久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 宗教界における中絶観の革命 ――聖職者相談サービス(Clergy Consultation Service on Abortion)の意義―― 根本 麻矢 序章 ――――― 第1章 CCS 誕生の社会的要因 第2章 CCS 運動の概要 第1節 歴史 第2節 活動 第3章 ―ニューヨーク州を中心として― 第1節 キリスト教会の伝統的中絶観 第2節 CCS の宗教的意義 第3節 宗教界からプロチョイスが起こった要因 CCS が後世の中絶医療に残した遺産 第1節 中絶自由化後のニューヨーク 第2節 ニューヨーク州初の独立中絶クリニック 終章 ――――― ―― ―中絶非合法時代における医療現場の病理― CCS における宗教的倫理観の革命 第4章 序章 論文の目的と存在意義 聖職者相談サービスの意義 論文の目的と存在意義 アメリカの中絶論争に関する研究の中で「聖職者相談サービス」(Clergy Consultation Service on Abortion、以後 CCSと表記する)は概説的に語られることはあっても、単独で焦点を当てた研究はこれまで ほとんど無かった。その理由は CCS が誕生した 1967 年という時代に起因するのではなかろうか。67 年は 73 年ロウ判決に始まる法廷闘争には早く、中絶問題が政治の舞台に登場するのは更に後の時代のことで ある。勿論、女性解放運動の華やかなりし 60 年代に注目する女性学・ジェンダー研究の分野において、 CCS は当時産声をあげた中絶規制法撤廃の草の根運動の一つとして語られることあった。しかし CCS 運 動の意義を鑑みる際に女性学・ジェンダー研究の視点は必ずしも適当ではない。なぜなら CCS 運動を担 ったのはプロテスタントをはじめとする聖職者であり、女性ではないからである。そこにはセクシュアリティを 越えた視点が必要であり、むしろ社会的あるいは宗教的・倫理的な分析が不可欠なのである。 以上を踏まえて、本稿の目的は CCS 運動の実態と特徴を明らかにし、その理念に見る倫理観の変革が 中絶合法化の時代のみならず後世に残したことの意義を社会的・宗教的・倫理的な観点から論じることであ る。 では主な参考文献および先行研究を三つ挙げ、それを踏まえた上での本論文のオリジナリティを述べて いきたい。まず一次資料として主に参照したのがArlene Carmen とCCS の創設者(ニューヨーク CCS 代 表)Howard.Moody による“abortion counseling and social change:from illgal act to medical practice, The story of the Clergy Consultation Service on Abortion”である。本書は運動の参加者た ちの記録的・自伝的な書物である。一貫して CCS 関係者の立場から書かれているため客観性が乏しいこと 388 宗教界における中絶観の革命 は否めないが、彼らが当時どのような問題意識から、いかなる理念の下に CCS を立ち上げたのか、サービ スを行うにあたってはどのような困難や闘いがあったのか当時の状況が具体的に、それだけに非常な説得 力を持って描かれている。この自伝的文献を一次資料とした上で、客観的分析を加えることが本論文のオリ ジナリティの一つである。 第二に CCS に関する先行研究としては Nanette J.Davis の“FROM CRIME TO CHOICE, The Transformation of Abortion in America“の第 7 章がある。デイビスはこの章を書くにあたりミシガン州の 6 つのコミュニティでフィールドワークを行い、29 人の聖職者や患者に対し平均 1.5∼4 時間に及ぶインタビ ューを行った。ここで行った「聖職者ブローカーの道徳的葛藤」に関するアンケート結果は聖職者たちの現 実を顕す資料として興味深く、ここに紹介されている実際に使用されていた中絶医のリストは本稿の第 2 章 で参照した。しかしフィールドワークという手法を用いたこの研究にも客観性という点で限界がある。デイビス が基にした資料は部分的にインタビューを受けた側の個人的観察や記憶を含んでいたためである。 さらにデイビスの研究は CCS の組織的構造と変遷の分析を中心としたもので、部分的に参加者の道徳 的葛藤に触れながらも、その倫理観や理念には焦点が当てられていない。さらに分析がミシガンという地域 に限定される以上、CCS 運動の全体像については詳細に触れられていない。これと比較したとき本論文で は CCS 運動の実態と全貌を詳細に明らかにするとともに、その理念や精神の分析に重点を置いている点 がオリジナリティである。本稿ではそれまで中絶については頑なに沈黙を守ってきた宗教界において CCS がいかに画期的な動きであったか、当時の社会通念や、とりわけキリスト教会の伝統的中絶観・倫理観にお いていかに変革的なものであったかということを明らかにしていきたい。 最後に客観性を補う際に参照し、CCS について概説的に最も詳しく紹介されている文献として荻野美穂 の『中絶論争とアメリカ社会 ∼身体をめぐる戦争∼』(2001、岩波書店)を紹介しておく。現存する日本の 文献の中で、これほど膨大な資料・統計を網羅した上でアメリカにおける中絶論争の歴史の全体像を明確 にした文献は他にない。CCSの存在を知る契機となっただけでなく、その背景となった60∼70 年代を理解 する上で役立ち、とりわけ第 1 章、及び第 4 章では本書を参照した部分が多い。 また独自性という点で付け加えるならば、本論文では CCS がカウンセリング・斡旋サービスに留まらず、 その理念を受け継ぐものとして「低コスト」で「安全」な中絶を行うクリニックを開始し、それが後に全国に普及 したことを CCS の遺産として言及する点もオリジナリティといえる。現存する資料の多くは CCS を 60 年代 後半に現れる様々な中絶合法化の草の根運動の一つとして分類するにとどまっている。しかし CCS 運動の 真の意義は、それが直接あるいは間接的にニューヨークの中絶自由化に寄与したということのみでならず、 女性の救済を最優先し中絶紹介サービスを提供することで、実際的・直接的な救助の手を差し伸べた「理 念の実現」にこそある。そしてその理念はその後に全国に広がる中絶専門の独立クリニックにまで影響を与 え続けた点で非常に意義深い。 本稿の構成は序章・終章を含め全6 章から成る。第 1 章では CCS 誕生の時代背景に注目する。低階級 の貧しい女性たちに差別的だった非合法時代の医療現場と、それに対し様々な場所から中絶合法化の声 が上がり始めた時代の潮流について荻野を参照して述べていく。続いて第 2 章ではその潮流の一つとして 宗教界から生じた CCS の歴史と活動を概観する。第 3 章では聖職者たちがいかなる理念の下にサービス を立ち上げ、それが従来の社会的宗教的中絶観をいかに打ち破るものであったか、後のプロチョイスの言 説に通じる倫理観の革命を古代キリスト教の中絶観を踏まえた上で明らかにする。第 4 章では CCS が後世 に残した遺産について述べる。すなわち CCS が 70 年の解散と共に医師と協力して立ち上げたニューヨー 389 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 ク州の Clergy and Lay Advocates for Hospital Abortion Performance(別名:Woman’s Service)の 実態と、それをモデルにした独立クリニックの広がりに言及する。終章では主に 3・4 章で分析した CCS の 意義について結論を述べていきたい。 第1章 CCS 誕生の社会的要因 ―中絶非合法時代における医療現場の病理― CCS が生まれた 1967 年は時代の転換期といえる。現行の中絶規制法に対し様々な場所から合法化の 声が生じた時代であり、実際に67 年∼73 年は全米で法改正の動きが頂点に達した時期でもある。67 年に コロラド、カリフォルニア、ノースカロライナ州で中絶法が改正されると、70 年までに 12 州が後に続いた。で は、このような合法化の背景にあった中絶非合法時代とはいかなる時代だったのだろうか1。 中絶非合法時代とは 1870 年代∼1970 年代までの約百年間を指す。クリスティン・ルカーが「沈黙の一 世紀(The Century of Silence)」と呼んだ2この間、母親の生命を救う目的以外の中絶は妊娠のいかなる段 階においても禁止された。19 世紀半ば全米医師会(AMA)の反堕胎キャンペーン3が発端となり、アメリカ 各州で中絶が規制されると、中絶はヤミ活動化・不可視化し、中絶に関していかなる公の議論もなされなか ったのである。「沈黙の一世紀」が単なる比喩でなかったことが、CCS の命名に際し世間の反感を買うことを 懸念して“Abortion”という直接的表現を含めるか否かで議論が起きたというムーディーの記述からもわかる 4。当時人々は“Abortion”という言葉を一種のタブーとして公の場では口にすることすら憚ったのだった。中 絶に対する人々の意識を喚起するという目的で、CCS が設立当初からこの言葉を敢えて名称の中に用い たこと自体、どれほど当時の常識を覆す果敢な行為であったかがわかる。 では非合法下において、医療現場はいかなる状況にあったのか。法律では禁止されたとはいえ、中絶の 需要がなくなるわけもなく、無免許の堕胎師による「非合法中絶」という形で中絶は増加し続けた。その中で 最大の弊害として現れた問題が、中絶の方法に関する人種・階級による明らかな不平等であった。すなわ ち裕福な白人女性が「治療用中絶(therapeutic abortion)」の名目で、衛生的環境の下、正規の医師によ る中絶手術を受けることができたのに対し、低階層や貧しいマイノリティの女性は、ヤミ堕胎師を探すか自 力堕胎をする他なかった。 ここで女性間の不平等を示す三つの統計結果を荻野美穂から引用する。第一に、人種階級差別を端的 に表すものとして、都市に住む多くが高学歴の白人女性5 千人を対象にしたキンゼイ研究所の調査結果が ある。これによると、堕胎経験のある女性の 84%は医師の下で受け、自力堕胎をしたのは 10%以下に過ぎ なかったが、低所得女性と黒人女性ではその割合は 30%であった5。 第二に、低階級・有色女性が余儀なくされた非合法中絶・自力堕胎は感染症・合併症を起こしやすく、危 険性が非常に高かったことは次の結果が示す通りである。1931・32 年に 1000 人の女性に聞き取り調査を した医師スティックスによれば、医師のもとで中絶した 91%、産婆のもとで中絶した 86%の女性は合併症を 経験しなかったのに対し、自力堕胎をして合併症を免れたのは 24%に過ぎなかった。さらに 31 年連邦政 府の児童局の調査によると、妊婦死亡者のうち少なくとも 14%は非合法中絶によるとされる6。 第三に、後に CCS が産声を上げることになるニューヨーク市の 50 年代初頭の統計が残されている。堕 胎の結果死亡した女性の数は 51 年の 27 人から 62 年の 51 人へと年々増加し、その中で死亡率にして有 色女性は白人女性の約 4 倍、また妊婦死亡率全体の中で堕胎死の占める割合は白人 25%に対し有色女 性では 50%であった7。 CCS が誕生する 60 年代後半の医療現場にも、女性間には厳然とした不平等がなお存在していたことを、 390 宗教界における中絶観の革命 ムーディーはその著書の中で明らかにしている。「コネかお金さえあれば病院で「治療用中絶」を受けられ た。「治療用(therapeutic)」というのはインチキの正当化のための専門用語で「母親の命を救う」という名目 で法を無視した中絶が行われていた。それは富める者と貧しい者、黒人と白人、特権階級とそうでない人々、 既婚者と未婚者の間の差別だった」。ムーディーはこの「治療用中絶」と「犯罪と見なされる中絶」という「イ ンチキな区別」こそが、CCS が法改正のために戦った理由であると述べている8。 もっとも貧しいマイノリティでなくとも、病院では「治療用中絶」を受けること自体が困難な時代であった。 医師が治療用中絶を行うためには病院の審査委員会の認可が必要であり、その手続きは煩雑を極め、判 定基準も厳格だったためである。アメリカ家族計画連盟のアラン・グットマーカーは勤務先であるマウント・サ イナイ病院での委員会の様子を次のように報告した。「症例の検討に入るためには、手術を行いたいと望む 産婦人科医は、関連する医療分野の二人のコンサルタントから中絶に賛成する手紙を提示しなくてはなら ない。中略、症例を担当する産婦人科医と、賛成を表明した二人のコンサルタントのうち一人は、委員会で 情報が必要となったときのために待機してしなくてはならない。中略、症例について慎重な討議が行われ、 もしも委員会の5人のメンバーのうち誰か一人でも治療用中絶に反対すれば、手術は認可されない9。」病 院は治療用中絶を申請した医師や患者を「常習犯罪者」のように扱ったため、医師は申請をしたがらなくな るのは必然であり、委員会に召還された女性が屈辱的な思いをするのも不可避であった。そして審査を経 て治療用中絶が認められても、不妊手術を受けることを交換条件とされる場合も少なくなかった。50 年代初 頭の調査によれば、大学付属病院の53%以上、アメリカ全体でも40%の病院が不妊手術を中絶承認の条 件としていたというのである。このように中絶という「罪」を犯した懲罰として不妊手術が利用されていたことは、 当時の社会通念のあり方を反映している。そして避妊手術を強要される割合は白人中流階級の女性よりも 低所得の黒人女性の方が高く、ある調査では2 倍以上であったとされ、ここにも人種・階級差別の影は色濃 く存在した10。 しかしとりわけ貧しいマイノリティの女性たちにとって、合法・非合法を問わず極めて高額だった中絶手術 を受けることは、豊かな白人女性よりも遥かに困難だった。ムーディーによれば、当時の中絶費用は最低で も 300 ドルかかったとされる11。1971 年「犯罪的堕胎」、すなわち非合法中絶について調査したヘルスリン によればその値段の幅は非常に大きく、友人として無料で堕胎をしてくれた医師もいた一方で、シカゴの堕 胎専門所に 1000 ドルという高額を支払ったにもかかわらず腸に穴を開けられ出血のため死にかけた女性 もいたという12。病院でも合法としての「治療用中絶」だけでなく「非合法中絶」も行われていたが、妊娠 12 週目の手術をするために賄賂として必要な金額が 1500∼2000 ドルとその値は跳ね上がった13。 医療現場における医師たちの態度も非情なものだった。とりわけ正規の医師は、中絶を生命の否定とす る偏見や免許を失うことへの恐れから、中絶の必要性がわかった途端に医療面でも精神面でも患者を助け ようとはしなくなった。代わりに彼らの「軽蔑の対象」であった非合法の堕胎師を紹介することも少なくなかっ た。ムーディーは「医師たちの偽善とダブルスタンダードは女性の健康と生命への無責任である」と激しく批 判している。もっとも実際に中絶手術を提供したとはいえ、非合法の堕胎師たちも非情だったことに代わり はない。高額な報酬を要求するばかりで安全性の面では疑わしく、女性たちの心のケアなど考えは存在し なかった。いずれにしても、中絶という選択をした女性たちが経済的だけでなく精神的に搾取されたことを 疑う余地は無い14。 さらに荻野は、非合法時代には社会の沈黙と隠蔽によって中絶が不可視化された結果、実際には堕胎 が広く行われていながら、多くの女性が情報や支援や同情からも隔絶し、孤立感や恐怖を味わったことを 391 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 指摘している。非合法中絶が女性を非常な恐怖に陥れるものであったことを明らかにするため、ニューヨー クで実際に用いられていた非合法中絶を受けるためのルートの一例を紹介する。女性はまず非合法の堕 胎師につないでくれる仲介人に電話をかけ自分の電話番号を残す。仲介人の電話番号は消息を捕まれな いよう絶えず変わったため、アクセスできるだけでも運がよかった。仲介人は女性を非合法の医師に紹介 (一人につき一定の紹介料を取る)した後、再び女性に電話をかけて必要な現金の額を伝え、マンハッタン のどこかで車で拾い、手術の行われるオフィスへと連れて行く。この間、手術を行う場所も医師の名前も技 術の質も知らされないことは勿論、見知らぬ場所で手術をされ、家族の付き添いも許されなかった女性たち の不安がどれほど大きなものであったかは想像に難くない15。 このように非合法中絶時代における医療現場の現状は、女性にとって悲惨なものだった。そこには裕福 な白人女性たちが病院で公然と合法中絶を受ける一方で、貧しい低階層やマイノリティの女性たちは秘密 ルートで堕胎師に頼むか、自力堕胎を試みる他ないという厳然とした人種・階級差別が存在した。これは中 絶を罪とする社会通念に支えられた病院の体制や、合法・非合法を問わず金儲け主義的で患者を省みな い医師たちの態度が生み出した病理であったといえる。そしてこうした差別に対して、女性解放運動をはじ め、様々な場所から中絶の合法化に向けた動きが生じてくるのが 1960 年代後半という時代であった。その 中でも、これまで頑なに中絶に関する議論を避けてきた宗教界の内から現れ、最も実際的な救済として機 能した上に、次第に全国に波及していった運動こそ、聖職者相談サービスであった。 第2章 第1節 CCS 運動の概要 ―ニューヨーク州を中心として― 歴史 この節では 1967 年に CCS がニューヨークで誕生してから、70 年中絶規制法撤廃とともにニューヨーク CCS が解散するまでの歴史を概観する。この間 CCS 運動はニューヨークから全国各州に広がり、本部と地 方支部に分かれ、各支部は地方分権的・独自な発展を遂げていく。ニューヨークの教会の片隅から起こっ たこの運動が、僅か 3 年ばかりでこれほどまでに規模を拡大したことは注目に値する。しかしながら CCS の 地方支部を全て網羅するのは不可能であるため、この章では CCS 運動の起源であるニューヨーク CCS を 中心に運動の概要を述べていきたい。 第1項 設立 第 1 章で述べたような差別的医療に対し、女性の救済を目的として立ち上がった人々がいた。それは驚 くべき事に、これまで「中絶」に関しては話題にしないという不文律が存在するとともに、中絶に対しては伝 統的に最も保守的な態度を取るはずの宗教界に身を置く聖職者たちであった。 1967 年、ニューヨークのグリニッジビレッジにあるシャドソン・メモリアル教会のハワード・ムーディー牧師 が、21 人のプロテスタントの牧師とユダヤ教のラビとともに「問題ある妊娠」に悩む女性たちにカウンセリング と安全な中絶を行う医師を紹介するサービスを開始した5 月 22 日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の第一面に このサービスの広告記事が掲載されると依頼者が殺到し、翌年だけで 6500 人の女性が利用したとされ16、 このサービスがいかに当時の女性たちの需要に適ったものだったかがわかる。 CCS 設立の動きは 67 年の初めには生じていた。ローレンス・レイダーの提案の下に聖職者のグループ が集り、ニューヨーク州議会が中絶法改正案の立法に失敗した際の女性の救済についての話し合いを行 ったのである。レイダーは「聖職者が望まない妊娠をした女性たちに手術を受けられる場所を直接紹介する 392 宗教界における中絶観の革命 ことは重要な行為である」と提案し、これが CCS 開始の契機となった17。 CCS 運動の参加者の大部分は 60 年代前半に公民権、反戦、女性解放、貧困撲滅など反体制運動に関 わった経験があった。しかしその多くが中絶問題については無知であり、設立した当初から CCS がサービ スを容易に提供できたというのは誤りである。聖職者たちは最初のステップとして中絶について学ぶため、 医者や法律家、精神分析との会合を行った他、不法中絶を経験者に話を聴き、外科医から骨盤モデルや 器具を用いて「いつどんな痛みが伴うのか」の説明を受けることで、中絶に関する知識や「女性」そのものに 対する理解を深めるべく地道な努力を積んだ18。 更に CCSを聖職者たちが独力で運営できたわけでもない。とりわけ中絶医斡旋という違法行為を犯す以 上、法律に関しては N.Y.C.L.U の理事アエフ・ネイダーと弁護士のエファライム・ロンドンのアドバイスを受 けた。中絶を強く支持していた N.Y.C.L.U は CCS の後ろ盾となり、ロンドンの行った忠告は CCS の態度 や方針に影響を与えた。その忠告とは例えば中絶規制の州以外の医師を紹介することや、もしも法的機関 に尋問された際には違法行為をしているとは認めず、法的義務に関する質問には「聖職者はニューヨーク 州法ではなくより高い道徳的法に従っており法を決める立場にはない」と答えることなどで、聖職者たちはこ れに従った。 逮捕や起訴を免れるためにあらゆる活動に最大の注意を払いながらも、最初に述べたようにCCSがその 存在を公にしたことは一見すると矛盾する行動に見える。これは法改正運動よりも中絶を望む女性の救済 を第一に考え活動をオープンにすべきだというロンドンや CCS のメンバーたちの信念に基づいていた19。 このように第1 章で述べたような医療の現状を背景として誕生した CCS は、聖職者をその主体としながら も、設立の発端となったレイダーをはじめ、医師・法律家などの他分野の専門家の協力を得て実施されたの である。 第2項 運動の広がり ニューヨークの CCS をモデルにして運動は全国に広がっていく。シカゴではムーディの友人であるシカ ゴ大学バプテスト派牧師のスペンサー・パーソンズが 30 人ほどの牧師やラビとともに同様のサービスを始め た20。68 年 5 月、ウェールズ出身でハリウッドに移住した組合教会のヒュー・アンウィルが始めたロサンジェ ルスのCCS は、オープン当日に293 の電話がかかり、10 日で 175 人の女性がカウンセリングを受けた21。 更に同年 11 月までにニュージャージー、ペンシルバニアに設立された。この運動に参加したとされる聖職 者の数は、デイビスの最盛期に 300 人というものからコスタの 1200 人まで幅があるため正確には不明であ る22。 なぜニューヨークの CCS は模倣され、運動が急速に全国に広がったのか。この点に関してムーディーは 第一にオフィスもスタッフも評議会も銀行口座も要らない組織の「単純な構造」、第二に教会や中絶をした 女性の寄付から成り立っていたため、経営費用がかからなかったことを要因として挙げている23。しかしその ような組織構造的な利点のみならず、設立当初からニューヨークだけでなく全国の女性たちに目を向けて いたメンバーたちの地道な普及活動による所が大きい。ニューヨーク CCS の活動が軌道に乗ると、次の目 標は全国の女性に家から近い場所でカウンセリングを提供することだったとムーディーは述べている24。そ のためニューヨークの CCS のメンバーたちは全国各地の友人を訪ねては地方の女性を彼らに紹介すると いう草の根運動を続け、今度はそのノウハウを受け継いだ友人たちのリーダーシップの下に各地に新たな CCS が誕生するという構図ができあがった。 393 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 第3項 ナショナルセンターの設置 運動が広がりを見せる中で 1968 年 11 月、全国の CCS の統括的な組織としてナショナルセンター (National Clergy Consultation Service on Abortion)が設立された。ではナショナルセンターにはいか なる機能、権力、意義があったのかを述べていく。 ムーディーはナショナルセンター発足の三つの要因について言及している。第一は資金の捻出である。 有罪の証拠となるような書類をいっさい書かなかったため、先述の様に他地域の CCS に活動のノウハウを 伝えるためには直接足を運ばねばならず、旅費を捻出するための基金が必要だった。第二は情報の共有 である。できたばかりの CCS には既に確認した安全な医師の情報を教える必要があった。ナショナルセン ターが悪い医師と良い医師のリストを持つことで、各地の問い合わせに応じて各医師に安全が許される最 大の患者数を割り振ることが可能となった。第三は各地の CCS 間でコミュニケーションを図ることだった。こ れにより中絶医が CCS によって違う値段で交渉し、同じ医者なのに紹介した CCS によって料金が違うとい う事態などを避けることができた。 こうして全国のCCS は全てナショナルセンターに所属する形となった。しかしナショナルセンターはあくま で緩い連合に過ぎず、地方支部の自治性が重んじられ、最終的に方針は支部ごとに決められた。ナショナ ルセンターが全国の CCS を統合する公式な方針を打ち出さなかったことで、後には地方支部との衝突や 地方支部間の衝突も起きたようである25。CCS は各々の地方で独自の形態を形成し個々に発展していった と考えられる。中絶に関する州法は主に ALI モデルに則った改正が進んだ改正第一期(67∼71 年)、中絶 に関する法規制を完全撤廃する動きが進んだ第二期に分けられ、その規制・自由の度合いも州によって多 様であったため、CCS の活動の仕方も州ごとにかなりの隔たりがあったと推測される。このため全米の地方 支部までを網羅するような CCS 運動全体の研究がされにくいことも想像に難くない。 しかし同時にナショナルセンター、各地方支部を問わず共通して定められた三つの必要条件があった。 ナショナルセンターに所属する全ての聖職者は、第一に聖職者はカウンセリングや中絶医紹介に代金を取 ってはいけない。運動への寄付は受け取るが、寄付の範囲を超えてはならず、これを破ったものは容赦なく 組織から追放された。第二にサービスでは一対一のカウンセリングをしなくてはならない。第三にメンバー 間で認められていない医師に紹介してはならない。このため紹介する中絶医の資格や技術、サービスの質 は事前に詳細に調査された26。この調査の詳細についてはこの章の第 2 節の(3)で触れる。 こうしてCCS 運動はニューヨーク支部が解散する 70 年 7 月 1 日までに、全米 20 州に支部を持ち(特に 東部に集中)ワシントン D.C とカナダに 2 つのナショナルセンターを持つ全国ネットワークとなった27。 第4項 ニューヨーク州における中絶自由化と解散 こうしてCCS 運動が着実に全国に普及していく中で、1970 年、ニューヨーク州で中絶が期限の限定つき ながら自由化した。これによって妊娠 24 州までの中絶は理由に関係なく処罰されないこととなった。この時 の議会の土壇場の逆転劇はあまりにも有名である。4 月 9 日に行われたニューヨーク州議会下院の採決で は当初賛成票が過半数に一票足りず、撤廃は否決されようとしていた。しかしオーバーンのジョージ・M・マ イケルズ議員が開票直前に立ち上がって反対票を賛成票に変更し、議場が騒然とする中で中絶撤廃法は 劇的な逆転勝利をおさめたのだ。彼は撤廃法が実現するまでに「多くの女性がヤミ堕胎で殺されるのよ」と いう妻の言葉を思い出したとも、息子たちの非難の言葉を思い出したとも言われる。 そしてこのニューヨーク州の中絶自由化に伴い、CCS 運動にも大きな変化が生じる。新しい中絶法施行 394 宗教界における中絶観の革命 日の 70 年 7 月 1 日をもって、CCS 運動の起源であるニューヨーク支部が解散したことに他ならない。解散 を決断した理由をムーディーは四つ挙げている。第一に中絶の決断は女性と医師の間でなされるものであ り、たとえ聖職者であろうとその間に入るべきではない。第二に中絶の前にソーシャルワーカーなどに会い に行く、すなわちカウンセリングなどの精神的ケアを義務付ける修正条項を加える提案が却下された。つま り聖職者たちが重視していたカウンセリングの意義は法的には認められなかったこと。第三に聖職者が「精 神分析医」の立場として女性の要望を聞くことで医師の代わりに責めを負うことになり、医師の責任感を希 薄にする可能性があった。第四に CCS の活動に時間を費やしすぎたため、メンバーたちの中には聖職者 としての他の責任を果たしたいという思いがあったことである28。 解散にはとりわけ第二に挙げた要因と関連して、聖職者たちがカウンセリングの限界を感じたことも関係 していると考えられる。このことは次の第 2 節(2)でも述べるが、法改正によって中絶はより直接的効果的な 医療処置となり、患者と医者の間にカウンセラーを挟む必要性は、とりわけ当の患者から疑問視された。女 性たちは一度中絶が合法的に病院・クリニックで行われるようになったら CCS にカウンセリングを求めること はなかった。このことがカウンセリングを最重要と考え実践してきた聖職者たちをいかに失望させたかは想 像に難くない。 ニューヨークの CCS はこの後、中絶自由化後に新たに生じた様々な問題に立ち向かうため「Clergy and Lay Advocates for Hospital Abortion Performance」として新たに結成されることになる。しかしニ ューヨークにおいて「CCS」という名称を持つ組織としての活動はこの解散までと見なし、この後の活動につ いては第 4 章で触れていきたい。 第2節 活動 CCS の活動の実績としてムーディーは、CCS が設立された 67 年からの 3 年間の間に 1 人の死者も出 さずおよそ 10 万人の女性にカウンセリングとオフィス中絶を提供したと述べている29。この節では、女性の 中絶にこれほど大きな貢献を果たした CCS の活動がいかなる理念の下に開始され、実際いかなる活動が 行われたのかを明らかにする。活動内容は大きく二つに分けられる。第一に妊娠をした女性が中絶するか 否かを決断する過程として行うカウンセリングサービスと、第二に実際に中絶を選択した妊婦に対する安全 で低費用な中絶医の斡旋である。ではその活動内容について詳細に述べていきたい。 第1項 理念 サービスを開始するにあたり CCS は内々に声明を出した。それは「我々自身の意識を高める」ための作 業であり30、中絶の社会的必要性と職業的役割を確認し、CCS がその役割をいかに果たすかについての 見解をメンバーが共有するためのものだった。「中絶法改正と中絶カウンセリングに対する聖職者の意思表 明」と題したこの宣言こそ、CCS の設立の精神および活動理念を最も的確に代弁すると考え、次にその全 文を紹介したい。 現行の中絶法のためにアメリカでは毎年 100 万もの女性たちが激しい精神的肉体的苦痛や 不必要な死を招く不法中絶を求めている。中絶法はまた望まれず愛されず、さらにしばしば形成 されていない子供たちの誕生を強制している。真の人間社会は母親に罰を強要するのではなく、 心から祝福できる状況において子供が誕生するような社会である。中絶法は無力な犠牲者として 395 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 絶望的な行為に駆り立てられた女性たちに、犯罪を犯した妻や母親という烙印を押す。中絶によ る死の最大の割合を占めるのは、5∼6 人の子供を持つ 35∼39 歳の既婚女性である。ニューヨ ーク州の中絶法は貧しいマイノリティグループにとっては最も非道なものだ。1965 年の報告では ニューヨーク市の中絶による死の 94%は黒人とプエルトリコの女性たちであった。 ニューヨーク州の中絶法においては、保守的変化を提案する今日の試みにさえ、つまり強姦 や近親相姦、胎児の奇形という極端なケースでさえも、即座に反感を持った反応(地域によって は「あらゆる中絶は殺人だ」とするような反応)に遭うのは悩ましいことである。胎児には胎芽の生 命があるかもしれないが、殺人という罪を犯しうる生きた子供などいないのだから、妊娠は終わら せてもよいのだと我々は断言する。 それゆえに我々は聖職者として誓う。この州や国の至るところでより自由な中絶法が施行され るまでは、我々は国民を教育し知らせる努力を続けていく。 自由な中絶法が施行されるまでは、女性たちは孤独に追いやられ、中絶が行われる暗黒街や 自力堕胎という危険な行為に脅かされるであろう。中絶という困難な決断や手段に直面し、今日 の女性たちは周囲の無関心や誤った情報、自暴自棄などのために宗教的指導者に人間的関心 を求める他なくなっている。人間の生命の神聖さへの信仰は、困難を抱える女性の助けとなり思 いやりを持つこと、自力堕胎や医療基準の下で行われた手術のために今日母親を奪われた多く の生きている子供たちに関心を持つことである。 我々は違法と見なされる治療用中絶をする、免許を持った評判のよい医師たちがいることを心 に留めている。医師が単に金銭的利益のためではなく、患者への同情と関心に動かされて中絶 をするなら、我々は彼を犯罪者ではなく、宗教とヒポクラテスの誓い31という最も高潔な規範を真っ 当している人間と見なす。 聖職者として、法の規約を超える高潔な法と道徳的義務があると信じるがゆえに、我々は問題 ある妊娠をした全ての女性を助けることが我々の責任であり宗教的義務だと信じている。そして 最後になったが、我々はここに最上の有効な医療アドバイスを紹介し、中絶を必要とする女性た ちを助けるため、聖職者相談サービスを設立する32。 第2項 カウンセリング CCS 運動の参加者の中でもとりわけ初期のメンバーは、患者にとってカウンセリングは最も重要であると いう信念を持っていた。そのため電話ではいかなる紹介もせず、カウンセラーと個人的に接触し、カウンセリ ングを受ける中でのみ情報が与えられた33。州外の女性に電話で紹介サービスを提供することも考えられ たが、警察その他の法的機関に盗聴される恐れがあった。それ以上に直接患者に会うことは電話には代え られない利点があったとムーディーは述べている。カウンセラーは自分の目で妊婦の状態を判断でき、落ち 着いた雰囲気で会話する中で女性の方も気持ちをはっきりと言う事ができた。さらにカウンセリングの際に、 事前に義務づけた妊娠段階の検査の書類を確認できたため、不適切な手術をする可能性がなくなった。 教会は女性の決断に責任を添えたいと考え、自ら個人的にカウンセラーに連絡を取ることを重視したので ある34。このように CCS が妊婦に対する直接のカウンセリングを重視したことで、個々人の事情を考慮した 確実な医療サービスを提供することにつながったことは間違いない。 一方でカウンセリングそのものには限界もあった。その第一は女性たち自身がカウンセリングを本質的に 396 宗教界における中絶観の革命 は必要とせず、中絶医の紹介を受けるためのやむおえないプロセスと考える場合も少なくなかったことであ る。ことに妊娠段階が進んでいる場合ほど中絶は緊急性を帯びたものとなり、カウンセリングは的外れなも のや不必要なものとして排除される傾向にあった。患者にとって名前や住所や電話番号を明かしプライベー トな質問に答えねばならない事は必要な情報に辿り着くために超えねばならないハードルと考えられた35。 第二に聖職者たちの道徳的葛藤である。カウンセリングを行う中で聖職者自身も中絶の是非の問題を常 に突きつけられた。当初、聖職者たちはカウンセリングを牧師の役割の延長と見なし、女性の擁護者として の立場を取るべきだという信念を持っていた。参加者たちは従来の教会の中絶を「罪」や「堕落」とする道徳 観を打破したからこそ、活動に従事できたことは疑いない。しかしながら同時に全ての聖職者が女性を「罪 や困難、大きな道徳的性的問題を持つ者」、中絶を「心理的外傷を与えるネガティブなもの」と定義する既 成の道徳観を完全に抜けきるのもまた困難であり、多くの聖職者が道徳的葛藤を抱えた。 というのも聖職者たちは信者かどうかわからない見知らぬ人のためにカウンセリングをし、時に教会の規 範に違反することを余儀なくされた。にもかかわらず経験を広げるほどに、カウンセリングが緊急性を要する 中絶の前には無力であり、繰り返し同じ患者に行われたり、ほとんどの患者が中絶以外の選択肢を選ばな いことで聖職者たちの達成感は打ち砕かれた。デイビスのアンケート結果によると、聖職者 60 人中 41 人が 「利用されているという感情」や時間的拘束、中絶の倫理への不安と葛藤を感じ、サービスに関わっている と公に知られることで経歴を台無しにすることを恐れていたことがわかる。 カウンセラーは次第に、道徳的感情的困難を感じずにすばやい判断を下すようになった。道徳的葛藤に 対し、ミシガンの聖職者たちは患者の人数を減らし、時間を短縮する(グループセラピーにする)などで適応 し、明確な判断を避け、感情移入や個人的責任も排除した。しかしそうなると今度扱いが難しいのは道徳的 宗教的に疑問を投げかけてくる患者だった。このように「中絶カウンセラー」と「牧師」という役割が相容れな いものであったため、精神的重荷を感じるメンバーも少なくなかった。これが教会の教義を規範とするべく教 育された宗教家の限界であり、精神的道徳的問題を重視する聖職者によって行われたことでカウンセリン グが自ずと壁にぶつかるのは不可避であったといえる36。 カウンセリングには確かにこのように限界があったが、これが女性のメンタルヘルスケアを志したという点 では大きな意義のあるものだ。先述のように、当時女性たちが妊娠を誰にも相談できず情報や援助からも 隔絶され、反社会的というレッテルの下に黙殺されてきたことを思えば、聖職者たちが「カウンセリング」とい う形で彼女たちの声に耳を傾けたこと、さらにその過程で恐怖に怯える女性たちに多少なりとも安心感を与 え、より安全な中絶サービスの提供に繋がったのであれば、カウンセリングに一定の意義を見出すのに十 分ではなかろうか。 第3項 非営利の中絶医紹介サービス デイビスは、聖職者たちはカウンセリングによって傷つきやすく怯えた少女たちに状況を告白させること は、精神的重荷を負わせるだけで問題解決にはならないと考え、患者を中絶医に結びつけるより直接的な 方法を探したと述べている37。この「直接的方法」こそ、特に貧しいマイノリティの女性に低費用で安全な中 絶手術を提供してくれる、技術的にも人格的にも信頼のおける中絶医への紹介サービスであった。ここで は当時の社会的な要請に応じて CCS が実現したこの中絶斡旋サービスが、当時どれほど貧しく弱い立場 の女性に対し良心的なものであったかを具体的に述べていきたい。 繰り返し述べているように、CCS の目標は第一に低費用の中絶の提供である。すなわち先述のように当 397 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 時合法・違法を問わず非常に高額で、貧しい低階級の女性には手の届かなかった中絶手術を、全ての女 性に平等にできる限り安い費用で提供することである。第二に安全性の高い中絶の提供である。すなわち 多くの合法・非合法の中絶医の中から、高額な費用を請求するばかりで危険な手術を施す悪質な中絶医 を避け、いかに女性に同情的で質が高い安全な手術をしてくれる医師を見つけ出すかということだった。で は低費用の実現のために CCS が行った具体的な方法として第一に中絶医に対する圧力、第二に独自の 経済援助システムの確立について述べていく。 CCS は積極的に中絶医に対して圧力をかけた。CCS は中絶医に対して一定数の患者を常に紹介する 用意があったという点で絶対的に優位な立場を保っており、多くの中絶医は患者を紹介してくれるよう、時 には賄賂を積んで CCS に紹介を懇願してきた。例えばニューヨーク CCS の場合、600 ドルの中絶手術を 年1万人の女性に施した場合の利益、合計6 万ドルを誰のポケットに入れるかを決める大きな権限が持って いた38。基本的に CCSを金儲けとしてしか見ない医者だと判断した場合には患者を紹介しなかった。しかし 一方では CCS の権限を最大限に利用し、中絶医に対し一定の人数の患者を送る契約をする代わりに、で きうる限り低い料金にするよう積極的に働きかけた。CCS が圧力をかければ大抵の医者はすぐに要求に応 じ、応じない医者や地域によって異なる料金を課す医者に対しては紹介する患者数を減らし、最後には打 ち切るという制裁を与えた39。 次に CCS は料金を払えない貧しい女性たちのために最低 25 ドルで手術を受けられる経済援助のシス テムを設立した。これは初期のCCS は貧しい人にサービスを行うシステムがなかったために、患者のほとん どが結果的に白人中産階級となったことへの反省に基づいていた。このシステムによって患者の 4 人に 1 人は 25 ドルだけ支払えばいいように組織全体として経済的なバランスを取った。このシステムによって、例 えばニュージャージー州の CCS は 4 人中 2 人を、アイオワ州のCCSは 7 人に 1 人を 25 ドルでサービス を提供することが可能となった40。 このように CCS の参加者たちの目は常に最も困難を抱える弱い立場の女性たち、すなわち医療現場で 排他される貧しい低階級の女性たちに向けられていたといえる。彼らは CCS の活動を非営利で行い、患者 が信徒であるなしに関わらず寄付を除きサービスに際して一切の代金を受け取らなかった。それはやむに やまれず相談来た女性に対して行うサービスに値段を付けることは「免罪の安売り」であるという信念に基 づいていた41。 次に安全性の実現のための方法として、徹底的な紹介先の調査について言及したい。初期の参加者た ちは、まず女性が紹介された中絶医に関する評価のリストを完成させることに力を注いだ。紹介・手術を受 けた女性たちにモニターとしてその中絶医に関する医療的・個人的な治療の質に関する情報を CCS にフ ィードバックしてもらい、その中で否定的な体験が報告された場所は即リストから外したのである42。これは CCS の紹介する中絶医の安全性信頼性を高め、中絶紹介システムがより有効に機能することに貢献した。 では具体的にそのリストがいかなるものだったのか、デイビスの著書の中に掲載された 69 年 9 月から 70 年 12 月までミシガンの聖職者たちに実際に使われた紹介先のリストを紹介しておく。リストには場所も含め て九の項目に分かれて調査結果が記入されている。①場所、②その場所の法の状態(合法か違法か)、③ 手術を行う場所、④中絶の方法、⑤麻酔の方法、⑥治療方針、⑦手術できる妊娠期の限度、⑧ミシガン住 人の必要経費(薬代、航空費など費用の内訳と合計額)、⑨評価や CCS にとっての損害である。 ①の場所の内訳を紹介すると、国内は 12 ヶ所(ボルティモア中部、べスセダ、シカゴ、クリーブランド 4 ヶ 所、インディアナポリス、ロスアンジェルス、サンノゼ、ワシントン DC)、国外は 5 カ国(ロンドン、メキシコシティ、 398 宗教界における中絶観の革命 プエルトリコ、東京、ウィンザー)に及ぶ。特に 25 週を過ぎた妊娠の場合、遅い段階での中絶手術が可能な のはロンドンと東京のみであり(国内では最高でもサンノゼの妊娠 20 週だった)旅費が国内の 2 倍以上か かるのにもかかわらず紹介するしかなかった。このような遅い中絶は母体を危険に曝すだけでなく、費用が 旅費を含め 1000∼1925 ドルもかかったことがわかる。⑥の治療方針と⑨の評価はいずれも詳細に書きこ まれ、確認された跡がある。さらに の評価を見ていくといずれも費用や治療法の欠点が指摘する部分が 多くこれは「悪いリスト」ではないかと推定される43。このようにCCSは複数の項目に渡り、中絶医に関する詳 細な情報を集めたのである。このことが安全な中絶手術の提供へと直接的に結びついたことは言うまでもな い。 以上、第 2 章では CCS 運動の概要を歴史と活動に分けて概観してきた。第 1 節においては設立からニ ューヨーク支部解散までの運動の歴史を、第 2 節においては運動の内容を、理念、カウンセリング、中絶医 紹介サービスという三つの観点から述べてきた。ともすると大雑把ではあるが、CCS 運動の意義を問うため に、その歴史と内容を大まかに把握するために欠くことのできない導入部分である。これを踏まえて、次章 では CCS の宗教的意義について述べていきたい。 第3章 CCS における宗教的倫理観の革命 60 年代後半、中絶合法化の動きが医学界や女性解放運動など様々な場所から生じる中で、CCS だけが 宗教界という象牙の塔の中から生じた唯一の動きであったことは特徴的である。この章では CCS が宗教界 から生じた運動であることに注目し、主にその宗教的意義と宗教的倫理観の革命について明らかにしてい きたい。 第 1 節ではキリスト教会の中絶に対する伝統的倫理観が初代教会の時代から長い歴史の中でいかにし て形成されてきたかについて言及する。ここでは暫し60 年代後半のアメリカから離れ、古代ギリシア・ローマ 時代にまで遡ることになるが、中絶を罪とする教会の伝統的倫理観がいかに長い歴史を経て確立してきた かを鑑みることは、現代教会がなお根強く守り続けるプロライフの立場を理解する上で不可欠であると考え る。 第 2 節では第 1 節で述べた教会の伝統的中絶観を踏まえた上で、CCS がいかに大きな変革であったか ということに言及する。ここでは CCS 運動の二つの宗教的意義について論じていきたい。第一の意義は、 CCS はアメリカにおいてそれまで中絶問題に関し議論を避けてきた宗教界の長い沈黙を破った最初の動 きであることだ。第二の意義は、初めて宗教界から声を上げた CCS の主張は他ならぬ女性の中絶を擁護 するプロチョイスの立場の表明であり、実際にその理念の実践したことで、キリスト教の倫理観・中絶観を根 底から覆したことである。 第 3 節では宗教界、とりわけプロテスタント教会からプロチョイス運動が起こりえた要因を分析する。なぜ 本来ならばキリスト教の教義や道徳観に最も頑なに殉じようとするはずの聖職者が、中絶擁護という全く相 反する信念を持ち行動するに至ったのか。当時起こり始めていた女性解放運動「Jane」44の類似した活動 と比較したとき、CCS 運動の特徴として、セクシュアリティの視点を超え、人間の良心という極めてキリスト教 的な視点から行われたという特殊性が浮かび上がる。ではCCS がどのようにキリスト教的なのか。CCS 運動 をプロテスタント教会の倫理観と照らして分析していく。 399 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 第1節 キリスト教会の伝統的中絶観 一口にキリスト教といえども擁護派に傾くとされる聖公会、メソジスト派、長老派、ユニテリアンと反対派に 傾くカトリック、ルター派、バプテスト派など今日その立場には様々ある。しかしながら、旧訳聖書「創世記」 における、神はアダムとイヴを創った後彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」45という記述に基づき、 ローマ時代からキリスト教会は伝統的に、中絶は勿論、産児制限、避妊の類はすべて神の意思に反する行 為という考え方を根強く持ち続けてきた。では中絶を重大な罪とする伝統的キリスト教会の立場がいかにし て形成されたのかをマイケル・J・ゴーマンの研究を参照しながらギリシア・ローマ時代に遡って見ていく。 中絶反対の立場は古代ギリシアにおいて既に現れていた。もっともそれは宗教的倫理からではなく「ヒポ クラテスの誓い」46という医学的倫理において明らかにされた。一方でプラトン・アリストテレスのように中絶を 擁護する人々もいるにはいたが、今日のプロチョイス派が主張するように「女性の権利」という観点からの擁 護ではなく、個人は国家のために存在しているのだから、人口過剰による国家の衰退を避けるために中絶 は行われるべきだというむしろ個人の権利とは相反する主張であった点は興味深い。こうした賛否両論の 中でも原則的には古代ギリシアにおいては、中絶は行わないという倫理観が守られ、この倫理観が後のロ ーマ時代のキリスト教へ、さらにはユダヤ・アラブ人にまで受け継がれていくのである。 そして 1∼3 世紀の初期キリスト教において中絶に関して三つの主題が現れた。第一に胎児は神の被造 物であること、第二に中絶は殺人行為であること、第三に中絶の罪を起こしたものには神の裁きが下ること である。新約聖書において直接的に中絶を禁じたり、非難する箇所はないが、「ガラテア書」「ヨハネの黙示 録」は魔術・薬物・致死薬を禁じることで中絶も間接的に否定したという解釈が可能とされる。『ディダケー』 『バルナバ書』で初めて中絶は殺人として禁じられた。『ペテロの黙示録』では中絶された者は永劫の罰を 受けるとされ、クレメンスは胎児の命を新約聖書の「ルカ福音書」を用いて説明した。 このように護教家たちの言説に中絶の罪が明らかにされると、この 3 つの主題が普遍のものとなり、キリス ト教を国教とするに至ったローマにも次第にその宗教的倫理観が浸透していく。それが明らかな形となった のが 3 世紀ローマで制定された中絶禁止法であった。さらに 4∼5 世紀、キリスト教信者の間でも中絶が増 加する中で、古代教会は倫理的立場を守り続け、宗教会議や教父によって中絶は重罪として扱われた47。 これらが今日のカトリック教会のプロライフの主張に影響を与えていることは明らかである。 このように中絶を殺人の罪と考える倫理観・中絶観はすでに古代キリスト教会の時代から、さらに遡るなら ば古代ギリシアの時代から医学的倫理観や男尊女卑思想と絡み合いながら、長い時間をかけて形成され てきたことがわかる。そしてこうした伝統に支えられた根強い中絶観を宗教界に身を置く者が内側から打破 することが、物理的にも精神的にもいかに困難であったかは想像に難くない。 第2節 第1項 CCS の宗教的意義 アメリカ宗教界の沈黙の打破 第一に、CCS はそれまで中絶に関しいかなる議論も避けてきたアメリカの宗教界から上がった最初の声 である点で意義深い。ではその意義を明らかにするために、中絶問題に関する宗教界の沈黙とはいかなる ものだったのかを見ていきたい。 中絶に関する一切の議論が停止した「沈黙の一世紀」の間、宗教界もまた中絶問題には沈黙した。とり わけ 19 世紀後半、非合法時代の発端として医師たちが反堕胎キャンペーンを行い、時代が中絶規制へと 動く中でさえも、宗教界は運動を擁護するでもなく無関心を貫いた。プロテスタントの各宗派もカトリック教会 400 宗教界における中絶観の革命 も南北戦争の終わる頃まで中絶に関しほとんど公的発言を行わず、反堕胎キャンペーンの活動をする医師 たちは聖職者のバックアップが得られないことに不満を漏らしていた。 今日プロライフの急先鋒であるカトリック教会は、19 世紀を通じて中絶問題に関してほとんど重要な役割 を果たしていない。そもそも 19 世紀のカトリック教会において中絶が殺人であるということは教義にさえなっ ていなかった。当時のカトリックの教義では男の胎児は妊娠後 40 日で、女の胎児は 80 日で魂が吹き込ま れると信じられていた。カトリックが漸く生命は受精の瞬間からはじまるという立場を正式に支持し、中絶を 殺人行為としたのは、科学的に受精が確認され教皇ピウス 世が「無原罪の御宿り」説を信仰箇条として宣 言した後の 19 世紀末になってからのことである。また当時のカトリック教会の刊行物の中に中絶に関する言 及はほとんど見当たらない。1869 年、ボルティモアのスポールテイング司教は司教書の中で中絶を「神と 教会の目には大いなる罪」として非難したが、いかなる状況下でも中絶を認めないとする点で、母親の生命 を守るための治療用中絶を認める医学会の認識とは異なり、当時もはや中絶が広く行われている現実を全 く無視していた。 CCS 運動の参加者の主体を占めたプロテスタント教会のいかなる宗派も、19 世紀において中絶に関心 をもっていなかった点ではカトリック教会と同様であった。1860 年の末、組合教会派とプレスビテリアン派の 聖職者たちが「出産前の子殺しの蔓延」を非難するが他の宗派はそれに続かず、各教会は 70 年代には再 び発言をしなくなり、医学会との協力関係は成立しないまま終わった48。 宗教界が中絶問題に関し公の場での議論を避けてきた理由として、モアは次の四点を挙げている。第一 に教会は少なくとも建前上は、敬虔なキリスト教徒の女性たちの間で中絶のように淫らで不自然な行為に関 わることはないという前提に立っていたこと、第二に当時の宗教界の出版物は、非常に遠まわしな表現を除 き、性的な話題を取り上げることはほとんどなかったこと、第三にプロテスタントの聖職者の間でも胎動前の 胎児は人間ではないという伝統的な見解を持っていたこと、最後にもし医師たちが主張するように中絶を求 める女性の多くがプロテスタントならば、教会としては中絶を断罪する明確な態度を取ることで信者との間に 余計な波風を立てたくなかったことである49。 このように 19 世紀には医師たちが反堕胎キャンペーンを行う一方で、宗教界はカトリック、プロテスタント 各宗派ともに、中絶問題にはひたすら目を瞑るという態度を取り続けたことは注目に値する。宗教の教義や 道徳観に縛られ現実を見ようとしない聖職者たちの態度は、胎児の生命は受精の瞬間からはじまるという科 学的新発見が即反中絶の動きへと結びつく医師たちとはあまりにも対照的であった。そしてその頑なな道 徳的態度は、先述のように不法中絶時代、中絶を受ける女性の数も、不法堕胎・自力堕胎をして死んでい く貧しい低階級の女性の数も増え続ける中で「女性たちが中絶のことを最も相談したくない相手が聖職者、 次にホームドクター」とまで言われるようになる50。 今でこそ中絶に関し盛んに議論を交わすアメリカの宗教界であるが、このように CCS が誕生するまでの 宗教界の長い「沈黙」の歴史を鑑みたとき、1967 年、ニューヨークのプロテスタントの牧師たちが中絶問題 に関して正面から声を上げたことがいかに果敢な行為であり、当の宗教界にしてみれば驚愕に値する出来 事であったかわかる。宗教界の内側にいる者がその世界の常識を逸脱して中絶問題に声をあげたことそれ 自体問題である以上に、その声は従来の中絶を罪とするキリスト教の倫理に根ざしたものでははく、それと は全く相反する女性の中絶する権利を擁護する「プロチョイス」の立場の表明に他ならなかったからである。 401 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 第2項 宗教界から生じたプロチョイスの主張 宗教界から内側から声を上げた CCS の主張が、女性の中絶を擁護するプロチョイスの立場の表明であ ったことは CCS の最大の意義であるといっても過言ではない。レイダーが述べているように運動の主体が 聖職者であったことで「背後にいる卓越した、率直に発言する聖職者たちの道徳的重みが加わった」51 。 CCS は規制法改正運動、しいてはプロチョイスの立場に正当性や権威を付与することにもなった。第 1 節 で述べたような中絶を罪とする教会の伝統的倫理観を考えれば、CCS の設立がそのまま、宗教界に対する 正面きっての宣戦布告を意味することは容易に理解できる。しかしながら今日プロライフの急先鋒として知 られるカトリック教会は中絶問題に対するのと同様、CCS の活動についても黙認する形を取ったため、当初 は衝突には至らなかった52。カトリックが中絶反対を表明し本格的にロビー活動を開始するのは 73 年のロウ 判決以後のことである。では CCS 運動はどのようにプロチョイス的だったのか。聖職者たちが持ちえた中絶 に対する新しい倫理観、中絶観とはいかなるものなのか。 第 2 章第 2 節で紹介した誓言の中からそれを明らかに表す言葉を引用する。まず CCS は中絶=胎児 の殺害とするキリスト教的倫理観を次のように否定している。「胎児には胎芽の生命があるかもしれないが、 殺人という罪を犯しうる生きた子供などいないのだから、妊娠を終わらせてもよいと我々は断言する」。それ を正当化するべく「人間の生命の神聖さへの信仰は、困難を抱える女性の助けとなり思いやりを持つこと、 自力堕胎や医療基準の下で行われた手術のために今日母親を奪われた多くの生きている子供たちに関 心を持つことである」と述べ、さらに中絶サービスに関しては「聖職者として、法の規約を超える高潔な法と道 徳的義務があると信じるがゆえに、我々は問題ある妊娠をした全ての女性を助けることが我々の責任であり 宗教的義務だと信じている」と言い切る53。 デイビスもまたある牧師の言葉を引用して当時の聖職者たちの道徳観を説明している。「妊娠を終わらせ るということは中絶が正しいか否かという問題ではない。そのような問いはそれ自体ア・プリオリに与えられる 答えを想定しているか、ア・プリオリな前提から発されている。問われるべきは妊娠を続けることと中絶とどち らがより人間味があるかだ」54。荻野の言うように、彼らの道徳観は従来のように中絶を善悪二元論的に悪と するものではなく「状況倫理的に判断しようとするもの」だったことは疑いない55。聖職者たちは現実的必要 性の目の前にして、神学や宗教的道徳による机上の理論はもはや無意味であることを悟った。牧師は次の ような言葉で伝統的男性支配社会が女性だけに中絶の罪を負わせている現実を指摘している。「性行為の 結実が罪や悲劇を生むならば、女性は一人でその重荷を負う必要はない。しかし「男性主導の伝統」では、 女性は男性と彼女自身の両方の身代わりを引き受け、一人で責任を負うことを強いられる。社会全体として 最初から全体の仕事の責任に直面していないことが罪なのだ。」さらに聖職者たちの新しい倫理観につい て彼は次のように定義している。「濫りな医療サービスを避けるため、望まない妊娠をした中絶を求める女性 を助けるためことこそが我々にとっての道徳である。彼らが感染したり、穴が開いたり、不妊になったり、堕落 したり、自分を憎悪したりしないよう助けることこそ道徳である。彼らを必要なときや可能な限り最も建設的で 癒される決断をする転機ときに助けることこそが我々の道徳である。」56 以上のことからわかるのは聖職者たちの主張はプロチョイスの立場を宗教的に正しい義務であると考え ていたということである。先述のようにCCS の参加者たちの中には教会の規範や道徳観に背いているという 後ろめたさ、倫理的葛藤を感じた者も少なくない。しかしながら聖職者たちは宗教的でなかったために、 CCS 運動に従事しプロチョイスを支持したのではない。これは非常に興味深い矛盾であるのだが、むしろ 自らの信仰に誠実であればこそ、サービスを立ち上げ中絶を擁護しえたのである。 402 宗教界における中絶観の革命 第3節 宗教界からプロチョイスが起こった要因 CCS が設立されたのと同じ頃、中絶規制法に疑問を投げかけ中絶をする女性の救済するための様々な 活動は、女性解放運動において個人・組織レベルで生じている。では CCS はそれらの活動とどのように違 うのか。 例えば CCS と類似した活動をした女性たちの組織にシカゴ女性解放連合のメンバーだった女性たちの 地下組織「Jane」がある。そして確かにJane の活動は CCS が行ったような中絶医紹介だけでなく、独学で メンバーが手術まで行ったという点で当時としては画期的なサービスであったことは疑いない。しかしながら 女性たちがこのようにフェミニズムの立場からの同性の救済と権利の主張を実践することは、女性解放運動 の流れの中にごく自然に位置づけることができる行動であると考えられる。 それと比べるとその担い手のほとんどが主に男性で占められる聖職者であった CCS 運動は極めて特殊 である。男性であるにもかかわらず彼らは法改正を二の次にして、まず中絶を望む女性たちの苦しみに注 目した。そればかりかその背景にある女性だけに罪の重荷を負わせ搾取する男性優位社会までも問題視 していたことは、デイビスの研究から明らかである。ここにはセクシュアリティを越えた視点を見出すことがで きる。それはすなわと女性・男性の区別に捉われず、人間としての良心から今現在に目の前で搾取されて いる最も弱い立場の人間の苦しみに目を向ける視線、すなわち非常にキリスト教的な視点である。これが先 に述べたように CCS が極めてキリスト教的な精神のもとに起こった最もキリスト教的でない運動であると考え る所以である。 では本来伝統的キリスト教の教義や道徳観に最も頑なに殉じようとするはずの聖職者が、なぜ中絶擁護 という全く相反する信念を持ち行動するに至ったのか。その要因を考えるには、参加者の大半がプロテスタ ントの牧師であったことを見逃すわけにはいかない。実際に運動に関わったプロテスタントの牧師の人数、 比率はその宗派とともに明らかでないが、大多数である。ユダヤ教のラビやカトリックの神父も参加していた もののごく少数であったことがわかっている。では CCS は果たしてプロテスタント的な運動であるといえるの だろうか。 デイビスは CCS の起源となったプロテスタント教会の特徴について次のように言及している。プロテスタ ント教会は組織的には分裂していたが自治的に集う傾向があり、公共の監視がない場所で牧師には最大 限の自由が与えられた。さらに参加者の多くは 60 年代前半に公民権や反戦、女性の権利、貧困撲滅運動 に参加していたが、それは彼らが中絶問題にも積極的に関わっていったことと論理的には一貫していた57。 教会という聖域の中で自由が認められた聖職者たちのパイオニア精神が当時不法であった CCS の活動の 原動力となったというのは大いにありえることである。 では参加者たちの根底にあったプロテスタント的な意識とはいかなるものなのか。H・D・ヴェントラントが 主張するプロテスタント教会の社会倫理と照らし合わせて、CCS 運動が持つプロテスタント的特性について 分析を加えていきたい。ヴェントラントの主張は主としてヨーロッパのキリスト教会を対象としたものであり、ア メリカの教会に限定されるものではない。しかし歴史的に 19・20 世紀のプロテスタント教会全般の特徴とし て個人主義原理と世俗化への傾向を主張している。すなわち個々のキリスト者は教会との霊的活力とのか かわりを喪失し、孤立した信徒の中に世俗化が浸透した。このような世俗的キリスト教会が共同体的結合の ために必要としたものこそ「愛の奉仕活動グループ」であった。「世俗的キリスト教はその本来的活動形式を 奉仕活動のうちに秘めている」とヴェントラントは述べている。すなわち「共に働き、仕え、互いに交わり、協 力し合う」奉仕活動をすることで相互にキリスト教的生存を確認し、さらには現代社会の様々な課題を明ら 403 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 かにしようとしたのである58。CCS に参加した聖職者たちがヴェントラントの言うような「世俗化」の影響をどれ ほど受けていたかということを測ることはできないが、CCS の非営利活動が世俗化したプロテスタント教会が 全般的に依拠するという「奉仕活動」であることは疑いない。彼らは全くの無償で、ミシガンの初期のメンバ ーを例に取ると週に 60∼100 時間もの時間をカウンセリングや法改正などの一連の運動に捧げたのであ る。 さらにヴェントラントの述べている世俗的キリスト教における四つの特徴を考えると CCS 運動の持つ宗教 的特徴と重なる部分が多いことが明らかになる。その第一に奉仕活動グループはその課せられた仕事を自 分たちが生きている社会から受け取ることである。第二に、神学者や聖職者の立場は「奉仕者であって支 配者ではない」ことである。ヴェントラントは「神学者はここでは全く新しい立場に付くのであって<中略>も はや地方教区におけるような教区指導者、また司教区のビショップではない。彼はここではただ<中略> 平信徒とともに仕える者、また彼らの助手にほかならない」と述べている。第三には非キリスト教との共同を 目指していることである。なぜなら「現代社会とその構造から生じてくる諸問題は、キリスト者、非キリスト者を 問わず同様」であり「人間性・仲間性・自由・正義の根本原理もキリスト者にとっても非キリスト者にとっても変 わりはない」からで、たとえ意見が異なるとしても人間実存について非キリスト者と批判的な対話をすることで 学ぶものも大きいと考えるからだ。第四はその公開性である。社会という自由な領域で活動する以上、外に 向かって自己を閉鎖する組織となるのではなく、社会に対する公開原理の下に信仰の有無に関わらずあら ゆるグループの人と対話することを重要視している。その理由としては「キリスト教的良心、公開性の原理か ら必然的に起こる個人もしくは奉仕活動グループのキリスト教的実体への追求はキリスト者ばかりがその同 類者と共に自分の屋根の下に集る場合よりははるかに大きい」としている59。 以上の四つの特徴と比較したとき CCS はどうであったか。第一の特徴と照らしたとき、聖職者たちが取り 組んだ中絶問題は、表面化こそしていなかったが当時の最も深刻な社会問題の一つであった。さらに聖職 者たちが女性の「支配者」である男性としてではなく、セクシュアリティを越えた人間の良心の視点から女性 の「奉仕者」に徹したことはこれまで述べてきたとおりである。第三に挙げた非キリスト教徒への態度は CCS の参加者たちの信者でない女性たちに対する寛容な対応につながる特徴といえる。デイビスはほとんどの 聖職者カウンセラーたちは、信者か信者でないかわからない見知らぬ人々のために仕事をしており、信者 でない女性のために時として教会の規範を破らねばならなかったことは聖職者たちの負担となったことを明 らかにしていた。患者が信徒であるなしに関わらずサービスに際して一切の代金を受け取らなかったことも 先述の通りである。彼らは非キリスト教者の人間性をも平等に尊重したのである。第四の特徴である公開性 に関してはとりわけ顕著である。何しろ中絶規制時代という状況下、違法行為として罰せられる危険を犯し て、CCS はその活動を公表した。それは第一に情報も支援もない女性たちに中絶サービスの存在を知ら せることを目的としたものであるが、同時に社会の様々なグループの人々に対し中絶問題に関する対話の 呼びかけでもあったとも言える。実際 CCS 運動は水面下に隠蔽されてきた中絶問題を明らかにし、世論を 法改正へと動かしたことで評価されている。このように見てみると CCS は非常にこの当時のプロテスタント的 な特性を多く帯びていることがわかる。 第4章 CCS が後世の中絶医療に残した遺産 この章では第 2 章に続く形として中絶法改正後のニューヨークに焦点を当てる。そして CCS のその後の 活動として第一に「Clergy and Lay Advocates for Hospital Abortion Performance」の新たな設立、第 404 宗教界における中絶観の革命 二にニューヨークで最初の独立中絶クリニック「The Center for Reproductive and Sexual Health」の設 立を取り上げる。そしてクリニックの設立により CCS が後世の中絶医療に残した遺産、すなわち貧富に関わ らず全ての女性に平等に低費用で安全な中絶を提供するという CCS の目標がその後の独立の中絶専門 クリニックに受け継がれていったことを明らかにしていきたい。 第 1 節においてはその背景ともなった法改正後もさして変わらないニューヨーク州の医療現場の様子や 悲惨な中絶状況、そのような状況の下に、法改正と共に一度は解散した CCS が再び新たな結成を余儀な くされたことに言及する。さらに自由化の下で新たに生じた金儲け主義の中絶業者、中絶方法の問題につ いて触れる。 続いて第 2 節ではニューヨークで最初の独立中絶クリニックの設立とその医療サービスの実態、さらにそ れをモデルとしてどのように CCS の理念が全国に広がっていったかを見ていく。 第1節 第1項 中絶自由化後のニューヨーク 健康医療機関の失敗 ニューヨーク州における中絶法改正は CCS 始めとする撤廃派の勝利として語られるが、それが実質的に はどれほど女性にとっての勝利といえるかは疑わしい。確かに1970 年 7 月 1 日をもって法律の上ではニュ ーヨークにおける妊娠 24 週までのいかなる中絶も自由となった。健康医療機関はニューヨークの市立病院 は求められた中絶には全て応じることを保障した。そのため合法化後のニューヨークには、全米各地や海 外から合法中絶を受けるために女性たちが殺到したのである。撤廃後の二年間にニューヨークで中絶を受 けた女性の 65%以上が他州から来た人々であり、イリノイ州からだけでも 1 万 3000 人が訪れた60。しかし 荻野は、こうした遠くの地から旅費と時間をかけて出かけて来ることができたのはごく限られた裕福な人々で あり、ニューヨークにおける法改正は大多数の女性にとっては問題の解決からはほど遠いものだったと述べ ている61。 さらにニューヨークに来た女性たちが直ぐに病院で中絶手術が受けられたかといえば、実際は逆であっ た。病院はフル稼働で手術を提供し、撤廃前には年に2000 件ほどしか行わなかった合法中絶を、70∼71 年の間に 6 万 7400 件も提供した62。たがそれでも全米・海外からの需要の多さには追いつかなかった。最 初の 2ヶ月間、患者は手術を受けるまでに平均 3∼4 週間もの時間を待たねばならず、71 年 3 月の時点で も中絶の 99%を扱ったニューヨークの市民病院では、女性が最初に訪れてから手術が提供されるまでに 12∼14 日間もかかった63。初期妊娠の段階で病院に来た女性たちも病院をたらいまわしにされるうちに妊 娠が進み、手術が遅れた分だけ生命の危険や中絶のトラウマが増した。医師は貧しい女性にも 300∼500 ドルという高額な料金を手術前に払うよう請求し、支払いとは無関係に病院は「要求に応じた中絶」を提供 するという健康医療機関の公的な態度とはかけ離れたものだった64。事前に料金を支払ったにもかかわら ず、待たされたあげくに手術が受けられない患者も少なくなかった。 こうしてニューヨークにおいて中絶手術を待つ患者は増え続けたのである。新法が施行された 7 月 1 日 に病院に登録された 717 人だった中絶待ち患者数は、8 月 12 日には 1380 人と倍に増え、それから約一 ヵ月後の 9 月 17 日には 2500 人とさらに倍に膨れ上がった。そして医療現場がこのような混乱状況の最中 にあったにもかかわらず翌 9 月 18 日、健康医療機関は市立病院における中絶プログラムは「成功」してい ると発表した65。 このような中でとりわけ犠牲となったのは規制時代と同様に貧しい女性たちで、病院でも個人経営の中絶 405 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 医の下でも安全で低費用な中絶は望めなかった。CCS が解散したニューヨークでは CCS による料金の圧 力がかからなくなったので、病院でない場所で中絶を受けるにも 300 ドルという高額な料金を要求されたの である。 中絶を求める女性に対する病院の医者たちの偏見や差別的態度も相変わらずだった。ようやく市立病 院で中絶手術を受けることができた女性がどのような仕打ちを受けたか、法改正後も女性に対し思いやりの 無い病院の態度についてムーディーは言及している。中には無神経にも中絶した女性を出産した赤ん坊 が届けられた女性と同室に寝かせたり、中絶した女性に病院の権限で「故人の母親」として「胎児の死亡証 明書」にサインさせたりした医者がいたことが記されている66。 このように皮肉なことに、ニューヨーク州で中絶が自由化したにもかかわらず、非合法時代に CCS がニュ ーヨークで約束してきた「早く、安全で、低費用の中絶」を受けるためのシステムは機能しなくなったのであ る。 第2項 新たな結成 (Clergy and Lay Advocates for Hospital Abortion Performance) ムーディーはこのような医療現場の状況を生んだ原因として見せかけばかりの健康医療機関のシステム を批判し、とりわけ健康委員会の健康法規定については「事を急くあまりに謝った判断を下し、プラグマティ ックな経験に基づいておらず、病院システムが扱える中絶の需要を正しく評価できていない」67ものだと述 べている。(1)に述べた医療の状況を考えればニューヨークにおける行政の失敗は明らかだった。 こうした医療現場の状況に対し、ニューヨークの CCS は解散した同日においてもう一つの決断が下すこ とになった。中絶に対する偏見に満ちたニューヨークの市立病院の医療を監視し、その官僚主義的経営の 被害にあった女性を救うべく活動する組織「Clergy and Lay Advocates for Hospital Abortion Performance(以後 CLAHAP と略す)」の設立である。この設立にあたってはニューヨーク CCS のカウン セラーだった聖職者たちをメンバーとして再構成し、女性の権利運動家バーバラ・クラスナーをコーディネ ーターにした。新しい組織は女性が再び安全で低費用な中絶手術を受けられるよう、さらに妊娠1∼2 期の 中絶を行う病院システムの経済的非実用性や不備の証拠を揃えるために活動を開始した。 法改正後のニューヨークにおける紹介サービスは CCS の本部が行った。もっとも中絶待ち患者が増え続 ける中、ニューヨークには様々な紹介サービスが起こっていた。アメリカ家族計画連盟(FPIS)は「家族計画 電話相談サービス」を設置し、撤廃後数ヶ月間 16 の交換台から連日 300 の電話を受け付けた。後には CLAHAP も FPIS の紹介サービスに依存したようで、聖職者たちとは協力関係にあったようである。ニュー ヨーク市の厚生課もサービスを始め、両者とも英語とスペイン語で地下鉄に広告を出した。「人口成長ゼロ 委員会(ZPC)」はコンピューターを使って中絶医のデータを集め、アメリカ流語呂合わせで「AID(中絶デー タバンク)」と助けるという動詞「aid」の意をかけて)」と名づけた68。 しかしながら合法化後も CCS が最も信頼できる中絶ルートであることに変わりはなかった。1971 年半ば までにCCS(CLAHAPも含めて)を通した合法的中絶の数は実に 7 万 5000になったと推定されている69。 そのため CLAHAP が法改正後の医療状況に対し記者会見を通じた公的な批判を行うと、市の健康委員 会はかなりのダメージを受けた。同年 12 月までには状況はだいぶ改善されたものの、健康医療機関が病 院における中絶の非実用性についての CLAHAP の批判を認めるのには一年の歳月を要したとされる70。 406 宗教界における中絶観の革命 第3項 新しい問題 市立病院において手術の提供が間に合わず中絶待ち患者が増え続けたことは予想外の問題であったが、 中絶自由化の下には他にも新たな問題が山積みとなった。ムーディーはこの原因として「83 年以来続いた 中絶規制法の撤回という大きな社会変化はこれまでになかったことであり、法改正後に起こるであろう問題 に対して準備がされていなかった」71と述べている。 まず合法化後に新たに生じた害悪として営利目的の中絶紹介業者の問題がある。彼らはし仲介業者を 間に挟み、その料金を加えて CCS が実現した低コストの中絶を脅かした。CLAHAP の活動に加わった中 にさえ自分の利益を欲する人々が少なくなかった。金銭的利益を動機にする起業家(医師)や「ビジネスマ フィア」たちは CCS(CLAHAP)の患者を欲しかったためにすすんで紹介サービスを手伝った。合法化した ばかりで医療体制がまだ過渡期にある間にいち早く金儲けをする可能性を見出した彼らは、10∼100 ドル で CCS 時代から蓄積されてきた中絶医に関する情報を売ったのである。これらの営利業者の問題は結局、 CCS の努力によってニューヨークにおいて営利サービスを禁止する法律「4501 項 45 条」を実現したことで 解決した。既に述べたように CCS は設立当初から一貫して自主的な寄付以外のいかなる料金も求めない という原則を守っていたためこれらの営利紹介業者とは完全に区別され、この法に処罰されることはなかっ た。ムーディーは、このように合法化の直後に営利業者が成長することを予想せずにニューヨーク CCS を 解散させたことを「誤り」だったと述べている72。 第二に直面した問題はニューヨークの医師の中絶方法である。CCS がこれまでロンドン・日本の医師の 元に送っていた 24 週までの中絶患者を合法化後はニューヨークに送ることになったが、ニューヨークの医 者は女性に精神的なトラウマを残す処置である「塩分法」しか用いようとしなかったのだ。 ニューヨークは24 週までの中絶を自由化したが、第二期(13∼24 週)での中絶は危険なため行われるこ とは少なかった。1970 年 7 月∼72 年 6 月までのニューヨーク市での合法中絶による死亡率を見てみると、 第一期(12 週以下)の中絶が 32 万 1500 件で死亡率が 4%であるのに対し、第二期だと 8 万 500 件に減 少し死亡率が 12%に跳ね上がっており、妊娠段階が進むとどれほど危険が増したかは明らかである73。し かし中絶手術に漕ぎつける前にカウンセラーに情報をもらい、一緒にクリニック行き、旅をして、などしている うちに 12 週くらいは経ってしまう場合は少なくなかった。長く待たされることは手術の危険性が増すとともに 女性のプレッシャーとなったことは勿論である。 そして第二段階で中絶をする場合、アメリカでは「塩分法」という方法が一般的に用いられたが、この方法 は「小さな出産」のような形態を取り、女性は生まれてきた胎児の姿を見てしまうために精神的に非常に混 乱しトラウマが残すものだった。これまで患者を送ってきたロンドンや日本の医師は「ラミナリア法」を用いて おり、これは「塩分法」よりは女性のトラウマが少なかったので、聖職者たちはニューヨークの医師にもこの方 法を要求したが、危険な処置だからという理由で拒否された。しかし人を雇って「塩分法」を行う病院を観察 した結果、ムーディーはニューヨークの医師たちが「ラミナリア法」を用いたがらない本当の理由がわかった と述べている。「ラミナリア法」は胎児を器具で切断する方法である。「塩分法」が女性のトラウマとなるならば、 「ラミナリア法」は医師の精神的負担となるものだった。「医師は患者の命を救うためと証して実は自分の不 快な時間を過ごさずに金儲けをしようと「塩分法」を用いていた」のである74。 以上のような合法化したことで生じた様々な問題を改善すべく CLAHAP、そしてニューヨーク CCS の代 わりに CCS 本部は活動した。さらにニューヨークの失敗を教訓として他の地域にも生かし、合法化後の土 407 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 台作りを準備するべく全国の CCS に働きかけた。 第2節 第1項 アメリカ初の独立中絶クリニック (The Center for Reproductive and Sexual Health) 設立 ニューヨーク州中絶改正法案が施行されるのと同日の 1970 年 7 月 1 日、すなわちこれは CLAHAP 設 立の日でもあるのだが、ダウンタウンのホテルの一角に新しい非営利の中絶クリニックが産声を上げた。ハ ル・ハーベイ医師と CCS が協力して設立したアメリカ初の独立中絶施設である「The Center for Reproductive and Sexual Health(別称:Woman’s Service、以後こちらで表記する)」の誕生である。こ の設立に至るまでには非合法時代から続く CCS の多大な努力があった。 CCS によるクリニック設立の動きは合法化以前の 69 年、ニューヨーク州議会が中絶問題に関する立法 に失敗したときから既に生じていた。裕福な人々が病院で「治療用中絶」が許され、貧しいものは拒否され るという法律の見せ掛けを暴くため、聖職者たちは水面下で CCS の活動を続けながらも、法を破ってニュ ーヨークに中絶施設を設立することを決意し、翌 70 年 12 月にはクリニック設立の三つの目的が明記された 趣意書がつくられた。その目的は第一に妊娠 10 週以前なら外来患者としてオフィスに訪れ手術を行っても 安全であることをこの試験的プロジェクトによって証明すること、第二にカウンセリング、検査、精神分析医の 診察、医療の援助、避妊教育を提供し問題ある妊娠をした女性を助けること、第三に支払能力と関係なく 安全で低費用な人間的な治療を提供することで75、第二・第三の目的は CCS の活動と共通していたといえ る。クリニック開設はこれまでの CCS の活動の中で最も法的に危険な行為であったため、この趣意書に従 いクリニックを非営利法人化する際には再び N.Y.C.L.U.のネイヤーやロンドンの協力を得た。聖職者たち の実行はすばやかった。女性にとって中絶は緊急に迫った問題で多くの会議や議論に時間を費やすよりも 一刻も早く「あらゆる点で不法中絶医よりましなサービスが受けられる」ようにするため計画が不完全であっ ても実行に移す方が優先されたのだ。土地を探し、医療器具を揃え、最初に必要な 4000 ドルのローンを 組み、70 年 1 月にはシャドソンメモリアル教会の裏の建物の二階にオフィスを借りた。そして後はCCS に協 力してくれる医師を探すことのみとなった76。 1970 年 4 月、「クッキー・レイッチャー中絶法改正法案」がニューヨーク州議会を通過すると、ムーディー はその日のうちに他州の知り合いの医師ハル・ハーヴェイからニューヨークでクリニックを開くという電話を受 ける。このハーヴェイの申し出によりCCS主導のモデル中絶クリニックを設立する必要がなくなり、CCSはク リニックをハーベイ医師に一任した。こうしてCCS がニューヨークでつくり上げた土台の上にハーヴェイ医師 によって Woman’s Service が設立されたのである。ハーヴェイ医師の治療は低コストで安全性の高い治療 や、女性を人間的に扱うとともに貧しい人にすすんでサービスを行ったという点で、CCS の理念を受け継ぐ ものであるとともに、外来クリニックという新しいヘルスケアの理想形としてアメリカの中絶医療に革命を起こ すものだったといっても過言ではない。 現在でも Woman’s Service は当時の最も優れた外来中絶クリニックとして評価されている。ポッツによる と「スタッフも施設も完備し、料金はほどほどで(貧しい女性には割引き)で、連日 25∼150 の中絶を行い、 手術前には一人一人にカウンセリングを行った」77とされる。最初の一ヶ月で全米の CCS から紹介を受けた およそ 700 人の女性がこのクリニックで手術を受けた。ではその治療内容がいかに良心的なものだったか を詳細に明らかにしていく。 408 宗教界における中絶観の革命 第2項 ① 治療方針 費用と安全性 Woman’s Service の第一の特徴は低料金だったことである。聖職者たちはハーヴェイから手術の値段 について相談を受けた当初、その当時の最低の中絶費用が「300 ドル」だったことを考慮して「200 ドル」を 提案した。すると彼はすぐに了解したばかりか、聖職者たちの自由裁量で「100 ドル」にしても「無料」にして もかまわないと提案してきたため、今度は聖職者たちの方が貧しい女性の自尊心を傷つけないよう「無料」 はやめ、最低でも 25ドルにしようと提案し返したというエピソードがある78。こうして1970 年に僅か 200ドル という当時としては破格の低料金で開始された手術は、1 年以内には 125 ドルとなった。ニューヨークの他 の中絶医や病院の相場が 300∼500ドルであったことを考えると、Woman’s Service の値段がいかに良心 的だったかは一目瞭然である。さらにWoman’s Service の評議委員会は全国の CCSに対し、先に述べた 経済援助システムを使い最低 25 ドルで中絶することに同意した79。 手術の安全性においても Woman’s Service は群を抜いていた。71 年の中期には一日 100 以上の中絶 を行い、2 万件以上の実績をもちながら、開業 1 年での死亡率はゼロだった80。 その後数ヶ月のうちに Woman’s Service をモデルにして次々とニューヨークに創られた中絶クリニックは 料金もこれを真似た。ニューヨークにおいて金儲け主義の営利業者が消えたわけではなかったが、大方の 他のクリニックはWoman’s Service と競争するために必然的に料金を同じに設定するかさらに安くすること を余儀なくされたのである。200 ドルという値段設定は三年間の不法中絶医との関わりの中で全国の中絶 料金について知り尽くした CCS だからこそできたものであり、CCSと Woman’s Service は 12 週の中絶の 適度な価格を確立したという点でその後の中絶医療に大きな貢献を果たしたといえる。 一方で Woman’s Service の料金の寛容さは欠点ともなった。CCS 以外の紹介サービスは支払能力のあ る女性は営利的なクリニックに、貧しい女性を Woman’s Service に自動的に振り分けるようになったのだ。 Woman’s Service にだけ貧しい女性の比率が増えるということは施設の経済的なバランスを崩した。 Woman’s Service は非営利クリニックであったため他のクリニックと違って税の控除を受けていたが、125ド ルは貧しい女性のための援助に使われていたからである。しかしこうした逆境にありながらも Woman’s Service は 70 年 7 月までに 6000 人の女性に 25 ドルかそれ以下で中絶を提供したのである81。 ② 人間的な治療 ハーベイ医師は患者に対する人間的な治療を重視した。開院すると間もなく患者から思いやりに溢れる 治療に感激したという報告が続々と寄せられた。手術の前には必ずカウンセリングが行われ、カウンセラー や看護婦は患者の中絶に対する不安を和らげ、心理的な準備をさせるよう心を砕いた。カウンセリングの中 では骨盤モデルを用いて何をするかを正しく説明し前もって知識を与えることで予測できない手術への恐 れを女性から取り除いたのだ。 患者に対するハーヴェイの配慮はクリニックの内装や設備にまで及んだ。ハーベイ医師は中絶は「病気」 ではないという信念を持っており、できるだけ患者から中が見えるようにオープンな、そして「病院」を連想さ せないような明るく親しみやすい内装を心がけた。例えば手術台にカラフルな鍋つかみをかけ、待合室に は編み物や雑誌などを備え、手術後に食べるためのクッキーやコーラを用意したのである。オフィスから医 療器具に至るまで、手術を前にして過敏になっている女性に恐怖感を与えないようにデザインされた82。こう した医療サービスの質という面でも、Woman’s Service は中絶手術が女性の精神的トラウマにならないよう 医師は患者に対し思いやりを持つべきであるという CCS の考えをまさに具現化したのである。 409 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 第3項 中絶クリニックの広がり Woman’s Service をモデルとして、その後数ヶ月のうちにニューヨーク中で似たようなクリニックが次々と 設立され、それらの独立クリニックは料金さえも Woman’s Service をモデルとしたことは既に述べた。こうし て Woman’s Service に始まったヘルスケアの理想形はこうした中絶専門の独立クリニックとしてニューヨー ク市から他州へと広がっていった。こうしたクリニックはその後も安い費用で中絶を提供する場所として、金 儲けが目的の中絶提供者を駆逐し、1971 年 7 月以来一人の死者も出していないことが示すように安全性 においても高い実績を残したのである。 その後 73 年のロウ判決によって中絶は女性のプライバシー権として認められるが、ニューヨークの場合と 同様でその後中絶がすぐにアメリカの全ての病院で提供されるようにはなったわけではない。というのは「良 心条項」83によって中絶手術を提供するかどうかは個々の病院や医師の裁量に任されたためである。またロ ウ判決を境に中絶反対を掲げ一転してロビー活動に積極的に乗り出したカトリック教会からの圧力もあり、 1975 年になっても中絶を提供しているのは公立病院で僅か 17%、カトリック系でない私立病院でも 28% に過ぎなかった84。1976 年にアラン・グッドマーカー研究所(AGI)が 1628 人の産婦人科医を対象に行っ た調査では、自分の診療所で中絶を行っている医者は 9%、病院のみで行っているのが 36%のみであっ た85 。こうした中絶提供施設の少なさを補う上でも大きな役割を果たしたのがニューヨークの Woman’s Service に始まる中絶専門の独立クリニックである。 こうした中で 73 年夏、NARAL と家族計画連盟は協力し、どのようにしてニューヨーク型のクリニックを開 設するかを教授するセミナーを全国で開催した86。こうしてクリニックの数は78 年はじめには 533 になり、全 米で行われる中絶の約 69%がそこで実施されるようになった。これに対して病院での中絶は 29%、個人開 業医によるものは 4%に過ぎなかった87。 70 年代末の時点でのある調査によれば、これらのクリニックは 4 分の 1 以上が女と健康グループや家族 計画連盟と提携した非営利ボランティア組織によって運営され、残りは医師や個人、企業によって経営され ていた。半数のクリニックが年間1000 件以上の手術を行っており、77 年から翌年にかけて中絶手術を行っ た非カトリック系病院 1661 のうち、59%が週平均 2 件以下しか実施していないのと比べると、その後のアメ リカにおける中絶がいかにこれらの独立クリニックに依存していったかが明らかである。 これらのクリニックは CCS がめざしたように低費用での中絶を行い続けた。これらのクリニックの半数の中 絶費用が 185ドルに収まるのに対し、病院では 1976 年の時点で平均 250 ドル、施術した医師に払う料金 が 100∼300 ドルと、合計で 350∼550 ドルもかかった88。 以上のようにCCSの理念を体現化した Woman’s Service が、その後多くの中絶専門クリニックのモデル となり、ニューヨークから全国へと広がっていったことは CCS が後世に残した遺産といっても過言ではあるま い。これらのクリニックは費用の安さや同意書提出を義務付けていないことから患者には若い女性が多く、 アメリカで中絶を受けるティーンエイジャーの 10 人に9 人がこれらのクリニックを利用しているといわれる。 終章 ―― 聖職者相談サービスの意義 CCS 運動の意義とは何か。第 3 章、第 4 章にわたって述べてきたように、本稿では CCS 運動に二つの 意義を明らかにしてきた。 第一には、第 3 章で述べた宗教倫理的意義である。CCSはアメリカにおいて中絶問題から目をそむけて 410 宗教界における中絶観の革命 きた宗教界の内側からその沈黙を初めて破った運動である。その主体が本来ならば、中絶合法化に向かう 時代の潮流の影響を最も受けにくいはずの象牙の塔の聖職者たちであり、従来の宗教界の倫理観・社会 通念を打ち破るにとどまらず、中絶を女性の権利とするプロチョイスの主張とその実践を行ったことの宗教 的意義である。 聖職者たちがこれまで教育されてきた神学的教義、宗教的道徳観という殻を破り、中絶の現実的必要性 を認め、女性の権利と献身的に擁護したことは、中絶問題に対する宗教の新しいあり方を示した。人間一 人一人に対し温かいまなざしを向け、とりわけ弱い立場で苦しむ経済的に貧しい女性を救うという本来キリ スト教がもつべき「良心」の姿を問い直したのである。それはとりもなおさず、これまで社会通念や常識という 形式に盲目的に依存し、精神的肉体的に搾取される女性たちを目の前にしながら長いこと黙殺してきた社 会に対し、真っ向から疑問を投げかけることでもあった。 CCS 運動が実際に中絶合法化にどれほどの影響を及ぼしたか、それは正確に測ることはできない。しか しながら67 年以来もっとも信頼できる中絶サービスとして、三年間でおよそ10 万人の女性にカウンセリング と中絶手術を無償で提供し続けた実績にこそ注目するべきである。聖職者たちのこの運動が世論を中絶合 法化へと動かす一つの力にはならなかったはずがない。CCS 運動は宗教界における中絶観の変革にとど まらず、社会の中絶問題に対する意識そのものの変革であり、ここに社会的意義を見出すには十分であ る。 第二には、第 4 章で述べたように新しい中絶医療を打ち立て、後世に影響を与えたという普遍的意義が ある。CCS がニューヨークにおける中絶専門の独立クリニック「Woman’s Service」の設立に深く関わり、そ の後の中絶医療の理想形をつくり上げるのに貢献したことは先述の通りである。「Woman’s Service」と CCS はその後関係が絶えていったようであるが、CCS の理念を受け継ぐこのクリニックを元にして次々と創 られた施設がニューヨークから全国に広がり、自由化の後も決して容易に受けられなかった中絶手術を「低 費用」で「安全」に提供し続けたという事実は CCS 運動が後世に残した遺産を証明している。 本稿では CCS 運動の理念やその倫理観を研究の中心にしており、厳密にこの論文の題名に従うならば、 第 3 章までに止めた方が纏まりはあったかもしれない。CCSにおける中絶観の変革が当時に与えた宗教的 社会的意義の大きさは、突き詰めればそれだけでも一つの論文で言い尽くせるものではない。しかし敢え て第 4 章で「Woman’s Service」を取り上げたのは、CCS の意義は 67 年に始まる活動時期のみにとどまる ものではないこと、すなわちその理念が時代を超える非常に本質的、普遍的なものを持つことを証明したい と考えたためである。 このように CCS 運動は宗教倫理的に、社会的に、そして中絶医療という面で「改革」であった。しかしそ れを一時代の改革に止めるのではなく、新たなる建設と普遍化を志したところに CCS 運動の真の価値があ る。CCS の設立者として最も深く運動に関わったハワード・ムーディーは、ともすると「改革」の限界を最もよ く理解していた人物かもしれない。ニューヨーク法の合法化に際し得た教訓として次のような言葉を残して いる。「法を変革することが社会的病理を治癒させ、正すわけではない。それはただ法的な障害を取り除く だけである」。「改革はしばしば真の変化の敵である」。そして「法は簡単に変わっても道徳的規範や禁忌、 倫理観はそう容易く消えるものではない」。 アメリカ社会に長く存在してきた「中絶」に対する差別と偏見がどれほど根強いものであったかを物語ると 共に、法廷で勝訴すること、あるいは大統領選で勝利することのみに中絶問題の関心を集約していった後 の時代に対する警告とも取れる言葉である。だからこそ CCS の目標は法を改革することではなかった。現 411 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 実に苦しむ女性の救済を最優先にして実践し続けたのである。中絶とは、今日のフェミニズムが陥っている ような権利の獲得でもなければ、宗教倫理や神学によってのみ禁じることのできるものでもなく、ましてや時 代の権力によって変わりうる絶対的な是非が存在するものでもない。中絶問題とは、現実に今そこにある必 要性と対峙することに他ならないのである。 その後、中絶問題はロウ判決以後、法廷闘争、政治闘争に舞台を移す。ロウ判決によって立場を確立し たプロチョイスとカトリック教会の主導するプロライフという対立構図が明確化し、その争いは激化していく。 ロウ判決で優勢を得たかに思われたプロチョイス派は、その後強烈なプロライフ派の巻き返しにあう。一つ の時代の流れは必ず、逆の流れを生み出すのである。 ムーディーはその後の中絶反対派の巻き返しを予言するかのようにこうも言っている。「勝利の振る舞い を用心し続ける以外に、社会変革において最終的な勝利などない」と。 1 この時代に生じた合法化の潮流として荻野はサリドマイド事件に影響を受けた医学界やメディア・世論、女性解放運 動の口火を切ったフリーダンの『女らしさの神話』、マニギスを始めと刷る個人活動家などを挙げている。19 世紀半ば中 絶規制化を実現させた張本人の医学界が、1950 年代後半には緩和の方向に動き出した。現場の医師たちからも「治 療用中絶」の基準の曖昧さが社会的批判や法の摘発を受けることに不安の声が生じた。また多くの女性がヤミ堕胎・自 力堕胎の危険を犯して病院に担ぎ込まれ死んでいく姿を目のあたりにする中で法改正によって「不必要な苦痛や死」を 無くしたいという思いが高まった。67 年、アメリカ医師会(AMA)は正式に ALI モデルに従った中絶自由化を支持する 声明を出した。 さらに 60 年代初頭からメディアによって国民の間に中絶に関する関心が高まった。新聞や雑誌など大衆メディアが暴 露ものやホラーストーリーの形を取って非合法堕胎を受けた女性たちの惨状を報じるようになった。堕胎の恐ろしさを際 立たせるためショッキングに描写された記事は中絶法改正を訴えることを目的としていなかったものの、それまで沈黙の うちに隠されていた多くの女性の不幸な体験を人々の目に触れる所に引き出すという点では効果があった。 中絶に対する医学的意見を促進させ、世論とメディアの注目を中絶規正法に集める上で大きな役割を果たしたのがサ リドマイド事件である。1962 年アリゾナ州の 4 児の母親で中産家庭の主婦だったフェンクバインは妊娠中に夫がヨーロ ッパから持ち帰ったサリドマイドを飲んだ。服用後様々な障害児が生まれることを知った彼女は中絶を求めたが、センセ ーショナルな報道で物議を醸し、病院に手術を断わられたためスウェーデンで中絶した。この事件は正面から議論され ることの無かった胎児は「人」なのか、胎児に障害がある場合中絶の正当性は認められるべきなのか、という問いを人々 に突きつけ、この事件の直後のギャラップ調査では52%がフェンクバインの中絶を支持し、反対派は32%だった。加え て 62∼65 年の風疹の大流行により約 1 万 5 千人の障害児が生まれたことは、中絶条件緩和の世論形成に拍車をか けた。65 年のシカゴ大学全米世論調査センターによれば、胎児に重度の障害がある場合は中絶を認めるとする回答 が 57%を占めた。 60 年代半ばから高まった女性解放運動の中でも中絶法撤廃は重要な論点となった。その口火となったのがベティ・フリ ーダンの『女らしさの神話』である。女性は社会の作り上げた「女らしさの神話」から脱し、社会に出て男性と対等な立場 で仕事をし、自己の存在意義を見出すべきであるという主張は白人中産階級の専業主婦から絶大な支持を得、本はた ちまち 20 万部のベストセラーとなり、第二波フェミニズムのきっかけとなった。本書には中絶や女の身体的自決権の問 題はほとんど触れられていなかったが、66 年フリーダンを会長に全米女性機構(NOW)が結成されるにあたり若い世 代が中絶を女の権利の問題として取り上げるよう主張し内部論争が起きた。フリーダンは若い世代を支持し、NOW は 「女性の権利憲章」において「女性が聖職生活をコントロールする権利」を掲げ中絶規制法の撤廃を要求した。 また女性たちの窮状に中絶先を紹介するサービスを個人レベルで行おうと立ち上がった人々がいる。女性運動の先駆 者パトリシア・マニギスは 61 年に「人間的中絶のための協会」という組織を作り、メキシコ・日本・スウェーデンの中絶医 の名前や電話番号を書いたビラを街頭で配り、女たちに自力堕胎の方法を教えるクラスを開いた。「人間的中絶のため の協会」は「妊娠を終わらせるかどうかは女性自身やその家族が、自分たちの宗教的信念や価値観、感情、状況に応 じて自由に決めるべきであり、中絶をしたいという女性の意思や判断が法によって挫かれたり遅らされたりしてはならな い」と宣言し、中絶法改正の支持から撤廃を主張するようになる。67 年にはワシントンで中絶に関する国際会議の会場 でピケを張り、中絶について語る全国ツアーを行い、69 年には『責任ある女性のための中絶ハンドブック』の出版など 派手で注目を引く活動で、女こそ中絶問題における一番の当事者であるという主張を印象付けた。 2 小野直子、『西洋史学』1997.9、p.41 412 宗教界における中絶観の革命 反堕胎キャンペーンは 19 世紀半ば、正規の医師(regular doctor)を中心として、商業化の波に乗り中絶市場に入り こんだ無免許の医師を追放し、正規の医師の社会的権威を確立するとともに、中絶に走る「無知な大衆」の啓蒙を目的 として始まった。この動きは 1847 年に全米医師会(AMA)を結成するに至り、以後反中絶法の制定のために強力なロ ビー活動を推し進めていく。これはアメリカにおいて 19 世紀になって初めて生じた反中絶の動きであった。この運動が 功を奏し、胎動の有無に関係なく中絶を犯罪として禁止し、中絶を求めたり自分で試みた女性を処罰する法律が、 1860 年∼80 年までに次々と制定されていった。 この運動の社会的要因となったのは WASP 女性による中絶の増加である。1821 年コネティカット州を皮切りに中絶規 制法が各州で制定され、規制が厳しくなる一方で中絶数は増加を続け、特に 1840 年代に急増した。40 年代は中絶が 商業化によって世間に注目され、特に WASP の中・上流階級の既婚女性によって、面倒な育児から逃れたり家族数を 制限するための有効な手段として日常的に行われた。こうした社会現象に同じ WASP の医師たちは危惧を覚えた。な ぜならこのまま中絶が増え続ければ、やがて自分たちはカトリック教徒の移民や有色人種によって人口的にも政治的に も圧倒されるのではないかと考えたからだ。このため医師たちは中絶を安易に行う女性たちを非難し、女性の本来の役 割としての結婚、出産、家庭の重要性を強調した。医師たちの反動が明確な形を取ったのが、19 世紀半ばに起きた反 堕胎キャンペーンである。 この運動は母親の生命が危険な場合を除き、中絶は殺人であり道徳的に許されないという医師たちの信念に基づいて いた。その背景には生命は受精によって始まるという新しい科学的発見があった。これまで胎動後はじめて存在すると されてきた胎児の生命は、1850 年代以降には受精の瞬間から認められるようになり、受精が起こった瞬間から胎児は 人間であり、幼児と大人は程度が異なるだけで種類が異なるわけではないのだから、それは奪うことのできない生存権 を持った〈人間〉であり、中絶は殺人であると考えるようになった。 4 Moody、p.27 5 荻野、p.29 6 荻野、p.30 7 荻野、p.39 8 Moody、p.13 9 荻野、p.38 10 荻野、p.39 11 Moody、p.77 12 荻野、pp.32-33 13 Moody、p.13 14 Moody、pp.17-18 15 Moody、p.15 16 Francom、p.110 17 Moody、pp.19-21 18 Moody、pp.23-25 19 Francom、p.110 20 荻野、p.46 21 ポッツ、p.259 22 荻野、p.46 23 Moody、p.47 24 Moody、p.50 25 Moody、p.51 26 Moody、p.53 27 荻野、p.46 28 Moody、p.83 29 Moody、p.69 30 Moody、p.30 31 ヒポクラテスの定めた「頼まれても誰にも死にかかわる薬を与えませんし、そのような助言もしません。そして同じ意味 で妊娠中絶を起こすペッサリーを与えません」という医師の信条・倫理基準のこと。 32 Moody、p.30 33 Davis、p.136 34 Moody、pp.48-50 35 Davis、pp.136-138 36 Davis、pp. 132-136 37 Davis、p.140 38 Moody、p.61 39 Moody、pp.60-62 40 Moody、p.79 41 Moody、p.92 3 413 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 Davis、p.140 Davis、p.141 44 荻野、pp.53-55 Jane は 1969∼73 年まで中絶を望む女性たちにカウンセリングや中絶医紹介のサービスを行った。間もなく彼女たち は紹介していた中絶医が医師の免許を持っていないことを知り、手術のやり方を習って自分たちで中絶を行うようにな った。その安全性は高く、4 年間で行われた 1 万件以上の手術の中で死亡例は 1 件のみで、自力堕胎を試みて既に 敗血症を起こしていたケースであった。必要経費は僅か50ドルで貧しい女性には無料で中絶を提供し、カウンセリング によって女の立場から中絶の情報を提供し患者の恐怖や不安を取り除いた。Jane は正規の医師でなくともやり方を学 べば中絶手術も可能なことを身をもって示し、女性自身がコントロールできる医療のあり方を提示した。 45 新約聖書、創世記第 1 章 28 節 46 ヒポクラテスの定めた「頼まれても誰にも死にかかわる薬を与えませんし、そのような助言もしません。そして同じ意味 で妊娠中絶を起こすペッサリーを与えません」という医師の信条・倫理基準のこと。19 世紀半ばに反堕胎運動を展開し たアメリカの医師たちもこの原則を拠り所にしたことは小野直子の論文に言及されている。 47 マイケル・ゴーマン 48 荻野、pp.24-25 49 Mour、1978、pp.183-184 50 Moody、p.23 51 Francom、1984、p.105 52 Moody、pp.98-99 53 Moody、pp.30-31 54 Davis、p.130 55 荻野、p.47 56 Davis、pp.130-131 57 Davis、p.130 58 ヴェントラント、pp.105-106 59 ヴェントラント、pp.107-114 60 Reagan、1973、p.241 61 荻野、p.62 62 ポッツ、p.105 63 ポッツ、p.269 64 Moody、p.84 65 Moody、p.84 66 Moody、pp.87-88 67 Moody、p.85 68 ポッツ、p.271 69 ポッツ、p.271 70 Moody、p.86 71 Moody、p.74 72 Moody、 73 ポッツ、p.276 74 Moody、pp.94-95 75 Moody、pp.68-69 76 Moody、pp.68-72 77 ポッツ、p.273 78 Moody、p.77 79 Moody、p.79 80 ポッツ、pp.273-274 81 Moody、p.81 82 Moody、p.73、p.76 83 1974 年に連邦議会で定まった、病院や医師、そこで働く人に自己の宗教または道徳的信念に基づいて中絶手術 を行ったり関わりを持つことを拒否する権利を認めた法律のこと。 84 Tribe、p.145 85 Jaffe et al、p.41 86 Tribe、p.142 87 Jaffe et al、p.32 88 Costa、p.23 42 43 414 宗教界における中絶観の革命 【参考文献】 <一次資料> * Arlene Carmen and Howard. 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Philadelphia:T emple University Press. * 荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会』岩波書店、2002 年. * 蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』日本評論社、2002 年. 415 久保文明研究会 2003 年度卒業論文集 あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・根本麻矢 ゼミに入ったときから、卒業論文は大学生活の集大成として全力で臨みたいと思っていたので、ようやく書き終えるこ とができ、大変充実した気持ちでおります。 このテーマを決めるまでには随分と悩みました。テーマを二回ほど変え、「CCS運動」というテーマをようやく決めた当 初は、遅れていたので随分焦りました。「CCS 運動」は、三田祭の中絶班の論文のテーマとして選んだ時から、強く心 に訴えてくるものがあり、知れば知るほど面白くなっていく、という手ごたえを感じていました。同時に三田祭で書いた論 文に関して不十分さ、不完全さを痛感していました。もともとこれだと思ったものを時間をかけて深く掘り下げていく方が 好きなので、卒業論文では同じテーマでより完成度の高いものを目指すことにしました。興味があることを好きなように 調べて、存分に書けるという心から満ち足りた楽しい時間を過ごすことができたと思います。 内容に関して、反省点は数えればきりがありません。一次資料がほとんど一冊しかなく、資料の偏りは否めませんし、 第三章で行った CCS 運動のプロテスタント的性質の分析に関しても、不十分な点はあると思います。むしろ CCS がい かにキリスト教的な運動であったかを論証するならば、プロテスタントの性質に拘らず、もっと全般的にキリスト教の「隣 人愛」のあり方と比較した方が直接的で本質的な議論になったかもしれないという反省があります。また論文では多く触 れませんでしたが、CCSと NARAL や他の機関とのつながりを明らかにすれば、分析の側面がもっと幅広いものになっ たのではないかと考えています。さらに、最近中世ヨーロッパの「魔女狩り」に関する本を読んでいて、中世から出産の 手助けをするとともに避妊や堕胎の薬をつくっていた産婆は「魔女」とされ異端審問の標的となったことを知りました。魔 女は嬰児を殺し、その脂を体に塗って空中を飛びサバトに向かうと信じられていたというのです。堕胎を悪や罪と結び つける意識は、中世キリスト教の時代にも現れていたことを、ここで付け加えておきます。 このように至らない部分は多々ありながらも、結果として CCS 運動の理念の根本にあるキリスト教の精神である「隣人 愛」を見出し、その実践と実績を明らかにするという目的は達せられたのではないかと思います。そこにはプロライフ派 が持ち出す「宗教的」な論理との明らかな矛盾、同時にプロチョイスが声高に主張してきた「女性の権利の獲得」とも違う 人間へのまなざしが見えてくると思います。最近は政治的争点としては収まっていますが、国家・社会を二分し解決を 見ることがなかったアメリカの中絶論争に対して、プロライフ・プロチョイスという視点だけではない新しい視点を提示で きたのではないか、というのは過大評価にすぎるでしょうか。 最後になりましたが、ここまでご指導くださった久保文明先生に心からの感謝を申し上げたいと思います。とりわけ政 治学科ではない私を快く受け入れてくださり、忍耐強くご指導いただけたことは大変ありがたく、そして嬉しく思っており ます。先生が最後のゼミでおっしゃった「最も大切なことはオリジナルであること」という言葉は強く心に残るものでした。 これからもオリジナルなテーマを探し続けていきたいと考えています。 根本麻矢君の論文を読んで 【伊藤舞】 根本さんの論文では「聖職者相談サービス」(CCS 運動)の実態と特徴とその理念から中絶に関する倫理観の変革 の持つ社会的・宗教的・倫理的意義が明らかにされている。全体的にとても詳しく研究されており、アメリカの中絶に関 する論争や CCS のことをまったく知らない人が読んでもきちんと理解できそうなほどである。テーマにあげられた問題は かなり大きなものであると思われたが、根本さんの研究の成果が十分に書き表された論文に仕上がっていた。 しかし、いくつかの点で変更を加えたらよりよい論文になるのではないかと思われる。 ① ところどころで遠まわしすぎる表現や難しすぎる表現が使われていた。論文で使えるだけの表現の知識があること が伺えて感心してしまうが、論文を読んでいく過程で二重否定の表現などが多い部分では時々すんなりと理解で きずに読み直さなければならなかった。根本さんの論文の場合、扱っているテーマが大きく難しいものであるため、 逆にもう少し表現をシンプルにしてみてもいいのではないか、と思う。また、1 章以降で「○○は述べている」、「○ ○は∼と記している」等の表現が多く使われているように感じられた。序章で先行研究の文献をいくつか挙げ、そ れを参照していることの断り書きをきちんとしているので、多用しなくてもよいのではないかと思う。この表現が多い と、読み手に先行研究の文献をまとめたもののような感じを与えてしまう可能性があるだろう。せっかくの根本さん の研究とその努力が伝わらなくなってしまう。 ② 1 章の最後で「この章の結論を述べる」となっていたが、この表現は不適切な感じを受けた。第1 章は CCS 誕生の 時代背景などの歴史的事実について説明しているため、「結論」付けるものではないように思う。最後のまとめかた はわかりやすく、必要なものであるからこの言葉だけを変えるといいのではないだろうか。 ③ 後に脚注で説明の長いものがいくつかあったことである。脚注は補足的な説明をするためのものであるから要点を まとめて短くてもよいと思う。 全体的には本当によく書き上げられていたと思う。テーマが大きく難しい上に調べていくのが難しそうなものに思われ るので、これだけきちんと書き上げられているし、その努力が伝わってくるような根本さんの論文に素直に「すごい」と感 じた。よりよい論文になることを期待している。 416 宗教界における中絶観の革命 【金子礼奈】 正直、この卒業論文には圧倒された。というのも、あまりの情報量の多さであるからだ。もちろん、字数が35000 字とい うこともさることながら、数字によるデータが多数使用、たとえば、非合法中絶・自力堕胎の危険性を示すために、聞き取 り調査の結果が使われていること、一次資料や英語による資料が多数参考文献としてあがっていることから非常に論理 的な論文であると言えよう。また、各章でかならずその章の流れ、まとめが述べられており、その章だけとっても分かりや すい論文であると感じる。書き方としても、複数事例を挙げる際に、だらだら述べるのではなく、第一に、第二に、と書か れているため、非常に整理されている。註に関しても詳しくつけられており、アメリカ研究に携わっている者でなくとも、 読んで分からない言葉がないようになっている点は非常に良いと思う。私自身、三田祭で外交パートであったため、中 絶問題に詳しいわけではなかったので、分からない言葉がいくつかあったが、それでも何かを調べることなく、この註を 見てすぐに理解することができた。 次に、修正したらもっと良くなると感じる点を指摘したいと思う。この点に関しては箇条書きで示す。 ① 序章で、いきなり、「アメリカの中絶論争に関する研究の中で・・・」となっているが、そうではなく、聖職者相談サー ビスなり中絶論争なり、その話のきっかけとなるような事例を一つ入れると論文の出だしとしてはいいのではないだ ろうか。たとえば、近年アメリカにおいて中絶者の数が・・・など適当だと考える。 ② 同じく、序章においてアメリカ政治学の 1 研究としての位置づけがなされていない。今、この「聖職者相談サービ ス」を扱うことがアメリカ政治学においてどのような意味をなすか、これについて書き加えてみてはどうだろうか。 ③ 論文内では、カトリックとプロテスタントに関してのみ言及されている。しかし、キリスト教には、ギリシア正教他、多数 宗派があり、アメリカにおいても相対的に少ないが、存在しないわけではない。したがって、その他の宗派に関して もある程度示すべきではないのだろうか。たとえば、中絶に対する考え方などは入れると良いと思う。 ④ CCS が設立されたことに対する国民の反応はどうなのだろうか。つまり、世論はどうなっていたのだろうか。もちろん、 中絶が問題になっていた、そこに CCS ができたと言う流れは妥当であるが、CCS によって問題が良い方向へ進み、 皆が CCS を支持していたのかどうかが分からない。もし、分かれば、この点についても触れてみてほしい。このこと が影響力を示す1つの鍵ともなるからである。 ⑤ ニューヨーク CCS が解散されたことに関して、この原因が中絶の自由化にあるということは論文を読むことで推測 できるが、論文内に直接的表現を加えると良いと思う。 簡単ではあるが、以上の点をもとに、最終稿完成に向けてがんばってください。 【渡辺航】 「宗教界における中絶観の革命」をよんで、アメリカにおいて中絶に関して最も敏感な反応をみせる宗教界からの視 点をふまえて記されており、中絶問題には反応するものの具体的な議論を避けてきた視点で捉えられており大変面白 い。聖書の引用などを用いながら宗教的な倫理観、伝統的な中絶観、そうした中での変化を順をおって調べ、記されて いる。現在もアメリカでは中絶に関して多くの議論がなされたり、運動が行われたりしておりトピックとその中で焦点をあ てているもののオリジナリティーもでていると思う。中絶クリニックを建設しようとした建設会社が嫌がらせをうけて建設工 事辞退を余儀なくされた事実もこの中絶問題の重要性を示している。 内容に関しては大変詳細に書いてありこれまで知ることの無かった分野であるので指摘することは難しいが、いくつ か気になった点を挙げたい。まず文中の一部英語表記の前後に日本語での自身なりの訳した表記をいれるとより理解 が深まったと思われる。脚注の一部分が幾分長く、逆に本文で記すか、一部削除することで補えるのではないかと感じ た。終章においても他章のまとめの部分であるが、同様の脚注があると望ましい。宗教的・倫理的なものを取り上げる論 文はかなり文中の言葉が難しくなるため、読者にわかりやすく箇条書きにまとめられる部分は見やすく表記すると読み 進みやすくなる。 最後にこれまで述べてきた実例の意義について書かれており、理念や倫理観といったもの、時代を超える本質的、 普遍的なものであることを証明するために記されているが、そうした意義が近年も失われていないことをさらにどこかで 記すと良いのではないか。社会的宗教的意義の歴史だけではなく、より近年のここ 5 年∼10 年の中絶問題にどれほど 影響を及ぼしているのか、それが正負どちらの影響なのか、または全く影響を及ぼしていないように現在は感じられる のかといった現実のアメリカ政治の問題に関連させて触れることができれば独自の視点が加わりよりシャープな結論に なるのではないかと思う。 417
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