素脚を見せるブレット・アシュリー--

投稿論文
素脚を見せるブレット・アシュリー
―
―
―矛盾する欲望と『日はまた昇る』
高野泰志
イントロダクション
『日はまた昇る』
(The Sun Also Rises, 1926)の第 2 部開始早々,我々は語り
手ジェイク・バーンズ(Jake Barnes)の奇妙なコメントを目にする。
Bill had gone into the bar. He was standing talking with Brett, who was
sitting on a high stool, her legs crossed. She had no stockings on. (84,
emphasis mine)
一見さりげなく書かれているが,ここで一体なぜジェイクはブレット・アシュ
リー(Brett Ashley)のストッキングをはいていない脚に注意を払ったのだろ
うか。他の箇所ではブレットの服装や身体の輪郭が描写されることはあって
も,むき出しの脚について言及されることはない。ジェイクがブレットに性
的欲望を抱いていることは他の部分からも容易に見て取れるが,ここで突然
ブレットの素脚に言及しているのは,あまりにも唐突で,あまりにも露骨に
思える。
これまで『日はまた昇る』のセクシャリティ研究は,ジェイクの傷と性的
不能を中心にしたアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)の男性
性に対する態度を考察した研究と,「新しい女性」としてのブレットを時代
のコンテクストに位置づけ,ヘミングウェイの女性に対する態度を考察した
研究の大きくふたつに分けられる。特に後者では近年,フェミニストの批評
家たちによってブレットの人物像の見直しが図られているが,依然としてブ
レットを肯定的に見る批評家と否定的に見る批評家とに二分されている1 。本
論ではジェイクがブレットに向けた欲望の視線を分析することで,後者の研
究において対立するブレット論が生み出される原因をテクスト中に見いだす。
まずは語り手ジェイクの欲望の対象としてのブレットを時代のコンテクスト
c
The Hemingway Review of Japan No.9(2008.8)⃝The
Hemingway Society of Japan 2008
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ヘミングウェイ研究
に置き直すことで,ジェイクの語りにはブレットへの敵意が潜んでいること
を明らかにする。次にその敵意の原因であるブレットの視線の行方を追うこ
とで,ジェイクとブレットの対立する欲望の背後に「
(ブレットのモデルであ
る)ダフ・トワイズデン(Duff Twysden)を欲望する作者ヘミングウェイ」を
あぶり出す。冒頭のブレットのむき出しの脚は,ジェイクとブレットだけで
なく,ヘミングウェイをも絡め取る欲望の中心なのである。
1. 女性の脚の歴史
『日はまた昇る』が舞台とする 1920 年代は,実は女性の服装が大きく変化
する過渡期であった。冒頭の引用でのブレットのスカートはストッキングを
はいていないことが分かる程度に短い。しかし 16 世紀以来この作品のほん
の数年前まで女性の脚は分厚くて大きなスカートに隠され,まるで無いもの
のように扱われていた。それは脚が性器との隣接性から性欲を指し示すため
であり,19 世紀の「お上品な伝統」のもとでは男性のズボンでさえ,ぴった
りとして脚の輪郭を示すものから筒状のゆったりしたものに変化する。しか
し少なくともズボンをはくことで脚が存在することを明示できた男性に対し
て,性欲を持つことを否定されてきた女性は,素脚の露出だけでなく,性欲
を指し示す脚の存在自体が隠されなければならなかった。
20 世紀に入ってもフレデリック・ルイス・アレン(Frederick Lewis Allen)
が述べているように,1910 年あたりまでは女性はどのような状況であれ,地
面から 2∼3 インチまでスカートで脚を覆わねばならなかった(Big 8)
。しか
し第一次世界大戦が女性の脚を巡る状況を一変させた。軍需工場などで男性
並みに働く機会を得た女性たちは,それまでのように動きにくい格好を続け
るわけにはいかなくなった。その結果,過去数百年にわたって隠されてきた
女性の脚がついに現れることになった。徐々に上昇を始めたスカートの裾は,
1920 年代にピークに達し,ついに膝のあたりまで達する2 。右図は 1889 年と
1915 年の広告を比較したものであるが,前者では「わずか 4 インチ脚が見え
ただけでシルクハットの男性の注意を引くことができた」が,後者では同様の
趣旨の絵を描くのに 18 インチが必要とされている(Goodrum and Dalrymple
69)3 。
1920 年代はちょうど女性の服装にこの大きな変化が起こった過渡期であっ
た。それまで重いスカートの中に隠されていた脚が人目にさらされたとき,
当時の人々に与える衝撃がどれほど大きなものであったかは,今日の我々に
は想像することしかできない。現在では女性の脚はあまりにも見慣れた光景
高野 : 素脚を見せるブレット・アシュリー 65
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ヘミングウェイ研究
となったため,分厚いスカートの奥に隠されていたものを突然目の当たりに
したときに当時の人々が感じた強烈な違和感は,我々には無縁のものとなっ
てしまったのである。
隠すことによってエロティシズムが生まれるとするならば4 ,ヴィクトリア
朝のアメリカは最も効率的にエロティシズムを生産してきた社会だと言えよ
う。隠されているがためにエロティシズムを生み出す装置となっていたその
脚が突然人の目にさらされたとき,エロティシズムをめぐる社会的状況は大
きく変動することになったであろう。つまり社会的に見せてもよいとされて
いた箇所と人目にさらすことが禁じられていた箇所との境界線が揺れ動くこ
とで,それまで機能していたエロティシズムの生産システムが根本的に混乱
をきたしたであろうことは間違いない。
『日はまた昇る』が書かれたのは,ちょうどこの境界線がかつてない規模で
大きく揺れ動いた時期なのである。ジェイクがブレットの裸の脚に言及する
とき,それまでは決して目にすることがなかったものを突如目撃したことへ
の戸惑いを含んでいることは間違いない。そしてこのブレットのむき出しの
脚は,既存の価値観が崩壊し,性の解放が叫ばれる混乱の時代―――「性にと
りつかれた」
(SAR 120)時代―――において,現在の読者が想像するよりはる
かに大きな意味を帯びていたのである。
2. ブレットの脚を見るジェイクの視線
「彼女はストッキングをはいていなかった」というジェイクの発言を今日的
な観点から見ると,ジェイクがブレットの脚に欲望を喚起されているように
見える。しかし女性のむき出しの脚を見ることに慣れてしまった今日の我々
のまなざしと,1920 年代半ばにジェイクが女性の脚に向けたまなざしとは,
まったく異なるものであったはずである。極めて厳しい禁止の対象である脚
は,むき出しにされた段階で禁止を解除されるため,見る者が侵犯すること
もまた不可能となる5 。つまりブレットのストッキングをはかない脚は,むし
ろ見る者からエロティシズムの本質である「侵犯」の可能性を奪っているの
である。
当時ストッキングは禁止そのものを表す記号であった。そういう意味でス
トッキングはエロティックな視線を拒むのではなく,誘いかけるための装置
であった。
The woman of the nineteen-twenties wanted to be able to allure man even
高野 : 素脚を見せるブレット・アシュリー 67
on the golf links and in the office; the little flapper who shingled her
hair and wore a manageable little hat and put on knickerbockers for the
weekends would not be parted from her silk stockings and her high-heeled
shoes. (Allen, Only Yesterday 93, emphasis mine)
「男性を誘惑するために」「シルクのストッキングとハイヒールを手放したく
なかった」とあるように,当時の女性たちにとってストッキングが欲望をか
き立てる道具であったことがよく分かる。スカートの下に脚が存在すること
を示しながら,脚そのものの表面を隠すという構造が,その下に隠されたも
のに対する禁止を強調し,欲望を喚起するのである。したがってジェイクが
欲望喚起のための小道具を身につけていないブレットの素脚を見て,欲望を
抱いていると見るのは早計なのである。
もともとブレットは身体の線が分かる服を身につけ,むき出しの肩をさら
すなど,当時の水準からは相当露出度の高い服装をしていたと言えるだろう。
「ブレットはひどくすてきだった。レース用のヨットの船体のような体つき
だった。ウールのジャージの服を着ているので,体つきがはっきりとわかっ
た」
(29–30)
,
「ブレットは黒い袖なしのイヴニングドレスを着ていた。とて
つもなく美しかった」(150)。こういったブレットの服装はすべて,ファッ
ションの歴史的文脈の中に位置づけることが可能である。それまでと比べて
圧倒的に多くの素肌をさらし,身体のラインを見せる服装は,いわば当時の
流行であった。ところが女性たちがストッキングをはかない脚を人目にさら
し始めたのは,1950 年代に入ってからである6 。第二次世界大戦中に物資の供
給不足からストッキングが手に入らなかったとき,女性は絵の具でストッキ
ングの縫い目を脚に描いていた,というエピソードも広く知られている(能
澤 156)
。これは素脚をさらすことへの羞恥というよりはむしろ,ストッキン
グをはかないことが社会的タブーと捉えられていたことを示している。した
がってブレットのむき出しの脚は歴史的文脈の中にはめ込むことができない。
ジェイクの語るブレットの服装描写は,上の引用からも明らかなように,そ
のほとんどがブレットの美しさへの賞賛である(「ひどくすてきだった」
「と
てつもなく美しかった」
)が,最初に引用したブレットのむき出しの脚を描く
ジェイクの言葉には一切の価値判断が見られない。このブレットの脚へ向け
たジェイクの視線が,欲望を喚起された,魅せられた視線ではないとするな
らば,むしろブレットがタブーを犯したことへの非難の視線なのではないだ
ろうか。
ジェイクは古い道徳観に幻滅し,パリ左岸の国籍離脱者に混ざって新しい
68
ヘミングウェイ研究
時代の価値観の中で暮らしているが,その反面古い価値観を必ずしも捨てきれ
ずにいることが描かれている。古い時代の価値観をナイーブに信じるロバー
ト・コーン(Robert Cohn)を見下しながらも,かつての伝統的道徳観の支配
するスペインを頻繁に訪れ,コリーダで再演される伝統的な男性性の誇示を
闘牛愛好家として楽しんでいる。いわば『日はまた昇る』とはふたつの価値
観に引き裂かれ,そのどちらにも属することのできないジェイクを描いた作
品であるとも言えるだろう。そのジェイクにとって,セクシャリティの規範
を犯すホモセクシャルの一団を到底受け入れられなかったのと同様(「ひど
く腹が立った。どういう訳か連中を見ているといつもひどく腹が立つのだ」
[28]
)
,ブレットのむき出しの脚もまた必ずしも肯定的に捉えられるものでは
なかった可能性が高い。
3. テクストの罠
そのように見てみると,ジェイクの語りにはブレットに対して読者が非難
の目を向けるよう,しむける仕掛けが巧妙に張り巡らされていることに気づ
くだろう。そのひとつが娼婦ジョルジェット・オバン(Georgette Hobin)の
エピソードである。ジョルジェットはそもそも社会の中では性産業という特
定の囲い込まれた場所にしか存在できない禁止された者である。ジェイクは
作品が始まってすぐに,この娼婦をレストランやダンスホールなど公共の領
域に連れ込む。このジョルジェットの境界侵犯そのものが,当時狂騒の 20 年
代と呼ばれたパリの性的混乱状態を映し出している。しかしこの境界侵犯は
境界線を壊すというよりはむしろ積極的に維持する働きを果たしている。境
界線は踏み越えたときにもっとも意識されるものだからである。ダンスホー
ルでは,ブレットの連れてきたホモセクシャルの一団は(彼ら自身が境界侵
犯の一例であることは言うまでもない)
,すぐにジョルジェットが娼婦である
ことに気づき,その場違いさ,つまり社会的な規範の逸脱をひとつの余興と
して楽しもうとするのである(
「断言してもいいよ。あれは正真正銘の商売女
だ。僕はあの女と踊ってみせるぞ,レット。見てろよ」
[28]
)
。公共の場で禁
止されているはずのジョルジェットが公共の場所でホモセクシャルと戯れる
様子は,
「逸脱」のあからさまな例として,逆に社会的な規範の存在を著しく
強調する結果になる。
ジェイクは意識的になのか,無意識的になのか,この境界を越えた娼婦と
ブレットとを同一視しているらしいことが明らかになる。ジェイクは馬車で
ブレットにキスしようとして拒まれた後,ひとり部屋に戻り,ブレットのこ
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とを思いながら眠りにつく。
Then I hear Brett’s voice. Half asleep I had been sure it was Georgette.
I don’t know why. She could not have known my address. (39–40)
深夜 4 時という時間に突然訪ねてきて騒ぎを起こすブレットの声を,寝ぼけ
ながらジェイクはジョルジェットの声だと思ってしまうのである。この何気
ない取り違えは,公共の場に侵入する禁止された女性ジョルジェットとブレッ
トとを同一視することで,ブレットがジョルジェット同様の「いかがわしい」
存在であるとほのめかすことになる。いわばテクスト上にブレットを貶める
罠が張られているのである。
また作品後半,闘牛愛好家でホテルの主人,モントーヤ(Montoya)とジェ
イクとの会話でも同様の仕掛けが施されている。モントーヤはアメリカ大使
が若い闘牛士ペドロ・ロメロ(Pedro Romero)を食事に招待したいと要求し
てきたことについて,同じ闘牛愛好家と認めるジェイクにどうすればよいか
相談する。ジェイクもモントーヤもロメロの将来が金持ちの道楽のために堕
落させられないよう,その招待をロメロに伝えるべきではないという結論で
一致する。その後,ジェイクは次のような話題を切り出す。
“There’s one American woman down here now that collects bull-fighters.”
“I know. They only want the young ones.”
“Yes,” I said. “The old ones get fat.” (176)
ジェイクは金持ちたちや若い闘牛士ばかりを「収集」しているアメリカ人女
性に言及し,そういった女性にロメロを近づけないよう勧めている。ここで
闘牛士コレクターは前途ある若い闘牛士を堕落させる誘惑者として捉えられ
ているのである。その後モントーヤが立ち去ってから,ジェイクたちが食堂
で食事をしていると,たまたま隣のテーブルにロメロが居合わせる。ロメロ
に性的魅力を感じたブレットはジェイクにロメロを紹介するよう頼み込み,
それを断りきれないジェイクはふたりを同じテーブルに座らせ,一緒に酒を
飲み始める。その様子をモントーヤが目撃した途端,それまでふたりの間に
あった闘牛愛好家としての友情と連帯感はいっさい崩れてしまう。この場面
はこの作品が今日見られるような長編小説として構想される以前,最初に書
かれた場面である。マイケル・レノルズ(Michael Reynolds)によれば,こ
の場面こそが『日はまた昇る』の源泉として中心的な役割を持つ場面である
(“False Dawn” 125–26; Paris Years 306–07)。そしてこの中心的な場面で描か
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ヘミングウェイ研究
れている内容は,またしてもブレットを貶める罠なのである。
Just then Montoya came into the room. He started to smile at me, then he
saw Pedro Romero with a big glass of cognac in his hand, sitting laughing
between me and a woman with bare shoulders, at a table full of drunks.
He did not even nod. (180–81, emphasis mine)
モントーヤが問題にしているのは,ロメロの手にする酒や,同じテーブルに
いる酔っぱらいだけでなく,「肩をむき出しにした女性」,すなわちブレット
なのである。ここで読者はブレットを「若い闘牛士を収集するアメリカ人女
性」と同一視するよう誘われている。ここでもやはりテクストがブレットに
対して敵意を抱いていることは明らかである。先ほど論じたジョルジェット
の場面と同様,この場面においても「性欲」をむさぼる女性にさりげなく言
及しながらその直後にブレットとの同一化を誘うことで,テクストの構造そ
のものがブレットを貶めようとしているのである。
これまでブレットの評価に関しては批評家の間で一致した意見がなかった。
むしろブレット・アシュリーほどヘミングウェイ研究者たちの間にまったく相
対立する意見を引き起こす登場人物は他にいないだろう。エドマンド・ウィル
ソン(Edmund Wilson)以来,根強く続く一方の解釈では,ブレットは “bitch”
としてその性的放縦さを批判されてきた7 。おそらくこのような解釈が今日に
至るまでいまだに続いているのは,上で論じたようにテクストの構造自体が
そういう読みを誘発しているからなのである。
また近年はフェミニストの批評家によって,ブレットを新しい時代を代表す
る女性として再評価する傾向が盛んである。しかしこういった研究者にとっ
て,娼婦ジョルジェットや闘牛士コレクターとブレットとの同一化は大きな
障害となる8 。リンダ・パターソン・ミラー(Linda Patterson Miller)はブレッ
トを肯定的に評価するため,彼女が「色情狂でもなく,男を食いあさる女でも
なく,自分の美しさをよく知っていて,その美しさの罠にかかっている女性」
(10–11)であると述べているが,ブレットは「美しさの罠」というよりはむ
しろ,テクストの罠にかかっていたのではないだろうか。今日フェミニスト
たちはテクスト中からブレットの肯定的側面を次々に発見し,ブレット再評
価を試みているが,いくら今日的観点からブレットの政治的正しさを掘り出
しても,ジョルジェットとブレットを混同する場面やモントーヤの場面のよ
うに,テクストそのものがブレットを断罪し続けているために,ブレットを
“bitch” と考える意見が後を絶たないのである。作品の結末部分ではブレット
高野 : 素脚を見せるブレット・アシュリー 71
本人が,ロメロのもとを去ることで自分は “bitch” にならずにすんだと主張す
るが,実際にホテルの部屋から立ち去ったのはブレットではなくロメロの方
である。“bitch” ではないというブレットの主張はすぐさまテクストに裏切ら
れてしまう。小笠原亜衣やウェンディ・マーティン(Wendy Martin)が指摘
するように,ブレットはその革新性への賞賛と,それを否定するようなネガ
ティブな側面とに引き裂かれているのである。
4. 見せるブレット
それではこのテクストがブレットにここまで悪意を向けなければならない
理由は何なのか。ここでやはり重要な意味を帯びてくるのがブレットの脚で
ある。ブレットの脚を「見られる客体=欲望の対象」としてだけ考えている
と,このテクストの悪意の原因は分からない。近年「見る/見られる」とい
う二項対立図式で登場人物の関係を読み解く試みが頻繁に行われているが9 ,
ブレットのような登場人物をこのような単純な図式で解釈するのは非常に危
険である。それはこの二極分化理論から「見せる主体」という概念がまった
く抜け落ちているからである10 。「見る」能動性を持つ主体と「見られる」だ
けの対象との二項対立において,伝統的に女性は「見られる」対象でしかな
かったと考えられてきたが,男性の視線に迎合するのではなく,自らの欲望
として「見せる」主体を想定すれば,そこには当然「見る」主体と同等の主
体性が存在するはずである。ブレットをめぐる解釈が対立しているのは,ま
さにブレットの「見せる」欲望を見落としているからに他ならない。ブレッ
トのむき出しの脚がテクストによって非難されているとするならば,それは
「見られている」からではない。「見せている」からなのである。
ブレットは周囲の人々の中で常に中心的な場所を占め,人々の視線を一身
に集めている。それにもかかわらずブレットは単に見られる客体の立場にと
どまっているわけではない。むしろ積極的に「見せる」ことで見る側の視線
をコントロールしているということもできるだろう。性欲を指し示す脚を見
せること自体が欲望する主体であることを主張することになるが,そればか
りでなく,隠すからこそ隠された部位にエロティシズムが生まれ,性的対象と
しての意味が与えられるとするならば,全く隠すことなくさらされるブレッ
トの脚は性的対象として消費されることを拒否しているのだとも考えられる。
またブレットは男たちの欲望の対象になっているだけでなく,
「見る」女性
でもある。ブレットの視線の持つ力は物語の前半,馬車の中でジェイクのキ
スを拒絶した直後に非常に印象的に描かれる。
72
ヘミングウェイ研究
She was looking into my eyes with that way she had of looking that made
you wonder whether she really saw out of her own eyes. They would look
on and on after every one else’s eyes in the world would have stopped
looking. She looked as though there were nothing on earth she would not
look at like that, and really she was afraid of so many things. (34)
ここに明らかなようにブレットの視線は「世界中の視線が見るのをやめても
見続ける」永続性と,
「地球上のあらゆるものを同じように見ているかのよう
な」対象の個性を打ち消す力を秘めている。この後,ジェイクが “Her eyes had
different depths, sometimes they seemed perfectly flat” (34) と述べるように,ブ
レットの目は見るものの視線を拒絶するのも引き込むのも意のままになるよ
うである。上の引用は「実際のところ,彼女にはあまりにも多く恐れるもの
があったのだ」と結論されているが,この恐れはブレットのものというより
はむしろ,見ているジェイクの恐れが投影されているように見えてしまう。
このような強力な視線を持つブレットは作品後半でロメロに熱心に視線を
注ぐ。いやロメロその人ではなく,ぴったりとした細いズボンに包まれたロ
メロの脚を見るのである。
“Oh, isn’t he lovely,” Brett said. “And those green trousers.”
“Brett never took her eyes off them.”
“I say, I must borrow your glasses to-morrow.” (169)
“Tell him Brett wants to see him put on those green pants.”
“Pipe down, Mike.”
“Tell him Brett is dying to know how he can get into those pants.”
“Pipe down.” (180)
“My God! He’s a lovely boy,” Brett said. “And how I would love to see
him get into those clothes. He must use a shoe-horn.” (181)
このようにブレットがロメロの脚から目を離さないでいる状態が繰り返し描
かれる。ここで 19 世紀以降,女性だけでなく男性の脚もまた隠されていたこ
とを思い起こすべきであろう。中世の貴族文化ではぴったりとしたズボンで
脚の形を露わにしていた男性たちも,ゆったりとした筒状のズボンの中にそ
の輪郭を隠すことになるのである(能澤 132–40)。闘牛士の衣装もまた,コ
高野 : 素脚を見せるブレット・アシュリー 73
リーダという閉じた空間でのみ許されるのであり,その禁じられた対象をブ
レットは自らの欲望で鑑賞しているのである。
またデブラ・モデルモグ(Debra Moddelmog)は闘牛に関するジェイクの描
写(
「牛はもう一度やりたがった」
[217]
,
「まさにその瞬間,
[ロメロ]と牛は
ひとつになった」
[218]など)を「性的な絶頂を思い起こさせる言葉」
(180)
であると述べている。モデルモグはここからジェイクのロメロに向けた同性
愛的欲望をあぶり出しているが11 ,ここで問題なのはむしろ,コリーダで演
じられる性的表象を見つめるブレットのまなざしである。牛と対決するロメ
ロに魅了され,食い入るように見つめるブレットは,ジェイクのように闘牛
愛好家になったことを示しているのではない。ブレットはそれまで男にのみ
許されてきた「下半身」を見つめるまなざしを獲得しているのである。
5. 矛盾した欲望
語り手のジェイクは,こういったブレットの自由奔放さに惹かれながらも,
他の男に性欲を抱く主体性を持ったブレットを断罪せざるを得なかったので
ある。ジェイクはブレットに恋愛感情を抱きながらも,ブレットの性欲を満
たすことができないために,彼女を諦めざるを得ない。しかし先に引用した
馬車の場面のように,拒絶された直後にはすぐさまそのブレットを娼婦と同
一視するようにしむける。またブレットに逆らえず,自らの感情を殺してロ
メロを引き合わせるが,その際にはしっかりと忘れずにブレットを闘牛士コ
レクターの “bitch” と同一視するよう読み手に誘いかける。
ブレットのむき出しの脚を見つめるジェイクの視線には,ブレットを所有
したいという欲望と,ブレットが欲望を持つことへの敵意という,矛盾した
ふたつの要素が込められているのである。ブレットの脚は本来はジェイクの
欲望の対象でありながらも,隠されていないために(つまり欲望する主体性
を持つために)
,同時に敵意の対象でもあるのだ。たんに性的欲望の対象にと
どまらず,欲望する主体性を持ち,ジェイクの欲望を阻んでいるのである12 。
このブレットに対する複雑な感情のゆらぎの背後には,ヘミングウェイ自
身の矛盾した欲望が潜んでいる。作者ヘミングウェイと語り手ジェイクを同
一視するわけにはいかないが,ブレットの脚を見るジェイクのまなざしの中
には,作者自身の欲望が無意識のうちに顔をのぞかせているのである。それ
は作品執筆のそもそもの原動力がブレットのモデルであるダフ・トワイズデ
ンに向けたヘミングウェイ自身の欲望であることに由来している。先にも述
べたように,作品の発端は闘牛士をダフが誘惑する場面であった。作品を書
74
ヘミングウェイ研究
く動機がダフへの欲望であり,欲望するダフを描くことであったのだ。この
短いスケッチが後に長編小説へと発展していきながらも,当時のパリの読者
が実話小説として受け止めていたほど,作中人物のモデルが誰であるかはっ
きりと分かるように描かれていた。当時ヘミングウェイはすでに最初の妻ハ
ドリー(Hadley Richardson)と結婚していたので,実際にはダフと性的関係
を結ぶことはなかったらしいが(Reynolds, Paris Years 289)
,実話小説とも受
け止められる作品を書いたのは,ダフという現実の女性を作品の中に捕らえ
たいという代替的な欲望につき動かされていたからなのだ13 。ハロルド・ロー
ブ(Harold Loeb)らと情事にふけるダフにヘミングウェイが激しい嫉妬を抱
いていたことは,友人たちの間でも広く知られていた。ダフを手に入れたい
という阻まれた欲望が,ダフをテクストの中に描き込みたいという欲望に転
じたとき,『日はまた昇る』は生まれることになったのである。
本論の冒頭で引用したブレットの脚に向けたジェイクの視線は,ブレット
が自ら欲望を持つ「新しい女性」であることを示すとともに,その事実がジェ
イクに与える不安もまた同時に指し示す表象なのである。ダフ/ブレットが
欲望を持っているからこそ,ヘミングウェイ/ジェイクはダフ/ブレットに
対して欲望を抱くことになったが,同時にダフ/ブレットが欲望を持つが故
に嫉妬を抱く原因となり,阻まれた欲望が敵意に向かう。おそらく『日はま
た昇る』というテクストには,自らの欲望に絡め取られてしまったために,ダ
フ/ブレットに対する欲望と敵意とが混在しているのである。そしてこのテ
クスト上の破綻がブレットに作者の意図しない生命力を与えてしまったので
ある。欲望されると同時に「見る/見せる」主体でもあるブレットの視線は,
あまりにも強力で,あまりにも多元的な意味を帯びてしまう。その結果,異
なる深さを持つブレットの視線は読者の目をも強く惹きつけ,欲望を喚起し
ている。これまでブレット・アシュリーはおびただしい数の研究論文を生み
出してきたが,決して単一の言説に回収されることなく,異論を呼び続けて
いるのは,この欲望と敵意の矛盾から生じる破綻のためであり,その破綻が
作者の思いも及ばなかった強力な生命力を生み出してしまったからなのであ
る。そして『日はまた昇る』が実話小説として生み出されながらも,時代の
コンテクストを超えて現代に至るまで読者を惹きつける強い魅力を持ってい
るのもまた,作者自身にも御しきれない力が作中に産み落とされたからに他
ならない。
高野 : 素脚を見せるブレット・アシュリー 75
註
*本稿は日本ヘミングウェイ協会全国大会(2006 年 12 月 16 日,関東学院大学)にお
ける口頭発表を加筆修正したものである。
1
前者では例えばジェイクの傷の正体を探ったウォルフガング・ルダット(Wolfgang
E. H. Rudat)やジェイクの行った性行為を分析するリチャード・ファンティーナ
(Richard Fantina)など。後者は後に本文中でいくつかの研究に言及するが,ブレッ
ト否定派と肯定派の批評の流れを概観した Brøgger を参照。
2
女性の脚をめぐる服飾史に関しては能澤 131–64 を参照。
3
ほとんど同じ時期にそれまでは女性には許されていなかったズボンが流行しだした
のも重要な変化であるといえる。1920 年代の服装関係のカタログを収集した Blum
に最初に女性のズボンが登場するのは 1923 年である。
4
ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)によれば,エロティシズムの本質は禁止
と侵犯である。バタイユは,エロティシズムとは無縁の動物の生殖活動と,そこに
「禁止」を持ち込んでエロティシズムを生み出した人間のセクシャリティとを対比
している。
5 「一般に性器の名を口に出すことは禁じられている。恥じらいもなく性器の名を口
に出すならば,人はそのとき,侵犯から無関心へ―――俗なるものと最も聖なるもの
とを同一次元に置く無関心へ――
―移行している」(バタイユ 231–32)。
6
Allen, Big 202–203. 同じ本でアレンはアメリカでのストッキング消費量について述
べているが,1900 年には 15 万 5 千足が生産されていたのに対して,1949 年には
5 億 4300 万足(14 歳以上の女性ひとりあたり 9∼10 足の割合)が生産されたと
いう(193)。当時ストッキングがいかに女性たちの必需品となっていたかがよく
分かる数字である。
7
“Brett in The Sun Also Rises is an exclusively destructive force” (238). ブレットを否定
的にみる批評家は多数いる。例えば以下を参照。Aldridge 24, Wylder 59.
8
フェミニストのジョルジェット分析は,ジェイクがジョルジェットを当時レズビア
ンとして有名だったジョルジェット・ルブラン(Georgette Leblanc)だといって紹
介する点から,同性愛的モチーフの表現と理解する(モデルモグ 176–77 など)か,
ブレットを肯定的に評価するためにブレットとジョルジェットの類似性を否定しよ
うとする(Fulton 66 など)
。しかし前者の言うようにルブランへの言及のためだけ
に登場させるには,この娼婦ジョルジェットはあまりにも存在感が強すぎると言わ
ざるを得ない。また後者のようにいかにジョルジェットとブレットの相違点を発掘
したところでジェイクがこのふたりを混同していることは紛れもない事実である。
9
ローラ・マルヴィ(Laura Mulvey)の記念碑的映画論以来,数多くのフェミニスト
が追従した。今日では批判も多い。たとえばスティーヴン・カーン(Stephen Kern)
は 19 世紀の絵画を分析し,「女性も見ていた」ことを主張している(11–14)。
10
マルヴィはハリウッド映画にみられる女性の「露出狂」的性質を論じながら,それを男
性的窃視症を反映したものと捉え,マルヴィの言う「見られること性」
(to-be-lookedat-ness)に回収してしまう(Mulvey 19)。
11
谷本は同じ場面を論じて,
「ブレットとロメロが前の晩に性的関係を持ったことを,
ジェイクはもちろん知っている。それゆえジェイクは,この日の闘牛を,彼らの性
的交わりと重ね合わせずにはいられないでいる」(145)と論じる。
12
ジェイクから欲望の主体性を奪うという意味では,ジェイクは「去勢」されてい
る。フェティッシュ(ファルスの代替物)としてのブレットの脚をジェイクが欲望
ヘミングウェイ研究
76
しているとすれば,それは欲望する主体性をブレットから取り戻したいという欲望
である,と解釈できる。
13
F・スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)の助言で削除した小説
の冒頭部分はそもそも “This is a novel about a lady. Her name is Lady Ashley . . . ”
(Svoboda 131)であったことも思い起こすべきである。
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