マレーシアにおける少女マンガの社会的役割

【 シ ン ポ ジ ウ ム 】第 3 回 国 際 学 術 会 議「 マ ン ガ の 社 会 性 ― 経 済 主 義 を 超 え て ― 」
2 マ レ ー シ ア の 漫 画 に お け る 混 淆 性 ─ ─ 少 女 漫 画 家 カ オ ル の キ ャ リ ア を 通 し て G a n S h e u o H u i 顔 暁 暉 マ レ ー シ ア で も っ と も 優 れ た 少 女 漫 画 家 の ひ と り に カ オ ル と い う 作 家 が い ま す 。 彼
女は中国系マレーシア人ですが、日本語のペンネームを使用し、マレー語で主にマレ
ー人の読者に向けて作品を送り出しています。型にはまることのないこのようなカオ
ルの作品は、一昔前のマレーシアでは想像もできないことでした。カオルの作品は、
様々な文化的要素を選び、変容させるという積極的な形式を見せています。より正確
に言えば、マレーシアのような多民族社会において注目すべきである、わかりやすい
「 ロ ー カ ル ・ ス タ イ ル 、 つ ま り 地 域 特 有 の ス タ イ ル 」 を 見 せ る こ と な く 、「 ロ ー カ ル ・
アイデンティティ」というオルタナティブな形式をあらわしているのです。さらに、
カオルの作品が英語や中国語に翻訳され、シンガポールや中国に輸出されると、彼女
のマレーシア人としての国民性ではなく、華人としての民族性が強調されることにな
り ま す 。 カ オ ル は 新 世 代 の 漫 画 家 だ と 言 え ま す 。 新 世 代 の 漫 画 家 と は 、 従 来 の 地 理 的 ・ 国 家
的制約によってアイデンティティが縛り付けられていない世代を指します。本発表で
は、カオルのキャリアを、日本の漫画が伝わった歴史的経緯と、中国系マレーシア人
のコミュニティとメディア製品の関係を通して考察していきます。独特な視点が生ま
れた新世代のクリエイターを受け入れる地元の読者が根付いたのは、この伝播による
ものだと思われます。このような歴史的分析は、中心から広がるムーブメントという
よりは、外側からのアプロプリエーションの形式としての伝播に目を向けるという新
たな見方を提供してくれます。本発表では最終的に、女性によって女性のために作ら
れた日本漫画をベースとしたマンガが、マレーシアの複雑な文化コミュニティ間の開
か れ た プ ラ ッ ト フ ォ ー ム と し て 役 立 っ て い る の か ど う か を 検 討 し て い き ま す 。 公 営 メ デ ィ ア と 不 透 明 な ( 曖 昧 な ) 少 女 マ ン ガ に 見 ら れ る 「 マ レ ー シ ア 」 「 マ レ ー シ ア の マ ン ガ ( 漫 画 ? ) 文 化 」 と い う 概 念 は 、 未 だ に 発 展 途 上 だ と 言 え ま
す。なぜなら、マレーシアという近代国家を形成している多様な地域(ペニンシュラ
マレーシアやマレーシアボルネオ)における混合文化のアイデンティティは、まだ政
府やメディアによって形作られている途中だからです。兆候的なものとして、マレー
シア観光局の有名なキャッチフレーズといくつかのプロモーションビデオのメインテ
ー マ で あ る 「 マ レ ー シ ア 、 真 の ア ジ ア 」 と い う も の が 挙 げ ら れ ま す 。 プ ロ モ ー シ ョ ン ビ デ オ は 、 マ レ ー シ ア の カ ラ フ ル で エ キ ゾ チ ッ ク な イ メ ー ジ で あ ふ
れています。やむを得ず表面的になってしまっていますが、観光事業にとっては説得
力 の あ る 主 張 を し て い る と 言 え る で し ょ う 。こ の 手 の 広 告 で よ く 知 ら れ た も の と し て 、
他にはペトロナスという、石油やガスの供給を行う国営企業の広告が挙げられます。
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外国人や現地の視聴者を対象としてメディアが作り上げたこれらのマレーシアのイメ
ー ジ に は 、様 々 な 課 題 が 含 ま れ て い る こ と は 言 う ま で も あ り ま せ ん 。に も か か わ ら ず 、
両 者 の プ ロ ジ ェ ク ト は 望 ま れ 、理 想 化 さ れ た マ レ ー シ ア の 多 民 族 の イ メ ー ジ な の で す 。
たとえ、このようなメディアによる投影が常に変化していくものだとしても、それら
のイメージは、ほとんどの国産のマンガに見られる
cool culture
という現代的視
点を、異なったバックグラウンドをもつ人々にもたらすことになります。たとえば、
カオルの作品はたいてい、舞台となる場所がはっきりしていません。彼女の物語設定
は し ば し ば 、 空 想 的 で 曖 昧 な も の な の で す 。 2005 年 に マ レ ー 語 で 出 版 さ れ た 『 だ い す
き』という作品では、舞台がマレーシアの首都であるクアラルンプールにはっきりと
設定されているものの、街の景観やファッションがどことなく日本に似た架空のクア
ラルンプールのように見えます。マレーシア社会の道徳規範を損ないかねないきわど
いファッションや描写を避けるために、このような日本的要素が現地の感性と融合さ
れています。そうすることで、検閲を懸念する権力者にも受け入れられる「別の」ク
ア ラ ル ン プ ー ル を 作 っ て い る の で す 。 マレーシアの文 脈 におけるカオルの位 置 づけ: 日 本 の漫 画 スタイルを用 いた華 人 読
者 と マ レ ー 人 読 者 の 両 立 カ オ ル 、( 本 名 Liew Y ee T eng) は 1982 年 に 生 ま れ 、 マ レ ー シ ア 半 島 の 中 心 部 ペ ラ
州で育ちました。彼女は広東語を母国語とし、地元の中国語学校に通っていました。
仕事仲間やファンとのつきあいのほか、彼女の日常やソーシャルネットワーキングは
い ま だ に 地 元 の 中 国 語 圏 の コ ミ ュ ニ テ ィ に 限 ら れ て い ま す 。高 校 を 卒 業 し た 18 歳 の 頃 、
Gempak で マ ン ガ 部 門 の ア シ ス タ ン ト と し て 働 き 始 め ま す 。 そ れ か ら 二 年 後 、 彼 女 は プ
ロの作家としてデビューし、恋愛マンガを担当することになりました。今では少女漫
画 の 第 一 人 者 と さ れ て い ま す 。今 ま で 、四 つ の 作 品 を 掲 載 し た 単 行 本 一 冊 と 、8 巻 に 渡
る シ リ ー ズ を 出 版 し て お り 、 最 新 作 の 『 Maid Maiden』 は い ま も 連 載 中 で す 。 カ オ ル の 初 期 の 作 品 と 後 期 の 作 品 を 比 べ て み る と 、 画 風 や ビ ジ ュ ア ル デ ザ イ ン 、 そ
して特にレイアウトに段階的な変化が見受けられます。いまや雑然とした印象は薄く
なり、スムーズにイメージが流れるよう、ディテールを入念に作りこんでいます。さ
らに、彼女の人気は急速に高まったため、初期の白黒とは異なり、最近の作品の多く
はカラーで出版されています。経歴全体にわたって、彼女は日本の漫画に見られる流
行の画風や新しく人気の出たテーマのあとを辿っています。そのことは、カオルの最
新 作 で あ る 『 Kaoru
s Cake House』 や 『 Maid Maiden』 に 見 ら れ る 美 男 子 や 制 服 ( メ
イ ド 服 ) の 女 の 子 か ら も は っ き り わ か り ま す 。 カ オ ル の 人 気 は 、 マ レ ー 人 コ ミ ュ ニ テ ィ か ら の サ ポ ー ト に 基 づ い て い る 点 で 特 殊 な
も の で 、彼 女 の プ ロ と し て の 道 の り は 独 特 で す 。な ぜ な ら 、ほ と ん ど の 華 人 家 庭 で は 、
長時間労働・低賃金を強いられる漫画産業よりも、経済的に報われる仕事のほうが好
まれているからです。一般に、芸術やデザイン関連の仕事は、華人コミュニティでは
重要度が低いとされています。もちろん、カオルの成功は一部の親にとって新たな方
針 を 持 つ 可 能 性 を も た ら し ま し た 。 ま た 、 カ オ ル の よ う な 日 本 的 な ネ ー ミ ン グ は 、 マ レ ー シ ア に お け る 日 本 の 人 気 を
表しています。カオルは現代の日本が好きなあまり、直接経験するため日本を訪れて
もいます。ほとんどの読者にとって、日本は訪れることのできる実在する目的で国と
いうより、想像上の空間です。それゆえ、日本風のペンネームは感情的に否定されに
くくなっているのです。それは言い換えると、彼女の持っている中国姓を排除するこ
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とで、読者を魅了したり、地元の民族的な懸念から解放したりすることができるので
す。この論理に従うと、カオルは中国語で書いた後に会社が翻訳するのではなく、始
めからマレー語でセリフを書き、それを修正する校正者がいることになります。カオ
ルの作品がもともとマレー語で制作され、その後に中国語や英語に翻訳されているこ
とは注目に値します。作家も、ストーリーをできる限りニュートラルになるよう細心
の注意を払っており、カオルの作品を見てみても、マレーシアをなんとなく参照した
場所や掲示板、学生服などを見つけることができます。このような関連性は、強すぎ
る 地 理 感 覚 を 生 み 出 さ ず に 、 親 近 感 を も た ら し ま す 。 政 府( KDN)が キ ャ ラ ク タ ー の 性 的 関 係 や 性 描 写 を 厳 し く 規 制 し て い る た め 、伝 統 的
な道徳の侵害は、マレーシアでの漫画の制作・販売にとって重要な問題となっていま
す。このことは当然、カオルの作品の中核である恋愛少女漫画に影響しています。キ
スシーンはおろか、エロティックな行為は許されておらず、子どもへのキスは許され
ていますが、男女間のキスは許されていません。また、銃を描くことは許されていま
すが、人に銃口を向けているところを描写することは当然禁止されており、人の死を
冒涜するような不適切な表現も許されていません。タイトすぎる服装も禁止されてい
ま す 。 数 年 前 、 ク ア ラ ル ン プ ー ル の 紀 伊 国 屋 書 店 に 、 親 が カ オ ル の 作 品 『 Daisuki』 に
対し、主人公がミニスカートをはいた表紙のイラストがあまりにもセクシーすぎると
クレームをつけ、返品をしたことがありました。その後、表紙は保守的なモノに差し
替えられたのですが、興味深いことに、オリジナルであるセクシーなバージョンも同
じ 本 屋 で 買 い 求 め る こ と が で き ま し た 。 こ れ は 言 う ま で も な く 、 Gempak Starz が 読 者
に選択肢を与えたということです。編集者によると、このような事態は、漫画を子ど
ものメディアだと捉えている政府の考え方が原因になっているようです。ロマンティ
ックなシチュエーションの描写に関する公的な規制の境界と戯れることは、カオルの
作 品 の 魅 力 に 繋 が っ て い ま す 。 お わ り に カ オ ル の 経 歴 に 関 す る 以 上 の よ う な 検 証 は 、 今 後 の 考 察 や 調 査 へ の 重 要 な 課 題 を 浮
かび上がらせました。まず、多民族国家としてのマレーシアの背景に反して、様々な
民 族 間 の 情 報 交 換 は 、偏 見 や 言 語 の 壁 に よ っ て い ま だ 制 限 さ れ て い る と い う こ と で す 。
カオルの作品が多言語で受け入れられていることからも明らかなように、民族を越え
た漫画の人気は予想外であると同時に興味深い進展でもあります。漫画はマレー語や
中国語、英語で広く若者に読まれていますが、このような多民族の読者は、観光促進
を越えた「真のアジア」社会の実現という問題を浮き彫りにしました。漫画はマレー
シアにおけるコミュニケーションや融合のためのニュートラルなプラットフォームと
し て 機 能 す る 見 込 み が あ る よ う に 思 わ れ ま す 。こ の よ う な プ ラ ッ ト フ ォ ー ム は つ い に 、
トークやコスプレなどファン同士のイベントを通して民族グループ間の交流を促すこ
とができました。トークやコスプレなどの場では、互いにリラックスでき、最終的に
は互いの違いを受け入れることが出来るのです。マレー語で出版しているメジャーな
女性中国系マレーシア人作家を知るには時期尚早ですが、カオルの作品は、それが可
能 で あ る こ と を 示 し て い ま す 。 第 二 に 、 既 に 述 べ た よ う に 、 カ オ ル の 作 品 を 含 め た マ レ ー シ ア の 日 本 漫 画 ベ ー ス の
マンガは、特定の地域の描写を避けがちであるということです。カオルや彼女と同国
人の作品において、日本の漫画文化は、日常生活において民族間の緊張が比較的希薄
な架空の場所を作り出す傾向があります。このことは、マレーシアの複雑な状況のせ
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いで明確な地域性に対して偏見をもつ読者が容易に生まれかねないという理由から、
とても重要です。多民族コミュニティは、世界中でありふれたものになってきている
ため、フランスやアメリカのような国で、日本漫画のスタイルがファンのコミュニテ
ィ の た め の 民 族 を 越 え た 場 と し て 機 能 し て い る か ど う か と い う 問 い が 生 じ ま す 。 第 三 に 、 カ オ ル の よ う な 作 家 が 作 る 少 女 漫 画 は 、 民 族 を 越 え た マ レ ー シ ア 女 性 に 効
果的に届けることができます。恋愛やファッションは女性的な領域に適していると思
われます。なぜなら、このような女性向けのステレオタイプなテーマは、男性中心主
義や検閲から逃れる可能性を持っているからです。日本のボーイズラブの同人誌に似
たファン作品は、ネット上やコミックマーケットで見られます。それらは、調査され
ずとも女性の漫画文化が確かに存在していることを示唆しているのです。マレーシア
に関しては、このことは、他の漫画のジャンルや他国の漫画に影響を受けたマレーシ
アの漫画と、少女漫画の民族を越えた人気の比較をしていく必要があることを示して
い ま す 。 最 後 に 、 カ オ ル の マ レ ー 語 の 漫 画 は 、 地 域 へ の 関 心 を 引 き 出 す 日 本 の 漫 画 を 彼 女 が
流用していることを明らかにしましたが、これらの側面は、日本では普及していませ
ん。異文化間の伝達についての議論は、日本による海外普及の考えとは大きく異なっ
た流用であるという考え方を考慮する必要があります。マレーシアのコンテンツが日
本に渡っていないため、これは文化交流とは異なります。日本企業のために工場や海
外支社を設立したり、日本製品の消費者を探したりするなど、日本のビジネスの関心
はアジア中に広がっているため、日本漫画のスタイルの人気は日本が発信したものだ
と見なされる傾向があります。しかしそうではなく、マレーシアの場合、華人コミュ
ニティを通してマレーシアに入ってきた、台湾や香港において中国語で出版されてい
る 日 本 漫 画 の 海 賊 版 が 現 れ た こ と は 、文 化 の 盗 用 の 複 雑 な 形 で あ る よ う に 思 わ れ ま す 。
これは、海外市場に向けられた日本のプロモーション活動というよりはむしろ、ファ
ンの情熱や盗用から生じた、ヨーロッパやアメリカでのマンガの翻訳や出版と似てい
ます。今日、マンガを広めようとする日本政府は、日本のメディアがしかけたわけで
はない世界的マンガブームを今になって利用しようとしています。最近まで、漫画的
なスタイルやテーマの出現は、韓国や台湾のような日本近隣諸国や欧米で、批評的関
心を寄せられていました。
「 周 辺 」だ と 言 わ れ る 地 域 で の 漫 画 の 役 割 に 焦 点 を 合 わ せ る
ことが、世界中の読者の関心事である問いへと行き着くことを、カオルの作品は示し
て い る の で す 。 4