カトリックの信仰とアメリカニズムの統合 ――ジョン・キャロルの目指した

カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
――ジョン・キャロルの目指したカトリック像――
和田 紘
序章
第1章
アメリカのカトリックの起源
第1節
アメリカ初期のカトリック
第2節
アイルランド移民の流入(アメリカ・カトリック拡大の過程)
第3節
その他の移民
第2章
カトリックの反アメリカ的要素
第1節
移民のアイデンティティ
第2節
反プロテスタント的構造
第3節
歴史的要因
第3章
ジョン・キャロルの目指したカトリック
第1節
ヨーロッパからの脱却
第2節
アメリカニズムへの順応
第3節
『アメリカの教会』の創設
終章
序章
高度産業国家の中でも際立って信仰心の篤いアメリカにおいて、宗教の存在は揺るぎない重要性を持っ
ている。その信仰の役割が、我々日本人にとって想像し難い程大きいことは明らかである。アメリカ国民の
実に 9 割以上の人が神の存在を信じ1、社会組織の中では、警察と同じ程度の信頼を誇るのが教会・宗教
組織であることから2、高度産業先進国家の中でもこのように圧倒的に信仰心の篤いことはアメリカの有する
最も重要な特質の一つだと言える。よって、アメリカ社会について考察をする時に宗教を取り上げることは
重大な意味を持つといえ、「宗教」はアメリカ理解にとって欠かせないテーマであると考えられる。
そして、アメリカにおいて国民の 8 割以上がキリスト教信者である3ことからも、信仰といえば主にキリスト教
に対する信仰を意味するが、その中でも特に多数派を占めてきたのが、プロテスタントである。一口にキリス
ト教といっても、その宗派及び教義は実に多岐にわたっており、宗派が違うとまったく別の宗教といってもよ
いほど、宗派の違いは決定的な重要性をもつ。
特に、数あるキリスト教宗派の中の多数派であるプロテスタントと、「移民の教会」であるカトリックの宗派の
対立は長年にわたり続き、カトリック教会はアメリカ社会で排斥され続けてきた。そもそも、それぞれの教義
の根底にある考え方に違いがあり、カトリックのドグマが「教会の外に救いなし」であるのに対し、プロテスタ
ントは「キリスト教の外に救いなし」である。儀礼の形式だけを見ると、プロテスタントはほぼ祈りだけに儀礼
の形式をかぎっている点、カトリックよりもむしろイスラムに近いとさえ思える4、とする見解もあるほどである。
こうした、両宗派の性格における溝がカトリック教会排斥に与えた影響の大きさは容易には想像し難い。
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
そもそも、アメリカにおいて元々多数派であったプロテスタントと異なり、カトリック教会は、アメリカ社会に
来てから大量の移民を受け入れることでその規模を拡大してきた。言ってみれば、移民はカトリックにとって
その構成員を増やすのに欠かせない要素だったのだが、逆に、「移民の教会」としての性格こそが長年に
わたるカトリック排斥の原因ともなってきたのであった。
しかし、カトリック教会は種々の困難と障害を乗り越え、今やアメリカで最大の単独宗派にまで成長した。こ
れは、カトリック教会がようやくアメリカ社会に根付き、受け入れられた証拠と取れる。だが一方で、カトリック
教会が体験した苦難はある疑問を我々に投げかける。それは、アメリカ社会がこれほどまでにカトリック教会、
すなわち「移民の教会」に対して排他的であり続けたのは何故なのか、という疑問である。そして、アメリカ社
会に受け入れられるためには、どのような体験を経て、どのように変化していかなくてはならないのか。その
疑問を解決するためのモデルとして、カトリックの体験してきた歴史が参考になるのではないかと思う。なぜ
なら、カトリック教会がアメリカで体験したことは、アメリカ的価値観をとり込み、アメリカ的教会になっていく過
程そのものであり、アメリカ社会の一員になるには何が必要なのか理解しなければ、アメリカへ順応すること
は不可能であるといえるからだ。よって、アメリカ社会の WASP 支配が長く続いたアメリカ社会の中で、しか
も政教分離の影響で特別な援助は望めない中、カトリックはどのように生き残ってきたのかを考察することは、
すなわちアメリカ社会の一員になることはどういうことなのかを意味すると考える。
そこで、アメリカ社会にカトリック教会が根付いていくために欠かせない存在となったジョン・キャロルという
人物に焦点を当てようと思う。カトリック教会が抱えてきたジレンマ、すなわち「移民の教会」はアメリカ社会
に受け入れられないが、カトリックが生き残るためには移民の力を借りなければならない、という矛盾を解消
しようと努力を続けたのが、アメリカ・カトリックの初代司教のジョン・キャロルであったからだ。ジョン・キャロル
は、アメリカのカトリック教会が「自由と自立」を獲得し、ロンドンの司教の管轄から離れ独立して、「アメリカ独
自のカトリック教会」として発展していけるように尽力を重ねることとなる。これは、ジョン・キャロルが当時から
カトリックの進むべき道を理解し、実践していたという証拠と考えられる。
よって、ジョン・キャロルの目指したカトリック教会には、アメリカ社会で生き残るための不可欠な条件が含
まれていると思われる。このことから、ジョン・キャロルが目指したカトリック教会の姿を考察し、カトリック教会
がアメリカ社会に求められていたことは何だったかを明らかにすることで、カトリックに対する排他的性格の
裏に見て取れるアメリカ社会の本質を明らかにしたい。そして、本論分の目的は「アメリカ社会は大量の移
民を受け入れる一方で、異文化に対して異常なまでに排他的性格を持つのではないか」という仮定から生
じている。
第1章
第1節
アメリカのカトリックの起源
アメリカ初期のカトリック
まず、カトリックの歴史を紐解いてみると、カトリックがアメリカに最初にやってきたのは、15 世紀後半のこ
とになる。コロンブスの到着当時、現在のアメリカ合衆国には 1500 万人から 2100 万人の先住アメリカ人が
いたと言われ、その多くがヨーロッパのカトリック宣教師によってカトリックの信仰に導かれた5。この時、主に
活躍したのがフランシスコ会とイエズス会の宣教師たちであったが、彼らはミッションと呼ばれる、教会として
の機能に加えて教育・農業・医療・福祉施設の役割を果たす建造物を次々と作り、先住民のキリスト教化に
励んだ。
カトリックの信仰と交わる以前、先住アメリカ人は既に信仰をもっていたが、その大きな特徴は、彼らが見
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カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
える世界を支えている、見えざる神々の世界、すなわち霊の世界を信じていたことにあった。これはカトリッ
クと共通した特徴ともいえる。そうした信仰、共通点を持ちながら、アメリカ先住民はヨーロッパのカトリック宣
教師に出会う事になるわけだが、キリストの福音は先住アメリカ人の霊性を踏みにじるかたちで伝えられるこ
とがあった。このことから、先住アメリカ人とカトリックとの間に文化的衝突、更には霊性とカトリシズムの両立
への苦悩といったようなものが既に生まれていたと考えられるのではないだろうか。これは興味深いことに、
カトリシズムのアメリカニズム(この場合は、より後期の建国後のアメリカ的精神と文化という意味でのアメリカ
ニズム)への適応に似た構造があるようにも思われる。もちろん、すべての宣教師が抑圧的な態度をとった
わけではなく、宣教師の中には先住アメリカ人の言語、文化、宗教を大切にした人もいる。
先住民にとって厳しい、苦しみに満ちた出会いから何世紀も経た 1990 年の国勢調査によると、先住アメ
リカ人は190 万人で、そのうち 28 万 5 千人6がカトリック信者である。また、先住アメリカ人の中から司教も出
ていて、彼らはアメリカ・カトリックの重要な構成員であることに変わりはない。
第2節
アイルランド移民の流入(アメリカ・カトリック拡大の過程)
プロテスタント教徒の減少に対して、カトリック教徒数は着実に伸びていった。このカトリックの伸びは、高
い出生率、低い離反率(主流プロテスタント教派の半分)などから説明できるが、最も重要だったのが、主に
アイルランドから来る移民による増加であった。アメリカには、1820 年から連邦議会が移民を厳しく制限す
るようになる 1920 年までの 100 年間に、3000 万人以上の移民が入ってきた。そして、その中でも大きな割
合を占めていたのが、アイルランド系移民とドイツ系移民であり、これらの移民の増加によって、1850 年に
単独宗派ではカトリック信者数が最大になった。
特に、当時のアイルランド系移民とドイツ系移民の数字的な影響力を裏づける証拠として、次のデータが
挙げられる。10 年に 1 回の国勢調査で、合衆国政府の「あなたはどの民族に属すると考えますか」という質
問に対し、2 億 7000 万人におよぶアメリカの総人口のうち、3873 万人あまりが「自分はアイルランド系」とい
う自覚をもっており、およそ 5794 万人の人がドイツ系と答えている。アイルランド移民でみれば、これはすな
わち、アメリカ人と称する人間のうち 7 人に 1 人がアイルランド系なのであり、アイルランド本国で暮らしてい
る人たちよりもはるかに多い数で、本国の 8 倍あまりのアイルランド系がアメリカにいることになる7。この移民
の数字の上での影響力は、アメリカにおけるキリスト教の勢力図に大きな意味を持っていたことは明らかで
あろう。なぜなら、アメリカ内の宗派の規模が、アメリカに入ってくる移民の信仰によって直接左右される可
能性があるからである。そして実際、アメリカのカトリック教会はアイルランド移民の恩恵を直接受けた。1840
年代にアメリカに渡ったアイルランド人の実に 90%がカトリック教徒だったからである。
当時の移民のモットーは「パンのあるところ祖国あり」であったが、カトリック移民の場合はさらに「礼拝の自
由とパンのあるところ、祖国あり」であった8。移民たちは、祖国の宗教的迫害や飢餓、あらゆる宗教的・政治
的・経済的理由からアメリカにやってきたが、特にアイルランド移民の場合は特別の事情があり、今日のアイ
ルランド系アメリカ人のイメージを作り上げたのが「飢餓のアイルランド人」といわれる人たちであった9。
1845 年以降、バクテリアの繁殖により、アイルランドのジャガイモ収穫は壊滅的な打撃を被り、この致命
的な病害は毎年繰り返され、もともとジャガイモを主食とするアイルランドの民衆は、1855 年までにこのジャ
ガイモ飢饉で 900 万たらずの人口のうち 100 万人以上は死んだという10。本来、どんなに貧しくても耐える
器量をもっていたアイルランドの人びとも、自ずと移民という選択肢に向かわざるを得なかった。移民のほか
に残された選択肢は、窮乏に苦しんで死ぬくらいしかなかったのである。当時のアイルランド人にとって、ア
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
メリカへ移民することはこの苦しい状況との決別を意味していたため、たとえアメリカでの生活が楽でなくとも、
彼らは信仰を糧に苦しさに耐え、新たな移民を呼び寄せる要因となった。
大飢饉時のアイルランド移民は、アメリカのカトリックを信徒の数で押し上げることに大きく貢献し、アメリカ
のカトリックにとっては最も重要な構成員といえるが、何よりも大飢饉後のアイルランドのカトリック信者はカト
リック教会の質そのものを向上させるのに貢献した。19 世紀の終わり頃には、読み書きができ、生活水準も
上がり、熱心な信仰をもち、道徳的にも立派なアイルランド・カトリック移民になったが、いくつか弊害があっ
た。それは、やはりアイルランド人としてのアイデンティティに誇りを持ちつづけていたことで、アメリカ社会は
それを警戒したことと、彼らが司教、司祭、修道者の権威を認める司教中心主義であったことだ11。アイルラ
ンド移民はアメリカのカトリックをアメリカで最大の宗派に押し上げた功労者であるとともに、アメリカ社会のカ
トリック教会への警戒心をいっそう高めた存在であることから、アメリカのカトリックにとってはまさに諸刃の存
在であったといえる。
第3節
その他の移民
これまで、アメリカのカトリックの構成員として、先住アメリカ人やアイルランド移民の場合を見てきたが、そ
もそもアメリカのカトリック教会は、はじめから多様な移民の契約と合意によって成長していったと言える。具
体的には、先に挙げたアイルランド系、ドイツ系をはじめ、フランス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ロシ
ア、ポーランドなどから移民がやってきた。
ポーランド系移民の場合、彼らの多くは農民か未熟練労働者になった。ポーランドのカトリックは宗教改革
を体験していないことが、西ヨーロッパのカトリックと違うところである。したがってポーランドのカトリックには
中世的特徴があり、特にその一例として聖母マリアへの強い信心をあげることができる12。
さらに、イタリア系移民の多くは農民出身であったが、アメリカでは都市生活者となったので、未熟練労働
者が多かった。彼らの中から、移民の女性としては最初の聖人フランセス・ザビアー・カブリアーニが生まれ
た。イタリア系移民がアイルランド系とドイツ系の移民と違うところは、女性が家庭の外で働かないことであっ
た。信仰においては、地中海的な非キリスト教的な要素が入っていた13。
様々な国からの移民は、それぞれの文化的アイデンティティや伝統を持っていたが、その根底では、カト
リックの教義という信仰で結ばれている。この信仰の上での一致と、文化的背景の多様性こそがアメリカのカ
トリックの大きな特徴であるとされる。そして、信仰の一致とともに、これらの移民には、ヨーロッパでの政治
的、経済的、社会的、宗教的抑圧からの解放という共通要素があったことが重要な意味を持つだろう。
第2章
第1節
カトリックの反アメリカ的要素
移民のアイデンティティ
長年にわたりカトリック教会がなかなかアメリカ社会に馴染めず、また、アメリカ社会がなかなかカトリック教
会を受け入れなかった理由として、まず考えられるのがアイデンティティの問題である。カトリック教会は「移
民の教会」と呼ばれるほど、移民のイメージが強い。それもそのはずで、前述のように 1776 年にアメリカの
カトリック信者は、人口のたった120 分の 1 であったが、1878 年には 6 分の 1 にまで増加している。これは、
1830 年から 1920 年にかけて、多くの移民によってカトリック人口が増加したことによる。カトリック教会の構
成員に圧倒的にヨーロッパなどからの移民が多かったことから、カトリック教会の有する「移民のアイデンティ
ティ」をアメリカ社会は嫌った。これは、アメリカ社会が「移民の教会」であるカトリックを「外国の教会」とみな
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カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
し、敵視していたことを意味する。
当時のカトリックに対する社会の評価は非常に厳しいものであった。アイルランド出身で 1867 年にセン
ト・ポールの大司教になったジョン・アイアランドは、反カトリック感情からくる運動を次のように書いている。
「彼ら(開拓時代のアメリカのカトリック信者)は、この見知らぬ国で異邦人であった。国の法律は、本当に
信仰の自由を保障してくれた。しかし、隣人の多くは、カトリック信者を敵意のある反カトリック文書に描かれ
ているように見ていた。カトリック信仰には、社会的排斥、ひどい蔑視、あざけりと中傷がぶつけられた。教会
の外には、物質的な利益、社会的名誉・尊大・野心の喜びがあり、教会の中には、貧困、社会的知名度の
低さ、力の欠如、差別があった。当時アメリカで、カトリック信者であることは、本当に、異邦人であることであ
り、ほとんど追放者であることだった」14。
この文を見れば、当時のカトリック信者の地位がいかに低く、社会の中での異質性から、いかに差別的な
目で見られていたかが想像できる。特に、最初の一文で「見知らぬ国で異邦人であった」とあるように、まさ
にカトリック信者は外国の教会の信者であり、よそ者にほかならなかったのだといえる。また、カトリック信仰
に対する偏見を解くことに努めたアイザック・トマス・ヘッカーの日記にも「ローマ・カトリック教会はもっとも軽
視され、貧しい。また世間によれば、この国の外国人の主要な構成領域のためにもっとも尊敬されていな
い」と書き記されている15。
「移民のアイデンティティ」のうち、特に問題であったのは、自らの祖国の文化的・宗教的遺産を頑なに堅
持しようという考えをもった移民がいたことであった。基本的には、もともと英語を話す文化で育ってきたお
かげでアメリカの文化やアメリカ式の生活に比較的抵抗感なく、容易に馴染んでいったアイルランド系移民
に対し、ドイツ系移民は内陸部に土地を買い、自分たちの信心や文化を守ることで、アイデンティティを堅
持していた16。
ドイツ系移民は、自分たちの宗教的、文化的遺産がアイルランド系カトリックに呑み込まれることを心配し
て、アメリカ的アイデンティティよりも自分たちのカトリックのアイデンティティを強調するようになった17。同じ
条件、すなわち、経済的な貧困または政治的、宗教的迫害から逃れてきた移民だという状況で、このように
ドイツ系移民とアイルランド系移民のアイデンティティに対する態度が違ったのは、1800 年代前半のドイツ
系移民は農業経験を持ち、それほど貧しくなかった点にある18。そして、ドイツ系移民は自分たちの日常生
活のことが主要な関心事となり、ドイツ的な典礼と信心生活を実践し、その結果、防衛的になった。移民の
「祖国」との結びつきを頑なに繋いでいたのは、その歴史や伝統、生活習慣などへの愛着であったからであ
る。その生活習慣の中で核になっていたのは宗教であり、特に自分たちの祖国の言葉によって信仰を保つ
時に、自らのアイデンティティを強く自覚していたのだと考えられる。すなわち、母国を忘れられず、母国の
言葉をなかなか捨てられなかったのが、ドイツ系移民だったのである。
アメリカのカトリック教会の「脱外国教会」の努力とは裏腹に、このようなドイツ系移民の場合のみでなく、ア
メリカにはその他にポーランド系・イタリア系・ヒスパニック系などの様々なアイデンティティを抱えた移民が
流入したため、それぞれのアイデンティティを保持したままでは、アメリカのカトリックとして統合していくこと
が非常に困難であったことは確かだろう。そして、諸外国のアイデンティティを内包したカトリックがアメリカ
社会の目に「外国の教会」という形で映り、排斥の対象となっていくのであった。
第2節
反プロテスタント的構造
カトリックとプロテスタントは、双方同じキリスト教でありながらも、その教義・運営方法・構造はまったくとい
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
っていいほど、異なっている。双方の様々な面における差異も、反カトリック感情を増幅させる要因の一つと
考えられる。そもそも、双方の教会の根底にある考えも、前述のようにカトリックは「教会の外に救いなし」で
あるのに対し、プロテスタントは「キリスト教の外に救いなし」となっているが、この言葉には重要な要素が含
まれている。それは言葉の通り、カトリックにとっての「教会」の重要性であり、そこには反アメリカ的要素が多
分に含まれている。
そもそも、各教会の自主独立を尊重する会衆派(組合派)教会の伝統があるプロテスタントに対し、カトリ
ックにおいては、最近まで一般信徒が教会の運営に参加することはほとんど認められていなかった19。とい
うのも、カトリック教会は、聖職者の位階制(ヒエラルキー)を採用しており、このヒエラルキーはローマ教皇
(法王)を頂点として成り立っている。具体的には、ローマ教皇を頂点としたピラミッド型の位階制度で、イエ
ス・キリストが選任した 12 人の使徒の後継者とされる「司教」(ビショップ)がその中心を占めている。教皇の
最高顧問で教皇選挙権をもつ枢機卿以下、「総大司教」「首都大司教」「大司教」「司教」「司祭」などの職階
があり、これらはすべて教皇によって任命される20。
アメリカ社会において、このような権力機構に支配されたカトリック教会の構造は容易に受け入れられるも
のではなかったことは間違いない。それが証拠に、アメリカ的価値観を強く育んできたのは、位階制になっ
ていない、信者の自発的な集まりであるプロテスタント諸派であった。つまり、トクビルの言う通り「ピューリタ
ニズムは単に宗教上の教義であるだけではなく、多くの点で断固たる民主主義理論と共和主義理論とも調
和した」のであった21。プロテスタント教会によって平等主義、個人主義、ポピュリズムの反エリート的価値観
がはぐくまれたが、中央集権化の進んだカトリック教会では、こうはいかなかったであろう。アメリカ的価値観
にしっかり符合したプロテスタントに対し、反アメリカ的構造をもつカトリックであるがゆえに社会の排斥の対
象になったことは、否めない事実である。
逆にいえば、これほど自発的結社(自発的宗教)、すなわち一般信者自らが教会の運営・発展に積極的
に取り組む体系が繁栄したのは、アメリカが世界で初めてのことである。よって、脱権力支配は極めてアメリ
カ的な価値観であり、その点カトリック教会は極めて反アメリカ的な、中央集権的な教会構造であるといえる。
つまり、アメリカにおいては最も改善されなければならない点であり、ジョン・キャロルをはじめとするアメリカ・
カトリックの司教たちが頭を悩ませた点でもあった。
さらに、キリスト教をはじめ、どのような宗教においても、人間と神との対話は信仰における基本であるが、
その対話、すなわちコミュニケーションが行なわれる形式はそれぞれ異なる。この神とのコミュニケーション
においても、カトリックとプロテスタントの両者には大きな違いがある。
カトリックでは、神の子イエス・キリストが神に遣わされ、そのキリストの犠牲によって聖界(神)と俗界(人
間)の間のコミュニケーションが成立するという神の子犠牲のパターンがとられている。これは、植動物の犠
牲を拒否していることを意味している。これに加え、カトリックでは、聖人を媒介して聖俗間のコミュニケーシ
ョンをとる、もう一つのコミュニケーション形式が存在する。
このカトリックにおける聖人崇拝に対し、プロテスタントは一般的に、人が義とされる(神と人間との間で友
好的なコミュニケーションをもつこと、罪の赦し)のは内面的な信仰によってであるとされている。つまりプロ
テスタントでは、神とのコミュニケーションとして、祈りの形式だけが残っているとされる。このような神とのコミ
ュニケーションの形式における差異は、直接にプロテスタントとカトリックとの対立を意味するものではない。
しかしながら、カトリックの聖人崇拝には、プロテスタントが好まない中央集権的なカトリック教会の構造を匂
わせる要素が含まれていると考えることはできないであろうか。つまり、あくまで自発的結社であるプロテスタ
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カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
ント諸教会においては、信徒個人個人の神への祈り、すなわち内面的な信仰で事足りるのに対し、個人の
祈りでなく、教会の司祭を通じての神との交わりという、仲介者を必要とする形式をとったことから、カトリック
はより教議論的になり、司祭の信者に対する権威的立場への道を開いたといえる22。こうして権力主義の要
素として教皇を頂点とするヒエラルキーを保持し、司教や司祭を通した聖人崇拝という形式でもって神とコミ
ュニケーションをとるというカトリックでは、根本的な考え方にまったく違った意識が存在すると考えられるの
だと思う。
また、カトリックが権力構造をひきずる宗教だと捉えることと同時に、こうも言えると思う。それは極めてヨー
ロッパ的性質・構造をもったカトリック教会を外国的なるもの、この場合、ヨーロッパ的なるものと捉え、それを
排斥することによって、自分たちはその宗教的・権力的束縛から逃げて自由になったのだという自覚を再認
識できるという点において、カトリック教会は、排斥することで自分たちの自由を確認するための絶好のター
ゲットに成り得たのではないだろうか、ということである。
第3節
歴史的要因
これまで、カトリック排斥の原因となった「外国のアイデンティティ」やプロテスタントとの構造上の差異につ
いてみてきたが、アメリカ社会がなかなかカトリックを受け入れられなかったのは、単にアイデンティティや構
造の問題だけではなかった。というのも、当然のことながら、反カトリック感情の前提には少なからず歴史的
な要因が関係していたからである。
アメリカにおいては、反カトリック感情は入植のはじめからあり、特定の事件で突然発生したわけではない。
歴史的には、この入植当時からの反カトリック感情が 19 世紀後半まで続くことになる。そもそも、カトリックと
プロテスタントの間の亀裂はヨーロッパ時代から引きずっているものであり、アメリカ合衆国そのものの歴史
より長い。イギリスにおいてピューリタンが迫害され、彼らがアメリカに逃れたときからピューリタンのカトリック
に対する警戒心が持続することになるが、逆にイギリス本国をピューリタンが支配した時代(1640 年代∼
1660 年代)は、アメリカのカトリックにとっても危機の時代となった。
というのも、イギリス本国の情勢がアメリカの植民地(バージニア、メリーランド、マサチューセッツなど)に
おける法律、法令などにそのまま影響を及ぼすこととなったからである。具体的には、1647 年にマサチュー
セッツで制定された法律は、カトリック司祭の定住の禁止を規定し、1674 年のマサチューセッツの法令によ
ると、マサチューセッツに止まる司祭は死刑と記されていた。加えて、1688 年の名誉革命後、カトリックは英
国教会のために税金を支払うことになった。また、1629 年、初代ボルティモア卿がカトリックの定住する場所
を求めてバージニアを訪ねてきたとき、英国教会の国王至上法に従う誓約をたてるように求められた。結果、
1642 年バージニア植民地議会が採択した法律は、国王至上法の誓約を強制することによって、隠れカトリ
ック信者に避難所を提供したり、不法滞在司祭に住居や援助を与えたりすることを禁止した23。
こうしたイギリス本国の影響や、アメリカでの反カトリック感情の間で、メリーランドでは宗教的寛容と信教
の自由の意識が生まれることとなったが、アメリカのカトリックにとってこの宗教的寛容は大きな救いとなった
に違いない。それほど歴史的に見て、カトリックに対する敵視の感情は大きく、激しいものであったといえる。
しかし、メリーランドの宗教的寛容は長くは続かなかった。イギリスのピューリタン革命によってメリーランドも
ピューリタン、すなわち、カトリックを敵視する集団によって支配されるようになったのである。その後、イエズ
ス会員の追放や処刑、イエズス会の土地の没収という弾圧が起こり、1654 年、ピューリタンは宗教寛容令を
廃止してしまった。その後イエズス会はピューリタンのもっとも激しい憎しみの対象となった24。このように見
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
てくると、当時のアメリカにおけるカトリック教会を取り巻く環境は、イギリス本国の情勢の影響を直に受けて
いたことが明らかである。
先述のように、アメリカにおける反カトリック感情は入植当時から存在し、特定の事件で突然に発生したわ
けではないが、それでも、長年にわたってアメリカにおける反カトリック感情が増幅し続けるきっかけとなった
出来事がある。それは、1763 年のパリ講和条約で終結した、フランス・インディアン戦争と呼ばれる戦争の
ことである。これは、イギリスとフランスとの七年戦争のことであるが、この戦争で北アメリカにおけるイギリスの
支配は益々広がった。
カトリックにとって不幸だったのが、このフランス・インディアン戦争におけるイギリスの敵国であるフランス
とスペインがカトリックの国だったために、プロテスタントの人びとの間で反カトリック感情が高まったことであ
る。プロテスタントの人々は、カトリック信者がフランスやスペインを応援するのではないかと心配したことが
カトリック不信につながったといえるだろう。戦争が終わって、結局その心配は杞憂であることがわかったが、
1774 年イギリス政府がケベック法案を通過させたとき、アメリカのプロテスタントの人々はカトリックに敵意を
もった。
フランス・インディアン戦争でのイギリス植民地の拡大によるイギリスの財政難の結果、イギリスは植民地
への課税を強化したが、これに対し、植民地側は植民地の自由が奪われると反対した。植民地の人々のイ
ギリスへの抵抗に対し、イギリスがとったさまざまな対抗措置の中で、上述のケベック法の発令が挙げられる。
これは、イギリスがフランス系カナダ人をイギリス側に付けようとして、彼らの文化、言語、法律、宗教(カトリッ
ク)の継続と、ケベックの領土をアメリカ北西部にまで広げたものであった。プロテスタントの人々にはこの法
律がカトリック教会の擁護と映ったので、さらに反カトリック感情が高まることになるのである25。
いずれにしても、イギリスの敵国であるフランス・スペイン(カトリックの国であったがために)に対しての感
情と、イギリス本国がとる政策に対しての感情の両方が「カトリックに対する怒りや不信」となって、カトリック教
会に対してその矛先が向いたことで、このカトリックに対する排斥は 19 世紀後半になるまでとどまることはな
かった。
このように歴史的に見れば、紆余曲折を経ても、その感情の起伏の激しさが異なるのみで、カトリックに対
する敵意は変わらず生き続けることとなったのであった。ここで考えられることは、アメリカにおけるカトリック
に対する敵対感情は、カトリックが台頭することによって、プロテスタントの人びとがアメリカという地に求めて
きた宗教的自由や、プロテスタントの平和が脅かされることを恐れたことによる、一種の防衛本能のような感
情だったのではないかということである。そして、アメリカに辿り着いたプロテスタントの人びとには、イギリス
本国での宗教的抑圧の経験と新たな地における不安が重なるようにして感じられたのではないだろうか。つ
まり、プロテスタントの人びとにしてみれば、宗教的迫害から逃れ、夢を見てやってきた新たな土地におい
てカトリックの台頭を許すことは、自らにまた迫害という悪夢を引き起こすことを連想させたのではないか。
いずれにしても、真に様々な面において反カトリック感情に繋がる要素が存在する状況で、ジョン・キャロ
ルをはじめとするアメリカのカトリック教会を導く存在であった司教たちにとって、アメリカでカトリック教会が
生き残っていく為には、プロテスタントの人びとの防衛本能を逆撫でするような要素を一つ一つ取り除いて
いく努力が必要不可欠であったことは、間違いないことであろう。
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カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
第3章
第1節
ジョン・キャロルの目指したカトリック
ヨーロッパからの脱却
これまで述べてきたように、カトリック教会は、その極めてヨーロッパ的で外国的な特徴によってアメリカ社
会において敵視される存在であったことから、カトリック教会の指導者たちはまず、その外国的で反アメリカ
的なイメージの払拭に取り組む必要があった。カトリック教会は諸外国から大量のカトリック信者を受け入れ
ており、移民を歓迎してはいるが、あくまで教会はアメリカ的でなければならないという、『脱ヨーロッパ』がテ
ーゼとして掲げられた。これは、アメリカ・カトリック教会の聖職者たちが、アメリカ人は外国の影響力に従わ
ず、アメリカ生まれの制度だけが栄え、外国のものはひ弱であることと、アメリカ人は外国の姿をした教会を
好まないということを明確にしてのことだった。ここでまず、アメリカにおけるカトリック教会の地位確立の中心
的存在であったジョン・キャロル司教について述べたいと思う。
ジョン・キャロルは 1735 年 1 月 8 日にメリーランドで生まれた。父はアイルランド出身の商人で、メリーラ
ンドで成功を収めている26。母はメリーランドで最も裕福な家の出身で、フランスで高度な教育を受けた女性
であった27。著名で恵まれたキャロル家の三男として生まれたキャロルは、幼少の頃からヨーロッパ各地でイ
エズス会の教えを受け、文学や哲学などを学んでいる28。彼の恵まれた教育環境は、その後のアメリカでの
活躍に大きな影響を与えることとなる。
そして、1789 年にアメリカで最初の司教(ボルティモア司教)に任命された後、1810 年にはローマ教皇
によってアメリカで最初の大司教に任命された29。彼はアメリカのカトリックのリーダーとして期待され、巨大
な主教区を与えられていた。まさにアメリカのカトリック史上、最も重要な人物であるといえ、政治的にも思想
的にも新生アメリカ合衆国の精神にふさわしい強い信仰と啓蒙思想の持ち主であったとされている30。
そして、ジョン・キャロルは「外国の教会」ではない、アメリカ独自のカトリック教会の創設を目指し、まずは
ヨーロッパ的イメージからの脱却に向かってローマ教皇などに働きかけることとなる。まさに、アメリカ・カトリッ
クの自由と自立のために奮闘するジョン・キャロルであったが、彼に与えられた大きすぎる主教区は扱いに
くく、アメリカ・カトリックの自立を達成するのは困難なものであった。いずれにしても、ヨーロッパで学び、カト
リックの最高権力者であるローマ教皇に任命された大司教であるジョン・キャロルがヨーロッパ的イメージを
払拭することに奔走するのは、皮肉なことにも感じられる。
具体的には、キャロルは 1784 年にアメリカのカトリック教会がロンドンの司教の管轄から離れて独立でき
るように、ローマ教皇ピウス 6 世に要請している31。その要請の言葉には、「アメリカの政府との現在の取り決
めのために、私たちは、霊的な裁治権を求めて以前のように外国政府の下にある司教や代牧にたよること
はもはやできません。」とある32。アメリカ社会の考えや制度に機敏に順応しようとする様がうかがえ、また、
そうすることにアメリカでのカトリック教会の生き残りが懸かっていることを充分承知しての行動であったと考
えられる。ジョン・キャロルは、アメリカの諸制度の中でカトリック教会が生き残っていくには、外国からの影響、
特にローマからの影響を断ち切る必要があることを早期に理解していたのだ。
さらに、ジョン・キャロルはアメリカがローマやロンドンに依存した単なる布教国ではなく、アメリカ独自のカ
トリック教会として存在するべく、アメリカのカトリック教会に自由と自立が与えられるようにローマの枢機卿に
手紙を送り、アメリカのカトリック教会の自立とカトリックの信仰、すなわちローマ教皇への従順は両立するも
のだと主張している。
「私ども当地の司祭だけではなく、カトリックの信徒も深い信仰を持っておりますので、教皇聖下への従順
から逸れることはありません。しかし、この同じ司祭と信徒たちは、聖下が自分たちにある自由をくださるべき
501
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
だと考えております。この自由は、現在私どもが享受している法律を維持していくために必要なものでござ
います。また私どもが心配している危険を追い払うためにも必要なものでございます。私がこれまで述べて
きたことから、またアメリカの憲法から、閣下は、当地の人びとにとって外国の管轄権がどんなにいまわしい
ものであるかかならずおわかりになると思います」。
しかし同時に、この手紙の文句からは、アメリカ社会の枠組みと、ローマ教皇に対する宗教的な従順の間
で板ばさみになっているキャロルの苦しい立場が読み取れる。つまり、宗教的にいえば、ローマ教皇を頂点
とするヒエラルキーの下にいる立場を無視することは到底できない反面、それでは所詮アメリカのカトリック
教会も外国の影響下にある「外国の教会」という目で見られてしまうというジレンマにあったのである。
そのジレンマを断ち切るように、ジョン・キャロルの意識がローマに向いているのではなく、アメリカに向い
ていることを示すのは、キャロルが司教叙階式の場としてローマではなく、イングランドの田舎の私的な聖堂
で行なわれたことである(カトリックの司教になるには、司教に任命された後、もう一人の司教によって叙階さ
れる必要があるが、ジョン・キャロルがアメリカ初の司教なので、アメリカには司教が他におらず、アメリカで
は叙階が不可能であった)。アメリカにカトリックの司教が誕生するということは、一方では民主的な社会に
反し、アメリカ社会からの反感を買うのではないかという批判があったが、キャロルは、アメリカの社会からカ
トリックが認知されることを望み、叙階に踏み切ったのであった。これは、まずは「外国の影響の下にある教
会」という、アメリカのカトリックにとっての負のイメージを払拭することに優先順位を置いた、ジョン・キャロル
の価値判断を示していると考えられるのではないだろうか。
そして、ジョン・キャロルの努力の甲斐あって、1784 年、ジョン・キャロルはベンジャミン・フランクリンの推
薦で教皇の監督生に任命され、法令によってアメリカのカトリック教会は晴れて独立した存在と認識されるよ
うになった33。ジョン・キャロルを筆頭とした自主的・自立的なアメリカのカトリック教会の誕生であった。
第2節
アメリカニズムへの順応
カトリック教会の構造の中で、司教の存在がアメリカ的民主主義に反しているという批判に対し、トクビル
は次のような考察を行なっている。
「(前略)カトリックが民主主義の生来の敵であると見ることは間違いであると思う。むしろ、さまざまなキリス
ト教の教義の中で、カトリシズムは、平等ということにもっとも好意的である。なぜなら、カトリックの宗教社会
は、司教と人びとという二つの要素からなっているからである。司教は信徒の上にいる。したがって司教の
下のすべての人は平等である」34。
これは、アメリカの政治的伝統である民主主義にカトリシズムが共通点を持っていることを示している。す
なわち、カトリックの信仰がアメリカ的価値に順応し、符合できることを理論上示しているといえるだろう。そし
て、ジョン・キャロルはカトリック教会がアメリカ的価値、すなわちアメリカニズムに適応していくことに積極的
であった。
ここで、アメリカニズムの意味について明らかにしておかなければならない。木鎌安雄氏によれば、アメリ
カニズムには二つの意味がある。一つは、「アメリカ的特質・習慣、アメリカ人かたぎ、アメリカ精神、アメリカ
語法、アメリカ愛国・中心主義、アメリカ特有のもの35」、すなわちアメリカ的価値を有する物事のことを指す。
そして、宗教との関わりからみれば、「教会はその教義、とくに道徳についての教えを一般市民の教養に適
応させるべきであるという主張であり、教皇書簡で排斥されたもの36」を指す。
まさにアメリカのカトリック教会はアメリカ的価値に合わせて教義を適応させていき、真にアメリカ社会の一
502
カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
部を成す教会に生まれ変わらなければならなかった。そのためにはジョン・キャロルの理念によれば、アメリ
カ・カトリック教会における司教の役割を重視し、同時に、信仰の象徴であり、カトリックヒエラルキーの頂点
に位置するローマ教皇との間でバランスを取る必要があった。しかし、この場合、あくまで外国の権力構造
であるローマ教皇に必要以上に従順であることは、アメリカ社会の中では利益にならない。このジレンマが
解消されたのは、第二バチカン公会議にて、信教の自由、そして他の宗教との対話がカトリック教会の価値
においても許容されることが決定してからであった。
そして、アメリカ的価値との統合を進める上で重要だったのが、まさにアメリカ的「政教分離」の理念との
関係においてのカトリック教会の態度であった。というのも、政教分離は、各移民集団が固有の宗教的信仰
を維持・展開する権利を与える一方で、移民教会を自由競争、すなわち国家の保護も妨害も受けない環境
に置いたからで、特定の援助も得られない状況の中で生き残るには、アメリカ的価値観に受け入れられな
ければならなかったからである37。すなわち、アメリカ的宗教への転化、あるいはある種の宗教的アメリカ化
の遠因を政教分離が提供したのだといえる。ジョン・キャロルはアメリカ・カトリック教会の司教として、アメリカ
的政教分離政策を支持し、理解を示していることからも、その親アメリカ的態度が明らかである。
ここで明らかにしておくべきなのは、アメリカにおける政教分離規定がカトリックに与えた良い影響につい
てである。この政教分離規定は、教会が自治的組織であるということを人びとに認識させる役割を担い、そ
して、評議員システムを発展させるのに大いに役に立った38。つまり、教会が自治的組織として、一般信徒
から成る評議会の名の下に法人化され、独自の規範をもって法的にも財政的にも運営されることを意味す
る39。これはまさに、アメリカ・プロテスタントに見られる信徒による自主独立的な組織の運営構造であり、カト
リック教会が真の意味でアメリカ的に変化していくことを可能にするといえるだろう。
実際にジョン・キャロルはエピスコパールと呼ばれる監督教会(英国国教会)の信徒による自治運営をモ
デルに考え、臨機応変に時事問題に対応していくことを目標にしていた40。そして、いよいよカトリック教会
が自治的な信徒の組織運営を目指す時に、一般信徒が主要な役割を担うプロテスタント教会の例とアメリ
カの法構造がカトリックに与えるヒントは大きい41。まさに、アメリカ的価値観とアメリカ的政教分離規定に順
応することで、カトリック教会がアメリカナイズされ、反アメリカ的な教会を脱しようとしたのが当時のカトリック
教会であった。
第3節
『アメリカの教会』の創設
アメリカのカトリック教会が、真にアメリカ社会の一員になるのに経た過程は、一に脱ヨーロッパ的教会、
そして、次にアメリカニズムへの順応というものであった。古矢旬氏の言葉を借りれば、アメリカ化は「その第
一は移民がその出身国の価値意識やアイデンティティを喪失してゆく過程であり、その第二は彼らがアメリ
カの価値意識やアイデンティティを獲得してゆく過程」である42。
そして、第一段階として、移民の「故国」との絆(教会の中での)を断ち切るために、教会内での言語を英
語に限定しようと求めた。「この国では、あなたの国よりラテン語はわからない言葉であります。ラテン語の本
も不足しているしラテン語を読むこともできないので、多くの人は、教会の公の聖務日課の意味がまったくわ
かりません」43 。そして、英語へと翻訳された聖書の最大のセールスマンはキャロルであったと言われてい
る。
特に、1784 年にバチカンによってアメリカのミッションリーダーに選ばれてからの最優先事項は、カトリッ
クの大学と教区学校のシステムを構築することであったと言われることから44、ジョン・キャロルの教育にかけ
503
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
る考えは並々ならぬものがあったといえる。これは、幼少時からイエズス会を中心に高度で豊かな教育を受
けてきたキャロルらしい考え方であると同時に、教育によって次代のカトリック的価値を受け継ぐ人材が育つ
事で、アメリカ的価値を引き継ぐカトリック教徒が増えることを考えてのことだったに違いない。
ジョン・キャロルが実際に司教になった最初の年に、ジョージタウン・アカデミー(今日のジョージタウン大
学)をワシントンに、神学校をボルティモアに創立した45。また画期的なことに、女性学校の設立にも力を入
れた。これは、ジョン・キャロルの母も彼と同じように高いレベルの教育を受けていたことに起因することかも
しれない。
アメリカ・カトリックのアメリカナイゼーションが順調に見えた時期も、アメリカ・カトリックが一致してアメリカ
化への過程を歩むには、問題も生じた。ジョン・キャロルのアメリカ的価値観への順応の努力の過程で、カト
リック教会はよりアメリカ的に変わろうとするリベラル派の集団と自分たちのアイデンティティを守ろうとする保
守派に大きく二分していくこととなるが、最終的には下記のデータがアメリカ的カトリック教会の姿を物語って
いると思える。
というのは、教義の解釈の上でもアメリカのカトリック教会特有の特徴が見て取れるのである。「あなたはカ
トリックの神父が結婚することに賛成ですか?」という質問に対して、70%が賛成、24%が反対と答えている
46。本来結婚の許されないカトリック神父の結婚に対するアメリカ的な寛容を示す数値といえるだろう。また、
権力構造への従順の度合を示す数値として、「避妊、人工中絶について、カトリック教徒はつねに教会の教
えに従うべきですか、それとも自分の意思で決定すべきですか」という問いに対する答えが挙げられる。そ
れは、実に79%の人が自分の意思で決定すべきと答え、教会の教えに従うとしたのが15%しかいなかった
のである。さらに、「教皇の道徳的問題についての公式の立場に反対しながら、同時に、良きカトリック教徒
であることはできると思いますか」という問いに対しては、できると答えたのが 80%にものぼり、できないとし
たのはわずか 15%にとどまった47。本来、教皇の見解は絶対とされ、権力的な構造が特徴であったはずの
カトリックからは、アメリカのカトリック教徒の姿勢がかけ離れていることが分かる。
これはキャロルが構築した「カトリック的であり、キリスト教的であり、かつアメリカ的である霊性」を土台にし
たアメリカ型カトリック教会の姿といえるのではないだろうか。つまり、反アメリカ的要素を取り除き、脱・ヨーロ
ッパ化し、真にアメリカに根付くアメリカ的カトリック教会の創設に成功したのだと考えられる。
終章
長年に渡りアメリカ社会で低い社会的地位、そして反カトリック感情に苦しみつづけてきたアメリカのカトリ
ック教会は、自らの「移民の教会」、「外国の教会」としてのイメージにその苦難の要因があった。それは皮
肉にも、いまやアメリカ最大の宗派にまでカトリックを押し上げた諸外国の移民が露呈するイメージであった。
つまり、カトリックがここまで大きく成長したのも、長年排斥運動に苦しんだのも、「移民」に起因するのであっ
た。
そして、カトリック教会がアメリカ社会で生き残っていくために必要だったのは、外国のアイデンティティを
捨て去り、アメリカ的価値観にカトリックの信仰を統合させていくことであった。そして、結果的には社会的態
度、政党への所属、出生率の低下、教会出席率、教義上の正統主義、教義の知識の低下、そして、内部
に緊張を抱えるようになった点(リベラル派、保守派の見解的対立)において、カトリックは主流プロテスタン
トに近づき、アメリカ化を体験したといってよい。
アメリカ人の 7 人に 1 人がアイルランド系だとする議論の延長線上で言えば、アイルランドの移民が苦難
504
カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
に耐えてアメリカに同化してきた歴史がアメリカ的だとするならば、排斥に耐え、アメリカ的価値を学んで同
化してきたカトリック教会はまさに、極めてアメリカ的な教会と考えることもできる。ジョン・キャロルが目指した
「アメリカの教会」の完成を、ある文化的集団がアメリカ社会の一員になるということの模範的なケースとして
考えることができるといえるだろう。
そして、私が常に抱いてきた疑問を振り返るとするならば、それは、アメリカ社会は果たして『サラダボウ
ル』として、あらゆる文化、民族を受け入れる社会なのであろうかということである。今回の論文で私が結論
づけたいのは、このジョン・キャロルをはじめとするアメリカのカトリック教会の、長年に渡る悪戦苦闘の歴史
から考えれば、アメリカ社会は単なる『サラダボウル』として捉えることはできない、ということである。それは
すなわち、アメリカ社会の一員としての地位は、社会の厳しい審査に耐え、アメリカ的価値を体験して初め
て獲得できるものであって、それは決して一朝一夕で達成できるものではない、ということである。言うなれ
ば、アメリカ社会の『サラダボウル』としての性格は、サラダの具材に合わないものは排除されるという、もう一
つの側面をもったものだと言えるだろう。
1
森孝一編『アメリカと宗教』日本国際問題研究所、1997 年、p.10
同上、p.4:アメリカにおける社会組織の信頼度:軍隊 64%に対して警察が 58%、教会及び宗教組織 57%
3 同上、p.12
4 谷泰『カトリックの文化誌』日本放送出版協会、1997 年、p.92
5 木鎌安雄『アメリカのカトリック』南窓社、1999 年、p.16
6 同上、p.22
7 松尾弐之『「民族」から読みとくアメリカ』講談社選書メチエ、2000 年、p.48、p.95
(一人で複数の出身民族を記入してもよいのでその総合計は国の人口を上回るし、「民族」の定義は定かでないゆえに
この質問に対する答えは必ずしも科学的なものではない。それでもある種の民族的自意識の目安にはなろう。ちなみに
アイルランドの人口はイギリスの一部となっている北アイルランドを含めておおよそ 500 万人である。)
8 木鎌安雄 1999 年、p.140
9 松尾、前掲書、p.103
10 ロナルド・タカギ『多文化社会アメリカの歴史 ∼別の鏡に映して』「アイルランド人の脱出」明石書店、1995 年、
p.250
11 木鎌安雄 1999 年、p.147
12 木鎌安雄『カトリックとアメリカ』(南窓社、1996 年)、p.40
13 同上、p.40
14 同上、p.65
15 同上、p.65
16 同上、p.39
17 同上、pp.39-40
18 同上、p.39
19 蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』日本論評社、2002 年、p.11
20 同上、pp.106-107
21 シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』明石書店、1999 年、p.81
22 谷、前掲書、p.104
23 木鎌安雄 1999 年、p.74
24 同上、p.88
25 同上、pp.92-95
26 http://www.newadvent.org/cathen/03381b.htm
27 同上
28 http://www.jcu.edu/library/johncarr/jced.htm
2
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
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43
44
45
46
47
http://100.1911encyclopedia.org/C/CA/CARROLL_JOHN.htm
木鎌安雄 1999 年、p.108
木鎌安雄 1996 年、p.19
同上、p.20
http://100.1911encyclopedia.org/C/CA/CARROLL_JOHN.htm
木鎌安雄 1996 年、p.54
同上、p.48
同上、p.48
H・リチャード・ニーバー『アメリカ型キリスト教の社会的起源』ヨルダン社、1984 年、p.184
Jay P. Dolan “In Search of an American Catholicism” Oxford University Press, 2002、p.30
同上
同上、p.31
同上
古矢旬『アメリカニズム』東京大学出版会、2002 年、p.27
木鎌安雄 1996 年、pp.46-47
http://www.jcu.edu/library/johncarr/jced.htm
Jay P. Dolan “American Catholic Experience” University of Notre Dame Press, 1992、p.209
森孝一編、前掲書、p.25
同上、p.25
【参考文献】
<一次資料>
*
http://www.nccbuscc.org/
*
http://www.georgetown.edu/centers/woodstock/publications/p-flock.htm
*
http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/letters/2000/documents/hf_jp-ii_let_20000706_bishopfiorenza_en.html
*
http://www.catholic.org/clife/usccs/
*
http://www.newadvent.org/cathen/03381b.htm
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http://www.jcu.edu/library/johncarr/jced.htm
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http://100.1911encyclopedia.org/C/CA/CARROLL_JOHN.htm
*
http://www.pgcps.pg.k12.md.us/~jcarroll/About_John_Carroll.htm
<二次資料>
*
Jay P. Dolan “In Search of an American Catholicism” Oxford University Press, 2002
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Jay P. Dolan “American Catholic Experience” University of Notre Dame Press, 1992
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John Seidler, Katherine Meyer “Conflict and Change in the Catholic Church” Rutgers University
Press 1989
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木鎌安雄『カトリックとアメリカ』南窓社、1996 年
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木鎌安雄『アメリカのカトリック』南窓社、1999 年
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森孝一編『アメリカと宗教』日本国際問題研究所、1997 年
*
森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』講談社選書メチエ、1996 年
*
谷泰『カトリックの文化誌』日本放送出版協会、1997 年
*
H・リチャード・ニーバー『アメリカ型キリスト教の社会的起源』ヨ柴田史子訳、ルダン社、1984 年
506
カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
*
荒井献『聖書の中の差別と共生』岩波新書、1999 年
*
J・ヒック『宗教多元主義への道』間瀬啓允、本多峰子訳、玉川大学出版部、1999 年
*
J・C・ブラウァー『アメリカ建国の精神−宗教と文化風土−』野村文子訳、玉川大学出版部、2002 年
*
蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』日本論評社、2002 年
*
カービー・ミラー、ポール・ワグナー『アイルランドからアメリカへ―700 万人アイルランド人移民の物語』茂木健訳、
東京創元社、1998 年
*
松尾弐之『「民族」から読みとくアメリカ』講談社選書メチエ、2000 年
*
ロナルド・タカギ「アイルランド人の脱出」『多文化社会アメリカの歴史 ―別の鏡に映して』富田虎男・阿部珠理訳、
明石書店、1995 年
*
古矢旬『アメリカニズム』東京大学出版会、2002 年
*
リチャード・V・ピラード、ロバート・D・リンダー『アメリカの市民宗教と大統領』堀内一史・犬飼孝夫・日影尚之訳、麗
澤大学出版会、2003 年
*
J・ダニエルー『カトリック 過去と未来』朝倉剛、倉田清訳、ヨルダン社、1981 年
*
R.N.べラー他『善い社会』中村圭志訳、みすず書房、2000 年
*
シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』上坂昇、金重紘訳、明石書店、1999 年
*
パウロ・フィステル『第二バチカン公会議』中村友太郎訳、南窓社、1967 年
507
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・和田紘
入ゼミ論文を手書きで、しかも提出〆切日当日の朝に書き上げた時のことを今でも鮮明に思い出す。参考文献だけ
で十回近く書き直した当時から見れば、今回書いた卒論はレベルアップしているのかもしれない。特に、当時からすれ
ば、参考文献に Web や英語文献が載ったことだけでも「小さな」進歩であるように思う。
が、やはり日々の努力の怠りは如実に文章に表れるようで…、本もろくに読まず、考え方も浅いまま歳をとってきてしま
った後悔が今更押し寄せてきたようだ。特に目立つのは、同じゼミ員の卒論に比べて、私の論文には論理的文章構成
が欠けているということだろうか。自分の言いたいことが単純で考えが浅いために、同じことを何回も繰り返す支離滅裂
な文章を書く癖は、とうとう大学を終えるまで直らなかった。そして、そのために論点が分散し、教科書的な論文になっ
てしまうという指摘を最後まで頂くことになった。この辺りがゼミ員の論文を読んでいる時に強いコンプレックスを感じた
点でもあった。
そして、あえて自分の卒論を評価するなら、「酒の席のうんちく程度の論文」と言わざるを得ない。とても学術論文とい
うような水準には達しなかったように思う。先生にもご指摘頂いたように、問題提起が薄く、そもそも出発地点で躓いた感
は否めない。資料収集能力にも物足りなさを感じながら、なんとか書き上げた卒業論文だった。
ここまで批判的にならざるを得ない自分の卒業論文だったが、一つだけ良かったのは、入ゼミ当時から不思議に思っ
ていた「アメリカの宗教事情」について、以前よりは詳しくなったことだろうか。思えば、三田祭の発表や砂田ゼミとの交
流会で選ぶテーマはいつも宗教関連のことだった。三田祭論文のテーマも人工妊娠中絶に関するものだったし、読ん
でいて一番興味を覚えたのも蓮見博昭氏の『宗教に揺れるアメリカ』だった。私の部屋の本棚に並んでいるのは、アメリ
カ宗教関連の参考文献ばかりで…。ともかく、アメリカの特殊な宗教事情は、宗教感覚の乏しい我々日本人にとっては
理解し難い面も多々あるが、人間としての行動規範を宗教に求める点において、アメリカ人にとって宗教は欠かせない
ものであることがよく分かった。
最後に、見ていて歯痒かったであろう「和田紘」を最後までご指導いただいた久保文明先生と、温かく後輩として迎え
てくださったゼミの諸先輩方、そして最後まで飽きずに付き合ってくれたゼミ員に感謝の意を表して、卒論を終えるにあ
たっての感想を締めくくることとしたい。
和田紘君の論文を読んで
【岡田美穂】
論文では、カトリック教会が長年抱えてきたジレンマと、そのジレンマを打開しようと尽力してきたカトリック教会の姿を、
ジョン・キャロルの目指したカトリック像を考察しながら論じている。そして、全体を通し、一文化としてアメリカ社会に定着
するということはどういうことを意味するのかを明らかにしている。
宗教と移民、アメリカ社会で社会問題の根源となる二大要因を、カトリック教会の変遷に沿いながら論じている点は大
変興味深い。また、カトリック教会を「移民の教会」「海外の教会」と文中で呼び論じつつ、終章においてカトリック教会を、
多くのアメリカへの移民が不可避なアメリカニズムを経験した宗教として、「極めてアメリカ的な教会」であるという記述は、
実に見事である。
アメリカは移民国家であるが、その社会に受け入れられるためには、ある程度の同化は必要である。一方、宗教・言
語・生活様式などは簡単に変えられるものではない。そのような中、人間性の根幹を司り、最も変化させ難いだろう「宗
教」を、アメリカニズムに順応させてしまうカトリック教会のたくましさ、またジョン・キャロルの情熱には、圧倒されるばかり
である。
論文について残念な点は、全体を通して反アメリカ的要素の大きかったカトリックをアメリカニズムへ順応させていった
過程、その要因を理解することができたが、少し論点が分散している印象を受けたことである。様々なバックグラウンドを
持ったカトリックがアメリカのカトリックとして団結していく課程やその思想も重要であるが、一つの移民集団、例えばアイ
ルランド系の移民に注目してはどうだろうか。さらに、ジョン・キャロル自身、また彼の活動についてのより詳細な論述が
あれば、なおすばらしいのではないかという印象を持った。
宗教と国家、政治の関係はヨーロッパとアメリカでは異なっている。和田さんの論文中にも、3 章 2 節に、アメリカ的「政
教分離」の理念との関係においてカトリック教会のアメリカニズムが論じられている。私見ではあるが、もっと「政治」と「宗
教」の関係の中でカトリック教会を論じていただけたら、より興味深いものになったのではないかと思う。
宗教について明るくなく、稚拙な批評であり申し訳ないが、宗教のアメリカニズムへの順応過程を論じることにより、ア
メリカへの移民が体験するジレンマを巧みに取り入れていること、宗教自体を「移民の宗教」として、アメリカニズムに対
応する対象とする構成が大変興味深かった。筆者の宗教への深い関心と考察が伝わる論文である。
【末木由紀】
アメリカ社会において重要な役割を果たしている宗教を取り上げ、考察することによって、アメリカ的価値観とは何か、
また『サラダボウル』といわれているアメリカ社会が本当に何でも受け入れる社会であるのかという点につなげていてとて
も興味深い論文であったと思います。
アメリカのキリスト教のうち二大宗派であるカトリックとプロテスタントを取り上げ、その中でカトリックがどうして同じキリス
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カトリックの信仰とアメリカニズムの統合
ト教でも反アメリカ的特質を持ち備えていたことによって排斥されたのか、排斥の要因となった反アメリカ的要素が詳しく
説明されていて興味深い。そして、アメリカ社会に適応しようとするカトリック教会の苦悩と努力を、アメリカにおけるカトリ
ック初の司教であるジョン・キャロルという人物に焦点を当てて説明している点でオリジナリティーがある論文だと感じま
した。また、終章にてアメリカ社会を『サラダボウル』と表現することが多々あるが、カトリック教会が経てきた排斥の苦悩と
アメリカ社会に適応しようとする努力を具体的な例にとり、この表現に疑問を投げかけている結論もすばらしいと感じまし
た。
この論文を読んでひとつ疑問に感じた点は、カトリックの一般信者のことです。この論文ではカトリック教会がいかにヨ
ーロッパからの脱却を図り、アメリカニズムに順応しようと努力していったかが、主にジョン・キャロルの功績からの説明が
ありました。私が疑問に思ったのは、では一般カトリック教徒は自分たちの教会がアメリカ化されることに関してどのよう
に感じていたのかということです。ジョン・キャロルは司祭であり、カトリックのヒエラルキーにおいて一般信者の上に立つ
ものであり、階級制が重視されていた協会制度の中で権力者であった。つまりその下の者は権力に対して反発できな
かった。よってその当時の一般教徒の意見などの記録は存在しないのかもしれないが、もし下からの動きもアメリカ社会
に適応しようとするベクトルであったならば、カトリック教会が全体としてアメリカ化に向けての努力をしていたことになりま
す。このことによって、文章にさらに強みが出てくるのではないかと思います。ジョン・キャロルという人物に特定して焦点
を当てることはオリジナリティーという観点からも良いことだと思ったのですが、一方的ではなく、もう少し全体的な視点で
カトリック教会のアメリカ化を捉えてみてはいかがかと感じました。
【川口洋介】
久保ゼミ内で宗教について語らせたら、和田君の右に出る者はいない。この論文を読んで改めてそう感じた。
まず、テーマ設定にオリジナリティが見られる。アメリカにおける宗教の重要性はテロ後の一連の動きにより、多くの人
が知るところである。しかし、アメリカにおける宗教のイメージと言えば、信教の自由、政教分離といったものが中心であ
り、カトリックが当初排斥されていた歴史などはあまり知られていない。この点に注目し、さらにはカトリックのアメリカ化を
通じてアメリカ社会に定着することとはどのようなことなのかを考えるというテーマ設定は素晴らしいものである。
そして、論文の内容もこのテーマを展開するのに十分な説得力のある充実したものであったと考える。「アメリカ社会
の『サラダボウル』としての性格は、サラダの具材に合わないものは排除されるという、もう一つの側面をもったものだと言
えるだろう」という結論には私も同感である。
この論文の改善点を挙げることは簡単ではないが、あえて指摘するのであれば以下のことが考えられる。
第一に註が多少丁寧さに欠けることである。論文では多くのデータが用いられ、先行研究よりの引用と共に、論文を
充実させる上で、大変役に立っている。しかし、数字データを中心に、出典が記されていないものが目に付いた。細か
な註をつけることによって、より信頼性の高い論文となるはずである。
次に、第 1 章における移民流入の経緯説明がもう少し簡潔でも良いように感じた。カトリックと移民の関係の深さは論
文より明らかである。しかし、論文の中心はカトリックについてであり、移民のアメリカ流入の経緯、特に飢餓についてな
どの非宗教的な部分については主張を明確にするために、絞っても良いのではないかと考える。
第三点として、ジョン・キャロルについての記述をより詳しくすることが挙げられる。ジョン・キャロルはカトリックのアメリ
カ化に様々な形で尽力した論文上重要な人物である。しかし、彼についての記述は、アメリカで最初の司教に任命され
た 1789 年以降に限られている。彼は司教に任命される前はどのような人生を歩んで来たのか。彼の思想の原点は何
なのか、といった説明がなされることで、より深くジョン・キャロルという人物、さらには彼の目指したカトリックを理解するこ
とが出来ると考える。
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