長崎大学東アジア共生プロジェクト ワーキングペーパー No.3 East Asia Kyosei Project, Nagasaki University. Working Paper No.3 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 深圳市笋崗村を事例として 連 興檳 March,'2013 長崎大学第二期中期目標・中期計画における重点研究課題 ―― Nagasaki University Major Research Project “Second midterm goal and plan” A Crossover Initiative toward Sustainable Socio-Cultural Coexistence in East Asia 第8回海港都市国際シンポジウム 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識: 深圳市笋崗村を事例として 連 興檳 神戸大学大学院 人文学研究科博士課程 1. は じ め に 改革開放以降の中国では、工業化に伴い都市化が急速に進行してきた。中国におけ る 都 市 人 口 比 率 は 2011年 に 初 め て 50%を 超 え 、51.3%を 占 め る ま で と な っ た 1 。現 在 、過 半数の人口は都市に居住しているが、急速に都市化した結果、多くの問題が生じてい る。そのような都市化の過程で大きな役割を果たしたのは、農村との間に存在する混 合コミュニティ−「城中村」−であり、都市で働く移住者に安価な住宅を提供してい る。都市に移住した動機は、さまざまに指摘されるが、彼らの生活様式と価値観は完 全 に は 都 市 化 さ れ て い な い た め 、都 市 の 中 に 定 住 で き な い 点 が 問 題 で あ り 、「 城 中 村 」 は、その問題の噴出を未然に防いできたと言える。 本稿では、中国の改革開放と急速な都市化を代表できる都市−深圳−をフィールド に、深圳にある「城中村」−笋崗村−を事例として取り上げる。経済特区の深圳は、 人口のほとんどが全国各地からの移住者であり、移民都市と呼ばれている。そこで、 深圳は他の都市とは異なる一面を持っている。城中村に住む都市移住者の定住意識を 分析する際は、筆者が笋崗村で実施したアンケート調査とインタビュー調査から得ら れた情報とデータを使用する。 2.先行研究と調査概要 2-1. 先 行 研 究 (1)城中村について 城 中 村 ( urban village) は 、 「 都 市 中 の 村 」 と も 呼 ば れ る 。 農 村 の 都 市 化 の 過 程 で 農 地の全部あるいは大半が徴用され、農民が居住民として元の村落に居住する地区をさ す。城中村は、中国特有の土地制度および文化の背景に、都市化の急速な発展過程か ら現れた新たな都市化問題である。 城中村は、主として三つのタイプに分けることができる。「一つは繁華な市街地に あ り 、す で に 全 く 農 地 が な い 村 落 で あ る 。第 2は 市 街 地 の 周 辺 に あ り 、ま だ 少 し 農 地 が 残 っ て い る 村 落 で あ る 。第 3は 遠 い 郊 外 に あ り 、ま だ 比 較 的 多 く の 農 地 が 残 っ て い る 村 1 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" 落 で あ る 」 ( 李 培 林 、 2006: 166) 。 筆 者 は 、 第 1の タ イ プ に 限 定 し て 調 査 を 行 っ た 。 そ の よ う な 城 中 村 は 、現 代 都 市 の 一 部 と な っ て い る が 、完 全 な 都 市 化 を 遂 げ て い な い 。 城中村の元村民(以下は「本地人」とする)の生活は、都市化に大いに影響され、そ の伝統文化は衰退しつつある。彼らは、基本的に農業をしておらず、戸籍を都市戸籍 に変更した人が多い。 都市化により、城中村本来の生活は大きく変わった。多くの城中村は、本来はごく 普通の農村であった。外来人口が増加するにしたがって、城中村は次第に流動人口の 集住地となった。完全な農村でもなく、完全な都市社区でもなく、城中村はその狭間 に存在する特殊なコミュニティである。そのため、初めて都市に入った流動人口にと っては、城中村は比較的住みやすいところである。 しかし、城中村では多くの問題が存在している。さまざまな城中村のなかで、現代 化したところもあれば、スラム的要素の強いところもある。大半の城中村は、土地問 題や住環境問題や治安問題や人口問題などの問題を抱えている。それにより、城中村 の都市化は阻害され、その周辺に住む都市市民の生活も大きく影響される。 今までの研究は、北京と広州にある城中村に関するものが多い。そのなかで、同じ 地域の出身、つまり同郷同士の集団生活がみられる。例えば、北京にある「浙江村」 ( 王 漢 生 ほ か 、 1997) 、 「 河 南 村 」 ( 唐 灿 ・ 馮 小 双 、 2000) 、 「 新 彊 村 」 ( 楊 聖 敏 ・ 王 漢 生 、 2008; 王 漢 生 ・ 楊 聖 敏 、 2008) な ど が 知 ら れ て お り 、 同 じ 出 身 地 の 出 稼 ぎ 労 働者の密集居住地域が注目されている。こういった城中村は、血縁や地縁に頼って都 市 で 構 築 さ れ た 新 し い コ ミ ュ ニ テ ィ で あ る 。彼 ら は 、同 じ 職 業 に 就 く 傾 向 が あ る 。「 浙 江 村 」の 多 く の 人 は 衣 料 品 の 生 産・販 売 を し て お り 、そ し て「 河 南 村 」は 廃 品 回 収 業 、 「新彊村」は飲食業、である。 前述した北京の城中村とは違い、広州には同郷同士(集団)の集住地としての城中 村は比較的少ないが、各地からの都市移住者(個人)が混住する城中村が一般的であ る 。広 州 の 城 中 村 に 関 す る 研 究 の 中 で 、さ ま ざ ま な 視 角 か ら の 分 析 が 伺 え る 。周 大 鳴 ・ 高 崇( 2001)は 、広 州 に あ る 南 景 村 の 50年 の 変 遷 か ら 農 村 -都 市 間 に 存 在 す る「 城 中 村 」 の変化を分析し、南景村に住む外来人口のプラス効果とマイナス効果に言及した。そ し て 劉 偉 文 ( 2003) は 、 広 州 の 城 中 村 を 事 例 に 、 城 中 村 の 出 現 に 伴 う 社 会 構 造 の 特 徴 を 分 析 し 、 建 築 問 題 、 外 来 人 口 問 題 、 「 坊 っ ち ゃ ん 2」 問 題 が 存 在 し て い る と 論 じ た 。 李 培 林 ( 2006) は 、 広 州 の 城 中 村 に 対 す る 調 査 を 経 て 、 「 『 城 中 村 』 は 都 市 と 村 落 の 間に存在する『混合社区〔コミュニティ〕』である」と主張する。 深 圳 に も 、 「 浙 江 村 」 の よ う な コ ミ ュ ニ テ ィ が 存 在 す る が 3、 多 く は 広 州 の 城 中 村 と 類似している。しかし、深圳の城中村に関する研究は少ない。急速な都市化が進んだ ため、深圳の城中村は短期間内で形成され、その都市化程度は相対的に高い。本稿で 取り上げる笋崗村は、長い歴史を持ち、都心にありながら伝統的な要素が残っている 「 村 」 4で あ る 。 都 市 移 住 者 が 城 中 村 に 住 む 理 由 と し て 、 本 稿 で は 農 村 的 要 素 が 重 要 な 2 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 (連) 原因であると想定し、笋崗村を調査対象地にした。 (2)都市移住者の定住意識 都 市 移 住 者 に 関 す る 研 究 の 多 く は 「 農 民 工 」 5を 対 象 と し て い る 。 実 際 、 城 中 村 に 住 む都市移住者のなかで、農民工が大多数を占めるため、以下は農民工の定住意識に関 する先行研究を一瞥する。 現 在 、中 国 の 流 動 人 口 は す で に 2億 人 を 超 え 、そ の 多 く が 出 稼 ぎ 農 民 工 で あ る 。デ ー タ に よ る と 、 2009年 の 農 民 工 の 数 は 22978万 人 に 達 し 、 う ち 14533万 人 が 出 稼 ぎ 農 民 工 で あ る 6。 農 民 工 の 移 動 プ ロ セ ス は 、 農 村 か ら 都 市 へ 出 稼 ぎ に 行 き 、 そ し て 最 終 的 に は 農村に戻るのが一般的であったが、近年では、農民工の都市に定住する意識が強くな っていることから、その定住性が議論されるようになっている。それは、農民工のよ う流動人口が安定した生活を手に入れられない限り、さまざまな社会問題を引き起こ す可能性が高いからである。ある意味では、都市移住者の定住性を把握することで、 都市化に伴う問題の解決策を導き出すことができると考えられる。 王 春 蘭 ・ 丁 金 宏 ( 2007) は 、 上 海 の 流 動 人 口 に 対 し て 、 彼 ら の 上 海 で の 定 住 意 識 お よ び そ の 影 響 要 因 を 分 析 し た 。 そ れ に よ る と 、 35.7%の 人 が 上 海 で の 定 住 意 識 を も ち 、 23.1%の 人 は 故 郷 に 帰 り た が る 。 そ の ほ か 、 将 来 に つ い て は 未 定 と い う 人 が 31.3%を 占 め 、 故 郷 と 上 海 以 外 の と こ ろ に 行 き た が る 人 は わ ず か 2.6%で あ る 。 流 動 人 口 の 定 住 意 識の規定要因は、大きく言えば「外部の原因(都市の吸引力と家族状況)」と「内部 の原因(個人要素)」とに分けることができる。出稼ぎが目的という背景に、流動人 口の定住意識を最も影響しているのが経済収入である。また、都市の吸引力(就業機 会、流入地での社会統合、戸籍制度)、家庭状況(配偶者・子どもは同行しているか 否か、子どもの就学情況)、個人要素(年齢、性別、居住年数)といった要素も大き な影響力をもつ。 実 際 、 経 済 的 要 因 の 重 要 性 は 、 葉 鵬 飛 ( 2011) の 研 究 か ら も 伺 え る 。 一 つ の 例 で 言 えば、大多数の農民工が住環境の悪い城中村に住むのは、城中村の家賃が低いからだ という。そのほか、都市生活の社会的圧力のような心理的要素の影響力も弱くないの である。 劉 伝 江 ・ 程 建 林 ( 2007) に よ れ ば 、 定 住 意 識 が あ っ て も 、 都 市 生 活 に 経 済 的 に 適 応 する必要がある。そして定住するには、経済的適応は勿論、社会的適応、さらに文化 的 ( 心 理 的 ) 適 応 7 が 不 可 欠 で あ る ( 朱 力 、 2002; 2005) 。 2-2. 調 査 概 要 (1)アンケート調査 2011年 9月 上 旬 、 筆 者 は 深 圳 で ア ン ケ ー ト 調 査 を 実 施 し た 。 ア ン ケ ー ト 調 査 票 を 300 部 配 布 し て 、う ち 191部 回 収 で き 、有 効 サ ン プ ル 数 が 191で あ る( 回 収 率 63.7%)。そ の 3 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" な か で 、 「 城 中 村 」 の 笋 崗 村 で 150部 を 配 布 し て 、 100部 回 収 で き た ( 回 収 率 66.7%) 。 本稿では、笋崗村で集めた標本だけを使用する。 (2)インタビュー調査 笋 崗 村 で 13人 分 の イ ン タ ビ ュ ー デ ー タ を 集 め る こ と が で き た 。 半 構 造 化 イ ン タ ビ ュ ー の 形 式 で 進 ん だ 。録 音 は で き な か っ た た め 、論 者 が と っ た メ モ に 基 づ い て 分 析 す る 。 表1 調査概要 調査形式 アンケート調査 インタビュー調 査 調査地 調査時期 笋崗村内 2011年 9月 上 旬 笋崗村外 2011年 9月 上 旬 移動目的と定住意識 有 効 サ ン プ ル 数 91 2011年 2月 下 旬 生活実態と定住意識 8事 例 2011年 8月 下 旬 生活実態と定住意識 5事 例 笋崗村内 調査内容 数 移動目的と定住意識 有効サンプル数 100 3.深圳の概況と深圳の城中村 3-1. 深 圳 の 概 況 深圳は中国広東省に位置し、香港の新界と連なっている、中国で最も重要な輸出入 港 の 一 つ で あ る 。 深 圳 の 総 面 積 は 1953 km 2 で あ る 。 深 圳 の 常 住 人 口 は 1979年 の 31.41万 人 か ら 2011年 の 1046.74万 人 に 上 っ た 。 2011年 の デ ー タ に よ る と 、 常 住 人 口 の 74.4%は 深 圳 戸 籍 を も た な い 8。 登 録 さ れ て い な い 流 動 人 口 を 合 わ せ る と 、 深 圳 の 総 人 口 の 中 で 非 戸 籍 人 口 の 割 合 は 74.4%を 上 回 る と 考 え ら れ る 。 本来は小さな漁村に過ぎなかった深圳であるが、他地方からの労働人口の流入によ り都市として形成され、広東省にありながら広東語が使われる比率が極めて低い地域 と な っ て お り 、 「 移 民 都 市 」 と も 言 わ れ る よ う に な っ た 。 改 革 開 放 政 策 ( 1978年 ) の 実 施 お よ び 経 済 特 区 ( 1980年 ) と 指 定 さ れ て 以 来 、 深 圳 は 驚 異 的 な 経 済 成 長 を 成 し 遂 げ発展してきた。経済特区として、深圳は外国投資を誘致し、金融業・製造業の急速 な 発 展 が 顕 著 で あ る 。そ し て 近 年 で は 、ハ イ テ ク 産 業 や サ ー ビ ス 業 も 急 成 長 し て い る 。 2009年 、深 圳 に お け る 一 人 当 た り の 年 間 収 入 は す で に 13581ド ル に 達 し 9 、全 国( 香 港 、 マカオ、台湾を除く)の首位に立つ。その成長ぶりは都市成長の奇跡とも言われてい る。 しかし、経済の急成長を遂げたといっても、戸籍人口が少なく、しかも深圳戸籍の 加入が困難である現状で言えば、現在の段階では、深圳は都市市民として本来享受で きる福祉などを常住人口全体に提供することができないのである。 4 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 (連) 3-2. 深 圳 の 城 中 村 城 中 村 研 究 の な か で 、北 京 や 広 州 の 城 中 村 に 関 す る も の は 比 較 的 多 い 。そ れ に 比 べ 、 深 圳 の 城 中 村 は そ れ ほ ど 知 ら れ て い な い 。 深 圳 と い う 名 の 都 市 の 歴 史 は わ ず か 32年 で あるが、そこには既に古くから人が居住しており、現存する文化財から当時の生活状 況などをうかがうことができる。 深 圳 の 城 中 村 の 原 型 は 1980年 代 の 半 ば に 現 れ 、当 時 は ま だ 村 落 の 改 造 期 で あ っ た 。1992 年から、政府が都市化を進めた結果、都市中心にある村落は現代化建物に囲まれるよ うになった。そして、都市化と並行して工業化が進んできた。そのなかで、製造業の 発展はとくに労働力を必要とするため、全国各地から大量の出稼ぎ労働者が深圳に集 まった。深圳に流入した出稼ぎ労働者の多くは城中村の安価住宅に住んでいる。それ ゆ え に 、 城 中 村 は 、 農 村 -都 市 間 に 存 在 す る 混 合 コ ミ ュ ニ テ ィ と し て 、 出 稼 ぎ 労 働 者 が 都市に入るときの「過渡地域」と言われる。 2004年 、 深 圳 は 全 国 初 の 農 村 が な い 都 市 と な っ た が 、 本 来 農 村 で あ る と こ ろ の 多 く が 城 中 村 と し て 存 在 し て い る 10 。他 の 都 市 の 城 中 村 と 異 な る の は 、深 圳 の 城 中 村 の 土 地 は全部国有化され、その都市化の速度が圧倒的速いのである。実際、都心との距離の 遠近よって城中村の都市化の程度が異なる。郊外から都市中心部との距離が縮むにつ れ、城中村のスラム的要素は弱くなる。 深 圳 政 府 が 出 し た あ る 通 知 に よ る と 、2006年 、深 圳 に は 437の 城 中 村 が あ り 、そ の 総 人 口 は 442.31万 人 で 、う ち 流 動 人 口 が 331.73万 人 、75%を 占 め る と い う 11 。そ れ に よ れ ば 、 深圳の城中村はすでに流動人口の集住地となっているといえる。そのため、城中村に よくみられる環境問題や治安問題などが多発する。 2007年 、 深 圳 が 「 第 26回 世 界 大 学 生 夏 季 運 動 会 ( 2011年 ユ ニ バ ー シ ア ー ド ) 」 の 開 催地に選ばれた後、深圳政府は、城中村に存在するさまざまな問題解決を加速した。 そうすると、城中村の違法建築物の減少は住宅安全、都市建設などの面から言えば必 要であるが、違法建築物の大部分は出稼ぎ労働者の居住地であり、城中村に対する改 造により彼らが安価で住めるところは少なくなる。また、村民の家賃収入にも影響が 出ると思われる。しかし、城中村の現状はすでに都市全体に悪影響を及ぼしており、 その改造は免れないのだろう。 4. 笋 崗 村 の 概 況 と 笋 崗 村 に 住 む 移 住 者 の 定 住 意 識 4-1. 笋 崗 村 の 概 況 笋 崗 村 は 、深 圳 市 羅 湖 区 の 笋 崗 街 道 に 位 置 す る 、い わ ゆ る「 城 中 村 」の 一 つ で あ る 。 1984年 、 笋 崗 村 は 行 政 村 に 転 換 し 、 1987年 に 63棟 の 住 宅 マ ン シ ョ ン が 建 て ら れ 、 一 部 の 村 民 が 転 居 、そ し て 1991年 に 200余 り 棟 の 建 物 を 有 す る「 笋 崗 新 村 」が 竣 工 し 、笋 崗 村 の 都 市 化 は そ れ に よ っ て 大 き く 進 ん だ 12 。 現 在 、 笋 崗 村 の 面 積 は 約 8万 平 方 メ ー ト ル で 、人 口 は 約 1.8万 人 で あ る 。笋 崗 村 の 総 人 口 の 中 で 、 「 本 地 人 」は 約 500人 し か い な い 。 5 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" 笋 崗 村 の 建 物 の 大 部 分 が 住 宅 マ ン シ ョ ン で あ る 。そ の ほ か 、飲 食 店 、雑 貨 店 、理 髪 店 、 市 場 、 小 学 校 、 幼 稚 園 な ど が 充 実 し て い る 13 。 笋崗村の「本地人」の多くは、離農した農民である。村の都市化の進行および移住 者の増加により、「本地人」たちは農業をおこなわなくなったのである。笋崗村にあ る建物のほとんどは本地人の所有であり、主に賃貸住宅として出稼ぎ労働者に貸して いる。彼らは仕事をしなくとも、家賃を徴収することで豊かな生活を過ごすことがで き る 。こ れ は 笋 崗 村 な ら で は の 現 象 で は な く 、城 中 村 に お い て は ど こ で も 同 様 で あ る 。 実際、笋崗村への移住者が多いのは改革開放以降だけではなく、古くから続いてき たといわれる。資料によると、笋崗村に在住の何氏は、安徽省廬江の出身であり、北 宋 ( 960年 ∼ 1127年 ) 末 に 南 雄 市 珠 玑 巷 に 移 住 し 、 そ の 後 、 宋 ( 960年 ∼ 1279年 ) 末 に 東 莞 市 へ 、 明 朝 洪 武 年 間 ( 1368年 ∼ 1398年 ) か ら 笋 崗 に 定 住 し て い る 14 。 1981年 ま で 、 何 氏 の 人 は 久 し く「 元 勲 旧 址 」15 に 住 ん で い た が 、彼 ら が 外 へ 引 っ 越 し た 後 、代 わ り に 出 稼 ぎ 労 働 者 が 旧 跡 に 住 み 始 め た 。そ れ は 2005年 3月 ま で 続 い て い た 。楊 星 星 ・ 鄧 其 生 ( 2007)に よ る と 、文 化 財 で あ る「 元 勲 旧 址 」を 保 護 す る た め 、旧 跡 に 住 ん で い た 人 々 は 他 の 地 域 に 移 動 さ せ ら れ 、一 部 の 人 は 笋 崗 新 村 に 移 り 、そ の ほ か は 笋 崗 村 を 離 れ た 。 現在では、「本地人」の減少・転出によって城中村の伝統文化が衰退しつつあるな か、大量の移住者の転入はさらにそれを加速させている。 4-2. 笋 崗 村 に 住 む 移 住 者 の 定 住 意 識 (1)移住者の基本状況 ① アンケート調査 ア ン ケ ー ト 調 査 の 結 果 に よ れ ば 、 笋 崗 村 に 住 む 移 住 者 は 、 若 者 が 多 く 、 10代 ( 10%) と 20代( 50%)合 わ せ て 60%を 占 め て い る 。そ の 平 均 年 齢 は 29.53歳 で 、う ち 57%の 人 が 既 婚 者 で あ る 。男 女 別 で み る と 、女 性 人 口 が 54%を 占 め 、男 性 人 口 の 46%よ り 多 い 。深 圳 戸 籍 の 所 持 率 は 、 6%で あ る 。 学 歴 に つ い て は 、中 学 校 卒 が 最 も 多 く 38%で 、次 い で 高 校 卒( 中 専 を 含 む )は 36%で あ る 。職 業 で み れ ば 、零 細 経 営 者 が 35%、商 業・サ ー ビ ス 業 職 が 22%、産 業 労 働 者 が 8% で あ る 16 。 広 東 省 出 身 の 人 が 最 も 多 く ( 51%) 、 そ の ほ か 、 湖 南 省 ( 9%) 、 福 建 省 ( 9%) 、 江 西 省( 8%)な ど 広 東 省 に 近 い 地 域 か ら 来 た 人 も い れ ば 、黒 竜 江 省( 1%)の よ う な 深 圳 を 遠 く 離 れ た 地 域 か ら 来 た 人 も い る 。 移 動 の 原 因 に つ い て は 、 転 勤 ( 5%) 、 工 作 分 配 ( 3%) 、 就 業 ・ 商 売 ( 43%) 、 就 学 ・ 職 業 訓 練 ( 8%) と い っ た 経 済 的 要 因 は 59%、 そ し て 親 戚 ・ 友 人 宅 に 寄 留 ( 9%) 、 随 行 転 居 ( 9%) 、 立 ち 退 き ( 1%) と い っ た 社 会 的 要 因 は 19%で あ る 。 居 住 年 数 で み る と 、 平 均 は 6.82年 で 、 5年 以 上 深 圳 に 住 み 続 け て い る 人 の 割 合 が 60% で あ る 。家 族 と 同 居 し て い る 人 が 多 く 全 体 の 61%を 占 め て お り 、う ち 居 住 年 数 が 長 け れ 6 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 (連) ば 長 い ほ ど 家 族 と 同 居 す る 傾 向 が あ る 。 そ れ に 対 し て 、 一 人 暮 ら し が 少 な く 、 4%に と どまる。 ② インタビュー調査 笋崗村に住む移住者に対するインタビュー調査から、彼らの移動タイプについて、 以 下 の よ う に ま と め ら れ る ( 表 2) 。 表2 インタビュー対象者のプロフィール 性別 年齢 出身地 職業 学歴 家族構成 A 女 B 60 黒竜江省 農民※ 小学 夫、息子、娘 女 30 内モンゴル 主婦 大専 夫、娘 4年 C 男 27 広東省 旧址の保護 高一 妻 、 子 供 a、 子 供 b 14年 D 女 30 河南省 主婦 小卒 夫、息子 1ヵ 月 E 男 69 湖北省 農民※ 小卒 妻 、息 子 、息 子 の 嫁 、孫 1年 F 女 49 安徽省 農民※ 小四 G 男 57 重慶市 清掃員 中二 妻、娘、婿、孫 21年 H 男 69 広東省 自営業(売店) 小三 妻、娘 31年 I 男 71 河北省 退職 小卒 息 子 a、 息 子 b、 娘 2ヵ 月 J 男 26 広東省 サービス業職 大専 父、母、妹 7年 K 男 24 湖南省 専門技術職 中専 母、兄、姉、妹 5年 L 男 29 江西省 美容師 中卒 父、母、姉、妻、娘 3年 M 女 27 湖南省 主婦 高卒 注 夫 、 娘 ( 3人 ) 、 息 子 、 婿、孫 父 、 母 、 妹 a、 妹 b、 弟 、 夫、息子、娘 在住年数 年 に 2回 故 郷 から通う 10年 7年 1) ※ : 故 郷 で の 職 業 2) 下 線 部 の 人 物 : 現 在 は 深 圳 に 居 住 し て い な い Ⅰ 出稼ぎしている子供の付き添いで都市に移動した ⅰ 、 単 身 で 都 市 に 移 動 し た 娘 の 面 倒 を み る た め に 移 動 し た ( A) ⅱ 、 都 市 に 住 む 息 子 の 子 供 の 世 話 を す る た め に 移 動 し た ( E) ⅲ 、 都 市 に 住 む 息 子 の と こ ろ に 寄 留 す る た め に 移 動 し た ( I) Ⅱ 恋 人 の 付 き 添 い で 移 動 し 、 現 地 で 結 婚 し た ( L) Ⅲ 出稼ぎのために単身で移動した ⅰ 、 そ の 後 も 一 人 で 暮 ら し て い る ( J) 7 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" ⅱ 、 そ の 後 は 家 族 を 連 れ て 移 動 し た ( F) ⅲ 、 そ の 後 は 現 地 で 家 族 を 作 っ た ( H、 M) Ⅳ 家族と移動した ⅰ 、 幼 い と き に 親 に 同 行 し て 移 動 し た ( C) ⅱ 、 子 供 を 連 れ て 一 緒 に 移 動 し た ( B、 D、 G) ⅲ 、 兄 弟 で 移 動 し た ( K) (2)移住者の定住意識とその規定要因 アンケート調査によれば、深圳での居住年数は短くないが、深圳に定住したい人は 39%、そ し て い ず れ は 実 家 に 帰 る と 回 答 し た 人 は 37%を 占 め る 。そ の な か で 、居 住 年 数 が長いほど、また学歴が高いほど、定住意識が強くなる。全体的には、深圳での定住 意 識 が 強 い と は 言 え な い が 、都 市 で の 定 住 を 望 む 人 の 割 合 は 総 じ て 56%で 、半 数 を 超 え ている。 イ ン タ ビ ュ ー 調 査 の 結 果 に よ れ ば 、若 年 移 住 者 は 都 市 で の 生 活 を 望 む 傾 向 が あ る が 、 なかでも故郷に帰って老後を過ごしたいという人もいる。一方、高齢者の多くは故郷 に帰りたがる。都市生活に慣れないという理由があり、また故郷に農地があることと は大きな関連がある。定住意識に関する質問の回答は、「深圳に定住したい」、「若 い時は都市で働くが、老後(もしくは儲かったあと)は故郷に帰りたい」、「都市よ りも故郷で暮らしたい」というようにまとめられる。 深圳の中心部に位置する笋崗村は交通の便がよく、しかも家賃が比較的安いため、 多くの都市移住者は笋崗村を選択した。インタビューした人の中で、大半の人が家賃 が高いというが、実際その周辺の住宅地の家賃に比しては安いほうである。衛生の面 ではやや問題があっても、過半数の人は現住地に満足している。無論、衛生・環境が 悪いからと笋崗村を去った人も存在する。 定住を左右する要因はさまざまであるが、以下では影響力が相対的に大きい規定要 因を取り上げる。 ① 定住の規定要因の中で、経済的要因が最も大きな影響力をもつ。 B、 D、 Mは 、 深 圳 で の 生 活 を 望 む が 、 厳 し い 現 状 に 戸 惑 っ て い る 。 深 圳 で の 社 会 資 本はさておき、収入の低い出稼ぎ労働者にとって、深圳での生活費は大きな負担とな る。 「深圳に残りたいですけど、こっちの住宅価格が高くて、無理かも。でも、大都市の 教 育 は 地 方 の よ り い い と 思 い ま す ね 。 夫 は 私 と は 逆 の 意 見 で す が 、 ( 以 下 略 ) 」 ( B、 30歳 、 女 性 ) 8 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 (連) 「経済的に許す限りはそう思いますけど、こっちに来たばかりですし、まだ分からな い で す 。 」 ( D、 30歳 、 女 性 ) 「できれば(深圳に定住)したいです。でも将来はどうなるか分からないですね。ど こかいいところがあったらまた移るかも。老後は実家に帰ってもいいと思いますが、 夫の実家に帰るか私の実家に帰るか迷ってしまいます。とにかく、今はそこまで考え て い な い で す 。 」 ( M、 27歳 、 女 性 ) Bと Mは 出 産 を 機 に 仕 事 を 辞 め 、現 在 は 育 児 に 専 念 し て い る 。し か し 都 市 で の 生 活 費 が高く、夫の収入だけでは不足だと言っている。そのため、二人は再就職を考えてい る よ う で あ る 。だ が 、就 職 す る と 、子 供 の 世 話 を す る 人 が い な く な る の で 、Bは「 子 供 が 大 き く な っ て 学 校 に 行 っ た ら 、 仕 事 を 探 し ま す 」 と 話 す 。 そ れ に 対 し て 、 Mは こ う 述べる。 「(前略)やっぱり若いうちにできるだけたくさんの経験を積んだ方がいいと思って いるから、再就職したいです。でも、子どもたちはまだ小さいので、(実家の両親に 預 け る の は ) ち ょ っ と 名 残 惜 し い 。 1年 経 っ て も 家 族 4人 で 深 圳 で 暮 ら せ な か っ た ら 、 私は実家に帰って子どもたちと一緒に暮らします。子どもは自分の手で育てたいか ら 。 」 ( M、 27歳 、 女 性 ) つまり、定住意識を持っている人でも、安定した生活を過ごせないときは深圳を離 れる可能性が高い。とくに子供がいる人にとって、経済的な負担が大きい。 ② 定住の規定要因の中で、家族からの影響が大きい。 Aと Eは 深 圳 で 働 い た こ と が な く 、 家 族 の 面 倒 を み る た め に 深 圳 に 行 っ た 。 彼 ら は 深 圳 で の 居 住 年 数 が 短 い 。そ れ に 対 し て 、Fは 深 圳 で 働 い た こ と が あ り 、深 圳 に 断 続 的 に 10年 間 住 ん で い る 。 3人 と も 農 民 出 身 で あ り 、 故 郷 に 帰 っ て 暮 ら し た い 大 き な 原 因 は 、 配 偶 者 が 故 郷 に い る か ら で あ る 。 3人 の な か で 、 深 圳 で の 居 住 年 数 が 最 も 長 い の は Fで あ る 。深 圳 で の 生 活 に 慣 れ て い る に も か か わ ら ず 、Fは 夫 の た め に 実 家 に 帰 っ て 農 作 業 をしたいと述べる。 「子どもたちは深圳が好きで、深圳に残りたがっています。若者たちは皆大都市が好 きですから。まあ、深圳と比べて実家には何もないから、深圳がいいって思うわけ。 ただ、深圳にいるのも大変、家族のなかでケイタイを何回も掏られたことがあって、 これはちょっとよくないところですね(笑)。でも、私は帰りたいです。夫はまだ故 郷 に い る か ら 。 」 ( F、 49歳 、 女 性 ) 9 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" 同 じ く 家 族 か ら 影 響 を 受 け て い る Gは 、故 郷 の 重 慶 に 転 職 し た い と す る が 、帰 れ な い と い う 。 深 圳 に 21年 間 働 い て き た Gは 、 故 郷 に 帰 り た い と 以 下 の よ う に 述 べ る 。 「(深圳と比べて)重慶のほうがいいと思います。給料は同じ(月に)千元ぐらい で す が 、重 慶 の 物 価 は こ ん な に 高 く な い か ら 。深 圳 に い て も 全 然 貯 金 で き な い で す よ 。 生活費が高くて。会社もあまりお金がないから、給料を上げてくれないし。重慶にい る甥っこが仕事を紹介してくれるから行きたいですけど、娘は深圳で家を買ったので ( 以 下 略 ) 」 ( G、 57歳 、 男 性 ) Gは 長 年 清 掃 員 の 仕 事 を し て い る た め 、下 層 と し て 扱 わ れ 、差 別 を 受 け た こ と も あ る 。 ま た 、清 掃 員 と し て の 収 入 は 極 め て 低 い の で 、Gは 深 圳 か ら 離 れ よ う と し て い る 。一 方 で は 、娘 さ ん 夫 婦 は 深 圳 で の 定 住 を 決 め た 。孫 の 世 話 を す る た め 、Gは や む を 得 ず 深 圳 に残っている。 以上、定住するか否かに関係なく、家族からの影響力が大きいことがわかる。イン タ ビ ュ ー 調 査 の 内 容 だ け で 言 え ば 、既 婚 者 の ほ う が よ り 家 族 状 況 を 重 視 す る と い え る 。 5. 終 わ り に 以上、笋崗村に住む移住者の定住意識を分析した結果、深圳での定住意識は強くな いが、農村ではなく都市での定住を考えている人は半数を超えているとわかる。そし て 定 住 の 規 定 要 因 の な か で 、「 経 済 的 要 因 」と「 家 族 要 因 」の 影 響 力 が 比 較 的 大 き い 。 しかし、都市に定住したいと思っても、どの都市にするかが問題である。従来では、 農民工が最終的には実家に戻って環住することが一般的であったが、現在では、その 見通しが不分明な状況となっている。 多くの都市移住者が城中村を選択したのは、城中村に農村的要素が残っているため ではなく、単に城中村の家賃が安く、便利だからである。しかし、都市化がさらに進 むであろう将来、城中村に対する改造・再建は必要不可欠で、家賃の高騰を招くこと になる。そのため、都市移住者が安価で住めるところが少なくなると危惧される。 【注】 1 2 3 「 中 華 人 民 共 和 国 2011 年 国 民 経 済 和 社 会 発 展 統 計 公 報 」 http://www.stats.gov.cn/tjgb/ndtjgb/qgndtjgb/t20120222_402786440.htm( 2012 年 10 月 30 日 閲 覧 ) 大事に育てられたため世間をよく知らないわがままな若者をさす。 深 圳 に あ る「 平 江 村 」に つ い て は 劉 林 平( 2001) が 研 究 し て い る 。 「 平 江 村 」 に 住 む 人 び と の多くはリスクの高いトラックドライバーの仕事をしている。(平江村は、湖南省平江出身 の出稼ぎ労働者の集住地区である。深圳の田心村、塩田鎮、赤湾などところにみられるが、 田心村にある「平江村」が最も典型的である。) 10 中国の「城中村」における都市移住者の定住意識 (連) 2004 年 、 当 時 ま だ 特 区 外 の 宝 安 区 、 龍 崗 区 で 全 面 的 な 都 市 化 が 進 め ら れ た 。 同 年 9 月 、 深 圳最後の二つの農村(宝安沙井民主村と福永塘尾村)に社区委員会が成立したと同時に、深 圳は全国初の農村がない都市となった。つまり「笋崗村」は、実質的には村落ではないので あ る 。 ( 「 深 圳 成 為 首 個 没 農 村 城 市 」 『 南 方 日 報 』 2010 年 9 月 6 日 ) 5 「 農 民 工 」 と い う 用 語 は 、 1983 年 に 張 玉 林 に よ っ て 提 示 さ れ 、 そ の 定 義 に つ い て は 黄 錕 が 以 下 の よ う に ま と め て い る ( 黄 、 2011: 37-38) 。( 1) 広 義 的 定 義 で は 、 農 民 工 と は 、 非 農 業 職 に 従 事 す る 農 民 で あ る 。( 2)次 広 義 的 定 義 で は 、農 民 工 と は 、農 業 戸 籍 を も つ が 土 地 を 離 れ 、非 農 業 職 に 従 事 す る 雇 用 労 働 者 で あ る 。( 3)狭 義 的 定 義 で は 、農 民 工 と は 、農 村 か ら 都市へ出稼ぎに行く農民である。本稿では三点ある定義のうち、狭義的定義に準じた考察を 行う。実際、筆者が調査した対象者のなかで、農村出身の人が多いが、中小都市出身の人も いるので、全員が農民工とは言えない。そのため、彼らを農民工的要素の強い都市移住者と する。 6 「 2009 年 農 民 工 観 測 調 査 報 告 」 『 中 国 人 口 与 労 働 問 題 報 告 No.11』 p1 7 経済的適応とは、都市に入った後安定的な仕事を見つけ、衣食住を確保できることである。 そして社会的適応とは、主に農民工と都市市民との交流(相互行為)と都市生活様式の面で の適応をさす。最後に、文化的適応とは、都市社会に対する帰属意識が強く、都市に定住し たいという考えをもつことをさす。 8 「 深 圳 市 2011 年 国 民 経 済 和 社 会 発 展 統 計 公 報 」 http://www.sztj.gov.cn/main/xxgk/tjsj/tjgb/gmjjhshfzgb/8401.shtml( 2012 年 10 月 30 日閲覧) 9 深 圳 市 2009 年 国 民 経 済 和 社 会 発 展 統 計 公 報 http://www.sztj.com/main/xxgk/tjsj/tjgb/gmjjhshfzgb/201004265740.shtml( 2012 年 10 月 30 日 閲 覧 ) 10 2004 年 、 当 時 ま だ 特 区 外 の 宝 安 区 、 龍 崗 区 で 全 面 的 な 都 市 化 が 進 め ら れ た 。 同 年 9 月 、 深 圳最後の二つの農村(宝安沙井民主村と福永塘尾村)に社区委員会が成立したと同時に、深 圳 は 全 国 初 の 農 村 が な い 都 市 と な っ た 。 ( 「 深 圳 成 為 首 個 没 農 村 城 市 」 『 南 方 日 報 』 2010 年 9 月 6 日) http://epaper.nfdaily.cn/html/2010-09/06/content_6876760.htm( 2012 年 10 月 30 日 閲 覧) 11 「深圳市人民政府办公庁転発市公安局関于解決城中村消防安全隠患問題的意見的通知」 2006 年 6 月 30 日 深 府 辦 〔 2006〕 110 号 12 「 羅 湖 村 庄 60 年 之 笋 崗 村 」 深 圳 商 報 2009 年 9 月 9 日 A6 http://szsb.sznews.com/html/2009-09/09/content_769790.htm( 2012 年 10 月 30 日 閲 覧 ) 13 笋 崗 村 の 本 通 り 両 側 の 店 合 わ せ て 40 店 舗 が あ り 、 う ち 飲 食 店 9 店 舗 、 ス ー パ ー 5 店 舗 、 雑 貨屋 5 店舗、美容室 4 店舗、家電修理店 4 店舗、診療所 2 店舗、薬局 2 店舗、そのほか、市 場、コンビニ、パン屋、金物専門店、靴屋、写真屋、宝くじ、酒・タバコ・お茶専門店がそ れぞれ 1 店舗ずつ、そのほとんどは外来人が経営している。本通り以外のところにも同じよ うな店が並んでおり、中でも飲食店が最も多い。また、スーパーや雑貨屋など、日常生活に 欠かせないものを売っている店が多く、生活に便利なところであるといえるが、環境や衛生 面 の 不 備 が 問 題 で あ る 。 ( 2011 年 8 月 の 状 況 ) 14 深圳市博物館 「深圳、香港広府民系部分姓氏家族発展表」を参照。 15 「 元 勲 旧 址 」は 、 笋 崗 村 に 存 在 す る 旧 跡 で あ る 。 築 年 数 は 具 体 的 に 記 載 さ れ て い な い が 、 楊 星 星 ・ 鄧 其 生( 2007)に よ れ ば 、 明 朝 早 期 か ら 中 期 の 間 に 建 て ら れ た と 言 わ れ る 。 600 年 余 り の 歴 史 を も つ「 元 勲 旧 址 」は 、 深 圳 に 現 存 す る 最 も 完 全 な「 嶺 南 広 府 圍 寨 建 築 」で あ る( 深 圳 商 報 2009 年 9 月 9 日 ) 。 元 勲 と は 、 明 朝 の 建 国 元 勲 -何 真 − の こ と を さ す 。 四 世 孫 の 何 雲 霖 が 何 真 の 住 ん で い た と こ ろ を 改 築 し 、 「 元 勲 旧 址 」 と 名 付 け た 。 旧 址 の 面 積 は 約 6000 平方メートルで、完全閉鎖的な構造を持つ。旧跡正門の前に護城川があったが、現在は広場 となっている。現在の旧跡は現代的なものに囲まれ、周辺には高層ビル、鉄道、高架橋など が あ る 。「 元 勲 旧 址 」は 、 1988 年 7 月 27 日 に 深 圳 市 の 文 化 財 と し て 保 護 さ れ る よ う に な り 、 ま た 2002 年 7 月 17 日 に 広 東 省 の 文 化 財 と 認 定 さ れ 、 羅 湖 区 内 唯 一 の 省 レ ベ ル の 文 化 財 と な っ た ( 楊 ・ 鄧 2007) 。 16 零細経営者が多いのは、笋崗村には飲食店や雑貨店などが多く、そのほとんどが移住者ら 4 11 第8回海港都市国際シンポジウム ワーキング・ペーパー 8th International Symposium for Port Cities Studies "Historical Experience of Port Cities/Conceptions of Socio-Cultural Coexistence in East Asia" が経営しているからである。次いで商業・サービス業職が多いのは、都市の中心部では商 業・サービス業が発達しているからである。産業労働者が少ないのは、そういった関連の職 場(工場など)の大部分は郊外にあるからである。 【文献一覧】 蔡昉編 2010 『中国人口与労働問題報告 No.11―後金融危機時期的労働力市場挑戦』社会科学文献出版 社 黄錕 2011 『中国農民工市民化制度分析』中国人民大学出版社 李培林 2006 「 村 落 の 終 焉 ― 都 市 内 の 村 落 に 関 す る 研 究 ― 」 若 林 敬 子 編 著 /筒 井 紀 美 訳 『 中 国 人 口 問 題 のいま―中国人研究者の視点から―』ミネルヴァ書房 pp.161-186 劉伝江・程建林 2007 「我国農民工的代際差異与市民化」『経済縦横』第 4 期 pp.18-21 劉林平 2001 「外来人群体中的関係運用―以深圳 平江村 為個案」 『中国社会科学』第 5 期 pp.112-124 劉偉文 2003 「 城中村 的城市化特征及其問題分析−以広州為例」 『 南方人口』第 3 期第 18 巻 pp.29-33 唐灿・馮小双 2000 「 河南村 流動農民的分化」『社会学研究』第 4 期 pp.72-85 王漢生・劉世定・孫立平・項飈 1997 「 浙江村 :中国農民進入城市的一種独特方式」『社会学研究』第 1 期 pp.56-67 王漢生・楊聖敏 2008 「大城市中少数民族流動人口聚居区的形成与演変―北京新疆村調査之二」『西北民族研究』 第 3 期 pp.6-16 楊聖敏・王漢生 2008 「北京 新疆村 的変遷―北京 新疆村 調査之一」『西北民族研究』第 2 期 pp.1-9 楊星星・鄧其生 2007 「深圳市元勲旧址修繕設計」『古建園林技術』第 3 期 pp.39-44 葉鵬飛 2011 「農民工的城市定居意願研究―基于七省(区)調査数据的実証分析」『社会』第 31 巻第 2 期 pp.153-169 周大鳴・高崇 2001 「城郷結合部社区研究:広州南景村 50 年変遷」『社会学研究』第 4 期 pp.99-108 朱力 2002 「論農民工階層的城市適応」『江海学刊』第 6 期 pp.82-88 2005 「従流動人口的精神文化生活看城市適応」『河海大学学報(哲学社会科学版)』第 7 巻第 3 期 pp.30-35 12 〒852-8521 長崎市文教町1-14 長崎大学「東アジア共生プロジェクト」 Nagasaki University East Asia "Kyosei" Project Bunkyo-machi 1-14, Nagasaki, Japan http://asia.prj.nagasaki-u.ac.jp/
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