SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 S 制する者はな S 「ほっとスペース八王子」ニュース うす。情報を K ほっと PC教室のよ S んとやらです 。 CONTENTS 2016年4月号 152号 2015年望年会無事実施 …2頁 P.6000/H・S/安兵衛 病棟転換型居住系施設を考える …16頁 孫悟麺 フランス紀行(最終回) …19頁 リネカー 編集後記 …20頁 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 1 頁 人 韓国研修旅行リポート …13頁 集 /鴫原さん/鮎澤さん/岩澤さん/大根田さん/山崎さん 〒192‐0053 東京都八王子市八幡町一三ー二 ふくしまやビル二階「ほっとスペース八王子」 (事務局:堀部 正) 042‐628‐2319 042‐620‐2786 八木さん/小野さん/藤原(仲田)さん/橋本さん/上平さん http://homepage2.nifty.com/hotspace/ ゼロ cxb 0 [email protected] 00180‐8‐633512「ほっとスペース八王子」 多田さん/小泉さん/望月さん/和田さん/小林(照)さん/ 〒157‐0072 東京都世田谷区祖師谷三ー一ー一七 ヴェルドゥーラ祖師谷一〇二号室 障害者団体定期刊行物協会 h ttp s : //www. fa ce b ook. c om/ha chioji. hot os p ac e 篠岡さん/高橋さん/嶋川さん/澤原さん/小林(敏)さん/ 編 平野さん/松本さん/乙津さん/井上さん/藤原さん/大橋さん Facebook 特集 偲ぶ会 …4頁 定価100円 電 話 F A X HP―URL E―MAIL 郵 便 振 替 発 行 所 UFO/山口咲子/F・H/Cくん/キャロル/リネカー 特 集 (注:アルコール 会 今年もできれば 踊りをやりたい UFO 年だったような気がするのですが、そ 2015年の望年会で、参加するの は3回目です。入会したのは2012 トで来られた東京チャターズのAさんが の年の望年会には参加を誘われた覚え は出ていません) 腹話術。その後ビンゴゲームで盛り上 がありません。もう過ぎた事ですが。 ろう 踊りは、結構疲れます。でも、今年ひ も、気が早い話ですが、何か踊りを披 露したいと思います。 何 を 踊 る か は、 ま だ 決 め て ま せ ん。 でも、本当は料理とケーキが楽しみで す。 ここ数年は、 受付と飾り付けです。 2015 年 の 望 年 会 は 、 八 王 子 労 政 会館の予約 が 微 妙 に 間 に 合 わ ず 、 土 日 踊って、その次の年はお囃子で太鼓を ただ、「望年会」という行事のあり方や、 開催の日時、会場、方法について、一考 叩 く の を や り ま し た。 2 0 1 5 年 は 初めて参加したのは2013年で、そ お疲れの人も何名かおりましたが、全 体的に楽しく、いい会だったと思います。 の時はピンクレディーの「UFO」を けと受付に専念しています。 やまぐちさきこ 月 日 キャロルさんと「太陽をどり」をやり ふくわじゅつ がって、参加者全員からヒトコト。 の木曜日開 催 と な り ま し た 。 入 念 な 打 の余地を残した面も否めません。 ま し た。 (注:2012年の望年会に 2015年は、職員のHさんと一緒 に受付をやりました。ほっとスペース そ ご のHさんが来ました。そのあとで望年 が、始まってちょっとしてから、会員 2015年の望年会でも、私は、受 付をやりました。ここ数年は、飾り付 山口咲子 ち合わせを 繰 り 返 し て き た つ も り だ っ は、UFOさん写っておりました) たのですが 、 申 し 継 ぎ や 段 取 り の 面 で 望年会自体は参加者自身の手作り行事 です。それを、出す料理など何から何ま の監事をしているOさんは、三千円の 齟齬があったりして一部の人には多大 で手作りという考え方もあります。場所 カンパをしてくれました。望年会が始 たいこ な迷惑をか け て し ま う 結 果 に な っ て し も、 「ほっとスペース八王子」内で行う まってもしばらくは受付にいたのです わ はやし まいました 。 こ の 場 を 借 り て 改 め て お という選択もあります。 を押さえら れ な か っ た の で 、 詫び申し上げます。 会に参加しました。会食をしたり、出 し物を見たりしました。 ふ ん い き もしれません。 なご んでした。 そ れ で も 会 が 始 ま る と 、 一 人数的にも 、 例 年 と そ れ ほ ど 変 わ り ま せんでした 。 美 味 し い 料 理 と 楽 し い 行 事。 B D さんがギターを演奏し、UFOさんと キ ャ ロ ル さ ん が「 太 陽 を ど り 」 、ゲス へんも次回はしっかりしないといけませ …一体どこへ行ったのか…) 2015年の望年会写真は現在捜索中 年会集合写真が用意できません。その ん。 (編集部) 料理もおいしくてよかったです。 してしまい、せっかくの2015年版望 ( 右 写 真 踊 る U F O さ ん。 実 は チャターズ)の方の腹話術があって楽 2 0 1 3 年 の 望 年 会 の 写 真 で す。 しかったです。 同 み な、 終 始 和 や か な 雰 囲 気 で し た 。 17 U F O さ ん と キ ャ ロ ル さらいんひんの 踊 り や、 B D さ ん の ギ タ ー、 来 賓( 東 京 12 それともう一つ、今回の望年会で、デ ジカメをどこかに忘れて来たのか、紛失 いな 誠に申し 訳 あ り ま せ ん で し た 。 今後の望年会は、八王子労政会館の存 続問題もあり、廃止反対のことも含め、 当日も、かなり支度がバタバタして、 開始予定時刻に始めることができませ いつにもまして入念な話し合いが必要か 望年会ダイジェスト SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 2 頁 予想以上の料理でした F・H に参加する 事 に な り ま し た 。 もちろん 、 初 め て の 参 加 で す 。 そ の ときは、ま だ 家 庭 内 の こ と で い ろ い ろ Cくん 料理も出し物もよかった 月 日、八王子労政 2015年の 会館でほっとスペース八王子の望年会 がありました。 17 特 集 望年会 プレッシャーのかかる リネカー 役目はもう こりごりだけど つと 2015年の望年会では、司会を務 めさせていただきました。その前年も 司会をした気がしたのですが、その時 い、その時(今回の望年会)のことで おぼ 「太陽をどり」をしました の事は、よく憶えていません。だいた キャロル 頭がいっぱいだったので、その前にも 司会をしたときの記憶があまりないの 2015年の望年会は、2回目の参 加になりますが、前回に引き続き、B かったです。 周年記念パーティーなどで経験 かもしれません。司会は、ほっとの総 会や 術と、出し物は少なかったけれど、ど GMの担当をすることになりました。 U F O さ ん と キ ャ ロ ル さ ん の 踊 り、 BDさんのギター、ゲストの方の腹話 打ち合せが何回かあって、当日にかけ 開始予定時刻をちょっと過ぎて望年 会が始まりました。まず料理がおいし か会場が取れなかったとのことです。 そ の 日 は 木 曜 日 で、 な ぜ 平 日? と 思ったのですが、聞くと、その日にし 12 れも良かったです。 順調に行きました。 る曲をリストアップして、そこまでは はやっぱり緊張します。 何度やっても、 はあるのですが、どうしてもそのとき す。それ以外では、出し物もビンゴも まったことはちょっと反省していま M係のKさんに任せる形になってし しれません。結果的にもう一人のBG ちょっと安心していた面はあったかも いい」と言われたというのもあって、 が 大 き く て、 「ずっとついていなくて 楽しかったし、料理もおいしかったで と思います。でも望年会は、出し物も えば、たまには他の人にやってほしい も、悪い気はしません。でも本音を言 ですが、その反面、人から頼られるの のかかる役目はあまりやりたくないの した。実は、もうあまりプレッシャー 2013年に、望年会の幹事をやっ たことがあるのですが、すごく大変で 人前で何かをするのは緊張して、慣れ ることがありません。 楽しかったし、料理やケーキもおいし す。 こともありましたが、BGM係は負担 「太陽をどり」をすること 当 日 は、 になっていて、そのことが頭にあった 20 かったです。いい望年会だったと思い ます。 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 3 頁 整理がつい て い な い 時 期 だ っ た の で す が、参加す る 事 に し ま し た 。 会 場 の 八 王子労政会 館 は 、 ち ょ っ と 古 び た 建 物 でしたが、 案 外 ゆ っ た り し た 感 じ も し ます。 望年会は さ さ や か な 会 と い う 感 じ を イメージし て い た の で す が 、 思 っ た よ り豪華な料 理 が た く さ ん 出 て 驚 き ま し た。 美味しい食事の数々。 (この写真は 2012 年です) 受付をする山口咲子さん。(2011年のです) ほっとス ペ ー ス 八 王 子 に 相 談 の 電 話 をして、も う 1 か 月 も し な い で 望 年 会 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 号では、2015年の 月に行った 20 つ いと う ぶ ん 11 員によって書かれたもの)を紹介し ま す。 会 員 が 書 き き れ な か っ た ぶ んは、編集部でまとめました。 (山 崎さんについては、 「偲ぶ会」のあ と亡くなったことが判明したので、 今号の発行に合わせて追悼文を書 き下ろしました)亡くなった方そ れぞれに、それぞれの人生があり、 共に笑い、泣き、そして悩んだり苦 し ん だ り し た と 思 い ま す。 今 後 の いこう さい け い 「ほっと」発行を通して、亡くなら れた会員の遺稿も再掲できればと めいふく 思 い ま す。 亡 く な ら れ た 皆 様 方 の ご冥福をお祈りします。 (編集部) 日没、 歳) 48 松本 裕子さん (1995年 月 きょうねんふしょう 日没、享年不詳) 11 共 同 作 業 所 と し て ス タ ー ト し た 年、 第2回の総会を前にした 月、松本さ 11 さ ん は、 「ある人」 (編集部注) 乙め津 んそ の免訴をかち取る運動の中で、 その 「あ つ れたものでした。 の約束をするまでに至りました。それ お そのことを知ってか知らずか、松本 さんは独り、逝ってしまいました。今 以前から「赤堀さんと共に闘う会・八 歳) 現在、 会員、 もしくは元会員が亡くなっ 王子」の時代から、精神病者解放運動 日没、 たとき、ここまで強い自責の念は持て に 尽 力 し た 人 で す。 運 動 の モ チ ベ ー 乙津 菊江さん (1997年5月 るかと言えば、自信はありません。で シ ョ ン を 保 つ た め に、「 あ る 人 」 の 存 平野さんも苦労したのですね。 ところです。 最近のほっとスペースでは、長崎旅 行や海外旅行に行き、とても充実して いました。 メンバーのみなさんは、明るく元気 でやっています。 (平野さんについては、 「赤堀さんと共 に闘う会・八王子」の頃の会員で「ほっ とスペース八王子」が共同作業所とし て発足したころには、五日市町〈現・ あきる野市〉の病院に入院させられて い ま し た。 平 野 さ ん は、 「精神病者解 放運動」の大切な仲間として、ここに 偲びたいと思います。編集部) を心に留めておかなければなりませ 「 ほ っ と ス ペ ー ス 八 王 子 」 は、 故 人 に教えられて前進しているということ れば、なおさらです。 継承をしたいとこ そういった情熱の ろですが、なかなか難しいと思いつつ 無念でありましょう。 くなってしまわれた乙津さん。さぞや う。さらなる前進のために、結婚の約 ただきました) では敢えて「ある人」表記にさせてい す。現在公判停止中のままです。ここ な事件で無実の罪を着せられた人で (編集部注。「ある人」とは、ある有名 も故人を偲びます。 (編集部) けいしょう 束までし、これからというところで亡 ん。 (編集部) じんりょく る人」の事をお慕いし、のちには結婚 も悲しみの気持ちは、今も昔も大きく 野さんへ 障害者として闘ってきたへ平 んけん 偏見などで大 私も障害者ですので、 変な不自由を経験しています。 お会い出来ませんでしたが、私は現 在、ほっとスペースに通所し、何とか 在は乙津さんにとって何よりも大切 48 変わることはありません。それがいっ 10 社会復帰のチャンスをうかがっている ると、追悼記事は強い自責の念にから しまいました。当時の「ほっと」を見 んは強い孤独感からか、独り、逝って 11 な、必要不可欠な存在だったのでしょ H・S 27 ときでも同じ時間を過ごした仲間であ 平野 博之さん (1995年6月 特集 偲ぶ会 「 ほ っ と ス ペ ー ス 八 王 子 」 で は、 しの 2 0 1 4 年 か ら「 偲 ぶ 会 」 を 行 っ ています。 「ほっとスペース八王子」 よ 員、元会員は 余名に及びます。今 年 余 の 歴 史 の 中、 亡 く な っ た 会 20 「偲ぶ会」で使用された追悼文(会 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 4 頁 ゆ き こ 井上 悠紀子さん (199 7 年 8 月 没 、 享 年 不 詳 ) その号の特集は、「結婚式特集」でした。 華やかなり し 頃 の 「 ほ っ と ス ペ ー ス 八 王 子 」 で あ っ た 反 面、 こ の 年 だ け で、 乙津菊江さ ん 、 藤 原 ふ み え さ ん 、 そ し て井上さん と 、 3 人 も 亡 く な っ て い ま した。 号で小さく取り上げられ 最近でも 、 元 会 員 の 訃 報 を 年 に 1 ~ 2 回 く ら い 耳 に し ま す。 遺 稿 も な く、 「ほっと」 たくらいひ っ そ り と 亡 く な っ た 井 上 さ ん。これか ら は ( な る べ く ) 毎 年 偲 び P.6000 藤原 ふみえさん (1997年 月没、 歳) こう そく を経験されたそうです。 歳。 。何 高校二年の時に発病されましつた ら 度も入退院を繰り返すという辛い体験 ほっと例会に参加。 ス 本 郷 町 の 家 」 に 通 い つ つ、 月 一 回、 「わかくさ福祉会」の「オープンスペー 梗塞で亡くなられました。享年 けいさい 第 号に掲載された二枚の写真を伺 うと、どれもウェーブの髪型で、ふく よかで幸せそうなお顔を拝見いたしま した。 カラオケが大好きなようで、目線は まっすぐでマイクをしっかり握り締め ていらっしゃいます。 ほっとや育児にも悩みながら自分の 任せられた役割に一生懸命な方と印象 受けました。 僕は、精神障害者が生き抜くって本 当に大変なことだと感じます。 そがいかん なぜなら、学生から自由人になる 代過ぎてもルールに縛られた社会的制 約が多いこと。 す理由 藤原さんから入退院を繰りか返 くり や事情の雰囲気を入院中、隔離から自 こうだったんだろうな」と、 入院中、病棟内の男女の悩みごとの ことづてをお聞きしました。 「たぶん、 4月に三回目の短期入院。 僕は入退院を繰り返したケースはあ りません。しかし、今年(2015年) 駆けずり回って得た出会いを大切に して今を生きています。 か 悶絶した悩みです。 もんぜつ 頭脳労働を僕は、得意とします。頭 をこねくり返すことが、精神障害者の この人はあの「つらい」人なのでしょうか? 実は、モノマネの人です。いろんな所を 周ってるとか。(ソフトバレー都大会にて) 号 一 部 引 用、 一 由解放へを思い出しました。 部改編) (ほっとニュース第 20 36 疎外感、僕らは好き 弱者偏見や人権 で障害者をしているわけではありませ 、 ん。 第 号、 ほ っ と ニ ュ ー ス に よ るしと んきん 『 藤 原 さ ん は、 恩 方 病 院 入 院 中、 心 筋 2004年総会のようす。熱気を引き継げるか 間、結婚され、二人のお子さん そさの ず うかが を授かったそうです。僕は一度もお伺 特 集 しのぶ会 47 いいたしませんが、お子さんらは、順 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 5 頁 47 36 ます。 (編集部) 真ん中の人が井上さんです。 10 調に育っているようです』 36 36 井上さんが亡くなった頃の「ほっと」 バックナン バ ー を ひ も と い た と こ ろ 、 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 大橋 信夫さん (199 8 年 7 月 歳) きくちはるみ 菊池春海 日没、 身で、更に 高 校 も 一 緒 で し た 。 そ れ に カープファ ン で 、 多 分 、 サ ッ カ ー も サ ンフレッチ ェ 広 島 の フ ァ ン だ っ た と 思 います。今 年 年 間 順 位 で 一 位 だ っ た の で、天国で 喜 ん で い る と 思 い ま す 。 歳で急 死 し ま し た が 、 生 き て い れ ば私の良い友となっただろうと思う と、胸がつ ま り ま す 。 彼はお酒 が 好 き で そ の 点 も 私 と 同 じ で し た の で、 た ま に 居 酒 屋 に 入 っ て 篠岡 明子さん (1999年5月8日没、 かれい 歳) さん。 号で会員職員みんなが篠 た。 精神病者と し て の 信 頼 関 係 を 築 い て い ました。 のこ 八王子」に遺した足跡は、決して小さな きました。篠岡さんが「ほっとスペース うやく故人の人となりが浮かび上がって 2014年から、再び「偲ぶ会」を企 画し、2回目を迎えた「偲ぶ会」で、よ 中に埋没していきました。 いた とスペース 八 王 子 」 代 表 ) と は 宗 教 の 「 ほ っ と 」 1 9 9 9 年 の と あ る 夜、 ど ん な 思 い で 身 を ひ る が え ら せ た の で し ょ う。 華麗な経歴の中で、人知れずストレ ス、病の苦しみと闘い続けて来た篠岡 バレーボール大会後の一コマ。栄光は記憶とともに 良き友人 を 失 っ た と 思 う と 残 念 で な りません。多田道夫さん(第二代「ほっ 色々と話をしながらお酒を飲みまし 54 ものではなかったようです。 (編集部) 歳) Cくん 高橋 功さん (2009年8月没、 私 は、 高 橋 功 さ ん と 面 識 が な い し、 そ の 人 の 事 を 全 く わ か り ま せ ん が、 「ほっと」スペース八王子」ニュース 第 号を読んで、自分なりにどんな方 なのか?想像してみました。なんとな く感じるのは、亭主関白で優しい方な のかなぁと感じました。また、相手の Y子さんがいて、幸せなんじゃないか なぁと文面では感じたのですが、高橋 功さんの中で何か孤独を感じていたの でしょうか?何故?お相手のY子さん い を残されて、逝ってしまわれたのか? 疑問に感じました。ご冥福をお祈り致 します。 嶋川 光さん (2000年没、 ほっとニュース第 文を読んで 歳) 、 、 57 号追悼 P.6000 ただし、彼が怠けているということ ではなく、自分風に生きていたと、よ なま り、ロッカーかも? テンで生活保護」とあります。やっぱ 暗く自閉的、ヘビースモーカー、フー し、 プ ロ フ ィ ー ル を 見 る と、「 性 格 は ご 存 命 で あ れ ば、 ロ ッ ク に つ い て 語ってお話をお聞きしたかった。しか そんめい つながります」 きる趣味を持つことは自分の活力源に 80年代ロック好き。誰しも好きな こ と は 良 い こ と で す。「 何 か に 没 頭 で 10年以上前の望年会。 いかんせん故人の写真アーカイブが少なくて すみませんです。 58 30 54 30 点 で は 違 い ま す が、 固 い 絆 で 結 ば れ、 岡さんを悼み、そして日々の忙しさの 46 45 特集 偲ぶ会 30 35 18 大橋さんは最初パオで出会いまし た。話をし た 所 、 彼 は 私 と 同 じ 広 島 出 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 6 頁 く分かりま し た 。 ゆうせいしょうがいむじむかん 赤坂郵便局 か ら 足 立 区 役 所 、 東 京 都 清 掃局3回本職公務員となったそうで す。 ぎょう あけみ 昭美さん 澤原 (2003年6月 日没、 歳) そして10周年。多くの悲しみを抱えながらも。 彼の食事 は ド カ 食 い だ っ た の が 、 3 食になった と い う し 、 薬 を 5 種 類 5 錠 ました。 亡くなった日時を見つけることができ 孤独ではな い 」 と 僕 は 伺 え ま し た 。 様々な経 歴 を お 持 ち の 嶋 川 さ ん 、 若 さゆえにほ っ と に と っ て 財 産 だ っ た で しょうに。 「ほっと」のバックナンバーをひも のこ とくと、遺された記事が 号にありま した。投薬について不満があったよう です。 ました。 なってから1年以上経っていたという くなり、現状を把握するころには亡く ことも珍しい事ではありません。 (ほっと ニ ュ ー ス 一 部 引 用 、 改 編 ) 換 え す れ ば い い か、 「 ほ っ と ス ペ ー ス 八 王 子 」 で は、 最 僕らは何と引き それはほっとを続けること。意義あり 近でもある日突然会員と連絡が取れな か 59 優しかったです。 歳で亡く のでもなく、とてもいたたまれないこ なりましたが、あの人の笑顔が忘れら 年前に とです。 67 さとし 歳) 歳) 惜しい人を亡くし、残念です。 たけお 多田 健夫さん (2005年没、 屋さんで、ツケで食べたのですが、お 私が以前住んでいた子安町で、たま に見かけました。近くにあるラーメン 多 田 道 夫 二 代 代 表 の 弟 さ ん に し て、 数字好きの多田さんへ、私も数学の事 数学好きの多田さんへ H・S 金を払う前に亡くなり、店主がほっと を書きたいと思います。 まで集金に来ましたが、亡くなったと 菊池春海 いう事で、いわば踏み倒して亡くなり ました。 小林さんの人柄は良い人で、誰にも 3分の1 0 = .33333333… これが元の式になります。 す。 それは意識とは何かわからないからで ませんし、 伝わらないかもしれません。 ことは、多田さんに、伝わるかもしれ だそうです。ですので、これから書く 意識とめはど何かとは、まだ科学で解決 できる目処がたっていない問題の一つ です。 後まで読んで考えて下さるとうれしい 私は誰でも分かると思われる内容で 書きますので、追悼会のみなさんも最 小林 敏悟さん (2005年没、 ことになれば、と思います。 (編集部) 毎年「偲ぶ会」を開催して、少しず れません。今でも生きていれば、ほっ つ人となりを知ることも 「故人を偲ぶ」 との空気も、 又違ったものと思います。 10 59 者労働 嶋川さん、ネット上で精神も病 っ 運動の意義 を 若 さ や 実 力 を 以 て 訴 え て いらっしゃ っ た そ う で す 。 僕 は そ う い う、 運 動 は 無 知 な の で、 ぜひ考えた い で す 。 精神障害 者 に と っ て 飲 み 薬 は 大 事 で す。嶋川さ ん は 、 一 日 に 種 類 計 錠 も飲んでい た そ う で す 。 かん で搬 送され て 命 の 大 切 さ を 学 ん だ と 行 はんそう 烈なド ラ ッ グ 求 め 死 に か か っ た と い強 こう 遺稿にあります。ただ、何度も救急車 34 に減らした と あ り 、 彼 は 悟 り 「 誰 し も 間を知りま し た 。 31 澤原さんについては、いろいろ調べ てみたところ、かなり古い資料の中に 22 「仕方ないこと」とは割り切れるも ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 7 頁 14 67 偲ぶ会 それまで、 職 業 は 郵 政 省 外 務 事 務 官 で SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 両辺を2倍 す る と ですが3分 の 3 は 1 で す 。 1 0 = .9 9 9 9 9 9 9 9 9 … です。 これは正 し い の で し ょ う か それとも 途 中 の 計 算 に 間 違 い が あ る のでしょう か Cくん しげよし 望月 茂良(ジミー)さん 2 ( 007年没、 歳) 菊池春海 しげのり 和田 重徳さん (2009年8月没、 歳) まだ若くもっと長生きして欲しかっ たです。今もほっとにいれば、皆の雰 た。 ループホーム関係者を糾弾する事は、 何故なら関係者みんなが傷ついたから 2 0 0 9 年 の 夏、 と あ る グ ル ー プ ホームで「孤独死」してしまった和田 し か あ り ま せ ん が、「 ほ っ と ス ペ ー ス 囲気も、 変わっていたかもしれません。 当時としては必要なことだったとは思 が、とても印象深い人でした。静岡大 八王子」ニュース各号を読んで、中間 います。それを忘れず、再発をさせな さん。故人を想うとき、このことに触 1 0 = .99999999…は正しい そうです。 管理職のリストラ部門を担当されてい たせいなのか?繊細さと豪胆さの両方 く課程やご自身の考えをしっかり持っ う 人 な ん だ と い う 事 が わ か り ま し た。 どうしてお亡くなりになられたのか? わかりませんがご冥福をお祈り致しま す。 ジミーさん。早すぎる死が悼まれます。 できればそのイメージのままで偲び たい、そう思います。 (編集部) 笑顔が印象的な和田さんです。 ージする和田さんは、マ 筆者のイひメ ろう くったく ジックを披露する、屈託のない純真な が入れ替わってしまいました。 「ほっと 和 田 さ ん が い た こ ろ と は、 スペース八王子」もほとんどメンバー ます。 い、という意味で必要なことだと思い きゅうだん です。お互いが傷つくことを知ってグ 私はそこまで数学に詳しくないの で、結果だ け し か わ か り ま せ ん 。 を兼ね備えていたのかなぁと思いまし ごうたん 数学の奥 の 深 さ を 垣 間 見 る こ と が で きました。 た。文面からは、体調が良くなってい せんさい 多田さんな ら わ か る か も し れ ま せ ん 。 会では、銀メダルを取って鈴木監督を 和田さん。(向かって右端) 和田さんについては、 追って再掲します。 れていいのかどうか筆者は迷います。 54 胴上げする所などとても嬉しそうでし 一歩で逃した悔しさをにじませる姿 高知大会では、銅メダルを取ったの は嬉しい事だがと言って、優勝を、後 たいと思っていました。 こそ是非と思い、自分の意思を、叶え 勝出来なかった事をとても悔しく、次 私は個人的にはジミーさんとは短い 間でした。バレーボールが好きで、優 41 ている人で、自分の意見をしっかり言 んの事を知らない 私は、小泉宏三ふさ く ので、想像力を膨らませて、判断する 小泉 宏三さん しょうさいふめい (没年、享年ともに詳細不明) 偲ぶ会 みんなで 数 学 を 考 え 、 多 田 さ ん を 追 悼したいと 思 い ま す 。 結論です が 、 途 中 の 計 算 は 正 し く 、 !? !? 3分の3 0 = .99999999… 両辺を3倍 す る と 3分の2 0 = .66666666… SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 8 頁 小林 照代さん (200 9 年 8 月 歳) ペンネーム 山口咲子 日没、 小林照代さん。まさ子さんのPNで「ほっと」を 盛り立ててくれました。追って再掲します。 八木 宏明さん (2011年4月没、 歳) リネカー まさひろ 小野 勝弘さん (2011年9月没、 歳) UFO えないような話まで、色々と、語り合っ まま孤独死してしまったことは、彼に モスバーガーで一緒にお茶を飲んだ り致しました。そのうち、様々な話を それから八木さんとの付き合いが始 まるようになりました。 た、ちょっと内向的だったというのも 皆さんの八木さんに対しての印象 は、性格が優しいという点でした。ま らっしゃいました。 良いメンバーになったと思うと、その ば、 ほ っ と に 対 し て 色 々 と 活 動 的 で、 かったかと思われます。安兵衛さんよ りも五つ年下の彼がまだ生きていれ するようになりました。内容は、ほっ 点でもとても悔やまれます。 しりょ しかし、八木さんには彼女がいたと いう幸せな時代があったのも亡くなっ そうだと思いました。 しかし、お葬式には、親族どなたも いらっしゃらないというのも、かわい も印象的でした。 た。とても思慮深い人だな、というの また望年会ではビンゴゲームの景品 を辞退するという話もうかがいまし な方だな、というのが印象的でした。 しゃっているのは、穏やかで、物静か 聞いております。 皆さん共通して、 おっ とって、また遺された人たちとりわけ 転倒してまだ意識があったのに、その 最初にお会いした時には、失礼です が、少々暗い印象がありましたが、回 た事があります。 に闘う会」で忙しくなり、小野さんが その後、安兵衛さんは「赤堀さんと共 て、 安 兵 衛 さ ん は シ ョ ッ ク を 受 け て、 小野さんは、安兵衛さんと病院が一 緒で、 安兵衛さんを、 観念論者だと言っ 58 を追って話を進めて行く度に馬が合っ 寡黙な人だったそうです。 て、一緒に話をするようになりました。 八木さん。 安兵衛さんにとってどんなにか悔し かもく そすの時の八木さんの様子は、タバコ を 喫 い な が ら、 楽 し そ う に 話 し て い 度に、親しくなって行きました。 八木宏明さんと、私とは多少の面識 があり、ほっとにお互いが来て、会う 55 とスペースの事だったり、ここでは言 特集 子ども思 い で モ ス で 子 ど も に お み や げを買って い ま し た 。 うわさばなし とても明 る い 人 で 照 代 さ ん が い る だ けで雰囲気 を 明 る く す る 人 で し た 。 噂話が好 私は加わ ら な か っ た け ど 、 きで、新年 に な る と 、 抱 負 で 噂 話 は や 偲ぶ会 てから初めて知りました。 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 9 頁 57 めると決意 し て も 、 時 々 出 て き て し ま うこともあ っ た み た い で す 。 ご冥福を お 祈 り し ま す 。 国立市某所で行われた八木さんの四十九日法要。 19 せっかち で 夜 中 に パ ン を 食 べ て 死 ん でしまいま し た 。 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 藤原(仲 田 ) 道 子 さ ん (201 2 年 2 月 没 、 歳 ) 菊池春海 42 山口咲子さんと、仲良く、週に一度は 付 き 合 っ て い て 色 々 な 所 へ 出 掛 け て、 とても嬉しそうでした。 生きていればもっとこの人生を、楽 しめたのにと思うと、彼もこの世に別 れを告げるとは心ならずにもさぞかし 残念でならないと思います。橋本さん 安らかに。 上平 薫さん (2012年没、 歳) 「ほっと」の 上 平 さ ん に つ い て は、 関連記事、遺稿もなく、亡くなったい ません。翻訳家で、ときどき来てはす 山口咲子 遊園地が好きでよくジェットコース ターに乗っていました。 しかしたらそれが、彼なりの精いっぱ きさつについても、詳しい事はわかり 食いしん坊で鼻血が出るくらい食べ ていました。 す。 (編集部) 「ほっとスペース八王子」としては、 今現在把握している故人を偲ぶのみで もしれません。 そう考えると、もしかしたら元会員 の中には他にも亡くなった人がいるか ようです。 のある人たちであることは間違いない ス八王子」の会員として利用したこと 会」で取り上げた人は、「ほっとスペー け は 覚 え て い ま す。 お そ ら く、 「偲ぶ 編集部の筆者が会員として入会した ころ、通所名簿に名前があったことだ ん。 いのアピールだったのかもしれませ ぐに帰ってしまうという人でした。も 彼女は美女という訳ではなかったで すが、可愛らしい顔をして、親しみ易 仲田道子さん。そんなに頑張らなくてよかったのに 私、個人 的 に は す ぐ 近 く の モ ス バ ー ガーでお茶 を し な が ら 楽 し く 話 を し て いました。 そ う い う 時 間 が も っ と 欲 し 58 く、話をしてとても好感の持てる女性 でした。 今も私の胸に息づいている女性でし た。動物も好きで捨て猫を拾い自分で 飼って、世話をし遊んであげる様な面 もあり、今はもうこの世にいないと思 さび 歳) うととても淋しく思っています。 橋本 秀一さん (2012年7月7日没、 菊池春海 橋本さんは、元気で明るくて素直で 分からない所があれば、少々恥ずかし 49 くても、堂々と訊いていた人でした。 橋本秀一さん。カラオケが好きだったようです。 かったので す が 残 念 で す 。 2011年長崎にて安兵衛さんと。 体形は太っていましたが、亡くなる 三ヶ月位前にはやせていました。 もっと長生 き し て 欲 し か っ た で す 。 ご と が あ り、 自 ら 命 を 絶 ち ま し た が、 病院も私 と 同 じ で 親 近 感 が あ り ま し た。後の夫 と な っ た 人 と 、 多 少 の も め は楽しそう に 弾 い て い ま し た 。 エレクトー ン が 好 き で 、 毎 週 金 曜 日 に 職 員 と し て 入 っ た 藤 原 道 子 さ ん は、 結婚して仲 田 の 姓 を 名 乗 り ま し た が 、 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「ほっと」152号 10 頁 しぎはら 鴫原 洋一さん (201 2 年 没 、 歳) キャロル しょうすい 八木さんの告別式後の光景。みんな憔悴しきっています。 パ ー 銭 湯、 食 事 に 行 っ た り と か 温 泉、 富士急ハイ ラ ン ド な ど に 遊 び に 行 っ た りして、リ ー ダ ー 的 な 人 で 、 優 し い 方 でした。あ と お 酒 も 好 き だ っ た と い う 思い出があ り ま す 。 ほ っ と ス ペ ー ス 八 王 子 の「 ほ っ と 」 ニュースの 鴫 原 さ ん の 記 事 を 読 ま さ せ ていただき ま し た が 、 昔 多 摩 総 に 居 た 時より楽し そ う な 感 じ が し ま し た 。 にキャンプに行ってきた話や写真を見 ても元気そうで人柄の良さが出ていま した。 ファミリーレストランなどで、鴫原 さんはワインが好きだったのでよく飲 んでいました。一緒に飲んだ事がある のですが、僕はお酒が弱いので先に寝 てしまいました。 バレーボールの高知大会などの記事 もあり銅メダルをゲットしたなど、嬉 しそうな文章も載っていました。 歳という若さで亡くなってしまっ たと知って非常に残念です。二〇一二 一緒にサウナに行きたかったなあと思 いました。 特 集 あゆさわ きふく その反面、僕には優しく接して下さ いました。その落差に驚いた事もあり ました。 感情の起伏が激しい一方で、 しかし、 優しい一面も持ち合わせていらっしゃ る方なのだなあというのが、僕の鮎澤 さんに対する印象です。 ま た、 書 道 や ピ ア ノ も 趣 味 ら し く、 エレクトーンを一生懸命弾いていた姿 も印象に残っています。 「 ほ っ と 」 の 記 事 に あ っ た 入 会 あ い さつでは、琴など、他の趣味について も話していらっしゃいました。 ほっとスペース八王子は英語のH OTを意味する暖かい所だともおっ 「人と話し ま た、 他 の 作 業 所 で は、 づらかった」ともおっしゃっており、 歳) しゃっていらっしゃいました。 リネカー 鮎澤さんとも、八木さん同様に馬が 合い、 分程度話した事があります。 ある時はエレクトーンを弾いていた 記憶があります。 ます。 心より、ご冥福を、お祈り申し上げ ます。 ほ っ と は 毎 日、 学 ぶ 事 が あ る と も おっしゃっていました。 た。 ほっとスペースで4、 ほっとスペースは、誰でも受け入れて 鮎澤さんとは、 5回お会いし、お話しした記憶があり くれる所だとも、おっしゃっていまし た時には、いらっしゃいませんでした。 鮎澤 晴美さん (2013年4月ごろ没、享年 もしいらっしゃったら、またもう一度 年に亡くなったので、僕がほっとに来 52 偲 ぶ 会 鮎澤晴美さん。楽しそうに話されていたのが 印象に残っています。 52 けっこう、気さくな方で、声をかけて 頂いた記憶があります。 しかし、反面、気の強い方で元職員 のYさんや、安兵衛さんに、食ってか かるような場面もありました。 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 11 頁 15 2003 年 、 ほ っ と の 秋 レ ク で 秩 父 10 52 年前くらいに多摩総 鴫原さん は 、 合保健福祉 セ ン タ ー で 知 り 合 い 、 ス ー SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 いわさわ あつこ 岩澤 篤子さん (201 3 年 1 月 没 、 歳) UFO ティバルに 参 加 し て い ま し た 。 せっ け ん アンジュングン いとうひろぶみ 1 0 0 年、 韓 国 の 安 重 根 記 念 館 で も、 う さ ぎ の 着 ぐ る み を 着 て 障 害 者 自 「安重根と伊藤博文」にして、「2009 立 支 援 法 に 反 対 す る ビ ラ を 配 っ た り、 年 は、 伊 藤 博 文 暗 殺 か ら ち ょ う ど ほっとのニュースや、石鹸のセットを キャロル 四十六歳の若さで天国に行ってし まった岩澤さん。良かったなあと思っ たり、悪かったなあと思ったり悩んだ りして、カベにぶつかったりあえいで 歳) いる気持ちがぼくには分かります。 大根田 恭一さん (2015年4月没、 ずいぶん ていねい 画教室等で絵の描き方を教えて頂い お祭りが開かれているでしょう。それ 感がわいてきました。が、しかし、あ て、また、随分、丁寧に教えて頂いた 売ったりし て い ま し た 。 大根田さんとは、昔、ほっとのプロ グ ラ ム に あ っ た( 現 在 で も あ り ま す る時は安兵衛さんのことを呼び捨てに アニメの話とか、したかったです。 (編集部) 祈り申し上げます。 今だに大根田さんが亡くなった事が 信じられません。心よりご冥福を、お 来ません。 ありましたが、もう行く事は永久に出 また大根田さんの家にヘルパーとし て行かないか、という話を頂いた事も た。 ただ絵画教室以外では、あまりお付 き合いをしたことは、ありませんでし そういう一面もある人なのだな、と 思った事もありました。 請求する事を私に言ってきたりするこ ので、次第に大根田さんに対する親近 ます」という意気込みを書き遺してい が) 、 「絵画教室」でお会いしたのが始 したり、絵画教室のボランティア料を 岩澤篤子さん。 を現地で、しっかり見てきたいと思い に、障害者が 岩澤さん は 、 多 く の 人 わか 抱えている苦しみを解ってもらおう ます。2頁半の長いレポートを書いて まりでした。 と、頑張っ て い ま し た 。 いました。 岩澤さん は 、 2 0 0 9 年 、 韓 国 研 修 旅行に参加 し て い ま す 。 研 修 テ ー マ を ぼくとつ ともありました。 リネカー 大根田さんの遺作となった油彩。 朴訥とした話し方で、 第一印象は、 近寄りがたい印象がありましたが、絵 の着ぐるみを着てやっていたりと、面 白いところもあった人みたいです。反 面、研修旅行で、長いレポートを書い て い る 真 面 目 な 方 だ っ た と 思 い ま す。 会ったことのない人でしたが、ちょっ 山口咲子 と親しみがわきました。 他人想いのとてもやさしい人でし た。 大根田恭一さん。大根田さんにとって、 良き晩年だったのか、それだけが気がかりです。 岩澤さんは、障害者自立支援法の反 対運動で頑張っていましたが、うさぎ 63 46 岩澤篤子 さ ん は 、 2 0 0 6 年 、 八 王 子保健所で 行 わ れ た 、 心 の 健 康 フ ェ ス SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「ほっと」152号 12 頁 日没、 うち通わなくなって、しばらくして1 回だけ来て、そしてもう来なくなりま した。しばらくは安兵衛所長が電話で 話をしていましたが、そのうちそれも なくなって、「ほっと」と年賀状を送 るくらいになって、2016年の年が 明けたある日、ほっとスペース八王子 の留守電に亡くなったという家族の伝 言がありました。 そえん 한국교육여행 韓国研修旅行 本題に移ります。海苔(のり)です。 日本は大まかに分け、関西の味付きで たかで、お隣、韓国では「味付きのリ」 P.6000 韓国のりはおいしかったです ありつつも食が進む工夫を施された海 中部市場周辺の焼肉店で食べた食材 で 食 中 毒 に な り、 韓 国 か ら 帰 国 し て が主流です。中部市場からホテルに戻 こととはいえ、やっぱりあまりにも寂 すぐにピーピーでお腹を壊しました 苔か、関東の海苔の本来の味を生かし し い こ と で す。「 も っ と 話 を す れ ば よ 多く、ご飯が進みうまかったです。海 病状が悪化して疎遠になって、そし て亡くなったということは想定される かった」という後悔の念しか遺された 笑 ( 。) 食 べ す ぎ が 原 因 だ と 日 野 市 立 病院の内科医H医師にそのようにお聞 種 類 く ら い あ り ま す が、 り、食したところ、油分は、ごま油が 歳) 人 た ち は 持 ち え ま せ ん。 「次に会うと 苔の種類も そんごめん 孫悟麺 きはまたほっとで」と思っていたのに、 きしました。整腸剤を処方いただきま くらいに少 し 通 所 し て い ま し た 。 入会して し ば ら く は 、 病 気 が 少 し 良 くなってき た ら そ の う ち 働 き た い 、 と いう意欲の あ る 人 で し た 。 と 摂 っていると、料理を 筆者が昼 食 を 教えてほし い と も 言 っ て い ま し た 。 「 ほ っ と 」 の 記 事 を 依 頼 す る と、 快 く受けてくれるところもある人でし た。反面、 疲 れ や す い 人 で も あ り ま し た。ほっと ス ペ ー ス 八 王 子 に 来 る と 、 まさか「偲ぶ会」の記事を書くことに した。 どれもパッケージ表示表現が違うだけ はちみつ けの梅干しのおかゆと蜂蜜入りのパン がゆでした。おかゆは、なんとか梅干 しで何とかいけましたが、パンがゆは そのままでは、食べにくく、蜂蜜を入 れたら、吐き気なく食べやすかったで ごへい す。その国の気候や食べ方に合った食 材があるのだと、介護食というと語弊 がありますが、試してあぁ、アルファ 化された食材工夫、胃に負担なく優し で、残念ながら同じ味でした。でもキ なろうとは思いもよりませんでした。 ムチ味もあります。 亡くなられた方の ご冥福を お祈りします ので、丸々一つでなく、半欠けで半欠 自宅療養が二週間近くかかり、何を したかというと、梅干しは刺激が強い 15 山崎 俊彦さん (201 5 年 3 月 山崎俊彦さん(向かって左端)。 今でも亡くなったのが信じられません。 すぐに横に な っ て 休 ん で し ま う く ら い くなるとよくわかりました。 ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 13 頁 46 疲れやすい と こ ろ が あ り ま し た 。 そ の やあみんな、 151号に続いて、 コルベ神父だよ。 14 山崎さん は 、 ち ょ う ど ほ っ と ス ペ ー ス八王子が N P O 法 人 格 を 取 得 す る 前 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 今 回、 行 き も 帰 り も 雨 で し た 。 し かも僕はサンダルでコリャきついな 時から開館で今回も 10 たら食えもしないで、どおすんの!不 満気でした。安兵衛さんは、これで何 十 人 の 精 神 障 害 者 を 潰 し て き た の か、 わかっているのでしょうか?元気だか らって潰しにかかるのなら、僕も考え があります。科学者のうちだけに分か る話ですから。 日本が韓国に多大な負荷をかけまし た。韓国に日本語を使えだとか、無茶 振りもいいとこでした。欧州の植民地 支 配 を 参 考 に 各 国 の 例 を 経 た 日 本 は、 かえ 植民地支配として韓国を強制したの 門と通って、景福宮の中へ。明 民衆の心を荒らしただけで良くなかっ 光こ化 う ごう 成皇后(ミョンソン皇后)いた時代に、 たです。結局、同じ星に住む以上、仲 は、友好関係を持てずに却って韓国民 たり杭を打 っ た り と 、 日 本 よ り 進 ん で 頂点に立ったミョンソン皇后は、民衆 伊藤博文公狙撃事件のあった哈爾浜駅 ハ ル ビ ン 無駄な血は流したくないです。平和一 良 く し な く ち ゃ い け な い。 競 っ て も いました。 そ れ だ け 、 部 外 者 に は 危 機 星を操りたい。なぜ星かって?Fac / 30 な?ははは。 2 ( 015/ 10 ebookをご覧くださいね。 テデパートへ行く機会あって ロッ ごようたし 韓 国 御 用 達 の 高 級 海 苔 も あ り ま し た。 日の間だけ生成さ 「 名 家 チ ョ サ リ 岩 海 苔 」 で す。 こ れ は 「 1 年 の う ち、 約 に、手荷物一杯で、税関に引っかかっ はすでに中部市場で沢山色々買ったの だから!」と、僕は、買いました。僕 安兵衛さんに強制で「ここまで来たん れ る 新 海 苔 を 使 っ た 限 定 生 産 品 」 で、 15 ) 来年の韓国テーマは、マッコリ、に し よ う か。 大 酒 呑 み の 赤 鬼 が 笑 う か かったとイメージします。あぁ、 僕も、 番、文化二番、……。 景福宮では、広々としていて、気分良 を従えつつ、さぞかし晴れの青空の下、 争ってはダメです。 血は輸血だけです。 ロッテデパートソウル店。なお日本には ロッテデパートはありません。 感があった よ う で す 。 ほど、農耕 あ っ た り 、 住 居 に 溝 を 掘 っ 国史を理解 す る に も 過 去 へ さ か の ぼ る ました。花 が 添 え ら れ 立 派 で し た 。 韓 た。安重根 の 白 い 石 像 が 出 向 い て く れ うと近辺の博物館で待機していまし 一時間前の 9 時 に 着 き 、 時 間 を つ ぶ そ した。記念 館 は 記念館へ行 っ た り 、 景 福 宮 へ 向 か い ま キョンボックン から)で、 伊 藤 博 文 を 暗 殺 し た 安 重 根 アンジュングン でした。初 乗 り 3 0 0 0 W ( 3 0 0 円 ウォ ン と 苦 (笑 長 ) 靴で来れば良かったです。 4人だった の で 、 交 通 手 段 は タ ク シ ー SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 はじめて飛行機電話を H・S スで海外に行く機会があり興味を持た います。ですので、次回ほっとスペー 韓国では特にそういった事は無いと思 安と考える方もいるとは思いますが、 特に韓国は一番少ない予算で行ける 国になります。海外は治安が悪くて不 す。 方は是非一度は行くことをお勧めしま その楽しさやノウハウ的な事も書き たいと思いますので、行った事のない 私は海外旅行が大好きです。 今回韓国研修旅行に二泊三日で行っ てきました。 かけてみました 大韓航空機内 ( イメージ )。 飛行機電話(座席間通話機)があるとか。 ―「ほっと」152号 14 頁 います。 ま ず 初 日、 羽 田 空 港 か ら 国 際 線 で 行ったので す が 、 飛 行 機 に 電 話 機 が つ いていたの で 電 話 を か け て み ま し た 。 ところで、一番私が海外旅行で重要 だと考える事を言いたいと思います。 それは、旅行先では、参加者の歩幅 の違いが出やすいので、ケンカになる 韓国研修旅行 堀部 正 事後研修レポート しんにょえん 第8回韓国研修旅行は 金で実施されました。 事です。 成田離婚は、無理に同じ行動を取る ためにケンカになって起こると思いま 真如苑の助成 す。 レポート はほとんど不可能に近いと思いまし 景福宮全体案内図。 今回は土砂降りの雨で、ナムサン(南 た。外交官出身でもない軍人上がりの 今回の韓国研修旅行は前述のように 新規参加者3名で、いつものコースと 三浦梧楼特使が中心となる暗殺部隊の みうらごろう 山)公園登山は無しにしました。 特殊性が浮かび上がってきました。 今回も恒例のアンジュングン記念館 を 皮 切 り に、 研 修 が 始 ま り ま し た が、 という構成で実施されました。 今回は参加者も一新して、新規参加 者は3名、一人は職員の引率で僕一人 せっかくお金をかけて行ったのです から、そんなつまらない事になるのは 良くないです。 今回の旅行はみんな仲良く行く事が できました。 アンジュングン記念館から直接にタ クシーでカンファムン(光化門)に向 きょぐう かい、キョンボックン(景福宮)に入 りました。 居宮である は異なったコースで研修しました。 今年はミョンソン皇后の コンチョングン(乾清宮)を背後から キョンボックン(景福宮)の最後は 入所しようとキョンボックン(景福宮) 民俗博物館を見て、チュンブシジャン 福宮)がこんなに広いのかという思い の方向に行くと、キョンボックン(景 た。今回の参加者が食べたがっていた ンブシジャン(中部市場)で行いまし いつものコースでしたが、夕食はチュ の奥に入り、 コンチョングン(乾清宮) ( 中 部 市 場 ) に 買 い 物 に 行 く コ ー ス は をしました。更に、日本軍などを中心 焼肉と冷麺を中心にサムギョプサル れいめん としたミョンソン皇后暗殺部隊がキョ きました。もちろん、キムチは食べ放 ンボックン(景福宮)の内部をかなり ( 豚 ば ら 肉 の 塩 焼 き 肉 ) を 皆 で 突 っ つ 知り尽くしていなければ、 しかも、 ミョ すがに美味しいです。 ン ソ ン 皇 后 の 顔 を 知 っ て い な け れ ば、 題です。美味しい手作りのキムチはさ 短時間のうちに暗殺を成し遂げること ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 15 頁 受話器の 横 に ク レ ジ ッ ト カ ー ド を 通 す隙間があ り 、 そ こ に カ ー ド を 通 す と 料金の支払 い に な り ま す 。 私は飛行 機 の 電 話 を 一 度 も 使 っ た 事 がないので 使 っ て み た く な り 、 友 人 に 電話しまし た 。 普 通 に 使 え ま し た 。 また同じ 飛 行 機 の 座 席 同 士 で 座 席 番 号を押すと か け る こ と が で き ま す 。 こ の場合は無 料 で す 。 韓国研修旅行 ソウルのメイン玄関口、仁川空港。実は ソウル市内に空港はなく、バスで40分程の 仁川市か、金浦市に空港があります。 れましたら 、 是 非 参 加 す る と 良 い と 思 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 トンデムン(東大門)に出来た新モー ルは圧巻でした。(左の写真参照) 思いました 。 今 回 の 研 修 旅 行 の 今 迄 と の違いはタ ク シ ー を よ く 利 用 し た こ と カフェーに 入 っ た り 韓 国 ス ィ ー ツ な ど 病棟転換型居住系施設 を考える記事二本 なものになってしまうような、そんな けいじこうりゅうしせつ 軽くなってしまうような気がしてなり ません。 刑事拘留施設でも同じ このことは、 けいもう ことが言えますし、また、啓蒙するに あたって、難しい点でもあるような気 がします。 : ~ 分間の休憩の後、さらに リレートーク。当事者やその家族に加 そう そう バー。皆有名な人ばかりと感心してい え、医療現場から勇気ある告発をして 員(生活の党)といった錚々たるメン たところ、よく考えたら、民主党も自 くれた人もいました。トークの合間に、 かわだりゅうへい ふくしまみずほ 民党も公明党も誰も出ていませんでし 応援で駆け付けた福島瑞穂参院議員 ゆ た。 時に京王八王子駅に集合、新 午前 かすみがせき 宿から丸ノ内線で霞ヶ関から歩いて数 合 わ れ な か っ た の で し ょ う か。 与 党、 こに至るまでの過程で、問題点が話し 法的には問題ないでしょう。でも、そ しゃいました。 セージを寄せていただいた方もいらっ (社民党) 、川田龍平衆院議員(結いの 精神科病棟転換型居住系施設が開設 されるにあたって、 法整備もなされて、 党(当時))といった政治家、また、メッ 2016 年 の 3 月 に は 初 め て の プ サ ン研修旅行 と な り ま し た 。 こ れ も 真 如 分、会場の日比谷公園野外音楽堂には 特に福祉の党を謳っている公明党は何 孫悟麺 苑 の 助 成 金 で 実 施 さ れ ま す。 研 修 レ ちょっと早めに着きました。平日にも あと、来賓による挨拶。ジャーナリス 利夫さんによる開会宣言、基調報告の はスタートしま 時定刻通り、集会 きょうりん した。主催者である杏林大学の長谷川 ないということも実感できました。 長期入院者の苦労はなかなか理解でき り、 話 を 聞 い た り と い っ た だ け で は、 2014年6月26日日比谷野音で行われた 病棟転換型居住系施設推進反対の集会。 うた ポートは後 ほ ど の お 楽 し み に 。 も意見はなかったのでしょうか。 熱気のせいなのか、とても暑かったで 年はザラという長期入院者の生の声 トの大熊一夫さん、精神科医の金杉和 当事者にとっては、1日1日が、血 を吐き、なめるような日々だというこ は貴重でした。しかし、文献を読んだ 夫さん、小池晃参院議員、田村智子参 とは想像できるのですが、一度言葉に らいひん 院議員(共産)、山口和之参院議員(み す。 10 変換されたとき、なんだかバーチャル 12 んなの党(当時))、三宅雪子元衆院議 20 にぎ かかわらず会場は大勢の人で賑わって 10 いました。気温のせいなのか、人々の 食べて、ぼちぼち歩いて楽しみました。 50 話 は 戻 っ て、 そ の 後 リ レ ー ト ー ク。 当 事 者、 そ の 家 族 に よ る 訴 え。 年、 で、これが東大門の噂の新モール、 「デザインプラザ」です。 10 13 でした。し か し 、 タ ク シ ー 代 は 地 下 鉄 代などと同 じ よ う に 日 本 と は 桁 違 い に !! 安い。短時間で効率よく移動するには 生活するのは普通の場所がいい 気軽に使え る 交 通 機 関 で し た 。 STOP! 歩いて見て回る楽しさは地下鉄の地 精神科病棟転換型居住系施設 下 道 を 二 駅 分 く ら い で 味 わ い ま し た。 緊急集会レポート 6. 26 今回はタ ク シ ー の 車 窓 か ら 見 る だ け でしたが、 凄 い 建 物 が 出 来 た も の だ と SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「ほっと」152号 16 頁 リレート ー ク の あ と 、 集 会 の 告 知 チ ラ シ に も あ る 声 明 文( 緊 急 ア ピ ー ル ) ま り 時をちょっと前にしたと 山本 眞理 さ ん の 音 頭 で シ ュ プ レ ヒ コ ー ルのあと、 も医療観察法は、触法精神障がい者に のうこう 対する扱いでしたが(それでも人権侵 害であるという疑念はかなり濃厚なの ですが) 、今回の精神科病棟転換型居住 系施設は、何の落ち度もない「ただ精 かくり 神障がいがある」というだけで、世間 とは隔離された、病院内にあるグルー プホームで生活させようという意図を 以ていることは明白というより、まん ま 「隔離します」 と公言しているのです。 会場の参加者から感じる事ができまし ナリスト、弁護士など)や当事者とそ 先生をはじめ、各界(医療界、ジャー てくれました。また、有名な政治家の なりませんし、人権侵害であることは 精神科病院の病床数を増やすことに他 日弁連の声明にもあったように、精 神科病棟転換型居住系施設は実質的に 今 回 は、 平 日 の 昼 間 に か か わ ら ず、 3000人を超える人たちが駆けつけ 括弧 つきで 表 現 し ま し た が 、 当 事 者 に た。 かっこ だりですが、敢えて「普通の場所」を あ と っ て、「 普 通 の 場 所 」 で 生 活 で き る 明らかです。 病棟転換型 居住系施設 を考える す。 担う梯になれればと思いペンを措きま かけはし 欠かせません。微力なれどその一端を います。粘り強い説得、啓蒙、広報が けいもう せん。その他は無関心ではないかと思 圧倒的大多数と言っていいかもしれま き」という意見は多数派というよりも の で す が、 「精神障がい者は隔離すべ 論 だ と 思 い ま す。 ま ず、 言 い に く い し い 点 も あ り ま す。 最 大 の 難 点 は 世 思います。ただ、この運動において難 官からも異論があってしかるべきだと 立場上表明するのは難しいとは思い ますが、法曹界において、検察や裁判 の家族も多く参加していました。 かつぼう して、病棟転換型居住系施設を指して、 「これが普通の場所」と言ってくるで しょう。当事者の要望も意見も取り入 れている、権利は尊重するとも謳って います。また、多くの当事者も「おた とら めごかされて」精神科病院に囚われた まま生涯を終える人も出てくるでしょ う。 見てくれだけは立派な、現場の主うた張 するところの、 「開放的な施設」を謳っ てくるのは間違いないところです。 特 集 おそらく厚生労働省、立法府である議 文字通り閉鎖された「閉鎖」病棟。 ことをどれ だ け 渇 望 し て き た か 、 と い ふかん 会、ひいては医療の現場である病院を まず、チ ラ シ に も あ っ た 、 生 活 す る のは「普通 の 場 所 」 が い い 、 と い う く 残る集会で も あ り ま し た 。 また、有名 な 方 が 多 く い ら し て 印 象 に 今回の集 会 で 、 い ろ い ろ 学 ぶ と こ ろ もあったし、考えさせられる事もあり、 ころで散会 と な り ま し た 。 15 うことをチ ラ シ か ら 、 ス ピ ー チ か ら 、 日比谷野音を俯瞰。ここでどれだけの 主張がなされてきたのだろう。 今まで医療観察法について関心を 持って学習してきましたが、少なくと ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 17 頁 の朗読、おなじみ「全国精神病者集団」 SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 病床数を減らし、新たにグループホー 環でしょう。 住施設もその過程で行われた政策の一 が割を食ったようです。病棟転換型居 医療費の圧縮に手を着けられたのです います。そこで行政改革の一端として 医療費はかさみ、政府や自治体の財 政を圧迫しかねないと訴える人も多く に寄り添って動くべきというのは頭で であり、このこと この件が人権問題 こうむ によって不利益を被る立場の人々の側 ます。 多 く の 製 薬 会 社 や 医 師( 特 に 勤 務 医 ) なり理由はあるはずだと考えてしまい が、利権を確保した者がいる一方で、 判っています。ただ一方で、行政の医 あるけれど、施行する立場にも言い分 えばこの件について反対する立場では から推測したり考察したりします。例 ることがベストなのではないかと思わ がる道を模索し、実現に向けて行動す ず、国益、ひいては社会的利益につな 難しいかもしれませんが、長い目で 見て当事者のためになることのみなら た、道があります。 とかではなく、日本には日本のやりか ま せ ん。 「よその国と較べて日本は」 い込み、偏見による誤解も少なくあり 一般の人たちの関心度は高くなって きたとはいえ、まだまだ世論による思 ニュースとして取り上げられるケース ム化するなどといった試みです。 療費抑制策であること、これがある種 れます。次回では医療観察法について 行といった議論は、早い時期からされ てきていました。しかし社会が成熟す 2015 年 1 月 末 に 八 王 子 で 病 棟 転 換型居住施設反対集会が行われまし 軍を含めれば1000万はいるだろう 精神疾患者数は100万人以上、予備 る一方で、うつなどの患者数は増え、 た。 ふく 万以上に膨れ上がった とを見聞きする度に、さまざまな立場 ぜんぞう 30 い ち ょ う ホ ー ル の 小 ホ ー ル は、 という状況になってきました。 288名収 容 規 模 で す が 、 ほ ぼ 満 席 の いちょうホール全景。 と ん ざ 病棟転換型居住系施設推進は一見頓挫した かに見えますが… 合理性を以て行われていることが単な お 込みに他なりません。 の発露によるもので、それこそが思い はつろ は減刑といった処置に対する不公平感 いは心神耗弱を理由とした無罪あるい しんしんこうじゃく むしろ、その結果生じる心神喪失ある しんしんそうしつ 者によるものより低いです) 、これは 神障がい者の刑事事件発生率は、健常 件を起こすこと自体が珍しいので(精 があります。これは、当事者が重大事 (一方で医療観察法による特別病床数 の合理性を以て行われてきているとい 戦後の精神医療の方針として、入院 を中心とした医療から通院や作業療 は漸増の傾向にありますが、これにつ う こ と も な ん と な く 判 り ま す。 逆 に、 書こうと思っています。 法、リハビリといった地域医療への移 盛況でした 。 いては別の機会に) る思い込みに過ぎない面も否定できま 熱気伝わる小ホール 八王子の 内 外 か ら い ろ ん な 人 が 参 加 されていて 、 こ の 問 題 の 関 心 の 高 さ を 要するに患者の囲い込みです。兼ね てから精神病院に於いて患者の長期入 せん。例えば、当事者は社会的公益性 での反対集会 感じること が で き ま し た 。 実 際 に は 前 院が問題になっていたのですが、名目 に於いて隔離すべきというのがまず思 孫悟麺 部座席は収 納 さ れ て い た の で 実 質 収 容 上退院させるだけで生活は実質的に入 い込みの代表です。 率は100 % 以 上 で し ょ う 。 院中と変わらないという問題が生じる 実は現在作られているグループホームの 中にはどさくさで病棟転換型のものが あるのかもしれません。注視すべきです。 もっ ことになります。自分はこういったこ 治安面において、当事者が何か重大 な刑事事件を起こしたとして、大きな SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「ほっと」152号 18 頁 仏蘭西紀 行 (最終回 ) たが、時差ボケもせずに、すぐに眠れ ました。 せいけつ 今、フランスから帰ってから、思う 事は、やっぱり、日本という国はきれ いで清潔だな、という事でした。 電車の窓は、ほこりだらけでしたし、 パ リ は 花 の 都 と 言 わ れ て い ま す が、 道 端 に は、 犬 の フ ン が 落 ち て い た り、 がある事にとても驚かされました。 落書きもしてあったり、トイレは便器 のフタがなかったり、大変な思いもし ました。 やはり、初の海外旅行、しかも先進 国と言われているフランスですら、こ う国がいかに恵まれた国かが、よくわ ういう状況ですから、やはり日本とい 翌日、いよいよ帰国の日を迎えまし た。連泊していたホテルをチェックア かった海外旅行でした。 て、飛行機に乗りました。 空港に着いて、二時間程、時間を空 港内のファーストフード店でつぶし にして、空港へと向かいました。 ウトして、バスに乗り、パリ市内を後 帰国 そして、ラーメンを食べた後、ホテ ルに帰り、床に着きました。 (国旗のイメージを載せたら、2色刷り の段階できれいなトリコロールが再現 できませんでした。なぜか…) 翌日、ま た パ リ 市 内 に 行 き 、 パ リ で 一番大きな 百 貨 店 で あ る 、 ガ ル リ ・ ラ フ ェ イ エ ッ ト( Galeries Lafayette) という百貨 店 に 入 り ま し た 。 中国系が い た り 、 ヨ ー ロ ッ パ 系 が い たり、中に は 日 本 人 も い ま し た 。 しかし、 百 貨 店 と し て は 、 三 越 や 伊 勢丹といっ た 感 じ の 百 貨 店 で し た 。 僕はその ラ フ ェ イ エ ッ ト で 、 ほ っ と スペースの人達向けのお土産のクッ 帰りは余り緊張せずに飛行機でゆっ くりと過ごす事が出来ました。 そして、おいしい機内食を二回食べ ました。 フランス旅行のまとめ しゃべ ここフランスでは、自分は外国人なん かった言葉の問題にぶち当たり、 ああ、 スに行ってみると、普段意識していな 普段、日本にいる時は、言葉なんか 意識もしなかったですが、いざフラン 非常に苦労致しました。 英 語 も ま っ た く 喋 れ な い 私 と し て は、 れ な い と い う 事 で す。 仏 語 は お ろ か、 フランスご 言葉が通じないという事は、現地の 人とまったくコミュニケーションが取 です。 然通じない、というのがまず第一の点 私はフランスに行ってきた訳です が、フランスは外国なので、言葉が全 パリ市内某所の商店街。なんとなく仲見世っぽい。 だなあ、と思い、カルチャーショック ―「 ほ っ と 」 1 5 2 号 19 頁 キーを買い ま し た 。 そして、夕食の時間になり、ラフェッ ト近くのパ リ で は 珍 し い 、 ラ ー メ ン 屋 に入りまし た 。 味 噌 ラ ー メ ン を 注 文 し ま し た が、 帰りは行きよりも一時間早く、十一 スープがとてもおいしく、完食してし 時間で羽田空港に着きました。 タクシーで、自宅まで帰りました。 まいました 。 東京のラーメン屋と 驚きました 。 自宅に着いたのは、夜の九時頃でし そして、羽田空港から、直行バスで そんしょく 遜 色 な い 味 に、 京王線の南大沢駅まで行き、そこから パリにこ ん な に お い し い ラ ー メ ン 屋 ヴェルサイユ宮殿内。とにかく人が多い! リネカー モン=サ ン = ミ シ ェ ル か ら 帰 っ て SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 を受けまし た 。 コ ー ヒ ー を 頼 ん で、 ト イ レ を 借 り る、 というのが 一 般 的 で す が 、 ト イ レ を 借 り に 入 っ た マ ク ド ナ ル ド で は、 コ ー ヒーを頼ん で 、 ト イ レ を 借 り た の で す が、トイレ が 有 料 な の に は 、 驚 か さ れ ました。 また、さ ら に 驚 か さ れ た の は 、 ト イ レのフタが 無 い 事 で し た 。 これには 大 変 、 驚 か さ れ ま し た 。 仕方ない の で 、 冷 た い 便 座 の 上 に 座 り、用を足 し ま し た 。 第三の点 は 、 食 事 で す 。 フランス は パ ン 食 中 心 の 国 な の で 、 フランス人 は 、 パ ン ば か り 食 べ て い ま ムーラン・ド・ラ・ギャレット。 現役のダンスホールですが、ルノアールや ゴッホなど著名画家がモチーフにしたことで 有名です。 あ 一人でカフェに入ったり、一人でタ ク シ ー に 乗 っ た り、 と フ ラ ン ス で は 様々な体験が出来、大変、自信がつい たと思いました。 帰国して写真を見て改めて思い出し たのですが、パリではいろいろなとこ 編 集 後 記 ▼お待たせいたしました 152号 の発行です どうやら発行部数も 二千を超えそうな勢いです これも 読者の皆様の支持のおかげです 本 当にありがとうございます ろに行きました。モンマルトルのサク レ=クールという大きな教会やテルト ▼152号にして二千部に合わせ このフランス旅行でつけた自信を韓 国旅行に生かしていきたいと思いまし し 会 員 が 自 己 主 張 し 記 事 に し て ほしいと思います (編集部) 行った編 医療観察法(予定)な どです 編集部としては もう少 ▼ 次 号 の 予 定 は 韓 国 研 修 旅 行 (釜山編) 木下大サーカスを見に 子」だからです と な ん で す こ う い っ た 人 た ち が いてこその「ほっとスペース八王 しまいましたが これも必要なこ ▼今号の特集は「偲ぶ会」でした かなりしんみりした内容になって ると フォント(本当)に高いで す 現実を思い知らされます できるフォントですが 買うとす ン ロ ー ド し て み ま し た こ れ は ネット上にフリーでダウンロード た訳ではありませんが これを機 に新しいフォント(写植)をダウ ル広場、ムーラン・ド・ラ・ギャレッ トという風車を見たり、父や弟はサッ カーの試合を見に行ったり、母はエッ フェル塔に登ったりしていました。調 べた所、有名な画家がモチーフにした が、普段、日本にいる時と変わらない た。 ( ル ポ を 書 い た の は、 2 0 1 5 年 場所も写真に残っていました。 ラーメンの味に、感動してしまいまし 1月の韓国旅行前です) しかし、とりあえず外国へ行った事 はとても自分自身にとって、自信がつ 認識いたしました。 に東京はとても美しい街なんだなと再 は落ちていないし、とても日本、とく 麗だし、パリの街のように、犬のフン れい トイレはどこにでもあるし、食事はき 万国の料理が味わえるし、電車は、綺 日本が世界一なんだなと思いました。 以上がフランス旅行で感じたことで すが、やはり、住みやすさ、快適さは、 た。 飽きてきた 私はパン食が、しだいに ので、家族でラーメン屋に入りました した。 エッフェル塔から見たパリ市内。 高層ビルがなくて、なんとなく京都みたい。 いたこととなりました。 セーヌ川。ミラボー橋はけっこう下流に あります。シテ島の近くみたいです。 第二の点 は ト イ レ の 問 題 で す 。 フ ラ ンスには駅 に ト イ レ が な く 、 カ フ ェ で SSKS 1995年 8 月10日第三種郵便物認可(毎週水曜日発行) 2016年4月19日発行(増刊) 通巻6723号 「ほっと」152号 ―「ほっと」152号 20 頁
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