フランス第四共和制崩壊のプロムナード 〜制度の改革に失敗した組織

フランス第四共和制崩壊のプロムナード
〜制度の改革に失敗した組織政党の動向と分析〜
植村文彦
第五共和制で De Gaulle により採択される大統領制は、先進国の政府首班中、最大の
権限をもち、強力な国家官僚制に支えられ、国家を指導していくものである。第四共和制
の憲法創設者は、現在の制度への転換をすることなく第三共和制から引き継いだ議会制を
刷新することでフランスの政治の建て直しを図ったことは周知の通りである。ここでは第
四共和制についての見識を述べる前において第三共和制から第四共和制への移行の経緯を
あらかじめ理解した上で論旨を進める必要がある。
第三共和制は、急激な民主化と独裁に終止符を打つべく、男子普通選挙にもとづく議
院内閣制を確立した。しかしながら、第三共和制が成立の際、次の三点の問題を抱え成立
した。
(1) 小党乱立のため、議会多数派は常に不安定
(2) 短命・弱体な政府
(3) 効率的な意思決定や政策革新を行う推進力の欠如
このように、議会制を採択するものの、歴史上、フランスは隣国と比べ組織化が遅れ
ており、さらに組織政党が最左翼の社会党のみであったため、実質上、議会政党は名ばか
りのものであった。さらには、議場の大半は、流動的で規律が弱く、政党の名に値しない
議院集団で構成されていた。その中でも共産党は凝集力が強く、議会多数派の要の位置を
しめていたが、やはり党規律が弱く、党議拘束もままならないという実情のもとで第三共
和制は運営されていた。第三共和制の流動性の強さは、政権交代でさえ、議会内での諸会
派の離合集散と同じ有力議員間での政権のたらいまわしによって行われていたことからも
推測できる。この直接の原因となるのは、第三共和制議員は第二共和制が独裁によって打
倒された経験から、執行権を議会の監督下におくことに固執したことがあげられる。その
結果、議員ら「政治階級」は、比較的自由に議会内で連合政治を行うことができ、世論か
ら「窓のない家」(1)と批判され、本来、第三共和制が担うべき「議会制」とはかけ離れ
たものにその政体を変質させていった。第四共和制の崩壊理由として取り上げられる「政
治階級」の腐敗は、第三共和制における崩壊理由をそのまま持ち込んだものであると考え
る。さらに第三共和制執行部は対独政策の問題において各党内で対立をし、もはや第三共
和制の機能は失われていた。このように第三共和制が露呈した議会制の体質に対し、レジ
スタンス運動が起こり、その中で党利利益を糾弾し、大統領制の採択、党派間の対立なき
共和制を求める声が民衆からあがる中、第三共和制に取って代わる第四共和制が誕生した
ため、今日第四共和制が正当な評価を受けることなく、第三共和制での議論をそのまま持
ち越される傾向がある理由と考える。もう一度第四共和制の意義について考え、第四共和
制の憲法起草をした社会党 SFIO と MRP が制度の改変によってではなく政党の再編による
議会制の刷新を試みた、つまり少数の規律ある組織政党にまとめあげることで第三共和制
崩壊の直接的理由である小党乱立の点と規律ある組織政党を作り上げる点から、第四共和
制に治療を加えたことに正当な評価を与えなければならない。そして、第四共和制に正当
な評価するにあたって先に言わねばならないことは、フランスにおいて初めて「組織政党
が議会内外の主軸となったことである。そして、英独の政党制・議会制をモデルに戦前の
議員集団を十分な規律と組織を備えた比較的少数の大政党へと再結集することで、安定・
強力な執行権、民意を反映した議会体制を作り上げようとする姿勢が随所に見られたこと
である。それは1940年対独敗戦後、執行権の弱体と不安定、国民世論からの乖離を断
罪され、正当性を失った議会体制を「組織政党」が社会と国会をつなぐ有機的な帯紐とな
ることで議会制を再生させる目的をもって第四共和制が成立したためである。ここで本論
の主役となる SFIO と MRP が継続的に政権に参加する「組織政党」として第四共和制を牽
引していくのである。この二大政党は、組織政党による議会体制革新の可能性を十分実現
可能なものにする力をもっていた。しかしながら組織政党による革新の可能性を持ちなが
ら、政治体制の限界とそこから生まれる挫折をうまく処理できなかったことが第四共和制
崩壊の原因であると考える。この二点を論じるには、1946−47の三党体制と194
7−48の組織された第三勢力の議論を推し進めていくことで核心を追及することが可能
である。その理由としてこの時期に、政治組織化が発展したことが理由の一つである。具
体的には(1)フランス共産党が労働者中心のサブカルチュア構造を形成したこと(2)
職能利益の組織化と国家機構との結合関係を形成したことがあげられる。第四共和制は英
独の政党制・議会制モデルを移植したものであると先にも述べたが、実はこのころヨーロ
ッパでは大衆組織モデルからの脱却とサブカルチュア構造の融解が始まっていた。第四共
和制はこの政治的体制の過渡期に成立し、組織化が遅れたという理由も合い重なって、こ
の下降局面に直面するシステムの矛盾を知ることなく移植してしまったことにより、歴史
的に負の痕跡となるような大失態へと自ら歩みを進めることになるのである。この時期に
この政党システムを導入したことによって80年にわたる議会制に自ら終止符を打つこと
になるパラダイムについて詳細に述べていきたいと思う。
移植された政党組織システムは、二つの効果をもっていた。
(1) 正の効果=革新の可能性
(2) 負の効果=連合メカニズムとの間で矛盾と摩擦を引き起こす
ここでは(2)について少し説明を加えたい。ここでの矛盾と摩擦とは、革新の可能
性を制限したことと政党制・議会体制を第三共和制以上に硬直かつ閉鎖的にしたことであ
る。この矛盾と摩擦を論じるためには、①議会内で「政党組織」を含む諸政党によりどの
ような連合政治が行われたか。②SFIO と MRP がどんな党規律を持っていたか③どのよう
な形で社会との媒体機能を果たしたか④矛盾・摩擦をどのように調整したのか。できたの
か。の四点がポイントとなる。これらは第四共和制を的確に捉える上で非常に重要である。 付け加えて、あらかじめ第四共和制に関する誤った捉え方についてもここで私の解釈を述
べておきたいと思う。第四共和制の捉えられ方として、①第三共和制依頼の内閣の不安定
とイモビリズムと脱植民地の失敗という議論があるが、De Gaulle が大統領制を正統化する
ためにこの観念を利用したものであり、政治的バイアスによって捻じ曲げられている。次
に②組織政党が党規律に反発する自由主義的立場・ゴリストの立場、三党体制に対するイ
デオロギー批判のため、三党体制が「革新」として評価されることが稀だった。これも誤
りである。さらには、党組織構造の変質・硬直化の原因を党指導部の権力意思、または、
寡頭制化は組織政党では避けられないとする考えも誤りである。
実際には、
(1) 組織政党の拡大による新たな政治構造の可能性は、SFIO と MRP の組織的提携を軸
に、PCF との決裂で綻びかけた「組織政党」支配の再生を目指したこと。
(2) 組織された第三勢力構造は挫折したが、SFIO ・ MRP が恒常的に政権に参加したこ
とで連合政治が支えられた。
この二点から第三共和制と近づける考えでは「組織政党」の議会外組織と院内の連合
政治との相互作用と緊張関係が見落とされることになるからである。繰り返すが第四共和
制の崩壊理由は、組織政党の相互関係と緊張関係によって説明できるものであり、第三共
和制とは、その成立背景がまったく異なるため同じ場で議論することは、本来求められる
客観的に第四共和制崩壊理由を探る趣旨から逸脱したものとなるであろう。ここからは、
憲法からのアプローチ、ミリタン主義とサブカルチュア構造、三党体制、組織された第三
勢力について SFIO と MRP の対応を照らし合わせながら説明していく。