第3号 目次 凛とした貧しさ、ふやけた豊かさ 浜田寿美男 1 水間玲子 3 障害をもつ子どもとふれあう〜わかたけ会の活動を通して〜 揚野 藍 6 スイミングスクールよもやま話 平田有佳 8 子供が地域参加できるといいな 松本尚子 9 布おむつとの出会い−トイレコミュニケーションのススメ− 田村美帆 10 映画評『誰も知らない』 平野裕子 12 2004年度第2回公開研究会報告 学校生活を抱える子どもたちとスクールソーシャルワーク 針多暁子 13 夏休み子ども科学相談 から考えたこと 2004年度 公開講座 『子ども学の新しい地平』 16 子ども学プロジェクト関連の今後の予定(’04.10.19) 18 編集後記つれづれ 19 0 凛とした貧しさ、ふやけた豊かさ 浜田 寿美男 中学3年の途中から不登校になり、あれこれ道に迷い、いまもう28歳にな る我が家の次男が、紆余曲折のすえにようやく仕事に就こうとしている。その 姿を見てあらためて自分自身の子ども時代を思った。 私は瀬戸内海の小豆島で生まれ育った。子どものころ家は貧しかった。醤油 屋を営むお金持ちの家が隣にあって、そこの子どもたちがなにかにつけ羨まし かったことを憶えている。しかしいま振り返ると、かつてのあの貧乏だった生 活が凛として見える。多分にノスタルジーのせいだということはわかっている。 じっさい、いまの私がかつての貧しさに引き戻されれば、おそらく数日でさえ 辛抱できまい。それでもその貧乏が懐かしいのは、単に郷愁だけでないという 思いがある。 あのころ、子どもが働かなくてはやっていけない家がいくらもあった。我が 家もその一つ。子どもにも一年中仕事があった。まず多くの農家が鶏や豚を飼 っていて、その餌をやるのは子どもの仕事だった。もちろんできあい飼料があ るわけではない。畔道から餌になる車前草などを摘み、海岸で貝殻を拾ってき て砕き、糠に混ぜ、水を入れてねった手製の飼料を毎日つくってやる。豚には 残飯や芋を一緒に鍋にいれて、大きなかまどで炊いた。 農繁期にはもちろん家族総出で野良に出る。冬の麦踏みから、春の麦刈り、 そのあとには田植えがあり、芋植えがあり、夏の田の草とりがあり、秋も稲刈 り、それに芋掘り、麦の種まき。野良に出ての仕事ばかりではない。収穫後の 稲の脱穀を、裸電球を一つ吊した納屋のなかで、夜なべ仕事したこともよく憶 えている。足漕ぎの脱穀機だから何日もかかる。脱穀した籾は、日が昇ると莚 に広げて天日に干し、日が陰るとまたしまう。これも子どもにはたいへんな仕 事だった。 農閑期でも仕事のない日はない。冬は姉たちと海に出かけ、岩場で青海苔を 採り、荒縄にかけて干す。冬休みは遠くの山に出かけて、木を伐り出し、芝を 刈って荷車一杯にして帰ってくる。伐り出してきた木を挽いて割り、薪をつく るのがまた子どもの仕事だった。 そのころ子どもたちにとって、家の仕事が主で、学校の勉強はあくまで従だ った。そんな生活が、つい40年ほど前の、わが国の多くの子どもたちの日常 であった。それはもう、いまの若い人たちにはほとんど想像できないことかも しれない。 私もそうした生活を高校までつづけて、18の時、ぽっと京都の大学にやっ てきた。これを境に生活ががらりと変わった。奨学金とアルバイトで、どうに かぎりぎりの生活、同じように貧しくはあったが、今度はすべてが金でまかな われる。「貧乏」という点では同じでも、その意味合いはまったく違う。思えば、 まるで18までの人生とそれ以降これまでの人生と、異なる二つの人生を生き てきたような気すらする。 そうして私たちの世代に子どもができはじめたのが1970年代後半のこと。 1 そのころには、もはやかつてのような貧しさはなくなっていた。多くの家がそ れなりにゆとりをもって生活するだけの給与を得て、昔よりはるかに安楽な生 活が子どもたちをつつんでいた。それはもちろん結構なことだ。しかしそれだ け生活の輪郭はぼやけてきた。人が何を根拠にして生きているのかがはっきり 見えなくなったのである。 このいまの時代、子どもたちはもう働くことはない。親がどこかで稼いでも らってくるお金は、小さな子どもには天から降ってくるように見える。いや大 きくなっても、家に入ってくるお金にその根拠は見えない。そもそも肉体労働 に汗水たらして一日数千円という人もいれば、わずか一時間あまりしゃべって 数十万のお金を手にするタレントもいる。またどんなに働いても年収が三、四 百万という家もあれば、親の遺産だけで億単位の年収を得る人たちもいる。多 少は努力の成果があるにしても、たいていは成り行きと巡り合わせ。そんなふ うに見えてしまう。 それでも高度経済成長を経たわが国では、昔に比べれば、家計に余裕のある 家が増えてはきた。おかげで子どもたちが学校年代を終わって、なお一人二人 がすねをかじっていても、ただちに明日から生活が困ることはない。それに子 どもたちもまた、生活に切迫感はなく、食わせてもらっている親に多少申し訳 ないと思いつつ、だらだら日々を過ごすものが少なくない。それもまた自然な のかもしれない。しかしそう思いつつ、豊かさのなかで何かしらふやけて見え る子どもたちの姿に不安をおぼえてしまう。 かつての貧しい生活には凛としたかたちがあった。生活の厳しさのゆえに、 おのおのが働いてこんなふうに暮らしているのだという生活の輪郭があった。 自立だのなんだの言わずとも、子どもはそれまでの延長で、知らぬ間に自立し ていたといってよいかもしれない。しかしいまはそれが難しい。金銭的に豊か になったぶん、生活の輪郭のふやける。そのなかで子どもたちは、自分から意 識して「生きるかたち」をつくっていかなければならない。おのずからなる自 立ではなく、自立が課題になったのである。 今日の子ども問題の背後に は、こうした時代の状況があ ることはまちがいない。そこ にどこからどのようにメスを 入れればよいのか。子ども学 が向かうべきところ、まこと に遥遠として、私自身その輪 郭がまだ十分につかめないで いる。 (『 不 登 校 新 聞 』 あ ら た め 『fonte』2004年8月の論 説を加筆修正したものであ る) 2 夏休み子ども科学相談 から考えたこと 人間関係行動学講座 助手 水間 玲子 NHK のラジオ番組「子ども科学相談」をご存知であろうか。夏休みだけの 特別番組であり、しかも高校野球が開催されている間は放送されないのだが、 素朴な中にインパクトを醸し出しており、番組の歴史など全く知らない私であ るが、知る人ぞ知る長寿番組なのではないかと勝手に推測している。 番組構成は至ってシンプルである。子ども(幼稚園生から小学生までがほと んどである)がその道の専門家(虫や動物に関する専門家、植物に関する専門 家、宇宙のことに関する専門家、などと紹介される)に対して疑問を投げかけ、 それに対して回答をする、という構成である。番組のねらいとしては、おそら く、子どもの不思議にできるだけ答えてあげたい、子どもの好奇心を伸ばして いきたい、というところであろうが、むしろ、大人の方が楽しく聞いているよ うに思う。実際、「楽しみに聞いています」と紹介されるお便りは、年配の方か らのものが多い。 何が楽しいのか。なぜおもしろいのかといった方がいいかもしれないが、少 なくとも二点あるだろう。一つは、その回答内容の専門性という点での知的水 準の高さである。大人であっても、ほとんどの回答内容は「へぇ〜」と思わせ るものであり、勉強になったという満足感を得ることができる。しかも子ども 向けに可能な範囲でわかりやすく説明されるので、素人にはありがたい。 そしてもう一つ。むしろコアなファンをひきつけているのはこちらだと思う のであるが、 [質問する子ども vs 仲介するアナウンサー&回答する先生]とい うやりとりの妙である。どんなに専門的に優れた見解であっても、子どもとの 対話が ねじれの位置 になってしまうこともある。回答を聞きながら子ども は「はい」と相づちを打っていくのであるが、そのトーンが怪しくなってしま う瞬間、聴取者は勝手に応援してしまう。それまで元気に受け答えしていた子 どもが、回答後のアナウンサーとのやりとりにおいて「夏休みの宿題終わりま したか」と聞かれてしまい、一瞬の沈黙の後に「はい」と頼りなく答え「ちょ っと返事が小さくなってしまったかな」とそのまんまのツッコミをされていた こともある。さらには、子どものそばで「最後に『ありがとうございました』 って言うんだよ」と必死でくり返しているおばあちゃんの声が回答者の声を遮 るレベルでラジオで流れてしまっていたこともある。 つまり、教養と臨場感と人間味にあふれる、なかなか楽しい番組なのである。 ご存知ない方は、是非来年の夏、聞いて頂きたい。 しかし、私は、この番組を聞いていると、子どもというもの、そしてそれに 対する大人というものについて、いつもあれこれ考えさせられてしまう。私は いわゆる 子ども好き ではない。知り合いの子どもはともかくとして、不特 定多数の 子ども というものを「かわいい〜」と思うことは稀であった。し かし、最近かわいいと思うようになってきている。特にこのラジオ番組を聞い ていると、子どもという存在を無性に愛しく思ってしまい、大切にすべき存在 だと感じてしまうのである。そういう自分に驚愕し、あれこれ思考してしまう 3 のである。この番組は、 [子ども vs 大人]という図式における 大人 の側の 認識を浮き彫りにするように思う。なぜ子どもの発言がおもしろいのか、なぜ かわいいのか。大人、即ち、私自身、子どもに対していかなる意識をもってい るのかを考えさせられるのである。 それは、電話がつながった時から始まる。アナウンサーは、まず、「こんに ちは。お名前と学年を教えてください」と、子どもの名前と学年を尋ねる。続 いて、どの地域からかけているのかを知るために、「どこからお電話してます か」と聞く。これはなかなかクセのある問いである。多くの子どもは「愛知県 です」など、居住地をちゃんと回答する。それは、この番組に子どもが一人で 電話をすることは殆どなく、大抵は近くに親や祖父母の誰かが付き添っている からである。だが、時に「お家からです」と答える子どもがいる。そのとき、 私はつい、この子どもの答えに頬をゆるめてしまう。子どもらしく、微笑まし く思ってしまうのである。だが、実はこの設問自体がちょっとおかしい。この 番組の流れに関する了解なしに答えられるものではないではないか。それなの に、このやりとりは、子どものかわいらしい間違いとして記憶されてしまうと ころだったのである。何か、それはとても理不尽なことに思う。本来、大人の 側に不備があるのに、「子どもだから」ということで了解されてしまうことって、 案外多いのではないだろうか。 自己紹介が終わると、本題である質問に入る。たとえば、地球の自転につい て、「なんで、誰も回してないのに、地球は回っているんですか」と切り込む。 「誰も回していないのに」。ここに、彼なりの思考を垣間見る気がする。あるい は、「おばあちゃんのところに言った時、ヘビイチゴを食べたらお腹が痛くなる と言われました。本当ですか。」という質問した子どもがいたのだが、彼女なり には「食べたらヘビが怒って、だからお腹が痛くなるんだと思ってた」という。 このようなやりとりからは、彼ら/彼女らなりの世界をわかりたいという気持 ち、そしてそのための思考過程が透けて見える気がし、その思考実験の場であ る脳みそを勝手に愛おしく思ったりする。と同時に、実は、ひどく共感したり もするのである。そこから、実は私たちもそのような思考実験を共有している ということ、しかし、それをあまり発言できなくなっていることに気づくので ある。 なぜか。私たちがメタ的な思考を身につけてしまっていることが大きいと思 う。メタ的な思考の体得、視点を相対化する能力の体得は不可逆的なものであ り、そしてその中には、その後の行動を阻害するものがあると私は常々考えて いる。その体得以前には何でもなかった言動について、それを相対化してとら える能力を身につけてしまったがゆえに、私たちは自由に行動する力を失う。 その後に得られる解放によって得られる自由は、縛りを知る前に有していた自 由とは明らかに違う地平に存在する。それ故、子どものまっすぐな問いかけや ひたむきな思考過程は、子どもだけがもちうるものとして愛でられるのであろ う。 なんだか、このラジオ番組を聞いていると、私たち大人は、少なくとも、子 4 どもを 子ども としてとらえる大人は、子どもに対する一つの見方、いわば 子どもステレオタイプを有して接しているということを改めて自覚してしまう のである。知らず知らず、子どもとはこういうものである、という意識が私た ち大人には、ある。それがいいとか悪いとかいう話ではないし、正しいとか間 違いであるとかいう話でもない。ただ、その概念化、ステレオタイプの形成は、 何らかの意味で子ども時代を終えたからこそ可能な作業である。だからこそ、 議論できるし、展望ももてる。ただし、そこには必ず多少の距離が存在する。 対象化するとはそういうことである。この距離感を非常に自覚した夏であった。 5 [投稿] 障害を持つ子どもとふれあう〜わかたけ会の活動を通して〜 奈良女子大学 文学部 3回生 揚野 藍 私は現在『わかたけ会』という部の副部長を務めていて、その活動としては、 京都の八幡市に住む軽度の障害を持つ子どもたちと月に1回、イベントを企画 して、ゲームをしたり、スケートやプールに行ったり、一緒に料理をしたりし て、皆で遊ぶ機会をもっている。来てくれる子どものほとんどが自閉症で、普 段は養護学校や小学校の特別教室に通っている。 私はわかたけ会に入って初めて「自閉症」を知った。それまでその名前をわ ずかに耳にすることはあったが、その中身についてはほとんど無知な状態であ った。文字通り、「自分の殻に閉じこもってしまって、他者との関わりを持つこ とができない」という障害であると思いこんでおり、その分初めてのプレイの 時は、不安でいっぱいだった。しかし、実際に子どもたちに触れて、それがい かに浅はかで、間違っていたかを気づかされた。そこには明るい子もいれば、 お母さん思いの優しい子もいて、本当にすべての子どもそれぞれが個性にあふ れていて、そんな中で自閉症とは、障害というよりかは、個性をつくる要素の 一つとして、いわゆる自閉症の傾向というものがあるような感じであった。集 団が苦手であったり、弱音を吐かず頑張りすぎてしまったり、自分の中で何か に強いこだわりをもっていたり…それが、程度によっては時に他者に迷惑をか けてしまうこともあるかもしれないし、自分にとっても不自由な部分があるか もしれないということなのではないかと思う。 でも私も、プレイの初めの頃は、やっぱり健常とは違う、自閉症の子どもた ちへの対応の仕方がわからず、緊張したり、不安な顔をしてしまったりしてい た。「ボランティア」という意識もあったし、せっかく来てもらったのだから、 少しでも楽しんでほしいと思っていたからこそ、色々頑なに考えてしまってい た。でも私がどんなに頑張って、笑いかけたり、話しかけたりしても、全く笑 顔を見せてくれない時もあるし、コミュニケーションがほとんどとれない時も ある。目が合いにくい子だとそれは特に難しかった。私はそれに対して、悲し くなったり、自分が情けなくなったり、「難しい」と辛く感じてしまった時もあ った。今考えると、子どもはそんな私の気持ちを、どこか敏感に察していたの だろうな、と思う。しかし、プレイの回数を重ねていくうちに、子どもとたく さん触れ合ううちに、いつのまにか、そのように感じることもなくなっていっ たのだった。それぞれの子がとてもいとおしく感じられて、子どもたちを見る と嬉しくて、自然と笑顔になってしまう自分がいた。もちろん今でも、「かわい い」だけで済まないことはある。突然1人で走って逃げてしまったり、自分自 身や他の人や、私にも手をあげてしまったり、大変なこともある。それは彼ら にとっては、自分の気持ちをうまく口で表現できない苛立ちであったり、何か を訴えようとする手段であったりするからなのである。それがわかってからは、 受けとめてやることができるようになったし、また、その姿が一生懸命生きて いるようにも思われてしまうのである。それに何より、子どもたちは本当に純 6 粋で、天使のような笑顔を見せてくれるのである。だから、その子の全てをひ っくるめて、本当にかわいい、いとおしいと感じられるのではないだろうか。 また、健常の子どもと比べて、発達に遅れがある分、思いがけなく何かできた り、前はできなかったことができるようになっていたりすると、とても嬉しく て、感動さえ覚えてしまう。本当に少しずつではあるかもしれないが、会う度 に成長し、変わっていっていると感じられるのである。親の方がそれを話して くれる、その表情を見ると、その一歩がどれほど大きいものだったをか感じず にはいられない。 私たちは、ボランティアとしてではなく、もう十分なほど、喜びや楽しさと いう見返りをもらっているからこそ、子どもたちのことを思って頑張れるので はないかと思う。毎回のプレイを企画する時には、子どもそれぞれの能力や性 格を踏まえながら、いかに みんな で楽しむことができるかを考えなければ ならない。計画が曖昧だと流れがうまくいかず、子どもは不安に感じたり飽き たり、注意が他に向いたりするので、できる限り綿密に想定する必要があり、 計画段階で、その大変さに疲れてしまったことも何度もある。それでも、子ど もたちがプレイの中で笑っていてくれたり、「楽しかった」といってくれると、 やってきたことが何倍もの喜びになって返ってくるし、次はもっと楽しませて あげたい、と感じるのである。子どもたちと一緒にいると、私も楽しいし、自 然と笑顔になって、とても優しい気持ちになれる。そうさせてくれる力を彼ら はもっているのではないだろうか。だからこれからも、私はできる限り多く子 どもたちの笑顔を見ていきたいし、わかたけ会の活動を続けていきたいと思っ ている。 わかたけ会は今部員大募集中です。回生は問いませんので、少しでも興味が ある人は、是非参加してみてください。 7 [投稿] スイミングスクールよもやま話 奈良女子大学 文学部 3回生 平田 有佳 私はあるスイミングスクールでコーチのアルバイトをしています。担当する 子どもはだいたい2〜12歳くらい。今回はこのアルバイトでのいろんな出来 事を思いついたままに書かせていただきます。 他のスクールでも大体システムは同じでしょうが、子どもたちはスクールに つくとまず水着に着替え、5分ほど体操をします。その後プールで泳いだり遊 んだり。子どもが着替えを済ませると、付き添いの保護者は観覧席へ。子ども たちは兄弟や友達、または一人で、体操室と呼ばれる部屋で体操が始まるのを 待つわけです。ここからが大変。プールが嫌いな子ども、親と離れて不安な子 どもは泣き叫び、体操室から脱出を図ります。当然、すぐさまコーチに抱きか かえられ、無理やりプールへと連行されます。以下のエピソードは、プールで の出来事です。 エピソード1 4歳のおしゃべり好きな男の子は、練習そっちのけで「あのな、あのな・・・」とし ゃべってばかり。自分が泳ぐ番になってもおかまいなしです。内心、わかったから早く 泳いでほしいと思いながら相槌を打っていると、他の子ども(6歳)が子ども特有の拙 い話し方で一言、「おい、そんなことどうでもいいから早くいけよ(泳げよ)」。 エピソード2 初めてプールに来た子(3歳くらい)が、やはり不安でお母さんを呼びながらなきま す。プールに入ってもじっと立ったまま泣いているので、ビニール製のカエルを置き、 「カエルさんにシャワーしてあげて」とじょうろを手渡すと、ふっと泣き止んでじょう ろに水を満たしてカエルにかけています。やった!と思ったのもつかの間、10 秒くらい して「ぅおくぁあすぁあん(お母さん)」と再び泣き出しました。でも手は動いたまま。 泣きながらカエルに水をかける姿に思わず笑ってしまいました。その後も、泣いたり泣 き止んだりを繰り返しながらじょうろで水をかけ続けていました。 エピソード3 いろんな種類の練習があるのですが、その中で、コーチに頭と背中を支えてもらいな がら水上で仰向けに浮くというものがあります。通称ラッコさん。体操の時から散々泣 いていた女の子(3歳)がこのラッコさんをすると泣き止み、終わると再び火のついた ように泣き出しました。担当していたコーチによると、仰向けで気持ちがよかったのか、 どうやら寝てしまっていたとか。 他にも色々な出来事があるのですが、これくらいで・・・。このアルバイトを 始めて2年近くになりますが、その短い間でも子どもの成長ぶりに驚きます。 ついこの間までなかなかお話ができなかった子どもが自分のことを俺と呼び出 したり、隣の子が自分にかけた水がかかったといって泣いていた子どもが泳げ るようになっていたり。子どもが言うことを聞かなかったり、生意気なことを 言ってきたりして憎らしいときもありますが、こういうとき、やっぱりこのア ルバイトをしていてよかったなと思います。 8 [投稿] 子どもが地域参加できるといいな 奈良女子大学大学院 人間文化研究科 松本 尚子 どこかしら秋らしさを感じるこの頃、学校ではたくさんの行事が行われます。 運動会や文化祭、秋の遠足と、学校から出て学ぶ機会が多くなります。行事は、 部屋に閉じこもって授業を受けるより、ずっと楽しく得るものも多かったこと を思い出します。体当たりで得たものは使える道具になるのだろうと思います。 もちろんいわゆる教科の勉強も大切です。それも、学歴社会で生きていくた めの武器になっていることは確かだからです。しかも、大人になって専門的な ことを調べる時に基礎の力はどうしても必要なはずです。 しかし、知識を生きる力として用いることができる形で持っていないと、た だ単に詰め込んだところで何の役に立つのでしょうか。このごろ、つめこみの いわゆる勉強に研究的な要素を補完して、より生活世界に近いところで学びを 行おうとするように総合的な学習の時間が導入されています。それは、生活に 密着した形で知識が得られ、知識の調べ方、使い方、生活の知恵まで一緒に学 べるのだから、こどもにとっては歓迎すべきことなのではないでしょうか。 ただ、これでもやはり子どもの生活は学校制度の中だけに限られていること に変わりありません。こどもの育つ環境を考える時、どうしてもまちづくりを 考えることなしでは考えられません。ここに、田村明著の『まちづくりの発想』 という岩波新書があります。そのなかで、いかに愛すべきまちをつくっていく かが語られているわけですが、まちをつくる時に欠かせないもののうちのひと つに「ひとづくり」があげられています。子どものうちからそのまちの良さを 知っていて、愛を感じるようになるようなのが一番だそうです。また、そのた めには地域を結びつけるための器や仕組みがいります。器としてよくあげられ るのは公民館です。誰もが喫茶店でのように、ふらっと入ってふらっと出て行 くような公民館があれば、そこで何か意図されていない交流も起こったなら、 地域力が少しでも高まったなら、子どもの学びは、学校と家庭という器だけで あった時よりも、より豊かになり、社会活動を子どもも行えるのではないか、 そこから人間や社会に対する卑近ながら強い興味が生まれるのではないかと思 います。 子どもは学校に行くもので、老人は老人ホームへ、精神障害者は施設へとい う考え方の裏には、健常で働くことのできる成人しか社会は必要としていない から、他のものを隠してしまえ、ふたをしてしまえという考え方があるように 思えて仕方ないのです、というようなことを、五味太郎さんがどこかで書いて いらっしゃいました。今の地域力ではそれほど多様なものを抱え込めないこと も事実です。しかし、人間の種類で生きる場所を変えるようなことは良くあり ません。家庭と社会(学校)との間にもうひとつシステムが挟みこまれても良 いと思うのです。その中で、子どもたちが、大人やご老人とも関わり、インフ ォーマルに学ぶことは、学校で行うあくまでフォーマルな学びとは違う学びを もたらし、それが、文化の継承の幅を広げ、人間らしく生きていく力、人と関 9 わる力をもたらすように私には思えるのです。 [投稿] 布おむつとの出会い ートイレコミュニケーションのススメー 奈良女子大学大学院 人間文科研究科 田村 美帆 今は昔と違ってファッショナブルで機能的な布おむつが存在する。現在1歳 9ヶ月の娘が、1歳になろうかという時にそんな布おむつの存在を知り、はま ってしまった。そして布おむつ育児を始めたことで排泄行為と親子のコミュニ ケーションについて色々と考えるようになった。排泄物を包んですててしまう だけの紙(ケミカル)おむつを使っていたら、もしかしたらこんなことは考え なかったかも知れない。布おむつを使う理由はずばり、子どもにとっての快適 さである。そして、布だから、おしっこの度に取り替えてあげようと自然に思 う。そこから色々なコミュニケーションやら、思いがうまれる。今回はそんな 布おむつ育児の日々でふと疑問に思った「トイレトレーニング」というものに ついて考えてみたい。 いわゆる「トイレトレーニング」と言われるおむつ外しの過程は、とかく親 子にとって、ストレスフルで頭の痛いイベントとなりがちである。周りのママ たちとその種の話をすると、「もうやってるの?!どうやってるの?」 と一瞬緊 張が走ったりもする。皆が通る道だが、これといって明確なやり方が存在する 訳ではないのが原因の1つかも知れない。 まず、おむつ外しを実際にはじめるにあたっての最初のステップについてだ が、小児科医の帆足英一氏は以下のように、簡単な基準を提案されている。分 かりやすいので参考にしている。 1、 簡単な言葉(いくつかの単語)を話すこと 2、 一人で歩けるようになっていること 3、 2時間くらいおしっこの間隔があくことが1日1回でもあること つまり、開始時期が早ければ、早くおむつが外れる訳では決してなく、逆に統 計的に早く始め過ぎると長丁場になることが多いという。 次にいわゆる「トイレトレーニング」と言う言葉について考えてみたい。ど うして「トレーニング(訓練)」なのだろう。子どもが自分で服が着られるよう にサポートするプロセスを「衣服トレーニング」というだろうか。その他につ いても「言語トレーニング」、「歩行トレーニング」、「食事トレーニング」と言 うだろうか。なぜ、おむつ外しだけ特別なのだろう。そう疑問に思い、食べる こと、着ること、歩くこと、話すことと同じように、おしっこ、うんちをトイ レでできることを考えたいと思うようになった。食べることも、着ることも、 話すことも歩くことも、子どもとコミュニケーションしながら一歩一歩手取り 足取りやっていく、その過程が大切なのではないか。 トレーニング、という言葉を使うとどうしても構えてしまうし、「乗り遅れま い」とか「早いことがいいこと」になりがちである。何か別の言葉があっても いいのではないかと思う。そこで「トイレコミュニケーション」である。これ は訓練ではなく、子どもと一緒になっておしっこうんちを体験できる素晴らし 10 く面白い機会である。 以前娘におむつをはかせ忘れていると、次のおしっこが出た。彼女は「うわ あ!」と何度も声をあげ、ひどく驚いていた。おしっこというものが自分のこ こから出る、ということが驚きなのだ。その光景が筆者にとっても新鮮な驚き であった。 自分のここから出るおしっこ、うんち を、子どもたちがポジティブなも のとして捕らえられるかどうか、排泄行為がポジティブで自然な経験になるか どうか(排泄行為がいいことでも悪いことでもなく、自然な行為として身につ くかどうか)は、周りの大人の働きかけが大きく作用するだろう。そしてそれ は、その子のその後の精神発達にも大きく影響するだろう。 それにはいわゆる「トイレトレーニング」を始めようとする前に、まず大人 である私達が排泄行為をどう捕らえているのか考える必要があるだろう。そう すると、どうして急ぎたくなるのか、面倒だと思うのか、わかるかも知れない。 特に、排泄物に触れることもなく丸めて捨ててしまう紙おむつの使用が圧倒的 である今日、うんちやおしっこは、汚いだけの厄介物となりがちである。しか し、子どもが小さいうちの、ウンチやおしっこを通してのコミュニケーション は健康面のチェックということに留まらない大切な親と子をつなぐ絆を提供す る。それは、親子ともにより自然に排泄行為を捕らえるきっかけともなるし、 親が子に、子が親に語りかける機会を多く提供する。 おむつ外しへの道は、何もある時期に突然はじまるものではなく、子どもが うまれ、排泄のケアをする時から始まっている。日々の語り掛け、体験のなか で、子どもは、 汚いけど何か大切なもの であるおしっこ、うんちについて学 んでいく。 トイレに関することもその他のことも、「大変」と言われ、思われていること を実は限られた期間にしか出会えない子どもの貴重な成長を見れるチャンスだ と思えれば、様々なことが愛おしく、気付かされることも多くなると実感して いる。もちろんいらいらしたり、おこったり、ほめたり喜んだり色々あるが。 そんなことを考えつつ、 「トイレコミュニケーション」や、楽しい布おむつライ フをおむつ育児するママたちに伝えるべく布おむつの会を運営している。 11 [投稿] 映画『誰も知らない』( 監督・脚本・編集:是枝裕和/日本/2004 ) 奈良女子大学大学院人間文化研究科 平野 裕子 東京のアパートに住む4人の兄妹と母親。子どもたちには戸籍がなく、学校 に通ったことがありません。アパートの大家さんにも下3人のきょうだいの存 在は秘密でした。その為この家族には近所の人に子どもがたくさんいることが ばれないようにと「大きな声で騒がない」などというちょっとかわったルール があります。そんな少し変わった環境でも4人の子どもたちは、一番上のお兄 ちゃんが下のきょうだいの世話をし、お母さんが仕事から帰ってくるのをみん なで今か今かと待ちながら、楽しく支え合って生きていました。ところがある 日、母親はお金とメモを兄に残して家を出て行ってしまいます。その日から子 どもたち4人だけの生活が始まりました。初めの頃は、お母さんがいない不安 を抱えながらも穏やかに過ぎていくのですが、少しずつお金もなくなり、妹た ちはお母さんが恋しくなってきます。いつも下のきょうだいを思いやっている お兄ちゃんも、いくらしっかりしているとはいえまだ子ども。友達と遊びたかっ たり、息抜きがしたかったり。しだいにお母さんからの送金も途絶えがちにな り、電気や水道が止められて。と、生活が少しずつ崩れはじめます。そうは言 っても子どもたちの生活は、暗く悲惨なばかりではありません。空き地でとっ てきた草花をベランダで育てたり、公園の水道で水遊びしたり、小さな楽しみ を見つけながら毎日を過ごしていました。しかし、そんな生活に悲劇が起こり ます。突然の出来事に、一番下の妹の様子を見ながら何もできない他のきょう だい。そして兄は変わり果てた妹を約束の場所に連れて行きました。 この映画を見て、家族というもののもろさの一方で、家族のもついたわりあ いや再生する力を強く感じました。お母さんからの連絡がなくなり、もう帰っ てこないのではないかと思いながらも「お母さんから」といってお年玉を妹た ちに渡す兄。大好きなお母さんの残していった服を大切にしながらも、お兄ち ゃんがくれたお年玉はお母さんからのものではないと気づき、貯めていたお年 玉を生活費に差し出す上の妹。いつも無邪気に花の水やりをする弟。お母さん は絶対帰ってくると信じて待ち続ける一番下の妹。子どもたちの支え合う姿が 胸にせまります。登場人物のほとんどが子どもで、子どもが中心の映画である にもかかわらず、見終わったとき、おとなについて考えてしまう映画でした。 子どもの生きる強さは輝かしくすばらしいものです。しかしだからこそ、その 強さや輝きをおとなも同じくらいの真剣さで受けとめ一緒に生きなければなら ないと思いました。人が生きること、生活すること、家族とは何なのか。たく さんのことを問いかけてくる映画だと思います。 12 2004 年度第二回公開研究会報告 学校生活に問題を抱える子どもたちとスクールソーシャルワーク 奈良女子大学 文学部 3 回生 針多暁子 2004 年 7 月 28 日に行なわれた公開研究会では、「学校生活に問題を抱える 子どもたちスクールソーシャルワーク」というテーマについて、岸和田児童虐 待問題から考えることを通じて、金澤ますみさん(TPC サポートセンター・桃 山学院大学講師)に発表していただきました。心理学とは違った新たな視点を 学校問題に対応するにあたって導入するソーシャルワークの考え方は、これか ら重要になってくることを報告や質疑応答の中で切に感じました。ソーシャル ワーカーの存在を突破口に、教育、心理、司法等といった多様な視点がつなが っていくことを期待したいと思います。 以下、金澤さんの発表内容を私なりにまとめ、報告します。 学校生活に問題を抱える子どもたちとスクールソーシャルワーク (金澤ますみさんの報告から) 1.学校生活と「問題行動」 学校の中にある問題には「不登校」「不良行為(非行)」「いじめ」などが挙げら れますが、その背景として虐待があったときに、どう対応するか、児童相談所 にどの時点で通告するかなどの問題があって取り組みが遅れるということがあ ります。ソーシャルワークは学校の中で見せている行動そのものが問題という より、その背景にある子どもの生活に視点を移すという姿勢を持っています。 子どもは個体なだけではなく環境の中で育つ存在であることを考えれば、この ような視点は不可欠だろうと思います。 2.岸和田児童虐待事件 (1)概要と事件対応の問題点 岸和田市で、中 3 の男の子が保護者の虐待で衰弱した状態で病院に搬送され、 警察から岸和田子ども家庭センターに虐待通告がありました。被害児童は意識 不明の状態で、その後父親とその内縁の妻が殺人未遂容疑で逮捕、起訴されま した。家族は父親とその後妻、実の弟などです。 中 2 の 10 月から不登校になります。 担任の先生は家庭訪問していましたが、 家庭側が拒否の姿勢を示したため、本人に直接会えていません。11 月に、父親 が弟の非行のことで児童相談所に相談をかけたことをきっかけに被害児童が不 登校状態であることがここで一度連絡されています。中 3 で、SC による不登 校児童の調査・面接要請や児生活指導委員の家庭状況の確認がありましたが、 このときは家庭支援課が対応、虐待対応課にまわす手続きはなされませんでし た。中 3 の 1 学期はまだ家庭訪問が継続されていたものの、本人はおろか家族 すら顔を出さないようになりました。そして 11 月、父親が救急車を呼んでそ の子が搬送され、警察に連絡されます。 13 このような流れから挙げられる問題点は、第一に家庭支援課や虐待対応課の 連携ができていなかったことです。 また、途中で彼の担当のワーカーが変わり、 うまく機能していなかったのでは、ということも挙げられます。もう一つは事 件の報道の際、同級生や地域住民の「自分たちは知っていた」というコメント があるにもかかわらず、それを児相に通告するまでの徹底ができてなかったこ とも問題点です。 また、14〜15 歳という年齢なら虐待されても逃げたり助けを求めたりできる だろうという認識がありました。その認識を今後は考え直さなければなりませ ん。 岸和田のケースは今回に限った話でしょうか。他の学校でも「次はうちなん じゃないか」という不安を抱えています。虐待という背景から考えれば多いケ ースなのだと認識しないと、どんな問題も本当の解決には至りません。 (2)児童虐待への介入のチャンスとそのための視点 児童虐待などでは、早期発見・早期対応が大切だと言われますが、それは 一まとめではなく 2 ステップです。早期発見においては、地域の人や学校の先 生に発見時には相談をしてくれるよう啓発することはできますが、だからとい って彼らが児相や専門機関に通告するかというと、実質的にどのレベルで相談 をかけていいかわからない。「児相に言うこと=子どもを見捨てること」という ような感覚を持つこともある。それは、児相サイドが相談してくれた後にどう いう手立てがあるのかをこれまで説明してこなかったという問題もあります。 早期対応においては誰がどういう対応をするのかをきっちり確認しておかなけ ればなりません。 いずれにしても、様々な分野からのアドバイスなり情報収集なりが必要です。 学校の先生や、地域、医者にかかっているなら医者の見解も聞き、といった情 報を集約して、それぞれ役割分担していく必要があります。 3.TPC 教育サポートセンターの取り組みと学校問題 メインは学校の先生の支援です。つまり、弁護士や法律家からの視点、ソー シャルワーカーからの視点、心理士からの視点を先生に伝えていくことで、先 生の負担を軽くし、必要であればそのケースを児相につなぎ、子どもたちとの 関わりの中でできることについてケース会議するなど活動しています。実際に 行なっているのは学校の先生の研修会で、学校のケースが出てくることが多く、 その流れを話してもらって、視点の確認や役割分担について話し合います。し かし、ソーシャルワークの視点はまだちゃんと広がっていないので、それをど う伝えていくかが今後の課題です。 4. 「児童虐待」と発達 何か問題がないと絡まないというのはソーシャルワークの限界です。児童虐 待の発見となると、ワーカーは発見後の相談の啓発は仕事としてできるものの、 発見そのものをする役割ではありません。学校の先生をはじめ、障害をもって いる場合その障害を診断する人などが発見に関わってくると思います。また、 虐待を受けた子の心理治療をどうするかも論点です。虐待環境に置かれている 14 子どもたちは知的発達を阻害されることもあります。ソーシャルワークの限界 を他に委ねるときに、どうチームとして取り組んでいけるのかというのが今の 課題です。 質疑応答・議論 心理学とソーシャルワークの視点の違いに関して、「例えば臨床心理士が子 どもの不登校を扱った場合、一般的に言われるのは 1 対 1 面接の中でのやりと りです。それに対してソーシャルワークは、不登校を治すなどではなく、不登 校の背景に問題があるのかをまず見ます。不登校そのものを問題にするのでは なく、その背景にこの子自身が抱えている問題として何があるのかをまず調査 し、なぜ問題があったのかを考えて、必要な機関につなぐ。要は、その子自身 を変えるというよりは、その環境を変えるということです。 」とのコメントをい ただきました。 また、早期発見が徹底されたときの児童相談所の対応や市町村との連携の必 要性の話もあり、現在の児童相談所の状況が、予算的にもケース内容的にも荷 が重いことがわかりました。特に議論になったのは、「早期発見」について、発 見から通告、相談に至るまでもプロセスの難しさが話し合われました。これは 今回取り上げられた岸和田のケースでも考えるべき問題点です。保育士や保護 者が「言えない」「隠したい」ケースはどうか、そのほとんどが「虐待予備軍」 で、地域としてもどこからが虐待で、どう虐待の判断をすればいいかわからな い、という意見が出されました。それに対して、こちら側が虐待の判断をしな ければならないわけでなく、「ちょっと困ったな」「おかしいな」と思うことが あれば相談してくれればよいとのことでした。 ただ私たちが通告しにくいのは、 通告後の手続きがどうなるかが見えず不安があるためで、それが一般にもわか るようにする必要がある。そういった意味で、社会資源を提供しコーディネー トする、そして多様な機関どうしをつなぐ、そのような機能を持つソーシャル ワーカーは、これから重要な役割を果たすということを認識しました。 TPC のようなスクールソーシャルワーカーという考え方があるものの、それ がいざ学校現場に入るとなると、それがうまく機能することの難しさも話され ました。それは今の SC についても同様で、まず教員以外のそのような職種の人 が学校現場内でちゃんと役割を果たせるシステム作りをしていかないといけな いということでした。でも、現場の先生としてはおそらく子どもたちに対する 視点を広げ、分かち合い、共有することは大変助かることだと思います。徐々 にではあるでしょうが、様々な機関が学校と連携して子どもたちを見守ってい く視点、システムがもっと広がってほしいと思います。 このような話し合いの中で、ソーシャルワークの視点というものがいかに重 要であるかを、改めて認識しました。その視点がもっと広がるようになり、様々 な職種が連携を取り合えるきっかけになればと感じました。子どもが「環境」 の中で育っていくことを考えれば、その環境を調査し、社会資源を使ってコー ディネートするソーシャルワークの視点は、必要不可欠なものと思います。 15 2004 年度 公開講座 奈良女子大学大学院人間文化研究科 奈良女子大学文学部 子ども学の新しい地平 奈良女子大学では2003年度より、文学部と人間文化研究科を主体として 「子ども学」プロジェクトを立ち上げ、地域との連携をはかりながら、研究・ 教育・地域支援の活動を進めてきました。少子高齢化の進むこの現代では、一 見、子どもがこれまでにないほど「大事」にされているように見えながら、そ のじつ、子どもにまつわるさまざまな出来事が、かつてないほど頻繁に「問題」 としてマスコミに登場し、世間を騒がせています。時代はまさに曲がり角。こ こでいま、私たちはあらためて「子ども」をめぐる状況について考えなければ ならないところに来ているようです。 今回の公開講座では「子ども学の新しい地平」と題して4コマ単位の講座を 10月、11月と2回にわたって企画しています。 「子ども学の新しい地平1」では、親子の関係を主題に4つの講義を組んで います。かつて子どもは天から「授かる」ものでしたが、いま子どもは「作る」 もの。いやそれどころか男女を産み分け、障害をあらかじめチェックして、子 どもの質さえも「選べる」時代になっています。しかしそのような出生観の変 化が私たちに何をもたらしたのでしょうか(第1講義)。また、そうしてこの世 に生まれ出た子どもたちは、自分の人生をどのように選んでいくのでしょうか。 おとなたちが子どもに与える人生のモデルとして「伝記」があります。この子 ども向けの伝記を、子どもたちはどのように読んでいるのでしょうか。また子 どもたちの生活にとってどのような意味をもつのでしょうか(第2講義)。さら に、おとなは子どもを「作った」つもりでいても、実際には与えられた現実の 生活のなかで、たがいに「選べなさ」を引き受けながら、親子関係をやりくり するもの。だからこそそこに破綻が生じることもまま起こります。虐待という 不幸な関係のなかから、現代の親子事情を見つめることが、いま強く求められ ています(第3、第4講義)。 「子ども学の新しい地平2」では、子どもたちの生きている世界をあらたな 目で見つめなおすことが主題です。おとなは誰もが子ども時代を通り過ぎてき たにもかかわらず、自分たちがその「子ども」をどう生きていたかを忘れてい ます。子どもが生きる空間世界、時間世界をあらためて子ども自身の視点から 見てみることは、私たちおとなに「子どもの再発見」を促すことになるはずで す(第1講義)。学ぶという行為についてもまた子どもの目から見たとき、おと なたちの既成の「勉強」観がいかにおとな中心的なものかに気づきます。学び をおとなと子どもの対話、そして子どもどうしの対話に埋め込まれたものとし て見ることで、「学び」への新しい展望が開かれます(第2講義)。このように おとなの生きる現実と子どもの生きる現実とのあいだには、おもいがけないす 16 れ違いがあるもの。そのことを赤ちゃんの抱っこというありふれた現象から考 え、またそこから子どもたちの生きる世界をあらためて見つめ、さらに私たち おとなの生きている現実世界のありようを再考する。そこに「子ども学」の原 点が見えてくるはずです(第3、第4講義)。 子ども学はまだはじまったばかりのプロジェクトです。子どもたちとともに 家庭で、地域で、また学校で生きている多くの方々と議論を交わせる場として、 このプロジェクトが広がっていくことを切に願っています。 会 場 奈良女子大学記念館講堂(国指定重要文化財) なお11月6日の 講義は S 棟218 開講日時 平成16年10月2日、9日 および11月6日、13日(いずれ も土曜日) 各日午後1時00分〜午後4時10分 受講対象 市民一般および教育公務員 受講定員 約200名(当日受付可能) 受講料 無料 講義内容・日程 10月 2日 9日 11月 「子どもを『選ぶ』ということ」 柳澤有吾(教育文化情報学講座) 「子ども向け伝記『ベーブルース』を読む」 功刀俊雄(教育文化情報学講座) 「虐待する親、される子」 古田直樹(京都市児童福祉センター) 「現代の親子事情」 浜田寿美男(人間関係行動学講座) 6日 「子どもの空間と時間」 天ヶ瀬正博(人間関係行動学講座) 「対話がひらく子どもの学び」 本山方子 (人間関係行動学講座) 11月13日 「よい抱っこ わるい抱っこ ほどよい抱っこ」 川上範夫 (人間関係行動学講座) 「子どもの現実 おとなの現実」 浜田寿美男(人間関係行動学講座) * 10月2日・9日は人間文化研究科主催、11月6日13日は文 学部主催となっています。 * なお11月6日のみ会場が S218になります。 17 子ども学プロジェクト関連の今後の予定 奈良女子大学地域貢献特別支援事業 「子ども学プロジェクト」シンポジウム 育てる者と育てられる者 〜親と子の関係の育ちを考える〜 日時:2004 年 12 月 11 日(土)午後 1 時〜5 時 場所:奈良女子大学記念館 2 階講堂 講師:鯨岡峻(京都大学大学院人間・環境学研究科) 指定討論:田中文子(子ども情報研究センター) 松林恵美子(CAP 西大和代表) 浜田寿美男(奈良女子大学文学部教授) 主催:奈良女子大学地域貢献特別支援事業 〈子ども学プロジェクト〉実行委員会 後援:奈良県、奈良市 12月 22日 1月 下旬 2月 23日 子ども学公開研究会③ 「未定」 『子ども学通信』第4号(予定) 子ども学公開研究会④ 「未定」 18 編集後記つれづれ 今回で、第3号目をむかえました「子ども学通信」ですが、投稿してくださ った皆様のおかげで「今の子どもの在りよう」に少しだけ触れることができた んじゃないかと感謝しています。 でも、子どもって不思議ですよね。 「キレる」「むかつく」と荒れる子どもたち や、自分さえよかったら他人のことなど関係ない体の子どもたちを評して、私 たち大人は「今の子どもは理解できない」の一言で片づけようとしているかも しれません。私自身、15歳と11歳の子どもを抱え「あ〜難しい。理解不可 能」なんて、ため息をつく毎日なんですが、子どもたちも「おかあさん、理解 不可能」と思っているようで。そんなとき、私は「さみしいなぁ」って思うん ですが、どうも子どもたちも同じように思ってるみたいで。悲しいですね。こ ういうとき、いつも思うんです。大好き同士が、なんで、結局「さみしい」な んて結末を向かえなくちゃいけないんだろうって。なんかおかしいぞって思う んです。そんな、絵に描いたような家族があるもんかって思われるでしょうが、 そんな絵に描いた家族になりたいなんて思うから、親も子どももしんどいので しょうね。学校の先生と生徒もそんな関係目指してがんばるから、結局「あ〜 あ」なんてことになってしまうのかもしれませんね。 「理解不可能」なんて5文字で、お互いに厚い壁を作ってしまっているので しょうか。分かり合おうなんて努力は必要ないのかもしれません。出来上がっ てしまった厚い壁の隙間から、お互いの有り様を少しのぞいてみる。私たちだ って、いきなり、なんだか物分かりの良い大人になったわけじゃないのですか ら。私など、小さい頃には、私の子どもたち以上の分厚い壁を築いていたかも しれません。でも、今から思うと、その壁の向こう側にいる大人にむかって「ち ょっと、こっちをのぞいてみて」なんて叫んでいたのかもしれませんね。そん なとき「こちものぞいてみる?」って声をかけてくれた大人がいて、すごく嬉 しかったような気もします。お互い「何してるのかな」って声を掛け合う、そ れだけで良いのかもしれませんね。 そもそも、おとなとこどもの明確な区分なんてないと思うんですね。人が生 きるっていうことは、過去から未来へ、未来から過去へ行ったり来たりしなが ら連続性をもつものなのでしょう。私たち大人は、かつて子どもであったし、 子どもたちはいつか大人になるんですよね。だから、それぞれが生きている在 りようを黙って「見ている」だけで良いんでしょうね。私たち、大人にとって 一番難しくて、一番大事なこと、その中から生まれてくるものが、この「子ど も学通信」にあふれているんじゃないかなと思います。 これからも「子どもがいる人、いない人」、「子どもが好きな人、苦手な人」、そ んないろいろな人が「子どもの在りようや生き様」に出会える通信でありたい と思っています。 ( 奈良に向かう電車の中にて 19 M1 山本智子) ✌通信への原稿募集!皆さんの投稿を期待します。 「子ども」にまつわることであれば内容はお任せします。例えば自分 の研究紹介やフィールド紹介.子どもに関する映画や本の評論.何気 ない子どものエピソードについてのエッセイ。この場を借りてひとこ と言いたい。などなど…(これまでの通信を参考にしてみてください) 。 第4号〆切:2005年1月10日月曜日(浜田研究室E155まで) 打ち出しの原稿とFDを提出してください。 書式:用紙サイズ B5 <1〜2枚程度> 余白(上20mm,下18.6mm,左25mm,右25mm) 文字数 35 行数 40 文字サイズ (基本は)10.5 フォントはお任せします *ページ番号はつけないでください 質問などありましたら,編集委員まで・・・ 編集委員 浜田寿美男(E155 内線3337) M2 中根絵美・平野裕子(E160 内線2245) M1 山本智子(N237 内線2244) 20 ☆子ども学通信−第 3 号− 2004 年 10 月 19 日 ☆発行・編集 奈良女子大学文学部 「子ども学」プロジェクト 〒630−8506 奈良市北魚屋西町 奈良女子大学文学部 TEL/FAX 0742−20−3337 21
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