富士の語源 - 地名を解く

地名を解く6
富士の語源
山梨県
今
井
欣
1
一
河口湖と富士山
地名を解く
6
『富士の語源』 目 次
前
後
半
⒈ 川名の起源
⑴ 川の効用
⑵ 川名のつけ方
⑶ 大河の起源
① 利根川
② 信濃川
③ 北上川
④ 木曽川
⑤ 淀 川
⑥ 阿賀野川
⑦ 最上川
⑧ 阿武隈川
⑨ 天龍川
⑩ 雄物川
(4)
起源地探索の意義
半
2.
⑴
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
4
10
24
26
34
42
48
51
56
62
68
73
77
84
山名の起源
奥多摩の山
浅間山と富士山
湖の命名法
岳名の性質
北アルプスの岳
阿蘇山を考える
峰名の集計
森名の集計
88
95
102
110
114
120
136
157
161
表題の『富士の語源』は、「浅間山と富士山」に記載。
2
地名を解く 6
富士の語源
本サイトでは、地名の語源探索と命名年代の判定に、字名の「嶋、埼、花、坂、腰」と、
自然地名の「島、岬、鼻、峠、越」を選び、語源検討を『言葉と地名』、年代測定を『地名
考古学』
、倭語の特性を『日本語のリズム』に提起した。同じ系列の字名・自然地名は連続
性を持つので、その分布範囲と、言葉の使い方などを比較対照し、縄文時代と弥生時代に
つけた地名を区分して、当時の言語(倭語)の一端を推定した。本サイトは、『地名は一地
点の地形を正確に表現した固有名詞』という定義を根幹においている。
本章では、他の地名と同様に、話題に上ることもなく、どんな法則性を持っているかも
検証されたことがない、
『川名、山名』の起源探索を行ないたい。ここに隠れた法則を浮上
させて初めて、『富士山』
『富士川』という同じ漢字を当てた二つの地名が、近似はするが
異なる語源をもとに、違う場所につけた地名を転用した様子が浮かび上がる。
世界遺産に登録された『地名』が、どんな意味を持っていたかは、当該国が明らかにす
る義務がある。山名をどのようにつけたかの一般法則を導き出して、
「不死、不儘、福慈」
のように解説されてきた『富士』には、「駿河国富士郡」の起源になった駿河国一宮神社、
式内『富士山本宮浅間大社』の所在地、静岡県富士宮市宮町の古名、
「富士」を採った様子
が浮上する。富士宮市宮町にある特別天然記念物の『湧玉池』は、火山の湧水を信奉する
縄文以来の『富士信仰』の源泉だった。この史実は、富士山が世界文化遺産に登録された
第一の理由、
「信仰上の重要性」に適合するので、一日本人として、どのようにこの模様を
浮上させるかを考えたい。
また、長野・山梨・静岡三県を流れるのが、最上川・球磨川と共に日本三急流の一つに
謳われた『富士川』である。この川の上流は「釜無川、笛吹川」、中流域が「河鹿川」、下
流が「富士川」と呼ばれたが、昭和 39 年 7 月の『河川法改正』で中流域の「河鹿川」の名
が失われ、この川以外にない、特別な命名経緯を持つ「富士川」の由来が判り難くなった。
記録がない奈良時代以前の命名経緯は、「浅間山と富士山」の項で推測を述べるが、まず、
一般の「川」に共通する命名法の公理を解説して行きたい。
『川名、山名』の命名法は微妙に違っているので、前半は「利根川、信濃川、北上川、
木曽川、淀川」などの大河、後半に「奥多摩の山」
「浅間山と富士山」
「北アルプスの岳」
「阿
蘇山」をテーマにして、地名の起源を考えたい。この探索は、記録がまったく残されてい
ない古代史の基本資料になるところが大切である。
3
1
川名の起源
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
うたかた
淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし。
世の中にある人と住みかと、またかくのごとし。
『方丈記』 序文
自然界の一方通行、不可逆現象を具体的にみせる『川』は、私たちの生活に欠かせない存
在である。地名研究に於いても川は興味ぶかい対照であり、諸外国の地名研究は川名の分析
を中心に行なわれると聞く。しかし、わが国ではこのテーマにまったく関心を示さないのは
不思議な現象といえよう。本サイトも第三章『言葉と地名』に概略は述べたものの、ここに
流れる『公理』を仮説のまま使っているので、この辺を考えたい。
⑴
川の効用
古代の文明、
「エジプト、メソポタミア、インダス、黄河」文明はナイル川、チグリス川・
ユーフラテス川、インダス川、黄河を中心に成立した。わが国に、こうした大規模文明こそ
なかったが、先土器時代からの遺跡の大半が、台地端(崖端)の中小河川流域に集まる事実
は、川がいかに重要な位置を占めていたかを語っている。
平安時代に開発された深井戸、おもに近世に為された河川の付け替えや上下水路の設置、
そして近代の大規模河川治水事業と上下水道の整備によって、私たちは「川や水」の恩恵を
忘れがちな時代に暮らすことになった。このありがたみを感じるのは、大渇水に見舞われて
給水制限がしかれる場合や、自然災害によって、水が満足に供給されなくなった時くらいで
あろう。
そのため、かつては「命の水」を恵み、大切な交通路であった川も、近年は工場廃水、生
活雑排水などを海に流し去るゴミ処理能力だけを高く買われてきた感をうける。
いまは水質
の悪いヨーロッパ並に、猫も杓子もミネラル・ウォーターを愛飲する時代になったが、大・
中河川の大半が上水路、すなわち水道水(河川水:70%.地下水:30%)の供給源になって
いる事実は、周知されて良いだろう。
かつて質量ともに世界一と謳われた「水」こそ、この国の宝であり、わが国の文化を考え
る上において、絶対に忘れてならないのがこの効用である。多雨・多湿の温帯モンスーン列
島では「湯水の如くものを消費し、すべてを水に流す」習性が遺伝子情報に組み込まれてい
るせいか、ともすれば「水の効用」が無視され、水質汚染が深刻な問題になりつつある今日
にいたって、ようやく衆目の関心が「水」に向けられはじめた。
水という液体は、地表面にあるほとんどの物質を溶かし込む重要な性質をもち、きわめつ
けは氷点が「0℃」
、比重は「4℃」の温度で最大になる物理特性である。つまり、海や湖の
表面が凍っても、中域から底まで水のままにあるのが普通の状態である。この性質が逆であ
4
ったなら、海の大半は氷結し、水に溶けた様々な分子が混合してできた、生命に満ちあふれ
る地球環境は存在しなかった。命が「海から生まれた」史実が大切であり、私たちの原点が
海にあることを、
「Pa→Ma」行の転移をのこす「産ぶ(産屋、産湯、産声)→生む、生み=
海」という、日本語が教えてくれる。
「‥‥、水の低きに流れるがごとし」と形容される水は、地上においては重力の作用によ
って高所から低地をへて海に流れこみ、その一部が地下に浸透する。これだけでは不可逆進
行だが、日中にふりそそぐ太陽光が水を蒸発させて大気圏の上部にあげ、熱を発散させて液
体(雨)にもどし、地表面にかえす『可逆・循環』作用を行なっている。
地球における「水の循環サイクル」をみると、海洋に 13 億 3,800 万㎦(96.5%)、氷河・
地下水に 2,340 万㎦(1.7%)、湖と沼沢に 19 万㎦(0.014 %)、
氷冠として 2,400 万㎦(1.7%)、
大気中に 1 万 3 千㎦(0.001 %)、河川に 2 千㎦(0.0002%)、生体内に 1 千㎦(0.0001%)
の割合で水が分布すると算定されている〈『地理統計』 2002 古今書院〉。
大気中の水蒸気が雨になり海洋・地表面に降ったのち、水蒸気になって蒸発するまでの滞
留期間は、世界平均で「氷河:9600 年、海水:3200 年、地下水:830 年。河川水(水源→
河口)
:13 日、水蒸気→雨:10 日間」と推定されている。このなかで私たちが利用する「命
の水」は、地球全体からみれば、ごくわずかな量の河川水、地下水の各一部である。
わが国の河川は、明治時代に来日したオランダ人の河川技師が、常願寺川(推定起源地名:
富山県富山市水橋常願寺)を見て、
「これは川でなく、滝だ!」と感想をもらしたように、大
陸の河川のように大きく緩やかな流れをもつものは少なく、流路も短いために、世界平均の
滞留期間の半分以下の時間で海に流れ込んでいる。
水が貴重品のヨーロッパ人に発想もでき
ない、
「湯水の如く消費し、すべてを水に流す。熱しやすく、冷めやすい」民族性を育んだ
多雨多湿の気候条件は、川の流域の全企業活動、家庭生活を数週間ほど停止すれば、すぐに
川の表面的な流れだけはきれいになる可能性を暗示している。第二次世界大戦中、当時でも
水質汚染が問題になっていた隅田川(推定起源地名:東京都墨田区墨田)で白魚がとれたという
話が伝えられているのも、興味をさそう。
また、一度お目にかかれば、生涯二度とおなじ水の分子にあう可能性がない地下水(世界
平均の滞留期間:830 年)も、浸透性が高い火山の裾野などでは 100 年ほどのサイクル、関東
平野では 200~300 年位の循環が考えられている。過度の地下水くみあげによる地盤沈下、
枯渇した湧水の修復がほとんど不可能という現況も、長期間の「循環サイクル」をみれば理
解できる。土壌中の微生物の処理能力をこえた現在の汚染が、将来どれほどの後遺症をのこ
すかも、頭にたたきこんでおく必要があるわけである。
川や湖の分析研究が進んできた今日では、河川や湖沼、そして海の潜在能力が少しずつ判
りはじめてきた。この成果によると、川や海の浄化作用…ここに棲息する生態系の働き…が
思ったより小さい様子が報告されている。川や湖がある限度以上に汚れて生態系を乱すと、
元の状態に戻すには汚した時間の数倍から数十倍の期間を要するという。
さらに河川本来の
機能をとりもどすには水源地の森林整備、水害防備林の再生、中小河川に張りつけたコンク
5
リート壁の撤去などが必要だが、近年、環境保全が注目されるようになって、こうした修復
が積極的に行なわれている。一級河川を管理する国土交通省や、二級河川を受けもつ都道府
県も西欧諸国、とくにドイツの成果をまねて、中小河川の直線状の三面張り、五面張りコン
クリート壁を撤去して川岸に水草を繁茂させ、自然のままに蛇行させる「近自然河川工法」
に直し始めている。何のことはない、いままで巨額の税金を湯水のように使って何をしてき
たのかと、文句もいいたくなるものである。
しかし行き場のない海の方はどうしようもなく、こちらの水質汚染も真剣に考えるべき
時期に来ている。海の生態系の原点にある植物性プランクトン(おもにケイ藻、ラン藻)は、
太陽光がとどく水深 30m以内の浅海を主な棲息地としている。そのため、川の上流の森林
を荒廃させたうえに、ダムを造って養分補給をとめた現在のペースで海を汚してゆくと、
数十年後には海産資源…人類が生存するために利用する生物たち…が減少するだけでなく、
毒性(有機水銀による水俣病や、環境ホルモンの悪影響など)が発して、食用に適さなくなる
事態も予想されている。川の養分不足と水質汚染は、海岸に「磯焼け」なる白化現象を誘
発して、藻類が生えなくなり、コンブ、ワカメの激減のみならず、生態系全体が変化して
魚貝類が減少する深刻な問題が発生した。
最近は、襟裳岬の森林再生による海草繁茂の実例を参照し、
「森は海の恋人」を掲げて十
年以上の歳月をかけ、上流に落葉広葉樹を植林して川の養分補給と水質浄化を復元して、
海産資源をみごとに復活させた気仙沼湾などの例が現われた。この思考法は、江戸時代以
前には「魚付き林」などの言葉で表現した一般常識であったが、これを忘れていた不幸な
事情から、ふたたび「川の再生」が注目を集めはじめた。
近世に着手した建築用材の「スギ、ヒノキ」などの植林、干潟の干拓、港湾の浚渫、護
岸工事、ダムの造成といった事業は、当初から有用な工事として計画・着工され、完成後
も人類側の一方的な視点でみていた私達には、近代化の素晴らしい成果に映り、拍手喝采
を送ったものだった。ところが、これによって起こる副作用がどんなものかを予測できな
かったところに人類の人類たるゆえんがあり、この弊害を実感し、自然科学・人文科学の
発達した今日では、すでに逆の評価が下されているのも皮肉な現象といえよう。
地表面と河川を不透水性のコンクリートで覆い、山間部の森林を自然植生の広葉樹林か
ら捕水性の少ない針葉樹林に変化させたことや、針葉樹よりさらに透過性の悪いゴルフ場
の芝生の増加などは、地下水の濫養という面にも悪影響をあたえて、2,500 年以上の歴史を
もつ水田への減反政策までもが、拍車をかけてしまった。以前は地下水として吸収されて
いたはずの雨水が、地表面を流れて土壌浸食を行ない、恒常的に災害規模を拡大させてい
るのも、これが原因とされている。
もうひとつ大切な事柄は、
「川」が山、平野、海の生態系と密接な関係をもち、動脈・静
脈として『物質循環』の主役をつとめている事実である。日本列島の潜在植生は、高山と
北海道をのぞくと、東日本は落葉広葉樹林、西日本は常緑広葉樹林が主体になっている。
温帯では世界一といわれる多様性をもつ木々や草花は、種子、果実、花の蜜などをつけて
6
様々な動物を養い育て、大半の広葉樹が樹液を分泌するため、これに昆虫が群がり、昆虫
を餌とする鳥類を育てている。落葉広葉樹が葉を落とし、樹木・草本類が枯れ、動物が死
骸となった後には、昆虫、地中の小動物、バクテリアなどがこれを分解して腐葉土を作り
あげ、降雨と河川の運搬作用によって盆地、平野部の土壌を豊かに補給する。樹木の葉と
腐葉土は、河川や海岸部のプランクトンを育てる役割をはたし、魚介類をも養っている。
近年、注目を集めているのが鳥類の働きである。魚介類を主食に森を住処にする水鳥は、
肥料を森に散布することから、川が腐葉土を山間から海へ運ぶシステムの「還元作用」を
していることになる。火山島など、不毛の地に植物が生育するのも、花粉・種子が鳥につ
いて運ばれるためであり、大自然の『循環サイクル』の素晴らしさは、私たち人類などに
は考えが及ばないほど、高度、精密な大系であることを意識しなければならない。
川の上流で誕生し、成魚の時代を海で過ごす「鮭」は、海の養分を体に蓄えて生まれた
川に帰ってくる。ところが、彼らは川では食餌をせず、交尾・産卵後にすぐ死を迎える。
この現象も、川が重力の作用で海へ運んだ森・腐葉土の栄養分を上流へ戻す「還元作用」
に位置づけられる。海に比べて養分の少ない川の上流に戻った鮭は、熊などの餌になって
森林への肥料となり、残りの産卵を終えた体は小動物、微生物により分解されて川の栄養
源にかわって、稚魚をも育てる『輪廻転生=物質循環』を行なっている。
最近カナダにおける森林の調査結果から、樹木に含まれる窒素(通常は 14N)安定同位体の
15
Nの含有率が、他の国の森林より高い様相が浮上し、これが、ある生命の『物質循環』に
よることが解明された。15Nは一般に海中での含有率が高く、地表面にほとんど存在しない
元素という。この事実は、海の成分を樹木がとりこむ様子を表現して、『海の栄養源⇒鮭⇒
熊の食餌行為⇒樹木』という、鮭が海の養分を森へ運ぶ還元作用がはっきり浮上した。
とくに興味をひくのが、熊が鮭を全部たべずに内蔵や油のある腹の部分を中心に食べ、
あとは森の中に捨ててしまう一見ぜいたくにみえる食餌法である。この残った部分は他の
動物が食べた後に、微生物が分解して樹木の肥料になる。
つまり、鮭と熊の連携プレーが森を育てる一要素になってきたわけで、年輪ごとの 15N含
有率は、時代を遡るごとに高くなり、人類が鮭を大量捕獲して生態系に影響をおよぼす以
前の時代には、一定値をとるという。
自然観察力の鋭い狩猟採集民は、この因果関係を熟知していたようで、アイヌ人が鮭を
「Kamuy chep:神の・魚」
、熊を「Kimun kamuy:山の・神。または単に Kamuy」と呼んで崇
拝した史実に残されている。動物に「Kamuy」をつけた例は、アイヌ語(鎌倉時代ごろ成立)
には「Kamuy-Chikap:神の・鳥。Kotankor-Kamuy:村おさの神」とよばれたシマフクロウ
もあるが、秋の食糧供給の主役であった鮭と、熊に与えたのは、やはり海の養分を山に戻
す『神の物質循環』を表現したようにみえる。
7
さらに、アイヌ語より古い倭語の「鮭。Sake:割く⇔Kesa:消す→咲く」にも、還元作
用(裂く:∨型ベクトル。川→海→川の生活様式)と輪廻転生の雰囲気を感じとれる。熊が
「Kuma:川の隈で汲む→Maku:撒く、蒔く→組む」対象物は何かを考えると、縄文の人々
の観察眼の確かさと、私たちには絶対に創れない、
『言霊』のすばらしさを感じとれる。
こうした現象も解らなくなった現世人類は、『循環』作用を断ち切って、生態系の変化を
誘発してきた。信濃川は日本一の長さをほこる大河だが、かつて上流の犀川(推定起源地名:
長野県長野市安茂里字西河原:犀川神社所在地)、千曲川(長野県上田市中之条字千曲町)に数万
尾の鮭が溯上していた史実を参照して、昭和時代末の 20 年間、毎年長野市から鮭の稚魚を
50 万尾の単位で放流しても、成魚として溯上できたのはゼロから数匹だったと報告されて
いる。理由は簡単で、地図に一本の大河として記される信濃川には、中流に西大滝ダムと
宮中ダムがあり、二つのダムの取水路~放水路間の本流を流れる水はきわめてわずかで、
大半が発電用導水管に流れこみ、川をくだる鮭の稚魚が発電機の水車で粉砕されてしまう
のだった。むろんダムに階段式の魚道は備えられているが、本流の水量不足もあいまって、
放流地への成魚溯上率が 10 万分の 1 程度では、効果はないとみるべきであろう。
ダムは 20 世紀には発電、取水のための有用な施設であったが、この国のダムの大多数が
21 世紀中に土砂で埋もれて、単なる滝になってしまう事態も頭におくべき事柄であろう。
わが国の河川は、温帯で最大クラスの年間 1,700 ミリをこす降水量と、急峻な谷を流れ下
るため、そこで浸食される土砂は年間「6,000 ㎥/㎢」にも達し、世界平均の「60 ㎥/㎢」
の 100 倍にのぼる事実を知っておかねばならない。
すでに大井川(推定起源地名:静岡県島田市大井町)中流の千頭ダムをはじめ、ダム湖に
土砂が満杯になって滝化したものが各地に出現した。この土砂をとりのぞく費用が巨額な
ため、毎年ふえつづける厄介な出費を避け、ダムの下部に排水・排砂口を設けた「出し平
ダム、宇奈月ダム」が黒部川(富山県下新川郡入善町古黒部)に建造されたが、数回の試験
的な排砂は湖底に溜まった大量のヘドロを黒部川と富山湾にまき散らして、周辺住民と漁
民に甚大な被害を与えた。ところが環境調査の報告は無害とされ、今後も排砂をつづける
予定という。サツキマスを激減させた長良川(岐阜県岐阜市長良)河口堰、湾の生態系を目
茶苦茶にした諫早湾干拓事業の結果を見ての通り、このレベルが現在のわが国の標準的な
様相であり、いまさら声を荒げても仕方がないことかもしれない。
だが、つい 100 年前の日本人は、こんなに自然現象を理解できない人種ではなかったは
ずである。20~30 年後に迎える北極の氷山消滅を始めとする地球温暖化が現実に現われる、
「環境大変動」への対処に、絶対不可欠なのが、大自然の基本現象を理解しうる世代を造
ることである。
自己中心を基本におく、お受験勉強の弊害といえる、全体像の把握と将来の推移を考え
る大局観もなく、工事そのものの権益、金儲けのために造った施設が、生態系の破壊のみ
ならず、
『エントロピー増大則』に支配されるメンテナンス費の増加など、今後の足かせに
なる可能性が高いのである。
8
この意味でも歴史をふりかえる必要があり、自然・生態系の「動脈・静脈」
、そして私た
ち人類の「交通路」として重要な役割を担ってきた川と、私たちの祖先がどのように関わ
ってきたか、それが地名にどのように反映しているかを主なテーマとして、
『川名』を考え
て行こう。
9
(2)
川名のつけ方
この国を流れる「川」は、どれくらいの数があるだろう。といった小学生のような疑問
を抱いた経験はないだろうか。5 万分の 1 地形図には北海道、沖縄県をふくめて、おおよそ
1 万の川名が記載されているようで、小さな小川まで入れると、全国には 10 万を軽くこえ
るほどの「川」があるようにみえる〈㊟ 2 万 5 千分の 1 地形図では、重複記載を含めた 24,740 例
を掲載。国土地理院の統計〉
。
例によって本書は、全数を扱うなどという大それた考えはなく、万の地名を分析する能
力もないので、
20 万分の 1 地勢図にのる約 2,300 の川を基に命名法の基本を考えてみたい。
20 万分の 1 地勢図は代表的な河川名は載せており、2 万 5 千分の 1、 5 万分の 1 地形図で
は山間の水源地帯の様子が詳しすぎるきらいもあるので、全体の傾向を探るうえではこの
程度の量で充分といえる。ただ、こうはいっても、20 万分の 1 地勢図に採択された川にも
不満があり、東北地方では中小河川まで記載されているのに、中国地方は大雑把すぎて、
ちょっと手を加えてみたくもなる。が、統計資料を作成する場合には許されることではな
いので、これは控えねばならない。
なお、本章で使うデータは、1960 年前後に作成された 20 万分の 1 地勢図をもとにして、
〈1989 財団法人日本地図センター〉記載の川名
平成元年に刊行された『全国 20 万分の 1 地図』
〈1991 建設省国土地理院〉に掲載された読み
を追加し、
『20 万分 1 地勢図基準 自然地名集』
方を基本においている。そのため 1964 年 7 月に実施された「河川法改正」以前の古い川名
も含めており、
現代の地勢図の統計数値より 100 河川ほど数が多いことをお断わりしたい。
まず、地勢図に記載された全国の川の数をとりだすと次表がえられる。
表 6-1-1 川の分布
20 万分の 1 地勢図
川数(%)
㊟
地方別面積 採択率
東
北
667 (27.9)
66,911 ㎢
10.0
関
東
194 ( 8.1)
32,377
6.0
中
部
585 (24.5)
66,774
8.8
近
畿
287 (12.0)
33,070
8.7
中
国
169 ( 7.1)
31,783
5.3
四
国
131 ( 5.5)
18,806
7.0
九
州
357 (14.9)
42,150
8.5
合
計
2390
291,871
8.2
北海道、沖縄県を除く。川数のカッコ内の数値は、合計に対する百分率。
採択率=〈川数÷地方別面積〉×1000(km-2)
10
近年の自然科学、とくに「フラクタル数学」の発達と応用例をみると、川の数は地表の
面積に比例すると考えてよさそうである。そこで表1をみると、東北地方における川の採
択率が全国平均より高く、中国地方が低い様子がわかる。関東地方の値が低いのは、関東
平野に大河が多く、都市部の領域が広いので、中小河川の名を記載し難いことが影響した
のだろう。本章では、とくに記す川のほかは表にいれた範囲を扱うことにする。
次に、川にはどんな名称が多いか、20 万分の 1 地勢図からランキングを作成してみよう。
表 6-1-2
川名のベスト 30
1 大 川 14 (6)
11 西 川 7 (5)
18 玉 川
5 (4)
2 黒 川 13 (9)
12 太田川 6 (5)
南 川
5 (3)
3 荒 川 11(11)
高瀬川 6 (4)
宮 川
5 (4)
4 境 川 10 (4)
中津川 6 (5)
湯 川
5 (4)
広瀬川 10 (8)
濁 川 6 (1)
和田川
5 (4)
6 小 川
9 (5)
前 川 6 (1)
7 赤 川
8 (3)
水無川 6 (1)
白 川
8 (8)
18 大野川 5 (5)
松 川
8 (4)
加茂川 5 (5)
山田川
8 (7)
熊野川 5 (4)
26 4 旭 川 (4)
関 川 (3)
滑 川 (2)
横 川 (1)
鮎 川 (2)
滝 川 (3)
丹生川 (4)
吉田川 (4)
小国川 (3)
中村川 (4)
湊 川 (4)
吉野川 (4)
㊟
カッコ内の数値は、流域に所在する、川とおなじ名をもつ地名の数。
川名総数:2390
ベスト 10 の川数: 99
占有率:4.1%
ベスト 30 の川数:202
占有率:8.5%
川名は、島・岬・峠名などにも登場する「大、小、黒、赤、白、松」などの名を別にす
ると、
「境、広瀬、高瀬、中津、濁、水無、河内、加茂」など、他の地名群ではあまり使わ
れない名が上位にランクされるのが特徴である。注目すべき点は、ベスト 10 の占有率が
「4.1%」、ベスト 30 の占有率が「8.5%」と極めて低い値をとることで、第三章『言葉と
地名』にあげた各地名群のベスト 10、ベスト 30 の占有率を再掲して比較対照すると、川名
の特性が浮かび上がる。
11
表 6-1-3 大字・小字名、自然地名の占有率(%)
大字・小字名
花
腰
嶋
自然地名
埼
阪
島
崎
越
鼻
峠
川
9.1
7.0
6.0
4.1
ベスト 30 62.8 60.9 51.0 50.5 47.5 28.9 22.4 16.5 12.8 10.6
8.5
ベスト 10 43.9 40.7 37.1 34.0 32.3 18.9 14.9
地名総数
312
815 2648 2361 1302 2860 1659
転用率(%)
―
―
―
―
―
340 1055 3287 2390
10.6 13.9 45.5
6.6 35.3
表に現われたように、川名の占有率が極端に低い値をとる原因は、何度もふれたように、
「川名」は流路全体を表わしたものでなく、流域にある各種各様の地名を採用した史実を
表現している。表 2「川名のベスト 30」のカッコ内の数値に記したように、川と同じ地名
が各河川の 6~7 割ほどが流域に残されている。
たとえば、一般に大きな川と解釈される大川には、
「Ofokafa=Ofo:谷、崖+foka.ほぐ:
谷、崖+kafa.川、側」に発した大川地名が流域に 4 割以上のこされ、黒い川と解される
ことの多い「Kurokafa=Kuro.刳る:谷、崖+roka⇔karo.刈る:谷、崖+kafa」も 7 割
弱、荒れ川、暴れ川に発したと考えられている荒川にも、その流域に「荒川、荒」の地名
が現存する。この具体例をあげよう。
川
㊟
名
本
流
地図名
流域の地名
青森西部 青森県青森市荒川
神社、小学校、峡谷
荒 川
堤 川
荒 川
猿ヶ石川 土 淵
岩手県遠野市附馬牛町下附馬牛字荒川
荒 川
迫 川
若 柳
宮城県登米郡迫町新田
荒 川
白石川
白 石
宮城県柴田郡村田町村田字荒町
荒 川
米代川
花 輪
秋田県鹿角郡小坂町荒谷字荒川
荒 川
淀 川
刈和野
秋田県仙北郡協和町荒川
荒 川
阿武隈川 福 島
福島県福島市荒町
荒 川
那珂川
烏 山
栃木県那須郡南那須町大金
荒 川
荒 川
東京東南部 埼玉県大里郡花園町荒川
荒川神社
荒 川
荒 川
中 条
新潟県岩船郡関川村楢木新田
荒川峡
荒 川
笛吹川
甲 府
山梨県甲府市荒川
荒川川
津軽石川 宮 古
岩手県下閉伊郡山田町荒川
荒川小学校所在地
荒神社所在地
荒川神社所在地
荒川神社、荒川小
荒川小学校
地図名は荒川が本流に合流、
もしくは海に流入する地点の 5 万分の 1 地形図の図幅名。
平成の大合併によって「宮城県登米郡迫町→登米市。秋田県仙北郡協和町→大仙市。
栃木県那須郡南那須町→那須烏山市。埼玉県大里郡花園町→深谷市。
」に変化した。
12
「荒川」が東日本に片寄って分布するのは面白い現象だが、地名の長い歴史を考えると、
流域に川名と同一、または近似の地名がこれほど残されている例は珍しい。ベスト 10 にラ
ンクされた川では、白川の全数に同一名が現存するほかは 5~6 割程度の残存率で、荒川流
域に残された地名は、異例といえる現象である。こうして、川名とその流域に現存する小
地名を対照すると、荒川は、川全体が「荒れた川」ではなく、「荒川、荒」という小地名を
採用した川名と考えるのが理解しやすい。荒川は「Ara:荒れ地。Ara←Fara.原。腹:崖
+raka⇔kara:karakara, garagara な地形。刈る:崖、谷+kafa.側、川」の解釈から、
川辺の崖、自然堤防に命名されたか、またはガラガラな石の多い川原に命名された地名で
あろう。もちろんこの解釈は、荒川地名が所在する地形を対照して考える必要があり、い
まは命名時点(先土器~古墳時代)と大きく地形が変化していることも頭におかなければなら
ない。最後に載せた「荒川川」という、一見、奇妙な印象を与える川名をみても、荒川が
「川」につけられたものでなく、一地点に命名された様子がお解りになるとおもう。
荒川川のように「~川川」と名づけられた川は案外多く、5 万分 1 地形図には 100 例を越
す類型がのせられている。この例を 20 万分 1 地勢図から取りだしてみよう。(㊟ 右端の
青字は、平成の大合併後の市町名)
川
名
地図名
流域の地名
小学校
池川川
Ikekafa
上土居
高知県吾川郡池川町池川
池川小学校
内川川
Utikafa
五城目
秋田県南秋田郡五城目町内川
内川小学校
小川川
Wokafa
村
所
宮崎県児湯郡西米良村小川
小川小学校
須川川
Sukafa
四
万
群馬県利根郡新治村須川
須川小学校
みなかみ町
都川川
Tukafa
川
本
島根県那賀郡旭町都川
都川小学校
浜田市
滑川川
Namekafa
西
条
愛媛県温泉郡川内町滑川
深川川
Fukafa
仙
崎
山口県長門市東深川
松川川
Matukafa
須
原
新潟県北魚沼郡守門村松川
湯川川
Yukafa
動
木
和歌山県有田郡清水町上湯川
横川川
Yokokafa
塩
尻
長野県上伊那郡辰野町横川
横河川
Yokokafa
諏
訪
長野県岡谷市横川
淡河川
Afako
神 戸
兵庫県神戸市北区淡河町
田河川
Takafa
小千谷
新潟県北魚沼郡堀之内町田川
おお ご
梁
仁淀川町
東温市
深川小学校
魚沼市
上湯川小学校 有田川市
淡河小学校
魚沼市
ちかのり
高梁川
Takafasi
高
岡山県高梁市落合町近以
赤羽川
Akafa
長 島
三重県北牟婁郡紀伊長島町島原 赤羽小学校
酒匂川
Sakafa
小田原
神奈川県小田原市酒匂
高梁小学校
紀北町
酒匂小学校
ここに現われた小川川の起源地名は「小川=Wokafa:岡端、尾側。Fokafa:崖端、谷端」
を想定すると理解しやすい。岡端に小川が流れるのは自然の摂理で、実に論理的な造型の
妙には舌を巻くほかはない。小川島(佐賀 呼子)、小川峠(岐阜 萩原)、小川路峠(Wokafatsi:
13
岡端、岡鉢→おがわじ。長野
時又)、小河内峠(Wokafutsi:岡淵→おごうち。東京
五
日市)など、峠の小川、小川路、小河内は字名の転用だが、同じ解釈法で簡単に解ける。
東北本線赤羽(Akapane)駅と同じ当て字をした「赤羽:Akafa」は、
「Faka.剥ぐ、吐く
→Aka.開く:水際の崖、谷の開口部+kafa:側」と解釈され、土佐国吾川郡の起源地名に
想定される高知県吾川郡伊野町波川(→いの町)や、山口県豊浦郡豊北町阿川(→下関市)も同じ
地名と考えてよさそうである。田川川の重複名を避け、田河川をあてた「Takafa」は高端
川の方が意味をとりやすく、高梁川(Takafasi)も同種の地名に位置づけられる。豊前国
『日本書紀』景行紀に「高羽」と
田川郡(推定起源地:福岡県田川郡香春町香春)の起源地名が、
当てられた史実も興味をさそう。
少々変った当て字をした、酒匂川の起源地に比定される小田原市酒匂 2 丁目(Sakafa=
坂+側、川。 酒匂神社所在地)は、今の酒匂川から東へ 600mほど離れた場所にあり、命名
時と現在では、流路が大きく移動した様子を暗示している。付近は相模トラフの国府津~
松田断層がはしる地形変化の激しい地域で、酒匂川の東にある大磯丘陵が、この 6,000 年
間に 25mも隆起した史実をみても納得できる現象である。酒匂は平安時代中期の『延喜式』
官道の「小總驛:Kopusa=Kopu.瘤:∩型地形+pusa.伏す:緩斜面。房:∪型地形」が
想定されている場所で、
「坂」は勾配をもつ通路だけに限って使われたので、自然堤防を表
現した小總(酒匂)は、命名時から水陸交通路の要衝(後の東海道の渡河地点、港)として機能
した様子をみせている。川名が小地名を採用したと仮定すると、流路の変化、土地の特性
など、歴史の推移が浮かびあがる例も多いので、順次とりあげて行きたい。
「Sakafa-kafa」に佐川川でなく、酒匂川をあてたように、「~川川」全体ではあて字にも
う一工夫ほしかったと感じられるが、なぜか地名にあてた漢字では「Fasi:端」に「橋」
が多用され、
「Kafa」に「側」を使った例が皆無にちかいのは不思議な現象である。これも
『好字二字化令:713 年公布』の影響であろうが、
「Kapa,Kafa→かわ」にあてた文字は「川、
河」のほかは、「樺」が少量使われただけである。樺ノ木は薪や炭の原料だけでなく、その
強靱な「皮」が、いまでも桧・杉細工の接合材として使われるので、
「樺、側、皮、革」は
同じ語源に発したようにみえる。River を表わす「川、河」は、以前にちょっと解説をし
たが、もう一度、この意味を検証してみよう。
「Kafa」の基本語源は、
「Kafu:交ふ、替ふ、買ふ:二つの別なものが互いに入れ違う」
「飼ふ:生物に食物や水を与えて育てる」「支ふ:支える」などがあがる。交ふは「Kafi.
峡:∨型地形」の原形で、峡谷や直立した「Kape.壁:崖」が、おもに川の浸食作用で形
づくられ、生命の生活基盤である「腐葉土に覆われた土壌=大地の皮:Kafa」の大半が、
川の堆積作用によって造成されている。
また、「Kapu:頭。Kafo:顔。Kupi:首」「Kapusu.傾す:頭を傾げる。Kapuru:被る⇔
pukapuka,kapakapa」などの言葉も、「Kafu:支ふ。Kufu:食ふ」に関係した様子が感じら
れる。これらを倒置した動詞は「Faku:吐く、掃く、剥ぐ」
「Fiku:引く、退く、挽く、低」
「Fuku:吹く、拭く、葺く」
「Feku:剥ぐ⇔Kufe:崩え」
「Foku:ほぐ(Poko.凹)⇔Kupo:
14
窪」であり、こうした言葉を川の浸食作用(pakupaku Kufu:食ふ⇔Fuku:拭く)や、堆積
作用(Fuku:葺く)など、水の働きに関連した命名と考えるのは、うがちすぎた見方であ
ろうか。
さらに「飼ふ、支ふ」から、飲料水、食料供給の場としての「川」が浮上し、
「交ふ」か
らは交通路として重用された「川」の姿を推測できる。この国には大きな船が通れる大河
は少なく、大多数の川が急流であるため、世界の趨勢とは違って、明治時代に敷設された
鉄道網、そして近代の道路網の整備によって河川交通の使命はすでに終わっている。が、
歴史を考えるうえでは、交通路として河川の果たした、重要な役割を忘れられない。
かひ
山間の峡や壁の側を食ひ、低い大地の皮を葺き交ひ、生命を飼ひ支へる「川」の語源は
難しいが、こういった基本語源の探求も今後の課題であり、
「川(交ふ)+張る:外に向けて
張り出す。皮+貼る=かはる→かわる:替わる、変わる」という合成動詞なども、面白い
研究材料になりそうな感じがする。
それでは本論に戻って、
「川名」に、どの程度の割合で流域の地名が採用されているかを
調べてみよう。次表は、川名とその流域にある同一地名の現存する比率である。
表 6-1-4 川名と同一地名の地方別分布
川 数
字 名
小学校名
神社名
その他
計
東
北
667
432 (64.8)
33 ( 4.9)
8 (1.2)
37 (5.5)
510 (76.5)
関
東
194
101 (52.1)
28 (14.4)
7 (3.6)
17 (8.8)
153 (78.8)
中
部
585
328 (56.1)
79 (13.5)
12 (2.1)
40 (6.8)
459 (78.5)
近
畿
287
168 (58.5)
46 (16.0)
8 (2.8)
7 (2.4)
229 (79.8)
中
国
169
122 (72.2)
19 (11.2)
1 (0.6)
3 (1.8)
145 (85.8)
四
国
131
89 (67.9)
19 (14.5)
0
4 (3.1)
112 (85.5)
九
州
357
226 (63.3)
49 (13.7)
3 (0.8)
10 (2.8)
288 (80.7)
全
国
2390
1466 (61.4)
273 (11.4)
㊟
39 (1.6) 118 (4.9) 1896 (79.3)
小学校、神社、その他(山、峠、沢、谷、滝、峡谷名など)は流域に同一字名が
なく、三者にのみ名を留める川の数を示す。小学校と神社に名を残すものは小学校
名とした。カッコ内の数値は川数に対する百分率(%)。
表に現われたように、川の流域には現代の地図でも、川とおなじ地名が全数の 8 割ほど
残されている様子がわかる。荒川などの関連地名に残された神社の古さはいうまでもない
が、小中学校、とりわけ小学校に、いまは失われた古地名が残されているところに注目し
15
なければならない。市町村名や大字・小字名、駅名などは、地方自治体や公益企業の都合
で簡単に替えられてしまうが、改変の必要のない名称には手が加えられないものである。
学校名もその一つで、変更しても大したメリットがなく、単に卒業生からひんしゅくを買
うだけだろう。筆者の通った学校も、周辺の町名は当時とまるで変わってしまったが、有
り難いことに小学校、中学校だけは昔のままの校名である。とくに小学校は明治の昔から
おなじ名前をとおしている。明治 5(1872)年に『学制』が制定され、明治 8 年には全国に
24,000 余りの小学校が存在したという。が,就学率が 3 割程度ということから、明治 12 年
に『教育令』を公布して、各地方の実情に合わせた制度に改革した。この小学校の大半が、
所在地名を名乗ったのだった。
小学校名が古い地名を継承している例として、昭和 40 年代に大量の町名を過去帳へ追い
やった東京都の小学校名をあげよう。どの区をとってもおなじ様相をみせるので、東京の
文教地区の意味をこめて区名をつけた「文京区」と、高度成長・バブル期の土地政策の弊
害が予想だにしなかった過疎化の現象を生みだし、平成 5 年に小学校の統廃合が行なわれ
た「千代田区」の例を記そう。以下は平成 4 年度の公立小学校名をあげ、◍ 印は住居表示
実施(昭和 39~45 年)直前にあった町名、カッコ内は現在の町名をあげた。
文京区
◍ 湯島(湯島)
◍ 真砂(本郷)
◍ 元町(本郷)
◍ 柳町(小石川)
礫川(小石川)
◍ 金富(春日)
◍ 大塚(大塚)
汐見(千駄木)
◍ 林町(千石)
◍ 小日向台町(小日向)
駒本(向丘)
◍ 関口台町(関口) ◍ 根津(根津)
◍ 窪町(大塚)
誠之(西片)
◍ 指ヶ谷(白山)
◍ 青柳(大塚)
明化(千石)
◍ 千駄木(千駄木)
昭和(本駒込)
◍ 駕籠町(本駒込)
㊟
平成 26 年現在では、元町・真砂小学校は本郷(←真砂)小学校に統合されている。
千代田区
◍ 今川(岩本町)
千桜(東松下町)◍ 佐久間(和泉町) 芳林(外神田)
◍ 淡路(淡路町) ◍ 神田(神田司町)◍ 小川(小川町)
錦華(猿楽町)
◍ 西神田(西神田)◍ 富士見(富士見)◍ 九段(三番町) ◍ 番町(六番町)
◍ 麹町(麹町)
◍ 永田町(永田町)
平成 5 年度以後、千代田区の公立小学校
和泉 (和泉町) 昌平(外神田) 千代田(神田司町) お茶の水(猿楽町)
富士見(富士見) 九段(三番町)
番町(六番町)
16
麹町(麹町)
◍ 印をつけた小学校の起源地名は、古地図を利用してたどると、明治から江戸時代中期
頃までは比較的簡単にさかのぼれる。地名を変更することの是非はここではふれないが、
こうしたところに古い地名が残されているのは有りがたい。バブルの胴元だった『霞が関、
永田町(永田町小学校は廃校)』と、教育の規範を示すべき『文部科学省』がある千代田区の
ように、小学校の統廃合が行われなければ、将来にこの名は伝えられるのだろうが、ここ
だけは絶対に手を加えてほしくないものである。
文京区の湯島小学校は、東京都区内では数少ない、平安時代中期に編纂された『和名抄』
にのる「武蔵国豊島郡湯島郷」の名を継承する例である。全国には由緒ある地名をひきつ
いだ小学校は多数現存するので、奈良時代以前に辿りうる地名をふくむ『常陸国風土記』
に詳述された常陸国行方郡(茨城県行方郡と鹿島郡北部:霞ヶ浦東岸)の例をあげよう。
郷
名
小学校所在地名
小学校名、旧村名
と うま
當麻郷(當麻郷)
Takima
鹿島郡鉾田町当間
当間小学校、秋津村
荒原郷
Arafara
行方郡玉造町芹沢
現原小学校、現原村
堤賀郷(堤賀里)
行方郷(郡 家)
小高郷(男高里)
Teka
Namekata
Wotaka
て
が
行方郡玉造町手賀
なめがた
行方郡麻生町行方
お だか
行方郡麻生町小高
あ そう
手賀小学校、手賀村
行方小学校、行方村
小高小学校、小高村
麻生郷(麻生里)
Asafu
行方郡麻生町麻生
麻生小学校、麻生村
八代郷
Yatusiro
行方郡牛堀町島須
八代小学校、八代村
板來郷(板來村)
㊟
読み方
Itaku
い たこ
行方郡潮来町潮来
潮来小学校、潮来村
郷名は『和名抄』の表記。カッコ内は『常陸国風土記』にのる郷、里、村名。
郡家(Kofori no Miyake)は郡役所の所在地を表わす。
平成の大合併後は、鉾田町は鉾田市、玉造町と麻生町が行方市、牛堀町と潮来町は
潮来市にかわり、行方郡と鹿島郡は自然消滅した。
『風土記』にのる郷のすべてが現行の大字に継承され、『和名抄』だけに記載された郷名
(荒原、八代)が消えているのが面白い。しかし地名が変化しても、郷名が小学校名に残さ
れているところが大切である。こうした理由から、神社と共に小学校名が注目され、国名、
郡名、川名の起源地探索、古地名の復元などに威力を発揮する。
これに比べ、
『教育基本法:昭和 22 年公布』によって発足した新制中学校は、この時代以
後に命名されたものが多く、個別に歴史をたどる必要があって地名資料として使いづらい
のが残念である。ひとつ注意を要するのは、明治 22 年の『市制・町村制』で数村を統合し
て誕生した新村名には、比定地が判らない『和名抄』郷名を採った例もあり、旧村名の昇
格でない新村・小学校名は疑ってかかる必要があるのも辛いところである。
『常陸国風土記』
に載った郷のように、江戸時代から研究されてきたものには問題は少ないが、『和名抄』だ
けに記された郷で、現存しない地名の考証はかなり難しいので、後に実例をあげたい。
17
ちょっと話題がそれてしまったけれども、川名が小地名を採用したと仮定して、表 4 を
改めて見直すと、地名改変の歴史がはっきり浮かびあがるが面白い。そこで、比較対照を
容易にするため、百分率のみの表記を再掲しよう。
表 6-1-5 川名と同一地名の地方別分布(%:百分率表示)
小地名
小学校名 寺社名
小 計
その他
残存率
東
北
64.5
4.6
1.0
5.6
5.5
75.7
関
東
50.5
14.9
3.6
18.5
8.8
77.8
中
部
55.6
13.3
2.4
15.7
6.8
78.2
近
畿
59.1
15.4
2.8
18.2
2.4
79.7
中
国
72.2
11.2
0.6
11.8
1.8
85.8
四
国
67.9
12.2
0.8
13.0
3.8
84.7
九
州
63.6
13.7
0.8
14.5
2.8
81.0
合
計
61.1
11.1
1.7
12.7
5.0
79.0
㊟
小計は、小学校名と寺社名の合計値。
統計に現われたように、現代の地名に川と同一名がなく、小学校と寺社名にだけ残され
た地名(小計)が明治時代以後、とくに昭和 28(1954)年に公布された『町村合併促進法』
以降に消えた地名と推理できる。大切な川の起源地名ですら、両者の合計が「12%」以上
に及ぶところは直視すべき現象で、この値が東北地方は極端に低く、関東、中部、近畿圏
が高くなっている様子もこれを裏づけている。歴史を無視した地名改変は『エントロピー
の増大』を表現しているので、順次、実例をあげて検討してゆきたい。
表の中部以北の東日本と近畿以西の西日本では、起源地名の残存率に 10%ほどの大差が
あって、この現象も大切な意味をもっている。川名が流域の小地名をとったと仮定すると、
残存率の低い地方ほど地名が改変された様子を語り、川の命名年代を先土器~古墳時代に
おくと、歴史が古い地方ほど、地名が変更されたことを暗示する。この辺は東高西低の傾
向をみせる縄文時代の遺跡の分布状況(8 割近くが東日本)や、地方ごとの文化にも共通す
る印象を受けるところで、その他(沢、谷、滝、渓谷名など:縄文時代以前の命名?)の名を
とった川が、東日本に多く認められることも要因の一つにあがる。第一章『言葉と地名』
で検証したように、中国、四国地方と九州地方北部の自然地名が、中部、関東、東北地方
のそれとは違う様子…一般に西日本の地名はやさしく、東日本の地名が難しい傾向…をみせる
のも、この史実を留めた現象であろう。
18
表 6-1-6
川名の音数 地方別集計
1音
2音
3音
4音
5音
6音
北
11
117
243
236
56
3
関 東
8
53
90
38
4
1
中 部
13
143
222
157
42
7
近 畿
4
84
140
48
7
4
中 国
1
39
79
46
4
32
58
37
3
8
62
151
120
16
45
530
983
682
132
東
四 国
九 州
全
国
7音
累 計
1
2223
667
3.33
562
194
2.90
1852
585
3.17
843
287
2.94
520
169
3.08
408
131
3.11
1145
357
3.21
7553
2390
3.16
1
1
15
3
川
数
川名の音数 百分率表示(%)
1音
2音
5音
6音
7音
川 数
音 数
北
1.6
17.5 52.6 35.4
8.8
0.5
0.1
667
3.33
関 東
0.4
27.3 46.4 19.6 2.1
0.5
194
2.90
中 部
2.2
24.4 37.9 26.8 7.2
1.2
585
3.17
近 畿
1.4
29.3 48.8 16.7 2.4
1.4
287
2.94
中 国
0.6
23.1 46.7 27.2 2.4
169
3.08
131
3.11
357
3.21
標準偏差
0.14
東
四 国
九 州
全
国
3音
4音
24.4 44.3 28.2 2.3
2.2
1.9
0.2
0.8
17.4 42.3 33.6 4.5
22.2 41.1 28.5 5.5
0.6
19
0.1
2390
3.16
音 数
また、第五章『日本語のリズム』の前半で、各地名群の比較対照の基本においた漢字の
使用状況も各地名群の特性を描きだすので、この視点からも「川名」を眺められる。川名
の使用漢字ランキングを作ると、以下のようになる。
表 6-1-7 川名の使用漢字ランキング
1
175 ◎田
48 ◎津
30
◍ 佐
2
122 ◎大
45
29
見
23 ◍ 新
◍ 日
3
103 ◎野
43 ◍ 井
◍ 高
生
又
4
80 ◍ 小
◎原
部
◍ 長
5
79 ◍ 瀬
42 ◍ 戸
28
赤
◎和
◍ 西
6
68 ◍ 内
41 ◎川
26 ◍ 水
22 ◍ 河
倉
7
67 ◍ 沢
40 ◍ 中
湯
◍ 根
名
8
60 ◍ 谷
35 ◍ 石
25 ◍ 上
◍ 八
9
57 ◎山
31 ◍ 三
神
尾
10
49 ◍ 木
30
24 ◍ 松
21 ◍ 久
48
19
㊟
安
広
ノ
黒
◍ 北
矢
24
白
21
滝
20
荒
良
◎印は、1982 年 9 月 30 日現在の市町村名使用漢字ベストテンにランクされた文字。
市町村名の使用漢字ベストテンに入って、川名のベスト 50 に載らない文字は
「島:17 例、東:11 例」
。◍ 印は市町村名の使用漢字、11~50 位に載る文字。
漢字の使用頻度
地名総数
川名
2390
漢字数
830
一地名平均使用文字数:1.96
頻
1
2
総 数
329
147
13
14
頻
度
度
総 数
頻
度
8
25
総 数
頻
度
総 数
48
1
5
6
7
8
9
71
36
45
27
21
21
11
16
5
28
2
49
17
6
29
1
57
1
一文字の平均使用頻度:5.65
4
6
2
4692
3
15
26
漢字総使用数
8
30
3
60
1
18
3
31
2
67
1
19
5
1
40
1
79
1
21
4
35
68
1
20
1
1
11
15
22
3
41
80
1
10
8
23
5
42
11
24
5
43
1
45
1
1
2
103
122
175
1
1
1
漢字ベストテンの占有率:18.3%、 1~50 位の占有率:41.6%
20
12
1
御覧のように、川名の使用漢字ランキングは、市町村名の文字とほとんど変わらない傾
向をみせて、市町村名と同じように、川名は大字・小字名をとった様子を暗示している。
さらに漢字の使用頻度のデータを、両対数グラフにプロットして線分の勾配を求めると、
この値は「1.4」になる。第五章で検討したように、
「~埼、~嶋」などの基本名を使った
大字・小字名は「2.0~1.5」、自然地名が「1.5~1.3」、一般地名が「1.3~1.2」の値をと
るところから、
「川名」は高頻度文字の使用状況が市町村などの一般地名に酷似し、低頻度
文字の傾向は自然地名に準じた、興味ぶかい姿が浮かびあがる。
注目すべきは、市町村名ではそれぞれ 10 位、11 位にランクされた東(川名の用例:11 例。
100 位)、南(17:56 位)が姿を消し、
「西、北」が 50 傑ギリギリに位置するところである。
倭語の厳格な命名法と、市町村や駅名と違って、方位接頭字としての用例が少ない川名の
使用状況から、
「東、西、南、北」の語源を類推できそうである。
西(Nisi⇔Sini.死に:無しと同じく∪型地形?)、北(Kitsa.階、段:段丘)、南(Minami
=Mina:水際、皆+nami.波、舐む:川岸、自然堤防)、東(Fikasi=Fika.退く:低地、湿地
+kasi.浙す、傾ぐ:水際の緩斜面)の順に急峻な地形を表わしたようにみえる。この現象
は「西川:7.南川:5.北川:3.東川:2」の川名も同じ傾向で並ぶので、地形語の意味
を暗示していることだけは確実だろう。ただ、方位に採用された理由が判らないのは残念
である。
もうひとつ、地名分析の手法として採用した「母音音型ランキング」を、他の地名群と
対照すると、やはり川名の特性が浮かびあがるのが面白い。下表の川名は、その音型を使
った代表例をあげた。
表 6-1-8 川名の音型ランキング
1 aaaa
84 荒 川
10 aaeaa
31 高瀬川
21 uoaa
24
黒 川
2 aaiaa
58 境 川
12 aaoaa
29 中野川
22 ioiaa
23
濁 川
3 aaaaa
48 山田川
23 iiaa
22
西 川
auaaa
48 桂 川
ioaa
22
日野川
aaaiaa 29 川上川
14 auaa
28 松
川
5 aiaa
41 滝 川
auiaa
28 夏井川
aioaa
22
田代川
iaaa
41 白 川
16 aauaa
27 中津川
26 oooaa
21
大野川
7 iaaaa
34 島田川
17 aoaa
26 加茂川
ooaaaa 21
大沢川
8 ooaa
33 大 川
18 uaaa
25 熊
川
9 aiaaa
32 鹿島川
iaiaa
25 南
川
31 前 川
aaaaaa
25 赤沢川
10 aeaa
地名総数 2390
28 oaaa
20
野田川
20
大井川
19
内 川
aauiaa 19
河内川
ooiaa
30 uiaa
ベスト 10 地名数
450
占有率 18.8%
ベスト 30 地名数
937
占有率 39.2%
21
川名の音型
音 数
3 音
4 音
6 音
7 音
8 音
平均音数
983
682
132
15
3
2390
3.16
5
24
104
222
107
14
3
479
―
22.1
9.5
3.1
1.2
1.1
5.0
―
9
語頭母音
a
i
u
地 名 数
955
548
339
72
476
40.0
22.9
14.2
3.0
19.9
%
合計
530
母音音型の種類
百分率
9 音
45
地 名 数
平均使用頻度
5 音
e
1
o
表 6-1-9 字名と自然地名の語頭母音(百分率表示)
音型
a
i
u
e
o
嶋地名
ia
43.0
22.7
13.0
3.3
17.9
2648
179
14.8
埼地名
ai
44.1
22.1
11.4
3.5
19.0
2361
122
19.4
花地名
aa
52.9
21.2
10.3
2.0
13.8
312
54
5.8
阪地名
aa
43.9
21.0
12.1
2.9
20.1
1302
108
12.1
腰地名
oi
22.9
13.7
25.4
2.2
35.7
815
69
11.8
島
名
ia
37.2
16.7
15.8
7.8
22.4
2860
347
8.2
崎
名
ai
38.8
20.6
13.0
6.8
20.8
1900
414
4.6
鼻
名
aa
37.3
21.3
13.2
7.2
20.9
1055
462
2.3
峠
名
au
37.8
22.2
14.7
3.2
22.1
3287
628
5.2
越
名
oi
33.8
21.8
13.8
2.4
28.2
340
196
1.7
川
名
aa
40.0
22.9
14.2
3.0
19.9
2390
476
5.0
地名数
音型の種類
使用頻度
表 6-1-10 大字・小字名、自然地名の音型ランキング占有率(%)
大字・小字名
腰
埼
阪
自然地名
花
嶋
島
崎
越
川
峠
鼻
ベスト 10
71.0 64.1 62.1 61.5 59.3 35.2 26.3 19.7 18.8 16.3 15.3
ベスト 30
92.9 88.7 86.4 90.4 83.4 60.0 45.6 40
地名総数
814 2361 1302
312 2648 2860 1659
22
39.2 32.1 30.0
340 2390 3287 1055
川名の語頭母音の使用状況は、字名の「嶋、埼、阪」地名に類似し、自然地名の「峠」
の用法に近似することがわかる。さらに音型ランキング占有率が「越、峠」に近いことも、
峠周辺の「Tsapa→Tafa:垰.Safa:沢⇔川:Kafa」の因果関係をみせている。
つまり「川名」は、縄文時代に命名した字名を、おもに弥生時代に転用してつけたと考
えるわけである。現代にも全国主要河川の流域に「79%」もの川と同一名が残されている
ので、本書は「川名は流域の小地名を採用した」仮説を、
『定理』として使ってゆきたい。
そうなると、川に採択されたほどの字名であれば、そんじょそこいらの一般地名とは本質
がちがう重要な歴史的意義をもつところを、あらためて意識しなければならない。
もし、数 10km から数 100km の長さにおよぶ「川」に名をつけるとき、流域の小地名から
名をとるとしたなら、どんな場所を選ぶだろうか。昔も今も、考え方が変わらなければ、
流域内で最も重要な地点の名を「川名」に選ぶのが、誰にでも納得がゆくものであろう。
この重要度は時代ごと、地方ごとに変化したようにみえる。事実、川名は様々な地形から
とられている。「水源の沢、谷、滝。山間の小平地。峡谷。川の合流点。扇状地の湧水地。
渡河地。港」などがそれである。川名の漢字ランキングにもみられるように、本来全数に
対して定量的な分析を行なう必要はあるのだが、5 万分の 1 地形図では地形を読みきれない
ことに加えて、各要素が複合的にからんだ例も多く、ここに提示できないのは残念である。
雰囲気では「水源地、山間の小平地、合流点、扇状地、港、渡河地、峡谷」の順に使用量
が多い印象をうける。この順位は、川の名がいつの時代につけられたかを探る大切な手掛
かりとなり、起源地の地形とその地形が注目された時代を合わせて考えることが、歴史を
復元するうえでも重要な意味をもってくる。
文献に記録されなかった歴史が、川名の起源地という『地名』に残された可能性は高く、
これを具体的に考えることに意味がでる。そこで多少の無謀さは覚悟して、わが国の代表
的な大河の名をとりあげて検証しよう。
23
(3)
大河の起源
〈東京天文台編纂 丸善〉には、日本の主な河川として流域面積 2,000 ㎢以
『理科年表』
上、または幹川流路(最大流量をもつ流路:本流)の延長が 100km 以上ある 53 の河川が載
せられている。ここから 20 位までにランクされた大河をとりだすと、以下のようになる。
日本の主な河川
川
名
理科年表
2002
川
流域面積(㎢) 幹川流路延長(km)
名
流域面積(㎢) 幹川流路延長(km)
1 利根川
16,840
322
11 阿武隈川 5,400
239
2 石狩川
15,130
268
12 天龍川
5,090
213
3 信濃川
11,900
367
13 雄物川
4,710
133
4 北上川
10,150
249
14 米代川
4,100
136
5 木曾川
9,100
227
15 富士川
3,990
128
6 十勝川
9,010
156
16 江ノ川
3,870
194
7 淀 川
8,240
75
17 吉野川
3,750
194
8 阿賀野川 7,710
210
18 那珂川
3,270
150
9 最上川
7,040
229
19 荒 川
2,940
173
10 天塩川
5,590
256
20 九頭竜川 2,930
116
わが国の大河川は、地形の関係から東日本の川ばかりが上位にランクされ、西日本では
「淀川」のみひとり気をはき、
「江ノ川、吉野川」がこれに続いている。本書は基本的に北
海道と沖縄県の地名を外しているので、ここでもアイヌ語の命名が想定される「石狩川、
十勝川、天塩川」を除外して、 1~13 位までにランクされた 10 本の大河だけを検証したい。
近年では「石狩川、十勝川、天塩川」なども、流域の小地名の昇格とする説が有力視され
ていて、アイヌ語と倭語の地名命名法が近似の様子をみせる原因も、今後の検討課題にな
〈参考文献:
『北海道の地名』 山田秀三 1984 北海道新聞社〉
ってきた。
ここで扱う 10 本の大河川は、それぞれに興味ぶかい歴史、命名の様子が認められるが、
すでに起源地名を失った川が多いため、推量ばかりになるのは残念である。本来は全数の
川を検討する必要も感じられるが、論旨の関係から 14 位以下の川名は省略して、起源地名
に想定される地名をあげるに留めたい。
川
名
Ishikari 石狩川
推定起源地名
いしかり
5 万分の 1 地図名
起源地不詳
石 狩
べっちゃら
Tokapchi 十勝川
とかち
北海道十勝支庁十勝郡浦幌町鼈 奴
浦 幌
Tesh
てしお
北海道上川支庁中川郡美深町紋穂内
天 塩
よねしろ
秋田県能代市能代町
能 代
天塩川
Yonesiro 米代川
24
川
名
推定起源地名
5 万分の 1 地図名
Fusi
富士川
ふじ
山梨県南巨摩郡富沢町福士
Yeno
江ノ川
ごうの
島根県江津市江津町
郷田小学校
江 津
可愛川
えの
広島県高田郡吉田町山手
可愛小学校
三 次〉
Yosino
吉野川
よしの
高知県長岡郡本山町吉野
吉野小学校
徳 島
Naka
那珂川
なか
茨城県東茨城郡常北町那珂西 那珂西神社
那珂湊
Ara
荒 川
あら
埼玉県大里郡花園町荒川
〈Eno
Kutsurifu 九頭竜川 くずりゅう 福井県大野市東勝原
㊟
吉 原
荒川神社
東京東南部
九頭竜峡
三 国
石狩川、十勝川、天塩川は、
『北海道の地名』
〈山田秀三 1984 北海道新聞社〉の解説を
転載させて頂いた。語源と起源地に関心をもつ方は、原書をあたっていただきたい。
米代川は「能代川」ともよばれ、流域に米代の関連地名がないことから、能代市能代町
を候補にあげた。能代町と米代川河口とは今は 5km も離れているので、下流部の流路が
変化した様子を留めたものかもしれない。
本章の題名『富士の語源』に関係する富士川は、富士山の起源と一緒に考えるので、
後半の「山名の起源 (2) 浅間山と富士山」で詳述したい。
え
の
江ノ川上流は「可愛川」とよばれる。この上流部の名に漢字をあて替え、音転させて「江
ノ川」に変化をしたのだろうか。可愛川の起源地に推定した吉田町山手は、安藝国高宮郡
の起源地に比定される吉田町吉田(高宮郡高宮郷)に近接し、吉田には毛利元就が活躍し
た郡山城跡が残っている。吉田町は平成 16 年に「安芸高田市」へ統合された。
吉野川下流の徳島県板野郡吉野町は、昭和 32 年に板野郡一条町、阿波郡柿島村が合併
して誕生した。町名は吉野川からとったが、平成 17 年に「阿波市」に統合された。
那珂川の起源地は、常陸国那珂郡の起源地名(那珂郡那珂郷)に重なる。付近は「太閤
検地」の際に茨城郡へ編入されて、郡域が変化をした。東茨城郡常北町は平成 17 年に東
茨城郡桂村と合併して、城里町に変った。
埼玉県から東京都へ流れる荒川は、この地以外に起源地名が見いだせないため、荒川
扇状地端の花園町をあげた。しかし、川名に採択された理由が解らないのは残念である。
をぷすま
対岸の寄居町富田(式内小被神社、東武東上線男衾駅所在地)が、武蔵国男衾郡の起源地に比
定されるので、弥生~古墳時代に、同じように重視されたのであろうか。埼玉県大里郡
花里村も、平成 18 年、深谷市へ編入された。
九頭竜川も流域に同一名がなく、峡谷にこの名が残されているので起源地に想定した。
それでは、十本の川名の起源を、
「利根川」から検証してゆこう。
25
① 利根川
筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)と共に、
「坂東太郎」と呼ばれた利根川は、流路
延長でわずかに信濃川に及ばないが、流域面積では我が国最大の大河である。上越国境の
三国山脈(大水上山:1,840m)を水源にして広大な関東平野を潤し、千葉県銚子市(Tyôsi
←Tsifotsi=Tsifo.しぼむ:∪型地形、崖端+fotsi.干し、崩じ:崩れやすい水際の崖。落ち:
∪型地形、河口。銚子:tokutoku 酒をつぐ容器=徳利)において、太平洋へ注いでいる。
図 6-1-1 利根川の流域図 『日本の川』〈日本の自然 3 1986 岩波書店)より転載、以下同様
本章の前半は『川名が流域の小地名を採用』した史実の立証をテーマにおくので、まず
現代の地図…特記以外、本項にあげる地名も平成の大合併以前のもの…から、「Tone」の名を
利根川流域にさぐると、次の市町村に使われていたことがわかる。
茨城県稲敷郡新利根町
群馬県利根郡利根村
茨城県北相馬郡利根町
群馬県前橋市大利根
埼玉県北埼玉郡大利根町
この中の、どの地名が「利根川」のルーツであるかを考えたくなるが、残念なことに、
これらはすべて起源地名ではない。なぜ、起源地と考えられないかを検討するため、四町
村の歴史を調べると、これらの名は「利根川」から採った新設記号であった様子が判る。
その誕生年と旧町村名を列記すると、次のようになる。
26
茨城県稲敷郡新利根町
昭和 30 年 4 月
根本村、太田村、柴崎村合併、村制施行。
茨城県北相馬郡利根町
昭和 30 年 1 月
布川町、文村、文間村、東文間村。
埼玉県北埼玉郡大利根町 昭和 30 年 1 月
東村、原道村、元和村、豊野村。
群馬県利根郡利根村
赤城根村、東村。
昭和 31 年 9 月
四町村の設立がおなじ年代であるのは、昭和 28(1953)年公布の『町村合併促進法』に
よったもので、現行の全国市町村名の大多数がこれ以降、新名称に変更しているところは
注意しなければならない。旧町村名のなかに「利根」の名がないことも、これらの町村が
起源地でない様子を暗示する。群馬県前橋市大利根(大利根小学校所在地)も昭和 30 年代の地
図、地名総覧に記載されていない町名で、調査不足ではっきりしないが、昭和 40 年以後に
〈㊟ 平成 17 年 2 月に、茨城県稲敷郡新利根町は稲敷市に昇格、群
新設された記号であろう。
馬県利根郡利根村も沼田市へ編入された〉
歴史を溯ると、利根川はいまの銚子への流路
図 6-1-2
千年前の利根川
でなく、江戸湾に流れ込んでいた様子がわかる。 『利根川と淀川』〈小出
博 1975 中公新書 384〉
現代の流路に変更した時代は、東北―江戸を結
ぶ航路に介在した房総半島一周ルートに換え、
江戸時代初頭の元和 7(1621)年に着手して、承
応 3(1654)年に完成した、利根川水系と鬼怒川
(推定起源地:栃木県塩谷郡栗山村川俣。鬼怒沼所
在地)水系の流路変更であった。
つまり、鬼怒川河口であった銚子から溯って
関宿へ上り、ここから江戸川を下って江戸湾に
いたる、バイパス河川航路が新設されたのである。これ以前の利根川は、今も名を留める
古利根川をはじめ、数多くの分流から隅田川(東京都墨田区墨田)、中川(起源地不詳。東京
都足立区中川は昭和 40 年の新設名)
、江戸川(千葉県東葛飾郡関宿町江戸町)などへと、時代
ごとに流路をかえて東京湾に流入していた。この流経路の変遷と、江戸時代以前の文献に
利根川の名が記録されたことから、まず茨城県の二つの利根が起源地の候補から脱落する。
さらに、利根川と同一名の「上野国利根郡→群馬県利根郡」が、律令時代から現在まで
存続している史実は大切である。
『郡名は小地名の昇格』とする仮説を使うと、利根は「上
野国利根郡」の中にあったことになり、武蔵国埼玉郡に所属した埼玉県北埼玉郡大利根町、
上野国群馬郡の群馬県前橋市大利根も落選する。
ただひとつ残った利根郡利根村は、利根川の本流でなく、支流の片品川(←利根郡片品村
鎌田。片品小学校所在地)の流域にあるため除外されるが、利根村に根利川(Neri:利根村
根利)という紛らわしい名の川が流れている。市販の地図の一部に根利を利根と表記するも
のもあり、一瞬ドキリ(Toki+kiri=時切、途切れる)とさせられる時もあったが、冷静に
調べると、やはり勘違いに発した地図の誤植だった。
27
このように、せっかく集めた町村名も「利根川」の起源地名とは考えられないので、旧
上野国利根郡内の利根川流域をしらみ潰しに調べる必要がでる。しかし手持ちの資料では
「利根」の字名は発見できず、図書館などで調べても、この名を見いだすことはできなか
った。古くから「利根川、利根郡」の起源を小地名の昇格と考えなかったことや、利根川
が川全体を表現した名と捉えられていたことが、関連資料の少ない要因だろう。
たとえば、「Tone」はアイヌ語の「Tanne-nai:長い・川」が「タネ川→トネ川」に変化
したと採るような説である。だが「タンネナイ」をなのる川は北海道にもないようで、ア
イヌ語起源の川名の大半も小地名から採られている。川名・郡名は小地名の昇格と考える
説が、奈良時代から注目されていれば、おそらく「トネ」の名は大切に保存されただろう。
もう一つは、郡の成立した古墳時代にも、利根川の起源地名である「トネ」が失われて
いた可能性である。これほどの大河が、先土器~縄文時代に無名であったとは考えにくく、
この時代に「Tone-kafa」がつけられていれば、起源地名が失われていても不思議はないか
もしれない。郡名は郡内を流れる川名を採用した例も多く、先にあげた 20 の大河のうち、
利根川を筆頭に「最上川:出羽国最上郡。富士川:駿河国富士郡。那珂川:常陸国那珂郡」
が郡と同じ名である。川と同一名の郡は「陸奥国胆沢郡、上野国吾妻郡、武蔵国多磨郡、
越前国足羽郡、山城国宇治郡、大和国吉野郡、但馬国出石郡、播磨国揖保郡、周防国佐波
郡、阿波国勝浦郡、筑前国遠賀郡、肥後国球磨郡」をはじめ、数多く存在した。
現代の地図、古地図にも記されていない、今は失われた地名がどこにあったかを推理す
るために、
「Tone」の語源を考えてみよう。第三章『言葉と地名』で触れたように、
「Tone」
のように Na 行を語尾におく言葉は、「死ぬ、往ぬ」以外は、起源を動詞に求められない。
古語辞典をあたっても「刀禰:官人、神職者」「Toneri.舎人:天皇・皇族に仕えて雑役に
あたる官人」が載せられる程度で、この用法も地名に採用できない。
「Tone」を五段に展開
しても、
「Tona,Toni,Tonu,Tone,Tono」など、普段あまり聞き慣れない言葉が出現する。
関連する言葉も「唱える、どなた、隣、怒鳴る、おとな、とにかく、殿、どの」と、一貫
した命名思想が感じられない言葉の羅列になる。地名の使用例は「Tono」が多く、
「Tona,
Tone」も少数あるが、
「Toni,Tonu」の用例はないようである。この系列地名を郡名、川名、
延喜式内社から取りだすと次の名があがる。
郡
川
名
推定起源地名
Tonami
越中国礪波郡
富山県小矢部市埴生
Katono
山城国葛野郡
京都府京都市西京区松室山添町
Mitono
上野国緑野郡
群馬県藤岡市緑埜
名
砺波山(倶利伽羅峠):277m
式内葛野坐月讀神社
推定起源地名
Tonami
富並川
Wotona
Otonasi
となみ
5 万分の 1 地形図名
山形県村山市富並
尾花沢
小戸名川 おどな
長野県下伊那郡根羽村小戸名
根 羽
音無川
(和歌山県東牟婁郡本宮町)
十津川
おとなし
28
Tone
十根川
とね
宮崎県東臼杵郡椎葉村十根川
椎葉村
Tono
殿 川
との
(岐阜県吉城郡古川町)
飛騨古川
Otono
御殿川
おど
(和歌山県伊都郡高野町、花園村) 高野山
Mitono
御殿川
みどの
愛知県北設楽郡東栄町月
Kafutono
甲殿川
こうどの
高知県吾川郡春野町甲殿
㊟
神
田 口
御殿山
土佐長浜
カッコをつけた地名は、起源地が判らない川の所属市町村名。
名
式内社所在地
旧所属国郡
Tona
刀那神社
福井県鯖江市上戸口町
越前国今立郡
Tonakosi
登那孝志神社
岩手県陸前高田市高田町
陸奥国氣仙郡
Kurotona
黒戸奈神社
山梨県甲府市黒平町
甲斐国山梨郡
Tonoki
等乃伎神社
大阪府高石市鳥石
和泉国大鳥郡
この用法だけでは、「Tona,Tone」の語源は判りにくいけれど、「Tono」には自然地名の
用例が多数現存するので、これをあげよう。
戸ノ崎
(熊 本
本 渡)
アンドノ鼻(和歌山 串 本)
鳩ノ崎 (鹿児島 湯 湾)
殿 崎
(青 森 脇野沢 他 3 例)
宇土ノ崎 (愛 媛 宇和島)
フトノ峠(長 野 市野瀬)
殿上崎
(福 島
音ノ鼻
窓ノ峠
殿 島
(島 根 美保関 他 4 例)
平 )
(佐 賀 呼 子)
(愛 媛
宇和島)
大戸野越 (宮 崎 日向青島)
御殿崎 (宮 城 塩 竈)
トノコ島 (長 崎 佐世保)
神殿島
ミトノ島(宮 城 塩 竈)
ドノコヤ峠(山 梨 鰍 沢)
化粧殿鼻 (長 崎 小値賀島)
殿戸峠
瀬戸ノ島 (長 崎 早 岐)
(長 野 坂 城)
(愛 媛 三 津)
元之島 (鹿児島 阿久根)
地形図でこの地名群を検証すると、
「Tono」は一段高い場所(段丘)につけた様子が感じら
れる。こう考えると、殿様の意味も理解しやすくなり、褥(Sitone)を「下に敷く厚みのあ
る布団。人寝をふくむ?」と採れば意味が通ずるようにみえる。一般人からみれば高い地
位にあった「刀禰、舎人」などの律令時代の官職名も、この意味をもとにつけたと考えて
みたい。580 の郡名、2390 の川名、2861 の式内社、10,000 例弱の「岬、鼻、島、峠、越」
地名群の中で、
「Tone」の用例が「利根郡、利根川」と、
「十根川」
「ト子リノ鼻:Toneri no
「鵜渡根島:Utonesima.東京 新島」の 4 例しかないのも不思議な現
fana.長崎 小値賀島」
象だが、動詞の「Tonu」がないことに加えて、
「Tone」が倭語の韻律少数例の「oe」型に
属するため、と考えられるわけである。
また「Ta⇔Sa」行の密接な関係から、おなじ音型を採用した「Sone:曽根、曽祢、埣」
という地名にも注目する必要がある。古語辞典にのる「Sone:埆、确」は、あてた漢字が
表わすように「土や石で造られた地形の角。砂や石の多い堅い痩せ地」を意味して、地形
語では「岡、砂礫地、岩礁」など、周辺より一段高い段丘状の地形を表わしている。動詞
29
の「Sonemu:嫉む」が、
「埆、确」を原義に「相手を、ゴツゴツして尖った不快なものに感
じる→嫌う、憎む」と定義づけられているのも面白い。「Sone:痩せ地」の地形をもとに、
「ねたむ、嫉妬する」意味が生まれたのであろうか。
「Sonemu」は少数音型の連続形であり、
個人が土地を所有する習慣がなかった狩猟採集時代に、この感情はなかったようにみえる
ので、渡来人が入って農耕が普及した弥生時代以後に誕生した言葉と考えてみたい。
「曽根、曽祢(石川県と三重県の用法)、埣(宮城県)、宗根(沖縄県)」は、曽根、大曽根、
中曽根、仲宗根、小曽根、高曽根、横曽根、石曽根、曽根田、曽根崎など、全国の大字・
小字名に 200 例近くが使われ、大多数が水利の悪い河成段丘、海成段丘上にのっている。
かつては痩せ地、荒れ地として放置されていた「Sone」も、江戸時代中期以降の新田開発、
農業用水の整備などによって畑作地、水稲耕作地化し、昨今では平坦な微高地という特性
から、一部は快適な住宅地に変貌をとげ、地名から土地利用の歴史をたどれるという点で
は面白い名といえよう。だが、この種の古くさい地名が新興住宅名として残される可能性
はうすく、例の「~台、~ヶ丘」といった少女趣味的団地名や、
「~ニュータウン、~ネオ
ポリス」とかいう横文字礼賛の無国籍名に変容してゆくのも、時代の流れと受け止める必
要もあろう。妙に簡潔で、伝統的な地名とも誤認しかねない新名称を作りだされるより、
この種の長ったらしい記号の方が後の時代に命名年代が判定しやすく、開発の様子から、
私たちの頭の程度まで、地名から判読できるのは素晴らしい現象といえるだろう。
また、一般に「Sone,Tone」のような段丘を表わす言葉には、関連する二音節の基本動
詞がないところも興味をよぶ。「Kitanasi=Kisa. 階、段:段丘+tana. 棚:段丘+nasi.
成し:緩斜面、平坦地。那智:直立崖」と表現された段丘状地形が、形容詞の「きたなし、
汚し」の原形に想定され、
「Utsukutsi=Utsu.打つ、臼+tsuku.突く、鋤く、好く+kutsi.
串:崩し。口」と、±∪型の三重重複語で表わされた急峻な地形が「うつくし、美し」の
原義と推理できる。この感性は、比較的のっぺりした顔をもつ渡来人…寒冷地適応の新モン
ゴロイド…中心の弥生時代以後のそれではなく、目鼻立ちのくっきりした旧モンゴロイドの
縄文時代以前のものと考えたい。こうした状況証拠からも、段丘を表わした「Sone,Tone」
は、縄文時代以前の命名を想定できそうである。
「Tone」が「Sone」に近似し、
「骨:Pone→Wone:尾根」も、突きだした川岸の段丘、微
高地の意味をもつので、これを頭において「Tone」の実例をあたろう。といっても、全国
の字名にも「Tone」地名は少なく、次の用例があがる程度である。
宮城県登米郡南方町戸根屋敷
(茨城県猿島郡総和町北利根)
福島県耶麻郡塩川町三吉字利根川
群馬県多野郡上野村楢原字利根平
千葉県柏市上利根、新利根
千葉県長生郡長南町坂本字利根里
千葉県君津市利根
大阪府豊中市刀根山
福井県敦賀市刀根
山口県佐波郡徳地町引谷字戸祢
山口県都濃郡鹿野町大潮字戸根
長崎県西彼杵郡琴海町戸根郷、戸根原郷
宮崎県東臼杵郡椎葉村十根川
30
東北・関東地方の「Tone」の大半が利根とあてられ、他の地方は違う文字で表記される
のは、地名のもつ一つの特性といえよう。茨城県の北利根は利根川北部にある工業団地の
名で、昭和 40 年以降につけた記号なので、地名の語源探索では除外する必要がある。下図
にみられるように、これ以外の「Tone」地名は、川沿いの突きだした段丘上にあり、これ
まで述べた解釈どおりの地形につけた様子がわかる。
図 6-1-3
君津市利根。
敦賀市刀根。
椎葉村十根川。
古代から日本海と琵琶湖をむすぶ「柳ヶ瀬越」の重要拠点として、かつて北陸本線の駅
が置かれ(昭和 32 年、木之本~新疋田間の深坂越ルートに変更)、いまは北陸自動車道のパー
キングエリアがある敦賀市刀根は、旧仮名遣ひのよみは「Taune」であり、宮崎県の十根は
「Towone」とよめるのも面白い。前者は「Tau:±∩型地形、崖+une.畝:連続した∩型
地形」
、後者も「Towo:±∩型地形、崖+wone:尾根」と解けて、表わす地形は「Tone」と
同じになるのが興味ぶかい。古文書の利根川に「戸根川、刀根川、刀禰川」の当て字も見
られるが、これをどの様に解釈しても、おなじ意味になるわけである。
そこで、ようやく「利根川、上野国利根郡」の起源地名探索に入るが、平安時代中期に
編纂された『和名抄』に当時の郷名が記録されているので、上野国利根郡(→群馬県利根郡)
の四郷が、いまのどこに該当するかを検証しておきたい。
郷
名
推定起源地名
渭田郷
Numata
沼田市西倉内町
男科郷
Namasina
利根郡川場村生品
笠科郷
Katsasina
利根郡片品村鎌田
片品小学校、片品村役場、片品川(笠科川)
呉桃郷
Nakurumi
利根郡月夜野町下津
名胡桃城跡
沼田城跡、沼田小学校、沼田市役所所在地
平安時代の百科事典、そして律令時代の地名を網羅した唯一無二の『和名抄』の郷名は、
好字二字化令にこだわったためか、現代の常識が通用しない難読名が多く、振り仮名をつ
けられなかった郷の一部は、今なお読み方を確立できないものがある。幸いにも、利根郡
の郷は江戸時代以来の考証によって、比較的簡単に比定地を特定できるのは有りがたく、
平安時代の要地が浮かびあがる。
31
左図にみられるように、利根川と片品川、薄根川
図 6-1-4 利根郡の四郷
(沼田市薄根町)の合流点の間に位置した「渭田」
郷は、律令時代から利根郡の中心地として活動し、
郡役所(郡家、郡衙)があった地と推定されている。
「男科」郷は沼田盆地の薄根川扇状地にあって、の
ちに真田氏が治めた名胡桃城跡に名を残す利根川
右岸の「呉桃」郷と共に、沼田から等距離に位置し
ている。
「Katsatsina」から「Katasina,Kasasina」
へ二つに分かれたた片品川、笠科川(片品川上流の
名:「Tsa→Ta,Sa」行分離の史実を留めた珍しい例)
と小川(片品村東小川)の合流点に位置した「笠科」郷だけが遠くはなれ、古代の利根郡は、
越後への交通路の要所として、
「渭田郷」を中心に運営された様子が浮上する。
この様相から、もし「利根」が律令期の郷の起源地に重なると仮定すれば、利根川流域
の「渭田、呉桃」郷が候補地にあがり、
「Tone」の地形を対照すると、
「渭田郷」が利根郡
の起源地の可能性が浮かびあがる。郡の名は命名当時の中心地名を採用した例が多く、利
根は沼田市内の利根川左岸にあった古地名とも捉えられよう。が、郡の名が川名を採用し
たとなると、この推理にも弱点が現われる。先土器時代から「川」が生活に重要な位置を
占めた史実を考慮すれば、郷の成立以前に「Tone-kafa」とつけられていた可能性は高い。
こう考えると、沼田より利根川上流の「利根郡月夜野町月夜野、水上町湯原、大穴、藤原」
などの合流点が候補にあがり、水源からの命名も想定できそうである。先に述べたように、
川は「水源、山間の小平地、合流点、扇状地、港、渡河地、峡谷」の地名を採用した例が
多く、
「Tone」という簡潔な地名は、古い時代に命名された様子も感じられる。
そこで、やや特殊な例だが、水源の山・峠と同じ名をもつ川名を地形図から取りだそう。
〈㊟
*
印は律令時代の郡と同一名:陸奥国和賀郡、出羽国雄勝郡、上野国碓氷郡、駿河国
安倍郡、伊勢国鈴鹿郡、筑前国嘉麻郡。
岩木山⇔岩木川 (青 森
立 山⇔立山川 (富 山
弘 前)
和賀岳⇔和賀川 (岩手・秋田 鶯 宿)
*
立 山)
高見山⇔高見川 (三重・奈良 高見山)
蔵王山⇔蔵王川 (宮城・山形 上 山)
三瓶山⇔三瓶川 (島 根
三瓶山)
谷川岳⇔谷 川 (群馬・新潟 四 万)
宝満山⇔宝満川 (福 岡
太宰府)
赤城山⇔赤城川 (群 馬
霧島山⇔霧島川 (宮崎・鹿児島 霧島山)
沼 田)
雄勝峠⇔雄勝川 (秋田・山形 湯 沢)
*
碓氷峠⇔碓氷川 (群馬・長野 軽井沢)
武石峠⇔武石川 (長 野
*
三日町)
鈴鹿峠⇔鈴鹿川 (三重・滋賀 亀 山)
和 田)
安倍峠⇔安倍川 (山梨・静岡 南 部)
宮 峠⇔宮 川 (岐 阜
小鳥峠⇔小鳥川 (岐 阜
*
高 山)
32
銅山越⇔銅山川 (愛 媛
新居浜)
金辺峠⇔金辺川 (福 岡
行 橋)
嘉麻峠⇔嘉麻川 (福 岡
吉 井)
*
*
山・峠と、川の名のどちらを先につけたかの考証は大切なもので、平安時代後期以降に
誕生した峠名は、
「碓氷坂、鈴鹿坂」の他は川名より命名年代が新しく、ここにあげた全て
の峠が、峠下に所在する小地名を転用している。とくに安倍川、駿河国安倍郡の起源地は
静岡市安倍町に比定でき、河口の湊の機能を備えていた時代に命名された地名が、川の名
に採られ、これが水源の峠に転用された史実を語っている。
山名は山そのものにつけたものと、転用名の混成であるのは峠と同様で、利根川支流の
谷川(←群馬県利根郡水上町谷川)の名をとった谷川岳は、転用名の代表にあがる。これに
対して、立山は山自体につけた名前のようで、ここから立山川が発したと考えられそうで
ある。ただ岩木川は、岩木山(←青森県中津軽郡岩木町百沢。岩木山神社所在地)を水源とし
ない奇妙な川で、流域にあったもう一つの岩木を採用したために、同一名になったのかも
しれない。
この命名法を参照すると、現存地名に手掛かりが
図 6-1-5 大水上山
なさそうにみえる利根も、水源に位置する大水上山
(Ofominakami:群馬・新潟
八海山。1,840m)が、
かつては『利根岳、刀嶺岳、大利根岳』とよばれた
史実が注目される。関連地名は 2 万 5 千分の 1 地形
図にも記載されていないが、
「利根.Tone:張り出し
た段丘」
「大利根:Ofotsone=Ofo:崖、沢+foto:
∪型地形、泌尿器(水源)。foso:細、臍(∪型地形)
+tone,sone:段丘」
「Ofoto:沢の水源+ne.根:
根源」と解くと、大利根は、同じ意味の大水上山を
水源にする沢にあてた可能性がでる。この辺は古文
書、古地図に残されている可能性はあり、地元の方
であれば、簡単に特定できる地名かもしれない。
川名の起源探索の必要事項を記すために、回りくどい説明になったが、ここでは水源に
ある山が利根岳、大利根岳とよばれた史実から、所属大字名の「群馬県利根郡水上町藤原:
平成の大合併後は、みなかみ町藤原」を利根川の起源地にあげたい。簡潔な「Tone」地名が
水源にあったことは、命名は先土器時代に溯れる可能性があり、さまざまな川の起源地を
探索して命名年代を分析していけば、この史実が浮かびあがるのではないだろうか。
33
② 信濃川
「信濃川」は、信濃国(いまの長野県、古名は科野国:Sinanu)に水源をもち、この国の
北半分のほぼ全部の川が信濃川水系に属しているので、国と同じ名を川に採用した。と考
えるのが普通である。元正・聖武天皇の政策により、養老 5(721)年から天平 3(731)年
す
は
までの 11 年間、国の北部を「信濃国」
、南部は「諏方国」と二分した様子が『續日本紀』
に記録され、信濃川の由来を裏づける資料として貴重な手がかりになっている。
国名、川名が共に小地名の昇格とする仮説を
図 6-1-6 信濃川の流域図
使うと、科野は信濃国内の信濃川流域のどこか
にあったことになる。信濃川を辿り、古地図な
どから「Sinanu,Sinano」の地名を探しだせば、
信濃国と信濃川の起源が一遍にわかる。という、
実に単純、かつ楽しい作業が展開する。
律令時代以前の記録をのこしたという『国造
本紀』には、北信濃に「科野国造」
、南信濃に「須
羽国造」が記され、それぞれ両国を統治したと
考えられている。さらに飛鳥時代に信濃国が成
立した時の中心地、すなわち最初の国府が置か
れた場所を探りだし、科野国造との関係を考え
ることも重要な意味をもつ。
つまり、科野国造の本拠と信濃国第一次国府
所在地を調べ、ここに信濃川が流れているか、
そこに「Sinanu,Sinano」の地名があったか、
そして所在地形が地名解釈に合致するかを検討
することが、信濃のルーツをさぐる重要な手掛
かりになる。
ところが案に相違して、この条件すべてを満たす場所
は簡単に見つけられる。科野国造の本拠と信濃国第一次
国府は、ほぼ同じ地域におかれ、ここには信濃川水系の
本流である「千曲川」が流れている。
さらにこの地には、崇神天皇時代の創建を伝える科野
国造の健五百健命(Take Ifotake no mikoto)をまつる
「科野大宮社」が現存する。一般に、神社は所在地名を
なのる例が多いことを考慮すると、この地が「Sinanu」
の起源地であったとも推理できる。それが右図の上田市
と きた
ときいり
常田(科野大宮社所在地)、常入(地図不記載:信濃国府所在地。
34
図 6-1-7 信濃国府、国分寺
第二次国府は松本市惣社付近)
、国分(信濃国分寺所在地)付近の一帯である。千曲川の河岸段
丘上に位置するこの地域は、
「Sina.階、品:しなやかな段丘+no,nu.野、沼:火山の裾
野などの緩斜面」にも適合して、信濃国と信濃川の起源地探索は、これにて一件落着とい
うことになる。だが、
「余りにうまい話には注意せよ」とのことわざ通り、ことはそう簡単
に運ぶとは思えない。
科野の名は、
『古事記』神代では出雲の国譲りの条に登場する。大国主命の息子とされる
「健御名方神:Take Minakata no kami」が、天っ神の「健御雷神:Take Mikatuti no kami」
と力くらべをして敗れ、科野の国の州羽の海(諏訪湖)へ逃げた説話として記録されている。
さらに「神武記」の最後に科野国造の祖が記され、
『日本書紀』では「景行紀:日本武尊の
東征」に、信濃国が記載されている。7 世紀ごろに成立した信濃国の誕生経緯を考えると、
これらの記録を史実と受けとるかに問題はあるが、
「科野」が古墳時代から大地域名として
使われていたことだけは確実といえよう。
そこで、科野(北信濃)の縄文~古墳時代の、遺跡分布状況を検討する必要がうまれる。
遺跡分布図を調べると、上田市をふくむ小縣郡は古墳時代の遺跡が少ない地域で、旧高井郡、
水内郡、更級郡、埴科郡が接する善光寺平周辺が、科野の中心地として浮かびあがる。い
まは、この付近から国名の「Sinanu」が発したと考えるのが常識的な見解であり、後に科
野の勢力が拡大して、古東山道と北陸への交通路の要衝にあたる上田へ中心を移したと考
える説が有力視されている。なお、ここにあげた諸郡の推定起源地名を列記すると、次の
(㊟ 平成の大合併後、東部町は東御市。戸倉町と更埴市は千曲市に改名)
ようになる。
郡
名
推定起源地名
小縣郡
Tifisa Akata 小県郡東部町県
旧名:縣村
高井郡
Takawi
上高井郡高山村高井
高山村=高井村+山田村
水内郡
Minoti
上水内郡信州新町水内
旧名:水内村
更級郡
Sarasina
埴科郡戸倉町若宮
埴科郡
Fanisina
更埴市生萱
式内佐良志奈神社所在地
埴科縣神社所在地
古代科野の中心地は善光寺平とする定説に注目して、
周辺の地名を調べると、ここにも「Sinanu」が存在した
ことがわかる。明治時代の古地図は、付近に「下高井郡
科野村」を記し、科野村は明治維新直後に県庁が置かれ
た中野町を中心にした 8 町村と合併して、昭和 29 年に
中野市へ変化した。残念なことに、「科野」は住居表示
に採用されなかったが、市販の地図の一部にいまもなお
付近の地域名として記されている。原因は昭和 50 年代
まで 5 万分の 1 地形図に地域名の科野が記されていたた
めだったが、最近は地形図に通称を載せなくなってきた
35
旧名:更級村
旧名:埴科村
図 6-1-8 中野市越(もと科野村)
ので、同地図(図幅名:中野)から科野の名は消え、市販の地図も改定されるごとに削除さ
れて風前の灯といった状態になってきた。しかし、ここには中野市越に「科野小学校」が
現存して、よほどの変化が起こらないかぎり、将来に伝えられる可能性を秘めている。
同じ様子は、紀伊(Ki→きい)国と紀ノ川の起源地に比定される「紀伊国名草郡紀伊村→
和歌山県名草郡紀伊村→和歌山県海草郡紀伊村→和歌山市府中(紀伊国府比定地)、弘西(紀
伊小学校所在地):昭和 34 年に和歌山市へ編入。通称:紀伊」にも共通するが、こちらには
かいそう
阪和線「紀伊駅」があるので、余計な心配をする必要はないだろう。〈㊟ 和歌山県海草郡
あ ま
なくさ
は、海部郡と名草郡の合成名:明治 29 年合併〉
昭和 28 年に公布された『町村合併促進法』以来、現代にまで吹き荒れる凄まじい地名改
変の嵐は、有史以来の最大規模といって良いだろう。なかでも「国、郡、川」の起源地に
比定される貴重な地名ですら、被害を被っている事実は再考を要するものである。以後具
体例をあげてゆくが、本物の起源地名が抹消されて、新設名に「国、郡、川」名を採用し
た例は枚挙にいとまがないほど多数に及んでいる。この事実は、真贋を問う能力の薄れた、
ブランド崇拝志向を如実に表わす現代を象徴する現象であり、時代の趨勢は、すぐ地名に
反映する好例といえよう。
だが、奈良時代以前の文献資料には限りがあり、考古学上の知見もその全体像を把握し
てからでないと利用が難しいことを考えれば、地名に対する認識を改める必要があるとお
もう。最近、各市町村がコミュニティ(地域社会、共同体)の活性化、アメニティ(快適居
住空間)を標榜するケースも多いが、この実現には、地域の歴史・風土をインフラストラク
チャー(基盤)に置いて、今後のあり方を考える必要もあるのではなかろうか。
こうした現象は実に不可解な印象を与えるが、通称としてかろうじて息をつないでいる
「科野、紀伊」が両国の起源地名であるなら、双方の旧所属郡が「信濃国高井郡、紀伊国
名草郡(推定起源地:和歌山市紀三井寺。名草小学校所在地)」であったところにも目を向けね
ばならない。前にふれた肥国、筑紫国と同様に、国名に採られた地名が郡の名に採用され
なかった史実は、弥生~古墳時代、飛鳥時代では、中心地が移動した様子を暗示している。
紀伊国府が置かれた「紀伊」付近の地名が、郡名に採用されなかったのは不可解な現象で、
なぜ、この地から 10km も南に位置した「名草」が郡名に採られたかは、探求すべき課題だ
と思う。名草は、「神武紀」の神武東征伝説に「名草邑」として登場するので、あるいは、
このあたりにヒントが隠されているかもしれない。
こし
を
ち
たかもり
科野が所在した中野市越付近には、越智神社(中野市越)、高杜神社(中野市赤岩)、笠原
神社(中野市笠原)などの式内社が集中して、付近が古代に重要な位置を占めていた様子を
残している。さらにこの地は、
「Sinano,Sinanu」にもピタリと適合する地形にあり、利根
川と本項にあげた「Sina」地名はすでに四例に及ぶため、この地名解釈を提起しよう。
男科
Nama.舐む:水際の崖
笠科
Kasa:∧型地形、水際の崖+sasi.刺す:∧型地形、崖+sina
(片品) Kata.肩:段丘端
+masi.坐す⇔sima:湿地 +sina
+tasi.出す、足す:段丘 +sina
36
更級
Sara:sarasara な砂地
+rasi⇔sira:尻+sina
埴科
Fani:土、泥地、湿地
+nisi:∪型地形+sina
何度も解説した「Sina」は、擬態語の「sinasina」、動詞の「Sinafu:橈ふ」に表わされ
る「Sinayaka」な斜面、
「品、階」とあてた段丘地形につけられている。倒置語の「Nasi:
成し」も、ほぼ同じような地形にあてられているので、「Sina」は広い意味での「緩斜面」
とも捉えられる。
「Sinano,Sinanu」に含まれる「nano,nanu」という、「Na」行の連続した言葉は意味が
とりにくく、この名は「Sina+no,Sina+nu」と分けて、考えるほうが良い地名であろう。
「No:野。Nu:野、沼」はおなじ意味の地形語と捉えてよさそうで、火山の裾野のような
緩斜面を表現している。成層火山の緩斜面や段丘下には、同心円状に湧水が連続する場合
が多い。これは、火山噴出物が発泡した溶岩、火山弾、軽石、スコリア、火山灰などで構
成されるために、雨水が隙間だらけの地表面を流れずに地中へ浸透し、火山自体が天然の
ダムになって裾野に沼沢地を造りだしている。
典型例が富士山である。富士五湖、白糸の滝、浮島ヶ原や、柿田川(静岡県駿東郡清水町
柿田)などの名勝を裾野に造りだし、大量の水を利用する製紙業が富士市周辺に立地するの
も豊富な水資源によっている。古語では沼を「Nu」とよみ、野が「No,Nu」と二通りによ
まれたのも、こうした事情に由来したのだろう。
中野市の科野は、成層火山の高社山 (コウシャサン、たかやしろやま。古名は高杜山:
Takamori-yama)の麓に位置して、
「Sinano,Sinanu」の地形にも合致する。この地と上田市
の、どちらを信濃国の起源とするかの判定は難しいが、遺跡の分布をもとにした定説と、
科野の古地名を伝える中野市が有力であり、この地を「科野国」の発祥地と考えてみたい。
また、
「野、沼」のつく地名で興味を誘うのが信濃川の支流の一つ、魚野川である。この
川は、今は「うおの川」とよまれるが、古くは「Iwonu-kafa」とよばれていた。「魚:Iwo
→うお。Fifo:水際の崖」の文字をあてたために、難読地名になった魚貫崎(おにきざき。
熊本
魚貫崎)、魚固ノ島(おごのしま。長崎
平戸)、魚見峠(ようみとうげ。福井
大野)
も、原形の「Iwoniki, Iwokono,Iwomi」に戻すと、なぜこのように変化したかが分かる。
文字をあてた名は、漢字のよみが換わると、たちまち難読地名に変貌する好例といえよう。
魚野川流域は、スキー場のメッカといえるほど沢山のゲレンデがあり、この地を利用さ
れるスキーヤーなら、付近が「魚沼産こしひかり」で知られる新潟県南魚沼郡に属してい
ることはご承知であろう。リフトに乗ってぼんやり雪景色を楽しむとき、魚沼郡に魚野川
が流れていることに、不思議な印象を抱かれた経験はないだろうか。
もうお判りのように、これは「Iwonu」の地名をとった郡の名に「魚沼」
、川名に「魚野」
と別の文字をあてたために発した現象である。「郡と川」の名が、同じ地名からとられたと
考えると、面白い推理ができるので、『延喜式』神名帳に記録されて、いまなお位置が確定
していない、式内「魚沼神社」の所在地を探索しよう。
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所在地
川
名
魚沼神社
小千谷市土川
信濃川
魚沼神社
北魚沼郡守門村大倉
破間(あぶるま)川
魚沼神社
南魚沼郡大和町大倉
水無川
魚沼神社
南魚沼郡六日町宮
三国(さぐり)川
魚沼神社
南魚沼郡湯沢町神立
魚野川
この五つの神社のどれかが、式内社と考えら
図 6-1-9 湯沢町(魚野、魚沼)
れている。ここで神社も小地名を採用したと仮
定すると、魚野川流域の湯沢町を「魚沼神社、
越後国魚沼郡、魚野川」の起源地に比定できる。
信濃川と魚野川の合流点から 7km ほど下流にあ
る小千谷市の魚沼神社は、古名を「上弥彦社」
といい、江戸時代に名を替えたものであった。
ほかの三社も魚野川の支流域にあるため、魚野
川の起源地名とは考えられず、魚沼郡の起源と
するにも根拠薄弱なのである。
これに対して、湯沢は三国山脈を挟んだ上野
国利根郡への交通路の要所として、温泉が湧く重要な場所にあり、近年は上越新幹線の駅、
関越自動車道のインターチェンジが置かれた。古代、魚沼郡の中心にあったであろう越後
湯沢は、ふたたび華やかな脚光を浴び、バブルに浮かれた高層ホテル・マンションの林立
した姿に、歴史の再現を感じとれる。
このように、
「国、郡、川、神社」名を小地名の昇格とする仮説をたてると、かなり効力
を発揮するようにみえる。だが「Sinanu」国の発祥地を長野県中野市越におくと、この仮
説に矛盾が生じることに気づかれたと思う。もう一度、中野市の図 8 をご覧いただきたい。
ここを流れる川は、信濃川本流の千曲川(図 8 の左上)ではなく、支流の夜間瀬川(Yomase:
下高井郡山ノ内町夜間瀬)である。千曲川の古名を「Sinano-kafa」とした場合にも、この地
は信濃川の起源地にはなりえず、ここには、何らかの勘違いが介入していることになる。
私たちは物を見たり、何かを考える場合にある種の先入観、または通説といったものが
あると、それに大きく影響されやすい。信濃川が信濃国から流れ出しているから、この名
がつけられたとする説に、疑問をもつ必要はないだろうか。そしてその余地は全くないの
だろうか? 例によってひねくれた発想だが、こう考えると少し光明が見えてくる。
冒頭の信濃川の流域図にみられるように、信濃川本流の川名は変なつけ方であることが
わかる。信濃川と呼ぶのは新潟県(旧越後国)だけに限った名称であり、長野県(信濃国)
内では千曲川に名をかえて、その支流は犀川、高瀬川、梓川、奈良井川とよばれる。なぜ、
このように区別されているのだろうか?
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信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ
『万葉集』 巻十五
3400
千曲なに 浮き居る舟の 漕ぎ出なば 遭ふことかたし 今日にしあらずば
巻十五
ち
く
ま
の
か
3401
は
おそらく、もっとも古い記録と考えられる『万葉集』にも「知具麻能河伯」と詠まれた
ので、古代の千曲川が「Sinano-kafa」とよばれたとは考えにくい。このように、ひとつの
川が流域ごとに名をかえる例は多いが、やはり川名は流域の小地名を採っている。
たとえば、信濃川とおなじ旧国名と同一の相模川は、上流が桂川、下流は馬入川(Banyû
←Panifu=Pani.埴:土、泥+nifu:湿地)とよばれる。両者は山梨県都留市桂村、神奈川
県平塚市馬入を採用し、中流の相模川も相模(消失)を採った雰囲気があって、幸いにも、
『和名抄』郷名に痕跡が残されているので、後に詳述したいとおもう。この相模川と同様
に、信濃川水系の主要河川の起源地名を推理すると、以下のようになる。
千曲川
Tikuma
上田市中之条字千曲町
犀 川
Safi
長野市安茂里字西河原
高瀬川
Takase
大町市平字高瀬
梓 川
Atsusa
南安曇郡梓川村梓
旧名:梓村
木曾郡楢川村奈良井
楢川村=奈良井村+贄川村 平成 17 年、塩尻市へ編入
奈良井川 Narawi
犀川神社所在地
「千曲の川、千曲なに」と詠われた千曲川の起源
平成 17 年に松本市へ編入
図 6-1-10 上田市千曲町
地が、先にふれた上田市内に所在し、信濃国府に近
接していたところは興味を惹く。この地は古東山道
と北陸支道分岐点対岸に位置し、古東山道における
千曲川の渡河地であったため、川名に採択された。
犀川も渡河地の名を採用し、しなの鉄道(もと信越
あ
も
り
本線)が川中島~安茂里間で犀川を渡るのも地形上
の制約、歴史の伝統をふまえた結果である。
『延喜式』官道の驛家(むまや→エキカ)が両者と
も渡河地を表わす「曰理:Watari」驛だったことや、千曲を詠んだ和歌の「渡河、渡船」
の表現もこれを補強してくれる。また、梓川、奈良井川の起源地名が村名に使われた事実
も大切である。川と同じ名の市町村はいまも多数現存し、古代に川の名がつけられて以来、
たえず周辺の中心地として、その発祥地が活動をつづけてきた様子を語っている。
こうして、信濃川水系の主要河川を検証しても、川名が小地名を採択した史実が浮かび
あがる。こうなると、信濃川だけを例外として扱えなくなり、やはり信濃川も新潟県内の
「Sinano」地名を採用したと考えてみたくなる。そこで目を新潟県に移し、現代の地図か
ら信濃川流域にこの名を探索すると、面白いことに、たいへん重要な二ヶ所の地に「信濃」
があることが判る。
39
ひとつは新潟市信濃町(いまは中央区信濃町)、もうひとつが長岡市信濃である。
前者は、新潟市内への信濃川の洪水対策と、新潟港の土砂堆積による港湾機能低下の防止
策として、昭和 38 年に着工、昭和 46 年に完成した関屋分水路の東側に位置し、後者は、
信濃川河畔の長岡市の中心部に所在している。双方とも「Sinano」に合致する地形ではあ
るが、残念なことに、この名も昭和 40 年代に新設した記号なのである。
新潟市信濃町は、信濃川ほどの大河川に採用される地勢条件になく、古墳時代の国造が
「高志深江:Kosi no Fukaye」とよばれたように、付近に巨大な入り海があり、奈良時代
の信濃川も、川の形でここまで流れ込んでいなかったと考えられている。
一方の長岡市信濃は、信濃川の起源地として充分に納得がゆく地勢条件を備えている。
この地は越後国古志郡に属していたので、「高志深江国造」は長岡を中心に活動したと考え
られるかもしれない。ただ、高志国の起源地は、福井市足羽付近に想定するのが歴史的に
も無理がないようで、高志深江の「Kosi」は、越前・越中・越後の「越、高志:Kosi」で
はなく、郡名に採用された「古志:Kosi」だったと考えたい。
北陸自動車道と関越自動車道、国道 8 号と 17 号線、信越本線と上越線の分岐点にあたる
長岡は、古代から交通路の要衝にあり、信濃川の水運を利用するうえにも重要な位置を占
めていた。時代を溯ると、付近に馬高、三十稲場(いずれも長岡市関原町)、朝日(三島郡越
路町朝日)、三仏生、大平、芋坂(いずれも小千谷市)と縄文時代の遺跡が多く、華やかな火
焔土器として知られる中期の「馬高式土器」は、縄文土器の中で最も有名なもののひとつ
である。こうした事情から、新潟県内の信濃川流域の最重要拠点、長岡市を信濃川の起源
地と考えたい気もするのだが、江戸時代にも付近に「Sinano」はなかったようで、信濃川
の起源地探索はここで頓挫してしまう。
全国の川名起源地群を分析すると、中流~
図 6-1-11 荒屋遺跡
下流の地名を採った信濃川ほどの大河の起源
地名は、おおよそ「川の合流点、湊」などの
交通路の要衝にあるのが普通で、長岡市に匹
敵するところを探ると、もう一ヶ所の候補地
がうかびあがる。
越後と科野、上野の三国をむすぶ交通路の
要にあたる、信濃川と魚野川の合流点である。
この河成段丘上の地名は「新潟県北魚沼郡川口町西川口字荒屋→長岡市」、荒屋型彫刻刀
の標識地名として考古学ファンに知られる「荒屋遺跡」の所在地である。約 1 万 3 千年前
の先土器時代末の遺跡は、竪穴式住居跡が認められるなど、縄文時代への遷移を考えるう
えでは福井洞穴遺跡(長崎県北松浦郡吉井町福井免)、前田耕地遺跡(東京都あきる野市野辺)
などと共に注目される遺跡である。もちろんこれだけで、信濃川の起源地に比定できるわ
けはないが、地形も「Sinano」に適合して、可能性を秘めていることだけは確かであろう。
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こうして、信濃川の川名発祥地を、長野県でなく新潟県とすると、魚野川との合流点か
ら長岡市内の間(平成の大合併後は、すべて長岡市内)にその起源をおくのが妥当にみえる。
確証のない地名をあげるのは気になるが、今は失われた川名の起源探索をもテーマにおく
本項では、魚野川との合流点を信濃川発祥地の第一候補に推挙したい。遠隔の地に住んで、
地図を眺めているだけの推理には限界があり、やはり詳細な探究は、地元の方に委ねなけ
ればならないとおもう。
もしこのように、科野国と信濃川の起源がまったく関係ない別の地名から発したなら、
天は罪つくりなことをしたものである。このとんでもない配剤から、一国の国名と隣接し
た国を流れる大河に類似の名が採用され、『信濃川は信濃の国名からとられた』という説得
力に富む定説が生まれたのであろう。この勘違い(?)は古墳時代に発した可能性があり、
こういった常識はずれの空想を楽しめるのも、地名研究の醍醐味といえるのである。
41
③ 北上川
岩手県北部の北上山地に水源をおき、中部の盆地を
図 6-1-12 北上川の流域図
潤しながら、北から南へ真直ぐ流れて宮城県の石巻湾に
そそぐ大河に、
「Kitakami-kafa」ほどふさわしい名はな
いだろう。北に上を有し、掛け言葉の「高み」を内に秘
めて「iaaiaa」と先鋭な韻をふむ、いかにも東北らしい
厳しさと裏寂しさを湛えた「北上川」には、短調の曲が
良く似合う。
この素晴らしい川名は、いったいどこに発したのであ
ろうか。まず現代の地図から「Kitakami」をとりだすと、
次の名があがる。
岩手県岩手郡岩手町御堂字北上開拓
岩手県北上市
宮城県桃生郡北上町(平成 17 年に石巻市へ編入)
最初の町は、岩手ばかりを並べた面白い地名である。
この種の町は案外多く、三者の中で最も古い歴史をもつ
のは、県、郡、町のどれかを考える必要がある。
県の誕生は明治 4 年の『廃藩置県』以後、町の歴史はおおよそ『昭和の市町村大合併』
が行なわれた昭和 28(1953)年以降と考えられるので、9 世紀に設置された陸奥国岩手郡(推
定起源地:岩手県岩手郡滝沢村滝沢:岩手山神社所在地。郡名は岩手山の名を採用:いまは滝沢
市)が、最も古い歴史を持っている。
県名の岩手は、岩手という郡の名(宮城県も仙台市が属した宮城郡を採用)を採っている。
明治 4 年に小藩、小郡を統合してうまれた盛岡県と一関県(いずれも県庁所在地名を採択)
は、明治 5 年に岩手県(盛岡の所属郡名)、水沢県(県庁を一関から水沢へ移転)と改称し、
明治 8 年に水沢県を磐井県(県庁を元に戻した一関の所属郡名)に改名したのち、明治 9 年
に磐井県南部を宮城県に割譲して、岩手県に統合された。
ぬまくない
いっかた い
み どう
一方の岩手町は、昭和 30 年に岩手県岩手郡沼宮内町、川口村、一方井村、御堂村を合併
した際に郡名を採用した新町名で、岩手県岩手郡岩手町の「岩手」は、郡名が最初にあっ
た様子がわかる。岩手町御堂の北上開拓は、北上川から 1.5kmほど離れた山中に位置して、
その名どおりの新設記号であるため、まず、北上川の起源地としては脱落する。
岩手県北上市は、昭和 29 年に和賀郡(推定起源地:和賀郡沢内村川舟字和賀。郡名は和賀
川を採用)の黒沢尻町、飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、相去村と江刺郡(江刺市本町。
旧名:江刺)の福岡村が合併して誕生した。この経緯に現われたように、いまの北上市内や
合併以前の町村に北上の字名がなく、市名に採用した「北上川」の起源地とは考えにくい。
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当時は東北本線の駅も黒沢尻(昭和 29 年 11 月、北上駅に改称)をなのり、この名は横手
おう こく
お
ぼ
~黒沢尻をむすぶ「横黒線」の路線名にも使われていた。しかし橋場線(盛岡~雫石)と生保
ない
内線(大曲~生保内:いまの田沢湖駅)をむすぶ盛岡~大曲間が全通した昭和 41 年 10 月、
この線に秋田県側の「田沢湖線(←秋田県仙北郡田沢湖町田沢)。現秋田新幹線」の名を使う
見返りとして、横黒線は岩手県側の「北上線」に改称され、情趣を誘った生保内の路線名・
駅名と共に、横黒線の名も消えた。大した問題ではないが、こういう訳のわからない縄張
り争いに地名が巻きこまれ、変更・抹消されることも記憶していただきたいものである。
宮城県の北上町は、昭和 30 年に桃生郡橋浦村、本吉郡十三浜村が合併して北上村をなの
り、昭和 37 年に町制が施行されて北上町に変化した。この町は、石巻湾へ流れこむ旧北上
おっ ぱ
川とは違った位置にあり、新北上川、追波川(桃生郡北上町十三浜字追波前)とよばれる川
の流域に所在する。だが、この辺の事情も歴史をふり返る必要がある。
図 6-1-13 北上川の流路変更
北上川下流域は、利根川の瀬替え工事と同
『日本の川』より
じように、伊達正宗の命により、約 20 年の歳
はさま
月をかけて北上川、 迫 川(起源地不詳)、 江
合川(宮城県古川市江合本町)の流路変更工事
が行なわれた。この旧流経路によると、古代
の北上川(左図)は、いまの新北上川を本流
として流れていたわけで、江戸時代初頭に三
川を合流させ(b)、大正から昭和にかけて再び新北上川(c)を開削して現在の流路に固
定された。この意味では、北上町に北上川の起源を求められないこともないが、合併以前
の橋浦村は桃生郡(Momunofu→ものう)、十三浜村は本吉郡(Motoyosi)に属し、両村とも郡
名の起源地とは考えにくく、桃生郡は桃生郡桃生町樫崎(桃生小学校所在地。旧名:桃生村。
平成の大合併後は石巻市)
、本吉郡は本吉郡本吉町津谷館岡(旧名:本吉村)を起源地に推定
できる。縄文~古墳時代に命名した川は、おおむね当時の中心地名を採用しているようで、
もし北上町が北上川ほどの起源地であれば、付近の地名が郡名にとられていても不思議は
なく、歴史の推移をみても、北上町を起源地とするのは難しくなる。
注目すべきは、桃生郡桃生町太田に式内「日高見神社」
が所在し、隣接する桃生郡河北町小船越字大谷地に天平宝
(右下の蛇行部)
字 3(759)年、前線基地として「桃生柵」
が設置された史実である。
『日本書紀』景行紀の日本武尊の
東征伝にのる「日高見国」は、この付近とも考えられてい
て、「Fitakami=Fita:水際の崖(fitafita)、襞+taka:
崖の上部⇔kata.肩+kami:崖の上部」は北上川に面した
崖の上部にある日高見神社の所在地形に合致し、「北上=
Kita:段丘+takami:崖の上部」とほぼ同じ意味になるの
で、
「日高見→北上」の変化を想定できるかもしれない。
43
図 6-1-14 旧桃生町
さらに、周辺の郡名起源地を地図上にプロットすると、大崎平野を中心に東北地方随一
の過密地帯が出現する。この様相は古代の郡域分布図をみればすぐ判ることで、東北地方
にこれほど郡が密集し、各郡域の狭いところはほかにはない。論旨の関係で詳細は第七章
『日本国の誕生』に譲るが、陸奥国府の多賀城(宮城県多賀城市市川)は、律令政府の東北
開発のために設けた機関と考えられ、伊達正宗が、豊臣秀吉の命により、遺封されていた
岩出山城(宮城県玉造郡岩出山町城山)から、仙臺城(仙台市青葉区川内:Kafafuti→センダ
イ→千代→仙臺)に居を移すまで、古代陸奥国南部の中心は大穀倉地帯の大崎平野から日高
見神社の周辺にあったと考えられている。こうした古代史の様相から、日高見神社付近を、
北上の候補地のひとつにあげたい。
もう一つ考えてみたいのは、北上川水源の地形である。これは、いまあげた「Kitakami」
の地名解釈に関係して、
「Kita:段丘+taka:崖の上部⇔kata.肩:段丘+kami:崖の上部」
の解釈から、北上は「段丘端の上部」を指して、かなり急峻な地形の意味が発するためで
ある。そこで気になるのが、最初にあっさり捨ててしまった岩手町御堂の「北上開拓」の
小字名である。北上のように誰もが知っている有名ブランドは、北上市、北上町といった
市町村名、都市の町名に使われることは多いが、山間の字名に採用されるケースは意外に
少ない。こうした場合は、なんらかの正当な理由があったと考える必要もある。
つまり、北上山地のどこかが、かつて「キタカミ」とよばれた可能性も考えられる。
岩手町御堂には、大同 2(807)年に坂上田村麻呂の創建を伝える「御堂観音」があり、前
九年の役(1051~1062 年)で源頼義、義家親子が安倍貞任、宗任を討ったとき、この観音に
ゆ はず
祈って清水をえて大勝を博したといわれる。この清水は「弓弭の清水」と名づけられ、北
上川の源流になったという。
〈
『郷土資料事典 岩手県』 1971 人文社〉
このような歴史をふり返ると、交通路として重要なこの付近に「キタカミ」地名があっ
ても不思議はなく、各種の古地図を調べると、やはり痕跡が残されている。以前は『郷土
資料事典 岩手県』の付録についていた『文政・天保国郡全図並大名武鑑』には、北上川の
源流に「北上山」が記されている。江戸時代の絵図に、今のように正確な地形図の機能は
期待できないが、
『文政・天保国郡全図』全体の流れから判定すると、地図に山形のイラス
トがない北上山も、やはり山名と採って良さそうな感じがする。北上山が山名なら、現在
のどの山に該当するかは簡単にわかる。川の起源を訪ねてゆくと、川とおなじ名をなのる
「山、峠」は、すべてその水源にあるからである。
この仮説を使うと、北上川源流の「西岳:1018m」が北上山とよばれた史実が浮上する。
スキー場と自然保養村が設けられた美しい火山体の西岳は、周辺からもよく目立つ存在で、
付近は東北地方北部の古東山道のサミットとして、交通路の要所にあたっていた。いまは
「にしだけ」とよばれる西岳は、付近に東岳がないことから、原形に「Safitake」を想定
したい。
「Safi」の原義は遮るで、この名は「塞の神峠、道祖神峠、才ノ峠」のように峠名
に多用され、信濃川の支流「犀川」の起源地名が、古東山道の渡河地(曰理)に名づけられ
た「西河原=塞の河原」であるのも、この地名の使用法を物語っている。
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図 6-1-15 北上川源流
地形図:荒屋
上図は、東北本線(2002 年 12 月に民営化されたIGRいわて銀河鉄道)の最高地点にあた
る奥中山高原駅、十三本木峠付近の地形図である。この地図には、たいへん興味ぶかい地
形が記されている。
図の右下から線路に沿った細い流れが北上川だが、上流に溯ると、川は奥中山の地点で
左折し、溜池をへて大荒目沢という沢に達する。この沢の北側に大きな段丘状尾根があり、
その上部に西岳が位置する。この段丘が「Kita:北、段丘+taka:崖の上部+kami:崖の
上部」と名づけられ、西岳を「北上山」と呼んだ主因と考えられそうである。
興味をひくのは、大荒目沢が地図の日蓄(Fitsiku=Fitsi:泥地、湿地+tiku:崖、谷⇔kuti:
口)という小扇状地の扇頂で、小さな北上川(下)と谷地川への分流(上)を別けているこ
とである。谷地川は平糠川(Firanuka:岩手県二戸郡一戸町平糠)へ流入し、平糠川は小繋
ま ぶ ち
川(Kotunaki:二戸郡一戸町小繋)を合わせて、馬淵川(Mapeti:岩手郡葛巻町江刈字馬淵)
に合流し、青森県八戸市へ流れてゆく。
つまり、西岳に発した大荒目沢の水は、谷地川から平糠川・馬淵川をへて青森県八戸市
にゆくことも、北上川を下って宮城県石巻市へ流れることもできるわけである。二つの大
45
河の源流が一つの沢に発しているのは驚異であり、この地形は、古代の人々にも同じ印象
を与えたのではなかろうか。
いまのところ、古東山道の経路が完全に復元されたとはいえないが、周辺の地形や後の
時代の交通路をみれば、北上川~小繋川~馬淵川のルート、すなわち国道 4 号線(奥州街道)
と東北本線の経路が古東山道のルートと考えるのが一般である。この通路が先土器時代か
たてかわ
ら使われていたのは確実で、北海道南部から東北地方北部に分布する「立川型有舌尖頭器。
標識地名:北海道後志支庁磯谷郡蘭越町昆布町字立川」の南限が関東地方北部にあることや、
縄文時代の文化圏が青森~岩手県境の北上山地を境界としないところも、この様子をはっ
きりと示している。
面白いのは、奥州街道が分水点の中山付近で、北上川から平糠川へのコースをとらずに、
わざわざ十三本木峠をこえていることである。この原因も平糠川を辿れば、すぐ分かる。
平糠川のルート(この隣の地図:葛巻)には小繋川との合流点付近に深い谷があり、この峡
谷はいかに山歩きに習熟していた古代人にとっても、困難な箇所であったようにみえる。
これに較べて比較的楽に歩ける十三本木峠を越え、安全確実な小繋川沿いのルートが選ば
れたと想像したい。さらに安全性を考えると、谷歩きの小繋川ルートより、旧中山を通る
緩い起伏のある山上のコースが選ばれていたかもしれない。この辺は「天候が悪くなって
道に迷ったときは、絶対に沢や谷に降りてはならない」という、山歩きの鉄則を想いだす
と理解しやすい。山登りの熟達者ほど無茶な行動をさけることを考えれば、天候、地形を
熟知していた古代の人々が、こうした回り道を選んだことに納得がえられる。
まさに『急がば回れ』の格言を実践した、歴史地理の妙味であり、あらためて自戒の念
を強めるところである。このように古東山道、奥州街道最大の難所であった分水嶺の西岳、
十三本木峠付近は要衝であり、いまは面影を留めていない二戸郡一戸町中山が、かつては
宿場町であった史実も大切である。
北上川水系全体を眺めると、本流の北上川より、支流の丹藤川(Tamutofu:岩手郡岩手町
丹藤) や松川 (Matukafa:岩手郡西根町松川) の方が合流点からの流路が長く、雫石川
(Sitsukufisi:岩手郡雫石町雫石)から葛根田川(Katukomuta:雫石町西根字葛根田)の流路
も本流と大差がなく、北上川下流域が丹藤川、松川、雫石川とよばれて不思議はなかった。
この大河に北上の名が採用されたのは、
「Kitakami」が大切な交通路であった古東山道の
サミットにあり、北上山に発した水が別方向に流れだすことに古代人が注目したからでは
ないだろうか。こんなことを書いている張本人も、半世紀も昔、このあたりを何度も歩き
回ったときには、これほどの地形に全く気がつかなかったのは何とも情けない想いがする。
情けないといえば、もうひとつ、珍しい構造物が図 15 に記入されていることに気がつかれ
ただろうか?
図の大荒目沢から流れだした北上川は、奥中山高原駅の南側で大塚谷トンネルの上を流
れて大きくカーブし、もう一度…いわて銀河鉄道の「わ」の部分で…鉄道路線を越えている
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ところに御注目いただきたい。北上川ほどの大河の源流に、鉄道が敷設されているのも珍
しいことだが、列車はなんと、水路橋上を流れる北上川の下を潜り抜けているのである。
この水路橋は昭和 43(1968)年 10 月 1 日に電化されるまで、吉谷地の大カーブと共に、鉄
道写真の名所としてSLマニアが注目した場所だった。
当時、コンクリート製水路橋が北上川とは露知らず、単なる農業用水路くらいに思って、
ここに上って御堂駅から黒煙を吐いて来る D51 三重連がひく貨物列車や、C60・C61 重連旅
客列車にうつつを抜かしていた自分が滑稽にみえてくる。北上川ほどの川が鉄道の上を流
れる発想自体、筆者程度の頭に無理な相談だが、くり返し地図を眺めていたのに、焦点の
合わせ方が悪いと、見えるはずのものが全く見えなくなる典型といえるだろう。
北上川の古名を調べると、北加美川、来神川のほかに「桜川」の名を見いだせる。流域
に起源地名を追うと、
「Sakura」は岩手県水沢市佐倉河という北上川と胆沢川(水源の沢名:
岩手県胆沢郡胆沢町若柳)の合流点の地名をとった様子がわかる。この地がなぜ川名に採択
されたかは、歴史地図をみればすぐ理解できる。水沢市(現奥州市)佐倉河は、延暦 21(802)
年、坂上田村麻呂によって造営された東北経営の拠点『胆沢城』の所在地であり、陸奥国
膽澤郡(Itsafa→岩手県胆沢郡)の名もここに発している。桜川は藤原三代の平泉付近の古
地図にも記録され、平安時代から鎌倉時代あたりに、北上川中流域を桜川とよんだ様子を
残しているのだろう。
このように、北上川の起源地には源流の「中山」付近、下流域の「日高見神社」付近と
二ヶ所の候補地があがる。どちらが有力かは判りにくいが、中流域が桜川とよばれた史実
と交通路を重視する立場から、水源の「岩手県二戸郡一戸町中山」を第一候補としたい。
ホクジョウ
古東山道は、盛岡から北上川を 北上 するだけで、十三本木峠を越えられる。分水嶺の
「Tofomifoki:谷に沿った遠い道程の峠→十三本木」もさることながら、階を北にかけて
「Kitsakami:坂の分水点(北上川・谷地川)の北にある高い段丘の崖端上部」とつけた素
晴らしさ、北加美、来神のあて字から「北上」を定着させた人たちのセンスの良さなど、
あらためて吟味の必要が感じられる昨今である。
47
④ 木曾川
「木曾路は、すべて山の中である。…」と評された木曾谷をながれ、濃尾平野を潤して
を ぎそ
きの
伊勢湾にそそぐ木曾川(岐祖川、岐蘇川)は、荻曾川、起川、太田川ともよばれた。太田川
は、かつての中山道の宿場町、現在も交通路の要衝である「岐阜県美濃加茂市太田本町」
に発している。
図 6-1-16
「木曾川」のルーツをさぐるのは、利根川、
木曽川の流域図
信濃川、北上川に比べればやさしく、誰が考え
ても長野県の木曾地方になるとおもう。事実、
木曾川をさかのぼり、水源近くの地図をあたる
と中山道のサミット、鳥居峠(1220m)の西側
に「長野県木曾郡木祖村小木曾」を見いだせる
(図 17)。峠の東側には信濃川水系の奈良井川
が流れ、日本海と太平洋にそそぐ二つの大河の
分水界に鳥居峠が屹立している。江戸時代の面
影を残す奈良井宿から、桧細工で名高い藪原宿
へ向かう峠越えのコースは、天候に恵まれれば
御嶽山、木曾駒ヶ岳が望まれて、峠に立てられ
た句碑、
「雲雀より 上に休らふ 峠かな:iaioi
図 6-1-17
木祖村小木曾
ueiauau aueaa」という芭蕉の心境も味わえ
るなかなか快適なものである。
〈㊟ 俳句は奈良
県桜井市と吉野町を結ぶ細峠(臍峠:700m.5 万
分の 1 地形図不記載)で詠まれたという〉
木曾川の起源地に比定される長野県木曾郡
木祖村は、
明治 22 年に長野県西筑摩郡藪原村、
小木曾村、菅村の合併により誕生した村だった。
今の郡名の木曾は意外に新しい名で、昭和 43
年に西筑摩郡を改めたものであった。律令時代
からの信濃国筑摩郡(Tukama→ちくま:松本市筑
摩)は、明治 11 年の『郡区町村編制法』により、
明治 13 年に東西に分割された。
東筑摩郡は現代に残り、西筑摩郡だけが改名されたわけで、木曾郡は小地名の昇格でな
く、木曾川上流を木曾地方とよぶ慣行からつけたと考えられそうである。それにしても、
郡が地方自治体としての機能をもたず(大正 15 年に消失)、市の設立・拡大によって郡その
ものが消えてゆく時代に、新名称に変わるのは珍しい事例だった。たとえ観光客誘致の目
的があったにせよ、誰にでもわかる「木曾郡」に改めたのは、高く評価すべきだろう。
48
中央本線藪原駅から少し奥に入った「小木曾」は、木曾川の別称であった荻曾川に合致
し、この地を木曾川のルーツとする補強になっている。江戸時代の地図に「小吉蘇、荻曾」
、
明治時代から「小木曾」に固定したこの名は、他の地名、たとえば周防国の発祥地に想定
される「周防国熊毛郡周防郷→山口県熊毛郡周防村小周防→山口県光市小周防。周防小学校
所在地」や、かつて小石見とよばれた「石見国那賀郡石見郷→島根県浜田市黒川町。石見小
学校所在地:石見国の推定起源地」のように、大地域名と区別して「小」をあてた例がある
ので、同種の地名と考えられそうである。
「Kitso⇔Soki.削ぐ、注ぐ:崖。Toki.突起、研ぐ:∧型地形、崖」は「Kitsa.階、
段:段丘⇔Tsaki:崎、滝」
「Kitsi:岸、基地」などの意味から、
「谷の水際に突出した崖」
と解釈できそうである。利根と同様、この簡潔な名が山間の水源にあることから、先土器
時代(12,000 年以上前)につけた地名、と推理するのは如何であろうか。
〈㊟ 平成 17 年 11 月 1 日、木祖村とは別に、木曽郡「木曾福島町、日義村、開田村、御岳村」
を併合して、長野県木曽郡「木曾町」が作られた〉
木曽川中流では、岐阜県可児市川合・美濃加茂市において、
「飛騨川」が合流する。この名は
今の岐阜県北部にあった旧「飛騨国」と関係を持ったように見えるが、飛騨川が流れるのは旧「美
濃国」内であり、
「飛騨国と飛騨川」も、
「信濃国と信濃川」と同様、無関係の地名である。
いまの飛騨川は美濃加茂市より上流すべてをさすが、
昭和 39 年 7 月 10 日の『河川法改正』
以前は、岐阜県益田郡金山町から美濃加茂市までの間を指した川名で、金山町より上流の通称「中
山七里:約 28 ㎞」は、益田(ました)川と呼ばれていた。
この名も飛騨国益田郡に関係した川名だったが、起源地名は失われていて探索は難しい。
平成 16 年 3 月 1 日に下呂市に統合された、岐阜県益田郡萩原町萩原、または益田郡下呂町
下呂を川名の起源地の候補にあげたい。益田川上流域は「上呂、中呂、下呂」の通称で区
分されていて、温泉名を採った郡はあんがい多いので、これを上げよう。ひょっとすると、
下呂温泉の旧名が益田だったかもしれない。
『日本書紀』下巻を読んだ方なら御承知のように、
「舒明、孝徳、齊明、天武、持統」紀
には温泉名が頻繁に登場する。有馬の湯、道後温泉(伊豫の湯)、牟婁の湯(紀の湯:白浜温
泉)、束間温湯(松本市浅間温泉)であるが、四つの温泉は、いずれも郡名の推定起源地に
重なるところが大切である。そこで飛鳥時代まで歴史を溯れる温泉が、郡の起源地名に関
係した可能性がある例をあげよう。
国郡名
推定起源地名
陸奥国刈田郡 Katuta
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉
遠刈田温泉
出羽国田川郡 Takafa
山形県鶴岡市田川、湯田川
湯田川温泉
下野国那須郡 Nasu
栃木県那須郡那須町湯本
那須湯本温泉
下野国鹽屋郡 Sifonoya
栃木県那須郡塩原町中塩原
塩原温泉
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越後国魚沼郡 Iwonu
新潟県南魚沼郡湯沢町神立
湯沢温泉
伊豆国田方郡 Takata
静岡県田方郡大仁町田京
大仁温泉
伊豆国賀茂郡 Kamo
静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂
下賀茂温泉
信濃国諏方郡 Sufa
長野県諏訪市諏訪
上諏訪・下諏訪温泉
信濃国筑摩郡 Tukama
長野県松本市筑摩
束間温湯(天武紀)
攝津国有馬郡 Arima
兵庫県神戸市北区有馬町
有馬の湯(舒明紀)
紀伊国牟婁郡 Muro
和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎
牟婁の湯(齊明紀)
但馬国城埼郡 Kinosaki
兵庫県城崎郡城崎町湯島
城崎温泉
但馬国二方郡 Futakata
兵庫県美方郡浜坂町指杭
浜坂温泉
伊豫国温泉郡 Yu
愛媛県松山市道後湯之町
道後温泉(天武紀)
豊後国速見郡 Fayami
大分県別府市鉄輪
肥前国高來郡 Takaku
長崎県南高来郡小浜町雲仙
峯の湯泉(肥前国風土記)
大隅国贈於郡 Sowo (So)
鹿児島県姶良郡霧島町田口
霧島温泉
薩摩国揖宿郡 Ipusuki
鹿児島県指宿市西方
指宿温泉
速見の湯(伊豫国風土記逸文)
昭和 43 年 5 月 1 日、木曽郡に改めた長野県西筑摩郡の起源が束間温湯(松本市浅間温泉)
とうおん
に由来するのが面白い。平成 16 年 9 月に温泉郡重信町、川内町を統合した東温市の誕生と、
おんせん
翌年元旦に温泉郡中島町が松山市に編入されて消滅した「愛媛県温泉郡」が、聖徳太子や
舒明・齊明天皇の足跡を残した、道後温泉を起源としたことはいうまでもない。
しかしわが国の代表的な温泉が、命名当時の中心地、または伝承名を採用した郡名の起
源に関係をもつところは重視しなければならない。この史実は、飛鳥時代から古墳時代、
溯って「弥生、縄文、先土器」時代にも温泉が注目されていた様子を物語るのではなかろ
うか?
黒曜石を産出した和田峠の峠下に、日本一の間欠泉を噴出する「下諏訪温泉」が
あり、自然観察に優れた古代人がこれを見逃すはずがないのである。
(㊟
平成の大合併で、栃木県那須郡塩原町→那須塩原市、静岡県田方郡大仁町→伊豆の国市、
兵庫県城崎郡城崎町→豊岡市、兵庫県美方郡浜坂町→新温泉町、長崎県南高来郡小浜町
→雲仙市、鹿児島県姶良郡霧島町→霧島市へ替った)
このように、川名・郡名の益田は、萩原町か、下呂温泉の旧名と考えられそうで、飛騨川は、
旧飛騨国とは無関係で、旧美濃国内の加茂郡白川町、七宗町、川辺町、美濃加茂市のいず
れかにあった地名、または加茂郡七宗町の「飛水峡」の、旧名「ひた」を採った川名と考
えてみたい。
50
⑤ 淀 川
ベストテンにはいる西日本唯一の大河である「淀川」は、幹川流路延長が 75km しかなく、
流域面積 50 傑の中で、本流が 100km 未満の河川はこの川だけである。これは、淀川水系の
本流(流量が最大の川)が特別な水源をもつことに由来する。
淀川本流は、桂川と木津川の合流点より上部
図 6-1-18 淀川の流域図
は宇治川とよばれ、上流は瀬田川に名をかえて
水源の琵琶湖に達する。この「瀬田川→宇治川
→淀川」を淀川水系の本流とするため、幹線流
路延長は 75km と表記される。
しかし淀川支流の「大堰川~保津川~桂川」、
または「木津川」と淀川を組み合わせた流路は、
両者ともに軽く 100km をこえる長さを有して、
これらの河川が数多くの支流をもつので、流域
面積ではわが国第 7 位の大河にランクされる。
この交易・交通路を重視した本流、支流の区分
法は、先にのべた北上川起源地探索のヒントに
なりそうな感じがする。
淀川水系のおもな河川の推定起源地名を列記すると、以下のようになる。
大堰川 Ofowi
京都府亀岡市大井町
大井小学校
保津川 Fotsu
京都府亀岡市保津町
保津小学校、保津峡
桂 川 Katsura
京都府京都市西京区桂
桂小学校
高野川 Takano
京都府京都市左京区高野
賀茂川 Kamo
京都府京都市北区上賀茂
上賀茂神社(式内賀茂別雷神社)
鴨 川 Kamo
京都府京都市左京区下鴨
下鴨神社 (式内賀茂御祖神社)
瀬田川 Seta
滋賀県大津市瀬田
宇治川 Utsi
京都府宇治市宇治、莵道
式内宇治神社、宇治小学校、菟道小学校
名張川 Napari
三重県名張市丸ノ内
名張城趾、名張小学校
木津川 Kitsu
京都府相楽郡木津町木津
木津小学校
淀 川 Yoto
京都府京都市伏見区淀本町
式内與杼神社、淀城跡
淀川水系の川は、有史以来、常に時代の中心をになう都を潤す役割を果たしてきたため、
どの川の名も親しみぶかいものばかりである。一つひとつの川名から歴史上の事件、人物
を思い浮かべるのも楽しいが、各河川が、きわめて重要な地名を採択した史実を考えるこ
とが大切である。まず、この辺からはじめよう。
51
大堰川は、京都市内の嵐山付近に大きな堰が設けられたために、この名がついたと伝え
られる。しかし桂川~保津川の間に大堰川が挟まれるのは、ちょっと不自然な印象を与え
るので、保津峡・保津川の起源地名と考えられる「亀岡市保津町。Fotsu:∪型地形←potupotu
落つ」より上流にある「亀岡市大井町」を候補にあげたい。明智光秀の善政を伝える亀岡市
は、奈良時代に丹波国府(亀岡市千代川)が置かれた地で、大堰川の古名に大井川が記録さ
れたことも、このように推理する一因になる。
桂川は、かつて「葛野:Katono」川ともよばれて、起源地の京都市西京区松室山添町(式
内葛野坐月讀神社所在地)は「山城国葛野郡」の発祥地に重なる。京都盆地内での流路の変化、
時代の推移にしたがって、川名がかわる一例にあがるものであろう。
「Kamo」川は、高野川との合流点の上流を「賀茂川」
、この地点から桂川の合流点までを
「鴨川」と文字を当てかえて区別されている。この名は「京都市左京区賀茂」に発したの
だろうが、上賀茂神社、下鴨神社という式内名神大社の通称から、こうして区分されるの
かもしれない。京都市内一面びっしり細かくつけられた町名、それでもまだ足りないのか、
「六角通油小路東入り:中京区本能寺町」といった別称まで使用する、細やかな心配りに
共通点を感じとれる。30~40 年前に親しんでいた町名を大量に喪失して、デタラメな記号
ばかりに取り換えられた東の京都に住む者には、信じられない現象である。本物の京都に
暮らす人々の地名に対する愛着心、そして行政機関の理解と努力に支えられた「歴史の重
み」を実感させる好例といえよう。
図 6-1-19 大津市瀬田
瀬田川の起源地名である「滋賀県大津市瀬田」
は琵琶湖から瀬田川が流れだし、東に隣接する
草津市が東海道と東山道を分岐する交通路の要
衝にあったため、古くは壬申の乱、木曾義仲の
敗死、承久の変、元弘の乱などにより、瀬田の
唐橋は、何度も焼け落ちて修復された。
瀬田周辺には近江国府(第一次:大津市大江。
第二次:大津市瀬田)と近江国一の宮の建部神社
(大津市神領)がおかれ、対岸には、近江国分寺
(大津市国分)と石山寺(大津市石山寺)を配し
た近江国水陸交通の要が「瀬田:瀬戸と同意の狭窄部」であった。現代の東海道本線、国道
1 号線(東海道)、東海道新幹線、名神高速道路、京滋バイパスが「瀬田」に集中することが
地勢の制約を示している。瀬田川は京都府に入ると宇治川に名をかえ、京都府宇治市宇治、
莵道(Utsi→トドウ)が、川名と共に「山城国宇治郡」に採られたところが大切である。
名張川の起源地に想定される三重県名張市丸ノ内も、かつての「伊賀国名張郡」の起源地
名に重なっている。名張郡は、明治 22 年に「伊賀国伊賀郡→三重県伊賀郡」と合併して、
「名張+伊賀=三重県名賀郡」という意味のない合成名に替えられてしまったが、三重県
伊賀郡もまた「伊賀国」の起源を考える上での大切な郡名であった。さらに、伊賀の名は
52
「伊賀川」として、昭和 39 年以前は木津川上流域に使われていたのだが、
『河川法』改定
によって抹消され、現代の地図だけで、「伊賀」のルーツをさぐるのは至難の技になった。
何故、これほどの地名を積極的に廃棄するかは、理解に苦しむところである。
多様性をもつ古いものを捨て去り、効率一辺倒の単純なものに改変する「単細胞の流動
性=アメーバのような不定形」を至上とする土建国家の感性が、将来への展望を広げる理
性を封じ、
「日本の常識は、世界の非常識」と揶揄されるように、世界全体から孤立しつつ
ある要因を造ってきたところは認識すべきであろう。『地名』が時代の趨勢を記録している
ことは何度も述べたが、比較的最近まで継承されてきた大切な地名が、私たちの時代に過
去帳へ追いやられる事態は、なんとも辛いものである。
京都市内の実例や、わずか 75km の淀川本流が「瀬田川、宇治川、淀川」と古い川名を継
承している例をみても、中央官庁の権限を問題にするだけでなく、地方自治体の認識さえ
しっかりしていれば、地名の保存は不可能でないと言えるのではなかろうか。
後に詳述する「伊賀国」の起源地も、これまで述べた仮説を使うと、旧伊賀国伊賀郡の伊
賀川流域に「伊賀」があったことになり、文献記録、付近の陸上交通路をあわせて考える
と、
「三重県上野市古郡」付近が浮かびあがる。旧伊賀国阿拜郡(Ape:三重県上野市一之宮。
式内敢国神社所在地)と山田郡(阿山郡大山田村平田。旧名 山田村)を、明治
22 年に合併して三重
つ
げ
県阿山郡の合成名を作った地域に、わざわざ「伊賀町:昭和 34 年に阿山郡拓植町、春日村
を合併して命名」を新設した事態も不可解である。もっとも平成 16 年 11 月、上野市を中
心に、名張市を除いた旧伊賀国のほぼ全域が「伊賀市」に統合されたので、こんな歴史をふ
りかえる必要がなくなったかもしれない。
また、
『記・紀』が木津川の古名を泉川、山城川と記録したのは貴重なもので、この辺も
次章『日本国の誕生』で考えたい。こうした例をみてお分かりのように、地名は単なる記
号として存続したものでなく、文献に記されなかった歴史、とくに川名の起源地はかつて
の交通路の要衝を記録に留めていることを、認識していただきたいと思う。
図 6-1-20 現代の淀
そこで、淀川の起源地名に想定される「京都市伏見区
淀本町」が、なぜこの重要な川名に採択されたかを検討
しよう。現代の地図をみると、「淀」は単に桂川と宇治
川の合流点につけられたとしか映らない地名である。
地形語の「Yoto,Yodo」は、動詞の「Yodomu:澱む」意
味から、水の停滞した場所を表わしている。「Yoto」の
倒置語の「Toyo.樋:雨樋。Tofo:∪型地形、通す」意
味や、「Yoto」の古型に想定される「Foto:凹地」を考
えれば、京都市の淀本町は、川が蛇行してよどんだ場所、
すなわち港の機能を備えた場所につけた地名と推理で
きる。しかし現代の淀はそんな地形になく、淀川ほどの
大河に採用される地勢条件を備えた地とは考えにくいのである。
53
歴史上の事件を想い起こすと、この周辺はたいへん妙な形で、時代をかえるほどの戦場
として登場するところが興味ぶかい。宇治川の合戦(1184 年)、承久の変(1221 年)、天王山
の戦い(1582 年)、鳥羽・伏見の戦い(1867 年)は重要な意味をもつ戦いだったが、いずれ
をとっても、変なところで戦闘が行なわれたようにみえる。一般に戦場に選ばれる地は兵
力の集中、後詰めなどに配慮して、峠のような狭間状の地形や、渡河地で行なわれるのが
通例で、鳥羽・伏見のような平地の戦いは異例としか映りようがない。天王山の戦いも、
京都~大坂間で戦場を選ぶとすれば、ここしかないといえる場所ではあるが、明智光秀を
討ちとるには、後詰めがだだっ広い平地では、どこにでも逃げられるようにみえる。しか
し光秀は、最初から秀吉が予測していたように、坂本への退路にあたる小栗栖で討たれた。
さらに秀吉は、淀に淀城、桃山に伏見城を築いたが、この場所も今の地形だけをみると、
まったく理解に苦しむ地勢なのである。
図 6-1-21
そこで、左図をご覧頂きたい。かつてこ
巨椋池
こには想像できないほど大きな湖があった
のである。系統だてて歴史に取り組んだこ
とがない素人には、この地図に接した時の
ショックは今も忘れられないが、普通の歴
史研究家にとって常識といえるものである。
この大障害があったため、山城~大和の
交通路は限定され、瀬田川や宇治川の戦い、
明智光秀が討たれた要因、淀城・伏見城の
建設、鳥羽・伏見の戦いの意味が理解できる。東海道線や新幹線、名神高速道路に乗って
不思議でならなかったことが、この湖の存在を知ればあたりまえの現象に思えて、山崎付
近の車窓に大きな池を想い浮かべて、歴史を考えるのも楽しみになっていった。この池は
「巨椋池:Ofokura→をぐら:宇治市小倉。式内巨椋神社所在地」とよばれ、名前も、あてた
文字も、巨大な外観にふさわしいものであった。
おほ くら
とよ
い め び と
巨椋の 入江響むなり 射目人の
伏見が田居に 雁渡るらし
『万葉集』巻 9 1699
和歌が、淀の入江を意識して「入江響む」と詠んでいるのはおもしろい。この巨椋池は
昭和 10~16 年の間にすべて干拓され、近年は御多分にもれず、
急速に宅地化が進んでいる。
上の地図でも、
「淀」が渡河地として重視された様子を感じとれるが、時代を遡ると、さら
に理解しやすくなる。次ページの図は中世の淀川流域の復元図であるが、この図によると、
「淀」は巨椋池で遮られた盆地状地形の中で、唯一といえる渡河地点に位置した。この地
『延喜式』巻 26 主税上にのる與等津(Yoto no Tu)が、
は淀渡(Yoto no Watari)とよばれ、
京都から全国各地への物資の集散拠点として、重要な位置を占めていた様子がわかる。
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図 6-1-22 中世の淀川流域復元図〈『日本の歴史 20 琵琶湖と淀の水系』 週刊朝日百科〉
こうしてみると、この川に名をつけるとすれば、陸上交通路と水上航路の交点にあたる
「淀」川の名を採用するのが誰にでも分かりやすく、最もふさわしい地名になる。奈良~
京都間の陸上交通路は、平坦なルートがこの経路しかないことをみれば、「Yoto-kafa」も
飛鳥・奈良時代につけたものでなく、縄文時代中期あたりまで辿れる川名と考えられるか
もしれない。
巨椋池は、古代には適度の深さをもち、
「淀」は交通路の要地として活躍した。だが、時
代を経るにしたがい、河川の堆積物で埋められ、池の規模を縮小して水深も浅くなり、水
路としての用をなさなくなって行ったのだろう。
文禄 4(1595)年に伏見城を築いた豊臣秀吉は、巨椋池に太閤堤(小倉堤築堤)、槙島堤を
築いて流入する宇治川を分離し、伏見を河港、宇治川を伏見城の外濠にする大土木工事を
行なった。工事の目的は、京都~奈良の交通路を新設した太閤堤(大和街道)一本に限定し、
水陸交通の要を「伏見」におくことだった。このときに「淀」の港湾機能を廃止して、淀
城も壊されている。角倉了以が開鑿した高瀬川(1611 年完成:起源地不詳。喫水線の浅い船
を高瀬船と呼んだための命名か?)を伏見に導いたのも、この工事の延長路線にあった。こ
の土木工事が、戊申戦争の戦場に鳥羽、伏見を選ばせた遠因であり、巨椋池が干拓され、
いまは実に平凡にみえる「淀」付近も、地形変化を考慮する必要があるわけである。
山が三方を囲み、南方に巨椋池を配した平安京は、天然の要害といえる地勢にあった。
地名を考えるうえにおいても大自然の地形変動、人為による変形を頭におかないと理解で
きないのが、
「淀」川の起源である。
55
⑥ 阿賀野川
「阿賀野川」は信濃川と同様、新潟県内での呼び名である。福島県に入ると「阿賀川」
に名をかえ、会津盆地より上流部は「大川」とよばれる。「あがのがわ、あがかわ」と良く
似た名で区別されるのは、どんな理由によるかは解らないが、面白い現象である。例によ
って「阿賀野川、阿賀川」流域に起源地名を求めると、次の二つの名があがる。
新潟県新津市大安寺
阿賀小学校所在地
平成 17 年 3 月
新潟市に編入
平成 18 年 1 月
喜多方市に編入
あ がつ
福島県耶麻郡高郷村揚津
旧新津市大安寺周辺は、いまの 5 万
図 6-1-23 阿賀浦橋
分の 1 地形図(新津)にも「阿賀」が
記されている。この名は住居表示には
使用されてないが、JRの在来線では
鹿島線北浦橋梁(1236m)ができるまで、
最長の鉄道橋であった羽越本線阿賀野
川橋梁(1229m)の隣にかかる道路橋に
「阿賀浦橋」の名が使われている。市
町村合併の歴史をふり返ると、新潟県
中蒲原郡新津町(明治 22 年町制施行)は、
大正 14 年に中蒲原郡阿賀浦村を編入
して、昭和 26 年に市制が施行されて新津市へと変化した。
「阿賀浦」はかつての村名であ
(復刻版 1968 人文社)
った史実が浮かびあがる。明治 28 年に刊行された『大日本管轄分地図』
にもこの村は記されているので、阿賀浦は江戸時代より前に辿れそうな感じがする。
この地図で注目されるのは阿賀野川の名がなく、上流から下流まで「阿賀川」と記され
たことである。江戸時代後期の『文政・天保国郡全図』が越後国内は「アカノ川」、陸奥国
(福島県)では「會津川」と記禄したところも興味を惹く。これは明治時代初頭に陸軍参謀
本部陸地測量部(国土交通省国土地理院の前身)の地形図が刊行される以前に、「川、山、峠」
などの自然地名が今のように固定されていなかった様子を示す例で、当時はどの川も別称、
または別の文字をあてた名をもつのが普通であった。「アカノ川」全域が「アカ川」とよば
れていたなら、起源地の推理は簡単だが、江戸時代以前から今とおなじように「阿賀野川、
阿賀川」と区別されていたとすると、問題は複雑になる。この辺の事情は地元の方でない
と探索は難しいので、やはり「アカノ川、アカ川」は、二つの起源地名をもとにした別名
と仮定して、話をすすめることにしよう。
奈良時代以前の命名が想定される「阿賀」の表記は、万葉仮名の標準的なあて方であり、
「賀」は賀茂、那賀に使われたように、
「Ka」にあてた例が多く、
「阿賀:Aka」という清音
の発声を考えたい。
「Aka」に「開く」を想定すると、山間の開けた小平地、扇状地の扇端
56
につけた名と推理できる。
「Aka」の原形は「Faka」で、「Faku:剥ぐ、迫く、掃く、吐く」
から、崖、谷、湧水地、河口、合流点の意味が出てくる。さらに「Faka」の倒置語は「Kafa:
側、川」であるため、前後対称の「Faka-kafa」から、「F」音が落ちて「Aka-kafa」に変化
したケースも考えられるかもしれない。ちなみに「Aka-kafa」の推定起源地名を列記する
と、以下のようになる。
赤 川
(青森県上北郡東北町、天間林村)
七 戸
赤 川
(岩手県岩手郡西根町)
沼宮内
赤 川
秋田県雄勝郡東成瀬村椿川
赤 川
(秋田県由利郡象潟町)
鳥海山
赤 川
山形県東田川郡羽黒町赤川
酒 田
赤 川
(栃木県塩谷郡塩原町)
塩 原
赤 川
岐阜県加茂郡白川町赤河
金 山
赤 川
(島根県大原郡加茂町、大東町)
今 市
岩手県下閉伊郡岩泉町安家
陸中野田
あ っか
安家川
赤 滝
稲 庭
起源地名が判らないものばかりをあげるのは気がひけるけれど、秋田県東成瀬村の赤川
は「赤滝:Akataki=谷(開く、吐く)、崖+肩+滝」からの転用名と考えられ、山形県羽黒
町の赤川は平野部の河岸段丘上、岐阜県白川町赤河は山間の小平地(扇状地)、岩手県岩泉町
「Akakafa」の中間にある「kaka」は、
「欠く」意
安家も山間の小平地(扇状地)に所在する。
味から崖を表わすだけでなく、なぜか平坦地、草地の意味で地名に使われた例が多いのは
不思議なことである。
新津市大安寺の「阿賀浦」は、越後山脈から平野部に流れだした「阿賀野川」に、岬状
の丘陵が張りだした地形(図 23 の左下、新津駅付近が最先端)に位置している。いまの阿賀野
川河口から 20km も離れた場所に阿賀浦が現存するのも面白いが、「浦」をあてた地名には
「豊浦:Toyora,Toyura.吹浦:Fukura.松浦:Matura,Matora」など、
「ra」とよむ例も
少なからずあるので、単純に「入江、潟」とは解釈できない。阿賀浦を「Akara」とよめば、
「開く:開いた崖+刈る:∪型地形。karakara,garagara な砂礫地」
、すなわち扇状地状三
角州の広く開いた自然堤防内部の河原の意味がでて、この地形に適合しそうである。また、
阿賀浦を「開く+交ふ+浦:丘陵が広く開いた浦」と解くと、付近がいつごろまで「浦」
の地形を保っていたかを検討しなければならない。
旧市名に採られた新津は、文字どおり新しい港と解するほかに、
「Nifi:湿地(Ni:土、泥
+fi:水)+fitu.櫃:∪型地形⇔tufi.終.tupi.開(女性器を意味した古語):入江」の解
釈ができる。付近には「阿賀浦、新津」をはじめ、
「~島、~崎」などの海岸地名が多数現
存するので、この地名群は旧新津市周辺が海に面していた時代につけたと考えられそうで
ある。命名時期がいつであったかの推理は難しいが、縄文海進~海退時代(前期~後期)と
するのが、地名解釈上の矛盾が少ないようにみえる。
57
越後平野は、一名「放水路銀座(①~⑭の放水路)」と言わ
図 6-1-24 新潟平野の河川と放水路
れるほどに、近世~近代に大治水工事が行なわれてきた。
『日本の川』より
かつて「高志深江」とよばれた巨大なラグーン(潟湖)が、
流入する大河の堆積物で埋め尽くされて生成した越後平野
は、近世まで大部分が湿地帯であったという。信濃川放水路
(大河津分水、新信濃川)の工事が、明治初頭に着手されて昭
和 6 年に完成するまで、一帯は大水害の常習地(1600~1899
年までの 300 年の間、大洪水は 74 回と記録される)で、水稲耕作
も、湿田に腰から胸まで浸かって作業するのが普通であった
といわれる。いまは「こしひかり」の産地として名高い越後
平野も、この千年以上の間は、低湿地の利水・排水をいかに
改善するかの戦いだった。こうして努力に努力を重ねて農耕
地化した土地を、時代の流行だけで減反、荒れ地化し、これ
に値をつけて「土地転がし」といった手法を商売にする私た
ちの時代をみたなら、必死の努力を積み重ねてきた先人たち
は、一体どんな言葉を発するのであろう‥‥。もっとも、この手法を世間に大々的に広め
たのは、越後出身の首相をもつとめた人物だったというので、筆者などが、とやかく言う
筋合いはないであろう。
阿賀野川下流域も、河川改修工事や分水路の工事が行なわれているので、付近の地形復
元は専門家でなければ難しい。しかし周辺部の地名のつけ方をみれば、やはり「阿賀浦」
の命名は縄文時代中期ごろを想定したい。この名が「浦」、すなわち入江につけられたとし
たなら、川名に採択されたことに納得がゆく。川名・郡名に湊、入江の名を採用した例は
多いので、この代表例をあげよう。
川
名
推定起源地名
図幅名
気仙川
岩手県陸前高田市気仙町
名取川
宮城県仙台市太白区郡山
宇多川
国郡名
盛
陸奥国気仙郡
仙 台
陸奥国名取郡
福島県相馬市中村字宇多川町
相馬中村
陸奥国宇多郡
久慈川
茨城県日立市久慈町
那珂湊
常陸国久慈郡
羽咋川
石川県羽咋市羽咋町
氷 見
能登国羽咋郡
大聖寺川
石川県加賀市大聖寺
大聖寺
加賀国江沼郡
安倍川
静岡県静岡市安倍町
静 岡
駿河国安倍郡
竹野川
京都府竹野郡丹後町竹野
網 野
丹後国竹野郡
由良川
京都府宮津市由良
丹後由良
明石川
兵庫県明石市大明石町
明 石
播磨国明石郡
日高川
和歌山県御坊市御坊
御 坊
紀伊国日高郡
神戸川
島根県出雲市神門町
大 社
出雲国神門郡
名取郷
江沼神社
西本願寺日高別院
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旭 川
岡山県岡山市旭本町
岡山南部
佐波川
山口県防府市佐波
防 府
周防国佐波郡
那賀川
徳島県那賀郡羽ノ浦町中庄
阿波富岡
阿波国那賀郡
四万十川
高知県中村市四万十町
土佐中村
遠賀川
福岡県遠賀郡芦屋町船頭町
那珂川
折 尾
筑前国遠賀郡
福岡県福岡市博多区那珂
福 岡
筑前国那珂郡
大分川
大分県大分市大分
大 分
豊後国大分郡
大淀川
宮崎県宮崎市大淀
宮 崎
岡湊神社
地形が大きく変化した今では、湊にみえない場所も多いが、古文書の記録や古地図から
港湾機能をもっていた地をあげている。郡名に採られた湊名はこの数倍にもおよび、古代
から物資の集散拠点として利用された、大河の河口にある港が重視された様子を充分に感
じとれる。
新潟県内の「阿賀野川」の起源地を新津市大
図 6-1-25 高郷村揚津
安寺に比定すると、福島県内の「阿賀川」の起
源地をどこに求めるか、という問題が発生する。
「アカ川」の古名に「揚川」の記録が残されて
いるので、先にあげた「福島県耶麻郡高郷村揚
津:Agatu」を無視できない。右図に示すように、
こ の地 は阿賀 川の 狭隘な 渓谷 部に位 置する 。
「Akatu」の地名解釈は、
「Katu.搗つ:katukatu
と臼で穀物をつく。交つ:混ぜ合わせる」意味
から谷型地形、または谷の開けた小平地を想定
できそうである。しかし、揚津を文字どおり「阿
賀の津」と解しても、この地が川名に採用されるほど、重要な地とは考えにくいのである。
揚津が所属する福島県耶麻郡「高郷村」は、昭和 30 年に耶麻郡山郷村と河沼郡高寺村、
新郷村、千咲村が合併して誕生した新設村名で、高寺の「高」と、山郷・新郷の「郷」を
合成して造られた。ここで気になるのが旧村名の山郷村で、郡名の「耶麻」と同一名であ
ることが引っかかる。
承和 10(843)年に、會津郡から分離した陸奥国耶麻郡への常識的な解釈は、郡内にある
磐梯山(Ifafasi-yama→バンダイサン。推定起源地:福島県耶麻郡猪苗代町西峯。式内磐椅
神社所在地)から「Yama」郡が発したとするのが一般である。もし旧山郷村に属した揚津か
ら「揚川、阿賀川」の名が発し、陸奥国「耶麻郡」の名も山郷からとられたとしたなら、
この現象は他の地域に多く認められるので説得力がある。だが山郷村が、喜多方市や山都
町、磐梯町、猪苗代町をさしおいて、郡名・川名に採用される理由を見いだせない。果た
してそれほど注目を集める何かがあったのだろうか。
59
この辺は、
『和名抄』に記された耶麻郡入野郷(比定地不明、喜多方市?)、佐戸郷(河沼郡柳
津町郷戸)、芳賀郷(耶麻郡高郷村西羽賀。羽賀座神社所在地)、小野郷(耶麻郡西会津町尾野本)の分
布状況にも関係するので、ある程度、高郷村周辺に郷が集中するので、「耶麻郡、揚川」は
旧山郷村に発した可能性はありそうだが、はっきりしないのが残念である。この辺も土地
感のない者には難しく、地元の方の精密な考証に委ねるほかはないであろう。先に述べた
ように「阿賀野川、阿賀川」の起源地を二分する本書では、前者が新潟県新津市大安寺、
後者を福島県耶麻郡高郷村揚津に想定しておきたい。
阿賀川上流部の「大川」の起源地は、福島県会津若松市大戸町大川に比定できる。この
地名は、大川ダムの建設により、昭和 56 年に路線をつけかえた会津鉄道(旧国鉄会津線)の
大川ダム公園駅(もと舟子駅=Funa:∪型地形+nako.薙ぐ:崖、谷)から、芦ノ牧温泉南駅(もと
桑原駅=Kufa.食ふ:崖、∪型地形+fapa.巾:崖の側面+para.腹:崖の側面。原:小平地)周辺の大
字名である。付近は「Ofokafa=Ofo:崖、谷+foka:崖、谷+kafa:崖、谷、側」の名に
ふさわしい「大川ライン」とよばれた美しい渓谷だったが、この景観も、急峻な谷を表現
した駅名と共に、過去のものになってしまった。
『文政・天保国郡全図』に記載された阿賀川の別称、
「會津川」は特に重要な地名である。
『古事記』中巻の四道将軍の記述(崇神記)は、大毘古命(Ofopiko)と、その子の建沼河別
命(Take Nunakafa wake)が高志国で出会った場所を「相津」と記し、地名の由来も「親子の
往き遇ひ」に発したと記述する。この前に載る各種の地名解説、伊豆美川(←挑み川。泉:
京都府相楽郡木津町木津の旧小字名、平安時代の泉式部はこの地の出身。伊豆美川:木津川の別
く
す
ば
は
ふ
り
そ
の
称)、久須婆(←屎褌。大阪府枚方市楠葉:水際の崖端)
、波布理曾能(←切り屠る。京都府相
楽郡精華町祝園:水際の緩斜面)と同様、信頼できる解釈とはいえないが、7 世紀後半に成
立した「陸奥国會津郡」の起源地名が、高志国の相津として登場するのが面白い。
会津の地名解釈は、
「Afitu=Afi.合ふ:崖、
谷、合流点+fitu.櫃:谷、湊」となり、川の
合流点に命名された様子を感じとれる。会津川
は和歌山県田辺市にもあり、起源地は右会津川、
左会津川という、やや投げやりな印象を与える
川の合流点にある「田辺市秋津町、下万呂:会津
小学校所在地」付近に比定できる。この解釈をとる
と、陸奥国の「會津」は旧會津郡内(福島県南・
北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡)の阿賀川流域の
合流点にあった可能性が高い様子が浮上して、
阿賀川と宮川(河沼郡会津高田町宮川)の合流点付
カ イづ
近に「河沼郡会津坂下町開津」を見いだせる。
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図 6-1-26 会津坂下町開津
この地名は「あきつ、あひつ」ともよめ、田辺市の会津川起源地である秋津町も同じよ
みをもつことが参考になる。開津付近には、会津若松市から新潟県へ向う主要道路である
国道 49 号線(右下から左上へ道路。現代の主役は下側の磐越自動車道)が通り、古代から利用され
た通路であった。宮川は近代の河川改修工事で流路を変更しており、近世は旧宮川が本流
だったが、盆地中央部の川は大洪水の際に流路を変えることが多いので、宮川が本流であ
った時代に「開津」をつけたと考えたい。
いま会津地方の中心地は会津若松市であり、付近では最大規模をほこる大塚山古墳(会津
若松市一箕町八幡)の存在をみても、古墳時代の中心であった様子がわかる。
「會津」は会津
若松市内にあった地名と考えるのが普通だが、地名解釈から、会津盆地中央部の会津坂下
町開津が浮かびあがる。この辺も、會津(開津)は古墳時代以前から川名に使われていた様
子がうかがわれ、古代史への推理は常識にとらわれない方が良い、という教訓になってい
るようにも見える。
61
⑦ 最上川
福島県と山形県の県境にそびえる吾妻連峰を
図 6-1-27 最上川水系(遺跡は無関係)
水源に、米沢盆地、山形盆地、新庄盆地を流れ
『山形県の歴史』
〈1970 山川出版社〉
て最上峡をうがち、庄内平野を潤す「最上川」
は、山形県の大動脈に例えられる大河である。
最上川のルーツを探索するうえには、先に考え
ておくべき事柄があり、おなじ名を使った山形
県最上郡と、律令時代の出羽国最上郡の比較検
討から始めなければばならない。
現在の山形県には、最上郡最上町という名の
町がある。この町も例によって、昭和 29 年に
最上郡東小国村と西小国村が合併した際に所
属郡の「最上」を採った記号である。最上町が
最上川でなく、支流の小国川(推定起源地:最上
町向町)流域に所在して、最上川の起源地名で
はないことを示唆している。
最上郡は飛鳥時代以来の名だが、複雑な事情
が隠されている。律令期の出羽国最上郡・村山
郡と、いまの山形県村山郡と最上郡は、郡の範
囲が入れ替わっているのである。
現代の最上郡最上町が、かつて村山郡に属したややこしい事情は、歴史をふり返らない
と解らないので、出羽国の成立過程を調べよう。
出羽国は、和銅 5(712)年 9 月、越後国から出羽郡(Itefa→でわ。推定起源地:山形県
東田川郡羽黒町手向。式内伊氐波神社所在地)、田川郡(田川郡田川郷:山形県鶴岡市田川)、
飽海郡(Akumi.飽海郡飽海郷:山形県飽海郡平田町郡山)を分離して立国した。この翌月、
陸奥国から置賜郡(Oitama.置賜郡置賜郷:山形県南陽市郡山)と最上郡を出羽国へ編入
して、仁和 2(886)年に最上郡北部を村山郡(村山郡村山郷:山形県東根市郡山。村山野川
の起源地)へ分離して、のちに山形県となる諸郡の下地を築いた。なお、出羽国北部にあた
る秋田県の様子は、
「雄物川」の項で解説をしたい。
最上郡と村山郡の範囲が入れ替わった時期は、江戸時代初期に想定されているが、まだ
はっきりした原因は解明されていない。『和名抄』に最上郡最上郷、『延喜式』には最上驛
が記録されていて、両者は山形市内にあった地名と推定されている〈山形市前田町、関沢など
が候補地〉。この最上郷に比定される山形市を拠点にして南北朝時代以後に最上氏が活躍し、
伊達政宗の叔父にあたる権謀術数の策士、最上義光の名はよく知られる。最上氏により統
治された出羽国南部は、戦国~安土桃山時代にかけ、数々の苦難を義光の手腕によって乗
62
りきったが、慶長 19(1614)年の彼の没後、内紛が発して混乱し、徳川幕府から領地没収
の沙汰が下された。幕府は元和 8(1622)年の改易に際し、最上・村山郡(当時は全域が最上
郡?)に譜代大名を投入し、天領を増やし続けた寛永年間(1624~1643 年)に南部へ村山郡
を再置し、両郡の郡域を逆転させたと考えられている。この経緯をみると、最上・村山郡
の再設定は、最上氏の勢力剥奪のため、幕府が意図的に行なったとも採れそうである。
七世紀末に制定された諸国の郡域は、律令制の崩壊、荘園の勃興、地方豪族の台頭など、
様々な理由により、安土・桃山時代にはかなり変化をしていた。とくに各地の戦国大名が
勝手に領地を定めていたため、一部では郡の境界などが収拾のつかない状態にあったとい
われる。これを改め、新しい区画を定めたのが、律令時代の郡域を租税徴収の領域に再利
用をはかった「太閤検地:天正 10(1582)年~」であり、江戸時代末まで検地はつづけら
れた。
郡域が戦国時代に大きく変貌したなごりを、現代に留めているのが「茨城県」である。
この県の名は、『廃藩置県』直後に、県庁所在地の水戸が属した茨城郡(茨城郡茨城郷:茨城
県石岡市茨城。常陸国府所在地)からとられている。しかし律令期の水戸付近は那珂郡(那珂郡
那珂郷:茨城県東茨城郡常北町那珂西。那珂川の推定起源地) の領域にあり、太閤検地の総括奉行
だった石田三成、またはこの国を治めていた三成の盟友、佐竹義宜が『常陸国風土記』の
内容を知っていれば、いまの茨城県は「那珂県」として成立したはずだった。むろん戦国
乱世直後の時代に文献の考証をもとめるのは無理な話で、
『常陸国風土記』の本格研究は、
江戸時代に入ってからだったことも頭におかねばならない。
出羽国の最上⇔村山両郡の位置を逆転させた真意は解りにくいが、これと少し似た例で、
律令時代の郡と現行の郡域がちがうものに次の例があがる。
律令期
現在の行政区画
現在の行政区画
律令期
常陸国新治郡
茨城県真壁郡西北部。
茨城県新治郡
常陸国茨城郡南部。
出羽国山本郡
秋田県仙北郡、大曲市。
秋田県山本郡
出羽国檜山郡。
㊟
二つの新治郡の改名は文禄 3(1594)年、両山本郡の改名は寛文 4(1664)年。平成の
大合併以後に、茨城県新治郡は、今の「つくば市、かすみがうら市、石岡市、土浦市、
小美玉市」の各一部に換わって自然消滅した。
両改名に、慶長 7(1602)年に常陸国から出羽国北部へ改易された佐竹氏が関係している
のは面白いが、鹿児島県東部にあたる旧大隅国の律令時代の各郡は、今の郡名と郡域が参
考にならないほど、大変貌をとげている点は注意すべきである。
律令時代の郡の成立過程を調べていて不思議な印象をうけるのは、郡名に郡の中心地名
を採用して命名したにもかかわらず、その経緯が伝承されていない様子が随所に認められ
ることである。たとえば、出羽の国名に採用された「出羽郡:和銅元(708)年設置」の起
源地に比定される山形県東田川郡羽黒町手向は、律令時代にも田川郡の領域にあり、出羽
63
郡内に起源地がなかった。この様相は、越後国出羽郡から田川郡が分離した史実を地名に
留めた現象と考えられ、越後国田川郡の成立時点(出羽国設置 712 年の直前?)には、古い伝
承名だった出羽(伊氐波)の地は忘れ去られ、田川郡田川郷(鶴岡市田川)が注目されてい
た様子を暗示する。つまり新設した田川郡が旧名の出羽郡をなのり、出羽郡は郡内の別の
名(郡役所があった場所、東田川郡藤島町古郡の旧名など)を採用すべきだった。
この極端な例が「丹後国」である。この国は、和銅 6(713)年に丹波国(Tanipa)北部
を丹後国(Tanipa no miti no Siri→タンゴ)へ分割したとき、丹波国の起源地名に比定される
「丹後国丹波郡丹波郷:京都府中郡峰山町丹波→平成 16 年から京丹後市」を道連れにして、
新丹波国に丹波発祥の地が失われてしまった。当時から「郡名、国名は小地名の昇格」と
の説があったなら、
「丹後国」は誕生せず、丹後国が「丹波国」、新丹波国は「丹前国:Tanipa
no miti no Kuti」とつけて、後に「タンゼン」国という名に音転したはずだった。
ちょっと前置きが長くなったが、こういった命名傾向を頭におくと、最上川、最上郡の
起源地には、村山郡を分離する以前の最上郡の範囲を考えてよさそうで、江戸時代初頭の
最上・村山両郡の逆転現象は考えに入れる必要はない、という結論がえられる。
先にあげた「最上郡最上郷」を、山形市内に想定するのは常識的なものである。しかし
山形市内を流れる川は最上川でなく、支流の「馬見ヶ崎川、須川:いずれも起源地不詳」で
あり、最上川の名が、最上郷からとられたとは考えにくくなる。最上川は、須川との合流
点の寒河江市(Saka:坂+kafe:壁、崖)付近から、上流は大きく西へ屈曲して、山形市との
間に小山脈をはさんで長井市(Naka.薙ぐ:崖、谷+kawi:峡)に到達する。つまり、山形市と
最上川は無関係の位置にあり、最上郷を山形市内に特定すると、最上川の起源地である
「Mokami」が、もう一ヶ所、最上川流域にあったことになるわけである。
そこで、最上郷を山形市内と考えない仮説を立てて、最上川流域の地名を調べると、や
はり候補地が浮かびあがるのが面白い。いまは失われた地名だが、明治 28 年に刊行された
『大日本管轄分地図』は、最上川と須川の合流点付近に「山形県東村山郡最上村」を記載
〈1971 人文社〉は、付近は古くから湯殿山行者の宿場として
する。
『郷土資料事典 山形県』
開け、最上川流域の重要な船着場として利用されたと記している。この記録によれば、最
上村は最上川起源地としての資格を充分に備えていたようだが、村の歴史をふり返ると、
最上村の名を採用したのは明治 22 年、長崎村、達磨寺村、向新田村が合併した時点であり、
明治 30 年に町制を施行した際に長崎町へ名を戻し、昭和 29 年、豊田村と合併して東村山
郡中山町に変化した。はたして旧最上村の小字に最上の地名があったかは判らないが、こ
れほど名をかえた経歴と、中山町の字名に最上が残されていないところからも、この地を
「最上郷」に比定するのは難しい。付近は定説通りに「最上郡山邊郷:東村山郡山辺町山
辺」の一部と考えるのが順当なところだろう。律令時代に村山郡を分離した後の最上郡内
で、最上川に接するのは西村山郡朝日町、大江町、東村山郡中山町、寒河江市、天童市、
西村山郡河北町だが、この範囲に「最上郷」の候補地は見いだせない。
64
ここで、定説どおりに「最上郡最上郷」を山形市内の古名と考えて、当初の最上郡北部、
平安時代の村山郡内に、もうひとつの「Mokami」の名を追うと、最上川流域にはいまでも
「最上」の名が残されている様子が判る。最上川は、富士川、球磨川(肥後国球麻郡球麻郷:
熊本県人吉市麓町)と共に、日本三急流のひとつに謳われた史実が大切である。
aiaeo aueeaai oaiaa
五月雨を あつめて早し 最上川
最上川と聞けば、すぐこの句が浮かぶ。母音の構成をみると、富士川(uiaa,uioaa)や
球磨川(uaaa,uaoaa)では俳句が成り立たず、最上川の「oaiaa」の韻律、とくに各段の
「早し」と同じ母音
中心におかれた先鋭な「ai」母音が重要な位置を占める様子がわかる。
音型の「明石、相模」川では単調にすぎ、20 万分の 1 地勢図にのる「oai」型の、
「小谷、
小阿仁、小貝、小滝、戸上、富並、泊、野内、穂波、米内」川のいずれも、最上川ほどの
迫力は感じられない。松尾芭蕉は、今の新庄市本合海から東田川郡立川町清川まで舟下り
して、この句を詠んでいる。ご承知のように、この峡谷が『最上峡』とよばれる。
最上は「Mokami=Moka.椀ぐ:崖、谷。
図 6-1-28 最上峡
舟の自由を椀ぐ、舟がもがく、潜る+kami.
噛む:崖、谷、上。急流が岩を噛む様子」
と解釈され、急峻な最上峡にふさわしい
命名にみえる。ただ「Mokami」は字名の
用例が少なく、秋田県由利郡岩城町亀田
最上町、千葉県佐倉市最上町、京都市中
京区最上町、京都市伏見区桃山最上町、
和歌山県那賀郡桃山町最上があがる程度で、自然地名の用例でも最上台(山形県最上郡大蔵村
南山)という、銅山川(大蔵村南山字肘折:肘折銅山)の深い峡谷上部の台地状地形の名しか見
いだせない。しかし、峡谷名が川に採用された例は実在するので、これをあげよう。
川
名
清津川
推定起源地
Kiyotsu
峡谷名
新潟県中魚沼郡中里村田沢
清津峡
松之山温泉
九頭竜川 Kutsurifu
福井県大野市東勝原
九頭竜峡
三
小渋川
Kosipu
長野県下伊那郡大鹿村大河原
小渋峡
飯 田
寸又川
Sumata
静岡県榛原郡本川根町奥泉
寸又峡
千 頭
乳岩川
Titifa
愛知県南設楽郡鳳来町川合
乳岩峡
田 口
滝山川
Takiyama
広島県山県郡戸河内町猪山
滝山峡
加 計
最上川
Mokami
山形県最上郡戸沢村古口
最上峡
酒 田
実淵川
Saneputi
山形県西置賜郡白鷹町黒鴨
実淵渓谷
荒 砥
鈴鹿川
Sutsuka
三重県鈴鹿郡関町坂下字峠
鈴鹿渓
四日市
面河川
Omoko
愛媛県上浮穴郡面河村若山
面河渓
上土居
65
国
これらの川は「九頭竜峡」「鈴鹿渓」などのほかに、川と同一の字名が流域にないため、
峡谷名を川名に採ったと推理した。興味をよぶのが「峽、峡」のよみ方である。この文字
は漢音では「Kafu→Kou」とよむが、
「けふ,Kifo→Kyou」とよむのは慣用音…漢音・呉音・
唐音以外に、わが国で昔から通用している字音:
『広辞苑』…であり、いかにも中国風の発音に感じ
られるこの言葉は、倭語だった可能性が高いのである。
拗音を挟んだ「Kyou」の原形は「Kifo,Kifofu」で、
「Kifo」は「Kifa:際」と同様に崖、
谷を表わし、両者の倒置語の「Foki,Faki」は崖、峡谷を意味する地形の基本型として使
われた。
「Fofu:屠る、放る←Fafuru」も急峻な崖、谷を表わすので、両者を合成した「Kifofu」
が∨型地形、峡谷を意味することも理解できる。
「清津峡:Kiyotsu-kyô」は、原形が「Kifo
tsu kifo=Kifo:谷+fotsu.落つ:谷+tsuki.突く:谷+kifo:谷」であった可能性を
見せている。
「Kifo→Kiyo,Kyô」地名は、あてた漢字だけでは意味が判らないものが多い
ので、5 万分の 1 地形図にのる「島、岬、峠」全数を抜きだしてみよう。
京 島 Kifosima
(島 根 境 港)
経ヶ島
Kifokasima
京 島 Kifosima
(島 根
松 江)
兄弟赤島
Kifotafi Akasima(兵 庫 香 住)
京 島 Kifosima
(長 崎
佐須奈)
行堂島
Kifotafusima
(山 口 仙 崎)
京 島 Kifosima
(長 崎
立 串)
京ノ小島
Kifonokosima
(愛 媛 土 生)
経 島 Kifosima
(新 潟
小 木)
京ノ上臈島
経 島 Kifosima
(島 根
松 江)
経聞島
Kifomomusima
京ヶ島 Kifokasima
(長 崎
仁 位)
清 崎 Kifosaki
(宮 城
金華山)
行当岬
Kifotafusaki (高 知 室戸岬)
京 崎 Kifosaki
(長 崎
野母崎)
京ノ崎
Kifonosaki
京ヶ岬 Kifokamisaki (広 島 福 山)
刑部岬
Kifopumisaki (千 葉 八日市場)
経ヶ岬 Kifokamisaki (京 都 網 野)
刑部岬
Kifopumisaki
(石 川
輪 島)
京崎鼻 Kifosakifana (長 崎 佐世保)
佐京崎
Sakifosaki
(長 崎
勝 本)
行者岬 Kifosifamisaki(大 分 豊後杵築)
人形鼻
Simukifofana
(島 根
飯 浦)
月夜ヶ鼻 Tukifokafana
(東 京
八丈島)
キヨタノ鼻
Kifotanofana (熊 本 牛 深)
(宮 城 松 島)
Kifonosiforosima(香 川 玉 野)
(青 森 小 泊)
(熊 本
水 俣)
清阪峠 Kifosaka (京都・大阪 京都西南部)
京柱峠
Kifopasira
清笹峠 Kifosasa
(静 岡 千 頭)
京坊峠
Kifopafu
(岡 山 上石見)
孝子峠 Kifosi
(大阪・和歌山 和歌山)
京見峠
Kifomi
(京都 京都西北部)
行者越 Kifosifa
(愛 知 三河大野)
祇園越
Kifomu
(和歌山 龍 神)
清滝峠 Kifotaki
(山 梨 都 留)
しんぎょう峠
経平峠 Kifotafira
(和歌山
人形峠
行道峠 Kifotafu
(栃 木 桐生及足利)
興津峠 Kifotu
(石 川
石 動)
京柱峠 Kifopasira
(静 岡
家 山)
川原河)
Simukifo
御経坂峠 Mikifosaka
谷京峠
66
Simukifo
Yakifo
(徳島・高知 大 栃)
(広 島
上布野)
(鳥取・岡山 奥 津)
(京都 京都西北部)
(長 野
満 島)
地名全般の傾向といえる「島、岬、鼻、峠」の順に、地名とあて字が難しくなってゆく
のも面白いが、これほど使用例の多い言葉は倭語と考えて間違いないだろう。地形語の
「Tsifo→Sifo,Tifo」が谷を表現し、「Fifo」は谷の上部、「Nifo,Mifo」が水際を表わす
ので、急峻な地形に多用された「Ka」行を語頭におく「Kifo」が、峡谷を意味しても不思
議はないと思う。渓のよみは「ケイ:漢音。たに:和音」であり、前者を倭語に結びつけ
るのは難しい。鈴鹿渓の古形を「Susukake」と考えれば、
「Susu:砂地+suka.鋤く:隙間、
谷、砂地+kake:崖、谷」と解釈できそうで、愛媛県の「面河渓:Omogo-kei」の原形を「Omokoke
←Opokoke」におくと、
「Opopoke→Ooboke:大歩危」とつけた急峻な渓谷美で名高い吉野川
流域の景勝地とほぼ同じ地名になるのが面白い。
こう考えると「最上峡:Mokami-kifo」は縄文時代(原形は Mokapikifo? kapi:峡谷。piki.
引く:直線状に連続)へ起源を溯れそうである。最上川の水運を考えるうえでも、
「最上峡」が
最大の難所であり、これを川名に採択したのは必然の現象ともいえよう。
出羽国の成立過程に記したように、飛鳥時代後期に誕生した出羽国南部の「出羽、田川、
飽海、置賜」郡と、平安時代に追加された「村山」郡は小地名(出羽以外は郡役所の所在地名)
の昇格と考えられる名で、最上郡だけに「最上郡最上郷。最上峡」という二ヶ所の候補地
が出現することになった。最上郷の位置を確定できないのは弱点だが、「Mokami」は谷の上
部を表現したようなので、馬見ヶ崎川扇状地上部の山形市松波(山形県庁所在地)、東山形、
妙見寺、釈迦堂付近を最上郷の候補にあげたい。もし最上郷が、最上郡家の所在地として
郡名を転用したのであれば、もう少し自由に考えられて、かつての羽州街道、いまの国道
13 号線と、
笹谷峠をこえて宮城県を結ぶ国道 286 号線の交点にあたる山形市前田町付近や、
国府や郡家があった地に多くのこる「印役」の名をもつ山形市印役町付近も候補にあがる。
ただ、律令時代の郷は郡名を転用した例は皆無(驛家はこの例が多い)といえるので、後者の
可能性はうすい感じがする。最上郡と村山郡の逆転というややこしい現象に加え、郡の起
源地が二ヶ所に現われ、最上郡の起源地名の比定は困難な状況に陥る。もっとしっかりし
た探求が必要だが、最上川が山形県の大動脈に例えられることから、郡の名は、やはり最
上峡を起源におく「最上川」を採用したと考えたい。
最上川の別称として、長井市河井より上流をさした松川(推定起源地:米沢市大平の松川大滝)
と、下流域の古名であった酒田川(酒田市本町)の名があがる。最上川河口の酒田は、古文
書に「坂田、砂潟、佐潟」と記録された潟湖があった地で、いまのあて字より古名の方が、
地名の意味が解りやすいのが面白い。酒田市の旧所属郡であった出羽国飽海郡(Akumi:開く
水←吐く水。吐く+組む=育む:平野を造成する河口?)の起源地が「飽海郷:飽海郡平田町郡山」
に想定され、
『延喜式』官道の飽海驛が「平田町飛鳥=Atsu:崩れやすい水際の斜面+tsuka.
須賀:sukasuka な砂地。塚:∩型地形=自然堤防」に比定されるので、飛鳥時代(この飛鳥
は飛鳥川に面した奈良県高市郡明日香村飛鳥)以前の「Sakata」は、かなり大きなラグーン(潟湖)
であった様子を感じとれる。
67
➇ 阿武隈川
「Abukuma-gawa」という、一種独特の響きをもつ名を耳にすると、やはり『智恵子抄』
樹下の二人の印象的な一節が浮かぶ。
あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川
aeaaaaaaa
aoiauoaauuaaa
「a」母音で整えた二つの地名を使った一節では、「あのひかるのが:aoiauoa」が本当
に光り輝くのが素晴らしい。が、実に東北的といえる川名のルーツ探索は、拍子抜けがす
るほど簡単である。阿武隈川を河口から上流に遡る間もなく、国道 6 号線が跨ぐ阿武隈橋
の左隣に「宮城県岩沼市阿武隈」の町名を見いだせる。この地図には、様々な興味ぶかい
事柄が記されているので、この辺を検討しよう。
図 6-1-29
岩沼市阿武隈、亘理町逢隈
地形図 岩沼
現代の土木技術を駆使して、直線状に建設された東北自動車道と東北新幹線(両者ともに
地図の西側)を除いて、主要幹線道路と鉄道が「阿武隈」に集中することが、まず目に入る。
阿武隈川の支流である白石川(宮城県白石市半沢屋敷前
68
白石第一小学校)上流域から、奥州街道
(国道 4 号線)と東北本線が走り、海岸に平行して南から北へ陸前浜街道(国道 6 号線)と常
磐線が併走して、国道は阿武隈の地で合流し、その西側で東北・常磐線が併合する。
この様子を見ただけでも、
「阿武隈」がいかに重要な交通路の要衝だったかを理解できる。
奥州街道(通称:中通り)は東山道のルートにあたり、陸前浜街道(浜通り)は、茨城県と宮
城県をむすぶ陸路として現代も重用されている。
地図に記されたように、河口付近の阿武隈川左岸は宮城県岩沼市、右岸は宮城県亘理郡
亘理町に所属する。信濃川でふれた「Watari:曰理、亘理」は、
『延喜式』官道(東山道)
うまや
が千曲川、犀川をわたる渡河地点の 驛 名に使われ、阿武隈川の渡河地点の近くに「亘理」
があるのが面白い。一般に、地名に使われた「曰理、亘理、渡」は、川を渡る地点と解釈
される。しかし、陸奥国曰理郡曰理郷に比定される「宮城県亘理郡亘理町旧舘。旧名:亘理、
亘理神社所在地(地図では桜小路付近)」は阿武隈川から 4km以上も離れた場所にあり、どう考え
てもこの解釈はとれない。ここに地形語の解釈法を入れると、
「Wata:海、湾曲部(わだか
まり)+tari.垂る、樽:∪型地形」の意味から、亘理は海辺の湾入部につけた地名とも
捉えられる。山沿いに敷設された陸前浜街道、山にへばりつくように配置した集落群、い
までも「鳥の海」という潟湖があることから、古代には曰理郷付近まで大きなラグーンがあ
った雰囲気が感じられる。おそらく「Watari」は、港の機能を備えていた時代につけた地
名で、この重要度から後に郡の名に採択されたのであろう。
対岸の「岩沼市:昭和 46 年市制施行、もと名取郡岩沼町。陸奥国名取郡磐城郷:Ifaki
=Ifa.岩←Fifa:水際+faki.吐く:河口」の名も興味ぶかい。「Ifanuma=Ifa,Fifa:
水際+fanu:意味不明⇔nufa:沼端。fana(鼻)、fani(土、泥)の関連語?+numa:沼」の
解釈を対比すると、岩沼(岩沼市中央:岩沼小学校所在地)や磐城を命名した時代は、いまと
は違って、大きな沼があった様子が浮かびあがる。
亘理町の阿武隈川河畔には、
「逢隈:もと亘理郡逢隈村、昭和 30 年に亘理町へ併合」の
字名が所在する。駅名にもなった地名は「おおくま」と読まれているので、注意しないと
見落としかねないが、これを旧仮名遣いで読むと「あふくま」になり、「Apukuma」はあて
字をかえて阿武隈川両岸に併在するわけである。阿武隈川は、古文書に逢隈川、大隈川、
大熊川と記されたこともあり、やや平凡な「Ofokuma-kafa」でなく、
「Apukuma-kafa」の古
形が残されたことは、先人に感謝する必要もあろう。
『智恵子抄』の「Arega Atatarayama Ano
Hikarunoga Abukumagawa」と 、美しく 整えられた文 体が、「Arega Adatitarouyama Ano
Hikarunoga Ookumagawa」になるのでは、受ける感銘も随分と違ったのではなかろうか‥‥。
地図では堰下という地点に神社マークが記されているだけだが、亘理町逢隈田沢に延喜
式内社の「安福河伯」神社が鎮座する。いまは「アンプクかわハク」としか読めない難し
い名の神社は、律令時代は一字一音でよむ「あぷかは」神社とよばれていた。「安福河伯」
は当時の標準的なあて字で、安は平仮名の「あ」の原形、福は『常陸国風土記』に富士山
が「福慈ノ岳」とあてられ、川・河は「河伯:Kafa」と記すのが定形だった。
69
「Apukafa は、
「Apu.浴ぶ:水際の崖。逢ふ:合流点または河口+puka:pukupuku 吹く、
拭く:湿地、水際。膨らんだ地形:蛇行部または入江+kafa:側、崖、谷」と解釈され、
「Apukuma」
の「Kuma:隈⇔Maku:巻く、膜」と、「Apukafa」の「Kafa:側、皮⇔Faku:履く」は多少
ニュアンスがちがう程度で、ほぼ同じ地名と考えてよさそうな感じがする。安福河伯神社
の所在地は、川の浸食・堆積作用で神社創設時と地形が変化していると思うが、
「Apukuma」
が阿武隈川両岸(命名時は右岸?:川の両岸におなじ地名をつける例はない)に残されたところを
見ると、安福河伯神社付近を「阿武隈川」の起源地と考えてみたくなる。この辺は、岩沼
がどれほどの規模をもつ潟湖であったかが復元されないと分からないが、もしかすると、
阿武隈川の古名は「Apukafa」であった可能性もあり、「Apu-kafa」や「Apukafa-kafa」が
この川の名であったなら、
『樹下の二人』に三度くり返して使われた印象的な一節は、おそ
らく生まれ得なかっただろう。
図にみられる阿武隈川河口の「荒浜:もと亘理郡荒浜町、昭和 30 年に亘理町に併合」は、
江戸時代の阿武隈水運の拠点として各地からの物資の集散でにぎわった。江戸回米の基地
として、北上川河口の石巻港とならぶ、伊達藩の二大港として活躍した場所だった。かつ
ての岩沼に沼、亘理に潟湖の湊があったなら、阿武隈川右岸に命名された「阿武隈、逢隈」
の地が、河口だった時代もあったのであろう。大河の湊と二大幹線路の分岐点、渡河地と
いう交通路の要にあたる「Apukuma」が、川名に採択されたのは必然の現象にみえる。この
時代がいつであったかを調べるには、やはり地質図と柱状地質図、時代ごとの復元地形図
が必要になるが、縄文時代前期~中期にこの地形が存在したのは確実であり、弥生~古墳
時代まで、阿武隈川河口が「阿武隈」にあったと考えてみたい。
阿武隈川を溯ると福島県に入るが、
ご承知のように、東山道ルートの阿武
隈川流域が「中通り」
、海岸沿いが「浜
通り」の通称をもち、阿賀川から会津
盆地へ入るルートと共に、主要交通路
を三つに分けるのが福島県の地理的区
分である。右図は 5~7 世紀の古墳の分
布図だが、やはり三つの地域に区分さ
れ、文化の伝播経路は浜通りが「常陸」
から、中通りが「久慈川→阿武隈川」、
会津が「阿賀川」下流から と考えられ
ているのも面白い。
図 6-1-30 古墳の分布
『福島県の歴史』(1970 山川出版社)
蛇足を加えたくなるのが、阿武隈川水系の上流には、この伝播経路を補強する面白い地形
がみられることである。次頁の図 31 を御覧いただきたい。図は福島県東白川郡棚倉町付近
の地形図である。
70
図の左中の天王内という地点から、バス専
図 6-1-31 都都古別神社
用道路にそって桧木をへて、水郡線の磐城棚
倉駅付近を流れる小さな川に注目していただ
きたい。この川は町の中心部を縦貫し、南に
下って久慈川へ合流する。そこでもう一度、
上流に戻ってみると、この小川は西から東へ
流れる社川(白河郡屋代郷:福島県西白河郡表郷町
社田)に接している。この社川は阿武隈川の支
流なのである。つまり、棚倉町のなかで阿武
隈川水系と茨城県日立市久慈へ流れる久慈川
水系が繋がっているわけで、北上川でふれた
西岳、奥中山とおなじ地形がここにも存在す
るのである。
久慈川~社川をむすぶ地溝帯は、地質学上
の東北ー関東をわける棚倉構造線とよばれる
大きな活断層で、阿武隈主部変成帯と名づけ
られた深成岩から成り立っている。このルー
トが交通路として重用されたのは確実で、交
通路の要所には必ず何かあるはずである。
大河や郡の名に採用されなかった棚倉町には、陸奥国一 の 宮神社の「都都古別神社:
〈下ノ宮は茨城県久慈郡
Tutukowake.上ノ宮:棚倉町馬場。中ノ宮:棚倉町八槻」が鎮座する。
大子町下野宮〉
『延喜式』の名神大社である都都古別神社は、日本武尊(Yamato Takeru no mikoto)が
奥州の地主神であった「都都古別神≒味耜高彦根命:Atsisuki Takafikone no mikoto」を
祀ったのにはじまり、大同 2(807)年、平城天皇の命をうけた坂上田村麻呂が新たに社殿
を造営して、日本武尊をも配祀したといわれる。
「味耜高彦根命」は、大国主命と宗像神社沖津宮(福岡県宗像郡大島村沖ノ島)の祭神であ
る多紀理毘賣との間に生まれた子と伝えられ、『古事記』は阿遲鉏高日子根神、阿遲志貴高
比子根神、
『日本書紀』は味耜高彦根神、
『出雲国風土記』に阿遲須枳高日子命、『播磨国風
土記』では阿遲須伎高日子尼命と、さまざまな分字で表わされた神である。この神は、独
おははつせのわかたけ
ひとことぬし
占君主の様相が伝えられる雄略天皇(大泊瀬幼武)を屈伏させた「一言主神:式内葛城坐一言
主神社:奈良県御所市森脇」と同じように、ヤマト王権の祖先神に対して独立、反抗的で
あったといわれる。
さすがに出雲・筑紫の神の子として誕生しただけあって、この神は広い範囲に祀られる。
式内「高鴨阿治須岐詫彦根命神社:奈良県御所市鴨神」
、式内「阿遲速雄神社:大阪市鶴見区
放出東」や、土佐国一の宮神社の式内「都佐坐神社:高知県高知市一宮:土佐国土佐郡土佐
71
郷」の祭神になっている。陸奥にこの神が祀られているのは奇妙な現象だが、都都古別の
神と、倭語の音律の少数音型をふくむ味耜高彦根命は元々別の神で、7 世紀中葉以後のヤマ
ト王権(天智王権)の東征、日本武尊の伝承にあわせて同一神に祭りあげられた感じもする。
「Tutuko-wake」の神名も一見、倭語にみえない印象を与えるが、
「Tutu:筒、続く+tuko.
かばね
kotukotu 突く:崖」の解釈から連続した崖の意味がでる。「~別」は人名に使われた 姓 の
一つで、天皇の子孫で地方に封ぜられた士族、すなわち国造、県主、稲置の身分を表わし
たという。式内社には、地名を起源とした名に「彦、姫、別」をつけた神名が数多く残さ
れ、伊豆国と能登国に多いのも面白い現象である。姫が「暇:隙間、∪型地形」の意味で、
「愛媛命(江姫):Yefime no Mikoto.式内伊豫神社の祭神:愛媛県伊予郡松前町神崎」のよ
うに、入江・港の神として祀られた例が多いのも注目すべきである。
これを参照して、都都古別の「別」を姓でなく、地形語と採ると「Wake.湧く:湧水地。
分く:分流点。Fake.吐く、掃く、剥ぐ:崖」の意味がでる。都都古別は、連続した崖か
ら湧きだす水の分流点、阿武隈川水系と久慈川水系の連続性を暗示した神名ともとれそう
である。今は社川の堤防に遮られて繋がっていない、分水点の棚倉町天王内の隣接地名が、
逆川(Sakasakafa)というのも面白い。古代信仰の源泉は自然現象への精霊信仰(アニミズ
ム)にあり、
「水」信仰を基本においたことを考えれば、この特別な地形が神として敬われ
ても不思議はないだろう。
こんな風に解釈できれば、古代人の感性と素晴らしい言語能力の傍証になるのだろうが、
都都古別神社上ノ宮の「棚倉町馬場:崖の側面」が、分水点とは離れた盆地内部にあるので、
うがちすぎた見方といわれても仕方がない。ただ「Tutukofake」の「掃く、刷く、剥ぐ」
が、川を表現した可能性がないとはいえないので、古代に棚倉町が注目された原因にあが
る久慈川水系と阿武隈水系が連続することを、都都古別の名で表わしたと考えてみたい。
古代の人々の自然地形への関心のもち方、言語能力、信仰などを総合的に分析することも、
今後の研究課題になりそうな感じがする。
72
⑨ 天龍川
長野県の諏訪湖を水源に、赤石山脈と木曾山脈にはさまれた伊那盆地、天龍峡をくだり、
磐田原と三方原台地の間に扇状地状三角州をつくって、遠州灘にそそぐのが「天龍川」で
ある。例のごとく、
「天龍」を名のる地を流域から収集すると、次の名があがる。
長野県岡谷市天龍町
諏訪湖の天龍川流出口の町名。
長野県飯田市川路
天龍峡入口、JR飯田線天龍峡駅所在地。
長野県下伊那郡天龍村
昭和 31 年、平岡村と神原村が合併。天龍村に改称。
静岡県磐田郡佐久間町半場
飯田線中部天龍駅、天龍寺所在地、いまは浜松市。
静岡県天龍市
昭和 31 年、磐田郡二俣町、竜川村など 6 町村が合併し
て二俣町となり、昭和 33 年に天龍市へ改名。平成 17
年 7 月に浜松市へ編入。
静岡県磐田市天龍
かつての小天龍川流域の町名。
静岡県浜松市天龍川町
東海道本線天龍川駅所在地。
ここから天龍川の起源地を探りだすことになるが、いまの「Tenryû-gawa 」のよみ方は、
天(Ten:漢呉音。Ama, Ame:和音)
、龍・竜(Ryû:慣用音。Ryou:漢音。Rin:唐音。Tatu:
和音)であり、「Tenryû」のよみ方が倭語ではないので、天龍を古型に戻す作業から始め
なければならない。
「天」は、『古事記』
『日本書紀』
『風土記』『万葉集』では「Ama, Ame」
とよまれ、
『延喜式』に記録された神社名も、この文字は全て「Ama, Ame」とよまれる。
「龍、竜:Ryû」も、古語では「Ra」行が語頭に立たない定理から倭語とは考えにくい
が、このよみが慣用音であることは注意しなければならない。自然地名、とくに岬・島名
には「龍、竜」を「Ryû 」とよむものが多く現存する。
竜 崎 (長 崎 大 村 ほか 3 例)
龍王崎 (東 京 大 島)
竜ヶ崎 (福 島 小名浜 ほか 2 例)
龍 島 (千 葉 那 古 ほか 1 例)
竜宮崎 (山 口
竜ヶ島 (秋 田 戸 賀)
光 ほか 2 例)
竜神崎 (岩 手 宮 古 ほか 2 例)
竜宮島 (静 岡 下 田 ほか 1 例)
竜燈崎 (石 川 宇出津)
竜神島 (愛 媛 今治東部ほか 1 例)
竜頭岬 (高 知 土佐長浜)
龍王島 (広 島 三 津 ほか 1 例)
龍の語源、
「多く水中に住み、自由に空に昇って雲を起こし、雨をよぶ想像上の動物」か
ら、
「Rifu→Ryû」は、湿地系の倭語「Nifu→Nyû」との共通点が浮かびあがる。漢字が導
入された時点、すなわち大量の渡来人が移入した時代に、それまでになかった言葉の「Rifu,
Ryû」が、
「Nifu,Nyû」から転じたと考えられそうな気がする。この辺は全国に伝わる竜
神伝説がヒントになりそうだが、
「龍、竜」の文字をあてた地名のなかには、和音の「Tatu.
立つ、断つ:崖」とよむものもある。
73
竜 崎 (愛 媛 八幡浜 ほか 2 例)
竜尾岬 (山 口 柳 井)
竜ヶ崎 (石 川 輪 島)
竜舞崎 (宮 城 津 谷)
竜ノ崎
竜 島 (石 川 輪 島)
(長 崎 厳 原)
龍飛崎 (青 森 龍飛崎)
地名のあて字として「龍、竜」の文字を使いたくなるのは理解できるが、こういう用法
が混在することが地名研究に嫌気を誘うものである。せめてこの種の地名は、立崎(三重
贄浦)
、辰ヶ崎(愛媛 八幡浜)のような漢字をあててほしかったと、つい愚痴をこぼした
み かは
あ おみ
ち りふ
くもなる。しかし、立にも「參河国碧海郡智立郷 Ryû:漢呉音。愛知県知立市西町。式内
知立神社所在地 」のよみがあり、区別の難しい厄介な地名群といえる。
こうして語源を検討すると、「Tenryû」が倭語でないことが判っても、川名の起源地探
索には役に立ちそうにない。しかし天龍川は、平安時代末の『更級日記』に「天ちふ河:
Tentifu-kafa」と記録され、鎌倉時代の『海道記』に「天の中川:Ama no Naka-kafa」と記
されているので、
天の中川
天中川
天龍川
天龍川
Ama no Naka-kafa.→ Tentifu-kafa.→ Tenrifu-kafa.→ Tenryû-gawa.
と、変化したと考えるのが、現代の定説である。
ここに現われた「Ama」は、天でなく、海(Ama)を想定するほうが理解しやすい。天龍川
の古名に「天の中川」を想定すると、せっかく収集した天龍地名は、全て天龍川の川名発祥
地から脱落し、わずかに飯田線中部天龍駅と天龍寺の所在地である「佐久間町半場」と、
対岸の「佐久間町中部」だけがかろうじて生きのこる。
図 6-1-31 佐久間町中部(いまは浜松市)
JR飯田線の中部天龍駅は「チュウブテ
ンリュウ」とよむが、対岸の佐久間町中
部は「なかべ」とよばれ、この名は 2 万 5
千分の 1 地形図の図幅名に「なかっぺ」
として使われている。中部は「Naka.薙
ぐ:崖、谷+kape.壁:崖」と解釈され、
駅所在地の「半場=Famu.食む:水際の
崖、谷+pa.端。mupa⇔pamu.崖、谷。
あるいは Fapa.巾:崖の側面」が表現す
る地形も峡谷にふさわしい。
中部天龍駅は、昭和 9 年に三信(三河+
信濃)鉄道の佐久間駅として開業し、翌年
「中部天龍:なかっぺテンリュウ」に改名したが、国有化して飯田線に替わった昭和 18 年
から、田舎くさい名を読み替えた「チュウブテンリュウ」が正式名になった。
74
佐久間町中部の隣接地名が、川の合流点を表わす「川合」であるように、この地は天龍
川と大千瀬川(Ofotise. 起源地不詳)合流点の小平地にある。大千瀬川を溯ったところに
「愛知県北設楽郡東栄町中設楽。設楽城跡、中設楽小学校所在地:參河国設楽郡設楽郷」があり、天
龍川をすこし下った「佐久間町大井。山香小学校所在地:遠江国山香郡の推定起源地」という、二
つの郡名発祥地をむすぶ水上交通の要衡に中部があるので、この地が「中川」の起源地と
「Ama:海」を冠しているとこ
考えられないこともない。しかし、天龍川が「天の中川」と、
ろから、やはりこの起源地は、海岸部に所在したと考えるのが穏当な推理とおもう。
そこで、現代の天龍地名のすべてを破棄して、律令時代の郡名を対照すると、天の中川の
下流域に「遠江国長上郡、長下郡」という郡があったことがわかる。両郡が分割される前
の名は「長田郡」で、起源地名は「長上郡長田郷:Nakata」に比定される。
なかのかみ
なかのしも
旧長田郡は、和銅 2(709)年に 長上 郡、 長下 郡へ二分されたのち、平安時代末にふた
たび合併して「長上郡:Nagakami」となり、明治 29 年に濱名郡(推定起源地:静岡県浜名郡新
居町浜名→浜名湖)に吸収されて消滅した。長田郡は郡域の大半が現在の静岡県浜松市東部に
相当し、浜北市、磐田市、磐田郡(磐田郡磐田郷:磐田市国府台。遠江国府・磐田郡家推定地)の
竜用町、豊田町(磐田郡豊国郷:豊田町豊田は平安時代に新設された豊田郡の推定起源地。明治 29 年磐
田郡へ再編入)の各一部が含まれていた。
長上郡長田郷は、
『文政・天保国郡全図』
図 6-1-32 長上郡長田郷
にのる長田、『大日本管轄分地図』に記さ
れた「長上郡橋場村永田」の位置から判定
すると、浜松市安間町、竜光町、天龍川町
付近に比定できる。今の浜松市には、天龍
川下流域に「長田町」があるのだが、付近
が律令時代以前に陸地化していたかには
問題があり、長上郡長田郷から除外される。
「Nakata」は、「Naka.凪ぐ、和ぐ:緩斜
面。薙ぐ、殴る:崖、長い自然堤防+kata:
潟、肩」と解け、付近に「奈加多、那賀田、
奈潟、名方、中田、長田」のいずれかをあ
てた潟湖を想定したい。
〈森 浩一編 1986 中
『日本の古代 5 前方後円墳の世紀 8 海と陸のあいだの前方後円墳』
央公論社〉には、遠江国府が所在した磐田市国府台・見付付近に、大きな潟湖(仮称:大乃潟)
を想定されているので、天龍川をはさんだ対岸に、郡名の起源になった細長いラグーンを
考えるのも、それほど不自然な発想ではなさそうである。
75
この潟湖が「Ama no Nakata」であったなら、ここに注ぐ川が「Ama no Naka kafa:天の
中川」であっても不思議はなく、遠江国長田郡の発祥地である長田郷、すなわち「浜松市
安間町、天龍川町」を潟湖、川名、郡名の起源地に比定できそうである。
付近には江戸時代に天龍川の渡し場がおかれた史実が大切で、明治 31 年に東海道本線の
天龍川駅が設置され、いまは国道 1 号線(浜松バイパス)と浜松市内を通る国道 152 号線(旧
東海道)の分岐点になっている。先にあげた「千曲川、犀川、瀬田川、淀川、阿武隈川」を
はじめ、渡河地・渡船場の地名を川に採択した例は多く、地勢上の制約から、この大多数
が現代にも交通路の要所として活躍している事実に注目すべきである。
天龍川の別称には、
『續日本紀』に記された「麁玉河、荒玉河」があがる。この川名も天
龍川右岸にあった「遠江国麁玉郡:Aratama」と一致し、明治 29 年に濱名郡へ吸収されて
消滅した旧麁玉郡の郡域は、旧浜北市(平成 17 年 7 月に浜松市へ統合)に相当する。浜北市は
昭和 31 年に、浜名郡浜名町(もと長上郡)、北浜村(同左)、麁玉村(もと麁玉郡)、中瀬村(同
左)、赤佐村(同左)を合併した際に、浜名町と北浜村を合成して浜北町(おそらく浜松市の北
の意味も含めたであろう)を名乗り、昭和 38 年に市制を施いた後に浜松市へ吸収された。市名
に使われなかった麁玉村は、浜北市宮口(麁玉小学校所在地)付近に比定できるが、この地は
天龍川とは関係のない場所に位置している。律令時代、天龍川がこの付近まで大きく蛇行
して流れていたとは考えられないので、麁玉河は郡名を転用した川名に位置づけられる。
明治時代以後の「ブランド地名崇拝」の流行を、はやくも先取りした様子が記録されてい
るのは興味ぶかい。
76
⑩ 雄物川
秋田県中南部を流れる「雄物川」は、山形県と
図 6-1-33 雄物川水系(遺跡は無関係)
の県境の雄勝峠を水源にする雄勝川(秋田県雄勝郡
『秋田県の歴史』〈1969 山川出版社〉
雄勝町院内:平成 17 年、湯沢市に併合)と、宮城県境
の鬼首峠を水源とする役内川(雄勝町秋ノ宮字役内)
が合流する雄勝町横堀から下流域の名で、横手盆
地を潤したのちに玉川(仙北郡田沢湖町玉川→仙北市)
を合わせ、秋田市にて日本海へ注いでいる。
「雄物川:Womono-kafa」の解釈は難しく、
「Womo:
意味不明。Omo:面、主+mono:物、者」は地形の
意味が判りにくい言葉である。そのせいか「重々
しく流れる川、広い面(表面)を流れる川」といっ
た解釈が採られることが多い。しかしこの川の支
流も一般の川と同じように小地名を採っていて、
雄物川にだけ川の状態を表わす名を当てたとは考
えにくい。こうした手掛かりの少ない地名を考える場合には、この名がどのように使われ
ているかを調べる必要が出てくる。そこで「をも、おも」の使用例を、自然地名の「川、
山、峠、岬、島」名からとりだすと、次の名があがる。
重 川 おも
山梨県塩山市上粟生野字重部原
甲 府
面河川 おもご
愛媛県上浮穴郡面河村若山
重栖川 おもす
島根県隠岐郡五箇村北方字重栖
西 郷
小本川 をもと
岩手県下閉伊郡岩泉町小本
岩 泉
鬼面川 おもの
(山形県米沢市、東置賜郡高畠町ほか)
米 沢
思 川 おもひ
栃木県上都賀郡粟野町上粕尾字大井
古 河
思 川 おもひ
(鹿児島県姶良郡姶良町ほか)
加治木
三面川 みおもて
新潟県岩船郡朝日村三面
村 上
面河渓
上土居
石鎚山)
御許山
おもと
(大 分
豊 岡)
面倉山 おもくら (秋 田 碇ヶ関)
小元峠
をもと
(栃 木
喜連川)
面河山 おもご
面ノ木峠 おものき
(愛 知
根 羽)
思 崎
(徳 島 鳴門海峡)
面木山 おもぎ
(愛 媛
(愛 媛
石鎚山)
面白山 おもしろ (宮城・山形 関山峠)
おもひ
㊟ 峠、岬名は 5 万分の 1 地形図、山、川名は 20 万分の 1 地勢図による。
「ひらがな」の表記は、現在のよみを旧仮名遣いに置き換えたもの。
77
この音型は島名に例がなく、約 3 万例の中からとりだした地名がこれだけ、というのも
用例の少ない方といえる。オモの系列は難読名が多いが、なかでも「鬼面川」は難しい。
この名は「キメン、キつら、おにつら、おにも」としか読めるはずがなく、どうしてこの
文字で「おもの」と読むかは不可解である。せめてこの「Omono-kafa」の起源地でも判れ
ば、地名の意味や所在地形の参考になりそうな気もするが、見いだせないのは残念である。
そこで、この地名群のなかでヒントになりそうな地名はないかと思案すると、有りがたい
ことに「思川」が、ちょっとだけ想いを語りかけてくれる。
わた ら
せ
利根川の項,26pにあげた図 2 を、もう一度ご覧いただきたい。いまの思川は、渡良瀬川(栃
木県上都賀郡足尾町渡良瀬)と、主に足尾銅山からでる鉱毒を下流域に流さないように、大正 7
年に造られた「渡良瀬雄水地」で合流したのち、利根川に入って銚子へ流れている。しか
し古代には、渡良瀬川と合流した後は、今の江戸川のルートを流れて東京湾へ注いでいた。
かつてこの川が「太日河、太井川:Futofi,Futowi」とよばれていた史実が大切である。
「Futofi,Futowi」のよみは倭語の音律の少数音型であり、おなじ名が自然地名にないの
で、「太日河、太井川」の原形は、常識的な「Ofofi, Ofowi-kafa」であったと考えたい。
この川の上流が思川であり、
「Omofi-kafa」から「Ofofi-kafa」の流れには何かある、との
想いがめぐる。そこで古語辞典を調べると、
「思し:Obosi」は「Omofosi」から転じて、
「思
ひ:Omo(面)+ofi(覆)」の尊敬語とでている。つまり「思ひ」は「Omofi」とも「Opofi, Obofi」
とも読まれたわけで、思川と太日河は、賀茂川と鴨川、可愛川と江ノ川、片品川と笠科川と
おなじように、
「Opofi-kafa」があて字をかえて区別された川名とも考えられる。
何度も述べたように、
「Ma」行の言葉を「Fa」行におきかえると意味がとりやすくなり、
「樋、氷:Fi.水:Mi.井:Wi」の原点には水の存在があって、
「面:Omo」に「覆ふ:Ofofu」
を考えれば、表面をあらわすことが理解できる。
「重し:Omosi」も「多し:Ofosi」からの
変化が想定され、
「Moku:椀ぐ←Foku:ほぐ、ほぐす。Mosu:燃す←Fosu:干す」にも相似
の関係がみられる。ただ、ここに「Omofosi→Obosi」の転移と逆の発想をするのが辛いと
ころだが、この仮説を使うと、
「Womono-kafa」の原形に「Wopono-kafa, Ofono-kafa」を想
定できる。地名の中で「Ofo」ほど使用例の多い音型はなく、先ほどあげた地名の大半が同
系の親類をもつことになる。その一例をあげよう。
大 川
おほ
岩手県下閉伊郡岩泉町大川
大 川
大須戸川 おほすど
新潟県岩船郡朝日村大須戸
塩野町
大戸川
おほど
(秋田県横手市、平鹿郡平鹿町ほか)
大 曲
大肥川
おほひ
大分県日田市大肥
日 田
大城山
おほぎ
太宰府)
大戸岳
おほと (福 島 若 松)
大倉山
おほくら (新 潟 妙高山)
大戸越
おほと (宮 崎 尾鈴山)
大小島
おほこ
大白山
おほしろ (宮 城 仙 台)
太陽崎
おほひ (岩 手 気仙沼)
(福 岡
(高 知
柏 島)
78
面ノ木峠、三面川には類似名がないようで、「みおもて」を「みつら」としても、類型の
ない不思議な地名である。そこで雄物川をよみかえるのだが、ここで問題になるのが「Wo」
と「O」の区別である。
「Wa」行が「Fa」行から分化した史実は定説であり、語頭以外の「A」
行も倭語が連母音をとらない定理から、
「Fa」行から転じた言葉と考えられている。しかし
語頭の「A」行と「Wa」行は別の言葉とするのが一般で、いまはあまり意識することのない
「Omono」と「Womono」は区別をする必要がでる。この辺も地名の命名傾向だけで判定する
と、
「A」行と「Wa」行の区分はそれほど厳密でなかったようで、
『延喜式』神名帳の神社名
をとりだして対照すると次の例があがる。
頤氣神社
いけ
信濃国更級郡
猪家神社
ゐけ
遠江国長下郡
伊志夫神社
いしふ
伊豆国那賀郡
爲志神社
ゐし
大和国忍海郡
伊多太神社
いたた
山城国愛宕郡
井田神社
ゐた
但馬国氣多郡
伊奈富神社
いなふ
伊勢国庵藝郡
猪名部神社 ゐなぺ
伊勢国員辨郡
荏名神社
えな
飛騨国大野郡
惠奈神社
ゑな
美濃国惠奈郡
意加美神社
おかみ
備後国甲奴郡
雄神神社
をかみ
越中国礪波郡
恩志呂神社
おしろ
因幡国巨濃郡
小代神社
をしろ
但馬国七美郡
意太神社
おた
近江国伊香郡
小田神社
をた
紀伊国伊都郡
於美阿志神社 おみあし 大和国高市郡
麻續神社
をみ
伊勢国多氣郡
於呂閇志神社 おろへし 陸奥国膽澤郡
拜幣志神社 をろへし 陸奥国牡鹿郡
耳なれない名の多い神社名は、今はあまり使わない文字や、よみ方が変化した漢字(意:
お→い)をあてたために難読名になっている。神社名も地名をとった例が多いので、地形語
の解釈を採用できるが、
「A」行と「Wa」行を二つに区分して解釈できるほど倭語の語彙が
豊富にあるわけではないのである。「Ike.池:湿地」「Isi.石:水際の斜面」の解釈はで
きても、
「Wike,Wisi」は、
「Fa」行に戻して「Fike:湿地、泥地。Fisi:水際の斜面。Fiti:
土、泥地」と解釈する必要がある。この辺も難しいが、語頭の「A、Wa」行も原形は「Fa」
行であった、との仮説を加えて話をすすめたい。まさに仮説の累積、こじつけの典型とい
った解釈法だが、こうするとようやく雄物川の原型に「Opono, Ofono-kafa」を想定できる。
数の多い「Ofono-kafa」とはどんな川か、具体例を検証しよう。
推定起源地名
*
地形区分
図幅名
① 大野川
岩手県九戸郡大野村大野
盆地の扇状地
陸中大野
② 大野川
茨城県久慈郡大子町内大野
盆地の扇状地
大
③ 大野川
千葉県夷隅郡夷隅町大野
扇状地
上総大原
④ 大野川*
新潟県佐渡郡新穂村大野
扇状地
相
⑤ 大野川
新潟県糸魚川市大野
扇状地
糸魚川
⑥ 大野川*
石川県金沢市大野町
港
金
⑦ 大納川
福井県大野郡和泉村上大納
谷間の小平地
荒島岳
79
子
川
沢
⑧ 大野川
長野県南安曇郡安曇村大野川
谷間の小平地
塩
尻
⑨ 大野川
兵庫県美方郡村岡町大野
谷間の小平地
村
岡
⑩ 大野川
島根県松江市上大野町
谷間の小平地
今
市
⑪
山口県玖珂郡錦町大野
谷間の小平地
鹿
野
⑫ 大野川*
熊本県下益城郡松橋町大野
扇状地
八
代
⑬ 下大野川
熊本県八代市二見下大野町
盆地の扇状地
日奈久
⑭ 大野川
大分県日田郡前津江村大野
谷間の小平地
日
田
大分県大野郡犬飼町下津尾字大野 谷間の小平地
大
分
大野川
*
⑮ 大野川
㊟
『マップル
*
地方別道路地図』
(1985~86
昭文社)による。
印は 20 万分の 1 地勢図に記載された「大野川」。
大字・小字名の「大野」は、5 万分の 1 地形図にはこの数倍の量が記されているようで、
ここから「大野、大野川」をとりだすだけでも、かなりの時間を要するので、比較的利用
しやすい『マップル 10 万分の 1 地図』から、起源地名のわかる大野川だけをとりだした。
地形区分として表記した「盆地」と「谷間の小平地」の分類は難しく、雰囲気だけの区分
と考えていただきたい。
一般に、大きな野原と信じられている「大野」は、地図をあたると、常識的な大野にあ
てた例は少なく、大半が「谷間の小平地、谷の出口の扇状地」に所在する。これは地名解
釈の「Ofo:斜面、崖、谷+no,nu:緩斜面、湿地」の意味や、
「fono,pono⇔nofo,nopo.
登る:∧型、∨型地形の斜面」を考えると少し判りやすくなる。
大野と同じように、大きな田んぼと間違えやすい「太田、大田=Ofo+fota.落つ:斜面、
崖、谷」は大谷の系列地名であり、大きな原っぱにみえる「大原」も「Ofo+fofa.屠る:
斜面、崖、谷+fara.張る:崖、腹、原」と解釈される地名である。地形語を使った三つ
の地名は、大多数が「谷型地形、崖端、自然堤防」に位置し、地図をよむと「大原<太田
<大野」の順に、緩い傾斜地、平地の面積が大きくなっているようにもみえる。谷間の小
平地、扇状地に地名をつける際に、こうした微妙な差をつけて命名したのかもしれない。
この辺は、本書のような荒っぽい手法での解明は無理で、命名地点の比較対照、地方別の
分類などの、精緻な研究によって明らかにされるであろう。
最近は、コンピュータ・ソフトの飛躍的な発展から、CDロムやDVDロム、たとえば
〈アルプス社〉のように、全国の市町村の大字に使われる「大野、太田、
『プロアトラス 2007』
大田、大原」などの全部を、地図上にすぐ呼びだせるソフトが市販されているので、地名
研究は、誰にでもできる分野に変貌した。つい数年前まで 2 万 5 千分の 1 地形図にのる地
名のよみ方は、分厚い数十冊の地名辞典と格闘しなければ判らなかったが、今はたった一
〈2001 国土地理院〉で、地形図に載るす
枚のCDロム『数値地図 25000(地名・公共施設)』
べての名が簡単に検索できるようになっている。書式もエクセルなので、データの統計分
析も容易に行なえることなど、20 世紀とは隔世の感を覚える昨今である。
80
10 数年前の、手作業だけに頼る旧来の手
図 6-1-34 大野湊
法でとりだした大野川のデータでは、山間に
多い大野地名の例外といえる「⑥ 大野川」
は、河北潟から金沢新港、大野港へと海岸に
平行して流れる短い川である。この川の起源
地とした「金沢市大野町」と、式内大野湊神
社がある
「金沢市寺中町:加賀国加賀郡大野郷」
は 2km ほど離れていて、千年以上の間に地
形が大きくかわって、地名が移動した様子を
伝えている。加賀百万石を支える湊だった
「Ofono, Ofonu」は湿地の崖端、海成の浜堤、
または港(Ofo←Popo:∪型地形)につけた地名
と考えたい。
また「⑮ 大野川」は、豊後国大野郡の起源地に重なる大切な川である。
『豊後国風土記』
大野郡の項に、
「此の郡のすぶる所(郡の領域)はみな原野なり、これに因りて大野郡といふ」
と郡名の由来を記している。これは、文字面から解した当時の典型手法で、地名がこれほ
ど簡単に解けるなら、古代史はもう少し解明されていてよいだろう。
こうして、雄物川を強引に「Ofono-kafa」に結びつけても、川名の発祥地は判らない。
雄勝川と役内川の合流点から下流部を辿っても、淡々と流れる雄物川に、谷間の小平地や
峡谷はなく、扇状地も存在しない。流域にある秋田県平鹿郡雄物川町(平成 17 年 10 月、横手
市へ編入)は昭和 30 年に平鹿郡沼館町、福地村、里見村と雄勝郡明治村が合併して誕生した
新設名称で、付近も雄物川ほどの大河に採用される地勢条件を備えていない。
そこで「Opono(Popono)-kafa」のもう一つの要素である「自然堤防、浜堤、海成段丘、
港」の地形を想定すると、ある重要な地名が浮かびあがる。最上川の項で書き残した出羽
国北部の郡名に採用された、極めつけの大切な地名である。
出羽国北部の地名が文献に登場するのは、
『日本書紀』齊明天皇 4(658)年に記載された
齶田(秋田)、渟代(能代)が最初である。和銅 5(712)年に出羽国が成立したのちに北部へ
国域を拡大し、天平 5(733)年に「出羽柵を秋田村高清水岡に遷置し、また雄勝村に郡を
建て、民を居く」と、
『續日本紀』は記している。
正式の郡が誕生したのは、天平宝字 3(759)年の「雄勝郡:秋田県雄勝郡雄勝町院内。
平鹿郡:秋田県平鹿郡増田町増田字平鹿」が最初で、秋田城制を廃した延暦 23(804)年に
「秋田郡:秋田市寺内。秋田城所在地(高清水公園)」が設置されている。ほかの郡の設立時期
は記録がないのではっきりしないが、「河邊郡:河辺郡河辺町和田。河辺小学校所在地。山本
郡:仙北郡仙北町払田。山本郡山本郷?」は、前者の文献における初出が承和 11(844)年、
後者が貞観 12(870)年であるため 9 世紀前半の成立、
「由利郡:本荘市古雪?」はそれ以
81
後の創設と推定されている。また「檜山郡:能代市桧山」も平安時代末に設置され、最上
川の項に記した 1664 年の「山本郡→仙北郡、檜山郡→山本郡」の改名と同時に、戸島郡(河
辺郡河辺町戸島)に名をかえていた河邊郡が、元の郡名に戻されている。
なお「秋田県鹿角郡:鹿角市花輪?」は律令時代には陸奥国に所属し、花輪、尾去沢、
小坂など、わが国有数の鉱山を擁した郡であったため、江戸時代初期にその所属を巡って
秋田藩と南部藩の係争が絶えない地であった。60 年以上の歳月をかけて 1677 年に南部藩へ
帰属がきまった陸奥国鹿角郡は、廃藩置県で岩手県鹿角郡に変化したが、明治 11 年に秋田
県へ編入されて、いまの秋田県域を確立した。
図 6-1-35
鰐田(秋田)
この諸郡のなかで、雄物川と最もふかい関係を
もつのが「出羽国秋田郡」である。秋田の起源地
に想定される「秋田市寺内」は出羽柵、秋田城が
や ばせ
おかれた地で、八橋油田に隣接する鰐田浦とよば
れた湊であった。「Aki.開き:崖・谷の開口部。
河口:吐き+kita:段丘」と解ける秋田は、律令
時代は雄物川河口の丘陵上に位置したのである。
山形県酒田市以北の日本海沿岸では、由利柵のお
かれた本荘、『日本書紀』に記された渟代(能代)、
と
さ
さらに北部の青森県北津軽郡市浦町の十三湊が主
要港で、なかでも雄物川を擁する鰐田が東北地方
北西部の最重要拠点であった。国府に相当する前
線基地の出羽柵が一時秋田におかれたのも、出羽
国北部を流れる雄物川水系を掌握できる優位さに
よった。この史実をみても、雄物川流域の最も重
要な地が秋田であり、「Akita, Opono(Popono)」
が段丘・港の意味をもつことから、秋田城址付近
を「雄物川」の起源地に想定したい。
雄物川の湊は、江戸時代初頭に土崎港へ移っていたが、常陸国から秋田藩へ移封された
佐竹氏が久保田(現秋田市千秋公園)に居城を構えたため、地名の「秋田」は大きく南東へ移
動した。昭和 13 年、雄物川に分水路(図の下部)が新設され、旧雄物川河口の鰐田付近は、昔
のよすがを忍ぶことができないほど変貌をとげた。
雄物川の別称には、
「Wa 行と A 行」の区別をしない「御物川、面野川:Omono-kafa」
、
『日
本三代実録』に記された「秋田河」と共に、
「戸島川」の名があがる。この名は先にあげた
河邊郡の異名であった戸島郡、豊島郡と同一名で、起源地は「河辺郡河辺町戸島」に想定
できる。戸島川は雄物川の支流で、起源地名が雄物川の合流点から 5km も離れた場所にあ
るのは奇妙な現象といえる。一般に川名は流域の小地名からとられて、別称に採用された
地名も本流域に所在するのが通例である。支流域の戸島が雄物川の異名になったのは珍し
82
い例といえ、江戸時代の戸島が、いかに重要な役割を担っていたかをうかがわせている。
いま河辺町戸島は「岩見川:河辺郡河辺町岩見」の川辺にあり、雄物川ほどの大河の別称
に使われた戸島川の名が消えているのも、不思議な現象といえる。
雄物川周辺の川名の変遷を調べるだけで、こうした歴史が浮かびあがるのも興味ぶかい。
一時期とはいえ、郡名・川名に使われた「戸島」が、字名にのみ姿を留めているのは歴史
の悲哀を感じさせる。しかし、まだ小地名が残っているのは幸せな方で、
「雄物、秋田」は
遠の昔に鬼籍に入り、この章でとりあげた「信濃川」の起源地は、位置すらはっきりしな
いのである。
83
川名起源地探索の意義
⑷
こうして、不確定要素をふくむ十本の大河を検証すると、「川名」が小地名を採用した史
実がはっきり浮上する。しかし、川名のルーツ探索というテーマは、地名研究のうえでも
ほとんど話題にならない分野であり、これほど古代史、考古学に関心が寄せられる時代に、
両者と密接な関係をもつ研究が行なわれていないのは不可解な現象といえよう。ここでは、
単なる起源地探索に終始したが、川名の起源地名群を一括して扱うと、たいへん興味ぶか
い様相が出現する。次のデータ…東海道に交差する大河…は、第二章『京浜東北線の駅』
新子安駅に挙げたものだが、もう一度取り上げてみたい。
川
名
推定起源地名
起源地付近を通る国道
六郷川
東京都大田区仲六郷
鶴見川
神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央
第一京浜国道
馬入川
神奈川県平塚市馬入
国道 1 号線(旧東海道)
酒匂川
神奈川県小田原市酒匂
1 号線
早 川
神奈川県小田原市早川
1 号線
黄瀬川
静岡県沼津市大岡字木瀬川
1 号線
富士川
山梨県南巨摩郡富沢町福士
安倍川
静岡県静岡市安倍町
大井川
静岡県島田市大井町
天龍川
静岡県浜松市天龍川町
浜名湖
静岡県浜名郡新居町浜名
古名:Famana no Umi
豊 川
愛知県豊川市豊川町
豊川稲荷神社所在地
(飽海川
愛知県豊橋市飽海町
豊川旧流路の古名
矢作川
愛知県岡崎市矢作町
鈴鹿川
三重県鈴鹿郡関町坂下
野洲川
滋賀県野洲郡野洲町野洲
瀬田川
滋賀県大津市瀬田
多摩川下流域の別称
相模川下流域の別称
第一京浜国道(旧東海道)
大井神社所在地
1 号線
1 号線
1 号線
1 号線)
1 号線
鈴鹿峠、鈴鹿渓
1 号線
1 号線
ご覧のように、東京~京都間にある主要河川起源地の大多数が、東海道(国道 1 号線:江戸
時代以前の東海道は、熱田~桑名間は海路:七里の渡し)にならぶ様相が現われる。この起源地名
の中で、沼津市大岡が「駿河国駿河郡駿河郷」、静岡市安倍町は「駿河国安倍郡」、浜松市
天龍川町が「遠江国長上郡長田郷」、浜名郡新居町浜名は「遠江国濱名郡」
、豊川市豊川町
み かは
ほ
お
は「參河国寳飫郡:豊川の古名は Fofokafa か?」、豊橋市飽海町は「參河国渥美郡渥美郷:
Akumi→あつみ」
、鈴鹿郡関町坂下は「伊勢国鈴鹿郡鈴鹿郷」
、野洲郡野洲町野洲も「近江国
野洲郡」という、郷名・郡名起源地に重なる水陸交通の要衝にあった史実が浮上する。
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「川、湖、峠」名を採用した郡(7 世紀末の成立)が存在した史実から、これらの起源地名
は少なくとも飛鳥時代以前から使われていたのは確実で、東海道の原形も、古墳時代より
前に形成されていたのも間違いないだろう。この辺が川名起源地探索の本分であり、全国
の数万にのぼる河川起源地の比定と古地形の復元が、命名年代の確立、文献に記されなか
った史実(おそらく縄文~古墳時代)の参考資料になる。ちなみに、山陽道に重なる起源地を
もつ主要河川をあげると、以下のようになる。
川
名
推定起源地名
関連郡名
起源地付近を通る国道
明石川
兵庫県明石市山下町
播磨国明石郡
2 号線
加古川
兵庫県加古川市加古川町本町
播磨国加古郡
2 号線
揖保川
兵庫県龍野市揖保町西構
播磨国揖保郡
2 号線
吉井川
岡山県岡山市吉井
2 号線
旭 川
岡山県岡山市旭本町
2 号線
沼田川
広島県三原市沼田町
瀬野川
広島県広島市安芸区瀬野
今津川
山口県岩国市今津町
188 号線
島田川
山口県光市島田
188 号線
佐波川
山口県防府市佐波
厚東川
山口県宇部市棚井
厚狭川
山口県厚狭郡山陽町厚狭
木屋川
山口県下関市吉田字木屋
揖保小
備後国沼田郡
2 号線
2 号線
周防国佐波郡
2 号線
2 号線
厚東小
長門国厚狭郡
2 号線
2 号線
この様相は全国の幹線道路にも共通するので、平安時代中期の『延喜式』にのる官道・
驛家の精緻な研究成果〈たとえば『古代日本の交通路 ⑴~⑸』 藤岡謙二郎編 大明堂 1978~1979〉
を参照して、
『和名抄』郷名の比定地(約 4,000 郷の 1/3 が未確定)を対照すれば、主要道路
の成立年代が浮かびあがるようにみえる。この下限は古墳時代を考えて間違いないようで、
一部は弥生~縄文時代に遡れる雰囲気も感じられる。交易が活性化した時代に定着した「道
路との交点、港」の地名をとった川の命名下限が古墳時代であったなら、
「水源地、峡谷、
山間の小平地、扇状地」を起源とした川名は、さらに古い歴史をもつ地名と推理できる。
この探究も大切な研究課題で、古代史学、考古学、言語学と密接な関係をもつところを
重視しなければならない。本文にとりあげた起源地の考証は、現地調査や文献資料入手で
は個人研究の限界が感じられ、地元の方であれば、しっかりした成果があがるかとおもう。
本章の主題は、
「川名は小地名の昇格」とした仮説を補強することにあり、起源地名が失
われた河川名の探索が難しいことにも、理解を求めている。地名解説書では、南白亀川
(Napaki:千葉県長生郡白子町牛込。南白亀小学校所在地)
、石徹白川(Itosiro:岐阜県郡上郡白鳥町
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石徹白)、黄柳川(Tuke:愛知県南設楽郡鳳来町黄柳)
、祝子川(Fafuri:宮崎県延岡市祝子)とい
った、難読地名ばかり持てはやされることに不満があるためでもある。この種の名は、地
名解釈と起源地の地形を対照すれば、難しいのは当てた漢字の読み方だけで、なぜ古代の
用法が現代に残されているかを考える方が大切である。地名研究では、こうした特殊な地
名より、
「天龍川、雄物川」のように原形が変化した可能性があるもの、「大川、太田川、
大野川」のように、どこにでもありそうだが、解釈の難しいものなど、もう少し普遍性の
ある地名をとりあげる必要があるとおもう。
『地名』は時代背景を記録しながら、時々刻々と変化を重ねる性質をもっている。本章
に記したとおり、現代の地名(疑似地名=記号)は想像以上に本物が少ないことに気づかれた
とおもう。この辺は平成 11(1999)年から平成 18(2006)年に実施された『平成の大合併』
による新設市町村名、新設駅名やリゾート施設などに採用される名をみてお判りのように、
付近にあるブランド名を無闇に転用した結果である。なぜこんなに本物の地名を捨て去り、
ブランド崇拝の偽物記号が横行するかは再考すべきでなかろうか。この自戒を込め、ここ
まで提示した川の推定起源地名を列記して、本節を閉じよう。
➀ 利根川
群馬県利根郡水上町藤原
水源(大水上山:利根岳)
➁ 信濃川
新潟県北魚沼郡川口町西川口?
合流点(魚野川)
➂ 北上川
岩手県二戸郡一戸町中山
水源(西岳:北上山)
➃ 木曾川
長野県木曾郡木祖村小木曾
水源
➄ 淀 川
京都府京都市伏見区淀本町
合流点(巨椋池)、渡河地
➅ 阿賀野川
新潟県新津市大安寺
河口、港
➆ 最上川
山形県最上郡戸沢村古口
峡谷(最上峡)
➇ 阿武隈川
宮城県岩沼市阿武隈
河口、港
➈ 天龍川
静岡県浜松市安間町、天龍川町
河口、港
➉ 雄物川
秋田県秋田市寺内
河口、港
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