鎌倉神社仏閣散歩(仏閣編) - 鎌倉情報広場<独思録><鎌倉神社仏閣

鎌倉神社仏閣散歩(仏閣編)
小西
秀俊
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鎌倉には600余の神社仏閣があったと言われ、現在でも200程あります。
西暦1192年に源頼朝が幕府を開いて以来、北条執権に続く鎌倉時代は、徳川幕府の江
戸時代と並ぶ長期安定政権であり、臨済宗を初めとする禅宗が栄え、多くの寺院が北条氏
によって開基されました。
鎌倉は東京から JR 横須賀線で約1時間と近く、週末には多くの観光客で賑わいます。こ
の鎌倉神社仏閣異聞では、トラベル誌には載らない鎌倉五山を中心とした神社仏閣の話を
選びました。鎌倉を訪れた時思い出して下さい。
<目次>
建長寺
明月院
円覚寺
浄智寺
成福寺
称名寺
瑞泉寺
寿福寺
東慶寺
杉本寺
報国寺
海蔵寺
薬王寺
英勝寺
極楽寺
高徳院
常楽寺
長谷観音
浄妙寺
成就院
長寿寺
覚園寺
大船観音
光照寺
円応寺
安国論寺
妙法寺
妙本寺
九品寺
大慶寺
浄光明寺
仏行寺
満福寺
大宝寺
光触寺
明王院
安養院
常栄寺
青蓮寺
来迎寺
妙隆寺
龍寶寺
(材木座)
長勝寺
本興寺
教恩寺
寶戒寺
大巧寺
収玄寺
松久寺
本覚寺
別願寺
啓運寺
上行寺
実相寺
補陀洛寺
延命寺
等覚寺
星井寺
向福寺
宝善院
玉泉寺
本願寺
光明寺
来迎寺
西念寺
東光寺
(西御門)
大長寺
多聞院
圓久寺
光則寺
貞宗寺
泉光院
千手院
蓮乗院
昌清院
妙伝寺
浄泉寺
圓光寺
久成寺
妙長寺
勧行寺
東漸寺
本龍寺
霊光寺
妙典寺
本成寺
顕証寺
岩窟不動尊
辻の薬師堂
岩舟地蔵堂
<建長寺>
建長寺は、正式には巨福山建長興国禅寺と言い、臨済宗建長寺派の本山です。開山は蘭渓
道隆、開基は北条時頼で、寺域は小袋坂の北側で、勝上嶽に向かって東北に切れ込む谷に
広がっています。
最盛期には塔頭が49院ありましたが、火災により焼失し、現存する建物は、江戸時代以
降に再建または移建されたものです。 総門、三門、仏殿と一直線に伽藍が並んでおり、そ
の周囲を10の塔頭寺院が取り囲んでいます。
横手には鐘楼があり、建長7年(西暦1255年)物部重光によって作られた梵鐘が掛け
られ、 創建当時の数少ない優品として国宝に指定されています。この梵鐘は、円覚寺、常
楽寺の鐘とともに鎌倉の三名鐘といわれています。
奥には、唐門とその後ろに昭和18年(西暦1943年)
、山門と一緒に京都般舟三昧院
から移築された籠王殿とも呼ばれる方丈があり、その庭園はツツジやショウブなどの名所
として知られています。
建長寺のある谷は、寺が開かれる以前は地獄谷と言って、犯罪人の処刑場があった場所で、
伽羅陀山心平寺という寺があり、後に廃寺となり地蔵堂だけが残っていました。
建長元年(西暦1249年)に建立が始まり5年の歳月を要して完成しました。本尊は応
行作による丈六の地蔵菩薩像で、安置されている堂内には尺余の千体地蔵尊と心平寺にあ
った地蔵尊も置かれています。
地獄谷には名のとおり色々な俗伝があります。回春院よりも奥の西御門界近くに地獄谷埋
残という場所があり、勝上嶽の地蔵堂、わめき十王跡、原田地蔵跡等地蔵や地獄にちなむ
ものや話が多く残っています。
北条時頼の時代に斎田左衛門と言う者が、罪によって地獄谷で切られようとした時、彼の
髻の中に入れてあった一寸八分の地蔵のため、大刀が折れて切ることができなかったため、
此れを奇として許されました。この小像は斎田地蔵と言い、建長寺の本尊の胎内安置され
ています。
また、建長寺では毎年7月15日の施餓鬼会終了後、梶原施餓鬼という行事が行われてい
ると言います。これは、昔開山禅師在世の時、武者が1騎来て、山門の下で行われる施餓
鬼会がもう終わっているので、残念そうに引き返して行ったのを、禅師が見て呼び返し、
もう一度施餓鬼会を模様したところ、その武者は、自分は梶原景時の霊であると告げて感
謝して去ったという古事に起因しています。
梶原景時という武将は、源頼朝が伊豆で平家追討の旗揚げをして、石橋山の合戦に破れ、
木の祠に隠れて居た時、助けた平家方の武将で、以後源頼朝に従い、鎌倉開幕に大きな功
績を残した武将です。しかし、霊として現れるような無残な最期は余り知られていません。
二代将軍源頼家の時世、北条時政、義時父子が将軍に代って幕府の権力を奪うために、策
略をもって将軍の後見である梶原景時を葬った事件です。頼朝以来の将軍直裁権を頼家か
ら尼将軍政子の名で取り上げることで、頼家と景時の離反を図り、御家人の弾劾連判状を
もって景時を自領の相模一の宮に謹慎させ、正治元年(西暦1199年)の歳も押し迫っ
た12月18日に追放しました。景時は鎌倉よりの追手を逃れて、翌年1月19日に一族
を率いて京都に向かう途中、北条一族の息のかかった駿河国在地の武士達に清見関で悉く
討ち果たされ、数日後、実検のために景時の首が鎌倉に送られています。
この時期、同じような手口で安達景盛、比企能員、畠山重忠、稲毛重成、和田義盛、三浦
義村の源頼朝旗揚げ以来の有力御家人達が除かれ、北条一族に敵対する勢力は全くなくな
りました。その後、北条に対する梶原景時を失った将軍頼家は修善寺に押し込められて暗
殺され、三代将軍実朝も鶴岡八幡宮石段の麓にある大銀杏の陰から飛び出した公暁に殺さ
れて、北条執権の時代へと政権は移っていきました。
なお、『吾妻鏡』では、景時追放の切欠となった弾劾状に北条時政・義時の名は見られま
せん。しかし、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付
けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であったことから、北条時政・義時が影の主
役であったことは事実でしょう。朝廷側の『愚管抄』では、この事件で景時が滅亡したこ
とが、頼家殺害に繋がったと、その因果関係を強く指摘しています。
現在の地獄谷は当時の面影はなく、冬でも晴れた日は暖かく明るい場所です。梶原景時の
霊ではなく、若い恋人達や年老いた夫婦など、老若男女が、天園へと続くハイキングを楽
しんでいます。勝上嶽までのコースを辿ると織田有楽斎、河村瑞賢の五輪の塔を経て勝上
嶽の中腹にある半僧坊に着きます。半僧坊は明治22年にできたもので、半僧坊大権現が
まつられています。石段の上中腹には鉄製の天狗像数体があり、戦時中に出征しましたが、
今は元の場所で、地獄谷に睨みをきかしています。
<明月院>
明月院は紫陽花寺として有名で、6月の土日には車を通行止にして関東近郊からの観光
客を受け入れています。明月院に紫陽花が植えられたのはさほど古い事ではなく、「手入れ
が比較的楽だから」という理由で植えたものが次第に有名になったと聞いています。
明月院の紫陽花は、8割から9割が日本古来からの品種「姫紫陽花」で、意図的に青色
の花を中心に植えているのだそうです。
しかし、参道には紫陽花に限らず梅、桜、銀杏と四季折々美しい花、紅(黄)葉が見ら
れ、境内の庭園には花菖蒲が見事に咲き誇ります。
紫陽花など花の他に、北条時頼廟や鎌倉十井のひとつ瓶の井(つるべのい)や、鎌倉の
やぐら(鎌倉時代の横穴式墳墓)の中で最大級のもの、明月院やぐらがあり、内部には上
杉憲方の墓とされる宝筺印塔があります。
明月院は、上杉憲方の法名明月院に由来する臨済宗建長寺派に属する寺で、寺伝では、
首藤刑部太夫・山ノ内経俊が永暦元年(西暦1160年)に平治の乱で、戦死した父・首
藤刑部大輔・俊道の菩提供養として、明月院の前身である明月庵を創建しました。
康元元年(西暦1256年)鎌倉幕府五代執権・北条時頼が執権を北条長時に譲って、
別邸に持仏堂を造営し、最明寺と名付け、出家生活をここで送っていましたが、37歳で
亡くなった後は、廃絶の状態になっていました。その後、時頼の子の八代執権・北条時宗
が最明寺を前身に、蘭渓道隆を開山として禅興寺を創建しましたが、衰退したため、康暦
2年(西暦1380年)足利氏満から禅興寺中興の命を受けた関東官領・上杉憲方が、寺院
を拡大し、塔頭も建て、同時に、明月庵を明月院と改め、塔頭の首位においたそうです。
足利三代将軍・足利義満の時代には禅興寺は関東十刹の一位となりましたが、明治初年
に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残りました。明月院の本尊は観音菩薩像で、その体
内には小仏像が数十体納められていると言われています。境内には宗猷堂(開山堂)があ
り、密室守厳の木像が安置されています。
明月院は、永徳3年(西暦1383年)頃山内庄岩瀬郷及び常陸国信太庄内古来他2郷
を寺領とし、その後も、山内上杉家代々の手厚い保護により、応永12年(西暦1405
年)には武蔵国足立郡の妙薬寺を末寺とするほどの隆盛を極めていました。
山内上杉家が、戦国時代初期まで関東管領として威を関東全域に振るっていたこともあ
り、明月院は他の寺院が衰退して行く中で、応永27年(西暦1420年)の地震、康正
元年(西暦1455年)の兵乱、天文9年(西暦1540年)の大風害にも耐えて、今日
まで繁栄してきました。
後北条氏が鎌倉に入り、北条氏綱が大永2年(西暦1522年)に寺領である岩瀬郷今
泉村に制札を掲げた頃は、山内上杉氏、古河公方との間で兵乱が相次ぎ、山内上杉氏より
家督を譲られた長尾景虎(後の上杉謙信)が、長躯、越後春日山城から大軍を率いて北条
氏綱を攻め、小田原城を囲んだことも、明月院の寺領岩瀬郷の奪い合いが発端だったかも
知れません。
余談ですが、小田原城の包囲は、遠い関東での長期戦は軍勢・国力双方の疲弊を招くこと
を恐れ、また、乱立する関東の戦火を短期間で収束するために、後北条氏の居城小田原城
を一挙に包囲・攻略することを画して行なわれた大規模な戦でした。
永禄4年(西暦1561年)3月13日の午前に攻撃は開始され、先鋒太田資正は小田
原城蓮池門を攻撃します。一方、籠城方は門を固く閉ざして防戦するのみでした。
この際、川中島と同様、政虎は兜をつけず、白頭巾で頭部を包んで朱の軍配を持ち、柿
崎和泉守景家、直江山城守実綱を左右に従え、手勢を率いて太田資正の攻撃する蓮池門ま
で進んで自らの姿を籠城方に晒し挑発しましたが、戦の駆け引きを知る氏康はこの挑発に
乗らず守勢を徹底させたそうです。
しかし、昼になり、政虎は蓮池の端に馬を繋ぎ、持参した弁当を広げて茶とともに食し
ていたところ、北条方の金沢という武士が十挺の鉄砲隊で二度、政虎目掛けて撃ち掛け、
弾丸が政虎の鎧の袖は撃ち抜き、危うく戦死するというエピソードも残っているそうです。
結局は、籠城は続き、攻囲軍は城を包囲し攻撃を続けましたが戦果は得られず、徐々に
兵站線の維持が困難になり、攻囲軍内に城側に内応するものが出、連合軍包囲を解きます。
この北条氏綱の時代になると、山内上杉氏、古河公方との間の兵乱で破壊された鎌倉も、
後北条氏のもと、玉縄城を中心に、神社仏閣も再建され、復興されていったそうです。
最近、各地に紫陽花寺が増えましたが、やはり元祖明月院の紫陽花は見事です。しかし、
他の寺院と違って明月院には四季折々の花が気高く咲いており、また、趣があります。
<円覚寺>
円覚寺は横須賀線の線路で外門(現在はありません)と総門、境内と分断されています。
外門と踏切りの間に白鷺池があります。現在は円覚寺の一部と理解している観光客が殆ど
いないためか、罰当たりな観光客が捨てたお菓子の箱などのゴミが浮かんでいることもあ
ります。白鷺池の由来は、無学祖元がまだ宋の温州能仁寺に居た頃、鶴岡八幡宮の大神が
白鷺と化し祖元のもとを訪れて来朝を乞い、道案内をしてこの池に舞い降りたことからき
ていると言われています。
円覚寺は元寇の役の戦勝もしくはその祈願で工事が始まり、弘安の役の翌年(弘安5年:
西暦1282年)に開堂供養が行われています。完成はその1年前で、開基は北条時宗で、
開山は無学祖元です。
舎利殿と梵鐘が国宝で、重要文化財は絵画7点、彫刻3点、工芸品等13点、その他県指
定重要文化財が多数あり、毎年11月初旬の風入れにおいて一部が公開されています。
祖元と元寇との関係は、祖元がまだ宋の温州能仁寺に居た頃に始まっています。徳祐2年
(西暦1276年)に蒙古軍が南下して宋を攻め、温州能仁寺に侵入しました。寺衆は皆
逃げて隠れましたが、祖元一人堂中に残り、刀を突きつけた蒙古兵に対し、自若として仏
の道を説きました。蒙古兵はその教えに感じ入り、危害を加えずに去ったということです。
元寇の折、若き北条時宗が果断なる決断を下せた背景には、絶えず祖元の元で参禅し、激
励や忠告や、祖元の蒙古に対する知識を受けていたことが大きかったと云われています。
元寇が片付き、故郷に帰りたいという希望を祖元が持ち始めていたことを知った時宗は、
元寇によって戦没した敵味方の兵を弔うために建長寺に匹敵する大寺院を建立したいとい
う大願をもって祖元の帰国を止め、日本の土になることを覚悟させたという謂れも残って
います。その時、祖元は「為法求人日本来
珠回玉転委荒苔
大唐沈却弧杖影
添得扶桑
一掏灰」(中国には一本の杖の影が無くなって日本には一握りの灰が増える)という詩を残
しており、時宗を見取って日本の土となりました。
祖元は若くして亡くなった時宗を弔う時に、時宗の円覚寺に対する志を「造円覚以済幽魂」
という文字で表し、その後も円覚寺において一千体の地蔵菩薩の供養慶讃を行っています。
文永弘安の元寇で鎌倉は開府以来の国家存亡に関わる危機に見舞われていましたが、中国
大陸に君臨する大元帝国の襲来は、九州を除く一般の御家人たちにとっては雲を掴むよう
な途方も無い話で、襲来がいかなる事態を招くなどまったく想像できず、大した危機意識
も持っていませんでした。
ただ、円覚寺の開山である無学祖元を通して大元帝国に蹂躪された宋やホラズム帝国の話
を聞いていた北条時宗一人の肩に重く圧し掛かり、日夜、激務に身をすり減らしていまし
た。蒙古軍が共に数千艘の大艦隊を率いて襲来した文永11年と弘安4年(西暦1274
年と1281年)の役(文永・弘安の役)は、九州の御家人の奮戦と神風とよばれた暴風
雨によって蒙古軍の軍船壊滅で決着が付きましたが、蒙古襲来の危機が去ったわけではな
く、幕府は依然臨戦態勢を解くことができないでいました。
我々が歴史の教科書で学んだ蒙古の襲来は2回と記憶しています。しかし、一説には元の
皇帝フビライは合計8回の日本襲撃を計画していたと言います。そのうち6回は計画途中
で頓挫しています。前の二回の遠征に必要な軍船を造るために朝鮮半島の山々を裸にし、
三回目以降で必要な木材が揃わなかったそうです。フビライは日本を「黄金の国」である
と80年の生涯ずっと信じており、日本を手に入れようと執着していました。マルコポー
ロの東方見聞録に出てくる「黄金の島ジパング(日本)」の話は、このフビライの黄金に対
する執念から生まれたのではないでしょうか。
北条時宗は弘安7年(西暦1284年)享年34歳の働き盛りで亡くなりました。また、
鎌倉幕府も元弘3年(西暦1333年)に倒れました。原因は元寇で功績のあった御家人
に対して十分な恩賞が出せなかったためです。鎌倉幕府は元寇によって偉大な執権を失い、
その対処ができず、滅びたと言って良いでしょう。
円覚寺は応安7年(西暦1374年)放火によって全山焼失し、伽藍中心部から塔頭に至
るまで尽く灰となりました。その後、時代の趨勢もあり、円覚寺は昔の壮観を取り戻さず
に今日に至っています。
円覚寺の名前の由来は、建長寺住持の蘭渓道隆が時宗の命で円覚寺建立の土地を探し、起
工して鋤を入れたところ石櫃に当り、その中から円覚経が出てきたため、円覚寺の名が付
いたと伝えられています。
しかし、開山が無学祖元であり、伝説の域を出ないと考えられます。
<浄智寺>
浄智寺は鎌倉五山の四位に列せられ臨済宗円覚寺派の寺で、弘安4年(西暦1281年)
執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔い、宗政とその子鎌倉執権第十代北条師時を開基、π
庵普寧を開山として宗政の妻が建立されました。
現在の建物は関東大震災後に再建されたものですが、自然林に囲まれた静かな境内は国の
史跡に指定されています。
仏殿の曇華殿には室町時代の作の過去・現在・未来を意味する阿弥陀・釈迦・弥勒の木造
三体の仏像(県重文)が安置されています。寺宝の重要文化財地蔵菩薩坐像、西来庵修造
勧進状、π 庵普寧木、像韋駄天木像は、鎌倉国宝館に寄託しています。
浄智寺は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての鎌倉禅林の黄金時代に創建され、鎌倉5
山である建長寺、円覚寺、寿福寺に次ぐ規模の寺でしたが、鎌倉公方の足利家、関東管領
の上杉家の内紛やそれに伴う駿河今川家、甲斐武田家、常陸佐竹家、越後上杉家、相模後
北条家という戦国大名の雄の鎌倉進出に翻弄されて衰退していきました。
関東管領の権力争いに敗れ、管領を辞職した上杉氏憲(入道名:禅秀)が兵を挙げ公方足
利持氏を襲った禅秀の乱(応永23,24年:西暦1416,1617年)の後、鎌倉公
方家と関係の深い浄智寺は戦乱で屋敷を失った公方家の宿舎になっていました。この乱で
は京室町幕府(将軍足利義持)は駿河の今川範政、越後の上杉房方に足利持氏援兵の要請
をしています。
しかし、足利持氏は京室町幕府に反旗を翻し、鎌倉を中心とした関東甲信越一円は群雄に
よる戦乱の時代へと突入して行きました。
京室町幕府では鎌倉の戦乱を収めるため足利持氏の子成氏を鎌倉公方として送り込みま
すが、足利成氏もまた京室町足利幕府に反旗を翻したため、将軍足利義政は駿河今川範忠
に足利成氏の追討を命じています。この時(康正元年:西暦1455年)、今川範忠は足成
氏を追って鎌倉に入り、
「谷七郷の神社仏閣追捕して悉く焼き払」ったと「鎌倉大草紙」は
言っており、浄智寺も焼失したものと思われます。
その後、浄智寺は「二百年来宝殿荒廃」と「鎌倉志」には記されており、また、
「鎌倉五
山記」でも仏殿は欠如していると記事があり、200年間仏殿がなかった荒廃した状態が
続いていたようです。
その象徴として「鐘」の話があります。北条氏康が鉄砲を造るために伊豆山権現の鐘を鋳
潰しました。その代わりとして浄智寺の鐘を天文19年(西暦1550年)に持ち去り、
伊豆山下常行堂に寄進しました。その鐘は、鎌倉幕府最後の執権北条高時が正慶元年(西
暦1323年)に寄進したもので、最後には、明治維新の廃仏棄釈によって、伊豆山でこ
なごなにされています。
荒廃した浄智寺は、寛永10年(西暦1633年)頃の沢庵禅師の鎌倉巡礼までほってお
かれました。北条家も徳川家も浄智寺の寺領を7貫に抑えており、これでは沢庵禅師が書
いているように、寺を守る僧の食い扶持がやっとです。仏殿の復興などとても考えられる
状態ではありませんでした。
この鎌倉巡礼で沢庵禅師は「仏光の塔を出て第四浄智寺に入りて見れば、三間四面の堂一
宇古き仏を安置していづくを開山塔というべきようもなく、末流辺土の僧一人来り、かつ
かつ茅屋少くいとなみ、かたはらに有り、其次に又一僧一宇をかまへて居なり、仏殿の本
尊も破れくづれてこもというものにてつつみてありしを、我ら自ら負ひもち来りて膠付な
どしてかつかつ立置ぬとかたりける。」と述べています。
沢庵禅師の鎌倉巡礼の15,16年後、慶安2年(西暦1649年)に仏殿及び小鐘がや
っと復興しましたが、大正12年(西暦1922年)の関東大震災で仏殿、書院、地蔵堂、
総門、山門、中門、庫裡、土蔵が全壊し殆ど壊滅しました。現在は、仏殿、総門、山門し
か残っておらず、寂しい限りですが、逆に鄙びた良さもあります。
沢庵禅師は、寛永4年(西暦1627年)後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣
着用の勅許について、幕府が出した禁中並公家諸法度に対する違反として、京都所司代に
紫衣の取り上げを命じた紫衣事件に連座して沢庵を出羽国上山に流罪されています。
しかし、寛永5年(西暦1632年)将軍徳川秀忠の死による大赦令で許され、その後、
柳生宗矩に「剣禅一味」を説いた『不動智神妙録』を渡しています。
沢庵禅師と言えば沢庵漬です。一説には沢庵が考え江戸に広めたと云われ、家光が東海寺
に沢庵を訪れた際、大根のたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあ
らず沢庵漬なり」と命名したと伝えられています。
浄智寺には、鎌倉江ノ島七福神も奉られており、境内入口にある湧き水は、鎌倉十井の一
つ「甘露の井」で、寺域は全山が国指定史跡となっています。
<成福寺>
数年前(もっと前?)に、松竹大船撮影所が64年の歴史に幕を降ろしました。今回、
何でこのような書き出しでスタートしたか訝しげに思う方々が殆どでしょう。
大船は鎌倉市の端にあり、小さな砂押川の橋で横浜市栄区と接しています。JR大船駅
のプラットフォームは鎌倉市と横浜市に両足を架けていて、電車の長さが長くなるにつれ
て横浜市の方向にプラットフォームは伸びて行きますが、駅舎は鎌倉市から動きません。
今回は、大船駅の話をしたい訳ではなく、寅さんシリーズに欠くことのできない人、御
前さまゆかりの成福寺と、現在、大船の鎌倉女子大キャンパスになっている松竹大船撮影
所を合わせて皆さんに紹介したいと考えました。
成福寺は「男はつらいよ」でその飄々とした演技で、おいチャンや社長以上に存在感の
あった御前さまの葬儀が行われた寺として、知る人ぞ知る小さなお寺です。場所は、鎌倉
街道が横須賀線を横切る小袋谷の踏み切りから一つ大船寄りにある、小さな自家用車もす
れ違いができない狭い踏み切りの真前です。
成福寺は、亀甲山法得院成福寺と号し、浄土真宗京都西六条本願寺の末寺で、貞永元年(西
暦1232年)に創建されました。開基は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の子泰次で、幼少
より仏教を学び、得度して沙門院泰次入道と号し、天台宗の僧として裏山の「亀の窟」で
修行していましたが、浄土真宗の開祖親鸞に会い、教えを受け弟子となり成仏の名を受け、
貞永元年(西暦1232年)寺を浄土真宗に改宗しました。寺宝の聖徳太子木像は師の親
鸞から贈られたものです。その後鎌倉幕府が滅亡し、北条高時の弟の四代住職成円は追放
され、以後室町時代までの70余年無住でした。
又、戦国時代終わり(西暦1550年頃)に、小田原北条の奉行衆に焼き討ちされ、時
の九代住職宗全は伊豆にのがれ、その地に成福寺を建て、慶長17年(西暦1612年)
十一代西休の時に再びこの地に戻ってくるという法難に遭っています。
御前さま、笠智衆は、小津安二郎監督の「東京物語」、山田洋次郎監督の「男はつらいよ」
シリーズで有名な俳優です。「東京物語」では原節子の演ずる死んだ息子の嫁を尾道から夫
婦(笠智衆、東山千栄子)で訪れる話で、若い笠智衆が年老いた舅の役を演じ、舅と嫁の
ほのぼのとしたやりとりが好評となったそうです。
「男はつらいよ」シリーズでは歳相応に、渥美清演ずる寅さんこと車寅次郎に対して飄々
とした中で説教をし、また、心の支えになるという味の有る演技でシリーズには欠かせな
い存在でした。
小津安二郎監督の「東京物語」、山田洋次郎監督の「男はつらいよ」シリーズや木下恵介
監督の「二十四の瞳」等々は"大船調"と呼ばれ、松竹大船撮影所64年の歴史の中で世に
送り出した名画と評価されています。
大船撮影所で最後に撮影された映画は、山田洋次郎監督の「学校Ⅳ」でした。大船撮影
所は1936年、蒲田行進曲で有名な、蒲田撮影所の移転先としてオープンしました。市
井の人々の喜怒哀楽を描く"小市民映画"、原節子や高峰秀子らスター女優が主演する"女性
映画"、全48作にのぼる渥美清主演の"寅さん映画"等を送り出してきました。
しかし、時代とともに製作本数が減少し、ボーリング場経営の失敗、敷地の一部がイト
ウヨウカ堂、三越百貨店となり、1995年、撮影所内に開設されたテーマパーク「鎌倉
シネマワールド」も客足が伸びずに閉鎖され、それも重荷となって、とうとう撮影所の残
り火も消えました。
最後の「学校Ⅳ」は不登校中学生の旅を描くもので、屋久島の古い民家を再現したセッ
ト等は大船のスタッフならではと山田監督は語っています。ここで40年以上映画を撮り
続けてきた山田監督は、
「小津監督の「東京物語」にしても、大船のノウハウを身に付けた
スタッフがいたからこそ、世界映画史の十指に入る名画と呼ばれるようになった。こうし
た力は伝統から生まれるもので、いくらお金をかけても獲得できない。僕自身、他の場所
を知らないので、これからどうすればいいのか分からない。」と撮影所閉鎖時に、惜しむコ
メントを出していました。
松竹大船撮影所はなくなりました。しかし、小さいながらも成福寺はなくなってはいま
せん。ずっとあるでしょう。
萱葺屋根の山門は非常に風情があります。北鎌倉から東京方面行の横須賀線に乗り、休
日には観光客の車で渋滞している小袋谷(鎌倉街道)の踏切を過ぎると東京に向かって車
窓右手に成福寺の萱葺屋根の山門が見えます。
<称名寺>
称名寺は今泉山一心院称名寺と号し、浄土宗のお寺で、芝増上寺の末寺です。開山は空海
と伝えられていますが、現在のお寺は直誉蓮入の開山で、本尊は来迎阿弥陀三尊です。境
内には本堂、不動堂、弁天堂、庫裏、書院、療養所、門が残っています。
称名寺は、一般にあまり知られていませんが、天園ハイキングコースの北側に在ります。
但し、ハイキングコースとは直接繋がっていません。
境内に修験滝のあり、鎌倉のお寺の中でも、最も自然が溢れた場所の一つと思います。
今泉不動の草創は弘仁9年(818年)頃で、弘法大師が金剛峰寺を開いてから2年後
と伝えられています。弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、紫雲に包まれ光明のさ
す山に出会い人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知ったそうです。
大師がこの山に踏み入ると忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み大師の
来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の像を刻み、密
教道場の壇を築き末世の衆生を救いなさい」と告げたと云います。
また、この翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」
と傍の岩を穿ち陰陽の滝をながし村里に恩恵を与え、以後金仙山を改め今泉山と称するこ
ととなったそうです。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝え
られています。
称名寺は当初、不動堂の別当で円宗寺と称していたが、建久3年(西暦1192年)鎌
倉幕府創設年に寂心法師が寺を開き、密教に属していました。頼朝も深く信仰していたと
いわれています。その後、北条九代に至った貞享2年(1684年)の夏、武州深川の僧・
直誉蓮入師が江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏し、まもなく不動堂・阿陀
堂を建立したそうです。
江戸時代に入り、直誉蓮人が不動堂・阿陀堂を建立し、元禄6年(西暦1693年)芝
の増上寺・貞誉大僧正より「今泉山一心院称名寺」の山号寺号請け、現在に至っています。
弘法大師は空海と言い、
「弘法も筆の誤り」と言われるような『書の名人』で、高野山金
剛峰寺を開いた真言宗の創始者であることは、日本史の教科書でお馴染みです。しかし、
今若い女性の間で人気の占い師(陰陽師)安倍晴明の先達であり、日本のダビンチと言っ
てよい程の多才の持ち主であったことはあまり知られていません。
空海は宝亀5年(西暦774年)四国の讃岐国多度郡に生まれ、延暦8年(西暦789年)
京に出て大学の明経科で学び、延暦16年(西暦797年)「三教指帰」を著し、延暦23
年(西暦804年)に唐に渡り、大同1年(西暦806年)に密教の体系を日本に持ち帰
っています。その後、弘仁3年(西暦812年)高野山に入り真言宗を開きました。
空海は真言密教の創始者です。密教は加持祈祷に重きをなす教えで、鎌倉時代には幕府と
結び付いて、多くの祈祷僧を輩出しています。祈祷は陰陽をもって行われますので、天竺
僧役小角、弘法大師、安倍晴明をもって陰陽師の系譜と言う人もいます。また、空海は四
国で多くの溜池を残しているように、土木建築家としても秀でており、その他、錬金術師
(魔術師?陰陽師?科学者?)、書家、劇作家、詩人、冒険家、文章家、哲学者としても認
められるような多才(ダビンチ的)の持ち主で、日本各地に弘法伝説を残しています。
称名寺は、もとは、弘法大師空海の創建と言われている不動堂の別当でした。不動は寺よ
り更に谷の奥200米程入った元不動と称する場所に在ったと言われ、今は其の跡には石
の不動尊が置かれています。現在の不動堂は、滝の上から急な石段を登り詰めた所に在り
ます。
鐘楼は、鐘の施主を江戸深川の海老屋六兵衛等、楼の施主を江戸船町大阪屋庄次郎等とし
て元禄15年(西暦1702年)に造られましたが、太平洋戦争終戦間際の昭和20年(西
暦1945年)に砲弾の材料として供出されました。現在は、ゴルフ場際に再建されてい
ます。
療養所は、滝に打たれて行をする人達のために大正4,5年(西暦1915,6年)頃に
建てられたおこもり堂が、大正12年(西暦1923年)の関東大震災で崩壊したため、
宮内省の下附金1万5千円で再建されたものです。脳病院の予後の人達を収容、治療をし
ない保護療養施設として発足し、戦争中は海軍一個小隊の駐屯地となり、仮の包帯所を経
て、戦後は引揚者収容所として使われました。現在は母子家庭の宿舎となっています。
称名寺の谷戸には滝があり、都会(鎌倉市)にこのような場所が在るのかと思う程深緑に
囲まれています。しかし、石段を登り詰めた所にある不動堂の後ろは鎌倉カントリークラ
ブゴルフコース(横浜市)と接し、谷戸の深緑と愕然とした対比が見られます。
<瑞泉寺>
瑞泉寺は鎌倉きっての花の寺として有名で、早春の水仙、梅に始まって花の絶える時がな
く、また、境内全域が国の史跡、庭が名勝に指定されています。
本堂の左手に夢想疎石が岩肌を削って座禅窟を造り、その前面に心字池をあしらっただけ
の簡素な裏庭があり、鎌倉の庭の中でも一番の評価を得ており、京都の竜安寺石庭と対を
成す庭と言う人も多くいます。
瑞泉寺は錦屏山と号し、開山は夢想疎石、中興開基(それまでは瑞泉院)は足利基氏で、
臨済宗円覚寺派に属しています。瑞泉寺のある谷は紅葉谷と呼ばれており、山号の錦屏山
はその紅葉に因んで付けられたと言われています。
夢想疎石は宇多源氏の出で、建治元年(西暦1275年)に伊勢で生まれ、3歳の時に母
方(平氏)の紛争で甲斐に逃れ、6歳の時に甲斐の平塩山寺で出家しています。18歳の
時に東大寺戒壇院に赴き受戒、20歳の時から建仁寺で蘭渓道隆の弟子の無隠円範に学び、
鎌倉禅林への道が開かれました。
夢想疎石は永仁3年(西暦1295年)に鎌倉に下り、東勝寺に入り、東勝寺が火災に遭
った後、建長寺に移りました。その後、東北地方(出羽、陸奥、那須)を巡り、元徳元年
(西暦1329年)執権北条高時の招きによって円覚寺に入りました。翌年8月に瑞泉院
に住むことになりましたが、これが瑞泉寺の発端です。
瑞泉寺と言えば、庭園です。夢想疎石は嘉暦3年(西暦1328年)に観音殿、一覧亭を
建てると共に造園(疎石の作でないとの説もあります。)を行い、しばしば詩会を催してい
たようです。瑞泉寺の庭や一覧亭は正面に富士を望む絶景を擁する場所にあり、明らかに
意図を持って富士を望むように造られていると云われています。
岩盤をうがった池には後の山から泉水を引いてきており、夢想疎石の芸術的天分を抜きに
してはできないものと思われます。疎石はその他京都で天龍寺・西芳寺などの名園を手掛
けていることは有名です。
瑞泉寺には黄門様(徳川光圀)が元禄2年(西暦1689年)に訪れ、その時に夢想疎石
自作の詩や、五山の高僧が詠んだ130余首の詩を板に刻んで一覧亭に掲げています。
黄門様は水戸徳川家二代目の藩主で、明暦3年(西暦1657年)30歳の時、江戸駒込
の屋敷で学者を集めて『大日本史』の編集を始められ、多くの人手と年月をかけて250
年後の明治39年(西暦1906年)に完成しました。瑞泉寺に黄門様が足を運ばれたの
は、『大日本史』編集の一環だったのではないでしょうか。
自身、全国漫遊をしておられませんが、彰考舘の学者を派遣して資料を全国に広く求めら
れました。これが黄門様の全国漫遊に繋がったと言われています。助さん・格さんは黄門
様が彰考舘で大日本史を編集されたとき仕えた史臣(歴史編纂をした家臣)の中で中心的
な史臣です。助さんは佐々十竹 (介三郎宗淳)、格さんは安積澹泊(覚兵衛)のことで、特
に、佐々介三郎は黄門様の命により、神戸・湊川に長期間滞在して『嗚呼忠臣楠子之墓』を
建て後世に大きな影響を与えました。
黄門伝説が誕生したのは、光圀の死後200年後の幕末、水戸一橋慶喜と紀伊徳川慶福が
14代将軍を巡って後継者争いをしていた頃だそうです。将軍の座に就いたのは、紀伊慶
福改め家茂でした。後継者争いに破れた慶喜の父、9代水戸藩主斉昭は、水戸藩から将軍
が出ない事に苛立ちを感じており、息子をなんとしても将軍の座に就かせるため、水戸藩
イメージアップのため、黄門伝説を創り上げたとも云われています。
水戸徳川家の先祖である水戸光圀が諸国を漫遊して、様々な人々を助けていったという英
雄談を創り、日本全国、様々な街に講釈師たちを派遣し、語らせ、さらには蝦夷地の探索
も光圀の功績だと大宣言してまわり、水戸黄門伝説を日本中に広めたそうです。その効果
かどうか分りませんが、徳川最後の将軍、慶喜が誕生しています。
また、瑞泉寺には吉田松陰の外伯父が住持をしていた時期があり、松陰が度々外伯父を訪
ねて来て、米艦を利用したアメリカ密航の企てを相談し、旅費まで用立ててもらったとの
話も伝わっています。
松蔭の松下村塾から、幕末から明治期に活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和
作、前原一誠、伊藤博文などの志士たちを輩出しましたが、自身は、ペリー来航以来、日
米修好通商条約の調印批判や藩に対する老中要撃計画の提起など、一連の幕府政策批判で、
維新を待たずに処刑されています。
瑞泉寺の現在の本堂は、昭和10年(西暦1935年)の建立で、本尊は地蔵菩薩立像、
本堂左後の大正2年(西暦1913年)建立の開山堂には重要文化財である開山の木造坐
像が安置されています。両方とも南北朝時代に作られたと伝えられています。
<寿福寺>
寿福寺は正式には亀谷山寿福金剛禅寺と称し、開山は明庵栄西で、開基は初代将軍源頼朝
の婦人政子です。寿福寺の地は、三浦氏の一族である岡崎義実が、頼朝の父、義朝の菩提
を弔うために建てた草堂の跡で、頼朝が初めて鎌倉に入った治承4年(西暦1180年)
に訪れています。
寿福寺の造営が終わった時期ははっきりしていませんが、正治2年(西暦1200年)7
月15日に佐々木定綱が調進した十六羅漢図の開眼供養が寿福寺で行われ、当寺の長老で
ある栄西を導師として、政子が聴聞のために参堂していることが吾妻鏡に載っており、こ
の頃に一応落成したとみて良いと思われます。
この正治2年は源頼朝が亡くなった次の年で、梶原景時・景季親子の反乱も起きています。
その後、平家討伐に功績のあった有力御家人である三浦義澄、千葉常胤が次々に亡くなる
と、北条氏による横暴が増々激しくなり、それに反抗して城長茂の乱、比企能員の乱、和
田義盛の挙兵が起きています。
更に北条氏は二代将軍頼家(伊豆修善寺幽閉)
、畠山重忠、三代将軍実朝の暗殺を繰り返
し、幕府の実権を名実共に奪取しました。
寿福寺は寺院の規模こそ大きくありませんでしたが、源義朝の旧邸跡に建てられたことも
あり、将軍頼家、実朝、尼御台の参台も多く、当時としては最も新しい智識と精神が胎動
する根拠地でありました。宝治3年(西暦1249年)及び10年後の正嘉2年に全焼し
ましたが、鎌倉時代の末には、開山塔の逍遥庵を初め15の塔頭を数え、南北朝に大部分
が成立しています。
その後、寿福寺は民家が廻りに多かったこともあり、度々火災にあっており、鎌倉末期∼
南北朝にかけて蓄積された建築・書籍・寺宝財物が失われ、今日の鎌倉五山の第 3 位に位
置しながらこじんまりと立っています。
寿福寺には実朝・政子の墓と伝えられる五輪塔二基があります。これは鎌倉末期から南北
朝初期に建てられた供養塔だというのが有力ですが、如何なものでしょうか。
初代将軍頼朝が建久10年(西暦1199年)1月13日に53歳で死ぬと、頼家は若
干18歳で二代将軍に就いていますが、直ぐに、北条氏により将軍の特権である独裁権を
取り上げられています。二代将軍頼家は此れに不満を持ち、自分の乳母や御台所の実家で
ある比企氏を頼って北条氏に対抗しようとしました。
その時、生母政子はあくまでも北条一族の娘として北条氏に肩入れし、比企氏打倒へと
進んでいきました。建仁3年(西暦1203年)8月27日、北条時政・義時親子と共に
独断で将軍家の家督を二つに割る譲補を発しています。その内容は後の三代将軍実朝(弟:
千幡)に関西38カ国、二代将軍頼家の嫡子一幡に関東28カ国を譲るというものでした。
比企能員は抗議しましたが、北条時政邸で催された仏像供養の席で、わずかな郎党と共
に闇討ちされ、比企氏は滅亡しました。同時に頼家も伊豆の修善寺に押し込められ、翌年
暗殺されています。
頼家が伊豆の修善寺に押し込められ、翌年暗殺された悲劇の有様を描いたのが修善寺物
語で、歌舞伎は勿論、映画やオペラにもなって、今日まで言い伝えられています。
歌舞伎「修善寺物語」のあらすじは、
「鎌倉時代、伊豆修善寺・桂川のほとりに夜叉王という面作りの名人が、二人の娘、姉か
つら、妹かえでの婿春彦の 4 人で暮らしていました。姉のかつらは美人ですが気品が高く、
まだ独身でした。
ある秋の晩、北条氏により修善寺に幽閉されていた源左金吾頼家は自分の顔を後世に残
すべく面作りの夜叉王に命じて面を注文してあったが、半年経っても出来上がらないので
痺れを切らし、催促に来ます。
夜叉王は、何度作ってもその面に死相が現れるので、納得できないとして、面を渡せな
いと云います。頼家は怒って夜叉王を斬ろうとしたので、娘のかつらは面を頼家に渡しま
す。見事な出来栄えに頼家は感銘しこの面を献上させます。そして娘かつらを御殿に出仕
させ、北条氏の許可も無く、側女として二代目若狭の局の名を与えます。
しかし、その幸せもつかの間、北条氏の急襲で頼家は殺され、面をかぶって頼家の身代
わりとなって戦ったかつらは、瀕死の身で父と妹夫婦の家に落延びると、夜討ちの顛末を
語って息途絶えます。
父夜叉王は、自分の面が将軍の運命を暗示する程の作りであることを知り、満足の笑み
を浮かべ、今まさに死にゆく娘かつらの断末魔の面を写し取ろうと筆を走らせました。」
というものです。
<東慶寺>
東慶寺は、正式には山号を松岡山、寺号を東慶総持禅寺と言い、臨済宗円覚寺派の寺院で
す。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条貞時、開山は覚山尼で、鎌倉街道をへだてて
円覚寺と向きあう丘の上にあります。
覚山尼は安達義景を父に、北条政子の弟時房の娘を母に持ち、堀内殿と名づけられ、10
歳のときに1つ年上の時宗に輿入れしました。
18歳で執権となった時宗は、空前の国難である蒙古の来襲に心血を注ぎ、その心労が原
因でしょうか、弘安7年(西暦1284年)に34歳の若さで亡くなっています。臨終に
先立ち出家、夫人の堀内殿も落髪付衣し、無学祖元から覚山志道と安名されています。
東慶寺は、現在、男僧の寺ですが、明治36年(西暦1903年)までは代々尼寺であり、
尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから、東
慶寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇るようになりました。
江戸時代には、豊臣秀頼の娘の天秀尼が、大坂城落城後、20世住持として入寺していま
す。養母は徳川家康の孫娘の千姫(天樹院)で、住職の行列では、大名行列でも道を譲っ
たようです。
平安時代末期から勢力を誇ってきた社寺は、罪過ある者が逃げ入れば許されるという、可
笑しな治外法権を持つ程になっていました。しかし、東慶寺では、罪人の救済所というよ
りも、女人救済の「駈込寺」として寺法を確立し、他の寺が救済所としての治外法権が失
われていく中で、600年近く縁切りの寺法が引き継がれてきました。
江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていませんでした。しかし、夫と縁を切り
たい女性は、東慶寺で3年(後2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺
法」という制度がありました。東慶寺が駈込寺・縁切寺として知られるようになったのは、
天秀尼が入寺の際に、家康が彼女に何か望みはないかとの問われ、天秀尼が、代々の縁切
寺法を存続して欲しいと頼み、家康がこの願いを聞き入れたということによります。
それ以後、幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺に駆け込んできました。
しかし、すぐには寺に入れず、まずは夫婦両者の言い分を聞いて、夫が離縁状(いわゆる
「三下り半」
)を書くことに同意すれば、すぐに離婚が成立したといいます。また、実際に
は離婚に至らず、調停の結果、復縁するケースも多かったといわれています。
天秀尼が住持の時に、福島会津藩家老堀主水の妻子が東慶寺に逃げ込んだ事件が起こりま
した。家老堀主水が、若い城主加藤明成の非情な行いを諌めますが、逆恨みされ、騒動に
なり家老は脱藩し、高野山に逃げ込みますが、追跡してきた明成の家来に殺されました。
家老の妻子は東慶寺に逃げ込み、明成は、天秀尼に妻子を差し出せと迫りますが、「男子
禁制のこの寺に踏み込むとは何事ぞ。この寺に逃げ込んだ女性を守るのが私の務め。」と断
り、幕府に直訴します。その結果、東慶寺は残り、加藤家はお取り潰しになったといいま
す。これ以来、全国の諸大名はこの寺を恐れるようになったそうです。
この制度は、明治4年(西暦1870年)明治政府によって、夫婦の離縁を1つの寺の法
則として取り扱うことは問題があるとして禁止され、明治6年(西暦1872年)「人民自
由の権利」によって松ヶ岡の寺法は、裁判所に引き継がれ、女性も男性同様に離婚の申し
立てができるようになりました。
駈込寺の幕を閉じたのち、明治36年(西暦1902年)には古川堯道老師が住職につき、
男僧第1世となりました。
東慶寺は花の寺としても有名で、梅や紫陽花、菖蒲など四季折々の花が咲きみだれます。
本尊の釈迦如来坐像を安置する泰平殿、その脇に水月堂とよばれる観音堂が建ち、本堂そ
ばの松岡宝蔵では、聖観音立像、初音蒔絵火取母などの重要文化財や縁切り文書を展示さ
れています。仏殿は、西暦1935年(昭和10年)に再建され、なお、旧仏殿(重要文
化財)は横浜市の三渓園に移築されています。
聖観音立像は、鎌倉市西御門にあった廃寺・太平寺(尼五山の第一位)旧蔵の像で、鎌倉
時代後期の作といわれ、像の表面には土紋装飾という型に詰めた粘土を貼り付けた、鎌倉
地方特有の技法が見られます。(寺宝と明治末の写真は、東慶寺のホームページより引用)
初音蒔絵火取母は香炉の一種で、
『源氏物語』に題材をとった蒔絵を施してある室町時代
作です。本作品をはじめ、東慶寺に伝わる蒔絵遺品は20世住持(豊臣秀頼娘)天秀尼の
所持と伝えられています。
萄蒔絵螺鈿聖餅箱はいわゆる「南蛮漆芸」の遺品で、「聖餅箱」はキリスト教のミサで用
いる道具と言われ、なぜ仏教寺院である東慶寺に伝わるかは定かではありません。
<杉本寺>
杉本寺は、金沢街道沿いの森の中にあり、十一面観音と書かれた林立する幟旗と苔むした
鎌倉石の階段は、さすが、鎌倉最古の霊場といわれる歴史を感じさせる風情があります。
天平六年(西暦734年)に光明皇后の発願によって、藤原房前と行基が開いたと伝えら
れています。正確には、大蔵山杉本寺観音院といい、十一面観世音菩薩三体が本尊として
納められています。
永禄三年(西暦1560年)書写の『杉本寺縁起』によれば、天平六年(西暦734年)
僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創とあります。後に慈寛大師が同じく十一面観音
を内陣の中尊として納め、天台の法流に属せしめ、更に寛和二年(西暦986年)恵心僧
都が花山法皇の命を受けて、十一面観音を奉安したと伝えられています。また、
『吾妻鏡』
文治五年(西暦1189年)の条に「夜に入りて大倉観音堂回禄」とあり、時に別当浄台
房が煙火の中から本尊三体を運び出しましたが「衲衣わずかに焦ぐといへども身体あえて
恙なし」と語られています。この頃から多くの信者を迎え『坂東霊場記』には、この時に
本尊自らが境内の杉の木のもとに難を避けられたので、それ以後、杉本寺と呼ばれること
になったとあります。
源頼朝も深くここの観音に帰依し、
『吾妻鏡』の建久二年(西暦1191年)の条に「累
年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す」とあり、寺運の再興につく
し、そのうえ前立本尊も納めています。
この寺には信仰心のない者が寺の前を乗馬したままよぎると落馬するという伝えや、後に
建長寺開山大覚禅師が袈裟で尊顔をおおったら、そのことは止んだので下馬観音・覆面観
音といわれたなど、いかにも当時の武士たちとつながりの深い話です。
本堂横の五輪塔群は、南北朝時代、北畠顕家との戦乱でたおれた斯波一族の供養塔で、侘
しげに互いにそりよって建っている姿が杉本寺に一層の静けさを与えてくれます。
光明皇后は、聖武天皇の皇后で、藤原不比等の女として生まれ、悲田院・施薬院などを設
置し、奈良法華寺の十一面観音のモデルと言われています。勿論、杉本寺の十一面観音に
も光明皇后の名前が表示されています。
一寸わき道にそれますが、光明皇后には面白い伝説があります。入浴です。
当時はだれでも入浴できる訳ではなく、宗教的意味合いをもっていました。「入浴の起源
は、仏像を湯で洗い浄めたことに始まる。」とあります。
お寺では寺僧の入浴後、近隣の人々に寺の風呂を無料で開放し、これは「施浴」と呼ばれ、
布教の目的もありました。施浴については八世紀後半からの記録があるそうです。
光明皇后はある悲願のために、奈良法華寺の施浴において千人の俗人の垢を洗い流すこと
を決めました。ところが、最後の千人目にあらわれたのは、全身に血膿をもつ悪疾の患者
でした。
しかし、皇后は厭うことなく、背中を流し、さらに患者に乞われるまま膿まで吸い出して
やりました。その瞬間、浴室に紫雲がたなびき、患者は立ち上がって黄金の光をはなち、
「我
は阿しゅく仏なり」と言葉を残し消え去りました。と言うことだそうです。ちなみに湯屋
の石榴口が、寺の屋根の形をしているのはこの施浴のなごりだそうです。
行基は百済からの渡来人の子で、当時、貴族や僧だけに許された仏教を農民や貧しい人々
に広めたり,生活に苦しむ人々を救おうと,日本全国を歩き廻ったようです。
その間、温泉の発見や貯水池の掘削した話が数多く残っています。有名な温泉として山中
温泉・草津温泉・野沢温泉山代温泉などがありますが、これらの中には開湯伝説として名
前が使われただけのものもあるとされています。
しかし、行基が人々から「菩薩」と、敬われているのは、弘法大師と同じ様に、田に水を
引くための池や,みぞを掘ったり、川に橋をかけて交通の便をよくしたりするなどの活動
をした為でしょう。特に、大阪府の狭山池は、行基によって約 1400 年前に作られた、日本
最古の潅漑用(ダム形式)ため池であるとして有名です。
この行基の行動を、朝廷は、当初、取り締まろうとしました。やがて、聖武天皇の御世
になると、その業績は認められ、大仏建立のためのお金や、人手を集めることを以来され
ています。
行基は、残念ながら、東大寺大仏の完成をみることなく他界していますが、その貢献は認
められ、大僧正の位を受けています。
<報国寺>
山号は功臣山、足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた臨済宗建長寺派の禅宗寺院です。
開基は足利家時、開山が夢想国師の兄弟子の天岸慧広(仏乗禅師)で、建武1年(西暦1
334年)の創建と伝えられていますが、上杉重兼の開基ともいわれています。
報国寺は、鎌倉駅から徒歩で25分、または、鎌倉駅から十二所方面行きの京急バスに
乗り、淨明寺で下車するとすぐのところにあります。ちょっと交通の便は悪いですが、本
堂の裏手には見事な竹林があり「竹の寺」として有名で、時間をかけてでも行く価値は十
分にあると思います。
山門をくぐり右側の石段を登ると、本尊の釈迦如来坐像(市重文)が祀られている本堂が
あり、本堂の右手に迦葉堂、左手にはかやぶきの鐘楼があります。寺には数多くの文化財
がありますが、殆どは現在、鎌倉国宝館に所蔵されています。
山門から本堂までは石庭を配した参道が続き、本堂の裏手には、開山塔の休耕庵跡があ
り、仏乗禅師が修行や詩作を行った場所で、今は有名な竹の庭となっています。さらに、
裏山には足利一族の墓とされる大きなやぐらが建っています。
報国寺については、永享10年(西暦1437年)から翌年にかけて起きた永享の乱で、
敗退した関東公方足利持氏が、永安寺で自刃した時、長子の義久がこの寺に入って自刃し
たという話が残っています。
しかし、南総里見八犬伝の冒頭には、報国寺は持氏が京都将軍家への叛乱を起こして敗
れ、父子が自害した場所であると書かれています。また、その永安寺は今の瑞泉寺の近く
にあったらしいが、地図を見る限り現存していないようです。
永享の乱は、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に際し、室町幕府6代将軍義
教が、篠川御所の足利満直や駿河国の守護今川範忠に憲実の救援を命じ、さらに上杉持房、
上杉教朝ら幕軍を派遣し持氏を誅した事件です。
室町幕府は、将軍と関東公方(くぼう)とそれぞれ中央と関東を支配する構図になってお
り、本家と分家の対立は絶えることがありませんでした。
持氏は、全て僧籍の候補者の中から、くじ引きという歴史上実に稀な手法によって決めら
れた6代将軍義教に対し、由緒正しい家柄の自分がという思いがありました。また、その
くじに参加すら出来なかった持氏にしてみれば「くじ引きで選ばれた将軍の言うことなど
聞いてられるか」という思いがあり、ことごとく幕府の命に叛きました。
そもそも将軍がくじ引きで決められなかったら、足利持氏が次期将軍の最有力候補であ
ったとも云われています。また、中央の大名の中にも持氏を支持する勢力がありました。
一方、旧南朝の宮をことごとく門跡に入れ、その勢力を抑えこんだ義教は、最大の敵、関
東公方持氏を討つ機会を虎視眈々と狙っていました。執事上杉憲実は持氏に対し、義教に
敵対すべきではないと諫言し、義教と持氏の間をなんとか取り持とうとしましたが、逆に、
持氏はそんな憲実を疎ましく思い始め、遂には憲実討伐の軍を起こしました。
義教はこの好機を逃さず、諫言する憲実を討伐するのは何事かと、朝廷から持氏追討の綸
旨を手に入れ、朝敵として討伐を命じたため、持氏は大した戦闘もなく降参し、剃髪して
恭順の意を示しました。
その後、憲実は持氏の助命嘆願に奔走しましたが、将軍義教は耳をかさず、逆に、持氏を
殺害することを命じられ、やむなく持氏親子を討ち果たしました。
その後、憲実は、持氏を討ち果たしたことに責任を感じ隠居しました。しかし、翌年中央
に従うことを良しとしない結城氏が、持氏の遺子春王・安王を奉じて反乱する結城合戦が
起こり、義教は隠居していた憲実に鎮圧を命しました。結城合戦は、関東を二分する大規
模な反乱に広がりましたが、憲実は見事鎮圧に成功しています。
将軍義教にとって、関東平定の最後の「結城合戦」の戦勝祝賀会で惨劇は起きました。か
ねてから将軍義教の独断専横な幕政の決裁に不安と怒りをもっていた播磨の守護赤松満祐
が,武者数十人で宴席に雪崩れ込み、義教を抑えつけてあっという間に首を刎ねてしまっ
たのです。
真にあっけない将軍の最後でした。管領細川持之は真っ先に逃げ、他の者もただ逃げ惑う
だけだったといいます。先の九州平定で恩のあった大内持世が唯一奮戦し戦いましたが、
傷を負い重症を喫しました。
その後、室町幕府は衰退し、将軍の後継者選びは管領たちによる話し合いと言う義教が一
番嫌った形によって行われることになり、やがては,応仁元年(西暦1467年)から勃
発した応仁の乱につながり、130年続く戦国時代は、ここに始まったと言えます。
<海蔵寺>
臨済宗建長寺派の寺で、山号は扇谷山海蔵寺、もともとは真言宗のお寺でしたが、建長5
年 (西暦1253年)藤原仲能がここに七堂伽藍を再建しました。
しかし、その時の七堂伽藍は、元弘3年(西暦1333年)の鎌倉幕府の滅亡と共に焼失し
ました。その後、応永元年 (西暦1394年)鎌倉公方足利氏満の命令を受けた上杉氏定が、
心昭空外を招いて再建しました。
現在の本堂は、関東大震災後、大正期に再建されたもので、薬師堂は、江戸時代の安永5
年(西暦1776年)に浄智寺から移され、逆に、山門は、平成14年(西暦2002年)
に新築されたもので、新築の際に、十五世紀の半ばすぎに建てられたと伝えられる旧山門
は、貴重なものであるとして、厚木市幸町の宝安寺に移築再建されています。
薬師堂内には薬師三尊像が安置されており、薬師如来坐像は、別名「蹄薬師(なきやくし)」
または「児護薬師(こもりやくし)
」とも呼ばれ、胎内には土中から発掘されたという古い
仏面が収められているそうです。
この薬師如来坐像には不思議な伝説が伝わっています。
ある年のこと、寺の裏山から毎日なんとも悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので開
山が行ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ、金色の光がもれ、輝いていた
といいます。そこで開山が経を読み袈裟で墓石を覆ったところ泣き声はやみ、翌日そこを
掘ってみると立派な薬師の面が出てきたため、新たに薬師如来坐像を建立し、そのお面を
胎内に納め祀ったのが現在の本尊といわれています。この伝説から「啼薬師」「児護薬師」
と呼ばれるようになったそうで、子育てにご利益があると云われています。
海蔵寺は、季節の花に彩られる花の寺として有名です。特に、山門を入って参道を少し
上がったところにある樹齢百数十年のカイドウ(海棠)が有名で、見頃の4月初旬∼中旬
には、山門越しに赤っぽい花が目に飛び込み、本堂の屋根の緑青と庫裡の藁葺き屋根の両
方とのコントラストが素晴らしく、実に見事な取り合わせです。
また、本堂裏の心字池、山門脇の底脱の井、薬師堂裏の十六の井があり、清らかな水を湛
える水の寺でもあります。
十六ノ井は鎌倉十井の一つで、薬師堂裏のやぐら中に湧水をたたえた16個の穴があり、
それぞれ直径が約50㎝から70㎝あり、弘法大師が掘ったとも言われ、次のような不思
議な話が伝わっています。
再中興開山が住世のとき、観世音菩薩が禅師の夢枕に立って「来世の衆生信心つたなく、
身に難病を受けて定業を終えずして死す。禅師、弘法大師に告げ、金剛功徳水をもって加
持し、此の水を授け、薬を煎じて予へれば、悪病ことごとく祓い除くことが出来る故、願
わくは、数度の天災のために埋もれた、此の井を掘りだして掃除をなせ。さすれば、清水
湧き出て再び霊験があらわれんと・・・・」との告げがあり、禅師は、教えの通り掘りだすと
井戸が現れ、観世音菩薩像も出てきたということです。
そこで、窟中の水を加持し、衆生に与えたところ、霊験あらたかであったと扇谷山海蔵略
寺縁記は伝えています。
一方でこの岩窟は、納骨穴の跡ではないかとも云われています。入口から玄室までの羨
道(せんどう)とよばれる通路部分は見られませんが、室町時代のやぐらには羨道がなく
なってきていることから、やぐらだったと判断してもおかしくないとの説があります。
密教の法具のひとつに酒水器と散杖というのがあります。清浄な水に沈香・白檀・丁子な
どの銘香を溶かした香水を入れる鋳銅器の容器が酒水器で、その中の香水を梅の若枝でつ
くられた散杖を使って注ぐことで心や身体を浄め、更に、道場を浄めたそうです。使用す
る香水をつくるためには、早朝、井戸水を汲んで用いたと云います。
海蔵寺は最初真言宗だったことから、十六の井は香水の水を得る聖なる場所であった可能
性もあります。実際、十六の井には、これに似たようないい伝えも残っているそうです。
また、山門の右側に鎌倉十井の一つ、底脱ノ井があります。この「底脱ノ井」という名は、
和歌の一節が由来とされ、その詠み手は安達泰盛娘とも、上杉家尼とも云われています。
言伝えによると、上杉家の尼が参禅してこの井戸の水を汲んで悟りを開き、
「賤(しず)の女が載く桶の底脱けて、ひた身にかかる有明の月」
と詠み、この名がついたといわれています。また、一説には安達泰盛の娘で金沢顕時夫人
となり、後に尼となった無着が仏光国師 (無学祖元)に参禅して悟った時、
「ちよのう(無着の幼名)が載く桶の底ぬけて、水たまらねば月もやどらず」
と詠んだ歌によるものともいわれています。
<薬王寺>
正式の名称は、日蓮宗大乗山薬王寺。もともとは真言宗に属し、梅領山夜光寺と称してい
ましたが、永仁元年(西暦1293年)に肥後阿闍梨日像聖人が改宗して、法華経受持の
寺院となり、大乗院日達上人のときに当山の興隆を迎えました。
日達上人は、広島の本山国前寺の住職でありましたが、徳川が禁止した不受不施説を唱え
た為に、幕府の忌避にふれ、寺を追われて各地を行脚しつつ、九ヶ寺建立し、衰微してい
た三ヶ寺を復興した信行兼備の高僧でした。当山はその中の一ヶ寺で、七堂伽藍完備の立
派な寺院を完成した中興の祖です。
その後、寺は衰微しましたが、寛永年間(西暦1624年∼1643年)に日達上人が中
興しました。本尊は薬師如来、今の本堂は享保年間(西暦1716年∼1735年)の再
建で、庭先には駿河大納言徳川忠長の供養塔があります。建立したのは織田信長の嫡子信
雄の息女で、徳川忠長の夫人です。
駿河大納言忠長は、幼名国松(国千代)、母親は正室の小督(お江与の方)で、兄の家光
と3代将軍の座をかけて争ったのは、余りにも有名です。
当時は、まだ長子が家督を相続するという制度が確立されていなかったため、嫡男竹千代
より利発で、将軍秀忠や母お江与の方に可愛がられていた国千代が、3代将軍を継ぐとい
う噂が、城内では絶えませんでした。その事態を憂慮した竹千代の乳母である春日局が大
御所家康に直訴し、大御所も家督問題が起こるのを恐れて、竹千代の将軍継承を認めたた
め、大御所が没した翌年の元和3年(西暦1617年)竹千代は江戸城西の丸に入り正式
に世子であることを明らかにすることができました。
国千代は、その年信州小諸城10万石を賜り、翌元和4年(西暦1618年)に元服し、
忠長を名乗り、従四位下左近衛権少将の叙位を受け、甲斐25万石を加封、同6年に参議
となり、同9年に将軍秀忠が将軍職を家光に譲り大御所となると、忠長も従三位に叙せら
れ権中納言になっています。寛永2年(西暦1625年)には、更に駿河・遠江の両国を
加え55万石で駿河に移ると、翌年には従二位権大納言となり、世に言う駿河大納言殿が
誕生しました。
時に忠長21歳、御三家の紀州家と同じ55万石であり将軍の弟であったため、東海道を
上下する諸大名は、駿府城に立ち寄り忠長のご機嫌を伺ったそうです。
将軍になれなかった忠長は、将軍家の実弟として、100万石か大阪城を望んだとも言わ
れています。また、忠長の暴君説として、駿府城裏の殺生禁断の地である浅間神社で、野
猿を1240頭も射殺し、酒に酔っては誰かれかまわず斬り殺したなどの不祥事もあり、
更に、謀反説も飛び交い、寛永8年(西暦1631年)5月には、大御所秀忠も庇う事が
出来ず、忠長の甲府への蟄居を命ずることになります。
翌年秀忠が没すると、後ろ盾を失った忠長は、将軍家光より高崎幽閉・改易を命じられ、
数名の小姓と愛用の槍1本、馬1頭で、高崎藩主安藤氏2代重長の元に、
お預け
の身
となりました。
寛永10年(西暦1633年)家光は忠長に切腹を命じ、忠長は12月6日、28歳で切
腹して果てることになります。なお、徳川忠長の墓は、高崎市通町大信寺にあります。
その後、奥方松孝院殿の懇願によって、三世慧眼院日珖が法華経による忠長公の追善供養
が営まれることになり、忠長公の供養塔が建立されました。松孝院殿からは忠長公の永代
供養のため、莫大な金子と広大な土地の寄進を受け、3000坪の境内に立派な諸堂が造
営されましたが、享保5年(西暦1720年)すべて焼失しました。
更に、会津若松蒲生氏郷の孫忠知(四国松山城主)の奥方と息女の寶筐印塔の墓があり、
徳川・蒲生両家のゆかりの寺として、寺紋に三葉葵が用いることが許されている格式の高
い由緒ある寺です。
その後、明治に入って排仏毀釈の騒ぎが起こり、その騒ぎに便乗した看坊(公卿あがりの
僧)が財産什宝等を売り払い、遂には無住職寺になりましたが、大正3年第50世海栄日
振上人が師の命に従い復興に着手し、2代70年の努力によって現在の山容が整えられま
した。
本堂の「宗師尊像」は、当初、東京の鼠山感応寺に奉安されていましたが、天保12年
(西暦1841年)家斎死去すると、老中水野忠邦の天保の改革によって、感応寺は廃寺
となり、その後、池上本門寺、牛込築土八幡の万昌院、成子の常円寺、比企ヶ谷妙本寺を
経て、この薬王寺に感得奉安され、現在に至っています。
徳川家斉の命で制作された「宗師尊像」は、裸像で乳首なども彫られ、また、口を大き
開いて説法されている様子はリアルで、6月と10月の更衣式では法衣を着替えます。
薬王寺は、北鎌倉駅で横須賀線を降り、亀ヶ谷切通を抜けて、多角形をした岩舟地蔵堂の
手前に日蓮宗薬王寺と書かれた入口があります。
<英勝寺>
開基は江戸を開いた太田道灌の子孫康資の娘で、徳川家康の側室となったお勝局(英勝院
長誉清春)、山号は東光山、鎌倉唯一の尼寺として知られる浄土宗の寺で、寺地には道灌の
屋敷があったといわれています。
仏殿は水戸頼房の後援により、寛永12年(西暦1635年)に創建され、蟇股には十二
支が刻まれています。
仏殿の内部には徳川家光寄進の運慶作と伝えられる阿弥陀如来、観音菩薩及び勢至菩薩が
本尊として祀られており、天井と周辺には極楽を思わせる華麗な装飾や水戸徳川家の三つ
葉葵、太田家の桔梗の紋、鳳凰の絵などが見られ、格式の高い尼寺の姿を伝えています。
鐘楼は、他ではあまり見られない袴腰付楼閣形式で、建立は寛永20年(西暦1643年)、
梵鐘には林道春撰の銘文の末尾に「寛永二十年五月吉日
法印道春撰
治工大河四郎左衛
門吉忠」と刻まれています。
豊臣秀吉によって江戸に移封された徳川家康は、積極的に関東の名門の末裔を集め、そ
の中に道灌の流れを引く太田氏も含まれていました。その関係からでしょうか、お勝局は
家康に見初められ、側室に取り立てられたと伝えられています。
家康の死後は落飾して「英勝院」と称し、江戸田安の比丘尼屋敷に在していましたが、後
の寛永11年(西暦1634年)に、太田道灌の旧領で、以前に屋敷のあった相模国鎌倉
扇谷の地を徳川家光より賜り、菩提所として英勝寺を建立して住持したそうです。
太田道灌は、扇ヶ谷上杉家の家老で、長禄元年(西暦1457年)に江戸城を築いた武将
として知られていますが、文学にも造詣が深く、江戸城には連歌師や禅僧などが多く集ま
ったといわれています。しかし、道灌の才能を恐れた主君・定正により、相模の国・定正
邸で入浴中に暗殺されてしまいました。
なお、第一世の庵主小良姫(清因尼)以来、代々、水戸家の娘が住持に入ったため、水戸
家の尼寺とも呼ばれ、寛永13年(西暦1636年)に造られた、創建時の面影を残す仏
殿、祠堂、唐門、鐘楼は県重文に指定されています。
太田道灌といえば、山吹の伝説を知らない人はいないでしょう。道潅が、父を尋ねて越生
の地を訪れたある日のこと、鷹狩りにでかけて突然の俄雨に遭い、農家で蓑を借りようと
立ち寄ると、娘が一輪の山吹の花を差し出しました。道灌は蓑を借りようとしたのに花を
出され、内心腹立たしく思い雨の中を帰って行ったとのです。後でこの話を近臣の一人に
したこところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重
だに
花は咲けども
山吹の実の(蓑)一つ
なきぞ悲しき」の歌に掛けて、蓑ひとつなき貧しさを伝えているのだと教えられ、
古歌を知らなかった自分を恥じて、道灌は歌道に励んだといいます。
山吹伝説は越生の他にも各地に残り、東京都豊島区高田、東京都荒川区町屋、神奈川県横
浜市六浦などが伝承地として知られています。また、落語の「道灌」としても広く知られ、
如何に道灌が江戸庶民に慕われていたかが分ると思います。
高田の説には続きがあり、蓑を求められた家の少女「紅皿」を後に江戸城に呼んで和歌の
友としたという話や、道灌が亡くなった後、紅皿は新宿区大久保に庵を建てて尼となった
といい、その紅皿の碑も残っています。
なお、話の原型になったのは、元文2年(西暦1739年)に、湯浅常山よって書かれ
た『常山紀談』の巻之一「太田持資歌道に志す事」のようです。
道灌の父・道真も扇谷上杉家・家宰として、馬上に打ち物取っては並ぶものなき武将で
あり、連歌の達者としても知られていたそうです。道灌自身も鎌倉の建長寺や足利学校に
学び、幼少から親譲りのずばぬけた秀才だったとようです。そのことを証明する話の一つ
として「将軍の猿」という逸話が残っています。
ときの室町幕府将軍、足利義政は一匹の猿を飼っており、人を見れば引っ掻くという乱
暴な猿でした。しかし、被害にあった多くの者達は、将軍の手前、我慢していたそうです。
あるとき、道灌は主君扇谷定正の名代として上洛し、足利義政のもとに伺候することにな
ったため、義政や近臣たちは、猿が名高い道灌を引っ掻く姿を、一目見ようと待ちかまえ
ていたそうです。ところが、道灌が入って来るやいなや、猿は小さくなって震えだし、道
灌の様子を見つつ、何度もお辞儀をする始末でした。皆は「さすがは道灌」と感嘆し、道
灌を今まで以上に一目置くようになったそうです。
実は、道灌はこれあることを予測し、密かに猿の守役に賄賂を送り、猿を借り受け、し
たたかに殴りつけた後、お辞儀をすると胡桃をやるといった方法で、手なずけてあったた
め、猿は道灌を見ると怯え、胡桃が欲しくてお辞儀をしていたという訳で、後にこれを知
った者達は、道灌の知恵に感心したそうです。
<極楽寺>
鎌倉唯一の真言律宗の寺で、建立したのは、北条義時の三男・重時です。重時は、執権を
補佐する連署まで務めた人ですが、政冶に執着することなく、出家してその邸に極楽浄土
の姿を現そうとして大寺建立を思い立ち、正元元年(西暦1259年)に造営を始めました
が、工事半ばの弘長元年(西暦1261年)に重時は亡くなりました。父の志を継いで完成
させたのは、その子・長時と業時です。
極楽寺の本尊は青涼寺式釈迦如来像で、土・日・祝日(8月を除く)のみ宝物殿を見学できます。また、
鎌倉二十四地蔵尊の20番目と21番目の導地蔵と日影地蔵、鎌倉三十三観音の22番目の如意輪観音が
あります。
開山は忍性で、最盛期には七堂伽藍を備え、大小49の支院があり、広大な境内に施楽院・
悲田院・療病舎などを建て、日夜多数の病人を収容し、貧者には無料で加療・施薬を行う
など、慈善救済の大事業を営んでいたそうです。
しかし、元弘三年(西暦1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、戦火でことごとく焼失
してしまい、今では昔の面影はありません。ただ、本堂前にある薬草をすり潰した石臼と
石鉢が、忍性の大事業を示しています。
忍性は、大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれ、死の床にあった母の懇
願により、16歳で大和国額安寺に入って出家し、行基ゆかりの竹林寺などで修行を重ね
てきましたが、自主的な出家ではなかったために、僧侶としての活動は決して熱心ではな
かったと云われています(『金剛仏子叡尊感身学正記』)。
忍性は、延応2年(西暦1240年)改めて叡尊の元で出家し直し、教学を学びなおしな
がら、常施院を設け、病人の救済などの慈善活動、悲田院を改修して非人救済を行うなど
の社会事業を行っています。建長4年(西暦1252年)には本格的な布教活動のために
常陸国に住み、鎌倉の北条重時ら北条氏の信頼を得て、文永4年(西暦1267年)には
鎌倉へ移り、極楽寺を中心に活動を行うようになり、北条重時の葬儀も司っています。
新田義貞の鎌倉攻めは、かねてから幕府に不満を持っていた上野国(群馬県太田)の義貞
が後醍醐天皇の幕府追討の令旨により、元弘3年5月8日、上野国の氏神明神社前で挙兵
し、越後の新田一族と甲斐源氏と合流した後、鎌倉幕府のある鎌倉目指して関東平野を南
下して始まりました。
5月11日、幕府は、新田義貞挙兵の報を知り、急ぎ軍勢を召集し小手指が原(埼玉県所
沢)で新田軍を迎え撃ちましたが、新田軍はこれを破り、さらに南下して、5月12日、
久米川の幕府軍も撃破、幕府軍は多摩川の分倍が原まで後退しました。
5月15日、幕府軍が続けて敗れた報を知り幕府は、北条高時の弟・泰家を大将として、
一万騎の幕府軍が応援に派遣しましたが、一方の新田軍も、途中で呼応した武士を集め、1
万数千騎となっていました。
新田軍と幕府軍は分倍が原で初めて大軍同士で激突しました。多摩川を背にして後がない
幕府軍は決死の勢いで反撃し、新田軍は入間川まで後退しました。しかし、新田軍に味方
する武士が増え、翌16日、新田軍は幕府軍を圧倒し、再び南下して分倍が原で激しい戦
闘となり、双方で数千人の死傷者が出たほどでした。
新田軍は、勝ちに乗じてさらに関戸河原にまで南進した結果、ついには幕府軍が敗れ、北
条泰家は、わずか500騎を引き連れて辛くも鎌倉へ逃げ帰りました。
新田軍は幕府軍を追って鎌倉に迫りましたが、鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然
の要害であり、鎌倉へ入るには極楽寺坂、大仏坂、化粧坂、亀ケ谷、小袋坂(巨福呂坂)、
朝比奈、名越切通しの7ヵ所だけで、この7ケ所に鉄壁の要塞を築きました。戦いは切通
しの攻防が中心となり、特に、化粧坂、極楽寺坂は激戦でした。
極楽寺坂の切り通しは、京と結ぶ街道で、新田義貞は自ら、2万騎を率いて深沢・津村を
経て、腰越に迂回しました。5月21日、極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上に
は大船を浮かべ、一部の隙もありませんでした。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数
の死者がでたため、新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿いからの
攻略に切り替えざるを得ませんでした。
5月22日、稲村ガ崎の海岸沿いに向かった新田軍は、
『太平記』の一節によると、大将
の新田義貞が、黄金の太刀を海中に投じ、海の龍神に一心に「潮を万里の外へ退け、道を
三軍の陣に開かせ給へ」と祈念すると、その夜、岬に大きな砂洲が出現したため、勇んで
鎌倉へ突入、鎌倉は火の海となり、東勝寺で北条一族自害、150年続いた鎌倉幕府は滅
亡しましたと伝えています。
<高徳院>
江ノ電長谷駅で降り、長谷の交差点から大仏通りに出て、北に5分ぐらい歩くと、こんも
りした木立の茂みが見えてきます。そこが鎌倉の大仏として親しまれている高徳院がです。
正式には大異山高徳院清浄泉寺といい、開山、開基とも不明で、本尊が国宝の阿弥陀如来坐
像(鎌倉大仏)の浄土宗の寺です。大仏は青銅製で、台座を含め、高さは 13.35 メートル、
顔の長さは2.35 メートル、目の長さは1メートル、耳の長さは1.9メートル、重量は約1
21トンあります。東国にも奈良の大仏と同じような大仏を造ろうとした源頼朝の遺志を
受け継ぎ、稲多野局が計画したといわれています。
「吾妻鏡」によれば、大仏は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時の晩年に、淨光という僧が
諸国を勧進して浄財を集め、暦仁元年(西暦1238年)3月から大仏と大仏殿を造り始
めました。北条泰時も建立の援助を行い、大仏開眼は5年後の寛元元年(西暦1243年)
6月11日に行われました。しかし、泰時は前年の6月に62歳で亡くなっていました。
この時、建立された大仏は木造であり、4年後の宝治元年(西暦1247年)に暴風雨の
為に倒壊したため、あらためて建長4年(西暦1252年)から青銅の大仏が鋳造されま
したが、原型作者も棟梁の鋳物師も明らかになっていません。
大仏殿は建武二年(西暦1335年)と志安二年(西暦1369年)の台風で倒壊し、更
に、明応四年(西暦1495年)の大津波で押し流され、以来、現在の様な露座の大仏と
なってしまいました。津波で寺も流され、長く廃寺と化していましたが、江戸時代の正徳
2年(西暦1712年)に、増上寺の祐天上人が豪商野島新左衛門の協力を得て、寺と大
仏を復興し、現在に至っています。大仏は体内が空洞になっており、中に入ると頼朝の守
り仏や祐天上人像を見学することができます。
なお、大仏と大仏殿のCG復元は、東京工業大学名誉教授・平井聖氏の監修により、(株)
キャドセンターが行ったもので、あくまで想定という前提のもとに創作されたものだそう
です。
境内の奥には、もとは朝鮮李王朝の月宮殿だったと言われている観月堂があり、徳川秀忠が大
切にしていた聖観音が安置されています。この観月堂の右に与謝野晶子の歌碑が立っています。
ただし、大仏は阿弥陀如来で、晶子が釈迦如来と間違えて詠んだという、エピソードも残っ
ています。
「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな」(
『恋衣』より)
与謝野晶子が情熱的な女性であることは、皆様のご存知のとおりで、与謝野鉄幹と出合
い、大阪・堺・浜寺の海岸で恋に落ちると、鉄幹が創設した東京新詩社に加わり、翌年、
鉄幹との結婚のために上京したとのことです。
結婚後は、明星派の中心的歌人として浪漫的夢幻的作品を数多く発表し、近代短歌に大
きな影響を与えています。明治34年(西暦1901年)に出版された『みだれ髪』は、鉄
幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげたものとして、当時の若い世代の圧倒
的な支持を受けています。
女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に、女性の官能をおおらかに謳
い、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立、伝統的歌壇からは反発を受けましたが、世間
の耳目を集めて熱狂的な支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすなど、終には、自作の短
歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれるようになりました。
また、日露戦争で日本全体が戦意高揚している中で、女性の立場から反戦の意思を表わし
た「君死にたもうことなかれ」という詩を発表したことでも有名です。この詩は、『平民新
聞』に掲載されたトルストイの日露戦争論『なんじら、悔いあらためよ』の盗作とも指摘
されていますが、後年、「真紅の溜息」などで有名な詩人の深尾須磨子などは、「命がけ、
空前絶後の行為」と絶賛しています。
他方、家庭では鉄幹の妻として、また11人の子の母として献身、平塚らいてうを相手に
母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張し、後
の女性解放思想家山川菊栄に、保護の平塚、自立の与謝野と言われています。
大正期には教育問題への発言も多く、大正10年(西暦1921年)からは文化学院の
創設に参画して自由教育にもつくしています。
なお、晶子の活動は、『小扇』『舞姫』等の華やかにも美しい浪漫詩人としてのヒューマ
ニズムあふれる短歌だけに留まらず、現代語訳「新々訳源氏物語」のような古典研究や、
『労
農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義批判の評論感想を展開する等、多様
な分野に及んでいます。
<常楽寺>
臨済宗建長寺派の寺で、開基は鎌倉幕府三代執権北条泰時、開山山は蘭渓道隆、本尊は阿
弥陀三尊です。
『吾妻鏡』の嘉禎三年(西暦1237年)十二月十三日条によると、泰時が妻の母の追善
供養のため、山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに一つの梵宇を建立し、退耕行勇
が供養の導師をつとめたとあります。
これが常楽寺の開創で、泰時が仁治三年(西暦1242年)六月、60歳で他界すると、
この粟船御堂に葬られ、翌寛元元年の一周忌法会も同じ御堂でとり行なわれました。この
とき、大阿闍梨の信濃法印道禅なる僧が導師をつとめ、北条時頼をはじめ、生前泰時公と
親しかった武士や一般の人々が弔意に参じ、曼荼羅供の儀を行いました。
建長六年(西暦1254年)の十三回忌も当寺でとり行なわれ、真言供養が巌修されてい
ますので、草創期の当寺は密教的な要素が濃かったようです。
記録上で、“常楽寺”の名がはじめて見えるのは、宝治二年(西暦1248年につくられた
梵鐘の銘文にからで、その文中に「家君禅閣墳墓の道場」
、
「足催座禅の空観」とあるので、
この頃には禅寺としての性格を持つ道場となっていたようです。
この五年の間に蘭渓道隆と江ノ島弁財天にまつわる伝説も伝えられています。道隆を心か
ら尊崇した江ノ島弁財天は、師の給仕役である乙護童子を美女に変身させてからかったそ
うです。それとは知らない童子は、いつものようにせっせと師に仕えていましたが、傍目
には道隆が美女をはべらせて寵愛しているようにしか見えませんでした。
当然、土地の人々の口はうるさくなり、美女と道隆の話でもちきりとなり、ことの由を知
った童子は、身の潔白を示そうとして、にわかに白蛇と化し、仏殿前の銀杏樹を七まわり
半めぐり、仏殿のかたわらにある色天無熱池を尾でたたいたということです。色天とは欲
界のよごれを離れた清浄な世界という意味であり、無熱池とは、徳が最もすぐれていると
される阿耨達龍王が住み、炎熱の苦しみのない池のことをいうそうです。
北条泰時の墓は仏殿の背後にあり、かたわらには鎌倉時代の高僧、大応国師(南浦紹明)
の墓もあります。裏の粟船山の中腹には、木曽塚・姫宮塚があり、木曽義高と泰時の女の
霊を祀ったそうで、『鎌倉攬勝考』によると、頼朝と義仲の不和により、武州入間川河原で
殺された義高の首を、延宝八年(西暦1680年)に常楽寺に移し、塚を封じて木曽塚と
称したと伝えられています。
泰時は建保元年(西暦1213年)実朝の学問所筆頭となり、承久の変(西暦1221
年)では幕府軍の大将として出陣、乱の平定後は京都に留まっていましたが、元仁元年(西
暦1224年)父義時が没したため、鎌倉へもどり、執権となって合議制による政治を始
めました。
貞永元年(西暦1232年)には由比ガ浜に和賀江島を築き、更に「御成敗式目」を制定
し、武家法の規範を示しました。
泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと言われています。無
住道暁が弘安2∼6年(西暦1279∼1283年)にかけて編纂した仏教説話集『沙石
集』にも「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人であ
る」と評し、裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほ
どに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝えるなど、すぐれた人格を示す
エピソードを多く伝えています。
エピソードの一つとして「九州に忠勤の若い武士がおり、父が困窮のため所領を売り払
う破目に陥ったため、苦心してそれを買い戻してやった。しかし、父は所領を全て弟に与
えたため、兄弟の間で争論が起り、泰時の下で裁判となった。泰時は、初め兄の方を勝た
せたいと思ったが、弟は正式の手続きを経ており、御成敗式目に照らすと、弟に勝訴の判
決を下さざるを得なかった。兄は結婚しおり、非常に貧しく暮らしていた。ある時、九州
に領主の欠けた土地が見つかったので、泰時は兄が不憫でならず、これを与えた。兄は「こ
の2,3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事も十分に食べさせ、
いたわってやりたいと思います」と感謝を述べた。泰時は「立身すると苦しい時の妻を忘
れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だ」と言って旅用の馬や鞍の
世話もしてやった。」という話が沙石集に載っています。
常楽寺は、JR大船駅から東側へ約1.5キロの場所にあるため、鎌倉を訪れる観光客も
ほとんど寄ることのない寺ですが、江ノ電バス(鎌倉駅行又は鎌倉湖畔循環)で四つ目の
バス停「常楽寺前」にあります。ちょっと寄り道には不便でしょうか。
<長谷観音>
正式には、浄土宗鎌倉海光山慈照院長谷寺と言い、開基は藤原房前、開山は徳道上人で、
天平8年(西暦736年)の創建です。長谷寺は、観音山の裾野に広がる下境内と、その
中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙
智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっています。
本尊の十一面観音は、高さ 9.18mの木造りの仏像で日本最大と言われ、長谷観音の名で
知られています。この像は、大和の長谷寺の観音と同じ楠の一木造りで、養老5年(西暦
721年)に大和長谷寺と同じ木から一緒に作られたと伝えられています。
昔、大和国初瀬の河上に、近江国三尾の山から楠の巨木が流れ着き、徳道上人がこの霊木
を礼拝していると、稽文会・稽主勲の二人の仏師が現れ、三日間で二体の巨大な観音像を
制作したと言います。このことが文武天皇の耳に達し、藤原房前を勅使として礼拝させ、
導師に行基菩薩を迎えて、天平五年、開眼供養を修し、木の本で造った尊像を大和国初瀬
寺(現在の長谷寺)に祀ったとのことです。
その時、行基菩薩は、木の末で造った尊像に向かい、「初瀬に二体奉安すると、衆生はい
ずれを信じるべきか迷ってしまう。いずれかの有縁の地に移ってほしい」と祈り、木の末
で造った尊像を海に流したところ、16年後の天平8年(西暦736年)6月18日夜、
相模の国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたと言います。
その後、鎌倉に移され、創建した長谷寺の本尊として納められたと言われています。長谷
寺は、当初真言律宗でしたが江戸初期から浄土宗となっています。
また、長谷寺には「厄除阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来坐像があります。伝承によると、
鎌倉幕府初代将軍である源頼朝が、自身42歳の厄除けのために建立したものと言い、現
在ではその伝承に因み、厄除の阿弥陀様として親しまれています。ただし、この像は、も
ともと長谷寺で造立されたものではなく、その銘文によれば、現在は廃寺となった誓願寺
の本尊であったということが分っています。
開基の藤原朝臣房前は、大化の改新で功のあった藤原氏の祖・鎌足の孫で、藤原不比等の
次男で、藤原北家の祖と云われ、万葉集には藤原北卿と記されています。
大宝3年(西暦703年)に東海道巡察使に任じられ、和銅2年(西暦709年)に東海
道・東山道を検察しています。これが東国との繋がりの始まりで、天平4年(西暦732
年)には東海・東山二道節度使に命じられ、更に東国との結びつきが増したようです。
歌に関しては、大伴旅人・山上憶良らと親交があったようで、天平年間には、大宰府に赴
任していた大伴旅人より琴と「梧桐日本琴の歌」を贈られ、これに対し答歌を返していま
す。また、かの有名な山上憶良の「貧窮問答歌」は、一説に房前に「謹上」されたものと
云われ、万葉集に載せられている「藤原卿の歌」7首の作者だとも云われています。
藤原房前は、能の「海人」に登場します。
物語は、亡き母が讃岐志度の浦の海人であると知って、房前が従者を伴って訪れ、通りか
かった一人の海人と会い、そこで海人が昔のことを語る形で進みます。
昔、唐の皇帝より贈られた三つの宝のうち、
「面向不背の玉」がこの沖で龍宮へ奪われ、
それを取り返すため、身分を隠して淡海公(房前の父・不比等)がこの浦へ下られ、海人
との間に男子をもうけ、その子を世継ぎにすると約束したこと、命懸けで玉を取り戻した
様子を詳しく身真似を交えて見せ、やがて、私こそあなたの母の亡霊であると明かし、波
の底に消えます。
房前は浦人に詳しく次第を聞き、亡き母の残した手紙を読み、十三回忌の追善供養を営む
と、法華経の経文にあるように、龍女となって成仏した母が現れ、法華経の功徳を讃え、
成仏出来た喜びを舞うというものです。
なお、「面向不背の玉」以外の二つの宝、「華原磬(国宝)
」と「泗浜石」は、今も奈良・
興福寺にありますが、結局、「面向不背の玉」は龍宮より取り戻すことはできなかったよう
です。
開山の徳道上人は、奈良時代、斉明大皇の2年(西暦656年)播磨国揖保郡に生まれ
ましたが、62歳のとき、一度、病のために冥土の閻魔大王の御前に呼ばれ、生前の罪業
によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、観音信仰をもって仏心の開花させ
るよう命じられ、起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されたそうです。
閻魔大王のもとから戻られた徳道上人は、観音信仰を広めようと三十三箇所の観音霊場を
設け、巡る西国三十三箇所を創始され、江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、関東の坂
東三十三箇所や秩父三十四箇所と併せて日本百観音と言われるようになっています。
<浄妙寺>
浄妙寺は、臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第五位、山号は稲荷山といい、文治4年(西
暦1188年) 退耕行勇を開山に、当初は真言密教の寺院として創建され、極楽寺と称し
ていました。その後、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職になってから禅刹に改め、次いで寺
名も浄妙寺と改称するに至りました。
五山の制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五
つの寺を定めたことに由来します。
鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(西暦1191年)に、南宋から帰国した僧侶栄西ら
によって伝えられた禅宗は、南宋にならい五山制度を導入、鎌倉の主な禅刹を五山と呼ぶ
ようになりました。鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、
それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したといわれています。
その後、度々の改定を経て、至徳3年(西暦1386年)足利義満のとき、五山の上に南
禅寺がおかれ、京五山および鎌倉五山が定められ、元和元年(西暦1615年)にも徳川
幕府が五山十刹に対し法度を出しています。
開創の足利義兼の父足利義康は、祖父で八幡太郎源義家の子の義国と同様、鳥羽法皇の北
面の武士として仕え、左衛門尉に、そして保元の乱(1156)では、後白河天皇方とし
て平清盛三百騎、源義朝二百騎と並んで百余騎を率いて戦い、その功によって昇殿を許さ
れ、従五位下検非違使に叙任した関東武士団にとっては格の違う名門です。
又、頼朝の父、源義朝と同様に熱田大宮司季範の娘(孫娘?)を妻とし、足利義兼が生ま
れました。従って頼朝にとっては父方では遠い親戚でも母方では従兄弟に当たり、更に頼
朝の妻政子の妹を妻にし、源氏一門、頼朝の「門葉」として幕府において頼朝の一族に次
ぐ高い席次が与えられていました。
しかし、鎌倉幕府初期の権力闘争で頼朝の兄弟や、甲斐源氏が粛正されていく中で、足利
義兼も頼朝に匹敵する名門なるが故に極めて危ない立場にあったようです。
足利義兼は、後年、気が触れた真似をしたり、出家したりして北条得宗家から足利家を守
るべく、汲々としていたようです。
その後も北条得宗家と姻戚関係を結び、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北
条義時(法名得宗)・泰時父子の覇業達成に貢献しましたが、常に、反北条得宗家の陰謀に
巻き込まれるリスクを背負い、4代泰氏の突然の出家や、6代家時の突然の自害などによ
って、辛くも家を保っています。
もし、その努力がなければ、浄妙寺の中興開基とされる足利貞氏も室町幕府を開いた足利
尊氏も存在しなかったと思われます。
開山の行勇律師は、相模国酒匂(小田原市)の人で、初名は玄信、荘厳房と称し、初め
真言密教を学び、養和元年(西暦1181年)に鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福
寺の別当を経て、足利義兼によって開山に迎えられました。
その後、正治元年(西暦1199年)に、禅宗とお茶を日本に伝えた栄西が、鎌倉に来
ると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は寿福寺二世住持となったそうです。
頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望さ
れ、頼朝そして政子、実朝と、源氏一族あげて厚く帰依したと云われています。
実朝が暗殺のされた翌日、実朝の御台所が出家する際の戒師も努めており、吾妻鏡にも
「辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師たり」と伝えられています
以上の経緯からか、当初は真言宗の寺院でしたが、開山行勇律師の思いを辿るように、
正嘉年間(西暦1257∼9年)のはじめに浄妙寺と改名し、臨済宗となったようです。
浄妙寺には、鎌倉散策で疲れた足を休めることのできる「お茶席」と「レストラン」の店
があります。
一つは「喜泉庵」。平成三年に復興、開席されたもので、天正年間(西暦1500年代)、
境内に、僧が一同に茶(抹茶を薬として)を喫する「喜泉」と掲げられた茶堂に因み「喜
泉庵」と銘々されました。当寺を訪ねて来る方々に杉苔を主とした枯山水の庭園を楽しみ
ながら、ゆっくりと抹茶を喫することができるようになっています。
もう一つは、足利直義創建の大休寺跡地にある「石窯ガーデンテラス」。とある伯爵家が
浄妙寺境内の一部を譲り受けて大正11年(西暦1922年)に屋敷を建てたのだそうで
す。その後、持ち主は転々とし、一時は鎌倉市の所有になったものを浄妙寺が譲り受けた
と云われています。参拝に来られる方々の憩いの場所として、季節の庭を眺めながら、石
窯で天然酵母を使用して焼き上げられたパンを頬張りながらの食事、ティータイムを楽し
むことができます。
<成就院>
成就院は真言宗大覚派の寺で、正式名称は普明山法立寺成就院、開基は鎌倉幕府第三代
の執権の北条泰時で、弘法大師が護摩供養をした地に、不動明王を本尊に、本堂は公開さ
れていませんが、弘法大師の像や千手観音、大日如来、地蔵菩薩なども祀られています
本堂裏山は、霊仙山(りょうぜんざん)と呼ばれ、鎌倉時代には真言律宗極楽寺の支院
「仏法寺」があり、忍性が雨乞いをしたと伝わる池とともに寺の遺構が発掘され、また、
五合枡(ごんごうます)と呼ばれる枡形遺構があります。
寺の建立は、承久元年(1219年)で、北条泰時が京都より高僧を招き、北条一族の繁
栄を願ったと言われています。しかし、新田義貞の鎌倉攻めの戦火によって寺は焼失し、
奥の西が谷に移っていましたが、江戸時代の元禄期(西暦 1688年∼1703年)に再び
この地に戻り、僧祐尊により再興され現在に至ったと云われています。
本尊の不動明王は、真言宗の本尊・大日如来の命をうけ、右手に剣、左手に羅索をもち、
背後には火焔を背負い、顔は忿怒の厳しい姿をされ、剣と羅索で、人々のもつ迷いを裁ち
切り、更に火焔で迷いを焼き清め、慈悲の眼で人々を見守っていると云われています。
縁起によると、平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師がこの地を訪れ、数日間に
渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したと云われています。
護摩とは、サンスクリットのホーマを音訳して書き写した語で、元来、インドでは紀元前
2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼で、紀元前後5世紀ご
ろに仏教化したと言います。護摩で、炉に細く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の
供物を投げ入れて行なう祈祷は、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあず
かろうとする素朴な信仰から生まれたものだそうです。
護摩には、火の中を清浄の場として仏を観想するために、護摩壇に火を点じ、火中に供物
を投じ、次いで護摩木を投じて祈願する外護摩と、自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火
で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけて焼き払う内護摩とがあるとのことです。
開基の北条泰時は、北条義時の嫡男で、承久3年(西暦1221年)の承久の乱で、朝廷
軍をやぶり、六波羅探題の初代北方長官に就任、元仁元年(西暦1224年)父義時の死
によって執権に就任しています。
承久の乱では叔父北条時房らとともに東海道の大将軍として大軍を率いて攻め上り、杭瀬
川(くいせがわ:美濃)や宇治川(山城)で後鳥羽上皇方の軍を破り、京都を占領、さら
に時房とともに六波羅探題として都にとどまり、乱後の処理に当っています。
北条泰時は、執権に就任すると、貞永元年(西暦1232年)に御成敗式目(貞永式目)
を制定し、執権を補佐する連署を置き、また、評定衆を設置するなど幕府の制度の整備を
行なっています。評定衆の設置は、幕府政治が独裁から合議に転換したことを意味するも
のであり、ここに執権政治が確立したと云われています。
御成敗式目は、全51ケ条からなる武家社会にとって最初の成文法で、この法令が制定さ
れるまでは、貴族社会に対する法律や土地・荘園に関する法律だけで、武士に対する明確
な法律はありませんでした。
この法律は、幕府運営と武士達の統制・裁判のための基本法として、源頼朝以来の慣習や
不文法を基に、土地、財産、道徳、守護・地頭の職務内容、裁判、家族制度などを比較的
分かりやすい平易な言葉で書いて、全国各地の武士階層に広く周知徹底させています。
この基本方針は、後の武家社会に強く影響を与え、室町幕府や戦国時代の各大名達の法律
にも受け継がれ、江戸時代には、寺小屋など教科書としても使われたそうです。
また当時、畿内の大寺院は強大な勢力を誇り、朝廷が対策に苦しんでいた興福寺などの大
寺院の横暴に対し、北条泰時は、僧徒の武装禁止を求め、寺院側の不当な要求に対しては
抑圧の態度で臨んでいます。嘉禎1∼2年(西暦1235∼6年)の石清水八幡宮と興福
寺との紛争では、朝廷に代わって収拾に乗り出し、前例を破って大和に守護を置き、興福
寺僧の荘園に地頭を置くなどの強圧策によって、興福寺に収拾案を認めさせています。同
じ時期の延暦寺と近江守護佐々木氏との紛争でも同様の収拾案を認めさせています。
一方で、寛喜2∼3年(西暦1230∼31年)頃に起きた大飢饉では、倹約を命ずる
とともに、出挙米(すいこまい)の貸付け、年貢免除などを行い、領民の救済にも努めてい
ます。
成就院は、長谷駅・極楽寺駅どちらからも徒歩10分程のところにあり、参道の石段は、
人間の煩悩の数と同じ108段で、石段の上から由比ガ浜の海岸が一望できます。
また、般若心経の文字数と同じ262株の紫陽花が植えられていおり、梅雨の季節には、
紫陽花が咲き誇る明月院と並ぶ鎌倉の紫陽花の名所です。
<長寿寺>
宝亀山長寿寺は建長寺の末寺で、開基が鎌倉公方足利基氏、開山は古先印元で、尊氏の
菩提を弔い建立したと伝えています。石段を登ると茅葺きの山門、奥には足利尊氏坐像と
古先印元坐像をまつる観音堂があり、背後には尊氏の墓と伝えられる五輪塔があります。
しかし、足利尊氏が、建武三年(西暦1336年)に御教書を長寿寺に下付し、長寿寺
を諸山に列したとありますので、長寿寺の創建はそれ以前と言う事になり、また、足利尊
氏の法名が関東では「長寿寺殿(関西では等持院殿)」と称することから、開基が足利尊氏
だと言う説もあります。
一方、長寿寺の開基は足利基氏で、基氏は父の足利尊氏の菩提を弔うため、その邸跡に
長寿寺を創建したと言う説もあります。その場合、創建年次は延文三年(西暦1358年)
と言うことになります。
開山の古先印元は、永仁元年(西暦1294年)薩摩に生まれ、八歳の時、父に伴われて
円覚寺を訪れ、桃渓禅師に師事、桃渓没後の文保二年(西暦1318年)に中国に渡り、
天目山の中峰国師に教えを請い、在元九年、嘉歴二年(西暦1327年)帰国しました。
その後亡くなるまでの四十余年の間、恵林、等持、真如、萬寿、浄智、建長等のお寺の住
職を勤め、更に、奥州の普応、房州の天寧、舟州の願勝、信州の盛興、武州の正法、江州
の普門、摂州の宝寿等の創建したと言われています。
開基の足利基氏は尊氏の第四子で、基氏は関東の地を固めるために父尊氏の命により鎌倉
に駐屯、関八州及び奥羽を鎮撫しました。しかし、貞治六年(西暦1367年)病に冒さ
れ円覚寺僧義堂で二十八歳の若さで亡くなりました。
境内には尊氏の束帯像を祀るお堂があり、像の腹中には、京都・等持院から招来した尊氏
の歯が納められているといいます。また、尊氏の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんと
う)もあります。一説によりますと境内の南側一帯が尊氏の屋敷跡だといいます。
しかし、屋敷跡は岩屋堂付近とか、浄明寺地区東南などという説もあり定かではありませ
ん。
室町幕府は、応仁の乱がきっかけで滅亡に向かう訳ですが、鎌倉はそれ以前の享徳4年(西
暦1455年)、鎌倉の主となっていた足利成氏が公儀をないがしろにしたという理由によ
り、幕府は駿河の今川範忠を大将とする大軍が鎌倉征伐に向かいました。
鎌倉大草紙 (群書類従)によれば、
「御所を初めとしてことごとく焼き払らわれ、尊氏から
成氏に至る六代の相続の財宝もこの時みな焼亡し、田畠荒れ果てる。まことにあさましき
次第也・・・」との記録が残っています。
長寿寺と「茶屋かど」のお店にはさまれた道が、鎌倉七切り通しの一つである亀ヶ谷坂で、
薬王寺や海蔵寺に通じています。
亀ヶ谷坂の名の由来は、昔、建長寺の大覚池の亀が、外の世界をみたいと抜け出し、この
坂を上り始めたのですが、あまりの急坂で、途中で引き返してしまったため、亀返坂と呼
ばれるようになり、いつしか「亀も登れないほどの急坂」亀ヶ谷坂となったそうです。
鎌倉幕府を倒した新田軍が、亀ヶ谷切通しを通らず、巨福呂坂へ向ったのは、おそらく、
亀ヶ谷坂の防御が堅固であり、また、巨福呂坂よりも急坂の難所だったのかもしれません。
開通時期は不明ですが、頼朝が鎌倉入りしたときには、既にあったと云われています。治
承4年(西暦1180年)石橋山の合戦で敗れた源頼朝が、安房で再起、大軍を率いて鎌
倉入りした折、北から鎌倉へ入る道はこの亀ヶ谷坂だけだったそうです。頼朝はこの坂を
通り、父義朝の旧邸(現寿福寺)の前を経て鎌倉へ入り、由比ガ浜の八幡(元八幡)に向
かったということです。
「吾妻鏡」によれば、仁治元年(西暦1240年)に北条泰時が整備したことが記されて
おり、亀ヶ谷坂がかつての要路であったことを示す標識も立っています。当時は、深く岩
盤を切込んだ道に木々が両側から枝を張り、急勾配に加え、陽光の届かない湿気を帯びた
険しい場所で、冷気が漂い、鎌倉石がむき出しになっていて、両側の濡れた岩肌の下では
赤いはさみのサワガニが遊んでいるような場所だったそうです。
急勾配のこの坂は、今でこそ舗装されていますが、最近でも崖崩れあり、歩きにくいこと
には変わりがない道です。崖崩れ以来、自動車の通行は禁止されています。
切通し沿いの長寿寺石垣の石には、
「右円覚寺通」の文字が刻んだものがみられ、かつて
の標識の石が、そのまま、石垣に使われていると云われています。なお、亀ヶ谷は扇ヶ谷
の古称で、鎌倉時代末頃から、扇ガ谷の名が、使われるようになったそうです。
<覚園寺>
参道は短いながらも手つかずの自然が残されており、境内も鎌倉の地形の特色である尾根
と尾根の間に深く入り込んだ谷を利用し、樹木が多く、自然環境が良好に保持されて鎌倉
時代の風情を残した静寂な所です。
山号は鷲峰山、開基は北条貞時、開山は智海心慧、本尊は薬師如来で、元々、鎌倉幕府二
代執権北条義時が建保6年(西暦1219年)に建てた薬師堂を永仁元年(西暦1296
年)に北条貞時が、元寇襲来がないことを祈り、寺に改めました。近代以降、真言宗寺院
となっていますが、元来は浄土、真言、律、禅の四宗兼学の道場であったそうです。
覚園寺は、鎌倉幕府滅亡の年である元弘3年(西暦1333年)、後醍醐天皇の勅願寺と
され、建武の親政後の南北朝時代に入ると、足利氏も祈願所とし保護しました。
茅葺き寄棟造りの屋根を持つ本堂(薬師堂)は、建武4年(西暦1337年)の火災で本
堂が焼失しましたが、文和3年(西暦1354年)足利尊氏により再建され、天井の梁牌
には、再建した足利尊氏の直筆が残っています。また、江戸時代の元禄年間にも改築に近
い大修理を受けています。堂内の正面には鎌倉有数の巨像である本尊の薬師三尊坐像(国
重文)を祀られ、左右には日光・月光菩薩が、周りには薬師如来を守護する等身大の十二
神将立像がずらりと並んでいます。
入口右手に広がる竹林の中に建つ愛染堂は、明治38年(西暦1905年)に旧大楽寺本
堂を移築したもので、非公開ですが、鎌倉時代後期の作の愛染明王坐像や、阿閃如来坐像、
大楽寺の本尊であった不動明王坐像などが安置されています。
鎌倉時代に作られた黒く煤けた地蔵菩薩立像を安置する地蔵堂では、毎年8月10日の縁
日が開かれています。地蔵は「黒地蔵」や「火焚き地蔵」と呼ばれ、業火に焼かれる罪人
の苦しみを和らげようと、地獄の番人に代わり火焚きを行ったため、焼け焦げてしまった
といわれています。周囲には黒地蔵の分身とされる千体地蔵が並び、祈り続けると千体の
うち一体が亡くなった人の姿に変わるとも伝えられています。
『吾妻鏡』及び寺に伝わる『覚園寺縁起』によれば、建保6年(西暦1218年)7 月の
ある日、執権北条義時が鶴岡八幡宮における儀式を終え、疲労のために仮眠をとっていた
時、義時の夢に戌神将が現われ、「今年の儀式は無事に済んだが、来年の八幡宮の儀式には
参列してはならぬ」と義時に告げたといいます。
更に、翌建保7年(承久元年・西暦1219年)正月27日、鶴岡八幡宮における儀式の
折りに対し、北条義時は、白い犬の幻が通り過ぎるのを見て身の危険を察し、御剣の役(実
朝の剣を捧持する役)を命ぜられていたにもかかわらず、心身の不調を理由に御剣の役を
文章博士源仲章に譲り、自分は退出しました。この時の儀式で源実朝と源仲章は暗殺され
ましたが、北条義時は間一髪で難を逃れたといいます。
なお、この日、大倉薬師堂の十二神将のうち、戌神将像だけが堂内から姿を消していたそ
うで、薬師堂の建立は、北条義時がこのことに対するお礼であったといもいわれています。
しかし、この話は、北条義時が源実朝暗殺計画を隠すためのものではなかったかとの疑い
もあるようです。
覚園寺の山号となった鷲峰山付近は、現在、天園ハイキングコースで、覚園寺の手前にあ
る庚申塔などの石塔類が立っているところがハイキングコースの入口となっています。
ここから右手の尾根へ上がると大小様々なやぐらが集まっており、その付近のやぐらは
「百八やぐら群」と呼ばれています。実際には、200以上あるといわれ、百八というや
ぐら名はその数ではなく、除夜の鐘数などで知られる煩悩削滅を意味するものと考えられ
ます。
やぐらは中世の人のお墓で、平安時代から貴族達は極楽往生を願う阿弥陀信仰や末法の世
から人々を救う弥勒信仰にすがり、法華経の功徳を求めて法華三昧堂を建てるようになり
ました。鎌倉時代初期の武士の遺骨も法華堂に埋葬されていましたが、鎌倉は三方が山に
囲まれていて平地が少ないため、執権北条泰時の時代に法華堂を建てることを禁止する法
令が出されたため、やぐらが墳墓堂として造られるようになったと考えられています。
覚園寺は自由拝観ができません。毎日数回(10:00、11:00、12:00、13:00、14:00、15:00
但し、12:00 は土、日、祝日のみ、所要時間 50 分、例年 8 月中と年末年始は拝観中止)、寺
僧が境内を案内してくれます。
見所としては重要文化財に指定されている薬師如来と十二神将ほかの仏像、地蔵堂ややぐ
らなどの他に、神奈川の名木 100 選にも選ばれているイヌマキ、樹齢 40 年を超える美しい
樹形のメタセコイアがありますのでお忘れなくご覧下さい。
<大船観音寺>
原爆が投下されて65年、東西冷戦が終結した後も幾つかの国が核兵器の開発・保有に走
り、テロリストが核兵器を使う事態さえ心配な時代になって、広島、長崎に次ぐ被爆地が
生まれる恐れはまったく薄らいでいません。我国は唯一の被爆国として、ノーモア原爆の
声を上げ続けなければならないと思います。
鎌倉の入口、大船の駅から望むことの出来る、白衣の観音様の境内に、その思いを託し
た大船観音原爆の火の塔が建立されていることは、以外と知られていません。
大船観音寺は、曹洞宗大本山總持寺の末寺で、巨大観音像(大船観音)で知られていま
す。白衣をまとった観音像は、高さ 25.39m、幅 18.57m、重さ 1915tの大きなもので、頭上
には化仏といわれる阿弥陀如来像をのせ、胸に瓔珞(ろうらく)とよばれるかざりを付け、
額の中央にある黒子のようなものは、白毫(びゃくごう)とよばれ、光明の世界を照らすと
いわれています。
大船観音は、遠くから見ると、木立に囲まれた立像かとも思えますが、高台の上に建っ
ているのでそう見えるのであって、立像でも座像でもありません。中には地中に下半身が
埋まっていると堅く信じている人もいるようですが、実は胸像の観音様であり、背後から
は、鎌倉市内の戦没者の位牌が祀られている胎内に入ることができます。
大船観音は昭和4年(西暦1929年)、地元有志の発起により護国観音として築造が開
始され、昭和9年(西暦1934年)には輪郭が出来上がっていました。その後、資金難の
ために工事は中断、そのまま戦争に突入し戦局の悪化により、20年以上放置されてきま
したが、第二次世界大戦後の昭和35年(西暦1960年)4月に完成しました。
原爆記念碑は、昭和41年(西暦1966年)に結成された「神奈川県原爆被災者の会」
によって、被爆25周年の記念行事として、原爆犠牲者の慰霊碑建立の計画が立てられ、
大船観音の境内に建立されました。
昭和44年(西暦1969年)8月、会の関係者が、この計画を携えて、広島、長崎を訪
問して要請した結果、広島からは、原爆資料館のケロイド状瓦、爆心地西蓮寺の地蔵土台
石(約200kg)などを、長崎からは浦上天主堂にあった被爆石(約50kg)の寄贈をう
けました。
この年の10月に行われた第3回神奈川原爆被災者慰霊祭の日に、被爆者を初め遺族や、
被爆二世の人達が2つの重い石を橇に乗せ、コロを使って参道の坂道を観音境内まで引き
上げ、昭和45年(西暦1970年)2月には石碑の起工式が行われました。ケロイド瓦
など被爆遺品の一部は地下に埋蔵、同年4月の大船観音例祭の日に除幕式が行われました。
以後、毎年9月末に、この慰霊碑の前で神奈川県在住原爆死没者の「慰霊祭」と「追悼の
つどい」が行われています。
慰霊碑は、正面が西方の広島、長崎、ビキニの方を向き、周囲の放射状模様は原水爆禁止
のシンボルを、土台石は三つの原水爆投下を、その上に乗った湾曲した部分は、礎石を橇
で運んだ様子を表しております。
平和祈念塔は、昭和60年(西暦1985年)、被爆40周年を記念して建立されました。
「核兵器もない/戦争もない/平和な世界を」の碑文は、神奈川県内在住の被爆者から募
集した文の中から選ばれ、当時の神奈川県知事・長洲一二氏が揮毫されました。
原爆の火の塔は、原爆投下の数日後、広島市の書店の地下室に積まれた本の一部が燻って
いたのを発見し、自分のカイロにその火を移して九州の自宅に持ち帰られ、原爆の残り火
「平和の灯火」として、福岡県星野村役場で絶やすことなく燃え続けていたものを、被爆
45周年の記念として分火して戴き、建立しました。「火の塔」は花崗岩の造りで高さ 2.5
メートル、平成2年(西暦1990年)9月の慰霊祭で除幕式が行われ、それ以来「原爆
の火」は日夜燃え続けています。
大船観音は鎌倉市内にありながら、いわゆる観光地としての鎌倉エリアから外れた位置に
あります。そのため、拝観者数は鎌倉駅周辺の寺社の10分の1にも満たない状況ですが、
拝観者のうち6割は篤い観音信仰の方々です。
最近では、東南アジア(特に華僑・小乗仏教信者)からの参拝客も多く、奉納された灯篭
には多国籍な名前が並び、境内に掲げられた絵馬や参拝ノートには、アジア各国の文字が
目立つことも特色です。更に、アジアからの参拝客の増加を受け、台湾やスリランカなど
から僧を招いて法要を行い、各国の民族舞踊を奉納する『ゆめ観音 in 大船』という祭りが
開催されるようになりました。
<光照寺>
「北鎌倉八寺院」と云われ、唯一 JR 横須賀線北鎌倉駅より大船側にあるお寺です。
開山は一向俊聖上人、浄土宗西山派からの分れた時宗の寺で、正式名称は西台山英月院
光照寺と号します。観光ルートから外れているため、訪れる観光客はほとんどなく、落ち
着いた気持で見学することができます。
弘安年間(西暦1278∼1286年頃)の創建で、このお寺の場所は、一遍上人が遊
行中の弘安5年(西暦1282年)巨福呂坂から鎌倉へ入ろうとしたところ、時の執権北
条時宗の一行に出会い、警護の武士に鞭で打たれて追い払われ、やむなく木戸の外で踊り
念仏をしながら一夜を明かした、一遍上人法難の霊場といわれています。
一遍上人は、翌日「かたせの館の御堂」に現れ、数日後「かたせの浜の地蔵堂」に移り、
4ヶ月ほど滞在して、踊り念仏で民衆に仏教を広めています。
山門(中川藩江戸屋敷の菩提寺東渓院から移築)にはキリスト教の十字の紋(くるす紋)
が掲げられています。江戸時代には小袋谷近辺にキリシタン伝道所があった為、お寺の近
隣に隠れキリシタンが住んでおり、この近くの庄屋の古文書に「キリシタンの首が切られ
た」と書いてあったとのことです。
本堂は安政六年(西暦1859年)に建てられたものですが、本尊の阿弥陀如来と両脇侍
(観音菩薩・勢至菩薩)やその他の釈迦如来、薬師如来像、地蔵菩薩像、一遍上人像、一
向上人像は、全て室町時代に製作されたものです。くるす紋は、九州中川藩(キリシタン
大名)の家紋で、この山門は中川藩江戸屋敷の菩提寺「東渓院」のものを移築したとのこ
とです。また、本堂にはキリシタン燭台二基あります。
鎌倉時代は、仏教上の革命が行われた時代でした。それまでの仏教は、貴族を対象とし
て布教し、支持を得て発展してきた貴族仏教であり、武士や庶民など全く眼中になかった
ようですが、武士や庶民も、仏の力にすがって救われたいという信仰要求が強く、庶民の
仏教が必要となっていました。
武士が望んだ仏教は、座禅を組むことによって修行する「自力本願」の仏教でした。「座
禅を組む」という素朴な修行が、武士の心心身の鍛錬と通じるものがあり、武士の間に急
速に禅宗は広まっていきました。禅宗には臨済宗と曹洞宗の二つがあり、曹洞宗が地方武
士の支持を受けたのに対し、臨済宗は幕府の保護の下に発展していきました。
しかし、庶民が望んだのは、「念仏さえ唱えれば救われる」という「他力本願」の仏教で
した。親鸞が開いた浄土真宗の「南無阿弥陀仏」も、日蓮が開いた日蓮宗(法華宗)の「南
無妙法蓮華経」も、念仏さえ唱えれば救われる仏教ですし、一遍上人が広めた時宗も、踊
念仏などに特徴がありますが「南無阿弥陀仏」と唱えた点で、念仏仏教の一種です。
これらの鎌倉新仏教は、それまでの仏教のように大陸から渡ってきたものではなく、日
本人によって開かれた仏教として発展していきます。
浄土系と日蓮系との違いは、浄土系が現世を否定して来世の極楽浄土を求めたのに対し、
日蓮系は現世利益を求めた点です。そんなこともあって、浄土真宗は主に農村の間に、日
蓮宗は現世利益を求める町衆、商工業者の間に広まりました。
鎌倉時代に成立した新仏教で、日蓮宗も含め、祖師達は天台宗の総本山比叡山延暦寺で
修行しています。しかし、一遍上人はある意味、それまでの祖師達とちがって初めて『延
暦寺で必ず学ばねばならない』と言う呪縛から解き放たれた祖師とも言えます。
一遍上人はもともと伊予河野水軍の頭領格の家柄であったようで、保元の乱で活躍し、伊
予の大三島大社の神職をしていましたが、承久の乱で朝廷側についたために家は没落しま
した。後に還俗して一族の跡目を継ぎましたが、一族の所領争いなどが原因で再び出家し、
信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各
地を転々としながら修行に励み、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野
権現から、衆生済度のため夢告を受け、後に神勅相承として、時宗を開宗しました。
一遍上人の生涯を記した絵巻には、一遍の行状とともに各地の情景が展開されており、人
物を小さく描き、背景の寺社や山水の描写に大きな比重を置くなど、名所絵のような性格
をもっています。大和絵本来の手法を基調としながら、山水の構図、樹木や岩石などの描
法には宋画の影響も見られる作品で、当時の庶民の生活が分る貴重な資料でもあります。
そういう庶民宗教の性格なのか、江戸時代の隠れキリシタンにも寛大だったのでしょう。
江戸時代、征夷大将軍徳川家光によるキリシタン禁止令の後、九州中川藩から山陽道・東
海道を東北まで逃げ延びたキリシタンの一部が途中で力尽き、この鎌倉に隠れ住んだのか
もしれません。岩手県東磐井郡藤沢町には隠れキ切支丹の里があり、寛永年間には約3万
人の信者がいたとの記録もあります。藤沢町というのも偶然の一致でしょうか。
<円応寺>
円応寺は臨済宗建長寺派のお寺で、寺伝によると、開山は智覚禅師、創建は建長2年(西
暦1250年)と言われています。しかし、『鎌倉市史・寺社編』には、智覚大師は延慶二
年(西暦1309年)正月寂とあり、像立年代の建長三年(西暦1251年)から、かなり
の隔たりがあるので、開山説には無理があると論じています。
円応寺は、元々は、滑川の河口に架かる橋の付近に建っていた荒井閻魔堂と呼ばれるお
堂で、建長寺創建以前に建立されていた真言系の古刹でした。
『建長寺参暇日記』によると、
元禄16年(西暦1703年)12月22日の大地震と津波により、「本堂寺橋迄大破、勿論
閻王十王之尊像共不残破損」とあり、また、別の資料によれば、この地震と津波により、
潰滅的打撃を受けた円応寺は、その復興のために江戸で出開帳をしています。この時、口
の悪い江戸っ子たちは、見る翳もなく激しく傷んだ閻魔大王以下十王諸像の姿を見て、川
柳にして囃子立てたそうです。
円応寺が巨福呂坂の現在地に移ったのは、安藤東野の『遊相季紀事』によると、宝永元年
(西暦1704年)頃で、この時期に閻魔大王以下の諸像の修理が、終わっていたかどうか
は不明です。現在の建物は、こじんまりとした方三間のお堂ですが、内陣の奥中央に安置
されている閻魔大王と、左右の十王像や奪衣婆(だつえば)
・地蔵像等が鎮座する仏像群は、
仏教美術上貴重な存在です。
本堂には仏師運慶作と伝えられる閻魔王像が正面に据えられ、脇に十王像が並んでおりま
す。運慶は死にかけて冥土へ行き、冥土の閻魔様の前に引き出されましたが、「お前は仏像
を彫るのがうまいから生き返らせてあげる。お前に限らず人々が少しでも罪を犯さないよ
うに怖い私の姿を彫りなさい。」と言われ、娑婆に戻ってその姿を刻んだのがこの像だと言
われています。
鎌倉時代に流行った十王思想では、死後人間の罪業を裁くとされ、地獄の閻魔庁には、浄
波璃(じょうはり)という水晶の鏡があり生前の行いが映し出されるそうです。
人は死ぬと六道つまり天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の中のひとつへ行くことに
なり、生前の行いにより決定されます。まず、初七日に、秦広王が人の一生を巻物にして
見る書類審査を行い、二七日に、初江王が三途の川を、善人には浅瀬を、悪人には深瀬を
渡らせ、向こう岸にいる奪衣婆さんが川を渡って来た人の服を木の枝に掛け、枝のしなり
方により善人、悪人の判定をします。三七日には、宋帝王が邪淫(じゃいん) の罪、即ち、
浮気とか不倫とかの男女の不正関係を審査し、四七日には、五官王が愚痴ぼやき等の妄言
を裁きます。そして五七日に、閻魔大王が最初の判決を下します。六七日は、変成王で再
審をして罪の軽い人を少しでも救うようにします。七七日の四十九日に、泰山王が人の生
前の功罪に対して最終判決をします。
仏教は基本的に慈悲深い教えで、四十九日の法要をきちんと行うことで、罪の重い人を少
しでも救うようにします。更に、百ヶ日、一周忌、三回忌に生前に親交のあった家族や友
人が法要し、死者の隠れた善行を話し合うことは、平等王、都市王、五道転輪王が罪多き
人々を少しでも救えるようにする為だそうです。
円応寺には、地獄の閻魔さまを含めた地獄の十王(初江王は国宝館に寄託中)だけでな
く、三途の川で死者の衣を剥ぐという奪衣婆さんもおりますので、ここを訪れた時に、良
くお祈りをしておけば、閻魔さまの判決も少しは違うのではないでしょうか。
小泉八雲というと松江を連想しますが、明治23年(西暦1890年)に日本に上陸した
後、数カ月間横浜に滞在し、その間、八雲は鎌倉を訪れています。八雲はまず円覚寺を訪
れ、「ただ四角な梁木の端だけで、失望よりも寧(むし)ろ驚異を感じさせられる」と三門
の立派さに驚き、次の建長寺では、三門を「巨大、簡素、荘厳」と描写し、最後に、建長
寺と通りを挟んでほとんど向かいにある円応寺も訪れています。
円応寺については、お寺の番人が長い竿(さお)で祭壇の背後の幕を持ち上げると、恐ろ
しい顔を持つ閻魔大王が現れ、驚いて飛びのいたと書いています。小泉八雲の時代、線香
の香りのある薄暗い堂内において、閻魔大王を隠して脅かす、見せ物らしいことをやって、
人を引き寄せていたようです。
余談ですが、サザンの『愛の言霊∼Spiritual Message∼』の中で、「宴はヤーレンソー
ラン
て
呑めど What Cha Cha
由比ガ浜
鍵屋
閻魔堂
闇や
宵や宵や
新盆にゃ丸い丸い月も酔っちゃっ
たまや」と円応寺の閻魔堂が登場していること、ご存知でしょうか。
<安国論寺>
鎌倉時代は、仏教上の革命が行われた時代で、庶民が望んだのは、
「念仏さえ唱えれば救
われる」のが「他力本願」の仏教でした。その一つが日蓮の開いた日蓮宗(法華宗)です。
日蓮宗は「南無妙法蓮華経」と念仏さえ唱えれば救われる仏教で、現世利益を求めた点か
ら町衆、商工業者の間に広まりました。
鎌倉は日蓮に関するお寺や史跡が多いところですが、安国論寺はその名の通り、日蓮が立
正安国論を書いたお寺です。
安国論寺の山号は妙法華経山といい、創建は建長5年(西暦1253年)、鎌倉時代の初期
には北条時政の屋敷・浜御所があった所で、日蓮が前執権北条時頼に提出した『立正安国
論』を就筆したという岩穴、御法窟があることで有名です。
境内の霊場には御小庵、御法窟、南面窟、熊王大善神尊殿も富士見台などがあり、富士見
台は、日蓮上人が毎日ここから富士山に向って法華経を読誦されたと伝えられ、海岸と市
内が一望できます。また、日蓮が持っていた桜の杖が根付いたといわれる妙法桜があり、
本堂前のカイドウとサザンカの巨木と共に天然記念物に指定されています。
本堂に向かって後ろに不思議な像が立っています。漂う雰囲気はどことなく日本的では
なく、中心には彫られている顔も周りに彫られている像も、日本では、ちょと、お目にか
かれない、不思議な安らぎを感じる仏像で、インドの国宝のレプリカだそうです。
約二千五百年前に仏教はインドで生まれ、その後、日本に伝来してきました。中国・日本
などは、大乗仏教の教えを奉じていますが、御釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとし
ているのが小乗仏教だと云われています。鎌倉時代、法華経にこそ仏教の神髄があるとい
う信念に立って、仏教の改革を唱えて日蓮宗を開いた宗祖の教えに従い、仏教の原点に帰
るために、御釈迦様の口から説かれた小乗経典に仏教の神髄があるとし、インドの国宝の
レプリカを境内に建てたのでしょうか。ちょっと空想したくなる仏像です。
日蓮は貞応元年(西暦1222年)
、安房小湊(千葉県)に生まれ、比叡山、高野山など
で修行をつみ、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念をもって、日蓮宗を開き、鎌倉
入りしました。しかし、当時の鎌倉は禅宗や念仏宗の信者が多く、日蓮が辻説法を行い、
信者獲得のために他宗を激しく批判していくことで、他宗との軋轢を生んでいます。
安国論寺は、建長5年(西暦1253年)、安房から鎌倉に入った日蓮が松葉が谷に来て、
初めて草庵を結んだ所の一つで、20年の間この地で過ごし、その聖跡が寺となったと伝
えています。
当時の鎌倉は、地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発しており、「政治が正しくなければ
国も庶民の生活も安ずることが出来ない」「為政者が邪教を信じ、法華経をないがしろにす
れば 自界叛逆・他国侵逼難 となって日本は滅亡する」と、文応元年(西暦1260年)、
日蓮39歳の時、ここの草庵で『立正安国論』を著し、前執権・北条時頼に建白しました。
また、毎日、松葉が谷の草庵から小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い、
「煩
悩菩薩・生死即涅槃」「南妙法蓮華経」と唱え、人生のいろいろな悩みや執着はそのまま悟
りだと思い、法華経を信じることを説いて廻りました。
時頼は黙殺しましたが、民衆を厄災から救えるのは真の教えである法華経しかないと主張
した為、他の宗教の人達が怒り、日蓮の草庵を焼き討ちしたりしています。
その後、日蓮は伊豆へ流され、やがて許されて、鎌倉に帰りましたが、文永8年(西暦
1271年)再度『立正安国論』を幕府に差し出したことから 執権時宗によって処刑され
そうになり(瀧ノ口法難)ましたが、許され、最後は佐渡に流罪となりました。3年後に
許され、甲斐国(山梨県)身延山(久遠寺)に入っています。
蒙古軍が襲来してきたのは、その半年後の文永11年(西暦1274年)と弘安4年(西
暦1281年)の2度で、当時の鎌倉では、『立正安国論』の予言が的中したかのように言
われました。現在では、そのことを日蓮以上に、幕府も知っていたとされています。
日蓮が草庵を結んだとされる松葉ヶ谷には安国論寺のほかに妙法寺があります。安国論
寺には安国論を書いた御法窟や、松葉ヶ谷の法難の際に難を逃れた南面窟などがあります
が、妙法寺には松葉ヶ谷の法難の際に白猿が生姜をさしだしたという故事が伝わっており、
妙法寺の栞には「明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であ
ることは決定的であります」と書かれ、この2つのお寺は800年近く「こちらが日蓮の
草庵跡」と主張してきたようです。
なお、この2つのほかに、長勝寺というお寺もこの草庵跡を主張しています。
<妙法寺>
妙法寺も、日蓮宗の寺院です。日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷にきて、はじめて草庵を結んだと
いわれているところの一つです。日蓮の鎌倉での布教の拠点となったため、日蓮に反感を
持つ武士や僧らによって文応元年(西暦1260年)に焼き討ちされています。
草庵跡には、この妙法寺の前身、日蓮を開山とする本国寺が建っていました。本国寺は
なかなかの寺格だったようで、鎌倉幕府崩壊当時の四世日静聖人の父は上杉頼重、母は足
利氏の女、または足利尊氏の母方の叔父と伝えられています。
しかし、元弘3年(西暦1333年)に鎌倉幕府は崩壊すると、庇護者の足利尊氏は、
足利一族の京都転進にあわせ、興国6年(西暦13577 年)に六条楊梅に広大な寺域を得
て、鎌倉から本国寺を移転させました。京都大本山本圀寺の法華堂は、貞和元年(1345年)に、
松葉谷より京都に移されたものです。
その後、松葉ケ谷の跡地には、護良親王の遺子日叡によって、延文2年(西暦1357
年)に堂塔伽藍が復興され、幼名・楞厳丸にちなんで、楞厳山妙法寺と称し、山頂に父母の墓が建てられ
ました。
この本圀寺の移転の裏には後醍醐天皇と足利尊氏の確執があったようです。後醍醐新政下で
勅願寺となっていたのは日蓮宗の妙顕寺で、足利尊氏としても自分の息のかかった日蓮宗
の寺が必要になり、六条楊梅に広大な寺域を得て鎌倉から本国寺を移転させ、自分が擁立
した北朝・光厳天皇の勅定により、新たに帝の勅願寺としたようです。
日蓮宗も南北朝時代の騒乱を受け、妙顕寺派と本国寺派と日蓮の教えなどそっちのけで
対立していたのでしょうか。もし、そうであれば、現在の身延山久遠寺と創価学会の対立
も根は、南北朝時代に遡るのでしょうか。
日叡の父護良親王は、後醍醐天皇の皇子として、幼くして比叡山に入り、嘉暦元年(西
暦1326年)に得度、翌年には天台座主となり、法名を尊雲と称しました。鎌倉幕府の
倒幕をはかる父後醍醐天皇の意を受け、関東調伏の祈祷を行い、元弘の変が起こるや還俗、
比叡山の僧兵や、吉野、熊野、高野山の野伏・悪党を率いて奮戦しています。
元弘3年(西暦1333年)、鎌倉幕府滅亡後、隠岐島より京都へ還御した後醍醐天皇の
新政府のもとで、征夷大将軍・兵部卿となりました。しかし、足利尊氏と対立し、成良親
王の母である新待賢門院の讒言もあって、建武元年(西暦1334年)鎌倉に幽閉されま
した。建武2年(西暦1335年)
、鎌倉奪還をはかろうとする北条時行の中先代の乱が起
こり、足利直義が鎌倉を放棄して敗走するドサクサに紛れて、直義の命を受けた淵辺義博
によって殺害され、二十八歳の生涯を閉じました。
中先代の乱は足利尊氏によって鎮圧されますが、足利直義による護良親王暗殺が発覚し
たことによって、後醍醐天皇と足利尊氏の関係は険悪になり、新田義貞に足利尊氏征討が
下され、箱根竹ノ下で新田義貞と足利尊氏が激突、南北朝の動乱が始まることになります。
また、護良親王が幽閉されていたといわれる土牢跡には、明治天皇の勅命により、明治
2年(西暦1869年)
「鎌倉宮」が創建されています。ここにも護良親王の墓があり、宮
内庁が管理しています。
このように、墓が何箇所もある護良親王、果して足利直義の命を受けた淵辺義博によっ
て暗殺されたのでしょうか。源義経が蝦夷に渡り、中国大陸に渡って、チンギス・ハーン
になったという伝説がありますが、護良親王にも幾つかの伝説があります。
義博は直義の命を受けたものの、親王を殺さずに鎌倉由比ヶ浜から船で、陸前国牡鹿群
石巻に親王を逃したといいます。この種の伝説では、逃れた先が宮城県石巻市ではなく新
潟県長岡市小国町相野原であったり、神奈川県相模原市淵野辺であったりしています。
特に淵野辺は直義の命を受けて親王を暗殺したと言われている淵辺義博の領地で、淵野
辺の地名は義博の苗字である淵辺からきています。伝説が真実であれば「淵辺義博は実は
護良親王の忠臣だった」ということになります。
また、
『太平記』やその他史書の記述のとおり鎌倉で非業の最期を遂げたとする場合でも、
その寵姫・娘・妃・子供の後日談及び遺品・親王の首の行方を語るものも多く伝承が各地
に残っています。雛鶴姫(南の方あるいは竹原滋子ともいう)、立花姫(北畠氏。親王の妃
という)に関する一連の伝説でも、遠くは対馬、薩摩などに逃れ、落飾し、護良親王の後
生を弔って静かに暮らしたと伝えているものもあります。
護良親王の非業の最期は実に謎に満ちており、他にも色々な伝承を残しているようです。
境内には美しい苔の石段があることから、「苔寺」ともいわれています。磨り減った石段
がグリーンの苔で覆われて、地形のせいか、光線の具合か、なんともいえない美しさです。
法華堂には、日叡作といわれる厄除祖師像が安置され、9月12日のみ公開されます。
<妙本寺>
妙本寺は、日蓮宗の寺院で、日朗上人を開山として文応元年(西暦1260年)に創建
されました。もとは比企能員の屋敷で、建仁3年(西暦1203年)
、比企の乱で比企一族
が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地です。その後、比企能員の末子の
比企大学三郎能本が日蓮上人のためと比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まりで、
境内には日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑があります。本尊は十界大曼荼羅御本尊です。
日朗上人は、下総国平賀(千葉県)出身の日蓮六老僧の一人として知られています。日
蓮が『立正安国論』を北条時頼に具申したため佐渡流罪となり、ともに捕らえられた日朗
は宿谷光則によって屋敷裏山の土牢に幽閉されました。この宿谷光則の屋敷が後の光則寺
です。日蓮上人より先に許された日朗上人は、佐渡に配流となっていた師日蓮のもとを8
回訪ね、文永11年(西暦1274年)には赦免状を携えて佐渡に渡っています。
その後、建立したこの妙本寺を拠点として相模国を中心に布教を続け、同じく六老僧の
一人である日昭とともに、正応元年(西暦1288年)池上宗仲の協力のもと、武蔵国に
池上本門寺の基礎となる寺を築きました。
総門をくぐり、境内坂道の参道を登った二天門奥の大きな瓦葺きの建物は祖師堂で、堂
内の中央にあるお厨子は、江戸にあった鼠山感応寺が、江戸後期に老中水野忠邦による「天
保の改革」で取り潰された際、感応寺にあった厨子を妙本寺に移したものだそうです。こ
の厨子には日蓮聖人像が祀られています。また、方丈への入り口を右に見て奥へ進むと、
鎌倉幕府二代将軍「頼家」の妻比企能員の娘(一幡の母親)「若狭(讃岐)の局」を祀る蛇
苦止堂があります。
北条政子の命で屋敷に火を掛けられ、恨みを残して死んだ讃岐の局は、約50年後に北
条政村の娘に乗り移ったといわれています。加持祈祷をしてもよくならない娘は、日蓮聖
人が法華経を唱えると、自分は讃岐の局だと名乗ったそうです。畜生界に落ちて蛇のよう
にのたうって苦しむ局を哀れに思い、昔の屋敷跡に蛇苦止堂を立てて供養したそうです。
北条氏が鎌倉執権政治を確立する中で、頼朝恩顧の各武将たちとの確執による悲劇のド
ラマが数多く残っています。その一つが比企の乱です。
正治元年(西暦1199年)正月、源頼朝が急死し、嫡男の源頼家が18才で鎌倉幕府
第二代将軍になりました。
しかし、幕政は北条時政・政子親子が掌握しており、将軍は幕府の象徴にすぎなかった
ようです。源頼家の妻は比企能員の娘の若狭局であり、比企能員の伯母・比企局は源頼朝
の乳母で、頼家は何かと比企能員を頼りにしました。
頼家の妻となった若狭局は嫡男一幡を生んだことで、北条と比企との対立に発展してい
きます。
北条時政は政子と謀り、頼家を廃して、政子のもとで養育していた千幡(源実朝)を次
期将軍に立てようと、頼家が発病し、重体に陥った時、北条時政と政子は千幡に関西38
カ国の地頭職を、全国の守護職と28カ国の地頭職を頼家に支配させるよう画策しました。
頼家が家督を譲るとすれば、当然嫡男の一幡に譲るべきものであり、比企能員と頼家は
怒り、共謀し北条氏打倒を図りました。
しかし、北条時政は比企能員を巧みに自邸に招きいれ、殺害するとともに、時を移さず
北条一族と畠山、三浦、和田等の御家人を動員して比企一族が一幡を擁して立て篭もる比
企谷の比企邸を攻撃、比企一族は防戦しましたが、ついに館には火を放って全滅しました。
この時、わずか6才の一幡と母若狭局もとともに炎の中に消えていったという悲劇も起こ
りました。
比企一族で唯一生き残ったのは、比企の乱が起きた時は2歳であった比企能員末子能本
だけで、戦闘の後、京都へ落ち延び、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になる
と、佐渡まで供をしたそうです。
その後、姪にあたる竹の御所が4代将軍九条頼経の妻になったため、許されて鎌倉に帰
り、文暦元年(西暦1234年)竹の御所が出産時に死去した菩提を弔うために、法華堂
を比企ヶ谷に建てたのが、妙本寺の前身だそうです。
能本は鎌倉で布教していた日蓮に帰依していたため、この法華堂は日蓮宗となり、以後
日蓮宗の重要な本山となりました。
この比企の乱により、源頼家は将軍位を廃された後暗殺、代わって将軍となった源実朝
も北条の陰謀で、公暁に討たれ、源氏の正嫡は断絶し、また、一緒に比企氏を滅ぼした畠
山、三浦、和田等の御家人もその後直ぐに北条氏に滅ぼされています。
<九品寺>
正式名称は、内裏山九品寺で、浄土宗の寺です。鎌倉では珍しく新田義貞によって建立
された寺で、開山は風航順西、本尊は阿弥陀三尊です。
元弘3年(西暦1333年)新田義貞は鎌倉攻めの折、本陣を材木座に構え、北条高時
以下一族を攻め滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させました。その三年後の建武3年(西暦133
6年)、北条方の大勢の戦死者を弔うため、新田義貞が本陣跡地に建て、『九品寺』の扁額
は、新田義貞直筆の写しだといわれています。
九品とは極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた九種類の往生の有様をいい、
日常生活では「上品」「下品」の二品しか使いませんが、「上品上生」「上品中生」「上品下
生」「中品上生」「中品中生」「中品下品」「下品上生」「下品中生」「下品下生」を合わせて
九品とされています。
寺内には碑があり、「新田、北条両軍戦死者の遺骨を由比ガ浜よりこの地に改葬す(昭和
10年)(西暦1965年)」と書かれており、その年に、由比ガ浜・材木座海岸から、多
数の遺骨が発掘され、無縁仏として九品寺に埋葬された記録があります。
昭和28∼31年(西暦1983∼86年)にかけて3回、東大人類学教室の鈴木尚教
授らが発掘を行ない、その折、材木座、鎌倉簡易裁判所周辺から合計910体分の遺骨が
発掘され、同時に発掘された陶器や銭から鎌倉時代の遺骨と推定されました。遺骨は老若
男女で、刀創、刺創、打撲創が見られる遺骨が見られることから、戦死者と推定され、そ
れ程の多くの戦死者を出した合戦は、新田軍の鎌倉幕府倒幕であろうとされています。
遺骨に男女が含まれていることから、鎌倉攻めでは戦闘員・非戦闘員かかわらず大量虐
殺が行なわれたとの史的解釈が起こり、それ以降の歴史小説などでは、大量虐殺と鎌倉全
市を紅蓮の炎が覆い尽くす火災も起こったように描かれています。
しかし、最近の研究では様相が変わってきています。由比ガ浜・材木座海岸など浜地は
死者を遺棄や埋葬する、葬送の地であったとことであることが分ってきました。
昭和60年(西暦1985年)前後をピークとする鎌倉各地での中世遺跡発掘では、多
くの人骨埋葬跡が浜部から見つかっています。確かに昭和30年(西暦1955年)前後
の材木座遺跡の発掘では、合戦の戦死者も含まれていたかもしれませんが、全てではなく、
自然死・病死・行き倒れの死者も同時に埋葬された墓でもあったということです。
鎌倉の浜部は、掘れば掘るほど人骨が出るそうでです。現在、鎌倉全域を新田軍が焼き
尽くしたというかつての説も、発掘調査から否定されています。北条高時が最期を迎えた
東勝寺跡からは、炭や灰の「鍵層」という堆積層が発掘されますが、鎌倉の大部分で、そ
のような焼土層も発掘されていません。遺跡も、徹底的な破壊が起きた証拠は何一つ出て
いないそうです。
昭和30∼60年(西暦1955∼85年)頃の解釈では、鎌倉攻めで大量虐殺と火災
があったという史観が大多数を占めていました。しかし、近年の発掘により、新田軍の戦
術は非戦闘員を巻き込むことなく、合戦前後の鎌倉の街並み維持も総大将・新田義貞の統
率が取れていたことを示しているようです。
鎌倉は元来土地が狭く、幕府が開かれた当初は、高貴な人々の墓は、平安時代と同じよ
うに観音堂を建て、その中に墓を収め祀っていました。しかし、人口が増えるに従い、観
音堂を建てるスペースもなくなり、周囲の山の岩盤にやぐらを掘って墓を建てましたが、
貧しい庶民の遺体は海岸などに遺棄されていたという説もあります。
その後、鎌倉幕府を亡ぼした勲功によって、武者所の長に任ぜられ、後醍醐天皇の親政
に参加しましが、親政が古代の理想に走った結果、武士階級の不満を招き、建武の中興は
瓦解することになります。
新田義貞は楠木正成などとともに、後醍醐天皇に忠義を貫いて足利尊氏と対決し、箱根
竹の下に戦って敗れました。その後、反撃し足利尊氏を九州に追い落としましたが、翌年、
九州から上洛する足利尊氏を兵庫で迎え撃って敗れ、やむなく北陸に下り、越前金ヶ崎(福
井県)を拠点として攻撃に転じました。
しかし、歴応元年(西暦1338年)に越前守護の斯波高経を討とうとして藤島城(福
井市)攻撃の最中、騎馬で垬田に立往生していたころ、斯波軍の流れ矢に当ってあわれ討
死したということです。
新田義貞の首級は、最愛の妻、勾当内侍の胸に抱かれ、守り本尊の地蔵菩薩に守られて、
奥州の地に難を逃れ、八溝の山を越えた富岡(大字富岡)の地に着き、この地に葬られ、
自ら尼となった内侍により、手厚く霊は弔われ、日夜供養が重ねられたそうです。
<大慶寺>
「大慶寺はどこにあるか?」たぶん近所の方以外はまずご存知ないかと思います。場所
はモノレール湘南深沢駅から徒歩7分のところで、全く観光とは無縁の寺です。
鎌倉の寺というと、まず、建長寺や円覚寺などの鎌倉五山を思い浮かべるものと思いま
す。しかし、この大慶寺は、関東十刹として五山に次ぐ寺格をもつ格式ある寺です。
関東十刹の寺は、寺格の順に、瑞泉寺(鎌倉)、禅興寺(鎌倉・塔頭の明月院)、東勝寺
(鎌倉・葛西ヶ谷・廃寺)、万寿寺(鎌倉・廃寺)、長楽寺(上野国)、国清寺(伊豆国)、
大慶寺(鎌倉・寺分)、円福寺(陸奥国)、善福寺(由井郷・廃寺)、東光寺(鎌倉・二階堂・
廃寺)で、現在、鎌倉では、瑞泉寺、禅興寺の塔頭明月院と大慶寺が残っているだけだそ
うです。
大慶寺は正式には臨済宗円覚寺派霊照山大慶寺といい、開山は、大休正念(仏源禅師)、
創建は弘安年間(西暦1278∼87年)とされ、本尊の釈迦如来像です。
現在は、住宅街の中にある小さな寺ですが、鎌倉時代はかなり大きかったとみえ、円覚
寺の大川道通、傑翁是英(けつおうぜえい)などの高僧が寺に入り、北条貞時の十三回忌
供養にも83人の僧侶が出席したこともあったということです。
また、塔頭も5つあったとされ、戦国期に廃絶の憂き目に会い、住職がいない無住の時
期もありましたが、唯一残った塔頭の方外庵が、現在の大慶寺して再興されたそうです。
付近には、「指月軒」、「覚華庵」、「天台庵」、「大堂庵」などのかつての塔頭の名前や「鐘撞
き堂」など寺の建物の名前がそのまま地名として残っています。
寺廃絶の原因は、永正9年(西暦1512年)の北条早雲によって焼き払われた事件や、
永禄4年(西暦1561年)上杉謙信が、上杉憲政から関東管領職を譲り受ける際、鎌倉
へ兵を進めたため、それに怯えた檀家が、本尊「釈迦如来」の頭部を円覚寺に持って行っ
たことで、その後、寺勢は次第に衰えていったことのようです。
なお、その数年後に円覚寺が火災で焼け、本尊は消失し、大慶寺の当時の遺物としては、
山門の柱が円覚寺の洪鐘の柱として残っているだけのようです
余談になりますが、直接寺廃絶の原因となった北条氏と上杉氏の二つの家に加え、甲斐
の武田家を含め、周辺の大小戦国大名が関東の覇権を競って戦ったことが、大慶寺だけで
なく、鎌倉の寺々の衰退に手を貸したと言われています。
川中島の戦いで有名な上杉謙信と武田信玄が、北条早雲の孫北条三代当主氏康と戦い、
幾度と無く小田原城に攻め込んでいます。永禄4年(平成1561年)に、上杉謙信が、
北関東から小田原へ攻め入りました。北条氏康は籠城作戦を採り、長尾軍は四ッ門・蓮池
付近まで進入し、城下に火を放ちましたが、まもなく撤退しています。
その8年後、永禄12年(西暦1569年)には、今度は甲斐の武田信玄が小田原城を
攻めましたが、またもや北条氏康は籠城作戦を採り、信玄も謙信と同じように蓮池付近ま
で攻め込み、城下に火を放ちはしたものの、守りを打ち破ることなく小田原城を後にして
います。
戦国時代の初め、北条早雲は、相模の統一を目指し、相模三浦半島から平塚市まで領国の拡大を
図っていた三浦道寸を、鎌倉・逗子の市境にある住吉城に破り、永正13年(西暦1516年)には三浦
市の新井城に退いた道寸を急襲、滅ぼしました。
北条早雲を初代とする小田原の北条氏は、鎌倉時代の北条氏と区別するために後北条氏
と呼ばれています。延徳3年(西暦1491年)に伊豆を平定した後、氏綱・氏康・氏政・
氏直の五代にわたって、相模国小田原城を本拠にし、伊豆・相模・武蔵・下総と支配領域
をつぎつぎに広げ、関東の大半を支配下におき、鎌倉にも進出してきました。
北条早雲の子、氏綱の時代になると、鎌倉の北の玉縄城を中心に、神社仏閣も再建され、鎌倉も
幾分復興されてきましたが、三浦半島が北条氏の版図に入ると、浦賀水道を隔てた対岸の房総半島に
勢力を張る里見氏との軋轢が生じてきます。里見実堯は、大永5∼6年(西暦1525∼6年)の二度に
わたり、水軍を率いて三浦半島に攻め寄せ、この時、鎌倉まで侵攻した里見軍によって鶴岡八幡宮の建
物はほとんど焼失し、鎌倉は荒れ放題となりましたが、2度にわたる小田原攻めも鎌倉の荒廃に影
響が無かったととは思えません。
江戸時代に入ると鎌倉は幕府の天領(直轄地)とされ、江の島詣の旅人が来訪するようになりますが、
鎌倉の本格的復興は横須賀線と江ノ電開通が契機となります。
<淨光明寺>
この寺は、古義真言宗泉涌寺派で山号は泉谷山といい、建長3年(西暦1251年)真
阿(真壁国師)を開山とし、6代執権北条長時が建立されました。当初は、浄土教色の強
い寺でしたが、次第に真言・天台・禅・律の四宗兼学となり、現在に至っています。
元は、源頼朝の発願で文覚上人が不動堂を建てたことに始まり、中に納められている不
動明王像は文覚上人が平家討伐祈願の為に、京都に行って背負って来たものといわれてい
ます。
中先代の乱後、足利尊氏・直義の保護を受け、鎌倉公方足利満兼の菩提寺となり、一時、
足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたと伝えられていま
す。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、寺領や仏舎利の寄進を受けたと古文書にもあります。
本尊の阿弥陀三尊像は鎌倉時代後期正安元年(西暦1299年)の作で、重文に指定され
ています。
裏山を登っていくと、途中の山腹に大きなやぐら(横穴)があり、中には網引地蔵が祀
られています。その昔、由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き揚げられたという伝説の地蔵
だということです。
さらに登っていくと、歌道の名門、冷泉家の祖、冷泉為相の墓があります。冷泉為相は、
建治元年(西暦1275年)父為家が死去した後、所領であった播磨国細川庄や文書の相
続の問題で、
『十六夜日記』で有名な母阿仏尼が異母兄為氏を幕府に訴える際、一緒に、鎌
倉へ下り、その際に「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献しています。
この寺にはそのほかに、皆さんの好奇心をくすぐる観音さまがあります。中国唐の時代、
世界三大美女の一人ともいわれる楊貴妃の死を嘆いた玄宗皇帝が、仏師に命じて妃に似せ
た一体の観音像を彫らせたそうです。その500年の後、日本から渡った留学僧がこの像
(楊貴妃観音)を譲り受け、日本に持ち帰って、京都泉涌寺に安置し、泉涌寺の末寺であ
る浄光明寺にも模刻の像を寄進しました。
泉涌寺の楊貴妃観音は美人祈願の女性参拝者が多いと聞きますが、美人願望は今の時代
だけではなく、昔からのもので、中国に近い山陰には、楊貴妃が日本に逃げて来たという
伝説も残っています。
山口県長門市油谷町向津具の二尊院というお寺には楊貴妃のお墓があり、2冊の古文書
も残されています。古文書は今から約200年前(西暦1766年)のもので、当時の二
尊院福林坊五十五世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り、書きとめた
ものだそうです。
伝説は、「日本で伝えば奈良朝の昔、唐の国では天宝一五年(西暦756年)七月のこと
じゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐度口ちゅう所があってな、そこへ空艫船が流れ
着いたげな。 船の中には長い漂流でやつれておられたが、たいそう気品のおありなさる、
それはそれは美しい女人が横たわっていたそうな。お側の待女が申すには、 『この御方は
唐の天子、玄宗皇帝の愛妃楊貴妃と申される。案禄山の反乱により処刑されるところを、
皇帝のお嘆きを見るに忍びないで、近衛隊長が密かにお命を助け、この船で逃れさせ、こ
こまで流れ着きました。』と泣きながら云うたそうな。」という行で始まり、里人たちの手
厚い看護のかいもなく間もなく息を引き取ったと伝えています。
実際の楊貴妃の生涯は、今から約1300年前(西暦719年)の唐の時代、蜀の国(現
在の四川省)に生まれ、17才の時、玄宗皇帝の第18王子寿王瑁の妃となりましたが、
22歳の時、玄宗皇帝に見染められ、その後、楊貴妃として、数奇の運命に身を置くこと
になります。玄宗皇帝は、その後、政務を怠り、 驪山離宮で歌と舞、音曲に現を抜かし、
日がな一日飽きることなく饗宴に耽るようになりました。後宮には三千人の美女がいまし
たが、楊貴妃は玄宗皇帝の寵愛を一身に集め、楊一門の兄弟姉妹はことごとく領土を授け
られ、兄楊国忠は宰相の位にまで登用され、権勢を欲しいままにするようになりました。
しかし、その専横の度が過ぎ、西暦755年、辺境の武将安禄山による反乱が笵陽の地
で起こりました。反乱軍は15万にまで膨れ上がり、長安の都を目がけて攻め込んで来ま
した。玄宗皇帝は貴妃を伴い近衛騎兵に守られ、蜀の国を目指して落ちて行きましたが、
西の門から百余里(約50km)、馬嵬の地に着くや、「この反乱の原因は楊一族にこそあ
り。」と近衛軍は楊貴妃を含む全ての一族を始末するように要求したため、玄宗は宦官公力
士に楊貴妃の縊死を命じました。時は西暦756年、38才の生涯を終えたそうです。
翌年、安禄山は後継者争いがもとで息子の手によって殺され、玄宗皇帝は蜀より長安の
都に戻りました。その途中、楊貴妃終焉の地にさしかかった時、玄宗皇帝は衣の袖をぬら
して悲しんだそうです。
<仏行寺>
仏行寺は日蓮宗の寺で、もとは妙本寺の末寺だった寺です。山号は笛田山といい、明応
4年(西暦1495年)仏性院日秀の開山で創建されました。
裏山の墓地には、丸く土盛にされた塚、源太塚があり、梶原景時長男、景季の片腕を埋
めた塚であるといわれています。また、妻信夫の塚である「しのぶ塚」もこのあたりにあ
ったものとされています。
伝説によると、むかし、梶原源太景季が一族とともに鎌倉を追われ、狐崎(静岡)付近
で戦死したとき、妻の信夫がひどく悲しみ、今の仏行寺の裏山に登って自害したそうです。
その霊は、長くこの地に残り、毎夜、夫を慕う泣き声が聞こえ、付近の村人たちが信夫の
霊を慰めるために仏行寺を建てたといいます。
梶原の先祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏で、鎌倉権五郎景政のとき、後三年の役で
源義家に従い、若干16才ながら勇猛な働きをしたとして名高く、その流れを汲む梶原氏
は鎌倉一帯に一勢力をなしていました。
源平の合戦では、景時、景季親子は共に活躍し、平家討伐に多大の功績を残しましたが、
建久十年(西暦1199年)に頼朝が没すると、跡を継いだ頼家を支える側近第一の梶原
景時は、政権を狙う北条時政、時義の粛正の的として狙われ、三浦義澄、和田義盛、畠山
重忠らの実力者を中心とした御家人六十六名の弾劾を受けた形で失脚しました。
翌年、一族郎党を引きつれて京都に向かう途中、朝廷と結んで謀叛企てたかどで、幕府
軍の追討を受け、駿河国清美関(静岡県清水市)で同国御家人の迎撃に遭って討死しました。
この事件を幕府では「梶原景時謀叛」としていますが、その後の三浦義澄、和田義盛、畠
山重忠らが同様の憂き目に遭って滅亡していることから、政権を狙う北条時政時義の陰謀
であったと思われます。
梶原氏ゆかりの地、鎌倉梶原近くの小学校裏の山裾には、梶原父子の墓と伝えられてい
るやぐらがあり、梶原景時とその子・景季・景高らのものと思われる五輪塔が四基並んで
います。
梶原景時は、頼朝旗揚げのとき、平氏の命令を受けた大庭景親の率いる三千余騎と伴に
梶原景時も頼朝討伐に参戦しましたが、石橋山の合戦で、頼朝が苦戦の時に逃したことで
鎌倉御家人に加えられました。また、無骨な坂東武者の中にあって、歌詠みにたくみであ
ったことでも頼朝に気に入られ、頼朝没後も二代将軍の頼家側近として仕え、権勢をふる
っていました。しかし、朝廷の人気者になった源義経を頼朝に訴え出て追放するなど、政
治の裏で立ち回ったという印象が強く、その為、判官びいきの人々の憎まれ役だけでなく、
有力御家人の中でも嫌われていたようで、北条氏の最初の標的になったようです。
息子の景季は、文武両道に秀れ、宇治川の合戦での佐々木高綱との先陣争いや、一ノ谷
合戦における、箙に薫り高い梅の一枝を挿し、雅びを知る平家の公達から「花えびら」と
よんで「優なるかな」と感じ入られたなどの逸話が残り、江戸時代に歌舞伎などで、色々
と取り上げられています。
宇治川の先陣争いは、旭将軍と言われた木曽義仲が、勢いに乗って遂に後白河法皇を閉
じ込めるまでに至り、寿永3年(西暦1184年)後白河法王から木曽義仲追討の命を受
けた頼朝により派遣された義経軍が宇治川をはさんで義仲軍と対峙したときのことです。
義仲は、勢田と宇治の二つの橋を落し、岸には柵を廻らせ、水中には杭を打ったり網を
張るなど、防戦の準備をしました。義経はこの様子を見て『この度の合戦に手柄をたてた
者の名前を書き留めよう。また、あっぱれ宇治川を渡る者があれば、敵に射さすな』と命
令しました。
この時、既に、頼朝の愛馬をもらい受けて出陣していた梶原景季と佐々木高綱の二人は、
宇治川に馬を躍らせて、先陣を競おうとしていました。景季は『磨墨』、高綱は『池月』と
いう優れた馬で、両人ともこの合戦では、是非とも、名を挙げなければならないと考えて
おりました。遅れをとった高綱は、先に進む景季に対し、どうかして勝ちたいと、
『梶原殿、
馬の腹帯が緩んでいるようだ。』と言ったので、景季は馬を停めて腹帯を引き締めました。
その間に高綱は追い越しましたが、景季はすぐに追いかけ『功名をあせるな、水中に大綱
がはってあろう。』と逆に声をかけ注意をかけました。これを聞いた高綱は太刀で綱を切り
ながら進み、景季に先んじて対岸に一番乗りし、
『佐々木四郎高綱、宇治川の先陣仕奉った。』
と名乗りをあげました。梶原景季は、謀られたとは知っても、逸る競争相手を思いやる心
の広い真の武士として知られています。
梶原景季の死は、駿河の狐崎で父景時とともに敗死したとされていますが、一族ととも
に父景時が守護の任にあった播磨に逃れ、さらに舟で島津氏を頼って薩摩に下り、甑島と
いう所に逃れ、その地で一生を全うしたとも伝えられています。
<満福寺>
鎌倉の腰越にあるこの寺は、天平16年(西暦744年)僧・行基が開山した京都大覚
寺派(真言宗)のお寺です。奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇に
この病気を排除するよう命ぜられた行基が、鎌倉へ来て、前に広がった海原と後ろの山並
みがとても美しいこの場所で祈りをささげると不思議に病気がおさまったといわれ、功徳
をたたえてここに寺を建てることにしたといわれています。
また、この寺は、源義経の腰越状で世に知られた寺で、源義経を語る際、絶対に落とす
ことは出来ない寺です。一の谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼし、
元歴2年(西暦1185年)、平家の捕虜を連れて鎌倉の兄・源頼朝もとに向かいましたが、
頼朝は義経を鎌倉に入る事を許しませんでした。
しかなく、義経は腰越の満福寺に逗留し、一通の嘆願状(腰越状)を書き、頼朝の信望
の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し、申し開きをしましたが、それも空しく、つ
いに鎌倉の門は開かれなかれませんでした。義経はそのまま京へ帰り、その後、藤原秀衡
を頼って奥州平泉へ落ち伸びて行きました。
4年後の文治五年(西暦1189年)、秀衡が亡くなると、その子泰衡は頼朝の義経討伐
命令に屈して、義経一党を襲撃したため、義経は平泉高館の持仏堂で自刃しました。
現在、このお寺には義経が手を洗ったといわれる井戸、弁慶の腰掛石、腰越状の下書き
と実物大の版木、それから弁慶の椀・錫杖、義経絵巻襖絵があります。
しかし、義経の平泉における死に疑問を抱く人々は鎌倉時代からあったようで、義経生
存説(衣川自害の疑問)
、義経北行伝説、義経・成吉思汗説と百家争鳴、かのシーボルトも
興味をもっていたようです。
義経生存説を匂わせる最初の記述は、鎌倉幕府の公式日記ともいわれる「吾妻鏡」で、
それによると、義経の死の1年後、鎌倉に「義経軍が攻めてくる」という噂が流れ、鎌倉
に緊張が走ったことが書かれています。このことは、義経は「生きているかも知れない」
という懸念が鎌倉武士の中にあったことを示しています。
江戸時代なると、林羅山が「続本朝通鑑」の中で、「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に
至り、その種存す」と義経北行説を書いています。これは、寛文9年(西暦1669年)
にアイヌのシャクシャインの蜂起と関係があり、そのとき鎮圧に向かった松前軍がアイヌ
の中で広く知られていた義経の蝦夷渡りを聞き、江戸に広まったものと思われます。
元禄元年(西暦1688年)にも、徳川光圀が「大日本史」編纂のため、海風丸を北海
道に派遣して義経伝説の真偽を確かめています。調査団は、北海道には義経・弁慶に関係
ある地名が多いこと、義経が「オキクルミ」(農耕・狩猟の神)として崇拝されていること
を報告していおり、「世に言い。義経衣川の館に死せず、逃れて蝦夷に至ると。いわゆる義
経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日と、その間へだたること四三日、
かつ天時暑熱の候なるをもって、(中略)、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。」と書き、衣川
での義経生死は確かでないと記しています。
また、同時代の新井白石も「読史余論」の中で、「義経手を束ねて死に就くべき人にあら
ず、不審のことなり。今蝦夷の地に義経の家の跡あり、又夷人飲食に必ず祭る。」と書いて、
新井白石も義経の生死には、疑問を持っていたようです。
明治時代以降にも、小谷部全一郎(旧陸軍も協力)、佐々木勝三、大町北造、横田正二ら
によって、東北地方、北海道、中国東北部、シベリアなどの現地調査がなされ、夢が膨ら
みました。しかし、現在、日本歴史学会では、義経北行説を認めていません。
義経伝説の最たるものとして、義経・成吉思汗説があります。義経・成吉思汗説を有名
にしたのは、高木彬光著の『成吉思汗の秘密』だと思います。この小説のテーマはズバリ、
ジンギスカン=源義経です。兄の源頼朝と対立し、奥州藤原氏の許に逃れたものの、庇い
きれなくなった藤原氏によって討たれた源義経は、実は生き延びて東北地方から北海道を
経由し、中国大陸に渡ってジンギスカンになったという、昔から歴史マニアの間で話題に
なっている「ジンギスカン=源義経伝説」を、名探偵・神津恭介が検証する歴史ミステリー
の傑作です。
成吉思汗という名前は、源義経が生涯最も愛した女性である静御前へのメッセージで、
「成吉思汗」という名前を漢文調に読み下すと「吉成りて、汗を思う」なり、これを源義
経と静御前の関係に当てはめると「吉野山の約束成りて、水干(当時の女性の着物の一
種・・・・・・つまり静御前)を思う」という解釈が成り立ち、源義経は「成吉思汗」と名乗るこ
とによって静御前にメッセージを送っていたというのです。本当でしょうか。
更に、シーボルトも打ち出しているようです。シーボルトは樺太探検で有名な間宮林蔵
とは友人関係にあり、帰国後、著書「日本」を著し、義経・成吉思汗説を展開しています。
<大宝寺>
大宝寺は日蓮宗の寺で、周りは常陸の御家人・佐竹氏代々の屋敷跡と伝えられています。
佐竹氏の祖先・新羅三郎源義光が、永保三年(西暦1083年)の後三年の役の時、兄・源
義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構え、以来、佐竹氏の居館となりま
した。
室町時代の応永六年(西暦1399年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに多福寺を建立し
たのが前身となりました。その後、廃寺となっていたのを文安元年(西暦1444年)本覚
寺開山の日出上人が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺と改めました。境内には新
羅三郎源義光ゆかりの多福神社があり、その裏山には墓があります。本尊は三宝祖師です。
新羅三郎源義光は、源頼義の息子で、新羅三郎と称し、母は平直方の女で、弓馬の達者
な名将と言われていました。後三年の役では兄・源義家とともに戦い功をあげています。
平安の時代、奥羽地方の出羽と陸奥を支配していた豪族、清原氏と安倍氏という豪族が
いましたが、
「前九年の役(永承六年(西暦1051年)∼康平五年(西暦1062年))」
と「後三年の役(永保3年(西暦1083年)∼寛治元年(西暦1087年))」という奥
羽地方を舞台とする二つの歴史に残る大きな合戦が相次いで起こりました。
前九年の役は、永承六年(西暦1051年)、多賀国府にいた将軍源頼義、義家親子が出
羽の豪族、清原氏の助けをかりて、陸奥の豪族、安倍氏を滅亡に追い込んだ「北方の王者」
の交代劇ともいえる戦いでした。
この戦いで、清原氏は、安倍氏の領地を合わせ奥羽に強大な支配力をうちたてましたが、
二十年後複雑な血縁が絡み合う清原一族の間に内紛が生じ、この内紛を納めようと介入し
たのが源義家でした。長男の清原真衛が病死し、いったん収まるかにみえた内紛でしたが、
今度は領土の配分をめぐって、家衡、清衡の異父兄弟が争い、妻子を弟家衡に殺された清
衡は、源義家に助けを求めました。こうして、
「後三年の役」と呼ばれる戦いの火ぶたが奥
羽の地に再び切られました。
沼の柵(雄物川)に立て籠もり、源義家軍を退けた家衡は、叔父武衡のすすめにより、
難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、義家の実弟義光の参戦で意気上がる
義家軍の執拗な攻撃や、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、金沢柵は落ち、家衡、
武衡は捕らえられ合戦は終わりました。奥羽の長い戦乱の時代は清原氏の滅亡とともにひ
とまず幕を閉じました。後世に、
「後三年合戦絵詞」として、絵巻に残された、この合戦は、
「雁行の乱れ」「片目のかじか」など、数々の伝説を伝え、今でも語りつがれています。
雁行の乱れとは、源義家が金沢柵に進軍中、立馬郊附近にさしかかると、一行の雁がに
わかに列を乱して飛び散りました。馬を立ててじっと見ていた義家は、かつて大江匡房か
ら習った兵法を思い出し、「伏兵があるにちがいない」と、附近をさがさせたところ、果
たして西沼の附近から三十数騎の敵兵を発見し、これを全滅させることができたというこ
とです。この後、源義家は匡房の門で習った中国の古い書物に、「兵野に伏す時は雁列を
破る」とあったことを思い出さなければ、武衡の奇襲に遭ってやられていたと述懐したと
いいます。
また、片目のかじかとは、後三年の役に年わずか十六歳で初陣し多くの手柄を立てた鎌
倉権五郎景正は、敵に右目を射られてしまいますが、その敵を射殺します。同僚の三浦為
次がその矢を抜いてやろうと額に足をかけて抜こうとすると、景正は刀を抜いて為次を下
から突こうとしました。訳を聞くと、「弓矢で死ぬのは武士の本望であるが、生きながら面
を足で踏まれるとは、いかにも耐えられない、汝を仇として自分も死のうと思った。」とい
うのです。為次は無礼をわびて改めて膝を屈してその矢を抜いてやり、厨川の清水で傷を
洗ってあげました。この後、厨川から右目の見えない片目のかじかが出るようになり、景
正の武勇に感じた珍魚として有名になりました。
余談ですが、この後三年の役で納豆が発明されたことを皆様はご存知でしょうか。この
戦いの最中、源義家が地元金沢地区の農民に豆を煮させ兵糧として供出させたところ、数
日後にその煮豆がこうばしい香りをただよわせ、糸を引くようになりました。義家はこれ
に驚き、食べてみたところ意外においしかったため、その後も食用としました。これを聞
いた農民達も自ら作りはじめ、後世に伝えたのが「納豆」として全国に広がったものとい
われています。本当でしょうかね?
なお、源義家軍が京都に帰り、新たにこの地方に君臨したのは清衡でした。姓を「清原」
から「藤原」へ改め、以後、基衡・秀衡と3代百年にわたる平泉黄金文化の礎を築きまし
た。しかし、その後、4代泰衡の時に、皮肉にも、源義家の4代後の子孫、源頼朝の奥州
征伐で滅ぼされています。
<光触寺>
寺の正式名称は、岩蔵山光触寺と号し、弘安2年(西暦1279年)に創建、開基は時
宗の開祖・一遍知真上人で、開山は元真言宗の僧侶だった作阿上人と伝えられています。
以来、念仏道場として栄え、鎌倉三十三所観音霊場第5番札所となっています。
開祖の一遍上人は、踊り念仏で知られ、鎌倉に光触寺のほか別願寺など7つの時宗の寺
がありますが、一遍上人は生涯、寺を持とうとせず遊行に生きましたので、今日ある時宗
の寺は、全て一遍上人の死後に建てられたものです。
光触寺は、もともとは真言宗の寺でしたが、弘安2年(西暦1297年)に作阿上人が
開山し、時宗に改めたと伝えられています。
本尊は運慶作の阿弥陀三尊像(重要文化財)で、別名、頬焼阿弥陀と呼ばれ、盗みの疑
いをかけられた法師の身代わりになり、頬に焼印が残ったという話が伝えられています。
作者の運慶は、奈良で活躍した鎌倉時代の仏師で、平安末∼鎌倉期に活躍し、天才的な腕
前を誇り、一時期、鎌倉武士のために仏像を手がけ、力強さと写実に特色のある鎌倉新様
式を築きました。その様式は、貴族中心の平安の世の優雅端整から、武士社会である鎌倉
時代の質実剛健なものになり、特に、東大寺南大門の金剛力士像などが有名です。
本堂の脇にある塩嘗地蔵は、もともとは金沢街道の傍らにあり、六浦の塩売りが毎朝こ
の地蔵に初穂の塩をお供えすると、帰りには地蔵が塩を嘗めてしまわれ、必ず無くなって
いたので、地蔵がなめたのだろうということで、塩嘗の名が起こったと言われています。
運慶は奈良で活躍した鎌倉時代の仏師で、平安末∼鎌倉期に活躍、天才的な腕前を誇り、
鎌倉武士のために多くの仏像を手がけ、力強さと写実に特色のある鎌倉新様式を築きまし
た。貴族中心の平安の世から武士社会である鎌倉時代への変遷の中で仏像も優雅端整なも
のから質実剛健なものが好まれる様になり、その流れに合って運慶派はもてはやされまし
た。東大寺南大門の金剛力士像は運慶の代表作として有名です。
一遍上人は、「捨ててこそ」を自らの信仰のモットーとしていましたので、「捨て聖」と
よばれ、諱は智真、諡は円照大師といいます。
伊予の人で、10歳の時、父河野道広の命で出家し、建長3年(西暦1251年)太宰
府に行き、法然の孫弟子聖達のもとで浄土念仏(浄土宗)を学び、次いで、肥前の華台の
もとで浄土の教えを受け、名を智真と改めました。
建長4年(西暦1252年)再び聖達のもとに帰り、弘長3年(西暦1263年)に父
の死により伊予に帰国するまでの12年間、そこで修行しました。その後、一度還俗しま
したが、再び出家し、一説には、あるとき子供がまわすおもちゃの輪鼓をみて「輪廻もま
たかくのごときか」と悟って仏門に帰したともいわれています。
文永8年(西暦1271年)の春に信濃の善光寺に参詣、善導の教えを感得し、「二河白
道図」を写し描いて伊予に持ち帰り、草庵にかけて念仏に専心したといいます。
文永11年(1274年)には四天王寺、高野山さらには熊野権現(熊野詣)に参詣して、
神のお告げをうけ、一遍と名のりました。
弘安5年(西暦1282年)、一遍と時衆は鎌倉の町に入ろうとして北条時宗に拒絶され
ました。恩賞を求める武士たちでごった返す鎌倉を、数十名で押し通ろうとする襤褸の集
団に対する治安上の警戒心からでした。しかし、この時の一遍の態度が、毅然として実に
立派であったということで、鎌倉の町で大きな人気が湧き起こりました。幕府のお膝元で
の人気沸騰は、一遍の布教が公認されたことにもなり、どこへ行っても大歓迎を受けるよ
うになり、熊野本宮証誠殿で布教方法についての確信を得てから8年目に、一遍の念仏の
教えは急速に広まり始めました。
その後は、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書いた木の札をくばりながら全国を遊
行し、その足跡は九州から東北地方に及んでいます。
その途中、正応2年(西暦1289年)8月に摂津で亡くなりましたが、その直前に、
持っていたすべての経典や法具などを焼き捨て、「一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に
なりはてぬ」と言ったと伝えられています。
一遍上人の思想は、はるか昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったときから、衆生の往生は決
定しているという本覚思想にもとづいたもので、南無阿弥陀仏の名号そのものに絶対的な
力があるため、衆生の信と不信、浄と不浄などの別はいっさい関係なく、ひたすら名号を
となえれば救われるという純粋な発露が、踊念仏になったといいます。
なお、一遍の思想や生涯は、「一遍上人語録」や「一遍聖絵」などで伝えられています。
<明王院>
明王院は真言宗御室派の寺。この寺の創建は嘉禎元年(西暦1235年)で、開山であ
る鶴岡八幡宮別当・阿闍梨定豪によって盛大に行われました。
発願者は四代将軍・藤原頼経で、建立地の十二所は政所から見て鬼門の方位であったた
め、鎌倉の安泰を願って、鬼門よけとして五大明王を祭る寺として建てられました。
特に、鎌倉から室町までは、祈願寺として重んじられ、元寇の際には異国降伏祈願が行
われました。
異国降伏祈願は、公家を中心に専ら京都で祈が行われ、ことに文永の役の結末が、神明の
冥助である逆風によってつけられたと信じられていたことから、その後、特に神仏への敵
国降伏の祈願が、熱誠をこめて続けられるようになりました。神仏の擁護のある神国日本
の信念は、次第に鞏固になり、建冶年間頃から春日・日吉社の如き屈指の大社は、朝命に
よって、月別に異国降伏の祈願を分担したようです。(興福寺略年代記・門葉記)
また、尾張国中島郡の性海寺の如きもまた命を受けて、弘安3年(西暦1280年)の
初めには、異賊降伏の祈祷が行われ(性海寺文書)
、弘安4年(西暦1281年)初めには、
仁和寺・石山寺等でも同様の祈祷が行なわれたように伝えています。四月に至って、朝廷
は敵襲の期が迫った風聞によって、延暦寺・園城寺・東寺・仁和寺に勅使を差遣して、異
国降伏の御修法を厳修せしめ、院御所においても同様に五壇法を修せられています。
幕府もまたこれに同調して、同月執権時宗の従兄弟に当る法印頼助に、鎌倉佐々目坊で
尊勝法を七ヵ日修すべきことを命じています。その修法の頴末は弘安四年(西暦1281
年)異国御祈祷記(群書類従所収)に記述されています。時宗の御教書には、『異国降伏の
事七ヵ日如法尊勝御修法たるべきの間、日時勘文此の如し、且つは雑掌(ざっしょう)に
付せられ畢(おわ)んぬ、同供は静謐(せいひつ)の期に至るまで勤修せしめ給うべきか、
丹誠を抽(ぬき)んでて祈請せらるべし。』とあり、弘安4年四月17日付で、4月20日
乙酉、時は辰午と定め、伴僧十二口の僧名や、壇供・人供等の支配の目録を載せ、27日
の結願日までの作法を伝えています。
元寇は、元・高麗軍の大軍の上陸で始まり、一方的に優勢な戦を進めていました。元軍
は鉦(かね)や太鼓の合図で全体が動く集団戦法で戦いました。また日本の弓の射程距離
が100メートルたらずなのに対して、元軍の弓は200メートルの射程距離がありまし
た。しかもこの矢には毒がぬってあったようです。さらに「鉄砲」という「手榴弾」まで
持っていました。
日本の武士は「やあやあ我こそは・・」と名乗りを上げているうちに弓が射られ。鉄砲
が炸裂してやられてしまいました。また戦功の証として敵の首を切り取っている間に討た
れた武士も数多くいたようです。博多の町は逃げまどう市民で混乱し、多くの人が捕らえ
られたり、殺されました。夜になると町のあちこちから火の手が上がっているのが見えた
と記録にあります。
翌日、暴風が吹き荒れ、多くの船が沈み、湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見当らな
かったそうです。ところが、文永の役では「嵐は起きなかった」と言う説もあります。
フビライは初めから日本派兵を「脅し」のために行ったので、日本を本格的に侵略する
つもりはなく、「元軍は夜に船に戻って」そのまま帰ったのだと。それ故、次の元寇である
弘安の役までに何度も使者を送ってきたのだという説です。
日本側の記録である八幡愚童記には嵐のことは一行も触れていないばかりか「朝になっ
たら敵船も敵兵もきれいさっぱり見当たらなくなったので驚いた。」と書いてあります。と
ころが高麗の歴史書「東国通鑑」には夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけ
や岩にあたって傷んだことが書かれています。この違いはなんでしょう。一説によれば日
本と本気で戦う気の無かった高麗軍が言い訳のために書いたのだろういうことです。
文永の役で神風が吹いたと唱えたのは明治時代の学者で、元寇が起こったのは、今の暦
でいえば、弘安の役が台風シーズン、文永の役が11月に当たり、実際、福岡の11月ご
ろは台風並の低気圧が発生し、秋の嵐ともいうものが起こります。2度の暴風雨が元軍を
退けたことは確実ではないかという説です。どちらでしょうか?
明王院のある所は、昔、十二所村と言った辺りで、現在も鎌倉市内でものどかな雰囲気
が漂っています。明石橋という橋があり、その手前の道を右に入り、川沿いを歩いて突き
当たりを右に折れると明王院が見えます。その道が分れる所に一群の石塔がたっており、
その中に1基庚申塔があります。
庚申塔は頂猿型で、頂上に猿が寝そべっており、正面に「當寺本尊五大明王運慶作」、裏
に「庚申供養」
「寛保元酉天
四月吉日」、向かって右の面に「飯盛山寛喜寺明王院五大堂」、
左手には「源頼朝卿四代将軍源頼経卿御建立地」との文字が刻まれています。
<安養院>
この寺の正式名称は、祇園山長寺安養院と号し、開山は願行房憲静、開基は北条政子で、
現在鎌倉文学館がある笹目ガ谷に、嘉禄元年(西暦1225年)、夫・源頼朝の冥福を祈っ
て建てた長楽寺が前身といわれています。
もともと、この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺がありましたが、幕府滅亡とともに
長楽寺は焼け落ちたため、浄土宗名越派の根本道場善導寺の遺跡に移して浄土宗に改め、
政子の法名をとって「安養院」となりました。
安養院はつつじ寺として有名です。満開の時には、歩道に大株のつつじがせり出してい
て、見事!の一言です。歩道側のみならず、境内もツツジがいっぱいで、この時期、ツツ
ジ以外にも、サトザクラ、エビネ、ボタン、シラン、コデマリ、ショウブなど、いろいろ
な花が咲いている花の寺でもあります。
その後、江戸初期の延宝8年(西暦1680年)に火災で全焼し、再建にあたって、比
企ヶ谷の田代観音堂を移したことから、田代寺とも呼ばれています。
本尊は阿弥陀如来。本堂内の厨子に、政子が祈って頼朝とめでたく結ばれたという言い
伝えの田代信綱の持仏の千手観音像が安置されています。
安養院には、千手観音の他、馬頭観音、不空羂索観音、准胝観音、聖観音と全部で五体
の観音さまが祀られており、頼朝の死後、頼家の非業の最後、実朝の悲劇、大姫・乙姫の
母として、観音さまに政子の晩年の面影を偲ばせるお寺でもあります。
千手観音は、鎌倉期制定の坂東第三番札所として尊信を集めており、増上寺所蔵文書「浄
土門末寺院」の中の「相模・大町村・田代寺普門院」の項にも、享保年間(西暦1716
∼36年)僧常元が採訪し、「田代冠者信綱公室中示現之千手観音精舎建立、又、実朝公坂
東三十三番札所建立之時、第三番目ノ札所卜決定」と記したとあります。これは坂東札所
制定の歴史を知る上で、極めて貴重な資料と云われています。
本堂の背後に大小二基の宝篋印塔があり、鎌倉最古のものとして重文に指定されていま
す。小さい方が政子の墓であると伝えられており、苔むした安山岩の美しい形の培には「二
位政子御法号安養院殿如実妙観大禅定尼」と陰刻されています。
長らく政子は「尼将軍」とか「男勝り」という猛々しいイメージで語られてきました。そ
れは、江戸時代の『大日本史』に「性妬忌(とき)ニシテ」とか「厳毅果断ニシテ丈夫ノ
風アリ」と書かれていたことによるようです。事実、北条政子の生涯を見る時、我が子や
孫、さらに父をも排斥してまで、初期の幕府に次々と襲い掛かる危機に立ち向かっている
強い姿があります。
一方で、平治の乱の後、伊豆へ流罪となった源頼朝とのロマンスも有名です。『源平盛衰
記』によると、北条時政が京都大番役(皇居や京都市中の警備)のために都にのぼっていた
時に、政子と頼朝の間に女の子(大姫)が生まれました。平家に知れるのを恐れた時政は、
政子を伊豆国の代官である山木兼隆に嫁がせ、北条氏の安泰を図ろうとしました。
しかし、婚礼の日の夜、山木の館をぬけ出した政子は、雨の降る中を夜通し走って頼朝の
もとに逃げ、頼朝も先手を打って山木の館を夜襲し、平家打倒の旗あげ(治承4年:西暦
1180年)をしたとのことです。
この政子の2つの性格をみたとき、どちらが本当の政子の性格なのか、戸惑いを禁じえ
ません。その原因は何か。それは、政子は源頼朝と激しい恋に落ちて結ばれましたが、政
子の恋心はその後、頼朝の女性関係(亀ノ前、大進局)に傷つけられたからでしょうか。
京で育った頼朝にとって女性のもとへ次々と通うことは、当時の男性としてごく自然な
ことであり、全くの日常的なことであったと思います。しかし、伊豆で育った政子には、
このことが理解出来なかったはずです。政子と頼朝の間には、「東国」と「京」と言う二つ
の文化の溝があり、そのことが、頼朝の亡き後(正治元年:西暦1199年以降)の政子
の性格を形作っていったのではないでしょうか。
この寺は、宝暦2年(西暦1752年)七月吉日江戸八丁堀・女中講の銘をもつ小鐘が
あるように、昔から女性にとって人気があるようです。政子がここの観音さまに祈って頼
朝と結ばれた故事により「良縁」を祈る人も多いと言われていますが、政子の強さに肖り
たい女性も多いのではないかと思います。
なお、境内左手の日限地蔵も、決まった日数内に願いを叶えてくれるといい、政子が頼
朝と結ばれたことに因み、恋愛成就のご利益があると若い女性に人気があるようです。
<常栄寺>
山号は恵雲山、日蓮宗の寺で、開山は紀州徳川家の家臣・水野淡路守重良の女慶雲院日
祐、慶長11年(西暦1606年)比企谷・池上両山十四世自証院日詔上人が妙常日栄の
名前にちなんで寺を建てたと伝えられています。
別名ぼたもち寺といわれ、「立正安国」を唱えた日蓮上人が囚われの身となり、龍ノ口の
刑場に送られる道の途中、妙常日栄が仏の加護を願いゴマのぼた餅を差し出すと、願いが
通じたのか日蓮は難を逃れ、助かることができたといわれています。この故事にあやかり、
日詔上人が妙常日栄の名にちなんでこの地に寺を建てたそうです。
妙常日栄は、初の皇族将軍として11歳の時、鎌倉に下ってきた宗尊親王(鎌倉幕府第
6代将軍、歌人として有名)の近臣、印東次郎左衛門尉祐信の妻で、源頼朝が由比ガ浜を
眺めるための桟敷(展望台)を設けた寺の裏山に住んでいたため、桟敷尼とも呼ばれてい
ました。
しかし、同様の話が龍口寺輪番八ケ寺の一つ法源寺にも伝わっており、そちらは老婆が
差し出した握り飯が転げて、砂にまみれ、ゴマをまぶしたぼたもちのようになったと言わ
れます。
この牡丹餅は鎌倉時代の手法そのままに、講中が題目を唱えながら手作りされ、難除け
牡丹餅として、これを食すると年中無難、あらゆる災難を免れる効験があると喧伝されて
います。
現在でも、毎年9月11日から13日にかけて、滝口寺の龍口法難会において営まれる
大法要とともに、日蓮聖人が龍の口へ連行される途次、鎌倉の桟敷尼が鍋蓋に胡麻牡丹餅
をのせて供養したとの故事にちなみ、堂内で参詣者すべてにゆきわたる程の牡丹餅が撒か
れています。
鎌倉幕府は、稲村ヶ崎を前線基地として、京都側の守りを固めていました。法難の地龍
ノ口刑場は、鎌倉圏外の出口付近に位置しており、日蓮上人以外にも、源頼朝の旗揚げ時
に緒戦で頼朝を破った平家方の大場景親を梟首したり、平泉で非業の最期を遂げた源義経
の首実検が行われたり、また、元寇の際に元の使者となって来日し、北条時宗に処刑され
た杜世忠ら使節一行の処刑地であると伝えられています。
以前には、由比ガ浜大通と今小路が交差する辻に赤い頭巾を被った六体の地蔵尊(六地
蔵)が横一列に並んでいる場所のやや北よりに鎌倉時代の処刑場があったようで、御成町
にあった問注所で裁かれた者を処刑したといわれています。刑場が竜口に移された後も、
その跡地は飢渇畠と呼ばれ、畑にする人もなく、ここに六地蔵を建て死者の霊を弔ったよ
うです。
日蓮上人の処刑は雷光によって中止になり、減刑されて佐渡へ島流しになました。その
3年後の文永11年(西暦1174年)佐渡流罪を赦され、鎌倉に呼び戻されています。
しかし、その後も幕府の権力者たちは日蓮上人の言葉に耳を傾けることはなく、結局は
「三度諫(いさ)めて用(もち)いずば山林に入るべし」の故事にならい、帰依する南部公の
待つ身延山に入り、8年の間身延の地で自ら修行と弟子信徒の教育に専心し、弘安5年(西
暦1282年)身体の衰えのため、湯治療養のために山を下り、常陸の温泉に向かう途中、
武蔵国の池上で示寂したと言われています。
幕府による日蓮上人迫害の原因は、
『立正安国論』が禅宗を信じていた時頼に「政治批判」
と見なされたことや、既存の宗派を強く非難した上、日蓮上人の信者達が蒙古襲来を予知
した予言者であると考えるようになったことで、幕府や既存宗派から危険人物として認定
されたためではないでしょうか。
『立正安国論』の中で、日蓮は災害の原因を人々が正法である法華経を信じず、浄土宗
などの邪法を信じているからであると非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では
内乱、外国からは侵略を受けると唱え、正法である法華経を中心とすれば(「立正」)、国家
も国民も安泰となる(「安国」)と主張しています。
現実に、時頼没後の文永5年(西暦1268年)には、蒙古から臣従を要求する国書が
届けられたり、国内では執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山
天皇の対立の様相を見せ始めるなど、内乱の兆しを思わせる事件が色々と起っています。
日蓮上人はこれを機に、弘安元年(西暦1278年)に改訂を行い(「広本」)、以後2回、
合わせて3回の「国家諫暁」を行いましたが、結局、権力者には認められず、鎌倉松葉谷
草庵焼き討ち・伊豆流罪・小松原襲撃・龍ノ口法難・佐渡遠流などの難を受けています。
<青蓮寺>
正式名称は、飯盛山仁王院青蓮寺で高野山真言宗のお寺です。開山は空海(弘法大師)、
長禄年間(西暦1457∼9年)に善海によって再興されたといわれています。本尊は弘
法大師空海(鎖大師)で、一般に広く「鎖大師」の通称で親しまれています。
鎖大師(木像弘法大師坐像)は、目は玉眼、爪は水晶で造られており、鎌倉時代の貴重
な裸形彫刻として重要文化財に指定されています。
江戸時代初期の文献「新編鎌倉志」には「弘法自作の木造あり。鎖大師というなり。鎖
を以って膝を屈伸するように造る故に名づく。
」と記載されています。手足が動くため、纏
われている絹の衣を着替えることができ、大きさも等身大で、大師信者とお大師様の心が
鎖のように強く結ばれますようにという願いが込められています。
弘仁10年(西暦819年) 弘法大師が東国を巡暦された際、鎌倉にとまって17日間
の護摩の秘法を修されたとき、美しい天女(江ノ島弁財天)があらわれ護摩の助法や斎食
の給仕をしたそうです。大師は無事修法を終えると、天女は一粒の仏舎利を大師に奉り、
その姿は忽ちのうちに見えなくなりました。翌朝眼を覚ますと、側の池には青色の美しい
蓮華が咲きほこっていたといわれています。当寺はその故地に因み、飯盛山青蓮寺の寺名
がつけられています。
鎖大師は、弘仁7年(西暦816年)嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る
時、天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって作り、着ていた衣服・法衣・念
珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したといわれています。天皇が亡くなった後、大和(奈
良県)の岡寺に移され、さらに後に鎌倉鶴岡八幡宮に移され、等覚院の蓮華定院に安置さ
れました。
明治維新の神仏分離の時、八幡宮の所属する近くの松源寺に移され、その後、寿福寺を
経てこの青蓮寺に移されたと伝えられています。
天正19年(西暦1591年)には徳川家康より手広村に25石の寄進を受け、関東壇
林三十四院のひとつとしても名を連ねるなど徳川氏からは寺格を高く評価されていたよう
ですが、天保4年(西暦1833年)に起きた火災と関東大震災の時(大正12年:西暦
1923年)に寺院が倒壊した事によって寺の史料の多くが散逸しており、詳しい事はよ
くわかっていません。
寺から200∼300メートル離れた県道304号手広交差点付近(旧江ノ島道沿い)
には弘法大師一千年忌供養塔が建ち、その脇には椿地蔵と呼ばれる石造地蔵菩薩像があり
ます。いずれも青蓮寺住職が管理しており、毎年8月14日に椿地蔵脇で祭りが行われて
います。なお、椿地蔵はいぼの治癒に験があるとされ、いぼ地蔵とも呼ばれています。
弘法大師(空海)は、遍照金剛ともよばれ、俗に「お大師さま」の呼び名でしたしまれ、
天台宗の開祖の最澄とともに平安仏教を代表する僧であり、三密とよばれる行を実践して
大日如来と一体化することで現世での成仏をめざす即身成仏が可能であるとの教えを説き
ました。
空海は、経典の研究ばかりをおこない人々の救済をおこたっていた奈良仏教を批判、即
身成仏思想を強調し、「十住心論」で示した人間の心や菩提心の展開をまとめた思想は、日
本仏教全体に深い影響を与えました。空海が遍歴したといわれる各地には、弘法大師信仰
が生まれ、弘法清水、大師の杖立(つえたて)柳などが残っています。四国八十八カ所の巡
礼も、この大師信仰から生まれたものです。
また、仏教のみならず、土木・建築・医療・教育・学芸などあらゆる分野に才能を発揮
し、日本全国の津々浦々に「弘法伝説」や「お大師信仰」を残しています。
寺は旧江ノ島道に面しており、江ノ島へと続いています。天女はこの道を通い、弘法大
師をお世話したのでしょうか。
「江ノ島道」とは大山詣の人たちがその帰りに江ノ島弁財天に参詣するために、戸塚宿
で鎌倉道から分岐し、小袋谷∼台∼上町屋∼手広∼津西∼腰越∼江ノ島という道と藤沢宿
から江ノ島へ至る道がありました。
いずれの旧道も江ノ島へ向かう遊山客や地域住民の生活路としてにぎわい、多くの寺
社・旧家が立ち並んでいましたが、明治時代以降になると鉄道・新道の開通によって廃れ、
現在では要所要所に残されている道標などが往時の姿をしのばせているだけですが、その
中には江ノ島と深い縁を持つ杉山検校が建てた道標も多く残っています。
<来迎寺(材木座)>
寺の正式名称は、隋我山能蔵院来迎寺と号し、開基は源頼朝で、源頼朝に加勢して畠山
重忠の軍勢と闘い89歳で戦死した三浦半島衣笠城主・三浦大介義明の菩提を弔うため、
建久五年(西暦1194年)に真言宗能蔵寺を建立した時に始まります。しかし、開山上
人は明らかではありません。
また、時宗に改宗した時期も定かではありません。おそらく、建武2年(西暦1335年)
音阿上人が改宗し、名前を来迎寺と改めたと思われます。能蔵寺から起算すると実に八百
余年の歴史があります。
来迎寺は鎌倉三十三観音菩薩札所十四番で子育て観音が祀られており、この観音様に念
ずれば、必ず知恵福徳円満な子どもを授かるとして、昔から多くの信者に信仰されていま
す。以前、本堂の裏側の山頂には観音堂がありましたが、昭和11年(西暦1936年)
国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で取り壊されたと云うことです。
時宗の総本山は、神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺通称遊行寺で、開祖は一遍上人
です。今から七百年余り前、文久11年(西暦1274年)、熊野権現澄誠殿に参籠、熊野
権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り
處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、凡そ16年、日本全国津々浦々
へ、念仏賦算の旅を続けられました。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に
徹し、その教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念
仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏
の力で救ってくださる」ということです。
本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義昭の守護佛と伝えられ、
「相模風土記」によると「宗
祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあり、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳
墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とあ
ります。
三浦氏の祖は、桓武天皇(平氏)の皇子の子孫の流れをくむ村岡為通であるといわれて
います。為通は源頼義にしたがって前九年の役に参加し、その功績によって三浦半島を与
えられ、三浦半島のほぼ中央部にあたる衣笠に城を築き、三浦氏を名のりました。
為通の子為継も源義家に従って後三年の役で活躍し、またその子義継は子義明と共に天
養元年(西暦1144年)、伊勢神宮領の大庭御厨(神奈川県藤沢市)に侵入する源義朝を
助けるなど、三浦氏は源氏と深いつながりを持ち、相模国で最大の武士団に成長しました。
治承4年(西暦1180年)、三浦大介義明は源頼朝の挙兵に呼応して、子義澄ら一族等
を石橋山(神奈川県小田原市)の合戦に馳せ向かわせましたが、合戦には間に合わず衣笠
城に引き返しました。帰郷の途次、平家方の畠山重忠の軍と戦い、破りましたが、ついに
は平家方の河越・江戸・畠山の大軍に三浦の居城衣笠城を包囲され、防守の望みを失った
ため、義澄らの一族を久里浜から海を渡って安房(千葉県)に脱出させ、一人城に留まっ
て善戦し、悲壮な最期を遂げました。
一方石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡って再挙を図り、関東各地の源
氏の家人達の加勢を得、鎌倉に拠って策源地と定めました。
安房で頼朝と会した三浦一族は、その直属軍として頼朝を助け、東国の諸豪族と共に武
蔵を経て鎌倉に入っています。
頼朝は義明の忠死を弔って衣笠城に近い大矢部に満昌寺を建て、義澄を相模守護に、義
明の孫和田義盛を侍所別当に任じるなど、義明亡き後の三浦一族を重く用いています。
後に、頼朝が衣笠の満昌寺において、義明の十七回忌法要を供養した時、今も義明が加
護していてくれるのだと言ったことから、
「自刃したときの八十九歳と十七回忌の十七年を
加えた歳」即ち「三浦大介百六ッ」と呼ばれるようになったとも云われています。
その後も義澄の子義村が政治的手腕を発揮し、三浦氏は幕府の中でも北条氏と肩を並べ
るほどの勢力をもちました。しかし、宝治元年(西暦1247年)、義村の子泰村の時に、
北条時頼の謀略によって安達氏の軍に攻められ、頼朝所縁の法華堂に立て篭もり、三浦泰
村、光村、家村、資村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門政泰ら一
族276名、郎党500余人が自害、一族のほとんどが滅亡してしまいました。しかし、
一族の庶流である佐原光盛や盛時ら兄弟は北条氏に味方したため、三浦介を名乗ることを
許され、永正13年(西暦1516年)北条早雲によって滅ぼされるまで続きました。
なお、来迎寺はミモザの寺として有名で、入口の右脇に、樹高7m、傘の直径5m程の
木が聳え立ち、満開の時には黄色い花が美しく咲き誇ります。
<妙隆寺>
鎌倉の小町・大町・材木座方面には日蓮宗の寺が多く、妙隆寺も小町大路の日蓮辻説法
跡の近くにある日蓮宗の寺です。
正式名称は叡昌山妙隆寺といい、至徳2年(西暦1385年)源頼朝の御家人、千葉常
胤の子孫である胤貞が千葉の本領へ移るに及んで、その屋敷跡に、日英を開山として建立
されました。小町大路から少し奥まったところに山門があり、正面の本堂には、日蓮上人
像、日親上人像、日英上人像、釈迦如来像、千葉胤貞像などが祀られ、本堂手前の右側に
鎌倉江ノ島七福神の「寿老人」が祀られています。
開山第二祖の日親は、凄絶な布教ぶりで知られる僧で、応永34年(西暦1427年)
の冬、「大法弘通に耐え得るや否や自らの忍力を試さん」と堂前の池で寒百日間水行され、
日課として自我偈巻、お題目千遍の修行した後、京へ上り、立正冶国論の一書を献じて、
6代将軍・足利義教の政道を諌めようとしました。
しかし、逆に義教の逆鱗に触れて捕らえられ、水、火、湯鑵(熱湯ぜめ)など数々の拷
問や舌端を切られ、焼き鍋をかぶせられる極刑を受けましたが、頑として自説を曲げなか
ったといいます。そのため、後に「鍋かむり日親様」の名で呼ばれるようになりました。
本堂に掲げてあった「鍋かむり日親上人
徳行記」の写しによると『炎天に日親を獄庭
へ引き出し、薪を積んで火をつけ苦悩に耐え難ければ念仏を唱えよと要求した。凍りつく
ような寒夜に獄庭に引き出し、裸のまま木に縛りつけ夜通し笞を打った。日親を浴室に入
れて、戸を閉じて火を強くたき続け、もう死んだに違いないと戸を開いて見れば依然とし
て小声に題目を唱えていた。梯子に日親を縛りつけ、提子に水を汲んで口から流し込んだ。
三十六杯まで数えていたが、その後は何杯に成ったかがわからない位だった。まっかに焼
いた鍋を頭上にかむせた。髪は燃え肉も焼けただれたが大きな苦悩もなく、しばらくの後
本復した。これにより「鍋冠日親上人」と呼ぶように成った。』とあったそうです。
千葉氏は桓武天皇の系譜を持つ関東の名族で、長元1∼4年(西暦1028∼31年)
の忠常の乱を契機に源氏に従っています。
千葉常胤の時、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が治承4年(西暦1180年)挙
兵、石橋山の合戦で敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく三浦半島から海を渡り、
安房国に上陸しました。頼朝は挙兵前から上総広常、下総の千葉常胤らと連絡を取り合っ
ており、特に、常胤の子・胤頼は、挙兵の少し前に相模の三浦義澄とともに頼朝の配所に
赴き、三者で密談を続けていました。
一方、父の常胤は、安房へ渡った頼朝からの加勢依頼に応え、下総内の平家を討った後、
一族300余騎を連れ、下総国府で頼朝と会い、その後、元暦元年(西暦1184年)に
は木曽義仲や平家追討軍に加わり壇の浦まで転戦し、頼朝から「第二の父」と仰がれるほ
どの信任を得て、文治元年(西暦1185年)には下総守護に任ぜられています。
更に、同5年(西暦1189年)、源義経が奥州・平泉で藤原泰衡に討たれると、頼朝は
奥州征伐敢行し、常胤は奥州合戦でも大きな功績を上げ、東海道大将軍にとなっています。
平氏追討のため、九州の平氏を攻めた際には、頼朝から範頼への手紙の中で「千葉介は
合戦にも手柄を立てているので大切に」
「常胤は年寄りなのに勇ましく戦っているので他の
武士よりも褒め称え、その手柄には一生報いなければならない」というような指示をして
います。
また、常胤も鎌倉の甘縄郷に邸を構え、一族を挙げて忠誠を尽くし、頼朝の妻・北条政
子が長男・頼家を出産する時には、常胤の妻が帯親をつとめ、長男・胤正は安産祈願のた
め香取神宮にお参りをし、常胤は名付け親になっています。
源氏の将軍が3代で滅びた後、幕府は、藤原将軍家と執権北条氏の両勢力の間で緊迫し
た状況が続いていました。宝治元年(西暦1247年)三浦泰村ら三浦一族がほとんど全
滅した宝治合戦直後、千葉氏一派の千葉秀胤が将軍・藤原頼経支持の名越光時に組みして
いたことから討手をかけられ、一族163人が自害し、千葉一族有数の家が滅びました。
また、妙隆寺には昭和20年(西暦1945年)広島の原爆で死んだ新劇俳優の丸山定
夫のお墓があります。墓には丸山定夫が演じるモリエールの「守銭奴」が刻まれています。
丸山定夫は愛媛県松山市で生まれ、演劇の魅力に憑かれて、大正13年(西暦1924年)
の築地小劇場開設当時から昭和3年(西暦1928年)まで小劇場で働き、翌年新築地劇
団の創立に加わって、昭和15年(西暦1940年)まで舞台に立っています。独異の性
格俳優として「新劇の団十郎」と言われ、新劇史不朽の名をとどめたと云われています。
<龍寶寺>
正式名は陽谷山龍寶寺で、鎌倉では寺院数が少ない「曹洞宗」の代表的なお寺です。場
所も北鎌倉∼鎌倉にかけてではなく、大船駅から見える観音様の裏手になります。
開山は泰絮宗榮大和尚、開基は玉縄城主北條綱成で、他のお寺の創建より遅い、戦国時
代に小田原城を中心に関東一帯に勢力を張った後北条の一族の手になります。
この寺のはじまりは、玉縄城2代目城主北条綱成が文亀3年(西暦1503年)に建て
た瑞光院で、天正3年(西暦1575年)玉縄城4代目城主北条氏勝が3代目城主氏繁を
弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名から寺名を「龍寶寺」として建立、以後、玉縄北条
氏の菩堤寺として栄えました。
昭和26年(西暦1951年)火災にあい、山門と鐘楼だけは焼け残りましたが、その
殆どが焼けてしまい、本堂などは昭和34年(西暦1959年)に再建されました。
境内には国の重要文化財に認定された旧石井家住宅があります。石井家は後北条時代の
地侍の出で、近世には名主をつとめたと伝えられる上層の農家です。外廻りは庇(ひさし)
や縁をまったくもうけず、大部分を土壁とした閉鎖的な構えです。住宅は鎌倉から甲州に
至る甲州街道筋である鎌倉市関谷にあったもので、17 世紀末頃の建築と考えられます。
構造は「ひろま」の奥に2部屋が配される三間取り平面で、古民家の中でも年代の古い代
表的遺構の一つで、この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」の農家の
典型といわれています。
北条綱成は、天文15年(西暦1546年)河越の野戦、永禄7年(西暦1564年)
国府台の合戦等、数々の戦いを勝利に導いて武勇を響かせ、北条氏五色備の黄備を担当し、
黄色の練の四隅に八幡の2字を墨書した旗指物を用いて『地黄八幡』と呼ばれました。後
に外交面を担当して、諸大名に対する講和、諜略に手腕を発揮したと言われています。
子氏繁も武勇に優れ、羽生城攻略、第2次国府台合戦、関宿城攻略等に功があり、永禄
4年(西暦1561年)の越後・上杉謙信及び永禄12年(西暦1569年)の甲斐・武
田信玄の小田原攻略の際にも、玉縄城に籠城して守り抜いています。
玉縄城は、永正9年(西暦1512年)、北条早雲(伊勢新九郎長氏)が三浦道寸攻略の
ために築城され、大永6年(西暦1526年)
、房州の里見氏が鎌倉に乱入したとき、初代
城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦したとあります。
永禄4年(西暦1561年)、上杉景虎(謙信)が小田原を攻めたとき、北条方の守りが
堅固のため、鶴岡八幡宮へ参拝し管領になった報告をするため鎌倉へ引き返した際、2代
城主綱成の玉縄城を攻城しようと、長尾弾正を玉縄城に向かわせ、自分は鶴岡八幡宮に詣
でたといいます。このとき、玉縄城は上杉の攻撃を退けています。
永禄12年(西暦1569年)の甲州武田勢の小田原攻めのときには、堅城である玉縄
城を避け、北方を素通りし、藤沢の大谷城に向かっています。
天正18年(西暦1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城へ
援軍に出掛けていましたが、山中城が落城したため氏勝は玉縄城で籠城したため、秀吉の
命を受けた徳川家康が、氏勝の叔父にあたる大応寺(現龍宝寺)の住職良達を通して降伏
を説得し、開城したといいます。
北條綱成は、あまり世に知られていませんが、歴史小説に興味のある方は、海道龍一朗
の「後北條龍虎伝」でご存知かもしれません。後北條龍虎伝は、北条家三代目当主氏康の
生涯を描いた歴史小説で、北條綱成は、北條氏康と兄弟のように育った家中随一の猛将「焔
虎」として描かれています。
河越城の戦いは、日本の戦国時代にあった関東の政局を決めた大きな戦いで、北条氏康
軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付
近で戦闘し、北条軍が大勝利を収めた戦いです。桶狭間の戦いや厳島の戦いとともに日本
三大夜戦に数えられ、「河越夜戦」とも呼ばれています。
玉縄城は、江戸時代に入ると、元和5年(西暦1619年)に松平正綱が城主となり、
その後、元禄11年(西暦1698年)に松平家が三河吉良に移封で、玉縄城は廃城とな
り、伊豆韮山代官支配下の天領となっています。
元禄年間(1688∼1708年)には、新井白石が植木村(知行二百石)を治めてお
り、朝鮮より幕府の慶賀に来日した朝鮮通信使節を迎えるために、藤沢宿に来た際、龍宝寺
に泊まり、藤沢より正式の行列を整えて、江戸に赴くようにしたといわれており、また、
その因縁によってか、享保10年(西暦1725年)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公碑
銘」を刻んだ石碑があります。
<長勝寺>
石井山と号し、日蓮宗に属する寺で、日蓮に帰依した石井長勝が、日蓮を開山として草
創したと伝えられています。
寺の由緒書によれば京都本圀寺の旧地とされ、貞和元年(西暦1345年)に僧日静が
寺を再興し長勝寺と名づけたといわれています。堂内には日蓮上人坐像や帝釈天像があり、
県や市の重要文化財に指定されている大壇、鰐口、鍵盤などが安置されています。
鎌倉の風物詩として有名な厳しい寒さの中で修行僧が行う荒行は、毎年2月11日にこ
の長勝寺で行われます。また、近くには鎌倉十井の一つである銚子ノ井があります。
本堂である法華三昧堂は、桁行5間・梁行6間の規模をもつ茅葺の仏堂で、建築年代を
直接示す資料はありませんが、小田原北条氏の家臣遠藤宗為の建立と伝えられることや、
様式手法から見て、お堂は室町時代末期の建築と推定されます。側回りは元禄6年(西暦
1693年)に改造が加えられていますが、禅宗の要地である鎌倉にあって、禅宗以外唯
一の中世仏堂であり、伝統的な密教本堂の形式を伝える貴重な存在といえます。
内部は、3間四方の内陣とその前面の外陣、および内陣の両脇と背面にめぐらされた入
側から構成され、伝統的な蜜教本堂の形式をとり、柱の上端を細くすぼめ、柱上のみでな
く柱間にも組物を配するなど、細部については禅宗様建築の影響が見られます。
帝釈天といえば、フーテンの寅さんが産湯を使った葛飾柴又の日蓮宗題経寺(だいきょ
うじ)が有名ですが、鎌倉の帝釈天は長勝寺です。帝釈天は須弥山(しゅみせん)の頂上
にある仞利天(とうりてん)の主で、喜見城(きけんじょう)に住み、四天王を従えて仏
法を守る神と云われています。仏教の宇宙観によると、世界は須弥山を中心に広がるとさ
れています。
映画「男はつらいよ」シリーズに登場する題経寺の住職は、御前様と呼ばれ故笠智衆(り
ゅうちしゅう)の当たり役でした。この呼称は、葛飾柴又だけではなく、日蓮宗の住職であ
ればそう呼ばれるようで、長勝寺でも帝釈天と御前様がおられます。
長勝寺の荒行は、帝釈天大堂に向かって右にある水行場で行われます。行者は石畳から
一道清浄と書かれた前で白衣を脱ぎ、裸足となって右回りに入場し、一面2名、4面8名
が一度に水行を行うことができるようになっています。
荒行は、
「立正安国国祷会」に組み込まれた「大荒行僧成満祭」の中で行われ、国祷会は、
法華経の流布と世界平和、檀信徒一般大衆の抜苦与楽を祈念する行事です。
成満祭は、千葉の法華経寺で極寒の100日間の荒行が満了し、荒行僧が出身の寺、長
勝寺に戻った帰山式で、日蓮ゆかりの地で最後の水行を行います。この水行は、修行僧が
厳しい寒さの中、経を唱えながら冷水を全身に浴びる荒行で、一般にも公開されています。
長勝寺内には鎌倉十井の一つである「銚子の井」があります。新編鎌倉志によると、「長
勝寺の境内に、岩を穿ちし井あり、石井と号す。鎌倉十井の一と記す。この井の事か。 今
は詳らならず。」とあり、その150年後に編纂された新編相模国風土記稿でも、「銚子の
井は長勝寺の東方にあり、日連の供水と云う、寺伝には日蓮乞水と唱えるいえども、この
井戸は近くにある同名の小井あるを、混じ誤れるならん。
」と記され、日蓮上人との深い関
連があると伝えています。なお、「日蓮乞水」は「銚子の井」から約100m離れた所にあ
り、長勝寺辺りは、水の少ない鎌倉としては、水行も含め、水が豊かであったようです。
鎌倉には昔から鎌倉五山・鎌倉七口(切通)
・鎌倉十橋のように、名数で数えた史跡が伝
えられていますが、これらの名数は、鎌倉が江戸時代に観光地として繁栄した頃に称えら
れたといわれています。
鎌倉は、昔から良い水には恵まれず、その昔は、水売りをする商売があったそうで、8
00年前の鎌倉時代においては良い水は大変に貴重なものでした。この様なことから、鎌
倉には水にまつわる言い伝えが多く、江戸時代に至り「鎌倉十井」とか「鎌倉五名水」等
水に関連した名数が称えられる様になったようです。
その他に、若い方にはご存知ないかもしれませんが、長勝寺には「和製ジェームズ・デ
ィーン」とも呼ばれた赤木圭一郎の墓と慰霊碑があります。第4期ニューフェイスとして
日活に入社し、昭和34年(西暦1959年)鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演、
その後『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活の
アクション俳優として将来を嘱望されていましたが、昭和36年(西暦1961年)映画
『激流に生きる男』セット撮影中にゴーカート事故で事故死しています。死後6年経った
昭和42年(西暦1976年)まで、ブロマイド男優部門の売り上げ10位以内に入り続
けるという高い人気を保ち、同年には『トニーは生きている、激流に生きる男』のタイト
ルで最後の映画が公開されたり、写真集やレコードの発売もされたと云われています。
<本興寺>
本興寺は法華山本興寺と号し、開山は伊豆の美濃阿闇梨である天目上人です。
日蓮上人が建長6年(西暦1254年)から数年にわたって折伏逆化の辻説法を行った
由緒ある場所として、辻説法の碑が建てられており、そのため「辻の本興寺」とも呼ばれ
ています。
創建は、日蓮上人の死後、延元元年(西暦1336年)で、天正19年(西暦1591
年)に徳川家康が寺領を寄進しましたが、慶長十三年(西暦1608年)、二十七世住持・
日徑の「不受布施法門主張」が家康の怒りに触れ、京都六条河原で処刑されたことなどか
ら廃寺となりました。
その後、寛文10年(西暦1670年)比企谷歴代照幡院日逞上人が説法旧地の衰退を
嘆き、寺門の復興を願い、 徳川家より寺領の寄付を受け、本興寺の中興を成し遂げました。
日蓮聖人は、建長5年(西暦1253年)4月房州清澄山頂旭の森で立教開宗し、同年
5月鎌倉に入り、松葉ヶ谷の草庵に住み、大町、小町の辻に立って説法し、布教を図られ
たと伝えられています。
鎌倉時代、商業に対しての認識が未成熟であったことに加え、軍事要塞都市の必要性か
ら、商業は、大町、殻町(米町)、魚町、大蔵辻、武蔵大路など限られた地域でのみ許され
ていたようで、なかでも大町は鎌倉の商業の中心地であり、律宗などの既存仏教が盛んな
場所でもあったようです。日蓮聖人は、その大町、小町の辻に立って正法宣布の法戦をし
かけ、杖木瓦石の難に会ったと云われています。
大町は、名越、傘町、松殿、松中、中座、米町、魚町、辻町、下馬、大町原、塔の辻、
向原等の町に分かれており、米町は現在の大町四角から下馬方面、魚町は四角の南方、現
在魚町橋の周辺、辻町はさらにその南側で、小町と材木座を結ぶ繁華街の中心であり、本
興寺あたりは、辻説法をしと伝わる由緒ある旧跡の一つです。
ところで、二十七世住持・日徑が京都六条河原で処刑された原因である「不受布施法門
主張」とは何なのでしょうか。
岩波『仏教辞典』によれば、「文禄4年(西暦1595年)、豊臣秀吉が先祖菩提のため
に千僧供養を催し、各宗の僧を招いたときに、日蓮宗の妙覚寺日奥が出席すべきでないこ
とを主張し、徳川家康に公命違背として対馬に流され、慶長17年(西暦1612年)に
赦されて戻ったが、寛文5年(西暦1665年)、江戸幕府は不受布施義を禁止し、僧俗は
地下に潜行して宗命をついだ。」とあります。この秘密教団を「不受布施派」といい、幾多
の弾圧・迫害に耐えて明治維新を迎えたそうです。
「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ日蓮宗」
のようで、この時以来、日蓮宗の中の勢力争いは、政治的に権力と結び付く側(公明党)
とそうでない側の勢力争いが続いているようですね。
この不受不施派という教団は、日蓮宗以外の者から施しを受けず(不受)、日蓮宗以外の
僧侶に施しをしない(不施)という教義を頑なに守り、そのため、封建制度のもとでは為
政者にとっては極めて扱いの厄介なものとなっていきました。
関白豊臣秀吉による亡き母大政所の法要への出仕問題に端を発した仏法為本と王法為本
の立場の違いが、その後、二つの派に分かれ、激しく論争・敵対するまでに発展します。
江戸時代になると、上京妙覚寺日奥とその弟子である武蔵国池上本門寺日樹が、身延山
久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え、寛永7年(西暦1630年)幕府の
命により両派が対論する身池対論事件が起きています。
しかし、このとき幕府と強い繋がりのある身延山久遠寺日乾・日遠が本寺としての特権
を与えられ、結局、政治的に幕府にとって都合の悪い不受不施派側が敗訴し、追放の刑に
処されることになり、日奥は再び対馬に配流されることになりましたが、既になくなって
おり、遺骨が配流されたとされています。
この不受布施派の信徒に備前国金川町(岡山県)の江田家があります。備前国は、古く
から日蓮宗の信者が多いところです。江戸時代にこの国禁の不受布施の教義を信奉し、仏
壇を二つ用意し、弾圧を受けた僧侶を匿う部屋を屋根裏に設け、或いは隠れて経済援助を
続けたと伝えています。
明治9年(西暦1876年)及び明治15年(西暦1882年)年の公許にいたるまで、
不受不施派教団は、実に210年以上にわたって独自のネットワークを張り巡らせながら、
地下秘密教団として信仰を守り続けてきたとのこと、結束の堅い教団のようです。
<教恩寺>
中座山教恩寺は、北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺です。以前この地に
は光明寺の末寺、善昌寺がありましたが、廃寺となったことで、延宝6年(西暦1678)
年)、貴誉上人によって材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたといいます。
本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、元暦元年(西暦1184年)、一ノ谷の合戦に敗れた平
重衡が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈る
ために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したものと伝えられています。また、三門の表欄
間には「十六羅漢」が彫られていることでも有名です。この一帯は旧名米町といい、菖蒲
や紫陽花の咲く鎌倉三十三観音霊場の第十二番目としても知られ、夏になると、本堂で蝋
燭の灯りのもと怪談落語会が開かれ、多くの人に親しまれています。
当山の開基である北条氏康は、同時代の武田信玄や上杉謙信に比べると、政治的な武将
とのイメージがありますが、戦乱の嵐吹き荒れる関八州において、武田信玄、上杉謙信と
いう両雄と対等にわたりあい、戦場にあっては「氏康の向疵」と称される猛将として、ま
た、帷幕にあっては知略謀略を尽くして武田、上杉を苦しめた智将として、波乱に満ちた
生涯を送っています。
実際に、天文14年(西暦1545年)から翌年にかけて、関東の覇権をかけて山内上
杉、扇谷上杉、古河公方の連合軍8万と武蔵の川越城で戦い、8千の軍勢で10倍の敵軍
を撃退し、大勝利を得ています。この戦いは「川越の夜戦」と呼ばれ、扇谷上杉朝定は討
ち死、山内上杉憲政も上野の平井城、更に越後へと落ち伸び、家督を長尾景虎(上杉謙信)
に譲ることになります。川越の夜戦は、厳島の合戦、桶狭間の合戦とともに、戦国時代の
三大奇襲戦として有名です。
川越城は、室町時代の中ごろ、関東を治める関東管領・扇谷上杉氏の命で、太田氏(道灌?)
が築いたのが始まりで、戦国時代に入ると、北条氏が上杉氏から城を奪い取り、北条綱成
が城主になっていました。
上杉憲政は城を取り戻そうと、管領上杉勢の6万5千、公方勢2万、合して8万5千も
の大軍を率いて城を取り囲みましたが、北条軍の守りも堅く、上杉側も長対陣を余儀なく
されました。
北条氏康は、河越城が敵によって包囲されたと聞いても、なおしばらくは小田原を動け
なかったようです。今川義元が武田信玄と同盟して、駿河長窪城を攻撃しているとあって、
そちらへも救援の兵を送らねばならず、また、小田原城守備もきびしくし、更に河越城に
援軍を送る為の、兵力まで割くことはできませんでした。
しかし、河越城の守将は、いずれの戦場でも黄色の練絹に八幡の二字を大書した旗差物
をかかげ、「勝ったぞ、勝ったぞ!」 と叫びながら敵を斬って廻る歴戦の勇将で、
「北条の
地黄八幡」の異名で知られる福島左衛門大夫綱成でした。しかも、その勇将とともに副将
朝倉能登守・師岡山城守以下の兵3千余の兵が籠城しているので、城が落ちることはない
と信じていたようです。
北条氏康は8千の兵で綱成の応援に駆けつけましたが、上杉包囲軍は、河越城の南方一
里の砂窪に本営をおき、包囲陣をしいたばかりで気力充実しており、更に、8万5千もの
大軍でした。応援に駆けつけたばかりで、行軍疲れの8千の兵で、真っ向から突き当たっ
たとしたら、恐らく、はじき飛ばされ、木っ葉微塵に撃砕されるのは目に見えています。
北条氏康は、上杉包囲軍の将兵達が、長滞陣に飽き、気力がゆるむのを待つことにしまし
た。北条氏康は、上杉包囲軍の将兵達の気力がゆるんだと見た4月20日夜、松明も持た
ずに上杉軍に奇襲をかけました。不意をつかれた上杉軍は混乱し、北条軍の快勝となった
ということです。
その後、甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟、対今川義元・武田信玄)、小田原籠城戦(対上杉
謙信・対武田信玄)、第二次国府台合戦(対里見義弘)などを経て、北条氏は関東一帯の支配
を確立します。
その一方で、北条氏康は他の大名家に先駆けて、行政機構の改革に努めています。
父、北条氏綱から家督を継いだ天文11年(西暦1542年)から12年かけて、相模
中央部、武蔵東南部・南部、伊豆方面で大規模な『代替わり検地』を行い、当時、国内に
様々な銭が流通していた通貨を永楽銭に統一し、それ以外の銭は悪銭とする通貨統一を実
施しています。更に、天文19年(西暦1550年)これまでの税を段銭・懸銭・棟別銭
の三つに整理して徴収し、その結果を家臣団ごと『北条氏所領役帳』に記し、領国と家臣
団の把握を行っています。
<寶戒寺>
当山は天台宗の寺院で金龍山釈満院円頓宝戒寺と号し、開基は後醍醐天皇、開山は天台
座主五代国師円観恵鎮慈威和上で建武2年(西暦1335年)に創建されました。
周辺は元弘3年(西暦1333年)に新田義貞に攻められて滅亡するまで北条宗家(得
宗家)の屋敷があったところで、滅亡した北条氏の霊を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏
に命じてこの寺を建立させたと伝えられています。
開山の慈威和上は、当山を円頓大戒(金剛宝戒ともいい、梵綱菩薩戒経所説の十重四十
八軽戒を戒相とする大乗戒)と天台密教(台密)の大法関東弘通の道場として戒壇院を置
き、現在に至るまで、加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の
戒場として知られています。
天文7年(西暦1538年)七堂伽藍ことごとく焼失しましたが、江戸時代に入り天海
大僧正が維持相続の保護を徳川家康に懇願し、現在に至っています。
本尊は地蔵像としては珍しい座像で、子育経読地蔵の名で親しまれ、国の重要文化財に
指定されています。同じ堂内に安置されているもう一つの小さな地蔵菩薩像は、足利尊氏
の念持仏と伝えられています。境内には本尊を安置する本堂のほか、聖徳太子像を祀り、
職人の信仰厚い太子堂、後年建てられた北条氏を供養する宝篋印塔、鐘楼があります。
また、二世の惟賢和上は国家鎮護のため和合仏たる歓喜天尊像(かんぎてん:聖天様)を
造立し鎮護国家を祈念したと伝えています。歓喜天の彫像は、円筒形の厨子に安置された
小像が多く、浴油法によって供養することから金属製の像が多いと伝えられていますが、
宝戒寺の歓喜天像は高さ150センチを超す木像で、制作も優れ、日本における歓喜天像
の代表作と言っても過言ではありません。
宝戒寺は花の寺として有名で、境内には四季を通じて花が咲いています。冬にはしだれ
梅が咲き、秋は境内一面に白萩が咲き乱れ、萩寺として親しまれています。また108種
の椿が10月下旬から5月迄咲き続けます。
開基の後醍醐天皇は、平安時代の醍醐天皇の治世「延喜の治」を理想的な時代と考え、
鎌倉幕府を倒して建武の親政を行った天皇として知られています。後醍醐天皇の理想とさ
れた「延喜の治」は、菅原道真を追放した藤原時平が、廟堂の覇者として国政に力を注い
だ時期で、奈良時代以来の律令制の崩壊が進み、形の上では天皇親政ということではある
が、天皇が積極的に政治に参与しないばかりか、貴族たちも詩宴や遊びに明け暮れ、度重
なる凶作や疫病に倒れる京の庶民も多く、また、内裏清涼殿には落雷で公卿の中に死傷者
を出しています。そのため、醍醐天皇は菅原道真公の祟りとして恐れ、菅原道真公の怨霊
を治めようと北野天満宮を創立しています。
後醍醐天皇も、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権北条高時をはじめとする一族郎
党が近くの東勝寺に立てこもり、寺に火を放って自刃して最期を遂げたことで、自刃して
果てた800人ともいわれる北条高時一族郎党が怨霊となると恐れ、当山を足利尊氏に命
じて建立したとも伝えられています。
歴史的に見て、誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、
西郷隆盛などがあり、最近では、これに加えて、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代
などが怨霊として認められています。これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不
慮の死を遂げていることと、政敵により殺害された人達で、崇徳上皇、菅原道真のように
政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られています。怨霊になる
人は、第一に、生前、目的を達しなかった人であること、第二に、恨みを残すような死に
方であること、第三に、殺した人が権勢を誇っていることです。
従って、怨霊は、誰に祟るかが明確で、崇徳上皇の怨霊は天皇家に祟り、菅原道真は藤
原氏に祟り、平将門は朝廷に祟り、佐倉惣五郎は江戸幕府に祟り、西郷隆盛は明治政府に
祟っています。特に崇徳上皇、菅原道真、平将門の三人は、それぞれ、今では神として奉
ら、崇徳上皇は四国讃岐の白峰神社に、平将門は東京の神田明神に(大手町に首塚がある)、
菅原道真は全国の天神様に祭られています。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が目指した建武の親政は、建武2年(西暦1335年)6
月には西園寺公宗らの謀叛計画が発覚し、同年7月には北条時行による中先代の乱が勃発
するなど3年で潰れています。その後、足利尊氏が反旗を翻すに及んで、吉野に逃れて南
朝を設立、以後、光明天皇の北朝方と争いますが、延元3年(西暦1337年)の北畠顕
家敗死、同年閏7月の新田義貞戦死など、南朝の勢力は次第に衰え、同4年8月15日義
良親王(後村上天皇)に譲位し、翌16日朝敵討伐・京都奪還を遺言して病没されました。
<大巧寺>
元応2年(西暦1320年)日澄上人の開山で創建され、〝おんめ様〟の愛称で親しま
れています。正式には長慶山正覚院大巧寺といい、最初は真言宗でしたが、日蓮が妙本寺
にいた文永11年(西暦1274年)、住持が日蓮に帰依したことから、日蓮宗に改宗し、
妙本寺の末寺になりました。
元は頼朝の祈願所で大行寺といって十二所の梶原屋敷にありましたが、頼朝が平家との戦い
のとき、この寺で練った作戦で大勝したため大巧寺と改め、現在の地に移されました。
正面の朱色の門には「頼朝評定所」と記された碑が建てられており、また、5世住職の
日棟上人が難産で亡くなった女性の霊を鎮め産女霊神として祀ったため、以来、安産の神と
して「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、安産祈願に訪れる参拝客が多いといわれて
います。
鎌倉入りした直後の源頼朝がここで軍議を開き大勝した戦いは、時期的に見て、平安時
代末期、治承4年10月20日(西暦1180年)の平維盛を大将とする平家の大軍と、
頼朝軍が富士川で睨み合った富士川の合戦と考えられ、維盛軍は駿河国の富士川に布陣、
一方の頼朝軍は黄瀬川に布陣していました。遠く奥州平泉から弟の源義経が参陣し、兄源
頼朝と感激の対面をしたことも、この時の黄瀬川の陣ででした。
伊豆へ流罪となっていた源頼朝は以仁王の令旨を受けて北条氏らと挙兵し、石橋山の戦
いでは平家方に敗れましたが、房総半島で千葉氏や三浦氏など関東地方の東国武士団を中
心に兵を整え、さらに甲斐国(山梨県)の武田太郎信義も加えて進撃しました。
平家方は、平維盛ほか、平忠度、平知盛などを追討のために派遣しましたが、畿内の飢
饉による食糧難や道中の騒動などで駿河高橋宿(静岡市清水区)に至るまでに兵は疲れて
いたと伝えられています。加えて東国出身の武士達を討伐軍として率いたため、戦う前か
ら討伐軍には厭戦気分が蔓延していたとも云われています。
合戦は富士川を挟み河口付近で行われましたが、平家方の足並みは揃わず、富士沼の水
鳥の羽音を敵襲と誤認して戦闘を交えることなく敗走したと伝えられています。しかし、
現実には水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、武田信義の率いる武田党の奇襲を、水
鳥の羽音で察知し、迎撃の準備ができていなかったので撤退したのが真実のようです。こ
の功で信義は駿河守護に、弟の安田義定は遠江守護に任ぜられています。
甲斐源氏が勃興した時は、源平争乱の時代に当っていました。治承4年(西暦1180
年)以仁王の令旨を奉じた武田信義は子の一条忠頼、弟の安田義定ら一族を率いて挙兵、
この段階では、甲斐源氏は源頼朝とほぼ同等の立場に立つ独自の勢力で、むしろ戦いの主
導権は甲斐源氏が握っていたといっても過言ではない情勢であったそうです。その後も木
曾義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげています。
しかし、源頼朝からその威勢を忌まれ、一条忠頼は元暦元年(西暦1184年)鎌倉で
謀殺、板垣兼信も、後に「違勅以下の積悪」をもって隠岐国に流罪、武田有義は文治4年
(西暦1183年)頼朝から剣をもつように命ぜられたのを嫌い、逐電するなど、武田信
義の子4人のうち3人が、源頼朝の弟範頼・義経同様、頼朝に排除されています。
本尊は安産の神様とされる産女霊神で、550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり
人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったこと
に由来します。
旧版「かまくら子ども風土記」よると、今から約500年ほど前、大巧寺の5世日棟上人
がある日、比企ヶ谷にある祖師堂にお参りするために朝暗いうちに滑川の橋を渡ろうとし
ましたが、川原で 1 人の女が泣き苦しんでいたといいます。
見ると血だらけの着物を着ていて、髪の毛はぼさぼさ状態で、痩せ細った赤ん坊を抱い
て「私は大倉に住んでいたもので、難産のため死んでしまいました。毎日この川を渡ろう
と思うのですが、水が汚い血になって深さが分からなくて渡れません。おまけに子供が乳
房に吸い付いて泣くので苦しくてたまりません。どうかお助けください」。
そこで上人は「御仏の教えを聞き、それを信じてお経をとなえれば、必ず苦しみはなく
なる」と告げ、お経を読むと、いつのまにか女の姿は消えてなくなりました。
後日その女が再び上人の前に現れ、上人にお礼を述べ、「自分が生きている間にためたお
金で塔を建てて、お産で苦しむ人を救ってください」と言ったそうです。
上人はその気持ちに感心し、「塔を立てて、あなたを、お産を守る産女霊神(うぶれいじ
ん)として祀りましょう」と約束し、早速お寺の境内に塔と産女堂を建て、いつしか「お
んめさま」と呼ばれるようになり、お産の神様として有名になったそうです。
<収玄寺>
正式な寺号は、四条山収玄寺といい、開山は妙詣尼、開基は圓守院日勇上人の日蓮宗の
寺で、本尊は久遠の本師釈迦牟尼仏及び日蓮聖人尊定の曼荼羅です。
場所は、日蓮聖人の四大法難のひとつである龍口法難(文永8年:西暦1271年)の
際、宗祖日蓮と共に殉死の覚悟を決した鎌倉武士の精粋四条金吾頼基公の屋敷跡で、金吾
の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として一寺が建立されたものといわれています。
創建は文政年間(西暦1818∼1830年)で、当初は収玄庵と称しましたが、大正
末期の本堂改築を機に収玄寺と改称しました。
四条金吾の本名は、四条中務三郎左衛門尉頼基といい、官位の左衛門尉が唐では金吾校
尉と称されていました。北条氏の一族、江間(名越)家に仕え、武術に優れ、医術にも通
達し、日蓮宗立宗当初からの門徒でもあった人物です。文永8年(西暦1271年)9月、日
蓮捕縛の報を受け、自らも切腹覚悟で龍ノ口刑場に向かったといいます。
境内にはミツマタやカイドウ、アヤメなど四季折々の花が咲き、黒い門の奥には「四条金吾邸
跡」と刻まれた大きな石碑があります。この石碑は、日蓮宗の信者であり、日露戦争で連合艦隊
を率いた東郷平八郎元帥の筆によるものだそうです。
東郷平八郎は、ご存知のとおり、明治期、日本海軍司令官として日清・日露戦争を勝利
に導き、日本の国際的地位を引き上げました。日露戦争のときは、日本海海戦において、
敵前回頭戦法(丁字戦法)を用いて露バルチック艦隊を壊滅し、日露戦争の英雄として乃
木希典と並び称され、東郷神社に軍神として祭られています。
しかし、自身は生前、乃木神社建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画があるのを聞
いて、止めて欲しいと強く懇願したそうです。
東郷平八郎には食に関する幾つかのエピソードが残っています。その中に、東郷ビール
と肉じゃががあります。
東郷平八郎は薩摩藩士の子として生まれ、薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館
に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦っています。明治の世になると、当初
鉄道技師になることを希望していましたが、西郷隆盛に軍人の才能を見込まれ、海軍士官
として明治4年(西暦1871年)から明治11年(西暦1878年)まで、イギリスの
ポーツマスに留学し、帰国後は、海軍軍人の育成に当っています。
明治27年(西暦1894年)の日清戦争では「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦、黄海
海戦、威海衛海戦で活躍し、明治37年(西暦1904年)に勃発した日露戦争では作戦
全般を指揮し、旗艦三笠に座乗、ロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である
旅順港攻撃、旅順港閉塞作戦や黄海海戦、ロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバ
ルチック艦隊を迎撃、日本海海戦(ツシマ海戦)で勝利を納めています。
東郷ビールに関しては、日露戦争でロシアを負かした軍人として名をはせた戦艦三笠の
元師として、フィンランドでは東洋の英雄「アドミラルトーゴー」と称えられ、製造され
たのが、このビールの始まりとかいわれています。日本でも、昭和58年(西暦1983
年)に紹介されて以来、長く愛され、現在、フィンランドでは製造中止となったものの、
オランダで今もなお製造され続けているということです。
日本では、東郷ビールは、一部の教科書などで、日露戦争当時の日本が世界にどれだけ
一目置かれていたかという説明によく使われ、日露戦争当時、フィンランドで海軍提督東
郷平八郎の業績を褒め称えて売り出されたと書かれています。しかし、それは間違いで、
実際には昭和45年(西暦1970年)に売り出された提督シリーズ・ビールのなかに、
東郷平八郎もあったと反論する人々もあり、再軍備の賛否に使われているようです。
肉じゃがに関しては発祥地争いが起きています。東郷平八郎が明治3年(西暦1870
年)から明治11年(西暦1878年)の間、イギリスのポーツマス市に留学していたと
き、留学先で食べたビーフ・シチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食とし
て作らせようとしましたが、命じられた料理長はビーフ・シチューなど知らず、醤油と砂
糖を使って作ったのが始まりと言われています。
京都府舞鶴市が平成7年(西暦1995年)10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言し、
平成10年(西暦1998年)3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」として名乗り
を上げています。舞鶴市の根拠は、東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴
鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが、舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をして
いた故人から、舞鶴総監部に寄贈されたものであるのに対し、呉市は舞鶴赴任より 10 年前
に呉鎮守府の参謀長として赴任している点が根拠としています。
<松久寺>
東京の芝愛宕町にある青芝寺の末寺で、山号は長盛山松久寺といい、開山が明暦元年(西
暦1655年)に没した暉山吐光禅師心霊牛道と伝えられる曹洞宗の寺です。
元々は港区芝白金の天神坂を下った古寿老稲荷神社の向かい側にあり、昭和41年(西
暦1966年)に現在の地へ移転された、
『鎌倉市史(社寺編)』
(三版)にも載っていない、
新しい寺です。松久寺の本尊は石造地蔵菩薩立像で、寺宝は元治2年(西暦1865年)
銘のある木造韋駄天立像と木造天神坐像です。
天神坂は東京都港区高輪にある坂で、坂下南側の松久寺に天菅原道真に関る祠があった
ためと云われています。また、坂下北側には元禄年間勧請の古寿老または小女郎という稲
荷神社があります。
古池老稲荷神社は昔『江戸の名物は火事』といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかん
でした。中でも古池老稲荷さまは「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」の強
いご託宣より、文政十三年、日吉坂上に鎮座されたもので、しかも縁日には霊妙不可思議
にも必らずといってよいほどに雨のおしるしがあると、その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、
人丸様、火止まる様とも呼び、お祀りしていたそうです。
松久寺といえば、池波正太郎の『鬼平犯科帳』を思い出しませんか。松久寺の名が「消
えた男」に出てきます。
消えた男とは火盗改メ堀帯刀組から消えた元同心高松繁太郎。・・・中略・・・
愛宕権現に詣でた筆頭与力佐嶋忠介が、参道で町人姿の高松繁太郎と出会い、近くの料
理屋弁多津で酒を酌み、再会を約して別れたところ、高松は襲ってきた相手を刺殺し逃
走。・・・中略・・・
密偵小房の粂八は、かつて笹熊の勘蔵につれてゆかれた品川・妙国寺(品川区南品川 28-23)門前で蝋燭屋をやっている叔父の六兵衛をのぞくと、半月ほど前に元同心高松が訪
ねてきて、中目黒の松久寺持ちの小屋に仮住まいしていることを勘蔵へ伝えてくれと言い
の残したという。・・・中略・・・
高松は松久寺にお杉の墓参りに来ていた。そこへ現れた鬼平は、高松がお杉と組んで盗
み生活していたことは忘れてやるから、密偵となってくれと頼み、高松は喜んで受け入れ
た。高松は密偵としてみごとに働いたが、蝋燭屋六兵衛が雇った仕掛人に惨殺された。歯
軋りする平蔵。・・・後略
鬼平犯科帳に登場している江戸と江戸近郊で盗賊に押し入られる寺院は、ほとんど架空
の寺院で、松久寺は中目黒の寺として出てきます。
しかし、松久寺が江戸の芝白金に創建されたのが明暦(西暦1655∼58)以前であ
り、鬼平犯科帳の長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは、天明7年(西暦1787
年)から寛政7年(西暦1795年)で、鬼平と中目黒に近い芝白金の松久寺が同時代の
江戸に存在していることから、架空とはいえ、中目黒の寺のモデルが芝白金にあった寺で
あると勝手に推定している次第です。
池波正太郎作の鬼平犯科帳は、「オール讀物」昭和42年(西暦1967年)12月号に
単発ものとして「浅草・御厩河岸」が発表され、この時点では連作の予定はなかったそう
ですが、評判がよかったために次月号から同誌の巻末を飾る作品としてシリーズ化された
そうです。『鬼平犯科帳』の題名が付されるようになったのは翌年の1月号掲載の「唖の十
蔵」からで、当時の編集長によれば、野村胡堂の『銭形平次』のように、巻末にあって「オ
ール讀物」の顔となるような長期連載の作品として、『鬼平犯科帳』を考えていたといいま
す。テレビ版製作にあたっては原作をドラマ化するのみにかぎり、小説を使いつくしたら
そこで打切るようにというのが作者の意向であったのは有名な話です。
作者の池波正太郎は、東京都台東区の下町・浅草に生まれで、長谷川伸に師事し、東京都
職員の傍ら脚本家・小説家となり、新国劇などを中心に活躍していました。
昭和35年(西暦1960年)、『錯乱』で第43回直木賞を受賞したのを期に、東京都
職員を辞して、本格的な作家生活に入りました。以後、
『鬼平犯科帳』
『剣客商売』
『仕掛人・
藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表し、江
戸風の歯切れの良い文章や人情味溢れる作風が支持をえて、自らが手を加えてドラマ化さ
れた作品も多くあります。また、美食家・映画評論家としても有名でした。
グルメに関してのエッセーは、平成9年(西暦1997年)頃、NHKラジオ第1放送
「ラジオ深夜便」のアンカー・コーナー「味なサウンド」(朗読・司会:立子山博恒アナウ
ンサー)で放送された他、平成18年(西暦2006年)10月7日よりニッポン放送と
ABCラジオで、「味な歳時記 池波正太郎その世界」(朗読・パーソナリティー:栗村智ア
ナウンサー)で取り上げられました。
<本覚寺>
山号を妙厳山といい、永亨8年(西暦1436年)に開基を足利持氏、開山を日出上人
日出上人として創建された日蓮宗の寺院で、ご本尊は釈迦三尊、寺内には岡崎五郎正宗の
ものと伝えられる墓があります。
この場所は、もともと鎌倉幕府を開いた源頼朝が、幕府の裏鬼門に当るとして、恵比寿
を守護神として祀ったところとされており、鎌倉七福神の一つである夷堂があります。
文永11年(西暦1274年)に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人が、この夷堂に
滞在して布教を再開し、その後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し本核的に日蓮宗
の布教を行いました。室町時代に入り、関東管領の足利持氏が、夷堂があった場所に寺を
建て、日出上人に寄進し、身延山から分骨した日蓮上人の分骨が納められたことで、別名
「東身延」ともいわれています。
前身である天台宗の夷堂は、明治の神仏分離令で寺とは分離され、地元の七面大明神、
山王台権現と合祀されて蛭子神社となりましたが、その後、昭和56年(西暦1981年)
に本覚寺境内に戻りました。
岡崎五郎正宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工で、「相
州伝」と称される作風を完成し、多くの弟子を育成しました。
正宗の弟子とされるものに「正宗十哲」(備前国兼光、備前国長義、左安吉、来国次、長
谷部国重、郷義弘、越中国則重、志津三郎兼氏、美濃国金重、石州直綱)と呼ばれる刀工
が山城、美濃、備前など各地におり、真偽は別として、正宗の作風が後々まで各地の刀工
に影響を与えたことを示しています。
正宗の作刀には無銘のものが多く、在銘確実なものが少ないことから、明治時代には正
宗の実在そのものを疑問とする、いわゆる「正宗抹殺論」が唱えられています。
明治29年(西暦1896年)、宮内省の御剣掛を務めていた今村長賀が、「読売新聞」
に連載した談話記事で、
「古来、正宗には在銘正真の作刀を見たことがなく、もし在銘の正
宗があれば、それはまがい物である。」と述べています。
その根拠は「正宗が名工と言われ出したのは豊臣秀吉の時代以後のことで、それ以前の
武将が正宗の作刀を差料としていたという話も聞かないし、足利義満の時代に、当時の目
利きであった宇都宮三河入道に選ばせた名工182工の中にも正宗という名前は入ってい
ない。正宗というものは、秀吉が政略的意図から本阿弥家に指示してでっち上げたもので
あろう。」というものでした。
しかし、南北朝時代から室町時代の日常生活に注目して単語や短句を集めた文献で、貞
治6年(西暦1367年)に成立した『新札往来』に日本刀の名工の一人として「五郎入
道」の名があり、織田信長や豊臣秀吉に仕えた桃山時代の茶人、津田宗及の『宗及他会記』
の天正8年(西暦1580年)3月22日の記録にも正宗が登場します。
茶事の客として信長が招かれた席に、薬研透吉光などの名のある短刀にまじって、正宗
の腰物分が当時の名刀として並べられたと記されています。
享保4年(西暦1719年)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させ
た『享保名物帳』にも、正宗の56口の刀が記されているなど、正宗抹殺論については、
文献の面からも、今日では否定されています。
日本刀は、約一千年に及ぶ長い歴史と伝統に育まれた、世界に比類のない高度な技術工
芸品であると共に、今日では、日本独自の優れた美術工芸品として高い評価を得ています。
日本刀剣史では、山城、大和、備前、美濃、相模の五か国の刀剣に特徴的な作風をそれ
ぞれ「山城伝」「大和伝」「備前伝」「美濃伝」「相州伝」と称し、これらを総称して「五か
伝」といわれています。中でも、鎌倉時代末期に相模国鎌倉で活躍した日本刀の名匠、岡
崎五郎入道正宗の刀は「相州伝」と呼ばれ、多くの刀工が理想とし、諸大名が競って蒐集
を行うなど名刀の代名詞として伝えられてきました。
正宗の刀には、地肌の美しい伸びやかな曲線の姿のなかに躍動感と創造力を秘め、雲に
例えられる福与かで輝くような刃紋が施されており、日本刀剣史のだけでなく日本美術史
に於いて重要なもので、日本の文化遺産として大切なものです。
滑川は所によって呼び名が変わり、本覚寺の辺りでは「夷堂川」とも呼ばれ、そこには
鎌倉十橋の一つ「夷堂橋」が架かっています。「新編相模国風土記」には、「大町の名は居
住と商売の多少により夷堂橋を境として以北を小町と称し、以南を大町と称した。」と書か
れています。また、文治2年(西暦1186年)6月16日と文治3年(西暦1187年)
9月9日、頼朝と北条政子の夫妻が頼朝の乳母である比企尼(比企一族)の屋敷を訪れて、
納涼や観菊の宴会を催したとあり、その時、二人して夷堂橋を渡って行ったと思われます。
<別願寺>
正確な山号寺号は、稲荷山超世院別雁寺といい、時宗藤沢清浄光明寺(遊行寺)の末寺
です。元々は真言宗の能成寺でしたが、弘安5年(西暦1282年)に覚阿公忍上人が時
宗に改宗し、寺号を別願寺と改名し、鎌倉の時宗の中心となり、室町時代には足利一族が
深く信仰し、鎌倉御所の菩提寺として栄えました。
天正19年(西暦1591年)には徳川家康から寺領を寄進され、寺勢を誇っていまし
たが、江戸時代に入ると除々に衰微していきました。
本堂脇には足利持氏の供養塔と伝わる石像宝塔が立っており、本尊は木造阿弥陀三尊像
です。また、鎌倉三十三観音の寺院の中で、札所本尊が唯一、珍しい魚藍観音のお寺です。
鎌倉公方足利持氏は、応永16年(西暦1409年)、父・満兼の死去によって鎌倉公方
となりましたが、関東管領上杉禅秀や叔父足利満隆と対立し、応永23年(西暦1416
年)に禅秀と満隆にクーデターを起こされて一時、駿河に追放されました(上杉禅秀の乱)。
しかし、この反乱は、翌年に越後の上杉房方らの助力を得て鎮圧しています。
応永32年(西暦1425年)、室町幕府五代将軍であった足利義量が病死し、正永元年
(西暦1428年)に前将軍であった足利義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は
自身が足利氏の一族であるという名分から六代将軍の座を望んだが、義持の弟である足利
義教が還俗して継承したため、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじ、将軍が決定する鎌
倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と次第に対立していきました。
永享10年(西暦1438年)、将軍義教は鎌倉公方の討伐を決定し、幕府軍を鎌倉に派
遣、鎌倉軍も懸命に応戦したが、遂には敗れ、持氏は、幕府に組した上杉憲実の家宰・長
尾忠政に捕らえられて鎌倉に幽閉され、翌永享11年(西暦1439年)嫡子義成共々永
安寺にて自害して果てました。(永享の乱)。
その後、宝徳元年(西暦1449年)持氏の末子である足利成氏(しげうじ)が鎌倉公
方に就任しましたが、やはり成氏と上杉は対立を続け、ついには関東管領の上杉憲忠を殺
害、関東には、果てしない戦乱が続いていきます。
持氏には、嫡子義成のほか二男春王・三男安王がおり、義教・憲実方の目を逃れ、持氏
の家来結城氏朝の所領である下総の国にお落ち延びました。義に厚い氏朝は、春王・安王
を主君として迎え、将軍義教の命を拒み、幕府の大軍を迎え撃ちました。
この合戦の知らせを聞き、持氏と縁のある里見季基と嫡男義実を初めとする武士達が、
死を辞さず、結城勢の篭る城に駆け参じ、三年間にわたって篭城を続けました。
この落城のとき、城を逃れた里見義実が、かの有名な、宝井馬琴の『南総里見八犬伝』
に出てくる伏せ姫の父義実です。
話は「後花園天皇の頃の話である。鎌倉の関東管領・足利持氏は関東自立の志をもち京
都の将軍に従わなかった。このため将軍家に攻め滅ぼされた。その時、嫡男・義成はとも
に腹を切ったが、二男春王、三男安王はからくも逃げのびた。下総国の結城氏朝がこれを
主君と仰いで持氏恩顧の武将とともに籠城し、京軍と戦うこと三年に及んだ。これを結城
合戦という。しかし、ついに食料も矢種もつきて城外に出て戦い、皆討ち死にする。・・・・・・」
という行で始まります。
里見義実は、後に結婚し、伏姫と義成の一女一男をもうけました。伏姫は三歳になるま
で物言わない子であり、心配した母は霊験あらたかといわれる洲崎明神の別当、養老寺に
ある役行者の岩窟へ伏姫と参拝し、帰り道、不思議な老人に仁義礼智忠信孝悌の文字が浮
きでた八つ玉の数珠をもらいました。実はこの不思議な老人が役行者の示現であり、以後、
伏姫は口をきくようになり、すくすくと育ちました。
ある年、領内で一匹の犬が生まれました。里見義実は、この犬を譲り受けて八房と名付
けました。
また、ある年、安西領が不作となり里見義実はこれに米を送り助けましたが、翌年、里
見領が不作となると、安西景連は、ここぞとばかり、軍を起こして滝田城を包囲、里見軍
は飢えて戦う力もなく、ついに明日が最期という時を迎えました。この時、義実はたわむ
れに、八房に対し「景連の首をとってきたら伏姫の夫にしよう」と言うと、その夜、本当
に、敵将安西景連の首を取って来て、戦は里見家の大勝利となました。その後、八房は伏
姫を背に乗せて城を出て行き、皆さんご存知の八犬士の活躍する話へと発展していきます。
話は代わって札所本尊の珍しい観音のことですが、正しくは魚藍観世音菩薩といい、頭髪
を唐様の髷に結った美しい乙女の姿の観音様で、中国の唐の時代に、仏が美しい乙女の姿
で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたの
だと伝えられています。下の写真は、各地にある有名な魚藍観世音菩薩像です。
<啓運寺>
正式な名前は松光山啓運寺いい、日蓮宗のお寺で、創建は 文明15年(西暦1483
年) 、 開山は啓運日澄上人、本尊は三宝祖師 です。場所は、大町四つ角から三浦道踏切を
越えて海方向に行くと水道路という交差点があり、さらに直進して少し行くとやがて「南無
妙法蓮華経」とかかれた石碑があります。
日澄は、文亀3年(西暦1503年)55巻から成る「啓運抄」という法華教の研究書
を出すなど学僧として知られ、当初は、大町の妙法寺の住職でしたが、文明25年(西暦
1483年)に当寺を創建して移ったといわれています。日澄の死後は、明治末まで長勝
寺が住持を兼任し、無住の寺となっていました。
現在の本堂は、昭和8年(西暦1933年)に再建されたもので、寺には江戸期に作ら
れた日蓮上人像があり、本尊三宝祖師像も新しいようです。また、かつては境内には、漁
師の信仰を集めた「船守稲荷」ありましたが、現在は、稲荷本尊である神体木造船守稲荷
神は像本堂に祀られています。
明治時代には、日本近代洋画を確立した画家の黒田清輝が本堂をアトリエに使ったこと
もあるといい、黒田は辻説法のシーンなどを描いています。
黒田清輝は明治26年(西暦1893年)27歳のとき、9年にわたるフランス留学を
終えて帰国しました。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の
重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向、外光派のサロン画家ラファエル・コラ
ンに師事、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選しました。
黒田清輝を迎えて、日本の洋画界は大きな変化を遂げていきます。それまでは明治9年
(西暦1876年)開校の工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバル
ビゾン派風の作品が主流をなしていましたが、黒田清輝は、変化する光と大気の微妙な様
を描き分ける、明るい色調の外光派風の作品や西洋美術の伝統に基づいて人体を描くこと
を重視し、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着させていきました。
当時、裸体画の展示は道徳上好ましくないとされ、明治28年(西暦1895年)京都
で開催された第4回内国勧業博覧会において、黒田清輝が留学中に制作した「朝妝」を出
品したところ、この作品が裸体画(ヌード)であったために、思いもかけず大きな波紋を
呼び起こしました。
当時の諸新聞の記事をみると、風紀上の問題から「京都博覧会場に陳列せる裸美人ハ、将
に天下の一問題と為らんとす、彼の美術家と称するもの力を極めて裸美人の為に弁護す、
嗚呼何ぞ醜怪なるや、裸体画果して美術の精粋を現はすものか、(中略)彼の裸美人や果し
て美術家の技量を示すに足るとせば、之を画く亦た必ずしも不可なりとせず、然れども之
を公衆の前に掲示するに至りては醜怪も亦た甚だし。彼等美術家は其美術論に心酔して、
社会の風俗に及ぼす影響を忘れたるものなり。」(「裸美人画は之を秘せよ」、『都新聞』、明
治28年5月11日)と批判しています。
しかし、明治29年東京美術学校に新設された西洋画科の指導を託されると、解剖学と実
際の裸体モデルを使った人体デッサンを教育課程に組み入れました。
黒田が人体研究を重視したのは、「構想画」を絵画の最高位に位置づけていたからで、西
洋では、ポーズ等によって特定の意味や概念を象徴する人物像を組み合わせ、神話や歴史、
あるいは愛や勇気などの主題を表す絵画が最も格が高いとされていました。黒田もその価
値観に従い、帰国後まもなく、主題やモチーフを日本に求めた構想画として「昔語り」
「智・
感・情」等を試みています。
内国勧業博覧会は、明治10年(西暦1877年)に第1回が東京で開かれ、第2回(明
治14年:西暦1881年)と第3回(明治23年:西暦1890年)は東京、第4回(明
治28年:西暦1895年)は京都、第5回(明治36年:西暦1903年)は大阪で開
催されました。
第5回の内国勧業博覧会では、我が国初の本格的水族館として、2階建ての本館下に大
養魚槽を設け、天井をガラス張りにして魚を見上げるようにするなどの工夫がされました。
122日の会期中、水族館の観覧者は80万人を超え、大変な人気となりました。
これらに先立ち、明治5年(西暦1872年)には東京の湯島聖堂で博覧会が開催され
ていますが、これには名古屋城の金鯱が出品されるなど、博覧会というよりは「見世物」
に近かったようです。それに対して内国勧業博覧会は、産業や技芸の発展に主眼が置かれ、
珍しいだけの動植物や鉱物、古いだけのものは排除され、後々に価値が出るもの、継続的
に商売になるもの、技を極めたものを出品する一大イベントだったと云われています。
<上行寺>
寺の正式名称は、法久山大前院上行寺と号し、日蓮上人の孫弟子にあたる日範上人を開
山として正和2年(西暦1313年)に創建、
「身がわり鬼子母神」「薬師瘡守稲荷(かさも
りいなり)」「癌除」「水子供養」の寺として知られています。将軍源頼朝ができものを患っ
たとき、北条政子が平癒するよう祈祷を依頼したとかで、その後も、北条氏の祈祷所とし
て栄えたそうです。現在の本堂は、明治19年(西暦1886年)に松葉が谷にある妙法
寺の法華堂を移築したものです。
本堂左手には万延元年 (西暦1860年)、桜田門外で大老井伊直弼の襲撃に加った水戸
浪士広木松之介の墓があります。広木松之介は、井伊大老襲撃の後、鎌倉まで逃れてきま
したが、同志の悉くが命を絶ったことを知り、自害して果てたそうです。
境内右手の本堂には、瘡守稲荷と鬼子母神が祀られ、「薬王経石(やくおうきょうせき)」
という大きな黒い石が置かれています。この石は、当病平癒や悪病除、苦しみや心の安ら
ぎにご利益があるそうで、薬石で患部をさすることで痛みや苦しみが楽になるとのことで
す。主に天然痘や疱瘡等のいわゆる「できもの」を治癒してくれるということで「瘡守」
と名が付いていますが、現代では「できもの」の一つである癌をはじめ難病にも霊験あら
たかだとのことでお参りする信者の方も多いようです。
山門の裏側には日光東照宮の「眠り猫」の作者といわれる名工・左甚五郎の作と伝えら
れる龍の彫刻があり、法華堂には、まるでディズニーの世界のようなファンタジックな色
彩の七福神が祀られています。
左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人で、甚五郎作の作品と
称されるものは、栃木県日光市日光東照宮「眠り猫」、京都府八幡石清水八幡宮「目貫きの
猿」福井県鯖江市誠照寺「駆け出しの龍」など、北は青森県八戸市の櫛引八幡宮から、南
は福岡市の筥崎宮楼門まで、全国100ヶ所近く確認され、制作年代も、安土桃山時代か
ら江戸時代後期まで、300年に及んでいるといいます。
文献史料からみても様々で、延宝3年(西暦1675年)に黒川道祐なる医者が著した
『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作
し、左利きであった」と記されており、これに従えば、彼が活躍した年代は、天下分け目
の関が原戦いの慶長5年(西暦1600年)をはさんだ前後20∼30年間ということに
なります。
また、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎
十一甲戌年四月廿八日卒
伏見人
寛永
四一才」とあり、寛永11年(西暦1634年)に41才で亡
くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
更に、四国には左甚五郎の子孫がおり、墓も存在します。子孫の話によると、寛永年間
の『生駒家分限帳』に、甚五郎の名があるといいますが、左の姓は記されていません。
活躍した年代や場所が様々であり、出身地も、根来(和歌山県)、伏見(京都府)、明石
(兵庫県)、四国(高松:香川県)と、左甚五郎を特定できる確たる証拠はでていません。
と言うことは、左甚五郎はいなかったか、左甚五郎作とされる作品には、かなり怪しげ
なものが混ざっているのでしょうか?
左甚五郎、実は「飛騨の甚五郎」、全国各地へ出向いた飛騨匠たちが残した名品が「飛騨
の甚五郎」という架空の人物のものとして語り継がれ、各地に多くの伝説を残したという
説もあります。これが最も真実に近いのではないかと私は考えております。
奈良・平安時代以来、飛騨国は税を納める代わりに「飛騨匠」という木工建築技術者百
二十人ほどを都へ派遣し、東大寺や西大寺、平城宮、平安宮などの建物を建てたといいま
す。その技、技術者の数をもってすれば、全国100ヶ所、制作年代300年も理解でき
ると考えます。落語に登場する左甚五郎は、宿賃もなしに豪遊し、代わりに一本の竹から
水仙を彫ったそうです。百人以上の甚五郎の中には、そのようなだらしない甚五郎もいた
のではないかと思います。
左甚五郎の左とは、日光東照宮の工事をめぐるいさかいで、右腕を切り落とされ、左手
一本で細工をすることから付いたとも云われています。人情に弱く酒が好き。だが、いざ
鑿を持てば、類稀なる才能に磨きを加えた左腕一本で、皆が舌を巻く見事な仕事をやって
のけたそうです。江戸時代には、講談、落語、浪曲など多数に登場し、ニセの甚五郎と勝
負したときの「木彫りの鯉」の話では、彫った鯉が水の中を泳いだと伝えられています。
左甚五郎ミステリー、皆様の解は如何でしょうか。
<実相寺>
開基は日蓮の直弟子である日昭上人で、13世紀末、鎌倉時代の武将工藤祐経の屋敷跡
に法華堂を建立したのが始まりです。
弘安7年(西暦1284年)に法華寺となり、後に伊豆玉沢(三島市)に移りましたが、
元和7年(西暦1621年)に日潤によってこの地に再建されたのが、現在の実相寺だと
伝えられています。明治の初めに大火で焼失し、今の本堂は、その後再建された、山門の
奥にこぢんまりと建つお寺です。
開山の日昭上人は、曽我五郎・十郎兄弟によって仇討ちされた鎌倉時代の武将・工藤左
右衛門祐経の孫に当り、
「六老僧」と呼ばれる日蓮直弟子6人の筆頭だった方です。日蓮上
人が佐渡に流されている間、一門を教化するために法華堂を建て、教えを守り続けたと伝
えられています。寺の墓地には日昭上人が眠る墓があります。
曾我兄弟の仇討ちは、鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入りと並んで「日本三大仇討ち」
と称されています。初夢で見ると縁起がいいとされる「一富士、二鷹、三茄子」
、一説には
日本三大仇討ち(富士の裾野の曽我兄弟、鷹紋の赤穂浪士、茄子紋の「鍵屋の辻」の荒木
又衛門)から取られたものという話しがあります。
仇討ちの発端は、兄弟に討たれた工藤祐経と兄弟の祖父にあたる伊東祐親を所領争いに
あります。当時の情勢は、鎌倉幕府が定めた御成敗式目による公平な裁判もない時代で、
所領争いは当事者同士で解決しなければなりませんでした。工藤祐経は、自分の所領を安
堵するためには、兄弟の叔父伊東祐親を除く必要があると考え、安元2年(西暦1176
年)10月、郎党の大見成家と八幡某に狩に出た祐親を待ち伏せ、弓矢で祐親と嫡男の河
津祐泰を狙いました。結果、矢に当たった祐泰が死に、刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東
方の追討により殺されました。
祐泰の死後、妻の満江御前は曾我祐信と再婚、残された祐泰の忘れ形見、一萬丸と箱王
は母親と共に引き取られ、曾我の里で成長しました。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害し、
一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となりました。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活の中で成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家
督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗り、弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現に稚児と
して預けられました。
文久3年(西暦1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工
藤祐経を見つけ、復讐しようと付けねらいますが、敵を討つどころか、不憫に思った祐経
に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられます。その後、箱王丸は出家を嫌い、箱根を逃げ
出し、縁者にあたる北条時政を頼り、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致と
名乗りました。
建久4年(西暦1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩りを開催し、そ
こに工藤祐経も参加していました。巻狩り最後の夜、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入り、
酒に酔って遊女と寝ていた祐経を討ち果たしましたが、頼朝の寝所にも押し入ったところ、
兄十郎は騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちの一人、仁田忠常に討たれ、弟の五郎は、
女装した五郎丸によって取り押さえられ、翌日、斬首されています。
なお、この事件あった富士の巻狩りで頼朝は落馬し、しばらくの間、鎌倉では頼朝の消
息を確認することが出来なかったことから、頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩り
に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますのでご安心ください。」と
見舞いの言葉を送ったところ、その言質を謀反の疑いと取られ、範頼は伊豆修善寺に幽閉、
後に自害したと伝えられています。また、工藤祐経を討った後で、曽我兄弟が頼朝の宿所
を襲おうとして兄は討ち取られ、弟の五郎は捕らえられたことが謎であるとされてきまし
た。一説には、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとし
た暗殺未遂事件であったとも云われています。
当時の時政は、頼朝旗揚げの山木兼隆攻めにおいて、進軍の経路を巡り異論を唱えたり、
頼朝の愛妾亀の前をめぐる政子との確執で一族郎党を引き連れ伊豆の領国へ引き上るなど、
頼朝の独裁を嫌い、頼朝との間には何度も亀裂が生じていたようです。それに加え、時政
が烏帽子親を務めた五郎が頼朝の寝所で捕らえられたことや頼朝の落馬事故も、現在歴史
の謎として、時政の頼朝暗殺未遂事件と疑われているようです。
この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・
浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得て現在に至っています。
<補陀洛寺>
正式名称は南向山帰命院補陀洛寺と号し、古義真言宗のお寺です。元は京都仁和寺末(新
編鎌倉志)に連なっていましたが、後に青蓮寺末(関東古義真言宗本末帳)となり、現在
は京都大覚寺末寺となっています。
開山は頼朝に挙兵をすすめた文覚上人、開基は源頼朝と伝えられており、後、鶴岡供僧
頼基が中興したといわれています。現在の本尊は十一面観音ですが、元の本尊は薬師如来
であったそうです。
明治初年の火災で殆ど烏有に帰しましたが、その時、誰も出した覚えがないのに、仏像
類は全部無事であったといいます。現在の本堂は関東大震災で全壊した後、大正13年(西
暦1924年)春に建立されたものです。
補陀洛寺は頼朝の祈願所として、養和元年(西暦1181年)に創建したと伝えられて
います。頼朝はもともと観音信仰が強い人で、前年に鎌倉に入り、鎌倉の南に位置するこ
の地に観世音菩薩を祀ったのではないかと推測されています。
寺名「補陀洛」の意味は、補陀洛はサンスクリット語の「ポータラカ」で、ホダラカは
「観音の浄土」を意味し、日本語に翻訳されたとき「補陀洛迦」
(「ホダラク」あるいは「フ
ダラク」ははるかな南の海にあると信じられた「観音浄土」ポータラカの音写)の字をあ
てたようです。
昔は七堂伽藍をもつ大きな寺院で、境内も一キロ四方あったそうで海が望め、由比ガ浜
で発生した竜巻がこのあたりを通り、たびたび大きな被害をうけ「竜巻寺」ともいわれて
います。
寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音や頼朝にゆかりの物が多く、中でも珍しいの
が、平家の赤旗で、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものだといわれ、頼朝がこ
の寺に奉納したといわれています。
平家の赤旗は、70センチ×40センチ角の大きさで「九万八千軍神」の文字が読め、伝
えによると書かれている文字は平清盛の手によるものではないかといわれています。
素材は、麻と竹の糸で織られ、周りがちぎれており、近世に瀬戸内海で疫病が流行った
際、この切れ端を煎じて飲むと病が治るということから、布をちぎって送ったと伝えられ
ています。
平清盛は、伊勢平氏棟梁忠盛の嫡子として生まれ、保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、
平治の乱で源義朝を討ち、武士では初めて太政大臣に任ぜられます。
しかし、治承元年(西暦1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀事件が多田行綱の密告で露見
すると、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図り、藤原師光(西光)は処刑、
藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる)
、俊寛らを鬼界ヶ島に
流罪に処し、法皇の罪を問いませんでしたが、後白河院政を崩壊させ、平清盛による平氏
の独裁政権を樹立しました。
更に、清盛は治承4年(西暦1180年)2月、高倉天皇を退位させて、自らの孫であ
る安徳天皇を即位させました。安徳天皇の母は言うまでもなく娘・徳子で、これにより平
家は全盛期を迎え、その知行国は日本全国の半分以上に及ぶにいたりました。
平清盛は、古来、『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、暴君という評価が
定着していましたが、政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、経が島築造
に見られるような公共事業の推進など、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治に新
生面を切り開いたとする肯定的評価もされてきています。
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の平基盛も早世していたため、平氏の棟
梁の座は三男の平宗盛が継ぎましたが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、また、法皇
を中心とした院政勢力も勢力を盛り返すなど、平家は次第に追いつめられていきました。
しかも、折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、平家は寿永2年(西
暦1183年)倶利伽羅峠の戦いで平家軍が壊滅した後、源義仲の攻勢の前に成す術無く
都落ちし、文治元年(西暦1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平家は滅亡しました。
全国には補陀洛の字のつく寺院は約26∼27ヶ寺ほどあり、補陀洛山とか補陀洛院と
か山号、院号に補陀洛の字がつくお寺も多く、いずれも浄土を意味するもので、例えば日
光の男体山は補陀洛山と伝えられ、二荒神社は補陀洛がなまったものと考えられています。
また、火災もにも遭い古い書物等は残っていませんが、幸い、ほかの寺院の古文書など
に記載されていることを総合し、縁起等が徐々に明らかになってきているそうです。
<延命寺>
山号は帰命山延命寺、専蓮社誉能公上人によって開山された浄土宗の寺で、北条時頼の
夫人が建立したといわれています。
本堂に祀られている身代わり地蔵は、裸にならなければいけないという双六をしたとき
に、負けてしまった夫人の代わりに地蔵が裸になって双六の盤に現れたという話が残って
います。この身代わり地蔵は、女根をつくりつけた裸地蔵として有名で、「裸地蔵」「前出
地蔵」とも呼ばれており、天保頃に安養院の役寺として、江戸へ出開帳したこともあった
という云います。
本堂裏手墓地に「古狸塚」という碑があります。江戸時代の終わり頃、この寺に住みつ
いた狸が和尚に可愛がられ、酒好きな和尚のために酒を買いに行ったりしていたそうで、
狸が死ぬと和尚が不憫に思い、葬って碑を建て、供養したと伝えられています。
民俗学者・柳田國男によると、動物と人間との交渉を物語る昔話の根幹には、
「浦島太郎」
のように、動物救助の考えがあり、里に住み着く狐や狸の危機を救い、その報恩を受ける
話が他にも、
「分福茶釜」
「狐と博労」
「狐遊女」など『甲子夜話』や『日本昔話大成』に同
種の昔話として載り、日本中に伝わっています。
また、赤穂四十七士のうち岡島八十右衛門の三男が住持であったと伝えられており、昔は
義士銘々伝と義士の画像もあったそうですが、今はないそうです。
岡島八十右衛門は、皆さんよくご存知の原惣右衛門の実弟で、札座奉行20石5人扶持、
山賊退治の武勇伝や、元禄7年(西暦1694年)の備中国松山城受け取りに大石内蔵助の
先陣として従軍、赤穂城明け渡しの折には、大石内蔵助のもとで広間を担当したとの記録
が残っています。吉良邸討ち入りの際には、表門隊に属していましたが、江戸へは病気で
最後に下向したりするなど、活躍はできなかったようです。本懐後は長府藩毛利家にお預
かりとなり、同家家臣榊庄右衛門の介錯で切腹し、主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳
寺に葬られています。
ミュンヘン大学の研究によれば、世界で最も古い双六は、エジプト初期の第一王朝時代
(紀元前2950∼2654年)に既にあったとされ、盤は3×10の桝目が刻まれた粘
土で作られ、セネトと云われています。
エジプト第三王朝(紀元前2654∼2578年)時代のピラミッドにあるサッカラの
彩色壁画には、セネトに興じる人の様子が描かれており、盤は箱型で、3×10の桝目が
あり、14個のコマで遊んだようです。
時代が下って第十八王朝の新王国の時代には、王や貴族だけでなく、平民や学生、石工
達にもこのセネトが流行していたようで、パピルスの上に桝目を線描きした、持ち運びが
容易なセネトも発見されています。
皆様よくご存知の、紀元前1352年頃に18歳で死去したツタンカーメン王の墳墓か
らも、4つのセネトが発掘されています。最大のものは、象牙と黒檀で作られた盤に、獣
の脚を模した脚柱がつく品格ある美術品で、盤の桝目は、やはり10の桝目が3列に並ん
でいます。悲劇の王として伝えられるツタンカーメンが、愛する王妃と仲睦まじく、セネ
トで遊んでいた情景が目に浮かびます。
日本における双六の歴史も相当古く、現存する最古の双六は、朝鮮から渡来した「木画
紫檀双六局」で、正倉院北倉の御物として所蔵されています。また、
「日本書紀」にも、持
統天皇時代の朱鳥4年(西暦689年)に「禁断双六」と記述されており、禁裏向けとは
思いますが、賭博性のあった双六の禁止令が発せられていたようです。
天平宝字元年(西暦757年)に施行された養老律令にも双六の記載があり、喪に服し
ている期間中に行ってはならない雑戯として「双六囲某之属」とあり、「僧尼律」の中でも
僧尼の博戯を禁じています。しかし、双六は再三にわたって禁止されながらも、庶民に広
まり、物語や古文書にも記されおり、醍醐天皇の輔弼であった文章博士の紀長谷雄が、朱
雀門の上で鬼と双六の勝負をし、紀長谷雄が勝って、美女を手に入れたという物語が、鎌
倉時代末期の「長谷雄草紙」に描かれています。北条時頼の夫人が負けて裸にならなけれ
ばいけないという事態も十分にあったと推察でされます。
このほか、「蜻蛉日記」「栄華物語」「大鏡」「今昔物語」「平治物語」「石山寺縁起絵巻」
などにも双六遊びのことが記されており、兼好法師も「徒然草」の中で、『双六の上手とい
われる人に、その心得を尋ねると「勝とうとして打ってはいけない。負けないように打つ
べきである。どの手だったら早く負けないかを思案して、一目でも遅く負けるように手を
つくすべきだ。」と答えた。身を治め 、国を保つ道もまたこのようである。』と双六につい
て記しています。
<等覚寺>
山号を休場山と称し、高野山真言宗で応永年間(西暦1394∼1428年)秀恵僧都
の創建といわれ、本尊は不動明王です。
山門を入ると、正面に本堂、右に文政三年(西暦1820年)「四国八十八ヶ所之内第弐
十壱番所阿州大龍寺之写し」のお大師様があり、六地蔵も安置されています。
本四国の遍路が困難だった時代、弘法大師への信仰から寒川、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉あた
りに四国八十八ヶ所札所の寺院名・土地名や、何らか似ている場所を選び四国八十八ヶ所
の写しの番号とし、文政三年(西暦1820年)に弘法大師を安置したそうで、この寺は、
「相
模国準四国八十八ヶ所第二十一番札所」となっています。
春秋のお彼岸前後には、この地方の人々50∼60人が集まり、今回は寒川、茅ヶ崎方
面、次回は藤沢、鎌倉と各寺院の大師堂に安置された弘法大師石像をお参りし、近くの湯
小屋で昼食をしたりご詠歌を歌って楽しく過ごしたようで、それが当時の春秋の楽しみな
レクレーションであったようです。
境内には、明治六年に建てられ、明治八年に梶原学校と改名された市立深沢小学校の前
身である寺小屋「訓蒙学舎」があったそうです。領地は、梶原の「御霊神社」あたりから、
小学校裏のあたりにかけた一帯で、昔は訓蒙学舎のあたりにお寺があったとも云われてい
ます。学校裏にあるやぐらには、頼朝の死後、鎌倉を追われ、京都に逃れる途中、駿河の
清見関で地元の武士に襲われ一族が死んだ梶原一族の供養塔もあります。一族の墓は、清
見関近くの山にある石塔だと云われており、また、本堂右奥には新田義貞鎌倉攻めで亡く
なった人たちの無縁塔があります。
このあたりは、弘化四年∼安政元年の「相模国鎌倉郡村史」よると、一時、彦根候井伊
掃部頭の領地で、寺にある「山門復興時の棟札」には願主井伊直弼掃部頭の文字がありま
す。
井伊掃部頭直弼は文化12年(西暦1815年)10月29日、第11代彦根城主の井
伊直中が50歳のときの第十四男として生まれました。
青年時代は井伊直孝の遺訓により不遇の時期を過ごしましたが、後に第12代藩主・長
兄の直亮の養嫡子となり、井伊直亮の没後、第13代彦根藩主となります。
彦根藩時代は藩政改革を行い名君と呼ばれており、また、アメリカ合衆国のペリー艦隊
来航に伴い、江戸湾(東京湾)防備に力を注ぎました。
この頃(嘉永から安政年間にかけて)の幕政は、老中阿部正弘によってリードされてお
り、従来の譜代大名中心から親藩の徳川斉昭、松平慶永らとの連携方式に移行させ、徳川
斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させました。
徳川斉昭はたびたび攘夷を強く唱えて、開国派であった溜間(江戸城で名門譜代大名が
詰める席)と直弼と対立し、遂には、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討
議で頂点に達しました。
徳川斉昭は、開国・通商派である老中松平乗全、松平忠固の2名の更迭を阿部正弘に迫
り、安政2年(西暦1855年)8月4日、阿部正弘はやむなく両名を老中から退けまし
たが、逆に、井伊直弼はその人事に猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中
に補充するよう阿部正弘に迫り、溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に
起用し、対立をひとまず収束しました。
安政4年(西暦1857年)、阿部正弘が死去すると、幕政は溜間の意向を反映した堀田・
松平の連立幕閣が牛耳るようになり、第13代将軍徳川家定が死去する直前、松平忠固や
水野忠央(紀州藩付家老)の工作により、安政5年(西暦1858年)井伊直弼は大老に
就任します。井伊直弼は大老に就任すると、勅許なく日米修好通商条約に調印し、将軍継
嗣問題では和歌山藩主徳川慶福を推挙、対立していた一橋派を押し切り徳川慶福(家茂)
を将軍の継嗣に決定します。
その後、井伊直弼は「安政の大獄」と言われる尊王攘夷運動に対し厳しい弾圧を行い、
徳川斉昭を謹慎させ、吉田松陰・橋本左内ら8名が死刑にするなど、公家・大名や志士な
ど100余名を罰しました。
この弾圧が遠因となり、萬延元年(西暦1860年)3月3日、桃の節句の祝儀に江戸
城に参上の途中、桜田門において水戸・薩摩の浪士に襲われ命を落としてしまいました。
墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都 世田谷区)にあります。
<星井寺>
正しくは明鏡山星井寺といい、本尊は知恵と福を与え、全ての願を叶えるといわれる虚
空菩薩です。 天平2年(西暦730年)全国を行脚した行基大僧正が、鎌倉十井のひとつ
である星ノ井との因縁で創建し、この地で虚空蔵菩薩像を彫って祀ったといいます。本尊
の虚空蔵菩薩像は日本三虚空蔵のひとつで、無量の福徳と知恵を授け、願い事を叶えさせ
てくれる牛年生まれ、寅年生まれの人々の守り本尊です。
鎌倉時代には、 源頼朝も崇敬したといわれ、この像を秘仏として、35年に1度だけ開
帳したということですが、現在は毎年1月13日に開帳し初護摩供を行っています。
境内には舟守地蔵も安置されています。造立年代など一切不明で、地元では古くから舟
乗地蔵と呼んでいましたが、最近では「舟守地蔵」の札が立てられています。
行基は東大寺の大仏建立に関わった高僧で、当初は、行基のまわりに過酷な労働から逃
亡・流浪した多くの役民たちが、逃亡民として集まり私度僧になったため、霊亀3年(西
暦717年)には朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されていました。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指
臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以
外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とあります。
当時は、平城遷都から間も無くのころで、仏教の制度・戒律がまだ十分に整っていなか
ったようで、
「私度僧」と言うお寺で正規の修行を積まないアングラ僧が数多くおり、奈良
の大仏の建立に貢献した良弁もまた私度僧だったようです。行基は下層階級の救済に力を
注いだようで、全国を廻って布教を行い、鎌倉ではこの星井寺の他に杉本寺、岩殿寺を創
建し、最後には日本で最初の大僧正として朝廷からも認められています。
星井寺は極楽寺坂切り通しの入り口に位置し、鎌倉十井のひとつ「星月夜の井」という
井戸が傍にあり、行基がこの地の住民にこの井戸を覗くと明るく輝く明星の光が見えると
聞き、覗いたら虚空菩薩のお姿が見えたため、虚空菩薩の像を作ってお堂を建てて安置し
たという謂れが残っています。
極楽寺切通は鎌倉の町の西方に位置し、京都方面から鎌倉に入る要路の一つで、元弘3
年(西暦1333年)の新田義貞の鎌倉攻めによる激戦の地として有名で、新編相模国風
土記稿には「極楽寺坂は坂之下村堺にあり、登り三十間余(55m)
・幅四間(7.2m)
往古重山畳峰なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云う、即ち極楽寺坂切通しと唱
えるはこれなり。」と述べています。
太平記の「新田義貞鎌倉中に攻入る事」の条によると、新田義貞は、大仏貞直(だいぶ
つさだなお)を大将として五万余騎にて固めていた極楽寺切通に、大館宗氏(おおだちむ
ねうじ)を左将軍、江田行義(えだゆきよし)を右将軍として、総勢十万余騎を向わせま
したが破れず、稲村ガ崎の剣を海の投ずる演技をする次第となります。
現在の極楽寺切通は、上下二車線の舗装道路で、勾配もさほどにきつくなく、太平記に
攻めるには困難であると書かれている述べるような、切通の高さが南側山上にある成就院
の門の位置まで有った昔の面影はまったくありません。
この寺の虚空蔵菩薩は、日本三大虚空蔵のひとつで、源頼朝もこの菩薩を崇敬したとい
われ、昔は、35年に一度の御開帳であったそうですが、最近では、毎年1月13日に開
帳され、初護摩が焚かれています。
虚空蔵菩薩は、知恵と福徳の仏様で、十三仏の最後三十三回忌の本尊、丑と寅年生まれ
の人の守り本尊とされています。
知恵と福徳を無限に内蔵しておられる菩薩で、衆生の願いを叶えるために蔵から自在に
取り出して救済し、密教の大日如来の働きのうち「虚空」と「蔵」という特性を持ち、虚
空は何ものにも打ち破れない無能勝ちであり、蔵はすべての人々に利益・安楽を与える宝
を収めているという意味があります。
ところで、この寺の虚空蔵菩薩は、日本三大虚空蔵として会津は圓蔵寺のそれと並んで
大変貴重な仏像といわれています。では、あと一つは何処の虚空蔵菩薩なのでしょうか。
調べた限りでは、全国に日本三大虚空蔵と呼ばれる菩薩は様々で、福島県柳津町の圓蔵寺
福満虚空蔵尊、茨城県東海村の常陸村松山虚空蔵尊、三重県明和町の朝熊山金剛證寺福威
智虚空蔵菩薩、京都嵐山の嵯峨法輪寺虚空蔵菩薩、青森県南郷村の福一満虚空蔵菩薩、宮
城県津山町の柳津虚空蔵尊、千葉県天津小湊町の能満虚空蔵尊、静岡県焼津市の香集寺虚
空蔵尊、岐阜県大垣市の明星輪寺と十指にのぼります。
勝手ながら、鎌倉に住む者の独断と偏見で、ここでは、日本三大虚空蔵は神奈川県鎌倉
市の星井寺虚空蔵菩薩、京都嵐山の嵯峨法輪寺虚空蔵菩薩、福島県柳津町の圓蔵寺福満虚
空蔵尊とします。皆様、反論があればお願い致します。
<向福寺>
円龍山向福寺は時宗・藤沢清浄寺末で、開山は一向上人、開基は不明です。一向上人は、
光明寺に師事する浄土宗の僧でしたが、諸国を遊行して独自の布教活動をすすめ、伊吹山
麓にも蓮華寺を創建しています。一向上人の布教方法は、時宗の開祖である一遍上人と同
じ踊り念仏であるところから時宗の一派に加えられています。
本尊は観音、勢至の両菩薩を脇侍とする木造阿弥陀三尊像で、南北朝時代の作品といわ
れており、造立当時の姿をとどめ、中尊の深く刻みこまれた衣文の線の美しさはよく知ら
れています。
江戸時代末、文政9年(西暦1826)に再建された本堂と表門は、関東大震災で全壊
し、現在の本堂は昭和の初期に建てられたものです。
また、鎌倉三十三所観音霊場第15番札所としても知られ、御詠歌で「ふかき夜の
めにすくせし
わが身にや
さいわいにむく
ゆ
しるべなるらん」と歌われています。
寺は材木座のバス通りから少し入った所に建つ、本堂と庫裡だけのひそやかなお寺で、
観光スポットから外れた感じのあるたたずまいは、祈りの場としての落ち着きを感じさせ
ます。
また、
『丹下左膳』などの作品で知られる作家・林不忘が、大正15年(西暦1926年)、
この寺の一室を借りて新婚生活を送ったそうです。その後、没年まで笹目、雪ノ下と鎌倉
の中を移り住んでいます。
林不忘は本名長谷川海太郎、新潟県に生まれ、函館中学校中退後、大正7年(西暦19
18年)単身アメリカに渡り、オベリン大学等に籍を置き、各種の職業につきながら勉学
に励み、帰国後「探偵文芸」に参加、三つの筆名を使いわけ、谷譲次の名で「テキサス無
宿」などメリケン・ジャップものや「踊る地平線」、牧逸馬の名で「暁の猟人」などの現代
小説、ミステリーや翻訳、林不忘の名で「大岡政談」など時代小説を書き、特に「丹下左
膳」は圧倒的な人気を博しました。
丹下左膳は、当初、新聞に発表された小説「新版大岡政談」に登場し、最初は脇役でし
たが、人気が出たため、その後、小説「丹下左膳」として主役となり、映画化され、当時
を代表するヒーローとなりました。小説「丹下左膳」の挿絵は、日本画家山川秀峰のもと
で修行し、挿絵画家としてデビューした志村立美で、その後、花形挿絵画家として輝かし
い一時代を築き、晩年は日本画制作に専念し、美人画を追求し続けました。
美男美女俳優が主役であった映画初期の昭和3年(西暦1928年)以来、今日まで延々
と80年以上にわたり、映画・テレビで、伊藤大輔、松田定次、マキノ雅弘など10人以上
の監督のもとで大河内伝次郎、阪東妻三郎、大友柳太朗などの映画史に残る名優たちが、
隻眼隻腕で、ニヒルな剣客として丹下左膳を演じています。
丹下左膳のシリーズの中に『こけ猿の壷』というのがあります。ストーリーは、「柳生対
馬守の弟源三郎は、伊賀の暴れん坊として知られる剣の達人だが、江戸・司馬道場に婿入
りするため品川宿まで来る。だが、司馬道場の乗っ取りを企む師範代の峰丹波は、源三郎
の江戸入りを阻止するために、手先の鼓の与吉に命じて、婚礼の引出物であるこけ猿の壷
を盗ませる。しかし、柳生の門弟に追われている与吉を丹下左膳が助けたことから、こけ
猿の壷は左膳の手に渡る。」ということから始まり、「こけ猿の壷に秘められている柳生家
の先祖が埋めた百万両の金の隠し場所の地図を求めて、善玉悪玉が合い乱れて争奪戦をす
る」ことになります。
この『こけ猿の壷』、なんと、あの手塚治虫が漫画にしています。手塚治虫がこの漫画の
原作としたのは昭和8年(西暦1933年)6∼11月にかけて「大阪毎日新聞」と「東
京日日新聞」に連載された「丹下左膳・こけ猿の壷」です。
ただし、原作の丹下左膳が、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背が高く、赤茶けた髪を
大髻に取り上げて、左眼はうつろにくぼみ、細い右眼から口尻に向かって、右の頬に溝の
ような深い一直線の刀痕が目立つ浪人姿に対し、丹下左膳の顔の傷を、ピエロのイメージ
してデフォルメするなど、ニヒルな剣客のイメージではなく、どちらかといえば可愛い、
手塚治虫カラーを表に出し、子供に恐怖を抱かせないように描かれています。
他の主要登場人物も、鉄腕アトムのお茶の水博士に似た作阿彌や悪人の峰丹波すらどこ
か憎めない風貌へと変っています。
なお、手塚治虫は、昭和30年(西暦1955年)『乾雲坤竜の巻(けんうんこんりゅう
のまき)』も発表しています。しかし、この時は手塚治虫が病気になったため、手塚治虫自
身が執筆したのは表紙と2色8ページのみで、あとは代筆だったそうです。
<宝善院>
加持山宝善院霊山寺は、加賀の白山(山岳信仰)の開山でも知られている福井県出身の
泰澄大師が、今を去る千百五拾有余年の昔、天平神護年間(西暦765年∼767年)、こ
の地に十一面観音様を勘請、人々の除災招福を盛んに祈念され、更に行基菩薩御作と伝う
薬師如来、日光・月光両菩薩を祀りし、その名も泰澄山瑠璃光寺、加持山霊山寺として開
山された真言宗の寺です。
以来、江ノ島や、津村などと深く係わりつつ、明治維新まで、津村龍口明神社別当とし
て、この地の信仰の中心をなし、今日に至っています。現在の堂宇は、昭和48年(西暦
1973年)
、宗祖弘法大師御生誕壱千百五拾年の記念事業として改築されたものです。
日本には古来より、山や川などには神々が宿るという自然神の信仰があり、白山は豊か
な水と土により、農耕の神々が宿る山として、遠くから遙かに拝まれていました(遙拝)。
開山の泰澄大師は、白山で修験道の修行を行い、白山の神を祀り、それまで素朴な山岳
信仰だった白山信仰に、仏教的な意義付けをしたと云われています。また、江ノ島神社や
龍口明神社などにも籠もり修行したと伝えられています。
泰澄大師は越前の人で、高句麗からの亡命帰化人の子であったといいます。伝承による
と、奈良時代より少し前の文武天皇の時(西暦702年)
、鎮護国家法師に任命され、中央
の仏教界、政界の有力者などとの密接な関係を持ち、白山信仰を中央にまで広めたといい
ますが、正式な記録文書には泰澄の名はみえず、泰澄大師は中央との関係が本当は無かっ
たのではないかとも言われています。
しかし、奈良時代から白山信仰は中央の貴族の間で盛んに行われており、京都の醍醐寺
では白山信仰が受け継がれ、三宝院には白山権現を祀る社があり、泰澄大師が勧進したと
考えても不都合はないように思います。江戸時代、加賀、越前、美濃の三国間で、白山山
頂の領有をめぐる激しい争いがあり、その先頭に立っていたのが、同じく泰澄大師を開基
とする、馬場(信仰登山の登り口)にあった白山神社でした。この争いは、最後には、江
戸幕府が山頂と山麓の村を天領とすることで決着がつきますが、争いの本質は宗教的なも
のではなくて、むしろ権益を奪い合うということでした。
泰澄大師には様々な伝説がありますが、最も有名なのは「鉢飛ばし伝説」で、この伝説
は、浄定行者が大師と臥行者の神通力に感心し、大師の弟子になる話です。
大師の弟子臥行者が、日本海を航行する船に、越知山から鉢を飛ばして布施を求める話
です。
ある時、官米を積んだ船が通り、いつものとおり鉢を飛ばして布施を求めました。船長
が断ると、鉢は越知山に飛び戻り、鉢の後に続いて米俵も次々と飛び去っていきました。
船長は驚き、臥行者に詫びて米俵を返してもらった折に、大師の人格に打たれ、都からの
帰路に弟子入りし、浄定行者と名乗ったといいます。
この浄定行者は、大師が元正天皇(霊亀元年∼神亀元年:西暦715∼724年)のご
病気を祈祷したとき、柱を押して宮殿を揺り動かして、天皇に取り付いていた邪霊を振り
出したと云われています。
同じような鉢を飛ばして布施を求める伝説は『信貴山縁起』に登場します。こちらは、
官米を積んだ船ではなく、山崎の長者の飛び倉伝説です。
信濃の國の命蓮という僧が、奈良で受戒をすませ、そのまま大和の信貴山にこもって、
毘沙門天を祀って修業を重ねていました。里にでることもなく秘法をもって鉢を飛ばして
は、それに里から食べ物を運ばせていました。
ある時、山崎の長者の家に鉢を飛ばせました。長者は何時もその鉢に施しものをしてい
ましたが、家人がこの鉢を米倉の中に入れたまま戸を閉めてしまいました。すると、時な
らぬ家鳴りとともに、鉢が倉の中から飛び出し、鉢の上に倉を載せて空に舞い上がると、
僧のいる信貴山まで飛んで行き、倉はドサッと落ちました。
追いかけてきた長者は、僧に「倉がここまで飛んできてしまったのです。どうぞお返し
下さい。」と掻き口説きましたが、僧は「だが、この山にはこのような倉がない。当寺にも
是非にも必要だ。だが中の米俵はお望みどおりお返ししよう。」と言い、どうして山城の屋
敷に運び込んだものかと途方にくれていた長者に、僧は「運ぶのは簡単なことよ。この鉢
に一俵の米俵を載せなされ。瞬く間に鉢が舞い上がり、群雀のようについて飛び立つであ
ろう。」と呪文をかけ、倉の中の千石もの米俵を雁が空を連なって飛ぶように、一俵残らず、
長者の家の庭へ元のごとく送り帰しました。
この信貴山縁起絵巻は、大和の信貴山の修行僧・命蓮に関する奇跡物語を、描いたもの
ですが、描かれた時代が平安後期ということで、泰澄大師の「鉢飛ばし伝説」よりかなり
後のもののようですから、泰澄伝説を引用したのかもしれませんね。
<玉泉寺>
玉泉寺は、江戸時代の初期(西暦1616年)に没した一歩沙弥とも称した小林若狭と
いう人物が開いたといわれ、背後に聖天の祠があったことから、聖天山歓喜院玉泉寺と号
す真言宗大覚寺派のお寺です。参道を入って境内の正面に本堂があり、右手には弘法大師
の立像が祀られています。寺地はもと若狭の宅地であったと云われ、若狭の父とその部下
一族数十名の墓所などがあります。
本尊の不動明王像は、胎内にもう一つ小さなお不動様を抱えているのが特色で、胎内の
小さなお不動様は、鎌倉時代に願行上人が作ったもので、胎内不動と呼ばれています。こ
の不動明王は秘仏として正月三が日だけ開帳されます。
また、境内の墓地には「よくばり地蔵さん」があり、このお地蔵さんは、願い事がある
時は、七日間、毎日六つ、かなったら七日七つ、団子を供えると願いが叶うとのことです。
四十二は厄年の数字、四十九は寺に納める餅の数、いずれ感謝の気持ちを忘れると祟り(た
たり)があるぞという戒めから生まれた地蔵さんのようです。
地蔵さんの他に、境内には、優しい女性の姿をした聖観音像の石仏が立っています。天
衣が長すぎたのか、先をくるりと巻いており、健康的な働く女性を供養する像であること
を物語っています。
胎内不動の作者、願行上人憲静は、建保5年(西暦1217年)に京都で生まれ、幼く
して京都泉湧寺や高野山で修行し、真言宗の学僧として、学問だけで終わらせない行動派
として、京都など近畿だけでなく、鎌倉をはじめとする関東にも多くの足跡を残していま
す。
特に、真言念仏・土砂加持による偉大な念仏結集の行者として、文永・弘安の元寇の難
を迎えた鎌倉中期の庶民や武士の心を掴み、執権職に就いていた北条氏とも懇意な関係で、
更に、大山寺中興の祖としても伝えられています。
大山寺の不動明王及び二童子、制多伽(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子像は、
当時、鎌倉大楽寺にいたこの願行上人によって造られました。
願行上人は58歳の時、大山寺が荒廃しているのを愁いて、江ノ島の龍穴に篭り、再興
の祈願をしました。その時、神から授かった金塊で工人を雇い、浜の砂鉄を集めて自らタ
タラを踏み、土の像より型を取って鋳造したと云われています。
事前に試みの不動(鎌倉覚園寺に現存)を造ってからこの大作にとりかかり、また、刀
匠正宗とその一門が技術集団として鋳造に加わったとも伝えられています。
なお、この不動明王及び二童子像は、日本で初めて鉄で鋳造されたもので、昭和3年に
国宝に指定されています。
「お不動さん」と呼ばれ親しまれる不動明王は、悪魔を降伏するために恐ろしい姿をさ
れ、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わない者を無理矢理にでも導き救済す
るという役目をもっており、大日如来の化身としての使者と言われています。
その姿は、眼を怒らせ、右手に宝剣を持ち、左手に縄(羂索)を持つたいへん恐ろしい
姿をしていますが、その心は人を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちて「顔で
怒って心で泣いて」という姿なのだそうです。
不動明王の両脇に二人の童子を配する三尊形式の姿をよく見かけられ、その二童子は不動
明王に使者として仕える八大童子の内の制多伽童子と矜羯羅童子で、願行上人憲静が若い
頃修行された高野山には、鎌倉時代の有名な仏師運慶作による「不動明王坐像」及び「八
大童子像」(国宝)が伝わっています。
また国を護る修法の本尊として、不動明王は、降三世(ごうざんぜ)明王・軍荼利(ぐ
んだり)明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を脇侍として中心に配された五大明王の主尊と
して祀(まつ)られている姿もよく見かけます。
不動明王は、インド・中国を経て、九世紀の初めに弘法大師によって日本に伝えられた
明王で、その信仰は、特に日本で盛んになり、曼荼羅では、胎蔵曼荼羅の持明院に不動明
王の姿を見出すことができます。
<法源寺>
正式の名は、龍口山法源寺と号し、もと中山法華経寺末寺であった日蓮宗の寺で、開山
は妙音阿闍梨日行、本尊は三法祖師、草創は文保2年(西暦1318年)だそうです。
法源寺は常栄寺同様、「ぼた餅寺」と呼ばれており、日蓮が龍ノ口にて法難を免れ佐渡流
罪に減刑された刑場近くに建てられた龍口寺の輪番八ヶ寺の一つです。
日蓮龍ノ口法難の際、龍ノ口刑場に引かれて日蓮に比企能員(よしかず)夫人の妹・桟
敷尼が、ぼた餅を捧げた逸話はよく知られていおり、腰越にあった桟敷尼の実家の菩提寺
がここだったことがその名の由来のひとつと言われています。
龍口寺の輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、
本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山で、この制度は明治19年(西暦1886
年)太政官布達により住職が龍口寺に入山し550年間続けられた輪番制はなくなりまし
た。
本堂左に建つ稲荷堂には経一文殊稲荷大善神が祀られており、龍口寺の経八稲荷などと
日蓮上人の身の安全を守ったと伝えられています。
寺の場所は、龍ノ口で処刑した死骸を捨てたところと云われ、境内からは刀傷のある人
骨が出土したことがあり、刑死した諸霊を慰める為に八ヶ寺のうち一ヶ寺をここに移し、
一木二体の祖師像を龍口寺および法源寺に分奉したと伝えられています。
常栄寺のぼた餅の話は、文永8年(西暦1271年)に、捕らえられ、龍の口の刑場へ
引かれていくという日蓮聖人に桟敷尼が、餡を炊く間もなかったために、胡麻をまぶした
餅を捧げたのいわれていますが、法源寺のぼた餅の話には、おむすびを差し出した老婆が
ころんで、砂まみれになったという話が伝わっています。
「ぼたもち寺」として名が残っている法源寺ですが、一般の鎌倉観光案内書で「ぼたも
ち寺」というと大町にある常栄寺の方が有名で、法源寺の名はあまり知られていません。
日蓮が龍ノ口刑場に引かれて行く間に、ぼた餅寺の由来を持つ二つの寺があることから、
引き回し道中で、日蓮は幾つぼた餅を食べられたのでしょうか?
もしかして、法源寺のぼた餅が、砂まみれのため食べられなかったため、法源寺のぼた
餅寺としての名が疎かにされているのかもしれません。
また、本堂と庫裏の右側をまわった裏手、墓地に向かう道の入り口に庚申塚が3基あり
ます。左の2基は昭和15年(西暦1940年)の皇紀二千六百年を祈念して立てられた
模様ですが、最後の1基は中央に「南無妙法蓮華経」と日蓮宗で使う独特の書体で刻まれ、
その下に三猿、右脇に「寛文七年」
(西暦1660年)の年号、左脇に「八月十九日」との
日付がある江戸時代のもので、昭和四十年に鎌倉市の有形民俗資料に指定されています。
ところで、皆様は、ぼた餅には四季折々に異なった名前を持ち、また、宇治拾遺物語の
中にも出てくる日本古来のお菓子で、季節ごとに呼び名が変わることをご存知ですか。
一般的には、春作るのがぼた餅で、秋に作るのがお萩であるとされていますが、現代で
はほとんど使われていないものの、夏と冬にも正式な呼び名が存在します。季節ごとの「ぼ
たもち」の呼び名とその由来は以下のとおりです。
春は牡丹餅、牡丹の花が咲く季節、すなわち春の彼岸に、神仏や先祖への供物とされた
小豆餡の様子を、牡丹の花に見立てたことから、倭漢三才図会には「牡丹餅および萩の花
は形、色をもってこれを名づく」と記されています。
夏は夜船、ぼた餅は、通常の餅と作り方が異なるため、「ペッタン、ペッタン」のような
音を出さずに作ることが出来るので、隣に住む人には、いつ搗いたのか分からないので、
「搗
き知らず」→「着き知らず」と言葉遊びをして、夜は暗くて船がいつ着いたのかわからな
いことから夜船の名が付いたそうです。
秋は御萩、牡丹餅と同じく、小豆餡の様子を秋の彼岸の時期に咲く萩の花に見立てたこ
とからと云われています。
冬は北窓、夜船と同じように、「搗き知らず」→「月知らず」と言葉遊びをして、月を知
らない、つまり月が見えないのは北側の窓だ、ということから北窓の名が付いたそうです。
宇治拾遺物語では、ぼたもちのことを『かひもちひ(かひもち)』と記されています。巻
一の第十二話の中に、比叡山延暦寺の坊主が、夜中にぼた餅を作っているのを、寺に預け
られていた稚児が、寝床の中で気が付きましたが、牡丹餅目当てで起きているのはなんだ
かみっともない気がし、寝たふりをしたため食べ損なったと記されています。
宇治拾遺物語は13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集で、編著者は未詳で
す。貴族から庶民までの幅広い登場人物、日常的な話題から珍奇な滑稽談など幅広い内容
の説話を含み、「芋粥」の話などは芥川龍之介の短編小説の題材にもなっています。
<光明寺>
山号は天照山蓮華院光明寺といい、鎌倉には比較的少ない浄土宗の元関東総本山です。
開基は第4代執権北条経時、仁治元年(西暦1240年)尊敬する然阿良忠上人(開山)
のために 経時が佐助ケ谷に創建した蓮華寺が前身で、寛元元年(西暦1243年)、現在
の地に移築され、光明寺と改称したと云われています。
また、別伝では、北条氏の一族である大仏朝直が建立した悟心寺が元で、これが後に蓮
華寺、さらに光明寺に改称したとも云われています。
その後、13世紀∼14世紀にかけての歴史は定かでありませんが、室町時代には中興
開山とされる祐崇上人によって復興されたと伝えられています。明応4年(西暦1495
年)には、後土御門天皇より勅願寺(天皇の指定した祈願寺)に定められています。
江戸時代には、徳川家康が浄土宗の学問所として関東の寺院 18 檀林を定めたとき、その
第1位として大いに栄えました。
鎌倉でも屈指の大寺院で、伽藍は総門、山門、千手院、蓮乗院、大殿(本堂)、開山堂、
鐘楼、客殿、庫裏、本坊、書院等からなります。
本堂と開山堂との間にある小堀遠州作の「記主庭園」には、大賀ハス「2000年蓮」
が咲くことで知られており、また、本堂の右手にある庭園は「三尊五祖来迎の庭」は、浄
土式の枯山水庭園で、苔と白砂の中に配された秩父青石が三尊五祖の姿を表しています。
また、本堂に祀られている本尊木造阿弥陀三尊坐像や木造記主禅師坐像も有名で、初期
の山門は鶴岡八幡宮の表門を移建したものだと云われています。
弘化4年(西暦1847年)に再建された現在の山門は、関東一の偉容を誇っており、
掲げられている「天照山」の額は後花園天皇の直筆と云われています。
近くに建つ蓮乗院、千手院は共に浄土宗で光明寺の支院で、蓮乗院は光明寺が佐助ヶ谷
から移転する前からこの地に存在し、光明寺完成まで住職がこの寺に滞在した故事があり、
現在でも光明寺の住職が代わる時、新住職は一旦この寺に入ってから光明寺に赴きます。
大賀ハスとは、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場の落合遺跡で発見された、縄文
時代に咲いていた古代ハスの種3粒のうち一粒を、故大賀一郎博士が開花させたものです。
昭和26年(西暦1951年)植物学者である大賀一郎博士(東京大学農学部教授)と
地元の千葉市立花園中学校の生徒達が遺跡発掘調査を行い、地下約 6m の泥炭層から3粒の
ハスの実を発掘、それらの年代を明確にするため、ハスの実とハスの実の上方層で発掘さ
れた丸木舟の一部などをシカゴ大学原子核研究所へ送り、年代分析と鑑定を依頼しました。
シカゴ大学のリピー博士らによって、ラジオ・カーボン・テストが行われ、それらが弥生
時代後期(約 2000 年前)のものであることが推定された。
同年、大賀博士は発掘された3粒の種の発芽を試みましたが、2粒は失敗に終わり、残
りの1粒が発芽に成功、翌年の昭和27年(西暦1952年)7月18日、ピンク色の大
輪を咲かせ、開花させる事に成功しました。このニュースは国内外に報道され、同年11
月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、ハスは博士の
姓を採って「大賀ハス」と命名されました。
小堀遠州は、本名は小堀政一といい、江戸時代初期の近江小室藩の藩主で、茶人、建築
家、作庭家としても有名です。遠江守に任じられたことから、一般には小堀遠州の名称で
知られ、道号は大有宗甫、庵号は孤篷庵といいます。
小堀遠州が茶人、建築家、作庭家としての才を養ったのは、浅井長政の家臣であった父
の小堀新介正次が、浅井家が織田信長により滅亡した後、羽柴秀長の家老となり、父共々
に郡山に移った頃からです。
この頃、羽柴秀長は山上宗二を招き、千利休に師事しており、郡山は京・堺・奈良と並
ぶ茶の湯の盛んな土地となっていたため、小姓だった小堀政一は、利休と出会い、大徳寺
の春屋宗園に参禅し、古田織部に茶道を学ぶチャンスを得ることになります。
小堀遠州の主な業績としては、備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成
院御所造営等をはじめ、京都の南禅寺金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、
茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園等があげられます。
しかし、数多くの公儀作事に関わったことで、晩年には、公金一万両を流用したとする
嫌疑がかりましたが、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問なり、その後
は、茶の湯三昧に耽ったと云われています。
また、文化財も豊富で鎌倉時代の大和絵巻「当麻曼荼羅縁起絵巻」(国宝、鎌倉国宝館に
寄託)をはじめ、
「浄土五祖絵図」、
「十八羅漢及僧像」
(国指定重要文化財)等があります。
<来迎寺(西御門)>
鎌倉には来迎寺という名前の寺は二つあります。材木座にある真言宗能蔵寺跡と、西御
門にあるの時宗の寺で、ここでご紹介する寺は、西御門にある来迎寺です。
来迎寺(西御門)は鎌倉時代、西御門に建てられた多くの寺のなかで唯一残っている寺
で、時宗の開祖である一遍上人が永仁元年(西暦1293年)に建立した寺と云われてい
ます。しかし、一向上人とも云われており、寺史には不明な点が多くあります。
西御門の地名は、鎌倉時代初期、鎌倉幕府の重臣が邸を構えた大蔵幕府や頼朝が葬られ
た法華堂の西にあったため名付けられたと云われています。
来迎寺の登り口には鎌倉尼五山の第一位太平寺跡の碑が建っています。鎌倉尼五山とは、
第一位が西御門の太平寺、続いて東慶寺、国恩寺(山ノ内東慶寺門前地)、護法寺(絵柄天
神傍)、禅明寺(報国寺付近か衣張山付近)ですが、第二位の東慶寺を除いて四山すべてが
廃寺でとなり、護法寺・禅明寺については位置すら明確ではありません。こうした中、円
覚寺の舎利殿が廃寺で尼五山第一位の格式を持つ太平寺の仏殿であったことが分かるなど、
近年、徐々にではありますが研究が進んできています。
本堂内には、如意輪観音像、地蔵菩薩像、抜陀婆羅尊者像の3つの有名な彫刻があり、
如意輪観音像は光福寺、法華堂、さらに来迎寺と転々と移された仏像です。半跏の姿勢で 6
本の手をもち、温和な表情に複雑な衣文など南北朝期の特色をもつ仏像で、土紋装飾があ
ります。地蔵菩薩像は、衣の裾が台座に垂れる写実的な宋風様式で、高僧の肖像を思わせ
る作風です。また、この仏像は南北朝期に開山し現在は廃寺となった、西御門の報恩寺の
本尊であったと考えられています。抜陀婆羅尊者像は、報恩寺(廃寺)にあったもので、
江戸時代には法華堂にあって江の島「稚児が淵伝説」の主人公ともいわれてきました。こ
の話は建長寺・広徳庵の自休蔵主と鶴岡八幡宮・相応院の白菊という稚児の投身にまつわ
る話です。俗に「自休さま」とよばれる作例の少ない仏像で、この仏像に祈ると足腰の痛
みが去るといわれています。
稚児が淵伝説とは、『むかし鎌倉の建長寺の自休和尚は、弁才天に願掛けに行った折り、
美しい稚児を見初めた。鎌倉相応院の稚児で、名を白菊といった。それ以来、和尚は白菊
のもとに毎日のやうに通ひつめた。和尚の愛を受け入れる白菊だったが、思ひ悩んだ末、
江の島の南岸の淵に立ち、「白菊をしのぶの里の人問はば、思ひ入り江の島と答へよ」「う
きことと思ひ入り江の島陰に捨つる命は、波の下草」の歌を残して身を投げたといふ。ま
た、白菊の死を知った自休和尚も、
「白菊の花の情けの深き海に共に入り江の島ぞ嬉しき」
との辞世を残してあとを追った。以来、この淵を稚児が淵と呼ぶやうになったといふ。』と
伝えられています。
この伝説は、かの「東海道四谷怪談」などで有名な、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂
言作者、四世鶴屋南北の手によって「桜姫東文章」という歌舞伎に仕立てられ、最近でも
坂東玉三郎の桜姫(白菊)で演じられています。
初演は、文化14年(西暦1817年)で、鎌倉長谷寺の修行僧・自久清玄(自休)が
稚児の白菊丸(白菊)と衆道の関係となり、世間の眼を恐れて二人は江ノ島で心中を図り、
白菊丸が飛び込んだ後、清玄一人が死に遅れてしまうというのが話の発端です。
死にそびれた清玄は、その後、一心に修行を積み、新清水寺の名僧となり、ある日、吉
田家の息女・桜姫から、
「出家して尼になりたい」という願いを聞きます。
桜姫は、左手が生まれつき開かないという不思議な病を患い、それがもとで許婚とは破
談になっていたというかわいそうなお姫様で、しかも、家宝の「都鳥の一巻」が盗まれ、
父と弟の梅若が何者かに殺されてしまい、二人の菩提を弔うためにも出家したいと願い清
玄のもとを訪れました。
桜姫に感心した清玄が念仏を唱えると、姫の左手が開き、中から香箱の蓋が現れました。
これこそ、清玄と白菊丸が心中の際にお互いが身に着けていた品だったので、清玄は桜姫
が白菊の生れ変わりだったのかと愕然とします。
清玄は誤って喉を刃で自ら突いて死んでしまいますが、桜姫は中間の権助に襲われ身ご
もって子を産んだり、小塚原の女郎に売り飛ばされてお姫様言葉と女郎言葉が混じる女郎
となって人気がでたりしますが、姫の床には必ず清玄の亡霊が現れるため、結局女郎屋を
クビになります。その後、紆余曲折を経て、権助が「都鳥の一巻」を奪い、父と弟を殺し
た犯人だと分かり、権助を自分の手で仇討ちし、吉田家再興を果たすという筋書きです。
なお、稚児が淵は江ノ島の西端にある海食台地で、神奈川県景勝50選として、また、
釣りのメッカとして有名ですが、近年、危険防止の柵ができ、立ち入りにくくなりました。
<西念寺>
正式の名称は、岩瀬山正定院西念寺と号し、開山は天文3年(西暦1534年)に没し
た運誉光道で、代々住職の言い伝えでは、元亀元年(1570年)に本堂が創建されたと
されています。
従って、開山運誉上人は、裏山の伝説の岩屋「開山修行窟」と呼ばれている横穴に住ん
で、念仏の布教活動に励まれていたものと思います。開山修行窟は、運誉光道が自分で掘
ったものといわれていますが、実際には横穴式古墳のようです。
本堂のすぐ左手、裏の墓地に向かう道の左側、槙の木の後、岩壁前に5基の石塔あり、
そのうちの左から2基の庚申塔があります。
西念寺は二度の火災で古い仏像が焼失しましたが、現存する仏像では本堂の「阿弥陀如
来像」、客殿の「阿弥陀如来像」」、更に本堂客殿間階段踊り場の「地蔵菩薩」三体が古い仏
像です。「地蔵菩薩」は、お地蔵様は人の歩くところに置くのがよいので階段に置かれてい
ます。
本尊の阿弥陀如来像は、桃山時代の特徴を良く表している坐像で、保存状態も良好な浄
土宗興隆期の典型的な如来像で、格調高く文化財としても貴重な作品と言えます。ただし
台座と光背は後補と思われる。
西念寺には大旦那「澤田常長」という方から田圃の寄進があり、その記念に夫妻の姿を
木像で彫らせた「首抜け木像」があります。
首抜け木像と言われるのは、顔を塗り替える際首が抜けるように作られているもので、
塗り替えるために江戸へ持っていく必要があり、お寺の費用で江戸へ行けるため、この運
搬人を選ぶため籤引までして決めたと言い伝えがあります。
頭部を包んで江戸へ行き、品川の旅籠で大切なものなので触らないようにと言いおいて
運搬人が遊びに外出した際、女中が風呂敷を開け「生首」が出たと奉行所に通報し、大騒
ぎになり人形の首だと判明して一件落着したと言う話も伝わっています。
西念寺は、大船駅方面から今泉に向かうバスの停留所の「下関」と「上岩瀬」の中間、
左手少し奥にある「いわせ青少年広場」の北側を通る道から入ります。お寺の前の道は旧
道で、バスの道は新道だそうです。
皆さん、子供の頃、よくザリガニ釣りをしませんでしたか。落ちている木の枝を釣り竿
にして、先に凧糸などを結び付け、餌はスルメや煮干などの乾物を使い、侵入してきた外
敵に飛びつくという習性を利用して釣り上げるという遊び、思い出されたことでしょう。
この「いわせ青少年広場」は、そのアメリカザリガニの故郷です。ここは、昔、食用ガ
エルの養殖場で、その飼料としてザリガニが輸入されたそうです。
日本では食用ガエルといえばウシガエルを指し、大正7年(西暦1918年)に東京帝
国大学の渡瀬庄三郎教授の手によってアメリカ合衆国から食用として輸入され、その後、
国の指導により各地で養殖されるようになりました。 全長は10∼20cm と大型で、雄の
鳴き声は牛の声に似て低く大きく遠くまで響き渡ることからウシガエルと呼ばれるように
なりました。
現在では養殖されていたものが逃げ出し野生化し、日本各地で見ることができます。ア
メリカザリガニはウシガエルの養殖用の食料として輸入された。
1980年代に韓国が食用として日本からウシガエルを導入しましたが、逃げ出したウ
シガエルが野生化し、国内で大量発生し、韓国の生態系を脅かす問題となっています。
アメリカザリガニが、最初に日本に移入されたのは昭和2年(西暦1927年)で、ウ
シガエルの餌として、たった20匹持ち込まれたにもかかわらず、ウシガエルの養殖池か
ら逃げ出し、持ち前の適応力で生き残り、昭和35年(西暦1960年)頃には九州まで
分布域を広げ、北海道を除く各地に分布しています。
皆さん、最近、特定外来生物法という法律を耳にすることが多くなったと思います。正
式には「特定外来種による生態系等に係る被害の防止に関する法律」と言い、平成16年
(西暦2004年)6月に成立、平成17年(西暦2005年)6月1日より施行されま
した。
この新法では、海外から持ち込まれる生物の中で、日本の生態系や農林業、人の生活に
大きな悪影響を及ぼすおそれのある外来種を「特定外来種」に指定して規制します。特定
外来種には国内移動によるものは含まれず、海外からやってくる生物種のみが対象となり
ます。なお、ウシガエル及びアメリカザリガニも、日本で侵入・定着の可能性が高く外来
種と判断された種を、哺乳類、鳥類、維管束植物等として、リストアップされています。
今更、ウシガエル及びアメリカザリガニをとの感はありますが。
<東光寺>
鎌倉で東光寺と言えば、鎌倉宮の立っている場所にあった東光寺(跡)の方が有名です
が、今回は、やはり現存しているお寺を優先し、今は無きお寺は又の機会することにした
いと思います。
東光寺は、正式には天照山薬王院東光寺と言われ、創建、開山は定かではありませんが、
元々は青蓮寺の末寺でしたが、現在は高野山の宝寿院の末寺になっています。
昔は隣接の大慶寺が東側にあり、このあたりには僧が生活する指月軒・覚華庵・天台庵・
大堂庵等々と称する庵があり、その一人である高野山慈眼院法印霊範が、永享3年(西暦
1431年)隠居所として中興したと伝えられています。
鎌倉事典(白井永二編:東京堂出版)によれば、
「中興というからには前身があるべきで、
いまの本尊は不動明王だが寺名からいっても(薬王院という院号から推察されたか)もと
は薬師如来を本尊にしていたに違いなく、案外古いお寺かもしれない」とあります。
場所は、鎌倉市寺分と言う湘南モノレール深沢駅から徒歩5分ぐらいの所で、「相模国準
四国八十八ヶ所第十三番札所」とされ、本堂裏の山腹には「やぐら」のような洞窟があり
ます。昔、土葬の時代に不幸にも病死された方々を洞窟内で火葬にしたと言われ、その遺
跡として洞窟内には、釜場あとの穴があります。
本尊は不動明王、寺宝は弘法大師修行像、相模国十三番札所の弘法大師坐像で、山門を
入ると、右に本堂、本堂前に弘法大師修行像、その奥に相模国十三番札所の弘法大師坐像
があり、六地蔵も安置されています。
本堂に祀られている本尊の木像不動明王立像は、平安時代の智証作と伝えられており、
境内にある弘法大師修行像は、檀家の夫妻が四国八十八ヶ所遍路行を満願され、先祖の供
養と満願記念に作られたそうです。四方には八十八ヶ所各寺院のお砂が埋められていて、
東光寺へ御参りに来られた方々に「本四国八十八ヶ所霊場遍路行と同じ功徳」が受けられ
るようになっていると言われています。
本尊の木像不動明王立像を彫られた智証大師は、平安時代の天台宗の僧で、入唐八家(最
澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・智証・宗叡)の一人と云われている高僧です。
弘仁5年(西暦814年)讃岐国(香川県)金倉郷で多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門と
して生れ、弘法大師空海の甥だそうです。それでは、何故、伯父空海の開いた真言宗を学
ばなかったのでしょうか。当時の仏教はそれほど宗派によって違いはなかったようで、同
じく叔父に当たる僧仁徳が最澄の弟子であったため、伴われて14歳で比叡山延暦寺に登
り義真座主に師事し、19歳で落髪し12年間山に篭り学頭となったそうです。
仁寿3年(西暦853年)に新羅商人の船で入唐し、天安2年(西暦858年)に唐商
人の船で帰国したそうです。帰国後は、しばらく、現四国88ヶ所第76番金倉寺に住ま
われ、寺の整備を行っていた模様ですが、その後、比叡山の山王院に住し、やがて延暦寺
第5代座主となったそうです。
しかし、後年、智証大師は共に天台宗の密教を広めた先輩の慈覚大師に対し「天台より
密教が秀れている」と説き、後に、山門派(慈覚大師派)と寺門派(智証大師派)の対立
する原因を作ったようです。この密教が真言密教であれば、伯父空海のDNAのなせる業
だったのかもしれません。
智証大師には、伯父空海同様、幾つかの逸話が残っています。信じるか信じないかは、
皆様の次第ですが、ご紹介致します。
その一つは、仏教説話集『打聞集』にある「村雲端」の説話で、帰朝の後、比叡山座主
の頃、境内にある橋を渡っていた時、突然、弟子に閼伽井の香水を取らせ、散杖で撒くと、
橋の下から村雲が湧き上がり、西の空へと飛んでいったそうです。弟子が問うと、入唐し
て住んでいた青龍寺が火事で、金堂の戸に火がついたのでそれを消したと答えたそうです。
弟子はにわかには信じられませんでしたが、翌年の秋、唐の人が来て、「昨年4月に青龍寺
の金堂に火がついたが日本から雨風がきて火を消した」という書状を持ってきたので弟子
は合点し、その後、その橋を「村雲端」と呼ぶようになったそうです。
もう一つの説話は、『元亨釈書』にある話で、智証大師が熊野を詣でた途中、風雨に遭っ
て道に迷ったそうです。すると、大きなカラスが飛来し、智証大師を導き祠へと案内した
そうです。衣の上の蓑を解く暇なく、すぐさま法華経を講じると、神が社殿の戸を押し開
き招きいれたそうです。以後、熊野山での一乗八講は晴天といえども蓑を置いて講師は座
るしきたりとなったと伝えています。
<大長寺>
正式には亀鏡山護国院大長寿寺と号し、天文17年(西暦1548年)に創建された浄
土宗の寺院でで、開山は感誉存貞、中興開山は暁誉源栄、開基は北条綱成です。
寺号は元「大頂寺」と云ったそうですが、徳川家康の寄進状に「大長寺」とあったため
それから今の寺名に変わりました。
元の寺号「大頂寺」は、開基である玉縄城主北条綱成の奥方の戒名が「大頂院殿」とい
うところからきていますが、徳川家康が「山号」が『亀鏡山』なら「寺名」は『大長寺』
が似合う」といって寄進状に「大長寺」と書いたことから改まったと伝えられています。
豊臣秀吉の小田原攻めの際、玉縄城は徳川の軍勢で包囲され、この近くも徳川勢の現地
調達で食料などが召し上げられ、農民が困っていました。中興の祖で、4代住職暁誉源栄
が、岡崎の松平家菩提寺「大樹寺」で修行をしてい縁から徳川家康とは顔見知りであった
ため、地元住民と嘆願に出かけ「非戦闘員の家を荒らしてはならない」という触書をもら
うことに成功したとのことです。
その後、徳川家康が江戸に移った後も、徳川家康に会いに行くなどの交流が続き、徳川
家が菩提寺を「増上寺」に変わった際に、徳川家康とその父松平廣忠の位牌を作り、今で
も宝蔵に安置してお祀りしているそうです。
徳川家康から愛されたということで、お寺の門前に「下馬」の高札が認められ、境内に
は徳川家康お手植えの銀杏の木もあります。
本堂は、明治15年(西暦1882年)12月、近所の餅つきの火が茅葺の屋根に燃え
移って類焼し、明治43年(西暦1910年)9月に再建されました。
本尊の阿弥陀如来像は、室町時代の作ですが両脇侍は明治の作です。本堂焼失の際、本
尊だけ避難させるのに精一杯だったようです。
北条氏綱夫人木像(鎌倉市指定文化財)は、当時の女性が実家の名で呼ばれていたので
「朝倉の女の像」ともいわれ、女性の服飾史の貴重な資料だそうです。
松平廣忠は、大永6年(西暦1526年)4月、三河国岡崎城で生まれ、幼名は千松丸
(千満とも)といい、仙千代・竹千代とも称し、通称は次郎三郎と云われていました。父
は安祥松平氏の惣領松平清康で、天文4年(西暦1535年)12月、10歳のときに父
が守山崩れで横死しています。
守山崩れは、尾張統一を着々と進める織田信秀を討つため守山城に出陣した松平清康が、
着陣早々に起こった騒動です。陣中の馬の綱が切れ暴れ出すという騒動が起き、この喚声
を聞きつけて来た家臣阿部弥七郎は、父大蔵定吉が主君松平清康に、逆心ありとして、成
敗されと勘違いし、恨みを晴らすべく主人清康に斬りつけたため、清康は大手門付近であ
えなく絶命してしまいます。阿部弥七郎もその場で清康の家臣植村(上村)新六郎栄安に討
ち取られましたが、清康を失った松平軍は崩れ、三河に落ちて行く騒動となりました。
この当時の松平氏は、廣忠に代表される「今川派」と、三木松平氏の信孝らの「織田派」
に分かれて内紛状態に近いものであったと云われています。
松平清康の長男八代目廣忠は、まだ13才であったため、松平氏はやがて今川氏の傘下
に入りますが、桜井松平氏の松平信定に所領を追われて伊勢国に逃れ、阿部定吉らの家臣
に庇護されながら三河、遠江を転々とし、天文6年(西暦1537年)6月に今川義元や
吉良持広の援助で岡崎入城を果たします。同年12月9日、吉良持広の加冠によって元服
しましたが、力はなく、天文9年(西暦1540年)6月に東進を図る尾張国の織田信秀
と争い、安祥城を奪われています。
天文10年(西暦1541年)水野忠政の娘於大と結婚しましたが、天文11年(西暦
1542年)の小豆坂の合戦でも織田信秀に敗れ、同年7月、岳父である忠政が没し、後
嗣となった信元が織田氏に属したために於大を離別、天文14年(西暦1545年)に渥
美郡田原城主戸田康光の娘真喜姫を後妻に迎えています。
天文12年(西暦1543年)専横の振る舞いが強かった松平信孝(三木松平氏)を追
放、天文16年(西暦1547年)織田信秀が岡崎攻撃の軍勢を動かしたため、義元に助
けを請い、その条件として息・竹千代(家康)を人質として要求され、駿府に向けて送り
ますが、その途中、信秀に通じた岳父・康光に奪われています。
人質の奪還はできませんでしたが、今川義元の信頼を得て三河鎮定に邁進、織田信秀と
の抗争を続けますが、天文18年(西暦1549年)3月6日、織田方の武将・佐久間全
孝の意を受けた近臣・岩松八弥の凶刃に襲われ、24歳の若さで斃れています。
その後、徳川家康の織田、今川双方の人質として両強国のはざまで生きる、小国の苦労
と悲哀の時代が始まりました。
<多聞院>
当初は観蓮寺と云い、山ノ内にあったものを現在地に移築して改名したそうで、正式名
称は天衛山福寿寺多聞院と号し、そばの熊野神社の別当職を兼ねたとされています。
開創は文明年間(西暦1469∼87年)、開山は南介僧都と伝えられる真言宗大覚寺派
の建物の外観が美しいお寺で、本尊は多聞天(毘沙門天)
、その他に牛頭天王木像、岡野観
音、弘法大師像、聖観音像、地蔵像、薬師如来像なども安置されています。
本堂前には立派な紅梅の木があり、門前の右手には庚申塔、念仏塔、地蔵尊の石塔があ
ります。
多聞院に向かって左手にトンネルがあり、このトンネルの手前に、人が一人通れる位の
細い道が左に伸び、すぐに美しい切通しの道が現れます。この切通しの道は、トンネルの
上を通り、200メートル程で大船高校のグラウンドに突き当たり、由比ガ浜、材木座海
岸が見下ろせる鎌倉六国見山ハイキングコースの入口へと続いています。
牛頭天王木像は、山ノ内の八雲神社の祭神として 多聞院となる前の観蓮寺で一緒に祀ら
れていたものと云われています。
岡野観音は、十一面観音で、鎌倉の由井(比)の長者、染屋太郎時忠の3歳の娘が鷲に
さらわれて食べられ、岡野のあたりに骨が散っていたので、時忠が骨を納めて観音を造立
させ、後に運慶が造り直したという伝説があります。
庚申塔はそれぞれ上辺に日月、下辺に三猿が彫られた3基ありますが、記録では4基と
あったようです。
1基目は板状駒型で、合掌した六手の青面金剛像が彫られていますが、顔の部分が欠損
しています。享の字は殆ど読めませんが、享保十三年(西暦1728年)にある講中によ
って建てられたのでしょうか。
2基目は舟型で、手に輪宝、棒、縄(羂索)、蛇を持つ四手の青面金剛像が彫られていま
す。四手の青面金剛像は少なく、鎌倉では2例だけで、あとは、西御門八雲神社にしかな
いそうです。建てられたのは延宝八年(西暦1680年)のようです。
最後の3基目は、邪鬼を踏んで立って、合掌した六手の青面金剛像が彫られています。
建てられたのは、元文五年(西暦1740年)
、粟船村の講中のようです。粟船は大船の旧
地名で、大昔は大船あたりも海で、入り江があり、粟を積んだ船が出入りしていたため粟
船と付けられたそうで、江戸の中期ころまで使われていたようです。
4基目は、資料には「青面金剛像を付けるが風化がひどく詳細は不明」と記されている
ようです。
余談になりますが、多聞院というと、多聞院日記を思い浮かべませんか?
ここの多聞院と全く関係はありませんが、当山開創と同時代に、奈良興福寺塔頭多聞院
の僧英俊が、文明10年(西暦1478年)から書き始めた日記で、織田信長の本能寺の
変や大阪の陣などが書かれている歴史的に貴重な日記です。日記は英俊をはじめ、三代の
筆者によって延々と140年もの長きに亘って書き継がれています。
基本的には寺院の生活、身辺のことを記した日記で、中世末の僧坊酒で培われた日本酒
の造り方に関する段仕込み、諸白造り、火入れなどの記述は有名です。僧坊酒は中世寺院
では寺院内の酒造りや飲酒は禁じられていた僧侶が、多少の酒を自家用酒として造ってい
飲んでいたようです。僧侶といえども禁酒の戒律を厳守するのは容易なことではなく、結
構飲んでいたようですね。
日本酒が格段の進歩をしたのは、安土桃山時代に三段仕込みという方法が考案されたことに
よるようです。酒の濃度を高めるために蒸し米に麹を混ぜ、さらに三回に分けて蒸し米を仕込ん
で酒の濃度を高める技術が考案されたと『多聞院日記』の中に出てきます。
また、本能寺の変、方広寺大仏殿の金属に使う名目で行われた刀狩、大坂の陣など室町
時代末期から戦国時代、安土桃山時代、さらに江戸時代初頭の激動の時代を、奈良中心に
近畿地方の情勢を描き、歴史的に貴重な日記と云われています。
筆者の多聞院英俊は、出身が興福寺大乗院方坊人の十市氏の一つで、最初から興福寺の
僧侶になる運命にあったようです。11歳の時に興福寺に入り、天文2年(西暦1533
年)に英繁を師として得度し、長実房の号を称したそうです。その後、多聞院主となり、
法印権大僧都にまで昇り詰めたようです。
戦国時代の事件や畿内要人の動向・噂などを記録した『多聞院日記』は英俊よりも前の
応仁の乱頃から作成されていたようですが、これを受け継いだ英俊が、天文3年(西暦1
534年)から死の直前の文禄5年(西暦1596年)に至る60年間以上もの間を執筆
したため、『多聞院日記』は英俊と言われるようになったようです。
<圓久寺>
山号は常葉山、院号を感光院と云い、文明年間(西暦1469∼1487年)に開創さ
れたと伝えられる日蓮宗の古刹で、開山は日伊上人(日惺上人)と云われ、江戸時代には
池上本門寺・鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺だったそうです。
現在の地名である「常盤」は、この常葉山という呼称により常葉村と呼ばれるようにな
り、現在の地名である常盤となったと云われています。
圓久寺の境内裏側一帯は、鎌倉前期頃「常盤殿」と称される第七代鎌倉幕府執権「北条
政村」の屋敷があったとされています。
鎌倉は前を相模湾、後ろを山で取り囲まれた自然の要塞ですが、更に、外周を有力御家
人が囲んで守りを固めていました。中でも常葉山の外側は最重要拠点で、源氏山、御成山
の外側共々7代執権北条政村が守っており、後に、新田義貞もここを攻略し、鎌倉に攻め
入りました。なお、このあたりは「北条氏常盤邸跡」として国の史跡に指定されています。
その後、関東大震災で本堂は壊滅しましたが、すぐに再建されました。本来、寺院は宮
大工によって建設されるのを常としますが、再建された本堂は、寺院建築を知らない職人
が携わったためか、通常の寺院とは異なる左右非対称になっており、質素で大変珍しい佇
まいです。本堂には、本尊の一塔両尊をはじめ、室町期の作と伝えられている日蓮聖人像、
釈尊像、鬼子母神像も祀られています。
日蓮聖人像には有名なエピソードが残っています。その昔、住職が留守にしているはず
の本堂から読経が聞こえてきたので、村人が不思議に思い、本堂を覗いてもみましたが、
人影はなく、よくよくみると日蓮聖人像が、住職に代わって朝夕のお勤めをしていたそう
です。この伝承により日蓮聖人像は「読経の祖師」と呼ばれています。
圓久寺は別名「鎌倉のコスモス寺」といわれ、小さな境内ですが、春には枝垂れ桜、夏
にはサルスベリ、秋には本堂裏にコスモスの花が見られる花のお寺としても親しまれてい
ます。
北条政村は第二代鎌倉幕府執権北条義時の三男で、北条義時の死後、母方の実家である
伊賀氏が執権に政村を据えて、幕府の実権を握ろうと図りましたが、伊賀氏は敗れて失脚
し、政村自身は厳罰を逃れたものの幕府内で北条一門でありながら要職には就けませんで
した。
この事件は『伊賀氏の乱』と呼ばれ、義時の後室である藤原伊賀守朝光の娘(伊賀氏)
が、政所執事で実兄である伊賀光宗と共に将軍藤原頼経を廃し、娘婿の一条実雅を就け、
執権職には伊賀氏の子北条政村を就けようと画策した政変で、源義朝の血を受け継ぐ一条
実雅を将軍にすることで、幕府の権力を北条氏から清和源氏に取り戻そうと図ったのだと
云われています。
政変の簡単な経緯は、伊賀氏が幕府内の有力御家人であり、また、政村元服の際に烏帽
子親を務めた三浦義村を味方に付け、最初は優勢と思われていました。しかし、頼朝の妻
として鎌倉御家人に絶大な力を持つ尼将軍北条政子が乗り出し、義時の嫡子泰時を執権職
に任命すると共に三浦義村邸へ乗り込んで直談判を行い、執権泰時への支持を義村から取
り付けたことで、伊賀氏による政変劇も失敗に終わり、伊賀氏は伊豆、一条実雅は越前、
伊賀光宗は52ヶ所に及ぶ所領を没収された上、信濃へとそれぞれ流されました。
北条政村がようやく幕府中枢での活躍が許されるようになったのは、延応元年(西暦1
239年)で、評定衆に就任して初めて幕政の中枢に参画し、翌仁冶元年(西暦1240
年)から評定衆の筆頭となり、文永元年(西暦1264年)北条長時が病没すると得宗家
の北条時宗が幼少で有った為、執権となっています。
その後、文永5年(西暦1268年)成長した北条時宗に執権職を禅譲、自らは連署職
に再び就任し、執権北条時宗共々、蒙古襲来の古来最大の国難に当たり、文永10年(西
暦1273年)に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇として、同年69歳で亡くなって
います。
北条政村の人物像は、江戸時代の水戸藩主徳川光圀の『大日本史』によると、は沈黙温
雅な人物とされ、明治の歴史学者田口卯吉によると、元寇回避の功績を執権の時宗に帰す
る評価を批判し、年齢や人脈などの点から日蒙交渉は政村が主導していたと評価していま
す。また、自邸で探題当座千首会を開くなど、和歌には熱心で、続古今和歌集に「たかし
山
夕こえくれて
ふもとなる
浜名の橋を
月にみるかな」などの歌が載せられていま
す。また、執権経験者が連署を務めた例は他に無く、北条一門の中で最も長期にわたり幕
政に関与したことも北条政村の穏健な人柄を表していると思われます。
<光則寺>
正式名称は、宗行時山光則寺と号し、鎌倉長谷の「長谷寺」への道右隣を平行している
道路を歩くと光則寺の山門です。鎌倉駅から江ノ電で長谷駅下車、長谷の交差点先路地を
左へ徒歩10分位、大仏さんへも近いところにあり、本堂右前の樹齢200年、高さ7メ
ートルの海棠の古木は大変に有名で、市の天然記念物にも指定されています。
開基は北条時頼の家臣宿屋光則、開山は日朗上人です。宿屋光則は日蓮が佐渡に流罪に
なっている間、弟子の日朗を土牢に閉じ込め、監視するよう命じられ実行しています。
しかし、後に、自身も日蓮に帰依し、弘安年間(西暦1280年頃)には自分の屋敷を
寺に改築するまでになったと云われ、本堂の中には日蓮、日朗の坐像が安置され、境内に
は日朗が幽閉されたという土牢跡も残っています。また、本堂左手には詩人宮沢賢治の「雨
ニモマケズ」の詩碑があります。
日蓮が「立正安国論」を幕府の寺社奉行の宿谷行時・光則親子の手を経て北条時頼に奏
進したのが文応元年(西暦1260年)で、日蓮はこの内容によって幕府から迫害を受け、
龍の口の法難後、文永8年(西暦1271年)に佐渡流罪を言い渡されます。
日蓮は、弟子の日朗が宿谷光則邸の土籠に幽閉されるのを気遣い、「土籠御書」を書き残
して流刑地佐渡に赴いたと言われています。
日蓮は佐渡流罪を許され、その後鎌倉滞在、文永11年(西暦1274年)身延山に入
りますが、この間に宿谷光則は日蓮に帰依し、自分の屋敷を光則寺として創立しました。
現在の本堂の躯体部分は慶安3年(西暦1650年)建立で、石州(島根県)浜田の城
主古田兵部少輔重恒の後室大梅院常学日進大姉が多額の寄進をし、本堂・山門・庫裡の建
立、修理をしたと言われています。大梅院が再興したため光則寺は大梅寺とも呼ばれてい
ました。更に享保10年(西暦1725年)から4回、堂宇の修理のため、寺宝の仏像を、
江戸の浅草や下谷・深川などで出開帳し、改修資金を集めたとの記録があります。
「雨ニモマケズ」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」などで有名な宮沢賢治は、明治29
年(西暦1896年)花巻で生まれ、盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教諭になっ
ています。宮沢賢治は、童話と詩が有名ですが、教育者であり、農業者でもある多彩な側
面を持っています。花巻農学校では、学内に開設された岩手国民高等学校で、農民芸術と
いう科目を担当し、講義の内容を「農民芸術概論綱要」として残しています。概論の冒頭
で賢治は「おれたちはみな農民である。ずゐぶん忙しく仕事もつらい。もっと明るく生き
生きと生活する道を見付けたい。」と言っています。
その後、賢治は農学校の職を辞めると、下根子桜(現花巻市桜町)別荘で一人きりの自
炊生活を始めると共に、
「本統の百姓」になるため自ら畑を耕し始めました。すると、賢治
のまわりに近くの農家の青年やかつての教え子が集まってきて、レコードコンサートを開
いたり、器楽合奏をしたりするようになりました。
この集まりが「羅須地人協会」のはじまりです。賢治は、農事講演や肥料相談のため、
近くの村々を廻ったり、協会の建物で農業や芸術の講義をしました。
賢治は「農民芸術概論綱要」を通じて、農民の日常生活を芸術の高みへ上昇させようと
試みましたが、集まってくる若者を除いては、一般に農民の反応は冷やかだったと言われ
ています。この「羅須地人協会」の活動は、昭和3年(西暦1928年)賢治が「両側肺
浸潤」の診断を受け、豊沢の実家で療養生活を余儀なくされた時に終わりを告げました。
賢治と日蓮宗の出会いは、10歳の時に大沢温泉で父が主催した仏教会に参加した事か
ら始まります。幼い頃、伯母ヤギに子守歌のように聞かされていた「正信偈」や「白骨御
文章」を仏前で暗唱したり、父も仏教会を主催するなど、仏教の素地は家庭環境から作ら
れました。真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏期仏
教講習会に参加した頃で、 以来、毎年参加して、住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き
入るほどになったようです。
盛岡中学を卒業した後、病気、入院、将来の進路など、父との対立ですっかりノイロー
ゼ状態になっていた賢治は、島地大等編の「漢和対照妙法蓮華経」と出会い、衝撃を受け、
後の一生を決定するほどの契機になったと言われています。
更に東京で田中智学の講演を聞いたことがきっかけで、田中智学の創設した純正日蓮主
義を唱える在家宗教団体、国柱会に入会し、死ぬまで会員を通しました。
日蓮思想に傾倒していった背景には、浄土宗に深く帰依していた父との対立があったと
も言われ、国柱会は、賢治と、賢治の作品の上に大きな影響を与えました。
<貞宗寺>
正式には玉縄山珠光院貞宗寺と称し、徳川家二代将軍秀忠の祖母、貞宗院(家康の寵愛
を受けたお愛の方の実母)が大長寺四世源栄に帰依、「没後は自分の住んでいた家を寺に」
との遺言に従って、慶長14年(西暦1609年)源栄を開山に六長寺の末寺として創建
されました。
その後、大長寺より願書が届き、徳川二代将軍から十四代将軍までの位牌が安置され、
三つ葉葵の由緒あるお寺ということで、芝増上寺直系の末寺となりました。以来、歴代将
軍の命日には位牌を作り法要を営んでいるそうです。
場所はJR大船駅西口(大船観音側)に降り、大船フラワーセンターを目指して進み、
フラワーセンター正門前を藤沢の遊行寺方向に歩くと、約20分ほどで着きます。
往時の建物は、関東大震災によって山門・土蔵・庫裏・本堂などが倒壊し、大震災以前
の建物は長屋門のみで、本堂は、後年、再建されました。
お寺は山懐の緑濃い樹木と竹林に囲まれた、ひっそりとした静かな立住まいで、2月に
は白梅と水仙の花が咲き誇り、また、イトヒバ、キャラボクや大きな銀杏の木があります。
特に、キャラボクは長年お寺の消長を見守ってきた古木で「鎌倉と三浦半島の古木・名木
50選」に選ばれているといいます。貞宗寺は寺子屋として、近郷の子弟教育や、勉学に
心ある者に論語・仏教や儒教の書、読み書き、算盤などを教えたといい、明治6年(西暦
1873年)の学制発布にともない、境内にあった寺小屋は「玉縄学校」(後の鎌倉市立玉
縄小学校)と呼ばれる小学校となったそうです。
お寺が所蔵する「大蔵経(全500巻)」は、明治時代に帝国大学教授でもあった萩原雲
来上人が、7年間英国留学し、梵語(サンスクリット)の研究をし、帰国後、貞宗寺に納
めたことで有名だそうです。
萩原雲来上人は貞宗寺第十六世住職「迎蓮社接誉上人心阿独有雲来大和尚」(文学博士)
で、明治7年(西暦1874年)から7年間イギリスに留学し、オクスフォード大学にお
いて梵語(サンスクリット語)を研究しました。
これは我国初の梵語研究で、帰国後、『漢訳対照梵和大辞典』『実習梵語學』『改訂梵文法
華経ローマナイズ』などを著し、更に、明治15年(西暦1882年)有志者と共に経蔵
縮刷を行い、新製蔵経500巻を完成、当時は巨刹大山でしか所蔵できなかった「大蔵経」
を、貞宗寺でも蔵書するに至りました。
開基の貞宗院は、徳川二代将軍徳川秀忠の生母お愛の局(宝台院)の母親で、江戸城大
奥で「貞宗院」と号され、御年寄り役を務め、晩年幕府よりこの地を賜りその庇護のもと
で隠居さていたそうです。
お愛の方は、西郷局とも呼ばれ、徳川家康最愛の側室だったとも言われていいます。生
家は西郷氏いい、九州の名門菊池氏の一門で、その中の三河国へ移住した一族の末裔と伝
えられています。外祖父西郷正勝の頃には、今川義元の傘下で命脈を保っているだけの弱
小の郷士に過ぎず、母は、今川氏の命で、遠江国の戸塚忠春に嫁したと云われています。
西郷一族は、房国東条藩の大名に取り立てられましたが、綱吉将軍の頃には、むしろ勘
気を被って1万石の大名の座から転落、5千石の旗本に没落したが、家宣将軍の頃に5千
石を復権、1万石に回復したが、その5千石も失い、元の5千石に戻ったといわれている。
西郷局は最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となり、同じく正室に先立たれた従
兄西郷義勝の継室になり、義勝との間に 1 男 1 女を授かりましたが、その幸福な生活もそ
こそこに、元亀2年(西暦1571年)武田氏の先遣秋山信友の南進を阻むため夫義勝が
竹広合戦に出陣、不運にも討死し、またしても未亡人になる不幸な半生を送っていました。
やがて、母の弟西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、二代将軍秀忠 、松平忠
吉(4男)の生母となりました。しかし、天正17年(西暦1589年)28歳という若
さで死去、死後の寛永5年(西暦1628年)秀忠より正一位が贈られています。
西郷局は美人で、温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好
かれていたそうです。また、強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄
せ、常に衣服飲食を施し、生活を保護していたそうで、西郷局が死去すると大勢の盲目の
女性達が連日、寺門の前で彼女の為に後生を祈ったというエピソードも残っています。
なお、徳川家康の時代から江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していましたが、当
時は「表」と「奥」という男性と女性の境界は存在せず、正室や女中などが表に足を運ん
だり、家臣が奥を訪れる事があったそうです。その後、3代徳川家光の時代に、家光の乳
母で権勢を振るった春日局が元和4年(西暦1618年)に大奥法度を定め、将軍家の奥
を制度上で部署的なものとして整備、統括したことで、現在、小説や映画でみられるよう
な大奥になったようです。
<泉光院>
正式名称は、天守山・高音寺・泉光院といい、一般的には院号で「泉光院」と呼ばれて
います。
開山は大法師季等和尚、創建は寛永16年(西暦1639年)九月七日と伝わっていま
す。以来、鎌倉市手広にある鎖大師・青蓮寺の末寺として、高野山真言宗に属していまし
たが、現在は真言宗大覚寺派に属しています。
境内には、山門をぬけると、正面に本堂、左に薬師堂、参道両側に向かい合って宝筺印
塔と宝号塔があり、本堂前面に弘法大師修行像、右に庫裡があります。当山は大正12年
(西暦1923年)の関東大震災で、本堂・山門・薬師堂が大被害を被り、昭和36年(西
暦1961年)になって、まず、本堂を再建し、薬師堂は、昭和52年(西暦1977)
になってから再建されました。
本尊は阿弥陀三尊仏で、中央が阿弥陀如来、両脇が観音菩薩・勢至菩薩の寄木づくりの
立像です。本尊の制作時期は不詳ですが、開山が江戸時代であることと、鎌倉期の阿弥陀
如来は坐像が多く、江戸期の阿弥陀如来は立像が多いことから、江戸時代に創られたと推
定されます。
二基の石塔のうち、左側の宝筺印塔は宝筺印陀羅尼お経を写したものが納められたもの
で、安永8年(西暦1779年)に、相州鎌倉郡町屋村講中、大願主沼井源右ヱ門等が建
立したとあり、右側の徳本行者真筆宝号塔は、江戸三代飢饉の一つである天保の大飢饉が
少し前にあり、安政5年(西暦1858年)餓死者の供養として、内海六郎右ヱ門が近郷
近在の村人に呼びかけ、浄財を集めて建立したようです。
山門の側に市の保存樹木に指定されているカヤの古木があり、その先に六道(地獄・餓
鬼・畜生・修羅・人・天)の苦界から人々を救うと云われる六地蔵が、薬師堂の脇にある
地蔵堂の中には、いぼとり地蔵菩薩と弘法大師の石像がお祀りされています。
薬師堂には薬師如来が祀られており、毎年一月八日の初薬師の日には、その年の無事息
災を祈って「大護摩供法要」が営まれています。
天保の大飢饉は、江戸時代の後期、天保4年(西暦1833年)に始まり、天保10年
(西暦1839年)まで続いた未曾有の大飢饉で、寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉
の一つに数えられています。
特に、東北地方の飢饉は深刻で、現在の北秋田郡鷹巣町地方の様子を記した「天保凶飢
見聞記」では、「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体や狼や鳥が食
いちぎる。」など、当時の天候、豊凶、物価、世相を記しています。
当時の天候は異常で、田植え後に冷気が続き、いつもなら草取り作業は暑くて辛い作業
であったのが、逆に、寒さのため綿入れを着て作業を行い、作業の合間には、ワラを燃や
して暖をとらないと手がかじかんで作業ができなかったと云われています。
南部でも冷気が強く、稲の開花期には暴風が続き、例年より積雪期も早く訪れるなど、
異常気象でした。当時の農民は、その約半数が5月以降になると自分で食べる穀物もなく
なり、更に、秋の収穫も良くて平年の半分、被害の大きいところでは皆無であったようで
す。飢えた農民は食料を求めて浮浪し、城下町などへ集ったため、城下では、救い小屋を
建てて救助に当たっていましたが、春から初夏にかけて、飢えて衰えた身体に疫病が襲い、
多くの死者が出たと、云われています。
「秋田飢饉誌」には、「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯と
なった。死人をムシロに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に
死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。通町
橋など午前 10 時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いを
し、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった。」と記さ
れており、天保4年(西暦1833年)秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10
万人出たとの説もあります。
天保の大飢饉は、東北地方だけに止まらず、全国規模であったようで、日本の台所と云
われた大阪でも飢饉は起っており、天保8年 (西暦1837年)には大坂東町奉行所の与力
で陽明学者でもあった大塩平八郎が、民衆の苦しみを見かねて、同士とともに立ち上がり、
町に火を放ち、豪商を襲った、大塩平八郎の乱が起きています。乱は一日で平定されました
が幕府の直轄地である大坂での反乱は幕府に大きな驚きを与えました。
なお、関東地方では、天保7年(西暦1836年)の秋が最も厳しく、「諸国大いに飢
う・・・・・・米価沸貴して一升銭400文に値するにいたり、そのために餓死する者が多かっ
た。」と云われています。
<千手院>
当山は天照山千手院と号し、光明寺の塔頭のひとつで、もとは光明寺に各地から集まっ
てきた学僧達が泊った寺僧寮であったと伝えられています。
寺は関東大震災で崩壊し、文献も灰燼になってしまったので、創建の年や開山、開基は不
明です。当初は浄土宗の本尊である阿弥陀如来像を安置し、千手観音を祀り「観音堂」と
呼ばれ、専修院と称して貞亨年間(西暦1684∼88年)までは念仏の道場として盛ん
であったようです。その後、学僧の数も減ったため、学頭と呼ばれた住職は、近所の子供
たちに読み書き、そろばんなどを教えるようになったそうです。
明治15∼26年(西暦1882∼96年 ) の頃は、「桑楊小学校」の教場となって材
木座の子供たちが通学するようになり、今は、本堂に祀られている千手観音が人々に知れ
たことから千手院と言われています。なお、千手観音は天文元年(西暦1532年)関西
からこの寺へ来た恢誉(かいよ)上人が守護仏として持ってきたものとして伝えられてお
り、鎌倉三十三所観音霊場の第二十番札所として知られています。
三十三所の観音霊場を巡る観音信仰は、観音が危難に際して救いの手を差し伸べてくれ
るという現世利益的な信仰で、インドに始まり、「法華経」中の観世音菩薩普門品にその思
想が見られるそうです。
日本では天平12年(西暦440年)に起きた藤原広嗣の乱の時、国ごとに七尺観音像
をつくり反乱鎮圧を祈ったのが始まりとされ、九世紀はじめの日本霊異記には、観音を念
じて災いを逃れた話が多数載っています。10世紀に入ると、浄土教によって、観音信仰
も六道抜苦の来世信仰、六観音信仰へと変わり、観音信仰は現世、来世、二つの世界の御
利益を持つ霊験のあるとされ、観音像を本尊とする寺院への参詣が盛んに行われるように
なりました。さらに各霊場を結ぶ修験的な巡礼、三十三ヵ所巡礼が行なわれ、15世紀頃
から一般信者も参加するようになり江戸時代をピ−クに今日まで続き、最近では、劇場で
も観音様を拝むことができます。
千手院のコジンマリとした境内には松尾芭蕉の句が刻まれた寺子屋の記念碑があります。
記念碑には『春もや
気しきと
のふ月と梅』とあり、案内によれば「春とは名ばかりで、
まだ寒い寒いと思っているうちにいつか梅が咲き、月もおぼろにかすんで、ようやく春ら
しくなってきた」という意味のようです。
松尾芭蕉は鎌倉に来たことがあるのでしょうか。六地蔵の脇には、松尾百遊という俳人
が建てた『夏草や
つわものどもが
夢のあと』と云われる芭蕉の句碑があります。松尾
百遊は雪ノ下で旅館を営んでいた芭蕉の弟子とされていますが、この句碑が建てられたの
は芭蕉の死から92年後の天明6年(西暦1786年)、直接の弟子ではないと思われます。
しかし、松尾という姓を許されているということから、かなり近しい間柄ではあったと思
われます。また、芭蕉は『鎌倉を
生きて出でけむ
初鰹』という句も詠んでおり、きっ
と鎌倉に足を運んだことでしょう。
松尾芭蕉は、奥の細道の他にも『野ざらし紀行』『更科紀行』などの紀行文があり、江戸
−甲府−塩尻−名古屋−鈴鹿峠−京都−奈良−名張−伊賀上野、江戸−箱根−大井川−名
古屋−大垣−彦根−京都−奈良−伊勢、江戸−高崎−小諸−長野−松本−岐阜のルートな
ど、奥の細道紀行も含めて4∼5年で旅しています。その他にも高野山、そして京都嵯峨
に足跡を残し、鹿島詣などをしています。『野ざらし紀行』では「箱根の関所を越える日は
雨降りで、山はみな雲に隠れてしまっている。
」と記しており、好奇心の旺盛な松尾芭蕉で
あれば、途中で江ノ島詣、鎌倉詣をするぐらい、松尾芭蕉の健脚からすれば、た易いこと
と思われます。
松尾芭蕉の健脚、と言えば、歩く速度が異様に速く、『おくのほそ道』の内容に不自然な
点があることから、伊達氏の仙台藩の動向を調べる任務を負っていたのではと芭蕉隠密説
が一部でいわれています。
出発前は「松島の月が楽しみ」と言っているのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一
泊で素通りし、なぜか須賀川では7泊、黒羽では13泊もしています。しかも、江戸を出
る時から、同行人の曾良の日記では「3月20日出発」となっていますが、芭蕉の『おく
のほそ道』では「27日出発」とズレています。こうした両者の記録違いは約80ヶ所も
あるといいわれ、芭蕉の任務が諸藩の情報収集であれば長旅の連続も理解できると芭蕉隠
密説を唱えている人々は指摘しています。
人生の大半を旅に明け暮れた歌人西行法師も隠密、そうではないでしょう。松尾芭蕉は西
行法師の生き方に共感し、旅に身を置いた俳人であったのが真相ではないでしょうか。
<蓮乗院>
天照山蓮乗院は、光明寺の山門の右横にひっそりと佇む浄土宗のお寺です。
創立年代や開山については明らかではありませんが、光明寺草創以前よりこの地にあり、
当時は蓮乗寺と称し、真言宗に属していたと伝えられています。
光明寺を開山した記主禅師良忠上人が、落成に至るまでの間、この蓮乗院に居住して督
励に専念された由緒があり、その後、新住職が光明寺に入山の際には、必ず一度この蓮乗
院に入り、改めて本山方丈に向かう慣習が残っています。
本堂は、正徳2年(西暦1712年)に立てたという棟木が残っており、本尊の阿弥陀
如来立像は、新編相模風土記稿によると源頼朝の御家人、千葉介平常胤の守護仏像と伝え
られるとあります。そのためか、千葉家の家紋が当院の寺紋となっています。
昭和33年(西暦1958年)及び昭和51年(西暦1976年)の両度にわたる文化
財調査によって、胎内背部に造像銘が残されており、胎内全面に阿弥陀経の48願の文(一
部脱落あり)が記され、とくに背部には「大仏師播磨法橋宗円」の作であること、「宇治氏
の女某」が志主となって「父母師長六親眷属乃至法界衆生の平等利益」のために「正安元
年(西暦1299年)10月1日」にこの像を造進したと記されています。また、貞治3
年(天正19年、西暦1364年)2月4日に修理されたことも首の柄に記されています。
本堂には松岡家(大町在住)三代に亘る行業による花鳥図の板襖絵や、極楽浄土を思わ
せる格天井の絵があります。月岡栄貴画伯を主宰として16人の画伯が彩管をふるったと
云われています。(本堂内部の写真は鎌倉のお寺さんより引用)
当院は元真言宗であり、現在浄土宗のお寺であることからか、双方の開祖である法然上
人(浄土宗)と弘法大師(真言宗)の像が祀られています。弘法大師像は、大正3年(西
暦1914年)東京東山講(魚河岸)の人々が作って納めたそうです。山門の左側には弘
法大師の石碑も建てられ、弘法大師の霊場二十一カ所の十一番となっています。
浄土宗の開祖法然上人は、日本に垂迹された阿弥陀三尊仏の一つ勢至菩薩の化身という
説があります。
日本では、勢至菩薩が単独で信仰の対象となることはきわめてまれで、多くは阿弥陀三
尊の脇侍として造像されています。観音菩薩が宝冠の前面に化仏を表すのと対照的に、勢
至菩薩の場合は水瓶を付けることが多く、来迎形式の阿弥陀三尊では、観音菩薩が蓮台を
捧げ持つのに対して、勢至菩薩は合掌する姿で表されています。
法然は、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国と母秦氏君との
子として生まれ、幼名を勢至丸と言われていました。
法然は、「智慧第一の法然坊」と呼ばれ、生前から智慧の化身として考えられていたそう
です。法然没後、弟子の親鸞は「大勢至菩薩和讃」を詠み、末尾に「大勢至菩薩は源空上
人(法然)の御本地である」と述べ、また、親鸞の妻恵信尼が「光ばかりの御仏」の霊夢
を見、「あれは勢至菩薩で法然のことだ」という声が聞こえたという話が「恵信尼消息」に
出ています。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、法然は、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によっ
て父を失いますが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念し、15歳の時に比叡山の
皇円について得度、比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」として仏に仕える身とな
ります。
承安5年(西暦1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏(観経疏)』によって専
修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを弘めたことから、この承年
が浄土宗の立教開宗の年とされています。
その後、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などが新しく誕生し、鎌倉時代は仏
教改革の時代とも呼ばれ、法然・浄土宗はその魁とも云われています。
その後、文治2年(西暦1186年)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)
、建久9
年(西暦1198年)『選択本願念仏集(選択集)』を著し、地方庶民の間に念仏の教えが
広まったことで、旧宗派からの弾圧も起こり、元久元年(西暦1202年)以降、比叡山
の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起までしています。
法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名とともに、僧徒の専修念仏の許しを
延暦寺に送りましたが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下されました。
その後、建永2年(西暦1207年)法然は還俗させられ藤井元彦として、讃岐の国に
流罪となり、4年後の建暦元年(西暦1211年)赦免になり帰京しましたが、翌年1月
25日に死去しています。
<昌清院>
昌清院は、円覚寺塔頭、如意庵の末寺で、「相模風土記」によれば、開山は如意庵八世以
足徳満と云われています。しかし、同院に伝わる木造無礙妙謙座像の胎内銘には、「当院開
山」と記されていますが、創建は、慶長2年(西暦1597)に円覚寺如意庵の隠居寺と
して建てられたようです。その後、荒れ果てていたため、昭和45年に本堂が新築されて
います。
昌清院の山号は、元々、長崎山、諏訪山と言われていましたが、山崎の谷戸にあること
から、近年、山崎山と改められました。
本尊は釈迦如来、寺宝は木造地蔵菩薩、十王、奪衣婆、銅造十一面観音などで、仏像が
多く納められているようです。また、本堂の天井には龍が描かれており、見る位置により
光かたが変化すると云われています。
昌清院がある山崎の谷戸に関しては、鎌倉市の真中にあって化粧坂から洲崎へ抜ける古
道が山の峰を通っているにもかかわらず、歴史的資料が多くありません。
天保12年(西暦1841年)に書かれた新編相模国風土記によると、山崎と言う地名
は、源頼朝の富士川の戦いに参加した山崎六郎憲家の屋敷があったことから、付けられた
ようです。江戸時代の領主は、奥平の女と言われ、村人達に「おとうさま」と呼ばれてい
たそうです。近くには、
「従是江のし満道」と書いた江ノ島道道標があり、江の島参りの人々
が利用した古道で上町屋から手広に繋がっており賑っていたようです。その領主の墓は、
現在「お塔さま」と呼ばれ、五輪塔が1基祀られています。
『鎌倉市史 考古編』によれば、山崎には横穴墳墓と関連遺跡あり、古くからひとが住ん
でいたようですが、残念ながら、宅地造成などで破壊されたものもかなりあるそうです。
また、周辺には、漫画『美味しんぼ』の登場人物の魯山人の窯跡や美しい棚田があった
そうで、現在は鎌倉中央公園になっています。
奥平の女と伝わるこの領主は誰だったのでしょうか。昌平坂学問所地理局が編纂に携わ
り、天保12年(西暦1841年)成立した幕府の公式文書である『新編相模国風土記』
では、奥平の女と伝わるこの領主について、
「家系伝記等に所見無ければ、考えるに由なし」
と、冷たく片付けています。一説には、2代将軍徳川秀忠の三男、忠長の正室であるお昌
の方ではないかとも云われています。家光は弟忠長を死に追いやった償いに、お昌の方に
この山崎に領地を与えましたが、当時、江ノ島詣や鎌倉詣ために「江の島道」を通って往
来する江戸からの旅人に、そこにお昌の方の領地があったということを、幕府としては公
式には知られたくなかったのかもしれません。
徳川忠長は、元和9年(西暦1623年)に家光が第三代将軍になると、中納言に任官
し、翌年には18才で駿府城を与えられています。ところが辻斬りや家臣を手打ちにする
などの不行跡で、父・秀忠に江戸城出仕を止められ、秀忠が死ぬや否や、翌年、将軍家光
は領地を没収、寛永11年(西暦1634年)高崎城で自害させられています。忠長は、
母の叔父の織田信長に似て、容姿端麗で利発であったため、両親とも病弱であった兄・竹
千代(家光)よりも寵愛していたとされています。忠長の不行跡は、為政者側の一方的な
記録で、疑わしいことも多いと云われています。
忠長の正室お昌の方は、江戸本郷の草庵に嶺松三弘願院昌清寺という寺を建立し、墓を
建てることも許されなかった忠長の供養を、乳母の朝倉局(昌清尼)にひっそりとさせて
いたそうです。扇ガ谷の薬王寺には、お昌の方の建立した忠長の供養塔があり、自身も出
家(松孝院)し、山崎の里に隠れ、忠長の供養をしていたとも考えられます。
話は変わりますが、昭和53年(西暦1978年)に公開された『柳生一族の陰謀』(監
督・深作欣二)という映画があります。
時は元和9年(西暦1623年)5月、2代将軍徳川秀忠死去。その夜、秀忠が眠る霊
廟に、秀忠の死を不審に思う何者かの手の者が数名現れ、霊廟の中に眠る秀忠の遺体から
胃袋を取り出して、その場から持ち去ろうしました。しかし、柳生但馬守宗矩配下の侍に
奪い返され、秀忠毒殺の陰謀は隠蔽されます。
嫡男家光を廃嫡し、忠長を次期将軍にする決意を固めた秀忠を、松平伊豆守、春日局が
廃嫡前に先手を打って毒殺し、但馬守共々家光擁立へと進んでいきます。
一方、父の死に疑念を持つ忠長は、秀忠の遺体を検めるべきだと家光に詰め寄りますが、
家光はこれを拒否し、忠長を駿府へ追い返したため、両者の対立は決定的となり、忠長も
対決姿勢を強めていくという話です。斜に構えて歴史を見ると、疑惑は益々広がります。
<妙伝寺>
妙伝寺は日蓮宗のお寺で、山号は多宝谷山といい、承応元年(西暦1652年)江戸(東
京都文京区)白山に創建され、道路拡張によって、昭和49年(西暦1974年)鎌倉に
移転してきました。本尊、寺宝、寺史などは戦災によって消失していますが、旧本尊は妙
見北辰菩薩で平安時代ごろから信仰されています。
インターネットによると、紀州徳川頼房の祈願所として創建とありますが、徳川頼房は、
当時、水戸藩の祖として水戸藩主の座にあり、藩邸のある江戸小石川は白山とは目と鼻の
先です。また、紀州徳川であれば、当時の紀州藩当主は、常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、
紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州藩の祖となった、徳川頼房の兄、徳川頼宣です。し
かし、徳川頼房は当初徳川頼宣の分家(紀州家の分家)扱いで水戸へ入部したために、紀
州徳川頼房と書かれたのかもしれませんね。
場所の入口はわかりにくいですが、鎌倉十井の泉ノ井の少し先を左に入ったところにあ
り、その場所に、過って、極楽寺と同じ律宗の多宝寺と言うお寺があったそうで、その名
残として、「多宝寺覚賢長老遺骨也」と書かれた巨大五輪塔(重文)があります。
徳川頼房は、徳川家康の11男で、あのテレビドラマで有名な水戸黄門・徳川光圀の父
親です。この徳川光圀は、鎌倉と縁があります。延宝2年(西暦1674年)には、父・
徳川頼房の実母(お万の方)の墓参りと、徳川頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養
のため、鎌倉に出向いています。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』、『鎌倉日記』として
纏め上げ、更に貞享2年(西暦1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉
志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じています。
『新編鎌倉志』の内容は、鎌倉及び江ノ島・金沢の名所旧跡を解説したもので、現在知
られている、鎌倉七口、鎌倉十橋、鎌倉十井、鎌倉五水、鎌倉谷七郷などは、この『新編
鎌倉志』によって選定された「名数」です。鎌倉では英勝院の墓所であった英勝寺を拠点
に名所旧跡を訪ね、17日間の旅を経て江戸へ帰府しています。
妙見北辰菩薩信仰は、中国で古くから信仰の対象とされてきた北極星信仰が、密教と結
び付いて妙見(北辰)菩薩の信仰となり、更に、日本に伝わって北極星と北斗七星が同一
視されて、仏教の各派や修験道に広く信仰され、国土を擁護して人民安楽をする仏、妙見
菩薩はとして信仰を深めてきました。
妙見菩薩は尊星王・妙見尊星王・北斗妙見菩薩ともよばれ、北極星を神格化したもので、
よく物を見、善悪を記録するとされるためこの名があります。妙見菩薩に対しては、眼病
治療を祈願するほか、常に北の空にあり、航海における道標ともなった北極星の化身とい
うこともあり、航海の安全を祈願します。
さらに国土を擁護して災いを除き、敵を退け、人の福寿を増す菩薩とされ、妙見菩薩を
本尊とする尊星王法という修法は天台宗寺門派において最大の秘法とされます。
特に日蓮宗では、鎌倉時代の文永2年(西暦1265年)宗祖、日蓮が上総国鷲巣の小
早川家に滞在の折、国家平穏を願って祈ったところ、にわかに明星(金星)が動き出し不
思議な力をもって鷲妙見大菩薩として現れ出でたと伝っておりその日が11月酉の日のこ
とだったということです。その姿は七曜の冠を戴き、宝剣をかざして鷲の背に立つことか
らから「鷲大明神」とか、「おとりさま」と呼ばれ、現在でも開運招福の守り本尊として親
しまれ、浅草「酉の市」の本尊として広く知られています。
また、豪族や武家の間に信仰されており、日蓮の生誕地である安房の千葉氏が、日蓮宗
に帰依し、妙見菩薩を守護神としたことから、北斗七星信仰と日蓮宗を結びつけたのは千
葉氏ではないかとも云われています。
江戸時代には、北辰信仰と陰陽道と習合し、北方七宿の神獣である蛇と亀が眷属として
江戸幕府を守る守り神と信じられ、幕末の三大剣客の一人である千葉周作も、その北斗七
星信仰にちなんで、創始した流派に北辰一刀流と名付けています。
千葉周作は、文政5年(西暦1822年)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、
後に神田お玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の流行を起こし、「力の斎
藤弥九郎」・
「格の桃井春蔵」とならんで、「技の千葉」と称されました。
天保3年(西暦1835年)には、周作が水戸藩隠居の徳川斉昭の招きを受けて、剣術
師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けたのをはじめ、弟の定吉は京橋桶町に道
場を持って桶町千葉と称され、息子の栄次郎と道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役とるなど、
隆盛を極めました。その一門からは亀山社中・海援隊の坂本龍馬、幕末三舟の山岡鉄舟、
浪士組幹部の清河八郎など幕末の重要人物を多数輩出しています。
<浄泉寺>
浄泉寺は、小動山松岩院と号し、古義真言宗大覚寺派で、開山は弘法大師(空海)、中興
開山は元秀と伝えられています。元は青蓮寺(鎖大師)の末寺でしたが、現在は京都大覚
寺の末寺となっています。昔、神仏を一緒に祀っていた時代は、「小動神社」と「浄泉寺」
は一緒になっていたようで、大正6年(西暦1558年)小動神社の別当で、中興後二十
二世栗林龍照の時、神仏分離したそうです。
新田義貞が鎌倉攻めの途中に、八王子社(現在の小動神社)に奉納した剣が、このお寺
に保存されていた時期があったとか、文治年間(西暦1185∼89年)に、佐々木盛綱
が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。
昭和30年(西暦1955年)小動神社と続いていた寺の敷地内を、国道134号線が
通るようになった時に、本堂の位置と向きを変え、山門も国道側へ移したとのことで、元
は、今の浄泉寺を示す看板の場所にあったそうです。山門の色は、寺ではあまり見かけな
い朱塗りです。そのいわれは、山門は、結界への入り口である三門(三解脱門)と言われ、
結界の中は汚れを嫌うため、魔よけの色である朱色に塗ってあるとのことです。ちなみに、
四国八十八番札所の寺院でも、幾つかのお寺には赤い山門が見受けられます。
本尊は「不動明王像」で、左手に剣、右手に索を持ち「左剣不動明王」と言われていま
す。寺宝の十一面観音菩薩像は、元は小動神社のご神体の「本地仏」でしたが、明治にな
って、浄泉寺でお祀りするようになったそうです。この十一面観音は、仏像としては古い
タイプで、仏教が大陸から伝わった時期に好んで造られた形のようです。
鎌倉子ども風土記よると、江戸時代には、この付近の寺々では寺小屋が盛んで、明治5
年(西暦1872年)に学制しかれると、散在していた寺小屋をここに集められて発蒙学
舎となり、現在の腰越小学校の礎になったそうです。
佐々木盛綱は、近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれ、源
頼朝に伊豆での挙兵から仕え、備前国児島の藤戸合戦では、島に篭もる平行盛を破り、先
陣の功を挙げています。
藤戸の戦いは平安時代の末期の寿永3年(西暦1184年)に備前国藤戸で行われた戦
いで、児島合戦とも言われています。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏軍は西へ逃れ、備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かが
りじぞう、倉敷市粒江)に陣を構えました。現在の藤戸周辺は干拓により陸続きとなって
いますが、当時は海に島が点在していたそうです。
それに対し、源氏軍は幅約500m の海峡を挟んだ本土側(現在の倉敷市有城付近)に陣
を構えました。
前年の水島の戦いで敗北を喫していた源氏軍は海戦の弱さを露呈しており、対岸の平氏
軍を攻めあぐねていました。源氏軍の佐々木盛綱は、土地の若者から対岸へつながる浅瀬
の所在を聞き、翌日、先陣として部下数騎を率いて児島の藤戸へ上陸し、これをきっかけ
に、源氏軍本体が続き、不意を衝かれた平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れました。そ
の経緯は、能の「藤戸」や歌舞伎の「盛綱陣屋」になっています。
謡曲「藤戸」の前段は、盛綱が、この戦いの功績により、児島に所領を与えられて領地
に赴むくと、盛綱に殺害された若者の老いた母親が恨みを訴えます。後段に入ると、盛綱
は、若者を殺害したことを後悔し、法要(管弦講)を行いますと、明け方近くに若者の亡
霊が現れ、盛綱に祟りを及ぼそうとしますが、盛綱の供養に満足し、やがて成仏するとい
う内容です。
また、歌舞伎の「盛綱陣屋」は、本来、真田信幸、幸村兄弟が徳川、豊臣方に別れて戦
った大阪の陣の事績をもとに作られた作品ですが、歌舞伎の話しとしてよくあるように、
当時の権力者である徳川幕府に遠慮し、真田信幸を佐々木盛綱に、真田幸村を佐々木高綱
と変えて、源平合戦の話として描かれています。
粗筋は、石山の合戦で戦死した佐々木高綱の首実検を兄の盛綱が仰せつかり、首実検を
始めると、高綱の一子・小四郎が自害します。
しかし、これは我が子の命を犠牲にして、偽首を本物と信じさせるための高綱の策略で
あると悟った盛綱でしたが、弟の首を本物と言上し、父の策略のために一命を捨てた甥の
小四郎を誉め讃えるという内容です。
<圓光寺>
正式には、城護山明王院圓光寺と号し、開山は澄範、開基は北条氏時の真言宗のお寺で、
山号の通り玉縄城の平安を祈願するために、城護山と名が付けられたと云われています。
植木という地名は、玉縄城の防衛の為に多くの木を植え、樹木を繁茂させたことからこ
の地名になったとも伝えられています。
本堂には扁額がかかり、本尊の不動明王像のほか、月光菩薩、弁財天、弘法大師、阿弥
陀如来、北条氏時が作らせたと云われる毘沙門天像などが、薬師堂には、行基作と伝えら
れる薬師如来像や十二神将像が祀られています。薬師堂の諸仏は、平素は非公開で、60
年に一度開帳されるそうです。
寺のあった玉縄城は、永正10年(西暦1513年)に北条早雲によって築城された平
山城(丘城)で、初代城主北条氏時・2代北条為昌の後、玉縄北条氏が治め、徳川家康が
幕府を開いた後も本多氏、水野氏、松平氏が城主として入城していました。
しかし、その後、徳川幕府の政策により、元和5年(西暦1619年)に廃城となり、
玉縄城内にあった圓光寺は、現在の場所に移されたそうです。
城そのものは鎌倉時代より存在したようですが、永正9年(西暦1512年)相模制覇
を目指し三浦一族と抗争を進める北条早雲によって小田原城の出城として整えられ、三浦
氏滅亡の後も、玉縄城は北条氏の重要な拠点として機能し続けました。
三代目城主は、二代城主北条北条為昌(氏綱の三男)が早くに亡くなったため、人物を
見込まれて北条氏綱の娘婿となった福島(くしま)氏の綱成が三代目の城主として入り、
以来、玉縄城は綱成の子に受け継がれ、その後は「玉縄北条氏」とも称されています。
玉縄城祉は、航空写真で見ると、昭和30年(西暦1955年)頃まではかなり、良好
な残存度を保っていましたが、今は本丸辺りには清泉女学院が建ち、周囲には「早雲台」
「城
廻」「相模陣」「円光寺曲輪」など、当時を偲ばせる地名がわずかに残るのみです。
玉縄北条氏の初代綱成(玉縄3代目城主)は、今川家家臣・福島正成の子で、大永元年
(西暦1521年)甲斐で父が武田家武将・原友胤に討たれたため、家臣と共に相模に逃
れ、北条氏綱に仕え、娘を妻として迎えて姻戚関係となり、北条の姓を与えられています。
北条綱成は、稀代の猛将で、合戦になると朽葉色(黄色)の練貫に『八幡』と墨書した
旗を指物とし、真っ先に敵陣に突入していたため、その姿を『地黄八幡』と呼び、敵も味
方もその勇武を誉め称え、恐れたそうです。
北条氏康は、弟為昌の後見人として北条綱成を相模国玉縄城城代とし、その後、実子に
恵まれなかった北条為昌の養子にし、死後3代玉縄城主を継がせでいます。
北条綱成は、戦国時代真っ只中の合戦に明け暮れた一生で、大物の武将だけでも、大永
元年(西暦1521年)の飯田河原合戦における甲斐の武田信虎をかわきりに、天文7年(西
暦1538年)には安房の里見義堯と国府台で戦い、天文15年(西暦1546年)には
日本三大奇襲と言われる河越合戦で勇名をはせ、元亀2年(西暦1571年)には駿河深沢城
の戦いで武田信玄と戦っています。
特に、山内上杉・扇谷上杉・古河公方連合軍の大軍によって河越城を攻められた合戦で
は、寡兵で半年あまりも持ちこたえ、北条氏康の奇襲作戦を誘い、上杉朝定を討ち取って、
扇谷上杉家を滅亡させています。このとき北条綱成は、混乱する古河公方・足利晴氏の軍
勢に対し、城門を開いて突撃を敢行し、真っ先立って敵軍に突入しながら「勝った!!勝っ
た!!」と叫び、敵兵を次々と討ち倒したと云われています。
この奇襲作戦は、天文24年(西暦1555年)に毛利元就が陶晴賢を倒した厳島の戦
いや、永禄3年(西暦1560年)に織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いと並び、
日本三大奇襲と言われています。
北条綱成の「地黄八幡」の旗指物は、現在、長野県長野市松代の真田宝物館にあります。
これは、北条綱成が守備していた駿河深沢城を、武田信玄に対し開城して小田原に去る際、
城内に残されていた物で、信玄は「左衛門大夫(北条綱成)の武勇にあやかるように」と、
家臣真田幸隆の息子・真田源次郎(真田昌輝)に与えたと云われています。
北条綱成は武勇の士というだけではなく、外交にも優れ、奥州の白川晴綱や下総の結城
政勝と連絡を取るなど、小田原の北条氏康の名代としてその手腕を存分に発揮しています。
北条氏康の死後、(西暦1573年)に出家して上総入道道感と号して、家督を嫡男康成
(後の氏繁)に譲り、天正15年(西暦1587年)まで天寿をまっとうしています。
<久成寺>
県立大船フラワーセンターの正門前を通るバス道路を藤沢方面に進むとやがて上ぼり坂
になります。この坂を久成寺坂と言い、坂の手前の信号を右に折れ、三門をくぐり、日蓮
像を左手に見ながら石段を上がると正面奥に本堂と庫裡があります。
正式名称は光圓山久成寺といい、徳川家康とゆかりのある日蓮宗の寺です。創建は永正
17年(西暦1520年)、開基は日蓮宗の熱心な信者であった小田原北条氏の家臣の田尾
張守秀長、開山は日舜上人、本尊は曼荼羅本尊、寺宝は日蓮上人像だそうです。寺の紋章
は徳川幕府と関係が深いことから、葵の紋所を掲げています。
田尾張守秀長は、日蓮宗の熱心な信者で自分の宅地を寄進して日瞬を迎えて建立したと
云われています。
「新編相模国風土記稿」によると、徳川家康とのゆかりとは、四代住職日顗(にちがい)
上人が、天下の安泰を祈って法華経3000部の読誦を行っていたところ、徳川家康が小
田原攻めの際に立ち寄り、天下安泰の祈願を頼み、恩賞として3石を与えたと云う事だそ
うです。
その後、徳川家康は鷹狩りの折にはこの久成寺に立ち寄り、手厚く迎えた日顗に、三葉
葵の紋のついた弁当箱を授けたという言い伝えが残っています。この弁当箱は、行厨(こ
うちゅう)あるいは破子(わりご)と称し、久成寺の寺宝となっていましたが、残念なこ
とに、文政 5年(西暦1822年)の火災で伽藍が焼失し、多くの寺宝と共に失われてし
まったようです。
境内には本堂手前左手に、長尾台から移された長尾定景とその一族の墓と言われる石塔
があります。長尾台は大船観音から僅かに横浜市に入り、笠間大橋と大船駅の間を流れる
柏尾川西側の丘一帯にあり、鎌倉党長尾氏の本拠地で、戦国時代の名将上杉謙信こと長尾
影虎の祖先の地だそうです。昭和55年(西暦1980年)の調査では、丘の中腹の御霊
神社や、寺跡・屋敷伝承地から多くの中世遺物(石塔や板碑、陶器)が発見されています。
長尾氏は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の一族で、源義家に従って後三年の役を戦った鎌
倉権五郎景政の子孫である景弘が、相模国鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市栄区長尾台町周辺)
に住んで長尾次郎と称したことに始まり、坂東八平氏のひとつに数えられています。
子孫の長尾定景は、治承4年 (西暦1180年)の源頼朝挙兵の折には平家方に付き、頼
朝旗下の佐奈田与一義忠を討ち取っています。平家滅亡後、同族の三浦氏の配下となり、
後に、公暁を討ち取る手柄を立てています。
建保7年 (西暦1219年)1月27日鎌倉3代将軍源実朝が鶴岡八幡宮参拝の折、甥の
公暁に殺害される事件が起きました。長尾定景は、将軍源実朝を殺害した公暁(源頼家の
子)を討つために、雪ノ下本坊に子息の景茂(太郎)・胤景(次郎)とともに攻め入り、公
暁の弟子の僧たちと戦い本坊を攻め落としました。
しかし、公暁は本坊には戻らず、実朝の首を持ったまま、後見人備中阿闍梨の雪ノ下北
谷の館に向い、公暁はここから乳母子の「弥源太兵衛尉」を三浦義村のもとへ走らせ、
「今、
将軍の闕あり。我、専ら東関の長に当たる也。早く計議を廻らさるべし」と訴え出ました。
義村はこの使いの者には迎えの兵士を送ると言い、その一方で、北条義時のもとに使者
を走らせ、義時の命を受けて公暁の誅殺の士卒を出しています。
公暁は剛力で名の知れた僧侶であったため、義村は雪ノ下から戻っていた武勇の士とし
て名高い定景に5人の郎党をつけて迎えの使者と偽って向かわせ、八幡宮の裏の峯で公暁
を捕らえて、首をはねました。
定景は公暁の首を持って三浦義村の館へ帰り、その首を義時の館に送られ、義時の嫡子・
頼時(のちの泰時)が「まさしく未だ阿闍梨の面を見奉らず。なほ疑貽あり」として打ち
捨てたそうです。
その後の長尾氏は、宝治元年(西暦1247年)の宝治合戦(三浦泰村の乱)で三浦側
に付き、泰村共に敗れ、長尾館も攻められ、景茂父子が源頼朝建立の法華堂で滅亡してい
ます。
しかし、室町時代になると、生き延びた者の中から関東管領上杉氏の下で勢力を得る者
が現れ、永享10年(西暦1438年)の鎌倉公方足利持氏の永享の乱では、足利持氏を
対立した上杉憲実の家宰となっていた長尾景仲が、鎌倉に落ち延びる足利持氏を捕らえて
います。
戦国時代になると子孫の越後守護上杉氏の守護代であった長尾景虎が、越後の実権を握
る共に上杉憲政から関東管領職と上杉の姓を継ぎ、名を上杉謙信と名乗り、小田原の北条
を攻めるために、先祖の地へ軍を進めています。
<妙長寺>
山号は、海潮山妙長寺と号し、創建は正安元年(西暦1299年)、開山は日蓮聖人の弟
子の日実上人で、日蓮聖人が、伊豆伊東に流される時に、船出した材木座沼浦に建てた寺
がはじまりだと云われています。
山門を入った右側に、伊豆流罪となった日蓮上人の「法難御用船」の 1/6 模型があり、
本堂には、本尊の一塔両尊四士祖像や日蓮、日朗、日実上人の木造坐像のほか、七面天女、
三面大黒天等多くの仏像が祀られています。日蓮聖人像には寛文5年(西暦1665年)
の年紀をもつ胎内納入文書が残っているそうです。
境内には日蓮上人伊豆法難記念相輪塔が建っており、また、鎌倉、逗子、三崎の漁師や
魚商達の手による明治11年(西暦 1878 年)建立の鱗供養塔があります。
寺伝によると、弘長元年(西暦1261年)琵琶小路で幕府の役人に捕らえられた日蓮
聖人は、材木座の沼浦から船出し、伊豆伊東の海岸にほど遠い俎岩(まないたいわ)に降
ろされ、岩の上に置き去りにされましたが、付近で漁をしていた漁師船守弥三郎に救われ
たそうです。
この漁師の息子が、後の日実上人で、日蓮聖人歿後十八年目に鎌倉に上り、沼浦に近い
丘の上にお堂を建てましたが、その後数度にわたり津波に流されたため、宗祖滅後四百年
目の天和元年(西暦1681年)現在地に移転したと伝えています。この場所には、元天
目上人が開創した畠中円成寺があったと云われています。
現在の山門と本堂は、古い山門、本堂が取り壊され、平成18年(西暦2006年)5
月に落成した真新しいもので、昔の姿を知る者にとって、歴史ある建物が消えることは、
ちょっと寂しい気がします。
なお、妙長寺には、遠く鎌倉時代から続く施餓鬼会が、檀家の方々の手で今も継承され
ています。盆に帰ることの出来なかった精霊を供養ためのもので、お盆が済んだ直後の8
月18日に行われるそうで、ご先祖にやさしい伝統的行事です。
妙長寺には、明治24年(西暦1891年)の夏、泉鏡花が滞在していたそうで、彼の小
説「星明り」に、外出した間に締め出されたという苦い思い出が、
「妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣(とな)った八畳の、横に長い置床の附いた座
敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六(しろく)
の借蚊帳(かりかや)を釣って寝て居るのである。声を懸けて、戸を敲いて、開けておく
れと言えば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中
に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言争って出た、いまのさき、内で心張棒を構
えたのは、自分を閉したのだと思うから、我慢にも恃(たの)むまい。」と書かかれていま
す。
また、妙長寺の近くにある「乱橋」という小さな短い橋について「門外の道は、弓形に一
条、ほのぼのと白く、比企ヶ谷の山から由井ヶ浜の磯際まで、斜に鵲の橋を渡したよう也。
ハヤ浪の音が聞えて来た。浜の方へ五六間進むと、土橋が一架、並の小さなのだけれども、
滑川に架ったのだの、長谷の行合橋だのと、おなじ名に聞えた乱橋というのである。」と書
いています。
乱橋は、鎌倉十橋のひとつで、道路の端にあるため、ほとんどの人が見逃すほんの小さな
短い橋ですが、『吾妻鏡』にも登場する歴史的な橋です。
『吾妻鏡』には「濫橋の辺にて一町程南に雪が降り、あたかもあたり一面に霜が降りた様
である」と記され、『新編鎌倉志』には、「亂橋は、辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。
鎌倉十橋のうちなり。」と記されており、古老の言い伝えにも「新田義貞の軍が鎌倉に攻め
入った時、北条方の軍勢がこの橋のあたりからくずれはじめたので乱橋と言う。
」とあるな
ど、橋の規模は、川幅1.2mと真に小さいですが、歴史的な意義をもつ重要な橋と言え
ます。
この付近には横溝正史や大仏次郎が住み、夏目漱石も家族と共に訪れており、近代文学に
も縁の深い所でもあります。
なお、泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、尾崎紅葉に師事し、
『夜
行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家となり、江戸文芸の影響を深くうけ
た怪奇趣味と特有のロマンチズムで知られています。
また、近代における幻想文学の先駆者としても評価されており、代表作に『婦系図』『歌行
燈』『夜叉ヶ池』などがあり、鎌倉に絵画館がある鏑木清方の挿絵とともに、当時、好評を
はくしていました。
<勧行寺>
正式な名前は、龍口山勧行寺と言い、日蓮上人が龍ノ口にて法難を免れた場所に建てら
れた龍口寺輪番八ヶ寺の一つです。
龍口寺輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、
本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山です。
輪番制とは、日蓮上人の龍ノ口法難の地に建てられた霊場・龍口寺には住職を置かず、
近くに八つの寺院を建て、それらの八つの寺院が順番に龍口寺を守った制度でした。輪番
制は、明治19年(西暦1886年)龍口寺に住職を置くまで、およそ550年の永い間
続けられました。
勧行寺は、開山を日実上人とし、嘉元元年(西暦1303年)に創建されました。
本堂には本尊は寺宝の三宝祖師と海中で見つけられた文殊菩薩像が祀られ、天井には「昇
り龍・降り龍」が描かれています。境内入口には表に「龍口山勧行寺」、裏に「天保九年(西
暦1838年)」と書かれた石碑が、入口正面境内には左腕に赤子を抱え観世音菩薩が、境
内の奥には、表に「花囗庫に
開目抄の
龍を説よ」、裏に「平成六年五月、瓢左先生七回
忌に際し都心連句会湘南吟社の有志之を建つ」と刻まれた清水瓢左句碑が立っています。
勧行寺は、天和3年(西暦1683年)に火災で堂宇を焼失、寛政3年(西暦1791
年)には大暴風雨で流され、大正12年(西暦1923年)には関東大震災で潰されまし
たが、その都度再建されてきました。
本堂に祀られている文殊菩薩像には次のような言い伝えがあります。
漁師の若者が一体の仏像を釣り上げ、家に持ち帰ったところ、毎夜、家の者がうなされ
るようになりました。若者は怖くなりその仏像を勧行寺に祀ってもらうと、不思議に災い
はおさまりました。その原因は、文殊菩薩像の胎内におさめられている海中出現文殊菩薩
像だったそうです。
清水瓢左は、明治31年(西暦1898年)に長野県松代で生まれ、松濤軒柳斎に連句
を学び、その没後、根津芦上の門に入り、松涛軒三世・抱虚庵六世を襲号、生涯、芭蕉正
統の連句伝承の為に捧げ、昭和の俳諧師と呼ばれています。
連句とは、正しくは「誹諧之連歌」と称し、同士数人が集って長句 (五・七・五) と短
句 (七・七) を交互に連続させ四季の移ろいや、人情の機微を詠み、場面を前進させる楽
しさを味わう日本独特の文芸です。
誹諧は、室町時代に派生し、江戸時代に入って独立した文芸として発展しました。
「連句」
の名称は、明治37年(西暦1904年)に連歌や俳句と区別するため、高浜虚子が提唱
してから定着しました。
連句は、連歌に比べ、俗語、漢語等を用い、様式、式目も簡便で、即興性や諧謔性にも
優れ、より庶民的な文芸として江戸時代に隆盛しました。
特に、松永貞徳を中心とした一派は、貞門派と呼ばれ、全国的な規模で広まり、誹諧は
文芸の一ジャンルとして確立されました。
その後、西山宗因、井原西鶴の談林派を経て、松尾芭蕉が、言語遊戯に堕しがちな風潮
を正し、三十六句で一巻を構成する「歌仙」形式を確立、芸術作品として昇華させ、それ
以来、現在に至るまで「歌仙」三十六句が基本形になっています。しかし、芭蕉没後、し
ばらくは川柳を中心に雑俳が栄えましたが、文学としての誹諧は急速に衰微しました。
その後、中興の祖である与謝蕪村らによって再び活気を取り戻し、江戸時代末期には小
林一茶が現われましたが、単発に終わり、明治以降は押し寄せる西欧化の波の中で、誹諧
の持つ日本固有の文学的価値が忘れられ、昭和までにほとんど消滅してしまいました。
その中で、芭蕉の誹諧を頑なに守り通した信州の清水瓢左などを中心に、昭和45年(西
暦1970年)頃、俳諧復興の運動が起こり、昭和56年(西暦1981年)に全国の俳
諧愛好家・研究家を糾合した「連句懇話会」が設立され、その後、全国的に俳諧への関心が
高まり、現在では全国に 1 万人ほどの愛好者がおり、連句に親しむようになっていとのこ
とです。
なお、連句は、参加者のうち一人の「捌(さばき)」とその他の「連衆(れんじゅう)」
とに役割が分かれて行います。捌は、一巻全体の構成・流れの判断や一句一句の適否の決定・
添削などを行いながら、一巻の進行を司ります。また、一座に会せずに書簡で付句をする
「文音(ぶんいん)」と言う方法も行われています。
<東漸寺>
東漸寺の正式名称は龍口山東漸寺と云い、日蓮が法難を免れ、佐渡に流罪となった、龍
ノ口刑場跡に、正平7年(西暦1352年)下総国(現・千葉県市川市)の中山法華経寺
の日東上人を開山として創建された日蓮宗龍口寺輪番八ヶ寺の一つです。
龍口寺の輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、
本成寺、東漸寺を云い、いずれも山号は龍口山です。
この輪番制度は、明治19年(西暦1886年)に、龍口寺に住職がお見えになるまで
550年間続けられてきました。
東漸寺の山門は、薬医門と呼ばれ、傍らの石碑に彫られた碑文に依ると、この薬医門
は、龍口寺門前で和菓子屋を営む上州屋六代目の新倉守蔵氏が、妻の早逝を悼み、昭和
55年(西暦1980年)にその菩提を弔うために建立されたものと云われています。
更に、併せて、この山門を潜り参詣する人達が、投薬を受けずとも等しく長寿が得ら
れるようにと祈願し、薬医門の形式を選定したとも伝えています。
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと云われ
ていますが、医者の門として、門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても、四六時中患者
が出入りできるようにしていたことから、この形を薬医門としたとも云われています。
基本は、前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支え、特徴は、
屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくること
だそうで、前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造
になっているようです。
また、境内には日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながよし)博士夫妻の記念碑があり
ます。
長井博士は、弘化2年(西暦1845年)徳島藩医長井琳章の長男として生まれ、慶応
2年(西暦1866年)長崎の精得館に赴いて、オランダ医のボードウィンに化学を、マ
ンスフェルトに臨床医学を学んだと伝えられています。
明治2年(西暦1869年)上京し、大学東校(東京大学医学部)に入学、翌年には政
府の留学生(医学)としてドイツに留学、ベルリン大学のホフマン教授に師事し、有機化
学を専攻、明治17年(西暦1884年)日本政府の要請によって帰国しています。
帰国後は、大日本製薬会社の製薬長に就任、同時に東京大学教授として理学部で化学を、
医学部で薬化学を教え、内務省衛生局東京試験所所長を兼任するなど、日本の近代薬学の
父として知られています。
ドイツ留学中、長井博士は、教室の先輩であるチーマンの共同研究者として丁字油から
オイゲールを抽出し、更に、誘導体を作る実験で、バニラ豆からオイゲールを経由してバ
ニリン(ワニリン)の分離に成功するなど、バニリン酸、桂皮酸、プロトカテキュ酸の誘
導体などをミリウス、チーマンと連名で発表する成果を上げています。
また、ホフマン教授は、下宿先のラーガシュトレーム夫人に仲介を依頼、ギーセン大学
でのリービッヒ銅像除幕式の帰路、フランクフルトでテレーゼ・シューマッハを紹介する
など、公私にわたって暖かく世話をされたそうです。後に長井博士とテレーゼは、結婚を
しています。これは、ホフマン教授が長井博士をベルリン大学に留めておきたいと考えて
いたためだそうです。テレーゼ・シューマッハ婦人は、ドイツ・アンダーナッハの石材・
木材を扱う旧家の出身で、後に、長井博士と共に来日し、日本女子大学と雙葉学園でドイ
ツ語を教えたり、日本女子大学の家政科で、食材の栄養価、ドイツ料理、ドイツの風習を
交えて教えるなど、長井博士と共に早期の女子教育に力を尽したそうです。
なお、大正11年(西暦1922年)にアルベルト・アインシュタイン及びエルザ夫人
が日本を訪れた際にはドイツ語の通訳も勤めています。
また、長井博士の薬学への思いとして「昔、ギリシアの王が、演劇を見に行ったところ、
既に観客が一杯で、王座とすべきところがなかった。座主が恐縮していたところ、王は、
『席
の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座な
のだ』と言って、庶民の席についたという。私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身
を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希
望する。」という言葉が残っています。
<本龍寺>
本龍寺の山号は龍口山と言い、日行上人を開山に、乾元元年(西暦1302年)に創建
された龍口寺輪番八ヶ寺(片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、
本成寺、東漸寺)の一つで、その中でも最も早い時期に建立された日蓮宗の寺です。創建
当初は、与蓮山という山号でしたが、龍口寺の輪番制がなくなったときに、龍口山の山号
に改められたそうです。
本龍寺は、比企三郎高家の屋敷跡に建立されたそうで、本堂には、本尊の大曼陀羅ほか、
「雨乞をされている日蓮上人立像」
、大黒天、鬼子母神、日行上人坐像がまつられ、境内に
は高家の墓所もあります。
参道には鉢植えがいくつも並べられており、聞くところによれば、季節よって、日本桜
草、花菖蒲、蓮、初雪起こしなど、次々に花が咲いて彩を添え、また、綺麗に手入れされ
た植栽、仏様や小動物の可愛いい石の彫刻が並び、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
日行上人は、奥州三迫加賀野氏(宮城県登米郡中田町石森字加賀野)の出で、本龍寺創
建から37年後の延元4年(西暦1339年)
、静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山大
石寺第5世住職となっています。
日行上人が鎌倉に住んでおられた徳治2年(西暦1307年)、大石寺では、坊地の土地
の支配権をめぐり、日目上人(大石寺第3祖)の生母、蓮阿尼と南条時光が係争していた
ことが『富士宗学要集』
(第八巻、二十三頁、)所集文書に、
「富士の上方、上野の郷一分の
給主、新田五郎後家尼蓮阿申す所当米以下公事等の訴状、此の如き子細状に見ゆ、早く之
を弁え申さるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。」と記されており、結果、蓮阿尼の支
配地であることが幕府より確認されています。
鎌倉の日行上人も、出身の加賀野氏が、日目上人が新田小野寺の住職であった頃、その
影響を受けて日蓮宗に帰依している関係から、幕府に対し何かと働きかけをしていたので
はないでしょうか。
龍ノ口の法難とは、日蓮宗教化センターの「絵で読む日蓮聖人のご生涯」によると、極
楽寺の生き仏とまでいわれた忍性菩薩良観が、日蓮聖人との雨乞いに敗れた恨みで、平左
衛門頼綱を使って逮捕させ、はだか馬に乗せ、龍ノ口刑場へと引かれて行ったことから始
まります。
途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神
か」と、法華経の行者を守る役目を果たすよう叱りつけた逸話や、龍ノ口刑場において日
蓮聖人の首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が
飛んできて、役人は驚いて逃げ去ったため、処刑が中止となり、日蓮聖人が命拾いしたと
いう逸話を生んでいます。
また、そのとき「日蓮の首斬れません」という早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮
の首斬るな」との連絡が龍ノ口に向かい、双方の伝令が小さな川で行き合い、その川が以
後「行合川」と呼ばれるようになったなどの話もあります。
その後、日蓮聖人は、佐渡に流され、六ヶ月の流刑生活を送り、その中で「我れ日本の
柱とならん
我れ日本の眼目とならん
我れ日本の大船とならんと誓いし願破るべから
ず」と記した、遺言の書「開目抄」を書いています。
また、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」を書き、法華経に説かれている表面的な内容だ
けでなく、文章の奥に秘められている宇宙の真実の姿、生命の真実の姿を説き、さらに、
「本
尊抄」に説いた法門を図様化した「十界互具の大曼荼羅」を顕し、日蓮宗の「本尊」した
と云われています。
日蓮聖人には上記の他に、国家諌暁の書にあるいくつかの予言や、佐渡の極寒の地でも
生き続けたとか、はたまた、蒙古襲来のとき、日蓮聖人の祈りで神風が吹いたとか、様々
な様々な逸話があります。
しかし、日蓮聖人の逸話ですが、現在、その解釈は変わってきています。
蒙古襲来の可能性は、当時の僧を含めた知識階層なら皆知っていたとか、幕府の内輪も
めは、国難の時代にはよくある出来事であり、龍ノ口の法難における「光」は奇跡ではな
く、雷雨が激しくなったため、刑吏が落雷を恐れて避難し、延期となったため、幕府の中
で、処刑が重過ぎると言っていた人達の意見が強くなり、助命されることになったとの解
釈もあります。
佐渡では日蓮聖人を援助する人々が多くいたそうですし、また、蒙古撃退も神風という
よりは、幕府の北九州沿岸の防備や戦術が効を奏した等々、研究課題は山積のようです。
<霊光寺>
霊光寺の山号は龍王山で、日蓮宗の霊場のひとつとして、山間の住宅地にひっそりと小
さな堂だけが立つ静かなお寺です。
文永8年(西暦1271年)の干ばつの際、日蓮上人が極楽寺の忍性菩薩と雨乞い祈願
を競って勝ち、雨を降らせたと伝わっています。境内には雨乞い池とよばれる田辺ケ池が
あり、本堂脇に日蓮雨乞いの像が立っています。
お堂の創建は新しく、享保20年(西暦1735年)江戸講中が建てた「日蓮大菩薩祈
雨之旧地」と記された石塔が出土したため、昭和32年(西暦1957年)日蓮上人像と
本堂を建立したそうです。
祈雨対決は文永8年(西暦1271年)の大干ばつに見舞われた時、執権北条時宗が極
楽寺の忍性菩薩に雨乞いの祈祷を半月あまり命じましたが、雨は降らず、代わりに日蓮上
人が田辺ヶ池の現在日蓮上人像の立っているあたりで法華経を唱えると、雷とともに大雨
が降り始め数日間降り続けたとのことです。それ以来、日蓮上人の法華経により雨の神「八
大龍王」の力を得た田辺ヶ池は『雨乞いの池』と云われるようになりました。
この対決は日蓮宗では日蓮上人が勝ったことになっていますが、その後、度々日蓮上人
が法難に遇っていることと合わせると、執権北条時宗は、忍性の半月あまりの努力によっ
て、日を置かずして雨が降り出したと認めたのでしょう。それを日蓮上人が持ち前の闘争
心から、自分が勝ったと余りにも喧伝したことで、執権時宗の不興をかったことも考えら
れます。
聡明な北条時宗にとっては、科学的見地から雨の降る時期を大体予見しており、雨乞い
は人心を安定させるための儀式として実施し、忍性菩薩・日蓮上人双方に華を持たせたか
ったのではなかった推測します。
余談ですが、蒙古襲来時の神風に関しても、北九州沿岸の防備を固め、蒙古軍を海上に
少しでも長く留め置けば、そのうち、台風で蒙古の船団は壊滅することも分っていたと、
最近では云われており、日蓮上人の立正安国論が店晒されていたことも頷けます。
雨乞いは、昔から日本の各地で、様々な形で行われています。大別すると、山野で火を
焚いたり、神仏に芸能を奉納して懇請したり、禁忌を犯したり、神社に参籠したり、類感
(模倣)呪術を行うなど、様々です。
山野、特に山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、素朴な形
で尤も古くから行われており、日本各地に広く見られますが、近畿地方に多く見られる神
仏に芸能を奉納する雨乞いは、その発展したものと思います。
もっと素朴な雨乞いとして、民衆が日照りを神仏の怠慢と誤解して怒り、神に乱暴を働
く禁忌の雨乞いがあります。通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の
内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものや、石
の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するもので、一部の地方で
見られます。
神社への参籠は、祈祷一般と同じく雨乞いにも広く見られます。山伏や修験道の行者な
どの専門職の者が行うことが多く、霊験あらたかな神水を振り撒いて雨を模倣し、火を焚
いて煙で雲を表わし、太鼓の大音量で雷鳴を真似るなどして、実際の雨を誘おうとする方
法で類感呪術と呼ばれ、中部地方から関東地方に多いと言われています。
天長元年(西暦824年)二月には、淳和天皇の詔により、弘法大師が八人の弟子と共
に、宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされたことが伝えられています。この年日本中が大
日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もみな枯れはてて、農民は勿論のこと、人々
の苦しみは大変なものでした。弘法大師の祈祷により、善女竜王が現れ、今まで雲一つな
く照り続いた大空はたちまちに曇り、三日三晩甘露の雨を降らせたため、動物や草木は生
色をとりもどし、人々は喜んで弘法大師の徳を讃たえ、その法力を崇めたそうです。
また、雨乞い小町などのように、日照りのときに小野小町が和歌を詠んで雨を降らせた
という伝説も生まれ、その言い伝えが浄瑠璃や歌舞伎に作品化されるなど、当時の民衆が
日照りという自然の脅威を、如何に恐れ慄いていたか分ります。
小野小町は、平安前期(9世紀頃)の女流歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人と云われ
ています。出羽郡司小野良真(小野篁の息子)の娘と言われ、仁明天皇・文徳天皇二代に
更衣として仕え、絶世の美女として数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としてよく
登場しています。また、生まれた場所も亡くなった場所も不明で、何処で生まれ、どの様
に過ごして亡くなったか、各地に多くの言い伝えが残っていて、小野小町の神秘性を高め
ています。雨乞い小町もその一つと考えられます。
<妙典寺>
妙典寺は、山号を龍口山といい、日蓮が龍ノ口にて法難を免れた(佐渡に流罪となった)
その場所に建てられた龍口寺の輪番八ヶ寺の一つです。
龍口寺の輪番八ヶ寺とは、片瀬常立寺、本蓮寺、腰越本龍寺、勧行寺、法源寺、妙典寺、
本成寺、東漸寺を言い、いずれも山号は龍口山で、この制度は明治19年(西暦1886
年)の太政官布達により住職が龍口寺に入山し、輪番制が廃止されるまで、550年間続
けられました。なお、輪番八ヶ寺の山号が統一されたのは、輪番制が廃止された時と、言
われています。
妙典寺の創建は、延慶元年(西暦1308年)
、開山は天目上人で、本堂には本尊の三宝
祖師と共に日蓮上人、天目上人の像が祀られています。
天目上人は、妙典寺の他にも妙顕寺(栃木県佐野市)、妙国寺(東京都品川区)などを開
いたと伝えられている高僧です。
妙典寺は、腰越の細い路地が多い住宅街の中に100mと離れない距離にあるこぢんま
りとしたいくつかのお寺の一つで、谷戸の奥まった岩山を切り開いた地に建ち、かつては、
「腰越の谷戸寺」と呼ばれていました。この腰越の谷戸界隈には、明治時代末以降、『原敬
日記』で知られる原敬などの著名な政財界人の別荘があったと言われています。
境内に入ると左側が庫裡、正面に本堂があり、本堂前の右側には松が、左側にはサルス
ベリが形良く枝を伸ばし、手入れの行き届いた植栽が立ち並んで、季節の時期々々に綺麗
な花を楽しませてくれます。
本堂向拝の右側に真っ黒な大黒天像が安置されています。大黒天は仏法を護り、飯食を
豊かに、福徳を給う神様として、仏教では福徳円満自在菩薩の化身と説かれています。大
黒様の頭を撫でて、合掌し心静かに大黒天神授文を3回唱えると、本堂内の大黒天を拝む
と同様のご利益が得られると言われています。
原敬は、安政3年(西暦1856年)に盛岡藩家老の孫として、岩手郡本宮村(現在盛
岡市本宮)で生まれ、大正時代に平民宰相として活躍しました。
郵便報知新聞記者を経て外務省に入省し、後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨から
の信頼を得、陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されました。
その後、発足時から立憲政友会に参加し、大正7年(西暦1918年)に内閣総理大臣
に就任し、大正10年(西暦1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、
右翼青年中岡艮一に襲撃されるまで、改革を推し進めました。
腰越の別荘との関連は、
『原敬日記』によると、第3代立憲政友会総裁になった大正3年
(西暦1915年)の10月7日に腰越に別荘を新築し、その後、東京駅で暗殺されるそ
の直前まで、別荘を訪れ、腰越の海を愛でていたようです。
それまでは、
「古河家の別荘を借用して滞在する事となし、午後2時半新橋発にて大磯に
赴きたり」と大磯が滞在先であったようで、別荘完成後は、政務の激務による疲れを癒す
ために、風邪をひいた時などにはよく腰越に来て、静養をしていたようです。
大正7年、第19代内閣総理大臣になった年の10月に当時世界で大流行したスペイン
風邪に罹ったことが『原敬日記』に書かれています。
皮肉にも、感染病の研究で名高い北里研究所が社団法人化された祝宴席で罹った風邪が
スペイン風邪であったようです。翌日腰越の別荘に静養に訪れたその夜、「熱温が38度5
分に上がり、2日間ばかりして下熱し、昨夜は全く平熱となりたので、今朝帰京した」と
あり、大事には至らなかったようです。
しかし、スペイン風邪はその年日本各地で大流行していたため、「流行感冒後1週間を経
ざるにつき、御前に出づることを遠慮して出席せず」、その後、政務が片付くと、「過日来
の風邪全快せざれば、休暇を利用して腰越別荘に赴きたり」と直ぐに腰越に静養のため帰
って来ています。
原敬の総理大臣在籍期間は、大正7年から大正10年までの、3年2ヵ月間で、爵位を
もたない衆議院議員が、首相になったのは、始めてであったため、世間は「平民宰相」と
呼び人気を博したそうです。
原敬内閣は、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣以外は、すべて政党人で構成され、従来の
藩閥、官僚、貴族院の勢力を排して、完全な政友会で内閣を組織したとして、内閣制度始
まって以来、19代目にして始めて国民が選挙で選んだ政党内閣ができたと、歴史的な評
価を受けています。
<本成寺>
本成寺は、もとは本覚寺末寺で、日蓮の弟子淡路阿闍梨日賢が延慶2年(西暦1309
年)に開山したと伝えられる片瀬龍口寺輪番八ヵ寺のひとつです。
「龍口寺輪番八ヵ寺」とは、かつて龍口寺に住職がおらず、代わりに八つの寺(片瀬常
立寺、本蓮寺、腰越本成寺、勧行寺、法源寺、東漸寺、妙典寺、本龍寺)を龍口寺の周辺
に建て、順番制でこの霊場を守っていました。
この制度は明治 119年(西暦1886年)の太政官布達により、住職が龍口寺に入山し
550年間続けられた輪番制はなくなりました。
江ノ電の腰越駅から50mほど北側へ行った小道を行くと、右側に「本成寺」と書かれ
た石碑の立つ路地があり、その突き当たりが本成寺で、門を入った正面に本堂、右に墓地、
左に庫裡があります。
こぢんまりした境内には大きな松が伸びやかにすっと立っおり、緑青のふいた屋根をい
ただいた、これまた、こぢんまりとした本堂には、本尊の三宝祖師と日蓮上人像が祀られ、
境内には稲荷明神も祀られています。
境内の右側の墓地には、ペットの墓や多数の石搭が積み上げられた無縁搭などが、葬ら
れています。
この谷地近くには龍口寺輪番八ヵ寺のうち、勧行寺、妙典寺、東漸寺、本龍寺と本成寺
の五ヵ寺が集まっており、本成寺と敷地を接して義経の腰越状で有名な満福寺があります。
腰越は、南を相模湾に面し、西は神戸川を挟んで腰越海水浴場、東は七里ヶ浜とそれぞ
れ接し、北側の陸地は、港のすぐ目の前を国道134号が通り、離岸堤が小動岬を丸ごと
覆うように設置されている港からは、江ノ島を一望することができます。
港には、地元の漁船の他に、遊漁船も多く、休日には一般の釣り客で賑わい、防波堤・
防砂堤に陣取って釣りをしている姿が見かけられます。
最近、腰越のシラスが、鎌倉『しらすが食べられるお店・買えるお店』などとホームペ
ージに取り上げられ、健康に良いと、若い女性に人気があるようです。
しかし、シラスは漁獲量が少ないので、食べるためには腰越にお店に行く事をお勧めし
ます。但し、天候が悪い日は漁に出ませんので生しらすはあきらめて下さい。
シラスは、イワシ類の稚魚の総称で、マイワシ、カタクチイワシ、ウルメイワシなどの
種類がありますが、ウルメイワシは目刺しが主で、シラスとして食べるには、脂分が多く、
体色も黄色がかって見た目も悪く、味も悪いので、マイワシとカタクチイワシが商品とし
て売られています。
冬から早春にかけて市場に出回っているしらすは主にマイワシの稚魚で、それ以外の季
節のものは、主にカタクチイワシの稚魚だそうです。
ところで、腰越の地での漁はいつ頃から行われていたのでしょうか。
『吾妻鏡』文治5年
(西暦1189年)の項に「腰越浦」との記載が見えることから、この頃には、既に、漁
が行われていたようです。
江戸時代になると、周辺の5つの浦と共に鎌倉六ヶ浦の一つとして扱われ、初鰹を江戸
城へ献上するなど各種御用を務める見返りとして漁業権が保証されていたようです。
江戸時代には、4月頃一番早くとれた鰹は初鰹と呼ばれ、特に珍重され、腰越あたりか
ら馬や船で江戸へ送られてくるものが最も早く、高価だったそうです。左下の絵図には江
ノ島ごしに見える富士山が描かれており、腰越漁港で鰹を積んでいる風景かもしれません。
しかし、延宝8年(西暦1680年)に鎌倉六ヶ浦が江戸新肴場の付浦にされると、腰
越浦で獲れた漁獲物を新肴場の商人達が独占的な立場を利用して買い叩くようになり、さ
らに脇売(新肴場を介さない漁獲物の販売)も厳しく規制されたため、浦の漁民は酷く困
窮し、享保12年(西暦1727年)に窮状を訴える訴状が、腰越村を含む周辺の5つの
村から出されています。その時の訴状には、腰越村では38艘の船舶を有していたと記述
されており、結構大きな漁港であったようです。
腰越は、江ノ島と鎌倉の中間にあり、名こそ出ていませんが、十返舎一九の『滑稽江之
嶋土産』などの紀行文に、「江の島より鎌倉の道片瀬より稲村が崎まで海辺四十三町、六丁
を壱里にとりて、七里ヶ浜名づく風景の勝地にして諸国の嶋山津々浦々はるか海上に連な
り、四時の壮観他に異なり」と書かれているなど、江戸時代にも、腰越で、一休みしてシ
ラス丼を食べていたことも想像されます。
<顕証寺>
正式名称は鎌倉山顕証寺といい、東京乗泉寺の地方拠点第一号として、日蓮聖人が「御
題目」を弘通せられた聖地鎌倉で産声をあげ、昭和22年(西暦1947年)に現在の地
七里ヶ浜に建立された本門佛立宗のお寺です。
本門佛立宗は、日蓮聖人の教えをもとに「本門八品所顕
上行所伝
本因下種の南無妙
法蓮華経」を老若男女一同、常に口に唱える、長松清風によって開かれた、日蓮を宗祖と
仰ぐ、法華系の一派である新宗教です。
本山は京都にある宥清寺で、その他に由緒寺院として誕生寺(京都市)、長松寺(京都市)、
佛立寺(大津市)、義天寺(守口市)があり、本尊は日扇自筆の要法本尊だそうです。
顕証寺は、江ノ島電鉄が境内入口前をのんびりと走っており、本堂前に立つと、山の緑
を背に、目の前には七里ガ浜の、相模湾の、太平洋の大海原が広がり、右手に江ノ島が大
きく見え、遠くに富士山が望める絶景ポイントで、海と富士山が望める墓地を希望する人
達に人気のあるお寺で、周辺には日蓮上人の霊蹟が数多く残されています。
本堂への階段左下に作詩が信清要宏、作曲が叶弦大の「朝日に映ゆる冨士の嶺
ノ島前に見て
我が法城はここに建つ
恵みあり永遠の識神
妙法の五字
緑の江
我等持たん」
と刻まれた顕証寺の歌碑が立っています。お寺に歌碑というのはあまり見かけませんが、
これも、新宗教のお寺というか、七里ヶ浜の小高い場所にある「鎌倉」のお寺、
「湘南」の
お寺であるためなのでしょうか。
境内に入ると寺務所のある大きな庫裡が建っており、右手に赤い柱と白い壁が印象的な本
堂、本堂の右隣に納骨堂が建ち、その右奥には、墓石に満霊抜苦与楽「安」と書かれ、脇
にある卒塔婆建てにペットの名前を書いた卒塔婆が並んでいる、ペットを供養する墓が立
っています。
更に、納骨堂の奥は鎌倉七里ヶ浜顕証寺墓苑があり、エレベーターで墓地レベルまで上が
ることができるなど、お年寄り優しいバリアフリーを考えた親切な建物となっています。
本門佛立宗を開いた長松清風(日扇)は、文化14年(西暦1817年)現在の京都市
中京区で小間物屋の長男として生まれ、その後、家業を姉に任せて儒学・国学・和歌・書
道に進んでいます。
天保13年(西暦1842年)母が死去を切っ掛けに、本門法華宗の僧侶として32歳
で出家しましたが、安政2年(西暦1855年)還俗しています。
その原因が三途成不論争であったかもしれません。嘉永3年(西暦1850年)日耀が
妙蓮寺47世貫首に就任すると、本門法華宗内で対立が起こり、
「三途成不論争(皆久論争)」
と呼ばれる皆成派と久遠派の教義上の論争が、その頃勢力を蓄えていた講(在家信者)集
団をも巻き込んで起こりました。
三途成不論争とは、十界皆成論と呼ばれる「生前の悪業の報いで地獄界、餓鬼界、畜生
界(三途または三悪道)に堕して苦しんでいる者たちも、子孫、縁者の題目による回向で、
題目の功徳が三途に通じ、たちまち堕獄の境遇から逃れて成仏できる」という考えを支持
する皆成派と十界久遠論と呼ばれる「三途(三悪道)の畜類(畜生)はそのまま成仏する
のではなく、縁者の手向ける題目の法力で、人界に回生し、題目口唱の信心の功徳によっ
て成仏できる。無信無行の畜生が、そのまま成仏できるなら、何も滅罪生善の修行などす
る必要がない。」という考え支持する久遠派の論争です。長松清風は、還俗した翌年の安政
3年(西暦1856年)在家の指導者として中心的な存在の高松藩主松平頼胤の異母兄に
あたる松平頼該(久遠派)に書状を送って支援しています。
その頃、京都で「佛立講」を開講した清風は、難しい法門を説く僧侶に対抗して「現証
利益主義」を唱え、徹底した在家主義を推進しましたが、慶応元年(西暦1865年)「切
支丹の邪法を行い、在家の身で法を説く不審者」として訴えられ、その3年後の明治元年
(西暦1868年)にも諸宗に告訴され投獄されています。
清風は赦免後、曼荼羅の書写・授与を止めて本門法華宗にしたがう旨の誓約書を提出す
ることで再出家を許され、講の再建に取り掛かり、翌年、住職のいなかった京都の宥清寺
に移り、これを契機に信仰を変質させ、これまで主張してきた「僧侶否定の純粋在家主義」
から僧侶と寺院を持つ「出家主義」へと大きな変貌を遂げていったそうです。
長松清風は、新宗教の活動家であっただけでなく、書画にも優れ、当時の知識層などの
名が掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されるなど、江戸末期から明治を
代表する文化人でもあったようです。明治天皇の和歌の教師であった高崎正風が、清風の
詠んだ歌を優れた歌として天皇に紹介したことや、天皇以外にも三条実美などの公家が清
風の短冊を賞賛する声が多かったとか云われているようです。
<岩窟不動尊>
鎌倉の八幡宮から寿福寺へと抜ける道の脇の小さな茶屋の裏庭に、岩窟不動尊がありま
す。茶屋の後ろには岩山が張り出しており、崖崩れなどの危険防止のためか岩窟は蓋がさ
れ、現在は、不動尊は外に疎開し、岩窟不動とは言いがたい状況にあります。
以前は、木々が生い茂り、少し薄暗い奥にある小さな岩屋の中に、お不動さまが祀られ、
ろうそくの炎が揺らめく風情ある祠で、岩窟の前の小さな茶屋(不動茶屋)には、時々崖
を伝って降りてくる台湾リスなどをぼんやり眺められる、メインロードに面していながら、
観光コースから取り残されたオアシスのようなスポットでした。
岩窟不動尊は、吾妻鏡文治4年(西暦1188年)正月大一日丁酉の条「去る夜自り雨
零ちる。鶴岳へ御參例の如し。日中以後霽に属し、大風。佐野太郎基綱が窟堂下の宅燒亡
す。焔飛ぶが如し。人屋數十宇災いす。鶴岳の近所爲に依て、二品宮の中へ參り給ふ。諸
人竸い集まると云々。」の中に窟堂と書かれており、鎌倉幕府開闢(かいびゃく)以前から
あったようです。
もともと、この岩窟不動の前を通る道は、八幡宮などの鎌倉中心部から化粧坂を通って
関東北部へ抜ける重要な道で、鎌倉時代には賑わっており、前出の吾妻鏡には、この付近
にあった佐野太郎基綱宅で火災が起き、家屋が密集していたため数十軒に類焼したことを
伝えています。
岩窟不動尊の由来は確かではありませんが、鎌倉時代初期の鎌倉は、平安時代に高貴な
人達の間で流行していた墓としての観音堂が、その後、鎌倉では土地が狭かったため「や
ぐら」と称する掘り込み式の墳墓になったと言われています。この岩窟不動尊は幕府が開
かれる前からあったことや、岩窟の中にお堂があったことからも、その過渡期に造られた
掘り込み式観音堂墳墓ではなかったとも推測できます。
岩窟不動尊の前の道に沿って鶴岡八幡宮に向って行くと、東和映画の川喜多夫妻の住ま
いだった旧川喜多邸があります。今は、鎌倉市に寄贈され、平成22年(西暦2010年)
4月の再公開に向けて修築中です。
夫の長政は、大正10年(西暦1921年)中国に渡り北京大学に学び、更にドイツに
留学、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感、帰国後すぐの昭和3年(西暦
1928年)東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立、ヨーロッパ映画を日本に紹
介する仕事を始めました。輸入した作品として「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」
「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など映画史上不朽の名作が並んでいます。
また、映画の輸入ばかりでなく、昭和12年(西暦1937年)にはドイツとの初めて
の合作映画「新しき土」を制作、昭和14年(西暦1939年)の日中戦争のさなかに上
海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、その最高責任者に就任、軍部からの圧力に
屈せず、中国側スタッフに自由な映画制作を行わせています。
戦後、昭和26年(西暦1951年)外国映画の輸入が許可されると、直ちに社名を「東
和映画」と変更し、外国映画の輸入を再開、また、この年のヴェネチア映画祭に、黒澤明
監督の「羅生門」を携えて参加し、グランプリを獲得するなど、日本映画を世界に知らし
めています。東和映画の海外作品としては「天井桟敷の人々」「第三の男」「落ちた偶像」
「禁じられた遊び」「居酒屋」「肉体の悪魔」「チャップリンの独裁者」等があります。
妻かしこは夫長政以上に国際的な知名度を持ち「日本映画の母」と呼ばれています。昭
和7年(西暦1932年)の新婚旅行を兼ねた映画買い付け旅行で、有名なスターの出演
もない地味な作品で、まずお客は入らないだろうとの予想の「制服の処女」を見て気に入
り、日本で大ヒットさせ、彼女の映画を見る目の確かさを証明しています。翌年からは、
ほとんど毎年、夫婦相携えてヨーロッパに出掛け、名作の選択に当っています。
戦後は、夫長政と共に数々の名作を日本に紹介し、昭和35年(西暦1960年)フラ
ンスの文化相アンドレ・マルローが来日し、日仏の古典映画の回顧展を行ないたいとの正
式な申し入れがあったため、「フィルム・ライブラリー助成協議会」を組織し、映画業界全
体の協力も得て、百本余の作品を集めています。それ以後、日本映画の名作の収集・保存
の仕事を私財を投げ打って積極的に始め昭和44年(西暦1969年)に発足した「東京
国立近代美術館フィルムセンター」の創設にも尽力、昭和56年(西暦1981年)夫長
政の死後、故人の遺産も注ぎ込み、
「川喜多記念映画文化財団」を設立するなど生涯映画を
愛し続けました。
<辻の薬師堂>
本覚寺、妙本寺前を南へ小町大路(小路)を下り、大町四つ角から三浦古道に入り、魚町
橋を越えて進むと、横須賀線三浦路踏み切りがあり、そのすぐ手前右に辻の薬師堂はあり
ます。
辻の薬師堂は、現在の位置に落ち着くまで数奇な運命をたどっています。もともとは、
建久元年(西暦1190年)に、源頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建立した医王
山東光寺(一説には、二階堂行光が承元3年(西暦1209年)に永福寺の傍らに建立)
の境内にあったと云われています。
その後の宝永元年(西暦1704年)奈良時代の神亀年間に由比の長者染谷太郎時忠が
建立した、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあったと云われる古刹、古義真言宗長善
寺に移され、更に、寺と共に大町辻に移り、延宝2年(西暦1674年)には、水戸光圀
も訪れていると伝えられています。
江戸末期に寺は焼失しましたが、薬師堂だけは残り、明治期の横須賀線敷設工事に伴い、
現在地に移設されたそうです。
現在、薬師堂は大町辻町の町内会の人々によって維持管理され、中の薬師如来立像や十
二神将立像の諸仏像はレプリカだそうです。本物は鎌倉国宝館に寄託され、神奈川県指定
文化財として安全に保管されています。レプリカの諸仏は、浄財を入れると堂内が20秒
間点灯して拝観できるようになっています。
木造薬師如来立像は、平安時代後期の作で、両手、両足先を後補とするなど、全体に補
修が多く、胎内には経典が納められており、中には「明文10年(西暦1478年)」の年
号が認められています。脇侍の日光・月光菩薩像は、室町時代の作、木造十二神将立像は、
12躯のうち8躯が鎌倉時代の作、残り4躯は室町時代の補作と推定されています。
なお、覚園寺の十二神将(室町時代の鎌倉仏師・朝祐の作)は、辻の薬師の像をモデル
としたと云われています。
十二神将は、十二夜叉神将・十二神王・十二薬叉大将とも呼ばれ、各神将がそれぞれ7
千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて、薬師如来が「病苦を除き、安楽を与える」など衆
生を救うために発した十二の大願(薬師如来が修行中に十二の願)を達成するために、薬
師如来および薬師経を信仰する人々を守護すると云われています。
後世、同じ「十二」ということで十二支と結びつき、昼夜12時、四季12ヶ月不断に
衆生を護ると誓ったとされています。
十二神将の各尊名自体は、元々梵語(ぼんご)であり、それを漢字で表記しているため
経典によって多少の差異を生じていますが、玄奘訳「薬師本願経」に記された名称が最も
一般的で、宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんてら)、
頞儞羅(あじら)、珊底羅(さんてら)、因達羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、 摩虎羅(ま
こら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しょうとら)、毘羯羅(びから)と呼ばれています。
また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の仏・菩薩・明王などがあり、
弥勒菩薩(宮毘羅・子神)、勢至菩薩(伐折羅・丑神)、阿弥陀如来(迷企羅・寅神)、観音
菩薩(安底羅・卯神)、如意輪観音(頞儞羅・辰神)、虚空蔵菩薩(珊底羅・巳神)
、地蔵菩
薩(因達羅・午神)、文殊菩薩(波夷羅・未神)、大威徳明王(摩虎羅・申神)、普賢菩薩(真
達羅・酉神)、大日如来(招杜羅・戌神)、釈迦如来(毘羯羅・亥神)となって、その干支
の衆生を守っているとのことです。
日本では奈良時代(8世紀)の奈良・新薬師寺像をはじめ、数多く制作され、多くの場
合、薬師如来を本尊とする仏堂において、薬師如来の左右に6体ずつ、あるいは仏壇の前
方に横一列に安置されています。新薬師寺像のように円形の仏壇周囲をぐるりと取り囲ん
で配置される場合もあり、薬師如来像の光背や台座部分に十二神将を表す場合もあるなど、
表現形態は様々なようです。四天王像などと同様、甲冑を着けた武神の姿で表され、12
体それぞれの個性を表情、ポーズなどで彫り分け、群像として変化をつけた作例が多くあ
るようです。
また、日本では、宮比羅や因達羅が、金毘羅大権現や帝釈天という垂迹神として信仰さ
れています。金毘羅大権現は、香川県琴平町の金刀比羅宮を総本宮に、全国600社を超
える信仰の広がりをみせ、江戸時代後期には、金刀比羅宮に詣でる金毘羅参りが盛んに行
われる程になっています。
一方の帝釈天も、映画『男はつらいよ』で東京都葛飾区の柴又帝釈天(題経寺)が有名
となるなど、信仰の対象として一人立ちしています。
<岩舟地蔵堂>
岩舟地蔵堂は、鎌倉ハイキングのランドマークとしてもってこいの形をしたお堂です。北
鎌倉駅で横須賀線を降り、鎌倉街道を鎌倉に向かって10分ほど歩いていくと、向かって
右手に長寿寺というお寺と「茶屋かど」というお店にはさまれた細い道、亀ヶ谷切通しの入
口が目に入ります。
亀ヶ谷切通は、鎌倉から武蔵に通じる当時の重要な往還だった道で、車の通り抜けが禁
止されています。樹木に覆われた峠道を登り、亀ヶ谷の由来が書かれた説明板のある頂上
から一気に下り、住宅地の真っ直ぐな道を歩いて行くと、横須賀線と平行して流れる扇川
に沿って走る小道との三叉路、瓶ヶ谷辻にぶつかります。この瓶ヶ谷辻に建つ多角形をし
たお堂が岩舟地蔵堂です。
この御堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられ、大姫の守り本尊
でないかと云われている木彫りの地蔵と、後ろ奥には、この御堂の名の謂れであると思わ
れる、鎌倉期に作られた、船形光背の石造りの地蔵が、安置されています。
木造地蔵尊の胎内の銘札には「大日本国陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者∼頼朝公御息女
の守本尊也」とあり、更に、元禄3年(西暦1690年)に堂を再建し、新たに木像を造
立した旨が記されています。
また、「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなり、哀れな死
を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
現在のお堂は、平成13年(西暦2001年)に再建されています。
余談ですが、亀ヶ谷切通下りきったところに大きなアーチ状の石門が目にとまります。
今は、門の向こうにマンションが建っていますが、以前は、川端康成が『千羽鶴』を執筆
したところとして有名な温泉(鉱泉)旅館香風園があったところです。元々は日蓮宗の田
中智学師の別荘だったようで、「田中智学師子王文庫跡」という記念碑が建っています。
大姫と義高の悲劇的出会いは、寿永2年(西暦1183年)3月に頼朝が、義仲追討の
為に兵10万余を率い信濃へ向かい、越後境の熊坂山で戦いが起こる寸前に、善光寺の頼
朝の下に、義仲が部下の今井四郎兼平を使者に立て、義仲が嫡子義高を人質として、鎌倉
に送ったことに始まります。
頼朝も長女大姫と義高を結婚させることを約束し、二人は夫婦となりましたが、その時、
義高は十一歳、頼朝が伊豆で挙兵する2年前に生まれた大姫は、わずか五歳でした。
しかし、甲斐源氏の武田信光が、頼朝に、源義仲と平家が結ぶ動きありなどと讒言した
り、義仲が頼朝と仲違いした源行家・志太義広を匿ったため、再び、義仲と頼朝の仲はお
かしくなっていったようです。
結局、頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の元暦元年(西暦1184年)正月、義仲は頼
朝の送った軍によって都の郊外で敗死し、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決め
ています。それを漏れ聞いた侍女たちからの知らせを受けた大姫は、明け方に義高を女房
姿にさせて、鎌倉を脱出させました。しかし、夜になって事が露見し、激怒した頼朝は義
高を討ち取るようと堀親家に命令を下しました。親家の軍勢によって、義高は入間河原に
追い詰められ、終に藤内光澄によって討ち取れてしまいます。この事は内密にされていま
したが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなったそうです。そのことに対
し、母の政子は、大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは、義高を討ったためだ
と憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと頼朝に強く迫り、藤内光澄
は晒し首にされたそうです。
そのことは、
『吾妻鏡』元暦元年(西暦1184年)6月27日条に「堀の籐次親家の郎
従梟首せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者
を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔
悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮の事に依って、この御病有り。偏に彼
の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓さざるやの由、
御台所強く憤り申し給うの間、武衛遁れ啓すこと能わず。還って以て斬罪に処せらると。」
と記されています。
その時、7歳であった大姫の心には、傷が深く刻み込まれ、十余年を経ても義高への思
いが忘れられず、床に伏す日々が続いたため、義高への追善供養や読経、各寺院への祈祷
などあらゆる手が尽くされましたが、大姫の心の傷を癒す効果にはならなかったようです。
その後、一条高能との結婚や後鳥羽天皇への入内も拒否され、義高への思いを持ち続け、
20歳の若さで早世したとのことです。