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医歯薬桜友会会報 第13号 2005.4 - momo

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医歯薬桜友会会報
第19号
2012.4
GAKUSHUIN
医歯薬桜友会会報
目
第 19 号
次
髙倉公朋
3
私の生涯・・・・・・・・・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
5
徳川転勤事情・・・・・・・・・・・・・・桜友会名誉会長
亀井 泓
7
日本酒大好き人間として・・・・・・・・・桜友会副会長
大井昭彦
9
聖路加病院・・・・・・・・・・・・・・
波多野敬雄 11
四十年後の手紙・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
特別寄稿
学習院院長
教師冥利・・・・・・・・・・・・・・・・学習院大学学長
福井憲彦
13
日本語というバリア(障壁)に守られて・・学習院女子大学学長
石澤靖治
京都の正月・・・・・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長
林
15
17
身近な出来事・・・・・・・・・・・
加川紀代子 21
学習院女子中・高等科長
A子の入学後のとまどい・・・・・・・・・ 学習院初等科
知宏
三浦芳雄
23
会員からの寄稿
五感、就中嗅覚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋 25
症例から学ぶ糖尿病の早期診断•早期治療・・・・・・・・・・・ 石橋健一
31
平成 23 年 3 月 11 日 東日本の大地震 ・・・・・・・・・・・・・稲生綱政
34
ニューヨークで再会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡 仁美
35
半世紀前のベルリン自由大学泌尿器科助手時代・・・・・・・・・小島弘敬
38
医療技術に対する診療報酬・・・・・・・・・・・・・・・・・・齊藤壽一
44
最後の徴兵検査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮
46
醫の心・醫の倫理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤
蕃
47
みなと釧路の夏祭り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
51
ミラノからモンブランへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
55
地中海に沿って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
59
私の「外リンパ瘻」裁判で明らかになった事・・・・・・・・・・須貝六實
69
「縁もゆかりもある」話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西山 緑
74
医師となって 45 年 学習院大学で学んだこと・・・・・・・・・・深沢規夫
77
湖東三山と美濃薬膳料理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
79
忘れ得ぬ旅クロアチア・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦恭定
82
医歯薬桜友会の歩み
87
物故会員
93
庶務だより(第 32 回医歯薬桜友会総会・講演会・懇親会のお知らせ)
95
平成 23 年度決算報告
96
医歯薬桜友会役員名簿
97
医歯薬桜友会会則
98
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善利秀臣
会報バックナンバー
99
四十年後の手紙
医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
東京大学、東京女子医科大学名誉教授
(昭 26 高・東京大学医学部卒)
私は昭和 14 年 4 月に初等科へ入学し、20 年 3 月に
卒業しました。私が 3 年生であった昭和 16 年 12 月 8
日に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まりました。
昭和 17 年の間は戦争が始まったとはいえ、東京はまだ
落ち着いており、いつもと変わらぬ授業が続いており
ました。しかし四谷の校舎の屋上には兵隊さんが常駐
して、敵機が襲来した時に迎撃するように高射砲が設
置されておりました。毎日竹竿の先端にモデルの飛行
機をつけ、一人の兵隊さんがその竹竿を持って歩くと、別の兵隊さんがそれを狙い
撃ちする訓練を行っておりました。昭和 18 年のある日、一機の米軍爆撃機が東京を
通過し、四谷の校舎からも飛んでいる飛行機がよく見えました。受け持ちの大橋武
夫先生と土田治男先生の指示で、私たちは地下室に隠れじっと時が過ぎるのを待っ
ておりました。この頃を境に戦局は次第に悪化してまいりました。山本五十六元帥
の国葬があり、私たちは四谷校舎の外塀に沿って並び、海軍軍楽隊が「海行かば」
の曲を、ゆっくりと演奏して流れていく葬列を全員で頭を下げて送りました。
国内には大空襲がいつ起こるかわからない緊張感が漂い、学童疎開が計画されま
した。まず沼津へ、次いで修善寺へ移動する疎開が決まりましたが、大橋先生と土
田先生は、その準備でさぞ大変だったと思います。
昭和 20 年 3 月に私共は初等科を卒業し、中等科は引き続いて日光に疎開して開始
することになりました。3 月 10 日に修善寺から東京へ全員で戻りましたが、その前
日に東京は大空襲に襲われ、列車は大幅に遅れて品川までたどり着きましたが、駅
周辺は一面焼け野原となっており、まだところどころ、くすぶって燃え続けており
ました。数日後、目白の校内で、ささやかな卒業式を終え、直ちに中等科の授業が
始まるために日光への疎開が始まりました。私の家も 5 月の大空襲に襲われて、初
等科時代の日記も記録も全て灰となって消えてしまいました。
それから 40 年ほどたったある日、土田先生から一通の分厚い原稿が届きました。
開けてみると私が修善寺に疎開している間綴った作文 10 編と手紙等が入っておりま
した。土田先生は、生徒たちの作品を 40 年の間大事に保管して、その熱い想いを送
ってくださったのでした。大橋先生も土田先生も今は故人となられましたが、私の
初等科時代の遥か昔の想い出が、この封筒の中から現れてきた感がいたしました。
作文を読み返してみると当時の初等科の生活がよみがえって参ります。その中の
一つに昭和 19 年 11 月 30 日(水)に書いた空襲という題の作文がありました。修善
寺の疎開中に米国の B-29 爆撃機が編隊を組んで東に向かって飛行機雲を長く残しな
がら飛んでいくのが見えました。私共は小山の藪の中に身を隠して逃れたのでした。
その時の想いは空襲を受ける東京のことでした。私の作文はこう綴っております。
高鳴るサイレン
心がしまる
遠き雲間に魔鳥の姿
日ごろの訓練物いわせ
手早くそろふ退避の姿
帝都を案ずる心をしづめ
見入るは高度を飛ぶ B-29
足取り早く山中に
小藪の陰に身をひそむ
響く爆音に耳傾けて
聞き入る心に流し攘夷
帝都の空を飛び走る
敵機の姿が心に映る
今年、私の孫娘が初等科の 6 年生と 3 年生になります。初等科の建物の古い部分
は、私が学んだ頃と変わっておりません。しかし今は空襲の恐れは無く、平和な時
が流れております。今の東京の街の面影から、70 年前の東京を想像することは不可
能と思います。大橋先生も土田先生も子供たちを大切に育てて下さいました。土田
先生が送ってくださった封筒の中味の懐かしい想い出と共に、今改めて「先生有難
うございました」と申し上げたいと思います。
特別寄稿
私
の
生
涯
学習院名誉院長
桜友会名誉会長
医歯薬桜友会名誉顧問
島津久厚
私は大正 7 年に誕生し、3 歳の時に当時陸軍将
校であった父親が病気の為に死亡したので、母
親と姉 3 名、という女子に囲まれた家庭で育っ
たものでした。当時のこととてお手伝いさんも
何人かいて自分では余り寂しい等とは思はなか
ったのですが、明治時代の思想も未だ強く残っ
ていた時代ですから旧藩の有力者の方々の意見
で「大事な家の跡継ぎが女性の中で育っては柔
弱になるので、郷里の都城に帰して旧藩士の然
るべき人物の家庭で教育を受けるのが良い」
との意見で学習院の初等科一年まで学習院で学び、小学校の二年生になるときに都
城の小学校(都城男子尋常高等小学校)に転校し、旧藩士の家庭で男子の多い、家
庭に預けられて通学したものでした。
(なお私は幸か不幸か幼稚園を除いて男女共学
の経験はありません)
私はこのようなそれまでの家族と切り離されての環境の変化は余り寂しいとは思
わなかったようです。これはその家庭が男子 5 名、女子 1 名の朗らかな家庭であっ
たせいもありましょう。小学校の 2 年から 5 年まで楽しく生活させて貰った訳です
が、私を預かったご家庭では大変であったろうと今日になって申し訳なく思ってい
るところです。然し、田舎の学校ばかりでは学力の心配があったのでしょうか、小
学校の 6 年になるときに学習院初等科の 6 年生に編入試験を受験させられて、その
後学習院中等科、学習院高等科に進み、昭和 14 年に学習院高等科(理科)を卒業し、
16 年に東大農学都農芸化学科を繰り上げ卒業して、陸軍の技術将校になり、終戦後
は郷里で仕事をしたり、東京に顔を出しては学習院の柔道部に顔を出したりしてい
る内に学習院の父母会長を仰せつかったり、桜友会の副会長に推挙されたりしまし
たがとうとう桜友会の会長を仰せつかってしまったわけです。其の頃に磯部先生が
院長に就任されましたが、多分桜友会方面からの御意見だったのではないかと思い
ますが、磯部先生を補佐する専務理事を配するべきだとして、私にその重責を要請
されたので、やむを得ずお引き受けしてしまった次第でした。更に、磯部先生お亡
くなりになって内藤先生が院長に就任されたときにも後任者として私に御指名があ
特別寄稿
り専務理事を続けることになった次第です。ところがその内藤先生がお亡くなりに
なった時にそれこそ学者でもない菲才の私が院長として責任者の立場になってしま
いました。多分平成 7 年から 13 年に至るまで院長を御勤めしたことになりましょう。
退任後暫くは自分の仕事をしていたのですが、現在では仕事は息子に譲って地方の
名誉職的なことに顔を出しています。
学習院とこのように長い御縁を持つことが出来たことは、自ら望んだ訳ではない
のに栄誉ある生涯を送らせて頂いたものと感謝しております。
話は変わりますが最近桜友会から名簿を送って頂いたのでそれを見て、改めて驚
いたのです。私の同級生は昭和 14 年に高等科を卒業しているクラスに関わってくる
のですが、文科と理科を合わせて 53 名の中で、現在生存しているのは名簿上では
12 名になっています。私が東大の農芸化学科を卒業した時の人数は 50 名ですが、
現在の生存者は調査不十分かも知れませんが、2 名となっていることを考えると年
齢が九十四歳(私の例)ともなると生存率は 90%程度が平均なのかも知れません。
医歯薬桜友会の皆さんの御努力でこの数字が(健康に恵まれた状態で)少しでも高
くなることを期待する次第です。
特別寄稿
徳 川 転 勤 事 情
桜友会名誉会長
医歯薬桜友会名誉顧問
亀井
泓
サラリーマンにとって転勤はつきもので、律令制
の昔から延々と今に続いている。私もその例に漏れ
ず、銀行生活30年で、国内・外の転勤6回、引越
しは12回に及んだ。これからお話しするのは、北
海道は釧路での2年間の生活の中の一齣である。
釧路から東、根室に向かって車で40分ほどの所
に、太平洋に面して厚岸(あっけし)という小さな
町がある。アイヌ語で「牡蠣の沢山住む所」という
意味を持つこの漁業の町の片隅に、ひっそりと一つの寺が建っている。名を国泰寺
(こくたいじ)という。文化2年(1805年)の建立で、厳しい北辺の風雪の重
さに耐えた建物は、ひどく疲れて痛々しい。しかしその古びた山門の扉に、今なお
はっきりと残る葵の紋が、この寺の格の高さを物語っている。
そもそもこの寺の建立に先立つ6年前、徳川幕府は東エゾ地、今でいう道東地方
(十勝、釧路、根室)さらには国後、択捉を直轄地とした。この頃ロシアの使節が
根室に来航、イギリス船が測量を行うなど、鎖国政策を脅かす外圧は勢いを増しつ
つあった。そこで幕府は北辺の守りを固めるとともに、土着アイヌの懐柔、さらに
は魚、木材などの資源開発を目的として、松前藩に属していたこの地を自らの手で
経営することを決断する。それとともに、役人、商人、さらには出稼ぎ人(下北半
島、三陸沿岸出身者が多い)など異郷の地で苛酷な自然と闘う人々に心の拠り処を
与え、また闘いに疲れ、敗れた人々の霊を弔うために、地域第一の泊りで、交通、
交易の拠点であった厚岸の地に官寺が設けられることになる。この国家的使命を担
って生まれた寺の9代にわたる住職達の日記、書簡集が今に伝わっている。
住職の白羽の矢を立てられた僧には、エゾの原野と、雪と氷に閉ざされた長い冬
の日々が待っており、しかも在勤期間は原則7年間と長い。生きて再び江戸の地を
踏むことも計り難いことを思えば、何とかして逃れたいと思うのは人情で、色々の
理由を付けて免れようとするが、何分にも寺社奉行直々の任命であり、
「すでに評議
の上決めたことなので、一通りの理由では通らない」と予め釘を刺されてしまって
いるので、断るわけには行かない。上司の命に逆らうのは今よりもずっと難しかっ
た時代であるから、最後には「不得止事」と諦めるが、せめてもの願いとして、癪
特別寄稿
が出たので出立まで暫く待って欲しいと、空しい時間稼ぎをしたり、支度金の増額
や前借りの陳情なども行われる。
そして江戸から2か月余の長旅の後にやっと辿り着いたエゾ地の自然の厳しさは
想像以上で、初代住職は、最初の冬を越したところで病を得て辺境の土となってい
る。
「この頃は老衰がひどく、仕事にも差し支えるようになりました。持病の癪が起
こり、ハリや薬も一向に効きません。足腰も不自由になり、この冬を越すことはと
ても覚束ない有様です。どうか一刻も早く江戸に帰らせて頂きたい」
。こうした切々
たる訴えが例外なく歴代の住職から寺社奉行に届けられるが、いずれも梨の礫であ
る。そこで、帰任が無理ならば「せめて奥州の湯治場なりとも出向いて保養を許し
て頂きたい」と、次第に諦めの中に、悲痛の色が滲んで来る。たとえ故郷への帰任
が叶ったとしても厳しい生活の中で虐め抜かれた心と体には、最早幾ばくの力も残
されておらず、帰郷後時を経ずして命を失った住職も多い。寺には、今なおそれら
歴代の住職の墓が肩を寄せ合うようにひっそりと立っている。
それにしても、幾山河を経て辿り着いたこの寺で迎える最初の夜に、新しい住職
は何を祈ったのであろうか。その夜同じ寺に眠る二人の僧、片や長く辛かった日々
を生き抜いて江戸に帰れる喜びに震える僧、片や明日からの厳しい日々を思って心
おののく僧、それぞれの思いに揺れる二人の僧の心の中に太平洋の波音だけが何時
までも寄せては返していたことであろう。長い時を隔てて彼等の墓に詣でる私の耳
に絶え間なく届く波の音は、彼等からの切ない語りかけのようであった。
(昭和24年、旧高)
特別寄稿
日本酒大好き人間として
桜友会副会長
大井昭彦
私は学生時分から清酒を好んで飲んでいました。も
ちろん仲間と新宿のトリスバー等でトリスのハイボー
ルもよく飲みました。私も当時の学生たちと同じよう
にサントリーオールドやジョニーウオーカーの黒など
に強い憧れも持ったものでした。私が清酒を好んだ大
きな理由には、小学 2 年になる 4 月に戦争の激化に伴
い、当時兵庫県明石で祖父が営んでいた酒蔵に疎開し
たことによると思います。私はよく蔵の中で遊んでいました。毎年 9 月になると大
勢の蔵人が来て造りの準備に入ります。まず麹室(コウジムロ)の立ち上げから始ま
るのですが、これは土に稲わらを 3 センチ位に切ったものを混ぜ、壁を作っていく
のですが、このまま蔵人が帰ってしまいますと、ネズミなどの巣になり雑菌が入っ
てしまうので造りが終わると、壊して帰るためです。のちに祖父はこの室(ムロ)を
大手の蔵に先駆けて鉄筋コンクリートで造り、酒造りに大きな変革をもたらしまし
た。そして蔵にある大きな炉で直径 2 メートル程の釜に湯を沸かし、米の蒸し等が
始まります。それから仕込み、熟成、搾り、ピン詰め、ペーパー貼り等々60 数年を
経た今でもその流れをありありと覚えています。
昨年の東日本大地震による北陸の酒蔵も、大きな被害を被られたことに大変心を
痛めております、と共に一日でも早い復活を望んでいます。
さて日本酒と言えば今の地酒ブームですが、私はいつも不思議に思うのです。清
酒はその地域地域の料理に合った酒が造られています。たとえば秋田の酒ですが、
比較的酸の強いものが多いと思います。肴に、しょっつる鍋にきりたんぽ等が挙げ
られます。又正反対の大分県の酒は《西の関》に代表されるすっきりした少し甘み
のある酒があります。それは酒の肴に城下鰈・鯛にふぐと白身の魚が主となります。
昔から灘の男酒、伏見の女酒と言われますが、灘の男酒は、瀬戸内の脂ののった魚、
伏見の女酒は、汎なりした京懐石があります。
この様に食と酒はそれぞれが助け
合ってきています。今の酒場のように多くの酒を並べれば良いと思っている店が多
いのが残念でなりません。たとえばレストランでワインを注文するとき肉の場合は
赤ワイン、魚の時は白ワインを頼むでしょう。これを和食に当てはめて見ましょう。
特別寄稿
まずアペリティフとして、冷たくした吟醸酒(大吟醸ではなく軽いもの)次に、お
通し、前菜、煮物、お造り等々には白ワイン風に軽めの酒、本醸造、私は普通酒の
ほうが好きです。ここで口替りとしてリキュールグラスにごく冷たくした大吟醸を
少々。次に焼き物(主として油ののった西京焼き等)続いて揚げ物(天ぷら等)こ
こまでくればお分かりと思いますが、赤ワイン風に酸味のある酒、純米酒が合うと
思います。そして最後にごく上等の大吟醸酒を軽く一杯!ご機嫌でお帰りください。
乗りすぎで申し訳ありませんが日本酒の飲み方を今一度、考えなおしてみて頂ける
と大変うれしく思います。皆様方といつの日か酒談義などしながら一杯行きたいも
のです。
(昭和 34 年
経済学科卒)
特別寄稿
聖 路 加 病 院
学 習 院 長
波多野敬雄
私は日野原先生に頼まれて 15 年程前から聖路加
国際病院の理事を務めている。理事は11名で理事
長が日野原さん。年に 2 回か 3 回理事会を開くが結
構議題が多い。病院は黒字経営で拡張計画が次々に
提案されてくる。ここ 2、3 年のものを拾っただけで
も日本ビクター本社跡地購入・聖ルカ大手町ステー
ション開設・聖ルカライフサイエンス研究所設立・
心血管センター設立・看護婦宿舎建設等々があり、
この中の特に大きな案件としては病院から歩いて 5 分程のビクター跡地 700 坪購入
と東京駅近くに建設中の 34 階建てビルの 2 階部分 540 坪に全ての外国語で即時対
応出来る国際医療サービス会館を設置する件がある。理事の人達は自分が間もなく
病院でお世話になるような年頃の著名人ばかりで資料を丹念に読んでは質問するが、
その答弁説明には百才の日野原さんが一生懸命対応する。一寸疑念が残っても日野
原さんが「やりたい」と云ってそのカリスマでどんどん事業拡張が承認されていく。
聖路加の理事をやっていると日野原さんの個人的関心プロジェクトに参画せざる
を得なくなる。私も幾つかやっているが一つは「ホイットフィールド万次郎友好記
念館」でこれは江戸末期のジョン万次郎が捕鯨船長ホイットフィールド氏に救われ
てボストンから 2 時間程のフェアヘイブンという町のホイットフィールド家から小
学校に通った所だが、その家が朽ち果てて売りに出たのでこれを再建して日本人の
観光にも役立てたいという話だ。私はこの件に外務省時代から係わっていたが、日
野原さんが 1 億円以上の寄付を集めて先般完成した。因みにフェアヘイブンには他
に観光資源はないが、唯一ゴルフ用品のタイタリスト本社があるのでこのボールに
ジョン万次郎のロゴを付けて売りに出している。
もう一つは宮城まり子さんが主催している重度ハンディキャップを持つ人のため
の「ねむの木学園」の支援で、これも役員をやらされているところ、日野原さんは
もとより宮城さんもお年で健康も優れないので学園の将来が若干気になるところで、
先日の理事会では私を宮城さんの(暫定的)後任者に指名する案文が提出されたの
には驚き、慌てて勘弁していただいたこともある。
私も何時の間にか多くの NGO・NPO の役員にされているが、自分の年も考えて
特別寄稿
これからは学習院以外の仕事は成るべく整理して学習院を良い学校にすることに専
念しようと思っている。
特別寄稿
教
師
冥
利
学習院大学学長
福井憲彦
学長に就任して以降、授業の現場からは離れざる
をえないことになっている。教育負担がないから楽か
といえば、まるでそうではない。学長としての仕事は
連日山のように降り注ぐので、つぶされないように対
応していると一日が過ぎる。学期中は休みなし状態。
もっとも一説では、私が提案し動き回るから自分を忙
しくしているのだ、ともいわれる。しかし曲がり角に
ある日本の教育を一部であれ背負っていると考えると、
動き回らないわけにもいかないのが損な性分か。
いずれにせよ授業はしていないので、ゼミなどの教え子は、しばらく前から増え
ていない。教師をしていると、自分が直接関わった学生たちのその後の去就は、実
に気になるものである。かなりのゼミ卒業生たちは、毎年一回開いている OGOB の会
に出てきてくれたり、あるいは便りを寄せてくれて、元気で活躍している様子がキ
ャッチできる。
こうした卒業生の元気な様子が、私にとってはまことにうれしい。教師冥利に尽
きる、という表現がぴったりくる。授業で話したことや卒論のための指導が彼らの
記憶に残っていなくても、それはどうでも良いようなもので、私も自分の学生時代
を振り返れば、似たようなもの。この教師冥利こそが、教員としての職業を続けさ
せてくれた、といっても過言ではない。
なかには、研究者として、あるいは教育者として高校だけでなく大学でも活躍し
てくれている者がいる。これは教え子のほうが追いついてきたな、と思わせるよう
な活躍に触れると、余計にうれしい。後進に追いつかれ、追い越されるのは、悪い
ことではない。いや「追い越された」と実感する事態はまだ経験していない、と強
がりを言っておきたいが、追いついてきたなと実感することはある。私の専門領域
である歴史の研究には、史資料や先行研究などを扱うのにとにかく時間がかかる。
学長に就任して以来、その時間はないので、したがって歴史研究者としての私は停
止状態にある。視野の広さや蓄積と経験がなんとかカバーしてくれている、と思い
込むようにしているが、客観的には保証の限りではない。記憶にしても、齢を重ね、
対象と接する時間がなくなれば、やはり正直薄まることは避けられない。
特別寄稿
我ながら年取ったか、とも思えるのだが、そうだからかどうか、教え子が活躍し
て追いついてきたな、と思わせる姿は、かえって教師冥利に尽きるなあと、しみじ
み思う。つい最近では、彬子女王による史料館講座での講演と国際シンポジウムで
の発表に立ち会って、その思いを強くした。彬子女王とは、文学部史学科に進学さ
れた一年生の基礎演習から卒論指導まで教師として、そしてオクスフォードに留学
なさってのち現在に至るまで、ゼミ卒業生の仲間としてお付き合いさせていただい
ている。
また、昨秋に中公新書から『小村寿太郎』を刊行した片山慶隆君も、もう一つの
最近の例である。私も中公新書から陣内秀信さんと共同で一冊出版しているから、
教え子の一人が追いついてきたという実感である。片山君は、史学科の学生時代か
ら、私の西洋近代史ゼミと同時に日本近代史ゼミも兼ゼミし、法学部の井上寿一先
生にも指導を仰いでいた。そして一橋大学の大学院へ進んでのちには、日本近代政
治史を欧米との対外関係を一つの軸に据えながら研究し、関西にある私立大学で教
鞭をとっている若い有望株である。学部の学生時代からでも熱心であれば、こうい
う勉強の仕方と指導の受け方が可能なのも、規模が巨大ではない学習院大学の良い
ところではないかと思っている。ほかにも最近、東海地方にある公立大学に就職の
決まったゼミ卒業生がいる。彼女もまた私の元から、自分の専門にぴったりあう先
生のいる他大学大学院に進学したのち、エジプトに留学して歴史と社会調査との境
界領域で仕事をしてきた研究者で、そのたくましくなった姿には目を見張る思いだ。
学長の仕事に専念していると、こうして教師冥利を感じさせてくれる教え子をさ
らに自分のゼミから生み出すことはできないわけだが、しかし他方では、全学的な
かかわりがさまざまにできるので、活躍する卒業生に触れる機会は広がる。これは
ありがたいことで、昨年春に副学長が中心になって編集してくれた広報用ブックレ
ット『SAKURA PASSPORT 世界とつながる学習院大学』では、かつて政治学科で故坂
本多加雄先生のゼミで学んだスポーツライターの増島みどりさんと対談する機会を
得た。このブックレットに登場してくださっている卒業生は皆さん、ほんとうに生
き生きと輝いている。教師冥利を感じる幅が広がって、まだしばらくは教育の世界
から離れられないのかと、隠棲への願望もある私としては複雑な心境である。
特別寄稿
日本語というバリア(障壁)に守られて
――マスコミ、政治家、そして・・・・・・
学習院女子大学学長
石澤靖治
私は以前マスコミの世界にいたが、その世界の知
人からある時にこんなことを言われたことがある。
ちなみに彼はフルブライト留学の先輩にあたる人で
ある。彼いわく「日本で競争力を持っている業界は、
世界との競争にさらされているところだ。自動車や
エレクトロニクスがそれだ。その一方でこの世の中
には、日本語というバリア(障壁)によって守られ
ている業界がある。それはマスコミと政治だ。それ
らは世界との競争から遮断されているために、自助努力を怠り競争力がない」
彼は日本のマスコミに良くなって欲しくて、自虐的にこのようなことを言ったの
だろう。だが、的を射た発言だと思ったものだ。マスコミという世界は、使ってい
る言語は日本語だし、受け手(顧客)も日本人である。つまり典型的なドメスティ
ックな産業である。もちろんそれはどこの国のマスコミでも同様のことだが、アメ
リカのマスコミの場合は、世界の共通語といっていい英語で報じられているため、
その報道は世界の多くの人の目にふれる。またアメリカは落ちぶれたとはいえ世界
の超大国であることは間違いないから、英語メディアを通じての注目度は高い。日々、
その内容(品質)は世界中から監視されていっているといっても過言ではない。
ところが日本語を使う人々は日本以外ではほとんど存在しない。また残念ながら、
世界における日本の影響力も減じている。だからこそなおのこと、日本のマスコミ
は世界と競争する必要はなくなり、売り手と顧客が日本人同士という完全なドメス
ティックな存在になっている。それが何を意味するかといえば、仮に内容(品質)
が低下しても他に外国からの代替品がないために、品質向上の努力をするインセン
ティブが働きにくいということになる。ただ、競争力があるはずのアメリカのマス
コミは、インターネットなどのデジタルメディアの攻勢の前に、猛烈なリストラの
嵐が吹き荒れている一方、がっちりした宅配制度に守られ、高齢者の熱烈な新聞愛
好者の存在によって、日本のマスコミがアメリカほどの苦境に陥ってはいないのは
皮肉ではある。
次に政治家である。政治家も理屈はマスコミと同様である。政治家はそれぞれの
選挙区で有権者から票を得て選ばれるのであり、最終的には自らの国家の反映のた
特別寄稿
めに尽すわけだから、日本の政治家の顧客は日本国民である。外国人には被選挙権
はなく、仮に優秀な議員候補者が海外(外国人)にいても代替されることはない。
政治家として問われる重要なものの一つに、対立する利害を調整する能力がある。
しかし日本の場合、1990 年のバブル崩壊までは基本的に順調な経済パフォーマンス
を見せてきたため、パイが拡大する社会の中で、政治家たちは苦しい調整を迫られ
ることは少なかった。それは先進国では稀な事例であり、政治家として本当に鍛え
られる機会は多くはなかったということである。残念ながら日本では政治家に対す
る評価は地に落ちているが、こうしたドメスティック性を考えると、彼の指摘には
納得させられてしまう。
この話をその知人から聞いたのは、私はまだマスコミの世界にいた 10 年ちょっと
前だった。そしてその友人はその時、実はもう一つ日本語というバリアに守られて
いる業界があると語っていた。それが大学だという。
確かに、これまでは日本のマーケットの中が中心だった。日本の学生を相手に日
本の大学同士が競争していた。また大学というパイも大きくなってきていた。業績
にしても理系の学者の研究は海外との競争を前提としている人はいても、文系につ
いては多くの場合はそうではない。その意味では日本という閉ざされたマーケット
の中で、外国との競争は関係のない守られた世界だったと言えたのかもしれない。
そうした状況は現在、大きく変わりつつある。そのことを十分肝に銘じておきたい。
特別寄稿
京 都 の 正 月
学習院中等科長・高等科長
林
知宏
一昨年の 4 月より中等科、高等科の科長を務めている。
日常の忙しさは想像以上で、起こる様々な出来事の処理
に追われている。もともと家の中にじっとしているより
も外にぶらりと出かけることが好きな性分である。しか
し私的な時間や機会になかなか恵まれない。ときには偶
然、予定が空くことがあるけれども、温泉にでも行って
疲れを癒したいと思いがちである。
それも日帰りがせいぜいだ。日頃のストレス解消に正月三が日くらいは何もスケジ
ュールが入らないだろうと思い、実家へのあいさつを済ませて今年は正月をどこか
で過ごそうと旅立った。まさに「そうだ京都、行こう」という CM のフレーズ通り
の行動となった。学会で訪れることが多く、自然にその街並みに愛着を持つように
なっていたのだが、好きな場所で正月を過ごすのはやはり心地よいものである。
新幹線の中では、旅日記を一つと芭蕉の『おくのほそ道』
(講談社学術文庫)を読
んだ。暮れに BS でドナルド・キーンと平野啓一郎が対談している番組を見て、彼
らが語り合っていた芭蕉に自分も少し浸りたいと考えたからだ。家内は「男の人っ
てみんな芭蕉が好きなんだよね」と言う(女性たちは芭蕉をそれほどいいと思わな
いのかな)。家を離れて旅に出ることはある種の本能的行為ではないかと私は思う。
ただ人びとはまた元の巣に戻ってくることもあらかじめ考えている。その点、いに
しえの詩人たちに倣って「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の
思ひやまず」と述べた芭蕉のメンタリティは何か突き抜けているように感じる。男
女区別なく出先で思い出を作ることは理屈抜きで楽しい。ただ最近の若い人は必ず
しもそうは考えないらしい。
京都に着いてから最初に行く場所は
決めていた。やはり学校に係わるものと
して学問の神様にお参りせねばなるま
い。そこで北野天満宮に向かう。
(北野天満宮の絵馬)
特別寄稿
予想していた通り多くの人出でごった返していた。日常の忙しさを言い訳に研究を
怠けてばかりいる自身の懺悔からする。
「こんな私を見捨てないでください。どうか
末長くお付き合いください。」今年は時間を作って将来の布石になる研究プラン、ア
イデアを考えよう。もちろんいつも学校で接しているかわいい中等科生や高等科生
の学業成就もお祈りする。ところで学業が「成就する」とは一体どのような状態を
指すのだろうか。私自身しばしば簡単に口にする言葉だが、冷静に考えてみると奇
妙なフレーズだ。学問に定まった終着点などがあるわけもない。それにもかかわら
ず、あえて執着し続けることが学問をするということなのだろう。だから本当は、
学業成就などと安易に願をかけることは誤りなのかもしれない。もちろん単に彼ら
の進学先の希望が叶うようにといった程度のことではない。むしろ私は、中高生に
も限りのないものを引き受けて追いかけるような人物になって欲しいという期待を
持っている。それは彼らの人生が充実するためにである。はたして私の気持ちは通
じるのだろうか。
バスで今出川通りを鴨川べりまで移動する。川岸に立つ Bon・Bon・Café でラン
チ。窓からは犬を散歩させる人、ジョギングする人、遠くには大文字焼の大の字が
山肌に見える。なんだかのんびりしている風景に「ここでは鴨川時間が特別に流れ
ている」と感じる。食後、川面に降りていき、亀の形をした石をまたぎつつ対岸の
下鴨神社に参拝する。訪れたのは 1 月 2 日だったが、これが 4 日であれば蹴鞠初め
を観ることもできた。
さらに北の方角へ、出町柳駅から叡山電車で詩仙堂へと向かう。ここは特に好き
なスポットである。何かのきっかけで以下のような文に接したことが影響している
と思う。
詩仙堂の庭のことが記憶に又戻ってきた。その向うに流れがあって鹿威し
とかいう仕掛けが竹の筒が筧の水で一杯になると落ちて来て打ち出す単調
な音が耳障りにならない。それがそういう音がする為にも気が配られたに
違いなくて川西はそれが出立のように響く妖しい音とは到底思えなかった。
もし石川丈山というのが詩に親む一方で幕府の為に京都の目付け役も勤め
るという閑雅に徹した人間だったならば時間がたつのに苛立つという錯覚
にも陥る筈がなかった。
(吉田健一『旅の時間』
(講談社文芸文庫))
特に紅葉の時期が美しいらしいが、私は冬にしか訪れたことがない。枯れた木々に
うっすら雪が積もっているという光景が私自身の思い描く詩仙堂である。大佛次郎
もこの詩仙堂を次のように称えている。
私は詩仙堂が好きで、二十年近く、京都へ来る毎にきまって訪れる。それ
特別寄稿
には朝のうちか、夕方、日の暮れ際、人がすくなくなった時刻を撰ぶ、そ
れは、詩仙堂の静かな時が好きだからである。
(『旅の誘い』
(講談社文芸文
庫))
(詩仙堂の庭園)
京都の中心から少し離れているおかげで、確かに人は多くない。そして何よりここ
ではその静寂を満喫できる。時間は流れず止まってしまう。決して広くない空間に
限られた視界が広がっていて、水の流れ落ちる音と時折鹿威しの乾いた音が鳴り響
く。畳の上に足を投げ出し、庭を見ているとまさに頭がクリーンになって雑念が消
えていくように感じる。言い尽くせぬ心地よさがここにはあるのだ。本当はあまり
人に教えたくない自分だけの大切な場所である。
再び町の中心へと一乗寺駅に戻る。だが駅の線路を通り過ごす。実は別の目的地
がもう一つあったのだ。それは本好きにつとに著名な店、恵文社一乗寺店を訪ねる
ことだった。雑誌などでもよく紹介されるニュー・スタイルの「書店」である。店
内は若い人であふれていた。新本の品ぞろえと配置がユニークで、古書や文房具、
食器、食材もそろえている。旧来の本屋に対するイメージを覆す新たな感覚が人を
引き付けるのだろう。品切れになっている古書、植草甚一・鍵谷幸信編『コルトレ
ーンの世界』
(白水社)を購入。帰りの新幹線の中で読むのにちょうどいい本を見つ
けた。昨年、ジョン・コルトレーンに関する書籍が出版され(藤岡靖洋『コルトレ
ーン:ジャズの殉教者』
(岩波新書)
)、私の中で熱が 20 年ぶりくらいに再燃した。
1966 年の来日公演の CD もリニューアルされて発売された。彼のサックス演奏は聴
く者に深い印象を与える。ただ少し「鬱陶しく」感じるようにもなり、一時期遠ざ
特別寄稿
かっていた。音質も改善された演奏を再び聞くと、以前と異なる側面に気づかされ
るところが面白い。
一日京都を満喫し、翌日は近鉄特急で奈良へ向かった。興福寺東金堂や国宝館、
東大寺大仏殿、新しくできた東大寺のミュージアムという王道コースをたどる。奈
良公園の鹿はなぜあれほど人を恐れないのか。人間の方が道を譲っているのだから
実に不思議だ。ともあれ今回は一泊二日の旅であったが、楽しく過ごし満足できた。
またリフレッシュされた気持ちで、学校運営に向かっていけそうだ。
特別寄稿
身 近 な 出 来 事
学習院女子中・高等科長
加川紀代子
今年は自分の身近に起こった出来事二つについて述
べたいと思います。
一、成人のお祝いに参加して
最近は成人になったお祝いを同窓会形式で行うよう
になりました。先日その会にお招き頂き、教え子の成
長した華やかな晴れ姿を見せて頂く機会を持つ事がで
きました。
鮮やかな着物姿の二百名近い卒業生は、以前の制服姿とは異なり、まばゆい色彩
に溢れておりました。美しい姿に向かって私共は一瞬戸惑い、様々な部分を引き算
し、ようやく素顔に辿り着きます。このようにして一人一人を認識する頭の体操の
ような時間を過ごしました。
しかしその美しい着物姿の淑女達も暫くすると、「お腹すいた」「苦しい、脱ぎた
い」という以前と全く変わらぬ会話をするようになり、昔の明朗闊達な生徒に戻っ
て楽しい会話が弾むようになりました。
その会でのスピーチで私は「
御両親や御家族への感謝の言葉
」を必ず本日中
にお伝えすることを宿題にしました。果たして何人が実行してくれるのか、解りま
せんが、成人の日という節目を迎えた元教え子にスピーチをする貴重な機会を頂き、
とても嬉しく有り難く思いつつ宿題を出しました。
そして後日、
「娘がお礼の言葉を伝えた」というお話を何人かの方から伺うことが
出来、またまた嬉しい思いに浸ることができました。
一、入院体験記
もう一つは入院体験記です。以前医歯薬桜友会会報第 17 号に永井前女子大学長が
お書きになった入院体験記が素晴らしく、予てからその体験をうらやましく思って
おりました。今回入院という事になりました時に、これで漸く書くことが出来ると
いう妙な思いを抱きました。が、入院自体は運良くとても短くて済み、永井先生の
ご体験のような豊穣な収穫に繋がる日々ではありませんでした。
具体的には昨年二月に一週間の入院をするという事になりました。翌月の三月六
特別寄稿
日には女子中・高等科の一二五周年記念という大切な式典を控えており、その時点
で私が一番懸念していたのは手術そのものよりもその式典に参加できるかというこ
とでした。それまで長い時間を掛け準備してきた記念行事の遂行が何より気にかか
り、私は執刀の先生に三月六日を繰り返してお願いしていました。結局二月半ばに
入院し、手厚い看護をうけることとなりました。それまでの毎日とはかけ離れた、
ゆったりとした時間を過ごす中で痛感したのは、今まで忙しすぎたこと、睡眠も不
足していたこと等でありました。ひたすら自分の体に向き合って毎日の時間を過ご
し、手当をして頂きました。かなり贅沢で豊かな時間を味わう事ができました。三
十年余り走り続けた長い長いマラソンの選手が、ゴール前にいただいた休暇のよう
な思いでこの日々を過ごしました。
この入院期間中、私はなかなか読めなかった分厚い一冊の本を病室に持ち込み、
読みふけっておりました。それは後藤正治著『清冽』副題「詩人茨木のり子の肖像」
です。かねてから国語の授業で扱っていた茨木のり子さんの凜とした佇まいの文章
に感嘆し、その人となりをもっと知りたいと思っており、たまたま見つけていたこ
の本を、この機会に是非読んでみたいと持ち込んだ一冊でした。この評伝は茨木さ
んの佇まいにふさわしい味わい深いものであり、入院中の不安な思いを忘れて没頭
して読むことのできた素適な著作でした。この本を読了し、無事退院の日を迎える
事が出来ました。本を読むことが私の人生をより豊かにし、強いストレスから守っ
てくれている大切な友でもある事を痛感する体験となりました。
また、入院や通院を通して痛感した課題が、お世話になる医師とのコミュニケー
ションの取り方です。先生はたいていパソコンにある私のデータを見ていらっしゃ
います。そこにはいろいろな検査結果や今までの経過が記録されており、大変貴重
で便利な画面であると思います。が、出来れば、側に不安そうに座っている患者の
顔色や様子ももう少し観察して頂けたらというのが正直な思いです。沢山の患者さ
んの診察に忙殺される先生方のご様子は本当によく解りますが、5分間でもそのよ
うな時間を取って頂けたら本当に有り難いというのが一患者としての実感です。
以上、私の大変短い入院体験記でした。
特別寄稿
A子の入学後のとまどい
学習院初等科長
三浦芳雄
入学式を終え、初等科の生活にもなれてきたある日
のこと、真新しいスケッチブックを開き、A子(仮名)
は好きな絵をかいていました。そのとき、
「どろぼう……」と呟くようなかすかな声が聞こえて
きたのです。たしか「どろぼう」と、それも親しいB
子(仮名)から聞こえてきたのです。耳を疑いました。で
も、紛れもなく、信じていたB子から聞こえてきたの
です。B子を見ると、上目づかいにA子を凝視してい
ます。鋭い視線でにらんでいます。
「なぜ?」A子はとまどいました。信じていたのに……。
入学後のA子とB子は、好きなことが似ていたし、体を動かすのが好き、という
こともあり、すぐ友だちになりました。いっしょに行動することも多くなっていき
ました。休み時間もいっしょに、同じようなことをして過ごしていたのです。とこ
ろが、今回のようなことが起こってしまいました。
帰宅後、A子がこのことを母親に話したのでしょう。すぐ主管の私に連絡があり
ました。母親は物腰の柔らかい話しぶりではあったが、
「心外である。泥棒よばわり
される覚えはない。そのようなことのないように着実な指導をしてほしい」という
気持ちがありありでした。
翌日、このことを廊下ですれちがうB子の母親に話すと、こちらも腑に落ちない
という表情でした。その原因は何だろう。何が腑に落ちないのだろう。
絵をみたりかいたりするのが好きなA子は、学校でしているのと同じようにして、
自宅でも楽しんでいます。このとき姉妹の文房具を使っても誰も咎めません。非難
されることはないのです。ところが、学校で、友だちの文房具を自分のと同じよう
に使ったらどうなるでしょう。咎められてしまいます。非難されてしまいます。
B子は、泥棒がどうのこうのというよりも、「物を取るのが泥棒であり…………、
(登下校の途中など)気をつけなさいよ」などと言われていたことは充分予想されます。
そこで、自分のクーピーが無断で使われたために、覚えたての「どろぼう」という
言葉を使ってしまったのです。それが実情のようでした。
特別寄稿
集団生活の不慣れからくる“不協和音”は、一年生の生活ではめずらしくありま
せん。集団生活や社会生活になれていくためには、このような“不協和音”を一つ
ひとつ解決していかなければなりません。それが初等科生活の第一歩です。
五感、就中嗅覚
淺野三千秋
香り文化研究所所長
(昭 31 院化学修卒)
1.はじめに
音楽と色彩と香りを共存出来ないかと
2011 年秋、NHK により『宇宙の渚』が
考えました。協会の中ではパイプオルガ
放映されました。その中で、毛利宇宙飛
ンの音色と、薄暗い室内でステンドグラ
行士が、地上 100 キロメートル辺りで、
スを通した光に浮び上がる聖母子の像、
オーロラリングの中央を潜った時、「何
そして、燻香の香りが相俟って、荘厳な
とも言えない芳しい香りと、バロック音
雰囲気が醸し出されます。先ず「神秘」
楽と雅楽を一緒にした様な音色を感じ
と題した曲を作り、パイプオルガンの演
た」と語って居ました。
奏に合わせて、白衣を纏った人々が踊り、
人間の五感の内、嗅覚と味覚は大脳旧
それをスポットライトの色が追うこと
皮質で、視覚と聴覚と触覚は大脳新皮質
によって二つの要素はマッチ出来たが、
で司られて居る、更に、右脳と左脳では
これに香りを結び付ける事が出来ず、楽
感覚野が異なるが、脳の中ではそれ等が
譜上の香りの部分に「後世に託す」と記
互いに結び合って一つの感覚として形
入したまま、1915 年のこの世を去りま
成されると、或る嗅感覚国際セミナーで
した。
1980 年代に聞いた事があり、それにも
この少し前の 1855 年、イギリスの香
関連して、第 18 号に書いた通り、五感
料学者ピースは、その著書「香りと芸術」
の内、具体的表現用語が殆んど無い感覚
の中で、「香りの全音階式表示法」を発
が嗅覚関連で香道での香の香りを味で
表しました【図 1】。これは、音と同様、
表現することがあります。
匂いにもオクターブがあるとの発想か
ここでは、私が実際に行った、或は、
ら産出されたもので、使う量を考慮すれ
体験した事を中心に、女子大や NHK での
ば、和音と同様、香りに一つのハーモニ
講義内容の要点も交えながら述べて見
ーを作ることが出来ます。しかし、これ
たいと思います。
に使われて居る香料原料の種類は少な
く、現在では入手不可能なものもあり実
2.香りと音
際に陽の目を見る事はありませんでし
19 世紀から 20 世紀にかけて交響曲「法
た。
悦の詩」やピアノ協奏曲「プロメテの火」
約 30 年前、フランスで「パルファム・
等を創った、ステオソフイ(神智学)に
ペイサージュ」と書かれたレコード盤と
凝ったロシアの作曲家スクリァビンが、
オーデコロンを組合わせたレコードジ
ャケットを見つけ持ち帰りました。その
波の変化を基とした「音楽療法」が注目
後、団伊玖磨氏による「音楽の旅はるか」
され、同時に、これに結び付けられる手
の番組でも紹介されましたが、音楽はベ
法としての「香り」と「色彩」と更に体
ートーベンの交響曲第六番で、ジャケッ
感する振動が脚光を浴び、これが「芳香
トの底に小瓶に入った 7 種のオーデコ
療法」や「色彩療法」の名のもとに、多
ロンが並んで居り、『田園交響曲・景色
くの商品開発へと結び付きました。
の香り』の表示通り、曲を聴きながら、
それ等の香りを嗅ぐことになって居ま
3.香りと色彩
した。香りも完成された香りではなく、
色彩心理については多くの研究が為
寧ろ「黒すぐりの芽」とか「ヒースの花」
されて居り、これに香りの心理学が結び
といった自然を想い出させる基本的な
付けられないかとの観点から、1980 年
香りで、香りも音楽も共に見えないもの
代にその共通項を探る作業が行われま
を組合わせて田園風景を彷彿とさせる
した。色彩は「カラーインデックス」か
面白い発想の品でした。
ら、香りは「有名香水」から選び、夫々
フランスの著名なパーフューマー(調
の受ける感覚を【図 2】の反対用語を使
香師)が、香りと音楽は「時間の芸術」
った SD 法の手法で纏め、香りの専門家
即ち「継続する芸術」だと言われました。
によってプロッテイングさせて、
【図 3】
しかし、その流れは香りと音楽とでは大
の様にほゞ合致するパターンをもつ対
いに異なると想います。音楽は旋律を主
応した両者を選び出しました。これを各
体とした、謂わば横の流れであり、それ
種の色彩心理のデータを基に 18 色を選
に対して香りは組成の積み重ねが主体
出、パターン化したのが【図 4】です。
である以上、縦の流れであると言えるの
視覚に関連する形や色は、幾ら多くあ
ではないでしょうか。
っても好みに合うものを選び出せます
音楽の三大要素である、リズム・メロ
が、嗅覚に関連する香りを選ぶのは、専
ディ・ハーモニーは、香りを産み出す上
門家は別として嗅覚の疲労現象によっ
でも重要なポイントです。一つの完成し
て精々3 種類までです。その為、香水選
た香りを嗅いでいると、それを構成する
びでは混乱を起こす人が大部分で、それ
香りの要素の一つ一つが、恰も海岸に打
を手助けする手法の一つとして、上記の
寄せる波の様に感じられます。その中に
パターンが役立ちます。このシステムに
は音感と同じく興奮させる波もあれば
「色と香りのおしゃれシンクロ」と名付
安らぎを覚えさせる波もあります。
けてアンテナショップ等で試験販売を
1980 年代、抗ストレス療法として「1
/f ユラギ」を中心とした音楽による脳
行って好評を博した事があります。
の手法に、嗅覚中心の『環境香学』が脚
4.おわりに
皆様の様な、所謂、理系の人達に、音
光を浴び現在にも活用されて居る設備
楽や美術を好まれる方が多いのは、日常、
もあり、これには人間の五感を連携させ
論理思考を司る左脳が酷使されて居る
活用させる部分も見受けられます。
アンバランスを是正しようとする感性
最後に、中国では古くから陰陽五行思
中心の右脳への転換要求の故だとの説
想が盛んですが、ご参考迄に「香道」を
があり、納得出来る点もあると思います。
出発点としてこれ等を強引に纏め、講義
ストレスの多い現代社会では、それの
でも使って居る「五行配当表」を蛇足と
対応手段としての環境作りが色々と試
して掲載致しますので、ご笑覧頂ければ
みられ、実行されて居ますが、その一つ
幸です。
【図 1】ピースの音階表
【図 2】SD法の一例
________(実線)色、-------(破線)香り
【図 3】色と香りのイメージパターン
【図 4】色と香りのオシャレシンクロ
五
行
配
表
木
所
真那蛮
薫
物
梅
五
行
木
火
土
金
水
五
色
青
赤
黄
白
黒
五
方
東
南
中央
西
北
五
季
春
夏
土用
秋
冬
五
味
酸
苦
甘
辛
鹹
五
臓
肝
心
脾
肺
腎
五
事
貌
視
思
言
聴
五
常
仁
礼
信
義
智
五
腑
胆
焦
胃
腸
膀胱
五
孔
目
舌
口
鼻
耳
五
液
涙
汗
涎
洟
唾
五
虫
鱗
羽
贏
毛
介
五
声
角
徴
宮
商
羽
五
気
風
熱
湿
燥
寒
四
神
朱雀
-
白虎
玄武
増長天
-
広目天
多門天
四天王
蒼
花
竜
持国天
寸聞多羅
当
荷
葉
羅
国
伽
羅
佐曾羅
黒
方
落
葉
菊
花
症例から学ぶ糖尿病の早期診断•早期治療
石橋健一
医療法人社団 健隆会 石橋医院
(昭和 59 高・東京慈恵会医科大)
厚生労働省の糖尿病実態調査(2007
半数近い糖尿病が見過ごされているこ
年)によると、糖尿病は、その疑いが
とになる。更に DECODA Study で、空腹
ある予備軍を含めると 2210 万人にも
時血糖値から正常型、境界型、糖尿病
上ると推測される。4 年前の調査に比
型に分けて心血管死亡リスクをみたと
べると約 250 万人の増加で、成人の約
ころ差がないのに対し、ブドウ糖負荷
4~5 人に 1 人が糖尿病あるいはその予
試験 2 時間値でみると糖尿病型の死亡
備軍とされている。糖尿病は食事療法
リスクが 3 倍以上に増加していること
と運動療法が基本で、両者によって改
がわかった。また、この調査結果から、
善がみられない場合に薬物療法が適用
ブドウ糖負荷試験 2 時間値が 200mg/dl
される。日常の診療や職場の集団検診
に相当する空腹時血糖値は 104mg/dl
などでは空腹時の血糖値を測定して
前後であることがわかった。つまり健
110mg/dl 未満を正常型、126mg/dl 以上
康診断などで空腹時血糖値が正常と判
を糖尿病型、その中間を境界型として
定される 100~110mg/dl の間に実は心
いる。そしてこの境界型の中で、糖尿
血管死亡のリスクとなる食後高血糖を
病かどうかを診断するにはブドウ糖負
示す症例が多くいることが推測される。
荷試験を行う。ブドウ糖を経口投与し
従って空腹時血糖値が 3 桁になったら、
て 140mg/dl 未満を正常型、2 時間後の
ブドウ糖負荷試験をしていわゆる隠れ
血糖値が 200mg/dl 以上を糖尿病型、そ
糖尿病でないかどうかを調べる必要性
の中間を境界型としている。
がある。
日本とアジア系インド人を対象とし
そこで、当院にて血糖値が 100~
た大規模調査(DECODA Study)による
125mg/dl を示した 106 例に 75gブドウ
と、糖尿病患者のうち空腹時血糖値だ
糖負荷試験を施行し、糖尿病の早期診
けで糖尿病と診断された人は約 18%、
断を試みた。対象の年齢は 21~86 歳、
空腹時血糖値とブドウ糖負荷試験 2 時
男女比は 61:45 で、平均の空腹時血糖
間値の両方で診断された人が約 37%、
は 106mg/dl であった。結果は正常型が
そしてブドウ糖負荷試験 2 時間値だけ
25%、境界型が 46%、糖尿病型が 29%
で診断された人が全体の約 45%もみら
であった。特にブドウ糖負荷試験 2 時
れた。つまり、空腹時血糖値だけでは
間値だけで糖尿病型と診断された人が
約 24%みられた。つまり、空腹時平均
排泄(尿糖)により再吸収が競合阻害を
血糖が 106mg/dl の集団の4人に1人
受け、尿中へ喪失して血中濃度が低下
が糖尿病型ということになり、現行の
する。つまり、血糖が高くなれば血液
空腹時血糖値が 110 mg/dl 未満が正常
中の 1,5AG は低値となり、逆に血糖が
とすると糖尿病が見過ごされる可能性
下がれば 1,5AG は高値となり、食後高
がやはり高いと考えられる。また、ブ
血糖のような軽微な血糖変化を確実に
ドウ糖負荷試験 2 時間値だけで糖尿病
とらえる。
型 と 診 断 さ れ た 例 の 平 均 HbA1c は
講演では最近使われるようになった
5.4%であり、HbA1c のみでは診断に役
インクレチン製剤を含めて、糖尿病を
立たないことが示された(図 1)。
早期診断、早期治療しえた 10 症例を示
早期に診断された糖尿病の血糖コン
し、糖尿病経口治療薬の使い方を解説
トロールの指標には 1,5AG が有効であ
した(図 2)。
る。1,5AG はグルコースに酷似したポ
【編注】平成 23 年 9 月 10 日開催
リオールで、主に食物より供給される。
第 31 回医歯薬桜友会講演会にて
正常では腎の尿細管で 99%再吸収され、
1 日の尿中排泄量と経口摂取量はほぼ
均衡である。高血糖に伴うグルコース
【図 1】
【図 2】
平成 23 年 3 月 11 日 東日本の大地震
【稲生綱政(天城)の短歌日記】
稲生綱政
元東和病院名誉院長
(昭 17 旧高・東京大学医学部)
昼食後
二時からテレビ
午後の二時
四十六分
恒例の
大地震
机の上や
小棚から
身動き不能
本棚や
椅子に張り付き
上下震
家内も恐怖
回転震に
置物全て
如何せん
机の下へ
避難して
その時間
約二十分
震動も
うろたえ乍ら
多少収まり
立上ったら
隣室のドア
ドアの後ろの
床塞ぎ
何とか除けて
絶えず地震の
テレビでは
全ての局が
経験震度
被害甚大
仙台市
沖で MG
十五分には
引き続き
午後四時二十九分に
気仙沼
沖に発生
東京も
午後三時頃
我が家でも
MG が
MG は
放送で
片付けや
五時頃までは
ガス
水道の
風呂も沸き
東北地方
追い討ち受けて
MG にして
揺れ続き
頂いて
入浴済ませ
地震発生
第三弾が
出方など
午後六時過ぎ
福島県や
水戸市の沖で
7.4 の
6.6 の
5.5 震
その後は多少
夕食や風呂
八時頃まで
八時半
地震警報
8.8 と
関東地方
午後三時
あちこち整理
その第一は
地震が起り
第二には
自室に入る
プログラム止め
三陸沖で
最高の
開けられなくて
揺すられ乍ら
震源地
四十六分
わが国で
震動に
本来の
三つの大きな
午後の二時
夕食を
テレビ観察
一時間
その後にも
近辺で
床に転落
眩章に悩む
書物など
東北で
観察中に
家が大揺れ
左右震
また揺れて
殺人劇を
静かになって
準備を開始
時々揺れる
テレビに見とれ
ベッドの中へ
ニューヨークで再会
岡
仁美
オリーブ薬局
(昭 48 年女高・共立薬科大学)
私の薬局に A.H さんという事務スタ
ときに既に UGG のブーツを履いていま
ッフが一昨年まで勤務していました。そ
した。私たち 3 人とも、ニューヨークで
の彼女が、その後ニューヨークに語学留
買うと安いので、早速買いに行きました。
学しているので、この度薬局のスタッフ
すると、ニューヨークでも大人気で、お
2 人と私との 3 人が観光旅行でニューヨ
店の前で並んでいる人もいたのでビッ
ークに行き、現地で落ちあうことになり
クリしました。
ました。久々にニューヨークで会えて嬉
私はグレーの短いブーツを 130 ドル
しかったと同時に、A.H さんにニューヨ
(10400 円位)で購入しましたが、日本で
ークを案内してもらえて、最高に楽しか
は 2 万円位します。なのでさらにもう一
ったです。
足茶色の革のブーツも買ってしまいま
A.H さんとは 2 年ぶりに再会できて、
した。一緒に行った二人とももちろんベ
気候もよく(11 月)、盛り上がりも絶好
ージュやピンクの UGG を買いました。特
調でした。事前の打ち合わせ通り、ニュ
に C.I さんが買ったピンクのロングブ
ーヨークの主な観光地には一通り行く
ーツは日本では売っていない逸品です。
ことができ、食事、ショッピングと充実
帰国してからも 3 人とも UGG のブーツで
の 5 日間が過ごせました。
出社することもあり、今も楽しかった思
買い物もちょうど円高で(一ドル 80
い出にひたっています。
円位)、何でも安く買えて嬉しかったで
海外旅行は楽しいものですが、行って
す。今流行りの UGG(アグ)のブーツや
まず不安になるのが、旅先でタクシーに
COACH のバッグ、SABON のスクラブなど
乗る時です。そこで私が最近乗った、中
で夢中になり、昼食も忘れてしまう程で
国・英国・米国でのタクシーの特徴と攻
した。
略法を考えてみました。
UGG はシープスキンブーツを代表と
するオーストラリア発ブランドです。ブ
ーツの内側が起毛になっていて、後ろに
「UGG」と書いてあります。履いていると
暖かいので、今日本の若い女性の間でと
ても流行っています。A.H さんは会った
【3 ヶ国別タクシー問題点と攻略法】
問題点
攻略法
①中国
①中国
・中国語しか通じないので、何らかの
形で中国語で目的地を伝えないと乗れ
ない。
・手を挙げれば、止まってはくれる。
乗車拒否はしない。
・筆談…これしかない!
行き先を書いた紙をタクシーの運転
手に渡せば、後は何のトラブルも発生し
ない。
料金メーターも見やすく、レシートも
必ず出してくれる。
②英国
・乗車拒否がかなりされる。
②英国
私が感じた理由は、アジア人はチップを
・チップを払いそうな雰囲気をかもし出
くれないと思われているからではない
す。
か?(チップを払ったところ、
「へぇくれ
るんだぁ」という顔をされた。)
③米国
・とにかく乗り込んでしまう。以上です。
③米国
・変に英語で話して、行き先を言うと運
一見、無法地帯に見える中国が、実は一
転手が行きたくない方向だと拒否され
番楽でした。
る。
半世紀前のベルリン自由大学泌尿器科助手時代
小島弘敬
東京都南新宿検査 相談室長
(昭 30 高・千葉大学医学部卒)
冬は寒く暗い。春の歓びは母校シン
チンガ師がジェスチャー付で教えた「
皐月来たる」の歌詞通り深い。先ず復活
祭(イースター)が来る。
デュッセルドルフにライン地方の謝肉
高等科の独語の師の呼び名はギヤ(柳
祭(カーニバル)を訪ねた。
谷)、ザク(桜井院長)と真に似合いの音。
高2ではギヤの文法は恐しく、高3の
ザクはカロッサの「等価なき諸世界」。
戦前来日時のカロッサをザクは「この
本と違う印象で箱根をヘイコンと読む
「勘の悪い人」だった」と。シンチンガ師
は近眼で長身をストーブにかがみこむ
姿、千葉大のグライル氏も戦前からの
在日で、大戦後故郷に帰れぬ人生が胸
にしむ。全くの奥手で大学入試など他
外国語を覚えるのは歌である。最後の
人事だったが、高3の春突然、医進に
授業で将来を問われ「防大で殺人を学
心が向いた。独、仏語の入試問題は英
ぶ」と心にもなく答えたのは今も悔や
語より遥かに容易で、夏休みの文法独
まれる。家に隣接の幼稚園にさえ登園
習で自信を得、浪人中も紅露外語、明
数回の虚弱児の私も初等科では松戸か
大夏期講習、ドイツ学校などに嵌った。
ら四谷に通い、初4から高2まで無欠
「君の独語はベルリンに来て下手にな
席。高3の春入試に目覚め修学旅行不
った」と言われた。誰にも好きこそ物の
参加、卒業式も欠席。人には無意識、
上手なれの得意分野がある。見つけて
自発的な転機がある。刑事コロンボの
伸ばせれば幸せで、入試では東大理二、
名訳「人には相応しき贈り物」は原語
千葉、群馬、医科歯科と競争率 50 倍超
では「人の所業は夫々過不足なく適切
を克服。
に報いらるべき」であるが、神が不在
となった現代、人の所業の評価は不可
能。学習院の師には安倍院長の「二つ
なくうけし吾命、自がじし育て鍛えて
諸共に世にぞ奉げん」という歳をとっ
て納得できる「人世の指針」の体現が
あった。
学習院同級の蓮実東大総長、土田大蔵
次官、柳井、久米、小野寺大使、斉藤、
山根、荒牧医学部教授、山越、脇田東
大教授にも独、仏語の師のお蔭があろ
「他人がやりたがらぬ仕事を一所懸命
う。シンチンガ師の「鳥になれたら」「
できる子」と誉め、「フジヤマの飛魚」
古き良きハイデルベルク」「すばらしき
の古橋に続いて「フジヤマの○○にな
小僧ッコ時代」「私を捨てた水車小屋の
れ」と励ました初等科の師、日米講和
娘」就中「最愛の両親に感謝。吾れに神
の時、授業の全てを反戦平和の「チボ
より長寿を授けた。朝餉に添えて今旅
一家の人々」の読解にあてたり、
「日本
立ちの祝福を!」には一生励まされた。
に生まれたベートーベン」を試験問題
としたり、「悪貨は良貨を駆逐する」「
ーの勝利」と同じく母校の庭で得たも
人生は一行のボードレールにしかない
のとしたい。
」「今日の辛抱、明日の幸福、努力」等
々。論語、万葉集の中、高の師。教科
書を離れたぎる熱情を学生に注がれた。
生意気に反発しても「セロ弾きのゴー
シュ」が邪魔な狸、鼠との対応で無意
識にセロが上達したように人生を生き
る魂を植えられた。付属の歌「心の根
ざし誰とてか幼児の教えによらざらむ
冬の伯林(ベルリン)から早春の和蘭(オラン
」である。人は人としては生まれず、
ダ)コイケンホフのチューリップ見物
育てられて人に成る。卒業文集に純情
バスツアーに参加。
少年と書かれた私は資本主義社会の一
員となるのを潔しとせず医師を志した。
日本は経済大国となったが、米国の占
領政策「スポーツ、セックス、スクリ
ーンによる意識改革」は著効を呈し「
教へ草であった忠孝仁義」は「個人の
幸福追求」に変り、大学、医療、政治、
マスコミ全て「金」に依存し「命捨つ
べき祖国」は見出せない。定年後、3
K(キツイ、キタナイ、キケン)の医
師の仕事の中でも人の厭う HIV/エイ
ズの匿名、無料の検査に熱中し「日本
の感染者に女子はほぼ無く、アナルセ
ックスのある男子同性愛者に限られる
」ことを知り、都、医師会、学会、ス
タッフなどあらゆる抵抗の中で「真の
リスクを伝える努力」をし、5年間で
自施設、東京都の感染者数を約40%
減少させ得た。この結果はウエリント
ンの「ナポレオンを破ったワーテルロ
和蘭は空の広い低平野でナチの侵攻跡
後死の遺体を抱き泣いた。短駆。大髭。
が残る。
180 余人の医局員、27 人の教授、助教
授を育て、1897 年貧窮の野口英世の火
傷後手指癒着手術を無料施療。格の佐
藤、情の近藤、弁の田代、業の塩田と
称された。義太夫好き。5 代目菊五郎
が舞台で「髭の先生が又泣いておるぞ」
と言った。次繁は日本人は胃弱と言っ
たが今は長身肥満。余命延長させたの
は経済発展で医師ではない。妻、憲と
五男二女。
三男、済三は幼折。長男経一は「玄関か
医術を伝え、日本の森羅万象を持ち帰
らの出入りは長男だけ」の長子相続時
ったシーボルトは偶然の来日で、欧人
代の特別扱いで、大学時代志賀直哉等
は誰にも比の能力があると誤解してい
の白樺派に参加、初戯曲「玄宗と楊貴妃
たが、実は長年の努力で和蘭人として
」の帝劇上演で世評を得、女優原光代と
来日した独人。私の母の父は独人スク
世界一周の新婚旅行。双生男児の 1 人
リバの次に 1898 年から 25 年間東大第
を失い離婚。生残の長男東郎は次繁に
1 外科教授、松本出身の近藤次繁だが、
養育され後、慶大衛生学教授。倫二は
私は諸勤務先でこれを秘した。長崎で
仏法を学びリベラル派弁護士。戦後占
和蘭医学習得後、三河に「貧富の別なく
領米人と交流し 1949 年ガリオワ資金
診療し医師を育てる洋々医館」を創っ
で訪米。自由人権協会。松川事件弁護
た近藤担平の婿養子となり 1897 年本
人。家裁所長。東京高裁長官となるも、
邦初の胃癌切除。6 例中 2 例完治。術
本人、経一、駿四郎の離婚事例は不首
尾。最高裁判事が新聞辞令に終った経
ンパの「この借りはキット返す、君らの
緯は内藤頼博前院長による追悼記に詳
助けは貸りない」がモットーとなる。父
しい。その長男幹雄は報道写真家で朝
母が再婚同士、姉が先妻の子、正二の
鮮戦争に参加。戦犯、広田弘毅の娘と
一子正昭の存在は、高 2 で彼が教生で
結婚。駿四郎は青山外科。日医大教授。
来るまで知らず。正昭は清水幾太郎に
東京労災院長。台五郎は呉内科。敗戦
傾倒し、立川、内灘の米基地反対闘争、
直前沖中重雄の代りに上海同仁病院教
私も千葉で国電を占拠。
授で単身赴任中 3 歳長女を疫痢で失う。
「消火器内視鏡の鬼」と云われた粘りは
1927 年アジア大会サッカー日本代表
の体力による。女子医大教授。早期胃
癌検診会長の時長男絋一の 46 歳での
胃癌死を防げず。日本の胃癌死数減少
は以って瞑すべき。絋一は「サイゴンの
妻と娘」の産経記者。任地パリでの先妻
医学と異なり実証のない社会学でのカ
の精神病死を自責し、同情心から戦渦
リスマ言辞で無知純真の若者を煽りそ
の中の子持ちベトナム人と結婚するも、
の一生を左右するのは人の道でない。
購入したパリの住居で妻の前夫と鉢合
正昭の 51 歳での直腸癌死の後、遺骨の
せの悲劇。次繁の長女愛子の夫鈴木忠
1 片を留学の地桑港(サンフランシスコ)に埋め
一郎は塩田外科。次繁の駿河台病院の
た。真面目に生きる者には逆境での若
副院長となるも大戦中廃院。京城大教
年死がある。子が無事に人となるには
授。敗戦後緑内障。日大整外教授。次
両親の価値観の一致が不可欠。
女房子の夫高根正二は弁護士高根義人
の子。青山外科助手で、義兄忠一郎は
フランクフルト、本人はチュービンゲ
ンに留学帰国後、内臓逆位の虫垂炎で
死亡。この不幸は千葉大中山外科の講
義にも登場。再婚相手小島俊文が私の
父。年中床がある虚弱児の私は 4 歳時
腸重積、次繁は肉親の病を診ず、忠一
激務に集中すれば身内は手抜きになる。
郎の手術で救命。5 歳時三ケ日で疫痢
「塞翁が馬」、「唐様で書く三代目」を思
で 2 度目の救命。マンガおば Q のドロ
わせる一族には耳毛、下戸、博物愛、
勝負運のなさの共通点。力がないのに
妃の手術時の独外科医の「私の前には
弱きを助けたがる反骨性がある。私も
1 人の救いを待つ患者がいるだけだ」
退職後「生物の基本である子孫を残す
を語り当時満場の感動を得た。日本人
生殖に無縁で心の安定に欠け差別対象
の余命は延びたが医師は研究業績重視
の同性愛者」の HIV 抑制に注力した。
の中で「誰の救命にも全力をつくす精
次繁は研究偏重を憂い臨床外科学会を
神」が変質し、今言葉は人を動かさな
創った。次代の青山教授は 54 歳時眼病
い。
で雄々しくも依願退職の最終講義で王
医療技術に対する診療報酬
齊藤壽一
社会保険中央総合病院 名誉院長
自治医科大学 名誉教授
(昭 31 高・東京大学医学部)
我が国の国民皆保険制度は、昭和3
科系医療において改善されるべき点や
6年に国民健康保険が全国的体制とし
問題点にはどの様なものが考えられま
て整備されたことによって確立してか
すか。」との設問では「内科系各分野の
ら50年が経過しました。この間、我
専門性が適切に診療報酬に反映されて
が国の制度は国際的に見ても国民の健
いない。」との記述に回答学会の92%
康の維持、向上に果たした貢献が高く
が賛同し、第1位を占めました。将来
評価されて来ました。しかしながら、
の我が国の診療報酬体系に医師の技術
この制度を支える診療報酬体系は一方
をどの様に反映させるべきかについて、
で少なからぬ欠落や見落しを内包して
全国の社会保険病院51施設を統括す
いると思われます。
る全国社会保険協会連合会(全社連)
医師が提供する医療技術の典型は手
は平成23年度の共同研究「診療報酬
術であり、健康保険制度の発足時から
における医療技術の評価」
(班長:筆者)
手術に対する診療報酬は医科診療報酬
で調査研究を行いました。調査では傘
点数表の第10部として確立していま
下の病院に勤務する医師を対象にアン
す。しかしながら、医師が提供する医
ケート調査を行い725名(内科系3
療技術全体において手術はその一部を
70名、外科系348名)から得た意
形成しているに過ぎません。問診や診
見をとりまとめました(社会保険旬報
察から始まって診断、治療法の選択か
2011年11月1日号)。その結果で
ら患者への説明や同意取得に至るまで
も「手術・検査以外の入院医療技術の
多くの知的あるいは肉体的な作業が介
評価は適切でしょうか。
」との設問に適
在しています。これらのいわゆる内科
切でない、またはあまり適切でない、
的医療技術に対する評価と報酬は現行
とする医師が60.3%と過半数を越
の医科診療報酬点数表に、その痕跡を
えています。調査では頻度の高い92
見出すことは困難です。私が代表を務
疾患の中から専門領域の疾患の入院診
める内科系106学会が加盟する内科
療について、診療の負荷と患者への貢
系学会社会保険連合(内保連)が平成
献の2つを基軸に極めて小さい(ラン
22年に行ったアンケート調査で、
「内
ク1)から極めて大きい(ランク5)
までのランク付けを求めました。また
術の習熟が重視され、多くの時間が割
負荷と貢献を併せた総合負荷・貢献度
かれています。一方、若い医師を受け
の疾患毎のランク付けを求めました。
入れる臨床現場での診療報酬がこれら
その結果、入院診療において総合負
の職業的技術を殆ど反映しない我が国
荷・貢献度が高かったのは劇症肝炎(4.
の診療報酬体系は、長期的にみて医師
81)、急性重症膵炎(4.76)、急
の資質向上を育む環境としては瑕疵を
性心筋梗塞(4.75)で、逆に低い
内包しているものと思われます。医療
のは単純性膀胱炎(1.63)、鉄欠乏
技術を診療報酬に反映させる様々な仕
性貧血(2.40)あるいは下痢・腸
組みが工夫されている諸外国の医師診
炎(2.67)まで回答対象の84疾
療報酬制度に照らしても、我が国にお
患の負荷・貢献度は幅広く分布し入院
ける医療技術への報酬について早急な
診療について医師が感じている総合負
取り組みが必要であると考えています。
荷・貢献度は疾患により大きな差があ
ることが示されました。これに対し、
入院医療で現行の包括支払い方式
(DPC)で医療保険から入院当初に病院
に給付される1日当たりの診療報酬は
薬と検査などいわゆる「物」の包括点
数で形成されており、劇症肝炎は2,
706点で膀胱炎は2,412点と両
者の差は小さく、医療技術を反映した
負荷・貢献度については両者で大きな
差があるのと対比的です。入院診療で
それぞれの疾患の診療に携わる医師の
診療時間や給与月額を基に、総合負
荷・貢献度の補正を加えた医師の1日
当たりの技術料は劇症肝炎が5,33
1点、単純性膀胱炎が460点と試算
されました。
我が国の医師の職能育成の過程では
医学部における卒前教育や卒業後の病
院研修を通じて問診、診察、推論ある
いは説明などの医師としての基本的技
最後の徴兵検査
坂口
亮
心身障害児総合医療療育センター名誉所長
(昭 22 旧高・東京大学医学部卒)
私は昭和20年、高等科理乙2年の
変更も聞き入れて貰えた。私は文系志
とき徴兵検査を受けた。この年8月1
向だったが、親の圧力に負けて理系に
5日終戦となったので、恐らく最後の
転じた。後ろめたい気持につきまとわ
組といってよかろう。
れたが、類似の友も数人いて救われた。
日本は明治政府以来、国民皆兵、男
徴兵何ゾ恐ルベキ、敢然文科に進み、
子は20歳で必ずこの検査を受け、一
応召した同級生、一級上の上級生には
定期間一兵卒として軍隊に入り、一旦
肩身の狭い思いだったが、幸い、この
緩急あらば、身を公に投じて、国を守
崇高なる方々は、応召、入営までした
らなければならなかった。心身上の欠
が、間もなく終戦となり、分け前の大
陥などあって軍務不能と認められる以
荷物を背負わされて復員した。犠牲者
外は、徴兵を逃れることは絶対に許さ
は出ずにすんだ。
れず、草の根分けても見つけだされ、
厳罰に処せられた(恐らく死刑)。
徴兵検査は普通の体格検査、近視の
ために一格落とされ第一乙種合格の判
平時ならいいが、戦時、特に戦い不
定を受けた。M検(エム検、性器の検
利のときは、召集令を受け、僅かの訓
査)などあっておぞましいが、まあ仕
練で戦地に運ばれ、屈強の若者が、あ
方なかろう。軍部は、徴兵制について
えなく花と散った。一方年齢が高校、
は厳しいが、できれば志願の要素も入
大学(何れも旧制)と重なるので猶予
れたかったのか、どうかはわからない
の特典も考えられていた。
が、猶予の制度もあり、また同じく学
昭和18年秋、陸上競技場で行われた
校と結びついて、いろいろな種類の職
学徒出陣--豪雨の中、大学生が角帽、
種を考えていた。幹部候補生、委託生、
武装で分列行進で出陣を祝う情景は万
予備学生、短期限定将校(?)等々。
感交々、魂をゆさぶられる--
我々(大正15年生)より5~10
このとき、文科系の学生は出征への道
歳上の兄貴格の年齢の方に犠牲を多く
に直結し、理科系の学生はまだ多少の
出した。二度とあってはならぬ戦争、
猶予が許されていた。
一方
学習院では、高等科進学の際、文科、
避けるだけはすまない戦争。
そして対策、回答を逃げる私---
理科を自由に選ぶことができた。しか
目下自衛隊に感謝とお願いをするばか
も中5の初めと終わりに志望を尋ね、
りである。
醫の心・醫の倫理
佐藤
蕃
東健メディカルクリニック院長
(昭 24 旧高・東京医大)
東京医大の校歌に「ヒポクラテスの
たのが西洋医学である。
名によれる、ギリシャの昔、斯道の光
日本は中世の頃から仏教の伝来と共
明、西のあさぼらけ、東亜は更にはる
にたずさわってきた中国医学(漢方)
かなる、神話の蔭ににほう跡、源流二
を取り入れ、時代の変遷につれ、我が
つ彼と此・・・」
(以下略、土井晩翠作
国独特の思想や工夫を加味して皇漢医
詞)という歌詞がある。
学という医術を作り上げて来た。
古代ギリシャの医師ヒポクラテス
徳川幕府は鎖国令を施行し、平戸の
(BC460 頃~375 頃)は迷信や自然哲学
ちに長崎のみを唯一の門戸として外国
的な仮説で病気の原因や経過を説明し
との交流を禁止したが、中国とオラン
ていたそれまでの医術を排して、疾病
ダを通して少しずつ流入してくる西欧
を自然現象として把握し、経験科学の
文明の知識は心ある人々を刺激し、特
中に医学を位置づけたことで医学の父
に医学の面では急速に蘭学(蘭方医学)
と呼ばれている。
の隆盛をみるに至った。天保九年に殆
一方東洋医学は古代中国の三皇五帝
ど時を同じくして江戸と大阪に開かれ
の神話と伝説の中から生まれ、経験を
た和田塾(天保十二年に佐倉に移り順
積み重ねることによって、草根木皮を
天堂塾と称す)と適塾は、最新の西洋
薬とする漢方治療と刺激を以て疾病を
医学が学べる所として、佐藤泰然と緒
治療しようとする鍼灸療法を育てて来
方洪庵を慕う若者たちが全国から笈を
た。
負って囲集した。
この他にインドのアーユルベーダと
明治維新になると新政府は西欧先進
か、中央アジアのオリエントに発生し
国に追いつこうと烈しい勢いで外国の
た民間療法、インカの遺跡から発掘さ
文化を取り入れることに狂奔した。医
れた割頭術のような原始的手術療法も
学の方面でも既にオランダは古いとし
あり、呪術、祈祷などのさまざまな手
て独、英、仏の医師を招き、西洋医学
段で、その時代の人々は病からのがれ
を学ぶ者を養成し、一方漢方医学を排
ようとして来た。
斥して遂には従来の漢方医の医師資格
その中でもっとも早く体系づけられ、
科学の進歩を貧欲に吸収し発展してき
を認めず、漢方のみによる開業を禁止
した。
漢方薬はその後、民間療法の中でほ
医師は滞在していなかった。泰然はシ
そぼそと命脈をつないでいたが、近年
ーボルトに学んだ大石良逸や楢林宗建
西洋医学の行き詰まりから有用性が再
からすべての知識を吸収し、更に西洋
認識され、保健薬として認められたり、
の外科技術書を参考にして初めての手
いくつかの大学病院に東洋医学の講座
術を無麻酔で大胆に試み成功している。
や診療科が開かれるようになって来た。
全身麻酔に使用するエーテルが米国
これは現代の主流である西洋医学と、
の歯科医の公開実験の成功で知られた
漢方が代表する東洋医学が相互に補い
のが 1846 年(弘化三年)で、またクロ
合って、医療の広がりを深めることで
ロホルムが西洋で初めて使われたのは
あり、大いに結構なことだと思ってい
その翌年である。エーテルが横浜在住
る。
の米医へボンによって沢村田之助の脱
私が医師になった時からほぼ六十年
疽の手術に用いられたのはそれから二
が経ったが、僅かそれだけの間に進ん
十年後の慶応年間のことであった。
だ医学・医療技術は驚くばかりである。
ただ我が国では欧米より半世紀早く、
たとえば私が医学生であったり、新米
紀州の医師花岡青洲が朝鮮朝顔のマン
の医局員時代には夢にも思わなかった
ダラゲから独自の工夫で麻沸湯(通仙
か、せいぜい想像の域を出なかった臓
散ともいう)という麻酔薬を作り、文
器移植、延命治療、体外受精等の不妊
化二年(1805)に乳癌の手術に成功し
治療などがそうであり、更には留まる
ており、その麻酔術は彼の弟子や多く
ところを知らない新薬の開発もある。
の医師の間に広まっていた。
また遺伝子治療や、ごく最近その実技
泰然がなぜ花岡流の麻酔薬を使用し
の映像を見る機会のあった超ミクロの
なかったのかは、彼の次男松本順が次
胎児手術などに至っては、生命の根源
のように、父泰然が述べていると書き
にかかわる領域にまで踏み込んで、医
残している。
の倫理に触れるのではないかと危惧の
念を覚え寒心に堪えなかった。
『世ニ外科専門ナキヲ慨シ、且ツ旧
方曼陀華ヲ以テ、麻酔セシムルヲ論ジ
私の曾々祖父である佐藤泰然は佐倉
テ日ク、医ニシテ毒薬を与へ、患者ヲ
の順天堂を創設以来、長崎で習得して
麻酔セシムルハ殆ド没道理ナリ、患者
来た西洋医術を駆使して、これまでに
ハ其ノ生ヲ欲スル者ナリ。
行われたことのない数々の手術を手掛
施術中少々ノ時間疼痛ヲ忍ビ得ザルハ
けている。泰然が長崎を訪れた時期、
抑何事ゾ。曼陀華ノ中毒ヲ以テ死スル
シーボルトは日本の国禁を冒したこと
者少ナシトセズ。須ク疼痛ニ堪忍セシ
で追放され、オランダ商館には正規の
ムベシトテ、一厘ノ麻酔薬ヲ与フルコ
トナシ。』と。
設立して初代院長となり『順天堂醫院』
どんなに苦痛が少なく手術がやり易
の看板を掲げた。順天堂が戦時中に医
いといっても、危険のある薬剤を用い
師を養成する医学専門学校を作り、戦
るなというのが、患者の生命を第一と
後大学に昇格し更なる大病院に発展し
する泰然の貫いたポリシーであった。
てからも、その附属病院の正式名称は
明治二年、泰然の養嗣子で順天堂第
あくまで『附属順天堂醫院』で通して
二代の佐藤尚中(私の曾祖父)が新政
現在に至っている。
府に招かれて大学東校の主宰となった
医の本字である『醫』という文字の
が、在職中の明治五年一月十八日付け
左上にある「匚」の中の「矢」は医療
で文部省あてに『病院改称伺』なるも
器具のメスのような刃物を表し、下の
のを提出した。
『病院之名義醫院と改称
「酉」は薬の容器である酒壷を表して
仕度此段相伺候也』という文面で、わ
いる。そして『醫』は「癒す」
「慰める」
ざわざ『醫』という本字を使って書い
と音をひとしくする同義語と解釈して
ている。幕府の瓦解後その西洋医学所
よい。すなわち『醫』の本義は病を癒
を接収して新政府の太政官は『大病院』
し、苦痛を軽減し、病み疲れた心身を
と名付けて直属の医療施設とした。こ
慰めるものであり、
『醫』の字にこだわ
れが後の大学東校付属病院となるのだ
った尚中のポリシーはそこにあるので
が、それにならって、戊辰戦争最中の
ある。
官軍も幕府軍も傷病兵を収容する場所
泰然も尚中も病気を治すことに先ん
を『病院』と称し、
『病院』と大書した
じて、病者の苦痛や不安を取除くこと
旗を掲げて攻撃から患者を守った。恐
を第一義としており、その精神は今も、
らく外人医師から聞いた西欧の赤十字
この二人の偉大なる先考が築いた順天
に習ったものであろう。
堂系列の医学の根底に存在していると
尚中の『伺』は承認されて東校付属
信じる。
医院と名を改めた。病院では単なる患
医学の発展向上、医療技術の進歩は
者の収容所という意味に過ぎず、病人
善しとするが、それが一部の研究者の
を治すという意味がないという尚中の
興味や業績だけであってはならない。
主張が通ったのである。これ以来多く
病気を診断し治療をはじめる前に、ま
の大学病院は大学付属医院と称し、戦
ず人間であるその患者を見据え、何を
後医療法が改正され、規模と病床数に
望み何を欲しているか、どうすること
より病院・医院を区別することになる
が最もその人の為になるかを考えるこ
まで続いた。
とが、醫の心であり、醫の倫理である
尚中は官を辞すと、東京の順天堂を
と思う。
諺にいう「角を矯めて牛を殺す」が
同時に母(三沢氏、泰然の孫)と祖母
諺だけに終わらぬこと、ブラックジョ
(三沢良益室で佐藤泰然の次女)を通
ークの「手術は完全に成功したが患者
して佐藤家の血族になっている。私は
は死んでしまった」がただの笑い話で
入学後それを父から教えられて、思わ
済まされないことを願うものである。
ぬ奇縁に驚いたものであった。
筆を擱くにあたって意の尽くせない
順天堂系列にあり、適塾の緒方の流れ
憾みが残るが、私の思うところを汲み
の学長に薫陶を受けた東京医大の出身
取っていただければ幸甚である。
者たちは期せずして泰然・尚中の醫の
心を学んでいると言えるだろう。
【付記】
大正七年に東京医学専門学
校が設立した時、学祖として経営面を
全面的に負われた高橋琢也理事長に招
聘され、初代校長に就任したのが当時
の順天堂醫院佐藤達次郎院長であった。
教育面については順天堂勤務の各診療
科部長が教授となって学生たちを指導
された。昭和二十五年に私が大学に昇
格した東京医大二期生として入学した
時の初代学長が緒方知三郎博士である。
緒方博士は緒方洪庵の曾孫であるが、
なお東京医大の校章は『醫』の本字
を象ったものである。
みなと釧路の夏祭り
四方淳一
帝京大学医学部外科名誉教授
(昭 20 旧高・東京大学医学部)
ハー 意気でひらいて 笑顔で住んで 伸びる 港は 南に西に
みなと釧路の はれ姿 ソレ はれ姿 港まつりだ ドンドとはやせ ヨイ
みなと釧路は みなと釧路は 日本一 ソレ 日本一
上記“新港まつり音頭”のほか“釧路魚河岸音頭””と“イイッショくしろ”が
響き渡るなかを、それぞれのグループが揃いの浴衣や趣向を凝らした半纏を着て練
り歩くのだ。
お孫さんを連れて踊りにはいっている人もある。みんな楽しそう。下図は市立病院
グループ。
2011年の”市民踊りパレード”は、久しぶりに20℃を越す、当地としては暖かい
日に恵まれ、24団体、2,700名余が参加して目抜きの大通りを練り歩き、踊る人達も
見物も楽しい午後のひとときを過ごす事が出来た。
ここ釧路は夏になると、寒さから解放されて、週末はお祭りで賑わうのだ。その
たびに埠頭には屋台が出る
広島厳島神社のお祭りにはお神輿が大活躍するが、20℃を越すと、現地の人達は、
もう、半袖シャツにショートパンツである。
音楽パレードもかなり規模が大きい。軍楽隊の演奏から始まって,幼稚園から高校
生までの大集団の演奏行進である。幼稚園の可愛い子ちゃん達の行進にはお母さん
やお祖父さん、お祖母さん達が行進について歩道をついて行くのだ。
釧路川で行われた舟漕ぎ大会は快晴に恵まれ、両岸にかなりの見物客が集まった。
何しろ、北海道での有数の大漁港である。漁船のクルーも海上保安庁も出場するが、
衝突事故が頻発。それでも頑丈な舟の事だし、けが人はなかった模様。
釧路の人たちは明るくフレンドリーである。我々よそ者にも気軽に話しかけてくれ
る。本州から移住してきた人たちとも話してみたが、もう釧路を離れないと云う。
第一、住みやすいと。人口は下降気味にあり、ホテル・飲食店も閉鎖しているところ
も出ている模様だが……。
ミラノからモンブランへ
四方淳一
帝京大学医学部外科名誉教授
(昭 20 旧高・東京大学医学部)
ミラノからアウトストラーダA4に乗って西へ。途中で途を間違えたりして,昼
はサンティアの名もなき食堂に入るが,かなり混んでいる。何とか、明きテーブル
を見つけて座るが、メニューもない。ウェイトレスが献立をべらべら喋るが,イタ
リー語の早口はさっぱり判らない。兎も角、スパゲッティを食べているうちに、ト
ラックの運ちゃんが来て、同席してももいいかと聞く。勿論 OK である。その運ちゃ
んはなかなか面白い奴で、ニコニコしながら手真似を交えて何とか一緒に話してい
るうちに、教わって,牛肉の煮たのを食べて見る。なかなかよかった。彼は赤ワイ
ンを一瓶注文してその半分以上を飲んだだけで、何も食べないで仕事に戻っていっ
た。午後は、E25 にはいり、シャティヨ
ンから山道にはいり、セルヴィニアの
Hotel Hermitage に着く。遅くなったの
で、山に登る事は諦めて、下の青い湖に
行ってみる。何のことはない、全周 100
~200m 位の池であるが、ここにマッタ
ーホルンが映るのだ。
このホテルには外国人が沢山来るらしく、英語も通じるし、夕食はチーズ・フォンデ
ュとラム・チョップ、なかなか良かった。
翌日は、ゴンドラで山に登る。休日の為か、スキー客で満員であったが、ここか
ら仰ぎ見る山々は荒削りで雄大である。下りは見物だけの我々のみとなった。
一路クールマイユールへ。快適な道路で、いたる所にモンブランを示す標識があ
り、時々、目の前に現れる雄大な景色を堪能することが出来た。
クールマイユールの喧噪を避けてその先の小じんまりとした小さな村アントルヴの
レストラン La Maison de Filippo の庭で午食。オードブルには可愛い少女が、
おいしそうなお皿や鉢をテーブルまで
運んで来てくれるのを,少しずつ取っ
て食べるのだ。しかも何回もアンコー
ルしてくれる。豚の煮たのを切って食
べるのは良かった。われわれは胃が小
さいものだからあんまり食べられなか
ったが,大方のイタリー人は大食だか
ら満足気であり,食べることを楽しむ
点はフランス人と同様である。
メイン・ディッシュにはバーニャ・カウ
ダと云う北イタリア・ビエモンテ州を代
表すると云われる冬野菜を香料の入った
熱いソースにつけて食べるのだが、これ
も食べ切れない。この国は田舎に行くと
若いガルソンが給仕に出てくるが,それ
が実にきびきびとよく働くのだ。フラン
ス語である。
午後は山の間を通って氷河湖を見に行
く。雄大な眺めである。
村の小ぢんまりした Pilier de Angle に
泊り,お腹もすかないのに夕食となる。ロ
ースト・ビーフはよかった。この山間のホ
テルでは昼か夜の食事を食べないといけ
ないのだ。 フロントにフニャフニャの発
音をする小母さんが居て、くどい位の面倒
を見てくれるのだった。
翌日は待望のモンブラン登山であるが,
登山と云ってもフニクリで行くだけ
なので楽なものである。アントルヴ
からフニクリに乗り、ゴンドラを乗
りついで行くのだが、ゴンドラはだ
んだん小さくなる。朝は雨だったが、
だんだん晴れてきた。山の上の方も
晴と云うわけにはいかなかったけれ
ども、時々青空が見えてきた。
出発前には雨だから止めようかと
い迷っていたが、行ってよかった。
途中にスキー場があるので、スキーを担いだ男女が乗ってくる。
Aigille de Migi展望台(3842m)まで行って引き返す。アントルヴまで帰って来た
ときには1時半になっていた。CourmayeurのPilier d'Angleで午食。
モンブラントンネルを抜けてモントル-到着,途中でバイロンの詩で有名な
Chateau de Chillonによってみたが中は何ということはなかった。湖から見ると奇
麗らしいが……。
“モンブラン登山”はフニクリによる半日間で、そこに行く迄の途もなかなか楽し
かった。
地中海に沿って
四方淳一
帝京大学医学部外科名誉教授
(昭 20 旧高・東京大学医学部)
レオナルド・ダ・ヴィンチ空港におりたわれわれは,レンタカーを借りてローマの
環状線をぬけ,A1を北に向った。大分昔の話である。
途中からアウトストラーダを下りて東に向い,その夜はスポレートのアジプスに
泊る。この小さな町は,車で走れば数分で1周できるようなところだが,それでも
ドゥオーモもある。
翌朝,ローマ人の造った石造の橋を横手に見ながら北へ進む。この特徴のある橋の
遺蹟は,南ヨーロッパを旅行しているとよく見かけるものである。
昼前にアシッジに着く。聖フランチェ
スコと聖女キャラを祭った寺院や聖堂
を見学して宗教的な雰囲気にひたった
のち,再びウンブリアの平野を走った
り,オリーブやぶどうの畑が拡がってい
るゆるやかな斜面をぬけて,再びA1に
はいって,その夜は北フィレンツェのア
ジプスに泊る。
フィレンツェは見るところが一杯あ
る。幸い,サンタ・マリア・ノベーラ広
場に駐車できたが,駐車場の係の人のい
いオジさんが,帰って来る所を忘れない
ようにと,サンタ・マリア・ノベーラと
何回もこちらに発音させて覚えさせら
れるのには弱った。教会・美術館などを
次々にまわり,
ベッキオ橋のたもとで風景を描いているキャンバスを覗き込んだりして半日を過ご
してから、F55からA1を通ってルッカへ。堀と城壁に囲まれた中世の町である。
ナポレオンに泊る。翌朝早く出発しようと思ったら,パスポートや小切手を預けて
おいた金庫の鍵を持った人が,8時半にならないと来ない,という。貴重品預けも
考えものである。
ラ・スベチアからジェノヴァに到る全長約110キロの海岸は,東リヴィエラと
呼ばれ,リグレ海に面していくつもの湾を形造っている。アウトストラーダを下り
て、この海岸線の景色を楽しみながら
ゆっくり走ってジェノヴァに着く。ジ
ェノヴァはイタリア有数の港町だそう
だが,石造りの古い街の常として,あ
んまり綺麗な印象をうけなかった。ガ
リバルディ通りをぶらぶら歩いて,白
い宮殿や赤い宮殿を外から眺めて,港
のそばのジャコメで魚料理を食べる。
車で旅行していると,昼は御馳走は食べられるが,ワインは飲めなくて残念であ
る。現地の人達はワインなしの昼食など考えられないらしく,運転する人でも平気
で飲んでいる。われわれは酒を飲んでハンドルを握る習慣もないし事故をおこした
ら面倒だし、少しぐらい飲んでも仕様がないので我慢している。
ここから西は,フランスとの国境の町
ベンチミリアまでの160キロの海岸を
西リヴィエラというが,町から町をつな
ぐ海岸通りは狭く,落着いた雰囲気をも
っている。
その日は早目に,ヴァラツェという小
村のイデェアーレという安宿に泊り,そ
の村の小さな魚料理屋のメリートで,鯉の焼いたのに白を抜かせて夕食としたが,
あんまり美味しくかった。リヴィエラ海岸はコート・ダジュールに比べてホテルも
安いせいか,こんな小さな村にも老人が沢山泊っていた。
翌日,海岸沿いに走ってサヴォナを過ぎ,咲き乱れるブーゲンビリヤやバラの花
などを鑑賞しつつインペリアの、これも魚料理で有名なベッパで昼食。海岸を眺め
ながら食べる味は素晴らしい。
ベンチュミリアより国境を通過して南フランスにはいると,景色も何となくイタ
リアより豊かにみえるから不思議である。モナコはぐるぐる回っただけでマントン
のドーフィンに泊る。小さな宿屋だが小奇麗で気持ちがよい。
マチスの家を見物して,再び高速道路に乗って,コート・ダジュールはとばして,
マルセイユで下り,北へ上って田舎道を探しに探して,一本道を入って行って,や
っとル・マイストルに到達する。セザンヌの愛好した気候温暖な美しいこのプロヴ
ァンス地方の田園の閑静なホテルである。
プールサイドにボクサーの夫婦がいて,
我々が犬好きと知っているのか外へ出
るとしょっちゅう寄ってくる。座ってい
ると足下に寝そべっている。久しく我が
家の犬たちから離れているので家内も
すっかりリラックスした模様。庭で遊ん
だり,ホテルのお得意の兎料理を賞味し
たりして,
すっかり満足した。このホテルは公道から離れて1本道を入った奥にあるのだから静
かで居心地が良かった。
マルセイユに戻る。このフランス第3の都市は,その昔,日本からも幾多の先輩
がインド洋を経て欧州留学の第一歩を印した地中海最大の港町である。繁華街に駐
車し
てぶらぶら歩いたり,旧ポートで魚市場
を見物したりしているうちに,デンマー
クから来た人と知り合いになった。話は
たまたまレストランの事に及んだが,昨
日レ・ピュゼットに行ったが大変満足し
た,という。駐車場のことをきくと,ど
こでもできる,と。早速行く。
オードブルは当節流行の沢山の種類の出てくるものであったが,見るていると前
のテーブルのフランス人は実によく食べる。背丈も体重もわれわれと大して変わり
はないように見えるの2人連れが,次から次へと20枚ぐらいのお皿を積み上げた上に,
更にメインディッシュの大きなお魚を食べているのだ。勿論ワインもかぶかぶ飲ん
でいる。こちらは運動をしないで車で移動するばかりだから、あまりお腹がすかな
い。せいぜい4皿ぐらいでご勘弁ねがった。昔のローマ人はご馳走を食べては吐い
ていた、と言う話があるが、今の人たちはまさか…….。
ブイヤベース・マルセイユというのは青い魚がはいるのだと聞かされていたが,
本場のこの店では白身の魚と蟹がはいっていた。ここの魚料理屋はよかった。
ノートルダム寺院に行くのは中止して、
一路西へ。アルルのローマ時代の円形競
技場や古代墓場を見たり,お茶を飲んだ
り。田舎道を走っている途中で、この旅
行で始めてゴルフ場を見た。傍のホテル
に入って明日ゴルフとも考えたが止め
て、高速道路を走ってモンペリエに下り
る。車を地下駐車場に入れて、街をぶらぶら。市場で果物を買ったりして2時間ほ
どして、帰ろうと思ったら、さて、駐車場の位置がわからない。道は斜めのものが
多く、それらしい所を歩いても違った所に出てしまう。お腹が空いて,ようやくレス
トランに入る。ここは英語は全く通じない。なんとか店の推薦品を持って来させた
が、何か揚げ物で、美味しくなかった。タクシーを呼んで、先の駐車券を見せて、よ
うやく駐車場まで連れて行って貰った。
国境を越えてスペインはバルセロナへ。下町をぐるぐる回って,ホテル・ユーロ・
パークを見つけてチェックイン。昼食。スープ、サラダ、豚の腹仔、白ワイン。豚
の腹仔を焼いたのは珍しかった。
カタルーニャ広場からランブラス通りをぶらぶら歩いてコロンブス記念柱まで歩
いて,午後のひとときを過ごした。この辺はこの町第一の繁華街ということであり,
中世風のスタイルをそのままとどめたようなゴシック街区といわれるところである
が,通りも汚らしいし柄もよくない。それでも港町だけあって観光客相手の土産物
店は活気を呈していた。
バルセローナでのお目あてはピカソ美術館である。停車場近くのスラム街の中に
あって,入口も目立たないが内装は立派で,しかも作品が豊富に陳列されており,
たっぷり午前中を堪能することができた。年代が新しくなるにつれて例の変わった
絵になっていくのだが,全体からみるとオーソドックスのものが多く,そしてデッ
サンのタッチの鋭さには目をみはるものがある。
カテドラルを横目で見て山の手にある聖家族教会へ。ガゥディの設計によるこの
大建築は,造りはじめてから100年近くたった現在でもなお未完成である。そし
て今後の完成予定は200年先とは何とも気の長い話であるが,その百米を越す巨
大な建物はこの町のシンボルとなっていて,遠くからでもその尖塔がながめられる。
ここから高速道路に乗って市外に出てモンセラの修道院に向う。このお化けの出
そうな奇怪な岩山は,緑多き平地ににょっきりと立っていて幻想的である。大都市
の喧噪をはなれて田舎に出ると,緑に包まれた土地に親しむことができることは,
ヨーロッパのどこにも共通なことで,ここに旅行の楽しみの1つがある。また,高
速道路に出て250粁ばかり南に走ったところで,カステロンに下りることにした。
ここまで南下するとかなり暖かい。未だ5月の終りだというのに,人々は半袖シャ
ツ姿である。民家は白亜のものが多く,太陽の光が反射して目が痛い。バルコニー
は色さまざまな鉢植えの花々で飾られている。もう南の国である。この辺の海岸を
コスタ・デル・アサアールといい,ここから南にかけて地中海沿岸一帯にリゾート
がひろがっている。港の前のホテル・トルコーサというのに泊る。
南欧を旅行するときには,主としてその料亭の地酒を注文するように心掛けてい
るが,大体料理にもよく合い,外れがない。それがなければワインリストをみて注
文することになるが、この辺ではリオハ
という銘柄,この辺の北東部の産らしい
のだが,これが幅をきかしているようだ。
これは一寸,土の香りがする個性的な酒
だが、このあたりでは,とうとう白ワイ
ンの口に合うのにはお目にかかれなかっ
た。
1泊して再び南に向う。ものの1時間
も走ると,スペイン第3の都会であるバ
レンシアである。中心地に車をとめてカ
テドラルや切手市をみたり,丁度お祭りなので道路に一杯並んでいる屋台をひやか
したり,お土産を買ったりする。
驢馬を未だに使役に使って居た。観光
用ではない。
ホテルから予約してもらったクラブ
に食事に行ってみると,予約の名前はサ
イトウとなっている。日本人というとサ
イトウと思っているらしい。丁度,結婚
披露宴をしているのにぶつかった。ここ
は海産物が
売物であったが,エビやカニや魚を沢山食べてワインをガブカブ飲んで演説をして
いる,日本の田舎の結婚披露宴とそっくりで面白かった。
スペインの名物料理バエジャは主成分がお米であり,魚介類が多くはいっていると
ころから日本人には人気があるようで,これはバレンシアが本場とされている。そ
れは,この地方でおいしいバレンシア米がとれるからである。蛇足だが,レストラ
ンでバェジャを注文すると,2人前以上でないと作らない。そして,ご飯は芯があ
って,固い。こちらの連中はそんな焚き方を好むのだ。
山道を250km走ってグラナダに着く。アルハンブラのお城と綺麗な庭園を見物。
アルハンブラとよばれているものは、北西アフリカのイスラム教徒のムーア人たち
がグラナダに築いた古代の城塞と、そこに建造された宮殿である。これらの宮殿と
城塞の遺跡は、ムーア人たちがアルハンブラを築く事によって、この世の楽園の政
体を造る事を夢みたもの、とされている。そして、こここそ、スペインにおけるム
ーア帝国の最後の砦にしようと試みた場所と言われる。
お城は城塞から一望のもとにグラナダの市街と、遠くシェラ・ネバダ山脈を仰ぎ
みる様に造られている。その後、幾世紀にもわたってのムーア人とキリスト教徒と
の戦闘で, あちこちの城はその都度、新しい勝利者の施政者を迎えていたものだろ
う。また、アラビアン・ナイトのストーリーを思い起こさせる所もある。
この辺に来ると、昼間の太陽は強くて、久しぶりにマイアミにいる様な気分にな
った。でも、日陰は結構冷える。ここでゆっくりしてから、海岸線に出てマラガに
向かう。その手前のネルハで、始めての大鍾乳洞を見て大感激。
アンダルシア地方のマラガを中心とす
る“太陽の海岸、コスタ・デル・ゾル”
と呼ばれる風光明媚で温暖な地中海沿岸
は素晴らしい。この海岸線は,イタリア
のリビェイラ,フランスのコート・ダジ
ュールと共に世界的リゾートとして知ら
れているが,前2者に較べると未だ田舎
的なところが多分に残っていた。政府
も開発に積極的であり,スペインはもとより,イギリス・ドイツ・フランス人など
北ヨーロッパの人たちがバカンスを楽しみに来るのである。この,海岸に建ってい
るアパートの1階にはレストランとバーがあり,その前にはテラス,そしてその前
の砂浜にはデッキ・チェアがおいてあって,海水着姿の老若男女が日光浴を楽しむ,
というのがおきまりのパターンである。われわれも暖かい所を走って来て丁度眠気
もさしてきたのでデッキ・チェアを借りて暫時午睡・休憩した。
マラガから南西に車で約1時間走ったところにあるホテル・ミハスに投宿。丘の
中腹にあり,遠く海岸も眺められ,政府観光局のランクでいくと3ッ星である。ミ
ハスの村をぐるぐる回ってみる。さんさんとふり注ぐ太陽と,背面のシェラ・ネバ
タ山脈から来る豊富な水に恵まれて,畑にはオリーブが,レモンが,そしてオレン
ジが一杯である。地中海沿岸は温暖な気候に恵まれているので,種をまいておけば
作物はすくすくと育つのだろうか。道端
で大きな袋に入れたオレンジを買って
食べてみたが,太陽のエネルギーがその
まま身体の中に入るような気がした。香
りも高い。果物も豊富だし,海岸のこと
ゆえ海産物にも恵まれている。葡萄酒も
よい。食事はわれわれ日本人の口に合
い,しかも安いことは魅力の一つであ
る。ホテルは清潔だし,設備もととの
っている。
スペインの地中海沿岸は,フランス国境近くのコスタ・ブラバから,コスタ・ド
ラダ,コスタ・ブランカを経てコスタ・デル・ソルに至る比較的波のおだやかな海
岸線である。この,無数に入りくんだ入江には,数多くの海水浴場やヨット・ハー
バーなどの設備があり,シーズンともなると北欧からバカンスを楽しむ客で盛況を
呈する。それでも混んでいるのは都市の附近で,一寸町をはなれると未開発の所が
多く,その自然の風景は人を魅させずにはおかない美しさである。サボテンも見ら
れたし、未だに石居もあった。
マラガを経てコルドバへ。コルドバ特産の白葡萄酒モンティーリヤを飲み,モス
クを見学する。ここは海岸から大分はなれているのだが,そえでも昼間は直射日光
の下では汗が出る。しかし,一寸建物の中から木陰に入ると涼しい。コルドバ特産
の白葡萄酒モンティーリヤを飲み,モスクを見学する。
コルドバから北に向かう。今日の目標の一つはミゲル・デ・セルバンテスの小説ド
ン・キホーテのラ・マンチャ地方の見物である。国道25号線を右折して田舎道を
20キロぐらい行くとアルカサル・デ・サン・ファンに着く。一寸した田舎町であ
る。ドン・キホーテとサンチョの看板がちらほれみられた。
この辺では,特にお婆さん達は黒い袖の長い服を着ている。その黒服を着たお婆さ
んが白い石の家の玄関に坐って縫物をしていたので,写真を撮らせてもらったが,
一寸固くなってポーズをとってくれた。名物の風車を見物。
国道に戻ってこれを北上し,アランフェスに入る。ここはスペイン王家の保養地
として知られたところで,王宮や庭園な
ど,かつてのスペイン王家が如何に派手
好みであったかを窺わせるものである。
驢馬の藁細工を売っているところを見
ると、この辺でも騾馬は使役に使われて
いるのだろうか?
ここの王宮の農夫の家を見たかったが、開門時間が遅いので諦めてマドリッドに向
かう。
マドリッドでは丁度闘牛の行われる日
だった
闘牛はショーである。絢爛豪華
な服を着た闘牛士が,牛を殺すまでやる
のだが,彼らにも或る程度のリスクがあ
り,それにリズム感がある。果敢に牛と
闘ってお客を楽しませてくれた闘牛士
は,殺した牛の耳をもらえるときいてい
たが,その日にあった6回の闘牛はいず
れも出来はよくなくて,誰も耳をもらえ
なかったそうである。
※旅行中の各地のホテル・レストランの検索には主としてミシュランの赤本を参考にし
た。
私の「外リンパ瘻」裁判で明らかになった事
須貝六實
眞鍋クリニック耳鼻咽喉科部長
(昭 29 高・信州大医学部)
【前書き】
裁判の原因になった事故
実はこの裁判は、私が治療した原告を
は、きわめて稀なアクシデントで、慎
私と同じ耳鼻咽喉科専門医が応援した
重に扱うべきだったのに、6 人の専門
ために起こされた裁判なので、私にと
医のうち 3 人(1 人は鑑定医)が、こ
っては甚だ不名誉な事件だったのです
れを常識的に判断したため長引いてし
が、本当は何が起こったのか、真実が
まった医事裁判の途中で、私が図らず
段々明らかになった、この貴重な体験
も思い出したのは、「川が下から上に
について諸先生の判断をあおぐべく、
流れた」と言われたら「そんな馬鹿
恥を忍んで述べることにしました。
な!」いうのが常識。科学者なら「そ
ういう事もあるかも知れない」と考え
【本題】
る!!と学生時代に聞かされた御講話
断と前後 2 回にわたる手術について、2
でした。日々診療に携わって、種々検
人の医師(外リンパ瘻手術で有名な元
査をチェックしているうちに段々に当
部長と元教授)が、その妥当性を意見
たり障りのない考えが身についてしま
書で述べたのに対し、最初に診察した
い、誰もが上記の 3 人のよう常識的に
A 氏は原告に「耳から水が出ている」
考えてしまいがちです。今回の私の経
と告げ、カルテに中耳ファイバスコピ
験は、稀なることだったからこそ、真
ーと記入しながら、これに関する記載
実を突き止めようとする目が必要だっ
なしに「鼓膜裂傷」と診断。私どもの
た、と痛感し、活字にしようと思い立
病院に入院した原告を月曜日から金曜
ったわけです。
日まで診察していた主治医であるべき
10 年前に 2 才の子供が箸を持って遊
私の「右外リンパ瘻」の診
B 氏は 2 回に及ぶ証言台で「リンパ瘻」
んでいて、のどから脳に突き刺してし
はなかった、と証言し「外リンパ瘻の
まった事件が報道されましたが、その
治療経験は 7 件で、手術経験もありま
後何人もの子供達が同じような事故を
す」と陳述、さらに助手として参加し
起こし学会で発表されているのを見聞
ていた第 1 回目の手術で、私の外耳道
すると、私のこの事件も、世間に知っ
後上壁の削開操作を「骨を削ることな
ておいて欲しいことのひとつのように
く確認できる正円窓をまず見ることも
思えます。
なく、可能性のさらに低い困難でリス
クも高い卵円窓を先に確認に行ったこ
そのものが必要でないこともあり得る
ともまったく理解できません」「削開
という説明義務があった。③咳き込み
ではなく深く突き刺さりました。引き
後 20 分程度経過した時点で、突然髄液
抜くと打ち込んだノミの穴から髄液と
が噴出している事から、この時点で外
思われる透明な液体の流出が起こり
リンパ瘻が生じた部位への何らかの手
…」(=perilymph gusher)第 2 回の
術操作があったと考えるのが妥当であ
私一人で施行した手術は「ある意味で
る。④右強大音響と外リンパ瘻による
いわば密室で行われ、内容を監視でき
外傷性内耳障害、などが述べられまし
ませんでした」(イズレモ原文ノママ)
た。そこで私はやむなく、術前の CT が
と続けました。
B 氏の指示で施行され、そのフイルム
これに対し私は、顕微鏡右眼では鼓
に外耳道にまで溢れている髄液が歴然
室方向から髄液が湧き出るように流出
と映っている事を見つけ出し、これを
してきたのが見えたのに、左眼では B
元に再鑑定を C 氏に依頼しました。再
氏が陳述したように見えたわけは、こ
鑑定にあたる鑑定書(補充)では、①
の顕微鏡がプリズムで左眼単眼視を両
きわめて稀な症例であり、後遺症とし
眼視できるようにした構造上の錯覚に
て高度難聴が生じたことで術者の責任
すぎずまた第 2 回目の手術はビデオカ
を問うことはできないと考えられる。
メラに映し出されていたので、様子を
②perilymph gusher の原因は、特定で
見に来なかった B 氏の無責任さを指摘
きない。髄液の上昇が咳き込みによる
したところ、裁判長に私と B 氏の言い
とするなら、咳き込み直後に噴出する
分が 180 度違うので、判断に迷うと言
可能性が高い、などの鑑定でした。
われてしまいました。そこで、原告か
事件は、平成 15 年 1 月 3 日(金)自
ら提出されていた文献の中に外リンパ
警消防団による出初め式で、同僚の消
瘻について「腹圧を加えたことによっ
火用放水で耳を直撃された事から起こ
て生ずる髄液圧の上昇による外リンパ
ったのですが、原告は一瞬‘グラッ’
圧の上昇は、髄液圧上昇に比べて小さ
としたものの独歩で来院しています。
く、その変化も非常に遅い」という文
私は、1 月 4 日(土)に鼓膜の下 2/3
章を見つけ、これに頼りに、都地方部
は跡形もなく吹き飛び、残存鼓膜もち
会教授会の承認を得た上で、この著者
ょうど台風に吹き飛ばされたビニール
の C 氏に鑑定を依頼しました。鑑定書
傘が電柱にへばりつくように槌骨柄に
では、①B 氏が否定していた第 1 回目
まとわりつき、下鼓室に博動する水溶
の手術中の「咳き込み」を認めたもの
液を認めたので、疑いもなく「中耳外
の、②「外リンパ瘻」ではなく、手術
傷」「外リンパ瘻」と診断しました。
今でも、カルテに貼布されていたファ
私は次のように考えるに至りました。
イバスコープで撮影されて、プロモン
即ち、「水圧はあまりに強大で瞬時で
トリウムの髄液で白く光沢を発してい
あったので、卵円窓と正円窓に同時に
るカラープリントを思い出しながら、
到達したため、入口と出口の両方向か
何故これを正しく診る事ができなかっ
ら逆方向に同じ圧がかかったので、ど
た医師がいたのか、大変残念に思って
んなに圧が強くとも、またどんなに内
います。そして土曜日でもあり、この
耳窓膜が薄くても、膜は吹き飛ぶこと
まま緊急手術が一番良いと考えたので
がない」と。但し、正円窓は少し窓窩
すが、この貴重なアクシデントを B 氏
となって引っ込んでいるため時間差が
に、彼の実力を考え合わせて経験させ
生じ、原告がグラッと感じ、1 月 17 日
たいとも思いつき、月曜日から彼にバ
(金)第 2 回目の手術で鎧骨が後脚の
トンタッチしたつもりでいました。し
一部を残して見当たらないのに、卵円
かし、1 月 15 日(水)術直前になって、
窓膜下 1/3 が折れ込んで残っていた
彼に「耳内切開をしたことがない」と
のを発見した事実がある、というわけ
言われ、私は耳硬化症の鎧骨手術を耳
です。これも放水圧によって卵円窓膜
后切開で施行された患者の再手術を耳
の下縁に沿ってはがされるように生じ
内切開で自分でやってみて、外耳道骨
た卵円窓膜の裂傷が gusher によって
部の削開範囲のあまりの違いを知って
折れ込んだと考えています。
いたのと、目の前の原告髄液漏の増加
そもそも内耳は、卵円窓という入口
傾向と従って内耳破壊の進行も考え合
に音波が到達すると、そのエネルギー
わせてやむなく術者となった、という
は 100%内耳に伝達されて出口の正円
いきさつもありました。
窓へ抜けていくという構造になってい
では、何故 3 人の専門医が「外リン
ます。
パ瘻」と確定診断しなかったのでしょ
それで鑑定人は、大音響(=音圧)が
うか。それは、原告が 1 人で歩行し、
この経路に入ったため、外傷性内耳障
入院中も屋上で体操までしていたから
害が発症したと鑑定してしまったので
で、原告側はこの事が「外リンパ瘻」
すが、内耳を襲ったのは音響ではなく
でなかった事の証拠としています。常
水圧だったので、水はこの経路の入口
識で考えれば、前代未聞の強烈な水圧
だけでなく出口にも同時に殺到した、
を受けたら、鼓膜は吹き飛んで卵円窓
というわけです。
から水が侵入し、瞬時の内耳破壊が成
次に、
「咳き込み」と epilymphgusher
立し、昏倒して立つ事もできなくなる
の時間的関係については、麻酔記録で
筈です。何故立っている事ができたか、
はセボフレンを 1.5%から 3%に濃度
を上げて「咳き込み」に対処してから、
ど腑に落ちなくなってきたので、原著
約 20 分後に導尿終了となっているが、
にあたってみたところ、原著では「腹
前月まで耳鼻科外来勤務だった看護師
圧を加えると、脳脊髄圧が 2~3 倍増加
が一人で資材室を行ったり来たりしな
し、これと関連し外リンパ圧の同程度
がら、点滴をグリセオールに付け替え、
の昇圧が生じる。しかし、脳脊髄圧が
やりにくい男性の導尿をこれまた一人
急激に上昇しても外リンパ圧は緩やか
でやってから記入したので、gusher が
に上昇して最大値に達する」とありま
実際に起こった時間はずっとずっと前
した。それで結審は、平成 21 年 9 月
だったのが実状だったし、「咳き込み」
29 日にやっと下されました。
をすっかり忘れていた私が麻酔記録を
最後に、私の弁護士に「相手には、
みていてやっと思い出した程の両者の
殺人事件でいわば私が人を刺したのを
時間差は、確かにあったことなのです。
見たという証人がいるのに、何故この
また、2 回も手術したわけは、卵円
事件を引き受けたのか」と聞いたとこ
窓を明視する前に gusher が起こった
ろ、「B 氏の病院での評判があまりに
ので、その方向に筋膜を盲目的にパッ
悪かったので、弁護を引き受けた」と
キングし、鼓膜も作成して手術を終了
言われた事がいつまでも耳に残ってい
したのですが、外リンパ瘻孔即ち卵円
る事を付け加えておきます。
窓の未確認と筋膜が厚すぎた事を反省
【蛇足】-①gusher の訳は「噴出」で
して、1 月 17 日(金)第 2 回目の手術
すが、私の目のあたりに見たのは、
「湧
を施行したというわけです。また、そ
出(にゅうしゅつ)」という表現がピ
の一部始終を TV モニタリングしてい
ッタリの現象でした。②術中の「咳き
たのですが、一地方の病院の悲しさで
込み」は、腹圧とは関係のない「胸郭
これを記録する習慣がなく、また原告
出口症候群」を惹起させるような、突
も私の言う事を全面的に聞いて「良く
然の 1~2 回のカラッ咳の激しいもの
なるものなら受けたい」と手術を納得
でした。③裁判では「本当はこうだっ
してくれていたので、video のボタン
た」と主張しても、それでは終わらず、
を押す事に思い到りませんでした。こ
私を貶めようとする数々の原告の陳述
れがあれば、裁判はこんなにも長引く
に、いちいち反論せざるを得ず、いみ
ことはなかったし、事件の詳細も明ら
じくも医療サイドの立場の弁護士が、
かになる事もなく、終わってしまった
さる講演で述べていたように「裁判と
ことでしょう。
いうものは法廷闘争である」という事
また、原告の提出した文献の中から
見つけた鑑定氏の文章を読めば読むほ
が結審に数年もかかってしまった私の
実感です。
【追加】平成 22 年の“出初め式”の放
険点数表にも載せられて認められてい
水の写真が新聞に載っていたのを引用
る正当な医療行為で問題視する事自体
し、“火の見櫓”の上にしゃがんで背
がおかしな事と反論しました。
を向けていた原告にかかったのは霧状
の水であるから「外リンパ瘻」は手術
によって発症したのであり、鼓索神経
を切断したために味覚障害が生じた、
と原告に控訴されました。
これに対し、私はカルテに貼った残
存鼓膜のカラー写真では強烈な圧がか
かった事は明白であるし、又消火用放
水を耳で受けた事故と咳き込んでから
生じた Epilymph gusher の 2 つの事故
に、内耳の特殊な複雑な構造が、両方
に深く関わっていたのに、専門医であ
りながらこの事を考慮しないで A 氏、B
氏、C 氏は常識的な判断をしたために、
本当にすべき判断をする事ができなか
った。内耳が迷路といわれる所以です、
と陳述しました。
又「鼓索神経切断」については、髄
液を吸引していた吸引管の先に神経が
何回も吸い付いてしまい、これを剥が
しているうちに、神経が伸びてきてし
まい髄液の中でゆらゆら揺れているの
を、B 氏は勘違いしたに過ぎず、神経
切断は外科医にとって重大な行為なの
で、手術のどの過程で、神経のどの位
置を切断したのかその具体性が全く述
べられていないので、“切断した”と
証言したことにならず、かえって B 氏
の観察の杜撰さを示してしまっている
事。そもそも、この神経の切断術は保
「縁もゆかりもある」話
西山
緑
獨協医科大学基本医学教育支援部門・准教授
(昭 59 修・独協医科大学)
「縁もゆかりもない」とは、「関係
場合は、食卓を共にしていた人の発症
はまったくない。何のつながりもな
状況を調べるので、その場合の家族は、
い」という意味である。そもそも「縁」
現在同居していて、同じ食事をとった
と「ゆかり」は、どのように違うのか。
家族ということになる。
とても興味深い。「縁」と同じように
人は「縁」あって結婚するのである
使われることがあるが、「ゆかり」と
が、結婚相手は「ゆかり」がない方が
は、狭義には「血のつながり」のこと
良い。いわゆる血族結婚には、特殊な
である。病院では、患者さんの家族歴
遺伝病が発症する危険性が高くなる。
を調べることがある。「ご家族のこと
小さな集落で、特殊な遺伝病が集中し
をお聞きします」と尋ねられるが、家
て発症することがある。J・E・ビショ
族にも血のつながる家族とそうでな
ップと M・ウォルドホルツが著した「遺
い家族がある。たとえば、一番近い家
伝子の狩人」には、ベネズエラのマラ
族である配偶者は、血のつながりを持
カイボ湖の貧しい水上集落に発症す
たず、配偶者の両親である舅と姑(義
る「エル・マル(悪しき病)」につい
父母)とも血はつながらない。これは、
て書かれている。両親ともこの病に侵
「縁」によって結びついた家族である。
されている家族の血液を採取して調
けれども遺伝的素因をもって発症す
査することによりこの病気の原因遺
る多くの病気がある。そのため、ご家
伝子を同定することとなる。病気の名
族のことを聞く場合は、実は、現在の
前は、
「ハンチントン舞踏病」である。
家族ではなく、親兄弟のことを知りた
一般には、中高年で発症し神経を侵す
いというのが本音である。しかし、同
とても恐ろしい病気である。優性遺伝
じ生活習慣を送ることによって生じ
するので、親のどちらか一方がこの遺
る病気、生活習慣病もあるので、寝食
伝子を保有しているだけでも、発症の
を共にしている夫婦で同じ病気にな
可能性はあるが、両親ともにこの遺伝
ることも確かにある。また、食中毒の
子を持っている場合、発症の危険性は
かなり高い。
る。似ているからこそ強く惹かれ合う
人は、結婚の相手に遺伝子のまった
こともあるのだ。私は、以前、原因不
く異なる相手を選択するという論文
明の難病であるベーチェット病の家
もある。つまり、遺伝子のタイプが異
族内発症調査を行ったことがある。ベ
なる相手に強く引かれると言う。1997
ーチェット病発症者は HLA 抗原のうち
年に発表された論文には、夫婦のヒト
B-51 陽性率が非常に高い。全国疫学調
白血球抗原(HLA)型を調査したところ、
査の結果から夫婦ともに発症した一
HLA 型が一致するのは稀であり、同型
例があったが、同型の HLA 型が 4 種類
の人と結婚することを避けているた
あり、まるで兄妹のように HLA 型が似
めであると結論している。しかし結婚
ていた。ベーチェット病は全身の血管
するのに、わざわざ HLA 型を調べる人
病変を伴う炎症性の疾患であり、かつ
もいないから、どうやって知ることが
ての地中海沿岸から日本までマルコ
できるのか、不思議である。とあるテ
ポーロが旅したシルクロードに沿っ
レビ番組では、好きな体臭、嫌いな体
て多発している。眼科疾患としてベー
臭の実験を行って、嫌いな体臭が自分
チェット病のぶどう膜炎がよく知ら
と同じタイプの体臭、つまり父親の体
れており、以前眼科医をしていたころ
臭だったと結論付けていたが、あなが
はこの病気で苦しむ多くの患者さん
ち間違いではなさそうだ。娘が思春期
の診療に従事していた。ぶどう膜炎の
になると父親を嫌いになると言うの
発作が起こると「眼注」と言って、眼
も、人間の本能から来ているのかもし
球結膜(白目)の下にステロイドを注
れない。フロイトが著した「トーテム
入する処置を行うのである。この病気
とタブー」でも、原始文化では同じト
は、遺伝的には HLA-B51 との関連が以
ーテム(血族のシンボル)同士の結婚
前から報告されているが家族内発症
はタブー視しされ、近親結婚を避けた
率は、2%前後とあまり高くない。感染
と書かれている。自分とまったく違う
も含めた何らかの生活環境因子が原
タイプの人に惹かれて結婚したが、性
因として考えられるのではないかと
格の不一致で離婚する人もいる。
調査したが、結局、分からないままで、
また、一方で前に述べたように、夫
遺伝子調査なども行ったが、ベーチェ
婦で同じ病気を持っている場合もあ
ット病の研究を辞めてしまった。今は
眼科医でもない私だが、ベーチェット
病は、「縁もゆかりもある」病気には
違いないので、いつの日かこの病気の
原因が解明されることを切に願って
いる。
参考文献
(1)
J・E・ビショップ, M・ウォル
ドホルツ, 遺伝子の狩人, pp96-131,
化学同人.
(2)
Ober C, Weitkamp LR et al.
HLA and Mate Choice in Humans, Am J
Hum Gent. 61:497-504,1997.
(3)
S.フロイト:トーテムとタブ
ー, フロイド文化論, 吉田正己訳,日
本教文社.
(4)
西山緑, 中江公裕. ベーチェ
ット病患者における家族内発症, リ
ウマチ科, 17: 559-564, 1997.
(5)
西山緑:シルクロード病:
「オ
リエントの謎」の解明, 民族衛生
76(3),107-108, 2010.
医師となって 45 年
学習院大学で学んだこと
深沢規夫
船橋市医師会会長、津田沼診療所院長
(昭 31 政治・東邦大医学部卒)
平成 22 年 3 月 18 日第 85 回船橋市医
更に国際法、大沢章教授の「法は平和
師会通常総会において、会員 663 名の多
の秩序である」、刑法、植松正教授の「無
くのご支援を頂き、伝統ある当医師会第
過失責任論」、憲法、佐藤功教授の「憲
15 代会長に選ばれましたことを御報告
法第 9 条『戦争の放棄』」、独語の磯部忠
申し上げます。同時に昭和 31 年政経学
正教授(後の 21 代目院長)の「アルベ
部政治学科の卒業生の 1 人として光栄
ルト・シュバイツァー伝記」、ゼミの川
に存じております。
北洋太郎教授の「去る者は追わず、来る
百年に一度という世界経済不況下、更
者は拒まず」、英語の新木教授、体育の
に追い打ちをかけるが如き、千年に一度
入倉、那須教授等々の先生方の教えが鮮
という東日本大震災において、国民の一
明に想い出され、人生の教訓としていま
人としては勿論のこと、医師としても
す。
“命”の尊さを再認識せざるを得ません。
大学 2 年目から柔道部に入部、以来現
せめてもの救いが、世界が賞賛する「日
在も全日本医師柔道優勝大会には現役
本人の我慢強さとお互いを助け合う民
(6 段)として出場しています。講道館
族である」ことの誇りかも知れません。
創設者、嘉納治五郎師範の教訓「精力善
この大震災で亡くなられた方には衷心
用、自他共栄」「礼に始まって礼に終わ
より哀悼の意を表し、被災された方々の
る」の精神を座右の銘とし、医師として
一刻も早い復興を祈念いたします。
過重労働にも耐え得る強靭な心技体の
振り返りますと、昭和 27 年 4 月に桜
持ち主となるべく続けています。
満開の学習院大学正門をくぐり、以来 4
大学 4 年間に良き仲間に会えたこと
年間楽しい日々を過ごせました。特にエ
も、現在の幅広い人脈を持つ一人として
ース草刈廣投手擁する野球部が一部に
誇りにしています。筆頭に島村宜伸氏
昇格した際、急遽、荒英夫先輩、小平伊
(元文部・農林水産大臣)、村上智也氏
豆守君と三人で応援団を結成し、安倍能
(元三井生命専務取締役、学習院名誉理
成院長作詞の院歌“怠らず励めや”を神
事)、嘉納行光氏(講道館名誉館長、全
宮球場で歌い続けたことが、終生の私の
日本柔道連盟名誉会長)等、現在も親交
道標ともなりました。以後、創立 60 年
が続いています。卒業後の 2 年間、父亡
を迎えた応援団はまさに私の心の故郷
き後、名古屋の商社マンとして勤務しま
です。
したが、母の願いと兄姉の援助により
32 歳で医師免許を取得することが出来
を口ずさみながら残りの人生を有意義
ました。東京医大外科学(小児・消化器
に過ごしたいと願っています。
外科)大学院を終了し、第 2 の学問とし
て故武見太郎先生が我々医師の将来を
学習院の益々のご発展を心からお祈
り申し上げます。
予見され創設された産業医学を現在も
学んでいます。石川島播磨重工業健保組
合病院に外科医長(東京医大派遣講師)
として派遣されました。その後、豊洲診
療所副所長の時に労働衛生コンサルタ
ントを取得しました。医師としても、産
業医としても、そのモチベーションを高
めるためには良き指導者と多くの良き
仲間を持つべきだと思います。
「継続は力なり」をモットーに人生を
歩んできました。文系よりサラリーマン
を経て、医師・産業医そして医師会長と
変身できた果報者の一人として、学習院
大学の良き仲間そして恩師の先生方に
心から感謝すると共に、「人間万事塞翁
が馬」という言葉を万感の思いで肝に銘
じ、ますます刻苦勉励に努めます。院歌
【写真説明】中央が筆者で、左側は間宮
“怠らず励めや、立ち上がれ新学習院”
君、右側小平君(神宮球場にて)
湖東三山と美濃薬膳料理
増田邦久
(昭 30 高・明治薬科大学)
湖東三山は、西明寺(さいみょうじ)、
雪を降らせる。ちなみに伊吹山は薬用
金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひ
植物の宝庫である。薬科大学時代では
ゃくさいじ)の三つの天台宗寺院の総
植物部に属し、伊吹山に登山し、帰路
称である。
琵琶湖にてボート遊びをしたことがあ
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位
った。30年前大阪支所に2年間転勤
置し、紅葉の名所として知られている。
した時、家内と伊吹山に向かった。J
いずれも山門は西に面し、長い石段を
R関が原駅より伊吹山山頂への直通バ
上った先の鈴鹿山脈の山腹に本堂が建
スは直登でなく伊吹山地の裾野からう
つ。バスガイドさんが、決して無理を
ねうねと山頂にだどりつく。薬用植物
しないように、胸が苦しくなったら途
と高山植物を家内に説明しながら食事
中で休んで、ゆっくりと登って下さい。
を終えた途端,雷鳴が鳴り響いた。帰
途中で引き返しても結構です。と警告
路は西側のスキーリフトの下道を下り、
されたくらい長い階段と急な石段であ
琵琶湖にたどり着く予定だったが、雲
った。ツアーの参加者38人の大部分
が琵琶湖に舞い下り、空模様が一変し
がお年寄りであった。そういえば、先
た。急いでバス停に戻り着いた途端、
日、万座温泉に行った時、標高150
しのつく大雨が降ってきた。先ほどの
0メートル、少し歩いたらハーハーと
竜巻が琵琶湖の水を汲み上げて降り注
心臓がドキドキしたのを思い出した。
いだかのようであった。
医歯薬桜友会でその話をしたら、いや
1000メートルになるとだめだとい
【湖東三山の一つ西明寺】
う人、東北大震災の時節電で駅のエス
本尊は薬師如来、三修上人 を開基と
カレーターが止まって、階段を登るの
する。三修上人は、修験道の霊山とし
が辛かったなど話が弾んだ。
て知られる伊吹山の開山上人と伝えら
れる。伝承には、承和元年のある日、
【伊吹山】
琵琶湖の西岸にいた三修上人は、湖の
厳冬、寒波が水蒸気を運んで若狭湾
対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て
から琵琶湖を経て伊吹山(1377m)に
不思議に思った。そこで神通力を用い
ドーンとぶつり雪を降らせ、更に鈴鹿
一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、
山脈の御在所山(1212m)にぶつかり
今の西明寺のある山の中の池から紫の
光がさしていた。三修上人がその池に
建築で、国宝に指定されている。残念
祈念すると、薬師如来の像が出現し、
ながら修復中であるが、足場より桧皮
その姿を刻んで祀ったのが寺のはじま
屋根を間近に観察できた。
りであるという。西明寺の寺号は紫の
光が西の方へさしていたことによる。
【湖東三山真ん中のお寺、金剛輪寺】
元亀 2 年(1571 年)比叡山延暦寺の焼
奈良時代の中頃、天平 13 年(741)に
き討ちを行った織田信長は、近江国に
聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開
ある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払
山された。秘仏本尊聖観世音菩薩は、
うことを命じ、西明寺も信長配下の武
行基菩薩が一刀三礼で彫り進められた
士によって焼き討ちの運命にあった。
ところ木肌から一筋の血が流れ落ちた
しかし、寺僧の機知により、山門近く
ため、観音様に魂が宿った証として、
の房舎を激しく燃やし、全山焼失のよ
粗彫りのまま本尊としてお祀りされた。
うに見せかけたため、山奥に位置する
後の世に「生身(なまみ)の観音」と
本堂や三重塔は焼失をまぬがれたとい
呼ばれるようになった。金剛輪寺の秋
う。この兵火の後は荒廃していたが、
の紅葉はその血で染めたように鮮やか
徳川家などの庇護を受けて徐々に復興
に紅葉することから「血染めのもみじ」
した。本堂へ向かう石段の途中左側に
として全国に知らている。
は池泉鑑賞式の名勝蓬莱庭 がある。ま
平安時代の初めには、比叡山より慈
た、天然記念物、不断桜 がある。10
覚大師が来山、天台密教の道場とされ
月中旬-4月上旬 に咲くヤマザクラと
て以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺
オオシマザザクラの交雑種で、紅葉と
院として発展した。天正元年(1573 年)、
桜を同時に見ることができた。樹齢二
織田信長の兵火で、金輪寺も被害を受
百五十年といわれてるが、華やかさは
けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の
なかった。三重県鈴鹿市に原木がある
尽力で焼失をまぬがれたという。
ようである。本堂は、鎌倉時代初期に
寺の本堂をはじめとする中心堂宇は
建立された建造物で、釘を一本も使わ
総門や本坊のある地点から数百メート
ない純和風建築。鎌倉の様式がよく保
ルの石段を上ったはるか奥にあるため、
存され、国宝に指定されている。
見落とされ、焼き討ちをまぬがれたの
本堂の右方に立つ三重塔は、総桧の
ではないかという説もある。昼食は紅
優美な姿の塔といわれ、初層内部に極
葉の境内に立つ華楽坊(お接待坊)で
彩色で金剛界三十二菩薩など鎌倉時代
お箱精進料理を戴いた。
の極楽浄土が描かれているという。本
堂と同じく釘を一本も使わない純和風
【湖東三山の中で最も古い百済寺】
郷土色豊かな手作りの創作料理である。
聖徳太子 を開基とする。聖徳太子は当
疲労回復・免疫力活性等に良いとされ
時来朝していた高麗(高句麗)の僧・
る薬草もふんだんに使用。薬草の宝
恵慈(えじ)とともにこの地に至った
庫・岐阜県の恵みを、調理長の説明と
時、山中に不思議な光を見た。その光
ともに、地酒とともにたっぷりと堪能
の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉
した。体に良いだけではだめ、美味し
であった。太子はその杉を、根が付い
くなければいけない。食前酒の野草酒
た立ち木のまま刻んで十一面観音の像
から始まり、先付、前菜、造り、焚会、
を作り、像を囲むように堂を建てた。
焼物、蒸物、酢物、湯漬、漬物、果物
これが百済寺の始まりであるといい、
(無花果などの抗老化デザト)、しんの
百済の竜雲寺にならって寺を建てたの
う茶(はとむぎ。熊笹など)。和風懐石
で百済寺と号したという。平安時代に
であった。とにかく美味しかった。
は、近江国の多くの寺院と同様、比叡
山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺
【長良川温泉・薬草風呂】
院となっている。
「湖東の小叡山」と云
浴槽の一つ長良川温泉は鉄分を豊富
われるまでになったが、度重なる大火
に含むため、地下から湧出する源泉は
やさらに天正元年(1573 年)には織田
無色透明だが、大気に触れると赤褐色
信長の焼き討ちに遭い、またも全焼し
に変色している。神経痛、関節痛、疲
ている。平安時代のものは本尊の十一
労回復等に効果があると言われている。
面観世音菩薩は「植木観音」と呼ばれ
別の浴槽は薬草風呂。薬草が布袋に詰
る聖徳太子自作の仏像、などの主な仏
められ、浴槽に沈んでいた。良い匂が
像や経巻類が残るだけとなった。現在
した。体の中から薬膳料理、外からは
の本堂・仁王門・山門は、江戸時代前
薬草風呂で、健康・美肌・アンチエイ
期、井伊氏の寄進によって建てられた
ジングとのことであろう。
ものでる。
【美濃薬膳料理】
さて、今日のお宿は、岐阜グランド
ホテル。取締役総料理長が腕をふるう
美濃薬膳。伊吹山を初め、岐阜県は薬
草の宝庫、県内各地の旬の食材を使用
し、シノダ漢方辻先生の指導受け二十
数年の年月をかけて作り上げたという
忘れ得ぬ旅クロアチア
三浦恭定
自治医科大学名誉教授
(昭和 26 高・東京大学医学部)
以前に本誌(14 号)にアラスカ旅行の
独立後 10 年を経過していましたが、家
ことを書きましたが、その後も体力が
の壁には沢山の銃弾の跡が残っており、
衰えないうちにと毎年海外個人旅行に
道を外れると地雷にやられる危険もあ
出掛けています。その中でも印象深か
ると注意されました。案内書の資料も
ったクロアチアの旅について記します。
少く情報を集めるのにやや苦労しまし
私はユーゴスラビアの時代 1975 年に
た。それから僅かの間にクロアチアは
国際実験血液学会でアドリア海に面し
日本人にも最も人気のある観光地にな
たトロギールの町に滞在し、青くて奇
りました。
麗な海と親切なもてなしに感動し、是
クロアチアの世界遺産のうち内陸の
非再訪したいと思っていました。その
自然遺産プリトヴィツェ国立公園と、
頃は格安航空券等なく「パリ X 日間」
アドリア海沿岸の歴史遺産シベニク、
の安い団体旅行に加わってパリについ
トロギール、スプリット、ドブロブニ
た後、抜け出して学会に参加しました。
クにしぼって訪問することに決めまし
帰りの飛行機が遅れてベオグラードか
た。
らのパリ行きに乗り遅れ、色々と頼ん
【第 1 日】
だ末に「実は今日団体便の帰りの飛行
7月末まず首都ザグレブに行き、翌
機が夜中に出ます。トップシークレッ
朝勇ましい女性ガイドの運転する車で
トだがこれに乗せてあげます。それに
市内の歴史地区を簡単に一回りしてか
は両空港の税関と警察に了解を得る必
ら町を離れて岡の起伏する田舎道に入
要があります」と言われ、大分長いこ
りました。3 時間後プリトヴィツェ
と待った後「you and stewardess only」
Plitvice 国立公園につき、休憩後電気
という空(から)の飛行機に乗って深
バスで一番標高の高い湖迄行きました。
夜のパリにつき、未明 2 時頃ホテルに
今日は公園の上半分を回ります。木道
戻り、その日の朝漸く帰りの団体便に
沿いに行くと無数の清流と滝の風景が
間に合いました。当時の共産国家にし
始まり、一つの湖が終ると一段下にあ
ては意外なサービスでした。
る次の湖との間に流れと滝がありまし
クロアチアはもとユーゴスラビアの
た。滝は一部を除きせいぜい20m 位
一部でしたが内戦によりセルビアと戦
の高さのものが多く、緩い傾斜をスラ
って独立を果しました。2005 年7月、
ブ状に流れて行くもの、湖の縁の崖か
ら幅広く落ちるもの、苔むした石灰石
公園最大の湖 Jezero Kozjak まで下り
のすき間から出てくるものなど、一つ
電動の渡し船でホテルに戻りました。
として同じものはありません。
【第 2 日】
湖を縦断し公園の下半分の湖と滝を
見ました。今日も変化に富んだ美景を
堪能しつつ、プリトヴィツェ大滝を見
てから坂を登り展望台を経て宿に戻り
昼寝をしました。通常のツアーでは以
上 2 日にわたるコースを日帰り半日で
駆け抜けるそうです。夕刻昨日見られ
なかった上流側に再度行き更にいくつ
もの繊細な滝を見ました。
【第 3 日】
海岸線に出,昼頃シベニク Šibenik
の町に入る。おいしいタコのサラダで
昼食の後、石のかまぼこ型の屋根が美
しい世界遺産聖ヤコブ教会を見学。ド
ライブを続けて 16 時頃トロギール
Trogir 着。上述の通り思い出の町です。
紀元前 385 年にギリシャ人が外敵を防
ぐ為に小さな半島に掘割を造って島に
し、橋を架けて入るようにしました。
戦災も受けず 1997 年世界歴史遺産に
登録されました。ここでは旧市街の細
い路地を入った所にある古いプチホテ
これと同様の風景は中国の九寨溝にあ
ルに 2 泊しました。寺院や細い路地を
ると聞きます。水の色は裏磐梯の五色
歩き回り少し早めの夕食を海岸に面し
沼のような鮮やかなエメラルドグリ−
たレストランで食べました。ロブスタ
ンで、あくまでも透明で鱒のような魚
ーのグリルの下にスパゲッティを敷詰
が沢山泳いでいます。また倒木がいつ
めたものを取りましたが、大小 2 匹の
までも腐らずに水中に横たわっている
伊勢エビの出汁が下のパスタにしみ込
のもありました。周囲は鬱蒼とした森
んで、今回の旅行中で一番おいしい料
で、熊など野生動物も多いそうです。
理でした。
【第 4 日】
時入国し、飛び地であるドブロブニク
まず隣のスプリット Split に行き、
の入口に着いたのは 15 時頃でした。町
世界歴史遺産ディオクレティアヌス宮
に入る前に町の背後にそびえるスルジ
殿の遺跡をみました。3 世紀末キリス
Srd 山に登ってもらいました。頂上の
ト教弾圧で知られるローマのディオク
眼下に城壁に囲まれた町の全景を見下
レティアヌス皇帝がこの地に引退し晩
ろす世界中に紹介された絶景です。
年を過したところです。城壁に囲まれ
た宮殿の廃墟の中に人々が住みついて
現在も残る不思議な町です。
見学後双胴快速船でフヴァール Hvar
島に行きました。島は東西に細長く本
土に平行して横たわっています。大学
生アルバイトの運転する車で東側の海
岸の崖の上からアドリア海の絶景を楽
しみ、次に島の北側に出、小さな町々
かつて麓から登る観光用ロープウエイ
やきれいな海岸を案内してもらいまし
の山頂駅がありましたが、独立戦争で
た。帰りは山を越してアドリア海に浮
はユーゴスラビア連合軍が向いの山か
ぶ九十九島の様な美景を楽しみフヴァ
ら大砲を打込み破壊しました。テレビ
ールの町に戻りました。帰りの船は大
で見ると今はロープウエイが復活して
型のフェリーボートで夕風心地よく、
いるようです。
夕景を見ながら島々の間をぬけ、やが
山を下りて Hilton Imperial
てスプリットの燈が見え徐々に近付い
Dubrovnik に入りました。ホテルは独
てディオクレティアノス宮殿のイルミ
立戦争で激しく炎上し、放置されてい
ネーションを見ながら 2 時間で Split
たが、ヒルトンが外観をそのままに再
港に 入港しました。タクシーでトロギ
建したばかりでした。ピレ城門から
ールに戻りもう一泊。
100m 程の所にあり、城外としては最も
【第 5 日】
便利な位置です。ドブロブニク(別名
地元旅行社派遣の二人の男性運転手
ラグーザ)はアドリア海のヴェネチア
が迎えに来て出発。ドブロブニク
と並ぶ海洋共和国として栄えた都市国
Dubrovnik 迄約 240km、4時間の予定
家でありました。今「アドリア海の真
が途中激しい渋滞で 6 時間を要しまし
珠」と呼ばれて世界中の観光客を集め
た。アドリア海岸の崖の上の絶景を見
ています。
つつ、ボスニア・ヘルツェコビナに一
休憩後ピレ門に向います。堅固な城
壁にはドブロブニクの地図が掛けてあ
ので急いでピレ門に戻り、ホテルで昼
り戦争で壊れた家がマークされていま
食をしました。
すが、殆どの家に印がつけてあり、町
しばらくして大雷雨が止み涼しくな
の破壊のひどかったことがわかりまし
ったので、14 時半午後の部に出発。再
た。大理石を敷詰めた美しいプラツァ
び城壁に登り、今度は山側に向けて半
通りには大きな石造りの水道の泉、欧
周しました、旧市街は山に向ってかな
州で 3 番目に古い薬局がそのまま営業
り急な斜面となってつながっているの
するフランシスコ会修道院、スポンザ
で、山側の高い所でもすぐ下に町が見
宮殿や大聖堂等があります。
えます。
港に出てから雷雨の中宿に戻りました。
夜雨が止んで涼しくなったので、遅く
迄賑わっている城内の夜景を見に行き
ました。この町は欧州の観光地として
は珍しく治安には全く心配がないとの
ことでした。
【第 6 日】
最高所ミンチェタ要塞を通りピレ門に
昨日見残した城内の遺跡を見た後、
向い下って歩きました。途中しばらく
城壁(全長約 2km)に上り海岸沿いに
座ってスケッチをしました。屋根は殆
歩きました。アドリア海の海風を受け、
ど全部新しく葺替えてあるので、創建
前に浮ぶロクルム島 Lokrum を眺めな
当時に戻ってきれいではあるが古いく
がら進みます。右側は市内の土地がか
すんだ雰囲気は失われています。それ
なり高く壁に迫っている所もあり、古
にしてもひどい戦争の跡を市民一体と
い町並みや、生活の匂いのする家々の
なってここまで見事に復興を成し遂げ
庭なども見えてしまう。沖に真っ暗な
たことに敬意を表します。18 時頃プラ
雲があり、こちらに迫ってくる様子な
ッツァ通りに戻り、山側のレストラン
がひしめき合う裏通りで、生魚を陳列
しているラグーサ2という店に入りま
した。狭い道の両側にレストランがあ
り、路上に置いた椅子の間をかき分け
て通る。クロアチア最後の魚料理の夕
食を食べワインも少し過して宿に戻り
ました。
【第 7 日】
朝空港で予定の飛行機が 2 時間も遅
れ、30 年前の悪夢が頭をよぎりました
が、乗継ぎのフランクフルトで4時間
の待合せになっていたので助かりまし
た。翌朝無事成田帰着。
クロアチアの自然、文化遺産、そ
れに治安の良さとも想像以上に印象深
いものがありました。今は日本人がツ
アーでわんさと押掛ける所になり、ド
ブロブニクあたりにも盗賊が入り込ん
でいるかも知れません。
医歯薬桜友会の歩み
「この歩み」は竹屋康光氏保存の資料をもとに構成しました。
歴代医歯薬桜友会会長
初代会長
本間五郎
昭2高
2代
加納六郎
昭 16 高
3代
竹屋康光
昭 17 高
4代
山根友二郎
昭 30 高
5代
高倉公朋
昭 26 高
■ そもそも何故この会が設けられたか
学習院を出られ、明治に東京帝大薬学を卒業された本郷薬局の創始者であった田
中秀介先生が未だご健在であった頃、学習院出身の東大医、薬の卒業生が、しばし
ば田中先生を中心に本郷薬局の喫茶部に集まった。しかし、田中先生が病気になら
れ、特に亡くなられた後は全くこの会も途絶えてしまった。
昭和 28 年 11 月 25 日
桜杏会懇親会「本郷薬局喫茶部にて」
だが何となく集まろうという気持ちは、我々の心の隅に常にあった。しかし、千
葉大出身の方々の縦、横のしっかりした繋がりが昔も現在も常にあったと聞く。他
の大学もそれぞれ恐らく大学ごとに繋がりをもっておられることであろう。しかし、
すべての大学を網羅した縦・横の連絡はない。
お互いに助け合う相互扶助の立場からも、情報交換の場を持つ上からも先輩、後
輩が一堂に会し、互いに親睦の実をあげることは非常に有意義であり、このような
職域別の桜友会支部的存在の一つとして何とか会をもつことは絶対に必要であろう
との声は、次第に上がってきた。まさに機は熟してきた。
幸い私(竹屋)のクラスには、清水衛、加納六郎、佐藤洋、馬場一雄、丹下仁、
井出勝彦の諸氏があり、その中からも、このような声は起こってきた。
又、医歯薬ばかりでなく、医療の場に関係ある経営者的存在である方、事務関係
の方との連絡は、これからは特に密にすべきであるとのご意見も強く出てきた。
しかし掛け声ばかりではダメだ。そのような時に初代会長である本間五郎先生を
はじめ、終始一貫、献身的な努力をしていただいてきた世話人の皆様そして途中か
ら色々な意味で、影の縁の下の力持ちになってこられた幹事の方々の力があったの
で、今日の会が力強く育ってきたのである。
■ 設立総会(昭 55 年 9 月 10 日)に至まで
第一回会合 昭 55.4.27(1980) 新橋・王府(ワンフ)にて
設立総会 昭 55.9.10(1980) 学習院創立百周年記念会館
設立準備世話人
本間五郎
昭 2 高卒
竹屋康光
昭 17 高卒
熊谷頼明
昭 22 高卒
坂口
亮
昭 22 高卒
清水
昭
昭 22 高卒
本間康正
昭 23 高卒
佐藤
蕃
昭 24 高卒
真田幸一
昭 24 高卒
中川良一
昭 29 高卒
山根友二郎
昭 30 高卒
永山恵美子
昭 30 女中卒
昭和 55 年 6 月
■ 第一回総会から今日まで
第 1 回総会 昭 56.6.6(1981) 学習院創立百周年記念会館にて
第 2 回総会 昭 57.7.10(1982) 学習院創立百周年記念会館にて
講演会:「未熟児保育の今昔」馬場一雄先生(昭 16 年高卒)
日本大学教授板橋病院院長
第 3 回総会 昭 58.7.9(1983) 学習院創立百周年記念会館にて
講演会:「医薬品研究開発の実態」鈴木重臣氏(昭 12 年高卒)
三共製薬株式会社副社長
第 4 回総会 昭 59.7.7(1984) 学習院創立百周年記念会館
パネルディスカッション「これからの医療と経営に関する諸問題」
司会
真田幸一先生
昭 24 高卒
愛育病院長
大学病院の立場から
沢口重徳先生
昭 25 高卒
茨城大学小児外科教授
開業医の立場から
川村周光先生
昭 23 高卒
小児科開業
歯科医の立場から
中川良一先生
昭 29 高卒
歯科医院開業
病院経営の立場から
吉岡博光氏
昭 30 大卒
東京女子医大専務理事
薬問屋の立場から
石原昭三氏
昭 25 高卒
石原薬品社長
第 5 回総会 昭 60.7.13(1985) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「新しい日欧関係」磯村尚徳氏
第 6 回総会 昭 61.7.12(1986) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「ここまでわかる脳の構造と働き」高倉公朋先生(昭 26 年高卒)
東京大学医学部脳神経外科教授
第 7 回総会 昭 62.7.11(1987) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「医学史にみる日本人」吉村 昭氏(昭 25 年高卒)作家
第 8 回総会 昭 63.7.9(1988) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「動物のくらし(類人猿を中心として)」増井光子先生
(昭 34 年麻布獣医大卒)井の頭自然文化園所長
第 9 回総会 平元.7.8(1989) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「近頃のグルメと寄生虫」加納六郎先生(昭 16 年高卒)
東京医科歯科大学学長
第 10 回総会 平 2.7.14(1990) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「90 年代の世界と日本」磯村尚徳氏(NHK 特別主幹)
第 11 回総会 平 3.7.6(1991) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「最近の遺伝子研究」三浦謹一郎先生 東京大学名誉教授
学習院大学理学部生命分子科学研究所教授
第 12 回総会 平 4.7.4(1992) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「臓器移植の現況」稲生綱政先生(昭 17 年高卒)
東和病院院長・元東京大学教授
第 13 回総会 平 5.7.3(1993) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「腹腔鏡下胆嚢摘出術とその展開」山川達郎先生(昭 28 年高卒)
帝京大学溝口病院教授(外科)
第 14 回総会 平 6.7.9(1994) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「時を測る」木越邦彦先生(昭 15 年高卒)
学習院大学名誉教授(理学部化学科)
第 15 回総会 平 7.7.8(1995) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「大学病院の経営」吉岡博光氏(昭 15 年高卒)
東京女子医科大学理事長
第 16 回総会 平 8.7.13(1996) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「解体新書裏話」長與健夫先生 愛知県がんセンター名誉総長
第 17 回総会 平 9.7.5(1997) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「最近の法医学から:突然死・・・乳幼児突然死症候群」
澤口彰子先生(昭 31 年女高卒) 東京女子医科大学教授法医学
第 18 回総会 平 10.10.24(1998) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「東南アジアと日本の畜産協力」緒方宗雄先生(獣医師)
畜産技術協会常務理事
第 18 回総会の協議事項として「学習院医歯薬会」から「医歯薬桜友会」に名称変
更された。
第 19 回総会 平 11.10.2(1999) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「最近の国際情勢」犬養康彦氏(昭 27 年大卒)
共同通信社相談役、元社長
第 20 回総会 平 12.7.22(2000) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「日本の城」森山英一氏 元福島地方検察庁検事正、現公証人
第 21 回総会 平 13.7.21(2001) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「粋とは何でしょう 野暮とは何でしょう」小山觀翁氏
(昭 27 年政経卒) 日本演劇興業協会理事
第 22 回総会 平 14.4.14(2002) 第 16 回オール学習院の集い
講演会:「動物介在活動療法」(人の病に動物のはたす力)
"ヒューマンアニマルボンド(人と動物の絆)" 柴内裕子先生 赤坂動物病院院長
第 23 回総会 平 15.4.14(2003) 第 17 回オール学習院の集い
講演会:「大学受験生のメンタルヘルス」
"大学受験生によくみられる受験生症候群の理解とその対処について"
佐久間祐子先生(平元年心理卒) 帝京大学心理臨床センター
第 24 回総会 平 16.7.10(2004) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「身元確認をとおして見る日本人の死生観」橋本正次先生
東京歯科大学法人類学研究室 助教授
第 25 回総会 平 17.7.30(2005) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「耳、鼻、のどの異物とその取り方・・・昔と今」荒牧 元先生
東京女子医科大学耳鼻咽喉科名誉教授
第 26 回総会 平 18.7.29(2006) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「エイズ蔓延状況から見た世界諸国の実情」小島弘敬先生
東京都南新宿検査センター副室長
第 27 回総会 平 19.7.14(2007) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「北極星と桑の木」中田 力先生
新潟大学統合脳機能研究センター長、カリフォルニア大学教授
第 28 回総会 平 20.7.26(2008) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「形成外科における審美性の追求と技術革新」一瀬正治先生
前千葉大学大学院形成外科学教授、現千葉大学名誉教授、
現習志野第一病院副院長
第 29 回総会 平 21.7.25(2009) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「日本の医療“その現状と課題”」齊藤壽一先生
自治医科大学名誉教授、社会保険中央総合病院院長
第 30 回総会 平 22.7.31(2010) 学習院創立百周年記念会館
講演会:「血液幹細胞から再生医療へ」三浦恭定先生
自治医科大学名誉教授、社会保険中央総合病院名誉院長
第 31 回総会 平 23.9.10(2011) リーガロイヤルホテル東京
講演会:1 題:「CGM からみたインスリン治療」金澤
康先生
東京慈恵会医科大学附属病院 糖尿病・代謝・内分泌内科
2 題:「症例から学ぶ糖尿病の早期診断・早期治療」石橋健一先生
(医)健隆会 石橋医院院長、日本国際医学協会常務理事
昭和 56 年 6 月 6 日 学習院医歯薬会第一回総会「百周年記念会館にて」
物
故
会
会員名
石井
昭
員
没年
学習院卒年
最終学歴
1999 年
昭和 24 年高
三重県立医大
石橋長生
2002 年 9 月
昭和 20 年旧高
東大医
稲葉博和
1993 年 7 月
昭和 24 年高
熊本医大
伊庭高義
2011 年 12 月
昭和 48 年高
麻布獣医大
岩元照男
2004 年 2 月
昭和 19 年中中退
日大獣医
岡安芳雄
2007 年 8 月
昭和 24 年高
東大医
大久保欣一
2005 年 11 月
昭和 51 年高
愛知医大
大塚親哉
2009 年 12 月
昭和 29 年化学科
順天堂大医学部
樫田良精
1986 年 2 月
昭和 8 年旧高
東大医
春日誠次
1997 年 10 月
昭和 17 年旧高
東大医
加納六郎
2000 年 9 月
昭和 16 年旧高
千葉医大
川野原斎
2003 年 2 月
昭和 31 年哲学科
川村周光
2006 年 11 月
昭和 23 年旧高
松本医大
勝田康夫
2005 年 4 月
昭和 34 年高
岩手医大
昭和 48 年高
日大医
佐藤信義
佐藤文明
1993 年 4 月
昭和 24 年高
東大医
眞田幸一
1993 年 7 月
昭和 24 年高
東大医
澤口重徳
2009 年 10 月
昭和 25 年高
東大医
昭和 24 年高
東大医
篠塚清志
清水航一
2008 年 9 月
昭和 36 年高
東京医大
鈴木重臣
2010 年
昭和 12 年旧高
京都大法
善利教臣
2009 年 10 月
昭和 39 年高
日本医大
竹島秀和
2007 年 4 月
昭和 33 年化学科
田中雅二
1992 年 9 月
昭和 24 年高
東京医歯大
昭和 17 年旧高
名大医
長与健夫
沼野藤夫
2005 年 10 月
昭和 30 年化学科中退
東京医歯大
橋本嘉幸
2008 年 4 月
昭和 24 年高
東大薬
馬場一雄
2009 年 8 月
昭和 16 年旧高
東大医
馬場正三
2002 年 4 月
昭和 26 年高
慶應大医
早田伝之助
1998 年 12 月
昭和 14 年旧高
東大獣医
坂
2003 年 5 月
昭和 19 年旧高
正紀
朴沢二郎
昭和 24 年高
東北大医
本間五郎
1989 年 2 月
昭和 2 年旧高
慈恵医大
三浦謹一郎
2009 年 9 月
昭和 28 年化学科
東大大学院
宮入
2007 年 3 月
昭和 14 年旧高
東大獣医
清
宮澤晋次
2011 年 2 月
昭和 41 年高
日大歯
百瀬剛一
2006 年 12 月
昭和 8 年旧高
千葉医大
安田京子
2006 年
昭和 30 年短大国
芳野
2002 年
昭和 28 年高
隆
日本医大
改めてご報告致しますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます
庶 務 だ よ り
■ 第 32 回医歯薬桜友会総会・講演会・懇親会のお知らせ
日
時:平成 24 年 9 月 29 日(土)
総
会:午後 4 時 30 分~4 時 45 分
講 演 会:午後 4 時 50 分~5 時 50 分
懇 親 会:午後 6 時~8 時
会
場:総会・講演会
懇親会
演
学習院百周年記念会館 4 階第四会議室
中央教育研究棟 12 階「目白倶楽部」
者:順天堂大学医学部 特任教授、
順天堂東京江東高齢者医療センター PET-CT 認知症研究センター
センター長
佐藤 潔先生(高 31 年、順天堂医学部 37 年卒)
演
題:Aging with GRACE 認知症あれこれ
懇親会費:5,000 円
※ 万障お繰り合わせの上ご出席いただけますようお願い申し上げます。
■ 広報担当より
平成 23 年「春の叙勲」において、東京女子医科大学理事長
吉岡博光氏(昭
和 30 年経済卒、経済学部同窓会名誉会長、新宿桜友会会長、医歯薬桜友会名誉
会長)が旭日重光章を受章されました。お祝いを申し上げます。
9 月 29 日開催の懇親会は、ピラミッド校舎跡地に建てられた中央教育研究棟
12 階「目白倶楽部」での開催です。会員の皆様、是非ご友人、ご家族とご一緒
に日比谷・松本楼の味をお楽しみ下さい。
平成 24 年 1 月末現在、会員数は 285 名です。医歯薬系の方の学習院の卒後の
進路を把握することは非常に困難なため、会員の皆様から是非当会を紹介してい
ただけますようお願い致します。勤務先及び連絡先が変更になりましたら事務局
までご連絡下さい。
● 桜友会ホームページ URL
http://gakushuin-ouyukai.jp/
● 医歯薬桜友会事務局 善利宛 〒192-0054 東京都八王子市小門町 8-26
TEL&FAX 042-622-6870 / [email protected]
●
年会費振込先:
りそな銀行 八王子支店
医歯薬桜友会
普通
1896483
医歯薬桜友会
自
収
平成 23 年度決算報告
平成 23 年 3 月 1 日
入
の
至
平成 24 年 2 月 29 日
部
支
出
の
部
前年度繰越金
754,976
第 18 号会報
546,485
23 年度会費
735,000
第 19 号会報
47,110
24 年度会費
20,000
広告収入
寄付金
会議費
34,600
1,000,000
通信費
6,970
21
16,049
振込手数料
14,850
桜友会名簿協賛金
30,000
会員名簿作成費
60,320
慶弔費
15,750
繰越金
1,590,698
計
2,514,997
1,429,159
郵便口座
87,101
現金
74,438
合
事務用品費
2,514,997
りそな銀行
152,165
5,000
受取利息
計
第 31 回講演会・懇親会
計
1,590,698
年度別会費納入状況
平成 17 年
平成 18 年
平成 19 年
平成 20 年
平成 21 年
平成 22 年
平成 23 年
納入件数
165
173
183
148
163
145
158
納入率
48%
49%
47%
49%
56%
50%
55%
※
平成 24 年度会費として 4 件お預かりしています。
会員数 285 名
会計報告
善利秀臣
監査の結果いずれの書類も適正かつ正確であることを認める。
平成 24 年 3 月
医歯薬桜友会 会計監査役
増田
邦久
医歯薬桜友会 役員名簿
役職名
氏
名
学習院卒年
現
職
名誉会長
吉岡 博光
昭 30 大経
東京女子医科大学理事長
会長
髙倉 公朋
昭 26 高
東京大学名誉教授、東京女子医科
大学名誉教授
顧問
佐藤
洋
昭 16 高
顧問
竹屋 康光
昭 17 高
顧問
四方 淳一
昭 20 高
帝京大学病院外科名誉教授
顧問
佐藤
蕃
昭 24 高
東健メディカルクリニック院長
副会長
三浦 和彦
昭 25 高
日本児童教育専門学校相談役
幹事長
山根友二郎
昭 30 高
元帝京大学教授
幹事
荒牧 元
昭 30 高
東京女子医大第 2 病院
科 名誉教授
幹事
河野芙美子
昭 33 女高
石井眼科クリニック理事長
幹事
金川
洋
昭 39 大仏
社会福祉法人 佐久市社会福祉協
議会会長
幹事
依田 住生
昭 43 大経
松風荘病院理事長
幹事
石井久仁子
昭 45 大政
幹事
善利 秀臣
昭 48 大経
数井クリニック事務長
幹事
薄井
邦久
昭 49 高
真潭会
幹事
川田 利光
昭 51 高
元赤坂歯科クリニック理事長
幹事
清水
眞一
昭 51 高
清水医院院長
幹事
石橋 健一
昭 59 高
健隆会 石橋医院院長
幹事
佐久間祐子
平 1 文心
帝京大学心理臨床センター
監事
増田 邦久
昭 30 高
耳鼻咽喉
新井歯科医院
名誉顧問
島津
久厚
桜友会名誉会長
名誉顧問
亀井
泓
桜友会名誉会長
2011 年 10 月 21 日役員会にて承認
【2012 年 2 月現在】
医歯薬桜友会会則
名
称
医歯薬桜友会
目
的
学習院に在学した者としての誇りを以って会員相互の親睦と相互の
扶助を行う。
事 務 所
資
幹事長宅とする(連絡所
桜友会事務局)
。
格 学習院に在学した者で医、歯、薬、並にその関係ある業務に携わり、
当会の趣旨に賛同する者。
役
員
会
長
1名
副会長
若干名
幹
若干名(そのうち常任幹事若干名)
事
監事
3名
任期 2 ヶ年、留任を妨げない。
他に顧問、参与、名誉会員を置くことを得。
運
営
総会の決定に従い平素は幹事の合議により会長の承認を得て実施す
る。
会
議
定時総会は年 1 回とし、必要に応じ臨時総会を開く。総会出席者によ
り、会則の変更、役員の改選及びその他重要事項を決定する。
編/集/後/記/
善 利 秀 臣
(昭 48 経済卒)
医歯薬桜友会会報第 19 号発刊に際し桜友会役員、学習院の各先生
方よりご寄稿を賜り誠に感謝申し上げます。会員名簿を 6 年ぶりに別
冊として発刊致しましたが、どうかお取扱には十分ご注意頂けますよう
お願い申し上げます。
会報原稿は、毎年 1 月 31 日を区切りとして年間通して受付をして
おりますので事務局までお送り下さい。会および会報の存続のため、
是非会費は忘れずに納入をお願い申し上げます。
これからもこの会報を通じて“学習院の絆”が益々強まっていくこ
とを念じております。
バックナンバー
医歯薬桜友会会報 第 12 号
2005.4
ご 挨 拶・・・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
3
特別寄稿
医者の友達・・・・・・・・・・・・・・・桜友会副会長
小野田 博 4
心臓『破裂』
・・・・・・・・・・・・・・ 学習院大学学長
永田良昭
6
ゴルフとお医者さん・・・・・・・・・・・学習院女子大学学長 波多野敬雄 8
鬼平と猫・・・・・・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長 千葉 糺
9
初等科に勤務して・・・・・・・・・・・・学習院初等科長
斉藤 進 11
小さい頃の想い出・・・・・・・・・・・・学習院幼稚園長
小山久子 13
会員からの寄稿
江田島訪問記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋 14
一人暮し、自由について雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・石橋長孝 16
夏季休暇旅行歌日記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲生綱政 17
食物アレルギー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今井孝成 19
思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上谷知子 21
古い双眼鏡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薄井邦久 22
居宅介護支援事業所を開いて・・・・・・・・・・・・・・・・・岡 仁美 24
不思議・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・緒方幸雄 26
MRI のある無床診療所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野伸夫 28
私の医学生生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・垣内美和子 30
プロパー時代の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介 31
ワンカップタンポポ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川村繁美 33
私の受験時代、そして「学習院」
・・・・・・・・・・・・・・・ 熊谷頼明 35
噫、学校教練・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮 42
お榊壇と乃木館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃 46
歴史随想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐野迪雄 49
爽やかな青年医師たち「東京都監察医院での実習指導から」
・・・ 澤口彰子 51
絵日記:バンクーバー便り・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一 53
一内科開業医の雑感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水谷忠重 59
研修医制度改革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新谷英滋 62
能管・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹田数章 65
私の散歩道「雑司ヶ谷霊園」・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中田智愛子 67
江戸時代中期の医の三大先達・・・・・・・・・・・・・・・・・長与健夫 69
「産ぶ声」はハ調のラ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬場一雄 72
生きる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・深沢規夫 73
有病者の歯科治療・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福地美根子 75
小さな巨人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川達弥 76
伊勢神宮参拝あれこれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久 78
アルト・ハイデルベルク「2005 年は日本におけるドイツ年」・・・三浦和彦 80
混合診療解禁?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水野重樹 83
素直に年を重ねた老人の後日談・・・・・・・・・・・・・・・・宮入 清 85
北海道移住21年目を迎えて・・・・・・・・・・・・・・・・・宮澤晋次 87
我が家のねこ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山根友二郎 88
銀塩再考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吉永英司 92
弱いものいじめの混合診療禁止・・・・・・・・・・・・・・・・渡邊 裕 94
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医歯薬桜友会会報 第 13 号
2006.4
ご 挨 拶・・・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
私の近況・・・・・・・・・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
耳の話・・・・・・・・・・・・・・ ・・ 桜友会副会長
内藤賴誼
「こころ」に内向する社会・・・・・・・・学習院大学学長
永田良昭
日本の医療を考える・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長 千葉 糺
初等科にあるみかんの木・・・・・・・・・学習院初等科長
斉藤 進
会員からの寄稿
再びサハラへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
耳・鼻・のどの異物とその取り方<昔と今>・・・・・・・・・・荒牧 元
夏季休暇旅行歌日記(その2)・ ・・・・・・・・・・・・・・・稲生綱政
食育、特に肥満について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今井孝成
ネットに薬局の悪口書かれてますよ!・・・・・・・・・・・・・岡 仁美
忘年会での談話から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・緒方幸雄
PET化学 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・樫田義彦
少子化・人口減少大賛成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・交野政博
武道精神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介
二人の恩師・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島弘敬
学習院初等科・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮
一枚の写真からの追想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
歴史随想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐野迪雄
桜杏会懇親会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
Sunshine Coast・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
Vancouver と Whistler のスキー・・・・・・・・・・・・・・・ 四方淳一
私の運転履歴書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水 昭
ベーゼンドルファー 15055・・・・・・・・・・・・・・・・・・新谷英滋
銀座でメンタルクリニックを開業します・・・・・・・・・・・・茅野 分
血液サラサラ?ドロドロ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・西山 緑
川越まつりの山車と徳川将軍家・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
日本国際医学協会 80 周年・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三浦和彦
3
4
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医歯薬桜友会会報 第 14 号
2007.4
カムチャツカ半島への旅・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
私の近況・・・・・・・・・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
目白の自然・・・・・・・・・・・・・・・桜友会長
亀井 泓
食事とフランス人・・・・・・・・・・・・学習院長
波多野敬雄
似非科学、擬似科学の流布・・・・・・・・学習院大学学長
永田良昭
医者のむすめ・・・・・・・・・・・・・・学習院女子大学長
永井和子
May I give you a hand?・・・・・・・・・学習院中・高等科長 千葉 糺
─五年間の「ネガ・リスト」、
「ポジ・リスト」私的断片─
子どもと親で学ぶ
女性のライフサイクル講座・・・・学習院女子中・高等科長 稲田和子
会員からの寄稿
一葉の写真から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
マイカーと共に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石橋長孝
「特別養護老人ホーム」雑感・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 稲生綱政
我が家のペット・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・近江尚人
腰痛体験記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡 仁美
文明の利器その後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・交野雅博
ホームページ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介
映画「愛の流刑地」を観て・・・・・・・・・・・・・・・・・・河野芙美子
雪の日の「ザク」さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・熊谷頼明
エイズ蔓延状況からみえる
通常隠されてみえない社会の実体・・・・・・・・・・・・・・小島弘敬
正課だった馬術・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮
昭和22年の学習院創立百一年祭・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
日の出だ 日の出に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 洋
千鳥ガ淵・北の丸公園の桜・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
Mayne Island と Japanese Garden・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
Vancouver の海辺・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四方淳一
部活動報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹内真奈
竹内香奈
ドイツワールドカップ観戦雑記・・・・・・・・・・・・・・・・田所道子
日本という国に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中田 力
ノースモーキング! ゴーウォーキング!・・・・・・・・・・・・ 西山 緑
著書紹介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林 光俊
母への思い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
健康で幸福な長寿を目指して・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦和彦
野生のアラスカ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦恭定
Shall we dance?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三邊麻理子
人間万事塞翁が馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡邊 裕
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医歯薬桜友会会報 第 15 号
2008.4
四谷の初等科教室・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
この頃思うこと・・・・・・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
目の話・・・・・・・・・・・・・・・・・桜友会長
内藤賴誼
自然体の友人たちのありがたさ・・・・・・学習院大学学長
福井憲彦
擬似的時間としての平成二十年・・・・・・学習院女子大学学長 永井和子
鉄腕投手の死・・・・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長 北島秀明
湯たんぽ・・・・・・・・・・・・・・学習院女子中・高等科長 稲田和子
脳科学の倫理についての言語学者の独り言・学習院初等科長
中島平三
会員からの寄稿
香りの博物館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
マールスドルフ城
第二次大戦末期のベルリン在住日本人の籠城生活・・・・・・・荒牧 元
俳句との出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石橋長孝
短歌での沖縄小浜島旅行・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 稲生綱政
さようなら ピラ校・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薄井邦久
足裏マッサージで中国語・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡 仁美
五重塔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介
「計測工学」と「医学」との間で揺れた私の半世紀・・・・・・・熊谷頼明
懐かしい先生方の綽名・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮
乃木書簡と石井國次初等科長・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
絵日記 SeaFair バンクバー便り・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
Oregon 紀行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四方淳一
絵日記 ベルギー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
医師生涯教育制度と医師免許更新制度に思う・・・・・・・・・・清水眞一
最近のうつ病の治療「過剰な服薬・休養は有害も」・・・・・・・ 茅野 分
夜型生活から朝型生活へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西山 緑
ロータリアン、最後の? 職業奉仕・・・・・・・・・・・・・・・西脇 博
医歯薬桜友会 創設の頃の思い出・・・・・・・・・・・・・・・本間康正
おわら風の盆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
戦国武将の死に至る病・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦和彦
造血幹細胞・幹細胞移植・再生医学
私の再生医学事始め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦恭定
私のセンチメンタルジャーニー
心の故郷 アボンリー村を訪ねて・・・・・・・・・・・・・・横山三保子
花粉症なんか怖くない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡邊 裕
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医歯薬桜友会会報 第 16 号
2009.4
目白の森・・・・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
私の学習院とその後の人生・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
それぞれの時代を描く 2 冊の本・・・・・・桜友会長
内藤賴誼
読む快楽・・・・・・・・・・・・・・・・学習院大学学長
福井憲彦
「老い」と「日なたと日かげ」と・・・・・学習院女子大学学長 永井和子
健康の持つ力・・・・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長 北島秀明
1214 名の生徒の心に ・・・・・・・ 学習院女子中・高等科長 加川紀代子
意義深い沼津海浜教育・・・・・・・・・・学習院初等科長
中島平三
会員からの寄稿
九份は今日も雨だった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
異国の地で母校を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井口清香
俳句の効用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石橋長孝
信州上田紀行 【短歌日記】・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 稲生綱政
学校生活管理指導表(アレルギー疾患用)および
学校のアレルギー疾患に対する取り組みガイドラインについて・・今成孝成
毒食べちゃった!? In 北京オリンピック ・・・・・・・・・・・岡 仁美
忘年会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介
医師なのに、工学につい手がでてしまった私・・・・・・・・・・熊谷頼明
乃木号碑をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
山頂の池--Seymour Mountain--・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
KAUAI 島静養記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
俳句をはじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水 衛
卒後30周年によせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田所道子
大学生のストレスとライフスタイル・・・・・・・・・・・・・・西山 緑
ロータリアン、最後の? 職業奉仕(続編)・・・・・・・・・・・・西脇 博
北京オリンピック出場-スポーツドクターの立場より-・・・・・・林 光俊
慶応義塾大学病院眼科病棟・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
医療崩壊をどう防ぐか-医療安全調査委員会設置法制定へ-・・・・三浦和彦
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医歯薬桜友会会報 第 17 号
2010.4 設立 30 周年記念号
初等科の思い出・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
(財)ロータリー米山記念奨学会について・・学習院名誉院長
島津久厚
健康あれこれ・・・・・・・・・・・・・・桜友会名誉会長
亀井 泓
ニューヨーク犯罪考・・・・・・・・・・・桜友会長
内藤賴誼
医歯薬桜友会 30 周年を記念して・・・・・ 学習院大学学長
福井憲彦
安藝基雄先生のことー饗宴の時・・・・・・学習院女子大学学長 永井和子
食事について・・・・・・・・・・・・・・学習院中・高等科長 北島秀明
「心に残る医療」体験記について・・ 学習院女子中・高等科長 加川紀代子
先生、たいへんです!・・・・・・・・・・学習院初等科長
三浦芳雄
会員からの寄稿
源氏物語と源氏香・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
「ふるさと」の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石橋長孝
特別養護老人ホーム(イーストピア東和)の現況 ・・・・・・・ 稲生綱政
生肉食べたい ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡 仁美
馬込文士村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤審介
発想の転換がもたらす成果とは?・・・・・・・・・・・・・・・熊谷頼明
学習院沼津游泳所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂口 亮
乃木さんの防具・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
Cotswold の日々 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四方淳一
高一の夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水 直
冷戦終結 20 周年を行く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 田所道子
出生率低下。我々にできる事はないのか? ・・・・・・・・・・・永山恵美子
不健康な生活習慣:朝食欠食と喫煙・・・・・・・・・・・・・・西山 緑
下北半島ぐるり一周の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
法律行為能力のライフ・サイクル・・・・・・・・・・・・・・・三浦和彦
遺体を用いた米国内視鏡外科学会主催、
大腸内視鏡外科手術トレイ二ングに参加して・・・・・・・・山川達郎
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医歯薬桜友会会報 第 18 号
2011.4
国際交流・・・・・・・・・・・・・・・・医歯薬桜友会会長
髙倉公朋
特別寄稿
私の近況・・・・・・・・・・・・・・・・学習院名誉院長
島津久厚
歩くのに必要な道幅・・・・・・・・・・・桜友会名誉会長
亀井 泓
蘭の原生地を訪ねて・・・・・・・・・・・桜友会副会長
葛城茂敬
お医者と学習院・・・・・・・・・・・・ 学習院院長
波多野敬雄
目白キャンパスに受け継がれた歴史ある建築
・・・・・・・・・・学習院大学学長
福井憲彦
椎を踏むな 銀杏を踏むな
-「古典の日推進フォーラム」-・・・・学習院女子大学学長 永井和子
私にとって「癒し」とは・・・・・・・・・学習院中・高等科長 林 知宏
読書感想部門金賞について・・・・・ 学習院女子中・高等科長 加川紀代子
突然の来客・・・・・・・・・・・・・・・学習院初等科長
三浦芳雄
会員からの寄稿
香道雑話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野三千秋
斉藤茂太、モタさんが小学生時代にかいた絵・・・・・・・・・・荒牧 元
心の支え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・井口清香
腎移植の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・稲生綱政
偶然の出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大久保忠訓
チャリティーコンサートを企画してみました・・・・・・・・・・岡 仁美
半世紀前のベルリン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小島弘敬
「内服薬処方せん」の全国標準化・・・・・・・・・・・・・・・齊藤壽一
乃木道場ここにありき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 蕃
大切な初等教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・永山恵美子
五十歩百歩:五千歩一万歩のウォーキングの効用・・・・・・・・西山 緑
八重山諸島 3 日間の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川達彌
青木ヶ原樹海の考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増田邦久
第 50 回国際治療談話会総会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・三浦和彦
血液幹細胞から再生医療へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・三浦恭定
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名刺広告
学校法人東洋育英会
東洋パラメディカル学院
(医療専門学校)
理事長
江藤 一仁
院
長
医学博士
栃木県さくら市馬場410番地
TEL:028-681-1301
FAX:028-681-1304
http://www.toyopara.ac.jp/
(3時間人間ドック専門機関)
日本医師会認定産業医
人間ドック認定指定医
人間ドック健診情報管理指導士
Eto Kazuhito
〒329-1321
東健メディカルクリニック
佐 藤
蕃
SATOU SHIGERU
〒107-0052 港区赤坂3-21-13 昭栄赤坂ビル2F
電話(03)3505-3151(代) FAX(03)3505-3155
「健康と素敵な笑顔のために」
たかくら矯正歯科クリニック
院長 高倉百々子
東京都目黒区柿の木坂1-30-6-2F
tel 03-5726-0884 fax 03-5726-0817
医歯薬桜友会会報
第19号
平成24年4月1日発行
発行人 髙 倉 公 朋
編集者 澤 口 聡 子
善 利 秀 臣
表紙写真解説(学習院正門)
明治41(1908)年の目白移転の際につくられた。門標「学習
院」の揮毫者は不明であるが、門標 「学習院大学」は昭和35
年度の大学卒業生が寄贈したもので、第18代安倍能成院長
が揮毫した。
撮影:薄井邦久(昭和49年男高卒)
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