地域社会と音楽祭

ISSN 1343−053X
地域社会と音楽祭
現在、国内外各地で音楽祭が開催されており、多くの聴衆を集めている。わが国にお
いても、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(札幌市)やサイトウ・キネン・
フェスティバル松本(松本市)、武生国際音楽祭(武生市)等、大都市圏ばかりでなく各
地で音楽祭が開催され、そのなかには国際的に評価されるものもある。
その一方で、中止に追い込まれた音楽祭も少なくない。その要因は、不況による財政
的事由も見られるものの、音楽祭そのもののあり方が問われていることも挙げられる。
聴衆、受け入れ側である地域住民、そして主催者にとっての開催意義がみえなくなった
音楽祭は存続が困難となる。その地域における意義をいかに見出すかが鍵となろう。
今号では、
「地域社会と音楽祭」をテーマとして、わが国における音楽祭の現状をデー
タや寄稿等で紹介するとともに、海外音楽祭等の事例等により、今後の音楽祭、そして
芸術文化イベントのあり方について考察する。
◇目
次◇
Ⅰ.データで見る「音楽祭」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉浦幹男・花崎あゆみ
Ⅱ.マエストロの蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
1.PMF事業の紹介 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 島田英俊
♪ボランティアと市民参画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 片山泰輔
2.宮崎国際音楽祭〜スターンさんと歩んだ6年〜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 青木賢児
Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 田中 浩
Ⅳ.欧州音楽祭事情 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉浦幹男・花崎あゆみ
♪実験を支える環境 〜ザルツブルク音楽祭から日本をみると〜 ・・・・・・・・・・・ 片山泰輔
Ⅴ.音楽祭におけるボランティア・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 太下義之
Ⅵ.未来志向の音楽祭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉浦幹男
Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 河原 泰
芸術・文化政策センターからのお知らせ
UFJ総合研究所<芸術・文化政策センター>とは
UFJ総合研究所では、平成12年7月にわが国の大手シンクタンクでは初めての芸術・文化分野
専門の研究組織「芸術・文化政策室」を創設、平成13年7月にさらなる飛躍をめざし「芸術・文化
政策センター」と改称いたしました。
当社では、既に平成9年より芸術・文化政策全般を対象とした自主研究組織「アーツ・フォーラ
ム」を立ち上げ、芸術・文化関連調査の実績を着実に積み重ねてきておりましたが、今般の「芸術・
文化政策センター」への改称を契機として、学際的なプロジェクトチームの編成を通じた、芸術・
文化に関する調査研究を一層充実させ、さらに実効性のある政策の提言をめざします。
「芸術・文化政策センター」の主要業務は受託調査研究ですが、芸術・文化が広く社会全般に影
響を有する社会的な活動であるとの認識に立ち、単に受託調査研究だけではなく、本ニューズレタ
ーの編集・発行、各研究会の委員、執筆、講演などに積極的に取り組んでいきます。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
Ⅰ.データで見る「音楽祭」
杉浦
幹男
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター 研究員)
花崎
あゆみ
(UFJ総合研究所 都市・地域再生マネジメント室 嘱託研究員)
バブル景気の頃、各地方自治体は町おこし、村おこしの旗印の下、数多くの華やかな芸
術文化イベントが開催された。世界的なスターやオーケストラの招聘を目玉とする音楽祭
が、首都圏ばかりでなく地方でも開催され、話題を集めたのもこの頃である。
一転して長期化する不況のなかで、財政的事由により中止に追い込まれた音楽祭の話題
も聞こえてくる。では、現在、わが国における音楽祭はどのような状況にあるのか。社団
法人 日本演奏連盟『演奏年鑑 1993〜2002』の「演奏会記録」のデータをもとに、わが国
におけるクラシック音楽分野の音楽祭の現状を、過去10年間の推移のデータにより追って
みた。
※データ抽出要件等については、本稿末に記載。
■成熟期を迎えた音楽祭
わが国におけるクラシック音楽分野の音楽祭開催数は、10年前の1992年には103事業であ
り、バブル崩壊後も増加傾向で推移しており、97年に一度減少するものの98年には138事業
とピークを迎えている。しかし、最近3年間は減少傾向に転じ、2001年は120事業となって
いる。[図1]
バブル崩壊後も開催し続けた音楽祭が10年間を経過して転機を迎えたこと、また、財政
事由もあって、継続を断念する音楽祭が増えていることが想定される。
図1 音楽祭開催数の推移
160
事業
132
140
138
132
121
132
124
120
113
120
111
103
100
80
60
40
20
0
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001 年
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
■東京一極集中とリゾート地での開催
2001年の開催地別の音楽祭数を見ると、東京を含む首都圏が30.8%と最も多く、北関東
(6.7%)を加えると37.5%と約4割を占めている。クラシック音楽分野を含む他の芸術文化
分野で指摘されているように、音楽祭も東京一極集中となっていることがわかる。
次に、中部・東海が23.3%、京阪神が10.8%、九州・沖縄が8.3%の順となっており、京阪
神より中部・東海で多くの音楽祭が開催されている。これは、都道府県別で見ると長野県
が8事業、山梨県が6事業等、リゾート地で観光イベントを目的の一つとして開催される音
楽祭が多いことが要因となっている。[図2、図4]
また、各地区別の推移を見ると、1998年をピークとして2001年までに首都圏(13事業減)、
中部・東海(7事業減)
、北海道(6事業減)、東北(3事業減)、北陸、京阪神(各2事業減)
で減少しており、特に、これまで多くの音楽祭が開催されていた首都圏、中部・東海で減
少が著しい。北海道等、不況による財政的事由が大きく影響していると考えられる一方で、
音楽祭相互の淘汰が始まったことが想定される。[図3]
図2 地域区分別の音楽祭開催数の割合(2001年)
中国
5.0%
四国
1.7%
九州・沖縄
8.3%
北海道 東北
2.5% 2.5%
近畿
3.3%
北関東
6.7%
京阪神
10.8%
北陸
5.0%
首都圏
30.8%
中部・東海
23.3%
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
地域区分
北海道
東北:青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島
首都圏:埼玉、千葉、東京、神奈川
北関東:茨城、栃木、群馬
中部・東海:山梨、長野、静岡、愛知、岐阜、三重
北陸:新潟、富山、石川、福井
京阪神:京都、大阪、兵庫
近畿:滋賀、奈良、和歌山
中国:鳥取、島根、岡山、広島、山口
四国:徳島、香川、愛媛、高知
九州・沖縄:福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
図3 地域区分別の音楽祭開催数の推移
事業
160
140
120
100
80
60
40
20
0
1992
北海道
京阪神
1993
1994
東北
近畿
1995
1996
北関東
中国
1997
1998
首都圏
四国
1999
2000
中部・東海
九州・沖縄
2001 年
北陸
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
北海道
東北
北関東
首都圏
中部・東海
北陸
京阪神
近畿
中国
四国
九州・沖縄
表1 地域区分別の音楽祭開催数の推移
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001
5
4
4
8
10
10
9
6
9
4
7
2
4
7
3
3
6
4
2
3
4
9
5
5
8
4
7
4
4
8
23
44
43
40
40
39
40
40
29
37
19
20
27
26
29
26
35
29
30
28
6
3
8
8
3
4
8
11
4
6
17
22
15
15
20
17
15
16
14
13
1
1
1
1
3
3
2
1
1
4
6
4
5
7
7
9
6
3
6
6
2
1
1
1
1
1
1
4
2
2
13
3
8
14
8
8
9
14
10
10
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』
(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
0
5
図4 都道府県別の音楽祭開催数(2001年)
10
15
20
4
北海道
宮城
1
山形
1
福島
1
埼玉
3
千葉
3
27
東京
5
神奈川
2
茨城
4
栃木
2
群馬
6
山梨
8
長野
静岡
5
愛知
5
2
岐阜
三重
1
新潟
1
富山
2
石川
2
福井
1
5
京都
3
大阪
6
兵庫
滋賀
1
3
奈良
2
鳥取
島根
1
岡山
1
広島
1
山口
1
香川
1
愛媛
1
3
福岡
熊本
1
2
大分
宮崎
1
鹿児島
1
沖縄
事業
30
25
2
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
(備考)記載のない県は、開催無し0を示す。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
■縮小傾向にある規模
音楽祭においてコンサートが開催された公演数を見ると、1996年をピークとして減少に
転じている。また、1音楽祭当たりの公演数についても96年をピークとして減少に転じてい
る。[図5]
一方、公演開催日数を見ると、1999年までは微増傾向にあるものの、音楽祭開催数から1
年遅れて2000年から減少傾向に転じている。1音楽祭当たりの日数を見ると3.0〜4.0日で推
移しており、95年に一度減少するものの、その後、全体として開催日数が増加している。
2000年に減少傾向に転じるものの、2001年で3.40日となっており、90年代前半の水準よりは
高くなっている。[図6]
図5 音楽祭公演数および1音楽祭当たりの公演数の推移
公演
公演
5.00
900
4.50
800
4.30
3.90
700
3.68
400
3.85
4.06
3.73
567
472 484
379
3.99
3.67
3.54
600
500
4.01
554
503
527
3.50
3.00
427
400
4.00
448
2.50
2.00
300
1.50
200
1.00
100
0.50
0
0.00
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001
公演数
年
平均公演数
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
図6 音楽祭公演開催日数および1音楽祭当たりの公演日数の推移
日
日
1200
3.70
3.64
3.60
1000
3.50
3.47
3.46
3.41
800
3.40
3.40
3.35
3.30
3.20 3.21
3.17
600
3.13
400
362
389 418
3.20
470 480
458
416
384 408
322
3.10
3.00
200
2.90
0
2.80
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001
公演日数
年
平均公演日数
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
次に、公演数規模別の音楽祭数を見ると、2001年で1公演のみの音楽祭が47事業(39.2%)
と最も多く、次いで2公演の19事業(15.8%)、4公演および6〜9公演の15事業(12.5%)の順
となっている。近年、全体として減少傾向にあるものの、特に5公演以上の音楽祭が減少傾
向にある。
こうしたことから、音楽祭が継続し、開催日数を維持する一方で、公演数を削減する音
楽祭が多くなっていることが想定され、音楽祭の規模が縮小傾向にあると言える。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
図7 公演数規模別の音楽祭数の推移(実数)
160
事業
140
120
100
80
60
40
20
0
1992
1993
1公演
1994
2公演
1995
3公演
1996
4公演
1997
1998
5公演
1999
6〜9公演
2000
2001 年
10公演以上
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』
(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
1公演
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
43
54
47
52
52
42
53
49
37
47
表2 公演数規模別の音楽祭数の推移(実数)
2公演
3公演
4公演
5公演
6〜9公演 10公演以上
13
18
8
4
6
11
14
13
9
2
10
11
20
16
6
9
13
10
19
13
14
10
16
8
14
15
14
9
16
12
16
16
15
7
18
10
21
14
14
5
18
13
14
21
19
5
12
12
18
17
8
12
11
8
19
13
15
2
15
9
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅰ.データで見る「音楽祭」
図8 公演数規模別の音楽祭数の推移(割合)
0%
10%
20%
30%
40%
50%
1994
38.8%
16.5%
1995
39.4%
14.4%
1996
39.4%
15.2%
38.4%
1998
39.2%
2001
9.7%
7.6%
10.1% 3.6%
15.8%
10.8%
4公演
5公演
7.2%
10.7%
12.1%
10.8%
8.3%
6.1%
12.1%
9.1%
14.5%
8.1%
13.0%
9.4%
3.8% 9.1%
14.4%
15.3%
16.2%
33.3%
2000
10.1%
15.9%
10.6%
37.1%
1999
8.0% 1.8% 8.8%
5.6%
12.1%
100%
10.7%
6.8%
10.6%
11.4%
90%
7.8% 3.9% 5.8%
10.6%
9.8%
12.9%
12.9%
80%
5.0% 7.4%
13.2%
10.6%
33.9%
1997
11.5%
12.4%
47.8%
1993
70%
17.5%
12.6%
41.7%
1992
60%
9.9%
12.5% 1.7% 12.5%
9.1%
7.2%
7.5%
年
1公演
2公演
3公演
6〜9公演
10公演以上
(資料)(社)日本演奏連盟『演奏年鑑』(1993〜2002)よりUFJ総合研究所作成
◆抽出・集計方法
・ 社団法人日本演奏連盟『演奏年鑑1993〜2002』(1992〜2001年データ収録)の10年間の「演
奏会記録」を対象とし、以下のキーワードにより演奏会データを無作為に抽出を行った。
音楽祭、芸術祭(文化祭)、祭典(祭)、フェスティバル、アカデミー(キャンプ、セミナー、
塾)、フォーラム
・ 抽出された演奏家データのうち、音楽祭、フェスティバル等にあたらないデータについて、以
下の条件により除外した。
a) 出演団体名称およびスポンサー行事名称としてのみ、上記キーワードが含まれるもの。
b) 行事名として上記キーワードが含まれているが、音楽を主たる目的としたものではないこと
が明らかなもの。
c) 行事名称ではなく個別の公演名称としてのみ、上記キーワードが含まれるもの。
d) 文化庁主催の国民文化祭および移動芸術祭
・ 音楽祭の一環として、東京公演等の遠隔の大都市公演を開催している団体については、デ
ータ集計上は含むものとし、音楽祭に含まれる一公演として集計した。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
レナード・バーンスタイン氏とアイザック・スターン氏−ともに20世紀を代表する巨匠
である。この2人の偉大な音楽家が種を蒔いた音楽祭が毎年日本で開かれている。札幌を中
心に開かれているパシフィック・ミュージック・フェスティバルと宮崎で開かれている宮
崎国際音楽祭(旧宮崎国際室内楽音楽祭)がそれである。
本特集号では、規模の上でも参加アーティストの豪華さでも、日本を代表するといって
良い二つの国際音楽祭の成果と今後の展望について、それぞれの主催者に語ってもらった。
1.PMF事業の紹介
島田 英俊
(PMF組織委員会
事業係長)
■PMFの創設
時代を担う若手音楽家の育成を通して、音楽文化の普及・発展をめざす国際教育音楽祭
パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)は、20世紀を代表する指揮者、
作曲家、そして教育者として知られる故レナード・バーンスタイン(1918〜1990)の提唱
により1990年から札幌市で開催され、2002年で13回目を数えている。
若手音楽家を育て、音楽文化を通して世界平和に貢献したいという、創設者故レナード・
バーンスタインの願いが、このPMF事業に込められており、「教育」と「世界平和への貢
献」がその精神基盤となっている。事業の運営は(財)PMF組織委員会があたり、日本
を代表する企業を核とするメセナ活動や行政、そして多くの市民ボランティアなどに支え
られ、毎年、7月の約1か月間にわたって札幌市を中心に開催されている。
■PMFの概要
音楽祭の構成としては、世界各国から千数百名の応募者の中からオーディションによっ
て選ばれた若手音楽家(PMFアカデミー:2002年は28か国・地域114名)を対象とした「教
育部門」、PMFアカデミーによるオーケストラやアンサンブル、教授陣による演奏会などの
「コンサート部門」、そして「音楽普及事業」の3つからなっている。
2002年は7月6日〜27日の間、芸術監督に世界的指揮者のシャルル・デュトワを迎え、レ
ジデント・コンダクターにライン・ドイツ・オペラ指揮者のチエン・ウェンピン、首席教
授兼芸術主幹にウィーンフィル首席クラリネット奏者のペーター・シュミードルという顔
ぶれが中心となり、世界各地から集まったアカデミー生を対象に指導が行われた。
また、毎年、現代に活躍する作曲家をレジデント・コンポーザーとして招き、その作品
を紹介するプログラムもあり、2002年はアメリカの作曲家ジョン・コリリアーノが参加し、
いくつかの演奏会において彼の作品を取り上げている。
ソリストには現代最高のピアニストの1人といわれているマルタ・アルゲリッチとヴァイ
オリニストのジョシュア・ベルなど多彩な顔ぶれのアーティストが加わり、コンサートと
しては計47公演で約4万人の観客を集めた。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
このほかに、音楽普及事業として、音楽教育に携わっている指導者を対象として、世界
第一級のアーティストによる音楽教育の現場を公開する<教育セミナー>を行い、2002年
はジョン・コリリアーノの「音楽講座」や札幌市内の小学校を会場にチエン・ウェンピン
の「音楽教室」などの3日間のプログラムが組まれ、全国各地から57名が参加した。また、
アカデミー生への指導や演奏会等のリハーサルを広く一般の方にも公開する「聴講生制度」
も行い、音楽の普及に努めている。
施設面においては、音楽専用ホールとしては世界的な音響を誇る札幌コンサートホール
「キタラ」やアカデミー生の練習場所としては抜群の環境にある芸術文化施設「芸術の森」
など恵まれた施設を生かしながら、アカデミー生が伸び伸びと練習できる環境づくりを心
がけている。
■PMFアカデミーについて
毎年、世界中からオーディションで選ばれた若手音楽家たちがPMFの開催地・札幌に
集い、ウィーンフィルの首席奏者をはじめとした世界的な音楽家を教授陣に迎え、約1か月
間、オーケストラプレーヤーとして、また優れたアンサンブル奏者としての密度の高い訓
練を受けている。
その成果は、札幌コンサートホール「キタラ」や北海道内の各都市をはじめ、東京、大
阪など全国各地で開かれるコンサートにおいて披露され、若さあふれるひたむきな演奏は、
多くのファンを魅了している。
ここ数年は、アジア地域の音楽家のレベルアップに伴ってアジア出身のアカデミー生が
年々増加傾向にあり、2002年は全アカデミーの半数を超える63名が参加し、今後もこの傾
向が続くものと思われる。
これまでPMFで学んだ若手音楽家も延べ1,700名を超え、卒業生は奏者または指導者と
して世界中で活躍し、新しい時代の音楽界を支える力となっており、アカデミー修了生の
約2割が、現在、プロの演奏家として活躍し、世界中のメジャーなオーケストラをはじめ
とした多くのオーケストラやアンサンブルなどで活躍している。
また、2002年からは、アジアの若手作曲家のためのコンポジションコースを設けており、
2名のアカデミー生が約2週間にわたりレジデント・コンポーザーのジョン・コリリアーノ
から作曲の指導を受けた後、自作の曲を他のアカデミー生の演奏によりコンサートの中で
披露している。
PMFでは経済的に恵まれないアカデミー生でもその能力を十分に伸ばすことができる
よう、旅費・滞在にかかる経費など会期中アカデミー生に係る費用のほとんどを主催者側
で負担している。
■運営について
当事業はPMF組織委員会が主催しているが、運営基盤を確立するため、2002年の4月
から文部科学大臣の許可を得て財団法人化したことにより、名実共に、国レベルの事業と
して広く認知されたものと考えている。
運営に要する経費については、コンサート収入の他、行政からの資金的援助は受けてい
るが、事業開始当初から我が国を代表する企業をはじめとした多くの企業による「メセナ
活動」によるところが大きく、経費の多くの部分が協賛金収入で賄われているのが実情で
ある。1999年には(社)企業メセナ協議会から特別支援企業4社(野村證券(株)、松下電器産
業(株)、日本航空(株)、トヨタ自動車(株))に対して、こうした長年の継続的な支援活動が
評価されメセナ大賞の「メセナ育成賞」が贈られた。
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
運営スタッフについては、組織委員会事務局として札幌市からの派遣職員を含め、12名
の職員が中心となり企画・運営しているが、この他に会期中は地元のボランティアグルー
プ「ハーモニー」がアカデミー生へのサポートやグッズの販売などを担っており、事業を
実施する上において大きな役割を果たしている。
■今後の課題と方向性について
当事業の収入の多くが、企業からの協賛金と自治体や公的機関からの各種補助金や助成
金で賄われているなか、咋今の景気低迷の影響もあり、当組織委員会の財政状況も次第に
厳しくなってきている。特に、地元、北海道は全国的に見ても景気の落ち込みが顕著で、
地元企業や自治体からの協賛金も前年より減のところが増えていることから、今後は、今
まで以上に経費の削減をしていく必要があると考えている。
こうしたことから、今年は従来から招聘していたゲストオーケストラによる演奏会や、
アジアの伝統音楽シリーズも休止し、本来の教育音楽祭を核としたプログラムを中心に組
む予定にしている。
PMF事業を継続していくためには、引き続き多くの企業、行政、市民の支援が必要で
あることから、これからも魅力あるプログラムを提供しながら、優れたオーケストラプレ
ーヤーやアンサンブル奏者の育成に努め、多くの優秀なアーティストを育てていくことが
こうしたサポートしていただいている方々に対して応えることであり、教育音楽祭として
の地位を高めていくことと考えている。
経済状況が厳しいなか、一流音楽家の演奏会を低廉な価格と多彩なプログラムで提供す
ることは、地元のクラシックファンの拡大にも寄与していると考えており、この事業に対
する個人の方々からの支援をいただくための賛助会員制度でもある「PMFフレンズ」の
会員数も約900名を数え、徐々に増えている傾向にある。
札幌発の国際的文化事業として、市民や国内外の音楽ファンへの認知度も年々高まり、
今後も札幌の夏の風物詩として世界に誇る教育音楽祭の地位を確固たるものにしていくこ
とをめざし、組織委員会としても、多くの方々の期待に応えるよう魅力ある事業にしてい
きたいと考えている。
(URL http://www.pmf.or.jp)
PMF練習風景
PMFコンサート公演
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
♪ ボランティアと市民参画
片山
泰輔
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター 主任研究員)
PMFの10年以上にわたる輝かしい歴史を振り返るとき、それを支えてきた市民のボラ
ンティア活動の存在を忘れることはできない。組織委員会のもとでの公式な存在としてフ
ェスティバルを支えるボランティア・グループ「ハーモニー」がそれである。第1回のPMF
の開催が急遽決まった際に、主催者側の募集に応じて市民が集まったのがきっかけで活動
がはじまったが、次第にボランティア活動を行う市民同士の連携が強化され、ボランティ
ア・グループとして主体的な活動を行うようになって現在に至っている。2002年度は78人
の会員が1年間を通じて様々な活動を行っている。具体的な活動としてはフェスティバル運
営の様々な分野にわたる。新千歳空港でのアカデミー生の出迎え、インフォーメーション
コーナーの運営、日本文化体験プログラムの開催(野点、着付け、書道等)など、アカデ
ミー生の支援活動、PMFグッズの販売、市民とアカデミー生をつなぐ市民交流活動とし
てアカデミー生を市民の家庭に受け入れるホームビジットプログラム等、多岐にわたって
いる。こうしたフェスティバル開催中の活動に加え、年間を通じて会報誌「音色」の発行
や、研修会等を実施している。現在は任意団体であるが、PMF組織委員会からグッズ販
売の権利を譲り受け、その販売収入を主な財源として自立的な活動を行っている。
PMFには、世界の一流アーティストが演奏を行うコンサートや、一般市民向けの音楽
普及行事という側面もあるが、一番の中心は若い人材の教育である。
「ハーモニー」ボラン
ティア活動に参加する人々のきっかけは、音楽が好き、英語を活かしたい、等、様々との
ことであるが、赤石知恵子事務局長は、「活動の一番の喜びは、若い音楽家が成長していく
こと」であると言う。教育音楽祭の本質が市民の賛同を得て支えられていることが伺える。
さらに、時間的な制約等から、こうしたボランティア活動には加われないが、若い音楽
家の卵たちを応援したいという別の市民のグループが札幌にはある。PMFの特集番組の
制作にも関わっていたHTB北海道テレビ放送の経営企画室長横山憲冶氏が主催する
「PMF・MEETING」がそれである。佐渡裕氏やペーター・シュミードル氏等、PFMの中
心的音楽家を招いての交流会を毎年開催し、PMFへの熱い想いを語りあっている。横山
氏は、「PMFの”サポーター勝手連”」と自らを呼ぶが、こうした市民の応援がPMFを陰で支
えていることは間違いないであろう。
音楽には、それを鑑賞する楽しみ、自ら演奏する楽しみに加え、音楽家を育てる楽しみ
がある。おそらく育てるという行為は、生物としての人間の最も本能的な行動でもあり、
この喜びが市民の共通の財産となることで、PMFは札幌の大地に定着したイベントとし
てますます発展していくことになろう。
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
2.宮崎国際音楽祭 〜スターンさんと歩んだ6年〜
青木 賢児
(宮崎県立芸術劇場 理事長)
■最期の演奏会
ヴァイオリンの神様といわれ、20世紀の世界の音楽界をリードして来たアイザック・スタ
ーンさんの生涯最期のステージは、2001年5月15日。宮崎県立芸術劇場のコンサート・ホー
ルだった。曲目はモーツァルト作曲「ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493」、共演者はピ
アノ:ジョーゼフ・カリクシュタイン、ヴィオラ:川崎雅夫、チェロ:原田禎夫の各氏だ
った。その後「第6回宮崎国際室内楽音楽祭」を終えニューヨークに帰ったスターンさんは、
カーネギー・ホールでのマスタークラスのレッスン中に体調を崩し、9月22日に亡くなった。
米同時多発テロ事件の11日後であった。
10月30日には、パールマン、五嶋みどり、ズーカーマン、ヨーヨー・マなどによる追悼
演奏会が行われ、今年の9月22日の一周忌には「フィルムとビデオによる回顧」が、いずれ
もスターンさんが館長として40年余つとめたカーネギー・ホールで開催された。去年の10
月に刊行されたカーネギー・ホールのブックレットには、
「国境を越えて」と題してスター
ンさんと宮崎国際音楽祭との関係が、1ページにわたって述べられている。
「アイザック・スターン氏は多様な文化や伝統の交流について、文化大使とでもいうべ
き特別な能力を持っていた。その一つに宮崎国際音楽祭の立ち上げを助け、教育プログラ
ムを根付かせたという、素晴らしい功績をあげることができる。コンサートに出演するば
かりでなく、アジアの若い音楽家たちへのワークショップは、宮崎国際音楽祭のハイライ
トともなった。スターン氏は宮崎県立芸術劇場の素晴らしいホールでの演奏を、いつも楽
しみにしていた。亡くなった後、このメインホールはその栄誉をたたえてアイザックスタ
ーンホールと命名された。」(抜粋)
スターンさんは1996年の第1回以来、宮崎国際室内楽音楽祭に6年連続して参加して下さ
り、亡くなってからも音楽祭とカーネギー・ホールとの関係は更に深まっている。当初の
企画段階を振り返ると、想像も出来ない展開だったという思いに駆られる。
スターン氏最後のステージ
アイザック・スターン氏
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
■フランクフルトの夜
思い返すと宮崎国際音楽祭は、1993年9月29日にドイツのフランクフルトでスタートを切
った。というのはこの日ヨーロッパ演奏旅行中だったN響は、ベルリンでの演奏を無事終
わってフランクフルトに来ていた。当時、徳永二男さんがコンサートマスターであり、私
が理事長という立場であった。ホテルのバーで一息ついていると、徳永さんがやってきて、
N響を辞めて新しい音楽活動に転進したいという。驚いて詳細を聞いてみると、確かに西
洋音楽における日本人の活躍は近年目覚しいが、N響に対する熱烈な「ブラボー」にして
も、日本のオーケストラにしてはよくやるという域を出ないのではないか。日本人がこれ
以上に西洋音楽を極めるには、欧米の芸術文化の真髄に触れるとともに、思想、宗教、価
値観などを理解することが不可欠であり、そのための新しい形の音楽祭を思い描いていた
のである。
私の方も出身地である宮崎にホールが落成するので、運営を手伝ってほしいという要請
を受けていた。宮崎といえば極端な文化の一極集中型国家日本にあって、芸術文化の過疎
地の一つであることは間違いなかった。これからの日本にとって最大の課題は「地方分権」
であり、政治、経済、産業とならんで豊かな文化が国のすみずみにまで根付くことが、先
進国としての必須の条件と考えて来た。
こうした状況の中で1993年11月22日、宮崎に大中小3つのホールと10室の練習設備を内蔵
する、地方都市としては画期的な文化施設が落成した。とりわけムジークフェラインをモ
デルにした1,818席のクラシック専用ホールは、デザイン、音響ともに超一級ではあるが、
宮崎市の人口30万、県の人口120万、クラシック人口不明の環境の中で苦難の船出が予想さ
れた。問題はハコモノ行政への批判よりも、どのようにしてこの施設が地域社会に対して
真に有効な役割を果たせるかである。
地域社会の心に響く運営と、文化を渇望する人々の気持ちをつなぎ、それを育てるには
どうしたらいいのか。様々なコンテンツ・プランを練り上げる中に、徳永さんの「音楽祭
構想」を宮崎県立芸術劇場の柱として県に提案してみることにした。その前に、寝食をと
もにして西洋音楽とその背景にある西欧の文化と精神を学ぶための、超一流のリーダーの
選定を急がなければならない。徳永さんは適任者としてはアイザック・スターンさん以外
には考えられないというが、世界の音楽界のリーダーであり、カーネギー・ホールの館長
として多忙を極めるスターンさんが、日本の地方都市の音楽祭に関わってくれることなど
夢のまた夢としか思えなかった。
宮崎県立芸術劇場コンサートホール(アイザックスターンホール)
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
■スターンさんとの対話
スターンさんは、それまでにも数知れず日本各地で演奏を行い、音楽大学での客員教授
としての経験もあり、日本の音楽事情を熟知していた。
それでも当たって砕けるつもりで宮崎の音楽祭計画の打診をしたのだが、案の定スター
ンさんは宮崎の地名も知らず、音楽祭を開催するための設備をはじめ、人的、財政的環境
についてもほとんど信用されなかった。ところが、幸運なことにアイザック・スターンと
いう人は好奇心が強く、機関銃のように質問する性格の持ち主だった。
「何故、私が宮崎に行かなければならないのか?」「音楽祭は誰のために、どんな目的で
企画されたのか?」「教育プログラムはどんな内容か?」「県民はその音楽祭にどんな期待
を持っているのか?」「アジアの若者たちはこの音楽祭に関心を持っているのか?」「内外
の演奏家としてどんな顔ぶれを考えているのか?」「財政面での裏付けは?」などなど。1
年近くにわたって、質疑応答が直接間接に繰り返された。タングルウッド音楽祭にも呼び
出され、ソウルでの演奏会にも突然お呼びがかかり、その度に機関銃のような質問をあび
せられた。
その頃、宮崎県立芸術劇場でニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートを行なっ
たが、ホールのアコースティックについて、ニューヨークフィルは特別の関心を持ってく
れていた。スターンさんは依然として宮崎県立芸術劇場の環境について信用してくれない
ので、ニューヨークフィルに確かめてくれるように頼んだところ、ニューヨークフィルは
宮崎県立芸術劇場が日本でも指折りのすぐれた設備であることを率直に推薦してくれた。
日本の社会がその頃大きく変化していることに、スターンさんは持ち前の勘ですぐに気が
ついたようで、突然宮崎の音楽祭にとりあえず1回だけ来てみるということになった。こう
してスターンさんの1996年3月の「第1回宮崎国際室内楽音楽祭」への参加が決まり、徳永
さんを総合プロデューサーにして、音楽祭の内容も含めた骨格が組み上げられていった。
タングルウッドでのスターン氏との会談
■音楽祭のコンセプトと進化
音楽祭は弦楽器による室内楽を中心に据え、スターンさんをリーダーにして内外の名手
による高度なアンサンブルをめざすことにした。第1回の「宮崎国際室内楽音楽祭」は10日
間の日程で、5回のメイン・コンサートと日本の若年層を対象とするヴァイオリン講習会、
それに宮崎県の小学6年生1,800人を招待する「子供のための音楽会」という内容だった。こ
の第1回音楽祭で、スターンさんは7曲を演奏し、講習会の講師をつとめるとともに、「子供
のための音楽会」にも参加して自らの生い立ちと音楽家としての人生を話してくれた。
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いままでの7回にわたる音楽祭に参加してくれた海外の演奏家を出演順にあげてみると、
スターンさんをはじめとして、イェフィム・ブロンフマン、ボリス・ベルキン、アン・ア
キコ・マイヤース、リー・チェン、東京クワルテット、エマニュエル・アックス、ディヴ
ィッド・フィンケル、ウー・ハン、マルティン・ハーゼルベック、ラインホルト・フリー
ドリヒ、チョーリャン・リン、ジュリアード・クワルテット、ジョーゼフ・カリクシュタ
イン、カール・ライスター、ピンカス・ズーカーマン、ダン・タイ・ソン、ウラディーミ
ル・アシュケナージ、ジャン・ワン、ハイメ・ラレード、シャロン・ロビンソン、マイケ
ル・スターンと多彩な顔ぶれが並ぶ。日本側は徳永二男さんをはじめ、トップ・アーティ
ストが100人を超える。
その後、スターンさんは「私は一人のゲスト・アーティストに過ぎない」といいながら、
音楽祭に対する要求は年毎に難度を増し、音楽祭は形も内容も進化を重ねて行った。メイ
ンホールにおける5回の演奏会を中心に、県内の新設ホールなどを活用した3回の「サテラ
イト・コンサート」、松形宮崎県知事の希望によるアジアの若者を対象とするワークショッ
プなど、日程も2週間をこえるほどになった。昨年亡くなった韓国音楽界の長老、林元植
氏をはじめ、ソウル大学、北京中央音楽院、上海音楽院など多くの音楽関係者が熱心に協
力してくれた。ワークショップでは、日本語、英語、中国語、韓国語が複雑に飛び交うよ
うになり、国際音楽祭の難しさともどかしさを身に沁みて実感するようになった。
宮崎の小学校288校の6年生はおよそ1万2千人だが、そのうちの1,800人を招待する「子供
のための音楽会」は、NHKによってドキュメンタリー番組「山の子供たちへの招待状」
として制作放送され全国的な反響を呼んだ。この演奏会の模様は毎回ビデオに収録して、1
万2千人全員が見られるように全校に配布している。
アイザック・スターンさんがその後も宮崎に来続けたのは、年毎に上げていくハードル
を宮崎の音楽祭が誠実にクリアーし、アジアを巻き込んで進んで行く姿勢に、のっぴきな
らないものを感じたからではないかと思う。それとともに、音楽祭を支える地元ボランテ
ィアの人達も増えて、高校生から70歳をこす年配の方々まで、100人以上の人たちが集まり
「ボランティア通信」を発行するまでになった。また、パーティの好きな音楽愛好家の人
たちは、「タキシード・クラブ」なる同好会をつくり、演奏家を囲んで盛大にワインとバー
ベキューの会を催すほどになった。
クラシック音楽が自然に県民に溶け込み、外国人のアーティストとの交流が身近に行われ
るようになって行った。
第5回宮崎国際室内音楽祭
「子供のための音楽会」風景
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
■音楽祭の社会的役割
毎年の音楽祭への入場者の数は、平均して1万5千人前後。マスタークラスや野外コンサ
ート、子供のための音楽会は無料なので、発売入場券は1万1千枚ほどになるが、そのうち
のおよそ20%が県外で売れている。それも出来るだけ低料金でというポリシーもあって、
最高額を6千円に押さえている。
音楽祭の総経費はおよそ2億2千万円前後、その3分の2が県費でまかなわれ、残りの3分の
1が各種財団からの助成やメセナによる寄付によっている。経済状況の低迷はこのような文
化活動に敏感に響いて来るので、安定的な音楽祭の運営にはなまなかな努力では追いつい
て行けない。
これまでは「アイザック・スターン」のビッグネームで、チケットの完売が可能だった
が、スターンさんが亡くなったことで、「宮崎国際室内楽音楽祭」も大きな転機を迎える事
になったと思う。音楽祭の名称も第7回から「宮崎国際音楽祭」と変えた。かねてからタイ
トルが長すぎて覚えにくいという意見が多かったのと、演奏曲目もシンフォニーやコンチ
ェルト、それに声楽も入るようになって室内楽をはみ出すことが増えてきたためである。
ポスト・スターンについての関心も次第に高まり、幾人ものアーティストが各国から手を
差し伸べてくれている。そのような申し出を聞くにつけ、アイザック・スターンさんの偉
大さと、多くのアーティストたちの宮崎国際音楽祭に寄せる関心の深さを思い知らされる。
7月1日はカナダの建国記念日である。この日をはさんで、カナダ国立アートセンターと
オタワ大学を会場に音楽祭が行われていた。総監督はピンカス・ズーカーマンさん。マス
タークラスには、北米からは勿論のこと、中南米をはじめヨーロッパ、アジアから多くの
若者たちがヴァイオリンを抱えて集まっていた。様々なかたちのワークショップを一週間
にわたって見学させてもらい、宮崎国際音楽祭の今後について話し合いをもった。ズーカ
ーマンさんと徳永さんの対話の内容は、今年の5月に新しい音楽祭の形で公開されることに
なるが、ポスト・スターンの音楽祭に相応しい画期的なものになると確信している。
日本には2,500をこえるホールがあり、年間100に及ぶ音楽祭が開催されているという。し
かも、今もなおホールの建設が続いている。一方、このような現状をハコモノ行政といっ
て批判することも日常化している。しかし、本当にホールをつくることが無駄なことなの
だろうか。ヨーロッパに行くと、どんな小さな町にもホールがあり劇場がある。大衆社会
の文化が急速に低俗化して行くのを見る時、貧困や飢餓との闘いと同じく、現代社会にお
ける精神の荒廃との闘いが深刻な課題となっている。わが国には、そのためのインフラが
極端に不足していると思う。
宮崎県立芸術劇場が落成してから間もなく10年になる。その間に宮崎県内の地方都市に
も、いくつものホールが誕生した。去年の音コン声楽部門で、宮崎県出身の若者がはじめ
て優勝した。全日本合唱コンクールでは、宮崎県の二つの高校と一つの短大が部門別にそ
れぞれ金賞をとった。器楽の分野でも今まで考えられなかったような、若者たちの活躍が
目につくようになった。
アイザック・スターンさんとの音楽祭がどれほどの社会的インパクトをもたらしたか、ま
だ定かには分からないが、わが国にも文化の多極化が着実に進んでいると考えたい。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅱ.マエストロが蒔いた種 〜北と南の音楽祭の今後〜
スターン氏の演奏
第6回宮崎国際室内音楽祭
スターン氏の指導
第7回宮崎国際音楽祭
Photo by: 三浦 興一
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜
Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜
田中
浩
(武生国際音楽祭推進会議 理事)
■「フィンランド音楽祭イン武生」の開催
武生国際音楽祭は、1990年6月に第1回目を「フィンランド音楽祭イン武生」として突然
始まった。最初は毎年の開催をめざしたものではなく、前年に代わったばかりの市長に民
間のグループから急に持ち込まれた音楽祭開催案で、市の財政的な支援の約束のもと、取
りあえず1回、演奏家滞在型の音楽祭を実施してみようと始めた。武生市文化センターを事
務局にして武生市関連の組織的代表委員と個人の有志で30名の実行委員会を組織し、国際
交流と音楽文化の振興をうたい文句にして企画を練り、フィンランドの音楽家とコンサー
ト中心の音楽祭を実行した。
問題は多くあったが、とにかく「思い切って、楽しく、自然体で」をモットーに計画を
練り、フィンランドに関する情報を集め、自然体の国際交流としてコンサート終了後のア
フターパーティを考え、音楽監督の舘野泉さんの協力による「フィンランドと音楽につい
て」のフィルム・レクチャーコンサートを行ったりしながらも、準備不足のまま音楽祭に
突入した。このフィンランド音楽祭にフィンランドの現代の音楽がかなりの比率で当たり
前のこととして入っていたことが、この後の武生の音楽祭にも影響を残していく。
■地域社会が支え続ける音楽祭
無謀と思えた音楽祭は好評裏に終えたが、2年目の音楽祭を続けるに当たっては、かなり
の反対意見もある中で、民間の個人参加の有志実行委員を中心に話し合い、継続して開催
することを決定した。その有志の呼びかけでさらに新たな実行委員を募り約50名の実行委
員会体制で2年目に臨んだ。
3年目からは音楽祭の名称を現在の「武生国際音楽祭」に変え、一年ごとに組織し音楽祭
が終われば解散する実行委員会でなく、武生国際音楽祭推進会議という年間を通して活動
し、実質的に財政的にも責任を持つ組織に改革し、10回を目標に音楽祭を継続することを
めざして再スタートした。
また、この年と次の年はフィンランド音楽祭との関係を持ちながらも、武生独自の企画
を多くして、ピアニストの高橋アキさんのアドヴァイスを得ながら、武生が直接参加アー
ティストを招聘することも始めた。この2年間は財政的理由にもよるが、現代音楽の分野の
演奏家やプログラムが増え、武満徹氏が参加するなど音楽祭の特色となると同時に、一般
的なクラシックファンや市民からは、聴きづらい、わかりづらいとして批判の声も多くな
り、聴衆も減少し音楽祭継続に危機感を持つようになる。
5年目から音楽監督として福井県出身の指揮者小松長生氏を迎えて、推進会議の理事会構
成も有力な経済界の方達にも加わってもらい組織としての社会的信用を増すと共に、音楽
祭の内容を市民が受け入れやすい方向に転換した。選抜による中高生のブラスバンドやオ
ーケストラと共演するフェスティバル合唱団の市民参加の形態と、キッズコンサートやア
ジアの音楽などの親しみやすい曲目を取り入れることによって聴衆の目減りに歯止めがか
かり、フォーラムやシンポジウムを開催し、市民の理解を広め、公的補助金や地元企業協
賛金の獲得にも力を入れ、音楽祭継続が安定化した。その中にあっても招待作曲家として
細川俊夫氏が参加するようになり、現代の音楽のプログラムも継続して取り込んでいった。
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Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜
小松長生音楽監督とは3年の任期と1年の延長期間をもって契約を終了した。その後はそ
れまでのつながりと細川俊夫氏をアドヴァイザーとして、武生独自のアーティストを招聘
し音楽祭を続けてきた。
10回目となった1999年の音楽祭の終了後に再び今後について協議した結果、さらに音楽
祭を継続してゆくこととなり、細川氏にアドヴァイザー兼招待作曲家としてさらなる協力
をお願いし、音楽祭のテーマを明確にし、方向性を将来に向けての展望を持てるような日
本であるべき姿の国際音楽祭に置き、様々な難関を乗り越えて13回目の音楽祭を2002年6月
に終えて、2003年からは細川氏が音楽監督に就任した。
また、武生国際音楽祭の将来のあるべき姿を模索する中で、細川氏の提案で2000年に3日
間の作曲セミナーを開催、その成果をふまえて2001年からは細川俊夫氏を音楽監督として
武生国際作曲ワークショップを音楽祭に併設して行いながら、国際音楽祭としての充実と
継続を確かなものにするよう努力している。
■事業推進上の課題・問題点
13年間続けてきた音楽祭であり、よそ目にはすでに定着したように思われるが、内情は
これまでも赤字になった年も多く、一年一年の音楽祭を乗り越えるために精一杯であった。
これからは先まで見通した展望と企画、それに伴う参加者のスケジュール確保などが必要
になる。そのためには財政的な安定が最も大きな課題であり、公的な補助金・助成金の安
定的確保、企業の協賛金や全国のメセナ財団などの助成獲得、入場料収入増加の可否が問
題点となる。
また、常にマンネリ化する危険性をはらむ推進会議の組織的な課題としては、次の時代
と音楽祭を担う若い会員の獲得による組織の増強が必要であり、さらに当初の有志会員の
疲労感と、その後入会した会員との間の意識のずれを克服し、リーダーの世代交代を可能
にする後継者養成が急務の課題となっている。
地元市民のさらなる支援と評価を獲得して、聴衆数の増加、合唱団のレベルアップを実
現し、細川俊夫氏との信頼関係の確立と連携強化のもとに、音楽祭のテーマ性とプログラ
ムへの一般市民の理解と賛同を広げる努力を続け、理想と現実の溝を乗り越えて音楽祭の
展望を確かなものにすることが課題となっている。
■地域社会における課題・問題点
新しい創造的な音楽こそが、感性豊かな新たな聴衆層の創出に可能性を残している。ク
ラシック音楽のみならず幅広く邦楽や雅楽、民族音楽も含めて、地域にも現代の音楽を聴
き続ける聴衆層を掘り起こしていけるかどうかが大きな課題となる。また、より広い範囲
の関西や中京方面さらに東京や全国から武生の音楽祭のプログラムに注目して、聴きに来
る音楽ファンを獲得することも課題である。そのためには開催時期の変更も視野に入れて
取り組む必要性を感じている。
さらに単にコンサートを聴くだけでなく、武生に一定期間滞在して、お昼は市内や近隣
の越前打ち刃物、越前陶芸や越前和紙漉きなどの見学、体験や観光で過ごし、夜はコンサ
ートを楽しむ音楽祭ツアーの実現に向けては、宿泊施設の条件整備や旅行代理店との提携
なども課題となってくる。
また、地元の理解と協力をより強くするために、武生市や地元企業などのやむを得ずお
金を出している現状から、音楽祭を将来のために地域社会が支える地域の文化芸術的運動
として捉え、積極支援と協力体制の方向に転換できるかどうかも大きな課題である。
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Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜
■今後の展望
細川俊夫氏と私たちの理想とする音楽祭の実現のためには、より困難な道を選ぶことに
なるが、武満徹氏が武生で言い残されたように、続けることを最優先にして推進会議の仲
間と地域の人たちと共に、世界に誇りうる国際音楽祭となるまで継続に熱意を持ち続けた
い。
音楽祭企画と作曲ワークショップ企画とのより明確なタイアップにより斬新なプログラ
ムを明確に打ちだし、音楽祭の特質をアピールすることで、武生国際音楽祭の認知度を高
める。音楽家が滞在するだけでなく全国から音楽ファンが期間中武生に滞在し地元市民と
共に、新しい音楽創造の時空を共有する。作曲家と演奏家と聴衆の三者が武生で出会い新
しい音楽創造の現場を体験する、他にはない刺激的なプログラムと音楽祭を続けて、日本
の文化・音楽状況に大きな風穴を空けたい。
音楽祭の安定と定着のためには、入場者を増やし入場料による収入割合を現在の4分の1
からせめて3分の1に、できれば2分の1に増やすことで、自己責任で得る収入の割合を増や
し、さらに音楽祭の質の向上を可能にし、音楽祭のメッセージと特質を打ち出していくた
めの力としたい。
■地域社会への貢献
武生は歴史的遺産や豊かな自然も多く残っているが、そこに新しい創造的な刺激と芸術
文化運動の足跡が加わることにより、新たな地域の魅力を創出する。どこでも行える音楽
祭でなく、武生独自の世界に誇りうる内容の音楽祭を続け、それを地域が支え、市民が参
加し大人の楽しみとして楽しむ。この人々の感性を豊かに育む芸術文化の祭典は、地域と
地域市民の感性を試し、磨き、豊かな文化的地域づくりに貢献する。豊かな地域は豊かな
人間性を育てる。この地域と市民の感性の磨きあいが循環すれば、そこに住む人たちにと
って誇りうる文化と地域社会が形成される。そうなれば地域への教育的効果(人材育成)、
文化的効果(芸術文化の振興)に加えて、経済的効果(地域経済の活性化)も続々と生ま
れてくると考える。
また、推進会議という民間の組織の音楽祭継続にかける熱意と努力は、地域のほかのグ
ループや団体にも影響を与えて、武生に元気をもたらす運動が活発化してきている。
■世界から武生へ、武生から世界へ
武生国際音楽祭と武生国際作曲ワークショップは、細川俊夫氏の世界的なつながりと日
本のこれからの音楽に向ける情熱に負っているところが大きい。この世界的評価も高く、
世界の音楽事情にも精通した細川俊夫氏の熱意と理念を具体的に日本で実験・実行する唯
一の場が武生の音楽祭と作曲ワークショップであり、すでに日本国内においても高い関心
と注目を集めている。
「ものから心へ」の転換が叫ばれて久しいが、日本人の生活と精神は狂ったままで、人
生や地域社会に成熟した芸術文化、精神文化を求める方向に向いていない。政治・行政の
世界も経済界も文化的にも自信をなくし、未来への確かな展望も、日本の将来像も描けて
いない。音楽においても良い耳を持った本当の意味での音楽の理解者・愛好者は数少なく、
現状はどこから見てもおかしい。これらの状況に一石を投じて、本来の音楽と音楽祭のあ
り方を提起し、糺すのが武生の音楽祭の活動である。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅲ.武生国際音楽祭 〜世界から武生へ、武生から世界へ〜
武生国際音楽祭は今一度原点に立ち戻って、創造的な聴衆層が増えることを願い、クラ
シック音楽の流れを作曲家の視点で捉え、その芸術としての理解を深めるため、信頼でき
るアーティストたちによる、信頼できるプログラムを提供し続け、日本人の音への感性を
取り戻す音楽祭として、今後のわが国音楽界の展望を切り開きたい。
<世界から武生へ、武生から世界へ>のスローガンで始めた作曲ワークショップは、ま
さに日本の音楽界に創造の種を植え、若い芽に水を注ぐとともに、新しい世界の風を吹き
込み、熱い音楽創造の体験と研鑽の場所を提供するものである。世界から武生に集まる若
い有能な作曲家達が交流と交換を深め、演奏家と作曲家との共同作業による新作初演の練
習からコンサートまでを体験できる、日本における新しい試みである。この積み重ねは将
来の日本の音楽界を担う作曲家を世界に送り出し、日本の音楽界をより活性化し、新しい
聴衆層の発掘や開かれた感性を持つ大人の芸術文化の振興にも貢献するものと考えている。
■武生国際音楽祭の概要
開催期間
毎年6月上旬の8日間
開催場所
福井県武生市と周辺市町村
武生市文化センターをメイン会場として、その他周辺市町村会場、市内外の小中高校、寺社、レスト
ラン、病院、まちなかなどで約30〜40回のコンサートを中心に開催
音楽監督
細川俊夫
参加演奏家
招待海外演奏家・団体、招待国内演奏家・団体、地元合唱団など(オーケストラ、アンサンブル、ソ
リスト、作曲家、評論家)
近年の音楽祭テーマ
2001年「ブラームスとシェーンベルク」
2002年「ベートーヴェンとアルバン・ベルク」
2003年「モーツァルト、シューベルトとアントン・ヴェーベルン」
開催目的
参加アーティストが期間中、武生市に滞在し、メイン会場の武生市文化センターのコンサートを始
め、市内・外のいろんな会場・場所で幅広いプログラムのコンサートを開き、より多くの市民とのふ
れあいと交流の中から音楽に親しむ新しい聴衆層を発掘し、明確なテーマ性を持つプログラム提供に
よる独自の音楽祭のあり方を模索しながら、これからの音楽文化の創造と発展に資する。
市民組織の武生国際音楽祭推進会議が企画運営するフェスティバルであり、地域の魅力と活力を生み
だし、教育的効果、文化的効果、将来的には経済的効果をも視野に入れた音楽祭継続をめざしている。
作曲ワークショップ
細川俊夫氏を音楽監督として、2000年に3日間の作曲セミナーを開催、2001年から武生国際作曲ワ
ークショップを併設。
予算規模
約4,000万円前後
参加聴衆数
約1万人
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
Ⅳ.欧州音楽祭事情
杉浦
幹男
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター 研究員)
花崎
あゆみ
(UFJ総合研究所 都市・地域再生マネジメント室 嘱託研究員)
■はじめに 〜欧州における音楽祭〜
欧州で開催される音楽祭は、大小合わせて年間100を超えると言われ、その歴史は第二次
世界大戦前にさかのぼることができる。最初の「音楽祭=Music Festival」はどれか、あるい
は何をもって音楽祭を示すのかについては本稿で議論しないが、音楽祭が近代化の時代潮
流のなかで 創造された非日常空間 として、すなわち仕掛けられたイベントとして出現
したことは想像に難くない。人々は多忙になり、また、その関係性が希薄となっていくな
かで、ほっと一息をつく憩いの空間として、(特に第二次世界大戦後に)音楽祭は増加して
いく。
すでに半世紀以上を経過した欧州の音楽祭は、それぞれに様々な歴史を持ち、異なる特
徴を持っている。
本稿においては、昨年11月以降に実施した欧州音楽祭の推進主体に対するインタビュー結
果をもとに、フランスおよびイタリアの3事例を紹介する。
1.エクサン・プロヴァンス音楽祭 Festival International d’Art Lyrique d’Aix‑en‑Provence
南フランスのプロヴァンス地方、アルプス・コート・ダジュール州の小都市エクサン・
プロヴァンスは、後期印象派の画家ポール・セザンヌが生まれた地として知られており、
その近郊にはセザンヌが好んで描いたサント・ヴィクトワール山が岩だらけの姿を青空の
下に見せている。数年前、英米でブームを巻き起こしたピーター・メイル著『南仏プロヴ
ァンスの12ヶ月』で描かれているように、温暖な気候と青い空に恵まれた風光明媚な土地
である。
その風光明媚な小都市で、毎年7月のヴァカンスシーズンに開催される一大エンターテイ
メントが、エクサン・プロヴァンス音楽祭である。音楽祭の歴史は非常に古く、1948年以
来、半世紀以上にわたって世界中の音楽ファンに親しまれている。
エクサン・プロヴァンスの街並み
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■国からの助言、援助
1948年に始まったエクサン・プロヴァンス音楽祭は、当初、エクサン・プロヴァンス市
によって運営されていたが、94年、国の会計調査によって、音楽祭の管理体制と安全性の
不備から劇場の改修の必要性が指摘されたことがきっかけとなって、運営体制が変更され
た。国から指摘を受けた市は改善のための予算申請を行い、文化省による援助が決定され
た。それと同時に、文化省は市に対してステファン・リスナー氏を音楽祭の総監督する新
たな運営体制を提案、市はそれを受け入れることになる。
市は、国の提案を受け入れ、95年に音楽祭を一度中止し、翌年から新たな運営体制で再
スタートをする。その後、97年、音楽祭の総監督としてリスナー氏が就任し、98年からそ
の彼のイニシアティブによって音楽祭が開催されることとなった。
リスナー氏は、シャトレ劇場の総監督を務めた経験を持つ、いわば劇場経営のプロであ
り、すでに国際的な名声を博していた。そのリスナー氏により、エクサン・プロヴァンス
音楽祭はその芸術性という点で、飛躍的な発展を見せている。音楽祭のチケット価格が上
昇し、「音楽祭がかつて持っていた街全体が参加する お祭り という雰囲気がなくなった」
という声も一部にはあるが、音楽祭の経営の安定と国内外での知名度の向上に寄与したこ
とは間違いない。
リスナー氏の就任後は、それまでのようにリリックオペラの有名スターが出演すること
はなくなり、若いアーティストが起用されるようになり、無名の才能が発掘される機会が
増えた。またエクサン・プロヴァンス音楽祭では、歌手中心ではなく、演出・演劇を重視
した作品が上演されるようになった。リスナー氏の就任によって音楽祭は芸術的にも向上
し、意欲的なプログラムが組まれるようになっている。
現在、文化省は国内の音楽祭への助成金支給の中止を検討しているが、エクサン・プロ
ヴァンス音楽祭に関しては、その歴史の長さと国際的知名度の高さから、 フランス文化へ
の貢献 が評価され、従来通りの助成が続けられる方針であると言う。
エクサン・プロヴァンス音楽祭は、国からの支援と、リスナー氏の手腕によって、これ
からも国際的な音楽祭としてますます発展していくことが期待されているとともに、フラ
ンスを代表する音楽祭として、質の高さの維持という責務をも負っているのである。
■音楽祭運営の効率化
エクサン・プロヴァンス音楽祭は、アソシエーション※「エクサン・プロヴァンス音楽祭
事務所」によって運営されている。
リスナー氏就任後、同事務所は現地だけでなくパリにも設置され、経理と人事に関する
業務以外はそこで担当している。これは、スポンサーの確保、広報活動、新人発掘の面で、
首都パリに活動拠点を置いた方が利便性が高いという判断によるものである。
音楽祭のプログラムは、リスナー氏によって決定され、その方針に従ってキャスティン
グなどが行われる。演劇人である氏のプロデュースによって、より演劇性を重視した演出、
若々しくダイナミックな舞台づくりが行われるようになっている。
※ アソシエーションとは、1901 年のアソシエーション法によって規定された非営利組織。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■開催会場
音楽祭は主にエクサン・プロヴァンス市内の4つの会場(Teatre de l’Archeveche, Teatre du
Jeu de Paume, Grand Saint-Jean, Hotel maynier d’Oppede)で開催されている。リスナー氏就
任後は、演劇性と芸術性の重きが置かれたことにより、上演会場の決定は演目内容によ
って決定されるようになった。つまり、演目が小さな劇場にふさわしいものである場合
は、たとえ観客収容人員、つまり採算性に課題があったとしても、小さな劇場が会場に
選ばれることとなる。逆に言えば、演目の選択は、音楽祭全体の採算性に大きな影響を
与える要因となっている。
1.アルシュベック劇場
2.ジュードポム劇場 3.オテル・メニエル・ドゥ・ペドゥ
4.ブティック・ドゥ・フェスティバル
7.市役所
5.図書館
6.ヨーロッパ音楽アカデミー会場
8.ツーリスト・オフィス
エクサン・プロヴァンス音楽祭会場周辺地図
■音楽祭の財源
エクサン・プロヴァンス音楽祭の全体予算は1,580万ユーロ(2002年度)であり、音楽祭
の全体予算の約59%がチケット収入、11%がメセナ収入、残りの30%が国や地方自治体(市、
県、州)からの助成金となっている。通常の音楽祭では全体予算の30〜40%程度がチケッ
ト収入であるが、エクサン・プロヴァンス音楽祭ではチケット収入の占める割合が高い。
これは、チケットが比較的高額であることが要因となっている。また、先述の通り、他の
音楽祭とは異なり、国からの直接の助成金が 継続的に 与えられている。両者が音楽祭
の財政基盤を支えており、このことエクサン・プロヴァンス音楽祭の開催を安定的なもの
としている。
一方、支出の内訳は、アーティストに関わる費用が約940万ユーロ、組織経営に関わる費
用が約640万ユーロであり、ちょうど収支が均衡している(2002年度)
。
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■音楽祭の観客
2002年のエクサン・プロヴァンス音楽祭では、48,474席中46,674席分を販売し、96.3%が
埋まっている。音楽祭事務所では、
(正確な統計ではないものの)観客の約50%が地元のア
ルプス・コート・ダジュール州内の住民であり、その割合は年々上昇していると言う。
一方、全会場で設定されているチケット価格のうち最も低額な22ユーロのチケット購入
者の70%が地元住民であり、地元の住民はより低廉なチケットを求める傾向にある。反対
に、高額チケットの購入者は、州外からの観客の割合が高いと言う。州外からの観客の大
部分は世界有数のリゾート地である南フランスに滞在するリゾート客であり、音楽祭は時
間とお金のあるリゾート客に格好のエンターテイメントを提供している。
■日本への示唆
現在のエクサン・プロヴァンス音楽祭への転換は、先述の通り、芸術総監督であるリス
ナー氏の影響が大きい。賛否両論はあるが、世界的に著名なリスナー氏を国が直接任命・
派遣し、さらに資金援助をしていることがエクサン・プロヴァンスの特色となっている。
一地方の音楽祭であるにもかかわらず、文化省は フランスを代表する文化 として 判
断 し、運営・芸術の両面で支援している。
フランスを代表するリゾート地であり、国内外の富裕層そして文化人を集める南フラン
スで、質の高い音楽祭の開催を支援することによって、フランスはその文化レベルの高さ
を世界に発信することに成功している。つまり、エクサン・プロヴァンス音楽祭は、いわ
ばフランス文化の 広告塔 の役割を果たしているのである。こうした文化戦略が、フラ
ンスを 文化大国 と言わしめる存在にしているのであろう。
一方、わが国では、エクサン・プロヴァンス音楽祭の例に見られるように、一つの音楽
祭の運営・芸術の両面で国が影響を及ぼしている例は見られない。(もちろん国主催の国民
文化祭は別として。)
わが国の芸術文化支援は、「新世紀アーツプラン」に見られるように、既存の組織団体あ
るいはそうした組織・団体によるイベント助成が主体となっている。そのため、音楽祭の
ような継続的な芸術文化イベントであっても、継続的な支援は望むことができず、また、
任意団体であれば助成対象外となってしまう。フランスのような国の文化戦略(イメージ
戦略)がないため、どうしても様々な組織団体への、いわゆるバラマキ支援となってしま
っている。
2001年12月、文化芸術振興基本法が制定され、わが国においても芸術文化支援の重要性
が認識されてきている。これを契機として、わが国の芸術文化支援のあり方、そして文化
戦略をもう一度問い直す必要があるのではないだろうか。
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■エクサン・プロヴァンス音楽祭データ
【正式名称】
Festival International d’Art Lyrique d’Aix-en-Provence
【運営主体】
エクサン・プロヴァンス音楽祭事務所
【開催月日】
例年7月頃開催(リハーサルの開始は5月の中旬)
【開催場所】
エクサン・プロヴァンス市内4会場:Teatre de l’Archeveche, Teatre du Jeu de Paume, Grand
Saint-Jean, Hotel maynier d’Oppede)
【財源】
全体予算:1,580万ユーロ[2002年度]
(約20億5,400万円)
約70%がチケット・メセナ収入(内11%がメセナ)、その他は国・地方自治体からの助
成金
【チケット販売方法】
11月30日チケット販売開始(2002年度)
フナック・マルセイユ店もしくはフナックインターネットサイト上で販売
【関係養成機関】
ヨーロッパ音楽アカデミー
【他の地域での開催】
「ドン・ジョヴァンニ(2002年度)
」は東京・オーチャードホールでの上演が決定
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
2.ナント音楽祭 La Folle Journee
ナント市は、フランスの西部に位置するロワール川沿いの都市である。かつてのブルタ
ーニュ公領の首都であり、ユグノー戦争を終結させるため1598年に発せられた「ナントの
勅令」でも知られている。街には、15世紀にブルターニュ公フランソワ2世によって再建さ
れた城館が建ち、歴史的な雰囲気の残る古都である。
■地域に親しまれる音楽祭
ナント音楽祭は、ディレクターであるルネ・マルタン氏の発案により、それまでとは異
なるコンセプトを持ったクラシックコンサートをめざし、1995年に第1回が開催された。
ナント市には、1987年にアソシエーション「クレア(CREA)」が設立され、年数回のコ
ンサートを地元で開催すると共に、
「ラ・ロック・ドォンテロン(La Roque d’Antheron)国
際ピアノフェスティバル」等のフェスティバルを開催するなどの実績を積んでいた。クレ
アは、それらの活動の実績から、ナント市民からの強い支持と、アーティストとの繋がり
を確立していた。マルタン氏のアイデアをもとにした音楽祭の計画を、コンベンションセ
ンターに示し、賛同を得られたのも、クレアのそれまでの実績が評価されたためである。
マルタン氏は、ナント音楽祭を開催するにあたって、クラシック音楽がロックやジャズ
と同じように、子供から大人まで多くの市民に親しまれるものとなるように、また、音楽
祭が地域に密着したものとなるようにとの考えを持っていた。
それを実現するために、音楽祭で行われる各コンサートの所要時間を1公演45分とし、8
つのコンサート会場を持つコンベンションセンターで開催することにより、一度に多くの
コンサートを開くことができるように工夫を施した。この工夫によって、聴衆には多くの
選択肢があたえられ、子どもでも無理なく参加することが可能となったため、音楽祭はよ
り市民に親しみやすいものとなった。
ナント音楽祭では、カラフルな各演奏会のタイムスケジュールを手に音楽祭を吟味する
市民の様子や、両親に連れられた幼い子供たちが目を輝かせながら演奏に聞き入る様子を
見ることができる。
音楽祭開催時のコンベンションセンター
コンサートに聴き入る子供連れの観客
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■地域の強い支持
2002年度のチケットの売り上げ枚数は約85,000枚。音楽祭が開始された1995年が25,000枚
であり、8年目にして観客動員数が3倍以上となっている。
正確な調査は行われていないが、観客の約60%がナント市の住民、約30%がその他のフ
ランス国内から、約10%が外国からとなっている。観客の半数以上が地元の住民であり、
音楽祭が地元からの高い支持を受けていることがわかる。
また、2002年の開催期間は、1月25〜27の3日間であったが、チケットを入手できない人々
が増えてきたことから、2003年は1月22日〜26日の5日間に延長されていることからも、こ
の音楽祭への高い支持を伺うことができる。
無料コンサート会場
■音楽祭の運営
音楽祭の運営には、音楽祭コンセプトの発案者である、マルタン氏の意向が強く反映さ
れている。運営主体はコンベンションセンター(La Cite des Congres)であり、アートディ
レクターとしてクレアが参加している。マルタン氏がテーマを提示し、それを受けたコン
ベンションセンターがその意向に従って予算の配分を行い、出演料その他のアーティスト
に関わる費用をクレアに示し、クレアは提示された予算の範囲内で出演アーティストの決
定を行う。
このように、音楽祭の成功は、コンベンションセンターとクレアがそれぞれの得意分野
を担当し、協力体制の下でマルタン氏のアイデアを具体的な形にしていることに負うとこ
ろが大きい。クレアは、マルタン氏の個人的な交友関係と、これまで積み重ねてきたアー
ティストとの信頼関係を活かしたアーティスト決定に関する業務を担当し、コンベンショ
ンセンターは、「企業クラブ」等の斬新なアイデアによって、賛助会員や援助金を集め、音
楽祭の資金調達から事務的な業務までを担当している。
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■他地域への波及
こうしたナント音楽祭の仕組みはパッケージ化され、ポルトガル・リスボン(2000年〜)
とスペイン・、ビルバオ(2002年〜)で開催されている。どちらの音楽祭も、それぞれの
都市がナント音楽祭に興味を持ち、そのオーガナイザーがナント音楽祭(クレア)にコン
タクトをとってきたことがきっかけとなって実現している。ナント音楽祭は、リスボンと
ビルバオに音楽祭のサービスのみを提供し、音楽祭の運営はそれぞれの現地のオーガナイ
ザーが独自に行なう形をとっている。
現在も、同様にロンドン郊外等、いくつかの都市が興味を持ち、協議中であると言う。
東京での開催も事前調査に入ったところであると言う。
これほどまでにナント音楽祭の企画が世界各地からの関心を集めることは、マルタン氏
の「地域密着の音楽祭」というコンセプトへの関心が高く、ナント市での成功が高く評価
されていることを示している。
■音楽祭の財源
音楽祭の全体の予算は約200万ユーロであり、予算の約40〜50%をチケット収入で賄って
いる。その他の収入は約25%がナント市からの助成、約1%が民間のメセナからの援助とな
っている。国の援助を受けてはいるが、出演者の交通費にも満たないほどのわずかな金額
である。地元のナント市からの援助が、収入の大きな部分を占めていることからも、地域
密着のコンセプトへの評価の高さが音楽祭成功の重要な鍵となっていることがわかる。
その他、リスボンやビルバオなどの他の地域へ音楽祭の企画を提供することによる収入
も得ている。
■チケット販売状況、方法
チケット販売は例年1月5日前後から開始される。チケットの販売にあたっては、地元優
先の特別枠は設けていないが、チケット販売開始初日は、地元のみでチケット販売を行う
ことにより、地元の人々がよりチケットを購入しやすくするように配慮し、地元密着型の
音楽祭ならではの工夫を行っている。 チケット販売開始後の2日間でチケット全体の約
60%が売れてしまう程の人気を博している。
比較的観客の集まりにくい金曜日の昼間の公演は、学生や子供向けのプログラムとし、
通常より安い値段で地元の学校にチケットを販売し、地域の子供や若者が音楽に触れる機
会を提供する場ともなっている。
臨時に設けられたレストラン
会期中の路線バス
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
■日本への示唆
ナント音楽祭の最大の特徴は、マルタン氏発案の「地域密着型の音楽祭」というコンセ
プトであり、そのコンセプトの実現には地方の小都市であるナント市は絶好の開催場所と
なった。音楽祭の会場であるコンベンションセンターを中心として、街全体をその名の通
り「一体となった」お祭り騒ぎにするためには、あまり大きな都市は適当ではない。大都
市で開催したとしても、音楽祭の熱気は町の隅々までは行き渡らずに一部にとどまってし
まい、町全体での一体感は得られないためである。
苦戦する日本各地の音楽祭にとって、ナント音楽祭のように「地域密着」を図りつつ、
斬新なアイデアを実現に移す手法は大きなヒントとなるりではないだろうか。
■ナント音楽祭データ
【正式名称】
La Folle Journee
【運営主体】
La Cite des Congres、CREA(マネジメント担当)
【開催月日】
例年1月20日過ぎの週末を挟んだ数日。2003年は1月22〜26日の5日間
【開催場所】
ナント市内コンベンションセンターの8つのコンサート会場
【財源】
全体予算:約200万ユーロ(約2億6,000万円)
約40〜50%がチケット収入、その他はナント市助の助成(約25%)、民間メセナ(約1%)、
他都市への音楽祭サービスの提供による収入
【チケット販売状況、方法】
1月5日前後チケット販売開始。チケット販売開始初日は地元のみで販売し、その後、○
インターネットサイト、音楽祭会場にて販売
【他の地域での開催】
リスボン(ポルトガル)
、ビルバオ(スペイン)
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
3.ウンブリア音楽祭 Sagra Musicale Umbra
ウンブリア音楽祭(ウンブリア教会音楽祭)は、ウンブリア州内の10都市で開催される。
その中心都市であるペルージャは人口15万人のウンブリア州の州都であり、古くはエトル
リア時代から繁栄し、中世都市国家の面影を残す古都である。その一方で、ペルージャに
はイタリア唯一の外国人大学があり、国内外の多くの若者が集う活気溢れる街でもある。
最近では、わが国でもサッカー選手の活躍で有名になった。
■欧州最古の音楽祭
ウンブリア音楽祭は欧州で最古の音楽祭の一つに数えられ、2002年で第57回を迎えてい
る。その特徴は、若い音楽家たちにチャンスを与え、新しい公演をつくることに力を入れ
ていることである。ソリスト・デ・ペルージャをはじめとする多くの世界的な音楽家たち
が、この音楽祭から生まれている。
先述の通り、ウンブリア音楽祭は州内10都市(Perugia, Terni, Foligno, Avigliano Umbro,
Cittadella Pieve, Gubbio, Montecastello di Vibio, Montefalco, Panicale, Torgiano)で開催され、開
催期間10〜15日間で40公演にのぼっている。
演奏会場は、各都市のコンサートホールやコンベンションセンター、そしてホテルのロ
ビー等が使用されている。「教会音楽」をテーマとしている音楽祭であるが、教会では開催
されない。これは、イタリアではバチカンとの関係があり、教会でのコンサートは入場料
を取れないことが要因となっている。
観客は、地元住民が少なく、ほとんどが観光客で占められている。観客全体のうちの約
60%が音楽祭を目的として訪れる観光客である。近年、ウンブリア州全体の観光客数が増加
しており、音楽祭の開催も観光客誘致の一翼を担っている。
■収支構造
ウンブリア音楽祭では、事務局長であるフランチェスコ・ペロッタ氏から収支構造に関
する詳細資料を提供いただいたので次頁に紹介する。
ウンブリア音楽祭の収入のうち、チケット収入はわずかに2.1%である。ほぼ半分が州お
よび市(コムーネ)等の公的機関からの分担金、補助金であり、残りの半分は個人(パト
ロン)からの寄付金と企業メセナとなっている。
従来、イタリアのクラシック音楽は、文化遺産の保護という意味合いが大きく、国やコ
ムーネ等による公的支援が非常に手厚かった。現在は、国立オペラ劇場が民営化されるな
ど、イタリアのクラシック音楽をめぐる環境は大きく変化しており、音楽祭も独立採算が
求められている。
そのため、ウンブリア音楽祭では会計士であるペロッタ氏を事務局長に迎え、これまで
は不透明であった経費処理を明確にするとともに、チケット販売や企業メセナについての
戦略、グッズ販売等、別の収入源の確保、また、観光局との連動によるプロモーションの
強化等に取り組んでいる。さらに、日本や米国等からの観光客の誘致を促進するため、タ
イアップ等にも大きな関心を抱いており、様々な取り組みが検討されている。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
収入 ENTRATE
EURO
日本円
比率
会費収入(主催者分担金)※
自治体補助※2
企業助成
チケット収入
プログラム売上
その他収入
援助金(個人寄付金)
82,633.10
188,915.33
111,788.86
11,856.00
758
1,100.23
154,937.00
10,742,303
24,558,993
14,532,552
1,541,280
98,540
143,030
20,141,810
15.0%
34.2%
20.3%
2.1%
0.1%
0.2%
28.1%
収入計
551,988.52
71,758,508
100.0%
※1 会費収入(主催者分担金)内訳
ウンブリア州 (Regione)
ペルージャ市 (Comune)
ペルージャ県(Provincia)
ペルージャ観光局
計
EURO
日本円
25,822.84
36,151.98
15,493.71
5,164.57
3,356,969
4,699,757
2,014,182
671,394
82,633.10
10,742,303
EURO
日本円
89,243.75
15,000.00
15,000.00
516.46
1,548.80
1,500.00
7,700.00
15,493.71
30,000.00
1,549.37
1,000.00
10,329.13
11,601,688
1,950,000
1,950,000
67,140
201,344
195,000
1,001,000
2,014,182
3,900,000
201,418
130,000
1,342,787
※2 自治体補助内訳
ペルージャ市 (Comune)
テルニ市
フォリーノ市
モンテスステロ・ヴィビオ市
トルジャーノ市
チッタ・デラ・ピエヴェ市
ペルージャ商工会議所
ウンブリア州①
ウンブリア州②
パニチャーレ市
モンテファルコ市
ペルージャ県(Provincia)
計
188,881.22 24,554,559
注1)※1は出資金であり黒字の場合は比率に応じて返金されるが、※2は純粋な補助金であり、返金の規定
はない。
注2) 「自治体補助内訳」のうち、ウンブリア州の①②の違いは、会計伝票の違いであり、支出する部署
が異なっている。
支出 USCITE
EURO
日本円
比率
282,006.22
36,660,809
58.6%
3,378.00
4,282.08
2,265.11
439,140
556,670
294,464
0.7%
0.9%
0.5%
会場費
技術人件費
ホール人件費
楽器貸借・輸送費
移動費
イタリア著作家・出版社協会
スポンサー付加価値税
その他アーティスト経費
13,890.55
26,031.37
1,936.71
5,544.91
42,991.66
2,530.20
2,090.25
12,684.26
1,805,772
3,384,078
251,772
720,838
5,588,916
328,926
271,733
1,648,954
2.9%
5.4%
0.4%
1.2%
8.9%
0.5%
0.4%
2.6%
事務経費
82,018.15
10,662,360
17.0%
支出計
481,649.47
(資料)ウンブリア音楽祭事務局
62,614,431
100.0%
アーティスト報酬
印刷
広報
ポスター掲示
Arts Policy & Management No.17, 2003
- 34 -
Ⅳ.欧州音楽祭事情
■日本への示唆
EU統合後、イタリア国内の環境変化は著しい。
(良くも悪くも)のんびりとしていたイタ
リアも市場経済、他の欧州諸国との競争のなかに組み込まれ、様々な分野で自助努力が求
められてきており、大きな転換期を迎えていると言えよう。芸術文化、そして音楽祭も例
外ではない。先述の通り、そうしたなかでウンブリア音楽祭は、前述したとおり会計士で
あるペロッタ氏を迎え、独立採算制の確保に向けた努力を続けるとともに、周辺市町村と
の連携、観光施策との連動、そして海外諸国とのタイアップ等の新たなプロモーションに
取り組んでいる。
歴史と伝統を誇る欧州の音楽祭であっても、その継続は非常に困難が伴う。音楽祭のマ
ネジメントは、(一定の規模が必要となることもあり)非常に高度かつ専門的なマネジメン
ト能力が要求される。
わが国の音楽祭においても、その継続のためには、総務や経理、経営等の専門知識を有
する専門家を招へいするなど、「芸術文化」であることに甘えることなく、事業あるいは組
織としてのあり方を検討することが必要な時期にあるのではないだろうか。
■ウンブリア音楽祭データ
【正式名称】
Sagra Musicale Umbria
【運営主体】
Sagra Musicale Umbria(実行委員会)、イタリアフェスティバル連盟
【開催月日】
例年9月
【開催場所】
ウンブリア州10都市
【財源】
全体予算:約50万ユーロ(約6,500万円)※詳細は上記。
【チケット販売状況、方法】
ウンブリア州内で発売
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅳ.欧州音楽祭事情
♪ 実験を支える環境 〜ザルツブルク音楽祭から日本をみると〜
片山
泰輔
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター 主任研究員)
昨年夏、ヘルシンキで開かれた国際学会を口実に、はじめてザルツブルク音楽祭を訪れ
る機会を得た。世界的な音楽祭を一度体験してみたかったというのが長年の希望であった
が、今回の一番の目的はドイツの現代作曲家ヘルムート・ラッヘンマン氏のオペラ「マッ
チ売りの少女」の音楽祭初演(コンサート形式)を鑑賞するためだ。
公演が行われた8月30日は、現在、飛ぶ鳥も落とす勢いで人気沸騰中のゲルギエフ氏が指
揮する新解釈の「トゥーランドット」がメイン劇場で上演される日でもあった。
「マッチ売
りの少女」は、いわば裏番組にあたったわけだが、物好きが多いのか、トゥーランドット
のチケットが取れなかったからかはわからないが、こちらも完売であった。
「マッチ売りの少女」というメルヘン的表題とは異なり、音楽はきわめて前衛的な典型
的現代音楽である。歌詞のような言葉は聴き取れず、楽器からや歌手から音は発せられて
いるが、いわゆるオーケストラのサウンドもまったくといっていいほど始まらない。抽象
的な舞台の上には、抽象的な映像が映し出されている。ステージには数個のテレビモニタ
ーがあり、数字を表示し続けている。楽譜の小節番号である。演奏するだけでも大変な苦
労を要する作品である。最初の10分を経過したころから、知人と顔を見合わせあう人の姿
が目立ちはじめる。このような不穏な雰囲気が1時間ぐらい続いたころ、1人、2人と、観
客が立ち上がり退出する。周りを見回しながら、席を立って退場する人は20人ぐらいには
達したものと思われる。さらに、もう30分ぐらいしたころに、退出者が再びあらわれ、20
〜30人が退出していった。そのあと30分、いわゆるオペラやオーケストラ音楽という常識
とはかけはなれた2時間を共有し演奏は終了した。作曲者のラッヘンマン氏も舞台で拍手に
応えたが、ブラボーとブーイングが交互に叫ばれる。
ヨーロッパにおける音楽祭は、ザルツブルク音楽祭に限らず、芸術的な実験場として機
能してきている。欧州における文化経済学研究の中心的存在であったFrey氏は、各劇場・ホ
ールにおけるシーズン中の公演がアーティストの賃金をはじめとする様々な規制に縛られ
ているために自由な企画が行いにくいのに対し、音楽祭ではそういった規制に縛られない
ため、様々なアーティストと単発の契約を自由に行って企画をたてられるため意欲的な試
みが行いやすい(Bruno Frey “The Economics of Music Festivals” Journal of Cultural Economics,
Vol.18 No.1,1994)、と説明しているが、このラッヘンマン氏の作品がザルツブルクで演奏さ
れた背景もこうした文脈でとらえることも可能かもしれない。
日本でも近年、音楽祭が非常に盛んになってきている。しかし、山口や北九州の例にみ
られるように実験的な試みはかなり苦戦しているようである。音楽祭の多くは開催地の地
方自治体が大きな支援を行っている場合が多いが、芸術家たちの実験を支えることの意義
を住民に説明するのは必ずしも容易ではないのが実情である。
Arts Policy & Management No.17, 2003
- 36 -
Ⅳ.欧州音楽祭事情
こうした中、日本におけるこうした実験的な試みを支えるプログラムとして文化庁のア
ーツプランの存在を忘れることはできないであろう。わが国の芸術水準を高めるための牽
引力となる団体に継続的な支援を与えるという目的のもとに1996年度に開始された「アー
ツプラン21」は、ある程度の経営基盤と実績をもち、次のステップを目指そうという団体
にとってはきわめて意義のあるプログラムである。実は、アーツプランのもとで、このラ
ッヘンマン氏の前衛的なオペラは日本でもすでに演奏されているのである。2000年3月4日
に東京交響楽団が定期演奏会の曲目としてサントリーホールで演奏している。ソリスト等
は今回のザルツブルクの時とほぼ共通している。満員とは言えない入りであったが、定期
演奏会ということもあり、決してガラガラではない。サントリーホールでは、私の記憶し
ている限りは、途中退出もブーイングもなく、高度な技術と緊張感の中で演奏を終えたア
ーティストたちに対する惜しみのない拍手のみがあった。
アーツプランのもとでの意欲的な試みは、作品の委嘱により継続的に新作に取り組んで
いる東京混声合唱団や、アルブレヒト氏のもとで注目度上昇中の読売日本交響楽団をはじ
め、いくつかの団体で近年活発化してきている。東京交響楽団は2003年3月29日にジョン・
アダムズ氏のオペラ『エルニーニョ』の本邦初演を行うが、これはエサ・ペッカ・サロネ
ン氏がロサンジェルス・フィルを率いてニューヨーク初演を行うのとほぼ同時期(3月20日)
である。このように、日本(残念ながらまだ東京だけかもしれないが)の音楽界も一部に
おいて世界の最先端と対等の取り組みを行っているという事実は注目に値する。そして、
これらを国の政策が支えてきているという点はもう少し注目する必要があろう。「アーツ
プラン21」はここ数年、文化庁の予算拡大の中で対象団体が大きく拡大し、2002年度から
は「新世紀アーツプラン」と名称を変えた。そして、予算はさらに大きく拡大したが、内
容は子どもたちへの芸術体験等、多様なものを含むプログラムへと変容してきている。こ
のこと自体が良い悪いということはないが、場合によってはあまりに多くの政策目的を持
つがゆえに、そのプログラムの意義があいまいになってしまう危険がないとも言えない。
すべての政策に共通のことではあるが、目的と効果をきちんと対照できることはアカウン
タビリティの基本である。たとえ「新世紀アーツプラン」という大枠に束ねられたとして
も、実験的試み等、一般市民の理解を得るのが必ずしも容易ではない分野においても、目
的と効果についての継続的な把握を行っていくことが必要である。これは、負担を行う市
民に対する説明責任という面でも、意欲的試みに取り組むアーティストの意欲と責任感を
高めるという面でもきわめて重要である。科学技術の進歩のために基礎研究が重要なのと
同様、芸術文化の発展にも実験的な試みが不可欠である。実験を支える社会制度の枠組み
の確立が求められる。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅴ.音楽祭におけるボランティア
Ⅴ.音楽祭におけるボランティア
太下
義之
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター センター長)
■わが国におけるボランティア活動の概況
わが国におけるボランティア活動は、従来、一部の特別な人が行っている福祉活動とい
うイメージが色濃かったが、1995年の阪神淡路大震災の復旧時に延べ約130万人ものボラン
ティアが参加したことを契機として社会的な関心が急速に高まっていった。
その後、主婦や学生をはじめとして、社会人、中高齢者など関心の層は拡大しており、
全国において活動しているボランティアの数は、2000年4月現在で約712万人に達している
(ボランティア団体の数は約9.6万団体)1。
また、2002年に開催されたW杯韓日大会においては、大会運営(場内案内、メディア対
応等)をボランティアが舞台裏で支え、W杯の成功に不可欠な存在として大きな脚光を浴
びた。
■音楽祭を支えるボランティア
このように社会における位置づけが確立されつつあるボランティア活動であるが、当然の
ことながら、その活動分野は脚光を浴びた災害救助やスポーツ分野だけではなく、芸術文
化の分野でも、文化施設の運営や文化イベントの開催においてボランティアが活躍するケ
ースが増えている。
本稿では、芸術文化の分野のうち、特に音楽祭におけるボランティアの活動に着目し、今
後のボランティア活動発展へ向けての課題とポイントについて整理したい。なお、音楽祭
におけるボランティアの活動内容としては、以下の通り、大きく五つの内容に分類するこ
とができる。
音楽祭におけるボランティアの活動内容
項
目
①事務局
②広報・宣伝
③会場関係
④出演関係
⑤通訳・翻訳
具体的な活動内容
総務、企画、出演交渉、資金調達・管理、送迎、交流、ニュースレター
等の発行/等
ポスター、マップ、プログラム、アンケート等の作成、チケットセール
ス/等
設営、音響、司会、場内アナウンス、もぎり、受付、案内、物品販売、
交通整理、警備、清掃、記録、医療救護/等
舞台美術制作、エキストラ出演/等
通訳、翻訳/等
(資料)UFJ総合研究所作成
1
社会福祉法人全国社会福祉協議会のホーページ http://www.shakyo.or.jp/cdvc/zenvc.htm
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅴ.音楽祭におけるボランティア
■音楽祭の開催におけるボランティア活動の意義・必要性
音楽祭の開催におけるボランティア活動の意義・必要性としては、大きく二つの点があ
げられる。まず第一の点としては、行政や運営する側の目や手の届かないところを独自の
ネットワークで網羅し、柔軟性を持って活動を展開できることがあげられる。
音楽祭の主催者は、地方自治体が中心となった実行委員会が組成されるケースが多いが、
「公平」「公正」を原則とした行政主導型の社会システムだけでは、音楽祭の円滑な開催に
あたり十分に対応できない課題も増えてきている。
そこで、単に行政に任せきりにするのではなく、自主的かつ主体的な市民自らが音楽祭の
運営に参加することに対する期待が高まっている。実際に、以下の表のように、わが国の
音楽祭においてボランティアによって様々な特徴的な活動が展開されている。
特徴的なボランティアの活動
音楽祭
特徴的なボランティアの活動
武生国際音楽祭
広報・宣伝の一環として、イラスト入りの武生市内マップ(日本語版、
英語版)を自主的に製作・配布
パシフィック・ フェスティバルに海外から参加した学生に対して、野点、着付け、華
ミュージック・ 道、日本料理等を紹介する「文化交流プログラム」を企画・実施
フェスティバル
サイトウ・キネ マニュアルを作成してボランティア自身の教育・研修を実施(「SKF
ン・フェスティ ボランティア憲章」としてボランティアとしての心構えや基本的マナ
バル松本
ーを掲載、その他英語及びドイツ語による挨拶や案内の例文を掲載)
(資料)UFJ総合研究所作成
第二は、ボランティア活動が個人の新しい自己実現の場としても強く期待されていること
である。
ボランティア活動は、単にサービスを「提供する(提供される)」という偏務的な関係で
はなく、サービスを受ける側は当然のこと、提供する側も自己実現という貴重な価値を得
るという、両者に付加価値がある相互的な関係なのである。
そして、音楽祭に参加したボランティアたちを中心として、職業、年齢、性別、居住地な
ど通常の枠を越えての交流が活発化し、結果として各地域における既存の諸活動にも大き
な刺激を与えることが期待されている。
■音楽祭ボランティアの課題
ただし、音楽祭の開催において、ボランティア活動がより一層パワーを発揮していくた
めには、以下のように解決していくべき課題も存在する。
◆ボランティア・マネジメントに関する課題
音楽祭のボランティアについては、主催者が主体となって管理・運営しているケースが
ほとんどであるが、これからの音楽祭ボランティアにおいては、ボランティアのマンパワ
ー、情報やノウハウ、資金等を結集する組織(NPO等)の存在が重要になってくると推
測される。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅴ.音楽祭におけるボランティア
例えば、前述した「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」においては、ホー
ムステイや文化交流プログラムなど、ボランティア自身が企画する事業が多く、また、音
楽祭開催も3週間と長丁場であること等の背景のもと、通年で活動できるボランティア組織
「ハーモニー」が組成されている。
また、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」においても、自立した計画及び事業を
実施するため、主催者と別の組織である「SKF松本ボランティア協会」が組成されてい
る。
こうしたボランティア団体においては、ボランティアの意欲や能力を活かしながら、長期
的・継続的な活動を行っていくため、「ボランティア・マネジメント」の導入が必須となる
であろう。
具体的には、敬遠される職種・仕事への対応、予定人員の確実な配置、日中の参加や集
合時間の徹底、出席率の維持等に代表されるイベント・マネジメントや、メンバーの固定
化やマンネリへの対応、新しい人材の確保、リーダーの養成等の組織運営マネジメント等
である。
そして、こうしたマネジメントを実践していくためには、ボランティア活動の企画から始
まって、実施、自己評価、評価をフィードバックした軌道修正、再び実施という一連の流
れを管理する「ボランティア・コーディネター」が、今後のボランティア活動をより発展
させるカギを握ることになると言えよう。
◆ボランティア活動の評価に関する課題
従来のわが国のボランティアに対する捉え方は、人知れず良いことを行う、いわゆる「陰
徳」という考え方が主流であったように思われるが、このような考え方に凝り固まると、
ボランティア活動そのものが社会に対して閉鎖的なイメージを与えてしまう。
そこで、これからのボランティア活動においては、ボランティアを社会的に評価する仕組
みを導入するとともに、ボランティア団体自身も自分たちの活動の意義や必要性を広く情
報発信していくことにより、社会に開かれたボランティアのイメージを確立していく必要
がある。
こうした評価活動とその公開を行うことによって、市民、企業、行政などの幅広い層から
の様々なリソース(資金、人材等)の調達もよりスムースになるものと考えられる。
■おわりに
従来の音楽祭ボランティアは、行政が作成した音楽祭の基本計画に基づいて、その下部組
織のような位置づけで活動を行っているケースが多かったが、これからは「音楽祭は自分
たちのお祭り」と考え、
「音楽祭に必要なサービスは、自分たちで提供していく」という考
え方のもと、ボランティアが自ら計画を立案及び実施し、それを主催者や行政がフォロー
する、というかたちに変化していくものと期待される。
こうした能動的な展開によって、音楽祭ボランティアの活動は、音楽祭の開催を通じてよ
り良い地域社会の創造をめざすこととなり、ひいては
革することにもつながっていくものと期待される。
パブリック
公
及び
プライベート
私
の概念を変
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
Ⅵ.未来志向の音楽祭
杉浦
幹男
(UFJ総合研究所 芸術・文化政策センター 研究員)
■はじめに
これまで見てきたように、わが国の音楽祭、特に地方部における音楽祭は、今大きな岐
路を迎えている。
音楽祭は、バブル期に見られた町おこし、村おこしのための一つのイベント、あるいは
芸術文化を愛する同好の士の社交場といった一つの目的だけのために開催されるのではな
く、地域社会全体を巻き込むために、複合的な意義を持ち始めている。それらの意義は、
開催される地域社会のシチュエーションによって異なるものの、聴衆、地元住民、そして
主催者等、関与する全ての人々がそれぞれの意義を見出していることに成功の要因があろ
う。
本稿においては、国内音楽祭の成功事例としてすでに紹介した3事例に加えて、さらに4
事例を取り上げ紹介することにより、地域社会における音楽祭のあり方、その存在意義に
ついて考察する。
1.サイトウ・キネン・フェスティバル松本
サイトウ・キネン・フェスティバル松本(以下、「SKF」)は、1992年に第1回のフェステ
ィバルが開催され、早11年が経過した。毎年8月下旬〜9月上旬、世界的指揮者である小澤征
爾氏を迎えて開催されるフェスティバルは、クラシック音楽界の一大イベントとなってい
る。
■地域に愛されるフェスティバル
サイトウ・キネン・オーケストラを母体とするフェスティバルの候補地は、当初から大
都市が想定されておらず、街全体がフェスティバルに向けて一体となる地方都市での開催
が望まれていた。また、松本市は首都圏の自然環境豊かなリゾート地としての顔も持って
おり、さらに、92年に県松本文化会館が開館するなど、好条件が重なっていた。しかし、
地元サイドは当初、短期の開催を想定しており、いわば松本市は 腰掛け の候補であっ
た、と実行委員会 赤廣三郎事務局長は言う。
地元サイドとは別に、音楽家たちの想いはSKFを国際的なフェスティバルに育てることで
あった。そのため、当初から20年間を一区切りとし、長期の開催がその前提として考えら
れていた。
音楽家たちの想いは、地元の人々へのアピールへとつながっている。小澤氏は当初から
「国際的なフェスティバルであるなら地域密着型でなければならない」「地元に愛されな
ければ意味がない」と考えていた。音楽家たちは街に出て、ミニコンサートやふれあいコ
ンサート、そして子どものための演奏会を開催し、地元住民と交流を深めている。また、
地元のアマチュア合唱団との共演や児童がオペラに出演するなど、地元住民が参加する機
会を設け、地元に愛される音楽祭に向けた様々な取り組みがなされている。さらに、教育
事業「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」も開催され、若い優れた演奏家の
育成にも取り組んでいる。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
そうした音楽家たちのアピールに応え、地元住民も93年に「SKF松本ボランティア協会」
を設立し、運営ボランティアとして開催を支えており、演奏家・スタッフと一体となった
他に例を見ないフェスティバルとなっている。※
SKFでは、10年間で10万人の子どもたちがオーケストラ演奏を鑑賞した。また、フェステ
ィバル開催時の松本市は、吹奏楽パレードで使用する楽器もなく、演奏しながら歩ける子
どももいなかったが、現在では全国レベルの吹奏楽コンクールで優勝するまでになってい
る。SKFを契機として、音楽の感動が子どもたち、そして地元住民に広がり、また、 クラ
シック音楽の街 としての松本市の都市イメージによって、高いレベルの演奏家(あるい
は音楽教師)が集まってくる。そうした相乗効果を生んでいるのである。
以上のようにSKFは、日本から世界にアピールする質の高い音楽祭であるとともに、今や
地元住民にとっての愛着と誇りとなっている。
単なるイベントとしてのフェスティバルではなく、コミュニティの形成、ボランティア
育成、青少年育成、そして都市文化の形成という様々な効果をもたらしており、1年間を通
じて クラシック音楽の街・松本 の重要な出来事となっているのである。
近年、パリ・オペラ座やフィレンツェ五月音楽祭劇場とのオペラ公演の共同製作も行わ
れるなど、SKFは20年間の区切りの半分を過ぎ、さらなる世界へのアピールに向けた新しい
取り組みが続けられている。フェスティバルの拡大とともに、それを核とした松本市の都
市形成の取り組み、そして地元住民の成長も続いていくのであろう。
2.別府アルゲリッチ音楽祭
別府アルゲリッチ音楽祭(以下、「ア祭」)は、1998年11月に開催され、2002年4月で第4
回を数えている。会場であるビーコンプラザ・フィルハーモニアホールの名誉音楽監督に
ピアニストのマルタ・アルゲリッチ氏が就任し、その交流のなかで音楽祭が計画され、実
現した。
■アジアへの発信
音楽祭のコンセプトとして、「創造と発信」「育む」「アジア」を三つが挙げられている。
大きな特色の一つは、ア祭がアジアの音楽の中核となる音楽祭をめざしていることである。
大分県は、県長期総合計画『おおいた新世紀創造計画』において 九州アジア経済圏
そして アジアへのゲートウェイ機能の充実 を掲げており、ア祭でも「アジア」がコン
セプトとして挙げられ、今後も可能な限りアジアの演奏家との係りを持っていく方針であ
ると言う。
そのため、ア祭のオーケストラ演奏会は桐朋音楽大学や東京芸術大学の学生オーケスト
ラで編成され、また、公開レッスン(マスタークラス)、大分県出身若手演奏家コンサート
が開催されるなど、アルゲリッチをはじめとする世界的な音楽家たちと若手演奏家の
Meeting Point の機会を多く設けている。
※
SKF 松本ボランティア協会については、前稿『Ⅵ.音楽祭におけるボランティア』参照。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
こうしたプログラムは、世界に飛躍しつつあるアジアの若手演奏家たちの魅力となり、
演奏家たちを通じて大分県・別府の名をアジアにアピールすることとなり、県の他施策と
の連携を図ることにもつながっている。
別府アルゲリッチ音楽祭コンセプト
[創造と発信/Creation]
地域の人たちとともに創る、温かな「手づくりの音楽祭」をめざしています。みんなの
力で、九州大分県・別府の地から世界に向けて、個性あふれる音楽文化を創造・発信して
いきます。
[育む/Fostering]
21世紀を生きる子ども達が心豊かに暮せる社会をつくることは、大人達みんなの願いで
あり、また義務でもあります。子ども達が素晴らしい音楽にふれることのできる場を、ま
た音楽を志す若者達が学ぶことのできる場を提供して、音楽を通じて人を育んでいくこと
は、この音楽祭の大きなテーマです。
[アジア/Asia]
アジアの音楽家とアルゲリッチの出逢いの場 Meeting Point をつくり、また音楽を志
すアジアの若者達を育てることで、アジアの音楽文化の中核となる音楽祭をめざします。
また、ア祭においても、地元との係りが重視されている。「育む」のコンセプトの下で子
どものための無料コンサートが開催されるなど、子どもたちのための良い音楽環境の提供
機会となっている。さらに、会場であるビーコンプラザのサポーターや市民団体「ハーモ
ニアス別府」のメンバーを含む計200人余りがボランティアとして音楽祭を支えており、地
元でのクラシック音楽のすそ野は広がってきていると言う。
ア祭は、ビーコンプラザの建設を機に、ピアニストである伊藤京子氏(ア祭総合プロデ
ューサー)への「何か音楽で世界に発信できるものを」という相談からはじまった。伊藤
氏から長年の友人であるマルタ・アルゲリッチ氏へ、そして彼女たちの仲間たち、若手演
奏家たち、地元住民へとその取り持つ縁が広がっていった。ア祭だけでなく、伊藤氏は子
どもたちに良質な音楽を聴く機会を提供するための「おたまじゃくし基金」を設立するな
ど、ア祭を踏まえたさらなる取り組みも進められている。
現在、ア祭の組織委員会の活動には、地元商工会議所、旅館組合、観光協会等が大きく
係っている。歴史ある温泉観光地である別府のアピールの一つとしてア祭が大きく貢献し
ていることを示すとともに、別府がリゾート地として演奏家たちに愛されていることを示
している。また、アジアからの観光集客の行政施策とも連携し、ア祭は単なる文化イベン
トとしてだけでなく、アジアに目を向けた県の戦略、そして地元の誇りの一つとなってい
ると言えよう。
ビーコンプラザという施設(ハード)の活用を目的として開始された音楽祭は、音楽が
結ぶ大きな輪が広がっていったことによって、今や地元にとってなくてはならないものと
なっているのである。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
3.ゆふいん音楽祭
ゆふいん音楽祭(以下、「ゆ祭」)は、1974年に開始され、昨年2002年で第28回を数える
長い歴史を持った音楽祭である。今や日本を代表する温泉の一つとなった由布院温泉であ
るが、ゆ祭開催当初は、全国的な知名度は低く「別府の奥座敷」として認識されていた。
ゆ祭は、町おこしを目的として観光協会によって開始され、第6回以降は地元の音楽愛好
家を中心に構成される実行委員会が運営している。2002年は、7月25〜28日の4日間にわた
って、地元の公民館やゴルフクラブで6公演が開催された。
■小さな街の小さな音楽祭
ゆ祭の大きな特色は、行政や観光協会や商工会議所等の地元団体を主体とするのではな
く、地元有志による実行委員会と全国各地から集まるボランティアで運営されていること
である。実行委員会は、地元住民の音楽好きやお祭り好きの有志を中心に約50人で構成さ
れている。また、ボランティアを希望する人は断らないという原則で受け入れており、そ
のなかには各地のホールに勤務するプロも含まれている。さらに、演奏家もほとんどがボ
ランティアとなっている。つまり、ゆ祭は、ボランティアが支える音楽祭なのである。
実行委員会の個人的なつながりで支えられている音楽祭は、小さな街の小さな音楽祭で
あり、身の丈にあった運営を手づくりで楽しんで実施している。運営している側が楽しめ
る範囲で開催されることで、観客にとっても温泉地ならではの、肩のこらないリラックス
した音楽祭となっており、地元客だけでなく広く各地から多くの観客を集めることにつな
がっているのであろう。
湯布院町では、他にも映画祭が開催されるなど、文化的イメージをアピールしている。
しかし、そのアピールは行政からの押し着せの 町おこし・村おこし ではなく、地元が
自分たちでできる範囲で支えていることで、長く継続することが可能となり、その結果と
して効果が挙がっているように感じられる。また、実行委員長の加藤氏の言う「無理をし
ないこと」の原則が、仲間で支える音楽祭を実現させているのであろう。
それぞれの顔の見える小さな街の小さな音楽祭は、由布院温泉の大きな財産として、こ
れからも多くの人に支えられて受け継がれていくのであろう。
4.草津国際アカデミー&フェスティヴァル
2002年夏、第23回草津夏期国際アカデミー&フェスティヴァル(以下、「草ア」
)が草津音
楽の森国際コンサートホールで、「音楽都市パリとウィーン」をテーマに開催された。草ア
は、日本でも有数の温泉地である草津町で開催され、毎年特色あるテーマが設定されてい
る。音楽祭全体は、若手演奏家の育成の場であるアカデミーと演奏会で構成される。
草アは、わが国の文化環境の向上を目的として1980年に開始され、現在では高いレベル
の演奏家が集う質の高い音楽祭として国際的に知られるようになっている。
Arts Policy & Management No.17, 2003
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
■
in Local
から
Local to Local
へ
わが国の文化、音楽環境の向上を目的とする一方で、草津町にとって草アは街のイメー
ジを一新する重要な役割を果たした。
当初、草アは、米国アスペンが廃鉱町からスキーと夏の音楽祭の街へと変貌を遂げたま
ちづくり、活性化の姿をイメージして開催された。草津町は、近接する高級別荘地・軽井
沢と比べて古くからの 湯治場 のイメージが強かった。
高いレベルの本格的な音楽祭として草アが開催されることによって、草津町は 湯治場
から
音楽のあるリゾート地 のイメージづくりに成功している。草津町が首都圏から1
泊2日の旅程に適した距離にあり、文化人や有名人を滞在させることができたことも大きな
要因と考えられる。また、若い音楽学生がアカデミーに参加し、あるいはボランティアと
して運営を支えることによって、古い温泉街に活気があふれ、それが地元の活性化へとつ
ながっていったのであろう。
この 湯治場 での試みは、地元住民も動かしている。団体客を対象としてきた旅館は
演奏家や若い音楽学生にも対応した、すなわち個人客へのきめ細かいサービスへの改善に
取り組んでいる。また、町民の間でまちづくりに対する気運が高まり、草アを支える「音
楽アカデミー友の会」が組織され、
「ポピュラーコンサート」が開催されるなど、地元住民
との連帯感が定着していると言う。
その意味で、草津は、日本の旧来の湯治場的な温泉地の姿を、滞在型温泉リゾートへと
転換させ、また街の地元住民の交流を促進する一つのきっかけになっていると言える。
草アの試みは、現在もさらに広がっている。
草アは、ウンブリア州の音楽祭と姉妹音楽祭提携を結んだ。※ペルージャ出身の音楽団体
イ・ソリスティ・ディ・ペルージャの草ア出演を契機として、ウンブリア音楽祭側からの
申し入れによるものであり、同州内のグッビオ音楽祭等との交流が企画されている。姉妹
音楽祭提携はわが国初めての試みである。また、音楽祭の交流の他、昨年秋には草津町長
がグッビオを来訪し、産業交流についても話し合われたということである。グッビオは山
地に位置し、白トリュフ、オリーブオイル等の山の産品で知られており、今後、草津との
交流によりPRをしていきたいと考えていると言う。このように、音楽を契機としながら様々
な分野へと地域間交流、国際交流が広がっていくことが期待される。
※
ウンブリア音楽祭については、拙稿『Ⅳ.欧州における音楽祭事』参照。
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Ⅵ.未来志向の音楽祭
■地域社会と音楽祭
以上、さまざまな成功事例を見てきたが、共通することは地域社会に欠かすことのでき
ない存在となっていることである。先述の通り、小澤征爾氏の語った「地元に愛されるフ
ェスティバル」であることが、それらの成功を支えているのではないか。また、ナント音
楽祭にも、地域密着型の音楽祭の成功例を見ることができる。
地元に愛されること、それは地元にとって音楽祭の開催が意義あることと感じることを
意味する。多くの場合、当初からクラシック音楽が地元住民に熱狂的に支持されているこ
となどないだろう。また、場合によっては、クラシック音楽をはじめとして 音楽 を取
り上げることに異論の声もあるかもしれない。
しかし、音楽祭に観客として、ボランティアとして、そして人々を受け入れる住民とし
て参加することによって、人々の新たな交流のきっかけとなり、その出来事自体が地元住
民によって欠かせないものとなる。準備を含めて、音楽祭が年間を通じた地域住民のふれ
あいのきっかけとなるのである。
また、質の高い音楽祭を開催することは、音楽界にとって意義あることであるばかりで
なく、子どもたちに良質な芸術文化環境に触れる機会を創出し、また、地域のイメージア
ップとなることで住民の愛着と誇りへとつながっていく。
「地域社会と音楽祭」を考えるとき、 地域文化振興 や 観光振興 、 国際文化交流
といった行政的なタテマエで、単なる文化イベントを開催するのではなく、いかに地域を
巻き込み、地域に愛されるかが課題であり、それが継続へとつながっていく。そのための
お仕着せでない仕掛けづくりが重要である。また、今回の取材にご協力いただいた各音楽
祭の事務局あるいは実行委員を勤められている方々は、いずれも音楽祭の開催に夢や信念
をもって取り組まれていた。こうした方々のリーダーシップが、地域を巻き込む力となっ
ていると感じている。
SKFの事務局長 赤廣氏の「フェスティバルのためにフェスティバルをするのではない」
という言葉が、その意味を象徴しているように思う。
【インタビュー取材協力】
○サイトウ・キネン・フェスティバル松本
実行委員会事務局
事務局長
赤廣 三郎 氏
飯田 益彦 氏、事務局次長
佐原 秀治 氏
○別府アルゲリッチ音楽祭組織委員会
実行委員・事務局長
○ゆふいん音楽祭実行委員会
○草津夏期国際音楽アカデミー
委員長
加藤 昌邦 氏
事務局長
井阪 紘 氏、平野 芙紗子 氏
ありがとうございました。
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
河原
泰
(河原泰建築研究室)
1.専用ホールブーム・芸術劇場ブーム(1980年代中盤〜)
1978年、兵庫県にオープンしたピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)は、
地方の公共施設でありながら、演劇用ホールとして席数を400席以内に抑え、運営に強い民
間人を館長に登用し、演劇創作活動を支援する方針をいち早く打出すなど、日本の演劇専
用ホールに先鞭を付けた画期的なホールであった。
ピッコロシアター
(資料)ピッコロシアターパンフレット
また地方の音楽専用ホールとして、1981年に当時人口15,000人に満たない宮城県中新田町
に、後に宮城県知事となる町長の英断で席数660席のバッハホールが建設された。地方都市
のホールではこれまで見られなかった最適な音響をつくりだす残響可変装置やパイプオル
ガンを備えた本格的なホールであり、地方の小都市の田んぼの中に建てられたこととあい
まって、全国的な注目を浴びることとなった。
バッハホール
(資料)バッハホールパンフレット
音楽専用ホールとしては、民間の施設ではあるが、1982年にわが国初の本格的な大規模
コンサートホールであるザ・シンフォニーホールが、残響時間2.0秒を確保して音響的な評
価を受けた。続いて1986年のサントリーホールがアリーナ型のコンサートホールとして雰
囲気・音響共に絶賛を浴びたことから、「クラシック音楽を対象とするホールは専用化すべ
き」という概念が通説となった。
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
また、1992年に本格的なオペラを上演するため、主舞台と同等の大きさの側舞台と後舞
台(4面舞台)をもつ愛知県芸術劇場が完成する。そして、この後に完成する演劇専用ホ
ールは、側舞台・後舞台だけでなく、舞台美術作業場、道具倉庫なども含めた飛躍的にバ
ックゾーンが拡大されることになる。
その後80年代中盤以降、バブル景気により各自治体の財政に余裕が生まれたこと、劇団・
楽団の力量が欧米レベルに近づいたこと、国民嗜好の多様化等の理由により、音楽の中で
もクラシック・ロック・邦楽、演劇の中でもオペラ・新劇・歌舞伎・能など、それぞれの
ジャンルにおいて高度に特化した専用ホールがつくられた。
アリーナ型の音楽専用ホール(サントリーホール)
(資料)
『建築図集DA 劇場・ホール1』新日本建築家協会編
1982年に音楽専用ホールと演劇専用ホールとで構成される熊本県立劇場が完成した。そ
の後、この組み合わせによる芸術劇場ブームが全国各地で続いている。水戸芸術館(1990
年)東京芸術劇場(1990年)愛知芸術文化センター(1992年)彩の国さいたま芸術劇場(1994
年)三重県立芸術劇場(1994年)浜松アクトシティ(1994年)富山市芸術文化ホール(1996
年)滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール(1998年)新潟市民芸術文化会館(1998年)静岡県コ
ンベンションアーツセンター(1999年)等である。
2.可変転換ホール(1980年代中盤〜)
1980年代中盤以降は、専用ホールの大きな流れがあった一方で、多目的性追求による技
術進歩はより高度化し、これまでのホール(劇場)の概念を覆す新しいタイプのホール(劇
場)が生まれた。舞台と客席を必要に応じて自由に変化できる可変転換ホール(アダプタ
ブルステージ形式)である。わが国初の可変転換ホールは、1982年に建設されたラフォー
レ原宿である。これは、そもそも音楽・演劇等の多目的性を追求したわけではなく、ファ
ッションショーなどのさまざまなイベントに対応するために考案されたホールであった。
しかし、この自由な形式がアートとパフォーマンスの融合をめざす前衛的な演出家の興味
をそそり、全労災ホールスペースゼロなどの小規模演劇ホールに採用されることとなる。
現在では、新国立劇場小劇場に採用されるなど、実験的な意味合いの強い演劇ホールとし
て定着しつつある。
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
実験演劇に使用される可変転換ホール(新国立劇場小劇場)
(資料)
『建築計画・設計シリーズ27音楽ホール・劇場・映画館』市ヶ谷出版社
3.小規模市民ホールブーム(1990年代〜)
80年代から続く専用ホールブームは、一般市民からの要望というよりはむしろ、プロの
演者・有識者や自治体が主導した流れであり、わが国の文化を高度に先導する役割を果た
した。その一方で、専用化したことによる運営の難しさと建設にかかる莫大なコストが時
には批判の対象ともなっている。欧米においてでさえ都市圏に一つないしは二つ程度しか
存在しない専用ホールが、わが国においては特に大都市圏において過度に集中しているこ
とも批判の要因となった。
経済成長が停滞しつつあった90年代からは、一般市民の気軽な発表・鑑賞の場としての
小規模で手頃な仕様の多目的ホールが各地の2番目・3番目の市民ホールとしてつくられ
つつある。これらのホールは、多目的ホールでありながらも基本とする演目を設定してい
る施設が見うけられる。また、計画段階から市民を中心とした自主創作劇団・楽団を醸成
したり、ワークショップ等を開催する等の市民の身の丈に適応した活動を行っているホー
ルもある。これらのホールの例としては、1994年に音楽を主目的として金沢市につくられ
た金沢市アートホール(304席)や1991年に演劇を主目的として那覇市につくられたパレッ
ト市民劇場(391席)などがあげられる。
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
4.工房型ホール
これまでにない新しい形式のホール(劇場)として、注目を集めているのが、【金沢市民
芸術村】の工房型ホールである。ここでは、発表・鑑賞型のホール(劇場)としての機能
をもちつつ、市民による舞台芸術の創造に重点を置き、旧紡績工場倉庫群を改修により、
形式的に高度化しない工房的な雰囲気としていることに特徴がある。また市民の気軽な利
用を促進するために、①施設整備整備費を抑え、運営を市民の自主管理に委ねることなど
により、低料金で利用できるようにする、②24時間開館や長期使用・定期使用を認める等
のさまざまな工夫がなされている。
工房型ホール(金沢市民芸術村)
(資料)金沢市民芸術村パンフレット
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
1980年以降のわが国のホール整備の流れ
(資料)
『日本の現代劇場設計事例集』日本建築学会より東畑建築事務所作成
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Ⅶ.【連載】わが国における公共ホールの変遷(後編)
■まとめ
現在、箱物行政の最たる施設として、批判を受けている公共ホールであるが、このよう
に時系列でわが国の社会情勢・経済情勢・芸術文化潮流と照らし合わせてみると、ホール
形式の展開が、その時代のニーズに即したものであるといえるであろう。現在、批判を浴
びるホールの多くは、ニーズを探求せずに古いホール形式のままつくられたホールまたは
ニーズを絞りこめずに焦点をあいまいにしてしまった多目的ホールではないであろうか。
ホールの歴史の中で、時代のニーズを先読みし、ホール形式の変遷の先鞭をつけた施設は、
先ほど大規模な改修を終えた大阪市中央公会堂や現在でも公演申し込みが絶えない東京文
化会館などのように、市民に愛され、有効に活用されている。
すでに、1都市1ホールの時代は過ぎ、多くの都市が2番目または3番目のホールの建設を
検討する時代である。2番目または3番目のホールを検討する際に、ホール形式は1960年か
ら80年ごろまでの間に建てられた既存ホールと同様の多目的ホールで規模を小さくし、使
い勝手の悪い部分を改善したものにしてほしいという要望を受けることがある。その理由
は、市民からの既存ホールへの批判とさまざまな団体からの要望ということであるが、こ
れをそのまま受け入れることは望ましいことではない。既存のホールに対する市民の批判
は、そのホールがもつ本来の建設目的とは違う部分に対することであり、ニーズの変遷を
つきつめて検証するべきである。またさまざまな団体からの要望については、一つの施設
で達成できる目的は限りがあることを説明し、既存の施設の改修や将来計画などを含めて、
複数の施設で複数のニーズに対応する姿勢を明確にするべきである。
現代のホールは、芸術文化の鑑賞・発表・練習というそれぞれの目的に特化したホール
形式で対応する時代に入りつつある。今後、自治体において新たにホールを建設する際に
は、既存のホールをホール形式の変遷のなかに当てはめ、自らの都市において不足してい
るホール形式を検証していただきたい。そして本稿が、その検証の一助となれば幸いであ
る。
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芸術・文化政策センターからのお知らせ
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