので、呼吸は間伸びす るし、言語表現の微妙なニュアンスは伝わらない。これでは訊問の効果は半 減する。 イングルトンは例の|手押し車《プツシユ.カート》について各人に質問 した。 そういう荷物運搬車がこのホテルの裏側、物置のような通路に置いてある のを知っている者はひとりもいなかった。そんなところを通ったこともない と云った。 部長刑事は取調べに使っている部屋に手押し車を運びこませた。いったん はホテル側に引き渡したのだが、もう一度刑事に曳いてこさせたのだった。 手押し車には指紋は残ってなかったから、団員たちの指紋を採っても照合 のしようはなく、車は参考人に「見せる」だけであった。みんなこの同類は ホテルの玄関で客の荷物運びに使っているのを見たことはあるが、見せられ ている現物には記憶はないと答えた。そこで部長刑事はそれぞれに手押し車 の把手《とつて》を持たせ、室内でちょっとばかりごろごろと押させたのだ が、だれにも難なく動かすことができた。 そこで今度は死体と同じ重量の物を手押し車に載せた。ホテル側に云って サイド.テーブルだの椅子だのその他のガラクタを積んで五〇キロぶんの重 量をつくった。藤野由美も梶原澄子もあまり違わない体重であった。 日本の婦人たちは不愉快な顔をし、いやいやながら手押し車のハンドルを 持ち上げたが、精いっぱいの力を出すとそれがだれにでもできた。 把手を持ち上げさえすれば、手押し車は六フィートでも七フィートでも動 いた。室外の実験だったら、たとえばホテルの裏門から岸辺のところまで(つ まり手押し車が放置してあったところ)荷物を押してゆくことはわけなくみ えた。 部長刑事は愛想よく感謝の言葉を口にしていたが、それは被実験者への礼 儀で、決して心からのものではなかった。手押し車はほとんどの者が死体を PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 積んで動かせるのである。 イングルトンはすっかり機嫌を悪くし、はては門田の通訳が正鵠《せいこ う》であったかどうかを疑う始末だった。もっともその疑念の何分の一かは 門田の語学力から見て当っている。 「カジワラの解剖結果は今夜のうちに分るだろう。その結果によっては、も う一度事情を聴取し直さなければならない。みんな明日の別命あるまでこの ホテルから出てはいけない」 イングルトンは苛々《いらいら》して云い渡した。 10 「これから、キンロス.ホテルに行く。日本の新聞記者諸君がお待ちかねだ ろうからね。それに、部下の報らせによると、エジンバラの新聞記者も来て いるし、ロンドンからも新聞記者が午後の飛行機でくるらしい。面倒臭いこ とである」 彼は顔をしかめたが、ロンドン.タイムズに自分の名が出るのは、千載一 遇のことで満更ではないようだった。しかし、明快な解決が足踏みしている のは、やはり残念そうだった。タイムズ紙だけでなく、イブニング.ポスト など大衆的な夕刊紙の記者もくるだろうが、即時解決できなかったことで、 部長刑事イングルトンの顔写真はたぶん出ないにちがいない。 イングルトンは、日本人記者との会見には、門田と土方悦子が同席するよ う両人に要請した。旅行団の責任者ならびに介添人という立場からだった。 キンロス.ホテルは、ホテル.トロウト.ヴィラから一キロ足らずの距離 だった。キンロスの町なみの端だが、レブン湖からは五、六百メートルほど 離れている。その間には針葉樹林があって、その森がキンロス.ホテルの環 境を美化しているのでもあるが、レブン湖はそれに遮られて見えなかった。 ロビーに待ちかまえた日本人記者団の前に、イングルトン部長刑事は渋々 と坐った。A─の浅倉、B─の諏訪、C─の高村、連合通信の内藤、それに 日スポ文化通信員の鈴木が、彼の前に椅子を半円にならべて陣どっていた。 日本人記者たちは、鈴木を除いて、セント.アンドリュースでのゴルフ遊び の夢も吹き飛んだかっこうだが、その不平が顔にないばかりか、眼をらんら んと輝かしている職業《プロ》根性はさすがであった。さらに、その横には、 エジンバラから急行してきたという背の高い新聞記者が三人ほど立ってい た。 「記者会見がずいぶん遅れたようですが、事件の新しい事実でも分って、そ の捜査に手間どったのですか、イングルトンさん?」 浅倉が口を切った。 「新しく第二の被害者が発見された。この観光旅行団のミセス梶原だ」 イングルトンが眉間に皺をよせて云った。 「湖岸に底を乾かしてあるボートの下からですね?」 浅倉が云ったので、イングルトンは眼をかっと開いた。 「君たちは知っていたのか?」 「ここから五百メートルしかない岸辺の出来事ですよ。騒ぎが聞こえてこな いはずはありません。ぼくらは、あなたがたがホテルに引きあげたあとで、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 現場の写真を撮りましたよ。ボートと、問題の手押し車とをね」 部長刑事は両手をひろげ、呪いの言葉を吐いた。ジーザス.クライスト。 「イングルトンさん。これまでの事情を説明してもらえますか?」 地元のエジンバラ紙の記者が要求したので、イングルトンは仕方なしに二 つの事件発生とこれまでの捜査結果を発表し、捜査はなお継続中であると述 べた。 「梶原澄子さんの身もとは、どういうことですか?」 浅倉は、部長刑事の話が終ると、その横に控えている門田に日本語で訊ね た。 「梶原さんは、札幌の梶原産婦人科病院の院長だった方の未亡人です。現住 所も札幌市内です」 門田は答えた。 「あの、多田マリ子さんには異状はありませんか?」 諏訪が質問した。だれの考えも同じことで、コペンハーゲンのホテルで危 うく扼殺されかかった多田マリ子の現在は、記者たちにも関心があった。 「多田さんは大丈夫です。元気でおられますよ」 門田は云った。 「多田さんのコペンでの災難と、こんどの二つの殺人事件との間には、何か 因果関係はありませんか?」 内藤が顔をつき出して訊いた。 「ないと思います。いや、ありません」 門田は答えた。が、すぐそのあとで、果してそう確言できるだろうかと思 った。 多田マリ子の災難を、彼女自身の芝居だと見ぬいて教えたのは、梶原澄子 だった。その密告は門田にだけしたもので、門田もそれを土方悦子以外には 誰にも洩らしていない。団員のだれも知らないことである。このイングルト ン部長刑事にも明かしていない。 その「密告者」梶原澄子が殺されたのだから、コペンの出来事と、こんど の事件とにまったく関係がないとは云い切れないような気がした。 が、いやいや、そんなことはないと門田はすぐに心の中で首を振った。も し、関係があれば藤野由美の殺害をどう説明できるか。また、多田マリ子の 挙動にまったく不審な点がないのをどう考えるべきか。 やはり、コペンの出来事と、このレブン湖畔殺人事件とは、何の相関関係 もないのだとうなずき直した。 「君らは、日本語で話してはいかん」 イングルトンはきびしい口調でたしなめた。理解できない外国語で何を云 われているか分らない不愉快さと、門田が捜査の内容を勝手にしゃべってい るような越権が気にさわったようだった。 「諸君に質問があったら、英語でわたしにききなさい。捜査に支障のないか ぎり、できるだけお答えする」 そこで、記者団と捜査官の一問一答がはじまった。 問(浅倉)犯人が複数だというのは、どこから推定したのか。 答 被害者二人は、同時間帯に別々の方法で殺されている。単独犯では無 理だ。これまで話したようにミス.フジノはその自室内で殺されたのちに外 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に運び出されて湖中に投棄され、そこで水死したように偽装された。ミセ ス.カジワラは湖中で溺死させられたあと、陸上に乾されているボートの下 にその死体を押しこめられていた。このような複雑な犯行を同一犯人が同時 間帯に行うことは困難である。溺死させた死体を湖岸に引き上げ、それをひ きずってボートの傍に行き、重いボートをこじ起して死体をその中に匿すと いうのは、一人ではできない。これだけでも二人以上の犯行である。 問(諏訪)藤野由美の殺害は単独でも可能ではないか。 答 ミス.フジノの殺害のみならば、あるいはそうかもしれない。ミセス.カ ジワラも違う場所でほとんど同時に殺されている。それにミス.フジノの殺 害にしても単純ではない。犯人はレブン湖の水と鱒を彼女の部屋に運び、そ の興味を唆らせて洗面器に満たし、彼女の顔をそれに漬けて窒息させ、さら に死体を裏口から手押し車で運び出して湖中に捨て、あたかもそこを殺害現 場と見せかけるという工作で、ミセス.カジワラの場合よりはるかに手間を かけている。一人の人間が同時間帯に犯行できると考え得る可能性はきわめ て少ない。 問(内藤)ロンドンのホテルまで、藤野由美さんと梶原澄子さんは室友で あった。同室者が二人とも殺されたのは、犯行原因の推定にならないか。 答 重要な質問である。われわれもその点を考慮に入れて捜査している。 問(内藤)被害者二人は以前からの知合いか。知合いならば、犯人と被害 者二人の間には共通の関係があると思われるが。 答 ミスター.カドタによれば、被害者二人は以前からの知合いではなく、 この観光団の参加ではじめて知ったということである。したがって、犯人と 被害者二人との共通関係の線は、いまのところ、うすい。 問(鈴木)室友として被害者二人の仲はよかったか。 答(門田に聞いて)両人の間は友好的であった。 問(浅倉)さきほどの部長刑事の説明にもあったが、藤野由美の場合は、 レブン湖の水死という過失死の偽装をしているのに、梶原澄子の場合は死体 をボートの下に匿すという明瞭な他殺状態にしている。これは犯人の犯行に 大きな矛盾があるようだが。 答 よい質問である。犯行に統一性がない。ミス.フジノの場合は手のこ んだ過失死偽装をしているのに、ミセス.カジワラの場合は、露骨な他殺を 示している。これも犯人の複数を推測せしめる。 問(諏訪)しかし、犯人が複数でも、謀議ならば、偽装の線で統一できる ではないか。 答 犯人は複数だが、互いの間に犯行について意見の不一致も考えられる。 かならずしも謀議によって統一されるとは思えない。 問(高村)二つの殺害犯行はその方法においてそれぞれ独立していたとい うことか。 答 そのとおりに解してよい。 問(鈴木)しかし、二つの殺人はだいたい同時間帯に行われたということ である。これは複数の犯人相互の間に打合せがあったことではないか。 答 その点は共同謀議であろう。 問(浅倉)藤野由美の16号室のドアは閉っていて、ボーイが合鍵で開け、 捜査官らを部屋の中に入れたということである。その藤野由美は室内の洗面 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 所で殺された。これはいわゆる密室殺人か。 答 そうではない。ミス.フジノが湖畔から帰ったところに、顔見知りの 犯人が訪れたので、彼女は中に入れた。犯人は、さきほども説明したように、 レブン湖の水と鱒とを持参に及んだのだ。それを洗面所の洗面器に入れて、 彼女が観賞しているときに、うしろから押えつけて洗面器の水に顔を突込ま せたのである。それは洗面台の排水パイプに鱒の鱗が引っかかっていたこと で明白だ。被害者が窒息死すると、犯人は死体をかかえて部屋を出たが、そ の際にドアは閉り、自動的にロックされた。したがって密室犯罪ではない。 問(浅倉)犯人は死体を抱えてロビーを通って玄関を出たのか。 答 それはあり得ない。ロビーを通れば、フロントの事務員の眼にふれる。 ロビーにも客がいるかもしれないという懸念が犯人側にあるから、死体を抱 えて裏口に行った。その証拠に、裏の物置前にあった手押し車が湖までミ ス.フジノの死体運搬に利用されている。裏口の戸は錠がしてなかった。 問(鈴木)その手押し車は藤野由美の死体の運搬に使われたと断定できる か。 答 そのとおりに推定している。 問(鈴木)そうすると、藤野由美の殺害が時間的に先か、または梶原澄子 の殺害が先か。 答 手押し車を死体運搬に利用した点から考えるとミセス.カジワラが先 かもしれない。しかし、これは、どちらが先ともいえない。 問(鈴木)その点は、複数の犯人の間に謀議があったということか。 答 そうだ。 問(内藤)梶原澄子のハンドバッグから盗まれたものはないか。 答 被害者が死んでいるし、他に確認する者が居ないので詳細なことは分 らないが、たぶん盗難はないと思う。その点は、ミス.フジノの場合も同じ だ。この二つの犯罪は強窃盗によるものではない。 問(内藤)犯行動機と原因は、怨恨か。 答 その線が強いが、詳しいことはまだ分らない。 問(内藤)梶原澄子のハンドバッグには自室の34号室のキイが入れてあ ったというが、彼女はキイをフロントに預けもせず、また部屋の中に置きも せずに外出した。彼女がキイを持って外出したのを、どう考えるか。 答 普通の外出なら、キイをフロントに預けるだろう。また、フロントに 黙って外出したいときは、キイを持って出る。彼女の場合は後者であろう。 問(鈴木)では、梶原澄子は、その外出から部屋にすぐに戻ってくる意志 があったということか。 答 そう推測できる。 問(諏訪)それは犯人に誘い出されたのか。 答 その可能性はある。だが、フロントの昨夜の係員に訊くと、だれもミ セス.カジワラを訪ねてこなかったし、外部から電話もかかってこなかった と云っている。この点が分らない。 問(鈴木)犯人は、男性と思われるか、あるいは女性と考えられるか。 答(慎重に)いろいろな状況からみて、男性とは思えない。女性の犯行と いう可能性が考えられる。しかし、決定的なことではない。 問(浅倉)女性の犯行といえば、この日本婦人観光団の中に被疑者がいる PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn のか。 答 重大な質問だが、答弁をさし控えたい。ただ、こういうことは云える。 昨夜、湖畔から帰った女性観光団員には、全員とも完全なアリバイがないこ とだ。それは一人一人が個室をあてがわれて、犯行時間と思われる十時から 十二時の間はいずれもベッドに入っていたからである。その時間、団員で他 の個室を訪問している者はいなかった。 問(鈴木)女性団員全員にアリバイがないということは、全員のだれでも 被疑者になり得るということか。 答 かならずしもそうではない。団員の中に、現在のところ、怪しい行動 をした者がいないからである。 問(浅倉)昨夜の十時ごろから十二時ごろまでの間に何をしていたか、団 員の一人ずつに訊いて、その裏付けをとっているのか? 答 そう努力している。 問(浅倉)捜査はいつごろ終る見込みか。 答 分らない。 問(諏訪)捜査が終るまで、観光団は次の予定地に出発できないのか。 答 捜査の目鼻がつくまで、そういうことになろう。 問(鈴木)それでは今後数日あるいは十数日間、ここに留め置くのか。 答 捜査はなるべく早く終らせたい。観光団を留め置くにも限界がある。 問(浅倉)事件の解決が長引けば、観光団の処置をどうするか。 答 上司に相談して、善処する。 エジンバラ紙の記者との質問応答があったが、内容は日本人記者とのそれ と大同小異だった。このようにしてエドワード.イングルトン部長刑事の記 者会見は終った。この一問一答を土方悦子がノートに取っていた。 イングルトン部長刑事は分署に向うためホテルを出た。門田も土方悦子と このホテルを去る前に、疲れを癒すためにロビーでコーヒーを喫《の》んだ。 ホテル.トロウト.ヴィラに帰れば、団員たちの金属的な突き上げの声が待 っていることは分りきっていた。 十五分ばかりそこに居て、玄関を出た。ホテルの門まで通路の傍には針葉 樹の杜《もり》がある。土方悦子が、何かを眼にとめて、ふいに立ち停った。 さっき、記者会見の席にいた鈴木が、栗色の髪をした、細い体格の女と肩 をくんで木立の中を步いていた。 あれが、新聞記者から聞いた鈴木の恋人のロンドン娘か、あいつ、なかな かの腕だ、と門田はその女を見て、また思った。 それにしても、記者団の中で、鈴木の質問は冴えていた。イングルトン部 長刑事の急所を衝いていた。三流紙の通信員とはいえ、ヨーロッパを徘徊す る一匹狼、さすがに感覚は鋭いと門田は感心した。 ホテルに戻った門田は、まっすぐに自室に入り、東京の本社に至急電話を 申し込んだ。 11 局面が転換した。 だが、二つの不幸な殺人事件が解決したわけではなかった。転換は観光旅 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 行団の特殊事情を考慮する外的な動きからだった。 ロンドンの駐英日本大使館からは参事官と一等書記官とがやってきた。一 行にはパリの日本大使館付参事官桐原五郎が加わっていた。桐原五郎は肩書 こそ大使館員だが、実は警察庁から出向している人で、身分は警察庁参事と いう警察高級官僚であった。パリには知られている通り、インターポール(国 際刑事警察機構)の本部がある。そこで日本は警察官僚を駐仏大使館員の身 分にしてパリに駐在させている。 いつぞやオランダはアムステルダムで、日本商社員のバラバラ死体がトラ ンク詰になって運河に浮んだことがある。このときもパリの日本大使館から 某参事官がアムステルダムに出張しているが、その人も警察庁からの出向役 人であった。不幸なことに、その警察庁参事の出馬にもかかわらず、アムス テルダム運河殺人事件は迷宮入りとなったが。 桐原参事官と、これは外交官として本職のロンドンの大使館員二人がスコ ットランドの田舎町にやってきた。また、|ロンドン警視庁《スコツト.ラ ンド.ヤード》からも応援の警部が派遣された。もちろんロンドンの新聞記 者も押しかけてきた。 だが、名にし負うスコットランド.ヤードの警部もイングルトン部長刑事 のやった通りの現場検証と事情聴取を行ったが、これという手がかりを見つ けることはできなかった。桐原参事官も門田コンダクターについて事情を聞 いたが、これも当惑するだけである。 王冠観光旅行社の本社からも、有力な容疑者がいなかったら、一行をなる べく早く出発させてくれという陳情が直接にイギリス警察当局になされた。 また外務省を通じて大使館がそのように働きかけてくれるようにという要請 をした。 門田の第一報の電話を聞いたときの広島常務の驚愕と衝撃の声といったら なかった。イギリスからいって、地球の裏側にあたる東京の回線は、名状し がたい広島とその本社の混乱をナマのままに伝えてきた。広島常務にとって は、まさに「悪い予感」が的中したのだった。いくら門田に注意するように いっても、起るべくして起ったものは不可抗力に近かった。 「よろしい。ぼくは至急に社長とも相談して、すぐにそっちに飛ぶ。それま では、君に適宜な処置を任かせる」 広島は叫ぶように云った。 「なるべく早く、おいでをお待ちします」 門田も、本社の上役の声を聞くと、思わず胸がせまって声も半泣きになっ た。 「しっかりするんだ、門田君。落ちついてやれ。そうだ、土方悦子君は大丈 夫か?」 「大丈夫です」 「江木奈岐子さんにこれから報らせる。彼女もぼくと一緒にそちらへ行くか もしれないよ。そうだ、コペンハーゲンの出来事から、ひどく土方君のこと を心配していたから、こんどそんな事件が起ったと知ると、江木さんは矢も 楯も堪らずにそっちに行くだろうな」 本社が外務省に至急陳情を行ったのはそのあとであった。 まったくこれは初めてのケースであった。旅行会社による外国観光旅行団 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn は年々盛大になってゆくが、いまだかつてこのような重大事故はなかった。 これが普通だったら、有力参考人を取調べのために残して、他は「釈放」 して次の目的地に出発させるところだが、有力参考人すなわち容疑者が一人 も見つけられないのだから始末におえなかった。 もはや、この鱒釣りで有名なだけのレブン湖のホテルには団員二十八人、 講師一人、添乗員一人が忌わしい事件のまき添えを喰って、空しく三日間も 滞在を延期していた。一同はトロウト.ヴィラの食卓に出される鱒のフライ にはもう飽き飽きしていた。 梶原澄子の解剖結果が判明したが、それは検視の推定と一致していた。水 死によるもので、死亡時刻も藤野由美のそれとあまり違ってないという判断 であった。すなわち四月二十二日の午後十時から十二時の間である。やはり 同じ時間帯に二人の女がレブン湖の水によって窒息死したのである。 ただ、二人に対する犯行の方法が違っていた。イングルトン部長刑事がス コットランド.ヤード派遣の警部や桐原参事官らに示した犯行推定を要約す ると次のようになる。 ①藤野由美は自室で殺害された。この場合、犯人はレブン湖の水と鱒を容 器に入れて持参し、藤野由美の部屋を訪問した。それを洗面所の洗面器に移 して満たし、鱒を一、二尾ぐらい泳がせていた。藤野由美がそれをのぞきこ んでいるとき、犯人は彼女の首を洗面器の水の中に突っこみ、力ずくで押え て窒息死させた。この推定の証明となるのは、水にはレブン湖と同じプラン クトンが含まれていたこと、洗面台の水の落し口に当るパイプに鱒の鱗と湖 の藻の一片がひっかかっていたことである。死体はその後、ホテルの荷物運 搬用の|手押し車《プツシユ.カート》に乗せて湖上の小島の水の中に捨て られ、いかにもその発見場所が犯行現場であるかのように見せかけられてい た。 ②梶原澄子はホテルの外で殺害された。まず湖岸の近いところから水の中 に突き落されて窒息死させられ、犯人によって死体をひき上げられ、岸辺に 伏せて乾してあるボートの下に隠された。 ③二つの場合、共通しているのは犯人の指紋が検出されないことと、また 現場が岩場になっているため足跡がついていないことである。 以上は、イングルトン部長刑事と日本人新聞記者との会見による一問一答 で、もっと詳細が尽されたことであった。 犯人は単独ではない。このような複雑な二つの方法を同じ時間帯(それが 一時間ぐらいであろうと)に実行できるはずはないからである。それは梶原 澄子の場合を見ても分る。あの重いボートを一人の力で起して濡れた死体を さし入れることは不可能に近いのである。 犯人は日本人以外にはあり得ない。レブン湖のまわりには土地の不良もう ろついていないことはなかった。彼らを警察で洗ってみたがおかしなことは 何も出てこなかった。湖畔のいくつかのホテルにもいかがわしい外国人客が 泊っていたが、それにも怪しい行動者はいなかった。①の場合をみても、見 知らぬ外国人(日本人以外)が藤野由美の部屋に出入りしていれば目につか ぬはずはないのである。藤野由美も親しい人間でなければ、いくら湖の鱒が 珍しくてもひとりだけの部屋には引き入れない。 また、外国人が日本女性を二人も殺すような動機はなかった。死体を解剖 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn してみても性的な暴行の痕はなかったし、奪られた金品もなかった。それに 外国人だったら行きずりの犯行だから、こんな手のこんだ犯罪計画はしない。 複数の犯行という点だけに絞ると、容疑者を日本人側に求めるのにこと欠 かない。一行は三十人もいる! しかし、動機が発見されなかった。観光団体だから寄せ集めの人間ばかり であった。ほとんどが、この旅行に出る前にはお互いに会ったことも見たこ ともない間柄であった。知り合ったのは飛行機に乗ってからである。それも 東京出発以来一週間しか経っていなかった。一週間のあいだに友情もできる し、不仲も生じるだろうが、いくら敵愾心をもっていたところで殺意にまで 発展することは常識のうえから考えられない。 藤野由美も梶原澄子も同一犯人(複数)の手にかかったのだから、二人の 女性は犯人にとって殺意の対象であった。それなら被害者の二女性はお互い が知合いであるか、知合いでなければ何らかの意味での関係がなければなら ない。だが、そういう様子は、少なくとも旅行途上では見出せなかった。 もっとも、犯人がAとBとを狙っても、AとBの間は無関係という場合は あり得る。この場合、動機の発見はたいそう困難になる。なぜなら、それは この旅行団が結成される以前の事情にさかのぼらなければならないからであ る。その事情の中に犯人の動機は伏在している。が、この発見は日本国内の 調査でないと無理のようである。 無理のようだ、と歯切れの悪い言い方になったが、犯人は必ずこの王冠旅 行社主催のローズ.ツアの団体の中にいるとイギリス警察側も日本警察側(駐 フランス大使館)も見込みをつけていた。だれだかは分らない。しかし犯人 は潜んでいる。 目下のところは容疑者すら判らないが、これから先の旅をつづけている間 に必ず犯人はその尻尾を出すだろう。それを待つしかなかった。つまり、こ のまま犯人を泳がせておくのである。そうすれば、団員一同はこの軟禁状態 から解放され、予定の観光を愉しむことができて、一石二鳥なのである。 そうなると、誰が団員の観察者になるかという問題が起ってくる。この場 合の観察者とは探偵の役である。 ほんとうは専門家が──本職の警官にしても私立探偵にしても──一行の 中に参加すればいいのだが、それではあまりに団員たちを刺戟しすぎる。そ れに容疑者の見当すらついていないのに、探偵が途中から加わってみんなの 個人的行動を監視するとなると、人権問題が起ってくる。 そこで桐原参事官は、門田コンダクターと土方講師とをひそかに呼んで説 明した。 「……そのようなわけで、君たち二人がよく気をつけて二十八人を注意し、 何か変った様子があったり、これはと思われるフシがあったら、旅行さきの 大使館にこっそり通知してもらいたい。各地の大使館にはこっちから連絡し ておくから」 「そういたします」 門田は、ほっとして答えた。出発できるのが何よりありがたい。いまや団 員の不満はヒステリックなまでになり爆発寸前になっていた。いくら門田の 滑らかな弁舌をもってしても限界に到達していた。探偵役とは大任だが、な に、それはそのときのこと、本職ではあるまいし気軽にみんなの様子を眺め PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ておけばよい、べつに責任をもつこともない。それよりもここを無事に出発 することが焦眉の急であった。 「で、この次は何処に行くのかね?」 桐原参事官は門田に訊いた。 「三日間もこの事件でロスをしたので、当初のスケジュールを縮めねばなら ないでしょう」 門田は二十五日間の日程表を警察庁出向の参事官に見せた。 □東京==コペンハーゲン==ロンドン──エジンバラ──ロンドン==チ ューリッヒ==ベルン(ユングフラウ登山電車で)──クライネシャイデッ ク──ジュネーブ==パリ==ローマ==アテネ==テヘラン==バンコッ ク==香港==東京□ 「さっきスコットランド.ヤードの警察官の人にロンドンの各航空会社の支 店に聞いてもらったのですが、幸いなことに、チューリッヒの直行便が一つ だけ都合つきます。ロンドン、チューリッヒ、ウィーン線のスイス航空です が」 門田は云った。 「やれやれ。これがパリ直行だと観光団の鬱《ふさ》いだ気持もいっぺんに 晴れると思うんだがね」 「ぼくもそう思いますが、スイスだって悪くありません。あそこはどこを見 てもチョコレートの化粧函に付いているような風光明媚な景色だし、雪のア イガー絶壁を見ただけで、気持がスカッと晴れると思いますよ」 桐原参事官はもう一度スケジュール表をのぞいて、 「では、ベルンの日本大使館に早速電話連絡をとっておくよ」 と云った。こうして行く先々に連絡されると、この観光団はまるで旅行中 厳重な監視付のようなものだった。これは団員の客には絶対に内緒であった。 二遺体の引取りについては、東京の王冠観光旅行社から門田のもとに電報 が来て、広島常務が遺族に従ってイギリスに明日にでも飛来するということ だった。その際、江木奈岐子も一緒にくるという。観光旅行社としても責任 の重大さを自覚したからである。 同様な電話はロンドンの大使館にも入っていた。本来なら遺族の到着まで 遺体を旅行社員が護っていなければならないのだが、なにしろ添乗員は門田 一人だし、アシスタントもいなかった。土方悦子は講師であって社員ではな い。 江木奈岐子の飛来は、その身代りとした土方悦子を気遣うあまりであろう。 すでにコペンの騒動でも、江木奈岐子の心配が広島によって伝えられもし、 土方悦子は江木から直接に電話を受けている。江木奈岐子は、スコットラン ドで二人も団員が殺されたと聞いて、じっと東京に落ちついてはいられなく なったらしい。 門田は、不平不満の団員二十八名を引具して一刻も早く次の観光地に出発 しなければならなかった。 そこで、結局、大使館員が二遺体を護るためにこのキンロスという保養地 だが、スコットランドの田舎町のホテル.トロウト.ヴィラに居残ることに なった。これも「邦人保護」という在外公館の役目の一つといえた。 出発と聞くと二十八人の団員に生色が蘇った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 金を返してくれとか日本に帰るとか嘆いていた連中もおとなしくなり、一 刻も早く次なるスイスに飛び立ちたいふうであった。 それだけではない。女性一行の間には、こんどの事件がまたとない経験の ように思われ出した。殺人事件のある観光団などというものが、そう滅多に あるものではない。その団体に参加していたというだけで自分自身にとって 将来の語り草にもなるのである。だれもが今後この観光団の旅をつづけても わが身に同じ災難がふりかかってくるとは思わなかった。自分だけは安全で あり、災厄の局外者であり、傍観者だと信じて疑わなかった。してみれば、 平凡な団体旅行をしているよりも、このほうがはるかにミステリアスであり、 刺戟的であった。未解決の殺人事件ほど神秘的で戦慄的で、また或る意味で 耽美的なものがあろうか。なかには『悪の華』を書いたボードレエルの「一 行の詩」(芥川龍之介の遺作)を感覚的に連想した文学女性も、少数だがあ ったにちがいない。 とにかく、彼女らはこれに参加していることに俄かに価値感をおぼえ、意 義を重要に考えるようになった。生涯に一度あるかないかの経験をのがすて はなかった。返金の要求者も脱落の希望者も、次第に声を絶ってしまった。 そこへくると、新聞記者たちは職能的であった。彼らはこの二つの殺人事 件が未解決なので、スコットランドに釘づけされていなければならなかった。 事件の徹底的捜査は、派遣されたロンドン警視庁の手によって行われる。そ れには桐原警察庁参事官(駐仏大使館付参事官)も協力するのだ。捜査の進 展によって、どのような事実が出てくるかわからない。また、いつ犯人の名 が割り出されるか知れない。その場合、レブン湖畔の捜査本部に詰めていな いと、他紙に出し抜かれる。各本社からも、そこにとどまって取材活動をす るよう厳命が来ているらしかった。この未解決の状態にある二つの殺人事件 の報道は、日本の読者にたいそう受けていることは間違いなかった。この旅 行団に随《つ》いてスイスに行くことも一つの取材ではあったが、ウエイト はやはりスコットランドの現地だった。 女性観光団がエジンバラに向うため、ホテル.トロウト.ヴィラの前から バスに乗りこむとき、四人の新聞社ロンドン支局員と一人のヨーロッパ通信 員とは別れの挨拶を兼ねて、彼女らに最後の取材にやってきた。 たいへんな迷惑でしたね、ご感想はどうですか、と彼らは団員の一人ずつ に訊いてまわった。バスの出発時間が迫っているので、返辞は短い言葉に制 限されたが、旅行仲間から二人の犠牲者が出たことを悲しむ言葉と、またと ない経験でしたという感想とが大部分であった。もちろん本音は後者だった。 このように新聞記者から質問をうけるのも、一行の中に殺人事件が起った せいである。平凡な旅行だったら記者たちから洟《はな》もひっかけられな い。生れてはじめて記者らの質問をうけた者(ウインザー城で質問された者 は二度目ということになるが、それもこの外国の旅でである)は、それだけ でも感動し、さらに羽田空港に帰りついた際にはこれに何倍する記者団に囲 まれるかと思うと、いまから昂奮が起ってくるのだった。 門田にはもちろん記者たちの質問が集中した。また傍にいる土方悦子もそ の捲き添えを食った。が、門田は、当局で捜査中なので、その筋のご命令も あり、なにごとも申しあげられない、ただ、自分が添乗員となった旅行団か ら二人の犠牲者を出したことは痛恨のきわみであり、責任の重大さを自覚し PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ていると神妙に語って首を垂れた。土方悦子は、門田よりもずっと言葉少な だった。 記者たちは、記念撮影だといって二十八人の女性団員と、門田と土方悦子 をならばせて持参の高級カメラをむけた。むろん「日本スポーツ文化新聞」 兼週刊誌数誌の通信員も大衆カメラでシャッターを切った。 表むきは、記念写真だが、このならんだ顔の中に、藤野由美と梶原澄子殺 しの加害者が居るかもしれないのである。捜査陣の推測からしても、その可 能性が大きかった。記者たちは、それに備えてこの「記念写真」を撮り、ま た、その前から一人一人のスナップ写真を撮りまくっていたのだった。加害 者が分ったとき、それらの写真は紙面で「なにくわぬ顔で微笑する犯人何々 (人名)」とか「大胆不敵にもカメラの前にポーズをとる何々」といった式 のキャプションがつくにちがいなかった。 しかし、そんな下心を記者たち五人は顔に塵ほども見せず、友情を表情に 浮べ、惜別の言葉をいった。 「せっかくお知合いになったのに、お別れとは残念ですな。しかし、ぼくら もできたら、あなたがたのあとを追って行くかもしれませんよ。なにしろ、 こんな華やかな観光団に加わることができれば、またとない愉しいチャンス ですからね」 彼らは笑いながら冗談めかして云うのだが、これは半分は真剣な予告であ った。スコットランドで殺人犯人の名を知り、スイスあるいはその先の旅行 地で逮捕の取材をする可能性に備えてである。 バスの窓の下に、五人のプレス.マンたちはならび、笑いながら手を挙げ たり、カメラをさしむけたりしていた。窓からは女性たちが無邪気に手を振 った。 通信員の鈴木が、最後にバスに乗りこむ門田のところに走り寄ってきて彼 の手を握った。 「門田さん。こんどはご迷惑をかけましたが、また、いろいろとありがとう ございました。おかげで、日スポ文化からも週刊誌からもたくさんの原稿注 文をもらいました」 髭面がうれしそうに歪んでいた。 「それは、けっこうですな。しかし、あんまりヨタは書かないでくださいよ」 門田は釘をさした。コペンハーゲンのロイヤル.ホテルの一件を利《き》 かせたのだが、鈴木はむろんそれを感得して頭を掻いた。 「こんどは、絶対に、そんなことはしません。それに日スポ文化のデスクに も週刊誌の編集長にも、興味本位に、また煽情的にならないように、よく云 っておきます」 鈴木がそう約束しても、彼のレポをリライトするのはそれらの新聞や週刊 誌の編集部であった。 そこでは読者に大受けするような記事に書き直される。女性だけの観光団 殺人事件だから、こんな華麗で、異国的で、セクシーな材料はなかった。そ れはどのようにでも輪がかけられる。 それにしても、髭の通信員は、この事件の送稿で当分は懐が潤うわけであ る。彼のうれしそうな顔は、ここしばらく生活に心配がないという安心を率 直にあらわしていた。定収入のない、放浪同様の通信員のあわれさを門田は PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 彼の顔に見た。コペンの居酒屋で初めて遇ったときは、放胆な無頼通信員だ と思っていたのだが、やはり生活からくる本性は人間的であった。彼がほう ぼうに女をつくっているのも、その寂しい、やるせない生活をまぎらわすた めであろう。そういえば、土方悦子の眼にとまり、門田も一瞥したロンドン 娘は、ここには姿が見えなかった。 一行はその晚エジンバラ駅を出発して夜行でロンドンにむかった。長い軟 禁のあとの解放感で、さすがに疲労し、寝台車ではよく熟睡した。 ヒースロー空港で、土方悦子は日本に電報を二つ打った。 [#改ページ] スイスの「高原」 1 スイス航空機は午前十時の離陸であった。 イギリスの陸地が、その南端の丘を最後にして遠|退《の》いて行った。 「悪魔の地よ。素晴しき国よ。さようなら」 心の中で呟いて窓から見下した女性団員も多かったにちがいない。 蒼い海峡の上を飛んでいるとき、土方悦子は下を航行する小さな白い汽船 を眺めていたが、「あ」と、小さな声を出した。 「どうしました?」 かなり神経過敏になっている門田は、何事が起ったかと思った。 「ボートの謎が解けました。梶原澄子さんの水死体がかくされていたあのボ ートの謎です」 悦子は下を眺めながら云った。 「あれは複数の犯人がしたことではありませんわ。謎解きの手がかりはヒー スロー空港での光景がヒントでしたわ」 折から、このボーイング727スイス航空機はドーバー海峡を渡っていた。 フランスのカレーの西側を通過し、アミアン、ランス、ナンシーと同国の西 北部を直線コースで南下し、フランス.西ドイツ.スイス三国国境のバーゼ ル空港の上に進入するのに離陸後約二時間かかり、それより方向を東南に変 えてチューリッヒ空港への着陸態勢に入る。 海峡を渡り切るころから雲が地上を蔽って、フランスの景色を見ようと窓 に顔を寄せるローズ.ツアの女性団員たちを失望させた。それでもこれがフ ランスの上空かと思えば灰色の雲までが薔薇色に輝き、香水の匂いをも含ん でいるみたいに彼女らには見えるらしかった。それで、雲の切れ間に青い地 上が見えたり、白と赤と砂子をかためて撒いたような小都市が望まれると、 若い団員などはたいへんな昂奮ぶりだった。 スコットランドの忌わしい田舎町の軟禁から解放されて自由を得た歓びが 彼女らの有頂天を手伝っていたのはもちろんであった。彼女らのなかで窓の 雲にむかって手を振るような大げさな身ぶりがあっても咎《とが》むべきで なかろう。それは長いこと手足を縛られた人間が縄を解かれたのちに行う本 能的な自由運動と違わなかったからである。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 雲の上は晴れ上り、ひどく身近な太陽は燦々《さんさん》と光をふり撒い ていた。気流の関係で機に多少の横ぶれはあったが、そうした動揺も一行に は快いハンモックに感じられた。 その座席の片隅で、門田は土方悦子の言葉を咎めていた。 「なんと云ったんです? ヒースロー空港での光景が、どうしてボートの謎 を解くヒントになったんですか? あの二人の殺人事件の犯行がどうして複 数の犯人によるものでないと云えるのですか?」 門田は、幼稚なことを云い出した相手を眺める眼つきで、口辺に多少軽蔑 した笑いを浮べていた。 「力学的な解決ですよ、門田さん」 それは門田にとって生意気な口のきき方に聞えた。 「わたしたちは同じ時間帯の中に二人の女性が水死したことを、単独犯では とてもむつかしいと判断していました。この時間帯はおそらく一時間とは違 わなかったでしょうが。藤野由美さんは湖の水辺で溺死体で発見されました が、梶原澄子さんの場合は、その水死体が重いボートの下に隠されていて、 犯人にとっては、余分な労力が加わっていました」 「その通りです」 「わたしがヒースロー空港で見たのは、ポーターたちの荷物運搬ぶりです。 バスが建物の前に横付けになる。各自の荷物はバスから降ろされて建物の中 のスイス航空搭乗受付のデスクの前までポーターが二輪の手押し車に乗せて 運びましたね。あのプッシュ.カートというのは把手で起さない限り、荷物 台の先端のほうが地面に付いています。これがヒントでしたわ」 「なんだ、そんなことかね」 門田は憫笑《びんしよう》を洩らして云った。 「君は|鱒 荘《トロウト.ヴイラ》の裏に放っておかれた古手押し車の ことを云っているのでしょう? あれは藤野由美さんを室内の洗面器で窒息 させた犯人がレブン湖畔まで運搬用に使ったというのはもう分り切った話じ ゃないですか。イングルトン部長刑事もその線で捜査を進めていた」 「そうでしたね。でも、犯人は藤野由美さんの死体をホテルから湖畔に運搬 したあと、なぜ、手押し車を元の場所に戻して置かなかったのでしょうか? そうすれば、手押し車が死体の運搬に使用されたことも分らなかったでしょ うに。そうして、室内の洗面器での水死のトリックも、手押し車の使用が見 つからなかったら、死体運搬はどのようにして行われたかという難問題に捜 査陣を逢着させたはずですわ。なのに、なぜ、手押し車を湖岸に放ったらか しておいたのでしょうか?」 「君の云う通りだけどね。犯人の心理として死体運搬の目的を果せば、あと は安心するものでしょうな。そういう気のゆるみが手押し車を裏の物置小屋 の廊下に戻さなかったのだろうね」 「たしかに犯人の気持には目的を果したあとの安堵感はありますわ」 「もう一つはね、手押し車を元の場所に格納するだけの余裕が犯人になかっ たことです。それはそうでしょう? だって、手押し車を元の場所に戻すに は時間もかかるから、その間に、万一、他人にその行動を目撃されたら、そ れこそ九仞《きゆうじん》の功を一簣《いつき》に欠くじゃないですか?」 「それもあります」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 土方悦子は顔を伏せた。門田はこざかしい女の幼稚な発想を砕いたと思っ た。 「でも」と土方悦子はその顔をゆっくりと挙げた。「藤野さんの部屋の洗面 器にレブン湖の水を張ってそれに藤野さんの顔を押しつけたほどの犯人が、 どうして手押し車だけを完全に始末しなかったのかという不思議さは残るん です。門田さんのおっしゃることはよく分るんですが」 「君 の考えには矛盾があるようだね。正反対の両方とも 考えられるとい う……」 「そうなんです。手押し車を岸に放置したことと、洗面器の落し水の穴に鱒 の鱗と湖の藻草の一片とがひっかかっていたこととは、犯人のわざとらしい 手落ちのような気がしてならないんです」 「わざとらしい手落ちだって?」 「少なくとも、魚の鱗と藻の屑とはそんな気がするのです。わざと落し水の パイプにひっかかるようにしておいたという……」 「そんな莫迦なことはなかろう。あれはデービス刑事がパイプの中に指を突 込んで探り当てて発見したものです。ぼくもそれを見ていた。犯人が水を落 すとき、その水にまじっていた鱗と藻とがパイプの中に偶然にひっかかって いたのです」 「犯行を組み立てると、こうでしたわね。まず犯人はレブン湖の鱒を獲って 水といっしょにかなり大きなビニールの袋に入れてホテルの裏口から戻り、 藤野さんの部屋を訪問した。藤野さんに泳いでいる鱒を見せるつもりで洗面 器に水といっしょに移した。藤野さんは興味をもって洗面台をのぞきこむ。 それを犯人はうしろから頭を押えて洗面器の水の中に顔を押しこむ。そして 藤野さんが窒息死したあと、手押し車で小島に運び、湖の中に捨てる。こう すると、藤野さんの肺や胃からはレブン湖のプランクトンを含んだ水が出る ので、あたかも湖で水死したように見える。……そうでしたわね?」 「その通りです。だいたいね」 「では、藤野さんの口の中や鼻孔から、どうして鱒の鱗や藻の端が出てこな かったのでしょうか。洗面器の落し水のパイプにひっかかっていたくらいだ から、同じ水にはまだまたほかに鱗とか藻の屑が浮いていたと思いますわ。 藤野さんが窒息死前にそれを苦しまぎれに水といっしょに飲んでもよいわけ ですが……」 門田はちょっと黙ったあとで云った。 「鱗も藻の屑も少なかった。それに藤野さんはなるべく水を吸いこんだりし ないように必死に抵抗したろうから、微細なプランクトンのほかは鼻や口に 入らなかったのでしょうね」 「鱗はたくさんあったと思いますわ。だって、洗面器の中には生きた鱒が入 っていたはずですもの。鱒は人間の顔が水に突込まれたもんだから、暴れて 跳《は》ねまわったに違いありません。魚の鱗は洗面器のタイルや藤野さん の顔に当って水中に散乱したと思います」 門田は黙った。実は、洗面器の中に鱒が泳いでいたことを忘れていたのだ った。 「鱒が暴れたりすると、そのヒレで藤野さんの顔に傷がつくはずですわ。と ころが死顔は擦り傷一つなく、きれいなものでした」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「鱒がそれまで洗面器の中で元気でいたという証拠はどこにもありません」 と門田は答えた。「水の中から獲って、ビニールの袋に詰めてホテルに持ち 帰ったのだから、すでにかなり弱っていたことも考えなければいけない。も しかすると、洗面器の中に移したときは死にかかっていたかもしれませんね。 それなら飛んだり跳ねたりできないから、藤野さんの顔にヒレで傷をつける こともないし、鱗も散乱しはしない」 「では、その死んだ鱒はどこに処分されたのでしょう?」 「もちろん藤野さんの死体といっしょにレブン湖に投げられたろうね。だか ら死んだ鱒が一尾、湖上に浮んでいたはずだが、あんなに広い湖だもの、死 んだ魚の一尾ぐらいは分りませんよ」 「犯人が女性だとすると」 と、土方悦子は小さな声になって慎重に云った。が、ジェット機のエンジ ンの音と、女性団員たちの注意が窓辺に向っていたので、このヒソヒソ話に 眼をむける者はなかった。二人の座席は最後尾だったので、隣には可愛いス イス航空のスチュワーデスが休憩に腰かけているだけだった。 「……加害者である女性の力で、洗面器の中に顔を押しつけたまま、被害者 の抵抗を封じきれたでしょうか?」 「君は知らないが、その点はイングルトン部長刑事もぼくに云ってましたよ」 と門田はちょっと肩をあげて答えた。 「洗面台は外国人むきに高くなっている。日本人には高い。藤野由美さんは 一五二センチで日本の女性としても平均よりやや低いほうだった。で、うし ろからふいに顔を洗面器の中に入れられたら、脚の先が床から浮き上る。こ の床がタイル張りですね。すべすべして足先のひっかかるところがないから よけいに足が宙を泳ぐ。すると上体に重心がかかり洗面器の中に顔がよけい に落ちこむ。……さらに、藤野さんにとって不幸なことは、洗面台のふちも タイルの釉《うわぐすり》が充分にきいた滑らかなもので、これに手をかけ てもつるつる滑って手でつかまるところがない。西洋の洗面台のふちは板の ように広くて、つかみ場所がない。ガラス板の上に手をかけるようなもので す。うしろから押えつけられたら、いま云ったように前に傾いた自分の重心 と手のつかみ場所がないのとで、無駄にもがくだけだったでしょう。すなわ ち女の力でもあの犯行はやり遂げられたのさ。イングルトン部長刑事はそう いう意見だったが、ぼくもそれには同意できたね」 門田は少々興に乗ってこういう例を出した。 「君は『浴槽の花嫁』という新妻殺しの事件を聞いたことがあるでしょう? 日本でも戦前に読み物で紹介されたから有名だ。イギリスで起った保険金欲 しさの犯罪だが、花嫁を浴槽に入れた新夫が彼女の裸の両肩をうしろからふ ざける恰好で押える。そしていきなり力を入れて湯の中に押しこむ。タイル の浴槽はすべすべしていて重心を失った身体が浅い底にすべりこむ。手でふ ちをつかもうにも、これもまた手の先が滑るばかりさ。二十世紀の初めにジ ョージ.スミスなる男がロンドンのビスマーク街(現在のウォータルロー街) のアパートで行った水死に偽装した殺人犯罪だと、さすがに同国人だけにイ ングルトン部長刑事はぼくに詳しく教えてくれたよ。この犯罪例でも分るよ うに、すべすべした浴槽とか洗面台とかは手のつかみようがなくて、気味の 悪い場所さ」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「ほんとにあの底が浅くて縦の長い、すべすべした西洋風呂は怕いですわ」 土方悦子は経験から同感した。が、それにつづいて云った。 「その犯罪実話例で思い出しましたが、外国の推理小説に、海の中に浮んだ 溺死体を解剖すると、肺や胃の海水にはその海域に特有なプランクトンがな かった、それでよそで溺死させて現場の海に死体を持ってきて捨てたという ことが分ったというのがありましたわ」 「………」 「その逆をいったのが、プランクトンを含んでいる沼の水を家の中に運んで きて容器に入れ、そこに被害者を突込んで窒息死させ、死体を前の沼に捨て ておく。そのため解剖結果からしても死体の浮いていた沼が溺死現場だと判 定されるという推理小説もありましたわ」 「藤野由美さん殺しがまさにそれですよ。だから、デービス刑事が洗面台の 落し水のパイプから鱒の鱗と藻の屑を見つけたとき、イングルトン刑事は、 たちまち本当は屋内の犯行、湖畔の犯行偽装というトリックを見破ったのさ」 「そのまた裏だってありますわ。あまり知られ過ぎた犯罪手口だと、盲点を 突いて、その逆を行くかもしれません」 「なんだって?」 「考えてみると、洗面台のパイプの中に鱗や藻の端がひっかかっていたのも、 わざとらしい気がするんです。もし、藤野さんの肺や胃の中に同じ鱗や藻の 屑が入っていたら、わたくしもこんな疑いは持たなかったのですが」 「それは、さっきも説明したように……」 「鱗も藻も少なかったというんですか。それじゃ犯人は藤野さんを洗面台の 前に誘うための鱒をレブン湖からどうして獲ってきたのでしょうか。釣った のですか?」 「………」 「わたくしは団員のみんなに訊いたんです。あの晚、釣り道具を借りて釣り をした人は一人も居ないし、そういう人を見た者もいないんです。ほとんど が散步でした。あのレブン湖を『湖上の麗人』のカトリン湖になぞらえて、 ロマンチックな詩情に浸っていたといいます」 「………」 「釣りでなかったとしたら、犯人は鱒を釣堀から買ってきたのでしょうか? でも、あれは午後十時以後の犯行でした。釣堀はおろかすべての商店は閉っ ています」 「………」 「そうすると、犯人はレブン湖から鱒を手でつかみ取りしてきたのでしょう か?」 門田は返事ができなかった。 「わたくしの疑問はこんなところからも起りました。結論を云うと、洗面台 には鱒なんか入っていなかったんです。犯人はレブン湖の水をビニール袋に 入れて持ち帰るだけでよかったんですが、その中に鱗が一、二枚と藻の細片 とが偶然に入っていたんです。洗面器の水を落すときに、それがパイプにひ っかかり、デービス刑事に見つけられ、鱗と藻のことからイングルトンさん の推理になりました。けど、犯人が湖の水と鱒の鱗と藻とを洗面器に入れた のは、湖で藤野由美さんを溺死させたあとだったんです」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 坐っていたスチュワーデスが窓の外を青い瞳でのぞきこんだかと思うと立 ち上って、純白の手套にマイクを握り、自国語のあとにつけてアナウンスし た。 「……We are flying over the city of Basel, and will be arriving at Zurich international airport in twenty minutes」 2 チューリッヒのクローテン空港はほとんどスイスを感じさせない。それほ ど山岳は見えないし、空港を出ても平板な景色である。構内にレンタカーの 会社が窓口をならべているのは、スイスに限らず、ヨーロッパの旅が車の気 儘に任す愉しさにあるからだ。「ローズ.ツア」のようにお仕着せのコース では規制の悲哀を感じる。広場にひしめいてならんでいるレンタカーの大群 を見やりながら、観光団員たちはちょっぴりその寂しさをうけとった。ロン ドンからの連絡でさしまわされたバスは観光用の大型で、山の頂上が見える ように屋根近くまでガラス張りになっていた。 しかし、チューリッヒからベルンまでのほぼ百二十キロほどは雪の山頂は 一つも見えず、低い連山を遠景に庭園のような森と原野と牧場の風景だった。 白いハイウェイの左手には渓谷があるらしいが渓流は窓からは見えず、ゆる やかな起伏をくりかえす田園の丘が映るだけだった。農家は小さく、煉瓦色 の屋根と白壁を持ち、柵で囲った牧草地には乳牛が必ず群れていた。チョコ レートの化粧函に貼った風景意匠がそのまま生きていた。 観光団の女性たちは「スイス」が展開するにつれて満足していた。スコッ トランドの憂悶も不平も、きれいに忘れているようにみえた。彼女らは発剌 さをとり返し、新鮮な感動を表現するのに身もだえしていた。 「犯人がレブン湖の鱒の鱗と藻とを洗面器に入れたのは、湖で藤野由美さん を溺死させたあとだったんです」 惜しいことに飛行機が着陸態勢に入ったあわただしさに──あわただしさ にかこつけたかもしれないが、土方悦子はあとを云わなかった。ヒースロー 空港で見た手押し車のヒントのつづきも口の中にのみこんでしまった。いま、 最後尾の席に悦子とならんだ門田は、その先を聞こうと小さな声で促したの だが、悦子は窓をむいて、折から走ってきた「バーゼルに七〇キロ」の道標 に眼をむけ、唇に人さし指を当てた。滅多なことをここで云えますかと、素 知らぬ表情だった。 三人がけのシートで門田の隣の通路側が竹田郁子であった。まさかこの高 校教師が関連者《ヽヽヽ》というわけでもあるまい。第一、彼女はせまい通 路を隔てた向う隣の服飾店経営の曾我千春と上体を傾け合って話している。 こっちの話を聞く余裕はないはずだ。前の席には星野加根子、多田マリ子、 金森幸江の背中がならんでいる。未亡人、バーのマダム、魚屋のおかみさん と多様な顔ぶれの同席だがこれは偶然である。うしろの話声はわりと耳に届 きがちだが、彼女らもロマンチックな風景の展開に夢中だった。 土方悦子が話に用心するのも当り前で、藤野由美と梶原澄子を殺した犯人 がこのバスの中に何喰わぬ顔で乗っている可能性はほとんど百パーセントに 近い。門田もそこを察して質問を打ち切ったのだが、土方悦子の尤もな顔つ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn きを見ていると、無理に訊かなくてもいいという気になった。 チョコレート函の風景も二時間近くも走っていると飽きがきたのと疲労と でバスの揺れに誘われ、頸を前に垂れる者が出てきた。折から空は日ざかり の光線が弱まりつつあった。 ベルンのホテルは台地上にあった。下は抉《えぐ》りとったような渓流で、 深い川が蛇行している。渓流はアーレ川という。主な市街地は低地にひろが っている。窓からみると、高い橋に旧い電車が走る。橋の下の川沿いも、台 地上も並木道だった。ホテルじたいも、古典的な装いでクリーム色と白の構 成だった。ロココ風な装飾過剰は煩わしさよりも婦人たちをよろこばせた。 部屋の割りふりに苦情が一つも出なかったのは、ひとえにこの宿のクラシッ クな豪華さが団員たちに気に入ったからで、部屋での振舞いも廊下の步みも しぜんと気どりたくなるのである。 不幸が|幸いして《ヽヽヽヽ》、藤野由美と梶原澄子の同室二人が永遠に 抜けたため、十四組の室友の組合せできちんとおさまった。梶原澄子に新し い室友として望まれていた多田マリ子は、もとどおり星野加根子との組合せ であった。 「今までの組合せで、うまくゆくかしら?」 土方悦子が心配した。 「そんなことを気にしてたらキリがありません。いま、一つでも動かしたら、 一波が万波をよんで収拾がつかなくなる。今までどおりでおさまったので、 ぼくはほっとしてるんです」 「それは、そうだけど」 門田はふいと思いついて、小さな声で悦子の耳もとに云った。 「それとも……今度事故が起るのは星野加根子さんの番かな?」 悦子が銃声でも聞いたようになったので、門田はあわてて、 「いや、もちろん冗談だ、冗談だ」 と云った。逃げのついでに、三時のお茶にみんなを食堂に集めるのを手伝 ってください、市内見物の手はずを説明するから、と命じた。門田には、星 野加根子が何やらこの団体のことで秘密を知っているらしいことが頭にあっ た。 「これから一時間半ばかりベルンの街を見物いたします。この街は中世の面 影がよく残っておりまして、いたるところに旧い伝統的な建物が見られます。 お疲れの方はホテルに居残って休養してください。明日は登山電車でユング フラウ.ヨッホまで登ります」 食堂の茶席に静かなどよめきが揺れ渡った。ホテルに居残る者は一人もい なかった。 駅前広場から東の熊公園までのおよそ一キロのオールドタウン、中世の街 路を日本女性団はぞろぞろと步いた。数多い中世の噴水塔と中世の時計台。 時報の鐘が鳴り響くにつれて伝統的衣裳の人形群が操り芝居のように動き出 すのを彼女らは塔の下から口を半開きにして見上げていた。 この善良な女たちの中に、どうして殺人鬼がまじっていると信じられよう、 と門田は脇に立って眺めていた。彼はひそかに団員たちの動静や表情を窺っ ていたのだが、そこには外国の初旅に出た女の好奇心に満ちた素直なよろこ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn びしか発見できなかった。だれ一人として何の秘密も何の詐術も持ってない ようにみえた。 どうも分らない、女というのはふしぎなものだ、女は魔性というが、ほん とうだわいと門田は、英語のガイドブックを片手にグループに説明している 土方悦子の澄んだ日本語と、傍を通りすぎる抑揚の強い、巻き舌のドイツ語 の境目に佇んで思うのだった。 時計台は「牢獄塔」ともいう。十六世紀の噴水の一つが「食人鬼の噴水」 である。ふだんはそうは感じないが、この際のことで門田は不吉に思わない わけにはゆかなかった。 「牢獄塔」をすぎてマルクト通りに入ると建物は荘重にくすんでいる。それ を沈鬱にしているのは中世風なアーケードと家々の下、通路沿いにつくられ た酒ぐらだった。灰色の蓋の下には五十年、百年の葡萄酒も貯蔵されている だろうが、道路にせり出しているような古めかしい蓋を見ただけで、その下 の暗室からクモの巣が身体にからんできそうであった。 「中世と聞いただけで血なまぐさい暗さをおぼえますが、こういう建物を見 るとその実感が肌にきますわ、チーフ」 土方悦子が門田に話しかけた。 「……ホームズはヨークシャーあたりの田舎の平和な風景を見ても、こうい う田舎だからこそ隠された殺人事件があると呟くのですが、わたくしはこう いう中世の街だからこそ陽の目を見ない殺人事件が埋もれたままになってい るような気がしてなりませんわ。たとえば、この道路傍からも入口が見える 葡萄酒貯蔵の地下室に白骨死体がかくされているというような……」 この小柄な女は、スコットの『湖上の麗人』の浪曼主義に感傷を引き立て られる一方、古典的探偵小説の興ざめな論理性にも興味を持っているようで、 門田にはちょっと捉えようがなかった。土方悦子は、この女性ばかりの観光 団の中に置いても整った容貌のほうなのだが、性的な魅力を感じないふしぎ な存在だった。添乗員が助手の女と旅行先で醜聞を起すのは珍しい例ではな いが、土方悦子に限って自分との間にそんな問題の起りようはないと門田は 妙な自信を持った。それというのが、これまで何かにつけてこのこましゃく れた小さな女から鼻づらをひきまわされてきたような気がしたからでもあっ た。 手押し車とボート下の死体と、レブン湖の殺人が洗面器の鱗や藻の投入よ りも先だったという説明を悦子から聞く機会は容易にこなかった。街の見物 から帰ると、団員たちはひと風呂浴びるし、上れば食堂での夕食会であった。 その食堂の内部もまた装飾過剰もいいとこだったが、門田はそんな観賞より も、みんなが揃うたびに頭数《あたまかず》を読まねばならなかった。 食事が済みデザートになったとき、肥った金森幸江が手を挙げて門田と一 同に発言の許しを求めるしぐさをした。 「わたしたちはスコットランドの宿でとても面白くない日々を送りました。 その憂さ晴らしをしたいのですが、女の憂さ晴らしといっても何もできませ んわ。東京で知った人に聞いてきたんですが、このベルンにはカジノという 賭博場《ばくちば》があるそうです。安い賭け金だそうですから、今晚はそ のカジノとかいうところに連れて行ってもらいたいと思います。希望者は居 られませんか?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 魚屋のおかみさんの勢いのいい提案は一同の共感と賛成を得た。どちらか というと団員の中で知性が低いということで軽蔑的な眼で見られがちだった 彼女も、このときは喝采を博した。拍手まではしなかったが。 門田は渋い顔をした。キンロス町のホテルでもレブン湖の夕の散策に団員 を出したばかりに重大な事故を起した。夜の集団外出にはろくなことは起ら ない。けれども添乗員としては、断わり切れなかった。一同の意志がそこに あったし、その気持にも同情できた。 カジノはホテルから五百メートルばかり步いた丘の上にあった。モナコや エヴィアンのような本格的な豪華さを想像すると当てはずれで、何台かのル ーレットの前にはタキシードの係が坐ってはいたが、庶民的な娯楽場であっ た。一回の賭けに五スイスフランが制限だが、現金を張るのがバクチの魅力 だった。 日本の女たちははじめのうち躊《ためら》って他人の勝負を見ながらルー ルをおぼえたり、損得の様子をうかがっていたが、そのうちに何人かが手を 出すと、ほとんど全員がカラカラと鳴る白い球の運命的な行方にとりつかれ た。何しろルーレットは生れてはじめてだし、まるで外国映画のヒロインに なったような気分に浸りはじめた。そして、五フランが一挙に三十五倍《ア ン.プレーヌ》の百七十五フランの賞金に偶然になったりすると、次第に熱 中した。テーブルの文字盤に置いた銀貨がそのつど情容赦もなく奪《と》ら れると、恨めしそうな眼になるが、すぐに奮起して次々と賭《は》るし、五 倍になってもよろこんだ。碁盤目のまん中に金を置く八倍《カレー》組がい ちばん多かった。慎重組は二倍という安全率を狙った。 「こうしてみると、賭け方によって性格が分りますわ」 土方悦子が隅に立ってゲームを見物しながら云った。 「それもそうだが、持ち金にもよるだろうな。小遣いをふんだんに持ってき た者はどうしても賭け方が大胆になるよ。ほら、魚屋の金森幸江はアン.プ レーヌばかりねらっているよ。魚屋さんは儲かるらしい」 門田が眺めながら答えた。 「でも、バアのマダムの多田マリ子さんは、さっきから見ていると五倍のと こか二倍のとこですわ。ときどき十一倍のとこに、銀貨を置く程度です。あ の方、案外慎重なんですね」 土方悦子は眼で追いながら云った。 門田はここで悦子から飛行機の中で聞き損なった彼女の殺人事件推理のつ づきを云わせることができたら、と思った。たいして期待はしてないが、や はり気にかかった。 今はみんながルーレットに熱中しているから、誰もこっちの話を聞く者は ない、という門田の言葉に悦子がうなずいて、つづきを云い出した。 「ヒースロー空港でポーターが客の手荷物を器用に積む|手押し車《プツシ ユ.カート》の操作を見て思い当ったんです。あの車は運搬しないときは荷 台の先が下がって地面についていますね。荷物を積むと、ポーターが把手を さげる、荷台の先が上る。荷物を積まないで人が手押し車を同じ操作をした ら、荷台の先が梃子の代りになりますわ」 「梃子?」 「陸に乾かしたボートは伏せてありました。ボートのふちは起しやすいよう PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に小石をはさんだりして二センチばかりの隙間がつくってありましたね? そのわずかな隙間に手押し車の荷台の先端をさしこむのです。そうして把手 を下げると、荷台の先が上ってボートの隙間をこじあける。そこに荷台の先 をもっと突込む。こうして荷台の先をボートの下に充分に噛ませて把手を下 げると、梃子の法則で伏せたボートは片側が持ち上ってきます。死体を入れ るだけの大きな隙間になったら、そのへんのかなり大きな石を二つぐらい運 んできて、隙間に噛ませる。そうすると手押し車をはずしても持ち上ったボ ートは落ちません。そのようにして湖畔のすぐそばに突き落して溺死させた 梶原澄子さんの死体を岸からひきあげ、手押し車に乗せ、ボートの傍までく る。手押し車から死体をおろして、その荷台の先をボートの隙間に押しこん で、ボートを持ち上げ、大きな石を噛ませる。そうして死体をボートの間に 押しこんだあと、噛ませていた石を除ける。そうすると、ボートは元通り伏 せた状態になりますわ」 悦子の説明につれて門田はその操作を眼の先に描いた。 「あの重い、大きなボートを持ちあげたり死体を中に入れたり、とてもひと りの力では不可能だから、犯人は複数だと思われました。イングルトン部長 刑事もそういう見方から犯人複数説でしたわね。でも、手押し車を梃子代り にすると、ひとりでもそれができたんです」 女ひとりでも──と悦子は云いたそうだった。 ホテルの廃品手押し車は、死体の運搬用でもあり、梃子用でもあった、と いう悦子の推理を聞いて門田は背中を叩かれたようになり、頭が混乱して、 すぐにはその説明の分析ができなかった。 それから二時間もすると、団員の全員をカジノから無事にホテルに「引率」 して帰った門田のもとにロンドンから電話がかかってきた。 「門田君か。さっきから二度ほど電話したのにどこにみんなを連れて行った のだ?」 東京から来た広島常務の怒鳴るような機嫌の悪い声だった。門田もカジノ に行ったとはとっさに云えず、市内見学していました、と答えた。また何ご とか起ったのか、門田は時ならぬ常務の電話に鼓動のほうが先に速くなった。 「犯人はその観光団の中に居る。|警 視 庁《スコツトランド.ヤード》 の結論が出た。全員そこに居るな?」 「はあ、居りますが」 「よし。おれは明日にでもそっちへ行く。それから江木奈岐子さんもおれと 同行する」 3 ロンドンから広島常務が江木奈岐子と飛来してこようがこまいが、その日 の朝から門田がローズ.ツア観光団をユングフラウの登山見物に連れて行く 予定に変りはなかった。 新しいスケジュールではこうなっている。──ベルンのホテルを八時にチ ェック.アウトする。このとき団員の大きな荷物はひとまとめにしてホテル に|一時預け《デポジツト》しておく。午後四時までには山から戻ってホテ ルで荷物をうけとり、バスでジュネーブに行き、午後十時発の国際列車に寝 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn て、あくる朝パリに着く。 みなは軽い手荷物だけを持ってベルン駅を出発する列車に乗った。ほとん どの女性がカメラをバッグから出して用意をしていた。団員たちの気持は、 これから行くアルプスの山々に集中していたので、コンダクターが面倒を見 るような事態にはならないようだった。 最後部の席に門田は土方悦子とならんで坐った。 インターラーケンの駅で乗りかえた二十八人の団員は登山電車の窓を一様 に無邪気に眺めていた。乗客は観光客がほとんどで、英、米、仏、独、伊と いった人種の混合だった。年配の夫婦づれはホテルの庭でも散步するような 恰好で、男は背広にネクタイと短靴、女はドレスにハイヒールだった。若い 連中は登山帽にジャンパー、登山靴といったどこでも寝転がれる無造作な服 装で、なかにはヒッピー族スタイルも少なくなく、これは日本と変りなかっ た。この観光団のほかに日本人は一人もいなかった。 インターラーケンの長い湖が消えて電車は山の間を抜ける。高原の田舎風 景が展け、森と原野に農村と牧場とが点在する。前方の山の間に眩しいくら いに白い高峰が見えでもすると、あれがアイガーだと指さして騒ぎ立てる。 農家の上に断崖があり、それに滝でもかかっていると、団員たちは車窓から 一様にカメラをむけた。 「わからんもんだな。この二十八人の中に、女二人を殺した犯人が居るとは ね」 門田は低い声で呟いて嘆息した。 「広島さんと江木先生は、ロンドンから何時にこっちに見えるんですか?」 悦子が、さっき見上げた瀑布が違った方向で遥か下のほうになっているの を見やりながら云った。地面よりも空の領域が広くなっていた。 「何時とは云わなかったな。電話口でだいぶん昂奮していたから忘れたんだ ろう」 「無理ないと思いますわ。担当役員は全責任がありますもの。イギリスに飛 んで来られるときも、遺族やほかの家族、それに新聞記者などにずいぶんつ き上げられたと思いますわ」 「江木奈岐子さんも、あんたを心配して、こっちに飛んでくる。広島さんは 江木さんの心痛をそのつど電話でぼくに云ってましたよ」 「わたくしもロンドンのホテルで江木先生から心配の電話をもらいました わ。コペンの多田さんの災難が日本スポーツ文化新聞に出た日です」 「ああ、そうでしたね。君はそう云っていた。……江木さんは、大事な仕事 が入ったとかで、団体のメンバーが揃ったところで急に講師辞退を社の方に 申し出て、君を代理に推したんだが、こうなると、その大事な仕事のほうも 手がつかなくなって、広島さんといっしょにくることにしたんですな」 「わたくしのことだったら、先生もそうご心配なさらなくてもいいのに」 土方悦子は眼を伏せて云った。 「しかし、江木さんも君を代りに出した責任を感じているのでしょう。愛《ま な》弟子だしね」 「愛弟子というのではありませんわ。ときどき、江木先生のお宅にお邪魔し ているだけです。わたしは地理が好きなので、旅の話を先生に聞きにうかが っていたんです」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「そうすると、弟子ではない?」 門田は意外に思って訊いた。 「世間で云う弟子ではありません。先輩のもとに出入りしているといった程 度です」 「しかし、江木さんのほうは君を弟子だと思っているんだろうな」 土方悦子の小利口《こりこう》さからしても、江木がそう考えるのはあり 得ると門田は思った。 「それは、わかりませんけど」 「いや、きっとそうですよ。だから江木さんは自分が行けなくなって、あん たを代理に推薦したんです」 「そのお話も急でしたわ。なんとか都合をつけて行ってくれということでし た。わたくしも、あまり急なのでびっくりしましたが、ちょうど手があいて いたのでお引受けしました。好きな外国の旅ですし、それに旅費一切を王冠 観光旅行社で持ってくださるというので」 正直いってそれが彼女には魅力だったのであろうと門田は察した。 「こんなことになるのだったら、江木先生にはじめから来ていただいたほう がよかったと思いますわ。わたくしでは荷が重すぎます」 土方悦子は小さく溜息をついた。 「ぼくだって荷は重い。しかし、君のおかげで、こんどはずいぶん助かりま したよ」 門田は云ったが、お世辞でなく、本気にそう思った。本社が付けてくれる 助手よりもよほど有能だったことにはじめて気づいたのだった。 土方悦子は、それには答えず、うつむき加減になって眼を閉じていた。賞 《ほ》められて照れているようでもあり、考えごとをしているようでもあっ た。 登山電車はいよいよ高所に登った。車体は揺れながら、山の稜線を匍い上 ってゆく。 ツバイリュッチネン駅では登山電車が右のコースと左のコースとに分れ る。ここは右の「白い谷」と左の「黒い谷」との落合いで、どちらのコース をとるにしても、もう少し上のクライネシャイデック駅を経由してユングフ ラウの中腹を一周できるようになっている。 一行の電車は右コースをとった。ゆるやかな斜面には小さな家が赤茶色の 屋根をのせて散らばっている。特徴のあるアイガーの白い尖った先が見えか くれしたが、その大きさにはここから眺めても圧倒された。 クライネシャイデック駅は標高二千メートルの山腹にとりついている。ア イガーの北壁はすぐそこにのしかかるようにそびえている。陽が氷河に反射 して青い空の下にもう一つの光源体が輝いているようだった。サングラスな しには正視できない。 眼を据えるのは下の緑色の斜面で、ここには広い牧場と小さな民家が白い 黴《かび》のように群れてとりついている。赤に白十字のスイス国旗は、紺 碧の空と緑の原野とその中間に突出する雪の峰々を背景にして生々とした色 彩効果をもった。 この駅では乗降客が多い。ツバイリュッチネン駅から左に岐れた登山電車 がグリンデルワルトを経てここに来ているので、その乗換え客と、ここで降 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn りて徒步で登山を試みる者がいるからである。だれでもが一度はここで途中 下車して高山の町を散策したくなる。終った者は、さらにアイガーをめざし て、この駅から電車に乗る。 電車は出た。急カーブばかりを走った末に、もう一つの駅を最後にトンネ ルに入った。長い長いトンネルであった。アイガーの胸の中を抉り抜いてい るので、トンネル内の駅にとまると電燈が粗い岩肌を無気味に照らした。構 内には岩肌に窓をあけて外の山景が眺められるようになっているが、電車の 中の人間は暗黒の中を走るだけである。アイガーの胎内くぐりだった。 「チーフ」 土方悦子が長い闇にうんざりしたように話しかけた。 「キイのことが、まだ、よく分りませんわ」 「キイ? キイって、なんのキイ?」 「ホテル、トロウト.ヴィラの16号室のキイですわ。藤野由美さんの部屋 《ルーム》の……」 「ああ、あれは藤野由美さんの部屋に置いてありましたね。藤野さんは夕方 のレブン湖の散步から戻って、フロントから預けたキイをうけ取って部屋に 帰った。そのキイは、そのまま部屋のテーブルの上に置いてあったわけだが」 「それが、奇妙ですわ」 土方悦子がここまで云ったとき、車内がざわめき立った。終点のユングフ ラウ.ヨッホに到着したのだった。 門田は急いで席を立った。降車する団員たちが気になったのでもあるが、 土方悦子の言葉を何とも思ってないからでもあった。 彼女には考えすぎる癖がある。それがときにはいい考えになって話をする が、だいたいが思索を弄《もてあそ》ぶ詭弁学派《ソフイスト》の組だと門 田は思っている。なんでもないことを重大そうにこねまわす。そういうとこ ろがこざかしげに見えるのだった。いまも「奇妙ですわ」と云ったのは、そ の癖が口を衝いて出たのだと思った。門田の反撥もその癖に対して起る。 4 ユングフラウ.ヨッホ駅。──深夜の駅のように、輝く照明は電車の中だ けである。トンネル内の荒々しい岩肌の両側を、同じく岩の天井についた一 列の灯が乏しく照らし、電光板は駅名と、標高三四五四メートルの数字、そ れにホテル、レストランの名を浮き出している。 ローズ.ツアの女性たちは添乗員の門田を先に立ててトンネルの中を步く。 これはスフィンクス.トンネルといい、途中にはホテルもある。先にすすむ とエレベーターがあり、その名もスフィンクス.リフトというのだが、これ が巌上のスフィンクス展望台まで運ぶ。ここに来て、はじめて人は岩洞内の 暗黒から解放され外の空気にふれるが、こんどはいっぺんに三千メートルの 日光と山の雪の殺到である。 アイガーの北壁は写真などで見馴れてはいても、その迫力は実際に眼にし ないとわからない。登山電車で上ってくる途中でも、その遠景は車窓に隠顕 していたが、すでにトンネルがアイガー中腹内をつらぬき、メンヒ(四〇九 九メートル)の胎内をくぐり、ユングフラウが東に落ちた稜線の肩に出るの PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn だから、電車がトンネルに入る前とは光景が一変し、突如として氷の殿堂に 放り上げられた思いである。リフトを降りた女たちが叫びをあげて展望台の テラスに駆け寄ったのは当然だった。 右にユングフラウ、左にアイガーの壁がすぐそこにある。天と地を圧倒し た巨大な二つの峰は他の山脈を切りはなして孤独に聳立《しようりつ》して いる。蔽った雪はそれじたいが白い光源だが、その雪の隙間からは岩肌の裂 け目が無数の条線を描き、黝《くろ》い色と茶褐色とが奇怪に混合して、斜 めにある太陽を受け、くっきりと陰影をつけていた。その背景はどこまでも 青い空である。 展望台のあるメンヒとユングフラウの間に落ちこんだところは氷河の高原 となっている。そのまわりに動く人々はケシ粒ほどだが、赤や青や黄色の彩 りとなっている。鳥が絶壁の前を舞い、風が起ると雪が白煙を起す。ときど き、遠雷のような音が聞えるのは、アイガーの雪崩である。 展望台の観光客はさまざまな人種だが、むろんローズ.ツアとは違う日本 女性の顔もある。 門田は山とは反対のあたりを見回して、瞳を絶えず動かしていた。 こういう偉大な景色、憧憬した壮観に接すると、人は昂奮して落ちつかな い。とくに女性は刺戟されやすい情緒をもっているから、じっとしてはいら れないようだった。それに、ここは場所が悪かった。山岳の見物は展望台ば かりではないのである。リフトでここに上る前、トンネルの反対側を行くと 「|氷の宮殿《アイス.パレス》」という氷の見世物があって、これが雪の トンネルになっている。そのトンネルを出ると、ここから人々がケシ粒ほど になって見える氷河の高原に立てるのである。 そのほか、レストランもあるし、ホテルのロビーもあって、茶も飲めるし、 土産物も買える。引率者にとってまことに人員の掌握に都合の悪い条件が揃 っていた。 門田は展望台にいる団員の顔を見回し、 「ええと、金森幸江、黒田律子、千葉裕子、竹田郁子、曾我千春、星野加根 子、川島嗣子、杉田和江……」 と、心で読んでゆき、八人だなといった。あと二十人がここには見えなか った。 「アイス.パレスのほうに行ったんじゃないですか。氷河を步くのを面白が ってるのかもしれませんよ」 土方悦子が雪原の端に動くケシ粒の群を眺めて云った。もちろん顔の識別 はできなかった。 「氷河の上は危ないんだがな」 門田はそのほうへ眼を凝らしていた。 氷河は静止した氷原のように見えるけれど実はゆっくりと動いている。注 意の標識は出ているが、だれもがそれを忘れがちであった。 「女子学生三人をはじめ、わりあいに若い人がここから消えていますわ。氷 河のほうでしょう。向うのほうがちょっぴり冒険的で面白いにきまっていま すから」 「あんなところで事故を起さなければいいが。といって禁足するわけにはい かないしね」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田はしきりと団員の掌握に気を揉んでいた。 土方悦子は、それで思い出したように、ふと訊いた。 「チーフ。コペンハーゲンの居酒屋で、日本スポーツ文化新聞の鈴木さんと 会われたとき、鈴木さんはこの女性観光団体の人数のことは訊かなかったと 云われましたね?」 「そうです。彼は質問しませんでしたな。それは、あのとき、君に云ったで しょう?」 門田は、何を今ごろという気だった。 「ええ。うかがいました」 土方悦子はうなずいて、また思い出すような眼つきを雪の峰のほうへむけ た。 「鈴木さんは、江木先生によろしくというミス.トルバルセンの言葉を通訳 してチーフに伝えたのでしたね?」 「そうです」 「ミス.トルバルセンは英語が話せるのに、なぜ直接にチーフに云わなかっ たのでしょうか? そのほうが、|なま《ヽヽ》な感情が伝えられるのに」 それもコペンハーゲンのホテルで、あの翌る朝にこの土方悦子と云い合っ たことだった。トルバルセンは鈴木の恋人だ。トルバルセンとしては鈴木を 立てて、自分が出るのを控えていたのであろう。げんにあのとき、トルバル センが門田に何か云いかけたのを鈴木は制《と》めたようだった。両人は、 デンマーク語で、何やら口早に話していた。 門田は、そのことをもう一度、土方悦子に云った。それから、鈴木が「希 望の足音が遠くから近づいている」という表現で、帰国して結婚したいよう な話も、ここに再びつけ加えた。 「そうでしたわね」 土方悦子は、うなずきはしたものの、しかし、腑に落ちないように首をち ょっと傾《かし》げていた。 「鈴木さんといえば、朝陽新聞の四月十日付に載った江木先生の北欧旅行の 随筆を批判されていたそうですね?」 彼女は、また訊いた。 「ああ。事実の間違いがあると云ってね」 「朝陽新聞の四月十日付といったら、このローズ.ツアが出発する五日前の ことでしたね?」 「そう。そのくらいです」 その会話も、コペンハーゲンの繰り返しであった。 「彼は、その新聞をアムステルダムで読んだと云ってましたね。アムスのど こだか憶えてないと云ってたけれど」 「アムスには日本の最新の新聞はそんなに入ってないはずですけど。大使館 とか商社、それに日本航空の事務所くらいのものでしょう」 土方悦子は、ひとりごとのように呟いた。 「なんだか知らないが、鈴木君の口にかかっては、旅行評論家として、いま 売り出しの江木奈岐子さんも型《かた》なしでしたな」 「江木先生もね。……チーフ。あなたは江木奈岐子さんの本名が坪内文子さ んと云うのをご存じですか?」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「いや。知らないですな。そうですか、江木奈岐子というのは、ペンネーム ですか? そう云えば、表札がもう一つかかっていたようだが……」 門田もそれは初耳だった。 「そうなんです。でも、先生の本名をご存じの方は少ないですわ。読者は、 ほとんどペンネームを本名だと思いこんでいます」 「それは、そうでしょうな」 門田は腕時計を見た。 「土方さん。悪いけど、ちょっと団員の様子を見てくれませんか?」 門田は、そんな話よりも団員の掌握が気にかかった。 「わかりました」 土方悦子は、素直に承諾し、勢いよく出て行った。 「やっぱり素晴しいですわね、チーフ」 と、いう声が聞えた。見返ると、これが星野加根子だった。彼女の造作の 粗い顔は、ネッカチーフに包まれて、いくらか可愛げに見えた。 「それにしても、土方さんはお気の毒ですね?」 星野加根子は昂奮を曳いた声で云った。 「え、どうしてですか?」 「だって、この風景をおちおちと見ていられないんですもの。さっきもあな たの命令でリフトで降りて行かれたのは、ほかの団員の方の様子を見るため なんでしょう?」 星野加根子は同情的な瞳を見せた。眼を細めたのは前面の雪が眩しすぎる からである。 「命令というわけではありませんが、お願いしたのです」 団員たちにそう見られていると知って門田は、 「……土方さんは社員ではなく、この観光団の講師としてついてきてくださ っているんですから」 と、弁解した。 「でも、あなたの助手みたいですわ」 「困りましたね。そういうつもりではないのですが、土方さんが気軽に何で もしてくださるのと、人手がないものですから、つい、その、なにかとお頼 みすることになるのです」 「わたくしがこの観光団に加入するとき、たしか旅行評論家の江木奈岐子さ んが講師ということでしたわ」 「そうなんです。それが江木先生に急に事情が出来て、土方さんが代りにな ったのです」 「土方さんは、江木先生のお弟子さんですか?」 「土方さんに云わせると、弟子というほどでもないそうです。江木さんの家 に出入りはしているけれど。しかし、江木さんの都合が悪くなって、彼女を 代りに推薦されたのはたしかです。江木先生と話し合って、そういうことに なったのです」 門田は答えながらも、営業部長を兼任している常務の広島淳平が当の江木 奈岐子と、いま、ロンドンからこのスイスに飛来中だと思うと、胸がしめつ けられた。 このあと、アイガーの中腹、一〇三四メートルのグリンデルワルトで休憩 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn する予定であった。そこまでなるべく早く下山して、宿に入り、ベルンのホ テルに待機している広島と連絡しなければならない。 「土方さんが江木先生の講師代理だとすると、土方さんの旅費はあなたの会 社持ちなんでしょうね?」 星野加根子の質問が門田の瞬時の想念を破った。 「はあ。ま、そういうようなことでしょうね」 門田は、質問の意味がはっきりすると、躊《ためら》いがちに答えたが、 これはかなり露骨な問いである。女が金銭関係になると細かいことは分って いるが、この旅行中にはじめて受けた直接的な質問であった。 観光団員のなかには、自分たちの費用で添乗員を賄《まかな》ってやって いるという意識が大なり小なり存在している。ことに講師に対してはその偏 見が強い。観光団に講師を付けるようになったのは、主催の旅行社のサービ スであり、それも募集上の政策であった。しかし、添乗員は仕方がないが講 師の旅費までこっちの会費にかかっているとはやり切れないという気持が、 団員が女性ならなおさらのこと起るかもしれない。 いまも星野加根子の露骨な言葉には、江木奈岐子のような一人前の評論家 ならともかく、その弟子格が来たのだから、門田が助手代りに使うのは当然 だといった承認が含まれているように感じられた。 「チーフ」 星野加根子は、門田の眉間に浮んだ微妙な皺をめざとく見たように話を変 え、しかも声を低めて云った。 「藤野由美さんと梶原澄子さんとが殺された事件は解決がつきそうなんです か?」 まわりには外国人ばかりだった。 門田としても、この質問を無視するわけにはゆかなかった。同じ団員なの である。 「ご心配かけて申訳ありません」 門田は詫びるように頭を下げた。 「……こんな不幸な事件が突発しようとは夢にも思いませんでした。さぞ、 みなさんはショックをうけられたり、不安なお気持になられたでしょうが、 幸い、落ちついていただいているので、ぼくも大助かりです」 「そら、はじめはびっくりしましたわ。でも、いまさら騒いでも仕方があり ませんもの。費用は前払いしてるし、早く帰国しても、そのぶん返してはい ただけないでしょう?」 「はあ。まあ、ごもっともですが……」 星野加根子は金銭欲の強い女だ、と門田は思った。しかし、これは一同の 気持を代表しているのであろう。 「それは冗談です。今となってはわたくしも、この団体で旅をつづけること が面白くなりましたわ」 「えっ、面白い?……」 「そういっては犠牲になられたお二人に悪いけれど、わたくしにとっては貴 重な経験ですもの。二度とこういう旅ができるかどうか分りませんもの」 「はあ。それはそうですが」 「で、事件の解決のほうはどうなんですの? イギリスの警察がずいぶん動 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn いていたようですが」 「それが、どうもぼくにはよく分らないのです」 団員に広島常務のことは打ちあけられなかった。 「そう?」 星野加根子は小首をかしげ、微笑を浮べていたが、 「……捜査に必要なデータが揃ってないからじゃない?」 と、あとは独り言のようにいった。 「データですって?」 「いくら優秀な警察でも、事件のデータが不足していれば捜査がすすみませ んわ」 「というと、あなたは何かご存じなんですか?」 門田は、星野加根子の思わせぶりな云い方に、ついつりこまれた。 「知っているというわけじゃありませんが……」 彼女は眼をアイガーの頂上にあげて、大きく薄い唇から小さな声を洩らし た。 「事情はわかりませんけれど、わたくし、見たんです」 「え、見た? 何をですか?」 「あら、そんなにびっくりなさらないで。つまらない、ちょっとしたことで すから、そんな顔をなさると、わたくし、困りますわ」 星野加根子は、少しあわてた眼になったが、門田から見て、それがいかに もこっちを焦《じ》らしているようだった。 「いや、どんなことでもけっこうですよ、だれにも云いませんから、ぼくだ けに話してください」 「あとで申します。あなたがそんなに重大そうに期待されると、わたくし、 恥かしくて云いづらくなりました」 星野加根子は寒い風を除けるようにして背中を回した。 集合の時間が迫っていた。 5 人員の掌握が完全に終ると、責任者は心にやすらぎをおぼえる。ユングフ ラウ.ヨッホでは見物場所がほうぼうにあって、団員の所在も散漫になり、 門田の視野からかくれるものが多かったが、集合時間になると、これがぴた りと駅前に二十八人の員数を揃えてくれたのだった。 崖ぶちだとか氷河だとか雪のトンネル(アイス.パレス)とか事故の起き そうな舞台装置は揃っていた。門田は、気が揉めただけに、一人も欠けずに 集った団員たちの顔を眺めて、羊の番人のように安堵した。とくに多田マリ 子の無事な顔を見てそうだった。彼女はケロリと無邪気な表情でいた。 安心すると、にわかに神経が視覚から脳味噌のほうに移るようだった。電 車は登りの時に停車したクライネシャイデックにいったん戻って、今度は別 なルート、アイガーの胴体を東へむかって進みつつあった。同じ道を上下往 復するという単調さを避けるために、上はクライネシャイデック、下はツバ イリュッチネンを紐の結び目として、線路は間の山を挟んで東西に岐れてひ ろがっていた。そうして東コースが伸び切って屈折するところがグリンデル PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ワルト駅である。だから、前の上りとこの降りの車窓の風景はまったく違っ ていた。だが、団員たちは、アイガーの頂上風景を極めた満足感の後と步き 回った疲労とで、登りの風景に接したときのような初経験の昂奮が衰えてい た。彼女らも窓辺に移る光景を静かに観賞していた。土方悦子は、門田の隣 席で頭を垂れて居眠りしていた。彼女もヨッホでは門田に云われて団員たち の観察につとめ、その気疲れが出ていたようである。 星野加根子は気どったものの云い方をする女である。いつも思わせぶりな 表現法をとる。だから、彼女の|見た《ヽヽ》ものは彼女の云うとおりに本 当に「つまらない、ちょっとしたこと」なのかもしれない。この云い方は、 普通には重大な意味のあることをさりげなく人に語るときに用いられるパラ ドックスなのである。それをもう一つ裏返すと、何でもないことを思わせぶ りに云って相手に気をもたせる効果になる。 門田は、いったんはそう考えたが、それだけで捨て切れないものがあった。 彼もかなり神経質になっていた。 星野加根子が|見たもの《ヽヽヽヽ》のことをすぐに云わなかったのは、 それをはばむ何かが彼女の気持にあったからではあるまいか。目撃したもの には重大な意味があった。だから、はっきりとは云えなかった。 その目撃なるものが二人の団員が殺された不幸な事件に関係があることは たしかなのだから、少なくとも、彼女が「あとで申します」といった言葉か ら事件のスフィンクスを開く暗示になりそうにはみえたが。 そんなに期待されてはわたくし恥かしくて云いづらくなりますわ、と星野 加根子は下をむいたが、これは何とか方法を尽して彼女の言葉を引き出さな ければいけないと門田は固く考えた。 とみこうみ、いろいろと門田が思いをめぐらす間にも電車は一方の車窓に 上からのしかかるアイガーの白く輝く北壁を、一方の窓には起伏をくりかえ して涯しなくひろがった北麓の雄大な展望をみせていた。座席にひと息入れ た日本の女性たちは、ふたたび元気をとり戻し、好奇心と興味とをもりかえ して、しきりと車窓にカメラをむけていた。 さて、こうして電車は東回り線第一の停車場であり、スイス第一の賑やか な山のリゾートでもあるグリンデルワルト駅に到着した。停った衝撃で、い ままで睡っていた土方悦子が眼を開き、きょろきょろと車窓や車内を見回し た。ここで降りてお茶の時間とするように門田は団員に云い渡してあったか ら、みんな座席から立ち上っていた。 「あらあら。どうも済みません」 土方悦子は失態をしでかしたように門田にとぼけたお辞儀をぴょこんとし てあわてて座席を立った。 ここは、ほかの降車客も多く、ホームはいちどきに雑踏した。その中から 黄色い髪毛の、丈の高い、蝶ネクタイに燃えるような赤服の男が、日本人の 女性団体からようやく門田を探し当てたように近づいてきた。エキスキュー ズミー、アーユーミスタカドタ? イエス、アイアム。 「ベルンのオテル.ベルビューからあなたさま宛にメッセージが届いており ます」 赤い制服の胸には「ホテル.スピンネー」のワッペンが付けられていた。 電話連絡らしくホテルの用紙に英語で書き流してあった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn □ミスター.ヒロシマよりミスター.カドタへ──。一同『ホテル.スピン ネー』に入って私の到着を待て。団体は予定を変更し、今夜は同ホテルに一 泊せよ□ どうぞ手前がホテルにご案内いたします、と出迎えのドアマンは微笑して 腰をかがめた。 「どういうことになったんですか?」 土方悦子が横から門田の手にある伝言紙をのぞいた。 「ロンドンからスイスに来た広島常務がベルンのホテル.ベルビューに入っ て帳場から、ぼくらの登山と此処で下車するスケジュールを聞き、こっちへ やってくるらしい。例の話らしいね。今夜はここのホテルに宿泊せよとある から、ジュネーブ行きは変更だ」 門田は云って、 「これは団員にまた何とか理屈をつけて変更の説明をしなければなるまい」 と、沈みがちの顔色になった。 いかめしいスタイルの赤服を先頭にホテルにむかって日本女性ばかりの一 団がグリンデルワルトの一本道を練り步くさまは何かの儀式の行列のよう で、通行人はもとより、レストラン、カッフェなどの表に出したテーブルに 坐っている世界中から来た観光客の眼をそばだたせるには充分であった。 この土地は標高約千メートルで、よほど麓のほうに近く、高山という感じ はあまりなかった。それだけに高原保養地といった雰囲気が豊かである。ま ず、駅を出たところにいくつものホテルがある。ホテル.バーンホーフ、ホ テル.レジナ、グランド.ホテル。彼女らのホテルはそこにはない。もっと 奥にすすんだところだ。 銀行が二つもある。片側は山の斜面で、通りのレストランはその斜面の上 にまでせり上っている。土産物屋、カッフェ.ショップ、バー、観光案内所、 ヒルシエン.ホテル、山案内人の組合事務所、カメラ店、食料品店、雑貨屋、 洋服店、理髪店、運動具店兼本屋、郵便局、ガソリン店、レンタカーの店と 駐車場、婦人用品店、菓子屋、果物屋、ミニ.ゴルフ場、──小都会にある あらゆる店舗を小さく凝集していた。それに、贅沢な客のために店の装いは どれも垢ぬけていた。 そういう店舗街を女性の一団は先頭の軍服めいた赤いユニフォームの背中 に従って、あちこち眼を遣りながら步いた。山の斜面の反対側は、建物の途 切れた間から見ると、ゆるやかな緑の波がくりかえす高原で、その涯のずっ と下の麓のほうは渺茫《びようぼう》たる山の霧の中に融けこんでいた。ま たそれらの間には、針葉樹の森と、赤や茶色や青色の屋根に白い壁の農家と がばら撒かれ、ほうぼうの牧場に乳牛が遊ぶ典型的なスイス風景になってい た。 ホテル.スピンネーはそうした一本道の繁華街に沿った中ほどにあった。 赤服のドアマンは一同を五階建ての白堊のホテルの玄関に招じ入れた。 団員がロビーに集ったところで、門田は今夜は「都合で」このホテルに泊 ることになったと慇懃《いんぎん》に告げた。都合の理由は、ジュネーブ旅 行代理店の手違いで、今夜の予約が実行できなかった、たったいま、その連 絡がジュネーブからあったというのである。これだと門田の責任ばかりとは いえないので、彼はみなからの攻撃を免れた。それに団員たちは、このアル PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn プス山中の保養地《リゾート》がむしろ気に入っていた。 添乗員を含めた三十人の部屋割は昨夜のベルンのベルビュー.ホテルに準 じてきめられた。みんなはいったん部屋に入ったが、まだ陽が西の空に高か ったので、それぞれ三三五五と商店街や付近の散步に出かけた。この通りの 端には教会もあり、登山用リフトの発着駅もあり、さらには別荘もならんで いるということだった。 門田はロビーに土方悦子とならんで坐り、コーヒーをとっていたが、星野 加根子をつかまえる機会を狙っていた。彼女も散步に外出していた。あまり 人目につかないように上手に捉えて質問しなければならなかった。 「広島さんと江木先生は、何時にこっちに見えるんですか?」 土方悦子は腕時計に眼を落して訊いた。 「さあ。六時ごろにやってくるんじゃないかな」 「お二人だけでしょうか?」 「さあ。どうして?」 「殺人事件のことで、ロンドン警視庁が何かをつかんで結論を出したという ことですから、団員の訊問のためにイギリスの警察官といっしょかも分らな いと思ったからです」 そういう予想はたしかにあった。広島がいくら事件の有力な材料を握って くるにしても、彼には訊問権も捜査権もなかった。 「キンロス署のイングルトンさんだったら、面白いですね。また、お遇いす ることになるから」 「あれは現場を捜査した第一線の警察官だが、なんといっても田舎刑事です からね。こっちにくるとすれば|警 視 庁《スコツトランド.ヤード》の 腕利きだろうね」 「それともパリ駐在の桐原参事官かもしれませんよ、広島さんといっしょに ここにくるのは。あの方は警察庁の出向だそうですからね。日本への外交関 係の影響を考えて、英国警察が直接に人数の多い女性団体の訊問に乗り出す ことはないかもしれません」 「うん。そうかもしれないな」 「それだったら、レブン湖畔にいた日本人新聞記者たちも、いっしょに此処 にくるかも分りませんわ」 「新聞記者?」 門田は、どきりとした。 「だって、都合によっては、あとからぼくらもあなたがたを追って行きます よと云ってたじゃありませんか。捜査官がこっちに来て、事件の解決にかか るのでしたら、絶好の取材チャンスですわ。レブン湖畔殺人事件の大詰とし て」 「………」 「きっと、あのひとたち、広島さんや江木先生や捜査官などと一緒に来ます わ」 聞いてみれば、もっともだった。レブン湖畔を発つときの、新聞記者たち の予告もまた実現されそうである。 広島常務が聞いた捜査官の推断がどういうものか分らないが、とにかく、 この女性団体の二十八人のなかに、藤野由美と梶原澄子殺しの犯人が居ると PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn するのである。新聞記者たちは、その日本女性の犯人が逮捕される瞬間を眼 前で取材しようとするのであるか。 門田は、またも心がふるえ、頭に血が上ってきた。 日本の新聞に踊る大きな見出し活字、逮捕された日本女性の顔を隠した写 真が浮ぶ。場所はスイス。スイスはユングフラウの山腹。──舞台効果は申 しぶんない。 とくに、「日本スポーツ文化新聞」や女性週刊誌は、ここぞとばかりに「舞 文曲筆」するであろう。いくらあの髭の通信員が舞文曲筆はデスクの細工だ といっても。──また、よしその記事が興味本位の歪曲であっても、ことが ことだけに、抗議のできにくいものであった。 6 この会話の間、二人は前の一本道の通りを眺めていた。向い側が商店街で、 レストランの隣がカメラ店、その隣が食料品店であった。レストランの前で は客が道路わきにならべた椅子に坐って、陽だまりと通行人の見物をたのし んでいた。 ガラス窓にはさまざまな人々が左から右へ、右から左へと通りすぎた。軽 装の若い男女、退職旅行の老夫婦、山男、ヒッピー.スタイル、身ぎれいな 紳士、女ばかりの群。道ばたでビールや茶を飲む連中。 土方悦子は、まるでその人々を品定めするような眼つきで眺めて黙ってい た。 門田は門田で、新聞記者たちが再来襲する予想にふさぎこんでいた。 「どうも、おかしいんです」 彼女が道路に投げかけた視線のままで呟いたので、門田は、 「何がですか?」 と訊いた。ものうげな問いかたになった。 「藤野由美さんが一人でいた16号室の洗面所の排水パイプにひっかかって いたという鱒の鱗と藻の数片のことですけれど……」 彼女は思案顔でいった。 「ああ、デービス刑事が洗面器の排水孔の下にひっかかっていたのを見つけ 出したあれですね? しかし、君はあれを犯人の偽装工作だと云った」 門田がポケットのパイプをとり出した。前に彼女から一度聞いたことだっ た。 「そうです。そこを復習しますと、イングルトン部長刑事によると、藤野由 美さんが自室の16号室にひとりでいるとき、犯人がレブン湖の鱒と藻とい っしょにビニール袋か何かに入れて訪れた。藤野さんが興味を起したので洗 面器に水を充たし、鱒をそれに入れて藤野さんに見さした。そしてそれを犯 人がうしろから襲って藤野さんの顔を水の中に押しつけて窒息死させた。そ して、例の手押し車に死体をのせて湖畔に運び、湖に捨てた。こうすると、 藤野さんはちょうど湖水で水死したのと同じ状態になるから、だれも自室内 で殺されたと思う者はない。水死現場は、死体の発見された湖と思わせる偽 装犯行だ、とイングルトン刑事はいってましたが、そういう考え方の裏をか いたのが、犯人の知恵ですわ。それは、ロンドンからチューリッヒに向う機 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 内でチーフに云いましたわね?」 「ああ、聞きました」 門田はパイプをふかした。 彼にもそのときの話が耳に残っている。 犯人はレブン湖の水を16号室の藤野由美の洗面器に満たした。水中のプ ランクトンから解剖所見は湖畔を現場とするだろうという古いトリックのも う一つ裏をかいて、実際の犯行現場は湖畔だった、という推理である。 「でも、おかしいんです」 土方悦子は、もういちど云った。 「16号室のキイのことですわ」 門田は、彼女のその言葉を前に聞いている。この登山電車がユングフラ ウ.ヨッホ駅に着いたときだった。少々、面倒くさかったのと、団員たちが 降りはじめたのとで、そのまま聞き捨てになったのだが、いまは、こうして、 じっと坐っているのだから、なんでも耳に入れられる。 「どういうことですか?」 「イングルトンさんの推理どおりでしたら、16号室のキイの在《あ》り方 はあの考えでよかったんですが、いまは、犯行トリックが逆転して考えられ るようになりました」 土方悦子は、通りを眺めながら口を動かした。 「わたくしは、二つの場合を考えています。一つは、藤野由美さんが湖畔の 散步からホテルに戻って、フロントからキイをもらい、16号室に入った。 しばらくして、犯人がそこに訪れる、藤野さんはドアを開ける。ここまでの 順序は、犯人が湖の水と鱒とを持ってきたというイングルトン推理のとおり でよいのですが、藤野さんは自室で殺されたのではなく、湖畔に連れ出され て湖中につき落され、水死させられたのですから。犯人は藤野由美さんを誘 い出したわけです。ところで、いったん自室に戻った藤野さんが、かなり遅 い時間、それはもう十時ごろだったでしょうが、そんな時刻に再び外出する 気になったのは、よほど犯人を信頼していて、その誘い方も上手だったとい うことになります。あんなにもプライドの高い、自己顕示欲の強い藤野由美 さんを誘い出すなんて、よっぽどの人物だと思いますわ。そういう女性が団 員のなかにいらっしゃるでしょうか?」 「さあ」 聞いてみると、理屈だった。その通りというほかはなかった。藤野由美を 誘い出せるような女はいそうになかった。 「それに、藤野由美さんは、その誘い出した人と共に、フロントを通って外 に出ていません。フロントの事務員は、湖畔からひきあげた日本女性たちは、 そのまま一人も外出しなかったといっていたでしょう?」 「そうです」 「藤野由美さんが二度目の外出をしたとすれば、十時ごろです。二人も出て 行くんですもの、キイをあずけなくとも、当然、フロントの眼につきますわ」 門田は、風邪をひきそうなので早目に寝たが、湖畔からいちばん遅れてホ テルに帰った団員でも、その時刻は九時ごろだったと思われる。藤野由美も その時刻だったとすれば、再度の外出が十時ごろという土方悦子の推測は間 違っていない。十時ごろといえば、湖畔にはだれも残っていなかった。暗い PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 湖畔の犯行を目撃した者はなかったことになる。 「ですから、藤野由美さんと誘い出した犯人とは、フロントを通らずに裏口 から出て行ったんです。あの裏口は、手押し車が簡単に持ち出されたように、 ドアに錠もかけてなく、門も開いていましたから」 「うむ」 「フロントを通らずに遅い時刻に裏から誘い出した人とこっそりと出て行 く。そんなにまで藤野由美さんが信頼した人が、団員のなかにいるでしょう か?」 「いない」 門田は、思わず強い返事をした。 「しかも、その犯人は、藤野さんを湖に漬けて溺死させたうえ、その水と藻 の断片と鱒の鱗とを採取して引返し、裏口から入り、藤野さんのハンドバッ グからキイを取って16号室に入り、洗面台の工作をしたのですから」 「ちょっと待って。藤野由美さんも、梶原澄子さんと同じようにキイをハン ドバッグに入れて外出していたのですな?」 「それは、そうですわ。あのホテルの部屋のドアは外から閉めると、ひとり でにロックされますから」 「うむ。なるほど」 「その工作のあと、犯人はキイを発見された室内の場所に置いて、部屋の外 に出たのでしょう」 その論理は整ったかたちをとっていた。 「でも、それでは少し不自然なところもあります」 土方悦子は、自分の言葉の下から云った。 「というのは、それでは犯人が手間をかけすぎるからです。わたくしは、藤 野由美さんが、湖畔の散步からホテルに帰らずに、そこに残ったままで殺さ れたのではないかと思います。それが、第二の推測なんです」 「えっ、ホテルには戻らなかった?」 「そういう考え方もできると思います。そうすれば、犯人は藤野由美さんを 部屋から誘い出す必要はありません。それに、誘い出された藤野さんが、フ ロントを通らずに裏口から出て行くのはどうしても不自然です。あの誇り高 き藤野由美さんの性格を考えて、そう思うんです。また、そんなことをすれ ば、いくらなんでも藤野さんは相手を訝《あや》しみます。それに、そんな ことのできる人に心当りがないのですから」 「犯人は藤野由美さんを湖で殺したあと、水と鱒の鱗とを彼女の部屋に運ん で、キイはそこに置き、部屋を出て行ったのですか?」 「あとは同じですが、誘い出した点が消されるのです」 「ふむ」 門田は、うめくだけだった。それを頭に整理するのがすぐにはできなかっ た。 「そうすると、16号室のキイが問題になります。なぜかというと、藤野由 美さんが湖畔にそのまま遅くまでいたとすると、フロントのキイ.ボックス には16号室のキイだけが預け放しになっていたことになります。ところが、 フロントの事務員の話では、九時ごろには、みんなキイを取りに来て、ボッ クスは空っぽだったということでした」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「そして八時前にぼくがフロントに寄ったときには、たしかにまだ全員のキ イが残っているのを見ましたよ」 「だからふしぎなんです。だって、藤野由美さんの死亡時刻は当夜の十時か ら十二時の間という解剖結果でしょう。九時ごろといえば、まだ彼女は生存 していたのです。その時点で犯人がどうしてフロントから16号室のキイを 受け取ったかです。キイを渡すとき、事務員は相手の顔を見るはずですから。 かりに、藤野さん自身がキイをフロントから受け取ったとすれば、どうして 彼女がそのキイを持って現場の湖畔に引返したかその理由がわかりません。 これが、どうも奇妙なんです」 土方悦子はそう云って、 「あのとき、チーフは風邪気味で部屋に引取られるし、わたくしも、あんま りみなさんを監視するようで、イヤですから八時四十分ごろにはロビーから ひき上げました。もう少し、残っていれば、16号室のキイをだれがフロン トから受け取ったかが判ったと思うと、とても残念ですわ」 それは門田とても同じだった。 「いや、責任はぼくにあります。風邪をひくのをおそれて、早く部屋に引き とったのがいけなかったのです」 「それだけではないでしょう。星野加根子さんの抗議があったのが、どこか 心理的に影響してたのですわ」 星野加根子は、添乗員があまりに団員の行動を拘束しすぎると文句を云っ ていた。たしかにそれが気になって、あの晚は団員たちの行動を放任し、自 分は風邪の要心に自室へ早く閉じこもった。 ああ、星野加根子の文句さえなかったなら、もう少しロビーに居るか、玄 関の外に立って、全員の帰るまで待っておられたものを、と門田は星野加根 子をうらむ気にもなった。 「わたくしは、犯人が16号室のキイをフロントから九時ごろにもらったと 思います。なぜなら、16号室のキイがいつまでもボックスに残っていれば、 部屋主の帰りがないということで騒ぎ立てられますから。それでは、十時か ら十二時までの間の犯行ができなくなります」 それはその通りだと門田は思った。女性団員のキイが一個だけフロントに 預け放しになっていれば、一人がまだ外から帰ってないことになって、湖畔 を捜索に行くことになる。犯人はそれを考慮して、16号室のキイを九時ご ろにフロントから受け取ったのだ。それは、女性団員の一人にちがいない。 フロントの事務員には、そのキイが日本女性の宿泊客のものと分っているか らだ。 「16号室のキイをフロントから九時ごろに受け取ったのが犯人だとする と、それを手渡したフロントの事務員がその顔をおぼえていたため、捜査陣 に犯人が分ったのだろうか。それで、この団員のなかに犯人がいるというロ ンドンからの電報になったのかな」 門田はまた肩のへんが冷たくなった。ベルンからくる一行の到着は間もな くである。だれかが彼の目前で手綻をかけられる瞬間がくる。 「だが、そのキイのことが、あのキンロス警察にどうして分らなかったんだ ろうか?」 門田は、ふと疑問が湧いた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「まだ、あのときはだれもそこに考えが及ばなかったんでしょう。わたくし たちも今まで気づかなかったんですから」 土方悦子は沈んだ声で云った。 「で、捜査官がそこに気がついて当夜のフロントの事務員に訊く。事務員は そのキイを手渡した相手の顔はおぼえているが、名前はむろん分らない。な にしろ、君を含めて二十九人の日本女性の数ですからね。そうすると、事務 員はどうして相手の女性を捜査官に指摘できたのだろうか。そうか。事務員 もみんなといっしょにこっちにくるのかな」 「そうとは限らないでしょう。警察では、この団員のパスポートについてい る顔写真を複写して取っているでしょうから、それによって事務員は、この 顔だと指摘することができますわ」 「ああ、そうか。なるほど」 全員のパスポートは、キンロスの鱒荘を出発するまで、警察に押えられて いたことを門田も思い出した。 「そうすると、君がキイのことで、まだ判らないことがあるというのは何で すか?」 門田は土方悦子のもの思わしげな顔に訊いた。 「犯人には九時ごろに16号室のキイをフロントから取るのが、どんなに危 険であるか分っているはずです。それは、わざわざ、わたしがこれから藤野 由美さんを殺すのですよ、と自分の顔を事務員に教えるようなものですわ。 げんに、それから犯人が警察に判ったと思われますから。あんなに手のこん だ殺人計画をする犯人が、どうしてそんな愚かなことをしたのでしょうか。 それが、わたくしには奇妙なんです」 奇妙だとかふしぎだとか土方悦子が呟いていた理由は、その点であった。 「それは、たしかに奇妙だけど、犯人の女性には、フロントにいるイギリス の男には日本の女客の顔がよく区別できないという点で、タカをくくってい たのではないのかな。日本人にも外国人の顔がちょっと同じように見えるよ うにね。しかも、約三十人の団体だから」 門田は、考えついたことを云った。 「わたくしも、そのことは一応考えてみました。でも、犯人にとっては、そ れはたいへんな冒険です。もし、フロントの事務員に顔を鮮明に憶えられて しまったら、それきりですからね。慎重な犯人が、そんな単純な、危ない橋 を渡るでしょうか。それはとても考えられません。だから、わたくしは16 号室のキイをフロントから受け取ったのは、犯人ではないと思うようになり ました。では、だれがそのキイを受け取ったのか、それがふしぎでならない んです。団員のなかに、共犯者が居るとは思えませんし……」 通りの前はカメラ店であった。二人の坐っているところからガラス窓ごし にそれが見える。まるで外の風景がガラスのケースに入っているようだった。 そのカメラ店から女子学生が出てきた。本田雅子、西村ミキ子、千葉裕子。 フィルムを買ったらしい。みんな写真を撮りまくってきたから、フィルムも 足りなくなる。 「それに、いちばん大きな疑問は、やはり二人を殺害した動機ですわ。これ が、どうしても解けません」 土方悦子は、女子学生が窓枠から左に切れるのを、ぼんやりと見て云った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn それは門田にも最大の謎であった。以前に、思いついて云ったカミュ張り の「不条理な殺人」では、むろんのこと、片づく話ではなかった。 門田が何度目かに眼を表に投げたとき、星野加根子がカメラ店に入ってゆ くところだった。彼女もフィルムが切れたらしい。門田は、内心で星野加根 子の所在を探していたときなので、おや、あんなところに居たのかと思った。 ロンドンのホテルと、それからきょう展望台で云った言葉が気になって、も ういちどつかまえてゆっくりそのつづきを聞こうとさっきから考えている。 星野加根子が云うひそかに「見たもの」が、事件解決の手がかりにならな いとも限らない。いや、自分勝手な想像だが、なにかそんな気がしてくる。 星野加根子がカメラ屋から出てきて、ここに戻ったら、こんどこそつかま えようと思った。 ただ、それは横でしゃべっている土方悦子には内緒でしようと思った。口 を入れられるとかえって面倒になりそうだった。 「藤野由美さんと梶原澄子さんは、どういうわけか仲が悪かったですね」 土方悦子は、回想するように呟いた。 「相性《あいしよう》が悪いというのかな。藤野由美のほうはそれほどでも なかったが、梶原澄子が彼女との同室を嫌っていましたね。不潔だ、不潔だ と云って。あれは少々ヒステリックな嫌悪感でした」 門田は彼女に前に話したことをくりかえした。 「その梶原さんが、藤野さんとは同じようなタイプの多田マリ子さんとの同 室を希望していたとチーフは云いましたね?」 「そう。ぼくが梶原澄子に、では新しい室友にはだれがいいかと訊いたら、 多田マリ子を希望していました。ぼくも、それは意外だったんですが」 土方悦子は瞳に思案の表情をあらわした。 「もしかすると、その藤野由美さんと梶原澄子さんの不仲に、殺人の原因が あるんじゃないでしょうか?」 「え。そんなことはなかろう。一人が相手を殺したのなら、それも分るけど、 二人とも殺されているんですからね」 「でも、犯人には、藤野さんと梶原さんの二人に共通の殺害動機があったか も分りませんわ」 「それだったら、藤野由美と梶原澄子とは前から知合っていたとか、顔馴染 だったという間柄でなければならない。共通の原因で犯人に狙われていたと すればね。しかし、このローズ.ツアの団員は、みな参加してから知合いに なったんですからね。初対面ですよ。藤野由美も梶原澄子もそうだった。そ れは、あの二人の様子を見ただけでも分る」 「ええ。それはよく分ります。お二人の様子はそうでした」 土方悦子は、納得してうなずいた。 「……ほんとうに、なにもかも奇妙です」 まったく、二人を殺害した犯人の動機にさっぱり見当がつかない。いずれ 犯人が逮捕されたときにそれが判るにしても、予想も推測もつかないという のは、なんとも苛立たしく、落ちつかないことだった。 7 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn そのとき、星野加根子が前のカメラ店から出てくるのが見えた。門田は眼 で追った。彼女は通りを横切ってホテルの玄関に入ってくる。ロビーに步い てくる。 門田は、手洗いにでも行くようなふりで椅子を起った。 まだ思案をつづけている悦子を残して、彼はロビーから奥の廊下に行った。 三メートル先を星野加根子の後姿が步いていた。右にまわる。ロビーからは 見えないところである。 「星野さん」 門田は呼びとめた。彼女はふり返って立ちどまった。 「ああ、わたしの見たことをお聞きになりたいんですね?」 と、星野加根子は門田に向いてかすかに笑った。 その冷たい微笑はあたかも彼女の知っている秘密を示しているように思わ れた。 「星野さん。今回の事件で、ぼくがいろいろと悩んでいるのをご存じでしょ う? コンダクターとしては大きな責任を感じているんです」 門田は、急にかなしげな顔になった。 「ええ。それはよく分っています」 彼女はうなずいた。 「実は、もうすぐここに、ウチの広島常務がベルンから到着するのです。ベ ルンにはロンドンから飛んで来たのですが、常務がここにくるまで、ぼくも 何か参考的な材料を持っていなければなりませんからね。でないと、まるき りぼくが莫迦みたいな男になります」 「………」 「ぼくがよっぽど無能な男のように常務に見えます。星野さん、あなたのご らんになったという一件をぼくに話して下さい。それが事件の解決の一端に ならないとも限りませんから」 門田は哀願調になった。もともと要領を心得た男であった。しかし、知り たい気持は真剣だった。 「わかりました。では、わたしの見たことをご参考までに申しましょう」 星野加根子は、門田が窮地に陥りそうだと聞いて同情心を起したようだっ た。 「え、話していただけますか?」 門田は希望に眼を大きくした。 「でも、ここでは駄目ですわ」 「はあ?」 「わたしがこうしてあなたにコソコソと話しているところをみなさんに見ら れたら、何を告げ口してるかと思われますわ」 「そうですね。わかりました。べつの場所に行きましょうか?」 門田は胸をはずませた。 「ホテルの外がいいと思います」 星野加根子は慎重だった。というよりも、彼女の癖の、秘密めいたものの 云い方が出たと門田は思った。が、いまは顔をしかめてはいられなかった。 「どこにしますか?」 「さっき、散步に出たときに、この道路の先三百メートルくらいのところに、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn キリスト教会がありました。そのへんなら団員の方もあまり来ないでしょう。 わたしもあとからすぐに行きますから、待っててください」 「あの、なんでしたら土方さんもいっしょに連れて行きましょうか?」 と、門田がいったのは、逢引のような体裁になるので、星野加根子の思惑 をかねたのだった。 「土方さん?」 星野加根子は、一瞬、門田の顔を見た。 「はあ」 「それは困ります。絶対に困ります」 星野加根子は急に激しく云った。 「わかりました。ぼく一人で行きます」 星野加根子は二階の階段のほうに行く。門田はロビーのほうに引返しかけ たが、もとの位置に土方悦子の後姿が椅子に凝然と坐って、表のほうを眺め ながら何やら思案をつづけているふうなので、踵をかえした。玄関を出るの を見咎められたらおしまいである。 門田はホテルの裏についている通用口を出た。そこから建物の横に沿って 道路に出れば、土方悦子の視野からは死角になるはずだった。道路に出れば 右に行くので、ホテルの前を通らなくてもよかった。 道は登山電車のグリンデルワルト駅からきた一本道である。商店通りは、 ホテル.スピンネーを区切りに、あとは次第に寂しくなる。左側は斜面の上 が別荘地帯になって、山小屋ふうの家がならぶ。二百メートルも行くと、別 の山に行くケーブルカーの駅があった。 このへんまでくると、右側は道路沿いの建物が少なくなって、広闊な山麓 の高原が眼下にひらけてきた。緑色の草原はゆるやかな起伏をくりかえし、 その間々には針葉樹の木立がある。森林は草原の端の山麓から山腹に匍い上 る。青い山の向うには、峨々たる褐色の岩山が雪を頂上にのせて現われてい た。草原は自然の牧場となって牛が遊び、青や赤茶色の屋根が一帯にばら撒 かれ、ずっと下の遥か向うには一条の白い滝が光っていた。 人は步いていたが、外国人ばかりで、日本人はたまに居ても門田の知らな い男であった。門田は引率の女性団員さえうろうろしていなければよかった。 教会は、こぢんまりとしたもので、尖塔の先の十字架が壮大なアルプス山 麓を背景にして光っていた。埃っぽく、猥雑な市中のと違って、山中の教会 はいかにも清冽で、崇高にみえた。 門田が教会を見物するふりをして小さな門を入り、建物の前に佇んでいる と、道路から星野加根子の姿が步いてくるのが眼に入った。彼女もひとりで 景色を愉しむふりをしているが、警戒心は十分のようだった。やがて彼女は 教会に何気ない恰好で近づいてきた。 門田が口笛を吹くまでもなく、星野加根子は珍しそうな顔つきで教会の門 を入ってきた。外から見られないために、二人は建物の袖にかくれるように して立った。 「どうも済みません」 門田は礼をいい、星野加根子の気持をくつろがせるようにパイプに火をつ けた。 「べつに、たいしたことじゃないんです。あまりひとのことをいいたくあり PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ませんけど」 「これは、ほかの場合と違います。ご承知のように異常な事態も起っている ことです。それに、絶対に他人には口外しませんから」 「あら、わたくしの見たものは、殺人事件とはなんの関係もありませんわ」 星野加根子は、おどろいたように云ったが、それは静かな調子で、年配の 女にはありがちな、どこか人を焦《じ》らすような表情だった。 「もちろん、関係はないでしょう。しかし、この際です。参考のために、ま ったく参考のためにうかがいたいのですが」 門田はひたすら頼んだ。こういう女には低姿勢になるのが得策だと思った。 「その、ご参考にもならないと思いますけど……」 彼女は、なおも門田の心をあせらせた。 「なんでも結構です。ここで、教えてください」 アルプスの山頂に雪が輝き、山麓の針葉樹林の深い蒼みは裾野の斜面で牧 場の緑色となり、石垣や白壁の家が散らばる村を見下ろして教会の祈りの鐘 が鳴る場面は、絵画や映画でも静寂な宗教的雰囲気を与える。 「それでは、思い切って申しあげましょう」 その宗教的な背景に星野加根子の慈悲心が揺り起されたようだった。 「どうぞ」 門田は眼を輝かした。 「門田さん。アンカレッジ空港の売店で、藤野由美さんのお買いになったル ビーの指輪が、洗面所で紛失したという話がありましたね?」 彼女は、すこし少さな声になって云った。 「ええ。ありました」 その事故は団員の間に目に見えぬ衝撃を与えた。出国後、最初の寄港地で いきなり派手な買いものをし、しかもそれを紛失して平然としていた藤野由 美の豊かさがみなを刺戟した。多田マリ子がコペンハーゲンで狂言による騒 ぎを起したのも、それに負けまいとする自己顕示欲からだったと門田は解し ている。 星野加根子は、あの指輪は永久に出てこないとささやいた。ロンドンで自 由行動に当てられた日の午後だった。それが単なる紛失ではないという口吻 にもとれた。いま、彼女はその説明を告げようとしている。 「わたくしがお話ししたいというのは、そのことです。あの時は、だれか来 そうで、おしまいまで云えなかったのですが」 「それは察していました」 「ここには、団員の方が一人も居ませんから申しますが、あの指輪は紛失し たのではなく、藤野由美さんが同じ売店にそれを返されたのですわ」 「えっ」 門田はおどろいた。一瞬、聞き違いではないかと思ったくらいである。吃 驚したあとは唖然となった。 「そ、それは、どうして分りましたか?」 「わたくしが見ていたんです。わたくしもほかの売店のウィンドウ.ショッ ピングに気をとられて、みなさんの出発の集合におくれたんです」 そうだった。門田は思い出す。星野加根子がいちばん遅れて、出発口の待 合せ場所に来た。その急ぎ足の姿を門田も憶えている。そのあとから、藤野 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 由美と、彼女を探しに行った土方悦子とが二人して戻ってきた。 そうすると、藤野由美といっしょに洗面所でルビーの指輪を探していたと いう土方悦子の言葉は、どうなるのだろうか。 「売店に、その指輪を返品して、金をかえしてもらったのは、あなたの助手 格の土方さんですわ」 門田は、あまりの言葉に、星野加根子が嘘を云っているのではないかと疑 った。しかし、彼女の顔に意地悪げな表情はひろがっていても、その眼は虚 偽を述べているようには映らなかった。 「あなたは、わたくしの言葉を疑ってらっしゃるかも分りませんが、わたく しは事実を申し上げているのですよ」 彼女は門田の心を見すかしたように云った。 「はあ。そうは決して思いませんが、あんまり意外なことを聞くので……」 門田は、星野加根子の、眼尻に小皺が寄っている顔をまじまじと見ている だけだった。 「亡くなった藤野由美さんの霊には申訳ないのですが、藤野さんは高価な指 輪の買いものに後悔なさったにちがいありません。といって、みんなに見せ びらかすようにして買ったものですから、団員が居る間は売店の売子に返品 のことが云い出せなかったのでしょう。わたくしは、はなれたところの売店 でエスキモーの民芸品を観ていましたから、藤野さんにはわたくしの姿が見 えなかったのです。団員が出発集合のためにみんな行ってしまったと安心し てらっしゃるところに、その藤野さんを探しに土方さんがやってこられたの です」 星野加根子は一気に云い出した。 「………」 「土方さんの姿を見た藤野由美さんは、とっさに指輪の返品を土方さんに頼 んだのです。藤野さんはあの通り英語がよくお出来になるから、言葉の問題 で土方さんにたのんだのではありません。それにアンカレッジ空港の売店の 売子は、ほとんどが日本語がわかるし、片ことの日本語も商売用に話します わ。誇り高い、言葉を変えていえば見栄坊の藤野由美さんには、買ったばか りの高価な宝石指輪を返品することは忍びがたいことでした。わたくしども でも、それは、ちょっと体裁が悪くて躊躇《ためら》いますわ。売子の不機 嫌もわかりきっているんですもの。それで、藤野さんは、ご自分をさがしに きた土方さんをみて、これ幸いとばかり返品の代行をおさせになったのです」 「そ、それで、土方さんは、それをしたのですか?」 「土方さんは気軽に引受けて、指輪をさっさと売子に返しましたわ。他人《ひ と》のことですと、頼まれた人はわりあいと平気になるものです。わたくし は、その場面の途中から逃げ出して集合場所に行ったんです。藤野さんも土 方さんも、通路のほうには後向きに立って、前の売店の売子と交渉していま したし、折から、到着したルフトハンザ機の乗客がどやどやと売場に群をな して入ってきたので、最後まで、わたくしのことには気がつきませんでした」 「そんなことを土方君は、どうしてぼくに打ちあけなかったのだろう?」 門田は、思わず腹立たしげにひとりごとを云った。 「それは藤野由美さんが土方さんに口止めされたからでしょう。だって、そ んなことが分ってしまえば、プライドの高い藤野さんは身のおきどころがあ PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn りませんもの」 それで、指輪が紛失しても、藤野由美が平気だった理由が分った。そうい えば、彼女の予告と違って、ロンドンでは女王御用達ハロッズで何の買いも のもしなかったことが思い合わされる。その倹約ぶりは、アンカレッジで高 価な指輪の紛失に顔色一つ変えなかった態度と一致しないと思っていたが、 いまの星野加根子の話を聞いて、プリズムの像のズレが一つになるように、 はじめて一致した。 「しかし、土方君も土方君だ。あれほどの大騒ぎになって、ぼくを心配させ た指輪紛失の真相をぼくにだけでも、こっそりと打ちあけてくれてもよさそ うなものを」 「わたくしも、そう思いますわ。どんなに藤野さんから口止めを約束させら れていても、土方さんはあなたにだけは話してよいはずです。藤野さんも亡 くなられたことだし。土方さんも、それをいまだにあなたに黙っているなん て、変った方ですね」 「………」 門田は言葉が出なかった。 星野加根子は、通行人の多い通路のほうを見ていたが、にわかに、そわそ わしはじめた。 「門田さん。わたくしの話はこれだけですわ。やはり、こんどの殺人事件に は関係がないでしょう? ごめんなさい。あなたに期待を持たせたりなどし て。でも、この話をわたくしがしたなんて、土方さんはもとより、ほかの団 員の人たちにも絶対に内緒ですよ。それは、約束してください」 星野加根子は、それだけ云うと、急いで彼からはなれて行った。教会の門 を出たその姿は、登山姿の通行人の多い道路上をホテルのほうに向っていた。 しかし、門田は星野加根子の姿にはもう見むきもしていなかった。彼は石 の上に腰を下ろし、身体を前に二つに折って、垂れた頭を両手で支えていた。 土方悦子がアンカレッジの指輪の真相を匿していた。門田は、なんだか彼 女に裏切られたような気がした。藤野由美との約束を守って沈黙していたと いえばそれまでだが、問題はそんな小さなことではない。たとえ些細なこと でも、それは周囲の事情に対置して考えられなければならない。そこに新し い意味も生じ、別な価値観も与えられるのである。当の藤野由美は殺された のであるから、彼女の指輪返却の一件も、土方悦子は当然に打ちあけなけれ ばならないのだ。たとえそれが藤野由美の殺害に直接的な関係があろうとな かろうとだ。しかるに、土方悦子は何も語らなかった。 そのことは何を意味するだろうか。門田はここで、土方悦子を知って以来 の彼女の言動を仔細に点検する気になった。それには長い思案がかかった。 彼は腕を組んだ。 門田は石の上に坐りすぎて尻が痛くなったので、いちど腰をあげた。教会 の鐘が実際に耳近くで鳴りはじめた。 その振動の波は裾野から山腹を匍い上り、はるかにアイガーやユングフラ ウの白い山頂に到達しているようだった。その一方では、谷底を降って牧野 《ぼくや》を流れ、麓の村々に響きを伝えていた。雪の山にいる人間も、牛 を追う牧夫も家の主婦も、この鐘の音にしばし両手を組み、祈りを天空の雲 に捧げているにちがいなかった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田は、足のうらが地から浮くような思いで教会からホテルへむけて步い た。 門田はホテルのドアマンの愛嬌をうけて中に入った。ロビーは外国人ばか りがたむろしていた。土方悦子の姿はなかった。 門田はここを出るまでロビーに居た土方悦子がいないので安心した。もし、 悦子に見つけられたら、チーフ、どこに行っていたのとさっそく質問される であろう。彼女の頭脳《あたま》の回転の速さは認めないわけにはいかない。 どんなことで門田が外出していたか、その行先と、ひょっとすると会ってい た相手まで察しかねなかった。 彼がひと息入れるために、ロビーの隅にある椅子に腰を下ろしかけたとき、 「おい、門田君」 と、いきなり横から大きな声をかけられた。 到着したばかりの恰好で、常務の広島淳平が寄ってきていた。門田は、な つかしいよりも鬼が現われたような気持になった。 「あ、常務!」 その背中から、江木奈岐子があらわれた。 「門田さん。こんどは、たいへんでしたわね」 江木奈岐子は瞳をひろげて、門田に、まず同情の言葉をむけた。 門田は、二人の姿を見て、精も根もいっぺんに尽き果てたような気になり、 顔がくしゃくしゃに歪んだ。 土方悦子が小さな顔を見せた。そのあとからイギリスの捜査官たちと、日 本人新聞記者らがぞろぞろとあらわれた。 その場にいる欧米人の宿泊客が何事かと一斉に見返った。 [#改ページ] アイガーの「壁」 1 訊問の場所には、ホテル.スピンネーの集会場が借りられた。集会場とい っても、せいぜいが百人足らずの人が入れる程度で、日ごろは会議場とか、 パーティの会場に使われる。 スイスは、国際会議がよく開かれるところで、西のジュネーブには国連本 部があるし、東端のバーゼルでは国際通貨会議がよく開かれる。ベルンでは 国際登山者会議がよく催される。そういう会議に列席した代表たちは、また 本会議のあと、このアルプスの景勝地に来て、別途に会議を開いたりする。 それは遊山半分の、気楽な会議ではあるが。とにかく、そうしたことで、こ のホテル.スピンネーには小集会場があった。 訊問は、スコットランドのレブン湖畔で行われた二人の日本婦人殺人事件 についてであったが、この審問の形式は少しく変っていた。 訊問に当るのは、犯罪の発生地であるイギリスの警察当局で、そのメンバ ーは次のとおりだった。 [#ここから1字下げ] PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ロンドン警視庁捜査課 警部 クリフォード.ヒューズ 同 警部補 コリ ン.エヴァンズ スコットランド.キンロス警察署 部長刑事 エドワード.イングルトン [#ここで字下げ終わり] これに記録係の警官二名が加わる。 それに、陪席として当地スイス国側から二人の警察官が出た。 [#ここから1字下げ] ベルン警察署 警部 ゲオルク.ウンターハウゼン 同 警部補 ルードヴィヒ.テルトラグリ [#ここで字下げ終わり] スイスは各州の連邦制度をとっているが、ベルンが連邦政府なので、右の 両名は中央の派遣官ということになる。 これに日本側からは、駐仏大使館付で在パリの桐原参事官が傍聴人として 出席した。警察庁から出向した参事官である。それと、駐スイス大使館で在 ベルンの高瀬一等書記官と臼井二等書記官がこれに参加した。 これに、参考人として、王冠観光旅行社の常務広島淳平と、著述業(旅行 評論家)江木奈岐子とが列席した。 訊問する側はイギリスの警察官だが、その訊問の主任格にはクリフォー ド.ヒューズ警部が当ることになった。 訊問を受けるのは、王冠観光旅行社によって結成された「ローズ.ツア」 の全員二十八名と、添乗員の門田良平、講師の土方悦子を加えた三十名であ る。 団員の二十八人は、いまのところ参考人だが、訊問の結果によっては、そ のなかから被疑者が出そうであった。だから、それ以前は、参考人の二十八 人の日本女性は同時に潜在的な被疑者でもあった。 訊問側と陪席側は集会場《ホール》の正面に居ならんだ。雛壇こそつくら れてはいなかったが、それはさながら「審問廷」の観を呈した。華やかな参 考人一同はその前にならび、後方には、日本人記者五名と、イギリス、フラ ンス、それに地元のスイスを加えて七名ばかりの外人記者が椅子にかけて鉛 筆をかまえていた。 窓々には、落日の近くなったスイスの山が、展示場の画のように、それぞ れの額縁にはまって一列にならんでいた。アイガーの壮大な北の絶壁、その 左隣により添うようにしている日本の槍カ岳にも似たフィンスターアールホ ルン。斜めの陽は、青い暗い影を谷底から上方によほど匍い上らせているが、 頂上あたりの雪は、次第にうす紅色に染まりつつあった。 まるでカラーの組写真のようだ、と門田は一列の窓の風景を眺めて思った。 が、それがフィルムでないことは、外部の景色が持つ寒冷な空気が窓の硝子 を通過してこの会場に流れこんでいるような感覚になるのだった。もとより、 この手狭なホールにもスチームはとおっていたが、それでもなお門田が寒気 をおぼえるのは、雪の高峰を見ている視覚のせいだけではなく、この「審問 廷」の森厳さによった。 「廷内」は、静まり返っている。判事や検察官が着席し、いまや裁判長が木 槌を鳴らして開廷を宣する前、数分間の緊張した静粛に似ていた。門田が胴 震いをおぼえているのは、その氷のようにはりつめた緊張からであった。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田は、この「法廷」には判事と検事とが居て、「被告」を防禦する側の 弁護人が一人も居ないことに気がついた。これで公正な審問が受けられるだ ろうかと、そぞろ心配になってきた。 広島常務の電話によると、訊問側は、この二十八人の女性団体の中に、殺 人の被疑者が居ると決めて、此処まで来ているのである。どのような証拠を 掴んだのか知らないが、それは「審問」側がすでに予断を持って臨んでいる ことではないか。いかなる場合でも、「予断」を持っての「審問」は公正で はない。 ここでの弁護人格といえば、「審問」側の端に坐っている駐仏大使館の桐 原参事官であろう。桐原は四十歳の半ばぐらいで、苦味《にがみ》走った顔 の、水商売の女にもてそうな風貌だった。服装もこまかいところに配色の神 経が行き届いているという、渋い伊達男《ダンデイ》であった。 弁護人になるなら、この男しかいない。海外邦人保護を目的の一つとする 在外公館員だから、それは適格だろう。が、その参事官の冷たそうな眼つき、 噛みしめたような唇のかたちを見てとると門田は失望が先に立った。 桐原参事官は、ここでは傍聴者格として陪席している。そうであるなら、 彼はこの「審問」には口出しできないのである。弁護人になる資格も権利も はじめから与えられていない。もっとも、彼が人道主義と邦人保護の立場か ら勇気をもってすれば、弁護人を買って出られないことはないが、桐原参事 官は本来《プロパー》の外交官ではなく、警察庁出向の役人である。 重要な各国の日本大使館には、防衛庁出向の「武官《アタツシエ》」がい るように、彼は外事警察担当の警察官《ポリス》である。彼もまたスコット ランド.ヤードの「予断」に組する一人であろう。むしろ、彼はこんどの事 件に捲きこまれたのを迷惑に考え、埒《らち》もない観光団の日本女性が旅 先で殺人を犯すなどとは国辱ものだと苦り切っているにちがいなかった。こ こで弁護人役を買って出るとはとうてい思えなかった。 門田は、中央席にいる「審問長」格のロンドン警視庁捜査課クリフォード.ヒ ューズ警部の顔を見た。鼻がひとなみより隆《たか》く、蒼い眼が山湖のよ うに澄んだ、顎の長い、色の白い、典型的な英国紳士の容貌だった。しかし、 その鷲鼻の先には、これまた警察官僚的な冷酷さがぶら下っているように見 えた。話をするときには、上流階級の人間らしくわざと言葉を吃《ども》る といった|気取り屋《スノツブ》のようだった。 その隣に居る部下のコリン.エヴァンズ警部補は、体重一六〇ポンドもあ りそうな肥大漢で、その面構えは動物的な獰猛さを備えていた。鼻はひしゃ げたように低く、赭かった。これは被疑者を取調べるとき、相手がどのよう に狡猾な悪漢でもたちまち精神的に降参させるような重圧をもっていた。彼 は、訊問する上司に助言する役目であるらしかった。 ヒューズ警部の右隣は一人ぶんだけ空席になっていた。そこに誰が坐るの か分らなかった。 キンロス警察署のエドワード.イングルトン部長刑事は、門田にはもちろ ん馴染深い人である。レブン湖畔の捜査ではこの人のためにずいぶんときり きり舞いをさせられた。ひどい目に遭わされた男は、なつかしい。 このホテル.スピンネーで、他の警察官一行と門田が遇ったときも、背の 高いイングルトン部長刑事はなつかしそうに背をかがめて強く握手したもの PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn だった。 「また、お遇いできて、うれしいですな、イングルトン部長刑事」 門田が云うと、 「わたしもだ、ミスター.カドタ。あんたがたのよき旅のつづきを祈ってい たが、ここで再び脚を停めさせる仕儀になったのはなんといってもお気の毒 です。しかし、こんどは短時間で済むから、よろしく協力ねがうよ」 と、彼は低い声で云った。口髭をあまり動かさなかったのは愛想笑いを消 しているからだった。 それは、彼が土方悦子に会ったときもおよそ同じであった。彼女が持ち前 の才気走った言葉で、 「このような風光明媚なアルプス風景の中で足どめをしていただくなんて、 美しいレブン湖畔のことといい、お国の警察はとても思いやりがあってうれ しいですわ、イングルトン部長刑事さん」 というと、彼は、 「そのお言葉はわがイギリス警察にとって光栄ですし、わたしも安心しまし た。ミス.ヒジカタ」 と、かすかにほほ笑んだだけであった。 その何気ない微笑の中に秘密がある。イングルトン部長刑事は、スコット ランド.ヤードの応援を得て、何を掴んできたのであろうか。広島常務はロ ンドンからの電話で、この女性団体にレブン湖畔殺人事件の犯人がいると悲 痛な声で云ったが、それは捜査にあたったイギリス警察当局から聞いたこと なのである。が、「旧知」のイングルトンだが、捜査内容を想像させるよう な表情はさすがに毛筋ほども見せなかった。 いま、「審問席」の端に坐ったイングルトン部長刑事は、あたかも国際会 議に列したチェンバレン英代表のように厳粛な面持で控えていた。 参考人の女性たちを門田は一瞥した。どの顔にも好奇心が浮んでいた。ど こに不安な人間がいるのか識別できなかった。 多田マリ子は彼女のクラブに集った男客を見るような眼つきで、正面の男 たちを面白そうにじろじろと見ていた。彼女の視線は、ときどき門田と、そ の隣にいる土方悦子、広島常務、江木奈岐子に流れた。とくに、ここで初め て見る女性旅行評論家の江木奈岐子には、同性特有の観察をしているようだ った。 星野加根子は、眼を伏せていた。彼女は門田のほうをあまり見なかったが、 それは隣にいる土方悦子を避けているらしかった。アンカレッジ空港売店で 土方悦子の行動を「見たこと」について門田に「密告」した星野加根子は、 土方悦子に視線を当てるのが辛いようであった。この分別くさい、中年の未 亡人は、いまも何かしら独りで思索にこもっているようであった。 同じような型《タイプ》には、竹田郁子や日笠朋子や中川やす子などがい た。彼女らは年齢がわりと高いために落ちついていて、よほどのことでもな い限り、たじろがない性質だった。興味がもてることを自分から見放したよ うな陰気さはかくせなかった。 年齢が高くても、魚屋の主婦金森幸江のように、何を見ても興味しんしん といったふうな女がいた。彼女はまるで道ばたで輪をくんで立話をしている ときのような穿鑿心と、事故が起った近所の家をのぞいているような好奇心 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn とで、これからはじまる「審問」の成行きを期待する顔でいた。 だが、この型《タイプ》が参考人の女性には圧倒的に多かった。金森幸江 ほどには「低級な」趣味でないにしても、たとえば本田雅子、西村ミキ子、 千葉裕子の女子学生も同様な興味をこの場面の展開に寄せていた。それらの 女たちは一様に顔をあげて、眼を輝かしていた。 要するに、門田にとっては、どの女性が二つの殺人の被疑者なのか、見渡 したかぎりでは、さっぱり判断がつかなかった。 彼は、その参考人たちのうしろにある記者席に眼を流した。 A─社の浅倉、B─社の諏訪、C─社の高村、連合通信社の内藤、それに 日本スポーツ文化新聞の鈴木がならんでいる。 浅倉のぼさぼさ髪と浅黒い顔、諏訪の坊ちゃんのような可愛い丸顔、高村 の七三に分けた髪と大きな眼、内藤の職人のように刈り上げた頭と顴骨《ほ おぼね》の出っぱった顔、それに鈴木のもっともらしい口髭と顎髭、いずれ も「審問席」を猟犬のような眼つきで注目していた。 ロンドンから警察官一行とスイスに飛んできた彼らと、門田は一時間前に このホテル.スピンネーの玄関で遇った。浅倉は眼を無邪気に細め、 「こりゃ、いいとこじゃありませんか、門田さん。こんな素晴しいアルプス の保養地で警察の訊問を受けるなんて、スコットランドの山湖のことといい、 あんたがたはよっぽどツイていますよ」 と、いきなりがらがら声で云って笑った。 「よしてくださいよ、浅倉さん。ツイているどころか、こっちは再三の足ど めで腐っているんですからね」 門田は、彼の言葉を手で制した。この玄関先は外国人客の出入りばかりで、 ほかに日本人がいなかったからいいようなものの、具合の悪い話であった。 「いや、ごめん、ごめん。われわれはここまで登ってきて、あんまり素晴し い眺めに、うっとりとしたもんですからね。つい、失言をしました。ところ で、門田さん、今日は団員さんたちを連れてアイガーに登ったでしょう?」 浅倉は早速に取材にかかった。これは傍にいる四人も同じ顔つきであった。 「ええ、登りました。予定のスケジュールですからね」 「なるほど。で、みなさんの様子はどうでした?」 「様子ですって? そりゃ、普通の観光客と変りありませんよ。アイガーの 雄大さに、ただただ感嘆し、躁《はしや》いでいましたよ」 「そのなかでですね、少し様子が変っているとか、おかしいとかいう女性団 員は居ませんでしたか?」 「そんな人は見ませんでしたよ。みんな夢中になって撮影したりしてよろこ んでいましたからね。……ところで、浅倉さん、こんどは、こっちから訊き たいのですが、スコットランド.ヤードはどんな証拠を握ったのですか、あ のレブン湖の二つの殺人事件で?」 「それが、さっぱり、われわれにもつかめないのです。捜査陣がひた隠しに 隠していますからね」 「けど、この団体のなかに被疑者がいると見込みをつけて、連中がここに乗 りこんできたのはたしかでしょう?」 「それはそうなんだけど、よく分らんのです。とにかく、あんたの云ってい るような見込みで、われわれも連中にくっついて此処まで来たのですがね」 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 新聞記者たちは、実際に捜査の内容やその進展については何も知らないよ うであった。 例の通信員の鈴木は、 「コペンのホテルの出来事を日本に報じたのはぼくですが、その観光団がこ んな大きな事件の渦中に入るなんて、あのときは想像もできませんでしたね え」 と、はるばるアルプスまで登ってきて、感慨深げな表情であった。 門田は、その鈴木の顔を見て、せっかくのアルプス行に女を伴れてこられ なかったのを内心で残念がっているのではないかと思った。彼のガールフレ ンドのデンマーク娘はコペンハーゲンの裏町の居酒屋で見たし、ロンドン娘 は、土方悦子に注意されて、キンロス.ホテルの庭で瞥見した。いやいや、 こっちが心配することはない。あのぶんだと、案外スイス娘をどこか近くの ホテルに待たせているのではないかと邪推にも似た想像をした。 この五人のプレスマンが一様に視線をくれたのは、ロビーに坐っている江 木奈岐子の姿であった。 「あの旅の評論家は、あんたがたが出発したあと、キンロスに広島さんとい っしょに来たが、ちょっと魅力があるおばさんだな。名前はつとに聞いてい たが、見るのははじめてでね。まだ残んの香といった色気が、しぐさなどに 見えますよ」 と、これは浅倉が代表して云った言葉だった。 女性寄稿家は、なべて編集者や新聞記者に愛想がいい。ことに江木奈岐子 の場合は、売れっ子の小説家というわけではなし、それが目立つのは当然で あった。浅倉らにそう云われてみると、見なれている門田には気がつかない ことだったが、こうして外国で遇う彼女の顔も服装もちょっと日本人放れし た新鮮さがあり、しかもイタに付いているという感じだった。 「それに、江木女史はすごく英語が達者だな。ちょっと、はたでしゃべって いるのを耳にしたのだが」 これは連合通信の内藤が云った。 「それはそうでしょう。女ひとりで世界じゅうを何度も步いてきているんで すからね。旅に関する英書の翻訳もありますよ」 門田は教えた。 そこにロンドンからきたエヴァンズ警部補がやってきて、映画の悪役そっ くりの顔で、 「君ら、そこで、ごそごそと話してはいかん。さあ、新聞記者諸君は、あっ ちに行った、行った」 と、追い立てた。日本語が分らないだけに、記者たちの取材を頭ごなしに 叱りつけたのだった。このぶんでは、五人の連中も、ウインザー城で各団員 にあたって取材したような活動はできなかった。 隣の土方悦子が遠慮深そうに小さな咳をした。そのまた隣の席が、先刻、 新聞記者たちの話題に出た江木奈岐子であった。 江木奈岐子と土方悦子がこのホテルで会ったときの様子は、門田は見てお ぼえている。 「土方さん。あなたには、ご苦労をおかけしたわね。ごめんなさい」 江木奈岐子は、小走りに寄ってきた土方悦子の手を把って云った。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「いいえ、先生。わたくしはなんでもありませんわ。それよりも東京からわ ざわざお電話をいただいたりして、かえってご心配をおかけしました」 土方悦子は、小さな身体を折っておじぎしていた。 「わたしがあなたを代理に出したばっかりに、こんどのようなひどい目にあ わせました。ほんとに許してね」 「とんでもありません。わたくしはこのように平気ですし、元気なんですも の」 「それを見て安心しました。やっぱりこの眼で確かめないことには落ちつか ないものね。わたしは、あなたのことが心配で、東京にじっとして居られな いもんだから、広島さんがこっちに飛ばれると聞いて、お願いして随《つ》 いてきたのよ」 「まあ、そんなにまでご心配していただいて申しわけありません。ほんとに、 どう申し上げていいかわかりませんわ」 「いいのよ、そんなに気を使わなくても。わたしはあなたの元気そうな顔を 見て安心したから、此処が済んだら、明日にでもギリシャに飛んで中近東を まわって帰るわ。ちょうど、そのへんにひっかかる仕事があるもんだから」 「それは、先生がわたくしに気がねしておっしゃっているからで、わたくし のことで、やはりわざわざいらしたんでしょう?」 「いいえ。中近東に取材があるのもほんとうなの」 「それならいいんですが。……」 「でも、今日はいまからがたいへんね。殺されたお二人もお気の毒だけれど、 この女性団体のなかから犯人が出るなんて、ほんとうにイヤだわ。それをこ れから警察が訊問でみんなの前で摘発するなんて。まるで、ヨーロッパ中世 の裁判のようだわ。ああ、ここは中世の面影の濃いスイスだけど」 「でも、ここで一気に解決してもらったほうがいいかもしれません。たとえ 嫌疑者が出たとしても、裁判でないと有罪か無罪か分りませんし。とにかく、 このままお互いが疑心暗鬼のような状態で団体旅行するのは、たまりません わ」 「わたしには、どっちがいいか、よく分らないけれど」 「先生、ここで結果をごらんになって、中近東の旅にお出かけになったほう が、かえって落ちつかれると思うんですよ。遅かれ早かれ、いずれは一つの 結論が出るんですもの」 「それは、そうかもしれないけれど」 その両人は、いま、門田の傍にならんでいた。土方悦子の小さな身体ごし に、江木奈岐子の横顔の一部分が見えた。フランス香水の匂いがそこからか すかに流れてきた。土方悦子は香水をほとんどつけない女であった。 2 門田は、土方悦子に抱いた不信感がまだ残っていた。星野加根子が教会の 横でこっそりと打ちあけたのは、事実にちがいない。彼女は、土方悦子がア ンカレッジ空港の売店で藤野由美に協力してルビーの指輪を返品したのを見 たと云った。 そのこと自体は、何度も考えるように、こんどの忌わしい事件とは関係が PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ないであろう。しかし、それを未だに自分に隠しているのが不満だった。何 でも話し合い、相談した間柄なのに、そんな秘密主義が気に喰わなかった。 女というのは、とかく詰らないことをひた隠しにして満足しているものだが、 この一点だけでも、土方悦子に対するこれまでの信頼感が揺らいでいた。 江木奈岐子の隣にいる広島淳平常務は、門田からいって同列の三人目にあ たるが、そこにちらりと見える横顔はまことに沈痛であった。犯人は別とし て、広島ほど衝撃を持続させている人間はこの小集会場の中に居ないであろ う。無理もないことで、自分の社が組んだ観光団の中で二人が殺害され、し かもその犯人が同じ団員だというのである。数ある旅行社にとっても前代未 聞のことであった。もしかすると、この不祥事件から王冠観光旅行社は世間 から爪はじきをうけて社運が急速に傾くかもしれないのだ。最悪の場合、そ の不評から社は潰れないとも限らない。その責任はすべて企画担当役員の広 島常務の上にあった。それはまさに深刻な危機といってよかった。彼は不運 と受難とを一身に背負った顔で、石のように凝乎としていた。このホテルで、 門田が最初に遇ったときの彼の怒号、叫び、それにつづく蜒々とした愚痴は、 諦めの涯に、すっかり沈んでいた。 広島といえば、このホテルで土方悦子と遇うと、すぐに電報を二通彼女に 渡した。日本からホテル.ベルビュー気付で彼女宛に来ていたのを持参した と云っていた。団体がベルンを出発して山に来たあとで電報は到着したらし い。この二通の電報の内容について土方悦子は門田に何もふれなかった。こ れも彼女の秘密主義に思えて、門田の不満を唆った。 門田の視野が、テレビ.カメラのように、訊問者席、参考人席、記者席を 舐《な》めまわし、次いで自分の横にいる三人の上を匍《は》い、最後に再 び中央の訊問者席に戻ってぴたりと止まったとき、「審問長」格のクリフォ ード.ヒューズ警部は、会場の静寂を破って大きな咳払いをした。それは恰 度、裁判長が開廷を宣する木槌の音にも聞えた。 「それでは、これから、去る四月二十二日にわがブリテン連合王国はスコッ トランド、キンロス町のレブン湖畔で起った日本婦人二人の殺害事件につい て、ここに集られた参考人の方にいろいろと質問を開始いたします。ご協力 をおねがいします。なお、当方の質問に答えられる参考人の答弁や陳述は、 すべて記録されますので、その旨をおふくみください」 警部は、上流社会風の気取った抑揚で云ったが、この場合、その気障《き ざ》がかえって厳粛に聞えた。 「次に、言葉の問題でありますが、ここでは公用語として英語を用いること にします。参考人の発言は、ここにお見えになっている江木奈岐子さんに通 訳をおねがいすることにし、われわれ質問者側の通訳は、駐スイス日本大使 館の高瀬一等書記官に特におねがいすることにしました」 クリフォード.ヒューズ警部が眼顔でさし招くと、かねて打合せができて いたのであろう、江木奈岐子がついと起って、ヒューズ警部の右隣の空いた 椅子に坐った。門田には空席だった理由がはじめて呑みこめた。 江木奈岐子は、椅子に坐る前に、正面の参考人席、二十八人もの華やかな 同性に対して、日本流に頭をさげておじぎをした。 「江木奈岐子でございます。ただいまクリフォード.ヒューズ警部の命令で、 ふつつかですが、わたくしが通訳をさせていただきます。質問者側の通訳は、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ここにおいでになります駐スイス大使館の高瀬一等書記官におねがいするこ とにしました。もうお分りになっている方もあると存じますが、ただいま、 ヒューズ警部が云われたのは、こういう意味のことでございます」 彼女は、さっそくヒューズ警部の「開廷」の言葉を通訳したのだった。 江木奈岐子は、心もち眉を上げ、いくらか上気した顔でいた。参考人の女 性たちの視線が自分に集中しているのをやはり意識しているからであった。 痩せた高瀬一等書記官もその白い顔を紅潮させた。 「それでは、始めます」 ヒューズ警部は、もう一度、荘重な咳を一つして云った。 初めは、クリフォード.ヒューズ警部によって、団員二十八人の簡単な身 元調べといったものが行われた。 日本人二十八人について、こと細かに調べることは、時間的.地域的条件 からいっても不可能である。ことに訊問は外国人であるから、日本の警察官 が根掘り葉掘り訊問するような調子にはいかなかった。身元を調べる資料と いったものもないのである。それらしいものは、パスポート記載ただ一つだ けだった。 一人一人が、自分のことを簡単に述べた。どこで生れ、どういう職業を持 っているかを云い、勤め先の名前をあげた。既婚の者は亭主の職業と名前を 云った。こうした供述は一方的な話で、審問側にはそれに反対訊問する力は なかった。横にいた記録係の部下が書き取っていた。もちろん江木奈岐子の 淀みない通訳だった。 最初の問題は、団員それぞれが、殺された藤野由美と梶原澄子と、個人的 に知合いだったかどうかの点であった。これは二十八人全部が否定した。 「私たちは、お互いがこの団体に入ってから初めて知り合ったのです。もち ろん藤野さんも梶原さんも含めてです。それまでは、会ったことも、見たこ とも、話したこともない仲です」 通訳は、決定どおり訊問側を高瀬一等書記官が日本語に、観光団側を江木 奈岐子が英語にそれぞれ担当した。彼女の英語は、非常に慣れていた。 ヒューズ警部は門田のほうを向いた。 「ルーム.メートは当人たちの希望で決ったのですか、それとも主催者のほ うで決めたのですか」(高瀬.通訳) 「それは私の責任で割り振りを決めました。基準といってはありませんが、 大体年齢的に近いもの、または居住地域が同一か近いものを一緒にするよう にしました。これはいままでの経験から、習慣的にそうしたのです」 (江木.通 訳) 「ルーム.メートに組合せられてから、それぞれお互いの感情はうまくいっ ていましたか」(高瀬) 門田は、訊問者が藤野由美と梶原澄子のことを言っているのだと気がつい た。おいでなすったという感じである。しかし、ここで妙に隠し立てはでき なかった。彼は、殺された両人の仲がしっくりしていなかったと述べて説明 した。 「団体旅行には、同じ部屋に二人で泊るので、そうした小さなトラブルは付 きものなのです。それは私が過去の添乗でしばしば経験したところです」(江 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 木) 「藤野由美と梶原澄子との仲違いの原因は何ですか?」(高瀬) ヒューズ警部は眼に冷たい光を見せた。 「別にたいしたことではなかったと思います。人によっては、相手が何とな く気にくわなかったり、反りが合わなかったりするものです。たいした理由 もなしに、ルーム.メートを替えてくれとか、あるいは、お金を出すから個 室をとってくれとかいう人は、必ず出てきます。しかし、それでは団体統制 上、困りますので、規約として、最初に決った組合せは、終りまでその通り に実行させることにしています」(江木) 「君は藤野由美か梶原澄子から、そのことで苦情を訴えられたことがありま すか」(高瀬) 「それはございます。けれどもいま申し上げたように、別に取り立てた理由 ではなく、やはり相手が気に入らないからという、単純なことでした」(江 木) 「それは、藤野由美のほうが云ったのですか、それとも梶原澄子が君に訴え たのですか」(高瀬) 「梶原澄子さんです。この人は、札幌の梶原産婦人科病院長の未亡人で、人 一倍潔癖感が強かったように思います。人には、そうした方面で、異常に神 経質の方がありますから」(江木) 「梶原澄子は、藤野由美に対する感情をどういうふうに君に云っていました か。なるべく具体的に話してください」(高瀬) 「梶原澄子さんは、藤野由美さんが不潔な感じがすると云っておりました。 しかしわれわれから見て、藤野由美さんが不潔とは思われませんでした。そ れどころか、おしゃれで、服装も洗練されたものを身につけていましたから、 たぶん梶原澄子さんが不潔だというのは、彼女に対する反発が、そんな言葉 を発させたと思います。特別な理由もなしに毛嫌いするということは、人に はよくございますから。梶原澄子さんの場合も、藤野さんに対して、生理的 に不潔だという表現を使っておりました」(江木) 「梶原澄子は、君にたびたび室友の取り替えを要求しましたか」(高瀬) 「それほど激しくはありませんが、できるなら早くほかの人と替えてくれと は云ってきていました」(江木) 「その場合、梶原澄子さんは、どういう人と新しい室友になりたいと希望し ていましたか」(高瀬) 「多田マリ子さんです」(江木) 会場の参考人の間には、一種のざわめきが静かに起った。名前を云われた 多田マリ子は、その派手な顔を審問長のほうへ振り向けた。 「それは、彼女の希望どおりになったのですか」(高瀬) 「なりませんでした。何となれば、スコットランドのキンロスのトロウト.ヴ ィラでは、一人一室だったからです」(江木) 「それは四月二十二日の宿泊のことですか」(高瀬) 「そうです」(江木) 「観光団の最初の予定では、この日はエジンバラのホテルに泊ることになっ ていた。それがどうしてキンロスのトロウト.ヴィラに変ったのですか」(高 瀬) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「エジンバラのホテルでは、ブッキング.オーバーから、われわれ全員の宿 泊がそこではできなかったからです。ホテル側では、よそのホテルに分宿す るよう取り計らってくれましたが、私はそれを断わりました。なぜならば、 この団員は外国に初めての方が多いですし、女性でもあります。万一不測の 事故が起った場合、私の責任になりますので、なるべく同じホテルに一緒に 泊ったほうが、私の目が行き届くと思ったからです。それで分宿を断わり前 述のレブン湖畔にあるトロウト.ヴィラに移りました」(高瀬) 「なぜその土地を選んだのですか」(江木) 「それは、まったく偶然です」(高瀬) そこで門田は、エジンバラの街を步いているとき、街角にあるサー.ウォ ルター.スコットの銅像から、団員一同が、スコットの作品に出てくる湖に 大きな興味を抱いたこと、それは日本人の間には明治時代から英文学の知識 がかなり行き亘っていて、スコットの『湖上の麗人』が広く親しまれている こと、そのためにエジンバラのホテルが紹介したレブン湖畔の宿をみんなが 喜んだことを説明した。 「サー.ウォルター.スコットの銅像について、そのような文学的説明をし たのはだれですか」(高瀬) 「それは私の横に坐っております土方悦子さんです。土方さんは、講師とし てこの団体に付き添っていただいております。彼女の深い教養は、われわれ のこんどの旅行で、どれだけ大きな知識と慰めをみなさんに与えたかわかり ません。それは、ここにいる団員のみなさんのひとしく認めるところであろ うと思います」(江木) 「ミス.ヒジカタ」 と、ヒューズ警部は彼女のほうに顔を向けた。 「いま門田さんが云ったことに間違いはありませんか」(高瀬) 土方悦子は立ち上った。 「間違いはありません。スコットの銅像を見て、私が『湖上の麗人』につい ての説明をみなさまに申し上げたのです。そうするとみなさまは大変興味を 寄せられ、スコットランドのレブン湖畔に移ってからも、大変喜んでおられ ました。もっともそこはスコットの『湖上の麗人』のカトリン湖とは違いま すが、それでも、あの中世の王女と騎士が活躍する物語には、十分ロマンチ シズムを満足させられたようであります」 「そうすると、レブン湖のトロウト.ヴィラに移ったのは、最初の予定にな かったのですね。ブッキング.オーバーをやらかしたホテル側が責任を感じ て紹介したという、まったくの偶然からですね」(高瀬) 警部は質問を門田にむけた。 「そうです。まったくの偶然からです」(江木) 門田は答えた。 「そのホテルに入ったのが、四月二十二日の午後五時ごろでしたね。夕食は 早めに、六時に一同がとっている。その晚は、みなはどのように行動しまし たか」(高瀬) 「すでにあたりは暮れかけておりましたが、夕景の湖畔の眺めは素晴らしい ので、みなさんはそこに行って散步しておられました。とても楽しそうでし た」(江木) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「部屋には団員が一人も残っていなかったのですね。それはどうしてあなた にわかりましたか」(高瀬) 「はい、それはフロントにあるキイ.ボックスに、部屋の鍵がことごとく預 けられてあるのを見たからです」(江木) 「団員は、何時ごろまで湖畔にいて、何時ごろホテルに戻りましたか」(高 瀬) 「大体九時ごろだろうと思います。あとでみなさんに聞いても、そういうこ とでした」(江木) 「君は、それを見届けましたか」(高瀬) 「いや、私は風邪をひきそうなので、早々に部屋に帰って寝ました。それが 八時ごろでした。ですから、そのあとのことはわかりません。みなさんが九 時ごろにホテルに帰られたということは、あくる日になって確かめたのです」 (江木) 「土方さん。あなたは何時ごろまで湖畔にいましたか」(高瀬) 警部は彼女に問うた。 「わたくしは湖畔までは参りませんでした。門田さんが風邪をひきそうなの で、八時ごろ部屋に帰って寝られたあと、四十分ぐらいして、つまり八時四 十分ごろ私は部屋に戻り、本を読んだりなどして眠りました」(江木) 土方悦子は答えた。 「そうすると、門田さんもあなたも最後までは団員の帰りを見なかったとい うわけですね」(高瀬) 「それには理由があります。われわれがおしまいまでみなさんの傍にいると、 まるでみなさんを監視しているように見えるので、その晚は、無責任なよう ですが、門田さんもわたくしも早くから離れてみなさんの自由行動にお任せ することになったのです」(江木) ここで、警部クリフォード.ヒューズは、団員の一人一人についてホテル に戻った時間を訊ねた。それぞれがまちまちの時刻を答えたが、一番あとま で残ったのは本田雅子、西村ミキ子、千葉裕子の女子学生の三人だった。さ すがに、学生だけに三人とも最後まで一緒に湖畔で遊んでいる。竹田郁子と 日笠朋子は、一緒ではなくばらばらに帰って行った。ホテルに戻って、フロ ントからキイをもらったのも別々であった。 「そのとき、湖畔に残っているほかの団員の姿は見えませんでしたか」(高 瀬) とヒューズ警部は、竹田郁子と日笠朋子に訊いた。 「ほかにはだれも湖畔には残ってないようでした。けれどもそれは必ずしも 正確ではありません。なぜならば、そこはあまり暗すぎて、人の姿がよくわ からなかったからです。木立ちもあるし、遊步道も丘の裾を廻ったりしてい ますから。また、島に行っている人は、湖畔からは見えませんでした」(江 木) ここで一人一人についてフロントに戻った時刻を云わせた結果、その順は 大体決ったが、それらの中には、相手の姿を認めた者もいるし、竹田郁子や 日笠朋子の場合のように、お互い単独でしかいない者もあった。そういうの は相互の目撃がないために、アリバイがないとも云えた。もっとも、一緒に 帰ったといっている人たちでも、もしそこに工作があれば、口裏を合わせる PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn こともあり得るので、厳密な意味では、これも正確なアリバイとは云えなか った。それには裏づけ調査が必要となる。 ここでヒューズ警部は、列席のキンロス警察署部長刑事エドワード.イン グルトンに、事件の発見から捜査状況をあらまし述べるように命じた。 3 イングルトンは、ときどき口髭を指で撫でながら、ヒューズ警部に命じら れたとおり事件の概要を述べた。それを高瀬一等書記官が淡々と日本語に通 訳した。こうである。 「四月二十三日の朝、レブン湖に浮んでいる日本女性の溺死体を、釣り人が 発見して、これをキンロス署に届けた。自分、すなわち部長刑事イングルト ンは、部下の刑事デービスらを連れて現場に急行した。彼は、その溺死体が 日本女性であることから、近くのトロウト.ヴィラに泊っていると聞いてい る日本人宿泊客だと思い、ホテルに照会した。王冠観光旅行社の主催するロ ーズ.ツア観光団の添乗員の門田氏が現われて、溺死体を藤野由美と確認し た。 それに続いて、第二の殺害遺体が、同じ湖畔で発見された。発見者は近所 に住む少年と果物屋のおやじである。二人は、地上に船底を上にして乾され ていたボートの下に遺体のあるのを見つけた。これをトロウト.ヴィラにい た自分イングルトン部長刑事に届けた。門田氏によって、それも同じ団員の 梶原澄子とわかった。以上は、その日午前六時から十二時ぐらいの間のこと である。 解剖の結果によると、藤野由美も梶原澄子も、水による窒息死である。違 うのは、藤野由美の死体がレブン湖の中に漂っていたのに対し、梶原澄子は、 水死した上、死体がボートの下に隠されていたことである。解剖所見による と、二人とも死亡時刻は前日二十二日の午後十時から十二時の間である。同 じ時間帯ではあるが、二人のどちらが先に死亡したのか、その前後関係につ いてはわからない。ただ推測だが、おそらく藤野由美が先で、梶原澄子があ とに死亡したであろう。しかし、その時間的間隔はあまりはなれていないと 思われる。 所持品は、遺体が持っていたハンドバッグを含めて、部屋の中の荷物は無 事で、何一つ盗られていなかった。強盗による線は消えた。残るのは、明ら かに怨恨関係の線である。しかし残念なことに、日本国内における被害者の 事情がわからないため、二人の殺害についての原因、動機、その他は不明で ある。 藤野由美は、推定するに、だれかと湖畔で話しているうちに、急に襲撃さ れ、水中に突き落されたものと思われる。このことは少しく説明を要する。 われわれが藤野由美の16号室を捜索したとき、洗面所の排水パイプに、 鱒の鱗と水藻の断片がひっかかっているのを発見した。解剖でもわかるよう に、藤野由美の肺臓、胃袋には、レブン湖の水と同じプランクトンが充満し ていたので、彼女は一見するにレブン湖で溺死したものと思えた。だが、洗 面所の排水パイプにひっかかっていた鱒の鱗は、この推測を一変させた。つ まりだれかが洗面所にレブン湖の水を何らかの方法、たとえばビニールの袋 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn に詰めるなどして運び、洗面器に満たした。このとき、水とともに鱒と藻が 入った。16号室の藤野由美は、そのだれかが持ってきた鱒を洗面器に移し て、これに見入っているときに、後から襲撃されて、水を満たした洗面器に 顔を突っ込まれて窒息死した。われわれは最初、このように推定した。しか し、これはまったく誤りであることが分った。鱒の鱗と水藻とが排水パイプ の中にひっかかっていたのは、犯人がわざとそのように工作して、捜査を間 違った方向──つまり、最初に推定した方向に導くように仕組んだことにわ れわれは気づいた。ここで最初の推理は訂正されなければならなくなった。 第二の、正しい推理をひき出すまでの過程は省略するとして、結論からい えばこういうことになる。 犯行は単独でもなし得る。これは三十人の団体のなかで、複数の犯行だと 目立ちすぎて、どこかに破綻があるからである。本件は二人の被害者を出し ているが、犯行に破綻が見えない。 当夜十時から十二時の間に、単独の犯人が二人を殺害するのは可能である。 同一時間帯といっても二時間の余裕がある。おそらく犯行は一時間のうちに、 一人ずつを殺害したであろう。 排水パイプの鱗と藻では、藤野由美を殺した犯人は、レブン湖から、湖の 水と鱒と藻の断片を16号室の彼女の部屋に運んだように見えるが、湖の鱒 をとらえるのは容易ではない。犯人に釣竿の用意があった形跡はない。また、 洗面器に顔を押しこんで窒息死させるほどの水を湖から16号室までどのよ うにして犯人は運搬したか。そのようなものを運んでいれば、当然にフロン トの事務員の眼にもふれる。また、遅い時刻でも、廊下などで他の客に出遇 わないとも限らない。そんな危険なことを犯人はするだろうか。決してしな い。 水を運ぶ容器が見当らない。わたしは団員の各室を捜査したが、ビニール 袋など使用した物は発見できなかった。 このようなことから帰納するならば、藤野由美は湖畔の散步からホテルに は帰らずに、犯人によって湖岸から湖水に突き落されて水死させられたもの と思料する。 そうなると、戸外で発見された手押し車が問題となってくる。われわれは 最初の推測に立って、ホテル裏の物置の傍から持ち出されたこの手押し車を、 16号室から藤野由美の死体を外部に運び出すときに使用したものと思っ た。しかし、この作業も、湖の水を16号室に運んでくる以上に危険な行動 である。 すでに藤野由美が溺死体となって発見された湖畔が犯行現場であるなら、 運搬用の手押し車はその意味がなくなる。しかし、この手押し車はあきらか に物置近くから犯人によって持ち出されたものである。では、なんのためか。 梶原澄子は、溺死したあと、底を干したボートの下に押し入れられていた。 ボートは三人乗り用だが、かなりの重量である。この伏せたボートを押しあ げて、死体を中に入れるのは、一人の力ではまず不可能であろう。ここにお いて、手押し車が持ち出された謎が解けた。犯人は手押し車の先端を梃子の 代用にして、伏せたボートをこじ開け、死体を入れたあと、その「梃子」を 外し、その近くに放置したものと考えられる。われわれは、その手押し車を 使用しての実験によってそれが可能であることを確認した。ただし、犯人に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn とっては、その手押し車を再びもとの物置近くに戻しておく余裕はなかった のであろう。 このように推理するならば、犯人は、おそらく、第一に藤野由美を湖に落 して水死させ、そのあと、梶原澄子を同様な方法で殺害し、その死体をボー トの下に入れたのであろう。何が故に、梶原澄子の死体のみ、湖水から引き あげてボートの下に匿したかは分らないが、おそらく、梶原澄子の死体発見 が遅れることによって、捜査の眼を彼女の「行方不明」に転じ、あたかも藤 野由美の殺害犯人が逃走したかのごとく見せかけたのであろう。つまり、犯 人にとっては時間かせぎが狙いだったのであろう。 まだ季節《シーズン》に早いので、ボートの半分以上はペンキを塗りかえ て、底を上にして天日に乾されている。それが正常な姿にもどるには、あと 一カ月はかかるというのがボート屋のおやじの話であった。すなわち、梶原 澄子の死体発見は、一カ月は遅れる道理である。もっとも死体腐爛による悪 臭で、それよりは早く異変が発見されるだろうが。 犯人が、ボートの不要期間があと一カ月だというのを知っていたかどうか は分らないが、少なくとも数日はそこに伏せられた状態で置かれることは推 察していたであろう。 藤野由美と梶原澄子とを湖畔にとどめておいた犯人の偉力は絶大である。 これは、よほど被害者二人に親密であり、信用のある人物でなければならな い。 そのうえ、被害者二人はキンロス町の鱒荘にくるまでは、コペンハーゲン のロイヤル.ホテルでも、ロンドンのホテル.ランカスターでも同室者であ ったが、この同室者どうしは極めて不仲であったということである。その仲 のよくない二人に、共通の信頼を得ている犯人は、いったいどのような人間 像であろうか。 次に、藤野由美の16号室のキイは、部屋から発見され、梶原澄子の34 号室のキイは、死体と共にあった彼女のハンドバッグの中にあった。両人が 湖畔の散步に他の団員と共にそれぞれのキイをフロントに預けていたこと は、門田も確認している。門田が自分の鍵を受け取るとき、キイ.ボックス に団員全部の部屋のキイが入っていたのである。 問題は、いつ、だれによって16号室と34号室のキイがフロントから受 け取られたかということである。この点については、係員の記憶はきわめて 曖昧で、日本女性たちが帰ってきて番号のキイを要求するままにカウンター に置いて渡したと云っている。したがって、16号室と34号室のキイの返 還要求についてはとくに印象がなかったと述べている。つまり、係員は日本 女性団体客の要求する声に応じて、きわめて事務的にそれぞれのキイをボッ クスから出して、習慣的に渡したのである。 しかしながら、ここに重要なのは、いくら係員が事務的かつ習慣的に── それは不注意の状態だが──部屋のキイを要求されるままに渡したとして も、相手が女性であったことは確かである。係員は、何号室から何号室まで は日本女性団体客が入っていることは、おおよそ頭の中に入れていたと云っ ている。フロントの係員としては、さもありなんである。したがってキイを 渡したのは女性であった。男には渡していない。16号室と34号室のキイ をうけとったのが犯人であれば、その犯人は日本人女性であるという結論に、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn われわれは到達せざるを得なかった」 折から列をなしている窓には夕陽に燃えるアルプスの空が一斉に輝きわた った。イングルトン部長刑事の衝撃的な捜査結論に、その強烈な色彩はさな がら音楽の耳を聾するばかりの全奏《トウツテイ》を思わせた。参考人席の 女性たちは、高瀬一等書記官の通訳が終ると、一様に心臓を刺されたように 沈黙した。 「最後に」 イングルトン部長刑事は、自分の捜査経過陳述の効果に満足したように、 参考人席から記者席、門田と土方悦子の席、はては陪席人の横の列まで見渡 した。高瀬一等書記官の通訳もまた適切であった。 「……最後に申し上げたいのは、この二つの殺人事件の動機なり原因です。 これはわれわれに推定できないのみならず、想像もつかないのです。という のは、被害者の藤野由美にしても梶原澄子にしても、日本国内においてどの ような環境を持ち、どのような人間関係を持っていたか、まったくわれわれ には分らないからです。もし、この殺人の動機や原因を求めようとするなら ば、彼女らのこんどの外国の旅行先ではなく、日本国内に在ると思料せざる を得ないのです」 「イングルトン部長刑事。ありがとう。ご苦労さまでした。ひとまず着席し てください」 ヒューズ警部が云うと、イングルトンは着席し、ハンカチで口髭のあたり を拭った。 門田は内心でおどろいて、思わず横眼で隣の土方悦子を見た。 イングルトン部長刑事のいまの捜査経過説明は、土方悦子から聞いた彼女 の推定とまったく同じであった。よくもこうまで両者が一致したものである。 門田はこれまで小賢《こざか》しい土方悦子を、何かというと生意気に考 え、小骨が咽喉に刺さるような邪魔っ気と抵抗感をおぼえたものだが、イギ リス警察の捜査結果と同じことを二日も早く読みとった才智に対して降参し ないわけにはゆかなかった。 が、土方悦子の横顔は微笑も見えないばかりか、事態の成行に憂い気な表 情さえ浮んでいた。 4 クリフォード.ヒューズ警部は、やおら広島淳平に質問の眼を向けた。高 瀬一等書記官の通訳であった。 「広島さん、このへんで被害者の藤野由美さんと梶原澄子さんの身元につい て、あなたが知り得た知識を述べてくれませんか」 広島は大きくうなずいて、ポケットから手帳を出して片手に持った。 「お気の毒な藤野由美さんと梶原澄子さんの身元につきましては、一介の旅 行業者である私には何一つ知識がございません。調査することも困難であり ます。以下述べますところのことは、遺体を引き取りに日本から見えたお二 人の被害者の遺族の方から承わったことであります」 これは江木奈岐子の通訳である。広島は、ちらりと参考人席に眼をはしら PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn せて、ヒューズ警部の正面に向いた。 「藤野由美さんの遺体を引き取りに見えたのは、姪《めい》ごさんの山下好 子さんであります。好子さんは、藤野由美さんの姉さんの長女に当られるそ うです。好子さんの話によると、藤野由美さんは現在東京の東銀座××番地 で、会員形式の高級美容サロンを開いておられます。美容師は二十数人で、 かなり手広く経営しておられるということです。 藤野由美さんは広島市の生れで、東京にその店を持たれたのは、昭和三十 六、七年ごろだそうです。結婚は一度もなさっておられません。遺産の相続 人となれば山下好子さんがそれに当るそうです。藤野由美さんは、現在の店 を持つまで、美容師やホステスをして、東京都内の店で働いておられたそう ですが、このへんの経歴は姪ごさんの山下好子さんにもよくわかっておりま せん。また藤野由美さんの男性関係についても、好子さんは詳しくないと云 っておられました。なぜならば、好子さんが藤野由美さんと親しくつき合う ようになったのは、ここ五、六年前からで、それまでは疎遠だったそうであ ります。 しかし、藤野由美さんに当然パトロンのような男性があったということは、 好子さんも云っておられます。その人は、某実業家で、かなり年配の方であ りますから、その関係がこんどの殺人事件の動機、原因その他に影響してい るとは思われません。 もとより彼女の現在の庇護者である実業家が現われるまで何人かの男性は 存在したようです。つまり藤野由美さんは、次々とパトロンを替えてゆき、 現在の店を持つようになったわけであります。この間の事情については、山 下好子さんも詳しくありません。これは今後日本の警察の手によって調査し てもらうより仕方がないわけです。現在の藤野由美さんには、その年配のパ トロンのほかに、男性関係はなかったかという疑問がありますが、好子さん の話によると、そのような様子は見えなかったということです。もっともマ ンションに住んでいた藤野由美さんは、郊外に住む好子さんと、日ごろから そう緊密に往来していたわけではないので、藤野由美さんのプライベートな 点は、好子さんにもわかっていないのです。そうした藤野由美さんとパトロ ン以外の男性との関係がどのようなものであったかということは、これも日 本の警察に調べていただくよりほかわからないわけであります」 江木奈岐子の澄んだ英語の声が、広島の濁《だ》み声のあとにつづく。窓 の外に輝いていた朱《あけ》色は急速に褪せ、室内は黄昏《たそがれ》の空 気となった。広島は手帳のページを一枚繰った。 「次に、梶原澄子さんのことですが、スコットランドにその遺体を引き取り に見えたのは、義弟の梶原二郎さんです。梶原二郎さんは現在札幌で梶原産 婦人科病院の院長をしておられますが、これは兄の跡を継がれたのでありま す。被害者の梶原澄子さんは、札幌の梶原産婦人科病院院長梶原庄治氏の未 亡人で、即ち二郎さんの義姉に当ります。梶原産婦人科病院というのは、現 在札幌市××町にあり、昭和三十二年から故庄治氏が開業しておられますが、 二郎さんによると、その前は市内でなく市外に近いところに病院があったと いうことです。つまり病院としては大きく発展してきたわけであります。 梶原澄子さんについては、いまから三年前に夫の庄治氏と死別して以来、 義弟夫婦に病院の経営権を渡し、自分は近くのマンションにひとりで住んで PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn おられたということです。男性関係については、一切そういうことがないと 二郎さんは断言しておられます。澄子さんの性格は、かなり勝ち気で、神経 質だったそうであります。したがって人の好き嫌いも激しかったと云ってお られます。澄子さんは亡夫の庄治氏と昭和二十三年に結婚されておりますが、 終戦後の医薬材料のないとき、あるいは看護婦など人手不足の困難時に、よ く夫の庄治氏に協力して、看護婦代りをして働いていたということでありま す」 ここで広島は、手帳から目をあげた。 「以上のことは、ここにおられるクリフォード.ヒューズ警部ならびにエド ワード.イングルトン部長刑事などが、両被害者の遺体引き取りに見えた二 人の遺族にそれぞれお聞きになっていることであります。即ち、そうした被 害者の環境からは、今回の犯罪に結びつくような点は、いまのところ、明確 なものがないのであります。旅行業者としての私どもは、遺族の方のお話に よるほかはないわけで、これ以上申し上げることもないのであります」 「いまの広島さんの話は、われわれも遺体引取りに日本から見えた遺族の 方々から聞いたことであります。ここは参考人の方々に、一応広島さんの口 から説明していただいたわけであります」 ヒューズ警部は、江木奈岐子の上手な通訳で広島陳述を聞くと、一同にそ の意のあるところを高瀬一等書記官の通訳つきで説明した。 「さて、先ほどのイングルトン部長刑事の話に戻ることにします。お聞きの ように、イングルトン部長刑事は、今回の事件についていくつかの疑点を述 べました。 これを整理すると、犯人は複数ではなく単独であるということ、それは外 部の人間ではなく、この旅行団の中にいるという不幸な結論となります。犯 人は非常に緻密な計画の下に二つの殺人を行った点から見て、知能のきわめ て秀れた人間ということになります。 そこでイングルトン部長刑事の疑点をさらに細かく分析すると、以下のこ とになります。即ち犯人は被害者の藤野由美さんにも、梶原澄子さんにも信 頼があったということです。この二人は室友でありながら、仲がよくなかっ たのに、犯人に対しては両人とも信頼感を寄せていたようです。 信頼感というのは、藤野由美さんも梶原澄子さんも、当夜、湖畔からそれ ぞれの部屋に戻った形跡がない。二人は犯人によって、午後十時から十二時 の犯行時まで、湖畔に引き止められていた。これはよほど信用のある人間で ないと、被害者二人が素直にその云う通りになるわけがないからであります。 次に、被害者二人の部屋のキイの問題があります。藤野由美さんは16号 室、梶原澄子さんは34号室です。二つのキイは、それぞれ発見されていま す。藤野さんのは部屋の中に、梶原さんのは死体と共にあったハンドバッグ の中にありました。これはフロントに預けたキイが両人の殺害される前に受 け取られていることであります。しかしながら、被害者二人がそれぞれ自分 のキイをフロントからもらったとは思えません。これはキイ.ボックスに二 つのキイが残っていると、遅くまで湖畔から帰ってこないのを他の団員に騒 がれるため、犯人は犯行に支障を来たすことを考えて、あたかも両人が九時 までに湖畔から戻っているということを偽装したのだろうと思います。各団 員の部屋は個室であるので、キイがフロントから取り出されていれば、各自 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn は部屋に戻ったものと他の者に思いこまれます。 では、そのキイをフロントから受け取ったのは、どのような人物であろう か。当夜のフロントの係員は、八時から九時までの間に、宿泊の日本女性た ちが三十人も次から次にキイを受け取りに来たので、云うままに部屋番号の キイを渡したと云っております。彼は、日本女性にキイを出したことは憶え ているが、その顔までははっきりと記憶していないと申しています。ホテル のフロントでは、団体客があると、そういう現象はよく見られることで、一 定の時間にたくさんの客がキイの返還を求めると、つい繁忙にとりまぎれ、 ろくろく相手の顔も見ないで出すことはよくあることであります。したがっ て16号室と34号室のキイを求めたのがどのような人相であったかは、残 念ながらフロントの事務員には判別がつかないのであります。 さらにイングルトン部長刑事も指摘しているように、犯人は仲の悪い被害 者二人に信用があったと同様に、他の団員についても信用があった人物とい うことになります。参考人のみなさんは、この点についてご留意願いたいと 思います」 クリフォード.ヒューズ警部の冷たい眼差《まなざし》は、静かな動揺が 小波《さざなみ》のように行きわたっている参考人席を往復した。彼は何事 か反応を期待しているようであった。自分の投げた言葉が、女性たちの表情 にどのような変化を与えているか、その一人一人の表情を仔細に覗いている ような、深い眼差であった。 しかし、低いどよめきが参考人席に広がってはいたが、ヒューズ警部が待 っているような顕著な反応は何もなかった。したがって被疑者を識別する手 がかりもまだつかみ得ないふうであった。 ヒューズ警部は、少し苛立ったような表情を見せた。彼はメモをのぞいて、 小さな咳払いをした。 「われわれは、この旅行団がキンロス町のトロウト.ヴィラに到着するまで の経路を調査しました。この団体は、東京において四月十五日に結成され、 羽田を出発し、アンカレッジに寄港して、一時間休憩し、そこから飛び続け てデンマークのコペンハーゲンに到着、同夜は市内のロイヤル.ホテルに宿 泊しています。二泊三日の観光スケジュールをこなしたあと、ロンドンに来 てホテル.ランカスターに宿泊し、ロンドン市内の見物のあと夜行列車でエ ジンバラに着き、そこからキンロスのトロウト.ヴィラに来て、悲劇の夜を 迎えたのであります。ところが、このコペンハーゲンのロイヤル.ホテルで、 奇妙な事件が起ったことを広島さんの話でわれわれは初めて知りました。広 島さん、そのことをみなさんの前で云ってくれませんか」 高瀬一等書記官の通訳が終ると、次の担当通訳の江木奈岐子の眼に誘われ、 広島はもう一度起立した。 「それは『日本スポーツ文化新聞』に報道されて、われわれも非常に驚いた ことであります。その新聞によると、コペンハーゲンのロイヤル.ホテルで、 団員の一人の多田マリ子さんが、朝早く何者かのために背後から襲われ、首 を締めかけられたという、いわば殺人未遂の報道でありました。私どもはそ の記事を見て非常に驚き、さっそく国際電話で、すでにロンドンのホテル.ラ ンカスターに入っていた門田君に事情を問い合わせたのであります。その時、 門田君はまったくの出鱈目だといいましたが、私が当地に着いてから、門田 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 君はそれが事実であったことを認めました。しかし新聞に報道されておるよ うな大げさな事件ではなかったため、帰国してから報告する積りだったと説 明してくれました。それが今回の事件に関係があるかどうかはわかりません が、一応その事情をヒューズ警部に申し上げたわけであります」 ヒューズ警部は門田に何か問いかけたが、思い返して、こんどは参考人席 に目を向けた。 「多田マリ子さんがおられたら、私の質問に答えていただきましょうか」 追う高瀬の日本語に多田マリ子は、大きな声で返事した。彼女はみなの好 奇的な視線を浴びながら、その顔にはあまり羞恥の表情はなく、むしろ衆人 環視を何か誇らしげなものに感じているようであった。 「多田マリ子さんですか」 ヒューズ警部は訊いた。 「そうです」 彼女は関西弁のアクセントの標準語で答えた。 「あなたがコペンハーゲンのロイヤル.ホテルで受けた災難について、説明 していただけるでしょうか」 「承知しました。それは四月十八日の午前七時ごろのことです。私の泊って いる部屋は十八階でしたが、その朝私は散步に出るつもりで早く起き、エレ ベーターでロビーに下りて、ホテルの外をしばらく步きました。そして十五 分ぐらい散步してホテルに戻り、エレベーターに乗ったのですが、私は迂濶 にもエレベーターのボタンを押し違えて、十七階で下りたのです。ホテルの 構造はどの階でも大体同じで、私は一階間違えたことを気づかずに廊下を步 き、自分の部屋と思っていた方角へ步いておりました。そこにはだれ一人通 行人の姿は見えませんでした。すると急に横のドアがあいて、腕がのび、私 は中に引っ張り込まれました。私は気も動転して声も出なかったほどであり ます。そのために相手の顔を見ることができませんでした。というよりも、 相手は私の背後にまわっていて、私を抱きすくめていたので、振り向く余裕 もなかったのであります。相手は私の喉を締めてきました。私は抵抗したの ですが、急に襲われたのと、喉を締めつける腕の力で、いまにも絶息しそう になって、意識がだんだん薄れてきました。そのうちにボーイさんが、意識 を失って倒れている私を見つけてくれたのであります。幸いボーイさんの発 見が早かったため、私は何の被害も受けずにすみました。犯人の顔はそうい うわけでついに見ることができませんでしたが、その強い力といい、たぶん 外国人の男であったろうと思っています」(江木.通訳) 多田マリ子の何か自慢話でもするような顔を門田は見ながら、まさかそれ が梶原澄子の云った本人の狂言とは、ここで暴露することもできなかった。 例によって多田マリ子は、その自己顕示的な表情をいっぱいにひろげていた。 ほかの団員にはそうした災難がなく、自分一人に振りかかった受難に、彼女 の魅力をそれによって誇示する例の表情であった。そこには羞恥の色といっ たものはまるでなく、昂然たるものであった。その瞳は、通訳をする江木奈 岐子とヒューズ警部とに半々に当てていた。 「ありがとうございました」 ヒューズ警部は、多田マリ子を着席させた。 「われわれは広島さんからその話を聞いたので、さっそくコペンハーゲンの PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ロイヤル.ホテルの支配人に問い合わせました。先方では、その事実を認め ましたが、そのトラブルについては警察に報告していないということでした。 実際の被害がなかったために届けなかったと云っていますが、それはホテル 業者がその信用維持のために、よけいな悪い噂を立てられたくないための配 慮でした。したがって、その事故はホテル側が内々ですませたのですが、そ れがどうして日本の『日本スポーツ文化新聞』に報道されたのか、その間の 事情を、コンダクターの門田さん、あなたにわかっているなら、ここで述べ てください」(高瀬.通訳) 5 門田は立った。 「その新聞のことは、私は広島さんから電話で聞いて非常に驚いたのですが、 事情はあとになってわかりました。その報道をしたのは、あの記者席にすわ っている日本スポーツ文化新聞の通信員鈴木道夫さんであります」(江木.通 訳) 門田は、こうなっては仕方がないと考えて、一切のいきさつを述べた。 ヒューズ警部は、記者席に鋭い視線を向けた。 「日本スポーツ文化新聞通信員の鈴木道夫さんはいますか」(高瀬) 五人の新聞記者の中から、髭面の鈴木が起立した。 「私が鈴木道夫です」 ヒューズ警部はその顔に視線を当てた。 「私は、あなたが、どのようにしてコペンハーゲンのロイヤル.ホテルから その事故を取材し、それをあなたの東京の新聞社に通信したかを説明しても らいたいと思います」(高瀬.通訳) 「わかりました。それはこういうことであります」 鈴木は、江木奈岐子に通訳を一任して日本語で云った。 「日本からきた女性ばかりの観光団がロイヤル.ホテルに泊っていると聞い たので、これはニュースになるかもしれないと思い、同ホテルに取材に出か けたのであります。ところがそのときは、すでに一行が出発したあとだった ので、直接に一行のだれにも会うことができませんでした。そこで私は、せ めてボーイの口からでも、一行の動静を知りたいと思い、その係だったボー イに訊ねたのであります。するとボーイは、意外なことを私に聞かせてくれ ました。ホテル側では、外聞上秘密にしているが、実はこういう殺人未遂事 故があったと云って、内緒に打ちあけたのが、多田マリ子さんの災難のこと でした。ぼくはそれをそのまま、ぼくが契約している東京の『日本スポーツ 文化新聞』に電話送稿したのであります。ところが新聞のほうでは、ぼくの 送稿した内容を、興味的かつ刺激的な記事につくり上げて新聞に出したので あります。このことは、ぼくがウインザー城で門田さんに会ったとき聞かさ れ、大いに驚き、釈明を試みたところであります」 ヒューズ警部は礼を云って鈴木をすわらせた。 「このロイヤル.ホテルの一件については、われわれもその話を聞いてさっ そく調査をしました。その災難を受けた多田マリ子さんの経験は、先ほどの 陳述の通りですが、ホテル側が内聞にした点もあって、コペンハーゲンの警 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 察署がその後調べてみても、その犯人の検挙を見るにいたっておりません。 しかし、このコペンハーゲンの事故が、それより四日後のレブン湖畔の二つ の日本人殺害事件に直ちに結びつくとは思いません。したがって、その判断 に立ったわれわれは、コペンハーゲンの事故とレブン湖の殺人事件とは無関 係と判断して、これを切り離したいと思います」(高瀬) 高瀬一等書記官の通訳が終ると同時に、多田マリ子が手をあげた。 ヒューズ警部は何事かとその落ちついた顔に眼をひろげ、彼女の発言を許 した。 「一つ質問があります」と多田マリ子は立って云った。「ヒューズ警部は、 私の受けた災難が、レブン湖畔の殺人事件とは関係がないというお話ですが、 それではアンカレッジ空港で藤野由美さんが買われたルビーの指輪が紛失し たことも、殺人事件とは関係がないのでしょうか」(江木.通訳) 江木奈岐子の通訳を聞いて、ヒューズ警部の顔に動揺が起った。 「多田マリ子さん、そのルビーの指輪というのはどういうことでしょうか」 (高瀬) 「こんどの事件で不幸な死を遂げられた藤野由美さんが、アンカレッジ空港 の売店で、千ドルのルビーの指輪をお買いになり、それを洗面所で紛失され たという一件です」(江木) ここで多田マリ子は、その指輪紛失の話を詳しく述べた。 ヒューズ警部には、江木奈岐子の通訳を通して初めて知る話で、その事実 の有無を、こんどは門田に訊ねた。 門田は、答弁にゆっくりと身体を起したが、気持はすこぶる複雑であった。 まず、なぜに多田マリ子が、いまになって藤野由美の指輪紛失の一件を持ち 出すのかが理解できなかった。藤野由美がアンカレッジ空港で早速に買った ルビーの指輪に刺戟された多田マリ子の感情は、以後の彼女の行動でも分る が、その感情が未だに尾を引いて、ことさらにその話をここに披露するのは、 いたずらにこの「審問廷」を混乱させるばかりである。多田マリ子は死者の 藤野由美に対してなおも対立意識を捨ててないようである。自分の感情を主 体に、見さかいもなく発言する女に門田は当惑した。 しかし、彼の困惑はもう一つあった。その指輪は紛失したものではなく、 直ちに売店に返品されたということ、それには土方悦子が一役買っていると いうことであった。その当事者の土方悦子もすぐ横に居るし、その事実を目 撃して「密告」した星野加根子も参考人席に坐っていた。彼女は眼を光らせ ているにちがいなかった。 しかし、門田は警部の質問に答えないわけにはゆかなかった。彼は、多田 マリ子の発言の内容が「自分の知る限りでは、そのとおり」であると証言し た。 参考人席から手があがって、発言の要求があった。ヒューズ警部がそれに 眼をむけて許可の表情を示すと、中年の女性が起立した。 「わたくしは、星野加根子です」 彼女は、通訳の江木奈岐子にむかってまず名乗った。 「いまお話に出た藤野由美さんがアンカレッジで買われたルビー指輪の紛失 のことは、事実と違います。あれは紛失ではなく、藤野さんが売店に返却さ れたのです。それはわたくしが目撃しています」(江木) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 星野加根子の暴露に、参考人席には低い声が合体して唸りとなって聞えた。 紛失と信じられていた指輪が返品だったと聞いて、団員はいずれも衝撃をう けたのだった。 しかし、もっともショックを受けたのは門田だった。あれほど執拗に「だ れにも話すな」と念を押した当人が、こともあろうに満座の中で、というよ りも「各人の発言は記録されて、法的な資料となる」と宣告されたこの「審 問廷」で自ら秘密を明かそうというのである。彼は惑乱した。 星野加根子は、彼女の「見たこと」を警部に話した。それには土方悦子の 名はまだ出なかった。また、さすがに、それを門田に「密告」したことには ふれなかった。 すると警部は訊いた。 「星野さん。あなたのお話をまことに興味深く聞きましたが、その目撃はあ なた一人ですか?」(高瀬) 星野加根子は自分の話の信憑性を疑われたように色をなした。 「目撃者というよりも、藤野さんに依頼されて、指輪の返却を実行された方 が、ここに居られます。それは、門田さんの横に坐ってらっしゃる土方さん です」(江木) 星野加根子の屹《きつ》とした眼は、門田と広島の間に、江木奈岐子の坐 っていた空席一つを置いて坐っている「助手」を射るようにした。 会場には前にも増して大きな嘆声が一緒になって起った。団員たちはもと より、記者席の眼も一斉に土方悦子の姿に集った。 そのなかで、イングルトン部長刑事の彼女に注いだ視線は何か熱線のよう なものを帯びていた。 ヒューズ警部は、小さな女に質問をむけた。 「土方さん。いまの星野加根子さんの発言内容をどう思われますか?」(高 瀬) 土方悦子は起立した。日本人側の通訳に当る江木奈岐子の顔に微妙な困惑 が出たのは、弟子の苦境を心配してのようだった。広島も、同じ思いで、横 の土方悦子を見上げ、ついでにその眼をじろりと門田に移した。 「いま、星野加根子さんが云われたことは、すべて事実でございます。わた くしが、藤野由美さんに頼まれて、お買いになったばかりのルビーの指輪を 売店に返却してあげました」(江木) 土方悦子の答えが終ると、参考人席の女性たちの間に再び嘆声の揺り戻し が起った。警部は訊いた。 「それを、あなたはいままで、どうしてみんなに隠していましたか?」(高 瀬) イングルトン部長刑事はその質問に乗ったように上体を前に傾けて彼女を 見つめていた。 「それは、藤野由美さんからみなさんには内緒にしておいてくれと頼まれた からです。藤野さんは、その高価な買物をすぐに後悔されたのですが、返品 のことがみなさんに知れるのは恥しいと云っておられました」(江木) 「しかし、当人は死亡しています。真実を打ちあけてもよかったのではない ですか?」(高瀬) 「警部さん。真実を打ちあける機会がどこにあったでしょうか。その紛失の PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 話題が消えてしまったときに、わざわざそれを持ち出す必要はありません。 それに、藤野さんが亡くなられた今は、よけいに死者との約束は守らねばな りません」(江木) 警部は、土方悦子の返辞を聞いて、肘を突き、両の指を組み合わせた。 「土方さん。あなたは、その話を門田さんにも云いませんでしたか」(高瀬) 「門田さんには申しませんでした」(江木) 「なぜですか。門田さんは団員ではなく、コンダクターではありませんか。 引率者はいわば団長格です。そして、あなたは、その協力者ではありません か」(高瀬) ヒューズ警部の質問は、星野加根子の「密告」を聞いて以来、実は門田が 土方悦子に訊きたいところであった。土方悦子の沈黙に、彼は彼女に不満と 疑問を抱いていた。いま、彼女はその沈黙のことを死者との約束を守ったの だと警部に説明したが、それは一般の団員には適用されようが、自分にまで 隠していたのには腹に据えかねるものがあった。と同時に、土方悦子の複雑 な性格にはじめてふれた気がしていたのだった。 「そのとおりです。門田さんはこの団体の責任者です。ほんとうは話したほ うがよかったかもわかりません」(江木) 土方悦子は、一応認めたがすぐに云った。 「けれども、その小さな出来事を隠してあげるのは亡くなった藤野由美さん の名誉を守るためであります。はっきり申しますと、それは女の虚栄心を守 ってあげることなんです。女は死んでから後までも虚栄心を維持したいもの ですわ。藤野さんとの約束を門田さんにも破らなかったのは、そういう意味 です。……それに、指輪のことは、レブン湖畔の殺人事件には、なんの関係 もありませんもの。もし、それを少しでもかかわりがあると考えたら、わた くしだって、門田さんには進んで話したでしょう」(江木) イングルトン部長刑事は席を立ってヒューズ警部と陪席のコリン.エヴァ ンズ警部補の間に首を突込んで何ごとかを話した。短い打合せは終った。イ ングルトンはすぐにもとの席に戻った。 ヒューズ警部は、またも軽い咳払いをして云った。 「土方悦子さんに申しますが、この旅行団体の間に起ったどのような小さな 事故でも、すべて此処でお話ししてもらいたいものです。それが殺人事件に 関連があるかどうかは、われわれのほうで判断いたします」(高瀬) イングルトン部長刑事がヒューズ警部に云わせたのはその言葉のようだっ た。審査の絶対性を表明したかったのだ。 そのために、警部は参考人席を見まわして訊いた。 「ほかにそういう事故はありませんか。お気づきの方は云ってください。ど んな些細なことでもけっこうです。それがわれわれの大きな参考になるかも 分りませんから」(高瀬) 一同に発言はなかった。それは、それ以上話すことはないというみんなの 答えが沈黙であった。 イングルトン部長刑事はヒューズ警部に発言を求めた。 「わたしは、いまの土方悦子さんの言葉にある種の興味をおぼえました。そ れは何かというと、殺害された藤野由美に関する行動の説明が自発的なもの ではなく、他の、星野加根子さんの発言によって、やむなく引き出されたと PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn いう点であります。しかも、土方さんは、それはこの旅行団体の責任者であ る門田氏にも沈黙しておりました。彼女の説明によると、アンカレッジ空港 売店での指輪返却のことは、藤野由美の名誉を守ると共に、レブン湖畔の事 件には関係がないとの判断で門田氏にも打ちあけなかったということです が、これはいささか不自然と思われます。すなわち、藤野由美は何者とも知 れない者に殺害されたのであるから、少なくとも指輪の一件を門田氏に話し てその注意を喚起するのが普通の感情ではないでしょうか。もちろん、土方 さんは、レブン湖畔のわれわれの捜査中でも、そのことを話してはいないの であります」(高瀬) 通訳される前に、イングルトンの言葉が判って、土方悦子は、さっと表情 を変えて部長刑事の口髭の顔を見詰めた。 それを無視したようにつづけるイングルトンの言葉はかなり長かった。 「わたしは、先刻、レブン湖畔の殺人事件捜査経過をここで申し上げたが、 その中で、若干の疑点を指摘したと思います」(高瀬) というのが、そのはじまりだった。彼のチェンバレン的相貌は冴えてみえ た。 「この二つの殺人の犯人は一人だと自分は考えます。その者はこの団体の中 で特殊な位置にいる人間であろうと思います。なんとなれば、お互いに仲の 悪い藤野由美と梶原澄子の両方から犯人は信頼されているからであります。 即ちこの二人は、犯人によって当夜遅くまで、つまり十時ごろまでレブン湖 畔に留められていたのですから、よほど両人から信頼を受けている人物でな ければなりません。藤野由美は、そのあまりに華美好みな特殊な性格のため に、団員のだれからも好まれていなかったといいます。また、梶原澄子は反 対にその閉鎖的な性格から、これも彼女と親密な団員は居なかったようであ ります。梶原澄子は病院長の未亡人ということもあって、気位が高く、また 性格的にも圭角があり、いわゆる親しみにくい性格だったようであります。 この両人から共通して親しまれていた人物は、どちらにも片寄らない、い わば無色な人間であったということが想像されます。この人間はどのように 位置づけすべきであろうか。わたしは、たとえば、それはこの旅行団体を率 いるコンダクターの任務がそれに当ると思います。コンダクターは、その義 務的な、あるいは職業的な上から、団員のだれにも接触し、団員のだれから も信頼を受けておるからであります。 この犯人は、藤野由美の16号室と、梶原澄子の34号室のキイをフロン トから受け取っております。すでに述べたように、キイを受け取った時間は この二人の死亡時刻よりは少なくとも一時間は早かったと見られます。ここ で注意してよいのは、フロントの係員は、その二つのキイを渡した相手の顔 をはっきりとは記憶していませんが、それが男性でないことが確かな点であ ります。もし男性が二つのキイを要求するならば、係員はそれらのキイが日 本女性団体客のものであることを知っているから、当然に相手を咎め、キイ を渡す前に質問したに違いありません。すなわち、係員には相手の顔が印象 に残っているはずであります。それが残ってないのは、度々ここで話したよ うに、係員は多忙のあまりの習慣的とはいえ、相手が日本女性だったからで あります。 このように考えるならば、被害者二人に信頼を受けていたコンダクター的 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn な位置の者は、男性ではなく、女性であると云えます。そうして、コンダク ター的な位置を持つ人間が犯人であるなら、その利点は、その者が職業的な 関係から、三十人の団員のどの部屋にでも、連絡を理由に自由に出入りでき るということにあります。スケジュールの連絡とか、あるいは団員の個人的 な相談ごとの相手とか、そういうことでいつでもどの部屋にも出入りし、第 三者がそれを見ても少しも不思議でなく映るのであります。16号室はトロ ウト.ヴィラの階下であり、34号室はその真上に当る二階の部屋でありま す。犯人と思われる人物は、階下にも階上にもこのように自由に出入りでき たのであります。もし犯人が、藤野由美と梶原澄子をレブン湖畔に遅くまで 拘束しようとするならば、その者は前もって両人の部屋を訪れ、どのような 口実を話したかは明らかではありませんが、とにかくそういう予備的な工作 は十分にできたはずであります。 こうした立場の人間は、団員同士相反発する者でも、等しく信頼を受ける ことができます。藤野由美と梶原澄子とは大変に仲が悪かった。二人はロン ドンまで同室者でありましたが、梶原澄子は藤野由美を毛嫌いして、生理的 に不潔だと云って、その室友としての変更を門田氏に求めていたということ であります。このことは、他の団員同士間の性格的に不一致な場合にも、共 通して云えることであります。AとBとは不仲だが、コンダクター的な役目 の人には共に信頼感を持つ。その人の云うことならば、何の疑いもはさまず に、ほとんど云う通りに従う。あるいは個人的な相談事でも、その者には訴 えたでありましょう。こう考えるならば、その人物は、条件的に自然と限定 されてきます。私はここで、その資格に相当するのは、土方悦子さんという ことを指摘せざるを得ません」(高瀬) 6 満場には、大きな衝撃が起った。その波のうねりはまるで地鳴りのような 呻きに似ていた。名指しされた当の土方悦子は、しかし、瞬き一つせずに、 その目はイングルトンの顔を射るように見つめていた。それは何か悲壮な剛 毅さとでもいう姿に一同には映った。 イングルトンは高瀬一等書記官の通訳で、続けた。 「土方悦子さんを、いま申し述べた条件に当てはめてみると、彼女の環境は ことごとくそれに当ります。しかも彼女は、当夜二十二日の八時四十分ごろ には、自分の部屋に引き取ったということであります。門田氏に訊くと、門 田氏は、八時ごろに風邪気を覚えて自室に引き取っている。土方さんは門田 氏の助手格であるから、普通ならば門田氏が早く部屋に引き籠ってしまった ならば、あとのことを代行すべきであります。ところが彼女は、門田氏が部 屋に入ってから四十分して、自分も自室に戻り、そのまま就寝したと述べて います。なぜ彼女は、団員のみなが湖畔からホテルに戻るまで、フロントな り、あるいは戸外に佇むなりして、団員の帰館を見届けなかったのでしょう か。もっともそれには彼女なりの理由がありました。即ち団員はロマンティ ックな古城の湖畔がひどく気に入って、だれからも心理的な拘束を受けずに 自由な行動を欲していた。さらにそれを強く要求したのは星野加根子さんで ありました。彼女はしばしばその自由を門田氏に要求したという。それ自体 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn は事実であります。しかし、もし土方悦子さんが真に無事故を望んでいるな らば、それとなく、団員の自由を妨げずに、遅くまで観察に残るということ はできるはずであります。 本職には、土方悦子さんが、星野加根子さんの要求を幸いにして、早く部 屋に引き取ったと云っているように思われます。しかも、彼女が八時四十分 に部屋に入ったのを目撃した団員は一人もいないのであります。なんとなれ ば、その時刻はまだ団員のだれもが湖畔からホテルに戻っていなかったから です。彼女は、八時四十分に自分の部屋に入り、その後は就寝したと称して いますが、それを証明する者はだれもいないわけであります。つまり彼女の 姿は、ロビーを引き上げる八時四十分前からだれも見ていないのであり、そ の点アリバイはないと云わざるを得ません。 ここで、本職は、土方悦子さんがレブン湖畔の殺人事件に重要な関与をし ていたという想定の下に、その行動を述べてみたいと思います。土方さんは 前もって藤野由美と梶原澄子とを別々にその部屋に訪問して、二人が遅くま でレブン湖に留まるような理由を述べ、それを力説したために、両人ともそ れに応じたと思われます。本職の想像では、あるいは両人の間の不仲を彼女 が取り持つとか、逆にある種の中傷的な言葉を述べて、両人の湖畔での対決 といった形にしたのかもしれません。こういう行動は他の団員には不可能な ことであります。午後十時から十二時の間に、おそらく湖畔ではあっても別 の場所に立っていた二人のうち、まず藤野由美さんを湖中に落とし、溺死さ せ、さらに次には、別の場所にいる梶原澄子さんに近づき、同じく彼女の不 意を狙って襲撃し、これを溺死させ、前もってホテルの裏口にある物置小屋 の近くから持ち出した|手押し車《プツシユ.カート》を利用し、太陽の下 に乾かしてあるボートの近くに死体を運んでくる。そこでいったん死体を手 押し車から下ろし、さらに先刻述べたようにその手押し車を梃子代りに利用 してボートを持ち上げ、死体をその下に入れたものと思われます。 そのことは、梶原澄子の遺体発見を遅らせるのであるから、人々に、藤野 由美を殺した犯人は梶原澄子であるという推察を容易に起させることができ ます。もともと二人は仲が悪かったのであるから、遂にそれが衝動的で突発 的な殺人事件に発展して犯人は逃亡したとの想像を与え得ます。 そのあと、土方さんは、湖の中から藻と鱒の鱗を採集してホテルへ戻った と思われる。湖畔は暗いとはいえ、ところどころに外燈が灯《とも》ってい る。その外燈の下での湖面は、狭い範囲だがまるで探照灯でも当てたように 明るくなっています。そういう片寄った照明の下では、かえって湖水の浮流 物、藻の断片とか、剥げ落ちた鱒の鱗などは光って見えるものです。彼女は それらを持ってホテルに戻った。しかし、フロントは通っていません。なぜ ならば夜十時から十二時の間のそのような遅い時刻だと、当然にフロントの 係員に見つかるからであります。彼女は裏口からホテルの廊下に入ったので す。裏口の物置近くにある手押し車を彼女が持ち出したことでも証明できる ように、彼女はその裏なる通路を十分に知っていたからであります。 そして彼女は、藤野由美の16号室をフロントから受け取ったキイで開け て入り、湖水から採集した鱒の鱗と藻の断片を、洗面器に満たした水に浮か し、そのあとで水を排水管に落す。そのときに鱗と藻とが排水パイプにひっ かかるように彼女は細工したと思います。それは指先で簡単にできることで PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn すから、それはわれわれの捜査の目をくらますためであります。 事実、本職の部下のデービス刑事はまんまとその工作にひっかかっており ます。デービスは排水パイプから鱗と藻の断片を見つけ、ここで第一の犯行 が行われ、屍体は手押し車で外に運び出され、水中に投げ出されたと推定し ました。本職もデービスの推測に賛成したのであります。これは洗面器の水 に顔をつけ、窒息死させた後に、その水のある場所に屍体を投げ入れ、第二 の現場をあたかも第一現場の如く見せかけるトリックをしばしば読んでいる からであります。捜査員の心理を応用したトリックといえます。 最後に、本職は、先ほど聞いたアンカレッジでの藤野由美の指輪の返却が、 土方悦子さんの口からは門田氏に告げられなかったという一事に留意したい と思います。普通ならば、その指輪の返却を頼んだ藤野由美は殺害されたの であるから、たとえそれが直接に殺人事件に結びつかなくても、関心ある一 事として門田氏に告げられるべきであろうと思います。それが通常の心理で ある。ところが土方悦子さんはそれをしなかった。そのことは彼女の秘密性 をよく表わしていると思われます。 先にも述べたように、二つの殺人事件の動機や原因については、われわれ は一切推測できかねます。それはたびたび申し上げるように、被害者の身元 や環境がわれわれに十分にわかっていないということと関連します。殺人事 件の原因は、日ごろの被害者の生活環境や状況に由来することがきわめて多 く、またそれが重要であります。われわれイギリスの警察はその調査をする ことが不可能であります。あとは日本の警察に頼んで調査してもらい、その 報告を待つよりほかはありません。しかし、もし犯人がみずからそのことを 供述するならば、その点われわれにとってその理解は早いわけであります。 その場合、一カ月ぐらい遅れて日本から到着するであろう被害者二人の身元 調査報告は、本職の陳述の裏づけとして価値を持つものと思われます。 本職はここで遺憾ながら明言します。土方悦子さんには重要参考人として 此処に一人残ってもらい、その取調べを行う権利を主張したいと思います」 (高瀬) 窓の外は完全に夜の世界となった。アイガーの白い絶壁もメンヒの白峯も、 ずっと左手の方に壮大な壁を見せていたヴェッターホルンもすべて闇の中に 払拭されて、形といったら何も残っていなかった。見えるのは近くのホテル の少い窓の明りか、遠い麓の丘陵地帯に孤独に瞬く農家の灯だけであった。 何も形が知れない外の闇は、そのまま土方悦子を不吉な底に沈めたように みえた。一同は、寒さに押し包まれたときの戦《おのの》きと沈黙に陥って いた。 土方悦子はその沈鬱な一同の凝視の中に立ち上った。彼女は初め体をよろ よろさせていたが、すぐに立ち直って、ヒューズ警部のほうに真直ぐに向き 発言の許可を求めた。江木奈岐子が悲壮な顔で、正確な通訳のためにメモを 用意した。 「ただいまのイングルトン部長刑事のお話は大変に興味がありました。その 洞察力には敬服いたしますが、残念ながらそれをわたくしに引き当てられる のはまったくの間違いであります。わたくしはそれをここでいちいち反駁す ることは避けたいと思います。それはわずらわしいことであり、無意味であ り、時間の浪費だからであります」(江木) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 土方悦子の何か挑戦的な云い方に、人々の間にまたもやどよめきが起った。 ある者は声を出し、ある者は隣り同士囁き合った。 門田は、胸を震わせ、すぐ横に立っている土方悦子の細い胴体を怕《こわ》 いもののように眺め、次に出る彼女の言葉を怕々《こわごわ》と待った。 「イングルトン部長刑事は、犯人はこの女性団体の中にいると判断されてお ります。これはまったくの偏見であり予断であります。わたくしはまずその ことを指摘したいと思います。 レブン湖畔の殺人事件は、外国人の犯行ではないとの推測は妥当であると わたくしも思います。この犯罪には日本人が関与しております。しかし日本 人だからといって、それがこのローズ.ツアの女性だけとは限りません。殺 人事件の起ったときには日本人男性も湖畔の現場近い場所に来ておられま す。すなわち、ここで傍聴しておられます日本人記者の方々がそれに当りま す」(江木) 新聞記者席の五人は、はじかれたように一斉に顔を上げて土方悦子を見た。 「わたくしは、なぜに日本の新聞記者諸氏がレブン湖にやってこられたかと いうことから分析したいと思います。何故その人たちは辺鄙なスコットラン ドの田舎に取材にこられたのでしょうか。云うまでもなく、それはコペンハ ーゲンのロイヤル.ホテルで起った多田マリ子さんの例の扼殺未遂事件に関 連することであります。原因はそのことにあります。もし多田マリ子さんの 事件がなかったならば、新聞記者諸氏はわざわざスコットランドまでわたく したちを追っては来なかったでありましょう。 いや、その前に、ロンドンのホテル.ランカスターにも五人の人たちは見 えなかったでしょうし、ウインザー城の界隈にも姿をお見せにならなかった でしょう。そこでは団員の人々について、プレスマン五人はいろいろと質問 して取材されました。それらの取材行動を起させたのは、コペンハーゲンの 多田さんの事件からであります。 けれども、扼殺未遂という単純な事件だけでは、記者のみなさんは見むき もされなかったでしょう。そのような熱心な取材となった動機は、コペンで の多田さんの異常な事故が日本の新聞に大きく出て、それが読者の興味を強 く引いたからです。さらには、それに刺戟された三大紙と連合通信社の本社 が、それぞれのロンドン支局員に指令して、その取材をするように命じたか らであります。日本の読者に興味を起させたのは、ヨーロッパ旅行団体が女 性ばかりであるという華やかさと、コペンで襲われたのがその女性の一人で あったということにあります。 もしコペンハーゲンの事故がなかったならば、そしてそれが日本の新聞に 大きく出なかったならば、レブン湖畔に日本人新聞記者の参集はあり得なか ったかもわかりません。 |かもわからなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という云い方は、そこにわ たくしの疑問が存在しているからであります。わたくしはこう思います。た とえコペンハーゲンの多田さんの事件がなくとも、別な理由があれば、この ツアの取材は行われたに違いないと。つまり『日本スポーツ文化新聞』に多 田さんの奇禍があの派手な記事となって出たが、実はそれはほかの出来事で もあり得たと思います。逆に云えば、記事を出すために、女性団体に起りそ うな何かのエピソードを通信員は期待していたと云えます。その取材の対象 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn となるものは、起るかもしれないが、あるいは起らないかもしれない。この 点は、いわゆる可能性を期待したとでも申しましょうか。だから、何も多田 マリ子さんのあのような、多少大げさな事件がなくてもよかったのでありま す。もっと単純で、些細な女性団体の挿話でもよかったのです。要は、それ を日本の特約紙に通信する目的にありました。しかし、通信員にとって幸い なことに、多田マリ子さんの事件が耳に入ったのです。これは通信価値とし て絶好の材料であったと思います。コペンハーゲンのホテル側では、その信 用上、事件を外部に発表しませんでした。通信員はたまたま女性観光団体の 様子を見にホテルへ行ったのですが、そのときはわたくしたちの団体が出発 したあとでありました。それで彼がホテルのボーイについて取材したとき、 多田さんの事件を耳に入れたのであります。 なぜにその通信員は、このローズ.ツア観光団の動静を『日本スポーツ文 化新聞』に出したかったのでありましょうか。それはただ単に通信員の使命 感とか、プレスマンとしての功名心とか、あるいは本人の生活のためだけに、 その行為がなされたのではないとわたくしは思います。つまり通信員は、そ のことによってツアのその後のスケジュールの中に参加する機会を得たかっ たのであります。おそらく最初は、通信員自身が単独に参加するつもりだっ たでしょう。 けれども多田さんの報道はあまりに日本の新聞の読者に反響を呼びすぎま した。このことは通信員の予期しなかった成果ですが、ある意味では彼に幸 いしました。彼の単独参加では目立ちますが、他の社の参加ということにな れば、その分だけ目立ち方が少なくなるからであります。 わたくしがここまで申しましたのは、私はイングルトン部長刑事とは別途 の推定にもとづいて考えているからであります」(江木) 7 ヒューズ警部は彼女の正面席に向って上体を乗り出すようにした。 「わたくしはここで独演したいとは思いません。それはわたくしの推測が独 断にすぎるという印象をお集りのみなさんに与えるからであります。それで、 いまわたくしが名指した『日本スポーツ文化新聞』の特派員鈴木道夫さんと の対話を、ヒューズ警部にお許しねがいたいと思います。そうおねがいする のは、その対話から、わたくしの推測の誤ったところは鈴木さんによって訂 正され、また、鈴木さんの思い違いはわたくしが指摘することで、わたくし の推測に客観性を持たせたいからであります」 新聞記者席で、名指しされた鈴木道夫がきょとんとした顔を挙げた。その 髭面がとぼけたおかしみを持っている。 江木奈岐子の通訳で、土方悦子の要請を聞いたクリフォード.ヒューズ警 部は、隣のコリン.エヴァンズ警部補と顔を寄せ合い、次いでエドワード.イ ングルトン部長刑事を呼んで、三人でひそひそと話し合った。 ものの一分もすると、三人は元の姿勢となり、ヒューズ警部が土方悦子を 見て云った。 「土方悦子さん。あなたの希望を認めます」 後方の鈴木がさし招かれた。参考人席の最前列、土方悦子と斜めに対い合 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn うような端の席に坐っていた金森幸江が椅子を空けるように命じられ、鈴木 がそこに坐った。彼は落ちついて訊問席を見まわした。 「もう一つ、警部におねがいがあります」 土方悦子は云った。 「それは通訳していただく方の問題であります。わたくしは、イングルトン 部長刑事の指摘によって、いまは被疑者と同じような立場にあります。被疑 者の通訳を日ごろからとくべつにお世話になっている江木奈岐子先生にして いただくのは、わたくしにとって、とても辛いことなんです。また、江木先 生にも同じようなお気持があるのではないかと存じます。……」 「土方さん」 江木奈岐子が正面席から日本語で云った。 「わたしは、そうでもないわよ。あなたさえよかったら、わたしはあなたの 通訳もしますわ。警部に命じられたことですから」 「いいえ。先生。被疑者の立場にあるわたくしの答弁や釈明を、先生にして いただくのは、わたくし、恥しくて、とても、いろんなことを述べる勇気が ないんです」 ヒューズ警部が、お互いで、どういうことを云っているのだと訊いたので、 土方悦子は英語で警部に説明した。 「では、だれにあなたの通訳を頼みたいのだね、土方さん?」 警部は訊いた。 「門田さんです。門田さんなら、わたくしといっしょに、この団体ではずっ と行動していましたから、細部のことまでご存知だし、気心も分っておりま す。わたくしの説明不足の点は、門田さんにお気づきのところがあれば、補 足してくださると思います」 警部は土方悦子の顔をじっと見た。彼女の発言の裏には、無実の証明に門 田の協力を必要とする意味があった。つまり、「被告」席に立たされた彼女 は、「弁護人」を求めたのであった。利口な女だという感想が警部の瞳によ って語られていた。 「よろしい。土方さんのその希望を採用します。門田さん、お聞きのとおり だから、よろしくたのみます。……江木奈岐子さんには長い通訳をどうもあ りがとうございました。感謝します」 警部が謝辞を述べると、江木奈岐子はその正面の席を立って、もとの広島 常務の隣りに戻った。代りに門田が江木奈岐子の坐っていた席に步いた。す べて事務的な交替だった。 門田は、しかし、えらいことになった、と思った。これからは名所案内式 の通訳のようなわけにはゆかない。どのような発展になるか分らないが、土 方悦子の一言一句が彼女の運命をも左右しかねないのである。通訳に正確を 期さねばならなかった。ちょっとした誤訳が彼女を窮地に陥れるかも知れな いのだ。 もっとも、誤訳をすれば、土方悦子がすぐにそれの訂正を求めるだろう。 その点は救われるが、そうなると英語の分る彼女自身が彼のする通訳のモニ ター的な役目ともなって、はなはだ通訳しにくいことであった。 ヒューズ警部は、眼の前に来て坐っている鈴木道夫の髭の顔を見て、自分 らの列の端に坐っている在スイス日本大使館一等書記官に首を回した。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「高瀬さん。鈴木氏をはじめ、他の参考人の通訳は、あなたの隣りにおられ る二等書記官におねがいしたいと思いますが、いかがでしょうか?」 「承知しました。警部の要請によって、臼井二等書記官がその通訳の役を引 きうけるでしょう」 小肥りの、色の白い、日本外交官臼井が承諾の意を自身の口で表明した。 「鈴木氏は、もちろん英語が自由に話せますが、ここでは参考人席の日本人 全部に話の内容を理解してもらわねばならないので、このように全部それぞ れの通訳をつけることにしました」 警部は、一同に云ったが、鈴木にも了解を求めたことだった。鈴木はうな ずいた。ここまでの、やりとりは通訳なしであった。 すべての準備が完了すると、ヒューズ警部は木槌代りに例によって一咳し た。 「それでは、まず土方さんから発言をどうぞ」 土方悦子は、小さな上体をまっすぐに伸ばして、いつもよりは少し高い声 を出した。 「ヒューズ警部の公平なご措置に感謝いたします。……」 門田が彼女の発言をさっそく英語にした。 「わたくしは、遺憾ながらイングルトン部長刑事の推理に従うことができな いことをさきほど申し述べました。すなわち、女性団員の中のだれもが、レ ブン湖畔の不幸な二つの殺人事件には関与していないのであります。そうし て、この犯罪には、奇妙な外的現象が引き金の役になっていることを申しま した。それはコペンハーゲンのロイヤル.ホテルで起った多田マリ子さんの ちょっとした事件が鈴木さんの通信によって日本スポーツ文化新聞に大きく とりあげられたことであります。それによって日本の全国紙三社と連合通信 社のロンドン支局員が鈴木さんと共にロンドンでわれわれのローズ.ツアの 取材活動をはじめられました。これも、さきほどお話ししたとおりでありま す。……そこで、鈴木さんにおたずねします」 土方悦子は、鈴木道夫に姿勢をむけた。 「あなたがコペンハーゲンから日本スポーツ文化新聞に送られた通信は、同 紙にたいへんセンセーショナルな記事になって出たということです。それは、 ここに居られる王冠観光旅行社の広島さんや江木先生が読まれて、たいへん おどろかれ、そうして心配されて、ロンドンのホテルにいる門田さんやわた くしに東京から電話をくだすったくらいです。……そういう記事が日本スポ ーツ文化新聞に出たのでございますね、広島さん?」 彼女は広島常務に顔をむけた。 「その通りです。その新聞の一部を、わたしが書類鞄の中に入れて日本から 持参しています。いままで慌《あわた》だしさにまぎれて、みなさんにお見 せするのを忘れましたが、ここにございますから、お目にかけましょう」(臼 井.通訳) 広島は足もとの手提鞄を膝の上に乗せ、中から折りたたんだ新聞を出して ひろげた。 □日本女性、コペンハーゲンで扼殺(未遂)さる。女性ばかりの欧州観光旅 行団□ 写植字を精いっぱい大きくひろげた見出しが紙面の上部に踊るようになら PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn んでいた。土方悦子は、その新聞を手にしてさっと眼を通した。他の団員た ちにも初めて見る実物で、土方悦子から渡されたものを順々に回して記事を 読み、歎声を洩らしていた。あまりに刺戟的な表現だったためだが、ただ一 人、自分のことをかくも煽情的に過大に書かれた当の多田マリ子がさも興味 深げに耽読している姿は印象的であった。 「ヒューズ警部には、この新聞記事の内容をのちほど翻訳してさし上げます が、いまは、その記事が、事実を十数倍にもふくらまし、脚色し、読者の好 奇的な興味を狙ったきわめてセンセーショナルなものであることにご留意ね がいたいと存じます」(門田.通訳) 土方悦子は警部に云って、あらためて鈴木に微笑をむけた。 「鈴木さん。あなたは、この新聞記事が、あなたの実際の通信とは違って、 日本スポーツ文化新聞のデスクによって、|でっちあげ《フレーム.アツプ》 られたと、門田さんに云われましたね。あれはウインザー城でお遇いしたと きでした」 通訳する門田は、思わず、そうだ、その通りだ、と合点合点するようにう なずいた。 「そうです。そのとおりにぼくは門田さんに云いました。新聞のデスクは大 なり小なり材料をふくらませて興味的な紙面構成にするものです。とくに日 本スポーツ文化新聞のような性格の大衆紙ではそうです」 鈴木は答えた。答えたあと、臼井の通訳に耳を傾けていた。 「要するに、日本スポーツ文化新聞のこの記事と、あなたの送られた通信と は違うということですね?」(門田.通訳) 「そうです。違います。新聞社のデスクがぼくの送稿を、|書き直し《リラ イト》したのです」(臼井.通訳) 土方悦子はスーツの右ポケットから折りたたんだ一枚の紙をとり出してひ ろげた。 「これは、スイスにくるとき、ヒースロー空港からわたくしが日本宛に打っ た二通の電報に対する返電の一つです。日本スポーツ文化新聞の編集局長か らの返電です。ベルンのホテル.ベルビューに宛てて返電してもらうように たのんだのですが、その通りにしてくださいました。それを広島常務がこの ホテルにおいでになるとき持参してくだすったんです。返電の内容は、記事 は鈴木通信員の長文の電話送稿をほとんどそのままに使用したものであっ て、当方はいささかも潤色を加えていない、とこういうことであります。編 集局長名は川島となっています」(門田) 「川島編集局長は、あなたの問合せ電報を、たぶん詰問だと思って、云い逃 れにそのような返電をしたのだと思います。実際は、ぼくの云うのが正しい のです」(臼井) 鈴木の髭の顔には、電報問合せのことがよほど意外だったとみえ、おどろ きが現われていた。 「わかりました。ここではその当否が判断できませんから、それは帰国後の 調査ということにして、鈴木さんの言葉を承っておきます。……」 土方悦子は、電報を右のポケットに仕舞いこんで、言葉をつづけた。 「そのウインザー城でのことです。鈴木さんは、この観光団体の取材をなさ いました。ほかの四社の記者もそうでした。ところで、鈴木さんは、わたく PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn しにむかって、あなたが土方悦子さんですね、と云われました。そうでした ね?」(門田) 「よくおぼえていませんが、そう云ったかもわかりません」(臼井) 「そのように、わたくしに云われました。それがわたくしにとって印象的だ ったので、よく記憶しています。鈴木さん、あなたは、わたくしのフル.ネ ームを、どこで、いつ、どなたからお聞きになったんですか」(門田) 「さあ。……なんとなく、前から聞いていたように思っています」(臼井) 「わたくしは、変な気がしたものですから、そのあとで、門田さんにわたく しの姓名を鈴木さんに教えたのかと訊きました。門田さんは何も教えてはい ないと云っていました。門田さん、そうでしたね?」 門田はその言葉を通訳し、ヒューズ警部に土方の質問に答えてよいかとた ずねた。 「よろしい。どうぞ」 警部の許可が出たので、門田は、 「土方さんの云うとおりです。わたしは鈴木氏に土方悦子という名前を告げ たことはありません」 と、日本語で答え、それを自ら通訳した。 土方悦子が警部に向った。 「門田さんのいまの言葉は重要です。さきほども申しましたように、門田さ んはわたくしを助手代りにして絶えず共同の行動をとっていましたから、わ たくしの言動はよくご存知です。この審問の進行につれて、必要時には、通 訳の役目をはなれて、門田さん自身の証言を求めたいと思います。したがっ て、門田さんはわたくしの通訳でもあり、証言者にもなり得ることを希望し ます」 「よろしい。あなたのその希望をうけ入れます」(高瀬) ヒューズ警部の独断による決定は、「審問長」が「被告」の利益を考慮す るのに通じていた。 「ありがとうございます、警部。……さて、門田さんは鈴木さんにわたくし の姓名を教えていないというお答えでした。それでは、団員のみなさんのな かでどなたかわたくしの姓名を鈴木さんに教えられたのでしょうか? そう いう方がおられたら、ご発言ねがいます」(門田) 土方が女性団員を見回したが、発言する者はなかった。 「一人も居られないのは当然です。わたくしの姓が土方であるとは知ってお られても、悦子という名はどなたもご存じなかったからです。この観光旅行 の募集のために刷られたパンフレットには、講師江木奈岐子先生のお名前は ありますが、わたくしの名前は載っていません。なぜなら、この観光旅行団 のローズ.ツアの募集を締め切ったあたりで、江木先生にほかの重要なお仕 事が出来て講師としてのご参加が不可能となり、わたくしが急に代ったから でございます。……広島さん、そうでしたね?」(門田) 広島は自席でうなずいた。 「その通りです。間違いはありません」(臼井) 「このように団員の方もわたくしのフル.ネームをご存じなかったし、門田 さんも鈴木さんには云っておられないのです。げんに、他の四社の記者の方 は、ウインザー城では、わたくしが土方という姓であることもご存じなく、 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn そういう呼び方もされませんでした。……四社の方、いかでしょうか?」(門 田) 土方悦子は後方の新聞記者席を見た。浅倉をはじめ四人の日本人プレスマ ンは、彼女の言葉を一様に認めた。 「こうなると、鈴木さんはわたくしのフル.ネームを何となく聞いていたと 曖昧な記憶をおっしゃっていますが、それはイギリスに来てからではないこ とが帰納的に結論づけられます。……けれども、鈴木さんのご記憶がうすい ようですから、その問題はあと回しといたします」(門田) 8 土方悦子は、次にすすんだ。 「門田さんが鈴木さんに初めて会ったのはコペンハーゲンの居酒屋でした。 ピーレゴーデンというのが店の名前です。それは門田さんがあくる朝、わた くしに話されたことです」 門田はうなずいて、それを英語に直した。 「そのとき門田さんはわたくしに、江木奈岐子さんの『白夜の国.女のひと り旅』というのを読みましたかと聞きました。わたくしは、拝見しましたと 言いました。門田さんは、その本の中に、デンマークではミス.トルバルセ ンという女性と著者の江木奈岐子さんとが、一緒に北欧を步いているという 文章がありましたか、と訊きました。わたくしは、その本のことを考えて、 ユラン半島のところに著者のひとり旅があったように思いますと答えまし た。オーフスからユーリングへ、スカーエラック海峡に面した北端のスカウ ンまでの旅、たしかそこにデンマークの女性と同行したとありましたが、ミ ス何とかという女性の名は出ていなかったと思いますと答えました。そうし て、ミス.トルバルセンが四年前に江木奈岐子さんとユラン半島を一緒に步 いたので、日本に帰ったら江木さんによろしくと鈴木さんの通訳で云われた と門田さんは云い、そういうわけだから、あなたから江木さんにそう伝えて くれとわたくしに云われました。わたくしはミス.トルバルセンから江木先 生宛の伝言を手帳に控えておきました」(門田) 土方悦子はここでその手帳を開き、その名前を書いたページをヒューズ警 部のほうに見せた。 手帳は、今回の旅のメモで埋まっていたが、コペンハーゲンでの伝言はた しかに記入してあった。 門田は土方悦子の通訳を終えて、彼女が、なぜ、そんなことを此処に持ち 出すのかその真意を疑った。殺人事件の「審問」には関係ないことである。 門田は、このときまでそれを土方悦子の余分な饒舌に解していた。 当の鈴木通信員は、何も答えずに坐りつづけていた。別に警部からはその ことに関して質問もされないので、答える必要もないといった様子だった。 彼は、女と違って余分な言葉をさしはさまないようにみえた。 土方悦子は、しかし、つづけた。 「ふつう外国の旅をしていると、旅先で出会った人たちの名前は旅の本には 印象的なこととしてよく出てくるものです。行きずりの人でもそうですから、 まして数日間一緒に旅をした外国の女性となると、その名前は当然に著書に PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 出ていいと思います。ことにミス.トルバルセンは、ユラン半島の旅で江木 先生の通訳でした。それは江木先生の英語をデンマーク語に通訳して先生と 土地の人々との対話をはかることでした。してみれば、ミス.トルバルセン は先生にとって行きずりの人ではなく、特に緊密な間柄にあったわけです。 ガイド兼通訳というのは、数日間旅をしていれば、雇用関係を超えて、そこ にこまやかな友情が湧くものです。また、そのガイド兼通訳との友好的な旅 を書くことで、読者に異国情緒の感銘を伝えることができます」(門田) 江木奈岐子は、思いがけない土方悦子の言葉から顔に緊張があらわれた。 まさかここで自分の著書の批判が土方悦子によって提出されるとは思っても みなかったようである。彼女は、すぐに手を挙げてヒューズ警部に発言を求 めた。警部はそれを許した。 「いまの土方悦子さんのお言葉について、わたしの立場からほんの少し申し 上げたいと思います。およそ著書にどのようなことを書こうと、それは著者 の自由であり、権利であります」 江木奈岐子は、心外なという表情を隠さずに云った。これは臼井二等書記 官の通訳である。 「土方さんはわたしの『白夜の国.女のひとり旅』を批評なさいましたが、 批評もまた土方さんの自由であります。しかし、ここで技術的なことをわた しは申してみたいと思います。わたしがミス.トルバルセンという名前を自 分の著書から省いたのは、ありきたりな旅の本の書き方を避けたいからであ ります。事実、土方さんが云われるように、外国の旅の本には、数日間一緒 に暮らしたガイドさんとか通訳のことが、かなり詳しく出ているのが多うご ざいます。しかしそれは、はたして土方さんの云うように、異国情緒を読者 に与える効果になるでしょうか。わたしは、そのような常套的な描写はマン ネリであって読者の感興をうすめるものと信じております。わたしが自分の 著書にミス.トルバルセンの名前を避け、彼女と一緒に数日間旅をした経験 を省略したのは、そのような文章上の用意からであります。……一言、著者 として土方さんの感想にお答えしたくて、申し上げました」 門田から見て、江木奈岐子はかなりお冠を曲げているようだった。それは そうに違いない、と門田も思う。土方悦子は江木奈岐子の弟子同様だし、そ れがいわば師匠にあたる人の著書を批判したのだから当然であろう。 会場にも、意外と思う顔が多かった。そもそもこのローズ.ツアの講師は 江木奈岐子であった。それが結団前になって急に彼女に支障ができ、土方悦 子と替った。その交替の事情は、団員も旅行社の側から説明を受けている。 土方悦子は、まさに江木奈岐子の推薦で彼女の代理になったのであるから、 だれしもそれを師弟の関係と思い込んでいた。 もっとも、門田だけは、土方悦子から前に、江木奈岐子との間が必ずしも 世に云う師弟の関係でないことを聞かされていた。土方悦子の話では、自分 の趣味から、旅の評論家としての江木奈岐子の許に出入りしていたのであっ て、世間でいうような門下生ではないというのだった。 江木奈岐子に反駁された土方悦子は、彼女のほうに向って頭を下げた。 「江木先生のいまのお言葉ですが、わたくしは、先生の著書を批評したので もなければ、また、それを批判したのでもございません。ただ、その著書に ミス.トルバルセンという名前が挙げてなかった事実だけをわたくしは申し PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 上げたかったのでございます。……江木先生、失礼があったら、ごめんなさ い。でも、わたくしは殺人事件の重要参考人にされているのです。弁護人は 付いておりません。自分でこの疑いを晴らすしかないのです。どうぞ、この 点をご理解ください」(門田) 「土方さん、その著書の書き方とこんどの事件とは、何かかかわり合いがあ りますか」(高瀬) ヒューズ警部は間に入って、ふしぎそうに訊いた。 「直接には関係はないが、一つの参考的資料にはなると思います。いま申し 上げたような事実は何を語っているでしょうか。つまりミス.トルバルセン は、江木先生の英語をデンマーク語に通訳したのであります。してみれば、 ミス.トルバルセンは英語が話せるのであります。ところが、コペンハーゲ ンの居酒屋で鈴木さんと一緒にいたトルバルセンさんは、門田さんに向って 一言も英語では喋らなかったそうです。すべて鈴木さんが日本語ばかりで話 していました。たとえば鈴木さんは、ミス.トルバルセンから江木先生によ ろしくという伝言を、日本語で取り次いで門田さんに云ったそうです。ヨー ロッパを步く旅行団体の添乗員である門田さんが英語を話すことは、鈴木さ んもトルバルセンさんも十分に承知のことだと思います。親密な伝言は、本 人の口からナマな言葉で云ってこそ、その感情が伝わるものです。たとえば give my best regards to Miss Egi という平凡な言葉だけでもよいのです。 トルバルセンさんは、どうしてそんな伝言を直接に門田さんに英語で云わな かったのでしょうか」(門田) 門田は、土方悦子の言葉を通訳したあと、そうだ、たしかにあのデンマー クの女は、鈴木の横にずっとくっついて坐っていて、一言も英語を喋らなか ったと思った。 それだけではない。自分と向い合った両人は、ときどき、聞えぬ声で私語 を交わしていた。 門田が自分はヨーロッパ観光旅行団体の添乗員《コンダクター》であると 鈴木に話したとき、そのデンマーク女は、何をお互いで話しているのかとデ ンマーク語で鈴木に訊いたようであった。それで鈴木は、かなり達者なデン マーク語で会話の要領を彼女に伝えた。そしてこんどは、「彼女はあなたが エギ.ナギコを識っていますかと訊いている」と日本語に通訳した。これも 英語がわかるトルバルセンだから、そのことを直接自分に質問していいはず である。たとえ、横に鈴木が居ようと、デンマーク女は、そんなに遠慮深い 性格ではなかった。あのきたない居酒屋はまことに自由奔放な雰囲気で、客 の中のある群は「革命」を語り、ある群はフリー.セックスを語っていた。 煙草の煙が薄暗いランプの下に濁って渦巻いている不透明な視界の中で、恋 人の組はあたりに何の憚りもなく濃密に抱き合っていた。 トルバルセンの「江木奈岐子を識っているか」という言葉には、かつてユ ラン半島を数日間いっしょに旅をした相手への懐しさが籠っているはずだっ た。それならば、その感情を現わすために、トルバルセン自身が英語で直接 に話しかけてもいいのだ。それは土方悦子が云うとおりだと門田は思った。 のみならず、そのあとミス.トルバルセンは、デンマーク語で鈴木に口早 に何か云った。鈴木はそれに口早に答えていた。そういう問答が二、三交わ されていたのを門田は憶えている。そのときは何気なく見ていたが、いまに PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn して思うと、女が何か云おうとするのを鈴木が遮っていたような感じであっ た。あれは、トルバルセンが英語で直接門田に云おうとするのを、鈴木が抑 止したようである。もしそうだとすると、鈴木は何のために彼女が英語で自 分にじかに話しかけるのを制止したのだろうか。 門田は、自分がこの「審問廷」の通訳であると同時に「証言者」であるこ とを思い出した。それは土方悦子がヒューズ警部に承認させたことである。 「証言者」とは重々しいが、モニターぐらいの役目なら、気軽に自分の目撃 したことや聞いたことを話せると思った。 そこで門田は、ここからは自分自身の言葉であると警部に断わって、以上 のコペンの居酒屋での記憶を簡略に英語で話した。 話しながら、そうだ、こういうことは土方悦子が今日の午後、ユングフラ ウ.ヨッホで自分に質問した内容だったと思い出した。 しかし、ヒューズ警部をはじめ、陪席の人たちや、参考人席、新聞記者席 の人々には門田の述べる意味がよく判断できないようであった。 「鈴木さんにおたずねします」 土方悦子は再び通信員のほうに向いた。 「あなたは、最近、日本にはいつお帰りになりましたか」(門田) 「ぼくはこの三年間は一度も日本に帰っておりません。そのことはいまあな たの言葉を通訳なさっている門田さんにコペンハーゲンで会ったときに申し 上げたと思います。ぼくは、門田さんのような人に会うと、日本へ郷愁を感 じると云ったと思います」(臼井) 門田は、そうだ、鈴木はそういうことを云ったと憶い出し、彼のほうにう なずいた。 土方悦子はつづけた。 「わかりました。けれどもあなたは、四月十日付の『朝陽新聞』に江木先生 が書かれた『フィヨルド地方の旅の想い出』というのを見ておられます。そ れは三年前の先生の著書『白夜の国.女のひとり旅』とともに、事実の間違 いが少なくとも五つはあると批判されました。あなたはその四月十日付の『朝 陽新聞』をどこでごらんになりましたか」(門田) 「それは、たしか僕の下宿しているアムステルダムで読んだと思います。日 本人のいるヨーロッパの都市ならば、日本の代表紙である『朝陽新聞』はど こにでも来ています」(臼井) 「あなたは、日本の大使館や商社の事務所にはよくおいでになりますか?」 (門田) 「ぼくは、日本の新聞、週刊誌の通信員としてヨーロッパを自由に取材して いますから、大使館とか商社には顔を出していません。そういう場所には用 事がありませんから」(臼井) 「けれども、わたくしが知っているかぎりではアムステルダムにも『朝陽新 聞』はそうたくさん来ているわけではありません。あなたがアムステルダム で読まれたというのは何かの錯覚ではありませんか」(門田) 「いや、正確な記憶はないけれども、ぼくはたしかにその新聞をアムステル ダムのどこかで読みました」(臼井) 「四月十日付といえば、きわめて最近の新聞です。日付の遅れた新聞ならと もかく、そのように新しい新聞が読める場所といえば、きわめて限定される PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn と思いますが……。それに、私はあの記事をスクラップしたので記憶してい るのですが、あれは『朝陽新聞』の本紙ではなく、付録の『旅行特集』だっ たと思います。そんなものまでヨーロッパに来ているのでしょうか。その点 は警察のお調べで、すぐに分ることと思いますが……」(門田) 「新聞の付録」という言葉に、鈴木は、はっとしたようだった。が、すぐに 平静に戻って答えた。 「読んだ場所はよく憶えておりません」(臼井) 「あなたはコペンハーゲンの居酒屋で、門田さんに、女性観光団ということ をお聞きになりましたが、団体の人数が何人であるかということはお聞きに なりませんでしたね。これはどういうことでございましょうか。女性ばかり の観光団というユニークな旅行団ですから、その人数はどれぐらいかぐらい は添乗員の門田さんに真っ先に聞くのが普通だと思いますが。とくに通信員 の感覚ではね。けれども、あなたはそれを質問していません」(門田) 「人数に興味がなかったからでしょう」(臼井) しかし、鈴木は虚をつかれたようだった。 「いえ、そうではありません。あなたが団体の人数を聞かなかったのは、そ の団体の人数を、前もって知っていたからです。つまり、知っていることに は質問の必要がなかったわけです。もしあなたが初めてその話を聞いたよう に装うとすれば、団員の人数を門田さんに訊くべきでした。それをしなかっ たのは、これは鈴木さんにとって迂闊だったと云わねばなりません」(門田) 門田も、通訳する前に、あっと思った。 「あなたはぼくに何を云おうというのですか」(臼井) 鈴木は色をなして土方悦子に反問した。 「わたくしは、以上のことを総合して、あなたが三年間も日本に帰国しなか ったとは信じがたいのです。あなたはことしになって日本に『里帰り』なさ っています。それも、この団体が結成されるころと思います。この点は、日 本で警察が調査すればわかることだと思います」(門田) 鈴木は何か云いかけたが、沈黙した。そのかわり額に深い皺を寄せた。 土方悦子は顔を元に戻した。 「ヒューズ警部に申し上げます。ここに殺人を意図する人間が一人いたと想 定します。その人は通信員で、狙う相手に接近しやすい立場にありました。 まず、相手は、ローズ.ツアという観光旅行団体でした。次の焦点はその中 に居る相手です。しかし、いくら新聞.雑誌のヨーロッパ通信員でも、理由 なしに女ばかりの旅行団体に接近することはできません。そこで考えられた のが、接近のために、きっかけをつくることです。そのきっかけは、報道通 信員としてきわめて自然につくり上げることでした。これが、先ほどから縷々 《るる》と申し上げているコペンハーゲンでの多田マリ子さんの奇禍でした。 もっとも、その事件でなくとも何でもよかったのですが、通信員にとって幸 いなことに、センセーショナルな記事をつくり上げる偶然のチャンスに恵ま れました。彼は、その記事を淡々と書いて日本スポーツ文化新聞に送稿した と云っていますが、わたくしの照会した電報に対する日本スポーツ文化新聞 社の返電は、さきほど披露したとおりです。すなわち、同本社のデスクは、 何らの修飾も文飾もほどこさずに、通信員の電話送稿をほとんどそのままの 記事にして掲載したのであります。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn では、なぜ通信員は過大な報道をしたのでしょうか。それが通信員として の功名心からであり、それによって読者の反響を期待するという意図があっ たからでしょうか。たしかにそういう心理は、どの新聞記者にもあることで す。いわゆる特ダネがとかく誇大になるのもその理由からだと思います。け れども、その通信員の場合はそうではなかったとわたくしは思います。通信 員はその観光団体に近づく機会にするべく、コペンのホテルでの多田さんの 奇禍をきわめて刺戟的で煽情的な色彩の送稿にしたと思います。 これは図に当りました。はたして本社はその反響によろこんで、通信員に その観光団体の取材をつづけるように命じました。予想外なことに、日本ス ポーツ文化新聞に刺戟されたA、B、C、連合通信などの代表的な報道機関 が、その女性観光団体の動静に興味を持ち、そのロンドン支局員に取材を命 じたため、各社の支局員はその通信員とともに、観光団体に接近してきまし た。その通信員にとっては、まさにもっけの幸いと云えましょう。というの は、自分だけが団体に近づくよりも、大ぜいの中に入っていたほうがはるか に目立たなくていいからです。しかも四社とも日本の大新聞であり、通信社 ですから、これ以上理想的なことはありません。 わたくしはいまにして思います。ウインザー城で、その通信員は各新聞に ついてきて、執拗に取材しました。そのときふと私が目撃したのは、藤野由 美さんが通信員から取材されているところでした。ちょうど商店街から少し 入った路地のところでした。わたくしは新聞記者の方々の取材活動にいささ か嫌悪を感じていましたけれど、それでも通信員がする藤野由美さんの談話 取材よりは短い時間でした。藤野さんに限って通信員の談話取材が長かった のです。どういうことを取材していたのか、わたくしたちとはあまりに距離 が遠すぎて、話し声は聞えませんでした。 あれは果して取材だったでしょうか。そのときは通信員の取材という意識 がわたくしの頭にあったものですから、何の疑いも持ちませんでしたが、藤 野さんがレブン湖畔で殺されてからは、奇妙にあの長いインタビューがわた くしにひっかかってきたのです。 レブン湖畔の犯人は、藤野由美さんを長いこと湖畔に止め置きました。こ れはおどろくべきことです。何の圧力も加えずに、一人の人間を、あの暗い 湖畔に長く拘束しておくということは、ふつうではできません。他の団員が 遅くとも九時にホテルに戻ったあと、一時間も長くです。 わたくしは、そのことをウインザー城で見た通信員の長過ぎるインタビュ ーと結びつけてみました。あれは単に談話を取材していたのではなく、逆に 通信員が、藤野由美さんに何事かを云い聞かせ、説得していたのではないか と考えたのです。そう推察するならば、藤野由美さんは彼の言葉に従いレブ ン湖畔に残っていたという解釈が無理なく成立します。 ところで、もう一人の被害者、梶原澄子さんの場合ですが、彼女も通信員 から湖畔に出るよう説得があったと思います。|残る《ヽヽ》のではなく、 このほうは|出る《ヽヽ》のです。通信員がどのような説得を梶原さんに試 みたか、わたくしには一つの推測があるのですが、それはのちに云います。 とにかく犯人は、梶原さんをいったん部屋に戻して、そのあとで、湖畔にく るように計画したのだと思います。 梶原さんは、九時すぎには湖畔からホテルに一度は帰ったのです。そのと PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn きは、彼女ひとりでした。彼女はフロントの係員から自室の34号室のキイ と、藤野由美さんの16号室のキイとをいっしょに受け取ったと思います。 嫌いだったとはいえ、それまで一つのキイを共有した室友です。梶原さんが 藤野さんのキイを受け取るのに、心理的な抵抗はなかったと思われます。フ ロントの係員は、例によって日本女性客に要求されるまま、二つのキイをボ ックスから出してカウンターの上に置いたのでしょう。仲間のキイだと思う から、係員は一人の要求で、キイを三つでも四つでも出すのが普通です。い ちいち確認はとりません。 わたしは、16号室と34号室のキイをフロントから受け取ったのは、栗 色の髪を持つロンドン娘ではないかと最初に考えました。その娘さんは、| 鱒 荘《トロウト.ヴイラ》からそれほど遠くないキンロス.ホテルに鈴 木通信員と泊っていました。わたくしは、偶然にその娘さんをキンロス.ホ テルの庭で見かけましたが。しかし、いくら栗色の髪が日本女性の黒髪に近 いからといって、また、その背格好が日本女性のそれと似ているからといっ て、フロントの係員がイギリス娘を日本女性と見誤るはずはないと、わたく しは思うようになりました。わたくしは考えを訂正しました。 二つのキイをいっしょに受けとったのは、やはり日本女性です。とすると、 藤野由美さんか梶原澄子さんです。わたくしは、洗面所の犯人のトリックか ら考えて、藤野さんは湖畔から自室には戻っていないと推定しました。する と、二つのキイは梶原さんがフロントからもらったことになります。つまり、 梶原さんは、犯人に協力して、藤野さんの16号室のキイまで受け取ってい たのです。 この推定は、もう一つの推測を生みました。それは、藤野由美さんと梶原 澄子さんとを同時に湖畔に残しておくと、二人の間に何かがはじまって── それも犯人の計画なのですが──時間的に早すぎるからです。そのことが起 るのは、湖畔から団員がみんなホテルに引き揚げた九時半以後でないと都合 が悪いからです。たとえば、藤野由美さんと梶原澄子さんの間で、言い争い がはじまれば、その昂奮した高い声が、湖畔に残る他の団員の耳に入ります から。それから人間を湖に突き落すときに起る水音を聞かれることです。そ れはなお困ります。それで、梶原さんだけは、ホテルにいったん戻して、時 間のズレをつくったのです。梶原さんが、二つのキイを持って自室から再び 出たのは十時ごろでしょう。そのとき団員はみんな各自の部屋に閉じこもっ て就寝していたでしょうから、廊下をそっと步く梶原さんの姿を見た者はあ りませんでした。梶原さんは犯人に云われたとおり、フロントの前は通らず に、教えられたように裏口から外に出たと思います。 こうして、梶原澄子さんは、湖畔で待たされていた藤野由美さんと会いま した。それはどういう話だったでしょうか。なぜ、二人の女性は、犯人の言 葉に動かされて、夜ふけに寂しい湖畔で会ったのでしょうか。 考えられるのは、それが犯人の計画のもとにすすめられたことです。だか ら、他の団員がいるホテルではできなかったのです。もし、それがふつうの 密談でしたら、旅行のスケジュールはまだまだ残っていますから、その機会 を先に延ばしてもいいわけです。チャンスはいくらでもあります。けれども、 それを先に延ばす余裕が鈴木さんにはなかったのです。スコットランドの山 湖という絶好の条件からいっても、犯人は差し迫った心境になっていたと考 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn えます。湖畔で殺すためには、二人をそこに誘い出さなければなりませんか ら。 犯人は、まず藤野由美さんに対して、室友の梶原澄子さんが藤野さんの将 来を破壊する危険な人物であることを説いていたと思います。それがはじま ったのは、ウインザー城見物の際でしょう。彼女に対する取材の話合いが非 常に長かったのは、実は、その説得だったと思います。以後も犯人は、この 旅行団のまわりに付いてきていましたから、その説得をつづける機会があっ たと思います。 藤野さんは、梶原さんを見ても、二十年前に彼女と特殊な接触があったこ とを忘れていたと思います。というのは、ロンドンのホテルまでは藤野さん の様子に何の変った点もなかったからです。たいへん明るく振舞っていまし た。室友の変更は梶原さんが希望するだけで、藤野さんは何も云っていませ ん。藤野さんは、梶原澄子さんが札幌の梶原産婦人科病院長の未亡人で、そ の梶原病院は、もと千歳の町に在ったことを知っていなかったと思います。 なぜなら、団員たちに配布された団員表には、団員の名前がタイプしてある だけで、その身もとは一切記入してありませんでしたから。 犯人が藤野さんに、梶原澄子さんが彼女の将来を破壊する危険な存在であ ると知らせたのは、犯人が藤野さんの前身と梶原さんの過去の仕事とを、両 方とも知っているからです。どうしてそれを知っていたか。わたくしは、そ れは犯人自身の知識ではなく、他の者からそれを教えられたからだと思いま す。他の者──その人こそ、両人の経歴をよく知る立場にありました。犯人 は、その人からすべての遂行を頼まれたのです。 藤野由美さんは、東京で美容院を経営していました。自身を美容デザイナ ーという新しい言葉で飾っていたように既存の複雑な美容界の中に目ざまし く進出しておられたようです。彼女は、その才能を持ち、それへの自信から、 将来に大きな希望と夢とを持っていたと思います。藤野さんは、自分の客筋 のいいことをこんどの旅行中も絶えず自慢しておられました。 それが梶原澄子さんの口から出る一言で、破壊されるかもしれないのです。 犯人にそう教えられると、藤野さんが犯人に協力して梶原さんを除く決心に なったのも分る気がします。梶原澄子さんは、義弟の世話になっている未亡 人にすぎません。この世にはあまり意欲をもてない後家さんなんです。年老 いて行き、家族の厄介になるだけの境遇です。 それにくらべると、藤野由美さんは薔薇色の世界に入りかけています。彼 女はその美容技術によって多くの女性たちに役立ち、よろこばれていると信 じていたでしょう。役にも立たない未亡人のために、世に有益な、しかも将 来ある存在の自分が葬り去られることは、まったく不合理だと藤野由美さん は考えたでしょう。 ドストエフスキーの『罪と罰』では、質屋の『後家婆ァ』を殺した大学生 ラスコーリニコフは似たような考えを持っています。『意地の悪い病気の老 婆。誰にも役に立たないどころか、かえってみんなの害になり、なんのため に生きているのか自分でも分らない老婆がいる。その老婆を殺し、その金を 奪うがいい、こんな愚かな意地悪い老婆の死なんて、いったい何だろう』と いう士官のせせら笑う言葉が前にあって、ラスコーリニコフは『人類の恩人 になるために、ぼくは殺したのではない、ぼくはただ殺したんだ、自分のた PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn めに殺したんだ、自分一人のために』と恋人ソーニャに云います。 まったく、藤野由美さんは、唆《そそのか》した犯人のためではなく、自 分一人の生活防衛のために、未亡人殺しに協力したのです。 湖畔でどのような順序で殺人が行われたかは、私には詳しく推察はできま せん。たぶんいままでの類推とは違って、梶原澄子さんが先に湖に突込まれ て殺されたと思います。そう推定する理由があります。その一つは、ボート の下に梶原澄子さんの屍体が入っていたことです。これまでは、手押し車を 梃子にして伏せたボートをこじあけ、その中に屍体を入れた、だからそれは 一人の力でも可能であると考えていましたが、やはりあれは二人がかりだと 推定したほうが自然だと思います。 つまり、梶原澄子さんは、犯人にだまされて、殺されに夜ふけの湖畔に忍 んで出て行ったようなものです。犯人は、藤野由美さんといっしょに暗い湖 畔で梶原澄子さんを迎えました。それは十時すぎだったでしょう。 こうして、いま申しましたような方法で梶原澄子さんは犯人によって水死 させられたのですが、そのとき、彼女が持ってきたキイ二つはハンドバッグ に入っていました。あとで犯人は梶原澄子さんの遺留品であるハンドバッグ から16号室のキイだけを奪ったのでしょう。 こうして、犯人は藤野由美さんといっしょに梶原澄子さんの水死体を湖岸 に引きあげ、二人がかりで伏せられたボートの下に入れました。例の手押し 車は、それを梃子代用にした単独犯行のように思わせる犯人の知恵でした。 わたくしは、それにまんまとひっかかりました。わたくしだけではなく、恐 縮ですが、イングルトン部長刑事さんも、さっきのお話によって、犯人のト リックにひっかかっておられるのが分りました」 イングルトンは、ドイツの謀略にひっかかったチェンバレンのように、苦 虫を噛んだ顔をした。 「犯人は、このようにして藤野由美さんに梶原澄子さん殺しを協力させたあ と、こんどは残る藤野由美さんをふいに襲い、湖に突き落して溺死させまし た。これも、犯人を操る人にとって、『自分一人のために二人を殺した』と いうことになりましょう。 藤野由美さんの16号室のキイは、すでに犯人の手にありますから、犯人 は湖の岸辺から鱒の鱗と藻の断片とを、ビニール袋か何かですくい上げ、そ れらを持ってホテルの裏口から入り、キイで16号室を開けて中に入り、洗 面所で例のトリックを設置しました。キイはその部屋の中に置いて、廊下に 出るとドアを閉めました。ドアは外から閉めたときに自動的にロックされま す。このとき、両隣の部屋も前の部屋も、寝ている人には何の音も聞えませ んでした。 こうして犯人は再びトロウト.ヴィラの裏口から出ると、自分のホテルに 戻ったと思いますが、そのときは、ホテルの近くに待たせてあったロンドン 娘と落ち合い、アベックで散步して帰ったようにキンロス.ホテルのフロン トには思わせたと思います。 ロンドン娘に聞けば、彼女が彼と共にキンロス.ホテルを十時ごろに『散 步』に出て、十一時すぎごろに『散步』から腕を組んで戻ったと答えるでし ょう。彼女も恋人の犯行に間接的に協力したのですから、恋人のためにも、 また自分自身のためにも、不利な証言はしないでしょう。しかし、スコット PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ランド.ヤードの敏腕をもってすれば、ロンドン娘の偽証も突き崩せると思 います。 そこで、疑問ですが、では、なぜ藤野由美さんは犯人と協力して梶原澄子 さんの殺害を手伝ったのでしょうか。ここが、こんどの事件の動機を知るポ イントだと思います」(門田) 一同は、|しん《ヽヽ》として彼女の言葉に耳を傾けていた。いまや彼女 は降りかかった殺人者の嫌疑をひとりで払いのけるために自らの弁論に立ち 上っていた。弁護人が一人もいない異郷の空である。それは長丁場の口舌だ ったが、門田の通訳ぶりもまことに快調であった。 9 「梶原澄子さんは、同室者の藤野由美さんを、生理的に不潔な人だと云って いました。これは|室 友《ルーム.メイト》を替えてほしいという理由と して、たびたび門田さんに要求されていたことでした。藤野さんはあのよう に派手な方でした。美しいし、服装もアクセサリーも洗練されたものでした。 それがどうして不潔なのでしょうか。人にはそれぞれ好き嫌いがあって、嫌 いな人には何を見ても嫌悪を感じるものです。特別理由なしに、ただ嫌いと なると、生理的に不潔という言葉でしか云いようのない場合もあると思いま す。 梶原澄子さんは病院長の未亡人として地味な方でした。二人の性格が、室 友として合わなかったのはわかりますが、それにしても不潔というのは、不 仲を表わす表現としてかなり不適切だと思います。わたくしは、それには特 別な意味があったのではないかと考えるようになりました。生理的に不潔と はいったい何だろうかと。 表面はきれいな身なりをしていても、自分ひとりになるとまったく違った 面を持つ人があります。こういうようなことをこの場で云っては恐縮ですが、 たとえば下着とか、靴下とか、足袋とかを、ろくに洗濯もしないで、押入や 箪笥の中に突っ込んでいる人がいます。そういう人に限って、よそ行きには 着飾るものです。藤野由美さんと、梶原澄子さんが一緒だったのは、一週間 足らずですけれども、そういう藤野由美さんの内面を、梶原澄子さんは、あ るいは見たのかもしれません。けれども、いくら藤野由美さんがそういう性 格だったとしても、わずかな時間で、初めて会った梶原澄子さんにそんな自 堕落を見せるとは思えません。 梶原澄子さんは、藤野由美さんを別のルーム.メートに替えてほしいと門 田さんに早くから云っていました。そこで門田さんが希望を聞くと、彼女は 多田マリ子さんを望んでいたそうです。こういうことを云うのは申しわけあ りませんが、藤野由美さんと多田マリ子さんとは、いろいろな点で共通点が あります。もし梶原澄子さんが藤野由美さんを、その華美な点で嫌っていた とすれば、同じような傾向の多田マリ子さんを、どうして新しい室友として 望まれたのでしょうか。このへんに梶原澄子さんの何か隠された理由があっ たとわたくしは思います」(門田) 参考人席に、互いに顔を見合わせる波が伝わった。みんなは、藤野由美と 多田マリ子との競争を見て知っている。特にコペンハーゲン郊外のヘルシン PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ゴーでは、一種の果たし合いといってもいい見ものであった。そのことに関 して土方悦子がどのように話のつづきを発展させていくか、一同は耳を澄ま せていた。その中で当の多田マリ子だけは、相変らず他人《ひと》ごとのよ うにのんびりした表情で聞いていた。 しかし、土方悦子の話は、みんなの予想から別なほうにそれた。 「次に、わたくしは藤野由美さんの英語をたびたび聞く機会を持ちました。 大変お上手な英語で、わたくしなどはとても足もとにも及びません。もっと も、正規なかたちで藤野由美さんの英語をうかがうということはありません でしたが。でも、外国人とのちょっとした会話でそれを聞くことができたの です。たとえば、空港でもそうでしたし、人魚の像の所やクロンボール城で も、藤野由美さんは折から観光に来合せていたアメリカ人数人と、流暢な英 語で喋っておられました。わたくしはそれをよそながら拝聴しました。 ここでわたくしは藤野由美さんに大変申しわけないことを云わねばなりま せん。藤野由美さんのは、英語というよりもアメリカ語でした。門田さんに 訊くと、彼女は西部のデンバーにおられたということですから、そのへんの 発言の癖や訛があってもふしぎではありません。ですけど、ただそれだけで はなかったように思います。藤野さんの米語には、何か特殊な云いまわしや 単語が入っていました。わたくしは、それがあまり上品でないGI米語(ア メリカ兵の使う米語。野卑な米語)のように思いました。つまり藤野由美さ んは、非常に馴れたGI米語を使っておられたのです。このことは、藤野さ んがかつてそういう言葉を使う環境に身を置かれたということを推測させる と思います。たとえば日本には終戦後かなり長い間、アメリカの駐留軍兵士 が基地に駐屯していました。そこで使われる兵隊たちの、GI語の会話は基 地周辺の若い男女に伝染していたということであります。 わたくしは、こう云ったからといって、藤野由美さんの米語を不当に低く 評価するのではありません。先ほども申しましたように、彼女の米語は、わ たくしなどが学校で教わって苦労して使っている拙劣な英語会話よりも、は るかに馴れたものです。それは生活に馴れた会話の言葉と云ってもいいと思 います。生活に馴れた言葉こそ、真に肌身についた外国語といえましょう。 わたくしは、ヒューズ警部初め列席のみなさんに、このことをご留意願って おきたいと思います」(門田) 一同には、暗い沖に呑まれる船に乗せられているような、見えない不安が 顔に現われていた。 「さて、こんどは、話をまた別な角度から進めたいと思います。わたくしは 江木先生の代理で、この観光団体の講師として急に選ばれました。それは江 木先生のご推薦があったからです。わたくしは前に一度ヨーロッパ旅行した ことがありましたので、かねてから、もう一度ヨーロッパに行きたいと思っ ていました。それで、その代理になる話を聞いて、いいチャンスだと喜び、 参加させていただいたのであります。 ところで、江木先生はなぜ急に講師を辞退されたのでしょうか。先生は、 ある有名な出版社からいいお話があって、そのために一度は承諾なさったこ の団体の講師として参加することができなくなったということでございまし た。およそ、ものを書く方には、立派な出版社、一流の出版社から仕事がく ることは、その人にとって希望ある未来を約束されるものです。江木先生が PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 観光旅行団体の講師としてヨーロッパを步くよりも、そうしたチャンスに乗 りかえようと決心されたというのは、きわめて当然のことであり、至当なこ とであります。わたくしもそれを先生のために大変に喜んだのです。ところ が、ここに少し奇妙なことがございました。 わたくしにはいろんな出版社に勤めている友だちがございます。先生にお 仕事を依頼したという『女性思潮』の編集部にもさいわい勤めている友だち がおり、その友人に訊いてみました。これは、けっして他意ある理由からで はありません。江木先生の文名がもっともっと高くなり、文筆家としてゆる ぎない地位につかれることを期待するあまりであります。けれども友人は、 江木先生にそういうお仕事をお願いしたということを知りませんでした。も っとも、出版社によっては、その企画を外部にあまり洩らしたくない社もあ ると思います。ですから、その出版企画が秘密であればあるほど、わたくし の耳に入ることがないわけでございますが、江木先生のお仕事は本当にあの 編集部から依頼されたのでしょうか。 それはともかくとして、江木先生が講師を辞退された時期が、わたくしに 一つの興味を持たせました。なぜかというと、それはちょうどこのローズ.ツ アのメンバーがだいたい決った段階に当っているからでございます。わたく しは江木先生の代理として選ばれたあと、門田さんに、そのいきさつを聞い てみました。門田さんの話では、募集して締め切った団員のリストを江木先 生にごらんに入れたそうです。 先生の講師辞退は、偶然にも団員名簿の作成と時期的に一致していますが、 これは果して偶然だったのでしょうか。それとも何か必然性のあることだっ たのでしょうか。わたくしは何だか後者のような気がいたします。 ここで、一つの仮定のケースを考えてみましょう。仮にリストに載ってい る団員の中に、江木先生の気に入らない名前が記載されていたとします。先 生には、そういう人たちと一緒にヨーロッパを步くのは、まったく気乗りの しないことになります。この旅が先生には疎《うと》ましいものに違いあり ません。 けれども、そうだからといって、あからさまにその理由を旅行社の広島常 務に云うこともできかねるでしょう。この名前の人が気に入らないから、わ たしは参加を断わる、ということは云えません。もしこのわたくしの想像が 許されるならば、江木先生にとって気に入らない人は、単に虫が好かないと か、反りが合わないというだけではなく、もっと根本的に嫌《いや》な原因 があったことも考えられます。仮定の問題ですから、江木先生にはお許し願 いたいのですけれども、団員リストの中にある名前の人が、江木先生にとっ て有害であったならば、これは先生のほうでしかるべき理由を云われて、参 加を回避されるでしょう。 では、有害とは、どういうことでしょうか。それは先生の未来にとって有 害という意味です。わずか三週間余りの外国旅行のつき合いですから、多少 の害なら、辞退まではゆかないと思います。それはかなり重大な理由があっ たに違いありません。わたくしは江木先生が出版社からの架空の新しい仕事 を口実に、このローズ.ツアの講師を忌避された原因は、藤野由美さんと梶 原澄子さんの名前が団員リストに発見されたからだと思います」(門田) 一同は、あたかも眼前に怒濤を見たような衝撃をうけた。その波が瀑布の PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn ような勢いで襲いかかってくる前の、息を呑む瞬間であった。 ヒューズ警部を初め並み居る者は、門田の通訳が終ると、瞳をむき出して、 土方悦子の小さな顔を見つめた。だが当の江木奈岐子は顔色こそ白く褪めて いたが、その細く引いた眉ひとつ動かさず、「弟子」の土方悦子の発言と、 それを忠実に通訳する門田の英語に聞き入っていた。 「わたくしは、ここにもう一通の電報を日本からもらっています」と、土方 悦子は左のポケットから折り畳んだ紙を取り出した。 「これは、札幌の医師会長さんからの、わたくしの問合せ電報に対する返電 であります。わたくしがヒースロー空港で打った問合せ電報のもう一通とい うのは、梶原産婦人科病院のことに関してであります。梶原産婦人科病院は、 梶原澄子さんの亡くなられたご主人が経営されていた病院でございます。現 在はその弟さんの代になっております。 札幌医師会長さんからの返電では、この病院は昭和三十二年に現在の札幌 市内に移転新築されましたが、その前は千歳の町にあったということです。 千歳といえば、いまは北海道の玄関空港ですが、少し前まではアメリカ空軍 の『基地の町』としてよく知られていました。札幌医師会長さんの電文によ れば、梶原産婦人科病院は、千歳から札幌に移ってきたとき、立派な病院を 新築したということですが、千歳にあったころの梶原産婦人科病院は、小さ な規模の病院だったそうです。梶原病院の発展は、千歳時代にその基礎を築 いたということになります。 産婦人科病院とアメリカ軍基地。基地の周辺にいた米軍相手の特殊な職業 の女性を考えれば、その関係は容易に理解できそうです。 こうした場所で申し上げるのは、わたくしもたいそう心苦しいのですが、 千歳基地の女性が同地にあった梶原産婦人科病院に頻繁に出入りしていたこ とは、悪い病気の問題や妊娠中絶の問題などを考えると、容易にそれが推定 できます。そういう治療や妊娠中絶の手術は、医師にとって、ほとんどが秘 匿された収入だったでしょう。それらの治療や手術は、性質上、患者からヤ ミの料金を徴収することが可能でした。そのカルテは税務署員の立入査察の 眼からもかくされていました。会計も二重帳簿だったでしょう。現在でも悪 質で不徳義な産婦人科病院や外科病院の名があるのを見れば、その間の事情 がわかります。梶原病院は、札幌に出てくる前、すなわち昭和三十二年以前 の、千歳で、そうした女性患者から荒かせぎしていたのです。同病院が大き くなって札幌市内に進出した秘密はそこにあったと思います。 梶原澄子さんは、当時元気であったご主人の手伝いとして、看護婦の役を 勤めておられました。当時は手不足でしたし、そうした婦人患者は多かった に違いありませんから、奥さんが看護婦代りの役をしたのはきわめて自然の なりゆきでした。わたくしは、多田マリ子さんがコペンハーゲンのホテルで 何者かによって後から首を締められたとき、その治療に当られた梶原澄子さ んを知っています。それは看護婦経験者の熟練した手当てでした。とても素 人ではできない処置をてきぱきとなさっていました。そのとき梶原さんは、 多田マリ子さんの頸部に残っている傷痕を見られて、或ることを門田さんに 示唆されました。それもご主人の手伝いをして治療に当ってこられた梶原澄 子さんにして初めて指摘できることでした」(門田) 参考人席で、のんびりしていた多田マリ子がはじめて顔色を変えた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「わたくしは、梶原澄子さんが藤野由美さんを不潔だと云って毛嫌いしてい た真の理由は、千歳時代に藤野由美さんが梶原産婦人科病院の患者であった からだと推定します。梶原澄子さんは、この旅行団で、藤野由美さんの顔を 見て、かつての患者の記憶が甦ったのだと思います。あるいは同室者として 同じ部屋に泊っているうち、二十年前の自分の病院の患者を憶い出されたの かもしれません。そうだとすれば、病院長未亡人としては、かつて治療をう けにきた基地の女と同じ部屋に寝泊りするのは、我慢のならないことだった にちがいありません。藤野由美さんのほうは、長い年月がたっているので、 梶原澄子さんが病院で看護婦のなかの一人として働いていたことなどは、記 憶になかったと思います。もしその記憶があれば藤野由美さんのほうでも、 室友の取り替えを希望したでしょう。梶原澄子さんは、藤野由美さんの顔だ けでなく、その名前にも記憶が蘇ったかもしれません。なぜなら、彼女は患 者の名前を隠し帳簿につけたりすることもあったと思われますから。 では、江木先生がリストの中に梶原澄子さんと藤野由美さんの名前を見て、 急に講師を辞退されたとすれば、その因果関係はどうなるのでしょうか。江 木先生は梶原澄子さんを忌避されたのでしょうか。それとも藤野由美さんを 避けられたのでしょうか。 わたくしには、どうも二人とも先生の忌避の対象になったという気がして なりません。ということは、江木先生も当時、二人をよく知る同じ環境にお られたということであります。 けれども、梶原澄子さんも、藤野由美さんも、江木先生の名前には心当り がありません。なぜなら、『江木奈岐子』は十年前に英書の旅行記を翻訳さ れたときからのペンネームだからです。本名は、坪内文子さんです。 もし、先生の随筆が坪内文子の名で書かれていたら、梶原澄子さんは千歳 時代の梶原産婦人科病院の患者として、また、藤野由美さんは、当時の仲間 の一人として記憶していたでしょう。そういう人は、ほかにも居たかも分り ません。坪内文子さんが早くから江木奈岐子のペンネームになっていたのは、 特殊な人々に記憶されている名前を消したいからです。 江木先生の過去に、よく分らない一部があるのはジャーナリズムにすでに 知られているとおりです。そこがまた編集者には神秘的な魅力となったので す。江木先生が旅の評論家や紀行随筆家として進出されたのは、もちろん、 先生の才能の大によるところですが、一面、先生の経歴の一部が神秘的な空 白の魅力となって、編集者の心をとらえ、仕事の依頼がふえたからでありま す。 しかし、ペンネームだけでは分らないけれど、その顔を当時の知った人が 見ると、いっぺんにそれが坪内文子さんだと判ってしまいます。二十年経っ ていても、それなりに年とった顔で分ります。江木先生が、リストの中から 梶原産婦人科病院長の未亡人である梶原澄子さんと、藤野由美さんの名前を 発見して、急に講師を断わられたのは、その危険を察知されたからだと思い ます」(門田) だれもが叫びを上げたいのを我慢して、身をよじらせた。 土方悦子は、しばらくうつむいて黙っていた。歯を喰いしばっているよう だったが、やがて、人形のように呆然として動かない江木奈岐子のほうを見 ないようにして顔を上げ、ヒューズ警部だけを凝視して、あとをつづけた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 彼女は、江木奈岐子への「義理」よりも、自己の防衛に力を尽さねばならな かった。 10 「さきほども申しましたように、鈴木さんがローズ.ツアの三十人の団員数 を知っていたのは、鈴木さんが結団時に日本に『里帰り』したからだという 推定ができました。『朝陽新聞』の四月十日付に出た江木先生の文章にはい くつかの間違いがあると鈴木さんは批判されていますが、この新聞の付録版 がアムステルダムやコペンハーゲンに来ているのかどうかは疑問のあるとこ ろです。鈴木さんが帰国していたとすれば、その新聞を読んだ機会が理解で きます。四月十日付の新聞というと、ローズ.ツアのリストがつくられたあ とです。ちょうど江木先生が講師を辞退され、わたくしが推薦された直後の ことです。 団員の数も、わたくしの名前が土方悦子であることも、鈴木さんが『里帰 り』のときに先生と会って聞いていたのです。それが判っていたため、既知 の知識として、一方では団員の数を門田さんに質問せず、一方ではわたくし のフルネームをうっかり口にしてしまう失態となったのです。 わたくしは、江木先生と鈴木さんとは以前から知り合いであったと思いま す。その知り合った時期は、江木先生が例の旅行記を書かれた北欧の旅のと きであったと思います。なぜならば、ミス.トルバルセンは江木先生のガイ ド兼通訳としてデンマークを旅しておりますが、その旅は女二人だけではな かったという気がします。もう一人がそこに存在していたと思います。わた くしは、それは鈴木さんであったと考えます。なぜなら、鈴木さんはミス.ト ルバルセンの恋人ですから。……もしかすると、江木先生に通訳としてミ ス.トルバルセンをつけたのは、鈴木さんではなかったでしょうか。江木先 生がデンマークに来て、コペンハーゲンで鈴木さんと出会ったのが親密な仲 のきっかけだったとしても、あながち行きすぎな臆測ではないでしょう。 とかく何か人に知られたくない事情があれば、その旅行記は故意にその点 を伏せた文章になりがちです。江木先生がミス.トルバルセンの名前を挙げ られないで、単に『通訳と一緒に旅をした』という、漠然とした記述にされ たのは、旅の内容の具体性に触れたくなかったからでしょう。トルバルセン の名前を出せば記述は具体的になり、どうしてもそこにもう一人の陰の存在 を類推させるようにもなるからです。また江木先生の著書を読んだ読者が、 コペンハーゲンを旅するとき、通訳としてミス.トルバルセンを希望すると いう事態もあり得ます。そのときミス.トルバルセンの口から、江木先生と の旅がどのような構成であったかわかってしまうかもわかりません。旅行記 にミス.トルバルセンの名前が伏せられていたのは、そうした防禦の用意か らでもあると思います。門田さんによると、コペンハーゲンの居酒屋では、 ミス.トルバルセンが門田さんに直接何か云おうとすると、鈴木さんがこれ を止めたということですが、それもいまの事情を推測するにたります。 門田さんによると、鈴木さんは江木先生の書かれた『朝陽新聞』の随筆を 見て、その旅行記に少なくとも五つの誤りがあると痛烈に批判されたそうで す。その誤りは、『白夜の国.女のひとり旅』に共通して云えると云われた PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn そうです。なぜ彼は江木先生の著書にそんな痛烈な批判を浴びせたのでしょ うか。そういう言葉をどうして門田さんの前で吐いたのでしょうか。ふつう なら、江木先生は門田さんの団体に講師として参加していたはずの方ですか ら、礼儀上、そんな批判をするわけがありません。内心ではそうは思っても、 だれでも遠慮するものです。それが逆に、鈴木さんが門田さんを目の前にし て江木先生の著書にケチをつけたのは、江木先生との間を門田さんに察知さ れないための意図からです。わたくしは、そのことも自分の推測を助ける有 力な材料だと思いました。……」(門田) 江木奈岐子が起ち上った。 彼女の顔は、まばゆいばかりの人工光線の下に、蒼味を帯びた白陶色とな り、眼のまわりの皮膚には黝《くろず》んだ隈《くま》が浮び、瞳《ひとみ》 が貼りついたように据る眼球の硝子《しようし》体には、網細管が膨れ上っ て、古典が形容する赤酸漿《あかかがち》のように血|爛《ただ》れて見え た。 「ヒューズ警部」 江木奈岐子は、まっすぐに正面席のスコットランド.ヤードからの派遣捜 査官に向って云った。その語尾は忿怒に震えていた。彼女は取り乱しそうな 自分を極力抑えて、その唇の端には微笑さえつくっていたが、平静を見せよ うとする身体はその緊迫のために張り裂けそうな感じであった。 「ただいま述べられた土方悦子さんの陳述は、まったく根も葉もない内容で あります。わたしに対する悪意ある中傷であり、重大な中傷であります」(臼 井) 彼女のすさまじい迫力に、臼井二等書記官がうろたえて、とっさの通訳に つかえたくらいだった。 「江木奈岐子さん」 ヒューズ警部は、土方悦子の陳述に大きな衝撃を受けていた。それは並《な み》居る人たちも同じであった。とくに、イングルトン部長刑事の顔は放心 状態さえあらわしていた。で、ヒューズ警部は、抗議者の発言について即座 に質問した。 「あなたは、土方悦子さんの陳述内容を全面的に否定なさるのですね?」(高 瀬) 「いいえ、警部。その一部は事実として認めます」(臼井) 江木奈岐子は、高瀬一等書記官による日本語通訳の済むのがまどろこしい ように苛々《いらいら》した声で答えた。 しかし、その答えは、一同の呻きのような嘆声をひき出した。 「どのような点を事実として承認するのですか」(高瀬) 「わたしの本名が坪内文子であること、ペンネームが江木奈岐子であること とであります。これは、そのとおりであります。けれど、ペンネームはもち ろん変名ではありません」(臼井) 「土方さんの言葉で、事実として承認するのは、それだけですか」(高瀬) 「もう少しあります。きわめて些細なその一部分であります。しかし、ペン ネームのことは、いうまでもなく、犯罪にはまったく関係はありません」(臼 井) 「あなたは、ここに居る日本スポーツ文化新聞その他日本の週刊誌の特約通 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 信員である鈴木道夫氏を以前から知っていますか」(高瀬) 江木奈岐子は、証人のような態度で鈴木の顔を熟視した。 「いいえ。知りません。いま、此処でこの人を見るのが初めてです」(臼井) 彼女は警部にむかって明瞭に答えた。 「鈴木氏はどうですか」(高瀬) 警部は、髭面の鈴木に訊いた。彼の表情はその濃く蔽われた髭のためか、 ふだんと変らぬように見えた。 「江木奈岐子さんとお会いするのは、今日、この席が初めてです」(臼井) 「鈴木氏につづけて訊きますが、あなたは土方さんが挙げられ、かつ、ここ に居る門田氏がコペンハーゲンの居酒屋であなたとともに遇ったというミ ス.トルバルセンというデンマーク娘を識っていますか」(高瀬) 「それは、ぼくの女友だちです」(臼井) 「あなたは、数年前に江木奈岐子さんがデンマークの旅をしたとき、ミス.ト ルバルセンが江木さんの通訳兼ガイドになったことを知っていますか」(高 瀬) 「ミス.トルバルセンから後になって、なんとなく聞いたことはあります」 (臼井) 「土方さんは、その旅行には、あなたも参加していたと推測しています」(高 瀬) 「バカげた推測です。ぼくはその当時、約一カ月にわたって、スペイン、ポ ルトガル、モロッコの旅をしていました。コペンハーゲンはもとよりデンマ ークのどこにも居ませんでした」(臼井) 「あなたは、この四月十日前後に、日本に一時帰っていましたか」(高瀬) 「帰国していました」(臼井) 一同の間にざわめきが低く起った。鈴木が虚偽を云っても、当時のパスポ ートとか旅客機の乗客名簿があるので、彼はその点は認めたようであった。 「しかし、あなたは、コペンハーゲンで遇った門田氏に、もう三年間も帰国 したことがないと云ったというではありませんか」(高瀬) 「それは単なる挨拶というか、言葉のアヤです。日本への郷愁を表現するこ とも、日本からの旅行者に対する感情的《エモーシヨナル》サービスです」 (臼井) 「あなたは、東京で江木奈岐子さんに会いましたか」(高瀬) 「会いません。さきほど申しましたようにそれまでは見たことも遇ったこと もない人ですから。また、会う用事もありませんから」(臼井) 「あなたが帰国された理由は」(高瀬) 「日本の西部にあたる広島県の母親が重病だという報らせを実家から受けた ためです。その見舞と、通信員として特約している東京の日本スポーツ文化 新聞社および週刊雑誌社数社をまわって仕事の打合せをしました」(臼井) 「あなたが日本を出発し、コペンハーゲンに行ったのは、何日ですか」(高 瀬) 「四月十三日発のSAS機に乗り、十四日にコペンハーゲンに到着しました」 (臼井) 「あなたが、朝陽新聞の付録版に載っていた江木奈岐子さんのエッセイを読 んだのは東京ではありませんか」(高瀬) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 「思い出しました。たしかに東京でそれを読みました」(臼井) 「あなたは、レブン湖の日本女性の殺人事件があったとき、それに近いキン ロス.ホテルに泊っていましたか」(高瀬) 「泊っていました。しかし、事件当夜はそのホテルに女友だちのミス.キャ ロル.ブリンハムと一緒でした。ぼくのアリバイは彼女が証明するでしょう」 (臼井) 参考人席に忍び笑いが期せずして起った。鈴木のプレイボーイぶりが女性 たちにおかしみを誘ったのである。 鈴木が、一時帰国を認めたほかは、土方悦子の推測の全部を否定したので、 ヒューズ警部は彼への質問をひとまず打切った。彼は当面の方向を失ったと いった表情だった。 ヒューズ警部は傍の警部補と、ひそひそ相談していたが、やがてその顔を 戻し、土方悦子に視線を当てた。 「土方悦子さん。あなたは、レブン湖畔の殺人事件は、江木奈岐子さんが、 一時帰国した知合いの鈴木道夫氏を唆して殺害の実行に当らせたと推測しま した。しかし、江木さんと鈴木氏とが、江木さんのデンマーク旅行中に恋愛 に陥った仲としても、それだけで鈴木氏が恋人の頼みをきいて重大な殺人事 件を二つも犯すような心境になれたでしょうか。それのみでは動機が弱く、 説得性がないと思いますが」(高瀬) 「おっしゃるとおりです。わたくしもその点は考え抜きました。そこで思い 当るのが、門田さんから聞いた鈴木さんの言葉です。コペンハーゲンの居酒 屋で、鈴木さんは門田さんにこう云ったそうです。 『ぼくも、こういうヨーロッパを放浪しているような不安定な独身生活から 足を早く洗いたいと思いますよ。その希望の足音のようなものが、いま、遠 くから近づいてはいますがね』 と、うれしそうだったそうです。 門田さんが、それは日本に帰って結婚することですか、ときいたとき、鈴 木さんは、 『いや、必ずしも結婚とはいいませんが、まあ、形式はいろいろとあります からね』 と、云ったそうです」(門田) 通訳する門田は、そうだ、そのとおりに鈴木は居酒屋で云った、とヒュー ズ警部に向って証言するように、深くうなずいてみせた。 「その言葉と、鈴木さんの一時帰国とは、わたくしには関連があるように思 われます。江木先生は鈴木さんを急遽日本に呼ばれたと思います。そのとき、 江木先生は鈴木さんと日本で同棲することを約束されたと思います。同棲す ることによって、先生の力で鈴木さんをマスコミに押し出す。そういう将来 も約束されたと思います。 もちろん、年齢からいって、江木先生が鈴木さんよりは十三、四歳も上で す。だから、結婚はしないが同棲をする。文筆家には多い例です。事実上の 結婚です。鈴木さんが、結婚には、いろいろな形式があると門田さんに云っ たのはそのことでしょう。 鈴木さんは有頂天になったでしょう。ヨーロッパの根なし草のような生活 から脱出できる。そのヨーロッパの長い生活体験を筆にすれば、マスコミに PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 登場できるだろうと考えます。それを江木先生が応援し、新聞社や雑誌社に 売込み半分の紹介をするというのです。鈴木さんが、その『里帰り』からコ ペンハーゲンに引き返した直後に遇った門田さんに、うれしさのあまり、つ い、『希望の足音』という言葉がとび出したと思うのです。これくらいの見 返りでもないと、鈴木さんは殺人を請け合いません。それに、江木先生が梶 原澄子さんと藤野由美さんの二人のために没落がくるとすれば、鈴木さんに とってもせっかくの希望の足音も幻聴に終ることになります。二人を殺すこ とは、鈴木さん自身にも『自分一人のため』だったのです。こうなると、そ れは、もう嘱託殺人ではなく、江木先生と共犯ということになります」(門 田) 参考人席も新聞記者席も、打ちひしがれたように身をかがめ、頭を伏せて いるように見えた。土方悦子の発言が一同の上を轟《ごう》と鳴り渡ってい た。 「審問者」の席も色めき立った。ヒューズ警部はまたあわただしく警部補と 額を寄せ合い、その打合せにはイングルトン部長刑事も、日本の警察庁出向 の桐原駐仏大使館参事官も参加した。 「おどろくべき推論です。ミス.土方。……」 ヒューズ警部が貴族的な面相を紅潮させて、正面に顔の位置を戻した。 「そのあなたの推測には、何か根拠がありますか。根拠もなく、自身で証明 もできないとなると、それは単なる臆測ということになりますが」(高瀬) 「わたくしの推測です。いまは、証明できません」(門田) 土方悦子は、うめいて頭を垂れた。 「そうです。土方さん。あなたの大胆な推測、いや臆測です。その殺人の根 底にあるものは、あなたの臆測によると、江木奈岐子さんが藤野由美さんと 共に、当時、アメリカ兵が駐留していたチトセ空軍基地附近に住み、そのよ うな職業にあった──おお、土方さん、本職はあえて『職業』と云ったが、 それはわが国の文豪がその言葉を使っているからです」(高瀬) 「知っています。それは、バーナード.ショウの『ウォーレン夫人の職業』 という劇《ドラマ》です」(門田) 土方悦子は、弱い声で云った。 「土方さん。あなたは英文学に詳しいですな。で、その種の職業に、江木奈 岐子さんが従っていたという推測ですが、これは重大ですぞ。単なる推察、 臆測、想像ですと、江木奈岐子さんに激しい侮辱を加えたことになり、あな たは江木さんに告訴されても仕方がない。土方さん、あなたに、その推定の 証明ができますか」(高瀬) 「…………」 「その証明ができれば、殺人の動機が明瞭となり、犯行についても、鈴木氏 を訊問することができます。鈴木氏の答弁にも、曖昧な部分がかなりありま すからな。しかし、それには殺人の動機をわれわれのほうでつかんでおかな ければならない。本職は、あなたの述べた動機.原因には多大の関心を寄せ ています。しかし、それには裏付けとなる証明がほしい。単なる情況証拠で は駄目ですぞ。確たる実証、いわば物的証拠とか、証人による証言とか、そ ういうものでないと、効力はありません。どうですか、あなたはそれを持っ ていますか」(高瀬) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 満場は、荒野にひろがった深夜のように静まり返った。土方悦子はさきに イングルトン部長刑事によって殺人犯視され、それは自身の事件に対する推 理によって脱れはしたものの、こんどはその推理によって再び窮地に陥った。 「思い切って申しますと」 土方悦子は、唇の端を噛んでヒューズ警部に顔をあげた。 「わたくしは、これまで江木先生の英語を充分に聞いたことはありませんが、 何かの機会にちょっと聞いたところでは、英語ではなく米語でした。発音や 言いまわしがそうでした。それから、先生の翻訳はアメリカの小説が専門で したが、とくに俗語《スラング》の訳し方がお上手です。俗語は訳者によっ ては誤訳されやすいものですが、先生のそれは意味のとり方が正確で実にお 上手でした。それはアメリカ文学に詳しい文芸評論家の佐田惣一郎先生が、 江木先生の俗語の訳し方のうまさを絶讃されていました。GI語には俗語が きわめて多うございます。俗語とGI語、それと基地周辺、基地と日本の『ウ ォーレン夫人の職業』を、わたくしは江木先生の米語に連想するのです」(門 田) 江木奈岐子の「門下生」は、遂に不逞な言辞をいい出した。満場には、も う一度大きなうねりがひろがった。 「仮りにそうだとしても」 ヒューズ警部が、顔をしかめ、両肩をすくめていった。 「それは情況証拠に過ぎない。それも説得力のきわめて弱い。よいですか、 ミス土方。あなたの推理だと、江木奈岐子さんはかつてチトセで同じ職業に いた女性の名と、その特殊な女性たちを診療していた婦人科医の未亡人の名 とを観光旅行団のリストの中に発見し、彼女は自身の前身が暴露することを おそれて予定されていた観光団の講師になることを取消した。そうでした ね?」(高瀬) 「そのとおりです」(門田) 彼女は小さな声で答えた。 「では、江木奈岐子さんは、講師をキャンセルするだけで自衛の目的は達し ているではありませんか。彼女は観光旅行団に参加しなかったのですから、 藤野由美にも梶原澄子にも自分の顔を見られずに終ったのです。それで、彼 女の安全は確保されたわけです。それなのに、さらに鈴木氏を使ってその二 人の婦人を殺す必要があったのですか? 手を出す必要はさらにない。よけ いなことをする必然性はないのです。原因にも動機にもなっていない」(高 瀬) ヒューズ警部は、きめつけた。拳で机を叩かんばかりであった。 「ヒューズ警部。こうなったら申しますが」 土方悦子は苦しそうにいった。 「江木先生は、被害妄想に陥っておられたのです。通常の精神状態ではなか ったようです。わたくしは江木先生に接してから、しばしばそれを感じまし た。先生は、いつも自分が誰かによって現在の地步から引きずりおろされる、 そういう見えぬ敵がいっぱい居る、その敵によって破滅させられる、という 強迫観念が強かったように思います。それは、わたくしなどから見ても少々 異常なくらいでした。先生は、その錯乱状態からのがれるために、精神安定 剤のトランキライザーを常用しておられました」(門田) PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn 門田は通訳の言葉が咽喉につかえた。彼が、江木奈岐子の違約をその家に 責めに行ったとき、彼女が眼の前でトランキライザーを馴れた呑み方で嚥下 した記憶が、土方悦子の言葉で蘇ったのである。 「被害妄想は、次から次へと思い詰めて、徹底的な強迫観念に襲われるのが 特徴でしょう」(門田) 彼女が答えると、ヒューズ警部は顔面を硬直させた。 「それでは、江木奈岐子さんのハンドバッグかスーツケースには、いまでも トランキライザーが入っていると思われますか?、ミス.土方。それが発見 されると思いますか?」(高瀬) 「いいえ、それは発見されないでしょう。江木先生は、今回は持っておいで になっていないと思います」(門田) 「なぜですか」(高瀬) 「もう、その必要がないからです、警部。強迫観念の対象だった藤野由美さ んと梶原澄子さんとが除外されたからです。先生は、安心して此処にわれわ れを追ってこられているのです。ここ当分、トランキライザーの飲用は先生 に不用だと思います」(門田) 「しかし……しかし。それでも、まだ情況判断にすぎない。有力な証明では ありません」(高瀬) 息苦しい、恐怖を罩《こ》めた静寂の中を、秒が通過する。土方悦子の頭 はすでに伏せられ、その小さな身体がいまにも床の上に仆《たお》れそうに 傾いていた。闇に形を没したアイガーもユングフラウも背をかがめて、この 窓の中で進行するドラマの、緊迫せるカタストロフィーにのぞき入っている ようだった。 こうした中から、一人の女が酔ったように身体をゆらゆらさせて参考人席 に立ち上った。門田や一同が眼をむけると、それが多田マリ子であった。 しかし、彼女は愉しそうに身体を小揺《こゆる》ぎさせ、満面に笑いを浮 ばせて、ヒューズ警部に発言を求めた。 江木奈岐子が、いとも、いぶかしそうに多田マリ子の顔を眺めた。それは 初めてその顔に接するといった表情だった。 その江木奈岐子に、多田マリ子はなつかしげに云った。 「江木先生。団員リストには、もう一人、千歳の町にいた『基地の女』の名 前が付いとりますわ。藤野はんと梶原はんを消したかて安心するのは早うお ますがな。もう一人此処に残ってるのは、多田マリ子という名前ですがな。 先生は、その女の名前も顔もご存じなかったんです。そら、ぎょうさんな女 の数やったし、絶えず移動がおましたよってに無理おまへん。そやけど、わ たしのほうは、当時の先生の顔を見憶えてますがな……しばらくでした、坪 内文子はん。あたしが、その多田マリ子です。いまでは、大阪で、ええとこ のお客はんばかり来てくれはるクラブ式のバーを経営してますねん」(臼井) 多田マリ子の、おさない「自己顕示」は、現在の彼女の「出世」を誇示し、 そのためには過去の暗い経歴の一部も、うたかたのように消えているといい たそうな、いともあどけない顔つきであった。満場の中で、「証言者」の彼 女だけが仕合せそうに見えた。 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 www.fineprint.cn この作品は松本清張全集(全 38 巻、一九七一年四月より七四年五月。文藝春 秋刊)の月報に連載されたものに基づいて、一九七六年一月、文藝春秋より 公刊された。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年六月二十五日刊 PDF 文件使用 "pdfFactory Pro" 试用版本创建 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