経済的効率性の概念

223
経済的効率性の概念
越 後 和 典
1
経済学者の通説によれば,経済政策の目的は経済の効率性(efficiency)を高
めることと,公正(equity or fairness)の観念に合致した配分を実現すること
にある。すなわち,効率性と公正が経済政策の追求すべき二大価値理念である
1)
と考えられている。しかし,効率性も公正も,ともにその意味するところは,
学派によって大いに異なり,同一学派内にあっても,論者によってかなりの相
違点が認められるように思う。この小稿では,議論を効率性に限定し,その経
2)
済学的な意味内容を考察することにしたい。
ところで,新オーストリア学派に属するとみられるある研究者は,効率性と
いう言葉が,従来以下のようなケースないし状態を示すものとして使用されて
3)
きたという。①資源がその最:高の用途へ配分されている場合,②効用が極大化
されている場合,③取引からの利益がすべて汲みつくされ,経済的利潤がゼロ
1)熊谷尚夫編r経済政策の目標』日本経済新聞社,玉972年,9−10ページ参照。効率
性と公正が経済政策の二大価値基準であることは,日本経済政策学会でも『,通説と
して承認されてきた。このことを示す文献として,日本経済政策学会年報r効率と
公正の経済政策』動草書房,1980年,所収のプログラム委員会及び塩谷祐一,夏目
隆両教授の論文(7 一25ページ)を参照せよ。
2)効率性と公正との関係についての考察は,カルドア=ヒックス流の「補償原理」に
対する論評をも含めて,厚生経済学の重要問題であるが,ここでは割愛する。興味
のある者は熊谷教授編の前掲書所収熊谷論文,および同教授著r厚生経済学』創文
社,1978年,所収の第皿部「効率と公正」を参照せよ。
3) Cf., Rogar A Arnold, “EMciency vs. Ethics : Which is the Proper Decision
Criterion in Law Cases?” Jonvnal ef Libertarian St”dies vol. 6 No. 1,
Winter 1982.
224 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
となっている状態,④所与の目的に適合した手段が採用されている場合,⑤資
源配分のいかなる変更も,誰かに不利益を与えることな:しには,なしえないよ
うな状態(いわゆるパレート最適)。
この論者が一応の説明をしているように,効率性についての上述の使用例で
は,上記①,③,⑤は,定義的にも同一である。また費用と便益がともに主観
主義的に定義されるならば,①は②,④と同一となり,この場合には,上記5
つの使用例は内容的にはすべて同一のケースないし状態を意味し,たんにその
表現方法が相違するにすぎないということができよう。しかし,費用と便益が
新オーストリア学派のように,厳格に主観主義的に理解されるのでなければ,
後に論及するように,①と④とでは,その理論的内容や政策論的含意が質的に
相違することになると思われる。
そこで,以下では厳格な:主観主義的立場をとらない伝統的な厚生経済学及び
産業組織論にみられる効率性概念をまず最初に検討し,そこにおける①②③⑤
などの形式で表現されるケースの意味内容を簡潔に要約する。その後で,ミー
ゼス(Ludwig von Mises)を中心とする新オーストリア学派の議論を紹介し,
併せて後者の立場からみた現代経済学の効率性概念の孕む問題の性格を明確に
したいと考える。
II
現代経済学における効率性概念は,熊谷尚夫教授によって,最:も明快に解説
4)
されてきたように思う。熊谷教授は,効率性を一方で静態的と動態的に区別し,
他方で技術的効率性と消費者主権の実現とを結びつける。ここで静態的効率性
とは,生産資源の存在量と使用可能な技術を所与とした場合,技術的効率性を
みたし,かつ消費者主権を実現する資源配分がなされている状態を意味すると
規定しうる。
技術的効率性を満足させる状態を図示する工夫としては,サムエルソン
4)最も平明で要をえているのは,熊谷編前掲書所収論文(注1)であり,以下本節で
同教授の見解として述べる議論は,同論文に依拠するものである。
経済的効率性の概念 225
(Paul A, Samuelson)が『経済学』で述べている生産可能性フロンティア
5)
(pr・duction−possibility fr・ntier)を援用できる。この線上で生産活動が行われ
ている状態は,当該経済が技術的効率性を満足させていると考えてよい。
しかし,技術的効率性を満足させることは,直ちに消費者主権を実現するこ
とではない。後者は消費者たる国民の欲望状態に適合した資源配分を要求する。
そこで,国民の欲望状態を表現する工夫が必要となるが,これは通常社会的無
差別曲線群によって示すことができるとされている。
かくて,技術的効率性と消費者主権とを同時に実現する状態とは,生産可能
性フロンティアと社会的無差別曲線の接点として表現されることになる。この
点が上述①の最適資源配分,⑤のパレート最適が実現されている状態を示すも
のであり,そこでは②及び③の意味での効率性も当然実現されているものと考
えられるのである。
他方,動態的効率性とは,熊谷教授によれば,資本蓄積と技術進歩によって
生産可能性フロンティアが拡大的にシフトすることであり,その拡大シフトの
速度が大きい経済を動態的効率性がすぐれていると表現する。いうまでもなく,
生産可能性フロンティアの拡大シフトによって,より望ましい社会的無差別曲
線と接することが可能となり,社会的な資源配分は改善されることになる,と
されるのである。
効率性については,その抽象的な意味内容の問題以外に,これをどのような
指標で測定するのか,さらにこれを具体的に実現するための政策いかん,とい
った問題が存在する。測定指標について,熊谷教授は一国の静態的効率性が,
その国のたとえば就業者一人当りの生産性の絶対水準によって,また動態的効
率性が,この生産性の年々の平均的な上昇率によって,それぞれ表示可能であ
るとされる。もちろん,同教授も指摘されるように,これは一つの目安にすぎ
ないことも注意されてよい。
5)サムエルソン著,都留重人訳r経済学』上巻,岩波書店,1981年,22−23ページ参
照。なお,生産可能性フロンティアと,周知のボックス・ダイアグラムによる2財
の等産出量曲線の接点をつらねる軌跡(効率性軌跡)との関係については,たとえ
ぽ熊谷前掲書(1978年)76−79ページ,148−152ページを参照せよ。
226 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
効率性実現の条件ないし政策についていえぽ,静態的効率性を保証するのは,
厚生経済学の教えるごとく,市場の普遍性(universality of market)と,完全
6)
競争(perfect competiti・n)の条件をみたす競争的市場機構の存在である。しか
し,動態的効率性を保証する条件は必ずしも明確ではない。それはおそらく,
資本蓄積と技術進歩を生み出す要因が複雑であって,それらを特定することが
困難だからであろう。宗教や教育を含む社会的環境や人びとの価値観等,企業
家精神の発揮や新機軸導入に直接・間接に影響を及ぼす諸要因を考慮する必要
もあろう。ただし,こうした経済外的要因をあえて問わず,おおまかに従来か
らの研究成果を総括するならば,後述の実効競争論(theory of workable com−
petiti・おの教えるごとく,競争的市場機構の存在は,たんに静態的効率性を保
証するのみでなく,動態的効率性にとってもまた有意義である,と考えられて
いるごとくである。問題は競争的市場機構の「競争性」をどのように理解すべ
8)
きかであるが,この点は拙著で詳論しているので,ここでの考察を割愛する。
静態的効率性に関していえば,政策論的には市場の普遍性にかかわる条件を
満足させることが必要であり,それには公害や公共財等の外部性(externality)
にかかわる問題を中心とする市場の失敗(market failure)への対処が要求され
る。また,完全競争は現実には不可能であるが,できるかぎり完全競争の条件
に近い市場構造の実現が望ましく,独占的要素の排除に有効な独占禁止政策や,
将来の経済的部門の需給状態についての情報を,経済計画の形で提供する指示
的経済計画(indicative ec・n・mic planning)等が,市場機構の欠陥を補完する
経済政策として位置づけられることになる。所得分配の公正化という目標を別
とすれば,総じて主流派の経済政策論は,市場の失敗を修正・補完し,競争的
市場機構を実現するための条件を整備するという形で,体系化されているよう
に思う。
6)拙著r競争と独占』ミネルヴァ書房,1985年,序説および第1章参照。
7)workable competitionは有効競争という日本語に翻訳されることもある。望まし
く(desirable),かっ実行可能な(feasible)競争という意味で,その内容は後述
する。
8)前掲拙著第1章参照。
経済的効率性の概念 227
亙II
厚生経済学がその静態的効率性論議において仮定する完全競争は,いかにも
現実離れしているし,競争の特性とも相容れない。そこでこの完全競争の非現
実性を克服し,しかもそれが提示する効率性をかなりの程度に満足させうる現
実的な競争概念を求める研究が生まれ,その過程で形成されたのが実効競争論
である。そしてそれを現実の産業経済におけるデータによって検証し,実効競
争の政策的基準を明確にすることを目的とするのが産業組織論(theory and
pract童ce of industrial organization)である,といってよい。
本稿は実効競争論や産業組織論の解説を目的とするものではないので,その
9)
考察は別の拙著にゆずり,ここではペイン(J・e.S. Bain)型の主流派産業組織
10)
論が効率性をどのように認識しているか,Fという点に論及するにとどめておく。
ペインの産業組織論では,実効競争は一方では市場構造と市場行動に関し,
いわゆる実効競争の構造・行動基準が論じられ,他:方では,市場成果基準と称
するものが議論されている。もちろん,産業組織論では,市場構造が市場行動
を媒介して市場成果の内容を規定するという論理構造が前提されているから,
実効競争の構造・行動基準と成果基準との間には,実効競争を原因から把握す
るか,結果から観るかの相違が存在するにすぎない。産業組織論では,このよ
うな文脈において,実効競争の市場成果基準として,技術的効率性,配分的効
率性,浪費性および進歩性を問題にするが,ここでの関心は,こうした用語で
表現しようとする効率性の内容である。
まず産業組織論でいう技術的効率性の基準についていえば.ある産業を構成
する企業には,その生産費を極小化しうる規模(最適規模)が存在し,われわ
9)同上拙著第3,4章参照。
10)ペイン型産業組織論については,以下を参照されたい。ペイン著,宮沢健一監訳
『産業組織論』上・下,丸善,1970年;拙著『工業経済』ミネルヴァ書房,1965年;
拙著『寡占経済の基礎構造』新評論,1969年;拙編著『産業組織論』有斐閣,1973
年,なお産業組織論の系統な批判としては,拙著r競争と独占』ミネルヴァ書房,
1985年。実効競争の基準についても,上掲拙著(1985年差を参照。
228 吉井典章教授退官記念論文集(第:253・254号)
れはそのような規模の経済性(ec・n・mies・f scale)を実現している効率的規模
を,客観的に識別しうるはずである,との想定の下で,ある産業が最適規模企
業のみで構成されている望ましいケースを,技術的効率性がみたされている,
と規定するのである。これは,生産可能性フロンティアの線上で経済活動が営
まれている状態を示す第2節で述べた技術的効率性に相当するものであり,こ
れをより具体的に産業レベルで示すものと考えてよい。ベィンによれば,その
ような最適規模をプラント・レベルで確認するには,工学的評価(engineering
estimate)によって,最:適規模工場の青写真を描き,これを現実の工場規模と
比較するという方法が考えられる。企業レベルでの経済性も,複数プラントの
経済性の問題として,いわばプラント・レベルの経済性の応用問題として,経
11)
験的に把握しうると考えられているごとくである。
企業レベルでの最適規模を推定する別の方法としては,ステイダラー(G.J.
Stigler)のいう適者残存手法(surviv・r technique)カミ注目される。これは,あ
る産業に属する企業を規模別に分類し,それぞれの規模層がその産業に占める
シェアを中・長期的に計算するという方法である。競争が貫徹するかぎり,企
業規模は最適化する傾向を示すだろうから,長期にわたりシェアを維持してい
ユ2)
る規模層の企業は最適とみなされる,というわけである。しかし,この方法で
把握された最適規模とは,歴史的に最適者であった規模であって,それは過去
と条件の異なる未来における最適者の規模を示すものではない。従って,政策
提言の基準ないし規範としての技術的効率性を示すものとはいえない。ベイソ
流の工学的評価については,後:に批判する。
次に配分的効率性について簡潔に説明する。これは,完全競争の長期均衡で
は,経済学上の利潤がゼロとなり,このとき社会の稀少資源は最適に配分され
ることになる,という完全競争論の命題にもとつくものである。すなわち,産
業に長期的な超過利潤も,慢性的な損失も存在せず,産業を構成する企業が平
均的にみて,いわゆる正常利潤率をえている状態をもって,配分的効率性が実
現されていると考える。ベイソの定式化によれば,会計上当期の収入をR,当
11,12)拙編著:r規模の経済性』新評論,1969年,7−26ページ参照。
経済的効率性の概念 229
期の契約上の諸費用をC,減価償却費をD,自己資本をV,自己資本に対する
R−C−D
市場利子率をiの記号で示せば経済学上の利潤率は γ 一iとして,
R−C−D
=iとして表現できる。この基準からの乖離の程度
正常利潤率は
V
13)
によって,その産業の配分的効率性が評価されることになる。
浪費性の基準とは,ある産業の広告費を含む販売促進費用及び製品の改変が,
消費者の欲する水準に比して過大なケースを浪費的と出す,というものである。
また,進歩性の基準とは,ある産業の技術進歩率が満足すべき率で行われてい
るかどうかを問題にしょうとするものである。しかし,これら浪費性・進歩性
の基準については,消費者を満足させる客観的な:水準を量的に表現する方法を
発見することができない。ペインはその著書『産業組織論』で,この両基準を
14)
種々検討した末,結局,その測定・評価を断念している。
かくて,残された技術的効率性と配分的効率性とが,産業組織の実効競争的
性格をテストする事実上の二大基準であると推断してよい。この二大基準を満
足させるような市場構造及び市場行動とは,いかなるものであろうか。これを
具体的に発見するために,たとえば市場集中度と利潤率の相関関係を調査する
などの,いわゆる実証的研究と称する分析を行うのが,産業組織論の固有の任
務と考えられているように思われるのである。
そうした経験的研究の結果,どのような内容の実効競争の市場構造及び市場
行動基準が示されるにいたったかは,必ずしも明白ではない。分析の対象・方
15)
法等によって,定量的分析の結果はかなり大きく相違するからである。さらに,
実効競争の市場構造または市場成果基準なるものが,完全競争の条件とその理
論的帰結にどの程度照応し,どの程度乖離するかの判断も恣意的であり,説得
13)前掲拙著(1985年)122−125ページ参照。
14)ペイン著前掲書下巻453−460ページ参照。拙著(注13に同じ)125−128ページ参照。
15)たとえば集中度と利潤率との関係についての,ペイン流の高集中度=高利潤率仮説
の検証と,これを批判するデムゼッツやブローゼンの説との対立を見よ。詳細は拙
著(1985年)の97一一102ページ参照。
230 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
16)
性をもっとはいえない。いわゆる実効競争の構造的基準と称するものは,売手
の原子的規模や完全情報の仮定等を除くと,ほぼ完全競争のケースに類似の条
件を抽象的に設定するにとどまっている。独占禁止法が主張されるのは,実は
そのような曖昧な実効競争論を理論的根拠としてであることに,注意すべぎで
ある。
IV
ペイン型産業組織論は,一見明晰ではあるが非現実的な完全競争論の効率性
概念を,ワーカブルなものへと再構成しようとする努力であったともいえる。
しかしそれがとうてい成功しているとは思えないことは,上述した通りである。
このような主流派経済学のいわば努力方向を疑問視し,これに基本的な点で批
判を加える前に,ここで非主流派,とくに新オーストリア学派の効率性概念を
紹介しておくことが必要であるように思う。
新オーストリア学派の効率性概念は,上述の完全競争論や実効競争論と異質
であり,それは徹底的に主観的なものと理解されている。この派の基礎を円い
17)
たと目されるミーゼスによれぽ,本来,人間は不安を除去するために行為する
18)
存在であり,人間行為が人間以外の物体の運動と相違する特徴は,それが必ず
目的をもっている点である。そして,この目的達成のために適切な手段が選択
されること,換言すれば合目的的な行為がなされることを指して,効率的であ
19)
るというのである。この場合,以下の諸点がこの学派ではとくに強調されてい
16)前注拙著(1985年)第3・4章はこのことを明確にしょうとしたものである。
17)オーストリア学派の始祖と目されるのは,いうまでもなく,カール・メソガーであ
るが,現在のアメリカの,とりわけニューヨーク大学を中心とする新オーストリア
学派は,ミーービスの絶大な影響力によって形成されたものであり,始祖のいわゆる
ウィーン(オーストリア)学派とは,かなり性格を異にするものと考えられる。
18) Cf., Ludwig von Mises, Human Action, Contemporary Books, lnc., 1949,
rev. ed, 1963, pp. 11−13.
19) Cf., lsrael liM[. Kirzner, “Economics and Error”, Louis M. Spadaro, ed.,
New Directions in Austrian Economics, Sheed Andrews and McMeel, lnc.,
1978.なお,この点は経済学の方法論に関係する重要な問題を含んでいる。主流派
経済学は経済現象を物理学の方法によって分析することを,科学的前進と考え,い
経済的効率性の概念 231
る。
第1に,肝入の目的ないし選好を,予め他人が知ることはできない,という
ことである。他人はある人が行為において示したものから事後的に,その人の
目的ないし選好を推測するほかない。ロスバード(Murray N. Rothbard)のい
うには,たとえば,もしある人が映画ではなくコンサートに一時間を消費した
とすれば,われわれは,その時のその人の価値尺度では,映画よりもコンサー
20)
トの方がより高い位置にランクされていたと推論しうるのみである。個人の目
的は他人がこれをよく知ることができないのであるから,他人がある個人の自
発的行為について,その効率性を客観的に評価することは不可能である。
第2に,完全な効率性を達成することは,人間にとって理想ではあるが,現
実には不可能とされる。ここで完全というのは,全知全能の神のごとき立場か
ら見た場合の,という意味である。人間は目的達成のために最も適切な手段を
選択するものであり,この意味で人間行為は効率的であるが,実は知識のもつ
不可避的な不完全性や人間のもつ弱さのゆえに,錯誤(error)や失敗(failure)
をまぬがれ難い。錯誤や失敗は非効率を意味するから,この意味で完全な効率
21)
性は現実には達成されえず,一つの理想としてのみ存在する,というのである。
第3に,上述の意味で非効率であることは非理性的であることを意味するも
のではない。カーズナー(lsrael M. Kirzner)の指摘するように,たとえば,
ピストル射撃競技で,選手が標的を射ることに失敗した場合,あるいは,医師
が患者を誤診して最善でない処置をした場合,この選手や医師の腕は未熟であ
わゆる実証主義の立場をとるか,さもなければ,選択や行為と不可分に結びついて
いる諸特徴を除去した上で,一種の戯画化された選択的人間を想定して論を進める。
たとえば無差別曲線分析に典型的に見られるような方法がこれである。実証主義も,
無差別曲線分析に見られる論理の遊戯も,ともに人間行為を把握する方法として不
適当である,というのが主観主義の立場であり,いずれ稿を改めて,その方法論的
特質を考察する予定である。
20) Cf., Murray N. Rothbard, Toward a Reconstrttction ef Utility and VVelfare
Economics, The Center for Libertarian Studies, Occasional Papers Series
#3, 1977. (M. Sennholz ed., On Freedon and Free EnterPrise, 1956).
21, 22) Cf., Kirzner, oP,cit. pp. 57−63.
232 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
り,その行為は非効率的であったといわねばならないが,彼等が故意にそうし
22)
たのでない限り,非理性的に行為したとはいえない。
第4に,効率的であること,あるいは合目的的であることは,合理主義を是
認することと同一ではない。合理主義とは,あらゆる事物を理性の命じるとこ
ろに従わせるべし,とする理性万能主義である。ハイエク流にいえば,この立
場は,理性の成長を生み出す社会過程が,理性による管理から自由であらねば
23)
ならないことを理解していない。われわれは,それがどのような理由によるの
かを知ることなしに,それに従うことによって,非常に多くの利益をえている。
多くの慣習・制度・伝統あるいは信念などがそれであるが,それらは,その誤
りが明白な場合には,改善されるべきであるが,たんに,その意味が十分に理
解されないからという理由のみで,直ちにそれを拒否すべきではない。そのよ
24)
うな態度は,新しい知識が生まれる機会を放棄するに等しいからである。
第5に,自発的交換の進展を意味する市場過程は.非効率性を克服しようと
する絶えざる調整過程であるから,この過程に干渉したり,この過程を妨害し
たりすることは,非理性的であると考えられる。自発的交換がなされることは,
それによって双方の立場が改善されるからである。したがって交換はそれがな
されることによって,効率性を増大させることになる。新オーストリア学派に
とって,非難されるべきことは,全知全能の立場から見た非効率性の存在では
なく,個人の自発的交換の制限ないし否定,すなわち,市場過程の進展を妨害
し,個人の効率追求を制限ないし否定することである。
新オーストリア学派のカーズナーの最大の関心事は,全知全能の神の立場か
ら見た無知の程度ではなく,その無知の克服過程である。彼によれぽ,無知に
よる調整の欠落を発見し,相互に有利な取引の機会を提示するのは,企業家の
役割であり,企業家の特徴は機敏性を発揮する点にある。この企業家によって
25)
市場過程は進展するのであり,この過程が即非効率性の克服過程である。
23)『・・イエク全集5:自由の条件1』(気賀健三,古賀勝次郎訳)春秋社,1986年,60
ページ参照。
24)同上(注23)59ページ参照。
経済的効率性の概念 233
同一の学派に属するが,しかし無政府主義的見解をもつロスバードは,同様
の効率観に立脚して,国家の市場介入を自発的交換の妨害としてとらえ,効率
性の次元で国家を否定的に評価するアナルコ・キャピタリスト(anarcho−capit−
26)
alist)の代表的論客であるが,彼の所見については,遺稿で詳論する。
v
前節で述べたような新オーストリア学派の効率観が,既述の厚生経済学や産
業組織論に見られるそれと,相容れないことは明白である。後者の主流派的効
率性概念は前者の新オーストリア学派によって批判されざるをえないが,その
25) Cf., lsrael M. Kirzner, ComPetition and EntrePreneurshiP, University of
Chicago press.1973, pp,215−218.ここでカーズナーは次のように述べている。
相互に有利な交換の条件が現存しているのに,知識が不完全なために,事実上交換
が行われないことがありうる。そこに企業家機能の存在しうる余地がある。たとえ
ば,Aが自己の所有するオレンジ20個を, Bの所有するリンゴ1個と交換してもよ
いと考えていると仮定せよ。他方Bは,彼の所有するリンゴ1個をオレンジ10個以
上とならば交換してもよいと考えているとせよ。AおよびBが互にこの交換の機会
を知らないかぎり,企業家利潤はBのリンゴをAのオレンジ10個以上の相当額で買
って,それをAへ20個のオレンジ相当額以下で再販売することによって獲得しうる。
AとBにとって,未利用の相互に有利な交換機会がある場合に,そこに生じる「非
効率性」は,調整の欠落ということができる。この調整の欠落を社会的厚生に関連
せしめて,論じる必要はない。市場経済にはどの時点をとってみても,多数の市場
参加者の行為と意思決定を完全に調整することを妨げる無数の無知がある。相互に
有利な交換(交換の手段としての生産を含む)のための無数の機会が,知られない
ままに存在する。この機会に対して機敏性を発揮するのが企業家であり,企業家に
インセンチィヴを提供するのが利潤である。企業家の役割によって交換が成立する
ことは,市場参加者の個別的計画が調整される方向に進むことであり,社会的には
資源配分が改善されることである。均衡状態とは,市場参加者のすべての個別計画
が完全に調整されている状態であり,これには完全知識が必要である。完全知識を
うることができない以上,調整過程としての市場過程と企業家の役割は不可欠であ
り,均衡状態も永久に達成不可能である。調整が完全でない状態を,資源のミスア
ロケーションと呼ぶならば,それは不可避的である。ただそのミスアロケーション
は,企業家によって均衡に向けて不断に修正されていくのであるから,この企業家
のインセンチィヴを確保し,その調整過程を妨害しないことが,資源のミスアロケ
ーション是正に最も重要な条件となる。以上がカーズナー理論の核心である。
26) CL, Rothbard, op. cit.
234 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
批判の要点を列挙すれば以下の通りである。
第1に,社会的無差別曲線は論理的に認めがたい。けだし,人間の行為は選
択であり,選択とは無差別でないことを意味するからである。無差別曲線の概
念そのものが,人間行為の概念と矛盾する。
第2に,生産可能性フロンティアや社会的無差別曲線は,知識・情報および
技術を所与とするものであるが,しかしこれらを所与としてしまったのでは,
残るは計算問題のみとなり,経済学の真の問題は脱落してしまうことになる。
27)
ハイエクのいうには,もしすべての目的適合的な情報が所与であれば,すな
わち,われわれの選好体系についても,利用可能な手段についても,完全な知
識が存在するのであれば,社会的資源の最適配分の条件を数学的な形式で述べ,
コンピェ一襲ーによって計画的に資源配分を行うことが可能となろう。しかし
全体としてのその社会についての情報や技術は,誰にも所与ではありえない。
それらは無数の経済主体の間に分散して存在しているのであって,それらの情
報はその部分的な所有者によって,自己の目的のために利用される以外に,そ
の最善の利用:方法はない。だから,たとえば中央経済計画当局が,それらを管
理・集中して利用するのは,全く不可能である。
この点を認識すれば,経済学の基本問題が所与の社会全体についての資源を,
どのように配分するかという意味での資源配分の効率性などではないことは,
明白であろう。それは社会に広く分散している知識の利用,すなおちその知識
の社会的動員の問題でなければならない。ハイエクは,このように論じ,市場
価格システムが,そのような知識の利用を可能にすると説き,カタラクシー
(catalla姜勢としての分権的市場経済の意義を強調する。カーズナーはさらに
議論を一歩進め,競争,すなわち企業家精神の発揮が市場価格システムを作動
させるのであり,企業家精神発揮の誘因となるのが利潤であることを明らかに
した。
27)ノ・イエク著,田中真晴,田中秀夫編訳r市場・知識・自由』ミネルヴァ書房,1986
年,第2章「社会におけ’る知識の利用」参照。
28)ハイエクのカタラクシーの議論の詳細は,拙著(1985年)129−131ページを参照。
経済的効率性の概念 235
第3に,上述の産業組織論では,技術的効率性が客観的に測定できるという
前提に立脚しているが,この前提自体に問題がある。産業組織論で技術的効率
性を満足させる最適規模(最:小最適規模).とは,上述したように,費用の極小化
される規模のことである。この場合,費用はペインのいう工学的評価のケース
に典型的に見られるように,技術的知識にもとづき,インプットとアウ5プヅ
トとの物理的関係から導出されることになる。なお,ステイダラーの場合は,
過去の企業規模別シェアの推移から,長期費用が推定されることになる。ペイ
ンとステイダラーの両者には,若干のニュアンスはあるが,いずれにしても最
適規模は,データによって客観的に測定可能なものと考えられているのである。
しかし,ミーゼス流の主観主義の立場では,費用は個人がある目標を達成する
29)
ために,断念せねばならない満足の大きさに与えられた価値に等しい。 ・’
このような主観主義の立場からの厳格な機会費用の概念は,ブキャナン(J.
M.Buchanan)が適切に指摘するように,意思決定者が選択を行うとき,諦め
なければならない効用に対する彼自身の価値評価を意味し,客観的に測定しう
るものではない。けだし,それは選択の行われる以前に主観的な経験としての
み存在し,ひとたび選択がなされた後は,この意味での費用は消滅するからで
ある。選択において放棄されたものは実現されたものではなく,これを客観的
30)
に測定できないのは当然である。
29) Mises, oP. cit., p. 97.
30) James M. Buchanan, Cost and Choice, University of Chicago Press, 1969.
Pp.42−43.ブキャナン著,山田太門訳『選択のコスト』春秋社,1988年,55−56
ページ参照。本書においてブキャナンは「ロンドン=オーストリア学派の概念にお
いては,.費用はある意思決定のマイナスの側面,すなわちある代替的選択肢が選択
される前に克服されねばならない障害のこと」と述べ,この費用概念のもつ次の6
っの属性を指摘している。(1)費用はもっぱら意思決定者によって負担されねぽなら
ず,他人への転嫁は不可能である。②費用は主観的であって,意思決定者の心の中
に存在する。(3)費用は予想に基づいている。すなわち事前的な概念である。(4)費用
は選択という事実それ自体の理由によって,決して実現されえない。すなわち諦め
られたものは享受されえない。⑤費用は意思決定者以外の誰によっても測定されえ
ない。けだし,主観的経験を直接に観察できる方法はないからである。(6)費用には
選択の瞬間の日付が入れられうる。
236 吉井典章教授退官記念論文集(第253・254号)
第4に,産業組織論でいう配分的効率性の概念も,同様に,有効なものとし
て承認しがたい。けだし,完全競争の長期均衡では,利潤がゼロとなるという
命題と,現実の産業・企業でゼロ利潤の状態が望ましいということとは,全く
別個の判断である。前者は完全競争の条件を想定して推論された予測命題であ
り,後者は資源配分上の規範,ないし政策提案の基準である。前者の正当性は,
それが後者としても妥当することを意味しない。産業組織学の配分的効率性概
念は,この認識を欠き,両者を混同しているように思う。
新オーストリア学派の立場からいうな:らば,利潤こそが企業家をして完結す
ることのない市場過程を進展せしめる駆動力である。社会の資源配分の改善が
期待されるのは,企業家的機敏性をスパークさせる利潤によってであることに
想到するならぽ,利潤を配分的非効率性の程度を示すものとして非難すること
31)
は誤りである。加えて,その利潤も客観的に測定されうるものでないことは,
32)
前述した通りである。
以上,新オーストリア学派の立場から,主流派経済学の効率性概念を批判し
たが,最近,主流派経済学の内部においても,たとえぽラィベンシュタイン
(H.Leibenstein)のx効率性の議論にみられるように,一一ffの反省が生まれて
いるように見える。それによれば,効率性はたとえぽ,組織の構成員の士気
(m・rale)によって影響されるのであって,完全知識を前提する配分的効率性
33)
の考察からは,この種の効率性の認識が欠落していた,というのである。
31)前掲拙著(1985年越,125ページ参照。
32)上述の主観主義的費用概念(注30)からも明白であるように,利潤も本来主観的な
ものである。ミーゼスが指摘しているように(Cf., Mises, op, cit., pp.97−g8;
p.289.),それは行為によって生じた満足の増大である。すなわち達成された結果
についての価値と,そのために放棄された価値(費用)との差がこれであるから,
利潤は広い意味では心理的現象(Psychic phenomena)であり,測定できるもの
ではない。他方貨幣額で示される社会的現象としての利潤は,ある個人が社会に対
し,どれだけ寄与したかを社会の他の無数の構成員が評価した結果であって,個人
の満足の増減を示すものではない。
33) Cf., H. Leibenstein, “Allocation EMciency vs. X−Ethciency,” American
Economic Review 56 (June 1966), and “Entrepreneurship and Development”,
American Economic Review 58 (May 1968).
経済的効率性の概念 237
新オーストリア学派は,効率性を個人の行為と関連させて論じるのであって,
劣効率性のように,企業組織を直接的に問題にするものではない。しかも,個
人の行為に関連づけていうならば,X効率性で問題にするような性格の効率性
は,カーズナーの主張するように,新オーストリア学派の効率性概念の中にす
34)
でに含まれていると考えられる。な:お,ここで一言しておきたいことは,市場
経済は,ハイエクのいうカタラクシーであって,X効率性が問題とするような
組織ではないということである。κ効率性の議論にはこの認識が欠落している
ように思う。近年X非効率性による一国経済の厚生上の損失を計測しようとす
35)
る研究が少くないが,新オーストリア学派の立場からは,そのような測定もま
た有意味とはいえない。これを要するに,X効率性の議論は,主観主義的な新
オーストリア学派の効率性の議論とは,本来,全く異質のものであることに注
意すべきであろう。
34)Cf., Kirzner,砂. cit,(1973),カーズナーは,企業家機能(精神)の役割を認め
たライベンシュタインが,従来,市場の無視されていた側面に注目したことを評価
しっっも,企業家機能と知識の不完全性は,市場過程一般にとって基本的な要素で
あり,自分(カーズナー)は正にそのことを解明してきた,という。
35)x非効率性による厚生上の損失を測定しようとする論老は少くない。たとえば,シ
ェアラーは,κ非効率性の大きさは,少なくとも,独占による資源配分上の損失に
匹敵し,おそらくそれを上回るだろうという。独占による資源配分上の損失という
概念の有効性については,拙著(1985年)第5章の批判を参照されたい。Cf, F.
M., Scherer, lnd”strial Market Structure and Economic Performance, 2 nd
ed., 1980, p. 466.