近世京都商人の商業経営について

立命館経済学︵第五巻・第五吾︶
近世京都商人の商業経営について
柏原家の店則より見た
e
家業専一のこと
御公儀は堅く相守るべきこと
足
江戸店の経堂方針及び商人意識について
白
火の用心︑盗人用心第一のこと
柏原家の由来
はしがき
一︑
嘗
商取引は厳密且周到なるぺきこと
二︑
的
営業費を節約すべきこと
店則より見たる経営方針
回
店員の日常生活は規定に従うべきこと
三︑
内
江戸店管理の全責任は別宅支配人にあること
店則より見たる商人意識
向
四︑
立
一七〇
男
︵六一六︶
政
︷
e
e
体面意識について
奉公意識について
び
分限意識について
す
昌
五︑む
︑ぱしがき
近枇京郡商人の商業経営を分析し︑そごから近世商人の経営の実体がいかなるものであったか︑叉その経営に
あたっては︑如何在る意識をもち︑如何在ることを念慮し︑如何たるものを規範としていたかを明確にし︑ひい
てはそこから︑次に訪れて来るところの資本主義下における近代的商業経営への発展段階としての素地を如何に
彬成しつつあったかを明らかにするごとは︑日本経済史研究にとって︑意義深いものがあるものと思う︒
そごで︑本稿においてはます商業経営の一部である経営方針と︑商人意識の課題だけを採り上げ︑これを近世
京都における巨商の一人と見倣される柏原家の江戸店経営といった場合を店則を通じて分析し︑その特異なる場
含における典型の一としてこれを考察し︑もって所期の目的達成への手がかりにせんとするものである︒
一﹁柏原家の由来
現在の株式会杜柏原洋紙店は遠く元藤︵ニハ八八−一七〇三︶の頃から江戸において紙類や京名産の小間物恋
一七一
へ六一七︶
どを販売し︑別に営業した木綿店や漆器店とともに︑何れも江戸十組の一員に加わり︑かなり手広く商売してい
近世京都商人の商業経営について︵足立︶
^
立命館経済学︵第五巻・第五暑︶
一七二
︵六一八︶
た︒却ち文政七年︵一八二四︶の蜀山人の序のある﹁江戸買物独案内﹂に︑新両替町四丁目︑松坂屋半右衛は柏
原家が江戸において経営した江戸十組所属の紙問屋であり︑同じく﹁木綿問屋︑本町四丁目︑柏原孫左衛門﹂も
他の三士二人ととも︑﹁江戸木綿問屋十組﹂に名を連ねており︑また黒江屋太兵衛名儀の塗物問屋︑﹁黒江屋﹂も
久しい前から同家の経営するところとなっていた︒
さてその本翅たる京都における本店柏原家は初代以来京都問屋町五条上ル︵現存す︶にあって︑歴代の主人は
−
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こごに住んでいた︒嘉永四年︵一八五一︶のコ界都商人独案内Lによると︑窒町二条上ルの越後屋八郎右衛門︑
堺町二条上ルの白木屋彦太郎在どと共に﹁仕入店﹂の名を列ねている︒
小間物類の仕入商売が開かれ︑二代目孫左衛門を経て三代助右衛門の代になってから商売は漸く盛んに在り︑以
.
^
山
後家業は益六駿賑を極め︑十代目の現主孫左衛門に至っている︒
かくて近世における柏原家は以上略述した通り江戸における三大店舗却ち木綿間屋を中心として︑紙屋の松坂
屋︑漆器の黒江屋を両翼とした三個の江戸店をもち︑何れも江戸十組間屋の一員として盛んに営業を続けていた
のである︒しかも歴代の主人は多く京都に住んでいて︑江戸へは年に一度か二度しか下ら在い︒すべて江戸店は
番頭まかせで経営していたのである︒
かかる店舗経営は京都商人の特異な形態であるとともに︑近世における巨商の主人の生活形態即ち﹁主人の生
き方﹂における一つの典型を示すものであり︑興味深いものがある︒
山
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乱
一
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山
二
︑二
同家の初代は名を三右衛門といい︑元藤二年︵ニハ八九︶に殴した人であるが︑およそこの人の手で始めて呉服︑
■
三︑店則より見たる経営方針
近世における交適逸信の発達程度で︑当主が京都に永任していて遠く江戸店を経営するにはいろいろの困難
と︑従って少からぬ不利が伴った︒却ちその一つとしては重要取扱商品である紙や木綿や漆器類はすべて海運に
よって江戸に積送されるのであるから海上で蒙る荷主の危険は決して少在くなかった︒
しかしてこれらの不利は近世の業界全般.に亘るもので必すしも当家のみの蒙る不利益ではなかったが︑ただ当
家として最も苦心を払ったことは︑所謂江戸店をいかに安全確実に︑手落ちなく経営すべきかの一点に存した︒
歴代の主人は多く京都に一住っていて︑江戸へは年に一度か二度しか下らない︒すべて番頭まかせで︑紙と呉服
と漆器とを手広く営む上の苦心は︑けだし容易のことではなかったものと推測される︒当家ではこの不安に対処
し︑店舗経営に関する店則を制定し︑ごの店則を中軸とし︑巧みに﹁別家﹂制度を活用して︑万全の策を図った
のである︒却ちその主なる店則としては享保二十一年正月の﹁家内定法帳﹂と宝暦五年の﹁条目﹂がある︒
本稿においては紙数の制限もあり︑この両店則を通じて︑その経営方針及び商人意識についてのみ窺うことに
する︒さて店則の前文についてであるが︑宝暦五年の﹁条目﹂の冒頭には︑﹁条目﹂制定の所以を次の如く述べ︑
その趣意を明らかにしている︒
﹁先規より被仰置候者御子孫繁昌を願候者敬仏神を為正路に御家職無油断常ヵ身の分限を知り︑家の治りを専
一七三
︵六一九︶
に可致処肝要也と被仰置候︑依之︑毎月五日お江戸店にも家内相寄合︑右之旨気腹して︑商売之儀は不申及︑万
端善悪を申談︑格式違乱無之様に示合可致事﹂
近世京都商人の商業経営について︵足立︶
●
立命館経済学︵第五巻・第五号︶
一七四
︵六二〇︶
却ち店則制定の趣意としては恐らく一般他宗の店則に共通したものがあるが︑もし子孫の繁昌を願望するなら
ば︑仏神を敬うことを正道とすること︒家業を尊重し︑ごれに精進努力すること︒常六吾が身の分限︑却ち﹁我
が身のぼどを知る﹂こと︑換言すれば︑知足安分・少欽知足の観念をもち︑大それたことを考えたり︑行わない
こと︒かくして我が家をよく斉え︑よく治めることが最も肝要であると訓戒している︒そしてこの﹁条目﹂に対
しては江戸店勤務のものも︑毎月五日には全員が一堂に会合し︑﹁条目﹂の趣意をよく弁えて︑商売上の事は勿
論︑諾事万端にわたって話合いを在し︑善悪を糺し︑店則に惇らぬようにせよと述べているのである︒
︐
次にこの総則ともいうべき店則の前文につづいて︑店務万般にわたっての規定が設けられている︒これらの条
御公儀は堅く相守るべきこと︒
項を分析整理すると凡そ次の如くである︒
H
さきの前文につづいて︑ます第一条に﹁御公儀榛御法度の趣堅く相守可申侯﹂へ家内定法帳︶﹁御公儀者御法度
之趣堅相守可申侯事﹂︵条目︶とあり︑公儀︑却ち国法遵守の趣意を強調し︑御公儀様却ち時の支配考たる幕府
家業専一のこと︒
の命令に対しては絶対的な恭順の意を表明し︑家業の安泰と子孫の安全を図っているのである︒
↓
﹁家内定法帳﹂第二条において﹁店商売の儀に付諾事相談の上︑古来より持来候各︵格︶式を以可仕侯︑尤毎月
五日月並の会合堅く相勤︑諾事善悪承︑不坪無之様に傍︵朋︶輩中勤方身持申含︑我儘働き申間鋪候︑不寄何事
諾事相談の上可仕侯事﹂とあり︑﹁条目﹂においては御公儀遵守の規定についで﹁博突相好申間敷事︑米市掛りへ
立入申間敷事﹂とあり前者においては江戸店の商売は万事相談して経営し︑古来より仕来り格式分限の尊重を要
一
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望し︑いわゆる封建杜会における祖法墨守︑新儀停止灰﹂規定しているのであるじ更に江戸店奉公者の不将︑我儘な
振舞を厳禁し︑家業尊重︑家業専一を強調し︑﹁身の程を知れ﹂といった警句があるように︑奉公人各自が自己
の職責を自覚し︑分相応に生活し︑分を超えす分を下らす健全な生活を送るよう︑かくて江戸庁においては毎月
五日に店中すべてのものが心す会合し︑諾事万般に亘って理非善悪を明らかにして︑ごれを直すように堅く申渡
している︒殊に後者の﹁条目﹂においては具体的に博尖及び博突的な投機市場への出入を禁じているが︑ごれら
は遠く離れた江戸店勤務の店員達が最も犯し易い卑近な不行跡をあげて︑一擢千金といった倖焼心︑射倖心をき
︑
びしく戒しめ︑かかる振舞いによって家業が疎かにならないよう︑そして店員自身もその身を滅さないようにと
配慮しているのである︒
嘗 火の用心︑盗人用心第一のごと︒・
﹁家内定法帳﹂において﹁火の用心︑盗人の用心に心を付合大切に可仕侯事﹂とあり︑﹁条目﹂においては﹁火
の用心第一之事︑盗人用心常六心掛置︑夜番等大切に可相勤事︑出火の醐︑他所へ出申間敷候︑火元方角棉知侯
はば見舞の人指図可遺候︑他所被在侯醐︑出火相聞候はぱ︑火元此辺に侯はば早速走帰り可申侯︑尤此辺間違と
も大火に侯はば早六被帰可申候︑平日用心︷火の刻入用の諾道具等相改メ置可申事﹂とあって火の用心を強く戒
めているのは︑極めてプラクチカル放特色をもった店則といえよう︒
近世における火事は︑大小を問わす何れの都市にも頻発しているが︑殊に江戸の火事は﹁火事とけんかは江戸
の花﹂とさえ唄われた程で︑かの巨肉紀国崖文左衛門が投桟的た材木商を経営して活躍したのも元藤から宝永に
.︐外
一七五
︵六二一︶
−・・冊..
■
と
.
かけてであった︒火事は江戸の名物の一と云りれる程多かったのである︒その上盗人も多〆\義賊と呼ばれる大
近世京都商人の商業緑営について︵足立︶
︑箏
立命館経済学︵第五巻・第五号︶
一七六
︵六二二︶
盗賊が我もの顔に出没したと伝えられているが︑かかる物騒在江戸に一二大店舗を別六に構え︑しかも主人は京都
に住んでいてこれを経営するのであるから︑火事と盗人は柏原家にとって全く頭痛の種であったに相違在い︒殊
に宝暦の﹁条目﹂において︑出火の際の処置︑諾注意を具体的に示している点は全く他の商家に見られぬ店則で
商取引は厳密且周到なるべきこと︒
あり︑江戸店の経営における苦心の配慮がうかがわれ︑興味深いものがある︒
四
先す販売の周到なる管理規定を見るに︑﹁家内定法帳﹂において﹁諸掛売一切仕間鋪候尤無麹儀者可及相談侯﹂
とし︑現金販売を原則とし︑掛売を禁止している︒もし止むを得す貸売する場合は相談の上と定め︑更に﹁掛売
の儀︑売物相渡候節︑帳面に印判急度取置可申事﹂として掛売に対する厳密周到さを要求している︒
次に品物を店から販売して発送した場合には﹁荷物送り侯節留帳堅く引含可申事﹂とか﹁留帳より見世帳に写
申侯分︑注文を直大に見世帳へ付申分︑何れも付落無之様に相共に気を付吟味可仕事﹂と発送販売における帳付
の注意をあげて手落ちのないことを期している︒更にまた︑品物を買手に直接手渡すところの地売販売を行った
場合は﹁地売の儀詩取役人員数相改︑請取可申候勿論致府帳︵符牒︶候節立会吟味可仕事﹂として品物の授受に
間違いを生じないように注意を喚起している︒
次ぎに仕入に関する管理規定を見るに凡そ次の如くである︒却ち宝暦五年の﹁条目﹂において﹁買物前金之義
向後無用に可致侯︑併是迄貸来り候方者は其格を以可相斗侯︑勿論右之外︑無挽儀侯はば其節可及相談侯﹂と仕
入取引には前貸金を禁止し︑品物と取換え︑若しくは後払いを規定し︑仕入上の矢策がないようにしている︒而
して若し従前より前貸しして来た仕入充の場合はその経済力︑分限をよくよく勘察して取り計らうよう︑その外
●
止むを得す前貸金によって仕入をせねばならない置合は皆六相談の上と定めている︒
更に京都店より仕入の商品で︑江戸店向け発送の商品にーついては﹁荷物指下申候後︑仕切早友相認め差下し可
申事﹂と︑京都江戸両唐間における商品の授受ならびに−勘定を正確にすべきことを定めている︒
以上販売と仕入に関する規定であるが︑之を同家の明治十六年︵一八八三︶一月の﹁店定法示合心得書﹂に−﹁人
を偽り︑一時に多分の利を得るは末通らす︑たとえ︑薄利にても日毎に利分を積めば大き利を得べし﹂と述べ︑
また︑﹁眼前利のある事にても他の家徳を奪ひなどいたす事は小利大損なるべし﹂とさとし︑さらに﹁現金のお
客は一入大切に1候間︑いささかの売捌にても鹿末に致間敷候︑叉御得意様方︑門先御通行被成候はば︑上に立っ
者は不及中︑一統申合︑気をつけ呼込可申候﹂と商人道徳の禰養に努力せる店則と比較するとき︑徳川期の店則
は商人道徳の禰養といった点で梢六欠陥が見出されるのである︒
会計及び帳簿の管理については︑﹁条目﹂に﹁金銀出入勘定毎月朔日︑十六日立会相改メ吟味可致侯︑五節句
払日前広二凡払高員数聞合心得の事︑尤判彬帳と買帳之表渡シニ五節句帳面引合合判可致事﹂とあることから︑
毎月一日勘定の十六日監査で月六の金銀の出入を締めくくり︑支払は︑正月七日︑三月三日︑五月五日︑七月七
日︑九月七日の年五度の勘定で行うごとを規定し︑年二季の勘定でなかったことも近世における会計勘定として
は余程進んだものといい得る︒又支払に−際しては︑判形帳︑買物帳︑五節句帳面を照合し︑合判のtとと定め︑
その厳密を期している︒その外︑帳面の管理には︑その公正を期し︑誤謬を防ぐため︑﹁帳合等前ヵより致来り
一七七 ︵六二三︶
候逓︑先輩の者へ聞含見含帳百支配可致候︑惣体我儘の了簡を以取斗候事堅無用候﹂と定め︑自分勝手た了簡を
もって処理することを厳しく禁止している︒
近世京都商人の商業経営にっいて︵足立︶
立命館経済学︵第五巻・第五暑︶
一七八
︵六二四︶
かくて商売によって得られた江戸店の利益金は毎年二季に京都の本店の下へ送金されたのであるが︑その金高
については︑毎年夏は五月廿日︑冬は十一月十日限り京都の主人より申渡しているのであって︑﹁条目﹂におい
て次の如く規定している︒﹁弐季為登金員数申遣儀︑夏は五月廿日︑冬は十一月十日眼り申遣侯事﹂︒
在お商況の通信については︑﹁家内定法帳﹂に﹁飛脚書日毎に諾国の書通解怠有間鋪就中高下に付存知入有之
侯節者︑定日の外にも書通可有之候事﹂とある︒却ち相場の高低については﹁幸便﹂にのみ頼らす︑金はかかっ
ても﹁仕立便﹂で通信するごとを特に注意している︒
その頃の江戸定飛脚仲間定則によると江戸大阪間の幸便には︑六日︑七白︑九目︑十日限在どがあり︑書状一
封︑銀二匁︑荷物一貫目銀五十匁であった︒また仕立便︵今日の速達︶は両地間正三日半から正五目までいろいろ
あるが正三日半在ら封物百匁につき︑七両二匁であった︒ごのごとから此の商況の通信を考察するに︑さすがに
巨商にして且特異なる店舗経営者であっただけに︑商況の通信を如何に重く見ていたかが窺われるのである︒
商取引の上で更に︑取次︑請含︑口入等の白分商内は無用之事として禁止している︒却ち︑﹁家内定法帳﹂に・
おいて﹁自分商内の儀堅く無用の事︑拉に詩合入ることかたくいたし申間鋪事﹂とあり﹁条目﹂においては﹁金
銀諾代物取次並に請負口入仕間鋪事別して身寄の考へ猶更取引望無粕可致事﹂とめり︑取次︑講合︑或は口入等
他人の世語を焼いたり︑自分勝手な思惑による商売をしては在らぬと注意している︒殊に身寄の縁故ある者との
取引を希望してはならないとしているのは︑縁故者との取引による利潤の低下︑或は取引上の妥協︑曲事等の行
われ易いのを憂え︑商取引上に1おける冷厳性の保持に努めているものと考えられる︒かかる極めて特異なる店則
の設定も遠距離にある江戸店の経営にとっては無理からぬとごろであろう︒
一
山
山
^
︑一
山
五
1
心
回
営業費を節約すべきこと︒
営業費の節約については︑﹁家内定法帳﹂にー﹁台所並に諾入用悉く物入無之様﹂と戒め︑﹁条目﹂においては︑
﹁宗内入用之詰道具等持候はば︑其品を主人江断︑指図を受可及相談候事﹂とか﹁.請入喘平生心掛勘略致︑久費
無之様に相心得可申侯事併に諾方付届ケ等の義︒右にー準じ可申候勿論︒返礼等も到未の品に1可応候事−﹂と注意し︑
江戸店における営業費の節約を望み︑不要の失費を防ぎ︑華美にならないように注意を払っている︒
内 店員の日常生活は規定に従うべきこと︒
店員の外出については︑﹁条目﹂において﹁私用の義は不申及候買物に被出候歎︑其外致他行候はば︑暮合限
りに被帰可申侯﹂−︑しあり︑私用はもとより︑店用でも日没限り帰店せよと定め︑更に︒外出ならびに帰店の際は
﹁尤支配人江断可被出事︑被帰候醐にも可相届事︑支配人留守の醐は合役先輩へ断可申侯﹂と︑必す届出る事を
規定している︒殊に支配人の外出ならびに帰店については特に細かに規定し︑﹁支配人被出候醐は後見或は次役
江相届け可被出侯︑支配人の義は不寄何時に︑主人用向聞合申義も有之候事に候得ば終日遠方などへ被出侯はば
主人江相断被出侯帰宅之醐叉可相届侯︑支配役の内は見世明き侯はぬ様に相心得可申候﹂と支配人の出処進退を
明らかにし︑店商売の責任者としてその経営に支障を来たさぬことを期しているのである︑
更に店員の衣服・仕着については何にかぎらす﹁薪たに持へ申侯はば其断相立︵上役の︶差図に随可申﹂また
﹁衣服の儀可限紺紬に︑夏着右に準候惣而目立候物型く無用の事﹂と﹁家内定法帳﹂に・定めており︑﹁条目﹂に至
っては﹁衣服の儀は不申及︑惣じて身分不相応の義堅相嗜可申候︑若過分の義有之候はぱ急度吟味可申候事︑勿
︑ ︑弓
一七九
︵六二五︶
論入用の品侯はぱ上役へ相断指図を受可申候﹂と︑身分不相応な衣服は﹁急度吟味可申事﹂として華美︑ぜいた
ゴ.
近世京都商人の商業経営について︵足立︶
︑︐敏
立命館経済学︵第五巻・第五晋︶
一八○
︵六二六︶
くになるごとを深く戒しめている︒﹁江戸っ子は肖越しの金は持たぬ﹂さえいわれている如く︑近世の江戸は華
美で金つかいも荒く︑無目的でなげやり的在ところがある︒かかる江戸の華美在生活に1店員が染まることを憂慮
しての細かい行届いた訓戒である︒
更に﹁他所へ二仮泊り無用侯併親類兄弟等病気無拠義に候はば主人江相願可申事﹂︵条目︶として︑店員の外
泊を禁止し︑止むを得ざる︵親類兄弟等の病気︶の場含のみ主人許可が得られるとしている︒叉﹁不寄何事︑惣
し而︑大事は小事より発り侯︑此考能ヵ可心得侯︑尤面ヵ身の養生常の事に侯︑若し病人出来侯はば無油断相共
たぺ
に気をつけ可申候﹂と健康をすすめ︑特に飲酒に関しては﹁見廿より台所へ入酒給合申儀堅く無用に候︑惣而酒
狸りにたべ申間鋪事﹂︵家内定法帳︶﹁身持の義は不申及万端猿敷事相慎可申候︑尤酒給候儀右同前にー相嗜可申事﹂
︵条目︶と特に注意しているは︑味気ない当時の店員奉公者の最も陥入り易い飲酒を指摘して︑その身持ちを正
しくすべしと警告しているのである︒
つづいて﹁不働き叉者我蟹侯族有之候はぱ相共に意見可申侯︑及再三不得心の上者暇遣し可申事﹂︵家内定法
帳︶﹁主人より申附事儀謹て承り︑違背有間敷侯︑夫商用者表と相心得︑外用は裏と可存候︑主人叉其意を以召
遺可申事︑是第一の肝要に侯︑主従簡違い無之様に可相心得考也﹂︵条目︶と規定し︑﹁家内定法帳﹂にておいて
は身持ち悪く再三の注意によっても直らぬものの放逐を規定し︑﹁条目﹂においては︑公用・私用を区別すべく︑
主人と難も其意を以て店員を使用する事が一番大切た事である︒主従相共に了簡違いをして過誤を犯さ在いよう
に心得よと諭している︒
以上江戸時代に設定されていた店員の日常生活における作法心得についての店則であるが︑これを世上が一変
∴
した資本主義社会の明冶十六年一月にーおける﹁店定法示合心得書﹂のそれと比較して見ると︑ 更に江戸店経営の
一端が明確化し︑店員の管理が明らかにされる︒却ち︑
昼夜に限らす︑見世を明けざる事
職務中︑二階や土蔵内などにて本を読みもしくは煙草を呑むこと無用の事
囲棋︑象棊等も神祭祝日其他休日の外制禁の事
神仏開帳参詣︑其外︑芝居相撲等すべての興行物見物は支配の許しを得べき事
衣類持物はすべて格ヵに−応じ︑被差免候事
当世流行の紙入︑煙草入︑傘︑履物は一切厳禁候
何事に不寄︑心得不申儀︑許しき不審の者等見聞在之候はば︑上下を不論︑為心得︑支配人又は別宅共等へ
内六可被申聞候取調協議の上︑尤の次第にも候はば︑採用所置にも可及侯︑自然別宅に−不都合の廉候はば直訴可
被致侯﹂
と︑極めてププクチカルに一ヵその作法を示した上︑とくに御維新以来︑旧宗の大商人の続戊と零落するは︑
.要するに家法の乱れに原因すると底し︑上下競って仕事に精励したならば︑その成績にーよって﹁時宜により順序
に拘らす︑抜上げ︑操下げ等も致す﹂と規定し︑所謂抜擢と格下げの制度による信賞必罰主義を宣言している︒
以上江戸・明清両期の店則を比較してみるとき︑封建杜会と資本主義杜会の杜会生活︑社会環境により︑それ
ぞれの時代に適当した店則に改変されているこ1こが明ら︷にされるが︑同痔に︑その何れにも共通するものとし
−
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一八一
︑︐..一︑二1−
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−
︵六二七︶
え
1・グ.
て見られる傾向は︑遠く離れた江戸店を如何に安全に経営するかということであって︑そのためにはあくまでも
一
近世京都商人の商業経営について︵足立︶
i ︐
立命館経済学︵第五巻・第五号︶
●
一八二
︵六二八︶
江戸店勤務の店員を︑主家第一主義の忠節な奉公糖神に徹した店員にーしておくことであり︑そのた拘には︑具体
江戸店管理の全責任は別宅支配人にあること︒
的であり︑かつ細部にわたった店則を必要としていることは当然なりとすべきでめろう︒
向
却ち﹁条目﹂には京都の本店と江戸店との関係につき次のように記している︒
﹁先年助給様︵三代目当主助右衛門︶御存生の醐江戸店要用の御相談為相手︑京にて半兵衛︑江戸にて作兵衛
叉は徳兵衛など︑為御目代立置かれ侯其後︑作兵衛︑治助︑忠功と被立置候て︑両店の御召合有之侯︑則此格を
以て江戸店別宅老分の者順六に申付置侯︑例之︑江戸店の儀は︑従此方致差図︑叉京都要用は︑江戸老分へ及相
談格式に侯︑以来右格式の通違乱無之様に︑就中別宅の儀は面六在勤者共了簡違い無之可相心得者也﹂
云六とあって︑京本店と江戸店の別宅はお互いに連帯してその責任を果すべきごとを強調すると共に︑江戸店
の取締の責任者としては主人の御目代として︑別宅中より支配人を出して管理せしめている︒店の事は細大とな
くこの支配人の裁断の下に運営されたのである︒店の鍵も﹁表門口︑木戸夜分亥の刻限りにしめ︑錠おろし可申
侯︑尤鍵は時の支配人預り可申候﹂︵条目︶とあるところから︑支配人が保管していたのであって︑支配人が江
戸店経営の全責任者であるごとを明らにしている︒叉︑閉店は﹁亥ノ刻﹂却ち今の十時と定めてある︒
法お店員の採用については︑﹁奉公人召抱候はば早速請状取可申侯事﹂︵条目︶として︑請状を採用条件の重要
な項目として︑採用後の不始末に対する責任を明確にしている︒
四︑店則より見たる商人意識
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商人意識の研究︑分析に関しては︑宮本叉次博士の﹁近世商人意識の研究﹂の名著によって︑すでに明らかに
されているところであるが︑博士はその著書の中で︑近世商人も︑近世封建杜会に生を享けていたもの在る限り︑
その時代意識に拘東されざるを得荏い︒近世封建社会の時代意識たる奉公・体面.分限の意識はそのまま商人に
も反映し︑その気質・肌・根性の中にか加るものが濠み出ていたごとは否定出来ない︒時代意識は常に支配身分
の意識であり︑被支配者たる商人はその道徳的自律性を失い︑支配者の道徳を押しつけられるのが常である︒目
付的︑警察的に︑叉教化を以て︑支配者の社会意識を押しつけられ︑やがてそれが慣い性と在り︑根性となる︒
と述べ︑更に︑奉公意識は国恩奉謝・冥加・冥利の観念となり︑全体尊重の意志とたり︑奉公.律気となった︒
体面意識は暖簾・看板を重んじ︑信用を第一にする心掛となり︑転じては義理.一分の意識となった︒分限意識
は家業・知足安分・仕来尊重・保守伝統主義となったと述べていられるが︑誠に当を得た商人意識の分析である
奉公意識について︒
と思える︒よってこの分析方法を参考にして柏原の店則から湊み出て来る商人意識を分析するに凡そ次の如くで
ある︒
H
所謂奉公意識は国恩・冥加の意識から︑御公儀者・御上様に対する尊敬と︑それへの絶対的服従を誓うところ
の商人意識である︒しかしてかかる意識は︑近世における商人のもっていた共通的在意識であり︑それだけに何
処の商家の家訓や店則にも発見される意識の一である︒柏原家の店則においても︑第一条に﹁御公儀御法度之
趣堅相守申事﹂と記して︑その奉公意識を言葉によって表明している︒しかしてかかる意識の店則への表現は少
一八三
︵六二九︶
くとも︑表向きには﹁天下泰平の御高恩﹂としての御上様の支配︑墾言するならば︑その支配によって賦与せら
近世京都商人の商業経営について︵足立︶
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立命館経済学︵第五巻・第五号︶
.
一八四
︵六三〇︶
るる保護と援助とを徳とし︑公権により確保せらるる排他力を享有し得るを冥加・冥利と観じ︑身分的支配者に
対する被支配者側の忠節・奉恩観念に基くものであったろうが︑その実は︑たとえ商人たる彼が金力によって武
士層を隠然抑えるに至ったとしても︑支配者の威圧・威服に対する身分的卑下︑却ち﹁御上の事は御無理御尤﹂
と聴従し︑﹁己の職分さえ勤むれば︑白ら養われて︑安楽に暮せる﹂といった消極的・逃避的・卑屈的意識が店
則に濠出しているのであると見ることが出来る︒そしてごれは近世商人すべてのものが抱いていた意識である︒
e 体面意識について
一所謂︑名を惜み︑恥を忌む表象であり︑商人の本分として﹁かくあらねばならぬ﹂といった︒面目保持の意識
である︒そのためには︑物の善悪忠孝の道をよく相弁え︑身持を慎しむべく︑﹁不碍之儀﹂を堅く戒しめた店則
として記されている︒﹁諾事善悪承合︑不埼無之様に傍輩中勤方身持申合︑我彊働き申間鋪候﹂︵家内定法帳︶と
か﹁博突相好申間敷事︑米市掛りへ立入申間敷事﹂︵条目︶﹁身持の義は不申及万端狼敷事相慎可申侯﹂︵条目︶と
分隈意識について
かはこの意識が店則として表明されたものである︒
目
所謂︑分・分限・分際・ほど・身のぼど・かぎりといわれる意識である︒商人として分相応に生活し︑分を越
えす︑分を下らす生きるといった意識で︑ごの分隈意識は︑近世商人意識のうちで最も重きをなし︑その最も広
い分野を占めていた意識であった︒したがって商業の経営方針を指示する店則も︑殆んどがごの意識の発現した
条日Hであるとすら見られるのである︒所謂案業意識の如き正︑︑この分限意識から発展した意識である︒しかして
家業意識は父祖伝来の家業の尊重・専守の意識を生み︑更に家業に対する精進意識へと発展する︒かかる家業意
識を実現せんとする願望は︑修身斉家の具体的行動を強く欽求する意識にー再生し︑これが全面的に店則の中に−織込
まれて夫る︒当安の店則においても︑その前文に︑﹁御家臓無油断常犬身の分限を知り︑宗の治りを専に可致処
肝要也﹂と述べているが如きは︑全くこの家業意識・分限意識を店則に具現したものであり︑更に又︑さきに述
べた﹁不埼無之様﹂云大とか︑﹁身持の義は不申及万端狼敷事相慎可申候﹂云六も︑叉この分限意識の発現せる
ものと見ることが出来る︒其の外日常の作法・衣・食・住に関する店則もよくよくそれを吟味して見るならば︑
︑
この分限意識.修身斉家の意識︑言葉を砕いていえぱ﹁身の程を知ってかくせねば淀らない﹂といった当為意識
より割出された規 定 に 外 な ら 在 い の で あ る ︒
む す び
以上近世における京都商人の経営形態における特異恋る典型として柏原家をあげ︑その店則を通じて経営の方
針と商人意識について分析を試みたわけであるが︑要するに柏原家の当主が京都に永住し友がら︑遠く離れた江
戸店︑しかも江戸十組問屋に属し︑それぞれ業種の異底った三大店を経営するといった特異な形態が︑近世封建
杜会の種戊友る障碍に連遇したがらも︑それを乗り越えて長く成立し得たのは︑全くかかる要領を得た店則が当
家に制定され︑それが完全に履行された結果に外なら底い︒換言するならぱ︑この店則が柏原家一統の主従関係
1八五
︵六三一︶
の中軸となり︑恩愛・忠節・奉公の封建意識を長く持続せしめていた結果であるといっても過言では在い︒
近世京都商人の商業経蛍について︵足立︶