金沢医科大学北辰同窓会報

金沢医科大学北辰同窓会報
第 37 号
AUG, 2011
河北潟ひまわり村のひまわり
金沢医科大学北辰同窓会
北辰同窓会報
【巻頭言】
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金沢医科大学の発展を祈って
金沢医科大学北辰同窓会会長
坂本 滋
このたびの東日本大震災により被災された会員の皆様、ご家族、並びにその関係者の方々に心から
お見舞い申し上げます。
過去の震災と比較して、規模も被害も比較にならない甚大なものとなってしまいました。報道され
る画像からもその悲惨さは想像を絶するものであることが伺えます。その状況下、ご自身も被災者で
あるにも拘らず避難所での医療活動に当たっておられる方、また昼夜を問わず奮闘されている医療関
係者すべての方々に心より敬意を表したいと思います。
さて、ここに北辰同窓会報第 37 号を発刊する運びとなりました。これも偏に同窓会会員の皆様、
事務担当をしていただいている金沢医科大学教育研究事業支援課一同のご協力と大学当局のご配慮
あってのことと深く感謝する次第です。
金沢医科大学では、今年 4 月に理事長が山下公一先生から竹越襄先生に引き継がれました。山下先
生大変ご苦労様でした。先生には同窓会一同多大なるご協力とご指導をいただきありがとうございま
した。今後とも引き続きよろしくご指導くださるようお願い申し上げます。
今後、金沢医科大学は新理事長になられた竹越先生と勝田学長のもとでなお一層の発展を目指すこ
とになりますが、われわれ同窓会も微力ながら情熱的意志を持って支援してまいりたいと考えており
ます。
私は、同窓会活動で最も大切なことは、母校の支えとなることに尽きると考えております。会員相
互の親睦は当然ですが、母校の発展は同窓生には大きな誇りとなり自信となります。また、われわれ
卒業生の二世が数多く入学されていることも、将来のために大変心強く感じております。金沢医科大
学は 3,500 名近い医師を広く、全国各地に送りだしております。そして現在、金沢医科大学北辰同窓
会の支部組織は全国で 29 支部と 1 ブロックが設立されており、その活動も拡大されてきております。
われわれの母校である金沢医科大学は、来年で創立 40 周年を迎えますが、大学ではこの 40 周年を
迎えるにあたり、記念事業として、すでに新アナトミーセンターや金沢医科大学氷見市民病院を新築
しました。更に臨床医学教育棟、病院エントランス棟の建設などが長期にわたって計画されるグラン
ドデザインが示されています。北辰同窓会を中心とする創立 40 周年記念誌の発刊も計画されており、
来年 6 月に向け進行しております。われわれ同窓会も全面的にこの記念事業に協力することを本年度
の目標に置いております。
全国で行なわれる支部総会へは、われわれ同窓会の役員はもちろん、大学からは竹越襄理事長、勝
田省吾学長をはじめ高島茂樹先生、松本忠美先生ほか役職の先生方にも可能な限りご出席をお願いし、
大学と同窓会の絆を強め、一体となってこの記念事業を成功させることができるよう頑張っていく所
存です。金沢医科大学北辰同窓会員の皆様のご協力をお願いいたします。最後になりますが、皆様の
益々のご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。
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北辰同窓会報
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学校法人金沢医科大学
理事長就任にあたって
金沢医科大学理事長
竹越 襄
本年 4 月 1 日をもって金沢医科大学理事長に選任されました。責任の重大さを思う時身の引き締ま
る思いであります。本校の創学以来約 40 年大学の歴史と共に歩んで来ました。大学は創立後多事多
難紆余曲折の経過を経て今日のほぼ安定期に到達しました。その間多くの先人の大変なご努力があり
現在に至った事に対し現教職員は感謝しなければなりません(小田島粛夫著:金沢医科大学物語:北國
新聞社刊)
。しかし現在も難題が山積しており一つ一つ解決しなければなりません。それには北辰同
窓会の皆さんのバックアップが必要です。今までにも多くの援助を頂いておりますが今後共より一層
のご支援をお願いいたします。
難題の一つは教育問題で国試合格率の低迷です。一時期は全国医科大学の中位ぐらいで国試問題は
最早解決したかに見えましたが事態はそんなに甘くなく又下位に低迷しています。やはり持続的な努
力が必要です。
さらにもう一つは卒業後の初期研修医の定着問題です。都会志向が強く母校に残る学生が極端に少
ないのです。これでは医局が崩壊します。何とかしてこの二つの難題を解決したいと思っています。
学長初め全教職員が全力投球しなければなりません。勿論我々法人側も強力にバックアップします。
先日大学にいる本学卒業生に集まってもらってこの二件につき話し合ったのですがやはり教職員が
愛情をもって学生諸君に接しなければ解決しないとの意見が多く、さらに本学卒業生の自分たちが頑
張らなければ駄目だととの結論でした。大いに期待したいものです。
次に研究問題です。科研費や特許申請が大きく伸びたことは慶賀の至りであり更なる発展が望まれ
ます。法人側としても研究推進のため費用を惜しまず投入したいとの思いで企画しております。全国
に発信する誇らしい業績は本人はもとより大学にとっても又全国の卒業生にも大いなる誇りであり、
益々の研鑽を願っております。
最後に臨床面ですが優秀なる臨床医を育てるために教授以下首脳部が研鑽を積み病める人に優し
く、優れた技術を持ち多くの人を助けなければなりません。良医を育てるべくお手本に成ることです。
本学の何人かの教授がテレビなどのマスコミに登場していますが此の事も又素晴らしいと思います。
皆で母校を盛り上げましょう。
最後に強調したいのは母校は卒業生のものだということです。将来母校を支えるのは OB です。そ
のために若き医学生を母校に残し優秀な医師・研究者を育てなければなりません。また外で勉強し優
秀な学者、臨床医となった卒業生を母校に戻すことも大切です。10 年後 20 年後大学は優秀なる卒業
生で一杯になることを夢みて明日からもまた頑張りたいと思います。
北辰同窓会報
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北辰同窓会会務報告
平成 23 年度 第 1 回全国支部長会
□日 時 平成 23 年 5 月 29 日(日)11:00 ∼ 14:00
□場 所 ガーデンシティクラブ大阪(ハービス OSAKA 6 階) 大阪市北区梅田 2-5-25
□出席者 坂本 滋会長、大島 譲二副会長(埼玉県)
、伊藤 透副会長、
沼田 知明(青森県)、大山 充徳(群馬県)
、山道 博(東京都)
、吉田 勝明(神奈川県)
、
藤澤 貞志(富山県)、 田 充彦(石川県)
、加藤 彰雄(福井県)、吉江 忠正(長野県)
、
渡辺 祐介(愛知県)、塩之谷 香(愛知県副支部長)
、児玉 浩(岐阜県)
、中山 治樹(京滋)
、
北田 仁彦(大阪府)、小林 重行(兵庫県)
、小泉 雅紀(奈良県)、松村 和彦(山口県)
、
楠目 修(高知県)、溝口 義人(九州・沖縄)
、原 速(九州・沖縄副ブロック長、福岡県)、
秦 一敏(大分県)、坂本 眞一(熊本県) 各支部長
堀 愉、山本 健司、酒井 博史(事務局)
□議 題 1、東日本大震災における義援金(見舞金)の取り扱いについて
2、新支部の設立について
3、創立 40 周年記念事業について
4、その他
記 録
る被災者も含める。
(1)東日本大震災における義援金(見舞金)の取り扱
②義援金募集期間を延長して、募金の積み増しと
被災者の情報収集に努力し、6 月 25 日開催の常任役
いについて
東日本大震災で被災された北辰同窓会会員への義
援金を北辰同窓会ホームページにて募集期限 6 月 30
日までとして募集したところ、5 月 23 日現在で 313
万円のご厚意が寄せられた。また、被災された会員
員会に修正した配布案を提出する。
③被災者の認定、配布時期等、配布案については
すべて会長に一任する。以上のことが承認された。
(2)新支部の設立について
は調査の結果、現在までに卒業生は 6 世帯で 7 名、在
坂本会長から、昨年 11 月に愛知県支部が設立され
学生 3 名が判明した。更に、金沢医科大学の対応と
たことが報告され、支部設立に尽力された渡辺祐介
して、5 月 27 日に学内で募集した義
援金から卒業生 5 世帯に対し、それ
ぞれ見舞金 50 万円が贈られた。ま
た、在学生 3 名に対しては、授業料
50 万円が減免された。卒業生の一
世帯については、最近の情報であっ
たため、現在検討中であると聞いて
いる。
以上のことが坂本会長から報告さ
れ、この現状を踏まえて北辰同窓会
の義援金(見舞金)配布案が検討さ
れた。検討の結果、
①震災の被害者には、地震、津波
による家屋等の損壊のほか原発によ
全国支部長会
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北辰同窓会報
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支部長、塩之谷香副支部長がそれぞれ挨拶をされた。
事務局酒井から、創立 40 周年記念誌作成にあたり、
また、現在支部が設立されていない県は、茨城県、
昨年 12 月末に、原稿執筆の依頼文書を発送したが、
千葉県、山梨県、和歌山県、鳥取県、島根県、岡山県、
なかなか原稿が集まらないのが現状である。同窓生
徳島県、香川県、愛媛県の 10 県であるが、支部活動
からの原稿提出は現在 8 名にとどまっており、まだ
が積極的に行われるように各県で中心になって活動
まだ不足している。各支部から沢山の原稿(関連写
していただける卒業生を発掘してほしいとの発言が
真添付)が集まるように支部長にご尽力いただきた
された。
い。併せて、今年度は北辰同窓会会員名簿更新の年
伊藤副会長から、一昨年は高知県支部が設立され
にあたり、事務局では会員名簿 2011 の作成に向け準
たが、まだ支部ができていない徳島県、香川県、愛
備を進めている。支部長には各支部の名簿を配布す
媛県には高知県支部から働きかけ、4 県が四国ブロッ
るので、勤務先や住所等不明者の情報がわかれば、
クとして持ち回りで支部会を開催できないか、是非、
事務局へお知らせいただきたい。また、協賛広告に
楠目高知県支部長のご尽力をお願いしたいと発言さ
ついてもご協力いただきたいとの依頼がされ、了承
れた。
(3)創立 40 周年記念事業について
坂本会長から、参考までに配布した創立 40 周年記
念事業募金趣意書について説明が行われた。
された。
(4)その他
伊藤副会長から、例年、学生の夏季休暇中に実施
しているメディカルホームステイについて、今年度
掲載されている内容は、「金沢医科大学グランドデ
も学生の受け入れ先を広く募集しており、参加した
ザイン・第 1 次 5 ヵ年計画の概要」及び「募金要項」等
学生からは大変ためになったという声が多く寄せら
である。北辰同窓会としても、創立 30 周年時と同様
れているので、学生受け入れにご協力いただきたい
に母校発展のためご協力をしたい。同窓会会員の皆
との依頼がなされ了承された。
様には、おそらく来年以降に、この募金趣意書が送
付されてくると思いますので、その節は、是非ご協
力をお願いしたいとの発言がなされた。
全国支部長会出席者
(酒井 博史 記)
【北辰同窓会会務報告】
北辰同窓会報
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平成 23 年度 第 2 回全国支部長会
□日 時 平成 23 年 7 月 9 日(土)16:00 ∼ 17:00
□場 所 金沢都ホテル 7 階 飛翔の間
□出席者 坂本 滋会長、大島 譲二副会長(埼玉県)
、伊藤 透副会長、
沼田 知明(青森県)、大山 充徳(群馬県)、山道 博(東京都)、吉田 勝明(神奈川県)、
水戸 将郎(新潟県)、藤澤 貞志(富山県)、高田 充彦(石川県)
、渡辺 祐介(愛知県)、
塩之谷 香(愛知県:副)、堤 幹宏(大阪府:代理)、小林 重行(兵庫県)
、
楠目 修(高知県)、溝口 義人(九州・沖縄)
平成 23 年 5 月 29 日(日)の大阪での第 1 回全国支
に各 10 万円を、予定していた 9 月末から繰り上げて
部長会に次いで、7 月 9 日(土)に金沢で行われた北
7 月末に給付することになり、細部については会長
辰同窓会評議員会・総会に先立ち、第 2 回全国支部長
会が開催された。
(1)報告事項について
事務局から、平成 22 年度の事業報告と収支決算報
告について、続いて平成 23 年度事業計画案と収支予
算案についての報告がなされた。
に一任となった旨報告がなされた。
(2)支部活動報告
坂本会長から、支部の活動について順次報告願い
たいとの発言により、出席した各支部長から報告が
なされた。
伊藤副会長から、同窓会の終身会費をそろそろ値
次に坂本会長から、東日本大震災の被災会員に対
上げすることを考えないと会の運営が立ちいかなく
する見舞金の取り扱いについて、義援金(見舞金)の
なる。現行の入会金 5 万円+終身会費 20 年分 10 万円
応募額が 7 月 8 日時点で約 490 万円になったこと、見
を、入会金 10 万円+終身会費 20 年分の 20 万円、合
舞金給付の対象者が大阪で開催した支部長会の時点
計 30 万円程度にするのが適当と考えており、他の大
から 2 名増えたことが報告された。
学でも 30 万円程度が多いようだと終身会費値上げの
また、6 月 25 日(土)に開催した常任役員会に諮っ
提案がなされた。大阪支部の堤支部長代理から規定
た結果、被災した会員 8 名(7 世帯)に特別見舞金と
の改正も必要との意見も出され、規定の改正を含め
して各 50 万円、2 名に見舞金各 30 万円、在学生 3 名
て今後検討を開始することとなった。
(酒井 博史 記)
全国支部長会
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第 45 回 北辰同窓会常任役員会
□日 時 平成 23 年 6 月 25 日(土)17:00 ∼ 18:00
□場 所 金沢都ホテル 7 階 鳳凰の間
□出席者 34 名(うち委任状提出 15 名)
□議 題 (1)平成 22 年度事業報告、平成 22 年度収支決算報告について
(2)平成 23 年度事業計画(案)、収支予算(案)について
(3)北辰同窓会賞、北辰同窓会研究助成選考について
(4)その他
会議に先立ち 6 名の物故会員に対し黙祷がささげ
回日本臨床内科医学会学会長としてご活躍された近
藤邦夫先生(昭和 54 年卒)の 3 名に決定した。
られた。
顧問の勝田学長からご挨拶をいただいた後、坂本
会長が議長となり議案の審議が行われた。
また、北辰同窓会研究助成には大桑孝子先生(金沢
医科大学微生物学助教)
、吉冨泰央先生(金沢医科大
学生化学Ⅱ助教)の 2 名が受賞者として承認された。
審議事項
第 1 号議案 平成 22 年度事業報告、平成 22 年度収支
決算報告について
第 4 号議案 その他
坂本会長から、この度の震災で被災された同窓会
詳細について事務局からの説明の後、三治秀哉監
会員に対する義援金(見舞金)の取り扱いについて、
事から監査報告がなされ、審議の結果全員の拍手に
5 月 29 日(日)に大阪で開催された全国支部長会で審
より承認され、7 月 9 日(土)開催の総会に諮ること
議、決定された事項に基づいた修正案が提出され、
となった。
審議の結果、義援金(見舞金)の支払い日を繰り上げ
第 2 号議案 平成 23 年度事業計画(案)、収支予算
7 月末に支払うことが決定された。義援金(見舞金)
(案)について
の対象者、支給金額等は提出案のとおり承認し、細
詳細について事務局から説明がなされ、審議の結
果全員の拍手により承認され、7 月 9 日(土)開催の
総会に諮ることとなった。
第 3 号議案 北辰同窓会賞、
北辰同窓会研究助成選考に
ついて
坂本会長から、今年度の
北辰同窓会賞について審議
願いたいとの発言がなされ、
審議の結果、推薦のあった
候補者の中から福井県から
認知症のサポートシステム
を発信し、広く社会で貢献
されている玉井顯先生(昭和
53 年卒)、金沢医科大学医学
部循環器内科にて教授とし
てご活躍されている北山道
彦先生(昭和 56 年卒)、第 24
常任役員会
部は会長に一任された。
(酒井 博史 記)
【北辰同窓会会務報告】
北辰同窓会報
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平成 23 年度 金沢医科大学
北辰同窓会評議員会・総会議事録
□日 時 平成 23 年 7 月 9 日(土) 17:00 ∼ 17:30
□場 所 金沢都ホテル 7 階 鳳凰の間
記 録
平成 23 年度北辰同窓会評議員会及び総会が、金
沢都ホテルにて開催された。審議に先立ち、過去 1
年間に亡くなった会員 6 名のご芳名が読み上げられ、
黙祷が捧げられた。坂本会長、竹越理事長挨拶の後、
会長が議長となり議事が進められた。
(1)
第 1 号議案 平成 22 度事業報告及び収支決算報告
坂本議長の指名により、伊藤 透副会長から平成
22 年度事業報告及び決算報告が行われた後、三治秀
総会次第
哉監事から監査報告がなされ、審議の結果、原案ど
おり承認された。
(2)第 2 号議案 平成 23 年度事業計画(案)及び収支
予算(案)
坂本議長の指名により、伊藤 透副会長から平成
23 年度事業計画(案)及び収支予算(案)の説明がな
され、審議の結果、原案どおり承認された。
(3)
その他
坂本会長から、北辰同窓会では、この度の東日本
大震災で同窓生の被災者に対する義援金(見舞金)を
募集した。会員の皆様から寄せられた金額は、7 月 9
総会 坂本議長
日現在で、
約 490 万円となった。この場をお借りして、
御礼申し上げます。なお、被災された同窓生で現在
判明しているのは、
学生 3 名、
卒業生 8 名で 7 世帯です。
半壊等)を被った卒業生には、一世帯 50 万円を支給
する。
5 月 29 日(日)に、大阪で開催された全国支部長会
・7 月 30 日以降に被災者が判明した場合、会長の判
及び 6 月 25 日(土)に金沢都ホテルにて開催された、
断により北辰同窓会本会計から同額の見舞金、特別
第 45 回常任役員会にて、この度の震災での同窓会会
見舞金を支給する。ただし、見舞金、特別見舞金の
員の被災者に対する義援金(見舞金)の取り扱いにつ
支給は本年度限りとする。以上のことが決定された。
いて、各支部長及び常任理事の皆様にご審議をいた
配布後の義援金(見舞金)の決算につきましては、
だいた。
その結果、
北辰同窓会ホームページ、及び会報に掲載する。義
援金募集口座は、8 月 31 日に解約する予定であるが、
・義援金(見舞金)は、7 月 30 日に配布する。
まだ 1 ケ月あまり期間があるため、本日ご出席の会
・義援金募集口座は 8 月 31 日で解約する。
員の皆様におかれましては、是非ご協力いただきた
・義援金(見舞金)の配布額は、卒業生 30 万円、在学
い。また、
同期の会員の皆様にお声掛けいただきたい。
生 10 万円を支給する。更に、甚大なる被害
(建物全壊、
との報告及び依頼がなされた。
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北辰同窓会報
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総会終了後、中農常務理事から、創立 40 周年記念
事業の概要が説明され、併せて本年 10 月から募金を
開始するので協力願いたいとの依頼がなされた。引き
続き山下理事から理事長退任の挨拶がなされた後、北
辰同窓会賞、北辰同窓会研究助成の授与式に移った。
事務局から、北辰同窓会賞は会員の学術活動及び
社会活動の振興を図るため、また研究助成の授与は
学術活動の振興に資するため、原則として卒後 10 年
以内の会員を対象に授与されるものであり、北辰同
窓会報及びホームページで候補者を募集し、各医局、
全国の会員からの推薦を集め、常任役員会にはかり
創立 40 周年記念事業の説明をする中農常務理事
受賞者を決定することになっている。今年度は、平
成 23 年 6 月 25 日(土)開催の常任役員会にて、北辰
同窓会賞 3 名と北辰同窓会研究助成 2 名の受賞が決
について」について説明がなされた。
総会終了後は、会場を移して懇親会が開催された。
定されたとの説明がなされ、坂本会長から、表彰状、
坂本会長の挨拶の後、高島副理事長から挨拶をいた
副賞、助成金が授与された。
だき、伊藤副会長の乾杯の発声で和やかに懇親会が
引き続き、勝田学長から挨拶がなされ、栂医学部
開会された。参加した会員は旧交を温め、久ぶりの
長から、昨年総会終了後から今年 7 月までに教授に
杯を交わし大いに語りあっていた。定刻になり、大
就任された先生 14 名の紹介があり、出席された村木、
島副会長から閉会の挨拶をいただき、一本締めで閉
中村、北山教授から挨拶がなされた。
会となった。 最後に、大学の現況報告として、北村学生部副部
長から「学生部活動について」、飯塚副学長から「第
105 回医師国家試験結果概要と平成 23 年度国試対策
総会風景
(山本 健司 記)
【北辰同窓会会務報告】
北辰同窓会報
北辰同窓会賞
北辰同窓会研究助成
玉井 顯 先生(昭和 53 年卒)
金沢医科大学 微生物学 大桑 孝子 助教
本学卒業後に神経精神科学の領域で研鑽をつま
れ、特に認知症サポートシステムの発案者の一人と
して、全国各地において、認知症サポートシステム
の啓発普及に努める。
10
研究テーマ、
「インフルエンザウイルスのパッケー
ジング機構の解明」について
(金沢医科大学 微生物学 大原 義朗教授から推薦書
提出)
(成和病院 理事長の小西啓子先生から推薦書提出)
金沢医科大学 生化学Ⅱ 吉富 泰央 助教
北山 道彦 先生(昭和 56 年卒)
長年にわたり、本学病院の心臓血管領域における、
冠動脈治療の専門家として、本学の教育、研究及び
診療の基盤を支え、後進の指導にあたり、学内外か
ら高く評価されている。
(本会会長の坂本 滋先生
(昭和 53 年卒)
から推薦書提出)
近藤 邦夫 先生(昭和 54 年卒)
長年にわたり医療に従事され、石川県医師会の役
員としても地域医療に多大なる貢献をされた。また、
第 24 回日本臨床内科医学会を、会長として金沢市に
おいて主催され、全国からの臨床医を迎え、盛大か
つ有意義な成果をあげた。
(本会会長の坂本 滋先生
(昭和 53 年卒)
から推薦書提出)
研究テーマ、
「胚性幹細胞(ES 細胞)からの血管分
化系の確立と利用による神経 - 血管相互作用を担う
遺伝子の同定と血管ネットワーク形成における役割
の解明」について
(金沢医科大学 生化学Ⅱ 米倉 秀人教授から推薦書
提出)
北辰同窓会報
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大学の近況から
金沢医科大学 第 34 回卒業証書・学位記授与式
宮内健悟君に北辰同窓会会長賞授与
平成 23 年 3 月 1 日(火)、金沢医科大学第 34 回卒業
証書・学位記授与式が金沢市文化ホールで行われた。
医学部卒業生 114 名の氏名が読み上げられ、医学部
卒業生総代の八木夏希さんに卒業証書・学位記が授
与された。続いて、初めての卒業生となる看護学部
卒業生 68 名の氏名が読み上げられ、看護学部卒業生
総代の林智美さんに卒業証書・学位記が授与された。
毎年、医学部過程で優秀な成績を収めた学生に北
辰同窓会賞が授与されており、今年は宮内健悟君(群
第 34 回卒業証書・学位記授与式
馬県出身)が受賞した。 (金沢医科大学報より)
北辰同窓会賞を受賞して
医学部卒業生
宮内 健悟
このたび、卒業証書・学位記授与式において、北
辰同窓会会長賞という栄誉ある賞をいただき、大変
嬉しく思います。この賞を受賞できたのも、御指導
いただいた先生方をはじめ学校関係者の皆様、先輩
や後輩、支えてくれた家族、そして 6 年間共にがん
ばってきた同級生の支えがあってのこと、と考えて
おります。
北辰同窓会会長賞を受ける宮内健悟
振り返れば 6 年間はあっという間の時間でしたが、
医学知識だけではなく、実習を通して人との接し方
活をしながら勉学に励むことは楽ではないかもしれ
も学ぶことができました。私は人より視力の点で苦
ません。しかし、部活と勉学を両立させることで、
労することもありましたが、同級生、とくに同じ実
自然と勉強の習慣も身に着くのではないかと思いま
習班の素晴らしい仲間に支えられ、支障なく勉学に
す。これから医師として医療現場に出ることになり
励むことができました。学生生活では、良い仲間と
ますが、学生生活で学んだ様々な経験を十分に生か
モチベーションの高さが大切である、と 6 年間を通
していきたいと思います。
して実感しました。医療は様々な役割を持つ人々の
最後になりましたが、今までお世話になった皆様
チーム活動であり、そこには協調性が求められます。
に改めて感謝申し上げます。これからも金沢医科大
部活では、他校や他学年の人たちとの様々な交流も
学卒業生としての誇りを胸に、多くの患者様のお役
あり、協調性を養うことができたとともに、体力の
に立てる立派な良医になれるよう生涯、努力してい
強化も行うことができ、良い経験になりました。部
きたいと思います。
【大学の近況から】
北辰同窓会報
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金沢医科大学 第 40 回入学宣誓式
平成 23 年 4 月 5 日(火)午前 10 時から、金沢市文
多数のご父兄、教職員に迎えられた医学部入学生
化ホールにおいて金沢医科大学第 40 回入学宣誓式が
105 名、看護学部入学生 69 名(内、3 年次編入学生 1 名)
挙行された。
計 174 名を代表して、医学部入学生の碓井雄大君と
入学宣誓式に先立ち、東日本大震災で亡くなられ
看護学部入学生の竹脇夏美さんが入学宣誓を行った。
た方々のご冥福を祈り黙祷が捧げられた。
(金沢医科大学報より)
金沢市文化ホールでの第 40 回入学式
コラム
七 夕
七夕とは、大辞林によると五節句【人日(じんじ
つ)
:正月 7 日、上巳(じょうし)
:3 月 3 日、端午(た
んご)
:5 月 5 日、七夕(しちせき)
:7 月 7 日、重陽(ちょ
うよう)
:9 月 9 日】の一で、7 月 7 日の行事。
この夜、天の川の両側にある牽牛星・織女星が、
年に一度会うといい、この星に女性が技芸の上達
を祈れば叶えられるといって、奈良時代から貴族
社会では星祭りをした。これは中国伝来の乞巧奠
(きっこうでん)であるが、一方、日本古来の習俗
では、七日盆にあたり、水浴などの禊をし、精霊
5 学年が使用する自習室前に飾られた七夕飾り
棚とその幡を安置するのが 7 日の夕方であることから 7 日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音
するようになったともいう。
七夕といえば幼稚園、小学校時代に笹飾りを飾ったという人もいるだろうが、東北地方では今年
は放射線の影響から笹飾りがプラスチック製に変わったそうだ。
本学でも毎年この時期になると学生たちが校舎のあちこちに笹飾りを飾る。牽牛・織女にあやかり
七夕に願いを込めて…「みんなで進級できますように」、
「西医体で勝てますように」。こんなのもあっ
た。
「教学課に怒られませんように」。 (編集部 H.S.)
第 37 号/ 2011.8
北辰同窓会報
13
学校法人金沢医科大学理事長に
竹越 襄前副理事長を選任
副理事長に高島茂樹理事(新任)
、松本忠美理事(再任)
常務理事に中農理博理事(再任)
平成 23 年 4 月 1 日(金)開催の第 213 回学校法人金
沢医科大学理事会において役員の改選が行われ、理
事長に竹越襄理事(前副理事長)、副理事長に高島茂
美理事、常務理事に中農理博理事が選任された。
任期は、いずれも平成 23 年 4 月 1 日から平成 26 年
3 月 31 日までである。
樹理事(金沢医科大学氷見市民病院病院長)、松本忠
理事長 竹越 襄の略歴
1963 年 3 月 金沢大学医学部卒業
1999 年 9 月 金沢医科大学学長(2004 年 8 月迄)
1968 年 3 月 金沢大学大学院博士課程修了
2004 年 9 月 学校法人金沢医科大学副理事長
1968 年 4 月 国家公務員共済組合北陸病院
1969 年 6 月 金沢大学医学部助手(第二内科)
1972 年 10 月 金沢大学医学部講師(第二内科)
1974 年 9 月 金沢医科大学医学部助教授
1982 年 4 月 金沢医科大学病院 CCU 部長併任
(2011 年 3 月迄)
2008 年 4 月 金沢医科大学氷見市民病院最高経営責
任者(CEO)
(2011 年 3 月迄)
2011 年 4 月 学校法人金沢医科大学理事長
【主な学会活動】
1985 年 4 月 金沢医科大学医学部教授
日本臨床生理学会(監事)
、日本集中治療医学会(功
1996 年 4 月 学校法人金沢医科大学評議員
労会員)、日本循環器学会(名誉会員)
、日本内科学
1998 年 4 月 金沢医科大学病院長(1999 年 8 月迄)
会(功労会員)
、日本生体医工学会(名誉会員)、日本
1998 年 4 月 学校法人金沢医科大学理事
心不全学会(名誉会員)
金沢医科大学病院長に川上重彦教授(形成外科学)を再任
副院長に鈴木孝治教授(新任)、小坂健夫教授(再任)、
梅原久範教授(新任)、森本茂人教授(再任)、
高田昌美看護部長(再任)
平成 23 年 3 月 24 日(木)開催の第 211 回理事会に
に泌尿器科学鈴木孝治教授 (21 世紀集学的医療セン
おいて、川上重彦病院長が再任された。副院長には
ター担当 )、血液免疫内科学梅原久範教授(医事・医
一般・消化器外科学小坂健夫教授(診療担当)、高齢
療情報担当)の 2 名が副院長に就任した。
医学森本茂人教授(総務・臨床教育担当)、高田昌美
看護部長(看護・業務改善担当)が再任され、新た
病院長および副院長の任期は平成 23 年 4 月 1 日か
ら平成 26 年 3 月 31 日までである。
【大学の近況から】
北辰同窓会報
14
坂本 滋北辰同窓会会長(昭和 53 年卒)が
学校法人金沢医科大学理事に就任
平成 23 年 3 月 24 日(木)開催の第 211 回学校法人
譲二副会長・埼玉県支部長(S54 年卒)、吉田勝明・神
金沢医科大学理事会および第 111 回学校法人金沢医
奈川県支部長(S57 年卒)が理事、評議員に再任され
科大学評議員会において、北辰同窓会坂本滋会長
ている。
(S53 年卒)が理事、評議員に選任された。他に大島
新アナトミーセンター開館
本学創立 40 周年記念事業「グランドデザイン・第
1 次 5 か年計画」の最初の建物として、昨年 7 月 14 日
ジには同美術部員による前田青邨作「腑分」の模写も
飾られている。
の起工式以来約 7 か月半の工期で建設が進められて
いた新アナトミーセンターが、平成 23 年 3 月 3 日(木)
(金沢医科大学報 第 146 号による)
〈前田青邨作「腑分」については 56、57 頁に模写関連記事掲載〉
に竣工し、3 月 26 日(土)午前 10 時か
ら大学・病院関係者のほか、法医学
関係者として石川県警察本部長をは
じめ、建設業関係者の方々が出席し
て開館記念式が執り行われた。引き
続いて篠原治道教授(解剖学Ⅱ)、八
田稔久教授(解剖学Ⅰ)、北村修教授
(法医学)らの記念講演が行われた。
式典に先立ち、新アナトミーセン
ター 1 階玄関ホールに飾られた、本
学美術部学生によるレンブラントの
「テュルプ博士の解剖学講義」の模写
壁画の除幕式が行われた。3 階ラウン
除幕式後模写壁画の前で記念撮影する関係者
新アナトミーセンター
レンブラントのテュルプ博士の解剖学講義(模写)
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
15
平成 23 年度金沢医科大学臨床教授(学外)委嘱状授与式
並びに学外臨床実習に係る懇談会
平成 23 年 5 月 18 日(水)午後 7 時からホテル日航
員となり、スチューデントドクターとして行動する
金沢において、学外臨床施設の医師 24 名を招き、竹
ことを目的とした Clinical Clerkship(CCS)を導入
越 襄理事長をはじめ 20 名の教職員が出席して、金
し、平成 11 年度からは、大学病院では得られない体
沢医科大学臨床教授(学外)委嘱状授与式並びに学外
験実習を経験させるため、学外の医療機関において
臨床実習に係る懇談会が開催された。
臨床実習を行っている。また、平成 12 年度から、受
はじめに、竹越理事長から新任の臨床教授(学外)
入施設の指導医師の方々に対し臨床教授(学外)等に
に委嘱状が渡され、続いて中橋毅先生(能登北部地
委嘱しており、被委嘱者数は、当初の 13 名から、学
域医療研究所長)により「能登北部地域医療研究所の
外臨床実習の充実とともに増え、今年度は 43 名の
試み」の講演が行われた。
方々が臨床教授(学外)に委嘱された。
引き続き懇親会が行われ、和やかな中で活発な意
今年度、臨床教授(学外)に委嘱された先生方は次
見交換が行われた。最後に、学外臨床施設を代表し
の方々で、任期は平成 23 年 4 月 1 日から平成 24 年 3
て上田 博先生(芳珠記念病院院長)がお礼の言葉を述
月 31 日まで。
べられ、盛会裡に終了した。
(学事庶務課 長井 竜洋 記)
本学では、平成 7 年度から学生が医療チームの一
千木病院
病院長
興村 哲郎
石川県済生会金沢病院
院長
若林 時夫
南ケ丘病院
理事長
宮崎 誠示
金沢赤十字病院
院長
岩田 章
岡部病院
院長
中村 一郎
南砺市民病院
院長
南 眞司
カセノ内科医院
院長
野 謙介
医療法人社団 宇野気医院
理事長
公立穴水総合病院
病院長
倉知 圓
なんぶこども医院
院長
南部 澄
サンクリニックやまだ
院長
山田 燦
的場病院
院長
的場 宗敏
やわたメディカルセンター
院長
勝木 建一
伊藤病院
院長
伊藤 順
公立南砺中央病院
院長
根井 仁一
近藤クリニック
院長
近藤 邦夫
らいふクリニック
理事長
北田 博久
医療法人くぼじまクリニック 理事長
大島 譲二
松原愛育会松原病院
院長
松原 三郎
董仙会 恵寿総合病院
理事長
神野 正博
金沢西病院
院長
川崎 英
藤聖会 八尾総合病院
理事長
藤井 久丈
博洋会 藤井脳神経外科病院
理事長
藤井 博之
医療法人社団 中藤クリニック 理事長
中藤 秀明
浅ノ川総合病院
院長
上野 敏男
北陸中央病院
医務局長
清水 淳三
芳珠記念病院
院長
上田 博
町立富来病院
病院長
豊田 高志
県立高松病院
院長
倉田 孝一
木島病院
理事長
竹内 尚人
映寿会みらい病院
院長
前田 敏男
予防医学クリニック
院長
魚谷 知佳
珠洲市総合病院
病院長
追分 久憲
医療法人社団 まるおかクリニック 理事長
丸岡 達也
金沢脳神経外科病院
病院長
佐藤 秀次
さはらファミリークリニック 院長
佐原 博之
公立宇出津総合病院
院長
小森 和俊
兵庫県立柏原病院
小児科医長 和久 祥三
厚生連高岡病院
院長
亀谷 富夫
医療法人財団夕張希望の杜
理事長
国民健康保険志雄病院
院長
京井 優典
金沢社会保険病院
病院長
喜多 一郎
国立病院機構医王病院
院長
関 秀俊
田 充彦
村上 智彦
(卒業年度順、敬称略)
北辰同窓会報
【大学の近況から】
16
新任教授紹介
看護学部
看護学部
な か し ま
さ
も と こ
中島 素子教授
地域看護学
平成 23 年 4 月 1 日より看護学部教授(地域看護学)
を拝命しました。この 3 月 11 日、国難というべき東
日本大震災があった直後に着任したことを心に刻み、
また医学部公衆衛生学の中川秀昭教授、看護学部の
森河裕子教授をはじめ、多くの先生方にご指導いた
だきましたこの大学のキャンパスを再び踏みしめた
幸せを感じ、地域に貢献する看護者を育成するため、
微力ながら一所懸命本学に貢献していきたいと思っ
ています。
地域看護学は地域を基盤に展開される看護サービ
スで、対象は個人、家族、学校、職場、地域といっ
た集団で、その集団の特性によって多様な保健師活
動が求められます。これまでの産業、学校、病院保
健師としての在宅看護などの保健師活動の実践を生
かしながら地域看護学を担当していきたいと思って
います。また地域看護学の研鑽とともに、ライフワー
クにしています医療経済学的視点を持った看護者の
育成も継続して行っていきたいと思っています。
研究としては本学卒業生を対象とした運動負荷で
明らかになった血圧上昇のハイリスクグループの追
跡研究を再度実施して、若年成人の運動負荷血圧が
将来の血圧上昇の独立した予測因子になり得るかを
検証したいと思っています。また産業現場の労働者
の睡眠と生活要因との関連、学童期の睡眠と食習慣、
生活時間などについて検討を行い、将来の生活習慣
病の発症予防のための望ましい生活習慣への行動変
容を促すための効果的なアプローチを進めていきた
いと思っています。
皆様のご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。
【略歴】
1975 年 3 月 埼玉県立厚生専門学院保健助産婦科卒
1975 年 4 月 第二精工舎(本社)健康管理室保健婦
1977 年 4 月 社会保険鳴和総合病院保健指導室保健婦
(在宅看護)
1981 年 4 月 金沢医科大学学生保健管理室保健婦
2003 年 3 月 金沢大学大学院医学部保健学科地域看護領
域修士課程修了、保健学修士取得
2006 年 3 月 同大学院経済学研究科経済学専攻修士課程
修了、経済学修士取得
2010 年 4 月 広島都市学園大学健康科学部看護学科教授
(地域看護学)
2011 年 3 月 金沢医科大学大学院医学研究科健康増進予
防医学博士課程修了、医学博士取得
2011 年 4 月 金沢医科大学看護学部教授(地域看護学)
か
い
け
い
こ
坂井 恵子教授
基礎看護学
平成 23 年 4 月 1 日付けで、看護学部教授(基礎看護
学)を拝命いたしました。平成 19 年 4 月に金沢医科
大学に赴任して以来、ご指導とご厚情を賜り誠に有
り難うございます。
私は愛知県立看護短期大学を卒業後、石川県に就
職し看護師・看護教員として約 30 年間、地域住民の
健康支援と看護職育成に携わってまいりました。そ
の間、厚生省看護研修研究センター、富山医科薬科
大学院修士課程、金沢大学大学院博士課程へ行き、
教育研究を行ってきました。主な研究は、看護基礎
教育における教材開発の試み、看護教員のストレッ
サー尺度の開発や熟練プロセスの明確化です。
私が担当する基礎看護学は、看護学生が最初に学
ぶ専門分野であることから、基礎看護技術と看護専
門職者として判断基準をもつための基礎的能力を養
うことをねらいとしています。学生が積極的に学習
できるよう、教育内容・方法を吟味し、実践したい
と思います。また看護教育学では、学生が将来、キャ
リア開発し様々なことに挑戦したいと思えるよう、
先輩諸氏とのネットワーク化や継続的研鑽の推進な
ど皆様と共に考えていきたいと思います。
「教育は人なり」と言われていますことから、自ら
の研鑽と共に、現場で活躍されている実習指導者や
新人教員との連携と教育にも努力したいと思います。
皆様に感謝申し上げますと共に、今後ともご指導、
ご鞭撻を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
【略歴】
1976 年 3 月 愛知県立看護短期大学看護学科卒業
1976 年 4 月 石川県技術吏員、県立中央病院・県立総合
看護専門学校専任教員・教務主任
1997 年 3 月 厚生省看護研修研究センター幹部教員養成
課程修了
2001 年 3 月 富山医科薬科大学大学院医学系研究科修
了、修士(看護学)取得
2006 年 12 月 石川県技術吏員依願退職
2007 年 3 月 金沢大学大学院医学系研究科博士後期課程
修了、博士(保健学)号取得
2007 年 4 月 金沢医科大学看護学部准教授(基礎看護学)
2011 年 4 月 金沢医科大学看護学部教授(基礎看護学)
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
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新任教授紹介
総合医学研究所
医学部
た け う ち
お さ な い
ま さ よ し
竹内 正義教授
先進医療研究部門
平成 23 年 4 月 1 日付けで総合医学研究所先進医療
研究部門教授を拝命致しました。前任の北陸大学薬
学部におきましては、病態生理学、生活習慣病特論
などの講義の他、病態解析系実習なども担当してい
ました。研究面では、15 年前から蛋白質の糖化反応
最 終 産 物(advanced glycation end-products, AGEs)
と生活習慣病との関連について検討を行っています。
生体内で生成される AGEs の中でも、糖代謝中間
体に由来するグリセルアルデヒド由来 AGEs(toxi
AGEs, TAGE と 命 名 )が AGEs 受 容 体(receptor for
AGEs, RAGE)を介して糖尿病網膜症などの発症・進
展に強く関わっていることを解明し、糖尿病血管合
併症の発症・進展における“TAGE-RAGE 病因説”を
提唱するに至っています。最近では、認知症、悪性
腫瘍、高血圧症、NASH などの疾患にも関与するこ
とが示されており、TAGE-RAGE 系の影響を抑える
ことが生活習慣病の発症・進展の予防および治療戦
略上、必要なことがわかってきました。また、血中
TAGE 量は生殖補助医療技術(ART)における卵胞発
育、受精、胚発育、妊娠成否と良く相関することも
示されています。
「糖化制御研究」を介して金沢医科大学内での触媒
的な役割が果たせればと考えております。何卒、ご
指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。
【略歴】
1980 年
1982 年
1982 年
1988 年
1990 年
1991 年
1996 年
1999 年
2004 年
2011 年
3月
3月
4月
7月
4月
7月
北陸大学薬学部卒業
北陸大学大学院薬学研究科修士課程修了
北陸大学薬学部助手
富山医科薬科大学より薬学博士号取得
富士薬品工業(株)研究所主任研究員
ニューヨーク州立大学医学部博士研究員兼
任(2 年間)
8 月 北陸大学薬学部講師
10 月 米国ピコワー医学研究所招聘研究員兼任
(半年間)
11 月 北陸大学薬学部病態生理化学教室教授
4 月 金沢医科大学総合医学研究所先進医療研究
部門教授
か ず ひ ろ
長内 和弘特任教授
呼吸器内科学
私は昭和 57 年に山形大学医学部を卒業し、同第一
内科(呼吸、循環、腎臓)に入局し、呼吸器グループ
として活動を始めました。当時は新設医大のためス
タッフが少なく、精密肺機能検査の改良や、まだ一
般的でなかった気管支肺胞洗浄法検査の導入などに
尽力しました。その後本学では胸腔ファイバー内視
鏡検査の導入に貢献いたしました。最近の呼吸器臨
床のトピックは、睡眠呼吸障害、肺癌の集学的治療、
COPD、高齢者肺炎などですが、大学病院の社会的
使命である高度先進医療の提供へ向けて常に精進し
てまいりたいと存じます。
研究では当初肺癌の診断方法や肺機能への影響な
どの臨床研究を行いました。その後米国コロラド大
学医学部・NJH 研究所に 3 年間留学し、同研究所で
発見された Rab38 低分子量 G タンパク質の研究を行
いました。これは今も続けております。同遺伝子は
眼皮膚型白皮症、易出血性、間質性肺炎の三徴をも
つヘルマンスキー・パドラック症候群の候補遺伝子
です。プライオリテイーの高い研究を臨床講座単独
で遂行することは困難ですが、総合医学研究所や基
礎講座とのタイアップによりハイレベルの研究を行
いたいと考えております。
大学には常に若い学生、医師が入ってきて新陳代
謝が行われます。彼らと接して逆に自らが啓発され
ることも少なくありません。これからも微力ながら
本学の発展に貢献していきたいと存じます。皆様の
ご指導・ご鞭撻をお願い申し上げます。
【略歴】
1982 年 3 月
1982 年 5 月
1989 年 11 月
1991 年 5 月
1994 年
1995 年
2006 年
2011 年
4月
7月
4月
4月
山形大学医学部卒業
山形大学医学部附属病院研修医
山形大学医学部第一内科助手
米国コロラド大学医学部・National Jewish
Health 研究所留学
山形県立日本海病院内科医長
金沢医科大学呼吸器内科学講師
金沢医科大学呼吸器内科学准教授
金沢医科大学呼吸器内科学特任教授
北辰同窓会報
【大学の近況から】
18
新任教授紹介
医学部
医学部
う
え
だ
き た や ま
の ぶ ひ こ
み ち ひ こ
北山 道彦臨床教授
上田 順彦臨床教授
循環器内科学
一般・消化器外科学
このたび平成 23 年 4 月 1 日付けで一般・消化器外
科学臨床教授を拝命しました。昭和 58 年に金沢大学
医学部を卒業後、金沢大学第 2 外科学教室(現、がん
局所制御学教室)に入局しました。卒後 6 年までは大
学と関連病院を 1 年ごとに移動しながら研鑽を重ね
この度、平成 23 年 4 月 1 日付で循環器内科臨床教
授を拝命致しました。
昭和 56 年に金沢医科大学を卒業後、村上暎二先生
の教室、循環器内科に入局しました。その後、冠動
脈疾患を中心に臨床と研究を重ね、竹越襄先生、角
る一方で、大学では博士号の動物実験をおこなって
いました。その後は北陸 3 県や京都にある関連病院
で勤務させてもらいました。私の恵まれていたとこ
ろは勤務したどの病院にも素晴らしい先輩の先生方
がおられ、高いレベルの医療や臨床研究の指導を受
けることができたことです。一般病院でずっと勤務
するものと思っていたのですが、縁あって平成 21 年
1 月から当院で勤務させていただいております。一
般病院では消化管、肝胆膵、乳腺、IVR、内視鏡治
療など幅広い分野の仕事をする必要があります。現
在、大学では肝胆膵の疾患を主に担当させていただ
いておりますが、専門分野を深めるためには幅広い
領域の知識や経験が必要です。これまでの一般病院
での経験が現在の診療のかけがえのない base となっ
田弘一先生指導のもとカテーテル治療の礎を築いて
いただきました。それから 25 年の月日がたち、カ
テーテル治療もバルーン拡張術からステント留置術、
アテレクトミー、薬剤溶出性ステント留置へと進歩
を遂げ、食生活の欧米化や高齢化に伴い治療対象と
なる病変もより複雑な病変が増加してきました。そ
して、バルーン拡張術やステント留置術では困難な
石灰化病変に対して有効な手技であるロータブレー
ター治療が登場し、北陸ではいち早くこのロータブ
レーター治療を平成 9 年 8 月に着手し、現在では、
他院からも多くの紹介を受け、昨年度累計で 1,000
例を超えました。
現在は、カテーテル治療認定医の育成を主眼に指
導しておりカテーテル治療のライブデモンストレー
ていると感じています。
全国的に外科医不足は深刻な問題となっています。
ションを通して若い先生方に安全な手技の普及とカ
テーテル治療の素晴らしさを伝えるのが使命と考え
日々の臨床、研究はもちろん、若手医師や学生の指導・
教育を通じて一人でも多くの次の世代の外科医を育
ています。今後は、より一層、
本学の臨床・研究・教育、
北陸のカテーテル治療の向上に携わっていきたいと
成していくことに力を注ぎたいと思います。皆様の
ご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
思っております。最後に、今まで御指導いただいた
先生方をはじめ、
医局員、大学の皆様に感謝致します。
これからも皆様の御指導御鞭撻を賜りますようお願
い申し上げます。
【略歴】
1983 年
1983 年
1985 年
1992 年
1998 年
2002 年
2009 年
2011 年
3月
5月
3月
4月
4月
4月
1月
4月
金沢大学医学部卒業
金沢大学医学部第 2 外科学教室入局、研修医
金沢大学医学部第 2 外科医員 富山市民病院外科医長 舞鶴共済病院外科医長 独立行政法人国立病院機構福井病院外科医長
金沢医科大学消化器外科治療学臨床准教授
金沢医科大学一般・消化器外科学臨床教授
【略歴】
1981 年 3 月
1983 年 4 月
1987 年 4 月
1999 年 10 月
2003 年 11 月
金沢医科大学医学部卒業
金沢医科大学循環器内科入局研修
金沢医科大学循環器内科助手
金沢医科大学循環器内科講師
金沢医科大学病院ハートセンター副部長
(現在に至る)
2005 年 10 月 金沢医科大学循環制御学助教授
2007 年 10 月 金沢医科大学循環器内科学准教授
2011 年 4 月 金沢医科大学循環器内科学臨床教授
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
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新任教授紹介
金沢医科大学
氷見市民病院
ま
つ
き
の
ぶ
お
松木 伸夫臨床教授
医学部
う
え
だ
よ し み ち
上田 善道教授
病理学Ⅱ
健康管理センター
このたび平成 23 年 4 月 1 日付けで教授職を拝命し
金沢医科大学氷見市民病院にて健康管理センター長
に就任することになりました。
私は昭和 50 年に金沢大学第二外科に入局し、その
後外科医として 36 年間、主として胃癌および消化器
平成 23 年 7 月 1 日より医学部教授(病理学Ⅱ)を拝
命しました。平成 6 年に金沢医科大学に赴任して、
早いもので 16 年が過ぎました。この間、教育、研究、
診療を自由に伸び伸びとさせていただいた勝田省吾
前教授(現学長)ならびに仕事をご一緒させていただ
癌の外科的治療に邁進してきました。その間、上部
胃癌に対する従来の噴門側胃切除では、高率に発生
し術後の QOL を著しく損なう逆流性食道炎が問題で
したが、新たに神経温存噴門側胃切除術を考案しほ
ぼ 100%防止し得ることを発表したことや、1995 年、
最初の世界胃癌会議が京都で開催され、その後ミュ
ンヘン、ソウル、ニューヨーク、ローマ、横浜、ブ
ラジル、ポーランドのクラコフと 8 回開催され、う
ち 7 回に発表の機会を得、なかでも 1997 年 2 回目の
ミュンヘンではシンポジストに選ばれたこと、また
2004 年ギリシアのアテネで開催されたヨーロッパ外
科学会で講演したことは、わたしの小さな臨床業績
のなかでも特に嬉しかったことです。
いま週に一度、お茶(表千家)の稽古に、時にはさ
いた多くの先生方にこの場を借りてお礼申し上げた
いと思います。
私は平成 13 年からの本学における problem based
leaning(PBL)の導入と運営に深く関わって参りま
した。しかし、医師国家試験合格率の低迷が示すよ
うに「記憶中心から問題解決能力養成へ」、「受動的
学習から能動的学習へ」という教育改革は未だ道半
ばです。病理学教員として疾患の病態生理の理解に
重点をおいた、自ら考える学習のおもしろさを学生
に伝えたいと思います。最近、学生も教員も互いの
顔が見えなくなってしまっているように感じます。
積極的にコミュニケーションをとり、互いを理解し
合う努力が教育の原点だと思います。
研究の推進、特に若手研究者の育成も本学の重要
ぼりながら、もう十余年続けていますが、このお茶
の精神である一期一会のこころを忘れることなく今
課題です。着任以来 22 名の大学院生の指導と臨床各
科の若手研究者の支援を行い、幸いにも各分野のトッ
後は与えられた職責、即ち本学健康管理センターの
提唱される“健やかに生きる願いをサポートする“た
プジャーナルを含む多くの研究誌に論文を発表する
と共に、潤沢な科研費を獲得してまいりました。先
め誠心誠意職務を全うしたく、またそのことを通じ
て微力ながらも本学に貢献できたらと思っています。
皆様方のご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
代の勝田教授時代からの伝統である開かれた教室を
今後も維持するとともに、積極的に研究支援を行い、
若手研究者に研究のおもしろさを体感してもらいた
いと考えています。
【略歴】
1975 年
1977 年
1978 年
1979 年
1981 年
1983 年
1991 年
2011 年
4月
4月
4月
4月
4月
4月
4月
4月
金沢大学医学部卒 金沢大学第二外科入局
金沢医科大学第一外科
富山労災病院外科
金沢大学第二外科医員
宇出津総合病院外科
高岡市民病院外科
富山労災病院外科部長
金沢医科大学氷見市民病院健康管理セン
ター臨床教授
今後とも皆様のご指導ご鞭撻よろしくお願い申し
上げます。
【略歴】
1981 年 3 月 金沢大学医学部医学科卒業
1981 年 4 月 天理よろづ相談所病院レジデント
1989 年 3 月 金沢大学大学院医学研究科「病理学Ⅰ専攻
(中西 功教授)
」
博士過程修了、医学博士所得
1989 年 4 月 独ミュンスター大学病理学研究所・研究員
1991 年 4 月 天理よろづ相談所病院医学研究所病理・研
究員
1994 年 11 月 金沢医科大学病理学Ⅱ助教授
2001 年 4 月 金沢医科大学病理学Ⅱ特任教授
2011 年 7 月 金沢医科大学病理学Ⅱ教授
北辰同窓会報
【大学の近況から】
20
新任教授紹介
医学部
く
ぼ
医学部
え
り
お か ざ き
久保 江理特任教授
と し ろ う
岡崎 俊朗特任教授
眼科学
血液免疫内科学
平成 23 年 6 月 1 日付けで、医学部特任教授(眼科学)
を拝命いたしました。
私は、福井大学出身で、現在まで眼科学の臨床お
よび研究に取り組んでまいりました。また 1999 年か
ら 2 年半の間、米国ボストンのハーバード医科大学
平成 23 年 6 月 1 日付けで医学部特任教授(血液免疫
内科学)を拝命しました。前任地では、実に多くの難
治性血液疾患の患者さんを診る機会が与えられ、外
来では骨髄増殖性疾患、慢性骨髄性白血病、慢性リ
ンパ性白血病、多発性骨髄腫などの患者さんを週 4 日
に留学しておりました。私は、白内障予防のターゲッ
トとして水晶体の抗酸化蛋白に関する研究を中心に
行ってきました。金沢医科大学眼科学教室は白内障
疫学研究において世界的に有名です。これまでは、
学会、研究会などで佐々木 洋教授や教室の先生方と、
意見交換させていただき、ご指導も受けてまいりま
した。そして、今回、本学で特任教授として、より
力を発揮できる機会を与えていただき、大変感謝し
ております。本学眼科学教室を世界的に有名な白内
障研究施設にすることが私の夢です。
臨床面で私が目指すところは、若い医師たちの育
成そして臨床と基礎研究の両立です。昨今、眼科領
域でも、専門以外の診療はできない医師も増加して
おります。しかし、私は、眼の前から後ろまで、ほ
間診療し、病棟では、クリーン・ルーム 16 床を駆使し、
白血病、悪性リンパ腫の患者さんの化学療法を実施
しました。したがって、研究室での実験的研究実績
のみならず臨床的な貢献も十分させていただき、自
分の臨床力もこれまでの医師生活で最も充実したも
のであったと自負しております。この度、縁あって
金沢医科大学に奉職させていただく機会を得ました
ことは、このような成果を北陸地方でさらに発展さ
せる絶好の環境を与えていただいたと感謝の念が耐
えません。私は、これまで京都→静岡県島田市→京
都→大津市→米国ノースカロライナ州ダーラム市→
大阪→京都→鳥取県米子市→内灘町とほぼ 5 ∼ 6 年毎
に異動して参りました。10 階の窓から加賀平野の佇
まいをながめておりますと、小学生時分に北陸トン
ぼ全てが治療できるような眼科学教室、医師である
ことを目指しており、難治の緑内障、網膜疾患の治
ネルで煤だらけになり墓参した際の記憶が蘇り、北
陸という響きになにやら懐かしいものがこみ上げま
療に取り組んでいきます。さらに医師として、患者
に優しく思いやりの心を持つことが重要です。後輩
す。今後、地域の皆様に医療貢献すること、良い医
療者を育てること、そして世界的な研究を 1 つでも
医師たちにも、優しく丁寧な診察態度を指導し、立
派な医師として独り立ちできる知識・技術を身につ
けてもらいたいと考えます。
今後ともご指導ご鞭撻どうかよろしくお願い申し
多く内灘の地から発信することをモットーに誠心誠
意努めて参る所存ですので、是非、皆様の暖かいご
援助ご指導を何卒よろしく御願い申し上げます。
上げます。
【略歴】
1993 年
1993 年
1994 年
1999 年
2001 年
2009 年
2011 年
3月
3月
4月
9月
4月
1月
6月
福井医科大学卒業
福井医科大学医員(研修医)
福井医科大学眼科助手
米国ハーバード医科大学水晶体研究所研究員
福井医科大学眼科講師(現 福井大学)
福井大学医学部眼科准教授
金沢医科大学医学部眼科学特任教授
【略歴】
1979 年 3 月
1987 年 3 月
1987 年 10 月
1991 年 8 月
1996 年 10 月
1998 年
2005 年
2007 年
2011 年
京都大学医学部卒業
京都大学大学院医学研究科内科系修了
米国デューク大学生科学・内科学教室研究員
大阪歯科大学内科学講座助手
京都大学大学院医学研究科血液病態学
(第一内科)助手
7 月 京都大学大学院医学研究科血液病態学
(第一内科)講師
1 月 鳥取大学医学部病態解析医学講座臨床検査
医学・血液内科教授
5 月 鳥取大学医学部病態解析医学講座臨床検査
医学・血液腫瘍科教授
6 月 金沢医科大学血液免疫内科学特任教授
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
21
新任教授紹介
金沢医科大学
氷見市民病院
はたしま
医学部
み や ざ わ
か つ ひ と
宮澤 克人特任教授
すなお
畑島 淳臨床教授
泌尿器科学
麻酔科
このたび平成 23 年 6 月 6 日付けで臨床教授を拝命
し金沢医科大学氷見市民病院にて麻酔科科長に就任
することになりました。
私は昭和 61 年に金沢医科大学麻酔学教室に入局
し、森 秀麿先生・青野 允先生の指導を受け 10 年間
在籍しておりました。在籍中に薬理学教室で 2 年間、
故・鈴木史朗先生の指導のもと研究させていただき
学位を取得しました。その後、富山県高岡市の公的
病院で 15 年間、臨床麻酔・集中治療・救急部門に従
事し、後輩の指導等を行ってきました。
今回、竹越 嚢理事長・髙島茂樹副理事長(氷見市
民病院院長)のご配慮等により氷見市民病院麻酔科
科長を就任いたしました。心機一転、麻酔科医人生
の最後の 10 年間を全力で尽くすつもりです。特に氷
見市は高齢化が進み、リスクの高い高齢者の手術麻
酔が多く、「高齢者にやさしい麻酔を」と考えていま
す。その点で氷見市の地域医療に少しでも貢献でき
れば幸いです。また、医師不足・とりわけ北陸地方
の麻酔科医不足は深刻で、今後、氷見市民病院初期
研修医の麻酔教育と、その人材の中から将来の若い
麻酔科医の発掘に全精力を注ぐつもりです。10 年後
には、若い麻酔科医が数多く育つよう、皆様方のご
指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
【略歴】
1985 年
1986 年
1990 年
1996 年
1998 年
2002 年
3月
4月
4月
4月
4月
4月
金沢医科大学医学部卒業
金沢医科大学麻酔科学教室入局研修
金沢医科大学麻酔科助手
富山県済生会高岡病院麻酔科医長
富山県済生会高岡病院麻酔科部長
富山県済生会高岡病院救急・集中治療部長
兼務
2004 年 4 月 富山県済生会高岡病院診療部長
2011 年 6 月 金沢医科大学氷見市民病院麻酔科臨床教授
昭和 59 年に金沢医科大学を卒業後 27 年間にわた
り本学教職員と関係各位の皆様に育てていただきま
した。津川龍三教授(現名誉教授)からは腎移植をは
じめとした泌尿器科学の臨床に加え、医師・社会人
としての在り方について厳しくご指導いただきまし
た。鈴木孝治教授には大学院入学以来現在まで継続
して研究を中心にご指導いただいております。
研究のメインテーマは尿路結石形成に関する尿中
高分子物質や分子機構の解明であり病理学、総合医
学研究所など多くの部署のご支援をいただき励んで
おります。この間、鈴木孝治教授のご高配と本学の
サポートで国際尿路結石症学会前理事長の Rosemary
Ryall 教授の研究室へ留学の機会を与えていただきま
した。また、日本尿路結石症学会奨励賞および学会
賞を受賞いたしました。
臨床では基礎研究を応用した尿路結石の効率的な
砕石・排石から再発リスクの同定までの診療を行っ
ております。また、前立腺癌に対してミニマム創内
視鏡下手術による低侵襲外科治療を行っています。
さらに平成 19 年 3 月から放射線科、臨床病理学、麻
酔科などのご協力をいただき石川県内で最初に密封
小線源療法を導入して現在まで約 140 症例の治療を
担当させていただいております。
教育では視聴覚教材を頻用した臨場感あふれる講
義と知識の取得だけでなく、学生の臨床医学に対す
るモチベーションの向上を図った臨床実習を心がけ
ています。そして光栄にも金沢医科大学優良教員賞
を平成 16 年から 7 年間連続して授与していただきま
した。
建学の精神に基づき本学に報恩できますよう精進
して参りますので今後もよろしくご指導・ご鞭撻を
お願い申し上げます。
【略歴】
1984 年
1989 年
1989 年
1994 年
1999 年
2006 年
3月
3月
4月
4月
4月
1月
金沢医科大学卒業
金沢医科大学大学院医学研究科博士課程修了
金沢医科大学泌尿器科学助手
金沢医科大学泌尿器科学講師
フリンダーズメディカルセンター留学
金沢医科大学泌尿生殖器治療学
(泌尿器科学)助教授
2007 年 4 月 金沢医科大学泌尿生殖器治療学
(泌尿器科学)准教授(名称変更)
2011 年 7 月 金沢医科大学泌尿器科学特任教授
北辰同窓会報
【大学の近況から】
新任教授紹介
医学部
む ら き
やすし
村木 靖特任教授
微生物学
このたび平成 23 年 7 月 1 日付で、微生物学部門特
任教授を拝命いたしました。
私は山形大学医学部を卒業し、内科医として臨床
医学に携わった後、ウイルスの基礎研究の世界に入
りました。その後今日まで、インフルエンザウイル
スの増殖機構に焦点を当て、ウイルス遺伝子やウイ
ルス蛋白質の構造と機能について研究してまいりま
した。現在は、リバース・ジェネティクスという手
法を用いて変異ウイルスを作製し、その増殖能を解
析することで、ウイルスが増殖する際の各々の遺伝
子や蛋白質が果たす役割を明らかにしようとしてい
ます。将来的には、それらを標的とした抗ウイルス
薬の開発や、弱毒ウイルスを用いたワクチンの開発
に繋がることを期待しています。また、院内感染対
策委員会の一員として、感染症のコントロールおよ
びインフルエンザをはじめとするウイルス性疾患の
理解の普及にも尽力したいと思います。
教育面では、主に医学部 2 年生の「微生物と生体防
御」の講義と実習に携わっております。真摯な態度
で勉学に励む学生諸君には常に刺激を受けています。
リサーチ・マインドを持ち続けることのできる医師
に育ってほしいと考えています。
本学に赴任し、1 年 8 ヵ月が経過しました。この間、
常に温かいご支援をくださっている学内の各方面の
先生方に感謝いたします。今後とも、微力ではあり
ますが本学の発展に尽力してまいります。皆様のご
指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し
上げます。
【略歴】
1987 年
1987 年
1990 年
1992 年
1998 年
2003 年
2007 年
2009 年
2011 年
3月
6月
4月
7月
6月
山形大学医学部医学科卒業
東京都立墨東病院臨床研修医(内科系)
筑波大学附属病院(血液内科)医員
山形大学医学部(細菌学講座)助手
英国・国立医科学研究所研究員
(2000 年 11 月まで)
4 月 山形大学医学部(発達生体防御学講座)講師
8 月 山形大学医学部(感染症学講座)准教授
11 月 金沢医科大学医学部微生物学准教授
7 月 金沢医科大学医学部微生物学特任教授
22
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011. 8
退任教授挨拶
23
ご苦労さまでした。
医学部
医学部
勝田 省吾
伊川 廣道
病理学Ⅱ
小児外科学
私は平成 6 年 7 月病理学Ⅱ教授として本学に赴
任致しました。時の流れは速いもので早、16 年
9 ヵ月が過ぎ、本年 3 月末日をもって教授を退任
しました。本学の病理学Ⅱ教授に応募し、角家
暁選考委員長(脳神経外科学教授)、竹越 襄先生
(循環器内科学教授)、西川克三先生(生化学Ⅱ教
授)、瓦井康之先生(解剖学Ⅱ教授)をはじめ選考
委員の先生方の前で緊張して、プレゼンテーショ
ン、質疑を行ったことが昨日のように想い出さ
れます。
私は本学報第 79 号の新任教授紹介記事で、「本
学では動脈硬化だけでなく、スタッフ各人の研
究意欲と素質を大切にして幅広い研究に取り組
み、若い病理学研究者や病理医の育成に努力い
たす所存でございます。病理学教室は医学教育、
研究の他に医療業務としての病理診断、病理解
剖に携わります。臨床各教室と密接な関係を維
持し、医療の場においても貢献したいと考えて
おります」と述べました。どの程度、実現できた
か正直なところ分かりませんが、私と苦楽をと
もにしてくれた素晴らしい教室員を誇りに思っ
ております。
今日まで、教務をはじめ多くの分野の仕事を
させていただき、それらの仕事を通して多くの
教職員の方々にご協力をいただいたことに心よ
り感謝しております。
今後、本学からいただいた恩顧に応えるべく、
学長として全力を尽くしたいと考えております。
これからも、変わらぬご支援、ご鞭撻をお願い
申し上げます。
1997 年から 14 年間、小児外科部門の責任者を
してまいりましたが、このたび定年を迎え退職
いたしました。教授に就任したときにやり遂げ
たいと思っていたことの幾つが叶えられたのか
と省みますと忸怩たるものがありますが、
「何と
か無事に定年を迎えることができた」とホッとし
ている面もあります。
私が本学に初めて奉職したのは 1986 年 4 月で
すので 25 年前になります。
この年に中庭の橘井園にヒポクラテスの木が
植えられました。ひ弱に見え、また当時の大学
が多くの問題をかかえていたこともあり、うま
く育つのだろうかと案じておりましたが、14 年
前に教授として着任したときには慶応義塾大学
北里記念図書館前のヒポクラテスの木と同じぐ
らいに立派な樹に成長していました。
ヒポクラテスはエーゲ海コス島のプラタナス
の木(鈴懸の木)の緑蔭で若い学徒に医の道を説
いたと言い伝えられ、コス島にあるプラタナス
の老大樹に由来する木が「ヒポクラテスの木」と
して多くの医育機関に植えられています。本学
のヒポクラテスの木は篠田株です。この篠田株
は日本に初めて 1955 年に慶応大学出身の産婦人
科医、篠田秀男氏(山形市)によって持ち込まれ
たものです。現在日本には 9 系統 230 本が記録さ
れているとのことです(蒲原株 1970 年新潟大学、
緒方株 1975 年東京大学、日赤株 1977 年等)
。
「生命は短く、学術は長い。好機は過ぎ去り易
く、経験は過ち多く、決断は困難である」。これ
は呪術的思考を否定し、すべての病には人間が
合理的に認識できる自然的原因があると説き、
臨床の観察と経験を基礎にした科学的医学を志
向したとされるヒポクラテスの箴言です。
ヒポクラテスの木と同様に、本学がより一層
発展することを祈念いたしております。有難う
ございました。
北辰同窓会報
【大学の近況から】
退任教授挨拶
総合医学研究所
松井 忍
先進医療研究部門
私は、昭和 49 年金沢医科大学病院開院と同時
に循環器内科助手として赴任いたしました。当
時、大学卒業 4 年目で 28 歳でした。その後、アッ
と い う 間 に 37 年 が 過 ぎ、 平 成 23 年 3 月 31 日 を
もって定年を迎えました。この間、いろいろな
部署の方々と出会い、一緒に仕事をする機会を
得、大変すばらしい、楽しい時間を過ごさせて
いただきました。
私の金沢医科大学における 37 年間は大きく以
下の三つに分けることができるかと思います。
すなわち、循環器内科における診療、臨床研究、
教育活動(昭和 49 年∼平成 17 年)と総合医学研
究所での基礎研究活動(平成 4 年∼ 23 年)ならび
に、21 世紀集学的医療センターでの診療および
管理・運営であります(平成 17 年∼ 23 年)。この
中でも、特に、21 世紀集学的医療センターでの
6 年間が最も印象に残る、充実した期間でありま
した。
21 世紀集学的医療センターの立ち上げは、ま
さに、一からのスタートであり、かつ、日本中
ほかにモデルとなる施設がなく、「集学的医療」、
「個別化医療」というキーワードをたよりに自分
なりにイメージを描き、各サブセンター長と相
談しながら施設・組織を作り上げていきました。
時期的には、がん診療連携拠点病院、メタボリッ
クシンドローム対策としての特定検診・保健指
導、回復期リハビリテーションの推進、遺伝子
医療の推進などの医療行政の後押しもありまし
たが、それにも増して、21 世紀集学的医療セン
ターの目指す「集学的医療」、「患者中心の医療」
に賛同し、かつ、診療や社会活動に積極的にご
協力いただいたセンター所属の医師、コメディ
カル、事務関係の方々によるチームワークの良
さ(まさにチーム医療の模範例)が今日の発展に
大きく寄与したと考えております。私にとって、
24
ご苦労さまでした。
手塩にかけた我が子のようにかわいい組織です。
大きく育ってくれることを願っております。
故村上暎二教授は開講 20 周年業績集の巻頭言
で、朱子の言葉「不学便老而衰」(学ぶことを怠
るようになったら老衰あるのみ)を挙げておられ
ます。退任後も、病院のご好意により引き続き
集学的医療センターで診療を続けることとなり
ました。この言葉を座右の銘とし、患者さんか
ら学び、患者さんに返すことを心がけ、診療に
励みたいと考えております。
総合医学研究所
久原 とみ子
人類遺伝学
研究部門生化学
昭和 58(1983)年に設立された人類遺伝学研
究所(所長は吉田清三病院長、小児科教授)の生
化学部門に籍を置いて以来、質量分析法による
ヒト代謝物の解析に基づいて、遺伝性代謝疾患
の診断支援を行ってきた。研究内容は当時国内
で Only one であったが、1990 年代になって、2
∼ 3 の研究機関が同様な診断支援を行うように
なった。人類遺伝学研究所は 1989 年、総合医学
研究所の人類遺伝学部門に改組されたものの、
実質はそのままで、吉田先生の志を継いで、研
究にプラスするような受託事業も継続してきた。
1998 年に私は将来の代謝物解析の重要性を予
見された松本勇教授の後任教授に就任した。そ
の年、当時の理事長が新任教授数名から意見を
聞く会を設けられたが、これまで苦労も挫折も
なかった私は主張すべき程の意見は持たず、折
角の機会を生かせなかった。同年、文部省ハイ
テクリサーチセンター構想の一課題に採択され
たが、この採択で得たものもあれば、失ったも
のも少なくなかった。教授になって、責任や苦労
も増え、自分なりの考えが持てるように成長で
きたように思う。
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011. 8
退任教授挨拶
25
ご苦労さまでした。
私はメタボロミクス〔わずかの代謝物、あるい
は化学的に一つのグループに属する代謝物群で
なく、桁はずれに複雑な複数のグループの代謝
物の一斉解析〕の研究を進めた。1996 年の論文
は“その黎明期にあって、メタボロミクスの最も
進んだ応用例”として、ドイツの学者らが 2001
卒業は金沢大学ですが、地元であった名古屋
大学の眼科に入局しました。当時仕事をしてい
た安城の病院で角膜真菌症の患者さんを初めて
経験し、たまたま指導医とともに治癒できたこ
とから、感染症の面白さを知りました。これが
眼感染症を専門分野とするきっかけとなりまし
年に引用し、二次引用総数は 2200 を超え(Google
Scholar)、本学の名を生命科学史に刻むこととな
り、ご支援、ご指導くださった方々に些かなり
とも報いることができた。また、2003 年の“メ
た。金沢医科大学では佐々木一之教授も同分野
の大先輩であり、ご指導をいただきました。ア
カントアメーバ角膜炎にクロルヘキシジンが著
効することを日本で初めて報告し、本邦でのア
タボローム研究の最前線”を皮切りに、国内のメ
タボロミクス関連の書籍 7 冊の共著者として、医
学応用の実例を紹介してきた。今後も、医学・創
薬の分野でメタボロミクスの研究を続けてゆき
たい。
1970 年代に久留米大学で開始した研究テーマ
であるが、グラントのない時期には不思議に支
援者が現れたりして、教室が運営され、研究が
継続できた。ご理解をいただいた金沢医科大学
に、また、ご支援いただいた学内外の方々に心
からお礼申し上げます。
カントアメーバ角膜炎の治療成績向上にも寄与
できたと思っています。また、シェーグレン症
候群国際登録ネットワーク(SICCA)の眼科検査
基準作成に関与し、その研究プロジェクト一員
として、定年後も活動の予定です。
今後は嘱託ですが、診療・教育・研究に少しで
もお役に立つことができれば幸いです。
一般教育機構
平口 哲夫
医学部
人間科学科目
(人文科学)
北川 和子
眼科学
3 月 31 日に定年退職者の辞令交付式がありまし
た。仕事を支えていただいた多くの方のおかげ
で、元気でこの式に臨むことができたものと心
より感謝しております。定年というのはこれま
でに感謝し、今後は何らかの形でまわりに恩返
しする折り返し点ではないかと感じています。
私は共働きで、育児に家事に目の回るような毎
日でした。仕事も忙しく 5 時台に帰宅できたのは
年に数日もないと思います。保育園に行く時間
が遅れ、一人ぽつんと待っていた子供の姿がい
まだに脳裏をよぎります。家族にも大感謝です。
定年退職間近の 3 月 11 日に起きた東日本大震
災で、本学関係においても甚大な被害を受けら
れた方々がおられることを思い、まずは衷心よ
りお見舞い申し上げます。
1974 年に着任して最初に教えた学生のうちの
一人に岩手県大槌町出身の植田俊朗君がいます。
2001 年 10 月に盛岡で開催された日本考古学協
会大会に参加した際、大槌にある東京大学国際
沿岸海洋センターの宮崎信之教授を訪ねました。
夕方ご馳走になった寿司屋の主人が言うには、
「つい先日、植田先生が金沢医科大学の教授ご夫
妻といっしょに来られた」とのこと。そう言えば
彼はお父さんの跡を継いで医院を営んでいるの
でした。そこで電話で連絡をとってもらったと
ころ、診療を終えてからご本人が飛んで来られ、
北辰同窓会報
【大学の近況から】
退任教授挨拶
26
ご苦労さまでした。
いっしょに飲み交わし、ご自宅にもおじゃまし
てお母さんや奥さんにもお会いしました。
そういうことがあったものですから、壊滅的
な被害を受けた大槌の様子をテレビで見て、植
田君の安否がとても気遣われたわけです。その
ことを総務部の笠間孝一さんに話したら、「確か
んでの診療でした。精一杯、勉強しました。い
え、したつもりです。1996 年 4 月から 4 年間は、
栃木県大田原市に新設の国際医療福祉大学で教
育と臨床に従事し、本当に有り難いことに 2000
年 4 月、本学に再就職させていただきました。そ
の後、医学教育学の分野で 8 年間、国際交流の分
植田医師のことについては記事になっていまし
たよ」と言って、3 月 15 日中日新聞記事(ネット
版)のコピーを E メールで送ってくださいまし
た。その記事により、植田君は 3 月 12 日に 4 階
野で 3 年間。臨床時代には知らなかった方々と接
し、さらに多くのことを学びました。
時代の流れとはいえ、3 つの分野で仕事ができ
た私は幸運です。「自分のレールは自分で敷く」
建て病院の屋上で家族・スタッフらと共に救出さ
れ、さっそく避難所で診療を開始、という事実
を知った次第です。
深いご縁があって本学に 37 年間も務めさせて
いただきました。この間、陰に日向にお力添え
くださいました皆様方に厚くお礼申し上げます。
と後輩達に豪語した私のために、密かにレール
を敷き保線作業をしてくださった多くの方々に、
心から感謝申し上げます。若い私が大学卒業時
に明言した“Life is study.”を、これからの人生
最終段階でも忘れないようにしたいと思います。
皆様、本当にありがとうございました。これ
からもどうぞよろしくお願い申し上げます。
一般教育機構
相野田 紀子
人間科学科目(言語学)
1974 年春爛漫の日、国道 8 号線から急な坂を
上って、一気に展開した眩い臨床研究棟と病院
棟が今でも瞼に焼き付いています。「この中で私
はプロになるのだ」と、28 歳の自分に誓いました。
大学 4 年の音韻学授業で教授が言った言葉−言
語障害の人が日本にたくさんいますが、治して
あげる人が非常に少ないそうです−が、私の人
生を決めました。金沢大学医学部大学院聴講生
として耳鼻咽喉科学教室で修業 6 年間、そして本
学耳鼻咽喉科学教室(山下公一主任教授)にお世
話になって 22 年間。“NO と言わない音声言語外
来”などと呟きながら、我が道を進んで来ました。
22 年間でお世話させていただいた方々は新生児
から 90 歳代まで 4,111 人。6 割は乳幼児、3 割は
口蓋裂。得意分野は口蓋裂で、形成外科学教室(塚
田貞夫主任教授)と耳鼻科学教室がスクラムを組
第 37 号/ 2011.8
北辰同窓会報
27
金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告
平成 23 年 3 月 11 日(金)午後 2 時 46 分、東北地方三陸沖を震源とするマグニチュード 9.0、最大震度 7 の国
内観測史上最大の巨大地震は同時に巨大な津波を発生させ、東北地方沿岸部を中心に未曾有の被害をもたらし
た。震災による人的被害は 4 か月余り経過した 7 月 18 日現在、死者 15,585 人、行方不明者 5,070 人となった。
火災を含めた建物の被害は全半壊合わせて 234,720 棟に上っている。(警察庁まとめ)
本学病院は、地震直後厚生労働省の派遣要請に基づき直ちに災害派遣医療チーム(DMAT) を招集した。
DMAT チームは 11 日午後 7 時 30 頃被災地に向け出発し、宮城県の国立病院機構仙台医療センターでトリアー
ジ活動に従事し、3 月 14 日(月)に活動を終え帰院した。
本学病院では、その後も被災地支援のための医療救護班の派遣が必要と判断していたが、石川県からの災害
救助法に基づく正式な派遣要請を待って 3 月 29 日(火)に医療救護班第 1 班を被災地石巻市へ派遣した。
医療救護班第 1 班の活動は金沢医科大学報第 146 号で詳しく報告されているが、本北辰同窓会報第 37 号では
その続編として、DMAT チーム、医療救護班第 2 班∼第 5 班の活動を報告する。(編集部)
以下は金沢医科大学の東日本大震災被災地支援の取り組みである。
■ 3 月 11 日(金)∼ 14 日(月) DMAT チーム・災害救急/厚生労働省 DMAT 事務
局要請により宮城県仙台市へ 小倉憲一医師(救命救急科)
岩井 淳医師(救命救急科・H16 卒)
村田好生看護師(集中治療センター)
センター)
甘谷顕一朗看護師(ハートセンター)
宮東剛文薬剤師(薬剤部)
南 英樹調整員(病院企画室/病院管理課)
■ 3 月 31 日(木)∼ 4 月 6 日(水) 石川県こころのケアチーム第 4 班・こころのケア/
北山哲也看護師(ハートセンター)
石川県
(神経科精神科医会)
要請により宮城県石巻市へ
広谷和幸調整員(情報管理課)
医師 1 名(他医療機関から参加)
■ 3 月 17 日(木)∼
釜石市に出向中の高橋昌克講師(呼吸器内科学・地
域医療学・H1 卒)は、金沢で開催される研究会への
参加のため大宮にいて難を逃れたが、被災地で不足
している薬品を補充するため金沢医科大学に向かい、
高齢医学の森本茂人教授の指導で薬をリストアップ
して品目を揃え、3 月 17 日に援助物資(薬品)を持っ
看護師 1 名(他医療機関から参加)
橋本玲子臨床心理士(医療技術部心身回復機能技
術部門)
保健師 2 名(他医療機関から参加)
■ 4 月 4 日(月)∼ 7 日(木)
医療救護班第 2 班・医療救護/石川県健康福祉部
要請により宮城県石巻市へ
て秋田経由で釜石に戻り救援活動にあたった。
眞柴 智医師(救命救急科・H5 卒)
■ 3 月 29 日(火)∼ 4 月 1 日(金) 岡田直樹医師(小児科・H13 卒)
医療救護班第 1 班・医療救護/石川県健康福祉部
要請により宮城県石巻市へ
脊出正紀看護師(集中治療センター)
平内美雪看護師(中央手術部)
佐藤一人医師(高齢医学科・H11 卒)
相川正則薬剤師(薬剤部)
町田雄一郎医師(呼吸器外科・H16 卒)
坂元仁志調整員(研究推進課)
石丸章宏看護師(クリニカル・シミュレーション・
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
■ 4 月 9 日(土)∼ 12 日(火)
28
松田琴美看護師(新館 9FW 病棟看護師長)
医療救護班第 3 班・医療救護/石川県健康福祉部
角 佳亮薬剤師 ( 薬剤部 )
要請により宮城県石巻市へ
中村光宏調整員(情報管理課)
山谷秀喜医師(腎臓内科・H5 卒)
■ 6 月 27 日(月)∼ 30 日(木)
守屋純二医師(総合診療科・H15 卒)
放射線調査業務/文部科学省・日本学術会議を中
田口利恵看護師(集中治療センター)
心とした学会・大学の要請により宮城県・福島県にお
直井千津子看護師(別館 4F 病棟看護師長)
ける放射線調査に参加
高橋喜統薬剤師(薬剤部)
岡山 均調整員(病院管理課)
石垣靖人准教授(総合医学研究所)
■ 7 月 4 日(月)∼ 9 日(土)
■ 4 月 23 日(土)∼ 26 日(火) 医療救護班 第 4 班・医療救護/石川県健康福祉部
宮城県スクールカウンセラー第Ⅱ期・こころのケ
ア/石川県健康福祉部要請により宮城県石巻市へ
要請により宮城県石巻市へ
小野早知子臨床心理士(医療技術部心身機能回復
山川淳一医師(総合診療科・H8 卒)
技術部門)
北田宗弘医師(内分泌・代謝科)
■ 7 月 9 日(土)∼ 15 日(金)
石川県心のケアチーム第 24 版・こころのケア/宮
才田悦子看護師(看護部)
前多一美看護師(新館 5FW 病棟看護師長)
城県教育庁要請により宮城県石巻市へ
山本康彦薬剤師(薬剤部)
新谷由加里看護師(看護部)
中川喜雄調整員(臨床研修センター事務課)
精神保健福祉士 1 名(他医療機関から参加)
■ 6 月 3 日(金)∼ 7 日(火) 医療救護班第 5 班・医療救護/石川県健康福祉部
県職員 1 名
■ 7 月 27 日(水)∼ 30 日(土)
医療救護班第 7 班・医療救護/石川県健康福祉部
要請により宮城県石巻市へ
小西一典医師(内分泌・代謝科)
要請により宮城県石巻市へ
石丸彰宏看護師(看護部)
盛田英樹医師(救命救急科・H11 卒)
政氏藤玄薬剤師(薬剤部)
上野佳子看護師(看護部)
濱大輔調整員(地域医療連携事務課)
中川武史薬剤師(薬剤部)
■ 6 月 21 日(火)∼ 25 日(土)
加藤勝人調整員(人事課)
医療救護班第 6 班・医療救護/石川県健康福祉部
要請により宮城県石巻市へ
(金沢医科大学報による)
青木洋文医師(循環器内科・H18 卒)
被災会員への義援金(お見舞金)について
東日本大震災の発生を受け、被災された同窓生に対しお見舞いの気持ちを届けたいとの声が数多
く事務局に寄せられました。北辰同窓会では全同窓会員に義援金を募り、寄せられた義援金の額は
約 5,000,000 円になりました。
全国支部長会、常任役員会の決定と総会の承認を経て、7 月末に被災した卒業生 10 名 9 世帯と在
学生 3 名に見舞金としてお届けいたしました。
8 月末の募金口座閉鎖後に決算を行い、詳細な会計報告をホームページおよび次号の北辰同窓会
報第 38 号に掲載する予定です。(北辰同窓会事務局)
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
『3.11 大震災』
と
DMAT(ディーマット)
29
れます。私自身は、
すでに阪神・淡路大震災、
新潟中越、
中越沖地震などを経験していましたが、いざ災害現
場に向かうとなると高揚感や緊張感とともに、いつ
も何とも言えない不安感に包まれます。 救急医学准教授
小倉 憲一
最終的に 5 人のメンバー(医師 2 名、看護師 2 名、
事務担当 1 名)が揃い普段ドクターカーとして使用し
ている緊急車両とワゴン車の 2 台で、3 月 11 日 18 時
3・11 未曾有の大震災の発生
すぎに金沢医科大学を出発しました。目的地として
DMAT とは、災害の超急性期(おおむね 48 時間以
は都道府県ごとに発災後に設定された DMAT の参集
内)に医療活動(広域に被災地域から非被災地域への
拠点病院の中から、最も近いと思われた福島県立医
患者搬送など)を行うことを目的として 1995 年の「阪
科大学を選択しました。また、DMAT は発災から 3
神・淡路大震災」の反省などをもとに発足した組織で
日間程度活動することが想定されており、現地では
す。私自身は平成 17 年の日本 DMAT 発足の年に隊
当然の如く自給自足です。もともと備蓄されていた
員となって以来、活動を行なってきました。
非常用の食料品に加えて高速道路にのる直前にコン
平成 23 年 3 月 11 日(金)東京への出張のため大学
ビニエンスストアーでさらに食料を買い込みました。
から自宅に戻っていた私は、何気なくテレビをつけ
我々が本当に今回の災害規模を知ったのは、移動中
ながらその準備をしていました。テレビに突然、地
の車の中、磐越自動車道に入った頃でした。
震発生の警報とともに、漁港の市場周辺が乗用車や
現地入りまで
トラックもろとも津波に巻き込まれていく様子が映
DMAT は「超急性期の機動性を持った医療チーム」
し出されました。何百台という車がまるでミニカー
で、発災後いち早く災害現場に向かうことが求めら
のようで「映画の撮影?」とでも思わせる非現実的な
れます。DMAT がより必要とされている場所に素早
世界がそこには展開されていました。しばらくの間、
く辿りつくために最も重要なことは、道路や現地の
何が起こっているのが理解できずにぼう然としてい
状況などのさまざまな情報をいかに早く集約してい
ました。それと同時に、私の頭の中に約 10 年前の 9・
くかということにつきます。今回の出発に際しては、
11 にアメリカの世界貿易センタービルに航空機が衝
教授を始めとした医局員、我々より先行していた他
突していく映像が突然フラッシュバックされてきま
の DMAT から情報を得ながら現地に向かいました。
した。「何かとんでもないことが起こった」ことを予
その後、高速道路のサービスエリアで出会った北陸
感しました。
3 県の各県警、消防機関などからも情報を得ました。
間 も な く、 厚 生 労 働 省 か ら 自 分 の 携 帯 電 話 に
これまでの災害経験から発災直後、道路情報に最も
「DMAT の待機要請」のメールが飛び込んできまし
精通しているのは警察組織であることを知っていま
た。すぐに、東京に向かうのをとりやめ、教授、医局長、
大学で当直中の医師に連絡をとり、3 日間ほどの着
した。
その後、新潟県内の高速道路内で猛吹雪と出会い、
替えと自宅にあった娘のカロリーメイトをバックに
「今日中に現地に到達できるのかな」などと考えなが
詰め込み大学に向かいました。30 分程で大学に到着
ら、大変混雑した新潟県内の最後のサービスエリア
しました。通常は大学への通勤に約 45 分かかってい
で給油を行いました。現地までは、ここが最後の給
ます。
油所となりました。
金沢医科大学の救急医学の医局では、医局員や秘
ここまでで、仙台市まで緊急車両であれば高速道
書などがすでに DMAT の出発に備え、DMAT のユニ
路でいけること、福島県立医科大学に行くには高速
フォーム、医療物品などの準備を始めていました。
道路を降りた後、国道 4 号線がかなり渋滞している
その後、DMAT のユニフォームに着替え出発の準備
ということなどの道路情報を得ていました。通常の
を整えました。こういう時の医局員の結束力と愛情?
携帯電話は完全につながらなくなっていましたが、
は、災害現場に向かう我々に非常に勇気を与えてく
磐越自動車道に入ってからも道路は途中の段差と陥
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
30
没のみで比較的スムーズに走行が可能でした。前回
がいわゆる『顔の見える』関係にあることは本当に心
の新潟の震災で DMAT が一か所に参集しすぎたこと
強い限りです。このことは災害時にいろんな点で重
から、磐越自動車道を走行中、事前に衛星電話を使
要であることは私が改めて強調することではないか
用して福島県立医科大学と福島県庁の DMAT に連絡
もしれません。しかし、いざという時に備えて事前
をとりました。福島県立医科大学にはすでにある程
の準備、訓練などをしておくことはもちろん重要で
度の DMAT が参集していることを知り、最終的な行
すが、それと同等以上に人と人とのつながり、『顔の
き先を仙台医療センターへと変更しました。携帯電
見える』人間関係を築き上げておくことが大切だと
話がつながらなくなった後は、同 DMAT チーム内の
いうことをこの災害を通じて改めて感じました。こ
2 車両間では無線機で連絡をとりながら現地へ向か
のような情報の伝達が制限された状況下では特にそ
いました。
うである思います。DMAT 間のミーティング終了後
仙台医療センターに到着
には仙台医療センターの病院スタッフとのミーティ
結局、仙台医療センターへはナビゲ−ションを使
ングも持たれました。
用しながら大した渋滞などなく朝 5 時前に到着しま
我々は午前 9 時から近くの仙台駐屯地に応急救護
した。実際には、現地での活動に際してはナビゲ−
所を設置し、各避難所など同地域のすべての患者、
ションのみでは不十分で最新の地図を準備しておく
避難者の受入れ(トリアージ)を行うことになりまし
必要がありました。仙台医療センター周辺は暗闇で、
た。メンバーは DMAT5 チーム、自衛隊の衛生隊、
DMAT の本部がどこにあるのか全く分かりませんで
現地の救急隊などで構成されました。受け入れた患
した。先着していた DMAT に誘導していただきなが
者のうち、赤(重症)や黄(中等症)の患者については
ら暗闇の中、何とか仙台医療センターの DMAT 本部
仙台医療センターへ搬送し、緑(軽症)の患者につい
にたどり着きました。そこで到着報告などをした後、
ては近くの避難所に搬送することになりました。
我々
1 時間ほど車内で仮眠をとりました。
のチームは患者振り分けのリーダーとして働くこと
結果的に 1 日目はほとんど睡眠をとりませんでし
になりました。総勢 1,000 名を超える患者が自衛隊
たが、現地で十分な活動するためには、単に早く現
機などにより仙台駐屯地に搬送されてくる予定でし
地に到達するだけでなく、現地到達後の隊員全体の
たが、情報がうまく伝達されず結局数十名程度の軽
体調にも配慮しておくべきです。DMAT の参集状況
症者のみの受け入れとなりました。2 日目の午後に
や現地への到達までの時間を考慮しての出発や、現
は、この応急救護所は撤収となりました。
地へ入る前に非被災地域である程度休息をとってか
仙台医療センターでの病院支援(写真 2)
ら現地へはいることなども考慮すべきだったかもし
2 日目の午後(夕方)からは仙台医療センターの病
れません。特に今回の災害では、急性期から慢性期
院支援に入りました。DMAT では災害拠点病院で患
に活動を行った医療救護班に引き継ぎを行う DMAT
者の診療にあたることを病院支援と呼んでいます。
も考慮し、最初から時間をずらして現地で活動を始
16 ∼ 24 時までセンター内の緑(軽症)エリアで患者
める DMAT が必要であったかもしれません。今後、
の診察にあたり、1 ∼ 2 時間仮眠をとった後に、翌早
参集に際しては、各地域の DMAT の自己判断にゆだ
朝の 4 ∼ 6 時までは黄色(中等症)エリア、8 ∼ 10 時
ねるのではなく、被災害地域への距離的な問題も考
までは緑エリアで診療にあたりました。診察した患
慮して地域ごとに参集時間を工夫することも DMAT
者は頭部挫創や足の捻挫、低体温の患者、痙攣を起
の組織には必要だと思います。
こした子供、緑内障や脱水の患者などさまざまでし
仙台駐屯地に応急救護所の設置(写真 1)
たが、全体としてはいつも飲んでいる内服薬がなく
3 月 12 日午前 7 時より本部の DMAT を中心にミー
なったことで受診して来る患者が多く見受けられま
ティングが開始されました。救急医学会等でよく顔
した。また、支援病院のカルテ記載を行いましたが、
を合わせるメンバーが多数揃っていました。現地に
当院に持ち帰るための患者診療録も必要だったかも
辿り着くまでの他の組織との情報のやりとりもそう
しれません。
でしたが、いざという時に一緒に活動するメンバー
ここで特筆すべきは、病院の中で働く仙台医療セ
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北辰同窓会報
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写真 1 仙台駐屯地
写真 2 仙台医療センター
ンターのスタッフのことです。彼らはおどろくほど
DMAT の主な治療対象である重症外傷などの患者は
冷静に頑張っていました。東北地方の人柄もあるか
比較的少なかったように思います。また、3 日目に
も知れませんが、彼らは 1 ∼ 2 週間ほど前に地震災
は福島県であふれた DMAT が北上してきて、70 チー
害を想定した訓練を行っていたそうです。「訓練で
ムを超える DMAT で仙台医療センターは溢れていま
やったとおりのことをやっている」と、彼らの家族
したが、我々同様、そのほとんどは活動 3 日目に入
や親戚が被災しているにも関わらず、『粛々と目の前
る DMAT でした。
の自分たちのやるべきことをやりながら』私たちに
話をされていたのがとても印象的でした。
現地では、宮城県内の各地域の情報を携帯電話な
どで得ることは困難であったため、DMAT の隊員が
また、現地へ来てあまりにも大きな災害に対して
直接各地域の拠点となっている病院に行って情報を
「何もできず無力感」を感じている私たちに、本当に
集めることになりました。我々の担当は東京大学の
精神的・肉体的に余裕のない状態に置かれてる彼ら
DMAT とともに、仙台医療センターのさらに北に位
が、私たちに対して「先生たちが来てくれて大変助
置する大崎市民病院になりました。この病院の機能
かっている、感謝している」と言って下さいました。
は自家発電などを用いて比較的保たれていました。
その言葉を聞いた時には、本当に心の奥底から何か
この地域でも患者が大きく CPA 患者(3 名)と軽症患
こみ上げてくるものがありました。
者に 2 極化していて、災害そのものによる傷病者よ
ちなみに 2 日目の夜は医局員の一人が出発直前に
り、すでに慢性疾患の増悪が主要な問題となってい
バッグに詰め込んでくれたカップラーメンのみの食
ました。特に在宅酸素療法をおこなっている患者の
事となりました。夜間の病院内は多くの避難者や患
酸素、透析患者の透析液の不足などが問題となって
者がソファーで横になっていて人で溢れていたため、
いました。この時点では周辺の役所はまだまだ機能
仮眠をとる時は燃料切れを心配しつつ寒さと戦いな
がら車中で過ごしました。
大崎市民病院の視察(写真 3)
2 日目同様、3 日目も天候に恵まれ、現地では雪
や雨などに合うことはありませんでした。3 日目は
仙台医療センターでの病院支援を終えた後、宮城県
全体で現在どんな医療が必要となっているかなどの
情報収集にあたり、今後、現地入りしてくる医療救
護班のための引き継ぎの準備に入ることになりまし
た。これは今回の災害の状況をある意味で象徴して
います。今回の災害では、超急性期には患者が大き
く CPA(心肺停止)患者と緑(軽症)の患者に 2 極化し、
写真 3 大崎市民病院
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
しておらず、推定 30 か所以上の避難所にいる 1 万人
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そこには以前と変わりない日常が待っていました。
以上の避難者については全く把握できていない状態
災害を支援する組織、消防、警察、自衛隊、行政
にあるとのことでした。いずれにしましても、今回
機関、そして医療機関の災害への対応の反応の速さ、
の災害では、比較的早い段階から慢性的な内科疾患
そしてそれぞれの組織間のコミュニケーションは間
が問題となっていたようです。
違いなく災害のたびに進歩してきています。しかし、
仙台市内は比較的、建物の被害は少ないようでし
一方で来るべき災害に備えて、間違いなく『ライフ
たが、信号機などは十分に機能しておらず、道路は
ラインの一つである医療』が災害時によりよく提供
混雑していました。仙台医療センターにもどる途中
されるためには、さらに強化・確立されて行かなけ
で交通外傷患者の診療にあたりましたが、救急車も
ればならない点がまだまだあることを、本災害を通
何時に到着するか分からないような状況で、すべて
じて実感しました。
が混乱していました。仙台医療センターに着き、大
最後に DMAT としての我々の活動の陰には、当教
崎市民病院の状況を本部 DMAT に報告後、さらに現
室の和藤教授を初めとした医局員全員、さらに川上
状を把握するため、仙台市若林区の海岸に向かいま
病院長を初めとした病院関係者の皆様方の多大なる
した。そこには、日本とは思えないような光景が広
ご支援がありましたことを忘れてはなりません。こ
がっており、荒れ果てた大地の中、何もかもが無残
の場をお借りしまして深く感謝させて頂きます。
にめちゃくちゃな状態となっていました(写真 4)。
帰還
現地の DMAT 隊員の数、隊員全員の状況などを考
慮し、同日夜、大学への帰路につきました。現地では、
医薬品、食料品、ガソリンなどすべて、何もかもが
不足している状況でした。その様な状況の中、現地
を後にした我々は、帰路の高速道路で、さまざまな
災害支援車両とすれ違いましたが、そのたびに何と
も言えない気持ちに襲われました。「現場でもう少し
何か出来たのではないか」、
「本当に帰ってきてよかっ
たのだろうか?」といたたまれない気持ちになりま
した。しかし、金沢東インターで高速道路を降りると、
写真 4 若林地区
東日本大震災
金沢医科大学病院医療救護班
第 2 班の活動報告
震災で、被災された方々、お亡くなりになられた方々
にお悔やみ申し上げます。金沢医科大学病院の医療
救護班第 2 班として、4 月 4 日∼ 4 月 7 日まで派遣さ
れ、活動の経過及び自分が感じたことを述べたいと
思います。今回自分たちに与えられたことは、現地
救急医学講師
真柴 智
(平成 5 年卒業)
避難所の巡回診療及び第 1 班が約束した旧水浜保育
所という避難所にマイコップを届けるということが
最低限のミッションでありました。コップは病院管
理課の方で準備頂き、まず自分は、派遣先の現状を
平成 23 年 3 月 11 日、三陸沖を震源とした東日本大
把握することからはじめました。すでに当院から派
震災は北海道、東北、関東、信越地区に未曾有の被
遣された第 1 班が帰って来ていたこともあり、現地
害をもたらしたのは周知のことであります。今回の
での状況の申し送りを頂き、インターネットから情
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北辰同窓会報
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み せ て 頂 き、 産 業 は 牡 蠣 の 養 殖、 硯
の生産を行っている地域であったこと
などをテレビなどから入手することも
行い、派遣に備えました。初日は金沢
医科大学病院から石巻日赤病院に向か
い、自分達の前の班である金沢医療セ
ンターの医師、看護師、薬剤師、事務
の方々からの申し送りを受け、全体的
な医療状況を石巻日赤病院の石井正先
生から伝えて頂き、宿泊所に向かう行
程となりました。翌日は加賀市民病院
と 2 班一緒に現地に入ることとなりま
被災し、全く使用不能となった石巻市立雄勝病院
したが、そこでとても有り難い事が起
報を引き出しまた、派遣日前日の夜にちょうど NHK
こりました。申し送りだけではすべての状況が把握
で石巻日赤病院の状況もこと細かく放映され、ある
出来ませんでしたが、翌日一緒に現地に行く加賀市
程度のイメージを頭の中に入れることができました。
民病院から派遣された医師が金沢医大同窓生の鈴木
そして自分なりに現在医療ニーズはこんなものがあ
智先生であったことでした。おかげさまで、細かい
るだろうとシミュレーションしました。(想定?)但
ことも聞くことができ、状況も一段と把握すること
し、今回の震災で想定外という言葉は流行していま
が出来、気分的に落ち着いた状態を迎えることがで
したが、自分の中では想定はしても想定を越えたと
きました。
また、宿泊所に到着後、
「あっ、金沢医大だ!
きどう対処、対応するかが重要であると考えていま
僕、金沢医大の卒業生だよ!」と言って寄ってくる
す。それは、能登半島地震の時、門前地区、旧門前
方がおられ、愛媛大学で救急医学教授になられた相
町に同じく医療救護班で派遣され、避難所で一晩に
引眞幸先生(S53 年卒)からも声を掛けて頂くことが
40 名を越えるノロウイルス感染者が発生、持参し
あり、自分にとって見知らぬ土地に行き、とても心
た医薬品が底をついた時学んだことでした。想定さ
強く感じることができました。こんな事があると、
れなかった病気が発生したときにどう対処するか?
同窓生は有り難いものだなあと思います。2 日目は
ということを災害医療時に必要であるということを
今回の震災のなかで、前途有望な小学生が沢山死亡、
身体で学んでおり、このことも考えつつフレキシブ
行方不明になった大川小学校のそばを通りました。
ルにいろいろなケースも考えておきました。今回の
そこは川にかかる橋が流され、残った橋の上にはが
担当する地域は石巻市雄勝地区、旧雄勝町で、石川
れきがのり、堤防は決壊し、田畑は水没し、その中で、
県から派遣されている医療機関が代わる代わる現地
自衛隊、消防、警察が行方不明者を捜すという現場
に入り医療を提供している地区であります。現地の
をみて、現地に入り、巡回診療を開始することにな
状況をイメージをする為、第 1 班が撮影した写真を
りました。第 1 班が約束したマイコップを届けるこ
金沢医科大学病院ドクターカーと被災した南三陸町庁舎及び志津川病院
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
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沖縄テレビの取材を鈴木智先生と受ける
火災後の気仙沼市内
ともできました。ちょうどフジテレビ系列の沖縄テ
市立病院の成田先生から簡易血糖測定器が不足して
レビから巡回診療の取材の申し込みがあり、クルー
おり、インスリン自己注射を行っている方々が困っ
を同行し、雄勝地区の災害の医療を宮城県内及び沖
ており、機械を届けて欲しいというものでした。早
縄県に伝えることができました。現地雄勝地区に入
速石巻日赤病院に出向き、対策本部に相談に行った
り感じたことは、テレビやインターネットなどでみ
ところ、以前から災害医療関係でお世話になってい
た画像がそこに存在していましたが、平面でみるも
る山形県立中央病院の森野一真先生に会うことが出
のと、実際現地で立体的に見る光景は感覚的に違う
来、対策本部で指揮をとる石井正先生をご紹介頂き、
ということでした。霞ヶ関に居る大臣などは実際に
簡易血糖測定器を譲って頂き、無事気仙沼市立病院
現地に行って視た方がいいということを感じました。
に届けることが出来ました。成田先生は素早い行動
また、存在していた病院、診療所は津波により全壊
をとても感激し、感謝されておりました。その後気
し、医療過疎も起こってきていた地区に突然襲った
仙沼市内、南三陸町を視察し、当院の方にもどりま
医療崩壊を目の当たりに見てました。3 日目は石川
したが、
三陸沿岸部は津波により被災した状態が延々
県立中央病院の医療班と共に医療活動を行い活動は
と続くものでありました。
終了しました。4 日目、石川県に戻る日でありまし
今回の派遣で、金沢医科大学が開学して約 40 年の
たが、早朝にメールが舞い込み、その内容は気仙沼
月日が流れ、同窓生も増えており、全国的な活動が
出来る力が出来て来ておりま
すが、災害医療では全国規模
の医師のつながりが必要であ
ると実感しました。
自分は大学に残って学生
を育てていく任務も担ってお
り、全国規模で働く事のでき
る卒業生を育てていければと
思います。
医療救護班第 2 班メンバー
北辰同窓会報
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東日本大震災における
金沢医科大学医療救護班
第 3 班の活動報告
腎臓内科学講師
山谷 秀喜
(平成 5 年卒業)
今回の震災では、県内の病院が連携し、医療救護
水浜地区避難所(旧水浜保育所 ) の診療風景
班を送ることとなった。当院からは 3 月 29 日に第 1
班、4 月 4 日に第 2 班が派遣され、私はそれに続く第
翌、4 月 10 日は、宿から車で 2 時間をかけて雄勝
3 班に組み込まれた。班は医師 2 名、看護師 2 名、薬
町に入った。ここ雄勝町は、リアス式海岸の奥まっ
剤師 1 名、調整員 1 名の計 6 名で構成され、先に現地
たところにある港町で、今回の津波で壊滅的な被害
入りしている公立能登総合病院の医療救護班から引
を被った。拠点となるべき医療施設は全滅し、住民
き継いで宮城県石巻市雄勝町の医療支援(患者診療
の健康は、雄勝町保険福祉課の保健師さんが中心と
と避難所のサーベランス)を担う。日程は 3 泊 4 日だ
なって支えていた。我々はその保健師さんの指示を
が、初日と最終日が移動となるため実際に医療支援
仰ぎ 4 月 10 日は針岡地区の自宅避難者の訪問診療、
を行うのは 2 日間となる。
4 月 11 日は水浜地区避難所(旧水浜保育所 ) の診療を
出発は震災から 1 ケ月が経過しようとしている 4
担当した。針岡地区では区長さんが区民の状況をよ
月 9 日で、ドクターカーとミニバンの 2 台に分乗し、
く知っており、旧水浜保育所では詰めている看護師
高速道路を利用して宮城県石巻市に入った。沿岸部
さんが避難者の健康情報を正確に把握していたので、
付近では家屋の残骸が横たわっていたが、このエリ
診療はスムースに進んだ。災害地の医療はすでに急
アの医療支援本部が置かれている石巻赤十字病院は、
性期を過ぎており、慢性疾患、ストレスによる不眠
沿岸部から少し離れた高台にあり直接的な被害を免
や消化器症状、感冒症状が大半を占めた。慣れない
れていた。ここで、明日からの活動準備を整え、宿
環境での作業ではあったが、即席の医療班と思えな
のある松島まで移動し投宿した。
い連携をみせ、皆よく働いた。診療で得た情報は雄
勝町保険福祉課の保健師さん
に報告し、現場で解決できな
い問題に関しては石巻赤十字
病院に持ち帰った。4 月 11 日
の夕方に後任の金沢大学付属
病院の医療救護班に申し送り
をして、4 月 12 日にメンバー
全員が無事、金沢医科大学病
院に戻ることで、我々第 3 班
の活動を終了した。
今回の支援活動を通じて印
象に残ったのは、自らが被災
者でありながら現地で奮闘し
ている保健師や看護師らの姿
金沢医科大学医療救護班第 3 班と雄勝町保険福祉課のスタッフ
であった。また、今回の支援
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
36
活動中に患者さんから「ありがとう」の言葉を何度と
班としての活動は終了したが、金沢医科大学の職員
なく頂いた。その 1 つ 1 つに我々は胸を温かくし、少
の一人として、また一個人として、出来ることを今
しは役に立てたのかなと実感を持てた。我々の救護
後も考えていきたい。
東日本大震災 医療救護班第 4 班 救護活動報告
津波が来たら確実に被害を受けるであろう地区の中
に、衛生的にも極めて危うい場所に住んでいる方が
何世帯も居ること自体が大きな問題だと感じた。
石巻赤十字病院を中心に被災地への派遣依頼を受
けた各県の医療救護班が集まってきていた。大量の
総合診療科
(総合内科学)
講師
山川 淳一
(平成 8 年卒業)
患者を受け入れ、不眠不休の対応に追われている石
巻赤十字病院は、それぞれがそれぞれの立場を踏ま
えて、できるだけの役割を担っていた。病院のスタッ
フが、薬品を持って被災地の病院や救護所をまわっ
石川県の要請を受け、4 月 23 日(土)から 4 月 26 日
ていたと聞く。医療職員の中にも、家族や我が家を
(火)までの 4 日間、金沢医科大学病院医療救護班第
なくしたり、家族の所在がわからなくなったりした
4 班とし、宮城県石巻市に行った。津波の被災地以
人もいる。
外は、コンビニやレストランも通常営業し、ガソリ
我々が担当した雄勝地区をまとめていた雄勝病院
ンはどこでも入れられた。しかし、海側の道路は随
の看護師も、生き残った 6 人のうちの1人だった。
所で寸断され、石巻の市街地周辺は現実とは思えぬ
実際には、想像を絶する広範囲の災害で、物資もボ
瓦礫の山の状態だった。わずかに残った家屋の基礎、
ランティアもいくらでも必要と思われるが、細かい
道路の左右にたかく積まれたヘドロにまみれた家具
ニーズを把握することができず、大量の物資を受け
とその臭い、原形をとどめない自動車の山、道路は
入れるだけで手一杯になっていた(石巻赤十字病院
凹凸の激しい砂利道となっていた。瓦礫の量は尋常
では医療品が山積みになっていた)
。情報の収集と整
ではなく、この中に行方不明者がいるのかもしれな
理に必要な人手が足りていないことを痛感した。ま
いことを考えるとやりきれない思いになった。壊滅
た、被災地域への急性期対応もひとまず落ち着きつ
した町中の一軒家、傾いた建物などいずれも、次回
つあったが、患者搬送もままならない避難所も存在
していた(我々は肝硬変のターミナル患者を転送
した)
。
避難所からは災害医療支援チームが少しずつ
撤退を開始し、現在は地域におけるプライマリ・
ケア構築の時期にきている。しかし、被災地域
の多くは、もともと高齢・医療過疎地域であった
こと、そして市町村行政が被災していることな
どから、その立て直しには多くの困難を伴うこ
とが予想される。今後、我々医療スタッフ以外
にも多くのボランティアが必要になる。津波の
被災地は、all or nothing のところが多く、すべ
て流されてしまった雄勝町のようなところでは、
泥掃除は不要で、がれきの撤去に重機が入るま
診察風景
では何もできそうにない。今回の災害復興には
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
37
通常の救急災害の枠を超えた大きな視点が
必要だと痛感した。我々に何ができるか熟
考する必要がある。
最後になりましたが、今回の地震で被
災された方、そしてその家族の方に、心か
らお見舞い申し上げます。また、少しでも
早い立ち直りが実現できますよう、お祈り
申し上げております。
被災地
東日本大震災
医療救護班第 5 班
活動報告
として唯一被害を免れた石巻赤十字病院が、医療救
護の拠点となっています。朝 9 時に担当地域ブロッ
クで各チームとミーティング後、それぞれの救護所
へ移動して、10 時から 15 時まで診療活動、その後再
び移動して同ブロックでの各診療所の現状や問題点
内分泌・代謝科
(糖尿病・内分泌内科学)講師
小西 一典
を挙げ、最後に赤十字病院に移動して全体ミーティ
ングにかける、という日々でした。我々が担当した
救護所は、市内中学校の保健室であり、その体育館
我々第 5 班が宮城県石巻市に派遣されたのは,震
には、いまだ多くの被災者が避難生活を強いられて
災発生から 3 か月になろうとしていた 2011 年 6 月 3
いました。そこでは、結果的に 1 日の診察患者数は 7
日から 7 日までの 5 日間です。第 5 班は、医師として
∼ 8 人程度であり、この場所での医療救護の需要は、
筆者、薬剤師の政氏藤玄氏、看護師の石丸彰宏氏(彼
確実に減少していました。実際、我々の滞在時には、
は第 1 班に続いて 2 回目の参加です)、調整員の濱大
現地の開業医や薬局の約 8 割が活動を再開し始めた
輔氏の計 4 名の小隊でした。現地では、公的大病院
頃であり、医療救護の規模も徐々に統合・縮小して
診察風景
診察所のある中学校。手前は自衛隊の災害派遣車
【金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告】 北辰同窓会報
いく事が検討されている時期でした。そのた
め、ここは以前 3 か月近く、徳島大学が診療
をしていた場所なのですが、彼らが残していっ
た大量の置き薬は一切使わず(無論、我々が用
意してきた薬剤も)、すべて院外処方としまし
た。これは、市内の薬局を利用する事で地域
の活性を取り戻すため、そして被災者の自立
を促すためであり、それこそが、震災 3 ヶ月
目での我々ができる“支援”だったのです。初
日に赤十字病院から、「求められる以上の医療
をしてはいけない、震災前以上の医療環境に
してはいけない、医療過疎地域は過疎地域の
ままでよい」という趣旨の説明を、まず受けま
石巻市を一望できる日和山公園①
した。これは正直、初めて聞いた時は何とも
いえない違和感を覚えましたが、現地に行っ
て納得しました。よく政治家やメディアは、
「復
旧ではなく復興を」という言葉を使いたがりま
すが、常に緊急・正確・安全性を求められる医
療の現場では、そのような綺麗事を言う余裕
はまだない事を、いまだ震災の爪痕が深く残
る街を見て、肌で感じざるを得ませんでした。
これからの医療支援は、現地の医療機関や施
設への人的・物的支援や、被災者の精神的ケ
ア(特に子供を持つ 30 ∼ 40 歳代の人たちの精
神状態は深刻でした)へシフトしていく事にな
ると思います。
石巻市を一望できる日和山公園②
帰りの車窓から、石巻市から数十キロ離れ
た仙台市内の惨状を見た時、あの石巻のよう
な状況が極めて広範囲に、今もいくつも存在
しているという事実に(何度もニュースで見た
はずなのに)、改めて愕然としました。「1 日も
早い復興を願って」などの言い方は、もう言え
ません。今はまさに“国難の時”なのであり、
国民全てが復興の手伝いをする一員なのです
から。
最終日の診察終了時に、セルフタイマーで撮影
38
北辰同窓会報
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被災地からのたより
東日本大震災:釜石からの報告
金沢医科大学呼吸器内科学・地域医療学講師
釜石のぞみ病院医師・釜石市健康福祉部地域医療担当部長
高橋 昌克
(平成元年卒業)
本学地域連携病院釜石のぞみ病院が被災
金沢医科大学は平成 16 年より、釜石のぞみ病院(釜
石市民病院と岩手県立釜石病院の統廃合により慢性
期疾患・療養型機能を委譲された)にて新たな地域医
療を再構築するために協力をしてきました。再編が
左から小笠原和法先生と関 利満先生
始動して 3 年がたち、経営的に安定して成果が見え
てきていました。
ため大宮におり難を逃れました。被災地で不足して
し か し 平 成 23 年 3 月 11 日 14 時 46 分 18 秒 に 東 北
いる薬品を補充するため金沢に向かい、金沢医科大
地方太平洋沖地震が発生し、釜石市は甚大な被害を
学高齢医学の森本茂人教授の指導で薬のピック・アッ
受けました。釜石のぞみ病院は市内でも海岸に近く、
プを行い、多くの薬品を揃えることができました。
津波で 1 階にあったボイラー、厨房、電気の配電盤
震災から 6 日後に援助物資(薬品)を持って釜石に戻
など、ビルの心臓部が水没しました。
り、釜石のぞみ病院、県立釜石病院他、市内の各ク
濁流に呑まれた病院周辺は、2 日目にしてやっと
リニックへ供給して被災者の診療に大きく役立てる
水が引いた後も、押し流された車や瓦礫で孤立しま
ことができました。釜石の医療関係者は金沢医科大
した(写真参照)。病院が入っていたビル(釜石健康
学の援助に対して心より感謝しております。
福祉センター)内には釜石のぞみ病院の従業員約 100
名、入院患者 152 名、同居している健康福祉部の市
職員 100 名、さらに被災者 600 名が避難しており、
釜石市内には本学卒業生の神林敦彦先生、伊藤樹
弘先生もおられ、連携して助け合っています。
また隣の大槌町は壊滅的な被害を受けましたが、
院内は混乱の極みでありました。この状況下で関 利
植田俊郎先生(S55 年卒)はご自身も被災したにもか
満医師(本学卒業生)、小笠原和法医師が職員を指導
かわらず、避難所で奥さまと 2 人 3 脚で昼夜を問わ
し、全力を尽くす姿は疲れ切った多くの市職員や病
ず患者を診療しておられます。近くに多くの先輩が
院従業員の心の支えになっていました。しかしなが
いることは我々の励みになります。金沢医科大学の
らライフラインが断絶して、病院機能が著しく低下
卒業生の絆の強さに心から感謝しております。
したため、152 名のうち軽症者を除く 130 名余りの
東日本大震災で大きな被害を受けた釜石市における
患者を安全で設備の整った病院に移送することにな
金沢医科大学地域医療学の支援活動
りました。疲労の極限のなか 2 名の医師が中心とな
私は、金沢医科大学呼吸器内科学に所属し地域医
り、4 日間で患者選抜、紹介状作成、自衛隊に移送
療学を併任しており、平成 16 年から釜石市民病院の
を託すまでを行いました。大震災のためとはいえ、
機能別統廃合を行う釜石市のお手伝いのため市民病
自分の患者を他の病院に移さなければならないこと
院の副院長を、また統廃合後は健康福祉部地域医療
は辛いものであったでしょう。関医師、小笠原医師
担当部長と亜急性期・慢性期機能を引き継いだ釜石の
の奮闘には頭が下がります。
ぞみ病院の医師として勤務していました。釜石医療
地震時に私は金沢で開催される研究会への参加の
圏の地域医療の再構築がほぼ軌道に乗りかけていた
【被災地からのたより】
北辰同窓会報
40
時、3 月 11 日に東日本大震災が起きました。
釜石市も市の半分以上が津波に流され、死
亡者数 801 人、行方不明者数 554 人、被災者
数 4,433 人(5 月 1 日 9 時現在)と甚大な被害
を受けました。被災者の多くは 55 ヵ所に分
かれ長期の避難所生活を強いられています。
今、仮設住宅の建設が急務です。しか
し今までの仮設住宅の形態では生活者のコ
ミュニケーションが取りにくく、神戸の震
災後にもありましたが、孤独死や自殺が 2
年後 3 年後に発生する事例があります。被
災者の多くが高齢者である釜石市でも十分
仮設コミュニティータウンの打ち合わせ。中央が野田市長、
その右が辻教授、
左が筆者
起こりうることと思われます。地震、津波
で助かった命が孤独・不安で自死、孤独死していく
療のシステムをつくりたいと考えています。全国の
のは残念なことです。
医療団の派遣や救援部隊が間もなく縮小され、手薄
本学客員教授でもある辻 哲夫先生(東京大学教授、
になった時には釜石の被災者の孤独死・自殺の予防
元厚生労働省事務次官)より東京大学工学部が開発
策として有効な方策と思われます。また、本学の精
したコミュニティータウン計画を実施して、孤独死、
神神経科学、公衆衛生学の助言・協力を切にお願い
自殺をできるだけくい止めることができないだろう
したいと思っています。
かという提案を受けました。私が仲介して建設・医
私の思う地域医療学とは、地域で行う実際の臨床
療関係の責任者と協議し、そのうえで野田武則釜石
だけではなく市民の健康を守るため行政に対して医
市長と辻先生、東大工学部の関係者と打ち合わせを
療政策を提言することも重要なことであると思いま
行い現実化の方向に運びつつあります。多くの被災
す。特にこの大震災では地域医療学の役割は大きい
者を抱える釜石市は、コミュニティータウン計画が
と考えます。
実行されしだい、精神的ケアを中心とした介護・医
震災翌日の釜石のぞみ病院が入っている釜石市健康福祉センターの玄関
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東日本大震災と私
41
点検していた妻が「水が見える。」
と言うのである。
「ま
さか津波なんて」と思いながら隣の農協職員、社会
植田医院 院長
植田 俊郎
(岩手県・昭和 55 年卒業)
福祉協議会職員と共に階段を登った。そして途中自
宅 4 階の窓から見た景色は、白い空間が広がってい
るばかりで何が起きているか分からなかった。しか
し危険を感じ屋上まで達したときに見た周囲の状況
プロローグ
被災後 2 ヶ月を経過した 5 月 11 日午後 2 時 46 分、
は、まさに忽然と海の中に立っている我が医院であっ
た。黒い波が渦を巻き、瓦礫、家が沖へ流れていく
地震発生時刻に合わせ、やっと回復した防災サイレ
光景は悪夢のようであった。そして第 2 波と思われ
ンが鳴った。救護所のある大槌町寺野弓道場の避難
る黒い帯状の波が押し寄せてきた時に母がつぶやい
所で起立し手を合わせ黙祷した。思わず眼が潤んだ。
た。「私達だめかもしてない・・・」。幸いにして津波
平成 23 年 3 月 11 日、地震後に発生した巨大津波
は屋上までには達することはなかった。4 階も無事
は我が町を駆け上るように襲い、市街地のほぼ全域
であったためここで一夜を過ごし、翌日の 3 月 12 日
が瓦礫の町と化した。私が当日午後の診療中に体験
自衛隊のヘリコプターに救出されこの避難所に降り
した地震は、これまでに体験したことがない揺れで
立ったのだった。
あり長く続く揺れであった。町が騒然としている中、
すぐに私の医療活動が始まった。医療行為という
医院近くでおばあちゃんが倒れているという報が
よりは、患者さんの状態に合わせた搬送先を決める
入った。私は連絡してきた女性の車に同乗し、スタッ
のが初動であった。私自身も同日夕方には 2 名の血
フも器材を抱え小走りで現場に駆けつけてくれた。
液透析患者に付き添い、ヘリコプターで青森三沢に
幸い症状は軽く同じ女性の車で避難所への搬送を託
搬送。三沢市立病院を経て、八戸日赤病院に無事収
し、徒歩で医院に戻ることにした。途中避難を躊躇
容することができた。同病院のご好意で当直室に泊
するご近所の老女を、避難する車を止めて乗せたり
めていただき翌 13 日早朝タクシーで大槌に帰ったの
して医院玄関前に帰ってきた。そのとき医院周りを
だが、この時点での大槌の医療体制は県立大槌病院、
①土煙とともに襲来する巨大津波第1波。木造の建物はすべて破壊、流出し瓦礫化した。③の写真は一夜明けての惨状
【被災地からのたより】
北辰同窓会報
42
た。いつの間にか夕闇が迫り風と雪がちらつき始め
た。このため津波被害を免れた 4 階の和室(6畳と8
畳の続き間)に全員で移動した。この階は家族の寝
室、風呂、トイレがある空間で、布団、毛布等の寝
具、また衣類も充分にあった。さらにこの階には山
道具を入れている小さな部屋があり、ガスストーブ、
ガソリンストーブ、コッフェル類、テント、山用の
食糧等があり心強かった。その他ホワイトディのた
めに用意したクッキーやチョコレートもあった。水
が引いた 3 階のダイニングキッチンからはジュース、
②何もかも黒い濁流の中に(屋上から)
ヨーグルト、カップ麺、お餅などを回収できた。残
念ながら水の確保はできなかったが、ひっくり返っ
5 名の開業医、調剤薬局はすべて被災し診療投薬不
た冷蔵庫の中から氷を取り出し、これをやかんにか
能であった。また近隣の医療体制についても全く情
けお湯も作ることができた。水が少ないだけで 2 日
報が入らず、まさに大槌は孤立した状態にあった。
間程度はこの家で過ごすことができると考えた。山
そして私はこの後約 2 ヶ月半にわたる救護所での医
でのビバーグ(緊急露営)を考えれば、これほど贅沢
療活動と避難所生活を送ることになるのである。
な環境はないからだ。和室の窓からは末広町方面の
火災が見えたが我が家まで火が迫ってくるような感
記 録
じはない。私達夫婦は和室前の廊下にソファを移動
○ 3 月 11 日(金)
:被災当日
し毛布をかぶりながら餅を焼いたり、お湯を作った
4 階屋上からの惨状を目の前にし、皆言葉少なげ
りした。私はすでに山登りの装備を身に着けており、
であった。私達家族 3 名、従業員 5 名、農協職員 8 名、
下着から冬山仕様である。皆もダウンジャケット、
社協職員 2 名の計 18 名がこの屋上に取り残されてい
コート、雨具、ウインドブレーカーなど適当に身に
③一夜明けて。①の写真と比較すると被害の大きさがわかる。
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北辰同窓会報
43
着けている。寒くはなさそうだ。何も怖くはない。
「生
ター、必要最小の各種救急薬品と消毒薬、包帯など
きてやる。」と思った。
しかなかった。そして AED が 1 台であった。
この震災の大きな特徴は津波被害の過酷さにあ
○ 3 月 12 日(土)
:救出の日
る。生きているか、死んでいるか、なのである。私
静かな朝を迎えた。この朝の屋上からの光景は忘
自身この避難所で救命処置とか外傷の処置とかをし
れられない。町が消失していた。あたかも湖面に瓦
たわけではない。この避難所では治療できない疾患、
礫が散在しているようである。末広町と上町方面の
生活できないであろう方々を適当な施設に紹介搬送
火災も続いていた。そんな中、瓦礫の中を歩いてい
しただけである。特に妊婦さん、透析患者さんの搬
る自衛隊員を見ることができた。すでに救助の手が
送にはヘリコプターが大活躍であった。この夕方私
到着しているのである。夜が明けるにつれヘリコプ
も透析患者さんに付き添いヘリで三沢へ飛んでいる。
ターが飛び回るようになった。消火活動の大型ヘリ
(前述)
も飛んでいる。9:30 頃から我が家の周囲にもヘリコ
以上 3 月 12 日までの大まかな記録です。八戸から
プターが接近し、消防署、役場周辺でのピックアッ
帰った 3 月 13 日からはメモを付けており後日まとめ
プを含めた救助が始まっていた。10:32 我が家の
る予定ですが少し時間がかかりそうです。すみませ
屋上に航空自衛隊員が降下してきた。農協職員の若
ん。よろしくお願い致します。
者が隊員に声をかけられ救助活動に協力することに
被災後 4 か月の今、皆様に感謝
なった。最初に吊り上げられたのは母であった。
結局 2 機のヘリコプターによって全員無事に寺野
ふれあい運動公園野球場に降り立ち、寺野弓道場避
被災後 4 ヶ月を経過した 7 月 10 日の日曜日、小鯨
山(458 m)に登ってきました。
難所に収容された。各地からの被災者で避難
所はごった返していた。私の手元にあるのは
往診鞄の中の血圧計、聴診器、血液ガスモニ
⑤救出されたヘリの中で
④ヘリでの救出
⑥避難所に救護所を設置
【被災地からのたより】
北辰同窓会報
44
大槌の北に位置するこの山は沢山御殿とも呼
ばれ、私のトレーニングの山でもあります。
自宅から車で 10 分もかからず登山口に達する
ことができます。久しぶりの山でした。5 時 25
分より登り始めました。いつもは一気に頂上ま
で歩くのですが今回は 2 度も休み、2 度も立ち止
まりました。大分下肢の筋力が低下したようで
す。そして途中の尾根から見た大槌の町はまる
で白い砂漠のようです。瓦礫がきれいに撤去さ
れ、鉄筋あるいは鉄骨構造の建物しか残ってい
ません。今後これらの建物も撤去されるわけで
すから、町がただの平地になってしまいます。
⑦大槌町から望む小鯨山
あらためて巨大津波という自然災害の過酷さに
驚愕しました。
さて今回の山登りのように日常が大きく変化
しています。歩みも遅く、あまり効率的とも思
えません。何もかもが違っています。そんな中
私は 5 月いっぱいで寺野弓道場救護所を撤収し、
6 月 1 日より大槌病院仮設上町診療所に勤務しま
した。同院が 6 月 27 日からやはり仮設ですが立
派なプレハブに移り、私も 7 月 1 日より寺野弓
道場そばにささやかなプレハブの仮設診療所を
開設することができました。「開ぐの待ってた
よ。」と言って来院する患者さんをうれしく思い
⑧山から見た大槌の町
ます。
ここまで来たのも皆様の物心からのご支援があっ
しょうか。
たおかげと心より感謝致します。本当にありがとう
そしていつの日か生まれ変わった大槌での再会を
ございました。これから少しずつですが自立に向け
楽しみにしています。最後に皆様のご健康とご健勝
て遅い歩みを加速させ、日常診療を行いたいと思い
を祈念しつつ、ご支援に御礼を申し上げます。
ます。山にたとえるなら未知のルートを辿る歩みで
⑨仮設植田医院
⑩仮設医院での筆者近影
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
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同窓会支部だより
富山県支部
り、金沢医科大学及び氷見市民病院の近況をお話し
いただき、竹越襄教授の金沢医科大学理事長就任で
支部会報告
大いに盛り上がりました。
日時 平成 23 年 4 月 23 日(土)
場所 魚津市「金太郎温泉」
久しぶりに会う仲間や初対面の同窓生も旧知の仲
のように和やかで楽しい時間を過ごしました。
そして、参加者全員が金沢医科大学の卒業生であ
桝崎クリニック 院長
桝崎 繁喜
(魚津市・昭和 55 年卒業)
平成 23 年 4 月 23 日(土)、魚津市にて金沢医科大
る事を誇りに思うという認識で一致し、これからも
大学の名に恥じぬよう、各自が精進していこうと決
意を新たにして総会を無事に終える事が出来ました。
【出席者】
(敬称略)
学北辰同窓会富山県支部総会を開催しました。金沢
高島茂樹、神田亨勉(S53)、斉藤人志(S55)、
医科大学氷見市民病院院長高島茂樹教授を始め、卒
吉田耕司郎(S53)
、藤澤貞志(S54)
、松能久雄(S54)
、
業生 19 名計 20 名が集まりました。
杉下尚康(S55)
、稲尾次郎(S57)
、坂東 毅(S56)
、
当日は、3 期生である斉藤人志教授に「腹部重症感
大西仙泰(S57)
、藤井正則(S57)
、関 隆夫 (S58)、
染症に起因した SIRS 症例に対するエンドトキシン吸
安元定幸(S62)
、大角(川崎)智寿子(S54)
、
着療法(PMX-DHP)の有用性と限界」についてご講
紺田(島田)応子(S54)、小倉(嶋田)秀美(H3)、
演いただきました。噂通りの「炎の講義」で最後まで
山崎清彦(S54)
、平野八洲男(S62)、
気を抜く間もなく感動しました。
平野(北川)真澄(H4)、桝崎繁喜(S55)
懇親会では高島茂樹教授、1 期生神田亨勉教授よ
富山県支部会
北辰同窓会報
【同窓会支部だより】
福井県支部
46
活動もより充実させたいのですが他県の支部と同様
に卒業年度の若い先生の参加がほとんどないことが
支部会報告
一番の問題点です。今後、参加してもらえるよう協
日時 平成 23 年 4 月 24 日(日)
場所 福井商工会議所
議していく予定ですが、その一環として支部長の若
返りをはかることとして、来年度より青山隆彦先生
(S57)に支部長をお願いすることになりました。今
加藤産婦人科 院長
加藤 彰雄
(鯖江市・昭和 53 年卒業)
後共、福井県支部を宜しくお願いします。
【出席者】(敬称略)
伊藤 透(副会長・昭和 57 年卒業)
、稲田章夫(昭和
平成 23 年 4 月 24 日、福井市の福井商工会議所に
53 年卒業)、玉井 顕(昭和 53 年卒業)、栃木一男(昭
て、金沢医科大学福井県同窓会を開催しました。大
和 53 年卒業)、荘司 勧(昭和 54 年卒業)
、鈴木裕至
学より北辰同窓会副会長で内視鏡科教授の伊藤透先
(昭和 54 年卒業)、山本広幸(昭和 54 年卒業)、野尻
生(S57)に参加いただき、「早期消化器癌の内視鏡的
裕之(昭和 54 年卒業)
、佐藤博之(昭和 54 年卒業)
、
診断と治療および金沢医科大学の近況」と題してご
高波千栄美(昭和 54 年卒業)
、木水 潔(昭和 55 年卒
講演をいただきました。特に胃癌に関する内視鏡的
業)
、佐部裕幸(昭和 55 年卒業)、角野忠司(昭和 56
治療を分かりやすくお話ししてもらうと共に最近の
年卒業)
、青山隆彦(昭和 57 年卒業)
、玉村裕保(昭
大学の写真をまじえて近況報告をお聞きしました。
和 57 年卒業)、平泉 泰(昭和 60 年卒業)
、徳田安誠
講演会のあと懇親会となり、伊藤先生も含め、総勢
(昭和 63 年卒業)、野尻健一郎(平成 2 年卒業)、柳沢
21 名で自己紹介等、楽しく旧交を温めました。
来年は、開学 40 周年の記念の年ですが、その間
福井県支部の会員数も約 70 名となりました。支部の
福井県支部会
博史(平成 2 年卒業)、福住 旬(平成 7 年卒業)、加
藤彰雄(昭和 53 年卒業) 以上 21 名
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北辰同窓会報
京滋支部
47
初参加の中澤和智先生(平成 6 年卒)も京大助教を
経て現在は、大阪の専門病院で脳血管内治療科部長
支部会報告
として活躍されております。すぐに打ち解けていた
日時 平成 23 年 5 月 22 日(日)
場所 京都駅ホテル・グランヴィア 割烹「楽粋」
だいて、参加して良かったと喜んでいただきました。
川井清人先生は、お年を取られてもますますお元気
で、毎回楽しみにして来られます。柳澤衛先生のご
中山整形外科クリニック
中山 治樹
(京都市・昭和 55 年卒業)
子息が、京都の病院で研修医になられて、その直属
の部長が飯塚亮二先生で、よろしく頼むと父兄の立
場で後輩にお願いされておりました場面では、思わ
ず微笑んでしまいました。久野成人先生、西本雅彦
5 月 22 日(日)に京都駅のホテル・グランヴィア割
先生は病院経営の難しさで、伊藤雅夫先生、頼住一
烹「楽粋」にて、京滋支部会を開催いたしました。京
先生、金光啓祐先生、松本清子先生、上田通章先生、
滋支部は、総計 121 名で京都は 87 名、滋賀県は 34 名
上羽毅先生と私は、開業医の苦労話や最近の情報交
の同窓生がおられます。それぞれが、勤務医では要
換で盛り上がりました。お互い内灘で過ごした者ば
職に就いておられ、その他は開業医として活躍され
かりですので、卒業年度に関係なくすぐに親しくな
ております。参加者は、計 16 名で滋賀県より伊藤雅
れるのは同窓の強みだと改めて認識いたします。私
夫先生、
頼住一先生の 2 名も参加していただきました。
の息子も初参加ですが、今後も若い同窓生が参加し
参加者が、来店する度に「よぉ∼、久しぶり!」と
すぐに打ち解けて和やかな雰囲気で盛り上がりつつ、
ていただくことを強く希望しております。
私の近況報告はインターネットで伏見医師会の会
1 期生の渡邊一幹先生の乾杯の音頭ですぐに賑やかな
長挨拶をご覧ください。懐かしい顔を見て笑って下
同窓会が始まりました。最初は、自己紹介および近
さい。
況報告で、その後はお酒が入ってくるとお決まりの
最後になりましたが、いつも応援していただいて
内灘の青春時代へとさかのぼります。渡邊先生、伊
おります北辰同窓会事務局に、お礼を申し上げます。
藤先生、柳澤先生や私は、鳥小屋の話で盛り上がり
ます。これを知っているのは年を取った証拠ですが。
京滋支部会
写真は、
前列左より 中山雄介、松本清子、
中山治樹、川井清人、
渡邊一幹、柳澤 衛
中段左より 久野成人、金光啓祐、
頼住 一、伊藤雅夫
後列左より 中山
(竹内)
啓子、中澤和智、
西本雅彦、上田通章、
上羽 毅、飯塚亮二
北辰同窓会報
【同窓会支部だより】
兵庫県支部
48
学入試情報を色々と聞きたかったのであるが、アラ
フォー世代の先生方に小学生の塾情報や中学入試情
支部会報告
報を説くこととなってしまった。
日時 平成 23 年 7 月 2 日(土)
場所 神戸市 中華料理店「惣苑」
紹興酒で酔っ払い何をどうまくし立てたのか全く
覚えていないが、うざいオッサンがぎゃーぎゃーう
るさいなーと思われたと思います。美味しい中華料
山田産婦人科 理事長兼院長
山田 聖
( 西宮市・昭和 61 年卒業 )
理に、最近急に大きくなった腹が一段と膨れ上がり、
それでも中華饅頭をほおばり 1 次会はお開きとなっ
た。2 次会には若者たちが集まるスポーツバー的な
お店に場所を移したが、メンバーはやはりいつもの
まだ 7 月になったばかりだというのに、蒸し暑い
口うるさいおっさん世代が残り、ワイン片手に好き
猛暑日となった 7 月 2 日(土)の夕刻から神戸市下山
放題、勝手な話に 12 時過ぎまで騒いでお開きとなっ
手通りの中華料理店(惣苑)で恒例の北辰同窓会兵庫
た。今年は開催日程の連絡が遅くなりいつもの年よ
県支部会が開催された。集まったメンバーは幹事の
りも参加者が少なかったとの小林先生の反省の弁に
小林先生ご夫妻(ともに 80 年入学)、真下先生(74 年
より、来年は 5 月 19 日(土)の開催と決まりました。
入学)、増田先生(80 年入学)、松本先生(81 年入学)、
ちなみに私のバースデー前日でもありますのでタン
木南先生 (84 年入学 )、それに私(80 年入学)のいつ
プレ(誕生日プレゼント)もお忘れなく、大勢の同窓
もの 50 歳代のメンバーに加え、今回は 90 年、92 年
生の方がお集まりくださいますよう今から楽しみに
入学の若い先生方が集まってくれた。青木先生ご
お待ち申し上げております。
夫妻(ともに 90 年入学)、山岡先生 (90 年入学 )、杉
島先生 (90 年入学 )、相原先生 (92 年入学 ) は皆アラ
【出席者】(敬称略)
フォー世代だ。隣に座った青木先生に“平成何年の
真下昌己(S55)、山田 聖(S61)
、増田哲也(S63)、
卒業ですか?”と問われ、“いやぁ、昭和 61 年です。”
小林重行(S61)、小林有希(S61)
、松本憲三(S62)、
と苦笑しながら答えたが、すかさず小林(重)先生が
木南正樹(H2)、山岡麻由(H10)
、青木 優(H8)
、
“61 年の 8 月やんな。”と茶々を入れた。私とすれば
青木良子(H8)、杉島 勇(H8)
、相原衣江(H10)
(来年金沢医大を受験するであろう?)娘のために大
兵庫県支部会
北辰同窓会報
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水月会特別講演会
日時 平成 23 年 6 月 4 日(土)
場所 金沢医科大学 4 階会議室
耳鼻咽喉科・頭頸部外科
水月会会長 鈴鹿 有子
水月会主催の特別講演会が 6 月 4 日(土曜日)、大
学 4 階会議室で開催された。毎年恒例の金沢医科大
学女性医師の会「水月会(みなづきかい)」総会に合わ
せて、今年は特別に講師をお招きした。その背景に
は女性医師や女子医学生の増加、看護学生や女性職
員のために、その女子力を活かし大学全体を元気に
する目的があった。水月会は 2 年前から北辰同窓会
の支部会と認定され、大きな支援をいただいている。
これに応えるために、医師のみならず、学生への働
植木理恵先生の講演
きかけも大切にし、より良い大学生活を送れるよう
にと願うとともに、一人でも多くの学生が研修医と
植木理恵先生は心理学者で、現在は慶応大学講師、
して、またその後入局を志してくれるための環境作
心理カウンセラーとして直接診療にもたずさわって
りに役立つものと信じている。
おられる。執筆活動も盛んで著書も多く、テレビで
座席は 90 席を用意していたが、開演 20 分前には
は「ホンマでっか!? TV」のレギュラー出演が好評
立ち見の参加者がでた。水月会会員が 23 名、医学生
で、大人気で多忙にもかかわらず、金沢医科大学の
が 39 名、看護学生が 41 名、女子職員が 12 名で 115
女性のためにと予定を変更してお越しいただいた。
名にのぼった。参加は女子に限定していたが、是非
講演のタイトルは“出会いをドラマに変える、女子
ともと希望する男子学生が 5 名いた。講演に先立っ
力低めのあなたへ”である。
て水月会会長の鈴鹿が現在の日本の医療従事者の中
内容の一部を紹介する。
での女子の割合、女子学生の比率、看護師を含めた
−女子力はソフト・インテリジェンスである−
当大学勤務者の女性の割合などを説明した。講師の
①結論を先送りする力 ②話題をいきなり変える力
③一度は引き下がって、 策を練る力 ④曖昧な状態
でも平気でいられる力 以上 4 つのことが女性はできる。
−たったの 2 分で印象が決まる− 初対面同士の会話では、2 分以上経過すると集中力
が一気に低下する。つまり最初の 2 分で印象が決ま
るうえに、最初の印象はなかなか覆すことが出来な
いので、第一印象でプラスの印象を与えなければな
らない。
−印象はこれできまる−
最強 ! ポ・ポ・ネ・ポの展開 ポ…ポジティブ ネ…
ネガティブを織り交ぜることで効果的。
水月会総会 講演後の質疑応答
論理的であるがわかりやすい説明で、女性の特性
北辰同窓会報
【同窓会支部だより】
50
を説き、仕事にも日常にも使える印象力をアップす
が続いた。植木先生自身も大満足で約 4 時間の金沢
るスキルなどを教わった。講演後には質疑応答があ
医科大学との交流を楽しまれ、最後に水月会のアド
り、懇親会でも植木先生を囲んでの楽しいやりとり
バイザー役をお願いし、またの機会を約束した。 懇親会での記念撮影
「金沢医科大学創立 40 周年記念誌」
まだ 原
稿 募 集 中 です
金沢医科大学は平成 24 年 6 月をもって創立 40 周年を迎えます。すでに四十年史編集委員会も組
織され、「金沢医科大学四十年史」編纂が進められておりますが、これとは別に、同窓生を中心とし
た「金沢医科大学創立 40 周年記念誌」を上記記念日に発行する予定です。この記念誌を発行するに
当たり、北辰同窓会会員の皆様に広くご寄稿をお願いしているところです。記念誌の目次構成は下
記のとおりで、いずれかについて原稿を提供してください。原稿の内容はもちろんこれ以外でも構
いません。奮ってご応募いただきますようお願いいたします。原稿はなるべく早くお届けください。
【創立 40 周年記念誌目次構成】
第 1 章「北辰同窓会報から歴史を読む」
第 4 章「北辰同窓会 支部だより」
第 2 章「わがクラス」
第 5 章「同窓会員からの寄稿」
第 3 章「わがクラブ」
第 6 章「名誉教授からの寄稿」
なお、北辰同窓会報も毎号、ご寄稿をお待ちしております。(40 年誌編集委員会・北辰同窓会事務局)
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最近のテレビ放送から
近年我が金沢医科大学の教員や卒業生が各地で活躍し、また様々なメディアにとりあげられることが多く
なってきました。皆さんもご覧になったかと思いますが、最近放送されたテレビ番組の出演者に編集部から話
題として本会報に執筆をお願いしました。
■ NHK ためしてガッテン ∼その目薬では治らない 疲れ目乾き充血に
涙目すべて一発解決! SP ∼
(4 月 6 日放送)
紫外線で眼にシミ?
眼科学教授
佐々木 洋
皆さんは紫外線の浴び過ぎが眼の老化を著しく早
めるということを知っていますか?紫外線が日焼け、
シミやしわ、皮膚癌の原因になることは今や常識で
すが、紫外線の眼への影響については知らない方も
多いのではないでしょうか。紫外線の長期慢性被曝
は「瞼裂斑(けんれつはん)」、「翼状片(よくじょうへ
ん)」、「白内障」などの眼疾患のリスクになることが
わかっています。今回、NHK「ためしてガッテン」
の取材を受け、「瞼裂斑」について紹介しました。
「白内障」や「翼状片」は放置すると失明することも
あるため比較的認知度が高いですが、今回取材を受
けた「瞼裂斑」は聞きなれない疾患だと思います。角
膜(くろめ)の両側の結膜(しろめ)にできる灰白色∼
黄色のやや隆起した病変で、肉眼でも確認すること
ができます。審美的にも大変悪く、瞼裂斑がある眼
は「輝きのない老化した眼」に見えます(写真 1)。充
写真 1
(下)肉眼で確認できる病変
血、ドライアイ、眼精疲労の原因にもなり、隆起が
強いと翼状片に移行することもあります。戸外活動
んが応援に来てくれました。朝 8 時に集合し、ホー
時間が長い人には大きな瞼裂斑があり、瞼裂斑のあ
ル内に怪しい暗幕で覆われたテント(暗室)を設置、
る人は白内障発症のリスクも高いことがわかってい
市場の関係者やお客さんをテントに連れて来て特殊
ます。
カメラで瞼裂斑を撮影し、自分の白目のシミを見せ
取材は 2 月 19 日(土)に近江町市場の交流ホールで
て驚いていただく、というものでした(写真 2(近江
行われ、大学からは眼科の初坂助教と広報の木下さ
町市場内の写真)
、
3(検査中の写真))。NHK のスタッ
北辰同窓会報
【最近のテレビ放送から】
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フはさすがに手慣れたもので、あっという間に簡易
暗室となるテントを設置してくれました。ためして
ガッテンの旗を持ったスタッフが近江町市場の看板
娘や買い物客を次々にゲットして、我々が待機して
いる暗室に連れて来てくれました。ほとんどの人は
自分の眼に瞼裂斑があることを知らなかったようで、
瞼裂斑がモニターに大写しになると予定通りに大変
驚いてくれました(笑)。23 名を検査し、18 時過ぎ
に無事終了しました。メディアの力は絶大で、後日、
写真 2 近江町市場内での取材
外来には番組を見て、北陸三県だけでなく福島県か
らおこしになった患者様もいました。
研究費補助金で、内灘町と台湾の小中高校生の瞼裂
亜熱帯・熱帯地域の発展途上国では白内障や翼状
斑についての疫学調査を行っています。特殊カメラ
片により、いまだに多くの人が視力を失っています。
で初期の瞼裂斑を検出すると、中学生でも多くの学
小児期からの紫外線対策により、これらの疾患の予
生が瞼裂斑を発症していること、眼鏡使用者では瞼
防・進行遅延は可能です。当教室では厚生労働科学
裂斑のリスクが約 1/3 になること、野球部の学生は
極めて有所見率が高いこと、など多くの新知見が明
らかになっています。今後も研究を継続し、小児期
からの紫外線対策の重要性について啓発していくの
が金沢医大のミッションだと思っています。皆さん
日ごろから眼の紫外線対策を実行し、
いつまでも若々
しい眼を保ってください。眼の紫外線対策について
詳しく知りたい方は、私が監修しているサイト「瞳
の 美 白 」http://www.hitominobihaku.jp/main.html を
是非ご覧ください。
写真 3 検査中の映像
■日本テレビ 世界一受けたい授業
∼血流美人の作り方 美の秘訣は血の流れにあった!∼
(4 月 23 日放送)
21 世紀集学的医療センター・
女性総合医療センター
赤澤 純代(久藤)
(平成 4 年卒業)
金沢医科大学平成 4 年卒の赤澤純代と申します。
このたび、会報編集部より日本テレビの「世界一受
けたい授業」に出演してというお題で原稿依頼をい
ただきました。
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北辰同窓会報
53
じで死なないけれども医療の現場では
厄介なものでした。ときに共感疲労な
んぞも起こしてしまうこともありまし
たが(笑)
。
女性ホルモンの補充療法においても
2001 年より、様々な検討がなされ no
から yes に歴史が変わりましたし、更
年期障害という言葉の意味も産婦人科
学会より更年期障害≠不定愁訴という
ふうに変わりました。2008 年になり少
し混乱の時期から抜け出た感じがござ
TV 映像から
います。
8年間女性の不定愁訴と向き合って
2 年間の研修を金沢医科大学で終了した後、東京
試行錯誤して、患者さんの病態を観察し解決方法を
大学旧第三内科で研究のため8年ほど東京で仕事を
探し苦悩した経験から書いた書籍、「血流美人」を出
し、結婚、妊娠出産× 3 にて実家に戻り、金沢医科
したことにより、日本テレビの依頼を受け、2 度の
大学勤務となりました。
審査を受けてスタジオへ来てくださいということに
当時の循環器内科教授竹越先生(現理事長)より、
なりました。そもそも、テレビ番組「世界一受けた
総合診療科で女性外来を立ち上げなさいというミッ
い授業」出演のきっかけを作った本を出すことも最
ションをいただきました。現在に至るまでのその間、
初ためらっていました。当時の山下理事長先生に社
取り巻く環境の変化や波乱万丈の出来事がありまし
会勉強ですと背中を押され、私自身が研究に未練が
た。小田島理事長、山本学長の時代に、金沢医科大
とても残っていたのですが…、出版社の方が家に来
学に21世紀集学的医療センターという“診療科の
られほぼ軟禁状態…一緒に編集をしてくれた川上隆
壁を取り除いて患者さん中心の医療を提供する”と
子さん(同じ年)の一言「解明できていない疾患のメ
いう、当時の大学病院においては斬新な部署ができ、
カニズムや研究をしてむずかしいことを学会でマニ
いつの間にか異動になっていました・・・所属するこ
アックに話すことも大切だけど、多くの人には伝わ
とになったのは、松井忍先生がセンター長の生活習
らないわ。かみ砕いてわかりやすくシンプルに、そ
慣病センターでした。当時流行語になったメタボリッ
して多くの若い人へ大事な情報を伝えることにもそ
クシンドロームなどを担当する一角で、女性外来を
れ自体、意味がある仕事なんですよ…泣き出さない
担当しておりました。いえいえ、斬新で昔は、痩せ
でよ、先生。」と叱咤激励されました。また、最近年
た人ががんになるという風でしたが、今では肥満、
齢と環境に逆らえず母親にそっくりになり、女の賞
脂肪細胞由来のアディポサイトカインなどなどでふ
味期限もそろそろですよ、と同級生にも背中を押さ
くよかな人ほどがんになりやすいという概念が広が
れ挑戦することにしました。
りつつあります。
私には初のバラエティー番組のお仕事です。そう
これまでは、母子保健(ビキニ医療)が日本の女性
そうたるメンバーで、校長先生は堺正章さん、クリー
医療でありましたが、人口の半分は女性であり、当
ムシチューの上田さん有田さん、久本雅美さん、栗
時男女参画基本方針の中に女性の生涯を通じた医療
山千秋さん、タッキー、次長課長さん、山崎さん、バー
が必要であるということで性差医療を推進するとい
ビーさん、東尾さんというメンバーでした。
う言葉が入り、日本に一気に女性外来ができていき
毎日台本が変わり、テレビのお仕事の大変さを知
ました。新しいものを生み出すということは必ず混
りました。初めて学会会場でプレゼンテーションを
乱もついてくることですし、女性の健康、特に更年
して質疑応答を受けた時のように緊張しました。ド
期障害においては、更年期障害=不定愁訴という感
キドキした分、アンチエイジングだと思うことにし
北辰同窓会報
【最近のテレビ放送から】
54
ました。皆さんの一瞬、一瞬のコメントが大切で、
観も新たになり、日々過ごすこと、今日会えたこと、
ブラウン管を通して見ている番組とは違いとても大
この瞬間に感謝し、一生懸命の中に「一笑懸命」生き
変なお仕事でした。雪の季節 2 月 5 日の撮影で前日
ていきたいと思います。すてきなご縁と経験をあり
から拘束、収録には午後 3 時から夜 11 時までかかり
がとうございました。
ました。頑張って授業を 1 時間 15 分しましたが、編
集で面白いところばかり使用されちゃいました…人
生こんなもんですね。一つのものを見てもとらえる
視点が違うことを実感し、とても良い勉強になりま
した。また、貴重な経験をするチャンスを作ってく
ださった方々にお礼申し上げます。
3 月 11 日に未曽有の東日本大震災が起こり、どう
なることかな?と思っていましたが、4 月 23 日に無
事放送されました。見られた方もいらっしゃるかも
しれませんね。地震が起きた時、南相馬市にいらっ
しゃった親友の今村ご夫妻の地震、津波、放射能な
どのお話をお聞きし心が痛みました。震災後、人生
TV 映像から
■ NHK・BS プレミアム 知られざる在外秘宝 3 徹底分析・写楽全作品
∼浮世絵版画全 145 枚が語る謎の絵師∼
NHK・BS「写楽」企画・出演と
金沢医科大学新アナトミーセンター
「腑分」模写のエピソード
解剖学Ⅱ教授
篠原 治道
「写楽」の番組に出演
(5 月 11 日放送)
よね。実は…」と、
「仕事」
のあらましを喋りはじめた。
細部はともかく、
(1)写楽の第 1 ∼ 4 期、全 146 点の
浮世絵を網羅するような話題がないか? ( 2)
(篠
原)先生にお願いする以上、解剖学的なデーターに
もとづいたものにしたい。
(3)年明け早々に一度お
会いするとして、プランがあれば随時伝えて欲しい。
といったお申し出だったと記憶しています。
その後、何回かのメールのやりとりがあって、役
NHK エディケーショナルのプロデューサ A さん
者絵のプロポーション、特に顔の定形性、歌舞伎に
の連絡はいつも突然で素早い判断と対応を迫ります。
おける見得とコントラポスト(=動的な身体の均衡
こんどの件もそうでした。平成 22 年 12 月 17 日、午
法)などのキーワードを軸とした番組作りの概要を
後 3 時過ぎの電話でした。
検討いたしました。NHK の場合、初手から「出演し
「随分ご無沙汰してます。その後、お元気でした
ませんか?」という切り出し方は、私の場合、経験
か?ああ、そうですか、ウチの N と仕事された? がありません。「こんな芸術家のこの絵について何
それは存じませんでした。N さんは確か運慶がテー
かお考えはおありですか?」といった口調でこちら
マでしたよね。ええ、あれはなかなか評判よかった。
の知識や論評の新鮮さといった<持ち味>を探る柔
それなら今度のことも和の芸術ですから大丈夫です
らかいやりとりをします。面接試験ならぬ、電話に
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北辰同窓会報
55
被検者になっていただき、
その計測結果をもとに眼裂
長、 耳 長、 手 長、 顔 面 長、
身長などの関係を示す回帰
直線を求めました。次に浮
世絵中の眼裂長、耳長、手
長を数式に入れ込み、顔面
長を算出して、そこから推
定身長を求め、それが人類
学的計測で確定されている
江戸時代日本人の平均的身
長 145~150cm と大きくは乖
離していないことを確認い
たしました。そうして初め
て浮世絵中の身長、顔面長、
手長の間のプロポーション
写真 1 NHK スタジオでの収録風景
を論じることができるよう
になりました。5 月 11 日夜
よる口答試問を受けているような感じです。A さん
9 時からオン・エアーされた NHK・BS プレミアム「知
の場合、出演には特に慎重で、明らかに番組の制作
られざる在外秘宝③」全作品解析「写楽」はこうした
協力と出演とは別次元の問題といったポリシーがあ
膨大な計測データを基礎としてできあがりました。
るように思います。録画撮りをどうするか、といっ
番組をご覧になった方々にはお分かりいただける
た番組の具体的な検討段階になって初めて「じゃあ、
かと思いますが、私の美術評論はいわゆる美術評論
ここのところで先生に出ていただいた方がよさそう
家の「そういった感じです」
「∼という印象があり
ですが、いかがですか?」といった流れで出演を検
ます」から一歩踏み込み、感じや印象の根拠を、例
討することになります。結局のところ、プロポーショ
えば数値で示すことで成り立っています。医学界に
ンとコントラポストが最後まで残りました。
は(物的・数値などの)客観証拠にもとづいた医学
プロポーションとコントラポストを軸にした番組
Evidence-Based Medicine(EBM)という言葉がござ
づくり、と簡単に言ったものの、実際には困難をき
いますが、
私の美術評論手法は数値による Evidenced-
わめました。例えば、写楽の代表作の一つ「大谷鬼
Based Critique(EBC)とでも言えるかなと考えてい
次の奴江戸兵衛」の顔と手のプロポーションを論じ
ます。前述の「大谷鬼次の奴江戸兵衛」を例にとりま
るさいに、当初はレオナルド・ダ・ヴィンチ作、ベネ
すと、<手長は頭長にくらべて通常よりも 20 ∼ 30%
チア博物館所蔵の「ウィトルウィウス的人体」を参考
も小さく描かれており、著しく不均衡である。その
にして解剖学的コメントをしようというプランでし
均衡の崩れがこの浮世絵に動的な迫力を与えている
た。しかし、これを写楽の 146 点全ての解析に供す
>というコメントになります。2008 年 5 月 12 日にオ
るには、例えば日本人とイタリア人、1790 年頃の江
ンエアされた「ロダン」が私のテレビ出演第 1 作目で
戸時代人と 1500 年頃のイタリア人との違いをどの程
すけれども、以来、この姿勢は基本的には変わって
度無視して解析できるのか?といった当然の不安が
おりません。今回、はじめて彫刻ではなく、絵画、
出てまいりました。
しかも西洋美術が目指した方向性とは縁が薄い<平
最後にはダ・ヴィンチの引用はあきらめました。
面処理>された版画の世界で人体計測的な EBC を展
解剖学教室から本学第 1・2 学年の学生諸君をはじめ
開いたしました。NHK のような公共放送で、より良
教職員の方々に事情をお話したうえで、身体計測の
い番組作りに貢献し、より多くの方々に美術鑑賞の
【最近のテレビ放送から】
北辰同窓会報
56
楽しみをお伝えできる機会を与えていただいている
とが多いので、学生が安心して課外活動にいそしめ
ことに大きな喜びを感じています(写真 1)。
る日は日曜日以外には少なくなっています。2 月 13
日はそういった状況下の、3 名の美術部員にとって
新アナトミーセンターの「腑分」の原画を訪ねて
は貴重な日曜日でした。大学の時間的かつ経済的な
実は今度のテレビ出演には、番組づくりとは全く
配慮はこのような現状を考慮してのことでございま
別の、私にとって大切な思い出となったエピソード
す。彼らとは早朝 5 時半ころに病院前で待ち合わせ
が 1 つございます。2011 年 2 月 3 日、番組の細部を
し、私の車で小松空港まで 1 時間あまり走りました。
詰めるために私は東京で A さんにお会いしましたが、
空港で朝食、搭乗し羽田へ、それから電車と徒歩で
それは私の本務ではありませんでした。この日の本
山種美術館まで参りました。彼らにとってはもちろ
務は大学の仕事で、3 名の金沢医科大学美術部員(秋
ん、私にとっても大学内や教室ではありえない、楽
田大輔部長と上田麻衣さんと清水一秀君、写真 2)と
しく意義深い交流の場となったことは当然の成り行
ともに東京・恵比寿の山種美術館を訪れることでし
きで、片道 5 時間はあっという間でした。山種美術
た。3 月に竣工予定の金沢医科大学新アナトミーセ
館では暫く一緒に「腑分」をはじめとした絵画を鑑賞
ンターでは、山下公一理事長(当時)のご提案により、
致しましたが、あとは自由行動とし、帰りは羽田の
入口と解剖実習室前ラウンジに美術部員の手による
搭乗口で合流致しました。
模写を飾る計画でした。特に 3 階のラウンジには前
春近しとはいえ 2 月の半ばは陽の落ちるのが早く、
田青邨作「腑分」の模写を懸けることになっておりま
大学へ到着したときには既に夕闇が降りはじめてお
した。おりしも、山種美術館では所蔵している「腑分」
りました。早朝からのエクスカーションに疲れたの
の特別展示をしており、本物を観察してから描くほ
でしょう、うとうと眠り始めた、晩冬の夕陽が照ら
うが好ましいということになって、私が美術部員を
す学生諸君の顔を時おりルームミラーで眺めながら
引率していくことになったのです。この美術館訪問
の帰途の運転は、彼らのオヤジにでもなったような
は学生を伴う公務出張でもあり、中農理博常務理事
至福の時間でございました。
には美術館側との連絡など、きめ細かな便宜をはかっ
ていただきました。
今回の番組出演にさいしては、いつものように多
数の本学学生、教職員の方々に身体計測の被験者と
話は少し変わりますが、昨今の金沢医科大学では
して協力していただきました。私の評論はもとより
臓器別ユニットと呼ぶ、臓器別の講義が月曜日から
金沢医科大学の皆様のそういったご協力なしには成
金曜日まであり、土曜日はその試験に充てられるこ
り立ちません。この紙面をお借りして改めてお礼を
申し上げます。また、わずか 1 日ではあり
ましたが、この大学へ赴任して初めて学生
諸君とともに旅行をし、様々な話をいたし
ました。心暖まる小旅行の結果として、と
ても上質の絵ができあがり、しかもそれが
私の仕事場である新アナトミーセンターに
懸かっています(写真 3)
。教員冥利に尽き
る、と言っても過言ではございません。重
ねて大学からの様々なご配慮に感謝する次
第です。
最後になりましたが、そうして完成いた
しました新アナトミーセンターと美術部員
たちが描いた模写を、ぜひ北辰同窓会の皆
様にも一度ご覧頂きたいと存じます。同セ
写真 2 3 名の金沢医科大学美術部員
ンター 2 階には解剖展示室もございます。
北辰同窓会報
第 37 号/ 2011.8
57
大学近くへおいでのさいには気軽に私どもにご一報
3180 井高、芹川技能員もしくは内線 3821 篠原まで
下さい(アナトミーセンターはオートロックになっ
ご連絡いただければ開館・ご案内いたします)。
ています。お越しのさいに TEL 076-286-2211 内線
写真 3 新アナトミーセンターに飾られた「腑分」
(模写)
■ NH スペシャル あなたの寿命は延ばせる
∼発見!長寿遺伝子∼
(6 月 12 日放送)
ヒトでカロリー制限によって
健康寿命を伸ばせるのか ?
内分泌代謝内科学教授
古家 大祐
2000 年の論文にて抗老化遺伝子サーチュインが酵
母、線虫の寿命を伸ばすことを読んで、興味を抱い
たのが、私のサーチュイン研究の始まりです。
当時、糖尿病血管合併症の成因として偽虚血が注
TV 映像から
目されていました。その内容は、糖代謝異常によっ
て細胞内の NAD+/NADH 比が低下することです。そ
ンティ教授に連絡して、実験に必要なサーチュイン
の時期にまさしく、NAD+ 依存性に活性化される脱
関連の遺伝子を含むプラスミドを快く送って頂きま
アセチル化酵素としてサーチュインがあることを知
した。その後、当時の大学院生 久米真司先生 ( 現在、
りました。早速、マサチューセッツ工科大学グアレ
滋賀医科大学 内科 特任助教 ) が興味を持って行なっ
【最近のテレビ放送から】
北辰同窓会報
58
た実験は、最初は培養細胞でした。
それから約 10 年過ぎて NHK からの依頼もあり、
ヒトでもカロリー制限によってサーチュインが活性
化するのか ? その結果、老化に関わる酸化ストレス、
炎症が抑制できるのかを検証するに至りました。内
灘町の健康福祉課のご協力によって、町内の特定検
診を受けられたボランティアの方をご紹介頂き 2 名
の方に同意頂きました。その他 3 名を加え、計 5 名
の参加者の方々に 25%カロリー制限を 7 週間行って
頂きました。日々の食事に関しては、当病院栄養部
TV 映像から
の山本千勢管理栄養士が 5 名の栄養指導を緻密に行
なってくれました。また、当病院生活習慣病センター
田村暢煕先生、広報課にご協力頂き、今回の NHK
スペシャルにおいて放映となったわけです。
現状では、ヒトにおいてもサーチュインはあるが
普段は隠れていて、カロリー制限によってサーチュ
120
%
運動能力(年齢比)
100
インが活性化すること、その結果、筋肉のミトコン
ドリア増加と運動能力の亢進(図)、炎症の抑制に関
80
わっている可能性が見い出せました。今後は、いく
つの年齢から、どれ位の制限が最も効果を発揮する
60
のか、さらに長期に亘るヒト臨床研究を行なってい
11/30
12/21
1/18
く所存です。最後になりましたがご協力頂きました
皆様に深謝申し上げます。
「北辰同窓会報」原
稿募集
金沢医科大学北辰同窓会では、年 2 回発行の会報の原稿を募集しております。
広く会員の皆様にご寄稿をお願いし、本会の動向、大学の現況などとともに、会員各位の消息、
随想などを豊富に盛り込み、意義ある情報誌にしたいと考えておりますので是非ご協力下さい。
内容は
①同窓会に関すること
学生時代の思い出(クラス・クラブ活動・恩師・同級生のことなど)
後輩に伝えたいこと、研修時代・留学の思い出など、医療活動・研究活動のこと
②「10 年後」をテーマに
10 年後の自分や大学、同窓会、医療の世界などについて予想や期待、または決意などを気軽に書いてく
ださい。
③その他・ご意見など
家族や健康のこと、趣味・近況・随想・故郷自慢・その他・題材・文字数を問いません。
会員の皆様からの沢山のご寄稿をお待ちしております。 (金沢医科大学北辰同窓会報編集委員会)
第 37 号/ 2011.8
北辰同窓会報
報告
訃 報
心からご冥福をお祈りいたします。
今田 修司先生 平成 5 年卒業 (享年 53 歳) 坂井 潤太先生 (享年 41 歳) 健祥会 とうほうクリニック
氷見市民病院高齢医学科
〒 670-0091
兵庫県姫路市北新在家 2-13-12
〒 920-0026
石川県金沢市西念町 4-18-1
ファーストレーベン金沢駅西 902 号
平成 22 年 8 月 3 日に逝去されました。
平成 22 年 8 月 14 日に逝去されました。
石井 久史先生 昭和 56 年卒業
(享年 55 歳)
熊田 博行先生 昭和 57 年卒業
(享年 53 歳) 医療法人五月会 青山第 3 病院
愛幸会 くまだ内科クリニック 院長
〒 634-0051
奈良県橿原市白橿町 8-14-6
〒 553-0004
大阪府大阪市福島区玉川 4-6- 11
平成 22 年 7 月 8 日に逝去されました。
平成 23 年 2 月 28 日に逝去されました。
結城 泰先生 昭和 58 年卒業
(享年 55 歳) 池田 茂理先生 昭和 62 年卒業
(享年 54 歳) 結城眼科医院 院長
医療法人山容会 山容病院 理事長・院長
〒 947-0003
新潟県小千谷市稗生乙 1026
〒 998-0075
山形県酒田市高砂 2-1-64
平成 23 年 6 月 12 日に逝去されました。
平成 23 年 7 月 9 日に逝去されました。
小野寺 勝紀先生 平成 15 年卒業
(享年 34 歳)
財団法人厚生会 仙台厚生病院循環器科
〒 980-0804
宮城県仙台市青葉区大町 2-10-3-1203
平成 23 年 7 月 30 日に逝去されました。
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北辰同窓会報
【報告】
「会員名簿 2011」作成中です。ご協力を
会の健全な運営や会員相互の連絡支援、患者紹介などにご利用いただくために会員
名簿は必須のものです。個人情報保護法の実施により、情報の扱いに十分注意が必要
ですが、本会では、このことを十分に留意して名簿を作成する予定です。
●住所、勤務先等に変更があった場合は、早急に連絡を
会員名簿に最近の正確な内容をご提示ください。住所、勤務先等に変更があった場
合は、同封の葉書に必要事項ををご記入の上早急に投函してください。
●会員の個人情報の取扱いについて
平成 17 年 4 月より実施された個人情報保護法により本会でも会員の個人情報の取
扱いはより一層の注意を払っております。
会員の個人情報は、会報の送付、総会、支部会の開催案内文書の送付、会費につい
てのご案内、会の運営に関することなどの連絡に使わせていただき、それ以外のも
のには利用しません。その点をご理解の上ご協力下さいますようお願い致します。
同封の葉書には住所、電話、FAX、e-mail アドレス、勤務先名、専門科名を記入して
下さい。名簿に掲載不要の項目は、葉書の指定欄の掲載不要に○印を付けて下さい。
皆様からお寄せいただくこの葉書には、プライバシー保護のため同封のシールを貼
り投函して下さい。
※ 同封のシールは、一度貼付した後にはがすと二度と接着できませんので、ご記入
の内容をお確かめの上、シールをお貼りください。
●会員名簿(会員のみに配布、有料:3,000 円)送付について
会員名簿をお送りしても、実費をお送りいただけない方があります。会の正常な運
営のためにも、ご協力をお願いします。名簿不要の方は葉書の指定欄の名簿不要に
○印を付けて下さい。
「会員名簿 2011」への会員の広告協賛のお願い
会員の現状の紹介や会員が運営される医療法人等を案内する広告を 2007 年版と同
様に巻末に掲載する予定です。ご協賛いただける方は別紙にてお申込みいただきます
ようお願い申し上げます。
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〔表紙写真〕
『北辰』の名の由来
河北潟ひまわり村のひまわり
〔写真提供〕中谷 渉
︵爲政︶
︿子曰﹀
、爲レ政以レ徳、譬如下北辰居ニ其所一、
而衆星共上レ之。
ひまわりと言えば、戦争によって引き裂かれた男と女
の、哀しくも激しい愛と絶望を綴るソフィア・ローレン
の映画「ひまわり」を思い起こす 。
しかし 、 やはり「ひまわり」はヴィンセント・ヴァン・
ゴッホだろう。
「あれらの花の色調である、あの黄金を溶かすのに十分
なだけの情熱をかきたてることは、誰もが出来ることで
はない、人間一人の力と集中力が丸ごとすっかり必要な
のだ」(ゴッホの手紙第 573 信 1889 年 1 月)
ゴッホはひまわりの絵を 13 枚描いた。そのうちの 6 枚
は 1888 年 8 月にアルルで描いている。彼の墓にもひまわ
りが植えられて、訪れる画家達がその種をもらって帰る
という。
発行日 平成 23 年 8 月 25 日
北辰同窓会報 第 37 号
発行者 金沢医科大学北辰同窓会
会長 坂本 滋
〒920-0293 石川県河北郡内灘町大学1-1
TEL:076(286)2211
内線:2720 ∼ 2724
FAX:076(286)8214
E-mail:[email protected]
h t t p : / / w w w. k a n a z aw a - m e d . a c . j p /
~kouyuka/hokushin/
編 集 全沢医科大学北辰同窓会報編集委員会
政治は法律や規則のみに従って行うものではな
く、徳をもってすべきである。そうすれば、不動
の北極星に群星が向かい従うように、人民はその
徳をしたって、その為政者についていくだろう。
論語「為政篇」より
坂本 滋 大島 譲二
斎藤 人志 伊藤 透 堀 有行 正木 康史
赤澤 純代 山下 公一
事務局 金沢医科大学教育研究事業支援課内
お知らせ
金沢医科大学北辰同窓会ホームページをリニューアルしました。
http://www.kanazawa-med.ac.jp/~kouyuka/hokushin/
目 次
金沢医科大学北辰同窓会報◆第 37 号
□巻頭言
金沢医科大学の発展を祈って/金沢医科大学北辰同窓会会長 坂本 滋 …………………… 2
学校法人金沢医科大学理事長就任にあたって/金沢医科大学理事長 竹越 襄 …………… 3
□北辰同窓会会務報告
平成 23 年度 第 1 回全国支部長会 ………………………………………………………………… 4
平成 23 年度 第 2 回全国支部長会 ………………………………………………………………… 6
第 45 回 北辰同窓会常任役員会 …………………………………………………………………… 7
平成 23 年度 金沢医科大学 北辰同窓会評議員会・総会議事録 ……………………………… 8
北辰同窓会賞・北辰同窓会研究助成 …………………………………………………………… 10
□大学の近況から
金沢医科大学第 34 回卒業証書・学位記授与式 ………………………………………………… 11
金沢医科大学第 40 回入学宣誓式 ………………………………………………………………… 12
学校法人金沢医科大学理事長に竹越 襄前副理事長を選任・金沢医科大学病院長に川上重彦教授(形成外科学)を再任 … 13
坂本 滋北辰同窓会会長(昭和 53 年卒)
が理事に就任・新アナトミーセンター開館 ………… 14
平成 23 年度金沢医科大学臨床教授
(学外)委嘱状授与式並びに学外臨床実習に係る懇談会 … 15
新任教授紹介 ……………………………………………………………………………………… 16
退任教授挨拶 ……………………………………………………………………………………… 23
□金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告
金沢医科大学の東日本大震災医療救護活動報告 ……………………………………………… 27
『3.11 大震災』と DMAT(ディーマット) /小倉 憲一 …………………………………… 29
東日本大震災金沢医科大学病院医療救護班第 2 班の活動報告/真柴 智 …………………… 32
東日本大震災における金沢医科大学医療救護班第 3 班の活動報告/山谷 秀喜 …………… 35
東日本大震災医療救護班第 4 班救護活動報告/山川 淳一 …………………………………… 36
東日本大震災医療救護班第 5 班活動報告/小西 一典 ………………………………………… 37
□被災地からのたより
東日本大震災:釜石からの報告/高橋 昌克 ………………………………………………… 39
東日本大震災と私/植田 俊郎 ………………………………………………………………… 41
□同窓会支部だより
富山県支部 ………………………………………………………………………………………… 45
福井県支部 ………………………………………………………………………………………… 46
京滋支部 …………………………………………………………………………………………… 47
兵庫県支部 ………………………………………………………………………………………… 48
水月会特別講演会 ………………………………………………………………………………… 49
□最近のテレビ放送から
紫外線で眼にシミ?/佐々木 洋 ……………………………………………………………… 51
赤澤 純代
(久藤) ………………………………………………………………………………… 52
NHK・BS「写楽」企画・出演と金沢医科大学新アナトミーセンター「腑分」模写のエピソード/篠原 治道 …… 54
ヒトでカロリー制限によって健康寿命を伸ばせるのか ? /古家 大祐 ……………………… 57
□報告
訃 報 ……………………………………………………………………………………………… 59
「会員名簿 2011」作成中です。ご協力を・「会員名簿 2011」への会員の広告協賛のお願い… 60