まえがき この論文集は、山形大学大学院理工学研究科ものづくり技術経営学専攻グローバル戦略 コースの第三期修了生(2013 年 3 月修了)の研究成果をまとめたものです。 グローバル戦略コースは、平成 20 年度~24 年度文部科学省科学技術戦略推進費地域再生 人材育成拠点の形成に採択され山形大学の『世界俯瞰の匠育成プログラム』と名付けた地 域産業人材育成のための構想に基づき時限で設けられたものです。 この『世界俯瞰の匠育成プログラム』が構想されていったのは 6 年前の平成 19 年に遡り ます。この頃の地域経済は、平成 13 年の IT バブル崩壊のショックから完全に立ち直り、 日本の製造業は右肩上がりの成長を続けていました。「綿密な擦り合わせ」「多品種少量生 産」 「ppm(100 万個に数個以下)レベルの不良率」 「垂直立ち上げ生産」といった得意とす る生産技術の高さが、熾烈な国際競争に勝ち続けるビジネスモデルと信じられていました。 生産技術の高さが日本企業の強みであることは、当時だけでなく現時点も同じです。し かし、地域企業のものづくりの現場をみてきた私たちにとって、ある種の疑問を拭えずに いました。つい先月まで工場内にあった製造ラインの一部が中国等に移りなくなるという 光景があちこちで見られました。そのなかで、年々厳しくなる品質と価格要求、短くなる 納期に地域企業経営者が日々追われている状況だったのです。 ものづくりの工程がものすごいスピードでグローバルにどんどん変化しています。工程 だけではなく、市場もグローバルに大きく変化しています。グローバルな水平分業が進む ことで国内の製造の現場では工程の範囲がどんどん狭くなっていて、その範囲だけで将来 を展望するのは、視野を極端に狭くした目隠しをしながら全力疾走を続けるようなものだ と思いました。そこで、広く視野を開き、世界中で展開されている開発、設計から加工、 組立、市場開拓までのバリューチェーン全体を俯瞰できるようにする。そのうえで、自ら のポジション(差別化)と今後の戦略を構築する必要性を地域企業に訴えたのです。 当時の問題意識の背景には、もうひとつの危機感がありました。技術経営学(MOT)は 経営の付加価値創成に関する学問ですが、地域製造業の付加価値に関するデータを調べて いくと、製品当たりの付加価値と従業者 1 人当たりの付加価値が共に低い水準にあったか らです。当時は、企業経営者や他大学の研究者とその話をしても、「1 人当たりの生産性を あげていければ心配ない」 、「重要なのは付加価値生産性だ」という意見が大半でした。つ まり、前述の生産管理技術を高めていくことが問題の解決策だという考え方です。コスト 競争が厳しいので、ある意味では当然のことだったかもしれません。しかし、その考えは 一定規模以上の大量生産が前提となっています。確かに、大手メーカーと多くの下請け協 力企業で構成される「ものづくりのピラミッド」全体でみれば、マス・マーケットを確保 できるので、生産性を極限まで高めることで国際競争に勝っていけるといえるでしょう。 しかし、その一部を担っている地域の中小製造業に視点を移すとどうでしょうか。グロー バルに広がったピラミッドのどこに製造がシフトしていくか分かりません。つまり、自ら が担当する製造の規模が将来的にはどうなるか分からないままに、付加価値生産性を高め ることだけに専心していてはリスクが高まるばかりです。 このことが、あることに気づかせてくれました。ひとつは、今こそマスプロダクトを前 提とした付加価値生産性の議論に加えて、製品一つ当たりの付加価値を高めていく視点を 持つべきであるということです。 (さらに言えば、下図のように少なくとも 3 つの戦略方向 がある。 ) 付加価値率と付加価値生産性の全国対比 2.5 Needs 情報通信機械(米沢) (規模大) 付加価値生産性 2 労 ( 働 1 人生 当産 た性 り ・付 の加 付価 加値 価生 値産 ) 性 1.5 情報通信機械(県) 衣服・繊維製品(米沢) 1 電子デバイス(米沢) 電気機械(米沢) 食料品(県) プラスチック製品(米沢) 電子デバイス(県) 化学工業(県) 衣服・繊維製品(県) 一般機械(米沢) 一般機械(県) 食料品(米沢) 0.5 電気機械(県) 化学工業(米沢) プラスチック製品(県) 戦 略 軸 A 世界の標準 現状 日本の平均 (規模小) 低 輸送用機械(県) 鉄鋼業(県) 高 低 輸送用機械(米沢) 戦略軸 B 高 Wants 付加価値率 (製品1個当たりの付加価値) 0 0.6 0.8 1 1.2 1.4 1.6 1.8 付加価値率 図1:県及び米沢市の付加価値は業種別全国平均と 比較して低い水準にある。(工業統計から筆者作成) 図2:付加価値生産性と付加価値率を考えた場合、少 なくとも 3 つの戦略方向がある。(筆者作成) もうひとつは、日本全体のものづくりについては多くの研究や議論が行われていますが、 地域の中小製造業の視点からの本格的な研究や議論はあまり行われていないということで す。このテーマについて、地域の産業界とともに深めていくのには地域に根差している地 方大学である山形大学が適していると言えます。 このようにして、この『世界俯瞰の匠育成プログラム』がスタートしました。開始後ま もなくリーマンショックが起こったり、プロジェクト 3 年目には東日本大震災があったり して、地域のものづくり企業に大きなダメージを与えてしまうことが続きました。しかし、 このような過酷な状況のなかにあっても、多くの地域の方々の熱意に支えられてプログラ ムを進めてくることができました。 現在、世界同時不況後の経済構造や日中関係の変化は、地域の中小製造業の新たな戦略 構築の必要性を顕在化させることとなりました。本プログラムが当初から目指していた新 たな戦略づくり、すなわち高品位な生産管理技術に立脚しつつ、グローバルな視野でのポ ジショニングを行い、新たな付加価値を創出できるようなしっかりとした新たなビジネス モデルを構築することが強く求められています。 新たなビジネスモデルの構築は決して容易いことではありません。それでも、本プログ ラムでは、 「時を告げるのではなく、時計を作る」という基本姿勢を大事にしました。つま り、講義は、この難局を克服する素晴らしいアイディアとカリスマ性をもって説くという スタンスではなく、変化する時勢を読み適切に対処するヒト・組織を地道に育てるにはど うしたらいいかということを受講生とともに考えることに主眼を置きました。 参加した人たちは皆、修士課程の 2 年間という短い許された時間のなかで、それぞれの 問題意識をもとに大変な努力を重ねながら研究を行いました。殆どが社会人であり日常の 業務を抱えながら、夜間や週末の僅かな自由になる時間を惜しんでの研さんを積み上げて きたのです。その意味で、この成果論文集はその努力の結晶と言えます。 この第 3 集では、第三期修了生 8 名による 7 編の修士論文と 1 件の新規製品開発案件を 掲載しました。これらの概要を以下に簡単に紹介しておきましょう。 冒頭の第一部として、今回は 1 編の論文を取り上げました。これは、グローバル戦略コ ース全体の問題意識にもつながる「日本企業の海外拠点展開戦略」に関するものです。 冨田康男さんの「メコン地域進出におけるフィージビリティスタディの研究」は、タイ、 シンガポール、マレーシア、中国に進出した日系企業のなかから 24 社を対象にした、海外 展開の準備段階の F/S(Feasibility Study)の実態をテーマにしたものです。24 社に対す る現地ヒアリング調査を敢行し、その収集した詳細データから「進出目的」と「意思決定 方法」の2つを指標とした 4 区分の類型化が可能であること、4 類型別の区分と陥りやすい 調査不足項目等の課題に相関性が認められることを明らかにしました。そのうえで、陥り やすい課題の克服を可能とする独自の“スマート F/S”を具体的に提案するに至っています。 第二部では、実際に、グローバル競争経済下で、自らの自立と発展を目指して新たな戦 略構築、製品の開発と販売、新規販路開拓等に科学的な視点から取り組んだ 3 編の論文と 1 件の新規製品開発を取り上げました。 奥山将太さんの「中小機械加工業のライフ・イノベーション関連機器への進出に関する 研究」は、地域にある工作機械用部品加工メーカーK 社をモデル企業として、工作機械業 界から新規に医療機器等のライフ・イノベーション関連業界への進出を図るための内的条 件について考察しています。工作機械は日本の製造業と得意分野としているところですが、 工作機械のユーザーとなる製造業自体は海外シフトを強めています。したがって、技術を 活かして内需型産業に貢献する市場への展開がよく指摘されているところです。しかし、 経営リソースが限られた中小企業が具体的にどうすれば新規業界へ進出できるのかが課題 となっています。K 社を事例として具体的に内部リソースの分析を行い、克服すべき課題 と将来戦略を具体的に明らかにしています。 高橋文弘さんの「中小下請け企業の自立化に関する研究」は、グループの下請けとして 電子部品、自動車部品などのアッセンブリを行っている地域企業 K 社(前論文の K 社とは 別企業)をモデル企業として、下請けからの自立をテーマとした研究を行っています。業 界的にグローバル化の影響が激しい分野であり、スマイルカーブの川中に位置する K 社が どのようにサスティナブル(sustainable)に発展できるかというグローバル戦略コースの 中核的問題意識に関するテーマと言えます。この K 社研究では、前論文と同様に海外展開 ではなく国内の内需型産業である医療機器部品へのシフトを選択しています。この研究の 過程で、実際に医療機器製造業許可を取得し、医療用機器部品製造を開始し、そのうえで 現状分析を行い、課題抽出を行っています。さらには、明確となった課題を踏まえ、将来 に向けたロードマップ作製に至っています。 小川 篤さんの「前腕支持型持ち上げ支援システム(FOLAS)を用いた介護システムの 概念設計の提案」は、大学内で研究されていた技術シーズの実用化を想定した際の概念設 計構築に取り組んでいます。地域中小企業がグローバル戦略を考える上で、LCC(Life Cycle Cost)低減や成長市場を狙った海外展開か、得意の技術力を活かした内需型成長分野への 進出・シフトかの選択肢があります。内需型成長分野である医療や福祉といった分野に進 出する際は、従来の顧客から提供された仕様以上に、独自のユーザー視点での開発力が求 められることとなります。この研究では、大学院生であった小川さんが実際に介護士の資 格を取得し、介護福祉の現場に入り込んで概念設計に取り組んでいます。 くわ ばら 桒原 晃さんの「中小企業の自社商品開発~研究開発資金の確保~」は、パーソナルコ ンピュータのアッセンブリメーカである N 社が全くの新分野である玩具開発に取り組んだ 製品開発案件です。もっともグローバル化の影響を受ける分野の地域製造業が、その技術 力や地域資源を活用して、市場分野及び技術分野ともに新規となる開発を行い市場化に成 功しています。そのプロセス全体が、グローバル戦略コースの問題意識と重なり合うとこ ろですが、この論文集では、そのうちの新規開発資金調達に関して公的助成活用の経緯を まとめています。 第三部として、 地域企業の内なる競争力強化に取り組んだ 3 編の論文を取り上げました。 広川 勝さんの「中小プラスチック切削加工業の事業戦略に関する研究」は、新規顧客 開拓と収益力向上に貢献する社内ナレッジマネジメントシステムの構築に取り組んだ研究 です。一品ものとなるプラスチック部品の精密加工を得意とする H 社は、かつては地域内 からの受注で賄っていました。競争のグローバル化により地域内の顧客企業がダメージを 受ける中で、商域の拡大(新規顧客の拡大)と一受注当たりの収益向上を図ることに取り 組んでいます。独自のナレッジマネジメント構築と、積極的な地域外展示会への出展によ り目的達成の可能性を実証しています。 高橋恵美さんの「エンジニアとワーカーの動機付けを支援するマネジメントについての 研究」は、地域雇用を守ることを第一ポリシーとする K 社(高橋文弘さんの研究対象とな った K 社と同じ企業)を研究対象として、その従業者の職種別のモチベーションマネジメ ントに関するテーマとなっています。従業者に対するアンケート調査分析と勤務環境改善 実験から、モチベーション向上に関する K 社固有の基礎的知見を得るにいたっています。 グローバル競争の影響を強く受ける業界は、人件費ハンディキャップに対抗しようとする 意識から派遣社員に頼るなどにより、技術・技能の伝承や生産性の維持・向上が課題とな る傾向があります。今回の知見を基盤にさらなる経営の高次化に取り組んでほしいと思い ます。 そして最後の佐藤弘男さんの「医療機器開発のためのプロジェクト管理に関する研究」 は、高いコア技術力を武器に各種産業機器の開発・製造・販売を行っている研究開発型中 小企業 X 社を対象とした独自のプロジェクトマネジメントシステム開発に取り組んだ研究 です。技術力があり研究開発型で成長してきた X 社は、ある意味、グローバル競争下での 多くの地域中小企業が抱える課題とは無縁な存在と言えるかもしれません。しかし、得意 の技術力を活かして、内需型成長分野である医療機器開発を続けていくにあたって、企業 内部のナレッジマネジメントに課題を見出しています。既存のシステムでは解決できない 自社独自事情を踏まえたシステム開発に成功しています。 ところで、第 3 期修了生にはグローバル戦略のソリューションとして、海外展開とは別 の内需型成長市場への進出をテーマとしたものが多くなっています。これには、佐藤さん の研究と X 社の存在が少なからず影響しているといえます。同様に、新たな顧客開拓や製 くわ ばら 品開発に取り組んだ研究も多いですが、これには桒原さんの新製品開発の影響があったと 言えるでしょう。このように、年齢や業界が異なる人たちが互いに刺激し合いながら学ぶ ところも社会人大学院の一つの魅力と思います。 このように、地域産業のグローバル化を題材とした多くの研究が行われ成果が現れはじ めています。しかし、『世界俯瞰の匠育成プログラム』の命題である“地域中小製造業のた めの新たな世界戦略構築”の真価が問われるのはこれからです。 今回、この成果論文集に掲載した研究に取り組まれた修了生、これらの研究に熱心な指 導をされた教員の皆さんに厚く御礼申し上げます。また、本プログラムに多くの支援をい ただいた、JST、山形県、米沢市はじめ多くの機関の方々に重ねて御礼申し上げます。 これら多くの研究、そして地域の地道な取り組みと努力の積み重ねが、将来の日本のも のづくりの発展に向けた確実な一歩となることを祈っています。 2013 年 3 月 山形大学大学院理工学研究科 ものづくり技術経営学専攻 グローバル戦略コース コース長 小野 浩幸
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