『 近代 建築家 の巨匠 前川 國男

きんだい け ん ち く か
きょしょう まえかわ く に お
『 近代建築家の巨匠 前川國男
にほん
きんだい け ん ち く し
もっと
じゅうよう
ひとり
けんちくか
』
まえかわ く に お
日本の近代建築史において、 最 も 重 要 な1人が建築家・前川國男です。
ひろさきし
まえかわ く に お
せっけい
たてもの
のこ
弘前市には前川國男が設計した建物が いっぱい残っています。
がいこく
だいいっせん
かつやく
けんちくか
外国でも第一線で活躍してきた建築家が、
ひろさき
ふか
かか
も
なぜ弘前と深い関わりを持つようになったのでしょうか。
きょう
まえかわ く に お
ひrさき
はなし
今日は、前川國男と弘前との つながりについて お 話 します。
まえかわ く に お
ねん
めいじ
ねん
にいがたけん
ちょうなん
う
前川國男は、1905年(明治38年)、新潟県で 長 男 として生まれました。
だいがく
はい
きんだいけんちく
きょしょう
さくひん
大学に入っているときに近代建築の 巨 匠 ル・コルビュジェの作品にひかれました。
まな
だいがくそつぎょうご
大学卒業後、パリのコルビュジェのアトリエで学びました。
にほん
せっけい
けんちくせっけい じ む し ょ
かえ
はじ
しごと
日本に帰ってからレーモンド建築設計事務所に入り、設計の仕事を始めました。
じぶん
ねん
しょうわ
ねん
つく
けんちくせっけい じ む し ょ
1935年(昭和10年)、自分の建築設計事務所を作りました。
とうきょう
とうきょう ぶ ん か かいかん
うえの
さくひん
おお
東 京 ・上野の「 東 京 文化会館」など多くの作品で、
に ほ ん けんちくがっかいしょう
じゅしょう
に ほ ん げいじゅついんしょう
日本建築学会 賞 、日本 芸 術 院 賞 などを 受 賞 しました。
まえかわ く に お
はは
きゅうひろさき は ん し
きく え
むすめ
た な か こ ん ろく
前川國男の母・菊枝は 旧 弘 前 藩士である田中坤六の 娘 です。
はは
きくの え
あに
が い む だいじん
さ ん ぎ い ん ぎちょう
つと
さ とうなおたけ
そして母・ 菊 枝の兄は、外務大臣や参議院議長を務めた佐藤尚武でした。
まえかわ
とうきょうていこくだいがく
そつぎょうご
りゅうがく
前川が 東 京 帝国大学を卒業後、フランスへ 留 学 し、
きんだいけんちく
きょしょう
べんきょう
近代建築の 巨 匠 ル・コルビュジェのところで 勉 強 することになりました。
はい
めんどう
コルビュジェのアトリエに入るとき、いろいろと面倒をみたのが、
とうじ
こくさいれんめいていこく じ む きょくちょう
さ と う なおたけ
当時 国際連盟帝国事務 局 長 としてパリにいた佐藤尚武でした。
さとう
しんこう
ふか
じんぶつ
また ちょうどこのころ、佐藤と親交を深めた人物に、
ひろさきしゅっしん
き む ら りゅうぞう
弘前 出 身 の木村 隆 三 がいました。
-1-
ねんあま
りゅうがく
お
まえかわ
きこく
ふね
なか
2年余りの 留 学 を終えた前川は、その帰国の船の中で、
そ ふ
い し
う
つい
りゅうぞう
じ ば さんぎょう
けんきゅうじょ
せっけい
たの
祖父の遺志を受け継いだ 隆 三 から地場 産 業 の 研 究 所 の設計を頼まれました。
かんせい
き む ら さんぎょうけんきゅうしょ
こうして完成した木村 産 業 研 究 所 は、
まえかわ
じしん
なまえ
せっけい
きねん
さいしょ
たてもの
前川が自身の名前で設計した記念すべき最初の建物となったのです。
き む ら さんぎょうけんきゅうしょ
くに
とうろくゆうけい ぶ ん か ざい
してい
木村 産 業 研 究 所 は、国の登録有形文化財に指定されています。
まえかわせっけい
はじ
してい
このことは前川設計として初めての指定というだけではなく、
に ほ ん じ ん せっけい
けんちく
はつとうろく
日本人設計のモダニズム建築としても初登録となるものでもありました。
ご
まえかわ
き む ら りゅうぞう
あに
しん ご
その後、前川は木村 隆 三 の兄・新吾から、
ひろさきちゅうおうこうこう
そうりつ
しゅうねん き ね ん じぎょう
ひとつ
こうどうけんちく
たの
弘前 中 央 高校の創立50 周 年 記念事業の1つとして講堂建築を頼まれました。
ふた
まえかわ
せっけい
たてもの
このように前川は2つの建物を設計したことで、
けんちく
も
ふか
ひろさき
めん
建築の面でも弘前との深い つながりを持つことになりました。
て が
し り つ はくぶつかん
し り つ びょういん
ひ ろ さ き し やくしょ
ご
まえかわ
前川は、その後も、弘前市役所をはじめ市立 病 院 や市立博物館などを手掛け、
だ
こせい
けいかん
あら
ひろさき
弘前に新たな景観と個性をつくり出していったのです。
ねん
しょわ
ねん
市民会館は1964年(昭和39年)、
ねん
し り つ はくぶつかん
しょうわ
ねん
かんせい
市立博物館は1976年(昭和51年)に完成しました。
きんだいけんちくかい
けんちくか
まえかわ く に お
せっけい
たてもの
どちらも近代建築界をリードした建築家・前川國男が設計した建物です。
ふた
たてもの
この2つの建物は、
しみん
みな
あい
たいせつ
つか
これまで市民の皆さんに愛されながら、大切に使われてきました。
し み ん かいかん
はくぶつかん
た
ねんすう
でも市民会館と博物館は、建てられてから年数もたち、
ろうきゅうか
め だ
老朽化が目立ってきています。
-2-
まえかわけんちく
けんちくがくてき か ち
たかい
たてもの
どちらも、前川建築という建築学的価値が 高 い建物で、
かんこう し げ ん
観光資源にもなっています。
ひろさきし
きちょう
ざいさん
ひ
つい
このようなことから弘前市では、貴重な財産を引き継いでいくため、
げんざいふた
たてもの
こうじ
おこな
現在2つの建物のリニューアル工事を 行 っています。
しみん
みな
みぢか
市民の皆さんにとって、より身近で、
あいちゃく
も
しせつ
う
か
きゅうかん
愛 着 の持てる施設に生まれ変わるため 休 館 となります。
ふべん
か
あいだ
あたた
みまも
ご不便を お掛けしますが、しばらくの 間 、 温 かく見守ってください。
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