Sattelites Records: Artists

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Ryo Kawasaki Biography (Japanese Version)
恐らく、川崎 燎は彼の最近のアルバム(スウィート・ライフ/サテ
ライツ・レーコーズ)でも実証されているようにジャズギタリスト
の第一人者として最もよく知られているかもしれないが更に巧みに
音楽と科学を混ぜて操る事の出来る精粋の ”超現代的”アーチスト
としての評判も高く、彼は単なるミュージシャンであるばかりでな
くエンジニアそして発明家としての能力も備えあわせている事を忘
れてはならない。
彼の多岐なキャリアは電子エンジニア、物理学を専攻、トップのス
タジオセッションギタリスト、アマチュア天文学者、セミ・プロレ
ベルのプール・プレーヤー、主流のジャズギタリスト、音楽ソフト
ウェアの作者・プログラマー、リズムトラック専門家、エンジニ
ア、編曲者、レコード会社のオーナー、そして数多くのジャンルの
音楽スタイルを制作するプロデユーサーでもある(ジャズ、アシツ
ド・ジャズ、ヒツプ・ホツプ、ダンス、ブラジル音楽、アコーステ
イツク音楽等)。
日本の東京に生まれ、1973年にアメリカのニューヨーク市に住
み着いた。その後殆ど間もなくアメリカのジャズ・シーンに発掘さ
れそのジャズの本場でギル・エヴァンス、トランペツターのテツ
ド・カーソン、ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ、チコ・ハミル
トン、ピアノのジョアン・ブラツキーン、フルートのボビー・ハン
フリー、歌手のジョー・リー・ウイルソン、サツクスのデイヴ・リ
ーブマン、プロデユーサーのテオ・マセロ、その他数々の有名なアメ
リカのジャズの巨匠達のサイド・メンとしてレコーデイングやツアー
に参加して活躍した。川崎 燎のデイスコ・グラフィーはすでに30作
のソロ・アルバムの他に後30作程の作品にプロデユーサー或いは
フィーチャード・アーチストとして参加している。
2003年に至り、川崎は30年に渡る拠点で・つた米国・ニュー・ヨーク市生活に終止符を打ち、エストニアの首都
タリンに拠点を移すことにより更にロシア及びバルト海地域のジャズ祭に彼の活動地域を拡大した。彼の現在のク
アルテツトは2003年にはLatviaの首都Rigaで開催されたのRigas Ritmi ジャズ祭、モスクワから1,000 キロメート
ル東に・るMordovia 共和国の首都Capahck(サランスク) でおこなわれたジャズ祭、エストニアにおけるヌンメ・
ジャズ祭 等にも意欲的に出演している。これらのジャズ祭は別として、彼はバルト海及びスカンジナビア諸国の
クラブやコンサートにも出演している。2004年にはフィン宴塔h・ポリ・ジャズ祭出演は7月に、そして日本にも
六月には二週間にわたるツアーを長年の友人でも・る日本ジャズ・ベースの第一人者・鈴木良雄氏との共演で行わ
れる事も決定している。また、エストニアに於いては歌手のジョー・リー・ウイルソンとの30年振りの共演を交
えての新境地のブルース・ジャズ・バレーの音楽監督も行つている。 更にRyo は日本のone Voice/Videoarts レー
ベルを通して彼の三番目のソロ・ギター・プロジェクトとして最近彼の新しいアコースティックギターのソロアル
バム' E ' を2002年4 月24 にしており、このソロアルバムの内容は2002 年7 月のカナダにおけるモントリオール
ジャズ祭出演においてもライヴで披露されている。
彼の最新の活動の一部は、エストニアの首都タリンにあるエストニアン・ナショナル・オペラ・ハウスで公演され
ている新しいジャズ・バレー ”ステイル・ポイント”の作編曲担当及びミュージツク・デイレクター、ギターリ
ストとしても参加している。振付はジャマイカ出身の黒人振付士ラツセル・アダムソンが担当している。最初の公
演は2000年の12月30ー31日にかけて大晦日のスペシャル・エベントとして行われて大成功を収め、今後も続け
て公演されていく事になつた。クラシカル、ジャズ、ヒツプ・ホツプ、ラテン、アフリカンなどの様々な要素を振
付、音楽共に取り入れた画期的な作品となつている。また、川崎は2001年度後半発売予定の新たなアコーステイ
ツク・ソロ・ギター アルバムの制作準備にも取り掛かつている。
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ごく最近(2000年6月)に彼は北欧の未知国エストニアのタリンで久々のスタジオ・ライヴのギター・トリオの
作品レヴァルを録音した。リズム・セクションにはエストニアのトツプ・ミュージシャンのトイヴォ・ウントのベ
ースとアイヴァー・ヴァツシリヤフがドラムを勤め、情緒豊かなクリステー・キールのイングリツシ・ホーンが何
曲かにゲストとして参加している。この作品は恐らく数多いRyoの作品の中で最もシンプルなアコーステイツクな
サウンドに仕上がつている。発売は2000年の10月の予定。
1999年に発売された彼の最も最近の作品「コズミツク・リズム」では Ryo の現在のリズムセクション、ドラ
ムのビクター・ジョーンズ、べースのリンカーン・ゴーインズ とともに英国の歌手・作詞家クレア・フォスター
がフィチャーされている。 アルバムには更にピアノのデイビッド・ キコスキー 、そして フルーゲル・ホーンに
は大野俊三もフィーチャーされている。 すべての曲は 川崎によって編曲、レコデイングされ川崎のオリジナル作
品10曲も収められている。
更に1999年には、「コズミツク・リズム」を発売している時期に二人のヒツプ・ホツプ スーパー・スター、パ
フ・ダデイー とキース・マレーが同じ年にRyoの23年も前に録音されたオリジナル曲”バンブー・チャイル
ド”を取り上げて録音・発売した。この様に彼の古い曲でも現代のヒツプ・ホツプのビートやムードに完全にピツ
タリと合うと言う所もいかにRyoの音楽が常に時代を超越しているかという実証の一つとも言える。
Ryoは主に二種類のギターを使い分けて使用している.。。ヤマハから贈呈されたセミ・アコーステイツクのエレクト
リツク・ギター(ギブソンのES335に類似している)に彼の幾つかのアルバム・カヴァーでも見れる様に真珠
の龍のインレイが施されたギターとスペインで作られたナイロン・ストリングのフラメンコ・ギターである。彼の
エレクトリツク・ギターの奏法は、ウェス・モンゴメリー、ケニー・バレル、ジョージ・ベンソンからカルロス・
サンタナ、BB・キングやジェフ・ベツクの影響を受けている。アコーステイツク・ギターの奏法への影響は、ア
ンドレ・セゴヴィア、ジャンゴ・ラインハルト、ジョン・ウイリアムスそしてパコ・デルシアである。
川崎の一生は生まれつきのせんさく好きと発明能力のおかげで共に音楽と科学の分野で特徴づけられて来ている。
彼は4歳の時に声楽レッスンと5歳の時にバイオリンレッスンを受けていて小学校に入る前に音楽の譜面が読める
様になつていた。
小学生として、彼は天文学とエレクトロニクス(彼はアンプとスピーカーを含めて彼自身の手でラジオ、テレビと
か音声のシステムを作ったりしていた)が彼の生涯の魅惑となつた。 Ryoは10歳のときにウクレレを買った、そ
して、14歳で、彼は彼の最初のアコースティックギターを持つ事が出来た。ケニー・バレルとスタンリー・タレ
ンテイーンによるアルバム”ミツド・ナイト・ブルー”に触発されてRyoはジャズ・ギターを勉強するようになつ
た。
高校で彼はその当時盛んになつたライヴ演奏のある喫茶店等を訪れはじめ自身のジャズ・バンドを結成したり、初
期のシンセサイザーの役を果たした電子オルガンを作ったりしていた。16歳の時には既に、彼のバンドはキャバ
レーとストリップ小屋で専門的に演奏し始めていた。
彼はその後も定期的に音楽を演奏し続けたけれども、日本大学では物理学を専攻し理学士号を得ていた。 彼は同
じくヤマハ楽器製造業者のジャズ学校で音楽コンテストの審査官も勤めそこのジャズ学校でジャズを教えたりもし
ていた。
さらに彼はサウンド・エンジニアとして日本のビクター・レコーズのスタジオとラジオ局TBSにあつたBGM会
社で働きながら、ミクシングやテープ編集技術を学んだ。
彼は最初のソロ・アルバムを22歳の時に日本のポリドール・レコーズから発売した。同時に彼のジャズ・グルー
プは意欲的に活動を続けてその当時の若さで日本のスイング・ジャーナル紙のジャズ人気投票のギター部門で弟3
位に選ばれたりしていた。その後の3年間はスタジオ・ミュージシャンとしても年中無休で忙しく働き広告用のジ
ングルから歌謡曲の伴奏に至るまでのあらゆる音楽をこなしていた。「とても良いお金にはなつたけれどもやはり
最後にはやりきれなくなつてしまつた。。」とあとで彼は語つている。二作目のソロ・アルバムは24歳の時に東芝
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レコーズに録音した。又、BBキングともブルース・フェステイヴァルで共演したり、ジョージ・ベンソンとも親
交を高めRyoの自宅で二人だけで5時間にも渡つてジャム・セツションをした事もあつた。
1973年に川崎はニューヨークの土を踏んだ。友人が飛行場に迎えに来てくれて即座にリンカーン・センターで
ニューポート・ジャズ・フェステイヴァルの一部として出演する歌手のジョー・リー・ウィルソンとの仕事をし
た。その後も当時盛んになりだしたロフト・ジャズに忙しく参加しはじめて毎日のようにジャム・セツションをや
つていた。その頃、ボビー・ハンフリーのバンドのメンバーとして迎え入れられたりもしていた。数ヶ月後にRyo
が買い物からアパートに戻つて来たらば、見知らぬ人が彼のアパートの前で待つていた。何とその人はかのアレン
ジの巨匠ギル・エヴァンスであつた、そして彼はRyoに当時の彼のオーケストラ(デイヴ・サンボーン、ハワー
ド・ジョンソン、トム・マローンなどがメンバーとして在籍していた)への参加を希望した。そしてこのグループ
はジミ・ヘンドリツクスの曲の数々をギルのアレンジで録音をする準備をしている最中でもあつた。ジミはこのギ
ルとの企画を夢見ていたのになんと企画がスタートする一週間前に死んでしまつた。川崎はこのジミが弾く筈であ
つたパートの代理ギターリストとして求められた訳であつた。その後、もう一枚のギルのアルバム”時の歩廊”に
ドラムスのトニー・ウィリアムスと共に参加した。そして、Ryoはトニーのグループ ”ライフタイム”の三代目ギ
ターリストとして当時サンタナのベーシストであつたダグ・ローチと共に数ヶ月に及ぶリハーサルを開始した。し
かし突如トニーがヨーロツパに一年以上も移住してしまいこのバンドは人前で演奏する機会を得る事ができなかつ
た。
その後川崎はジム・ホール、ガボール・ザボ、ラリー・コイエル等の後釜としてチコ・ハミルトンのバンドのギタ
ーリストに向かえ入れられてアメリカ全土に渡るツアーそしてハリウツドではチコの手がけた映画音楽の録音等に
も参加した。1976年には日本人としては初めてのアメリカのメージャーレコード会社RCAと契約してアメリカ
でのデビュー・アルバム”ジュース”を発表した。このアルバムには当時のサンタナのグループのキーボード奏者
トム・コスタとマイルス・デイヴィスのバンドに在住していたサツクス/フルート奏者のサム・モリソンが参加し
ている。同時期に川崎は意欲的にも更に二枚のアルバム”プリズム”と”エイト・マイル・ロード”を日本のイー
スト・ウィンド レーベルにも録音している。 そしてドラムの巨匠エルヴィン・ジョーンズのバンドに向かえ入れ
られて丸一年におよぶアメリカ本土、サウス・アメリカとヨーロツパのツアーを経験した。1978年には川崎はさ
すがに他のバンドのメンバーとしてのツアーの連続に疲れたので自身の創作に専念する事を始めた。
彼はインド音楽を探求してラーガを学び”リング・トス”をアメリカのオーデイオ・フィデイリテイ レーベルに
録音した、これは東洋と西洋の音楽を混ぜ合わせた作品である。サツクスのデイヴ・リーブマンを向かえてドイツ
のMPSレーベルには”Nature’s Revenge”を収録して同時にこのグループでヨーロツパをツアーした。同時に
ピアニストのジョアン・ブラツキーンともデュオで数々のヨーロツパのジャズ・フェステイヴァルで演奏してオラ
ンダのタイム・レス レーベルに数作品を残している。日本ではソニー・レコーズの新しいジャズ・レーベル、オ
ープン・スカイと契約して以下の3作を録音した。。”Mirror Of My Mind”、”Little Tree”そして”Live”であ
る。最後の作品は1980年に東京のジャズ・クラブ、ピツト・インで収録され世界発のデジタル録音の一つであ
る。「ライヴ演奏は続けているが今年(2000年)に新たに録音した”Reval”迄の間の20年間ではこの作品が私
のライヴ・リズムとの録音では最後の物となりその間に発表した作品は全て打ち込みで作られる様になつた..」
と彼は語つている。
1979年には川崎独自のギター・シンセサイザーを完成させて1980ー1983年には数々のアメリカのプラネタリウ
ムでのソロ・コンサートを公演し続けていた。同時にジャズ・ロツクのグループ”ゴールデン・ドラゴン”を結成
して80年代初頭には意欲的にコンサート活動もしていた。日本のFostexという会社が史上初の1/4インチ幅
テープを使用しての8トラツクのテープ・レコーダーを開発して川崎に最初の使用者になつて欲しいと依頼され
た。彼はその機会を応用して日本のフィリツプス・レーベルを通して”Ryo”と言う作品を1981年に発表し
た。この作品はクラシツクの名曲アランフェス協奏曲をはじめとして、アルバム全て綿密に川崎自身がギター・シ
ンセサイザーですべてのオーケストラのパートを再現した上に彼自身がナイロン・ストリング・ギターのパートを
演奏したものであり業界及び大衆からも大きな反響と支持を得た画期的な作品となつた。翌年にも似た様な手法で
作られた作品”ラツキー・レイデイ”を日本のテイチクから発売している。
その直後、コモドア64と言うコンピューターがサウンド・チツプを搭載して市場に現れると川崎はその可能性に
魅せられてしまいプログラミングを自ら習得して2年間に1日16時間近くを費やして4作ものミュージツク・ソ
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フトを書き上げてしまつた。それらは、-- Kawasaki Synthesizer, Kawasaki Rhythm Rocker, Kawasaki Magical
Musicquill and Kawasaki MIDI Work-station -- でありアメリカではサイト・アンド・サウンド社から発売されて大
成功を収め、日本でも富士通のコンピューター用に書き換えられて発売された。最初の三作は子供と家庭用の音楽
教育に向けられ、最後の作品はスタジオ用に書かれたものであつた。1987年には”イメージス”と言う全てシン
セサイザーで作られたアルバムを日本のメルダツク・レーベルから発売している、そして1990年にはアマゾンの
森林を守る為のIMAX映画”空の筏”のサウンド・トラツクを担当して”プレジャー・ガーデン”を残してい
る。
又、同時期1986ー1990年には、数々の12インチのダンス用シングルを制作し始めてのアメリカのダンス・チャ
ートを飾る事になつた。それらは、 -- "Electric World," "One Kiss," "No Expectations," "Say Baby I Love You,"
"Don't Tell Me," "Wildest Dreams," "Life is The Rhythm" そして "Acid Heat" --等であり、フリー・スタイル、ハウ
ス、アシツド・ハウス、アンビエント等の要素を巧みに入り交えて全て彼のホーム・スタジオ”サテライト・ステ
ーション”で制作/録音され彼自身のレーベル、”サテライツ・レコーズ”から発売された。彼のグループとダン
ス・チームは当時のニューヨークのダンス・クラブに出演して活躍していた。更に同時期に5年間に渡り(1988
ー1993年)彼は日本のラジオの音楽プログラム , "The Music Now" と "Idex Music Jam."のニューヨークでのプロ
デユーサーも担当していた。
1991年には再び川崎の音楽デイレクションに極端な転回が生じた。それは日本のジャズ・アダルトコンテンポラ
リーとして新しく設立されたワン・ボイス・レーベルのアーチスト及びプロデユーサーとして契約した事により再
びジャズ・アーチストとしての活動をし始める事になつた。ここでの第一作目は1992年に発売されたソロ・アコ
ーステイツク・ギターの作品"ヒア、ゼア アンド エヴェリウエア"である。(日本ではワン・ボイスからアメリカ
ではサテライツ・レコーズから発売) 又、川崎はこのレーベルのブラジリアン・シンガー/ギターリスト カミー
ラ・ベンソン の三作のアルバムのプロデユーサー及びギターリストとして参加した。その後も川崎は絶え間なくア
ルバムを発表し続けている。もう一枚のソロ・アコーステイツク・ギターの作品”マイ・レヴェリー”(ビル・エ
ヴァンス、ドビツシー、ラヴェル、ガーシュウィンの作品を手がけたもの、アメリカのスムーズ・ジャズのラジオ
で大ヒツトした Love Within The Universe/邦題:それじゃ、マイ・ラヴ”、カミーラをフィーチャーした
”Remixes Remixes Vol.1”そして以前のハーヴィー・メイソン、マイケル・ブレツカー、アンソニー・ジャクソ
ン、レオン・ペンダーヴィス、ヴォーカルのラーダ・ショツタムをフィーチャーした名作”ミラー・オヴ・マイ・
マインド”やゴールデン・ドラゴン時代の”リトル・トウリー”、”ライヴ”等CD化発売、日本の盲目の琴の名
手高野基長との共演作”クリスタリゼーション”及び冒頭の””スイート・ライフ”、”コズミツク・リズム”、
日本のヴィレツジ・レコーズの99年度作品”スーパー・ギターリスツ”への参加そして今年の ”レヴァル”に
至る迄アメリカ、日本の両方に渡つてアーチストとレコード・レーベルとしての両方の分野で精力的な活動をし続
けている。
Ryoの音楽の魅力は彼のギター・プレイにとどまるばかりでなく彼の天来のリズムの創造性が彼のすべての作品を
通して光つている。これらのリズムはストレートなジャズからポツプ・ロツク、ラテン、ヒツプ・ホツプ、アーバ
ン・サウンドに至るまで様々な要素をカヴァーしている。「私が子供の頃、両親はキューバのダンス音楽をしょつ
ちゅう聞いていたのでまずそのリズムに魅せられていた。60年代にはロツク・ミュージツクが盛んになりそのパ
ワーのあるシンプルなビートも聞いていた。その後、チコ・ハミルトン、エルヴィン・ジョーンズ 、トニー・
ウィリアムスのような偉大なドラマー達と共演し続けて彼らを通してリズムに関する多くの事柄を学んだ。エル
ヴィンは彼のドラムを通して人生のストーリーを語り、ドラムでバンドの指揮者の役割も勤めていた。これらの全
ての影響が私が過去20年近くに渡つて行つてきたダンスやジャズのリズムのプログラミングに役立つてきた」。。。
川崎談
多くの川崎のレコーデイングは綿密に構成されたリズムと多種多様のメロデイツクなサウンド、時たま聞かれる
ヴォイセスそして感情豊かな表情を持つた彼自身のギター・インプロヴィゼーション等が巧みに入る混じつて形成
されている。「真実は私の創る物は全てインプロヴィゼーションの賜物に過ぎない。たとえそれがギターのような
楽器を通して創造されようがコンピューターの様な新しい形の器材を通して創られようが私にとつてはそこには何
の違いもない。私達が音楽を創る時はまずそこにある程度の知識が必要である、そして自分の中に貯えられている
様々なその知識に瞬時アクセス出来てそれを表現しきれる技術が伴わなければならない。現在あらゆる形の技術革
命がとてつもないスピードで発展している、ある人々はそれと一諸になつて進歩していくだろうし一部の人々は保
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守的に過去の物にこだわるのかもしれない。 でも私自身の観点では変化を常に受け入れて行く方が人生が常に明
るく見通せる様に思われる。」。。。川崎談
文 :ランドール・デイヴィス
Ryo-1967 in Tokyo
Ryo with Elvin
Ryo with Gil Evans,
Jones, 1977 South
1984 Sweet Baisil/
America
Ryo-1952 in Tokyo
NY
Ryo's group at
Rehearsing "Agana"
JazzCafe in London,
for the Album
2000
"Prism" with Buddy
Williams and Abdula
at Bill's Place in
Manhattan, 1975
Ryo's trio at Sossi
Club in Tallinn,
Estonia 2000
Ryo's guitar
synthesizer in his
loft in Manhattan
1982
Ryo and David
Williams with Elvin
Jones group at
upstate playing for
prisoners, 1977
Ryo's trio at Winter
Graden in Tallinn,
Estonia 2001
Ryo with
Commodore 64,
1985
Ryo with Japanese all star
Ryo with Ilana and
Ryo with Joe Lee Wilson
Jazz band at Yokota
Session Photo for Mirror
Japanese
supporting
Band, 1974.
American Base camp,
of
My Mind Recording at
rhythm section, Nakano
1973. Motohiko Hino(dr),
Sun Plaza Hall back stage/ Power Station, NY,1979.
Hidehiko Matsumoto(ts),
Tokyo,1979.
Ushio Sakai(B3) and
others. Check out Ryo's
Fender Twin with extra
cabinet.
Ryoのホーム・ページは http://www.satellitesrecords.com
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Ryo's at Gil's
apartment listening
to Gil's ideas, 1982