慶 應 義 塾 ISSN 1349-6468 Newsletter of Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University 第 17号 2012年 9 月30日 目 次 *退任にあたって(所長 米山光儀)…………………… *福沢研究センター公開講座(橋本五郎氏)………… *平成24年度 中津市アーカイブズ講座 ……………… *日吉寄宿舎調査報告…………………………………… 1937 年〈撮影:渡辺義雄〉 2 3 4 7 発行 *新収資料紹介…………………………………………… 9 *主な動き………………………………………………… 10 *研究活動ニュース……………………………………… 11 *センター諸記録(2012年 4 月∼ 2012年 9 月)……… 12 2009 年 2012 年〈撮影:石戸 晋〉 * 日吉寄宿舎南寮の改修工事成る * 今日、慶應義塾 の 日吉 キャンパス 内 に 寄宿舎 があることを 知 る 人 は、 かなり 少 ないのではないか。 キャンパス 南東 隅 にある 日吉寄宿舎 は 昭和12年 の 完成 で、北寮、中寮、南寮 の 三棟 と、 ローマ 風呂 と 通称 される 浴室棟 の、計 4 棟 の 建物 からなる。 シンプルで 機能的 なデザインが 美 しい 谷口吉郎(1904 1979) の 作品 で、同年完成 の 幼稚舎校舎 と 並 び、 初期の谷口の代表作として建築史上で高く評価されている。 この 寮 は、各棟40人を 1 人 1 室 に収容、行き届 いた備品を揃え、洗濯サービス、床暖房、各階水洗便所 など、当時とし ては 画期的 な 環境を 用意し、東洋一ともいわれた。 なぜ 義塾 はこれほど寄宿舎 に力を 注 いだのか。 それは 義塾開塾以来、 常 に塾と寄宿舎 が 一体であり続 けた歴史 に由来 する。慶應義塾 は 単 なる学塾ではなく「気品 の 泉源、智徳 の 模範」となる のだという全人的 な 教育思想 は、大部分 の 塾生 が 寄宿舎で 眠食 を 共 にしていた 時代 があればこそ 生まれた 考え方である。 「わが寄宿舎の歴史は即ち慶應義塾の歴史に外ならない」と日吉寄宿舎開設時の入寮案内にあるのもそのためである。 ところが、 この 施設 が 正常 に 使用 されたのはわずかに 7 年弱。昭和19年 には 連合艦隊司令部 が 置 かれ、戦後 は 米軍 に 接収されてしまった。返還後は中寮のみが寄宿舎としての機能を回復し、他は荒れ果てて廃墟となっていた。 今般、 その 再生 が 模索 されることとなって、比較的保存状態 の 良 い 南寮 の 改修工事 が 実施 された。 ここに 中寮 の 機能 が 移転 し、68年 ぶりに 学生 の 生活 の 場 に 戻 ったのである。他 の 建物 の 処置 は 必 ずしも 定 まっていないとはいえ、日吉寄 宿舎は建築から75年を経て、新たな歴史を刻み始めた。(都倉) −1− 所長退任にあたって 退任にあたって 米 山 光 儀 本 号 が 発 行 さ れ る2012 年 9 月30日 を 以 て、 福 沢 研 このように、私の任期の間は、周年事業への関わりが 究 セ ン タ ー 所長 を 退任 す る こ と に な っ た。2008 年10月 多く、福沢研究センターの日常業務を十分に行うことが 1 日に就任したので、 2 期 4 年の任期であったが、その できなかったのではないかという 反省もある。刊行物と 間にはさまざまなことがあった。 しては、定期刊行物であるセンター通信や『近代日本研 私 が 就任 した 時 は、 ちょうど 慶應義塾 150 年 の 周年事 究』 の 他 に、福沢研究 セ ン タ ー 資料、近代日本研究資 業が盛んに行われていた時期であり、福沢研究センター 料、福沢研究センター叢書を各 1 冊刊行することはでき は、それらの事業に深く関わっていた。特に、福沢研究 たが、資料調査や資料整理が滞ってしまったことは否定 センターが 編纂 する『慶應義塾 150 年史資料集』 (以下、 できない。また、講演会やセミナーなどの 開催も、例年 『資料集』) は、20 余年 にわたる 長期計画 のものであり、 よりもその回数が少なかった。これからも『資料集』の 周年事業の域を越えたものであったが、それでも11月に 編纂は長く続いていくが、日常業務との両立をどのよう 行われる式典までに別巻 1 として『慶應義塾史事典』を にしていくのかが、課題であろう。 刊行しなければならないということもあり、私が就任し 私 の 任期中 の 新事業 と し て は、2010 年度 よ り 小泉基 た時は、その編纂の最終段階にあった。さらに、2009 年 金 から 研究補助 を 受 けて、「小泉信三 とその 時代」 の 研 1 月 からは 東京国立博物館 で「未来 を 開 く 福沢諭吉展」 究を始めたことがあげられる。センターに寄贈されてい が開催されることになっており、その展覧会は、開催地 る小泉信三関係資料 の整理だけでなく小泉と同時代を生 域にあわせて内容の一部を入れ替えて、 5 月には福岡市 きた 吉田小五郎 や 上原良二 などに 関係 する 資料 の 調査、 立美術館、 8 月には大阪市立美術館を巡回し、さらに 8 整理が進められている。さらに今年度には、未来先導基 月から 9 月にかけて、それとは別の内容で神奈川県立歴 金によって、中津市で行われているアーカイブス講座に 史博物館 において、「福沢諭吉 と 神奈川展」 が 開 かれる 大学院生・大学生・高校生を参加させることができ、福 ことになっていた。その上、その翌年の2010 年は、福沢 沢諭吉を身近に感じてもらう試みもはじまっている。 諭吉生誕175年 にあたり、 その 年 に『資料集』別巻 2 と 福沢研究 セ ン タ ー は、来年 に は 設立 30 年 と な る が、 して、 『福沢諭吉事典』を刊行しなければならないなど、 専任所員が置かれるようになってからの日は浅く、まだ 短 い 期間 で 仕上 げな けれ ばならない 事業 が 目白押 し で まだ 多 くの 課題 を 抱 えている。 『資料集』 の 編纂 は 続 く あった。しかし、私の前任の所長である小室正紀経済学 とはいえ、大学として周年事業が一段落した今、福沢研 部教授がそれらの事業について、周到に準備をしてくれ 究センターのあり方は、もう一度、考えられてよい。福 たこともあり、それらの事業を完遂することができた。 沢研究 センターは 福沢諭吉 や 慶應義塾 を 視野 に 入 れて、 それらの事業を行う上で、特に大きかったのは、セン 近代日本研究をしていく研究所としての機能だけではな ターに専任所員が置かれたことである。小室前所長 の努 く、すでに日吉・三田キャンパスで行っている学部生や 力により、福沢研究センターにも専任所員を置くことが 大学院生を対象とした福沢研究センター講座、さらに大 許 さ れ、私 が 就任 し た と き に は、二人 の 専任所員 が い 阪リバーサイドキャンパスで行っている社会人を対象と て、それらの事業を支えてくれた。もちろん、それらの した講座など、教育機関としての機能がさらに求められ 事業は、専任所員だけでできることではなく、『資料集』 ていく可能性も高い。その意味では、一般の研究所とは の編集委員・調査員、センターの事務職員の協力、並び 異なる教育機関としての位置づけがされる必要もあるよ に 塾全体 のサポートが 必要 であったが、専任 がおらず、 うに思える。今後、福沢研究センターが、研究機関とし 兼坦や非常勤だけでは、その実施は難しかったと思われ て塾内外に益々その存在感を示していけるようになるこ る。専任所員がいない時の所長は、すべてのことに関わ と、また慶應義塾の中でイベントの時だけに求められる らざるを得なかったが、私の場合、専任所員に任せられ 存在でなく、日常的にその存在が感じられるような組織 ることも多く、これまでの所長とは異なり、職務として に成長していくことを願い、所長を退任しても、微力な はずいぶんと軽減されていたように思える。 がら、協力していきたい。 −2− 公 開 講 座 福沢研究センター公開講座 「偉大さ」の条件 読売新聞特別編集委員 橋 本 五 郎 1 .R・ニクソン『指導者とは』(文芸春秋社) ろ、消費税 の 問題 にしろ、相対立 する考 えの 中 に 見 いだ せ 慶應義塾 に 入学したときに、兄 が 『福沢諭吉全集』 をプ るのは、福沢 がいうように「悪さ加減」 による決着しかない。 レ ゼ ントしてくれ た。 もちろん 全 ては 読 んで い な い が 、 新 政治 においてはベストの 選択 がないのはもちろん、 ベターの 聞記者 になって 論説委員 になった 時 に、国会 はもっと議論 選択さえないという「醒 めた認識」 が 重要である。 チャーチ を すべきだということを、福沢 の 「国会論」 を 引用して 書 ルは、「これまで存在したあらゆる政治形態を除 けば、デモク いたことがある。福沢 は 、国会 は 「異説抗論 の 戦場」 であ ラシーは 最悪である」と述 べた。 つまりはもっともマシである るという。人々 の 意見 が 対立 するの は 当 たり前 である。意 ということだが、誰 にとっても最善であることはありえないと 見 に 違 い があることを 前提として、 それをどう乗り越 えてい いう、福沢と同じ視点である。この 視点 によって、初 めて見 くか 議論していく場 が 国会 である。福沢 の 主張 は 考 えてみ えるものがある。また 批判 を 受 けながらも、辛抱強く一歩一 れ ば 当 たり前 のことだ が 、今国会 できちんと 議論 が なされ 歩進めなければならないという謙虚 な 気持ちで、物事 に向 か ているの かといえば 、 はなはだ 疑問 である。福沢 は 後々残 うことができる。自分はそのことを福沢 から学んだ。 るものを 書 いた。 それは 福沢 の 言葉 が 、 いつの 時代 におい 4 .状況的・複眼的思考 ても、 その 時代 を 考 える基準 になりうることを 示している。 共和党 の 大統領 だったニクソンが 書 いた 指導者論 は、自 福沢は時代によって、様々な評価を得る。ぜひ 丸山眞男の 『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫)を読んで欲しいが、丸山は、 分 が 読んだ 中で最高の指導者論である。 ニクソンは指導者を 福沢 は 状況 に応じて主張していくように見 えるが、単 なる機 偉大 ならしめる必須条件として「偉大 な 人物、偉大 な 国家、 会主義ではなく、ものを見る軸 が 存在しているという。それが そして偉大 な 機会である」と述 べている。まず 偉大 な 人物で 「独立自尊」 である。まず 一身 が 独立 することが 必要で、 そ なければ、他 がどのような 条件でも偉大 な 指導者 にはなれな こから家族 につながり、国家 につながる。25年間塾長を務め い。また偉大な国家、偉大な機会は、 その時代状況による。 た鎌田栄吉 は、福沢 はコンパスだという。伸縮 ができ小さな 物事 を 見 るとき、重要 なのは「鳥 の 目」 と「虫 の 目」 の 円も大きな 円もかけるが、固着した軸足 がある。独立自尊を 両方 を 持 つことである。全体 を 俯瞰的 に 見 る「鳥 の 目」 も 軸に、国についても家庭についても考えることができる。 必要 であるし、 また 具体的 に 身近 な 世界 を 見 る「虫 の 目」 新聞記者 を42年間 や っ て つ く づ く 思 う の は、 ジ ャ ー ナ も 必要 である。明治維新 も 鳥 の 目 でみれば、武士 が 政権 を リストに 必要 なのは「健全 な 相対主義」 である。自分 が 絶 得、天皇 との 間 で 権威 と 権力 をうまく 使 い 分 けてきた 体制 対 であると 思 っていることと、反対 のことを 絶対 であると が 660 年以上 を 経 て 変革 した 時 である。偉大 な 人物 を 理解 思 っている 人 があるかもしれないと 考 えられる 余裕 が 重要 するには、その背景とともに考えることが重要である。 である。 ただ 何 でも 認 めてしまうと、判断 や 決定 ができな 2 .『福沢諭吉事典』に見られる福沢像 くなってしまう。 「健全」 であることが 大切 である。 また 事典 を みると、福沢 が 様々 な 活動 をしていることが わ か 「適度の懐疑論」が重要である。自分は果たして正しいのか る。 たとえば 大災害 の 後、 いちはやく義捐金活動をして定着 と、疑 いながら 考 えることが 大切 である。時間 がたてばた させている。寄付活動 には 顕示欲 が つきもので、 たとえば つほど、無意識 に 真実 はゆがめられていく。裏 に 隠 れたこ 10 万円では目立たないので 10 万 500 円寄付して抜き出ようと ともあるのではないかと 考 える。 しかしこれも「適度」 で するような 「寄付金 の 政治学」 が 働くものだが、福沢 は 寄付 あることが 大切 である。自分 は、世 の 中 のわからないこと 者名簿 を 先着順 にし、自らの 名 が 埋没 することも厭 わない。 を 調 べて 読者 に 示 すこと、世 の 中 のいかんともしがたい 差 福沢は多方面に活躍した「ルネサンス的万能人」といえる。 異 の 中 で、自 ら 主張 する 術 をもたない 人 の 意見 を 伝 えるこ 3 .リアルな状況認識 とが、ジャーナリストの役割であると考えている。 福沢は 『時事新報』論説において、「万能の善政府」 など 5 .学生諸君に望むこと なく、政治とは「悪さ加減の如何」であるという。政治を「悪 福沢 は 無尽蔵 に 考 えさせてくれるものを 持 っている。自 さ加減の選択」と考える政治的リアリズムは重要である。様々 分 なりの 関心 をもって、福沢 を 読 んで 欲 しい。文芸評論家 な立場 がある限り、万人に「善」である政治などあり得ない。 の 江藤淳 さんが、 「慶應義塾 に 入学 して 肩 で 息 するぐらい 人々はオバマや 民主党 の 登場 に 過大 に 期待した。 それは 無 勉強 したかった 」 と 言 っている。肩 で 息 するぐらい 勉強 す 理もない が、問題 なのは 政権 を 握った 当事者 たちが、簡単 るというのは、実 にいい 言葉 である。大学時代 は、自分 で にできると考 えることである。これまでの 経緯 の 中 で、問題 自分 の 時間 が 管理 できるかけがえのない 4 年間 である。 ぜ はそう単純 には 解決しない。原発問題 にしろ、沖縄問題 にし ひとも肩で息するぐらい勉強をしてほしい。 −3− ア ー カ イ ブ ズ 講 座 平成24年度 中津市 アーカイブズ講座 本年度 も 8 月 8 日(水)か ら12日(日)ま で、中津市 市長および別府大学アーカイブズセンター長挨拶 との提携によるアーカイブズ講座が行われた。 4 年目と 講義 ① 丑木幸男教授(別府大学) なる今年は、従来の講座に先立ち、高校生および大学 1 「アーカイブズとアーキビスト」 ∼ 2 年生向 に 福沢史跡見学 と ダ イ ジ ェ ス ト 版 ア ー カ イ 講義 ② 西沢直子教授(慶應義塾福沢研究センター) ブズ 講座 を 試 みた。両講座 の 日程 は 以下 の 通 りである。 「福沢諭吉と中津」 宿泊は 8 月 6 日∼ 8 日がルートイン中津駅前、 8 ∼12日 講義 ③ 針谷武志教授(別府大学) が 中津市営 の 研修施設 八面山荘 であった。参加者 は 前 「写真・マイクロフィルム撮影の基礎知識」 半 が 高校生 4 名(塾高 2 、志木高 2 )、学部生 5 名(経 8 月 9 日 9 : 00∼17 : 00 済学部 3 、法学部 2 )、後半 は 別府大 より37名 が 参加 し 福沢研究センターからは調査員 5 名が参加した。 高校生・大学生向 け 古文書講座 お よ び 大阪・中津福沢 史跡見学日程 8 月 6 日 8 : 00 東京駅集合 のぞみ207号 10 : 33 新大阪駅着 【大阪市内史跡見学】 福沢諭吉生誕地・大阪リバーサイドキャンパス・大阪慶 講義 ④ 尾立和則氏(元京都造形芸術大学教授) 「襖の保存と解体について」 整理・目録作成実習 8 月10日 9 : 00∼16 : 15 整理・目録作成実習 18 : 30 学生親睦会 於八面山荘バーベキューハウス 8 月11日 9 : 00∼17 : 00 整理・目録作成実習 8 月12日 9 : 00∼12 : 15 整理・目録作成実習 12 : 15∼12 : 20 閉講式 中津市教育長挨拶 應義塾跡・緒方洪庵の墓 ソニック41号 15 : 09 新大阪駅発 のぞみ33号、 18 : 11 中津駅着 8 月 7 日 9 : 00 開校式 於福沢記念館会議室 中津市教育長・福沢研究 センター 所 長挨拶・参加者紹介 【中津市内史跡見学 ① 】 福沢諭吉旧邸および福沢記念館・明蓮寺・独立自尊の碑 (中津城) ・耶馬溪・競秀峰・耶馬溪風物館・昼食・羅漢寺 15 : 00 尾立和則先生講義 「資料の保存や修復技術について」 【中津市内史跡見学 ② 】 村上医家史料館・夕食(朱華) 参加記 中津市アーカイブズ講座に参加するのは今回で三度目 で あるが、初日 か ら 参加 し たのは 今回 が 初 め てで あ っ た。今年から、アーカイブズ講座の開講に先立って実施 されることとなった高校生・大学生向けの福沢史跡見学 にも同行したので、中津にはちょうど一週間滞在したこ とになる。福沢史跡見学では、豪雨の被害に見舞われた ばかりの耶馬渓を訪れるという貴重な経験をすることが できた。まだ被害の爪痕が所々に残っていたものの、山 国川が水害のことなど忘れたかのように悠々と流れてい るのが印象的だった。 アーカイブズ講座では、昨年同様、 グループに 分 かれて 襖 の 下貼 り 文書 の 目録 を 作成 した。 ヴォルフガング・ミヒェル先生(九州大学名誉教授)に 8 月 8 日 9 : 30 ① 実習(襖下貼り剥し)尾立和則先生 よる 講義 と 福沢記念館 の 見学 の 時間 が 今回 はなくなり、 ② 講義(古文書解読)西沢直子教授 史料実習の時間が 2 時間増えたことで、多い日には一日 11 : 30 閉校式 於中津市立図書館 40 点 以 上 の 中津市文化振興課長・福沢研究 セン 史料 を 整理 す ター教員挨拶 ることができ 12 : 00 昼食後バスで北九州空港へ移動 た。内容 は 中 スターフライヤー 84便 津藩 の 人間関 16 : 35 羽田空港着 解散 係 を 伝 える 手 ・中津市アーカイブズ講座日程 紙 が 多 かった 8 月 8 日 13 : 30∼17 : 00 が、最終日 に 開講式 は 講座 がこの −4− ア ー カ イ ブ ズ 講 座 まま終了してしまうのが惜しく思われるほど、参加者た 書剥がし、写真撮影の 3 種類で、各班がすべての工程を ちは熱心に作業に取り組んでくれていた。もっとも、後 経験できるようにローテーションを組んで回した。私の 日東京で行った反省会によれば、史料実習が延々と続い 班は二日目、三日目はひたすら目録作成に取り組み、四 たことで学生の緊張感がうまく持続しなかった班もあっ 日目、五日目で襖の下貼りや写真の実習を行った。 たようだ。私 が 担当 した 班 でも、 はじめは TA 1 人 に 対 襖は中津藩の竹本家で使われ、維新後は医者の大江家 し班員が 8 名(最終的には 6 名)いたので皆の作業を見 に 移 されたものを 使用 した。従 って、古 い 層 は 竹本家、 て 回 るのに 少 し 困難 を 感 じることもあった。TA が 自 ら 新しい層は大江家で仕立てられたことになる。作業の目 作業 し つ つ、学生 に ア ド バ イ ス で き る 人数 は 5 ∼ 6 名 的は襖の原状を記録しながら下地に使われている古文書 が限度なのではないか。講座に参加する別府大学の学生 を一枚一枚剥がしてゆくことである。そのためにまず全 たちも同じ大学の所属とはいえ、講座の前には互いに面 体の写真を撮り、次に文書が張られた順番に注意しなが 識がない場合が多いようなので、グループの人数を適正 らスケッチをして記録をとる。そして最後にのりづけさ に保つことは相互の交流を促進するためにも重要なこと れている文書を剥がすと一つの層の作業が完了する。こ ではないかと思う。 (堀 和孝) うすることで襖を仕立てた当時の作業工程を復元するこ 今年の講座は例年以上の受講者が集まり、福沢家襖下 とが可能となる。襖の下地は複数の層から成り立ってい 貼り文書の史料目録も思いのほか進み、非常に充実した るので、この作業を各層ごとに行った。 会となった。整理した史料の内容は、金銭出納帳が大半 写真撮影を行った史料は、昨年度の実習で解体した屏 を占めていた他、中津藩の人間関係を伝えるようなもの 風の下貼り文書で、中津藩奥平家の菩提寺として知られ や、女手による手紙、断簡もあり、中津藩の藩士であっ る自性寺のものである。文書を鮮明に撮影するためにカ た福沢家の生活の一断面が垣間見えるような気がした。 メラの設定をマニュアルで決定する方法について最初に ま た、今回、整理 に あ た っ た 史料 は、襖 の 下貼 り で 説明を受けた。会場の光の数値を測定し、それに応じた あったことから、劣化が甚大なものも多いように思われ 絞り値とシャッタースピードを確定することになる。文 た。そのため、こうした史料の保存や管理・劣化の防止 書 は 静止物 なのでシャッタースピードはゆっくりでよ は、今後の課題であろう。 く、その分全体のピントが合うように設定することで写 冒頭では、丑木幸男先生のアーカイブズについての講 真の明るさや鮮明さが均一になるようにした。 演・西沢直子先生 による 中津藩 についての 講義 があり、 こ のよう に 襖 を 解体 し て 下貼 り 文書 を 一枚一枚 に 分 本講座で扱う史料の背景を理解するよう努めている学生 け 、 そ れ を 撮影 し て 記録 を と り 、目録 を 作成 す る と い の姿が多く見られた。 う 一連 の 作業 を 経験 す ること で 、全体像 を 把握 し な が あ わ せ て、今年 も 尾立和則先生(元京都造形大学教 ら それぞ れ の 作業 を 進 め ること が できた 。 こ のお か げ 授)による襖の下貼りを剥がす実習のほか、針谷武志先 で 効率良 く 実習 を 行 う ことが で き 、理解 も しやす か っ 生(別府大学教授) による 史料撮影 の 実習 が 行 われた。 たと 思 う 。 二つの実習では、学生自身が積極的に取り組んでいたた なお、講座 の 期間中、学生 は中津市 の 宿泊施設 で 合 め、充実 した 時間 になったものと 思 われる。 とりわけ、 宿生活 を 送 った。施 設 は市街 地 から 少し 離 れた 丘 の 中 襖の下貼りを剥がす作業については、学生達にとっては 腹 にあり、講座 の 期間中は 貸切 になる。 そのため 学生同 未体験のことであったため、戸惑いながらも楽しそうに 士 の 交流時間も自然 と多くなり、 さらに施設内 でバーベ 作業を進めている姿が印象的であった。 キューを楽しむ機会もあった。講座自体 はみっちりと日程 今回の実習では、三年目ということもあり、福沢研究 が 組 まれていたが、 こうした 適度 なあそびが 勉強疲 れを センター・別府大学 それぞれの TA の 連携 もあり、緊張 起 こさせ ない 感 の 中 に も 楽 しく 作業 ができたことは、大 きな 収穫 で アク セ ント に あった。来年度 の 実習 でも TA 同士 の 連携 を 念頭 におい な っ て い て、 て作業していきたい。 (大庭裕介) 5 日間 メリハ 8 月 8 日∼12日 に 中 津 市 で 行 わ れ た 古 文 書 講 座 に リのある生活 参加 し た。例年通 り 8 日 の 午後 か ら 講座 は 始 ま っ た。 が 送 れた。 初日に講義とレクチャーを終えると、二日目以降は全体 (横山 寛) を 1 グ ル ー プ 8 人程度 の 6 班 に 分 け、班 ご と に 実習 を 行った。作業は古文書の目録作成、襖の解体・下貼り文 −5− 古 文 書 講 座 報 告 「古文書講座」および「アーカイブズ講座」に参加して 慶應義塾女子高等学校 社会科教諭 結 城 大 佑 今年度から設置された高校生・大学生向けの「古文書 生に紹介したいと考えている。なかでも中津の高校生と 講座および大阪・中津福沢史跡見学」と、以前から行わ コミュニケーションをとれるのは、交友関係が慶應関係 れている「中津市アーカイブズ講座」に参加させていた 者に偏りがちな一貫校の生徒にとって、普段知らない環 だいた。 境に触れるいい機会だと感じた。 「古文書講座 お よ び 大阪・中津福沢史跡見学」 に は、 「中津市アーカイブズ講座」では、諸先生方のセミナー 女子高の日本史担当教員として参加し、その内容を女子 を受講させていただいた上で、下張文書整理作業の各手 高生に紹介するという役割もあったが、自分自身が面白 順を 3 日間に渡って見学した。 く学ばせていただいた。この講座の魅力は、現地で体験 この講座では、下張文書の剥離→写真撮影→文書解読 するからこそ学べる事柄が多く盛り込まれていたことに という 一連 の 作業工程 それぞれを、専門 の 先生方 や TA あると思う。印象に残った点は多々あるが、字数の許す の方々が付きっきりで指導してくださり、しかも少人数 限りで挙げてみたい。 で実習が行われていたため、率直に贅沢な講座だと感じ た。さらに参加者はセミナーで聞いたことをすぐに実践 例えば、大阪で外せない福沢関連史跡のひとつに適塾 があるが、適塾はどのような場所に建てられた学塾なの に移せるため、体全体でアーカイブズについて学べる仕 か、見学の際にはその立地を考えることも提案されてい 組みになっていた。 た。すなわち適塾周辺には同時代に懐徳堂があって、い ところでこの座学と実習のつながりは、重要なものだ わば学問的ムードが漂う地域であり、少し時代が下れば と思う。そもそも学校の授業では座学が多く、自ら体を 愛珠幼稚園が移転してくるなど、教育というものを感じ 動かして知識を得る実習形式の授業は少ない。実習の機 させる地域でもある。そういった地域の雰囲気は、諸施 会があっても、座学での知識が実習に生きているかと言 設 を 歩 いて 回 ることでこそ 強 く 実感 できるものであり、 われれば、不十分な時も少なくない。反対に、実習のた 参加者にとってまさに体験学習となっていた。 め の 座学 が 足 り ない 時 も ある。 こ のよう な 時 に 思 う の 中津では当地歴史民俗資料館の方々にご協力いただい は、座学と実習を同時に行うことができればさらに理解 て、多くの史跡をスムーズに見学することが出来た。本 が深まるだろう、ということである。そういった意味で 企画のメインでもある古文書講座では、まず下張文書の この「中津市アーカイブズ講座」では座学と実習が同時 保存に関するセミナーが行われた後、実際に下張文書を に、しかも充実した内容で提供されていたため、アーカ 剥離する作業と古文書を解読する作業が並行して行われ イブズ関連の本格的な作業をはじめて体験する人にも理 た。 ただ 剥 がすだけ、 ただ 古文書 を 見 るだけではなく、 解しやすくなっていたと思う。 以上、「古文書講座 お よ び 大阪・中津福沢史跡見学」 尾立先生や西沢先生が剥離の手法や古文書の背景を逐一 丁寧に教えてくださったため、参加者に馴染みのない作 と「中津市アーカイブズ講座」の魅力を、自分なりにま 業 も 親 しみやすくなっているように 感 じた。何 よりも、 とめてみた。両講座を通じて改めて実感したのは、当た 歴史がどういったものを使って研究されるのか、史料が り 前 のことではあるが、体験 することの 重要性 である。 どのように見つかるのかといった、歴史研究の手法の一 あるいは、体験 すると 理解 が 深 まるということである。 部を体験しながら学べるのが、高校生や史学専攻以外の 私が女子高で担当する日本史においては、過去の出来事 大学生にとって有意義だったと思う。 をいま体験することが出来ない以上、座学が中心の授業 また今回の講座には高校生が四名、大学生が五名、引 になりがちである。ただその中でも、あたかも歴史を体 率者が大学および一貫校から五名参加した。さらに中津 験しているかのような歴史の具体的なイメージを生徒に の高校生五名も参加しており、バラエティーに富んだ人 伝えられるよう、工夫しなければならないと痛感してい 数構成 に な っ て い た。普段接点 のない 方々 とコミ ュ ニ る。この経験をもとに授業を見直し、女子高生には「体 ケーションをとれるのは刺激的で、この点もぜひ女子高 験すること」を積極的に促していきたい。 −6− 日 吉 寄 宿 舎 調 査 報 告 日吉寄 宿舎調査報告 ─悲運 の 名建築 が 辿 っ た 歴史 ─ 都 倉 武 之 昭和12年 に 完成 した 日吉 前者は端正な楷書で大書されており、緊張感を帯びて 寄宿舎 は、昭和19年 から 海 軍、終戦後 は 米軍 に 使用 さ いる。後者は間違いを抹消している箇所もある殴り書き れて 荒廃、北寮・中寮・南 だろう、花押らしいものも添えてある。両者は随分対照 で、 「平八郎」 というのは 東郷元帥 の 揮毫風 に 戯 れたの 寮・浴室棟 の 4 棟中、中寮 以外は廃墟化していた。 的だ。時期は不明だが外国語のものがもう一つあった。 ・Was in der Jugend uns verirrter Alltag ist, erscheint 平 成 22 年、 慶 應 義 塾 は 安全面・機能面・財政面 か uns später wie ein Märchentraum.〈中213〉 ドイツ語で「若き日の我々を惑わせているものは、時 ら寄宿舎の再構築を検討 がたてば、やがて夢まぼろしとなる」という意味だ。 し、南寮 と 浴室棟 を 改修、 中寮 と 北寮 は 取 り 壊 すとい う 整備計画 を 立案、 これを 次の落書きは大作で、とりわけ印象に残った。 昭和18年頃の南寮と庭の櫟 ・思ひ出は湧きて尽せじ二本の櫟の本にあかねさす時/昭 吉田鋼市氏(横浜国立大学)を座長とする諮問委員会に 諮 っ た(筆者 も 委員 と し て 参加)。委員会 は 昨年 3 月、 南寮をできる限り当初の外観に復元すること、 4 棟の一 体性を重視し、中寮・北寮も保存活用を模索すべきこと などを答申。義塾ではこれを踏まえてまず南寮改修を実 施、本年 4 月 に は 中寮 を 一旦廃 し 南寮 の 使用 を 開始 し た。さらに横浜市は南寮・浴場棟を歴史的建造物に指定、 和十九年九月二十日 海軍予備生徒入団奥津透/祖国勝 利之日再び学之殿堂となるを信じて 海軍に明け渡しの日 〈中212〉 署名の奥津氏は、前述の五十周年記念誌に落書きのこ とを次のように回想している。 多分うす汚れてしまい、幼稚ないたずら書きとしか見えない ことであろう。当然のことである。それは四十数年も昔のこ 寄宿舎の再評価の動きが加速している。 福沢研究 センターでは、塾史上 の 寄宿舎 の 重要性 と、 とである。 今、何の意味もないのは当然である。 いやその 日吉寄宿舎 の 辿 っ た 歴史 を 記録 す べ く、平成21年 6 月 29日( アートセンターと 合同)、平成23年 9 月29日、平 いた人自身も忘れてしまった忘却の彼方に埋没したことでもあ 時ですら書いた人以外には意味のないものであった。また書 る。それらは昭和十八年と十九年に学徒出陣とか徴兵と言 成24年 9 月10日 の 3 度 に わ た り 寄宿舎 の 内部調査 を 実 施したのでその概略を報告したい。 う名の下に寮を去って行った者達が書き残した名前なのであ 寮生の痕跡 と何日と数えて過す夜、僅かな酒の勢いを借りて書いたもの 今回の調査では、創建時から各個室にあった洋服タン ス内に、多くの落書きが確認された。中寮では、75年間 である。こめられた思いはそれぞれであったろう。だが他人 が窺い知るような、なまやさしいものではなかったろう。 の落書きが混在している。ここでは昭和20年以前の記入 奥津氏の落書きにある「櫟」は、庭の各所に植えられ と確認できるものの一部を紹介しておきたい。 る。二十歳前後の年頃であったろう。娑婆に居られるのはあ くぬぎ た日吉寄宿舎のシンボルである。その櫟の木を歌い込ん ・この室を愛するもよし愛せぬもよし たゞ君の真摯なる道場 アカ ヒラ とせられよ/昭和十二 、 九―十四 、 三 赤 平 栄三(秋田) 〈北308(北寮308号室 の 意。以下同)〉 だ落書きが他にも目に付いた。 に は ・思ふこと数多あれど黙してぞ寮庭の櫟に語れと告げむ/平賀 雅晴 昭和十九年九月十五日 さらば懐しの寮よ〈中207〉 ・確固タル人生観ヲ創リ給ヘ(石橋生)〈北302〉 これらは日米開戦前のものである。赤平氏は隣室の寮 生が寄宿舎の五十周年記念誌に想い出を寄せており「無 口でおとなしい、遠慮勝ちの人」で試験前は皆が「赤平 詣で」する、成績抜群で敬愛を集めた人物だったという。 ど の 落書 き も 筆 で 直接書 かれている 中、赤平氏 だ けは 紙片 にペンで 記 し、端 っこに 慎 ましやかに 貼 っていた。 いかにも回想に語られている人を思わせる。 ・夕去れば煙草火焼けつ赫々に庭の櫟に思ふことなし/昭和 十九年九月十五日 藤居喜一郎 寮最後の日〈中213〉 この二人の歌は呼応している。前者には、こう書き添 えられていた。 若かったのでそして希望にみちていたので彼は如何なる外的 事情の組合せによって希望を挫かれる事を拒んだ。運命その ものによってさへも。〈中207〉 太平洋戦争突入後は戦争を感じさせるものが多い。 哀惜の情にじむ落書きはまだまだある。 ・日本 英 米に宣 戦す 銘 記すべし/ 昭 和 十 六 年 十 二月八日 ・昭和十八年十月 淡路絖一郎/寮より戦場へ征く 後の諸君 〈中309〉 マ マ ・Welinton's and Washington's boy can't, but Togo's boy can stand up /勝利 平八郎〈中208〉 −7− " 文化は日吉より " の言を生かして呉れ〈中313〉 ・おゝ世紀の足音がきこえる。なつかしの部屋心のふるさと栄 あれ!/昭和十八年高堂信吉〈中311〉 日 吉 寄 宿 舎 調 査 報 告 タンスの 中 に 1 箇所 だけ 米軍 関係 の 英文落書 きが 確認 でき た〈 中211〉 。「1947」 と あ り、 署名 もあるが 鉛筆書 きで 字 が 薄 く、解読 は 本報告 に 間 に 合 わなかった。 この 時代 の 改変 は 浴室棟 に タンスの落書き(左:中寮 309 号室 / 右:同 313 号室) 著 しい。接収中、浴室 がバー ラウンジのように 使用 されて と こ ろ で、南寮 は 海軍 の 高官 が 入 っ た た め 拭 わ れ た いる 写真 があり、円形 の 展望 か、半世紀以上の直射日光が消し去ったか、寮生個室に 風呂 の 浴槽 はコンクリートで 蓋 がされ(埋 められてはいな 落書きは全くなかった。唯一、元は宿直室だった 1 階隅 の部屋のタンスに次の墨書が残っていた。 い) 、天井 ドームを 支 える 列柱 には、立 ち 飲 み 用 のカウ ・さらば南寮 心の我が家よ 今別離にのぞんで感無量 涙もて ンターが残存する。また脱衣場の壁面には、星と白頭鷲 我は去りてぞ行くさらば/南寮最後の日 を象ったマークが付けられていた痕跡が残る。 最後に、戦死した寮生の落書きを記しておく。 戦後の使用 ・健やかに進め/第一代 瑞山貞次〈北301〉 〈南寮〉 は、昭和29年交換留学生用 に 改修、以後斯道 文庫、生協 が 使用 した 時期 があった。 1 階倉庫 からは、 ・" 寮は人間修養の道場也 " /昭和十六年三月記之 第一回 寮生 伊東秀雄〈中217〉 学生運動関連の遺物が発見された(P11参照) 。 は としての 〈中寮〉 、昭和25年 3 月頃寄宿舎 運用 を 再 海軍時代の痕跡 海軍 への 寄宿舎 開。27年個室 2 部屋を 1 室に改装し、 3 人同部屋とする こ と と な り、以後 3 人 1 室 が 日吉寄宿舎 の 伝統 と な っ 貸与 は 契約上昭和 19年 9 月21日 で あ た。机、棚、タンス等、部屋の備品は創建時のものがそ る。寮 は、連合艦 のまま多く使われたが、窓のサッシは全て替えられ、外 隊司令部 の 庁舎兼 宿舎 として 使用 さ 観は 3 棟中で最も改変された。 〈北寮〉 は、昭和26年 から 大学研究室 になった 記録 が れた。 この 時代 に 特 に 手 が 加 えられ たのは 司令長官 や FIRE HOSE の表示(南寮 1 階) あるものの、使用状況は不明。全ての個室が残り、当初 の内装も比較的良く残っているが、日陰で保存状態が悪 司令長官室跡と推定される場所(南寮 2 階) い。 1 階は会議室、航空部部室として使用中。 参謀長が入居した南寮と考えられる。長官室は 2 階奥と 伝わり、ここには個室 4 部屋の壁を取り払った空間があ 〈浴室棟〉 は、米軍退去後放置 された。 ただし 学生諸 団体が使用し、現在もプロレス研究会が使っている。 り、隣接 の 2 部屋 を 1 室 に 改 め た 部屋 が 扉 で 繋 が っ て いた。断定はできないが、これがその改装の跡である可 以上は、ただの廃墟探訪趣味のように思われるかもし 能性が高い。そのほか南寮には壁の除去、扉増設が多く 見られた。なお、中寮には参謀ら佐官、北寮は尉官が入 れない。多分それは半分当たっているが、いつ失われる 居し、 1 階食堂はそれぞれ、南寮が会議室、中寮は作戦 室、北寮は診療室になったという。 録しておくことは無価値ではないと思う。実際ここに記 した 南寮 の 状態 は、改装 により 既 に 失 われたのである。 かわからない歴史の現場の面影や、戦中の塾生の声を記 海軍 はこの 地下 に広大 な 防空壕を 掘削し、今 は 撤去さ 最後に慶應義塾開塾以来の寄宿舎の意義は、今日改め れた出入口は中寮と南寮の間にあった。壕への近道として て 想起 されて 良 いのではないか(表紙参照) 。 それを 前 増設されたらしい扉も、中寮・南寮に確認できた。 史として、日吉寄宿舎が存在するのであって突如として 谷口の素晴らしい建築が生まれたわけではないのだ。そ 米軍時代の痕跡 米軍による接収は昭和20年 9 月 8 日のことで、立ち会っ た塾生 によれば 米軍 は 各部屋 に海軍 が 残した備品をすぐ して、単に独特の秩序が支配する共同生活の場であった 谷に投げ捨てたという。寮は独身士官の宿舎だったと伝わ るが 詳細は不明で、接収解除は24年10月 3 日付であった。 を迎えた日吉寄宿舎が、義塾の歴史に裏打ちされた気風 南寮、北寮壁面 には 「FIRE HOSE」「FIRE EXIT」という 赤字が多数見られる。これは米軍の残したものであろう。 ※ 本調査 の 記録撮影 は 石戸晋氏 に 依頼 し、調査 は 都倉 と当センター調査員横山寛が担当した。 4 4 4 4 4 ならば慶應義塾の寄宿舎である意味はなく、新たな節目 を強固にする源として、一層発展していくことを願う。 −8− 新 収 資 料 紹 介 平成24年 3 月 から 平成24年 8 月 までの 間 に、福沢研究 センターに 収蔵 された 資料 の 主 なものを 紹介 します。多 くの 方々 から 貴重 な 資料をいただきましたが、すべての資料をご紹介することができず、申し訳ありません。 (物故者敬称略) 福沢諭吉関係資料 ■ 漢詩 「蠟燭煌々門未関 簿書案頭堆如山 塵事忙中談文事 身艱未除憶国艱 迎新人祝長依旧 送旧我祈去無還 一年三百六十日 不得斯生半日閑 君不見宇宙快楽在無知 真成知字是憂患 雪池」 1 幅 【購入】 大晦日 の 夜、蠟燭 の 灯 があかあかとして 門 もまだ 閉 めていない。机 の 上 には 帳簿 のたぐいが 山 のように 積 まれている。俗事 に 忙 し い 中 でも 学問 のことを 口 にし、 わが 身 の 難儀 も 払 えないのに 国 の 困難 を 心配 しているのが、 わたしの 生活 だ。年 が 新 たになるといっ て 世間 の 人 はもとのとおりに 変 わりのないことを 祝 うが、去 り 行 く 年 を 送 るに 当 たって、 わたしはこんな 年 はもう 二度 と 戻 ってもら いたくないものだと 祈 りたい 気分 だ。一年三百六十日、半日 のんびり 過 ごすことができたというためしはないのだ。見 たまえ、昔 か ら今までこの世の快楽はすべて無知に由来するもので、人間というものは文字を知ることがすなわち悩みの始まりなのである。 (『福沢諭吉事典』金文京氏解説) 唯一 の 古詩 で、 もっとも 長 い 詩 である。今回 の 入手 したものは、 これまで 知 られていた 詩 とかなり 文言 の 異同 がある。新 たに 知 ら れた 語句 には、 をかけた。 また 書福仕立 になっていて 箱書 があり、 「福沢先生真筆 タル 疑 ナシ 大正五年十二月八日 鎌田記 ス㊞」とある。 ■ 竹添進一郎宛書簡 明治17(1884)年 7 月12日付 1 幅 【購入】 日本 に 帰国 していた 井上角五郎 が、再度朝鮮 に 渡 ることを 決 め 今日 から 用意 を 始 めたと 告 げ、出発前 には 竹添 のもとに 参上 するの で「御差図」 を 与 えてくれるように 依頼。 また 名越時孝 の 拝謁許可 を 謝 し、 この 手紙 を 持参 させるので 都合 がよければ 会 ってやって ほしいと述べる。 名宛人 の 竹添進一郎 は 天保13(1842)年肥後国天草群上村(熊本県天草郡大矢野町) に 生 まれ、維新期 は 熊本藩 に 仕 えた。明治 8 (1875)年 4 月修史局御用掛 となり、11年 4 月以降大蔵省 に 勤務、13年清国天津在勤領事 となり、在任中 は 琉球問題 につき 李鴻章 と 交渉 した。15年外務大書記官 となり、11月弁理公使 として 朝鮮 へ 赴任、在任中 の17年12月 に 甲申事変 が 起 った。18年 に 帰国 し、同年 6 月公使を免ぜられた。26年外務省を退官。大正 6 (1917)年殁。 井上角五郎 は 万延元(1860)年備後国深津郡野上村(現在 の 広島県福山市) に 生 まれる。号 は 琢園。福山誠之館 や 広島県師範学校 で 学 び、明治12(1879)年 に 上京。福沢家住 み 込 みの 漢学家庭教師 となり、慶應義塾 にも 入学、15年 に 卒業 した。在学中 から 福沢 の 紹介 で 後藤象二郎 の 秘書役 を 務 め、15年12月朝鮮政府顧問 となった 牛場卓蔵 の 随員 として 渡朝、統理交渉通称事務衙門(外衙門) に 出仕 した。朝鮮開化派 を 支援 する 福沢 の 連絡役 を 務 めたとされ、16年11月 に 朝鮮初 の 近代的 な 新聞『漢城旬報』 を 発刊、続 いて 尽力 した19年創刊 の『漢城周報』 は、初 めて 漢文・ ハングル 混合文体 を 実用化 した。明治23年 からは 落選 や 辞職 をはさみながら 大正13 (1924)年 まで 衆議院議員 を 務 め、鉄道 や 朝鮮政策 などで 活躍 した。 そのかたわら、北海道炭礦鉄道会社 などの 経営 に 参画、日本製 鋼所(現新日本製鐵株式会社)を創立し会長に就任した。昭和13年 9 月23日殁。 名越時孝 は 水戸出身 の 士族 で 福沢邸 に 住 み 込 み、慶應義塾 で 漢学 を 講 じるとともに、福沢家 の 子供達 にも 漢学 も 教 えた。自 らは 慶 應義塾で英学を学んでいる。のち水戸中学の漢文教師となった。福沢の長男および次男の留学にあたっては送別の漢詩を贈っている。 発信年 は、明治17年 2 月 に『漢城旬報』 に 書 いた「華兵凶暴」 が 在朝清国軍 から 攻撃 を 受 け 帰国 を 余儀 なくされた 井上 が、再度朝 鮮 に 渡 ることを 計画 した17年 と 考 えられる。井上角五郎 の 自記年譜 によれば 8 月 に 京城 に 到着 した。年末甲申事変 によって 再 び 帰国 することになるが、以後も19年末まで日本と朝鮮を行き来しながら、新聞の発行などを続けた。 ■ 後藤象二郎宛書簡 明治 17ヵ(1884)年 9 月27日付 1 幅 【購入】 懇意にしていた後藤象二郎に対して、佐久間(のち武藤)山治が出京しているので、短時間でも逢ってほしいと頼んでいる。 名宛人 の「後藤先生」 は、後藤象二郎。天保 9 (1838)年高知藩に 生 まれ、坂本竜馬 と 共 に 藩主山内容堂 を 説得 し、徳川慶喜 に 大 政奉還 を 行 わせた 人物。明治政府 では 要職 を 歴任、 のち 民撰議員設立建白書 に 名 を 連 ねた。福沢 との 関係 は、明治 7 (1874)年 に 高 島炭鉱 が 経営難 に 陥 った 際、福沢 が 岩崎弥太郎 への 譲渡 を 斡旋 した。他 にも 金玉均 の 援助 や 秘書 を 慶應義塾生 が 務 めるなど、密接 な 交際を続けた。福沢は後藤を高く評価し、「大のひいき」と公言していた。30年 8 月 4 日殁。 佐久間山治は慶応 3(1867)年尾張国松名新田村(現愛知県弥富市)に生まれる。父から聞いた慶應義塾三田演説館の話にあこがれ、 慶應義塾 に 入学、17年卒業後渡米 して 働 きながら 学 び、帰国後武藤家 の 養子 となった。 いくつかの 会社 を 経 て27年鐘淵紡績株式会社 に 入社。一度退社 するが、41年 に 復帰 して 専務、大正10(1921)年 には 社長 に 就任 した。家族的 な 温情主義経営 で 知 られ、鐘紡 の 事 業 を 発展 させた。13年 に 衆議院議員 も 務 め、鐘紡社長 および 政界引退(昭和 7 年)後 は、時事新報社相談役 となった。同紙 の 政財界 腐敗追及記事から昭和 9 年 3 月 9 日、暴漢に銃撃され翌日死去した。 −9− 新 収 資 料 紹 介/主な 動 き 発信年 は、武藤家 に 養子 にでる 前 で、恐 らくは 卒業後 の 明治17年 か。18年 1 月 にはアメリカへ 渡 っている。 この 書簡 は 書幅仕立 に なっており、箱書 には「福沢翁手簡」 「素軒叟観首題」 とある。素軒 は 野村素介。長州藩出身 で 明治維新後、元老院議官 や 貴族院議 員を務めた。書を能くし、選書奨励会審査長・書道奨励会会頭等も務めている。 ■ 中村道太宛書簡 明治22年11月 2 日付 1 幅 【購入】 京阪・山陽 への 家族旅行( 9 月16日 から10月 5 日 まで ) から 帰京後、当時流行 していた 腸 チフスを 発症 した 長女中村里 の 病状 を 伝 える。10月31日 から11月 1 日 にかけて 重篤 に 陥 ったが、 1 日 を 境 に 快方 にむかった。 この 書簡 では 熱 や 脈・呼吸 の 状態 などを 告 げ 昏 睡状態を脱した安堵感を「死刑宣告を受けて俄ニ放免せら〔れ〕たる者」の気分であると表現している。 名宛人 の 中村道太 は、天保 7 (1836)年、三河国吉田(現愛知県豊橋市) で 吉田藩勘定方中村哲兵衛 の 長男 として 生 まれる。江戸 詰 を 命 じられて 出府中、慶応 2 (1866)年、鉄砲洲 の 塾 を 尋 ねたのが 福沢諭吉 との 最初 の 出会 いで、福沢 の 紹介 で 早矢仕有的 と 知 り 合 い、丸屋商社 の 共同経営者 となった。明治 9 (1876)年豊橋 に 帰 り、第八国立銀行 を 創設、翌年渥美郡長 となる。12年福沢 にうな がされて 上京、大蔵卿大隈重信 の 信任 を 得 て、13年 2 月横浜正金銀行 を 設立、初代頭取 に 就任 した。24年 に 東京米商会所 の 仲買人身 元金 および 売買証拠金費消問題 が 起 こった 際 に、頭取 の 中村 は 私財 を 投 げ 出 して 辞任 し、以後 は 社会 の 表舞台 には 立 たなかった。大 正10(1821)年 1 月 3 日、東京青山の自宅で殁し、郷里の豊橋に葬られた。 病気 になった 長女里 は、慶応 4 (1868)年 の 生 まれで、 はじめ 三 といったが、本人 の 希望 で 改名 したといわれる。琴 やピアノが 上 手 で、 また 英語 もスペリングなどは 容易 に 覚 えたという。明治16年 に 福沢 の 門下生 で 化学者 の 中村貞吉( 3 年 6 月慶應義塾入学)と 結婚、愛作、壮吉 の 二人 の 息子 が 生 まれた。高橋誠一郎 によれば、兄弟姉妹 の 中 で 一番 よく 福沢 の 性質 を 受 け 継 ぎ、「女福沢」 と 呼 ばれていたという。この時は九死に一生を得、昭和20年に亡くなった。 発信年はさとの病気および封筒消印から明治22年と推定される。 ■ センター講演会 ■ 『慶應義塾150年史資料集』の編集状況 6 月 9 日に明治維新史学会 と共催 で東京外国語大学名誉教授 センターで『慶應義塾150年史資料集』第Ⅰ期 4 巻 の 編集 を 稲田雅洋氏による講演会「近代日本政治における演説の力」を 同時並行 で 行 っているが、入社帳、勤惰表、姓名録 を 使 って、 演説館で開催した。 塾生・塾員 の 動静 がわかる 第 1 巻「塾員塾生資料集成」 の 編集 の最終段階を迎えている。今秋には発刊の予定である。 ■ センター公開講座 昨年 に 続 き、日吉 で 開講 している「近代日本 と 福沢諭吉Ⅰ」 において、 ゲスト 講師 を 招 き、履修者以外 にも 公開 した。本年 大学の周暁霞氏を報告者とし、研究嘱託の坂井博美氏をコメン 18日に清家篤塾長、 6 月25日に池井優名誉教授にゲスト講師を テーターとして、 7 月26日 に「岩谷十郎著『明治日本の 法解釈 お願いした。 (橋本氏の講義概要は p 3 )。 と 法律家』 を 読 む 」 を 明治大学法学部教授村上一博氏を 報告者 として、 9 月24日 に「小川原正道著『福沢諭吉の 政治思想』 を ■ 中津市アーカイブス講座 読む」を東北大学大学院の島田雄一郎氏を報告者にして行った。 福沢研究センターは、中津市 が 主催しているアーカイブス講座 9 月23日 に 近世近代研究交流会 の ワークショップ を 合同 で (古文書講座) に2009年 から参加しているが、今年度 は 未来先 行った。発表者・発表題目は以下の通り。 導基金の補助により、これまでの中級者以上を対象とした講座だ けでなく、初級者 を 対象とした 講座 を 新 たに 設置し、福沢研究 センターとしてその 両方 の 講座 に参加した。初級者対象講座 は、 沢諭吉関連史跡 めぐりを 含 めて、 8 月 6 日 から 8 日 の 日程 で 行 所員の著書の書評会をワークショップとして行った。 7 月 6 日 に「西沢直子著『福沢諭吉 と 女性』 を 読 む 」 を 南開 度 は、 6 月11日 に 橋本五郎氏(読売新聞特別編集委員)、 6 月 高校生 4 名・学部生 5 名、引率教員 4 名 が 参加し、大阪での福 ■ ワークショップの開催 加藤征治 氏(早稲田大学) 「死絵と歌舞伎文化 天保改革の再評価」 志賀祐紀 氏 (奈良女子大学大学院博士課程) 「岡本太郎の「伝統論」に関する一考察」 われた。中津市 の 高校生も 5 名 が 参加し、地域との 交流も深 め ■ 中央区民カレッジ講座 られた。 また、中級者以上 の 講座 は、 8 月 8 日 から11日まで 例 中央区と福沢研究センターが連携して、中央区民を主な対象 年 のように中津市 の 小幡記念図書館を 会場 に行 われた。大学院 者として、講座「近代日本と福沢諭吉」を実施した。 生 が 2 名参加し、福沢研究センター調査員 3 名 が TA として、ま 5 月14日、21日、 6 月 4 日、11日 は 築地社会教育会館で 講義 た 西沢直子教授と都倉武之准教授 が 講師として参加した。他大 を、 6 月18日 は 築地 の 慶應義塾発祥 の 地 などの 慶應義塾関連史 学では、別府大学 からの参加 があった。(詳細は p 4 )。 跡の見学を行った。 − 10 − 研 究 活 動 ニュース ■ 時事新報関係資料の収集 明治15年 に 福沢諭吉 が 創刊 した 日刊新聞『時事新報』 は、昭和11 年12月 に 廃刊 となって 会社 は 解散 し、題号 は『東京日日新聞』 に 預 けられた。 その 後昭和21年 1 月 に 再度時事新報社 が 設立 され 復刊、 これが 昭和30年11月 に 再 び 廃刊 となって、会社 は 産経新聞社内 に 休 眠状態となった。 この 時事新報社 には 社史 がない。原因 は 関東大震災 による 資料 の 焼失 の 影響 が 大 きいと 思 われる。義塾図書館 に 新報社旧蔵図書 が 寄 贈 されているのが 唯一 のまとまった 資料 であるが、同社 のことを 調 べる 資料 はどこにもまとまっていない 状況 である。当 センターでは 福沢時代 はもちろんのこと、 その 後 も 含 めて 慶應義塾 と 関係 の 深 い 時事新報社に関連する資料の収集を継続して行っている。 歌舞伎俳優肖像(明治 26 年) 黒田長成肖像(明治 30 年) いくつかを 例示 しておこう。時事新報 の 附録 として 配布 された 錦 絵、銅版画、地図 などは、龍渓書舎 から 継続刊行中 の 縮刷版 でもほとんど 収録 されていない。 これらは、 ビジネスとしての 新聞経営 のために、福沢 らが 工夫 を 凝 らしていたものであって、 まとまれば 同社 の 思想 や 経営実態 を 探 る 重要 な 資料 となり うる。例えば誰の肖像画をいつ配布したかは、それぞれの背景を検討する余地があると思われる。 福沢没後 の 時事新報社 が 発行 していた 雑誌『少年』(明治36年創刊)『少女』(大正 2 年創刊) は、福沢 の 思想 を 基盤 に 教育 的 な 読 み 物 を 提供 する 趣旨 で 刊行 されていた。『少年』 は 少年誌 としてはかなり 早 いもので、『少年倶楽部』 の 創刊 は11年後 のことである。 しかしこれも 公共図書館 で 欠号 なく 収蔵 している 場所 はなく、 『少女』 に 至 ってはほとんど 所蔵 が 確認 できな い。現時点で当センターが収集し得たのは『少年』110冊、 『少女』 6 冊である。 これ 以外 にも、商人 に 役立 つ 情報 を 提供 した『商家之友』(明治 35年創刊)、London Times の 附録 に 倣 っ た『文芸周報』(明治39年 創刊)、戦後 は 時事通信社 が 刊行 した『時事年鑑』(大正 7 年創刊)、 漫画家北沢楽天 の 名 を 世 に 知 らしめた『時事漫画』(大正10年 に 日 曜附録 として 独立、『漫画 と 読 み 物』『漫画 と 写真』 と 改題)、武藤 山治社長時代 に 政財界 を 取 り 上 げた『時事 パンフレット 』(昭和 8 年創刊)など、刊行物は多様である。 もちろん 原史料 の 収集 も 行 っている。福沢諭吉 の 自筆原稿 はいう までもないが、 それ 以外 で 例 えば、時事新報創刊40周年 の 際中華民 国 より 寄 せられた 祝文(大正14年) 、時事新報社新築写真帳(昭和 2 年) などが 近年収蔵 された。引 き 続 き 収集 に 努 めると 共 に、 お 気 『少年』と『少女』 づきの資料があれば情報提供をお願いしたい。 ■ 学生運動ヘルメットの発見 別掲 の 日吉寄宿舎内部調査 の 際、南寮 1 階 の 階段下倉庫 から 学生運動 の 旗 とヘルメットが 大量 に 発見 された。旗 は 竹竿 に 巻 かれた 状態 で 数十本放置 されていたものの、 いずれも 朽 ち 果 てて、原形 をとどめない 状態 だったため、廃棄 せざるをえな かった。 ヘルメットも 割 れたり 破損 の 激 しいものが 多 く、 6 個が保存された。このうち 1 個には「中大」の文字があっ たことから、中央大学大学史編纂課に提供した。 全面白色 の 全学連中核派、白地 に 赤 いビニールテープ 1 本 が 巻 かれている 革 マル 派 のものが 混在 しており、 ここに 残 されていた 経緯 には 疑問 がある。運動 に 反対 する 学生 が 奪取したものの可能性も考えられる。 ヘルメット発見状況 収蔵されたヘルメット − 11 − 側面 に「M 113 兵員輸送車/M 48 戦車搬出阻止」 と 書 か れたものがあり、昭和47年頃のものかと推定される。 福沢研究センター諸記録 (2012年 4 月~ 2012年 9 月) ■ 諸会議 *平成24年度第 1 回執行委員会( 4 月25日) *平成24年度第 1 回福沢研究センター会議( 6 月12日) *平成24年度福沢研究センター第 1 回運営委員会( 7 月 3 日) *小泉基金運営委員会( 7 月19日) *『近代日本研究』第29巻第 2 回編集会議( 8 月22日) *中津アーカイブズ講座反省会( 8 月24日) *ワークショップ 「西沢直子著『福沢諭吉と女性』を読む」 報告者:南開大学周暁霞氏(三重大学留学中) コメンテイター:坂井博美(福沢研究センター)( 7 月 6 日) *ワークショップ 「岩谷十郎著『明治日本の法解釈と法律家』を読む」 報告者:明治大学法学部教授 村上一博氏( 7 月27日) *ワークショップ 「小川原正道著『福沢諭吉の政治思想』を読む」 報告者:島田雄一郎氏(東北大学大学院)( 9 月24日) ■ 人事 <事務局> 新任 池上瑠菜(事務嘱託) 4 月 1 日∼ ■ 主な来往 *塾員清浦奎明氏ほか 2 名来訪( 4 月11日) *延世大学王賢鐘氏、資料調査のため来訪( 4 月24日) *文学部「博物館実習」受講学生が収蔵庫を見学( 4 月27日) *長崎大学教育学部鈴木慶子氏、大森 アユミ 氏、版木調査 のた め来訪( 5 月 7 日∼ 8 日 ) *法政大学キャリアデザイン学部 笹川ゼミ施設見学( 5 月10日) *塾員横山房子氏来訪、上原家に関して聞き取り( 5 月16日) *桑名市博物館主任学芸員杉本竜氏来訪( 5 月28日) *立命館百年史編纂室 高安英伸氏来訪( 6 月14日) *日本民藝館理事 石丸重尚氏来訪( 6 月15日) *中京大学社会科学研究所東山京子氏、台湾高雄師範大学楊玉 姿教授ほか来訪( 7 月 4 日) *坂城町鉄 の 展示館学芸員宮下修氏、元坂城町教育長大橋幸文 氏来訪( 7 月10日) *近畿大学教職教育部准教授冨岡勝氏、経営学部准教授藪下 信幸氏来訪( 8 月22日) ■ 出張・見学 *都倉准教授、柄越非常勤嘱託、東京大空襲・戦災資料 セ ン ターを訪問、三田の空襲写真閲覧( 4 月 4 日) *都倉准教授、日吉寄宿舎南寮改修完成披露会出席( 4 月19日) *西沢教授、延世大学国家管理研究院 韓国社会科学研究作業 班主催学術研究大会出席のため韓国( 4 月26日∼28日) *都倉准教授、横山調査員、史跡撮影 のため 大阪・京都(福沢生 誕地、適塾、大阪慶應義塾跡、洪庵墓 ほか ) ( 5 月18日∼20日) *都倉准教授、吉岡研究嘱託、横山調査員、亀岡敦子氏、上原 家調査のため長野県安曇野市( 5 月29日∼31日) *清野主務、全国大学史資料協議会東日本部会総会 に 参加 のた め日本女子大学( 5 月31日) *西沢教授、韓国東洋政治思想史学会延世大学国家管理研究院 学術研究大会共催研究大会および日本史学会月例会出席のた め韓国( 6 月21日∼24日) *西沢教授、福沢旧邸保存会評議員会 に 出席および古文書講座 打合せのため中津( 6 月26日) *都倉准教授、器械体操部創部110年 の 座談会 に 出席 のため 三 田倶楽部( 7 月 3 日) *都倉准教授、横山調査員、義塾関係戦没者関係資料調査 のた め鹿児島県南九州市知覧町( 8 月 5 日∼ 6 日) ■ 講師派遣 *西沢教授、信濃町 の 新任職員 に「福沢諭吉 と 北里柴三郎」 と 題して講義( 4 月 2 日) *西沢教授、日吉商学部「導入ガイダンス」で「福沢の女性論・ 男性論」と題して講義( 4 月 7 日) *都倉准教授、中等部新入生に「慶應義塾で 何 を 学 ぶ?」 と 題 して講義( 4 月11日) *都倉准教授、S F C で「濃尾地震、三陸大津波と福沢先生」と 題して講義( 4 月13日) *西沢教授、S D M の 合宿 で「福沢諭吉 と 慶應義塾」 と 題 して 講義( 4 月14日) *西沢教授、福沢諭吉文明塾 で「多事争論 を 考 える 」 と 題 して 講義( 5 月12日) *米山所長、中央区民カレッジにおいて講師( 5 月14日) *米山所長、 ウェーランド 経済書講述記念講演会 で「『修身要 領』再考」と題して講演( 5 月15日) *都倉准教授、S F C 中高(中 1 )にて道徳の授業( 5 月17日) *岩谷副所長、中央区民カレッジにおいて講師( 5 月21日) *平野副所長、中央区民カレッジにおいて講師( 6 月 4 日) *米山所長、三鷹三田会20周年記念講演会 にて「廃塾 と 存塾 の 分岐点」と題して講演( 6 月10日) *樽井所員、中央区民カレッジにおいて講師( 6 月11日) *都倉准教授、町田三田会 にて「慶應義塾 における 戦争 の 時代 と戦没者」と題して講演( 6 月17日) *米山所長、中央区生涯学習受講者の見学案内( 6 月18日) *西沢教授、延世大学 にて「惑溺 と 多事争論−福沢諭吉 を 通 し てみた西洋文明と儒学の相克」と題し研究報告( 6 月22日) *都倉准教授、The Asian Studies Conference Japan にて 「"Civilizationalism" and "Confucianism" of Fukuzawa Yukichi」 と題して発表( 7 月 1 日) *都倉准教授、三田書道会 にて「知 られざる 福沢門下生・門野 幾之進 福沢諭吉に刃向かった男」と題し講演( 7 月14日) *都倉准教授、港区立港郷土資料館講座「近代教育 と 港区 2 」 にて「福沢諭吉と近代教育」と題し講義( 7 月20日) ■ その他 *日吉西別館 にて T L ロジコムによる 資料 の 移動(仮置 きを 本 来の場所に移動)( 4 月 4 日) *平成24年度福沢研究センター設置講座ガイダンス 三田( 4 月 2 日)、日吉( 4 月 5 日) *福沢範一郎君を偲ぶ会( 6 月 5 日) *福セ南側書庫の窓に紫外線防止フィルムを貼る( 6 月 7 日) *未来先導基金による中津古文書講座( 8 月 6 日∼ 8 日) *中津市との 共催 による中津アーカイブズ 講座( 8 月8日∼12日) 慶 應 義 塾 福 沢 研 究 センター 通 信 第 17号 Newsletter of Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University − 12 − 発行日 2012年 9 月30日 (年 2 回刊) 編 集 慶應義塾福沢研究センター 発 行 〒108-8345 東京都港区三田 2−15−45 電 話 03−5427−1603 http://www.fmc.keio.ac.jp/ 印 刷 (有)梅沢印刷所
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