2004YYCを振り返り…他

1
理事長
松浦
孝志
理事長に就任して早くも2シーズンが過ぎました。おかげさまで、この2年間は会員
の皆様の御協力もあり、大きな問題もなく経過する事ができました。本年9月には神奈
川県の法人検査が実施され、いくつかの課題を指摘されましたが、おおむね運営状態は
健全であるとのお墨付きを頂きました。また現在は財務状態にも問題がないと思います。
しかしながら会員の減少、設備の一部老朽化、職員の安定化、会員へのサービス向上、
施設の有効利用などの問題が山積されているのも事実です。理事の方々にはこれらの問
題を少しずつ解決するために尽力していただいています。
シーズン前には念願の係船用台船が設置される予定
です。これにより艇に乗り移る事が今までより遙かに
安全に行われることでしょう。今までは、干潮時に艇
に乗り移る時に艇と岸壁に大きな段差が生じ大変危険
であり、大きな事故が今まで無かったことが幸運だっ
たとしか考えられません。今後は女性、子供、高齢者
(今後はますます会員の高齢化も進むと思います)が
安全にヨットの乗り降りができ、多くの方々がヨット
に触れる機会が少しでも増えればと思います。
会員の活動状況はなかなか活発です。長距離のクルージングに出かける方は減ったよ
うですが、レース活動は活発で
クラブレースには多くの参加が
あり盛り上がっています。
また外部のレースにも参加し、
必ずと言っていいほど上位に
YYC 所属艇の名前が載ってい
ます。今年もますます充実した
クラブレースを実施したいと思
います。
最後に、この伝統ある我が横
浜ヨット協会を、ますます発展
させるためにも会員皆様のさら
なる御協力を必要としています。
本年も理事会一同努力を重ね、
会員のご意見を聞き、より安全
で充実した YYC にしてゆく所
存ですのでよろしくお願い申し
上げます。
2
江間教夫
十勝山丸(総トン数約 3000 トン)が、私の最初の仕事場となった。1952 年(昭和
27 年)6 月のことであった。前年、練習船日本丸で訓練航海に明け暮れていたが、貨物
船に航海士として、乗船するのは初めてのことである。
同船は当時沖縄航路に従事し、横浜の高島埠頭に着
岸していた。そこでの荷役作業(貨物の揚げ卸し作業)
は多忙を極めていた記憶がある。
当時、朝鮮戦争の真最中で、米軍が朝鮮戦線での劣勢
を逸回するため、仁川への再上陸作戦を計っていた頃
と前後していたらしい。 忙しい中で荷役作業が終わり、出港したのは同日夕方であっ
た.
私の船内に職務は、員外航海士である。通常船内には、船長以下一等から三等航海士
という序列があった。ところが私は、その員数に入らないらしい。仕事は、一等航海士
の補佐役であった。一応、三等機関士と同室の二人部屋が与え
られ、そこが本船での寝起きする拠点となった。
横浜を出港して間もなく船首と船尾の S/B が終わり、船長
以下航海士全員が船橋に集まっていたときである。
東京湾南方の暗闇の中から、発光信号がやってきた。パカ、
パカと光の矢が飛んでくる。本船に向けてきているらしい。「員外!信号だ。」と船橋か
ら号令が飛ぶ。「しまった。」と思ったがもう遅い。何せ信号の担当は員外航海士と決ま
っているらしい。操舵手にうながされて、フライング・ブリッジに昇り、慣れない手つ
きで信号機に触ると、突然応答信号が出てしまった。それを見た信号所からは、一気に
問い合わせ信号を送ってきた。英文で「WHAT SHIP」と送ってきたらしいが、すっ
かり上がってしまい、その応答すらできないでいると下の船橋から「WHAT SHIP」
だ。「船名を送っておけ。」と一等航海士の怒声が聞こえる。あわてて船名を送ったが、
ただ、ただ冷や汗ものだった。
発光信号にてこずっている間に、本船は第二、第三海保間の防潜網の入口に到着して
いた。暫く待って防潜網の入口ゲートの開放作業が終わり、やっと本船は東京湾の外に
出ることができた。
当時、東京湾の入口、第二、第三海保の間には、
潜水艦の侵入を防ぐため防潜網が設けられていた。
元々は戦時中に日本海軍が設置したものと思われ
るが、日本敗戦と同時に米軍が管理していたらし
い。これは以後数年間にわたり、東京湾へ出入り
する船の悩みの種だった。
3
江間教夫
横浜から那覇まで約800海里の航程、13ノット強の速力で、2日半の航海となる。
東京湾を後にし、本船が伊豆半島の突端を回ったあた
りで、北西の風が強まり、難航を極めたが、翌朝4時、
私が航海当直に立った頃には静まり返っていた。 本
船は、すでに本州南方はるか沖合いに離れ、富士山が
かすかに眺められる。
最初の航海としては、好天にも恵まれ、最高の出足と
いうところ。航海中の私の仕事は、一等航海士の補佐
として、4~8航海当直に立つことである。午前と午
後とも4時間ずつ1日2回の当直時間がくる。その他に、横浜を出てから船内に、こんな
に書類整理があるとは知らなかった。積荷目録と積付指示書との突合せ、貨物積付図の
作成である。そのため、一等航海士は、航海当直に立てない程である。そして、私は午
前8時当直が終わった後、早速書類整理にかり出された。眠る間もない。
沖縄東方洋上にと、海の色が一段とさえてきた。紺青に輝き、飛び魚が舞っている。
こんな静かな海で、8年前まで日本海軍が激闘を
繰り返し、特攻機まで出庫していたとは誰が想像で
きるだろうか。海上での戦闘は、昔から洋の東西を
問わず、一瞬にして決着がついてしまう。その痕跡
すら残さない。
横浜を出てから3日目朝、那覇港入口でアメリカ
人の水先人が乗船してきた。早速、港内のバースに
向かう。ここには、いまだ戦禍のあとが生々しく残
っていた。航路筋は、やっと開かれているものの、一歩外れると、沈船があたり一面に
散在していた。沖縄での激戦のあとがうかがえる。
そうこうしているうちに、桟橋に着岸した。当時、沖縄は外国であるため、検疫、入
管税関チェックなどが実施された。
船から桟橋の外側を見ると、物凄い様相である。まるで西部劇に出てくる荒りょうた
る港町を見る感じだ。
朝鮮戦線から引き揚げてきたと見られる、壊れた装甲車、トラック等が、桟橋上に無造
作に置かれ、船積みを待っている。
その間をフォークリフトが走り回り、本船から陸揚
げされた物資の整理に当たっている。もちろん倉庫ら
しいものは見当たらないので、貨物はすべて野積みさ
れていた。数日中に朝鮮戦線に積出されるという。
4
玉井正登
故水巻晴夫さんと40フッターで毎週呑んでいた頃、彼が「たまには速いヨットで走
ってみたいなあぁ」と言ったのを切っ掛けに J24「RAGTIME」を購入してしまった
のは、以前記した通りである。言い出した張本人はその言葉
を忘れたかの様にこの世の人ではなくなってしまい、こちら
は途方に暮れたが、平田君(現 YYC 会員)と江守君という
クルーを得て「RAGTIME」で細々とセールの揚げ方、舵引
きから練習を始めた。何しろオセアニス40、セールはつい
てはいるが揚げるものではなく、ロープを巻いたり伸ばした
りして風をはらませる代物であるし、海上に出ればボタンを押して自動操縦である。あ
とは宴会するしかないわけで、ヨットの走らせ方も忘れはしないが、うまくもならない。
必然、五十の手習い同然になる。
2000年から「 RAGTIME 」で
YYC レースやらベイサイドのレース
に出るようになり、スピンランも人任
せでなく何とか出来るようになった。
しかしヨットが悪いのか、腕が悪いの
か、成績にムラがあり、レースに出る
のが少し億劫になった。心機一転セー
ルを新調し、ヨットも完全整備しよう
かと思った頃、デヘラー34の中古艇
に出会ってしまう。晴夫さんの弟、文
雄さんが浦賀のベラシスで見つけた船
で、難はあったが二人で買ってしまった。晴夫さんと海に出ていた頃のヨットライフス
タイルを二人とも思い起こしてしまったのかも知れない。然しそれはやはり40フッタ
ーの大らかさはなく、34フッターにしては狭苦しい。クルージング艇としては速いが
レース艇としては駄目。波が起つとバウが突っ込んでしまい、晴れているのに頭からず
ぶ濡れ。すぐに文雄さんは出物のグランソレイユ34(波切りがよく大らかな乗り心地、
キャビンも広い)を見つけて買ってしまった。
こちらは可愛がっていた「RAGTIME」が広島に嫁入りが決まってしまい、デヘラー
34でレースとクルージングをしようと決心して、セールやらシート類やらエンジンや
ら整備を重ねてしまったが、ゲストが乗るたびに不評を
漏らす。手放そうかなと思うか思わないうちに業者さん
が値決めをし、購入者が見学に来て、デヘラーは仙台に
行ってしまった。電光石火の出来事であった。それから
急いで次のヨットを探し始めたが、これがさっぱり市場
に無い。彼是三ヶ月位探し歩いたであろうか。
5
無論新艇は眼中に無かったし、どんなヨットに乗りたいのかも分からなくなっていた。
しかし今までの経験からレース志向なのかクルージング用なのか判然としないのは買わ
ないつもりであった。目に入るのはクルージング艇ばかり。アメ
リカ製の34フッターが浦安で売りに出ていた。別荘代わりにな
るくらい居住性のいいヨット。一瞬憧れ、お金を用意して三度見
に行ったけれども、キャビンのソファに座って、一方でヨットの
ラットを回している自分やクルーの姿が想像できなかった。相手
のオーナーさんには気の毒だったが、彼ももっと小さな敏捷なヨ
ットに替えると言っていた人なので、こちらの思いを言うと分か
ってくれたみたいだった。ヨット探しは仕切り直しとなったが、
それから一ヶ月くらいして同じ浦安のハーバーにあるヨコヤマ30の話が出た。15年
落ちで内外装は草臥れ、値段も相場かどうか。売る相手
が気の毒がったのか、船台を横浜までロハで運んでくれ
ると言った。内装はクルージング仕様。ランニングバッ
クステーもない。こちらにはおあつらえ向き。YYCの
皆に聞くと、横山の設計艇はレースでも活躍していたと
いう。内装はクルージング仕様でもレース艇のポテンシャルは持っているという。船台
をロハで横浜に運んでくれ、値引きもしてくれるという前オーナーの心意気も気に入り、
手が掛かるのを承知で購入決意。浦安から回航の時、エンジンは掛からず、やっと回っ
たと思ったら、シリンダーが一発不調。だましだましディズニーランド前まで走り、1
4―5ノットの風にこれまたボロセールを揚げると結構良い走りをする。
回航を手伝ってくれた「シモツカレ」の坂野オーナーも面白がって舵をひいてくれる。
「これならレースでいいとこいきますよ。」と世辞も言ってくれる。ちょっと嬉しくなり
手を入れてYYCのレースに出す気になった。瞬く間に二ヶ月が過ぎ、不完全整備のま
ま2004年YYCシリーズレース第1戦。微風一中風。物凄く速く走る気がする。い
いスタートを切ったと思った。先行する、ほぼ同型艇「ソニック」。な
んだか追いついていく。上マーク前でかわした。トップは「ウララ」。
スピン揚げるも「ウララ」は彼方に行ってしまう。下マーク前で「シ
モツカレ」に抜かれる。そのまま良い位置をキープし、3着でゴール
したと思ったが、DNS で失格、ガックリ。ジブセールも破れていた。
このレース、4艇が DNS。
6月6日第2戦。超微風。我「CLAVICULA」は何とか風を拾いながら「ウララ」の
後につく。風を求めて、やたらジャイブを繰り返す。マークが遠くなる。「@GUCCI」
はマークに一直線。やがて彼らはトップでマークを回る。続いて「ウララ」「風神」。最
後のレグは少し風が出てきた。「@GUCCI」「ウララ」についで3着、修正 2 位。
7月4日第3戦。風はブローで17~8 knot
各艇風に乗り、いい走り。「 CLAVICULA」はス
タート少し遅れるも徐々に挽回。上マークまでに
ゼノア破れる。帰りもまたNo.1が破れ、散々。
しかし、3着、修正 2 位。
8月22日理事長杯。中風、スタートも良し。
6
メインセール、ゼノアも新品になり、良い走り。ヘルムは
「BIGSHOT」の石川氏。全く走らせ方が違う。風の読みは天性
のものか?勉強にはなるが、自分には出来ないだろう。1着、修
正1位。完勝!
10月17日第4戦。スタートラインが変更になり、勘違いして、ビリからのスター
ト。直した No.2がまた破れ、No.3もまた破れる。結果も6着、6位。無念!!
11月14日第5戦。シリーズ最終レースは転風~中風。ヘルムは「BIGSHOT」の
石川氏。絶妙のスタート。かなりの差をつけて気持ちよくトップを走る。しかし、ラン
ニングのスピードは「ウララ」にかなう訳もなく、徐々に差を詰められる。マークの確
認に手間どり、オーバーセール。慌ててスピンを取り込む。「ウララ」に抜かれ、「シモ
ツカレ」にも抜かれる。最終レグ死にもの狂いで「シモツカレ」を追いかけ何とか2着、
修正1位。石川さんのコース取りは自分の考えと全く違う。彼のお陰でいいレースが出
来た。
YYCレース5戦+理事長杯はこうして幕を閉じた。年間総合優勝「フィリックス」。
我が「 CLAVICULA 」は2位に甘じたが、まあ、程良い成績であったと思う。現在
「CLAVICULA」はお色直しも終わり、2005年に向けて、もう一度頑張るつもりで
ある。理事長杯、第5戦に舵を取ってくれた石川氏、「CLAVICULA」のチューニング
を見かねて、自ら手伝って下さった「BIGSHOT」赤井オーナーに深く感謝し筆を置く。
哀悼
会員福田氏の御不幸を聞く。衷心よりご冥福をお祈り致します。
7
22000044 年
年総
総合
合成
成績
績
第
第 11 レ
レー
ース
ス
22000044//66//66
第
第 33 レ
レー
ース
ス
22000044//77//44
第
第 55 レ
レー
ース
ス
理
事長
長杯
杯
理事
市
毛敬
敬之
之
市毛
玉
井正
正登
登
玉井
坂
坂野
野眞
眞一
一
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
フ
フィィリ
リッック
クス
ス
ビ
ビッック
クシ
ショョッット
ト
ア
アン
ンド
ドォォサ
サン
ンク
ク
市
毛敬
敬之
之
市毛
赤
赤井
井徳
徳夫
夫
上
上野
野歩
歩
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
グ
グッッチ
チ
ク
クラ
ラビ
ビク
クラ
ラ
ス
ステ
テラ
ラマ
マリ
リス
ス
山
口伸
伸弥
弥
山口
玉
井正
正登
登
玉井
安
部敏
敏
安部
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
フ
フィィリ
リッック
クス
ス
ク
クラ
ラビ
ビク
クラ
ラ
AALLW
WAAYYSS
市
毛敬
敬之
之
市毛
玉
井正
正登
登
玉井
杉
杉山
山和
和雄
雄
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
ビ
ビッック
クシ
ショョッット
ト
シ
モ
ツ
カ
レ
シモツカレ
リ
リト
トル
ルノノ
赤
赤井
井徳
徳夫
夫
坂
野
眞
一
坂野眞一
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
ク
クラ
ラビ
ビク
クラ
ラ
ジ
ェ
リ
ー
フ
ジェリーフィィッッシ
シュュ
ウ
ウラ
ララ
ラ
玉
井正
正登
登
玉井
優
優勝
勝
22 位
位
33 位
位
ク
クラ
ラビ
ビク
クラ
ラ
ソ
ニ
ッ
ク
ソニック
シ
シモ
モツ
ツカ
カレ
レ
玉
井正
正登
登
玉井
松
永
忠
吉
松永忠吉
坂
坂野
野眞
眞一
一
22000044//55//99
第
第 22 レ
レー
ース
ス
((水
水巻
巻杯
杯))
第
第 44 レ
レー
ース
ス
総
総合
合優
優勝
勝フ
フィィリ
リッック
クス
ス
総
総合
合 22 位
位ク
クラ
ラビ
ビク
クラ
ラ
総
総合
合 33 位
位シ
シモ
モツ
ツカ
カレ
レ
22000044//1100//1177
22000044//1111//1144
松
松浦
浦孝
孝志
志
22000044//88//2222
8
9
10
11
12
13
植松澄人
ニューヨークに赴任してから3ヶ月が過ぎ、ようやく生活も落ち着いてきた時、会報
への寄稿依頼を受けました。何を書こうか迷いましたが、今回は海に関した話題ではな
く私が通勤に利用している電車についてご紹介します。
私の住んでいるライはニューヨーク州ウエストチェス
ターにあり、マンハッタンのグランドセントラル駅から
メトロノース鉄道で北東へ約 45 分のところに位置して
います。人口約 15,000 人のうち 600 人弱の日本人が住
んでいます。駅前には洒落た商店街があり、また遊園地
や市営ビーチのあるライはウエストチェスターでは「住
みたい街」として人気があるようです。
そのライを通っているのがニューへブンラインです。「こんな電車に乗るの・・・」これ
は私が初めてこの電車を見たときの感想です。昔のテレビ番組「世界の車窓から」に出
てくるような電車とはほど遠いもので、外観は銀色に赤のラ
イン、薄汚れていて触ったら手が黒くなりそう。車体は日本
の電車より大きく座席もゆったりしています(体の小さな日
本人だからそう感じるのかもしれません)。乗車してみると座
席がとても滑りやすく座り心地はいまひとつ。いつもベストポジションをキープするの
に苦労しています。この電車の利用を始めてから次のようなことがありました。
・ 走行中に何度も車内の電気が消えた(これはよく聞く話ですね)。
・ 駅のホームから離れた線路上に停車し、先頭車両で梯子使用しての降車となり乗
客が大移動した。
・ 電車が反対方向に走り出した。~結局ひとつ前の駅まで戻った。
・ 車掌が検札用のカードをパンチで切り抜き動物等の形を作り、電車に乗っていた
子供にプレゼントした。~最後に良い話
このようなことが短期間で起きているのですから、これからも数多くの新しい?体験
をすることと思います。笑って済ますことが出来る程度のハプニングを期待し、また明
日からこの電車に乗って仕事に向かいます。
14
FELIX
市毛
敬之
昨年に続きYYCクラブレース総合優勝を果たしまし
た。周囲からは来年は絶対に優勝させないとの声が上がり
大学ラグビーなみの 3 連覇に向けてヨットライフを楽し
んでいます。そもそもFELIXは1977年進水の癖の無い重た
い船でそんなにスピードのある船ではありません。ただ恵まれてい
ることはレース時乗り組むクルーが多いことです。いままで秘密に
していましたがクラブレース時、レース組とクルージング組が 2 組、
あるいは観覧組の 3 組がそれぞれヨットライフを楽しんでおりレー
ス中であろうともFELIXのキャビン内は居酒屋ヒロちゃんがオ
ープンし、お酒を酌み交わしヨカラヌ話をしながら盛り上がってい
ます。FELIXのメンバーは私が学生時
代から一緒にヨットを楽しんだ仲間とYY
Cヨット教室卒業生で構成されています。
いまだにヨットを始めた時の仲間がいるの
は良いことで 1 つの言葉で 10 も 20 も判っ
ていただけるしトラブルがあっても大きな問題にならず解決できる
事です。
15
レース時のFELIXは余裕をもって行動しレース前にはヒロ
ちゃんが握った、おにぎりといなり寿司を食べ精
神的に落ち着かせ、スタート時には冒険をせずス
タートライン近くの他艇のいないフレッシュウインドウを掴み独自
のラインでレースを展開します。同じラインだと絶対に艇速が遅い
ため他艇に抜かれます。レース展
開では全海域を全力だしきるこ
とは不可能なためここ一番には
最大限の力を出し切る。周りを観
察しいかに良いポジションにな
るか早めに行動する。後は他艇の
トラブルを待つのみ、これが 2004 年のレース結果でした。2005 年
もFELIXチームはA級ディンギから外洋レーサーまで乗りこな
しレースにクルージングにメンテに世界一周のサポート等々、ヨッ
トライフを楽しみます。練習もいっぱいするぞ~もちろん他の船
で!
レースの写真もYYCのためにいっぱい
写すゾ~
そして 2005 年も総合優勝する~ゾと
クルーの南保が云っていました。残るは 2005 年
YYCクラブレーティングが幾つになるかレー
ス委員と神のみが知る・・・・。
16
(2004.3.29入会)
(2004.11.15入会)
17
今年もめいっぱい楽しめますよう、ご安航をお祈り申し上げます。
鈴木
12月6日よりパート勤務させていただいております菊池です。青い空の元、ヨット
が並んでいる光景はとてもきれいで、穏やかな気持ちになります。これからも頑張って
行きたいと思います。よろしくお願いします。
菊池
JYYC 編集委員
須田 善一
江間 教夫
鈴木 弘樹
菊池 恵子
Journal of the Yokohama Yacht Club
No. 12
発行
2005年3月 1 日
発行者 社団法人 横浜ヨット協会
広報委員会
〒235-0016
横浜市磯子区磯子1丁目5番16号
電話
045(751)1304
FAX
045(751)1305
http://www.yyc.or.jp
e-mail : [email protected]
18