構成素分析と人間的生の基本構造 (1)

第1草稿 1997/10/13, 第2草稿 1997/11/04
1997年度秋学期総合科目「人間」講義ノート
構成素分析と人間的生の基本構造
(1)
––– リルケの詩と構成素分析の基本的操作 –––
27. Okt. 1997
愛知大学教養部教授
竹
中
克
英
1
目
次
1.はじめに __________________________________________________________ 3
1.1. 伝記的事実と文学作品の理解 _______________________________________________ 3
1.2. 指示連関としての世界 _____________________________________________________ 3
1.3. ハイデガーの世界認識(ヴァルター・ファルク) _____________________________ 3
1.4. 構成素分析とヴァルター・ファルク _________________________________________ 4
2.構成素分析の基本的操作 _____________________________________________ 5
2.1. 初期読書 _________________________________________________________________ 5
2.2. 反省_____________________________________________________________________ 6
2.3. 実質統合 _________________________________________________________________ 8
2.4. 構成素構造 _______________________________________________________________ 9
2.5. 構成素の同定 _____________________________________________________________ 9
2.6. 構成素構造式の定立 ______________________________________________________ 10
3.フランツ・カフカの生涯、人間的生の基本構造 ________________________ 12
3.1. 資料によるフランツ・カフカの生涯 ________________________________________ 12
3.2. 文学と人間性の問題 ______________________________________________________ 12
3.3. アリストテレスの詩学 ____________________________________________________ 13
3.4. 人間的活動の基本構造 ____________________________________________________ 14
3.5. 文学の対象領域と作家の歴史的生 __________________________________________ 14
3.6. 人間的生の基本構造 ______________________________________________________ 15
付録:参考文献 _______________________________________________________ 17
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1.はじめに
1.1. 伝記的事実と文学作品の理解
この講義の目的は、文学作品の理解にとって作家の伝記的事実はいかなる関係にあるか、
という一般的問題を具体的な文学作品を通して考えることにあります。結論から言えば、
この問いに対しては否定的に答えせざるを得ません。実証的・伝記的事実の研究は、これ
までも文学研究においてしばしば、その意味を検討されてきました。しかしながら、後で
論ずるつもりですが、文学は人間の生の可能的領域に主として関わる活動です。これに対
して実証的研究は(あるいは、伝記的研究は)生の現実的領域に関わる活動を対象としま
す。従って、実証的研究が明らかにしうる作家の伝記的事実の諸連関は、きわめて限定さ
れた範囲でしか作品理解と作品の全体的意味の解明に役立ちません。1
1.2. 指示連関としての世界
世界は客観的な事実として、わたしたちの主観から離れ、これに対立するものとして存
在しているわけではありません。ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)によれば、世界
は「指示連関」、ハイデガーの用語で表現するならば、現存在との関係によって関係づけら
れる(意味づけられる)事実連関の総体であります。だとすれば、ひとりの作家にとって、
彼が自らの世界と呼ぶものは、われわれが彼を取り巻く客観的事実の集積から再構築する
事実連関とはまったく異質なものであるはずです。
1.3. ハイデガーの世界認識(ヴァルター・ファルク)
わたしたちがこの講義で特に扱おうとしている文学的方法である構成素分析を基礎づけ、
発展させてきたドイツの文学者ヴァルター・ファルクは、次のようにその大著『戦争、そ
の集団的幻想』(Der kollektive Traum vom Krieg, 1977)の中で、ハイデッガーの世界認識に言
及して述べています。
ハイデガーは『存在と時間』において、人間は世界に対して、決して疎遠な対象に対す
るように関わっているのではなく、広範な指示連関としての世界の「中」の「そこ」にあ
1
日本の作家高橋和巳は戯曲『詠み人知らず』の中で、主人公堀田真司に次のように語らせています。「学生時代、わ
たしは英文学を専攻していましてね。卒業論文のとき、わたしは貴族放蕩者で、そのくせ革命的な十九世紀のひとりの
詩人を研究題目に選びました。彼は人間的には実にいろんな欠陥をもっていて、女性関係にもちょっと許し難いような
ところがある。それにも拘らず、その詩人の詩は素晴らしいんですね。どうしてだろう?私はやみくもにその詩人の精
神と生涯を調べようとしたもんですよ。全集を読む、伝記を読む。当時の批評を調べ、また背後の人間関係や政治情勢
を調べる。調べに調べ、考えに考えあぐんで、私は結局、その当の本人が人に見せようとしたその人の姿しか、究極の
ところ他者には理解できないのだということを悟ったものでした。詩人にとって第一義の自己は詩である。」
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るということ、人間はこの世界と同時に自分自身をも常に「了解している」ということを
明らかにした。世界との関係においても、自己の現存在との関係においても、この了解は、
細部のすべてが既に知られているなどということを決して意味するわけではない。人間は
自己自身を了解する、このことは、世界の中における現存在としての彼にとって問題なの
はこの彼自身の自己であるということに人間が前合理的な仕方で気づいている、というこ
とを意味するに過ぎない。自分自身のこの了解の帰結として、人間は世界の中にあってど
の程度まで自己自身であり得るかという基本的問題を抱いて、世界を観察する。人間にと
って基本的なのは、彼の現存在の可能性である。「了解は、現存在自身の固有の存在可能
性の実存的存在である[……]。」「現存在はおまけとして何かになり得る可能性をまだ持
っているところのあらかじめ存在するものではなく、それはまず第一に可能存在である。
」
[……]「可能存在は[……]空虚な論理的可能性だけでなく、[……]実存的なものとしての
可能性は、現存在の最も本源的な、究極的な、肯定的な、存在論的な確実性である。」(Falk
1997, 42-43)
1.4. 構成素分析とヴァルター・ファルク
構成素分析(Komponentenanalyse)は、ハイデガーのこのような人間認識と彼が看過した特
に人間の歴史性についての新たな認識とを基礎にして、具体的な人間的所産を分析し、そ
の全体的な意味を解明するための実験的な方法論として今日確立されるに至っています。
この方法を文学作品に限らず「あらゆる現象」
、すなわち人間が生み出したあらゆる所産に
適用し、その全体的な意味を合理的・客観的に認識することが可能です。
構成素分析はヴァルター・ファルク(Walter Falk, 1924- )によって文学作品の個別分析と、
時代解釈の学問的方法として、一九六三年以来展開されてきました。本講義では、まずド
イツの詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)の簡単な詩を例にとっ
て、この構成素分析の方法のもっとも基本的な操作を説明し、しかる後に、この方法を用
いて、フランツ・カフカの作品「判決」(Das Urteil, 1912)の作品分析を実践し、この難解な
作品の「意味」(der Sinn)を明らかにしたいと思います。
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2.構成素分析の基本的操作
構成素分析の基本的操作を説明するために、ここではリルケの詩集『時祷集』の中から
選んだ、比較的理解しやすい詩を実例として取り上げてみましょう。(配布資料を参照して
下さい。
)この詩はリルケが一八九九年九月二二日に作ったものです。
2.1. 初期読書
Wir bauen an dir mit zitternden Händen
und wir turmen Atom auf Atom.
Aber wer kann dich vollenden,
du Dom.
Was ist Rom?
Es zerfällt.
Was ist die Welt?
Sie wird zerschlagen
eh deine Turme Kuppeln tragen,
eh aus Meilen von Mosaik
deine strahlende Stirne stieg.
Aber manchmal im Traum
kann ich deinen Raum
überschaun,
tief vom Beginne
bis zu des Dachs goldenem Grate.
Und ich seh: meine Sinne
bilden und baun
die letzten Zierate.
(Rilke I, 261)
この詩の日本語訳も、配布した資料を参考にして下さい。一度、読んでみることにしま
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す。
われわれは震える手でお前のために家を建てる。
(ここは正確には、「われわれは震える手でお前の建築に携わっている。」と訳すべきです。)
アトム
アトム
そして、微塵に微塵を積み上げてゆく。
しかし、誰にお前を完成することができるだろう、
大伽藍よ。
ローマはどうだ?
それは崩壊する。
世界はどうだ?
それとても砕け去るだろう、
お前の塔が円蓋をいただき、
幾マイルもつづくモザイクから
お前の燦然たるひたいが聳え立つ前に。
だが、おりおりは夢の中で
お前の空間を
深くその基底から
屋根の金色の先端まで。
見渡すことが私にはできる。
そして自分の感覚が
その最後の装飾を
造ったり組み立てたりしているのが見える。
(『リルケ』, 19)
2.2. 反省
テクストを読むことによって、この詩が何を言わんとしているかが、概略わかります。
しかし、この詩を読んでわたしたちがまず最初に抱く印象が正しいかどうかを更に詳細に
調べる必要があります。そのために、もう一度テクストに取り組み、それぞれの詩句を慎
重に検討してみることにしましょう。これによって、わたしたちの抱いた最初の印象は次
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第に修正され、この詩に対する認識が徐々に主観性から脱却しはじめます。この後に、わ
たしたちが詩について得た全体的な理解を、暫定的に要約してみることにします。この作
業を構成素分析では「実質統合」(Gehaltsynthese)の定立と呼びます。
第1連の詩行に注目します。
伽藍(ドーム)の建設に携わっている大工たち(詩の冒頭で wir)のひとりが、この詩
の中で「わたし」といわれている人間です。この「わたし」は詩的自我もしくは抒情的自
我(das poetische/lyrische Ich)という用語で呼ばれます。大工たちは伽藍の建設に従事してい
ますが、それが果たして完成することができるかどうか、疑問を持っています。疑問とい
うより、それは確信とさえ言うことができます。「しかし誰にお前を完成することができる
だろう」(Aber wer kann dich vollenden,/ du Dom)に、その疑念もしくは確信が表現されてい
ます。この詩行の意味は、従って、誰にもお前を完成することなどできはしないのだ、と
いうように、反語的に理解しなければなりません。それでは一体なぜ完成することができ
ないのでしょうか?
第2連・第3連に移ります。
第2連では、永遠の栄華を誇るかに見えるローマでさえ、いつかは滅びていくだろう。
世界でさえもが、やはりいつかは滅びるものなのだ、と詩的自我は言っています。日本語
訳では、この部分はそれぞれ、
「ローマはどうだ」
、
「世界はどうだ」となっていますが、ド
イツ語を正確に訳しますと、「ローマとは何であるか」「世界とは何であるか」となります。
そして、その裏には、たとえローマがいまどのようなものであろうとも、あるいは、たと
え世界がどのようなものであろうとも、
(それは、いつか滅び去る)という反語的な意味が
隠されています。
つまり、詩的自我は第2連・第3連を通して、たとえローマがいまどのようなものであ
ろうとも、あるいは世界がたとえいまどのようなものであろうとも、それらは、いまこう
して建設している伽藍が完成する前には、滅びてしまうだろう、と感嘆しているのです。
更に言うならば、詩的自我がその建築に携わっているこの伽藍は、ローマが滅亡し、やが
て世界が滅亡する時に至っても、まだ完成することのできない永遠の伽藍だということ、
従って、この伽藍の建設は人間にとっては永遠に未完のまま留まらざるを得ないというこ
とです。だから、第一連で、誰もそれを完成することができない、と言われているのです。
第4連では、しかし、詩的自我は現実においてはついに未完に終わらざるを得ない伽藍の
完成された姿を、時々夢の中で見ることができる、と言っています。。人間の歴史的時間、
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有限な時間に対しては永遠性を意味する伽藍、だから人間はこれを歴史的時間の中では完
成するができないのですが、その伽藍の完成した姿を、詩的自我は夢において、というこ
とは自らの想像力を通して、時々見るわけです。
第5連:詩的自我は、現実においては自ら完成することのできないけれど、自分の感覚が
伽藍の最後の装飾を造り、組み立てている様を、夢の中で見ている。第一連で「震える手
でお前の建築に携わっている」とありますが、夢の中では「自分の感覚」が、伽藍の建築
に携わっている、とあります。伽藍の建築は、具体的・肉体的な作業としては永遠に完成
することはできない、しかし、感覚を通して、しかも想像力によって、かぎられた人間の
歴史的時間を超えて、完成させることができる、というわけです。
以上が、リルケの詩を改めて詳細に検討した後に、わたしたちが読み取る内容です。い
ま一度、次の点に特に注目しておくことにします。第2連・第3連では、ローマや世界で
さえいつかは滅びるはかないものだ、という詩的自我の単なる感慨が表明されているだけ
でなく、彼がその建築に携わっている伽藍は、だからこの現実の歴史的時間の中では完成
することはできない、という確然たる時間意識です。このことは、第1連の第3・第4詩
行からも知ることができました。要するに、詩的自我は有限な存在として、彼が囚われて
いる人間の歴史的時間の中ではついに完成することのできない伽藍の建築に携わっている、
ということを、読み取らなければなりません。
2.3. 実質統合
そこで、先に述べたいわゆる「実質統合」を次のように定式化することができます。
大工たちはこの現実の有限な歴史的時間の中では完成することのできない永遠の伽藍の
建築に携わっている。永遠にさえ思えるローマでさえ、いつかは崩壊していく。そしてま
た、全世界もいつか滅びていくだろう。だが、その時でさえ、いまわたしたちが建築して
いる伽藍は完成できず、ついに未完に留まるだろう。にもかかわらず、わたしは夢の中で、
歴史的時間の有限性を超えて、伽藍の建築を成し遂げ、その永遠の完成像を見ることがで
きる。
この実質統合は、リルケの詩についての暫定的な解釈と考えることができます。これに
よって、テクストの全体像が、浮かび上がってきます。ここから、構成素分析の次の作業
が始まります。
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2.4. 構成素構造
まず、テクストの中で、その全体にとって特徴的だと思われる対立関係を探してみまし
ょう。大工たちは現実の時間の中では完成することのできない、従って「永遠性」という
性質を備えた伽藍をいま建築しようとしています。しかし、彼らの活動は、それが人間的
活動である限り、この現実の「時間性」の中での活動に留まらざるを得ません。だから、
詩的自我は「しかし、誰におまえを完成することができるだろう」と嘆いているのです。
テクストの基本的な対立は、従って、一方では大工の伽藍建築への意志に、他方では時
間性にあると言えます。つまり、テクストは「大工の永遠の伽藍建築への意志」とこの意
志の遂行を疎外する「人間の有限な歴史的時間性」との対立構造をなしているということ
です。しかし、これだけで、テクストの全体が言い尽くされたわけではありません。すで
に「反省」および「実質統合」で明らかになったように、テクストがこの対立構造の上に
成り立っていることは確実ですが、後半部分がこの構造によっては扱われていません。
そこで、テクストの基本的対立が明らかになったいま、この対立するふたつの力が衝突
し、ぶつかり合って、そこから生ずる結果をテクストから取り出すことができないか、尋
ねてみましょう。第4連以下に注目するとき、その答えを簡単に引き出すことができます。
たしかに、伽藍の完成は現実の時間性によって妨げられていますが、大工のひとり(詩的
自我)はその完成した姿を夢の中に見ることができます。対立の結果は、「大工が夢の中で
見る永遠の伽藍の完成像」
、ということになります。
わたしたちはテクストの基本対立とこの対立から生ずる結果とを問うことによって、テ
クスト全体が三元的構造によって表わされることを明らかにしました。この構造を、構成
素構造と呼びます。また、基本的対立のそれぞれの項およびその結果を、テクストの構成
素と呼びます。テクストは、(しかも、すべてのテクストは、と構成素分析によれば断言す
ることができます)常に基本的な対立関係にある二つの構成素と、それらの構成の対立か
ら生ずる結果を示す構成素との、三つの構成素からその全体が構成されている、と言うこ
とができます。
2.5. 構成素の同定
構成素分析の次の問題は、三つの構成素の同定、すなわち、具体的なテクストにおいて
観察される三つの構成素を一般法則との関係で明らかにすることにあります。構成素分析
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の一般法則では、テクストはいずれも「潜在構成素」(Potentialkomponente = PK)と「現実構
成 素 」 (Aktualkomponente = AK) の 対 立 と 、 そ の 対 立 か ら 生 ず る 「 結 果 構 成 素 」
(Resultativkomponente = RK)によって、その全体的な意味(これを「意味総体」(das Sinnganze)
と呼びます)が定式化されます。
潜在構成素とは、まだ現実においては実現されていないひとつの可能性を実現しようと
する意志(力)を表わします。この意志は、いわば刷新的な力として、それが志向するひ
とつの可能性を現実化することによって、現実を改変しようとするものです。
これに対して、現実構成素はすでにいまある現実の自己安定的な力を表わします。これ
は、潜在構成素が表わす刷新的な力と対立し、この力の働きを阻み、現にある現実状態を
維持・安定を図ろうとするものです。
これら二つの構成素が衝突することによって、新たなものがその対立の結果として生み
出されます。これが、結果構成素です。結果構成素は従って、それ自体はいかなる力も持
たず、何かに働きかけることもありません。しかし、この構成素は現実構成とも潜在構成
素のいずれとも異なる、まったく新しいものです。
リルケの詩に立ち戻って、具体的に三つの構成素を同定することにしましょう。その結
果、結果構成素は「詩的自我が夢の中で見る永遠の伽藍の完成像」にあります。また、先
に取り出した基本的対立のうち、「永遠の伽藍を完成しようとする詩的自我の創造的意志」
が潜在構成素、
「永遠の伽藍の完成を妨げる歴史的時間の有限性」が現実構成素に対応する
ことが容易にわかります。
2.6. 構成素構造式の定立
そこで、テクスト全体を特徴づける構成素構造を次のような定式で表わすことができま
す。
PK: 永遠の伽藍を完成しようとする詩的自我の創造的意志
(Der Wille des poetischen Ich, das ewige Dom zu vollenden)
AK: 永遠の伽藍の完成を妨げている歴史的時間の有限性
(Die Endlichkeit der geschichtlichen Zeit, die das Ich an der Vollendung des ewigen Dom
verhindert)
RK: 詩的自我が夢の中で見る永遠の伽藍の完成像
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(Das vollendete Bild des ewigen Dom, das das poetische Ich in seinem Traum sehen
kann)
比較的簡単な文学作品の場合には、この様に構成素構造式の定立に、ほとんど直線的に
たどり着くことができますが、大抵の作品分析の場合には、分析過程でほとんど不可避的
に犯される誤謬を修正するために、さまざまな修正操作を遂行しなければなりません。こ
こではこの修正操作については扱いませんので、関心のある諸君はファルクが表わした著
書『文学の構成素分析 – その理論、操作、実践』(1994 年、松籟社)を参照して下さい。
この修正操作については、後にカフカの作品『『判決』』の作品分析を行うときに、具体的
に扱うことにします。
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3.フランツ・カフカの生涯、人間的生の基本構造
3.1. 資料によるフランツ・カフカの生涯
フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883–1924) の生涯については、配布した資料「カフカ略
年譜」を参考にして下さい。この限られた講義時間で、彼の生涯を語ることは断念します。
コーディネーター上道功教授から、講義第 1 時間目は作家の自伝に、第 2 時間目はその作
品紹介にあてるようにと、指示されています。しかし、この総合科目の目的は、文学を通
して皆さんに「人間性」について考えていただくことにあります。そこで、フランツ・カ
フカその人については、これから写真集をお見せして、彼の生まれた町チェコスロバキア
(現在のチェコ、かつてはオーストリア・ハンガリー二重帝国)の首都プラハや、彼の両
親、あるいは彼がわれわれの物語『判決』を捧げた婚約者フェリーチェ・バウアーなどの
写真を見ていただくにとどめます。
3.2. 文学と人間性の問題
文学と人間性、これは実に難解な問題です。その難解性は「文学」と「人間性」という
二つの言葉の定義そのものの難解性と、同時にこの二つの言葉の関係の難解性にあります。
一般的にこの問題を扱うことは、この限られた時間ではほとんど不可能です。そのために
は、ほとんど人間の歴史全体を対象としなければならないくらいに、この問いは根源的な
ものです。文学も人間性も、すでに古代ギリシア・ローマ以来深刻な問題として扱われて
きました。ギリシアの哲学者プラトンは『国家』において、アリストテレスは『詩学』に
おいて、この問題を扱っています。
要するに、わたしがここで諸君に申し上げたいことは、この講義全体のコーディネータ
ーを努めておられる上道功教授は、途方もない課題を授業担当者と諸君に課した、という
ことです。しかし、だからといって、この講義で「文学と人間性」という基本的課題をま
ったく扱わないわけではありません。およそ文学について何かを語る場合に、「人間」ある
いは「人間性」と無関係に語るなどということはあり得ないことです。文学は、しかも文
学のみが、
「人間性」を全体として扱うことができるのです。
わたしたちが普通「人間性」という言葉を耳にして抱くイメージとは、一体どのような
ものなのでしょう。もしこれを「思いやりのある人間的な性質」などと考えるとすれば、
それは文学が扱う人間性の極めてかぎられた部分でしかありません。文学との関係で言う
ところの人間性とは英語で Human Nature、ドイツ語の Menschliche Natur のことです。更に
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換言すれば、人間が備えている本質の全体、人間の生そのものを意味しています。だから
文学は政治、社会、経済、法律、更には宗教、歴史、科学などのすべてを表現の対象とす
るばかりでなく、犯罪的な悪や性の問題、あるいは自然的災害でさえも扱う、ということ
ができます。要するに、人間が関わるいっさいが文学の対象であり、その意味で人間性と
文学、などと改めて強調しなくとも、文学はそれ自体が人間性と同義なのです。
3.3. アリストテレスの詩学
人間性をこのように理解するとき、他の諸科学もまたこのような人間性を対象とするもの
であり、これらの諸科学と文学が扱う人間性にいかなる違いがあるのかが、まず第一に問
題になります。つまり、政治学、経済学、あるいは哲学などが対象とする人間と、文学が
対象とする人間とは、どの点に根本的な相違があるのでしょうか。
この問題にさえ、わたしたちには残念ながらここでじっくりと考える時間的余裕はあり
ません。そこで別の観点から同じ問題を捉え直し、この問題に簡潔に答えておくことにし
ます。つまり、他の諸科学が語る言葉と文学が語る言葉には、どのような違いがあるので
しょうか。あるいは、文学的表現と他の表現との間の根本的な相違はどこにあるのでしょ
うか。これがまず明らかにされなければならないでしょう。この問題もまた、古代ギリシ
ア時代以来多くの哲学者、文学者によって問われてきました。そしてまた、いまも問われ
つづけています。
例えばギリシアの哲学者アリストテレスはその著書『詩学』第9章で、歴史家と詩人を
比較して、前者は現実に起ったことを記述するのに対して、後者は起りうることを記述す
る、と語っています。彼自身の言葉を引用することにします。
歴史家と詩人との差異は韻律を以て語るか否か、という点に関わるのではない。[……]両
者の差異は[……]次の一点に存する。すなわち、歴史家はすでに生起した事実を語るのに
対し、詩人は生起する可能性のある事象を語る。(『全集 17』, 38)
アリストテレスの言葉で、詩人のこの課題を更に正確に表現すれば、
そもそも詩人の仕事とは、すでに生起した事実を語ることではなく、生起するかもしれな
い出来事を語ること、すなわち、いかにも納得できそうな蓋然性によってなり、またはど
うしてもそうなるはずの必然性によってなりして生起しうる可能的事象を語ることだ、と
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いうことである。(『全集』, 38)
3.4. 人間的活動の基本構造
すでに紹介した構成素分析論は、人間の活動とそれによって生み出される所産を次のよ
うに考えます。すなわち、人間はつねに何らかの意味で彼がいま現に生きている現実には
見出すことのできない可能性を実現すべく、生きています。その意味で、彼は不断にその
可能性を現実化し、それによって現にいまある現実を改変しようとする存在である、と言
えます。これはすでに引用したファルクの言葉からもわかるように、たまたまそうなので
はなく、それこそがまさしく人間存在の根本的なあり方なのです。人間の歴史とは、従っ
て、つねにその時々の段階で現実化される可能性によって改変されていく現実の変遷過程
にほかなりません。人間の常に刷新的なこの活動は、それがいかなる領域においても本質
的には同じ構造を持っています。つまり、彼が現に生きている現実、この現実に見出すこ
とのできない可能性を実現しようとする彼の意志、これらの二つの関係、対立的な関係か
ら生み出される結果(これが現にある現実に組み込まれ、新しい現実を齎すことになりま
す)から成る三元的構造です。
例えば政治学は、人間のこの活動を政治的観点から対象とし、そこでの活動、すなわち
政治的活動の意味を捉えようとする学問である、と言えます。およそ人間に関わる学問は、
たとえそれぞれの対象とする人間的活動の観点は異なっていても、人間の活動をこのよう
に可能性実現の歴史として捉えるときに、はじめてその活動の客観的・合理的意味を把握
することが可能となるのです。
3.5. 文学の対象領域と作家の歴史的生
学問としての文学が対象とする人間の活動領域は、先に引用したアリストテレスの詩人
に関する規定からも明らかなように、人間の具体的な現実世界にあるのではありません。
それが対象とするのは、あくまで人間がその活動の結果として生み出した文学作品に限定
されます。文学作品で語られるのは可能的事象にほかなりません。従って、カフカという
歴史的人間の生を構成する諸事実の関係を知ることと、彼の文学作品の意味を明らかにす
ることとは、本質的に別の問題です。すなわち、前者は歴史学の対象領域に属する問題に
ほかなりません。
例えば、作家が書き遺した日記を読まなければ、彼の作品が理解できないということで
あれば、文学研究は多くの作家について頓挫してしまいます。日記を書かなかった作家は
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数知れずいます。あるいは、書いたかもしれないが、いまは残っていないという作家もい
ることでしょう。更には、ある文学作品が一体誰によって書かれたのか、ということさえ
知られていない場合もあります。ギリシア文学の宝といわれる叙事詩『イーリアス』、
『オ
デッセイ』という二つの作品は、詩人ホメロスによって書かれたといわれています。しか
し、このホメロスなる人物が歴史的現実の世界でどのような生涯を送ったのかは不明です。
このような例はいくらでも挙げることができます。ひとつの作品を複数の作家が執筆す
ることもあります。例えばドイツの十九世紀末の作家、ヨハネス・シュラーフとアルノー・
ホルツという二人の作家は、共同でいくつかの戯曲を執筆しています。その場合に、その
作品はいずれの作家の伝記的事実と関係づけて理解すればいいのでしょうか。
いま羅列してきた諸例について、しかし、いずれの場合にもただひとつの事実だけは決
定的に明らかです。すなわち、作家が誰であるかということとは無関係に、われわれの前
には人間の活動によって生み出され、明確な形で存在する作品が「厳然として存在してい
る」ということです。文学が文学作品を対象とする限り、『イーリアス』や『オデッセイ』
だけでなく、多くの語り部たちに語り継がれてきた伝承文学の精華たる日本の『古事記』
や『日本書紀』、あるいは『平家物語』などの作品も、その対象として扱われなければなら
ないことは言うまでもありません。
3.6. 人間的生の基本構造
人間の活動は、現実の世界において、これと対立するひとつの可能性を実現しようと努
め、不断にその活動によって新たな現実を生み出すもの、と先に規定しました。しかも、
人間が唯一歴史を生み出すことのできる生物として、この規定はまさに人間そのものの規
定でもあります。こうして、真に人間的活動は三つの領域に深く関わっている、と考える
ことができます。すなわち、彼がいま現に生きている現実という領域、彼が実現しようと
するさまざまな可能性が潜んでいる可能性の領域、そして最後に、彼の活動の結果として
生み出される結果から構成される領域(これは、新たな現実領域と言っても構いません)
です。
人間の政治的あるいは経済的な実践活動は、具体的・物理的に現実変化を生み出す活動
として遂行されなければなりません。これに対して、文学的活動は、たしかに文学作品と
して具体的・物理的な結果が生み出されますが、政治的・経済的活動のように、これが現
実を「直接的」に改変するわけではありません。
(ここ「直接的」と強調するには、それな
15
りに深遠な意味が含まれているのですが、いまこの問題に触れることはできません。
)その
意味で、前者と現実領域との関係は、文学と現実領域との関係に比べ、一層緊密であるは
ずです。逆に文学は、アリストテレスが指摘しているように、むしろ可能性領域と密接に
関係していると言えます。
文学的活動は、作家が、その時々に彼がおかれている現実との関係で、これに対立する
ひとつの可能性を実現しようとした場合に、いかなる結果が「ありうるもの」として考え
られるのか、アリストテレスの言う「可能的事象」を表現するものとして、すべてが虚構
(可能性)の中で遂行されるのです。
この章を終えるにあたり、アリストテレスが語る次の言葉を再度引用しておくことにし
ます。
このゆえに、歴史に較べると詩の方が、より一層哲学的つまり学問的でもあるし、また、
品格もより一層高い次第である。その理由を更に換言してみれば、詩が語るのは寧ろ普遍
的な事柄であるのに対し、歴史が語るのは個別的な事件だからである。
(『全集』, 38-39)
(以上第 1 回講義)
16
付録:参考文献
1.
Rainer Maria Rilke: Sämtliche Werke I, Insel Verlag, 1955 (= Rilke I)
2.
Franz Kafka: Erzählungen, S.Fischer Verlag, 1985, S45-56 (= ER)
3.
Franz Kafka: Tagebücher, S.Fischer Verlag, 1985 (= TB)
4.
Franz Kafka: Briefe an Milena, S.Fischer Verlag, 1965 (= BM)
5.
Franz Kafka: Briefe an Milena, Erweiterete und neugeordnete Ausgabe, S.Fischer Verlag,
1983
6.
Franz Kafka: Briefe an Felice, S. Fischer Verlag, 1967 (= BF)
7.
Franz Kafka: Briefe, S.Fischer Verlag, 1985 (= BR)
8.
Walter Falk: Der kollektive Traum von Krieg. Epochale Strukturen der deutschen Literatur
zwischen "Naturalismus" und "Expressionismus". Carl Winter Universitätverlag, Heidelberg,
1977 (= Falk 1977)
9.
Walter Falk: Franz Kafka und die Expressionisten im Ende der Neuzeit, Verlag Peter Lang,
1990, S.209-232 (= Falk 1990)
10.
ライナー・マリア・リルケ:『リルケ全集』、第 2 巻 、彌生書房、東京、1970 (=『リ
ルケ』)
11.
アリストテレス:
『アリストテレス全集』
、第 17 巻、岩波書店、東京、1972 (=『全集』)
12.
フランツ・カフカ:
「カフカ短編集」
、池内
13.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」
、全 1 巻、
「変身。流刑地にて」
、新潮社、東京、1980
紀訳、岩波文庫、東京
(= (1))
14.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」
、全 7 巻、
「日記」、新潮社、東京、1980 (= (7))
15.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」、全 8 巻、
「ミレナへの手紙」、新潮社、東京、1980
(= (8))
16.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」
、全 9 巻、
「手紙」
、新潮社、東京、1980 (= (9))
17.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」、全 10 巻、
「フェリーチェへの手紙(1)
」、新潮社、
東京、1980 (= (10))
18.
フランツ・カフカ:
「カフカ全集」、全 11 巻、
「フェリーチェへの手紙(2)」、新潮社、
東京、1980 (= (11))
19.
ヴァルター・ファルク:
「文学の構成素分析 ––– その理論、操作。実践」
、竹中克英
訳、松籟社、京都、1995
17