アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-

「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-
8 月 07 日(木)13:30~15:00 東京会場
8 月 27 日(水)18:30~20:00 札幌会場
講師
五十嵐聡美
北海道立釧路芸術館主任学芸員
むような絵師に、ちょこちょこっと絵を習って(ひょっ
はじめに-松前の絵師、小玉貞良
今ご紹介いただきましたように、私の最初の赴任先は、
としたら津軽藩に渡って絵の修行をしたかも知れません
道立函館美術館でした。昭和 61 年のことです。勤めて2、
が)、絵師として一本立ちして、松前で看板を出し、頼ま
3年目だったでしょうか、展覧会でお世話になった京都
れれば、絵馬でもなんでも描く。そういう人だったと想
の古美術商さんから大きな写真が送られてきました。江
像します。
貞良で評価すべきとしたら、ものごとに柔軟に対応し
戸時代の屏風の写真でした。
ていく器用さというか、どんなものでも、注文があれば、
古美術商さんがいうには、最初、琵琶湖を描いた屏風
それなりに工夫して描く才能です。
だと思って、ニューヨークのオークションで買ったのだ
けれども、調べてみると、琵琶湖ではない。北海道の江
小玉貞良は、蝦夷ヶ島の松前という最北に住んでいま
差だということがわかったのだそうです。屏風は、普通
したので、好きに絵が描けたともいえます。もし、貞良
六曲一双といって、2点で1セットですから、本当は対
が京都で本格的に絵を習っていたら、絵のお師匠さんの
になるもう1点の屏風があったはずなのですが、片方は
いうとおりに描かなければならなかった。竜のうろこの
行方不明で、1点しかありません。それでも、江戸時代
色は青なのだといわれれば、竜のうろこは青に塗らなけ
の江差の港を描いた屏風なので、北海道で買う人、いま
ればいけない。好き勝手に描くと、破門されてしまうの
せんかというのです。
です。江戸時代の絵師の世界は厳しいピラミッド社会。
その屏風には、「松前産龍圓齋貞良筆」というサイン
その中にあって、絵は手本どおりに描くものと決まって
がありました。松前生まれの絵師、小玉貞良のことです。
いたのです。書道の臨書といっしょで、絵の基本は模写。
ですが私にとっては、はじめて聞く名前でした。ちょっ
個性は必要なかったのですね。でも、貞良は、田舎での
と調べてみましたが、生没年も作品の所在もほとんどわ
びのびと好きなようにやっていたので、何にもしばられ
からない。でも江戸時代に江差の港を屏風という大画面
ることなく筆をふるうことができたのです。
に描いているのだから、それなりの絵師かもしれない。
<江差松前屏風>は、小玉貞良のオリジナルです。祖
そんなことで貞良に興味を持ちました。それが小玉貞良
形としては<洛中洛外図屏風>とか、瀬戸内の港を描い
との出会いでした。
たような屏風とか、そういうのがありますけれども、貞
それから 20 年、小玉貞良について調べてきたわけです
良は、それまで誰も描いたことのない松前と江差の港を
が、この時、京都の古美術商さんから紹介された屏風と
屏風に描きました。上手いか下手かは別にして、オリジ
いうのは、<江差松前屏風>のうちの<江差屏風>で、
ナルの絵を生み出したところに大きな意味があるのです。
これは、大変な発見でした。貞良の<江差松前屏風>は、
貞良についていろいろ調べているうちに、小玉貞良は
このほか2点伝わっていまして、3番目の<江差松前屏
<江差松前屏風>も描きましたが、アイヌの姿を掛け軸
風>(残念ながら<江差屏風>だけですが)が発見され、
や巻物に描いたことがだんだんわかってきました。それ
アメリカから里帰りしたということだったのです。
まで誰も本格的に描いたことのなかった「アイヌ絵」が、
貞良によって創始されたのです。前例がないところに、
<江差松前屏風>とは、片方の屏風に、ニシン漁でに
最初の1点を生み出すのは、大変なことなのです。
ぎわう春の江差の港を描きます。もう片方は、秋の松前
で、福山城を中心に城下のにぎわいと、帆をふくらませ
現在、小玉貞良の絵は、20 点ぐらい確認されています
た北前船が行き交う港を描きます。おおざっぱにいえば
が、アイヌの姿を掛け軸や巻物に描いた「アイヌ絵」は、
<洛中洛外図屏風>の北海道版。ただ<洛中洛外図>を
その半数。絵馬1点、掛け軸4点、巻物5点を描いたこ
描いた京都の一流の絵師と比べてしまうと、貞良の腕は
とがわかっています。
二流。比べものになりません。美術史の偉い先生たちな
1
どは、絵が下手なので、ぱっと見て「ああ、これはもう
アイヌ絵に何を読むか
実をいいますと、小玉貞良という絵師を調べることか
いい」という感じ。よくいえば地方作なのですけれども、
ら出発した私は、貞良がアイヌを描いたことがわかって
簡単にいうと田舎くさい。
多分、小玉貞良という絵師は、松前に生まれ、生来、
も、私は絵師や作品について勉強しているのだから、ア
絵を描くのが好きだったのでしょう。狩野派の流れをく
イヌの歴史文化には触れなくてもいいのだと考えていま
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「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
した。そんな考えのまま、小玉貞良が描いたアイヌの絵
はわかるのだけど、大陸の一部なのか島なのかわからな
について、何本か論文を書いたころ、当時勤めていた職
くて、空想的な形が出てきたり、渡島半島の知っている
場に、事務方の上司になるのですが、アイヌ新法にかか
海岸線だけが出てきたりします。地図の上で本当に北海
わる仕事をされていた人が転勤してきて、私の論文を読
道が北海道になるのは、伊能忠敬さんが探検してからに
んで、首をふりながらいうのです。「あんたは、アイヌの
なります。
そんなんでしたから、その昔、江戸や大阪、京都に住
ことを何もわかっていない」と。
私は、「絵を勉強しているのですから、アイヌの歴史と
んでいた人にとっては、蝦夷地は、距離的にもそうです
か文化は専門外で」」といいます。でも上司は「何もわか
が、心理的にものすごく遠かったのだろうと思います。
っていない」というだけ。私は、心の中でずっといいわ
江戸や大阪にいたら、蝦夷ヶ島に蝦夷という人々が住ん
けをして『私は美術史の勉強をしているのだし、アイヌ
でいるらしいというウワサを聞いても、蝦夷ヶ島に行く
の歴史とか文化とか差別とかそういうことはほかの人が
のは命がけだし、アイヌの人が上京することもありませ
やってくれているし、アイヌのことは二次的に勉強する
んから、アイヌの人たちに会うことは無理ですよね。当
だけでいいのだ』と。
時は、テレビもないし映画もないし写真もないのです。
けれども今とても感謝しているのは、その上司がそう
だから、どんな民族なのか、想像するだけです。あえて、
いってくれなかったら、本当の意味で、私は絵を見てい
蝦夷地のイメージを知ることができるとすれば、絵しか
なかったと思います。アイヌを描いた絵について 20 年ず
ない。これぞウワサの蝦夷地の風景です、これが蝦夷地
っと調べてきましたが、アイヌの歴史や文化について少
に住むアイヌです、という絵が出回れば、評判になるこ
し知識を持つだけで、1枚の絵の見え方が変わったから
と間違いなし。
はじめのうち蝦夷ヶ島は、地図にも登場しないくらい
です。
皆さん、私の古い論文は絶対読まないでください。や
ですから、蝦夷地の絵もアイヌの絵もなかったのは、想
っぱり絵について何にもわかっていなかったのですから。
像いただけると思います。そうしたなか、18 世紀、アイ
絵を見るということがどういうことなのか、私は何もわ
ヌの姿を描いた「アイヌ絵」が、突如、登場して、本州
からずにきたんだと、今思うのです。ひょっとしたら、
で大流行します。その「アイヌ絵」を描いたのが、小玉
あと 10 年したら、私はまた違うことを言っているかもし
貞良だったのですが、では、スライドを見ながら、お話
れない。それぐらい絵を見るということは難しい。
ししていこうと思います。
絵には、何枚も扉があるのです。扉を開ける鍵は、自
スライド①<世界図・日本図>
分が何を見たいか、何をそこから読みたいか、それだけ
なのですが、それを意識するかどうかなのです。
同じ絵であっても、何に関心があるかで見え方がまる
で違う、見えてくるものが違ってくる。そのことに、私
は最初、全然わからなかった。小玉貞良が何年に生まれ
て、どこで絵の勉強をして、何年に死んだかということ
がわかれば、それで絵のすべてがわかっている、そんな
つもりでいたのです。
なので、今日は、私がずっと絵を見てきた中で、何が
見えてきたかというお話をしたいと思います。
<世界図・日本図>17 世紀
2
日本地図を屏風に描いたものです。本州の北にある赤
空想で描かれた蝦夷ヶ島とアイヌ
い島が、蝦夷ヶ島です。実際より小さく、形もあいまい。
今回、釧路から東京に飛行機で来ました。飛行機で来
空想で描いたようにみえます。
ると近いです。釧路からでも2時間かからないのですね。
でも、今から 200 年前、北海道が蝦夷ヶ島と呼ばれてい
これは、世界地図を屏風に描いたもの。地図のまわり
た時代は、北海道は本当に遠かったのだろうなと思いま
は、世界各国の民族の男女がペアで一覧になっています。
す。もし、私が江戸に住んでいて、ある日、「お父さん、
17 世紀に描かれたものですが、この時期、地図を屏風に
お母さん、蝦夷ヶ島が見たいから行ってもいいかい」と
描く、そして地図のまわりに各国の民族を描くというの
いったら、絶対にダメといわれたと思うのです。
が、流行したのですね。オランダとか中国とか当時の日
江戸時代の北海道の地図を専門に研究されている方が
本人が知っている国から、ちょっと見づらいのですけれ
いて、その方の講義をお聞きしたことがあるのですが、
ども、巨人の国とか小人の国とか、荒唐無稽な空想の国
おもしろいのですよ、昔の地図が。北海道って最初は、
などいろいろ出てきます。
地図になかったのですね。誰も北海道の存在を知らなか
この屏風が描かれた 17 世紀というのは、日本人が世界
った。だから本州の先に島がない。そのうち、あること
の広さを知りつつある時代でした。16 世紀は、羅針盤が
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「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
普及し大型の船を建造する技術が発展して、世界は、大
また、この絵馬が奉納された宝暦年間は、アイヌ絵が
航海時代。世界中に船が廻って、キリスト教が布教され、
海を渡って、本州で出回っていたことがわかっています。
香辛料がもてはやされていた。その波に乗って、日本が
宝暦9年7月 19 日、「夷画(えぞえ)の藩外、持ち出し
世界に発見されたのです。そして、日本人は、はじめて
を禁じます」というおふれ書きのことが松前藩の史料に
世界は球のように真ん丸で、しかも日本ってこんなに小
残っているのです。えぞえというのは、今でいうアイヌ
さい島国だと教えられたのです。だけれども、この屏風
絵のこと。当時はえぞえと呼んでいたようです。絵馬の
の世界地図を見ると、日本がちょっと大きい。小さくは
作者が貞良であるように、このお触れが出た宝暦年間、
したくなかったのでしょうね。こうした屏風を飾ったの
松前で活躍していた絵師が小玉貞良なのです。
は、大名など時の権力者でしょう。世界地図を部屋に飾
私は、これまでいろいろとアイヌ関係の絵を調べまし
って、世界を手中にしたいという気持ちがあったのでは
たが、さっきお見せした寺島良安の「和漢三才図会」み
ないでしょうか。それで、このような地図屏風が流行る
たいな空想的な絵はおいておいて、本格的にアイヌ絵を
のです。世界にはどんな国があって、どんな人たちがい
描いた人は、小玉貞良が最初だと考えています。
るのか。日本は鎖国していましたから、余計、人々は、
貞良が活躍するまでは、想像で描いたようなアイヌ絵
海の向こうのことが知りたかった。その中で、一番近い
しかなかったのに、突然、アイヌ絵、藩外持ち出し禁止
海の向こうが、蝦夷ヶ島だったのです。
令が出るほど流行する。何故でしょう。どうしてでしょ
う。
日本の絵画というのは、書道と同じで、ひたすら写す
スライド②<蝦夷国語男女之図>
<蝦夷国語男女之図>1775 年
アイヌ民族博物館蔵
アイヌの人たちを描
ところからはじまります。本物を見て絵を描くことは、
いた絵が最初に出てく
まずない。富士山を見て富士山を描きません。富士山の
るのは、18 世紀のはじ
絵を見て富士山を描きます。お手本がないと江戸時代の
めです。1713 年に寺島
絵かきさんはだめなのです。だから、絵かきさんのアト
良安という大坂のお医
リエが火事になってお手本がなくなったら、絵かきさん
者さんが 30 年かけて
は廃業になってしまいます。
大百科事典をつくりま
花を描くのに本物の花を前にデッサンをする、という
す。「和漢三才図会」と
のは、明治に西洋的な絵画の練習法が入ってきてからの
いうのですけれども、
話し。貞良の時代では、絵は手本を見て描くものだった
その異人の巻を見ると
のです。なので、手本からどんどん子どもが生まれ、そ
蝦夷というのが出てきます。ただし、ほとんど想像的な
の子どもから、孫がどんどん生まれていきます。2種類
絵。それをさらに掛け軸に引き写したのが、この絵にな
の手本をあわせるような時は、その絵には、手本にした
ります。<蝦夷国語男女之図>です。
お母さんお父さんがいるということになります。江戸時
代、絵は、絵から生まれていたのです。
アイヌの男の人は、髪が長くてバサっとしていて、ひ
げを生やしていて、弓の名手なので、弓矢を持っている。
というわけで、アイヌ絵が1枚、出回って評判を呼べ
女の人も髪が長くて耳飾りをして、ただ、この手に持っ
ば、それを手本にどんどん似たようなアイヌ絵が複製さ
ているものは何だかさっぱりわかりません。ウワサに聞
れます。でも、アイヌ絵は、空想的な絵があるだけで、
くアイヌの姿が、空想的に描かれているのです。文字情
お手本になるようなものがなかった。その中で、最初の
報を絵に描き起こしたようにみえます。
1枚を描いたのが、蝦夷ヶ島の松前に住む小玉貞良だっ
たと思うのです。1枚描いたら、どんどん注文が来たの
3
でしょう。それで貞良もアイヌ絵をたくさん描いたし、
アイヌ絵ブームの立役者-貞良と近江商人
貞良のアイヌ絵を手本にして、似たようなアイヌ絵が生
スライド③<アイヌ熊狩之図絵馬>
み出されていった。それで一気にアイヌ絵が流行したと
これは、宝暦9年
思うのです。
(1759 年)7月 20 日、
青森の広田神社に奉納
ただし、貞良が一人でアイヌ絵を描いて、家の玄関に
された絵馬です。残念
飾っていても、流行にはなりません。アイヌ絵のニーズ
ながら、昭和 20 年に戦
があり、流通させる人がいて、需要供給のバランスがと
災で焼失しましたが、
れてブームになる。
アイヌの熊狩りが、武
当時、アイヌ絵のニーズは、しっかりとありました。
者絵風に力強く描かれ
時代は、鎖国中の 18 世紀です。本州の知識人は、海の向
ています。この絵馬の
こうのことが知りたくて知りたくて、好奇心をふくらま
作者が小玉貞良で、松前の貞良が描いた絵馬が、青森に
せていました。そうした人達のもとにアイヌ絵を届ける
奉納されていたのですね。
べく、松前の貞良にアイヌ絵を描かせて、本州に運んだ
<アイヌ熊狩之図絵馬>
1759 年奉納
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「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
たという話ですが、開拓記念館の(故)林昇太郎さんが、
人、流通させた人がいた。それが近江商人です。
近江商人とは、宝暦年間、滋賀県を中心に活躍した商
「五十嵐さん、見つかったよ」といって連絡してくれた
人で、本店は滋賀県にあり、松前、江差に出店を出して、
のが、中国の太公望みたいな人が、隣に丁稚のような小
日本中の産物を各地で売りさばいていました。荷を運ぶ
僧をおいて、魚釣りをしている絵です。このアイヌの絵
のは船です。早いし大量に輸送できる。船で松前、江差
に構図がよく似ているのです。舟を岩に変え、小僧を奥
に来ては、蝦夷地の漁場で海産物をたくさんとって本州
さんにして、太公望にアイヌ文様の衣装を着せれば、ア
に運び、本州から来る時は、松前、江差で必要とするよ
イヌの魚釣りになる。
この絵は、太公望を着せ替えして、アイヌに変身させ
うな日用雑貨、米や塩などを積んでくる。そうして、巨
た絵ではないかと思うのです。
額の富を築いたのです。
その近江商人と、小玉貞良は、非常に太いパイプでつ
スライド⑤<アイヌ章魚突之図>
ながれていたことがわかっています。近江商人の末裔の
ひとり、田付さんというのですけれども、その方は、今
これも天理大学の図書
でも小玉貞良の屏風絵<江差松前屏風>を大切に持って
館にある小玉貞良の<ア
いるのですよ。そのほかにも、現在、松前町にある<松
イヌ章魚突之図>なので
前屏風>も近江商人が持っていたものです。このあと説
すが、やっぱり最初に見
明しますオーストラリアにある小玉貞良の画巻も近江商
た時は何も違和感はなく、
人の宮川家が、所有していたのではないかと考えていま
「ほお、タコか」ぐらい
す。
でした。でも、ある日、
つまり近江商人は、小玉貞良のパトロンだったと思い
疑問が湧いてきました。
ます。近江商人の本店は、滋賀県にあります。最果ての
これがタコ漁だとしたら
支店になる松前の様子を知らせるために、松前支店長が、
ですよ、槍で頭を刺して
「小玉貞良先生、お願いしますよ。ひとつ、こんな絵を
タコが捕れるものなのだ
描いてくれませんか。」といって描かせたのが、<江差松
ろうか、普通は、タコつ
前屏風>であり、もう一つがアイヌの絵だったのではな
ぼみたいな仕掛けで捕る
のではないかと。だって、
いでしょうか。
タコの頭を槍で突いても、
近江商人は、松前と本州をそれぞれの産物を積んで、
タコは痛いといって逃げ
船で行き来していたわけですから、積み荷のひとつにア
イヌ絵があったと考えれば、先ほどお話しした宝暦9年
るだけですよね。絶対に
に、アイヌ絵藩外持ち出し禁止令が出たというのも、合
小玉貞良<アイヌ章魚突之図>
天理大学附属天理図書館蔵
点がいきます。近江商人によって、アイヌ絵が、たくさ
アイヌの漁具にもありますけれども、槍の先にカエリが
ん、船に積まれ、本州に持ち出されていたということで
ついていて、刺すと獲物を噛むようなものであれば、捕
す。
らえることができますけれど、槍で突くだけなら、タコ
捕まえることはできない。
をいじめているだけじゃないですか。
4
貞良は、どうやってアイヌ絵を描いたか
それからこの絵にも、奥さんのような女性がいて、き
スライド④<アイヌ釣魚之図>
小玉貞良<アイヌ釣魚之図>
天理大学附属天理図書館蔵
れいな服を着ています。見ると、子グマがいます。女性
これは、今は天理大
学の図書館にある小玉
貞良の掛け軸で、アイ
ヌが魚釣りをしている
絵なのですけれども、
これを私が最初に見た
時は、何の疑問もなく
「ああ、魚釣りか」で
終わりました。
でも、ある日ふと、
の肩にじゃれついている。タコを捕りに行くのに子グマ
を連れていくのかなあ、変ですよね。
では、どうしてこういう絵が描かれたのでしょう。そ
のときに、思い出すのが、今日一番初め最初にお見せし
た<世界図>屏風にあった世界各国の民族、男女ペアの
図です。この絵も、アイヌの男女が描かれています。だ
から世界民族一覧と同じように、アイヌ民族の男女を紹
介するために描かれたのではないでしょうか。本州の人
に、蝦夷地に住むアイヌの男性はこうだ、アイヌの女性
変だなと思うようになった。アイヌの人って、こういう
はこうだと紹介するために、説明的に描いたものなので
ふうに魚釣りするのかなと。隣に奥さんのような人がい
はないでしょうか。だからこそ、人物には、アイヌらし
て、幸せそうですよね。こんなふうに夫婦で魚釣りして
い衣装を着せ、アイヌらしい持ち物を持たせようとした
みたいよな、でも、本当にこんなふうに魚釣りするのか
のでしょう。男性なら漁具、女性ならクマの子。ただし、
な、と思ったのです。
どうしてタコ突きになるのか、わかりませんが。
それで、先ほどお話ししたように、絵は絵から生まれ
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「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
ということで、近江商人が小玉貞良にアイヌの絵を描
を打ち込むようなのですが、縦に杭を2本しか打ってい
いてくれと頼んだ時に、男女ペアのアイヌ絵を描いてほ
ないので、すぐ外に出られそうな感じがするのですけれ
しいと注文を出したのではないかと思います。
どもね。それはともかく、冬眠から目覚めたクマが、外
アイヌ熊狩りの絵馬を見ました。描かれていたのは、
に出たいけれども出られない状態のところに、トリカブ
クマに矢を放ったアイヌの男性に槍を持つ女性でした。
トの毒矢を打ち込みます。時期は、ここに雪があって早
<アイヌ釣魚之図>でも、男女でした。そして、この<
春の猟であることを伝えています。
ところが、ある日、これは違うと思いました。絶対に
アイヌ章魚突之図>でも、男女になっています。
違う。雪山にこんな裸足で行かない。しかも、この絵巻
もう一度いいますが、これらの絵は、何かの絵を下敷
きにして描かれたものです。誤解してほしくないのは、
においては、彼一人なのですよ、クマに挑んでいるのは。
小玉貞良が画板を持って、何かいいモチーフはないかな
もろ肌脱いでいるし。雪残る早春ですよ。
と海岸に行ったら、アイヌの男がタコ突きをしていて、
平澤屏山という明治に活躍した絵師が、同じ春の巣グ
隣に奥さんが子グマを肩にのせていたので、これはいい
マ猟を描いています。それを見ると、アイヌは全身重装
題材だと思って、デッサンして、この絵を完成させたの
備しています。ちゃんと帽子もかぶっているし、靴も履
ではないということ。貞良は、アイヌの魚釣りも見てい
いています。皆さん御存じのように、アイヌの人々は冬
ないし、熊狩りに同行したわけでもない。
も裸足で暮らしていたわけではなく、サケの皮でつくっ
アイヌ男女の図を描くというのが、まず先にあって、
た靴を使っていました。脚絆もありますし、手袋もあり
手本からポーズを引用し、アイヌ文様の服を着せる。近
ます。平澤屏山の絵を見ると熊狩りには、犬も連れてい
江商人から、注文を受けた貞良は、そうやってアイヌ絵
くし、一人ではなくチームで狩りをしているのです。
つまり、この絵は、すべて貞良の頭の中にある熊狩り
を描いたのではないかと思うのです。
のイメージで、アイヌの男が勇ましくクマに向かう姿を
観念的に描いたものなのです。そのことをちゃんとふま
スライド⑥<蝦夷国風図絵屏風>
えておかないと、本当に裸足で、雪の山を登って、クマ
猟に行くのかなと勘違いをしてしまう。
では、さきほど、お母さんグマはやられてしまいまし
たが、いたずらっ子そうな子グマはどうなったか。大丈
夫なのです。そのまま山に置き去りということはなくて、
ちゃんと里に連れ帰って、アイヌの女性たちが、慈しん
でクマの子を育てるのです。このあと、子グマにえさを
小玉貞良<蝦夷国風図絵屏風>
あげているという場面が出てきます。
アイヌ民族博物館蔵
これも、小玉貞良が描いたもので、今、白老のアイヌ
5
民族博物館にあります。屏風ですが、もともとは、巻物
アイヌ絵は、何のために描かれたのか
スライド⑦<アイヌ盛装図>
になっていたものを、その場面ごとに断ち切って屏風に
貼ったものです。絵巻物ですから、ストーリーがあって、
小玉貞良の<アイヌ盛装図>
場面には順番があるのですが、今は、ばらばらに貼られ
という作品です。白老のアイヌ
ています。ここでは、もとの順番どおりに見ていきます
民族博物館の所蔵ですが、これ
ね。
を最初に見たのは、20 年くらい
これは画巻のはじめの方の場面。アイヌの男の人が、
前のことで、その時は、青森の
矢をつがえていて、すごい格好いいんです。何を狙って
稽古館にありました。その時か
いるのかというと、巣穴からでてきたヒグマ。ここでは、
ら、額装されていましたが、写
ヒグマの胸に矢が刺って「ああっ」っていっている。そ
真でもわかるのですけれども、
してわかりますか。子グマがいるのですよ、ここに。そ
横に亀裂があるので、かつて軸
れで子グマは、お母さんがやられたことをまだ知らない
装であったことは間違いありま
のです。「お母さん、ボク、外に行ってみたいよ」って無
せん。
邪気に頭を出している。お母さんに「そんな、外は危な
アイヌの長老と女性を描くこ
いからだめよっ」っていわれている瞬間に、お母さんの
の作品は、よく見ると、金箔が
方が、「ああっ」ってやられてしまった。
ところどころに使われています。
これはアイヌの春の巣グマ猟です。春先、クマが冬眠
小玉貞良の作品は、どれもいい
から目覚める前に巣穴の入り口にクマが外に出られない
画材は使っていなくて、絹地に
ようにくいを打ちます。本当は、放射状にしっかりくい
小玉貞良<アイヌ盛装図>
アイヌ民族博物館蔵
18
描いたものは1点もありません。
全て紙に描いています。けれど
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
自国のまわりには未開の民族が住んでいるという意味な
も、これは珍しく金を使っているのです。
今日はご紹介しませんけれども、アイヌを描いた絵に
のですが、中国から見れば日本が東の野蛮民族なのに、
はいろんな絵があって、中には、何というのでしょうね、
それをそのまま日本に持ち込んで、日本は日本で、海の
暗く、おどろおどろしい感じに描かれているものもあり
向こうには、野蛮人が住んでいると考えました。だから
ます。けれどもこの絵では、アイヌの長老は豪華な衣装
16 世紀、南方から渡来したポルトガル人が南の蛮人、南
をまとい、堂々としていて、女性も着飾っているので、
蛮人と呼ばれましたし、アイヌが蝦夷と呼ばれるのも、
華やかでいい絵だなと思いました。それが私の最初の印
東の夷にあてはめてのこと。ロシア人は赤蝦夷です。
象でした。けれども、見ていて変だなとやっぱり思い始
外国人を描く時、日本人と区別できるように、着物のあ
めたのです。
わせを逆にして、野蛮の印としたのです。ここで長老が
例えば、長老のひげが長過ぎる。ひげを手で持ってい
着物姿なのは、無理矢理、左袵という記号をつけたいか
ますが、離せば、地面についてしまう。何でこんなにひ
ら。これは、アイヌなのだとわかりやすく説明しなけれ
げが長いのでしょう。笠みたいなのをかぶっていて、笠
ばならないので、現実がどうかはさておいて、左袵の蝦
のてっぺんから白い毛が出ています。この白い毛につい
夷錦を着せたのです。
ては、いろんな方に聞きましたが、皆さん「何だろうね。
だけれども、それは帯のない理由にはならない。着物
頭の髪の毛をここから出しているのかね」までで、よく
にするのなら帯をしなければいけないですよね。では、
わからない。こういうアイヌの帽子の現存資料が見つか
なぜ帯をしていないのか。
今、私はこう考えています。それは、この着物が長老
っていないのです。
それで、背中に忍者のように刀をさしているのですけ
の持ち物ではないから、と。長老は、今、絵の中で蝦夷
れども、貞良以後、いろいろな画家がアイヌの長老を描
錦を着て、私たちの方に歩いてきているのです。私たち
いていますが、太刀はみな、脇に水平に下げられていて、
の前まで来たら、羽織っている着物を脱ぐのです。そし
忍者のように背中にななめにかけているのは、貞良のア
て、置いていくのです。
この女性、手提げ籠に何かいっぱい入れていますよね。
イヌ絵だけです。それにしても刀も長過ぎる。長老の身
これはアイヌ玉です。この女性も、私たちの前まで歩い
長ぐらいありますよね。
それから、とても奇妙なのに、ずっと気づかなかった
てきて、アイヌ玉を籠のまま、置いていくのです。この
ことがあります。それは、長老が帯をしていないという
二人は、蝦夷錦とアイヌ玉を私たちのところに運んでい
ことです。この絵には、長老と女性が描かれていますが、
るのです。
女性のほうは帯をしています。長老は帯をしていない。
この絵は何を描いているかというと、ひとつには、こ
こっちの手は、ひげを持って、こっちの手は弓を持って
れまでも見てきたように、アイヌの男女ペアを紹介する
いる。腰の後ろに矢がちょっと見えますよね。長老は、
ものだと思います。もうひとつは、アイヌと和人との交
太刀と弓矢を持っているのです。
易を描いているのだと考えています。
蝦夷錦もアイヌ玉も、松前藩が交易を独占するほど、
右手に弓、左手にひげ。そして帯をしていない。この
状態で外を歩けるかな、歩けないですよね、変ですよね。
当時の和人が貴重視していたものでした。特に蝦夷錦は、
そのことに私は 10 年気づかなかった。
もとは中国産の絹製品で、松前藩は、アイヌを通じて入
でも、いいわけをすると、気づかなかったわけではな
手していました。蝦夷錦がほしい松前藩は、アイヌにカ
いのです。長老は、蝦夷錦をまとっているのですが、帯
ラフトの山丹人と交易させて、簡単にいえば、間接的に
をしていない以上に、着物の形をした蝦夷錦があり得な
蝦夷錦を輸入していたのです。アイヌ玉もアイヌの自制
いのです。それで、そこら辺で帯がどこかにいってしま
品ではなく、やはりアイヌが他民族と交易して入手した
ったのだろうと、納得していました。
もの。アイヌとは、交易の民なんですね。アイヌの最大
の交易相手が日本人だったともいえる。
蝦夷錦について説明しますと、蝦夷錦は、もともとは
中国清朝の官僚が着ていた服で、チャイナドレスみたい
それでこの絵というのは、アイヌが貴重な蝦夷の宝を
なものです。襟はボタンで留めます。絶対に着物の形は
携えて、この絵を見ている日本人のところにやってくる、
していません。反物の状態で輸入された蝦夷錦もありま
そういう絵だと思うのです。この絵の注文主は、蝦夷錦
すが、それをアイヌが着物型に仕立てることはなかった
とアイヌ玉を携えてやってくるアイヌを描いて欲しいと、
と思います。着物の形をした蝦夷錦は、存在しなかった。
貞良に頼んだのではないでしょうか。
これは絵空事なのですが、ある約束事があって、アイヌ
スライド⑧<蝦夷国風絵図>
の長老を描く上で、蝦夷錦は着物の形にしなければなら
なかったのです。それは何かというと、着物のあわせを
これは、<蝦夷国風図絵>という貞良の画巻を模写し
日本人とは逆の左前、つまり左袵にしなければならなか
たものです。いわゆるコピーですが、貞良の原本が発見
ったのです。
されていないので、その意味で貴重な1点です。
中華思想に東夷南蛮西戎北狄という言葉がありまして、
19
まず、ここにアイヌの人たちが持ってきたお土産が山
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
のように積んであり
特に当時、蝦夷地に行くのは大変なことで、秘境探検と
ます。毛皮、干しア
同じ。無事帰還したあとは、自分が見聞したものを郷里
ワビ、樽に入ってい
の人々に語るためにも、蝦夷地の様子を描いた絵がほし
るのは魚油でしょう
かったのでしょう。
慎庵が本当に隠密だったのかどうかは、わかりません。
か。それに干鮭、サ
写本<蝦夷国風図絵>
函館市中央図書館蔵
ケを天日で干したも
いずれにしても貞良のアイヌ絵を入手して、それをもと
のです。タンチョウ
に『風土遊覧集』を出したのは間違いないことです。た
が2羽にオットセイ。
だ、描いてはいけないはず松前侯がいるのは、どうして
オットセイは、おめ
か、今後の課題です。
めぱっちりなのです
スライド⑨<蝦夷国魚場風俗図巻>
けれども、生きたま
これも小玉貞良で、オーストラリアのアデレードとい
まの献上はないと思うので、塩漬けだと思います。
3人のアイヌが、和人の通訳に手を引かれ、屋敷の奧
う町で発見されたものですけれども、いろいろ調べてい
へと案内されています。背後には、鉄砲や弓矢、槍など
く中で、私自身、ものすごく見え方が変わっていった画
の武具が飾られていて、アイヌを武力で威圧すべく、も
巻です。
これはアイヌのサケ漁をテーマにした画巻で、この場
のものしい雰囲気を漂わせています。
屋敷の奧に鎮座しているのは、松前侯です。松前の家
面は、アイヌの男たちがタモ網で魚をとろうとしていま
紋である武田菱が大きく染め抜かれた大紋をまとってい
す。ただし獲物はなし。棒みたいな棹で船を操っている
る。江戸時代は、天皇、将軍、大名の姿を描くことは、
ので、水深が浅い川での漁だとわかります。
基本的にタブーだったはずなので、松前候を描くのもタ
続いて、この場面では、舟に二人の男がいて、ひとり
ブーだったはず。どうして、こういう場面を描くことが
は、櫂で舟をこぎ、もうひとりは、舟に積んだ石を水面
できたのか、わかりません。ですが、松前侯とアイヌの
に投げ込んでいます。さっきは、棹で舟を操っていまし
謁見が、まるで時代劇の一場面のように描き出されてい
たが、ここでは、棹ではなく櫂なので、海の漁だとわか
ます。
ります。男が石を投げているのは、魚の群れを網へと誘
導し、追い込んでいるからです。
こうした画巻が生み出された理由ですが、仮定のひと
次の場面。アイヌの男たちが地引き網を引いています。
つとして、二階堂慎庵という人物の依頼を受けて、貞良
が描いた、というのがあげられます。二階堂慎庵は、「幕
舟から石を投げていたのは、この網に魚を追い込んでい
府の命令で、蝦夷地にトリカブトなど薬草の調査に行っ
たのですね。浜にいるこの男は音頭取で、かけ声をかけ
た」と、本人はいっているのですが、蝦夷地の様子を探
ている。それにあわせて網を引く男たちの一人一人のポ
るための隠密だったという説もあります。だから、この
ーズが楽しい。網にはサケがいっぱいかかっているのが
画巻は、二階堂慎庵が幕府に提出した報告書だったのか
見えます。ですから私は、サケは大漁だし、人物の動き
もしれません。
にも活気があるし、見ていて気分のよい場面だと思って
いました。
事実としていえるのは、二階堂慎庵が、蝦夷地に入っ
たのが享保 13 年で、その 30 年後の宝暦6年に蝦夷地探
ですが調べていくと、この場面は、アイヌにとって苦
検記念みたいな『風土遊覧集』という本を出版しました。
しみの記憶にもなりうるということがわかってきました。
その別冊の挿絵は、今、ご紹介しました<蝦夷国風図絵
地引き網漁は、もともとアイヌの漁法ではありません。
>と図様がほぼ同じなのです。『風土遊覧集』は、貞良の
和人が蝦夷地の漁場に持ち込んだものです。アイヌが網
<蝦夷国風図絵>を原本にしたのだと思います。
を引いていますが、それは、和人経営の漁場で、働かさ
二階堂慎庵のように、蝦夷地に来た人が来遊記念とし
れているのであって、自分たちの食料を得るのに地引き
て絵師に絵を描かせるというのはよくあったようです。
網を引いているのではないのです。そのことは、このあ
今でいうなら、外国に行ったら絵はがきを買ってくると
と、画巻を見ていくとわかるのですが、さきほど、タモ
か、写真やビデオを撮ってくるのと同じ感覚でしょうか。
網を使った川漁がありました。アイヌらしい漁は、その
小玉貞良<蝦夷国魚場風俗図巻>
南オーストラリア州立美術館蔵
20
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
のですが、この場面の写真を見ていた新聞記者の人が教
タモ網漁の方で、ただし獲物はなかった。
見方のひとつですが、ふたつの漁法が登場するのは、
えてくれました。「五十嵐さん、左利きだ」って。帳面を
アイヌと和人との漁の比較だと見ることができます。ア
持つのは右手。左手に筆を持っている。それで右手の袖
イヌの伝統的なタモ網漁では、魚はとれたとしても、た
に紋のようなマークがあります。ヤマジュウです。ヤマ
かが知れている。一方、和人の地引き網なら、サケは一
ジュウのマークは、近江商人のひとり、宮川清右衛門経
網打尽。地引き網の威力が際だちます。アイヌの原始的
営の萬屋の屋号、お店の印です。だから、この船の積み
な漁法に対して、いかに和人の地引き網が、効率よく合
荷は、萬屋の積み荷ということになります。塩ザケも、
理的にサケを捕獲できるかを語っていると見ることがで
筋子もすべて萬屋の商品ということになります。
では、この画巻は何のために描かれたかというと、萬
きるのです。
和人の漁法である地引き網をアイヌの男たちが引いて
屋の松前支店長が小玉貞良の家を訪ねて、「うちの看板
いますが、場所は、川ではなく浜です。浜でサケをとっ
商品の蝦夷地産サケを本州で売るのだけれども、本州の
ているのです。ということは、川に遡上する前の、つま
顧客たちに見せたいので、蝦夷地でアイヌの人がどんな
り産卵前のサケをとっているということです。産卵前に
ふうに漁をしているのか、ぜひ絵巻にしてほしい」と頼
サケをとったら、それも根こそぎとったら、だんだんサ
んだのではないでしょうか。顧客たちも、この画巻を見
ケはその川に来なくなる、だから、サケはとり過ぎては
せられたら、「ああ、なるほど、はるか蝦夷ヶ島で、アイ
いけない、川に遡上し、産卵するサケもいないと、資源
ヌの男たちがこうやってサケをとっているのか」と感心
はなくなってしまうのです。
し、これはめったに手に入らない貴重なサケだと、喜ん
で買いますよね。
アイヌの人々は、絶対に資源をとり過ぎることはしな
かったのです。昔から干鮭を交易に使っているのですけ
さて、左利きの帳簿の男ですが、前にも今回みたいな
れども、その干鮭というのは、自分たちが冬に食べる分
お話をする機会があって、そこにいらした方が、「これは、
の余剰分で、自然のシステムを壊さない範囲を守り、絶
本当に左ききの人がいたのですよ。」といってくださった。
対にサケをとり過ぎることはしなかったのです。それを
私は、にわかに、本当にそうかもしれないと思いました。
和人が来て、浜で大量捕獲してしまったら、資源そのも
江戸時代の日本で、左利きは珍しかった。昔は、左利き
のがなくなっていくのは自明のこと。サケは、アイヌに
は徹底的に右ききに直したので。今は結構いますけれど
とって、冬の越すための大切な食料なのです。
も。
ひょっとしたらですが、萬屋の松前支店に左利きだけ
最初、この地引き網漁の場面を見て、アイヌの男たち
がいきいきと描かれているなと思いました。でも現実は、
ど達筆と知られる人で、貞良が帳簿の男として登場させ
和人経営の漁場で使役され、収穫物はすべて和人のもの
たとか、そんなふうに考えると、それはそれですごくお
になっているのです。浜で地引き網を引くこと自体、自
もしろいですよね。
分たちの首をしめる結果になることを知りつつ、でも、
スライド⑩<蠣崎波響肖像>
どうすることもできない。アイヌの人々は、そういう境
アイヌ絵は、なぜ描かれたのか。そのことを教えてく
遇にあったのです。それを知ってしまうと、この場面が
れる重要な作品があります。とても珍しいことなのです
別のものに見えてきます。
続きを見ていきますと、アイヌの女性たちが水揚げし
けれども、何のために制
たサケの腹を裂いて、加工する場面になります。アイヌ
作したのか、モデルはど
女性に指示を与える和人の男が登場しますので、アイヌ
ういう人物だったのか、
女性もまた漁場で働かされていたことがわかります。か
ということを付録にまと
たわらには、和人がサケの魚卵に塩をまぶし樽につめて
め添付されているアイヌ
います。当時、和人は、大量の塩を蝦夷ヶ島に持ってき
絵があるのです。松前藩
ていたみたいですね。
の家老だった蠣崎波響の
保存処理が終わって、サケは塩ザケになります。そし
描いた<夷酋列像>なの
て出荷用に荷づくりしサケの束を、アイヌの男たちがか
ですが、これは、作者、
ついでいます。干鮭ではないので、まだサケの目はきょ
蠣崎波響の肖像です。
亡くなったあとに描か
ろきょろしています。ちょっと生っぽい感じ。それを丸
れたものだと思うのです
木船に積んで沖にこぎ出します。
が、松前藩の家老でした
ここが、画巻の最後の場面、和人の弁財船が登場し、
そこへアイヌの男たちがサケの束を積み込んでいます。
ので、絵師というよりも、
船の帆柱の陰には、帳面に何かを書き付けている男がい
お役人という感じに描か
ます。積み荷の数を記録しているのでしょうか。
大西椿年
<蠣崎波響肖像>
この帳簿の男ですが、これも私はすぐ気づかなかった
21
れています。
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
でしょう。<夷酋列像>の付録には、松前藩に味方した
スライド⑪<夷酋列像・ツキノエ>
アイヌの豪傑を藩命により、波響に描かせたとあります。
<夷酋列像>は、12 枚1セッ
トのアイヌの肖像画で、これは
そして、あるべきアイヌの姿を他のアイヌに見せるのだ
ツキノエという首長を描いたも
と。
のです。蝦夷錦の上に羽織る黒
でも、実際のところ、松前藩は、これらの肖像をアイ
いコート、何でしょうね、ロシ
ヌに見せるのではなく、天皇や将軍に見せました。松前
ア製でしょうか。そしてブーツ
藩が屈強なアイヌのリーダーを従えているかのような印
を履いていて、クマの毛皮みた
象を与えたことでしょう。まさにそれこそが、この一群
いなものの上に座っています。
の肖像画制作のねらいだったと思います。
実は、寛政元年、1789 年、北海道の東のはずれで、ク
蠣崎波響
<夷酋列像・ツキノエ>
ブザンソン市立美術館蔵
ナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌの蜂起がありま
した。蜂起によって和人 71 人が殺害されたのですが、そ
の当時のアイヌの人たちが置かれていた状況は、悲惨き
わまりなかった。和人側の記録を見てひどいと思うのだ
スライド⑫<夷酋列像・ションコ>
蠣崎波響
<夷酋列像・ションコ>
函館市中央図書館館蔵
これは、ションコです。蝦夷
から、アイヌの人たちが記録を残していたら、どんな恐
錦を着て、中に赤いコートみた
ろしい体験がつづられていたことか。歴史は常に勝者の
いなものを着ている。靴を履い
いい分のみが残り、力ない人たちの声は抹殺されます。
ています。もし日本人を描いた
アイヌ側の記録がないので、クナシリ・メナシの戦いに
絵で、畳の上で靴を履いて立っ
しても、本当のところ何があったのかは、わかりません。
ている絵があったら、絶対おか
当時の状況として今わかっているのは、和人経営の漁場
しいと思いますよね。日本のこ
で、アイヌは強制的に働かされていた。働けるアイヌは、
とを知らない人が描いたのだと
男も女も漁場に連れていかれ、コタンに残っているのは、
思いますよね。同じように、こ
おじいちゃん、おばあちゃん、子どもだけ。漁場では女
れも奇妙な絵です。アイヌの生
たちも、魚の加工から、飯炊き、さらにめかけ同然にさ
活文化について関心を持ってい
れていた。クナシリ・メナシでは、怠けるアイヌは、皆
る人が見たら、これは絶対ない、
殺しにするとまで、脅されていたそうです。これは、表
層的に残っている記録であって、実態はもっとひどかっ
というと思います。アイヌはこんな靴、履かないと。
たのではないかと思うのです。
クナシリ・メナシの戦いの発端は、サンキチというア
スライド⑬<夷酋列像・イコトイ>
これはイコトイです。ロシア
イヌが、和人からもらった薬もしくはお酒を飲んで死ん
風のコートみたいなのを羽織り、
だことなのですが、それは、ほんのきっかけに過ぎず、
中に蝦夷錦を着ていて、それが
アイヌの人たちは極限まで追いつめられていたのだと思
見えるように、コートをわざわ
います。
松前藩にとっては、ロシアの南下が懸念される道東で
ざたくし上げています。
の蜂起です。自分たちの管理能力を問われたら困るので、
この<夷酋列像>のシリーズ
蠣崎波響
<夷酋列像・イコトイ>
函館市中央図書館館蔵
は、よく誤解されるのですが、
幕府や天皇に対して、「あんなことがあったけれども、ア
蠣崎波響がこうしたアイヌの首
イヌはみな松前藩に従っているのです。その証拠にここ
長たちをアトリエに呼んで、モ
にアイヌの肖像画があります。この 12 人のアイヌを見て
デルとしてポーズをとらせて描
ください。豪華ないでたちで、勇ましくて力もあり能力
いたと思われている。でも、絶
も高い、そういうアイヌの指導者 12 人が松前藩の味方で
あり、その彼らが象徴するように、アイヌは、松前藩に
対にそれはない。
従順ですから、何の心配もいりません」と訴えたのはな
江戸時代に実物デッサンするということは、とても珍
いでしょうか。
しいことで、先ほども申しましたように、絵は、手本を
見て描くのが基本。実物を前にスケッチしない。ただ<
言葉だけでなく、絵画のもつ説得力によって、松前藩
夷酋列像>の場合は、波響は、松前藩の家老でもありま
が問題なく蝦夷地を治めていることを上層部にアピール
したから、ロシア製のコートやブーツ、靴、蝦夷錦を藩
したいというのが、<夷酋列像>の描かれた本当の目的
の蔵から持ってきて、実際に手にとって描いたのではな
だったと思うのです。
<夷酋列像>のように、制作の目的、描かれた人物の
いかと思います。
では、どうやって<夷酋列像>を描いたのか。それに
説明などをまとめた附録が一緒に伝わっている絵という
ついて考える前に、<夷酋列像>は、なぜ、描かれたの
のは、ほとんどないのですけれども、注意しなければな
22
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
らないのは、附録も政治的な意図で書かれていることで
マウタラケだけでなく<夷酋列像>は、すべて、波響
す。波響に制作を命じた松前藩の本音は、別のところに
が画室で一人きりでつくりあげた架空の肖像です。ポー
ある。
ズも顔も、マウタラケ同様、絵手本からの引用だと思い
ます。衣装も、ひとつひとつは松前の藩庫にあったもの
それにしても絵というのは、すごい力があるのですね。
目で見るものには、言葉で聞くよりも、それが現実だと
だと思いますが、着せ方は、めちゃくちゃ。コートの上
思わせる力がある。
に蝦夷錦、もしくは蝦夷錦の上にコート、それにブーツ
フランシスコ・ザビエルが日本に来た時にキリスト教
や靴まで履かせてしまう。アイヌを豪傑に見せようと、
を布教しました。考えてみてください。今ここに日本語
珍しい衣装を次々と重ね着させてしまったのですね。演
のしゃべれないスペイン人が来て、私たちの知らない宗
出過剰ですよね。
教を布教した時に、皆さん心を動かされますか。「は
これは、アイヌの肖像ではないのです。描写が細密な
あ?」で終わりますけれども、大きな威力を発揮したの
ために、まるで現実を見たかのような錯覚をするだけな
は、言葉よりもマリア様の画像なのです。さわったら血
のです。<夷酋列像>は、捏造された偽りの肖像である
が流れて暖かいのではないかというぐらい、肌は柔らか
ことをふまえて見なければならないのです。
く描かれ、表情は気高く美しく優しく、そして、ひとし
スライド⑯<蝦夷島奇観>
ずくの涙を流している。そんなマリア様の画像を見て、
多くの日本人は心を動かされていくのです。
実際には、ザビエルは、海外に逃亡した日本人でバイ
リンガルの男を案内役に連れてきて、日本語通訳させな
がら布教していますので、スペイン語で布教していたわ
けではないのですけれども、とくかく絵というのは心を
動かす力がある。その表現が迫真的であればあるほど、
説得力が強くなります。
これは、イコトイの顔の拡大なのですけれども、<夷
酋列像>の大きさはA3の紙1枚ぐらいです。小さい画
像なのです。でもこんなに拡大しても破綻しないほど、
細密に描かれている。特に衣装の質感表現がすごい。羽
根のところなんて、ふわふわしているのではないかとい
村上島之允<蝦夷島奇観>模写本
うぐらいリアルに描かれています。21 世紀の私たちが見
次は<蝦夷島奇観>という画巻です。作者の村上島之
てそう思うのですから、18 世紀の人々なら、びっくりた
允は幕府の役人です。何度も蝦夷地を訪れて、アイヌ独
まげたと思うのです。だからこそ、これを見た人は、実
自の暮らしが失われていくことを憂い、アイヌ文化につ
在の人物の肖像画だと思う。
いて精緻に調べ、一大アイヌ民族誌をつくりました。以
後、大変な人気となりまして、模写本もたくさんつくら
れました。これは模写の1点で、場面はアイヌがオット
スライド⑭<夷酋列像・マウタラケ>
セイの塩漬けを献上しているところです。
これは、マウタラケです。マ
ウタラケは、波響の前で、こう
さっきもアイヌからのお土産として、オットセイが出
いうポーズで座っていたのでし
てきたのですけれども、オットセイは、当時、薬として、
ょうか。
もてはやされていたのです。インターネットをみたら、
今も、オットセイが薬になって売られているので、びっ
蠣崎波響
<夷酋列像・マウタラケ>
函館市中央図書館館蔵
くりしました。
オットセイは、一夫多妻の生態を持っていまして、1
頭の巨大なオットセイがたくさんの雌を従えます。だか
ら、当時の人は、オットセイを薬にして飲んだら力が強
くなるのではないかと、オットセイのタケリ、つまり陰
スライド⑮<廣成子の図>
月僊<廣成子の図
これは、月僊という人が描いた
茎の部分を干して粉末にして、それを薬にして飲んでい
中国の仙人の絵です。マウタラケ
たのですね。オットセイパワーにあやかりたいと。かの
と同じポーズをしています。波響
徳川家康も、オットセイパワーに興味をもって、取り寄
が残した画帳にこの絵の模写が残
せるよう命じたという話が残っています。
っていて、波響は、月僊の絵から
これは、アイヌが捕獲したオットセイを奉行所に提出
マウタラケのポーズを引用したと
するところです。松前藩は、アイヌに毎年、最低2頭の
考えられています。
オットセイを献上するよう命じていましたが、実は、松
23
「アイヌ絵を読む-誰が何のために描いたのか-」五十嵐聡美
前藩は、幕府から、毎年、オットセイを献上するよう義
捕獲されている。結果、サケの遡上数はどんどん減って
務づけられていたのでした。オットセイの塩漬けは、ア
いく。コタンでサケマスを主食にしていたアイヌの人た
イヌから松前藩、松前藩から幕府へと手渡されていたの
ちはどうやって何を食べて生きていけばいいのでしょう。
一方、和人は、自分たちの乱獲によってサケの数が減
です。
っているのに、川での自家用のサケマスをとるなという
6
禁止令を出す。すべての河川でのサケ漁が、禁止される
絵の中に生き続けるアイヌ文化
のは、明治 24 年のことです。明治5年に描かれたこの絵
スライド⑰<蝦夷風俗十二ケ月屏風>
次は平澤屏山です。屏山
では、古老が伝統的な漁法でマスをとっていますが、現
は、明治に活躍した絵師で、
実世界では、アイヌは伝統的な暮らしから追いたてられ
実際にアイヌと寝食をとも
ている。川で漁ができるのは、絵の中の話だけになって
にしたという経歴がありま
しまうのです。
す。スライドは、<蝦夷風
おわりに
俗十二ヶ月屏風>のうちの
平澤屏山
<蝦夷風俗十二ヶ月屏風>九月
九月の場面で、<マレッポ
アイヌ絵に描かれているのは、和人側が見たいと思う
にて鮭突之図>。アイヌの
アイヌの姿なのです。だから強制労働で苦しむような現
サケ漁なのですけれども、
実は、描かれません。今日、ドキュメントの意識で、戦
少年がたいまつを水面に近
場にカメラマンが入り悲惨な現状を写真に撮りますけれ
づけていて、サケをおびき
ども、江戸時代の絵師も、本州の和人も、現実には興味
よせています。そこを、古
がないのです。明治に入っても、アイヌ絵に描かれるの
老が槍みたいなものをかま
は、宗教儀式で祈っている姿だったり、伝統的な姿で漁
えて、サケを狙っています。
をするアイヌなのです。でも現実はどうかというと、漁
槍には、よく見ると、「かえ
場で強制労働をさせられ、日本人になるべく、言葉も文
り」がついています。これ
化も宗教もすべてが否定されている。明治に入って、入
が魚を噛んで捕まえるとい
れ墨や耳飾りはどんどん禁止され、和人に同化するよう
な政策がとられていきます。けれども、アイヌ絵に描か
う、アイヌの伝統的な漁具、マレップになります。
れるのは、ずっと伝統的なアイヌのままなのです。
絵師の中には、これを今、描き残さなければ失われて
スライド⑱<蝦夷風俗十二ケ月屏風>
平澤屏山
<蝦夷風俗十二ヶ月屏風>七月
こちらは、マス漁です。
しまうと、例えば、<蝦夷島奇観>を描いた村上島之允
同じく<蝦夷風俗十二ヶ月
のように、失われつつあるアイヌ風俗を描こうという意
屏風>の7月の場面。川を
識の絵師はいたかもしれない。でも、現実のアイヌの姿
横切るように柵がめぐらさ
を描こうとした人は、ほとんどいません。
れています。ジャバジャバ
アイヌ絵を見て、それが当時のありのままのアイヌ風
と川をのぼってきた魚は、
俗だと、うのみにしてはいけないのです。アイヌ絵は、
柵の前で右往左往。そうし
ただそのまま見るのではだめなのです。常に足し算や引
たらタモ網でホイっとすく
き算をしなきゃならない。アイヌの歴史や文化をふまえ
って捕まえます。そばにお
て、描かれた世界を見ていかないと、そこに何が描かれ
いているのは、イサパキク
ているのか見えてこないのです。
ニという棒。それで魚の頭
そうしてわかってくるのは、アイヌ絵に描かれている
をこつんとたたいて、魚籠
のは、アイヌではないということです。和人の中にある
に入れます。アイヌの伝統
アイヌイメージに過ぎないのです。アイヌ絵から、見え
てくるのは、和人の目に映ったアイヌであり、和人がア
的な川漁です。
イヌにどんなまなざしを向けていたか、なのです。その
アイヌの人たちは、川の
ことを意識して、アイヌ絵を見ることが必要なのです。
近くにコタンをつくって、サケやマスを主食にしていま
またいつか皆さんにお会いした時に、今回は気づいて
した。さっきもいいましたけれども、そこへ、ある日、
いなかったけれども、またこんなことがわかりましたと
突然、和人がやって来て、アイヌを浜に連れていき、地
いうことがあるかもしれません。
引き網でサケを全部とってしまう。働けるアイヌは、男
これで終わります。ありがとうございました。(拍手)
も女も漁場に連れていかれる。コタンに残っているのは、
子どもと老人です。働けるアイヌがいないコタンでは、
誰が漁や狩りをするのでしょう。浜では産卵前のサケが
24