医療的ケアの定義 - 健康・医療のページ

iryo2
Ⅱ 医療的ケアの定義について
「医療的ケア」というものを明確にするためには、ケアそのもののもつ意味
、あるいは医療管理側面から考えられる、いわゆる「絶対的医行為」や「相
対的医行為」など、多面的なとらえ方が必要であろう。
これは、医療的ケアという用語そのものが、一般的用語として認知される間
もなく、「どういう性質をもち、かつどのような内容を含み、また誰によっ
て、誰の責任のもとに実施されうるものなのか」という法制上の基本的問題
が充分に検討されないまま、いきなり関係機関に投げかけられたために生じ
てきたこと言える。
養護学校においても、学齢期の重度・重複障害児や慢性疾患による長期療養
児の増加によって、結果的に同じ課題が学校教育現場に持ち込まれることと
なり、そのような児童生徒の教育と医療という二つの課題を学校職員にもた
らす結果となっている。
一体「医療的ケア」とはいかように定義づけられるのであろうか。
これまで医療と密接に結びついた管理を受けていた子どもたちが、在宅化す
るということは、取りも直さず医療行為そのものが居宅に持ち込まれること
になる。
1992年の医療法の改正に伴い、「医療の場」そのものが「施設」のみならず
、「居宅」でも可能となったことから、あらたな「医療行為」の「性質と範
囲」が課題として持ち上がり、絶対的医行為と相対的医行為をめぐる解釈の
相違が、それぞれの立場から指摘されている。
たとえば、経管栄養法や人工換気療法、CAPD(継続的携帯型腹膜透析)療法
、在宅酸素療法など、医療機器や医療器械を用いた在宅医療における「医療
行為」が、実際誰によって、どのような責任のもとに実施されるか、明確な
指針が提示されておらず、暗中模索の中で実施されている現状の中で、これ
に関わる看護婦などの不安を招いている(山崎,1998;草刈,1997)。
在宅における医療行為は、疾病治癒(Cure)とは異なり、治療の目標が達
成されるように、呼吸や栄養、排泄や食事、身体清潔などの心身状態を最良
に保全することを意味する。したがって、疾病の管理や合併症の予防・管理
(包括的ケア)がその主たる目的であり、その場は必ずしも医療機関や医療
専門職に限定されるわけではなく、患者自身やその家族、地域社会もがかか
わるものと解される(中村,1996)。
一方、在宅医療は、「持続的ケア」と呼ばれる範疇にも入ると考えられ、こ
こでは慢性疾患など、他人の介助なしには日常生活が困難であり、適切な指
導のもとに実施・管理される性質をももつとされる。
先に述べたように、疾病の管理や合併症の予防・管理いわゆる包括的ケアは
、医師以外の医療従事者、例えば看護婦などによって行われる診療補助や指
導なども含めた概念と解釈され、医師の行なう医行為とは性質を異にする概
念であると考えられている。
したがって、現在わが国において実施されている在宅医療におけるケアは、
その行為そのものは医療と密接に関連しているとはいえ、医師による絶対的
医行為そのものを指すものではないと考えられる。
このようなことから、医師以外の医療従事者(専門員)によって包括的に実
施される、相対的医行為を、 在宅医療における“ケア”と考えるのが妥当
であろう。
このケアには、食事指導や経管栄養管理、膀胱洗浄や導尿、吸引、吸入、
褥瘡管理など身体管理に属するものと、採血、与薬、点滴交換、注射(静脈
注射を除く)など医学的管理に属するもの、さらに、気管切開、在宅酸素や
人工呼吸器などによる生命維持に属するものの管理などが含まれる(正野,1
997)。
1 ページ
iryo2
しかしながら、人工呼吸器の管理は、絶対的医行為に属すると判断され、相
対的医行為から除外されるとする場合(草刈,1997)や、逆に経管栄養や吸
引、吸入、導尿や酸素療法、気管切開部の管理などは、相対的医行為外すな
わち、生活介護と解する(鈴木ら,1997)考えもあることも無視できない。
したがって、これまでの在宅医療において比較的コンセンサスが得られてい
ると考えられるケアの内容を勘案することによって、これまで、一貫して用
いてきた「医療的ケア」とは、病院内において、医師の絶対的医行為および
看護婦の診療補助として実施されていた相対的医行為によって治療あるいは
看護が実施され、また管理されていた患者が、一時的な治療・看護を終了し
、例えば在宅において健康管理可能な状況になったと判断された場合、自己
またはその家族あるいは、医師以外の医療スタッフ(看護婦等)によって医
師の指示のもとに、相対的医行為として実施される、包括的医療管理あるい
は医療サービスというように定義づけられよう。
この定義が妥当か否かについては諸説異論があると思われるが、現在のわが
国の諸法制を考慮するならば、比較的妥当なものと考える。
Ⅱ 障害児教育における医療的ケアの性質をめぐる対立
医療的ケアには狭義の医療行為として考えられるものと広義の医療行為とし
て考えられるものがあることは先に触れた。また、医療的側面から医療的ケ
アに対する性質について検討を加え、また定義についても論じてきた。
先にも述べたように、今日、この問題は、多くの重度・重複障害児や慢性疾
患による長期療養児を抱える、特に養護学校の教育現場に持ち込まれ、様々
な論議が持ち上がった。
その争点は、教育現場に持ち込まれた医療的ケアが、どのような性質を持ち
、かつこれに対してどのように対処すれば良いのか、という点である。
医療的ケアに対する共通理解のないまま実態だけが先行し、それによって学
校教職員の混乱が助長され、結局一部(たとえば担任)だけが必死にこの問
題に対応せざるをえないというのが、今日のわが国の養護学校の現状であろ
う。
ある面では、わが国の教育関係者あるいは教育現場に携わる教師が、あまり
にも、医療に対して、無関心であった裏返しの結果でもある。
これは、わが国の障害児教育において、養護学校教育の義務制について、重
度・重複障害児の教育権保障を一つの枠組みとしては、「訪問教育」として
位置づけたものの、実際の指導においては、「医教連携・協力」の体制が不
十分であったために、多くの教育関係者(行政者、管理者、教師)が、医学
的知識や技術を殆ど習得していなかったためである。
アメリカにおける障害児教育法(IDEA)で明確に打ち出されている、個別化
教育プログラム(IEP)では、個々の障害児の教育ニーズについて、医学的
、心理的、社会的各専門家が集まり、個別の指導計画書を作成し、かつ親が
それに同意した上で、実施に移される。さらに、6ヵ月ごとにそのプログラ
ムの進捗状況について会議が招集され、新たな個別の教育プルグラムが実施
されるように厳しい条件が規則上明記されている。
いずれにしても、好むと好まざるに関係なく、医療的ケアに対して真摯に対
面し、その問題解決にすべての学校職員が対応しなければならない時期に来
ている。
今日、障害児教育の現場において、医療的ケアは依然として共通の理解の域
に達していない。
これには、先に述べたように、医療的ケアそのものが、不明確な性質をはら
んでいるという背景以外に、学校教職員の多くが“医療”という用語に、極
めて狭義の医療行為を想起している一方で、保護者においては、すでに生活
基盤の一つとして、日常生活や教育に必要な行為として理解しているという
2 ページ
iryo2
、相反した考え方に依拠したものである。
以下、医療的ケアに対するとらえ方について、論考する。
1.医療行為とする考え方
障害児教育の現場において、医療的ケアを医療行為とする考え方は、先に
述べた狭義の医療行為そのものが医療的ケアの性質の実態であるとする点に
ある。
したがって、医師またはその指示によって看護婦が行なう専門的治療および
管理、すなわち、医師の行なう絶対医行為と診療補助として実施される看護
婦の相対的医行為によって行われる“医療行為”そのものが医療的ケアの性
質に合致するもっとも良い判断基準であるとするものである。
ここでは、基本的に在宅における医療管理を「持続的ケア」とせず、「二次
的ケア」すなわち、医療機関において実施されうるものと同質とみなしてい
る点がポイントである。
医師法第17条では、「医師でなければ、医業をなしてはならない」とされ、
医行為そのものの業務独占を明示するものとなっている。
さらに医行為とは、「広義では人の疾病の診察または治療、予防の目的をも
って人体になす行為とする広義のものと、その広義の医行為中医師が行なう
のでなければ人体に対し危害を生ずるおそれのある行為とする狭義のものと
があり、右狭義の医行為を業としてなすのが医師法第17条に規定する医業と
解すべき」(春日,1991)とする解釈も示されている。
冨田(1980)は、行為の継続を主眼において、「医行為とは、反復の意思
を以って医行為を続けること」をも含めた解釈をとっている。
一方、保健婦助産婦看護婦法では、第5条で医師の診療の補助としての業務
を、さらに第37条によって特定の業務が医師の指示によらなければ為し得な
いことが明記されている。
「保健婦、助産婦、看護婦または准看護婦は、主治の医師または歯科医師
の指示があった場合の外、診療機械を使用し、医薬品を授与し、又は医薬品
について指示をなしその他医師若しくは歯科医師が行なうのでなければ衛生
上危害を生ずる虞のある行為をしてはならない。但し、臨時応急の手当てを
なし、または助産婦がへそのおを切り、浣腸を施し、その他助産婦の業務に
当然附随する行為をなすことは差支えない」
これによって、指示があれば医師の補助の業務としての医業が行なえるこ
とになり、現在の臨床現場においてはこの条文をもとに多くの業務が行なわ
れている(清水,1991)。
先に示した医療的ケアの性質には、これらの二つの法律的背景が存在してい
るわけで、特に教育行政において、「医療的ケア=狭義の医療行為」と解釈
する根拠となっている。
これまでのところ、医療的ケアの基本的性質が「狭義の医療行為」に属する
か否かに関する問題は、医行為の禁止条文(保健婦助産婦看護婦法第37条)
に抵触するか否かに帰着する、制度上の定義の不明確さに大きく左右されて
いる。
しかしながら、ここにいう狭義の医療行為は、例えば生活介護と解釈されう
る、いわゆる相対的医行為外のケアも、狭義の医療行為の範疇に属すると解
されてしまう恐れもあることは否めない。
先に示した、現行法下における医療的ケアの定義に当てはめれば、医療的ケ
アとは基本的には、 “医療行為”として解釈すべきであろうが、その性質
には狭義(絶対的医行為)と広義(相対的医行為)の二つの性質が混在し、
さらに、相対的医行為には、放任行為(鈴木ら,1997)と考えられるものも
あることを考慮すれば、現状では、ここにいう“医療行為”の線引きについ
て、新たな法制度の整備あるいは、文部省および厚生省の明確な指針が必要
3 ページ
iryo2
であろう。
2.生活行為とする考え方
性質のもう一つの考え方は、我が国特有の用語と考えられる、「生活行為
」という概念によって示された医療的ケアの性質論であろう。
「医療行為」についての語源的性質は、比較的容易に把握できるが、こと
「生活行為」という語源的性質は、文献的にみても非常に少ない。
三宅(1993)は、「経管による水分補給、痰の吸引、酸素吸入等を医療行為
とする説もあります。しかし、その行為を実施しなければ生命の維持や健康
の維持増進に大きな影響を与え、しかも家族を始め周囲の人々が普段に行な
っている医療的ケアは、生活行為と受けとめるのが妥当です。医療関係者が
患者との契約に基づいた診療報酬を前提として行なう医療行為とは自ずと異
なるのです」と述べて、その本人の生命や維持に必要で、かつ普段行なって
いる「医療的ケア」を生活行為と定義している。
二瓶ら(1996)は、公開討論の場で「医療的ケアの呼び方の問題として、実
際には家では生活ケアであり、学校では教育ケアの一環であると考えたほう
が良い」などの意見が出されたことを報告している。
いずれにおいても共通している概念は、家庭で行うことを基準におき、
第三者によっても可能なケアが「生活行為」と考えていることである。
そして、すでに医療的ケアが包括的ケアの一部として解釈され、広義の医療
行為の相対的医行為外の性質を持つものとして理解されるべきであるとする
考え方を明確に打ち出したものといえよう。
鈴木ら(1997)は、現行法の解釈に新たな切り口が開かれつつあることを
述べ、在宅医療、生活介護、あるいは療養行為などといった新たな解釈が医
療的ケアの性質として認識されつつあるとする。
鈴木ら(1997)は、厚生省保健医療局の訟務専門調査員の「経管栄養、吸引
、吸入、導尿、酸素療法、常用薬の服用、気管切開部の管理などについては
、器具の開発と充分な訓練により相対的医療行為外のものとして、生活介護
の範囲に入れられたと解釈され、放任行為と位置づける」とする報告の引用
を示している。
ここで注目すべき点は、いずれも「医療(的)ケア」そのものが実質的に、
相対的医行為いわゆる広義の医療行為と一線を画した性質と解釈されている
点である。
すなわち、相対的医行為を含め、在宅で実施される医療行為そのものが、直
接的には医療的ケアを意味しないのだ、ということである。
一方、アメリカの障害児教育法(IDEA)においては、特に我が国でいう生
活行為に該当する用語は用いられていない。しかしながら、我が国でいう生
活行為の性質そのものを照らし合わせてみると、学校保健サービス(IDEA,S
ec.300.16(11))がこれに相当すると思われる。
すなわち、「有資格の学校看護婦あるいは有資格の要員で提供されるサービ
ス」は、必ずしも医師の手によってなされなければならないサービス(医療
的サービス)ではなく、判例にいうトレーニングを受けた要員(Jane. M.,1
996)でも実施可能な「ケア」が含まれるからである。
その意味では、広義の医療行為すなわち相対的医行為を指すものであろうが
、明らかにわが国でいう“絶対的医行為”を除外し、極めて実践的な指針と
して参考にすべきものと考えられる。
ここでいう、学校保健サービスが、わが国でいう「生活行為」そのものの性
質をあらわすものではないにしろ、専門的な指導を受けた第三者によるケア
も包括する概念と考えれば、ここにいう「生活行為」に非常に近い解釈が成
り立つと考えられる。
このように医療的ケアを「生活行為」とする考え方は、生活介護や放任行為
4 ページ
iryo2
あるいは教育的ケア、という考え方に立脚するわが国固有の性質解釈と考え
られる。
しかしながら、残念ながら、我が国の現行法から勘案すれば、無理があるこ
とは否めない。むしろ先に示した医療的ケアの定義を論拠として、一元的な
性質解釈が、医療的ケアそのものの理解と定着に必要であろう。
Ⅲ.わが国の法体系が抱える問題とアメリカの法体
系による判例をめぐる対立
1.わが国の法体系が抱える問題
これまで、障害児教育における医療的ケアに対するとらえ方について論じた
。
これらを通して明らかになったことは、教育現場において医療的ケアそのも
のが、性質や法制によっても、共通的理解と認識を得ていないということで
ある。
最近検討されている医療的ケアの具体的内容を明文化することは、(たとえ
、文部省通達であるにしても)教育行政において、様々な弊害をもたらすこ
とが予測されうる。
なぜならば、我が国においては、この点についての判断基準となる先行判例
が皆無であるからである。
たとえば、今後吸引が教師の可能なケアとして位置づけられたにしても、医
療的ケアの必要な生徒の抱える問題は、重複かつ重度であることから、他の
ケアをまったく無視して、それのみを実施することは現実的な意味をあまり
持たない。つまり、実際的な問題の解決にはなお程遠い、形式上の対応をも
たらす可能性を否定できないからである。
一方、アメリカでは関連サービス(学校保健サービス)と医療的サービスの
対立の問題が表面化している。この理由は、IDEAで規定したそれぞれのサー
ビスの内容が充分でないという点にある。たとえば、IDEAにおいて医療的サ
ービスとは、「医療に関連した障害によって障害児教育と関連サービスの必
要性があるとされた子どもに対して、医師の手によって提供される医学的な
サービス」と定義されている(IDEA,Sec.300.16.b(4))。
一方、学校保健サービスは「有資格の学校看護婦あるいは有資格の要員によ
って提供されるサービス」(IDEA,Sec.300.16(11))と定められている。
したがって、ここでは具体的なケアの性質を明記していない。
これらの事実は、むしろ判例によって固められるべき内容を含んでいること
を意味する。
アメリカにおけるこの点についての、判例はおおよそ「関連サービスが子
どもの教育にとって特別な利益を得るために必要であるかどうかを決定する
ことである」(Donna, H.ら,1986)とまとめることができると思われる。
IDEAでは、少なくとも学校保健サービスにおいて看護婦の配置を義務づけて
いるものと解釈できうる。
一方、アメリカにおける幾つかの判例は、誰がそのケアを実施するかとい
う問題とそこで実施されるケアとはいったいどのような性質のものかという
二面性を問うものが多い。大変重要な点は、いずれの判例でも、Tatro訴訟
(1984)の判決で示された次の要件を常に背景においていることである。
1) 子どもが障害をもつということは、必然的に障害児教育の必要性が生
ずること。
2) 学校時間内に必要な処置なしでは、教育プログラムに参加することが
できなくなるこ
と。
3) その処置は医師以外の誰かによって実施することが可能であること。
これらの意図するものは、そのケアを実施することによって教育的利益が
5 ページ
iryo2
障害児にもたらされるか否かを十分に検討すべきである、ということにある
。
一方、わが国における医療的ケアに対する障害児教育現場の教師や重度・重
複障害児あるいは、慢性疾患による長期療養児の保護者の認識は、各々の立
場によって異なり、共通性を見出せないでいる。
鈴木ら(1997)は、「現行法的には、問題を感じる意見や、責任問題もあり
(教師の)内心はやりたくない、不安で、バックアップ体制を求める声も多
い。教育をすることが仕事であって、医療的な介護をしたいのではないとい
う声も根強い…(中略)しかし、子供たちの必要とする身体づくりから関わ
りたい。この子供たちの医療的ケアは自立してゆくための役割をもち、子供
たちの実態を改善していくねらいがあるのだから」という基本的見解を述べ
ている。
そして、「今は、子供への援助を、どこまでが医療か、どこからが介護行為
とされるかの見解を公に示すこと、それを行ない得る条件を示すことが必要
であると考えられる」とし、言葉の持つ印象によって、医療的ケアの性質が
左右されることは、教育の本質を見失う可能性があるということも合わせて
述べている。
2.アメリカの法体系が抱える問題
この問題に関してアメリカでは、法律的規定をもって教育行政における指標
を示している。しかし、この法規定がどのように解釈されるかについては今
なお、法廷論争がある。この点については「学校における特別なヘルスケア
の提供のための法律的ガイドライン」 Jane.M.(1996)に詳しい。
Jane.M.(1996)は、アメリカにおけるこの論争の争点がどこにあるのか
を、判例を挙げながら明らかにしている。
アメリカIDEAにおいては、医療的サービス(Medical Service,Reg.Sec.300.
16 b(4),IDEA)及び学校保健サービス(School Health Service,Reg.Sec.30
0.16. b(11),IDEA)が、学校関連サービスとして明記されている。
IDEAにおいて、医療的サービスとは、子どもの医療に関連した障害によっ
て結果的に障害児教育や関連サービスが必要な子どもを判定する業務が主と
されており、医師によってなされるものとされている。
一方、学校保健サービスとは、学校看護婦やその他の資格をもつ職員によ
って提供されるものをいう。
しかしながら、保護者と学校区において、誰が責任をもってヘルスケアを実
施するかについて、現在でも対立が存在する。その意味で、我が国の状況と
同じではあるが、判例によっていくつかの指標が示されている点では意を異
にしているといえる。
Tatoro訴訟において、障害児に対する特別なヘルスケアを教育効果に必要
なサービスとして提供すべきとした最高裁の判決の重要性は、未だにアメリ
カの1つの規範として脈々と受け継がれ、先例の要となっていることは否め
ない事実である。
3.アメリカにおける判例
Jane.M.(1996)は、医療的サービスと保健サービスの対立を良く説明でき
る、非常に面白いNew Hampshireの聴聞委員会の意見を例に示している。
これは、重度・重複障害児に対する訪問教育時間内でのある部屋から別の部
屋への子どもの移動をめぐる問題について、「在宅において重度障害児を訪
問教育時間内に家の中で、ある場所から別の場所に児童生徒を移動させるの
は、関連サービス(ヘルスケアサービス)とは言い難い。というのは、IEP
(個別化教育プログラム)の中では、児童生徒を移動させる(運ぶ)行為は
含まれていないからである」とした聴聞委員会の主張を皮肉ったものであり
、Jane.M.は「1)たとえば、おむつ交換を例に取れば、児童生徒がおしっ
6 ページ
iryo2
こでぬれたり、衣服を汚すことによって不快になり、それによって指導が中
断されかねないこと。2)もし、こどもが学校での教育プログラムを受けて
いたとすれば、時間内におむつの交換を受けられたであろう」という理由を
あげ、聴聞委員会の主張を批判している。
つまり、子供がトイレにいくのに部屋を移動するのは当たり前のことであっ
て、例えそれが、他者(教師)の誘導や介助があったとしても、保育所や学
校では当たり前に行われている行為にほかならないということを考えれば、
IEPで明記されたものでないにしろ、これを実施することが、その子どもの
教育上、非常に重要な関連サービスでなくて、何であろうか、と言うことを
指摘しているのである。非常に興味ある指摘である。
さて、現在のアメリカの裁判によって、示された事例は、現在大きく二分す
る結果をもたらしている。
一つには、多様なケアの性質ゆえに医療的ケアとして、学校保健サービス
から除外された判例、もう一つは反対に、そのようなケアは学校保健サービ
スに該当するというものである。
以下、それぞれの判例について、Jane.M.(1996)から概観する。
(1)医療的ケアが学校保健サービスから除外されるとした判例
医療的ケアが学校保健サービスから除外された判例を表1に示す。
<表1挿入>
1)Detsel訴訟(1986)
Detsel訴訟(1986)は、重篤な児童生徒に対する通学上の学校区の義務を、
その責任外とする判決である。
Melissa Detselは、常時バイタルチェックが必要であり、腸に通したチュー
ブからの投薬の管理が必要であり、体位変換と叩打、肺に溜まった痰の吸引
が必要で、必要な場合には心肺蘇生術も必要であった。学校区の校医も彼女
自身の主治医も、学校看護サービスの内容以上の医学的管理が必要である可
能性があることを申し述べていた。
学校区裁判所は、“より援助的な”サービスがなければ学校に通うことは困
難であること、またこのケースが求めるサービスはTatro裁判で、示されたC
ICサービスの範囲を超えているものと結論づけ、学校区主張を認めている。
2)Bevin, H訴訟(1987)
Bevin, H訴訟(1987)もこれと良く似た判例である。ここでも裁判所は、
「継続的でかつ多方面にわたる看護サービスは、関連サービス(学校保健サ
ービス)よりは、医療的サービスの性質に近い」とする結論を示している。
Bevin, Hは、痰で気管切開部に入れたエアウエイが詰まりやすかった。同
じクラスに6名の気管切開の生徒がいたが、彼らはすべて切開部の衛生管理
がアシスタントなしに容易であった。Bevin, Hは、そればかりでなく、家と
学校とのタクシー移動中の看護婦の要請、胃チューブのケア、酸素の管理、
姿勢管理、呼吸理学療法、肺に溜まった痰の吸引なども合わせて要求してい
た。
この訴訟以前には、ハワイ州教育省対Katherine D.訴訟において、気管切開
部からの痰の吸引が学校の関連サービスとして認容されるとする判決が下っ
ており、本訴訟では、その判決と比較するかたちで、最終的な判決が申し渡
されている。
すなわち、ハワイ州教育省対Katherine D.訴訟で、関連サービスと認容され
たKatherine D.に対する学校区の義務は、おおよそ間欠的かつ容易でしかも
軽費で済むものであるのに対し、Bevin H.の要求した関連サービスは、非常
に広範囲に渡りかつ集中的な内容に属するものを要求していること、そして
それは“常時”という付加的な要素も加わっているとし、Bevin H.の要求し
たサービスは学校保健サービスから除外されうるものと結論づけている。
7 ページ
iryo2
Bevin H訴訟に対する区裁判所の判決は、間歇的に必要なサービスか、継続
的に必要なサービスかという点で、両者は異なるとする判断を論拠とするも
ので、非常に示唆に富んだ判決といえよう。
3)Granite School District対Shannon, M.訴訟(1992)
Utah学校区裁判所に提訴された、Granite School District対Shannon, M.訴
訟(1992)も、BevinH.訴訟とほぼ同様な結論を下した判例である。
学校区裁判所は、Shannon, M.が学校区に求めた、先天性神経筋萎縮症で
重篤な側弯をもつ子どもに対する、痰の吸引、痰の貯留や非常に難しい鼻腔
栄養、痛みあるいはポジショニングによって引き起こされる緊急時の呼吸管
理における継続的な看護ケアは、学校区が提供する支援サービスにはなじま
ないという判決を下している。
Shannon, M.の主張が、ヘルスケアはすべて医師によってなされるべきもの
ではないし、学校時間内に子どもが必要とすべきものは、関連サービスに属
するものであるとしたのに対し、裁判所は「子どもが求めるサービスの範囲
と性質」を最初に検討すべきであることを指し示していることで注目すべき
判例である。
4)Ellison 対 Three Village Central 学校区訴訟(1993)
Ellison 対 Three Village Central 学校区訴訟(1993)は、交通事故に
よる麻痺によって、人工呼吸器に頼らざるを得ない少女が、学校区に対して
、支援サービスの提供を求めて起こした裁判である。ごく最近、New York最
高裁上告審で結審した。
裁判所は、この子どもに必要なサービスを提供することは、学校看護婦によ
って、可能であるとしながらも、「もし看護婦が一人の子どものためだけに
かかりっきりになると、学校看護婦の一般業務の遂行が困難となる可能性が
ある。またDestel訴訟で示された合理的なサービスと本訴訟とを鑑みると、
上告、Ellisonの要求する看護サービスは、簡易な学校看護サービスよりも
、医療的サービスの性質に近い」として、連邦及び州の障害児教育法にのっ
とり、医療的サービスを提供するという学校区の責任を解き放す判決を下し
た。
5)Massachusetts 適正手続き聴聞会(1991)
これは、Massachusetts 適正手続き聴聞会(1991)で取り上げられたケース
(Hopedale School District,1991)で、四肢麻痺による人工呼吸器に頼ら
ざるを得ないScott, G.という生徒が専門家による呼吸訓練と呼吸管理を学
校時間内に要求したというものであった。
この聴聞会では、第一に提供すべきサービスの性質と、第二に誰がそれを実
施するかという視点から討議がなされ、結論としてScott, G.が要求したサ
ービスは、医師が行なうものではないにしても、要求された専門的サービス
のレベルが、学校の権限(責任)の範囲を超えるものとして結論づけられて
いる。
聴聞委員は、DestlとScottの例(ヘルスケアの専門家によるあるいは呼吸療
法士による呼吸訓練)は、IDEAが示した関連サービスの意図の範囲を超える
ものとして、酷似していることを明らかにした。
州の聴聞委員の主張は、以下の点でIDEAが示した関連サービスになじまない
としている。すなわち、「Scottが呼吸を維持しかつ生命を維持することは
、IDEAが示した関連サービスには合わないと考えられる。というのは、IDEA
が求めた関連サービスとは障害児教育から子どもが恩恵を受けるためのもの
として、解釈すべき性質といわざるをえないからである」
つまり、Scottが要求したサービスは、教育上の恩恵をもたらすサービスで
はなく、単に生命を維持し、また呼吸機能を改善するためのサービスであり
、これはIDEAがIEPで求めるその個人の教育上必要なサービスであるとは考
8 ページ
iryo2
えられないということである。
これは、先のTatro訴訟の3要件に、Scottの要求が合致しないという典型的
な例であると考えられる。
6)Nelly対Rutherford訴訟(1995)
Nelly対Rutherford訴訟(1995)は、最近第6巡回裁判に差し戻された控訴審
である。これは、学校における多様な障害をもつ子どもへのヘルスケアを、
学校区の責任としないということを明確に打ち出した集約的な判例といえよ
う。
Samantha Neelyは、先天的な中枢性低換気症候群であり、呼吸を促すための
カニューレを装着していた。Samanthaとその親は、気管切開部からの吸引ケ
アを要求した。ところが、Samanthaが学校に通うために、迅速にこれを実施
するためには、トレーニングされた要員が必要であった。
Samanthaによって要求されたサービスは、医師か免許を持った看護婦、ある
いは准看護婦、呼吸管理の専門家、患者の関係者、あるいは患者本人によっ
て実施が可能であった。したがって、Samanthaの両親は、気管切開部のケア
は、IDEAが示す関連サービスとして学校区が責任をもって実施すべきだとし
て、これを要求したものである。
Wellford裁判官は、基本的にTatro訴訟によって示されたこと、すなわち、
実際関連サービスには、医師よりも他者によって実施されることが可能な医
学的サービスなものが幾つか含まれているという点では同様に解釈されると
している。その上で、この巡回裁判では、これまでの裁判の多数意見として
一致していた従来のルールを拒否するという方法を選択したとしている。
裁判所のこの選択の意図は、1つには、要求されたサービスは基本的には「
医療的性質」に属するものであるということ2つ目に、学校区におけるサー
ビスの実施に際しての無頓着な責任転嫁に対する抑止という点にあった。
さらに、「この様な特別なケースによる学校区の負担は、ケアの性質によ
って導き出されたものであり、必要なサービスを実施するために、適正な教
育を確保するコストよりも、むしろそのようなケアを実施するための本質的
な責任を多く含むものだ」と結んでいる。
(2)医療的ケアが学校保健サービスとして認められた判例
学校保健サービスとして容認された判例を表2に示す。
<表2挿入>
裁判で容認された判例の基本的な基準は、より厳格にIDEAの条文を解釈す
ることに置かれている。
1)Macomb訴訟(1989)
Macombno訴訟(1989)の判決は、重複障害を有し特別なヘルスケアの必要児
童生徒に対して、Detsel, Bevin H.あるいはその他の似たような判例(例え
ばNelly対Rutherford,1995;Ellison対Three Village Central学校区教育庁,
1993;Granite学校区対Shannon M,1992;Hopedate学校区,1992など)で示され
た判決とは反対に、医療的サービスが学校関連サービスに含まれるとする解
釈をとったことで意味深い。
Macombno訴訟で採択された判決は、障害児に教育の機会を提供することそし
て、「医師を必要とする場合を除いて、医療関連サービスを要求することは
生徒の権利である」とし、支援サービスは学校区の責任として容認されるべ
きであるとしたものであった。
Joshua, S.の要求したサービスとは、学校への移動に際して、車椅子におけ
るポジショニングと気管切開部からの吸引である。
これらの支援サービスは、彼が学校に通いかつ適正な教育プログラムによる
恩恵の機会を得るためには必要なものであった。
Joshua, S.が州の在宅措置を不服とした主張に対し、裁判所はIDEAのもとに
9 ページ
iryo2
、学校区は学校への移動中の車椅子でのポジショニングと吸引に関して、支
援サービスを提供すべきであるとする判決を下した。
2)Michigan州 Caledonia 公立学校(1993)
州レベルの聴聞委員によるMichigan州の決定も同様に、学校区には学校時
間内に医師以外の、専門家あるいは訓練された要員によって多様なヘルスサ
ービスを提供する義務があるとして、関連サービスを提供すべきであるとす
る決定を行なっている(Caledonia 公立学校,1993)。
これは、頚椎脱臼による四肢麻痺を呈し、人工呼吸器が必要で、かつおむつ
の交換、投薬、経管栄養、ポジショニング、人工呼吸器の管理、吸引が学校
では必要な子どもに対するものである。
これらは、医師でなくとも、看護婦などの専門家によって、すべてのサービ
ス提供に対して応えうるものであるとしているが、その中の“吸引と人工呼
吸器の管理”については、関連サービスから除かれている点で、多少議論の
余地が残されている。
3)Tanya対Cincinnati教育庁訴訟,1995
これは、Ohio裁判所に、学校区と、食事のための胃チューブと人工呼吸器が
必要な二分脊椎児をもつ保護者が、同時に上告した判例である。(Tanya対C
incinnati教育庁訴訟,1995)。
判決のポイントは、学校における胃チューブあるいは人工呼吸器の管理は、
さほど時間を要するものではないという点にある。
学校区裁判所は、生徒が要求した1対1の、准看護婦あるいは正看護婦による
看護サービスを提供することを認め、終日の看護ケアが学校関連サービスと
して容認されるに至った。
この公判では、「医療的管理の方法を指導された人ならば、わずか1分から3
分で可能なものである」ということを認容することによって、高度なケアに
応えられる可能性があるかという点が論議されたのである。
そして、「これらの便宜を図ることは、多くのケアを提供することを可能に
する」ということを認めたものとなった。
最終的には、控訴審でもこの判決が支持され、在宅での1日1時間教育という
ものは、適正な教育とはいえないと結論づけられた。
4)Cedar Rapids Community学校区訴訟(1994,1996)
Caledonia公立学校(1993)及びTanya対Cincinnati教育庁(1995)の判決
趣旨に加えて、最近の幾つかの判例は特別な能力や技術のあるヘルスケア提
供者で応えられるという点の焦点をあて、多様なヘルスケアサービスの提供
を支持するものとなっている。
この能力の項目については、看護委員会によってしばしば、意見されること
があり、したがって、地方および教育機関の判断の外に置かれている(Nell
y対Rutthford州立学校,1995)。
Iowa看護委員会は、人工呼吸器が必要な子どもの親がそのケアをやるのか、
あるいは学校区がその責任を持つかという問題よりも、技術的に高度なレベ
ルのある人員の必要性を要求している。(Cedar Rapids Community学校区訴
訟,1994,1996)
この聴聞会で対象とされた子どもは、麻痺によって人工呼吸器が必要で、
カテーテル、吸引、人工呼吸器の管理、食事や飲み物をとるときのアンビュ
バッグとポジショニングが学校では必要であった。
看護委員会では、これらのケアには必ずしも資格のある要員でなくとも可能
であるとの見解では一致したが、常時正看護婦が待機することが必要である
とした。
しかしながら、看護委員会の要求は、在宅の生徒では、正看護婦の遠隔指導
によって准看護婦がケアに当たったり、家族やその友達が同じようなケアを
10 ページ
iryo2
実施している事実について指摘され、失敗に終わった。
しかし聴聞会では、学校に正看護婦を配置するのに要する費用の見積は、そ
れほど区の財政面において不当な負担ではないとした決定がなされ、それに
したがって、管理法の裁定によって学校区が、子どもにとって必要なケアの
ためのサービスを提供することと、学校年(休日を除く実質1年間の学校時
間を意味する)の間の個別化教育プログラムに要した費用の賠償を命じた。
この訴訟は、更に上告され1996年7月、第8巡回裁判において、学校区の上
告を退け、継続的な看護サービスを提供することを命じた判決が下された(
FindLaw,1997)。
5)Morton Community high school学校区対J.M., Minor. etc., et al.訴
訟(1998)
Morton Community high school学校区対J.M.,Minor.etc.,et al.訴訟(1998
)は、今年7月に示された最も新しい、医療的ケアに対する判決である。
J.M.は先天性の重篤な換気障害をもつ14歳の子どもである。J.M.は呼吸を管
理するために気管切開され、携帯用の人工呼吸器を使用していた。この人工
呼吸器は常時監視が必要で、またしばしばその管理が必要であった。
彼は目を閉じることが出来ず、そのため常時、角膜に傷がつくことを防ぐた
めの特殊な軟膏をつけることが必要であった。
また、運動制限もあり、わずかに歩行器を用いて歩行することは可能であっ
たが、通常は車椅子を使用していた。
彼はまた、成長障害と学習障害があり、頚部のチューブのために話すことも
困難であった。彼が学校で充実した生活を送れるためには、少なくとも両親
のどちらかあるいは看護婦が彼の必要とする世話を注意深くする必要があり
、それによって他の様々な責務をこなすことが出来なかった。彼の呼吸を管
理するためには、チューブの管理や酸素ボンベの交換をしばしば必要とし、
休み時間には人工呼吸器が外れない様に監視しておかなければならない状況
にあった。
この様な状況を基本として、J.M.の両親は、彼の通う学校区対してJ.M.の世
話をする看護婦のための費用を負担して欲しいと要望した。
学校区裁判所は「J.M.が必要とする看護婦によるケアは、学校関連サービス
にふくまれると考えられ、医療的ケアとして除外されるものとは言い難い」
とする判決を下した。これに不服とした、学校区は即時抗告した。
第7巡回裁判において、「確かに、医療的ケアと学校保健サービス(関連サ
ービス)との境界は不明確と言わざるを得ないが、学校でJ.M.が必要とする
サービスはそれほど費用的に高いものとは言えないし、ましてや学校区に対
して賠償を求めた訴訟でもない。本訴訟で要求された関連サービスは、純粋
にJ.M. の抱える医療的問題を維持するための補助的な教育的サービスを要
求するものであり、これを支持した聴聞会の判断は、決して不合理なものと
はいえないと考えられる」とし、学校区の主張を退ける判決を言い渡してい
る。
ここでの論争は、IDEAが示す医療的ケアとそれに関連するサービスの境界が
不明確で、それにより学校区と保護者のに解釈の違いが出たことである。
判決では不明確な現在のIDEAの欠陥を指摘しながらも、教育上の恩恵をもた
らせる補助的な医療的ケアは、関連サービスとして学校区の責任で保障する
ことをアピールしていることで、興味深い判決と言えよう(FindLaw,1998)
。
6)Tatro訴訟(1984)
Tatro訴訟(1984)は、学校保健サービスとして医療的ケアを認めたアメ
リカにおける非常に重要な判例である。
以下は平田(1988)によるTatro訴訟の全容である。平田(1988)より、引
11 ページ
iryo2
用して紹介する。
『Amberは脊椎分離症であり、(注:おそらく神経因性膀胱と思われる)に
かかっていた。彼女は慢性の腎ぞう病の進行を防ぐために3∼4時間おきに
導尿管挿入による尿排出が必要であった。この治療手順には、小さな金属性
のチューブ(導尿管)をきれいに洗浄すること、導尿管を膀胱に挿入し尿を
排出すること、そして膀胱部を拭くことなどの作業がある。
この方法はClean Intermittent Catheterization(CIC:洗浄法間欠導尿治
療)と呼ばれるもので、訓練を受ければ、素人でも7時間以内には習得でき
るものであるとされている。
学校側はAmberが幼児発達プログラムに参加していた時に、このCICの実施を
拒否した事を不服として、親はCICはPL94-142でいう適切な教育を保障する
ための障害児教育関連サービスに含まれるもので在ると主張し、学校でのCI
C実施を要求を求める裁判をテキサス州北部地区連邦裁判所に起こしたので
ある。
この訴えに対して裁判所は以下のように請求却下した。
「必要なサービスとは障害児教育に関連するものでなければならない。・・
・障害児の生命維持のための制度と学習技術を向上させるための制度とは別
のものである。CICはAmberの生命維持にとって不可欠のものである。しかし
、この生命維持サービスが提供されてもCICは彼女の学習技術とは無関係で
ある。」
これに不服としたAmberの親は、更に上級審に訴えた。ここで、上級審は地
方裁の判決を破棄し「CICの様な関連サービスを除外してしまうと、障害児
を学級に入級させ教育しなければならないという命令は骨抜き(注:PL94-1
42)になってしまうであろう」と決している。
すなわち、CICは学校保健婦(看護婦)あるいは他の資格のある人が行うこと
ができれば、それは、援助的サービスであるばかりでなく、立派な学校保健
サービスである、という考えに基づいている。しかも、学校区の主張は、19
73年に示されたRehabilitation Act 504条にも違反しているとしたのである
。
ここで注目すべきことは、この判決を効果的に運用する外枠として、つまり
際限なく障害児教育に関連したサービスの拡大を未然に防ぐための予防的措
置として、以下の様な3項目からなる除外項目を設けたのである。
1) 生命援助サービスが障害児の障害児教育プログラムからの恩恵につな
がっていない場合
2)必要とされる生命援助サービスがSchool Dayに行われない場合。
3)子供の健康維持のための処置手当が専門医によって行われる場合。
これに対して学校側は最高裁に提訴したのである。
最高裁での審議は次の2点に集約されている。
「CICは障害児教育関連サービスとして必要なサービスである」という点、
及び「CICは医療的サービスである」ということである。
最高裁は、上記2点についていずれも認定する判決を下した。すなわち、CI
Cは援助的サービスとして取り扱われるべき、関連サービスであって、これ
を行うことによって学校に終日在籍できるということは、これは子供の教育
と深い関係があるとし、更に学校保健婦や他の職員によって可能なサービス
はこれは学校保健サービスに包括されるサービスであると結論づけたのであ
る。』
このTatro訴訟が示すように、アメリカにおいて障害児教育関連サービス
は北住(1995)の「形式論」と「実質論」を実にうまく統合しているといえ
る。
というのは、ここでは教育と関連サービスは決して二元論ではなく、個々の
12 ページ
iryo2
障害児のIEPという視点を常に視野にいれて、現実的判断を明確にしめして
いるからである。これは日本における法的観念に縛られた平田(1998)のい
う「制度的疲労」と北住(1995)のいう「形式論」から形づくられている、
日本の教育の問題を、浮き彫りにする非常に参考となる判例で在ろう。とは
いうももの、アメリカの障害児教育においてさえ、最近その適用範囲の広が
りに対して、一定の制限が必要ではないかという現状を懸念する声も上がり
始めている(USA TODAY,1996;Jane.M.,1996)。
Ⅳ 医療的ケアの総合的解釈
医療的ケアの性質にはもう1つの問題が含まれている。すなわち第三者がそ
れをなし得るかという、実施者の問題である。
医療的ケアの定義でも触れたように、我が国において、医師法および保健婦
助産婦看護婦法の規定から、医行為が第三者によって行われることが禁止さ
れている。
医療的ケアが、「病院内において、医師の絶対的医行為および看護婦の診療
補助として実施されていた相対的医行為によって治療あるいは看護が実施さ
れ、また管理されていた患者が、一時的な治療・看護を終了し、例えば在宅
において健康管理可能な状況になったと判断された場合、自己あるいはその
家族または医師以外の医療スタッフ(看護婦等)によって医師の指示のもと
に、相対的医行為として実施される、医療管理あるいは医療サービス」と定
義される以上、そのケアは自己およびその家族、そして医師以外の医療スタ
ッフによって提供される包括的ケアである。
しかし、医療的ケアの提供者が、例えば相対的医行為外とされたケアについ
て実施可能かどうかについては、定義や性質の二面性等を充分に検討した上
で、論じられ無ければならない。
基本的に、家族が医療的ケアを実施すること、あるいはまた本人自身が医療
的ケアを実施することは、医師法第23条に「医師は、診療をしたときは、本
人またはその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指
導をしなければならない」とする規定条文があり、実質上の本人およびその
保護者あるいは家族が、必要であれば医師の指導を仰ぎながらケアの実施を
することが可能とされている。
これは、「家庭において家族が在宅患者に対して、例えば、吸痰器を使用す
るとか、膀胱カテーテルを挿入するとか、薬剤を注射するとか、ときに、人
工呼吸器を操作することなどがあっても、それらは患者の自己行為とみなし
て違法とされない」とする根拠によるものである(高田,1987)。
高田のいう医療行為は、医業における医行為すなわち、狭義の医療行為、言
いかえれば絶対的医行為そのものを意味するのであって、「医療的ケア」そ
のものを指すものではない。
したがって、狭義の医療行為に限っては、少なくとも第三者のケアを禁止す
るものであることは自明のことと解釈されうる。
しかしながら、広義の医行為すなわち、相対的医行為については、若干検討
の余地が残されていると考えられる。
また、厚生省が在宅ケアを積極的に支援している背景、すなわち子どものQO
Lの観点から、今後教育への人的配慮や家族の「手がわり」的支援体制の強
化の必要性(土居1996)を踏まえると、いずれその適応範囲は、発達の保障
の場としての教育の場に拡大されてくるものと考えられる。
大筋では、おそらく在宅ケアに該当するケアについて、医師の適切な指導が
適宜なされ、一定の範囲内に制限されるとは考えられるが、第三者、例えば
学校職員が医療的ケアを実施することの、法律的指針が示される可能性があ
る。
医療的ケアの性質を全体的視野に立って眺めれば、“誰が”それを実施する
13 ページ
iryo2
か、という実施者の問題も含めて性質二元論を再度見直さなければならない
かもしれない。
これまで、ふたの開かなかった教育と医療が、医療的ケアを通してより密接
に連携し合い、多くの重度・重複障害児あるいは、慢性疾患による長期療養
児の教育対応が、医療的ケアの共通理解を礎として、日の当たるものへと変
容していくことを期待したい。
(参考文献)
1) 土居 眞(1996)行政の立場から,脳と発達(28),pp236‐242
2) Donna Lehr, Paul Haubrich(1986)Legal Precedents for students w
ith Severe Handicaps, Exceptional Children,Vol.52,No.4,pp.358-365
3) 平田永哲(1988)アメリカ合衆国におけるmainstreamingと精神遅滞児
教育(5),琉球大学教育学部紀要,第33集,第2部別冊,529-540
4)平田永哲(1998)転換期の障害児教育,国際印刷,p20‐26
5)Jane.M. K. Rapport(1996)Legal Guidelines for the Delivery of S
pecial Health
Care Services in schools, Exceptional Children, Vol.62,No.6,pp.5
37-549
6)春日斉編(1991)医事法規,標準看護学講座10 関連法規,32−35
7)北住映二(1995)重症心身障害児の医療,小児の精神と神経,35(3),181-1
88
8)草刈淳子(1997)在宅ケアにおける看護業務と看護の専門性に関する調
査研究報告書
(抜粋),訪問看護と介護,vol.2,No.7,pp473‐492
9)正野逸子(1997)在宅ケアにおける看護業務の現状と課題,訪問看護と
介護,vol.2,
No.7,pp467‐472
10) 三宅捷太(1993)学校における看護の知識の必要性,養護学校の教育と
展望,29号,No.90
,pp2‐5
11)溝田康司(1998)医療的ケアを必要とする児童生徒の教育権保障に関す
る研究,平成9
年度修士論文,琉球大学教育学研究科,p59-74
12) 中村隆一監修(1996)リハビリテーション医療の展開,入門 リハビリ
テーション学,p19
-21
14 ページ
iryo2
13)二瓶健次、船戸正久(19969序論,脳と発達(28),pp199‐201
14)No. 96-1987 NICR(1997),http://laws.findlaw.com/8th/961987p.htm
l
15)Richard Whitmire(1996)Special ed: Is the price too high?, USA To
day,6D・Monday,
June 17
16)清水嘉与子(1991)私たちの法律 保健婦助産婦看護婦法を学ぶ 改定第3
版,日本看護協
会出版会,196-203
17)鈴木康之、山田和孝他(1997)障害児・者の医療的ケアのあり方につい
て,発達障害
研究,第19巻第1号, pp54‐61
18)高田利廣(1987)看護の安全性と法的責任 第10集,日本看護協会出版会,p
10-23
19)富田功一(1983)看護業務と医師法,保助看法との関係,パラメディカル
の医療行為と
法律,南山堂,p19-32
20)U.S.7th Circuit Court of Appeals(1998),http://laws.findlaw.com
/7th/973962.
html
21)山崎摩耶,小山秀夫他(1997)訪問看護・介護と法の運用・解釈をめぐ
って,訪問看護
と介護,vol.2,No.7,pp453‐460
2
2
15 ページ