10号 - 岩手大学

第十号の発刊を迎えた「センター通信」
治からの手紙を大事に保管され
ているお方です。
平成 年 月5日の第 回
は、保阪庸夫氏による「杜陵の
二春秋―嘉内と賢治の盛岡高農
名の参加で、多数の質
時代―」と題する講演で、過去
最高の
疑・応答も交わされました。
保阪庸夫氏の一行は、講演に
先立って、達増岩手県知事や藤
「宮澤賢治センター」を立ち上
学長の強いリーダーシップで
岩手大学では、平成 年6月
1日の開学記念日に、平山健一
大会」
の開催でした。
当センター
それにも増して驚いたこと
は、
「第1回全国宮澤賢治学生
りは、
有益で楽しいものでした。
足を伸ばす賢治縁りの場所めぐ
とより花巻から小岩井農場へと
事務局の秋田淳子さん(人文社
に発刊されましたし、第2号は、
「 セ ン タ ー 通 信 」 第 1 号 が、
望月代表の手により、8月 日
望した記憶があります。
程度の懇親会の開催を提案・要
後の「ミニ・茶話会」で内容が
されていた定例研究会も、その
む会」も加わり、一時間に限定
キ山登山」
、「賢治と音楽を楽し
センターの事業計画には、「宮
澤賢治記念短歌会」
、「経埋ムベ
れた、楽しい祝宴でした。
した。私の三つの希望が叶えら
代表の人柄で、成功がもたらさ
半年という短期間に、企画・
準備されたものでしたが、岡田
て盛大に開催されました。
~宮澤賢治と学友たち~」とし
示が、岩手大学の図書館ギャラ
日に開催さ
井岩手大学学長を表敬訪問され
げ ま し た。
「どなたもどうかお
日に発刊されています。
会科学部)の手により、翌年の
研究会」であり、
その第二は「バ
その第一は、毎月開催の「定例
は魅力的な活動を展開しました。
望月善次初代代表(当時・教
育学部長)
のもとに、「センター」
が大学構内で開かれました。宴
治センター開設ミニ・パーティ」
6月 日に開催された第1回
定 例 研 究 会 の 終 了 後、
「宮澤賢
られたものです。
とその力量が、ヒシヒシと感じ
資料館)であり、学生達の意欲
会場は、賢治作品にも登場す
る母校の大講堂(現・農業教育
安宏教授が、連続して事務局長
たこともあり、山本昭彦・中村
会を組織し、活動を展開してい
砂山副代表以下の、人文社会
科学部では、既に宮澤賢治研究
来るようになりました。
その意図する所も次第に理解出
真剣に努力している姿に接し、
様 方 が、「 セ ン タ ー」 の 運 営 に
この頃、私は望月代表の推挙
で追加の役員となり、先輩の皆
保阪庸夫氏を招聘する機縁とな
二つの講演が、山梨県韮崎市の
さとを訪問して」でした。この
岩手大学長の「保阪嘉内のふる
を 結 ぶ『 友 情 の 樹 』」 で、 翌 年
前杜陵小学校長の「岩手と山梨
の大役を引き受けた佐藤竜一さ
教授と、この4月から事務局長
討し代表を支えた、山本・中村
そして、事務局会議から役員
会へと、種々の企画を立案・検
績に、賛辞を捧げます。
代表が見事に開花させたその実
リ ー で、「 ア ザ リ ア の 咲 く と き
入 り 下 さ い 」 ~〈 賢 治 へ の 関
2月
ス ツ ア ー」 で し た。
「当分会費
の中程に司会者が、「センター」
に就任いただきました。
月
回は、石田紘子
回が平山健一前
夫氏は嘉内のご次男で
通の賢
副学長は述懐されています。
初代望月代表が、当センター
の基礎を築かれ、2代目の岡田
御伝えしたいと存じます。
んが居られることを、皆様方に
日の第
日の第
ここで幾つかの定例研究会に
触れたいと思います。平成 年
19
りました。ご承知のとおり、庸
7月
16
23
10
10
12
れた記念展示であったと、大塚
徴収ナシ」も大きな魅力です。
に対する希望意見を求めまし
た。私は、①会報の発刊②会員
宮澤賢治センターの第2回総
料や食事代は、当然のことなが
名簿の作成、③出来れば年一回
一層充実されています。
のバスが提供されました。入館
15
研究会の講師は、学内の教授
陣が分担し、
「ツアー」には大学
28
ら実費負担です。盛岡市内はも
29
私は早速入会しました。
の支援もあり、全国各地の7校
年6月
12
れました。規約も新たに整備さ
●宮澤賢治センターのロゴマーク�16
れ、名簿も作成されました。新
●会員投稿������12〜15
ました。これが翌年の記念すべ
●宮澤賢治記念短歌会報告�11
き行事に繋がったのです。
●「ミニ・茶話会」便り�� 8
代表に岡田幸助副代表が昇格し
●書評 宮澤賢治 愛のうた7
ました。終了後の懇親会には、
●新役員の紹介�����2〜3
会が平成
27
19
〒020-8551
盛岡市上田四丁目3番5号
電 話 019−621−6672
FAX 019−621−6493
宮澤賢治センター(岩手大学内)
発行責任者 岡田幸助
が参加した大会です。
60
発 行 人
薫 20
79
21
第 10 号
宮澤賢治センター理事 向井田
●巻頭言 理事挨拶����1
平成 年6月1日から 日ま
で、岩手大学創立 周年記念展
目 次
藤井岩手大学長の出席も頂きま
●賢治と音楽の会便り�9〜10
26
●定例研究会の概要��3〜6
20
(題 字/金森由利子)
心〉それだけが条件です。この
巻 頭 言
キャッチフレーズに誘われて、
18
●経埋ムベキ山登山����10
73
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(1)
んで、青い色とベートーヴェン
いないのですが、賢治を多少読
思い出します。いつかは覚えて
親類の間で言われていたことを
た事、叔父が賢治に似ていると
で「永訣の朝」を読んで感動し
賢治についての記憶をさぐっ
てみると、たぶん中学校の国語
ます。
岩手大学の人文社会科学部で
「社会文化思想論」を教えてい
に国立大学が法人化されて地方
そんな私が特に賢治を研究し
てみようと思ったのは、六年前
ありませんでした。
上賢治に特に関心をもつことは
い印象を受けましたが、それ以
羅」としての憤怒が感じられ強
の詩には、賢治の「ひとりの修
ケ ズ 」 は と も か く、
「政治家」
記録するであらう」
。
「雨ニモマ
と/どこかの透明な地質学者が
てそれが人間の石炭紀であった
んとした青い羊歯ばかり/そし
とりで雨に流される/あとはし
やつらは/ひとりで腐って/ひ
/けれどもまもなく/さういふ
/世界はそんなにつめたく暗い
やつらばかりだ/羊歯の葉と雲
ぎおこして/いっぱい呑みたい
「あっちもこっちも/ひとさわ
の 詩 を 全 文 引 用 し て み ま す。
く覚えていましたが、最後のと
は、「 政 治 家 」 の 詩 の 前 半 は よ
改めて気づきました。というの
的記憶によるものではないかと
学」的に解釈したのは、昔毎日
ンヤミンのアレゴリーを「地質
の「石炭袋」に注目したり、ベ
たが、その中で『銀河鉄道の夜』
可能かについて論文を書きまし
賢治に適用することがどこまで
ヤミンの「アレゴリー」概念を
そこで、自分が前から関心を
もっていたドイツの思想家ベン
を発見しました。
みることが非常に興味深いこと
ろ、現代思想の観点から賢治を
書をテキストにしてみたとこ
席しており、最近の賢治の研究
院の授業に賢治専攻の院生が出
た。ところがたまたま私の大学
等を研究対象に考えていまし
門が思想史なので、新渡戸稲造
ました。しかし最初は自分の専
ので、なにかの因縁は感じてい
た例はほとんどないと言われた
治と童話で話そう」におけるシ
タがつむぐ賢治の世界:仮想賢
「ようこそケンジ!コンピュー
で展示させていただいていた
私は昨年の春から夏にかけ
て、もりおか啄木・賢治記念館
す。
究したいと考えているところで
中でとらえるという方向でも研
く、岩手の近代思想史の流れの
現代思想と対照するだけでな
究しているので、賢治を欧米の
『遠野物語』などについても研
以上が私と賢治との関わりの
大略ですが、現在は、新渡戸や
ります。
羽倉 淳
なって見ると感慨深いものがあ
る こ と に な っ た こ と も、 今 と
ファンではなかった私が就職す
そのかわりにその当時特に賢治
んな視線で見ていたのか、とい
ら、現在は、賢治が他の人をど
上に再現したいという観点か
いますが、賢治をコンピュータ
まして、全く無知な私ではござ
ますが、えいやーっ!と、こう
話は、一生胸の奥にしまってお
なにそう信じてきました。この
に思い込むことにして、かたく
ぼのとした料理店の話だと勝手
それ以来、ずーと、注文の多
い料理店とは平和で楽しくほの
えております。
し、途中で投げ出したことを覚
手に取ったことはあったのです
生徒の数の多さに惑わされて、
きな文学作品であるという女子
「注文の多い料理店」が最も好
いませんでした。小学生の頃、
新役員の紹介
が好きなことが自分に似ている
国立大学の存在意義が問われる
ころは記憶から落ちていて、こ
岩手県立大学ソフト
くつ も り で し た が、今 回、 理 事
というあまりの重責に、良心の
呵責に堪えかねて、最も場違い
な場所をお借りして懺悔するこ
とにいたしました。
このように、賢治(どうお呼
びすれば良いのかも非常に悩み
鉄所に転勤になったときまで住
からと岩手大学に就職する事を
また、実は賢治ファンの岩尾
さんは今度ポストが空きそうだ
したからです。
それまでの人生でほとんどござ
恥ずかしながら、宮沢賢治と
いう人に興味を持ったことは、
ただいております。
とがご縁で関わりを持たせてい
ターの皆様方のご協力を得たこ
果、相手との関わりがどう変わ
見て、それをどう捉え、その結
人が人とコミュニケーション
を行うときは、相手を観察する
ます。
ウェア情報学部准教授
んでいましたし、岩手大学に就
ねらっていたのですが、先に西
呼ばせていただきます)に関し
きで、トイレにまで賢治の詩が
職が決まった時、別の先輩に、
南学院大学に決まってしまい、
社会科学部教授
池田 成一
岩手大学人文
私と賢治との関わり
なと思った記憶もあります。
ようになり、地元のことを自分
の自己紹介文を書くために原文
が、旧字体の読みにくさに閉口
大学院生の時、つい先頃残念
ながら亡くなられた二年先輩の
の能力の許す限り研究しなけれ
うことに非常に興味を持ってい
賢治をコンピュータ
上に再現したい
岩尾龍太郎さん(西南学院大学
ばならないと考えはじめたこと
ス テ ム 構 築 に 際 し て、 本 セ ン
教授、『江戸時代のロビンソン』
にあたってみてはじめて思い出
新潮文庫など)と一年間いっ
がきっかけです。私は釜石の生
張ってあり私も毎日眺めていま
自分たちの学科では地方出身で
接していた「政治家」の無意識
しょに下宿していたことがあり
まれで
し た。
「雨ニモマケズ」とそれ
自分の出身県の大学に就職でき
歳で父親が名古屋の製
ました。岩尾さんが賢治が大好
まで知らなかった「政治家」の
訳ですが、そのときに何をどう
二つでした。改めて「政治家」
10
(2)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(3)
るのか、といったことは、その
人の個性によって違うはずで
す。
また、以前に牛崎敏哉先生か
ら、賢治の作品の多層性の話を
伺い大変興味を持ちました。賢
治の宇宙の断片?である作品と
作品の有機的なつながりから、
コンピュータの賢治が、対話し
ている相手の様子や興味に応じ
て、新たな断面を見せていく、
そんなシステムをいつか創って
み た い と い う 野 望? 大 志? 妄
想?を胸に、理事の役目を精一
杯果たしていきたいと存じます。
至らぬことも多いかと存じま
すが、どうぞよろしくお願い申
し上げます。
点の核心に入った。そのため、
前置き部分を省き、冒頭から論
縮せざるを得なかったために、
発表会場のトラブルがあり、
所定の約五〇分を四〇分弱に短
た『民間伝承』二号をめぐる交
三つ目の、仙台で喜善がガリ
版刷りなどの苦労を重ねて出し
されている。
善の名前を知っていたことが示
の手紙には、以前から賢治が喜
とが交流のキッカケだった。こ
(一九二八年八月)を出したこ
善が引用したいと賢治に手紙
表 し た 話 で あ る が、 こ れ を 喜
曜 』( 一 九 二 六 年 二 月 号 ) に 発
の影響を受けて賢治が雑誌『月
ラ シ の 話 」( 一 九 二 〇 年 ) な ど
初 め の「 ざ し き 童 子 の は な
し」は、喜善の「奥州ザシキワ
て、の三点ある。
喜善編集の『民間伝承』をめぐっ
ト講習会開催をめぐって、(3)
も、病床から起き上がることも
と 伝 え ら れ て い る。 そ の 中 で
一般的には、宗教・異界・民
俗・ざしき童子などが話された
わしたのだろうか。
間に亘って喜善はどんな話を交
ことも難しかった賢治と長い時
一体、病床にあって起き上がる
はなかったことは明白である。
の表敬訪問というようなもので
挨拶や講習会会場紹介へのお礼
あることに注目したい。単なる
病状においての喜善との会話で
り 」( 賢 治 書 簡 ) と い う よ う な
りもできずにお目にかかって居
特に、四月の喜善訪問時にお
け る 賢 治 は、「 前 回 は 起 き あ が
る。
を交している様子が理解でき
も長時間に亘って、賢治と会話
の都合で引用は省くが、いずれ
回)訪れている。ここでは誌面
計六回(四月に三回、五月に三
の〈大宗教〉こそが、「新信行」
(黄瀛が捉えた賢治の構想)
の宗教を超えたもの〈大宗教〉
は、法華経や大本教などの既存
そのように喜善が感嘆し「仏
教の奥義」と捉えた賢治の話と
と感嘆している。
で す 」( 関 登 久 也 の エ ッ セ イ )
あの人は豪いですね、全く豪い
は賢治のことを「豪いですね、
結びつくだろうか。また、喜善
ただけで、喜善の述べた表現に
に信心する宗教の話を語り合っ
本教信者であった。二人が互い
た。また、喜善は新興宗教の大
会に入会した法華経信者であっ
という記述がある。賢治は国柱
喜 善 日 記 に は、「 仏 教 の 奥 義
を き い て 来 る 」( 五 月 二 五 日 )
ろうか、と考えている。
ぎ ょ う )」 に つ い て で は な い だ
た 核 心 は、「 新 信 行( し ん し ん
善に対して、情熱を傾けて話し
難しかった賢治が聴き上手の喜
定例研究会の概要
聴講の方々にはやや難しかった
流については、賢治の手紙から
と同じ意味を持っていると考え
問 題 は、( 2) の 花 巻 で の エ
スペラント講習会開催時、喜善
名。
すくまとめたい。
の宮沢家訪問についてである。
▽司 会 小島 聡子
参会者 ▽講 師 近代文学研究家
森 義真氏
▽演 題 「宮沢賢治と佐々木喜
善―「新信行」をめぐって―」
号室
▽会 場 農学部2号館107
第 回 6月 日(火)
ことと思う。この場をお借りし
その様子をうかがい知ることが
ポイントは、佐々木喜善と宮
沢賢治との交流の中で、一九三
ぼっこ
てお詫び申し上げるとともに、
できる。
二(昭7)年四月と五月におけ
会 場 の「 明 治 屋 」( 賢 治 の 親
戚である関登久也の家)を紹介
いてであった。
集 第 四 巻 』、 遠 野 市 立 博 物 館 発
したのが賢治だったこともあ
り、 喜 善 日 記(『 佐 々 木 喜 善 全
喜善の交流は、(1)「ざ
賢治ぼと
っこ
しき童子のはなし」をめぐっ
ような会話を交わしたのかにつ
る宮沢家訪問時に、二人がどの
30
行)によると喜善は宮沢家を合
日常生活の中で
「新
すなわち、
のではないだろうか。
る生き方を目指したものだった
を基に、その信心が自然に表れ
り、それぞれの人が信じる宗教
の信心に従って行うこと」であ
「 新 信 行 」 と は、 日 常 の 生 活
の中において「信じるものがそ
ている。
だったのではないだろうか。そ
発表内容をできるだけわかりや
15
て、
( 2) 花 巻 で の エ ス ペ ラ ン
森 義真氏
43
通してつかみ、それに対応する
プ」とは竜樹が述べる「空観」
の世界”であり「スカイスケー
ルギーとも考えられるというこ
ギーより理想的な「空」のエネ
信行」を自然体で行う生き方を
プロジェクトに取り組んでいる
模索し、人々に理解しやすい方
とです。
との事です。
の世界、別な一面で言えば“理
法で広めること、それが賢治の
想の世界”と言えると思いま
メモとして残された「新信行の
結論として、仏教は「成仏」
と言う「涅槃」を願いそれを目
賢治は幼少期から父の影響で
仏教研修会等に何時も参加し、
す。 い わ ゆ る、「 春 」 は「 ス カ
確立」だった、と思われてなら
of being free from suffering
state
指すものです。涅槃とは、[
は「ランドスケープ」ととらえ
イ ス ケ ー プ 」 で あ り、「 修 羅 」
仏教に深く影響されて来まし
た。そして中学時代、盛岡高等
ない。
(森 義真 記)
から状況の掌握の上で、患者の
の活用を研究中で、特に、患者
コンピュータによる遠隔地で
の仮想ドクターとしての応用等
考えて見たという事です。
が、
例えば
“春は空 修羅は地”
に擬し、その関係を通して今回
「春と修羅」の捉え方として
いろいろ考えられると思います
考えて見たという事です。
界」とし「春と修羅」を題材に
ピュータ芸術『春と修羅』の世
あ り、 今 回 の テ ー マ を「 コ ン
学と宗教」の繋がりを探る事で
取り組んでいます。それは「科
ピュータを通し探ってみようと
その賢治プロジェクトの中
で 科 学 と 宗 教 の 関 係 を、 コ ン
揚等コンピュータを通し映像化
また、この心象風景としての
捉え方から、読経のリズムや抑
居ります。
多面体の「心象風景」を述べて
に別の視点から見ているという
を外から眺めその同時・並行的
通して自身の内面を述べ、それ
これらのことから賢治の“主
観と客観”すなわち、この詩を
と言われて居ります。
治の内面の動揺を表現している
ているような文の配列から、賢
る別の視点」や、文章がうねっ
炭」等は公害や温暖化をもたら
考えられると思います。それは
そ れ ら の 考 え の 中 で、「 地 」
と「空」の対比を以下の様にも
ます。
す。此の事を説いたのが竜樹の
乖離に悩みが起こるとされま
える。そこに変化する実態との
る物を、変化せざる実態物と捉
て「地」は仮に実態物としてあ
起」と言いました。それに対し
とも言われ、釈迦はそれを「縁
関係の現れで「化」とも「仮」
あり、実態と思われる物は因果
れが止まらぬ様に変化が実態で
う観点です。丁度、風や川の流
で、定まっている物はないとい
ない因果の流れの変化相が実態
「 空 」 は 竜 樹 が 称 え、 全 て は
実態=自性は無く、止まる事の
た。
賢治の「春と修羅」から以上
の事を考え話題の提供としまし
思います。
とらえることが出来るのかとも
への境涯をめざすのが、理想と
あえて言えば、「地」より「空」
有ると法華経は教えています。
し、悩みからの自由を得る所に
ん)
」「癡」「慢」 疑「 の
」 三毒、
五鈍使の根本煩悩の火を吹き消
の利他行を通し、「貪」
「瞋(じ
]
greed, hatred, and delusion
と言われる通り、法華経の修行
blowing out of the fires of
り、コンピュータを活用し、状
したものを上映します。ここに
し、「 空 」 か ら 得 ら れ る「 太 陽
る事が出来ると思います。
況を類推し総合的な情報の網羅
も芸術とコンピュータの結合が
光 」「 風 力 」 等 は エ コ ロ ジ ー で
農林時代と仏教に親しんできま
から全体治療に役立てるプロ
作 品 で す。 そ こ に は
"mental 考えられると思います。
(心象風景)
sketch modified"
その上で、この詩を別の角度
すなわち「ランドスケープとス
とつづって居る通り、自身の心
「春と修羅」は賢治初期の作
品で生前に出版された唯一の
カイスケープ」の角度から今回
「春と修羅」の世界」
▽司 会 木村 直弘
参会者
名。
表情、状態などの身体表現を通
し全体状況や心理状態をはか
したが、その中で一生のバック
ジェクトを企画しているとの事。
は見たいと思います。
める様な影響をうけました。
変なショックを受け、一生を決
グランドとなる法華経に会い大
その前段階として現在「賢治
プロジェクト」を立ち上げ、賢
象 の「 内 面 と 外 景 」
「光と影」
▽会 場 農学部1号会議室
▽講 師 岩手県立大学教授
藤田ハミド氏
▽ 演 題 「 コ ン ピ ュ ー タ 芸 術
治の作品と向き合い賢治の思い
を著しています。そしてそれら
「地」から取れる「ウラン」は
放射能汚染の心配や「石油」
「石
あり公害を引き起こさないとい
か?」
▽司 会 岡田 幸助
参会者
名。
▽ 演 題 「 名 勝「 イ ー ハ ト ー
ブの風景地」をどう伝える
▽講 師 岩手大学農学部教授
広田 純一氏
▽会 場 農学部2号館107
号室
第 回 8月5日
(木)
(姉歯武司 記)
を 類 推 し、 作 品 を 読 む 時 の 表
聴き手の表情を読み取り、相手
容、さらにその内面を外から見
15
「空観」とも「中論」とも言い
情・言葉の強弱・早さ、また、
は「時間の経過に伴う内面の変
藤田ハミド氏
う 観 点 も 有 り、「 地 」 の エ ネ ル
26
「ランドスケープ」は自然の
姿、すなわち我々の住む“現実
第 回 7月 日(月)
44
の思いの類推等コンピュータを
45
13
(4)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(5)
「イーハトーブの風景地」とし
原、 そ し て イ ギ リ ス 海 岸 が、
狼森、釜淵の滝、五輪峠、種山ヶ
宮澤賢治にちなむ県内の7ヶ
所、すなわち鞍掛山、七つ森、
景美を論じるような対象ではな
ない岩手山前衛の山であり、風
鞍掛山は、これといった特徴の
た場所だからである。たとえば
じて初めてその価値を認識され
詩人及び童話作家の観察眼を通
地」は、宮澤賢治という一人の
値が仮定できたとして、それを
ならない。第三に、仮にその価
値」とは何かが問われなければ
の観察眼を通じて認識される価
な点であるが、そもそも「賢治
能である。第二に、より本質的
密な意味での復元はもはや不可
続き取り組んで行きたいと思っ
が、こうした点に留意して引き
残された時間は限られている
整備活用できるか。計画策定に
にその場所を保存管理し、また
一端に触れられるように、いか
賢治の「自然観及び世界観」の
記)
第 回 9月 日
(金)
▽会 場 農学部1号会議室
師 エッセイスト
澤口たまみ氏
▽講
▽ 演 題 「 宮 澤 賢 治 愛 の う
た」
ハ ト ヴ 童 話 注 文 の 多 い 料 理
店』の「序」で、いずれも「そ
のとほり」書いたと強調してい
る。
値が納得できるような風景美を
はいかない。第一に、釜淵ノ滝
トーブの風景地」は同じように
を 通 じ て 認 識 さ れ た「 イ ー ハ
とする。しかし、賢治の観察眼
を守るために、現状維持を基本
一般に名勝の保存管理計画
は、その芸術上・鑑賞上の価値
んらが参画されている。
いる吉見さんや牛崎さん、森さ
には、この例会でも報告されて
作業が始まっており、策定委員
醸成において大きな意味を持
は彼独特の自然観及び世界観の
「イーハトーブの風景地」の
名 勝 指 定 の 理 由 に は、「 そ れ ら
である。
のイメージを再生したいところ
を取り払って、かつての放牧地
のなら物見山の頂上付近の灌木
種山ガ原の場合には、できるも
うな仕掛けが必要であろうし、
達の台川遡上を追体験できるよ
淵ノ滝については、賢治と生徒
ような工夫がほしい。他方、釜
される。
ら、賢治は明らかに後者に分類
の二種類に分けられるとした
ション系とノンフィクション系
と い う 人 種 が、 大 き く フ ィ ク
に、しばしば驚かされる。作家
ろ非常に「現実的」であること
人としてそれを読むとき、むし
作品だが、自然を愛する者の一
に「幻想的」とも言われる賢治
宮澤賢治の作品の多くは、自
然界に題材をとっている。とき
ど多い。
恋愛にまつわる記述が意外なほ
かれ続けた一連の文語詩にも、
さらに、病に倒れた昭和六年
ごろから、亡くなる直前まで書
記されている。
いう作品群には、激しい恋心が
前身である「冬のスケッチ」と
なぜなら『春と修羅』や、その
いた」と判断せざるを得ない。
賢治の年譜に、相思相愛の恋
愛は記されていない。しかし、
備えた場所であったり、文献等
を除けば、賢治の時代とは大き
ち、 や が て 理 想 の 大 地 を 表 す
性 へ の 恋 心 が 綴 ら れ、 同 じ く
と修羅』の「春光呪咀」には女
紙面の関係で、ここではその
作 品 名 を 記 す に 留 め る が、
『春
「賢治は相思相愛の恋愛をして
験に基づいたものであるなら、
彼の書き残した言葉がほぼ実体
で確認できる歴史的文化的な背
く景観が変わってしまってい
「イーハトーブ」の核心にまで
34
春と修羅』の「序」と『イー
名。
景・根拠を持つ景勝地であるの
る。イギリス海岸に至っては、
そのことは賢治自身も充分に
意 識 し て お り、『 心 象 ス ケ ッ チ
広田 純一氏
に 対 し、
「イーハトーブの風景
地積図調査によって当時の川岸
昇 華 し た。」 と あ る。 来 訪 者 が
▽司 会 羽倉 淳
参会者
澤口たまみ氏
が現在の北上川の中央付近に
ともに、それを眺められる場所
(広田純一
て国の名勝に指定されているこ
もらうためには、それなりの情
とはご存知かと思う。岩手県内
とえば、七つ森については、七
ている。
に目を奪われるのであって、「く
つのピークの位置を特定すると
来訪者に認識あるいは体感して
自在王院庭園、厳美渓、碁石海
ら か け の 雪 」 や「 Ur-Iwate
」
を想起するのはごく一部の賢治
を示し、必要があれば整備も考
い。大多数の人は背景の岩手山
岸、高田松原、珊琥島、男神岩・
ファンだけであろう。
えなければならない。また狼森
の 名 勝 と し て は ほ か に、 旧 観
女神岩・鳥越山、猊鼻渓の8ヶ
さて、各名勝地には保存管理
計画というものがあって、名勝
では、黒坂森や笊森、盗森の存
10
報提供や整備が必要になる。た
所があり、日本全体では359
地の保存や整備活用のあり方が
在を知ってもらった上で、人と
月1日現
在)
。
定 め ら れ て い る。
「イーハトー
自然の共生の物語を伝えられる
年
「 イ ー ハ ト ー ブ の 風 景 地 」 は
従来の名勝とはいささか異なっ
年度から保存管理計画の策定
ブの風景地」についても、平成
件に上る(平成
たユニークな存在である。他の
46
各風景地を訪れて、自分なりに
名勝は、一目見ただけでその価
10
あったことがわかっており、厳
19
22
エロ」には、女性の名を決して
られる。また、同じく「マサニ
い「ほかのひと」との記述が見
「松の針」には、妹トシではな
内の女性であると判断される。
と こ ろ か ら、
「恋人」は花巻市
「雪の夜何べんも」訪ねてきた
かれた時期に重なる。さらに、
来 事 で あ り、
『春と修羅』が書
在発刊されている書籍の表紙や
が引く列車だと思い込む傾向が
乗ったあの鉄道を、蒸気機関車
は、いつの間にかジョバンニが
宮澤賢治の残した『銀河鉄道
の夜』を読む現代のわたしたち
した変化に賢治は注目していた
交通事情は急速に変化し、そう
葉」時期に、花巻を中心とした
べてはしけく よそほひて〕の
先駆形には女性との待ち合わせ
の機会が四回あったと記し、〔な
な か で は、
「機会」に自らの恋
しく紹介させていただいた。
し、
拙著
『宮澤賢治 愛のうた』
(もりおか文庫)のなかに、詳
教員、大畠ヤス子であると推察
氏が発見した花城小学校の代用
ラに云い、カムパネルラも「ア
て ゐ な い ね ぇ。」 と カ ム パ ネ ル
は「それにこの汽車石炭をたい
しかし、いわゆる最終形の『銀
河鉄道の夜』では、ジョバンニ
場合が多い。
河鉄道〉は、蒸気機関車である
必要である。
持っていたかを考察することが
「鉄道」にどのような印象を
道のありようを確認し、賢治が
く、近代化を約束する希望の技
マイナスなものはほとんどな
きる賢治の「鉄道」イメージに
ていくと、第二集の「岩手軽便
この当時の賢治の感じ方を知
る資料として『春と修羅』を見
だろう。
まり賢治の「アドレッセンス中
明かすことができない賢治の切
以上のことから、私は、この
ころの賢治の恋人として最も可
その挿し絵などに描かれる〈銀
と思しき情景が書かれ、最終形
そしてこの本の刊行後、ヤス
子のご遺族から新たな証言が寄
ル コ ー ル か 電 気 だ ら う。」 と 答
あるように思われる。実際、現
ない心情が綴られている。
能性が高いのは、故・佐藤勝治
には「一夜の旅」との言葉が記
せられた。賢治との恋は、ヤス
加えて、賢治にとって自叙伝
であり遺言とも言える文語詩の
されている。
子の家族はみな承知していたと
えているのだ。彼らは明らかに
かに含まれる〔古びた水いろの
ト」と呼ばれる一連の作品のな
母の猛反対で恋は実らず、ヤ
ス子は傷心のまま結婚、渡米し
いう。
印象づけるのは、その静けさで
な い。 む し ろ、〈 銀 河 鉄 道 〉 を
づける力強い音も聞こえてこ
ず、さらには蒸気機関車を特徴
蒸気機関の出す煙を感じておら
経営であったこの路線も、明治
た。当初は私企業の日本鉄道の
―上野間の鉄道が開通してい
宮澤賢治の生まれた明治 年
(1896)の五年前に、青森
9・
根禁酒会へおくる」
(1927・
かった「詩ノート」の一篇「藤
して後の、出版されることのな
術として考えていたように思わ
の 日 付 ) に は、「 東 の 軽
れる。しかし、農学校教師を辞
薄 明 窮 の な か に 〕 に は、
「そし
てしまったが、賢治に大きな影
このような〈銀河鉄道〉の造
形がどのようになされたかを考
い。
その静謐さにあると言っても良
い る。〈 銀 河 鉄 道 〉 の 特 徴 は、
いつの間にか列車は動き出して
た硝子のやうな笛が鳴って」
に発車する時にも、「すきとほっ
と」と走っている。駅に停車後
には、列車は「ごとごとごとご
ある。ジョバンニが気づいた時
に、 着 々 と 実 現 し て い く。 つ
以降盛岡高等農林学校卒業の間
は、賢治が盛岡中学に入学して
に向かう岩手軽便鉄道の開業で
西に向かう花巻電気鉄道と、東
すべきなのは、花巻を起点に、
になっていった。その中で注目
で軽便鉄道の設置の動きが盛ん
一方岩手県内では、明治 年
設立の和賀軽便鉄道など、各地
北線」と呼ばれることとなる。
足 以 降、 国 有 鉄 道 と な り、「 東
だろうか。
与えたと考えることはできない
が、『 銀 河 鉄 道 の 夜 』 に 影 響 を
られよう。こうした考えの変化
マイナス面が見えていたと考え
なったと言う。この時期には、
た地方」の住民が却って貧困と
あった。この二つの鉄道の建設
(家井美千子 記)
賢治には軽便鉄道の導入による
えるために、宮澤賢治の生きた
便鉄道沿線や/西の電車の通っ
16
当時の岩手県や花巻における鉄
年の鉄道院(後に鉄道省)発
響を与えた人物として、その名
月8日(金)
(澤口たまみ 記)
は欠かせない。
てまもなくこの学校がたち/わ
ことを知る。これらから推測で
気鉄道を描いたものも大変多い
鉄 道 七 月( ジ ャ ズ )」 に 顕 著
であるが、他に東北線や花巻電
また、ノート用紙に書かれて
いたことから便宜的に「詩ノー
家井美千子氏
たくしはそのがらんとした大き
な寄宿舎の/舎監に任命されま
第
回 ▽会 場 農学部1号会議室
▽講 師 岩手大学人文社会科
学部教授 家井美千子氏
▽演 題 「
「銀河鉄道の夜」と
岩手の鉄道」
名。
40
29
38
した/恋人が雪の夜何べんも/
黒いマントをかついで男のふう
をして/わたくしをたづねてま
ゐりました/そして何もかもす
ぎてしまったのです」との記述
が見られる。
「この学校がたち」
や
「雪の夜」
とあることから、この作品の内
10
▽司 会 小島 聡子
参会者 31
容 は、 賢 治 の 勤 め て い た 花 巻
農学校が郊外に新築された大正
十一年の十一月から、移転作業
が行われた翌三月ごろまでの出
47
(6)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(7)
し て い ま す。
・・ 真 実 が 批 判 を
り偉大になるだろうと私は確信
て宮沢賢治が、より人間的によ
た。
「真実を伝えることによっ
日)が先がけとして刊行され
池著、昭和二十四年九月二十七
澤賢治と三人の女性』
(森荘已
宮 沢 賢 治 の 愛 に つ い て、 従
来 の 伝 記、 論 考 を 辿 る 時、
『宮
ケッチ」
、 短 歌 ま で 辿 り、 解 明
し、 丁 寧 に 下 書 稿 や、
「冬のス
賢治の愛を文語詩の作品に着目
農学を専門としている科学者が
であった。エッセストであり、
ることへの疑問が湧いてきたの
人君子のイメージを作られてい
が、恋愛に縁がなく、時には聖
や見合いをしたことがあった
独身のまま生涯を貫き、片思い
けて上梓された。著者は賢治が
の恋愛を「シグナルとシグナレ
論考を参考に、賢治と大畑ヤス
また、高橋文彦(松田十刻)の
佐藤勝治の研究の影響を受け、
賢治を撮影した写真店の出身の
著 者 は 賢 治 の 近 隣 に 住 み、
ベートーベン風な姿で野に立つ
が伺える描写もある。
場」、「マサニエロ」にも恋愛観
う如く詠い、長編詩「小岩井農
てよいか、自責の念や煩悶を呪
には、病む妹を除外して恋をし
と兄妹愛が伺える。「春光呪詛」
闘するトシへの痛いほどの同情
熱を透明薔薇と比喩し、病と苦
か に、「 恋 と 病 熱 」 を 読 む と 病
ていると筆者は述べている。確
りけり/ 同じき第二神來は/
蒼き上着にありにけり/ その
第三は諸人の/栄誉のなかに来
のおとなひは/かの青春に来た
文語詩「機会」に四つの恋が
描 写 さ れ て い る。「 恋 の は じ め
苦闘があったのではないか。
愛観は奔放ではなく、性欲との
学、思想をも考慮に入れると恋
農民芸術概論綱要の倫理観、哲
仰と花巻農学校時代の性教育、
法華文学の確立を目指した。信
仏教に篤実な家に育ち帰依し、
になる。賢治は幼少のころより
う真実性と責任が問われること
く物語と述べているが、いっそ
れることになる。研究書ではな
それ故に、精密な実証性が問わ
で父政次郎に結婚したい人がい
言ったのか、賢治がさばを読ん
た。やはり同年齢ではない。ミ
の写真と戸籍謄本を見せて貰っ
の年齢の差であるが、高橋ミネ
と思うにいたった。問題は二歳
ころ、あながち否定は出来ない
市近郊の関係者をたずねたと
り、 二 年 ほ ど 前、 北 海 道 札 幌
た と 聞 い て い る。 川 原 説 を 取
所の出身であったため特定でき
川原の妻が日詰出身で高橋の近
を い だ い た。」 と 書 い て い る。
せ「賢治は親切な看護婦に初恋
『宮澤賢治 愛 のうた』(澤口たまみ著)
裁 い て く れ る で し ょ う。
」と記
することに駆り立てられたと言
スの恋」すなわち、東北本線と
三紗
しており真実に迫るためには批
う。
著者らしい鑑賞、
解説をし、
判を覚悟しなければならないこ
読者を惹きつけていく。
森
とを述べている。実地調査や関
に読み解いていく。二人は一時
治全集』の年譜と作品「文語詩
簡 が な い 場 合、『 新 校 本 宮 澤 賢
であり恋愛の対称への宛てた書
でも日記を残こさなかった賢治
本書が伝記的物語として力作
であることは認めたい。あくま
いく。
ていき読者の興味を惹きつけて
るかのように明解に解きほぐし
人名をまるで歳月が解決でもす
る。先行論文では匿名であった
係者の証言も得る努力をしてい
は相思相愛であったと述べ、関
仁左衛門がグラビアに写真を載
編集並びに発行人であった川原
校の『宮沢賢治とその周辺』の
いる。しかし、盛岡高等農林学
藤勝治の説を取り入れ否定して
の二歳の年齢差があるという佐
書いている。著者は賢治とミネ
の悶えが感じられる恋の短歌も
になった高橋ミネである。青春
は片思いの岩手病院入院に世話
きた恋と解釈したい。第一の恋
心身とも悲惨で不安定な境遇に
最終行の「ぼろ」は恒産がなく
んたるぼろの中にきしぞも」
。
り/いまおゝその四愛隣は/な
たりけり /いまおヽその第三
は諸人の/栄誉のなかに来りけ
ける物語風な著作である。
恋愛が真実かどうか問を投げか
本書は賢治作品を通して賢治の
巻に書きしるしているという。
大谷はエッセイ「大平和」第七
いうお菓子屋を訪問してきたと
のによく盛岡市肴町の小西屋と
説によると、賢治は用事もない
を着用していた。吉見正信氏の
あり、岩手女子師範は蒼い制服
ミは、当時女子師範の女学生で
の友人大谷正之の妻の妹藤原キ
ているが、賢治の高等農林時代
を著者はヘレン・タピングとし
を叙述した詩である。第二の恋
を得なかった初恋の複雑な心理
ではない。文語詩「公子」は、
賢治が父の説得を受け入れざる
ノート」を手掛かりにし、関係
岩手軽便鉄道になぞって物語風
者に調査するしか方法はなく、
こう し
年齢を同年齢と云ったのか定か
ると願い出るときの方便として
ネがさばを読んで賢治に年齢を
係者への熱心な聞書が行われて
美しい恋の歌を手掛かりにし
て『春と修羅』は恋愛が隠され
さて、本書は十年の歳月をか
いた。
『宮澤賢治 愛のうた』定価800円(税込み)
この本を購入希望の方は、下記の版元に直接お
問い合わせ下さい。
盛岡出版コミュニティー
〒020-0811 盛岡市川目町23−1
TEL・FAX 019−681−1451
書 評
「 宮 澤 賢 治 セ ン タ ー 通 信 」 で
「ミニ茶話会」での様子を毎回
の出発を図ったのではないかと
科学といえる「新信行の確立」
想」
「 夢 」 で は 無 く「 実 在 」 の
の実在性を述べ、④として「幻
信仰的に「菩薩仏並び…」を
通した「十界の実在」と ③
「心的因果法則」
を通し
「因縁」
ション宇宙論」が予見され、②
ンドスケープ」をウラン、石油、
電等の無公害性から、また、
「ラ
ケープ」を太陽光発電や風力発
コロジーの観点から「スカイス
エネルギーとして取り出す際エ
実世界」と捉える観点、また、
世界」に、ランドスケープを「現
スカイスケープを「空間・理想
ドスケープ」ととらえる観点、
有りたい」と自身の理想を描い
日の生活に当てはめると「こう
るのではと思います。我々の毎
「ランドスケープ」に当てはま
カイスケープ」に、霊鷲山会は
ますが、この中で虚空会は「ス
す。これを「二処三会」と言い
と法華経には述べられて居りま
と後霊鷲山会と三回行なわれた
不思議も感ぜず居りましたが、
ている絵のみ見ていた為、何の
何時も蒸気機関車が天空を走っ
ひっくり返される思いでした。
ら始まる講義は、自身の常識を
○ 「銀河鉄道の機関車は蒸気
機関車でしょうか」との問いか
ました。
の必要性の思いを新たにいたし
「ミニ・茶話会」
便り
―一茶一話 ― 載せて頂いており、今回もその
の思いがいたしました。次々と
も蒸気とも決定付ける事は出来
様子の一端を紹介させて頂きま
得 な い の で す が、
「銀河鉄道の
す。
するのではとの思いです。朝計
夜」の「第三次稿」の文章に明
賢治さんの当時の岩手県の鉄道
画をたて、日中現実社会でその
確に「それにこの汽車石炭をた
の建設状況との対比では電車と
実現を目指し、夕べに今日はど
て、現実世界で苦闘をして行く
ものが有りました。
うだったか思い浮かべる。その
姿が「春と修羅」の世界と合致
この講座の中に賢治さんの法
華経に関する話が有りました
い て い な い ね ぇ。
」 と か「 石 炭
石炭を代表とした公害問題等の
とは信心修行をいい、
「信行」
これに学を加え「信行学」が仏
が、法華経には「二処三会」と
形の行動をこの講座を通し教え
視点から見る斬新さにひかれる
道修行の基本と言われ、また、
られる思いでした。思わぬこと
思いがつのる大変に啓発される
善氏は何度も賢治さんの自宅を
「信行具足」が信仰の理想型と
いい、釈迦が法華経を説いた場
講師のお話でした。
尋ねていました。その喜善氏と
所が二カ所有り三回説法が有っ
を た い て い な い? 電 気 だ ろ
う。」 と か「 こ こ の 汽 車 は、 ス
○ 賢治さんは「遠野物語」の
佐々木喜善氏とも親交が有り、
の縁で賢治さんの「ざしき童子
も言われて居ります。佐々木喜
で啓発を受けた思いでした。
亡くなる前年昭和七年佐々木喜
(ぼっこ)のはなし」が著され
たとされています。それは霊鷲
たとのことです。
ティームや電気で動いていな
999」で1980以降から、
し、作風に重要な意味を持った
童話作家が風景上の価値を認識
としては、
宮澤賢治という詩人、
7カ所になったそうです。理由
年イギリス海岸が新たに含まれ
うするとよくわかる面が多いの
み切っていく事が大事です。そ
師の方は「中世文学は文章を読
そ れ に し て も、「 良 く 発 見 出
来たものですね」との問いに講
と認識しました。
常識はこの文章からあり得ない
ことでした。蒸気機関車という
文化的景観とのことで、それら
です。今回も同様に読み上げて
(姉歯武司
記)
み た の で す。
」との事に二度納
にしている法律との事です。
得でした。
な事を改めて知り、我々の協力
賢治さんを取り巻く風景も変
化の中に有り、その維持は大変
を次世代に伝達することを目的
年3月2日指定され、平成
善氏は「聴き方のうまさという
そ の 中 で 講 師 か ら「 思 索 メ
モ」を通し、特に「新信行の確
き出し「豪(えら)いですね」
二カ所で説法は行なわれた。そ
點では確かに天下一品」との評
立」が賢治さんと喜善氏の話題
「豪(えら)いですね」と喜ん
して説法は前霊鷲山会と虚空会
い。」 等 書 か れ て い ま す。 そ の
の中心ではなかったか、との新
だ、その賢治さんの「思索」を
○ 名勝「イーハトーブの風景
地」として文化財保護法により
しい「思索メモ」の捉え方に目
メモしたものが「思索メモ」で
山という場所がインドにありま
を開かれる思いでした。
はなかったかと思います。
すが、そこでの説法を霊鷲山会
それは「思索メモ」の「序」
に続いて「科学に威嚇されたる
講師の深い解釈に触発され感
謝の思いの一時でした。
判通り、賢治さんが日頃思って
信仰」を通し、① 科学的、物
理的に「一、異空間の実在」そ
○ コンピュータを通した医療
への新しい取り組みの方向性を
いても発言しないでいた事を引
し て「 分 子 ― 原 子 ― 電 子 ― 真
知り、また音響を映像化するソ
上、 松 本 零 士 氏 の「 銀 河 鉄 道
空」を改めて見直し、特に「真
フトで声明(読経)を映像化す
鞍掛山、七つ森、狼森、釜淵の
空」
についてはあえて
「異単位」
る等思いがけない講座に嬉しい
(現実の世界)といい、また虚
また「異構成」とことわりを入
思いでした。
空会(己心・理想の世界)との
れる賢治さんの天才は、現代の
18
蒸気機関車が書かれ出したとの
宇宙物理学に通ずる四次元観、
17
滝、五輪峠、種山ヶ原 の6箇
所が名勝の記念物として、平成
「真空」観と、ビックバン以前
また「春と修羅」で春を「ス
カイスケープ」
、 修 羅 を「 ラ ン
に起きたと言われる「インフレー
茶話会風景
(8)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(9)
賢治と音楽の会便り
「社会性」の文脈で聴くとの指
ての音楽」
④⑤として
「歴史性」
聴く機会を持つ事にしました。
とのリクエストが有り、それを
作品を」との思いで
て居りますが、ブラームスもや
の思いで作品を書いたと言われ
年かけて
はり「ベートーベンに負けない
摘が有りました。私は常々考え
○ また、マーラー生誕150
周年を記念してマーラーの「交
ここで参加者の楢原さんの感
想を載せたいと思います。
❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊❊
した。
にして参りたいと思って参りま
という行為から「耳識」を大事
ました。その意味でも「聴く」
化していくか常々考えてまいり
その内の「意識」迄をどう活性
ものが「唯識論」と言います。
識」の「阿頼耶識」が加わった
すが、「七識」の「末那識」と「八
治さんは「唯識」と言って居ま
を加え「六識」となります。賢
識」
、
「身識」
、 そ れ に「 意 識 」
「眼識」
、
「耳識」
、
「鼻識」
、
「舌
をいい、また「五識」は同様に
「かぐ」
、
「味わう」
、
「触れる」
通り「五感」は「見る」
、「聞く」
、
いと思って居ります。ご存知の
が瑞々しく生き生きとしていた
私は「五感」とも「五識」と
も言いますが、何時も「感覚」
後に「エチュード」を1曲聴き
アノ協奏曲第1番」を聴き、最
を聴きました。そして、
また「ピ
ド・ワルツ・ポロネーズ各1曲
るうち、
マズルカ3曲、
エチュー
想曲)
「ワルツ」
(円舞曲)等あ
ランドの曲)
「ノクターン」(夜
ド」(前奏曲)「ポロネーズ」(ポー
チュード」(練習曲)「プレリュー
(ポーランドの農民の踊り)「エ
ン の ピ ア ノ 曲 で「 マ ズ ル カ 」
ズルカ」を聴きました。ショパ
治さんが聴いたと言われる「マ
○ 今回は、
ピアノの詩人、ショ
パン生誕200年を記念し、賢
みたいという事です。
合いを通し、賢治さんに迫って
らどう感想を言うだろうと話し
を確認し合い、また賢治さんな
た、④⑤賢治さんが発した言葉
作品を各人聴き込み、② そ
の 感 じ た こ と を 述 べ 合 い、 ま
それは我々の目指す賢治さん
の聴いたと言われる作曲者、①
ました。
が有ります。
も天空を飛ぶ雲雀の様な一小節
「雲雀」を聴きました。いかに
さんも聴いているハイドンの
○ ま た、 前 回 リ ク エ ス ト が
有った「弦楽四重奏」は、賢治
ものです。
グランドに流され有名になった
督の「ベニスに死す」のバック
マスマン原作でビスコンティ監
章「アダージェット」は、トー
ウィーンフィルで、特に第4楽
D は、 バ ー ン ス タ イ ン の 指 揮
し合い話合いました。聴いたC
どういう感想を持ったか、想像
す。賢治さんがこれを聴いたら
かったのではないかと思われま
く、レコードには中々馴染まな
様になった事と、長大な曲が多
ラーの曲は近年もてはやされる
い る の で す が。 そ れ は、 マ ー
ルサコフ、ドビッシーは聴いて
うです。同時代のグリーク、コ
マーラーを聴いたふしはないよ
録としてはどうも賢治さんは
響曲第5番」を聴きました。記
どうか「賢治と音楽を楽しむ
会」に参加され共に楽しまれま
味で大事かなと思って居ります。
取る事も「聴く」感性を育む意
も気に止めず音楽に浸る時間を
○ 月に一度一時間半程、何か
にと忙しい毎日の中で、他に何
を聴きました。
スの「ハンガリー舞曲第5番」
想です。またここで、ブラーム
る様に静かな、ゆったりした曲
ま た、「 第 2 番 」 は ブ ラ ー ム
スの「田園交響曲」とも言われ
ます。
標である証明とも言えると思い
て文字通り、ベートーベンが目
一部とも思われる小節が出てき
その中にベートーベンの第九の
と語ったと言われております。
番」をベートーベンの
「第
ブラームスに関しては、当時
の 指 揮 者 の リ ヒ タ ー は、
「第1
しました。
番」
後4番迄ブラームスは聴く事に
同じとの思いで聴きました。今
トーベンに触発されている事は
学 と 違 い が 有 り ま す が、 ベ ー
われて居り、お互いに作曲と文
「交響曲第1番」を書いたと言
ろが、宮沢賢治の奥深いところ
生なら中高生なりに、大学生な
小学生には小学生なりに、中高
理解できなかった気がします。
ば、正直言ってほとんど内容を
生のころは小学生なりに理解し
「雨ニモマケズ」でした。小学
い料理店」でした。その次は詩
学生のころで、童話「注文の多
いました。最初に読んだのは小
気がします。
県といえども、結構暑くなった
の後、気候温暖化の影響か岩手
を過ごすことができました。そ
だし。事実その当時は快適な夏
泉もあるし、食べ物もうまそう
なると思ったのです。その上温
は、大変気候のむし暑いところ
た。 私 が 居 住 し て い る 名 古 屋
のシニア・サマーカレッジでし
ました。ことの発端は岩手大学
なって、もう三年あまり経過し
少々雑感を述べます。私が岩
手県及び岩手大学へ行くように
楢原 幹雄 (名古屋在住)
いわゆる「入力作用」と「出
力作用」が何時も生き生きして
ました。その際、マズルカを賢
また、賢治さんはブラームス
の「交響曲第3番」を聴いてお
てきた事と同感するものを覚え
いる為には、先ず「入力」を大
治さんはどんな思いで聴いたの
りますが、賢治さんはベートー
○ 「 賢 治 と 音 楽 を 楽 し む 会 」
も 回を数えました。
事にし、そして「出力」してい
か、賢治さんの聴いた年代と生
宮沢賢治のことは、シニア・
サマーカレッジ以前から知って
ていたとは思いますが、今思え
れの思いを述べ合いました。ま
ベ ン に 大 い に 触 発 さ れ「 ベ ー
すようお待ちして居ります。
であり、魅力だと思います。
ら大学生なりに理解できるとこ
賞)
に ①音楽を
「感性の次元」
で聴く。次いで、②「音楽の言
岩手県の魅力は宮沢賢治も
トーベンに負けない作品を」と
(姉歯武司 記)
た「弦楽四重奏曲」を聴きたい
10
語化」
、 そ し て、 ③「 言 語 と し
19
で、岩手県なら涼しく、避暑に
きたいと思って居ります。
活の状態を手がかりに、それぞ
21
○ 先日岡田暁生氏の新書「音
楽の聴き方」
(第 回吉田秀和
30
木のみどり」が豊富なことで
言 っ て い る よ う に、
「川と銀行
また、建物が百年の経過を刻
み、 こ の 場 所 に 賢 治 が 共 に 居
ります。
す。結構都会でありながら、こ
んなに自然豊かなところは、私
「経埋ムベキ山登山」 第6回 南
昌山登山
「南昌山に登って」 Eから出るどんな大音量でも
ケストラで奏でる様な、BOS
響 ホ ー ル と な っ て、 フ ル オ ー
すばらしく、部屋そのものが音
に、木造の百年記念館は音響も
シックを楽しんで居ります。特
を中心に毎月簡単な解説とクラ
す。ここでは、賢治が聴いた曲
月名古屋から参加して居りま
私は現在宮澤賢治センターの
「賢治と音楽を楽しむ会」に毎
癒されます。
鳥や蛍やかえるやミツバチにも
によいであろうし、そこに住む
そのフィトンチッドは当然健康
いってもその豊かな樹木です。
岩手大学の魅力は岩手県の魅
力 と も 重 な り ま す が、 な ん と
と思います。
じられていることも大きな魅力
れた郷土芸能が継承され今も演
りや剣舞やさんさ踊りなどすぐ
ないと思います。また、しし踊
ハトーブ)といっても過言では
の予算厳しきおりではあります
慣れました。地方国立大学法人
がありましたが、今ではだいぶ
初めて食べた時は、かなり抵抗
やがおつだと思います。ほやは
食べ物についてはまだ十分堪
能していませんが、あわびとほ
ます。
ら小岩井の牛乳もうまいと思い
ルがうまいと思います。それか
遠野産のホップを使用したビー
は亀の尾が好きです。ビールは
は日本酒とビールです。日本酒
次に岩手県の飲み物について
言うと、私が気に入っているの
歓迎します。
いと思います。皆さんの参加を
でした。皆さんと共に楽しみた
ている様な気がしながらの一時
を聴いた際は小鳥が喜びを表し
え ず り が 一 体 に な り、
“田園”
開放された窓を通して小鳥のさ
春、夏、秋時分は音楽の世界と
の移り変わりを肌に感じ、特に
ります。また、四季を通し自然
つ、毎月楽しみにして通って居
則につながっているので結構き
差が高いもの、低いものが不規
から山頂までは階段である。段
わいい花が咲いていた。5合目
アジサイやエンゴソウの紫のか
爽快であった。道ばたにはガク
る。4㎞の道は緑に包まれ気分
きながら登るのが良いそうであ
ら(?)登った。つまり息を吐
を2時間、演歌を口ずさみなが
から5合目までなだらかな坂道
が述べられた。矢巾温泉登山口
あって、結構きつかったと感想
その人によると登山道に階段が
のある人は参加者の内2名で、
た。今まで南昌山に登ったこと
門を出発、車中で自己紹介をし
藤、 吉 田( 敬 称 略 )。 バ ス は 正
岡田信子、森、千葉、北田、佐
で、望月、江刺家、岡田幸助、
種 山 に 登 っ た。 参 加 者 は 9 名
山、胡四王山、姫神山、岩手山、
タ ー で は こ れ ま で 愛 宕 山、 岩
た山である。わが宮澤賢治セン
に法華経を埋めて欲しいと願っ
治が雨ニモマケズ手帳で の山
に登った。経埋ムベキ山とは賢
平成 年7月 日、経埋ムベ
キ山の7番目の山として南昌山
待っていてくれた。少し下った
ある。矢巾温泉登山口でバスが
に供える紙や布のことだそうで
かった。幣とはマタギが山の神
かり引いたそうでうらやまし
ち良さそうであった。汗がすっ
り、冷たい水に足をつけて気持
をしていた。女性群も裸足にな
キャッキャと言いながら水遊び
が 4、5 人 川 の 浅 瀬 で 服 の ま ま
がけの滝」に寄った。子供たち
であった。途中で「幣(ぬさ)
時歩いたのかと不思議なくらい
つらく、こんなに長い道を来る
足が前に出て、体が残り、結構
合流した。帰りの下り道では、
た。5合目では待機組の二人と
ランスを崩しやすく、つらかっ
た。登りより下りの方が体のバ
べ、記念撮影をして、山を下り
面の下界が見渡せた。弁当を食
作られていて、そこから雫石方
した。山頂には木製の展望台が
ぎてしまい、一気に山頂に到着
ている間に、見落として通り過
サインはまだか、まだかと思っ
うに流れる。8合目と9合目の
と7合目で小休止、汗は滝のよ
江刺家さん、バスの運転手さん
れるよう希望する。望月先生、
と宣伝して、多数の方が参加さ
もったいないので、次回はもっ
の大型バスに9人の参加とは
べ、大学に到着した。
中ではそれぞれ登山の感想を述
くらいである。帰り道のバスの
さっき登ったとは信じられない
よく見える。あの山頂までつい
建っているところから南昌山が
と贅沢なツアーであろう。碑の
森義真さんが朗読し、望月先
生が解説してくださった。なん
なほもさびし 夕日は落ちぬ
山の石原 毒ヶ森 南昌山の一つらは
ふとおどりたちて わがぬかに來る
宮沢賢治
まくろなる 石をくだけば
読み辛い。
碑の表面がピカピカでなかなか
短歌が2首掘り込まれていた。
てくれることになった。6合目
“箱”
(部屋)が共鳴効果を起
が、岩手大学はイーハトーブの
て、 こ の よ う な Fi-Hi
な音を共
に聴き惚れている様を思いつ
こし、また、木材が乾燥し切っ
拠点・ポラーノの広場であって
は他に知りません。
理想郷
(イー
て居り、天候のまま適度の湿り
ありがとうございました。
降りて見学した。碑には賢治の
32
アップして、5合目で待ってい
人乗り
気等を受け、どんなコンサート
ところに賢治碑があり、バスを
登山メンバー(岡田は撮影につき
写っていません)
つかった。6合目で二人がギブ
17
ほしいと切に思います。
22
ホールにもひけをとらない共鳴
の音響になっていると思ってお
(岡田幸助
記)
40
(10)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(11)
うという望月先生のお話であっ
んじていたのは河本であったろ
ザリア」の仲間で、文学的に先
られている。高等農林時代、「ア
して顕彰されている事はよく知
り、地元では俳句の河本緑石と
本 は「 緑 石 」 の 号 で 俳 句 を 作
に住んでいた時期があった。河
時、妻を娶っている。妻も盛岡
ら岩手の高等農林に入学する
誇らしげである。河本は鳥取か
きな男の子たちは胸を張り少し
ち小さい子は両親に抱かれ、大
会報には河本一家の写真が
載っているが、七人の子供のう
いる事が分かる。
団歌が、嘉内の詞と少し違って
あった。現在歌い継がれている
と、河本義行についてのお話が
D T M ~ 藤 井 青 年 団 団 歌 ~」
司氏による「保阪嘉内の歌曲と
「アザリア七号」から、浜垣誠
宮澤賢治アザリア記念会」会報
祭 」 に 関 連 し て、
「 保 阪 嘉 内・
開かれた「花園農村の碑・碑前
会員 佐藤 静子
短歌会は望月先生のミニ講義
で始まる。十月は嘉内の故郷で
~同音異義の風に乗せて~」か
多い。夏の歌として「西瓜の歌
書きを添えて歌を詠まれる事が
歌はと言えば…、先生は長い詞
れてみた。さて望月先生の夏の
つ猛暑(あるいは夏)の歌を入
る。その夏の記憶として一首ず
今回は、六月~十月の歌から
四首ずつ選んでみた。この夏は
力を持つ歌それぞれである。
る。一首で成り立つ歌、連作で
になると目立たなくなる事があ
がある。連作した歌はばらばら
れた歌が配布される。個人毎に
事が多い。最後に個人名の記さ
から来る評に、考えさせられる
としての先生の読みの確かさ
からの指導は直接無いが、歌人
の多い順にコメントする。先生
は気になる歌を五首選び、点数
ら優れていると思う歌、あるい
四十首以上集まるが、その中か
の 歌 が 一 覧 と な り 渡 さ れ る。
ミニ講義の後、短歌の合評会
となる。名前が伏せられた各人
宮澤賢治記念短歌会報告
た。賢治は文学的にはむしろ晩
ら二首選んでみたのだが。
・「 北 水 の 館 」 に た ゆ と う ラ
フマニノフ ロシアの大地に
秘めし熱情
・マーラーの「アダージェッ
ト」に身をゆだね慕(おも)
うあこがれ十八(とわ)の賢
治は
・「 百 年 」 の 窓 か ら 出 流( い
ずる)ドビッシィー葉かげに
顔だすアンニュイな「午後」
・風もなき常の猛暑日思うこ
とロドリーゴの曲熱砂の舞を
姉歯武司
昆 明男
・わが家の部屋は遍く暑くし
て寝がたき夜のはや明けてゆ
く
・呆けむぞとグランドゴルフ
始めしが狙いに背くボールを
追ふて
・呆けむぞとグランドゴルフ
に熱中し紛れ当たりのホール
インワン
・天窓に額絵の如き赤い月怪
しいまでに輝きており
小菅アイ
・木蔭なす木々の並木の心地
良く下行く人も心なごます
・雨来るか木々のざわめき風
も冷え走る電車の音もせわし
き
・うなだれて緑濃き葉の夏の
木は暑き日射をなんとぞ思う
・空有りと詠む人ありて見上
げしが空はシアンに広がれる
のみ
田村依江
北田まゆみ
・起きてみて寝てみて暑いこ
の夏は主食がビールでつまみ
が冷酒
・かたまりの雲がほぐれて秋
の空その始まりはきっと風吹
く
・天を指す指の先から紅(く
れない)に染まって秋を告げ
る桜葉
・かたまりの雲をとばして風
が吹くちぎれて羊ばらけて鰯
佐藤静子
・やわらかなただやわらかな
夏の陽に程よく冷えたビール
飲みたし
・わが町にひがな一日たばこ
吸い路上ながめし老人ありき
・約束の口開けですよとほほ
笑みて焼きかぜ差し出す女の
ありぬ
・マイルドな煙草といえど身
体にはマイルドじゃないセブ
ンスター吸う
・嘘なんか数えていたら昭和
だね昭和がホントに遠くに
なった
・果たせない約束だけがその
時のたった一つの脚本だった
・銅製のワインクーラーの乱
反射揺れる光をぼんやり見て
た
・千年の夏を越え来た京都で
は御池の虫さえこっそりと刺
す
吉田直美
・崩れんとする瞬間の危うさ
を押し止めれば仮説誕生
・好物は天から〈垂下〉する
ものとさながら白き天使のお
ゆび
・
「男ありて」が 似つかわ
しくはなくっても滴りこそが
我らの「水瓜」
・繰り返す〈挫折〉はまるで、
自らが飛び込むように選んで
います
望月善次
阿部真紀子
記録的な猛暑であった。随分と
・なんだかもうどうでもいい
というような猛暑戻りの午後
の三時は
・古書店の奥には何やら秘密
あるひそりと灯る灯と黒い影
・なぜだろう空のぼんやり
かなしくて本田美奈子のア
ヴェ・マリヤ聞く
・
「さびしい」
と口に出(いだ)
せば本物のさびしさぐわっと
押し寄せてくる
並べられた歌は、又別な味わい
遠い日の出来事のように思え
・園児らの紅きゆかたの隊が
来るさんさのリズムにのりて
来る来る
・遠き日の鬼さん役のかくれ
んぼまだ見つからず夕暮れと
なる
・瀟洒なる展示ハウスに描き
置くパティオに集う空想家族
・いつどこで付けたのだろう
擦り傷を手首内側自傷のごと
し
された。
熟で、決して「アザリア」の中
心ではなかったというお話もな
員
投
稿
辺にある。
たりしていることの原点はこの
現在私が賢治作品の朗読を試
み、時に人様に聞いていただい
ちだったろうか。
た。 演 出 家 氏 か ら 突 然、「 そ こ
家の子を励ますというものだっ
〝 地 域 語 で 語 る 一、二 世 代 前 の
置かれたシチュエーションは、
放ち得てしまった。その時私の
それが、数年前ある演出家に
よる演劇ワークショップの席
付けで今説明すればそんな気持
(あめゆじゅとてちてけん
「
じ ゃ)
」 に 始 ま り『 無 声 慟 哭 』
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
イーハトヴ童話集『注文の
多い料理店』と佐々木喜善
茂
宮澤賢治センター幹事
亀井
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
手毎日・岩手日報など古里の各
新聞に、小説、戯曲、詩、短歌
など発表。また一流の文人達に
も出会い、なかでも柳田との歴
史的出会いは『遠野物語』
(19
10)を生み、後に遠野は《民
俗学の聖地》とも呼ばれること
じ。平成の大合併で現在は花巻
賢治の生地花巻の隣町で私は
育った。地域語は花巻とほぼ同
この三部作は、臨終のとし子へ
切実に読みたいと思う。そして
の絶唱は、渾身の思いで美しく
の妹とし子の言葉、この地域語
に言わせたのだった……となに
は、私に憑依した昔の老婆が私
モマゲズ」と呼びかけたあれ
場いっぱいに野太い声で「雨ニ
の命令が飛んだ。とっさに、会
で『雨ニモマケズ』言って!」
ここでは喜善の十年後輩で、ほ
見なおされなければならない。
(1886―1933)も一層
パイオニヤとなった佐々木喜善
にあって民俗研究、昔話収集の
田に話題提供し、また古里遠野
広告文を書き、またその童話集
名 で あ る。」 で は じ ま る 有 名 な
づ け、
「イーハトヴは一つの地
とき古里岩手を地球規模で位置
文の多い料理店』を出版。その
一方、賢治は大正 年(19
2 4)
、 イ ー ハ ト ヴ 童 話 集『 注
にもなる。
市になっている。つまり私は賢
の、賢治の胸張り裂けんばかり
今年は『遠野物語』発刊10
0周年で、柳田国男と共に、柳
治と同じ言語のネイティブス
の語りかけである。これらは、
老婆〟の私が、親を亡くした隣
上、思いもかけず地域語で言い
三部作中にちりばめられる一連
年代ころまで、
3)との係わりにつき、とくに
ン ド、
〈イーハトヴ〉と呼ぶ見
もって、古里岩手をドリームラ
と 称 し、 賢 治 流 童 話 の 世 界 を
は「古風な童話としての形式と
賢治のイーハトヴ童話集『注文
地方色を以って類集したもの」
の多い料理店』出版の背景に、
ぼ同時代、同郷岩手に住んでい
借りている。
直しをしようとした。
た宮澤賢治(1896―193
注)がいっしょにそだってきた
そのような喜善の影響がある可
やら自分がイタコになったよう
あいだ」
(
『永訣の朝』
)使い親
能性を指摘してみたい。
な気分に陥ったのであった。
「 海 だ べ が ど お ら お も た
れば/やっぱり光る山だたじゃ
しんだ地域語が内包されている
とし子の言葉を除き共通語で表
い」
(
『高原』
)
「いしょけめに/
のを強く感じないではいられな
地域語は賢治のころと根本的な
ちゃがちゃがうまこはせでげば
賢治は当時文化果て、貧しく
厳しい風土の古里岩手で、生涯
現 表 記 さ れ て い る が、
「わたし
/夜明げの為が/泣ぐだぁいよ
を送るからには、古里にあって
ままに、地域語の発音・イント
喜善と賢治の直接的係わりは
晩年にあったが、若い時代の係
な 気 も す。
」
(短歌)
。 教科書
い。その呼吸に呼び覚まされる
も一般の書籍も、文字表記とい
ネーションを基調として私は朗
古里を越える自己克服、見直し
読してみている。
が 必 要 と な り、 従 っ て 古 里 を
うもののすべてが共通語である
わりは余り知られていない。し
ことを自明と思い込んでいた小
『 雨 ニ モ マ ケ ズ 』 は、 実 は 以
前朗読を避けていた。やむを得
かし喜善が賢治を知らなくと
学生か中学生のころ、こんな表
ずの際は、共通語で淡々と読む
付いては文芸創作、作家たらん
風俗、習慣のもとに育ち、物心
人として、大正3〜4年頃より
崩し帰郷。それからは遠野郷の
一方、喜善もまた一度は古里
を脱出、上京したが結局体調を
た。
〈イーハトヴ〉と見直すにいた
記の活字との出会いは清々しい
しかできなかった。迫り来る死
る経過は、青春の混沌とした悩
驚きだった。表記の呼吸と、そ
を前に賢治が、どんなに「サウ
と一度は上京。当時は遠野・岩
喜善は北上山地遠野郷に生ま
れ、古里に受け継がれた昔話、
も、好奇心旺盛な賢治は早くか
れによって自分の体の中に呼び
イフモノニ」なりたいと切に
ら同郷の彼の活躍に注目、大い
覚まされる言葉の呼吸がピタリ
願ったか。その「ねがい」の強
みのなか、家出するなど、人生
と一致する。しかも、生の「方
さと純度に私の心が付いていけ
の岐路を経ての到達点でもあっ
言」の域を脱して詩の言葉とし
なくていた。
に影響を受けていたことは想像
て昇華している。これはもう声
される。
た ち( 賢 治 と と し 子 …… 筆 者
13
変化は無かったはずだ。 30
『雨ニモマケズ』を朗読する
ときは今でも少し老婆の助けを
供だった昭和
ピーカーということか。私が子
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
石原 黎子
賢治作品朗読――私の場合
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
会
に出すしかないではないか。後
朗読会にて(目白・ゆうど)
(12)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
喜善の採取昔話の再話手法とは
ハトヴ〉と見直す構想と共に、
9 2 4)
、 賢 治 は 古 里 を〈 イ ー
も、お湯にはいっても、もうも
人 の 顔 だ け は、 東 京 に 帰 っ て
ぺん紙くずのようになった二
通りにならない――「さっき一
たがたふるえ」た彼らの顔は元
いて泣いて泣き」、「がたがたが
マであるが、賢治自身は西洋文
これは賢治寓話の一貫したテー
自然による文明への、あるい
は、無垢による経験への復讐。
るのである。
多 く の「 注 文 」( 非 難 ) を 受 け
「西洋」料理店の迷路のなかで
」)とは! 狩猟目的の
HOUSE
紳士は「山」で迷い、さらには
る「 西 洋 」 的 空 間、 し か も 名
文芸創作よりもむしろ地元の民
異なる、賢治流の「古風な童話
「 こ の 童 話 は、 西 洋 化 が ま す
ます進んでいた大正デモクラ
とのとおりになおりませんでし
化にあこがれ、東京には何度も
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
俗研究や昔話の収集をはじめ
としての形式と地方色とを以っ
シーの時代に書かれました。作
た」。顔が「紙くずのようになっ
上京した。賢治は「これらのわ
社)
、また収集昔話は大正
青山学院大学 佐藤
亨
たくしのおはなしは、みんな林
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
や野はらや鉄道線路やらで、虹
年
を取り戻すことはできないとい
WILDCAT
る。その後次第に昔話収集に本
て類集した」という、イーハト
者の宮沢賢治は、外国の文化を
た」紳士こそ西洋化した日本の
うことだ、と。
前 が「 山 猫 軒 」
(「
命を見出だしてゆき、一時は童
の出版がなされることになる。
取り入れるあまり自国の文化を
比喩であり、日本はもう元の姿
物語の結末も同様である。二
人の紳士は無事に東京に帰った
話集としての出版も考えてい
このように同郷の先輩喜善の
〈古里再発見〉
、
〈昔話再発見〉
おろそかにしてしまった当時の
「注文の多い料理店」考
る。
の影響は、直ちに賢治に取り入
日本を非難し、国の行末に警鐘
を鳴らしているのだと思いま
に 思 え る が、「 泣 い て 泣 い て 泣
先ずその彼の民俗学的成果
は、 大 正 9 年( 1 9 2 0)
『奥
れられ、新たな独創的イーハト
す。」これは一人の大学生の「注
ヴ童話集『注文の多い料理店』
( 1 9 2 2)
、炉辺叢書の一冊
ヴの発想やその童話刊行に受け
州のザシキワラシの話』
(玄文
『江刺郡昔話』
(郷土研究社)
継がれたのである。
文の多い料理店」解釈である(テ
となる。
なお賢治がこのような童話集
など書き始めた理由として、当
キストは一九九〇年発行の新潮
られたことなど指摘されるが、
とや、国柱会で法華文学を勧め
ギ リ ス の 兵 隊 の か た ち を し 」、
人の若い紳士」は「すっかりイ
文庫を用いた)。学生いわく、「二
思ったこととあまりに違う、と
も、 子 供 の こ ろ に 読 ん だ と き
こ う だ っ た の か。 そ れ に し て
「注文の多い料理店」の真意は
うな顔をしていた。かの有名な
と東京、この下半身と上半身の
ているからかもしれない。岩手
十八歳の時以来、東京で生活し
は、 私 自 身 が 岩 手 に 生 ま れ、
この童話がことさら気になるの
です」と言う。それにしても、
や月あかりからもらってきたの
にじ
央でもその価値を認められたこ
時児童文学の隆盛期であったこ
この説明を聞き、他の学生た
ちは「目からうろこ」というよ
さらに喜善の影響も加味する
な」と形容され、日本の犬のよ
連 れ て い る 犬 も「 白 熊 の よ う
〈古里再発見〉
、
〈昔話再発見〉
と、童話集の性格ともよりマッ
ま た、
〈イーハトヴ〉の呼称
は「創作されたエスペラント風
て い る。「 み ん な こ こ に 置 い て
布、その他金物類」を身につけ
ン、 カ フ ス ボ タ ン、 眼 鏡、 財
うでない。さらに「ネクタイピ
と語る学生もいた。
る点がいかにも日本人っぽい、
流の解釈をしながら納得してい
店の注文に対していちいち自己
口々に言う。また、紳士が料理
めぐる。
いをつけていくのか、と考えは
ような二者をどうやって折り合
しん し
でもあった。
チするように思われる。
の岩手県の異称」という。賢治
ください」と指示され、二人は
教室で賢治を読むと発見が多
い。 一 人 の 発 言 が き っ か け と
年
のエスペラントヘの関心は、岩
従うが、二人が脱がされるのは
なっていろいろと考えさせられ
年頃から童話を書き始め、
年頃の作(?)とされる童話『ペ
手で最初のエスペランチスト、
まさに西洋的な装身具である。
る。右の解釈もその一つだ。そ
ものすご
さい
ンネンネンネンネン・ネネムの
田鎖綱紀のエスペラント紹介文
また「白熊のような犬」も、物
れ に 沿 う と、「 西 洋 料 理 店 」 が
あわ
ア イ ロ ニ カ ル だ。
「山」という
め がね
伝記』には、喜善が当時現に住
の 影 響( 1 9 1 6) と さ れ る
語の冒頭で「あんまり山が物凄
「山」にあることはきわめて
には『注文の多い料理店』所収
む遠野郷土淵村の隣村、青笹村
が、 し か し こ の 造 語 そ の も の
い の で 」「 め ま い を 起 し て ……
まり、西洋文明は山に復讐され
文明から隔絶された場所にあ
童話の7編も書き、また大正
伊藤宅にザシキワラシを出現さ
は、賢治脳裏に〈古里再発見〉
泡を吐いて死んでしま」う。つ
ふ
せるなどして、早速『奥州のザ
者であり、エスペランチストで
の発想ではなかったかとも思わ
る、と。
みずから生前の賢治に会いそ
尾形亀之助は宮沢賢治に会っ
たことがあるだろうか。
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
吉田美和子
何が「明滅」しているのか
賢治と亀之助
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
シキワラシの話』の影響が認め
もあった喜善の存在を意識して
ていたことを示している。
れる。
は
られ、当時すでに喜善を意識し
しろ くま
そしてこのような先輩喜善に
続くかのように、賢治も大正7
このように一地方や山村の民
俗、昔話が二冊の本となり、中
とは、喜善の古里見直しであり
11
10
11
さらにこれに続く『江刺郡昔
話』出版二年後の大正 年(1
13
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(13)
に「詩人として生前賢治に会っ
は、尾形亀之助研究家の秋元潔
こととなった無念の草野心平
こねて初七日法要に駆けつける
宮沢賢治と尾形亀之助」という
した『単独者のあくび 尾形亀
之助』という本の中に「
『明滅』
私は先ごろ、木犀社から上梓
れるのだ。
りようが、影のように背中合わ
として生まれた彼らの自裁のあ
の同じ雨雲の下に資産家の嫡男
る。しかし、疲弊した東北農村
た宮沢賢治の生き方と真逆であ
ためにと悲泣して菩薩行を願っ
品であるか否かことを知ること
と遺伝子組換えをしていない食
れているQRコードを読み取る
い。例えばパッケージに印刷さ
意として使われていることが多
認できるようにすること」の
の樹齢は?その樹齢が
か?このリンゴが収穫された木
た、肥料は輸入に頼っているの
こ だ わ り が あ る の か? は た ま
か?肥料も地元の堆肥を使った
ンゴをつくっているのであろう
年であ
ているのは岩手の人たち以外で
年前の1995年当時の
詩壇の一角であるにすぎない。
て拒否しなければならない東京
にとって亀之助は、未練を断っ
だけの関係であるらしい。賢治
所」三篇を寄稿した――、それ
しき童子のはなし」
「猫の事務
治 が 童 話「 オ ツ ベ ル と 象 」
「ざ
が 主 宰 し た 雑 誌『 月 曜 』 に 賢
二人の生前の交流は『銅鑼』
でページを隣り合わせ、亀之助
手紙はそれへの反論である。
いう風聞が流れていた。心平の
が厭になったと語った……、と
賢治に会って失望し詩を書くの
の友人たちの間では、亀之助は
よっしょ」と走る物語である。
たりで腕を組んで「よっしょ、
テーションのような夜の町をふ
泣 く 心 平 を 励 ま し て、 銀 河 ス
は、酔って「宮沢ア」と叫んで
る立場にいたか。「明滅その二」
の未定稿の内容を、亀之助は知
に残された書き込みだらけのこ
なメルヘンである。賢治の枕元
のパロディとしか思えない奇妙
容は未発表の「銀河鉄道の夜」
という追悼文を寄せた。その内
き、
亀之助は岩手日報に
「明滅」
のである。賢治が亡くなったと
を、無理を承知で推論してみた
ないづくし」と語る二人の関係
詩人たちの夢である。
園である。明滅しているものは
尾形屋敷は、現在の仙台市西公
る。仙台空襲でついえた広大な
ミッシング・リンクであり続け
は、 読 者 を 魅 惑 す る 不 思 議 な
賢治・心平・亀之助――この
「ないないづくし」の三角形
てひとり死んだ。
る」(絶筆「大キナ戦」)と呟い
の蠅のやうなものでも知つてゐ
争がぼつ発してゐることは便所
和十七年、亀之助は「大きな戦
か。文学報国会が結成された昭
なかろうか?
識のうちに選択しているのでは
もてなし」を感じた食材を無意
我々は予算と相談し最後は「お
ある同じ種類の食材の中から
うと決断をする一瞬がある。数
だろうか?お金を支払って買お
しかし、消費者は単なる加工
や流通の過程を知って満足する
ば多い程、安心感は増す。
にする食品だけに情報が多けれ
が大事だ。消費者にとっては口
の仕組みなので生産者のモラル
リティーは食の安全を守るため
浜(宮古市)にそのシステムを
色を見ることができる。浄土ヶ
話を活用し、その場の過去の景
私の研究でタイムナビゲー
ションというのがある。携帯電
が同じであるはずはなかろう。
は消費者のリンゴに対する想い
認してリンゴを手にするのとで
ンゴであることを知って店で手
る。その年に苗が植えられたリ
神・淡路大震災がおきた年であ
気候は強い寒波が流れ込み、阪
天候はどうだったのか?当時の
れば
しかし亀之助は賢治を意識して
草野心平や石川善助の直線的
で激情的な賢治への心酔に比べ
もできる。もともとトレーサビ
い る。
「 失 望 」 と は、 よ し や そ
ると、亀之助の心情は複雑に入
せになっているとは、見えない
一章を立てて、そのことを考え
れが事実でなかったとしても、
りくんでシニカルだ。孤独な人
てみた。天沢退二郎氏も「ない
は石川善助と黄エイだけです」
そこに夢を託したかった秘かな
間はときどきそんなふうだ。そ
サビリティーという言葉があ
あるテーマの跡を追い、過去
を調べることは面白い。トレー
ンゴの生産者がいるとする。そ
強くならない。例えば、あるリ
ければ地域の食のブランド力は
等の要素を盛り込む努力をしな
る哲学感や食づくりのこだわり
えにくい、その地域の食に対す
た。トレーサビリティーでは見
択の要素としては不十分になっ
や産地の表示だけでは購買の選
もそのメッセージの表現だ。今
近年、パッケージに生産者の
写真や名前が記されている食品
のだから、地域としての食のビ
生産地という貴重な要素がある
要件と同時に、地方にとっては
ことは流通の過程をさかのぼる
トレーサビリティーを構築する
ビジョンをも示すこととなる。
跡をたどることは同時に今後の
示すことができる。このように
ができ、未来の防災等の提言も
生の声を携帯端末から聞くこと
を画像と同時に被災した方々の
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田中 隆充
岩手大学教育学部准教授
賢治の食べたリンゴ
食のビジョンを大切に
欠伸するときでも彼は一人で欠
る。 主 に「 食 品 の 生 産 か ら 加
ジョンも構築できるはずだ。
設置し、過去の大津波の出来事
にするリンゴと、値段だけを確
片想いのようなものの裏返しで
伸をしたい」と心平をして言わ
の生産者はどのようなリンゴづ
訣 別 の 挨 拶 で あ る。
「みんなと
しめた亀之助。虚無と無為の権
工、販売までの過程を明確に記
くりのポリシーをもってそのリ
東北各所には多くの独自性の
化のようにして死んだこの詩人
録し、商品からさかのぼって確
は、みんなのために、みんなの
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ある。亀之助の作品を読み返す
と語った。しかし仙台の亀之助
15
れは反語的な亀之助流の親愛と
15
と、何故かそんな気配が感じら
「月曜」創刊号
(14)
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(15)
強い要素が潜んでおり、それを
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という感想をメールしてきまし
民の方も含め
キャンパスで開催され、一般市
名以上が出席し
た。そこで私は、自分が持って
ンドづくりという商業的なこと
いう取り組みだ。リンゴのブラ
沿ってリンゴを育ててみようと
ハトーブ」
、あるいは盛岡を連
つの名前ともなっている「イー
ます。いまや岩手県のもうひと
れていることはよく知られてい
宮沢賢治がエスペラントを学
び、その影響が作品にもあらわ
一さん(現岩手大学宮沢賢治セ
スペランチストでもある佐藤竜
が、作家・賢治研究家でありエ
な あ る 日、 偶 然 お 会 い し た の
2003年、私は転勤で家族
共々盛岡に赴任しました。そん
しまっていました。
で、エスペラントからは離れて
ができるという生活の変化の中
が、卒業、就職、結婚して家庭
私は学生時代にサークル活動
でこの言葉を学んでいました
かって畑中さんの肉声で賢治童
室で、毎回十数人の聴き手に向
だったという施設内の映像体験
た も の で す。 銀 行 の 元 頭 取 室
の完全読破を目指して始められ
あるといわれる賢治の童話作品
2004年3月から約100作
ナウンサーの畑中美耶子さんが
知ったのです。女優でフリーア
う朗読会が行われていることを
1 回、「 モ リ ー オ 童 話 館 」 と い
した。その折、この施設で毎月
いた賢治のエス訳本を寄贈しま
思い等をユーモアを交えながら
る「モリーオ童話館」へかける
で「賢治さん」の童話を朗読す
子供劇団のこと、そして盛岡弁
指 し た き っ か け、 長 年 続 け た
れ、ご自身がアナウンサーを目
リーオ童話館」と題して講演さ
して畑中美耶子さんは「私とモ
トとの両方で朗読しました。そ
の一場面を日本語とエスペラン
道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」
「 注 文 の 多 い 料 理 店 」「 銀 河 鉄
ヴ・エスペラント会会員3名が
ま し た。 私 を 含 め た イ ー ハ ト
造・宮沢賢治 エスペラントを
めぐって」をごらんください)。
以前に、食を育てる本質的な考
想させる「モリーオ」といった
ンター事務局長)でした。お誘
話の朗読が行われています。
の役人」の朗読もご披露いただ
モリーオ童話とエスペラント
え方を見直す手掛かりになれば
賢治の造語もエスペラントが元
いを受けて竜一さんが副代表を
初めて聴かせていただいたと
き、盛岡弁のイントネーション
創造し展開させる知恵が求めら
と思っている。宮澤賢治がリン
になっていると言われています。
務めるイーハトヴ・エスペラン
ティーのあり方を岩手の独自性
という観点から研究を始めた。
なったリンゴの過程を盛岡高等
だ っ た。 品 種 改 良 さ れ て 甘 く
リンゴだったと思う」との回答
い て み た。
「小ぶりで酸っぱい
ちなみに宮澤賢治の研究者に
賢治が食べたリンゴについて聞
う。
してリンゴをかじったのだろ
サビリティーなど必要なく安心
していたかもしれない。トレー
で、国際連盟事務次長であった
などが熱心なエスペランチスト
創始者として知られる田鎖綱紀
部佐々木喜善、日本語速記術の
遠野物語の著者柳田国男、語り
り、本県関係でも賢治の他に、
年から本格的な普及活動が始ま
界語」出版等があった1906
家二葉亭四迷による入門書「世
表したものです。日本では、作
メンホフが1887年に創案発
ランド生まれのユダヤ人医師ザ
がこの施設を訪問し「すてきな
昨年、仕事で盛岡に出張した
他県のエスペラント関係の知人
善との交流等の説明もあります。
ペラントを学んだことや佐々木喜
示があり、その中には賢治がエス
川 啄 木 と宮 沢 賢 治についての展
だったという重厚な建物の中に石
春 館」です。第九十銀行の本店
そんな私がときどき訪れてい
たのが「 もりおか啄 木・賢 治 青
ことになりました。
エスペラントの勉強を再開する
演をお願いいたしました。
とを企画し、畑中さんに記念講
エス訳作品の朗読紹介を行うこ
般公開行事として、賢治童話の
た東北エスペラント大会での一
岡で開催を招致することになっ
くらんできたのです。そして盛
てもらいたいという気持ちがふ
の朗読をぜひ賢治ファンに聴い
き、賢治童話のエスペラント訳
世界に一気に引き込まれてい
による畑中さんの朗読で賢治の
しれません。いずれにせよ、こ
の奥深さに触れることができた
トをきっかけとして賢治の世界
宮沢賢治が私をエスペラント
の世界に引き戻し、エスペラン
いう感想をいただきました。
のように表現したのだろうかと
うようないわゆる「擬音」をど
ざわ」「どうと」「どたっと」い
ン ト で 書 い た と し た ら、「 ざ わ
治が自分自身で童話をエスペラ
ント訳朗読を聴かれて、もし賢
きました。賢治童話のエスペラ
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農林学校(現岩手大学農学部)
新渡戸稲造は強くエスペラント
れからもエスペラントとモリー
岩手県出身の宮澤賢治の哲学に
イーハトヴ・エスペラント会
ゴを育てたならば、農薬や化学
ト会に私も入会、 数年ぶりに
れる。岩手大学のある学生が前
肥料を使っただろうか?賢治が
エスペラントは、諸民族が対
等で自由に交流するための学び
述したリンゴのトレーサビリ
生きていた時代の夜空は満天の
やすい国際共通語として、ポー
今泉 久典
銀河が広がり岩手のどこかでリ
で農学を学んだ賢治は興味があ
2010年 月7日㈰、第
回東北エスペラント大会の一般
7 階・ 岩 手 県 立 大 学 ア イ ー ナ
ペラント」が盛岡市のアイーナ
ればと思っています。
オ童話の世界にかかわっていけ
というのはおおげさすぎるかも
るかもしれない。
(
『河北新報』
公開行事「モリーオ童話とエス
れているのに、そのことが紹介
51
されていないのが残念だった」
11
ト学会が発売した岡村民夫・佐
10
藤竜一著「柳田国男・新渡戸稲
くは今年
施設だったが、賢治の著名な作
月5日に掲載)
品の多くがエスペラントに訳さ
語 っ て い た だ き ま し た。「 二 人
ンゴをかじりながら星達と対話
40
月に日本エスペラン
10
を支持した擁護者でした(詳し
2010年
10
宮澤賢治センター通信 第10号 平成22年11月30日
(16)
作成者:アートフォーラム
中島香緒里
宮澤賢治センターのロゴマーク
宮澤賢治センターのロゴマークが完成しましたので、
ここに紹介いたします。
宮澤賢治の代表作「雨ニモマケズ」をスタンプに見立
て、改めて賢治の想いを多くの人々の心に刻み込む。
特別展の御案内
地質標本館特別展
−宮沢賢治の地的世界−
2010 年 11 月 16 日 ( 火 ) − 2011 年 1 月 30 日 ( 日 )
宮沢賢治の作品には、蛋白石やルビーなどの鉱物名や火山などの地質現象が、登場人物の
名前や色の表現、作品の主題として多用されています。盛岡高等農林学校(現岩手大学)
で学んだ知識や調査経験が作品世界に活かされているのです。本特別展では、賢治作品を
紹介するとともに、作品に登場する鉱物・岩石・化石の実物を展示します。また、賢治と
地質学の関係、賢治が愛した岩手県のフィールドを紹介します。
関連イベント
1) イーハトーブ火山のペーパークラフトをつくろう(対象:小・中学生)
宮沢賢治が何回も訪れた岩手山のペーパークラフトをつくります。所要時間 30 分。
会場:地質標本館 1階多目的展示室
日時:1回目 2010 年 11 月 27 日 ( 土 ) 13:00-16:00
2回目 2011 年 1 月 22 日 ( 土 ) 13:00-16:00
予約は不要です。直接、地質標本館へお越しください。
2) 朗読会「楢ノ木大学士の野宿」(対象:小学生高学年∼一般)
特に地質との関連が深い本作品を朗読で味わい、そこに表現される地質学の世界を研究者が解説
します。朗読:坪内明美(朗読の会「ゆう」
)
会場:地質標本館 1階ロビー 定員:30 名(要予約)
第一夜 「火山」
2010 年 11 月 27 日 ( 土 ) 16:30-18:30(開館時間を延長します)
第二夜 「岩石・鉱物」
2011 年 1 月 22 日 ( 土 ) 16:30-18:30(開館時間を延長します)
朗読会は予約が必要です。第一夜は 2010 年 11 月 1 日、、第二夜は 2010 年 11 月 29 日
より予約を承ります。1) ご氏名 2) 人数 3) 電話番号を明記した電子メールを、 [email protected] までお送りください。先着順にてお席を確保いたします。
TX つくば駅から荒川沖駅行きバスで 10 分
東京駅から筑波大学行き高速バスで1時間
「並木二丁目」下車 徒歩5分
イーハトーブの石たち
―宮沢賢治の地的世界―
2010年11月16日㈫-2011年1月30日㈰
編 集 後 記
▽私がこの通信の編集を担当す
るようになって2号目ですが、
この号では多くの会員から投稿
を頂きました。それぞれの文章
には賢治に対する思いが満ちあ
ふれており、改めて賢治の文学
が内包する奥深さに感じ入りま
した。
また、これまでタブーともさ
れた賢治の恋愛に切り込んだ澤
口たまみさんの『宮澤賢治 愛
のうた』に関し、森三紗さんに
書評をお願いしました。
最近は澤村修治著『宮澤賢治
と幻の恋人』
(河出書房新社)
も 出 て、
「恋人論争」が活発化
しつつあるようです。くめども
尽きない鉱脈をさらに掘り起こ
すためにも、積極的な投稿をお
待ちします。
(佐藤 竜一記)
宮澤賢治センター通信
○発行
〒〇二〇 八五五一
盛岡市上田四丁目三番五号
九 六二一)
六六七二
電 話 〇一(
九 六二一)
六四九三
FAX 〇一(
E-mail:kenji@iwate-u. ac. jp
HP http://kenji.cg.cis.iwate-u.ac.jp/
宮澤賢治センター
(岩手大学内)
発行責任者 岡田幸助
○印刷 杜陵高速印刷株式会社
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施設サインイメージ