第 3 編 部 門 編 第 3 章 学生生活 第 1 節 学校行事 1.創設期から 40 年間の行事の変遷 本校創立以来、第 1 学年時に臨海教育、第 2 学年時 に山岳教育を実施してきた。臨海教育とは、第 1 学年 全員に対し、水泳技能の習得と向上を図り、将来不慮 の水難に備えることと、教職員との共同生活を通して 山岳教育 人格の形成と社会性の育成を目的として実施されてき た。この行事は昭和 38 年から 45 年まで続いた。宿舎 は内海の「つぶて館」を利用し、3 泊 4 日で行われて いた。 その後、昭和 41 年に校内にプールが完成したこと と、海水の汚染が問題となり、遠泳の危険性も加わっ て、8 年間続いた行事も中止された。 山岳教育は、昭和 39 年度から第 2 学年全員参加行 臨海教育 事として実施されてきた。当時、中部山岳会理事を務 めていた須賀太郎校長、岩稜会会長の石岡繁雄学生主 事を中心として計画立案されたものであった。 本校から見え、3000 m級の山ということで御岳山 を選び、山開き直前の 5 月中下旬に行われた。しかし、 残雪の多い年や天候の悪い年もあり、さらに、指導者 の高年齢化など問題を多く抱えていた。 3000 mを超す山に、200 名近くの素人を引率する団 乗鞍登山 体登山の危険性を指摘され、昭和 48 年まで続けられ たこの行事も 10 年間で中止となった。 その後、登山研修は昭和 53 年度より第 3 学年時の 3 泊 4 日の研修として、形を変えて復活した。研修先 は中央青年の家(富士山)と乗鞍青年の家のいずれか とされた。この研修は、その後平成 6 年まで続けられ、 平成 7 年度からは鈴鹿の交通安全研修に変わっていっ た。 現在、学年行事として実施しているものは、第 2 学 年のスキー教育と第 3 学年の鈴鹿における交通安全合 宿研修である。 乗鞍登山(ファイア) 2.全国高専体育大会 全国高専体育大会は昭和 41 年に本校主管で開催さ れたものが第 1 回目である。当初は、全国公私立高専 190 第 3 章 学生生活 が 12 のブロックの地区大会を経た代表校により、7 続き 2 位を獲得した。第 43 回では、陸上競技 400 m 種目(陸上競技、バスケットボール、バレーボール、 で長谷川慎さんが第 3 位、4 × 400 mリレーで清水和 軟式庭球、卓球、柔道、剣道)で行われてきた。現在 臣・城田大輝・筧政憲・長谷川慎組が見事優勝を勝ち は、これらの種目に、ラグビーフットボール、硬式野 取った。水泳 400 mフリーリレーでも、前田晋吾・落 球、サッカー、ハンドボール、テニス、バドミントン、 合弘希・高森天仁・伊予田光組が第 3 位に入賞した。 水泳が追加され、14 種目で実施されている。 第 44 回では、陸上 400 mで長谷川慎さんが第 3 位、4 昭和 55 年度より、12 地区を 8 地区に統合し、出場 × 100 mリレーで、田中良尚・長谷川慎・加藤良祐・ 選手の人数を制限することとなり、東海地区は北陸地 城田大輝組が優勝、4 × 400 mリレーでも城田大輝・ 区と統合された。したがって、種目によっては両地区 長谷川慎・加藤良祐・筧政憲組が優勝した。第 45 回 間で全国大会出場をかけた代表決定戦が行われること では、陸上 400 mで長谷川慎さんが第 2 位、4 × 400 となった。 mリレーで城田大輝・河合竜希・小林広昇・長谷川慎 現在、代表決定戦を実施している種目は、バレーボー 組が第 2 位となった。最後に第 46 回大会では、陸上 ル、硬式野球、バスケットボール、ラグビーフットボー 100 mおよび 200 mで加藤良祐さんが優勝を勝ち取っ ルの 4 種目である。 た。さらに、400 mでは長谷川慎さんが第 3 位に入賞 過去 10 年間の全国大会担当地区を表に示す。 過去 10 年間の担当地区 回数 年度 担当地区 した。4 × 400 mリレーでは、渡邉雄太・長谷川慎・ 河合竜希・加藤良祐組が見事優勝を果たした。また、 ハンドボールも第 3 位に入賞した。 37 H 14 東北 38 H 15 九州 39 H 16 東海北陸 40 H 17 関東信越 41 H 18 近畿 42 H 19 四国 43 H 20 北海道 44 H 21 九州沖縄 45 H 22 東海北陸 秋に行われた新チームでの最初の大会である大学 46 H 23 関東信越 リーグでは最下位になり 2 部から 3 部に落ちてしまい ハンドボール:全国大会 2 年連続優勝 「感謝の気持ちで」機械工学科 5 年 石黒 洋平 昨年の夏、岩手で行われた全国大会で優勝をはたし、 追われる立場となった今年のスタートは決していいも のではありませんでした。 ました。先輩たちが抜けた穴は思ったより大きく、全 全国大会での本校の成績を示す。第 37 回大会にお いては、ハンドボールが優勝している。また、陸上競 国大会連覇という目標に不安とプレッシャーを感じる ようになりました。 技のやり投げで西川原理一さんが 2 位に入賞してい しかし、徐々に力をつけていき春の大学リーグでは る。第 38 回大会でも、ハンドボールが 2 年連続優勝 優勝し、再び 3 部から 2 部へ昇格することができまし を勝ち取っている。陸上競技の女子砲丸投げで中村明 た。 恵さんが 3 位に入賞した。第 39 回では、ハンドボー それによって自信をつけて臨んだ高専大会では、 ルが 3 連覇を達成した。陸上競技では、走り幅跳びで チームのみんなが一丸となって優勝という最高の結果 熊本卓史さんが優勝、水泳でも女子 100 m平泳ぎで上 を得ることができました。このような結果を得ること 野雅子さんが第 2 位に入賞した。第 40 回では、ハン ができたのも先生方や保護者の方の協力があってのこ ドボールが 4 年連続優勝を果たした。また、テニス個 とであり本当に感謝しています。ありがとうございま 人戦ダブルスにおいて、近藤・神谷組が第 3 位に入賞 した。 した。第 41 回では、ハンドボールが第 2 位となった。 (「豊田高専広報」第 92 号 平成 15 年 10 月より) また、水泳女子 100 m平泳ぎで上野雅子さんが第 3 位 に入賞した。第 42 回ではハンドボールが前年に引き 191 第 3 編 部 門 編 「高専生活最後の水泳大会」 陸上は個人競技と思われがちですが、豊田高専陸上 電気・電子システム工学科 5 年 前田 晋吾 部というチームで闘っています。この新記録を出すこ 今年の全国大会は、南国宮崎で開催されました。昨 とができたのはもちろん走った 4 人だけの力ではあり 年までとは違い、非常にレベルが高く、決勝に出場す ません。共に練習し、大会も沢山応援に来てくれた部 ることが困難な大会でした。水泳のレベル自体が上 員、選手のサポートをしてくれるマネージャー、指導 がっていることもあり、予選から激しいレース展開と してくださる先生やコーチ、応援や差し入れを頂いた なりました。また、東海地区大会の時もそうでしたが、 OBの方々、沢山の人の支えがあって僕たちは走るこ 数種目において速い 1 年生が現れて、予選を 1 位で通 とができています。全国高専では東海地区の他高専か 過するという種目もありました。私が出場した 400 m らも応援を頂きました。そういった人達に心から感謝 自由形もそんな種目の 1 つでした。 しています。そしてそのみなさんの期待に応えること 私は、何とか決勝に進出することができ、私以外に ができて本当に嬉しく思います。今、陸上部は部員も も 1 年生で 1 人決勝に出ることができました。決勝は 多く、充実した練習ができ実力をつけてきています。 疲れているにもかかわらず、予選の時よりタイムを上 東海地区はレベルが高く、枠も少なく厳しい闘いを強 げないといけないため、非常に疲れます。そんな中で いられます。来年はその中でも、結果を出し、4 × 好タイムを出した人だけが、表彰台に立つことができ 400 リレーに限らず多くの種目で全国高専での活躍を るのです。私は高専で最後の大会ということもあり、 期待しています。 表彰台を目指して、前半からとばしていきましたが、 (「豊田高専広報」第 108 号 平成 23 年 10 月より) 残念ながら 6 位に終わってしまいました。もう 1 人の 決勝に出場していた 1 年生も、予選と順位が変わらず、 3.東海地区高専体育大会 8 位入賞におわりました。周りの選手が速く、予選を 第 1 回東海地区体育大会は、本校創立の昭和 38 年 通過できない部員も何人かいましたが、ほとんどの部 11 月に沼津、鈴鹿、岐阜の 3 高専とともに本校で開 員がベストタイムを更新することができたので、これ 催された。当時の種目は陸上・卓球・ソフトボールの からの彼らに期待です。 3 種目であった。 (「豊田高専広報」第 104 号 平成 21 年 10 月より) 翌年には、ソフトボールを廃して硬式野球・軟式庭 球・バレーボール・バスケットボールを加えた 6 種目 「高専新記録での優勝」 となった。第 3 回では柔道、そして、第 4 回で、剣道・ 機械工学科 5 年 長谷川 慎 サッカーが加えられた。第 10 回より水泳・ハンドボー 陸上競技部は先刻高専大会 4 × 400 リレー全国高専 ル、第 11 回より体操・ラグビー、第 12 回より硬式庭 新記録での優勝を果たしました。この種目 3 連覇が掛 球、第 17 回より弓道、第 20 回より空手が加えられた。 かっていた昨年の全国高専ではレース中の接触により 第 27 回にはバドミントンが新たに加えられたが、 2 位という結果に終わり、そのリベンジのために練習 第 29 回を最後に体操が廃止され、その後現在まで 16 を積み重ねてきました。今年の東海高専地区大会では 種目で行われている。 優勝したものの、目標としていた全国高専記録に 0.04 秒届きませんでした。成すべきことはただ 1 つとなっ 昭和 44 年より鳥羽商船高専が加わり 5 高専での大 会となった。 た全国高専、ついに 3’17”10 の新記録を打ち立てるこ 東海地区大会前には、地区大会出場チームに対する とができました。例年と比べ、ハイレベルなレースで 壮行会を実施している。各部ごとにそれぞれのユニ したが 1 走(5 E渡邉雄太)、2 走(自分)でかなり他 フォームを着用し整列したのち、主将によりそれぞれ 校に迫られましたが、3 走(2 A河合竜希)、4 走(5 の部の意気込みを表明している。 M加藤良祐)で他校を突き放し優勝を果たすことがで きました。 192 平成 15 年 8 月に水泳部の練習中に事故があり、尊 い学生の命が失われた。平成 16 年 4 月に、事故防止 第 3 章 学生生活 啓発のために学生玄関前に、二度と事故を起こさない ことへの誓いと願いの意をこめ、「居安思危」の文字 が刻まれた石碑を建立した。これを機に、毎年、「安 全を誓う日」を定め、石碑の前で安全を誓っている。 18 情報工学科 環境都市工学科 19 情報工学科 情報工学科 20 情報工学科 電気・電子システム工学科 21 インフルエンザ流行のため中止 22 機械工学科 電気・電子システム工学科 23 機械工学科 環境都市工学科 4.体育祭 体育祭は、毎年 10 月の平日に開催されており、そ の企画および運営は学生会が担っている学校行事であ る。平成 21 年度は、日本全国でインフルエンザが大 流行した年であり、校内での流行を防ぐために体育祭 は中止となった。 競技種目は、体育委員長を中心とした学生会が決め ている。近年の種目としては、玉入れ、100 m走、応 援合戦、騎馬戦、棒倒し、綱取り、障害物走、クラス 対抗リレー、大縄などがある。 綱取り競技 それぞれの種目ごとに、学科やクラスごとに順位に 応じて点数が配分され、最終的にクラス優勝や総合優 勝の学科が決められている。ここ 10 年間の総合優勝 学科と応援合戦優勝学科を表に示す。 10 年以上前には、学科対抗の教員種目があり、大 勢の教員が汗を流していたが、近年は実施されていな い。 棒倒しなどの競技では、一生懸命になりすぎて、暴 力行為が発生してしまうことが問題となった。このよ 騎馬戦 うな競技は、危険なため廃止という意見もあったが、 学生からの強い要望があり、今後、暴力行為が発生し たら廃止という約束の下、現在も続けられている。 応援合戦は、各学科の 3 年生有志が指導者となって 1 年生とともに行っている。このやり方は数十年変 わっていない。応援の内容は各学科伝統的な出し物が 引き継がれてきていたが、インフルエンザの流行で平 成 21 年に体育祭が中止になったことが影響している のか、どの学科もダンス中心となり、似通った出し物 になってきている印象を受ける。 一番盛り上がる棒倒し 最近 10 年間の総合優勝学科と応援合戦優勝学科 年度 総合優勝 H14 環境都市工学科 応援合戦優勝 15 環境都市工学科 機械工学科 16 建築学科 環境都市工学科 17 情報工学科 情報工学科 5.球技大会 新入生歓迎球技大会は、本校創立間もなくから現在 まで継続して開催されてきている。開催時期は、当初 は 6 月の平日に講義を休講して開催されていた。その 193 第 3 編 部 門 編 後、平成に入ると土曜日開催になり、4 月下旬から 5 月半ばに開催されるようになった。平成 7 年度から再 び平日開催になり、平成 13 年度、14 年度の土曜日開 催を除き、平成 18 年度まで平日に実施されてきた。 平成 19 年度からは、再度、5 月の土曜日開催となり、 参加希望者による実施形態として現在に至っている。 球技大会は、屋内外の球技を通して各クラス間、学 科間、さらに学生と教職員との親睦を深めるというこ バレーボール とを目的として実施されている。記録には残ってはい ないが、教職員チームがいくつかの種目にエントリー して、学生と一緒になって汗を流している。 競技種目は、ここ数年は 6 種目で行われている。フッ トサル、バレーボール、卓球、3on3、ソフトボール、 ドッジボールの 6 種目である。年によっては、テニス が行われた年もある。また、3on3 は平成 20 年から採 用されているが、それまではバスケットボールが行わ れていた。 各種目へのエントリーはクラスの親睦を深めるため にクラス単位が原則であるが、年によっては、クラス フットサル を超えたチームでの参加が認められる場合もあった。 新入生歓迎と銘打っているが、1 年生のクラスが優 勝することは少なく、高学年が好成績を残してきてい る。 どの種目も、体力に勝る男子が有利なことから、女 子が出場する場合は、ハンデが与えられるルールに なっており、女子も参加しやすくなっている。近年は、 優勝チームには賞状のほか数万円の食事券が授与され ることから、体育委員長にはルールの厳格な適用が求 められているようである。 ソフトボール 過去 7 年間の各種目の優勝クラス 種目 平成 18 年 ソフトボール 3I バスケットボール 3E 19 22 23 24 5I 4C 5M 4M 4M 5I 5I 4M 5E 5E 4E 3C 3C 5E 5C 4C 3E 4I 3M 1E 4M 5M 5E 5C 4M 5C 5M 1A 2A 3M 4E 5A 5C 卓球 5E ドッジボール 2M バレーボール 4I テニス 21 4A 3on3 フットサル 20 4C 3E 6.耐寒マラソン 本校では、昭和 39 年度から大寒の 1 月 20 日前後に 耐寒マラソンを実施してきている。年を追うごとに学 校周辺の交通量が増大し、それに伴って信号も増え、 学生の安全を考慮したコース設定に大変苦心してきた。 当初は、参加対象は全学生であり、一部教職員の希 望者も加わり、男子は約 10 キロメートル、女子は約 5 キロメートルで行われていた。コースの統制員は全 教員が務めていた。 近年は、交通事情がますます悪化してきており、教 194 第 3 章 学生生活 職員の参加は認められなくなり、学生の安全確保のた めに、全教員が統制員を務めるようになった。さらに、 平成 23 年度からは、ついに校外のコースでは学生の 安全確保が難しいとの判断のもと、従来の耐寒マラソ ンは幕を閉じた。 しかしながら、体育の授業内で、男子は 5 キロメー ル、女子は 3 キロメートルのランニングを行い、耐寒 平成 17 年度 男子 女子 1位 5 E 松本 雄介 2 A 上田 琴恵 2位 3 E 河合 淳 1 I 小原 早貴 3位 3 C 松下 裕作 4 I 川口 智恵利 4位 3 M 杉野 聡 4 E 上野 雅子 5位 3 M 石濱 久司 2 C 船戸 彩加 平成 18 年度 男子 女子 1位 1 D 松本 雄介 3 A 上田 琴恵 マラソンとして、記録を残し表彰も継続して実施して 2位 4 C 松下 裕作 2 I 小原 早貴 いる。 3位 2 M 鈴木 健太郎 2 C 大野 有香 4位 2 M 清水 雅人 3 C 船戸 彩加 5位 5 C 藤井 雅之 1 I 小田 亜里沙 平成 19 年度 男子 女子 1位 1 D 粕谷 悠介 1 I 白井 小雪 2位 3 C 近藤 達仁 4 A 上田 琴恵 3位 4 E 河合 惇 3 C 大野 有香 4位 1 M 長谷川 慎 1 A 吉川 実希 5位 1 C 園原 聡 1 C 井手 美里 耐寒マラソンのスタート 表彰式 平成 15 年度 男子 女子 1位 3 E 松本 雄介 4 C 藤本 桃加 2位 4 M 志賀 友徳 4 C 市川 友子 3位 4 M 高木 賢治 1 A 那須 仁美 4位 3 I 宮田 賢一 2 E 上野 雅子 5位 4 I 山口 貴史 2 I 川口 智恵利 平成 16 年度 男子 女子 1位 4 E 松本 雄介 1 A 上田 琴恵 2位 5 M 志賀 友徳 2 C 杉澤 梨紗 3位 4 E 河合 剛 3 I 川口 智恵利 4位 2 E 河合 淳 3 C 長屋 小雪 5位 5 I 山口 貴史 5 C 市川 友子 平成 20 年度 男子 女子 1位 2 D 粕谷 悠介 2 I 白井 小雪 2位 2 C 園原 聡 2 C 井手 美里 3位 3 E 石川 英典 3 I 小原 早貴 4位 4 C 近藤 達仁 5 A 上田 琴恵 5位 1 E 五十嵐 友也 1 I 坂井 希 平成 21 年度 男子 女子 1位 2 E 小木曽 豊 3 I 白井 小雪 2位 2 E 五十嵐 友也 3 C 井手 美里 3位 4 C 石田 明久 2 I 坂井 希 4位 3 I 平岩 紀人 3 I 小田 亜里沙 5位 4 E 石川 英典 4 I 伊藤 梓 平成 22 年度 男子 女子 1位 5 E 石川 英典 4 I 白井 小雪 2位 5 C 石田 明久 3 I 坂井 希 3位 1 A 松本 晃 4 I 小田 亜里沙 4位 4 E 奥谷 拓未 4 C 井手 美里 5位 3 M 鈴木 隼爾 4 E 鈴木 温子 平成 23 年度 男子 女子 1位 3 E 小木曽 豊 5 I 白井 小雪 2位 1 C 澤 洸太 4 I 坂井 希 3位 2 E 横井 天太郎 2 C 関戸 伶奈 4位 2 A 松本 晃 1 A 縄田 乃里江 5位 1 A 小倉 尚武 4 A 長坂 志保 7.須賀杯争奪駅伝競走大会 須賀杯とは元名古屋大学学生部長、その後本校初代 195 第 3 編 部 門 編 校長になった須賀太郎先生より賜った杯のことであ る。 名古屋大学と本校の学生が中心となり、本校と名古 屋大学間全長約 27 キロメートルを 6 人の選手でリレー する大会である。 この駅伝は、愛知県下の市街地で許可されている唯 一のものであり、昭和 39 年度に第 1 回が行われてか ら平成 18 年度まで 43 回にわたって無事故で運営され てきた。 しかしながら、豊田と名古屋間の地域の開発が進み、 市街地での最後の開催となった第 43 回須賀杯 交通事情も年々悪化する中、ついに、平成 19 年度か ら大高緑地公園、平成 22 年度からは庄内緑地公園の コースを周回する形式で行われるようになった。コー スはサイクリングコースであり、起伏も少なく走りや すいコースとなっている。参加チームは、名大、高専 ともに部単位や研究室単位で出場している。走る格好 も様々で、クラブのユニフォームを着て走る選手もい れば、おもしろい仮装をして走る選手も見られた。 参加チームは当初は 100 チーム程度が参加していた が、近年は半数の 50 前後で推移している。 第 47 回での庄内緑地公園周回コース 豊田高専のチームで優勝経験のある部は陸上部のみ である。過去の成績は表のようになっている。 入賞チームには、賞状のほか豪華な賞品が副賞とし て授与されることになっている。 過去の優勝校 年度 回数 優勝校 H23 48 名大 22 47 名大 21 46 名大 20 45 中止 19 44 名大 18 43 名大 17 42 豊田高専 16 41 名大 15 40 名大 本校の伝統行事の一つにクラブ対抗駅伝がある。正 14 39 名大 確にいつから始まったかは定かではないが、本校設立ま 13 38 名大 12 37 豊田高専 もないころから実施されてきていることは確かである。 11 36 豊田高専 10 35 豊田高専 9 34 豊田高専 8 33 名大 第 48 回表彰式 8.クラブ対抗駅伝 学生会主催の行事という扱いで、1 月末から 2 月初 旬に開催されてきている。 耐寒マラソンのコースとは異なるが、校外のコース を走る形式で、当初から現在に至るまで事故もなく実 施されてきている。60 名を超える統制員は、参加し 196 第 3 章 学生生活 ている部より数名ずつ選出された学生が務めている。 1 周約 5 キロメートルのコースを男子は 5 名、女子 は 4 名で走りぬくことになっている。陸上部員は、1 人につき 1 分のハンデが加えられている。クラブの特 徴を示すボールやラケットなどを思い思いにバトン代 わりにして走っているのもこの駅伝の特徴である。 10 年ほど前は 50 を超えるチームが出場していたが、 近年は 30 前後の参加チーム数で推移している。例年、 教職員もチームをつくって学生と一緒になって走って 表彰式 いる。過去の成績を表に示す。 総合の部 男子 1 位 平成 15 年 陸上部 総合の部 男子 2 位 男子 3 位 女子 1 位 9.こうよう祭 バスケット 陸上部 バレーボール 本校の学校祭は、かつて春に行われていたときは杜 バレーボール 若祭と呼ばれていたが、11 月初めに行われるように 平成 16 年 サッカー 陸上部 自動車部 平成 17 年 新聞部 サッカー 硬式テニス バレーボール 平成 18 年 サッカー サッカー 陸上部 ソフトテニス 平成 19 年 陸上部 サッカー 陸上部 陸上部 ないと思った当時の学生会は平成 13 年度に校内で文 平成 20 年 陸上部 野球部 サッカー 卓球部 平成 21 年 陸上部 野球部 サッカー バドミントン 化祭の名称を募集し、集まった名称の中から、この年 平成 22 年 陸上部 サッカー 陸上部 陸上部 平成 23 年 陸上部 卓球部 陸上部 なってからは、単に文化祭と称していた。これを味気 以降の文化祭はこうよう祭と呼ばれている。これは秋 の紅葉と、高揚する、皆で行こうようと誘う意味も込 められていて、そのためひらがなで表記される。 こうよう祭は、例年学生が力を入れて取り組むイベ ントの一つで、それぞれの年のこうよう祭がそれぞれ 思い出深いものであるが、平成 21 年 10 月 31 日、11 月 1 日に行われた「こうよう祭」は、多くの障害に見 舞われた。まず、この年は新型インフルエンザが発生 した年であった。それまでの常識では、インフルエン ザは 12 月から 2 月にかけて流行するものであったが、 この年はまだ暑さが残る時期から新型インフルエンザ タスキではなくボールでつなぐ が流行した。豊田高専でも、10 月初め頃から欠席者 が目立ち、いくつかのクラスはクラス閉鎖を余儀なく された。当時のこうよう祭実行委員長の中川君は、実 行委員もろくに集まることができない状況で苦しんで いた。体育祭は、こうよう祭と同じ、学生会の主催に なる行事である。例年、こうよう祭に 2 週間程度先だっ て開催されるが、このインフルエンザのために中止と なってしまう。10 月半ばに行われる体育祭がインフ ルエンザで中止になることは前代未聞であった。しか し実行委員は 10 日前後に迫ったこうよう祭の開催が 危ぶまれる中、必要な準備はしておこうと、夜遅くま 女子学生もがんばっている でかかって準備を進めた。幸い、インフルエンザの猛 197 第 3 編 部 門 編 威も峠を越えて感染者は少なくなってきた。ところが、 ほっとしたのもつかの間、今度は、台風 18 号が発生、 10.第 2 学年スキー教育 本校では、昭和 40 年より現在まで、スキー教育が 次第に近づいてきた。予報では、台風が最も接近する 実施されてきている。当初の形式は、第 3 学年以上の 時間はこうよう祭 1 日目の午前中に当たっており、こ 希望者を対象としていた。本校教職員が生活指導のみ のため、当時の学生主事の中嶋先生を初め、学生主事 ではなくスキーの技術指導も行っていたのが特徴であ グループは開催するかどうかの判断に苦しんだ。イン る。スキー場と宿舎は赤倉温泉の山崎旅館であった。 フルエンザも治まってきたとはいえ、例年のインフル その後、民間スキーバスの普及に伴って参加希望者 エンザとは違い、誰もまだ抗体を持っていないため、 が減少し、50 名を下回る傾向がみられたことから、3 こうよう祭に参加したがためにかかってしまう事態は 年生以上という枠が外された。 避けたい。さらに、台風の影響も無視できない。しか 昭和 59 年度から電気工学科、昭和 63 年度から情報 し、学生主事グループはそれまでのこうよう祭実行委 工学科さらに平成 2 年度から土木工学科がそれぞれ第 員や準備をしてきた学生の意をくんで、学校内に消毒 2 学年の学生全員参加を呼び掛けたことから 200 名程 液を多く配置したり、風で飛ぶような展示は行わず、 度の参加を維持することができるようになった。平成 イベントも体育館主体にすることで、こうよう祭実施 5 年度からは、このスキー教育は 2 年生の学年行事に に踏み切った。結果的には、風も雨もそれほど強くな 格上げされ、現在に至っている。 らず、こうよう祭は無事終了した。クライマックスで 参加者の増加に伴い、赤倉温泉山崎旅館では手狭と あった谷本光さんのギターによるライブは、こういっ なり、昭和 63 年度から志賀高原発哺スキー場に場所 た状況であったことから逆に盛り上がり、体育館は熱 が変更になった。その後、表のように一度は赤倉温泉 気に包まれた。 でも実施したが、3 月に実施することから雪質の良い 志賀高原で開催されるようになった。近年は、高天ヶ 原を拠点として実施している。 平成 15 年頃から、スキーではなくスノーボードで 指導を受けたいという学生の要望が強くなってきたこ ともあり、平成 17 年度より、スノーボードも教育に 取り入れられるようになった。 当初は、スキー教育の 2 日目に、希望者のみスノー ボードの講習を受けることができるというものであっ たが、現在では、当初からスキー班とスノーボード班 不安と戦いながら準備を進める当時のこうよう祭実行委員 に分けて、3 日間継続して講習を受けることができる ようになった。 しかしながら、台風は通り過ぎたものの台風一過と 年度末の忙しい時期に、多くの教職員が学校を離れ は行かず、体育館で無事終了を喜ぶ実行委員の耳に聞 てしまうことの問題点が指摘されるようになったこと こえてきたのは激しい雨であった。次の日の授業に備 から、研修期間は当初は 3 泊 4 日で実施してきたが、 えて、体育館内部やステージ等は必ず片づけなくては 平成 19 年度より 2 泊 3 日に短縮された。 ならず、 実行委員は大雨の中機材を運ぶことになった。 さらに、平成 22 年度より、本校の伝統であった教 幸い、雨に濡れたことで大きく体調を崩した学生はい 職員および OB による実技指導体制が、体育教員など なかった。 一部の教員を除き、現地指導員に変更になった。平成 この年は、この雨を境に気温が下がり、寒い日々が やってきたことを記憶している。 23 年度からは、実技指導は全て現地指導員で実施さ れるようになった。 長年に亘って、本校スキー教育にアシスタントとし 198 第 3 章 学生生活 て参加していただき、学生のスキー実技を指導してい れも学生が車両乗車中の事故であったことから、本校 ただいたスキー部コーチ(土木工学科 OB)の足立一 での交通安全指導方法や自動車使用許可方法が再検討 馬氏に平成 22 年 3 月に末松校長より感謝状が贈呈さ され、「自動車等に乗せない」のではなく、「規則を守 れた。 らせて安全に自動車等に乗せる」という指導方針が決 定された。 現在では、自動車等を運転する学生に、 ●自動車等使用許可説明会(年明けの 1 月頃) ●交通安全講習会(年度中頃の 10 月頃) への参加を義務付け、外部(警察署、保険会社、中日 本高速道路株式会社など)から講師を招き、時には映 像資料等を交えて、規則の遵守と交通安全に対する注 意を喚起している。さらに本校独自の自動車等使用規 則や違反点数制度を設け、違反学生に対しては、違反 点数に応じて学外(トヨタ中央自動車学校)での有料 スキーの講習 の講習会(特別交通安全講習会)を受講させたり、校 内や校外での清掃活動をさせたりしている。 また、第 3 学年の学生に対しては、年度末の春休み に自動車等の免許を取得する学生に配慮して、3 月末 に交通安全教育合宿研修を鈴鹿サーキット交通教育セ ンターで実施している。例年、自動車(四輪、二輪) や原動機付自転車の実車を用いた実技内容(低μ路で のスキッドコントロール、ABS の効果が確認できる 急制動、レーシングコースの走行など)が参加学生に とても好評であり、平成 23 年度末に実施された交通 スノーボードの講習 安全教育合宿研修後のアンケートによると、90%以上 過去 20 年のスキー教育拠点ゲレンデ 年度 スキー場 年度 ス キー場 の学生が続けた方が良いと回答している。 さらに、昨今問題となっている自転車が加害者とな H4 志賀高原発哺 14 志賀高原発哺 5 志賀高原発哺 15 志賀高原発哺 6 志賀高原発哺 16 志賀高原高天ヶ原 7 志賀高原発哺 17 志賀高原高天ヶ原 ●第 2 学年交通安全講習会(年度始めの 5 月頃) 8 赤倉温泉 18 志賀高原高天ヶ原 9 志賀高原一ノ瀬 19 志賀高原高天ヶ原 で「自転車安全利用五則」に基づいた交通安全指導を 10 志賀高原一ノ瀬 20 志賀高原高天ヶ原 11 志賀高原発哺 21 志賀高原高天ヶ原 12 志賀高原発哺 22 志賀高原高天ヶ原 13 志賀高原発哺 23 志賀高原高天ヶ原 る交通事故を考慮し、低学年の学生に対して、 ●第 1 学年交通安全講習会(年度始めの 4 月頃) 実施しており、「自転車から自動車まで」の 5 年間を 通じて一貫した交通安全教育を行っている。 11.第 3 学年交通安全合宿研修 本校では、平成 4 年に 5 年生の学生 1 名と 2 年生の 学生 2 名、平成 6 年に 3 年生の学生 1 名、合計で 4 名 もの学生の尊い命が交通事故によって失われた。いず 199 第 3 編 部 門 編 り、年間行事と日常的な活動、他高専の学生会との交 流を行っている。 学生会主催の行事としては、年間行事と日常的な活 動がある。年間行事としては、4 月の新入生歓迎会・ 学生総会、5 月の球技大会、6 月のクリーンフェスタ・ 高専大会壮行会、7 月の七夕イベント、9 月の高専大 会報告会、10 月の体育祭、11 月のこうよう祭(平成 低μ路でのスキッドコントロールの実技 12 年までは文化祭だったものを名称変更した)・学生 総会、12 月のクリスマス会・須賀杯、2 月のクラブ対 抗駅伝、3 月の卒業生を送る会と多岐にわたる。 また日常的な活動として、あいさつ運動や緑化活動 にも取り組んでいる。 急制動(ABS の効果の確認)の実技 緑化活動 鈴鹿レーシングコースを走る本校の学生 第 2 節 学生会活動 1.学生会 本校の学生会は創設年度に発足し、昭和 39 年 2 月 壮行会 に初の役員選挙が行われた。翌昭和 39 年度には後援 会費が決定され、学生会会則が成立した。球技大会、 体育祭および文化祭(昭和 10 年度)、杜若祭(体育祭 と文化祭を合わせたもの、昭和 41 年度~)などの行 事に取り組んできた。 現在の学生会執行部は会長、副会長、書記、一般会 計、内務、広報、体育委員長、体育祭会計、こうよう 祭実行委員長、こうよう祭会計によって構成されてお こうよう祭準備 200 第 3 章 学生生活 できるようになった。それにより各種目地区大会 2 位でも これまでの公認大会で好記録を出せば可能性が出てきた。 クリスマス会 2.クラブ活動 陸上競技部 個人、地区共にレベルが向上した 10 年 陸上競技部顧問 伊藤 道郎、犬塚 勝美 陸上競技部の過去 10 年間を振り返る。印象深いのは全国 高専体育大会でのリレーの優勝と全国高専記録の更新であ る。2008 年全国高専大会での 4 × 400m(マイル)リレー で 初 優 勝 し、 翌 年 に は 同 大 会 で 4 × 400m リ レ ー、4 × 100m リレーにも優勝し、リレー 2 冠、マイル全国 2 連覇を 達成した。2010 年にはマイル 3 連覇を目指したが、第 4 走 者が他走者との接触でバランスを崩して失速、その隙を突 かれて無念の 2 位に甘んじることとなった。捲土重来を期 した 2011 年の全国大会のマイルリレー、3 分 17 秒 10 で見 事優勝を勝ち取り、さらに高専記録を更新した(写真)。中 長距離においては、2009 年の駅伝カーニバルにおいて高校 の部で優勝(2 名が区間賞を獲得)し、名岐駅伝への出場 権を獲得した。この結果が中日新聞に写真付きで掲載され た。次に個人の活躍では、2012 年の東海ICの男子 200m において加藤良祐(当時 5 年)が 21 秒 29(-1.3)で優勝し、 強豪大学生をよせつけなかった。この活躍により日本IC への出場権も獲得し、本校陸上部初の出場となった。100m については 2008 年城田大輝(当時 4 年)が 10 秒 94(+1.3) と電気計時で本校初の 10 秒台をマークした。そして 400m では同年長谷川慎(当時 2 年)が 49 秒 51 と本校初の 40 秒 台をマークした。さて、ここ 10 年間の東海地区大会では、 優勝校は変わっているが本校はずっと 3 位に甘んじている。 2009 年には優勝まであと 5 点のところまできた。その一方 で全国大会には毎年出場を果たしている。2010 年から東海 北陸地区全国出場 3 人枠の 3 人目の取り扱いが東海北陸の 持ち回りから変わり、両地区大会の各種目 2 位の選手のう ち、その年度の地区大会までの公認記録が良い選手が出場 2011 年全国高専体育大会 この 10 年間で本校の実力は非常に向上したが、この東海 地区も同等、あるいはそれ以上に向上してきており、これ からも終わりなき戦い、切磋琢磨が続いていく。 水泳部 東海地区高専大会水泳競技 24 連覇達成 水泳部顧問 近藤 尚生 水泳部は、昭和 42 年度に同好会として 12 名で発足した。 水泳部創設期に水泳部員が参加できる水泳競技として、東 海地区高専体育大会の水泳競技が昭和 47 年から正式種目と なり、豊田高専のプールで行われた。その後、平成元年度 より 6 年間、西日本地区高専水泳競技会(第 9 回大会より) に参加した。平成 4 年度までの水泳部の状況については、 20 年史および 30 年史に記述されているので、主に平成 5 年度以降の 20 年間について述べる。 昭和 57 年度から部長教官が田中清人教官となり、部の運 営方針を明確に打ち出してこれを部員達が良く守り、その 結果、昭和 60 年度の東海地区高専体育大会で総合初優勝を 成し遂げたことは 30 年史に記述されているとおりである。 その後、田中教官の熱心な指導の下、部の運営方針が伝統 として後輩達にも受け継がれ、平成 20 年度の大会まで東海 地区高専大会では 24 年間連続総合優勝の快挙を達成でき た。また、西日本地区高専大会では、平成元年度から 4 年 連続総合準優勝を果たしている。 平成 7 年度から全国高専体育大会で水泳競技が正式種目 になり、地区大会の各種目上位者が参加している。全国大 会では、個人種目各々に優勝を狙う優れた選手が全国から 集い、ハイレベルな戦いが繰り広げられている。全国大会 での本校の個人種目優勝者は次の通りである。 第 2 回大会(平成 8 年)100m 平泳ぎ 加藤達也 201 第 3 編 部 門 編 第 2 回大会(平成 8 年)200m 平泳ぎ 加藤達也 第 5 回大会(平成 11 年)女子 50m バタフライ 草深勝子 また、全国大会が始まった同じ年に、高等学校体育連盟 の水泳競技大会に参加が認められ、6 月の高校総体と 8 ~ 9 月の新人体育大会の西三河予選会と愛知県大会(予選会で 標準記録突破者のみ出場可能)に毎年出場している。県大 会出場の標準記録はかなり厳しく、県大会へ出場できる部 員はせいぜい 1 ~ 2 名程度である。 さらに、平成 11 年度から年 1 回春の豊田市民大会に参加 している。この大会は、小学 1 年生から 60 歳を超える豊田 田中教員退官祝賀会、東海地区大会 20 連勝祝賀会 市民が参加し、平成 21 年度から夏と春の 2 回開催され、水 泳部員は年 2 回この大会に出場している。創部後 30 年間は 水泳部員が参加できる大会は東海地区高専大会と西日本大 硬式野球部 会だけであったが、今や全国高専大会や高校の大会、およ 硬式野球部の歴史 び市民大会を加えて多くの大会に出場できるようになった。 硬式野球部顧問 加藤 貴英 永年部活動を熱心にご指導いただいた田中教官は、平成 19 年 3 月に定年退職になり、同年 5 月多数の水泳部 OB によ <顧問教員> 豊田高専創立 50 周年を迎えるにあたり、創 り退官記念祝賀会が催され、多くの人から退官を祝福され 立 40 周年(平成 15 年)から 10 年の間に、硬式野球部の活 た(写真)。また、各大会で本校水泳部員が活躍できたのは、 動に長年に渡り御尽力された 2 名の先生が退職されました。 田中教官のご指導と共に永年学外コーチとして熱心に水泳 山口健二先生と荻野弘先生です。山口先生は、機械工学科 部員をご指導いただいた浅野重雄氏によるところが大であ に所属し、平成 15 年から学生主事(副校長)務められなが る。また、副部長教員として昭和 60 年から近藤尚生教員、 ら硬式野球部にも多くのご指導を頂き、平成 19 年 3 月をもっ 平成 15 年度から大森峰輝教員、平成 17 年度から川西直樹 て御退職されました。荻野先生は、環境都市工学科に所属し、 教員と平野学教員、平成 24 年度から吉澤毅教員が水泳部を 野球部部長を務められ、平成 20 年 3 月をもって御退職され 支えている。平成 24 年度現在、部長近藤、副部長川西、平 ました。山口先生と荻野先生、本当にありがとうございま 野、吉澤の 4 名の教員が水泳部顧問として水泳部員とコミュ した。山口先生、荻野先生に変わり、平成 15 年に化学教員 ニケーションを取りながら部活動を支えている。 の今徳義先生、平成 18 年に物理教員の小山暁先生、平成 水泳部 OB 会は、昭和 52 年に発足したが、OB 会員同士 19 年に体育教員の私・加藤貴英が着任し、野球部顧問教員 と現役部員との交流を活発にするため、昭和 63 年から手作 となりました。現在は、機械工学科の鬼頭俊介先生、若澤 りの会誌「水泳部だより」を制作し、全 OB に送付している。 靖記先生、先に述べた今先生、小山先生、加藤の 5 人の顧 この会誌は今年第 25 号を数え、OB の現役部員に対する物 問体制で硬式野球部をバックアップしております。そして、 心両面の応援は部活動を活性化し、年代を超えた交流に役 本学硬式野球部 OB である阿知波昇さんに、引き続き硬式 立っている。また OB 会には、平成 7 年度に水泳部創部 30 野球部監督としてご尽力頂いております。 周年を祝い、記念誌制作と地区大会 10 連勝祝賀会、平成 <戦績:高専大会> 高専大会の戦績で特記すべきことは、 19 年には田中教官退官祝賀会と共に地区大会 20 連勝を祝っ 何と言っても平成 15 年の全国大会での優勝です(写真 1) 。 ていただいた。 過去に昭和 58 年と平成 10 年の 2 度、全国大会で 3 位になっ ここ数年は東海地区では、各高専にも個人種目レベルで ていましたが、悲願の全国初制覇でした。全国制覇後、全 全国大会の上位を狙える有力な選手が入部し、どの個人種 国大会への出場は平成 22 年でした。東海地区大会では決勝 目もハイレベルな争いになっている。本校水泳部としては、 戦を含め、3 試合ともコールド勝ちという圧勝で優勝しま 今後も個々の選手の力だけに頼るのではなく、部員全員の したが、全国大会では一回戦で仙台高専に 0 対 2 で惜敗し 力を合わせて総合優勝を目指すという伝統を持ち続けたい。 ました。 <戦績:高校野球> 高校野球の戦績で特記すべきことは、 平成 20 年の夏の甲子園予選です。東愛知大会(90 回記念 202 第 3 章 学生生活 大会のため愛知県予選は西と東の 2 つに分かれて実施)に ソフトテニス部の低学年は、高体連の大会に積極的に参 おいて 3 回戦を突破、豊田高専野球部創部以来、最高のベ 加している。西三河地区はレベルが高く、予選を突破して スト 16 という成績を収めました(写真 2)。 県大会に進むのは大変困難であるが、平成 18 年には国体予 多くの方々のお力添えによって、硬式野球部の運営は成 選で宮川(3 情)・西土(2 環)組、新人戦で磯野(2 機)・ り立っております.この場をお借りして皆様に厚く御礼申 伊藤(2 機)組が個人戦で県大会に出場した。また、翌年 し上げます。 の平成 19 年の春の高校総体では団体戦で磯野(3 機)・伊 藤(3 機)組、梅津(3 環) ・西土(3 環)組、遠藤(2 電) ・ 長坂(2 機)組で県大会に進出し、強豪校相手に健闘した。 豊田市の大会では、高校の部の団体戦、一般を含めた個人 戦に毎年参加している。平成 22 年の個人戦では鈴木(4 電) ・ 天野(4 電)組が準優勝をしている。 写真 1 全国高専大会制覇 写真 2 高校野球ベスト 16 部長教員は、末廣教員、深澤教員、吉利教員、松浦教員、 稲垣教員、大塚等が、そして、平成 24 年からは、第 34 回 高専大会の個人戦で優勝している OB の加納教員が務めて ソフトテニス部 いる。 ソフトテニス部顧問 大塚 秀昭 テニス部 ソフトテニス部は、例年約 40 名(そのうち女子は、マネー テニス部顧問 杉浦 藤虎 ジャーを含めて 10 名弱)の部員で、高専大会を目指し、部 員一丸となって、毎日、熱心に活動している。 高専大会には、ソフトテニス競技が実施された第 2 回大 テニス部は平成 24 年現在、部員数 45 名で、忠和男、光 本真一、仲野巧および杉浦藤虎の 4 名が顧問教員である。 会(S39)から参加している。これまで、東海地区大会での 練習は平日 16:20 ~ 18:30 と土曜日 10:00 ~ 16:00 に行って 男子の団体戦は、第 2 回、4 回(S41)、5 回(S42)、14 回(S51)、 いる。部員数は 60 名を超える年度もあったが、最近は新入 16 回(S53)、29 回(H3)、30 回(H4)、31 回(H5)、36 回 部員の確保に寮内を奔走している状況である。特に女子は 大会(H10)の合計 9 回優勝している。一方、女子の団体 現在 5 名で、団体戦に必要な 4 名をかろうじて保っている。 戦は、第 33 回(H7)38 回(H12)、39 回(H13) 、40 回(H14)、 日焼けを嫌う女子が、入ってすぐに辞めてしまうというこ 41 回(H15)、42 回(H16) の 合 計 6 回 優 勝 し、 特 に 平 成 ともしばしばである。 12 年から 16 年にかけて五連覇を達成している。しかし、 最近は、残念ながら、男女とも団体優勝を逃している。 平成 17 年から高学年生は全員豊田市テニス協会に入会 し、団体戦などの試合を定期的に行っている。平成 13 年度 男子個人戦では、第 6 回(S43)、15 回(S52)、22 回(S59)、 からは豊田高専で東海地区 3 高専(豊田、岐阜、鈴鹿)に 23 回(S60)、30 回(H4) 、34 回(H8)、43 回 大 会(H17) よる秋季大会を開催するようになった。平成元年 10 月に東 で優勝しており、女子は、第 31 回(H5、34 回(H8、38 回 寄りのクレーコート 2 面がハードコートに改装され、平成 (H12)、39 回(H13)、40 回(H14)、46 回(H20)、49 回大 22 年 1 月にはその 2 面がオムニコートに改修された。現在、 会(H23)で優勝している。最近の 10 年間では、第 43 回 ソフトテニス部のコートも含め 6 面全面がナイター設備付 大会で、3 年の夏から主将として部を引っ張っていた竹内(5 オムニ仕様となっている。この恵まれた施設を有意義に活 電) ・原田(5 環)組が優勝し有終の美を飾ったこと、また、 かすため、地域住民に対する貢献事業として平成 7 ~ 15 年 特筆すべきこととして、女子の部で、久名木(2 建) ・安部(1 度まで年 2 回のナイターテニス教室を主催し、現在は梅坪 環)組が第 46 回大会と 49 回大会の 2 回の優勝をしたこと 台スポーツクラブによるテニス教室が日曜日午前中に行わ があげられる。 れている。 地区高専大会団体戦については平成 17 年以来、男子は優 勝から遠のいている。女子は平成 24 年、10 数年ぶりの団 体優勝を果たした。過去 10 年間の高専大会成績を表にまと める。平成 17 年当時、菖蒲利明コーチのもと、クラブ内に はやる気と活気が満ち溢れていた。レベルアップを学生自 第 49 回大会で優勝した久名木(5 建)・安部(4 環) 203 第 3 編 部 門 編 身が肌で感じ、強く、上手になりたいという一体感があった。 東海地区大会卓球競技の部の歴史の中で、21 回の男子団体 しかし、近年は集中して大事にボールを打つという意識や 優勝を誇ります。昭和 61 年には、志賀勝宏選手が男子シン 計画的な練習が減ったように感じられ、それを反映するか グルスで全国制覇もしています。校内東南の端にある卓球 のような成績が現状である。夏の炎天下の厳しい試合に耐 場は、伝統ある木造トラス構造の天井を持ち、練習中の締 えられるスタミナをつけるため、冬場の走り込みなど基礎 め切った窓、カーテンの中では、文字通り歴代卓球部員の 体力の確保に重点をおく必要を感じている。全国高専大会 汗が染みこんでいます。 は、団体戦が 5 年間の集大成として 5 年生が中心となって 活躍する場であることは今も変わらないが、個人戦はジュ ニア上がりの 1 年生が優勝をさらう時代になっている。 現在のコーチは平成 17 年全国大会出場メンバーの一人 で、個人戦D全国 3 位入賞の神谷幸洋君にお願いしている。 丁寧かつ的確な技術指導で学生からの信頼も厚い。今後は コーチを含め、先輩方のお力をお借りし、昭和 58 ~ 62 年 に達成した 5 年連続優勝を再現できるよう、一年一年確実 に力を付けて行ければと期待している。 年度 高専大会成績(部員数) 平成 23 年、東海地区 6 冠制覇 昭和の時代から優勝回数を誇る卓球部ですが、この数年 H14 < 第 40 地 >(56)男団 3 位、女団準優勝 H15 < 第 41 地 >(63)男団 3 位、女団 3 位 の強さは群を抜いています。48 回大会から 50 回大会にか H16 < 第 42 地 >(63)男団 3 位、女団 3 位、男個 S 準優勝 小 田内(5A)、3 位 小林(5A)、森田(4E) 、男個 D 準優勝 森田 ・ 神谷(4E3E)、3 位 小林 ・ 野村(5A5I) けて、男子団体、男子個人シングルス、男子個人ダブルス H17 < 第 43 回地 >(51)男団優勝、女団 4 位、男個 S 優勝 神谷 (4E)、3 位 後 藤(5A)、 男 個 D 優勝 近藤 ・ 神谷(5E4E)、女 個 S 準 優 勝 清 水(5I)、 女 個 D 準優勝 清水 ・ 長屋(5I4C) < 第 28 全 > 男 団 2 回 戦、 男 個 S1 回戦各敗退、男個 D3 位 近 藤 ・ 神谷 の 3 冠制覇を連続して成し遂げています。49 回大会では女 子も 3 冠制覇しましたので、前代未聞の東海地区男女 6 冠 総取りを達成しました。これは不断の部員達の猛練習の賜 物でありますが、最大の要因は、下半身強化を怠らず地道 に走ることを心がけていることにあります。クラブ対抗駅 伝では、常に上位の成績を収めています。厳しい練習と共に、 < 第 44 地 >(47)男団準優勝、女団 3 位、男個 S 準優勝 伊藤(5E)、男個 D3 位 伊藤 ・ 坂神(5E2M)、女個 S3 位 大野(2C)、女個 D3 位 大野・伊藤(2A2I) 卓球部員間でのまとまりの良さも挙げねばなりません。和 H19 < 第 45 地 >(35)男団 3 位、女団 3 位、女個 S3 位 大野(3C)、 女個 D3 位 大野 ・ 大野(3A3C) 大の理由であるというOBも多いのです。また、OB、O H20 < 第 46 地 >(35)男団準優勝、女団準優勝、男個 D3 位 清水 ・ 坂神(3E3M)、女個 S 準優勝 大野(4C) H21 < 第 47 地 >(50)男団準優勝、女団準優勝、男個 D3 位 坂神・今村(4M3M)、女個 S3 位 大野(5C) H22 < 第 48 地 >(50)男団 3 位、女団準優勝、男個 S 準優勝 清水(5E)、女個 S 準優勝 大曾根(1A) H23 < 第 49 地 >(45)男団準優勝、女団 3 位、男個 D3 位 今 村 ・ 鵜飼(5M5E)、女個 D 準優勝 大曾根 ・ 伊藤(2A1E) H24 < 第 50 地 >(45)男団 4 位、女団優勝 H18 ( )内の数字は部員数 卓球部 東海の強豪卓球部 卓球部顧問 山下 清吾 本校卓球部創部は学校創立時にさかのぼります。昭和 39 年の東海地区大会から毎年参加してきました。50 年に及ぶ 204 気あいあいとした雰囲気が、5 年間部活動を続けられた最 Gとなってからも参加できる東海地区高専卓球オープン大 会(東海地区の全OB、現役選手対象)を平成 14 年から豊 田高専卓球部が中心となって開催しています。毎年、多く の選手や元選手が世代間の交流も図っています。最後に、 平成 18 年制定の卓球部十箇条を掲載します。 豊田高専卓球部 十箇条 一、礼儀正しくあること 一、先輩に敬意を払うこと 一、後輩をいたわり模範となるべきこと 一、焦らず腐らず明るく振舞うこと 一、道場を清潔に保ち、用具を大切に扱うこと 一、学業第一、学業無くして卓球無し 一、卓球道に精進し、日々上達に励むこと 一、練習は試合の如く集中して行うこと 一、試合は練習の如く大胆に且つ冷静に行うこと 一、卓球をこよなく愛すべきこと 第 3 章 学生生活 サッカー部 しいところで勝負にならず、立ち遅れを見せたと考えられ 3 度の全国大会を主管したサッカー部 サッカー部顧問 江崎 信行、高橋 薫 サッカー部の全国大会出場回数は、2011 年度までに 21 回(全国 8 位)を数え、そのうち最高順位は第 3 位(5 回) る。現在は、適合する通年リーグとして社会人リーグに参 戦し、ようやく全国大会に出場できるまでに育成・強化で きたところである。 バスケットボール部 バスケットボール部顧問 米澤 佳己 である(写真は 1999 年新居浜大会のもの)。また、全国大 会主管 3 回については、全国最高回数に並び誇り高い記録 である。特に、2010 年度大会は、豊田スタジアムこそ利用 できなかったが、決勝の主審に WC 担当も期待される佐藤 隆治氏を招へいする等、過去最高の大会とすることができ た。 また、これらの下支えとなったのは、初代顧問である高 田和之氏の長年にわたる貢献にあったことは言うまでもな い。さらに時期は重なるものの野澤繁之氏、稲垣照美氏、 高橋薫氏が受け継ぐこととなる。また、稲垣氏が大学リー グ加盟に尽力したことも特筆すべきことである。同時に初 代主将である水野憲雄氏が OB 会長、3 代目主将の大河内敏 博氏が会計として OB 会を発展させた。1989 年からはサッ カー部 OB である高橋氏が顧問となり、OB 会と現役との繋 がりはより強固なものとなった。 男子バスケットボール部は長らく本校のバスケットボー ル部の面倒を見ていただいていた伊藤義和先生が平成 14 年 に退官されたので、その前に何とか伊藤先生を全国大会に 連れて行こうと学生たちが奮起したためか、平成 12 年と平 成 13 年の 2 年連続で地方大会を優勝できました。(平成 12 年は全国大会で準優勝、平成 13 年は全国大会 3 位となりま した) しかし、その後は現在まで東海地区大会での優勝がなく、 最近の結果を見ても平成 22 年度および平成 23 年度はどち らも東海地区 4 位と振るわない結果になっています。これ は伊藤先生が退官されて残った顧問教員が素人ばかりに なってしまったことも大きく影響しているのかもしれませ ん。 しかし、平成 19 年 4 月からはバスケットボール経験者の 小谷先生が顧問に加わって下さり学生の指導をしていただ いています。女子バスケットボール部顧問の木村先生もバ スケットボール経験者ですし、卒業生の方々にも日ごろか らコーチとしてご指導をいただいているので、また近いう ちに東海地区大会で優勝できる日が来るかもしれません。 また、高専大会とは別に、男子バスケットボール部は平 成 20 年度から長野高専の児玉先生が中心として開催されて いる「中日本高専バスケットボール交流大会」にも参加し ています。これは毎年 12 月に長野県で行われる大会で、石 1999 年全国高専体育大会 江崎が赴任した 1998 年以降について、個人技はあるもの のチームとして発揮できていなかった戦力を整備し 1999 年 にいきなり全国 3 位に躍進した。翌 2000 年の地区で前年度 全国優勝の沼津を破り、優勝候補筆頭として臨んだ釧路大 会(結果は不運な判定でベスト 8 敗退)が相対的には最高 レベルにあったと考えられる。その後は、2001 年の全国ベ スト 8 を最後に、10 年以上に及ぶ低迷期に入った。2010 年 以降全国出場は続いているものの、全国大会では 1 回戦負 けと苦杯をなめている。その間、サッカー界ではリーグ戦 文化が定着し、短期的にチームをまとめる旧態戦略では厳 川高専、小山高専、長岡高専、長野高専、豊田高専などが 参加して 2 日間にわたって熱戦を繰り広げています。さら に平成 22 年から神戸で開かれた「男子西日本・女子全国高 専大会」にも参加しています(こちらも 12 月に開催されて います。この大会には女子バスケットボール部も平成 23 年 度から参加しています)。 まだどちらの大会にも良好な結 果を残すことができていませんが、今まで夏にしかなかっ た高専間の全国的な大会が冬にも開かれるようになり、学 生たちの励みになっています。これらの大会を目標として 今後ますます学生たちが練習に励んでくれることを期待し ています。 (歴代顧問:伊藤義和、加藤賢治、米澤佳己、池田宏一郎、 金坂尚礼、小谷明) 205 第 3 編 部 門 編 女子バスケットボール部 豊田高専初の女子運動部の創設 女子バスケットボール部顧問 木村 勉 女子バスケットボール部は、たった一人の女子学生(岡 本(旧姓:成瀬)典子さん)の熱い想いから始まりました。 昭和の終わり、まだ男子学生が多く、団体競技では女子 が活動できる部活がありませんでした。そんなとき、一人 の女子学生がバスケ部に入部しました。これまでは、中学 校の時にバスケをやっていても、高専では別の部に入るか、 マネージャーとして活動するしかありませんでした。 しかし彼女は、プレーヤとして活動したいと申し出て、 代表決定戦で石川高専に敗れ、全国大会に駒を進めるこが できませんでした。 この年以降は、残念ながら優勝から遠のいていますが、 いつの日か全国大会に進む日を夢見ています。 バレーボール部 第 3 期は OB とともに バレーボール部顧問 吉岡 貴芳 男子バレーボール部が創立されて以来、部を率いて来ら れた梶田省吾先生が 30 年史で書かれていたように、第 1 期 (第 1 回全国大会で優勝した後の 20 年間)は監督指導型の 男子と一緒に練習をしていました。でもバスケットは 5 人 クラブ活動であり、第 2 期(前述から平成 4 年の完成期を の競技です。1 人では試合もできません。他の男子部員は 経て平成 14 年度までの 20 年間)は学生中心型のクラブ活 すぐに退部するだろうと思っていましたが、ひたすら練習 動(を OB 会が支援)であり、運営を引き継がれた加藤昇 を続けていました。 平先生(現名工大)や長岡美晴先生により立派な結果を残 その後、その姿に感化されて、翌年から部員が少しずつ した。そこから平成 9 年の本校での全国大会開催、および 入部してきました。彼女が 3 年生になるときには、高校生 平成 16 年度の学校の独立行政法人化を機に、学生が OB と 大会の公式戦にも参加できるようになり、市内大会で 3 位 ともに活動する第 3 期(地域クラブ型)になったといえる。 の成績も納めました。 平成 9 年度に本校で全国大会が開催され開催校枠として これらの活動の実績が評価され、平成 2 年度の秋の学生 出場できることになった時には、OB の小嶋誠さんや渡辺達 総会で、独立した部として女子バスケットボール部の設立 さん他たくさんの OB の方から学生への技術指導をいただ が認められました。設立時の部員数は 8 名でした。 き、OB 会からはユニフォームもご寄付いただいた(平成 しかしその頃は、高専大会はなく、3 年生で引退する学 23 年度にもユニフォーム購入のためにご援助いただいた)。 生もいました。一時期は大学リーグに加入することができ、 しかし前述の独立行政法人化が決まった時吉岡は、部活動 5 年生まで活動することができました。しかし、リーグ規 としての学生活動減退という危機感を感じた。そこで、OB 定の変更により、大学リーグからも脱退することになり、 の早川建一(旧姓蜂谷)さん、渡辺達さん、早川誠さん(旧 再び 4、5 生の活動の場がなくなりました。 姓入川)、成瀬誠さん他の OB にご相談した結果、OB 会が 転機が訪れたのは平成 9 年度に東海地区高専大会が豊田 学生を全面指導すると同時に、OB 会そのものも再構築する 高専で開催されたときです。そのとき、沼津高専にも女子 ことになった。平成 16 年度から平成 23 年度まで監督とし バスケットボール部があると聞き、沼津高専に、交流戦を て渡辺達さん、コーチとして平成 20 年度まで濱中一平さん、 実施しようと申し出ました。たった 1 試合だけでしたが、 平成 21 年度から今泉徹也さん(平成 24 年度から監督)、平 これが現在の女子大会の始まりとなりました。 成 24 年度から東方誠也さんにご指導いただいている。学内 その後、東海地区の各高専でも女子部が創設され、公式 では、平成 15 年度から伊藤和晃教員を迎え、齋藤努先生や 戦として開催されるようになりました。一時期は東海地区 女子バレー部の教員とともに対応時間を分担するなどして すべての高専が女子大会に参加したこともありました。 学生の活動時間を確保している。バレーボール部が第 3 期 このような動きは全国でもあり、平成 10 年度には非公式 に入り、OB の方々からバレーボールの技術だけでなく、も の大会として全国高専女子選抜バスケットボール大会が開 のごとに一生懸命に取り組むための姿勢や仲間との関わり 催されました。豊田高専女子バスケ部は、平成 11 年度に東 方など、人として大切な心も教えて頂いている。 海地区で優勝し、第 2 回大会に参加しました。 平成 12 年度からは、全国高専大会の正式種目として開催 されました。このときから東海・北陸代表決定戦が行われ るようになり、平成 12 年度も東海地区で優勝しましたが、 206 第 3 章 学生生活 女子バレー部の特徴としては、よく怪我、病気をするこ と(特に大会中)ではないでしょうか。試合中に足首をく じく(ひどいときには骨折)、熱中症によるパフォーマンス 低下、緊張からの解放による過呼吸、興奮過多による試合 途中の鼻血、体調管理の不摂生と緊張による高熱の発症な 平成 18 年度地区大会優勝時 試合でのタイムアウト (白シャツ真ん中は OB 渡辺達さん、左は濱中一平さん) どなど ・・・。ここ数年のことを思い出しても、数多くの負 のエピソードがあります。 しかし、近年の女子バレー部は、自己都合により途中で 退部する学生は少なく、皆 5 年間バレーに打ち込んでいま す。さらに、自分たちで練習内容やスケジュール管理、試 合の作戦を考え、自立的なバレー部へと進化しています。 これからも、支えていただいている皆さまへの感謝を忘れ ず、バレーを続けていきます。 平成 18 年元旦の OB 戦(現在は 12 月 30 日に実施) (左中段 2 人目は OB 会事務局長の早川誠さん) ハンドボール部 常勝豊田 女子バレーボール部 女子バレーボール部 18 年の歩み 女子バレーボール部顧問 吉岡 貴芳 豊田高専女子バレーボール部は梶田省吾教員の尽力によ り、平成 7 年に産声を上げました。その年度から高専体育 大会に女子バレー種目も加わり、豊田高専は第 1 回の東海 地区優勝校となりました。その後、平成 8 年、平成 13 年と 優勝しましたが、その後長く優勝から遠ざかりました。し かし、平成 22 年、23 年と地区大会を連覇し、現在上昇気 流に乗っている最中です。 これまで、女子バレー部に関わってきた教員は、初代部 長教員の梶田省吾教員をはじめ、小関修教員、長岡美晴教員、 高津浩彰教員、本田亜紀子教員、山本貴正教員、猪八重拓 郎教員、松本嘉孝教員が挙げられます(順不同)。加えて、 これまで多くのコーチや OG に支えられて部活の歴史を紡 いできています。 ハンドボール部顧問 清水 利弘 豊田高専ハンドボール部は、昭和 61 年度から東海地区大 会で優勝を続け、平成 21 年度に 24 回連続優勝の記録を打 ち立てた、強豪チームである。平成 7 年度に筑波大学より 藤本巳由紀先生が赴任されてからは、全国大会においても 平成 10 年度:優勝、11 年度:準優勝、12 年度:優勝、14 年度から 17 年度:4 年連続優勝と、輝かしい戦績をあげた。 藤本先生は 17 年度より産休等からハンドボール顧問を退い たが、そのあとも 18、19 年度:準優勝と、常勝豊田の名前 は、全国高専のハンドボール部に知れ渡ることになった。 平成 20 年度から、元部員の坂部壮君のお父様の坂部司様を コーチに迎え、平成 22 年度に地区大会の優勝を鈴鹿高専に 譲り、地区大会連続優勝記録は 24 回で止まったが、翌平成 23 年に雪辱を果たして全国大会に出場し、3 位の成績を収 めた。また、藤本先生が東京高専古谷正俊先生、石川高専 川原繁樹先生とともに、高専ハンドボールの更なる発展を 目指して平成 10 年 3 月に開催地を豊田市として始められた 「チャレンジカップ」は、平成 24 年 3 月に第 12 回大会を数 えるに至った。第 11 回大会は東日本大震災のため、中止と なったが、第 12 回大会は会場の制約のため川崎市で開催さ れ、豊田高専ハンドボール部は本大会で 18 チーム中 3 位の 成績であった。写真は、平成 23 年度の全国大会で 3 位になっ たときのものである。現在、部員は平成 24 年度の高専大会 での全国優勝を目指して日々、練習に励んでいる。 平成 24 年度の女子バレーボール部メンバー (5 年:1 人、4 年:1 人、3 年:3 人、1 年:2 人) 207 第 3 編 部 門 編 ハンドボール部 常勝豊田と呼ばれるまでに至ったこれまでのハンドボー ル部の活動は、多くの方々のご協力の賜物によって達成で きた。これまでにお世話になった教職員、先輩部員、部員 のご家族の皆様に感謝申し上げるとともに、今後のご支援 をお願いする次第である。 体操部 平成 19 年度高専体育大会にて(沼津) ここ 10 年間で見ると、部員数が減少傾向にある。1 年生 で入部しても高学年になると来なくなる学生も多く、遠い 自宅のため部活を続けられないようである。今年はロボコ ン部の学生が数名入部したので来年以降が楽しみである。 来年は新しい高学年寮が建設される。定員 80 名と少ないが 部活を続けられる環境が改善されていくことは喜ばしいこ とで、今後ますますの体操部の発展を期待したい。 体操部の近況 体操部顧問 髙村 明 柔道部 柔道部顧問 伊藤 一重 体操部は昭和 39 年に発足してから平成 24 年で 48 年目を 迎える。発足当初、東海地区では沼津・鈴鹿・岐阜・豊田 柔道部は、橋本敬二郎、山田壽勝教官を部長としてその の 4 高専で年 1 回合同練習会を行い交流してきた。昭和 48 基礎が築かれ、のち栗本譲、五島幸一、野田宏治、伊藤一重、 年の第 11 回東海地区大会から地区大会の正式競技として試 木村勉、田中秀和、稲垣宏教員が顧問を担当し、この 10 年 合が始まった。この時点で岐阜高専に体操部がなくなり、 では、平岩陸、柏谷賢治、加藤悠介教員が顧問に加わった。 他の 3 高専が出場して沼津高専が優勝した。その後、平成 平岩教員は、柔道 2 段を持ち、平成 11 年から、大学に異動 4 年の大会は鈴鹿高専の体操部が部員不足のため休部とな する 18 年まで実技指導にも尽力した。 り、東海地区の体操競技は中止となった。このため、この 活動は主将を中心に行っている。技術指導にコーチとし 年は沼津高専との対抗試合を豊田高専の主催により実施し て、トヨタ自動車のかたにお願いしている。昭和 62 年から ている。この年から昨年まで合計 20 回の対抗戦を実施して は井手信氏、平成 5 年から上田一美氏、同 14 年から壇上竜 いる。 二氏、同 18 年からは森真一郎氏に来ていただいている。日々 最近 10 年間の対抗戦で、豊田高専が沼津高専に勝てたの は、残念ながら平成 19 年の 1 回だけである。この間、沼津 の練習はもちろん、高専大会にもご参加いただき、懇切な 指導を仰いでいる。 高専では、新たに体育の先生が体操部の部長教員として着 任され、練習環境の整備が図られており、大幅に実力を向 上させているからである。このような状況の中で、平成 19 年の第 16 回大会では、電気電子システム工学科の藪本君や 建築学科の南君、電気電子システム工学科の長谷部君らの 活躍があり、沼津高専に勝利することが出来た。ゆか競技 では南君が 1 位に、藪本君が 3 位に入っている。また跳馬 競技では、藪本君が 2 位に、長谷部君が 3 位に入っている。 柔道部高専大会(H20) 208 第 3 章 学生生活 この 20 年の記録では、東海地区高専大会において、平成 専剣道大会で、名大 B、静大、三重大との予選リーグを僅 8 年櫻井剛(5 年機械)軽量級準優勝、同 10 年井土邦泰(3 差の 1 位で通過し、ベスト 4 に食い込んだことも思い出さ 年電気)重量級優勝、全国大会出場、久保哲也(3 年機械) れる。 中量級 3 位、同 11 年木村朋博(3 年機械)中量級 3 位、同 剣道部では、随分前から 1 月 4 日に新年稽古会を実施し 17 年佐藤仁幸(3 年機械)重量級 3 位、同 18 年田上尚希(4 ているが、半田工業高校剣道部顧問の森川昭仁(S 56 年度 年機械)軽重量級準優勝、同 19 年佐藤仁幸、鈴木貴史(1 卒)、卒業後も剣道を続ける今井壮一(S 53 年度卒)、鈴木 年環境)重量級 3 位、同 20 年牧野舜(1 年環境)中量級準 昭次(H 5 年度卒)、鈴木智之、宮嶋亨和(H 6 年度卒)、 優勝の成績を収めることができた。また、豊田市の愛知県 渋谷謙志(H13 年度卒)、酒井雄士(H22 年度卒)の諸氏が 高校生の大会で、平成 21 年 66kg 級優勝片桐健登(1 年電気)、 参加したことは、後輩部員を多いに励ましてきた。また、 準優勝牧野舜の成績を収めた。以前と比べ、夏休み、春休 初心者として入部し、5 年間技を磨いた酒井嶺太、湯田誠 みなど、長期休暇も計画を立てて、練習するようになって 両君の頑張りも記憶に残る。 きている。 この 20 年で、顧問教員も大きく入れ替わった。平成 7 年 部員数は、この 20 年、多いときは 30 名近いときもあっ 度には剣道部 OB の近藤英二教員(機械)が鹿児島大学へ たが、最近は 10 名前後で推移しており、活動は十分にでき 転出、平成 14 〜 15 年度には、永年顧問を務めた大濱茂生(一 ていないようだ。一時は、女子部員も参加することがあっ たが、最近は見られない。学校での、レポート、課題の作 成などで参加が思うようにならないこともあるようだ。 少ない人数ではあるが、有志で励まし合い、活動を続け、 かつて、全国大会で優勝したこともある往年の活気ある柔 道部の再建を目指してほしい。 般)、岡田克彦(一般)、仲野 (情報)教員が続けて定年 退官された。一方、平成 16 年度には小林睦(環境)、高木 宏幸(電気)が、平成 19 年度には学生、指導者の両立場で 高専全国大会への豊富な出場経験を持つ兼重明宏(機械、 高木教員と交代)、平成 22 年度には加藤悠介(建築)が顧 問に加わった。 平成 19 年度には、西日本地区の高専生が集う 3 月の錬成 剣道部 剣道部顧問 西澤 一 この 20 年間は、剣道部が長期低迷から脱出し新生する契 大会、長期休暇を利用した遠征を活動に加えて、少数精鋭 ながら年間を通して充実した練習を行う体制に移行しつつ あり、今後の剣道部には飛躍を期待できる。 機となる時期であったと考えたい。低迷の原因は、例年秋 から冬にかけて道場に立つ部員が急減する状態が続いたこ とからも明らかである。ほとんどの部員は入学時に競技経 験を持つが、その上に積み上げる練習の蓄積は十分でなく 熱心に練習する少数の部員と、冬期の練習が不足する多数 部員の混在集団であった。平成 7 〜 10 年度には豊田市剣道 連盟の佐金栄一氏を、また、平成 14 〜 18 年度には葛島賢 二を外部コーチとして招いたが、この流れを変えることは 難しく、平成 15 年度まで、東海地区高専体育大会の男子団 体戦は(5 校中)4 位が定位置と言える状況が続いていた。 そんな中、平成 6 年に女子個人戦で綾章江が準優勝し(あ と 1 本で全国出場だった)、平成 12 年度に男子個人戦で鳥 居祐城が準優勝(全国大会でベスト 8 まで進んだ)、平成 16 年度には男子団体戦(主将:中川隼敏)で 2 位となり、 (地 区優勝の鈴鹿高専が全国大会の開催校での出場だったた め、)東海地区代表として 26 年振りに全国大会に出場した ことは、記憶に残る戦績である。また、平成 13 年度、西三 河北部剣道大会・高校男子の部において、地域の強豪杜若 高校に 4 - 0 で勝って初優勝したこと、中部理工系大学高 弓道部 故射進退周還必中禮 弓道部顧問 早坂 太一 これまで弓道部が最高目標の一つとしていた大会は、近 畿・東海・北陸・信越地区高専弓道大会(九高専大会)で ある。ご存知のように、長野、奈良、鈴鹿といった伝統あ る高専がひしめき合う中での入賞は非常に難しい。平成 5 年に坐射に変更になって 20 年近く経つが、その間に団体優 勝( 平 成 11、18、21、23 年 )、 準 優 勝( 平 成 8、16、22、 23 年)および第 3 位(平成 7、10、14、22 年)はそれぞれ 4 回しかないことからもそれは明らかである。しかしなが ら平成 22 年の大会では準優勝および第 3 位、23 年は優勝 および準優勝と、2 年続けて 2 チームが同時に入賞している。 また、平成 7 年から始まった女子団体の部においても、入 賞歴は平成 13 年、17 年および 18 年の第 3 位から、平成 22 年は優勝、23 年は準優勝と、近年は男女共に、上位入賞校 209 第 3 編 部 門 編 の一角として名をあげてきた感がある。 で活動していたが、ここ 15 年間は部員が 10 名以下で推移 こうした好成績については、師範として射技をご指導頂 しており、最近 5 年間は 5 ~ 6 名と低迷している。マスコ いている豊田市弓道連盟の先生方を抜きに語ることはでき ミではヤマジョなどという言葉が流行り、中高年だけでは ない。平成 4 年から 14 年間の長きに渡ってお世話になった なく若い女性も登山をする時代となっているようであるが、 谷口淳先生に引き続き、平成 18 年からは常本昭夫先生(豊 本校の山岳部にはまだその兆しは見えていないのが現実で 田市弓道連盟副会長、教士 7 段)に礼および射法の教えを ある。とはいえ、山を愛する部員はいつの時代にも存在し、 頂いている。約 20 年に渡るお二方のご功績に深く感謝する 毎年 3 ~ 4 回は、合宿を行っている。主な山域は昔から変 次第である。また、長らく顧問として弓道部の発展にご尽 わらず鈴鹿山脈であるが、恵那山、南木曽岳や大峰山脈の 力頂き、無事ご退官された機械工学科の小林政教教授およ 弥山などに 1 泊 2 日で登っている。夏合宿先は表に示した。 び長谷川茂雄教授に厚く御礼申し上げる。 2 泊 3 日か 3 泊 4 日の行程で行っている。 いよいよ平成 26 年の夏より、地区大会の成績上位校が出 場できる弓道競技の全国高専大会が始まることになってい る。全国一を目指し、弓道部はこれからも日々精進してい く所存である。 奥穂高頂上にて(平成 19 年) 近年の夏合宿先一覧 平成 23 年 7 月の九高専大会(綾部市)にて 団体優勝および準優勝を成し遂げた弓道部員 山岳部 山岳部の歴史 山岳部顧問 伊東 孝 昭和 40 年代前半、一流の登山家である石岡繁雄先生が初 代部長となり、山岳部の基礎を確立した。その後、渡邉與 年度 夏合宿 年度 夏合宿 10 蝶・常念 17 蝶ヶ岳 11 18 槍ヶ岳 12 白馬岳 19 奥穂高岳 13 北岳 20 北岳 14 槍ヶ岳 21 槍ヶ岳 15 22 槍ヶ岳 16 23 蝶・常念 空手道部 空手道部の近況 作先生(昭和 46 年~昭和 59 年)、井口健先生(昭和 60 年 ~昭和 62 年)、洞口巌先生(昭和 63 年~平成 3 年)、伊東 孝(平成 4 年~)が部長を務めている。現在の副部長は、 榎本貴志先生と須田裕哉先生が務めている。 山での安全対策や応急処置法について石川修氏(外科医、 登山家)をコーチとしてお招きして研究会を開き、事故防 止に努めてきた。石川氏に代わり、平成 3 年度からは日本 山岳会の要職を歴任されていた鶴田倍弘氏にコーチを務め ていただいた。平成 19 年にコーチを辞められるまで、毎年、 ほとんどの合宿に参加していただき、現地できめ細かい指 導をしていただくことができた。 平成 3 年頃には女子部員の入部もあり、12 名ほどの部員 210 空手道部顧問 勝谷 浩明 空手道部は、1972 年に発足してから、部長教員の環境都 市工学科中嶋清実教員とコーチの鈴木博夫師範が率いてき ました。発足 10 年後の 1982 年に東海地区国立高等専門学 校体育大会の正式種目として認められました。当初は本校 と鈴鹿高専と鳥羽商船高専との 3 高専の空手道部が参加し ていましたが、後に沼津高専も加わり現在は 4 高専の空手 道部で競っています。高専大会における近年の戦績は以下 の通りです。 第 3 章 学生生活 総合の部 組手の部 形の部 宿中に実施してきた。 2005 年 優勝 優勝 準優勝 平成 10 年頃から、新しいマテリアル(道具)であるカー 2006 年 準優勝 準優勝 準優勝 2007 年 準優勝 準優勝 優勝 ビングスキーが一般的に利用されてスキー技術が変わった 2008 年 優勝 優勝 優勝 2009 年 優勝 優勝 準優勝 2010 年 優勝 準優勝 準優勝 進み、スノーボードの滑走を許可するようになってきた。 2011 年 準優勝 優勝 3位 そこで、スキー部関連教員と体育教員は、スノーボードを ため、スキー検定の種目に変更があった。 平成 15 年頃から、各スキー場では、若者のスキー離れが 例年 8 月下旬に合宿を行っています。かつては岐阜県丹 体験して理解する意味で、スノーボードの講習と自主練習 生川村(現高山市)や長野県戸隠村(現長野市)や岐阜県 に励んだ。その結果、スキーで滑走する感覚があれば、スキー 養老町などで行いましたが、近年は本校内あるいは愛知県 の 2 枚の板より、スノーボードの 1 枚を操作することが簡 鳳来町(現新城市)で行いました。特に高専大会や合宿で 単であり、上達が早いことが分かった。 は空手道部 OB・OG の皆さんのお世話になっています。 例年 1 月上旬あるいは中旬に地元の名空会の道場の皆さ 平成 17 年から、スキー部でもスキー経験の部員に対して、 安全なスノーボード滑走を中心とした指導を行い、その後、 んと共に寒稽古を行っています;矢作川の流れに浸かって 学校のスキー教育でもスノーボード講習を取り入れるよう 千本ばかり突きを練習した後、川から上がって新年の思い になった。 を新たにします。 また、和道会の愛知県大会及び豊田市民総合体育大会に できるだけ参加するようにしています。 当空手道部では、空手道の技の修得もさることながら、 平成 20 年には、学校のスキー教育が高天ヶ原スキー場で 行っていたため、スキー合宿の場所を高天ヶ原ホテルに変 更した。 平成 23 年から、春季合宿の日程確保の問題と技能検定を 礼儀や素直さなど精神的に己を高めることを大切に考えて 目標にするため、岐阜県のめいほうスキー場での合宿およ きました。このことから次のような道場訓を定めました。 びバッジテストの受験に変更した。 一、礼儀を重んじる / 一、敬う心を持つ / 一、和を尊ぶ / 一、心技を磨く / 一、勉学を怠らぬ 今後は、スキー技術の向上とともにスノーボードを含む 雪上スポーツを対象として活動する予定である。 このような精神を部員に伝えています。 副部長教員として、1989 年から一般学科の勝谷浩明教員 が、1993 年から環境都市工学科の河野伊知郎教員が、中嶋 教員と共に空手道部を運営してきました。1999 年に中嶋教 員が学生主事に任じられてからは、勝谷教員が部長教員を 継ぎました。2012 年春に、中嶋教員が退職して嘱託教員と なり、新たに環境都市工学科の須田裕哉教員が副部長教員 に加わりました。 今後中嶋教員が築いた伝統を引き継いでいくべく努めて いきます。 アシックスの展示会 前部長市川真澄(右)とデモンストレータ渡辺一樹(中央) スキー部 バドミントン部 スキーとスノーボード 豊田高専バドミントン部の 20 年史 スキー部顧問 仲野 巧 平成 4 年、スキー部の主な活動である冬季の合宿は、八 方尾根スキー場から赤倉温泉スキー場に変更し、春季が志 賀高原発哺ブナ平スキー場で行うことになった。この頃に なると、スキー部 OB が指導員、準指導員に合格していた ため、平成 10 年頃まで、OB の検定員による技能検定を合 バドミントン部顧問 今岡 克也 (1)クラブの創設 豊田高専のバドミントン部は今から約 20 年前の平成 4 年 頃に同好会として発足し、3 年目の平成 7 年に創設された。 学内の練習場所は、ほかのクラブの方々にご理解とご支 211 第 3 編 部 門 編 援を賜って、月曜日に第 1 体育館半面、木・金曜日に第 2 高校生大会は 4 月に総体予選、8 月に西三河大会、9 月に 体育館半面、土曜日に第 2 体育館を譲っていただいた。初 新人戦、1 月に学年別大会と年に 4 回もあり、学生は試合 代の部長教員は電気工学科の杉浦先生で、コーチはトヨタ に出場するごとに強くなっている。中学の経験者を中心に、 自動車の杉山さんであった。創設直後は、森さん・湯原さん・ 個人戦では三河大会から県大会へ参加できる学生も出だし 伊藤(現コーチ)さん・鈴木さんなどの熱心な学生が、実 た。団体戦でもベスト 8 に入れるようになり、最近ではこ 戦形式の練習を行って徐々に強くなっていった。 のシード権を 5 シーズン連続して獲得しており中堅の学校 (2)地区大会の男子団体 3 連覇 平成 4 年の東海高専地区のバドミントン大会では、豊田 になり、練習試合の誘いも受けるようになってきた。 その中、2011 年に東海地区大会で、13 年ぶりに男子団体 高専が参加して 5 校が揃ったことになり非常に歓迎された。 で優勝した。これも、練習体制が確立されて、高校生大会 しかし、その年の男子団体は最下位であり、地区大会で戦 が良い刺激になっているためと思われる。 うレベルまで到達するのに 4 年間を必死で努力した。 参加から 5 年目の平成 8 年の地区大会で、男子は団体優 勝を遂げることができた。これは勢いに乗った選手と、冷 静で的確な指示を出す杉山コーチの賜物であった。私はこ の後に赴任してきたが、高いレベルの学生を見て驚いたの を覚えている。平成 9 年の大会も学生は、実戦形式の練習 で鍛え抜いて、東海地区の男子団体は見事に連覇を果たし た。 男子団体 3 連覇の懸った平成 10 年の地区大会は、旧豊田 体育館で開催された。その頃、女子も地元開催に向けて体 制を整えて、練習試合などでも勝てるようになっていた。 気運がたいへん盛り上がった豊田体育館での団体戦は歴史 的なものとなった。なんと、男子も女子も団体戦で優勝し、 個人戦もほとんど豊田の選手が制してしまった。私は、せっ かく遠征してくれた他高専の学生や先生に申し訳ない思い をさせた。しかし、全国大会では勝利を飾ることはできな かった。 (3)高校生大会への参加 豊田での地区大会のあと、3 連覇に貢献した太田君が卒 業したこともあり、しばらく優勝からは遠ざかった。しかし、 全員で規則正しく練習して、初心者を指導しながら強くす るというクラブとしての体制は整っていった。 その頃、中学からバドミントン部に入っていた学生たち を中心に、1 ~ 3 年生は高校生が参加する総体や新人戦な どの大会に参加させて欲しいとの要請があった。私は自分 が高校生の頃に、これらの高校生大会を目標に練習して強 くなったことを思い出して、この要請を受け入れることに した。しかし、高校生大会に参加すると、高専生は制服が なく、髪は茶髪の学生が多く、髪飾りやピアスを空けた学 生もいて、大会を運営してくださっている先生方に厳しく 注意された。しかし、徐々に高校生として参加させてもらっ ているという自覚が学生に広がり、注意される回数が減る のと比例して、試合には勝てるようになっていった。 (4)2012 年の状況 212 ラグビーフットボール部 ラグビーフットボール部の 18 年 ラグビーフットボール部顧問 髙津 浩彰 1995 年に豊田高専ラグビーフットボール部が創部されて 今年で 18 年目になります。豊田高専 50 周年の歴史にその 名を残せるクラブになったことは、たいへん喜ばしく誇り に思えることであり、特に、卒業したラグビーフットボー ル部 OB の思い出として残していただきたいと思います。 創部当時を思い出しますと、他のクラブや学生会からの プレッシャーがあり、練習時間や練習場所、クラブの運営 費の確保が難しく、猫の額ほどの練習場所も占有権がある 他のクラブが使用するということで、練習メニューの変更 を余儀なくされたこともありました。また、部員数も安定 しないクラブで(現在では考えられないことではあります が)、練習試合を組めば当日メンバーが揃わないこともあり、 相手にメンバーを借りて試合することもありました。部員 が 7 人になった時はこのままクラブがなくなることも考え させられましが、そんな苦難の時代を乗り越え、新入学生 の入部や秋季冬季限定で他のクラブとの兼部学生で何とか 部を存続し、第 33 回東海地区高専体育大会への初出場まで たどり着きました。部の運営が軌道に乗ってからは、東海 地区高専体育大会で、第 34 回大会から 12 年連続優勝、全 国大会出場 6 回(ベスト 8 進出 3 回、3 位入賞 1 回)とあ る程度の成績を残すことができるクラブに成長し、60 周年 70 周年を目指して日々練習に励んでおります。これからも、 学校、OB、保護者のみなさんに応援していただけるクラブ づくりを継続していきたいと思います。 最後に、18 年も経ちますと、ラグビー部に所属した多く の卒業生が社会へ旅立ち、産業界へ貢献しています。私自 身教えることよりも教えられることが多くなってきました。 すべて、豊田高専ラグビー部の財産であり誇りに思ってい 第 3 章 学生生活 ます。みなさまが益々ご活躍されることをを日々祈念して オリエンテーリング同好会設立メンバー おります。 部長教員 野田宏治 主 将 藤田飛鳥 オリエンテーリング部 オリエンテーリング部顧問 野田 宏治 オリエンテーリング部の誕生は、2006 年 11 月学生総会 でオリエンテーリング同好会が認められたことに始まる。 コ ー チ 河村健二(岡崎オリエンテーリング協会) 部員数:15 名 岡本明大、内木賢吾、秋松龍之介、伊藤彰洋、神戸悠介、 高木宏幸、西 和哉、吉田惇起、安藤 駿、石黒恵介、 岡崎 功、伴 兼弘、森 翔平、神谷雄斗 当時電気工学科の学生であった藤田飛鳥が奔走し、電気工 学科の学生を中心に発起人を集め 15 人でスタートした。当 時の藤田は家族で岐阜県オリエンテーリング協会に属し、 全国各地で開催される大会はもとより、世界大会へも参加 吹奏楽部 吹奏楽部活動報告 吹奏楽部顧問 大野 亙 している。 発足当時のコーチには、岡崎オリエンテーリング協会の 河村健二氏で、この人選も藤田の人脈を頼りお願いしてい る。この時期には、毎週水曜日学内で行うトレーニングに 加え、毎月岡崎市内の公園で行われる岡崎オリエンテーリ ング協会主催のオリエンテーリング教室(月一回)に参加し、 コーチ指導のもと、技術向上に一生懸命努めた。同好会発 足の当初は、地図の見方も知らない、コンパスの使い方も 知らない部員が、大会に出場し、大会が終了してもゴール にたどり着けないことも多くあった。大会が終了後すぐに 現地で反省会を行い、再び山の中に入り地図の読み方を全 員で学習したりした。 同好会発足の翌年(2008 年)には、オリエンテーリング 部に昇格し、岡崎市民オリエンテーリング大会や岐阜県内 で開催された大会にも精力的に出場し、大阪箕面市内で行 われた全国大会へも参加した(写真 全国大会参加)。 主将の藤田が引退した後は、岡本、神谷、伊藤、安藤が 部を引き継ぎ、現在に至っている。現在のコーチは、豊田 オリエンテーリング協会の新見守氏で、日々地道な練習を 積み、大会出場に備えている。 東海地区では、東海中学・高校がオリエンテーリングの トップを独走している。いつの日か本校の学生が愛知県の トップの座を射止めることをご期待願いたい。 吹奏楽部の歴史を紐解くと、クラブの発足は豊田高専創 立から 3 年目であり、数名の学生から活動が開始されたそ うである。創設当時の顧問教官は清水功先生だった。その 吹奏楽部も現在は 50 名を超える大所帯なクラブとなってい る。 近年の大きな転機として、平成 14 年に、学外からのコー チにユーフォニアム奏者の加藤博司氏を招いたことが挙げ られる。加藤氏は学生指導に大変熱心であり、演奏指導だ けでなく、演奏会の演出などにも積極的に関わっており、 部員たちの大きな支えとなっている。氏を招いた前後で部 の雰囲気が大きく変わったように思うのは、顧問の欲目で はないと考えたい。 現在のクラブの中心的な活動内容は定期演奏会と、吹奏 楽コンクールとがあげられる。コンクールは初出場が昭和 55 年に全日本吹奏楽連盟愛知県支部主催のコンクール、大 学の部への出場である。また、その 3 年後第 1 回の定期演 奏会が開催された。 ここ 10 年程度の成果としては、コンクールでは、金賞こ そ逃してはいるが、連続して銀賞を獲得しており、実力的 にも安定したバンドとなってきていることが窺える。さら に、平成 20 年のコンクールにおいて、大会成績こそ銀賞な がら、東海大会代表校に選出され、東海大会出場を果たした。 東海大会においては、代表として恥じない演奏を見せ、銀 賞を獲得した。定期演奏会においては、毎年部員たちが趣 向を凝らしたステージを披露しており、毎年 500 名前後の 来客を記録している。中でも平成 21 年に行われた第 30 回 の演奏会では、同窓会 30 周年記念行事との合同開催となり、 OB との合同演奏を披露するなど大々的に行われた。 ここ数年は、地域への貢献活動にも熱心に取り組んでお り、児童養護施設の梅ヶ丘学園や、社会福祉事業団の暖な 2008 年全国大会参加 213 第 3 編 部 門 編 どに訪問演奏を行なっており、施設の子供達に馴染みのあ 2004 年度次点、2006 年度・2010 年度本選出場、オメガの る曲を中心に音楽を届けている。さらに、平成 24 年の演奏 会のスピーカコンテスト(オーディオクラブ主催):2005 会では、東日本大震災への援助として、何かできないかと 年度優勝、2004 年度月刊 STEREO の 7 月号に投稿した記 いう学生の願いから、演奏会において、義援金の寄付を募り、 事が掲載される。 中日新聞へ義援金の寄付を行った。 他にも毎年、本校こうよう祭にて自作スピーカ・アンプ 学生の気質はここ 10 年で大きく変わってきていはいる の展示と自作スピーカによるシアターを実施、また手作り が、部員たちの音楽に対する情熱は何時の時代も変わらず、 アンプの会お寺大会に参加しています。さらに依頼を受け 真摯に音楽に向き合っている姿が頼もしく思われる。 高さ 1.6 m程度の巨大スピーカを作成したり、オーディオ ショップとタイアップし、製品のモニターを行ったりと地 写真部 域貢献もしています。 ちなみに、現在、本部活動のもっとも深刻な問題は、写 写真部の活動 真に示すようにこれまで作り上げてきた作品が部室内にあ 写真部顧問 鬼頭 俊介、林 伸和、中島 正貴 写真部は毎年部員数が少ないのが悩みの種である。しか し、部員が少ない中でも活動は続けてきた。主な活動は文 化祭での写真展の開催や体育祭、球技大会や高専体育大会 などの学校行事での撮影である。またクラブとして全体で、 あるいは部員が個人的に、時には卒業生を交えて撮影に出 ふれていることです。どうにかしなければなりません。 本研究部は、ホームページを開設しております。是非、 ご覧になってください。 http://www.geocities.jp/tnctbcc/index.html 自動車部 休部からの再生・復活 かけることもあった。 今年度、数名の部員が新たに入部したので、活動の幅を さらに広げていきたいと考えている。 自動車部顧問 鬼頭 俊介、林 伸和、中島 正貴 自 動 車 部 は、1990 年 代 半 ば か ら 休 部 状 態 に あ っ た が、 放送研究部 2000 年代に入ってから、何か活動をしようと、自動車好き、 電子工作を極める!放送研究部 放送研究部顧問 室谷 英彰、山本 貴正 豊田高専放送研究部は、1965 年(昭和 40 年)に創立さ れました。部発足当初は、アマチュア無線を中心に活動し ていました。そして、様々な変遷があり、現在では自作オー ディオ製作の部活として繁栄しております。なお、自作オー ディオに転じた要因のひとつに、部員不足による技術知識 の分断が挙げられます。そこで、部員数が少ないなかで、 このようなことが起こらないように、OB会が設置され、 今は、卒業生の支えを得ながら、部員ともども、活動に励 んでいます。 放送研究部は 40 年以上の歴史があ り、そのなかで多くの成績を収めて います。そこで、本部活動の実績を 紹介させていただきます。なお、頁 数が制限上、過去 10 年程度とさせて いただきます。月刊 STEREO の自作 スピーカコンテスト(音楽之友社主 催 ):2005 年 度 審 査 員 特 別 賞 受 賞、 214 ものづくり好きの学生が集まって、最初は少人数だったが 活動を再開した。 ちょうどその頃、2003 年に豊田市役所から、「ワールド・ エコノ・ムーブ」というバッテリーカーレースが豊田スタ ジアムで開催されるので、是非出て欲しいと依頼があった。 学生にこの話をしたところ是非出たいという返事だった。 しかし、何もノウハウのないところでどうやって車を作る か途方に暮れるところだったが、幸いなことに、主催者が 製作教室を開催してくれるとのことで、豊田工業高校で行 われた製作教室に参加して、自動車を完成させることがで きた。このレースは、主催者から支給される規定のバッテ リーを参加者の責任で充電して、1 時間に周回コースを何 周走れるかを競うレースである。この年の結果は予選が 21 周、翌日の決勝は 20 周で 29 チーム中 23 位だった。ちなみ に同じクラスの最高が 45 周だったので、その半分以下の結 果であった。翌年も同大会に参加し、予選が 15 周、決勝は 16 周で 40 チーム中 31 位だった。 その後、メインで取り組んできたのが通称「エコラン」 と言われる、鈴鹿サーキットの東コースで行われる「Honda エコマイレッジチャレンジ」である。これは、ガソリン 1 リッ 第 3 章 学生生活 ターで何 km 走れるかを競う競技である。最初に与えられ るガソリンはわずか 180mℓであり、これを使い切るまでに、 所定の時間内に規定の周回数(8 周)を走らなければなら インターアクトクラブ インターアクト部顧問 加藤 弓枝 ない。速度が遅すぎるとタイムオーバーになり、速度が速 豊田高専インターアクトクラブは、1965 年 1 月に豊田ロー すぎると燃料消費が多くなりガス欠でリタイヤの可能性も タリークラブの提唱により設立された。インターアクトク あり、アクセル操作が鍵となる。しかも鈴鹿サーキットは ラブ(International Action Club、以下 IAC と省略)とは、 起伏に富んだコースで、登り坂をいかにロスなく走るかが 14 歳から 18 歳までの青少年のための国際的奉仕クラブで ポイントになる。2004 年からの大会の結果を表に示すが、 ある。現在、約 100 か国に 1 万以上のクラブが設立され、 完走して公式記録が残ったものはわずか 4 回で(04、05、 20 万人近くの若者が関わりを持っている。愛知県には IAC 08、12 年)、完走率が低いと思われるかもしれないが、中 は 15 クラブあるが、本校 IAC はそのなかでも歴史がある。 には規定の周回以上走って周回オーバー(9 周走行)になっ さて、奉仕活動は IAC 活動の真髄である。本校 IAC で たものや(11 年)、完走はしたが、レース前のガソリンの は具体的には、国際理解活動(海外派遣研修)と地域社会 公式計量を行なわなかったので、記録無しで終わったこと 奉仕活動(清掃やボランティア)を行っている。それらの もあった(06 年)。本当の意味で途中リタイヤとなったの 経験を通して、部員たちは以下の事柄を学んでいる。 は 4 回であるが、この中には、ゴールまであとわずかとい ①指導力と人間としての高潔さ う惜しいものもあった。リタイヤの原因は主にガス欠によ ②他者を助け、他者を尊重すること るものであるが、ガス欠に至る要因は、途中でトラブルが ③個人の責任と懸命に努力することの価値 発生して、その場でドライバーが修理をして、そこでロス ④国際理解と親善を推進すること した時間を挽回するために、出力を上げざるを得なくなり、 この 20 年の活動としては、2006 年 7 月 17 日(祝)に豊 結果的にガス欠に至るものである。2008 年の大会では、高専・ 田市民文化会館で開催された第 17 回インターアクトクラブ 専門学校クラスで 3 位となり、念願の表彰台に登った。 協議会のホスト校を務めたことが、最も大きな出来事とし これら 2 つの大会以外に 2011 年には、新城で行われた全 て挙げられる。当時部長顧問だった鈴木基伸教授の音頭の 日本ダウンヒルダービー選手権に参加した。このレースは、 もと、副顧問、クラブ員が一致団結して準備にあたった。「創 下り坂を動力を使わずに重力のみで滑走するものである。 造~僕らの未来像~」というテーマを掲げ、物作りの大切 結果は、グループ A(緩やかな全長 230m 程度のショートコー を実感してもらえるような分科会を本校教員の協力を得て ス)部門で優勝した(最高速度 37km/h、タイム 23.93 秒)。 計画した。参加者からは物作りを実際に経験できてよかっ もうひとつのカテゴリー、距離が約 500 mで、勾配が急な た等の感想が多く、成功裡に終えることができた。 グループ C では、参加チーム 12 中、惜しくも 2 位だった(優 また、2009 年の 6/18 ~ 6/20 の 3 日間、イギリスのバー 勝チーム 41.54 秒、本校チーム 41.82 秒、最高速度 55km/h)。 ミンガムにて開催された国際 RYLA セミナー(ロータリー 初めての参加にしては十分すぎる結果であり、今後のさら クラブによる若者のための研修プログラム)に、大森陽介 なる活躍が期待される。 君を派遣したことも、特記すべき出来事である。 2012 年 12 月現在、部員数は 26 名、顧問は鈴木基伸・神 表 Honda エコマイレッジチャレンジの結果 年 燃費 km/ℓ 平均時速 km/h 04 98.57 25.71 周回 順位 8 4 5 05 199.603 26.593 8 06 燃料計量無し 29.073 8 07 リタイヤ 08 329.419 29.639 8 09 不参加 10 1. リタイヤ 2. 未出走 24.059 車検不合格 6 11 1. 118.919(参考) 2. リタイヤ 32.188 22.180 9 7 12 1. 221.617 2. リタイヤ 26.746 21.853 8 3 谷昌明・中川聡・田中健作・加藤弓枝の 5 名である(2007 年に濱千代いづみ顧問が、2009 年に深田桃代顧問が退職)。 現在は、とくに他校 IAC や RAC・RC との交流に力を入れ ているが、さらなる発展を目指し、今後も頑張っていきたい。 3 9 215 第 3 編 部 門 編 軽音楽部 囲碁・将棋部 軽音楽部顧問 小林 睦、田中 貴幸 軽音楽部の歴史は、新しいと思いきや、実は 30 年史にも 既に記録が残っていました。それによると、当時からクラ ブ単位ではなく、バンド単位の活動が主であり、学内ライ ブの準備の際に限って、部員同士が仲良くなるとのことで した。実は、私(小林睦)も 20 数年前の高校生の時にはフォー クソング同好会というものに属していました。この同好会 では、フォークギターを弾くのではなく、当時のバンドブー ムに流されて、多数のバンドが学校で練習したいがために、 所属していたと記憶しています。ただ、いつも、うるさい と苦情を受けていたのも覚えています。豊田高専の軽音楽 部も似たような雰囲気ですが、離れたところ(合宿研修所) に部室があって、ここで活動する限りは騒音の苦情は全く ありません。 ここで、豊田高専の軽音楽部について、幾つか騒音にま つわる話をしましょう。平成 22 年度のこうよう祭前には、 第一講義棟 3 階の教室を臨時で練習場所にしましたが、一 般学科棟の教員室に近いために、先生方からの苦情が多く、 長続きしませんでした。平成 23 年の夏季休業期間中は、合 宿研修所の改修工事のため、部室を第 2 講義棟の 1 階の教 室に臨時で移動しました。このときは、バスドラムに毛布 を詰めたり、アンプの音を絞ったり、暑いのに部屋を閉め 切って騒音対策を施したので、苦情を抑えて活動すること ができました。 軽音楽部は、寮祭とこうよう祭でのステージライブと、2 囲碁・将棋部 30 年の歴史 囲碁・将棋部顧問 塚本 武彦 囲碁・将棋部は、昭和 57 年に将棋・囲碁同好会として発 足した。当時の顧問は物理の岡田教官(将棋)と知念教官(囲 碁)であり、個人や学校(学生課)所有の棋具を使って、 図書館和室で練習をしていた。高校の囲碁、将棋大会に参 加し上位に食い込むこともあったが、他高専との試合はほ とんどなかった。昭和 60 年から岐阜高専との交流試合が始 まり、これが中部・近畿地区高専将棋・囲碁大会として、 今日に至っている。また、平成 5 年に同好会から部に昇格し、 学生会費から棋具を購入できるようになった。 平成 6 年に秋田高専の米長教官(プロ棋士の米長永世棋 聖の実兄)のお骨折りで全国高専将棋大会が始まり、本校 はこの第 1 回大会(参加校 10:男子 40 名)から参加した。 この大会では、団体戦でベスト 4 まで勝ち残り、今でもこ の記録は大会プログラムに掲載されている。全国高専将棋 大会は、運動系の他の高専大会とは違い、高校県代表が何 人も参加するレベルの高い大会である。残念なことに本校 は第 18 回大会(平成 23 年)の第 3 位が団体戦の最高成績 であり、決勝戦に進出したことはない。個人戦ではベスト 4 に残ったこともない。本校は第 3 回と第 16 回大会を主催 している。下記の写真は、平成 21 年 8 月に蒲郡市のホテル 竹島で本校が主催した第 16 回大会(参加校 31:男子 149 名、 女子 14 名)の様子を示したものである。 月の如月ライブを主なイベントとしています。日々、テク ニック向上に努め、多くの学生が活動しています。 第 16 回大会(平成 21 年 8 月) 平成 23 年に囲碁 6 段の石塚天君が入部し、その年の 6 月 平成 23 年度 寮祭ライブ に日本棋院中部総本部で開催された第 35 回文部科学大臣杯 全国高校囲碁選手権大会愛知県大会の個人戦において見事 優勝した。彼は、平成 24 年の高校総合文化祭の囲碁大会に おいて、愛知県のチームの主将を務めた。 平成 24 年 6 月現在の部員登録数は 22 名(内女子 1 名) であり、顧問 3 名(高村、犬塚、塚本)で指導している。 216 第 3 章 学生生活 茶道部 演劇部 茶道部顧問 長岡 美晴 演劇から映画制作へ 輝かしい実績 演劇部顧問 神谷 昌明 茶道部の前身、茶道同好会が正式に発足したのは昭和 54 年であるが、活動はその前年の春より始まり、同年秋の建 築学科の催しの一部として開いたお茶会が好評であった。 その後、活動実績が認められ、同好会から部へと昇格した。 部員数は例年 10 数名程度であり、ここ 10 年程ほぼ毎年男 子学生が入部し、部長を男子学生が務めた年もある。現在、 河合幸子先生(裏千家)の後任、渡辺紀代子先生(裏千家) の優しくも厳しいご指導を福利厚生会館 2 階の和室で受け ている。 創部以来の大きな変革として平成 13 年に渡辺先生のお取 り計らいにより、茶道裏千家愛知第 1 支部学生茶道部に入 部したことが挙げられる。同茶道部には幼稚園児から大学 生まで在籍し、8 月初旬に主に国府宮神社で開かれる「ふ れあい茶会」で日頃の練習の成果を発表する。お点前、お 運び等各校が交代で行い、また毎年立礼席の飾り付けがす ばらしく、学ぶところの多いお茶会である。同茶道部に入 部してからは「ふれあい茶会」のための練習を夏休み中に も行なっている。このように活動の場が広がったことは大 変喜ばしく、また学生の練習にも今までよりも身が入るよ うになった。「ふれあい茶会」が終わると、「こうよう祭」 でのお茶会の練習が始まる。このお茶会は同好会時代から 続けられてきた人気の高い、最大の行事である。茶道を通 じて部員自らに、またお客様にも心の潤いを与えられれば 何よりと思う。 これまで桜井のり子教員、宇野洋平教員が部長教員を務 め、現在は長岡美晴教員が部長、前田博子教員が副部長を 務めている。 演劇部は平成 9 年 4 月に同好会から部に昇格した。 平成 10 年に創作劇『ロサンゼルス行 247 便』を、平成 11 年には星新一(原作)『KNOCK』を文化祭で上演した。 その後大きく方向転換し、平成 16 年からは映画制作を行い 数々の自作映画を上映し輝かしい実績を残してきた。 * 平成 16 年こうよう祭にて『ダブルポーチ』上映 * 平成 17 年こうよう祭にて『マリモ(merry mo.) 』上映 * 平成 18 年こうよう祭にて『サディーク』上映(こうよう 祭堀井賞受賞、平成 19 年 11 月~ 12 月、ひまわりネットワー ク(ケーブルテレビ)などで 24 回放映) * 平成 19 年こうよう祭にて『黄色い鳥と緑の犬』と『3 月 29 日 午前 8 時』を上映(2 年連続こうよう祭堀井賞受賞、 平成 20 年 2 月小坂本町一丁目映画祭 Vol.6 にて『黄色い鳥 と緑の犬』が全国優秀作品として上映) 演劇部の実績が認められ、平成 21・22 年度、「地域のケー ブルネットワークを利用した高専 PR 及び公開講座の配信 -学生と地域社会のコラボレーション-」の事業名で高専 改革推進経費を獲得した。演劇部とひまわりネットワーク 関係者が共同して、高専 PR ドキュメンタリー番組を 2 本、 ケーブルテレビ用公開講座を 3 本制作し、東海地区 4 県の ケーブルテレビで放映した。 平成 21 年度の実績 (1)デザコンドキュメンタリー番組『全国高専デザコン 2009 in 豊田』(30 分) (2)公開講座『機巧に学ぶ 人にやさしい技術』(30 分) (3)公開講座『絵解き英文法』(全 4 回シリーズ 各 30 分) 平成 22 年度の実績 (1)ロボカップ世界大会(シンガポール大会)ドキュメン タリー特別番組(映画)『ストライカーはロボットだ!~ RoboCup 2010 豊田高専 KIKS の挑戦~』 (60 分) (2)公開講座『脳の不思議 ― 目の錯覚はなぜ起こる?』 (30 分) スペース・デザイン研究部 平成 23 年度こうよう祭 スペースデザイン研究部顧問 山田 耕司 スペースデザイン研究部は、2003 年に設立された「建築 同好会」にその起源を持つ。「建築同好会」は、建築文化に 触れることにより、人間・社会・歴史に関する洞察を深め 217 第 3 編 部 門 編 ることを目的とし、学外コンペティション参加、見学旅行、 学内発表会などの活動を行ってきた。その後、2007 年に「ス ペースデザイン研究部」として空間デザイン、インダスト リアルデザインを含んだ創作活動を行う部活動として改組 鉄道航空研究同好会 鉄道模型ジオラマ展示(こうよう祭)を見たこ とがありますか? 鉄道航空研究同好会顧問 林 伸和 された。 これまでの成果として、2004 年度には「矢作川水源の森 間伐材利用プロジェクト デザインコンテスト」に 7 作品 応募し 3 チームが入選した。また、高専デザインコンペティ ションでも 2 作品入賞した。2007 年には、 「岡崎コミュニティ デザインリーグ 2007」に準入賞した。2009 年には、「愛知 建築士会第 4 回学生コンペー三河田原駅周辺を活性化させ るプランー」に参加し入賞は逃したが、市民投票で 3 位に 選ばれた。2011 年には「第 2 回全国高校生建築設計コンペ ティション」の奨励賞を受賞した。 鉄道航空研究同好会は、平成 18 年 4 月に熱心な学生が鉄 道に詳しい柏谷教員を顧問として創会した同好会である。 元々の会の目的は、人が乗れるような蒸気機関車を作るこ と、あるいはテレビ番組にもなっている「鳥人間コンテスト」 のような人力飛行機を製作し、大会に出場することであっ たと聞いている。しかし、予算や活動場所の確保、さらに 安全性を考慮すると活動は限られ、学生としてできること として、まずは蒸気機関等のメカニズム研究や資料集めを 活動内容とした。一方、同好会設立の当初から、学生達は このような活動に加えて、実際に目に見える活動として何 かしたいと考え、こうよう祭で鉄道模型を走らせたところ 好評で、今日に至るまで、この同好会の主要な活動として、 こうよう祭での鉄道模型ジオラマの製作・展示が続いてい る。 同好会ができて 6 ~ 7 年が経過し、学生は毎年入れ替わっ ているが、他クラブとの兼部がほとんどであるが、新入部 員が毎年新たなメンバーに加わり、とぎれることなく活動 は引き継がれている。 平成 24 年度こうよう祭での鉄道模型ジオラマ展示 機巧同好会 機巧同好会顧問 上木 諭 機巧(からくり)同好会は、平成 19 年 11 月 5 日に結成 願を提出し誕生した文化系同好会です。8 代目校長である 末松良一先生が大の機巧好きであり、事あるごとに秘蔵の 機巧を学生に披露していました。そのような状況の中で、 学生諸君の機械工学に対する興味に対応すべく、機械工学 科洞口巌教授と機械工学科 4 年安妻亮君、同じく 4 年本田 218 第 3 章 学生生活 雄大君、機械工学科 3 年山崎辰也君、他 4 名の学生によっ もらいました。振り返って考えてみると、ちょっと無謀だっ て機巧同好会は発足されました。機巧は機械工学科の学問 たかもしれません。 に関連する分野でありますが、ロボコンの盛んな本校にお 始めは、環境に関することは貪欲に何でもやりたいとの いてはロボコンを終えた学生の興味を満たす学問に近しい ことで、手当たり次第活動しようとしていました。外来種 同好会です.そのため、所属する学生の殆どは機械工学科 の問題の実態を聞きに琵琶湖へ、矢作川の環境に関する話 と電気・電子システム工学科の学生であり、機巧や加工な を聞くために矢作川研究所へ、はたまた本校教員の研究を どを好む学生です。 聞きに行ったりしていました。傍から見ると、分散しすぎ 機巧同好会の活動としては、機巧機構の製作、活動成果 ているように思えたのですが、ここでは外部との交渉の仕 の展示としてこうよう祭に展示しております。機巧機構の 方や団体としての方向性を決める必要性を学べたように思 製作では、素材となる板材や丸棒を購入し、ものづくりセ います。 ンターでボール盤、フライス盤、旋盤等を使用して加工を そのうち、自分達で探してきた NPO エコバンクあいち 行って製作します。これまでに、ピストン運動を利用した の子供向け環境教育ボランティア活動への協力やそのイベ 卵割り器、ゼンマイ駆動による自動書記機械など様々なも ント企画を行ったり、戸田川緑地等で植樹したり、伊勢・ のを製作してきました。こうよう祭の展示では、末松先生 三河湾フォーラム主催の海の健康診断に参加したりするよ 秘蔵の様々な機巧人形(指南車、弓曳童子、からくり段返 うになり、話を聞いて机上で考えることから自分達が体験 り人形等)や製作物の展示等を行ってきました。また、末 していくことにシフトしていきました。外に向かって活動 松先生のお手伝いとして、名古屋工業大学で行われたカラ していこうとした所に一皮むけた成長を見た気がしました。 クリ時計(成瀬時計)講座『時計づくり講座:職人体験を してみよう!』に参加協力等を行ってきました。 この後に、第 48 回日本学生科学賞にカイワレ大根の水耕 栽培での炭の効果の研究で出展しました。セッティングさ 現在では、機械工学科と電気電子システム工学科の学生 れた企画に参加することから企画自体を行うことに軸足が を中心とした部員数 7 名(機械工学科 5 名、電気・電子シ シフトした瞬間でした。卒研前にここに自分達で考えが至っ ステム工学科 2 名)の細々と活動している同好会です。も たことに喜びを感じていました。 のづくりの大好きな学生がものづくりセンターの協力の下 どこまで自分達だけでやれるのか見守ってきた同好会で で活動を行い、学生の興味ある機巧を満足いくまで製作し すが、その折々で成長していく様子がわかり、成長過程を ています。今後も機巧を製作し、ものづくりの楽しさと奥 見ていく楽しさを知りました。ベースがない中で、自分達 深さを学び、こうよう祭への展示等を行っていきたいと考 で考え・行動し、迷ったり、気付いたりを繰り返しながら えています。 道を探していく、そのような体験も成長を促すために大事 なのだと考えさせられました。現在は廃部となりましたが、 総合環境研究会 私自身が同好会で得た「学生の成長を信じて見守る」は、 総合環境研究会を振り返ってみて 私の教員生活の原点になっています。最後に、同好会で共 に過ごした学生達の自分らしい活躍を願っています。 総合環境研究会顧問 今 徳義 総合環境研究会は、平成 16 年に本校同好会として結成さ 第 3 節 回 想 れました。同好会が発足する半年前に顧問の話がありまし たが、当時の私は赴任したてで、学校業務や学校の仕組み に慣れていくことに精一杯であったため、一度は顧問を断 りました。しかし、「三顧の礼」ではありませんが、同好会 設立メンバーが自分達の活動目的や内容を何度も足を運ん で話をしに来た熱意に負けて引き受けることにしました。 当時の私は彼らの熱意を買って、方向性も含めてゼロか ら自分達の手で作り上げる体験をさせてあげたいと考えて いました。ですので、活動の把握や相談はしておりましたが、 まずは自分達で考えてもらい、行動は全て自分達で行って 私の学生主事時代に始めたこと 元学生主事 中嶋 清実 学生主事を平成 11 年 4 月~平成 15 年 3 月までと、平成 19 年 4 月~平成 23 年 3 月までの 8 年間歴任した。この 8 年間で私が主事の時代に新たに始めた行事について述べる。 平成 12 年度には学生支援活動の一貫として、裁判所の裁 判を傍聴することを 5 年生に実施した。犯罪者の裁判を緊 張感を持って傍聴することで、学生の将来の生き方に役立 219 第 3 編 部 門 編 ててもらうのが狙いである。 離れ広々と広がる絶景の中で行われるスキー教育に豊田高 平成 14 年度には、マナー改善の第一歩として挨拶運動に 取り組んだ。暦の 0(ゼロ)の日を挨拶運動の日とし、教員、 専に赴任した当初から退職するまで何度も参加して印象が 強く残っているので、そのことについて述べる。 学生会執行部が交替で校門および専攻科棟前で挨拶運動を 昭和 43 年 4 月、豊田高専に赴任したときには、スキー教 行った。この運動の成果として学生に対する挨拶の習慣づ 育が毎年 3 月総勢 100 人に満たない規模で 3 年生以上の希 けに役だった。 望学生に対して赤倉温泉スキー場(宿舎は山崎旅館)で実 また、授業中やクラブ活動の万が一の事故に備えて誰も 施されていた。スキーの経験がある自分にも教える側とし が対応できるように、全教職員に救急蘇生法の講習会を受 て参加要請があったので、違和感もなく教育の一環として けることを義務付けた。講習会には豊田市消防局員の指導 参加した。朝から夜まで、教職員だけで学生に対して団体 で行われ、現在でも教職員は 3 年に 1 回は更新の講習を受 生活、スキーの教育を行う合宿研修であった。今では考え けることになっており、学内の安全に対する認識が向上し られないナイタースキーも行われ、若手教員がゲレンデを た。平成 16 年度に行われた講習会を示す。(写真) 巡回したことも記憶に残っている。 その後、3 年生以上の希望者も少なくなって、スキー教 育の存在感も薄くなり始めた頃に、E科、I科、C科の 2 年生の参加も認め始めたため、スキー教育の趣旨・位置づ けが揺らいできた。このような事情も踏まえ学校行事とし ての議論が私も参画していた指導主任会議で始まった。そ の結果、平成 5 年度からスキー教育が 2 年生の正式な学校 行事となり、これにより原則全員参加の総勢 200 人を超え る大行事となった。スキー教育は多くのスキー場のある志 賀高原一帯で行われ、宿舎は発哺温泉の天狗の湯であった。 平成 16 年度救急蘇生法の講習会 平成 20 年には、これまでの環境美化作業の年 2 回(6 月、 11 月)を年 7 回とした。年 2 回はこれまで全学生、全教職 員が一斉に行ってきたが、これまでの反省点として、清掃 区域のわりに学生が多いことで効率が悪かった。これを年 7 回として、1 ~ 2 学年の学年団で 2 回、3 年以上の 5 学科 で学科ごとに 5 回とした。清掃区域が同じでも、少人数で することにより効率が良くなり、2 カ月に 1 回程度環境美 化があることで、以前よりキャンパスが 1 年を通してきれ いになった。 平成 21 年度には、校門横の駐車場のスペースの問題であ るが、これまで自転車の駐輪スペースが狭く、駐輪状態が 煩雑で、見苦しい状態であったが、バイクと自転車の駐場 を入れ替え、さらに自転車の駐輪スペースを拡幅すること で、長年の懸案だった駐輪場の問題を解決した。 学生主事のときは責任者として参加し、教員がスキーを 直接教える制度・精神も続いた。以前は、スキー人口が多く、 早くスキー場に行かないと、初心者、初級者用の適したゲ レンデが確保しにくかったが、このころは全盛期に比べて スキー人口も半分以下になり、ゲレンデも空いていた。ス キー用具の進歩により服、靴、板も軽くなるとともにスキー 板はカービングスキーが主流になって、初心者にとって制 御しやすく、スキー教育もしやすくなっていた。このころ、 ゲレンデには、スノーボードが若い人に人気が出始め、目 につくようになってきた。豊田高専の 3 泊 4 日のスキー教 育にも希望者に対してスノーボードの教育を一日組み入れ るようになっていた。平成 17 年度から宿舎を志賀高原・高 天ヶ原ホテルに代った。宿舎の前には平坦な幹線道路があ り、その向こう側の奥にはゲレンデが広がっていて、スキー 教育の実施・運営には良い場所と思っている。ところが、 スキー教育の実施が定期試験の終了から進級判定会議日の 間に行われるため、参加した指導教員が留年しそうな学生 スキー教育へのかかわり 元学生主事 山口 健二 思いもよらない学生主事の任を平成 15 年度から 4 年間仰 せつかり、多くの行事に参加した。その中で学校から遠く 220 の把握が十分にできない場合があり、この問題が進級判定 会議等で表面に出てきて、スキー教育が矢面になり、学生 主事が苦慮するようになった。 第 3 章 学生生活 自動車等使用規則の大改革を断行 元学生主事 赤木 知之 20 年前に改革されたこれらの交通安全施策が現在も脈々 と続けられ、学生達の交通安全意識の高揚に寄与し、死亡 事故零を続けていることは誠に喜ばしい限りである。 1982 年アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが提唱し た「破れ窓理論」は、今では誰もが知る犯罪未然防止策の 基礎概念であるが、当時は知る由もなく私の感性でこの理 論の意味するところを、豊田高専の自動車等使用規則の運 用手段として実践したのだ、と今心強く回想している。 当時何処の高専でも使用規則を守らない学生の車やバイ クの取り締まりに汲々としていた。業を煮やした学生主事 グループが取り締まりをたまに実行しても、根本的な解決 を図ることは出来ず、それでも黙々と取り締まりを続けざ るを得ない先生達。ある時は、校外の農道から違反駐車大 型バイクをリヤカーで運ぶ姿を見て、こんな事を先生達に 絶対させてはならないと強く思った。やがて、学生の交通 死亡事故が多発するようになり、当時の堀井校長は悲壮な 面持ちで、その頃初めて学生主事となった私に「何か対策 を考えろ」という指示が下されたのである。 破れ窓理論など知らない私であったが、「学校という狭い 社会での規則であるとしても、それを守らせることが出来 ず、学生達の規則を無視する風潮が高じてやがて大きな事 故に繋がるのではないか」という仮説を再確認し、一時も 学校の規則を犯させないように徹底的に取り締まる専任の 人を確保するしかないとの思いに達したのである。一部の 正論を唱えたがる教員からは、「それは学生指導だから学生 主事グループが実施すべきだ」と騒がれたが、毎日 2、3 回 もの違反車摘発の巡回など先生達には不可能である。また、 学生課の臨時職員を新規に雇用してその任にあたらせる等 の事務組織の柔軟性も期待出来なかった。 そこで、苦肉の策として浮上したのが、駐車料金を徴収 してそれを違反車摘発の巡視員の人件費に充当したらどう かという考えであった。当然、教官会議において猛烈な反 発を受けたが、堀井校長・高田教務主事・長谷寮務主事の 支援を受け、ぶれない姿勢でその方針を完遂したのであっ た。さらに施策を円滑に進めるために大胆な規制緩和策を 実施、第 3 学年生以上の自動車通学の許可、および、90cc 以下という自動二輪車の排気量制限を撤廃し、学生達の理 解も得ることが出来たのであった。当然の事としてこの規 制緩和策も轟々たる批判の的となったが、更なる交通安全 対応策として、富士山と乗鞍での第 3 学年生の合宿研修を 止め、当時、企業における社員の交通安全研修で効果を上げ、 評判の高かった鈴鹿サーキット交通教育センターでの学生 の実践的交通安全教育の導入に踏み切ったのである。 「貴重」な経験こそ将来にきっと生きる 環境都市工学科 平成 18 年卒業 伊岐見 祐矢 まず初めに、豊田高専 50 周年を迎えるにあたり、心から お喜び申し上げます。節目の 50 周年を無事に迎えることは、 卒業生の一人として大変うれしく思います。 さて、私は平成 13 年 4 月に環境都市工学科に入学し、平 成 19 年 3 月に本学を卒業するまでに本当に充実した学生生 活を送ることができました。その充実した学生生活には、 決して得意ではなく学年が上がるごとに苦労した「勉学」 はもちろん、お世話になった教員との「コミュニケーショ ン」、先輩や後輩そして同級生とのかけがえのない「絆」…。 こうした一つひとつの「経験」を得ることができたその中で、 一番大きかったのは 3 年から 4 年にかけて務めさせていた だきました「学生会長」が何よりも大きな、そして二度と 味わうことのない「貴重」な経験となっています。 さて学生会長就任当時は丁度「JABEE」導入の最中…講 義回数確保による夏期休業の短縮や一律の評価体制など、 急激に変化する当時の学内情勢に学生間でも心配や不安、 そして意見が多数ありました。当然、学生会長の私にもそ の声は一部届いていました。しかし、「学び」と学生会の主 体である「学生生活」は本来「分離」すべきこと。学生の 一人でもある私はそう感じておりましたが、学生の声を無 視することは学生会の行事にも当然影響出ることが懸念さ れました。その時、私はイベントや学生会のルーティンワー クを進める一方で、学生のその意見を会長としてどのよう にまとめることができるか。また学生会という組織として 学校側に提案や活動として反映できない「ジレンマ」に駆 られていたことが、当時とても辛かったことを思い出しま した。 体育祭やこうよう祭などの各イベントや日々のルーティ ンは無事に終わることこそ「喜び」や「達成感」といった「『有 形』の財産」となります。しかし一方で、達成困難な課題 や難題など、表には出てこない、言わば「『無形』の財産」 こそ、この学生会長の経験において社会人になった今、本 当の意味での「貴重」な経験として体得できたこととして よかったと強く感じております。 このような 1 年間に一人しか経験のできないポジション で得られたこと「貴重」な経験は、社会の一員として、そ 221 第 3 編 部 門 編 して豊田高専の卒業生として大いに役立ち、今の社会にお いて、そして自身の人生において大きな糧となっているこ とは間違いありません。 だんだん自立していくことが出来るようになりました。 これは社会人になった今でもこれらの経験が支えとなっ ています。 豊田高専を卒業された諸先輩方、またこれから豊田高専 多くのことを学んだ学生時代ですが、その中で、最も心 を卒業しこれから社会で活躍するフレッシュな学生の皆さ に残っていることは 3 年生時の東海地区高専大会です。こ んにも、きっと一人ひとり「貴重」な経験をこの豊田高専 の大会では 800 m、1500 m、4 × 400 mリレーの 3 種目に で得ていると思います。その経験はすでに生かしている方 出場しましたが、その全てで周囲から期待された結果を残 もおられるでしょうし、そうでない方もいつか生かすとき すことが出来ませんでした。その当時は原因が練習環境の がくるでしょう。その経験をどこかで原点回帰として思い 変化と直前に体調を崩したことだと思っていました。練習 出すことができれば、同じ豊田高専の卒業生としての「誇り」 環境の変化とはそれまで練習を引っ張って貰っていた先輩 になるでしょう。 が卒業したことでした。それにより、自分が引っ張ってい 今回の 50 年だけではなく、60 年、70 年…そして 100 年 かなければいけないというプレッシャーと厳しい練習メ と続く豊田高専の新たな歴史の中でこれからも、一人ひと ニューで限界まで追い込み切れず、2 年生まで伸び続けて りの「経験」を胸に豊田高専を卒業し社会で活躍する…そ いた記録も維持するどころか、落ち込んでいきました。体 んなすばらしい母校としてこれからも益々の成長、発展を 調を崩したことも、調子の悪さを考えなしにただ練習量を 卒業生として大いに期待します。 増やすことでカバーしようとしたことが大きな原因だと 思っています。 高専での生活を振り返って 機械工学科 平成 13 年卒業 加藤 聡 私は豊田高専を 2001 年に卒業し、トヨタ自動車に就職し ました。社会人として今年で 12 年目となりましたが、今で も学生時代の思い出がふと頭をよぎることがあり、そのこ とが今の自分の行動指針にも影響を与えていると思います。 そんな思い出の一部を今回お話したいと思います。 私が豊田高専に興味を持ったのは、兄が高専生でどんな 雰囲気なのか色々と聞いていたことと、将来技術系の仕事 をしたいと思っていたからです。無事合格出来た時は本当 に嬉しかったです。入学してすぐに寮生活が始まりました。 最初はどちらかと言うと親から解放された嬉しさよりも不 安の方が大きかったと思います。自宅にいた時とは違い、 身の回りのことを自分でしなければならないことに加えて、 より専門的な授業内容についていかなければいけなかった からです。 そんな時に心の支えになったのは誘われて入部した陸上 部と先輩方、一緒に入部したクラスメイトでした。 陸上部は本当に走ることが好きな人ばかりで、走ること の楽しさをたくさん教えて貰いました。もちろん辛い練習 もありましたが、先輩やチームメイトに助けられ乗り越え られました。寮生活も陸上部に入ってからは全く変わりま した。 先輩の多くは寮生だった為、食事を一緒に食べたり、よ く勉強を教えて貰いました。陸上部の練習だけでなく、色々 な面で助けて貰えたことで学校生活にも慣れ、寮生活でも 222 しかし今考えてみれば、それまでただ与えられた練習メ ニューをこなし、先輩についていくだけだった自分の活動 姿勢の問題だったのではないかと思います。その後も色々 な苦労がありましたが、周りのチームメイトのサポートも あり、諦めずに練習を続けた結果、4 年生の夏頃から記録 が再び伸び始め、秋には 2 年振りに自己ベストを更新する ことが出来ました。自立して練習を重ね、5 年間も同じ環 境で伸び伸びとやれたからこそ何度も頑張ってこれたので はと思います。 高専を卒業し、社会人になった今でも、会社の陸上部に 所属し仕事との両立に力を注いでいます。 これからも高専での経験を生かし、尚一層頑張っていき たいと思います。 第 4 章 教育・研究活動 第 4 章 教育・研究活動 豊田高専では、教育研究においていろいろな取り組 チェックの機会が用意されている。そのため、研究成 みを実施してきた。以下にその特徴的な取り組みをい 果は学会等で研究発表を行えるほどの高いレベルに達 くつか挙げていく。外部資金による教育高度化活動と している。専攻科生は大学生の年齢でありながら、大 しての取り組み、教育改善推進室の取り組み、国際交 学院生の行うような学会発表を行っている。 流の取り組み、キャリア教育支援室の取り組み、社会 貢献活動などの様々な取り組みについて述べる。 以上のように、高専における卒業研究、特別研究は 高専教育研究の大きな特徴となっている。 第 1 節 教育と研究 1.卒業研究 特別研究 本校では本科 5 年生で卒業研究、専攻科で特別研究 を行っている。 高専における研究については、当初、高等専門学校 の目的は学校教育法に、「深く専門の学芸を教授し、 卒業研究発表会の様子(建築学科) 職業に必要な能力を育成することを目的とする。 」と あり、設置基準に「高等専門学校は、その教育内容を 学術の進展に即応させるため、必要な研究が行われる ように努めるものとする(高等専門学校設置基準第 2 条第 2 項)」と記されており、直接的には目的として 研究については記されていなかった。しかし専攻科の 目的として「高等専門学校の専攻科は、高等専門学校 卒業研究発表会の様子(機械工学科) を卒業した者又は文部科学大臣の定めるところによ り、これと同等以上の学力があると認められた者に対 して、精深な程度において、特別の事項を教授し、そ の研究を指導することを目的とし、その修業年限は、 一年以上とする。 (学校教育法第 70 条の 6)」と記され、 「研究を指導する」の文言が明記された。 豊田高専では、以前から、教員、学生の研究につい ても重点を置いてきたが、専攻科設置以降はさらに力 卒業研究発表会の様子(電気・電子システム工学科) を入れてきた。 本科 5 年生の卒業研究では、1 年間にわたる研究が 実施され、8 単位が与えられる。中間発表、最終発表 2.外部資金による教育高度化活動 平成 20 年度教育 GP として選定された取り組みに などのプレゼンテーションの機会が、用意されている。 ついて、以下に紹介する。「多読多聴による英語教育 専攻科の特別研究は 2 年間にわたって行われ、12 改善」と「ボランティア活動を活用した実践教育」の 単位が与えられる。中間発表が 2・3 回あり、最後に 二つである。 最終発表が行われさまざまなプレゼンテーションや 223 第 3 編 部 門 編 (1)多読多聴による英語教育改善 この間、本校では多読用のやさしい英文図書を意欲 平成 14 年度の卒業生アンケートで卒業生の達成度 的に収集し、1・2 年の多読授業を行う LL 教室と、3 自己評価が低く、教育内容の満足度も低かった英語教 年生以上および電気・電子システム工学科において多 育を改善する取り組みの一つとして、電気・電子シス 読授業を行い、課外の多読用図書を提供する図書館に テム工学科の吉岡教員が同年「電気技術英語 B」に導 配 備 し た。 平 成 22 年 度 に は、 図 書 3 万 冊 と 朗 読 入したのが英語多読授業である。当時、実践を通して CD2,000 点以上を保有している。 多読三原則を確立、提唱していた電気通信大学の酒井 平成 17 年度には一般市民(中学生以上)向けの公 邦秀助教授の授業を見学し、また多読用英文図書を体 開講座を開始し、平成 20 年度からは図書館で行う多 系化しつつあった英語学習法研究会「SSS」の助言を 読授業に社会人受講生を受け入れる公開授業と、教職 得て、教材用の図書約 600 冊を収集し、授業を開始し 員、学生、地域の方々が共に学ぶ母体となる豊田多読 た。英語講読の授業で使われる英文に比べて、極端に クラブ月例会も開始した。また、地域の図書館にも積 やさしい英文で書かれた図書を、教員の助言を受けな 極的に働きかけ、その効果もあり、県内約 10 の公共 がらも学生が自ら選び、辞書なしで大量に読む授業で 図書館、および、豊橋技科大附属図書館が英文多読コー ある。週 45 分× 30 週の授業時間をコアとなる読書時 ナーを設置するに至っている。これら地域の図書館と 間として確保し、授業外にも読むように勧めた。受講 は、本校教員が市民向け入門講座を行う等により連携 生の評判も良好で、英語に苦手意識を持つ学生にも有 を図っている。このような地道な努力の結果、本校図 益と判断した電気・電子システム工学科では、平成 書館の多読用図書利用は、年々増加し、平成 22 年度 16 年度に多読授業を拡大し、第 2 学年から専攻科 2 の館外貸出し(多読用のみ)は、年間 3 万 6 千冊(学 年までの 6 学年に「電気英語」系専門科目、各 1 単位 生 2 万 4 千冊、学外 1 万 2 千冊)に達しており、英語 (週 45 分通年)を配置、3 名の学科教員が分担する形で、 学習における地域の生涯教育拠点としても機能し始め 6 学年一斉に英語多読授業を開始した。 つつある。 平成 16 年度には、一般科目の「英語講読」(第 1 〜 本校の多読授業実践は、工学教育、高専教育等の論 4 学年)でも多読指導を始めたが、授業外の課題活動 文誌や高専や工学教育関係の教育研究集会だけでな としたため学生の読書量が伸びず、効果を確認するに く、日本多読学会、全国語学教育学会(JALT)、大 は至らなかった。そこで、平成 18 〜 19 年度に深田教 学教育学会(JACET)、TESOL 年会(米国)、BAAL 員が行った実験授業をベースに、平成 20 年度からは (英国)等国内外の英語教育関係学会でも紹介され、 「英語会話」(第 1 学年)の授業内に 45 分間(通年) 特に長期継続多読授業実践は注目を集めている。また、 の読書時間を確保し、多読・多聴授業実践を開始した。 平成 18 〜 20 年度高専教育研究集会では優れた取り組 また、平成 20 年度には「多読・多聴による英語教育 みとして 3 年連続で表彰され、平成 19 年には全国高 改善の全学展開」が教育 GP 事業として採択されたた 専英語教育学会賞も受賞している。 め、 「英語会話」(第 1 学年、平成 20 年度から)に加え、 「英語表現」 (第 2 学年、平成 21 年度から)と「英語 講読」(第 3 学年、平成 22 年度)でも多読授業を行う、 (2)ボランティア活動を活用した実践教育 本取り組みは、環境都市工学科及び建築学科の全学 3 年間継続の多読・多聴授業実践が試みられた。その 年を対象として、学生がボランティア活動に参加する 結果、平均的な本校 3 年生が TOEIC で顕著な得点上 ことにより、学力の定着と実践力の向上を図ることを 昇を得るには、約 60 万語程度の読書量が必要であり、 目的としている。対象としているボランティア活動は、 3 単位の授業時間に加え、課外でも授業内と同程度の 環境都市工学科及び建築学科の学生が学んでおり、常 読書を行うよう指導する必要があることが分かった。 日頃から関心の高い分野である「防災教育ボランティ 専門学科と英語教員との連携により、学生の累積読書 ア」、「環境ボランティア」及び「町づくりボランティ 量を増すことが今後の課題である。 ア」の 3 つである。本取り組みを通じて、地域のボラ 224 第 4 章 教育・研究活動 ンティアニーズの発掘を行い、より多くの学生の参加 の診断、一宮市や豊田市のイベントでの防災教育等を を促すとともに、より実践的な防災、環境および町づ 実施してきた。 くり教育を実施し、ボランティア実施主体である行政 本校教員と学生が中心となって活動している豊田高 や団体と協力関係を構築し、学生の実践教育の場とし 専中心市街地交流スペース「パブリカ」の活動や、本 て活用していくものである。 校の学生が会長を務めた「NPO 学生によるまちづく 本校では、従来からボランティア活動による単位認 定を実施しており、環境都市工学科の学生は主に里山 りの会」によるバザー活動を通じた豊田市内の日系人 の支援活動等が新聞で取り上げられた。 保全などの環境ボランティアに従事し、建築学科の学 また、環境都市工学科や建築学科の学生だけではな 生は豊田市を中心とした町づくりボランティアを実施 く、平成 21 年度には電気・電子システム工学科の学 してきたという背景がある。 生が専門を生かしたおもちゃの修理ボランティアに取 本取り組み中は、ボランティアオフィスを構え、学 り組んだ。 生がさまざまなボランティアに関する情報を容易に入 平成 22 年度には、環境都市工学科の田中教員を代 手でき、また、気軽に相談できる環境を用意したこと 表とする防災ボランティア団体(TNCT 義勇隊)が で、より多くの学生がさまざまなボランティア活動に 設立された。現在は、防災に関する講演会への参加、 参加することができた。 こうよう祭での防災に関するブースの出展、東日本大 ボランティアオフィスには非常勤の職員が 1 名週 3 震災の募金活動を行っている。 日間勤務しており、近隣の市町村や社会福祉事務所か 今後も、より多くの学生にさまざまなボランティア らのボランティアニーズの調査を行っている。得られ 活動を体験してもらい、地域貢献を通じた学力の向上 たデータは速やかにHPに掲載するとともに、ボラン を図っていきたい。 ティアオフィスの掲示板に掲載した。ボランティアの 情報は、環境ボランティア、町づくりボランティアお よび防災ボランティアと分類して、学生が探しやすい ように掲載しており、さらに、環境都市工学科および 建築学科以外の学生向けに、情報、機械、電機系ボラ ンティアも用意して全学科の学生が利用できるように した。 本取り組みでは、町づくりや環境保全および防災教 育に関する特別講演会を実施した。同志社大学の山口 洋典氏をはじめとする町づくりや防災の専門家による 写真:ボランティアオフィスの様子 第 2 節 教育改善活動の歩み 講演会を 8 回開くことができた。 年に 2 回の研修旅行を実施し、多くの学生に町づく 1.教育改革タスクグループ りボランティアの実態や環境保護の必要性、防災教育 新世紀を迎えた平成 12 年頃から、工学教育界にお の必要性を理解させることができた。その研修先は神 いては、教育における質の保証、授業内容の公開、教 戸、山梨、京都など延べ 6 か所に及んだ。 育目標の設定と達成度評価、国際的に通用する技術者 防災ボランティアでは、コンクリート診断装置や振 の育成、などが叫ばれ始めていた。日本技術者認定機 動台など、この取り組みで新たに導入した機器を用い 構(JABEE)の基準に沿った教育改革の必要性が本 て、地域の方への防災教育やコンクリート劣化診断等 校にも押し寄せてきた。 を実施してきている。この分野は、専門性が高いこと 当時は専攻科長が中心となり、主に東京で開催され もあり、現在は教員と学生が一緒になってボランティ る JABEE 関連の教育セミナー、シンポジウム等に参 ア活動の実施を行っている。今までに、リニモ高架橋 加し、本校での取り組み方の準備にあたった。平成 225 第 3 編 部 門 編 12 年の時点で、東海地区でも鈴鹿高専と岐阜高専で 懸案のタスクは、メンバーの献身的な働きと、髙木 は、ある一定期間での資料集積が必要となる成績評価 校長のリーダーシップにより達成された。その中でも、 証拠資料である試験答案の複写を始めていたが、本校 教育目標の草案作成と、新しい成績評価法、新シラバ では具体的な取り組み方が決まっていなかった。 ス、成績証拠の記録法については難しいものがあった。 平成 13 年度も押し詰まった頃、当時の髙木校長、 本校の教育目標は一朝一夕に作成されたものではな 梶田教務担当副校長は、教育の質の保証に向けた改革 く、本校の校風、次世代のエンジニアに期待される真 が待ったなしに迫っているとの認識を持った。そこで、 の実力と柔軟性、創造性、国際的な視点をいかに盛り 年度が明けた平成 14 年 4 月に、教育改革タスクグルー 込むか、を真剣に検討したものである。目標ごとのキー プを結成することになった。この組織は教育改革が軌 ワードを取捨選択し、一字一句を丁寧に紡いで書き上 道にのるまでの時限付きの特別委員会であったが、本 げて、校長の裁断を仰いだのである。 校の教育活動に関する向こう数十年の指針を決めるべ 新シラバス、新成績評価法、成績記録については、 く立ち上げたものであるとの覚悟で臨んだ。また、こ 新手法であり予想以上の反発を招いた。しかし、年 3 の組織は、校長直属であり、校長と当時の副校長 3 名 回に及ぶ全教官参加での教育改革シンポジウムでの説 で成る顧問団から適宜、アドバイスや承認を得るとい 明、多数の希望者を集めての 2 度にわたる公聴会を経 うしくみであった。グループの陣容は、当時の中堅若 て、理解者を増やしながらグループが結成時に掲げた 手を登用し、所属学科もバランスよく構成されていた。 課題を解決していった。その成果は、グループ全員で 以下に構成メンバーを示す。 書き上げた平成 15 年度の教育教員研究集会提出の教 教育改革タスクグループメンバー 育研究論文「卒業生アンケートによる豊田高専の教育 氏 名 役 割 所属学科 評価」の国立高専学校協会会長賞につながった。そし 山下清吾 幹事長 環境都市工学科 てこのタスクグループで構築したシステムを引き継い だ教育改善推進室の翌年の創設へと舞台は移った。 濱千代いづみ 室員 一般学科 清水利弘 室員 機械工学科 西澤 一 室員 電気・電子システム工学科 安藤浩哉 室員 情報工学科 野田宏治 室員 環境都市工学科 山田耕司 室員 建築学科 2.授業法改善委員会の歩み(~平成 14 年度) 創立当初における教育改善活動や教官の資質向上を 担う委員会組織は文献からは見つけることはできな タスクグループは平成 14 年 4 月末に結成後、5 月 い。しかし、教務主事グループなどその役割を充分に 初旬から月に 2 回のペースで会議を開催し、活発な議 担っていた部署が多く存在することは下記に列挙した 論を戦わせ、様々な懸案に対処した。また 8 月には設 行事からも明らかである。それら部署の活動を踏まえ 楽町の奥三河総合センターに合宿し、現在の教育目標 て、昭和 51 年に教授法改善委員会が発足している。 の作成作業等に取り組んだ。以下に主なタスクを掲げ 教育改善および教官の資質向上活動といえる研究誌 る。 の発刊、講演会や他の教育機関の先生との懇親会の開 ・平成 13 年以前の教育活動に関する徹底的な分析 催を追ってみることにする。20 周年、30 周年、40 周 自己点検報告書、授業アンケート結果分析 年記念誌の年表からそのような項目を抜粋すると次の それまでの各学科での教育改善に関する取り組み ようである。ただし、詳細不明で、月日の記入がない 卒業生アンケートの計画と実施 項目がある。 ・平成 15 年度に制定予定の学校教育目標の草稿作成 全国の他高専の教育目標分析 ・成績評価の客観化とシラバスの刷新 ・成績資料記録保全の具体的な方策決定 ・JABEE 受審に向けてのシステム構築 226 ・昭和 40 年度(創立 2 年後)12 月 4 日: 藤岡由夫氏講演会 ・昭和 41 年度(文化祭)10 月 8、9 日: 本山政雄氏講演会 第 4 章 教育・研究活動 ・昭和 42 年度(特別講演会)9 月 16 日: 滝沢真弓氏講演会 ・昭和 43 年度 9 月:「研究紀要」第 1 号発刊 ・昭和 43 年度(文化祭)11 月 2 ~ 4 日: 内藤卯三郎、武内次夫、山本正男各氏講演会 ・昭和 44 年度 8 月:「豊田高専広報」第 1 号発刊 (厚生補導委員会) ・昭和 44 年度~ 45 年度(学生運動が盛んであった) ・昭和 46 年度(第 6 回杜若祭)11 月 12 ~ 13 日: ・昭和 57 年度(学寮講演会)10 月 29 日: 水野憲雄氏講演会 (学寮講演会) 1 月 26 日:三浦望慶氏講演会 3 月 2 日:旭野高等学校教員との情報交換会 (高等学校教育について情報交換) ・昭和 58 年度氏講演会(同窓会)6 月 25 日: 卒業生による講演会(第 4 回) (一般学科主催講演会)12 月 7 日:上田和孝氏講演会 (一般学科主催講演会)12 月 9 日:島岡清氏講演会 立松弘孝氏講演会 ・昭和 59 年度氏講演会(在学生意識調査)5 月 20 日: ・昭和 48 年度(学寮講演会)6 月 23 日:坪井弘次氏 教務主事グループ 講演会 7 月 1 日:佐々木重夫氏講演会 (同窓会) 6 月 30 日:卒業生講演会(第 5 回) (第 8 回杜若祭)11 月 9 ~ 11 日:梅田正己氏講演会 (電気工学科主催講演会)9 月 17 日: ・昭和 49 年度(第 9 回杜若祭) 11 月 9 ~ 10 日: 村上公敏、田辺晃生各氏講演会 ・昭和 51 年度 授業法改善委員会の編成 (学寮講演会) 6 月 22 日:松井秀治氏講演会 ・昭和 52 年度(学寮講演会)6 月 29 日: 竹内伸也氏講演 3 月:「高専教育」第 1 号発刊 (高等専門学校教育研究会) ・昭和 53 年度(創立 15 周年記念講演)4 月 19 日: 西山孝氏講演会(豊田市市長) 山本卓二氏講演会 (教授法改善委員会)10 月 17 日:教材研究発表会 ・昭和 60 年度(同窓会)6 月 25 日: 卒業生による講演会(第 6 回) (教授法改善委員会)9 月 11 日:視聴覚教育報告会 ・昭和 61 年度 (同窓会) 6 月 28 日: 卒業生による講演会(第 7 回) (図書委員会)11 月 5 日:シンポジウム 「毎日の学習と図書館」 (教授法改善委員会)10 月 17 日: 「発表の手引き」発行 ・昭和 54 年度 3 月 19 日: 豊田市内中学校教員と情報交換会 (授業方法改善のために生活指導 およびカリキュラムに関する情報交換) ・昭和 55 年度(同窓会)9 月 24 日: 卒業生による講演会(第 1 回) (教員への特別講演会)1 月 21 日:纐纈康兵氏講演会 3 月 4 日:豊田市内中学校教員との情報交換会 (授業方法改善のために生活指導 およびカリキュラムに関する情報交換) ・昭和 56 年度(電気工学科主催講演会)7 月: 山本賢三氏講演会 (学寮講演会) 10 月 26 日:木村豊氏講演会 12 月 17 日:豊田市内中学校教員との情報交換会 (授業方法改善のために生活指導 およびカリキュラムに関する情報交換) (学寮講演会) 12 月 26 日:波藤雅明氏講演会 ・昭和 62 年度(同窓会)6 月 27 日: 卒業生による講演会(第 8 回) (教授法改善委員会)9 月 11 日:視聴覚教育報告会 ・昭和 63 年度(教務委員会)5 月 25 日: 学生会と教育問題懇談会 (同窓会)6 月 28 日:卒業生による講演会(第 9 回) ・平成元年度(同窓会)5 月 27 日: 卒業生による講演会(第 10 回) (第 24 回杜若祭)11 月 8 日: ウィリー・バンクス氏講演会 ・平成 2 年度(同窓会)5 月 26 日: 卒業生による講演会(第 11 回) ・平成 3 年度(同窓会)5 月 25 日: 卒業生による講演会(第 12 回) ・平成 4 年度(教授法改善委員会)7 月 1 日: 自由討論会「私の授業法」 227 第 3 編 部 門 編 (教員向け講演会)10 月 1 日:駒澤勉氏講演会 ・平成 5 年度(同窓会)4 月 28 日: 3.教育改善推進室の歩み(平成 15 年度~) この節では、40 周年を過ぎたここ 10 年間の歩みを 卒業生による講演会(第 13 回) (創立 30 周年記念式典講演会) 11 月 5 日 トピックス風に紹介していくことにする。 平成 15 年度から、55 校の国立高等専門学校がひと ・平成 6 年度 4 月シラバス発行 つの特別行政法人国立高等専門学校機構として再出発 (同窓会)4 月 28 日 : 卒業生による講演会(第 14 回) したことは、JABEE(日本技術者教育認定機構)へ ・平成 7 年度(同窓会)4 月 28 日: の教育審査受審に向けた取り組みとともに、学校教育 卒業生による講演会(第 15 回) (教員討論会)学生指導に関する討論会 ・平成 8 年度(同窓会)4 月 26 日: 改革を必然的に招いた。 ここでは、教育改善室の活動が軌道に乗り、意欲的 に取り組んだ、あるいは取り組んでいる内容を紹介し 卒業生による講演会(第 16 回) ・平成 9 年度(同窓会)4 月 25 日: ていくことにする。 教育改善推進室の代表的活動に(1)FD(Faculty 卒業生による講演会(第 17 回) Development)セミナーおよび FD シンポジウムによ (授業法改善委員会)10 月 28 日: る教員の資質向上のための活動と、(2)授業改善への 広報で「授業アンケート」 結果を報告 取り組みがある。 ・平成 10 年度(同窓会)4 月 24 日: 卒業生による講演会(第 18 回) (1)FD セミナーおよび FD シンポジウムについて 最近(平成 23 年度)開催した FD シンポジウムの ・平成 11 年度(同窓会)4 月 9 日: 卒業生による講演会(第 19 回) 紹介でこの活動の概要を説明したいと思う。 この年度の FD シンポジウムは「あなたの教育にか ・平成 12 年度(同窓会)4 月 21 日: 卒業生による講演会(第 20 回) ける思いを教えてください ― ティーチング・ポート (教員への特別講演会)9 月 1 日: フォリオの紹介 ― 」という演題での講演会であった。 「教育プログラムについて」山本尚氏講演会 ティーチング・ポートフォリオ(以下 TP)とは、教育、 (教員への特別講演会)9 月 27 日: 授業、研究など教員としての自らの活動記録のことで 「技術者教育と JABEE」山内睦文氏講演会 ある。これを作成するためには、教育理念を明確にす (教員への特別講演会)12 月 13 日: ることに加えて、それに基づいた活動の実績が必要に 「産学連携の新しい在り方」架谷昌信氏講演会 なってくる。講師としてお招きした大阪府立大学高専 ・平成 13 年度(同窓会)4 月 20 日: の北野先生も指摘されているが、高専という教育組織 卒業生による講演会(第 21 回) (授業法改善委員会)8 月 22 日: 教授法改善中間報告会 「本校における教育の問題点」 シンポジウム (授業法改善委員会) が、社会から「教育に対する説明責任」、「教育の質的 保証」、「教育活動の可視化」が求められている中で、 個々の教員が行う「教育」の評価指標が明確になるこ とは重要であるといえる。例えば、教員の研究実績は、 公開授業の実施 成果発表を行うことで明らかになるが、「教育」の質 (教官シンポジウム) JABEE に関して の保証に関しては、この説明につづく(2)で紹介す ・平成 14 年度(同窓会)4 月 19 日: る学生による「授業改善のためのアンケート」などの 卒業生による講演会(第 22 回) 授業に対応した評価資料があるだけである。教育理念・ (教員への独立行政法人化の特別講演会)9 月 3 日: 活動などの教育活動全体に対する評価指標は見当たら 奥野(名古屋大学総長特別補佐)氏講演会 (産業技術シンポジウム 2002 in とよた)12 月 18 日: 「国際的に通用する技術者とは?」 228 ない。 第 4 章 教育・研究活動 そこで教育改善推進室では、教員が FD 活動を体系 的に把握できるために、TP 作成を推奨して活動され (2)授業法改善のためのアンケート 本校では、前述あるいは列挙した活動項目のように、 ている北野先生に講演をお願いすることにした。この 学力保証および自己学習能力の育成を目指して、授業 講演会では、TP 作成の意義について、個々の教育理 法改善委員会(FD 委員会)およびその後継委員会と 念の明確化、教育活動の実績確認だけでなく、TP を も言える教育改善推進室などを中心にさまざまな教育 作成することによって、それぞれの教員がどのような 改善活動を行ってきた。ここでは、授業改善に向けた 教育を行っているのかが分るようになり、これによっ 取り組みを報告したい。 て高専内での教員連携が充実されてくると言われた。 毎年実施している「授業評価アンケート」(平成 21 年度まで実施、平成 22 年度からは「教育改善のため のアンケート」として実施している。)の前身として、 平成 8 年 11 月に「授業アンケート調査」が行われた。 調査結果の一部を示すと、 ・「授業を聞いている」学生は第 1 学年の 75% がもっ とも多く、学年進行とともに減少していく。 ・「学習に対するやる気の無さの原因」として、「興味 がもてない」34.7%、「周囲に勉強する雰囲気がない」 32.8%とで、この二つの理由で 70%近くになっている。 また、講演の中で、2 人 1 組になって簡易版の TP を作成してみた。ここでは、教育に関して工夫してい ・カリキュラムについて、開講科目数を増やし科目選 択の余地を拡大すべき。 ることや、心がけて行っていること、大切だと感じて このような調査結果に基づき、技術者教育認定機構 実践していることを思いつくまま列挙し、これを整理 (JABEE)受審も視野に入れた大幅な教育課程改定が することで、自らの教育に関する考え方を明確にする 平成 16 年に実施された。 ことができた。そして、これをお互いに説明し合うこ 平成 12 年ではいくつかの授業を選んで半分のクラ とで、パートナーがどのような教育を行っているかが スで「授業評価アンケート」が実施されたが、平成 見えてきて、普段見えない部分を知ることができた。 13 年には全教科・全教員に対して行われることになっ このような意見交換を地道に続けていくことで、個々 た。このように回を重ねてきた「授業評価アンケート」 の教員の教育の質的向上とともに、教員連携も図られ に対して、教員からは、「効果があるのか」、「この質 ていくように感じた。教育改善推進室としてこのよう 問項目でいいのか」、「授業は改善されているのか」な な意見交換の場をできるだけ多く提供できるよう努力 どの疑問が出てくるようになった。そこで、アンケー していくつもりである。 ト効果を評価するために、平成 12 年前学期から平成 17 年後学期までの「授業評価アンケートの評価推移」 229 第 3 編 部 門 編 報告が平成 20 年になされた。その報告内容から教育 握や学生指導の必要性を感じる教員が増え、その方々 改善活動は地道に行われ、確実に授業改善されている の要求に応えるため、学生が学力低下を来たす兆候や ことが判明した。しかし、教員のアンケートを用いた 生活様式などを調査したり、留年する学生の履修や単 PDCA 活動の模索や迷いとともに教員の授業改善へ 位取得傾向などの調査を行い、広く意見交換をしてい の動きに対する学生の不満もあった。この状況を踏ま こうとしている。 えて、アンケート目的を「授業改善」と明確かつ具体 最後に、教育改善推進室では毎年度初めに、各活動 的に定め、さらに授業改善の目的を「意欲的・やる気 項目の計画(PLAN)を立て、年度末にはそれら項目 のある学習姿勢へと誘うこと」とした。そして、意欲 について、何をし(DO)、どのように点検し(CHECK)、 的に学習に取り組める科目の授業特徴を、学生へのア 次年度への活動資料(ACTION)としている。これは、 ンケート(平成 21 年度 1 年生~ 4 年生 785 名)とヒ 数年前にシステム化した、教育点検・改善システム(図 ヤリングにより抽出した。この結果に基づき、「やる 2)に従った活動である。このシステムは、校長、総 気を引き出す授業のコンセプト」を提示し(図 1) 、 務会議、各種委員会と有機的に連携する PDCA サイ アンケート項目を改善して、名称も「授業改善のため クルからなっている。 のアンケート」と改め、再出発することとなった。現 在実施して 3 年目を迎えている。 《アンケートによるやる気の出る授業の要因ベス ト 3》(平成 21 年度 1 年生~ 4 年生 785 名) 1 位 説明の分かりやすさ、理解しやすさ 2 位 授業への興味・関心 3 位 授業の準備・進行がしっかりしている 以上、アンケートについて今までの経緯を伝えたが、 このアンケート以外にも、互いに授業を参観し、意見 や感想を述べあう機会である授業公開週間(平成 24 年度より期間を 2 週間に延長して実施している)の実 図 2 豊田工業高等専門学校の教育点検・改善システム 施など、授業改善の孤立化を防ぎ教員同士が切磋琢磨 し共通認識を助長する改善活動も行っている。また、 第 3 節 国際交流 いろいろな教員の授業の進め方や実践風景などを収録 した授業方法の視聴覚資料としてのビデオを編集し、 新任教員などの教員の要求に応えて web ページで公 開している。 1.豊田から世界へ (1)1 年間の長期海外留学 本校は海外留学・異文化理解活動の盛んな学校であ る。異文化理解・国際理解推進のため、毎年、AFS・ YFU による長期留学制度を利用して、約 30 名の成績 優秀な学生(2 年生、3 年生)がアメリカ、ドイツ、オー ストラリア等へ 1 年間留学(休学留学)している。留 学生はホームステイをしながら現地の高校に通う。学 校生活(授業・クラブ活動など)、ホームステイを通 して多くの異文化に触れ、大きく成長して帰国する。 図 1 やる気を引き出す授業のコンセプト 帰国後、多くの留学経験学生は学生会、寮生会、地域 ボランティア活動の中心メンバーとして活躍してい そして、地味な活動ではあるが、近年、学生状況把 230 る。 第 4 章 教育・研究活動 (2)海外留学の目的・意義 (4)長期海外留学の評価・効果 AFS・YFU の理念に従い、国際理解と異文化理解 [1]毎年、約 30 名の学生が約 10 か国へ 1 年間長期留 に重点を置き海外留学を奨励している。(語学留学で 学する留学実績は一部の大学を除いて全国随一であ はない) る。 異文化(言語・民族・宗教・歴史・食生活など)に [2]多くの留学経験学生は多くの異文化に触れ、コ 触れることにより、アイデンティティ(高専生として、 ミュニケ―ション能力を身につけ帰国する。帰国後、 日本人として、(将来の技術者として)の確立を目指 学生会(会長、副会長など)、寮生会(寮長、副寮長 すとともに、全ての個人、全ての文化にはそれぞれの など)、地域ボランティア活動(AFS・YFU)の中心 尊厳と価値があることを体得させる。海外留学は偏見 メンバーとして活躍している。留学経験は留学経験者 や差別を持たない国際性あふれる技術者養成・人間形 だけではなく、学校・地域社会においても大きな財産 成に大いに繋がると考える。 になっている。 [3]副次的(二次的)効果;語学力(英語運用能力) (3)留学実績(昭和 57 年~平成 23 年 9 月まで) AFS・YFU 等による豊田高専の留学実績(1 年間 の向上 TOEIC-IP 試験結果からも判断できるように、留学経 の留学のみ) 留学者数:524 名 派遣国:35 か国 験者は英語圏以外でも英語力が向上している。また本 アメリカ(249)、ドイツ(60)、オーストラリア(47)、 校が全学的に行っている英語多読・多聴指導と有機的 ベルギー(15)、スイス(12)、タイ(10)、スウェー に結びついている。 デン(10)、ノルウェー(10)、フィンランド(9)、ニュー ジーランド(9)、コスタリカ(8)、デンマーク(8)、 マレーシア(7)、アルゼンチン(6)、インドネシア(5)、 イタリア(5)、ブラジル(5)、パナマ(4)、ボリビア (4)、ハンガリー(4)、チリ(4)、エクアドル(4)、 スペイン(4)、チェコ(4)、メキシコ(3)、オースト リア(3)、ベネゼェラ(2)、カナダ(2)、ホンジュラ ス(2)、フィリピン(2)、フランス(2)、アイスラン ド(2)、中国(1)、オランダ(1)、英国(1)、 近年 6 年間の実績 ・平成 22 年[出発]~平成 23 年[帰国] 冬出発組 7 名 夏出発組 30 名 合計 37 名 ・平成 21 年[出発]~平成 22 年[帰国] (フィンランドでのクリスマス 平成 22 年 12 月) 2.世界から豊田へ (1)外国人留学生・訪問団の受け入れ 外国人留学生、海外からの訪問者・訪問団を積極的 冬出発組 3 名 夏出発組 26 名 合計 29 名 に受け入れている。受け入れにより、国際交流を活発 ・平成 20 年[出発]~平成 21 年[帰国] 化させ、学生の国際理解・異文化理解に繋げている。 冬出発組 7 名 夏出発組 19 名 合計 26 名 ・平成 19 年[出発]~平成 20 年[帰国] 冬出発組 9 名 夏出発組 25 名 合計 34 名 ・平成 18 年[出発]~平成 19 年[帰国] (2)受け入れ・活動実績 [1]外国人留学生の受け入れ 文部科学省国費留学生・マレーシア政府派遣留学生 冬出発組 8 名 夏出発組 32 名 合計 40 名 を毎年受け入れている。毎年全学で 8 名~ 10 名の外 ・平成 17 年[出発]~平成 18 年[帰国] 国人留学生が本校に在籍している。 冬出発組 10 名 夏出発組 26 名 合計 36 名 ・年 6 回外国人留学生懇談会を実施 内 3、4 回は留学生による母国紹介を実施している。 231 第 3 編 部 門 編 目的:異なる言語・文化背景を持つ人々の文化や歴 史を理解し、国際化社会に順応できる能力を養う。 ・外国人留学生歓迎会 毎年 5 月に実施 ・外国人留学生研修旅行(日帰り)毎年 10 月に実施 ・こうよう祭に参加(模擬店)毎年 11 月に実施 ・外国人留学生送別会 毎年 2 月に実施 ・東海地区高専留学生交流会 毎年 12 月に実施 [2]YFU 夏期来日外国高校生受け入れ 東テイモール学生との交流会 平成 23 年 6 月 1 日(水) YFU 協会から受け入れの依頼があれば、1 か月間 程度、アメリカの高校生を 1、2 名受け入れ、授業に 参加させるとともに日本文化を体験させている。 (4)新たな展開(キャリア教育支援室主催) 平成 23 年度から国際理解・異文化理解活動をキャ リア教育の一環として全学展開している。 [3]海外からの訪問者・訪問団の受け入れ 毎年、JICA 研修生・オイスカ研修生以外に 3、4 目的:異なる言語・文化背景を持つ人々の文化や歴史 を理解し、国際化社会に順応できる能力を養う。 の訪問者・訪問団(視察団)を受け入れている。 ・国際理解・異文化理解講座(1) 11 月 9 日(水) 例:平成 21 年 訪問者・訪問団 第 1 学年全学生を対象 ノルウェーの紹介(豊田から ・2 月 25 日( 水 ) マ レ ー シ ア の Majlis Amanah 世界へ) Rakyat(MARA 公社)職員 3 名来校 講師:犬塚晃平(4 年環境) ・3 月 9 日(月)タイ・ラジャマンガラ工科大学 アドバイザー: 高野 宏(社会科教員) Phra Nakhon 校 24 名(教職員・学生)が来校 ・国際理解・異文化理解講座(2) 12 月 14 日(水) ・5 月 25 日(月)ドイツ国立アーヘン大学(Freshman 第 2 学年全学生を対象 モンゴルの紹介(世界から豊 Program 担当)Dr. Bernd Kraus 氏来校 田へ) アメリカ Highline Community College 国際留学部 講師:チンバット ビリグザヤー(5 年情報) Mariko Fujiwara 氏来校 アドバイザー:高野 宏(社会科教員) ・6 月 17 日(水)アレクシー・ハイチ共和国前首相 来校 第 4 節 キャリア教育支援体制の整備 ・9 月 9 日(水)ベトナム社会主義共和国科学技術省 (Business Elite Social Trust(BEST) )来校 1.キャリア教育の必要性 高等教育機関における学生のキャリア教育の現状や (3)評価・効果 あり方について様々なところで議論されており、高専 [1]本校が受け入れた外国人留学生による母国紹介な においては、就職、進学ともほぼ 100%の進路を確保 どは本校学生の国際理解・異文化理解に役立っている。 しているが、情報化、少子化、グローバル化といった [2]海外からの訪問者・訪問団を積極的に受け入れ、 社会情勢の急激な変化に対応した教育が必要となって 可能な限り本校学生との交流会を実施し、国際理解・ きている。このことから中学校を卒業した学生に年齢 異文化理解を深めてきた。 に応じた適切な学習の動機付けを行い、目的意識を持 たせ、高度な先端技術を身に付けさせるとともに、幅 広い教養や社会性を身に付け、いわゆるコンピテン シーを有する技術者として社会へ送り出すことが求め 232 第 4 章 教育・研究活動 られてきている。一般的に、高専のくさび形専門教育 を行い、学生自身が入学時の自分を確認する講座であ システムは、若年齢から専門技術に関しての優れた知 る。 識や才能を教授するシステムとして確立しているが、 ○合宿研修 教養や社会性を育てるシステムやその支援体制が不十 人間関係の構築に必要不可欠なコミュニケーション 分であると指摘されている。また、社会から主体的に 能力を育成するため、学外活動を通して、コミュニケー 物事を進める能力として、行動力、実行力、コミュニ ションスキルを学ぶ。また、学校生活を共に送る同級 ケーション能力が強く求められている。これまで本校 生や教員と親睦を深めることを目的としている。平成 では、教務、学生および寮務主事のもと学生指導およ 23 年度は、7 月 17 日、18 日の 2 日間、三重県立鈴鹿 び学生支援が行われてきていたが、学生指導は各教員 青少年センターで開催した。 の力量や裁量に委ねられていた部分も多く、系統だて た組織的な学生指導が望まれていた。 このことから、平成 21 年 12 月キャリア支援準備室 を置き、本校におけるキャリア教育の検討を行い、平 成 22 年 11 月キャリア教育支援室を発足させた。平成 23 年 4 月から学生に対してキャリア教育支援プログ ラムによるキャリア教育支援を開始した。 2.キャリア教育支援プログラム 1 年生合宿研修 本校におけるキャリア教育に関わる指導内容とし て、学年ごとに系統立てたキャリア教育支援プログラ ムを定めた。支援プログラムは主に低学年ではホーム ルーム活動、高学年ではアカデミックガイダンスで実 施する。「将来の夢、その実現のためのサポート-国 際的技術者への進化を目指して-」を目標とし、各学 年における目標を図のように定めた。 ここでは、いくつかのプログラム内容を紹介する。 人間力講演会 ○人間力講演会(1、2 年生合同) 在学時の経験が社会でどのように生きるか、社会で 必要とされる人材の条件とは何かなど、学習意欲を掻 き立て、学生が将来に夢を感じる講演会とする。また、 本講演会は教育後援会からご支援頂き、1、2 年生の 保護者の方にもご案内し聴講して頂いている。平成 23 年度は、七福醸造株式会社会長犬塚統氏をお迎え 図 キャリア教育支援プログラム し、「楽しい人生」という演題で、「感謝の気持ちをも つ」ことの大切さについて話していただいた。 1 年生 ○学生心得講座 中学校の生徒から本校の学生になったばかりの 1 年 生に、楽しく有意義な学生生活を送るための情報提供 2 年生 ○今の私、卒業後の私 ①上級生からの進路選択の情報提供、学科の進路状況、 233 第 3 編 部 門 編 職業興味検査、進路調査と発表を通して、将来のため に今の自分がしなければならないこと考えてもらう。 ②職業調査を熱心に行い、 発表会ではいろいろな質問が あり、学生は進路に対して理解を深めることができた。 3 年生 ○進路選択講座 「企業が求める人材」特別講演会の実施、また、学 科ごとに、進路状況説明等の情報を提供し、自分のキャ 女子学生のためのメイクとヘアスタイル講座 リアプランを作成させる。また、学生生活を振り返り、 今後の学生生活を考えていく講座である。 5 年生・専攻科 2 年生 ○キャリアプランニング(3、4 年生) ○社会人準備講座 夏季休業中の 4 年生校外実習報告会を聴講する。ま 卒業・修了までの学生生活の過ごし方について考え た、従来から実施されていた同窓会講演会の聴講対象 る機会とし、社会人として備えるべきことを再確認す を、3 年生と 4 年生とし、同窓生から在校時の学生生活、 る。学生の価値観・人生観と企業の求めるものの差異 自分の現在の業務内容などを聴講する。これらのこと や社会で必要な知識、能力、社会性、その理由と身に から、自身のキャリアプランを確認する。 つけ方などについて学ぶ。 ○労働法講演会や裁判所見学 4 年生・専攻科 1 年生 ○ビジネスマナー講座 校外実習前に、社会人として通用するマナーを身に 社会保険労務士による、労働法や社会保険法につい ての講演を聴講する。また、従来からクラスごとに裁 判所見学(裁判の傍聴)を行っている。 つけるための講座とし、外部講師から学ぶ。 ○企業へのエントリー講座 3.今後のキャリア教育支援について 就職活動を目前に控え、外部講師から就職活動の前 行動力、実行力やコミュニケーション能力などの人 に身につけておきたい社会人としての基本的なコミュ 間力は、学校や家庭、寮生活や課外活動など日々の生 ニケーション方法について学び、履歴書等応募書類の 活で育まれるものある。キャリア教育支援室では、時 書き方、送り方など具体的な方法について学ぶ。 代による学生の変化や社会の動向を見ながら、教職員 ○その他、学生が自主的に選択し受講する講座とし、 と連携し支援プログラムを通して、学生へのキャリア 同窓会にご協力頂き、卒業生よる模擬面接講座や女子 教育を支援していく。また、社会の要求や学生や保護 学生のためのメイクとヘアスタイル講座、模擬面接講 者からの要望も聞きながら、「豊田高専で学ぶことが 座、履歴書の添削講座、SPI ガイダンスなどを開催し できて良かった」と思える学生生活が送れるよう、キャ ている。 リア教育支援体制を更に充実させていく必要がある。 第 5 節 科学研究費補助金と共同研究 高専における研究については、高等専門学校の目的 は学校教育法に、「深く専門の学芸を教授し、職業に 必要な能力を育成することを目的とする。」とあるも 卒業生による模擬面接講座 234 のの、研究については目的に明確に示されていなかっ 第 4 章 教育・研究活動 た。しかし豊田高専では以前より、研究に力を入れて 継続を含めると 19 件となった。なお、教員の採択件 おり、科学研究費の申請や、共同研究を推進していた。 数は高専の中で 3 位であった。平成 19 年度科学研究 その後、専攻科設置により、専攻科の目的に「精深 費補助金の採択状況は、教員 7 件及び技術職員 2 件が な程度において、特別の事項を教授し、その研究を指 新規に採択され継続と合わせて 17 件であり、額・件 導することを目的とし」とする文言が明記された。こ 数共に高専の中でベスト 10 に入った。平成 20 年度 れにより高専での研究は明確なものとなり、以前にも 科学研究費補助金の採択状況は奨励研究を除いた採択 まして研究が推進されてきた。そのような中での科学 件数 20 件は全国高専第 1 位であった。以降、採択件 研究費の申請、獲得が重要なものとなった。 数 20 件前後、採択額 2000 ~ 3000 万円と推移しており、 最近の、科学研究費補助金の採択実績は以下のとお りである。 全国高専の中でも上位にある。 高専においては地域貢献、産学連携として民間との 平成 14 年度 18 件 13830 千円 共同研究が推奨されており、地域共同テクノセンター 平成 15 年度 15 件 17620 を核として共同研究が実施されている。 平成 16 年度 14 件 11810 民間との共同研究は以下のように推移している。 平成 17 年度 13 件 15360 平成 14 年度 12 件 9200 千円 平成 18 年度 19 件 18820 平成 15 年度 15 件 8300 平成 19 年度 19 件 23540 平成 16 年度 21 件 10730 平成 20 年度 24 件 34870 平成 17 年度 20 件 9200 平成 21 年度 20 件 21270 平成 18 年度 15 件 5200 平成 22 年度 23 件 22840 平成 19 年度 24 件 9675 平成 23 年度 20 件 31860 平成 20 年度 24 件 3448 平成 24 年度 19 件 27800 平成 21 年度 19 件 5900 平成 22 年度 24 件 6251 平成 23 年度 19 件 3430 最近では、20 件前後で数百万円の受け入れで共同 研究が実施されており、共同研究も順調に行われてい る。今後も、科学研究費の獲得、共同研究の推進に努 める必要がある。 第 6 節 社会貢献活動 科学研究費の申請に関する説明会 平成 16 年度より、科学研究費の申請を教員全員が 1.地域のケーブルネットワークを利用した高専 PR 及び公開講座の配信 行うことが目標とされた。それに向けて科学研究費申 国立高専機構(文科省)から平成 21・22 年度高専 請のための説明会が 9 月頃に毎年実施された。この説 改革推進事業として「地域のケーブルネットワークを 明会では科学研究費補助金獲得に向けての教職員の意 利用した高専 PR 及び公開講座の配信-学生と地域社 識向上を図るため、制度の概要、審査方法と着眼点、 会のコラボレーション-」(実行委員長 一般学科 研究計画調書作成に当たっての留意点等の説明が行わ 神谷昌明教員)が採択された。 れた。 高等専門学校が設置され、50 年が経過し、産業界 その結果、平成 18 年度科学研究費補助金の採択状 からは極めて高い評価を得ているが、残念ながら高等 況は、新規に教員 5 件及び技術職員 5 件が採択され、 専門学校を各種学校・専修学校や国立の高校と混同し 235 第 3 編 部 門 編 ている地域住民も少なくない。高等専門学校を少し高 『脳の不思議 ― 目の錯覚はなぜ起こる?』 (30 分) 度な専門学校とイメージされることも多い。 講師:情報工学科 早坂太一教員、女子学生 2 名 地域社会の「ものづくり教育」・「教養教育」に貢献 し、高専ブランドの確立を目指すために、豊田高専は ひまわりネットワーク 7 回放送、東海ケーブル 6 回放送、動画配信 主に演劇部学生を中心として、ひまわりネットワーク (豊田地区のケーブルテレビ)と共同・連携し、高専 PR ドキュメンタリー番組を 2 本制作し放映した。さ らに特色ある多数の公開講座などを制作し放映した。 また FM とよたを活用して「ラジオ TNCT」という 情報番組を提供した。 平成 21 年度 事業内容 1 デザコンドキュメンタリー番組『全国高専デザコン 2009 in 豊田』(30 分)の 制作及び配信 ひまわりネットワーク 8 回放送、東海ケーブル 7 回 公開講座 『脳の不思議 ― 目の錯覚はなぜ起こる?』 (ひまわりネットワーク収録スタジオにて 平成 22 年 9 月 5 日) 放送、動画配信 2 ケーブルテレビ用公開講座の制作及び配信 (1) 『機巧(からくり)に学ぶ「人にやさしい技術」』 講師:末松良一校長 ひまわりネットワーク 7 回放送、東海ケーブル 6 回放送、動画配信 (2) 『絵解き英文法』(全 4 回シリーズ 各 30 分)の 制作及び配信 講師:一般学科 高橋 薫教員及び、演劇部な 3 FM・インターネットを利用した情報発信 FM とよた(ラジオ・ラブィート 78.6MHz) 『5 時 9 時ラジオ』第 3 土曜日 午後 7 時 30 分~ 35 分「ラジオ TNCT」 (5 分間) を放送 4『週刊 地域ジャーナル』(20 分の番組)で高専紹介 ひまわりネットワーク放送日:7 月 2 日(金)リピー ト放送:7 月 3 日(土)~ 7 月 5 日(月) どの学生 出演者:末松良一校長、一般学科 神谷昌明教員 ひまわりネットワーク 28 回放送、東海ケーブ 多方面から反響をいただいた。豊田高専のみならず ル 26 回放送、動画配信 高専の知名度アップに繋がった。 3 FM・インターネットを利用した情報発信 FM とよた(ラジオ・ラブィート 78.6MHz) 『5 時 2.豊田高専主催の公開講座 9 時ラジオ』第 3 土曜日午後 7 時 30 分~ 35 分「ラ 本校では地域貢献の一環として公開講座を実施して ジオ TNCT」(5 分間)を放送 豊田高専教員・学 いる。平成 15 年度 9 講座、平成 16 年度 9 講座、平成 生による地域社会貢献活動・学内活動を発信 17 年度 12 講座、平成 18 年度 11 講座、平成 19 年度 12 講座、平成 20 年度 12 講座、平成 21 年度 10 講座、 平成 22 年度 事業内容 平成 22 年度 10 講座、平成 23 年度 11 講座、平成 24 1 ロボカップ世界大会(シンガポール大会)ドキュメ 年度 12 講座、と毎年 10 講座前後を開講した。 ンタリー特別番組『ストライカーはロボットだ!~ RoboCup 2010 豊 田 高 専 KIKS の 挑 戦 ~』 (60 分 ) の制作及び配信 ひまわりネットワーク 7 回放送、 東海ケーブル 6 回放送、動画配信 2 ケーブルテレビ用公開講座の制作及び配信 236 平成 15 年度ならびに平成 24 年度に実施された講座 名は以下の通りである。 平成 15 年度:「揺らしてわかる木造住宅の耐震診断 法」「小学校 4・5・6 年生(初心者)のための水泳教室」 「メカワールド体験講座」「形と強さの体験学習」「セ 第 4 章 教育・研究活動 ンサー付きのインテリロボットを作ろう(簡単な電子 最 初 の 平 成 18 年 度 は 末 松 校 長 を 含 め 23 件 の メ 工作)」 「インターネット体験とホームページ作成」 「水 ニューを用意した。以後、平成 19 年度 36 件、平成 の力と速さをはかってみよう」 「パソコンの中身とネッ 20 年度 42 件、平成 21 年度 41 件、平成 22 年度 46 件、 トワークのしくみ」 平成 23 年度 58 件、平成 24 年度 55 件のメニューを準 平成 24 年度:「ものづくり体験記Ⅱ~低融点合金の 鋳造・金属の電子顕微鏡観察・信号機のコントロール」 備した。豊田市、岡崎市、豊橋市の小中学校に案内を 出して、募集をした。 「絵本からはじめる英語多読入門」「マイコンロボット 当初は入学試験係が担当で募集をしたが、平成 20 の製作とロボットコンテスト(1)」 「MATHEMATICA 年度より総務課、企画連携係が担当して、生涯学習の で楽しく学ぶ数学体験」 「センサつきのインテリロボッ 一環として実施した。 トを作ろう(簡単な電子回路工作) 」「ロボットレス 21 年度 5 件+地域貢献事業 16 件、22 年度 4 件 + キューに挑戦!」「「ウルトラマイクロ水力発電モデル 地域貢献事業 5 件、23 年度は地域貢献も含めて 23 件 の製作」-自然エネルギーを活用しよう-」「気分は を実施しており、年を追うごとに実施件数が増加して 建 築 家!? 夢 の マ イ ホ ー ム を 設 計 し よ う!」 いる。内容は、各教員の専門を生かしたものである。 「Windows7 とフリーソフトウェア、ネットワーク入 門(初・中級編)」「とよた高専おもしろ科学教室」 その他、豊田市連携講座、名古屋市大学連携講座を 実施している。 出前授業(Robocup 世界大会サッカーロボット) 公開講座(ペーパーブリッジコンテスト) 公開講座(マイコンロボットの制作とロボットコンテスト 1) 3.出前授業 本校では地域貢献の一環として小学校、中学校等へ の出前授業を平成 18 年度より実施している。末松前 校長の発案によるものである。 237
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