連載 ドイツ協同組織リポート(5) 市民参加による環境配慮型のまちづくり 三重大学大学院生物資源学研究科 教授 石田正昭 ボーデン湖の環境保全 ドイツ、スイス、オーストリアの 3 国が接するところにボーデン湖があります。ヨーロ ッパではスイスのレマン湖に次ぐ大きさをもっています。表面積は琵琶湖のおよそ 3 分の 2 で、ドイツを代表する観光地、別荘地となっています。 ボーデン湖は、大きくて深い上湖と小さくて浅い下湖に分かれますが、全体がスイスアル プスに端を発し、大西洋に流れ出るライン川の一部を形成しています。そこから年間 1.75 億トンが取水され、ドイツ(バーデン・ヴュルテンベルグ州)、スイス、オーストリアの約 500 万人の飲用水となります。 湖の透明度は最大 16m で、琵琶湖の 2 倍にも達しますが、かつてはそうではありません でした(図参照) 。水質は 1960 年代から 70 年代にかけて悪化の一途をたどっていました。 人口増加による河川の汚染がその原因です。 図 ボーデン湖のリン濃度の長期的推移 100 リン濃度(μ g/L) 80 60 40 20 0 60 65 70 75 80 85 90 西暦年 出所)コンスタンツ大学陸水学研究所ロスハウプト教授の提供資料 1 95 琵琶湖と同様、飲用水にするにはこれでは困ります。この問題に対処するべく国際ボーデ ン湖水質対策委員会がつくられ、具体策が検討されました。その結果、河川の汚染はその原 因から断ち切ることを目標に、上流域で 224 の汚水処理場が設置されました。80 年以降、 水質が改善しているのはそのためです。 汚水処理場の設置で生活系、工業系の汚染は除去されましたが、農業系の汚染は残されて います。そのための対策としては、粗放農業、いわゆる肥料・農薬の投入量を減らし、放牧 用の家畜も牛ではなく羊やヤギにするという方法がとられました。その減収分は政府が補て んするというものです。 また、ボーデン湖とりわけ水深の浅い下湖は、葦が生い茂り、重要な鳥の生息地となって います(写真1参照) 。これは自然保護派のみならず、観光業者にとっても大きな宝物です。 このため、湖岸一帯を自然保護地区に指定し、鳥やさまざまな生き物の生息地として保全し ています。 写真1 ボーデン湖(下湖)にたたずむ野鳥たち こうした取り組みの陰で、困ったという人たちも生まれています。それは漁業者です。湖 がきれいになったために、リンなどの栄養素が減り、プランクトンが減ったためです。きれ いな水、たくさんの鳥たちの陰で、魚が減ってしまったのです。 もっとも、漁民たちはおよそ 170 人、年間の漁獲量も 1000~1500 トンで、メジャーな 産業ではありません。しかし、その魚は Gutes vom See(湖からのよいもの)と呼ばれ、 周辺のレストランの名物料理になっています。つまり地産地消の仕組みが完成しています。 こうしたこともあって、農業者も含めて、政治的には強い立場に立っています。 2 EMAS に取り組む基礎自治体 日本語で環境は、環(ぐるりとまわる)と境(さかいめ)が合わさって「周囲の条件」と なります。ドイツ語では Umwelt と表されますが、これも Um(周囲)と Welt(世界)が 合わさって「周囲の世界」となります。 日本語、ドイツ語ともに、環境とは、およそすべての生き物にとって「すでに与えられた もの」といったニュアンスをもっています。しかし、それに止まっていないのが人間です。 人間は全知全能なる神の代理人として、自然を自らの意思で制御しなければならないし、ま た制御できると考えるのが西欧人です。これを「人間中心主義」と呼びます。 この人間中心主義のなかから、環境マネジメントシステム(EMS)の考え方が生まれて きました。そして、その手段として、企業や団体等の環境マネジメントの持続的改善を目ざ す ISO14001 が開発され、普及しています。 しかし、ISO14001 は環境マネジメントの自主的な改善を促すというものであって、外部 からその出来ばえが審査される(環境監査と呼びます)というものではありません。こうし た弊をとりのぞくために EU で考案されたのが EMAS(Eco-Management and Audit Scheme;環境マネジメント・監査規則)です。1995 年に発効されました。 この EMAS を導入している基礎自治体は 2008 年現在、EU で 24 都市、ドイツで 10 都 市を数えます。ボーデン湖(上湖)畔のユーバーリンゲン Überlingen もそのうちの一つで す。 市の担当者の話によれば、都市計画としての F プラン(マスタープランとしての土地利 用計画) 、B プラン(F プランのもとで拘束力のある建設計画)にかかる全分野、ならびに 環境計画としての L プラン(景観計画) 、G プラン(緑地計画)について、現状分析→目標 設定→議会決定→実施・監査→報告書作成が義務づけられています。監査は 3 年ごとに行 われ、いわば公衆の目にさらされながら環境配慮型のまちづくりが進められています。 たとえば、ユーバーリンゲンでは、観光地であるにもかかわらず、ニーズの高い開発型の 土地利用はこれをできるかぎり抑制し、改築や省エネを促すようにする。自然保護地区を設 けて自然と景観を保全するとともに、交通、住宅、エネルギー、廃棄物処理などの諸政策を 見直して土壌保護、水質保全、大気浄化に取り組むといったものです。そして、こうしたプ ロセスを実のあるものにするためには、 何よりも市民とのコミュニケーションと職員のトレ ーニングが不可欠であるとしています。 いうまでもなく、こうした取り組みを進めるには相当な資金と努力がいるわけで、それに 見合ったメリットがないと導入する基礎自治体も尐なくなります。どうも、このあたりのバ ランスの悪さが、EMAS を導入する自治体が EU 全体で 24 都市に止まっている基本的な理 由ではないかと思われます。 しかしながら、そうした困難なプログラムを導入するだけあって、ユーバーリンゲン市民 の環境保全に対する熱意は相当なものがあると感じました。たとえば、市の施設一つをつく る場合にも、議員、市民グループ、環境に関心のある人たちを集めて建設コンサルタントに 3 よる公開説明会が開かれています。われわれも水曜夜 7 時からのこの会合に参加しました が、若い女性たちが多数出席しているのが印象的でした(写真2参照) 。 写真2 施設建設に関するユーバーリンゲン市の公開説明会 テーブルに座っているのは市会議員(名誉職) 、その周囲の壁側に座席があって一般市民が 座っている。50 を超える椅子席は満席で、立ったままの人もいた。 Ü-BIN の仲間たち 日本と違ってドイツには自治会がありません。実体として、確かにコミュニティは存在す るのですが、行政の下請け機関となるような自治会は存在しないのです。したがって、たと えば基礎自治体に対する環境問題の意思表明は、 同じような意思をもつ人びとが自主的に集 まった市民グループを通して行われることになります。 観光都市ユーバーリンゲンの環境問題に関して活発に活動している市民グループの一つ に Ü-BIN という団体があります。ここで Ü-BIN とは、Überlinger BürgerInitiativeN zur Verkehrsberuhigung(交通安全へ向けたユーバーリンゲンの市民提案グループ)のうちの 大文字を集めたものです。 このグループはただ単に環境政策、 とりわけ交通政策について市民の立場から市長に提案 するという役割を果たすだけではなく、 自分たちの提案を実現するような市長候補を推薦す るという政治的な活動も行っています。 では、なぜ交通政策が環境政策のなかで主要な位置を占めるでしょうか。それには平地が 尐ないというユーバーリンゲンの地形が大きく関係しています。 大型バスが頻繁に出入りす る観光都市であるにもかかわらず、十分な駐車スペースがない、両側通行では十分な幅員が 4 とれない、急カーブや城門が障害となって交通渋滞が発生する、歩道が狭く危険である、中 心地では排気ガスが充満する、 道路と商店街が一体化しておりドイツ的な意味で自動車道路 になっていない、などがその理由です。 しかし、観光業者やその関連業者は商売上の利便性を考えますから、パーク・アンド・ラ イド的な中心地からの自動車排除の方針には賛成しません。また、最初からここで生まれ育 った人たちは、自営業者が多いこともありますが、交通渋滞はやむをえないものと考え、急 進的な改革には賛成しません。というわけで、Ü-BIN の賛同者は外部からの流入者が多い のです。 外部の流入者といっても、その多くは風光明媚なこの地域を心から気に入って、リタイア 後に移り住んできた裕福な人たちです。そういう人たちを集めて、Ü-BIN はわれわれから 日本の観光都市における交通政策の実状を聞きだそうという集会を開きました(写真3参 照) 。 写真3 Ü-BIN 主催の「観光都市の交通政策に関する日独討論会」 横向きの説明者が代表のベルグマン氏、 正面中央に座る女性は長野市でドイツ語教師をして いたという人で、積極的に発言していた。 われわれがユーバーリンゲンの EMAS に関心をもち、調査にやってくるということをボ ーデン湖財団(EMAS の監査団体)から聞き込んだのでしょう。ユーバーリンゲンの案内 役を自ら買ってでて、市の実状を説明するとともに日本の実状も聞きだそうとしたのです。 地元紙に開催案内を載せるとともに、親しい仲間たちにも連絡し、開催にこぎつけました。 この会合は金曜午後 4 時半から開かれました。もちろん、専門家とはいえないわれわれは、 5 冷や汗をかきながら、何とかその場を凌いだのでした。 Ü-BIN の代表は音楽家のベルグマン氏、副代表は建築設計家のジョセフ氏です。音楽や 建築の専門家である彼らも、 ユーバーリンゲンという土地にあこがれて外部から移り住んで きた人たちです。日本的にいえば、よそ者なのですが、そのよそ者をよそ者にはしておかな い何かがドイツにはあるようです。 その何かとは、おそらく次のようなものではないかと推測されます。つまりそれは、生き 方の問題として地元志向が強いということです。 その強さは日本人以上のものがあるといっ てよいでしょう。これは地域の「生活の質」の向上に自らを関与させたいとする能動主義か ら生みだされたものです。 もう一つ、生活圏が狭いということも強い地元志向と関係していると思われます。すなわ ち、自然からの恵みを活かす地産地消、職住近接から生まれる時間的なゆとり、およびそれ らから生みだされるワークライフバランスのよさが関係しているのではないでしょうか。 日 本も長い目でみて、こうした方向を追求する必要があるように思われてなりません。 (『農業協同組合経営実務』65 巻 5 号、2010 年 5 月) 6 7
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