エジプトのイスラーム時代の遺跡 フスタート/トゥール・キーラーニー

特色ある共同研究拠点の整備の推進事業
早稲田大学イスラーム地域研究機構
エジプトのイスラーム時代の遺跡
フスタート/トウール・キーラーニー/ラーヤ
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頭蓋等毒等
紅海周辺図
序 文
2008年度1 0月より開始された文部科学省「特色ある共同研究拠点の整備の推進事業」の中で、早稲
田大学イスラーム地域研究機構では拠点強化事業として、 「モノ」の世界から見た新しいイスラームへの
視点からの提言と、異分野にまたがる複合領域の中でイスラーム研究ネットワークの構築のための活動
を行っておりますoそのひとつの柱であるイスラーム考古学は、発掘調査によって得られた考古資料か
ら当時の物質文化を研究していく学問ですo海外では盛んになっている学問領域ですが.国内でもより
多くの方々に知っていただき、研究の枠を広げ、後世にイスラーム考古学を伝えていきたいと考え、今回、
事業活動の一環として、これまでに日本調査隊が行ったエジプトにおけるイスラーム時代の遺跡の発掘
調査の概要をまとめることにいたしました。
日本調査隊がエジプトで初めてイスラーム時代の遺跡に鍬を入れたのは、 1978年10月のことでし
たo早稲田大学によって開始されたフスタート遺跡の発掘調査ですo現在のカイロ近郊に位置するフ
スタートは、アラブ軍によってエジプトで最初に建設された都市であり、都市が廃嘘と化す1 4世紀まで
のエジプトのイスラーム文化が凝縮されています。次いで、シナイ半島において、 1985年にトウール・
キーラーニー遺跡、 1 997年にラーヤ遺跡の発掘調査が着手されました。この二つの港市は紅海に面し
ており、ユタヤ教、キリスト教、イスラームにとっての聖地シナイ半島の巡礼港として、東西海上交易の重
要な中継港として両港は機能していましたoこれらの考古学的調査は、エジプトやシナイ半島の歴史を
考古学の観点から明らかとする重要な調査研究ですo
早稲EE]大学のブスタ-卜調査隊は、楼井清彦教授(当時)を隊長として、顧問の三上次男中近東文化セン
ター理事長(東京大学名誉教授・出光芙術館理事、当時) 、副隊長の吉田章一郎青山学院大学教授(当時) 、総
務の吉村作治早稲田大学名誉教授、調査主任の川床睦夫イスラーム考古学研究所所長が核となり組織さ
れ、 1981年からは出光美術館との合同調査隊となりました0 1985年から、調査は財団法人中近東文
化センター・エジプト・イスラーム考古学調査隊に引き継がれ、隊長は三上次男先生となり、 1 987年か
らは川床睦夫先生が務めております0 2006年と2007年には日本クウエイト合同調査隊として調査
が実施されました。現在は、イスラーム考古学研究所がその事業を引き継いでおります。
故人となられた先生方をはじめ、多くの方々がこれらの調査に参加されました。また、この冊子を製作
するにあたり、調査を支えてこられた諸機関及び諸氏のご協力をいただきました.末筆ながら、ここにす
べての方々に感謝の意を表します。
拠点強化事業研究代表者
宍道 洋子
フスタート遺跡
フスタートは、 641年、アラブイスラーム軍がエジプトを征服した翌年に、エジプトの首都として建
設された.現在のカイロ市南告別こ新設されたこの都市は、行政の中心であるばかりではなく、宗教・学問
商=業の中心地ともなった。 969年にファーティマ朝がエジプトを征服し、翌年、新首都としてカイロ
市が建設されたのちも、フスタートは商工業・学問の中心地としての地位を保ち続けた。特に1 0世紀後
半以降に紅海を通じての香辛料貿易が盛んとなり、エジプトに世界中の商品と富が集中するようになる
と、商工業の中心地フスタートは、隣接する首都カイロとともに繁栄した。しかし、聖地イエルサレム
を攻略した第1次十字軍が同地に樹立したイェルサレムうテン王国の侵攻を受けた際に、首都カイロ攻
略の足場とされることを恐れた時のファーティマ朝宰相によって、 1 168年、フスタートは破壊された。
その直後、サラーフ・アッディーン・アッラーム(サラディン)がアイユーブ朝を創始し、ブスタ-ト復興作
業が開始され、急速にかつての繁栄を取り戻した。
この後、フスタートは紅海の香辛料交易をもとに国家財政を左石するほどに強大となる商人グループ
の拠点として、空前の繁栄を経験することとなった。しかし、 1347- 1349年に人口の3分の1以上
が死んだといわれるペストの大流行の後、フスタートの大部分は廃棄された0 1 799年にエジプトに遠
征軍を送ったナポレオンのTエジプト誌』によれば、当時のブスタ-卜はナイJL/河岸部に約l万人が居住
する小村であった0 191 1年に、アラブ芸術博物館(現在のイスラーム芸術博物館)の館員であったア
リー.パフガトがフスタートの発掘調査を開始したときも、河岸郡の一部を除いては廃嘘のままに放置さ
れ、遺跡は土砂、沃土、建築材料の採取地となっていた。
かつての首都が廃嘘のままに放置される例は極めて稀である。このような意味で、フスタート遺跡は、
イラクのサーマッラーと並んでイスラーム考古学の重要な遺跡であると認識されている。アリ一・パフ
ガトによる発掘調査は、その後もエジプト人考古学者によって引き継がれ、多数の優秀な考古学者を輩出
することとなった.しかし、 1963年にカイロ市がフスタ-卜を含むオールド・カイロ地区の再開発計
画を発表すると、エジプト考古局はエジプトによる同遺跡の発掘調査を拡大、継続するとともに、世界に
同遺跡救済のための緊急発掘を呼びかけたo これに応じてアメリカ・エジプト研究センターが1 964年
に発掘調査を開始し、 Ej本からはフスタート出土の陶磁器調査のために、 1 964年と1 966年に出光中
東調査団が派遣されたC
この後、 1 978年には早稲田大学調査隊がアムル・モスクの乗で発掘調査を開始し、 1 981年からは早
稲田大学・出光合同調査隊となり、 1985年以降、中近東文化センターに引き継がれたo また、 1985年
にrま、フランス・オリ=ント考古学研究所がフスタートの郊外に当たるイスタブル・アンクル地区で発掘
調査を開始した。
フスタート遇跡と発掘風景( 1 970年代)
フスタート遺跡( 1 980年代撮影)
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フスタート遺跡からコプト地区を臨む( 1 980年代‡扇形)
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サラーフ・アツディーンによって構築された市堅( 1 980年代位Jr'a) 街路( 1 980年代拐形)
二階廷てを示す迫椙( 1 9BO年代撮影)
二階へ上がる階段( 1 980年代虹詔)
フスタート遺跡の発掘調査
フスタート遺跡の第Ⅰ期調査は、 1 978年から1985年まで、フスタートの中心地アフル・アッラーヤ
街区に隣接するマフラ街区と考えられる地区で、計2,300m2を発掘した。発掘の目的は、 「東西海上交
流史の実証的研究」、 「イスラーム郡市の形態的研究」、 「イスラ-ム都市生活の研究」であるo
遺跡の覆土は約3mで、層位は、上下2層に大別できる.部分的には、第l暦と第2層の間にほとんど
遺物を含まない層が確認される0第l層(上層)は、フスタートが廃棄された後にカイロ市民によって捨
てられたごみが堆積したことによって形成された層で、第2暦(下層)が遺構を覆う層である0第2層下
層からは、IMBコインやウマイヤ朝コインなど7世紀から8世紀にかけてのコインが出土することから、
フスタートの初期に機能していたことがわかる。
遺構は焼成レンガ積みを主体とする住居虻で、発達した排水路網を伴っている。この地区は中心部に
近い地点なので、フスタート建設当初から廃棄された1 4世紀半ばまでの約700年間機能していたとこ
ろである。よって遺構は度重なる増改築を経験し、廃嘘となってから後の廷材奪取などによって、極めて
激しい撹乱を受け.非常に複雑な様相を呈している0
8回に及ぶ発掘調査の結果、 9世紀前半にコプトビザンテイン的技術伝統からイスラーム的技術伝疏
への転操がなされたこと、ファーティマ朝時代にこの地区でもイスラーム教徒と異教徒が混住していた
こと、邸宅が間仕切りされて3ユニットからなる集合住宅に改築されたこと、マムルーク朝時代に市民
生活が急速に向上し、物質文化が大いに発展したこと、街路と住居の際に多数のごみ穴が掘られたことな
ど、さまざまな事実が明らかとなった。
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排水ピット出土の土器群
1 990年代に入ると、カイロ市は保留していたオールドカイロ地区再開発計画を実行に移し、フス
タート遺跡北部を埋め立て、緑地公園・遊園地を建設したoこの開発計画の一端として、アムJL,・モスク
の東側に広がる現代土器案地区の再開発計画に着手したoそこで、考古最高会議はカイロ市当局と話し
合った結果、事前調査をすることとなったo調査実行案作成時に、同会議から中近東文化センター・エジ
プト調査隊に対し協力要請があり、エジプトとの合同調査が開始された。
発掘地点である現代土器窯地区は、かつてのフスタート中心地アブJL'アッラーヤ街区であり、フス
タートにおいて品も重要な地区である.必然的に、文献史料におlj-る記述も最も多い地区である。第1
期調査に際してもこの地区の発掘を望んでいたが、還跡の上層に不法居住者の住居や現代土器案が建て
られていたため、断念せざるを得なかった。
1 998年1 2月に開始された第Il期調査は困難を極めた.現地表面下には破壊された現代土器案の残
骸が厚く堆積し、2-3mまで掘り進めたところでようやく遺構を確認するに至った.その結果、給水設
備サーキヤの一部であると考えられる遺構が出土した。通常フスタート主要地区での給水は、革袋にナ
イルの水を詰めて、ラクダ、ラバ、ロバで市内諸方に設置された貯水槽に供給され、各家庭はそこから水を
汲んだと史料に記載されている.しかし、このサーキヤと考えられる遺構の発見は、文献では明らかにさ
れなかったフスタート主要部における上水道の存在を示す賀重な証拠を提示したこととなる。
給水施設サ-キヤ(正面)
フスタート遺跡出土遺物
フスタートからは、中世イスラーム時代の生活を示す様々な遺物が出土する.その中でも最も大量に
出土するのが土器である。食卓や調理に使用された鉢、皿、壷やクッラと呼ばれる水壷などがその主なも
のであるo初期においてはコプトビザンテインの系統をひく赤色磨研土器が製作されていたが、次第に
赤茶色の粗悪な胎土の土器が大量に製作されるようになったo特筆に値する土器は、シュツバーク(窓)
と呼ばれる首部の内面に透かし彫り装飾が施された水壷である。これは通称フィルターと呼ばれてお
り、そこに施された装飾はエジプトのみで発達したイスラームの文様の粋を極めていると言える。
8世紀後半には、赤色磨研土器の技法の上に立脚した初期アッパース陶器が出現している。その後、こ
の系統の陶器が発展するのと同時にベルシア系の陶器の流入も見られたoファーティマ朝時代には最も
華やかなラスター彩陶器がエジプトで生産されるようになった。また中国陶磁を模倣した淡看緑色の陶
器や白地藍黒彩陶器、マムルーク陶器と通称される多彩粕刻線文陶器、日常用の単色黄柚陶器などバラエ
ティーに冨んだ陶器が製作されて生活文化を彩った。陶器の中で異彩を放つものとしては、オイルうン
プが挙げられるo初期のローマ・ビザンテイン様式から徐々に大型化し、イスラーム独特の器形を作り出
し、量産されるようになった.このことは、次第に多くの家庭に長く火が灯ることになったことを示して
いる。
赤色磨研土器 調理用土器 組み合わせ三角文フィルター 文字文フィルター
虹、- 7. ㌔.
一也才`
多彩粗陶器(初期アツJトス陶器) 貼付装飾陶器
貼付装飾陶器(倣青磁)
→Jy 多彩鞄刻綬陶器(マムル ク陶器)
白地藍黒彩陶器
オイル ランプ(ローマ・ビザンテイン様式) オイル・ランプ(マムルーク様式)
6
フスタート遺跡から出土する中国陶磁は、品責の高さでは中国製品の中でも群を抜いている。とくに、
龍の図柄が描かれた白磁は逸品であるo五代唐末の白磁、越州窯青磁、龍泉窯看磁など、出土品は多彩で
あり、とくに海上交易JLr卜の中心がベルシア湾から紅海に移動したことに伴い、 13- 14世紀の青磁
の出土墨が多い。
また、イスラーム時代にとくに発展を遂げた製品としてガラス器が挙げられる。ガラス器は初期ローマ
時代に吹き技法が開発されて、日常生活の中で使用されるようになってきた。イスラーム時代の初期に
は、依然として前時代の技法や様式を継承していたが、徐々にイスラーム的な展開を遂げるようになった。
ひとつは装飾ガラスの分野で、ラスター、カット.エナメル彩など多様な装飾を展開させた。一方で、粗製
乱造されたガラス器が大量に出土していることは、日用品としての需要が高まったことを示しているo
以上の他にも、金属器、木器、石製容器、各種道具頬、化粧具頬、装身具類、コインやクラス・ウエイト等、
イスラームやコプト教、ユダヤ教など宗教にとらわれない生活用品が、フスタートの遺物の中に見られ、
当時の生活の諸相を垣間見ることができるC
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装飾ガラス片(貼付.カットラスター)
越州窯および龍泉窯再臨
金属器 石製容器
Wil入りガラス小瓶
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骨製装飾板 ガラス製ビーズ 金ZS
官製コプト人形 ガラス製腕輪
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シナイ半島の遺跡
シナイ半島は古代以来、鋼、トルコ石などの産地として知られていた。紀元前3000年頃からシナイ
半島南部には円形住居群、鉱山、碑文、神殿などが現われるようになる。そして、モーセが放浪し、 「出エジ
プト」の際に十戒を授かった地と信じられるようになると、シナイ半島南部は聖なる地となった。
カイロ市の南東400km、シナイ半島の南西部を占めるラーヤ・トウール地域が歴史に登場するのは、
初期キリスト教修道士の活動の記録を通してである。この地域に修道士が住み始めたのは、 200年代後
半のことと考えられている。
シナイ山、ワ-デイ一・フィーラーンとともにこの地域は初期修道制の中心地のひとつであったo正確
な年代は明らかではないが、史料によると5、 6世紀頃、この地域にたびたび「野蛮人」が侵入し、シナイ山
とライソウの冨を奪い、修道士たちを虐殺した.そこで両地の修道士たちは、ビザンテイン帝国の首都コ
ンスタンティノ-プルに使節団を派遣し、堅固に護られた修道院の建立をユステイ二アヌス帝(527565年在位)に要請した。これを受けて、同市はシナイ山とライソウに要塞化された修道院を寄進した。
シナイ山修道院は、後に聖カタリーナ信仰と結びつき聖地巡礼の対象となった。この修道院の発展は、巡
礼者用の讃、修道院へ.の物資輸送のための湾の成立を促した.こうして、同地域にはライソウの修道院で
あると考えられる聖ヨハネ修道院(ワ-デイ一・アットウール修道院遺跡)建立に続いて、港市ラーヤが建
設された。
イスラーム時代に入ると、ラーヤはシナイ山修道院の外港として、風待ち用避難港としての重要性を増
し、 9、 1 0世紀には繁栄期を迎えた。紅海が東西海上交易路の主要路となる1 0世紀後半以降、ラーヤは
紅海の重要な潜としてアラブの地理書に記載されることとなるo しかし、 1 2世紀頃、この潜は突然廃棄
され、ラーヤ潜の機能は北約8kmに位置するトウール4-ラーニーに移動した。その後、 1 378年に
マムルーク朝のサラーフ・アッディーン・アツラームがトウールの港湾施設を整備し、イエメン方面から
の船を寄港させるようにすると、この潜は国際商業港として重要性を増したoその後、 1550年頃から
スエズ潜の急速な繁栄に伴い、トウール潜は衰退した。
1869年、スエズ運河が開通すると、再びトウールが重要となる。ここに検疫所が設けられ、聖カタ
リーナ修道院の分院が建てられ、さらに、メッカ巡礼の公式経由湾に指定され、かつての繁栄を取り戻し
たoその後、 1967年の第3次中東戦争でシナイ半島がイスラエルに占領され、 1982年にエジプトに
返還されると、トウールは南シナイ州の州都となった。
トウール・キーラー二一遺跡の発掘調査
1 985年に、トウール市の西端に位置するキーラーニー地区を発掘調査地に選定した。この遺跡は歪
な瓢箪型の遺丘で、全長は約400m、奥行きは約200mであるo還丘の東側には、聖カタリ-ナ修道院
の分院があり、海岸5/E]tL1にはキーラー二一・モスクがある.還丘西部はほとんど無人であったが、還丘東
部にはオスマン帝国時代以降に建造されたサンコ建造物が廷ち並び、スラム化していた.
遺跡を西から、西地区、中央地区、北地区、修道院西地区、造船所北地区の5地区に区分し、 1 985年の
予備調査で22.000m2の表面採集を行った後、 1 986年から発掘調査を開始した。 1 991年までに.海
岸に面した西地区南部(l 、2、4次)の一部と、遺跡北部の張り出し部分である北地区(3、5-8次)を最下
層まで完掘し、テルが3つの文化層から成ることを確認したoこれを上から順に、第l文化暦(18-20
世紀)、第2文化層(16- 18世紀)、第3文化層(14- 16世紀)と区分した。そして、これまでの調査で、
第3文化層は公共の廷物群、第2、第1文化層は私的な住居群で占められていることが、郡屋の規模と出
土遣物の傾向で明確となったo
そして、 9- 14次調査(1 992- 1997年)で中央地区、修道院西地区、造船所北地区、西地区北部の
第l文化層全面の除去を完了した。
北地区(後方に見えるのは聖ジョージ教会)
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一指蛮岩野
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西地区北部第l文化層発掘終了後空中写真
トウール・キーラーニー遺跡出土遺物
トウール4-ラーニー遺跡から出土する遣物は国際色が豊かで、西はアングルシアから、乗は中国か
らの製品が集積している。この中で、エジプトやシリア・パレスティナ等近隣地域の焼物としては、型製
の巡礼壷やマムル-ク陶器、トルコ陶器などが挙げられる。また、当時の買重な商品であった南アラビア
産の乳香とともにもたらされたと考えられる素焼きの香炉が多数発見されている。
スリップ彩陶器(マムルーク陶器)
巡礼壷
土製箱型香炉 土製刻文香炉
号・.S・・ '
白柚多彩陶器(トルコ陶器)
中国陶磁は、南地区第3文化層から1 3- 1 4世紀の龍泉窯青磁、南地区第2文化層および北地区を中
心に明・清時代の染付、いわゆる貿易陶磁が大塁に出土している.これらの陶磁器はフィンジャ-ンと呼
ばれる碗型が多く、当時のコーヒー飲用と交易が密接に関わっている.この他の外来の陶器では、明で貿
易制限が行われた1 5世紀を中心にミャンマー、タイ、ヴェトナムなどの東南アジアの陶器が出土してい
る。また,ほぼ同時期に、キプロス、プア工ンツア、アンタルシアなどのヨーロッパの陶器も流入している。
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東]
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音巨象窯青磁 龍泉窯青磁
タイ青磁 ヴェトナム色絵
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プアエンツア陶器 キプロス陶器
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ガラス器もこの遺跡から出土する主要な遺物のひとつである。第3文化層から出土したガラス器の中
で重要なのは、色ガラスに白線の練りこみがある装飾カラスである。この中の1点は、内容物とスティッ
クを伴った尖底小瓶で、クフルと呼ばれる伝統的なアイラインの顔料容器であることが明らかとされて
いる.そして、遺跡全層位を通じて、細長く斜めに曲がった首にFfF77]平な胴部を持つ無色透明のガラス瓶が
大量に出土している.これらは、ギリシア正教会からも発見されていることから、聖水瓶として利用され
た可能性も考えられるo
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ガラス製クフル瓶とアイスティック ガラス製クフル瓶とアイスティック出土状況 ガラス製紙長首瓶
潜の生活を彩る華やかな装身具頬や生活の中での様々な道具類や部材も発見されている.とりわけ、
ガラス製の腕輪は全層位から大量に出土し、その特徴から時代的変遷と地域的特徴を示すことができる。
また、第2文化層を中心にコインや印章など文字が記載された遣物が出土しているo さらにまた、オスマ
ン・パイプとも呼ばれるキセルの雁首やこの地区がキリスト教と密接な関わりを持っていたことを示す
十字架などの遺物も発見されている。
一戸
辛セルの雁首
この遺跡の最大の発見は、 「トウール文吉」と呼ばれる文書類の発
見である。主に北地区から出土した16世紀の文書群と第l文化
層のモダン層から発見された1 9世紀の文書群に分けることができ
る。これらの文書から、紅海交易をはじめとして、この地区で生活し
驚慧
L:_'.I_-_-:?-TI=賢ここ
ていた人々の活動を知ることができる。
トウール文書
ll
ラーヤ遺跡の発掘調査
ラーヤ遺跡は、海を見下ろす緩やかな傾斜の上に築かれた84 5m四方の城塞とその下に広がる倉庫
を含む公的建造物群、そして海岸部西部を占める住居群から成っている。 1 996年にこの遺跡があるラ
ス・ラーヤ地区が観光ホテル群建設予定地として観光開発会社に売却され、遺跡が破壊される危機に瀕し
たoそこで、多方面からの援助を得て緊急発掘を実施した。その結果、城塞の輪郭と移しい初期イスラー
ム時代の遺物が出土し、この遺跡の重要性が認識され、危機は回避された。
調査はまず、遺跡の範囲を確定することを目的として遺跡全体のサ-ウェイを行ったoさらに、城塞の
様相を明らかにするため、城壁と城塞内街路の検出に努めたo同時に、城塞の基礎部を確認するために、
いくつかの小部屋を最終床面まで掘り下げた。
城塞は南北軸から約45度振れた基準軸を持っている。正門は55に面しており、正門から中央街路が
直線的に伸びているo城壁の内側全面に建てられた部屋の内側には、城塞内を一巡する街路が設けられ
ている。さらに中央街路に交差する街路が3-4本あって、城塞内部が5-6街区に分割されている。
正門を入ってすぐ右手の街区がモスクで, 9世紀には存在したと考えられる。入口には2段の石段が
設けられているoこのモスクは台形状で、約13 5mと約12mの壁に囲まれている0 3万の壁は互いに
直交するように構築されているが、キブラ(メッカの方向)面の壁は方位に合わせて大きく振れているo
壁に囲まれた空間内には1辺約1mの方形の柱が4本立っている。キブラ面にはミフラーブ(キブラを
示す壁がん)があり、その上郡に組まれていたアーチが、うつ伏せに倒壊した状態で発見されたoモスク
内部の壁面は白いプラスターで覆われ、一部にコーランの章句、信仰告白の文句などが墨で書かれ、植物
文が黒と朱色で描かれていたDこれまでに知られていたシナイ半島最古のモスクは,聖カタリーナ修道
院の中にファーティマ朝時代に建立( 1 1世紀前半あるいは1 2世紀)されたもので、ラーヤ城塞内のモス
クは、ユタヤ、キリスト教の聖地シナイ半島におlj-るモスクの歴史を塗り替えることとなったoさらにこ
の事実は、シナイ半島におけるイスラーム化、そしてキリスト教との共生の問題を考える上でも非常に重
要な真空料を提供したこととなるo
さらに中央街路を進んだその奥の街区は公的廷造物であると考えられる。左手の3街区には、小さな
ユニットからなる居住空間が集中していると考えられる。正門を入ってすぐの一巡街路を石に曲がって
真直ぐ進むと、東門に至る0 2重扉を持つ1 65cm幅の正門に比べ、東門は約90cm幅の小さな門で、城
塞建設後の早い時期に埋めて閉じられたo城塞内の建造物は、 2暗建て以上が原則で、 1階は出入り口、
作業空間、倉庫、台所、階段室などの役割を担い、 2階以上が居住空間であったと考えられる。
海岸部に近い住居群の発掘では、出土品の年代が城塞区の出土品よりも古く、大部分が8世紀のもので
あった.また、土器やガラス器などにパレスティナの影響が色濃くみられ、 8世紀にはこの地域がパレス
ティナ文化圏に包含されていたことを示している0 -万で、エジプトで鋳造された金貨やクラススタン
プなども発見されている。
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辺畠中石頭寄掛
ラーヤ遺跡出土遺物
出土遺物は、居住地区と城塞区で特徴が分かれる。これは、居住地区が8世紀のパレスティナの影響が
色濃い土器とガラス器が中心であるのに対し、城塞区では、土器などの日常品に加えて、 9世紀以降のエ
ジプトやイラク製の陶器、ガラス器、石製容器、織物などの高品質交易品が出土しているo
陶器では、 9- 1 0世紀のイラク製の型押陶器、多色および単色のラスター彩陶器、貼付青緑柚大壷、エ
ジプト製の多彩柚初期アッパース陶器、通称フアイユーム陶器(白地に暗紫と青緑)、ヒジャーズ製の可能
性がある多彩和陶器、実用的な白や緑の単色和陶器など、多種多様な陶器が出土している。また、ピザン
テイン様式のオイル・ランプやその製作型なども発見された。また、多くの小同心円文の刻文が押された
良質な石製容器の鍋や把手付香炉なども重要であるo
遥遠
型押装飾陶器 白地藍・青緑柚陶器
多色ラスタ-彩鞠器 単色ラスター彩陶器
単色ラスター彩陶器
多彩粕陶器(初期アツJ (-ス陶器) 多彩柚陶器 白地靖紫・看緑柚陶器(フアイユーム陶器)
L租
転一:=_ I
石製把手付香炉
オイル・ランプ(ヒサンテイン様式) 石製鍋
14
この遺跡の大きな特徴として、ガラス器の出土塁が極めて多いことが挙げられる.イスラーム時代に
なるとガラス器は生活に普及していくが、特に、 8-1 1世紀にかけての装飾ガラスの変遷と地域性を
見るための資料は驚くほど豊害である. 8世紀にはパレスティナ系の化学組成を持つガラスが、 9世紀
になるとエジプト系に変わる。装飾ガラスでは、ラスター・ステイン装飾、型および器具装飾、刻綬装
飾のガラスが9世紀のエジプト製であり、そこにイラク製のカット装飾が加わり、さらにエジプト製の
カット装飾も登場する。中でも、 10世紀後半から1 1世紀初頭に製作されたと考えられる透明無色の
カット装飾杯は、当時のガラス器の水準の中でも極めて高く、完全な形で出土した逸品である。また、
イスラーム独特の鉛ガラスの存在も特筆に値する。
'轡 'l _A
ラスター彩ガラス 型装飾ガラス カット装飾ガラス カット装飾カラス杯
▼●
定日ガラス製カット装飾片
ピンサー装飾ガラス 刻線装飾ガラス
この他に、ビーズなどの装身具頬も豊富であるが、コプト人形など、キリスト教徒との関係を示す遣
物も出土する。また、金属製、木製、石製の各種道具葉頁も出土している。昌重な金員やクラス・スタン
プの出土も看過できない。また、エジプト製のコプト織と呼ばれる織物に加え、インドのクジヤラート
から渡ってきた藍染めも多数発見されており、重要なインド洋交易の証を示している。
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(書) ゝ、TiiF
クラス・ウェイト
ガラス製ビーズ 骨製コプト人形
コプト織
15
ワーディ一・アットウール修道院遺跡と岩壁碑文
シナイ半島におけるキリスト教初期修道制の3大中心地のひとつであるライソウがどこかという論
議が1 800年代以来、様々な説を生んできたが、トウール・キーラーニー遺跡の北5kmに位置するワディ-・アットウール修道院遺跡が、 6世糸己前半にユステイ二アヌス帝が寄進したライソウの聖ヨハネ修
道院であると考えられる.この遺跡の発掘調査は、 1 984年以来、エジプト考古最高会議イスラーム・コ
プト局南シナイ考古事務所によって実施され、 1 994年以降、合同で確認調査を行った。
建立当初は東西約60m、南北約55mの規模で、南北面に3革ずつ、計6基の矩形プランの塔が設置さ
れていた。その後、西部が増設され東西が約92mとなったo 内部には3達アブスの主教会堂、ハシリカ
様式の集会堂兼食堂、多数の僧坊が配置されているo
この修道院は一時イスラーム勢力に利用され、廃嘘となった。その後、キリスト教徒の墓地として使用
され、主教会ネイヴ(身廊)床下から多数の埋葬遺体が発見されたo
ライソウがどこかという問題を解決するために行ったアブ一・スワイラの岩窟セル(庵室)群調査の過
程で、トウール市の北北西約1 5kmに位置するナークース山の岩壁に刻まれた多数の岩壁碑文を発見し
た.この中には、ヒジュラ暦1 55年(S-lXa-091号碑文)およびヒジュラ暦245年(S-×ll-053号碑文)
と刻まれたクープア書体アラビア文字によるアラビア語碑文も含まれている。
2001年からこの碑文の登録作業を開始し、解読作業を進めていくと、数々の重要な事実が明らかと
なったo ヒジュラ暦300年代を中心に、 200年代、 1 00年代の年代が刻まれたもの、出身地、出身部族、
職業などを示す二スバが刻まれたものが多数認められた.紙が普及する以前の時代に刻まれた岩壁碑文
は、祈願、訪問記念、信仰告白などの簡単な文章が中心ではあるが、人の実際の移動の記録であり、極めて
重要な史料であるo
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ワ-デイI.アットウール修道院追跡全体空中写真
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ナ-クース山碑文サイト全景
S-1×a=091号碑文(ヒジュラ暦1 55年)
S・Xll-053号碑文(ヒジュラ暦245年)
16
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関連参考文献
桜井清彦・川床睦夫(編)『エジプトイスラ-ム郡市 アル-フスタート遺跡 発掘調査1978-1985
年』(全2巻)、早稲田大学出版臥1992年
川床睦夫『エジプトイスラーム考古学25年史 中近東文化センタ-イスラームエジプト調査隊の歩
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(注)本印刷物pp 2.4.5.8.9.12.16の文は川床睦夫『エジプトイスラーム考古学25年史を墓に記したD
エジプトのイスラーム時代の遺跡
フスタート トウール・キーラーニー ラーヤ
執 筆 川床 睦夫 宍道 洋子
編 集 宍道 洋子
編集協力 イスラーム考古学研究所
発行日 2011年3月3日
発 行 早稲田大学イスラーム地域研究機構
「特色ある共同研究拠点の整備の推進事業」
印 刷 株式会社アイウード
LCJ201 I Organl∠allOn rOr lslamle ArL・a Studles, WasLlda UnlVerSlty
無断転載禁止
Prmtecl ln Japan
表 紙 海から見たトウールキーラー二-遺跡
裏表紙 ナ-クース山から見た紅,海の朝陽