Title 19世紀米国における教職専門職化運動批判

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19世紀米国における教職専門職化運動批判 : メアリー・
ライアンの教師教育思想と実践を手がかりに
佐久間, 亜紀
東京学芸大学紀要. 第1部門, 教育科学, 55: 313-324
2004-02-27
URL
http://hdl.handle.net/2309/2129
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要1部門 55
pp . 313 ∼ 324, 2004
19世紀米国における教職専門職化運動批判
─ メアリー・ライアンの教師教育思想と実践を手がかりに* ─
佐久間 亜紀
教員養成カリキュラム開発研究センター**
(2003年10月31日受理)
の教師教育思想と実践を事例とし,その教師像と教師
教育の具体を明らかにすることを課題としよう。ライ
1. はじめに─本稿の主題
アンは,1820年代から教師養成に従事し,1837年には
現代の米国では初等教育教師の70-90%を女性が占
「女性教師の養成」を掲げてマウント・ホリヨーク女
めている。しかし,19世紀初頭までは,教職は圧倒的
子セミナリー(Mount Holyoke Female Seminary, 現
に男性職と考えられていた。この教職観が一変したの
Mount Holyoke College)を設立した人物である。彼女
は1830年代から40年代にかけてである。この頃から,
は,教職とは自己犠牲的に神に献身する「天職
教職には知性よりも母性や情緒の豊かさが必要と考え
(mission)」であるべきと主張し,教職を医師や弁護
られるようになり,1850年までには採用された教師20
士に匹敵する「専門職(profession)」にしようとする
万人の90%以上を女性が占めるようになっていた。し
当時の教職専門職化運動を批判していた。そして,教
かし,女性教師の給与は男性教師の平均四分の一にと
師の人件費抑制によって学費も抑制し,貧しい女性へ
どまったうえ,男性教師には学歴や能力や役職に応じ
の教育機会を拡大するとともに,全寮制による厳しい
て四段階以上の給与体系が作られたのに対し,女性に
生活指導と道徳教育によって教師を養成するカリキュ
は作られなかった1)。この教職の実態を,当時の教師
ラムを創造していた。輩出された教師たちは,各地で
教育者たちはどのように受けとめていたのだろうか。
女子教育機関や黒人学校,アメリカ先住民のための学
この実態を理念的に支えていたのは,どのような教師
校を設立するなど活発な教育活動を展開し,ライアン
像であり,当時の教職専門職化運動とどのような関係
の教師像を各地の教育機関へと普及させている。この
にあったのだろうか。
事例の検討によって,現代アメリカにおいて教師の報
女性教師の低賃金と厳しい労働実態を理念的に支え
酬が相対的に低い事実や,結婚や育児を機に退職する
ていたのは,自己犠牲的な神への献身を,教職の中核
アメリカ女性教師の一般的ライフコースの史的起源の
に位置づける教師像であった。教職は,私生活の全て
一つを明らかにすることが可能となる。
を犠牲にして全身全霊を捧げるべき神の職であり,経
ライアンの思想に関する研究は多領域で開拓されて
済的野心や家庭の責務をもつ男性や既婚女性には勤ま
きた。ライアンの思想や人生は,現在名門セブン・シ
らず,未婚女性の一時職にふさわしいと主張されたの
スターズ・カレッジの一つとして知られるマウント・
である。この教師像は女性自身によって唱道され,教
ホリヨーク大学設立の意義の観点から,女性史や高等
職の給与増を目指す教職専門職化運動も,女性によっ
教育史の研究対象となるとともに2),エドワーズ
て批判されていた。
(Jonathan Edwards)の神学を継承した意義の観点から,
したがって本稿では,19世紀初頭米国における教職
宗教学の研究対象となってきた3)。ライアンの業績は
専門職化運動への批判と,この批判を基盤にした教師
日本においても,高等教育史研究の領域や4)アメリ
教育の実際を明らかにすることを主題とする。具体的
カ研究の領域5)で紹介されてきた。しかし,ライア
には,メアリー・ライアン(Mary Lyon, 1797-1849)
ンの教師像や教師教育の実際に関する詳細な検討,ま
* Mission or Profession ? : Mary Lyon’s idea and the practice of teacher education in nineteenth century America / Aki SAKUMA
** 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1)
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
たその教師教育史における意義の考察は,日米におい
ライアンの人生の大きな転機となったのは母の再婚
て課題となっていた。アメリカ教師教育史研究の領域
であった。母は1810年,テイラー(Johathan Taylor)
では,州立師範学校成立以前のアカデミーやセミナリ
と再婚し,バックランドから南に数十マイル離れたア
ーにおける教育の実態の解明が近年特に急がれると共
シュフィールド(Ashfield)へと転居した。その際,
に6),各時代の専門職としての教師像を成立させてき
母が連れて行ったのは二人の妹だけで,13歳だったラ
た道徳規範やジェンダー規範の解明が重要な課題とし
イアンは姉2人兄1人とともに,バックランドに残さ
て指摘されており7),本事例の検討は重要な意義を持
れたのである 10)。姉達はまもなく結婚し,1814年に
つ。
は兄も土地を売却して移住することになり,ライアン
以下,まずライアンの生い立ちと業績を概観し,ラ
は17歳のこの年に,一人で自立する必要に迫られた。
イアンの教育思想とキリスト教思想との関係を明らか
後年ライアンが生み出した,自校を全寮制にして教師
にする。次に,ライアンの教師像,およびその養成の
や学生に「家族」の形成を訴えた学校経営法の背景に
ために創造された教育課程や教育方法の実際を明らか
は,一体感のある「家族」への彼女自身の憧憬があっ
にし,最後に,彼女の思想と教育活動の教師教育史に
たとみることもできるだろう11)。
おける意義を検討する。考察の対象として,訪米調査
により収集したライアンの著作や書簡,家族やセミナ
2. 2. 被教育経験
1814年に,ライアンが初めて教壇にたったのは,バ
リー卒業生が残した書簡や回想録,マウントホリヨー
ク大学アーカイブズに現存するセミナリー・カタログ,
ックランド近郊の4歳から10歳の子どもを対象にした
二次資料として19世紀末に編纂されたライアンの伝記
小さな学校の,夏季教師の職であった。当時のアメリ
8)等を中心に用いる。
カの初等教育学校は二期制で,冬季学校の教師はすべ
て男性であった。しかし,19世紀初頭のマサチューセ
ッツ州では,農繁期で男子生徒が少なくなる夏季学校
2. メアリー・ライアンの生涯と教育思想
のみ,独身女性教師が採用されはじめており,ライア
ンもその一人であった。彼女の給与は,「寄宿たらい
2. 1. 生い立ち
回し制(boarding round)」12)の上で,週75セントだ
まず,ライアンの生涯を概観し,彼女が教育活動に
むかった動機とその史的背景を明らかにしておこう。
ったという。当時の冬季学校の男性教師の平均給与は,
ライアンは,1797年2月28日,マサチューセッツ州西
寄宿つきで月10ドルから12ドルであったから,男性教
北に位置するバックランド(Buckland)で,父アロン
師の四分の一程度という厳しいものであった。
(Aron)と母ジェミマ(Jemima)の二男六女の五番目
生活のために教壇に立つ一方で,ライアンは貪欲に
の子どもとして生まれた。バックランドは,18世紀半
学習機会を求め,1817年にはわずかな貯金と父の遺産
ばにマサチューセッツ中央部やコネチカットからの移
を 使 い , サ ン ダ ー ソ ン ・ ア カ デ ミ ー ( Sanderson
民によってできた町で,会衆派のホイッグ党支持者が
Academy),さらにアマースト・アカデミー(Amherst
中心の保守的な土地柄である。また,ウィラード
Academy)で学び始める。男子用の大学のラテン語の
(E.Willard)やビーチャー(C.Beecher)ら19世紀初頭
教科書一冊を,三日ですべて暗唱するなど,周囲を驚
に活躍した女性教育者の多くはミドル・クラス以上の
かせる学才をみせたライアンが,1821年に周囲の反対
出自であるが,ライアンの家は中下層の農家であった。
を押し切って父の遺産を全て使い,入学したのがエマ
彼女の人生は,幼少時から貧しく過酷なものだった。
ソン牧師(Joseph Emerson)のバイフィールド女子セ
ミナリー(Byfield Female Seminary)13)であった。
1802年12月,ライアンが5歳の時に,父親が45歳の若
さで病死する。母は,当時まだ1歳4ヶ月だった末娘
ライアンは後にエマソンのことを「どんな教師より
フリーラブ(Freelove)をはじめ7人の子どもを抱え
も大きな影響を受けた」14)と回想している。当時の
て,その後7年余りの間,厳しい生活を送ることにな
女子教育は,親の経済力を誇示するための「消費」や
った。家にある本は聖書一冊だったというライアンの
「ファッション」,あるいは娘の結婚によって階層移動
家庭環境は,教師の給与を削減してでも学費を抑制し,
を果たすための「投資」としての側面を強く有してい
一人でも多くの貧しい学生を受け入れようと努力した
た15)。しかしエマソンは,「女性の知的能力を高く評
彼女の教育理念の基盤を形成したといってよい。ライ
価し」「男性と女性とに同じように教え」ており,ラ
アンはこの時期を,貧しいながらも皆で力を合わせて
イアンは男性と同等の教育を受ける機会を得たのであ
暮らした夢のような日々だったと回想している9)。
る。さらにエマソンは,19世紀初頭の段階ですでに,
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佐久間:19世紀米国における教職専門職化運動批判
教職の専門性やその訓練の重要性を認識していた数少
で「このシステムによって,若い女性たちの行動や性
ない知識人の一人であった。彼は,「適切に訓練」さ
格が改善され,望ましい影響が出ており,私達は満足
れた教師は,「キリストの牧師を除けば他のどの専門
しています」と記している19)。
職者よりもずっと,世界を啓蒙し改革し千年王国を紹
「助教法」は,ランカスター(Joseph Lancaster)が
介するために多くを為し遂げるだろう」と述べていた
イギリスで開発した教育方法で,アメリカには1807年
16)。ライアンはエマソンの下で,教職の重要性に着
に紹介され話題になっていた。この方法は,都市部の
目するに至っている。
貧しい子どもたちに教育機会をひらき,道徳水準を向
エマソンは,著名な牧師サミュエル・ホプキンス
上させることを目的として開発されたものであり,助
(Samuel Hopkins)の門下生であり,第二次信仰復興
教を用いた相互教授による経済性と効率性の追求,能
運動で再評価され始めていた神学者エドワーズの孫弟
力によるクラス分けと競争による動機づけ,体罰でな
子にあたる人物であった。ライアンの教育活動とその
く「規則と反復」による「しつけ」と「恥」による道
思想には,後述する通り,アメリカ宗教界に今なお甚
徳教育,非宗派教育の四点をその主要な特徴としてい
大な影響を与えるエドワーズの神学の影響を読みとる
た。しかもランカスターは,助教から主席助教を経て,
ことができる。
教師として自校を開設できる道筋を作り,「聖書が印
刷技術で複製されたように」多数の教師を一律に訓練
しようとしていた。助教法は,教員養成のシステムを
2. 3. 教育活動
ライアンは,女子セミナリーでも教鞭をとり,1823
年アダムズ女子セミナリーの「補助教師(teachers)」
内包していたのである20)。
ライアンが描出した「助教法」も,相互教授や能力
の一人として,1824年以降はサンダーソン・アカデミ
別クラス編成など上記四点においてランカスターの方
ー,1828年以降はイプスイッチ女子セミナリーで「教
法に準拠していたといってよい。1837年以降のマウン
師(preceptress)」17)として教壇に立っている。
ト・ホリヨーク女子セミナリーにおいても,開学時の
彼女は既にこの当時から,アダムズ女子セミナリー
カタログの教師欄に,3人の学生の名前が「助教」と
の初代校長ジルパ・グラント(Zilpa Grant)と共に,
して教師欄に記されている 21)。さらに,彼女の教育
女性教師養成の重要性をうたっていた。グラントとラ
目的も,貧しい女性たちに廉価で教育機会をひらき,
イアンは,『アメリカ教育雑誌(American Journal of
学習へ動機づけて脱落を防ぎ,教師や宣教師として養
Education)』といった当時最先端の教育雑誌を熟読し,
成することであり,貧しい階層の道徳教育の向上と教
教育方法の開発に力を注いでいた。
員養成を同時に行おうとした点も共通していた。
例えば,「助教法(monitorial plan)」を1826年に導
ライアンの知的水準の高さと教授技術の巧みさは,
入し,入学者数を三倍に増やし,毎日30人以上の視察
当時の教育者たちからも信頼を寄せられていた。ビー
者を受け入れていた。ライアンは,「助教法」導入の
チャーやブリット(Elijah Burritt)は自著出版にあた
様子を,妹フリーラブにあてた手紙の中で以下のよう
ってライアンに草稿を送り意見を求めていた。また
に興奮した筆致で語っている。「上級クラスから常任
1830年以降ブラウン大学長ウェイランド(Francis
の助教を指名」し,「5人から12人の助教(monitors)
Wayland)によってボストンで開催されたアメリカ教
を各セクションに採用した」ところ,「学校では暗唱
授協会(American Institute of Instruction)にも,通常
のために通常の1時間しか使わなかったのに」「70人
女性の参加は許されない中で,ライアンとグラントは
が約1週間で復習を始め」るという驚異的な速さで成
無料で招かれていた。1833年には,『アメリカ教育雑
果をあげたという。
誌』がイプスイッチ女子セミナリーの様子を取材し,
高い評価を与えている22)。
「生徒たちは今ほとんど一緒なので,私は全体への質
問の時間を半分にし,あとで少人数の助教クラスに分
学生からの評価も高く,1828年から29年にかけてイ
かれさせています。そして次から次へと助教クラスを
プスイッチで学んだコールズは,ライアンは「他の多
移動し,必要に応じて助教を助けたり,暗唱を聞いた
くの教師がするように,教科書の試験にばかり時間を
りします。この授業はとても楽しいの。70人の生徒が,
費やすことをせず,授業を,実に楽しく向上する会話
同時に同じ点に注意を注ぐ姿を観察するのはとても刺
と爽快な精神活動の時間にして」おり,「どのように
激的よ」18)
学ぶのかを示し,学ぶべき体系の基礎を自分たちで築
「助教法」はイプスイッチ女子セミナリーでも同様
に行われていた。在学中のコウルズは父にあてた手紙
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くようにさせていた」と述懐している23)。
1834年ごろからは,ライアンは独自の女子セミナリ
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
ーの設立に向けて奔走し,1837年11月8日,ホリヨー
のである。そして,一口少額の寄付を寄せてライアン
ク山の麓コネチカット州サウス・ハドレー(South
の教育活動を経済面から支えたのは,第二次大覚醒運
Hadley)の地に,マウント・ホリヨーク女子セミナリ
動の中心を担った無数の中産階級の女性たちであった。
ーを開学するに至っている。当時の女子セミナリーと
ライアン自身も,『神の救済史(History of the Work
しては珍しく独自の校舎を持ち,男性パトロンの出資
of Redemption)』などエドワーズの著書数冊を必ず教
ではなく市民の寄付金によって建てられた女子セミナ
科書として採用し,「私心なき博愛(disinterested
リーであった。ライアンは1849年に52歳で病死するま
benevoloence)」という彼の鍵語を繰り返し用いている。
で,生涯独身を貫き,同セミナリーにおける教育活動
エドワーズ神学によれば,当時世界は「千年王国(キ
に生活の全てを捧げていた。
リストが再臨してこの世を統治するという千年間)」
の実現のただ中にあった。そしてその実現は,「キリ
スト的徳」によって自己利益を浄化された市民による,
2. 4. ライアンの教育思想
神の福音の普及によって完成されると考えられていた。
以上のライアンの教育活動を支えたのは,どのよう
な思想だったのだろうか。キリスト教教育,女性教育,
「キリスト的徳」とは,現世でも来世でも報酬を期待
せず,進んで受難に耐える「私心なき博愛」にあると
そして当時の社会運動との関係から分析しよう。
されたのである。ライアンのライフ・ワークとは,
2. 4. 1
「千年王国」の完成のために,「私心なき博愛」を有す
キリスト教教育としての教育活動
る市民を育成することにあった。
ライアンの教育活動の基盤にあったのは,深い信仰
心であり,キリスト教思想であった。『マウント・ホ
2. 4. 2
リヨーク女子セミナリーの原理とデザインの概要(以
女性教育としての教師教育
下,概要)』において,ライアンは,「この施設はキリ
「私心なき博愛」を有する市民の育成のために,ラ
ストの博愛を拡大するために設立された」と著してい
イアンが正面に掲げたのが,女性教師の育成であった。
る24)。
ライアンは『概要』の冒頭一行目から「この施設は主
として女性教師の養成に捧げられる」と宣言している26)。
彼女のキリスト教理解は,恩師エマソンに教えられ
たエドワーズの神学に依っていた。エドワーズは,マ
では,なぜ女性教師なのか。ライアンは「教職はす
サチューセッツ植民地サザンプトンの会衆派教会の牧
べての有能な女性の真の仕事であ」り,「もう一つの
師である。17世紀後半のニューイングランドでは,
性の教師に委ねることなどできないのは明らか」だと
「回心」という明確な信仰経験を得られない人々にも
いう。なぜなら,一般に男性は「四方八方から権力や
教会員としての資格を付与しようとする世俗化の傾向
富が得られる望みが与えられ」「家族が増えるにつれ
が生じていた。しかしエドワーズは,信徒が会衆の面
収入も必要にな」るため,権力や富への野心から離れ
前で「回心」の告白をする従来の教会員制度に立ち返
ることは難しい。中には「私心なき博愛」に満ちた有
る必要性を説き,18世紀前半に「大覚醒」と呼ばれる
能な男性もいるが,彼らは「牧師職の緊急募集」や
大規模なリヴァイヴァルを展開していた25)。
「伝道先の地域からの苦悩に満ちた要請」に応じてし
ライアンの半生は,復古主義的傾向がもう一度生じ
まい,「儲からない場所に教師として喜んで定住し」
た19世紀初頭の第二次大覚醒運動の隆盛と期を一にし
たりはしない。しかし,「女性はそうではな」く,「結
ている。第二次信仰復興運動で最も読まれたのがエド
婚前の短い期間」に限ってではあるが「博愛の面から,
ワーズの著書群であり,ライアンの恩師エマソンや,
喜んでどこにでも住み,仕事に専念する」ことが可能
エマソンの師ホプキンス,さらにはライアンが教鞭を
であり,「教職こそが,女性が求めているものなので
とったサンダーソン・アカデミーの設立者サンダーソ
ある」。教職は,経済的野心をもたない独身女性が,
ン(Alvan Sanderson)も,エドワーズ派の牧師であっ
結婚前の短期間に従事すべき神への奉仕活動だという
た。マウント・ホリヨーク女子セミナリーの設立に尽
のである27)。
力したトッド(John Todd)やヒッチコックも同様で,
その上でライアンは,教職準備教育は「すべての女
ライアンの主要な人脈は,エドワーズ神学を基礎とす
性に必要だ」という。なぜなら,女性は結婚後も「家
る会衆派の信徒であった。生涯独身を通したライアン
族の教育の担い手」かつ「家庭の導き手」になるから
の社会的活動は,当時の規範からみれば「女性らしく
である。
ない」逸脱であったにも拘わらず,エドワーズ神学の
「すべての小さき子を育て,言葉や態度によって彼ら
布教という側面から正当化され,社会的に是認された
の慈悲心を深め,聖霊の助けを得ながら子どもを幼児
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佐久間:19世紀米国における教職専門職化運動批判
3. 1. 宣教の精神
期から救主キリストに仕える者へと訓練してゆくのは
まず,ライアンの教師像の中核をなしているのは,
誰だろうか?これこそ,女性の努力に最適の領域ではな
「宣教の精神(missionary spirit)」である。彼女は,自
いか?すべての子どもや青年は,女性の手を避けて通る
ことができないのだ。」28)
校開学にあたって,「このセミナリーは,伝道運動を
ライアンは,教職準備教育と女性教育とを相即的に
進めるために作られた」と宣言し,教職こそが「宣教
の精神」の最高の表現形式だと表現している33)。
とらえていたのである。
ライアンにとって,教師とはすなわち宣教師であり,
2. 4. 3 社会運動との関係
神の教えを正しく伝える者のことであった。このライ
しかし彼女は,当時の女性参政権獲得運動や奴隷解
アンの教師像は,上述の会衆派の教義に根ざしている。
放運動といった社会運動からは,一定の距離を取って
会衆派では,「教会は説教者すなわち牧師(minister
いた。1845年には,ライアンにも反奴隷制運動への参
=pastor=preacher)と,宣教の純正維持をはかる神学
加依頼の手紙が届くが,協力を断っている 29)。復古
教師(teacher)と,信徒の訓練に携わる長老(elder)
主義的な側面を持つエドワード神学に根ざしたライア
と,慈善に携わる執事(steward=deacon)の四種の奉
ンの教育思想は,当時の価値規範を変革しようとする
仕者を必要とするとされ」34)ており,ライアンが養
よりは,むしろ補強することに主眼をおいていた。
成しようとした「教師」とは,牧師とは別の立場から,
「宣教の純正維持」をはかりつつ神の教えを広め,神
「女性の義務はどんなものであれすべて,重要な意味
で,社会的かつ家庭的である。それらの義務は,公的
の国の実現に尽力する者であった。会衆派では当時,
な領域から退いた私的なもので,男性の義務ように公
女性が牧師になることは許されず,ライアンにとって
的なものではない。女性が自分の家族を超えて行うこ
「教師」こそが「神の使徒」としてすべてを捧げうる
とはすべて,社会的家庭的卓越をただ別の形で発揮し
職であった。彼女自身,生涯独身を貫き,生涯を神に
たにすぎないようにしなければならない30)」
捧げていた。
共和国の存続は市民の徳性に依存し,将来の市民の
宣教師としての教師像は,ライアンの記した『教師
育成にあたる母親も重要な政治的役割を負うというラ
たちへの格言(以下,格言)』にも色濃く反映されて
イアンの思想は,女性の社会的役割の重要性を強調し
いる。まず,ライアンは教師の道徳心を強調する。「教
つつも,女性の領域は家庭であるという通念を積極的
師の有能さは,子どもに好かれるかどうかでなく,子
に肯定していた31)。
どもへの道徳的影響力に依拠することをわきまえよ」
ただしライアン自身も,従来のジェンダー規範との
と彼女は言う 35)。ウィラードやビーチャーと異なり,
間での葛藤を,グラントへの手紙の中でたびたび記し
ライアンは教職に「母性」が不可欠とは主張しない。
ている。
家事の技術や実践は女性の仕事ではあるが,重要なの
「私はますます,あなたでも私でもなく,だれか慈悲
は「彼女自身の家庭を越えて」「公共善」のために道
深い男性に,この仕事を名目上委ねるべきだと感じる
徳的貢献をすることであり,自分の家庭や子どもにの
ようになっています。そうすれば,不必要な仕事は減
み腐心する女性は,むしろ批判の対象であった 36)。
り,冷酷は批判は避けられ,嫉妬心が刺激されること
第二に重視したのは感情の制御である。『格言』には,
もなくなり,この施設をよい方向に導くために私たち
「不適切な笑いを避けよ」「大声での談笑を避けよ」
自身の影響がもっと有効に発揮されるでしょう」32)
「常に感情を完全に統御せよ,そうすれば子どもの生
女性として社会的活動を展開する中で,従来のジェ
意気な言動に赤面せずに済む」「間違えても,動揺を
ンダー規範に根ざした「批判」や「嫉妬心」に直面し,
顔に出してはならない」「小さな試練は神の賜と思え」
など,まるで修道女のように感情を制御せよと説いて
「名目上」の対応策を考えるなど,ライアンなりの戦
いる。第三は男性,特に男性牧師への従属である。
略を練っていたのである。
『格言』には,「牧師の説教の批評をしてはならない」
3. メアリー・ライアンの教師像
など,牧師との関係に関する項目が並ぶ。女性が教育
─教職専門職化運動への批判
を受けた結果,教会や男性牧師の権威を揺るがすよう
な事態を招くことは,避けなければならなかったので
では,既に1820年代からライアンが養成しようとし
ていたのは,どのような教師だったのか。ライアンの
教師像の特徴は,以下三点に指摘できる。
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あろう。
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
ます。それは,自然な心では理解されないものです。
3. 2. 自己犠牲の精神−未婚女性の一時職
動機一覧の中に,二番目でもないにせよ,経済的理由
が挙がることには慣れました。ですが私は,男性でな
ライアンの教師像の第二の特徴は,「私心なき博愛」
く女性の場合は,経済的理由はもっと下位に位置づけ
という,徹底した「自己犠牲」の精神であった。『格
るべきであり,その方が神の国の制度と調和するとい
言』にも「他者を幸せにするために自己を犠牲にする
う意見に傾いています。」41)
習慣をつけよ」「進んで全ての時間を学校に捧げ,最
つまり教職は,経済的野心を持たない女性が全身全
善のものにせよ」などの言葉が並ぶ。
霊を神に捧げるべき聖職であり,それは結婚を妨げな
この特徴を端的に象徴するのが,教師は経済的報酬
い短期間の奉仕活動であるべきだ,という主張である。
を期待してはならないという主張である。ライアンは,
この主張の背後には,女性教師の雇用や活動に対して
教職には徹底した自己犠牲のもと「全てを捧げる」必
警戒を強める当時の社会のなかで,女性教師の存在を
要があり,それが可能なのは結婚前の「短期間」にす
なんとか容認させたいというライアンの思いがあった
ぎないと主張する。したがって彼女は,「我々は,専
ことが推察される。
門職としての仕事に一生を捧げる女性教師を,我が国
に供給しようとしているのではない」と述べて,教職
専門職化運動を明確に否定する37)。
3. 3. 知性
ライアンの教師像の第三の特徴は,高度な知性にあ
このライアンの教師像は,当時の教職専門職化運動
る。『格言』には,「知識を得よ,そうすれば善行をお
に対立するものであった。19世紀初頭以降,ギャロー
こなえる」「感情でなく原理原則にしたがって行動せ
デット,カーター(J.Carter),ストウ(C.Stowe)と
よ」などと,情緒よりも知性を重視する姿勢が目立つ。
いった知識人は,教職を,医師や弁護士と同等の社会
さらに,「一つ一つの授業の準備をする努力をせよ,
的経済的地位をもつ「専門職」にする必要があると主
そうすれば一人一人の生徒にわかりやすく面白い授業
張していた 38)。特に,教職への女性の適性を主張し
ができる」「毎時間授業内容に関連して,勉強中の本
つつも,教職の専門職化を目指していたキャサリン・
に書かれていない,なにか興味深い内容を生徒に伝え
ビーチャーの主張とは鋭く拮抗していた。
なさい」などと生徒の興味を引く授業を周到に準備せ
ビーチャーは,教職を女性職として構想した上でな
よとの教えが記されている。
お,女性教師は医師や弁護士と同等の「富と影響力と
この教師像は,マウント・ホリヨーク女子セミナリ
尊敬」を享受するべきと主張していた。彼女は,男性
ーの厳しい入学資格に現れている。第一に,ライアン
と同等の政治的・経済的・社会的地位を持つ「女性の
は開学当初から「16歳以上」の年齢制限を設けていた。
真の専門職」を創造することによってこそ,「女性の
当時の女子セミナリーは,初等教育からポスト中等教
領域」の相対的な地位向上,ひいては共和国の道徳的
育までおこない,10歳未満の子どもから10代後半の独
状況の改善がもたらされると考えたのである 39)。し
身女性までが混在するのが一般的だったため,16歳以
たがって,ビーチャーにとってライアンの主張は看過
上という年齢制限は極めて異例だった。第二に,「男
できない脅威であり,厳しい批判の手紙を送っている。
性カレッジに匹敵する」「三年制」の教育課程をうた
い,入学時にはすでに「英文法,現代地理,合衆国史,
「あなたは最初から間違いを犯しています。私達の専
門職の利益を上げることが,偉大な諸計画の目的なの
ワッツの精神,コルバーンの初等算数,アダムズの新
です。この点がもし守られなければ,われわれの専門
算数のすべてか,相当する筆算」に習熟していること
職は,エネルギーに満ちた人からも才能のある人から
が求められていた。
も見捨てられ,愚か者や怠け者のたまり場になってし
当時としては類例の少ない長期の教育課程にも拘わ
まいます。われわれの専門職は,宣教の精神では維持
らず,開学初年度には定員90人に対し116人が入学し
できないのです。牧師や宣教師は派遣できるかもしれ
ている。翌年は約200人の志願者があり,毎年志願者
ないけれど,教師には通用しないのです」40)
は増え続けた。さらに開校5年後の1841年には170人,
しかし,ライアンはビーチャーに対し以下のように
48年には200人以上へと定員を増やしたが,500人以上
の志願者が押し寄せ半数以上が不合格にされていた。
明白な返答をしている。
この状況は,同時期の男性大学が学生不足で経営危機
「あなたは教師の報酬をあげることの重要性をおっし
に直面していたのと対照的であった42)。
ゃる。しかし,私は教職への動機を列挙するなら,ま
ず一番に,汝隣人を愛せよ,という偉大な動機を挙げ
− 318 −
佐久間:19世紀米国における教職専門職化運動批判
あった。したがって,以下の教育課程すべてがそのま
4. マウント・ホリヨーク女子セミナリーの教師教育
ま教職準備教育であった。その上で,教職のための心
得等に関する説諭は,以下のようにライアンが最も重
では,ライアンは以上の教師を,どのように養成し
視した礼拝や聖書研究の時間に,盛り込まれていた。
ていたのだろうか。同セミナリーにおける教育の実際
を検討しよう。
4. 1. 3. 大学相当の教育レベル
ライアンが心血を注いだのは,各教科の学習内容を,
4. 1. 教育課程
当時女性の入学が許されていなかった大学と同等のレ
4. 1. 1 .教師陣
ベルに上げることであった。当時の女子セミナリーで
初年度の学校要覧には,タイラー牧師(William
一般的だった,フランス語や絵画などのいわゆる「装
Tyler)を学長として10人の男性評議員の名が挙げら
飾的科目」は,開学当初からすべて排除されていた。
れ,その下に校長ライアンと副校長コールドウェル
科目の水準は年々向上し,1841年から1849年の教科書
(Eunice Caldwell),教師にはスミス(Mary W.Smith)
リストをみると,エマソンが編集したIssac Watt's
とホグマン(Amanda A.Hodgman)の名が記されてい
Improvement of the Mindや,Joseph Butler's Analogy of
る。これら教師は,全員独身女性であった。
Religionなど,アマースト大学と共通する教科書が12
学生は,入学試験の成績に応じて学年ごとに振り分
けられた。開学時は,3年生4人,2年生34人,1年
生69人,クラス未定が9名,合計116人であった43)。
冊使用されるに至っている。
最も重視されたのは,宗教と科学の諸科目であった。
ライアンは「観察」こそが「改善の最初の手段」であ
り,「新しく発見しようという希望があなたがたをま
すます勤勉にする」と説いている。当時,科学はキリ
4. 1. 2. 時間割と科目名
授業は,年間40週に3学期制を導入していた。1,
スト教と不可分であり,新しい「科学」的発見は,聖
2学期は各13週,3学期は14週で,そのうち年間4週
書や神学の正しさを証明すると考えられていた。これ
間は復習および試験と定められている。各学期は生徒
らの科目では,同セミナリー理事でアマースト大学教
の実態に応じて数週間の「シリーズ」に分割され,特
授のヒッチコックが特別授業をおこなうこともあった
別に優秀な学生を除きほとんどの学生は,必修科目と
うえ,ライアン自身が教鞭をとっていた。ライアンは,
各シリーズ2科目の履修が一般的だった。「シリーズ」
アマースト大学教授イートン(Amos Eaton)に学んだ
を設定し,数科目を数週間集中して学ばせる方式は,
経験をもとに,実験を重視した授業をおこなっていた。
1820年代にイプスイッチ女子セミナリーで開発されて
学生の一人グッディルは1838年に,ライアンに指導さ
いたものである。
れて水銀と錫から鏡を作った実験の感動を手紙につづ
必修科目は,聖書研究,英作文,カリセニクス(健
り,1841年には同校を「科学の城だ」と記している45)。
康体操),声楽であり,その他の履修科目は,学年ご
マウント・ホリヨークは,19世紀末に科学と宗教の対
とに定められていた。開学時の科目は,以下の通りで
立が顕在化するまで,女性が最もアクティブに科学を
ある。
学ぶことができる場所の一つであった46)。
1年生:「英文法,古代地理,歴史,サリバンの政
ヒッチコックは,ライアンの授業を見終えた大学の
治学,植物学,ニューマンの修辞学,ユー
学長二人が「どうしてこの若い女性たちは我々の大学
クリッド,人間生理学」
の4年生よりずっと上手くバトラーを暗誦できるのだ
2年生:「上級英文法,代数,上級植物学,自然哲
学,スメリーの自然史哲学,知的哲学」
ろう」「わからないが,彼女たちのほうがよい教師を
得ているのは確かだ」と会話するのを聞いたと述懐し
3年生:「化学,天文学,地理学,シラの書の歴史,
ている 47)。ただし,1830年代・40年代の全ての科目
キリストの証,ワテリーの論理学,ワテリ
の教育水準が,実際に大学相当のものであったかどう
ーの修辞学,道徳哲学,自然神学,バトラ
かを判定することは難しい。1830年代の一般的な大学
ーの植物学」44)。
カリキュラムが「ギリシャ語,ラテン語,数学」を中
教職準備に関する語を冠した科目名は見あたらない。
心に構成され,「二年生で発展的数学,三年生で科学,
ライアンにとっての教師養成とは,上述の通り「宣教
四年生で哲学」48)が加えられていたことを鑑みれば,
の精神」と「自己犠牲の精神」を修練させることであ
初期の同校には,ギリシャ語科目はなく,開校3年後
り,神の御技を理解する「知性」を獲得させることで
から履修科目に加えられたラテン語は,初級のみであ
− 319 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
った49)。
した方法であった51)。
4. 2. 教育方法
4. 2. 4. 班活動と家事分業
同セミナリーの教育方法の最大の特徴は,全寮制で
第四は,班活動による生活指導である。学生たちは,
教師と生徒に生活共同体を形成させ,24時間体制の厳
学期開始時に「サークル」と呼ばれる班に分けられ,
しい生活指導と道徳教育によって,教師を養成しよう
「分業(division of labor)」と称して役割分担を定めら
とした点にある。宗教学の立場からライアンの思想を
れていた。全寮制ゆえ,生活に必要な家事は,掃除や
分析したポーターフィールドは,「彼女の学校はカト
洗濯やアイロン,パン焼きやバターづくりや炊事,食
リック女子修道会のプロテスタント版」と指摘してい
材や家具調度の購入や手入れ,テーブルセッティング
る。ライアン自身が女子修道院のシステムを参考にし
から郵便の集配まであらゆる分野に及んだが,メイド
たことを示す史料は見つかっていないが,以下四点に
などを一切雇わず,学生に「家事(domestic labor)」
おいて,同セミナリーの教育組織は修道院と酷似して
を行わせて指導の対象としたのである。ライアンは,
いた。
一人一人の生徒の性格から出身環境に至るまで細心の
注意を払って班作りを行ったと記している。
4. 2. 1. 宗教教育と礼拝
しかし厳しい生活指導,特に「家事」の「分業」は,
第一に,「あらゆる教育活動の基本」に「宗教」が
セミナリーの最も論争的な部分でもあった。学生の一
位置づけられていた。週に一回の聖書の授業,一日二
人ナンシー・エバレット(Nancy Everett)は「79人の
度のライアンの説教と礼拝に加え,毎日担任による説
学生と,ライアン先生と3人の先生,家事部門の監督
教と礼拝の時間が設けられ,さらに日常的に折に触れ
と計84人が一つの家族になっています」「こんな幸せ
聖書に基づく説教の時間が作られた 50)。ライアンの
な家族がいたかしら!」と叔父にあてた手紙に記して
説教は,1820年代から「一度聞いたら忘れられないも
いる 52)。一方,重労働に対する学生からの苦情も後
の」と評判で,1830年の冬だけで99人中40人の生徒が
を絶たず,学校外ではこのセミナリーは花嫁学校だと
「回心」の経験をしたという。ライアン自身は会衆派
いう評判が聞かれるようになっていた。20年代の教育
だったが,学生募集に際しては宗派は問われなかった。
活動を共にしたグラントでさえ,「家事は教育ではな
い」と否定的だった。それでもライアンは,身辺自立
をメイドや他者に頼ることは「人に奉仕しようとする
4. 2. 2. 時間管理
女性には不適切」と説くと共に,「この [家事労働の-訳
第二に,全寮制により生活共同体を形成していた。
全ての生徒は寄宿舎に入り教師と生徒が「家族」とし
者注] 教育部門は非常に重要です。でもこの学校はそ
て生活を共にした。その上で,正規の教育課程に「家
のためにあるのではないのです」と必死で噂を否定し
事(domestic work)」を位置づけ,学生の生活全般を
ていた53)。
指導したのである。生活指導は,5時の起床から10時
の消灯に至るまで,分単位の時間管理によっておこな
4. 3. 学費抑制
われ,30分ごとに鐘が鳴らされた。授業や集会,食事
ライアンは教育課程への家事導入の目的を三点挙げ
や教会などあらゆる場所の座席がアルファベット順に
ていた。第一は,「毎日の練習の積み重ね」による家
定められ,消灯後も教師たちが廊下をパトロールし,
事技法の実践的訓練,第二は,協同作業や交渉を通し
生徒たちの行動は隅々まで監督の対象となった。
ての「社会性の鍛錬」,第三は,友人や学校全体への
奉仕活動を通して「全体の福祉」を考える訓練である。
4. 2. 3. 自己申告による懲戒
しかし,最大の実質的な目的は,学費抑制にあった
第三は,厳格な校則規定と自己申告による懲戒法で
といってよい。ライアンは清掃や調理などの労働を学
ある。校則は,遅刻や私語の禁止はもちろん,洗濯や
生にさせることで,人件費の「支出を三分の一か二分
料理の方法から起床時間やコーヒーの禁止にいたるま
の一に押さえ」,学費を抑制する経営手法をとったの
で,70以上に及んだ。規則違反者には「しつけ法
である。ウィラードやビーチャーと異なり,農家に生
(method of discipline)」が適用され,週一度の全校集
まれ苦学したライアンにとって,貧しい家庭の女性に
会で全校生徒の前で懺悔させたという。これは,自分
対しても門戸を開放することは悲願であった。彼女は
が犯した罪を自ら告白し懺悔させる方法で,20年代に
「慈善寄付を求める一方で高い学費を要求できます
グラントが,バイフィールドの女子セミナリーで開始
か?」と述べて,「授業料を,富裕層や教育を受けた
− 320 −
佐久間:19世紀米国における教職専門職化運動批判
人々,あるいは農民や修理工にとっても妥当と思われ
設立者の事情や死亡によって閉校に至る事例が多い中,
るように設定しています」と述べている 54)。この学
ライアンの教育理念と教育課程は,その死後も受け継
費抑制は,以下三点の意義を持っていた。
がれ,全米へと伝えられていった59)。
第一に,幅広い階層の女性に初等教育以上の学習機
会をひらいていた。実際,1837年から1850年のマウン
5. 教師教育史における意義
ト・ホリヨーク女子セミナリーの学生の半数以上が農
家であり,中下層出身女性に学習機会をひらいていた
ことがうかがえる(図1)55)。
以上から明かなように,ライアンの教師教育は,女
性教育の拡充を通して会衆派の教義に根ざした社会作
りに貢献するための方法論としての意味をもっていた。
したがって,近代学校の拡大に直接貢献しようとする
思想や実践のみを教師教育史ととらえ,州立師範学校
の系譜を中心に据えれば,ライアンの系譜は傍流に位
置づくにすぎない。しかし彼女の教師像と教師教育は,
女性教師の厳しい勤務実態を正当化することで教職の
専門職化を阻む一方で,州立師範学校に先行して教職
への女性の参入を説き,神の使徒として女性教師の存
在を社会的に容認させることに貢献していた。この点
図1.卒業生の父親の職業(1838-1850)
Allemendinger, Jr.(1979)より作成
で,入学生のほとんどを女性が占めていた州立師範学
校の成立と展開にも,間接的な影響を与えていたとい
第二に,それら幅広い階層の女性に,教職への道を
開いていた 56)。ライアンが組織した有志卒業生の
え,看過できない。以下,ライアンの教育活動の教師
教育史における意義を六点に整理しよう。
「記念協会(The Memorandum Society)」の記録によれ
第一に,従来のアメリカ教師教育史研究では,1830
ば,1847年には登録者593人のうち279人が,1887年ま
年代の州立師範学校設立をもって「教師を養成する」
でには3033人の登録者のうち2000人以上が,国内外で
という概念が成立したとされてきた 60)。日本の先行
教職についていた。幅広い階層から学生を集め,自己
研究でも,女子セミナリーにおける教師教育の存在は
犠牲的な教師像を掲げたマウント・ホリヨーク女子セ
指摘されてこなかった 61)。しかし,ライアンは既に
ミナリーの卒業生からは,黒人や先住民チェロキー族
1820年代から教師養成をうたって教育活動を開始して
など,マイノリティ教育に尽力する教師たちもいち早
いた。この事例は,ウィラードのトロイ女子セミナリ
く輩出されていた 57)。宣教師となった者も多く,ラ
ーやビーチャーの事例とともに,アメリカには女子教
イアンの没した1849人で35人が派遣され,1887年には
育として開始された教師教育の系譜が存在していたこ
アメリカ海外伝道協会(American Board of Commis-
とを示している。
sioners for Foreign Missions)の海外派遣者の五分の一
近くをマウント・ホリヨークの卒業生が占めていた58)。
第三は,1850年代以降の女子セミナリーの教育課程,
第二にライアンは,教職は経済的野心をもたない女
性こそが,全身全霊を捧げるべき聖職であり,それは
結婚を妨げない短期間の一時職であると主張し,教職
ひいては東部の女子大学設立運動への影響である。廉
専門職化運動に反対していた。女性教師に対する賃金
価な学費で学生定員の拡大を実現したライアンの教育
格差は,女性教師教育者自身によって正当化され,む
課程は,「マウント・ホリヨーク方式」としてチェロ
しろ積極的に推進されていたのである。現代アメリカ
キー女子セミナリー(Cherokee Female Seminary,
における,教師の報酬の相対的低さや,結婚や育児を
Oklahoma, 1851),エリー湖女子セミナリー(Lake
機に退職する一般的教職ライフコースの史的起源の一
Erie Female Seminary,Ohio,1859),ミシガン女子セミナ
つは,ライアンの思想に端的に表現される教師像に求
リー(Michigan Female Seminary,1867)など中西部へ
められるといってよい。
と普及し,さらにウェスタン女子セミナリー
第三に,ライアンは教師の低賃金と教育課程への家
(Western Female Seminary,Ohio,1855)を経由して,ウ
事の導入によって,学費抑制を実現していた。この教
ェレスリー大学の創設者デュラント(Henry Durant)
育課程は,幅広い階層の女性へ就学機会を拡大し,ひ
をはじめ,1850年代以降の東部の女性大学設立に影響
いては教職への女性の参入を促したのである。上記の,
を与えていた。19世紀初頭の女子セミナリーの場合,
教師像の女性化と教職就労者の女性化に加え,教師の
− 321 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
出身階層の拡大も,ライアンの業績の重要な意義であ
of Mount Holyoke College, Minneapolis: The Beard Art and
る。
Stationery Co., 1897.; Green, Elizabeth A., Mary Lyon and
第四に,ライアンの事例は,ランカスターの「助教
法」が女子セミナリーにおける教師教育の成立に大き
な影響を与え,輩出される女性教師の量的拡大を支え
Mount Holyoke; Opening the Gates, University Press of New
England, 1979.; Melder, Keith, “Mask of Oppression: The
Female Smeinary Movement in the United States”, New York
History, no.55,1974.
る方法論を提供していたことを示している。助教法の
3)Conforti, Joseph A., "Mary Lyon, the Founding of Mount
意義を論じた先行研究のほとんどは,助教法がアメリ
Holyoke College and the Cultural Revival of Jonathan
カ公教育制度に与えた影響に焦点化されており,助教
Edwards," Religion and American Culture: A Journal of
法が教師教育に与えた影響についての,さらなる検討
の必要性が示唆される。
Interpretation 3:1, 1993, pp.69-89.; Porterfield, Amanda, Mary
Lyon and the Mount Holyoke Missionaries, Oxford University
Press, 1997.
第五に,ライアンが創出した教育課程は,「マウン
4)坂元辰朗,「セミナリーからカレッジへ−マウント・ホ
ト・ホリヨーク方式」として全米および海外に普及し,
リヨークにおける"改革"とそのパラドクス」,アメリカ教
女子セミナリーおよび女子大学設立の基礎を築いてい
育史研究会編『多元文化社会アメリカの教育におけるオ
た。教職に高度な知性を求めたライアンの教師像と教
ートノミーとコントロールに関する史的研究』科研費成
果報告書,2000年,220-240頁。
育活動は,中等教育機関として成立し発展してゆく州
5)有賀夏紀『アメリカ・フェミニズムの社会史』,勁草書
立師範学校よりも,女性の高等教育の拡充に,より直
房,1988年。小檜山ルイ,『アメリカ婦人宣教師−来日の
背景とその影響』,東京大学出版会,1992年。
接的な影響を与えていた。
第六に,マウント・ホリヨークの卒業生は,1847年
以降日本にも教師兼宣教師として派遣された。同校に
残る記録には,1847年に横浜に来日したスペリー
(Henrietta Caroline Sperry)を皮切りに,1868年以前に
6)Tolley,K.,etc., “Symposium: Reappraisals of the Academy
Movement”, History of Education Quarterly, vol.41, no.2, 2001,
pp.216-270.
7)拙稿,「19世紀米国における教師教育成立の一系譜−エ
マ ・ ウ ィ ラ ー ド の ト ロ イ 女 子 セ ミ ナ リ ー に 着 目 し て 」,
9名,1924年までに計53名の卒業生の名前が列挙され
『教育学研究』,第67巻第3号,2000年,333-343頁。
ている。赴任地は,札幌,弘前,仙台,新潟,若松
8)Hitchcock, Edward, The Power of Christian Benevolence
(会津若松),前橋,豊橋,東京,横浜,名古屋,岐阜,
大阪,京都,神戸,岡山,鳥取,松山,福岡,宮崎,
Illustrated in the Life and Labors of Mary Lyon, New York:
American Tract Society, 1858.ヒッチコックは,ライアンの
手紙を多数収録したが,出版後ほとんどの一次史料を焼
熊本,長崎等,全国に及んでいた 62)。教師兼宣教師
失させている。それゆえ本稿では,彼の編集意図を批判
が,江戸末期以降これほど継続的に,かつ同一学校か
的に検討しつつ,同書にのみ収録されたライアンの手紙
ら日本に派遣されていた例は類をみない。ライアンの
教師像と教育活動が日本に教師教育に及ぼした影響の
詳細な検討は,今後の課題である。
は二次史料として検討の対象とする。
9)父の死亡時,長女エレクタ(Electa)は17歳,次女ジェ
ミマ(Jemima)15歳,長男アーロン(Aaron Jr.)13歳であ
った。8人兄弟のうち,次男は4歳で死亡している。
10)長女は1808年に既に結婚して家を出ており,再婚時家に
【謝辞】The author would like to humbly thank Nobuyuki
いたのは6人の兄弟だった。母が連れて行ったのは末娘
Kurebayashi (Shiga University), Kazuteru Omori(Tsuru
フリーラブ9歳,ロシーナ(Rosina)11歳だけであった。
University)
, Tadanori Yamashita(Mount Holyoke
College), and Mount Holyoke College Archives and
11)Fisk, ibid, pp.29-30.
12)生徒の家庭が交代して教師に宿と食事を提供する制度で,
教師は方々の生徒の家を転々としなければならなかった。
Special Collections for their generous support to my
13)アメリカ初の女子セミナリーであったといわれている。
research in the United States.
14)Hitchcock, op.cit., p. 261.
なお,本研究は,平成15年度文部省科学研究費補助
15)Douglas, Ann., The Feminization of American Culture,
Noonday Press, 1977.
金による研究成果の一部である。
16)Emerson Ralph, Life of Rev. Joseph Emerson, Pastor of the
Third Congregational Church in Beverly, Mass., and
注
subsequently Principal of a Female Seminary, Boston: Crocker
and Brewster, 1834, pp.246, 420-423.
1)National Education Association, Report of the Committee on
17)当時の女子セミナリーにおける教職の職階は,校長
Teachers' Salaries and Cost of Living, Washington,D.C.,
(principal),プレセプトレス(preceptress),ティーチャー
National Education Association, 1911.
(teacher)であるのが一般的だった。
2)Fisk, Douglas, John, Mrs., Life Story of Mary Lyon; Founder
− 322 −
18)Letter from Mary Lyon(以下ML) to Freelove Lyon,
佐久間:19世紀米国における教職専門職化運動批判
Londonderry, N.H., October 25, 1826, Mount Holyoke College
入学後に不合格になった者などの存在による。
44)ML, First Annual Catalogue, 1837, p.9.
Arcives, Vol.2, Letters 1839-1849.
19)Letter Maria Cowles to Rev. Henry Cowles, March 29, 1831,
Ipswitch, 1831, Mount Holyoke College Archives and Special
45)Lucy Goodale to her family, July 2-13, 1838, MHCASC.
46)精神的な真実に関する疑問は,自然界の真理をアナロジ
ーにして確かめるしかないと考えられ,例えば自然界に
Collections(MHCASC).
20)Kaestle, C.F.ed., Joseph Lancaster and the Monitorial School
おいて毛虫が蝶に変態するという事実は,人間の死後も
Movement: Documentary History, Teachers College Press,
永遠の命が存在することの証左とされた。科学に対する
宗教的アプローチは,同セミナリーの科学教師マン
1973.
21)ML, First Annual Catalogue of the Officers and Members of
the Mount Holyoke Female Seminary, Mass., 1837-8, 1837, p.2.
22)"Motives to Study in the Ipswich Female Seminary,"
(Margaret Mann)の祈りに象徴されている。「願わくば私
の植物学がシャロンのバラ,谷の百合とならんことを。
私の地理学がニューエルサレム山の千歳の岩とならんこ
とを。私の化学が神秘的な三位一体の見えざる要素とな
American Annals of Education, 3, no.2, 1833, pp.75-80.
23) Mrs.E.C.Cowles, "Notice of Miss Mary Lyon," The
らんことを」Porterfield , op.cit., pp.42-43.
47)Hitchcock, op.cit., p.453.
Massachusetts Teacher, vol.2, no.4, 1849, pp.123-125.
24)ML, General View of the Principles and Design of the Mount
Holyoke Female Seminary, 1837, p.1.
48)Fletcher, R.S., History of Oberlin College from Its Foundation
Through the Civil War, vol.2, Oberlin College, 1943, p. 694.;
25)斎藤眞「アメリカ革命と宗教-文化的多元性・政教分
離・統合」,森孝一編『アメリカと宗教』,日本国際問題
研究所,1997年,64-94頁。
Green, op.cit., p. 219.
49)ウッディは1830年から1871年に開校されていた女子セミ
ナリーのうち,107校は男子対象の大学の3,4年生と同
26)ML, General View, op.cite., 1837, p.1, 6.
じ科目を教えており,6割は論理学,8割は哲学,9割
27)ML, ibid, p.6.;
は科学を教えていたとしている。19世紀初頭のアメリカ
28)ML, Female Education, Tendencies of the Principle
の高等教育は曖昧で柔軟なものであり,セミナリーとカ
Embraced and the System Adopted in the Mt. Holyoke Female
レッジの境界線も明確でなく,アカデミックな水準も必
Seminary, Boston, June, 1839, p. 7.
ずしも大学の方が高いとはいえなかった。但し明確な違
29)Jefferson Church to Lyon, Springfield, Nov. 17, 1845,
いは,女子セミナリーではスペリングなどの基礎的科目,
および絵画や裁縫など幅広い実学的科目が提供されてい
MHCASC.
30)ML, op.cit., 1839, p.10.
たことにあった。T.Woody, A History of Women's Education
31)Kerber, Linda K., Women of the Republic, University of North
in the United States, New York: Science Press, 1929, vol.1,
Carolina Press.
p.418.
32)Porterfield, op.cit., p.14.
50)ML, Female Education, 1839, p.7.
33)ML, “Mount Holyoke Seminary”, June 15, 1935, not
51)Green, op.cit., p.50.
52)Nancy Everett to her uncle, South Hadley, Nov.26, 1837,
published, MHCASC, p.12.
34)児玉佳與子「ワスプの宗教思想−メインライン・プロテ
スタント伝統の批判的検討」,井門富二夫編『アメリカの
宗教−多民族社会の世界観』,弘文堂,1992年,141頁。
MHCASC.
53)ML, Prospectus of Mount Holyoke Female Seminary,
Perkins& Marvin, 1837, p.8.; Porterfield, op.cit., p.38.
35)ML, “Maxims for Teachers”, 1930s?, MHCASC.
54)ML to CB, July 1, 1836, MHCASC.; Green, op.cit., p.157.
36)Porterfield, op.cit., pp.11- 47.
55)David F.Allemendinger, Jr. “Mount Holoke Students
37)ML, General View, op.cit., 1937, p.7. ただし,ライアンは
低賃金であれ,就職時に明確な契約を取り交わすよう卒
Encounter the Need for Life-Planning, 1837-1850”, History of
Education Quarterly, Spring, 1979.
56)例えばML, "Candidates for Teachers", 1845.; "Record of
業生に勧めていた。Green, op.cit., p.267.
38)例えばGallaudet, T., A Plan of a Seminary for the Education
Supply of Teachers", 1847-1848, MHCASC.
57)Butchart, Ronald E., “Mission Matters: Mount Holyoke,
of Instructors of Youth, Boston: Cummings, 1825.
39)Beecher, C.(以下CB)
, Suggestions Regarding Improvements
Oberlin, and the schooling of Southern Blacks, 1851-1917”,
in Education, Packard and Butler, 1829. 詳しくは,拙稿「キ
History of Education Quarterly, vol.42, no.1, 2002, pp.1-17.
ャサリン・ビーチャーにおける教師教育の思想-19世紀米
58)Green, op. cit., pp.264-271.; Stow, op. cit., pp.204, 319-322.
国における教職の専門職化と女性化をめぐって」,日本教
59)Margaret Nash, “A Salutary Rivalry: the Growth of Higher
師教育学会年報第11号,2002年,88-98頁。
Education for Women in Oxford, Ohio, 1855-1867,” History of
40)Stow, Sarah D., History of Mount Holyoke Seminary, South
Hadley, Mass., during the First Half Century, 1837-1887,
Mount Holyoke Seminary, 1887, p.43.
Higher Education Annual, vol.16, pp.21-37.
60)Altenbaugh, R. J. & Underwood, K., "The Evolution of
Normal Schools", Goodlad J. & Sirotnik K. ed., Places Where
41)ML to CB, July 1, 1836, MHCASC.
Teachers Are Taught. Jossey Bass , 1990, p. 137.
42)ML, op.cit., 1935, p.3.
61)三好信浩『教師教育の成立と発展』,東洋館出版社,
43)冬学期は77人,夏学期は89人。生徒数の変化は,単学期
のみの入学者や,仮入学を認められたものの成績不振で
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1979年。小野次男『アメリカ州立師範学校史』,学芸図書,
1987年。
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第55集(2004)
62)"MHC Missionaries to Japan"[no date]; "MHC Missionaries
at Stations in Japan" [no date], MHCASC
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