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HPに綴る我が風景
-平成27年-
岡 村 昭 則
1
「書くことは私の風景を残すことである」
何時ものことながら、目にしたことや思いついたことを書き残すことは遥か昔より私の習
性となっている。これは小学生時代に日記を書くことを進めてくれたクラス担任の影響が大
きい。これまでも日記を書いては中断することを何回繰り返したことか。しかし、私の若き
日の思いが込められている登山・スキー記録は昭和26年から現在に至るまで書き綴られて
いる。40代早々に思わぬ大病の疑いを掛けられてから、私は生き方を変えて、それ以来、
日記も一日たりとも書かぬ日はなく現在も続いている。それに加えて現役時代も退職後も
「わが風景」のエッセイ等を年間50本近く書いてきた。
退職記念集
H11 年~12 年
H13~14 年
H15~16 年
H17 年~18 年
★平成18年の春、さいたま市シニアユニバーシティ6期卒業、その後、いきがい大学春日
部学園14期、いきがい大学伊奈学園専科一期を卒業。この間は「わが風景」のエッセイの
代わりに「授業風景」、「パソコンクラブの歩み」、「社交ダンスクラブの歩み」等を書い
て踏み跡を残してきた。また、「卒業文集」と「校友会だより」の編集を引き受けてことも
あって「わが風景」のエッセイの数も極端に減ってしまった。伊奈学園でホームページとの
出会いを切っ掛けに自分のホームページを開設し、専科一期校友会ホームページの維持管理
人となったこともあって、校友会会員にホームページ用の原稿をお願いしても原稿が出てこ
ないのが実態である。ホームページの充実を図るために、自然と「わが風景」のエッセイ等
を書くようになってしまった。以前にまとめた「わが風景Ⅳ」の続きとして、HP掲載「我
が風景」第1号~4号発刊に続き、今年は第5号を紹介します。
★私は日常生活の中で出会った様々な風景の中で、これは書き残さなくてはとの思ったもの
はメモ書きし、後日、資料等を調べたりして自分の考えをまとめるようにしている。そうす
ると書き出すまでの過程も楽しめて学びの原動力となり得るからだ。毎日、日記を書いてい
ることが、エッセイを書く訓練として役立っている。文章の上手下手は関係ない。しかし、
人に読んでもらえるような文章にしようとは常に心がけていることは言うまでもない。
H21~23年
H24年
H25年
H26年
http://www.ina-ikigai.net/HP/okamura/DWT/gakuen/images/sakuhinsyu/sakuhinnsyu_111.htm
2
HP掲載のわが風景第5号
平成21年の春、彩の国いきがい大学伊奈学園専科一期生として入学以後、専科一期ホーム
ページ「みんなの広場」にエッセイを「私の風景」として掲載してきた。平成27年は紹介
します。
題 名
題 名
★H27年
★H27年
1八王子城址を訪れて
P.03
2山岳俳句
P.06
3山の先輩の形見
P.07
4私の 2014 年を振り返る
P.13
5正月を迎える私の様変わりした風景
P.15
6正月は箱根駅伝を見るに尽きる
P.17
7亡き友を偲んで書き残す
P.18
818期校友会作品展を見る
P.19
9これまでのお付き合いありがとう
P.20
10郷土の会集い
P.21
11円空仏を見る
P.22
12実現した夢も色褪せ再生してスタート P.25
13山田建夫ダンス部長の急逝を悼む
P.27
14気になっていたことが一つ解消した
P.28
15自分のためにやってよ-
P.29
16専科一期校友会について考える
P.30
17第20回合同墨彩画展
P.32
18山田泰子さんの作品を鑑賞する
P.33
19和紙の里を訪ねて
P.34
20和紙の里「河野長廣日本画展」
P.36
21自分のためにやってよー
P.37
22広島平和記念資料館を訪れて
P.38
23大原美術館を訪れて
P.40
24倉敷市大山名人記念館を訪れて
P.41
25山陽路を旅して
P.42
26今日は幸せな一日となった
P.44
27僕は音痴を逆手に使うことを覚えた
P.46
28山で偶然知り合った仲間との交流記
P.48
29安保法制の強行採決について思う!
P.50
30ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ
P.52
31戦後70年平和祈念集
P.54
32戦後70年平和祈念集編集して
P.55
33大学時代の三人だけのクラス会
P.56
34第 97 回全国高校野球埼玉大会だ!
P.58
35太平洋戦争した理由は何なのか
P.60
36スキー仲間が百名山登山達成!
P.62
37ああ三人になってしまった!
P.64
38二回目の高齢者運転免許証更新講習会 P.67
39年金生活者の楽しみ
P.68
40敬老会のご案内にショック
P.70
41私の俳句を大阪府の人が見ている
P.72
42妻と散歩して名月を観る
P.78
43高齢者集会に参加して
P.80
44高齢者運転講習会に参加して
P.81
45お日様に感謝!
P.82
46妻は要介護2に認定された
P.83
47岩壁の劔岳と長二郎谷の大雪渓
P.84
48出雲路を旅して
P.86
49かかりつけの歯医者が亡くなった
P.89
50通夜だから遠き日の仲間に会える
P.90
51モネ展無料公開日に老人数多
P.91
52登山・スキー仲間に友情あり
P.92
53悲しき喪中はがき
P.94
54野坂昭如さんの死を悼む
P.96
55家事失敗連続だが頑張っている
P.97
56我々の年金が危ない
P.98
57偶然山で知り合った仲間との交流記
P.102
58私のてんやわんやの大晦日風景
P.103
59
60
3
八王子城址を訪れて
12月5日は最高のハイキング日和となった。私が主
宰する退職者会ハイキングは、退職者会だよりでお知
らせし、参加したい人は現地集合なので誰が参加する
のかわからないのが定番となっている。今回も電車が
10分遅れていることから、集合時間を10分遅らせ、
そこからすぐに着いた電車で来なければ出発すること
になっている。予定の集合時間から15分程度遅れて
高尾駅を8名で出発した。
★焼き芋を売る売店は駅の中
★晴れわたり紅葉眩しき高尾かな
ところがそれ以降に着いた電車できた人がタクシーで追いかけて私たちに合流したり、同
じように電車の遅れで我々がガイダンス施設を見学している時に追いついた方がいて参加者
は10名となった。
まずは北条氏照及び家臣の墓を訪れる。びっくりするのは登り口が急で結構な距離があり、
木立に囲まれあまり日の射さない小高い所にある。氏照は八
王子城主。豊臣秀吉の小田原征伐の一環として小田原城で切
腹させられている。次に訪れたのがガイダンス施設。ここで
八王子城についての歴史に目を通す。16 世紀に当時の武蔵国
に存在していた日本の城である。北条氏の本城である小田原
城の支城で関東の西に位置する軍事上の拠点であった。この
城の山頂に八王子権現を祀ったことから八王子城と名付けら
れ、八王子城は標高 445m の深沢山(現在の城山)に築城され
ており、典型的な中世山城である。北条氏康の三
男・氏照が 1571 年(元亀 2 年)頃より築城し、1587
年(天正 15 年)頃に本拠とした。ここで展示されて
いる文書の中に、氏照が戦国時代を生き抜くために
近隣の戦国大名と外交関係うまく進めていく手腕が
あったと書かれている。中身は同盟を結んだり、離
反したりしながら保身してきたのだが、悲しいかな
八王子城が一日にして敗れたのは北条氏照の家臣の
裏切りによると記されていることだ。
豊臣秀吉の小田原征伐の一環として 1590 年(天正
18 年)7 月 24 日、八王子城は天下統一を進める豊臣秀
吉の軍勢 1 万 5 千人に攻められ、当時、城主の氏照以
下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内に
は、城代の横地監物吉信、家臣等の将兵の他約 3000 人
が立て籠って戦ったが、一夜にして落城した。氏照正
室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは
御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まった
4
と言い伝えられている。この小田原征伐において
北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏
政とともに切腹した。その後新領主となった徳川
家康によって八王子城は廃城となった。400 年前
の大殺戮のあった八王子城跡は、何やら不思議な
事が起こる 心霊スポットとされているという。
八王子城の歴史を頭に入れて本丸へと落ち葉に敷
き詰められだしている山路を登りだすと鷹を訓練
している人に出会ったので写真を撮らせてもらっ
た。
★城山へ山路一本や落ち葉踏む
★曲輪より筑波嶺見ゆる紅葉山
高尾周辺の山里は紅葉も終わりに近いところもあるが、本丸跡へと高度を上げるにつれて
美しい紅葉も残っており、我々をもてなしてくれる。
特に八王子神社を過ぎて松木曲輪前から広がる関東
平野一望の景色に言葉はいらない。驚いたのは遠く
東に筑波山まで望めることだ。ここで昼食を取り、
景色を堪能したあと、他のハイカーの人に全員の記
念写真を撮っていただき、標高460mの本丸跡へ
落ち葉を踏みふみ足を運んだところ、10分もかか
らずに本丸跡
に着いた。イ
メージしてい
た城址とは違って狭い場所なのにはびっくりした。こ
こは木立に囲まれ小さな社と本丸城址の石碑があるの
み。昔はここから見張りをするためにも木立は切り開
かれて見通し良くしていたのであろう。ガイダンス施
設で落城に至るまでの流れが頭にあるので史跡めぐり
として最高に楽しい。展望もないのですぐに下山する。
★残りたる本丸跡や紅葉散る
★紅葉降る悲しき城の夢の跡
帰りに氏照の館があったとされる御主殿跡を訪れた
が、発掘調査の結果として復元され公園として整備されていた。昔は古道から曳橋を通って
御主殿に入るために掛けられた橋で現在は復元されているが、老朽化で通行止めになってい
た。その下を流れるのが城山川で、御主殿から近いところに御主殿の滝がある。落城時に御
主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃
し、次々と身を投じたと言われている。
また戦によって城山川の水が三日三晩血に染まり、麓
の村では、この城山川の水で米を炊けば赤く米が染ま
るほどであったと伝えられている。
★伝説の悲しき滝や紅葉降る
★瀧音や紅葉の中の城の跡
★曳橋に歴史ありけり秋の川
5
★サルが来て城址の木の実拾いおり
豊臣秀吉によって天下統一を果たしたにせよ、そこへ至るまでの戦国武将の戦いは,我々に
は想像のつかない世界であり、特に北条氏の副都心ともいえる八王子城は、関東征伐の豊臣
軍によって攻め落とされた。小田原城に対する見せしめのために、徹底した攻城が指示され
たと云われている。豊臣勢の八王子城攻めは、熾烈を極めたといわれる。豊臣勢は歴戦
の強者揃いであり完全武装の大軍団であったのに対し、城方は小数の武士と緊急に徴兵
されてきた近隣の僧や農民はては女子どもであったという。一日で落城したというのも
頷け、その落城にまつわる惨劇をより一層悲しいものとする。熾烈を極めた合戦は、こ
こかしこに死体を積み上げ、その血はふもとの川へ下った。ご主殿の滝には自刃した城
方の武将達の妻や子ども、行き場を失ったにわか歩兵の農民たちが次々と身を投げた。
そのため城山川は、血で真っ赤に染まり、この水で麓の里人達が米を炊くと赤く染まっ
たという。
★戦死者は、周辺の寺の過去帳では527名もしくは680名
だという(『大善寺過去帳』など)。『関八州古戦録』は、前田
軍が280、上杉軍が273の首級をあげて秀吉に報告したとあ
る。一説には千余名が討ち取られたともいう(『桑都日記』)。
榊原康政は、千人を討ち取ったといい(『水戸松平文書』)、前
田氏側の史料には三千と記すものもある(『国書遺文』)。戦後、
山をまわって遺体の供養をした相即寺の牛秀讃誉は1,283体
を確認して引導を渡し、うち283体を回収し埋葬したという
(『相即寺・寺伝』)。これには攻め手の人数も含まれていると
思われ、かなり正確な数字といわれている。
★八王子城の悲劇を24年前に、歴史好きの職場の先輩から聞
いたことがあり、ここだったのかと今日初めて知った次第。かく
して八王子城址のハイキングも無事に終了し、高尾駅並びのお店でお茶会してお開きとなっ
た。(郷土の会 岡村)
6
登山・スキー俳句の原点
先ごろ、倉庫を整理していたら30数年前に俳句を勉強していた1冊のノートが出てきた。
ページを開いていくと、日経、産経、朝日新聞や雑誌に掲載されている俳句の記事等をスク
ラップして貼り付けてあり、肝心なところには赤のマーカーで線を引いてある。それぞれの
スクラップを懐かしく読んでいくと、大病を疑われてそれからの生き方を真剣に考えていた
40代の私が見えてくる。
残された時間は自分なりの生き方をしようと、青春時代に決めていた
「登山・スキー」に打ち込もうと決めて取り組始めた。その過程で乗鞍岳
合宿時代の旧友と交流する機会があり、その時に、岡村君は自分の登山に
対してアクセントをつけなさいとアドバイスしてくれた。その方は山岳絵
葉書やエッセイで自分の登山にアクセントをつけている。その影響を受け
て、私が始めたのは登山・スキー俳句である。5・7・5の17文字で登
山している時の情景を表現するようになったのが俳句を詠む切っ掛けであ
る。
独学で詠むようになってからは、新聞の俳句欄や俳句雑誌「俳句研究(廃刊)」を後続し
て、俳句の勉強をしていたことがノートに綴られている。俳句研究のように一流の俳人が
掲載している記事を読んでも固くて難しくて判りにくいこともあって、自分なりに俳句とは
言葉遊びなのでもっと自由に詠んでいいのではとの思いも強くなり、俳句論議は読まないこ
とにして自由気ままに詠み始めたからこそ長続きしているのではないかと思っている。
自由な心で俳句を詠むことが私の基本である。登山している時、五感を働かせ、自分を取
り巻く自然の風景の中の一部を直観的に切り取って、粗削りで5・7・5に置き換えメモし
ていく。そこで季語がどうのこうのなどとは考えず。一つの俳句を完成させるのは帰ってか
ら、紀行文をまとめるときに、振り返ってメモしてきた俳句を整理して推敲することにして
いる。というのは私にとっては登山することがメインであり、俳句はその登山にアクセント
をつけるためのものであって、団体登山の場合は、団体行動だから悠著に俳句を詠む時間な
どなくメモするだけにしている。個人登山でも時間で山頂に達しなければので、その時間と
折り合いをつけながらメモ書きにするか、推敲して完成させるかにしている。時には俳句の
粗筋を描けなくても、詠もうとしている対象物や風景の印象を、例えば「紅葉、山路、風」
とメモしておくだけにしている。
登山・スキーに行った場合、その雰囲気にただ浸って漠然と眺めて
いるだけでは、俳句の素材を掴むことはできない、観察眼が直観的に
働いてこそ俳句の表現に繋がってくるものだと思っている。俳句にも
リズム感やバランス感があり、俳句は自分のための踏み跡と捉えてい
ることから、詠んだ俳句の良し悪しは考えないことにしている。だか
らこそ昭和59年から現在まで30数年にわたって、登山・スキー句
集をまとめてこられたに違いない。そのように沢山詠んできたものの、
自分で納得するのは一握りに過ぎない。俳句は私にとって、その時の
登山やスキーの踏み跡なので、当時の情景が蘇ってくればそれでいい
と思っている。俳句を勉強始めたころの真剣であった自分が懐かしく
思えるノートを読み返すことができて良かった。(郷土の会 岡村)
7
先輩の形見となった日本スキー草分け二人の「スキーアルバム」
私に山スキーを教えてくれたのは、都庁山岳部の先輩である安田進さんである。初めて先輩
に出会ったのは、昭和38年1月に開かれたスキー教室である。3回目のスキーなので下手
くそであったが、早朝から夜遅くまで練習熱心で有名な私の下手くそなスキーを見るに見か
ねて、部屋で先輩は座布団を使ってスキーを回転させるときに、その前に一瞬チェックを入
れて、その反動で回転させることや、回転させる時にシュリツエといって外側のスキーの先
端を雪面につけて内側のスキーを持ち上げ体重を移動させる方法を教えてくれた。これが縁
で平成26年11月9日逝去する一週間前まで半世紀にわたる長いお付き合いいただいた。
振り返ってみると、半世紀のお付き合いの中で先輩が私に残してくれた大事な思い出が三
つある。
その一つは昭和38年の暮れからマネージャーとして年末年始の乗鞍岳スキー合宿に参加
し、本格的に山スキーを教えてもら
った。合宿所となる冷泉小屋へは乗
鞍高原温泉スキー場から半日かかっ
てスキーを担ぎ、1週間分の生活用
品をキスリングに詰め込んでの登山
となる。当時の冷泉小屋は木造で暖
房は土間にストーブがあるだけで、
部屋も大部屋で二重窓とはいえ、朝
起きれば、布団の襟元には雪がつい
ている状態の山小屋である。若さな
のかそんな小屋の生活を誰しも楽し
8
んでいた。着いた午後から小屋前の小さな斜面を踏み固めてスキー練習が始まる。翌日から
は一つ上の位ヶ原小屋に行き、その前の広い山肌を踏み固めてスキーの練習に励むのが常だ
った。スキーの楽しさは何といっても気持ちよく回転させながら滑ることであり、自分の思
うようにスキーを操るには技術を上達させることが基本であるから、それから5年間にわた
り乗鞍岳スキー合宿では深雪に覆われている山肌を踏み固めてゲレンデを作り、滑ってはカ
ニの横ばいで登る練習を仲間と何回も繰り返したことか。
合宿期間中にスキーにシールを張って3026m乗鞍岳山頂に登ったり、大沢や鶴ケ沢を詰
めて稜線に着いたり、下りは思い思いに深雪の中にシュプールを描きながら滑ってくる。下
山する日の楽しみはキス
リングを背負って林道を
滑り、乗鞍高原温泉スキ
ー場のゲレンデを気合を
入れながら自由自在にシ
ステムクリスチャニアで
滑るのでスキーヤーの前
で披露することだった。
我々のグループが一列縦
隊になってデモストレー
ションする滑降は圧巻で、
大勢のスキーヤーが見張
っていたことは言うまで
もなく、それが快感とな
って毎年の楽しみになっていた。乗鞍岳スキー合宿で山スキーの楽しさを安田さんから教え
てもらったことが、私の山スキーの原点となり、また、私のスキー人生に大きな影響を与え
たことは言うまでもない。
9
特に忘れられないのは、私がマネージャ
ーとして、昭和40年春に立山春スキーを
計画し、千寿ヶ原のケーブルで美女平に入
り、そこから雪上車で弥陀ヶ原ホテルまで
行き、そこから一日がかりで立山地獄谷の
房治荘まで雪原を登り詰めて立山春スキー
合宿したことである。その時に都庁山岳部
の大先輩である、安田さんの親友・谷口さ
んが立山の剱岳を見ながらヨーロッパアル
プスを彷彿させる日本唯一の山岳だと感激
していたことはいつまでも私の脳裏に張り
付いて離れない。房治荘をベースにして我々は雷鳥沢、剱沢、一ノ越を滑ったり、雄山や別
山に登って春スキーを楽しんでいた。
帰る一日前の午後、山小屋の裏側の腐った雪
の斜面を滑っていた時に、安田さんが足を取ら
れて転倒し動けなくなってしまい、足は腫れ上
がり、歩けなくなってしまった。そこで山小屋
に来ていたプロの歩荷さんにお願いし、安田さ
んをショイコに乗せて弥陀ヶ原ホテルまで下山
してもらった。そこから雪上車で美女平まで行
き、ケーブルでと下りようと思っていたら、ケ
ーブルカーは私鉄統一ストライキ中で動かせな
いという。そこで交渉して山岳遭難者を救助す
るということで、特別に動かしてもらった。そこからホロ付きのトラックをチャーターして
富山駅に出た。このことを地元のメディアに知られてしまったことから「善意のスト破り」
とテレビで報道されるやら安田さんを特急電車で送り出すところまでメディアの人に囲まれ
ていた。マネージャーとして一番苦労した思い出である。
帰京して
安田さんは
入院したが、
骨折ではな
いことがわ
かってホッ
とした立山
スキー合宿
だった。
その二は、
今から29
年前、安田
さんが都庁
を定年退職
する前に、
都庁を離れ
10
て23年も経つ私に年一度の懇親登山を開いてほしいとの要請してきた。安田さんから教え
てもらった山スキーが私を通して港区スキー部に受け継がれていることなどから、快く万年
幹事を引き受けて乗鞍岳スキー合宿に参加した人を中心に、年一度の懇親登山を実施して2
9年間が瞬く間に過ぎ去ってしまった。
第一回目の懇親登山は、安田先輩から旧友を誘い、南アルプス・仙丈ヶ岳登山を計画して
くれないかとの依頼があった。退職してまもない先輩の願いに応えられるように企画して、
昔の山スキー仲間に呼びかけたところ、昭和63年10月22日~23日にかけての仙丈ヶ
岳登山に7名が参加してくれることになった。丁度、その日は私の職場の旅行であったが、
「友の結婚式に出席する」と云うことで断っての参加である。
新宿のバスターミナルで15年ぶりに旧友と会う。どの顔も昔の面影そのもので生き生き
している。言葉なくしても、心が通じるほど、若き頃、一緒にスキーに励んだ仲間達である。
甲府駅に着くや大量のお酒を買い入れてタクシーで広河原まで入る。全山紅葉の素晴らしい
景色と出会い感激するばかり。芦安村営マイクロバスに乗り換えて北沢峠に向かう。25年
ぶりの北沢峠は登山客と観光客で賑わっており、昔の静かな面影などどこにもない。開発さ
れ大勢の人が自然の素晴らしさにふれることは良いことだが、どこかで歯止めを掛けないと
正しく自然破壊に繋がってしまうことを痛感してしまう。
泊まりの大平小屋に1時過ぎに着き、周囲の紅葉と鋸山の山岳風景を堪能しながら4時間
にわたる宴が始まり、日暮れまでつづき、ストーブを囲み夕食後も12時近くまで昔の話に
花を咲かせた。二日目は、夜明け前に小屋を発ち、ヘッドランプを友に仙丈ヶ岳を目指す。
やがて夜明けとなり、我々の背後に朝日に眩く甲斐駒ケ岳や鋸山が浮き上がってくる。頂上
付近にくるとは先日に降った初雪が残っていて所々アイスバーン化しているが、9時過ぎに
山頂に立つことができた。360度の
展望に言葉は要らない。ビールで乾杯
となった。帰りの小仙丈ヶ岳までの下
りは、山陰道で初雪が残っており、神
経を使った。北沢峠で皆さんに別れ、
日本列島横断を目指し駒ケ根に向かう。
この懇親登山を皮切りにこのメンバー
を中心に栃木県・神奈川県・福島県・
長野県・東京都の山々を訪れた。しか
しながら先輩達の肉体も衰えや4人の
仲間も亡くなったことから、最近は温
泉のみで懇親会を開くようになり、今年も1
1/2安田さんと行くことになっていたが、
叶わなかった。
その三は、安田さんは少年兵として召集さ
れ中国戦線に参加し、帰国後は登山やスキー
に魅せられ、雲表倶楽部に所属し代表を務め
るなどしたクライマーであり、名スキーヤー
でもある。都庁に就職してからは都庁山岳部
でも活動していた経歴の持ち主である。特に
スキーでは定年退職前よりヨーロッパアルプ
スのスキー場に何回となく遠征していた。そ
11
の安田さんも魅せられた登山やスキーから退いたのは80歳の時である。
退くにあたり、それまで使ってきた山の道具、スキーの道具、山やスキーの本を全部処分
するので、岡村君が使えるものは持って行ってほしいとの電話があった。当時、現役で活躍
していたのは私だけなので誘ってくれたのであろう。私が安田さんのお宅を訪ねると10畳
の部屋にシートを敷いて、安田さんが愛用した品物が並べられていた。私が必要とするもの
以外はゴミとして処分するという。軽アイゼン、アタックザック、スキーバック等使えるも
のは遠慮なくいただいた。本はハイキング程度の本を残してすべて私の所に宅急便で送って
きた。
山の本は写真集はじめ100冊に近いので、自分の部屋に置くスペースもないことから、
一つ一つ点検しながら内容の有るものと無いものに仕分けして、無いものは古本屋に持って
行き処分してもらった。残された本は終戦後から昭和40年までに発行された初版本が多く、
当時の登山やスキー状況がわかり私にとって勉強になるものばかりだった。
その中に日本のスキー草分けである、猪谷六合雄さん(1956 年のコルティナダンペッツ
ォ・オリンピックで日本人としてはじめて冬季五輪メダリストとなった、千春さんの父)の
「私たちのスキーアルバム」と、三浦敬三さん(80歳でエベレストに登頂したプロスキー
ヤー三浦雄一郎さんの父)の「黒いシュプール」雪山に謳う三浦敬三写真集がある。私もこ
の二冊を夢中でページを開きながら読んでいくと、そこには技術的な進化の解説と自然の中
で自由自在に滑るすきーの原点を取り上げている。若き頃からスキーに魅せられて常にスキ
ーとは何かを追い求めた、安田さんのバイブルのような写真集であることがわかってきた。
この素晴らしい写真集は大事に私の本箱に収まっている。平成26年11月9日逝去した安
田さんが私に残してくれた一番の宝と言っても過言ではない。
12
13
変哲もなき我が2014年を振り返る
この1年を振り返って見ると、一番大きな出来事は「お父さんは自分の好きな登山・スキ
ーには家庭を犠牲にしてまで出かけていた。自分は時間に追われるまま家事をこなし、家族
のために全力を尽くしてきたが、最近、足も悪くなり、もう草臥れてしまったので、時間に
急き立てられてことをなすのは止めた。残された時間はゆったりと過ごしたい」と言い出し
たことだ。それまで家事一切を取り仕切っていたが、次第にゆったりリズムで取り組むよう
になり、社会通念や我々とのリズムも合わなくなり、次第に私が家事を取り仕切るようにな
った。
●一番先に手を付けたのは、それまで公共料金等の引き下ろすは3金融機関になっていたも
のを一つの金融機関に集約したことだ。というのは年金が入ってくる金融機関は別に問題は
ないが、それ以外の金融機関には、妻は公共料金等に見合う額を3か月単位にまとめて振り
込んでいたものの、一回でも振り込みを遅れたり、忘れたりして残高が少なくなると督促状
が来るようになったことから一本化してしまった。
●次に私たちの退職者会で「2015年からの相続税の改正」について学習会を実施した時
のことが気になり、すべてのお金の管理を妻に任せていたので一体我が家にどれだけの預金
があるのかわからないことや、相続税の改正による控除額の減額などで、今までは相続税が
かからなくても、これからは4人に一人が税を徴収される仕組みであることから、これまで
以上に金銭管理をしないとまずいなと思い、妻の協力を得て私、妻、子供たちの金銭財産を
一覧表にしたこと。
●三番目は、料理担当を引き受けたことである。料理は各家庭の味付けがあるように、殆ど
の家庭では奥さんが引き受けている。私もこれまでは当たり前のことと思って本当に食べる
だけの人になっていたことは否めない。料理の組み立てには長年の積み重ねた奥さんのノウ
ハがある。今からの私にはそのノウハなどなどないが、いい時代だと思ったのはインターネ
ットのクックパッドを出せば、自分が作りたいもののレシピが簡単なものから手の込んだも
のまで案内されており、レシピの手順に従っていけば、それなりの料理ができるので。
料理を作るようになって一番痛切に感じたことは、我々は「他の物のイノチ」をいただい
て生きていることを実感したことだ。それから我が菜園で作った作物を無駄なく感謝の気持
ちをもって食べるようになった。正月のおせち料理は、これまで妻が時間と労力をかけて作
っていたが、この暮れからは業者に注文して受け取ったが、意外と家族から好評でこれから
もこの方式で行くことにした。
●四番目は、食事の材料等を買うのにどこが安いのかと、新聞に入るチラシをよく見て、我
が家が通っているスーパーのチラシを見比べ、値段が安いところへ買い出しに行くようにな
った。何しろ今まで無関心だったが、スーパーによって「パン芳醇」が95円のところもあ
れば、115円のところある。売り出し日が決まっているので安い方へとはしる。 あうる
スーパーでは毎週土・日曜日に卵10個98円(各400ケース)を売り出すので長い列が
できる。私も我が家の卵が切れると、その長い列に参加して買ってくる。みなさん年金生活
者や子供さんいる家庭の奥さんが並んでいる。
並んでいると私も終戦後の配給制制度で並んだことが蘇って来るが、たくましく生きるに
は並ぶというのが当たり前に事と思っており、並んでいる人とも話すとアベノミクスとは関
係なく、生活防衛に安いところへと買に行くようにしているという。安倍首相の大企業のた
めの経済政策で本当に国民の財産を守れるのか疑問ばかり。
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●洗濯して干すというのは、独身時代も行っていたので別に気にもならず担当しているが、
本当の「太陽の有難さ」を実感したことだ。雨の日は選択して部屋に干し暖房をつけて乾か
しているが、天日干しが一番である。この時に太陽があるからこそ地球の全生物が生きてい
るのだと実感する。だからこそ古代人が太陽神を崇めることは自然のことである。世界には
キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等いろいろ宗教があるが、それは創始者がいて、
その人の哲学が今日に継承されているだけの事と思っている。太陽と地球の微妙なバランス
関係で今日の地球となり、我々が存在しているが、もし太陽がなかったら、それぞれの宗教
も存在せぬと思うのは私だけであろうか。
●妻の足の具合が悪くなったので、それに対応すべく、畳のベットを入れたり、トイレを和
式から洋式に変えたり、洗濯物の干場として使ってきた古いカーポットを新しくして風に飛
ばされないようにしたり、洗濯場の床を取り換えたり、台所を明るくするために壁紙を張り
替えたりして、妻が居心地よく過ごせるように家を改築してきた。
● 足首と膝の悪い妻は立ち上がるのに時間がかかり難儀しているが、極力、外に連れ出
すことにして、4月は 1922 年に国の天然記念物に指定された桜の名木は五大桜と呼ばれてい
る、埼玉県北本市の石戸蒲サクラを訪れた。5月末にいわき市の津波跡~塩屋崎灯台~五浦
岡倉天心記念遺跡、11月中旬には2泊3日で熊野三山、大地クジラ博物館、潮岬灯台、串
本海中公園等を訪れた。また、山清水汲みには5月と7月に付き合っていただき愛宕山に登
っている。
このように私を取り巻く家庭状況も変化した中で痛切に感じるのは、食事作り、洗濯、買
い物、その他雑事等を休むことなく結婚してから40数年間を愚痴も言わずに黙々と引き受
けてくれた妻に対し、自分は休みの日は
好きな登山・スキーに明け暮れて家庭や
妻の悩みなど一向に気にしてこなかった
ことだ。妻のその鬱積が積りに積もって
「草臥れてしまった」と言わしめさせた
ことを思うと反省の一言に尽きるが、本
当に妻に感謝あるのみだ。残りの人生の
家事を引き受けて自分としてはよかった
と思っている。だからこれまで活動して
きた、いきがい大学春日部学園14期校
友会は退会することにし、さいたま市シ
ニア大学大宮校6期校友会は会費会員に
させていただいだき、伊奈学園専科一期
校友会活動と退職者会活動に絞って専念
することにした。(郷土の会 岡村)
15
元旦を迎える私の様変わりした風景
(H27.1.1)
2年前から妻は妻の体調が思わしくなく、脚首と膝が悪く起つのにも難儀するようになっ
てしまった。それから妻は時間に追われることなく、次第に自分のペースで家事をやるよう
になってしまった。こうなると我々のリズムとはかみ合わなくなってしまい、私も苛立つこ
とが多くなってきた。前々から妻は自分ためだから家事をやってと口うるさく言うようにな
った。私自身、ここまで妻を追い込んだのも私の不徳の致すところと反省して、昨年の夏か
ら私が食事作り、洗濯、買い物を引き受けて現在に至っている。
★初めて迎える正月料理をどう作るか思案せざるを得なくなった。考えて筑前煮と栗きんと
んの二つは自家製として、餅は毎年頼んでいる川島町農協にお願いし、蒲鉾、伊達巻、ごま
め、豆きんとん、なます、筍水煮、れんこん、人参、こんにやく、しいたけ、里芋、ごぼう、
雑煮用肉、サツマイモ、栗の水煮、栗きんとん等を買い、残るお節料理は既にスーパーに頼
んである。これらの品物をそろえるのは29日から大晦日まで続いた。ここで品物の買い方
は近くのスーパー3つのチラシで同じ品物
の値段をチェックして安いところに買いに
行った。支出も自分でチェックしていたが
例月の2倍に近いものとなってしまった。
さて、大晦日に筑前煮は材料を揃え、
「クックパッド」のレピシに従って順序を
追って作っていこうと思ったら、妻が自分
で作るからというのでお任せしたところ、
見事に自分の味で作り上げた。その味は見
事で40数年も持ち続けた妻のノウハには
頭が下がる。栗きんとんは買ってあるが自
分も作ると言って作り出したのでお任せし
た。何とか正月料理の準備は出来たことに
なる。大晦日の私は紅白など見る余裕もなく、1年間の家計の総決算表や日記のまとめるな
どで寝るのは元旦の午前2時半過ぎになってしまった。それでも毎年大晦日に書き続けてき
た「一年のまとめ」と、山仲間の大石さんへの思いを綴る「亡き友を偲んで」の年一度の思
い出での綴りを書く時間がなく、ついに平成27年に持ち越すことになったしまった。とい
うのも昨年まで私にそれらを書く時間を妻が与えてくれたからに他ならないと今は思ってい
るし感謝もしている。だから妻に代わって家事をすることで今までのように出来なくても、
妻への恩返しと思って淡々とこなしている。
★昨年まではすべて妻にお任せで、元旦はウォーキングしながら初日の出を見に行くのが恒
例出会ったが、今年はそんな余裕などはない。遅く起きようと思っていたものの、家に帰っ
てきている息子達が早く起き出したので、仕方なしに起きてしまい、「迎春の彩り」の写真
の通りに元旦の料理を膳に揃えていく。そして雑煮は私が手がける。まずは鍋の水に「ほん
だし」を入れ、更に雑煮用肉を入れ煮立て、そこへお酒、醤油、塩を加えて味を調えた。オ
ープンで焼いた餅と湯を通したみず葉を椀に入れ、味付けした肉汁を入れて雑煮は出来上が
った。味付けが家族からも好評で作ったものとしてほっとした。これで私の元旦の料理作り
は終わった。
しかし、考えてみると正月を迎えるにあたって、奥さん達の大変さは今回初めて体験して
理解できた。結婚して昨年までは妻が正月料理を作ってくれたので、私に自由な時間があっ
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て、「一年間の計は元旦にあり」と言わ
れるように私も恒例の年間計画を立てて
いたが、今年からは漠然と頭の中に思う
だけで、昔のように計画と実施表など作
る、そんな余裕などはなく、ましてや毎
日家事に追われている現実からしても計
画など立てられずはずもなく、時間的な
余裕ができたら直に実施に移す以外にな
いというのが、妻に代わって家事を担当
するようになってからの実感である。だ
からこそ平成27年は正月料理を作った
ことで、色々な事を振り返ったり、勉強
したりして、私にとって残された人生の
再出発とも云える年となったことは言うまでもない。
そこで昔から正月料理は、女性が三ヶ日料理を作らなくていいためにあるのだと云われて
いるので、その歴史を調べてみた。
おせち料理は、もともと平安時代の宮中行事が始まりとされている。平安時代のお正月元
旦行事である「お節供」の宴料理が、江戸時代になって庶民の間で広がり、やがて全国的に
広がっていったと言われている。それでお節料理と呼ばれているという。庶民の間では、年
の初めの豊作祈願やお祝い事が主流に広まったため、お正月には神社に初詣して神様にお祈
りをし、露天で販売されている破魔矢やダルマ、クマデなどの様々なご祈願用品を購入する
のが一般的となっている。
また、一年中休みのない主婦をお正月くらいは食事の支度から開放させてあげようという
心遣いから、日持ちする料理を作り溜めして、数日間はそれで食事を済ませるという意味合
いもあったようだ。昔は火を起こすだけでも大変な時間と労力が掛かったので、炊事から開
放されるというのは大きな骨休めとなったという。お節料理は神様にお供えして祝うことを
目的として始まった宴料理なので、豪華なだけでなく様々な意味が込められている。そのほ
とんどはめでたさを重ねるという意味の重箱に、言葉の語呂合わせから縁起を担いだ食材で
作られた料理を盛り付けしているという。最近では、核家族の家庭も増えているから、重箱
もせいぜい二、三段が主流で、本来は四段が正式なお節料理とか。
★私も結婚するまでは自炊をしてきたものの、家ではご飯を炊き味噌汁を作るだけで、おか
ずはほとんど買ってきていたので料理作りなんというものではなかった。結婚してからは妻
の料理に満足していたので、昨年までは自分が作る立場になるとは夢にも思っていなかった
ことは言うまでもない。私も小さい時から料理を作ることは嫌いではなかったので、妻に代
わって担当するようになったが抵抗感はなかった。また、今の時代はインターネットで料理
の方法を調べると「クックパッド」というレピシがあり、そこには作り方の手順が書かれて
いるので、それを見ながら手順を追っていけばよいので簡単に作ることができる。作る度に
家族が美味しいと言って食べてくれると嬉しくもなる。そのために連続して同じ料理をする
ことも多くなってしまう。
ところが、高齢になると物覚えが悪く、一度作ったものでも味付けなどは頭に入らず、次
回作る時もレピシを見ないと出来ないのだ。私にとっては、いつもレピシは離せず、そんな
こともあるが知らない間にレピシの数も20を越えてしまった。今は新しい料理を作るため
レピシを検索して挑戦するのが楽しみになったことは言うまでもない。(郷土の会 岡村)
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正月休みは箱根駅伝を見ることに尽きた!
私は駅伝が大好き人間である。特に大学駅伝に魅せられている。出場大学が関東地区のみ
に限定されている箱根駅伝(1920)、選抜方式の出雲駅伝(1989)、全国各地の予
選を勝ち抜いてきた精鋭25大学が出場し大学駅伝(1970)日本一を決める全日本大学
駅伝が三大大学駅伝と言われている。一番歴史が古く伝統があり、正月の風物になっている
ほど人気のあるのが箱根駅伝である。関東地区の大学はこのマラソンを照準に置いて一年間
を通して準備してくる。他の2つの大会は、最終の箱根駅伝の優勝候補を占う目安になって
いることは否めない。三つの駅伝を制覇する野球ではないが3冠王と言われている。三冠王
に輝いたのは大東文化大学、順天堂大学、早稲田大学の三大学のみである。
最近では日本一を決める全日本大学駅伝の優勝校は駒澤大学が4年連続という圧倒的強さ
で優勝していることから、いつも箱根駅伝の優勝候補に挙げられてきた。しかし、箱根駅伝
は箱根山の登りを制した大学がそのあと平均ペースを保っていればほとんど優勝しているこ
とから、今年は、順天堂大学の今井正人や東洋大学の柏原竜二のような山のスペシャリスト
がいないので、駒沢大学が優勝候補の大本命と大方のメディアは予想していた。これまでの
箱根駅伝は思わぬドラマがあるが、今回はないだろう、順当に駒澤大学が優勝するのではと
私もそう思っていた。
2日、スタートして見れば、駒澤大学1区、3区、4区を1位で通過し、5区へトップで
繋ぎ箱根の山へ登り出した。青山学院大学は46秒差の2位で最終5区へ。山上りを任され
たエース・神野大地(3年)は序盤から飛ばし、10.4キロ付近
でトップを走っていた駒大・馬場翔大を一気に抜き去ると、軽快に
山道を駆け上がり、後続との差をみるみる広げた。神野大地は5区
を “二代目山の神”柏原竜二(東洋大、現・富士通)のタイムを
上回る1時間16分15秒で走り切った。新しい山の神と言われる
新たな選手が現れたことで、記録は破られるためにあるというジン
クスは生きていると痛感させられた。
悲劇だったのは、誰しも予想していなかった箱根路の登りでまさ
かのドラマがはじまってしまったことだ。ただ一人ランニングシャ
ツで走っていた駒大の馬場翔大が低体温症に陥り、坂を降り切って
から倒れこみ、ふらふらしながらゴールへと曲がった途端に再度倒
れかけ、トップから7分25秒差でゴールした。こんな状況になる
と私をはじめて誰しも予想もしていなかったことだ。それにしても青山学院の記録を見れば、
往路優勝してもおかしくないタイムであり、力を蓄えてきたことを痛感させられた。復路も
素晴らしいタイムで東洋大学の総合タイムも打ち破り、10時間49分27秒で完全優勝し
てしまったことに驚くばかりだった。
私が一番嬉しかったのは、我が故郷の山梨学院が 14 年全日本駅伝の最終区でエノック・オ
ムワンバ(3 年)が 3 つ順位を上げて 5 位となっている。井上大仁(4 年)、佐藤孝哉(2
年)ら学生界トップ級の選手もおり、今年は期待できると思っていたら、直前にエースのオ
ムワンバが故障で欠場したことで、往路は21位とどん尻。「これまで」と思っていたら復
路の選手が力走に力走を重ねてシード権内の9位に押し上げたことだ。(郷土の会 岡村)
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亡き山仲間を想い11年目の今年も綴る
(平成 26 年 12 月 27 日)
私の登山人生は、静岡安倍川流域の山中で出会って以来、15年間のお付き合いをいただ
いた、山仲間一番の親友となった「大石さ金雄さん」の存在を抜きにしては語れない。大石
さんと出会えたからこそ南アルプス一周縦走が果たせたのだ。この記録は都庁山岳部の尊敬
すべき谷口先輩の黎明期の南アルプス登山とは、条件も違い比較しようもないが、ただ言え
ることは、亡き谷口先輩の山行を遥かに凌ぎ、南アルプス周遊していることだ。このようなば
かげた山行記録は私と大石さんだけだとは思わないが、達成している人は少ないと思う。だ
から大石さんが亡くなってから年一回思い出を書き続け現在に至っている。
11 月 16 日、都庁山岳部の我々に山スキーを教えてくれた安田先輩の通夜で、久しぶりに
都庁時代のスキー仲間や登山仲間にあった。その帰りにみんなで懇親会を開いた時に、高山
先輩から「岡村君の南アルプス紀行をホームページですべてを読んできたが、他人が真似で
きない山行で凄い記録の一言に尽きる」とみんなの前で披瀝してくれた。それを聞いた時に、
ホームページを読んでくれている人が居たことを思うと本当にうれしかった。高山さんも登
山愛好者であるからこそ読んでくれたに違いない。大石さんがいたからこそ達成できたのだ。
今年の夏休みに私は長年の思いでもある奥秩父連峰の縦走に挑戦した。というのは87歳
で亡くなった父親が72歳の時に縦走していることや、山仲間一番の亡き大石さんも単独で
縦走しているので、二人の踏み跡を辿り、面影を求め二人を偲びたいと常々考えていた。父
親の年までは登らねばと思っていたが、瞬く間に73歳になってしまった。今でも登山やス
キーに対する準備を怠ることなく毎朝2時間近くのウォーキングを続けているものの、メジ
ャーの山から遠のいて7年が経つ。最近、体も劣化し始めたので今のうちに登らねばと思い
立ち、今年7年ぶりに挑戦となった。体力を考えて大弛峠までタクシーで入った。
大石さんは雁坂峠から金峰山を歩いている。その時に私も誘われ
たが仕事で手が離せずにご一緒できなかった。いまでもその時に一
緒していたら、思い出も一つ増えていたのにと思うと残念でならな
い。また、私の父も同じコースを歩いているので、二人の踏み跡を
辿る山行と思って大石さんの形見のザックを背負って大弛峠に入っ
た。この形見のザックは上下に入れるところが独立しているので整
理しやすく、取り出し易いところが特徴である。意気揚々として峠
まで入ったものの、それまで私が登山靴を7年間も使っていなかっ
たので靴底が劣化してパンクしてしまった。いろいろ手当したがど
うにもならず。金峰山までピストンして終わりにしてしまった。
大弛峠から金峰山へは、南アルプス南部を思わせる原生林の中の
道を西へと急ぎ足で尾根を行く。本来ならば静かな原生林の雰囲気を亡き友に語り掛けなが
ら楽しみたいと思っていたが、大勢の登山者が行き交いそれどころではなかった。朝日岳の
山頂に立っても眺望もないので、ひたすら西下する。やがて原生林も消えて岩稜地帯に出る
と、すべて雲に包まれて眺望はなし。濡れていると岩も滑りやすいので注意しながら進むと、
筑波山の弁慶七戻りの岩門のようなところを抜けると目の前に金峰山の標識が立っており、
大勢の人が記念写真を撮っていたのにはびっくりした。大石さんも父も山頂に立った時、ど
んな思いだったのだろうかと思いを張り巡らせた。雨雲の垂れる蒸し暑い天候が回復する気
配もないので引き返した。帰りに雷雨に襲われた苦々しい山行となってしまったが、来年も
形見のザックを背負い亡き友の踏み跡を辿りたいと思っている。(郷土の会 岡村)
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彩の国いきいき大学伊奈学園
第18期校友会作品展
(H27.2.13)
今日の午前中は専科一期校友会の理事会、午後は学習会と一日県民活動センターで過ごす
ので、早く家を出ようと思ったが、妻の体調不良で1時間近く遅れてしまった。そのことが
幸いして県民活動センターに入り、ギャラリーの前を通った時に専科一期校友会立上げでお
世話になった田中康勝さんとお会いした。18期校友会作品展が今日から始まるという。専
科一期校友会の会議に出席してから立ち寄って鑑賞させていただいた。
伊奈学園のいいところは、県民活動センターにギャラリーがあるので各期校友会及びクラ
ブ活動の発表会ができることである。先週は専科一期卒業生も参加している「墨彩画展」が
開催されていたのでホームページに掲載するため取材にきている。昨日、国立新美術館で開
催されている「第24回全日本アートサロン絵画大賞展」に入選された田中さんの作品「銀
座の絵図を基にパロディー風に歌舞伎の江戸兵衛のシバラクを描いた『銀座大首絵』と、写
実表現部門:正倉院宝物を描いた「瑠璃杯」を見てきたばかりであるが、今日の会場ではど
んな作品が展示されているのかわくわくしながら見させていただいた。
★なんと富士山大好き人間の私にとって、最高の作品「富士百景」の四作品である。富士山
はどこから見ても絵になるから楽しい。だから富士山をモチーフに描いている人、撮影して
いるが一番多いのではないだろうか。私には山仲間一番の友
が静岡市にいたことから茶畑と富士山、駿河湾と富士山を何
回も案内してもらったので、田中さんの作品を見ていると今
は亡き友が案内してくれた時のことが蘇ってくる。私は登山
家の端くれだったので静岡市安倍川流域の山々から見る富士
山と、伊豆半島の達磨山から見る富士山が一番の絶景と思っ
ている。水彩画で描く柔らかな筆感が私は好きだ。
★その他に私の目にとまった作品は、寺沢さんの「ルノアール 夏」
である。模写とはいえ、描き手の女性としての思いが作品の中に表現
されている。さいたま市と伊奈町」を中心に結成され20年経つ「彩
の国を描く会」もクレヨン模写での西洋美術史を毎年開催している。
六川さんの「さらに未来へ」は、画布の中心
部に生命力の権化と言わんばかりの太い古木
の迫力に圧倒されてしまう。
20
専科一期校友会退会の友に感謝あるのみ!
郷土の会 岡村昭則
27年度校友会理事予定者と現理事が集まって2月早々に理事会が開かれた。配布された
資料の一つに27年度校友会継続会員一覧表がある。26年度は72名であったが、次年度
は59名と13名の方が退会するという。それぞれの事情があって退会するのであり、毎年
のことながら仕方ないなあと私は受け止めている。専科一期卒業前に校友会立上げの裏方と
して奔走してきた私は万年広報部を引き受けて活動しているものの、退会する方全員を知っ
ているわけでもない。しかし、これまで校友会にお付き合いしていただき、間接的ながらも
私と繋がっていたことに心より感謝している。
一覧表を見て一番驚いたのは「健康コースの中村さん」の名前がないことである。すぐに
コース長に聞けば、中村さんは専科、21期、彩央会も退会すると聞いていると教えてくれ
た。中村さんは事務的能力もあり、リーダーシップをと
れる人で、在学中からコースの取りまとめや、「手話ダ
ンス同好会」や「卓球部」等のクラブ活動にも力を入れ
ていた。
また、これまでも専科一期校友会運営にも尽力してこ
られたので、私にとって中村さんが退会されることに一
抹の寂しさが走ったことは言うまでもない。
特に、私にとっては中村さんには感謝せずにいられな
いことがあるのだ。それは「どうにもならない伊奈学園
校友会連絡協議会」が専科コースに対して過大な事業
担当を押し付けてきたことから、私が「伊奈学園校友
会連絡協議会」に「公開質問状」や「改善案」等も提
出したものの無視されてしまったことから、それらの
文書をPDFにして専科一期校友会ホームページに掲
載し会員の皆さんにお知らせした。
専科一期校友会会員は二年制に進んだ方が二年制を
卒業されると、専科校友会を退会して二年制校友会に
所属する人が多くなることから、専科校友会の組織防衛を図る観点から「伊奈学園校友会連
絡協議会」の退会に向けて取組を始めた。先のPDFがグーグルに載っていることを、当時
の伊奈学園校友会連絡協議会会長が発見し、「伊奈連協」の恥さらしと喧々諤々となり、私
も非難を浴びた。伊奈いきいきネットクラブからは誹謗中傷と非難され、HPに掲載するも
のを全てチェックしろと脅されもした。しかし、それが切っ掛けとなって、伊奈連協は小委
員会を設置して一年ほど改革に取り組んだが、全体像はいまだに見えてこない。その間に専
科一期~三期校友会が組織防衛のために退会してしまった。
専科一期校友会は「伊奈連協退会」に向けて会員へのアンケート調査実施、100%に近
い退会賛成、退会の臨時総会を得て「伊奈連協」に退会を通告して一連の幕は下りたのも、
中村さんが総務部長として裏方に徹し、事務的手続きを先頭に立ってリードしてくれたから
こそ、専科一期校友会が「伊奈連協」を退会できたのである。このことは私にとっても紆余
曲折あったが、忘れられない事件であるとともに中村さんの協力なくしてはここまで事が運
ばなかったと痛感している。中村さんに感謝あるのみ。ありがとうございました。いつまで
も健康に留意されご活躍されることを祈念しています。
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郷土の会の集い
(H27.3.30)
郷土の会の集いが1年ぶりに開かれる。郷土の会は5年前の卒業時の会員数とあまり変わ
りないが、専科1期校友会に所属される会員が19名に減少したことから当初の5班編成を
再構築し、3班編成にして今年からスタートした。最初の企画を3班の宮島さん達を中心と
する方々に今回企画していただいた。久しぶりの集いなので20名の申し込みがあったが、
15名の参加となった。今日は花見日和で最高の天気。
★キッコーマンの しょうゆ工場の見学である。私自身、7年前に一度見学している。覚えて
いるのは醤油アイスクリームの美味しかったことだけである。映写室で「しおり」の内容を
紹介するビデオを見てから、ガイドが壁に貼られた醤油製造工程の表をみながら、ガラス越
しに見える工場内部の機械等について説明してくれるのでわかりやすい。昼食は講堂で幼稚
園児と一緒にお弁当を食べ、それから御用醤油醸造所門を背に記念写真を撮り、見学して最
後は売店で「醤油アイスクリーム」を堪能してから清水公園の桜狩に向かった。
★清水公園は、私は4回目でそれぞれに思い出がある。橋本さんが朝の集合場所を間違えて
清水公園駅で降りてしまったという。駅から公園までは近く大勢の花見客が行き交う。今日
はお天気もよく、風もなく、桜も満開に近くいうことなしの桜日和である。仁王門の前に2
時半に集合することを決めて、それぞれが散って行った。私は真言宗智山派金乗院、フィー
ルドアスレチック、花ファンタジア、聚楽館枝垂れ桜を見てから皆さんが待っている仁王門
に戻って着た。かくして楽しい集いは無事に終わった。楽しい一日を企画してくれた幹事さ
んに感謝あるのみ。(郷土の会岡村)
22
円空仏像群を見る
(H26.3.6)
我が家の裏手には瑠璃山「薬王寺」がある。この寺
の創建は1348年、再建されたのは1757年で、
現在の寺に改装されたのは1936年(昭和 6 年)
と記されている。江戸時代の島村にあったので近在
では古くから「島の薬師様」と呼ばれ、足立坂4番
の札所として信仰を集めてきたという。この寺が
「島の薬師様」として多くの人に信仰されているベ
ースの一つには、岐阜県・愛知県に続いて埼玉県が
全国で3番目(130躯余)に多くの円空仏が発見
されている。半数以上が大宮地区で発見され、その
うちの29躯の円空仏が残されているように円空が立ち寄った寺であるからでもある。
私もこの地に住み始めて35年も経つが円空仏一つ一つの説明を聞きながら向き合ったこ
とは一度もない。この春、お寺の保存場所を作り直したことを記念に、自治会が地域の人々
に公開するというので参加した。会場となった寺の部屋には入れ切れないほど50名余の
方々が訪れた。大宮郷土研究会の方々が2年わたって薬師堂の中を調査した中間報告という
ことでプロジェクターを使って大きな画面に映し出して説明してくれたので、参加者は「そ
うだったのか」と頷いている人が多かった。
●ます、円空が薬王寺に寄ったのは昔、尼寺と言われている時代もあったので尼さんにほれ
込んで逗留しその間に円空仏を彫ったのではないかという説もある。本当のところは判らな
いが、弘法大師の流れをくむ薬師如来を祀る全国の薬王寺を再建したいということから、仏
像12万体の造像を発願し、造仏布教のため諸国遍歴の旅についたと言われていることが本
筋ではないかと本筋でないかと説明していた。
薬師三尊像 薬師如来は病気を治し、人々の寿命を延ばす仏。日光菩薩と月光菩薩は薬師如
来の夾侍(両側に控える仏)で、この三像を薬師三像である。一本の杉丸太(直径60cm
~70cm)を三つに割って作られている。
23
十二神将像薬師如来を信仰する人々を守神様。
●薬師堂の中の説明では、薬師如来が祀られており、「めめ絵馬」という左右逆に「め」と
いう字を書いた眼病平癒の絵馬や、虎の絵馬等がたくさん掛けられている。文殊に獅子、普
賢に象というのは良く見かけるが、虎と薬師のつながりはどうやら薬師如来が寅年生まれの
守護仏であるらしい。絵馬は江戸時代から近代のものまで数々あるが色あせているため写真
に収めてもはっきりしないものの、描かれている被写体にはその時代を反映しているものも
や、単純に絵師が描いたものを買ってきて奉納したものなど様々だが、それぞれにその時の
思いが詰まっていると語っていた。
●郷土研究会の人たちが薬王寺の歴史を調べて一つ一つ色々な資料を読み解き、今調べてい
るものがどうなのかと比較してしながら、当時としてはこんな状況ではなかったのかと推測
しているに過ぎない。だから今日お二人の方が説明してくれたが、それぞれが違う見方をし
ていても、すこしでも当時のことに近づいていこうとするところに面白さがあり、時には推
測したことが検証してその通りだったとわかることもある。歴史を探ることにロマンを感じ
るというのは、時空を超えたはるか昔に、この場所で、あの場所で、あんなことや、こんな
ことで歴史が動いていたことや、人が生活していたことを考古学者が発掘して追及していく
姿に私はロマンを感じずにはいられないのだ。
●また、江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが
高まり、影響を受けた諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減す
るなどの抑制政策をとってきたが、大政奉還後に成立した新政府は天皇制を徹底するため
「神仏分離令」の神社中心の詔書「大教宣布」[5]などの政策[6]に掲げたことから、仏教施設
の破壊などが進んでしまった。
そのために大和田地区を含めて三つの古寺が廃仏になり消えて
しまい、この薬王寺だけが辛うじて残ったという。廃仏毀釈を免
れたのは定かではないが、薬王寺を信徒が管理していたことに繋
がっているのかも知れないとか。何しろ日本人は古くは中国文化
を取り入れ、次に新しい文化が入ってくると前のモノを平気で葬
り去る習性がある。文化財を残すことが日本人の生きた証の一つ
として見れば、廃仏毀釈のようなことは二度と行ってはならない
ことだ。最近はアルカイダ―やイスラム国の人が平気で人類が積
み上げてきた文化財の破壊をテレビで放映しているが、そこには
破壊者の幼稚さと先祖を冒涜する行為としか見て取れないのだ。
破壊者も先祖の積み重ねがあって自分があるのであり、そのこと
を思い出してほしいと願わずにはいられない。
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実現した夢も色褪せ再生してスタート
2月中旬、退職者会役員の同僚が20年ぶりに元職場の上司「塚中和夫さん」に会う機会
を設けてくれた。というのはその上司とは42年前に出会い、上司は新しい福祉の観点から
スポーツを暮らしの中に取り入れたいという発想を持っていた。私もその発想に惚れこんで
一緒に夢を見させていただき、実現させたスポーツセンターが昨年末で閉館され、新しいス
ポーツセンターに引き継がれたことから見学会ということで80歳を超えた元上司にお会い
することができた。
振り返れば、人生の中で一心不乱に取組む仕事に出合った時は最高の幸せである。とは言
うものの、我々凡人には中々そのような仕事に出会う機会は少ない。東村山市、東京都、港
区と渡り歩いた公務員人生の中でそのような場面に出会ったことは何回かあった。特に忘れ
られないのは、昭和50年3月にオープンした港区スポーツセンター(基礎自治体としては
日本一?)について、開設準備からオープンまで元上司と3人で取組んだことだ。この上司
が提唱する「暮らしの中にスポーツをという」発想に惚れこんで、協力して上司の夢を実現
させねばとの思いから一心不乱に取組んだ六年間だった。
スポーツセンター建設でのハード面では「福祉としてのスポーツ」という新しい理念から
健常者も障害者も同じように使える工夫を重ねたり、ソフト面では「区民のだれもが、いつ
でも、楽しく利用できるスポーツセンター」としての機能を発揮できるようにと、学識経験
者、体育協会関係者、体育指導員、小中学校の体育教師、区民代表からなる「区民のための
プロジェクトチーム」を立ち上げて、スポーツを暮らしの中に定着させることを視点に置い
て議論していただいた。また、開設するスポーツセンターは、これまでのようなお役所的発
想ではなく、区民のコミニケヘション広場として機能を持たせつつ、新しい管理・運営の導
入を図るために白熱した議論がなされ、何時も熱気に満ち溢れていた。区民を中心に据えて
「暮らしの中にスポーツ」をと時代を先取りした発
想を展開しながら、上司や私の夢も花開いたのであ
る。
当時、他の自治体にも例を見ないスポーツセンタ
ーとして知れわたり、月を重ねるに従って利用者も
一日1000人を超えるまでになった。全国の自治
体や、後に北京市体育運動委員会からも見学に来た
ことは言うまでもない。しかし、月日が経つにつれ
て訪れる度に残念なのは、当初の職員の異動で運
営・管理の当初理念も薄れて、役人的発想に逆戻し
て区民交流の場としてのコミニケーションフロアー
は縮小され、ガチガチの管理一徹の味気ない施設になってしまったことである。その時に
「当初の理念」を後の者に受け継いでいくことの難しさをつくづく思い知らされた。やがて
時は流れ周辺地域もビル街に変身したことから、港区は田町駅東口北地区開発整備ビジョン
を策定し、その一環として老朽化したスポーツセンターをはじめ周辺にあった幾つかの行政
施設や新たな施設を加えた港区最大の複合施設を一棟に収めた機能的な建物が昨年末に完成
した。驚くなかれ、その複合施設に来て驚いたのは基礎的自治体の基準を超えた超大型施設
にはびっくりしてしまうほどだ。23区一番の財政余裕区であり、お金の使い道がないこと
から民間の建物にも匹敵するバカデカイ建物になったのであろうか。
26
さて、閉館したスポーツセンター開設準備からオープンまで取組んだ私達は、新しいスポ
ーツセンターのハード面やソフト面についてガイドから説明を受けた。これまでのスポーツ
センターの運営管理は、当初は職員、それから区出資の財団法人に委託して職員を派遣して
行っていたが、新しいスポーツセンターは民間の指定管理者に切り替えている。それ故に職
員も役所の職員とは違って対応に笑顔を絶やさないことで、やはり民間の運営を意識してし
まう。利用する区民とっては言うことなしである。管理運営はこれまでのノウハウを大筋で
引き継いでいるとのこと。
ハード面では閉館したスポーツセンター(延床面積 14,229 平米、3棟、1F~6F)より
も30%増しの面積と広くなり、そのため新しいスポーツセンター(延床面積 20,309 平米3
F~8F)は各競技場や利用者のためのスペースも広
く、その外にあるコミニケーションフロアーも広くテ
ーブルや椅子も設置されており、それなりの人が会話
を楽しんでいる風景も見られた。基礎的自治体の基準
を超えた都道府県クラスの超大型スポーツセンターに
近いものの、私達は「当初の理念が受け継がれている
ね」と同じ見方をしていた。
私としては40年前に福祉としてのスポーツを視点
に、スポーツを暮らしの中に取り入れたいという発想
からスタートし、今日に至っては当時では考えられなかった、介護予防運動の一環として健
康増進器具まで配置されて取り入れられた事業も実施されているのを見ると、時代の流れを
感じずにはいられなかった。私達が最終的に目指したのは、暮らしの中にスポーツを定着さ
せることによって健康を維持し医療費を軽減することができればこんな幸せなことはないの
である。それに向かって現在も進化させている事業にこれからも期待せずにはいられない。
私の住んでいる「さいたま市」は財政が厳しく考えられないことだ。財政的豊な港区だか
らこそ、区民に「いたりつくせり」のサービスできるのであるが、「いざという時に区民自
身の力で生きることのノウハウ」を教え込むことの事業も必要ではないかと思ってしまう。
40年前に「福祉としてのスポーツ」という新しい分野からの理念を基盤として、「スポ
ーツセンターの管理・運営」の基本は、●「暮らしの中にスポーツを」●「スポーツで健康
を」●「輪を広げるためにスポーツを」●「誰でもスポーツを」等をスローガンに区民利用
優先の運営を掲げて取組むことになり、それを目指してスタートするに至るまでには大勢の
方の協力があってこそである。その中に忘れられない一人に紅一点の家庭婦人PTAママさ
んバレーボールクラブ出身のMさんがいる。港区には在勤者を中心とした古い体質の体育協
会がある。その影響力を排除して「暮らしの中にスポーツを」広げようとして体育協会に真
っ向から論陣を張った奮闘していた姿は今でも忘れられない。
彼女が開館後に区民の意見を反映させるため組織を作ってほしいということから「スポー
ツ運営協議会」が設置され、開館後のスポーツ教室卒業者から多くの自主グループが生まれ、
彼女の尽力で、その横の繋がりを強める形で自主グループ連絡協議会が結成され、体育協会
と張り合うまでになった。そこには「暮らしの中にスポーツを」の精神が今でも根付いてい
ることは忘れられない。見学を終えてから当時を振り返って語り合ったが、みんな一番心意
気を感じて仕事に夢中だったと。そして我々が目指した視点は、ハード面とソフト面でも今
でも大方引き継がれていることを確認し、我々の目指したベースがあったからこそ、再生し
た今日の新しいスポーツセンターの誕生を迎えられたことを確認して見学は終わった。終わ
ってから20年ぶりの懇親会は昔の話に花が咲いたことは言うまでもない。(郷土の会岡村)
27
山田建夫さんを偲び思い出を綴り心よりご冥福をお祈りします
オリオンの空に亡き友偲びけり
3月1日に発行する「いきがい大学春日部学園14期校友会だより26年度第17号」の
打合せの電話を藤井広報部長からいただいた時に、初代14期社交ダンスクラブ部長の山田
建夫さんが平成26年12月末に亡くなったとの報告を受けた。体調が思わしくないので校
友会を退会するという噂を聞いていたことや、私も妻の介護で校友会を退会するので一度連
絡をとらねばと思っていた矢先の事であり、山田さんの突然の訃報に接し絶句してしまった。
★私と山田さんの出会いは、平成20年6月6日の「いきがい大学春日部学園14期自治
会」のクラブ活動立上げで、私が社交ダンス部の立ち上げに奔走した時である。ダンスの名
札の所に集まっていただいたのは初対面の人たちが21名もいる。誰かが口火を切って立上
げのお膳立てをしないといけないので、「さいたま市シニアユニバーシティ」出身の私がク
ラブ立ち上げまで司会をさせていただくことを出席者全員に告げたら、お願いしますという
ので引き受けて立上げ作業が始まった。こちらも初対面なので誰がダンス経験者なのか判ら
ないので、春日部学園卒業生でアシスタントの方に相談して、シニアユニバーシティ岩槻校
でダンス経験のある山田建夫さんがいいのではというアドバイスを受けて、みなさんに報告
して山田建夫さんに部長を引き受けていただき、副部長にダンス経験のある野村さん、会計
に小林さんと葦原さん、講師に千葉さんにお願いしてなんとか引き受けてもらった。練習会
場確保、テープやカセットデッキー等の持ち込みは、他の会員の協力が得られたことから、
次回からクラブ活動に入れる目途もつき、社交ダンスクラブの立上げは終わり、私はお役目
御免となった。
★その日の帰りに山田建夫さんと一緒に春日部駅まで行くと、山田さんのダンス仲間三人と
合流したので近くの喫茶店に入って話し始めたら、みなさん「さいたま市シニアユニバーシ
ティ」出身であることを知りホッとした。山田部長をみなさんが支えていくというので私と
しても一番嬉しかった。このことで一気に距離が縮まったことは言うまでもない。自治会長
の山来さん、クラブ員で講師の千葉さんや河合さんたちも近くの席でお話していたのでクラ
ブ運営は大丈夫と受け止めた。ここから山田建夫さんとは今日に至るまでのお付き合いがは
じまった。自治会主催の学園祭、春日部連絡協議会のダンスパーティや県連絡協議会の「社
交ダンスの集い」に参加するために山田部長を中心に定期的な練習が始まった。昨年の9月
まで県連絡協議会の「社交ダンスの集い」に参加してき
たことは言うまでもない。振り返れば、会員の体調や加
齢に伴いクラブも変化したとはいえ、楽しかった人生の
一ページだったと言っても過言ではない。
社交ダンスクラブの仲間と一緒に歩んだ山田建夫さん
のことは一生忘れない。最後に山田建夫さんの御霊が永
遠に安らかんことを祈りつつ
★「三ツ星となりたる君を忘れまじ」と一句捧げて追悼
の言葉としたい。合掌。
28
気になっていたことが一つ解消した!
私は母親似でソバカスやホクロが多い。小学校時代は仲間からカラカワレルことも結構あっ
たが、中学生になってからはそんなこともなくなった。ソバカスやホクロが多いことで皮膚
がんを誘発することを知ったのは都庁に就職してからのこと
である。当時、同僚が東大の岸本英夫教授の「死をみつめる
心」に感動したと言って、私に貸してくれた。その中で黒色
腫という悪性の腫瘍(皮膚、眼窩内組織、口腔粘膜上皮など
に発生するメラノサイト由来の悪性腫瘍である。正確な発生
原因は不明であるが、表皮基底層部に存在するメラノサイト
の癌化によって生じてくるのではないかと考えられている。
皮膚に発生する悪性黒色腫は紫外線曝露と、足底に発生する
ものは機械的刺激と関連性が深いと考えられている。)を知
ったのである。私もソバカスやホクロが多いことから一時は
凄く気にする一時期があった。その職場から異動してからは
同僚とも顔を合わせる機会もなくなったことから、気になっ
ていたこともすっかり忘れて過ごしてきた。
それから23年後、平成元年10月、私が全3000m峰
を登り繋いで日本列島横断を目指し、安倍川流域の八紘嶺を縦走している時に、偶然に山中
で一人暮らしの大石さんに出会い、その後、二人で山旅を重ねて山仲間一番の友になった。
お付き合いを重ねる中で「妻は55歳で足のかかとにできた黒色腫で亡くなった」と教えて
くれた。その時に都庁時代に気にしていたことが蘇ってきたことは言うまでもない。それか
らは年老いてきたこともあってソバカスやホクロの変化には注意を払ってきた。
特に私は登山やスキーに明け暮れていたので直射日光や雪の反射光にあたることから、一
般の人よりは日焼け顔していたことは言うまでもない。ところが65歳を過ぎてからは顔の
シミやホクロが多くなり、ホクロはすこし盛り上がったりした部分もできるようになった。
昨年10月の熊野三山を旅する時に右頬のソバカスが盛り上がりに気づき、色も黒みがかっ
ているので気になりだした。旅先で気にしていたら息子に、皮膚がんとも限らないから早く
皮膚科に行って診察してもらったほうがいいよと言われてしまった。
こうなると心中穏やかではなくなってくる。年末は忙しく病院など行っている時間もない
ので、洗顔をしてそこにオロナイ軟膏をつけていた。洗顔して2・3日するとその部分の皮
膚が剥がれ落ちてもとに戻ることの繰り返しとなり、そこが痒くなると皮膚が剥がれるので
剥がしていた。そのような繰り返しなので思い切って正月明けに皮膚科を訪れた。医師は患
部を見て病理検査をしなくてはなんとも言えませんという。ところが液体窒素で患部と周り
のホクロも取りましょうと言って、温度が-195.8℃の液体窒素を綿棒に染み込ませ患部にあ
てて極低温で瞬時に冷却壊死させたので、二、三日したら患部が取れますから、病理検査結
果が一週間かかりますのでそれから来てくださいとのことだった。
それから一週間後、病院を訪れると岡村さんの病理検査結果は悪性のものでなく老人性の
もので治療する必要はありませんと。これで気になっていたことが一つ減ってヤレヤレだっ
た(郷土の会 岡村 H27.1.7))。
29
自分のためにやってよー
2年前から妻は、足も悪くなり、立つのにも難儀するようになった。ある時「もう草臥れ
てしまったので残された時間はゆったりと過ごしたい」と言い出した。そうなると我々のリ
ズムとはかみ合わなくなってしまい、私も苛立つことが多くなってきた。私自身、ここまで
妻を追い込んだのも私の不徳の致すところと反省しながら、これまでの家庭におけるわが身
を振り返って見ると、現役の時代は外で働いているので洗濯、料理、掃除、買い物、現金管
理等すべて任せぱっなしだった。私ただ給料運搬人の役目を引き受け、後の時間は自分の世
界に引きこもっていた感ありである。
次第に私が、食事作り、洗濯、買い物を担当するように切り替えた。ふっとそんな時に蘇
ってきたのは、結婚して初めて妻の故郷「鹿児島」に帰った時、妻が私の靴を磨いていたら
義母が「昭則さん、自分の靴は自分で磨きなさい」と言われてしまったことである。妻の母
は教師をしていたこともあってか、考え方も進歩的で自立していたので婿さんに対してはっ
きりと意見したのであろう。その血筋を引いている妻も上げ膳据え膳の私に「自分のために
家事をしっかりやらないとだめよ」が口癖だった。息子に言わせれば、妻の忠告を45年間
無視して自分世界に浸かっていたのだから、これからは腹も立てずに気持ちよく家事をやる
ことだねと諭されてしまう。
私の一日は午前6時前に起きることから始まる。まずは新聞と牛乳を受け箱からとってか
ら湯を沸かす。我が家の朝食は、妻の定番はパンなので林檎の皮を剥き切り刻み、レタスを
千切り、キュリの一本を輪切りにして器に入れ、マーガリン、ヨーグルトとトースターをテ
ーブルに置き、それに加えて一品料理(ジャガイモ、大根、サツマイモ、カボチャ、野菜
等)を、毎日品を変えながら作っておく。私はご飯と党(夕食時に炊いておく)なので、夕
方までの味噌汁を必ず作る。この間に洗濯機を回しておくと1時間で終わる。それから二階
のベランダに干す。この時、初めて太陽の有難さを思い知る。
朝食を摂りながら新聞に入ってくるスーパーのチラシに目を通す。
家から20分程度で行ける4つのスーパーの安売りの品物をチェック
していく。ここではスーパーのお客を呼ぶテクニックに乗っていく。
これまでウォーキングだけを楽しんできたが、家事を引き受けてから
はエネルギーの無駄使いはしたくないので、ウォーキングを兼ねてザ
ックを背負ってスーパー周りをするようになった。A店の毎週土曜日4時から卵(10個入
り98円)を買うために戦後の配給の行列を思い出しながら毎週土曜日に並ぶ。B店の林檎
L玉が75円から85円で買うために開店前から並ぶ。もう慣れっこになってしまったが、
ここには人間ウォッチングという楽しみが増えた。
料理の方は何も知らなかったが、今はインターネットでクックパッドを開き、自分の作り
たいレシピを印刷して、材料を揃え、レシピの手順らに従って手を動かすだけで、それなり
の味付けの料理ができるので助かっている。妻が以前、今日は何を食べたいと我々に聞くの
が口癖だったことの意味がよく分かる。そこで私は献立を単純にローテションで回している。
自分でやってみて家庭を切り盛りする大変さをいま実感している。こんな状況がどこまで続
くかわからないが、これまで私が好き勝手な遊びをさせてくれた妻に感謝を込めて続けてい
きたいと思っているこの頃である。(郷土の会 岡村)
30
専科一期校友会改革について
H27.3.10の26年度理事及び27年度理事候補の出席した理事会で①会員数の大幅
減の原因分析と対策や、②26年度予算の繰越金の残高の多さの解消の方策、③会員減数か
らコース別を外して一本化すること等について要望が出されました。
そのため①会員数の大幅減の原因分析と対策や、②26年度予算の繰越金の残高の多さの
解消の方策については、第5回定期総会の時に27年度会長が方針を挨拶の中で話すことが
決まり、③会員減数からコース別を外して一本化することは27年度の理事会で検討するこ
とになりました。
専科1期校友会の立上げを準備した私として個人的に考えをまとめたので参考にしていた
だければと思う。
① 会員数の大幅減の原因分析と対策について
原因分析(当初会員116名=健康39名、郷土39名、まち=38名)
●2年制に進学した方々が半数近くいて、その方々が卒業すると、同じ学園に居ながら同じ
ような校友会に入ることになる。それならば2年間をともに学んだ校友会に入るのは自然
の成り行きである。57名が2年制に進学され現在会員23名で34名の方が退会してい
る。減少率約60%
●専科のみ方は、当初会員59名で現在会員35名と24名が退会している。
減少率約41%
●コース別に見ると、
健康コース当初会員39名 現会員13名、退会会員26名 減少率約67%
郷土コース当初会員39名 現会員19名、退会会員20名 減少率約51%
まちコース当初会員38名 現会員26名、退会会員12名 減少率約32%
全体 当初会員116名 現会員58名 退会会員58名 減少率約50%
●減少要因1、専科から2年制に進んだ方が卒業すると、共に時間を長く過ごした2年制
校友会を選択するのは自然の成り行きであり、60%以上の方が退会して
いる。
2、進学しなかった会員の減少率を見ると、6年間で24名の退会は、平均す
ると1年当たり4名であることを考えると、加齢するにつれてご自身の健
康問題、家族の健康等からしても許容範囲と受け取れる。
3、これまで校友会活動に携わってきて毎年囁かれるのは役員になるなら退会
するという人が多いことである。この問題は一番の減少要因かもしれない。
4、コース別にみると
・健康コースの減少は突出している。専科の中で一番活動的で手話ダンス
同好会や太極拳クラブを運営しボランティア活動で頑張っているのに、
会員の減少はクラス会を行うことの回数が少ないのではという人もいる
が。
・郷土コースには、郷土の会が卒業時から結成され、班別に年数回行事を
実施している。退会する人は郷土の会だけでいいという人もかなりいる。
それに加えて俳句クラブやパソコンクラブには退会者でも自由に参加で
きるので、校友会に所属して役員が回ってくるわずらわしさもないと考えて
いる人もいる。
31
・まちコースは、3人の会員が亡くなっているにもかかわらず団結力の強さは
一番で2年制校友会に所属している人も一番多い。他の老人大学で学んでそ
この校友会をリードしている人も一番多い。そのため校友会運営の難しさを
良く知っていることからまとまっているのではないかと分析する。
また、俳句クラブがクラス会的な役割を果たしてしていると部分もあり。
●会員減少防止策として取り組んだこと
・校友会としては、役員の負担を減らすことや組織防衛の観点から伊奈連協
を退会してきた。
・毎年、会員の減少を最小限に抑えようと役員が悲壮感をもって会員継続の
お願いを会員にお願いしている。
・校友会と会員を結ぶ情報連絡も他の校友会とは比較にならないほど密に行
っている。
※これは私の独りよがりの世界かも知れない。
●26年度予算の繰越金の解消の方策については
考え方によっては事業を魅力あるものにすればすぐにお金が減るので一番簡単に処理
できる。
・バスハイクは参加しやすく料金設定を低く抑えるために補助金を多めにする。
・音楽会、学習会は質をためてそれなりの講師を呼ぶ。
・ボランティア活動に専念している2のクラブへの補助金を毎年出す。
・会費を値下げする。
② コース別を外して一本化することについて
・会員の減少を食い止め、東京オリンピックまで校友会を存続させることを考えて組織改
革を行う。
・27年度は広報部を一人にして郷土コース理事を総務に 1 名、企画部に2名貼り付けた
ことから、改革の一歩が始まっている。一年間かけて検討するにも会長や一本化の提案
者がどれだけの腹案を持っているか知らないが、会員減少は続くものと考えられる。
・私の見た限りでは、★専科2期校友会方式(事業を班別担当にする=全員参加。今は会
長が決まっているので、まくまとまり易い。)、★春日部学園方式(理事全員で自分の行
きたい部に立候補する。多いところと少ないところを会長が調整。会長が決まらないと
ことが運ばない。)がある。どちらもメリットデメリットがある。一番のキーポイントは
会員全員が校友会の運営に携わる気持ちを持つかどうかである。
・いずれにしても専科一期校友会は、会長と会計主幹はコース持ち回りであることから理
事全員を一本化して決めることは難しい。また、ホームページと広報部は私が請け負う
ことにして、残りの企画部と総務部を春日部方式で決めるのは可能である。
・一年かけて検討と言っているが、現在の校友会の会長と会計主幹のコース持ち回りを維
持しながら、企画部に重点を置き、理事全員参加をモットーにして組織改革を図ること
にすればまとまる可能性は高い。
32
33
(H27.4.30)
27年度専科一期校友会総会で久しぶりに山田泰子さんにお会いした時に、山田さんから
上野公園の東京都美術館で5月10日まで開かれている東光展の招待券をいただいた。山田
さんの作品が入選し展示されているというではないか。美術鑑賞を趣味にしている私にとっ
て、いきがい大学に入学して以来、仲間の作品を見るのは大好きで、いつものことながら見
ないうちからどんな作品かとワクワクしながら期待を寄せている。
第二の定年を迎えてからは都心に出る機会も少なくなり、大好きな芸術の森である上野公
園まで行く機会も少なくなった。H23.9.19東京国立博物館「空海と密教美術展」以
来の事である。東京都美術館にはこれまで29回訪れている。それぞれの作品展が走馬灯の
ように流れていくが、記録をめくれば当時のことが蘇ってくる。
さて、今回、3年ぶりの上野公園は若葉噴く都民の憩いの場所で大勢の人が行き交い気持
ちがよい。正岡子規の「春風や球を投げたき草の原」と明治の時代が蘇ってくる。驚いたの
は噴水のある広場は整備され、両サイドには広くて大きいスターバックや日本茶屋などが設
置され、大勢の賑わっているのに目を見張ってしまった。その近くには東京都の許可書を提
示しながら演奏家たちが街頭音楽を奏でる光景や、木蔭で絵を描いているグループがいたり、
正しく芸術の森であることを感じずにはいられない。
★山田泰子さんの作品「輝く果肉」は写真も上手く撮れたのでよかった。台の上にある果物
入れの籠に入っている石榴の実を描いている。
裂けた石榴二つが石榴を実感させてくれる。ま
た、テーブルと壁の直角感をソフトに表してい
るので作品の立体感が伝わってくる。
石榴といえば、山梨の身延に住んでいたころ、
叔父さんの家の裏側に石榴の実が裂けても誰も
取る人がなく、小学生時代、あの甘酸っぱさが
好きでよく取って食べていたことが蘇ってくる。
石榴の近くには水車小屋があって絵になる風景
だった。今は水車小屋もなく池だけが残ってい
る。 石榴裂けこぼれる池の水車小屋
(郷土の会 岡村)
34
▲和紙の里を訪ねて
(H27.5.12)
★これまで専科合同ハイキングクラブを創設以来、田中さんと玉置さんが中心になって企画
を進めてきたが、お二人の負担も大きく大変なので27年度からは校友会事業として取り組
むことなった。第一回目の事業をどこにするか、理事会で役員の意見を聞いたところ「細川
紙ユネスコ無形文化遺産登録」に決定された、和紙の里がいいのではないかという意見が多
く、また、私が個人的にも毎月小川町や東秩父村を訪れていることもあってアドバイスした
ことも加わって、東秩父村「和紙の里」に決定した。今回の企画も役員の負担を減らすこと
を重点に現地集合、現地解散ということで呼びかけることにした。大森企画部長が下見され、
素晴らしい案内パンレット作成して案内した。専科合同としての企画なので2期から6期ま
では私が呼びかけを引き受けた。何しろアウトドア―の行事は天候に左右されることが大で
あり、今回も台風が近づいていること
もあり、何人が参加してくれるのか大
森企画部長も心配していた。しかし、
集合場所の東上線小川町駅に24名の
方が参加してくれたことから心配は杞
憂に終わった。その内訳は一期=18
名、2期=2名、3期=3名、6期=
1名である。私も2期~6期まで呼び
かけて6名の方が参加してくれたので、
その人たちに今回の参加に失望させな
いように挨拶し、話しかけたりしなが
ら出発となった。バスに乗り15分程
で「和紙の里」に着いた。ともかくH
Pに掲載する集合写真を撮ってから和紙の里に入館した。
35
★ここで参加者の半数以上が「手すき和紙体験」の申し込みされている。係員の説明を受け
てから、まずは担当者の指導を受けながら、漉き舟と呼ばれる水槽に入っている紙の原料と
なる漉き水(水、楮(こうぞ)
、ねり)を肩幅ぐらいの桁に漉き水をすくい上げ、何度か流し
込み漉き漉きの上に均等に繊維が行き渡るように繰り返して揺らし、漉き上がった和紙は、
かんだと呼ばれる紙床台へ移される。そこからみなさん、葉書(草花入り)色紙(草花入
り)に分かれて草や花の材料を和紙の上に貼り付けて、自由自在にデザインして
いく。そこで和紙体験は終わり、そのあとは担当者が処理してくれ後日、皆さんの下に送ら
れてくるという。短い時間であったがよい体験をしたと喜んでいた。
★それから1時集合まで自由時間となった。私は会館の2階で開かれている日本画家の個展
を見に行き、休憩所で皆さんと昼食を共にした。
今まで他のコースの人と一緒に食べてお話したことがなかったので今回はじっくりとお話し
できてよかったことは言うま
でもない、これまで以上に親
しくなれた。食後の運動と思
って裏山の展望台に上がった。
ここから「和紙の里」全体の
俯瞰は圧巻だった。
★最年長の関さんはバスで帰
ったが、後の方は1時に集合
して小川町駅まで全員がウオ
ーキングすることになった。
23名が周辺の風景や草花を
見ながら、お話しながら楽し
く歩いた。私達の年齢になる
とおトイレの場所を確認して
おかねばならないが、私が事前にチェックしていたので
東秩父村農産物販売所等3ケ所で休憩を入れた。最後は
小川町の銘酒である晴雲の試飲と見学である。皆さん1
時間半以上歩いているので草臥れたが「銘酒の試飲」と
なると目をキラキラさせていた。お土産に買って帰る人
もそれなりにいたのでお店の人も喜んでいた。駅まで1
5分掛けて寂れた街の銀座通りを抜けて小川町駅に無事
に着き解散と相成った。お疲れ様でした。(広報部長)
36
▲河野長廣日本画展
(H27.5.12)
偶然にも専科校友会合同ハイキングで「和紙の里」を訪れる機会があった。2階で「河野
長廣日本画展」が
開かれているのが
目に入ったので、
校友会会員の紙漉
体験が終了してか
ら覗いてみた。そ
こには値札のつい
た大小の作品が展
示されている。署
名簿に記入してか
ら作品を見て回る。
素人目の私から見
ても一目で洗練さ
れていないが意外
と温もりの作品が
多い。ましてやこ
んな田舎で個展を
開いてもお客がく
るとは思えないので、値段にしては少し割り引かないと売れないのではと直感した。
会場には河野さん一人だったので、失礼な質問ですが、作品でご飯を食べているのですか
と聞いてみた。「そうだ」という。私の先輩も武蔵野美術大学を出て彫刻家になったが生活
するのに四苦八苦していると語ると少しこころを開いてくれ、自分の芸術作品として描くの
は容易いが、売り絵はお客に併せないといけないので描くのが難しいと話してくれた。この
画家は真面目な人だと思ったのは、見てくれた人にお礼状も印刷してあり、メイン作品をは
がきにコピー印刷してあり、気に入った作品があったら自由にどうぞ。
この会場に2点近代日本美術協会主催の作品展で受賞している作品があった。どんな団体
なのか知らないが帰ってからインターネットで調べるとローカルの団体であることが判った。
1点目は栃木県壬生町の作品展で「秋麗の黒川」で壬
生町議会議長賞を受賞している。
日本画なので絵の具の交わりも少ない中でほのぼの
とした風景を感じさせる。
また、第41回近代日本美術協会 東京都美術館展の
一般公募「能登の夕映え」が優秀賞を受賞している。
河野さんは無所属の画家で公募展に出品しているのだ
ろう。秩父市を拠点に活動しているとのことだがこの
世界の厳しさが見えてくる。
37
自分のためにやってよー
2年前から妻は、足も悪くなり、立つのにも難儀するようになった。ある時「もう草臥れ
てしまったので残された時間はゆったりと過ごしたい」と言い出した。そうなると我々のリ
ズムとはかみ合わなくなってしまい、私も苛立つことが多くなってきた。私自身、ここまで
妻を追い込んだのも私の不徳の致すところと反省しながら、これまでの家庭におけるわが身
を振り返って見ると、現役の時代は外で働いているので洗濯、料理、掃除、買い物、現金管
理等すべて任せぱっなしだった。私ただ給料運搬人の役目を引き受け、後の時間は自分の世
界に引きこもっていた感ありである。
次第に私が、食事作り、洗濯、買い物を担当するように切り替えた。ふっとそんな時に蘇
ってきたのは、結婚して初めて妻の故郷「鹿児島」に帰った時、妻が私の靴を磨いていたら
義母が「昭則さん、自分の靴は自分で磨きなさい」と言われてしまったことである。妻の母
は教師をしていたこともあってか、考え方も進歩的で自立していたので婿さんに対してはっ
きりと意見したのであろう。その血筋を引いている妻も上げ膳据え膳の私に「自分のために
家事をしっかりやらないとだめよ」が口癖だった。息子に言わせれば、妻の忠告を45年間
無視して自分世界に浸かっていたのだから、これからは腹も立てずに気持ちよく家事をやる
ことだねと諭されてしまう。
私の一日は午前6時前に起きることから始まる。まずは新聞と牛乳を受け箱からとってか
ら湯を沸かす。我が家の朝食は、妻の定番はパンなので林檎の皮を剥き切り刻み、レタスを
千切り、キュリの一本を輪切りにして器に入れ、マーガリン、ヨーグルトとトースターをテ
ーブルに置き、それに加えて一品料理(ジャガイモ、大根、サツマイモ、カボチャ、野菜
等)を、毎日品を変えながら作っておく。私はご飯と党(夕食時に炊いておく)なので、夕
方までの味噌汁を必ず作る。この間に洗濯機を回しておくと1時間で終わる。それから二階
のベランダに干す。この時、初めて太陽の有難さを思い知る。
朝食を摂りながら新聞に入ってくるスーパーのチラシに目
を通す。家から20分程度で行ける4つのスーパーの安売り
の品物をチェックしていく。ここではスーパーのお客を呼ぶ
テクニックに乗っていく。これまでウォーキングだけを楽し
んできたが、家事を引き受けてからはエネルギーの無駄使い
はしたくないので、ウォーキングを兼ねてザックを背負って
スーパー周りをするようになった。A店の毎週土曜日4時か
ら卵(10個入り98円)を買うために戦後の配給の行列を思い出しながら毎週土曜日に並
ぶ。B店の林檎L玉が75円から85円で買うために開店前から並ぶ。もう慣れっこになっ
てしまったが、ここには人間ウォッチングという楽しみが増えた。
料理の方は何も知らなかったが、今はインターネットでクックパッドを開き、自分の作り
たいレシピを印刷して、材料を揃え、レシピの手順らに従って手を動かすだけで、それなり
の味付けの料理ができるので助かっている。妻が以前、今日は何を食べたいと我々に聞くの
が口癖だったことの意味がよく分かる。そこで私は献立を単純にローテションで回している。
自分でやってみて家庭を切り盛りする大変さをいま実感している。こんな状況がどこまで続
くかわからないが、これまで私が好き勝手な遊びをさせてくれた妻に感謝を込めて続けてい
きたいと思っているこの頃である。(郷土の会 岡村)
38
広島平和記念資料館を訪れて
(H27.5.22)
リューマチで足が不自由な妻が、今年は戦後70周年であることを知ってか元気なうちに
是が非でも広島の平和記念公園に訪れたいというので、それを最優先させて山陽路の旅を計
画した。錦帯橋~宮島と旅してから真昼の広島平和記念公園を訪れた。
1945 年 8 月 6 日、アメリカ軍が投下した原子爆弾は、広島市を一瞬にして壊滅させた。そ
れから70年が過ぎて市内は跡形もなく復興しているとはいえ、市内各地に当時の惨状を伝
える碑がたくさん残されている。特にその惨状の姿を後世に伝えるため広島県産業奨励館の
大破した残骸の(頂上の円蓋、鉄骨の形=原爆ドーム)保存について、これまで大規模保存
工事が3回行われ、平成 7 年(1995 年)6 月に国の史跡に指定され、平成 8 年(1996 年)12 月、
世界文化遺産へ登録された。現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象
徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになって
いる。だからこそ広島の街とそこに住む人たちの健康被害が今日も続いていることを鑑みて
も、
広島平和記念公園内に広島平和記念資料館・広島国際会議場、原爆ドーム、原爆死没者慰
霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館等がある
にせよ、広島市そのものが原爆被災の資料館であると言っても過言ではない。
我々は平和大橋から元安川に沿って爆心地に近い原爆ドームまで歩き、そこから元安橋を
渡り平和記念公園に入った。原爆ドームまて゛の川沿いの遊歩道にも数多くの碑を目にする
39
ことができた。また、原爆ドームには大勢の外国人が
見学していた。
●原爆ドーム
運命の 1945 年 8 月 6 日午前 8 時 15 分。人々が生活
している広島の街に、人類史上初めての原爆が投下さ
れました。原爆ドームから南東 160 メートル、高さ
580 メートルの位置で原爆が炸裂したのです。原爆に
よる爆風は 1 平方メートルあたり 35 トンもの圧力を持
ち、それによって起きた風は風速 440 メートルでした。
産業奨励館はすさまじい爆風と熱を浴びて吹き飛ばさ
れ、天井からは火が噴き出して全てを燃やしてしまいました。爆風がほとんど上から真っ直
ぐ下に働いたので、本館は倒壊を奇跡的に免れましたが、中にいた人々は全員が即死してい
ます。鉄骨部がむき出しのドームは残骸となり、産業奨励館は「原爆ドーム」といつからと
もなく呼ばれるようになりました。1966 年、広島市議会では原爆ドームの保存を決めます。
風化が進んだドームのおおがかりな保存工事が、国内外からの募金により、これまで 2 回行
われてきました。そして、この悲しい出来事の象徴でもある原爆ドームを世界遺産に登録し
ようと、市議会だけではなく、広島市民一丸となって運動を行い、1995 年には国の史跡に登
録されて翌年、世界遺産への登録が実現しました。
原爆投下時刻で停止している時計は人類最大の悪
夢を知らせている。本館での見学を終えてから係員
に話をして会議棟に案内していただき、そこのエレ
ベーターで1階に降りてきたら、最初に東館を案内
してくれたガイドの人が待っていたことに感激する。
お礼を言うと自分も足の不自由な母がいるので妻を
察していたという。妻の念願だった広島平和記念公
園、平和記念資料館、「原爆の子の像」、「原爆ド
ーム」等を見学出来てよかったに尽きる。資料館前
から車を止めている駐車場までたいした距離ではな
いが、妻の足の事を考えてタクシーを拾う。駐車場
に戻り広島を後にした。
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大原美術館を訪れて
(H27.5.23)
妻が今年は広島市を訪れ原爆ドーム、原爆の子の像、慰霊碑、平和記念資料館等を見学し
たいというので、飛行機とレンターカーを使っての山陽路の旅(錦帯橋~宮島~広島平和記
念公園~尾道~倉敷美観地区~岡山後楽園)を計画した。今回は、妻が杖を友にしての旅な
ので体調に合わせ、岡山後楽園はキャンセルし、最後に倉敷美観地区の大原美術館でエル・
グレコの「受胎告知」を鑑賞して旅を終えた。
私は50年前に訪れているので、今回は街並みの変貌や、大原美術館のエル・グレコの
「受胎告知」再度鑑賞することを楽しみにしていた。実際に目にした倉敷美観地区(観光客
320万人)は、川越市の「小江戸・蔵の町(観光客620万人)」や、栃木市の「蔵の街
(観光客172万人)」と同じ形態で、それ程の感動も湧いてこなかったが、ここには他の
美観地区にはない光り輝く宝物があるのが大きな違いである。その宝物とは、倉敷紡績で財
をなした大原孫三郎が、洋画家の児島虎次郎を渡欧させ収集したコレクションを展示するた
めに、私財を投じて、1930年(昭和5年)に日本初の本格的な西洋美術館として白壁の
街・倉敷に大原美術館を開館させたことである。孫三郎の後を継いだ長男・総一郎は、西洋
の現代美術、近代日本絵画や工芸作品にまでコレクションの幅を広げ、分館、工芸・東洋館
などを増築。現在では収蔵品作品数3000点を数える。「社会のために優れた美術作品を
広く公開する」という大原孫三郎の精神を受け継いで、伝統に安住することなく新しい試み
に積極的に取り組んでいる。
今回、50年ぶりの再訪であるが、妻にエル・グレコの「受胎告知」を見せたいとの思い
から、今回の旅に大原美術館を訪れることを最初から計画に入れていた。今日その思いが実
現した。私一人ならば、大原美術館以外の児島虎次郎記念館、倉紡記念館、小池邦夫倉敷絵
手紙館、日本郷土玩具館、倉敷民芸館、倉敷考古館、加計美術館等を一日掛けて回りたいほ
ど見どころ一杯だ。
大原美術館の入り口で記念写真を撮ってから入場するが
大勢の人々で賑わっている。まず、ここの一番の作品は、
エル・グレコの「受胎告知」である。これを見るために訪
れたと言っても過言ではない。妻が杖を友にしているので
鑑賞は有名な作品を中心に見て回る。「受胎告知」は二階
の照明を凝らした特別室の中央の壁に展示されている。こ
の展示を見てすぐに頭に閃いたのは、ルーブル美術館で見
たダビンチの「モナリザ」の展示方法とよく似ていること。
違うのは「モナリザ」は写真撮影OKだが、エル・グレコ
の「受胎告知」は一切撮影禁止になっている。画家はギリ
シャ人だがスペインで花開き多くの作品を生み出している。
エル・グレコの「受胎告知」は、初期のイタリア時代を含
めると十数点が残されているという。
1922年、バリで、画家児島虎次郎により購入された
本作は、1930年(昭和5年)の大原美術館の開館と同
時に展示され、以来「グレコの受胎告知」として多くの人に鑑賞されてきた。日本が所蔵す
る数少ない西洋古典絵画の名品と言われている。
41
倉敷市大山名人記念館を訪れて
(H27.5.23)
私が将棋を覚えたのは小学校3年の時だったと記憶している。まずは回り将棋や将棋崩し
を上級生に教えてもらい、そのうちに本将棋へと進み、いつしか上級生を負かすようになっ
たことを覚えている。それ以来将棋は私の嗜みとなった。就職してからは職場の将棋部に入
って大会にも参加したこともある。当時の将棋界の升田幸三棋士や大山康晴棋士の将棋戦に
は大変関心があり、新聞の将棋欄を見ていたのも懐かしい思い出である。今では将棋も麻雀
からは遠のいてしまったが、誘われればお付き合い程度
にはお相手できる。
将棋に対する過去の思いもあって倉敷美観地区を訪れ
る際に、たまたま、倉敷市文芸会館の地下駐車場を利用
し、地上に出たところに「大山名人記念館」への案内標
識があったことにびっくり。というのは大山名人が倉敷
市出身であることは知っていたので、まさかここに記念
館があるとは夢にも思わなかった。
美観地区から帰ってきて一人で入館する。そこには大
山名人の生立ちから歴史が紹介されている。
●升田幸三との闘争「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝してい
た升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」を標榜しながら巻き返し
を狙っていた。1955 年(昭和 30 年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。
このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、
「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成してい
る。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど
悔しかった』と言っている。1956 年(昭和 31 年)の
第 16 期名人戦において、第 12 期・第 13 期と升田を
退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、
無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を
独占して、棋界初の三冠王となった。その後大山は、
1957 年(昭和 32 年)度の王将戦、1958 年(昭和 33
年)の九段戦、1959 年(昭和 34 年)の名人戦と、升
田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋
界 2 人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の
「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られ
ている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。
●5 つの永世称号と A 級在籍 45 年 大山康晴氏は、大正 12 年(1923 年)3 月に現・倉敷市
西阿知町に生まれました。幼少の頃より、その非凡なる才能を見いだされて将棋界に入門し、
平成 4 年(1992 年)7 月に逝去されるまでの主な記録としては、公式タイトル獲得 80 期(歴
代 2 位)、一般棋戦優勝 44 回(歴代 1 位)、通算 1433 勝(歴代 1 位)等があります。また、
十五世名人、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5 つの永世称号を保持しま
した。さらに、プロ棋士約 130 名を A 級から C 級 2 組までの 5 つのランクに分ける順位戦に
おいて、最上位の A 級に 44 期も残るということからも、大山康晴十五世名人がどれだけ偉大
だったかが充分に言い表せます。
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山陽路を旅して
(H27.5.21~23)
昨年の晩秋に飛行機とレンターカーを使って熊野三山を旅したことが気に入ってしまい、
妻が今年は元気なうちに是が非でも広島の平和記念公園に訪れたいというので、希望を叶え
てあげたい思いから、山陽路の旅を計画した。私自身も錦帯橋、厳島神社、尾道を訪れたこ
とがないので、この機会に織り込んでしまう計画となった。リューマチで足が不自由な妻と
の旅なので、彼女の健康状況によりどこで打ち切るか判らないが広島だけは訪れることにし
て2泊3日の旅に出た。
第1日 羽田空港~岩国空港~錦帯橋~宮島(泊)
今回は羽田を午後立ち1時間ちょっとで目的地の岩国空港に着いた。
レンターカーの続きを済ませ、カーナビに
案内され、まずは錦帯橋へ向かう。
広い河原が市営の駐車場になっている。
そこから見る錦帯橋は、写真で見るのとは
大違い。木造の大きなアーチが三つで川の
流れる部分に掛られていてダイナミックな
太鼓橋とか反橋のように見える。川の水の
清らかさには妻も感心して来たからには
「錦帯橋」を渡らねばと大勢の観光客の中
に紛れ込み杖を突きながら渡った。高速を走り40分ほどで宮島口に着き、車を駐車場に預
けてJR西日本のヘリに乗って10分程で宮島へ渡る。船上から厳島神社の大鳥居が見えた
時は感動した。夕暮れも迫り海とそれを取り巻く山のコントラストが素晴らしくシャツター
を押す。宮島に着きホテルへと海岸沿いの道
を行くと結構人慣れしたシカがいるではない
か。また、外国人の多さにも驚く。円安で大
勢の観光客で賑わうのは地元も潤うことでい
いことだ。夕食後、大鳥居の写真を撮りに厳
島神社まで行く大勢の人が夕涼みして同じよ
うにシャツターを切っている。疲れたがこう
して旅の一日は終わった。
第2日 宮島~広島平和記念公園~鞆の浦(泊)
★我々が歴史で学んだのは、広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の
鎮座する厳島は「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の 1 つに
数えられている。また、平家からの信仰で有名で平清盛によ
り現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられたこと。見学を
終えて一路広島に向かう。記録は別紙のとおり。もう4時を
過ぎているので尾道の見学はキャンセルして今宵の宿である
鞆の浦「鴎風亭」へと、広島記念公園➡東雲➡福山西IC➡
鞆の浦・鴎風亭の道順でカーナビに入力し、助手席の次男が
自分のスマホも活用しながらカーナビを読んで助言してくれるので助かる。すべてを自分一
人でチェックしていたら、これまでのようにスムーズには走れない。2時間近く走って目的
地に着く。そもそも幕末の 1867 年、鞆の浦沖の瀬戸内海で、龍馬率いる海援隊が大洲藩から
43
借りた蒸気船「いろは丸」と紀州藩の軍艦が衝突した事件で、いろは丸
は沈没し、賠償金を巡って龍馬と紀州藩が鞆の浦で談判を繰り広げ、紀
州藩が折れ、賠償金 8 万 3526 両 198 文を支払う事で決着した。その舞台
となったのがご当地「鞆の浦」である。鞆の浦はいにしえより潮待ちの
港として栄えた。かつてこの町では多くの武人、文人、芸術家が交わり、
先進的な瀬戸内の歴史と文化を形作ってきた。船が風と潮の流れを利用
していた時代、瀬戸内海の潮の分かれ目となる鞆の浦には、潮の満ち引
きを待つ船が集ってきた。「平家の栄華とその滅亡」や「足利幕府の発祥とその末路」など、
鞆の浦はその二千年の歴史の中で、人の世のはかなさを見つめ続けて来たともいえる。
第3日 鞆の浦~尾道千光寺公園〜倉敷美観地区~岡山空港~羽田空港
昨夜はカーナビのとおりに来たが、鞆の浦の中心部は車がすれ違えない狭さで私が道を間
違えたのではと思ったが、そうではなくそれが正式のルートだとホテルの人が教えてくれた。
再度、そこを抜けることにして狭き道を観察しながら走ると夜と違って周りが良く見える。
両サイドに昔の家の軒先が連ね、その狭さには驚いた。昼間とてすれ違うのに本当に神経を
使った。そこを抜けると道は広く問題なし。狭いところに集落が軒を連ねており、その昔よ
りどうすることもできず現在に至っているのであろう。昨夜のカーナビに従って1時間かか
らずに千光寺公園の裏側の狭き道を登って駐車場に着く。係員が妻の足が悪いことを見て障
害者用の駐車場を使わせてくれたので容易に止めることができた。公園はここから300m
ほど行く。
●千光寺公園は、1894 年(明治 27 年)に千光寺の当時の住職の多田實圓和尚が尾道市内に
遊園地の少ないことを憂い、当山の参詣者誘致のため公園の設置を企画し、1,347 坪をもっ
て公園敷地に充当し起工に着手した。後に「千光寺公園」と改称され今日に至る。日本さく
ら名所 100 選の一つに選ばれている。山頂からの展望台は 360 度見渡すことができる妻も杖
を友としての歩みで相当疲れてしまったことや、時間的に岡山市の後楽園はカットすること
にして最終の見学地である倉敷美観地区へと向かう
●倉敷美観地区へ私は50年前に訪れている今回、妻に一度見せたいと思っていたことや、
何といっても大原美術館を訪れて、エル・グレコの「受胎告知」を見たいがため今日の訪問
が実現した。見学を終えて三人そろったところで再度、カーナビに岡山空港を打ち込んでス
タートする。ついに妻の疲労も限界で車椅子を借りて
の搭乗となり、1時間で羽田空港に着いたが、こちら
も車椅子でバスストップまで利用させていただいた。
羽田から大宮まで最近完成したトンネルの首都高を通
り1時間で大宮に着き、それからタクシーに乗り換え
て11時過ぎに我が家に戻った。疲れたがお互いに頑
張った旅だった。(郷土の会 岡村)
44
今日は幸せな一日となった
(H27.4.7)
いきがい大学春日部学園14期校友会設立時から班活動と校友会活動については、私は常
に黒子として活動してきた。というのは2班には私より年長で万年青年の夢を語り、リーダ
ーシップを発揮できるKさんがいる。いきがい大学春日部学園に来るまでは仕事一筋の熱血
漢であり、仕事から解放され、学園に入学したのでこれまで描いていた夢に向かって歩みた
いという熱き思いを話してくれたことや、忘却の
彼方へ流されるような学び方をしないことを岡村
君から教えられたと言って実践している事などか
ら、以後、自治会・校友会・班活動では彼のサポ
ートに徹することにして活動を続けてきた。
14期校友会2班は、当初会員は12名であっ
たが、会員それぞれが健康事情や家族の事情等で
会員の減少が続き、26年度は6名と当初の 1/2
になってしまった。その中のKさんをはじめ4名
が伊奈学園校友会で活動している。2班のリーダ
ーであるKさんが一昨年から重病に侵されている
ことが発見されたことから、これまでの校友会活
動はじめ、様々な活動範囲を縮小せざるを得ない
状況になった。しかしながら2班の人たちとの繋がりは保ち、班活動は続けることと、伊奈
学園20期校友会活動一本に絞り続けるために14期校友会の退会を決した。
折しも私も妻の介護をせざるを得なくなったこともあって、Kさんの思いも重ね合わせて
退会を決し、会員6名に27年度会員継続の意思を確認したらKさんをはじめ5名の退会と
1名の継続となった。2班5名の退会は校友会としても心配で、校友会会長もKさんとお話
したところ止む得ない状況を理解され、継続する1名を7班に編入することが決まった。寂
しいかな校友会組織から2班は消滅してしまった。退会・2班消滅の後始末をするのは理事
の私である。
私にとって最後の定期総会とはいえ、出席者は私一人であるから心細いことこの上なしの
心境である。総会ではこれまで校友会活動を盛り上げてきた社交ダンスクラブ初代部長の亡
き友への黙祷する配慮もなく、追悼文を書いた私としては寂しい限りだった。黙っていたら
何も開けないので、総会終了宣下後、すぐに私が発言を求めて消滅した2班の状況を説明し、
また、私が理事になった時は、黒子として校友会だよりの編集・印刷を行ってきたので、こ
れからもお手伝いできることをお話して終わったが、やはり2班消滅ということに対する皆
さんの厳しい視線を感じずにはいられなかった。
懇親会は企画部長の乾杯で始まった。三千円会費なので料理やお酒の内容は期待もしない
が、食べることでこれまでの緊張した気持ちがほぐれてか出席者された皆さんの会話と交流
が弾んだことは言うまでもない。それに引き換え、私は退会することの後ろめたさも手伝っ
てか、今まで参加した中の懇親会で一番の寂しさを感じてしまった。そんな私に暖かな手を
差し伸べてくれたのが理事の女性のHSさんである。
私がHSさんを知ったのは、今から5年前の平成21年11月4日の春連協第14回文化
祭に14期校友会が初参加。演芸発表部門でカラオケに出場した8班のHSさんとFAさん
の写真を撮った時である。それ以来、昨年の4月の校友会理事会でお会いする機会もなかっ
45
たが、HSさんは私の故郷山梨県身延の小学校2年生の時の千須和先生に良く似ているので
印象が強く脳裏に焼き付いている。初めて理事会でお会いして直接お話しすることはなかっ
たが、ステージに立つ彼女のイメージとは違って、意外と控えめであり自分のアイデンティ
ティーを持っていて淡々と物事を進めていく人だなあと遠くから見ていた私である。私はそ
の後の理事会も妻の介護等で欠席してお会いする機会もあまりなかった。今日は私にとって
も最後の総会であり、2班退会の後始末としてみなさんに説明しなければならないので緊張
気味で総会受付に行けば、HSさんが笑顔をもって応対してくれたのでほっとしたことは言
うまでもない。
しかし、テーブルについて総会や懇親会がはじまると、みなさんは思っていないのか知れ
ないが、私は2班消滅ということに対する皆さんの厳しい視線を感じずにはいられなかった。
だから懇親会でリラックスして楽しめるはずもない。食事が終わってカラオケが始まると、
私の所にも企画部長から何か歌ってと申込票を持ってきたので、HSさんの美声を知ってい
る私は、HSさんに「ふたりの大阪」一緒に歌ってくれると申し込んだらすぐにOKしてく
れた。ニコニコしながら、「今日は、自分は歌わず、岡村さんと歌うことに決めている」と
言ってくれた時は、涙がでるほどうれしかった。この一言がどれだけ私を解放してくれたこ
とか。
「ふたりの大阪」を歌うのは22年度総
会(成22年3月30日)以来のことであ
るから、いざステージでHSさんにリード
されながら歌いだすも、声が出ないところ
があったり、音程が外れたりもしたが、彼
女のリードで何とか歌い終わったときは、
テーブル側の皆さんからは拍手で盛りあが
った。参加者の中で歌唱力NO.1のHS
さんを皆さんも知っているので、音痴であ
る私との組み合わせの面白さを喜んでいた
のではと、かって勤めたことのある老人施
設のおばあちゃん達から「カラオケだって
なんだって、上手な人ばかりでは面白くな
いでしょ、下手な人がいて面白く、バランスが取れているのよ」と教えて頂いた言葉が蘇っ
てきた。
今回の総会・懇親会は、最初から重苦しい雰囲気を自分で作り出してしまったのかも知れ
ないが、HSさんが私に暖かな手を差し伸べてくれたお蔭で、14期校友会活動の中で一番
の思い出の日となったことは言うまでもない。齢を重ねるに連れて感動することの出会いも
少なくなっていく中で、今日のような感動と出会えたことは私にとって最高の幸せである。
心からHSさんに感謝あるのみ。ありがとう!(郷土の会 岡村)
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僕は音痴だが、それを逆手に使うことを覚えた
私の人生を振り返って見ると、悪筆と音痴という劣等感に苛まされてきたことは否めない。
どうにもならなかったのが音痴である。小・中学校は音楽の時間に一人一人歌う試験がある。
その時に音程が外れることこの上なしで、クラスの笑いものになってしまう。だから音楽は
大嫌いになってしまった。それでも何とか音程が外れないようにと思って教会に行って、信
者の歌う讃美歌を私も口ずさむようにしてみた。何回も歌うことで少しは音程が外れないよ
うになってもリズム感がない。高校や大学に進むようになって唯物論に触れるようになって
学生運動などに参加したことから、労働歌のインターナショナル、国際学生連盟の歌を疑い
ながらデモ行進に参加するようになった。それから自然と教会から遠のいてしまったので、
それから音痴を何とかしようという思いも消えてしまった。
みんなと一緒に歌うのは苦にならないが、相も変わらず一人で歌うと音程ははずれぱっな
しであることは言うまでもない。大学卒業後は都庁の山岳部に入って、登山とスキーは定年
まで現役だったこともあって山の歌も、みんなで歌うのは苦に
もならないが、一人で歌うと音程が外れてしまいどうにもなら
なかった。歌うことのリズムやバランス感覚がないのにもかか
わらず、山登りの一分野であるロッククライミングに何回も挑
戦したが、難所を超えるのにいつも先輩たちのサポート受ける
羽目になり、自分には向いていないと思ってロッククライミン
グから離れてしまった。このことが幸いして今日の私があるの
かも知れない。その時の先輩達三人は北岳等で墜落死している。
音痴が間接的に私の登山スタイルを変えしまったと言っても過
言ではないと言える。そんなこともあって私の音痴は相も変わ
らず劣等感の固まりとなっていた。
ところが、定年間際になって父が脳梗塞で倒れてしまった。
当時は85歳の父はカラオケ好きで地区の公民館での練習も終
わり、自転車に乗り家に向かっている時に脳梗塞になったとか。病院の説明では重傷で意識
はしっかりしているが、声を発することが出来なくなってしまったという。寝たきりになっ
てしまったので見舞いの度に声を掛けると、聞き取れないが唇を動かして応えてくれる。そ
の時に今、父を喜ばせるのは父の十八番で大川栄策の「さざんかの宿」を耳元で歌ってあげ
ることが一番だと直感した。音痴の私であることを忘れ、直ぐに「ウォークマン」と「さざ
んかの宿」のテープを買って、朝夕、犬の散歩の時に畑の真ん中でテープを聞き、声を出し
て何十回と歌って練習に励んだ。こうなると自分の音痴などはどうでもよくなってしまい、
今死にかけようとしている父を励ましたいと必死だった。
寝たきりになると3ケ月で転院になってしまう。
転院した病院で私はウォークマンにイヤホーンつけ
「さざんかの宿」を聞きながら、父の耳元で小さな
声で歌ってあげると、父は唇を動かして歌っている
ではないか。父の目からも涙がうっすらと流れたの
を見て感激したことは言うまでもない。そしたら隣
りのベットに見舞いに来ていた奥さんも涙を流して
いるのにびっくり。わけを聞くと「うちのお父さん
の大好きな歌なので思わずもらい泣きしてしまった」という。この時は恥ずかしくもなんで
47
もなく、音痴だけど歌ってあげて良かったとの一言に尽きた。それから間もなくして父は旅
立ってしまった。
その後、突然、私も畑違いの老人施設に転勤になってしまった。しかし、ここで大勢の高
齢者から定年後をどう生きたらよいか教えてもらったことは言うまでもない。カラオケ教室
があると、高齢者は私の人を笑わせる下手がいいのよという。あまりにも音程が外れるとモ
ニターテレビの所まで来て私の背中をたたきながら一緒に歌ってくれる。自分はうまくなり
たいと思っているのに、「カラオケだってなんだって、上手な人ばかりでは面白くないでし
ょ、下手な人がいて面白く、バランスが取れているのよ」と高齢の爺婆が教えてくれた。こ
の時に自分の欠点を逆手にとって人々を喜ばすのはお笑い芸人の生き方だと思った。それが
切っ掛けで音痴を逆手にとって下手で人を笑わせることに徹することが出来るようになった。
それからというものは音痴を気にしなくなり、老人施設で教えてもらった、都はるみと宮崎
雅のデュエット「ふたりの大阪」と石原裕次郎の「北の旅人」を十八番にして、カラオケの
機会ある時は断ることもなく卑屈になることもなく歌っている。でも最近は歌っていないの
で声が出なくなってしまったことは否めない。
そのほかにも社交ダンスも高齢のおばあちゃん達から手を取り、足を取り教えてもらった。
これとて私のリズムの取り方が曲に乗っていない。どんどん早くなってしまうので何回とな
く注意されたり、おばあちゃんたちに振り回されたこともしばしば。今は昔懐かしい思い出
となってしまったが、自分が当時の高齢者の方々と同じ年齢に達してしまったことを思うと
年月の経つ早さを感じずにはいられない。振り返っても、2年間の勤務だったが、老人施設
に勤務したというよりも彼女たちの素晴らしい生き方を見て、定年後の自分の生き方を教え
てもらったと言っても過言ではない。老人施設で学んだ社交ダンスを更に楽しむことにしよ
うと思って、第二の定年を得てから彩の国いきがい大学春日部学園14期に入学した所以で
もある。
65歳を過ぎて「さいたま市シニアユニバーシティ」に2年間学んでパソコンを覚えた。
卒業後、直ちに、いきがい大学春日部学園で 1 年間学び、ここでは社交ダンス部を立ち上げ
て県連協社交ダンスの集いに3年間出
場した。さらには自分の得意とする編
集技術をもって黒子として校友会だよ
りのカラー化を手掛けてきた。2班の
仲間が伊奈学園に進むというので、私
も伊奈学園専科1期生として入学して、
これまでの経験を生かして校友会立上
げの裏方として尽力し、なり手のいな
い専科1期ホームページ管理人及び広
報部長を引き受けて6年が経とうとし
ている。
振り返ると、音痴という劣等感を起
点にして、老人施設で過ごした2年間は、私にとって大変貴重な勉強させていただいた時間
であり、そこで学んだことを定年後に実践し、悔いなく生きていることは確かなことだ。
(郷土の会 岡村)
48
山で偶然知り合った仲間との交流記 =2014 年=
http://blogs.yahoo.co.jp/ohoomandrill/archive/2014/12
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No.16 浅間嶺 松生山 払沢ノ滝 (2014 年山締) H26.12.29~H26.8.19 16回
●今年の山締の山行で一番印象に残ったのは一本の木にあんなに沢山の熊棚あることです。
私もよく見るのは一つだけです。沢山あるということはそれだけ熊が生息している証拠なの
ですね。今年もよく登りましたね。来年も楽しみにしています。
話は変わりますが、夏の大弛峠で靴がパンクした時にガムテープなどを貸してくれたライタ
の人から、大晦日から正月三日まで金峰小屋で過ごすことにしているが天気が悪そうなので
心配しているとのメールが入っていました。本当に羨ましい限りです。
私にとって今年の大弛峠は新しい出会いの場であり、
来年も秩父縦走に挑戦したいと思っています。
今年もマンドリルさんの山行を楽しませていただきました。来年もよろしくお願いします。
ではよいお年をお迎えください。 [ hai*u*ak*59 ]2014/12/30(火) 午後 8:19
●hai*u*ak*59 さん
こんばんは
浅間嶺は本当に熊が多い山域です。
あの時、後ろからカミさんが、戦えと言わんばかりにストックを私に手渡した事・・
思い出すと冷や汗が出ます
大弛峠での大雨の一夜は印象深いです。
テント内から雨水を外へ放り出す事で一夜を明かす苦難の夜でしたが、山を愛する方と出会
えて、良い思い出となりました。
来年もよろしくお願いします。
良いお年をお迎えください。 [ マンドリル ]2014/12/30(火) 午後 9:38
熊棚
49
ゴゼンタチバナ
50
国会での安保法制の強行採決について思う!
今年は戦後70年の節目の年である。今国会の議員を見ても戦争体験者がいなくなったこ
とから自民党をはじめとする多くの政治家は戦争の怖さや悲惨さを知らないためか本当に右
傾化し始めていると言っても過言ではない。
何といっても日本は立憲主義国だから、国の運営の基本なるものは憲法である。少し前の
自民党は戦争体験者が政治の中心にいたこともあって、憲法解釈を捻じ曲げ、個別的自衛権
(専守防衛)は認めると解釈しても、集団自衛権(戦争する国)は違憲として守ってきた。
現在の国際情勢を考えるならば、安保法制について国民の考え方も様々あるのは当然の事で
ある。
しかし、様々な意見が飛び交う中で誰しも認めているのは「戦後70年間、戦争せずに日
本は平和を守ってきたこと」です。これまでの日本の平和を維持できたのは、憲法9条があ
るからだけとは言えない。やはり米国との安全保障条約によって米軍が日本に駐留している
ことも大きくかかわっていることも過言ではない。
今国会で強行採決された安保法制の公聴会でも大勢の学者が憲法違反としているのに、政
治家がそうではないと法律をこねくり回して憲法をないがしろにしていることは立憲主義国
の資格を失っていることであり、民主主義国とは言えない。私自身は憲法も時の流れによっ
て改正すべきだと思っているので、安保法制も正々堂々と憲法改正を発議して通ってから法
律改正や作成すべきだと思っている。今回のような強行採決は本末転倒と言わざるを得ない。
民主主義とは多数決で物事を決めるのではなく、少数派の意見も尊重し、それをも取り入
れてお互いの合意の上決めていくことであり、歴代内閣はぎりぎりの線で踏みとどまってい
た。今国会の強行採決で集団的自衛権に踏み出し、米国が起こした戦争には、日本も否応な
く参加するようになる。当然、日本が意図しなくても、敵対する軍隊からは米国と同等の敵
とみなされ、確実に死者が出ることを覚悟しなければならない。自衛隊員が多く死ねば、自
衛隊員のなり手もいなくなり、そんな危険な職業に就くのはイヤだということで若い自衛隊
員は
なり
手が
いな
くな
る。
その
結果
とし
て危
険を
煽り
なが
ら国
を守
るこ
とを
51
うたい文句に徴兵制の復活も視野に入れなければならない。
戦後の法案可決の中で、違憲法案が通過したことは無かった。今回の衆院の可決の際、安
保法制は大勢の学者や国民に憲法違反と言われているにもかかわらず、自民党の2名が国会
を退席したが、他の公明党を含む議員が全て賛成した。国民から負託された権利で、戦争法
案に賛成したという事実は消えない。
国会前に集まって反対の意思表示をしているのは、20才代の若者、また家庭を持つまだ
若い世代である。今まで、政治に無関心の人が多かった彼らが、反対の声を上げてきたのは
何故か?それは、国民の将来に禍根というか、自分達、子供たちの身に降りかかってくる可
能性が非常に強くなると思っているからデモに参加しているのだ。
私も学生時代は安保闘争に参加した。今でも忘れられないのは日比谷野外劇場で唐牛健太郎
全学連委員長の挨拶と35.6.15 国会の南通用門で警官隊と衝突が繰り返される中で死亡であ
る。当時私たちの中央大学自治会も後方にいてデモっていた。樺さんが死亡したことが伝わ
るや全国的に抗議の嵐となった。当時は総評の太田 薫議長と岩井 章事務局長のコンビで
日本の労働界をひっぱり社会党共に自民党に睨みをきかせていたが、今日の連合は右傾化し
てしまい、国民の苦しみや平和に対する思いを自民党と渡り合う気力もないのにあきれ返っ
ている。(郷土の会 岡村)
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ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)
私はインターネットで気に入っている四人ほどの評論家のブログを毎日開いては読
んでいる。最近、植草一秀さんのブログで「今だけ金だけ自分だけ」の対極にある真の政
治家」というタイトルでウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の2012年6月20日から2
2日に開かれた国連「持続可能な開発会議(Rio+20)」ノーネクタイにジャケットと
いうラフなスタイルで演説を行い、これが「もっとも衝撃的なスピーチ」として世界に
拡散されていることを紹介してくれた。
私も感動したのでみなさんにご紹介します。(郷土の会 岡村)
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、こ
こに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者
同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現し
ているのだと思います。
★しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていた
ことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょう
か?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
★質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの
惑星はどうなるのでしょうか。息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問
を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の
人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をし
なければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消
費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、この
グローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょ
うか。
★私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーシ
ョンが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」という
ような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなので
すか?
このよう
なことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。
我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。現
代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類
がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきてい
るわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いしすぐ
目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
★ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために
人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早
く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化
けがみんなの前に現れるのです。このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、で
きるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、
53
1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電
球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売る
ために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づき
でしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は
世界を導かなければなりません。石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコ
ントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問
題です。
★昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっ
これ
ても満足しない人のことだ」
はこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチ
の中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環
境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
★根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければな
らないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかい
ません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも8
00万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに
領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8 時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6
時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6 時間労働になった人たちは別の仕事もし
ており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやロ
ーンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間に
か私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてし
まいます。
★そして自分にこんな質問を投げかけます:これ
が人類の運命なのか?私の言っていることはとて
もシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害する
ものであってはいけないのです。発展は人類に幸
福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や
人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、
そして必要最低限のものを持つこと。これらをも
たらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが
環境の一番大切な要素であるということを覚えて
おかなくてはなりません。
ありがとうございました。
https://www.youtube.com/watch?v=ezofj2ydzz4
54
あ
と
が
き
今年は、1945 年の敗戦から 70 年になります。この節目の年に
当たって、日本は立憲主義国なのにそれを守らず右傾化した安倍
首相が戦後 70 年の談話を出すのか出さないのか、その内容はどう
なのか国内外から注目されています。
国としての談話は、戦後 50 年の 1995 年は村山首相、戦後 60 年
の 2005 年は小泉首相が閣議決定して発表してきました。二人の談
話で共通するのは、日本は国策を誤り、アジア諸国の人々に対し
て多大な損害と苦痛を与えたことを反省しお詫びの気持ちを表明
し、先の大戦における国内外のすべての犠牲者に哀悼の意を表し
ており、二度と戦火を交えることなく世界平和を追求していく決意を述べていることです。
それ故に集団自衛権は憲法違反の立場をとっていることは言うまでもありせん。
今日の政府・与党は「集団的自衛権の行使」容認など戦争のできる国へと舵を切り、その
動きを加速化させていますが、反対する人、賛成する人それぞれ様々な意見があることは当
然なことです。様々な意見が飛び交う中で誰しも認めているのは「戦後70年間、戦
争せずに日本は平和を守ってきたこと」です。私達の仲間である91歳の関利雄さんは、
戦争体験者であり今日の平和を守りたいという思いから、「戦争の恐ろしさ」の語り部とし
て講演活動を続けています。
現在の人口 1 億 2769 万 2 千人の4分の3は戦後生まれで、何らかの形で先の大戦の影響を
受けた戦前生まれの方は4分の1です。私達の周りには、戦中・戦後を生き抜いてきた多く
の方がすでに亡くなっており、戦争体験等の記憶や思い出も風化しつつあり、戦争や戦災を
体験した人たちは少なくなっています。
その人たちから聞いた話なども残したいという思いや、戦争の悲惨さを知らない子や孫の
世代そして後世の人々に平和の尊さを引き継いでいくことが私たちの責務ではないかと考え、
戦後の長い月日の経過とともに、戦争・戦災の記憶は薄れつつ
ある中で、専科一期校友会の皆様の記憶の中にあるものを思い
出していただき、戦後70年平和祈念集作成の協力を会員の皆
様に呼びかけたところ、27名のご投稿をいただき、ここに戦
後70年平和祈念集を発刊することができました。厚く御礼申
し上げます
今の平和な私たちには、想像することさえ難しい現実が皆さ
んの投稿文を通して伝わってきます。ある時は涙して読んでい
たこともありました。そうした体験に触れることにより、平和
について考え、そして平和を守っていかなければいけないと痛
感しました。この戦後70年平和祈念集がみなさまの手を通し
て多くの人に読まれ、そして語り継がれることを願って止みま
せん。
平成27年8月1日
専科一期校友会HP管理人・広報部長
55
岡村昭則
戦後70年平和祈念集を編集して
私が役員している退職者会では、昨年から戦後70年の節目なので「戦争・戦災体験集」
を作ろうという話が出ていた。何故かというと、戦中・戦後を生き抜いてきた先輩会員の多
くがすでに亡くなっており、また、現会員1000余名であるが、戦争を体験した会員が2
割を切ってしまったことや、70年前のことは忘れ去ったり(忘
れ去ろうとしたり)し、当時の記憶や思い出は風化しつつある現
実がある。また、政治体制としては、今日の政府・与党は、憲法
解釈をないがしろにして、戦後70年の節目に「集団的自衛権の
行使」容認など戦争のできる国へと舵を切り、その動きを加速化
させている状況がある。
この状況を少しでも打破していくため、「戦後70年間、戦争
せずに日本は平和を守ってきたこと」を、これからも維持するた
めの平和運動の一環として、退職者会会員から戦争・戦災体験を
聞き、戦争の悲惨さを知らない子や孫の世代そして後世の人々に
平和の尊さを引き継いでいくことが私たちの責務ではないかと考
え、これが最後の機会となるかもしれないという危機感から戦後
70年平和祈念集を作成することになった。
それはそれでいいのだが、誰が企画して編集するのかというと退職者会の中でも、編集技
術を持っている私に自然とお鉢が廻ってくる。だから私は役員の皆さんが投稿に協力してく
れることを条件に引き受けている。とはいうものの、年老いてから記憶を呼び起こして書く
という作業は大変なことで、40名程度が投稿してくれたら御の字と予想し、予算を含む企
画書を作成して募集をかけた。
締切日を終戦記念日の8月15日に設定したものの、一向に予定の半分の原稿しか集まら
ないではないか、そこで役員に対して電話やメールで呼びかけていただいたことから、
何とか38名の投稿に目鼻が付いた。やはり最初から予想していたように年老いてから書く
ということは大変なことであると再認識してしまう。投稿文を読んでからその文書に一番相
応しい写真や図を公開されているものから探し出して貼り付けA4判一枚に仕上げる。作業
の時間もかかるが、そうすることで読み手が写真や図に誘われて読み切ってしまうことを狙
っている。
投稿文を読んでいくうちに、私も色々と勉強させられるところが大である。今の平和な私
たちには、想像することさえ難しい現実が皆さんの投稿文を通して伝わってくる。ある時は
涙して読んでいたこともあった。先の大戦の発端も何かと調べて行けば、日米による市場を
争った資本主義の衝突であり、また、欧米の植民地政策に対する有色人種の戦いでもある。
連合国側が勝利したとはいえ、原爆投下や無差別爆撃で悲惨な大量殺戮を繰り返えすなど、
そこには正義などという言葉は見当たらず。欧米諸国の連合国側も戦争犯罪者の一端を担っ
ていると思わざるを得ないことや、歴史は勝者によって作り変えられると言われているよう
に、今の日本にしてもここまで至るに過程で、その裏側に流れている真実など見えてこない
ことを実感した。
今、私たちにできることは何か考えると、この戦争での体験や被災に触れることにより、
平和について考え、そして平和を守っていかなければいけないと実感するとともに、38名
の投稿文によって作成した「戦後70年平和祈念集」が会員の手を通して多くの人に読まれ、
そして語り継がれることによって、平和を守る事へ繋がっていくものと願って止まない。
56
大学時代の三人だけのクラス会
(H27.7.13)
我々3人は4年間の大学生活を通し親友として54年間もお付き合いしているが、人生観
や世界観もバラバラである。諺のように「合縁奇縁」というべきか、三人はどことなく「気
が合うスポーツマン」の一言に尽きる。今はみんな定年退職して年金生活者で我孫子市、流
山市、さいたま市に住んでいるが、それぞれが自分の描いた人生を歩んでいる。年一度、ク
ラス会を開くのを常としてきた。定年退職後はクラス会の場所を有楽町から柏駅ビル内に代
えて開いてきた。私は東武野田線を使って一時間の距離である。毎回、5時から4時間の懇
親会となる。
★今年は流山市の友から緊急にクラス会をいつもの場所で開きたいと電話がかかってきたの
で、何かあるなと思いつつ話をしてみると、8月に流山市を引き上げて、長女の住む札幌に
引っ越しするのでみんな話したいというのにはびっくりした。我孫子市の友が体調不良で少
し待ってくれてというので1ケ月遅れて7月13日に久しぶりのクラス会となった。私は午
後5時に待合せ場所の柏駅に着くや、友の顔を見て顔の皺が増えたり、頭が禿げたり、髪の
毛は白くなった、背丈は縮んだり、お互いに年を取ったなあと実感せずにはいられなかった。
懇親会の場所はお気に入りのいつものお店と決まっているからまっしぐらに向かうも、1
年もたつと場所を忘れてしまい探し回る始末。エスカレーターのところの案内板を見て、お
店の位置を確認してお店にたどり着いたのである。これも老化現象かなとみんなで大笑いし
てしまった。私を除いて他の二人はお酒大好き人間であるが、飲めない私のために最後は私
の大好きなものに付き合ってくれるのが常である。まずはビールで乾杯。外は猛暑とあって
か、冷えたビールの喉越しの通過は本当に美味しい。飲めない私でも中ジョッキー一杯は飲
んでしまうか、それから先は苦味に代わり、お酒には手を付けず食べることとお話に専念す
るのがいつものパターンである。
★まずは流山市の友の話を聞くと、老後を考えて札幌市にマンションを買ったが、娘さんが
何年も前に先に引っ越して住んでいるので、そこへ同居するわけにもいかぬことや、40数
年流山市で過ごしてきたシガラミを断ち切りたい思いもあって、札幌の娘と奥さんが物件を
探し、藻岩山の山麓に中古の一軒屋を契約してしまったという。友は結婚して町田市鶴川団
地に住み、ここの野球部のエースだったことや、流山市ではテニスやマラソンクラブで活躍
した有名人でもあるように、それぞれの地域では地元に溶けこんで人生を謳歌する達人でも
ある。この北海道でもサロマ湖百キロマラソンには 10 回完走してサロマンブルーというメ
ンバーに 登録され、足型のレリーフがフィニッシュ地点に刻まれているランナーでもある。
我々は年老いてからの引っ越しはしんどいので考えもしないが、友は開拓精神旺盛でその
楽しみがあるから、残りの人生10年を札幌で過ごすことにしたという。その心意気には心
から頭が下がる。昨日、札幌から帰ってきたが、向こうの夏は日射しは強いものの湿気がな
いので昼間でも家の中は涼しくクーラーなど必要ないとのこと。ただ冬は暖房用の灯油タン
ク400リットルということや、床暖房なしには過ごせない程冷え込むという。自宅近くの
までのバスは一時間に一本で、やはり車なしでは不便だという。その友が使っている軽自動
車で仙台まで行き、そこからへりーで北海道に渡り帰ってきたというから驚きである。
★仙台まで行くときに常磐道を通ったが福島県の放射能汚染地域を通過する時に道路の表示
計をみると通常より16倍の放射能汚染状況が示されているのにはショックを受けたと語っ
ていた。何故オリンピックに膨大な予算を使うの、その予算を国土再生のために使うべきだ
と憤っていた。このような政治の話になると我々3人は安保闘争にも参加しているのですぐ
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に話が広がってしまう。現政権の安倍首相の右傾化にも話が及び、戦争知らない世代は、日
本は立憲主義国であることすら忘れてか憲法で禁じられている集団自衛権なるものを推進さ
せている。これまでの自民党政権の長老たちは戦争を体験した世代なので、集団自衛権は憲
法違反として守ってきた。「安保法制」の前に憲法改正をして「安保法制」を作るのが筋で
ある。今回のような強行採決は本末転倒です。民主主義とは多数決で物事を決めるのではな
く、少数派の意見も尊重し、それをも取り入れてお互いに合意の上で決めていくことだ。私
と流山市の友は、学生時代は安保闘争に参加した。当時は総評の太田薫議長と岩井章 事務局
長のコンビで日本の労働界をひっぱり社会党共に自民党に睨みをきかせていたが、今日の連
合は右傾化してしまい、国民の苦しみや平和に対する思いを自民党と渡り合う気力もないの
にあきれ返っているというのも共通認識であった。
★クラス会は思い出を語る場所でもあり、今回も我孫子市の友は卒業試験の「英米法」が不
合格になってしまい、卒業が3ヶ月遅れてしまったこと、私は第二外国語にドイツを履修し
たので、日本でも有名な登張先生やドイツ文学者高橋憲治先生から教えていただいたが、単
語を覚えるのが追いつかなくて、ドイツ語の小説を訳す試験なので、最初にこの単語が出た
センテンスの場合は、こう訳すと日本語を覚えてしまい、優を取ったことを披瀝した。流山
市の友は大学の図書館に勤めてから、大学の恩師である雄弁家で有名な小松春雄先生と各大
学図書館会議の時にお会いし、初めて言葉を交わした時の感動を披瀝してくれた。また、私
の従兄が早稲田大学図書館の課長をしていたので友とのそのつながりで、音信不通の従兄が
亡くなった事を知り、従兄の母に連絡したことなども話に出た。全てが遠い昔のことである。
★最後は家族の話題へと移っていく。私と流山市の友は現役時代から家族同士で何回も行き
来したこともあって、相手の家庭のことも知っているが、二人の共通点は家族を顧みず自分
の世界に打ち込んでしまったので、定年後は奥さんに言われっぱなしで小さくなっている。
それに引き換え我孫子市の友の奥さんはおおらかで、お父さん外へどんどん遊びにいってと、
お小遣いを持たせて送り出してくれるという。今では孫が5人という。何と我々にとっては
羨ましい限りである。今でもお酒を飲んだ後の仕上がりは甘味類で終わることは続いており、
最後は「奥さんによろしく」でお開きとなった。今度は札幌での再会を約束して別れた。
(郷土の会 岡村)
58
第 97 回全国高校野球選手権大会で面白かったのは埼玉大会だ!
今年の大会は開催 100 周年を記念大会である。試合そのものにはいつもの顔ぶれの参加や
優勝争いで目新しいものはなかったと私の目には映った。強いてあげるとするならば、第 1
回大会の出場校のユニフォームを再現と入場行進であり、始球式には早稲田実業 OB で、巨人
で活躍し、現在は福岡ソフトバンクホークスの球団会長を務める王貞治さんが、高校野球の
始球式を務めたことである。個人的にはどうせ優勝するならば東日本大震災の復興に弾みを
つけてもらうためにも仙台育英高校にと思っていた。残念ながら準優勝に終わったが、それ
でも東北の皆さんの喜びは一入で選手から元気をもらったに違いない。
私個人としては、高校野球は教育の場であるはずなのに、今や甲子園を目指すために住所を
移動させて野球の強い私立高校に行かせることが今や当たり前になっている風潮は行き過ぎ
ではないかと思っている。だから全国大会が始まって参加校を見ると私立の同じ監督の顔触
れに新鮮さもなく、見ていても対戦相手のチームを応援してしまうのが常である。
★だからこそ高校野球の面白さは県大会の予選である。県大会とはいえど、ここでも野球の
強い高校は、全国でくり拡げられているような住所移動組の多い私立高校であることには変
わりない。今では常態化してしまった。昔は上尾高校はじめとする県立高校が甲子園を湧か
したこともあったが、いまでは県立高校が埼玉県大会で優勝することは皆無になってしまっ
た。だからこそ予選会でも私は公立高校を応援している。今年の第97回全国高校野球選手
権埼玉大会は私にとって甲子園よりも見応えがあった。ノーシードの県立白岡が今年の春、
選抜高校野球で4強になった A シードの浦和学院高を 4-1 で下し、初の決勝進出を決めた。
大金星の試合を紹介しょう。
★26 日の準決勝(大宮公園)
白岡
110000101|4
浦和学院 100000000|1
背番号7の谷中投手(3年)が1失点で
完投し、同校初の決勝進出を果たした。興
奮を絵に描いたような喜びっぷりで、拳を
突き上げた白岡ナイン。4―1のミラクル
だ。「ウチはノープレッシャー。楽しかっ
た。うれしいより不思議な感じ」と鳥居俊
秀監督。今夏の甲子園でV候補といわれた
「浦学」を倒したのは、4強入りも初めて
の県立校だった。
投げてもキセキ。背番号7の谷中が、強
力打線を6安打1失点で今大会初完投。
「ここら辺に投げればいいや」という、ま
さかの投球が奏功し、荒れ球は浦和学院を翻弄した。打ってもキセキ。2回2死から一塁走
者が二盗を決め、鳥海昌悟二塁手(3年)が勝ち越し中前打。7、9回には4番の矢部陸哉
遊撃手(3年)の適時打で1点ずつ加え、浦学のエース左腕・江口(3年)を攻略した。中
学時代の硬式経験者はスタメンの中でも3人。まさに“普通の野球部”が勝った。「誰も勝
つと思ってませんし、信じられない」と谷中は言う。
鳥居監督はエース・永島(3年)につなぐ普段の継投策を封印。チームの定石を捨てて流
れを生かした。積極走塁、強攻策からの得点も「ギャンブルしないと公立が私学には勝てな
59
い」。04年に所沢商の部長、08年(北埼玉大会)に上尾の監督として2度、決勝経験を
持つ指揮官。12年から指揮する同校で「強い公立」の戦いが浸透した。等々と新聞は解説
していた。これこそ私が理想とする学びの高校野球である。
★ノーシー
ドで勝ち上がってきた白岡のここまでの戦いぶりを振り返ると、 夏の県予選の成績
1 回戦:川越南(◯8-0)※7 回コールド
2 回戦:松伏(◯17-0)※5 回コールド
3 回戦:成徳大深谷(◯9-4)
4 回戦:川口(◯3x-2)
5 回戦:桶川(◯4-1)
準々決勝:埼玉栄(◯10-9)
準決勝:浦和学院(◯4-1)
★2005 年からの 10 年間の成績
2005 年:2 回戦敗退●2006 年:1 回戦敗退●2007 年:2 回戦敗退●2008 年:3 回戦敗退
2009 年:1 回戦敗退●2010 年:3 回戦敗退●2011 年:2 回戦敗退●2012 年:3 回戦敗退
2013 年:4 回戦敗退●2014 年:4 回戦敗退
★花咲徳栄、4年ぶり3度目の夏甲子園 公立白岡健闘も涙のむ
ノーシードの白岡は準々決勝で埼玉栄を、準決勝では浦和学院を撃破。滑川(現・滑川総
合)以来、17年ぶりの公立校での甲子園を目指したが、あと一歩及ばなかった。
高校野球埼玉大会決勝、花咲徳栄5-2白岡」(28日、県営大宮公園野球場)花咲徳栄が
白岡を下し、4年ぶり3度目の夏の甲子園出場を決めた。
花咲徳栄は1点を追う二回、鎌倉(3年)の適時二塁打などで2点を奪い逆転。その後も
着実に得点を重ねた。3点差となった九回2死満塁、エース鎌倉から2年生左腕の高橋にス
イッチ。白岡・荒井(3年)から見逃し三振を奪い、夏切符を手にした。
強豪私学を次々に倒し、17年ぶりの県勢公立校の夏の甲子園を目指した白岡は、花咲徳
花咲
栄を上回る10安打を放ったが、6失策が響くなど、涙をのんだ。
徳栄 5-2 白岡
高校名
1
2
3
4
5
6
7
8
9
計
白岡
1
0
0
0
0
0
0
0
1
2
花咲徳栄
0
2
1
0
0
2
0
0
X
5
四 死球
犠打
盗塁
残塁
記録
打数 安打 打点 二塁打
白岡
花咲徳
栄
三 塁打 本 塁打 三 振
32 10 1
30 6
5
1
0
0
失策
6
3
1
0
7
6
2
6
2
1
9
1
60
日本が太平洋戦争した本当の理由は何なのか
岡 村 昭 則
戦後 50 年(1995 年)の節目に村山内閣総理大臣は世界に向けて談話を発表しています。
先の大戦が終わりを告げてから、50 年の歳月が流れました。今、あらためて、あの
戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るも
のがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄
を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の
皆様 1 人 1 人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものでありま
す。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、
あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さら
には欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜
びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを
忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを 2 度と繰り返すことのないよう、戦
争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々
と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくために
は、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培ってい
くことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本
と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡
大をはかるために、この 2 つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。ま
た、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関
係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後 50 周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて
歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであ
ります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の
危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に
対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故
に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省
の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらし
た内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から 50 周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナ
リズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平
和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯
一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の
強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、
過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、
私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の
根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
平成7年8月15日
61
この談話は日本政府として先の大戦への責任を認め反省を諸外国に対するアッピールした
のである。これで政府としての謝罪は完結しているので、以後の10年の節目ごとの談話な
どいらないと私は思っている。小泉、安倍首相も談話を発表しているが、その度に謝罪を蒸
し返して諸外国を刺激している。いつまで謝罪を続けるつもりか?
★満州事変に始まり太平洋戦争までの敗戦国としての責任は、日本の戦後謝罪は国際法的に
は決着している。というのは、日本は終戦直後に設けられた極東国際軍事裁判において戦争
責任を裁かれ、それを受け入れた。それによって戦争への罪を認め、反省を表明したのであ
る。1951 年 9 月には、連合国諸国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約によって戦
争犯罪を認め謝罪し、占領軍アメリカの「指導」によって制定された平和憲法を順守して、
それ以降、二度と戦争を起こしていないし、日本は賠償金を支払い、莫大なODA資金でそ
れぞれの国に援助を積み重ねてきている。
★特に日中韓においては、「中華民国」とは日華平和条約によって戦後処理を行い、中華人
民共和国」が国連に加盟したあとで、日中国交正常化共同声明および日中平和友好条約によ
って、「中華人民共和国」との戦後処理も法的に終わらせたのである。韓国との間でも 1965
年 6 月に、日本(佐藤栄作政権)と韓国(朴正煕政権)との間で調印された日韓基本条約。これ
により日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国
併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。両国間交渉の問題点は賠償金であったが、
交渉の末、総額 8 億ドルの援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。
★内閣総理大臣談話で不思議なのは、当時の政府の行った先の大戦で日本国民に絶大なる打
撃を与えたことに対し、国民への謝罪もなく、なぜ戦争をせざるを得なかったのかの説明責
任がなされていないことや、二度と日本国民をこのような戦争の巻き込むことなく平和を追
求することを政府としてお約束するということが宣言されていないのだ。また、当時のマス
コミも二度とうそをつきませんと宣言すべきだ。今のマスコミを見ていると政府の危ういと
ころには蓋をして政府の都合のよいところばかりを強調するという戦前とまったく同じ道を
突き進んでいることに危機感を覚える。
★いつまで敗戦国日本は謝罪を続けるのか、もう断ち切る必要がある。ベトナム戦争で負け
た米国は第二次大戦で使った爆弾の総量よりも多く使ったにもかかわらず謝罪もしていない。
欧米諸国は植民地政策でアフリカ、中近東、アジアの諸国は何百年にわたって収奪・残酷な
ことをやり続けてきたにもかかわらず何の謝罪もしていない。韓国が常に慰安婦問題で日本
を攻撃しているが、韓国はベトナムでもっと残酷に売春狩を行っているのに一度も謝罪して
いない。日本が戦争に負けたからこそ韓国が取り上げているのだ。
★太平洋戦争の発端は日米による市場を争った資本主義の衝突と捉えることができる。白人
支配、欧米人優位を打ち破ることから、中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から
解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想から始まったにせよ、
戦争で大日本帝国が犯した犯罪行為は、中国をはじめあらゆる作戦地域、占領地域で犯した
民間人の殺戮、傷害、強姦。捕虜への拷問と即決処刑。無責任な作戦立案・実施による無数
の日本兵の斃死、その他の無数の罪となるべき行為を、日本は 1931 年から 45 年の戦争で犯
してしまったのである。しかしながら、特に植民地化されていたアジア諸国の人々に「独
立」という希望を与えたことも確かだ。だからこそ犠牲者や被害者の痛みを思い、なぜ戦争
を起こし、各国国民に犠牲を強いたのか突き詰めて反省し、歴史認識を改め中国・朝鮮や東南
アジア諸国に対して未来志向でお付き合いするしかないのである。それ故に戦後50年の節
目に村山談話を世界へ表明した意義はここにある。
62
スキー仲間が百名山登山達成!
(H27.8.31)
百名山といえば、登山を趣味にしている人ならば、どなたもご存知かと思いますが、それ
は、作家で登山家でもある深田久弥さんが自身で歩き選んだ「日本百名山」である。一
冊の本にまとめ、そこには山の品格、山の歴史、山の個性等を基準として選択し、それぞれ
の山を紹介しています。ご自身も述べているように商業意識、地域意識がなく、個人的な尺
度で選定した山です。書籍としての初版は1964年で、50年を越す時間のフィルターを
通して山岳文学の古典となりつつあります。近年の百名山ブームを支える原動力ともなって
います。
今年の夏、百名山を完登したスキー仲間とは、職場でスキー部創設を担った間柄であり、
長年にわたってスキー部運営に携わってきた。退職と同時にどうしたことか、百名山を目指
し登り出した。どうやら奥さんがそれまで登山されていたので、退職を機にご夫婦で百名山
登山を目標にして、その後の人生にアクセントをつける意味で始めたようだ。
登山愛好者は、それぞれの登山志向をお持ちの方が多く、百名山を目指す愛好者も多いが、
反面毛嫌いする人もかなりいる。私も深田久弥さんの百名山ではなく、自分の百名山をと目
指して歩いたが重なる部分も沢山あり、いつしか自分の百名山も立ち消えになってしまった。
私はスキー仲間がスキー以外に目を向けて、「百名山登山」という魅力ある素晴らしいテ
ーマにご夫婦で取組むことに大歓迎で是非完登してもらいたく、私のできることは協力しよ
うと、両神山、鷲羽岳、黒岳、飯豊山、大朝日岳等にご夫婦と一緒に登山させてもらった。
ところが最近、百名山登山が98座から中々進まない状況に陥っていたので心配していたら、
奥さんの足の調子が悪く、どうにもならないという返事だった。我々は老化が進むのは仕方
ないことであるものの、何とかご夫婦で完登の喜びを分かち合ってもらいたいという私の気
持ちも強く、一人だけでも残り2座を登ったらと進言などできなかった。今年の夏休みどう
するのかと思っていたら100座目の加賀白山より便りが届いた。文面には100名山完登
の喜びと奥様が登山できなかったことの無念さを滲ませた山よりの暑中見舞いだった。ご夫
婦で目指したものの奥さんの足の不調はどうにもならず、自分だけでもと一人で完登したこ
とは私にとっても嬉しかった。「おめでとう」と言わせてもらう。
63
一つの目標に向かって時間をかけてやり遂げることは心を満す充実感があり、達成感があ
る。私も苦労して日本海から相模湾まで三千メートル峰を全部登り繋いで日本列島横断を達
成した時は嬉しかったことは言うまでもない。登山は自然と触れ合うことで自分が受け取る
もの大きいからこそ、今でも登山を続けているのだ。登山は実際に登ることに意義があると
言っても過言ではない。だからこそ、友も奥さんの足が回復したら奥さんの杖としてサポー
トしご夫婦完登されることを願っています。(岡村昭則 記)
64
ああ三人になってしまった!
(H27.8.10)
都庁に在職していた時、我々は山岳部の安田先輩を中心に登山やスキーの一つのグループ
として活動していた。その原点は私の若き日に遡る、冬季乗鞍岳の合宿である。先輩も38
歳という若さで大勢の仲間を引き連れて何年にもわたり、乗鞍岳冷泉小屋をベースに山スキ
ーや登山に励んでいた。その時の絆が50年後の今日まで続いている。特に先輩が定年退職
してからは年一度の懇親登山を欠かさず実施してきた。我々のグループが半世紀以上続いて
きたのは、安田先輩が核となり、長きにわたってのマネージャーを務めた私の存在も大きい。
先輩は昨年11月9日に89歳で亡くなったが、 振り返って見れば、冬季乗鞍岳合宿に参
加した仲間は15名ほどでスタートしている。
65
66
しかし、月日が経つにつれてグループから離れる人や亡くなった人もいて、安田先輩が定年
退職した時に、私が万年幹事を引き受け再
編成し、昭和63年10月22日~23日
に第一回懇親登山として仙丈岳登山を計画
したところ、最終的に7名が参加してくれ
た。
このメンバーを中心にして27年間とい
う、長きにわたって絆を深めて懇親登山及
び懇親会を続けてきた。次第にみなさん年
老いて登山からハイキングにかわり、やが
て懇親会のみとなった。安田先輩の口癖で
ある「追い越し禁止」を守ることができず
に、あっという間に3人の先輩たちが亡くなっ
てしまい、メンバーは4人となってしまった。
昨年の4月にメンバーの大塚さんの奥さんが亡
くなったので集まった時は、安田さんは元気そ
のものだった。
暫くしてから、驚くなかれ、89歳の安田先
輩から突然末期の肺がんと宣告されたことが報
告された。その後、体調が回復されたというこ
とで、9月に安田先輩とお会いしたところ、秋
に懇親会を開くようにと要請あり、11/2に
箱根湯本で開くことになった。ところが予定日の1ヶ月前に体調が急変し、参加できないと
のお話があり、キャンセル料金とこれからも会を続けるようにとお手紙をいただいた。その
後、日赤に急遽入院されたので、我々もキャンセルしてお見舞いに行った。時間の問題であ
ったにせよ、我々に見舞ってくれたことを感謝するように手を合わせて喜んでいた。それか
ら1週間後に旅立ってしまった。
年も明けて安田さんを偲ぶ会を開こうと思っていたが、あっという間に時間が過ぎ去って
しまった。安田さんのお気に入りの御徒町の岡田
屋で8月10日に久しぶりに安田さんを偲ぶ会を
開いた。先輩たちが安田さんと共にした登山の写
真を持参し若き日の思い出に花を咲かせた。仙丈
岳登山に参加した7名中、4人亡くなって3人だ
けとなってしまったと、みなさん寂しさを隠さず
漏らしていた。我々はどれだけ安田先輩から登山
の楽しさを教えてもらったか計り知れないものが
ある。私の結婚式にも安田先輩と大塚先輩には出
席していただき、山の歌や安曇節を披露してもら
ったのがついこの前の事のように蘇ってくる。お互いに残されている時間はそんなにないの
で出来る限り、安田さんの遺志を継いでいくことにして、次回は昨年キャンセルした箱根湯
本で実施することにして、3時間を楽しく山の思い出に耽りお開きとした。
67
2回目の高齢者運転免許証更新の講習会に参加して
今から5年前、70歳になる時に初めて高齢者運転講習会に参加した。この講習会に参加
する5日前に突然、立っていられないほどの「めまい」に襲われてしまった。しばらして症
状も和らいだので大宮社会保険病院に行き、MRIを撮ってもらったところ脳は異常なしで
耳から来ているのではないかということで「メリスロン」の投薬が始まった。それでも小さ
な「めまい」は続いている。この小さな「めまい」の続く中で、初めての高齢者運転免許証
更新講習会に参加すべく、自動車教習所に行って受付の用紙に名前、生年月日、住所を記入
しようと思ったら、突然、手が震えだして字が乱れてしまい書けなくなってしまった。これ
は緊張からきているのか、「めまい」の後遺症なのか判断がつかなかったが、何とか講習会
終了証をいただき、5年間の免許証更新が出来た。その後、認知症の高齢者が運転して事故
を起こすことが多くなったことから、法改正で認知機能検査も加わった高齢者運転講習会に
変更された。
5年間もあっというまで今年の6月に、誕生日の5月前なのに「運転免許証更新のための
講習のお知らせ」が届いた。暑い夏を終えてから講習会に参加しようと思って、8月末に講
習会の参加申し込みをしたら、なんと1ヶ月先の10月しか空いていないというではないか。
前回は1週間前で予約ができたのに、これほどまでに高齢者講習を受ける人が多くなったの
かと驚かされる。この1ヶ月も妻の介護や、校友会や退職者会の戦後70年イベント行事の
平和祈念集作成などもあって瞬く間に過ぎ去ってしまった。
高齢者講習の内容は、前回と同じように「講義とビデオによる座学、検査機器を使っての
運転適性指導、車の運転指導」で変わりないが、これに新しく「認知機能検査」が加わって
いる。この認知機能検査に初めてのことでどんなことを検査するのか少し不安はあったが、
自分は認知機能も衰えていないのでたいしたことはないだろうと思って運転教習所へ出かけ
て行った。8時20分集合なのでそれに間に合わせるように40分前に家を出たが途中の車
の混雑から、15分で行けるところを集合時間すれすれに着いた。
受付の用紙をもらった時に、前回は突然手が震えだして字を書けなくなってしまった嫌な
ことを思い出してしまった。もうそこから一歩も進めなくなり、前回と同様な症状になって
しまったのである。そのことを受付の人に話して、右手を左手で抑えてヨタヨタした字で受
付時間終了ギリギリまでかけて書いて提出したら、受付の人はパーキンソン病ではと思った
のか、「認知機能検査」は書く所もあるので書けるか聞いてきた。何しろ書きますと言って
講習会に参加すると、認知機能検査は他の6人と一緒にするのではなく、私だけ別の部屋で
ということになった。まず、①名前、生年月日、住所、年、月日、曜日等を書き込み、②1
枚の紙に4つの絵を見せ、それを4枚行い記憶させ ③絵をかくして回答用紙に絵の名前を
書き込ませる。④ヒントを出して絵の名前を書かせる。➄11時10分を示す時計を書く等
の検査で終了した。字はヨタヨタしているが「記憶力・判断力」は100点満点中86点で
問題なしの判定であった。他の検査機器を使っての運転適性指導検査結果や視力検査も前回
よりもレヘルダウンしている結果だった。それは老化ということで仕方ないことであるが、
これから3年間免許証出来ることが何よりもうれしかった。これからも安全運転をモットー
に過ごしたい。(郷土の会 岡村)
68
年金生活者の楽しみ
65歳で第二の定年退職を終えてから、私は完全にリタイヤ―して9年が経つ。年金生活
となれば、毎年改定される年金額削減、その上、物価の上昇率や公共料金のアップ等を加え
ると、毎年、生活は苦しくなることは明白である。我々の年金が若い人の保険料の支払いの
上に成り立っていることや、今の雇用形態が厚生年金保険料(会社と本人折半)を支払う正
規職員の削減と、国民年金(個人負担)を増やすような派遣社員、パート、アルバイト等を
増やして人件費の削減を狙う仕組みになっていることから、社会保障制度が弱体化し、いつ
しか崩壊せざるを得ないことは火を見るより明らかであり、これに対して何とかしてよと、
政府に年金受給者が訴えても馬耳東風に終わってしまっている。
また、高齢者世帯が一番預貯金等の金融資産を持っているというものの、引退後はどこの
家庭も可処分所得の範囲で消費を賄うことはできないため、現役期に蓄えた資産の一部を取
り崩し、消費のために用いっている。その結果、60 歳以上の無職世帯においては、可処分所
得と消費との差である貯蓄や貯蓄率の値は負となっている。しかも、貯蓄率のマイナス幅が
1990 年代末から拡大している。例えば、ペイオフ対策の目一杯の上限額、これから記す東京
都職員信用組合に定期預金で一年間預けても年間の利率は0.135%で税込み13,500円税引き
10,758円である。これを市中金融機関に預けたとしたら、さらに利率が低く、税引きは1万
円を割り込んでしまう。これでは預貯金をしていても物価上昇率を加えれば、預金そのもの
も目減りしていることになる。戦中生まれの我々高齢者にとって現役時代はそれなりに豊か
な時があったことに感謝しするものの、今は時の流れに身を任せる以外はないのかと思うと、
これから先、悲観的になってしまう。
平成13年は私の定年退職の時である。これまで勤めて来られたのは大勢の職場の仲間に
支えられてきたこそであり、退職後、すぐに恩返しのつもりで退職者会の広報担当を引き受
けた。この年はゼロ金利時代に入っており、会員の生活に大きな影響を及ぼしていた
ことから、私が編集す「退職者会だより」で第一弾として「ゼロ金利時代は発想の転換
を!」を特集した。ペイオフ対策の目一杯の上限額は、昭和時代は1年定期預金の利率は
5%だったが、平成に入ってから、0.04%だから利息も 50 万円から 4 千円に激減している。
どうあれ時代の荒波にもまれながら生活せざるを得ないので、節約しながら暮らす事はもち
ろんのことだが、金融や経済について過去を踏襲するのではなく、個人が自己責任の下でリ
スクも含めて管理することを求められていると訴えた。私の見直しの一例を紹介している。
★預貯金口座は無料貸金庫と割り切ること。
★ペイオフ対策として、定期預金は郵便局、自己資本率の高い金融機関と不良債権比率の
低い金融機関へ
★他行のATMを利用すると1回105円の手数料を取られるので預金行以外は利用しな
いこと。普通預金は一千万円を一年間預けても100円の利息。
★振り込みの場合も振込み指定銀行の本支店で振り込めば他行で振り込むよりも安い。
★超低金利時代は預貯金利息も増えないので、発想を転換し、個人的リスクが伴うにせよ
預貯金の利率を上回る利回り1%以上配当する株に預貯金の一定額を投資し、配当金を受
けることも、資産を積極的に保全する一手段ともいえる。
私は退職者会だよりで会員に対して特集記事を掲載したことから、自らも実践し、年金生
活者として、預貯金の利率を上回る利回り1%以上配当する株に預貯金の一定額を投資し、
配当金を受け取ってきた。株式配当金は、会社側の損益に関わるので、無配当の時もあるが
69
優良銘柄を選択すれば一貫して銀行預金利率の比較ではないことを実感した。預貯金以外に
投資した中での楽しみにしていたのは、株主優待がある。
★テレビ、雑誌で大人気の株主優待の達人と言われる、元日本将棋界7段の桐谷広人さんは、
「おすすめの株主優待銘柄」を発表!」している。 株式投資は値上がりや配当も重要な要
素ではあるが、株主優待もバカにできない。株主優待のよいところは、自分の生活に
あった優待であれば現金をもらっているのと同然ということ。しかも株主優待だけで
なく、しっかり配当もいただける銘柄も多く、長期保有に向いている株とも言える。
私は都庁に就職した時に、先輩に言われて東京都職員信用組合に出資金50円を払い口座
を開いた。時代とともに出資金も値上がりして今では千円になっている。ここで我が家の建
築資金なども借りたこともある。退職後はペイオフ対策で上限金額目いっぱいの定期預金を
組んで14年経つ。利息は他行の2倍、総会終了後、必ず総会
報告が資料とともに送られてくる。ディスクロージャーを見る
限り、今年創立95年を迎えるが健全経営に勤めていることは
一目瞭然にわかる。その後の七月初めに毎年5千円程度の「稲
庭うどん」セットが送られてくる。これが我が家の夏を楽しま
せてくれる冷やしうどんである。七月になると我が家の楽しみ
となっている。
以前、(株)三菱UFJフィナンシャル・グループの株を持
っていた時は、5年にわたって バス&フェイスタオルセットと
金融サービスメニュー 優待クーポン券(スーパー定期 1 年
物金利優遇・ 投資信託購入時手数料割引・ 投資信託購
入時手数料割引・ 外貨定期 6 ヵ月物金利優遇・ 外貨預
金為替手数料割引・米国ユニオンバンク宛外国送金手数
料割引・国内株式等売買委託手数料割引・ 外貨両替レート優遇・ 遺言信託取扱手
数料(新規作成時)割引・ 不動産仲介ご成約特典)をいただいたことがある。
私の体験していることを記してきたが、私たち年金生活者にとって命の次に大事なお金を
どうやって有効に活用していくかは皆さんの考え方次第であるにせよ、預貯金のみに預け入
れている人は発想の転換を考えてみてはどうでしょうか。
(郷土の会 岡村)
70
敬老会のご案内にショック
地域活動としては、順番で回ってくる自治会役員以外は引き受けたことがない。というのも
職場の退職者会活動、シニアユニバーシティ校友会活動、わが青春の基礎をなす登山・スキ
ーの世界や、それに付随するエッセイ、俳句、美術鑑賞、新聞作り、HP等の多趣味があり、
地域活動に積極的に関わる時間がないというのが正直なところである。
自治会の同年代の仲間からも毎年グラウンドゴルフに誘われるが、伊奈学園のグラウンド
ゴルフで手一杯といつもお断りしている。以前は自治会も昔から住んでいる人をメインに活
動していたので顔見知りも結構いたが、最近は新しく引っ越してきた人の方が会員の大多数
を占めことから役員の顔見知りも少なくなってしまった。昨年、自治会主催で我が家の近く
にある円空の仏像を所蔵している薬王寺の歴史を語る会が開かれたので初めて参加してみた。
ここは昔から住んでいる地元の役員でないと歴史は語れない。だから転入組役員も大勢参加
していた。
これまでは、私も各方面で活動していることから自分の年齢など気にせずに参加したので
あるが、この9月に入って、民生委員の方が平成27年度「敬老会」のご案内と記念品を届
けに来てくれた。この時、初めて自分の年齢が75歳であることを意識させられたのである。
「えっ、もうそんな年なの」と民生委員に聞き直してしまった。頭の中は常に青春を追い求
めていて、各方面で活動しているので老化する肉体と関係なしに若いつもりでいるから聞き
直してしまったのだ。鏡に映る自分の姿を忘れて私にとってショックだったことは言うまで
もないが、40歳の時に肝臓がんを疑われ2ケ月にわたって悩み苦しんだ末、それまでの生
き方を変えて、自分の思った道を一筋に走り抜いて来たものの、自分を取り巻く環境で諦め
ざるを得ないにせよ、今日まで過ごせたことに感謝するとともに、75歳になったら、私が
関わっていく諸般の諸々を少し調べてみた。
75歳と言えば、私に直接影響してくるのは、
一つは国民健康保険から後期高齢者医療制度に切り替わり独立した医療保険に切り替わり、
医療費が1割負担ですむのは有難いが、それよりも健康でありたいのが心情である。
二つ目は、現役で車を運転しており、今年切り替えなので免許更新の時は、免許証の更新
期間満了日(誕生日の 1 ヶ月後の日)の年齢が 75 歳以上で、免許更新を 希望する方は、更
新手続前に講習予備検査の受検と高齢者講習等を受講しなければならない。
75歳以上の人が人口に占める割合は
★2014 年は、75 歳以上の高齢が全人口に占める割合が 12.5%となり、初めて 8 人に 1 人が
75 歳以上となった。人数でみると前年に比べて、590 万人増加して 2383 万人。9 月 15 日の
「敬老の日」に合わせる形で総務省が発表した人口推計によって明らかになった。日本社会
の高齢化がますます進んでいることが浮き彫りになった。
★戦後まもない 1950 年には 80 人に 1 人だったのが、1991 年には 20 人に 1 人、2008 年には
10 人に 1 人と増加していき、現在では 8 人に 1 人。64 年間で 75 歳以上が占める割合は、10
倍近くに膨れあがった計算だ。
★国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、この割合は今後も上昇を続け、2035 年に
は 65 歳以上の人口割合が 33.4%、75 歳以上人口の割合が 20.0%となり、3 人に 1 人が 65 歳
以上、5 人に 1 人が 75 歳以上になると見込まれている。
★
75歳以上の人の医療費の国民医療費に占める割合
★年齢階級別にみた国民医療費である。平成 22 年度は全体で 37.4 兆円のうち、65 歳未満
71
がおよそ 16.7 兆円(構成比約 45%)、65 歳以上が約 20.7 兆円(同 55%)となっている。
人口構成 9 は、65 歳未満が約 77%、65 歳以上が 23%であるので、人口で4分の1に満たな
い 65 歳以上の高齢者の医療費が、金額では全体の半分以上を占めていることになる。
★1人当たり医療費は 65 歳未満が 16.9 万円であるのに対し、65 歳以上は 70.3 万円であ
り、若年者と高齢者では4倍強の格差が生じている 。さらに細かい年齢区分でみると、1人
当たり医療費が最も低いのは 15~44 歳で 10.6 万円、一方、最も高いのが 75 歳以上の後期
高齢者で 87.9 万円となっており、その格差は8倍以上という非常に大きなものとなってい
る。我が家では65歳から10年間、医療費は10万円以下であったが、これから増加する
ことは間違いない。
★星
75歳で妻は介護保険について要介護認定申請
★介護状態になったときに受けられる保障としてはまずは「公的介護保険」がある。今まで
自分たちが使うなどと思いもせず介護保険制度成立してから以来、保険料を払続けてきた。
昨年から75歳の妻がリュウマチで足首、膝が悪く寝ころんだら立てない状況がある事から
介護保険の認定をうけることになった。そのためには役所に要介護認定の申請をする・役所
認定調査・主治医意見書を依頼する・介護認定を受ける・介護(介護予防)サービス計画書
の作成・サービス利用の開始と言うことになるとのこと。
★
日本人平均寿命まであと何年ある
★平成 25 年の簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性が 80.21 歳 、女性が 86.61 歳
で、平成 24 年と比較して男性は 0.27 年、女性は 0.20 年上回りまった。「人生 80 年」とい
う言葉はこの平均寿命からきたもの。日本はまさに世界有数の長寿国です。主な年齢の平均
余命(平均してあと何年生きられるかの指標)については、前年に比べ、男女ともにすべて
の年齢で上回りまった。私の父は87歳、母は91歳で亡くなっているので、その近くまで
生きられるとしても、男性の平均寿命まで私は5年ということになる。だからこそこの5年
間は妻の介護と最後までお世話するにせよ、充実した生き方をしたいと思う。亡き山の先輩
たちが夢を追いかけたように私も追いかけたい。(郷土の会 岡村)
72
私の俳句が「箕面の山パトロール隊ブログ」に掲載されていた!
グーグルで私の名前を記入して検索すると、ホームページを開設して、そこに掲載した文
書、写真やPDF等をグーグルが紹介している。ついこの前までは私のホームページに関す
るものだけであったが、9月に入ってから検索してみると、大阪府箕面市にある箕面の山パ
トロール隊ブログが私の項目の中に2つの山行報告があり、ブログの中に私が6月30日に
登った奥武蔵の笠山で詠んだ俳句が掲載されているではないか。びっくりしたことは言うま
でもない。徐にブログを開けてみると、山行報告に写真が掲載され短いコメントが書かれて
おり、その下に有名人(正岡子規、芭蕉、北原白秋、斎藤茂吉、深田久弥、湯川秀樹、俵万
智、伊藤左千夫、加藤楸邨、高浜虚子の次女星野立子)の俳句、短歌、名文、歌詞等と山行
仲間の俳句が掲載されている。うれしくもあるが、有名人に混じって私の俳句が掲載されて
いることなどおこがましくびっくりしてしまった。
考えてみると、私のホームページ「わが青春」は全世界にインターネットを通じて流れて
おり、誰でも見ることができるので私の俳句が私の知らないところで掲載されるのも当然の
ことと受け止めてしまう。今回は同じ目的を持った方に利用していただき私としてもうれし
い限りなのだが、インターネットによりコミュニケーションの輪が広がり便利になり、イン
ターネットを利用することで、私たちは数多くの恩恵を受けている。遠く離れた地域の人々
と情報の交換が即座に行うことができるようになり、外出しなくても必要なものを買い求め
ることもできる。インターネットにより私たちの生活はとても便利になったことは言うまで
もない。
一方で,インターネットを悪用した行為が増えており,他人への中傷や侮蔑,無責任なう
わさ,特定の個人のプライバシーに関する情報の無断掲示,差別的な書き込みなど,人権や
プライバシーの侵害につながる情報が流れているようにインターネットは悪用されるケース
も多々あり、インターネットから受ける恩恵の一方で、暗い影を落としている部分もあり、
注意に注意を払う必要があることは確かだ。
■2015.08.02 六個山・ようらく台コース・実施報告
涼風や 弁当美味き 山の昼
(岡村昭則)
★本日も箕面は厳しい暑さとなり、15:00には36℃を越える酷暑となりました。熱中
症指標では<危険>を示していましたが、本日も箕面は厳しい暑さとなり、15:00には
36℃を越える酷暑となりました。熱中症指標では<危険>を示していましたが、汗だくと
は言え、山中は想像以上に、気温も低く、緑陰や涼風を楽しめた、クリーンハイキングとな
りました。併せて、山のゴミの回収にもご協力を戴き、13、5kgも処理できました。お
疲れさまでした。ありがとうございました。つけても、猛暑の中、完遂できたことで、自信
を深め、「健康」であることのありがたみを、あらためて、嚙み締めた次第です。25名参
加
★著名なドイツ文学者で、無類の山好きの池内紀氏は、その著書「ひとつとなりの山」で、
有名な山より、その一つ隣の、静かな山々の登山を推奨し、<標高がなくてもいいし、ノロ
ノロ登山でも、かまわない。山高きが故に尊からず、足速きが故に、エライのではない>と
の一つの見識を示し、低山の魅力を記しています。<箕面の山々>は、この「ひとつとなり
の山」の条件をすべて満たしているように思い、意を強くした次第です。まことに「箕面の
山々」はありがたいですね。ともあれ、<冷し素麺>の美味しい季節です。清涼感溢れる手
延べ素麺で、この猛暑を乗り切って行きましょう。
そうめんと 氷のかけら 鬩(せめ)ぎあう (昌子光男)
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それでは、みなさん、また九月にお逢いしましょう。御機嫌よう、さようなら。
コース担当者一同 (文責:森岡)
■2015.08.27 明ヶ田尾山コース実施報告
山頂を 一人占めして 風涼し (岡村昭則)
★本日のクリーンハイキングは台風一過で、晴天にも恵まれ、快適に実施することができま
した。猛暑とは言え、山中は冷気に満ち、気温24℃程度で、爽快感があり、下界のうだる
ような暑さに比すれば別天地。まさしく「ぜいたく空間」に身を置けたとも言えるのではな
いでしょうか。蝉しぐれの中を仙人草や松風草の白い花に、また、ゴマキの真紅の実にも心
癒され、晩夏の一日を楽しく過ごさせて戴きました。併せて、山ゴミ回収にご協力戴き、3
9,7kgも回収させて戴きました。ありがとうございました。お疲れさまでした。22名
参加
★山を愛した詩人で画家の辻まことは、山について<健康が生む機嫌のよさ。この実感を生
きようとする私にとって、山と孤独とはいつでも、心をささえる大切な二要素だ。>とまで
述べています。この「健康が生む機嫌のよさ」をこれからも、山で体感していきたいと思い
ます。この「健康が生む機嫌のよさ」をこれからも、山で体感していきたいと思います。と
もあれ、<とうもろこし>の美味しい季節です。糖度18の極上の甘さを誇り、生でも食べ
られる、「ピユアホワイト」も店頭に並びました。
唐黍を食ぶハモニカを吹くやうに
(堀口まゆみ)
それでは、みなさん、また、九月にお逢いしましょう!
ご機嫌よう さようなら。 コース担当者一同
(文責:森岡)
「箕面の山パトロール隊は、「箕面の山を美しくしたい」「箕面の山の美しさを子供たちに伝
えていきたい」との思いから 2004 年 8 月に結成されました。活動の目的は以下の通りです。
1. 箕面の山の美化
報告に書いてあるように、クリーンハイキングを実施している団体なのでどんな団体かイ
2. 不法投棄の調査と対策立案
ンターネット調べてみる。
3. 自然環境の保護・保全
4. 山地美化への啓蒙活動
具体的な活動内容としては、毎月のクリーンハイキングや子供向けハイキング・企画ハイ
キング、大掃除大作戦、不法投棄防止活動や地元 FM 局と連携した自然情報の提供、花と木の
ハイキングマップの作成などです。
私たちは、箕面の山の素晴らしさを次世代に伝え、一人でも多くの箕面の山ファンを作る
べく活動を続けていきたいと考えています
この会の活動の目的は、私が若かりし頃、「自然保護に協力を!この美しい自然をこれか
らうまれ育つ子供たちに伝えることは私たちの務めです」と個人的に呼びかけ、山に優しい
登り方を実践してきたことに共通するものがあり、共感できたことから掲載されていたメー
ルアドレスにメールしてみた。
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箕面の山パトロール事務局様へ
今日初めてブログを見させていただき、山行の中に私の俳句が掲載されているのにび
っくりしました。
掲載していただきありがとうございます。どういう経緯で掲載されたのか教えていただ
けますか。
また、箕面の山を美しく環境保全して次世代に引き継ごうという取組に敬意を表しま
す。私も若かりし頃から「この美しい自然をこれからの生まれ育つこどもたちに引き継
ぐことは私たちのつとめです」と自然保護に協力をと山行の度に呼びかけ、自然に優し
い山登りを心がけて気だけに、皆様の取組に懐かしさを覚えます。
これからもブログを見させていただきます。
二日後に「箕面の山パトロール隊」のブログ担当者からメールで返事が送られてきた。
岡村昭則 様
この度は「箕面の山パトロール隊」のブログをご覧戴き、ありがとうございまし
た。併せて、弊隊の設立趣旨・活動目的にご賛同を戴き、感謝申し上げます。さ
て、お問合わせの当該ブログに岡村様の秀句を掲載させて戴いた経緯でございます
が、元来、当該ブログは古今東西の名詩・秀歌・秀句・愛唱歌等で彩を添え、文芸
調にて日々の活動を活写出来ればと企画し、アップしてまいりました。
一方、岡村様のホームページにての「登山・スキー・俳句」等々の幅広い活動に
敬服し、その誠実さに溢れた連載エッセイを愛続させて戴いてまいりました。特に
サミュエル・ウルマンの詩を起点に始まる<我が青春>は心に染み入りました。同
時に平成22年~平成27年までの数々の俳句には、山を、自然を愛する人だから
こそみえるさまざまなことが詠まれており、感慨を同じくするものがありました。
心が動きました。よって、さらに多くの人々の目に触れることが出来ればと思い、
掲載させて戴いた次第です。事前にご承諾を戴かないまま掲載を致しましたこと、
お許しください。
最後になりましたが、岡村様から、このようなメールを戴けたことを大変、うれし
く思っております。どうぞ、これからもよろしくお願い申し上げます。
当該ブログ担当:森岡常雄
私は登山人生のスタートから記録をつけて積み重ねてきたが、ワープロ出現まで一向に冊
子になることはなかった。ワープロを活用して全記録を見直し要約して初めての手作りの冊
子ができた時のうれしかったことと、感動は今でも忘れられない。紙ベースからフロッピー
管理に変わった。その内にパソコンが出現したが定年退職後の65歳まで手に触れることは
なかった。たまたまシニア大学に入学したことで、パソコンクラブに入り猛烈に勉強したこ
とで登山・スキー記録の編集も大きく変化した。紙ベースの冊子にしなくてもパソコン上で
冊子にしてインターネットで公開出来ることも知った。これまでの資料も私が死んだらゴミ
となってしまう。それならばホームページを開設し、「我が青春」を公開すれば、共通基盤
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のある人ならば、少しは見ていただけるのではと思ってホームページをスタートさせたのが
始まりである。
現在、1万人近くが「我が青春」を訪れているが、割り引いても8千人近くが訪れている
ことにもなる。その中で大阪府箕面市「箕面の山パトロール隊」ブログ担当者の森岡さんに
私のホームページを見ていただいていたことで、私の俳句が森岡さんの手で、また新たな公
開となり、新しい人の目に触れることは間違いなく、私がホームページを開設した意に添う
ものであり、本当にうれしく、森岡さんには感謝せずにはいられない。これも森岡さんが、
当該ブログは古今東西の名詩・秀歌・秀句・愛唱歌等で彩を添え、文芸調にて日々の活動を
活写出来ればと企画し、アップしてまいりましたというように、山行記録もそのように一つ
の考え方をもって、アクセントをつける編集することは本当に大事なことです。私が俳句を
詠むようにもなったのも、今は亡き女性の先輩が山行記録に絵葉書を作ってアクセントを付
けていることから、岡村君も何かでアクセントを付けなさいとアドバイスしてくれたことが
ベースにあり昭和59年から独学で現在に至っている。
岡村昭則 様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
岡村様の「一連のまとめ」を、興味深く、且つ、共感を持って
拝読させて戴きました。重ねて、御礼を申し上げます。
今回、また、<箕面の山のパトロール隊>の 10 月4日付けの
「ブログ」(「六個山・ようらく台コース」実施報告)に、申し訳ありませんが、
岡村様の一句
高みへと 山路を登り 風涼しい
を掲載させて戴きました。失礼の段はお許し下さい。
今後も随時、掲載させて戴きたく存じますので、ご協力をよろしく
お願い申し上げます。
10 月1日に、当隊の日々の活動に対して、環境省より「自然歩道
関係功労者表彰」を戴きました。ボランティア活動ですので、声高に
人様に誇る、語るなど不要なことですが、こんな小さいことでも隊内の志気を
鼓舞してくれるのがありがたいですね。
岡村様とのご縁をこれからも大事にさせて戴きたいと思いますので、
どうぞ、これからもよろしくお願い致します。
箕面の山パトロール隊 副隊長
森岡常雄
■2015.10.04 六個山・ようらく台コース
高みへと 山路を登り 風涼しい (岡村昭則)
★本日は秋晴れの下、やわらかな陽射しを浴び、清々しい風に頬を撫でられながらの、終始、
快適なクリーンハイキングでした。箕面の山々での、数々の<小さな秋>、如何でしたでし
ょうか。楽しんで戴けたとしたら、大変、うれしく思います。同時に、みなさんのご協力で、
山のゴミを45,8kgも、回収できました。ありがとうございました。お疲れさまでした。
31名参加
★山岳
紀行詠の第一人者の来嶋靖生氏はその著書「歌人の山」の<あとがき>で<私はその浅い山
登りのおかげで人生の後半をややゆたかな気持ちで生きている>と記述されています。この
感慨はクリーンハイキングにも通じるように思い、共感を覚えますが、みなさんは如何でし
76
ょうか。ともあれ、秋刀魚の美味しい季節になりました。今年は豊漁とか。酢橘に大根おろ
しを添え、脂が乗り丸々太った秋刀魚の塩焼きで、食欲の秋をを堪能しましょう。また、秋
の夜長には小熊秀雄の童話「焼かれた魚」がお薦めです。その一匹の秋刀魚の物語に、読後
の余韻がいつまでも残ります。
秋刀魚焼く
匂いの底へ 日は落ちぬ(加藤楸邨)
それでは、みなさん、11 月にまた、お逢いしましょう。ご機嫌よう、さようなら。
コース担当者一同(文責:森岡)
森岡常雄様
メールありがとうございました。今は妻の介護もあって、山清水を汲みに行く時に
近くの里山に登っているだけですが、頭の中は青春そのもので、同じ山に何回登っても
飽きません。その他の活動もあり毎日が忙しく過ぎていきます。森岡さん達の素晴らしいボ
ランティア活動が環境省から表彰される大変喜ばしいことです。私は埼玉県老人大学伊奈学
園を卒業しましたが、建学の精神がボランティアする人の育成です。卒業生がボランティア
団体を結成して各方面で活動に取り組んでいます。私たちの校友会も太極拳クラブ、手話ダ
ンスクラブが毎月老人施設を慰問しています。ボランティアは地道な活動ですがそれを積み
上げると大きな活動として展開し、大勢の人々を幸せにしていることは間違いありません。
私は何もできないのですがボランティア活動しいる人たちをHPでバックアップしています。
http://www.olff.net/ina-senka01/
これからも素晴らしいボランティア活動を続けられることを期待しています。
■2015.10.22 明ヶ田尾山コース・実施報告
山には友情がある
(岡村昭則)
本日は終始、気温 20℃、湿度50%と爽やかで快適なクリーンハイキングでした。三ヶ月振
りの、秋色に染まり始めた鉢伏山、明ヶ田尾山、如何でしたでしょうか。中秋のひと日、<
やさしく、ゆったりとながれる時間>に身を委ねることができたように思います。また、ご
協力を戴き、山のゴミを13,7kgも回収できました。ありがとうございました。お疲れ
さまでした。さて、「幸福感」について、今年のノーベル経済学賞に決まった米国のアンガ
ス・ディートン教授によれば、収入が増えるにつれて人の幸福感は上昇するも、限界がある
とのこと。大阪大学経済学部の大竹文雄教授は、これを補完する手法として、同時に<社会
の役に立つ行為>の必要性を説く。(日経新聞「春秋」)クリーンハイキングへの参加後、
しばし、ささやかな幸福感に浸れます。それ故に、この説に説得力があるように思えるので
すが、如何でしょうか。
幸福は かみしめないと 逃げてゆく
(宮澤繁子)
それでは、みなさん、また11月にお逢いしましょう。ご機嫌よう、さようなら。
コース担当者一同(文責:森岡)
■2015.11.01 六個山・ようらく台コース・実施報告。
栗の毬 散らばる山の 小道かな
(岡村昭則)
事前予想の降雨率50%が一転して、秋晴れとなり、終始、なにもかも爽やかで、明るい、
楽しいクリーンハイキングとなりました。山々で小さい秋の美景を愛でながら、一方で、皆
さん方の雑談力の凄さに敬服しつつ、歩きながらのワイワイガヤガヤ雑談も、このコースの
魅力の一つと改めて思った次第です。今回は紅葉が少し,遅れ、山々の成す「紅葉絵巻」を
観るまでに至りませんでしたが、次回は赤、黄、橙などに染まる六個山が楽しめるでしょう。
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みなさんのご協力を戴き、山のゴミ59,2kgも回収することができ、一段と山が美しく
なりました。ありがとうございました。お疲れさまでした。
この季節はスポーツの秋、読書の秋でもあります。先般、芥川賞を受賞した又吉直樹氏は
「読書は面白いから読むのである。無理やり知性と結びつける必要などない。誰かが真剣に
考えたことを知ることができるという大きな利点がある。先人達が人生をかけて得た、知識
や技術や経験を知ることができる。(深い珈琲エッセイ AGF より)」と読書の利点を説く。
この見識の高さには首肯せざるを得ません。秋の夜長です。読書にも勤しみませんか。
紫苑活け 机に向かふ 読書哉
(正岡子規)
それでは、みなさん、また、12 月にお逢いしましょう。ご機嫌よう、さよおなら。
コ
ース担当者一同 (文責:森岡)
78
妻と散歩して名月を観る
妻は二年前からリューマチで足首や膝が悪化して起ちあがることができないほどになって
しまった。その妻を介護して二年にならんとしている。当初は、妻に甘えていたこともあっ
てか、私は主夫業になり切れなかったことは言うまでもない。私もストレスがたまり、次第
に苛立ってきて最初の頃は妻とぶつかり合いが多々あったが、妻の足の筋力の退化を目にし
て、「これまで好きな登山・スキーを脳天気にやらせてくれた事を思うと、妻に甘えていた
自分を恥じた。」ことから本格的に主夫になり切って妻の介護に徹するようになった。食事
作り、洗濯、買い物と忙しい毎日を楽しみながら暮らしている。
私自身、半年前までは 2 時間近くのウォーキングをしていたが、最近はそれを止めて夜9
時過ぎに妻と1キロを歩く訓練として一緒に散歩するようになった。最初は歩き始めて50
0mほどはしっかり歩くものの、次第に疲れてくると前屈みになってしまい、早く歩くにな
ってしまう。そうなると自然と私は腕を組んで歩くようになったが、今は杖を使って自分の
支えるようにし、下り坂だけは腕を組んで歩くようにした。そんな時に「若い時に腕を組ん
で歩いたことは何回あったかね」と妻に話すと、10回以下だったと思うよと返ってくる。
若い時なら心ときめくことだが、今は何のトキメキもなく自然体で残された時間を二人仲良
く寄り添って歩いているに過ぎない。
そんな二人が夜の散歩で楽しみにしているのは、途中にあるセブンイレブンによってアイ
スクリーム買って、道沿いにある花壇の淵に腰を下ろして月や星を観ながら食べることであ
る。75歳の老夫婦が月や星を眺めながら会話を交わすもロマンチックな雰囲気などは一欠
けらもない。私は月を観ていると亡くなった山仲間の思い出が頭を過ることが多い。それは
私が年老いた老人になったことを意味しているに違いない。
しかし、9月27日の今日は中秋の名月なのでロマンチックに行こうと家を出る時から決
めていた。家を出て間もなくして広い道路に出るやまんまるの名月が目に入る。妻と顔を上
げて暫く腕を組んで見上げていた。そして私は俳句を詠み始めた。メモ帳がないので頭の中
に書き込んでいく。公園で若い人アベックが話している光景を見ては、お互いに「若いって
いいね」と口にする。今日はセブンイレブンによって「月見団子」を買い、いつもの花壇の
淵に腰を下ろして月を見ながら二人で
食べながら、「時の経つのは早いね。
結婚して48年か、あっという間だっ
たね」と。しかし、妻とこんなにしん
みりと話したことが今まであったろう
かと、ふっと振り返ってしまう。こう
いう雰囲気を醸し出してくれたのも、
妻を介護することに徹したことによる
賜物なのかも知れない。とにかく今宵
は名月十句を詠むことにして妻と腕を
組んで俳句を詠みながら家まで帰った。
「秋になれば思い出す・・中秋の名
月」と言われているが、私もこれまでの生活習慣上の行事として受け入れているだけで、ど
うして「中秋の名月」と呼ばれているのか調べたことは一度もなかった。毎年12ないしは
13回の満月があるのに、昔から八月十五日の月を「中秋の名月」と呼んでいるのは、一年
79
には「春夏秋冬」の四季があり、旧暦では三ヶ月毎に季節が変わり、「一・二・三月」は春、
「四・五・六月」は夏、「七・八・九月」は秋、「十・十一・十二月」は冬と分けられてい
る。そしてそれぞれの季節に属する月には 初・中・晩 の文字をつけて季節をさらに細分
して使ってきた。季節の細分によれば、「八月」は秋の真ん中で「中秋」あるいは「仲秋」
となる。旧暦の暦月の日数は 29 日か 30 日のいずれかであるから、15 日は暦月の真ん中の日
と考えることが出来る。
旧暦の八月十五日という日は秋の真ん中の月の真ん中の日、つまり秋全体の真ん中の日と
考えられるから、この日のことを「中秋」と言うことらしい。旧暦は太陰暦の一種であるか
ら、日付は空の月の満ち欠けの具合によく対応している。月の半ばである 15 日の夜の月は必
ず満月か満月に近い丸い月が見えることから「十五夜の月」 =「満月」と考えられるように
なり、中秋の日(旧暦八月十五日)の夜の月も当然満月かそれに近い月となる。中秋の日の
夜に澄んだ秋空に昇るこの丸い月はやがて中秋の名月と呼ばれるようになり、これを観賞す
る風習が生まれたと言われている。基本は月の満ち欠けをひと月とする太陰暦。旧暦とは、
月の満ち欠けをひと月とする太陰暦なのに対して、新暦とは、太陽の公転に基づく太陽暦
(グレゴリオ暦)。従って中秋の日(旧暦八月十五日)は1か月遅れの新暦の9月15日以
降の満月ということになるとか。
★名月や夫婦で歩く散歩道
★腕組んで名月を観る夫婦かな
★名月を観て俳句詠む夫婦かな
★名月を遮る雲のありにけり
★名月やベンチのアベック動かざる
★名月が家々の屋根照らしをり
★名月に人の下り立つ過去ありぬ
★満月を見上げて夫婦語り合う
★団子食べながら名月仰ぎけり
★名月や散歩楽しむ杖の妻
★散歩して亡き友偲ぶ月見かな
(郷土の会
岡村)
80
2015年9・14地公三単産・地公退高齢者集会に参加して
毎年、この高齢者集会には私たちの職場の退職者会役員として参加している。この高齢者
集会は、私たちを取り巻く政治の流れがどうなっているのか、退職者会団体としての社会保
障制度に対する政府要求等についての取組が報告される。そのことで我々下部組織の役員と
しても全体的な流れが読み取れることや、それに加えて勉強させられるテーマの記念講演
(今年のテーマは戦後史と平和を考える=京都精華大学講師 白井聡氏)があるから個人的
にも積極的に参加している。
昨年から振り返っても、安倍政権は特定秘密保護法を制定、武器輸出三原則の廃止や、日
米防衛協力指針の改定、それに伴い新ガイドラインは、集団自衛権の行使を前提に米軍への
協力範囲を地球規模に拡大をもくろみ、政府・与党は「集団的自衛権の行使」容認など戦争
のできる国へと舵を切り、その動きを加速化させている。
その動きのメインは、日本は立憲主義国だから、国権の基本は憲法である。これまでの自
民党は戦争体験者が政治の中心にいたこともあって、憲法解釈を捻じ曲げ、個別的自衛権
(専守防衛)は認めると解釈しても、集団自衛権(戦争する国)は違憲として守ってきた。
現在の国際情勢を考えるならば、安保法制について国民の考え方も様々あるのは当然の事で
あるが、今国会で強行採決された安保法制は公聴会でも大勢の学者が憲法違反としているの
に、政治家がそうではないと法律をこねくり回して憲法をないがしろにし、立憲主義国の資
格を失い民主主義国を放棄した国になってしまったことである。安保法制も憲法改正を発議
して通ってから法律改正すべきなのに、それができないからと言って強行採決し、憲法に違
反した法律改正を行ったことは本末転倒と言わざるを得ない。
今年の集会は社会保障と税の一体改革、公務員制度改革の動向、持続可能な脱原発社会に
向けて、恒久的な平和社会に向けて等の報告もあったが、メインは安保法制の廃案を訴える
ことがメインであった。
記念講演の白井聡氏の『「永続敗戦論」から見る安倍政権と現代日本』のメインは、先の
大戦の戦争指導者の妄想的な自己過信と空想的な判断、裏付けのない観測希望的、無責任な
不決断と混迷、その場しのぎの泥縄式の乱発……これらのすべてが、2011年3月11日
の福島原発事故で克明に再現されている。世界に類をみない(特殊な)対米従属体制の形成
=アジア諸国への高姿勢、目を覆いたくなるような政治家の劣化と、とてつもない閉塞感が
漂っている。白井聡氏も「、野党の一党である
民主党も労働者の立場に立たず、自民党的発想
の人が大勢いることからしても信用できない」
と話していたが、私も同感である。この人たち
も相当劣化しており、自分のイスさえ守れれば
「よし」とする議員である事は否めない。どう
あれ今年もこの集会に参加したことで多少なり
とも勉強になったことは確かだ。一つ寂しかっ
たのはこれまで社会党の福島瑞穂さんが出席し
て人気を博していたが、党首をやめたことから
声が掛からないのであろうが、本当に寂しい限
りだ。
(郷土の会 岡村)
81
2回目の高齢者運転免許証更新の講習会に参加して
今から5年前、70歳になる時に初めて高齢者運転講習会に参加した。この講習会に参加
する5日前に突然、立っていられないほどの「めまい」に襲われてしまった。しばらして症
状も和らいだので大宮社会保険病院に行き、MRIを撮ってもらったところ脳は異常なしで
耳から来ているのではないかということで「メリスロン」の投薬が始まった。それでも小さ
な「めまい」は続いている。この小さな「めまい」の続く中で、初めての高齢者運転免許証
更新講習会に参加すべく、自動車教習所に行って受付の用紙に名前、生年月日、住所を記入
しようと思ったら、突然、手が震えだして字が乱れてしまい書けなくなってしまった。これ
は緊張からきているのか、「めまい」の後遺症なのか判断がつかなかったが、何とか講習会
終了証をいただき、5年間の免許証更新が出来た。その後、認知症の高齢者が運転して事故
を起こすことが多くなったことから、法改正で認知機能検査も加わった高齢者運転講習会に
変更された。
5年間もあっというまで今年の6月に、誕生日の5月前なのに「運転免許証更新のための
講習のお知らせ」が届いた。暑い夏を終えてから講習会に参加しようと思って、8月末に講
習会の参加申し込みをしたら、なんと1ヶ月先の10月しか空いていないというではないか。
前回は1週間前で予約ができたのに、これほどまでに高齢者講習を受ける人が多くなったの
かと驚かされる。この1ヶ月も妻の介護や、校友会や退職者会の戦後70年イベント行事の
平和祈念集作成などもあって瞬く間に過ぎ去ってしまった。
高齢者講習の内容は、前回と同じように「講義とビデオによる座学、検査機器を使っての
運転適性指導、車の運転指導」で変わりないが、これに新しく「認知機能検査」が加わって
いる。この認知機能検査に初めてのことでどんなことを検査するのか少し不安はあったが、
自分は認知機能も衰えていないのでたいしたことはないだろうと思って運転教習所へ出かけ
て行った。8時20分集合なのでそれに間に合わせるように40分前に家を出たが途中の車
の混雑から、15分で行けるところを集合時間すれすれに着いた。
受付の用紙をもらった時に、前回は突然手が震えだして字を書けなくなってしまった嫌な
ことを思い出してしまった。もうそこから一歩も進めなくなり、前回と同様な症状になって
しまったのである。そのことを受付の人に話して、右手を左手で抑えてヨタヨタした字で受
付時間終了ギリギリまでかけて書いて提出したら、受付の人はパーキンソン病ではと思った
のか、「認知機能検査」は書く所もあるので書けるか聞いてきた。何しろ書きますと言って
講習会に参加すると、認知機能検査は他の6人と一緒にするのではなく、私だけ別の部屋で
ということになった。まず、①名前、生年月日、住所、年、月日、曜日等を書き込み、②1
枚の紙に4つの絵を見せ、それを4枚行い記憶させ ③絵をかくして回答用紙に絵の名前を
書き込ませる。④ヒントを出して絵の名前を書かせる。➄11時10分を示す時計を書く等
の検査で終了した。字はヨタヨタしているが「記憶力・判断力」は100点満点中86点で
問題なしの判定であった。他の検査機器を使っての運転適性指導検査結果や視力検査も前回
よりもレヘルダウンしている結果だった。それは老化ということで仕方ないことであるが、
これから3年間免許証出来ることが何よりもうれしかった。これからも安全運転をモットー
に過ごしたい。(郷土の会 岡村)
82
「お日様に感謝せずにはいられない!」
私たちは「太陽の光と熱」なしには生きていけない地球に住んでいる。人間生まれた時か
ら死ぬまで太陽の恩恵で生きていることを当たり前のことと受け止めてきたので、改め
太陽について考えるという機会は少なかったように思う。最近の私は妻の介護するようにな
り、主夫業に徹してから「お日様の有難さ」を意識しだした。というのは家族三人の毎日洗
濯物が出るので、洗ったり干したりするため、必ずテレビの天気予報を必ずチェックして洗
濯物を天日干しにするか、コインランドリーで乾燥させるか、室内のエアコンを使って乾燥
させるのか参考にしている。このやり方は妻がこれまでに行ってきたを踏襲しているのに過
ぎないなのだが。
洗濯物を干すのに最適なのは自然エネルギーを利用した天日乾燥である。太陽の熱と自然
の風を利用して乾燥させるので、時間はかかるがお金もかからないし、匂いもつかず優しく
乾燥することから人間有史以来続けられている。これまでも天日乾燥を当たり前のことと思
って「太陽の恵み」について深くも考えてもみなかった。結婚してから妻が洗濯物を引き受
けてくれていたので私自身「洗濯物を干す」という行為について余り関心を持たずに2年前
まで過ごしてきたことは言うまでもない。
大宮のこの地に引っ越してきて38年が経つが、妻は34年間二階のベランダの洗濯物を
していたので、日光も風も強いので時間も短く良く乾燥していた。その内に足のリュウマチ
から高いところへの上り下りが辛いものになり、二階のベランダは止めて一階の自動車車庫
の中に干すようになった。ここは低いので太陽の当たりも悪く風も弱いので乾燥する時間は
二階のベランダに比べて長くなった。やがて2年過ぎたあたりから更に妻の足が悪くなり、
立てなくなったことから介護が始まったので、洗濯物を私が引き受けてから、また、二階の
ベランダに干すようになった。
それにしても家族の洗濯物を洗って干して取り入れて仕分けしてアイロンかけして整理す
るという行為を40数年も家族のために黙々と繰り返していたことを思うと、本当に妻には
頭が下がり、感謝せずにはいられないのだ。洗濯物をとおして太陽の有難さを知るが、この
太陽の誕生の約138億年前に宇宙が誕生し、太陽の誕生は今から約46億年前、原始太陽
の生成からわずか8,000万年くらい後のことといわれている。地球の誕生も46億年前後
といわれている。人類の祖先は600万年前に誕生ということになると、人類が太陽の恩恵
を受けるようになったのも600年万年前ということになる。
地球上にふりそそぐ光と熱の源、「太陽」。直径は約 140 万キロで地球の約 109 倍、表面
は絶対温度 6000℃(5800k)。重力によって強く圧縮された中心部は高
温・高密度で、4個の水素原子核が1個のヘリウム原子核に変わる核融合
がおきているという。毎日大量の水素がヘリウムに変わっても、あと 50
億年以上は現在のまま輝きつづけるとか。約 46 億年前に誕生した太陽は、
今、壮年期をむかえているという。私たちが地球上で生きていけるのは、
太陽のおかげといっても過言ではない。だから古代より世界各地で太陽
は崇められ、崇拝と伝承は信仰を形成したと言われている。日常生活の
洗濯物をお日様に干す有難味を感じて、今まで気にも留めなかった太陽
について少し勉強させていただいたことに感謝!(郷土の会岡村)
83
妻は要介護2に認定された
何しろ3年前から妻は足首や膝の慢性関節リューマチが酷くなり始め、思うように体が動
かなくなったことから、日常の家事も遅れがちになりだした。几帳面な妻もそのことによっ
てストレスが溜まりだし、そのころから口癖のように自分の事は自分で出来るようにして下
さいと言い出した。料理も手作りが大好きだったが次第に出来合いで済ますように変わって
いった。手作りをしても時間に間に合わないほどスローモになって私とぶつかる事も多くな
って気まずい思いもしばしばだった。
そしてある時、家事を代わってという。考えてみると、家族のために40数年も家事を担
当してきたが、体調の変化から担当することもままならない状況になってしまったのである。
妻の支えがあって私も結婚してから今日まで自分の好きな登山・スキーを楽しめたことに対
する感謝の気持ちから、これまでの外出活動も控えて、2年前から家事一切を私が担当し現
在に至っている。昨年の春頃から妻の足首や膝の劣化は更に進み、畳に座ったら時間を掛け
ても立てなくなってしまったので、椅子やベットの生活に切り替えた。
その時も今も私が妻の腰を抱えて起たせているから、歩けるので介護保険制度の利用につ
いて毛頭考えてもみなかったことは言うまでもない。平成12年4月から今日まで高い保険
料を納めているものの、我々がそれを利用することなど夢にも思っていなかったので、その
ため妻が楽に動け使えるようにと、トイレも和式から洋式に代えたり、畳に敷く寝床もベッ
トに代えたり、手すりをつけたりするなど60数万円掛けて自費で居住空間を改造してしま
った。
そんな状況を伊奈学園卒業生の仲間に話せば、なぜ早く要介護認定を申請しなかったのと、
認定されてから改造すれば1割で済んだのよと言われてしまった。年金生活者にとって60
万円が6万円済むのかと思うと、介護保険の利用を知らなかったことがかえすがえすも残念
であり、本当に悔やまれてならない。私も退職者会の役員をしており、会員を対象に認知症
の予防学習会等を開催し参加しているが、そこでは会員それぞれの具体的な介護の実態を中
心に学習会を行っているので、介護保険活用については私の勉強不足だったことは否めない。
保険法をよく読んでみると、『寝たきりや認知症などにより、介護を必要とする状態(要介
護状態)になったり、家事や身じたく等、日常生活に支援が必要な状態(要支援状態)にな
った場合』にサービスを受けられるということになっている。
そこで私も包括支援センターを訪れて指導を受けて、介護認定医師に妻の状況を把握して
もらうことから始まった。区役所に介護認定の申請を出して、調査員の家庭訪問を受けて妻
の実態を調査してもらう。その後、調査員の調査に加えて認定医師の診断書を添えられ審査
委員会に諮り決定するまでに 1 ケ月半を要したが、『要介護2』に決定した。これで介護サ
ービスが受けられる権利が発生したことになる。
いざという時の保険ということで「要介護認定」を受けたが、妻も私も今のところ、私が
元気なうちは介護を続けることにしているので、介護保険のサービスは居住空間の改造の時
に利用しようと思っているに過ぎない。これから5人に一人が介護保険のお世話になると言
われているが、私も妻の介護認定申請を通して介護保険の現実を勉強させられたことは言う
までもない。(郷土の会 岡村)
84
『魅力ある岩壁の劔岳と長二郎谷の大雪渓』
10月14日、偶然にテレビのチャンネルを選定して開けてみると、3時からNHKテレ
ビで山岳ガイドの佐伯巌さんに案内されて、俳優の石丸健二郎さんと山岳ライターの火林千
穂さんのお二人が国内有数の難易度と言われる北アルプスの剱(つるぎ)岳に、一般コース
とは違う長二郎ルートからの登頂に挑んだ光景を放映していました。ウォーキングから帰っ
てきて着替え中だったが、その手も止めて終わりまで見てしまった。
明治時代に日本の山のほとんどが日本陸軍参謀本部陸地測量官よって初登頂されているも
のの、この劔岳は測量官柴崎芳太郎によって各方面から登頂を挑戦したがことごとく失敗し
ている。残された登頂可能なルートとして大雪渓の続く谷左俣を案内人「宇治長次郎」らと
登り詰めて、1907 年(明治40)7月13日に登頂した。柴崎芳太郎は仕事のために登っ
たとはいえ、人跡未踏の初登頂と思って頂上に立った時に、既に山岳信仰の先人によって登
られていたことが分かった時、彼の胸中は複雑な思いだったに違いない。
今回の放映に釘付けになったのは、私が47歳の平成2年7月26日、長次郎谷大雪渓を
詰め、池ノ谷乗越から岩稜に取り付き、長次郎の頭を越えて念願の剣岳に登頂。帰りに長二
郎谷左俣を下り、熊岩まで回遊してきたからに他ならない。このルートは超上級者向けで一
般向きでないので現在もあまり登られていないことは言うまでもない。私も日本の山の中で
一番魅力に感じているのは劔岳である。この頂上(2998m)に立った人ではないと素晴
らしさは堪能できない。それほど魅力ある難度の高い山である。
私が劔岳登頂記をHP公開する切っ掛けとなったのは、新田次郎の小説「劒岳・点の記」映
画が公開されたこともあって、その映画を平成21年7月2日に鑑賞したことから劔岳のわ
が登頂を振り返ってまとめて伊奈学園ホームページで公開に踏み切った。
その時の伊奈学園ホームページ編集長曰く
『平成21年12月、専科第一期のホームページ作成委員へのページ作りの補習講義のこと
でした。慣れぬ作成ソフトの活用に悪戦苦闘している委員達と作業を進める過程で、専科の
85
ホームページを辿っていた時に、専科郷土コースの岡村昭則さんが上梓した「劒岳・点の記
映画鑑賞と わが登頂 を振り返る」のページに行き当たりました。
わずか3日間の夏のホームページ講習受講だけで、「エッ!岡村さんは、もうこんなにペ
ージが作れるんだ」と、PDF化されたページに感嘆しながら本人に質問しました。
鈴木先生(17期 鈴木進さん)の援助でここまで出来ましたとの回答でした。ページ作り
の技倆はさておき、記事の内容が編集に携る小生にとって、嬉しくなるものでした。
長年の鯨飲馬食ですっかりメタボ化し、若い頃の面影の余燼すらない小生も、学生時代は、
例年11月に雷鳥沢でのスキー初めから翌年5月の第三ケルンでのスキー打ち止めと、山に親
しんで事から、この記事は、ストーンと胸に収まるものでした。憧れの剣、新田次郎の小説
で、その想いが増幅されて事もありますが、ワンダーフォーゲル的な山の親しみかたの者に
とっては、決して近づけない、近づいてはいけない山でありました。岡村さんの長年の登山
歴に裏打ちされたこのページ、貴重な画像をまじえ読み応えのあるものになっております。
ぜひ、訪れて頂きたいと思います。』と。(郷土の会 岡村)
86
出雲路を旅して
(H27.10.29~31)
リュウマチで足運びの悪くなってきた妻のために、昨年の晩秋に熊野三山、今年の5月に
山陽路を飛行機とレンタカーを使って旅した。今年の秋も妻にリクエストしたら鳥取砂丘、
足立美術館、出雲大社に行きたいというので、二人の息子に呼びかけたらみんな参加してく
れるという。妻にとっても家族全員で旅するのは平成8年正月以来、20年ぶりの事で大喜
び。旅行の計画は旅慣れている次男に何時もお任せで、私は車を運転するのが役目である。
運転もカーナビに案内されるのであるが、助手席に次男が座り、常に自分のスマホを使って
適切なアドバイスをしてくれるので、迷うことなく目的地に妻を案内出来るので助かること
は言うまでもない。妻の希望を叶えてあげたい思いから、出雲路の旅へと踏み出したが、リ
ューマチで足が不自由な妻との旅なので、彼女の健康状況によりどこで打ち切るか常に不安
が付きまとう旅でもあった。
第1日 羽田空港~鳥取空港~鳥取砂丘~皆生温泉(泊)
10月に要介護2を認定された妻は昼夜逆転気味の生活をしているので、旅行出発に向け
て早く起きる訓練を1週間ほど行ったことから、今朝は早く起きて準備したので遅れること
なく10時前に家を出ることが出来た。午後1時に羽田空港を離陸。何しろ飛機が飛び立つ
ときだけシートベルトをして、水平飛行に入れば外して自由になれる。今回も富士山はじめ
南アルプスが望めた。また、鳥取空港に着陸する前に砂丘も見えたが狭いのに少し期待外れ
だった。1時間ちょっとで目的地の鳥取空港に着いた。飛行機利用の旅に慣れてしまうと、
この速さが負担を軽くしてくれるので我々にとっては助かる。
レンタカーの続きを済ませ、カーナビに案内さ
れ、まずは鳥取砂丘へ向かう。鳥取砂丘は南北
2.4km、東西 16km という日本最大規模の砂丘で
あるが、海岸にある砂浜は狭い。我々が鳥取砂
丘ジオパークセンターに着いた時は、北風も強
く砂丘の砂も舞い上がっている状況で空は少し
霞みがかっていた。砂丘の展望台へは妻の歩調
に合わせるべく、時間を掛けながら木道を回り
道して登った。展望台からは砂丘全体が望める
ものの、飛行機で見たようにスケールが小さか
ったことは言うまでもない。期待外れだったこ
と は 言 う ま で も な い 。 夕暮れも迫っているので、
皆生温泉まで100キロ近いので運転を長男に代わってもらう。日本海沿いの国道178号線
を西下する。途中の白兎海岸の道の駅で休憩を入れると、ここは小学校1年の時に授業で教え
てもらった有名な「因幡の白兎」の神話の里である。大黒様と白兎の石像に現代風に「恋人の
聖地」名前が付けられているのにはびっくりした。
第2日 皆生温泉か~安来市・足立美術館(泊)
★旅先では早起きして周辺を散策して歩くのが私の日課となっている。海水浴場の砂浜を歩
くのも清々しい。日本海の波は荒々しく、砂浜の幅も短く遠浅ではないので怒和も先には波
消しブロックが積まれて防波堤となっているが満潮時には頭を出すだけなので、泳ぐには要
注意と思われる。今日は足立美術館まで30分という道のりなので11時過ぎに出る。長男
87
は参加せず我々3人で米子市を抜けて米子南から山陰道に入る。山陰道は1車線の対面通行
の高速道路なので狭くて注意しながら安来ICまで走る。
足立美術館を目指すもド田舎の風景が続くので、誰しも日本一の庭園がこの地にあるなどとは
思いもよらないだろう。低い山の麓にある足立美術館の物凄い広さの駐車場には驚いた。それ
だけ大勢の観光客が来るのだろう。この美術館が
なかったらと思うと、安来市はこの美術館のおか
げで町起こしに成功しているともいえる。駐車場
の隣には毎日4回上演している大きな安来節演芸
館もある。我々もテレビや新聞でしか知らない足
立美術館に期待を込めながら入館料2300円を
払って入館する。
妻
が
前々から訪れたいと言っていた、足立美術館の名庭園と名画の鑑賞を終えたが、足が不自由
な妻にとって鑑賞することは大変だったことは
言うまでもない。特に1FからF2への移動は
大変だった。特に妻は名庭園については「素晴
らしい! 素晴らしい!」の一言に尽きると感
想を述べていた。この庭園を見るだけでも遠く
から来た甲斐があったという。それ程価値のあ
る庭園と言える。
また、妻にとっても横山大観のファンでもあ
り、足立美術館で横山大観の多くの作品を鑑賞
できたことに満足し、ミュージアムショップで
横山大観の2016年のカレンダーを買ってい
た。
88
第3日 皆生温泉~出雲大社~日御碕神社~米子鬼太郎空港~羽田空港
旅の最終日であり、出雲大社まで1時間半を往復して米子鬼太郎空港に4時までに帰って
来なければならないので、チェックアウト10時までには宿の出発を考えていたが、妻のこ
ともあり思うようにはいかず。チェックアウトしてからホテルを背に記念写真を撮ってもら
い、一路、昨日走った山陰高速道路へ目指すが、市内は土曜日とあってか混雑している。高
速道路を西下するも松江や出雲に出掛ける人も多く高速道路も車列が続いていることは言う
までもない。小便が近いのに途中のサービスエリアで休憩もせず出雲市に入ってしまったの
で、急遽、国道沿いのコンビニに入り、トイレを借り、帰りの時間を考えると食堂で昼食を
する時間もなさそうなので、パンと飲み物等を買い込んで出雲大社へ急いだ。運よく出雲大
社の臨時駐車場にレンタカーを止められたので参道も近かった。
足の不自由な妻と途中から入る参道まで行
くのにも時間がかかる。何とか三本もある参
道に入ると、南にある鳥居の方から老若男女
の大勢の人が拝殿を目指してくる。我々もこ
れまで伊勢神宮、熊野三山、明治神宮、地元
の氷川神社、鹿島神宮等数多くの神社を訪れ
てきたが、この出雲大社は、10月には日本
全国の神がこの出雲大社に集まることから神
無月と言われているように格別である。その
ためか建物や注連縄にしても他と比べてスケ
ールが大きい。年間参拝者数は230万人と
言われている。
我々も大勢の参拝者の中に紛れて拝殿でお賽
銭を上げて「家族の絆や健康」を祈願し、その裏側にある本殿の八足門で同じように祈願し
た。本殿の中には遷宮事業に協力している人だけが入門できるように木戸のところで関係者
がチェックしている。妻が祈願して降りようとしても石段の段差が高いので一番端に行き手
すりに掴まって下りようとしたら衛視が飛んできて下りるまで見守ってくれた。感謝あるの
み。帰りは、観光客で溢れ返っている賑やか門前町を通ると、意外にも出雲そば店が多いの
に気が付いた。しかし、足立美術館脇の蕎麦屋の味の悪さに閉口して関心は薄れてしまった
ことは言うまでもない。次第に疲れてくると
何事も新鮮さが失われ早く切り上げたい気分
に駆られる。お天気のよい出雲大社の訪問も
終えて息子たちが訪れたいという日御碕神社
へ向かう。ここに出雲大社から日御碕神社ま
で15分ほど1車線の狭い海岸線の道路を走
り、神社に入る交差点に来たら神社の近くで
火事が発生し、車が入れないので息子たちだ
けが徒歩で行き、
我々は近くの日
御碕コミニティティセンターの駐車場に車を止めて時間を過ご
してから神社の入り口の交差点に行き息子たちを乗せて一路米
子鬼太郎空港へ向かった。
89
かかりつけの歯医者が亡くなった!
私が今住んでいるところにマイホームを建ててから40年が経つ。引っ越してきてから約
10年後に近くに七里歯科院がオープンした。「かかりつけの歯科医院」として通いだした
ことは言うまでもない。この歯科院に来るまでに私の歯はボロボロ。振り返っても最初の虫
歯は高校生の時にはじまり、大学入試では「今治水」という歯痛の痛み止め薬を持参しての
受験風景であった。その虫歯も治療してしばらく痛みどもなく歯科医院にはご無沙汰してい
たが、就職してから虫歯が疼きだして、職場の近くの歯科医院に通いだしたところ、その歯
科医師は歯根に膿が溜まるということから奥歯をはじめ多くの歯を抜歯してブリッジでつな
ぎ合わせるようにしていた。これが現在の私の歯が入れ歯になってしまったベースである事
は間違いない。
七里歯科院がオープンした当時は、周辺に歯科がなく4台の診察台はフル稼働で、先生は
手洗いを繰り返しながら忙しく診察台から診察台へと患者の治療を行っていた。東武野田線
の七里駅を中心に地域の開発が広がって住宅が沢山建てられ、人口密度が密集してくるよう
になると、他にも歯科医院があちこちに開設されるようになった。そうなると七里駅から歩
いて20分はかかる七里歯科院の患者さんの数も減りだし、先生を補助する人の数も何人か
減ったことは言うまでもない。
★狭い地域の中に沢山の歯科医院が開設されたので、インターネットで調べてみると、厚生
労働省の医療施設動態調査報告書では、平成26年8月末で歯科診療所数は 68,836 ヶ所で、
コンビニストアーの 55,774 ヶ所を上回っていることを知った時には本当に愕然とした。我が
家の2キロ範囲内に15もある歯科医院の数の多さを見ても、これでは各歯科院の患者さん
の数の確保は大変だと思わざるを得ない。さらに調べてみると、歯科医師の数が 1970 年と比
べて約 3 倍、1980 年と比べても約 2 倍になっていることが分かる。1970 年というと昔のよう
思われるが、定年制のない免許なので、現在でも現役可能な 70 歳の高齢医師が免許を取得し
た頃ころであることから、この 40 年で日本の人口は 1.2 倍程度にしか増えていないのに、人
口 10 万人当たりの歯科医師数で見ると歴然、36.5 人から 80.4 人と 2 倍以上になっている。
明らかに供給過剰である。これでは歯科医院間での競争が激化、それに伴って経営状態が
年々悪化しているに違いと思った。七里歯科院も訪れる度に昔のような盛況さがみられない
ことからもしかりである。この状況が今では、歯科医院はコンビニの数よりも多いと言われ
るほど増えている所以でもある。
★七里歯科院の先生が今年の5月に60歳という若さで突然亡くなったしまった。この先生
はぶっきらぼうであるが、説明しながら黙々とその人にあった治療の仕方で行ってくれる。
そこが自分は好きで通い続けて来たのだが、今年の3月に入れ歯の調整してもらった時にも
う作り直さねばと言われたので、8月になれば医療費が3割負担から1割負担になるので待
ってもらうことにしていたが、それもかなわず。私は新たな歯科医院を探すことになった。
そこで七里歯科院よりはるか昔から開設している横尾歯科医院を訪れた。ここの先生に七里
歯科院に通っていたことをお話ししたらよく知っており、快く私の入れ歯を作ってくれた。
七里歯科院とは少し高低差があるものの、私にはフィットした入れ歯であり、満足している。
その時に感じたことは、これからの歯科医師も、技術が高く、マーケティングセンスに溢れ
る歯医者でないと生き残れないと思った。(郷土の会 岡村)
90
悲しいかな通夜だから遠き日の仲間に会える
何時ものことながら、若き日に活動を共にした仲間も年月が経てば、それぞれの置かれた
環境が違って、会う機会もほとんど無くなった人や、その後活動を共にした人でも年数回の
顔合わせとなってしまう。私の場合、卒業後、都庁の建築局に就職してから6年間という時
間の中で、職場の仲間と登山やスキー等の交流を築いたことから、それがベースになって、
現在まで私の生甲斐となって続いてきた。7年目に都庁を離れたものの、異動先でも、それ
まで培ってきた登山やスキーを中心に仲間が増えたことは言うまでもない。
不思議なもので最初に就職した所は、私にとっては故郷のようなもので、お世話になった
先輩や仲間がいる間は、都庁を訪れる度に職場を訪問し、会えれば必ず昔の思い出を共有す
るベースがあるので会話を紡ぐことができた。寂しいかな、やがて月日が経ち、定年を向か
えれば、多くの仲間とはその機会も全く失われてしまったものの、登山やスキーでお世話に
なった大先輩の要請もあって、そのグループの年一度の懇親登山を万年幹事としてわたくし
が取り仕切ってきた。15人の昔の仲間に何回呼びかけても参加する人、しない人様々。幹
事として若い時にあれほど大先輩にお世話になっているのに、何故、大先輩の呼びかけに応
えられないのと思ってしまうことしばしば。その内に参加する人も7人と確定してきたので、
その人たちを中心に懇親登山を企画し29年間幹事を引き受けてきた。
しかし、月日が経つにつれてその仲間も高齢化し、それぞれが体調不良を抱えることにな
り、やがては病に倒れ旅立ってしまう。特に忘れもしないのは平成11年11月11日に先
輩で長野県出身のスキーの名手Mさんが癌で亡くなった。Mさんが危ないということは耳に
入っていたが、その前日、我々は大先輩と懇親登山をしていた。下山して一泊してから帰京
すれば亡くなったという知らせが届いた。Mさんは退職して間もないことから、通夜には都
庁時代の大勢の仲間が来たので、皆さんにお会いすることが出来た。35年ぶりにお会いす
る人もいたが、昔と変わらず懐かしく皆さんとお話しする機会を持てた。この時、都庁時代
の古き仲間とお会いできたのは最後かなあと思っていた。
やがて大先輩を囲む仲間もみんな年金生活者となっているので懇親登山や暑気払い等が定
例化していった。しかし、齢を重ねると共に皆さんが体調不良で病に倒れ亡くなる人も急に
増えてきた。仲間の一人、77歳のYさんは握り屋のケチであるが、冗談好きで憎めない性
格である。ある年の年賀状に昨年は大病してねと冗談交じりで添え書してきたので、私は冗
談と受け止めて連絡を入れなかったら、暫くしてから突然亡くなったと大先輩から連絡が入
った。その時、私が電話していれば、Yさんのために懇親会を開けたのにと思うと、後悔が
先だって残念でならなかった。Yさんは元職場で人事担当していたこともあって、通夜には
元職場の仲間の多くが参列されていた。まさか私が最初に就職した職場の大勢の古き仲間に、
また会えるとは思ってもいなかった。
話を変わるが、都庁を異動で去ってからの新しい職場の仲間と行動を共にしたことから大
勢の仲間と交流があった。その当時は、職場結婚が華やかなりし頃で、私の後輩たちも職場
結婚して、奥さんは専業主婦として家庭に収まってから一度もあったことは無かったが、先
日、後輩のお母さんの通夜で二組の奥さんに43年ぶりに会った。昔をお互いに知っている
ので、年老いたとはいえ、容姿は変わらないし、昔のように話せたことが何よりもうれしか
った。(郷土の会 岡村)
91
東京都美術館・モネ展
(H27.11.18)
今日は東京美術館に駆けつけて「 東京都美術館《特別展》マルモッ
タン・モネ美術館所蔵 モネ展見学者の無料の列にシニアユニバーシテ
ィの仲間7名と加わったが、その列でさえ既に数百人が並んでいるので
あるから驚く。美術館側の案内人も大声で「無料の人はこちら、40分
以上待ちです」と案内している。何しろ入場口に着くまでに人の熱気で
汗ばんでくる始末。約1時間後に無事に入場を果たして、モネの展示会
場に入るや、作品の前は黒山人盛りで作品の前などには近づけない。ち
らちらと流し目で通過していく。美術鑑賞はワンフロア―の会場こそが
鑑賞する集中力をそらさないことからも最適であるが、ここの美術館の
展示会場のレイアウトが悪く、お年寄りには会場を移るのに2F、3F
へとエスカレータを使うので移動が大変だ。私もこれまでもモネの作品展は何回も見ている
ので、有名作品以外はあまり興味もなく流していた。モネの作品を見ていると、岡倉天心が
五浦で行った日本画の「朦朧体」につながるのではないかと思いを馳せた。流しながら鑑賞
したとはいえ、鑑賞疲れよりも人込み疲れと行った方が正解である。休憩室から見ていると
無料日とあって鑑賞する人は美術館を取り巻くほどの列には驚いた。美術館側の案内に聞く
と前回の無料日には約11,000人が訪れたという。大勢の人が名画を鑑賞することはいい
ことだが、何だかこの人の行列を見ていると、時間を持て余すお年寄りの時間つぶしとアウ
トドア感覚で来ているのではないかと思えてならない。私もその中の人ではあるが、違うの
は多少なりとも美術作品愛好者であるところである。個人で訪れるならば入場料を払って空
いた日に一人で来る。ゆっくり鑑賞するに違いない。モネ展の内容を少し書き加えたい。
★マルモッタン・モ
ネ美術館には、印象
派を代表する画家ク
ロード・モネの、86
歳で亡くなるまで手
元に残したコレクシ
ョンが所蔵している。
本展は、印象派の画
家を見ていた医師の
ジョルジュ・ド・べ
リオが初期の印象派
の作品をコレクショ
ンしていたが、後に同美術館に寄贈していることや、息子ミシェルから同美術館に遺贈され
たこのモネ・コレクションを中心に、約 90 点をご紹介している。混雑する中で兎に角も、個
人的に「印象、日の出」を見たかったが、10月18日で終わっていた。その代わりに「ヨ
ーロッパ橋、サン=ラザール駅」が展示されていた。その他の有名作品として晩年のモネは、
光の変化に伴って移り変わる水面を見つめつづけ、ジヴェルニーの庭を描きながらも、睡蓮
や太鼓橋の形態は次第に抽象化し、色彩溢れる画面が生み出され、ときに荒々しい筆触をみ
せる最晩年の充実した作品群は、モネの眼を通した水の庭を体感させてくれる「睡蓮」、
「バラの小道、ジュヴエルニー」等を鑑賞で来たのでよかった。(郷土の会 岡村)
92
登山・スキー仲間に友情あり
(平成 27 年 11 月 27 日)
私に山スキーの楽しさを教えてくれたのは、都庁山岳部のY先輩である。スキーを習いだ
したばかりの昭和38年1月、バス一台を仕立て菅平で開かれた職場のスキー教室に参加さ
せてもらった。その頃は本当に初心者だったのでボーゲンがやっと曲がれるようになった腕
前である。Yさんは戦後都庁に就職してから菅平の民宿に山岳部の仲間と通い詰めて練習に
励んだスキーの名手である。当時のフランスの流れを組むスキー技術を駆使していた。だか
ら周囲からスキー宿でも個室のようなところに泊まっていたことを覚えている。みんなから
「ヤッサン、ヤッサン」と呼ばれ一目置かれていた。私は職場で顔を合わせることもなかっ
たので、どんな人か知らなかった。
★スキーゲレンデに出れば、初心者の我々は「ヤッサン」に教えもらう機会もなかったこと
は紛れもない事実である。スキーを回転させるには、その前に足首に一瞬荷重を掛けて角付
けしてスピードを落とし、その反動を利用して回転させるチェックがどうにも上手くゆかな
いので、ヤッサンに教えてもらいなあと先輩たちの指示もあったことから、初めてヤッサン
の部屋を訪れて、座布団を利用してチェックの入れ方を教えてもらったのが最初の出会いで
ある。その後、上達してパラレルタ
ーンできるようになってからスキー
を開き出さず その場で内スキーを持
ち上げたまま滑る(シュリッツ)ト
ップ上げ回転する技術を教えてもら
った。その後、何回か一緒に参加さ
せてもらうようになってから、山ス
キーへの誘いも受けるようになった。
それが切っ掛けで4年にわたる乗鞍
岳年末年始のスキーへ合宿ではマネ
ージャーを務めさせてもらった。
★私がゲレンデスキーよりも山スキ
ーに魅せられたのも、もともと登山
愛好者だったから他ならない。思い
返せば、八甲田山、立山、五色温泉
周辺ツアー、八幡平ツアー等へご一緒し
た。私は途中で都庁から他の団体に異動
して、そこでスキー部を創設したり、山
岳部に入ったりして活動したので、異動
してからは時々の懇親会で会うぐらいで、
登山やスキーでご一緒することもなかっ
た。しかし、そこにはヤッサン達から教
えていただいた技術がベースに異動先で
花開いたことは言うまでもない。
★そんな私とYさんの結びつきを強めた
のは、Yさんが定年退職するときに私を
呼び出して年一度で良いから懇親登山を
93
開いてほしいとの要請があった。Yさんには私の結婚式にもOさん
と一緒に出席していただいているので、この二人のためには一肌脱
がなくてはと思って30年近く万年幹事を引き受けて懇親登山を取
り仕切ってきた。当初15人ほどのメンバーも7人に減り、最後は
ヤッサンを含め4人となってしまった。
80歳に届く前にヤッサンは登山とスキーから引退すること私に
告げて、登山用具を自分の部屋に全て並べて必要なものは持って行
けと、また、50冊以上の本はすべて私の所に宅急便で送ってきた。
登山道具は使える物だけもらってきたが、本の始末には困ってしま
った。というのは自分に合った本はいいが、写真集が多くて困って
しまってしまった。捨てるわけにもいかず。要らない本をヤッサン
には申し訳なかったが古本屋に持っていき活用してもらうことにし
た。登山用具はいまでも活用している。
★そんなヤッサンが昨年89歳を迎えところ、突然末期の肺がんを宣告され、手術はしない
と決断してから登山やスキー仲間で本当に親しい4人を呼んで、お酒を楽しみながら経過報
告や一泊の懇親会を開いてくれるように要請があった。それに応えるべく私が企画したもの
の、実施日の1月前にヤッサンの体調が急変してしまった。一泊の懇親会は取りやめて我々
4人はヤッサンのお見舞いに駆けつけた。その時は我々も本人もこれが最後の別れとお互い
に理解していたとはいえ、ヤッサンが最後に手を合わせて
「有難う」という姿は、いつまでも脳裏に焼き付いている。
それから1週間後にヤッサンは旅立っしまった。
★
我々に山スキーを教えてくれたヤッサンの通夜で、久しぶ
りに都庁時代のスキー仲間や登山仲間にあった。その帰り
にみんなで懇親会を開いた時に、T先輩から「岡村君の南
アルプス紀行をホームページですべてを読んできたが、他
人が真似できない山行で凄い記録の一言に尽きる」とみん
なの前で披瀝してくれた。それを聞いた時に、ホームペー
ジを読んでくれている人が居たことを思うと本当にうれし
かった。Tさんも登山愛好者であるからこそ読んでくれたに違いない。Tさんと私は乗鞍岳
のスキー合宿では常に先頭を切って引っ張っていたことは言うまでもない。
★ヤッサンの一周忌となった11月に、残されたOさん、Tさんと私の3人でヤッサンのお
宅を訪問してお線香を上げさせてもらった。半年前は写真を持ち寄ってヤッサンを偲ぶ暑気
払いを行った。お互いに皆さん後期高齢者の身であり、加齢に伴い障害も出ている人もいる
ので登山やスキーはできないが、飲んでは昔の思い
出を語りながら楽しい一時を過ごしている。残され
た3人はここに「山には友情がある」を実践してい
る。ヤッサンの奥さん曰く、「本人は89歳と覚悟
していたとはいえ、本人にとってはショックで有っ
たに違いない」と。また、主人がいないと話すこと
もなく、本当に寂しいと。また、我々3人が一周忌
に来てくれたことが嬉しく、元気をもらったと語っ
ていた。(郷土の会 岡村)
94
年末が近づくと届く悲しき喪中ハガキ
若い頃は、「喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます」という喪中はがきが届
くのも皆無に近かったが、齢を重ねるうちに年賀状をやり取りしていた先輩達の家族から届
くようになった。自分の退職後は、これまでの先輩や、在職中に年賀状のやり取りをした同
僚や仲間からの喪中はがきが次第に届くようになった。寂しいかなその数は年を追うごとに
多くなっていく。
「喪中はがき・年賀状欠礼はがき」は、近親者で一年以内に不幸があった場合に、年賀状
のやりとりをしている方へ、相手の方が年賀状の準備を始める前に投函して、喪中故に年賀
状をご辞退する慣わしである。届いたそれぞれの喪中はがきを読んでみると、文例は様々で、
単純に「喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます」と書かれているだけのものも
ある。大方は亡くなった方の名前、亡月、年齢、続柄等が記載されている。時には病名も書
かれているものもある。喪中はがきは逝去の知らせを送る側もいただく側も本当は悲しいも
のであるが、本当に悲しみが受けた側に伝わってくるものは、これまで親しくお付き合いさ
せていただいた方のみとなってしまう。大方は私たちが知らない送り手の親戚や兄弟姉妹の
喪中のお知らせであることから、目に留まることはほとんどない。
しかし、長年にわたってお付き合いさせていただいた方で、突然、その方の喪中はがきが
届き、初めて亡くなった事を知るというケースもこれまでもあった。今年も一枚の喪中はが
きに私は釘付けになった。「喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます かねて療
養中でありましたが母が十月十三日肺炎のため九十歳で逝去いしました ・・・・」と。私
が就職した職場の出先で働いていたころ、アルバイトに来ていた職場の近くに住む主婦で、
某有名女優の従姉妹にあたるというDさんである。その女優さんから連想しても美人の上、
気さくで、文学好きで、スキーをしたり、ダンスをしたりスポーツマンもあり、進歩的な考
え方をする人でもあった。
私たちの職場は20代の若手ばかりなので、すぐに
Dさんとは仲良くなり、我々の年齢に近いお子さんも
いたので話が弾み、のちのちまでその関係は続いた。
時にはそんなことで我々の仕事をお手伝いしていたた
いたこともしばしはあった。特に私とのお付き合いは
文学を理解する方だったので、俳句、エッセイ、短歌
を通してのお付き合いである。そして私が定年退職し
た時には、送別会も開いてくれた思い出もついこの前
のことのように蘇ってくる。
今年、年賀状を差し上げたところ、娘さんから「今でも山歩きをされてお元気ですね。母
は、8ケ月前から入院して、点滴治療中です。よろしく申しております。良いお年を!」と
年賀状がきた。一度はお見舞いに行かねばと思いつつも、私も妻の介護と雑事に追われ不義
理を重ねてしまった。突然の「喪中はがき」を読んだ時は「しまった」の一言に尽きる。と
いうのは中央大学に在学中、教育研究会に所属する先輩のザックを借りて北海道一周したこ
とがある。そのザックを貸してくれた先輩とは、卒業後半世紀にわたり一度も会う機会もな
かったが、先輩たちが一度つぶれた教育研究会を立て直すべく記念誌を発行したことが縁で
連絡が取れ、大学の先輩と会いましょうと話していたものの、会う機会を先延ばしにしてい
たことから「喪中はがき」で先輩の死を知り、「在学中の聞かねばならない事項」を聞き損
ねてしまったという苦い思いをした。今回も再び繰り返してしまった。本当に後悔の念が先
立つ。
95
私が登山・スキー・ダンス・俳句、エッセイ・美術鑑賞等を趣味にしていることから、特に
毎年一度、手作りの俳句集やエッセイ集を発刊しているので、文学を愛好しているDさんに
差し上げたこともある。そのようなこともあってDさんから、Dさんが活動している所属し
ているクラブで発刊した、エッセイ集や短歌集をいただいたこ
ともあった、今もDさんからいただいた3冊が手元にある。そ
れらを読み直してDさんを偲びたい。
ごりんの会の生立ちは、昭和62年4月港区主催「女性のた
めの文章入門教室」に参加した、卒業生の5人が自主グループ
として結成し、満5年を経てから初の文集発刊にこぎつけた。
最年長のDさんの牽引力大と会員から感謝されている。本人の
自己紹介は「一番の年長、会社生活をリタイヤして、その間の
年月を取り返すべく必死。ゼロからの出発は試行錯誤の毎日で
す」と。メンバーの方が次のように紹介している。「瑞々しい
感性を持ち、ひたむきな向上心と飽くなき好奇心で、絶えず前
進を続けている人。五輪の会の要となっている」と。「ごり
ん」創刊号に掲載されたDさんの文章は、Dさんの人生を振り
返りながら綴ったもので、人生の中で一番輝いた力作である。
★Dさんは吉岡美水先生創始以来二十余年短歌会にも参加して短歌同好会
誌「白雲」にも投稿していた。人生は出会いの連続でその出会いを大切
にしてDさんも、歌仲間と短歌を心の糧として時を楽しんできたのであ
ろう。私も俳句を嗜むことから短歌に対するDさんの思いも似通ったも
のがある。Dさんから短歌を詠むように勧められたこともあった。
★平成15年6月を以って10年のながきにわたって発刊した、短歌同好
会誌「白雲」も主宰者の事情で会の解散とともに閉じられた。会員の間に今ま自分たちの作
品の発表の場をもちたいことで、親しい仲間が集まって新たな
発表の歌集「さわらび」と定めて年一回発刊することになった
という。そこには、生きている限りは、喜び、悲しみ、時には
ロマンを求め、しるしとして残していく、それを短歌という形
を借りて作り出す、という大きな楽しみを、会員と分かち合い
たいというのが結成の原点となっている。何事も継続は力なり
と言われるようにここに真剣に取組んできた人たちの執念を感
じずにはいられない。
96
直木賞受賞作家の野坂昭如さんの死を悼む
12月5日、埼玉県立歴史と民俗博物館で専科一期校友会会員の奥山久子さんが「八人の
会・朗読の集い」での朗読は、野坂昭如・原作×黒田征太郎・画 戦争童話集・忘れてはイケ
ナイ物語り、『戦後70 年を迎えた2015 年、12 話(❶小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるク
ジラの話/❷青いオウムと痩せた男の子の話/❸干からびた象と象使いの話/❹凧になった
お母さん/❺年老いた雌狼と女の子の話/❻赤とんぼと、あぶら虫/❼ソルジャーズ・ファ
ミリー/❽ぼくの防空壕/❾八月の風船/❿馬と兵士/⓫捕虜と女の子/⓬焼け跡の、お菓
子の木)』を1 冊にまとめ、総タイトルを変え、世界文化社から新しく刊行。その中の最初
に書かれている「ちいさな潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話」であった。私も初めて
知る物語だったので真剣に聞いていた。
★内容は「日本海軍
の潜水艦を自分の仲間だと思いこんで、恋をしてしまった一頭のクジラが、その恋人を守る
ためにくり広げる、美しくも哀しいラブ・ストーリー」で人間を疑うことを知らないクジラ
の一途な思いが胸を打つはなしである。
★脳梗塞で倒れ、リハビリ中の野坂氏と黒田氏は、今再び、本書から「戦争によって常に弱
いものが命を無残にも奪われ、もてあそばれていく様」、そして、「本当の戦後」を迎えら
れる日を祈る二人からのメッセージを、多くの子どもたちに、忘れてはイケナイと……伝え
たい思いで再度刊行した。《あとがき》で「この童話の書き出しはすべて「昭和20 年8 月15
日」から始まる。戦争が終わった日ということになっているが、日本人はいつの間にかあの
戦争をなかったことのようにしてしまった。戦後というが、今もなお戦争は続いている。戦
争は気がついた時には、すでに始まっているものだ(2015 年夏 あとがき 野坂昭如)。奥山さ
んの朗読が終わってから5日目の12月10日の午前中のテレビで野坂昭如さんが9日に自
宅で意識を失い、病院に運ばれたが、死亡が確認されたと報道された時はびっくりした。野
坂昭如さんの「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話」を朗読で聞いていてよかっ
た。偶然とはいえ、何かの縁と思いめぐらした。
★私が野
坂昭如さんを知ったのは昭和50年で、私の職場に野坂昭如さんに良く似た職員がいて、そ
の彼が野坂昭如ファンであったことからいろいろと知るようになった。日本の作家、歌手、
作詞家、タレント、政治家、 放送作家としての別名は「阿木由紀夫」、シャンソン歌手とし
ての別名は「クロード 野坂」、落語家としての高座名は「立川天皇」、漫才師としての野末
陳平とのコンビ名は「ワセダ中退・落第」と多彩な能力の持ち主である。特に私は「黒の舟
唄」が好きで脳裏に残っている(https://www.youtube.com/watch?v=Vg9NUMzXLEI)。多方面
にわたって個性的な生き方をしているが、「生母との死別後,神戸の親戚に養
子として引取られ中学に入学したものの,1945年6月の大空襲で養父母を
失い,妹とともに戦災孤児となり、やがて妹が栄養失調で衰弱死したのちは大
阪,神戸,東京で放浪生活をおくり,その間,食べ物欲しさから窃盗をはたら
き少年院に収容されたこともあった」ように、戦争被災者としての体験を通し
て常に弱い立場の側から物事を考え、権力者に立ち向かい、平和への思いが強
く反戦主義を貫いているところである。忘れられないのは1983年12月、第37回
衆院選に金権政治を批判する意味で田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬挑戦したことだ。
(郷土の会 岡村)
97
家事の失敗連続でも頑張っている
足の悪い妻に代わって家事を引き受けて2年が経つ。最初の頃はいろいろと戸惑いもあっ
たが、今では板についてきたと言っても過言ではない程頑張っているこの頃であるが、しか
し、今でも判らないことが多く、失敗を繰り返していることは疑う余地はない。家事として
料理、買い物、洗濯、掃除などを日課として行っているとはいえ、時には思わぬ失敗をして
いる。
●炊飯器では炊飯器のスイッチ押し忘れで夕食時にご飯が炊けていなかったり、炊飯器にご
飯を入れたまま長時間保温をしていたり、炊飯器の水加減を計り間違えておかゆになった
り・芯にあるあるご飯になったり、時には炊くコメの計測を忘れてしまい水洗いしてからも
う一度計りなおして水加減を調整したり等ミスをしてきた。
●電子レンジでは電子レンジの中に食材を置き忘れてしまったり、解凍や温める時間を間違
えて水分が蒸発してしまったり、解凍しすぎでフニヤフニャノ煮たような状態になったり、
ビニール袋に入れて解凍やあたためをする場合に時間を間違えると、ビニールも溶け出すの
では思うこともしばしばある。
●ガスコンロについているグリルなど使う時に、グリル網に油を塗るのを忘れて焼くので焼
きあがった時に網に肉が少しついたり、グリル水入れ更に水入れを忘れてしまい自動消火し
てしまつたり、焼き魚をした後の始末を忘れて、次に使う時に臭いが残っていたり、失敗の
連続で手入れが大変なので、最近は、テレビで紹介していた無加水フライパンに変えて魚を
焼くようにしたところ失敗もなく焼いたり煮たりしている。また、鍋をかけっぱなしでタイ
マーをつけているので大丈夫と思って、その間にパソコンを開き動かすと鍋の事を忘れて焦
がしたこともある。
●冷蔵庫では、冷凍器に水を入れたものと勘違いしてなぜ氷ができないのとあわてたことも
あった。野菜などは冷蔵庫に入れておいても時間が来れば腐りだすこともあり、その他のモ
ノでも冷凍するならば別だが、常に消費期限をチェックしていないと捨てる羽目になる。ま
た、冷蔵庫をきちんと閉めないことからピーピーと警告音がでることもしばしば。
●洗濯機では、ズボンのポケットにティシュペーパーを入れたまま、洗濯してしまい、切れ
端が洗い上がりの衣類にびっしりくっついてしまったという失敗を何回か繰り返した。時に
はうっかりして洗濯物を干しっぱなしにして夜に取り入れるということもあった。
●買い物では、年金生活者故に目減りする年金に対応すべくスーパーのチラシを見て、特売
の日に買い物をチェックして買い物へと走っているが、チェックを見落として、安いものを
買ってこなかったことの口惜しさを何回も味わっている。
その他にもいろいろと失敗があるがことは間違いないが、私だけだろう
かと思っていたら、日本経済新聞の『これで解決!家事の「やっちゃっ
た・・・」』が掲載されていたので読んでみると、多くの人が失敗を重ね
ていることを知り、へんに安心してしまった。★冷凍を開けっぱなし
16.1%、★電子レンジでチンして翌朝まで 14.9%、★火をかけた鍋を放置
は 14.4%、★ティッシュを入れたまま洗濯は、17.3%、昨夜の洗濯物、放置しゴワゴワは、
17.1%という。とにかく私も先が長いのできを抜かず、楽しく家事に取組みたいと思ってい
る。(郷土の会 岡村)
98
私たちの年金があぶない!
昨年の10月末に年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF 厚生年金積立金130兆
円の資金量を持つ世界最大級の機関投資家)は、積立金運用計画を変える事を発表した。そ
の内容を見て驚いたのは、GPIFの資産構成を❶国内債券60%➡35%へ、❷国内株式
12%➡25%へ、❸外国株式12%➡25%へ、❹外国債券11%➡15%、❺短期資産
5%➡0%等々へ変更した。この年金運用計画を見て株取引をしたことのある人ならは、何
故バクチ的な株式の比率を増加させるのと首をかしげてしまうに違いない。というのは、株
式の取引にはリスクが伴い、株価が下がれば大きな損失を被り、元金が減る事請け合いだか
らである。私も定年退職してから少ない年金から自分の小遣いを捻出するわけにはいかない
ので、退職金の一部を株式で運用しているが、常にリスクがともない、リーマンショックや
上海市場の暴落の洗礼も受けている。その度に肝を冷やしているが、何とかこれまでも毎月
の小遣い分は配当をメインにプラスで来ているからいいようなもの、国民の年金財産をそん
なリスクの伴うバクチ的取引に半分も投資するなんて頭がおかしいのではと思わざるを得な
い。
★心配その1、なぜGPIFがこのような運用計画を発表行ったのかというと、これは安倍
政権が、国民にアベノミクス(大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成
長戦略)が上手く行っていると思わせるには、株式を上げることが手っ取り早いという発想
から、年金積立金を政権の思惑にあわせて運用するために、「有識者会議」を作って政権の
意を汲む顔ぶれの委員を大勢任命し、連合をはじめとする労働者の反対や、厚労省内の慎重
意見を押し切って「運用計画を変える提言」を強行したものである。その提言に基づいてG
PIFが年金運用計画を発表したのである。
★心配その2、みなさんもご存知かと思うが、いまや日本株式市場の取引の6割が外国人投
資家であることから、アベノミクスの効果と宣伝される株高は、主として株価だけに関心を
持ち時機を見て売り抜けるために買っている外資が主な買い手で、彼らには優良企業に投資
して育てるという動機はない。株価だけを支持率の材料にしている安倍政権は、外資が売り
抜けた時の株価暴落を防止するために年金積立金で買い支えしようと目論んで有識者会議を
作って提言させてGPIFに年金運用計画を変更させたと言っても過言ではない。
★心配その3、このまま進行すれば、国民が積み立ててきた年金である積立金が政権による
株価操作の道具にされてしまう。運用益が出ることもあるが、損失が出た時の被害は年金加
入者・受給者がかぶり、政権は責任を取らない。それがいつしか年金積立金の原資が減り始
め、年金受給者の年金も減額せざるを得ない状況も生まれてくる。
★心配その4、GPIFによる「年金運用計画」が発表されてからの株価は、政府主導のP
KO(株価維持策)と言われるようになった。GPIFは今後増加して行く年金給付金を確
保するために市場で資産を売却し、現金化する宿命を抱えている。GPIFが年金給付金確
保のために現金化に動いた際に、目標とする収益を確保出来るのかということが重要になる。
GPIFが国内株式を買っている間は、出来るだけ安い価格で売ってくれる投資家が必要で、
GPIFが国内株式を現金化するさいには、出来るだけ高く買ってくれる投資家が必要なわ
けであるが、それは市場にお任せする以外ないという寒さである。GPIFが国内株式を大
量に売却するとなると株式市場の暴落の引き金になることもある。
★心配その5、国内株式の割合を1%高めると、一兆円超の資金が株式市場へ流入すると言
われている。今回のGPIFの変更には、株式市場の活性化を狙う安倍政権の意向が強く反
映されている。しかし、みなさんもご存じだと思いますが、これまでも公的年金よりも高い
99
国内株式比率であった確定給付型企業年金や厚生年金基金は、1986 年度から2012年度ま
での間、修正総合利回りが21勝6敗であったと言われているのにも関らず、多くのその制
度を維持出来なくなって解散や破綻に追い込まれたことは周知の事実である。こうした失敗
から学ぼうともせず、政権維持のために同じ失敗を繰り返す方向へと歩んで行くのでしょう
か。
★心配その6、株式の本来の意味は、会社の資金を得るため、広く一般からお金を集めて企
業活動をして利潤を得て、その利潤の一部を配当として投資者に還元するというものですが、
今や株式は配当の期待というより、株価に高値が付いたとき、1秒単位でその株を売って利
ザヤを稼ぐものになってしまいました。機関投資家が株価を吊り上げ、売り抜けて稼ぐ。そ
んなバクチ的な株式市場に、コツコツ貯めた年金を、見かけ株価をあげるために注ぎ込むと
いう、しかも株価で損をしても、誰も責任は取らない上、アベノミクスが上手く行っている
ように見せるために年金を注ぎ込むなどは、言語道断です。
★心配その7、正確な年金情報を政府は開示すべきです。というのは、政府は年金の保険料
を徴収し、積み立てたり、運用したり、年金の支払いもしています。現在は現役世代の保険
料負担で年金受給者の支払いをしているが、それが足りなくなれば積立金の一部取り崩しや
年金資産の運用などによる収益をもって補充している。時には基礎年金(国民年金)の半分
は国庫負担として一般会計から捻出されている。しかながら、国が管理している国民年金や
厚生年金は、「公的年金預り金」ですが、将来支払わなければならない金額は計上されてい
ない。この金額こそが年金債務額で推測される金額は1000兆円と推測されているように
膨大な債務超過であるものの、一切公表されていない。いずれにしても、現状を正確に把握
するために、政府は一度、企業会計並みの徹底した開示を行うべきです。急速に少子高齢化
が進む中、このような不十分な年金会計で大丈夫なのかと強い不安を覚えるのは私だけであ
ろうか。
★以上のような思いでGPI
Fの「年金積立金運用計画」を懐疑的に見てきたところ、昨年10月末にGPIFが発表し
た「年金積立金運用計画」の実施状況を11月30日に平成27年11月末までに今年7-
9月期の年金積立金の運用で約7兆8千億円もの損失を出したと発表した。四半期の赤字額
として、リーマンショック直後の2008年10―12月期の約5兆7千億円を大幅に上回
り、積立金の市場運用を始めた2001年度以降、最悪となった。これには私も心配してい
たことが一挙に噴き出したことに驚いている。ニュース、経済評論家や各方面の話をまとめ
ると次のようなことに要約される。
★GPIFは、損失は8月中旬の中国・上海市場の暴落に端を発した世界同時株安「チャイ
ナショック」があったためと説明しているが、本当の原因は、安倍政権の推し進めてきた積
立金運用計画の変更にあったことは否めない。年金給付の原資を増やすためというのがその
大義名分だった。そこには国債に偏った安全運用を改め、リスクをとってもリターンを狙う。
そのためにリターンの大きい株式への配分を増やしたのだが、その裏側には、安倍政権には
もう一つの狙いがある。135兆円もの年金運用するGPIFの莫大な資金を株式市場に流
せば、株価上昇につながるのだ。株価連動内閣と言われる安倍政権は株価を上げることを最
優先させたのだ。実際に積立金運用計画の変更が発表されると株価が上昇している。我々の
年金が政権によって株価を上げるための道具に使われたと言っても過言ではない。
★GPIFは国内株式を買い進め、9月末時点で積立金の約21%を閉めていると言われて
いる。28兆円が日本株式につぎ込まれたことになる。「これだけ巨額になると、株式市場
が暴落しても逃げられない。ましてやGPIFが売るという情報が伝わった途端に、他の投
資家も逃げ出し、さらなる暴落を招くことになる。
100
★慶大の小幡准教授によると「昨年の株式運用倍増の時から政府は、年金制度運営の前提と
なる運用利回り4・5%を達成できないことを「リスク」と呼び始め、利回り0・3%の国
債で運用すれば確実に前提としている4・5%を達成できないので株式を増やした方が「リ
スク」が低くなると言い出した。世界的にも歴史的にも前例のない定義で、政府の説明は辻
褄合わせの屁理屈としか言いようがないと言及している。
★経済評論家の山崎元氏は「GPIFは市場運用をはじめた01年からの累積収益の推移は、
年率2・79%の収益を安定的に稼いでいると強調している。現在のハイリスクな運用方針
になってわずか一年なのに、収益は以前の低リスクで運用していた頃と同様に安定的に稼げ
るかのように見せかけている」と指摘している。
★今回の運用損で顕在化したのは、GPIFの運用体制の不安である。金融コンサルタント
の近藤駿介さんは「運用委員の中には、運用のプロ」が見当たらないと指摘している。それ
故に未公開株や不動産投資、「ジャンク債」と呼ばれる海外の低格付け債への投資を始めて
しまった。レバレッジ(少ない金額で何倍もの投資をしているのと同じ効果を狙う)ので損
も大きくなる。こうしたハイリスク投資は世界的にも珍しいと言われている。
★シグマキャピタルの田代秀敏さんは、「GPIFは、基礎年金部分(国民年金部分)の一
階、厚生年金部分の二階の両方を積立金として運用している。つまり公的年金すべてを運用
している国は極めてまれで、リスクをとった積極運用で世界的に有名なカナダやノルウェー
でも、実は運用しているのは、厚生年金の二階部分のみ。一階部分は社会安定のために安全
な運用を行っている。アメリカの社会保障年金制度の積立金は、政治的介入の懸念から株式
や債券への投資は禁止され、全て市場で売買できない国債で運用されている。★現在の株高
はただの官制相場と言われているように、GPIFが運用する場合運用委託先が信託銀行な
どを通して売買するため、投資主体は信託銀行ということになる。今の株価を支えているの
はGPIFマネーで、しかも安倍内閣が進めたポートフォリオ見直しによって、それに拍車
がかけられている。一部の識者から「官制相場」だと言われるのはこのためだ。アベノミク
スの成功を演出したい官邸の意向によって、GPIFの巨額資金を使った株価維持策が取ら
れているというわけだ。それに側面から日銀も株価を支えるために、株が下がって来たら、
直接に株の購入は禁止されているので上場投資信託(ETF=株に投資している)を買って
支えている。株式評論家の富田隆弥曰く、日銀のETF買いが断続的(11 月だけで 6 回)に入
っており、下げない相場(PKO相場)を演出している。年3兆円という日銀のETF買い枠
はあと 2600 億円ほど残しており、まだETFの買いも続く可能性があり、それも株価の下支
えの一因になっているという。政府の意思で株価を支える不確実性の高い「いびつな市場」
は、弾が切れることで日本株は間違いなく暴落する。そんな不確実性の高い「いびつな市
場」で運用するのは危険極まりないのだ。
★年金積立金の損失は私たちの生活にどう響いて来るのでしょう。2004年、「百年安
心」を掲げた年金法改正は、百年後に年金給付額一年分を積立金として残せるよう、年金給
付額を抑制し続けるというもの。その手法の一つに「マクロ経済スライド」という方式が導
入され、物価上昇と同じ率で上がっていた年金額を、物価上昇率より1%低く抑えるという
もの。アベノミクスが成功すればするほど実質の年金額は目減りし続ける。例えば、月20
万円の厚生年金をもらっていても、20年後には今の貨幣価値で16万円になる。また、積
立金残高の減るスピードが速いほど次世代の年金受給額の減少につながる。総務省の家計調
査(2014 年)65歳以上の夫婦の年金収入は月19万4千円。一方、食糧費、医療費などの
支出は23万7千円。多くの高齢者は年金だけでは生活できず、預貯金を取崩して生活して
いるのが実態。今回の7・8兆円の運用損の責任を誰も取らないのです。日本ほど国民に対
101
して無責任な国はありません。国民もメディアもこの無責任さに憤りを示すことが大事なの
です。(郷土の会 岡村)
★「1995 年、2008 年の新春」丹羽前中国大使 “国民のお金でばくちいけない”JNN/TBS
1 月 16 日(土)13 時 35 分
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丹羽前中国大使は、TBS番組「時事放談」の収録で、最近の株価の乱高下を念頭に年金
の積立金を株式で運用する割合を増やしていることについて、「国民のお金でばくちをして
はいけない」と厳しく批判しました。
「官僚の方が経済のことも知らないのに株をやって、人の金だからって勝手にやって、彼
らは職も失わない、給料も減らない。そういう人が株をやってはいけない」(丹羽宇一郎 前
中国大使)
丹羽氏はこう話した上で、「損をしたらどうやって責任をとるのか。国民に何と言うの
か」と指摘して、公的年金の積立金を株式への投資で運用するのは危険だと強調しました。
そして、「国民のお金でばくちをしてはいけない」と厳しく批判して、見直すよう求めてい
ます。(16 日 11:34) JNN/TBS
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2014年8月、山で偶然知り合った仲間との交流記=2015年編=
http://blogs.yahoo.co.jp/ohoomandrill/folder/1562974.html
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NO.71陣馬山・沢井川より山締め (ツミ、カワガラス、カ 2015/12/28~1/5 55回
●こんにちわ、今年の山締めも晴天に恵まれた陣馬山と数多くの野鳥に出合えて幸せでした
ね。この一日で今年の山行にも十分満足されたのではないでしょうか。それにしてもこの冬
は暖かいのでお花も勘違いして早咲きになっているのでしょうか。アオイスミレが咲いてい
るとは驚きですが、可愛いさにつきます。写真を見ている私までうれしくなってしまいます。
さて、私は川越藩の蔵米で知られている川島町の農協販売所に予約していた正月用の餅を鳥
に行きました。その時に通過する上尾市と川越市の境に流れている荒川越える開閉橋から、
丹沢、富士山、奥多摩、奥武蔵、雪を被る遠浅間、赤久縄山、東・西御荷鉾山、白き谷川連
峰、榛名山、赤城山、日光連山が望め素晴らしいローケーションでした。今年一年山の風景
を楽しまさせていただきありがとうございました。来年も楽しみにしています。
[ hai*u*ak*59 ]2015/12/29(火) 午後 3:42
●hai*u*ak*59 さん
こんにちは、今年最後の山は陣馬で終えました。予想以上の 野鳥の出迎えに感謝でした。
来年は hai*u*ak*59 さんのホームの奥武蔵の方にも、もっと顔を出すようにしたいと思って
ます。
例年、年明けはテント担いで山にいましたが今年は明けてからの日帰り予定です。お正月三
ヶ日は晴天で気温も高いようですね
雪が無いのは寂しいですが気持ち良い山歩きが出来そうです。
今年もブログにお立ち寄り下さり有難うございました。
また hai*u*ak*59 さんのブログの方も楽しみにしています
来年もよろしくお願いします。 [ マンドリル/MANDRILL ] 2015/12/30(水) 午前 10:41
陣馬山から連行峰
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私のてんやわんやの大晦日風景
(H27.12.31)
2年前から妻の脚首と膝が悪く起つのにも難儀するようになってしまった。そこで私も妻
を介護することにして頑張ってきたが、伊奈学園の仲間から要介護認定を受ければ、各種の
サービスが受けられるので岡村さんも少しは余裕ができるのではとアドバイスしてくれたの
で、介護認定の指定医に妻を連れて行き、診断書をお願いして市役所に申請したとひろ、要
介護2の認定を受けるに至った。歩行は昨年よりも悪くなり、整形外科に行っても一向によ
くならず。毎日の家事については私が引き受けているので問題はないのだが、昨年の大晦日
には、正月料理は自分が作ると言って自分のゆったりしたリズムで「筑前煮や栗きんとん」
を作った。今年もこの2つは作りたいと言っていたものの、体調が昨年よりもすぐれず私に
お任せとなってしまった。だから私も今年の大晦日は、29日から正月料理の材料を買い集
めてきたが、肉などは新しい物を求めて朝から安売りをしているスーパーへ走る。その前に
洗濯物を洗濯して干したことも言うまでもない。
スーパーに来てびっくり正月料理の肉や魚は普段よりも5割増しで売っているのには驚く。
年越しそばと雑煮用の鶏肉を買い、次に正月用の鉢のお花をと思って違うスーパーに走る。
相場としてシクラメンの花であるが後々のことを考えてバラの鉢を買って帰って来た。もう
それで午前中は終わってしまった。昼食を食べてからいよいよ昨年まで妻が作っていた「筑
前煮」と「栗きんとんは白豆の煮物に変更」して料理に取り掛かる。
★白豆は昨夜から8時間も水に浸していたので、そ
のまま中火で煮込んで、沸騰したらその水を捨て、
豆はザルに入れて水洗いしてアクを洗い流し、再度、
水を加えて豆の芯まで柔らかくなるのに4時間ほど
もかかるのにはびっくりした。煮えてから最後の砂
糖による味付けは妻にしてもらい、ここに初めての
豆料理が完成したのである。甘く煮込んだ白豆は、
私には整腸剤でもあり、大好きな豆でもある。
★やっと一品終わったと思う間もなく、筑前煮ら取
り掛かる。レシピとおりに昨日、蓮根、人参、シイ
タケ、たけのこの水煮、こんにゃく、なると、里
芋、ゴボウを揃えておいたので、レシピを読みな
がら、野菜物は乱切り、輪切り、スライス、手切
り等を行っていく。そしてそれらを個別的に下茹
でして置く。次に鍋にごま油を入れ、個別的に茹
でた野菜等を入れて炒め、里芋、シイタケや竹の
子や水を加え、ダシ、砂糖、はちみつ、醤油、酒、
みりん等わ入れて落し蓋をして煮込み、最後に茹
でていたブロッコリーを加えて、ひと混ぜして火
を止めて冷まして出来上がった。今日も自分で作
ると言っていたが、お手伝いも出来なかったので出来上がりの味見をしてもらったら「お父
さん、上手になったね」と返事が返ってきたのでホッとした。何しろ何種類の材料を個別的
に茹でて時間がかかるとともに最後にそれを鍋に入れて一緒にするものと、最後に入れる物
があり戸惑った部分もあったことは言うまでもない。
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★それが終わったと思ったら、時間は遅いが夕食
の年越し蕎麦の汁を作り、蕎麦を茹でなければな
らないのだ。今回はスーパーで何時も買ってくる
天ぷらと思っていたが値段が2~3倍もするので
敬遠して、シイタケを茹でて、蒲鉾を加えて、蕎
麦汁を掛け、ネギを入れて完成させた。ところが
私は薄味なので、家族に濃い味が好きな人もいる
ので、味の濃淡はそれぞれにしてもらい味を整え
て終わった。それに先ほど出来上がった筑前煮を
つけて出したら、みなさん美味しいとお世辞にも
言ってくれたので、私もまんざらではないと実感
したことは言うまでもない。初めてこの三料理を初めて作ったが午後から7時までかかって
しまったので、75歳の私も疲れてしまった。妻は自分の味で作り上げて40数年も持ち続
けて私たちに食べさせてくれた妻のノウハには頭が下がる。感謝せずにはいられない。
★いつもならば妻がすべての正月料理を作っていたので、その時間帯に私は家の大掃除や買
い物を担当して夕方まで動いているとは時間的には余裕
があった。年越しそばの用意しながら妻はみんなに食べ
させてからも正月料理を作っていた姿が今懐かしく思い
出される。妻はそれからNHKの紅白歌合戦を見て除夜
の鐘を聞いて、私とこの一年有難う、今年もよろしくと、
挨拶して寝るのが習慣となっていた。私は、毎年大晦日
に書き続けてきた「一年のまとめ」と、平成15年11
月24日に亡くなった山の親友の大石さんへの思いを綴
る「亡き友を偲ん
で」を毎年書いて締
めくくるのだが、昨
年からはそんな余裕
はなくなったしまっ
たことは言うまでも
なく、今年も平成28年に持ち越すことになったしま
った。今年は12月分家計費と大晦日の日記を書くの
が精一杯だった。自分でも感心するのは、日記を小さ
い時から書いていたものの、この28年間一度も休む
ことなく書き続けたことである。これがベースになっ
てエッセイ、山や旅の記録をすぐに書ける習慣が身に
ついてしまった。継続は力なりということはこういう
ことかと思っている。一昨年まで私に大晦日にそれら
を書く時間を妻が与えてくれたことを思うと感謝せず
にはいられない。だから妻に代わって家事をすること
で今までのように出来なくても、妻への恩返しと思っ
ている。本当に今年の大晦日は、私にとっては、てんやわんやの忙しさだったが、健康で今
日を迎えられたことに感謝あるのみ。(郷土の会 岡村)
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