Do Androids Dream of Electric Sheep?

Do Androids Dream of Electric Sheep? 読書会
文責:ばなな
19 Alril 2010
1 作者について
Philip Kindred Dick(1928 年 12 月 16 日 - 1982 年 3 月 2 日)。アメリカのカルト SF 作家。1943 年に『リ
リパットへ帰る(Return to Lilliput)』で初めて長編を執筆。その後 1982 年に脳卒中で倒れるまで、生活
に追われつつ多くの SF 作品を執筆。SF 作家としての評価とは裏腹に、経済的な問題、幾度かの離婚、薬物摂
取など、決して順風満帆ではなかった。彼の死後に制作、公開された映画*1 は非常によく知られている。
生前には商業的に成功した作家とはいえなかったディックだが、生前から SF 評論家やマニアたちの評価は高
く*2 、死後は SF ジャンルを超えて、高い評価がされた。哲学的な問題を多く含み、生涯「偽者・本物」という
テーマを追いかけた。作風的にも内容が古くならず、今後も読みつづけられていく作家だと考えられる*3 。
独自の世界感と高いユーモアセンス、思わず感情移入してしまう登場人物たちなどが魅力的。アイデアを元に
作品を組み立てる作風で、短編同士を結合させて長編を作っているパターンが結構多い。その意味でも、短編
集から読まれるのも良い選択。長編では破綻している作品もかなりある*4 。(はてなキーワードより一部抜粋)
2 作品について
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。1982 年の映画「ブレードランナー」原作小説。その独創的なタイ
トルも含め、様々にオマージュされている。1968 年ネビュラ賞にノミネート。1998 年ローカス賞 All-Time
Best SF Novel before 1990 を受賞。(Wikipedia より一部抜粋)
2.1
あらすじ
最終世界大戦後、死の灰に覆われた地球から多くの人類は火星に移住し、そこに残った人類の間では、生きて
いる動物を所有することが地位の象徴となっていた。人工の電気羊しか持っていないリック・デッカードは、
本物の動物を手に入れるために火星から逃亡してきた生き残りのアンドロイド6体を廃棄処理する”賞金かせ
ぎ”の仕事に着手する。
*1
『ブレードランナー』『トータル・リコール』『マイノリティ・リポート』など。
アメリカ SF を全面批判したポーランドの SF 作家スタニスワフ・レムは、唯一ディックを称賛し、「ペテン師に囲まれた幻視者」
と彼を評している。
*3 ディックブーム五年周期説というのが過去にあった。
*4 早川文庫が「破綻の少ない代表作」を主に紹介していたため、末期のサンリオ文庫で比較的できの悪い、カルト的な長編が大量に
紹介された。その大半は創元 SF 文庫で再刊された。なお、創元 SF 文庫は一時、
「ディックの未訳の SF 長編をすべて出す」と宣言
していたが、その雄図は途中で断念された。
*2
i
3 ガジェットあれこれ
3.1 ムード(情動)オルガン
人間の脳に電磁的な作用を与えて情緒を操作する機械。脳波調整装置のようなものか。通常はペンフィールド
情調オルガンという名称で各家庭に設置されているらしく、この世界ではかなりポピュラーなものっぽい。気
分が優れない時に気持ちを高揚させたりするために使う。ダイヤルの数字は多く、陽気にも、その反対にも、
いろいろな気持ちを作り出せる。セキュリティ用に用いられることもあるという。
3.2 フォークト=カンプフ感情移入度測定法
人間と人工知能との判別するために使われるテストとしては現在チューリング・テストなどが知られていて、
これは知性の有無を測る方法である。しかし本書の未来世界におけるアンドロイドたちは並みの人間よりも高
い知能を持っているために、仮にそれらの測定方法が完全なものであったとしても、アンドロイドを検知する
ための役には立たない。そこで、本書において人間と非人間とを分ける境界線としての役割を負う要素が「感
情移入」であり、それを測るテストとして、本作ではフォークト=カンプフ感情移入度測定法が行われる。こ
れはチューリング・テストと同じく質疑応答の形式で行なう。ただし、被験者による回答について、その言語
的な意味には注目しない。被験者に付けられたセンサーによって、答える時の眼の反応を見て判断するように
なっている。
作中では、アンドロイドはいくら外見やしゃべり方が人間に似ていても、何かに感情移入できる力は無く、そ
れが外科手術によらない唯一判別できる方法であるといわれている。リックにとっては、感情移入能力の有無
こそが、自らの行為を殺人と捉えるか廃棄処理と捉えるかの境目になる。
3.3 エンパシー(共感)ボックス
マーサーの行動を追体験するというもので、ボックスの取っ手を握ると、操作者が荒涼とした荒野の丘を登る
疑似体験をするようにできている。そこで受けた傷は現実のものとなり、石の当たった場所はひどく痛み、血
を流す。
マーサー教に経典らしきものは無いが、人々はマーサーの苦悩を追体験することにより、生きていくための希
望を見い出しているっぽい(正直よくわからない)。
3.4 シドニー社版鳥獣カタログ
ペット用の動物価格表カタログ。どの動物も極端に数が少なくなっており、いたる箇所に絶滅を示す「E」の
文字が並ぶ。主人公デッカードはこのカタログをいつも持ち歩いているようだ。
4 考察 - ディック作品の特異性
ディックの手による作品は、SF 界隈に限らず、世界文学において大きな地位を占めていて、それはなにも『ア
ンドロイドは電気羊の夢を見るか』に限った話ではない。しかし実のところディック本人は、そうした世界的
な名声を得るよりも前にこの世を去っているようだ。彼の作品が持つ「異質さ」が、彼に対する評価を遅らせ
ii
てしまったのではないだろうか。
なにが異質だったか。以下に三つの点を挙げよう。
■科学技術が混乱をしか生み出さない 当時の SF 小説において、作中に登場する科学技術というのは、物語
に何らかのブレイクスルーをもたらしたり、問題を解決する手段となったりしていることが多かった。しかし
ディックの作品では、この科学技術が、むしろ問題を生み出す根源になったり、あるいは全く役に立たなかっ
たりする。本作においてロボット「技術」の発展は、人間とアンドロイドとをどんどん近づけていく。これに
より物語は混乱に巻き込まれ、主人公にも読者にも、なにがなんだかわからなくさせてしまう。「知能や感情
を持つアンドロイドが自らの運命を嘆く姿を見ても、なお彼らを廃棄できるリック自身は、果たして自分を人
間であると言えるのか?」「アンドロイドを神や TV タレントとして認めてきた自分に、果たしてアンドロイ
ドを廃棄する資格があるのか?」混沌の中にあって、この問いは誰にも答えられない。チューリング・テスト
に代わって人間とアンドロイドとを区別するための「技術」として考案されたフォークト=カンプフ検査法
を、こともあろうに自分自身に適用してしまうリックの姿は、あまりに滑稽であり、物悲しい。
■小説内で起こる謎に合理的かつ一義的な解答を用意しない 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は比較
的整合性のとれた作品に仕上がっているけれど、ディックの作品には、結局最後まで謎が残り、投げっぱなし
になっているものが少なくない*5 。ディックが読者の期待を裏切ることになる原因の多くはこのように、彼の
作品を読むことによって引き起こされる疑問に対して彼が一義的な答えを与えてくれないことにあるようだ。
話のつじつまから ¢ 科学的 £ な説明まで、全てが投げっぱなし。われわれの経験と矛盾するように見える出来
事を合理的に説明するのが SF のしきたりなので、ディックの作品は、すっきり SF 小説に分類することがで
きなくなる。このことが当時の SF 界で反発を買ったということは容易に想像できる。しかし同時に、このよ
うな SF のしきたりに反抗したおかげで、彼の作品は寓話的な含意を獲得した。彼の作品にたちこめる神秘的
な雰囲気の原因はこれだ。
カフカの作品に対して「変身の結末には普通の人間がいつどのような状況の下で毒虫に変わりうるのかを示す
明確な昆虫学的根拠づけが来るべきである」なんて批判を浴びせる人間はどこにもいないだろう。
■哲学が街を闊歩する ディックの世界の特徴はとりわけ、作中で根底から分裂(二重化)させられているの
が現の世界だという事情に由来している。これが最後に行きつくところはいつも同じで、現と幻覚を区別する
のは結局不可能だということになるのである。ディック作品に寄せられる「現実と虚構のあいまいさ」という
コメントが、まさにこのことを言い表している。ここで問題となるのは、このように現を分解してしまうため
の道具を備えた世界が、哲学の理論的思弁にのみ現れるようなジレンマを実際に作り出してしまっているとい
うことである。つまりこれは、いわばその哲学が街に出てゆき、全ての平凡な人間にとっての死活問題となっ
てしまうような世界なのだ*6 。また本作において主人公リック・デッカードは、
「人間とはなにか」といういか
にも哲学的な問題と対面し、ぎりぎりまで追い込まれている。これは、哲学が平気で人を殺してしまうような
世界なのだ。
これらの「異質さ」がディック作品の評価を遅らせたことは十分に考えられる。また翻って、近年ディック作
品が評価されているのは、まさしくこのためではないだろうか。
*5
*6
うろ覚えだけど、『ユービック』とか割とそうだったような。
たとえば晩年の長編『ヴァリス』などでこの傾向は顕著だろう。
iii