第 号 - ズシップ連合会

平成 22 年(2010 年)11 月発行
( 1 )第 13 号
第 13 号
〜 歴史と自然に学ぶ 〜
「オ ー プ ン カ レ ッ ジ」 進 行 中 !
今年度新規
目玉事業!
発行人:酒井
発行:ゆめクラブ逗子(逗子市老人クラブ連合会)
☎ 046-872-0732
〒 249-0003 逗子市池子4丁目 1012 逗子市高齢者センター内
(撮影者:小林)
忠雄
今年度新規の目玉事業
「 オ ー プ ン カ レ ッ ジ 」 は、 六
月よりスタートして現在も進
る事に感心しながらにぎやか
に歩きました。
「散歩時に路傍の草花にも
ま ず、「 平 城 遷 都 一 三 〇 〇
近に感じる人が増えてきたの
等の感想も聞かれ、自然を身
みなさんの参加を
お待ちしております
目がいくようになりました」
年を読み解く」は、歴史好き
は嬉しい限りです。
変わらない自然
行中です。
な会員が多数参加し、毎回四
~五十人と盛況です。
皆さん一度は耳にした事の
ある聖武天皇、光明皇后、長
屋王、藤原不比等などの有名
人から東大寺、新薬師寺、法
華寺をサラリと説明してくだ
さる講師の伊藤一美先生の歯
切れの良い語り口も好評で
す。
さらに、平城遷都一三〇〇
年祭が展開されている奈良に
は、 修 学 旅 行 と 称 し て 九 月
二十七日㈪~二十九日㈬、受
講生を中心に三十五人が参加
した旅行も実施しました。
大 極 殿 や 朱 雀 門 の 大 き さ、
平城京という都の広さに感嘆
しました。今後も続けられる
発掘や木簡の解読で歴史の定
説が変わる可能性もあり、目
が離せないというのが印象的
です。
一 方「 逗 子 の 自 然 再 発 見 」
は、神奈川大学の若き精鋭た
ちが飾り気のない控えめな研
究成果を淡々と語ってくれま
し た。 ま た、 野 外 実 習 で は、
逗子の海岸に植生する樹々が
教科書通りに分布しているさ
まや、雑草一つにも名前があ
移りゆく歴史
〒 243-0035
神奈川県厚木市愛甲 944-3
☎ 046-280-6001
〈題字揮毫
水無瀬
数男〉
編集協力・印刷
㈱博報社関東支社
第 13 号( 2 )
ゆめほととぎす
平成 22 年(2010 年)11 月発行
市民祭り
恒 例 の 逗 子 市 民 祭 り は、
行なった。
さらに午後、ゆめクラブ
のたすきをかけた浴衣姿の
会員が逗子音頭と炭坑節を
踊り、まわりの人たちも輪
に加わって和やかな雰囲気
外では相変わらず屋台の
に包まれていた。
園にて賑やかに開催され
呼びこみ声に混じって子ど
十月十七日㈰、第一運動公
た。朝は曇りの空も昼近く
もたちの元気な声が響く一
超満員でした。
計一六〇人余となり会場は
ゆめクラブ逗子の動き
第 回
には、晴天となり役員一同
日だった。
特別表彰
菊池 三郎
をほっとさせた。
次々と買い手へと渡ってい
声に、山と積まれた衣類が
ザー担当者の熱心な勧誘の
口左手のテントである。バ
我がクラブの持ち場は入
半田 洪六
小嶋 久義
佐々木千代子
理事表彰
月二十五日㈮に高齢者セン
恵子
林
一般会員表彰
来年からは総会に併せて
赤いシャツを着たリーダー
昼近くの舞台では揃いの
く。
今年から新たに『会員歴十
功労表彰も行われる予定で
が、みんなの体操を元気に
一五六名(氏名省略)
年以上の喜寿・米寿』の一
す。
的についてみなさんが共通
した。基本は、会の活動目
いて自分なりに考えてみま
せるには、何が必要かにつ
にふさわしい活動に発展さ
そこで、この活動を刷新
が始まりました。
新たな取組みに向けて本番
制が整い「ゆめクラブ」の
制度等が刷新され、その体
したが、
この四月から組織・
前回の会報で紹介されま
いう方も大勢いると思いま
き合いで入っているよ」と
勢いますが、その反面「付
て活動されている方も大
知るで会員の中には熟知し
の活動については知る人ぞ
す。それはさておいて、会
まで抵抗感があるようで
すが、人によってはさまざ
社会を志向している現在で
ブは生き生きとした高齢者
ジは昔と異なり、老人クラ
老人という言葉のイメー
のためには、まず仲間を誘
ことになると思います。そ
生き生きとした人が増える
活力が生まれ、結果として
参加者が多ければ多いほど
れませんが)ということで、
の追求(永遠の課題かもし
き る こ と 』 ま さ に『 ゆ め 』
明るい長寿社会を楽しく生
ん な の 力 で 安 心 な 街 に し、
て自分たちの住む地域をみ
てきた知識や経験を生かし
そして『皆さんが長年培っ
で生活を豊かにすること』
、
じて生きがいと健康づくり
の目的は『仲間づくりを通
ご存じのように、この会
です。
役立てていただければ幸い
誘って参加してみてはいか
で、未利用者は一度仲間を
設備等も完備していますの
無料送迎バスがあり、入浴
の 高 齢 者 セ ン タ ー が あ り、
作りの場・趣味を生かす場
皆さんのふれあう場・仲間
承知の上で書いています。
いるんだよ」とのお叱りを
みんなその問題で苦労して
「簡単に言うなよ! 役員は
る』いかがでしょうか。
生活のリズムが豊かにな
が 増 え れ ば 楽 し さ も 増 え、
う。このことによって友達
しょう、仲間を誘いましょ
『まず月例会へ参加しま
います。
かけが大変重要だと思って
を願う次第です。
味を発揮してくださること
たちが参加し、自分の持ち
いただき一人でも多くの人
います。どうぞ活動を理解
高齢者が大勢いると聞いて
ですね。
えられない街にしたいもの
ずの高齢者や孤独死など考
問題となっている行方知れ
ことによって、今全国的に
加を呼び掛け仲間を増やす
加者に気軽に声をかけ、参
が気軽に社会参加し、未参
は、まず住んでいる人たち
を生き生きさせるために
います。自分たちの住む街
感じるものが得られると思
修治
の認識を持ち、会を活用し
す。恐縮ながら復習のつも
いあって月例会に大勢の方
がでしょうか。きっと何か
小平
て自分なりに元気をプラス
りで一読いただき、友達と
に参加いただき、この働き
最後に逗子には、優れた
し、気持ちを若返らせるこ
の対話や仲間の誘いなどに
幸いにして、逗子市には、
とだと思います。
上桜山第六クラブ
般会員も表彰されたので合
例 年 の 功 労 表 彰 に 加 え、
た。
ターにおいて開催されまし
今年度の定期大会は、六
(市老連)定期大会
ゆめクラブ逗子
47
平成 22 年(2010 年)11 月発行
ゆめほととぎす
( 3 )第 13 号
逗子老連主催
安心生活を支える法律セミナー
ために仕事をする「任意後
て し ま う 葬 儀 が 多 い な か、
と そ の た め の 費 用 が 必 要。
な制度です。しかし、準備
葬儀以上に、遺産相続の
自分自身で詳細を決めるこ
職権濫用していないかチェ
問題は家族にとって切実で
講 師 は、「 ご 自 分 の 財 産
見人」に対しては、家庭裁
ックをしてくれるので、本
す。遺産を巡って裁判所で
はご自分の幸せのために使
現在この費用を賄うための
人の権利はきちんと守られ
争うなんて話はもはや珍し
う の が 一 番 」。 と お っ し ゃ
とができる満足感は大きい
たとき、これほど心強いも
安心です。またこの制度は
くありません。でも
『遺言』
っていました。今回の話は、
判所選任の監督人がお目付
平成二十二年七月、高齢
のはないというものです」。
ご自身にとってだけでな
さえあれば遺産争いはほと
「老いの支度」について考
公的保険制度はなく、利用
者 セ ン タ ー に お い て、「 老
では、紹介された四つの
く、介護する家族にとって
んど防げるといいます。自
えてみる良い機会になった
ようです。
い支度の法律」と題して市
便利な法律制度を簡単に復
も役立つ制度。契約書は公
分の家族が争うなんて、誰
け役となり、任意後見人が
内全地区の月例会参加の会
習してみましょう。
正証書化されており、職務
談を積極的に行い、高齢者
ら無料講演会や無料法律相
市 川 事 務 所 代 表 )。 普 段 か
昭司法書士(司法書士法人
講師は市内在住の市川英
のがポイントです。
のうちにまとめて契約する
しっかりしている元気な今
契約はすべて、判断能力が
概要は下枠の通り。四つの
四つの便利な法律制度の
す。
ズに対応してもらえるので
が出向く場合でも、スムー
へ本人の代理人として家族
銀行や介護施設等関係機関
内容が明確なので、実際に
律 制 度 は、 本 人 に と っ て、
思います。これら四つの法
してあげていただきたいと
でご自身のメッセージを残
が一に備え、遺言という形
も想像もしていません。万
のではないでしょうか。
ります。
はあくまでも自己責任にな
員へ向けて講演会を開催し
■介護と財産
知って
得する
ました。
にとって役に立つ法律制度
の財産を下の世代に少しで
「 高 齢 者 の 方 は、 ご 自 分
す。
護と財産管理に対応する契
いきます。まず気になる介
わせて、時間差で発生して
体調や判断能力の変化に合
契約の効力は、ご自身の
任される人間にとって有益
また介護をしながら将来を
を紹介する活動をしていま
も遺してやりたいという親
約のお話。
すための四つの便利な法律
今回は安心した老後を過ご
法はいろいろありますよ。
謝の意味で遺言したりと方
も、お世話になった方へ感
り、下の世代に遺すにして
い支度の契約費用に当てた
うのが一番。ご紹介する老
はご自分の幸せのために使
せん。でも、ご自分の財産
のために使う傾向がありま
判 断 能 力 低 下 後 は、
『任意
『財産管理等委任契約』を、
がしっかりある段階では
契 約 』。 ご 自 身 の 判 断 能 力
等委任契約』と『任意後見
ておける契約が『財産管理
った事を法律的に取り決め
支払いはどうするか」とい
らうか、そのための費用や
んな介護や財産管理しても
たとき、
「誰に、どこで、ど
寝たきりや認知症になっ
務 等 委 任 契 約 』。 あ ら か じ
れ に 備 え る の が、
『死後事
のが現実なのでしょう。こ
配するだけで精一杯という
悲しみが先に立つから、手
家族にしてみれば、突然で
ースは少ないといいます。
すが、実際に実現されるケ
人の要望はたくさんありま
葬儀・埋葬について、本
契約の効力がスタートするので安心。
ポートする契約。裁判所が「監督人」を付してから
認知症になった本人の生活全般を、任意後見人がサ
4つの便利な法律制度とは
心が先に立つようで、自分
制度を具体的事例を交えて
後見契約』の効力を発生さ
め内容・予算を決めて、葬
作成に関与するので安心。
族間の相続争いを事前に防ぐのに有効。公証役場が
希望の遺産分けを実現するためのもの。遺される家
●遺言(いごん)
自分の希望する葬儀や埋葬を実現する契約。
●死後事務等委任契約
●任意後見契約
人と事前に契約した代理人がサポートする契約。
判断能力はあるが寝たきりになったときなどに、本
●財産管理等委任契約
紹介しますので参考にして
せて、生活の安全を確保し
■葬儀と遺産相続
ください。法律は知らない
儀社との打ち合わせを任せ
るもの。なんとなく終わっ
ます。
判断能力低下後の本人の
と損をしてしまうもの。逆
に法律が味方になってくれ
体育部だより
ん多数のご参加をお待ちし
身近なスポーツです。皆さ
や野球場そして無料の駐車
り広い公園でテニスコート
もあり、当日は朝七時ごろ
七月上旬は入梅の時期で
から十二時ごろまで曇りが
かなり強い雨が降りまし
元八
ちとの予報でしたが、天気
場も広く設置されていま
一位 中川
春重
予報を信じ開催することに
ております。
立つともいわれます。ゲー
二位 小綿
頼子
体育部
トボールは、適度な運動で
三位 加藤
た。天気予報では九時ごろ
健康維持につながり、精神
ブービー賞
す。
面でも若さを保つスポーツ
木藤
▼競技結果
といわれます。ぜひ皆さん
をし、決勝戦を行うことが
第1回
ゲートボール大会
四月十三日㈫、平成二十
も 参 加 し て み ま せ ん か?
ゆめくらぶ逗子
できました。
ペタンクとは、地面に描
チーム二コートでリーグ戦
参加者は六十七名で、六
いたしました。
二年度逗子市老人クラブ連
お待ちしております。
第1回ハイキング
穰
合会主催のゲートボール大
▼競技結果
一位 小坪チーム
会が行われました。
参 加 人 数 は 二 十 九 名、
人 で「 二 子 山 ハ イ キ ン グ 」
グ」を行い、参加者二十三
クラブ逗子第一回ハイキン
行くと緩やかな道で右側の
配の道を上がり、しばらく
山口になっています。急勾
にトイレがあり二子山の登
ロータリーに向かう左側
す。
で得点を競うスポーツで
りビュットに近づけること
〇g)を投げ合って相手よ
に金属製のボール(約七〇
いたサークルを基点として
に出かけました。
丘にベンチが置かれ、景色
皆さん、楽しく、いい汗
五 月 二 十 八 日 ㈮、「 ゆ め
平成二十二年度第一回グ
を見ながら休憩できる場
流しませんか。日ごろの運
二位 桜山チーム
ラ ウ ン ド・ ゴ ル フ 大 会 が、
所が二、
三カ所見られました。
動不足の解消とこれからの
チーム数は四でした。会長
五月十八日㈫に第一運動公
分岐点から上ノ山山頂の脇
体力維持のため、ニュース
日ごろ練習成果を発揮し
なり苦戦した試合でした。
舞い上がり、競技者全員か
の脇を通るコースを予定し
R東逗子駅から沼間小学校
出発しました。当初は、J
ため、急遽コースを変更し
当日、朝から雨が降った
しい会話で盛り上がり全員
ス等を飲み、情報交換や楽
岸へ出て「夢庵」でジュー
柄のトンネルを通り逗子海
帰路は同じ道を下り、長
伊藤、島田、関山
二位 ハイランドチーム
柴山、高橋 、菊地
木 製 の 目 標 球( ビ ュ ッ ト )
園 自由広場で開催されまし
にアンテナがそびえ、展望
ポーツのペタンクで健康な
三位 沼間Aチーム
た。
台からは横須賀市街、横浜
体力を築きましょう。
た方、緊張してゲートが通
ていましたが、下見の段階
無事に解散することができ
グラウンド・
ゴルフ大会
当日は天候は良かったの
の ベ イ ブ リ ッ ジ、 ラ ン ド
▼競技結果
代行の丸林さんのあいさつ
の後、可知さん指導の「み
んなの体操」で準備体操を
行い、九時二十分競技が開
ですが、風が強くグラウン
マークタワー、横浜市金沢
らない方、それぞれいろい
で道はぬかるんで滑りやす
ました。
催されました。
ドが乾いていたため砂埃が
ろ な こ と が あ り ま し た が、
く危険と判断し、葉山長柄
ゲートボールは、三十分
ホールインワンが出ると一
参 加 者 二 十 四 名 で 行 い、
駅を出発し、葉桜住宅地か
九時二十分にJR東逗子
七月七日㈬、第一回ペタ
中川、矢沢、佐原
三位 沼間Aチーム
一位 桜山チーム
次回はそれなりに頑張って
からの登山を選択しまし
方面が見えます。
挑戦されることでしょう。
の競技時間の中で平均七〇
気に盛り上がり、久しぶり
ら逗葉新道の歩道橋を渡り
ンク大会を第一運動公園自
た。
〇歩ほど歩くスポーツとい
に会った競技者は会話が弾
南郷中学校の坂を上がり南
第1回
ペタンク大会
われております。
んでいました。
健康面以外では、人間関
由広場で開催しました。
グ ラ ウ ン ド・ ゴ ル フ は、
郷上ノ山公園に到着。かな
係ができ、仲間づくりに役
(竹)
第 13 号( 4 )
ゆめほととぎす
平成 22 年(2010 年)11 月発行
平成 22 年(2010 年)11 月発行
ゆめほととぎす
( 5 )第 13 号
海 道 が 発 祥 地 と い う の は、
えて、ボールつき競争が追
ジャンケンゲーム等)に加
了した。
故もなく、予定より早く終
十月二十日㈬、ゆめクラ
か、転ぶ人があり、課題を
のと、気が急いていたため
運動会
考え、チームプレーが大切
ブスポーツ大会から改称さ
残した。
あまり知られておりませ
な ス ポ ー ツ で す。 ゲ ー ト
れた運動会が逗子アリーナ
第2回
九月七日㈫に開催し、参
ボールを始めていろいろな
で行なわれた。
加されたが、慣れていない
加人員二十三名、チーム数
経歴の人と話すようにな
ん。ゲートボールは作戦を
は、桜山、沼間A、沼間B、
り、毎日が楽しいという方
ゲートボール大会
小坪の四チームでリ
も多くいます。
の準備や座席の表示等に大
役員は八時半集合で物品
行なわれ、最
競技も順調に
午後の団体
ーグ戦を行いました。皆さ
後の綱引き
は、昨年のリ
わらわだった。
十時定刻より少し早めに
ベンジをかけ
ぜひ皆さんも参加しませ
開会式が始められ、みんな
た男性軍が多
ん日ごろの練習成果を十分
の体操で体をほぐして、競
数参加して一
んか。
桜山チーム
技が開始された。
発揮され熱戦が繰り広げら
一位
小坪チーム
▼競技結果
ゲートボールというとお
二位
れました。
年寄りのスポーツというイ
沼間Aチーム
下桜山第六長寿会
のはるか彼方に第一海軍燃
大船駅を降り広い田んぼ
本郷国民学校だった。
り、赴任したのが横浜市立
として教壇に立つこととな
を経て国民学校初等科訓導
半年間、鎌倉師範での講習
一の一日だった。卒業後の
勉強三分の二、奉仕三分の
四月一日本校に戻り一年
の汲み取りをしてくれた。
が来てくれて掃除、トイレ
た。時折本校の小使いさん
の中でのんびりと過ごし
で、戦争中であっても自然
り野原へ遠出をしていたり
見えた時、自然観察とばか
スケート、突然校長先生が
れ、氷の張った田んぼでは
の子たちは田んぼで大暴
を読んで聞かせ、二年の男
日は、山を背に崖に並び本
先生の気分だった。暖かい
子組の役目、外回りは男子
を借りているので掃除は女
精を出す毎日だった。本堂
は家の手伝い、勤労奉仕に
んど自習の形となり高学年
と教室を移し、本堂でほと
職員室を残し数軒のお寺へ
の軍人が占領し、私たちは
やがて校舎は多数の海軍
り絶句した。
さんが亡くなったことを知
ぱ頭の輝美ちゃんとお祖母
一発落ち、一年生のおかっ
ろ分教場の近くに夜爆弾が
しくなり、若葉の萌えるこ
何とか始めなくてはと教室
たが、九月からの二学期は
肩を落としがっくりしてい
目見当もつかず全職員は皆
を聞き、これからの事は皆
々分かっていたが玉音放送
戦争が終わったことは薄
た。
へ進むことができなかっ
すさまじさにどうしても前
行った。途中瓦礫と焼跡の
路伝いに黄金町方面へと
れ弘明寺まで出て市電の線
子を見て来るようにと言わ
知り校長先生から災害の様
ある日、横浜の大空襲を
矢を報いた。
三位
芳枝
料廠、その陰に目指す学校
生の受け持ちといわれ、厳
組の役目と助けあった。
例年の種目(ボール運び・
メージがありますが、実は
小 学 校 五 年 生 の 時 二・
があった。大きな銀杏の木
しく忙しい毎日が待ってい
本堂の長押には次第に戦
さほどの事
二六事件があり、逗子駅に
があり、銀杏の根元はお立
た。学校では、次々と疎開
死者の遺影が増えてゆくの
ビン立て・パン食い競争・
は憲兵が大勢いた事、大雪
ち 台 の よ う に な っ て お り、
の 子 ど も た ち を 受 け 入 れ、
が 悲 し く、 お 父 さ ん や 兄
子ども向けに考案され、北
だった事が印象深く、日本
そこで朝礼の時に校長先生
一年生の二クラスが二学期
佐藤
が戦争に入ってしまう事を
から新任の私は紹介され
郷分教場の子どもたちと勉
三学期の三カ月間だけ上
い回しの二部式授業となっ
軍の仮兵舎となり教室の使
そのころから校舎半分は陸
か ら は 三 ク ラ ス に な っ た。
本校の職員室へ集まり、報
度に胸が痛んだ。下校後は
であったりと子どもの言う
ちゃんであったり伯父さん
けない。戦中戦後を体験し
を感じた。戦争をしてはい
安堵と少しずつ平和の日々
たり、戦争から解放された
男の先生が無事復職され
れた。
の掃除、書類の整理に追わ
おぼろげながら感じた。中
た。
のように思う安泰な日々
だったのに。
強 す る こ と と な り、 一、二
た私たちは声を大きくして
女学校へ進学して大東亜
告やら打合せにひと時を過
年生の男女組の受け持ちと
戦争の空気はどんどん厳
た。
宣戦布告は校門の前で聞い
なった。二十四の瞳の大石
叫びたい。
た。卒業までの四カ月は、
ごした。
なげし
国大陸の遠い所での出来事
★会員投稿
コーナー
ラッキーな話の一端をお知
ブ海)に参加できて本当に
(今回は西インド諸島カリ
客船によるクルージング」
旅 と い わ れ て い る「 豪 華
世の中の旅で一番贅沢な
そ の 場 で『 イ エ ス、 サ ン
の よ う な 話 で あ っ た の で、
話があり、私にとっては夢
てを使ってください」との
ンティブ(優待券)のすべ
ん か? わ れ わ れ の イ ン セ
クルージングにでかけませ
十三万tの船でカリブ海の
オブ・ザ・シーズ」という
された「アドベンチャー・
船はスウェーデンで建造
した。
海クルージングが始まりま
ン港から八泊九日のカリブ
そして翌日の夕方サンファ
の 二 家 族 と 合 流 し ま し た。
び、その日の夜アメリカ人
リコのサンファン市に飛
ニューヨーク経由プエルト
日、ワイフと成田を発って
で、二〇〇九年一月二十二
カ人の方がやってくれたの
うな遊技場、屋上の大きな
きな劇場、ラスベガスのよ
店、アイススケート場、大
レストラン、おしゃれなお
光浴が楽しめ、素晴らしい
は海が見え、テラスでは日
乗 船、 シ ャ ワ ー を 浴 び て
島の観光を楽しんで、夕方
とった後、下船して一日中、
れ て い て、 船 内 で 朝 食 を
たら観光地の岸壁に接岸さ
運んでくれるので、朝起き
間に次の観光地まで乗客を
らしい事は、夜眠っている
またクルージングの素晴
はありませんでした。
ろっていて退屈などする暇
楽しませる施設はすべてそ
チュアゴルフ場などお客を
バスケットボール場、ミニ
プ ー ル、 波 乗 り サ ー フ 場、
昔のアメリカ映画で女優
しんできました。
ト中なのを忘れて食事を楽
量)は素晴らしく、ダイエッ
ムで、食事の内容(質、味、
素晴らしいダイニングルー
きなシャンデリアの付いた
キングスタイルで、夜は大
内の食事は、朝と昼はバイ
ドレスが多かったです。船
シード、女性はイブニング
出てくるような男性はタキ
加します。映画のシーンに
あ り、 皆 さ ん 正 装 し て 参
ティー(正式な夕食会)が
日の間三回フォーマルパー
で三泊して遊んで来まし
の船旅を楽しみ、マイアミ
い十六万tの船で八泊九日
ど同じコースで一回り大き
今年もまた去年とほとん
て来ました。
ランシスコで三泊して帰っ
ランシスコへ行き、サンフ
ニューヨーク経由でサンフ
帰りはプエルトリコから
した。
出となる素晴らしい船旅で
な毎日でした。生涯の思い
くその映画のシーンのよう
ことがありますが、まさし
て楽しんでいる映画を見た
西インド諸島、
カリブ海クルージング航海記
らせ致します。
キ ュ ー』 と 返 事 し ま し た。
船で十三万t(長さは三一
ディナーを楽しむ事が毎日
実は私はかつて造船所の
秀男
設計屋の出身で″一生のう
彼ら(私の仲間とその従姉
〇m 乗客数三、
一一四名乗
た。
またの機会があったら、
土手
ち一度で良いから豪華客
夫婦)は年に二回もクルー
さんが真冬のニューヨーク
逗子ハイランド
船で船旅をしてみたい”と
続きます。ディナーは九日
最新鋭船で船旅を楽しみた
計四、
二
行機に乗った後、数時間で
いと夢を見ています。
員数一、
一八一名
カリブに着き、水着になっ
けのために建てた鎌倉長谷
ジングを楽しんでいるプラ
村公朝先生(芸大名誉教授・
寺の阿弥陀様を写真に撮っ
思っていました。二〇〇八
京都愛宕念仏寺住職)のお
て画にしました。死んだ時、
今度は二十二万tクラスの
話 を 聞 き、 東 京 よ み う り
雲に乗って阿弥陀如来が菩
から毛皮のコートを着て飛
ホールで南無の会々長松原
薩を連れてお迎えに来て御
間同じテーブルで同じ担当
のボーイさんがついてサー
泰道先生他有名な先生方の
霊を極楽浄土に連れて行っ
九五名 スピードは二三・七
)の超
お話を聞いているうち仏教
てくださる画です。一年が
チナメンバーでした。その
時 速 四 三・九
ビスをしてくれました。九
が大好きになりました。そ
かりで仕上げました。そう
嫌な空気は感じていまし
時一色でした。小学校を卒
トン楽器を選びました。竹
業し上の学級へ進みブラス
翌、昭和十二年七月七日
馬の友の桐山賢次君も同じ
た。それが陸軍軍人による
以 来 使 用 し て い ま し た が、
中国の盧溝橋で日支事変が
バンド部に入部、私はバリ
私は、一九二五年隣の横
わが家では新しい教科書は
こづかれながらの毎日でし
須賀で五人兄弟の真ん中に
た。桐山君とは卒業四十余
楽器で、練習は厳しく頭を
出ました。私も小学六年か
年後「ゆめクラブ逗子」の
始まり、働き手である長兄
横須賀は海に沿った土地
ら三年間新聞配達をして家
長男だけで次男、三男はお
正月の門松飾りは、やや
で す が、 海 軍 施 設、 兵 舎、
計を助けました。
施」です。
生まれ育ち、厄年(四十二
太めの竹と松を角材に抱か
軍需工場があり海には近寄
の役員、会長を長く勤めら
三尊を画きました。先生は
一、暖かいまなざし
が陸軍に入営、母は働きに
二・二六事件でした。
豪華客船でした。部屋から
斉藤典彦先
年 十 月、 ア メ リ カ、 ケ ン
での手続きはすべてアメリ
して芸大教授
したら私はもう極楽に行け
後、船旅の契約から乗船ま
問したときに「来年一月に
小坪第四長生会
生に国宝の普賢菩薩と孔雀
るような気持ちになってし
せ飾りつけました。正月が
れず魚釣り海水浴などは禁
が編成されて私は選ばれま
れ、老人会では先輩でいろ
メキシコより帰国後、私
横山大観と肩を並べて有名
谷寺の講に毎月二回通って
孫さんで、仏画だけでなく
な日本画家の中村岳陵のお
三、やさしい言葉
二、にこやかな表情
好きな言葉は「無財の七
話を楽しく語り合いたかっ
法 話 を 聞 き、 仏 画 も 習 い、
リエで十一面観音や阿弥陀
たのに、
彼は昨年に他界し、
四、精いっぱいのおこない
た。彼は、池子第一長生会
理事会で再会、驚喜しまし
過ぎると、廃物利用で角材
止でした。小学三年生の遠
した。練習は近くの海軍通
いろ教えていただきまし
は仏教を知りたくて鎌倉長
下がりを使いました。
子どものころの思い出
明王の模写を習い掛軸にし
まい、安心して今を力いっ
は物干し柱に、竹は竹馬や
足で初めて逗子海岸にき
信学校に通い水兵さんに
た。もっと子どもの頃の昔
校 内 に「 少 年 ラ ッ パ 隊 」
竹トンボを作り近所の友だ
て、景色の良さ、松林の中
いろいろな曲を教わりまし
ぱい楽しんでおります。
ちと遊ぶといった、物を大
で梅干し入りおにぎりの旨
毎日朝礼のときの国旗掲
最近は逗子山の根のアト
切にする時代でした。
三・四月は小学校の卒業、
入学式の季節、父兄同伴の
花でも猫でも画きたい物を
揚には、
軍隊調の「君が代」
今ではお坊様方に声をそろ
ある雪の朝、教室で先生
貧乏と戦争は大嫌いだが
るようになりました。
七、 気持ちよく迎える心がけ
残念でなりません。
姿は少なかったが、私たち
を吹奏、朝礼が終わり各教
どうにもならなかった時代
仏教伝道協会にも通い西
また、頼朝が自分の厄除
五、いつくしみ深い心
に「東京で何か起きたこと
室へ向かう児童には行進
でした。
教えてくださる素晴らしい
兄弟の親は来ず、誰もが一
知 っ て る か 」 と 聞 か れ て、
ラッパで鼓舞するまさに戦
えて大声でお経をあげられ
人 で 出 席 で し た。 当 時 は、
分からないが、なんとなく
六、人に暖かい座を
逗子ハイランド
先生です。
国定教科書なるものを明治
せん。
た。
中屋敷治美
km
かったことは今でも忘れま
よき人に巡り会えて(下)
kt
歳)に移住してきました。
菊池 三郎
て大切にしています。
タッキー州の仲間の家を訪
第 13 号( 6 )
ゆめほととぎす
平成 22 年(2010 年)11 月発行
平成 22 年(2010 年)11 月発行
ゆめほととぎす
( 7 )第 13 号
私のふる里自慢
修治
引されるそうです。近くに
名で、風味が強く高値で取
でありますが、その一部を
です。歌は一番から六番ま
歌える、これも自慢の一つ
紹介させていただきます。
は別所温泉があり、北向観
音、
「愛染かつら」の巨木
一
信濃の国は十州に
「霊木」
、八角三重塔などが
半世紀振りの
ふるさと
故郷
久木第三長寿会
が荒神山です。食べるもの
に至るきれいな道路、ぎっ
らしいホテル、駅よりそこ
こうじんやま
も、着るものもなかったあ
しりと並んだ民家、それは
公園内のホテルに姉と一
のころ、その山で命をつな
走り回った思い出が懐かし
泊した後、私は心を残しつ
まさに、浦島太郎の世界で
く よ み が え り ま す。 そ の
つ、第二の故郷である逗子
ぐ た め に、 若 い 木 の 芽 を
南東方向に南アルプスが
ころの日々を思い描きなが
へと帰りました。
した。
聳ゆる山はいや高く
連なり、北西方向に木曽山
ら、五十五年振りに故郷を
取ったり、果実をむしり、
面白いことに北向観音と
流るる川はいや遠し
脈が走る、私の故郷、長野
訪れました。
流れ淀まずゆく水は
と真ん中に見える小高い山
スポーツ設備の数々、素晴
つ ゆ
沖縄の基地に悩める県民の
逗子第一永寿会
花の色はクリーム色
小さな小さな庭に
グリンピース
ついて来い
おい、黙っておれに
なっている様だ
人々のストレス解消に
ながめて下さる
石渡 綾子
ブロッコリ
ソラ豆 等々
いかがですか。驚いたこ
あれから五十有余年
感謝
歌
捨て難い私の宝
だがそろそろ身軽に
わが人生
逗子第四永寿会
岩崎
一寸油断すると・・・・・
花が開いて
そこから少し足を延ばす
とに、この歌がカラオケに
◆短
今は黙って
はじめてのミニのトマトを二本植え
実の数多く色づきを待ち
山下 君代
春の芽吹きを神にぞ祈る
心の中も整理して
念と哀悼の意を表し、お知らせいたします。
上桜山第六クラブ
小平
以上たちますと、ふる里は
善光寺の関係はないが、北
松本伊那佐久善光寺
県辰野盆地は、太平洋へと
訪れた故郷は今や、その
永塚けさ子
どちらかなと思わないでも
向観音はその名の通り北向
四つの平は肥沃の地
流れる天竜川流域の伊那谷
境連ぬる国にして
ないですが、私のふる里は
きで、南向きの善光寺と向
海こそなけれ物さわに
よく知られています。
信州更級郡、今は市町村合
きあっています。北向観音
逗子に住み着いて三十年
併で人口六万四千人の千曲
半分が削られ「荒神山公園」
面影はなく、荒神山は上の
青田、秋は黄金の波がいっ
として建設され、スワンの
の始まりにあり、春は緑の
四方に聳ゆる山々は
ぱいのところです。
万ず足らわぬ事ぞなき
寺は来世の利益を願う。そ
御嶽乗鞍駒ケ岳
は現世の利益を求め、善光
近くには「楢山節考」の
こで両方に参拝することで
浅間は殊に活火山
片方だけをお参りすること
北に犀川千曲川
苦難背負う長き梅雨なり
春風の浜去り難し逗子の海
◆詩
市戸倉上山田温泉です。
二
ベースとなった伝説の山で
現世と来世の幸福が約束さ
いずれも国の鎮めなり
月で有名な棚田群、
千曲川、
は「片詣り」になり願い事
南に木曽川天竜川
泳 ぐ 湖、 桜 並 木 の 遊 歩 道、
あ る「 姥 捨 山 」
、ここから
れ る。 と い う 信 仰 が あ り、
上杉謙信と武田信玄との戦
はかなわないといわれてい
これまた国の固めなり
南に向かって目を上げる
の見下ろす景色は、田毎の
場 と な っ た 川 中 島 古 戦 場、
ます。
愛染かつらと言えば、戦
諏訪の湖には魚多し
ワケギ
自然野菜づくり
見ても飽きないすばらしい
前、 松 竹 の 大 ヒ ッ ト 映 画、
民の稼ぎも豊かにて
屋根被う枝に黄く残る梅
あちこち体は痛いが・・・・・
白きボートの入り来ればなほ
光景で、特に四月中頃から
田中絹代と上原謙主演の
五穀の実らぬ里やある
夜を待たず夜会の如くすだく虫
木曽の谷のは真木茂り
かすむ善光寺平など、いつ
三
五月にかけて、りんご、も
「 愛 染 か つ ら 」 が 有 名 で、
しかのみならず桑とりて
句
も、あんず等の花が甘い香
戦後も大映から「新愛染か
逗子第一永寿会
おお
りをただよわせ、一斉に咲
蚕飼いの業の打ちひらけ
雛鳥が親恋しいか口鳴らす
近では二十一年五月)の善
と、安曇野、上高地などな
登録されていますので、折
葉桜の下に熟たる実のおちて
ついて行く
君代
つら」と銘打って何本か上
細きよすがも軽からぬ
光寺は珍しく無宗派の単立
ど、自慢するところはたく
がありましたら聴いてみて
踏まれて甘き香り立ちおり
山下
き誇るさまは、とてもすば
映されいずれも盛況だった
寺院です。そこから裏山に
さんありますが、信州は山
い た だ け れ ば 幸 い で す。
通り行く人達ニコニコ
向かうとその先は戸隠そば
と温泉、谷と清流な川等豊
きっと元気をもたらしてく
◆五行歌
の里、山の冷清水がそばの
富な観光地ですが、もう一
れると思います。
ひ まご
味 を 引 き 立 て う ま い で す。
つの自慢は世にも珍しい県
逗子第一永寿会
七年に一度の御開帳(最
さらに、
真田幸村の居城
「上
歌「信濃の国」です。歌詞
幾年の嵐に斃る大銀杏
鈴木 宏子
田城」
、 真 田 家 の 家 紋・ 六
に地域名とその地の情景を
逗子第一永寿会
文銭は大阪の陣で活躍した
しっかり歌いこんでいます
目の覚めるひときわ冴えしアジサイの
沼間たかとり東老人クラブ
柴山あきひこ
感謝
真田の旗印として有名です
ので、歌詞を見ればイメー
鈴木 宏子
色とりどりに咲き競う様
逗子第一永寿会
ゴミの山でも
が、三途の川の渡し賃とい
がする歌だからでしょう
ジが浮かんでくるそんな気
また、この辺り一帯の山
か、県民の大多数は誰もが
う意味があるそうです。
は信州松茸の産地として有
るい長年編集長の重責を果たされました。ここに感謝の
菊枝
らしい光景です。
彼は、学生時代からの経験を生かして編集に辣腕をふ
早春に嫁いだ孫の曽 孫 待つ
第二クラブの清田喜六氏が 10 月4日逝去されました。
国の命を繋ぐなり
「ゆめほととぎす」の創刊時のメンバーでした下桜山
そうです。
◆俳
訃報
残暑の中、高齢者センター
九月十一日㈯、長引いた
焼きとりを求める方で行列
中 庭 に は 早 く も 焼 き そ ば・
をやめたためみたいです。
ムーズでした。カードの予
を手伝ってもらい進行はス
高校の生徒さんに読み上げ
■編集後記
説を覆した今年の異常な暑
で恒例のふれあい祭りが開
二階の作品展示フロアで
参加された会員の笑顔が
さの日々。体調を崩された
定数三〇〇枚を上回るほど
開会のセレモニーがデイ
は絵や書、小物、編物、生
館内のあちこちに見られた
会員も多かったのではない
ができました。
サービスフロアにおいて行
花などバラエティに富んで
秋の一日でした。
催されました。
われました。市長・市議会
いて、見る人もゆったり歩
茶席の客が少なめでした
付け、仕込みなどの見えな
方、そして会場作りや後片
不良となり危惧しました
わが広報部も部長が体調
でしょうか。
が、囲碁も大広間の演芸大
い所で協力してくださった
体にはくれぐれも十分な配
どうぞ会員の皆様、お身
ました。
られ何とか発行にこぎつけ
が、新入部員の二人に助け
会も満員で盛況の様子でし
会員の皆様お疲れさまでし
た。
た。
駐 車 場、 駐 輪 場 の 係 の
♦暑さ寒さも彼岸までの定
長を迎え、会長挨拶から始
いていました。
好評でした。
まり、湘南保育園児の鈴割
り輪踊りで盛り上がりまし
た。
バスが着くたびにぞろぞ
ろと人の波ができました
昼近くと午後の二回にビ
(吉田)
明るく交流!
が、昨年と比べてロビーが
み
ンゴゲームが行われ、逗子
!
混雑しないのは、食券売り
慮をお願いします。
♦次回のテーマは﹁私の宝
まいります。
今後も倍旧のご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。
ゆめクラブ逗子
物﹂です。どうぞ奮ってお
礼申し上げます。
本紙は会員相互の交流と生きがい向上に、さらに内容の充実に励んで
寄せ下さい。お待ちしてお
「ゆめほととぎす」発行に際し、ご協賛いただきました皆様に厚く御
ります。
♦文章が苦手という方は住
所・氏名・電話番号を書い
て、センターにある投稿箱
に入れてくださっても結構
です。
取材に伺いますので、
よろしくおねがいします。
♦「ゆめほととぎす」は皆
様の広報紙です。一緒に楽
しく作りましょう。
満
広報部長兼編集長
野城
吉田 綾子
昌
取材
中川
副部長 服部
PC
平井 宜典
隆
校正
◆スポンサー御礼◆
第18回
ふれあい祭り
の
様子をお届け
!
しく
楽
な
ん
第 13 号( 8 )
ゆめほととぎす
平成 22 年(2010 年)11 月発行