HELI-10(R-1) 愛機BK117 日本ドクターヘリコプタの草創 ドクターヘリ発祥 2014/02/25 @ふるさと岡山川崎医大 義若 基 日本ヘリコプタ協会名誉顧問/(元)エアーリフト社長 日本ドクターヘリコプタの運航機数は 2013 年(平成 25 年)5 月現在全国 35 ヶ所 41 機となった。 その黎明期 1980 年代早々から BK117EMS ヘリコプタ(Emergency Medical Service Helicopter)を持って斯界 に参画した筆者・義若(元)エアーリフト社長はドクターヘリの現況を夢の様だと喜んでいる。 日本ドクタ‐ヘリ・システムを制度化し促進されたのは、公明党国会議員の“尊い命を救うために、ドクタ ーヘリにかける熱い思いであった”との公明党ホームページの記事に筆者義若は衷心から賛同し、若し、 “公明党無かりせば、日本ドクターヘリの今日の発展は無かった”と大いなる賛辞を贈るものである。 さて公明党ホームページによると、日本ドクターヘリ発展の年表は、 “1996 年消防庁に「ヘリコプター による救急システム検討委員会」発足” 、 “1999 年 10 月岡山県川崎医大と神奈川県東海大学で「ドクタ‐ ヘリ試行的事業開始」に始まっている。しかし、これより 12 年も前の 1987 年(S62)10 月 1 日より 1ヶ月 間、日本最初のドクターヘリ実用化試験運航が、ふるさと岡山・川崎医大を主基地とし、岡山・香川両県をカバー して実施され、大成功裏に終わった事を知る人は、今や小濱川崎医大名誉教授と筆者義若の二人だけになった。 あらためて、ここに“ふるさと岡山・川崎医大救急救命センターが日本ドクターヘリ発祥の地である”と証言し宣 言する。 (社)交通科学協議会主催、実行委員長・富永誠美交通科学協議会副会長、現地実行責任者・小 濱啓次川崎医科大学教授のご指導の下、義若エアーリフト社長は、ふるさと岡山でドクターヘリの実用化 試験運航に、川崎重工(株)が開発した日本最初の EMS 機 BK117‐JA9622 号(エアーリフト社・社有機) をもって、当該試験におけるヘリコプタ運航の全てを担当し遂行した。 当時まだドクターヘリは医療機関の異端児、加えて岡山県の医学会・医師会は岡山・京都両大学の医学 部出身者がリード主導していて、川崎医大救急医療の一教授(阪大医学部大学院卒)の熱意だけでは、ド クターヘリ実験運航を故郷岡山へ持ち込むことが出来る環境には無かった。この悪条件を抑えて、小濱啓 次川崎医大教授の“ドクタ‐ヘリの種まき”を許容され、苗床を提供し、苗を保護されたのは、川崎学園創設者・ 川崎裕宣初代理事長(岡山医大卒)の先見性に基づく決断にあったと筆者義若は結論する。 小濱教授が日本ドクターヘリの第一人者とは万人が認める所であるが、 “岡山をドクタ‐ヘリ発祥の地”へ と導かれた川崎裕宣川崎学園初代理事長の隠れたご貢献を岡山県人でもこれを知らない。今や、日本ドク タ‐ヘリの草創を知る者は;小濱啓次・川崎医大名誉教授、日本ドクターヘリ実用化の道筋をシステム化 し発表した DTCN の偉才・江崎通彦博士と義若・日本ヘリコプタ協会名誉顧問の 3 名だけになってしまった。 筆者義若(85 歳)は、今は東海岡山県人会に所属して晩年を楽しみ、 “ふるさ と岡山”を思い出し懐かしむ、この頃である。 写真は、2011 年(H23)11 月、玉野市八浜に再建更新された“鳥人桜屋幸吉 誕生の地はちはま”の新モニュメント;東海岡山県人会、岡山県知事さん始め皆 さんのご支援を得て、義若提案発言後 1 年間の超短期間で更新された。岡山県 人の“ふるさと岡山を想う熱き心”を実感した。その様な想いも込めて、以下“日 本ドクターヘリの草創”について書き留める。 1 日本ドクターヘリ運航実現への道程;前史 ・1981 年(S56):“山村地域におけるヘリコプター利用による救急医療、組織の確立についての要望書”; 全国山村振興連盟・正示啓次郎会長より自民党山村振興対策特別委員会・田村良平委員長へ。 ・1982 年(S57):“ 山村へき地における医療等の緊急輸送システムに関する調査報告書” ; 国土庁地方振興局・ (社)地域社会計画センター ・1982 年(S57):“西ドイツ連邦道路局:救急活動の効果” ;訳監修:渡辺茂夫(前)国立熱海病院長 ・1982 年(S57):“ヘリコプターによる交通事故負傷者の救護システムの調査研究”; (社)日本交通科学協議会 ・1983 年(S58):“交通事故による救急救護体制の整備に関する研究” ; (社)日本交通科学協議会、委託者・内閣官房交通対策室 ・1983 年(S58):“川崎重工(株) ;ヘリコプタ救急医療調査及び BK117EMS 機の開発開始”; 江崎通彦川崎重工(株)主幹 ・1985 年(S60):“エア・アンビュランス懇談会議事録”;世話人:富永誠美・ (元)警視庁交通局長、 用丸喜代茂・千代田建設顧問、渡辺茂夫・(前)国立熱海病院長 ・1985 年(S60):“ドイツ交通評議会バイエルン内務省;ウンターフランケン地区の緊急救助” ; 訳;榎本侾・ (元)航空自衛隊岐阜基地病院長・川崎重工岐阜工場診療所長 ・1985 年(S60):“ヘリコプタ―救急輸送実験事業報告書”;福島県;国土庁支援 ・1985 年(S60):“西独、クグラ―博士・ストルペ博士を囲む第 3 回エア・アンビュランス懇談会” ・1986 年(S61):“救命救急医療ヘリコプター実現へのステップ”/“BK117 型ヘリコプターを利用しての 救急医療試験運航について” ;江崎通彦・川崎重工主幹 ・1987 年(S62) : “救急医療システムにヘリコプターを導入する実用研究” ; (社)日本交通科学協議会 ●1987 年(S62):「第1次・BK117 ヘリによる救急患者搬送テスト(1月間)@岡山県・川崎医科大学付属病院・救 急救命センタ」;交通科学協議会、エアーリフト社 BK117EMS ヘリ運航 ・1987 年(S62) : “救急医療システムにヘリコプターを導入する実用研究” ; (社)日本交通科学協議会 ・1991 年(H3): 埼玉県防災ヘリコプタ AS365N2 運航契約を本田航空(坂田守社長)と契約 (注記):埼玉県防災ヘリを契機に、ヘリコプター公共運用の流れが、救急医療サービスから、地方自治体の 消防防災ヘリの拡充へと大きく舵が切られた。この消防防災ヘリ先行の大きな流れは 1996 年消防庁の“ヘリ コプタ―による救急システム検討委員会”発足まで続いた。ヘリコプターのサプライ・セクタも一斉に防災・消 防ヘリへ向けて走り出した。 ●1991 年(H3):“第2次・BK117 ヘリによる救急救助実用化テスト(2月間)@神奈川県・東海大学 付属病院救急救命センタ、“交通科学協議会;エアーリフト社 BK117EMS ヘリ運航 ●1992 年(H4):“第3次・BK117 ヘリによる救急医療実用化運航(6 月間)@川崎医大救急救命センタ”; (社)交通科学協議会主催、カワサキヘリシステム社(エアーリフト社改名)BK117EMS ヘリ運航 ●1994 年(H6):“BK117 ヘリコプタによる救急医療について”;日本ヘリコプタ協会会報、1994 年第4号、56 頁 義若基エアーリフト社長 日本におけるドクタ‐ヘリの歴史;公明党ホームページより ・1996 年(H8):消防庁に「ヘリコプターによる救急システム検討委員会」発足。 ・1999 年(H11):内閣内政審議会に「ドクタ‐ヘリ検討委員会」が設立。 ・1999 年(H11): 「ドクタ-ヘリ試行的事業@岡山県川崎医大/神奈川県東海大学付属病院各 1 年 6 月間」; 厚生省。 2 ・1999 年(H11):NPO「救急ヘリ病院ネットワーク・HEM-NET;国松幸次理事長」設立。 ・2001 年(H13):4月1日 岡山県・川崎医大にて日本最初の正式ドクターヘリ運航開始。 ・2003 年(H15):“公明党マニフェスト 100”にドクタ‐ヘリコプタの全国配備を盛り込む。 ・2004 年(H16):公明党内に「ドクタ‐ヘリ全国配備推進プロジェクトチーム;渡辺孝男座長」を組織、 法案作りを推進。 ・2005 年(H16):「10 年以内に全都道府県に50カ所の配備を掲げる」 ;公明党参院選マニフェスト 2005。 ・2006 年(H17):公明党がドクターヘリに関する党独自の法案骨子を発表、11 月に法案要綱を発表。 ・2006 年(H18):「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」 (ドクターヘリ法)交付。ドクタ-ヘリに関する国の基本的な考え方が明確化された。 ;公明党参院選マニフェスト 2007。 ・2007 年(H19):「5 年以内に全都道府県に 50 ヵ所配備を掲げる」 ・2011 年(H23):東日本大震災;全国各地からのドクターヘリ 16 機が災害医療活動に従事、 また福島第一原発事故収束作業に係わる作業員を搬送。 ・2012 年(H24):岩手医科大学付属病院にて全国で 35 機目となるドクターヘリ運航開始。 ・2012 年(H24):「1999 年の試行段階を含めたドクターヘリ運航実績が 6 万件を突破」と 日本航空医療学会が発表。 (注記) :公明党ホームページ/ドクターヘリ特設ページ 川崎重工(株);ドクターヘリコプタへの取組み 1980 年代(S55)初頭、日本において、全国山村振興連盟・国土庁地方振興局・自治省消防庁・日本交 通科学協議会等の諸機関が、山村離島など遠隔僻地の医療サービスの向上、高速道路上の自動車事故・緊 急救助を目指して、今で言うドクターヘリ;救急医・看護師がヘリコプタに搭乗して救急サイトへ向かう、 EMS ヘリコプタ(Emergency Medical Service Helicopter)運航の実現に向かって調査研究を開始した。 ヘリコプタ・メーカの川崎重工(株)は、1977 年(S52)西独ミュンヘンにある MBB 社と、BK117 ヘリ コプタの共同開発に着手した。ミュンヘンは世界ドクターヘリ発祥の地、ハラーヒン大学も所在し、MBB 社が開発したベルコウ BO105・EMS ヘリコプタが大活躍していた。 BK117 ヘリコプタは開発当初から EMS への最適形体を狙って基本設計された。 筆者義若は、ヘリコプタ設計部長/BK117 プロマネ/エアーリフト社長として、川重、即日本の医療用ヘ リコプタを先進リードする巡り合わせを得た。以下、日本ドクターヘリ前史における、ヘリコプタ・メーカ 川崎重工(株)のドクターヘリに関連するアクテイビテイを記載する。 ●サウジアラビア内務省 KV107ⅡA‐SM4 病院ヘリコプタの開発・運航 川崎重工(株)のドクターヘリは、1977 年(S52)契約、サウジアラビア内務省・防災ヘリコプタ団に 納入し運航された、KV107ⅡA-SM4 病院ヘリコプタ(Hospital Helicopter)-3機に始まる。KV107ⅡA ヘリコ プタは川重が 160 機製造した 25 人乗りの大 型ヘリコプタである。KV107ⅡA‐SM4 病院 ヘリコプタは、川重岐阜工場診療所長・榎 本侾博士のご指導を受け、川重ヘリコプタ 設計部が設計開発した病院ヘリコプタで、 恐らく世界で唯一の実用された病院ヘリコ プタであろう。 KV107ⅡA-SM4 病院ヘリコプタの胴体キャ 3 ビン内は冷暖房完備、キャビンは前・後2室に区画され、キャビン前室は診察・治療室、キャビン後室は 看護室に設計されている。キャビン前室には救命ベッド・除細動器・ 心肺蘇生器・心電計・麻酔装置・100 リッター水タンク・手術器具・ 天井には医療用無影灯が装備装着され、簡易手術を含む診察治療が 実施された。キャビン後室には患者用担架3セット、医師・看護士 用椅子とテーブルが装着された。着陸して地上、機体の外で診察治 療を行う為に医療用テント・椅子も格納されていた。緊急傷病患者 に限らず、広く砂漠で暮らす民への移動診療サービスにも活躍した。 30 年前の事である。 ●ドクターヘリ・システム研究/BK117 ドクタ‐ヘリ(EMS)機の開発 ☆1983 年(S58)8 月、川重BK117 プロマネに就任した義若川重岐 阜工場長は、BK117 の用途開発として、最初にEMSヘリコプタを 取り上げ、江崎通彦業務部主幹(後に、PhD、 “DTCN 知識から知恵を 創りだす方法の考案者”)にその調査研究を指示した。1984 年(S59) MBB 社訪問時、自らハラーヒン大学シュペルト教授を訪問、面談中 にエマージェンシ・コールがかかるハプニング(右2写真)があっ た。 ☆榎本侾博士(元・空自岐阜基地病院長、当時・川重岐阜工場診療所長) 、独 逸語で書かれた“西独ウンターフランケン地区のドクタ‐ヘリ活動状況”を翻 訳編集して、1985 年(S60)エア・アンビュランス懇談会資料として配布。 ☆江崎主幹も又エア・アンビュランス懇談会に参画、自ら、1984 年(S59) “救命 救急医療ヘリコプタ実現へのステップ” 、 “EMS ヘリコプタ BK117”の2論文を 発表。1986 年(S61) 、同懇談会関連資料等をヘリコプターによる救急医療 A4 -151 頁(右図)に編集発行した。1961 年(S61)に至る迄の日本におけるドク ターヘリ救急医療システムに関する調査研究の集大成、それを記録に遺す唯一 の貴重な印刷物である。この小冊子には編集者、発行者名が全く記載されていない。本書に上載された論 文発表の個々人が、それぞれ印刷・発行の主体であるとの、江崎博士の深慮に基づく編集・印刷・配布で ある。印刷製本は川崎重工(株)である。これこそ、江崎博士が後に唱える“DTCN”哲学の真骨頂の現 れである。(注記):DTCN(Design to Customer Needs)とは、“依頼人の目的-要求仕様の行間に書かれた狙い 意図をも把握して、上位目標のもとに真の目的(=目標)を達成する基本計画とその手順を創りだす方法”の創造 立案と筆者は解釈する。 詳細;江崎博士の最近の著書、(http://dtcn-wisdom.jp/J/1-wm-maegakiR1.pdf 参 照。 ☆日本最初のBK117EMSヘリコプタ; 1986 年(S61)、川崎重工(株)・ヘリコプタ設計部は、榎本博 士・江崎主幹のリーダーシップの下、日本最初ドクターヘリ BK117EMS ヘリコプタ(JA9622 号機)を開発製造し、川重 100% の子会社・ヘリ運航会社エアーリフト社へ納入した。川重ヘリ コプタ営業部は、エア・アンビュランス懇談会や救急病院で実 施される懇談会・調査研究会に、エアーリフト社の BK117EMS 機を提供し、展示・広報活動を実施していた。 4 ドクターヘリ実用化運航 by エアーリフト社(ALK) ☆1987 年(S62)正月、筆者義若はエアーリフト社社長就任、 社有機 BK117 の用途開発-西濃運輸(株)とのヘリコプタ航空宅 配の開発に走っていた夏、川重・薬師寺真臣ヘリコプタ営業部 長から、 “岡山県・川崎医科大学付属病院・救急救命センターで の、日本最初のドクタ‐ヘリ(EMS ヘリコプタ)実用化実験運 航に、BK117EMS(JA9622 号)機をもって参加”の声が掛かって きた。 第 1 次 EMS の本格的実験運航であった。 (社)日本交通科学協議会“航空機による救護システム研究委 員会”主催;研究委員長・富永誠美交通科学協議会副会長、 現地実行責任委員・小濱啓次川崎医大教授で計画された。 エアーリフト(ALK)は小濱教授のご指導の下、BK117 ヘリコプタを EMS 運航することとなった。岡山 県は我が故郷、 “義若さんの故郷への思い”は異常だと、今でも時々人に笑われるが、この時も“故郷へ 錦を飾る”気持ちでチャレンジした。ALK 社員も意気に感じ、非常に積極的であった。僅か 2 週間で、川 崎医大を中心とする半径 70km の範囲内に 32 カ所の臨時ヘリポートを調 査し、大阪航空局の許可を取得した。 第 1 次 EMS 実験運航は大成功で、全国の新聞テレビで大々的に報道さ れた。日本ドクター・ヘリ実用化への開幕であった。ところが、何があ ったのか、後が続かなかった。第 2 次実験運航が東海大学病院救急救命 センターで 4 年後に、第 3 次運航が再度川崎医大で実施されたのは 5 年 後のことであった。 1991 年(H3)1 月、本田航空(株)に運航委託した埼玉県防災ヘリコ プタ(自治省主管)の本格運用が正式に発足した。少し風向きが変わっ たとは思いながらも、地上の救急車と消防車の出動比率が“80~100:1” である事実を示して、とかく崩れそうになる AKL 社員に希望を持てと注 意を喚起していた。 第 3 次ドクターヘリ実験運航の計画が立ち上がったのは 5 年後、今度 は愈々6 ヶ月間の運航である。喜び勇んで小濱教授を表敬した。 ドクタ―ヘリの運航には、地方自治体、消防の支援協力が不可欠、 ところが消防は“1ヶ月間は支援するがそれ以上は知らない、勝手に遣 れ”とのムード。裏には開業医、医師会が、救急医療の体系を乱すとの 思惑があったらしい。川崎医大第2代理事長もリラクタント。第1次と は違って、小濱教授は第3次 EMS 実験運航を逆境の中で遂行された。 岡山県庁にはガキ友達 2~3 人が然るべき地位を占めていた。岡山県消防防 災課長への紹介状も持っていた。小濱教授は筆者に県庁訪問を注意されたが、 筆者は敢えて岡山県庁を訪問した。 実行に当たっては、長期(6ヶ月間) 、ヘリコプタの露天係留を避ける為に、 台風(秒速 50m?)にも耐えられるテント張り格納庫を仮設した。ヘリコプタ の為だけではない、安全運航の為である。以前、大分ヘリコミュータ実験運航 5 時、冬の佐伯ヘリポート、小雪混じりの雨の中で機体を整備点検している整備士をみて、これは飛行前点 検の精度に影響すると思った。 6 ヶ月間の第 3 次ドクターヘリ(EMS)実験運航も無事大成功に終わった。看護師を交えた打上げ会 で、女性看護師が“エアーリフトと一緒にドクタ・ヘリの発展に貢献したいので、エアーリフトで雇っ てほしい”と涙を流してねだられた程であった。 今一つこぼれ話。薬師寺・川重ヘリコプタ営業部長経由、“若し、小濱教授 が費用持ち出しでお困まりなら若干は還元する用意があるが”と申し出たとこ ろ、小濱教授は“エアーリフトは相当儲けたのだなあ”との言葉だけで謝絶さ れた。エアーリフト社は、当時、電力の鉄塔建設支援業務で相当利益を計上し ていたのは事実であるが、当該ドクタ-ヘリ(EMS)実験運航では営業利益 0 と 言うのが実態であった。筆者は、常に“経常利益の 2~3%はヘリコプタ発展の 為に還元する”との経営理念を持っていた。既に、1989 年(H1) 、日本ヘリコ プタ協会(当時ヘリコプタ技術協会)初代会長に就任、同協会の必要備品整備、 会合経費等に必要額をエアーリフト社が単独で寄付し、草創期の協会運営に寄 与した実績があった。 日本ドクターヘリ運航実現への道程;前史における、 “ドクターヘリ導入・実用研究”として実施されたヘ リコプタ運航は、第1~第3次迄計3回、全て(社)交通科学協議会が主催。筆者・義若はエアーリフト 社社長として、3ケース共に川重開発日本最初の EMS ヘリコプタ BK117・JA9622 号機をもって、ヘリコプ タ運航を担当した。 ☆岡山県・川崎医科大学付属病院・救急救命センター(第 1 次): 1987 年(S62)10 月 1 日から 1 ヶ月間、基幹病院を川崎医大・岡 山日赤病院・香川医科大学病院とし、川崎医大を中心に半径 70km 範囲内 32 か所の場外離着陸場を設置、1 ヶ月間 33 回出動、患者輸 送 32 名。BK117EMS ヘリ運航;エアーリフト社。 ☆神奈川県・東海大学付属病院救急救命センー(第 2 次): 1991 年(H3)8 月 1 日から 2 ケ月間、神奈川県伊勢原市・東海大学を中心に神奈川・山梨・静岡の 3 県に33ヶ所の場外離着陸場設置、期間内の出動回数 16 回、搬送患者22名。 BK117EMS ヘリ運航;エアーリフト社。 ☆岡山県・川崎医科大学付属病院救急救命センター(第 3 次): 1992 年(H4)7月1日より6ヶ月間、岡山・香川・広島県東部 64 ヶ所の場外離着陸場設置、出動回数 91 回、輸送患者 90 名。BK117EMS ヘリ運航;カワサキ・ヘリコプタ・システム社(エアーリフト社改名) 。 終わりに “日本ドクターヘリ発祥の地は川崎医大付属病院・救急救命センタ” 、“ふるさと岡山へこれを導かれ たのは川崎医科大学の創設者・川崎祐宣初代理事長”であった事を、故郷岡山の皆さんに広報し、岡山 県史上に永く留めることを願って本文をまとめた。文中、 “日本ドクタ-ヘリ運航実現への道程;前史” の記述は、草創期 15 年間の空白を穴埋めすると共に、斯界に貢献された先人達のアチーブメントを顕彰 することができたと喜んでいる。 岡山県玉野市和田の出身、75 年前渋川海岸で真っ黒に日焼けして遊んでいた悪ガキが、1952 年(S27) 大学卒業後直ぐに川崎重工(株)へ入社、日本最初のヘリコプタ BELL47 の駆け出し設計技術者に始まっ 6 た 40 年間、運に恵まれて、ヘリコプタを柱として海外出張 20 ヶ国 49 回、多くの国の多くの人々とヘリ コプタについて語り、ヘリコプタに汗を流してきた。筆者義若のヘリコプタ人生 40 年、その幕引きを、 BK117 プロマネとして設計製造した、日本最初の EMS ヘリコプタ BK117 をもって、故郷岡山で日本最初の ドクターヘリ実用化飛行実験を、ヘリ運航会社エアーリフトの社長として、自らの社用機・BK117EMS ヘ リコプタをもって運営し、之を成功裏に終わらせることができた。 稀有の機会を与えて頂いた、 偉大なる先覚者・川崎祐宣川崎医大初代理事長に深甚なる謝意を表して筆を擱く。 付記:“ドクターヘリ発祥の地”記念碑 2013 年(H25)8月1日、ドクターヘリ出動 5000 回突破を記 念して、BK117 ドクターヘリコプタメーカ・川崎重工(株)と ヘリ運航会社セントラルヘリコプタ―サービス(株)両社共同 で、岡山県倉敷市・川崎医大付属病院ヘリポートに“ドクター ヘリ発祥の地”の記念石碑(縦 60 ㎝ X 横 100 ㎝ X 奥行き 45 ㎝) を寄贈建立したとの、山陽新聞の記事を幼友達が送ってくれた。 30 年前、日本ドクターヘリの創設に深く係わった川重ヘリ屋の 一人として後輩達の深慮に感謝している。 2013 年 12 月 7 日、大阪大学精密工学科昭和 27 年卒クラス会 @大阪駅前第 1 ビルへの参加を機会に、墓参りを兼ねて故郷に 帰り、玉野市渋川海岸のマリンホテルに一泊、岐路、岡山駅か らタクシーを走らせ倉敷市・川崎医科大学付属病院・救急救命 センターを訪問、掲載の写真はその時に撮ったものである。 7
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