1601~1700頁 - あなたとは誰か? 何故ここに居るのか? この世界とは

「Alikuja hapa kwa ajili ya biashara ya kahawa. Wapi Mama Yuko?」
(コーヒーの取引に来たようだ。ママユウコはどこにいらっしゃいます
か?)
女性が応えた。
「Mama Yuko hakuwa na kuwa hapa leo.」
(ママユウコは今日はここ
には見えてない)
兵士が康介に向かって言った。
「Mtu kuwajibika si hapa.」
(責任者は留守だ)
康介は尋ねた。
「Ni Mheshimiwa Barack hapa?」
(バラックさんはいらっしゃいませ
んか?)
「Barack si hapa. Mama Yuko ni mwakilishi. Yeye hakuwa na kuwa
hapa leo pia.」
(バラックは居ない。ママユウコが総責任者だ。だが、
ママユウコも今は居ない)
ふたりはそれ以上深入りをする訳にはいかなかった。諦めて帰ろうとし
たときに一人の女性が声を掛けた。マリゼだった。
「あなたたち・・ Kijapani, si wewe. Unatafuta Mama Yuko, si wewe?」
(あなた達は日本人でしょう。ママユウコを探しているんじゃないの?)
康介が応えた。
「Ndiyo, sisi ni Jpanese. Jina langu ni Kashima. Yeye ni Uchimi.
Tunataka kujadili kuhusu biashara ya kahawa pia.」
(はい、そうで
す。わたしは鹿島、こちらは内観と申します。でもコーヒーの取引もお
願いしたいのです)
「Hataki kukutana na Kijapani.」
(彼女は日本人にはお会いにならな
いわ)
「Kwa nini?」
(どうしてですか?)
「Yeye ni Mungu ambaye amekuja kwa Ruwanda kutoka Japan na
kuokoa watu. Yeye si Kijapani sasa. Yeye hutuongoza.」
(あの方はわ
たし達を救うために日本から、ルワンダにやって来た神様なの。もう日
本人じゃないわ。あの方がわたし達を導いてくださっているのよ)
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横に居た女性がマリゼを突付いた。余計なことを喋るなとでも云う仕草
だった。康介は言った。
「Tunataka kukutana na Mama Yuko kwa njia zote. Na, Sisi nataka
kujadili juu ya biashara na yake.」
(ママユウコに是非会いたい。そし
て、取引の話をしたい)
それに対しては誰も応えなかった。兵士がふたりにこの場所を出るよう
に促した。ふたりは礼を言うと部屋から出た。建物の入り口とは反対側
の先は広い空間になっているようだった。鹿島が兵士に向かって言った。
「Chumba mwishoni ni hospitali?」
(この奥は病院ですか?)
「Ndiyo.」
(そうだ)
「Naweza kuona huko?」
(拝見させていただけますか?)
「Nataka kwenda kwa ofisi ya kuuliza hivyo.」
(事務所で聞いて来る)
兵士は直ぐにマリゼを連れて戻って来た。マリゼは黙って先頭に立って
病室に向かった。賢は驚いた。そこはまるで野戦病院の看護病棟のよう
だった。およそ50人ほどの患者が所狭しと床に就いていて、看護婦達
が負傷者の世話をしていた。賢はまた、即座にすべての看護婦を確認し
た。6人の看護婦が居たが、やはり東洋人は一人も居なかった。多くの
患者は、まだ包帯に血の跡が付いていた。賢はその光景を頭に焼き付け
た。マリゼに礼を言うとふたりは兵士に附いて車に戻った。車に乗り込
むと、亜希子が言った。
「祐子お姉さまはいらっしゃいませんでしたか?」
賢は頭を横に振った。兵士に礼を言うと康介は直ぐに車を発進させた。
帰りの車の中で賢は今見てきた光景を3人に説明した。梓が言った。
「それじゃ、ママユウコが祐子さんかどうかまだ分からなかったのです
ね。
」
「でも、看護婦と思われる女性が、
「ママユウコはルワンダを助けるた
めに、日本から来た神様だ」って言っていた。だから、祐子である可能
性が高いと思う」
「祐子という名前は普通にある名前だから、まだ、そうかどうか分から
ないわ」
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梓の慎重な言葉に対して亜希子が言った。
「いいえ、きっとママユウコは祐子お姉さまですわ。わたくしには分か
ります。神様のような方は滅多にいらっしゃらないわ。誘拐船でも、皆
が祐子お姉さまのことを神様だとおっしゃっていたでしょう。祐子お姉
さまに間違いないわ」
道の状態がかなり悪くなってきている。ガタガタと揺られながら賢が言
った。
「もしそうだとしても、会うのは至難の業だ。ママユウコは日本人には
会わないと言っているらしい。なぜだ! 理由が分からない」
自動車のエンジン音と、ガタガタ揺れる音のなかで、賢の言葉は空しく
響いた。亜希子は黙ってしまった。そして暫くしてから独り言のように
ぽつりと言った。
「何か訳があるのですわ。あのお優しい祐子お姉さまが、わたくしたち
に会うのを拒むはずはありませんもの」
亜希子の声も騒音の中に埋もれてしまった。
その日はホテルで食事をした。鹿島は食事が済むと直ぐに、ブチ族の友
人に連絡を取ると言ってアパートに帰った。亜希子の意識は不安定にな
っていた。
「わたくしはずっと、人のために生きたいと思っていました。今もそう
思っています。でも、どうしたら人のために働けるのか分かりませんで
した。今日、沢山の人の遺体を見ました。苦痛の中に命を失った人たち、
その人たちを前にしても、わたくしは「愛している」と言うのが精一杯
でした。なのに、祐子お姉さまは、ご自分が苦境の真ん中にいらっしゃ
っても、ご自分のことを省みることなく、人びとのために生きていらっ
しゃいます。祐子お姉さまは、よく、
「わたしには人を助けることなん
てできない」とおっしゃっていました。なのに、大勢の人たちをお救い
になられています。一番愛していた方にお会いになることも拒否して、
ルワンダの人たちの為に、いいえ、苦しんでいる人々のために生きてお
られます。わたくしはどうしたらよろしいのでしょうか?」
梓が言った。
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「それは亜希子さんだけじゃないわ。わたくしたち、皆がそうよ。もし、
あのママユウコが祐子さんだとしたら、わたくしは自分の生き方が恥ず
かしくなります」
愛子も言った。
「祐子さんて、すごい方だったんですね。賢パパのことをすごく愛して
いて、ただ賢パパを頼るだけの方だと思っていたのに、全然違ったんで
すね。わたし、びっくり」
「皆、祐子から金色の光が出ているのを知らないだろう。凄い光なんだ。
目が開いていられないこともあるんだ。金色は慈悲の色だ。祐子の意識
の底には慈悲のエネルギーが溢れているんだよ。心臓の辺りにあるアナ
ハタチャクラが完全に開いているんだろう。僕らに真似のできないよう
な、人の苦しみを感じ、救い出すことができるものすごい力を持ってい
るんだと思う」
「ママユウコとおっしゃる方は祐子お姉さまに間違いありません」
5人はキガリのホテルに戻った。まだ4時を少し廻った頃だったので、
全員が一旦賢の部屋に集まり、翌日の相談をすることになった。
賢が亜希子を観て言った。
「亜希子、顔色が良くないが、どこか具合が悪いのか?」
「いいえ、わたくしはあの遺体を見てから、体の震えが止まりません。
体中に悲しみが広がったような感覚がしています。それに、祐子お姉さ
まにもお会いできませんでしたし。ああ、わたくしはどうしたらいいの
でしょうか?」
「亜希子、気をしっかり持てよ。今回の出張はまだ始まったばかりだ。
これからどうやって祐子を探したらいいか、考えなくてはならないから
な」
康介が言った。
「いずれにしても、先ずはママユウコが祐子さんかどうかを確かめなく
ちゃなりませんね。何かいい方法はありませんかね」
梓が言った。
「亜希子さん、透視がおできになるでしょう。試してみませんか?」
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「そうだ、亜希子、できるか?」
亜希子は了解して、透視を試みた。しかし、どうしても祐子の姿を捉え
ることはできなかった。
「駄目です。意識を集中させることができません。どうしても瞑想状態
に入れないのです」
亜希子は悲しそうに言った。焦燥感に駆られているようだったが、焦れ
ば焦るほど、瞑想から精神統一に移行するのが難しく感じられてきた。
そのとき、愛子が言った。
「賢パパ、賢パパ、見て、ボールよ、あのボール」
その言葉に、全員が愛子の指差す方向に注目した。いつの間にかボール
が康介の腰掛けている椅子の手前のテーブルの上に載っている。
「どうして、ボールがここに戻って来たんだろう?」
賢は腰掛けていたベッドの縁から立ち上がると、テーブルのところに行
ってボールを持ち上げてみた。全員立ち上がった。ボールは金色の光を
放っている。賢は掌から腕に向けて電気が流れたような痺れを感じた。
そして、意識の奥に声が響いた。
「あなた、わたしよ。分かるかしら?あなたがわたしを探しに、ここま
で来てくれたと連絡があったわ。ありがとう。とってもうれしくて、涙
が流れるわ。あなたに会いたい。今すぐにでもあなたの胸に飛び込んで
ゆきたい。そして、皆さんにもお会いしたい。でも、今はそれができな
いの。わたしはもう、以前のわたしじゃないわ。もう以前の自分には戻
れないの。わたしには自分という意識が無くなったの。ここの人たちは
悲惨よ。あのジェノサイドの後の苦しみの中に生きているの。わたしは
皆と一緒にここを天国にするの。それまで、ここで生きるわ。どうか、
わたしを探さないでね。あなたに会ったら、ここの人たちを見捨てるこ
とになってしまう。どうか、わたしを探さないで。お願い!」
賢の瞳に涙が浮かんだ。賢はテレパシーで語り掛けた。ボールが薄水色
に変化した。
「祐子、無事なんだな?お前が苦しみの中に自分自身を投げ込んで、周
りの人々を導いているのが分かった。お前がそれほどまでに言うのなら、
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もう、お前を探さない。だが、一つ教えてくれ。ママユウコというのは
お前のことか?そこで、お前が何をしているのか教えてくれ。それから、
俺たちに、何かできることは無いのか?直ぐ近くまで来ているんだ。お
前の為にできる限りのことをさせてほしい」
「あなた、ありがとう。あなた、もしできるのなら、世界中の国々に、
わたくしたちを救ってくれなくてもいいから、手を出さないでほしいと
伝えてほしいわ。ここの人たちは、今は憎しみ合っているけど、元は心
の優しい人たちだったの。いろいろな国の思惑で、この国は粉々になっ
てしまったの。今、それを元に戻そうとしているの。世界の国々に対し
て、自分たちの国の繁栄のみを願って、他国を犠牲にしないで欲しいと
伝えて欲しいの。あなたの教えてくれたように、愛に満ちた本来の意識
に立ち戻って生きるように伝えてほしいの。自我に惑わされた覇気と欲
望の心を捨てて欲しいと伝えて欲しいの。そうよ、わたしはママユウコ
と呼ばれているわ。わたしはここで看護婦の責任者をしているの。それ
と首長のサポートをしているわ。この身にブチ族の首長の子供を宿して
いるの。だから、あなたには会えないの。ごめんなさい」
賢は悲しさがこみ上げて来て、青色に変化したボールをテーブルの上に
置くと、ポケットからハンカチを出して涙を拭った。全員がじっと賢を
見つめていた。椅子から立ち上がって、一歩退いて賢の姿を見つめてい
た康介が、ふとボールに貼り付けてある紙に気がついた。ビニールの袋
を切り取ったような破片が貼り付けられていた。康介はボールを持ち上
げ、上に翳した。
「ここに、何か書いたビニールが貼り付けてある。読んでみるよ。
・・・・
「わたしは元気です。わたしはもう以前の祐子ではありません。ここの
国の人たちと生きることにしました。どうかわたしを探さないでくださ
い」
・・・・・これは、祐子さんからだ・・・・・でも、どうしてこん
なボールが・・・」
康介がボールをテーブルの上に戻すと、賢が涙を拭って言った。
「これは僕たちが祐子に送ったボールなんです。時空を超えて祐子の元
に行っていたようです。いま、祐子のメッセージを携えて戻って来たの
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でしょう」
梓が言った。
「本当のことなのですね。まるでSF映画を観ているようです」
亜希子が言った。
「あなた、祐子お姉さまと交信できたのですか?」
「うん、今話した」
「何とおっしゃっておられましたか?あなた、是非、わたくしにも教え
てください」
「うん、今鹿島さんが読んだとおりのことを言っていた。ママユウコは
やはり、祐子だった。ルワンダの人たちと一緒に生きると言っている。
だから自分を探すなと・・・・」
「どうして、どうしてなのですか?祐子お姉さま、どうしてご自分をさ
らった人たちの為に生きるとおっしゃるのですか?どうして・・・・」
亜希子は涙を流しながら叫んだ。
「祐子の意識はもう、僕たちの意識の段階にはないんだと思う。善とか
悪という基準はないんじゃないのかな。今は苦しんでいる人を救い、こ
の場をパラダイスに変えようという意思しかないように見えるよ。もう、
僕には手が出せない」
涙を流しながら亜希子が言った。
「あなた、どうして、そんなことをおっしゃるのですか?祐子お姉さま
が直ぐ近くにいらっしゃることがわかったのですから、何としてでもお
助けしたいですわ」
康介も亜希子に同調して言った。
「そうです。僕らはそのためにずっと努力してきたんです。やっと祐子
さんの所在がはっきりして、しかも、今は祐子さんがある程度自由裁量
で行動できる立場にあるのですから、このチャンスに何とか助け出すべ
きだと思うんです。今行動すれば、祐子さんを助け出せるような気がし
ます。賢さん、思い直してください」
賢は伏し目がちに下を向いて、黙ってしまった。賢は再び両手でボール
を持ち上げた。そして意識で祐子に語り掛けた。
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「祐子、聞こえるか?いま、ここには亜希子、鹿島さん、愛子、そして
田辺さんが居るんだ。みな、お前を救うために来た。皆、絶対にお前を
救い出すと言っている。それでも皆に会わないのか?」
「あなた、ごめんなさい。わたしを苦しめないで。今はこの道しかない
の。わたしも皆に会いたいわ。だけど、ルワンダの人たちを救うことの
ほうが大切なの。ごめんなさい。あなた、愛しているわ。皆のことも、
とても愛しているわ」
ボールがピンク色に変化した。賢は祐子に応えた。
「分かった。もう、会おうなんて言わない。だけど、今後もこのボール
で交信することだけは続けよう。このボールは、身に迫る危険を色や、
点滅で知らせてくれるし、相手の感情の変化を見るときに、役立てるこ
ともできる。そして、俺や亜希子との交信の時にこのボールに向かって
意識を投げかければ、相手にその意思があるときは交信することができ
る。そうだ、丁度ネットワーク・ルーターの役目をしてくれる。もう一
つ、これは大きくすることもできるし、小さくすることもできる。そう
命じれば従ってくれる。いいね。俺たちの間にはこのボールを使ったコ
ミュニケーションという手段がある。どんなときでも意識を投げ掛けて
くれ。俺はいつもお前に意識を向けているから」
「あなた、ありがとう。愛しているわ。とっても」
「おれも、愛しているよ。永遠にお前を愛している。たとえお前がどこ
に居ても関係ない。お前の使命が達成されたら、また一緒に生きよう」
「はい、あなた、待っていてね」
ボールはピンク色に変化した。賢が言った。
「今、意識で祐子とコミュニケーションを行うことができる。ボールを
持って、試してみないか?」
「はい、わたくしに試させて下さい」
亜希子が賢の横に来て、賢の差し出すボールを受け取った。亜希子は暫
くの間コミュニケーションを試みたが、祐子に繋げることはできなかっ
た。ボールがキュイーンキュイーンと音を立てた。次に愛子がやってみ
たが駄目だった。梓も、康介もどうしても通信を確立することができな
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かった。賢が言った。
「祐子の意思は変わらない。僕たちがたとえ、祐子の居るキャンプを見
つけ出せたとしても、祐子は僕たちには会わないだろう。今回は一旦、
引いたほうがいいと思うが、どうだろうか。いずれ、時期が来れば祐子
は我々の元に戻って来ると思う」
「ぼくは、祐子さんの意識は必ず変化すると思います。それまでに、ど
んなことが起きてくるか分かりませんから、僕はここで祐子さんを救い
出せる機会が訪れる日を待ち続けます。皆さんは次の目的地に向けて移
動してください」
鹿島の言葉に、賢は返す言葉が無かった。祐子が妊娠していることは口
にすることができなかった。亜希子がハンカチで涙を拭いながら言った。
「わたくしは、絶対に祐子お姉さまにお会いします。もし、祐子お姉さ
まが、一生ここで人々の為に生きるとおっしゃっていらっしゃるのでし
たら、是非祐子お姉さまからお話を伺いたいのです。人を救うために生
きる生き方をお教えいただきたいのです」
賢は亜希子が情緒的に不安定になっていると思った。
「亜希子、今は祐子をそっとしておいてやったほうがいいと思うよ。お
そらく、祐子は地獄を観てきたのだと思う。だから、僕らには無い感覚
で、この国の人たちを観ているように思う。亜希子、今回は諦めよう」
「あなた、許してください。わたくしは、暫くここに残ります。このま
ま帰りたくありません」
賢は再び、視線を落として寡黙状態になった。暫く無言の状態が続いた
が、やがて梓が口を切った。
「まだ、解決できない問題がありますが、先ずは夕食をいただきません
か?」
梓の言葉で、沈黙の雰囲気が破れた。
ホテルのレストランでも、皆あまり話さなかった。賢と康介はルワンダ
のビール プリムスを頼んだ。一杯のプリムスは祐子に会えない悲しみ
を忘れさせてくれた。亜希子が言った
「わたくしにも一杯くださいませんか?」
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賢は亜希子がアルコールに弱いことを知っていたが、何も言わずに亜希
子のグラスにプリムスを注いだ。亜希子はそれを一気に飲み干した。も
う一杯と亜希子が差し出したグラスを、賢は取り上げてしまった。亜希
子は下を向いて目に涙を一杯貯めた。
「あなた、わたくしは、気が狂ってしまいそうです。あんなに大勢の人
たちが苦しんで亡くなったのに、わたくし達はいつもおいしいものをい
ただき、きれいな服を着て、心地よい家に安らぎ、何事もないように生
きてきました。どうして、こんなに差が出来てしまったのでしょう。わ
たくしは、このままではいけないと思います。地球上で生きている人た
ちは、たかだか70億人でしょう。なのに、どうして、お互いのことを
大切に思わないのでしょう。悲しくて、どうすることもできません。あ
んなに優しい祐子お姉さまを、自分たち部族の為にさらって行った人た
ちをお許しになり、救ってあげて、そして、そこを天国に変えようとさ
れている、祐子お姉さまは神様です。それなのに、わたくしは、何もで
きないで、ただ、くよくよしたり、悲しんだりしているだけ。何と情け
ないことでしょう。わたくしはここに残って、祐子お姉さまのお手伝い
をさせていただきたいわ。あなた、いいえ、鹿島さん、わたくしをここ
に住めるようにさせて頂けませんか?どこかに住める場所はありませ
んか?わたくしは祐子お姉さまを助けて、一緒に、苦しんでいる人たち
をお救いしたいのです。だけど、あなた、あなたから離れて暮らすこと
はできません。あなたは、出張を終えたら、日本に戻られます。わたく
しはどうしたらよろしいのでしょうか?あなた、教えてください」
亜希子は顔を下に向け、目に溜めた涙を拭いもせずに、呟くように話し
た。薄黄緑色のブラウスからすっと出ている白い腕に赤みが差してきて
いる。賢が亜希子を元気付けようとして言った。
「亜希子、君は心が純粋なんだ。だから、そんな風に苦しむんだ。自分
の意識に忠実になって判断したらいいと思うよ。意識は誤った道を示し
たりはしないからね」
亜希子は黙って頷いた。しかし、そのまま目を閉じて項垂れている様子
は、梓や愛子に少し酔っているような印象を与えた。亜希子の頬を涙が
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伝わって流れた。食事を終えると、4人は康介とフロントのロビーで別
れた。亜希子がおぼつかない足取りで部屋に向かう階段を上りながら、
自分の後を辿るように附いて昇って来る賢に、振り返って言った。
「あなた、今日はあなたとお話ししたいです。お願いですから、一緒の
お部屋に休ませていただけませんか?」
賢は、梓と愛子の方を見た。二人とも頷いた。亜希子が苦しんでいる様
子が分かったようである。
「分かった。じゃ、梓と僕が入れ替わろう。今日だけ特別にね」
「ありがとうございます。わたくしはまだ、どうしたらよいのか分から
ないのです。今晩、あなたに相談に乗っていただいて、自分としての結
論を出します」
「うん、分かった。大切なことだからね。思っていることを全部吐き出
したほうがいい」
3階の部屋に着くと賢は梓が来るのを待った。賢は愛子が心配だったが、
愛子はけろりとしていて、不安そうな様子はなかった。梓がスーツケー
スを引いてやって来た。賢は交代に自分のスーツケースを持って部屋を
出た。扉を閉める前に、賢は梓に、
「愛子のこと、よろしく頼むな」
と言った。梓はにっこり笑った。
「リーダー、大丈夫ですよ、隣の部屋ですから。何かあったら、直ぐに
電話します。それより亜希子さんが心配です。リーダー、彼女の心の葛
藤を取り除いてあげてください。彼女は心が純粋すぎるのよ」
「うん、僕は祐子より、亜希子の方が心配なくらいだ」
賢が亜希子の部屋に入ると、亜希子はベッドにうつ伏せになって泣いて
いた。外は夕日が差し込んでいて、壁に映った窓のシルエットが、肌寒
さを感じる部屋の空気にぬくもりを与えている。ここが赤道の近くだと
はとても思えない。賢が亜希子に近づいて肩にそっと手を掛けると、亜
希子はゆっくり起き上がって賢の顔を見つめた。
「あなた、ごめんなさい」
「いいんだよ。亜希子、悲しかったら思い切り泣けよ」
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左手の甲で涙を拭ってから、亜希子が言った。
「あなた、わたくしは、やはりここに残ろうと思います」
「亜希子、もう一度冷静に自分の意識を見つめてごらん。激しい衝撃を
受けて、感情が不安定になってないか、意識が感情に振り回されていな
いかどうか、よく見つめてごらん」
「あなた、今夜はわたくしを抱いて寝てください。明日の朝になっても
今の考えが変わらないようなら、わたくしはここに残ります。もし、あ
なたの愛でわたくしの想いが変わるようでしたら、わたくしは皆さんに
附いて旅を続けます」
亜希子は賢の腕の中で、朝まで天に舞う心地で居た。このまま永遠に時
間が止まってしまえばいいと思った。亜希子には明日のイメージが涌か
なかった。あの鹿児島で失踪していたときに味わった二人きりの生活の
ことを思い出し、賢の愛に抱かれて眠っている自分が、今ここで再現で
きていることに、体全体が震えるほどの喜びを感じていた。燃えるよう
な熱さが心臓から体全体に広がっていった。賢も自分が愛の権化と化し
たかのような感覚に陥っていた。亜希子への愛おしさが眉間から胸に掛
けて広がってゆくのを感じた。亜希子の体は白く輝いていた。それは博
愛のオーラの輝きだと賢は思った。翌朝は4時に目が覚めた。二人とも
一晩中意識がはっきりしていて、ゆるぎない愛で結ばれていたので、亜
希子が目を覚ますと、賢も同時に目覚めた。賢は亜希子を引き寄せて強
く抱きしめた。
「あなた、わたくしはやはりここに残ります。わたくしは失われた心を
取り戻すために、祐子お姉さまと一緒にここで生きます」
「そうか、決心は変わらなかったんだね」
「ええ、皆さんにはすまないと思いますが、どうかわたくしのわがまま
をお許しください」
「亜希子、今すぐ家に電話しなさい。ご両親にこのことを伝えなくては
いけない」
「はい。でも、多分両親からはお許しが出ないと思います」
そう言うと亜希子はベッドから降り、衣類を身につけてから、受話器を
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取って自宅に国際電話を掛けた。
「はい、藤代でございます」
「おかあさま、わたくし、亜希子です」
「亜希子さん、今どちらからなの?まだアフリカなんでしょう?」
「はい、キガリのホテルです。おかあさま、昨日お電話さしあげました
でしょう。みなさんは今日までルワンダにおられる予定です。でも、わ
たくしはずっとルワンダに居ることに致しました。どうか、わたくしの
ことはご心配にならないでください。わたくしはこちらでお亡くなりに
なった人々の鎮魂を致したいのです。大勢の方々が、あまりにも過酷な
人生を生きられてお亡くなりになり、魂も迷っておいでなのです」
「亜希子、何を言っているんですか?あなたのおっしゃることの意味が、
わたくしには全く分かりませんわよ」
「おかあさま、わたくしはもう決めてしまいました」
「亜希子、少しお待ちなさい。お父様を呼んで来ますからね」
亜希子は登紀子の声が聞こえなくなると、賢の差し出した手を握り締め
た。
「あなた、あなたの意識はいつもわたくしの側に居てくださいますわね」
「うん、いつも君の近くに居るよ」
「約束してください。絶対にわたくしを放さないって」
賢は右手で拳をつくり、小指を上げた。亜希子はその小指に自分の右手
の小指を絡めた。
「もしもし、亜希子か?わたしだ。いったい何があったと言うのだ?」
「お父様、別に変わったことはありません。ただ、わたくしは、ジェノ
サイドの被害に遭って亡くなられた人たちのミイラのようになった死
体を見ました。そして、意識でその人達の内の何人かの女性と話をしま
した。とても悲惨な出来事だったのです。亡くなられた方々は、まだ自
分がどういう状態に居るのか分からないのです」
「だから、どうしようというのだ?」
「はい、わたくしはその方々の魂の道案内をして差し上げたいと思いま
す。そして、生まれる前にあった状態に戻してあげたいのです。それが
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わたくしの今世の役割のような気がするのです。お父様、お許しくださ
い。わたくしはここに残って、亡くなられた人たちの魂を鎮めてあげた
いのです。このままでは、あの方々があまりにも哀れです」
「そうか。お前は優しい娘だから、きっとそうせずには居られないのだ
ろう。しかし、そこにそのまま居座るわけにはいかないことは分かるだ
ろう。ひとまず日本に戻りなさい。そこで、いろいろ相談しよう。もし
アフリカに住むのであれば、それなりの準備をしなくてはならない」
「おとうさま、お許しください。わたくしは日本には戻りません。ここ
で暮らします」
「何を馬鹿なことを言っているのだ。お前にそんなことをさせるわけに
はいかないし、そんなことができる訳がない。いいから、一旦日本に戻
りなさい。それから準備をすればいいのだから」
藤代肇と登紀子の会話が受話器を通して聞こえて来た。
「お前からも、亜希子を説得しなさい」
「あなた、それではどうしても亜希子は帰らないと言うのですか?」
「そうだ。どうしたというのだ。もう自分で決めてでもいるかのような
口調だ」
「あなた、わたくしが、話してみます。
・・・・・・亜希子さん、亜希
子、聞いているのね?お父様も、わたくしもとっても悲しいわ。あなた
がわたくしたちの元を去って、アパート住まいをしてしまってからは、
わたくしは悲しくて夜も眠れないのよ。まして、アフリカに住むなどと
聞いては、わたくしはもう、生きてゆけないわ。お願いだから、日本に
戻って来て。わたくしの一生のお願いよ。ねえ、亜希子さん」
「お母様、もうわたくしは決めてしまいました。許してください。わた
くしはここの人達と一緒に生きます。アフリカには祐子お姉さまもいら
っしゃるのです。わたくしはお姉さまにお会いして、一緒にここで生き
ます。許してください」
「亜希子さん、そちらに内観さんはいらっしゃらないかしら?いらっし
ゃったら、ちょっと電話に出ていただけないかしら?」
賢は漏れ聞こえる電話の声に耳を澄ませていた。亜希子が受話器を渡す
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と一呼吸置いて話し始めた。
「もしもし、電話を代わりました内観です」
「内観さん、亜希子はどうしたのでしょうか?可笑しくなってしまった
のでしょうか?」
「いいえ、亜希子さんはもともと心が純粋で、優しいお方です。わたし
も一旦日本に戻って、よく考えて判断したほうが良いと申し上げたので
すが・・・・・」
「ちょっと、主人に代わります」
「もしもし、内観君かね?」
「はい、社長、内観です」
「君は、いったい何をやっているのかね。アフリカに行った目的はドゴ
ン族の考え方を調べるためじゃないのかね」
「はい。それも目的の一つですが、もう一つ大切なことがあります。祐
子お嬢様をお探しすることです」
「それは分かっているが、どうして、亜希子がアフリカに住まなきゃな
らないのだ。それもわざわざ危険な地域に」
「わたしにも分かりません。わたしはここの国の人達がどういう意識の
変化で、あのような悲惨な殺戮を行うような結果になったのかを調べた
かったので、亜希子さんも一緒にジェノサイド・メモリアルを見学した
のです。亜希子さんはそのときに大きな衝撃を受けられたようです。そ
して、被害者の方々の魂を救いたいとお考えになられたようです」
「きみは、亜希子を守ると言わなかったか?守っていることにならない
じゃないか」
「はい、わたしの力不足です。外側から来るものからはお守りできます
が、亜希子さんの内側から来るものを防御することはできません。亜希
子さん自身の変化ですから、それは僕がどうすることもできません」
「そんな屁理屈は聞きたくない。兎に角、首に縄を掛けてでも連れ帰っ
て来てくれ。いいな、分かったか」
「社長、亜希子さんが一旦意思を固められたら、もうどうすることもで
きないことは良くご存知でしょう。強引にお連れすれば、今度はテレポ
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テーションして、こちらに来てしまいます。そうしたら、もうお探しす
ることもできません。それでもよろしいのですか?」
「そんなことは、どうなるか分かりはしない。
・・・・なあ、内観君、
わたしは亜希子の父親だ。ただ一人になってしまった娘まで失ってしま
ったら、わたしも妻ももう、生きる望みがなくなってしまう。おねがい
だから亜希子を説得してくれ、頼む」
登紀子が電話口に出た。
「内観さん、お願いいたします。わたくしたちをお救いください。あな
たにおすがりするしかないのです・・・・・」
「・・・・分かりました。亜希子さんを日本までお連れ致します。でも、
途中でテレポテーションされてしまった時は、どうかお許しください」
「わたくしたちはお祈りしております。ありがとうございます」
再び藤代肇に代わった。
「内観君、ありがとう。亜希子のことをよろしく頼む。それから、残り
の調査も、よろしく頼むよ」
「はい、承知いたしました」
賢は亜希子の方に視線を向けたが、亜希子は首を横に振った。賢は受話
器を置いた。
「亜希子、やはり一旦日本に帰ろう。もしこのままここに残留したら、
亜希子は無駄死にしてしまうかもしれない。ここは安全ではない。いい
か、ここに戻って来る方法を考えよう。それと、君には一度僕の両親に
会ってもらいたいんだ。僕の永遠の恋人として」
「・・・・あなた、愛しています・・・・」
「ぼくも、亜希子を愛している。今も、これからもずっと・・・」
賢と亜希子は強く抱き合った。亜希子は暫くの間賢から離れようとしな
かった。
「あなた、あなたのご指示に従います」
4人はレストランで落ち合った。顔を合わすと直ぐに梓が心配そうに、
しかし、きわめて冷静な口調で言った。
「おはようございます。亜希子さん、どうなりましたか?」
1616
「おはようございます。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。
初めの予定通り、皆様とご一緒させていただきます」
愛子が言った。
「ああ、良かった。わたしたち心配してたのよ」
「ごめんなさい。もう、大丈夫ですわ」
梓は亜希子の言葉の中に、一筋の悲しみを見た。妥協したのだと思った。
4人が朝食を済ますと、康介がロビーで待っていた。
「おはようございます。今日の行動予定は?」
賢が応えた。
「鹿島さん、申し訳ありません。僕たちはここからバマコに向かいます。
今回はこれ以上祐子さんを探しません」
「あなたがたはそれでいいんですか?もしかしたら、何らかの事情があ
って、自分を探さないようにと言っているのかもしれませんよ」
「はい、そのことも考えました。でも、今回は祐子さんのメッセージを
尊重することにしました」
「そうですか。はるばるアフリカまで来たのに、残念ですね」
「はい、でも、仕方ありません」
亜希子は下を向いて、唇を噛み締めていた。
「鹿島さん、ここに1万ドルの小切手があります。いざという時に使っ
てください」
賢は朝出掛けに用意した小切手を、小バッグから取り出して康介に渡し
た。
「祐子さんが窮地に陥ったときに使わせてもらいます」
朝食後梓がフライトのコンファメーションをしてあった。ホテルのチェ
ックアウトが済むと、康介は無言で4人のスーツケースを車に乗せ、全
員が乗ったのを確認すると、キガリ国際空港に向けて車を発進させた。
空港に着いたが、その日のナイロビ行きの便はエンジントラブルで飛ば
ないとのことだった。4人はナイロビで乗り継ぎ、バマコに行く予定だ
ったが、翌日のフライトに変更せざるを得なかった。康介はほくそえん
だ。もう一日賢たちと一緒に居ることができると思った。康介が言った。
1617
「たとえママユウコに会えなくても、最近ママユウコが居る可能性の高
い場所まで行ってみましょう。ママユウコがどんなところで生きている
かを知っておいたほうがいいと思います。僕がホテルの予約とレイトナ
イトアライバルのコンファメーションを取っておきます。
」
賢は同意した。もしそれが可能なら、祐子の居る場所を観ておきたいと
思った。
そこはキヴ湖の近くのキヴエという町の外れにある岩山の影だった。辺
り一帯森林が茂り、滅多に人の近づかないような場所だった。山肌に山
羊が放牧されているのが見えた。
「この奥のはずなんです。俺も1度も来たことがないんですけど、この
奥に昨日のキャンプより少し小さいキャンプがあるはずです」
でこぼこ道をゆっくり進んでゆくと、果たしてそこには昨日行ったキャ
ンプより心持ち小さなキャンプがあった。昨日と同様5人の兵士が銃を
構えて出て来た。しかし、対応は昨日と全く異なっていた。
「Are you Japanese?」
(日本人ですか?)
兵士の中の一人が英語で聞いた。康介が応えた。
「Yes, we are. We want to meet with Mama Yuko.」
(はい、ママユウ
コにお会いしたい)
康介は最初から単刀直入に切り出した。
「Are you Ken?」
(あなたは賢さんですか?)
「Yes, this is Ken.」
(はい、これが賢です)
康介は賢を指差して応えた。
「I have a message from Mama.」
(ママからの伝言を預かっています)
そう言いながら、兵士は紙切れを康介に手渡した。そこには日本語でメ
ッセージが書かれていた。康介はそれをそのまま賢に渡した。
「みなさん:日本からはるばるいらしてくださってありがとう。でも、
わたしは皆さんにお会いできません。ですから、あなたたちのおられる
場所には居ません。もう、わたしを追わないでください。
賢さん:愛しています。あなたの元に駆けつけたいのですが、どうやら、
これがわたしの生きる道のようです。約束は守ります。必ずあなたの元
1618
に戻ります。
亜希子さん:あなたを愛しています。わたしもあなたに会いたいです。
でも、わたしを探してはいけません。あなたの進むべき道を生きてくだ
さい。これが運命なのです」
賢がメモを全員に回した。亜希子はその文章を読むと、わなわなと震え、
涙がぽたぽたと落ちた。皆沈痛な面持ちになった。康介が兵士に頼んで、
病室を見学させてもらえることになった。5人は看護婦に案内されて病
室を見学した。全員愕然とした。そこはまだ生々しい傷を負った人達が
所狭しと床に着いていて、看護婦が必死に看病している戦場の病棟だっ
た。昨日見た病室よりさらに悲惨な戦闘がごく最近にあったことは明ら
かだった。苦しくて泣いているものもあった。負傷した女性も大勢居た
が、天井から吊り下げられたカーテン1枚で女性の場所を仕切ってある
だけだった。看護婦も英語で話した。
「Many people died. Their hearts and bodies are injured seriously」
(大勢なくなりました。彼らの心も体もひどく傷ついています)
目を開けている患者たちは、5人の姿を追っていて、悲しげに語りかけ
て来るようだった。カーテン越しに視線を送って来ていた女性は、左腕
が無かった。左の額から頬に掛けて10センチ程の傷跡があり、上唇の
左側がえぐれる様に切り落とされていた。傷はやっとふさがったような
感じである。輝くようなブラウンの右頬が、傷付いた左の頬と対照的で、
その痛々しさを物語っている。一杯涙を溜めて見つめている彼女の瞳と
目が合った亜希子は、その女性のところに駆け寄った。
「 Ninyi kuteswa na maumivu.
Una machungu aliishi siku.
Natumaini kupona haraka.」
(痛かったでしょう。辛かったでしょう。
がんばってね・・・・)
「Asante sana.
Wewe ni mpole sana sawa kama Mama.」
(ありが
とう。あなたもママと同じように優しいのね)
亜希子は娘の残された右手をしっかり握り締めた。
「Lazima kamwe hutapata maumivu haya.」
(駄目よ、もうこんな酷
い目にあっては)
1619
娘が亜希子の瞳を見つめて頷いた。賢は常に意識を全方位に向けて、祐
子の姿を探した。しかし、祐子らしき影さえも捉えることはできなかっ
た。兵士に引率されて車に戻ったとき、賢は建物の端の窓のあるあたり
から、強い意識が送られてくるのを感じた。それは打ち震えるような波
動を含んでいた。
「祐子!」
賢は思わず祐子の名前を呼んでいた。強い波動は、悲しみに似た感覚を
賢の胸に湧き上がらせた。賢は意識で祐子に語り掛けた。
「祐子、どうして姿を現さない。たとえお前が以前のお前でなくても、
そんなことは構わない。お前であればいい。どうか姿を現してくれ」
応答は無かった。唯、悲しみの波動が賢の体全体を覆っていた。
「さあ、ホテルに戻りましょう」
康介が言った。全員車に乗り込んだ。そのとき先ほどの窓の方角から女
性の大きな笑い声が聞こえて来た。
「わっはっはっはっはっはっはっは・・・・・・わっはっはっはっは・・・・
えーんえーんえーん・・・・・」
祐子の声だった。亜希子が声を出して泣いた。
「えーんえーんえーん・・・・・・」
何度もしゃくり上げた。皆涙ぐんだ。康介は車を発進させた。
5人とも全く食欲を感じなかった。誰も食事をしようと言い出す者はな
かった。
ホテルのチェックインはスムーズにできた。空室が十分あるようだった。
一旦各自部屋に向かった。今度は4階の部屋だった。梓たちの部屋が階
段を上がったところから2番目、賢たちの部屋は廊下の一番先の部屋だ
った。梓は部屋に入ると直ぐ、バマコ行きの飛行機の予約に取り掛かっ
た。手続きにかなり手間が掛かった。キガリ空港から一旦ナイロビに飛
び、そこからバマコに行く工程を探った。明日はナイロビからバマコへ
の直行便は無かった。窓口に確認すると3日後だと言う。ナイジェリア
のアブジャに向かう便はあった。そこからバマコに行くにはアブジャで
1泊する必要があった。アブジャからバマコへの便はプロペラ機だった
1620
が、他に選択の余地は無かった。その他のコースはどれもドゴン族の居
住区まで4日以上掛かった。梓は賢から行程に附いて一任されていた。
梓は迷い無くアブジャ経由のコースを選択した。このコースではアブジ
ャのホテルも予約できた。予約を完了するまでに3時間掛かった。
亜希子はその間、賢の部屋に居た。愛子は一人で窓のそばにある椅子に
掛け、窓からひっそりとしたキガリの街を見つめていた。賢と亜希子は
二人で祐子へのコネクションを試みた。祐子の意識が賢たちに向いてい
ることが分かった。ボールがブルーに輝き、直ぐにコネクションが確立
した。亜希子がどうしても祐子と話したいと言った。賢は亜希子と祐子
のコミュニケーションを意識で観ることにした。
「祐子お姉さま、お分かりになりますか?今日、わたくしたちはお姉さ
まのすぐ近くまで参りました。そこにお姉さまがいらっしゃると感じま
した。どうして、お姿をお見せいただけなかったのでしょうか?わたく
しはとても悲しくて耐えられませんでした」
「亜希子さんね!? わたしはあなたたちの姿を見ていたのですよ。でも、
どうしてもわたしの姿を見せるわけにはいかないのです。そのことを受
け入れてください。あなた方がお帰りになるとき、恥ずかしながら自分
の運命の滑稽さに笑い崩れました。そして、あなたたちの元に行くこと
のできない悲しさに涙しました。でも、これがわたしの生きる道なので
すよ。ここであなたたちに会ってしまったら、わたしはルワンダの人達
を見捨てることになってしまいます。まだわたしには自我が残っていて、
時々、以前の自分に戻ろうともがくんです。だから、会えなかったので
すよ。ごめんなさいね」
「祐子お姉さま、わたくしにも祐子お姉さまのお手伝いをさせていただ
けないでしょうか?一旦日本に戻りますが、直ぐに帰って来ます。そし
て、祐子お姉さまと一緒にルワンダで生きてゆきたいのです」
「亜希子さん、あなたの気持ちは尊いと思うわ。でも、あなたにはご両
親がいらっしゃるでしょう。ご両親の元で生きること、それがあなたの
運命なのよ」
「いいえ、わたくしはもう両親と一緒に生きることはできません。苦し
1621
んでいる人々を助けるために生きます。祐子お姉さま、お願いですから、
わたくしにもお手伝いさせてください」
「分かったわ。でも、一度日本に帰ってからね。お父様やお母様とよく
相談してからになさいね」
「分かりました。わたくしは必ず戻って来ます」
「亜希子さん、ごめんなさい。もう、巡回に出なくてはならないの。お
元気でね。賢さんにもよろしく伝えてね」
賢は意識で二人の会話を聞いていた。そして、祐子にメッセージを送っ
た。
「祐子、くれぐれも自分の身体を大切にしろよ。また連絡するからな」
ボールはブリンキングを繰り返し始めた。クウィーンクウィーンと音が
してコネクションは切れた。賢はボールをゴルフボールほどの大きさに
変化させ、ポケットに入れた。
祐子はバラックに言われて、夜間の看護婦業務は行わないことにした。
しかし、床に着くまで、祐子は病人たちを廻り、病状の改善を祈ったり、
家族の話を聞いてあげたりした。比較的軽症な患者の内臓の疾患や、筋
肉、
腱などの痛みは、
祐子が患部に手をかざして 10 分ほど祈ることで、
ほとんど治癒してしまった。患者たちは知らないうちに、祐子が廻って
来るのを、首を長くして待つようになった。そんな患者たちに祐子はい
つも、
「*****」
(わたしは何もしていないのよ。すべて神様がなさって
いるのよ)
と言った。講演のある日は必ずバラックがやって来た。祐子にとっても
待ちどうしい日であった。優子が身ごもったことを知ってからのバラッ
クの祐子に対する気遣いは、傍(はた)から見ても過ぎるほどだった。
祐子はそれに対して是非を口にしなかった。バラックに対してはいつも
感謝の念を抱いていた。悪阻(つわり)も治まり、妊娠は安定期に入っ
ていた。バラックは祐子を気遣って、何度も自分の家で生活するように
1622
言った。しかし、祐子は聞き入れなかった。平和な日々が続いた。患者
の多くが退院してゆき、病室も空間にゆとりが生じてきた。ジュタも退
院できる状態になったが、身寄りも家も無かったので、祐子はバラック
に頼んでジュタを孤児院に入園させてもらうことにした。ジュタは祐子
と別れるのを寂しがったが、その一方で孤児院に行くことを楽しみにし
ていた。祐子は慰問のために、週に2回は他のキャンプを尋ねた。バラ
ックはそのことに賛成しなかった。車での移動になるので、いつ敵の襲
撃を受けるか分からないことと、妊婦がでこぼこ道を車で移動すること
に不安を抱いていた。祐子がどうしても行くと言うので、バラックは自
分の自動車に祐子専用の振動吸収シートを用意した。運転手席の真後ろ
の席のスプリングをやわらかいものに交換し、衝撃吸収シートを敷いて、
外の振動が直接伝わらないようにした。足を受ける底板の上にも衝撃吸
収素材のシートを敷き、背もたれには羽毛のクッションを当てた。車の
移動中に直接強い振動を感じることがなくなった。それを知った看護婦
や兵士たちも、当然のこととして受け止め、祐子が車に乗り降りすると
きは、必ず看護婦一人と兵士一人が祐子を補助した。祐子はこれほどま
でに自分を大切にしてくれるブチ族の人達全員が幸福になるように祈
らずにはいられなかった。15回目の講演の前の日、祐子はキヴ湖のほ
とりにあるキャンプを訪れることにしていた。バラックがそのキャンプ
に居た。その日はブチ族の結束記念日で、そこでパーティが行われるこ
とになっていて、ブチ族のリーダー的な人達が集まる予定だった。この
キャンプには他のキャンプには無い、300人ほどを収容できる大きな
ホールがあった。パーティの後、祐子がホールで「家族と愛」というタ
イトルの講演をすることになっていた。縄文時代からの日本人の家族の
あり方の是非と最近の個人主義に流れる風潮を対比し、人びとの生きる
場としての理想的な家族のあり方を話すことにしていた。バラックは祐
子の講演を楽しみにしていた。看護婦たちのうちの何人かは籤引きでキ
ヴのキャンプに行けることになった。籤に当たったものは皆、10時か
らのパーティに出席するために一張羅を着て大型のトラックで朝早く
に出掛けた。祐子は自分の患者を診回り、講演に間に合うように2時少
1623
し前にキャンプを出ることにしていた。祐子も一張羅を着た。机の上に
置いてあるボールが赤色の点滅をしていた。いつもと違い早いサイクル
での点滅だった。祐子は「ボールもわたしたちを祝福している」と思っ
た。ピピが祐子と一緒に行動することになっていた。スージは既にめか
しこんで5人の看護婦と一緒に出かけていた。マリゼは留守を担当する
ことになったが、特にうらやましがることもなかった。しかし、一緒に
残った3人の看護婦達は、籤引きで外れたことを悔しがっていた。ピピ
は本心では午前中の祝賀会に出席したかった。そこには若い兵士たちが
大勢集まるはずだった。朝から出掛ける看護婦たちの近くに行き、彼女
たちの嬉嬉とした顔を見て羨ましそうにぶつぶつ言っていた。昼になっ
て、祐子たちは昼食をとることにした。残った看護婦が少ないので、2
人ずつ順番に食事をした。祐子はピピと一緒にテーブルにスープを運ん
できて腰掛けようとした。そのとき、一人の護衛に残った兵士が駆け込
んで来た。
「*****」
(ママユウコ、大変です。キヴが襲撃を受けました。)
「*****」
(どうしたのですか?詳しく話してください。
)
祐子は意識を冷静に保つように努めて言った。兵士はわなわなと震える
声で言った。
「*****」
(パーティの最中に、クツが襲って来たのです。ほとん
ど全員やられました。)
祐子は言葉を失った。目から涙が流れ出て来た。ピピは呆然として、手
にしていたスープの器を床に落とした。器はテーブルにぶつかって砕け、
スープもろともに床に飛び散った。ピピはそのまま床にうずくまって泣
き伏した。祐子はピピの肩を優しく抱いて立ち上がらせ、椅子に腰掛け
させた。ピピは祐子の胸の中で泣き崩れた。祐子は感情の高ぶりを抑え、
意識が揺れないように努めた。声を出して泣いているピピの手を引いて
看護婦室に向かった。
「*****」
(ピピ、全員集めて、急いでね!)
ピピは涙でくしゃくしゃになった顔を縦に振った。暫くして、4人の看
護婦と5人の兵士が看護婦室に集まった。祐子は全員を前にして言った。
1624
「*****」
(皆さん、冷静になるのですよ。わたしたちはここを守
らなくてはなりません。自分の仕事をきちんと行ってください。わたし
と、一緒にキヴに行く予定だった人は、今直ぐに、できるだけの医薬品
と応急用具を持って出発しましょう。)
看護婦たちが車に、このキャンプの患者の治療に必要な薬品を除き、あ
る限りの医療具の入ったダンボール箱を積み込んだ。運転手とピピ、そ
れに兵士一人を伴って祐子は出発した。車が動き始めて暫くすると、祐
子の胸に悲しみの渦が巻き起こった。その悲しみは祐子の全身に広がっ
ていった。祐子の中に居るもうひとつの命が、祐子の悲しみに同調した
かのように打ち震えだした。祐子は、腹に手を当てて静かに擦った。嬰
児の震えは静まって来た。祐子は神に祈った。
「神よ、キヴの人たちを救いたまえ。彼らを守りたまえ。あなたー、た
すけてください。ああ、あなたー、皆を救ってください。助けに来て
ー・・・・・・」
バラックの作ってくれた特別シートのおかげで激しい振動は無かった
が、キヴはとてつもなく離れているように感じられた。長い長い時間が
経過してキヴのキャンプに付いたのは2時過ぎだった。キャンプの前に
は10台ほどのバイクが横転していて、兵士と見られる男たちが血だら
けになってバイクと離れて倒れていた。辺りには小銃が散乱している。
祐子の車が近付くと、キャンプの建物から一人の兵士がよろけながら駆
け寄って来た。その兵士も右腕から血を流している。ブラウンの肌が血
の気を失ってどす黒く見える。
「*****」
(ママユウコ、申し訳ありません。みんなを守りきれま
せんでした)
そう言うと、兵士はその場に倒れこんだ。祐子は急いで車から降りると、
兵士の肩を抱き上げた。
「*****」
(しっかりしなさい!・・・・ピピ、消毒液と包帯を取
って)
祐子は直に兵士の腕の傷を消毒し、包帯で縛り上げた。包帯は血の色に
1625
染まってきたが、少ししてその広がりも止まった。祐子は車から降りた
兵士に言った。
「*****」
(ヘラパディロー、この人を中に運んで。ピピ、わたし
たちは直に中に入りましょう)
うめき声が聞こえてきた。ピピが先導して段ボール箱を抱えながらドア
を開けた。火薬の臭いと、生臭い臭いがプーンと鼻を突いた。入り口か
ら奥に向かって歩いてゆくと、祐子は苦しみの感情に押しつぶされそう
になった。静かに深呼吸をすると思い切って奥に突き進んで行った。祐
子達の眼前に地獄絵が展開された。祐子は頭の中が真っ白になり、呼吸
が止まった。
「あなたー、助けてください。ああ、あなたー、皆を救ってください。
助けに来てー・・・・・・」
ピピは壁に向かってしゃがみこんで、嗚咽とともに吐いた。そこは血の
海だった。病人と、兵士と、看護婦、それに今朝着飾ってキガリのキャ
ンプを出て行った者たちが折り重なるようにして倒れている。まったく
動きが無い。窓ガラスが全て割れていた。どこかから「うーん、うーん」
といううなり声が聞こえる。祐子の意識には、そのうなり声も、この悲
惨な情景に添えられた瓦解の音のように響いた。祐子は呆然として血の
海を歩いた。足が滑ったが、肉体の意識がそれを正そうとするのに任せ
た。目からは涙が止め処なく流れ出た。呻き声はきれいに着飾った女性
の下敷きになっている男が発していた。女性はスージだった。
「*****」
(スージ、スージ、あなた、しっかりするのよ。スージ、
ねえ、起きて・・・・・ねえ、お願いだから、起き上がって)
体を抱き起こしたが、スージは既にこと切れていた。胸と下腹部が血で
染まっている。一張羅の黄色の服が朱色に変わっていた。
「*****」
(ああ、スージ、なんてひどいことを、スージ、ねえ、
起きて!)
祐子がスージを抱きしめようとすると、泣き叫びながら走ってきたピピ
が、祐子を押しのけてスージに縋り付いた。そして、両手でスージの肩
を揺り動かした。
1626
「*****」
(スージ、さあ、帰りましょう!さあ、早く帰らないと、
また、怖いクツが来るわ!さあ、早く目を覚ますのよ。スージ!・・・・・
だんなが仕事から帰ってくるわ。早く起きなさい!)
祐子は唸っている兵士を抱き起こした。肩を銃弾が貫通しているようだ
った。両足にも銃弾を受けた跡があった。上着が血に染まっているのは
腹部を横から打たれているからだった。祐子はピピの持っている救急具
の袋を開き、中から消毒薬と包帯を取り出した。血を拭い、急いで傷口
を消毒した。普通なら悲鳴を上げるほど傷にしみる消毒液に対して、兵
士は全く反応を示さず、ただ、
「うーん、うーん」とうめき声を発して
いるだけだった。祐子の目から流れ落ちる涙は頬をびっしょり濡らして
いる。兵士がうっすらと目を開けて、やっと聞こえる声で言った。
「*****」
(ママユウコ、ママ・・・・・・)
兵士はそのまま、祐子の腕の中でこと切れた。祐子は兵士の遺体を横た
え、ピピが泣き縋っているスージの遺体をピピからそっと離し、兵士の
横に横たえた。ピピは既に冷たくなったスージの顔を撫でながら、話し
掛けている。
「*****」
(スージ、スージ、この敵(かたき)はわたしが必ず打
つわ。必ず・・・・)
祐子はスージをその場に残して立ち上がった。ガーゼを手にすると、倒
れている一人一人の血を拭って歩いた。誰一人息をしている者は無かっ
た。惨殺死体の中を部屋の一番奥まで歩いて来ると、祐子は頭から完全
に血の気が引いた。持っていたガーゼを落とし、その場に膝から崩れお
ちた。バラックだった。マイクを手にした状態でうつぶせに倒れていた。
こめかみに銃弾を受けていた。それだけでなく、体中に数え切れないほ
ど銃弾を浴びた痕があった。祐子はバラックを仰向けにした。バラック
は口をキッと結び、苦痛に耐えているような顔をして息絶えていた。
「バラック、あなた、愛しているわ。あなた・・・・・辛かったでしょ
う。あなた・・・・・・・なんてひどいことを・・・・えーん、えーん、
えーん、えーん・・・・・」
祐子はバラックの遺体を抱きしめて泣き崩れた。
1627
祐子が指導をし、戦闘の3日後にキヴの犠牲者の部族葬を行った。各地
からブチ族の代表者が出席した。そのとき出席したブチ族の長老と思わ
れる老翁から、祐子にブチ族の母となるように依頼された。祐子の噂は
ブチ族の間では既に事実とみなされていて、バラックを失った今、バラ
ックの子供を妊っている祐子は、将来首長となる者の母であるとの説明
を受けた。12人の長老による協議の結果だとも伝えられた。祐子はブ
チ族の母となった。それまで部族のものから「ママユウコ」と呼ばれて
いた呼び名が時として「ママ」に替った。先ず初めに、祐子は仕返しを
唱える長老たちに対して、
「決して報復をしてはいけない」と釘を刺し
た。
「もし仕返しをすれば、戦争になってしまう」と言って説得した。
長老たちは唇をかみしめていたが、自分たちが選んだ種族の母の言葉に
従わざるを得なかった。祐子は兵士の前に出るときは小銃を手にした。
実際に銃を撃つことはなかったし、撃てるはずもなかったが、その姿は、
女戦士を髣髴とさせるものだった。しかし祐子は、事あるごとに、クツ
族に対する戦闘行為はできるだけ避けるように兵士たちに伝えた。自分
用に兵士の着用する制服を1着用意させ、それを身に着けた。兵士たち
の前に出るときは素肌に何重にも布を巻き付けて、胎児を守るのと同時
に、体を大きく見せる工夫をした。国際ジェノサイド条約のおかげで大
量虐殺の危険性は薄れたが、部族間の憎しみの感情はどんなに拭っても
拭い去ることのできないほど、心の奥底に薫充していて、一旦何らかの
引き金が引かれると、その感情がエスカレートして圧し留めることが難
しくなるのだった。ある晩、一人の兵士が祐子の部屋を訪れた。兵士は
祐子に伝えておきたいことがあると言った。
「*****」
(ママ、わたしはキヴで襲撃を受けたとき、戦闘の後、
逃げるクツを追って行った3人の兵士の内の一人です。わたしは哨兵の
役を任されていました。あの襲撃の前にマリーを見たのです。彼女はベ
ールを被っていましたから、直ぐには分かりませんでしたが、風でベー
ルが翻り素顔が見えたとき、確かに彼女でした)
1628
「*****」
(可笑しいわね。マリーはフランスに行っているはずな
んだけど)
「*****」
(それも、クツを追っているとき、銃を持ったクツの奴
のバイクの後ろに乗っていました。一緒に逃げていました。あれは、マ
リー以外の何者でもありません。
)
「*****」
(ありがとう、でもこのことは誰にも話してはいけませ
んよ。あなたが危ない目に合う危険性がありますから)
兵士は了解して帰った。祐子は海外に居て、自分が5歳以上年上の兵士
に命令をしていることを不思議に思った。兵士は敬礼をして帰って行っ
た。祐子は兵士達がバラックに対して敬礼をするのを一度も観たことが
なかったので、それも不思議に感じた。哨兵役の兵士が訪れて来た2日
後に、マリー・ジュベステルがキガリのキャンプにやって来た。キャン
プには他の地域から支援に駆けつけた看護婦が5人ほど働いていて、一
見、キヴでの出来事など何も無かったかのような錯覚を起こすほど平穏
な印象を与えた。襲撃から半月が経過していた。看護婦室に現れたマリ
ー・ジュベステルはそこに居たピピと3人の看護婦、護衛の2人の兵士、
そして祐子に向って、悲しそうな顔をして言った。
「*****」
(キヴのことを聞きました。クツは何とひどいことをす
るんでしょう。悲しくて、涙が流れます。直ぐに反撃に出なくてはなり
ません。クツをこのまま放置しておくわけにはいきません。バラックた
ちの敵(かたき)を討たなくては)
祐子が前に出て言った。
「*****」
(マリー、それはいけません。復讐心を起こしたら過去
のジェノサイドの再現になりかねません)
マリーは日本語で祐子にだけ分かるように話した。
「おまえ、奴隷だ、偉そうなこと言うじゃない」
祐子はスワヒリ語で応えた。
「*****」
(わたしはもう、奴隷じゃない。ブチ族の母になった。
あなたの命令は受けない。あなたもわたしに従ってもらう)
マリーは激怒した。
1629
「いつから、そんなことになったんだ。おまえ、金で買われた。わたし
許さない」
「*****」
(もう、ブチ族があなたに踊らされることはない。わた
しがブチ族を守る)
マリーは祐子に掴み掛かった。二人の護衛兵がマリーを取り押さえた。
「*****」
(この女性は、わたしたちブチ族をクツ族と戦わせよう
としている。この女性を捕らえなさい)
1人の兵士が、大声で喚きながら抵抗するマリーの両手を後ろで抑え、
もう一人の兵士が、部屋の隅にあった梱包材の縛り紐でマリーの両手を
縛り上げた。祐子が言った。
「*****」
(この女性は、クツ族の兵士をキヴに差し向けた張本人
です。許すことのできない悪人です)
マリーが大声で叫んだ。
「*****」
(お前たち、この女に騙されてはいけない。こいつは奴
隷として、インドから買って帰った女だ。娼婦だ。ブチ族の母なんかじ
ゃない。騙されるな)
ピピが走り寄ってきて、いきなりマリーの頬を平手打ちした。
「*****」
(スージを返せ。お前がスージを殺した。ここの仲間を
みんな殺した)
兵士の一人が拳を握り、思い切りマリーの頭を殴った。マリーはその場
に倒れて、床に転げた。
「*****」
(きさま、俺たちの仲間を殺しやがって、許しておけね
え)
兵士が怒鳴ると、ピピはヒステリックに、机の上にあったファイルを掴
み、倒れているマリーに投げつけた。祐子が言った。
「*****」
(皆、興奮しちゃ駄目よ。これから、この女性をどうす
るか考えましょう。わたしたちには、この女性を裁く権利は無いわ)
マリーは大声で喚いた。
「*****」
(縄を解きなさい。こんなことをしたら、あなたたちど
んなことになるか分からないわよ)
1630
支援に来た二人の看護婦が不安そうな顔をした。祐子が言った。
「*****」
(マリー、あなたが反省し、もう二度とこんな真似はし
ないと誓わない限り、あなたは開放されないわ)
祐子の命令でマリー・ジュベステルはトイレの横にある柱に括り付けら
れた。そこは苦しんでいる傷病人の姿が手に取るように見える場所だっ
た。祐子はマリーが反省するまで、食事と水だけを与え、着替えること
もトイレに行くことも許してはならないと全員に命令した。そして、マ
リーに対して暴力的な行為をすることは一切禁じた。翌日の昼頃、マリ
ーは失禁した。そして、土の床の冷えからか、下痢の排便をもらした。
それでもマリーは降参しなかった。マリーの周辺は悪臭が漂い、トイレ
に行くときにそこを通るものたちの感情は、マリーに対する憎悪から、
汚物の異臭に対する嫌悪の感情に変化していった。最初は大声で喚いて
いたマリーも終に諦めた。最初の日は食事も拒否していたが、失禁をし
た頃から、祐子から給仕役を命じられた食堂の女性がスプーンで掬って
口に持ってきた食事を食べるようになった。2日間祐子は直接マリーの
前に姿を見せることはしなかった。しかし、マリーは病室で病人を看病
している祐子の姿をいやというほど目の当たりにすることになった。傷
病人の苦しんでいる姿と、祐子に対する憎しみの感情が交錯して、マリ
ーは初めの2日間は半狂乱の状態にあった。3日目にマリーは給仕役の
女性を通して、祐子に話をしたいと言って来た。祐子は応じなかった。
給仕役の女性はマリーの周りがあまりにも臭いので、何とかならないか
と祐子に言った。祐子は、
「我慢してね」と応えた。4日目の夕方、ピ
ピが祐子の部屋にやって来た。祐子の部屋の中ではピピと祐子は友達同
士のままだった。
「*****」
(ママユウコ、マリーをどうするつもりなの?)
「*****」
(許すつもりよ。その前に反省してもらっているの)
「*****」
(あんな悪い女は反省しないわよ)
「*****」
(今はね。だけど、きっと気が附くわよ)
「*****」
(どうやって気づかせるの?)
「*****」
(あなたよ。あなたが、マリーを救ってあげるの)
1631
「*****」
(そんなの、無理よ。あんな悪い女)
「*****」
(いいわね、明日、朝早くにね、あなたはマリーの所に、
洗面器にお湯を入れ、タオルと下着を持ってゆくのよ。まず、マリーの
汚物の始末をして、きれいにするの。そして、マリーの下着を替えてあ
げるのよ。スカートの汚れも忘れずに落としてね。その後で、消臭用の
スプレーを廻りに掛けるの。誰もいないときにやるのよ。一言も喋っち
ゃ駄目よ)
「*****」
(わたし、できない。そんなこと)
「*****」
(ピピ、これは皆のためよ。わたしを信じて)
「*****」
(・・・・分かったわ。やってみる)
翌日の7時頃ピピが祐子の部屋にやって来た。
「*****」
(ママユウコ、やりました。マリーは涙を流していまし
た。わたしはスージや仲間のことを思い出して、涙が止まりませんでし
た。でも、必死にやりました)
「*****」
(ありがとう。それでいいわ)
祐子はピピを抱きしめた。ピピが食事を摂るために戻ってゆくと、暫く
して、給仕役の女性が祐子の部屋にやって来た。
「*****」
(ママ、マリーの周りがきれいになっていて、びっくり
しました。それに、マリーがわたくしの与える食事を口にするとき、泣
いていました)
昼食が済んで、祐子が部屋に戻ると、給仕役の女性が再びやって来た。
「*****」
(ママ、マリーが涙を流して言いました。自分が悪かっ
た。一度ママにお会いしたいって)
給仕役の女性が戻ってゆくと、祐子はナイフを手にして部屋から出た。
マリー・ジュベステルは目に涙を一杯溜めて祐子を見上げた。祐子は言
った。
「辛かったでしょう。もういいわ。わたしの部屋に行きましょう。そこ
でシャワーを浴びて、わたしの洋服に着替えたらいいわ」
「*****」
祐子はマリーを縛っている縛り紐を切った。マリーは一人では立ち上が
1632
れなかった。祐子がマリーに手を貸して立たせた。祐子はマリーの脇を
抱えるようにして、自分の部屋に連れて行った。二人は言葉を交わさな
かった。マリーは祐子の言うようにシャワーを浴び、祐子の差し出した
一張羅に着替えた。
「マリー、自由にしてあげます。どこに行ってもいいわよ」
「祐子、許して。わたくしが悪かった。苦しんでいる人達を見て、やっ
と気が附いた。わたし、悪いことしてしまった。わたしは死ぬ。お詫び
する」
「マリー、あなたは気が附いたのよ。死んではいけない。今度は二つの
種族を仲良くさせるために働いてください」
マリーは祐子の手を取ると、まるでナイトのように片膝を附いて、祐子
の手にキスをした。
「わたし、あなたのため、残りの人生、捧げます」
マリー・ジュベステルは去った。暫くして、ピピと兵士が大慌てで祐子
の部屋に飛び込んで来た。マリーが逃げたと喚いている。祐子はマリー
を許したことを説明した。そして、
「マリーは罪を償うために、我々の
ために働くはずだ」と言った。ピピたちは納得がいかないといった顔を
していたが、祐子の確信に満ちた態度に圧されて、引き下がった。その
日の午後、祐子は看護婦と、兵士を集めて講演を行った。タイトルは「愛
と許し」だった。
翌日、祐子はピピを連れてキヴに向かった。意識に悲しみの波が押し寄
せてきて、今にも押しつぶされそうだった。しかし種族葬後の復興のた
めにはやらなくてはならないことだった。あの襲撃の後で、キヴの病棟
には各地の傷病者が移動して来ていた。もともと、ここに居た病人は、
襲撃でほとんど殺されてしまった。キヴに着くと、祐子は津波のように
押し寄せてくる慟哭する感情を飲み込んで、傷病人を見舞った。皆、マ
マユウコに会えることで胸をときめかせていた。どの病人も祐子が手を
握ると涙を流した。祐子は自己をむなしくしエネルギーのパイプ役に徹
することを意識した。午後、祐子はバラックが使っていた部屋で休むこ
とにした。部屋に入ってドアを閉めると、それまで抑えていた激しい悲
1633
しみが襲ってきて、嗚咽を押しとどめることができなかった。祐子は泣
いた。ベッドに凭れるようにうつぶせて泣いた。涙にかすむベッドの脇
にバラックが姿を現し、自分を抱き起そうとしているように感じた。バ
ラックは優しい声で囁いた。
「I love you, Yuko. I never forget you for all eternity. Live this life
strongly for all people and our son.」(君を愛しているよ、祐子。君を
永遠に忘れない。この生を人々と我々の息子のために強く生きろ)
バラックの愛に触れ、祐子は感情の落ち着きを取り戻してきた。
少しするとドアをノックする音がした。祐子は涙を悟られないように、
毅然とした態度でドアを開けた。一人の兵士が立っていた。キガリのキ
ャンプに祐子を訪ねて日本人が来たと言った。UTIMIとKASHI
MAという男性2人と3名の女性だと言った。祐子は眩暈がして倒れそ
うになった。もう、彼らの前に姿を現すことはできない。自分は身重の
体になっている。祐子は詳細について訪ねることはしなかった。兵士は
コーヒービジネスの話だと言った。祐子は留守を装うことにした。兵士
が去ると、祐子はあの不思議なボールをポケットから出して机の上に置
いた。ボールはゆっくりと元の大きさに戻っていった。祐子はこのボー
ルが賢たちとのコミュニケーションに使えることに気づいていた。ボー
ルの上のシールを剥がして、ビニールの切片を貼り付け、そこにメッセ
ージを書き込んだ。
「わたしは元気です。わたしはもう以前の祐子ではありません。ここの
国の人たちと生きることにしました。どうかわたしを探さないでくださ
い」
祐子がトイレに行き、戻ってから机の上を見ると、いつの間にかボール
は消えていた。
翌日は湖のほとりに埋葬した犠牲者の墓に参った。新たな悲しみが襲っ
てきた。バラックの墓では1時間ほど黙想を行った。その日の晩、祐子
が夕食を済まして部屋に戻ると、頭の中に懐かしい感情が蘇ってきた。
祐子は賢が近くに居ることを意識した。賢に話し掛けてみることにした。
「あなた、わたしよ。分かるかしら?あなたがわたしを探しに、ここま
1634
で来てくれたと連絡があったわ。ありがとう。とってもうれしくて、涙
が流れるわ。あなたに会いたい。今すぐにでもあなたの胸に飛び込んで
ゆきたい。そして、皆さんにもお会いしたい。でも、今はそれができな
いの。わたしはもう、以前のわたしじゃないわ。もう以前の自分には戻
れないの。わたしには自分という意識が無くなったの。ここの人たちは
悲惨よ。あのジェノサイドの後の苦しみの中に生きているの。わたしは
皆と一緒にここを天国にするの。それまで、ここで生きるわ。どうか、
わたしを探さないでね。あなたに会ったら、ここの人たちを見捨てるこ
とになってしまう。どうか、わたしを探さないで。お願い!」
賢の声が頭に響いて来る。
「祐子、無事なんだな?お前が苦しみの中に自分自身を投げ込んで、周
りの人々を導いているのが分かった。お前がそれほどまでに言うのなら、
もう、お前を探さない。だが、一つ教えてくれ。ママユウコというのは
お前のことか?そこで、お前が何をしているのか教えてくれ。それから、
俺たちに、何かできることは無いのか?直ぐ近くまで来ているんだ。お
前の為にできる限りのことをさせてほしい」
祐子はこみ上げてくる涙を堪えて、応えた。
「あなた、ありがとう。あなた、もしできるのなら、世界中の国々に、
わたくしたちを救ってくれなくてもいいから、手を出さないでほしいと
伝えてほしいわ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうよ、
わたしはママユウコと呼ばれているわ。わたしはここで看護婦の責任者
をしているの。それと首長のサポートをしているわ。この身にブチ族の
首長の子供を宿しているの。だから、あなたには会えないの。ごめんな
さい」
祐子は心が打ち震えるのを覚えた。それから暫くして再び祐子の頭に賢
の声が響いた。
「祐子、聞こえるか?いま、ここには亜希子、鹿島さん、愛子、そして
田辺さんが居るんだ。みな、お前を救うために来た。皆、絶対にお前を
救い出すと言っている。それでも皆に会わないのか?」
祐子の胸は今にも張り裂けそうだった。
1635
「あなた、ごめんなさい。わたくしを苦しめないで。今はこの道しかな
いの。わたしも皆に会いたいわ。だけど、ルワンダの人たちを救うこと
のほうが大切なの。ごめんなさい。あなた、愛しているわ。皆のことも
とても愛しているわ」
直ぐに賢から応答が返ってきた。
「分かった。もう、会おうなんて言わない。だけど、今後もこのボール
で交信することだけは続けよう。
・・・・・・・・・・・・・・どんな
ときでも意識を投げ掛けてくれ。俺はいつもお前に意識を向けているか
ら」
祐子は襲撃のあった日の朝、ボールが赤色に速い点滅を繰り返していた
のを思い出した。あの時は自分たちを祝福していると思ったが、実は危
険が迫っていることを知らせていたのだということを知った。
「あなた、ありがとう。愛しているわ。とっても」
「おれも、愛しているよ。永遠にお前を愛している。たとえお前がどこ
に居て、何をしていても、どんな風に変わっていても関係ない。お前の
使命が達成されたら、また一緒に生きよう」
「はい、あなた、待っていてね」
祐子は堪えきれずに溢れ出てきた涙を右手で拭った。
祐子はその翌日もキヴで患者を看護し、兵士を鼓舞し、看護婦達を助け
た。午後になって祐子が部屋で休んでいると、兵士がやって来て、
「日
本人がコーヒービジネスの話をしたいと言って来ている」と言った。祐
子は窓から、外を覗いてみた。体に熱い血が流れるのが分かった。賢と
亜希子そして愛子と鹿島の姿があった。祐子の目から涙が零れた。直ぐ
に賢の胸に飛び込みたいと思った。しかし、祐子は耐えた。祐子は1枚
の紙にメッセージを書いた。
「みなさん:日本からはるばるいらしてくださってありがとう。でも、
わたしは皆さんにお会いできません。ですから、あなたたちのおられる
場所には居ません。もう、わたしを追わないでください。
賢さん:愛しています。あなたの元に駆けつけたいのですが、どうやら、
これがわたしの生きる道のようです。約束は守ります。必ずあなたの元
1636
に戻ります。
亜希子さん:あなたを愛しています。わたしもあなたに会いたいです。
でも、わたしを探してはいけません。あなたの進むべき道を生きてくだ
さい。これが運命なのです」
祐子はドアのところに待っている兵士に
「*****」
(会うことは出来ないと応えて欲しい)
と言って、メッセージを書いた紙を手渡した。
賢たちが車に乗り込んだ。祐子は自分の運命の滑稽さに急に可笑しさが
こみ上げてきた。
「わっはっはっはっはっはっはっは・・・・・・わっはっはっはっは・・・・
えーんえーんえーん・・・・・」
笑っているうちに、体中の細胞が再び悲しみの感情に打ち震えだした。
「えーんえーんえーん・・・・・・」
押しとどめることができず、悲しさが堰を切って溢れ出した。
賢たちが去ってしまうと、会うことができたのに、なぜ会わなかったの
かと、自分を責める想いがこみ上げてきた。しかし、祐子はその想いを
沈黙させた。涙を押し殺して傷病人を看護し、看護婦たちを激励し、兵
士の報告を受けてから夕食を済ました。部屋に戻ると頭の中に懐かしい
声が響いた。亜希子の声だった。
「祐子お姉さま、お分かりになりますか?今日、わたくしたちはお姉さ
まのすぐ近くまで参りました。そこにお姉さまがいらっしゃると感じま
した。どうして、お姿をお見せいただけなかったのでしょうか?わたく
しはとても悲しくて耐えられませんでした」
祐子は心の中で亜希子に話し掛けた。
「亜希子さんね!? わたしはあなたたちの姿を見ていたのですよ。でも、
どうしてもわたしの姿を見せるわけにはいかないのです。そのことを受
け入れてください。あなた方がお帰りになるとき、恥ずかしながら自分
の運命の滑稽さに笑い崩れました。そして、あなたたちの元に行くこと
のできない悲しさに涙しました。でも、これがわたしの生きる道なので
すよ。ここであなたたちに会ってしまったら、わたしはルワンダの人達
1637
を見捨てることになってしまいます。まだわたしには自我が残っていて、
時々、以前の自分に戻ろうともがくんです。だから、会えなかったので
すよ。ごめんなさいね」
「祐子お姉さま、わたくしにも祐子お姉さまのお手伝いをさせていただ
けないでしょうか?一旦日本に戻りますが、直ぐに帰って来ます。そし
て、祐子お姉さまと一緒にルワンダで生きてゆきたいのです」
「亜希子さん、あなたの気持ちは尊いと思うわ。でも、あなたにはご両
親がいらっしゃるでしょう。ご両親の元で生きること、それがあなたの
運命なのよ」
「いいえ、わたくしはもう両親と一緒に生きることはできません。苦し
んでいる人々を助けるために生きます。祐子お姉さま、お願いですから、
わたくしにもお手伝いさせてください」
「分かったわ。でも、一度日本に帰ってからね。お父様やお母様とよく
相談してからになさいね」
「分かりました。わたくしは必ず戻って来ます」
「亜希子さん、ごめんなさい。もう、巡回に出なくてはならないの。お
元気でね。賢さんにもよろしく伝えてね」
賢からのメッセージが送られてきた。
「祐子、くれぐれも自分の身体を大切にしろよ。また連絡するからな」
祐子は溢れる涙を右手で拭った。
バマコ
賢たち一行がアブジャの空港に着いたのは昼過ぎだった。飛行機を降り
ると熱気が体を包んだ。湿度が高いようだ。4人は覚悟していたが、蚊
除けのための長袖と長ズボンでは暑さが堪えた。アブジャ空港は、こじ
んまりとした空港で、キガリと同じように、やはり首都という感じがし
ない。どこも清掃されていて4人は心地よい印象を受けた。空港から表
に出て、走って来たミニバンのタクシーを捕まえてチャーターした。タ
クシーは旧式の日本車のライトバンだった。運転手はこれまで出会った
1638
黒人の中では最も背の低い、目のギョロっとした男で、口ひげを生やし
ている。行き先のホテルの名前を言うと、運転手は黙って頷いた。賢が
運転手を手伝ってタクシーに荷物を載せ助手席に乗り込むと、運転手は
全員が乗ったのを確認もせずに車をスタートさせた。最後に乗り込んだ
梓がドアを閉める前に車は動き始めていた。賢が「Be careful!」と言っ
た。運転手は賢の方を向いてにやりと笑っただけだった。空港から幹線
道路に向かう道路には街灯が整然と整備されていて、空港へのアプロー
チの道路はきちんと体裁を保っている。建物もちらほらと見えるが、意
外に形が整っているように見えた。4人はほっとした。10分ほど走る
と一般道に入った。路面は整っている。交差点には信号も設置されてい
て、住宅も乱立していない。キガリよりずっと安心できると賢は思った。
車は街から外れて郊外に向かい始めた。梓がホテルの位置を確認してあ
ったので、その方向が可笑しいことに気付いた。梓はさも普通の会話を
しているかのような口調で日本語で賢に言った。
「こちらの道は可笑しいですね。賢さん、警戒したほうがいいですね」
賢も普通の会話を装って応えた。
「そうですね。危なそうだから、僕が合図をしたら、僕の横の人の頭を
後ろから思い切り殴ってください」
「わかりました」
「それから、伏せるように言ったら、3人とも体が外から見えないよう
に伏せるんですよ、ははは・・・・・」
賢は運転手に気付かれないように平静を装いながら、外の気配と運転手
の挙動に意識を集中した。5分ほどすると、案の定、車は遠方に立って
いる3人の男達の方向に向けて突き進んで行った。立っている男達は、
覆面をしている。運転手が右手で何かを掴んだ。賢はそれが拳銃である
ことを知った。賢は運転手が拳銃を持ち上げると同時に
「今だ」
と叫んだ。梓が運転手の後頭部を思い切り殴った。運転手は「ぎゃっ」
と悲鳴をあげると、前に突き出されて、拳銃を手から放した。その隙に
賢は運転手の体をドアに押し付けた。運転手はハンドルを離し、ブレー
1639
キを踏んだ。車は道路の縁を擦るようにして急停車した。3人の男の居
る場所まで100メートル程だ。前方から男たちが駆け出して来た。梓
がもう一度運転手の後頭部を殴った。
「ううっ」
賢は運転手の方に身を投げ出し、右手を伸ばして運転手側のドアを開け
ると、運転手を外に押し出した。運転手が大声で喚きながら外に転げ出
た。そのとき拳銃も一緒にドアの外に落ちてしまった。ほとんど同時に
賢は自分が運転台に移り、ドアを閉めた。そのままハンドルを握り、車
を走らせた。狭い一本道なので、ユーターンはできない。賢は3人の男
の走って来る方向に向けて思い切りアクセルを踏み込んだ。車は猛スピ
ードで3人の男達めがけて突き進んだ。男たちは事態が変わったことに
気付き、飛び退いて車を避けると、走り来る車に向けて拳銃を構えた。
賢は叫んだ。
「全員体を伏せろ」
男たちの横を通過するとき「パンパン」という拳銃の音がしたが、車に
は当たらなかったようだ。賢は暫く車を飛ばしてから、横道に入った。
「賢さん、格好よかったですよ」
梓が言った。
「強盗だな。梓、君のおかげだ。何とかホテルを捜さなくては」
不案内の道を街に戻るのは一苦労だった。初めの内、亜希子と愛子は震
えていたが、梓がホテルの建物の説明をすると、二人も必死になって建
物を探し始めた。愛子が遠方に微かに見えるビルの影を捉えた。やがて
影は2つ、3つと増え、それが街であることが分かった。ホテルにチェ
ックインできたのは5時過ぎだった。中に入ると、暑さから解放されて、
生きた心地が蘇ってきた。4人は大きく息を吐いて、深呼吸をした。賢
は強盗の復讐を警戒したが、車はむしろ意識的に目立つ場所に停めた方
が安全だと判断した。ホテルのフロントに強盗に出くわしたことを説明
したが、
「I’m sorry, we couldn’t be involved in it.」(すみません、我々はその
ことには関与できません)
1640
とすげなく言われてしまった。4人は先ず、チェックインした。一旦部
屋に入ってから賢と梓はフロントに戻った。梓が警察に連絡して欲しい
と要求した。フロント係はあまり気乗りがしない様だったが、梓と賢の
執拗な依頼に折れて、しぶしぶ警察に電話を入れた。それから10分ほ
どで警察がやって来た。梓がフロント係の通訳を介して、英語で事情を
説明した。警察官は賢と梓のパスポートを調べ、駐車してあるライトバ
ンのナンバーをチェックした。銃撃を受けたとき、賢たちは銃弾がどこ
にも当たらなかったと思っていたが、車体の後部に弾痕があった。警察
はそれも手帳に記録していた。同行した警察官の一人は英語で「How to
contact with POLICE」
(警察への通報方法)というタイトルと電話番
号の書かれた名詞サイズの紙を賢に渡すと、ライトバンを押収し、自ら
運転して持ち帰った。
「これで、強盗もそう簡単に復讐できなくなったわ」
梓が言った。賢もその通りだと思った。ふたりは握手を交わしながら、
顔を見合わせて微笑んだ。ふたりは直ぐに部屋に戻った。亜希子も賢の
部屋に居た。4人で今後の計画に附いて話し合った。ドゴン族を訪問し
た後、ケルトの調査に行くかどうかがポイントだった。梓は、ケルトと
MIプロジェクトの関連性が今ひとつはっきりしないと言った。賢もそ
のことは心の隅に引っ掛かっていた。
「確かにケルト人は獰猛で戦を好
む人種だったと謂われている。戦場においては死を恐れることはなかっ
た。首刈りなどのおぞましい一面も持っている。ドルイド僧は神に人身
御供を捧げるという習慣さえあったと聞く。人間の意識を変革し、心の
平安を得ようとするMIプロジェクトの目的とするところと対峙する
部分も多い」と思った。キガリでの日程がオーバーしていたこともあり、
結局ケルトの調査は取り止めにして、直接フェニックスに行くことにな
った。今後の工程はすべて梓の計画通りに実施することになった。当初
の計画から大幅にずれてしまったが、それもやむを得ないと賢は考えて
いた。その日はホテルの部屋から出るのは止めた。ルームサービスに連
絡し、夕食を賢の部屋に持って来てもらった。賢と愛子の部屋には丸テ
ーブルと2脚の椅子があったが、賢はテーブルをベッドサイドに寄せ、
1641
ベッドに賢と愛子が腰掛けて食事をし、椅子はサイドデスク側に置いて、
梓と亜希子がそこに腰掛けてデスク上で食事をすることにした。テーブ
ルが小さかったので、部屋に届けられた皿はすべて、一旦サイドデスク
の上に並べてもらった。女性達は食事の支度をしようと落ち着かないよ
うだったが、ナイフとフォークを並べ、ルームサービスのボーイが持参
したコーヒーポットからコーヒーをカップに注いで並べる程度のこと
しかすることは無かった。食事をしながら梓が言った。
「賢さん、ルワンダの印象と人類の意識という点で気付いたことをまと
めたほうが良いと思います」
賢もそう思っていた。やはり梓は思考パターンが自分に近いと思った。
「うん、僕もそう思っていた。食事の後で、二人でまとめよう」
亜希子が言った。
「わたくしも仲間に入れていただけないかしら」
愛子も仲間に入りたいと言った。
「これは仕事だけど・・・・でも、二人の意見も是非聞きたいね。二人
とも、感じたことを教えてくれるね?それじゃ、一緒に検討会をしよう」
梓も同意した。食事が済むと亜希子と愛子は食器を片付けて、部屋の外
に出した。梓が自分の部屋にノートを取りに行くと言った。賢は念のた
めに梓に付き添って行った。
「梓、君が居てくれて、本当に助かるよ。まるで、君は僕の心を読んで
いるようだ。僕の考えることと同じことを君も考えているように思う」
「賢さん、それは賢さんの言うシンクロニシティじゃないですか?わた
くしが自由に発想できるのは、こうしていつも賢さんがわたくしを守っ
ていてくれるという安心感があるからです」
「シンクロニシティか、そうかもしれないね。目的も手段も同じなんだ
から、同じような思考パターンになっても決して可笑しくないわけだ。
それにしても、僕達の考えはよく合っていると思うな」
梓は微笑を返した。
賢達が部屋に戻ると4人は直ぐにレビューを始めた。賢が口火を切った。
「ルワンダで、どうしてジェノサイドが起きたか考えてみよう」
1642
皆暫くの間、瞑想をし、そして頭に浮かんで来る思考を見つめた。梓が
言った。
「わたくしは、ジェノサイドは人間の欲望が生み出した、誤った判断に
基づいた行動だと思います。ヨーロッパの一部の国が自国の利益のため
に民族間に憎しみの感情を沸き起こさせ、それを鼓舞させたために、こ
んなことになったんじゃないかと思います。飛行機が落ちて大統領が亡
くなったというのは引き金で、変な噂が広がるのを抑えるのが政府の役
目だと思います。ルワンダが国家として、しっかりとした法律や制度を
持っていれば、ジェノサイドは防げたんじゃないかと思いますが、賢さ
んはどう思いますか?」
「社会と云う立場からは君の考えは正しいと思うけど、僕はジェノサイ
ドはいつでも、どこでも条件が揃うと起きてしまうと思うんだ。ジェノ
サイドに加担した人間が発狂状態になっているように見えるのは、それ
らの人たちの行動が感情にリンクしてしまうからで、正常な人の意識か
らずれているからじゃないかと思うんだ」
梓が言った。
「それじゃ、ルワンダのようなことは日本でも起きる可能性があるとお
思いですか?」
「うん、そう思う。ある一つの強いエネルギーを放つ感情が生じ、その
感情に多くの人たちが同調してゆくと、そういうことが起きる可能性が
あると思う。我々のこれまでの認識で謂うと、この世界は物質も精神も
すべて振動で出来ているだろう。その振動の周波数に合致すると、あら
ゆることが生じる可能性がある。それが1種族を憎み、抹消したいとい
う方向に作用すると、ジェノサイドのようなことが起きる可能性がある
と思う」
それを聞いた愛子が言った。
「賢パパ、それじゃ、法律や、規則はどうなるの?」
「人間の感情の高まりは法律や、規則では抑えられないと思うよ。発狂
状態になると、すべてが無視されると思うんだ」
愛子が言った。
1643
「それじゃ、どうしたらジェノサイドは防げるのかしら?」
「僕が思うには、すべての人間が意識的に生きれば、そういうことは決
して起きないと思う。先ずそう感情の状態を作り出す場を無くすことと、
皆が自己の意識に基づいた行動を行うように努力することで防げると
思うよ」
梓が言った。
「それじゃ、ルワンダでは、意識的に生きていた人たちがいなかったの
かしら」
「いや、いたと思うけど、発狂状態にある人たちのエネルギーがあまり
に大きすぎたから、それを抑えることができなかったんじゃないかと思
うよ」
黙っていた亜希子が言った。
「人間はなんて悲しい生き物なんでしょう。相手のことを思えば、あん
なひどいことはできないはずですのに」
「慈悲の心が無くなってしまった結果だな。自分の外側に捕らわれた結
果だ。人類は意識に繋がるように、内側に向かうべき段階に来ているの
にな」
「わたし達もあんなふうになってしまう可能性があるのかしら?」
「愛子、おまえにも、ここにいる誰にもそんな可能性は無いと思うよ。
我々は愛と慈悲を拡大させて、意識的に生きているから・・・・・」
「賢さん、ジェノサイドの起きたときの人々の意識はどうだったのでし
ょうか?」
梓が聞いた。
「初めの内は、そういう動きを圧し留めようとしていた人たちも、身の
危険を感じて、その場から逃れたいという意識のみが強く働いたんじゃ
ないかな。そこに居たら殺されてしまうから」
亜希子が言った。
「何と悲しいことでしょう。何と哀れなことでしょう。もしわたくし達
がその場に居たら、どうなっていたでしょうか?」
「それは面白い問題の投げ掛けだね。亜希子はどう思う?梓や愛子は?」
1644
「わたくしは、襲ってきた人たちに止めるように頼みます。殺されても
仕方ありません」
亜希子の真剣な応答に、愛子が済まなそうに言った。
「わたしは逃げちゃう」
梓は毅然としていた。
「わたくしは最後まで、戦います。たとえ直ぐに殺されてしまっても、
力尽きるまで戦います」
賢が言った。
「僕も梓と同じだ。だけど、亜希子の選択は美しく、愛子の選択は賢い
と思う。人それぞれでいいと思うよ。祐子ならどうするだろう」
一瞬、皆黙り込んだ。亜希子が言った。
「祐子お姉さまなら・・・・その狂乱したジェノサイドの真っ直中に入
っていかれて、ご自分も一緒にその苦しみを体験されるのではないかと
思います」
「それが祐子だな。多分。
・・・僕はこのルワンダが今度のプロジェク
トの最も難しい点、多くの人びとの考え方を変える方法に示唆を与えて
くれるように思うけど、君達はどう思う?」
梓が応えた。
「人の心を変える困難さを克服すると言う点では、とても役に立つと思
います。もっとも、それが日本の国にも適用できるかどうかははっきり
分かりませんが・・・・」
「そうだな、僕も同じ考えだ。しかし、一つの方法として参考にはなる。
ところで、具体的にはどうしたら人びとの心を変えられるかだけど・・・・」
亜希子が言った。
「わたくしは、やはり愛しかないと思います」
「それは確かにそうだが、具体的にはどうしたらいいかだ」
「祐子お姉さまが、その答えを教えてくださいました。祐子お姉さまは、
今、人々が間違った方向に進まないように、ご自分を省みずに人々を導
いていらっしゃいます。何と神々しいお方でしょうか。ご自分をお捨て
になっておられます。もし祐子お姉さまがいらしたら、そこでは殺戮は
1645
起きないと思います」
「うん、僕もそう思う」
梓が言った。
「それはどういうことでしょうか?」
「祐子からは自分という概念が消えていて、愛と慈悲のみで生きている
から、そういう人の居る場では殺戮が起きるようなことは無いと思うん
だ。殺戮の動機がなくなってしまうから」
また、全員黙り込んでしまった。亜希子が言った。
「わたくしも、祐子お姉さまと一緒にルワンダで人びとを助けるために
働きます。必ず、あそこに戻ります・・・・えーん、えーん」
亜希子が泣き始めた。賢は亜希子の近くに寄って肩に手を掛けた。
「亜希子、泣くな。僕達が祐子の友達でいられることに感謝しよう」
4人は暫くの間、しんみりと黙り込んでしまった。
朝の便でアブジャ空港を飛び立つと、全員ほっとした。定員50人ほど
の小さなプロペラ機だった。遠方に積乱雲が見えた。機体は時々大きく
揺れたが、愛子以外はそれほど恐怖心を抱かなかった。愛子は頭を前席
の背もたれに押し付けるようにして下を向いていた。飛行機が揺れる度
に、
「ひへーっ」と声を上げていた。同乗していた現地の人たちは愛子
の様子を見て、くすくす笑っていた。アブジャと1時間の時差があった
ので、10時近くにバマコの空港に着いた。ここからは厳しい環境に耐
えなくてはならない。蚊に刺されないように4人は梓が持参した蚊除け
のスプレーを手足に吹き付け、顔には防虫のクリームを塗った。梓の指
示でアフリカ行きが決まってから直ぐに抗マラリア薬メフロキンの服
用を開始し、複合ワクチンの予防接種を受けて来ていたので、後は自分
自身で蚊に刺されないように注意するだけだった。梓は蚊取り線香と電
気式の蚊取り器も持参していた。考えられることは全部行ったと思って
いたので、梓は万が一誰かがハマダラ蚊に刺されても、直ぐに重篤な状
態に陥ることは無いと考えていた。4人は空港を出て、その日のうちに
バスでモプティへ移動することにした。街中を通り抜ける時、バマコの
1646
混雑振りをいやがうえにも体験せざるを得なかった。まるで人の波が車
に向かって押し寄せてでも来るかのような混雑だ。バスは遅々として進
まなかった。10分かかってやっと10メートルほど進んだだけだった。
前方で小競り合いが始まっていた。車のボディをハンマーのような金属
で打ちつけた男が居た。邪魔な車に腹を立ててやったことだった。車の
運転手が降りて来て、その男と取っ組み合いのけんかになった。しかし、
後続の車の運転手は巨大な体格のニグロの男性で、その男が仲裁に入っ
たのでやっと収まり、車が動き始めた。この混雑では人びとが平常心を
保つことが究めて困難なことが、容易に推察できた。ほとんど接するほ
ど接近して歩いている人々にストレスが溜まらないはずはなかった。街
中を抜けるのに30分ほど掛かった。街を外れると混雑は減ってきたが、
今度はでこぼこな道に悩まされ始めた。座席のクッションはスプリング
が臀部に食い込んで来て、バスの乗り心地はすこぶる悪かった。おまけ
に、40分ほど走るとエンストを起こしてしまった。運転手はバスから
降りて、携帯電話で連絡を取っていた。1時間ほど待たされた。小型ラ
イトバンがなにやら運んで来て、バスの後部を開け部品の交換を行って
いるようだった。4人はただじっと待つしかなかった。8人の現地人が
乗っていたが誰も文句も言わずに黙って席に座っていた。どうやら、エ
ンストは珍しくないようだ。漸くエンジンがかかって、バスは走り始め
た。そこからは大きなトラブルは無かった。気温が高く、じとじとして
いて乗り心地はよくなかったが、車窓から見える自然は素晴らしかった。
ジャングルの中を走り、ニジェール河の河畔を進んだ。途中のセゴウと
いう街で少し休憩し、パンと飲み物を買った。セゴウはあまり目立った
建物も無い町だった。そこがまだ工程の1/3程度の場所だと梓が言っ
た。車の振動に4人とも疲れ切っていた。モプティのホテルに着いたの
は夕方の4時半を廻った頃だった。出来たばかりの4階建ての新しいホ
テルだった。ホテルの周辺には土壁の建物が点々と建っていて、そのう
ちのいくつかもホテルの営業をしているようだと梓が言った。
「よかった。あんな土のホテルには泊まりたくないもの」
愛子が言った。愛子はエントランスを入ると、辺りをきょろきょろ見廻
1647
している。賢が何をしているのかと聞くと、蚊を探しているんだと言っ
た。ホテル内には蚊は見当たらなかった。
「愛子さん、蚊は夜中に襲って来るらしいですよ」
梓が言った。
「いやー!わたし、心配で眠れないわ!」
「大丈夫ですよ。このホテルは大きいから、多分蚊帳を貸してもらえる
でしょう。フロントに言ってみましょう」
チェックインは梓が代表で行った。手続きが済むと、梓はフロントの女
性に蚊帳のことを聞いた。梓の言う通りだった。ホテルは希望する客に
対して蚊帳の貸し出しをしていた。梓は4枚の蚊帳を借りた。フロント
の女性は梓宛にメッセージが来ていると言って、1枚の紙を梓に渡した。
メッセージは梓が出発前に日本で予約し、キガリを出るときに確認の電
話を入れておいた日本人のガイドからだった。ここでは日本人ガイドは
稀有な存在だったが、ガイド料は現地人ガイドの倍だった。それでも、
賢と梓は日本人ガイドを選んだ。それは言葉の問題だった。メッセージ
メモにはこう書いてあった。
「Please hand this message to Japanese Lady Miss Tanabe who will
arrive here at around 5:00pm today.(今日の午後5時頃に来る日本人
女性の田辺さんにこのメッセージを渡してください。)
田辺さん、
こんにちは、
わたしは斉藤弘と申します。このたびはわたしをドゴン族のガイドに指
定してくださって、ありがとうございます。男性一人、女性3名のグル
ープ様でよろしいですね。わたしは午後6時頃にここのホテルのロビー
でお待ちしております。詳しいことはそのときにお話させていただきま
す。
」
梓はメモを読むと、うれしそうに賢に渡した。賢は頷いた。ここでも日
本人に案内してもらえることに胸を撫で下ろした。亜希子も愛子も喜ん
だ。午後6時までの間に全員シャワーを浴びようということになった。
チェックインの後、皆部屋に向かった。何時ものように賢と愛子、梓と
1648
亜希子が同室だった。4人とも、部屋に入るや否や、先ず蚊帳を取り付
けた。ベッド全体を覆うタイプだった。梓達の部屋では蚊帳を張ると亜
希子が初めにシャワーを浴びた。その間に梓はスーツケースを開けて、
着替えや洗面具を取り出した。一番注意を払っていたはずの梓だったが、
化粧品を探しているときに左手の甲を蚊に刺されてしまった。刺されて
直ぐに気付いた。梓に恐怖にも似た戦慄が走った。蚊は梓の手で叩き潰
され、左手の甲に死骸と赤い血痕を残した。ハマダラ蚊だ。梓は蚊を潰
すと、次第に顔面蒼白になってきた。それでも冷たくなった背筋を伸ば
して、スーツケースからビニール袋を取り出して潰した蚊を中に入れ、
袋をスーツケースの内ポケットに入れた。そして、急いで洗面所に駆け
て行き、刺されたところを口で吸いだして唾を吐いた、何度も、何度も
繰り返して、とうとう唾液も枯れてしまった。梓は持参した抗マラリア
薬を備え付けのミネラルウォーターで飲んだ。梓の鼓動が激しくなった。
不安に押し潰されそうな感覚だった。
「梓さん、お先に、失礼いたしました」
梓の蒼白な顔を見て、亜希子が言った。
「梓さん、どうされたのですか?」
「蚊よ。蚊に刺されちゃったのよ!」
「えっ!?蚊がいたんですか?本当に刺されたのですか!?どうしましょう。
直ぐに病院に行かれますか?」
「いいえ、もう薬を飲んだわ。でも、効くかどうか分からないけどね。
それに、今行っても分からないわ。潜伏期間もあるし・・・」
亜希子は梓が早口になっていることで、動揺している様子を感じ取った。
梓は急に元気がなくなった。マラリアの感染に対して備えていたが、い
ざ自分に感染の可能性が出てくると、その不安は絶頂に達していた。亜
希子に押されるように、梓はシャワーを浴びた。シャワーの後、タオル
を体に巻き付けていたが、濡れた髪を拭かないまま部屋に戻って来た。
意識がそこに無くなっているのが亜希子には見て取れた。
「梓さん、救急病院に行ってみましょう」
「・・・・いいえ、様子を見るしかないわ。わたくしはマラリア診断簡
1649
便キットを持って来ていますから、後で検査します」
亜希子が渡したもう1枚のタオルで髪を拭きながら梓が応えた。抗マラ
リア薬を服用しているので、危急の事態になることがないことは梓が一
番よく知っているのだが、恐怖心はそれをも凌駕してしまっているよう
だった。
翌日早朝に斉藤はタクシーに乗って来ていた。4人はリュックサックを
背負って出掛けた。梓はいつものエネルギッシュな感じがなく、どこと
なく元気が感じられなかった。このホテルにはまた明日の夕方戻って来
る。7時頃ホテルを出た。バニ川の桟橋まで行くと7、8人が乗れる小
船に乗り込んだ。川には朝から投網をしている人々がいる。少し進むと
全く人影が無くなった。木々と畑、草草、変哲の無い川べりを眺めなが
ら進んだ。昼近くになると、斉藤はリュックサックの中からサンドウィ
ッチとミネラルウォーターを取り出し、全員に配った。今日の昼食だっ
た。9時過ぎにゴミナという土地に着いた。ここには泥でできたイスラ
ムのモスクがあると斉藤が言った。そこからおよそ1時間して、フラニ
人のキャンプのあるセンセ村に着いた。その村も通り過ぎ、昼食を取り
ながら舟はさらに進み、川から運河へと入った。人々や荷物を乗せた運
搬舟が何隻も通り過ぎてゆく。舟上の人々は皆手を振ってくれる。4人
とも、自然に親近感を覚えた。昼前にコナに到着した。舟から降りると、
港沿いに市場が立っていて人々で賑わっていた。斉藤は1台のタクシー
を呼んだ。タクシーとはいえ、かなりのポンコツ車だ。乗り心地は極め
て悪かった。梓の顔色が勝れない。1時間半ほどの悪路を、暑さと振動
に耐えながらやっとドゴンの村、ソンゴに辿り着いた。断崖の下にとん
がり帽子のような黒い屋根を載せた童話の世界に出てきそうな家々が
伺える。車のスピードを落とすと、子供らがしつこく「カドー」
「カド
ー」と言いながら物乞いに近寄ってくる。賢は同じことをするモニュメ
ントバレーのナバホの子供達を思い出した。そこから車でドゴンの奥地
へと進んだ。道が悪いだけでなく、山道で坂やカーブが多い厳しいドラ
イブに全員疲れてきた。宿泊地のサンガに着いたのは3時半過ぎだった。
ドゴン族の村は人々も親和的で、危険性は全くと言ってよいほど感じな
1650
かった。辺りに土壁の住居がぽつぽつと建っていた。斉藤はここの地形
や、住民に精通しているようだった。潅木の林を抜けて更に奥に進むと、
山の斜面に突き当たった。山肌に沿って走りながら斉藤が言った。
「ここの地域はそれほど危険じゃないんですよ。滅多なことで盗賊など
には遭いません。やはりある程度豊かな地域は危険度も低いんでしょう
ね」
不安を抱かせないように配慮してくれているのかと賢は思った。訪問し
たドゴン族の住居は山裾の平地に作られていた。既にアポイントメント
が取られているようだった。初めに何人かの住人に会って挨拶をしてか
ら、岸壁にある1軒の洞窟家屋に案内された。そこにドゴン族に口伝で
伝えられてきた神話や思想を説明してくれるオゴンと呼ばれる首長が
いるとのことだった。オゴンは額に深い3本の溝が刻まれた、顔の黒光
りしているような印象を与える老人だった。眼光の鋭さが、3人の女性
を怯ませたが、賢はその威厳に喜びを覚えた。斉藤の挨拶に続いて賢た
ちが辞儀をすると、オゴンが微笑んだ。その顔は4人の緊張を一気に解
きほぐしてくれた。オゴンが現地語で話し始めた。低音で、ゆっくりと
した話し方は、4人に時間の流れを忘れさせてしまうような心地よさを
与えた。長音と単音がリズミカルに繰り返されているようで、唄を歌っ
ているようだ。4人は来る途中、斉藤から「オゴンの話す言葉はシギの
言葉と呼ばれていて、普通のドゴン語に比べ語彙数が1/4程度と少な
いけど、聞いていると心地がいいんです。儀式のときなどに使われる儀
礼的な言葉なんです」と説明を受けていた。勿論3人の女性にはオゴン
が何を話しているのか全く理解できなかった。ただ、賢だけが、意識を
オゴンの意識の方向に向けていたので、具体的な言葉としてではなく、
イメージとして、オゴンの話の内容を受け取ることができた。斉藤はオ
ゴンが通訳のために、1節毎に間隔を置いて話してくれたので、その休
止の間に通訳して4人に説明した。
「******」
(わたし達人類はこの地球に試行として連れてこられ
ました。ずっと彼方のシリウス星とその伴星からです。この地球には、
もともと人類が住む環境は用意できていませんでした。シリウス星のも
1651
の・・・ものと訳すのがいいかどうか分かりませんがドゴンの人たちが
ノンモと呼ぶ存在です・・・・そのノンモたちがもっと上の次元の意
識・・・これはドゴンの人たちがアンマと呼ぶ存在ですが・・・アンマ
から、
「地球を人類が住める環境にするように改造するので、その後で
この地球に人類を連れて来るように」と指示を受けました。それで、地
球上での時間でおよそ10万年後にノンモ達がこの地球に人類の最初
の人々を連れて来ました。はじめ地球に使者として来たノンモは3名で
した。その前段階として、それより1万年ほど前に、彼らは動物、植物
を作成して、この地球上に分散投入しました。それも何段階かに分けて、
原生動植物から順次、高等動植物まで投入してゆきました。その頃のシ
リウスではおよそ300万人の人が生物を作ることに専念していまし
た。あなた方が今見る植物のいくつかはこの頃にシリウス星で作られた
ものです。植物の花を見て何か感じませんか?そのデザインが、見事に
なされているということに感心されると思います。それらはすべてシリ
ウスの人達が作り出したものです)
ここまで話して、オゴンが一呼吸置いたので斉藤も一息入れた。賢がオ
ゴンに向かって日本語で質問した。
「動植物を作るということは意識でなされたのでしょうか?それとも、
直接この物質世界でなされたのでしょうか?」
斉藤が賢の言葉を通訳しようとしたときにオゴンが言った。オゴンの言
葉を斉藤は通訳した。
「******」
(意識と物質の境目は今の様にはっきり分かれてはい
ませんでした。まず意識で設計して、物質次元に意識を投入すると、そ
れが具体的に物質化されるというように行われました)
斉藤が言った。
「質問は後にして、先ず、オゴンの話を最後まで聞きましょう」
賢は頷いた。オゴンはまた、ゆっくりとした語調で話し始め、斉藤が通
訳した。
「*****」
(この地球における時間と空間というものはこの地球上
の人間の意識が作り出しているのです。シリウス星では、この地球上の
1652
ような時間や空間はありません。共通の意識では、時間と空間は全く無
くて、個別の意識の中で、その人独自の時間と空間が作られます。だか
ら、ある人にとっての1日がある人にとっては1年になったりします。
この地球にシリウス星で作られた生物を移植する際には、時空のコント
ロールができる者に依頼して、その者が時空間を無くして、シリウス星
の伴星と地球とを重畳させ、その上にその生物を移植して、地球とシリ
ウス星の伴星を分離するという方法がとられました。人を移住させると
きもそのように行われました。シリウスの伴星は現在のように白色矮星
ではなく、赤く燃える存在だったのです。そう、物質と意識を統合する
と、熱的な環境は存在の条件にならなくなります。しかし、初期の生物
は物質偏重な体として作られたので、環境の温度特性の影響を受けまし
た。生物の設計では、最小単位を細胞にすること、そして、どの細胞に
もすべて染色体を持たせ、その染色体にDNAという情報を埋め込み、
それをコピーしてさまざまな生体を生成する方法を用いました。この方
法がこの地球上に生物を生存させ、そして、ある一定の間隔で物質を入
れ替える・・・・つまり出生または発芽と死亡または枯死のプロセスを
循環する形で実現させたのです。それらの情報はすべてDNAの中に情
報として組み込みました。DNAの情報は今人間が考えているような物
質的な情報のみでなく、物質とは異なるものに関する情報、たとえば精
神や感覚、記憶方法などの形而上的な情報も同時に組み込んであるので
す。一方この地球はその核に鉄を多く含ませ、重力を大きくさせて人間
が物質に縛り付けられるようにしたのです。そうしないと、新しいもの
や発見ができ難く、物質的な発展の元になるエントロピーの拡大路線を
設けることができなかったからです。新しいものを生成したり、それを
認識したりさせるためには、どうしても意識の集中が必要で、重力が強
いと、それが起こりやすくなるのです。その反面、執着が起きやすくな
り、意識が固定化しやすくなります。これは問題点でもありましたが、
この段階の人間には、この地球の環境条件が最適だということになった
のです)
ここで、また一呼吸置いた。今度は、賢は質問をしなかったが、愛子が
1653
独り言のように言った。
「だけど、知能の進んだシリウス星の人たちが、なぜわざわざこの地球
に人間を送り込んで試行を行ったのかしら?」
それを聞いた斉藤は、それをオゴンに伝えた。オゴンは言った。
「******」
(お嬢さん、あなたもわたしも、シリウス星の人たち
も皆同じなんですよ。一つなのです。我々は自分に与えられている機能
を使っていないだけです。だから、もっといろいろな経験をして、能力
を引き出し、レベルアップしたいのです。そして、最適なものを自分自
身にフィードバックしたいのです。分かりますか?)
愛子はよく理解できなかったが、小さく頷いた。オゴンがまた話し始め
た。
「*****」
(お嬢さんの言うように、今の地球上の人間は自分が孤
立した存在だと思っています。そして、
「すべての存在は一つ」と唱え
ている人も、どうして、そう言えるのか説明できていません。もともと
すべての存在は一つなのです。分かりにくいでしょうが、すべての存在
の核は共通なのです。核から周辺に向かうにしたがって、分離が起きて
来ます。わたし達は、その核から最も離れたところで、ばらばらの個と
して生きています。そういう分離を起こりやすくしているのが、この地
球の環境です。そうすることで、個々人の間に多様性を生み出させるこ
とができたのです。そのような共通の核を持つ存在のあり方は次元を変
えると見えてきます。核が共通なことは簡単に分かります。多くの人間
が美しいものは美しいと感じ、醜いものは醜いと感じ、音色にも同じよ
うな印象を覚えます。五感といわれる機能もすべての人が同じような感
覚として感じます。もし、同じ肉体構造でも、個人個人が別々だとする
と、あるものが臭いと感じる汚物を別のものは芳香のように感じるかも
しれないのです。そうなると、世界に混乱が生じてしまいます。残念な
がら、今の地球上の人間の意識レベルではすべての存在の核が共通であ
るということを実感として感知できません。それができるようになるた
めには、いろいろな精神的な技法、たとえば YOGA や気功、修法など
を行うか、瞑想によって、自分自身の内側の最も深いところに入り込む
1654
しかないのです。理解できますか?シリウスの人たちは、すべての存在
の核は共通で、その核のイメージにフィルターを掛けて意識で作られた
空間に映し出したのが個々の人や存在なんだと知っていました。そして、
この世界はすべての存在の共通の核全体を共通の空間として映し出し
たものだということも。だから、この世界を改善して変えてゆくために、
すべての人間があらゆる経験をし、あらゆる可能性を核に埋め込むこと
を行う必要があるのです。しかし、現時点で、もし、この地球上の人間
が、すべての人は一つだと自然に認識できるようになると、意識レベル
の低いものが自己の存在の意味を失ったり、生きることに興味を抱かな
くなったりして、体験の元になる地上的発展が無くなり、本来の目的が
達成できなくなってしまうのです。だから、地球をこのような形態で存
在させているのです。ここで、何か質問があればお答えします)
賢が言った。
「このお話しは、以前ドゴンの宇宙哲学として紹介されていた内
容・・・・確かあれは神話的な内容のようでしたが・・・・書籍なんか
で紹介されていた内容より、もっと拡大されているように感じるのです
が、当初よりこのようなことが伝承されているのでしょうか?」
「*****」
(ヨーロッパやアメリカなど西側の人たちの多くが研究
のためにこの土地を訪れました。わたし達はその方達にいくつかの表記
を用いて説明しました。先ず、創造の概念の抽象的な記号ブンモン、そ
の具象化のイメージを点で表したヤラ・・・丁度家を建てるときの家の
イメージを示す敷石のようなものと捉えてくれればいいんです。それか
ら、それを具体的な線のイメージで描いたトングと呼ばれる図・・・こ
れは物を作るときの部品図のようなものです。それと、可能な限り写実
的な絵であるトンイこういう表記を使って彼らにこの世界の創造に附
いて説明しました。しかし、彼らの概念には、見えない世界・・・つま
り霊的な次元の概念が無かったので、それを物質次元に当てはめて、文
字通りに解釈したのです。だから、世界に紹介されたドゴンの概念は動
物や植物の創造を描いた神話のような形態になってしまったのです。そ
れに気付いていたドゴン族の人はほとんどいませんでした。そして終に、
1655
宗教が入ってきました。特にイスラム教が入ってくると、もともとのド
ゴンの概念が湾曲されて、神として崇める主的な存在がこの地球を作っ
たというように変化していってしまったのです。旧来からのドゴンの伝
承を理解していた少数の人たちは、その概念を自分達で伝える方法を検
討しました。それには先ほど言ったブンモン、ヤラ、トング、トンイと
いった表現を用いずに、あるいは用いたとしても、その意味に具体的な
イメージを結び附けて西欧的な、宗教や哲学で使われる表現を用いて説
明することにしたのです。今まで、わたしが話したのは、もともとドゴ
ンの地に伝わった神の降臨とフォニオと呼ばれる種の移植のプロセス
を現代科学の概念で説明した内容です)
賢が応えた。
「そうでしたか、このドゴン族の概念は、今僕達が探求し、近づいてい
る概念に近いです。僕達は、すべての源は神から与えられたのではなく
て、神の中に顕現したのだと考えています。その顕現が、写像としてこ
の世界を映し出していると考えています」
斉藤が間に入った。
「内観さん、かなり具体的なお話になっていますが、もう少しオゴンの
お話を聞いてみませんか?」
賢も是非聞きたいと思った。梓は話の内容をレコーダーに録音していた。
亜希子と愛子は話の内容より、周りに集まってきているドゴン族の人た
ちのことが気になるようだった。
「*****」
(貴方、ウチミさんですか、貴方がおっしゃるような概
念は、まだドゴンの中には確立できていません。この地球がシリウス人
の試行の対象として創造されたということ、この点が非常に重要になっ
てきます。シリウスの最もレベルの高い覚者アンマが芥子粒ほどの種子
の中に、概念で世界を構築する仕組みを組み込んだのです。物理次元の
世界はこの仕組みの元で、自動的に構築されていったのです。はじめは
266のブンモンが組み込まれましたが、その266のそれぞれが26
6のブンモンを生成し、さらにそれがまた266のブンモンを生成する
という形で瞬く間に世界は出来上がっていったのです。これは抽象的な
1656
概念ですが、物質次元と霊次元を合成して世界はできて行きました。具
体的な形を作ることは直接のアンマの行為には無いのです。アンマはフ
ォニオの中に仕組みを構築し、後は意志を作用させただけです。その後
のトンイの図像に至る創造のプロセスは、図像の発展となって現れます。
霊的原理の中においても実現されてゆくのです。ブンモンの段階で生命
力であるニャマが備わります。たとえば土のニャマは家の隅石に宿って
います。そのことを指して、家の角々のニャマを持つといいます。家の
トングは隅石の間の壁の作るレンガを表しています。トンイの段階で生
ある存在は息づき始め、霊的原理の中に組み込まれます。家のトンイは
4元素を含む家そのものと同じなのです。ただし、家は生命の無い存在
なので、家の魂はアンマの手の下で初めのブンモンの中に留まることに
なります。その代わり、家の魂は建物のひと隅の土中深くに置かれた不
死という名の球根の形で図象されます。生ある存在においては現実にお
ける発展が平行に起こります。男から女の中に入り込む精液は子供の血
というヤラとなります。この精液が胎児に変化するとそれがトングであ
り、完全な形になった子供がトンイに相当します。人の4つの魂は4元
素の集まりのヤラで、それが結合して一つになった人間がトンイになり
ます。胎動を感じると女の胎が子を描いたことになります。穀物に附い
ても同様です。穀物の成長過程も一連の図像と同一視されます。ブンモ
ンを描くのは穀物の生命を描くのと等価です。ヤラは種子、トングは芽
生え、トンイは茎が伸びてゆくのを表わしています。すなわちこの各種
の表彰は創造の段階を表わしていることになります。大切なことはブン
モンの段階でこれから存在することの予告が示されていることです。そ
れは物理的な形態においてではなくて、その具体的な形態を構成する観
念や機能からイメージできる概念のようなものです。ブンモンは擬似的
な抽象化と言った方がいいかもしれません。一種のシンボリズムと言え
ると思います。ヤラからは具体的な存在の形態が表わされてゆきます。
これは我々が通常ものを作るときに行っている、ひらめきから、図像化
に向かう過程に似ています。と言うより、それと同じです。我々は気付
かない内に、いつも創造のプロセスを実行しているのです。DNAに繋
1657
がる概念はアンマの卵のヤラです。卵の内部におこる生命の展開の形を
示す、内的な螺旋をなしています。それは先ほど言ったように、266
の点からなっていて、266の根本的な記号を意味しているんです。ト
ングは創造の途中段階での存在の要素や具体的には器官などを描写し
ます。トンイはさらに具象化された絵です。絵というより、具体的な写
真のようなものと考えたほうがいいかもしれません。だからトングの図
とは異なります。トングである記号は脳の中で動き回ります。それは言
葉と同じです。記号とそれに続く図であるブンモン、ヤラ、トングはそ
れらが表現する存在のまたは物の生成を明らかにしています。絵である
トンイはそれを実現します。その結果、反対に絵であるトンイは存在を
死に導いてゆくことになります。だから人間の描くトングは来るべきも
の、人間が描くトンイは終わりを示すものと言われています。これを良
し悪しで表現することは避けたいです。これらをもう一度整理すると、
「アンマの核には記号があった。アンマは記号を整理し、取りまとめて
世界を創った。記号はひとつひとつの存在の中に赴き、絵に変化し、終
焉に向かう門出を描いた。それは流転の始まりを示している。つまり、
絵を描くことは存在を開始させ、消滅への第1歩を踏み出させることに
なる」ということなのです。ドゴン族の中ではこれらの表象が祭祀でも
区別して用いられます。ブンモンは秘儀的に扱われ、ヤラ、トング、ト
ンイは人びとの生活の中に入り込んで描かれているのです)
ここまで話すと、流石にオゴンも疲れたと見えて、大きく深呼吸をした。
斉藤はいきなり質問を受けることは避けて、暫くオゴンの様子を伺って
いた。やがて、オゴンは立ち上がると、奥に行き1枚の大きな紙を持っ
て来て、全員の座っている真ん中に広げた。斉藤が言った。
「以前は、このような紙はありませんでした。ですから、今話された内
容は、話し手が地面に、この紙に描かれている図を描きながら説明して
くれたものです。もう10年以上前のことですが、僕も何度も何度も部
落に通い、同じ話を繰り返し聞かせてもらいました。今日オゴンがお話
くださったことは、オゴンが我々の分かりやすいように翻訳して話して
くださった内容です」
1658
オゴンが図を示して言った。斉藤が同時通訳で説明した。
「*****」
(これは家の図像です。左がヤラ、真ん中がトング、右
がトンイです。これだけでは具体性が見えないかもしれませんが、これ
で十分なのです。これには物理次元の象徴と霊的次元の象徴が取り混ぜ
られているのです。普通の人の概念では一寸分かりにくいかもしれませ
んがね)
皆、図像に見入っていた。亜希子が遠慮がちに言った。
「あのー、この創造のプロセスに、愛の概念は入っていなかったのでし
ょうか?」
斉藤は少しびっくりしたような顔をしたが、そのままオゴンに向かって
質問した。オゴンが応え、斉藤が通訳した。
「*****」
(アンマが世界を創造したとき、生命の半分で創造し、
残りの半分の生命は自分の元に置いたといわれています。この世界が存
在しているのはアンマの愛というより慈悲だと思いませんか?もし、ア
ンマがこの世界を抹消しようと思えば、片方の生命を消せばいいんです。
言葉としての愛というのは表現されないけど、わたしは創造そのものと、
それを維持させることが愛だと捉えています。アンマが一番初めに創造
したものは穀物であるフォニオの種子なのです。アンマはその卵の中に
らせん状の運動として存在していて、その卵は 4つの部分に分かれて
いた。その4つの部分は地水火風の4元素で、14の次元を包含してい
た。アンマがその殻を破り、外に出るとつむじ風が起きた。もっとも、
このつむじ風もアンマ自身だったのだけど、フォニオがその中心に目に
見えないほど小さい形で作られたといわれています。それが世界の創造
の始まりだったのです。この辺りの者は、フォニオによって生かされて
います。アンマの命を、人間を生かす糧に入れたのですよ。それこそ私
達が存在することを許す、愛そのものじゃありませんか。その創造の意
思はフォニオの種子の中に自分自身の思念として入れたのです。それは
螺旋上に旋回してあらゆる原子と分子を放射し、作り出していったとい
うのです。まさに創造主の愛だと思いませんか?」
梓が言った。
1659
「それは、日本の天孫降臨と似ていますね。ねえ、リーダー」
「うん、僕も今そう思った。世界中どこでも同じかもしれない。瓊瓊杵
尊(ににぎのみこと)は稲穂を一本持って天下ったといわれているから、
穀物フォニオの概念に良く似ているね。人間を生かすことの象徴だね」
亜希子は両目を瞑った。存在しているものを維持することが愛であり、
慈悲であるというオゴンの話を噛み締めていた。オゴンは5人を連れて、
隣の家に案内した。近所の子供達が集まって来ていた。隣の家を見学し
た後で、現在のドゴン族の生活に附いて説明してくれるとのことだった。
オゴンは各部屋を見せてくれた。部屋には余分なものが何一つ無い。梓
は一生懸命メモを取った。浮かない顔をしているが、それを気とられな
いように振舞っている様子が賢にはよく分かった。賢は梓に近づき、額
に手を当ててみた。熱は無いようだった。
「梓、気分は大丈夫か?」
「はい、体に異常はありませんが、マラリアの感染が心配で・・・・」
「心配かもしれないけど、いくら心配しても結果は変わらない。辛いか
もしれないけど、今はマラリアのことは忘れていたほうがいいよ」
「はい、リーダー。分かっているのですが、どうしても・・・・」
賢はオゴンに質問をした。
「ドゴン族の意識の中では、この神話のような宇宙創生の話はどのよう
に受け取られているのでしょうか?実際に人びとの生活に影響してい
るのでしょうか?」
オゴンは威厳を保つような体で応えた。
「*****」
(我々は、宇宙創生から現在に至るまでの語り継がれて
きた話は、総て事実と受け止めています。我々は過去からずっと自分達
を取り巻いているあらゆる物、事、存在、現象を認識して、それがどう
いうものか分類してきました。そして、それらを一つのものに組み上げ
ようと試みてきました。もともとの始原は一つですから。あらゆるもの
を観察し、詳しく調べました。そして、人類、植物、動物、地質、天文、
解剖学や生理学などの学問的な分類と、社会、宗教、政治、技術、芸術、
経済などの社会的事項に関する分類について、アンマの意思に基づいて
1660
説明してみました。我々には、何千という記号や象形文字があり、天文
学、暦、そしてその計算体系、解剖学的、生理学的な知見、遺伝学、病
気に対する施薬方法について知識があります。そして、これは人間や哺
乳類、星辰といった高度なものから、虫や落ち葉、さらにはごみの類な
ど、まるで無視されるようなものまで、同列に扱っています。我々は人
間がこの宇宙の中で、特別の存在であることは疑いませんが、それは人
間には認識力があるからだと考えるのです。それ以外の事項はすべて、
被造物であるという点で、人間も虫も同列で考えています。だから、我々
はこの世界を総合的な単一存在として認識していて、秩序的なものも、
無秩序なものも、あらゆる存在がその中に包含されていると考えていま
す。そして、その存在は多様性を与えられ、与えられた範囲で自由に存
在することが許されていると考えています。それは創造神アンマによっ
て思惟され、顕現され、秩序つけられていると考えています。我々の社
会的組織の根底にある原理は自分達が作り出す現象と自然のあらゆる
現象、他の社会から出てくる現象-それらを総て包含する分類体系で構
成されています。その分類体系では儀礼、遊戯、労働、織物、陶器、昆
虫、植物、動物などがさらに細かく分類できて、それらが相互に関連し
あった各範疇に分けられた一つのシステムを構成しています。家族制度
の中にも同じ原理が組み込まれています。あらゆるもの、あらゆること
を、丁度陰・陽のように、どんな複雑なものも、一つの対立構造を持っ
たものとして捉えています。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、
それがドゴンの物の考え方、儀式や行事、生活様式にまでしっかりと組
み込まれています)
賢はオゴンの話に聞き入った。賢は、一般の人たちが思っているアフリ
カの概念は、事実と大きく異なるものだと認識した。一般の人たちはそ
こで生活しているアフリカの民族が祭祀や祈祷など因習的な行事を行
う得体の知れない、未開民族のような感覚で見ているが、宇宙衛星を飛
ばし、株や先物取引をする現代人に比べて、はるかに意識的に生きるこ
とのできる社会がそこにあり、ドゴンの人たちはその世界で生きている
ことを知った。確かに現代のような何でもありの自由奔放さは無いが、
1661
現代社会の中で生きる者たちの自由は法律や規則という枠の中での無
秩序であり、それに比べ、ドゴンの秩序だった社会とその中での意識的
な自由な行動は、オゴンのような指導者が導く、宇宙の創生を理解した
上での行動であるとの考えに至った。
オゴンに促されて部屋から外に出ると、子供達が5人の周りを取り囲ん
だ。斉藤のことを知っている子供が2、3人いるようだった。斉藤も手
を振ったりして、笑顔を振りまいていた。家の前の大きな木の下に木製
のベンチがいくつか置いてあった。オゴンは5人を木の縁台に腰掛ける
ように促してから、自分もその前の縁台に座った。
「*****」
(ここにはまだイスラム教が進出してきていないんです)
と前置きしてから、オゴンが話し始めた。ここの生活に附いて斉藤はよ
く知っていると見えて、同時通訳で説明をした。
「*****」
(ドゴンの社会は一見複雑なようですが、しっかりとし
た制度に基づいて運営されていて、リネジという集落とギンナという大
家族で構成されています。男はこのギンナを手に入れると複数の妻を持
つことが許されています。初めの妻は親の決めた許婚で、夫は妻となる
ギンナに奉仕の仕事をする義務を持ちます。2番目以降の妻は離婚した
り、夫と死別したりした女性で、その場合は妻のギンナに対する奉仕の
義務はありません。女性は亭主が他界すると、普通は亭主の兄弟と結婚
します。これは種族を維持するための知恵から来ているのです。ここで
は男と女の役割がはっきりと別れています。あくまで男は天の役目を担
い労働を、女は子育てと地の仕事を担当することになっています。最近
ではこの区分けも厳格に守られなくなってきました)
それからオゴンはドゴンの生活について説明した。主に男と女の仕事に
ついてだった。説明が終わると、オゴンは5人を連れて村の中を一巡し
てくれた。岸壁に彫りこまれた住居は、その安全性とともに、居住時の
困難さが伴っていることは確かだった。しかし、ドゴン族は長い間、こ
こでの生活をしてきたとのことだった。この日はオゴンの説明を受けた
だけでホテルに行くことにした。斉藤の話では、ここのホテルはまだ出
来たばかりで、それほど経ってないとの事だった。宿に着くと梓がます
1662
ます元気を無くしていた。賢はたびたび梓の熱を診たが、特に変化して
いる様子はない。しかし、梓は気持ちが悪いと言い始めた。皆心配にな
った。斉藤は蚊に指されても、直ぐに症状が出ることはないと言う。そ
の言葉を聴いても、梓の元気は回復しなかった。食事もほとんど手を附
けない。賢たちは梓の体力も心配になってきた。
翌日は少し遅めのスタートの予定だった。しかし梓が熱っぽいと訴えた。
食事は全く喉を通らないようだった。体に特に痛みを覚えるところはな
いようだったが、賢が梓の額に手を当てて見ると、確かに熱っぽい感じ
がする。梓はホテルに留まると言った。賢は梓の感染の有無を確認する
ことが先決だと思った。この日にドゴンの岩絵などを視察して、明日モ
プティに戻る予定だったが、賢は1日の延泊を決めた。斉藤が梓をマラ
リアの感染の有無を判定できるドゴン族の長老の元に連れてゆくこと
になった。賢は自分だけが付き添うと言ったが、亜希子も愛子も、ふた
りだけで外に出ることは控えたいし、ホテルに居てもすることが無いと
言った。結局全員、梓に付き添うことになった。梓は傍から見ても可愛
そうなほど、しょげ返っている。
「リーダー、済みません。わたくしのために予定を変更することになっ
てしまって」
「心配要らないよ。予定なんてどうにでもなるじゃないか。それより、
君の体のほうがよほど大切だよ。感染しているかどうかはっきりさせな
くては、これからの行程もおぼつかなくなってしまうよ」
斉藤が言った。
「先ずは、感染しているかどうか、白黒をはっきりさせましょう。それ
から今後の計画を決めたほうがいいと思います。でも潜伏期間がありま
すから、普通は最低でも1週間以上経ってからじゃないと検出できませ
んがね」
賢もその通りだと思った。梓が言った。
「わたし、自分を刺した蚊を潰しました。その蚊をビニール袋に入れて
持っています。それでも感染の有無が分かりませんか?」
斉藤が言った。
1663
「それなら、話は別です。直ぐに長老の所に行って調べてもらいましょ
う。それに貴女の熱の原因が何なのかはっきりさせたほうがいいと思い
ます。長老はいろいろな薬草を持っていますから、熱などは直ぐに直し
てくれますよ」
長老の元にはマラリアの検査が出来る試験装置があった。検査の結果が
出るまでに1時間ほどで済んだ。蚊はマラリアの病原菌を持っていなか
った。斉藤は、梓の熱はどうやら風邪が原因のようだと、長老の言葉を
通訳して言った。梓は、蚊に刺されてからというもの、屋内外を問わず、
長袖シャツを着、長めのパンツを履いていて、暑い外気の中で汗をかき、
風に当たって体を冷やしてしまうことを繰り返したので、体が温度変化
に対応できなかったのだろうとのことだった。それと、もう一つの大き
な原因は不安と恐怖心にあった。梓はマラリアに感染することに強い恐
怖心を抱いていたので、感染の可能性を知ったとき、その恐ろしさに、
体が動かなくなってしまった。そして、そのことで、体が不活性になっ
てしまっていた。それが発熱を引き起こした可能性が大きかった。蚊が
病原菌を保有していないことが分かると、梓は途端に元気になった。
「リーダー、お腹が空いたわ」
賢に甘えるように訴えた。正午に近かったので、賢は全員で近くのレス
トランに行くことにした。午後、各地を見学してから別の村に移動して
泊まることにした。一旦ホテルに戻り、直ぐにチェックアウトを行った。
斉藤が言った。
「最近、ここを訪れる外国人の観光客が増えたので、いいレストランが
ちらほら出来てきました。僕が案内します。どんな料理が好きですか?」
いつも遠慮がちにしていた梓が訴えるように言った。
「ピザが食べたいです。チーズが一杯載ったピザが食べたいわ」
賢は梓に食欲が戻ってきたのがうれしかった。亜希子と愛子もほっとし
たようだった。愛子は空腹だったので、梓の言葉に一層うきうきしてき
た。そろそろ日本で食べていた食事が恋しくなってきていた。
「運がいいですね。ピザを出してくれるレストランなら最近出来ました
よ。レストランと言えるかどうか難しいですがね。ピザのような味のす
1664
る食事ということで・・・・」
ビザを食べさせてくれるレストランはホテルの近くにあった。賢と斉藤
はビールを頼んだ。3人の女性はコーラを注文した。愛子を除いて他の
4人は、マルゲリータピザを頼んだ。愛子はソーセージの乗ったピザを
頼んだ。
「梓さん、それにしても、自分を刺した蚊を持っていたとは驚きました」
斉藤が言った。
「わたくしは怖かったんです。感染者の内の1パーセント程度であると
はいえ毎年100万人以上の人がマラリアで死んでいるんですから、も
し自分がハマダラ蚊に刺されたら、もう駄目かもしれないと思っていた
でしょう。そこにもってきて、先ず自分が刺されてしまったんですから、
もう、気が動転して、恐怖心で何を聞いても気もそぞろでした。うまく
蚊を潰すことができたので、蚊の死骸さえあれば、感染の有無を知るこ
とができると思い、直ぐに保存することにしたのです」
賢も感心した。
「流石に梓だ。そんなことを考えるんだから。それに、自分を刺した蚊
を潰すなんて、執念としか言いようがないな」
「リーダー、そんなにからかわないでください。わたしは真剣なんです
から」
全員笑った。シェフと思しき男性がビールとコーラを持って来た。白人
だった。一口飲むと、賢はあまりの冷たさに歯がしびれるような感覚が
した。
「すごく冷たいですね。どうしてこんなに冷やすんでしょうかね」
斉藤が言った。
「このあたりのレストランでは、冷やせるだけ冷やします。この冷たさ
が、暑さを吹き飛ばしてくれますからね」
コーラを口にした愛子が言った。
「コーラもすっごく冷えているわ」
チーズがたっぷり盛られた薄手のピザを運んで来たのはイタリア人の
シェフだった。シェフが自らそう名乗った。ドゴンに興味を持ってやっ
1665
て来てここに居付いたとのことだった。斉藤と愛子は久し振りのピザに
感嘆の声を上げた。
その日の午後はいろいろな村を見て歩くことになった。梓はまるで子供
のようにはしゃいでいた。そのはしゃぎぶりを見て、賢は愛子と梓をま
るで姉妹のように感じた。
ピザレストランを出てから再び車に戻り、暫く川沿いの道を走った。土
塀の珍しい家並み、川岸に沿ったあちこちの畑で婦人達が水桶や壺を手
にして水を撒いている。日本ではもう見なくなった牧歌的な風景だ。
一人の老人が、道路端で、地面に升目の図を描き、コテを使って地面を
均し、南京豆を撒いている。翌朝、枡の中に残っている青い狐といわれ
るジャッカルの足跡の付き方で占いをするのだと斉藤が説明した。一行
は車を停めてしばし見物した。愛子が斉藤に向かって質問した。
「あれは、どうやって占うのかしら?」
「僕もよく分からないんですが、あの占いをするには秘儀の伝授を受け
なければならないようです。まだ若くて経験の無い占い師は石で図を描
いたり、地面を均したりしますけど、秘儀に通じた高齢者はアカシヤの
コテを使うようです。あの老人もアカシヤのコテを使っていましたね。
アンマによる世界の創造という次元と陥落したオゴに関する次元とが
描かれていて、秘儀に通じたものでないと、ジャッカルの足跡のつき方
を判別できないようです」
「ふうーん、なんか難しそうですね」
愛子はそれ以上の質問はしなかった。2時頃ボンゴ村に到着した。5人
はそこで車を降り、斉藤に附いて岩山を登って行った。眼下には足のす
くむような崖が切り立ち、その向こうに広々と平原が望める。賢は意識
が拡大するような感覚を覚えた。暫く歩くとやがてバナニ村に到着した。
ドゴンの住居を見学してから、断崖絶壁のテレム人の住居跡も見学した。
「よく人が住むことが出来るものだわね」
女性達は感心していた。休息を兼ねて暫くのんびりしてから、また車で
移動し、クンドゥ村に向かった。途中で再び車を降り30分ほど岩山を
登って行くと、崖の下からは死角となる位置にクンドゥ・ドゴモの集落
1666
があった。賢はまるでアリゾナのアナサジの住居跡を見ているような印
象を受けた。子ども達が何かをねだって執拗に寄って来る。5人は、子
供達に何かあげたいと思ったが、何も持っていなかった。見学を終える
と賢が先頭を歩き、斉藤が最後尾に附いて下山した。車に戻り、宿泊予
定を変更したクンドゥ村のカンプマンという名の宿舎に向かった。テン
トに毛の生えたような宿だった。そこにははじめから蚊帳が用意されて
いた。特に夕方は神経を使わなくてはならない。梓は再び緊張した。持
って来た蚊除けのスプレーを嫌というほど体中に振り掛けた。夜は涼し
くなるとは言え、しばし休憩のつもりで入っていたテントの中が、あま
りにも蒸し暑くて気分が悪くなってきた。日が落ちてから5人はテント
を出て近くの食堂に向かった。夕食はオニオンスープとパンと豆の食事
だった。味は淡泊だったが、疲れていたため全員美味しく味わうことが
できた。賢と亜希子はふたりでテントの外に出てみた。満天の星空だ。
この世界にふたりだけしか存在しないような錯覚に陥る。アフリカの夜
は本当に静かだった。亜希子がポツリと言った。
「祐子お姉さま、今頃どうしていらっしゃるかしら・・・・・・・」
「*****」
フェニックス
4人はフェニックス・スカイ・ハーバー国際空港に降り立った。バマコ
から2日かかった。長い道のりだった。飛行機が着陸したとき、愛子は
「やったね!」
と言った。
「やっと着いたわ。ああ、よかった」
梓もほっとしたように言った。亜希子は3人の視線に会うと、少し微笑
んだ。賢の胸は高鳴った。両親に逢うのは何年ぶりだろう。飛行機の登
場口を出ると、カーッとした熱気が4人を襲った。しかし、直ぐに冷た
い空気に体が包まれた。空港ターミナルの中は冷房が効いていた。アメ
リカの入国審査はかなり執拗だった。指紋をチェックされ、虹彩をチェ
1667
ックされた。しかし、全員無事アメリカに入国できた。税関を抜けてE
XITから出るとそこに賢の両親が待っていた。父親は賢よりやや小柄
だが、体格のよいメガネを掛けた男性だった。黒々とした髪がふさふさ
としている。母は白人ですっと背が高く、ブラウンの髪をしている。や
や細身だが、まだあどけなさが残った顔をしている。母が手を振った。
「Hi, Ken. How are you doing?」
(ハイ、賢。元気にしてる?)
「Hi, Mom. Hi, Dad. I’m fine. How about you?」
(ハイ、ママ、パパ。
僕は元気だよ。お二人は?)
賢は小走りで母のところに近づくと、ハグした。
「We are OK, honey. But too busy now.」
(わたくし達は元気よ。だけ
ど、今はとても忙しいわ)
「You are always busy, aren’t you.」
(何時も忙しいんだね)
賢は日本語で仲間を紹介した。
「僕の友達の藤代亜希子さん、同僚の田辺梓さん、そして、手紙にも書
いたけど、幼女の愛子です」
3人の女性が頭を下げるのを待って、賢は両親を紹介した。
「皆さん、これが僕の父、病院の先生。こちらが母です。看護婦です」
5人はそれぞれ握手を交わした。父が車を取りに行くと言って駐車場に
向かった。5人は車の乗降口で待つことにした。母が女性達を気遣って、
たどたどしい日本語で話し始めた。
「アフリカから来たから、大変だね。疲れたね」
「ママ、大変だったよ。特に女性にはきつい行程だったな」
賢は確認するように3人の方を向いて、頷きながら言った。
「久しぶりなから、パーティあるよ。賢の好きなクラムチャウダーある」
賢は嬉しかった。英語で母に話し掛けた。
「You speak Japanese very well. When did you learn it?」(日本語が
とてもうまいね。何時習ったの?)
「毎日、ダディと話すことしてる。可笑しいか、賢?」
「We can understand what you mean. Ok, we shall speak Japanese
while we are here.」
(言わんとすること分かるよ。よし、僕らがここに
1668
居る間、日本語で話そう)
「いいよ。ダディも喜ぶ。ダディ病院で英語話す。日本語忘れる」
少しして父が車を乗降場所に停めた。日本車のサクセスだ。父はトラン
クを開けると、賢と二人で全員のスーツケースを積み込んだ。4つのス
ーツケースを入れてもトランクにはまだ十分な余裕がある。
「車は5人乗りだから、賢はトランクに入るか?」
父はまだ、賢を子ども扱いしている。冗談を言っているつもりのようだ。
賢はにっこり笑って言った。
「トランクは狭いから、屋根にへばりついているよ」
父と賢は顔を見合わせて笑った。父は後部座席のドアを開けると、女性
4人に乗るように言った。
「少しきついけど、暫く辛抱してね。賢は前に乗れ」
「あなた、静かに走るね」
「静かに走ってね、だよ」
「そうそう、静かに走って、ね」
「OK、good. それでいい。大丈夫だ。ゆっくり走るよ」
「ゆっくり走って、早く着いて、ね」
「Ok, naturally.」
(うん、そうだ)
父は車をスタートさせた。
「英語だめ、日本語話すよ」
「英語はだめ、日本語を話そうね、だよ」
「OK、英語はだめ、ね。日本語を話そう、ね」
「Good.いいぞ、その調子だ」
父と母の冗談交じりの会話を聞いているうちに、車は空港のエリアから
出て砂漠の街に入った。賢の胸に懐かしさがこみ上げて来た。一旦14
3号線ホコハン高速道路を通り、レッド・マウンテン・フリーウエイに
入った。記憶が次第に蘇ってくる。
「ダディ、今日は何曜日?」
「日曜日だよ。アフリカに行くと曜日も分からなくなっちゃうのか?」
父は笑いながら応えた。この道は202号線だ。それから別のフリーウ
1669
エイ101号線に移るはずだ。ピマ・フリーウエイを北に向かって走っ
てゆく。それまで黙っていた愛子が声を出した。
「砂漠の中のような、それでも緑がきれいな街、賢パパ、ここはどこ?」
「あの緑はみんな芝生だよ。フーバーダムから水を引いているんだ。暑
い砂漠に出来た街だから、絶えず水をやらないと、みんな枯れちゃうん
だ。ここはフェニックスの隣、テンピっていうところだよ。だけど直ぐ
にスコッツデールという街に入る」
賢がそう言うと、父が
「もう、スコッツデールだよ、もう少ししたらフリーウエイを降りる」
と言った。少しして母が愛子に言った。
「愛子さん、あと少しで、マイハウスに着くよ。皆、疲れているよ。シ
ャワーを浴びるから、パーティをするよ。
Did I speak correct
Japanese?(わたし、日本語を正しく話したかしら?)
」
フリーウエイを降りる側道に出ながら父が言った。
「You’d better to speak like this (こう言ったほうがいいよ)“みなさん、
疲れているでしょう。シャワーを浴びてから、パーティをしましょう”」
「Oh, yes, I know it. (ああ、そう、知っているわ)“みなさん、シャ
ワーを浴びてから、パーティをしましょう、ね」
3人の女性が「はい」と声を合わせて応えた。賢と父は声を出して笑っ
た。父が言った。
「お前と、よく一緒に居た友達、何と言ったかな?彼は来ないのか?」
「数馬のこと?あいつは結婚したんだ。これからはそう一緒には行動で
きないよ」
「そうか、彼も結婚したのか、賢、お前はどうなんだ?」
「ダディ、その話は、また後にしようよ」
「そうだな、おっと、もうじきマイハウスだ」
100メートルほど走って、右折し、そこから小道に入ると父はココナ
ツの木を左右に2本ずつ植えてある大きな2階建ての家に向けて右に
ハンドルを切った。車庫のシャッターが自動的に上がる。車庫の手前で
父は車を停めた。
1670
「ここで降りたほうがいいね。荷物も降ろさなければならないし」
「ダディ、引っ越したの?」
「うん、1年前に引っ越した。今度はプールもあるぞ」
窓が沢山ある大きな家だった。車から降りると、また熱風に体が包まれ
た。父と賢が二人がかりでスーツケースをトランクから出した。女性達
は少し緊張していた。母はスーツケースを引いて、もじもじしている女
性達を促し、入り口のドアまで案内した。父は車を車庫に入れる為にま
た車に戻った。車が車庫に入るとシャッターが自動的に降りた。父は車
庫の中から家に入るようだった。賢は辺りを見廻していたが、皆が先に
行ってしまったので、スーツケースを引きながら急いで母の後を追った。
「みなさん、どうぞ、さあ、入ってください」
母はそわそわしている。扉を潜って中に入るとそこは吹き抜けの大広間
になっていた。鉢植えの観葉植物がいくつも飾られていて、左手奥にグ
ランドピアノが置いてあった。右側に広い階段があり、2階のテラスに
繋がっている。左手のピアノの横奥にカウンターバーがあり、棚にウイ
スキーやブランディーが並んでいた。ピアノの手前の広い空間には12、
3人ほど掛けられるソファーがL字型に置かれている。そのスケールに
愛子と梓は呆然としていた。亜希子は特に驚いた様子は見せなかったが、
その場の雰囲気に、日本の自分の家には無い独特の暖かさを感じていた。
父が階段の脇にあるドアを開けて入って来た。
「さあ、皆さん、ソファーに腰掛けて。ママ、コーヒーを入れてくださ
い」
「はい、パパ」
「まあ、休憩してから、部屋に案内しましょう、スーツケースはそこに
置いて、さあ、座りましょう」
母はカウンターバーに行き、コーヒーサイフォンのスイッチを入れた。
直ぐにコーヒーの香りが立ち込めてきた。父は皆をソファーに座るよう
促した。賢も父と一緒に、3人の女性を促した。3人は遠慮がちに隅の
ほうに並んで座った。賢は父が腰掛けた一番奥のソファー、父の隣に座
った。母がコーヒーを運んできた。
1671
「Everybody, (皆)、コーヒー飲みましょう、これはキリマンジャロです
よ」
父が言った。
「皆、本当に疲れたでしょう。今日は、特にみんなの予定が無ければ、
この後、部屋に案内します。ゲストルームが3部屋あります。一人一部
屋です。バス・トイレも部屋にあります。もちろん空調もありますから
心配いりませんよ。それから、外にはプールがありますから、水浴びし
たら、汗が引くかもしれませんね。水着はママのを使えばいいですよ。
いいね、ママ」
「My pleasure. OK ですよ。セパレートもワンピースも OK。 大丈夫
だよ」
愛子がちょっと小さい声で言った。
「わたし、泳いでみたい」
賢が笑いながら言った。
「そうだ、後で、愛子は水着になって、バレエを踊って見せたらどうだ?
その後で、プールに入ったら?」
「・・・でも、恥ずかしいから・・・・」
「いいじゃないか。ダディ、ママ、愛子はバレエを習っているんだよ」
「それ、素敵だね。わたしは見せてほしいです」
ママが、興味深そうに言った。父も「ぜひ見たい」と言った。愛子は顔
を赤らめながら頷いた。10分ほど休憩すると、4人は父の案内でゲス
トルームに向かった。ゲストルームは2階にあった。階段の脇に荷物用
のエレベータが設置してあった。父が先に2階に上がった。賢が下から
スーツケースを一つずつ送った。父が2階でそれを受け取る。インター
ホンで会話している二人は、同居している家族のような雰囲気だった。
3人の女性は賢の横で自分のスーツケースが上がってゆくのを見てい
た。スーツケースを全部上げてしまうと、4人は横の階段から2階に上
がった。階段は途中に踊り場があり、そこから吹き抜けの部屋を一望す
ることができた。3つのゲストルームは2部屋がツインベッドルーム、
1部屋がシングルベッドルームだった。愛子がシングルベッドルームに、
1672
亜希子と梓がツインの部屋に案内された。どの部屋も30㎡ほどの広さ
だった。あまり広くはないがシャワーとバス、トイレ、それに洗面台も
附いていた。3人の女性は喜んだ。3人にシャワーを浴びるように言う
と、父は賢を連れて賢の部屋に向かった。50㎡ほどの部屋だった。以
前住んでいたときのままの状態が再現されていて、壁には大きな書棚が
括りつけられていた。以前の書籍がそのまま入れられている。
「ダディ、ありがとう。感激したよ。昔のままじゃない」
「うん、賢がいつ帰って来てもいいようにしてある。わたし達には、お
前しかいないからな」
母が開け放してあったドアから姿を現した。
「Ken, do you like it? 」
(賢、気に入った?)
「Thanks Mom. I’m surprised you could have kept my things for a
long time.」(ありがとうママ。僕のものを長い間、取っておいてくれた
んで、びっくりしたよ。)
「Of course. You are only our lovely son, honey.」(勿論よ。たった一人
のかわいい息子ですもの)
ベッドメイキングもしてあり、直ぐに休めるようになっていた。
「Your clothes are in this chest, Ken. Anyway, take shower first and
come down to the dining room with them.」 (衣類はここの小ダンスに
あるわ。兎に角、先ずシャワーを浴びて、みんなと一緒に食堂に降りて
来てね)
両親はそう言うと、二人揃っていそいそと賢の部屋を出て行った。賢は
自分がこの上なく愛されていることに胸が熱くなるのを覚えた。
賢は3人の女性を連れてダイニングルームに下りた。
「賢パパ、わたし、どうすればいいかな?」
「いつものままの愛子でいいよ」
「だけど、わたしは、賢パパの娘なのよ。何かしないといけないんじゃ
ないかな?」
「まだ、何もしなくてもいいよ」
「そうだね。まだ、わたしは、誰でもないものね」
1673
「うん、これから、誰かになってゆくんだよ」
「分かったわ。わたしね、この服の下に、さっきお母さんから貸しても
らった、水着を着ているのよ」
愛子はオレンジ色のワンピースを着ていたが、よく見るとうっすらと水
着の影が浮き出ている。
「そうか、バレエを踊るんだな。それは楽しいね」
亜希子は白のワンピースを着て、左の胸にバマコの空港で買った欄のコ
サージュを着けている。梓はベージュの上着と、グレーのスカートを身
に着けていて、ビジネスウーマンの印象がする。4人がダイニングルー
ムに入ると、テーブルの上には既にテーブルウエアが用意されていて、
父がワイングラスを並べているところだった。
「おお、皆来たか。さあ、自由に座って」
テーブルには10人分の椅子が置かれていた。端から2席空けてその横
に賢は座った。3人の女性は、どこに座ったらいいか迷っている。
「何処でもいいんだけど、そうは言っても迷うよね。亜希子さんはわた
しの隣、その横に梓さん、そして、愛子ちゃんは賢の横に座るといいか
な?」
父の言葉で3人は席に着いた。愛子がもじもじしながら言った。
「わたしは、お父さんのことを何と呼んだらいいですか?」
「はっはっはっはっは、そうだな、
・・・うん、ビッグパパがいいかな、
なあ、賢」
「うん、いいかもしれないね、ダディ、グランパじゃ可哀想だしね」
「こら、賢、・・・さあ、ママが来たら乾杯しよう、ママ、ママー」
父は後ろを向いて母を呼んだ。どうやら後ろ側がキッチンになっている
らしい。ダイニングルームからは見えない。ママが大きな、チーズとサ
ラミ、コーンチップを盛った皿を2つ持って来た。
「ハイ、パパ、皆さん、お待ちさま」
「お待ちどうさまだよ。さあ、ママ、席に着いて、一度乾杯しよう」
母が持って来た皿を賢の前と、梓の前に置いてから、
「わたくし、ここ、OKね」
1674
と言いながら賢の横の席に着いた。父が愛子以外のグラスに白ワインを
注ぎ、愛子のグラスにコーラを注いだ。
「Here’s to them, to their happiness! Toast!」
(彼らの未来に、彼ら
の幸福に、乾杯)
「Toast!」(乾杯!)
全員が唱和した。皆それぞれに飲み物で口を濡らすと、微笑を浮かべな
がら静かにグラスを置いた。梓が言った。
「あのー、お父様、一つお聞きしてもいいですか?」
「はい、田辺さん、どうぞ、ご遠慮なく」
「はい、えーと、どうして Here’s to you. To your happiness.とおっし
ゃらなかったのですか?」
「はっはっはっは、ああ、そうだね、普通は you だよね。ごめん、ご
めん。だけど、もうわたくし達は、十分すぎるほど幸せだろう、だから
他の人たちに幸せになって欲しいじゃないか、だから、them と言った
んだよ」
梓は感心したように頷いた。賢は亜希子の目にうっすらと涙が浮かんだ
のを見逃さなかった。ママが言った。
「わたしは、パパのそれが、大好き、だから、結婚したよ。
・・・・藤
代さんと田辺さん、賢の友達?」
賢は「Yes」と言って、亜希子と梓の顔を見た。梓が言った。
「わたくしは、賢さんと一緒に仕事をしている仲間です。この旅は
Business trip(出張旅行)です」
「そうなのね、大変です。アフリカとアメリカ、暑いです。病気ないで
すか?」
父が補足した。
「アフリカもこのアリゾナも暑いところだから、本当に大変だね。ママ
は、体が大丈夫か聞きたいんだよ」
梓は微笑んで応えた。
「ありがとうございます。アフリカで蚊に刺されて、パニックになりま
した。でも、大丈夫だったようです。心配だから日本に戻ったら、また、
1675
検査をし直してみます。それ以外は大丈夫です」
「おお、そう、大変だね。藤代さんは、OK ですか」
母は言葉を捜しながら、一生懸命話し掛けている。
「はい、お母様、わたくしは、大丈夫です」
「よかった。OK なの、ね。あなたは、賢の友達ですか?」
「はい、でも、ガールフレンドです」
父が間に入って言った。
「おお、そうか、君はガールフレンドか。君達は結婚するつもりか?」
亜希子の顔が、アルコールの影響かどうか分からないほど、ほんのり赤
くなった。愛子はキョトンとしている。愛子は“ガールフレンド”が“恋
人”の意味だということを知らなかった。女友達と紹介されて、直ぐに
結婚の話をするのが、理解できなかった。賢が言った。
「ダディ、亜希子は永遠の Girl Friend なんだ。だけど、僕はまだ、結
婚はしません。
」
一瞬硬くなった梓の顔に、少しく微笑が浮かんだ。母が、微笑みながら
席を立った。
「料理の準備、するね。ちょっと、待ってね」
愛子が直ぐに立った。
「ビッグママ、わたし、手伝います。」
その声を聞いて、父が笑った。賢も笑った。
「わっはっはっはっは、ビッグママはいいね。愛子ちゃん、だけど、マ
マが、ちょっと可哀想だね。ただのママと呼んであげて」
父がそう言うと、愛子はすまなそうに言った。
「ごめんなさい、わたし、何と呼んでいいかわからなくて」
「愛子さん、いいのよ、わたしは、ビッグママ、好きだよ。愛子さん、
手伝ってくれる?こちらに来てね」
ママが言った。亜希子と梓も席を立って、母の後に附いて行った。父と
賢だけになった。
「賢、おまえ、いずれ亜希子さんと結婚するのか?」
「いいえ、ダディ、僕はずっと結婚するつもりはありません」
1676
「だけど、この社会じゃ、それが普通じゃないのか?」
「はい、ダディ、それは分かっていますが、まだ、自分が何者か分かっ
ていません。もう少し、自分のことが分かってからにしたいのです」
「自分のことが分かったら、亜希子さんと結婚するのか?」
「・・・・僕には、もう一人心から愛している人がいます。その人は今、
アフリカに居ます」
「そうだったのか。それで、その人はアフリカで何をしているんだ?」
「はい、人びとを助けています。僕は、その人と、一生共に生きようと
心に決めています」
「だけど、亜希子さんもガールフレンドなんだろう?」
「はい、矛盾しているようですけど、真実です。二人とも愛しています。
ぼくは、普通の人のように、一人の女性だけを愛し続けて、他の人とは
普通に付き合うということができないんです。直ぐに愛してしまうんで
す。あの田辺梓のことも、もう愛しています」
「おお、それは困ったもんだ。それじゃ、皆を不幸にしてしまうな。そ
れじゃ、結婚はできないな」
「はい、だから、自分自身のことが分かるまでは、結婚はしないつもり
です。ただ、アフリカに居る女性とは生死を共にしたいと思っています」
「その女性は何という人だ?」
「はい、崎野祐子といいます。今は藤代家の養女になって亜希子の姉に
なっていますが」
「そうか、なんか複雑だな。だけど、お前の気持ちはどちらの女性に向
いているんだ?」
「はい、ダディ、僕にはどちらのほうが好きとは言えないのです。両方
とも大切で、愛しているんです。この気持ちはどうすることもできませ
ん。ダディ、僕は異常なんでしょうか?」
「異常なことはないと思うけど、普通の男性とは違うようだな。あらゆ
る女性に性欲を覚えるのか?」
「いいえ、ダディ、そういう動機は無いんですが、近くに居ると好きに
なってしまうんです。女性だと成り行きでそういうことになることもあ
1677
りますが、男性に対しても同じような感情が沸き上がってくるんです。
何と言ったらいいか、相手と居ると、自分が無くなって、相手になって
しまったようになるんです。それも、意図しないうちにそうなってしま
うんです」
「そうか、以前スワミが、お前はある目的を持って生まれてきたと言っ
ていたが、そのことと関係あるのかな?」
そう父が言うと、母がスープの入ったボールを持って戻って来た。愛子
がスープ皿を持って後から附いて来る。亜希子がフランスパンの入った
バスケットを、梓がバターの皿と取皿を持って来た。女性達はパンとス
ープの準備をしてから、再び厨房に戻って行った。賢は亜希子を観た。
亜希子も賢に視線を投げ掛けた。二人の目と目が合った。亜希子は目を
伏せて、そのまま厨房に消えた。
「そうは言っても、日本やアメリカじゃ一夫一婦制だから・・・・それ
で、結婚できないのか?」
「ダディ、違うよ。僕は結婚して、生活することに重点が置かれた人生
を生きたくないんだ。子供を育て、休みには子供を遊園地に連れて行き、
夜には妻とひと時を過ごす。平凡でいいとも思うけど、それが総てにな
りそうで、もっとしなくてはならないことが一杯あるようで」
「まだ、今の内はいいか。もう少ししたら、もう一度真剣に考えてみた
ほうがいいな」
「はい、ダディ、そうします」
女性達は直ぐに料理を持って来た。シュリンプカクテルとポテトサラダ、
チキンのソテー、ロブスターテイル、イカのフライがテーブルの上に並
べられた。スープはオニオンスープだった。
「ママ、それにみんな、大変だったね。ご馳走じゃないか」
「パパ、皆、手伝ってくれた。だから、早くできた、Good、ね」
5人にとっては久しぶりのご馳走だった。女性たちが席に着くと父がも
う一度全員のグラスにワインを注いだ。食事が始まった。母は再び席を
立ってスープをよそったり、サラダを取皿にとって配ったり忙しく動き
廻った。
1678
「みんな、一番好きなものと一番嫌いなものを教えてくれないか。自分
が一番幸せを感じるものをね」
「ダディ、それはどういう意味?」
「いや、難しく考えないで、たとえば、わたしだったら、一番好きなも
のはママ、一番嫌いなものは蠍だな」
「ああ、そういうこと。これなら皆応えられるよね。じゃ、ママから言
ってみて」
賢が父をフォローした。ママがサラダとスープを給仕し終わって席に戻
りながら言った。
「さあ、皆さん、召し上がれ。さあ、どうぞ・・・・・わたしの、一番
好きなもの、それはパパ、ねえ、パパ。一番嫌いなもの、それは Good
by」
賢はウームと唸った。そしてスープのスプーンを手に持ちながら言った。
「じゃ、僕が次に言うね、僕の一番好きなもの、それは愛、一番嫌いな
もの、それは真実でないもの」
亜希子が言った。
「真実でないものって、嘘のことですか?」
「言葉による嘘じゃなくて、自分を偽ることだよ。これが一番嫌い
だ。
・・・じゃ、次は梓が言ってみて」
梓は食事に手を付けずに自分に順番が廻ってくるのを待っていたよう
だった。
「はい、わたくしの一番好きなものは朝日です。そして、一番嫌いなも
のは暗闇です」
父が言った。
「なるほど、光と闇だね。うん、とても美しいこたえだね」
賢が亜希子を指名した。亜希子は水を少し口に含み、ナプキンで口を拭
ってから言った。
「わたくしの一番好きなもの、それは、或る方です。一番嫌いなもの、
それは人々の苦しみです」
賢が言った。
1679
「或る方って、祐子のことかな?」
亜希子は首を横に振って言った。
「前にも申し上げました。祐子お姉さまは2番目に好きです」
賢はそれ以上聞かなかった。父も母も黙っていた。賢が言った。
「愛子、お前はどうだ?」
「わたしは一番好きなものはありません。一番嫌いなものもありません。
みんな好きです。・・・・賢パパ、一つ聞いてもいいですか?」
賢が言った。
「皆好き。嫌いなものが無い。皆好き・・・・・・・で、何か質問?」
「さっき賢パパが一番好きなものを愛って言ったでしょう。愛って、好
きとか、嫌いとかいうものかしら。ちょっと疑問に思ったの」
父と母は微笑みながら賢を見つめた。賢が言った。
「人を愛することが好き、人に愛されることが好き、自分が愛そのもの
になり切りたい。愛だけを抱いて、この世界を生きたい。愛の中で死ん
で逝きたい。だから、愛が一番好きなんだ」
「なんか、分かったような、分からないような。でも愛が最も大事だと
いうことね」
「そうだよ。愛子の言う、嫌いなものが無い状態もそれに近いかもしれ
ないね。
・・・ところで、ダディ、どうしてこんな質問をしたの?」
「それは、君達がどういう人か知りたかったからだよ。わたしの思って
いた通りの人たちだった。さあ、どんどん食べて・・・・」
「皆さん、ドレッシング5種類あるよ。選んで、ね。ロブスターおいし
いよ」
ママがみんなの食事の進み具合を見ながら言った。食事をしながら、ア
メリカでの視察予定に附いて賢が説明した。父と母はふんふんと相槌を
打ちながら聞いていた。
「ダディ、ママ、そのナバホの人たちとコンタクトを取ることはできる
のかな?一応、日本でガイドの予約をしたけど、アメリカは現在、昔よ
りもずっと複雑な世界になっているでしょう。自然と共存していたアメ
リカンインディアンの生き方なんてもう薄れてしまっているんじゃな
1680
いかと心配でね」
「うん、それはそうだな。純粋にネイティブなインディアンの生き方を
継承している人たちがどれほどいるか、確かに疑問だな。わたしの知り
合いに会ってみるか?わたしの患者だった人だけど、「アメリカンイン
ディアンの現在の姿は自分達が呼び寄せた姿だ」って言っていた。
「悲
しいけれど仕方がないんだ」ってな」
亜希子が言った。
「アメリカンインディアンの人たち、大勢殺されたんですね。わたくし
本で読んだことがあります。随分残酷だったって。無抵抗な老人や子供
達も皆殺されたって。まるで、ルワンダで見たジェノサイドで殺された
人たちのようだったって」
「悲しいことだけど、事実だな。そのインディアンの人たちの犠牲の上
に、現在のアメリカという国があるんだ。自由と平等を歌った国がね」
父が少し皮肉っぽく言った。母が全員の食事が進んでいないのが気にか
かった。
「みんな、あまり食べていない。食事食べてください」
母に言われて、皆それぞれに意識を食事に移した。
「人を殺すときはどんな感覚なのかしら?動物を殺すときと同じなの
かしら?つい先日、口帝疫で多くの牛や、豚が殺されたわ。12万頭も。
動物を飼育していた人たちは、心の病に陥ったって、ニュースでキャス
ターが解説していたわ。東日本大震災の後で起きた福島原発の避難勧告
の時、沢山の畜産農家の人たちが家畜を置き去りにしなくてはならなか
った。そのときの畜産業の人たちの悲しみは、どれほど大きかったかし
ら。広島に原爆を落とした人、そのとき原爆投下のスイッチを押した人
は、
「日本がパールハーバーの奇襲をやったから、たとえそのスイッチ
で10万人が死んでも、自分は詫びる気持ちなどない」と言っていたわ。
人の命、生き物の命って、一体何なのかしら。その命を簡単に奪う人た
ちは、命をどう考えているのかしら。何も考えていないのかしら。とて
も、辛いわ。わたくしは自分が生きることで、沢山の生き物の命を奪っ
ていると思うと、自分が本当に生きる価値があるのか疑問に思ってしま
1681
うのです。わたくしはステーキも鶏肉もいただきます。でもそれは動物
達の命を奪った結果与えられたものでしょう?そう考えると、とても辛
くて・・・・」
「亜希子、僕達の存在は与えられたものだよ。生はプロセスだ。この生
が総てじゃない。自分が存在を許されている限り、自分の生存に必要な
ものの命は奪わざるを得ない。許しを請い、感謝して他の生き物の命を
奪うしか生きる方法は無い。それでも奪うことに変わりは無い。ジェノ
サイドの人たちも、口帝疫で動物を沢山殺した人たちも、命の尊さとい
うようなことは意識の念頭に無かったと思うよ。だからそういう無感覚
にならないために、常に意識を生起させて、自分自身として生きている
必要があると思うんだ。自分という存在はこの世界に存在すること自体
で、自己責任が生じているんだ。この世界は写された像の世界だから、
心の純粋さと、愛がその基底に無いと歪を生じさせて、その結果、ジェ
ノサイドも平気でやってしまうようになるんだと思う」
「賢、難しい話は後にしよう。先ず、食事を楽しまなくちゃ」
「そうだね、ダディ、ごめんなさい」
梓が父に聞いた。
「お父様、どうして、お医者様になられたのですか?」
「わたしは子供の頃、周りに病気に罹っている人が大勢いる環境で育っ
たんだ。おじさんは肺がんだったし、母親は糖尿病だったし、姉は子宮
内膜症だったし、隣の家にはアルツハイマーの老人が居て、前の家には
小児麻痺の子供が居た。2軒離れた向こうの家には、イタイイタイ病の
患者とその奥さんが白血病を患っていた。それぞれ、病院に通ったり、
いろいろな療法を試してみたりしていた。しかし、どの人の病も癒えな
かった。一時は改善したように見えても、また直ぐにぶり返したり、病
院の治療で返って症状が悪化した人もいた。病気で苦しんでいる人たち
を見ていて、こういう人たちを、自分の力で何とか治してあげたいと思
ったんだ。それも、先端技術を使った医療で、完全に治してやりたいと。
それで英語を勉強して、高校の時にアメリカに渡ったんだ。医者になる
のは並大抵の努力じゃなかった。でも、何とか医者になれた。そして、
1682
今では、この道を選んでよかったと思っている。しかし、病は、医者だ
けの力ではどうにもならないことが分かってきた。患者自身の力が必要
だとわかった。わたしの治療には西洋医学だけじゃなくて、東洋医療の
技術も取り込んでいて、精神的な療法なんかも使っている。特に原因の
分からない病気にはオステオパシーという方法を使ったりして、患者の
自己回復力で、直すことも行っているんだ。退行催眠や、自己暗示法を
使うこともある。これが手術を行うときに麻薬よりも有効に作用するこ
とがあるんだ。まだまだ、人間の体には分からないことが沢山ある。だ
から、挑戦のし甲斐があるんだ」
食事の手を休めて話し込んでいる父の姿を見て、母が頷いている。母が
父を尊敬していることが梓には一目で分かった。
「ああ、すまない、自分の仕事の話になるとつい夢中になってしまっ
て・・・・さあ、皆、鳥やエビ、イカのフライも、もっと食べて・・・」
食事が済むと、女性達は片付けを行った。父と賢はグランドピアノの置
いてある居間に移動した。父がスタンドバーに行き、コーヒーのセット
をした。それから2つのブランディグラスにヘネシーを注いで持って来
て、一つを賢に渡した。ふたりはソファーに腰掛けた。
「賢、よく来てくれたな。ママは本当に喜んでいるよ。お前が人びとの
意識を改革するプロジェクトに参加していると聞いて、正直、そんなこ
とができるのだろうかと思っていたが、こうして、実際に世界中の霊的
に高いレベルにあると言われている場所を訪れている姿を見ると、その
真剣味を感じるよ。しかし、本音を言えばやはり難しいんだろうな?」
「このプロジェクトは極秘だから、詳細はダディにも話せないけど、僕
は試行を通してしか、人々の意識に影響を与えるような効果は得られな
いと思っているんだ。これは感だけどね。だから、実際にそういう霊的
に調和して生きている人たちの姿を見てみたかったんだ。その結果を試
行に取り入れようとしているんだ」
「そうか、それ以上は話さなくてもいいよ。それで、ここではナバホか
ホピを調べようと考えているんだな」
「うん、そうなんだ。彼らの生き方を観てみたいんだ」
1683
「そうか、さっき言った私の知り合いを紹介しても良いぞ」
そう言うと父はスタンドバーに戻って、そこにある電話番号簿を繰り、
暫くしてソファーに戻って来ると、ニコニコしながら名前と、電話番号
を書いた紙切れを賢に渡しながら言った。
「賢、彼はいつでも会ってくれると思う。これが電話番号だ。彼の名前
は Martwain Gausfawlflyer、現在はインディアン・ジュエリーの店を
経営している。必要ならお前が自分で電話を掛けてアポイントメントを
取りなさい」
女性達4人ががやがやと話をしながら、リビングルームに入って来た。
「パパ、愛子ちゃんがダンスする。ミュージック、どうぞ、ね」
「まあ、皆、座りなさい。コーヒーでも飲んで、一息入れてから拝見し
よう」
父はスタンドバーに行くとコーヒーの支度をした。賢が梓にホピの調査
の予定を確認した。梓は「翌日はセドナで日本から予約したガイドの知
人の家を訪問し、その日はセドナに泊まり、その翌日は、ホピの居住区
に行って原住民にコンタクトを取ったらどうか」と言った。賢は今回は
父の友人に会う時間はなさそうなので、次の機会に伺おうと思った。翌
日はガイドにホピの居住地セドナを案内してもらうことにした。梓がガ
イドに電話を掛けて、翌日のピックアップを依頼した。賢と梓が予定を
相談している間、愛子と母はダンスの話をしていた。
「愛子さん、バレエのレッスンしている?」
「はい、ママ、でも、まだ習い始めて半年しか経っていません」
父が4人分のコーヒーをトレイに載せて、持って来た。コーヒーカップ
を一つずつ女性達の前に置きながら言った。
「そうか、愛子ちゃんは、バレエを始めたばかりなのか。それじゃ、ま
だ曲は無理かな?」
「はい、でも、わたし、音楽に合わせて踊りたいです」
父も母も当然愛子のバレエに期待を寄せる訳はなかった。しかし、他の
3人はこの半年間で、愛子のバレエが垢抜けしたのを知っている。コー
ヒーを一口啜ると、愛子はスタンドバーの隅に行って、ワンピースを抜
1684
ぎ水着になった。父は空のトレイを持ってスタンドバーに行き、それを
置きながら、愛子に言った。
「どんな曲でダンスしたいの?」
「白鳥の湖がいいです。ビッグパパ、一番踊り易いので」
「OK、白鳥たちの踊りの部分でいいかな、あの有名な部分、あれなら
ピアノで弾けるよ」
「わぁ素敵、白鳥たちの踊りの部分でいいです。お願いします」
父はグランドピアノに向かい、スタンバイした。愛子はソファーの前に
戻るとポワント(爪先立ち)の態勢をとった。賢と亜希子は愛子がいつ、
トーシューズを荷物に入れたのか、その執念に感心した。父が愛子のス
タンバイのポーズを見て、ピアノを演奏し始めた。美しいピアノの音色
が響いた。賢は父のピアノの演奏を久しぶりに聞いてうっとりした。母
もその音色に同調するように深く息を吸い込んだ。そして、愛子に目を
向けて驚いた。その踊りは優雅で美しかった。母は今まで何度かバレエ
を見たことがあったが、どの劇場でも、愛子ほど美しい踊りのできる踊
り子は居なかった。空中を舞う鳥のように踊り廻る愛子の姿は、全員の
視線を捕らえて釘付けにした。母は感動して涙を流した。踊り終わると、
愛子は深く辞儀をした。全員拍手をした。いつまでも拍手していた。
「愛子さん、わたし、素晴らしい孫を持ったわ。あなたのこと、うんと
好きになった。わたしの、愛子さん」
母は立ち上がって愛子の所に行くと、軽くハグした。
「ママ、ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます。賢パ
パ、ありがとうございます。そしてビッグパパ、素敵な演奏ありがとう
ございます」
「愛子ちゃんはまるで、プリマドンナだな。ダンスも挨拶も一流だ」
父が感心して言った。皆頷いた。父が賢に向かって言った。
「賢、アフリカでの体験を話してくれないか?」
賢は返事をする前に、梓と亜希子の顔を見た。梓は僅かに頷いたようだ
った。亜希子は視線を落とした。賢が応えた。
「ダディ、アフリカの体験には2つあるんだけど、一つは過去の経過を
1685
説明してからでないと理解が難しいと思うから、もう一つの体験、ドゴ
ン族の村を訪ねて長老オゴンから聞いた話を少し紹介するよ」
賢はドゴンの神話アンマとノンモの話を、要点を絞って話した。父はド
ゴンの生き方はアメリカンインディアンの生き方に通じると言った。
「その生き方は、世界中に分散しているどの古代人の生き様にも、共通
しているような気がするな。賢、そう思わないか?日本の縄文時代も同
じだ。わたしは書籍でアフリカの祈祷用の面を見たことがあるが、縄文
時代の面や、土偶の顔によく似ていた。あのデフォルメの技法は、現在
の我々の文明からは出て来ない」
「ダディ、その通りだと思うよ」
「そうか、意見が一致したわけだ・・・・ところで、愛子はプールで水
浴びをしたいと言っていたな」
「はい、ビッグパパ、いま水着だから、そのまま泳いでもいいですか?」
「愛子、お前、泳げたっけ?」
賢がからかった。愛子はまじめに応えた。
「賢パパ、学校の授業で教わったわ。それに、本当は学校では禁止して
いたけど、友達と何度か、こっそり紀ノ川で泳いだこともあるし」
「分かった。気を付けて泳げよ。
・・・そうだ、僕も一緒に泳ぐよ」
賢はそう言うと、父に向かって水着を貸して欲しいと言った。母が、賢
の部屋には水着ばかりでなく、他の衣類なども総て用意してあると言っ
た。賢は急いで階段を駆け上がると自分の部屋で水着に着替え、タオル
を2枚持って降りて来た。愛子がトーシューズを脱いで待っていた。二
人の女性はそのまま賢と愛子の後に附いてプールサイドに出た。プール
は長さ15メートル、幅7メートルもあり、個人の家のプールとしては
大きい方だった。賢と愛子は体に水を掛けた。プールの水は生温かかっ
た。ふたりはいきなりプールに飛び込んだ。ふたりが気持ちよさそうに
泳いでいるのを亜希子と梓はじっと見つめていた。暫くして、父と母も
プールサイドに現れた。空の星が美しく輝いていた。
翌日、4人は朝食を済ませてから、夫々が小バッグを持ってガイドが来
1686
るのを待った。梓は小バッグにカメラを入れて肩から提げている。父と
母は「今日はみんなが出かけた後で病院に通常の勤務に出るが、翌日は
みんなが帰るまでには帰宅している」と言った。
ガイドは8時過ぎにワゴン車を運転して来た。ナバホ族の青年だった。
目は二重で鼻は高く顔全体に濃い髭を伸ばしている。肌の色は日本人と
変わらない。背丈は賢と同じくらいである。
「Good Morning. Nice to meet you, everybody. My name is Richard
Dedjim.」(おはようございます。皆さんはじめまして。わたくしはリ
チャード・デジムです。
)
4人はそれぞれ挨拶を交わし、リチャードと握手をした。リチャードは
全員車に乗り込むと、直ぐに出発した。賢は見るもの総てを懐かしく感
じた。片道5車線もある北ブラックキャニョン・フリーウエイを飛ばし
てゆくと、工場地帯を通り過ぎた辺りから次第に建物が消え、サボテン
や潅木の目立つ荒野に変わった。そこは賢がいつもボーリング(つまら
ない)と思っていたところだが、今こうして車窓から眺めていると、そ
の単調な景色に何とも言えぬ郷愁を覚えるのだった。無限に続くのかと
思われる白っぽい砂漠の遠方に山々が現れてきて、茶色の砂岩の岩肌が、
近づき、また遠ざかる。左手にいくつものメサの大地が続く。北上する
に従って土地の高度が上がるためか、周りの植物も背丈が低くなってゆ
く。やがてサボテンはほとんど無くなり、針葉樹などの山岳に見られる
木々が現れてきた。フリーウエイはいつしか、片道2車線のハイウエイ
のような曲がりくねった山道になってきた。賢は車の窓を少し開けてみ
た。外の空気が流れ込み、室内のクーラーの冷気と入れ替わるかのよう
に爽快に感じられた。スコッツデールのあの熱気もいつしか消えていた。
セドナの辺りではもうひんやり冷たい空気が素肌に当る。リチャードは
無口だった。賢たちもほとんど会話をしなかった。4人とも時差で眠気
を覚えていた。時々愛子が「ここはどこ?」などと寝ぼけ眼で賢に訊い
ていた。フェニックスからフリーウエイを飛ばしておよそ3時間でセド
ナの街に着いた。このあたりはオアシスの感じがする。かつてはアメリ
カンインディアンであるホピ族の生活の場所だった地域だ。今では、パ
1687
ワースポットと呼ばれ、富裕な人たちの憩いの場所に変わってしまって
いる。賢は子供の頃よく、このあたりで遊んだ記憶がある。澤で水遊び
をしたり、森で虫取りをしたりした。そこには豊かな自然があり、静け
さと、暖かさが同居していた。賢は岩に支えられ、土に抱かれて遊んだ。
リチャードがホピ族の友人宅に4人を連れて行ったのは、スコッツデー
ルを出て丁度3時間が経過した頃だった。3人の女性達はリチャードの
「We arrived now.」(さてついたよ)
という声で冷えた空気を深く吸い込みながら目を覚ました。リチャード
は4人に附いてくるよう促して、岩窟の中に造られたインディアン・ジ
ュエリー・ショップに入って行った。内壁の至るところに魔よけのオー
ナメントが吊してあり、岩面に掘ったニッチには鮮やかな色彩のカチ
ナ・ドールが並べられている。そのターキッシュ・ブルーを基調とし、
赤や黄色の装飾を施したカチナ・ドールは3人の女性達の心を惹き付け
た。賢はその人形と、奥の壁の上方高くに飾られているA1大のカチナ
ダンスの写真を見ているうちに、それがアフリカのドゴン族を訪問した
ときに見せてもらった仮面ダンスに似ていると感じてきた。リチャード
は店の奥まで突き進むと、そこに設けられているレッドウッドの扉をノ
ックした。扉が内側に開かれて、一人の顔に深い皺の刻まれた老人が姿
を現した。
「Hello, Elder Martwain Gausfawlflyer. How are you sir?」(こんにち
は、長老マートゥエイン・ガウスファウルフライヤーさん、ご機嫌いか
がでいらっしゃいますか?)
賢は、ハッとして父からもらった知人のメモを観た。将にその人だった。
「これは一体どうしたことだろう」
賢は自問した。
「Hello, Richard. It’s good day today. Welcome to a Hopi house, the
prophesied persons.」
(こんにちは、リチャード。今日は良い日だ。よ
うこそホピの家に、予言されたみなさん)
「What would you say sir?」
(なんとおっしゃいました?)
「I have been burning for the moment to meet these persons for a
1688
long time.」(わたしは長い間こちらの方々にお会いできる瞬間を待ち焦
がれていました。)
賢は、この長老が自分達のことを言っていることを知ると、丁重に挨拶
し、長老と握手を交わした。梓も賢に習って同じように挨拶を交わした。
亜希子と愛子はどうしたらよいのか躊躇しているようだった。長老が亜
希子に近づくと丁寧に頭を下げて言った。
「Welcome to the gate of heaven, my mother. I have been keeping
the invocation room on the promised mesa.」
(わが母上、ようこそ天
国の門にいらっしゃいました。わたしは約束の台地に祈りの部屋を用意
しておきました。)
りチャードは驚いている。亜希子も呆然としていた。賢が言った。
「Would you expect for our visit here?」(我々の訪問を予想されていた
のですか?)
「Yes, we were informed it from the God long-long time ago. It is
that the persons who connect this world to the next world as the
physical and the spiritual plane could have to visit here just before
the world changes. I dreamed it last night again.」
(はい、わたし達は
神からこのことをずっとずっと以前に伝えられました。それは、“世界
が変化する直前に、物理的かつ精神的次元において、この世界を次の世
界に繋げる人たちがここを訪れる”ということです。わたしは昨夜、再
びその夢を見たのです。
)
ドアのところで立ち話をしていることに少し懸念したためか、リチャー
ドが長老に言った。
「Thank you very much for your reception. Anyway, could you allow
us getting in your house?」
(歓待ありがとうございます。兎に角、家
に入れていただけますか?)
「Oh, I’m very sorry. I was too glad to invite you in my house.」
(これ
は、大変失礼いたしました。あまりに嬉しかったので、あなた方を家に
お招きすることも忘れてしまって)
長老の背後に妻と思しき女性が居ることに、5人は初めて気が附いた。
1689
長老の妻は穏やかに5人に向かって頭を下げた。5人も丁寧に辞儀をし
た。長老が妻に向かって軽く頷いた。妻はそそくさとその場を辞すと奥
の部屋に入って行った。長老は5人を部屋の奥に案内した。
賢は、長老に近づくとそっと話しかけた。
「Elder, possibly you might be the friend of my father?」
(長老、もし
かして、私の父の友達でいらっしゃいますか?)
「Naturally, your father has been my friend for some time. I thank
your father taking care of me.」
(そうですよ。あなたのお父さんには
ずっと以前から、お世話になっています)
「He introduced me Elder last night. However, I thought we couldn't
have enough time to visit you. So, I refrained to contact with you,
Elder. 」
(昨晩、父から長老のことを紹介してもらったのですが、今回
はスケジュールの関係で、連絡させてもらうのを控えていました)
「I called this gentleman to ask if I could guide you.」
(わたしの方か
ら、この人に連絡して、皆さんの案内をさせて欲しいと申し出たのです
よ)
長老はリチャードの方を振り向いて言った。
奥の部屋は洞窟内の部屋だけあって、天井はあまり高くなかったが、周
囲の壁に沿って段差が作ってあり、そこに手織りのようなワインレッド
の敷物が敷かれていた。長老は5人にその敷物の上に腰掛けるように案
内した。5人は長手の壁に沿って1列に腰掛けた。長老はその壁と直角
になった狭い方の壁面に背を向けて腰掛けた。床にはブルーの絨毯が敷
かれている。妻が茶を注いだカップを7個トレイに載せて持って来て、
全員の手前の床の上に並べた。長老が全員に茶を勧めた。妻が頷いた。
リチャードが言った。
「Thank you so much. May I ask something?」(ありがとうございます。
おねがいがありますが)
「Please ask me anything. I'll answer them as long as I can.」(何な
りと質問してください。出来る限り答えます)
「Could you explain the vision you would have dreamed last night?」
1690
(昨夜見られた夢について説明していただけませんか?)
「Yes, my pleasure. It was completely the same story as the God
informed our tribe about our future. It is that four persons will visit
this area to open the gate to the next world. Four persons are young
and will come from a foreign country. They are one gentleman and
three ladies. He will build the base of the new world. He must be our
father of the future. He is the person born here. One lady will make
the spiritual gate to the heaven. She is our mother of the future. One
lady will help the gentleman to achieve the important task. She will
be the wife of gentleman. She will be a contemporary person who
typifies this world. One lady will make a new world ideal life model.
However, another one lady will be missing at this moment. She will
help people all the world to prepare moving into the new world. She
will be respected by everyone as the Goddess.」(はい、喜んで。それ
は神が未来について我々の種族に伝えた内容と全く同じです。この地域
に次の世界への入り口を開けるために、海外から4人の方々が訪れると
いうものです。4人は若く、海外から来ます。一人の紳士と3人の淑女
です。紳士は新しい世界の基礎を築きます。彼は我々の未来の父のはず
です。この地で生まれた方です。一人の淑女は天国への精神的な門を開
けます。彼女は我々の未来の母です。一人の淑女は紳士が重要な仕事を
達成するのを助けます。彼女は紳士の妻です。彼女はこの世界のモデル
となる現代的な人です。一人の淑女は新しい世界の理想的な生活のモデ
ルを作ります。しかし、現在は一人の淑女が居ません。彼女は世界中の
人々が新しい世界に移る準備をするのを助けます。彼女は総ての人々か
ら女神と崇められます)
長老が一呼吸置くと、妻が全員に茶を勧めた。皆、コップを手に取り、
茶を口にした。ハーブティだった。長老が続けた。
「We have the Prophets of the future. It is the Revelation for us
about the way to live. We take the teaching to all the Sacred Colors
of Humanity that we are all children of the mother earth and the
1691
father sky, and came from a divine ancestry or holy ancestors. As
these different seeds live closely and help one another so that we
must live in harmony as one family named Human. We are not so
different in the Creators eyes and when we all know and remember
our roots, many illusions of our manufactured society will be
dispelled. This world is the third world. We had preceding two
worlds which had overthrown long years ago. When this world was
begun, the first human has brought one gourd which a swastika icon
and sun icon printed on. These icons suggest Japan. Most people
have forgotten this Prophets. Therefore, we have to transfer it to the
persons who received the Oracle. They are you, Mr. Uchimi, Miss
Fujishiro, Miss Tanabe and Miss Aiko Uchimi. I believe you could
have potential superior power like clairvoyance or teleportation and
etc. There are some extreme electromagnetic spots named the vortex
in Sedona area. I promise you that your latent capabilities will be
awaken by standing on there.」 (我々は予言を受けています。それ
は我々の生きるべき道を示す啓示です。われわれはこの教えを聖なる人
類の有色人種に伝えます。我々は母なる地球、父なる空の子供達であり、
天国の祖先あるいは聖なる祖先からもたらされました。これらの異なっ
た種が一緒に生き、助け合っているように、我々も人類という一つの家
族のように調和して生きなくてはなりません。創造者の目には我々は異
なった人種には見えません。だから、我々が自分達の元を知り、思い出
せば、我々の作り出したこの社会の幻影は消えてしまうでしょう。この
世界は3番目の世界です。これよりずっと以前に既に滅んでしまった2
つの世界がありました。この世界が始まったとき、初めの人間が卍と太
陽の印が描かれている瓢箪を持ってきました。それらの印は日本を暗示
しています。ほとんどの人々はこの予言を忘れ去っています。だから、
我々はこのことを神託を受けた人たちに伝えなくてはならないのです。
その人たちとは内観さん、藤代さん、田辺さん、内観愛子さん、あなた
方のことです。わたしはそう確信しています。わたしはあなた方が透視
1692
や遠隔移動などの超能力をお持ちだと信じています。セドナ地域にはい
くつかのボルテックスと呼ばれる超電磁力のスポットがあります。わた
しはあなた方がそこに立つことで、必ず透視やテレポテーションのよう
な潜在的能力を目覚めさせるということを確信しています)
リチャードはビックリしていた。まさか自分が案内してきた者たちが、
そのような人間だとは考えてもみなかった。賢の顔をじっと見つめて、
ボーっとしている。賢が言った。
「I could not believe that Prophet, because we are just ordinary
people. We did not receive any special message from the Heaven like
the Oracle. These three ladies are not those people you mentioned
too.」(わたくしはそんな予言は信じることができません。なぜなら、
我々は普通の人間だからです。我々は神託のような特別のメッセージを
天から授かってなどいません。ここの3人の女性もあなたがおっしゃっ
たような人たちではありません)
3人の女性達は一斉に頷いた。賢は愛子が英語を理解しているのを嬉し
く思った。そして愛子に向かって言った。
「愛子、英語分かるか?」
「うん、賢パパ、なんとなく理解できているみたい」
「そうか、それは良かった」
長老は微笑みながら言った。
「That’s right. You couldn’t understand yourselves now. However, it
is true. You would respond to yourselves soon as the real existence. I
will take you to these power spots later on. I’m sure you would
recognize yourselves.」(その通りです。今はあなたがたは自分達自身
に附いてお分りにならないでしょう。しかし、真実なのです。あなた方
は直ぐに実態としてのあなた方自身に呼応されることでしょう。わたし
は後ほど、あなた方をそれらのパワースポットにお連れします。きっと
あなた方はご自分のことを認識されるとことでしょう)
それから、賢は長老にホピ族の生活や、精神的な活動について質問した。
長老からの回答は既に賢の知っている内容だった。自然と一体になって
1693
生きていること、現代の科学技術がもたらした、人間の意識を無視した
システムへの批判、このまま突き進んだ時にいずれ突き当たる大きな壁
のこと、これらは全て賢の考えている通りの内容だった。5人は長老に
案内されて、ボルテックスのスポットを訪れることにした。セドナには
そのような場所が沢山あると長老は説明した。車を走らせながらリチャ
ードが、自分の車の説明をしている。山の中を進むためには4輪独立駆
動の車じゃなくてはならないと力説している。4人はリチャードを称え
るように「Yes、Yes」頷きながら、外の景色を眺めていた。先ず、エ
アポート・メサに行った。セドナの空港近くだ。特に困難な場所でもな
く、車を停めてから少し歩くと、セドナの全景が見渡せる場所に出た。
4人はその場所に立ってセドナの大自然のパノラマに見とれていた。す
ると愛子がそこでくるくると回転し始めた。どうやら、ダンスを始めた
ようだ。皆、愛子が喜び、浮かれていると思っていた。しかし、何時ま
でも廻っているので、賢が近づいて訊いた。
「愛子、どうした、そんなに浮かれてよほど気分が良いのか?」
回転しながら、愛子が言った。
「賢パパ、止まらないの。体が自然に回転してしまうのよ。ねえ、止め
て!」
賢が愛子の手を取って止めようとすると、愛子はまるで紐がまつわりつ
くかのように賢の体に抱きついた。賢もその勢いで、半周ほど回転して
止まった。
「どうしたんだ?」
「変なのよ、踊りたくなってきたら、自然に体が回転し始めたの」
長老がそれを見て微笑んでいる。その場はそれで収まった。梓が言った。
「リーダー、わたくし、目が可笑しいんです。物が小さく見えるんです。
とっても、あの景色もどんどん遠くに遠ざかってゆくようなんです。わ
たくし怖くて」
賢は右手で愛子の手を握りながら、梓の目の前に左手の人差し指を立て
て言った。
「梓、この指をじっと見るんだ。そう、じっといいか、僕がこの指をゆ
1694
っくり遠ざけてゆくから、そのまま見続けていろよ・・・・」
「あっ、リーダー、直りました。不思議ですね」
長老はニコニコしながら、賢たちの行動を見つめている。リチャードも
真似をして、指を凝視し、それを次第に遠ざけてみて、首をかしげてい
る。賢は可笑しくなった。一行は30分ほどその場に居た。賢は自分の
体が軽く感じられた。しかし、賢と亜希子には特別の現象は起きなかっ
た。そこから、一行は一旦セドナの町に戻ることにした。リチャードは
街にある日本食も扱っているレストランに車を着けた。久しぶりの日本
食に4人は期待の胸を膨らませたが、注文した寿司はいずれも、魚が生
臭く、シャリは水っぽかった。それでも、久しぶりの寿司の形に4人と
も満足した。長老も同席したが、寿司は食べず、野菜のスープとピキと
いう紙のように薄いパンを食べただけだった。リチャードは寿司を珍し
そうに食べていた。食事を済ますとまた車に戻り、89A号線を経て1
79号線に入り、オーク・クリークに沿って南下した。途中で Chapel Of
The Holy Cross(聖なる十字架の協会)と案内の或る方向に左折する
と、リチャードは先の駐車場に車を停めた。全員、車を降りて少し歩く
と崖の岩壁面を使って巧妙に建てた教会の前に出た。そこから更に暫く
歩いてレッドロックを見渡せる丘に出た。リチャードに言われて4人は
丘の上からマドンナ・アンド・チャイルド(マドンナと子供)という赤
い砂岩の岩を眺めた。嬰児のイエスを抱いていたマリアに似ている岩だ
とリチャードが説明した。長老はそんな名前は関係ないといわんばかり
に、その丘からレッドロック全体を眺めるように賢たちに言った。4人
は暫くの間じっと見つめていたが、梓がまた、
「岩が小さくなってゆく」
と言い出した。今度は指を何度翳しても、なかなか感覚は元に戻らなか
った。賢は梓に暫く瞑目するように言った。そして近くを見ながらゆっ
くり目を開けるように言った。それで、梓の視覚はやっと正常に戻った。
そこから再び117号線に戻り、再び南下してベル・ロックに向かった。
ここはセドナでもかなり強力なボルテックスがある場所だと長老が言
った。大勢の人が変容を経験していると言った。一行は胸躍る心地がし
てきた。あまり起伏の険しくない赤い砂岩の道を5人は長老に附いてゆ
1695
っくり進んだ。賢は自分の体が、自分のものでないような妙な感覚に捕
らわれてきた。ボルテックスポイントに着くと、トレイルの入り口に、
右周りと左周りの矢印がある。しかし、長老はそのいずれのトレイルも
進まず、トレイルから外れた、道らしい道もない山肌を突き進んだ。5
人は歩きにくかったが必死に長老に附いて行った。長老が少し大きめの、
その場所には似つかわしくない赤黒い直径5メートルもある岩をよじ
登るようにして越え、その岩の向こう側に渡った。賢は3人の女性達の
後に附いて最後尾を進んだ。まだ、女性達が必死になって岩をよじ登っ
ている。賢は体が次第に軽くなり、岩を越えようとしたときは、もうほ
とんど自分の重さが意識できなくなっていた。それでも、女性達の後か
ら「よいしょ」と一声掛けて岩に登ろうと右足で土を蹴ったとき、急に
体がフワッと浮いたと思ったら、瞬間的に長老の前に来ていた。長老が
驚いたように言った。
「You could control the gravity on your body, couldn’t you.」(自分に
掛かる重力を制御できるんですね)
「I hope so. But I’m not sure whether it’s controllable or not.」
(そうならいいですが。しかし、制御できるのかどうか分かりません)
「It becomes possible after you would have gotten the gravity-free
body.」
(重力から開放された肉体を獲得してしまえば、そのあとできる
ようになりますよ)
長老が言った。賢は意識を自分の肉体に向け、肉体が空中に浮く状態を
ビジョン化してみた。体が50センチほど空中に浮き上がった。リチャ
ードはビックリしてしりもちを突いてしまった。賢は更に上昇すること
を意識した。体は岩の上空3メートルほどのあたりに浮き上がった。幸
い風は無い。亜希子と梓は口をぽかんと開けている。愛子は暫し目をぱ
ちくりしていたが、急に笑顔になって、両掌を打ち鳴らして喜んだ。
「賢パパ、すごーい、すっごーい!」
長老は静かに頷いた。
「Now, you could recognize yourself.」(今、あなたは自分自身を認識
できます)
1696
賢は自分が地上に静かに降りて来ることをビジョン化した。体が静かに
下降し、地上に着地すると次第に重たくなってきた。賢は周囲の空間全
体に自分の意識が拡大していることに気付いた。意識が急速に眉間に集
中してくるのを感じていた。静かに目を閉じ、再び開けた。見た目には
あたりの景色に何の変化も感じられない。自分が肉体に掛かる重力を制
御できるということがまだ、信じられなかった。しかし、それは重力を
制御するというより、重力が自分と関係無くなったと言ったほうがふさ
わしい状態だった。自分からは地球や重力に対して何の働き掛けもしな
かった。只、上昇しよう、下降しようと意思しただけだった。そのとき、
亜希子が言った。
「あなた、わたくしの手を握っていてください。ああ、自分が消えてし
まいそうです。どうしましょう」
賢は亜希子の近くに駆け寄って、その右手を握った。
「亜希子駄目だ、君が僕の手を握りなさい。絶対離さないようにいいね」
亜希子の体が足の部分から次第に消えてゆく、梓と愛子は両手で自分の
顔を押さえた。誰もどうすることもできない。賢が叫んだ。
「亜希子、絶対手を離すなよ。いいな。
」
微かに亜希子の声が聞こえてきた。
「はい、あなた、どうしま・・・・・」
亜希子の体は完全に消えてしまった。リチャードはまるで腰が抜けてし
まったかのように、両手で這いずって逃げ出すように岩の上を草むらの
ほうに向かって移動していた。賢は右手に亜希子の存在を感じてはいた
が、それは肉体的な感覚ではなかった。長老が言った。
「Mr.Uchimi, you could pull-back her. Now, pull her back as strong
as you can!」
(内観さん、あなたは彼女を引き戻せられます。さあ、思
い切り彼女を引っ張って!)
賢は意識を集中して、亜希子を可視化した。亜希子の姿が歪みながらエ
ネルギーの渦の中に引き込まれそうになっているのが見えた。亜希子は
必死に賢の手を握っている。賢はその亜希子の手を両手で掴むと、思い
切り自分の方に引っ張った。自分も亜希子が呑み込まれそうになってい
1697
るエネルギーの渦の中に、引き込まれそうになった。しかし、思い切り
意志力を働かせてそのエネルギーに立ち向かった。亜希子を思い切り引
っ張っていると、やがて渦の回転が少し弱まったかのように感じられ、
それと同時に亜希子を自分の腕の中に引き戻すことができた。亜希子は
賢の胸に抱きついた。自分の体が吸い込まれないように思い切り賢を抱
きしめた。梓と愛子は、賢の両腕に抱かれた亜希子の姿が次第にはっき
りしてくるのをじっと見つめていた。亜希子は涙を流している。賢が言
った。
「ここは危険だ。違う次元のエネルギーが渦巻いている。その渦に巻き
込まれてしまったら存在が確定できなくなる。早く、ここから遠ざかっ
たほうがいい」
亜希子は賢の腕の中で目に一杯涙を溜め、震えながら頷いた。賢は長老
に向かって言った。
「I recognized the uncontrollable energy vortex here. The energy
flow is too strong for us to cultivate our subtle body. We had better to
quit this area as soon as possible. How would you think?」
(わたくし
はここに制御できないエネルギーの渦があるのを知りました。我々には、
精妙な体をより高めるには、エネルギーの流れが少し強過ぎるように感
じます。我々はできるだけ早く、この領域から出たほうがいいと思いま
す。どう思われますか?)
「I agree with you. Let’s get out here soon.」
(そうですね。直ぐにこ
こを出ましょう)
長老は亜希子が消えかけた黒っぽい大岩を、避けるようにして、元来た
道を戻った。賢たちも後に続いた。梓が言った。
「リーダー、あの10メートルほどもあるレッド・ロックを人が這い上
がっています。歯を食いしばっています。だけど危険ですね、危ない!」
賢には梓の指差したレッド・ロックが景色の中の一部にしか見えなかっ
た。
「あのひと、危ない、ほら、2度も足を踏み外してます。レッド・ロッ
クは滑るのですね」
1698
賢は梓が遠くのものを拡大視できることを知った。梓以外の4人にはレ
ッド・ロックが小指ほどにしか見えない。梓は岩面を這い上がっている
人間の表情まで読み取れるのが分かった。
「梓、遠視ができているみたいだな。本当にそんなに細かいところまで
見えるのか?」
「はいリーダー、自分でも不思議な感覚です。細かい部分まで見えます。
見えるというより、分かると言ったほうが・・・・・いいえ、やはり、
見えます」
車に戻るとリチャードは落ち着かない様子で、運転席周りをチェックし、
エンジンを掛けてふかしてみたりしている。賢が聞いた。
「Anything wrong, Richard?」
(何処か故障か、リチャード?)
「Not at all. I’m scared of the influence of vortex on my car.」
(全然。
車への渦の影響が心配なんだ)
「Never mind. I think those energy vortexes are phenomena in the
fourth dimension field.」(心配要らないよ。ああいうエネルギーの渦は
四次元界の現象だと思うよ)
「Okay, we shall go to the next spot.」
(分かった、次のスポットに行
こう)
一行はキャセドラル・ロック(大伽藍岩)と呼ばれるスポットに移動し
することにした。リチャードは179号線に戻ると、元来た道を戻り始
め、まもなく左に入る脇道に入った。そこがキャセドラル・ロックのト
レイルに通じている道路らしい。先ほどベルロックに来るときは4人は
気付かなかったが、キャセドラル・ロックはベル・ロックの近くにある
ことが分かった。ここをゆっくり体験する時間は無い。レッドロック
クロッシングという公園まで行き、そこに車を停めた。何組かのツアー
客があり、その中に日本人のツアーグループもあった。写真で何度も見
たことのあるレッド・ロックの見える川べりに出ると賢が言った。
「ここは僕の故郷だ。僕が子供の頃によく来たところだ。This is my
home land. When I was young, I used to visit here frequently. I have
many Hopi friends. But I cannot contact with them now. I do not
1699
know where they are now.」
(・・・・ホピの友達が沢山居るんだ。だ
けど、今は彼らと連絡が取れない。彼らが今、どこに居るのか分からな
い)
長老が頷いて言った。
「You are our company. We have been waiting for you, Ken.」
(あなた
は我々の仲間だ。我々はあなたをずっと待っていたよ、賢)
遠くに見えるレッド・ロックと手前を流れている川は自然を象徴するか
のように見事に調和した姿を一行に示してくれた。梓と愛子はツアー客
の集まっている方に向かって歩いていった。リチャードもその後を追っ
た。賢は長老に尋ねた。
「Why would you know my first name?」
(どうして、僕の名前をご存
知なのですか?)
「I remember you and your master Mr.Viryukananda. He taught
you the nature here so often. How is he?」
(わたしはあなたとあなた
の師匠のヴィリユーカナンダさんを覚えています。彼は何度もここであ
なたに自然を教えました。彼はどうしていますか?)
賢は一呼吸置いた。そして、長老に師が最近この世を去ったことを伝え
た。長老は悲しそうな顔をした。そして、少し微笑んで言った。
「What did he say to you about the Oracle you’d received?」
(彼はあ
なたにあなたの受け取った神託について何て言いましたか?)
「I’m not sure I have already received it or not. However he told me
that I will become capable to handle this world like mighty God as if
a projected optical vision from real substance can be handled by
controlling the projector machine. For this world, it’s on the way to
the fifth stage, and human race is under the situation to recognize
its primary substance.」
(それを既に受け取っているのかどうか僕には
分かりません。しかし、彼は僕がこの世界を全能の神のように、まるで
光の映像をプロジェクターを制御することで操作できるかのように、扱
えるようになるだろうと言いました。この世界に附いては、第五段階へ
の途上にあるとのことです。人類は自分達の真の実態を認識する段階に
1700
あると言っていました。
)
長老は難しい顔をして賢を見つめていた。そして言った。
「Now I could understand the meaning of the Prophets completely. I
appreciate the God.」
(いま、予言の意味が完全に理解できました。神
に感謝します)
長老の目が心なしか潤んでいるように賢には思えた。賢は長老と共に梓
たちのいる川岸の辺まで歩いて行った。亜希子の姿が見えない。賢はも
う一度あたりを見回した。しかし何処にも亜希子の姿は無かった。景色
を眺め、それを堪能していた梓と愛子も、亜希子が居ないことに気付い
たようだった。
「賢パパ、亜希子さん、賢パパと一緒じゃなかったの?」
「さっきまで、近くに居ると思っていたが、ふと気付いたら、居なくな
っていた。少し意識を切り替えてみるよ」
賢は瞑目して亜希子を追ってみた。あちこちに渦になった光が見える。
その渦の位置が確定しないようにぶれる。遠方は霞んだようになってい
て、この領域の向こう側がどうなっているのか皆目見当もつかない。賢
は自分の意識がこの次元を完全には把握できていないのかもしれない
と思った。亜希子の姿はどこにも見えなかった。光の渦に飲み込まれて
しまったのかもしれないと思ったが、それらの渦は賢の意識では捉えに
くく、渦の近くに亜希子の意識の流れは感じられない。賢は自分の意識
を現界に戻した。長老が近づいて来た。
「What happened?」
(どうしたんですか?)
1701