歴代大管長 - LDS.org - The Church of Jesus Christ of Latter

歴代大管長
教師用手引き
宗教 345
制作
教会教育システム
発行
末日聖徒イエス・キリスト教会
ユタ州ソルトレーク・シティー
本書に関するご意見,ご提案および誤字または脱字などの訂正箇所がありましたら,ご連絡ください。あて先は
以下のとおりです。
CES Curriculum, 50E. North Temple Street, Floor 8, Salt Lake City, UT 84150−2722 U.S.A.
電子メール――[email protected]
© 2005 Intellectual Reserve, Inc.
版権所有
印刷:日本
英語版承認:2000年3月
翻訳承認:2000年3月
原題:Presidents of the Church Teacher Manual
Japanese
iii
目次
はじめに
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . iv
第1章
ジョセフ・スミス――初代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1
第2章
ブリガム・ヤング――第2代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 21
第3章
ジョン・テーラー――第3代大管長. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 37
第4章
ウィルフォード・ウッドラフ――第4代大管長. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 51
第5章
ロレンゾ・スノー――第5代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 69
第6章
ジョセフ・F・スミス――第6代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 84
第7章
ヒーバー・J・グラント――第7代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 97
第8章
ジョージ・アルバート・スミス――第8代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 110
第9章
デビッド・O・マッケイ――第9代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 123
第10章
ジョセフ・フィールディング・スミス――第10代大管長. . . . . . . . . . . . 135
第11章
ハロルド・B・リー――第11代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 146
第12章
スペンサー・W・キンボール――第12代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 161
第13章
エズラ・タフト・ベンソン――第13代大管長. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 177
第14章
ハワード・W・ハンター――第14代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 190
第15章
ゴードン・B・ヒンクレー――第15代大管長 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 201
iv
はじめに
概要
『歴代大管長教師用手引き』は15の章で構成されています。1章に一人の大管長が採り上
げられており,また各章は「第1部――幼年期,青年期」と「第2部――壮年期,晩年期」
の2部に分かれています。第1部と第2部で研究する預言者の生涯の時期はそれぞれの預
言者によって異なります。1時限内で学習できるように,第1部と第2部の資料はほぼ同
じ量となるよう調整が図られています。
本書の章の構成
歴史的背景。 章の各部すなわち「第1部――幼年期,青年期」と「第2部――壮年期,
晩年期」は,研究する預言者と当時の教会に関連する出来事や事実に焦点を絞った導
入部分から始まります。
出来事,特筆事項,教え。「出来事,特筆事項,教え」の部では,それぞれに付され
た副題に関連して,教えるためのアイデアが提案されています。教え方の提案はアイ
コン( 電球の絵)で表示されています。教師用手引きのこの部分には生徒を参加さ
せるための提案に加えて,預言者についての話や関連情報が記されています。教師は,
生徒が預言者の生涯を研究して,その預言者の人生の指針となった原則を見つけるよ
うに助ける必要があります。救い主のようになるために,それらの原則を各自の生活
で実践し,応用するよう生徒を励ましてください。
その他の資料
大管長の年表。ジョセフ・スミスからゴードン・B・ヒンクレーまでの歴代大管長の
生涯を示す年表が生徒用資料の末尾に載っています。この年表には教会,合衆国,世
界で起きたおもな出来事も記されています。新しい章に入るときに,この年表を参照
するとよいでしょう。
歴代大管長のDVD。教会の配送センターから Presidents of the Church, Supporting
DVD Media(宗教345,2003年;カタログ番号54047〔英語〕)を入手することがで
きます。3枚のDVDからなるこの資料には,ジョセフ・スミスからゴードン・B・ヒ
あかし
ンクレーまでの各大管長のドキュメンタリー映像,証 ,写真が収録されています。 .
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
1
第1章
ジョセフ・スミス
「ジョセフ・スミス」アルビン・ギッティンス画; © 1959 IRI
初代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
2
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョセフ・スミスは1805年12月23日,バーモント州ウィンザー郡シャロン郡区で誕生し
ました。当時の合衆国東部はそのほとんどの地域が人の住み着いていない荒野でした。土
地を開墾し,生計を立てるために家族は懸命に働かなければなりませんでした。スミス家
はバーモント州とニューハンプシャー州で開拓地を転々とした後,1816年にニューヨーク
州のパルマイラに移り住みました。後の1818年にスミス家はファーミントンの郡区(後に
マンチェスター郡区と呼ばれた)近くに農場を購入して,約100エーカー〔約40ヘクター
ル〕を開墾しました。金版が埋められていたクモラの丘はスミス家の農場から3マイル
〔約5キロ〕ほど離れた地点にありました。
出来事,特筆事項,教え
大管長は神の預言者である
Presidents of the Church, Supporting DVD Media(宗教345,2003;カタログ番号54047
あかし
〔英語〕)に収録されている5,6名の最近の大管長の証を聞かせます。話者がだれかを生徒
に教えないようにします。(注:ウィルフォード・ウッドラフとジョセフ・F・スミスから
ゴードン・B・ヒンクレーまでは本人の声である。ジョセフ・スミス,ブリガム・ヤング,
ジョン・テーラー,ロレンゾ・スノーは声優の声である。)これらの声からだれだか分か
あかし
る大管長がいるか尋ねます。大管長全員の証の抜粋を聞かせて,紙に話者名を書き出させ
てから,正解を発表するとよいでしょう。すべての証の抜粋を聞いた後に,生徒に教義と
聖約1:4−5,14,38を読むように言います。以下の質問をします。
• これらの聖句はそれぞれ預言者についてどのようなことを教えているでしょうか。
• 預言者は教会においてどのような役割を果たしているでしょうか。
• なぜ,歴代大管長の生涯を研究することは価値があるのでしょうか。
あつ
ジョセフ・スミスは堅固で,宗教心の篤い家庭に生まれた
遅くともレッスンを行う前日までに,二人の生徒を選んで,『時満ちる時代の教会歴史』
(宗教341−343)の15−19ページをコピーして1部ずつ渡します。一人の生徒に,ジョセ
フ・スミスの父方の祖父母の宗教的背景,別の生徒にジョセフ・スミスの母方の祖父母の
宗教的背景についてまとめてくるよう頼んでおきます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
3
以下のジョセフ・スミスの家系図を黒板に書き写します。
アサエル・スミス
ジョセフ・スミス・
シニア
メアリー・デューティー
ジョセフ・スミス・
ジュニア
ソロモン・マック
ルーシー・マック
リディア・ゲイツ
ジョセフ・スミスの両親と祖父母の宗教的背景について簡単に話し合います。生徒用資
料の3ページから,ジョセフ・スミス・シニアとルーシー・マック・スミスの宗教心につ
いて説明している左の欄の4段落目を参照させます。割り当てを与えておいた二人の生徒
にジョセフ・スミスの祖父母の宗教的背景について発表してもらいます。先祖から受けた
宗教上の受け継ぎは,ジョセフ・スミスが福音を回復する備えとなったことを生徒に理解
させます。アサエル・スミスが孫のジョセフ・スミスの生まれる前に語った以下の言葉を
紹介します。
「わたしの子孫の一人が宗教界を改革する活動を広めるであろうという思いを強
く感じています。」(ジョージ・Q・キャノン,Life of Joseph Smith, the Prophet
〔1986年〕,26で引用)
預言者ジョセフ・スミスはこう記しています。
「祖父アサエル・スミスはずっと昔に,自分の家族から一人の預言者が立てられ
ることを預言しました。祖母はわたしによってその預言が成就したことを確信して
いました。祖父アサエル・スミスはモルモン書を受け取り,そのほとんどを読みま
した。そして,自分の家族に預言者が生まれることをずっと前から知っていて,そ
の預言者がわたしであることを宣言した後,ニューヨーク州ローレンス郡イース
ト・ストックホルムで他界しました。」(History of the Church,第2巻,443)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
4
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
主はジョセフ・スミスが生まれるずっと前から,ジョセフ・スミスを通して福音を回
あかし
復するための準備をしておられたことについて,あなたの証を分かち合ってください。
ジョセフ・スミスは人格と特質を磨き,真理を学ぶことのできる家庭に生まれました。
それらは主の業を行うための準備となったのです。
次の質問をします。両親は子供たちが義にかなった生活をするよう励ますために,ど
のようなことができるでしょうか。
ブリガム・ヤング大管長の以下の証を紹介します。
「主はジョセフとその父,また祖父からアブラハムに至り,アブラハムから大洪水と
いう出来事を挟んでエノク,エノクからアダムに至るすべての先祖に目を注いでこら
れた。主は父祖アダムからその人が誕生するまで,一族であるこの血統を見守ってこ
られたのである。ジョセフ・スミスはこの最後の神権時代を管理するよう,永遠の中
で予任されていた。
」
(Journal of Discourses,第7巻,289−290)
ジョセフの経験と人格と特質は主に仕える備えとなった
次の質問をします。預言者ジョセフ・スミスが示した人格と特質にはどのようなものがあ
りますか。
ジョセフ・スミスの少年時代の経験は後の人生に影響を及ぼすものとなったことを説明
します。『生徒用手引き』(3−4ページ参照)および以下の3つの例から引用して,ジョセ
フ・スミスが経験した事柄を紹介します。それぞれの経験は主がジョセフに予任されてい
た業のためにどのような準備となったかについて生徒から意見を求めます。
1. ジョセフ・スミスは苦難に遭っても不屈の精神を示した。
1816年にジョセフ・スミス・シニアは,引っ越しの準備のために,ハワード氏とい
う人と一緒にニューヨーク州パルマイラへ向かいました。後に家族がそこへ引っ越す
ことになっていたのです。その間,家族は荷造りをして,ジョセフの父から「パルマ
イラに来るように」との手紙が届くのを待っていました。家族はハワード氏のいとこ
であるもう一人のハワード氏と一緒に旅をすることになっていました。
ジョセフの母ルーシー・マック・スミスはすぐに,「わたしの所持品やお金の扱い方
や,子供たちの中でも特にジョセフに対する扱いから,馬車を御している男が無節操
で思いやりのない悪党であることに気づきました。」当時ジョセフはわずか10歳で,そ
のうえ脚の手術から完全に快復していませんでした(生徒用手引き,3−4参照)。ルー
シーはこう回顧しています。「この子はまだ足を引きずっていたにもかかわらず,何キ
ロも続けて歩くことをハワード氏から強制されました。
」
(History of Joseph Smith by
His Mother,スコット・フェーサー・プロクター,モーリーン・ジェンセン・プロク
ター共編〔1996年〕
,84)
後にジョセフは自分の経験についてこう記しています。「ハワードは体力が十分でな
いわたしを馬車から降ろすと,何日間も雪の中を1日40マイル(約64キロ)も歩かせた。
あれほどひどい疲労と苦痛を味わったことはなかった。……兄たちがわたしに対する
扱いについてハワード氏に抗議すると,彼は鞭 の柄で兄たちを殴り倒した。」( The
Papers of Joseph Smith,ディーン・C・ジェシー編,全2巻〔1989−1992年〕,第1巻,
268)
む ち
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
5
次の質問をします。少年時代に苦難を耐えたことによって,ジョセフはどのような
恩恵を受けたでしょうか。
2. ジョセフ・スミスは深く考える傾向があった。
ジョセフの母ルーシー・マック・スミスは,少年時代のジョセフは「ほかの子より
も本を読むことは少なかったのですが,物事を深く考え,よく研究するという点では
ほかの子より優れていました」と記しています(History of Joseph Smith by His
Mother,111)。
以下の質問をします。
• 思い巡らし,深く考えるジョセフの能力は,その生涯で携わった働きにどれほど役立
ったでしょうか。
• 深く考えることは啓示とどのような関連があるでしょうか。(1ニーファイ11:1;教義
と聖約138:1参照)
。
3. ジョセフ・スミスは熱心に働いた。
ぶしょう
「ジョセフ・スミスに敵対する者たちは,ジョセフが無能,怠惰,無精であり,生涯
でいかなる働きも成し遂げることはなかった,と繰り返し主張した。しかし,マーサ・
コックスが記したジョセフ・スミスについての思い出を集めた一つの記録文書が存在す
る。その一つに,幼いときにジョセフを知っていたパーマー夫人という女性から寄せら
れたものがある。ジョセフより何歳か年下だった彼女は,父親の農場でほかの少年たち
とともに働くジョセフを目にしていた。この文書によると,ジョセフは無精ではなかっ
た。それどころか,ジョセフがとても熱心な働き手だったため,彼女の父親はジョセフ
に働いてもらっていたのである。」(トルーマン・G・マドセン, Joseph Smith the
Prophet〔1989年〕,9)
パーマー夫人の記憶によれば,彼女の父親はジョセフを「自分の知るかぎり最高の助
け手」であると考えていました。彼女の父親はジョセフの手が借りられるときに,自分
の畑を耕すようにしていました。ジョセフが近所のほかの少年たちと一緒に働くと,
「作業がはかどり,支払う賃金に見合う働きを期待できたからである。
」
(
“Stories from
Notebook of Martha Cox,”末日聖徒イエス・キリスト教会記録保管課。スペルと句読点
は現在の標準に統一)
以下の質問をします。
• 年少のころから熱心に働くことを学ぶと,どのような利点があるでしょうか。
• ジョセフ・スミスに敵対する人々は,なぜジョセフを怠惰で不正直な人物に仕立て上
げようとしたのでしょうか。
ジョセフ・スミスの最初の示現は回復の基軸となる出来事である
ドアに取り付ける「ちょうつがい」を見せて,どのような機能を持っているかを生徒に尋
ねます。
(ドアと枠をしっかりとつなぎ,軸を中心にしてドアを自由に開閉できるようにす
る。
)教会歴史の中から回復の「ちょうつがい」の役割を果たした出来事を一つ挙げてもら
います。生徒の意見について話し合います。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長が語った次の話を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
6
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
みわざ
「神聖な権能に関してわたしたちが述べる主張も,この御業の正当性に関してわ
たしたちが告げる真理も,その根源は皆,少年預言者のこの最初の示現にさかのぼ
ります。この出来事が,時満ちる神権時代の大いなる幕開けとなりました。神がこ
のとき,それまでに存在したすべての神権時代の,いわば一つの頂点として,あら
たまもの
ゆる力と賜物,祝福を回復すると約束されたのです。……この〔出来事〕は,教会
の大義を動かすちょうつがいとなりました。もし最初の示現が真実であり,それが
実際に起きたのであれば,モルモン書は真実です。それゆえに,わたしたちには神
権があり,教会の組織があり,わたしたちが持っていると主張する権能のその他の
かぎ
鍵と祝福のすべてがあるのです。このように,実に単純なのです。すべては……最
初の示現が真実であることにかかっているのです。」(“Messages of Inspiration
from President Hinckley,”Church News,1997年2月1日付,2)
次の質問をします。ヒンクレー大管長は,どのような理由から最初の示現を「ちょうつがい」
にたとえたのでしょうか。
(一人の生徒に答えを黒板に書き出してもらう。ジェームズ・E・ファ
ウスト,
「パルマイラの近くでの壮大な示現」
『聖徒の道』1984年7月号,113−118も参照。
)
あかし
最初の示現について感じていること,この真理を知っていることが自分の証にとってな
ぜ大切なのかについて,生徒から意見を求めます。
ジョセフ・スミス――歴史1:15−16を読みます。次の質問をします。サタンはなぜ少年ジョセ
フ・スミスの祈りをやめさせようと全力を傾けたのでしょうか。
ジョセフ・スミスは苦難と試練を通して強められた
預言者ジョセフ・スミスの生涯で起きた試練と苦難から幾つかの例を生徒に挙げてもらい
ます。前もって生徒用手引きから以下の項目を予習させておくとよいでしょう。「ジョセ
あかし
フ・スミスは,神が自分に語りかけられたことを証したため迫害され,あざけられる」(6
ページ),「最初の116ページが失われる」(9ページ),「原稿の紛失は学習の機会となる」
(10ページ),「預言者ジョセフ,リッチモンドで裁判を受け,リバティーの監獄に拘留さ
れる」(13−14ページ)
。
次の質問をします。預言者ジョセフ・スミスがこれほど多くの試練を受けたのはなぜだと思
いますか。その後に,ジョセフ・スミス自身が苦難について語った以下の言葉を紹介します。
「わたしは高い山から転がり落ちる,ゴツゴツした岩のようなものである。わた
しが丸みを帯びていくとすれば,何かほかのものと接触して角を取っていくしかな
い。それは例えば宗教上の偏見,聖職者の策略,弁護士や学者の術策,虚偽を流す
ぼうとく
編集者,買収された判事や陪審員,それに暴徒や,神を冒涜する者,不品行な堕落
した男女に後押しされて偽証する行政官に出会うときなどである。地獄が束になっ
てそこかしこの角を打ちたたく。このようにしてわたしは全能者の矢筒の中の,研
ぎすまされた矢となるのである。」(History of the Church,第5巻,401)
「もし続けて忠実であるならば,失ったものはすべて復活のときに取り戻される
であろう。全能者の示現により,わたしにはそのことが分かった。」(History of the
Church,第5巻,362)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
7
ジョン・テーラー大管長はこう語りました。
「わたしは預言者ジョセフがあるとき十二使徒にこう語るのを聞きました。『皆
さんはあらゆる種類の試練を経験するでしょう。それは,アブラハムや神の人と呼
ばれるほかの人々と同様に,皆さんも試みを受けることが必要だからです。そして,
み て
神は皆さんを心にかけ,その御手で支え,心の琴線に触れられるでしょう。皆さん
は試練に耐えることができなければ,神の日の栄えの王国で受け継ぎを得るにふさ
わしくないのです。』」(Journal of Discourses,第24巻,197)
以下の質問をします。
しもべ
• 主の僕たちが迫害や苦難から必ずしも守られないのはなぜでしょうか。
• 預言者ジョセフ・スミスの模範から,あなたが自身の問題に立ち向かううえで役立つ
どのようなことが学べるでしょうか。
ジョセフ・スミスは健全なレクリエーションに参加することを好んだ
預言者ジョセフ・スミスは体を使う活動に好んで参加しました。ジョセフを知る人々はジ
ョセフが子供や大人たちとレクリエーションを楽しんでいたことを知っていました。まじ
めな仕事の気晴らしとして,これらの機会を活用したのです。生徒用手引きの「ジョセ
フ・スミスは競技を好んだ」
(16ページ)を参照させます。さらに以下の出来事を紹介する
とよいでしょう。
「わたしたちはアダム・オンダイ・アーマンで野営しましたが,テントを持って
いなかったため,ほとんどの人はキャンプファイヤを囲んで眠りにつきました。夜
の間に降った雪で,10センチ以上体を覆われることもありました。……わたしたち
の惨めな状態を目にした預言者は戦闘服を着て二つの隊に分かれるように言いまし
た。ライマン・ライトが一方の隊の隊長を務め,彼(ジョセフ・スミス)が別の隊
の隊長となって,模擬戦闘を行うことになりました。雪を固めたボールが武器とな
りました。わたしたちは大喜びしながら戦いを始めました。……このように,預言
者は快活な人物でした。よくシドニー・リグドンとレスリングをして,ズボンがボ
ロボロになっていましたが,それでも預言者は楽しそうに笑っていました。」(エド
ワード・スティーブンソン,“Autography: the Life and History of Elder Edward
Stevenson,”末日聖徒イエス・キリスト教会記録保管課,32。スペルと句読点は現
在の標準に統一)
「(預言者ジョセフ・スミスは)この上なく高貴で,純粋な人間性に満ちあふれ
ていました。そのような精神は,ボール遊び,兄弟たちとのレスリング,取っ組み
合いなどの無邪気な遊びの中に表れることがよくありました。肩をいからせ,しか
め面をして,笑うこともなく,心の中に喜びのないような人ではありませんでした。
彼の心の中には喜びがあふれ,感謝の念と愛が満ちあふれ,偉大で善良な人が持つ
む く
気高い特質とともに単純で無垢の性質を身に付けていました。このため,いちばん
低い状態まで身を落とすことができました。さらに,神の慈しみによって全能者の
意図を理解する力を持っていました。預言者ジョセフ・スミスはこのような人物で
した。彼は子供たちと遊び,大人たちと単純で無邪気なゲームに興じる一方で,御
父や御子と親しく交わり,天使と語り合うことのできる人でした。」(ジョセフ・
F・スミス,1894年12月23日,ジョセフ・スミス生誕記念礼拝における説教,Salt
Lake Herald Church and Farm Supplement,1895年1月12日付,211。スペルと句
読点は現在の標準に統一)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
8
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
ジョセフ・スミスと同時代の人であるウィリアム・オールレッドは,ゲームやスポーツ
について預言者が説明した言葉を記しています。
「わたしはノーブーで彼とよくボール遊びをしました。あるとき,預言者は説教
けいけん
の中で,預言者が子供たちとボール遊びに興じる姿を見ることは,敬虔な信者にと
って一つの試しになっていると語りました。続いて,ある預言者の話をしました。
その預言者は木陰で何かの遊びに興じていました。そこへ,弓矢を手にした猟師が
通りかかって,そのようなことをしている預言者を非難しました。すると預言者は
猟師に,いつも弓を引いたまま身構えていますかと尋ねました。猟師はそのような
ことはしないと答えました。理由を尋ねられた猟師は,そうしていると弓に弾力性
がなくなるからだと言いました。すると預言者は,心も同じであって,いつも張り
詰めた状態にしておきたくはないのだと言いました。」(ウィリアム・M・オールレ
ッド,“Recollection of the Prophet Joseph Smith,”Juvenile Instructor,1892年8月
1日付,472)
以下の質問をします。
• 預言者が健全なレクリエーションを楽しんでいたのを知ることにはどのような意味が
あるでしょうか。
• 適切なレクリエーションはわたしたちの日常生活にどのような影響を与えるでしょう
か。
(「ジョセフ・スミスは競技を好んだ」
『生徒用手引き』16参照)
預言者ジョセフ・スミスは「良くも悪くもすべての民の中で語られる」ようになる
生徒とともにジョセフ・スミス――歴史1:33を読みます。次のように質問して,なぜこの
預言は注目に値するかを話し合います。ジョセフ・スミスの受けた教育や社会的地位を考
えると,なぜこれはそれほど驚くべき預言なのでしょうか。(彼の名はあらゆる国民とあ
らゆる民の間で知られるようになることを強調する。)
この預言に関してゴードン・B・ヒンクレー大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「正式な教育をほとんど受けていない農家の少年が,どうしてそのようなことを
人に言えるでしょう。しかし,主の業は進みました。そして,この回復された福音
が全世界に宣べ伝えられるまで,それは続くことでしょう。」(「わたしたちは主に
あかし
ついて証する」『聖徒の道』1998年7月号,5)
の
七十人会長会のジョン・H・グローバーグ長老はトンガで伝道していたときに,ジョセ
フ・スミスの名についての預言を試してみようと決意したことを生徒に話します。それか
ら,以下の概要を紹介します。
グローバーグ長老は同僚とともに,本拠地のあったニウアトプタプ島から約8マ
イル〔約12キロ〕離れたタファヒ島へ船で向かいました。タファヒ島の人口は80人
ほどでした。ニウアトプタプ島と同様,タファヒ島の住民も水道や電気がありませ
んでした。さらに電報も届かず,定期船もなかったため,外界から完全に遮断され
ていました。
グローバーグ長老が訪れたとき,島にはわずか18家族が住んでいるだけでした。
長老たちは1軒1軒訪問しました。グローバーグ長老はこう記しています。「最後の
家まで来たとき,奇妙な考えが浮かんできました。『ジョセフ・スミスの名は良く
も悪くも世界中に知れわたるという預言を確かめてみよう。』どうしてそのような
考えが浮かんだのか分かりませんでしたが,とにかくそう思ったのです。」
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
9
長老たちはその家族に合衆国大統領について聞いたことがあるかどうかを尋ねまし
た。「だれだって?」「合衆国ってどこにあるんだい?」という答えでした。グロー
バーグ長老はこう報告しています。「わたしは合衆国がどこにあるかを説明しようと
しましたが,彼らは理解できませんでした。その島はどれほど大きいのかと尋ねら
れました。とても大きな島で,何千キロもかなたにあり,何億という人々が住んで
いると答えました。海を見たことのない人が大勢おり,互いの名前も分からない人
が大勢いると言いました。彼らはこの説明を理解できませんでした。」
グローバーグ長老は次にロシアとフランス,それぞれの国の指導者について聞い
たことがあるかどうかを尋ねました。映画スター,スポーツ界の著名人,世界の政
治指導者について尋ねました。彼らはこれらの場所や人々を知らないばかりか,大
恐慌や朝鮮戦争などの世界的な大事件も知りませんでした。
グローバーグ長老はこう思い出しています。「島にはほかの教会が二つありました
が,わたしたちの教会の会員は一人もいませんでした。わたしは大きく息をついて
から言いました。『ジョセフ・スミスについて聞いたことはありますか。』
すぐに全員が顔を上げて,わたしを見つめました。そして父親が言いました。『そ
の偽預言者の話はやめてくれ。この家でその話を聞きたくない。みんなその人を知
っているよ。牧師が話してくれたからだ。』わたしは自分の耳を疑いました。ジョセ
フ・スミスの名は良くも悪くもすべての民の中で語られるという聖文が心の中で響
きわたりました。……わたしにとってそれは文字どおり預言の成就でした。
タファヒ島ほど遠く離れ,近代文明から取り残されている地をほかに探し出すこ
とはできないと思います。ここに住む人々は政治や経済の動向や当時の偉大な指導
者についてまったく知りませんでしたが,ジョセフ・スミスの名を知っていました。
ここでは悪名でしたが,とにかく知っていました。わたしはそれから数日の間,預
言者ジョセフ・スミスの使命について詳しく説明しました。そして,島を離れる日
までに,それが良い名であることを,多くの人が知ったのです。」(In the Eye of
the Storm〔1993年〕,104−106)
以下の質問をします。
• あなたはほかの宗教を信じている人に預言者ジョセフ・スミスについて話したことが
あるでしょうか。そのときに,どのような経験をしたでしょうか。
• この預言は現在も成就していることを示す証拠があるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ジョセフ・スミスは主イエス・キリストの預言者であり証人でした。主はジョセフを通
して,人々が昇栄の祝福を受けるための知識,権能,鍵,儀式を回復されました。ジョセ
フは古代の預言者たちから知識と神権の権能を授けられ,この知識と権能によって聖徒に
神殿の目的と建築の方法を教えました。この神聖な建物は非常に大切な意味を持っている
ため,たとえ大きな犠牲を払っても作業を完成させなければならないことをジョセフは理
解していました。預言者ジョセフはノーブー神殿の完成を目にすることなくこの世を去り
ましたが,主はジョセフを通して神殿の中で執り行われる儀式を明らかにして,ジョセフ
の死後もほかの人が神殿活動を継続できるようにされました。
か ぎ
出来事,特筆事項,教え
古代の預言者は預言者ジョセフ・スミスについて教えた
真理を知るにはその源までさかのぼることが最も良い方法であることを生徒に話します。
ある人が聞いたり知ったりした事実やその詳しい内容を他人に話すとき,細かい部分が元
の事実から変えられてしまう場合があることを説明します。大背教の時代を通じて,福音
の真理の多くはゆがめられ,失われてしまいました。このため,主から授かった正当な権
能を持った真の教会を回復しなければなりませんでした。
(2テサロニケ2:1−3参照)この
回復は1820年に御父と御子がジョセフ・スミスに姿を現されたときに始まりました。
ジョセフ・スミスは少年時代にほとんど教育を受けていなかったにもかかわらず,永遠
の真理を学び,教えました。この点を生徒に思い起こさせます。生徒用手引きから「天か
らの教師がジョセフに遣わされる」(8ページ)を生徒に読んでもらいます。それから,以
下の質問をします。
• イエス・キリストが地上におられたときに組織された教会について,1800年代初期に
生きていたこの少年は,一体どこから正確な情報を得ることができたのでしょうか。
• ジョセフ・スミスはなぜ天の使者からも教えを受ける必要があったのでしょうか。
• 教会の真正さとその儀式の正当性は,神から授けられた権能にどのように左右される
でしょうか。
次のように生徒に話します。ジョセフ・スミスは回復を実現するために知る必要のあっ
た事柄の多くを古代の預言者と使徒たちから直接教わりました。彼らは福音の真理を教え,
かぎ
儀式を執行する鍵と権能をジョセフに授けました。次の質問をします。ジョセフ・スミス
を訪れた古代の預言者や天使にはどのような人たちがいたでしょうか。
現存する記録によればモロナイは少なくとも22回にわたってジョセフ・スミスを訪れた
ことを話すとよいでしょう。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
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ジョン・テーラー大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「ジョセフ・スミスは人々に命の原則を紹介するため全能者により任命されまし
た。とりわけ福音は大いなる力と影響力を持っており,それによってあらゆる民,
国民,部族,国語の民,そして全世界に救いの手が差し伸べられます。それは命と
不死不滅を明るみに出し,わたしたちに神との交わりをもたらす原則です。〔ジョセ
フ・スミスは〕自分に授けられた原則により,主と交流できただけでなく,古代の
預言者や使徒たちと交流することができました。例えば,アブラハム,イサク,ヤ
コブ,ノア,アダム,セツ,エノク,それにイエスと御父です。また,この大陸に
住んでいた使徒たちだけでなく,アジア大陸に住んでいた使徒たちとも交流があり
ました。ジョセフ・スミスは,わたしたちがお互いを知っているように,これらの
人々についてよく知っていたようです。なぜでしょうか。それは,時満ちる神権時
しもべ
代と呼ばれ,古代の神の僕たちがそのように呼んでいた神権時代が,彼自身の手に
よって開始されたからです。……それはほかのすべての神権時代が統合され,集合
される神権時代であり,神が自ら人類家族との交わりを持たれた地上のすべての神
権時代を包含する時代です。」(Journal of Discourses,第21巻,94)
次ページの表から,預言者ジョセフ・スミスを訪れた何人かの天使について復習します。
OHP(オーバーヘッド・プロジェクター)用資料か配付資料を作るとよいでしょう(教義
と聖約128:21も参照)
。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
預言者ジョセフ・スミスを訪れた天使たち
人物
訪れた目的
参照聖句
父なる神と
イエス・キリスト
最後の神権時代の幕を開ける
ジョセフ・スミス――歴史1:17
イエス・キリスト
カートランド神殿を受け入れる
教義と聖約110:2−10
モロナイ
指示を与え,金版と
ウリムとトンミムを授ける
ジョセフ・スミス――歴史
1:30−49,59
バプテスマのヨハネ
アロン神権とその鍵を授ける
教義と聖約13;History of the
Church,第1巻,39−40
ペテロ,ヤコブ,
ヨハネ
メルキゼデク神権とその鍵を授ける
教義と聖約27;128:20;History
of the Church,第1巻,40−42
モーセ
イスラエルと十部族の集合の鍵を授ける
教義と聖約110:11
エライアス
アブラハムの福音の神権時代をゆだねる
教義と聖約110:12
エリヤ
結び固めの力を授ける
教義と聖約110:13−16
アダム(ミカエル)
指示を与える
教義と聖約128:21;History of the
Church,第2巻,380;第3巻,388
ノア(ガブリエル)
指示を与える
か ぎ
教義と聖約128:21
ラファエル
指示を与える
教義と聖約128:21
「様々な天使たち」
それぞれの神権時代を宣言する
教義と聖約128:21
リーハイ
指示を与える
ウィルフォード・ウッドラフ,Journal
of Discourses,第16巻,266
ニーファイ
指示を与える
ウッドラフ,Journal of Discourses,第16
巻,266;ジョン・テーラー, Journal of
Discourses, 第17巻,374; 第21巻,161
モルモン
指示を与える
テーラー,Journal of
Discourses,第17巻,374
(ブライアン・L・スミス,“I Have a Question,
”Ensign,1994年10月号,63より翻案)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
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ジョセフ・スミスの働きは永遠に影響を及ぼす
預言者ジョセフ・スミスの働きの中で重大な意味を持っていたのが神殿と神殿の儀式に関
する部分であったことを説明します。預言者は聖徒たちを率いてカートランドとノーブー
で神殿を建設しました。ミズーリではさらに3つの神殿を建設する計画がありましたが
(インディペンデンス,ファーウエスト,アダム・オンダイ・アーマン),迫害と暴力によ
ってその計画は実現できませんでした。ジョセフ・スミスは死者のための儀式について教
えました。生涯の最後の2年間に,90人近くの男女にエンダウメントを授け,神殿の儀式
かぎ
に関する指示と鍵を十二使徒に授けました。
生徒にマラキ4:5−6を読むように言います。神殿活動はどのように父と子の心を互い
に向けさせ,結び固めの力はどのように家族の愛と一致を強めるかについて話し合います。
主は神殿の建設に力を注ぐ聖徒たちを祝福された
末日における最初の神殿は預言者ジョセフ・スミスの指示の下で建設されたことを説明し
ます。生徒用手引きの「聖徒たち,神殿を建てるよう命じられる」(11−12ページ)を復
習します。それから,カートランドでの神殿建設について預言者の母ルーシー・マック・
スミスが1833年の夏に記した以下の記述を紹介します。
「預言者はこの会議の中で,兄弟たち一人一人に,立って自分の意見を述べるよ
う求めました。そして全員が意見を述べた後に,この件に関する自身の考えを話す
と言いました。全員が意見を述べました。ある人々は木造建築がよいと言いました。
別の人たちは,木造にすると費用がかかりすぎると言いました。そして,大半の人
は丸太造りにすると決定し,建設に向けて何をしたらよいか検討し始めました。す
るとジョセフは立ち上がって,自分たちやだれか人のための家を建てるのではなく,
神の家を建てようとしていることを思い起こさせました。『兄弟たち,神のための宮
を丸太造りにするのですか。いいえ,わたしにはもっと良い考えがあります。主の
宮の設計図は主ご自身が授けてくださいます。これによってあなたがたは,わたし
たちの考えと主の考えの違いが分かるでしょう。』
ぜんぼう
それから預言者は,カートランドに建設する主の宮の計画の全貌を明らかにしま
した。兄弟たちは大喜びでした。特にハイラムはまさにわが意を得たとばかりにだ
れよりも元気よく,主の宮の建設に向けてさっそく仕事に取りかかると宣言しまし
た。
彼らは集会を閉じるまでに,次の水曜日から1週間後に隅石を置くことを決めまし
た。ジョセフは言いました。『さて,兄弟たち,建設する場所を決めましょう。』全
員が外へ出て,昨年の秋にわたしの息子たちが種をまいた畑にやって来ると,北西
の角の一区画を選びました。ハイラムは走って家にやって来ると,何の説明もせず
かま
に草刈り鎌を手にして,戻ろうとしました。わたしはハイラムを呼び止めると,鎌
を持ってどこへ行くのかと尋ねました。すると,『主の宮を建てるのですよ。わたし
がいちばん先に作業を始めるのです。』
さく
数分のうちに柵が取り払われ,青々とした麦が刈られて,敷地は基礎を築くため
の準備が整えられました。そしてハイラムは礎石を置くために地面を掘り始めまし
た。それは土曜の夜のことでした。月曜の朝早く,兄弟たちは牛車を引いて来ると,
外壁を築くための溝を掘り,石を切り出して建設現場まで運び始めました。皆,大
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
きな目的に向かって働いたのです。」(The History of Joseph Smith by His Mother,
Revised and Enhanced,スコット・フェーサー・プロクターとモーリーン・ジェン
セン・プロクター編〔1996年〕,321−322)
以下の質問をします。
• 兄弟たちが神殿の建設作業に熱心に取りかかったのはなぜだと思いますか。
• 聖徒たちの経済状態は神殿建設にどのような影響を与えたでしょうか。
• 神殿建設にどのような資材を使うかはなぜ大切な問題となるのでしょうか。
多くの聖徒は神殿の建築資金が非常に限られていたので,ほかの方法で貢献したことを
指摘します。以下の記述を紹介して,カートランドに神殿を建設するために預言者と聖徒
たちに求められた犠牲について話し合うとよいでしょう。
「わたしがカートランドに到着したとき,兄弟たちは主の宮の建設に従事してい
ました。……教会は貧困と窮乏の状態にありました。……それと同時に,敵対する
者たちは激しく怒り,わたしたちを皆殺しにすると脅迫していました。そのため,
わたしたちは毎晩,自衛手段を講じておかなければなりませんでした。そして数週
間というもの昼夜を問わず,衣服を脱ぐこともできずに,銃を手にして眠ることを
余儀なくされたのでした。」(ヒーバー・C・キンボール,“Extract from the Journal
of Elder Heber C. Kimball,”Times and Seasons,1845年1月15日付,771)
「女性は神殿で働く人たちの衣服を用意するため,糸を紡ぎ,編む仕事に従事し
ました。これを成し遂げるためにわたしたちが貧困と試練と苦難を経験することを
主はすべて御存じでした。わたしの妻は夏の間中,神殿を建設するための手助けに
精を出しました。100ポンド〔約45キロ〕の羊毛を持っていた妻は少女の助けを借
りてそれを紡ぎ,神殿の建設に従事する人々のための衣類を仕立てました。その働
きの代償として,半分の羊毛を自分のために使う権利を与えられていましたが,妻
は1足の長靴下を作るだけの羊毛さえ受け取らず,すべてを主の宮のために働く
人々にささげました。妻は糸を紡ぎ,織り,布地を完成させると,裁断し,衣服を
作り,それを神殿で働く人々に与えました。カートランドのほとんどの姉妹は主の
業を進めるために編み物や裁縫,糸を紡ぐ作業に精を出しました。その間,わたし
たちはミズーリへ赴いて,同地の兄弟たちが追放された土地を取り戻すために力を
尽くしました。……〔シオンの陣営に参加した〕わたしたちが西部への旅から戻る
と,教会全体が一致協力してこの仕事に携わり,すべての男性が働きました。牛車
を持っていない人は採石場で働いて,神殿へ運ぶ石を切り出しました。ジョセフ・
スミス・ジュニア大管長は採石場の監督を務めました。大管長会,大祭司,長老は
皆,一様に働きました。牛車を持っている人は神殿まで石を運ぶ作業を助けました。
皆が力を合わせて一日働くと,石工が働く1週間分の石を運ぶことができました。
わたしたちは神殿の外壁が完成するまでこの作業を続けました。」(ヒーバー・C・
キンボール,“Heber C. Kimball,Extracts from H. C. Kimball’
s Journal”Times
and Seasons,1845年4月15日付,867−868)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
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「アーテマス・ミレットとロレンゾ・ヤングは……神殿外壁のしっくい塗りを
〔監督しました〕。この作業は1835年11月2日から1836年1月8日まで行われました。
外壁に用いた上質のしっくいは,砕いた石灰石に粘土と青みを帯びた川の砂を混ぜ
合わせたものでした。青みを帯びた壁が太陽の光を反射して輝きを放つように,皿
やガラスの食器を砕いてしっくいに混ぜ合わせました。」(ミルトン・V・バックマ
ン・ジュニア,“The heavens Resound: A History of the Latter-day Saints in Ohio,
1830−1838”〔1983年〕,157)
以下の質問をします。
• 教会員は時間と金銭を犠牲にすることにより,どのように強められるでしょうか。
• わたしたちはどのような方法で神殿の業に貢献することができるでしょうか。(神殿準
備クラスに出席する,できるかぎり神殿に参入する,家族歴史活動に参加するなどの
答えが考えられる。
)
悪魔は神殿を妨害しますが,神殿が建設され,活用されるときに天は喜ぶことを説明し
ます。生徒用手引きから「カートランド神殿の建設と奉献に伴い奇跡的な現れが起きる」
(12−13ページ)を復習して,神殿が完成し,奉献したときに起きた特別な現れについて
話し合います。
生徒に使徒行伝2:1−4を読んでもらいます。次の質問をします。五旬節の聖霊の現れ
はカートランド神殿の奉献のときに起きた現れとどのような点で似ているでしょうか。
預言者ジョセフ・スミスは投獄されていた間も勇気と哀れみを示した
生徒用手引きの「預言者ジョセフ,リッチモンドで裁判を受け,リバティーの監獄に拘留
される」(13−14ページ)からパーリー・P・プラット長老の経験を読みます。それから以
下の質問をします。
• 下品な話や下劣な言葉に対応するための勇気を預言者はどこから得たと思いますか。
みたま
• 人々との交わりの中で,御霊を遠ざけるような状況に立たされたとき,彼の模範はど
のような助けとなるでしょうか。
生徒用手引きから「預言者ジョセフ,リッチモンドで裁判を受け,リバティーの監獄に
拘留される」(13−14ページ)の最後の4段落を引用します。ここには,リバティーの監獄
に拘留されていたときに,聖徒が迫害され,苦しんでいることを耳にした預言者ジョセ
フ・スミスがどのように対応したかが描かれています。次の質問をします。聖徒を心配す
る気持ちから出た預言者の嘆願の言葉から,彼の性格と指導性についてどのようなことが
分かるでしょうか。
生徒に教義と聖約第122章の全文を読ませてから,次の質問をします。主が預言者ジョ
セフ・スミスに与えられた答えの中で,あなたにとって最も大きな意味を持つのはどの部
分でしょうか。
ジョセフ・スミスは裏切った人々を赦した
次の質問をします。裏切りはなぜ苦しい経験となるのでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
以下を説明します。自分を裏切った人々の中にかつての友人であり教会の指導者を務め
た人たちがいたため,ジョセフ・スミスは多くの試練を受けました。これらの裏切り者が
どれほどひどい仕打ちをしても,預言者は彼らが悔い改めていれば教会に戻ることを歓迎
しました。以下の例を紹介します。
ウィリアム・W・フェルプスはミズーリで教会の指導者を務めていたにもかかわ
らず,預言者ジョセフ・スミスに対して敵意を持ちました。1838年にフェルプスが
法廷で証言したために,預言者をはじめとする教会の指導者はリバティーの監獄へ
送られることになりました。しかし2年後にフェルプスは悔い改めて,赦しを請う
手紙を預言者に書き送りました。
ほうとう
「わたしは放蕩息子のような者です。けれども,完全な福音を疑ったり,否定し
たりしたことは一度もありませんでした。……
ふち
わたしは自分の歩んだ道の愚かさに気づいて,危うく逃れた破滅の淵に身震いし
ます。……わたしは悔い改めて生活し,昔の兄弟たちに赦しを請います。たとえ死
の罰を受けるとしても,わたしは彼らとともに死ぬでしょう。彼らの神はわたしの
神だからです。小さな片隅であっても彼らと一緒にいられるなら,わたしには十分
です。そこはバビロンよりも広く,良い所だからです。……
わたしは自分の置かれている状況を知っています。皆さんも知っており,神もそ
れを御存じです。もし,友人たちが助けてくれるなら,わたしは救われたいのです。
はり
……わたしは間違いを犯し,それを悔いています。梁はわたし自身の目の中にあり
ます。わたしは,自分の聖なる召しにあるようには友と歩みませんでした。イエ
み な
ス・キリストの御名によってすべての聖徒に赦しを請います。わたしは神の助けに
よって,正しいことを行います。教会の会員に戻していただきたいのです。もしそ
れができないなら,あなたの平安と友情を与えてください。わたしたちは兄弟であ
って,かつて温かい交友があったのですから。主がわたしたちを再び一つにしてく
ださる時が来るとしたら,聖徒や神から求められる,あらゆることをすべて実行し
ます。」(History of the Church,第4巻,141−142)
フェルプス兄弟の手紙を読んだ預言者は,こう返事を書きました。
「わたしたちがあなたの行為によって非常に苦しんだことは事実です。苦き杯は
すでに満ちて……あなたがわたしたちに敵対したときには,まったくあふれるばか
りでした。……
みこころ
しかし,杯は飲み干され,御父の御心が行われました。そしてわたしたちは今な
お,生きています。わたしたちはそのことを主に感謝しています。わたしたちは神
あわ
の憐れみにより,悪人たちの手から解き放たれたのですから。申し上げますが,悪
魔の力から離れ,神の愛する子らの中に引き戻されて,再び至高者の聖徒の群れに
けんそん
加わり,熱心に,謙遜に,偽りのない愛をもって,わたしたちの神,あなたの神に,
そしてイエス・キリストの教会に身をゆだねることは,あなたに許された特権です。
わたしはあなたが真実を告白し,心から悔い改めていることを信じて,再び友情の
右手を差し出せることをうれしく思い,帰ってきた放蕩息子に喜んでいます。……
兄弟,戻って来てください。争いは終わったのです。最初の友は最後にも友です
から。」(History of the Church,第4巻,163−164)
次の質問をします。ウィリアム・フェルプスの手紙に対してジョセフ・スミスが書き送
った返事から何を学ぶことができるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
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ノーブーは教会の集合と組織の場所となった
以下の項目を黒板に書き写して,これらの出来事に共通する事柄を生徒に尋ねます。(す
べてはノーブーか,または教会の主体がノーブーに置かれていたときに起きた。
)
• 扶助協会が組織された。
• 死者のための儀式が啓示され,発表され,開始された。
• 信仰箇条が書かれた。
• 市民軍が組織された。
• 大学が創設された。
• 最初のワードが作られた。
• イギリスから大勢の改宗者が移住して来た。
生徒用手引きから「ノーブーに避難場所を見いだす聖徒」(14ページ)の内容をまとめ,
預言者や教会員がノーブーを避難場所と考えた理由について話し合います。以下の説明を
紹介します。
「ノーブー時代に起きた最初の重要な出来事は,イリノイ州ハンコック郡におい
て当時コマースと呼ばれていたノーブーに教会員が集合するという決定が下された
ことでした。それは1839年初頭のことでした。ノーブーは,一部の個人的な記録に
記されているような,まったくの荒涼とした沼地ではありませんでした。聖徒にと
って避難場所であり,新たな機会を与えてくれる地でした。ミシシッピ川に沿った
低い土地は湿気が多く,蚊の出る季節には不健康な地帯でしたが,その先には豊か
な農地が広がっていました。」(グレン・M・レナード,T・エドガー・ライアン共
著,“The Nauvoo Years,”Ensign,1979年9月号,11)
新しい改宗者が次々と移住して来たため,市は急速に成長しました。「間もなくコ
マースは集合の中心地となりました。夏までに,非公式ながらノーブーと改称され
ました。預言者の言葉によると,これはヘブライ語に由来する,美しい安息の地と
いう意味を持っています。翌年の春に,連邦政府はコマース郵便局をノーブー郵便
局と改称し,1840年12月に州議会は市の設立を公式に認可しました。」(ジェーム
ズ・B・アレンとグレン・M・レナード,The Story of the Latter-day Saints,第2
版,改訂・増補版〔1992年〕,156)
「1840年に人口調査が実施されたとき,ノーブーの住民の数は2,450人となり,そ
の規模はクインシーやスプリングフィールドに匹敵し,シカゴの人口の半分までに
達していました。その後の2年間に人口が30パーセント以上増加したノーブーは急激
な発展を遂げました。絶頂期に近い1845年には住民が11,036人に達して,同年に
12,088人だったシカゴと肩を並べるまでになりました。新しく移住して来る家族の
ための住宅建設(さらに公共施設と神殿の建設)によって,ノーブー市の産業は活
況を呈していました。」(レナードとライアン,Ensign,1979年9月号,12)
聖徒たちは神殿の祝福を受けるためにノーブーに集結した
預言者ジョセフ・スミスは1841年1月19日に,イリノイ州ノーブーに神殿を建てるように
との戒めを受けたことを生徒に話します。教義と聖約124:25−28,31,40−42を読んで
から,預言者ジョセフ・スミスの次の教えを紹介します。
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
「なぜこの場所に人々を集めるのでしょうか。それは,イエスがユダヤ人を集め
ようとされた目的と同じです。神が御自分の聖徒たちのために備えておられる儀式
と祝福,栄光を受けるためです。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith,ジョ
セフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕,312)
死者のためのバプテスマに参加したことのある生徒に手を挙げてもらいます。この儀式
を行うためにどこの神殿を訪れたかを尋ねます。教会が回復されてから死者のための儀式
が執行されたのはノーブーの時代が初めてだったことを説明します。
死者のバプテスマの儀式はいつ,どのようにして初めて教会員に教えられたかを説明し
た以下の情報を紹介します。
• 死者のためのバプテスマという重要な業に関して,記録に残っている最初の教えは,
1840年8月15日にシーモア・ブランソンの葬儀における預言者の説教に見られます。シ
ーモア・ブランソンは1831年1月にオハイオ州で教会に加わった初期の改宗者でした。
• 主は1841年1月19日の啓示の中で,聖徒が神殿とバプテスマフォントを完成させるまで,
神殿の外で行われるバプテスマを受け入れると言われました。(教義と聖約124:31−
32参照)
• 死者のためのバプテスマは1841年10月3日まで神殿の外で行われました。このとき預言
者は大会中に「主の宮で儀式が行われるようになるまで,死者のためのバプテスマは
行わない」と宣言しました。
(History of the Church,第4巻,426)
• 後に預言者はこの儀式に関して詳しい指示を与えました。
(教義と聖約127−128参照)
1842年5月4日,預言者ジョセフ・スミスは教会のおもだった指導者を数名,自分の店の2階
に招いて,初めてとなる神殿のエンダウメントを授けたことを生徒に話します。預言者はこ
う記しています。これらの兄弟たちと一日中,
「神権の原則と位について教え,洗い,油注ぎ,
かぎ
エンダウメント,アロン神権に関する鍵,さらにはメルキゼデク神権の至高の位の鍵の伝授
について教えました。」この知識はほかの聖徒たちにも授けられ,
「彼らに受け入れる備えが
できればすぐに授けられ,そしてそれらを伝授するのに適切な場所が用意される」ことを付
第5巻,
2)
け加えました。
(History of the Church,
以下の質問をします。
• 教会歴史のこの創設期に,ジョセフ・スミスはどのような教義を明らかにしたでしょ
うか。
• 神殿の業に関する啓示はあなたと家族にどのような祝福をもたらしているでしょうか。
神殿の奉献に出席したことのある生徒に,教会のほかの集会とどのような点が異なって
いたかを話してもらいます。(そこで行われたことよりも,霊的な経験について考えるよ
うに促します。)以下の質問をします。
みたま
• 神殿の奉献において御霊を感じるには,個人としてどのような準備をしたらよいでし
ょうか。
• 可能なかぎりあらゆる国民に福音を伝えるために,神殿はどのような力を与えてくれ
るでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
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ジョセフ・スミスは多くの人々に善を行うよう影響を及ぼした
生徒に人生で最も大きな影響を与えた人について考えさせます。以下の質問について考え
るように言います。
• その人はなぜあなたにそれほど大きな影響を与えたのでしょうか。
• もしその人を知らなかったら,あなたの人生はどうなっていたでしょうか。
預言者ジョセフ・スミスについて知っている事柄を考えてから,前記の二つの質問をジ
ョセフ・スミスに当てはめて考えるよう生徒に言います。生徒の答えを分かち合います。
多くの人はジョセフ・スミスの預言者としての召しを尊んでいる
教義と聖約135:3を読みます。当時十二使徒定員会会員だったジョン・テーラー長老の語
ったこの言葉が真実であることを示す例を挙げてから,それらについて話し合います。
生徒用手引きから「ジョセフ・スミスは,預言者,聖見者,啓示者,回復者,証人,そ
して殉教者だった」と「『ジョセフ・スミスはこの神権時代の偉大な預言者です』」(18−
19ページ)を黙読する時間を取ります。それから,以下の言葉を紹介します。
後にボストン市長となったジョサイア・クインシーは1844年5月にノーブーを訪
れました。後年,彼は預言者との会見をこう回顧しました。「まだ生まれていない世
代の人々が使うことになる教科書には,次のような質問が載せられることであろう。
19世紀のアメリカ人の中で,アメリカ人の運命に最も大きな影響を与えた人はだれ
か?人々はその質問に対して『モルモンの預言者,ジョセフ・スミス』と答えるに
違いない。」(Figures of the Past from the Leaves of Old Journals〔1883年〕,376)
当時十二使徒定員会の会員だったゴードン・B・ヒンクレー長老は,次のような
経験について述べました。
「わたしが12歳の少年のとき,父が地元のステークの神権会に連れて行ってくれ
ました。わたしは後列に座り,ステーク会長だった父は壇上に座りました。そのよ
うな集会に出席するのは初めてでしたが,集会が始まると,会場に集まった数百人
の人々は一斉に起立しました。経歴も職業も様々に異なる人々でしたが,だれもが
同じ確信を胸に声を合わせてこう歌いました。
たたえよ,主の召したまいし 主と語りし予言者を
末の時を始めたる あが
業を世,皆崇めよ
(『賛美歌』16番)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 章 ―― ジ ョ セ フ ・ ス ミ ス
これらの信仰ある人々の歌声を聞くわたしの心に何かが起きました。少年の心に,
みたま
聖なる御霊によって,ジョセフ・スミスがほんとうに全能者の預言者であるという
知識が植え付けられたのです。それから多くの歳月が過ぎ,ジョセフ・スミスの
数々の言葉や功績を読むうちに,その知識は次第に強く,確かなものになっていき
ました。この国の津々浦々,東西南北すべての大陸に,ジョセフ・スミスが神の預
しもべ
あかし
言者,主イエス・キリストの力強い僕,証人であることを証できるのはわたしの特
権です。」(「聖見者ジョセフ」『聖徒の道』1977年10月号,498)
後にヒンクレー大管長はこう語りました。「わたしたちは『感謝を神に捧げん預
言者の導き』(『賛美歌』11番)という言葉で始まるすばらしい賛美歌を歌うことが
あります。しかしわたしはその歌詞を聞いて,自分自身のことを考えるということ
はありません。それを聞いてわたしが思うのは,預言者ジョセフ・スミスのことで
す。彼は森の中へ入り,光と理解を求めて祈り,父なる神と復活された御子の現れ
み こ と ば
を受け,その御言葉を授けられました。この傑出した偉大な人物は,この驚くべき
モルモン書や教義と聖約の中に見られる数々の啓示をわたしたちに伝えるための神
の器でした。ジョセフ・スミスはこの教会の基を据えました。もし彼の言ったこと
が真実なら,そのすべてが真実ということになります。そしてわたしは,彼の話し
たことは真実であると証したいと思います。」(“Message of Inspiration from
President Hinckley,”Church News,1998年2月7日付,2)
「たたえよ,主の召したまいし」(『賛美歌』16番)を歌います。預言者ジョセフ・スミ
スのおかげで,どれほど大きな祝福を受けてきたかについて生徒の意見を求めます。預言
者ジョセフ・スミスに対するあなたの証を分かち合ってください。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
21
第2章
ブリガム・ヤング
© IRI
第2代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
22
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョセフ・スミスが生まれる4年前,ブリガムはジョンとアビガイル・ハウ・ヤングの9番目
の子供として生まれました。1801年6月1日に誕生したこの息子は,バーモント州ウィッティ
ングハムに住んでいた家族の一員となったのです。アメリカ独立戦争の退役軍人であるジ
ョン・ヤングは後にこの息子の彫像がワシントンD.C.の連邦議会議事堂の国立彫像ホール
に置かれることになろうとは想像もしていませんでした。しかし,誕生から約50年後にブリ
ガム・ヤングはユタ準州知事,また主の預言者として数十万人の人々の政治的,霊的指導者
になったのです。けれども1801年当時,両親,兄弟姉妹にとってブリガムは赤ん坊にすぎま
せんでした。
出来事,特筆事項,教え
ブリガム・ヤングの両親と先祖はブリガムに宗教上の堅固な礎を与えた
生徒が両親や祖父母から学んだ良い資質について話し合います。ブリガム・ヤング大管長
が述べた以下の感謝の言葉を紹介します。
「わたしの先祖はまれに見るほど厳格な宗教心を持った人たちでした。皆さんも
自分の先祖について同じことを言うでしょう。わたしを産んでくれた母は,地上で
最高のすばらしい女性でした。……
み
な
生前,母はいつも子供たちに御父と御子の御名を尊び,聖書を大切にするよう教
えました。母はこう言いました。『聖書を読みなさい。そして教えを守り,できる
かぎりそれに従って生活しなさい。善いことは何でもしなさい。悪いことは何一つ
してはいけません。困っている人を見たら,その人に必要なものを上げなさい。決
して怒りを抱いてはなりません。もし怒りを抱くならば,あなたは悪に負けてしま
います。』」(Journal of Discourses,第6巻,290)。
ブリガム・ヤングは熱心に働き,困難を乗り越えることにより,能力を増し加えた
ブリガム・ヤングは教会に入る前にどのような生活をしていたか,例えばどのような職業
についていたかなどについて詳しく知っている生徒がいるかどうかを尋ねます。生徒用手
引きの「ブリガム・ヤングは人生の厳しさと熱心に働くことの大切さを知っていた」と
「ブリガムは職人として優れた技術を持っていた」(22−23ページ)から探させます。以下
の質問をします。
• 熱心に働くという特質はブリガム・ヤングが教会の指導者となるためにどのように役
立ったでしょうか。
• どのような分野であれ熱心に努力することは,あなたが将来親としてまた教会員とし
ての責任を果たすうえでどのように役立つでしょうか。
ブリガム・ヤングは教会に入る前に聖文と教会の教えを詳しく調べた
ブリガム・ヤングが教会について知ったのは教会が組織されて間もないころだったことを
説明します。ブリガムは1828年,後に教会が組織されることになるフェイエット郡区近く
のニューヨーク州メンドンに移ってきました。1830年に預言者ジョセフ・スミスの弟サミ
ュエル・スミスは,ブリガム・ヤングの兄フィニアス・ヤングにモルモン書を売りました。
この書物に感銘を受けたフィニアス・ヤングは,父に読んでみるよう勧めました。父はブ
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
23
リガムの姉ファニーと一緒に読みました。そしてファニーはこの書物をブリガム・ヤング
に渡しました。ブリガム・ヤングは2年近くモルモン書と教会の教えを研究した後,バプテ
スマを受けました。
生徒用手引きから「ブリガムは霊的に満ち足りた生活を探し求めた」
(24−25ページ)を
復習して,話し合います。復習しながら,以下の質問の答えを探させます。
• ブリガム・ヤングの霊的な望みはどのようなものでしたか。
• 真理を探し求めていたブリガムはどのような落胆を味わっていたでしょうか。
あかし
• あなたの証を強めるためにブリガム・ヤングの模範はどのような助けとなるでしょうか。
生徒用手引きから「ブリガムは『モルモニズム』を慎重に調べた」(25ページ)を読み,
ブリガム・ヤングが回復された福音を慎重に調べた理由を生徒に尋ねます。
ブリガム・ヤングは預言者ジョセフを愛し,支持し,擁護した
ある人に対して批判的な人々に対抗して,だれかがその人の評判を懸命に擁護するのを聞
いたことがあるかどうか尋ねます。他人の評判を守ろうとするとき,特に守るべき人がそ
の場におらず,会ったことのない人であるとき,勇気を必要とするのはなぜかを尋ねます。
ブリガム・ヤングはどのようなときにも預言者ジョセフ・スミスに対して忠実だったこと
を説明します。
生徒用手引きから「ブリガム・ヤングは主と主の預言者の熱心な弟子だった」(27ペー
ジ)を読んで,ブリガム・ヤングがジョセフ・スミスに対して誠実だった事例を見つけさ
せます。預言者ジョセフについてブリガム・ヤングが述べた以下の言葉を読みます。
「わたしは恵まれて預言者ジョセフ・スミスを知っていたと思うと,常にハレルヤ
と叫びたい気持ちになります。ジョセフ・スミスは主が立てて聖任された預言者で
かぎ
あり,地上における神の王国を築き,維持する鍵と権能を主がお与えになった預言
者です。これらの鍵は民に託されました。したがって,わたしたちは万物が人の子
の降臨に備えられるときまで,ジョセフが始めた業を継続する権能を持っています。」
(Deseret News,1855年10月31日付,268)
ブリガム・ヤングがジョセフ・スミスに対して忠実だったことを示す以下の事例につい
て話し合います。ブリガム・ヤングはこのように記しています。
「あるとき,十二使徒の数人とモルモン書の証人,そのほかの中央幹部が,〔カー
トランド〕神殿の上階の部屋で評議会を開きました。議題は,預言者ジョセフ・ス
ミスをどのように大管長の地位から退かせ,代わりにデビッド・ホイットマーを就
かせるかということでした。ジョセフ・スミスの父親やヒーバー・C・キンボール
兄弟,そのほかの兄弟も出席していましたが,このような考えには反対でした。わ
たしは立ち上がり,率直かつ力を込めてジョセフが預言者であると宣言しました。
そして,それを確かに知っていること,彼らが幾らジョセフをあざけり中傷しても,
神の預言者の地位から落とすことはできず,ただ自分たちの権能を失い,預言者と
神につながっている糸を自ら断ち切り,地獄へと沈んでいくのみであると述べまし
た。彼らの行動に対するわたしのこのようにきっぱりとした反対表明によって多く
けんとうか
の人は激怒し,特にジェイコブ・バンプ(元拳闘家)などはじっとしていられない
ほどに怒り狂いました。周りに座っていた兄弟たちが彼を抑えて,静かにして
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
いるよういさめましたが,体を小刻みに揺らし,腕や体をさすりながら『あいつを
殴ってやる』と言いました。わたしはそれで気が済むなら殴るがいいと言いました。
こうして背教者たちは意見や行動をまとめることができずに散会しました。これは
この世と地獄とが一緒になって預言者と神の教会を打ち倒そうとした危機でした。
教会において最も強力な多くの人々の信仰が崩れたのはこのときです。
やみ
闇の力に包囲され,攻撃を受けたこの時期に,わたしはジョセフを擁護し,また
しもべ
神から授かった知恵と力を振り絞って神の僕を支持し,教会の定員会を結束させる
ために全力を尽くしました。」(Manuscript History of Brigham Young,エルデ
ン・J・ワトソン編,全2巻〔1968−1971年〕,第1巻,15−17)
次の質問をします。教会員は総大会やステーク,ワードの大会で預言者を支持するため
に挙手するとき,どのような義務を引き受けるのでしょうか。後に十二使徒定員会会員と
なったオーソン・F・ホイットニーの以下の話を紹介します。1837年にカートランドで背
教が起きたとき,ブリガム・ヤングは預言者ジョセフをどれほど愛し,擁護したかを説明
しています。
「ライオンの心臓と恐れを知らない心を持つブリガム・ヤングをそばに置くこと
を決めたのは,ジョセフ〔・スミス〕とモルモニズム全体にとって良いことでした。
自分の指導者に対して岩のように固い忠誠心を持ち,揺らぐことのない崇高な勇気
いなずま
をもって,優れた判断と鋭い見識を示しました。善悪についての判断は稲妻のよう
に素早く,誤りを指摘する声は雷のようにとどろきました。危機に対処するすべを
知り,将来の展望を持ち,人々の霊性を鼓舞する偉大な人物であり,生まれながら
の指導者でした。……
それは暗闇のとき,恐らくモルモニズムが経験した最も暗い時期でした。まるで
教会の根底が揺るがされたかのようであり,中心人物と思われた人々が弱くなって
教会を離れ,ひそかにあるいはあからさまに敵と手を組んでいました。ブリガムは
決して動揺することなく,自分の指導者への忠誠を揺るがさず,非難する者たちか
きゅうだん
ら断固として指導者を守り,人々の偽りと利己心と裏切りを大胆に糾弾 しました。
その大胆さのゆえに彼の命は危険にさらされました。ブリガムはそれを意に介する
ことなく,自分の道を断固として歩みました。それは勇敢,忠誠,誠実な友の模範
でした。」(History of Utah,全4巻〔1892−1904年〕,第1巻,137)
以下の質問をします。
• ブリガム・ヤングは教会内の反対に立ち向かい,預言者ジョセフ・スミスを支持する
力をどのようにして得たのでしょうか。
こんにち
• 今日,若い末日聖徒はどのような似通った状況に遭遇することがあるでしょうか。
ブリガム・ヤングは預言者ジョセフ・スミスの殉教後,教会を導いた
次の質問をします。もし万一現在の大管長が亡くなったとしたら,教会の業務を指導する
責任はだれが果たすのでしょうか。大管長が亡くなると,大管長会は解散して,新しい大
管長が召されて支持されるまで,先任使徒の指導の下に十二使徒定員会が教会を治めるこ
とを説明します。この神権時代の初期に,教会員はこの手続きをよく知りませんでした。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
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預言者ジョセフ・スミスの死後,当時十二使徒定員会会長であったブリガム・ヤングは
1844年8月6日に合衆国東部の伝道からノーブーへ戻ったことを生徒に話します。ブリガ
ム・ヤングはジョセフ・スミスの後継者を選ぶため,2日後に集会を開きました。預言者
ジョセフ・スミスの顧問だったシドニー・リグドンは自分以外に預言者ジョセフの地位を
継げる者はいないと言って,教会の後見人として自分(シドニー)を受け入れるよう教会
員を説得しようとしました。十二使徒定員会会員のほとんどがノーブーへ戻って来る前に,
リグドンは支部を次々と訪れて,自分がその地位に就くべきである,と主張しました。し
かし,彼の主張は預言者ジョセフ・スミスが亡くなる前に与えた指示と相いれないもので
した。ジョセフ・スミスは,教会の指導は十二使徒定員会の指示の下に行われなければな
らないと教えていたからです。
預言者ジョセフ・スミスが使徒たちと開いた最後の集会について,後にウィルフォー
ド・ウッドラフ大管長がこのように記していることを紹介します。
「今になって思えば,預言者ジョセフは,それが十二使徒とともにこの世で開く
最後の集会だと予感していたのです。わたしたちはすでにエンダウメントを受けて
いましたし,生きて地上にいる十二使徒や預言者にかつて与えられていた祝福はす
こうべ
べて,わたしたちの頭に結び固められていました。その場で預言者ジョセフは立ち
上がり,わたしたちにこう言いました。『兄弟たち,わたしはこの神殿が完成するの
をこの目で見たいと望んできました。わたしはこの目でそれを見ることはないでし
ょう。しかし,あなたがたは見るのです。わたしは,あなたがたの頭に神の王国の
かぎ
すべての鍵を結び固めました。天の神がわたしに啓示されたすべての鍵,権能,原
則をあなたがたに結び固めたのです。今や,わたしがどこへ行こうと何をしようと,
王国はあなたがたのうえに置かれているのです。』」(“The Keys of the Kingdom,”
Millennial Star,1889年9月2日付,546)
生徒用手引きから「預言者の権威はブリガム・ヤングのうえに下った」(30ページ)を
読んで,主はブリガム・ヤングが次の預言者となることをどのように示されたかについて
話し合います。以下の質問をします。
• 新しい大管長の継承の順位は,現在どのようになっているでしょうか。
あかし
• 教会員はどうすれば個人的にこの証を受けることができるでしょうか。
預言者ジョセフ・スミスについてブリガム・ヤングが述べた以下の言葉を紹介します。
「ジョセフ・スミスは預言者として生き,預言者として亡くなり,自らの血によ
ってその証を結び固めました。彼は善良な人として生活し,善良な人としてこの世
を去りました。地上に生きた人で彼ほど善良な人はいませんでした。わたしは自分
をジョセフ・スミスのように見せかけたことは決してありませんでした。わたしは
モルモン書を世にもたらした人物ではありません。しかし,それが真実であること
を証します。わたしはこの最後の神権時代の異邦人に,またユダヤ人にその証をす
る使徒です。……わたしの気持ちはバプテスマを受けたときと変わりません。すな
みこころ
わち,神の御心を行うことです。」(プレストン・ニブレー,Brigham Young, the
Man and His Work〔1936年〕,147−148で引用)
次の質問をします。ブリガム・ヤングはこの言葉とその生涯を通してどのような資質を
示したでしょうか。
ブリガム・ヤングは生活の実務面でも強い霊性に基づいて行動した
ブリガム・ヤングは神に対して大きな信仰と信頼を持っていたことを生徒に話します。彼
は危険であることが分かっていても,自分の果たすべき義務がはっきりしているときには
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
必要以上に心配しませんでした。以下の経験は神を信じるブリガム・ヤングの信仰をどの
ように表しているか生徒に尋ねます。
「預言者ジョセフが殉教して数か月が過ぎた1844年の秋と冬に,わたしたちはノ
ーブー神殿の建設に以前にも増して力を注ぎました。この時期は作業をする人たち
のパンや食べ物にも事欠く状態にありました。わたしは神殿の資金を担当していた
委員会に手持ちの小麦粉をすべて分配したら,神はもっと祝福してくださると助言
しました。委員会はそのとおりにしました。程なくして,トロント兄弟がやって来
て,金貨で2,500ドルを差し出しました。ビショップと委員会が会合を開きました。
わたしもその会に出席しました。彼らは,金貨を使徒たちの足もとに置くよう律法
に定められていると言いました。わたしは,そのとおりです,ビショップの足もと
に金貨を置きましょう,と言いました。そして,かばんの口を開き,底を持って,
ビショップの前でさかさまにして,金貨を部屋中にばらまきました。そして,さあ,
行って神殿で働く人々のために小麦粉を買いなさい,今後主に不信感を持ってはな
りませんと言いました。なぜなら,わたしたちは必要なものを与えられるからです。」
(ブリガム・ヤング,B・H・ロバーツ,Comprehensive History of the Church,第
2巻,472)
ブリガム・ヤング会長と指導者たちはノーブー神殿が完成して,出発に必要な準備が
できるまでイリノイにとどまりたいと考えていたことを説明します。教会の指導者は脱
出が十分な計画に基づいた移住であって,教会が成長するために必要なことだと説明し
ました。一部の会員はこの発表に驚きました。1845年10月の総大会はそのほとんどが,
秩序と結束のある撤退をするための準備に割かれました。イリノイ州西部からの撤退は
もともと1846年の4月に実施する計画でしたが,迫害によってその時期が早まりました。
一つの脅威はトーマス・フォード知事たちから突きつけられていた警告です。連邦軍が
モルモンを攻撃し,壊滅させようと計画しているというのです。
以下の手紙は,聖徒たちが西部への旅の準備をしていた1847年に,十二使徒定員会が教
会員に書き送ったものです。この手紙について話し合ってください。
「ただちに西部へ出発する準備をしてください。えり抜きのすべての種,すなわ
かんぼく
ち穀物,野菜,果物,潅木,樹木,つる植物,目を楽しませ,心を喜ばせ,人を喜
ばせて,全地の面に茂るすべてのもの,さらに最良の家畜,すなわちあらゆる種類
かきん
の鳥と家禽類を集めてください。またあらゆる種類の最良の工具と,紡ぎ,織るた
めの機械,木綿,羊毛,亜麻,絹などを準備し,これらを組み立てるための見本と
説明書,家庭用品と農機具すなわちトウモロコシの皮むき器,脱穀機,穀物選別器,
製粉機,そのほか人に安楽,健康,幸福,繁栄をもたらすと思われるあらゆる道具
と品物を準備してください。一貫性を保てるのであれば,見本と設計図を持って来
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
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てください。使用する場所で機械を作れば,輸送費を削減することができます。特
に重量のある機械また一般的な工具と器具がこれに該当します。」(“General Epistle
from the Council of the Twelve Apostles, to the Church of Jesus Christ of Latterday Saints Abroad, Dispersed Throughout the Earth,”Journal History of The
Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,1847年12月23日,末日聖徒イエス・キ
リスト教会記録保管課)
ブリガム・ヤングは霊的な事柄と同様,物質的な事柄においても卓越した指導力を持っ
ていたことを生徒に説明します。生徒用手引きから「ブリガム・ヤングは物心両面にわた
って秀でた人物だった」
(35−36)を読んでから,以下の質問について話し合います。
• 預言者ジョセフ・スミスが教会の基礎を築く功績を果たしたとしたら,ブリガム・ヤ
ング大管長の功績をどのように表現することができるでしょうか。
• ブリガム・ヤングは新しい入植地において,物質的事柄にどのように携わったでしょうか。
• ブリガム・ヤングは地域社会を築くために,自分の能力をどのように活用したでしょうか。
生徒用手引きから「ブリガム・ヤングの勇気,信仰,ユーモアのセンスは,聖徒たちの
模範となっていた」(31ページ)と「人々はブリガム・ヤングの愛とユーモアを愛した」
(38ページ)を復習します。以下の質問をします。
• これらの話はブリガム・ヤングのユーモアのセンスをどのように表しているでしょうか。
• 聖徒たちを導くうえで,ブリガム・ヤングのユーモアのセンスはどのように役立った
でしょうか。
• わたしたちが多くの責任を成し遂げるために,ユーモアを適度に取り入れることはど
のように役立つでしょうか。
ブリガム・ヤングは合衆国憲法が神の霊感によって起草されたと信じていた
アイオワで聖徒たちが西部への長い旅の準備をしていたとき,メキシコと合衆国の間で戦
争が始まったことを生徒に話します。合衆国大統領は教会員に対し,徴兵に応じて戦闘を
支援するよう要請しました。ブリガム・ヤングの要請に応じて,約500人の男性が徴兵に応
じました。これは「モルモン大隊」と呼ばれることになります。(注:「第2部――壮年期,
晩年期」に「モルモン大隊」に関する詳しい情報が記されている。
)聖徒たちは政府の代表
者が迫害をやめさせる努力をほとんどしていなかったことを知っていましたが,合衆国の
建国の礎となった原則は神の霊感によるものであると理解していました。
以下の質問をします。
• 大勢の男性を大隊として派遣する前にブリガム・ヤングが考えておかなければならな
かった重要な要因にはどのようなことがあったでしょうか。(例えば,全員が西部へ向
かう準備をしていて,多くの働ける男性を必要としていた。
)
• 当時,教会員が合衆国政府を支援するのが困難であったのはなぜでしょうか。
合衆国憲法について語ったブリガム・ヤングの次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
「わが国の憲法はすばらしいものです。この憲法に基づくならば,健全な政府を
築くことができます。なぜなら,全能者の目に見えない力によって定められたもの
だからです。……
この憲法は破棄されることがあるでしょうか。いいえ,それが侵すことのできな
い神聖なものであると人民は考えることでしょう。ジョセフ・スミスが述べたよう
に,『国家の命運が1本の糸に左右される時が来るでしょう。この重大な時にこの民
は進み出て,崩壊の脅威から国を救うでしょう。』そのようになることでしょう。」
(Journal History,1854年7月4日付,末日聖徒イエス・キリスト教会記録保管課)
ブリガム・ヤングは教育と健全なレクリエーションの大切さを教えた
もし教育を受ける機会が今よりも少ないとしたら,自分の生活はどのようになっていると
思うかを生徒に話し合わせます。ブリガム・ヤング自身は正規の教育をほとんど受けてい
ませんでしたが,学問を強く奨励しました。ブリガム・ヤングは芸術を愛し,可能なかぎ
り才能を伸ばすよう人々に奨励しました。
生徒用手引きから「ブリガム・ヤングは教育と芸術を振興させた」
(37−38ページ)
を読んで,
話し合います。ブリガム・ヤングが語った以下の言葉を紹介します。
「青少年の教育は教会幹部にとって説教の重要なテーマです。聖徒は教育をこと
さら重視する必要があります。わたしたちは啓示の霊と,天から下される知識を受
ける特権に浴しています。しかし,これらに加えて,わたしたちは世のあらゆる教
育を受け,修めなければなりません。あらゆる芸術と科学,人が知り理解している
あらゆる技術をこの民は理解する必要があるのです。」(Journal of Discourses,第
13巻,263)
「働いて幾つか学校を開きましょう。そして,学校に集い,学んでください。少
女たちを学校に行かせ,化学を教えてください。このような石を手にして分析でき
るようにするためです。科学は困難なく学べるようになります。わたしは人々の心
に喜びを与え,彼らに芸術や科学を学ばせるために,学校を作りたいと願っていま
す。年長の子も,年少の子も学校へ通わせてください。わたしは何よりも化学,植
物学,地質学,鉱物学などを学びたいと思います。そうすれば,自分の足もとの大
地について,そして呼吸する空気について,自分が飲むものについて知識が得られ
るようになるからです。」(Discourses of Brigham Young,ジョン・A・ウイッツォ
ー選〔1954年〕,253)
以下の質問をします。
• ブリガム・ヤングはなぜ学問をそれほど愛したと思いますか。
• 教育は人の将来にどのような影響を及ぼすでしょうか。
• 教育はあなたや教会にどのような恩恵をもたらすでしょうか。
ブリガム・ヤングは精神的活動に重きを置いていましたが,肉体の活動と息抜きの大切
さをも理解していたことを生徒に話します。ブリガム・ヤングが語った次の言葉を読んで,
話し合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
29
「教会と地上における神の王国に全身全霊をささげている人の精神は力強く機能し
ます。……そのような人の精神は不眠不休で働いています。けれども精神的な労働
は草を刈り,木を伐採する労働よりも健康的ではありません。精神も疲れてくるの
です。ではどうしたらよいのでしょうか。少し休むことです。……
わたしの精神は疲れてきます。恐らく皆さんもそうでしょう。そのようなときは,
体を動かしてください。……
ダンスや徒競走,輪投げやボール投げをしたければ,そうしてください。体を動
かし,そして心を休ませてください。
食物,睡眠,社交的な楽しみの祝福は神の栄光とわたしたちの益となるために神
が定められたものです。神の王国が地上において前進し,わたしたちがその中で進
歩するように,わたしたちはそれらを乱用するのでなく,活用することを学ぶ必要
があります」(Journal of Discourses,第6巻,147−149)。
こんにち
次の質問をします。今日,わたしたちは末日聖徒として生活していく中で,ヤング大管
長の言葉をどのように応用したらよいでしょうか。
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
1847年12月5日に大管長として召されたとき,ブリガム・ヤングは一つのステークと5つ
の伝道部に所属する3万5,000人近くの会員を管理していました。聖徒たちは西部へ追放され
たとき,ノーブーを去り,奉献したばかりの神殿を捨てなければなりませんでした。その
後ブリガム・ヤングが教会を管理した30年の間に,8万人以上の末日聖徒が大平原を横断し
て,西部へ入植しました。
ブリガム・ヤング大管長はこの神権時代のだれよりも長期にわたって教会を管理しまし
た。開拓を推進する指導者としての彼に比肩する人はいませんでした。聖徒がグレートベ
ースンに入植してから10年もたたないうちに,80万平方マイル(約207万平方キロ)近くの
土地を開墾しました。開拓地はカナダからメキシコまでの1,000マイル(約1,600キロ)以上,
カリフォルニアからワイオミングまでの800マイル(約1,300キロ)の範囲に広がりました。
ブリガム・ヤングが他界した1877年に教会は20のステークと8つの伝道部に11万5,000人以上
の会員を擁し,ユタ州セントジョージに奉献された神殿を持っていました。ユタ州ローガ
ンとマンタイ,ソルトレーク・シティーの神殿が建築中でした。
(2003 Church Almanac
〔2003年〕
,473,631参照)
出来事,特筆事項,教え
ブリガム・ヤングは経験を通して聖徒を導く方法を学んだ
生徒用手引きから「ブリガム・ヤングは聖徒たちを率いてミズーリを脱出し,イリノイへ
向かった」と「ブリガム・ヤングは指導者となるために備えた」(29−30ページ)を読み
ます。ブリガム・ヤングに見られる偉大な指導者の特質を探させます。生徒の答えを黒板
に書き出します。
預言者ジョセフ・スミスの死後,ブリガム・ヤング大管長が数十年の間に直面した困難
な課題について話し合います。それらの課題をできるだけたくさん黒板に書き出してもら
います。以下の課題が挙げられます。
• 殉教後の数年間,教会内に一致と秩序を維持する。
• 西部へ移動するため聖徒に準備させる。荷車の製作,日用品の調達,地図を調べるなど。
• 西部に移動する準備ができるまで聖徒を守る。
• ノーブーの神殿を完成させて,儀式を執り行う。
• ノーブーから避難する。
• 聖徒をウィンタークォーターズに入植させる。
• 合衆国政府の要請により,メキシコ戦争に出征する男性たちを募る(モルモン大隊)
。
• 西部へ移動するため「イスラエルの陣営」を組織し(教義と聖約136参照),先遣隊を
率いてソルトレーク盆地へ行き,西部へ移民して来る多くの聖徒を支援するシステム
を作る。
• 西部全域に350以上の入植地を設立する。
の
• 福音を宣べ伝えるため多くの国々に宣教師を派遣する。
• ユタ準州を設立するための政治的な問題を解決する。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
31
• ソルトレーク・シティーにエンダウメントハウス,セントジョージに神殿を建設し,
さらに3つの神殿の建築を始める。
• 先住民のアメリカインディアンとの交流を深めて,福音を教える。
これらの課題に対応する技術と能力を培うために役立ったと思われるブリガム・ヤング
の初期の時代の経験を思い出してもらいます。必要に応じて,以下のような経験を思い起
こさせます。
• カートランド,ファーウエスト,ノーブーで起きた背教を乗り越えて忠実な生活を送った。
かぎ
• 十二使徒定員会会員として9年間,先任使徒として6年間奉仕した。神権の鍵 を受け,
行使した。
• 青少年時代に働くことについての倫理を確立し,木工と事業の技能を習得した。
• 「シオンの陣営」と「ノーブー部隊」の一員を務めた。
• 預言者ジョセフ・スミスからエンダウメントを受けた。
• 1838年初頭にカートランドを脱出するジョセフ・スミスを助け,聖徒がミズーリ州フ
ァーウエストに入植するのを助けた。
• 預言者ジョセフがリバティーの監獄に拘留されていた1839年冬から1840年初春まで,
ミズーリからイリノイへ逃れる数千人の聖徒たちを助けた。
• ミズーリ州北部全域に入植する聖徒たちを助けた。
• 合衆国東部,カナダ,イギリスで10年間宣教師として働いた。
• 西部へ移住することについてジョセフ・スミスと話し合った。
• カートランドとノーブーで神殿建設に携わった。
「モルモン大隊」は聖徒たちにとって祝福となった
入手が可能であれば,生徒に合本(英語)の地図6「教会の西部への移動(The
Westward Movement of the Church)」を開いて,モルモン大隊の旅路を見つけさせます。
ミズーリ州に隣接したインディアン特別保護区と西方の「メキシコ(Mexico)」の間の地
域を探させます。この地域はテキサスとメキシコの両方が自分の領土であると主張してい
たことを指摘します。合衆国は1845年にテキサスを自国の領土とした後,この地域とその
他の関連する問題についての紛争が起きて,合衆国とメキシコ間の戦争に発展したことを
説明します。
生徒用手引きから「モルモン大隊が組織された」(31−32ページ)を読んで,話し合い,
聖徒が西部に向かう長い旅の準備をしている時期に,ブリガム・ヤング会長が多くの男性
に家族のもとを離れるよう要請した理由を探させます。続いて,以下の質問をします。
• 暴徒から迫害を受け,家を追い出された聖徒たちにとって,「モルモン大隊」を編成す
るこの決定が困難だったのはなぜでしょう。
• 「モルモン大隊」は末日聖徒にどのような恩恵をもたらしたでしょうか。
ブリガム・ヤングは短期間に富を求めることについて聖徒に警告を与えた
「手っ取り早く金もうけをする」方法に関する広告を読み,わたしたちはなぜそのような
誘惑に負けないようにという警告を受けているかを質問します。あるいは,幾らかの現金
を見せながら,富への欲求はなぜ人々に愚かな行動を取らせるのかを尋ねます。ブリガ
ム・ヤング会長が直面した一つの大きな問題は,多くの聖徒が金鉱探しにカリフォルニア
へ行くことを望んだことであったと話します。ヤング会長は,金への欲望は聖徒の信仰を
滅ぼすことになると感じていました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
32
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
ヤング会長が語った以下の言葉を読みます。
「わたしたちは金を手にしたいと思っていません。ジャガイモや麦を栽培して金
を手に入れられるなら,いいでしょう。『投機をして金持ちになれるではありませ
んか。』わたしたちはそのようなことをしたくありません。『金鉱を探し当てれば金
持ちになれるではないですか。』わたしたちの周りにはそのような人たちがいます。
『どうして金鉱を掘り出さないのですか。』世界のあらゆる社会や国民は心ゆくまで
金銀を手に入れると,道徳的に退廃します。それはどのような国民をも滅ぼします。
金銀ではなく,鉄と石炭を与え,熱心に働かせ,豊富な食べ物,良い学校,良い教
えを与えてください。そうすれば彼らは健康で,豊かで,幸福な民になるのです。」
(Discourses of Brigham Young,298)
「わたしがこの民について最も恐れているのは,彼らがこの国で富める者となり,
神とその民を忘れ,肥え太り,自ら教会にとどまることができなくなって,地獄へ
落ちてしまうことです。この民は暴力,略奪,貧困,そしていかなる迫害を受けて
も,それらに耐え,忠実さを貫くでしょう。しかし,わたしがそれよりも心配して
いるのは,富には耐えられないということです。それでも彼らは富の試練を受けな
ければなりません。なぜなら,彼らはこの地上で最も豊かな民になるからです。」
(ジェームズ・S・ブラウン,Life of a Pioneer〔1900年〕,122−123で報告)
以下の質問をします。
• 新しく築いた入植地で働くのでなく,金を求めてカリフォルニアへ行ったとしたら,聖
徒たちの性格にどのような変化が生じたと思いますか。
• 教会員にとって金持ちになることが「暴力,略奪,貧困,そしていかなる迫害に」耐
えるよりも難しくなるのはなぜでしょうか。
1856年から1860年の間,多くの聖徒は手押し車を用いてグレートベースンにやって来た
一人の生徒に開拓者の手押し車とその使い方を説明してもらいます。一部の開拓者が手押
し車を使い始めた理由を尋ねます。
ブリガム・ヤング大管長は貧しい教会員が大平原を横断してユタまで旅する費用を削減
する方法を探し求めていました。そして,手押し車に必要なものを乗せて,歩いて盆地ま
で旅する方法を取ることにしました。開拓者は手押し車を使うことによって,牛にえさを
与えて育てたり,高価な荷車を引かせたりする必要がなくなりました。開拓者は牛よりも
速く歩くことができました。このため手車隊は荷車隊よりも速く旅することができました。
1856年,最初の3つの手車隊が速やかにまた安全に旅を終えて,ソルトレーク盆地に到着し
ました。ブラスバンドと大勢の人々が彼らを歓呼して迎えました。しかし,ジェームズ・
G・ウィリーとエドワード・マーティンが率いた後続の2隊は出発の時期が遅れたため,早
あらし
く到来した冬の嵐に遭ってしまいました。
この緊急事態にブリガム・ヤング大管長は宗教が実践的でなければならないという確固
たる信念を示しました。主はしばしばほかの人々を通して,助けを求める祈りにこたえて
くださることをヤング大管長は知っていました。ヤング大管長はマーティン手車隊とウィ
リー手車隊の苦境を知ったとき,総大会に出席していた聖徒たちにこう指示しました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
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「わたしたちの任務は彼らをここに連れて来ることです。……
きょう
わたしは今日,ビショップたちに援助を要請します。60組の元気なラバと12台か
ら15台の荷車を集めてください。明日まで待つことはできないし,その翌日まで待
つこともできません。……
皆さんに申し上げます。わたしが今話しているような原則を実行に移さないかぎ
り,皆さんの信仰,宗教,信仰告白はだれ一人も日の栄えの王国に救うことはでき
ません。さあ,行って,今平原にいる人々を連れて来てください。」( Journal of
Discourses,第4巻,113)
ウィリー隊は救助隊の助けによって,1856年11月9日にソルトレーク盆地に到着したこ
とを生徒に話します。彼らは多くの人々を失いました(死者67名)。マーティン隊はさら
に大きな犠牲(死者135−150名)を払った後に,11月30日に到着しました。両隊は食糧と
衣類を積んで100台以上の荷車を連ねて救出に来た末日聖徒によって救助されたのです。
以下の質問をします。
• 宗教は実践的でなければならないと信じていたブリガム・ヤング大管長から何を学ぶ
ことができるでしょうか。
• あなたは自分の生活の中で,手車隊の救出の精神をどのように示すことができるでしょうか。
西部に到着した聖徒たちは誤解と迫害を受けた
生徒に次のような質問をします。西部へ移住した開拓者に最大のチャレンジを突きつけた
のは,自然の猛威でしょうか。それともほかの人々でしょうか。生徒の答えの理由やその
説明について話し合います。
1800年代全体を通じて聖徒を悩ませたのは,迫害や争い,聖徒が合衆国政府に不忠実だ
といううわさだったことを説明します。例えば,1857年に「モルモンの反逆」を制圧する
ために軍隊がユタに差し向けられたことを知った末日聖徒はひどく驚きました。不満を持
つ準州の役人から偽りの報告を受けた連邦政府はブリガム・ヤングを罷免して,護衛の
2,500名の兵士とともに,新たに任命した新しい知事をユタへ派遣しました。ミズーリとイ
リノイで迫害を受けてきた教会員と指導者はこの軍隊の派遣によってどのような事態が起
きるのか分かりませんでした。事実,軍隊の中には新知事を護衛するだけの任務ではない
と思っていた兵士たちがいました。彼らはモルモニズムにとどめを刺すために戦争を始め
る覚悟でした。
ブリガム・ヤング大管長と教会指導者は,このような脅威に備えて,ユタ準州内の入植
者に自分の家と地域社会を守る準備をさせました。さらに,軍隊を威嚇し,補給隊に火を
放つことによって進軍を遅らせる奇襲隊を派遣しました。これらの奇襲隊は流血を避ける
ようにとの厳しい指示を受けていました。聖徒によるこうした軍事行動と抵抗は「ユタ戦
争」として知られるようになりました。
聖徒たちが取った戦法が功を奏して,軍の移動を遅らせることになり,アルバート・シ
ドニー・ジョンソン大佐の率いる軍隊は,ワイオミング西部で悲惨な冬を越さなければな
らなくなりました。その冬の間,教会に対して友好的だったトーマス・ケインの助力によ
り交渉が行われました。その結果,新知事アルフレッド・カミングはブリガム・ヤングと
話し合うため軍隊を伴わずにソルトレーク・シティーにやって来ました。
1858年の春,教会の指導者はユタ北部に住んでいた聖徒を南部に避難させました。数人
の男性が残って,連邦軍の兵士に占領されるよりは,必要であれば空き家に火をつけて燃
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
やすよう指示を受けていました。ソルトレーク神殿の建築現場は耕された畑のように見せ
かけるために,土をかけて平らにしました。和平交渉の結果,軍隊はソルトレーク・シテ
ィーを通り過ぎて,ソルトレーク・シティーの南西約40マイル〔約64キロ〕の地点にフロ
イド基地を設営しました。そして聖徒たちは1858年の夏に自分の家に戻りました。軍隊は
1861年に撤兵するまでフロイド基地に駐留しました。
ジョンソン大佐の軍隊の到着への対処のしかたにブリガム・ヤング大管長の指導力,人
格,個性がどのように表されたかを生徒に尋ねます。
ぼっぱつ
合衆国で南北戦争が勃発した後,ヤング大管長は1861年10月18日に,聖徒たちが忠誠を
続けることを合衆国政府官吏に改めて伝えたことを説明します。大陸横断電報設備が完成
して,ブリガム・ヤングは西部から東部へ向けて初めての電報を送る機会を与えられまし
た。その内容の一部は「ユタは脱退することなく(訳注――1860−1861年の間に合衆国の
南部11州が連邦を脱退し,南北戦争の原因となった),憲法と,かつての幸福な国家の法
律を固く守る所存である」というものでした(エドワード・ヘンリー・アンダーソン,
Life of Brigham Young〔1893年〕,140−141)
ブリガム・ヤングは30年以上大管長を務めた
30年間大管長を務めた人の死によって聖徒たちはどのような影響を受けたと思うか話し合
います。多くの若人や新しい改宗者にとって,ブリガム・ヤング大管長は自分たちの知っ
ている唯一の預言者でした。多くの聖徒はヤング大管長の持つ傑出した資質を認め,大管
長を慕っていました。教会を管理した間,大管長が与えた勧告は生活の多くの面にわたっ
こんにち
ていました。ヤング大管長の以下の言葉を紹介してから,これらの教えが今日のわたした
ちにも当てはまる理由について話し合います。
神の目に大いなる者となる ――
「神の王国で大いなる者になりたいと思うならば,善良な人でなければなりませ
ん。……全能の主が再び地上に確立されたこの王国においては,いかなる人も,善
良で誠実であり,信任に忠実で,慈愛と善い行いにあふれていなければ,大いなる
者となることはできません。自分の生活を整えてあらゆる善をなしていなければ,
大いなる者になれると期待することはできません。……もう一度申し上げますが,
地上における神の王国のために,あらゆる思いを犠牲に(これを犠牲と言うならば)
しなければなりません。……いかなるこの世のものにも,あなたが自分の召しと義
務を果たすのを妨げられないようにしなくてはなりません。」(Journal History of
The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,1854年7月24日付,8,末日聖徒
イエス・キリスト教会記録保管課)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
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神よりの啓示の果たす役割 ――
「この教会は啓示によって導かれてきました。わたしたちが主から完全に離れて,
神権が取り上げられないかぎり,教会は常に啓示によって導かれることでしょう。
ところで,だれが啓示を受ける権利を持っているのかという疑問を持つ人がいるか
もしれません。……教会員は皆,自分のために啓示を受ける権利を持っています。
… … あ ら ゆ る 時 代 に お い て , 啓 示 は 生 け る 神 の 教 会 の 命 そ の も の な の で す 。」
(“October Conference Minutes,”Times and Seasons,1844年10月15日付,682−
683)
かぎ
復活の鍵 ――
「わたしたちは,命と救いのためのあらゆる儀式を授けられていると考えています。
……しかし,そうではありません。わたしたちが授けられているのは,肉において執行
することのできるすべての儀式なのであって,次の世で執行されなければならないほ
かの儀式が存在するのです。……その一つを話したいと思います。わたしたちは復活
の儀式と鍵をこの世で受けていないし,受けることができません。……まだほかにも
たくさんあります。わたしたちは物質の元素を配列し,変化させる権限を持っていま
すが,自然の要素を組織する権限を受けていません。草の芽を生長させる力さえ持っ
ていないのです。……
……もう一つあります。わたしたちはまだ,霊を創造したり,生み出したりする
権能を持っていません。……
わたしたちは肉にある間,王国を作ったり,物質を組織したりする鍵を受けるこ
とができません,それは,わたしたちの能力や召しを超えたものであり,この世で
はできないことだからです。」(Discourses of Brigham Young,397−398)
このレッスンを終えるに当たって,ベンジャミン・F・ジョンソンが述べたブリガム・
ヤング大管長についての以下の描写を紹介するとよいでしょう。
「指導者として彼が及ぼした偉大な影響は,人や物を適正な場所に配置して最大
限に活用する素早い識別力と決断力,正しい判断力にあるようです。一方で,直観
的な魅力,心からの同情と愛情,また兄弟,友,人としての気高い振る舞いにより,
……彼をよく知っている人は皆,信頼と尊敬と愛を抱きます。……
わたしの知るブリガム・ヤングは教育の開拓者,推進者,真の友です。彼自身は
学識を身に付けていたわけでも,正規の教育を受けたわけでもありませんでしたが,
洗練された教養を生まれながらに備えていて,それは習慣,振る舞い,会話ににじ
み出ていました。彼と交わりを持った人はその洗練された影響力に感動を覚えずに
けいもう
いられませんでした。音楽と演劇の持つ影響力は社会を啓蒙し,向上させ,特徴づ
けるものですが,それらを『アメリカの大砂漠』の真っただ中で推進し,確立した
ブリガム・ヤングの功績は高く評価されるべきです。……
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 2 章 ―― ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ
しかし,ブリガム・ヤングは,非情で残酷な暴徒の大砲と銃の威嚇によって追放
され,食糧や衣類を準備する機会も与えられずに家を捨て,残した財産をすべて強
奪され,冬のミシシッピ川を渡り,どこへ行くかも知らずに逃れた人々の指導者だ
ったことを忘れてはなりません。これら数千の人々の命を救い,輸送手段を見つけ,
いしおの
道を探して切り開き,全員に食べ物が行き渡るようにし,それから先住民の石斧や
頭皮をはぎ取るナイフ,銃弾から彼らを守る責任がブリガム・ヤングの肩にかかっ
ていました。盆地に到着すると,土地を測量し,法律を規定し,畑を荒らす昆虫や
イナゴの群れからわずかな作物を守る方法を人々に教える責任が待ち受けていまし
た。」(ベンジャミン・F・ジョンソン,ジョージ・S・ギブスにあてた手紙,末日聖
徒イエス・キリスト教会記録保管課,16)
以下の質問をします。
• ブリガム・ヤング大管長の中にどのようなすばらしい特質を見いだすことができるで
しょうか。
• あなたはブリガム・ヤング大管長のどのような教えから影響を受けましたか。
• 生活の中でこれらの教えをどのように応用できるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
37
第3章
ジョン・テーラー
© IRI
第3代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョン・テーラーは1808年11月1日,イギリスのウェストモーランド州,ミルンソープ
でジェームズとアグネス・テーラーを両親として誕生しました。ジョンは10人の子供の第
二子でした。ジョン・テーラーが生まれたとき,ジョセフ・スミスはほぼ3歳,ブリガ
ム・ヤングは7歳,ウィルフォード・ウッドラフは2歳になろうとしていました。最初の示
現が起きたとき,ジョン・テーラーはほぼ12歳でした。また,モルモン書が出版されたと
きには,21歳の青年でした。
出来事,特筆事項,教え
ジョン・テーラーは教会を導くよう予任されていた
ジョン・テーラー大管長はどこで生まれたかを生徒に尋ねます。ジョン・テーラーは1808
年11月1日,イギリスのウェストモーランド州ミルンソープでジェームズとアグネス・テ
ーラーを両親として誕生したことを説明します。彼は7人の兄弟と2人の姉妹,合計10人の
子供がいる家族で育ちました。ジョン・テーラー大管長は現在の神権時代に合衆国以外の
地で生まれた唯一の預言者です。
エレミヤ1:5を開いて,一人の生徒に読んでもらいます。以下の質問をします。
• 天の御父は誕生前の子供たちを御存じだったことについて,この聖句から何を学ぶこ
とができるでしょうか。
• 神が予見しておられる知識は,ジョン・テーラーのような人物やその他の教会の指導
者にどのように当てはまるでしょうか。
預言者ジョセフ・スミスが語った以下の言葉を紹介します。
「世に住む人々を教え導く召しを持つ人は皆,この世界が存在する前に,天上の
大会議でまさしくその目的のために聖任されたのです。」( Teachings of the
Prophet Joseph Smith,ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕,365)
いけい
ジョン・テーラーは少年時代に,熱心に働くことを学び,神への深い畏敬の念を培った
幼いときから持っていて,現在も影響を及ぼしている習慣,態度,目標を生徒に尋ねます。
ジョン・テーラーが11歳のときに,家族はイギリスのウェストモーランド州,ヘイルの
小さな農場に引っ越したことを説明します。ジョンは3年間同地の学校に通い,農業に従
たる
事しました。14歳のときにリバプールで樽職人のもとへ弟子入りして,樽の作り方を学び
ました。約1年後にこの事業が立ち行かなくなったため,ジョンはカンバーランド州ペン
リスに移り,木材の旋盤工になる技能を習得し,それから5年後には,熟練した旋盤工と
なりました。
勤勉な働きと少年時代の経験はジョン・テーラーの人生を通じて大いに役立ったことを
説明します。勤勉さを身に付け,技能を磨く傍ら,ジョンは霊的に成長し,回復された福
音を受け入れる準備をしていました。次の文を読んで,ジョン・テーラーが福音を受け入
れるための準備となった資質を生徒に探させます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
39
「幼少期に彼は……神への深い畏敬の念を抱いていました。それは直感的なもの
でした。何よりも恐れたのは神の怒りを買うことでした。
16歳くらいのころ,メソジストの教えを聞いて,彼らの教えに英国教会……より
も霊的に大きな光と力を感じたジョンはメソジスト教会に入りました。彼は厳格な
までに誠実な宗教心を持ち,そのときには真理であると考えていた事柄を熱心に学
たまもの
びました。『あらゆる良い贈り物,あらゆる完全な賜物 は,主から来る』ことを信
じていたため,しばしば個人の祈りをささげていました。余暇のほとんどを聖書や
神学に関する書物を読むこと,そして祈りに費やしていました。祈るときは普通,
森や野原の人目につかない場所へ行きました。このころ,伝道の精神が芽生えまし
た。ジョンは同年代の少年たちに一緒に祈るよう勧めました。しかし間もなくたい
ていの少年は彼から離れていってしまいました。」(B・H・ロバーツ,Life of John
Taylor〔1963年〕,26−27)
ジョン・テーラーはカナダへ移住して,回復された福音を受け入れた
生徒に自分や家族がどのようにして福音を知ったかを尋ねます。ジョン・テーラーは16歳
のときに英国教会を離れて,メソジスト教会に加わったことを説明します。1830年にジェ
ームズとアグネス・テーラーの家族はカナダのトロントへ移住しましたが,ジョン・テー
ラーは家族の仕事の整理をするためイギリスに残りました。家族と合流したのは1832年の
ことでした。カナダに移住したジョン・テーラーはレオノラ・キャノンと出会って結婚し,
メソジスト教会での活動を続けていました。メソジスト教徒をはじめ,トロントの多くの
人々は古代の教会に見られた特徴を詳しく調べるために新約聖書を研究していました。そ
して,すべての教会は真の教会としての条件を満たしていないという結論に達しましたが,
自分たちには真の教会を回復する権能がないことをわきまえていました。
の
1836年の春,十二使徒定員会会員パーリー・P・プラット長老が福音を宣べ伝えるためト
ロントを訪れました。プラット長老がジョン・テーラーと初めて出会ったとき,ジョン・
テーラーは礼儀正しく接しましたが,興味を示しませんでした。トロントでは市内のすべ
ての聖職者と市の役人が,伝道する場所の提供を求めるプラット長老の要請を拒否しまし
た。しばらくして,成功の見込みがないことを感じたプラット長老はトロントを去ること
を決意して,別れのあいさつをするためにテーラー家を訪れました。そのとき,ジョン・
テーラーの隣人がプラット長老に食事と宿泊場所を提供し,さらに集会場所を提供すべき
だと強く感じました。プラット長老はその申し出を受けると,ジョン・テーラーや聖書を
研究していた友人たちに教えを伝え始めました。
たまもの
このグループは,信仰,悔い改め,バプテスマ,聖霊の賜物,そのほか彼らになじみの
ある概念について語ったプラット長老の教えをたいそう喜びました。けれどもジョセフ・
スミスとモルモン書について話し始めると,グループの多くの人はそれ以上研究すること
を断りました。
ジョン・テーラーがグループの人たちに語った以下の言葉を紹介します。
「わたしたちはここに,真理の探究という名目で集まっています。これまでわた
したちは,ほかの教えの信条や教義を子細に研究し,間違っていることを立証して
きました。なぜモルモニズムの研究を恐れなければならないのでしょうか。ここに
いるプラット氏は,わたしたち自身の考え方と一致している教義を数多く携えて来
られました。わたしたちはこれまで宗教上の確信を見いだすために非常に忍耐し,
多くの犠牲を払ってきました。また,この地上にまことの教会が存在するのなら,
使者を遣わしてくださるよう神に祈ってきました。プラット氏はそのような特別な
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
ときにやって来ました。わたしたちが検討してみるだけの価値のあることが一つあ
ります。彼は昔の使徒たちが旅したように,財布も袋も持たずにやって来ました。
それに,わたしたちの中には,聖文や論理によって彼の教義を論破できる者は一人
もいません。わたしは彼の教義と,権能を持つという主張について研究したいと思
います。この研究をわたしと一緒に続ける友がいたらとてもうれしいのですが。た
とえほかにだれもいなくても,わたしは独りで研究します。もしこの宗教が真実だ
と分かったら,わたしはどのような結果が待ち受けていようとも,その教えを受け
入れるつもりです。もし偽りだと分かったら,それを皆さんにお知らせします。」
(ロバーツ,Life of John Taylor,37−38)
このように大胆に宣言した後,ジョン・テーラーはいっそう真剣に福音を研究し始めた
ことをクラスに説明してください。それから,以下の情報を紹介します。
「それからジョン・テーラーはモルモニズムを熱心に研究し始めました。プラッ
ト使徒が行った8つの説教を書き留めていたジョン・テーラーは,聖書と比較して
みました。さらに,モルモン書と教義と聖約が神から与えられたものであるとする
証拠を調べてみました。『わたしは3週間にわたってその調査を続けました。そして
パーリー兄弟の行く先々について行きました。』徹底的な調査の結果,確信を得ま
した。そして1836年5月9日,彼は妻とともにバプテスマを受けました。それから長
い年月を経た後に,どのようにして福音を受け入れたかについて語ったジョン・テ
あかし
ーラーはこう証 しました。『以来わたしはモルモニズムのいかなる原則についても
疑ったことは一度もありません。』」(ロバーツ,Life of John Taylor,38)
以下の質問をします。
• ジョン・テーラーが聖書を研究してきたことは,プラット長老のメッセージを受け入
れるうえでどのような備えとなったでしょうか。
• 聖文を研究することは,さらに大いなる真理を受けるためにどのような備えとなるでしょうか。
• あなたは真理を追究し,擁護するために,どのようにジョン・テーラーの模範に従う
ことができるでしょうか。
ジョン・テーラーの改宗は友人と知人の生活に祝福をもたらした
回復された福音のメッセージを友人に分かち合った経験のある新しい求道者や改宗者がい
れば,あるいはそのような経験について知っている人がいれば,話してもらいます。ジョ
ン・テーラーはバプテスマを受ける前に,カナダのトロント周辺地域を初めて訪れたパー
リー・P・プラット長老に同行したことを説明します。プラット長老は当時をこのように回
顧しています。
「わたしたちはテーラー氏の知人であり友人であるジョセフ・フィールディ
,128)ジ
ング氏という人の家を訪ねました。
」
(Autobiography of Parley P. Pratt〔1985年〕
ョセフ・フィールディングとその姉妹のメアリーとマーシーは間もなく教会に入りました。
メアリー・フィールディングは後にハイラム・スミスの妻となりました。そして,第6代大
管長ジョセフ・F・スミスの母となり,第10代大管長ジョセフ・フィールディング・スミ
スの祖母となりました。
次の質問をします。たとえ一人であっても福音を分かち合うことによってどれほど大き
な影響をもたらすことがあるでしょうか。
ジョン・テーラーは預言者ジョセフ・スミスを擁護した
あかし
教えを伝えてくれた宣教師が後に,自分の証を失いかけていることを知ったとしたら,生徒は
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
41
どうすると思うかを尋ねます。以前に宣教師だった人にあなたは何と言うでしょうか。
ジョン・テーラーは1837年3月,預言者ジョセフ・スミスに会うためにオハイオ州カー
トランドを訪れたことを生徒に伝えます。当時の社会は経済的な苦境に陥っていたため,
はたん
多くの事業や金融機関が破綻していました。カートランドの人々もこの経済的困窮から逃
れることはできませんでした。そして多くの教会員は自分の経済的苦境について預言者を
非難していました。批判と背教の精神がカートランドを覆っていました。生徒用手引きか
ら「ジョン・テーラーは預言者ジョセフ・スミスの擁護者だった」(42−43ページ)を読
んで,話し合います。
次の質問をします。ジョン・テーラーはどのようにして,パーリー・P・プラット長老
が苦境を乗り越えるのを助けたでしょうか。教義と聖約1:38を読んでから,以下の質問
について話し合います。
• 主の預言者の悪口を言うことにはどのような危険が潜んでいるでしょうか。
• 逆境のときこそ預言者に従うよう努力しなければならないのはなぜでしょうか。
ジョン・テーラーは「神の王国以外に何ものをも求めない」をモットーとした
生徒に,個人または家族のモットーを持っているかどうか尋ねます。モットーを持ってい
る生徒にそれを発表してもらいます。
次の質問をします。モットーは人生の目標に重点を置くために,
どのように役立つでしょうか。
黒板に「神の王国以外に何ものをも求めない」と書いて,これはジョン・テーラーのモ
ットーであったことを説明します。次の質問をします。このモットーからジョン・テーラ
ーについてどのようなことが分かるでしょうか。
生徒にしばらくの間よく考えて,有意義なモットーを決めるよう求めます。好きな聖句
の一部を言葉に含めてもよいでしょう。モットーを決めたら,生徒に発表してもらいます。
の
ジョン・テーラーは大いなる勇気をもって福音を宣べ伝えた
生徒に,福音を分かち合おうとしたときに,不安を感じたり,脅されたりしたことがある
かどうかを尋ねます。ジョン・テーラーは1837年にオハイオ州コロンバス近くで福音を宣
べ伝えていたときにそのような状況に立たされたことを説明します。教会員は地元の人々
が集会後ジョン・テーラーにコールタールを塗り,羽根を付けようとしていることを知っ
たため,集会を取りやめるよう忠告しました。しかし,彼はいっそう決然とした態度で説
教を続けました。その経験に関する以下の資料を紹介します。
ジョン・テーラーは自由に関するアメリカの伝統と「考える権利,話す権利,書
く権利,まただれが統治すべきかを表明する権利,……神を礼拝する権利」を持つ
特権について手短に話し始めました。それらの権利は「暴君の命令に屈するよりも,
生命と財産と神聖な名誉にかけて,束縛を打ち破り,自ら自由を享受し,子孫にそ
れを残すことを選んだ気高い父祖」が勝ち取ったものでした。それからこう言明し
ました。
『皆さんはわたしの宗教的見解のゆえに,わたしにコールタールを塗り,羽根を
付けようともくろんでいるそうですね。それが,皆さんの先祖から受け継いでいる
恩恵でしょうか。皆さんの先祖たちが最愛の人の命までも犠牲にして勝ち取った祝
福でしょうか。これが皆さんの言う自由でしょうか。もしそうだと言うのなら,今
ここにそのための犠牲がいます。それを自由の女神にささげる供え物とすることが
できます。』こう言った後,長老は上着の胸を開き,次のように叫びました。『さあ,
コールタールと羽根を持って来なさい。犠牲になる覚悟はできています。尊敬すべ
き愛国者の霊たちよ。堕落した子孫たちの行いを見るがいい。さあ,皆さん,さあ,
覚悟はできています。』
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
42
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
しかし,だれも動こうとせず,口を開こうともしませんでした。彼は背筋を伸ば
し,穏やかに,しかし毅然として立っていました。その場を完全に手中に収めてい
ました。
き
ぜ
ん
テーラー長老はしばらく様子を見てから,話を続け,約3時間にわたって大胆に,
また力強く説教を行いました。
説教を終えると,地域の指導者たちからあいさつされました。長老の話を聞いた
ことに喜びを表し,皆を代表して,コールタールを塗ったり,羽根をつけたりする
計画などないことを伝えました。しかし,群集にはその意図があり,実際にコール
タールと羽根が用意されていたと兄弟たちは主張しました。けれども,テーラー長
老の大胆さに群衆は沈黙したのです。」(ロバーツ,Life of John Taylor,54−55)
次の質問をします。群集はなぜジョン・テーラーにコールタールを塗り,羽根を付ける
のをやめたと思いますか。
生徒か友人あるいは家族の中に,自分の信念を守るために勇敢に立ち向かった経験のあ
る人がいれば,それを紹介してもらいます。
ジョン・テーラーは使徒に聖任され,イギリスで伝道する召しを受けた
ジョン・テーラーは1838年12月に使徒に聖任されると,1839年の晩夏にはほかの十二使徒
とともにイギリスで伝道するため旅立って行きました。イギリス滞在中,テーラー長老は
アイルランド,スコットランド,リバプール(イングランド)と周辺地域で伝道しました。
マン島では妻(レオノラ・キャノン)の生まれた町で伝道する特権を得ました。
ジョン・テーラーは教えるときに必ず,回復された教会は預言の成就であることを人々
に理解させました。生徒用手引きの「ジョン・テーラーはイギリスの聖徒への伝道につい
て報告した」
(46ページ)から,ジョン・テーラーの言葉を一人の生徒に読んでもらいます。
テーラー長老は福音とそれを教える特権に感謝していたことを強調します。伝道を終えた
ときに同じような気持ちを味わった生徒がいれば,それを分かち合ってもらいます。
ジョン・テーラーはジョセフとハイラム・スミスの殉教を目撃した
生徒に,教義と聖約135:1−3を読んで,深く考えるように言います。預言者ジョセフと
兄のハイラム・スミスの死を目撃した証人がいることはなぜ大切だと思うか質問します。
一人の生徒に以下のジョン・テーラーの手記を読んでもらいます。
「わたしは監獄の前面の窓際に座っていました。そのとき,顔を黒く塗った男たちの
一団が監獄の角を曲がり,階段へ向かって来るのが目に入りました。ほかの兄弟たち
もこの様子を目にしていました。わたしが扉に近づくと,すでにハイラム・スミス兄弟と
リチャーズ医師は扉を必死に押さえていました。……そうしているうちに,2階へ上が
かぎ
って来た暴徒たちは,扉を開けようとしましたが,鍵がかかっていると思ったのか,鍵
穴をライフルで撃ち抜きました。リチャーズ医師とハイラム兄弟は扉の方を向いたまま
飛びのきました。それとほとんど同時に,2発目の弾丸が扉を貫通して,ハイラム兄弟
の顔面,鼻の左側に命中し,顔面から頭部を突き抜けました。同時に屋外から撃った
別の弾丸がハイラムの背中に命中しました。……弾丸を受けた瞬間,ハイラムは『わた
しは死ぬ』
と叫びながら,あお向けに倒れました。その後,かすかに動くこともありませ
んでした。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
43
ハイラムに近づいて,身をかがめて『おお,かわいそうに。ハイラム兄さん』と叫んだと
きにジョセフ兄弟が顔に浮かべた哀れみと思いやりの表情をわたしは忘れることが
できません。しかし,彼はしっかりとした足取りで素早く立ち上がると,決然とした表
情を顔に浮かべて扉に近づき,ウィーロック兄弟が置いていった6連発銃をポケット
から引き抜いて,扉を少し開くと続けざまに6回引き金を引きました。……わたしはマ
ーカム兄弟が持って来て,置いていった重いヒッコリー製の杖を手にしていました。
暴徒が近づいて来るのを見るとわたしはその杖を握り締めました。ジョセフ兄弟がピ
ストルを撃っている間,わたしは彼のすぐ後ろに立ちました。弾がなくなってジョセ
フ兄弟が下がると,わたしは直ちにジョセフ兄弟が立っていた扉の前に位置を変えま
した。このときリチャーズ兄弟は節だらけのわたしの杖を手にして,扉から少し離れ
た所で斜めに構えながらジョセフ兄弟の横に立っていました。それは扉からの銃弾を
避けるためでした。ジョセフ兄弟が発砲したため,暴徒は襲撃を一瞬止めましたが,直
後に扉を大きく開いて銃を突き出し,部屋の中へ発砲して来ました。わたしが杖で銃
をたたき落そうとしたため,銃弾は別の方向へ飛んでいきました。
つ え
それはまったく恐ろしい状況でした。暴徒はなおも銃撃を続け,銃口からわたし
の腕の太さほどの火柱が吹き出していました。武器が何もないわたしたちは,死を
免れることはできないと思いました。生涯の最後の日がやってきたと感じたのを覚
えています。しかし,絶体絶命の状況であったにもかかわらず,わたしはいつにな
く冷静で,心も乱れず,力もあり,俊敏に決断して行動することができました。目
の前で火炎と銃弾がほとばしる状況は心地よいものではありませんでした。わたし
が銃口をそらそうとしていたときに,ジョセフ兄弟は言いました。『そうだ,テーラ
ー兄弟。できるだけ銃口をそらすんだ。』これがこの世で聞く預言者の最後の言葉と
なったのです。……
しばらくは銃口をそらせていましたが,銃口はぐいぐいと部屋の中へ入ってきまし
た。
今や武器もなく,
逃れるすべも身を守るすべもないことが分かりました。
そのとき,
監獄の外に友人たちがいるかもしれない,そうすれば逃れるチャンスがあるかもしれ
ないと思いました。ここにはまったく望みがないように思えました。……わたしは監
獄の扉の真正面にある窓から飛び出そうとしました。そこには暴徒たちが立っていま
した。そして,10から12ロッド〔約180フィート,約6メートル〕ほど先にはカーセージ・
グレイズ(訳注――カーセージの民兵組織)の銃弾が待ち構えていました。その日は暑
く,わたしたちは皆,上着を脱いでいました。そして,空気を入れるために窓は開け放
たれていました。窓に走り寄り,外へ飛び出そうとしたとき,扉から飛んできた弾丸が
もものほぼ中央に命中しました。骨に当たり,25セント硬貨くらいの大きさに砕いて
から肉に食い込み,皮膚から1センチほど内側に止まりました……わたしは力なく窓
枠に倒れかかり,
『撃たれた』と叫びました。体を動かす力もないまま,外に落ちたと思
ったその瞬間,そのときは分からなかった何かの理由で内側に倒れました。……動く
そげき
は
力が戻ってくるやいなや,狙撃された窓に近い,部屋の隅のベッドの下へ向かって這
って行きました。ベッドの下に潜り込むまでに,さらに3か所に弾丸を受けました。1発
は左ひざの少し下の所に入り,それはいまだに摘出されていません。2発目は左手首の
やや上から撃ち込まれて,手首の関節を貫通し,手のひらのふくらんだ部分,つまり,
小指の付け根の少し上で止まりました。3発目は左腰の肉の部分に当たり,手のひらほ
どの肉をえぐりとって,肉の小片と血を壁まで吹き飛ばしました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
わたしが窓から飛び降りようとした直後に,ジョセフも同じことをしたようでし
た。……最初に聞こえてきたのは,ジョセフが窓から飛び降りたと叫ぶ声でした。
銃声が途絶え,暴徒は階下へなだれ降りました。そしてリチャーズ医師が窓に駆け
寄りました。……
間もなくリチャーズ医師はわたしのもとへ戻ってくると,暴徒たちが一目散に逃
げて行ったこと,そして最も恐れていた,預言者の死を確認したことを知らせまし
た。陰うつで寂しい,ぞっとするような知らせでした。気高い指導者,生ける神の
預言者が倒れ,その兄が冷たい死体となったのを見たとき,人の存在するこの大地
が空虚なものとなり,暗く,重苦しい裂け目が王国に生じて,わたしたちはぽつん
と取り残されてしまったように感じました。何と深い孤独感でしょう。冷たく荒涼
とした,わびしい思いでした。……預言者ジョセフの助けを受けることができない
まま,わたしたちは取り残されたのでした。今後の霊的面と物質面の指導,この世
と次の世に関するあらゆることについて,預言者ジョセフがこの世で語る言葉はも
う聞けなくなってしまったのです。」(The Gospel Kingdom,G・ホーマー・ダラム
選〔1943年〕,359−362)
以下の質問をします。
• ジョン・テーラーが窓から外へ落ちるのを防いだ「何かの理由」とは何だったのでし
ょうか。(ジョン・テーラーの時計に当たった銃弾により部屋の中に押し戻された)
。
こんにち
• 今日の教会員が1844年6月27日の出来事を正しく理解し,心に留めるにはどうしたらよ
いでしょうか。
• ジョセフとハイラム・スミスの殉教についてのジョン・テーラーの話を聞いて,あな
たはどのようなことを感じているでしょうか。
• このとき,ジョン・テーラーの命が奇跡的に助けられたのはどのような理由からだと
思いますか。(ジョン・テーラーは預言者となるよう予任されていた。彼は殉教の第二
の証人となった)
。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
45
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
1877年,ブリガム・ヤング大管長は33年間教会を管理した後,この世を去りました。こ
の間,教会の中で大勢の人々が生まれ,また多くの人々が教会に加わりました。これらの
人々はヤング大管長以外に教会の指導者を知りませんでした。会員たちは多くの試練を通
して,ヤング大管長の指導により強められていました。ブリガム・ヤングが地上での働き
を終えたとき,ジョン・テーラーが代わって教会を指導する責任を受けました。
ブリガム・ヤングが亡くなってからの3年間,ジョン・テーラーは十二使徒定員会会長
として教会を導きました。そして1880年に彼が大管長になったとき,教会は23のステーク
と10の伝道部に13万3,000人を超える教会員を擁し,ユタのセントジョージに神殿を持つま
,473,631参照)
でになっていました。
(2003 Church Almanac〔2003年〕
テーラー大管長は1884年にローガン神殿を奉献しました。そして1885年には多妻結婚に
いんとん
反対する人々からの迫害を避けるため,隠遁生活に入りました。1887年に合衆国議会がエ
ドマンズ・タッカー法を可決したことにより,多妻結婚を実施していた教会に対する迫害
はさらに激しさを増しました。この法律によって,政府は教会員を罰し,規制するために
教会の財産を没収することができるようになりました。1887年,テーラー大管長が亡くな
ったとき,教会は31のステークと12の伝道部に17万3,000人の会員と二つの神殿を持つまで
,473,631参照)
。
に成長していました(2003 Church Almanac〔2003年〕
出来事,特筆事項,教え
あかし
ジョン・テーラーは音楽を通して自分の証を表した
ジョン・テーラーは現在の賛美歌集に収められている二つの賛美歌の歌詞を書いたことを
生徒に話します。
ジョン・テーラーは,試練を受けている聖徒を主が助けてくださることを信じていた
ジョン・テーラーが教え導いた間中,聖徒は教会の内外で多くの試練を受けたことを説明
します。多くの教会員はイリノイからアイオワへ追放され,そして最終的に西へ向かい,
ソルトレーク盆地に到着しました。試練に対するテーラー大管長の姿勢を表している以下
の言葉を紹介します。
「わたしについて申し上げるなら,あらゆることが神の定められたようになれば
よいと思います。わたしは試しを望みません。苦難も望みません。ただ,『わたした
ちを誘惑に陥らせることのないようにし,悪からお救いください。王国と力と栄光
いなずま
はとこしえにあなたのものです』と神に祈るのです。地震が起き,稲妻が走り,雷
鳴がとどろき,暗黒の力が解き放たれ,悪霊が荒れ狂うことを許され,悪の力が聖
徒たちを苦しめ,わたしと聖徒たちの人生が試みに遭うのであれば,それを甘んじ
て受けましょう。なぜなら,わたしたちはいと高き神の聖徒なのです。この世にあ
っても永遠の世にあっても,すべてが良く,すべてが平安で,すべてが正しいので
す。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
46
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
しかし,試しを望んでいるわけではありません。だれに対しても,つまずきの石を
置きたくはありません。天の下のいかなる人をも害したり,髪の毛1本たりとも傷
つけたりしたくありません。あらゆる人に善を行いたいと思います。福音がわたし
みたま
の心に教え込み,神の御霊が兄弟たちの心に植え付けておられるのはこれらの感情
であり,精神です。もし人が正しい道を歩まなければ,必ず邪悪がその人に降りか
かることになります。
もしわたしが主であったとしたら,このように人々を試しに遭わせないのだが,
と思うことがよくありました。けれども,考えを変えました。今は,もしわたしが
主であったとしたら,試練に遭わせようと思います。試練は,ハエが糖蜜に群がる
ように,聖徒たちにまとわりつく卑劣さや腐敗を清めてくれるからです」( The
Gospel Kingdom,G・ホーマー・ダラム選〔1943年〕,332−333)。
以下の質問をします。
• 試練を乗り越えることによってどのような強さが得られるでしょうか。
• 試練や苦難を前向きな経験や祝福に変えるにはどうしたらよいでしょうか。
ジョン・テーラーは1847年にソルトレーク盆地に到着した
生徒用手引き,45ページに載っているイリノイ州ノーブーのジョン・テーラー邸の写真を
見るように言います。ジョン・テーラーや人々はどのようにしてこのような美しい家を捨
てる強さを得たと思うか尋ねます。
生徒用手引き,33ページに載っている地図を見るように言います。ジョン・テーラーは
最初の開拓者隊の一員ではありませんでしたが,ブリガム・ヤング大管長から選ばれ,ウ
ィンタークォーターズで聖徒たちを組織して,先遣隊に続いてその年の後半に出発するこ
とになりました。1847年6月の終わりまでに,1,533名の開拓者と600台の荷車は,パーリ
ー・P・プラット長老とジョン・テーラー長老の指揮の下,西部への行進を始めました。
途中で,すでに盆地に到着してウィンタークォーターズに戻る先遣隊の人々と出会いまし
た。テーラー長老は苦難に遭っても,それをはねのける強さと明るい性格を持っていたこ
とを示す以下の出来事を紹介します。
「引き返して来た開拓者たちとテーラー長老の一行が出会った朝は猛吹雪でした。
空は黒ずんでいました。それまでの数週間,遮る雲もなく,心地よい輝きを放って
きた太陽は今や視界から消え,雪が2インチから3インチ〔約5センチから8センチ〕
も積もっていました。雪,それも9月の降雪でした。このような天候をだれが予想
していたでしょうか。一部の人々はふさぎこんでいました。行く手に暗雲が投げか
けられていました。しかし,気の弱い人々には恐れを抱かせた事態もテーラー長老
いっしゅう
の笑い声で一蹴されました。テーラー長老は元気を出すように勧め,笑いながら,
一人5ドル払ってくれたら全員の命を保証しようと言いました。」
(B・H・ロバーツ,
Life of John Taylor〔1963年〕,190)
この隊は1847年10月5日にソルトレーク盆地に到着したことを説明します。テーラー長
老は直ちに家族のための家作りに取りかかりました。そして同年12月までに完成させまし
た。それから2年もたたないうちに,フランスとドイツへ行く伝道の召しを受けました。
次の質問をします。伝道を優先させたジョン・テーラーの生活からわたしたちはどのよ
うなことを学べるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
47
ジョン・テーラーは自分の才能を用いて信仰を擁護した
生徒に自分の持っている才能を挙げてもらいます。それから,次の質問をします。主に仕え,
福音のメッセージを広めるために自分の才能をどのように使うことができるでしょうか。
ジョン・テーラーは文筆の才能に豊かに恵まれていたことを説明します。フランスとド
イツでの伝道から帰還して間もなく,テーラー長老はユタ準州議会議員に選出されました。
1854年の夏にはニューヨークへ行って,東部諸州伝道部を管理する召しを受けました。
生徒用手引きから「ジョン・テーラーは印刷事業を展開する使命を帯びてニューヨー
ク・シティーへと向かった」(50−51ページ)を復習します。ニューヨーク市で1855年2月
から1857年9月まで,聖徒を擁護するThe Mormonという新聞を刊行しました。テーラー
長老の働きを通して,東部で広められていた聖徒についての誤った認識を正すことができ
ました。テーラー長老は1857年8月にユタに戻りました。連邦軍がソルトレーク・シティ
ーに向かって進軍していたからです。
生徒用手引きの「ジョン・テーラーは印刷事業を展開する使命を帯びてニューヨーク・
シティーへと向かった」(50−51ページ)の最後の段落から,テーラー長老の刊行した新
聞へのブリガム・ヤング大管長の賛辞を読みます。
次の質問をします。教会に関する記事や報道は,全世界で行われている伝道活動にどの
ような影響を与えるでしょうか。
最近,地元の新聞で教会に関する記事が掲載されていれば,生徒にその記事に気づいた
かどうかを尋ね,感想を求めます。
ジョン・テーラーが執筆した記事の見出しを手短に紹介したいと話します。新聞に掲載
された批判的な記事に対抗する力強い意見を必要とした当時の教会に,ジョン・テーラー
がどれほど貢献したかを知るうえで役立つでしょう。
ジョン・テーラーはイリノイ州ノーブーで刊行された3つの新聞を編集しました。すな
『ノーブー・ネイ
わち『タイムズ・アンド・シーズンズ』
(Times and Seasons)を3年間,
『ワスプ』(Wasp)を6か月間,またニューヨークで
バー』(Nauvoo Neighbor)を2年半,
2年半刊行された新聞『ザ・モルモン』
(The Mormon)を編集しました。さらに,フラン
スのパリで『デゼレトの星』(Etoile De Deseret)新聞,ドイツのハンブルグで『シオン
s Panier)という新聞に度々投稿しました。
の旗』(Zion’
ジョン・テーラーは以下の著作を含む多くの作品を残しました。
• 『神権政体』(The Government of God)
,リバプール,1852年。
• 『主なる救い主イエス・キリストによる仲保と贖罪』
(The Mediation and Atonement of
Our Lord and Savior Jesus Christ), ソルトレーク・シティー,1892年。
• 『神権に関する事柄』
(Items on Priesthood)
,ソルトレーク・シティー,1899年。
• 『末日聖徒イエス・キリスト教会大管長,ジョン・テーラーによる,結婚に関する公
式の宣言』(On Marriage, an Official Declaration by John Taylor, President of the
Church of Jesus Christ of Latter-day Saints),ソルトレーク・シティー。
• 『フランス,ブーローニュシュルメールにおける,末日聖徒イエス・キリスト教会の
C・W・クリーブ氏,ジェームズ・ロバートソン氏,フィリップ・カーター氏,ジョ
ン・テーラー氏による3夜にわたる公開討論』( Three Nights’Public Discussion
Between the Reverends C. W. Cleeve, James Robertson, and Philip Carter, and John
Taylor of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, at Boulogne-Sur-Mer,
France),リバプール,1850年。
• 『コルファックスへの回答』
(
“Reply to Colfax”
)――多妻結婚に関してジョン・テー
ラーと合衆国副大統領シーラー・コルファックスとの間で行われた長時間の討論。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
以上のほかにジョン・テーラーは,ほとんどが福音のテーマに基づいた無数の詩を書き,
文字どおり数百ものすばらしい説教を行い,教会を管理しました。
次の質問をします。主の業を行うために,あなたはどのような方法で自分の才能や能力
を使うことができるでしょうか。
1875年にブリガム・ヤングは十二使徒の聖任順位を改めた
1875年6月にブリガム・ヤング大管長が,十二使徒定員会の序列順位を,年齢ではなく,定
員会会員となった日付に基づいて決める,と発表したことを説明します。ブリガム・ヤン
グは,1839年5月4日に定員会から除名されていたオーソン・ハイドが1835年の最初の聖任
ではなく,1839年6月27日の復帰に基づいて彼の序列順位を決めるべきだと考えました。同
じように,オーソン・プラットの序列順位も,1842年8月20日に破門された後,1843年1月
20日に再びバプテスマを受けて復帰した日付に基づいて決めることになりました。ジョ
ン・テーラーよりも1歳年上だったウィルフォード・ウッドラフはジョン・テーラーの後に
使徒に聖任されていたため次位に置かれることになりました。これらの変更によってジョ
ン・テーラーの序列順位は4位から1位に移りました。
かくせい
テーラー大管長の管理した時代に大きな霊的覚醒が行われた
1877年8月29日にブリガム・ヤング大管長が亡くなったことにより,先任使徒のジョン・
テーラーは教会の管理役員となりました。そして,十二使徒定員会会長として3年間教会
を導いた後,1880年10月10日に大管長となりました。教会歴史のこの時期について以下の
説明を紹介します。
「テーラー大管長はシオンにおいてもその他の地域においても,精力的に教会の諸
事を推進しました。責任を引き継いだときに3つの神殿の建設が行われていた神殿活
動をいっそう熱心に推進しました。大管長はビショップにワードで毎週神権会を開くよ
う要請し,ステーク会長には各ステークで毎月神権会を開くよう要請したほか,すべて
のシオンのステークで4半期に一度大会を開くよう指示しました。……
テーラー大管長はできるかぎりこれらの4半期大会に出席するとともに,自分の
時間の大半を費やす必要のある管理部門の責任を果たし,ソルトレーク・シティー
から遠く離れないようにしていました。自身が訪問できないときは定員会の会員を
派遣して,聖徒たちが使徒から多くの教えと指示を受けられるようにしました。そ
れは教会の歴史上かつてなかったことでした。その結果として,聖徒の間で大きな
霊的覚醒が行われたのです。」(ロバーツ,Life of John Taylor,329)
以下の質問をします。
• 個人の霊的成長を図るために教会はどのような手段を講じてきたでしょうか。
こんにち
• 今日,教会の指導者はどのように個人の霊的成長を促しているでしょうか。
教会設立50周年を記念する大会が開かれた
生徒に多額の借金をしていて返せない状況にあると想像してもらいます。それから,以下
の質問をします。
• 貸し主から,貸した金は返さなくてよい,と言われたら,あなたはどのように感じる
でしょうか。
• もし負債がなくなって新しい出発ができるとしたら,あなたはどのように変わるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
49
1880年4月に教会は組織されてから50年目を迎えたことを説明します。ジョン・テーラ
ー大管長は「50年祭」を祝うことを発表しました。この50年祭に関連してテーラー大管
長は古代イスラエルの習慣に従って,永代移民基金から借金をしている貧しい人々をそ
の重荷から解放する必要があると考えました(レビ25:8−16,23−55参照)。返済がで
きないながら,ふさわしくまた貧しい会員は,借金の全額を免除する,あるいは教会か
ら借りている金額の半分を免除するよう提案しました。つまり,当時の貸付金合計
1,604,000ドルの半額802,000ドルを帳消しにするというものでした。さらに,教会の全会
員に対しても,返済できない人々の負債を免除するよう強く勧めるとともに,他人の負
債を免除するならば,主も彼らに対して同じようにしてくださることを約束しました。
大管長はさらに,牛1,000頭,羊5,000頭,多量の小麦を集めて,貧しい人々に分け与える
よう会員たちに提案しました。」(ロバーツ,Life of John Taylor,333−335参照)
一人の生徒に,生徒用手引きの「50年祭が催された」(53ページ)の最後の段落から,
テーラー大管長の助言を読んでもらいます。以下の質問をします。
• 他人への負債を免除することによって人はどのように成長するでしょうか。
• 人はどのような霊的負債を負っているでしょうか。
いんとん
ジョン・テーラー大管長は晩年,隠遁生活を送った
1882年3月22日,合衆国大統領は多妻結婚を行っている者に罰金を課し,投獄することを認
めるエドマンズ法案の法制化に署名したことを生徒に話します。また,この法律によって
ユタの全有権者の登録は「ユタ委員会」と呼ばれる合衆国政府組織の管理下に置かれるこ
とになりました。この委員会は有権者が一夫多妻を行っているかどうかを確かめる任務を
与えられていました。多妻結婚を行っていると認定された人は投票する権利を奪われるの
です。ジョン・テーラー大管長が1882年4月の総大会で語った以下の言葉を紹介します。
「わたしたちは合衆国国民として,憲法で認められているすべての自由,権利,
保護を求めて戦います。暴力や興奮した理不尽な人々により,あるいは敵意を込め
た法律によって,たとえどのようなことが行われようとも,わたしたちは自分たち
の自由と権利を守るために,すべてのアメリカ市民と全人類の自由と権利のために
こつこつと戦っていきます。」(ロバーツ,Life of John Taylor,361−362)
次の質問をします。聖徒は自分たちの信仰のゆえに迫害を受けていたときに,なぜ合衆
国憲法をそれほど固く信じていたのでしょうか(教義と聖約101:80参照)
。
多妻結婚の慣行に対して迫害を受けたため,大管長会は1885年に公の場から姿を隠した
ことを説明します。彼らはユタの様々な場所から引き続き教会を導きました。驚くべきこ
とに教会の指導者は迫害に直面していたにもかかわらず多くのことを成し遂げることがで
きました。この迫害によってテーラー大管長が負った重荷,末日聖徒も分かち合うことに
なった重荷について,以下の説明を紹介します。
「その日〔1885年2月〕ソルトレーク・シティーの自宅を出てから2年半以上にわ
たって,彼は再び自分の家に帰ることができませんでした。家庭やその喜び,楽し
い交わり,幸せな再会は彼にとって無縁のものとなったのです。彼は追放された者
として,さすらい人として生活していました。それらの土地は,かつて自分自身が,
発展と良い統治に非常に大きな貢献をした土地でした。このような状態に置かれて
いたときに,妻の一人が病に倒れました。妻の状態を思って胸が張り裂けるような
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 3 章 ―― ジ ョ ン ・ テ ー ラ ー
苦痛を感じ,妻を見舞い,苦しむ妻に慰めを与えたいという思いでいっぱいでした
が,自宅周辺はスパイに取り囲まれていました。そして,彼女が死を間近にしてい
たときも,彼らはわなにかけて捕らえようと待ち構えていたのです。このように,
妻は愛する人の顔を見る特権を奪われ,夫は葬儀に出席することも,妻のなきがら
を見て,悲しみの中にあって慰めを得ることも許されなかったのです。」
(ロバーツ,
Life of John Taylor,412−413)
ジョン・テーラーは断固たる決意と高潔の模範だった
ジョン・テーラー大管長に関するこのレッスンを終えるに当たって,生徒用手引きから
「テーラー大管長は隠遁生活の間に世を去った」(55ページ)を生徒とともに復習します。
以下の質問をします。
い ん と ん
• 「すべての事柄に……勇敢に……対応した」テーラー大管長の生活からどのような模
範を見いだすことができるでしょうか。
• テーラー大管長の顧問たちは彼を「真理の生ける殉教者」と呼びました。この名称は
テーラー大管長の奉仕の人生をどのように表しているでしょうか。
テーラー大管長の葬儀の席上,当時十二使徒定員会会員であり,教会の管理評議会でと
もに奉仕してきたロレンゾ・スノー長老はこう語りました。
「末日聖徒は友を失ったと感じています。わたしたちは力強い助言者を失い,神
の御子の時代以降,地上に立った最も偉大な人の一人を失いました。徳,高潔,義
の道を追求する固い決意を持っていることでその名を知られた人でした。」(ロバー
ツ,Life of John Taylor,443)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
51
第4章
ウィルフォード・ウッドラフ
© IRI
第4代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
52
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ウィルフォード・ウッドラフは1807年3月1日,コネチカット州ファーミントンで生まれ
ました。彼の誕生から10年間に世界で起きた出来事には,1815年にナポレオンがワーテル
ローの戦いで敗れたこと,シモン・ボリバルやホセ・デ・サンマルティンなどの助けによ
って中南米諸国が独立したことなどがあります。この間,産業革命によって世界中で大き
な変化が次々に生まれていました。世界中で大きな出来事が起きていましたが,ウィルフ
ォード・ウッドラフは回復と教会の確立というさらに大きな出来事の中で役割を果たしま
した。歴史家,日記作家,ジャーナリストとして回復を記録に残し,彼が書いた文書は全
世界の末日聖徒に祝福を与えました。
出来事,特筆事項,教え
ウィルフォード・ウッドラフの幼少期に関する質問
以下の文は正しいか,誤りかを生徒に尋ねます。
1. 5代目までの大管長は1801年から1814年の間に生まれました。
(正)
2. 預言者ジョセフ・スミスはウィルフォード・ウッドラフより年下でした。(誤。ジョセ
フ・スミスは1805年に誕生し,ウィルフォード・ウッドラフは1807年に誕生した。
)
3. 合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンはウィルフォード・ウッドラフが生まれた
とき,まだ生きていました。
(誤。ジョージ・ワシントンは1797年に死去した。
)
4. 合衆国大統領アブラハム・リンカーンとイギリスの動物学者チャールズ・ダーウィン
はウィルフォード・ウッドラフと同時代の人でした。(正。リンカーンは1809年−1865
年,ダーウィンは1809年−1882年)
5. トーマス・ジェファーソンはウィルフォード・ウッドラフが生まれたとき,合衆国大
統領でした。(正)
6. ユタ州は1860年代の南北戦争時代に合衆国大統領エーブラハム・リンカーンを支持し
ました。(誤。ユタが州に昇格したのは1896年のことだった。
)
ウィルフォード・ウッドラフの両親と先祖は熱心に働く伝統を築いた
ウィルフォード・ウッドラフはアフェク・ウッドラフとビューラ・トンプソン・ウッドラ
フを両親として誕生したことを話します。母はウィルフォードが生後わずか15か月のとき
に他界しました。3人の息子の父親であったアフェクはアズバ・ハートと再婚しました。
アズバはその後6人の子供を産みました。ウィルフォード・ウッドラフの先祖は熱心に働
くことで有名でした。ウィルフォード・ウッドラフの以下の話を読みます。
そ う そ ふ
「100歳近くまで生きた曽祖父のジョサイア・ウッドラフはきわめて屈強な体を
持ち,この世を去る直前まで体を使って働き続けた人でした。……
祖父のエルダッド・ウッドラフはジョサイアの三男でした。エルダッドは1751年
にコネチカット州ハートフォード郡ファーミントンで生まれました。彼も非常に丈
夫な人でした。ハートフォード郡で数年間にわたって,だれよりも働き者だと言わ
れるくらいよく働きました。そして,樹木の伐採の激しい労働により,右腰にリュ
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
53
ーマチを患い,この世を去るまでの数年間ひどく足が不自由でした。……父〔アフ
きょうじん
ェク・ウッドラフ〕も強靭な体を持っていて,よく働きました。18歳のときに製粉
工場と製材工場で働き始め,その仕事を約50年続けました。この間ほとんど,父は
1日に18時間働いていました」(“History of Wilford Woodruff,”Millennial Star,
1865年3月18日付,167−168)。……
アフェク・ウッドラフとアズバ・ウッドラフは,子供たちに生活必需品を与えるために
一生懸命働いたことを生徒に話します。二人は子供たちに,勤勉,独立,自立を教えまし
た。ウィルフォード・ウッドラフはこれらの特質を十分に身に付けました。ウィルフォー
ド・ウッドラフの以下の言葉を紹介します。
「1827年4月,わたしは叔母のヘレン・ウィーラーの製粉所を任されることにな
おの
り,そこで3年間働きました。1830年5月には,コネチカット州サウスカントンで斧
を製造するコリンズ氏の製粉所を任されました。1年後にほかの機械を作るためにそ
の製粉所は取り壊されました。1831年3月,コネチカット州ニューハートフォード
のリチャード・B・カウレス氏が所有する製粉所を任されました。そして1832年の
春,わたしは長兄のアズモンとともにニューヨーク州オスウィーゴ郡リッチランド
へ行って,農場と製材所を購入して,事業を始めました。」(“History of Wilford
Woodruff,”Millennial Star,1865年3月18日付,168)
ウィルフォードは幼少期に多くの危険な目に遭った
生徒用手引きから「若いころに多くの困難に遭遇した」(59−61ページ)を復習させます。
それから,ウィルフォード・ウッドラフが遭遇した災難と危うく命を落としそうになった
経験を挙げてもらいます。一人の生徒にこの項の最後の段落を声に出して読んでもらいま
す。この段落の内容に基づいて,以下の質問への答えについて話し合います。
• ウィルフォード・ウッドラフがこれらの事故で経験したことは,彼が神を理解するう
えでどのように役立ったでしょうか。
• ウィルフォード・ウッドラフは,これらの経験からどのような資質をはぐくんだでしょうか。
ウィルフォード・ウッドラフは聖書を入念に研究した
少年時代から聖書を研究していたウィルフォード・ウッドラフは,古代の教会の組織につ
いてよく知っていました。少年時代に聖文を調べたことについてウィルフォード・ウッド
ラフが語った以下の言葉を紹介します。
「日曜学校では,新約聖書を読み,その中に記されていたことを次々と学んでい
きました。新約聖書は何を教えてくれたでしょうか。命と救いの福音,天上および
地上において力を持つ福音を教えてくれました。教会の組織は預言者,使徒,牧師,
教師,および助ける者や管理する者から成ることを教えてくれました。何のためで
しょうか。『それは,聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを
まった
建てさせ,わたしたちすべての者が,神の子を信じる信仰の一致とに到達し,全き
人となり,ついに,キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため』〔エペソ4:
12−13〕です。これがわたしの学んだ事柄であり,わたしに強い印象を与えました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
わたしはそれらを信じていましたが,地上の牧師や聖職者がそれらについて教える
のを一度も聞いたことがありませんでした。若いころ,わたしは当時あったほとん
どの宗派の集会に出席しました。……
たまもの
少年時代のわたしはこのような生活を送っていました。これらの賜物 と恵みは,
人の子らの中に不信仰があるときを除き,失われたとは思っていませんでした。」
(Deseret Weekly,1889年4月6日付,450)
以下の質問をします。
• ウィルフォード・ウッドラフは真理に気づき,見いだすためにどのような準備をした
でしょうか。
• わたしたちは福音の知識を受けるために心と思いをよりよく備えるにはどうしたらよ
いでしょうか。
ウィルフォード・ウッドラフは福音に従って生きた
生徒に,福音の説教を初めて聞いたとき,あるいは福音の説教の意味が初めて分かり,メ
ッセージが真実であると感じたときのことを考えてもらいます。ウィルフォード・ウッド
ラフが教会員から初めて福音の説教を聞いたのは1833年12月29日のことだったと説明しま
す。その経験について後に記した以下の記録を紹介します。
「わたしは人生で初めて末日聖徒イエス・キリスト教会の長老と会いました。ゼ
ラ・パルシファーでした。彼はわたしに,自分は主から霊感を受けた,と言いまし
た。納屋で脱穀していたとき,主の声が彼に聞こえて,立って北に行くように,そ
こには,主が彼のために用意された務めがあると言われました。彼は,隣人の教会
員〔エライジャ・〕チェニー兄弟に同行してくれるよう頼みました。彼らは……深
い雪の中を……徒歩で60マイル〔約96キロ〕旅しました。そして,訪問すべきだと
強く感じた最初の場所が,わたしと兄の家だったのです。彼らは家に入って兄の妻
と話をし,自分たちが何者であって,どのような務めに携わっているかを述べまし
た。北へ旅を続けることになり,この家にやって来るまで一度もどこかで立ち止ま
ろうとは思わなかったと語りました。彼らが自分たちの原則について話すと,彼女
は夫と義弟はどちらもそれらの原則を信じており,長年それらを祈り求めてきた,
と言いました。彼らはわたしたちの農場にある校舎で集会を計画しました。
夕方帰宅したわたしは,義姉からこの集会について聞きました。オンタリオ湖の
ほとりから丸太を引いて来ていたわたしは(わたしは製材業を営んでいました),
馬を牧場に放して,食事もせずに集会へ向かいました。建物と玄関の前庭は人であ
ふれていました。わたしは生涯で初めて,この教会の長老たちが教える福音の説教
を聞きました。それはまさに少年時代から探し求めてきたものでした。わたしは長
老たちを家に招きました。モルモン書を借りて,その晩一睡もせずに読みました。
朝になって,パルシファー兄弟にバプテスマを受けたいと言いました。わたしには,
あかし
それらの原則が真実であるとの証がありました。こうして,わたしと兄は……出て
行ってバプテスマを受けました。二人はその郡の最初の改宗者でした。」(Deseret
Evening News,1897年3月1日付,1。段落変更)
最初の集会からわずか2日後の1833年12月31日にパルシファー長老は小川でウィルフォ
ード・ウッドラフにバプテスマを施し,確認を執り行ったことを話します。次の質問をし
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
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ます。ウィルフォード・ウッドラフはなぜ,それほど早く福音を理解し,受け入れること
ができたと思いますか。
注:前記の段落を読む代わりに,『教義と聖約と教会歴史ビデオプレゼンテーション1−
12』(カタログ番号53786 300)または『教義と聖約と教会歴史DVDプレゼンテーション
1−22』(カタログ番号54012 300)からプレゼンテーション2,「大背教」を使って,ウィ
ルフォード・ウッドラフの改宗のビデオ作品を見せてもよいでしょう。教会のビデオカセ
ット『教義と聖約および教会歴史からの教え』
(カタログ番号53933 300)のプレゼンテー
ション1,
「真理の探究」にも収録されています。
ウィルフォード・ウッドラフは回復された福音を見いだした喜びを友人のロバート・メー
ソンと分かち合った
生徒用手引きの「ロバート・メーソンは自分の受けた示現についてウィルフォード・ウッドラフに
語った」
(62ページ)から,2段落目までを生徒に読ませます。そして,残りの段落の概要を話
します。ウィルフォード・ウッドラフはバプテスマを受けた後に,ロバート・メーソンに手紙を書い
たことを説明します。ウィルフォード・ウッドラフはこう説明しました。
「わたしは……彼が話してくれたキリストの教会を見つけたと彼に伝えました。
たまもの
その組織とモルモン書の出現について,また教会には預言者と使徒,すべての賜物
と祝福があること,そして主が示現で彼に示されたように,キリストの王国と教会
のまことの実が聖徒の中に現れていることを伝えました。彼はわたしの手紙を受け
取ると幾度も読み返し,示現の中で実を手にしたときのように,その手紙を大切に
扱いました。しかし彼は高齢だったため,間もなく亡くなってしまいました。長老
から福音の儀式を執行してもらうことなくこの世を去ったのです。
死者のためのバプテスマの教義が明らかにされた後,わたしは最初の機会に出て
行って彼のためにバプテスマを受けました。」(“Leaves from My Journal,”
Millennial Star,1881年5月23日付,335)
以下の質問をします。
• 伝道活動によってあなたの生活は具体的にどのような影響を受け,変わったでしょうか。
• ロバート・メーソンの話を読み,どのようなことに感動しましたか。
• 彼の経験はわたしたちが神殿活動の大切さを理解するうえで,どのような助けとなる
でしょうか。
の
ウィルフォード・ウッドラフは福音を宣べ伝えることを心から望んだ
あかし
ウィルフォード・ウッドラフは初めて福音を聞いたとき,人々に自分の証を分かち合いた
いという思いを強く持ったことを記しています。
「人々の前で真理について証せずに彼らの家を出ることはできないと感じた。」
(Journal of Wilford Woodruff,1834年12月31日付,末日聖徒イエス・キリスト教会
記録保管課。スペルと句読点を現在の標準に統一)
ウィルフォード・ウッドラフはバプテスマを受けた直後に,シオンの陣営に加わってミ
ズーリに行ったことを説明します。シオンの陣営が終わってから数か月間,福音を伝えた
いという思いはますます強くなり,宣教師として働く特権を与えられるよう主に祈り求め
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
ました。宣教師として奉仕できるよう祈ったことについてウィルフォード・ウッドラフの
語った以下の言葉を読みます。
「福音を宣べ伝えたいという強い望みを抱いていましたが,それを兄弟たちに話
してはいませんでした。ある日曜日の夕べ,人目を避けて独りで森に入り,道が開
かれて,地に住む人々に福音を宣べ伝えに行くことができるよう,熱心な祈りを通
して主に請い願いました。すると,『祈りは聞かれた。そして,こたえられるであろ
みたま
う』という証を主の御霊から受けました。喜びに満たされて立ち上がり,40ロッド
〔約200メートル〕ほど歩いていくと,わたしが何か月も身を寄せていた大祭司のエ
ライアス・ヒグビーに会いました。近寄って行くと,ヒグビー兄弟はこう言いまし
た。『ウィルフォード兄弟,主の御霊がわたしに告げています。あなたは聖任を受け
て伝道に出るべきであると。』わたしは答えました。『準備はできています。』」
(“History of Wilford Woodruff,”Millennial Star,1865年3月25日付,183)
ウィルフォード・ウッドラフは1834年11月5日にミズーリで開かれた高等評議会の集会
で祭司に聖任され,合衆国南部で伝道する召しを受けたことを話します。以下の質問をし
ます。
• ウィルフォード・ウッドラフはなぜ伝道することをそれほど熱心に求めたと思いますか。
• 宣教師になることを目指している人は,どうすればウィルフォード・ウッドラフのよ
うに「準備はできています」と答えられるようになるでしょうか。
生徒用手引きから「ウィルフォード・ウッドラフは宣教師として,天使の導きを経験し
た」(64ページ)を復習します。すべての教会員は聖霊の賜物と力を受けられることを指
摘します。次の質問をします。聖霊は伝道に携わる人々をどのように導き,強めてくださ
るでしょうか。
た ま も の
ウィルフォード・ウッドラフは日の栄えの王国を受け継ぐことを望んだ
ウィルフォード・ウッドラフはシオンを築くために献身的に働いたことを生徒に話しま
す。彼の日記から以下を読んで,彼の行った様々な献身的働きがどのようなものであった
かを見つけさせます。
「末日聖徒には神の日の栄えの王国の正当な継承者となるために,すべての財産
とともに自らを神に奉献する義務があると信じていた……わたしは,1834年12月31
日にクレイ郡の末日聖徒の教会のビショップに〔自身とすべての財産を〕奉献した。
これが奉献の証明書である。
『1834年12月31日,ミズーリ州クレイ郡。わたし,ウィルフォード・ウッドラフ
は,この身を自らの意志によって主に奉献,献身することを,進んでわが神に誓約
し,それを世に知らしめる。それは,主の王国と主のシオンを地上に打ち立てるた
めに財産のすべて,持ち物のすべてをもって力を尽くすためである。また,主の律
法を遵守することを聖約する。わたしは,神の日の栄えの王国の正当な相続人とな
ることができるようになるために,教会のビショップの前にすべてをささげる。』」
(Journal of Wilford Woodruff,1857年3月17日付)
次の質問をします。神の王国を建設するために,あなたは自身と財産をどのような方法
で奉献することができるでしょうか。
人よりも神に喜んでいただくことのほうが大切な理由を生徒に尋ねます。それから,ウ
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
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ィルフォード・ウッドラフの以下の言葉を読み,彼の説明を聞きます。
「自分の罪のために悩み,堕落して,後で苦しみを受けるよりも,キリストに対
する証のゆえに鞭打たれる〔打たれ,たたかれる〕方がよいのです。わたしは自分
の血によって証を結び固め,肉体は墓に横たわっても,霊が幕のかなたへ行って,
主の律法を守るすべての人に主が授けてくださる光,真理,祝福,知識を永遠に受
けたいと思います。その方が,わずかばかりの間この世の楽しみを受けて,これら
の祝福や幕のかなたでの友人や兄弟たちとの交わりを奪われるよりもよいのです。」
(The Discourses of Wilford Woodruff,G・ホーマー・ダラム選〔1946年〕,278−
279)
あかし
む ち
次の質問をします。永遠の見地に立つということは,あなたの決断にどのような影響を
及ぼすでしょうか。
ウィルフォード・ウッドラフは妻のフィービーを死からよみがえらせた
ウィルフォード・ウッドラフが聖徒たちの一団を率いてメイン州からイリノイ州へ移動し
ていたとき,妻のフィービーが重病にかかったことを説明します。妻に祝福を与えたとき
の経験を記した以下の記録を紹介します。
「〔1838年〕12月3日,妻の容体がことのほか思わしくなく,わたしは終日看病を
しました。翌日,彼女のために買い物をしようと,〔近くの町〕イートンに戻りまし
た。妻は徐々に衰弱しているようでした。そして夕方,ついに彼女の霊が体を離れ,
妻は亡くなりました。
姉妹たちは妻の周りに集まって涙を流し,わたしは悲しみのうちに妻を見詰めて
立ち尽くしていました。妻は目の前で死んで横たわっていましたが,神の御霊と力
がわたしのうえに注がれ,彼女が病気になって以来初めて,信仰がわたしの心を満
たしました。
わたしはカートランドで……聖別した油を持っていました。それを取って,病を
はんりょ
癒すために主の前に再び聖別しました。それから主の前に頭を垂れ,伴侶が生き返
るよう主に祈り求めました。そして,油を注ぎました。……わたしは妻に手を置く
しっせき
と,イエス・キリストの名によって,死の力と滅ぼす者を叱責して彼女から離れる
ように命じ,また命の霊に彼女の体に入るように命じました。
いや
わたしがこの出来事を経験している間,(後に妻が述べたところによれば)妻の霊
は体を離れ,自分の体がベッドに横たわっていて,姉妹たちが涙を流しているのを
見ました。妻は姉妹たちとわたしに目を注ぐと,次に幼い娘を見ました。そしてこ
の光景をじっと眺めていると,二人の御方が部屋に入って来ました。……使者の一
人が妻に,あなたは選ぶことができると告げました。つまり,霊界に行って安息を
得ることもできるし,または,一つの条件の下で,自分の幕屋である肉体に戻って,
地上での働きを続ける特権を受けることもできるというのです。その条件は,これ
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
からも夫の傍らに立ち,夫が福音のために経験するよう求められる人生のあらゆる
かんなん
苦労,試練,艱難 ,苦難を,最後までともに経験することができると思うならば,
というものでした。妻は夫と子供の姿を見て,こう言いました。『はい,そのよう
にいたします。』
妻がそう決意した瞬間,信仰の力がわたしに注がれました。そしてわたしが祝福
を授けたときに,妻の霊は幕屋に入ったのです。……
12月6日の朝,御霊がわたしに次のように告げました。
『立って,旅を続けなさい。』
あわ
そして神の憐れみによって,妻は立ち上がって身支度を整え,荷車まで歩いて行く
ことができました。こうして,わたしたちは喜んで旅を続けたのです。」(“Leaves
from My Journal,”Millennial Star,1881年10月3日付,639)
ウィルフォード・ウッドラフは自分の経験を細心の注意を払って日記に記録した
合計で数千ページになるように書物を重ねて教室の前に展示しておきます。これほどの厚
みになるまで日記を書くにはどれほどの時間が必要かを尋ねます。ウィルフォード・ウッ
ドラフは教会内で目撃した出来事を定期的に日記に記していたことを説明します。その記
録の中には預言者ジョセフ・スミスとブリガム・ヤング大管長の説教の中で,唯一の記録
として残っているものもあります。1857年に開かれたある集会で,当時十二使徒定員会の
会員だったウィルフォード・ウッドラフ長老は,日記をつけ始めた動機について次のよう
に話しました。
「わたしは教会に入ってからずっとこの……ことを考えていました。わたしは,
できるかぎり日記をつけてこの教会の宗務を書き記すように霊感を受け,強く促さ
れてきました。この教会の初期のころは,なぜそれほど強い気持ちを感じるのか分
かりませんでしたが,今は分かります。ジョセフ兄弟や十二使徒が何かの原則を説
いたり教えたりするのを聞くと,それを書き記すまでは陸に上がった魚のように息
苦しさを覚えたものでした。そして書き終えると落ち着くのです。わたしはジョセ
フの説教を,1週間後にほとんど一言も漏らさずに正確に書くことができました。
そして書き終えると,その記憶はわたしから,あるいはわたしの頭から取り去られ
たまもの
るのでした。これは神が授けてくださった賜物でした。そしてこれまでの24年間,
ほとんど毎日,日記をつけてきました。毎日,わたしが何をしたか,どのような人
と一緒だったか,周囲で何が起きていたか,説教の筆記者がいる場合を除いて教会
の管理者が語った教えや勧告を述べることができました。わたしは十二使徒と教会
のすべての定員会に対して同じようにすること,集会や神がわたしたちに対してど
のように接してこられたかについて記録を残すことを強く勧め,またすべての神権
者に自分の生活の記録,特に教会と神の王国における公の行動をすべて記録に残す
よう強く勧めてきました。」(Journal of Wilford Woodruff,1857年3月17日付)
別の折にウィルフォード・ウッドラフが記したことを紹介します。
「わたしは若い友人の皆さんに,自分や周囲に起こる事柄を日記につけるならば,
それは自分にとって,また子孫にとって大きな祝福になると申し上げたいと思いま
す。……
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『何を書けばいいのだろう』と思うかもしれません。書き残す価値のあることな
ら何でもかまいません。自分が持っている最も良いものについて書くのもよいでし
ょう。もし若いうちに始めるならば,大人になったときに日記を書くことがとても
容易になるでしょう。今から30年後,50年後,あるいは80年後に,皆さんが幼いこ
ろや若いころに周囲で起きた事柄を読むことは,皆さんに,そして子供たちに,ど
れほど大きな喜びをもたらすでしょうか。父親や母親,祖父母が若かったころに,
また彼らの生涯のうちに,その身に起きた事柄を読んでみたいと思いませんか。し
かし真の目的は,若いうちに日記をつけてもらうことよりも,むしろ大人になって
からも生涯にわたってその習慣を続けてもらうことです。これは皆さんが生を受け
ている世代において特に必要とされていることです。皆さんはかつて人類史上最も
重要な時代に生を受けており,皆さんが早くから日記をつけ始め,生涯にわたって
その習慣を続けることは,ほかの世代の人々が同じことをするよりもはるかに重要
なことなのです。
皆さんはシオンの子らであり,皆さんの両親は終わりの時に地上にキリストの教
会と神の王国を築き上げるよう神から召されてきました。やがて両親は世を去り,
皆さんが役割を引き継ぐことになるでしょう。皆さんは父親や母親になり,幼い少
の
年〔の皆さん〕は預言者や使徒,長老になり,旅をして福音を宣べ伝え,主の言葉
を受けるでしょう。そのとき,皆さんが日記をつけて,皆さんに対して主がどのよ
うに接してこられたかを記録することが非常に必要となるでしょう。」(“Keep a
Journal,”Juvenile Instructor,1867年1月1日付,5)
生徒用手引きから「ウィルフォード・ウッドラフは過去,現在,未来の出来事を書きつづった」
あかし
と
「ウィルフォード・ウッドラフは日記をつけることについて証し,未来の歴史記録者に対して警
告を与えた」
(66−67ページ)
を復習します。それから以下の質問をします。
• ウィルフォード・ウッドラフは自分の命が守られてきた理由をどのように考えていた
でしょうか。(「ウィルフォード・ウッドラフは過去,現在,未来の出来事を書きつづ
った」の最後の段落参照)
• 教会の歴史に関連してあなたは自分が目にしたどのような出来事を日記に記録したら
よいでしょうか。
• 日記をつけることにより,個人としてどのような恩恵を受けるでしょうか。
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ウィルフォード・ウッドラフはしばしば「忠実なる者ウィルフォード」と呼ばれていま
の
した。彼は合衆国とイギリスで福音を宣べ伝えました。多くの人々にバプテスマを施し,
60年以上にわたる教会歴史に関する情報を数千ページの日記に記しました。多妻結婚の中
止,ソルトレーク神殿の奉献,ユタの州昇格を含む教会の歴史上最も意義のある出来事が
起きた時代に教会を管理しました。ウィルフォード・ウッドラフは宣教師であり,製粉業
者,印刷業者,農夫,開拓者,入植指導者,政治家,夫,父親,使徒,主イエス・キリス
トの預言者でした。
ウィルフォード・ウッドラフは大管長に召されるまで50年以上にわたって使徒を務めま
した。1889年,ウィルフォード・ウッドラフが大管長に召されたとき,教会は32のステー
クと12の伝道部に18万3,000人の会員を擁し,3つの神殿を持っていました。ウィルフォー
ド・ウッドラフは大管長を9年余り務めました。そして1898年,ウッドラフ大管長が亡く
なったとき,教会は40のステークと20の伝道部に26万7,251人の会員を擁し,4つの神殿を
,473,631参照)
持っていました。
(2003 Church Almanac〔2003年〕
出来事,特筆事項,教え
ウィルフォード・ウッドラフは使徒に聖任された
1838年8月にフォックス諸島(メイン州沖)で働いていたとき,ウィルフォード・ウッド
ラフはトーマス・B・マーシュからの手紙で,自分が十二使徒定員会の空席の一つを埋め
るよう啓示によって選ばれたことを知りました。そして,聖任を受けるためにミズーリへ
戻るように求められました。しかし,ウッドラフ長老が同地へ向かっている間に,聖徒た
ちはリルバーン・W・ボッグス知事によってミズーリ州を退去する命令を受けていまし
た。ウィルフォード・ウッドラフは1838年の冬をイリノイで過ごし,春になってからイリ
ノイ州クインシーで聖徒たちと合流しました。そこからブリガム・ヤングとともにミズー
リ州ファーウエストへ向かいました。そして1839年4月26日,ファーウエストの神殿建設
用地で,ブリガム・ヤングから使徒に聖任されました。後に,啓示に基づく指示に従って,
二人はイギリスへの伝道に出発しました(教義と聖約118:5−6参照)
。
ウィルフォード・ウッドラフは献身的に伝道した
生徒に,2回以上伝道に出た人を知っているか尋ねます。ウィルフォード・ウッドラフは
教会に入ってから16年間のうち,13年間伝道地で働いたことを話します。合衆国南部
(1834年−1836年),合衆国東部とフォックス諸島(1837年−1838年),イギリス(1839
年−1841年),2度目の合衆国東部(1844年),イギリス(ヨーロッパ伝道部会長として,
1844年−1846年)
,そして再び合衆国東部(1848年−1850年)で伝道しました。
教会の初期の改宗者の大半はイギリスから来た人々であったことを説明します。ウィル
フォード・ウッドラフや彼から教えを受けた人々は大勢の人々に,教会に加わり,キリス
トのもとへ来るように影響を与えました。ウッドラフ長老をはじめとする宣教師たちは大
きな成功を収めたため,1851年には,イギリスに住む教会員の数(約3万人)は合衆国の
会員数(約1万5千人)の2倍にまで達していました。ウッドラフ大管長について語ったヒ
ーバー・J・グラント大管長の次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
61
しもべ
「わたしはウィルフォード・ウッドラフがまことに生ける神の僕であり,神の真
あかし
けんそん
の預言者であったことを証 することができます。謙遜 な人であったウィルフォー
ド・ウッドラフは,イギリスのヘリフォードシャーで数か月の間に数百人の人々を
改宗させ,バプテスマを施しました。わたしが今記憶しているところによれば,彼
は8か月間に1,500人から2,000人にバプテスマを施しました。これまで地上に生きた
人の中で,人々をイエス・キリストの福音に改宗させるために彼ほど偉大な働きを
した人はほかにいないと確信しています。」(Conference Report,1919年6月,8)
生徒用手引きから「ウィルフォード・ウッドラフはイギリスで伝道した」
(66ページ)を
復習し,話し合います。
次の質問をします。伝道の成功に寄与する要因として,バプテスマ以外にどのようなも
のがあるでしょうか。
一人の生徒に以下の文を読んでもらう間,クラスの生徒にウィルフォード・ウッドラフ
がほかにどのような点で宣教師として成功したかを見つけさせます。
ウィルフォード・ウッドラフは1840年を総括して日記にこう記しました。
がんたん
「1840年の元旦に,わたしはJ・テーラー長老とT・ターレー長老とともに定期船
オックスフォード号に乗り大西洋上にいた。……そして,大みそかにはイギリスと
世界の大都市であるロンドンで……キンボール長老と一緒だった。この年はわたし
とすべての聖徒,また多くの点で全世界にとって大切な年だった。1840年ほど興味
深い1年をそれまでに経験したことがなかった。これほど大きな犠牲を払い,大きな
祝福を受けたことはなかったのだ。しかし,妻や子供たちの顔を一度も見ることな
く,家族との交わりを犠牲にしていた。そのうちの一人は,死んでしまった。(サ
ラ・エマはこの世で会うことのできない所へ行ってしまった。)
一年中外国にいて,永遠の真理をかざして誤りと闘い,真理に敵対する罪人たち
から多くの反論を受け,石を投げつけられ,暴行され,妨害された。しかし,主は
わたしの働きの証として,大きな収穫を祝福してくだった。数百人もの人々が喜ん
み こ と ば
で御言葉を受け入れ,新しくかつ永遠の聖約に喜びを見いだして,神の日の栄えの
王国で会うといういきいきとした望みをもって生きる聖徒となっている。この1年間
にわたしや兄弟たちに深い思いやりと愛を示してくださった天の御父に心から感謝
している。来年も主が引き続きわたしたちとともにいてくださるよう願っている。」
(Journal of Wilford Woodruff,1840年12月31日付,末日聖徒イエス・キリスト教会
記録保管課。スペルと句読点は現在の標準に統一)
その年の「〔自分の〕働きの成果」として,ウッドラフ長老は以下の事項を挙げま
した。この年,彼が旅した距離は4,469マイル〔約7,192キロ〕,開いた集会は230回,
出席した大会は14回,バプテスマを施した人は336人とバプテスマを手伝った人が
86人,確認を行った人は420人と確認を手伝った人が50人,聖任した長老は18人,
祭司97人,教師34人,執事1人,幼児の祝福は120人,病人の祝福は120人,
Millennial Star,3,000冊の賛美歌と5,000冊のモルモン書を印刷し,200人の会員がノ
ーブーとアイオワへ移民するのを支援するために集めたお金は1,000ポンド,書いた
手紙は200通,受け取った手紙は112通,襲ってきた暴徒は4人でした(Journal of
Wilford Woodruff,1840年12月31日付参照)。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
62
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
以下の質問をします。
• これらの記述からウィルフォード・ウッドラフの宣教師としての働きについてどのよう
なことが分かるでしょうか。
• ウィルフォード・ウッドラフの持つどのような特質が主の業を行うために役立ったでし
ょうか。
ウィルフォード・ウッドラフが伝道中に,ジョセフとハイラム・スミスは殉教した
故郷から離れた土地で愛する人の死を聞くのがどれほどつらいか生徒に考えさせます。預
言者ジョセフ・スミスと兄のハイラムが1844年6月27日に殉教したとき,十二使徒定員会
のほとんどのメンバーは伝道に出ていたことを説明します。
ウッドラフ長老は数週間後の日記にこう記録しました。
「預言者の死を知らされてから今朝まで涙を流すことは一度もなかった。全身全
霊が鋼のように緊張し続けていた。
B・ヤング長老が今朝ボストンに到着した。わたしはヤング長老とともにテンプル
通り57番地を歩いて,ボーズ姉妹の家を訪れた。ヤング兄弟はベッド,わたしは大
きないすに座った。初めて悲しみが込み上げてきたわたしは,顔を覆い隠すと,預
言者と大祝福師,ジョセフとハイラム・スミスが異教徒の集団に殺害されたことを
嘆き悲しんだ。激しく泣いた後,ようやく落ち着きを取り戻すことができた。」
(Journal of Wilford Woodruff,1844年7月17日付)
かぎ
ジョセフ・スミスは王国の鍵を十二使徒に授けた
預言者ジョセフ・スミスは伝道に出かける前の使徒たちと開いた最後の集会で,自分が死
んだ後の業の進め方について指示を与えたことを説明します。一人の生徒にウィルフォー
ド・ウッドラフの以下の言葉を読んでもらいます。
「今になって思えば,預言者ジョセフは,それが十二使徒とともにこの世で開く
最後の集会だとはっきりと予感していたのです。わたしたちはすでにエンダウメン
トを受けていましたし,かつて地上で十二使徒や預言者に与えられた祝福はすべて,
わたしたちの頭に結び固められていました。その場で預言者ジョセフは立ち上がり,
わたしたちにこう言いました。『兄弟たち,わたしはこの神殿が完成するのをこの目
で見たいと望んでいました。わたしはこの目でそれを見ることはないでしょう。し
かし,あなたがたは見るのです。わたしは,あなたがたの頭に神の王国のすべての
鍵を結び固めました。天の神がわたしに啓示されたすべての鍵,権能,原則をあな
たがたに結び固めたのです。今や,わたしがどこへ行こうと何をしようと,王国は
あなたがたのうえにあるのです。』
さて,神の預言者がわたしたちから取り上げられようとしていることを,十二使
徒であるわたしたちがなぜ理解できなかったのかと,皆さんは不思議に思われるの
ではないでしょうか。でも,わたしたちには理解できなかったのです。イエス・キ
リストが地上におられた時代の十二使徒は,イエスが語られた次の言葉が意味する
ところを理解できませんでした。『わたし〔は〕去って行く……。わたしが去って行
かなければ,あなたがたのところに助け主はこないであろう。』同様にわたしたちに
も,ジョセフの言わんとすることが理解できなかったのです。これらのことをなし
終えてから,ジョセフ・スミスは言いました。
『しかし,神の子羊の十二使徒であり,
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
63
わたしの兄弟である皆さん,この王国の行く末は,あなたがたの双肩にかかってい
るのです。ですから,力を合わせて王国を建設しなければなりません。』それにジョ
セフはまた,珍しくこのようなことを述べています。『これを行わなければ,皆さん
はのろいを受けることになります。』
この宣言を聞いた者の中で,今生きているのはわたしだけです。そして,この宣
言は確かに成就しています。なぜなら,神の王国の鍵やこの教会の十二使徒の職を
持ちながら,福音の原則を踏みにじったり,否定したり,原則から外れたことを行
ったり,自分の手に託された主の業に献身することをやめて自分の利益のために働
くようになったりした人々の中に,のろいを受けなかった者や神の怒りを身に招か
なかった者は,これまで一人もいなかったからです。」( Discourses of Wilford
Woodruff,71−72)
次の質問をします。ふさわしい神権者は亡くなると,霊界へ行ってもなお神権を持ち続ける
のでしょうか。次に,ウィルフォード・ウッドラフの以下の言葉を読んで,話し合います。
「幕のかなたにも同じ神権が存在します。忠実な人は皆,かなたの定員会に所属
します。人は死んで,墓に横たえられても,その地位を失うわけではありません。
預言者ジョセフ・スミスは幕のこちら側でこの神権時代の鍵を持っていました。そ
して,それらの鍵を永遠に持ち続けるのです。ジョセフ・スミスは霊界へ行って獄
やみ
の扉を開き,闇の中にいる無数の霊たちに福音を宣べ伝えています。信仰にあって
世を去ったすべての使徒,七十人,長老なども幕のかなたへ行くやいなや,教え導
く 業 に 携 わ り ま す 。 そ こ で 教 え を 説 く 機 会 は こ の 世 の 千 倍 も あ る の で す 。」
(Discourses of Wilford Woodruff,77)
の
次の質問をします。ジョセフ・スミスは何の鍵を永遠に持ち続けるのでしょうか。(こ
の神権時代の鍵)
ウィルフォード・ウッドラフは神殿と神殿の儀式の大切さを理解していた
生徒に,最も大切な持ち物は何かを尋ねます。それから,次の質問をします。末日聖徒は
なぜ物質的な所有物よりも霊的な祝福に,より大きな価値を置いているのでしょうか。
聖徒たちはエンダウメントを受けられるようにノーブー神殿の完成を目指して懸命に働
いたことを説明します。神殿が完成すると,ブリガム・ヤング会長やほかの指導者たちは,
聖徒たちが美しい神殿を残して出発するまで,連日長時間にわたってふさわしい聖徒に儀
式を執行しました。彼らは大きな犠牲を払って神殿を建てましたが,間もなく去らなけれ
ばならないことを知っていました。
ノーブーで神殿の儀式を再び受けられるようになったことは,開拓者の聖徒たちにとってど
のような意味があったと思うかを尋ねます。当時十二使徒定員会会員だったウィルフォード・ウ
ッドラフ長老が,ノーブー神殿の奉献後に語った以下の言葉を紹介します。
「夕方わたしは神殿へ向かった。そして,オーソン・ハイド長老と約20名のイ
スラエルの長老たちとともに祭司の衣装を身に着けて,末日聖徒イエス・キリス
み な
ト教会によって建てられた主の神殿を,神のいと高き聖なる御名によって奉献し
た。わたしたちは興味深い時間を過ごすことになった。屋根が取り付けられない
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
とか,神殿は完成しないとか,暴徒の脅しによって奉献できないとか,シドニ
ー・リグドンやほかの者たちが多くの偽りの預言をしてきたが,わたしたちは完
成させ,奉献したのだ。……奉献の最後に,わたしたちは声を合わせて神と小羊
に,ホサナと叫んだ。その叫びは天に届けられて,わたしたちは心に喜びと慰め
を受けた。わたしたちはイスラエルの陣営のために祈り,また天候に恵まれ,奉
献が終了するまで暴徒に妨害されることのないように祈った。わたしは主の神殿
の奉献を手伝うことができた特権に感謝しながら家路についた。」(Journal of
Wilford Woodruff,1844年4月30日)
教会員はソルトレーク盆地に新しいふるさとを見いだした
末日聖徒はこれまで激しい迫害を受け,家を追い出されてきたことを生徒に思い出させます。
1847年に彼らは盆地に到着しました。多くの探検家が人の住めるような土地ではないと言っ
た地域でした。しかし聖徒たちは,撲滅させようとつけねらう暴徒や腐敗した指導者から遠
く離れて,平和に生活できる場所をどうしても見いだすと決意していました。そしてグレート・
ソルトレーク盆地に新しい故郷を築きました。一部の探検家にはこの地域は不毛の地である
と考えられていましたが,開拓者にとっては迫害から逃れる避難所でした。1847年7月24日
に盆地を初めて目にしたときのウッドラフ長老の記録を読んでください。
きょう
「わたしの生涯と末日聖徒イエス・キリスト教会の歴史において,今日は重要
な日だ。野営地から険しい峡谷を6マイル〔約10キロ〕進み,最後の川を渡って
渓谷を抜け出ると,壮大な谷,すなわち盆地が一望できる場所に出た。ソルトレ
ーク,聖徒の休息の地として神の御手により取っておかれた約束の地だった。神
のシオンが築かれる地だ。中央に大きな塩の湖を持ち,青々とした植物に覆われ
た縦25マイル〔約40キロ〕幅16マイル〔約26キロ〕の豊かで肥沃な大盆地をわた
したちは驚嘆しながら見つめていた。そこには大きな島があり,雲に向かって
山々がそびえたち,新鮮な水がわき出る泉,小川や渓流,大小様々な川幅を持つ
水が流れる輝くばかりの盆地,マスや魚などの生き物が生息するこれらの流れは
すべてグレート・ソルトレーク湖へ流れ込んでいた。ウィンタークォーターズを
出発してから,プラット川の平坦地,ブラックヒルズの急勾配,ロッキー山脈,
見渡すかぎりセージに覆われた灼熱の砂地,ヤナギの木に覆われた湿地帯,岩だ
らけの峡谷,岩石を越えて1,200マイル〔約1,900キロ〕の苦しい旅を終えたわた
したちは,万年雪に覆われた悠久の丘や山々に切れ目なく取り囲まれた広大な盆
地を目にして喜びに満たされた。さらに,ピラミッドのように天に向かってそび
え立つ無数の峰は,恐らく地上で最も壮大で崇高な景観ではないかと思われた。
感慨に浸っていると,これから何年もたたないうちにシオンの住民が建てた神の
家が山の頂に立ち,盆地が果樹園とぶどう園,庭園,農地に変わり,民の集合の
合図となる旗がひらめいている楽しい光景が矢継ぎ早に心に浮かんできた。」
(Journal of Wilford Woodruff,1847年7月24日付)
み
て
こ う ば い
「恐れず来たれ,聖徒」(『賛美歌』17番)の3節を全員で歌います。それから次の質問
をします。聖徒たちは長く苦しい旅を終えた後に,乾燥して人の住めないと言われるよう
な盆地に定住することをあえて受け入れたのはなぜだと思いますか。
ウィルフォード・ウッドラフは釣りを楽しんだ
ウィルフォード・ウッドラフが好んだ娯楽の一つは魚釣りだったことを生徒に話します。
父の製材所の動力を供給した川,マスが泳ぐイングランドの川,ロッキー山脈の川でウィ
ルフォード・ウッドラフは釣りを大いに楽しみました。イングランドでフライフィッシン
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
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グを学んだウィルフォード・ウッドラフは後に,初期の開拓者の間でフライフィッシング
の名人と言われるようになりました。
次の質問をします。忙しい日程をこなすために,レクリエーションにはどのような価値
があるでしょうか。
1892年に,ユタのユインタ山地で休息のためのキャンプ旅行をしていた85歳のウッドラ
フ大管長はForest and Stream〔森と渓流〕誌あてに手紙を書いたことを説明します。こ
の手紙の中で,ウッドラフ大管長は釣りへの関心をこう回顧しています。
「わたしはマスの生息する川の川岸で……生まれました。それは祖父と父が長
つりざお
年使っていた製粉所と製材所の水車に動力を供給していた川でした。釣竿を持て
る年齢に達するとすぐにマス釣りを始めました。それ以来暇を見つけては,80年
近く続けてきました。
わたしはオンタリオ湖の東端のニューヨーク州オスウィーゴ郡アッシュランド
に数年間住んだことがあります。サケ漁を手伝っていたある日の朝,500匹のサ
ケを捕らえました。大部分は20ポンド〔9キロ〕以上で,中には40ポンド〔18キ
ロ〕もあるものもいました。マスとサケのフライフィッシングは,1845年にイン
グランドとスコットランドで経験したのが最初でした。」(“Utah Fish and Game
Notes,”Forest and Stream,1892年9月22日付,249)
ウィルフォード・ウッドラフはジョン・テーラーの後継者として大管長に召された
1887年7月26日,ユタのサンピート郡にいたウィルフォード・ウッドラフ長老はジョン・
テーラー大管長がユタのケイズビルで亡くなったことを知りました。テーラー大管長の死
についての思いをつづったウィルフォード・ウッドラフの以下の日記を読みます。自分が
教会を導くことになると分かったときに彼が感じた謙遜さの模範を聞き取るよう生徒に言
います。
け ん そ ん
きょう
「ジョン・テーラー大管長は今日の8時5分前に亡くなった。この死により,末
日聖徒イエス・キリスト教会を見守る責任を,大管長不在の場合の教会の管理役
員である教会の長,すなわち十二使徒定員会会長であるわたしが双肩に担うこと
となった。これによってわたしは非常に特異な状況,生涯を通じて決して求めた
ことのない立場に置かれた。しかし神の摂理によってこの職を与えられたのだ。
この責任を果たすための助けと祝福を与えてくださるよう天の御父である神に祈
る。それはどんな人物が就くとしても高くて責任の重い職であり,大いなる知恵
を必要とする職である。自分がテーラー大管長よりも長く生きようとは思いもし
なかった。……しかしそうなったのであり,……ただこう言えるだけである。お
お,全能の主なる神よ,あなたの道は何と驚くべきものでしょう。地上で御自分
みわざ
を行わせるために,確かにこの世の弱い者を選ばれたからです。あなたの
の御業
しもべ
僕 ウィルフォードが,何であろうと地上で待ち受けるものに備え,天の神によっ
て求められることを行う力を持つことができますように。わたしはこの祝福を,
み な
生ける神の御子イエス・キリストの御名によって天の御父に求めます。」(Journal
of Wilford Woodruff,1887年7月26日付)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
ウィルフォード・ウッドラフは啓示により公式の宣言を発表した
教会の歴史上最も大きなチャレンジの一つに遭遇した時期は,多妻結婚の慣行のゆえに教
会員が激しい迫害を受けた時期でした。主はウィルフォード・ウッドラフ大管長に多妻結
婚を続けていると聖徒がどのような目に遭うかを啓示されました。主はウッドラフ大管長
に,「国の法律によって禁じられたいかなる結婚も,それを行うのを差し控えるよう」(公
式の宣言一)聖徒に告げることを指示されました。
かじ
生徒用手引きから「公式の宣言は啓示によって授けられた」と「神は舵を取っておられ
る」(70−71ページ)を研究します。クラスを二つに分けて,それぞれのグループにいず
れかの項を読んで,要約し,学んだことを発表させます。
主に従う決意についてウィルフォード・ウッドラフ大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「すべてのイスラエルに対して申し上げます。わたしは主の前で熱心な祈りを
ささげた後に,この『宣言』を発表しました。わたしは同年代の人たちと同じよ
うに霊界へ行こうとしています。わたしは霊の父である天の御父の御顔を仰ぎ,
ジョセフ・スミス,ブリガム・ヤング,ジョン・テーラーそして使徒たちと顔を
合わせたいと思っています。わたしは神の目と諸天の前で喜ばれないようなこと
をするのであれば,むしろここから外へ出て行って銃で撃たれる方を望みます。
わたしはほかの人よりも優れた人生を送ったわけではありません。わたしは自分
が歩んできた道の途中で抱いたいろいろな思いをよく知っています。しかし,わ
たしは自分の義務を果たしました。わたしたちが構成するこの国家は,この原則
に関連して行われたことについて責任を負わなければなりません。」( Deseret
Weekly,1890年10月18日付,552)
み
か
お
次の質問をします。人々に喜ばれるよりも神に喜ばれることに関心を寄せることはなぜ
大切なのでしょうか。
ウィルフォード・ウッドラフ大管長は教会を導くために啓示を受けた
ウィルフォード・ウッドラフ大管長は教会が進歩するには絶えず啓示が必要であることを
教会員に教えたことを説明します。ウッドラフ大管長が語った以下の言葉のすべてまたは
一部を紹介します。
「末日聖徒の皆さんに申し上げます。わたしたちは非常に大切な時代に生きて
います。わたしたちは神の命によって聖なる神権を持つことにより,地上に来て,
う権能と権威を授けられています。……もしもわたしが聖なる
生者と死者を贖
みたま
御霊と神の啓示を受けられないような状態に陥ったならば,主はわたしの生涯の
一日たりともこの地位にいることをお許しにならないでしょう。もはや,この教
たまもの
会は啓示なしに存在することはあり得ません。この賜物を持ち,それを人々に授
けるのは大管長だけではありません。顧問,使徒そして聖なる神権を持つすべて
の男性はその召しを尊んで大いなるものとするならば,たとえ教会を導き,指示
を与えるための啓示を受けるよう召されなくても,自分のために,また自らの義
務を果たすために,その賜物を持っていなければなりません。
あがな
……末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として申し上げます。わたしたち
は前進して,進歩すべきです。わたしたちはすべての啓示を受けたわけではあり
ません。神の業を成し遂げたわけではありません。……わたしたちは預言者と使
徒を頂いてきました。預言者ジョセフ・スミスの後を継いだヤング大管長はわた
したちをここまで導いて来ました。彼はこれらの神殿を計画し,自分の召しと職
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
67
の目的を果たしました。彼はこの偉大な神殿の基礎をこの場所に置いただけでな
く,ほかの神殿の基礎もイスラエルの山々に置きました。何のためでしょうか。
わたしたちが死者の贖いに関するこれらの原則を実行できるようにするためで
す。ヤング大管長は神から求められたことをすべて成し遂げました。しかし,こ
の業に必要なすべての啓示を受けたわけではありませんでした。テーラー大管長
も,わたしウィルフォード・ウッドラフも同じです。この業は完成するときまで,
終りなく続くのです。」(Millennial Star,1894年5月21日付,324−325)
ウィルフォード・ウッドラフ大管長は神殿の業を行う方法について啓示を受けたことを
説明します。教会の初期の時代に,ある人々は神殿の結び固めによって自分の血統とは無
縁の,忠実な指導者との間で養子縁組を行っていました。自分の家族以外の人に結び固め
るこの慣習は,ウッドラフ大管長が以下の声明を発表した1894年4月8日まで,広く行われ
ていました。
「神の神殿において養子縁組の儀式に参加してきたわたしやテーラー大管長を
含めて,預言者ジョセフ・スミス以降のあらゆる人は養子縁組の儀式に納得して
いませんでした。わたしたちはこのテーマについてさらに啓示が与えられるはず
だと感じてきました。これまで,数々の啓示がセントジョージ神殿でわたしたち
に与えられてきました。そして,ヤング大管長がそれらの啓示を神の教会の皆さ
んに提示しました。そこで変更が加えられました。今後も,天の御父に満足して
いただき,死者とわたしたちが納得するために,さらなる変更が行われます。そ
の幾つかをお話しします。この件について,わたしは祈ってきました。中央幹部
の兄弟たちも同様です。テーラー大管長が述べたように,わたしたちは養子縁組
の律法の下で行われる結び固めについて,もっと啓示を受けなければならないと
感じてきました。さて,どのような変更を行うのでしょうか。一つは養子縁組の
原則です。ノーブー神殿で男女の養子縁組が始められたとき,非常に多くの人が
自分の先祖の血統でない別の人との養子縁組を行いました。……
さて,イスラエルはどう考えているでしょうか。彼らはだれかに養子縁組され
たいと考えてきました。……わたしは自分がだれに養子縁組されるべきか(当時
は預言者や使徒に養子縁組されていた)を知りたくて主の御前に行くと,神の御
霊がこう語りました。
『あなたにはあなたを生んでくれた父親がいないのですか。』
『いいえ,父親はおります。』『では,なぜ父親を尊ばないのですか。なぜ,父親
に結び固められないのですか。』わたしは『はい,もっともなことだと思います』
と言いました。わたしは父親と結び固められ,父親はその父親という具合にさか
のぼって結び固めなければなりませんでした。神殿を管理するすべての兄弟たち
は,今後,また永遠にわたって,全能の主がほかの方法を指示されないかぎり,
すべての人がその父親と結び固められるように儀式を行ってください。人がエン
ダウメントを受けるとき,その父親に結び固めてください。ウィルフォード・ウ
ッドラフでなく,また自分の父親の血統に属さないほかの人ではありません。神
みこころ
がこの民に示しておられる御心はこれです。……
み
ま
え
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第 4 章 ―― ウ ィ ル フ ォ ー ド ・ ウ ッ ド ラ フ
主はわたしの祈りの中で,すべてのイスラエルにこの原則を実行するように言
うことはわたしの義務であると啓示してくださいました。神殿の中で働いている
すべての人はこの原則を実行してください。そうすれば,わたしたちは以前の状
態からさらに一歩前進するでしょう。わたしは顧問とともにこの点について話し
はか
合い,同意した後に,ここにいるすべての使徒に諮りました。……主は使徒全員
み こ と ば
に啓示されました。彼らはもし求められるなら,それが主の御言葉であると証す
ることでしょう。わたしは教会の中で,この原則に関連して示された以上に固い
一致を見たことがありません。彼らは皆,それが正しく,わたしたちの義務であ
ると感じています。……この件について神の御霊はわたしたちとともにおられま
す。末日聖徒はこれから,可能なかぎり自分の系図をさかのぼり,自分の父親や
母親との間で結び固めを受けてほしいと思います。子供たちをその親に結び固め
て,この鎖を可能なかぎり長く伸ばしてください。」(Millennial Star,337−339)
あかし
一人の生徒に信仰箇条1:9を読んでもらいます。それから以下の質問をします。
• 養子縁組に関するウッドラフ大管長の教えは信仰箇条第9条をどのように反映している
でしょうか。
• 絶えざる啓示の原則はなぜ不可欠なのでしょうか。
聖徒たちはソルトレーク神殿の奉献をきっかけとして先祖の探求を始めた
生徒に教義と聖約110:13−15を開かせてから,一人の生徒に読んでもらいます。次の質
問をします。どのようにして子孫の心が先祖に向けられてきたでしょうか。
1893年に行われたソルトレーク神殿の奉献と,神殿の結び固めに関してウィルフォー
ド・ウッドラフ大管長が受けた啓示がきっかけとなってユタ系図協会が設立されたこと
を説明します。この組織は自分の先祖を探求できるように会員たちに記録を提供してき
ました。
次の質問をします。あなたは人生のこの時期に,先祖のためにどのような神殿活動がで
きるでしょうか。
一人の生徒に家族歴史活動について感じていることを分かち合ってもらいます。今週,
先祖の名前を集める,個人の歴史を書き始める,両親や祖父母から彼らの人生について話
を聞くなど,何らかの家族歴史活動に着手するよう励ましてください。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第5章
ロレンゾ・スノー
© IRI
第5代大管長
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第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ロレンゾ・スノーは1814年4月3日オハイオ州で誕生しました。当時は世界各地で戦争が起き
ていました。アメリカ合衆国はイギリスと戦争をしていました。フランスはヨーロッパでナポレ
ぼっぱつ
オン戦争を展開していました。中南米では独立戦争が相次いで勃発していました。
預言者ジョセフ・スミスが聖なる森で最初の示現を受けた1820年,ロレンゾ・スノーは
6歳でした。それから16年後の22歳のときに,ロレンゾはオハイオ州カートランドでバプ
テスマを受けました。
出来事,特筆事項,教え
ロレンゾ・スノーの両親は責任感と広い心を持つように励ました
生徒用手引きから導入の段落と「ロレンゾは幼いときから責任について学んでいた」(78
ページ)の概略を話します。ロレンゾ・スノーは父親が不在のときに家族の農場の監督を
任されていたことを強調します。次の質問をします。ロレンゾ・スノーにとって,農場で
働いたことは,どのように将来の務めに対する備えとなったでしょうか。
生徒用手引きの「ロレンゾは思いやり,寛大な心,寛容を教わった」(78ページ)で述
べられているロレンゾ・スノーの家庭生活とゴードン・B・ヒンクレー大管長が語った以
下の助言とを比較します。ヒンクレー大管長が強調した原則をスノー家の人々はどのよう
に実践していたかを生徒に尋ねます。
「わたしたちは一人一人,他の人とは異なる個人です。このような違いは尊重
されなければなりません。」(Teachings of Gordon B. Hinckley〔1997年〕, 661)
「わたしたちは自分の信奉する教義や哲学にかかわりなく,お互いに対する寛
容な精神をもって敬意と忍耐心を培うために,さらに努力する必要があります。
意見が合わないことがあるかもしれませんが,敬意と礼儀を示すことができま
す。」(Teachings of Gordon B. Hinckley,665)
一人の生徒に信仰箇条1:11を読んでもらいます。それから以下の質問をします。
• 意見が一致しない相手であっても,どうすればその人を尊重することができるでしょ
うか。
• 他人を尊重することは,なぜ末日聖徒の慣行の中で重要なものとなっているのでしょ
うか。
ロレンゾ・スノーは教会員の模範と教えによって福音を学んだ
ロレンゾの家からさほど遠くないオハイオ州カートランドの教会から宣教師がスノー家を訪れ
て,福音を教えたことを説明します。その結果,ロレンゾ・スノーの母と姉のレノラが1831年に
バプテスマを受けました。姉のエライザは1835年にバプテスマを受けました。家族はこのよう
に改宗していきましたが,ロレンゾは数年間,教義に対してほとんど関心を示しませんでした。
オハイオ州オバーリンの学校に通うことにしたロレンゾは,家から50マイル〔約80キロ〕離れた
学校へ向かいました。その途中で,デビッド・W・パッテンに出会いました。デビッド・W・パッ
テンはこの神権時代に最初に召された使徒の一人でした。
この出会いがロレンゾ・スノーに与えた影響を説明した次の話を一人の生徒に読んでも
らいます。これは姉のエライザ・R・スノーが記したものです。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
71
「弟はオバーリンに向かう途中で,たまたまデビット・W・パッテンに出会いました。
それは人生で起きる一見平凡な出来事ながら,消すことのできない跡を残す出来事
の一つだと弟はよく言います。この紳士は初期の時代に完全な福音を擁護した人物
でした。……この霊感を受けた長老が熟知していたと思われる深遠で美しい哲学
的論証に弟は感銘を受けました。……そのときから,弟の心に新しい視野が開かれ,
新しい考え方が生まれました。そのときに受けた感銘を消し去ることができなかっ
たのです。」
(Biography and Family Record of Lorenzo Snow〔1884年〕,4)
最初に出会ったときはさほど重要な意味を持つとは思われなかった人が,後の人生に非
常に大きな意味を持つようになった経験を分かち合うよう生徒に言います。十二使徒定員
会会員を務めたニール・A・マックスウェル長老が人々との交わりについて語った以下の
言葉を読みます。
「賞賛に値する多くの祝福の一つに,ごくまれに,お互いの人生が交差し,人
生が大きく変わることがあります。しかしそのようなことは驚くべきことでしょ
うか。『すぐにうち解ける友達』とか『特別な親しみを感じる人』などというこ
とが時折ないでしょうか。結局,わたしたちは自分が影響を及ぼす範囲内にいる
人々,すなわち,神から特に愛し,仕えるように期待されている人々との交わり
の中で,自分の人間性の大切な一部を培う機会が与えられるのです。規模や範囲
の大小にかかわりなく,交わりを持つ生活圏の中に,まだ見ぬ『十分にあり余…
…る』(教義と聖約104:17)奉仕の機会があるのです。幸いにもこれらの互いに
影響を与え合う関係は,多種多様の機会を与え,『無数の祝福』をもたらすこと
ができます。……
これらの互いに影響を与え合う関係とは何を意味しているでしょうか。神はわ
たしたちが許容する程度に応じて,一人一人の生活に深くかかわっておられるこ
とを忘れてはなりません。」(One More Strain of Praise〔1999〕,97,103)
次の質問をします。「自分の人間性の特定の部分」にかかわる人々を愛し,彼らに仕え
るために,あなたはどのようなことができるでしょうか。
クラスを3つのグループに分けて,生徒用手引きの以下の項から口頭で簡単な発表をす
る割り当てを与えます。
「母と二人の姉が改宗した」
(78−79ページ),
「ロレンゾは教会に対して偏見を持たず,積極的に耳を傾けた」(79ページ),「ロレン
ゾはバプテスマを受ける前に会員たちを注意深く観察した」(79ページ)。報告を求める前
に,末日聖徒の家庭の出身でない生徒から,どのようにして福音を知ったかについて話を
してもらうとよいでしょう。このような生徒がいなければ,あなたの知っている改宗者に
ついて話します。それから,各グループの代表者に,ロレンゾ・スノーの改宗について発
表してもらいます。以下の質問をします。
• 改宗の過程で,教会員の模範はなぜ福音が真実であることと同じように大切なのでしょうか。
• 教会員は福音のメッセージに耳を傾けるよう家族に勧めるに当たって,どのような方
法を取るのがいちばんよいでしょうか。
生徒自身が,教会員でない人々に言葉と行いによって与えてきた模範について考えても
らいます。もし生徒が変わる必要があると感じていれば,目標を設定して,生活を変える
ように励まします。
あかし
ロレンゾ・スノーは聖霊を通して強い証を受けた
生徒用手引きの「ロレンゾは研究し,バプテスマを受け,そして回復された真理の証を受
けた」(79−80ページ)から段落2までを復習します。ロレンゾ・スノーがバプテスマを受
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
72
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
ける決意をした理由をまとめさせます。それから,次の質問をします。ロレンゾ・スノー
はバプテスマを受けることによって何を受けると期待していたのでしょうか。
一人の生徒に3ニーファイ11:32−35と3ニーファイ12:1−2を声に出して読んでもらい
ます。次の質問をします。「火と聖霊によって」バプテスマを受けるとはどういう意味で
しょうか。
一人の生徒に,生徒用手引きの「ロレンゾは研究し,バプテスマを受け,そして回復さ
れた真理の証を受けた」(79−80ページ)から残りの段落を声に出して読んでもらいます。
それから以下の質問をします。
• ロレンゾ・スノーは受け入れた福音の原則を,バプテスマを受けることによってどの
ように「完全に理解」したでしょうか。
• 聖霊からの証を得るには,なぜそれを求める努力を本人がしなければならないのでし
ょうか。
ロレンゾ・スノーは宣教師になることを強く望んだ
帰還宣教師または間もなく伝道に出発する準備をしている生徒に,奉仕の召しを受けたま
たは望む動機について話してもらいます。生徒用手引きから「ロレンゾは神に仕えること
を望んだ」(80−81ページ)を読みます。ロレンゾはどのような動機から伝道することを
望むようになったかを生徒に見つけさせます。
次の質問をします。ロレンゾ・スノーはなぜ宣教師として奉仕する特権を強く望んだの
でしょうか。生徒用手引きの「ロレンゾ・スノーの生涯におけるおもな出来事」(77ペー
ジ)に目を通して,彼の伝道に注目します。
教義と聖約第4章を読んでから,以下の質問をします。
• 宣教師として奉仕するにはどのような資質が必要でしょうか。
• もっとよく主に仕えるために,どのような準備をしたらよいでしょうか。
• 伝道することによって,その後の人生にどのような影響が及ぶでしょうか。
主は伝道中のロレンゾ・スノーを守られた
ロレンゾ・スノーがニューヨークからイギリスのリバプールへ向かう旅の間の出来事につ
いて,叔母に知らせた以下の手紙を紹介します。
「航海は42日間に及ぶものでした。その間,猛烈な嵐に3度見舞われました。
航海に慣れている人ですら非常に危険だと言ったほどの大きな嵐でした。荒れ狂
う波に慣れていないわたしにはとうてい比較などできませんが,たびたび襲って
きた大波は,控え目に言ってもすさまじく恐ろしいものでした。神に頼ることを
知らない男女や子供たちが恐怖のあまり手を強く握り締め,泣き出したのは無理
もありませんでした。わたしは,海を創造し,その領域を定められた神にすべて
をお任せしていました。わたしは神の用向きを行っていたからです……
さて,嵐が収まり,海が静けさを取り戻すと……船は波を分けて堂々と前進し
始めました。そのとき,全員が喜びと感謝で心を満たされました。」(スノー,
Biography and Family Record,49−50)
スノー長老はイギリスに到着して間もなく,ロンドンの教会を管理する任務を与えられたこと
を説明します。当時,教会は急速に成長していました。けれども,成功する一方で,敵対する
者たちからの抵抗をしばしば受けました。スノー長老は程なくして,悪魔の目に見えない力に
よる攻撃を受けることになります。姉のエライザが記した次ページの話を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
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「夜ベッドに入って眠っていると,弟はただならぬ物音に目を覚ましました。
まるで部屋中の家具が動き出して,……互いに激しくぶつかり合っているような
物音に,眠ることも休むこともできない有様でした。
弟は毎晩この突然の物音に悩まされ,今度こそ最後だと思いながら数日を過ご
しました。その物音は突然始まっては,突然やみ,その攻撃におとなしく服従し
ているかぎり,いつまでも繰り返されるという現実を突きつけられたのです。ど
うにかしなければなりません。この家の主人として,その権利を主張しなければ
なりません。
このため,1日断食してから,ひざまずいて夜の祈りをささげる前に,弟は聖
み な
により,また聖なる神権
書から1章を声に出して読むと,ナザレのイエスの御名
しっせき
の権能によって,それらの悪霊を叱責し,家から立ち去るよう命じました。それ
からベッドに入ると,もはや妨害する物音はしませんでした。しかし,悪霊たち
はたった1度の戦いに敗れたからといって意気消沈することはありませんでした。
間もなく,かなりの数の教会員が離反し,あからさまな反逆行為を展開したため,
残念ながら,彼らを破門しなければなりませんでした。」(スノー, Biography
and Family Record,54)
伝道活動に対する妨害行為は続けられていましたが,教会は成長し,進歩し続けたこと
を説明します。スノー長老がロンドンの教会を指導するようになってから6か月後に,
100人に満たなかった会員が220人に増えました。以下の質問をします。
• もし敵対者を恐れたり,十分な信仰をもって対応していなかったりしたら,スノー長
老はどのような目に遭っていたと思いますか。
• あなたは自分の持っている信仰に対する反感や迫害を受けた経験があるでしょうか。
• 義にかなった生活をしている人々が,それにもかかわらず試しを受けるのはなぜでし
ょうか。
12歳の執事グループから次のような質問を受けたとしたら,どう答えるか生徒に聞く。
「世界には危険なことがたくさんあるのに,どうして伝道に出るよう計画しなければなら
ないのですか。」続いて,教義と聖約35:13−14と84:88を参照します。そして十二使徒
定員会のM・ラッセル・バラード長老が語った以下の話を紹介します。
「宣教師たちがこの偉大な業に携わるときには,必ず困難な問題や苦難が伴い
ます。宣教師の両親は事故や病気で伝道中に愛する息子や娘を失う危険性がある
こんにち
ことを知っています。今日ではさらに,テロ行為の恐れもあります。……
しかし,……両親の皆さんや今後宣教師となる方々が恐れを抱いたり,伝道は
非常に危険であると思ったりする理由は何もありません。……宣教師たち……の
死亡率は,……同年代の青年の死亡率に比べるとずっと低いのです。」(「危険を
冒して果たすべき務め」『聖徒の道』1990年1月号,34−35)
主に仕えている間,どのように守られていたかについてロレンゾ・スノーが語った次の
経験の一部またはすべてを紹介するとよいでしょう。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
「オハイオ州スターク郡でスミス兄弟の家に泊まっていたときでした。ある晩,
暴徒が集まってわたしを襲う準備をしている夢を見ました。その夢を見た翌日の
夕べに,訪ねてきた友人たちと座って談話をしていると,ドアを強くノックする
音がしました。ドアを開けると,きちんとした身なりの青年が二人立っていまし
た。そして,『1マイル(約1.6キロ)先の学校まで案内するので,そこに集まって
いる人々に話をしてもらえませんか』と丁寧に頼まれました。わたしが少しため
らっていると,二人は招待を受けるようせかし始めました。そのとき,昨晩見た
夢が突然脳裏をよぎりました。わたしは期待に添えないと言いました。彼らはど
うしてもわたしを連れて行くと言って譲りませんでした。どうしても求めに応じ
ようとしないわたしの決意を知った二人は失望を表しただけでなく,激しく怒り
ました。
翌日になって,人々が学校でわたしを待っていたという点で二人は真実を述べ
ていたことが分かりました。けれどもその集会の目的は青年の話からかけ離れた
ものでした。わたしが夢で見たとおりのことを計画していたのです。」(スノー,
Biography and Family Record,17)
「〔1851年の秋に〕ウェールズに滞在していたとき,わたしは幾つかの大変興
味深い集会に出席しました。11月4日の夕べ,モンマウスシャイアのトレドガー
の,あるホールで開かれた集会に非常に多くの人々が出席し,わたしはそこで話
をしました。……
集会が終わると,〔ウィリアム〕・フィリップス長老とわたしはホテルに案内
されました。そして夕食が終わると,宿泊する2階の部屋に案内されました。ド
アを閉めて寝室に入るときに,錠がこわれていて,きちんと閉まらないことに気
づきました。間もなく11時過ぎになり,わたしたちはベッドに入りました。何の
害を受けることもないと考えていたわたしたちはぐっすりと眠っていました。お
そらく午前2時ごろだったと思います。突然,ベッドの横に立っていた残忍な顔
つきをした男に起こされました。そしてわたしと同僚に,すぐに出て行かないと
痛い目に遭うと脅しました。彼は,とても不敬な言葉と想像を絶するほどの汚れ
た言葉を吐きながら,わたしの目の前に巨大なこぶしを突き出しました。大柄で,
どう猛な顔つきをした二人の仲間が横にいて,殴りかかろうと身構えていました。
フィリップス兄弟はぐっすり眠っていたため,彼を完全に目覚めさせて,わたし
たちの置かれている事態を知らせることはできませんでした。暴行を加えようと
いきり立っている3人の暴漢から身を守ることなど不可能でした。後に分かった
ことですが,彼らはわたしたちに危害を加えるために雇われた者たちで,ホテル
の主人はひそかに,この襲撃を共謀していたのでした。
押し問答を繰り返しているとき,暴漢の一人が持っていた明かりが何かの理由
で突然消えました。驚いた彼らは急いで部屋から飛び出しました。わたしはフィ
リップス長老に,すぐさまドアにバリケードを築き,何とかして身を守らなけれ
ばならないと言いました。暴漢は必ずもう一度襲撃してくると思ったからです。
わたしたちは,いすの背をドアの錠の取っ手の下に差し込んで開かないようにす
ると,わたしがそのいすを抑え,フィリップス兄弟が大きくて頑丈な身体でドア
を押さえることにしました。
このような防御態勢を整えたのとほぼ同時に,暴漢はさらに多くの手勢を引き
連れて再度襲ってきました。彼らは何とかしてドアを開こうとしましたが,開き
ませんでした。そこで〔サムソン〕のように体ごとぶつかってドアを破ろうとし
ましたが,内側から強く抑えられていたため,効果がありませんでした。すると,
今度は汚い言葉を吐きながら,ドアを叩き,蹴り始めました。物音と騒動が次第
に大きくなったため,ホテルの主人はこれ以上事態を放置できなくなりました。
そして,暴漢たちに退去するよう求めたため,ようやく騒ぎが鎮まりました。
た た
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
け
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
75
この騒動から数年後,この醜態を繰り広げたホテルはみすぼらしい馬小屋とし
て使われており,ホテルの主人は物乞いにまで落ちぶれて,あちらこちらをさま
よっているという話を耳にしました。」(スノー,Biography and Family Record,
189−191)
ご
「わたしはその月の9日に〔郵便馬車に乗って〕ジュネーブを発ち,山岳地帯の
曲がりくねった険しい道を進みました。……そびえ立つアルプスに近づくと,猛烈
な吹雪に襲われました。陰うつで,わびしくつらい旅になりました。翌日の午後6時
ごろ,モンスニ峠(訳注−アルプスの山道)を上り始めて,翌日の午前1時に雲に包
まれた6,700フィート〔約2,042メートル〕の頂上に着きました。
山越えの冒険にいどむ乗客はわたし以外に一人しかいませんでしたが,雪の吹
きつける中を進むには,10頭の馬でも足りないほどきつい道でした。前に郵便馬
車が通過してから降った雪はすでに4フィート〔約1.25メートル〕近くも積もって
おり,そのうえ狭く,屈折する道を登ることは大きな危険を伴いました。馬がた
った一度のつまずきや,馬車が何かにぶつかったりするだけで,1,000フィート
〔約300メートル〕の崖を転げ落ちてしまう地点が随所にあったのです。……
が け
下りに差しかかると,馬の進み具合ははるかに容易となり,わたしたちもほっ
と一安心しました。険しい岩山を越えられたことを感謝しました。これまで2度
経験した冬,しかも夜間のこのような旅を,3度目は経験したくないと願ってい
ます。けれども,このような問題について心を煩わせる必要はありません。わた
したちの力の及ばないことだからです。」(スノー, Biography and Family
Record,207−208)
伝道中に主から守られた経験(あるいはそのような経験の持ち主について知っているこ
と)を一人か二人の生徒に分かち合ってもらいます。
ロレンゾ・スノーは西部への旅に備える聖徒たちを力づけた
入手可能であれば,生徒に末日聖典合本(英文)の地図5「アメリカ合衆国ミズーリ,イ
リノイ,アイオワ地域(The Missouri, Illinois, and Iowa Area of the USA.)
」を開いて,
アイオワ州マウントピスガを見つけさせます。聖徒たちはイリノイ州ノーブーからウィン
タークォーターズへ向かう途中,休息を取り,さらに旅を続ける準備をするために,しば
しば街道わきに設けられた中継地点に立ち寄ったことを説明します。そのような中継点の
一つがマウントピスガでした。ロレンゾ・スノーは1846年の夏から1848年の春までここに
滞在しました。そして,1847年の春から同地の聖徒たちを管理しました。
マウントピスガで多くの聖徒は困難な状況に置かれていたことを説明します。当時の聖
徒たちの状態についてロレンゾ・スノーが説明した以下の言葉を読みます。
「この時ピスガの聖徒たちは食糧や衣服だけでなく,旅を続けるための牛馬や
荷車にも事欠く状態に追い込まれていました。生活必需品が完全になくなり,隣
人の慈悲に頼らなければならない家族がいました。しかし,たいていの場合,人
に分け与えられるような状態ではありませんでした。そのうえに,病気が居留地
を襲ったのです。病人の世話をする健康な人が少なくなり,病人たちは次々に死
んでいきました。父親,母親,子供たち,兄弟,姉妹,愛する友が破壊者のえじ
きとなり,葬儀らしきこともせずに土に埋められました。埋葬衣さえ着せられて
いない死者もいました。窮乏生活のうえに,悲しみと嘆きが加えられたのでした。」
(スノー,Biography and Family Record,90)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
ロレンゾ・スノーはこのような状況に洞察力をもって精力的に立ち向かいました。姉の
エライザ・R・スノーはこう記しています。
「彼は人々の心を動かし,精力をかき立て,結集させました。まず兄弟たちを
部隊に組織し,適任者を選ぶと,彼らに異邦人の入植地へ行って日用品と衣類を
手に入れるために仕事を見つけさせ,またほかの人たちにここで収穫作業に携わ
らせ,召されて遠くへ行った人々の家族の面倒を見させました。ほかには,荷車
たる
おけ かくにゅう
を修理する人,古い荷車を解体して新しい荷車を作る人,いすや樽,桶,撹乳 機,
かごなどを作って近くの入植地へ売りに行く人たちがいました。……
そうめい
彼は……聡明で思慮分別のある二人の兄弟をオハイオ州政府や各地に派遣して
支援を求めさせ,また聖徒の必要を満たし,西部への旅を支援してくれるよう裕
福な異邦人から寄付を求めさせました。彼らは資金の調達に成功して約600ドル
を持ち帰りました。こうして,多くの日用品と衣類を人々に支給したうえに,で
きるだけ早く旅を続けることを望んだ人々を出発させることができました。」
(Biography and Family Record,90−91)
ロレンゾ・スノーはさらに聖徒たちを力づけ,彼らのために様々な活動と宗教行事を実
施しました。日記にこう記録しています。
「長い冬の間,わたしはピスガの聖徒たちの士気を高め,激励するため,居住
地内の各地で礼拝と宗教的な行事の集会を始めただけでなく,種々の適切な娯楽
を奨励し,それに必要な物を用意した。もちろん,わたしたちが置かれていた環
境に合わせたこれらの娯楽は地味で,単純なものだった。単純ではあっても,か
つて見たことのないような娯楽だったため,人々は大いに楽しんだ。それらはま
ことに創意工夫に満ちていた。」(Biography and Family Record,91)
ロレンゾ・スノーはブリガム・ヤング会長からの指示に従い,開拓者隊を組織すると,
1848年の春にマウントピスガを出発して,ソルトレーク盆地に向かいました。1848年の秋
に彼は家族とともに盆地に到着しました。以下の質問をします。
• ロレンゾ・スノーは困難な状況にあって最善を尽くすために,どのようなことをした
でしょうか。
• 自分が困難な状況に置かれているとき,どうすればほかの人を助け,強めることがで
きるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
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第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ロレンゾ・スノーは1849年2月12日に使徒に召され,1889年4月7日に十二使徒定員会会
長,1898年9月13日に大管長に召されました。
ロレンゾ・スノーが大管長になったとき,教会は巨額の負債を抱えていました。教会は
長年にわたって多妻結婚の法廷闘争を繰り広げてきました。弁護料を支払えない会員たち
を支援し,教会を崩壊させることを意図した法律と闘うための費用に加えて,ソルトレー
ク神殿の建築にも多額の費用がかかっていました。エドマンズ・タッカー法に基づいて合
じゅうぶん
衆国政府が教会の資産を没収していた間,什分の一からの収入が激減しました。政府が教
会資産を没収することを知っていたため,多くの聖徒は什分の一を納めようとしなかった
からです。さらに事態を悪化させたのは,1890年代初期に合衆国が深刻な経済不況に陥っ
たことでした。このため教会員にとって,什分の一を納めることは信仰の大きな試しとな
りました。1898年までに教会は125万ドル以上の負債を抱えていました。(リチャード・
,15;レナード・J・アリ
O・コーワン,The Church in the Twentieth Century〔1985年〕
,400−401参照)
ントン,Great Basin Kingdom 〔1958年〕
ロレンゾ・スノーは大管長になったとき,84歳でした。指導者として霊的にもこの世的
にも十分な準備ができていました。鋭敏な心を持ち,教育を積極的に奨励しました。犠牲
の律法を断行することによって,主の民の俗世と霊の基礎をしっかりと築くという特別な
使命を帯びていました。彼が大管長になったとき,教会は40のステークと20の伝道部に27
万人の会員を擁し,4つの神殿を持っていました。そして1901年に他界したときには,50
のステークと21の伝道部に29万3,000人の会員を擁するまでに発展していました。( 2003
Church Almanac〔2003年〕,473,631参照)
出来事,特筆事項,教え
ロレンゾ・スノーは使徒に召されて,イタリアで伝道した
1849年2月12日,ロレンゾ・スノーは十二使徒定員会の集会に出席するよう求められたこ
とを生徒に話します。彼はなぜ自分が出席を求められたのか分かりませんでした。出席
すると,驚いたことに十二使徒定員会の一員として召されたことを知らされました。そ
して使徒に聖任されました。
聖句ガイドから「使徒」の意味を生徒に調べさせます。教会において使徒は,救い主
とその福音を全世界に教え,証する使命を持っていることを説明します。
クラスを3つのグループに分けて,各グループに生徒用手引きから以下の項の一つを読
んでもらいます。「イタリアで伝道する召しを受けた」(82ページ),「ロレンゾ・スノー
はイタリアで反対に遭った」(82−83ページ),「ハワイでロレンゾの命は守られた」(84
ページ)。スノー長老の伝道の経験について各グループに簡単にまとめさせます。
イタリアにおける伝道活動を活発にさせた以下の奇跡を紹介するとよいでしょう。
ロレンゾ・スノーはイタリアにおける伝道活動が遅々として進まないことに不満を感
じていました。しかし後に,神の力を示す機会が訪れました。ロレンゾ・スノーはそ
れをブリガム・ヤング会長に手紙で報告しました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
「それは忍耐力を試される特別な経験でした。興味深い人々の間にあって何週
の
間も何か月間も時が過ぎましたが,わたしが遣わされて,宣べ伝えるべき偉大な
原則を積極的にまた公に話すことができませんでした。けれども,最初はゆっく
みたま
によって感じていたため,わたし
りと注意深く進めなければならないことを御霊
みこころ
は天の御心のままに身を任せていました。
9月6日の朝,宿泊先の末っ子で3歳の男の子ジョセフ・グレイのことが気にな
りました。大勢の友人たちがジョセフを見舞いに来ていました。間もなく息を引
き取るであろうことがだれの目にも明らかでした。わたしは午後,見舞いに行き
ました。死の影が忍び寄っていました。以前の健康な体は骨だけになっており,
よほど近づかないと,その子が生きているかどうか分からないほどでした。わた
したちが置かれている特異な状況を思い巡らしたとき,何をすべきかがはっきり
と分かりました。ベッドに入る前,数時間にわたって,主の助けを願い求めまし
た。そのときに感じたことを決して忘れることはできません。
9月7日,わたしは朝ステンハウス長老に,断食し,山に登って,祈ることを提
案しました。家を出るときに,グレイ家に寄って,男の子の病状を見に行きまし
どうこう
た。瞳孔が見えなくなり,まぶたが落ちて閉じられていました。顔も耳も細々と
して,青白い大理石のような色になり,死が間近に迫っていることを物語ってい
ました。冷たい死の汗で体全体がおおわれ,命の源が尽きようとしていました。
グレイ夫人と女性たちは嗚咽を漏らし,グレイ氏は頭を抱えて,わたしたちにこ
うささやきました。『息子が死んでしまう!息子が死んでしまう!』
お
え
つ
山に到着してしばらく休んでから,邪魔の入らないような場所を見つけると,わた
したちは子供の命を助けてくださるよう厳粛にまた熱意を込めて主に願い求めまし
た。わたしたちがこれから行おうと願っている事柄とまもなく世の人々に向けて述
べる主張について考えると,この状況は非常に重要だと思われました。わたしは自
分にどのような犠牲をささげられるか分かりませんでしたが,主がわたしたちの願
いを聞き届けてくださるなら,どのような犠牲でも喜んでささげるつもりでした。
午後3時ごろに戻ると,わたしたちは油を聖別し,自分の手に油を注いでから,
その手を子供の頭に置きました。そして子供が生き返るよう静かに心の望みを述
べました。数時間後に訪れると,父親が感謝の笑みを満面に浮かべてこう言いま
した。『とても良くなりました!良くなったのですよ!』
9月8日。昨夜の間に子供は急速に回復したため,両親はしばらくぶりで眠るこ
とができました。今日,両親は子供を寝かせたまま,家の仕事ができるようにな
りました。わたしが訪れると,グレイ夫人は子供の命が助けられたことを喜んで
いました。そこでわたしはこう言いました,『天の神があなたのためにこのよう
にされたのです。』」(エライザ・R・スノー,Biography and Family Record of
Lorenzo Snow〔1884年〕,128−29)
以下の質問をします。
いや
• スノー長老はなぜ「どのような犠牲でも喜んでささげる」ほど,子供が癒されること
を強く願ったのでしょうか。
• この少年が癒されるためにスノー長老はなぜ断食と祈りを欠かすことができないと考
えたと思いますか。
• 試しと思われるような出来事が,どのようにして主の業を行う機会となるのでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
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ロレンゾ・スノーは柔和に妨害を堪え忍んだ
一人の生徒に2ニーファイ2:11を読んでもらい,もう一人の生徒にそのメッセージを自分
の言葉でまとめさせます。以下の話を紹介し,生徒用手引きから「ロレンゾ・スノーは使
徒として熱心に働き,信仰を擁護した」
(85ページ)を復習します。
「1885年11月20日金曜日は,ロレンゾ・スノーの家族にとって忘れられない,
悲しみの日となりました。その日,尊敬すべき主の使徒が合衆国連邦保安官によ
り〔多妻結婚実施のかどで〕逮捕されたのです。召喚状には予備審問のためオグ
デンに出頭するようにと記されていました。
何か月も父の顔を見ていなかった子供たちは父親にしがみつき,激しく泣きま
した。子供たちをなだめるすべはありませんでした。」(トーマス・C・ロムニー,
The Life of Lorenzo Snow〔1955年〕,379〕
当時十二使徒定員会の会員だったスノー長老は裁判にかけられ,有罪を宣告されて,
1886年3月12日から拘禁されました。刑に服したときスノー長老は71歳でしたが,その境
遇に耐え,良い態度を保ちました。スノー長老の経験に関する以下の話を紹介します。
ユタ準州知事は投獄されたロレンゾ・スノーを訪れ,もし「多妻結婚の原則を否定
するなら」,恩赦を与えると約束しました。ロレンゾ・スノーはこう答えました。
「感謝
します,知事。すでに財産や家,ときには命を犠牲にしてまで神聖な原則を守ってき
たのですから,この期に及んで,危機が迫っているからといって破棄するわけには
いきません。」
(ロムニー,Life of Lorenzo Snow,380)
獄中のスノー長老は大管長会に次のような手紙を書きました。
「すべての善を与えてくださる御方に心から感謝しています。神が与えてくだ
さった健康な体と活気にあふれた霊に感謝します。避けられない事態を穏やかに
甘んじて受けることができると感じており,また,これから何が起きようとも神
の御手と神が支配しておられる摂理を心から認めることができます。……わたし
にとって命よりも大切な聖い大義に仕え,投獄の苦痛に耐えることによって神の
栄光を前進させることができるなら,わたしは心から喜んで従います。」(ロムニ
ー,Life of Lorenzo Snow,382)
み
て
き よ
ロレンゾ・スノーは投獄中,監獄内の学校運営に協力して,1週間に2度文法を教えた
ことを生徒に話します。ロレンゾ・スノーは1887年2月8日に釈放されました。.
ロレンゾ・スノー大管長は神聖な経験を孫娘と分かち合った
しんせき
近い親戚 の人から個人的で神聖な経験を聞かされたことがあるかどうかを生徒に尋ねま
す。内容を伏せたまま,その話によってその人に対する気持ちがどう変わったかを話して
もらいます。生徒にそのような経験がなく,教師にあれば,その経験を通して感じたこと
を分かち合います。それから,生徒用手引きから「スノー会長はソルトレーク神殿で救い
主の訪れを受けた」
(85−86ページ)を読みます。
黒板に「証人」と書いて,その意味を話し合います。それから以下の質問をします。
• 信頼できる証人の証は,話されたその出来事に対するあなたの気持ちにどのような影
響を与えるでしょうか。
• なぜこの神聖な経験をスノー家の中だけにとどめておかずに,教会員と分かち合った
と思いますか。
救い主がスノー会長にお与えになった指示について生徒に復習させます。大管長が亡く
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
80
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
なると,長い期間を置くことなく大管長会が再組織されるというこれらの指示は先例とな
って,今日も守られていることについて話し合います。
主はロレンゾ・スノー大管長に教会の負債を解消する方法を明らかにされた
本章の第2部のはじめに記されている歴史的背景の段落2を復習します(77ページ)。負債
を抱えているとなぜそれほど大きな重荷となるかを尋ねます。教会の負債の問題を解決し
たロレンゾ・スノー大管長とその働きに対するヒーバー・J・グラント大管長の以下の賛
辞を読みます。
「わたしはロレンゾ・スノーが神の預言者であったことを知っています。……
人は50歳を過ぎると大したことができなくなり,60歳を過ぎると何かの薬を与え
て眠らせたほうがよく,70歳を過ぎると何の役にも立たないと言われています。
けれどもロレンゾ・スノーは85歳で教会の大管長会の職に就きました。そして,
それからの3年間で成し遂げたことは,驚きに値するものでした。彼は経済的に
ほとんど破産の状態にあった教会を立て直しました。……かつて財務の仕事に就
いたこともなく,長年神殿の仕事に生涯をささげてきたこの人が,生ける神の霊
感を受けてキリストの教会の財政を掌握して,その3年間で財政問題のすべてを,
暗闇から光へと変貌させたのです。」(Conference Report,1919年6月,9−10)
く ら や み
へ ん ぼ う
生徒用手引きから「ロレンゾ・スノー大管長は教会の財政危機を解決するための啓示を
受けた」(86−87ページ)を読んで,主はスノー大管長をどのように導かれたかを説明す
るよう生徒に言います。以下の質問をします。
• あなたは,負債に関して当時の聖徒たちが学んだどの原則を自分の生活に当てはめる
ことができるでしょうか。
• なぜ什分の一は金銭の原則よりもむしろ信仰の原則なのでしょうか。
• 什分の一基金は教会の中でどのように使われているのでしょうか。
希望する二人か三人の生徒から,どのようにして什分の一の証を得たかについて話して
もらいます。ロレンゾ・スノー大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「将来に備えようとするすべての末日聖徒,また正しい基礎の上にしっかりと
した足場を築こうとするすべての末日聖徒にとって,主の御心を行い,完全に什
分の一を納めるべき時が来ました。これが皆さんに対する主の言葉です。……主
あわ
はこれまでわたしたちを祝福し,憐れみをかけてくださいました。しかし今,主
の命じられたことをこれ以上ほうっておかずに実行するよう主から求められる時
が来ています。……ここでわたしの話を聞いた人で,完全な什分の一を納めずに
満足できる人はいないでしょう。」(The Teachings of Lorenzo Snow,クライ
ド・J・ウィリアムズ選〔1984年〕,155)
「什分の一の一部だけ納めるのは,什分の一ではありません。体を半分だけ沈
めることがバプテスマと言えないのと同じです。……
……今やわたしたちは目を覚まして,主にまた自分の義務に目を向けなければな
りません。」(Teachings of Lorenzo Snow,155−156)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
81
生徒自身が什分の一に対して忠実かどうかについて個人的に疑問を持っている場合,祈り
と聖文の研究,また,ビショップや支部会長を通して答えを見いだせることを説明します。
「人が現在あるがごとくに神もかつてあり,神が現在あられるごとくに人もなり得る」
レッスンの数日前に,生徒用手引きから「スノー大管長は人の神聖な行く末についての啓
示を受けた」
(89−90ページ)を読んで,この話と教義をクラスで簡単に教える準備をして
おくよう一人の生徒に依頼します。生徒がこのレッスンを行った後に,ロレンゾ・スノー
は自分の経験と理解についてブリガム・ヤングと話し合ったことを説明します。それに対
してブリガム・ヤングはこう答えました。
「スノー兄弟,それは新しい教義です。もしそれが真実であれば,あなたへの
個人的な情報として明らかにされたものであって,然るべきときに大管長が教え
ることでしょう。それまでは胸に秘めておき,二度と口にしないことを勧めます。」
(オーソン・F・ホイットニー,“Lives of Our Leaders---The Apostles---Lorenzo
Snow,”Juvenile Instructor,1900年1月1日,4)
し か
ロレンゾ・スノーの対句を黒板に書き出します。一人の生徒に生徒用手引きから「彼ら
は諸々の世界を組織し,それらの世界を統治する」
(90ページ)を読んでもらいます。それ
から全員でスノー大管長の対句との関連について話し合います。以下の質問をします。
• この教義は人生の目的を理解するためにどのように役立つでしょうか。
• この教義を受け入れにくいと思われることがあるのはなぜだと思いますか。
神が完全であられるように,わたしたちも完全にならなければならない
わたしたちの持つ神聖な可能性を実現するには,神が完全であられるように,わたしたち
も完全にならなければならないことを説明します。生徒用手引きから「わたしたちは改善
するために日々努力すべきである」(91ページ)を読みます。御父が完全であられるよう
に,完全にならなければならないという戒めについて話し合います(マタイ5:48;3ニー
ファイ12:48参照)
。以下の質問をします。
• すべてではないとしても,生活の幾つかの分野において完全になるにはどうしたらよ
いでしょうか。
• なぜある人たちは,そのような目標をこの世で成し遂げるのは不可能だと考えるので
しょうか。
生徒用手引きから「改善を目指して努力しているときに落胆してはならない」(92ペー
ジ)を読みます。わたしたちが改善を目指しているときに,毎日行わなければならないと
スノー大管長が教えた事柄を見つけます。
生徒にエテル12:27を読ませます。個人の弱点を克服する過程でチャレンジが伴う場合
があることを強調します。ロレンゾ・スノー大管長は個人の弱点の克服を目指して努力し
ているときに,たとえ問題にぶつかっても落胆してはならないと教えました。弱点を克服
しようと努力するときに,主に対する信仰を行使し,主のもとへ行くことの大切さを強調
します。
次の質問をします。正しいことをしようとしているにもかかわらず,障害に遭い続ける
ことがあるのはなぜでしょうか。次のスノー大管長の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
「悩み,動揺し,胸を痛め,迫害を受け,これ以上堪え忍ぶことができないと
考えている人に向かって話したいと思います。あなたが苦しんできたすべてのこ
と,そのときは災いであると思ったすべてのことについて,あなたはその4倍を
受けることでしょう。そして苦難はあなたをより善良で強い人物に成長させ,そ
して,自分は祝福されてきたことに気づかせてくれるでしょう。自分の経験して
きたことを振り返るときに,あなたは大きな進歩を遂げ,昇栄と栄光に向かって
はしごを数段上ってきたことに気づくでしょう。」(Teachings of Lorenzo Snow,
117)
「わたしたちは今,教育を受けるために苦難と激烈な試練の学校にいます。こ
の学校は,苦難を通して完全になられたと聖文で言われている,わたしたちの長
兄イエスにとっても必要なものでした。わたしたちがすべての事柄において苦し
みを受けることは必要なことです。それは,天の御父と長兄イエスにおいてもそ
うであったように,ふさわしい者として万物を支配し統御する資格を得るために
必要なのです。」(Teachings of Lorenzo Snow,119)
次の質問をします。試練や苦難はどのように,わたしたちの益となるのでしょうか。
ロレンゾ・スノーは神の王国の建設を助けた
生徒用手引きから「ロレンゾ・スノーは王国の建設を助けた」(92ページ)を復習させま
す。ロレンゾ・スノーの働きと教えによって,教会はどのように強められてきたかを話し
合います。次の質問をします。スノー大管長の教えの中で,福音の原則にもっと忠実に生
活したいというあなたの願いを強めてくれたのはどのような教えでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 5 章 ―― ロ レ ン ゾ ・ ス ノ ー
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歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第6章
ジョセフ・F・スミス
© IRI
第6代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
85
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョセフ・F・スミスは少年時代に,教会初期の実に重要な出来事を数多く経験しまし
た。ジョセフ・F・スミスは教会が最も大きな迫害を受けていた時期である1838年の11月
13日にミズーリで生まれました。預言者ジョセフ・スミス(叔父)をはじめとする教会の
指導者たちを幼いころから知っていました。そして5歳のときに,父ハイラム・スミスが
カーセージの監獄で殉教しました。まだ幼かった時代に,教会員は暴徒によってノーブー
を追放されました。ジョセフ・Fはわずか9歳のときに母を助けて,大平原を横断し,ソル
トレーク盆地を目指す旅に出ました。盆地に到着すると,家を建てる母を手伝い,そして
母が亡くなる1852年までその家に住んでいました。そのとき,ジョセフ・F・スミスはま
だ13歳でした。そして15歳のときに,最初の伝道に出ました。
出来事,特筆事項,教え
ジョセフ・F・スミスは主に頼ることを母から学んだ
生徒用手引きから「ジョセフ・F・スミスは激動の時代に生まれた」と「ジョセフ・F・
スミスは実際の年齢以上に成熟していた」(95−96ページ)を復習させます。世の中はあ
まりにも危険で恐ろしいので,子供を生まないほうがよいと言う声を聞いたことがあるか
どうかを尋ねます。次の質問をします。このような恐れや心配に対して,あなたは何と答
えるでしょうか。
生徒用手引きから「母が表した信仰」(96−97ページ)を読み,メアリー・フィールデ
ィング・スミスの模範が息子にどのような影響を与えたかについて話し合います。牛を見
つけるために母がささげた祈りについて,後にジョセフ・F・スミスはこう話しました。
「それはわたしが初めて見た祈りの効果,すなわち実際に祈りがかなえられた実例
の一つでした。それはわたしの心に忘れることのできない印象を与えるとともに,わ
たしの生涯を通じて慰めや確信,導きとなりました。」(ジョセフ・フィールディン
,133−134)
グ・スミス,The Life of Joseph F. Smith〔1938年〕
次の質問をします。ジョセフ・F・スミスが述べた「祈りの効果」とはどういう意味だ
と思いますか。それから,大管長会の顧問を務めていたときにジョセフ・F・スミスが語
った以下の言葉を一人の生徒に読んでもらいます。
「母親が善を行い,心に福音の精神を抱き,歩むべき道に従って子供を育てるとき
の影響ほど,永続するものはありません。……
……イスラエルの陣営とともに出ていこうとするわたしたちに,数々の試練が訪れ
たときのことを一つ一つ覚えています。山の中の盆地にたどり着こうとしたわたした
ちは,荷車を引かせる牛馬にも不足する状態で,必要な牛を買う資力がなかったため,
母は乳牛と子牛をくびきでつなぎ,連結した2台の荷車を引かせました。このように
粗末で無力ないでたちで,ユタに向かって旅立ったのです。母はわたしたちにこう言
いました。
『主が道を開いてくださいます。
』けれども,主がどのようにして道を開い
てくださるのか,だれにも分かりませんでした。当時はまだ子供でしたが,わたしも
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
86
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
荷車を御し,仕事を分担したのです。自分の務めと使命を果たせるよう,独りで神に
祈り求めていた母の姿を忘れることができません。このようなことは人の心に感動を
与えるとは思いませんか。わたしが母の模範を忘れられると思いますか。決して忘れ
ることはありませんでした。それどころか,母の信仰と模範はわたしの記憶の中に今
なお光り輝いています。……母が聖徒であったこと,清く忠実な神の女性であったこ
と,自分に寄せられた信頼を裏切るよりもむしろ死を選ぶ女性であったことを……わ
たしは全身全霊をもって神に感謝しています。これが母と子供たちの心にしみ込んで
いた精神です。もし子供たちが耳を傾けず,母の模範に従わなかったとしたら,彼ら
にはそのような女性を母に持つ資格がなかった,とは言えないでしょうか。こういう
わけで,わたしはイスラエルの母親の皆さんに神の祝福があるようにと申し上げま
す。
」
(
“Influence and Sphere of Women,”Deseret Weekly,1892年1月9日,71)
以下の質問をします。
• 「母親の影響ほど,永続するものはない」とはどのような意味だと思いますか。
• あなたにとって,親から受けた教えはどのように導きとなり,守りとなってきたでし
ょうか。
ジョセフ・F・スミスはたとえ困難な時であっても,神の戒めを守ることを母から学んだ
1848年当時,ソルトレーク盆地で生活するのは容易なことでなかったことを説明します。
開拓者たちは目的地に到着できたことを感謝していましたが,彼らの仕事はそれで終わっ
たわけではありませんでした。ジョセフ・F・スミスの息子で,当時十二使徒定員会会員
だったジョセフ・フィールディング・スミス長老はこのように説明しています。
「祖母は,成長する子供たちと養育を助けていた扶養家族のために,直ちに家庭と
住まいを用意しなければなりませんでした。信仰と持ち前の機知を使って,冬を越す
ための手段を考え出しました。彼女はソルトレーク・シティーの南,ミルクリークに
居を定め,子供たちの手を借りて農業を始めることにしました。調理用の小屋を作り
ましたが,1848年の冬は家族のほとんどが荷車の中で睡眠を取りました。どうしたら
冬を越せるのか,見当もつきませんでした。着るものもほとんどなく,住居もなかっ
た彼らは寒さに凍えていました。それまでの悲しい経験から得た知恵を使って,また
主の守りによって,春が訪れるまで何とか生き延びました。綿密な計画と懸命な努力
によりそれから2年の歳月を経て,彼女は快適な住居を建て,価値ある資産をいくら
,157−158)
か手に入れました。
」
(Life of Joseph F. Smith〔1938年〕
家族が過酷な状況に置かれていたにもかかわらず,メアリー・フィールディング・スミ
じゅうぶん
スは,什分 の一とささげ物を納めることを決してないがしろにしませんでした。ジョセ
フ・F・スミスは什分の一を納める固い決意を母が示した出来事をこう回想しています。
「ある年の春,わたしたちがジャガイモを貯蔵していた穴を開いていると,
〔母は〕
男の子たちを呼んで,いちばん良いジャガイモを荷車に積み込ませ,それを什分の一
事務所へ持って行きました。その年はジャガイモが不作でした。わたしはそのときま
だ幼かったのですが,荷馬車を御して行きました。什分の一事務所の階段の前に荷馬
車を止めて,ジャガイモを降ろそうとしていたところ,一人の職員が出てきて母に言
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
87
いました。『スミス未亡人,あなたが什分の一を納めなければならないなんて,何て
気の毒なことだろう。』……〔什分の一事務所の職員は〕什分の一を納めようとした
母をたしなめ,母に対して賢いとかつつましいというような意味とは全然違うことを
言い,さらに,力があって働けるにもかかわらず什分の一事務所から援助を受けてい
る人たちがいると言いました。すると母は……彼に向かって言いました。『……わた
しから祝福を取り上げるつもりですか。什分の一を納めなければ,主はわたしから祝
福を取り上げておしまいになるのですよ。わたしが什分の一を納めるのは,それが神
の律法だからというだけでなく,祝福をいただきたいからです。この律法やほかの律
法を守ることにより,豊かに祝福を受けて,家族を養いたいのです。』……〔母は〕
神の律法に従ったため,豊かに祝福を受けました。家族を養うために豊かな恵みを受
けました。わたしたちはほかの人たちほど窮乏生活を強いられませんでした。盆地に
到着してすぐに,食用のイラクサを見つけたほか,アザミの根,セゴユリの球根など
食用となる様々な植物を見つけたので,ほかの多くの人たちほどひどく貧しくはない
状態でした。わたしの知っているかぎり,コーンミール,ミルクとバターを切らした
ことはなかったからです。そして,寡婦であった母は主の律法の書に自分の名前が書
き記されました。母は神の宮に入る特権を得ました。福音のいかなる儀式も母を拒む
ことはできませんでした。なぜなら,母は神の律法に従っており,自分の務めを怠る
ことがなかったからです。公的な地位にある者が神の戒めを守ろうとする彼女の気持
ちをくじこうとしたにもかかわらず,義務を果たそうとする彼女の気持ちが弱まるよ
うなことがなかったからです。
」
(スミス,Life of Joseph F. Smith,158−159)
以下の質問をします。
• 教会員は什分の一と献金を進んで納めることによってどのような力を受けることがで
きるでしょうか。
• あなたは什分の一と献金を納めることによってどのような祝福を受けてきたでしょうか。
みたま
ジョセフ・F・スミスは主の御霊に支えられ,力づけられた
もし15歳で伝道に召されたとしたら,伝道に出る準備ができていると思うかを生徒に尋ね
ます。そのような若さで召しを受けるとしたら,どのようなことが心配になるかを話し合
います。生徒用手引きから「ジョセフ・Fは宣教師の時代に多くの試練を克服した」(97−
98ページ)を復習します。次の質問をします。ジョセフ・F・スミスはハワイで伝道中に
直面した障害をどのように克服したでしょうか。
ジョセフ・F・スミスはハワイで宣教師として働いているときに非常に霊的な経験をし
たことを説明します。生徒用手引きから「伝道中に夢を通して励ましを受けた」(98−99
ページ)を復習します。黒板に次の単語を書き出します:「旅」,「大邸宅」,「浴室」,「ガ
ーメント」,「扉」,「ジョセフ・スミス」,「手」。これらの単語は夢の中でどのような意味
を持っていたかについて話し合います。以下の質問をします。
• この経験は若いジョセフ・F・スミスをどのように力づけたと思いますか。
• 主に信頼を寄せることを学ぶにはどうすればよいでしょうか。
あかし
一人の生徒に,生徒用手引きから「ジョセフ・F・スミスは力強く証を述べることを願
った」(99ページ)を読んでもらいます。どうすればこれほど強い証を得られるかについ
て話し合います。次の質問をします。
• ハワイでの伝道中,この証はジョセフ・F・スミスをどのように支えたでしょうか。
生徒用手引きの「ジョセフ・F・スミスはどんな状況においても証を否定することはな
かった」(99−100ページ)からスミス大管長の生涯に起きた出来事を復習します。ジョセ
フ・F・スミス大管長が語った次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
88
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
「少年時代に初めて伝道の業に就いたとき,わたしはよく外へ出て行って,証が得
られるよう何かすばらしいことを示してくださいと,主に願ったものでした。しかし
主はわたしに特別なことを示されませんでした。むしろ,ここにも少し,そこにも少
しと,教訓に教訓,規則に規則を加える方法で,わたしに真理を示してくださいまし
た。そしてついにわたしは全身で真理を知り,それによって疑いや恐れが一掃されま
みつか
した。主はこれを行うために,天から御使いを遣わしたり,天使長のラッパによって
語りかけさせたりする必要はありませんでした。生ける神の御霊による静かな細い声
のささやきによって,主は今わたしが持っている証を与えてくださいました。主は今
後もこの原則と力によって,すべての人々に,心に残る真理の知識を与えてくださる
でしょう。このようにして人々は,神が知っておられるように真理を知り,キリスト
みこころ
が行っておられるように御父の御心を行うようになるでしょう。驚嘆すべき顕現によ
っては,決してこれを成し遂げられないでしょう。人を真理のうちに確立させるのは,
けんそん
従順と謙遜,そして天が求める要件と地上における神の王国で定められた秩序に従う
,7)
ことなのです。
」
(Gospel Doctrine,第5版〔1939年〕
以下の質問をします。
• どうすれば福音に対して強い証を得られるでしょうか。
• どのような影響により御霊はわたしたちから退いて行くことがあるでしょうか。
ジョセフ・F・スミスはハワイで2度目の伝道を行った
ジョセフ・F・スミスはロレンゾ・スノー長老とエズラ・T・ベンソン長老に同行して,ハ
ワイへ2度目の伝道に行ったことを説明します。訪問の目的はウォルター・M・ギブソンと
いう名の背教した教会指導者の活動を調査することでした。ギブソンは財政と宗務の両面
でハワイの教会を完全に支配していました。神権の職を教会員にお金で売り,自分の十二
使徒を組織し,大祭司,七十人,長老を召していました。女性は女祭司の地位を与えられ
ていました。ギブソンは教会員に対して全財産を自分にささげるよう要求していました
。次の質問
(B・H・ロバーツ,Comprehensive History of the Church,第5巻, 98−99参照)
をします。教会指導者が背教を野放しにしておくと,どのようなことになるでしょうか。
ウォルター・ギブソンを教会から破門した後,ロレンゾ・スノー長老とエズラ・T・ベ
ンソン長老はハワイの教会員の間に真理に添った生活を取り戻させるため,ウィリアム・
W・クラフ,アルマ・L・スミスとともに25歳のジョセフ・F・スミスを残して帰国しま
した。スミス長老の働きに対する以下の評価を紹介します。
「ジョセフ・F・スミスはこの伝道部の問題を解決するために大きく貢献しました。
以前の伝道で同諸島に滞在していた間に(1854−1858年),言語を完全に習得して,
りゅうちょう
現地の人と変わらないくらい流暢に話すことができました。不正を見過ごしにしない
ことについて並々ならぬ決意と道義心を持ち合わせていたスミス長老は,断固たる姿
勢で対決し,ギブソンの不当で許しがたい行為を現地の人々に暴露しました。使徒た
ちの通訳も務め,ギブソンが行った不正を正し,現地の人々を教え導く業をより効果
的に進めました。
」
(ロバーツ,Comprehensive History of the Church,第5巻, 100)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
89
ジョセフ・F・スミスは使徒に召された
ジョセフ・F・スミスをはじめとする宣教師たちがハワイに到着したとき,ロレンゾ・ス
できし
ノー長老が危うく溺死するという事故が起きたことを説明します。その出来事を記した
以下の話を紹介します。
「この使徒がハワイで果たした任務に関連して語り継がれている出来事は,ラハイ
そせい
ナ港でロレンゾ・スノー長老がおぼれて,兄弟たちの施した儀式によって蘇生したこ
とです。その事故は港内に大波が押し寄せ,着岸しようとしていたボートが転覆した
ときに起きました。転覆したボートに乗っていたのは船長,ベンソン長老,スノー長
老,クラフ長老そしてA・L・スミス長老でした。着岸が非常に危険であることを確
信していたジョセフ・F・スミス長老は,兄弟たちと一緒に行くことを拒みました。
この事故を海岸から目撃した現地の人たちが,海に放り出された人たちを救出しまし
たが,ロレンゾ・スノーは引き上げられてから20分間,生きている兆候をまったく見
せませんでした。
」
(ロバーツ,Comprehensive History of the Church,第5巻, 100−
101)
以下の引用を生徒に話します。「〔ロレンゾ・〕スノー大管長はこの出来事の後,こう宣
言した。『このジョセフ・F・スミスという若者は……いつの日かこの地上で神の預言者
。
になる。主がそのことをわたしに示された。
』
」(スミス,Life of Joseph F. Smith,216)
一人の生徒に,生徒用手引きから「ジョセフ・F・スミスは使徒に召された」(100ペー
ジ)を読んでもらいます。次の質問をします。ジョセフ・F・スミスはハワイの伝道中に
どのような技能を身に付けていたために,使徒としての新しい召しに役立つことになった
でしょうか。ジョセフ・F・スミス大管長が語った以下の言葉を読んで,話し合います。
あがな
「わたしは贖い主が生きておられることを知っています。わたしたちには,世界す
なわち,いわゆるキリスト教界が持っているこの偉大にして輝ける真理についてあら
ゆる証と証拠を持っています。キリスト教界の持っているすべての証に加えて,わた
したちにはこの新大陸に住んだ人々の証があります。救い主はユダヤ人に対して行わ
れたと同じように,この大陸の住民に姿を現し,福音を授けられました。この新しい
証とユダヤ人が持っている聖書の証に加えて,わたしたちには近代の預言者,ジョセ
フ・スミスの証があります。ジョセフ・スミスは御父と御子にまみえ,それを世に証
しました。その証は自らの血によって結び固められ,今日の世の中に対して今なお効
力を持っています。さらに,カートランド神殿で神の御子の訪れを目撃したその他の
人々の証があります。また,イエス・キリストの最後の証人であると宣言したジョセ
フ・スミスとシドニー・リグドンの証があります。したがって,わたしは繰り返し申
し上げます。わたしは贖い主が生きておられることを知っています。これらの証人が
述べた真理がわたしの心の中で揺るぎないものとなっているからです。
以上の証のほかに,わたしはわたし自身の心に神の御霊の証を受けました。これは
ほかのあらゆる証拠に勝るものです。なぜなら,それは神の御霊がわたしの全身全霊
に刻まれた,わたしの贖い主イエス・キリストの存在の証だからです。わたしは贖い
主が生きておられ,末の日に必ず地の上に立たれ,花婿を迎える準備のできている花
嫁のように準備のできている人々のもとに来られることを知っています。」(Gospel
Doctrine,506−507)
救い主に対するあなたの証を分かち合うことによって第1部を締めくくります。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
90
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ジョセフ・F・スミス大管長が管理した時代に,教会はソルトレーク・シティーに教会
管理本部ビルを建設し,ハワイと,カナダのアルバータで神殿の建設に着手しました。ス
ミス大管長の指導の下,教会は合衆国東部の重要な教会史跡地を購入し,現在の訪問者セ
ンターの前身である情報センターもこの時期に設置されるようになりました。
当時論議されていた幾つかの学説にこたえて教義を明確にするため,二つの宣言が発表
されました。それには人の起源,ならびに御父と御子に関する宣言が含まれています。ス
ミス大管長はこの世を去る数週間前に,大切な啓示を受けました。この啓示は現在教義と
聖約第138章となっています。
ジョセフ・F・スミスが大管長に召されたとき,教会は50のステークと21の伝道部に約
29万3,000人の会員を擁し,4つの神殿を持っていました。そして1918年に他界したときに,
教会は75のステークと22の伝道部に約49万7,000人の会員を擁し,4つの神殿を持っていま
,473,631参照)
した。(2003 Church Almanac〔2003年〕
出来事,特筆事項,教え
大管長会は家庭の夕べを開くよう教会員に強く勧めた
生徒用手引きの「家庭の夕べが導入された」(101−102ページ)の段落3から始まる,家庭
の夕べに関して大管長会が1915年に発表した声明を復習させます。以下の質問をします。
• この声明によれば,家庭の夕べはどのようなことを目的としていたでしょうか。
• 家庭の夕べで推奨されている活動にはどのようなものがあったでしょうか。
• 家庭の夕べを開くようにとの勧告に従う親にはどのような約束が与えられていたでし
ょうか。
ジョセフ・F・スミス大管長は結婚と家族関係の大切さを教えた
生徒に,教義と聖約131:1−4を読ませます。次に以下の文を読んで,結婚に関するジョ
セフ・F・スミスの説明について話し合います。
「男女の合法的な結びつきによって,男女は最も気高く,最も聖なる望みを実現す
ることができます。末日聖徒にとって結婚とは,単に地上で結び合うだけではなく,
困難な時を乗り越えて,永遠に持続するものであり,この世においては誉れと喜びを,
来るべき世においては栄光と永遠の命を授けられるように天の御父によって定められ
たものです。
」
(
“An Address: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints to the
World,”Conference Report,1907年4月,7;この説教は1907年4月総大会終了後に印
刷された。
)
偉大な家族にはどのような特質があるかを尋ねます。生徒用手引きから「ジョセフ・
きよ
F・スミスは純粋で聖い愛をもって家族を愛した」(102−103ページ)を復習します。以下
の質問をします。
• スミス家に見られた愛と一致の模範は,家族に関する彼の教えをどのように裏付けて
いるでしょうか。
• 家族の中に一致と愛を確立するために,両親はどのようなことができるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
91
• 子供たちはどのようなことができるでしょうか。
スミス大管長は10人の子供たちの死を嘆き悲しんだ
〔注:生徒の中には子供やきょうだいを亡くした人がいるかもしれません。このテーマに
ついて話し合うとき,そのような生徒の気持ちに十分配慮してください。もしクラスの中
に,子供やきょうだいを亡くした生徒がいるならば,この話し合いにどのように参加した
いと思うかを事前に話し合っておくとよいでしょう。
〕
生徒に子供を亡くした人のことを考えてもらいます。生徒用手引きから「ジョセフ・
F・スミスは子供を亡くした者の悲しみと心の痛みを知っていた」(103−104ページ)を復
習します。幼な子の救いについてジョセフ・F・スミス大管長が語った以下の言葉を紹介
します。それから,この言葉は子供を亡くした両親にどのような慰めを与えるかを考えさ
せます。
「もし真理の霊について証を心に受けているならば,この世を去った幼子には何
の心配もないこと,……この世にいるよりもずっと良い状態にいることが分かりま
す。……
む
く
責任を負う年齢に達する前,罪を犯す能力がないときに,幼く無垢の状態で死ん
だ子供に関して,福音はそれらの子供が贖われており,サタンが支配する力を持た
ないことを明らかにしています。死もそのような子供に対しては無力です。
」
(Gospel
,452)
Doctrine,第5版〔1939年〕
あつ
次の質問をします。信仰篤い親は,亡くなった子供が確かに救われるという証を持って
いますが,それでも嘆き悲しむのはなぜでしょうか(教義と聖約42:45参照)。次に,以
下のジョセフ・F・スミス大管長の教えを紹介します。
「死者の復活のとき,幼くして葬られた子供は葬られたときの姿のままで復活し,
それから成長を始めます。復活のときから子供の体は成長して,その霊の完全な形
に達するのです。
」
(Gospel Doctrine,24)
「母親が,幼子の死によってその子をこの世で成人するまで育てる喜びと楽しみ
を奪われた場合,その特権は来世で母親に与えられます。そして,地上で経験する
ことができた以上に完全な成果に達する喜びを得ることができます。この世におい
ては人生の試練を通り抜けるまで結果は分かりません。しかし,母親が来世で子供
を育てるときには,失敗することなく,良い成果を得られることを確かに知ってい
るのです。
」
(Gospel Doctrine,454)
教会は不当な非難を恐れる必要がない
生徒用手引きから「ジョセフ・F・スミスは大管長として個人攻撃を受けた」(105−106ペ
ージ)を復習します。ジョセフ・F・スミス大管長が語った次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
92
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
「しばしば,また世界のほとんど至る所で,末日聖徒に対して憤りをあらわにする
言葉を耳にします。一般的に言えば,これらの言葉に根拠はなく,無知な著者や話者
よ
が扇情的な書物などを拠り所にして,単なる思いつきで述べられたにすぎません。そ
れらの書物は人心をあおり,だまされやすい人々を利用して金儲けをしようとする悪
意に満ちた者たちが流布させたものです。……このようにして,事実無根の非難が数
多くわたしたちに浴びせられていますが,そこには一かけらの真実もありません。真
実を知っている人にとってはおかしいとしか言えませんが,これらの偽りは当然のこ
とながら,無知な人々に偏見を植え付け,教会を中傷し,宣教師や会員に対して非常
に不愉快な思いを与えます。
しかし,中傷や偽りは,それを不当に浴びせられた人々に永久に続く危害を与える
ことはありません。末日聖徒は不当に投げかけられたこれらのことを恐れる必要も心
配する必要もありません。中傷は,真実が明らかにされるときに消滅します。そして,
必ずそうなります。
」
(
“Three Threatening Dangers,
”Improvement Era,1914年3月
号,476)
生徒用手引きから「真理を擁護するジョセフ・F・スミスは勇敢であり,ひるまなかっ
た」(104ページ)を復習します。次の質問をします。スミス大管長はどのような方法で神
の王国を擁護したでしょうか。
情報センターは教会について正確な情報を伝えた
教会や教会員について偽りの話を聞いたことがあるかどうかを生徒に尋ねます。それから,
次の質問をします。このような話は人々が福音のメッセージを聞いたり,受け入れたりす
るうえで,どのような障害となるでしょうか。
1900年代の初期に多くの人は教会に関する偽りの話を耳にしていたこと,また否定的な
意見が作り上げられていたことを生徒に告げます。ソルトレーク・シティーを訪問した
人々は市内を巡る貸し切り馬車の御者たちからそのような話を聞いていました。それは次
のようなものでした。
「1900年代の初期にソルトレーク・シティーを訪れた人々でさえ,末日聖徒につい
て真実を聞くという保証はありませんでした。ホテルの経営者は宿泊客を獲得するた
めに,到着する列車の時間に合わせて従業員に駅まで馬車で迎えに行かせていました。
これらの貸切り馬車の御者たちはモルモンについていいかげんな話を聞かせていまし
た。地域社会と教会の指導者はこの風習によって否定的なイメージが作り出されてい
ることに頭を痛めていました。青年男子相互発達協会中央管理会と七十人第一定員会
のメンバーが話し合った結果,テンプルスクウェアに『情報センター』を設置して,
訪問者に正しい情報を提供することを提案しました。1902年に大管長会はこの計画を
承認して,その責任を七十人に与えました。最初に完成したのは,直径20フィート
〔約6メートル〕の八角形の建物で,建設費用は600ドルでした。センターには約24名
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
93
のボランティア職員が配置されました。そして,初年度には15万人の訪問者に信仰箇
条カードが配布されました。ガイドがテンプルスクウェアを案内するツアーは好評を
博しました。そして,1906年には無料のオルガンコンサートが行われるようになりま
した。……訪問者の数が増加の一途をたどったため,便利な施設が追加され,20世紀
後半には年間に数百万人の訪問者がテンプルスクウェアを訪れるようになりました。
」
,37−
(リチャード・O・コーワン,The Church in the Twentieth Century〔1985年〕
38)
ジョセフ・F・スミス大管長が管理した時代に教会は急激な成長を遂げた
ジョセフ・F・スミス大管長が管理した1901年から1918年までの間に,教会員は29万2,931
,473,631参照)以
人から49万6,962人に増加しました。
(2003 Church Almanac〔2003年〕
下の情報を紹介します。
「
〔ジョセフ・F・スミス大管長は〕聖徒に対し,自国にとどまって教会を築くよう
絶えず奨励したため,末日聖徒の伝道部と支部は世界各地に広がりました。このよう
な拡大の結果,ジョセフ・F・スミスが大管長を務めていた間に,大管長による初め
てのヨーロッパ訪問が実現することになります。
1906年の約2か月間にジョセフ・F・スミス大管長はオランダ,ドイツ,スイス,フ
ランス,イギリスの伝道部を歴訪しました。スミス大管長の訪問はこれらの国で教会
が成長し,力をつけるうえで大きく寄与しました。ジョセフ・F・スミス大管長は最
初のヨーロッパ訪問の際に,重要な預言をしました。1906年にスイスのベルンで開か
れた大会において,スミス大管長は両手を広げながら,こう宣言しました。『この地
〔ヨーロッパ〕のあちらこちらに神殿が建ち,皆さんが死者を贖う時が来ることでし
ょう。』スミス大管長はさらに『神殿が世界の様々な国に建てられるでしょう』と語
りました。
」
(コーワン,The Church in the Twentieth Century,65)
次の質問をします。神殿は世界各地の教会をどのように強めているでしょうか。
教会は少なくとも3度の危機に直面する
今日の教会が直面している最大の危機は何だと思うかを質問します。生徒の答えを黒板に
書き出します。ジョセフ・F・スミス大管長は教会にとって3つの危険があることを指摘し
ました。生徒用手引きから「ジョセフ・F・スミスは教会が直面する3つの危機を明らかに
した」(107ページ)を読みます。それらの危険を黒板に書き出します。
1. 世の著名人へのへつらい
2. 誤った教育概念
3. 性的不道徳
以下の質問をします。
• これら3つの事柄が批判や偽りの非難よりも教会にとって危険なのはなぜでしょうか。
• どうすればこれらを避けることができるでしょうか。
大管長会は特定の教義を明確にする声明を発表した
ジョセフ・F・スミス大管長が管理した時代に,教義上大切な幾つかの問題について明確
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
94
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
に理解していない末日聖徒が数多くいました。一つは,御父としての神,人類家族の最初
の親であるアダムの果たす役割を含む,人の起源に関する教義でした。第二は,父なる神
とイエス・キリストの特質と役割に関する教義でした。これにこたえるために大管長会は
二つの声明を発表しました。第一は1909年に発表された「人の起源」であり,第二は1916
年に発表された「御父と御子:大管長会および十二使徒定員会による教義的解説」でした。
以下の抜粋を読んで話し合います。
「人の起源」
「アダムは地上に現れた最初の人ではなく,人の起源は下等動物から進化したもの
であると主張する人々がいます。しかし,これはあくまでも人が考えた理論です。主
はアダムが『すべての人の最初の者』であると宣言されました。
(モーセ1:34)した
がって,わたしたちはアダムを人類の父祖と考える必要があります。すべての人が最
初に神の形にかたどって造られたことは,ヤレドの兄弟に示されたとおりです。〔エ
テル3:15〕これが霊の創造または肉体の創造,あるいは両方の創造の意味であれ,
同じ結論に達します。すなわち,人は天の御父に似た形をした人間として生活を始め
たということです。
確かに人の体は,小さな胎芽や胎児から始まり,特定の段階で幕屋の主人である霊
によって成長が促されて,誕生した後に乳幼児となり,子供へと成長を続け,成熟し
て大人になります。しかしここには,最初の人つまり人類の最初が,人よりも下等な
もの,あるいは人となる胎芽や胎児よりも下等なものであるということを示す根拠は
何もありません。
人は探究によって神を見いだすことはできません。助けがなければ,人の起源に関
する真理を見いだすことはできません。主が御自身を現されないかぎり,それは解明
されないのです。このことは,アダムの家系の起源についても同様です。すなわち,
これを明らかにできるのは神だけです。しかし,その事実の一部はすでに知らされて
おり,それを受け入れ,保持することはわたしたちの義務です。
古代においても現代にあっても神からの啓示を信仰の基礎とする末日聖徒イエス・
キリスト教会は,人は神の直系の子孫であると宣言しています。神御自身は昇栄され
た人であり,完全になり,玉座に就かれた至高の御方です。……
人は神の形に造られ,神の属性を授けられた神の子供です。地上の父親と母親の間
に生まれた幼児でさえやがて大人になるように,日の栄えの両親のもとに生まれた未
えいごう
熟な子供も,永劫の長きに及ぶ経験により,次第に成長して神の位まで昇ることがで
きるのです。
」
(
“Editor’
s Table,”Improvement Era,1909年11月号,80−81)
次の質問をします。神がわたしたちの御父であり,下等動物の子孫でないことを知るこ
とが人生観を変えるのはなぜでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
95
「御父と御子:大管長会および十二使徒定員会による教義的解説」
「聖典の中で神のことを『御父』と表現している語は,明らかに異なる幾通りかの
意味で使われています。以下の解説で詳しく述べる4つの意味を注意して区別しなけ
ればなりません。
1. 文字どおり親としての『父』
聖典には,文字どおり『親』という普通の意味を表す箇所が随所にあるので,あえ
て列挙するまでもありません。……昇栄された御方の称号としてわたしたちが『エロ
ヒム』と呼んでいる永遠の父なる神は,わたしたちの主であり,救い主であるイエ
ス・キリストと人類の霊の文字どおりの親なのです。エロヒムはあらゆる意味におい
て御父であり,イエス・キリストもまた御父と呼ばれていますが,エロヒムは霊たち
の父であるという点で明らかな違いがあります。……
2. 創造主としての『父』
聖典に出てくる
『父』
という言葉の第2の意味は,造り主という意味です。たとえば,神
会の中のいずれかの御方を指して,
『天地とその中にある万物の父』
と聖句の中で呼ばれ
ているような場合です。
(エテル4:7;アルマ11:38,39とモーサヤ15:4も参照)
神は人類の霊の父であるという文字通りの意味では,神は宇宙にある数々の世界の
一つである地球の父でもなければ,数々の天体の全部または一部の父でもありません。
また地球上の無生物や動植物の父でもありません。したがって,どのような形であれ,
神を指して天地の父と呼んでいる聖句は,神が天地の創り主,組織者,創造主である
という意味に解釈すべきです。
いずれの場合も文脈から分かるように,エホバ,すなわちエロヒムの御子イエス・
キリストは,この意味において『父』と呼ばれ,『まさに天と地の永遠の父であられ
る』(前出の参照聖句。モーサヤ16:15も参照)とさえ呼ばれています。これとよく
似た意味でイエス・キリストは『とこしえの父』と呼ばれています。(イザヤ9:
6;2ニーファイ19:6と比較)前出の修飾的な称号である『とこしえの』や『永遠の』
という語は同じ意味です。
エホバとしても知られているイエス・キリストは,創造において御父エロヒムの業
を行う御方でした。これは『キリスト・イエス』第4章で説明されているとおりです。
イエス・キリストは創造主であるため,上記の説明のように天地の父と呼ばれている
ことに何ら矛盾はありません。またその創造の業は永遠に存続する性質を持つもので
あるため,イエスが天地の永遠の父と呼ばれるのはまさに適切です。
3. イエス・キリストは福音に従う者の『父』である
イエス・キリストを『父』と呼ぶ3つ目の意味は,イエス・キリストの福音を受け
入れ,永遠の命を受け継ぐ者となる人々と主との関係において生じるものです。……
霊感によって語られた言葉にあるように,人は新たに生まれること,すなわち神か
ら生まれることによって,イエス・キリストの子となります。……
福音を受け入れ,福音に従って生活する人々をキリストの息子,娘と呼ぶことが適
切であり,聖文もこの点を明示し,反論や否定の余地がないとしたら,イエス・キリ
ストを義人の父と呼ぶことは矛盾がなく,適切です。第二の誕生すなわちバプテスマ
により生まれ変わることによって,義人はキリストの子となり,キリストは彼らの父
となられるのです。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
96
第 6 章 ―― ジ ョ セ フ ・ F ・ ス ミ ス
4. イエス・キリストは神から授けられた権能により『父』である
イエス・キリストを『父』と呼ぶ〔もう一つの〕理由は,人類家族を導くに当たっ
て,御子イエスはこれまでも,そして現在も,力と権能において父エロヒムの代理を
み な
務めておられるという事実にあります。……このように,御父はその御名を御子にお
与えになりました。そしてイエス・キリストは,御父の名において,またその名を通
して語り,教え導かれました。力と権能と神格に関するかぎり,キリストの言葉と行
いは,過去においても現在においても御父の言葉と行いなのです。
」
(
“Editor’
s Table,
”
Improvement Era,1916年8月号,934−36,938−40)
以下の質問をします。
• 教会員はなぜ,御父と御子が別個の御方であることを知る必要があるのでしょうか。
• これを理解していることによって,御父と御子に対する礼拝はどのような影響を受け
るでしょうか。
ジョセフ・F・スミス大管長は死後の世界について教えた
ジョセフ・F・スミス大管長の数人の子供がスミス大管長より先に死んだことを生徒に思
い起こさせます。十二使徒定員会会員だった息子のハイラム・M・スミスの急死によって
受けた大きな衝撃についてスミス大管長はこう記しました。
「わたしは身も心も引き裂かれる思いだ。悲しみに打ちのめされ,やっとの思いで
生きている。愛する息子よ,わたしの喜びよ。わたしの希望よ。わたしは今もなお彼
を愛している。この愛はとこしえに変わらない。すべての息子娘を同じように愛し,
今後も愛し続けるであろうが,彼はわたしの長男なのだ。……神がこの息子を与えて
くださったことをわたしは心の底から感謝している。だがわたしは彼にいてほしかっ
たのだ。その気持ちを言葉に表すことはできない。……彼が必要だった。わたしたち
は皆彼を必要としていた。彼は教会にとってこの上なく有用な人物だった。ほんとう
に善い人間だった。息子は生涯を通じて一度も,わたしを不機嫌にさせることも,疑
いを抱かせるようなこともなかった。わたしは彼を心の底から愛していた。彼の語る
言葉ほどわたしの身と霊を感動させたものはなかった。これは,わたしの息子であっ
たためであるかもしれない。しかし,彼は燃えるような聖霊の力に満たされていた。
今となって,わたしはどうしたらよいのだろう。おお,どうすればよいのか。身も心
も引き裂かれ,悲しみに打ちひしがれている。おお神よ,わたしをお助けください。
」
(ジョセフ・フィールディング・スミス,Life of Joseph F. Smith〔1938年〕, 474)
それから数か月後,ジョセフ・F・スミス大管長は総大会において,過去数か月にわた
り霊界に関する啓示を受けたと明言しました。その一つは大会の始まる前日に受けたもの
で,現在,教義と聖約138章に記されています。
教義と聖約138:1−5,11−20を読みます。次の質問をします。イエス・キリストは死
後,霊界を訪れて何を行われたでしょうか。
教義と聖約138:29−30,57を読んで,以下の質問をします。
• 義にかなった友達や家族を亡くした人々にとって,この啓示はどのような慰めを与え
るでしょうか。
• わたしたちは霊界で行われている業を助けるために,地上でどのようなことができる
でしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
97
第7章
ヒーバー・J・グラント
© IRI
第7代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
98
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ヒーバー・J・グラントは1856年11月22日に誕生しました。その年,多くの開拓者は手
車隊を編成して,大平原を横断し,グレート・ソルトレーク盆地へ旅をしました。ウィリ
ー手車隊が盆地に到着したのはヒーバー・J・グラントが生まれる2週間前のことでした。
当初500人だったウィリー隊は盆地に着くまでに67人を失い,到着した多くの人々も手足
が凍傷にかかり,食べるものもない状態でした。ヒーバーの生後9日目に,父ジェデダイ
ア・M・グラント(その時,大管長会顧問を務めていた)が肺炎で亡くなりました。同じ
日に,マーティン手車隊がソルトレーク盆地に到着しました。576人で編成されていたこ
の開拓者隊は途中で135人から150人が亡くなりました。
少年時代のヒーバー・J・グラントは多くの著名な教会員を知っていました。ブリガ
ム・ヤング大管長の息子と孫が友達だったため,定期的に預言者の家庭を訪れては家族の
祈りに参加しました。さらに,ヤング大管長,使徒のエラスタス・スノー長老と,スノー
長老のいとこであり教会初期の大勢の指導者と知り合いで交際があったエライザ・R・ス
ノーと長い時間話したことがありました。
出来事,特筆事項,教え
ヒーバーは「人を変える力を持つ母親の愛」から多くを学んだ
生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントの生涯におけるおもな出来事」(111ページ)の
幾つかを復習します。ヒーバー・J・グラントの父が亡くなったことに注目させてから,
母子家庭で成長期を過ごしたためにヒーバー・J・グラントが経験したと思われる苦難に
ついて話し合います。一人の生徒に,生徒用手引きから「ヒーバーの決意を支えたのは母
親の知恵だった」
(113−114ページ)を読んでもらいます。
ヒーバー・J・グラントは父親のいない家庭で成長したにもかかわらず,後に父と母が
あかし
忠実さについて証を述べていることを生徒に話します。生徒用手引きの「ヒーバー・J・
グラントは家族の犠牲に深く感謝していた」(114ページ)からグラント大管長がどのよう
な気持ちを抱いていたかについて話し合います。以下の質問をします。
• あなたは両親からどのような大切な教訓を学んできましたか。
• あなたは自分の子孫からあなたについてどのように言われたいと思いますか。
ヒーバーは決意と継続によって,欠点を克服して熟達の域に達した
全員に,きれいな字で「わたしたちは神に対して忠実でなければならない」と紙に書いて
もらいます。次に,きれいな字を書くことがなぜ難しいのかその理由を話し合います。以
下の絵を黒板に描いて,何が描かれていると思うかを生徒に尋ねます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
99
生徒用手引きの「『にわとりの足跡』のようだったヒーバーの字はユタ一番の美しい字と
言われるようになった」(116ページ)からヒーバー・J・グラントの当初の筆跡について
言われた二つの評価を復習します。次の質問をします。筆記法を上達するために懸命に努
力した結果,ヒーバーの人生にどのような祝福がもたらされたでしょうか。(非常に達筆
になったため,本業の仕事の給料より多くの収入を得,後に筆記法を教えた。
)
ヒーバー・J・グラントがしばしば引用した以下の言葉を紹介します。これはラルフ・
ワルド・エマーソンの言葉とも言われています。
「あきらめずに継続して行う物事は容易に行えるようになる。それは物事の本質が
変わるからではなく,それを行うわたしたちの力が増すからである。」(Conference
Report,1901年4月,63)
生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントは歌えるようになろうと決意した」(116−117
ページ)からヒーバー・J・グラントが歌を学ぶために行った努力について復習します。
以下の質問をします。
• 歌を学んだ努力と習字の上達に注いだ努力を比べると,どのようなことが分かるでし
ょうか。
• それぞれ,どのような成果があったでしょうか。(歌については習字ほど成功しなかっ
たが,同様に努力した。
)
• たとえ最良の結果を得られないとしても,なぜ価値ある目標のために最善を尽くすこ
とが大切なのでしょうか。
• 決意と継続の原則はキリストのようになることと,どのような関連があるでしょうか。
教室内に目標となる地点を決めて,一人か二人の生徒にテニスボールまたは柔らかい
ボールを目標目がけて投げさせます。必要であれば,3回か4回投げさせて,次第に目標
に近づいていくかどうかを確認します。ヒーバー・J・グラントは幼いときに野球のボー
ルをうまく投げられなかった物語を紹介します。(生徒用手引きから「ヒーバーは努力に
よって優れたスポーツマンとなった」〔113ページ〕を参照。)一人の生徒に最後の二つの
段落を読んでもらいます。以下の質問をします。
• スポーツにおいてヒーバー・J・グラントが決意し,それを貫いたことは,自身の霊的
な目標の追求にどのような影響を与えたでしょうか。
• わたしたちは福音に関連してどのような目標を立てることができるでしょうか。
ヒーバーは正しい動機をもって聖文を読んだ
生徒に,どのような動機から聖文を読んでいるかを尋ねます。一人の生徒に,生徒用手引
きから「ヒーバーはモルモン書を読むチャレンジを受けた」(114−115ページ)を読んで
もらいます。それから,以下の質問をします。
• 少年時代のヒーバーは最初どのような動機からモルモン書を読み始めたでしょうか。
どのような動機から読み続けたのでしょうか。
• 母と教師の証はその動機にどのような影響を及ぼしたでしょうか。
• ヒーバー・J・グラントは聖文を読む目標への関心と,それがもたらす効果について何
と述べたでしょうか。
• 聖文を勉強する動機付けを高めるにはどうすればよいでしょうか。
後にヒーバー・J・グラントが述べた以下の証を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
100
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
「わたしはモルモン書に記録されている人物の中でだれよりもニーファイ〔リーハ
イの息子〕を尊敬しています。この人の人生はわたしの人生の指標となってきました。
みこころ
ニーファイの信仰,決意,神の御心を行う精神に感動し,彼の高貴な足跡に従いたい
と望むようになりました。
」
(Conference Report,1900年4月,23)
「モルモン書は最初から最後まで,ほかの聖典と完全に調和している書物です。イ
エス・キリストの教えと一致しない教義はまったくありません。……モルモン書の内
容は人類のためになり,人類を高めてくれるものばかりです。あらゆる意味で神の真
の証であり,聖書を支え,聖書と一致しています。
」
(Conference Report,1929年4月,
128−129)
エゼキエル37:15−17と2ニーファイ3:12を読んでから,これらの聖句はどのようにグ
ラント大管長の証の裏づけとなっているかについて話し合います。
ヒーバー・J・グラントは指導者として良い模範を示した
生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントの生涯におけるおもな出来事」
(111ページ)を開
いて,ヒーバー・J・グラントは何歳でユタ州トゥーエルステークのステーク会長に召され
たかを調べさせます。(23歳)ヒーバー・J・グラントはステーク会長に召されたとき,自
分以上に忠実であるようには求めない,とステークの会員に話しました。
(生徒用手引きか
ら「ヒーバー・J・グラントは自分の決意に神への信仰を加えて,弱点を克服した」
〔118−
119ページ〕参照)
次の質問をします。ステーク会長として初めて話をした後,『中央幹部が,このステー
クを管理するのに少なくとも10分は話せるくらいの分別のある人を送ることもできず,あ
んな子供を召さなければならないとは,まったく情けないことだ』と言う声を耳にしたと
き,グラント会長はどのように感じたでしょうか。
(生徒用手引き118ページ参照)
生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントは自分の決意に神への信仰を加えて,弱点を克
服した」
(118−119ページ)から,ヒーバー・J・グラントは,
「福音が真実であることを知
っていますか」とジョセフ・F・スミス管長から尋ねられたとき,どのように答えたかを
復習します。以下の質問をします。
• この福音が真実であるということを,完全には知っていないというヒーバー・J・グラ
ントの答えについて,ジョン・テーラー大管長が気に留めなかったのはなぜでしょう
か。
• 自分に証があることを知らなくても,証を持つことができるのはどうしてでしょうか。
ヒーバー・J・グラントは人々の益となるように話すことを望んだとき,話す力が増し加
えられた
黒板に次の語を書き出します。ステーク会長として最初の話,7分半;2度目の話,45分;
3度目の話,5分。生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントは自分の決意に神への信仰を
加えて,弱点を克服した」(118−119ページ)から最後の3つの段落を復習します。以下の
質問をします。
• グラント会長は3度目の話を2度目と同じくらい長く話したいと思っていたのに,なぜ
長く話せなかったのでしょうか。
• グラント会長はどのような決意をしたでしょうか。
• どうすれば「神の栄光にひたすら目を向ける」ことができるでしょうか(教義と聖約
88:67−68参照)
。
• 毎日の決断はどのように人生の方向に影響を及ぼすでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
101
ヒーバー・J・グラントは中央幹部に従った
黒板に次の言葉を書きます。「預言者の言われることには議論の余地はありません。」(イ
レイン・キャノン,
“If We Want to Go Up, We Have to Get On,”Ensign,1978年11月号,
108)この言葉は生徒にとってどのような意味を持つかを尋ねます。一人の生徒に,生徒
用手引きから「ヒーバー・J・グラントは進んで犠牲をささげた」(119ページ)を読んで
もらいます。以下の質問をします。
• ヒーバー・J・グラントの表明した決意には,中央幹部に従うことについてどのような
姿勢が示されているでしょうか。(ヒーバー・J・グラントは教会の中央幹部から求め
られることを,自分の好き嫌いにかかわらず実行しようと常に望んだ。
)
• 教会員はなぜヒーバー・J・グラントと同じ望みを持つように努力すべきでしょうか。
けんそん
ヒーバー・J・グラントは謙遜に,使徒の召しを受けた
召しをよく果たすにはなぜ謙遜でなければならないかを尋ねます。以下のヒーバー・J・
グラント大管長の考えを紹介します。
「わたしは自分の能力の不足を感じてきました。事実,使徒職の召しを受けたとき,
わたしは立ち上がって,自分はふさわしくないと言おうとして立ち上がりました。そ
のとき,一つの考えが浮かんできました。それは,『あなたは自分が生きていること
を知っているように,ジョン・テーラーが神の預言者であることを知っている。その
預言者が啓示を受けて与える召しを断るということは,預言者を拒むことに等しい』
という考えでした。そこでわたしは言いました。
『お受けして全力を尽くします。
』あ
まりのことで,いすに腰を下ろすときに卒倒しそうになったことを覚えています。」
,194)
(Gospel Standards,G・ホーマー・ダラム編〔1941年〕
次の質問をします。教会員は召しをよく果たすために,ほかにどのような特質が役立つ
でしょうか。
ヒーバー・J・グラントは伝道活動に大きな喜びを感じた
生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントの生涯におけるおもな出来事」(111ページ)を
開いて,ヒーバー・J・グラントはいつどこで伝道したかを復習します。ヒーバー・J・グ
ラントは日本で最初の伝道部を開設し,管理した後,イギリスとヨーロッパの伝道部を管
理しました。グラント長老はこの5年間にわたって専任の伝道活動を行ったことを指摘し
ます。生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントは日本とイギリスで伝道部を管理した」
(121ページ)からグラント長老の言葉を復習するとよいでしょう。ヒーバー・J・グラン
ト大管長が語った以下の言葉を紹介します。
の
「わたし自身の経験から考えると,主イエス・キリストの福音を宣べ伝えること以
上に,人の心に喜びと平和と平安を与える働きは世界中どこを探してもほかにありま
せん。
」
(Conference Report,1926年10月,4)
「現在地上で行われている神の業の中で,伝道活動に携わっている人々ほど,幸福と
かぎ
満足感,平安に満たされている人々はほかにいません。喜びを得る真の鍵は奉仕です。
人類の進歩のために,金銭や代償もなしに,この世的な報酬を期待することなく働くとき
に,まことの純粋な喜びが心にわいてきます。
(
」Conference Report,1934年4月,9)
何人かの帰還宣教師から,自分の経験に基づいてこれらの言葉に対する感想を話しても
らいます。それから以下の質問をします。
• 伝道活動が時に困難なことがあるのはなぜでしょう。
• 伝道活動はなぜ報いが大きいのでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
102
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ヒーバー・J・グラントは1918年11月23日から1945年5月14日まで大管長を務めました。
26年(62−88歳)以上にわたって奉仕したグラント大管長は,ブリガム・ヤングを除いて
それまでのどの大管長よりも長い在任期間を務めました。第一次世界大戦の終結から大恐
慌,第二次世界大戦の終結までの時期に教会を導きました。この期間は合衆国と教会にと
ってチャレンジに満ちた時代でもありました。
休戦によって第一次世界大戦に終止符が打たれたとき,人々は平和と繁栄の時代が来る
ことを期待しました。しかしながら,この夢は実現しませんでした。大部分の教会員が住
んでいたアメリカでは11年間にわたって状況は明るく思えました。しかし,1929年に始ま
った経済危機は世界中に波紋を広げていきました。仕事も収入もない人が大勢いました。
この大恐慌に続いて1930年代末期から1940年代半ばに及ぶ第二次世界大戦が起こりまし
た。第二次世界大戦は第一次世界大戦よりもはるかに規模の大きな戦争となりました。
ヒーバー・J・グラントは大管長在任期間中に,ハワイ,カナダのアルバータ,アリゾ
ナで神殿を奉献しました。1924年にはソルトレーク・シティーで教会の所有するラジオ局
が総大会の放送を開始しました。1926年には最初のインスティテュートがアイダホ州のモ
スコーで開かれました。
ヒーバー・J・グラントが大管長に召されたとき,教会は75のステークと22の伝道部に
49万6,000人の会員を擁し,4つの神殿を持っていました。グラント大管長が他界した1945
年に,教会は153のステークと38の伝道部に98万人近くの会員を擁し,8つの神殿を持って
,473,632参照)
。
いました(2003 Church Almanac〔2003年〕
出来事,特筆事項,教え
ヒーバー・J・グラントは試練の時に大いなる信仰を発揮した
ヒーバー・J・グラント大管長は試練の時にも主を信じる信仰を持ち続け,主を信頼しま
した。そのことを物語る以下の話を紹介します。
「妻のルーシーは3年近く大きな病を患った後に息を引き取りました。あるとき,
わたしは6か月間入院中の妻に付き添いました。死期が近づいたため,わたしは妻の
部屋に子供たちを呼んで,別れを告げるように言いました。娘のルーシーは母親が死
いや
ぬのを嫌がって,わたしに按手をして,癒してくれるようにと言ってききませんでし
た。なぜなら,サンフランシスコの病院で苦しんでいた妻にわたしが祝福を施したと
ころ,すぐに寝ついて,安らかな夜を過ごすのを見た経験があったからです。わたし
は子供たちに,人はいつか死ななければならないこと,母親にその時が来たと心に感
じていることを話しました。子供たちが部屋から出て行くと,わたしは臨終の時を迎
えようとしている妻のベッドの傍らにひざまずいて,生と死,喜びと悲しみ,繁栄と
逆境のいずれの中にも主の手を認めていることを主にお話しました。妻が死ぬことに
ついて不平をもらしたりはしませんでした。けれども,妻がこの世を去る姿を目にし
て耐えられる力はなく,妻の死によってイエス・キリストの福音の儀式に対する子供
たちの信仰が弱まらないように支える力も自分にないことを主にお話しました。そこ
で,母が亡くなるのは主の御心であるという証を娘のルーシーに与えてくださるよう
主に嘆願しました。それからしばらくして妻は息を引き取りました。わたしは子供た
ちを寝室に呼び戻して,母親が亡くなったことを告げました。幼い息子のヒーバー
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
103
が激しく泣き出しました。するとルーシーは弟を抱いて,キスをして,泣かないよう
に慰め,主の声が聞こえて『お母さんの死は,神の御心です』と告げられたと話しま
した。ルーシーはわたしの祈りを聞いていたわけではありませんでした。娘に対する
この現れはわたしの嘆願への直接の答えでした。このことについて感謝の気持ちを忘
れたことはありません。
」
(
“When Great Sorrows Are Our Portion,”Improvement
Era,1912年6月号,726−727)
ヒーバー・J・グラントの模範は教会外の人々にも影響を与えた
ヒーバー・J・グラントは大管長に召されるまでに,彼の誠実さに感動して,彼のかかわ
っている教会は良い教会に違いないと考えた多くの友人を得ていたことを生徒に話しま
す。(生徒用手引きから「ヒーバー・J・グラントは正直者としての評判が高かった」120
ページ参照)グラント大管長は「わたしたちは皆一人一人,いわば教会の評判を肩に背負
っているのです」と教えました。(Conference Report,1944年4月,10)以下の質問をし
ます。
• 人々はなぜ会員たちの模範によって教会を判断するのでしょうか。
• 正しい模範を示す重要性は指導者としての責任が増すごとに高まるでしょうか。それ
はなぜでしょうか。
「主はだれに教会を導いてほしいかをを承知しておられます。」
以下の質問をします。
• この教会を導いているのはだれでしょうか。
• 教会の大管長はどのようにして選ばれるのでしょうか。
ヒーバー・J・グラント大管長が語った以下の経験を紹介します。
「ジョセフ・F・スミス大管長の最後の言葉は,彼が息を引き取った晩に,わたし
の手を握って語った言葉でした。
『主はあなたを祝福しておられます。主はあなたを
祝福しておられます。あなたは大いなる責任を受けています。これは主の業であり,
人の業ではないことを,いつも忘れないでください。主はだれよりも偉大な御方です。
主はだれに教会を導いてほしいかを承知しておられます。主は決して間違いを犯され
ません。主はあなたを祝福しておられます。
』
(Conference Report,1941年4月,4)
スミス大管長がグラント大管長に与えた以下の勧告を黒板に書き出します。
• 「これは主の業であり,人の業ではありません。
」
• 「主はだれよりも偉大な御方です。
」
• 「主は決して間違いを犯されません。
」
ヒーバー・J・グラントの生涯に起きた様々な出来事は,これらの言葉が真実であるこ
とをどのように示しているかを話し合います。希望する一人の生徒に「これは主の業であ
り,人の業ではない」というテーマでその場で考えた短い話をしてもらいます。
グラント大管長は富と貧しさのいずれも意に介さなかった
人はなぜ周囲のあらゆる人々に対して誠実でなければならないかを尋ねます。ヒーバー・
J・グラント大管長が人を引きつける能力を持っていたのは,人々に対する純粋な愛の結
果であったと話します。グラント大管長をよく知る人々は彼がすべての教会員,特に困っ
ている寡婦を助けたいと望んでいたことを知っていました。次の文を声に出して読んでか
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
104
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
ら,生徒にグラント大管長に対して受けた印象を述べてもらいます。
「彼は専門家や事業家に対して偉大な友好と親善の大使としての役割を果たしまし
た。教会の中で,かつてこれほどすばらしい働きをした人はいませんでした。影響力
のある人々の心にあった偏見を取り除くために,彼がどれほど教会に貢献したかを推
し量ることはできません。……
グラント大管長はどんなに質素な家であっても,金持ちの豪邸を訪れるときと同じ
ように喜んで訪問し,楽しんでいました。(聖徒たちはそこで手に入る最善の食物を
用意しているとはいえ)聖徒の家庭でパンとミルクの質素な食事を勧められたとして
も,彼は精選された最上の食物を豪華なホテルの有名な料理人が調理した食事以上に
心から感謝し,喜びを表しました。真の末日聖徒から歓待を受け,主が自分にしてく
ださった良いことを彼らに語り,家族の輪に連なってともに祈る特権は,グラント大
管長にとって決して退屈なことでも,単調なことでもありませんでした。」(ジョセ
フ・アンダーソン,
“The President As Seen by His Secretary,
”Improvement Era,
1941年11月号,691−692)
グラント大管長は負債を避けるよう勧告した
一人の生徒に,生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントは借金の苦しみを知る人だった」
(122ページ)から,孫娘のルーシーがグラント大管長について述べた言葉を読んでもらい
ます。以下の質問をします。
• ルーシーは借金を何にたとえたでしょうか。
• グラント大管長が負債を避けるよう絶えず教会員に奨励した理由を説明するために,
このたとえはどのように役立つでしょうか。
• 今日の教会指導者は負債についてどのような勧告を与えているでしょうか。
金銭と借金に対するヒーバー・J・グラント大管長の思いを理解させるために以下の文
を紹介します。
「末日聖徒に警告します。……生活に通常必要なものを買うときは,買うお金があ
るときにしてください。今欲しいものと引き替えに,自分の将来を抵当に入れるよう
なことをしないでください。
」
(Gospel Standards,111)
「彼は善を行うのに用いる以外,お金を増やすことに対して特別な関心を持ってい
,30)
ませんでした。
」
(ジョセフ・アンダーソン,Prophets I Have Known〔1973年〕
これらの言葉を参考にして,金銭管理に対するグラント大管長の考え方について生徒と
話し合います。
じゅうぶん
グラント大管長は什分の一の原則を教えた
生徒用手引きから「什分の一と献金を納めることによって利己心を克服することができる」
と「什分の一は経済的に成功するための主の方法である」(125ページ)を復習します。以
下の質問をします。
• 什分の一はどのような意味で,主に対するわたしたちの負債であると考えることがで
きるでしょうか(マラキ3:8−9参照)。
• なぜ,ほかの負債を支払う前に什分の一を納めるべきなのでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
105
一人の生徒にマラキ3:10−12を声に出して読んでもらいます。それから,忠実に什分
の一を納める人に約束されている祝福について話し合います。次の質問をします。什分の
一を納めることによって,物質的な祝福以外にどのような祝福が与えられるでしょうか。
ヒーバー・J・グラント大管長の以下の言葉をまとめとして使います。
「わたしたちが財政上の義務を果たして什分の一を納めるとき,主は天の窓を開い
て霊的な祝福を注いでくださるということ,そしてそれらは物質的な祝福をはるかに
超えた価値があるということをわたしは固く信じています。しかし,同時に物質的な
祝福も与えてくださるということも信じています。
」
(Gospel Standard,66)
ヒーバー・J・グラントは仕事上の良い習慣について模範を示した
ヒーバー・J・グラントが語った以下の経験を紹介します。
「〔わたしが〕まだ若く,学生であったころ,ソルトレーク・シティーのウェル
ズ・ファーゴ・アンド・カンパニー銀行の出納係の男性についての話を聞きました。
彼は月に150ドルの給料をもらっていました。日曜日を除いて日に6ドルと勘定して,
その額が途方もなく大きいと感じたことをよく覚えています。……出納係になってウ
ェルズ・ファーゴ・アンド・カンパニーで働くことを夢見ながら,当時では高額と思
われた給料を自分もいつの日かもらいたいと考えて,早速デゼレト大学で簿記を学ぶ
ことにしました。……
その結果,それから数年後に,わたしはある保険会社の出納係兼保険証券係として
就職することができました。当時15歳のわたしはかなり達筆で,その仕事にはそれで
十分でした。しかしわたし自身はそれに満足できず,夢を追い続け,ほかにやること
がないと,習字の練習をしました。A・W・ホワイト・アンド・カンパニー銀行の窓
口で働いていたとき,忙しくないときには自分から銀行業務の手伝いを買って出まし
た。報酬のことなど考えずに,ただ仕事を学びたいというだけで,自分の時間内にで
きる仕事は何でもしました。たまたまその銀行の出納係をしていたモーフ氏が達筆な
人で,習字の上達を目指していたわたしを助けてくれました。そのようにして腕が上
がってくると,勤務時間の前後にカードや招待状を書いたり,地図作りの注文が来た
りして,しばしば本職の給与を上回る収入を得るようになりました。そして数年後に
は,わたしはユタ準州祭で習字の最優秀賞を受けることができたのです。わたしが個
人事業で忙しかったころ,大学で習字と簿記の教師が空席になりました。そこでわた
しは,12歳か13歳のころにその教科を教えられるようになろうと心に誓った約束を成
就するために,その職に応募しました。そして採用になり,わたしは自分に課した義
務を果たしたのです。
」
(
“The Nobility of Labor,”Improvement Era,1899年12月号,
82−84)
以下の質問をします。
• よい給料をもらう夢を実現するために努力する過程で,ヒーバー・J・グラントはほか
にどのような報いを受けたでしょうか。
• あなたは教育を受け,熱心に働くことによってどのような報いを受けてきたでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
106
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
グラント大管長は財政問題について勧告を与えた
以下の説明を紹介します。
「ヒーバー・J・グラントは大管長として,自分の経験を生かすとともに,前任者
であるジョセフ・F・スミス大管長の模範に従い,財政の安定を図ることについて聖
徒に勧告を与えました。グラント大管長は二つの基本原則に重点を置きました。一つ
は,負債を避けることによってもたらされる平安であり,もう一つは,什分の一と献
金を納めるときに受ける物質的,霊的な祝福でした。1932年4月の中央扶助協会集会
でグラント大管長はこれらの原則を教えました。当時の合衆国は大恐慌により絶望的
な状態に陥っていました。経済活動の停滞と高い失業率の危機が国中に広がっていま
した。グラント大管長は聖徒たちがスミス大管長から受けた勧告に従っていないこと
しっせき
を叱責しました。
『わたしの前任者がこの壇上から主の霊感によって与えた,負債を抱えないように
との呼びかけと勧告に従っていたならば,末日聖徒はこの大恐慌から受ける被害を最
小限にとどめることができたでしょう。……合衆国全体に広がっている大恐慌のおも
な理由は,人々の間に広がっていた負債の束縛と投機に走る風潮であるとわたしは考
えています。
』
グラント大管長は説教の中でさらに,負債を避ける必要性を強調しました。また,たと
え財政難に陥っているときでも什分の一と献金を納めるよう強く促しました。……
『……現在生きている人で「負債をしてはならない」と言う資格のある人がいると
したら,それはヒーバー・J・グラントです。わたしは〔すべての借金を〕返済し,
だれにも1ドルたりとも減額してくれるよう頼むことなく支払えたことを主に感謝し
ています。もし,主に対して完全に正直でなかったとしたら,わたしは返済できなか
ったと思います。わたしはお金が入るとまず,主に対する負債を支払いました。末日
聖徒が一個の民として主の預言者の忠告を受け入れ,什分の一をきちんと納めていた
ら,現在のような状態に陥っていなかったと固く信じています。もし彼らが〔断食献
金を〕正直に,また良心的に納めているなら,この教会の中で窮乏生活を強いられて
いる人を一人残らず救済することができるでしょう。』〔Relief Society Magazine,
1932年5月号,299,302〕
」
(
「歴代大管長の教え――ヒーバー・J・グラント」119−22)
また,グラント大管長はこう教えました。
「この世における成功の大きな判断基準は,どれほどお金をもうける力があるかで
す。しかし,末日聖徒の皆さんに申し上げたいのは,お金を得ることが真の成功では
ないということです。人はこの世のものを豊かに持つようになるにつれ,注意してい
ないと主の御霊を失い,この世のものに心を奪われるようになります。主の御霊を失
うと,もし事業を営んでいるのであれば,共同経営者に対して会計報告を厳格にまた
正直に求めるほどには,什分の一を納める際に神に対して正直でなくなります。その
ような人は強さを失い,力を弱め,心に抱いていた神の御霊に対する証を弱めていき
ます。わたしはこのことについていささかの疑問も抱いていません。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
107
わたしたちは主に対して正直でなければなりません。大きな問題は,人がこの世の
ものを豊かに持つようになるにつれ,それらに心を奪われて,主の御霊を失うことで
す。したがって,世が成功と見なすものは失敗なのです。なぜならば,人は賞を目指
して仕事を始め,その賞を得るためにほとんど一生働き続けた結果,もしそれを得ら
れないとすれば,その人の人生は失敗だったということになるからです。手に入れる
お金が小額のときは主に対して完全に正直であって,その10分の1を納めていた人を
大勢知っています。しかし,大金を手にするようになると,10パーセントではなく,
1パーセントから3パーセントしか納めないのです。これはどういうことでしょうか。
ウィスキーを飲みたいという気持ちと同じように,注意していないと,金銭欲は次第
に大きくなり,強くなります。それは人をとりこにしてしまいます。そして人は善を
行う手段として金銭を大事にするのではなく,金銭そのものを愛するようになります。
そのような人は物の価値を正しくとらえていないのです。
」
(Gospel Standards,18;
段落変更)
以下の質問をします。
• 世の成功だけに心を向けていると,なぜ主の御霊を失うようになるのでしょうか。
• 正しい視野に立って金銭的な成功を収めるには,どうすればよいでしょうか。
ひけつ
グラント大管長は成功を定義し,成功の秘訣を教えた
成功する方法について預言者はどのような助言を与えていると思うかを生徒に尋ねます。
預言者は成功をどのように定義すると思うかを尋ねます。生徒の答えについて話し合って
から,生徒用手引きの「ヒーバー・J・グラントにとって成功とは簡潔かつ実際的なもの
だった」(123ページ)からヒーバー・J・グラント大管長による成功の定義を復習します。
一人の生徒にマタイ22:36−40を,別の生徒にモーサヤ2:17を声に出して読んでもら
います。それから,これらの聖句とグラント大管長の成功の定義との間に見られる共通点
について話し合います。
一人の生徒に,生徒用手引きから「奉仕は成功の秘訣の一つである」(123ページ)を声
に出して読んでもらいます。次の質問をします。人々に奉仕することはどのようにして幸
福を生み出すのでしょうか。
他人に奉仕した経験がある生徒,あるいはそのような経験をした人を知っている生徒が
いれば,その話をしてもらいます。また,あなた自身の経験を紹介する準備をしておきま
す。
グラント大管長は預言者ジョセフ・スミスの神聖な召しについて証を持っていた
世界史上最も重要な出来事は何だと思うかを生徒に尋ねます。次に教会の歴史上最も重要
な出来事は何かを尋ねます。ヒーバー・J・グラント大管長の以下の考えを分かち合います。
「救い主御自身が地上に住まわれて以来,世界の歴史で起きた最も偉大な出来事は,
あがな
わたしたちの贖い主,救い主であり,神の愛する独り子とともに地上を訪れるにふさ
わしい時期であると神御自身が考えられ,少年ジョセフに御姿を現されたことです。
」
(Gospel Standards,174−175)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
108
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
「このイエス・キリストの教会が,100年以上前に少年ジョセフ・スミスの受けた
大いなる最初の示現を基として築かれていることを,わたしは喜んでいます。ジョセ
フ・スミスは,筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の天の御方を見たこと,その
うちの御一方が別の御方を指して,『これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさ
い』と言われたことを宣言しました。末日聖徒は,イエス・キリストが生ける神の御
子であられることについて少しの疑いも抱いていません。なぜならば,神御自身がイ
エス・キリストをジョセフ・スミスに紹介されたからです。ジョセフ・スミスが過去
も現在も,そして永遠に生ける神の預言者であるということは,現代のイエス・キリ
ストの教会の基本的な真理です。ジョセフ・スミスを神の預言者として認め,その事
実について心に証を持っているかぎり,キリストの教会にいわゆる分裂は生じるはず
がないのです。
」
(Conference Report,1924年10月,6−7)
次の質問をします。教会員一人一人が,ジョセフ・スミスは神の預言者だったことを知
るのはなぜ大切なのでしょうか。
グラント大管長は知恵の言葉を守ることによってもたらされる祝福を教えた
知恵の言葉によってどのような祝福を受けてきたかを生徒に尋ねます。一人の生徒に,生
徒用手引きから「グラント大管長は福祉と知恵の言葉について教えた」(124ページ)を声
に出して読んでもらいます。ヒーバー・J・グラント大管長が挙げた,知恵の言葉を守るこ
とによって得られる祝福を黒板に書き出します。
• 「体の力が増し加えられる」
• 「思いの力が増し加えられる」
• 霊的な成長
• 「天の父なる神ともっと直接的な交わりを持てる」
全員で教義と聖約89:18−21を読んで,この聖句と黒板に書き出した事項とを比較します。
グラント大管長は教会福祉プログラムの基礎を築いた
教会福祉プログラムはどのような目的を持っていると思うかを生徒に尋ねます。生徒用
手引きから「福祉計画は啓示された原則に基づいて設立された」(124ページ)を読んで
から,ヒーバー・J・グラント大管長が述べた福祉の目的について話し合います。以下を
質問します。
• 怠惰はなぜ忌まわしいのでしょうか。
• 「施し」は個人や家族にどのような害を及ぼすでしょうか。
• 「自立心,勤勉と倹約の精神,そして自尊心」はどのような恩恵をもたらすでしょうか。
• どのような意味で勤労は祝福となるのでしょうか。
黒板に次の言葉を書き出します。「教会の目的は,人々の自立を助けることです。」(ヒ
ーバー・J・グラント,Conference Report,1936年10月,3)以下の質問をします。
• 人々を自立するよう助けることはどのような恩恵をもたらすでしょうか。
• この福祉の原則はどのように社会的,情緒的,肉体的健康に応用できるでしょうか。
• 両親は子供を育てるに当たってこの原則をどのように応用できるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 7 章 ―― ヒ ー バ ー ・ J ・ グ ラ ン ト
109
グラント大管長は戒めを守るよう教会員に奨励した
ヒーバー・J・グラント大管長が繰り返し語った以下のテーマを紹介します。
「わたしはすべての末日聖徒に申し上げます。神の戒めを守ってください。これが
わたしの最も言いたいことです。ただこれだけです。神の戒めを守ってください。」
(Conference Report,1920年10月,10)
次の質問をします。従順な人はどのような祝福を受けられるでしょうか。グラント大管
長が晩年に,大会で教えた以下の言葉を紹介します。
「わたしは生ける神の僕として,皆さんに約束します。神の戒めを守るあらゆる男
こうべ
女は繁栄し,神が交わされたあらゆる約束は彼らの頭に成就し,彼らは知恵と光と知
識と知性,とりわけ主イエス・キリストの証において成長し,増し加えられます。」
(Conference Report,1944年10月,13)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
Special Collections Dept., J. Willard Marriott Library, University of Utah. Do not copy
110
第8章
ジョージ・アルバート・スミス
第8代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
111
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョージ・アルバート・スミスは,最後の荷車隊が盆地に到着した2年後の1870年4月4日に
生まれました。荷車隊による旅は,1869年に完成した大陸横断鉄道によって終わりを告げま
した。ジョージ・アルバート・スミスが誕生した年に,教会員数は9万人を超えました。当時の
大管長はブリガム・ヤングでした。そしてジョージ・アルバート・スミスが7歳のときにヤン
グ大管長は亡くなりました。ジョージ・アルバート・スミスの幼年時代と少年時代を通じて
ソルトレーク神殿の建設は続けられていました。1876年にアレクサンダー・グラハム・ベル
が電話機を発明して特許を取り,
1877年にはトーマス・エジソンが蓄音機を発明し,
1879年に
白熱電球を開発しました。
出来事,特筆事項,教え
ジョージ・アルバート・スミスは教会の忠実な指導者の子孫だった
ジョージ・アルバート・スミスの家系は開拓者時代のユタで有名だったことを説明しま
す。ジョージ・アルバート・スミスは1870年に生まれた当時,大管長会で顧問を務めてい
た祖父の名にちなんで名づけられました。父のジョン・ヘンリー・スミスはジョージ・ア
ルバート・スミスが10歳のときに使徒に聖任され,のちに大管長会の顧問となりました。
預言者ジョセフ・スミスの叔父で,曽祖父のジョン・スミスは生涯,大管長会の顧問補佐,
大祝福師として働きました。
ジョージ・アルバート・スミス長老が十二使徒定員会会員を務めていたときに語った以
下の言葉を紹介するか,一人の生徒に読んでもらいます。
「わたしにとってイエス・キリストの福音のすばらしさの一つは,わたしたちは皆,
平等の地位に置かれていることです。日の栄えで高い位を得るために,ステーク会長
になる必要はなく,十二使徒定員会の会員になる必要もありません。たとえ教会の中
で最も地位が低い会員であっても,神の戒めを守るならば,ほかの人と同じように昇
栄にあずかるのです。教会の律法を守るかぎり,わたしたちは等しく昇栄にあずかる
機会が与えられています。
」
(Conference Report,1933年10月,25)
次の質問をします。昇栄に向かって努力するわたしたちにとって,この言葉はどのよう
な励ましとなるでしょうか。
ジョージ・アルバート・スミスは少年時代に,ブリガム・ヤング大管長を知っていた
次の質問をします。教会の指導者はあなたの生活にどのような影響を及ぼしているでしょ
うか。
生徒用手引きの「ジョージ・アルバート・スミスは初期の偉大な指導者たちと個人的な
交わりがあった」(130−131ページ)の段落2から段落4の内容をまとめます。それから次
の質問をします。ジョージ・アルバート・スミスはブリガム・ヤング大管長と接した経験
からどのようなことを学んだでしょうか。
ジョージ・アルバート・スミスは少年のころから戒めを守ることを学んだ
一人の生徒に,生徒用手引きから「『主の側にいる』」(142−143ページ)を声に出して読
んでもらいます。ジョージ・アルバート・スミスは祖父のこれらの言葉や家族の模範から,
自分を清く汚れなく保つことを学んだことを説明します。次の質問をします。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
112
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
• ある人たちは,主の領域と悪魔の領域の境界線を越えることをどのように正当化して
いるでしょうか。
• 境界線を越えないようにするにはどうすればよいでしょうか。
戒めを重圧と感じる人もいるが,それはなぜかを生徒に尋ねます。全員で教義と聖約
59:3−4を読み,神はなぜ御自分の子らに戒めを与えられたのか,またどうすれば戒めを
祝福と考えられるかについて話し合います。十二使徒定員会会員だった当時にジョージ・
アルバート・スミス長老が語った以下の言葉を紹介します。
「わたしは子供のころ,ある律法に従わなければ,直ちに罰が下るように主はこの
世の……様々な事柄を定めておられたのだと考えていました。けれども成長するにつ
れ,別の考え方を学んできました。そして今のわたしにとって,主の律法は……天の
あわ
御父がその憐れみによって奏でてくださる美しい音楽となっています。……したがっ
て,神の戒めを守ることがわたしにとっていちばんよいことだと信じるのは難しいこ
とではないと言えます。
」
(Conference Report,1911年10月,43−44)
以下の質問をします。
• 戒めはどのような意味で御父の愛の表れなのでしょうか。
• どうすれば戒めは「天の御父が奏でてくださる美しい音楽」であると考えられるよう
になるでしょうか。
• 神と戒めに対するこのような姿勢は,この世の人生にどのような平安と喜びをもたら
してくれるでしょうか。
いや
少年時代のジョージ・アルバート・スミスは癒される信仰を持っていた
教義と聖約46:19を読み,癒される信仰を持つとはどのような意味かを話し合います。一
人の生徒に,生徒用手引きから「ジョージ・アルバートは癒される信仰を持っていた」
(131ページ)を読んでもらいます。以下の質問をします。
• ジョージ・アルバート・スミスは癒される信仰をどのように表したでしょうか。
• ジョージ・アルバートは自分を癒してくれたのは主であったと確信していたのはなぜ
だと思いますか。
みたま
たまもの
• 生活の中でこの御霊の賜物を養うにはどうすればよいでしょうか。
生徒自身またはほかの人が癒される信仰を表した経験があれば分かち合うよう勧めます。
カール・G・メーザーは少年時代のジョージ・アルバート・スミスに大きな影響を与えた
ジョージ・アルバート・スミスは少年時代に,ユタのプロボにあるブリガム・ヤング・ア
カデミーへ入学し,そこでアカデミーの校長だったカール・G・メーザーと出会ったこと
を説明します。ジョージ・アルバート・スミスがブリガム・ヤング大学の学長に書き送っ
た以下の手紙を紹介します。
「わたしはメーザー兄弟との思い出を大切にしています。わたしの教育に寄与して
くださった人々の中で,だれよりもメーザー兄弟のことを多く話してきたと思いま
す。
」
(グレン・R・スタッブス,
“A Biography of George Albert Smith”
〔博士論文,
ブリガム・ヤング大学,1974年〕
,20)
次の質問をします。あなたはどのような助言を教師から受けたのを覚えていますか。続
いて,ジョージ・アルバート・スミスが回想して語った次の話を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
113
「わたしはブリガム・ヤング・アカデミーに入学しました。幸運だったのはカー
ル・G・メーザー博士から指導を受けたことでした。教会の偉大な学校を創設した,
傑出した教育者でした。学校にいた間,メーザー博士から聞いた言葉の内容について
はよく憶えていないのですが,恐らく決して忘れられないことが一つあります。ある
日メーザー博士はこう語りました。『あなたがたは自分が行ったことに対して責任を
問われるだけでなく,思いについても責任を問われることになるでしょう。
』
自分の思いをコントロールする習慣などあまりなかった少年時代のわたしには,ど
うしたらよいのかまったく分からずに,悩みました。その言葉が頭から離れませんで
した。それから1週間か10日が過ぎたころ,突然メーザー博士の言葉の意味が分かり
ました。その考え方を理解できたのです。博士の言葉をどう解釈したらよいかが突然
分かったのです。つまり,自分の思いに対して責任を問われるのは,この世の生活を
終えるとき,その生涯は自分の思いが結集されたものだからです。この助言がわたし
の生涯を通じて大きな祝福となってきました。おかげで,不適切な考えを幾度となく
遠ざけることができました。この世の働きを終えるときに,わたしは自分の考えが作
り 出 し た 自 分 と 向 き 合 う こ と を 知 っ て い る か ら で す 。」(“ President Smith’s
Leadership Address,”Church News,1946年2月16日,1)
以下の質問をします。
• 人の生涯は「自分の思いが結集されたもの」であるとはどのような意味でしょうか。
• どうしたら自分の思いをよりよくコントロールできるでしょうか。
ゼベディー・コルトリンは祝福師の祝福の中でジョージ・アルバート・スミスが使徒に
召されることを預言した
祝福師の祝福が自分の生活にどのような影響を及ぼしているかについて生徒から意見を求
めます。ジョージ・アルバート・スミスが13歳のときにゼベディー・コルトリンから祝福
師の祝福を受けたことを話します。一人の生徒に,生徒用手引きのジョージ・アルバー
ト・スミスの章から,スミス大管長が祝福師の祝福を受けたときのことを説明する,上か
ら2番目の段落(130ページ)を声に出して読んでもらいます。以下の質問をします。
• この祝福はジョージ・アルバート・スミスの生涯を通じてどのような影響を与えたでしょうか。
• 主が望んでおられることを行えるような生活をするための備えとして,祝福師の祝福
はどのような助けとなるでしょうか。
ジョージ・アルバート・スミスは求婚期間を中断して,特別な使命を果たした
ジョージ・アルバート・スミスがウィルフォード・ウッドラフ大管長の孫であるルーシ
ー・エミリー・ウッドラフと初めて出会ったのは二人とも幼いときだったことを生徒に話
します。若い二人は長年友情を深めていきましたが,成人を迎えようとしていたころ,ル
ひ
ーシーは別の求婚者に心を惹かれました。ジョージ・アルバートは21歳のときに,ユタの
南部で相互発達協会の青少年を強める特別な使命を果たす召しを受けました。同地で召し
を果たしていたときに,彼はルーシーがその男性と結婚することを耳にしました。ルーシ
ーへ手紙を書き,最後に次のような言葉で締めくくりました。
けんそん
「謙遜になって祈ってください。人々に対して負っている義務について思い違いを
してはなりません。最も大切な義務は,あなた自身に対する義務です。あなたは幸せ
になると思います。またそうなるようにわたしは祈っています。」(メーロ・J・パー
,212)
シー,Builders of the Kingdom〔1981年〕
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
114
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
この思いやりのこもった誠実な手紙はルーシーにどのような影響を与えたと思うかを生
徒に尋ねます。一人の生徒に,生徒用手引きの「ジョージ・アルバート・スミスはルーシ
ー・ウッドラフと結婚した」
(133ページ)から最後の段落を読んでもらいます。それから,
次の質問をします。ルーシー・ウッドラフとジョージ・アルバート・スミスのこの経験か
ら,どのような教訓を学ぶことができるでしょうか。
結婚したばかりのジョージ・アルバート・スミスは伝道に旅立った
ジョージ・アルバート・スミスは1892年5月25日にルーシー・エミリー・ウッドラフと結
婚したことを説明します。結婚して間もなく,1892年6月23日にジョージ・アルバート・
スミスは伝道のため合衆国南部へ旅立ちました。それから数か月後にルーシーは夫ととも
に伝道する召しを受けて,その年の秋に伝道部に到着しました。
ルーシー・スミスは伝道本部で夫とともに働いていましたが,ジョージ・アルバート・
スミスはJ・ゴールデン・キンボール会長をはじめとするほかの同僚たちとしばしば伝道
の旅に出かけたことを説明します。以下の出来事のいずれかまたは両方を紹介します。
あるとき,ジョージ・アルバート・スミスはJ・ゴールデン・キンボール会長とほかの4人の宣教
師とともに各地を巡って,集会を開いていました。ある晩,宣教師たちは地元の教会員から
宿を提供されました。丸太作りで非常に小さな家でした。ジョージ・アルバート・スミスはその
ときの様子をこう説明しています。
「真夜中ごろ,わたしたちは外から聞こえてきた恐ろしい叫び声と怒鳴り声で目が
覚めました。ベッドから起き上がったとき,耳に入ってきた汚らわしい言葉から,自
分たちがどういう状況に置かれているのかを悟りました。夜空に輝く月の明かりで,
大勢の人が外を取り囲んでいるのが見えました。キンボール会長は飛び起きると,身
支度を始めました。扉を叩く男たちは『モルモンは出てこい。撃ち殺してやる』と口
汚くののしっていました。キンボール会長はわたしに,起きて服を着ないのかと尋ね
ましたが,わたしは,きっと主が守ってくださるからベッドから離れないと言いまし
た。数秒後,大量の銃弾が部屋に撃ち込まれました。明らかに,暴徒は4つの集団に
分かれ,四方から銃弾を浴びせていました。木片が部屋中に飛び交いました。そして,
少しの間銃撃の音がやみました。それから再び銃撃が始まって,さらに多くの木片が
わたしたちの頭上を飛び交いました。わたしはまったく恐怖を感じませんでした。心
穏やかに体を横たえたまま,人生で最大の恐るべき出来事の一つを経験していました。
み こ と ば
の
神の御言葉を宣べ伝え,神の教えに従っているかぎり,主はわたしたちを守ってくだ
さることを確信していました。そして,そのとおりになりました。
暴徒はあきらめて,去っていきました。翌朝,扉を開けてみると,そこにはおびた
だしい数の重そうなヒッコリーの棒が散らばっていました。それは南部で宣教師たち
を殴打したときに使ったと同じようなこん棒でした。
」
(The Teachings of George
,
Albert Smith,ロバート・マッキントッシュとスーザン・マッキントッシュ編〔1996〕
194)
やみよ
別の折にジョージ・アルバート・スミスは同僚のスタウト長老とともに闇夜を歩いてい
ました。スミス長老は当時を思い起こしてこのように述べています。
だんがい
「スタウト長老とわたしは,断崖に沿って歩いていました。道は狭く,一方は山の
絶壁が迫っており,反対側は切り立つ断崖で,はるか下に川が流れていました。わた
したちには明かりもなく,行く手を照らす星も月も出ていませんでした。一日中歩い
てきたわたしたちは,深い峡谷を越えた向こう側にあるマッケルビン家までたどり着
けば,彼らが歓待してくれることを知っていました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
115
マッケルビン氏の家まで行くには,この小さな山を越える必要がありました。休み
休みゆっくりと進まなければなりませんでした。足場を確かめながら一歩一歩進み,
山壁に片手を当て,足を引きずるようにして歩きました。スタウト長老の後ろから進
むうちに,足の裏に固い岩場を感じました。岩場を歩いているうちに,そのときまで
わたしの道案内となり命綱となってくれていた山壁から手を離しました。山壁から離
れて数歩進んだときに,何かがおかしいので,その場で立ち止まらなければならない
と強く感じました。スタウト長老に声をかけると,返事がありました。彼の声が聞こ
えた方向から判断して,わたしは道をそれていることに気づきました。そして,山壁
に手が届く地点まで戻ると,再び前進しました。スタウト長老はわたしのほんの数歩
くい
さく
先を歩いていました。こうして彼に追いつくと,杭を打った柵のある場所へ出ました。
手と足を使って注意深く確かめながら,闇の中でその柵を越えても安全かどうかを調
べました。安全であると判断し,柵を越えることにしました。太い杭の上に登ったと
きに,わたしの小さなスーツケースの口が開いて,中味がすべてまき散らされてしま
いました。闇の中を手探りでかき集めて,全部を回収できたと思いました。
夜の11時ごろ,無事に目的地に到着しました。まもなく,くしとブラシがなくなっ
ていることに気づきました。翌朝,その場所へ行ってみました。そして,失くしたも
やみ
のを見つけることができました。そのとき,前の晩に闇の中で道に迷った場所へ行っ
てみたい気持ちにかられました。わたしたち宣教師がはいていた靴は,長持ちさせる
びょう
ために底に大きな鋲が打ちつけられていました。そのため柔らかい土に残されていた
足跡をたどって難なく戻ることができました。山すその道を引き返して行くと,わた
しが迷った断崖絶壁まで来ました。もう一歩踏み出していたら,わたしは谷底の川に
おぼ
落下して,溺れるところだったのです。死の一歩手前まで近づいていたことを知って
気分が悪くなりました。同時に,わたしを守ってくださった天の御父に心から感謝し
ました。わたしはいつも,主の業を行い,主に助けと守りを願い求めているかぎり,
主はわたしたちを導き,守ってくださると考えています。」(Teachings of George
Albert Smith,194−95)
以下の質問をします。
• ジョージ・アルバート・スミスは自分の召しと主に対してどのような信頼を置いてい
たでしょうか。
• 御霊の促しに従うことについてジョージ・アルバート・スミスはどのようなことを学
んだでしょうか。
ジョージ・スミスとルーシー・スミスは二人の娘と一人の息子に恵まれた
子供に恵まれない夫婦はどのような思いを抱いているかについて話し合います。ジョー
ジ・アルバート・スミスとルーシー・スミスは子供が生まれることを願っていました。何
年もの間子供が生まれなかったため,ルーシーは気落ちしていました。一人の生徒に次の
文を声に出して読んでもらいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
「結婚してから4年以上が過ぎても子供に恵まれなかったジョージとルーシーは家族
を持つことを熱心に願うようになっていました。ある日,ウッドラフ大管長がやって
来て,ルーシーに子供が何人いるのかと尋ねました。ルーシーは涙を流しながら,
『いいえ,おじいさま。欲しいのですが,一人もできません』と答えました。『では,
座りなさい』と大管長は言いました。そして彼女の頭に手を置いて,子供が生まれる
よう祝福を授けました。それから1年にも満たない1895年11月19日に,娘が誕生しま
した。
」
(パーシー,Builders,220)
1899年11月に次女が誕生し,そして1905年9月にルーシーは男児を出産しました。ジョ
ージ・アルバートとルーシー・スミスは子供たちを迎えて大きな喜びを得ました。子供た
ちは二人にとって大きな祝福でした。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
117
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
ジョージ・アルバート・スミスは十二使徒定員会会員を42年間(33歳から75歳まで),
大管長を6年間(1945年から1951年まで)務めました。使徒と大管長の在任期間中に,2度
の世界大戦と長期にわたる経済恐慌を経験しました。またこの間にキティーホークでの初
飛行(1903年)と超音速ロケット初飛行(1947年)が行われました。これらは人類が成し
遂げた驚くべき技術革新の典型でした。ジョージ・アルバート・スミスが十二使徒定員会
会員に召された後,教会はすべての負債を返済しました。これは,その後の教会の財政責
任の手本となりました。
1945年,ジョージ・アルバート・スミスが大管長となった年に,教会は153のステーク
と38の伝道部に98万人の会員を擁し,8つの神殿を持っていました。そして1951年(彼が
亡くなった年)に,教会は191のステークと42の伝道部に約120万人の会員を擁し,8つの
,473,632参照)
神殿を持っていました。
〔2003 Church Almanac〔2003〕
出来事,特筆事項,教え
ジョージ・アルバート・スミスは使徒に聖任された
ジョージ・アルバート・スミスが祝福師の祝福の中で与えられた約束を覚えているかどう
かを生徒に尋ねます。1884年1月16日にゼベディー・コルトリンが宣言した祝福はジョー
ジ・アルバート・スミスが使徒に召されたときに成就したことを話します。教会の初期の
時代ではしばしば,事前の面接なしに大会で召しが与えられたことを説明します。1903年
10月6日火曜日,ジョージ・アルバート・スミスは仕事の都合で総大会に出席することが
できませんでした。彼は日記にこう記しています。
「午後3時半,子供たちをバザーへ連れて行くため,家に向かった。玄関先でネリ
ー・C・テーラー姉妹に出会ったところ,彼女は熱意を込めてお祝いの言葉を述べた。
何のことか分からなかったが,彼女の話ではその日の午後にわたしは十二使徒定員会
の一員に選ばれたらしい。わたしは彼女の誤解だと思って,そう述べた。今度は彼女
が混乱して,自分の間違いかどうかを確かめるためにタバナクルへ戻った。その後,
あぜん
事実を確かめたテーラー姉妹やほかの人たちに会った。わたしは唖然とした。ゼベデ
ィー・コルトリンから受けた祝福師の祝福にあったように,自分が使徒になって,い
つか父の後を継ぐと思ってはいたが,まさか今それが起きたとは信じられなかった。
みこころ
自分にできるとも,ふさわしいとも思えなかったが,それが主の御心ならば,全力
を尽くして務めを果たそうと考えた。
」
(The Teachings of George Albert Smith,ロ
バート・マッキントッシュ,スーザン・マッキントッシュ共編〔1996〕
,xxi)
以下の質問をします。
• ふさわしくないという思いを抱きながらも,ジョージ・アルバート・スミスはこの大
切な召しのためにどのような準備をしたでしょうか。
• あなたは教会の召しを受けて果たす自信を増すために,どのようなことができるでし
ょうか。
ジョージ・アルバート・スミス長老は人生の目標のリストを作成した
生徒用手引きから「ジョージ・アルバート・スミスは個人としての信条を持っていた」
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
(133−134ページ)を読み,ジョージ・アルバート・スミスが生活の信条としていた事柄
を少なくとも6つ挙げてもらいます。(以下のような信条を挙げるとよいでしょう)。キリ
ストの良い弟子となるために以下の原則がどのような助けとなるかに注目させます。
• 「友なき人の友となる」
• 「貧しい人の必要を満たすことに喜びを見いだす」
• 「病人や悩む人を見舞い,彼らの心に,癒される信仰を持ちたいという気持ちを起こ
させる」
• 「あらゆる人に理解と祝福をもたらすために真理を教える」
• 「道を踏み外した人を捜し出し,義と幸福の人生へ連れ帰る」
• 「愛をもって〔人々を〕正しい行動へ導く」
• 「人々が問題を解決できるように助ける」
• 「高い地位を利用して世の注目を集めるのを避け,思慮の浅い友人からの褒め言葉を
意に介さない」
• 「たとえ不当な仕打ちを受けたとしても,知りつつ人の気持ちを傷つけることはしない」
• 「利己心とねたみの心に打ち勝ち,天の御父のすべての子供の成功を喜ぶ」
• 「どのような人に対しても,敵意を持たない」
• 福音の計画についての真理を広める義務を果たし,その特権を活用する
幾つかの指標となる原則を選び,生涯を通じてそれらを守るよう生徒に奨励します。
ジョージ・アルバート・スミスは生涯を通じて健康上の重大な問題と闘った
以下の文を紹介します。
「ジョージ・アルバート・スミスは丈夫な体に恵まれていませんでした。このこと
が自身と家族に多くの苦しみをもたらしました。彼の健康上の問題は多岐にわたって
いました。……体の問題を抱えていたにもかかわらず,彼は熱心に働き,働くことが
好きでした。健康に配慮する人なら差し控えるであろう限度を超えて働くこともしば
しばありました。友人や医師はペースを落とすよう忠告しましたが,彼はそうしよう
としませんでした。
」
(グレン・R・スタッブス,
“A Biography of George Albert
Smith”
〔博士論文,ブリガム・ヤング大学,1974年〕
,99)
ジョージ・アルバート・スミスは1909年から約4年間という長い間,重い病気にかかっ
ざせつ
たことを説明します。スミス長老にとって,それは大きな挫折の時期でした。主の業を行
いたくても,それができなかったからです。一人の生徒に,生徒用手引きの「ジョージ・
アルバート・スミスは試練の時に動揺することなく,忠実だった」(131−132ページ)か
ら最後の段落を読んでもらいます。次の質問をします。常に神の御心を求めることはなぜ
大切なのでしょうか。
あるとき,重い病気にかかって,ユタ州セントジョージで療養していたときにジョー
ジ・アルバート・スミスは非常に霊的な経験をしたことを生徒に話します。一人の生徒に,
生徒用手引きから「『わたしの名を受けて何を行ったか』」(134ページ)を読んでもらいま
す。以下の質問をします。
• 生徒の中に先祖の名をもらっている人がいるでしょうか。その名を受け継いでいるこ
とによってどのような責任を感じていますか。
• この夢はスミス長老をどのように力づけたでしょうか。
み
な
• わたしたちは救い主の御名によって何をしたかを常に吟味することによって,どのよ
うな恩恵を受けるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
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あかし
ジョージ・アルバート・スミス大管長が語った以下の証を紹介します
「わたしはここ何年か死の陰の谷を歩んできました。向こう側にあまりにも近づい
たので,もし天の御父の特別な祝福がなかったら,生きながらえることはできなかっ
たでしょう。しかし,天の御父から祝福を受けているという証が一瞬でも薄らぐこと
はありませんでした。向こうの世界に近づけば近づくほど,福音が真実であるという
確信はいっそう強くなりました。こうして命を助けられたわたしは,福音が真実であ
ることを知っていると喜んで証します。また天の御父がそれをわたしに示されたこと
を心から感謝しています。
」
(Teachings of George Albert Smith,190)
ジョージ・アルバート・スミス大管長は愛によって教え導いた
二人の生徒に,生徒用手引きから「愛は奉仕する機会を求める」と「愛は人々に心を向け
る時間をつくり出す」(138−139ページ)を読んでもらいます。次に,別の生徒に大管長
会のトーマス・S・モンソン管長が語った以下の証を紹介してもらいます。生徒が耳を傾
けている間,ジョージ・アルバート・スミス大管長の教え導く力にはどのような優れた点
があったかを考えさせます。
「ソルトレーク・シティー市役所の道路課に長年勤めるジュニアス・バート兄弟は,
霊感に満ちた心温まる話を聞かせてくれました。冷え込んだある冬の朝,バート兄弟
が所属する道路清掃班の一行は道路の側溝から大きな氷塊を取り除く作業に就いてい
ました。正規の職員と,職を求めて集まって来た臨時職員が一緒に働いていました。
その中に薄いセーターを1枚着ただけで,いかにも寒そうにしている臨時職員が一人
いました。そのうちに,あごびげをきれいに整えたほっそりした男性が通りがかりに
立ち止まり,その作業員に声をかけました。「こんな朝にそのセーターでは足りない
でしょう。上着はどうしたのですか。
」臨時職員が,上着は持っていないと答えると,
その男性は自分のコートを脱ぎ,相手に手渡してこう言ったのです。『これをあげま
しょう。厚手のウールだから暖かいですよ。わたしはこの通りの向かいで働いていま
すから。』そこはサウステンプル通りでした。コートを脱いだまま仕事のために本部
ビルの中へ姿を消した良きサマリヤ人は,末日聖徒イエス・キリスト教会のジョー
ジ・アルバート・スミス大管長だったのです。その惜しみない無私の行いには,大管
長の優しい人柄がうかがえます。確かにスミス大管長は兄弟の守り手でした。」(「兄
弟の守り手」
『聖徒の道』1990年7月号,53参照)
以下の質問をします。
• だれかから親切にされたら,あなたはどのような気持ちになりますか。
• ほかの人々を愛し,仕える気持ちをはぐくむにはどうすればよいでしょうか。
スミス大管長は教会歴史上の大切な出来事を人々の記憶に留めるために力を尽くした
自宅の近くに記念碑や彫像が建てられているかどうかを生徒に尋ねます。人々や国はなぜ
記念碑を建てるのか,記念碑にはどのような目的があるのかを話し合います。教会が保存
している記念碑や史跡地を幾つか挙げてもらいます。当時十二使徒定員会会員だったジョ
ージ・アルバート・スミス長老が記念碑を建設する目的を説明している,1937年に記した
次の手紙を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
120
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
「個人の思い出を残すために記念碑を建てる習慣があります。偉大な出来事を人々
の心にいつまでも焼き付けておくためにも,記念碑が建てられます。この国には,忘
れられつつある多くの重要な場所があります。次代の人々が重要な出来事に注意を向
けるように,実質的な方法でそれらを記念することが望ましいと人々は感じてきたの
です。
」
(スタッブス,
“A Biography of George Albert Smith”
,254)
ジョージ・アルバート・スミス長老はヒーバー・J・グラント大管長の指示により,末日
聖徒の歴史が忘れられないようにするために力を尽くしたことを生徒に話します。様々な
史跡を保存するために,合衆国全域に記念建造物や記念碑が建設されました。1937年に始
められたクモラの丘ページェントには毎年大勢の人々が訪れています。このページェント
の開催は,27年以上の歳月をかけてようやく1928年にその土地を取得できたという努力の
成果です。スミス長老が個人的に関心を持っていたもう一つの記念碑は,ソルトレーク盆
地の名所となっている「まさにこの地である」の記念碑でした。
ジョージ・アルバート・スミスは第8代大管長に召された
第二次世界大戦が終結して間もない1945年10月の総大会において,ジョージ・アルバー
ト・スミスは大管長として初めて総大会を管理したことを生徒に話します。一人の生徒に,
生徒用手引きから「ジョージ・アルバート・スミスは大管長に召された」(136ページ)を
読んでもらいます。以下の質問をします。
• ジョージ・アルバート・スミスはこの時期に大管長となるためにどのように備えられ
てきたでしょうか。
• これまでスミス大管長について学んできた事柄から,彼の準備の中で最も大切だった
のはどのようなことだと思いますか。
ジョージ・アルバート・スミス大管長は傷ついた国民を癒すために力を尽くした
かつては敵であった国の教会員と触れ合うことは,どのようなものかを生徒に想像させま
す。第二次世界大戦後に,教会員はまさしくそのような状況を経験することになりました。
生徒用手引きから「ジョージ・アルバート・スミス大管長は平和の使節を派遣した」と
「ジョージ・アルバート・スミス大管長は合衆国大統領と会見した」(137−138ページ)を
復習し,教師自身の言葉で紹介します。それから以下の質問をします。
• 戦争によって破壊されたヨーロッパの聖徒たちを支援するための使者として,スミス
大管長はだれを派遣したでしょうか。
(エズラ・タフト・ベンソン長老)
• 福音は戦争の傷をどのように癒すでしょうか。
生徒用手引きから「主はわたしたちに代わって戦われる」(143ページ)を読みます。次
の質問をします。主は御自分の民をどのように守り,強められるでしょうか。
現在,世界で起きている幾つかの戦争や紛争について話し合います。生徒用手引きから
「戦争で破壊された世界に平和が戻る」(135ページ),「主の方法によって災いを避けなけ
ればならない」(141ページ),「人類は御霊に従わなければ恒久的平和を確立することがで
きない」(141−142ページ)を復習します。
スミス大管長は伝道活動について壮大なビジョンを持っていた
ジョージ・アルバート・スミスは偉大な宣教師だったことを生徒に話します。特に,教会
に対する人々の偏見を取り除くために大きく貢献しました。大管長として働いた期間は6
年に満たないものでしたが,教会歴史上大切な時期でした。
3人の生徒に,生徒用手引きから「わたしたちは世界のあらゆる地に出て行くであろう」
,
「福音は新しい科学技術を駆使して宣べ伝えられる」,「大勢の人々が福音を受け入れる」
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
121
(135ページ)を声に出して読んでもらいます。それから以下の質問をします。
• これらの言葉にはどのような預言が含まれているでしょうか。
• 主は世界中に福音を広めるために科学技術をどのように活用されるでしょうか。
ジョージ・アルバート・スミス大管長が語った以下の言葉を紹介します。
しもべ
「わたしたちはすばらしい時代に生きています。主の僕たちが地の多くの国民のも
とを再び訪れる日は遠くありません。……
わたしたちは,まだほとんど手をつけていない南米諸国に福音を宣べ伝えなければな
りません。まだ福音が宣べ伝えられていないアフリカの各地にも行かなければなりま
せん。アジアでも福音を宣べ伝えなければなりません。さらには,まだ入国を許され
ていない世界のあらゆる地へ行かなければなりません。ロシアは,イエス・キリスト
の福音を伝えるのに実り多い地の一つだと思います。もしわたしが間違っていなけれ
ば,その地にいる人々が,これほど多くの人々の生活を改善してきたこの御業につい
て知りたいと望むようになる日が間近に迫っています。これまですでにその地から来
て,教会に加わったすばらしい能力を持つ人たちがいます。彼らはその時が来ると,
祖国に戻り,全人類に不可欠なメッセージを伝えるために召されることでしょう。兄
弟の皆さん,わたしたちの最も大切な務めは,永遠の命を得るために必要とされ,イ
エス・キリストの福音として知られている,これらの基本的な真理とすべての律法と
規則を御父の子供たちに分かち合うことです。わたしたちが力の及ぶかぎりこれを行
わなければ,ほかの方法では得られないすべての祝福を受けることはできません。こ
のため,自分自身の家を整え,子供たちとわたしたち自身を整え,世界の各地へ行く
召しを受けたときに,それにこたえて行けるように準備をしようではありませんか。
これはわたしたちの大いなる使命です。
」
(Conference Report,1945年10月,119)
次の質問をします。教会員に与えられたこの責任は現在どのように果たされているでし
ょうか。
スミス大管長は聖徒たちを主の来臨に備えるために努力した
生徒を4つのグループに分けて,生徒用手引きの以下の項目から一つを読んで,内容を把
握する割り当てを与えます。
• 「ジョージ・アルバート・スミス大管長は末日に下される裁きについて警告した」
(140ページ)
• 「世界は霊的に病んでいる」
(140ページ)
• 「多くの人が神に対するまことの信仰を捨てている」
(141ページ)
• 「希望がまったくないわけではない」
(141ページ)
ジョージ・アルバート・スミス大管長のこれらの教えは人々を主の来臨に備えさせるた
めにどのように役立つか,またこれらのメッセージは現在の世の中とどのような関連性を
持っているかをグループごとに話し合わせます。さらに,それぞれの状況で与えられてい
る勧告にどのように従い,警告に耳を傾けたらよいかを,グループで結論を出させます。
少しの間話し合ったら,グループの代表者に内容をまとめ,発表してもらいます。
スミス大管長は力強い証を述べた
これまでに聞いたことのある力強い証を幾つか生徒に思い浮かべさせます。生徒用手引き
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
122
第 8 章 ―― ジ ョ ー ジ ・ ア ル バ ー ト ・ ス ミ ス
の「『わたしは知る,わたしをあがなう者は生きておられる』」(143ページ)から,幾つか
の例を復習します。続いて,以下の質問をします。
• どのようなことが証を聞く人に力強さを感じさせるのでしょうか。
• 強い証を築いて,それをしばしば分かち合う勇気を持つにはどうしたらよいでしょうか。
あなたが力強い証を聞いた経験について,またそれらの証があなたの生活にどのような
影響を及ぼしているかについて話します。あなた自身の証を生徒に分かち合ってください。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
123
第9章
デビッド・O・マッケイ
© IRI
第9代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
124
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ブリガム・ヤング大管長が他界する4年前の1873年,デビッドとジェネット・エバン
ズ・マッケイに男の子が誕生しました。ユタのハンツビルで誕生し,デビッド・オーマン
と名付けられたこの子は家族にとって3番目の子供であり,初めての男の子でした。デビ
ッド・O・マッケイが誕生したのは,ユタが州に昇格する20年以上も前のことでした。当
時は大陸横断鉄道が開通してからまだ4年しか経っていませんでした。ユタはそれまでの
比較的孤立した状態をようやく脱し始めていたのです。
この赤ん坊が生まれてから7年後に,マッケイ家に悲劇が訪れました。デビッドの姉が二
人とも他界したのです。わずか1週間という短い間に一人はリューマチ熱で,もう一人は
肺炎で命を落としました。二人は同じ墓に並んで埋葬されました。
デビッド・O・マッケイはユタ大学を卒業しました。学生時代はフットボールをしまし
た。マッケイ大管長はソルトレーク神殿で結婚した最初の大管長でした。
出来事,特筆事項,教え
デビッド・O・マッケイは幼い頃から啓示について学んでいた
生徒に,生まれて初めて自分の言葉で祈りをささげたのはいつだったか覚えているか尋ね
ます。その祈りをささげたのは,どのような状況のときだったか思い出すように言います。
デビッド・O・マッケイの父親は,デビッドが8歳になる前に,スコットランドへ2年間
の伝道に召されたことを生徒に話します。父親が出発するとき,母親は出産を間近に控え
ていました。父親から母親の世話を頼まれたデビッドは父親の言葉に熱心にこたえる努力
をしました。デビッドは時々,自分や家族のことが心配になることがありました。ある晩,
主が見守ってくださることを確認する経験をしました。生徒用手引きから「デビッド・
O・マッケイは幼いときから啓示について学んでいた」(146−147ページ)を読みます。そ
れから次の質問をします。デビッド・O・マッケイが預言者ジョセフ・スミスに与えられ
た啓示を信じるようになるために,この経験はどのように助けとなったでしょうか。
デビッド・O・マッケイは母親への賛辞を述べた
デビッド・O・マッケイ大管長は自分の生活に大きな影響を与えた両親についてしばしば
語ったことを生徒に話します。母親に対する以下の賛辞には,母性についてマッケイ大管
長がどのような思いを抱いていたかがよく表れています。以下の話を紹介してから,親に
なるときにどのような理想を持っていたいか生徒に尋ねます。
「女性が備えるべき徳の中で,母の持っていなかった徳を思い浮かべることができ
ません。もちろん多くの青少年は母親の愛と無私の献身に対して感謝し,同じような
賛辞をささげることでしょう。でもわたしは冷静な判断力をもって事実を観察できる
成熟した大人として,この賛辞をささげます。子供たちにとって,また母をよく知っ
ているすべての人々にとって,彼女は美しく,品位のある人でした。気概のある人で
したが,いつも冷静で落ち着いていました。黒っぽいひとみに感情の高まりが表れま
かんぺき
したが,いつも完璧に自分の感情をコントロールしていました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
125
家庭の管理について言えば,母は父と同様,倹約家でしたが,子供たちの幸せと教
育のためには驚くほど寛大でした。母が常に目指していたのは,家庭を夫と子供たち
にとって世界で最も楽しい場所にすることでした。母はこの目標を無理なく,またこ
の上なく上手に達成しました。母は自分のことは気にかけず家族のために献身してい
ましたが,わたしたち一人一人に小さな奉仕によって返すことを教えました。……
母は54歳という若さでこの世を去りました。母が他界してから……,わたしが母を
愛していること,血気盛んな青春時代に母の愛と信頼により,自分の名誉を傷つける
ことのない生活を送るための力を一度ならず受けたことを,若いときに母に伝えてお
けばよかったと思うことがしばしばありました。……
わたしが心の中で最も大切にしている宝は,母がベッドのそばで祈りをささげ,弟
やわたしに優しく布団をかけ,一人一人に愛を込めて,お休みのキスをしてくれた思
い出です。当時のわたしたちはあまりにも幼くわんぱくで,その献身的な愛を十分に
理解できませんでしたが,母に愛されていることだけはよく分かりました。
がけ
青少年時代に,一度ならず誘惑の崖から落ちないでいられたのは,母の愛を知って
いたからであり,模範を示してくれた父の教えに忠実だったからです。
世界で最も必要とされているものは何かと尋ねられたとしたら,わたしはためらわ
ずに賢い母親と答えます。第2は模範を示してくれる父親です。
」
(ルウェリン・R・マ
,3−4)
ッケイ,Home Memories of President David O. McKay〔1956年〕
次の質問をします。母の死後悔やまれたことの一つとしてデビッド・O・マッケイが語
ったことは何だったでしょうか。
デビッド・O・マッケイは父親から学んだ
デビッド・O・マッケイは働くことを父から学んだと生徒に話します。父は子供たちに,
農場で何をするかを指図することはなく,いつも「今日は何をするつもりだい」と問いか
けてくれました。この方法によって子供たちに自分で決断することを教え,農場は父のも
のであると同時に子供たちのものでもあることを教えてくれたのです(マッケイ,Home
Memories,7参照)。1881年に父親がスコットランドへ伝道に召されて,農場の管理が家
族にゆだねられたとき,この訓練が役立ちました。父親が召されたとき,デビッドはまだ
7歳でした。デビッド・O・マッケイは農場の管理を任されたことによって,急速に成長し
ました。
デビッド・O・マッケイの少年時代について,さらに詳しく理解させるために,生徒用
手引きから「デビッド・O・マッケイは少年時代から大切な責任を果たしていた」(146ペ
ージ)を復習して,話し合うとよいでしょう。以下の質問をします。
• 少年時代のデビッドは父親がいない間,どのような困難や問題に出遭ったでしょうか。
• あなたが少年時代に出遭い,後に役立った困難や問題にはどのようなものがありますか。
「自らの務めを十分に果たしなさい」がデビッド・O・マッケイのモットーとなった
以前のレッスンでジョン・テーラー大管長のモットーについて話し合ったことを生徒に思
い出させ,そのモットーを覚えている人がいるかどうか尋ねます。ジョン・テーラー大管
長のモットーについて以前レッスンで話し合ってから,個人や家族のモットーを決めた生
徒がいるかどうか尋ねます。デビッド・O・マッケイは少年時代に,ジョン・テーラー大
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
126
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
管長とそのモットーに感銘を受けたことを生徒に話します。デビッド・O・マッケイ大管
長が語った以下の言葉を紹介します。
「わたしが少年時代に日曜の礼拝に出席した集会所には長年,説教壇の真上に故ジ
ョン・テーラー大管長の大きな写真がかけられていました。その下に,確か金文字で
次のように記されていました。
『神の王国か,それとも無か。
』
まだ子供だったわたしはこの真の意味を理解できませんでしたが,何となく心に訴
えるものを感じていました。完成へと導いてくれる,またイエス・キリストの教会を
特徴づける神の力を持つ教会や組織は,ほかにないという意味に理解していたと思い
ます。子供のころはそれがほんとうであると直感し,青少年時代には完全に信じ,現
在は心からの揺るぎない確信をもってこの言葉を大切にしています。」(Cherished
Experiences from the Writings of President David O. McKay,クレア・ミドルミス編,
改訂版〔1976年〕
,15)
次の質問をします。「神の王国か,それとも無か」のようなモットーを掲げて,それに
まいしん
向かって力強く邁進することは,戒めを守ろうとする決意にどのような影響を与えるでし
ょうか。ほかに,結婚,伝道,教会への出席,どのような音楽を聴くか,教育を受けるこ
となどの決意についてはどうでしょうか。
生徒用手引きから「『自らの務めを十分に果たしなさい』」(147−148ページ)を復習し
ます。それから,デビッド・O・マッケイが生涯いつも座右の銘としたモットーを探させ
ます。以下の質問をします。
• マッケイ長老はこの碑文に目を留めたことがなぜ,人生の分岐点となったのでしょうか。
• あなたはこのような人生の分岐点となるような事柄に出遭ったことがあるでしょうか。
それはなぜ人生の分岐点となったのでしょうか。
デビッド・O・マッケイはスコットランドで伝道した
デビッド・O・マッケイはイギリスで宣教師として働く召しを受け,幼かったころに父親
が働いたのと同じスコットランドで,伝道期間のほとんどを過ごしたことを生徒に話しま
す。マッケイ大管長が後に語った宣教師時代の以下の経験を紹介して,話し合います。
「スコットランドのグラスゴーで開かれた大会中,幾つかの集会に続いて,神権会
が開かれました。それは非常に驚くべき集会でした。わたしはそのときの強烈な霊感
みたま
をまるで昨日のことのように鮮明に記憶しています。その場にいた全員が,主の御霊
があふれるように注がれるのを感じました。全員がまことに心を一つにし,思いを一
つにしていました。そのような気持ちは以前に経験したことのないものでした。それ
は,わたしがまだ若く迷っていたころ,一人ひそかに,丘や牧草地で熱心にささげた
祈りに対する答えでした。この経験を通して,心からの祈りは『いつか,どこかで』
こたえられるという確信を得ました。……
そのような状況で,ジェームズ・L・マクマリンが述べた言葉は,後に預言であっ
たと分かりました。わたしはそれまでジェームズ・マクマリンと親しく交わる機会が
あったため,彼が純金のように,偽りのない,価値ある人物であることを知っていま
した。福音に対する彼の信仰は無条件のものでした。彼ほど誠実で,自分が正しいと
考えることに忠実であった人はいませんでした。このため,彼がわたしの顔を見て語
った言葉は忘れられない感動を覚えました。そのときわたしはその言葉を約束という
より警告のように思いました。救い主がペテロに語られた言葉を言い換えて,マクマ
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
127
リン兄弟はこのように言ったのです。『デビッド兄弟,あなたに伝えたいことがあり
ます。サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願いました。しかし,神は
あなたのことを心にかけておられます。
』
〔ルカ22:31参照〕さらにこうつけ加えまし
た。『もしあなたが信仰を保つなら,あなたは教会の管理評議会の一員になるでしょ
う。
』
そのとき,わたしの行く手を阻んでいた誘惑が突然,心に浮かび上がりました。そ
して『サタンはかつて,あなたを麦のようにふるいにかけることを願いました』と言
われた言葉がまさにそのとおりであることを悟りました。それは,その言葉を語った
マクマリン会長よりも,だれよりもわたし自身がよく分かりました。そのときにその
場で,わたしは信仰を守り続けようと決意しました。すると,隣人への奉仕を望む気
持ちがわいてきました。さらに,何年も昔に,回復された福音のメッセージを祖父母
に最初に携えて行った長老たちにどれだけ恩義があるかが少しなりとも分かりまし
た。祖父母はスコットランドの北部とサウスウェールズでメッセージを受け入れたの
です。
神がこれからも皆さんを祝福してくださいますように。……誘惑に負けて,道を踏
み外すことのないようにしてください。
」
(Conference Report,1968年10月,86)
以下の質問をします。
• 「サタンはあなたを麦のようにふるいにかけることを願いました」とはどのようなこ
とを意味していると思いますか(ルカ22:31参照)
。
• マッケイ長老はどのようなことを悟ったため,誘惑を退ける決意が強められたのでし
ょうか。
• わたしたちは誘惑を退けるためにどのようなことができるでしょうか。
教えることは気高い仕事である
生徒に,なぜ教育を受けようとするのか尋ねます。また,生徒に与えられている,ほかの
人を教える機会について話し合います。デビッド・O・マッケイは最初ユタ州ハンツビル
の学校に通っていましたが,8学年を終えると,ユタ州オグデンのウィーバーステーク・
アカデミーに入学して,2年間学び,それからハンツビルの学校で教えるために同地に戻
ったことを生徒に話します。その後,ユタ大学に入学して,1897年に同大学を総代として
卒業しました。伝道から帰ったデビッド・O・マッケイは1899年からウィーバーステー
きょうべん
ク・アカデミーで教鞭を執り,1902年には同アカデミーの校長に任じられました。
教育に関するデビッド・O・マッケイ大管長の以下の教えから一部または全部を紹介し
て,教えることと学ぶことについて提案されている事柄を話し合います。
「わたしは教師に対して何度かこう言ってきました。あなたが教えている間に,た
とえ一つでも新しい考えを生徒に伝えられるとしたら,生徒は満足して学校を後にす
ることでしょう。ただし,新しい考えを伝えられるように準備するのはあなたの務め
,
です。
」
(Gospel Ideals: Selections from the Discourses of David O. McKay〔1953年〕
439)
「人々の生活はわたしたちの道しるべとなります。有益で幸せな生活か,あるいは
利己的で悲惨な生活に通じる道を示してくれます。したがって,生活においても,書
物においても,最も善良で,最も気高い男女を友に選ぶことが大切です。」(Gospel
Ideals,439−440)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
128
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
「教会は教育を重視しています。教会が組織されている真の目的は人々の間に真理
を広めることです。教会員は,研究により,また信仰と祈りによって学問を求め,ど
のようなことでも,徳高いこと,好ましいこと,あるいは誉れあることや称賛に値す
ること……を尋ね求めるよう勧告されています。
まことに,教会の基本的な教えの一つは,救いそのものが知識に左右されるという
ことです。なぜなら,啓示はこう述べているからです。『人が無知で救われることは
不可能である。
』
(教義と聖約131:6)
」
(Gospel Ideals,439−440)
「知識を得ることと知識を応用することはまったく別のことです。知恵とは知識を
正しく応用することです。教会が重視している教育,すなわち真の教育は,気高く,
神のような特質をはぐくむために知識を応用することです。
人は歴史や数学について深い知識を持つことも,心理学,生物学,天文学の権威に
なることもできます。地質学や自然科学について明らかになったすべての真理を知る
こともできるでしょう。しかし,そうした知識とともに,隣人を公平に扱い,自身の
生活の中で徳と高潔さを実践するよう促す気高い心を持たないなら,人はほんとうの
意味で教育があるとは言えません。
真の教育の目的は人格を養うことです。科学,歴史,文学は,人の望む目標を成し
遂げるための手段でしかありません。人格は偶然の産物ではなく,正しい考えと正し
い行動を続ける結果として形成されるものです。
したがって,真の教育は次のような人物の育成を目指しています。すなわち,良い
数学者,外国語の達人,卓越した科学者,優れた文筆家だけでなく,徳と自制と兄弟
愛を身に付けた正直な人物,実り豊かな人生から得られる最高の特質として真理,正
義,知恵,博愛,自制を身に付けた人物です。
」
(Gospel Ideals,440)
以下の質問をします。
• あなたの意見では,デビッド・O・マッケイの教育観は今日の教育機関の考え方とどの
ように異なっているでしょうか。あるいはどのように似ているでしょうか。
• あなたは教育の目的は何であると考えていますか。
• 教育を修めると同時に,主に近くあるという責任を果たすにはどうしたらよいでしょ
うか。
教義と聖約88:77−81を読んで,話し合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
129
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
デビッド・O・マッケイは1906年,32歳で使徒に召され,63年以上にわたって奉仕しま
した。1951年に大管長に召されたとき,二つの事柄を実現するための環境が整えられてい
ました。一つは,世界のおもな地域において,大きな勢力を持つ組織として教会を確立す
ることであり,もう一つは教会員が福音を学び,実践できるように助ける教会の多くのプ
ログラムを統合することでした。スイス(1955年),ニュージーランド(1958年),イギリ
ス(1958年)で神殿が奉献され,合衆国外に住む多くの教会員も神殿に参入することがで
きるようになりました。
デビッド・O・マッケイ大管長は教会員から敬愛されていました。そのうえ,人々を向
上させる影響力を持っていたため,多くの組織から高い評価を受けていました。マッケイ
大管長はその生涯の中で,幾つかの大学から名誉学位を贈られたほか,奉仕団体である
かぎ
(Blue Key National Honor Fraternity)
,
「アメリカボーイスカウ
「青い鍵全国名誉友愛会」
ト連盟」,ユタ州の開拓者の子孫の組織である「ユタ州開拓者の子孫」(Sons of Utah
Pioneers)などの市民団体や業界団体から多くの賞や名誉会員資格を授けられました。
1951年,デビッド・O・マッケイが大管長に召されたとき,教会は191のステークと42の
伝道部に120万人近い会員を擁し,8つの神殿を持っていました。そして1970年にマッケイ
大管長が他界したとき,教会は537のステークと92の伝道部に約290万人の会員を擁し,13
,473,632参照)
。
の神殿を持っていました(2003 Church Almanac〔2003年〕
出来事,特筆事項,教え
デビッド・O・マッケイは使徒に召された
召しを受けたときに自分がふさわしくないと感じたり,圧倒される思いを感じたりしたこ
とがあるかどうか生徒に尋ねます。デビッド・O・マッケイ長老は,当時の教会指導者ジョ
ージ・F・リチャーズとオーソン・F・ホイットニーと同じ時に十二使徒定員会会員として
支持されたことを生徒に話します。十二使徒定員会で働く召しを受けたとき,リチャーズ
長老はステーク会長会顧問と祝福師を,ホイットニー長老は約28年間ビショップを務めて
いました。これに対して,デビッド・O・マッケイはまだ32歳で,ステーク日曜学校会長会
の補佐でした。マッケイ長老は1906年4月9日,ジョセフ・F・スミス大管長によって使徒に
聖任されました。
次の質問をします。召された職に対して自分がふさわしくないと感じたり,圧倒される
思いを感じたりしたとき,わたしたちはどうすればよいでしょうか。
マッケイ長老は世界中の教会員を訪問する任務を受けた
宣教師の経験のある生徒の中で,伝道の任地まで行くのに自宅から最も長い距離を旅した
のはだれかを尋ねます。(この質問によって,クラスの中でだれがどこで伝道したかを確
かめることができます。)1920年12月にデビッド・O・マッケイ長老と,当時ソルトレー
ク・リバティーステーク会長だったヒュー・J・キャノンは,大管長会から,1年間にわた
って世界中の伝道部を訪問する任務を与えられたことを生徒に話します。二人は陸路と海
路を合わせて6万マイル(9万5,650キロ)を旅しました。生徒用手引きから「デビッド・
O・マッケイは1920年から1921年にかけて世界訪問の旅を行なった」(149ページ)を読み
ます。
次の質問をします。マッケイ長老は全世界に広がった教会について,外国に住んでいる
人々からの報告を聞いたり,手紙を読んだりしただけでは得られないどのような見識を得
しもべ
ることができたでしょうか。主の僕たちが危害から救われるときに,劇的な形で守られる
場合があることを生徒に話します。次の物語を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
130
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
「それは1921年,マッケイ長老とヒュー・キャノン長老が世界各地の伝道部を訪問
しているときに起きました。ハワイのヒロで霊感に満たされた大会が終わってから,
訪問した兄弟たちと何人かの宣教師は,キラウエア火山に登ることにしていました。
その晩の9時ごろ,2台の車に分乗した約10名の一行は当時非常に活発な噴火活動を続
けていた火山を目指して出発しました。
ふち
わたしたちは灼熱の火口の淵までたどり着きました。……頂上が雪に覆われたマウ
ナロアから吹きつけてくる冷たい風に背中はひんやりしていましたが,顔は溶岩から
放たれる高熱で火ぶくれになりそうなほど熱くなっていました。寒さに耐え切れなく
なった一人の長老が,火口の内部約4フィート(1.2メートル)下に張り出している火
山のバルコニーを見つけました。そこまで降りて行けば冷たい風にさらされることも
なく,火口の内部を眺めることができます。危険な兆候はまったく感じられませんで
した。火口側に設置された手すりは酷熱をさえぎる役目もしており,壮大な光景を眺
めるには絶好の場所でした。
安全であることを確かめてから,マッケイ兄弟と3人の長老たちが岩棚へ降りて行
きました。暖かく,快適な場所に立った彼らは,せっかく見つけた特等席を利用せず
にためらっているわたしたちを冷やかしていました。上にいたわたしたちは,寒さで
震えたかと思うと,熱さで焼かれそうになりながら,かなり長いこと次々と変化する
光景を眺めていました。
しばらく特等席で眺めを楽しむと,マッケイ長老が突然,こう言いました。『兄弟
たち,ここを出るべきだと強く感じます。
』
そう言うと,長老たちが上へ登るのを助け,それから,長老たちに風の吹きすさぶ
淵に,引っ張り上げてもらいました。信じられないことが起きました。突然,岩棚の
バルコニー全体が崩れて,100フィート(90メートル)下の燃えたぎる溶岩目がけて
落ちて行ったのです。」(バージニア・バッド,Cherished Experiences from the
,
Writings of President David O. McKay,クレア・ミドルミス編,改訂版〔1976年〕
52−53)
以下の質問をします。
• このような状況で受けた霊感にマッケイ長老が示した反応について,あなたはどのよ
うな印象を受けたでしょうか。
• 霊的な促しに対する感覚を研ぎ澄ませるにはどうすればよいでしょうか。
マッケイ家族は家庭での礼儀を重んじた
デビッド・O・マッケイ大管長が語った有名な言葉を生徒が知っているかどうかを尋ねま
す。「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない」という答えが返ってくるでしょ
う。この言葉は教会員の間で広く親しまれているテーマとなっているとともに,社会にお
ける家庭の役割に関するわたしたちの信条を表しています。よく引用されるデビッド・
O・マッケイ大管長のもう一つの言葉は「すべての会員は宣教師である」です。
1964年4月の総大会でマッケイ大管長が次のように教えたと生徒に話します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
131
「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできません。……愛の下に一致した家族
は,いかに貧しくとも,他のいかなる富にも増して,神と将来の人類にとって大きな
価値を持っています。このような家庭において,神は奇跡を行うことができ,また実
際に奇跡を行われることでしょう。……清い家庭で清らかな心をもって生活する者は,
いつも天からのささやきが聞こえてくる距離に自分を置くことができます。
」
(J・E・
,42で引用。Conference
マカロック,Home: The Savior of Civilization〔1924年〕
Report,1935年4月,116)
以下の質問をします。
• ある人たちは家庭の成功をどのような成功に置き換えようとしているでしょうか。
• 「清い家庭で清らかな心をもって生活する者は,いつも天からのささやきが聞こえて
くる距離に自分を置くことができます」とはどのような意味だと思いますか。
父親が臨終を前にして,最後に「会社で過ごす時間がもっと欲しかった」と言っている
状況を想像できるかどうか尋ねます。このようなときに,親はどのようなことをもっと後
悔すると思うか話し合います。
デビッド・O・マッケイと妻エマ・レイの築いたすばらしい関係は有名だったことを生
徒に話します。二人はお互いに対して心からの愛を表しました。マッケイ家の様子を描い
ている以下の話を紹介します。
「デビッドとレイは愛と調和と平安に満ちた家庭の中で子供たちを育てました。子
供たちは家長としての立場を両親から強要されるからではなく,自分たちの理想像と
して自然に両親を受け入れ,両親の判断を尊重したため,両親を尊敬しました。……
マッケイ家には客に対する特別の礼儀作法はありませんでした。父と母はお互いに
対しても子供に対しても,家に家族だけしかいないときでも,最も尊敬すべき客に対
するときと同様に礼儀正しく振る舞いました。また,子供たちはほかの人と接すると
きも遊ぶときも,同じようにお互いの権利を尊重することを求められました。
」
(ジェ
ネット・マッケイ・モレル,Highlights in the Life of President David O. McKay
〔1966年〕
,42,47)
以下の質問をします。
• 「客に対する特別の礼儀作法はまったくありませんでした」
とはどういう意味でしょうか。
• 二通りの礼儀作法があると,どのようなメッセージを子供たちに伝えることになるで
しょうか。
生徒用手引きから「マッケイ大管長は幸福な家庭を築くのに役立つ10の条件を教えた」
(155−156ページ)を読んで,話し合います。オーバーヘッド用資料を準備して,条件を
こんにち
一つずつ順に見せながら話し合うとよいでしょう。次の質問をします。今日の文化におい
て特に難しいと思われる条件はどれでしょうか。それはなぜでしょうか。
デビッド・O・マッケイは大管長に召された
ジョージ・アルバート・スミス大管長が亡くなった後,
デビッド・O・マッケイは1951年4月9日
に先任使徒となり,教会を指導するように主から選ばれました。マッケイ大管長は顧問とし
てスティーブン・L・リチャーズとJ・ルーベン・クラーク・ジュニアを選びました。次位の先任
使徒で十二使徒定員会会長となったジョセフ・フィールディング・スミスが1951年4月12日
にデビッド・O・マッケイを大管長に聖任し任命しました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
132
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
以下の文を黒板に書きます。
「神の導きと霊感を絶えず受けなければ,わたしたちは 。神の導き
」生徒用手引きの「デビッ
と霊感を受けていれば,わたしたちは 。
ド・O・マッケイは大管長になった」
(151ページ)から前半の部分を読んでから,空欄を
埋めさせます。以下の質問をします。
• 教会員は,「信頼と信仰と祈りによって」(教義と聖約107:22)大管長会を支持するた
めにどのようなことができるでしょうか。
• ほかにどのような方法で教会員は教会の指導者を支持することができるでしょうか。
ふうぼう
デビッド・O・マッケイは預言者の風貌をたたえていた
わたしたちの教会の会員でない人々は,預言者の外見についてどのような先入観を持っ
ていると思うか生徒に尋ねます。預言者ジョセフ・スミスはノーブーで,聖徒たちがミ
シシッピ川経由で到着すると,必ず波止場へ行って彼らを出迎えたことを生徒に話しま
す。遠くはイギリスから多くの人々が移民して来ました。多くの人々が記した日記によ
ると,到着した改宗者は船を迎えに出た群集の中に預言者ジョセフ・スミスの姿を見い
だしていました。服装はほかの人たちとまったく変わらないにもかかわらず,彼らは預
みたま
あかし
言者を見つけることができました。預言者を見たときに彼らは皆一様に,御霊 の証 によ
って彼が真の預言者であることを知ったのでした。
これと同じことがデビッド・O・マッケイ大管長にも起きました。一人の生徒に,生徒
用手引きの「マッケイ大管長は世界中から尊敬を集めた」(153ページ)から最後の3つの
段落を読んでもらいます。以下の質問をします。
• このような経験はアルマ5:14に記されているアルマの教えとどのような関連があるで
しょうか。
• わたしたちはどうすれば「神の面影」を顔に受けることができるでしょうか。
• 預言者のそばへ行ったり,総大会の放送で預言者を見たりしたことがあれば,あなた
はそのときにどのような経験をしたでしょうか。
マッケイ大管長は特別に主に近い人だったことを多くの人が認めていたことを生徒に話
します。次の質問をします。わたしたちの教会の会員でない人々がなぜマッケイ大管長に
対してそのような反応を示したと思いますか。
霊性とは人が身に付けることのできる最高のものである
黒板に「霊性」と書いて,生徒にこの言葉を定義させます。生徒の答えを黒板に書き出し
ます。何人かの生徒から意見を聞いたら,デビッド・O・マッケイ大管長の定義を付け加
えます。「霊性とは,自己の弱さを克服し,神と交わる必要性を自覚することです。」
(Conference Report,1956年10月,6)
霊性についての理解を深めるために,生徒用手引きから「マッケイ大管長は霊性をはぐ
くむことについて教えた」
(158ページ)を読んで,話し合います。以下の質問をします。
• マッケイ大管長が語った「環境をコントロールする」
とはどういう意味だと思いますか。
• マッケイ大管長が語った「人は,自らの内で霊性を高めなければ,魂を失ってしまい
ます」とはどういう意味だと思いますか。
たまもの
デビッド・O・マッケイは多くの霊的な賜物を持っていた
クラスを4つのグループに分けて,各グループに生徒用手引きから以下の項目を割り当て
(156−157ページ),各項目で説明されている原則について復習させます。「マッケイ大管
いや
長は癒しの賜物を持っていた」,「マッケイ大管長は盲人の目を開いた」,「マッケイ大管長
は識別の賜物を持っていた」,「神の力がマッケイ大管長とともにあった」。各グループの
代表者に研究した事柄を全員に向けて教えてもらいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
133
デビッド・O・マッケイ大管長は御霊の賜物を数多く持ち,出会った人々の生活に祝福
をもたらしたことを生徒に話します。以下の質問について話し合います。
• 教会の中で霊的な賜物を受けることができるのはだれでしょうか。
(すべての末日聖徒。
ビショップやその他の管理役員はその召しの特性により,特定の賜物を受けることが
できる。教義と聖約46:8−33;1コリント12:8−11;モロナイ10:8−19参照)
• マッケイ姉妹はどのような意味で,夫は「先見の明」に恵まれていると言ったのでしょ
うか(生徒用手引きの「神の力がマッケイ大管長とともにあった」
〔157ページ〕参照)
。
教会に道徳の基準は一つしか存在しない
青年男女の純潔について社会には様々な期待があるが,それらを耳にしたことがあるか生
徒に尋ねます。男性に対する場合と女性に対する場合では,純潔に対しての期待が異なる
場合があるのはなぜかを話し合います。デビッド・O・マッケイ大管長が語った以下の言
葉を紹介します。
「末日聖徒イエス・キリスト教会に道徳の基準は一つしかありません。若い男性は
若い女性よりも,若いときに不道徳な行為に染まってもよいなどということはありま
せん。若いときに不純な生活を送った男性は,女性の両親から寄せられる信頼を裏切
り,若いときに不純な生活を送った女性は,未来の夫に対して誠実でなく,家庭に不
幸と不信感と不一致の種をまくことになります。不特定多数の相手との性行為や自分
の欲求を満たす行為を奨励する教師たちの言葉を気に留める必要はありません。純潔
は人生で最も気高いものとしてたたえられる徳であるという,この永遠の真理をひた
すら心に持ち続けてください。
」
(Conference Report,1967年4月,7−8)
以下の質問をします。
• マッケイ大管長が教え導いた時代以降,わたしたちの文化における道徳観はどのよう
に変化してきたと思いますか。
• なぜ純潔は「人生で最も気高いものとしてたたえられる徳」なのでしょうか。
マッケイ大管長は恋愛の指針を与えた
人生で行う最も大切な決断は何だと思うか生徒に尋ねます。何人かの生徒は,だれと結婚
するかということを重要度の上位に挙げることでしょう。だれが自分の結婚相手か知るに
はどうしたらよいかについて質問します。デビッド・O・マッケイ大管長が与えた次の助
言を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
134
第 9 章 ―― デ ビ ッ ド ・ O ・ マ ッ ケ イ
「自分が相手を愛しているかどうかを知るには,どうしたらよいだろうかと考える
ことでしょう。
これはとても大切な質問です。わたしは学生のときに,ある晩友達と歩きながら,
そのことについて考えました。その年代にありがちなことですが,話題はすぐ女の子
のことになりました。彼もわたしも自分が恋愛しているかどうかは分かりませんでし
た。もちろんわたしはまだそのとき,現在の妻に出会ってはいませんでした。『自分
が相手を愛しているかどうかを知るには,どうしたらよいだろうか』というわたしの
質問に対して,友人はこう答えました。『ぼくの母が以前こんなことを言ったよ。そ
の人の前にいると,何かを達成したいという意欲がわいてきて,最善を尽くし,最高
の力を発揮したいという気持ちになるようであれば,その女性はあなたが愛するのに
あかり
』
ふさわしい人であり,あなたの心に愛の灯をつけてくれる人ですよとね。
わたしはそれが真の指針であると思います。
」
(Gospel Ideals: Selections from the
,459)
Discourses of David O. McKay〔1953年〕
以下の質問について話し合います。
• 多くの若人は結婚相手をどのようにして決めているでしょうか。
• マッケイ大管長が述べた指針にはどのような利点があるでしょうか。
マッケイ大管長は長い生涯を通じて神と隣人に仕えた
デビッド・O・マッケイ大管長が1970年1月18日,安息日の早朝午前6時にホテルユタの一
室で97年の生涯を閉じたことを話して,レッスンを締めくくります。開拓者がグレート・
ソルトレーク盆地に到着してわずか26年後に始まったマッケイ大管長の地上の生活は,こ
うして幕を下ろしたのでした。デビッド・O・マッケイは約64年間救い主の使徒として忠
実に奉仕しました。
生徒用手引きから「ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はマッケイ大管長を称
賛した」(159−160ページ)を復習します。それから以下の質問をします。
• デビッド・O・マッケイ大管長はその生涯でどのような特質を重視したでしょうか。
• 神の王国を建設するためにマッケイ大管長はどのような貢献をしたでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
135
第10章
ジョセフ・フィールディン
グ・スミス
© IRI
第10代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
136
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ジョセフ・フィールディング・スミスはブリガム・ヤング大管長が管理した時代の末期
に当たる1876年7月19日に誕生しました。彼が誕生した前年の1875年にはテンプルスクウ
ェアのソルトレーク・タバナクルが奉献されました。また,誕生してから5日後,完成し
たばかりのタバナクルに大勢の末日聖徒が集まって,開拓者のグレート・ソルトレーク盆
地到着29周年が祝われました。
ジョセフ・フィールディング・スミスはジョセフ・スミスとブリガム・ヤングを除いて,
それまでのすべての大管長をよく知っていました。また,ゴードン・B・ヒンクレー大管
長に到るまで,自分の後継者となるすべての大管長を知っていました。少年時代,ジョ
あかし
ン・テーラー大管長,ウィルフォード・ウッドラフ大管長,ロレンゾ・スノー大管長の 証
を聞くことが大好きでした。また,預言者ジョセフ・スミスやほかの初期の開拓者たちと
一緒に経験した事柄について,父親ジョセフ・F・スミス大管長から何度も話を聞きまし
た。
出来事,特筆事項,教え
ジョセフ・フィールディング・スミスはハイラム・スミスの孫だった
以下の図を黒板に書き写します。
ハイラム・スミス
(兄弟)
ジョセフ・スミス
ジョセフ・F・スミス
ジョセフ・フィールディング・スミス
ジョセフ・フィールディング・スミスがハイラム・スミスの孫であり,預言者ジョセ
おい
フ・スミスの甥の息子だったことを生徒に話します。ジョセフ・フィールディング・スミ
スはジョセフ・Fとジュリナ・ラムソン・スミスの間に生まれた最初の息子でした。ジョ
セフ・フィールディングが生まれたとき,父は使徒であり,大管長会の顧問を務めていま
した。
ハイラム・スミスが大管長の補佐,大管長会の顧問,使徒,大祝福師を務めたことを生
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
137
徒に思い起こさせます。ジョセフ・フィールディング・スミスと父親は1866年から1972年
まで,途切れることなく合計100年以上にわたって使徒を務めました。
次の質問をします。ジョセフ・フィールディング・スミスにとって家族の受け継ぎは,
教会における将来の召しに備えるためにどのような助けとなったでしょうか。
ジョセフ・フィールディングの誕生は祈りの答えだった
生徒にサムエル上第1章を開いてもらい,ハンナと彼女の祈り,ハンナが息子を授かるこ
とを条件に,主とどのような約束をしたかについて述べられている物語を復習させます。
それから以下の質問をします。
• ハンナはどのようなことをしきりに願っていたでしょうか(サムエル上1:11参照)
。
• もし息子を授けられたら,ハンナは何を進んでするつもりでしたか。
ジョセフ・フィールディング・スミスの母親について説明した以下の文章を読みます。
「聖書で有名な預言者サムエルの母ハンナのように,ジュリナ・スミスは息子を授
けられることをしきりに願い,祈っていました。もしその願いがかなえられるなら,
しもべ
息子が神に仕え,主と父親の誉れとなる忠実な僕となるよう全力を傾けると主に約束
しました。そしてジョセフ・フィールディングはサムエルのように,母が神と交わし
しんし
」
(ジョセフ・フィールディング・スミス・ジュニア,
た約束を真摯に受け止めました。
,20)
ジョン・J・スチュワート共著,The Life of Joseph Fielding Smith〔1972年〕
次の質問をします。ジョセフ・フィールディング・スミスは母と神との約束を知ること
によって,どのような影響を受けたと思いますか。
ジョセフ・フィールディングは「生まれながらにして証を持っていた」
一人か二人の生徒に,証を得るのに役立った状況について手短に話してもらいます。何歳
のときに,回復された福音が真実であることを知ったかについても話してもらいます。生
徒用手引きから「『わたしは生まれながらにして証を持っていた』」(164ページ)を復習し
て,話し合います。以下の質問をします。
• ある人は「生まれながらにして証を持って」います。またある人は,次第に証を得て
いきます。さらにある人は,劇的な方法で証を得ます。このように人によって証を得
る方法が違うのはなぜでしょうか。
• 証に関して,感情と知識との間にはどのような関連性があるでしょうか(教義と聖約
8:2−3参照)
。
• 自分に証がないと思っている人に対してあなたはどのような助言を与えられるでしょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスは生涯を通じて聖文を愛し,研究した
当時十二使徒定員会会員だったジョセフ・フィールディング・スミスが,それまでの自分
を回顧して語った以下の話を読みます。
「わたしは善い両親から生まれたことを感謝しています。両親は真理の光の中を歩
むよう教えてくれました。記憶をたどってみると,本を読めるようになってから満足
できるいちばんの楽しみは聖文の研究でした。主イエス・キリストや預言者ジョセ
フ・スミスのこと,人の救いのために行われてきた業について読むことです。世の中
のどんなことよりも好きでした。
」
(Conference Report,1930年4月,91)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
138
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
一人の生徒に,生徒用手引きの「ジョセフ・フィールディング・スミスは末日の学者だ
った」(167ページ)からブルース・R・マッコンキー長老の言葉を読んでもらいます。そ
れから以下の質問をします。
• これら二つの話にはどのような関連があるでしょうか。
• 幼い頃の決意や関心は将来果たす責任や務めのために,どのような備えとなるでしょ
うか。
当時十二使徒定員会会長だったジョセフ・フィールディング・スミス長老が語った以下
の話を紹介します。
「末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に主が課しておられる責任の一つは,聖文
を調べ,知識を積み上げることです。そうしないと,バプテスマと確認を受けていて
も,聖霊の導きを得ることができません。福音の真理に無知であり,主が父祖に与え
みたま
られた教えを知らない人は主の御霊の導きを受けることができません。そのような人
は邪悪で不道徳な者たちの誘惑と欺きに身を任せ,愚かで禁じられた道に迷い込んで
しまう危険性が高いのです。なぜなら,築き上げるべき信仰の基盤が彼らにはないか
らです。
」
(
“Baptism before the Coming of Our Savior in the Flesh,”Improvement
Era,1964年3月号,159)
次の質問をします。スミス大管長の勧告に従わないとどのような危険に出遭うでしょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスは熱心に働くことによって責任を果たすことを学んだ
レッスンの前に,一人か複数の生徒に,生徒用手引きから「ジョセフ・フィールディン
グ・スミスは母の手伝いをした」,「ジョセフ・フィールディング・スミスは早起きだっ
た」,「ジョセフ・フィールディング・スミスは働き者だった」(164−165ページ)を読ん
で,少年時代のジョセフ・フィールディング・スミスについて学んだことを報告する割り
当てを与えておきます。報告を受けたら,以下の質問について話し合います。
• ジョセフ・フィールディング・スミスが後に,自分の肩は「多少調子が悪くなった」
と言ったのはなぜでしょうか。
• ジョセフ・フィールディング・スミスはどのような兄だったと分かりましたか。
• ジョセフ・フィールディング・スミスが青少年時代に経験した事柄は,働くことへの
姿勢にどのような影響を与えたと思いますか。
ジョセフ・フィールディング・スミスは祝福師の祝福を指針として人生を歩んだ
いつ祝福師の祝福を受けたか,なぜそれを大切にしているかについて生徒に話します。ジ
ョセフ・フィールディング・スミスが20歳のときに,大祝福師であるジョン・スミスか
ら祝福師の祝福を受けたことを説明します。その祝福文から以下の抜粋を紹介します。
「あなたは多くのことが期待されているシオンの息子の中に数えられています。あ
なたの名は小羊の命の書に記されており,ともに働く僕たちの名とともに先祖たちの
みこころ
年代記に書き加えられることでしょう。あなたは長寿を全うし,主の御心によって,
イスラエルの力ある者となる特権を与えられています。したがって,わたしはあなた
に告げます。過去,現在,未来をしばしば思い巡らしなさい。もし過去の経験から知
み て
恵を得るならば,主の御手がこれまでも,また現在もあなたに差し伸べられており,
あなたの命が一つの賢明な目的のために守られてきたことを悟るでしょう。あなたは
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
139
また,地上におけるあなたの使命を果たすために多くのなすべき務めがあることがわ
かるでしょう。あなたは兄弟たちとともに評議の席に着いて,人々を管理する務めを
果たすことでしょう。さらに,水陸路を使って国内外で多くの旅をし,人々を教え導
く働きをするでしょう。そこで,わたしはあなたに告げます。主の御霊に促されるま
まに,恐れずに揺らぐことなく頭を上げ,声を上げなさい。そうすれば,主の祝福が
あなたのうえにとどまるでしょう。あなたは主の御霊から導きと言葉と考えを授けら
れて,邪悪な者の知恵を打ち負かし,不正な者のはかりごとをくじくことができるで
しょう。
」
(A・ウィリアム・ランド,
“Elder Joseph Fielding Smith,
”Improvement
Era,1950年4月号,315)
以下の質問について話し合います。
• この祝福の中のどの約束が成就されているでしょうか。
(答えを黒板に書き出す。
)
• 従順は祝福師の祝福とどのような関係があるでしょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスはイギリスで伝道した
有能な宣教師の特質と考えられる項目を黒板に書き出させます。生徒用手引きの「ジョセ
フ・フィールディング・スミスは伝道に出る前に結婚した」(165−166ページ)から,あ
なたが大切だと思う事項をまとめます。ジョセフ・フィールディング・スミスが伝道中,
多くのチャレンジに遭遇したこと,当時の多くの人々が宣教師と教会員に対して反感を持
っていたことを生徒に話します。けれどもスミス長老は忠実でした。そして,次のように
記しました。
「わたしが召されている業が神の業であることを知っています。もしそうでなけれ
ば,一瞬たりともここにいることはないでしょう。……わたしたちの幸福は,わたし
がここにいる間忠実であるかどうかにかかっていることを承知しています。救い主が
人類を愛しておられるがゆえに苦しみを受けられたように,わたしも人々を愛するゆ
えに心から忠実にこの務めを果たしたいと思います。……わたしは天の御父の御手の
内にあり,御心を行うならば,御父はわたしを見守ってくださいます。
」
(スミス,ス
チュワート共著,Life of Joseph Fielding Smith,114−115)
イギリスで伝道したジョン・テーラーとウィルフォード・ウッドラフの話を思い起こし
て,ジョセフ・フィールディング・スミスのイギリスでの伝道経験と比較させます。以下
の質問について話し合います。
• バプテスマを施した人の数で伝道の成果を測ることはなぜ適切でないのでしょうか。
• スミス長老が示したどのような姿勢が宣教師としての成功に寄与したでしょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスの父親は息子に卓越した人物になることを求めた
可能であれば,ジョセフ・フィールディング・スミスが執筆した書物を何冊か持って来て
見せるか,以下の書名を黒板に書き出します。
• 救いの教義
• The Restoration of All Things(
『万物の回復』
)
• The Way to Perfection (
『完成への道』
)
• The Progress of Man(
『人の進歩』)
• Answers to Gospel Questions(
『福音の質疑応答』
)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
140
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
• Essentials in Church History(
『教会歴史概要』
)
• Church History and Modern Revelation(
『教会歴史と近代の啓示』
)
• Man, His Origin and Destiny(
『人,その起源と行く末』
)
• The Signs of the Times(
『時のしるし』)
• Seek Ye Earnestly(『熱心に求めよ』
)
ジョセフ・フィールディング・スミスが福音と教会歴史に関して25冊の書物を著したこ
とを生徒に話します。
ジョセフ・F・スミスは福音の学者として知られており,多くの時間を割いて息子のジ
ョセフ・フィールディングから受けた質問に答えました。生徒用手引きから「ジョセフ・
フィールディング・スミスは父から卓越することを期待された」と「ジョセフ・フィール
ディング・スミスは父から多くのことを学んだ」(166−167ページ)を読んで,ジョセ
フ・F・スミスがほかにどのような影響力を息子に与えたかを探させます。以下の質問を
します。
• ジョセフ・フィールディング・スミスはどのような問題に関心を持っていたでしょうか。
• ジョセフ・フィールディングが福音と教会歴史に関心を持ったのは,父親のどのよう
な影響によるものだと思いますか。
ジョセフ・フィールディング・スミスは信仰の擁護者として知られていた
教会や教会の教義について難しい質問や批判的な質問を受けた場合に,どこに助けを求め
るか生徒に尋ねます。次の質問をします。難しい質問に答える際に,聖文と個人の祈りに
加えて,出版されている中央幹部の話や著書が役立つのはなぜでしょうか。
父ジョセフ・F・スミスが大管長を務めていた時代に,幼いジョセフ・フィールディン
ま
グ・スミスが教会に対する大きな迫害を目の当たりにしていたことを生徒に話します。ジ
ョセフ・フィールディング・スミス自身も教会を擁護する場面に度々遭遇しました。一人
の生徒に,生徒用手引きから「ジョセフ・フィールディング・スミスは信仰を擁護した」
(167ページ)を読んでもらいます。
ジョセフ・フィールディング・スミスが長年にわたって,毎月,
『インプルーブメント・
エラ』(Improvement Era)のコラムで,教会員から寄せられた質問に答えていたことを
話します。スミス長老は福音の真理の偉大な擁護者,教師として周囲から認められていま
した。スミス長老の回答は大きな助けになりました。これらの回答は後にまとめられて全
5巻から成る『福音の質疑応答』
(Answers to Gospel Questions)として出版されました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
141
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
1970年に大管長に召されたとき,ジョセフ・フィールディング・スミスはそれまで使徒
を約60年間,十二使徒定員会会長を18年間務めていました。大管長になったとき,93歳だ
った彼はそれ以前と以降のどの大管長よりも高齢でした。
1970年には500番目のステークが組織され,アジア(日本の東京)とアフリカ(南アフ
リカのヨハネスバーグ)で最初のステークが組織されました。世界中で1万4,000人以上の
宣教師が働いていました。教会員は537のステークと92の伝道部に290万人を数え,13の神
殿がありました。スミス大管長が他界した1972年には,教会は592のステークと101の伝道
部に320万人の会員を擁し,15の神殿を持っていました(2003 Church Almanac〔2003年〕,
473,632参照)。
出来事,特筆事項,教え
ジョセフ・フィールディング・スミスは3度結婚して,3度妻に先立たれた
以下を黒板に書き出します
• ルーイ・エミリー・シャートリフ(1898年4月26日−1908年3月30日)
,2人の子供
• エセル・ジョージナ・レイノルズ(1908年11月2日−1937年8月26日)
,9人の子供
• ジェシー・エラ・エバンズ(1938年4月12日−1971年8月3日)
ジョセフ・フィールディング・スミスが1898年4月26日,
21歳のときにルーイ・エミリー・シャ
ートリフと結婚したことを生徒に話します。ルーイは2人の子供を産み,1908年3月30日に他
界しました。ジョセフ・フィールディングは1908年11月2日,32歳のときにエセル・ジョージ
ナ・レイノルズと結婚しました。エセルは9人の子供を産み,1937年8月26日に他界しました。
ジョセフ・フィールディングは1938年4月12日,
61歳のときにジェシー・エラ・エバンズと結婚
しました。
ジェシーは1971年8月3日に他界しました。
ジョセフ・フィールディング・スミスは家族を愛することでよく知られていました。生徒
用手引きから「ジョセフ・フィールディング・スミスは新しい妻そして子供たちの母親と
なる人物を見いだした」(167−168ページ)と「妻が語ったジョセフ・フィールディン
グ・スミス」(169ページ)を読んで,話し合います。生徒用手引きから「ジェシー・エバ
ンズはジョセフ・フィールディングの生きる情熱を増し加えた」
(170ページ)を復習して,
話し合います。
妻のジェシーが他界したとき,ジェシーに対するジョセフ・フィールディング・スミス
大管長の心情を描写した以下の文を紹介します。
「ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は壇上に立って,夫である兄弟たち
に妻を愛し,妻に献身するよう勧告しました。けれどもわたしの心を打った教えは,
1971年7月のある暑い日に,ソルトレーク・シティーの勾配のきついノースアベニュ
ーの坂道を9ブロックも歩いて末日聖徒病院を訪れ,病床の妻ジェシーの傍らで自身
の95回目の誕生日を過ごしている姿でした。妻の病状が悪化すると,昼夜を問わず数
週間も病床に付き添って,……最後までできるかぎりの慰めと励ましを与えていまし
た。……
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
142
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
ジェシーが他界した夜,彼は息子とともにひざまずいて,神に心を注ぎ出しました。
『それは美しい祈りでした』と後に息子は語りました。
『苦悩することも,悲しみをあ
らわにすることもありませんでした。そこにあったのは,ジェシーを与えられた祝福,
ジェシーが今や苦痛から解放されたことに深く感謝し,いつの日か再び会えることを
感謝する言葉だけでした。
』
……ジェシーが他界してから数日後に,息子の一人がアパートを訪れていました。
ラジオから音楽が流れていました。ジョセフ・フィールディングは精神的に参ってい
ないことを見せるために,笑みを作り,音楽に合わせて少し踊りました。それから数
週間後にジョセフが旅から戻ったとき,子供たちはジェシーがしたように,部屋をき
れいに片付けていました。『ねえ,お父さん。これでいつもと同じでしょ。』『いいや
同じではないね,違うね。でも仕方ないさ』と父は言いました。
」
(ジョセフ・フィー
ルディング・スミス・ジュニア,ジョン・J・スチュワート共著,The Life of Joseph
,11−12)
Fielding Smith〔1972年〕
ジョセフ・フィールディング・スミスは使徒に召された
1910年4月,総大会の最後の部会に出席したジョセフ・フィールディング・スミスに,あ
るドアキーパーが尋ねました。「やあ,ジョセフ,次の使徒はだれがなるのかな。」ジョセ
フ・フィールディングはこう答えました。「知らないね。だが,君でもないし,わたしで
もないだろうね。
」
(スミス,スチュワート共著,Life of Joseph Fielding Smith,175参照)
それから彼は会場に入って着席しました。
父であるジョセフ・F・スミス大管長が集会を開会しました。開会の賛美歌と祈りが終
わると,当時十二使徒定員会会員だったヒーバー・J・グラント長老が支持を取るために
中央幹部の名前を提示しました。グラント長老が新しく召される使徒の名前を読み上げる
直前に,ジョセフ・フィールディング・スミスは自分が空席を埋めることを直感しました。
(教会の初期の時代では,しばしば事前の面接なしに召しが与えられました。)生徒用手引
きから「ジョセフ・フィールディング・スミスは使徒に召された」と「ほかの人々はジョ
セフ・フィールディング・スミスが使徒に召されることを知っていた」(168−169ページ)
を読んで,話し合います。
ジョセフ・フィールディング・スミスは教会歴史家として働いた
黒板に以下の参照聖句を書き出します。教義と聖約21:1;47:1,3;69:3。生徒に,こ
れらを読んで,主が初期の教会指導者にどのような戒めを与えられたか調べさせます。教
会の正確な記録をつけるべき理由を挙げてもらいます。
ジョセフ・フィールディング・スミスは1901年から1970年までの70年近く,教会歴史の
記録を助けたことを生徒に話します。これは教会歴史の3分の1以上に相当します。1901年
に彼は教会歴史家事務所で働き始めました。1906年から1921年まで教会歴史家補佐を勤め,
アンソン・H・ランドが他界した後,教会歴史家に召され,支持されました。そして,過
去のだれよりも長い,49年間にわたってその任にありました。
ジョセフ・フィールディング・スミスは93歳で大管長に召された
以下の質問の答えを話し合います。
• 最年少で大管長に召されたのはだれでしょうか。彼は何歳だったでしょうか。(預言者
ジョセフ・スミスは1830年4月6日,24歳のときに教会の第一の長老として支持され,
1832年1月25日,26歳のときに大神権の大管長として支持されました。
)
• 最年長で大管長に召されたのはだれでしょうか。彼は何歳だったでしょうか。(ジョセ
フ・フィールディング・スミスは1970年1月23日,93歳のときに大管長となり,1970年
4月6日に支持されました。
)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
143
93歳のジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこの高い召しを果たすために十分
な備えができていました。主イエス・キリストの使徒として60年近く務めてきたからで
す。この神権時代にこれほど高齢で大管長に召された人はほかにいません。
ジョセフ・フィールディング・スミスの生活において大切な位置を占めていたのは熱心
に働くことだった
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長が語った以下の言葉を黒板に書き写します。
この言葉からスミス大管長について分かる事柄を話し合います。
「引退すべき人などいません。引退を宣言して,身体がすっかり弱ってしまった人
たちをわたしは知っています。
」
(スミス,スチュワート共著,Life of Joseph Fielding
Smith,3)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長がこのような高齢であったにもかかわら
ず,熱心に働き続けたことを生徒に話します。そして,毎日多くのことを成し遂げていた
ことを人々は知っていました。ある伝記作家が記した以下の記事を紹介します。
「ほかの人たちならすでに引退している年齢をはるかに超えた95歳という高齢にも
かかわらず,彼はなおすばらしい模範を示していました。わたしはある冬の日の早朝,
夜が明けるかなり前にソルトレーク・シティーヘ向かって車を走らせていました。テ
ンプルスクウェア近くの角を曲がったとき,車のヘッドライトに浮かび上がった人が
目に入りました。雪の降る寒い中を一人の老人が歩いていました。その人はジョセ
フ・フィールディング・スミスでした。彼は毎朝6時前に起きて,重責を果たしてい
たのでした。それは生涯を通じての日課であり,子供たちにもそれを教え込んでいま
した。彼は子供たちにこう警告しました。『人は寝床で死ぬんだよ。善い望みも同じ
で,寝床にいたのでは消えてしまう。
』
」
(スミス,スチュワート共著,Life of Joseph
Fielding Smith,3。生徒用手引きから「ジョセフ・フィールディング・スミスは活動
的な生活を好んだ」
〔171ページ〕も参照)
家庭の夕べが強調された
以下の約束を読み,1915年に大管長会が教会員に対して何を行うよう勧告したか見つけさ
せます。
「聖徒たちがこの勧告に従うならば,大いなる祝福がもたらされることをわたした
ちは約束します。家庭に愛が満ち,両親に対する従順が増し加えられるでしょう。イ
スラエルの若人の心に信仰がはぐくまれ,襲いかかる悪の力と誘惑に立ち向かう力を
得ることでしょう。」(ジェームズ・R・クラーク編, Messages of the First
,
Presidency of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,全6巻〔1965−1975〕
第4巻,339)
ジョセフ・F・スミスが管理した時代に,大管長会が家庭の夕べを導入し,これを定期
的に行うよう教会員に奨励したことを思い出させます(生徒用手引きから「家庭の夕べが
導入された」〔101−102ページ〕参照)。次の質問をします。効果的な家庭の夕べはどのよ
うにして「悪しき者の影響と誘惑に立ち向かう」力を与えてくれるでしょうか。
以下の年代を黒板に書き出します。
• 1915年――家庭の夕べが導入された。ステークとワードの指導者は毎月少なくとも1日
の夕べを家庭の夕べのために空けるよう奨励された。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
144
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
• 1965年――毎週の家庭の夕べが定められて,レッスン手引きが発行された。
• 1966年――ステークは家庭の夕べを開く日として定めた夕べに活動を計画しないよう強
く求められた。
• 1970年――ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の指示の下,全教会で月曜日の
夕べに家庭の夕べを開くことが定められた。
一人の生徒に,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長が語った以下の勧告を読ん
でもらいます。定期的に家庭の夕べを開くことが,この勧告で言われている責任を両親が
果たすためにどのような助けとなるか,生徒から意見を求めます。
「イスラエルのすべての家族に申し上げます。家族はこの世と永遠にわたって最も
大切な組織です。この世におけるわたしたちの目的は,わたしたち自身のために永遠
の家族を作り上げることです。……
教会の両親に申し上げます。お互いを心から愛し合ってください。道徳律を守り,
福音に従って生活してください。光と真理の中で子供たちを育ててください。救いを
もたらす福音の真理を教え,家庭を地上の天国とし,主の御霊が宿り,家族一人一人
が正義を第一に選ぶ場所としてください。
主は家族のきずなを強め,守るよう望んでおられます。
」
(
「聖徒と世の人々への勧
告」
『聖徒の道』1972年12月号,536−537参照)
以下の質問について話し合います。
• 現在の教会指導者は家庭の夕べについてどのようなことを強調しているでしょうか。
• 家族は家庭の夕べによってどのように強められるでしょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスはイエス・キリストの再臨に備えるよう教会員に強
く勧めた
生徒用手引きから「わたしたちは主の来臨に備えなければならない」と「キリストは大い
なる不義の時代に来られる」(173−174ページ)を復習してから,どのように「地上は災
難で満ちている」かについて話し合います。以下について話し合います。
• 「指摘されてきたしるしが現れている」ことは,どのようなところに見られるでしょ
うか。
• 災難と邪悪に満ちたこの時代に教会員はどのような責任を果たさなければならないで
しょうか。
一人の生徒に,生徒用手引きから「わたしたちは警告の声を上げなければならない」
(174ページ)を,声を出して読んでもらいます。次の質問をします。わたしたちは教会員
と教会外の人々に対して,どのようにこの警告の声を上げることができるでしょうか。
生徒用手引きから「この世に心を向けている人は警告に耳を貸さない」と「聖徒が災い
を免れる道は従順しかない」(174−175ページ)を復習します。次の質問をします。この
災いの時代にあって平安を得るために,わたしたちは具体的にどのようなことをすべきで
しょうか。
ジョセフ・フィールディング・スミスはイエス・キリストの特別の証人だった
ジョセフ・フィールディング・スミスが使徒として60年間,大管長として3年間,イエ
ス・キリストの特別な証人を務めたことを生徒に話します。スミス大管長は自分の召しが
神から与えられたものであることを知っており,真剣に責任を果たしました。教会員とあ
らゆる人にキリストのもとへ来て,主の教えに従って生活するよう強く促しました。スミ
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 0 章 ―― ジ ョ セ フ ・ フ ィ ー ル デ ィ ン グ ・ ス ミ ス
145
めいりょう
ス大管長は福音の原則を正確かつ明瞭に教え,繰り返しました。それは聖徒たちにとって
喜びであり,祝福でした。以下の祝福師の祝福の中で述べられていたように,スミス大管
長はまことに信仰の擁護者でした。
「そこで,わたしはあなたに告げます。主の御霊に促されるとき,恐れずにまた人
の評判にとらわれることなく,声を上げなさい。そうすれば,主の祝福があなたのう
えにとどまるでしょう。あなたは主の御霊から導きと言葉と考えを授けられて,邪悪
な者の知恵を打ち負かし,不正な者のはかりごとをくじくことができるでしょう。
」
(A・ウィリアム・ランド,
“Elder Joseph Fielding Smith,”Improvement Era,1950
年4月号,315)
黒板に次の文章を書き写します。
「彼が関心を持っていたのは や ではなく,
だった。」生徒用手引きから「スミス大管長は最後まで忠実であり,揺らぐことがなかっ
た」(176−177ページ)を研究します。この項を復習しながら,生徒に黒板の文章の空所
を埋めさせます。その後に,スミス大管長について学んだことを話し合います。
ジョセフ・フィールディング・スミス長老が十二使徒定員会会員だった当時,故意に偽
りの教義を教える者に対して語った以下の警告を紹介します。
「イエスはキリストでなく,偉大な教師であったが,神の御子,御父の独り子では
なかったと大胆に語り,多くの人々にキリストの復活の力と神性を否定させている者
たちは,ひどく恐ろしい責任を自らに課しており,彼らは恐れおののくことになるで
しょう。もしわたし自身が真実でないことを教えて人々を破滅に導いていることを悟
ったとしたら,わたしはとても耐えることができません。彼らは自分が行ったことを
知り,自分が救われないだけでなく,ほかの人々を真理と義から遠ざけ破滅に追い込
んでいることに気づきます。そのとき,彼らはそれに耐えられず,最も厳しい永遠の
罰が下されるのです。
」
(Conference Report,1923年4月,138−139)
別の折にスミス長老はこう証しました。
あがな
「イエス・キリストは神の独り子,世の贖い主であり,そして人々が自分の罪を悔
い改めて福音を受け入れるかぎり,彼らの救い主であられることをわたしは確かに知
っています。主は自らの死によって,全人類を贖い,犠牲を引き受けられました。そ
れはわたしたちが主を受け入れ,主の教えに忠実であるなら,自分の罪の責任を負う
ことのないように罪から解放してくださるための犠牲でした。……
わたしはこの教会の会員であること,奉仕する機会が与えられていることを感謝し
ています。わたしの願いは終わりまで誠実で忠実であり続けることです。
」
(Conference Report,1956年4月,58−59)
あなたの証を生徒に分かち合ってください。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
146
第11章
ハロルド・B・リー
© 1972 Merrett Smith. Do not copy
第11代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
147
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
そ う そ ふ
ハロルド・B・リーの3代前の曾祖父ウィリアム・リーは1770年にアイルランドから移
民し,ペンシルベニア州フィラデルフィアに入植しました。息子のサミュエル・リーは
オハイオ州に移住し,そこでフランシス・リーが生まれました。フランシス・リーは成
人してからインディアナで回復された福音を受け入れました。1850年にフランシス・リ
ーは家族とともに西部のソルトレーク盆地を目指して旅をしていたとき,カリフォルニ
アへ向かっていた自分の父親サミュエルに出会いました。サミュエルは息子の家族とと
もに旅を続け,1851年にユタのトゥーレで教会に入りました。
ハロルド・B・リーは1899年3月28日,アイダホ州クリフトンで生まれました。数年前
の1893年にソルトレーク神殿が奉献され,1896年にユタは45番目の州として昇格するこ
とが認められました。ハロルド・B・リーが生まれたときの大管長はロレンゾ・スノーで
した。1903年,ブリガム・ヤング・アカデミーはブリガム・ヤング大学となりました。
同年,ライト兄弟がキティーホークで飛行に成功し,1908年にはヘンリー・フォードがT
型自動車を市場に導入しました。
出来事,特筆事項,教え
約束の子は預言者の父となった
ハロルド・B・リーの祖母マーガレット・マクマリン・リーは11回妊娠しましたが(1863
年から1875年の間に),赤ん坊は死産か,生まれても数時間しか生きなかったことを生徒
に話します。ソルトレーク・シティーのエーベル・ラム祝福師はマーガレットに祝福を与
え,男の子が生まれることを約束しました。後に,マーガレットはサミュエル・マリオ
ン・リー・ジュニアを産みました。サミュエルはハロルド・B・リーの父親となります。
マーガレットはサミュエルを産んで8日後に他界したため,サミュエルは祖母のマクマリ
ンによってソルトレーク・シティーで育てられました。
ハロルド・ビンガム・リーは敬虔で勤勉な家族に生まれた
一人の生徒に,生徒用手引きから「ハロルドは善い両親から生まれた」(180ページ)と
「母の心遣いはハロルドの生涯を通じて忘れ得ぬ思い出となった」(181−182ページ)を,
声を出して読んでもらいます。ハロルド・B・リー長老が十二使徒定員会に召された後,
両親への感謝の意を述べた次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
148
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
きょう
「わたしは今日,わたしの両親を与えてくださったことを神に感謝しています。父
と母はこのすばらしい集会に出席して耳を傾けているか,もしこの集会に出席できな
いようであれば,ラジオを聴いています。わたしが生まれたときにビンガムとリーと
いう二つの姓を与えてくれた両親に感謝の意を述べたいと思います。これらの名を決
して汚すまいと心に決めています。わたしは祝福されて立派な父と偉大で愛にあふれ
る母を持っています。母はこれ見よがしに愛情を表現することはありませんでしたが,
子供に分かる方法で愛情を示してくれました。このため,わたしは幼いころから母の
まことの愛を知っていました。
まだ高校生だったころのことです。弁論部の一員として,他校と弁論試合をするた
めに出かけました。わたしたちの高校が勝ちました。宿舎へ戻ると母に電話しました。
すると母はただ,こう言ったのです。『大丈夫。すべて分かってますよ。週末にあな
たが帰って来たときに話してあげましょう。』家に帰ると,母はわたしを傍らに呼ん
でこう言いました。『ちょうど弁論試合が始まるころ,小川のほとりの柳の木の陰に
一人で行っておまえのことを考えて,しくじらないように神様にお祈りしたのよ。
』」
(Conference Report,1941年4月,120)
以下の質問をします。
• 親の祈りは子供たちにどのような影響を与えると思いますか。
• 一人の生徒に,生徒用手引きから「ハロルドはアイダホ州クリフトンで成長した」
(180ページ)を読んでもらいます。それから以下の質問をします。
一人の生徒に,生徒用手引きから「ハロルドはアイダホ州クリフトンで成長した」(180
ページ)を読んでもらいます。それから以下の質問をします。
• ハロルド・B・リーは農家で生まれ育ったためにどのような特質を伸ばしたと思いますか。
• 子供たちを光と真理の中で育てるうえで,このような環境にはどのような利点があっ
たと考えられるでしょうか。
みたま
ハロルド・B・リーは子供のころから,御霊に従うことを学んだ
だれかが御霊によって危険が迫っていることを警告されたときのことを生徒に思い出させ
ます。全員に2ニーファイ5:1−6を読んでもらいます。それから,ハロルド・B・リーが語
った以下の話を紹介します。
あらし
「わたしたちの家があった山の一帯で猛烈な嵐が吹き荒れていました。そのとき家
族は祖母,母,それに2人か3人の幼い子供しかいませんでした。わたしたちは開け放
たれた台所のドア越しに,壮大な光景を繰り広げる稲光を眺めていました。ピカピカ
と稲光が続けて光った直後に大きな雷鳴がとどろいて,すぐ近くに雷が落ちたことが
分かりました。
わたしはドアに通じる廊下を行ったり来たりして遊んでいました。突然,何の警告
もなしに母はわたしを突き飛ばしました。わたしはドアから離れた所に倒れました。
その瞬間,稲妻が台所の炉の煙突に落ちると,ドアに向かって突き抜け,家の前の大
きな木を上から下まで真っ二つに切り裂きました。母のとっさの判断がなければ,そ
してわたしがドアの入り口にいたら,今日,この話を書いていることはないでしょう。
」
,41)
(L・ブレント・ゴーテス,Harold B. Lee: Prophet and Seer〔1985年〕
ハロルド・B・リーは母と同じように,そのような促しに従うことを学びました。一人
の生徒に,生徒用手引きから「『ハロルド,そちらに行ってはいけない』」(180−181ペー
ジ)を読んでもらいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
149
きょうべん
ハロルド・B・リーは伝道に出るまでの4年間,学校で教鞭を執った
生徒に,彼らの年齢で学校の校長になるとしたら,どのように感じるか尋ねます。また,
どのようなチャレンジに遭遇すると思うか尋ねます。ハロルド・B・リーがオナイダステ
ーク・アカデミーを卒業後,17歳で教員として採用されたことを生徒に話します。最初の
赴任地はアイダホ州ウェストン近くの学校でした。この学校の校舎は教室が一つしかあり
ませんでした。リー長老は当時を思い出してこう語りました。
「一部屋しかないこの学校で,わたしは自分の力が試される経験をしました。全員
で約20人から25人の生徒のうち,1年生から8年生までほとんどの学年の生徒がいまし
た。授業は毎日28クラスを教えていました。非常に用心深い性格だったわたしは,校
庭に来ている生徒の人数を数えて,全員がいることを確認してから,始業のベルを鳴
らしました。しかし午前8時半を過ぎるようなことはほとんどありませんでした。
〔学
校の始業時刻はそれよりも後でした。〕ほとんど毎晩,わたしは学校の問題について
主に伺っていました。仕事のことでこれほど悩まされたことはありませんでした。し
かし,主はわたしをお見捨てにはなりませんでした。この時期に,わたしは自分の生
活の自己管理について最も貴重な教訓を幾つか学びました。」
(ゴーテス,Harold B.
Lee,51)
翌年,ハロルド・B・リーはアイダホ州オックスフォードの学校で校長として働くよう
になりました。一人の生徒に以下の彼の話を読んでもらいます。
「翌年,アイダホ州オックスフォード地区の学校の校長として採用されました。月
給は90ドルでした。教師補佐としてベルマ・スペリーとトレシー・リンカーンが採用
されました。オックスフォードは乱暴な少年たちがいることで有名で,校長として長
く勤められないだろうといううわさがわたしの耳にも届いていました。この問題を解
決するために,バスケットボールの経験が役立ちました。わたしは体格が良かったた
め,昼休みの時間を利用して年長の少年たちにバスケットボールを教えました。中に
はわたしよりも年上の生徒がいました。わたしはバスケットのユニフォームを着て,
生徒たちと一緒に試合をしました。幸いにも,威厳を保ちながら校長として生徒から
信頼を勝ち得ることができ,また今日まで続くことになった友情もはぐくむことがで
きました。
」
(ゴーテス,Harold B. Lee,53)
次の質問をします。ハロルド・B・リーは教師として,校長として遭遇したチャレンジ
をどのように解決したでしょうか。
ハロルド・B・リーは西部諸州伝道部で伝道した
ビショップのサミュエル・マリオン・リーとリー家族は,ハロルドが伝道に出ることは,
家族にとって大きな経済的負担となることを知っていたことを生徒に話します。ハロルド
はアイダホ州オックスフォードで教員生活を送っていたとき,家族を支えるために仕送り
をしていました。今度は家族が伝道に出るハロルドを経済的に支援しなければならなくな
ります。しかし,召しが来て,ハロルドはその召しを受けました。ハロルド・B・リーは
父親に付き添われて,1920年11月6日にローガン神殿でエンダウメントを受けました。そ
して1920年11月9日にユタ州ソルトレーク・シティーで,七十人のB・H・ロバーツ長老か
ら宣教師として任命され,翌日には伝道に旅立ちました。
一人の生徒に,生徒用手引きの「ハロルドは伝道の召しを受けた」(183ページ)の最初
の二つの段落を,声を出して読んでもらいます。あるとき,ワイオミング州シェリダンで
開かれた大会で,伝道部会長は急に大会の前半の日程に出席できなくなったので,自分の
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
150
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
代わりをするようリー長老に依頼したことを生徒に話します。リー長老は手紙の中でこう
記しています。
「わたしは会長に,とても手に負えない重責ですが,最善を尽くすだけでよいなら,
行きますと言いました。会長はほかに頼れる人がいないと言い,また旅費は教会が支
払うと言いました。わたしは最善を尽くして,説教を行い,ピアノの伴奏と指揮を受
け持ち,支部の問題を解決する手助けをしました。月曜日にナイト会長が到着したと
き,スキャッドロック長老はどうしてもわたしに話をさせたいと言いました。しかし,
わたしは知恵を働かせて,丁重に断わりました。同地に滞在している間,会長は以前
にも増してわたしに信頼を寄せ,どこへ行くときでもわたしを伴って行きました。こ
の訪問がわたしにとって有意義であったことを,できればもっと詳しく伝えたいので
すが,手紙では限界があります。そして伝道を終える時期が近づいて来ると,様々な
けんそん
」
思いが込み上げてきて,自分の責任に対する感謝の念と謙遜な思いが深まりました。
(ゴーテス,Harold B. Lee,70−71)
次の質問をします。ハロルド・B・リーは伝道部会長から与えられた割り当てにふさわ
しくないと感じていましたが,主は従順であったリー長老をどのように祝福されたでしょ
うか。
ハロルド・B・リーはアイダホ州クリフトンに戻った
ハロルド・B・リーは1922年12月に伝道から帰還したことを生徒に話します。しかし伝道か
ら帰還した喜びとクリスマスの楽しい雰囲気はたちまちのうちに消えていきました。自分
の伝道のために家族がどれほど経済的に苦しんできたかを知ったからです。経済不況は特
に農業従事者にとって深刻でした。リー家族も例外ではありませんでした。
ハロルド・B・リーはしばらく家族の農場で一生懸命に働きました。そしてクリフトン
ワードで教師として働く仕事が舞い込んできたとき,彼は喜んで応じました。後に,彼は
長老定員会の会長を務めました。次の質問をします。ハロルド・B・リーは困難な状況を
どのようにして切り抜けたでしょうか。
この困難な時期にハロルド・B・リーと家族は後の人生に影響を及ぼす極めて大切な決
断を下したことを生徒に話します。彼はこう記しています。
「経済的な苦境を打開するためにわたしが働きに出て行くことを家族全員で決めま
した。できるだけ早くソルトレークへ戻って,働き口を見つけることにしました。わ
たしは主の導きのままに正しいことを行います。
」
(ゴーテス,Harold B. Lee,83)
次の質問をします。個人の決断について家族はどのようなときに一緒に考えるべきでし
ょうか。
ハロルド・B・リーはファーン・タナーと結婚して,家庭を築き始めた
ハロルド・B・リーはコロラド州デンバーで伝道中にファーン・L・タナーと出会ったこと
を生徒に話します。二人はしばらくの間文通をしていました。リー長老はその後帰還して
から,ソルトレーク・シティーに住む彼女を訪問しました。この訪問について,リー長老
はこう記しています。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
151
「わたしたちは夜遅くまで話し込みました。恋人というより宣教師の同僚のよ
うな感じでした。多くのことについて質問し,話しました。二人とも喜びと落胆
を経験していましたが,それらのすべてを通して,イエス・キリストの福音に対
あかし
する心からの証を得ました。ただ福音の真の価値については,当時まだ二人とも
あまりよく分かっていませんでした。」(ゴーテス,Harold B. Lee,75)
ハロルド・B・リーは1923年11月14日,ソルトレーク神殿でファーン・タナーと結婚し
ました。彼は夏の間ユタ大学に通い,結婚してからも1年間は大学に出席しました。そし
て1923年の秋からウィティアー校の校長として働き始めました。
リー家族は二人の子供に恵まれたことを生徒に話します。ハロルド・B・リーの日記か
ら以下の記録を紹介します。
みつげつ
「結婚生活の1年目は輝く蜜月 の毎日だった。その間,最初の子供を迎える準
備をした。A・C・カリスター先生の指示を厳密に守っていたにもかかわらず,
ファーンは子供〔モーリーン〕を出産するときに大出血をして,危うく命を落と
すところだった。
1924年9月1日にモーリーンが誕生してから,15か月後に二人目が生まれた。
1925年11月25日にヘレンが生まれるまで,ファーンは60時間陣痛と戦った。ヘレ
ンが生まれると,年の近い二人の娘たちは年を追うごとに仲良くなっていった。」
(ゴーテス,Harold B. Lee,84−85)
以下の質問をします。
• 両親は子供を世にもたらすためにどのような犠牲を払うことがよくあるでしょうか。
• 子供を育てるときに両親はどのようなチャレンジに出遭うでしょうか。
ハロルド・B・リーは教育やビジネス,公職に携わった
ハロルド・B・リーは使徒に召されるまで,グラナイト学校区で校長を勤めていたことを
生徒に話します(1923−1928年)
。夏季に授業がないときは,収入を補うためにほかの仕事
にも就きました。1928年にファウンデーションプレス社(Foundation Press, Inc.)のセー
ルスマンとして働き始めて,後にマネージャーになりました。この職場での固定給は教師
の収入を上回っていただけでなく,歩合給も支給されていました。リー家族は1928年にフ
ァーン・リーの両親から家を購入しました。1932年12月にハロルド・B・リーは死去した
前任者に代わり,ソルトレーク・シティーの市の役員に任命されました。その後も同職に
再任されて,役員を務めていましたが,1936年に教会福祉プログラムの実務運営ディレク
ターに任命されたため公職から退きました。この福祉プログラムは当時,教会保全プログ
ラムと呼ばれていました。ハロルド・B・リーは使徒に召されるまでこの仕事を続けてい
ました。
ハロルド・B・リーは大恐慌のさなかにステーク会長に召された
ハロルド・B・リーは教師,セールスマン,市の役員として働いている間,教会の奉仕と家
族との生活においても熱心に務めを果たしていたことを生徒に話します。この期間に果た
した教会の責任の中で,特筆されるのは1930年10月26日に(ソルトレーク・シティー)パ
イオニアステークの会長に召されたことでした。
1930年代の大恐慌について生徒が知っていること,または聞いたことについて話すよう
求めます。この時期の生活はどのようなものであったかについて生徒に尋ねます。生徒用
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
152
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
手引きから「主は乏しい者に奉仕するようハロルド・B・リーを備えられた」(183−184ペ
ージ)を復習します。それから,以下の質問をします。
• この時期にリー家族の生活はどのような状態にあったでしょうか。
• ハロルド・B・リーが乏しい人々をよく助けることができたのはなぜでしょうか。
生徒用手引きの「ハロルド・B・リーは聖徒の必要を知りたいと熱心に願った」(184−
185ページ)から最初の5つの段落をあなたが読み,それを聞きながら,ステーク内の聖徒
たちの必要を満たすためにリー会長がどのような働きをしたかを見つけるよう生徒に言い
ます。以下の質問をします。
• リー会長は教会員の実態を調査することによって,自分のステークについてどのよう
なことが分かったでしょうか。
• 神権指導者は教会員の必要を見いだすためにどのような役割を果たしているでしょうか。
リー会長をはじめとする指導者たちは人々の基本的な必要(食糧,衣類,雇用)を明ら
かにすることによって,必要に合った支援を検討できたことを生徒に話します。以下の情
報の一部または全部を紹介します。
食糧――パイオニアステークの失業している会員たちが作物の収穫を手伝う代わりに収
穫の一定の割合を報酬として提供してくれるよう地元の農家に交渉しました。
衣類――多くの姉妹たちは「ステーク内の乏しい者たちが使えるように,衣類や寝具を
つくろったり,作ったりする作業に積極的に参加しました。
」
(フランシス・M・ギボンズ,
Harold B. Lee: Man of Vision, Prophet of God〔1993年〕,110)
雇用――「リー会長をはじめとする指導者たちはステーク内の人的資源を調査した結果,
失業中の職人が大勢いることを発見しました。レンガ工,大工,石工,塗装工などの労働
者は働きたくても働く場所がありませんでした。再び,リー大管長は創意工夫によって,
必要と資源を結び付ける方法を見つけました。その結果,パイオニアステーク体育館が建
設されることになりました。……体育館を建設するための資材の多くは,所有者の許可を
得てステークの人たちが解体した古い建物から流用しました。新しく購入する必要がある
資材の資金4,500ドルは大管長会からの寄付とステークの倉の余剰日用品を売って調達しま
した。体育館の建設に従事した人々は『給与票』を受け取り,それを倉へ持って行くと食
料品,衣類,その他の日用品を購入することができました。
」
(ギボンズ,Harold B. Lee:
Man of Vision,115−116)
以下の質問をします。
• リー会長が示した関心,創意工夫,霊感から,どのようなことを学べるでしょうか。
• 必要を見いだし,資産を算定するための原則は,あなたの受けている試練にどのよう
に応用できるでしょうか。
ハロルド・B・リーは教会の福祉プログラムの開発に深くかかわったことを生徒に話し
ます。教会指導者は,あまりにも多い失業者を考慮して地元ステーが福祉プログラムを始
めていることを知りました。大管長会は,当時パイオニアステークの会長だったハロル
ド・B・リー会長に教会全体で利用できる福祉プログラムを開発するよう要請しました。
リー会長が福祉プログラムの開発にかかわったことについて詳しく理解するために,生
徒用手引きから「大管長会は教会の福祉制度をさらに整備するためにハロルド・B・リー
を召した」(185−186ページ)を復習して,話し合います。この項の最後の二つの段落を
参照させてから,以下の質問をします。
こんにち
• 今日わたしたちが従わなければならない「真理の源」とはだれでしょうか。
• リー長老によれば,「来るべき大いなること」を受けるために教会員は何をする必要が
あるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
153
第2部――壮年期,晩年期
歴史的背景
1922年にハロルド・B・リーが西部諸州伝道部から戻ったとき,教会は大きく成長し,
発展を遂げていました。1922年末までに,教会員は56万6,000人を超えていました。リー長
老が伝道を終えてから数年のうちに,カナダのアルバータでは1923年に,アリゾナ州メサ
では1927年に,神殿が奉献されました。1926年からインスティテュートプログラムが実施
されるようになり,1928年には100番目のステークが組織されました。
ハロルド・B・リーが大管長に召された1972年に,教会は592のステークと101の伝道部
に320万人の会員を擁し,15の神殿を持っていました。リー長老は大管長として務めた1年
半を含めて,32年以上中央幹部として働きました。1973年12月26日に他界するころには,
教会は630のステークと108の伝道部を擁し,会員は330万人に増えていました( 2003
Church Almanac〔2003年〕,473,631−632参照)。リー大管長は74歳で他界しました。預
言者ジョセフ・スミスに次ぐ若さでした。
出来事,特筆事項,教え
ハロルド・B・リーは使徒に召され,聖任された
ハロルド・B・リーは1941年4月5日,総大会の土曜の午前の部会が開かれる朝に目を覚ま
すと,興味深い経験をしたことを生徒に話します。それから,リー長老が記した以下の記
録を紹介します。
「ベッドから起き上がる前に,わたしは十二使徒定員会の一員に指名されるという
はっきりとした印象を受けた。
」
(L・ブレント・ゴーテス,Harold B. Lee: Prophet
,157)
and Seer〔1985年〕
その日の晩に彼は使徒に召されました。その経験について記したリー長老の言葉を読みます。
「わたしは中央神権会に出席し,教会福祉プログラムの実務ディレクターとして一
般席に座っていました。神権会が終わると,司会を務めていたJ・ルーベン・クラー
ク管長がわたしの名を呼んで,壇上に来てジョセフ・L・ワースリンビショップのも
とへ行くようにと言いました。ワースリンビショップの用件はわたしにヒーバー・
J・グラント大管長のもとへ行ってほしいということでした。
壇上へ行くと,ジョセフ・アンダーソン長老から大管長が中央幹部室でわたしを待
っていると告げられました。驚いたわたしはすぐにグラント大管長が単に社交的な理
由でわたしを呼んだわけではないと察知しました。大管長は,わたしが……リード・
スムート上院議員の死によってできた空席を埋めるために十二使徒定員会に指名され
たと告げました。
」
(ゴーテス,Harold B. Lee,157)
一人の生徒に,生徒用手引きから「ハロルド・B・リーは使徒に召された」(186−187ペ
ージ)を読んでもらいます。以下の質問をします。
• ハロルド・B・リーは使徒として召されたときにどのようにこたえたでしょうか。
• ハロルド・B・リーはイエス・キリストの特別の証人としてどのように強められたでし
ょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
154
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
ハロルド・B・リー長老は福音を教えることを愛した
家族で行う効果的な聖文学習について感じていることや自分の経験について分かち合うよ
う生徒に求めます。リー家族の様子についてハロルド・B・リーの娘ヘレン・リー・ゴー
テスが語った以下の話を紹介します。
「2分半の話の準備をしていて疑問があるときや,夕食の食卓を囲んで話し合って
いるときに,答えが分からないと,わたしたちは決まってこう尋ねました。『これに
ついてお父さんはどう思う。
』すると父はこう答えました。
『聖典を持って来てごらん。
主がそのことについてどうおっしゃっているか見てみよう。』父も自分の聖典を持っ
て来ると,的確な聖句の箇所を開いて,知る必要のあることを一緒に読みました。父
が直接答えたらずっと簡単で早いだろうにと思ったことが何度もありました。けれど
も,大切な教訓を学ぶすばらしい機会を父が改めて与えてくれていたことを後に理解
しました。父はこうすることによって,聖文こそわたしたちが最初に答えを求めるよ
りどころであることを教えてくれたのです。
」
(ゴーテス,Harold B. Lee,123)
ハロルド・B・リー長老はまた,聖文から聖徒たちに教えるのが好きだったことを生徒
に話します。リー長老が1972年の神権指導者会で語った以下の話を紹介します。
「将来わたしたちに降りかかってくるであろう災いを予言するいい加減な文書がた
くさん出回っています。中には,襲いかかる恐怖を世界中の人々に知らせる必要があ
るかのごとくに宣伝されている文書もあります。これらの多くの文書の根拠は信頼に
足るものではありません。
神権者の皆さんは,すでにはっきりと語られている聖文に精通していれば,そのよ
うな書物から警告を受ける必要がないという事実を知っているでしょうか。
政治的な意味が強いと思われるこれらの見慣れない資料ではなく,わたしたちが指
針とすべき確実な預言の言葉を紹介しましょう。
マタイ第24章,特に高価な真珠に収められている霊感訳(ジョセフ・スミス――マ
タイ)を読んでください。
次に教義と聖約第45章を読んでください。ここで,人ではなく主が時のしるしを明
らかにしておられます。
それから教義と聖約第101章と第133章を開いて,救い主が来られる時に先立ち,順
を追って起きる出来事を読みましょう。
最後に,これらの裁きが悪人に下されるとき,戒めを守る人々に主が与えておられ
る約束を読みます。それは教義と聖約第38章で説明されています。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
155
兄弟たち,皆さんは,最も信頼性が高いとは言えない,動機が疑わしい情報に基づ
いた注釈書ではなく,これらの聖文を読むべきです。さらに付け加えるなら,そのよ
うな著者のほとんどは,神からの啓示を受けておらず,不確かな情報を記しているに
,
すぎません。
」
(Teachings of Harold B. Lee,クライド・J・ウィリアムズ編〔1996年〕
399)
次の質問をします。教義を理解する際に聖文よりも不確かな情報や「いい加減な資料」
をよりどころにすることについてハロルド・B・リーはどのような懸念を抱いていたでし
ょうか。
ハロルド・B・リー長老は教会コーリレーション委員会の委員長を務めた
デビッド・O・マッケイ大管長が教会を管理した時代に,大管長会は福祉,伝道活動,系
図,教育,ホームティーチング,家庭の夕べに関して教会の活動を相互に調整することに
より,教会と個々の家族を強めたいと考えたことを生徒に話します。そのためにまず,教
会のすべてのプログラムと教科課程を世界的な規模で相互調整する作業に取りかかりまし
た。そしてこの委員会を統括する責任がハロルド・B・リー長老に与えられました。
生徒用手引きの「神権コーリレーションの原則が進展した」,「神権による指導が求めら
れている」,「『コーリレーションの目指すところは家庭を強めることです』」,「教会のプロ
グラムは家庭を支援する」(187−189ページ)から,神権コーリレーションの目的と力に
ついてリー長老が教えた事柄を復習します。それから,以下の質問について話し合います。
• リー長老は教会コーリレーションのおもな目的をどのように説明しているでしょうか。
• このコーリレーションはどのような恩恵を教会にもたらしたでしょうか。
• わたしたちは時々,どのように「個人の成長を促すための足場作り」を誤解すること
があるでしょうか(
「教会のプログラムは家庭を支援する」参照)
。
ハロルド・B・リー長老が語った以下の言葉を紹介します。
「わたしたちは『神の栄光にひたすら目を向けて』〔教義と聖約82:19〕すべての
ことを行わなければなりません。神の栄光とは何でしょうか。主がモーセに説明され
たように,人の不死不滅と永遠の命をもたらすことです。……コーリレーションプロ
グラムにおけるすべての働きにおいて……わたしたちはこれらの目的を心に留めてき
ました。簡潔に言えば,コーリレーションの二つの目的とは,第1に,主から明確に
定義されたように神権が機能し,それに加えて補助組織が正しく関連した働きをする
ことであり,第2に,両親と家族が主から命じられたように,それぞれの召しを尊ん
で大いなるものとすることです。したがって,わたしたちは何かを行うときには必ず,
次の質問について考えるべきです。この活動は王国の利益を増し加えるものでしょう
か,またわたしたちは主の組織の最も重要な目的,すなわち人を救い,人の不死不滅
と永遠の命をもたらすことにひたすら目を向けているでしょうか。
」
(中央日曜学校大
会における説教,1970年10月2日,Archives of The Church of Jesus Christ of Latterday Saints,7)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
156
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
救い主は御自身の教会の指導者を導いておられる
当時十二使徒定員会会員であったハロルド・B・リー長老が救い主について述べた以下の
あかし
証 を紹介します。
「わたしは全身全霊をもって確信し,この証の厳粛さと重要性を知りつつ,救い主
は生きておられると皆さんに申し上げます。救い主を必要とする多くの機会に,わた
しは主がおられることを感じます。昼夜を問わず,わたしが責任を受けている事柄に
ついて導きを受ける必要があるとき,主がおられるのを感じます。したがって,皆さ
んが感じているよりも,主はこの教会の指導者の近くにおられることを証します。も
し皆さんが研究だけでなく信仰によっても学びたいと考えているなら,教会の指導者
の言葉に耳を傾け,彼らの足跡に従って正義の道を歩んでください。わたしはこのこ
み な
とを心からの謙遜さと誠実さをもって,主イエス・キリストの御名によって証しま
す。
」
(Conference Report,1968年4月,131−132)
次の質問をします。「皆さんが感じているよりも,主はこの教会の指導者の近くにおら
れること」を知るのはなぜ大切なのでしょうか。
教会の指導者から受けた最近の勧告について話し合います。預言者に従うことによって,
どのように身体的,霊的な守りを受けるかについて話し合うよう勧めます。一人の生徒に,
生徒用手引きの「預言者に従うときに家庭の神聖さが守られる」(190−191ページ)の最
後の段落を読んでもらいます。以下の質問の答えについて話し合います。
• なぜ主の預言者の勧告に従うことだけが安全な道なのでしょうか。
• あなたの個人的な見解が預言者の勧告と相いれない場合,どうすべきでしょうか。
• 預言者の勧告に従順な人には,どのような約束が与えられているでしょうか。
ハロルド・B・リーは大管長に召された
生徒用手引きの「ハロルド・B・リーの生涯におけるおもな出来事」(179ページ)を復習
して,ハロルド・B・リーはいつ使徒に召され,いつ大管長になったかを調べさせます。
以下の質問をします。
• ハロルド・B・リーはどれほどの期間,使徒として働いたでしょうか。
• ハロルド・B・リーはどれほどの期間,大管長を務めたでしょうか。
一人の生徒に,生徒用手引きの「ハロルド・B・リーは大管長に召された」の段落2を読
んでもらい,別の生徒に「リー大管長は愛にあふれる思いと心をもってあらゆる末日聖徒
に接した」(191ページ)を読んでもらいます。
リー大管長は聖徒に集合の方法と場所を教えた
教会の初期の時代に主は聖徒たちをどのようにして集められたかを生徒に説明してもらい
ます。次の質問をします。主は今日,どのようにして聖徒たちを集めておられると言える
でしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
157
ハロルド・B・リー大管長が語った以下の見解を紹介します。
み て
「今日,わたしたちは主の聖徒たち,すなわち教会員の間に主の御手が実際に示さ
れているのを目にしています。今日この神権時代においてかつてないほど,教会員は
緊迫感を高めています。それは恐らく,過去のいずれの時代にもなかったことです。
教会の領域は広げられ,そのステークは強められています。教会が設立されて間もな
いころ,聖徒たちの集合すべき特定の場所が与えられ,主はそれらの集合の地が変え
られることはないと言われましたが,そのときに一つの条件を付けておられます。す
なわち,『そして,ついに彼らのためにもう余地のない日が来る。そのとき,わたし
が彼らに指定するほかの場所がある。シオンの幕のために,すなわちシオンを強める
ために,それらはステークと呼ばれる。
』
(教義と聖約101:21)
昨年8月に開かれたメキシコ・シティー地域大会において,十二使徒評議会のブル
ース・R・マッコンキー長老はその示唆に富んだ説教の中で,このテーマに関して解
説しました。わたしは彼の説教の中から少し引用したいと思います。
『……わたしはここで,この聖句に述べられている事柄に注目していただきたいと
思います。すなわち,イエスラエルの集合とは,まことの教会に加入し,まことの神
と救いの真理を知ることであり,あらゆる国々,あらゆる人々の中にあって聖徒の会
衆としてともに神を礼拝することです。……』
さらにマッコンキー長老は,この説教を終えるに当たって,教会をそれぞれの国々
で確立するために,地元の指導者を教育し,訓練する必要性が高まっていることを強
調して,こう語りました。
『メキシコの聖徒のための集合の地はメキシコにあり,グアテマラの聖徒のための
集合の地はグアテマラにあり,ブラジルの聖徒のための集合の地はブラジルにありま
す。このようにして集合の地は全地に広がります。日本は日本の聖徒のためにあり,
韓国は韓国の聖徒のためにあり,オーストラリアはオーストラリアの聖徒のためにあ
ります。あらゆる国々は,その国の民のための集合の地となるのです。
』
」
(
「シオンの
ステークを堅くせよ」
『聖徒の道』1973年10月号,466−467)
以下の質問をします。
• この教えによれば,聖徒の集合とはどのように定義できるでしょうか。
• 今日の聖徒たちはどこに集合すべきでしょうか。
• 自国に集合するために,聖徒はどのような力を与えられるでしょうか。
• 自分の住んでいる地域で教会を確立するにはどうしたらよいでしょうか。
リー大管長は聖徒に現代のチャレンジに立ち向かうよう教え,警告した
生徒用手引きから以下の項目を参照して,それぞれの事項についてハロルド・B・リー大
管長が教えた事柄を短くまとめます(かっこ内の例を参照)
。
•「教会員は悪と戦うために自らを備えなければならない」(192ページ)。(わたしたちが
神権者の指導に従うなら,主は悪の力から守ってくださる。
)
•「安全であるためには神の戒めを守らなければならない」(192ページ)。(教会員は教会
の指導者を支持し,戒めを守るならば,主の守りを受ける。
)
•「教会は防御となり,避け所となる」(192−193ページ)。(教会は世の悪の力に対抗する
力である。教会員は神の戒めを守ることにより,教会の教えに添って生活するならば,
これらの邪悪な影響力から守られる。
)
•「破壊をもたらすこの世の影響力が家族を脅かしている」(193−194ページ)。(家庭の夕
べを開くことによって,家庭を強め,破壊をもたらすこの世の影響力から家族を守る
ことができる。)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
• 「教会の目的は,聖徒が今日の問題に対処できるよう助けることである」
(194ページ)
。
(教会は「この変わりゆく現代世界においてあらゆる問題に対処できるよう」教会員を
助けるために組織されている。
)
いや
• 「最も大いなる奇跡は病んでいる霊を癒すことである」(194ページ)。(教会は「魂や
霊の病を抱えて落胆し,取り乱している人々」を助けるために手を差し伸べている。
)
リー大管長の奉仕の記録は人々の心と思いの中に刻まれている
ハロルド・B・リーが大管長を務めた期間は18か月にも満たなかったことを生徒に告げま
す。大管長としての在任期間は短くても,リー大管長は教会に大きな影響を与えました。
次の質問をします。ハロルド・B・リーが指導したプログラムの中で,現在も教会で実
施されているプログラムにはどのようなものがあるでしょうか。ハロルド・B・リーは大
管長に召されたとき,前任者たちが果たしてきた事柄と自分の新しい召しについて深く考
えたことを生徒に話します。リー大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「3か月前,神聖な経験をしました。わたしが引き受けなければならないこの途方
もなく大きな責任の重さを感じ始めたころ,聖なる神殿に行きました。そこで祈りと
めいそう
瞑想の時を過ごしながら,神の人たちの肖像画を見上げました。真実の清い人々であ
り,神の高貴な人々であって,同じ召しを受けたわたしの先輩たちでした。
数日前の早朝,わたしは自宅の書斎でただ一人思索にふけっていました。そして歴
代の大管長と最も親しかった人々から寄せられた賛辞を読みました。
ジョセフ・スミスは少年時代に主から召され,神の権能を授けられた預言者でした。
そして,神権について知り,神権を受けるために必要なこと,この末日に神の王国の
基を置くために必要なことを主から教わりました。
ブリガム・ヤング大管長はこの世が造られる前から予任されていました。初期の集
合地であったミズーリ州やイリノイ州の聖徒たちを迫害の炎から逃れさせ,この壮大
な山々の頂に囲まれた内地に共和国を築いて,神の目的を成し遂げるように召されて
いました。
ジョン・テーラー大管長の特質について考えると,かつてジョセフ・F・スミス大
管長が彼について語ったように,『これまでに知った人の中でいちばん清い人』であ
ると感じます。……
徳高きウィルフォード・ウッドラフ大管長の顔を見ると,いにしえのナタナエルの
ような人であったと確信できます。ウッドラフ大管長は悪意がなく,主の御霊の導き
を鋭敏にとらえる人でした。『前もって自分のなすべきことを知らなくても』ほとん
どいつも主の光によって歩んでいたように思えます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
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ロレンゾ・スノー大管長が在任したのは短い期間でしたが,犠牲の律法を断固たる
決意をもって実施することにより,民の物質的な基盤を確立するという特別な使命を
帯びていました。それは,知らず知らず教会に忍び込んでいた過ちゆえに降りかかっ
ていた莫大な負債を取り除くことでした。
教義に関する問題について定義を明確にしたいとき,
わたしはたいていジョセフ・F・
スミス大管長の著書と説教をよりどころとしてきました。
りりしく立っている彼の姿
が描かれた肖像画を見ていると,
夫に先立たれた母を助けて大平原を横断する9歳の男
の子の姿が心に浮かんできました。
またマウイ島のハレアカラの丘で受けた示現の中
で,
おじであるジョセフ・スミスの訪れを受けて励まされた15歳の宣教師のことが思い
出されました。
敵対的な新聞社から教会が中傷を受けるという大きな嵐に見舞われた
時代に教会を管理したのがスミス大管長でした。
しかし彼は主から任命された確かな
担い手として教会を堂々と守り抜いたのでした。
ヒーバー・J・グラント大管長はわたしの肩に手を置き,わたしが今感じているよう
な深遠な思いを込めて,わたしを主イエス・キリストの使徒に召しました。そのとき
ほど,神から召されることの意味を深く理解したことはありませんでした。わたしを
見下ろしているグラント大管長の顔を見ていると,聖なる神殿の中で彼の手によって
聖任されたときに,霊感あふれる祝福の言葉の中で示された預言が心によみがえって
きました。
ジョージ・アルバート・スミス大管長は,友情と愛に満ちた使徒でした。スミス大
管長は実にすべての人の友でした。彼の肖像画を眺めていると,だれをも自分の友と
した,あの暖かい輝きを感じているようでした。
デビッド・O・マッケイ大管長は背が高く,強い印象を与える人でした。いつもわ
たしの心の底までも見通すかのような鋭いまなざしが,今もわたしに向けられていま
す。幾度となく感じてきたように,マッケイ大管長の前にいるとそれがどれほど短時
間であっても,彼とともにいることによって自分が向上するのを感じました。
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこの世の栄誉を一切求めず,霊のこ
とに心から喜びを感じた人でした。笑みを絶やさない,愛する預言者であり,指導者
であったスミス大管長は真理について決して妥協することがありませんでした。まさ
つえ
に『神の指が彼に触れて,彼は眠りについた』ひとときに,スミス大管長は正義の杖
を渡して,『あなたも行って同じようにしなさい』とわたしに告げたように思われま
す。
そこでわたしは一人立って瞑想しました。そのとき,ただ次のような考えが心に浮
かんできました。わたしが新しい召しにあって果たす働きの唯一の真実の記録は,わ
たしが教会の内外を問わず,仕え働いた人々の心と生活に記録されるのです。」(「神
い
『聖徒の道』1973年5月号,201)
の王国を出で行かせたまえ」
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
160
第 1 1 章 ―― ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー
ハロルド・B・リー大管長の葬儀で弔辞を述べたスペンサー・W・キンボール大管長は,
リー大管長の生活についてこう述べました。それはリー大管長とともに仕えた歳月の間に
彼の心に刻まれた記録でした。ハロルド・B・リー大管長の葬儀で弔辞を述べたスペンサ
ー・W・キンボール大管長は,リー大管長の生活についてこう述べました。それはリー大
管長とともに仕えた歳月の間に彼の心に刻まれた記録でした。
「
『巨大な大木が倒れた。
』あるステーク会長の葬儀でハロルド・B・リー大管長自
身が語ったこの言葉はまさにリー大管長にふさわしい言葉です。巨大な大木が倒れて,
森に大きな空間ができました。
リー大管長は偉大な人でした。……
その影響力を全世界に及ぼし,何百万人という教会員と教会の友人たちに福音の影
響をもたらした巨人でした。
使徒として,また大管長会として受けるチャレンジに対して,神の導きのままに立
ち向かう一方で,無数の人々に勧告と自分の考えを分かち合う時間を取ることをいと
わない巨人でした。
経験や物語,聖文の勧告を霊感によって世界中の人々の心と思いに刻み込んだ巨人
でした。
耳を傾ける人々の心の琴線に触れ,理解とビジョン,目標,そして安らぎを与える
ことのできる巨人でした。
天の御父に代わり,神のすべての子らに慰めと勇気と神の力を与える巨人でした。
みこころ
現代の日常的な経験を通して,主の御心を教える救い主のように偉大な教師でした。
確かにハロルド・B・リー大管長は,この時代に生きた神の最も高貴で,力強く,
献身的で,予任された巨大な大木でした。
」
(
“A Giant of a Man,”Ensign,1974年2月
号,86−87)
締めくくりとして,ハロルド・B・リー大管長が教会に対して果たした貢献の重要性に
ついてあなたの証を分かち合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第12章
スペンサー・W・キンボール
© IRI
第12代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
スペンサー・ウーリー・キンボールは1895年に生まれました。1年後にはユタが合衆国の
45番目の州になりました。2年前の1893年にはソルトレーク神殿が奉献されました。1896
年には第1回近代オリンピックがギリシャのアテネで開催されました。
1898年,スペンサーが3歳のとき,父アンドリュー・キンボールは,アリゾナの南東部へ
住居を移してステークを管理するという召しを受けました。キンボール家はアリゾナ州サ
ッチャーに定住することになりました。時がたつにつれて,家族は厳しい乾燥地帯での生
活に慣れていきました。アンドリュー・キンボールは他界する1924年まで,同地でステー
ク会長を務めました。
出来事,特筆事項,教え
キンボール家では福音の原則が教えられた
生徒に,教師用手引きの168ページの絵を見て,夕食の食卓を囲んで何が行われていると
思うかを話し合わせます。一人の生徒に以下の文を読んでもらい,ほかの生徒たちに自分
の家庭に取り入れたいと思うキンボール家の伝統を見つけるように言います。
「スペンサーの記憶に残っている幼いころの最も大切な思い出の中心は教会と福音
せいさん
でした。サッチャーの集会所で開かれた聖餐会と日曜学校で,母はいつも子供たちと
一緒に前から4列目の席に座っていたとスペンサーは記憶しています。食事の前には
いつも,家族はいすを後ろ向きに,皿を裏返しにしてひざまずき,祈りました。夜の
じゅうぶん
祈りのときは,いつも母の隣にひざまずいていました。常に断食をし,什分の一を納
めていました。『これらの大切な教訓を成長してから学ばなければならない子供たち
を気の毒に思います。大きくなればなるほどそれは難しくなるからです。』スペンサ
ーにとっては,これらの教訓を学ぶことが少年時代の生活の基本でした。
スペンサーは,両親が自分たちの問題について主に祈る姿を度々目にしていました。
スペンサーが5歳のとき,ある日,家事を手伝っている間に,1歳のファニーが家を出
て行って,行方が分からなくなりました。どこを探しても見つかりません。すると16
歳のクレアが言いました。『お母さん,みんなでお祈りしたら,主がファニーのいる
場所へ連れて行ってくださるわ。』そこで母親と子供たちは一緒に祈りました。祈り
を終えるとゴードンは鶏小屋の裏側へまっすぐに歩いて行きました。そこに置かれて
いた大きな箱の中にファニーが眠っていました。母親のオリーブは『わたしたちは天
のお父様に何度も何度も感謝しました。その晩ずっと,わたしたちは感謝すること以
外に何も考えられませんでした』と日記に記しました。また,あるとき馬たちが突然,
街道をサフォードに向かって駆け出したとき,オリーブはだれかにけがをさせるので
はないか,馬車が壊れてしまうのではないかととても不安になりました。『わたした
ちは大きな恐怖に襲われました。けれども主はわたしの心の祈りを聞いてくださいま
した。馬を止めることができたのです。やさしい天のお父様に感謝します。
』
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
163
同じ年のある日の午後のこと,スペンサーは土ぼこりの舞う道を母と一緒にズンデル
ビショップの家に向かって歩いていました。
『何しに行くの』
とスペンサーが尋ねました。
母は什分の一の卵を持って行くと答えました。
『什分の一の卵はほかの卵と違うの。』す
るとオリーブはスペンサーが卵を集めるときに10個の中からどのように1個の卵を分けて
おくかを思い出すように言いました。そして,なぜそうするかを説明しました。一つは天の
お父様のもので,9個が自分たちのものになることを。そのときから,卵を集める作業は
新しい意味を持つようになりました。干し草を収穫する間,アンドリューは朝食時に息子
たちにこう言ったものでした。
『いちばん良い干し草は畑の西側にあるから,いっぱいに
高く積み上げて,什分の一用の小屋へ運びなさい。』」
(エドワード・L・キンボール,アンド
リュー・E・キンボール共著,Spencer W. Kimball: Twelfth President of The Church of
,31)
Jesus Christ of Latter-day Saints〔1977年〕
次の質問をします。このキンボール家の物語から,今日の家族にとって価値のあるどの
ような原則を見いだせるでしょうか。
教師用手引きの169ページから2本の木の絵を見せます。スペンサーは11歳のときに母オ
リーブ・キンボールを,29歳のときに父アンドリュー・キンボールを亡くしましたが,両
親の愛,模範,福音の教えはスペンサーの生活において堅固な基盤となっていたことを生
徒に話します。スペンサー・W・キンボール大管長が語った以下の言葉を読んで,話し合
います。
「わたしたちの中にも……実をならせるために根を張らす努力をせずに,霊的にも
物質的にも豊かな収穫を得たいと願っている人たちがいるようです。鍛錬と労働を通
して進んで代価を払って丈夫な根を育てようとしないのです。人の育成は若いうちに
始めなければなりません。わたしは少年のころ,毎日庭の手入れをしたり,家畜にえ
まき
さをやったり,水をくみに行ったり,薪を割ったり,垣根を修理したりしました。こ
のような小さい農場の仕事が,丈夫な根を張るために重要な役割を果たしていること
を当時はよく分かっていませんでした。それを知ったのは,後に枝を伸ばす時期を迎
えてからのことでした。わたしは両親が枝と根の関係を理解していたことに深く感謝
しています。
」
(
「福祉活動の労働のもたらす祝福」
『聖徒の道』1979年2月号,124)
以下の質問をします。
• キンボール大管長は,根と枝の間にはどのような関係があると述べていますか。
• 福音の原則における根の強さはどのようにして測ることができるでしょうか。
スペンサーは忠実を貫くことを決意した
生徒に各自が教会員として何代目に当たるか尋ねます。(最近教会に入った生徒もいれば,
5代目か6代目の教会員もいるでしょう)。次の質問をします。あなたの先祖が教会員だっ
た場合,あなたの信仰は先祖の信仰と同じくらい強いと思いますか。なぜそう思いますか,
またはなぜそう思いませんか。
スペンサー・W・キンボールは3代目の教会員だったことを生徒に話します(初代――ヒ
ーバー・C・キンボール,2代目――アンドリュー・キンボール,3代目――スペンサー・
W・キンボール)。スペンサーは少年のころ,預言者ジョセフ・スミスを直接知っていた
教会員を何人か知っていました。次の文を読みます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
164
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
「サッチャーはモルモンの町でした。毎年7月24日には,1847年に聖徒たちがソル
トレーク盆地に初めて到着したことを記念する『開拓者の日』記念祭が行われました。
人々はインディアンの衣装,爆竹,手車,旗,ボンネット帽子を持ち出してきて,恒
例のパレードに参加しました。そして,サッチャーの集会所で開かれる記念式典では,
預言者ジョセフを見たことのある人々が壇上に着席しました。スペンサーが11歳のと
きにはまだ7人いましたが,年々その数は減っていきました。
」(キンボール,キンボ
ール共著,Spencer W. Kimball,29)
当時十二使徒定員会会員だったスペンサー・W・キンボール長老が幼いころの生活を思
い出して語った以下の経験を紹介します。
「わたしは幼かったころ,心を大きく揺さぶられるような困難な出来事に遭いまし
た。だれから,どのような状況の下でその言葉を告げられたかは憶えていません。青
へきれき
天の霹靂のような衝撃だったことは記憶しています。それはだれかがこう主張したの
です。
『「モルモン教会」は最初の二世代は自己の信念を固守してきました。しかし第三世
代,第四世代ではどうなるでしょうか。第一世代は新しい宗教に感動を覚え,その発
展に大いなる熱意を注ぎました。憎悪,敵意に満ちた中傷,「次から次へ」と襲う迫
害に取り囲まれた彼らは,生き残るために結束しなければなりませんでした。信奉す
る大義のために生きそして死ぬ気持ちに駆り立てるに十分な根拠を持っていました。
第二世代は熱意にあふれて献身した人たちの子供として生まれました。大いなる信
仰を築き上げ,信じる宗教のために苦難と犠牲に鍛えられた男女のもとに生まれまし
けいけん
た。親からの受け継ぎを持ち,敬虔な家庭で育ち,忠実さを身に付けました。自分た
ちを支えてくれる力と信仰が豊かにありました。
けれども第三,第四の世代では,どうなることでしょうか』と皮肉たっぷりな声が
聞こえます。『最初の熱意は冷めました。献身的な思いは弱まり,犠牲の精神がなく
なり,世の影響に覆われ,取り囲まれ,阻まれています。信仰は使い果たされ,宗教
的情熱が薄らいでしまったのです。
』
その日,わたしは自分が第三の世代であることに気づきました。その日,わたしは
決心しました。わたしはこぶしを固く握りしめ,不吉な言葉を実現させない『第三の
世代』になることを固く決意しました。
」
(Conference Report,1969年10月,18−19)
以下の質問をします。
こんにち
• 今日の教会員は献身,信仰,犠牲をどのように表しているでしょうか。
• 世の中とかかわりを持ちながらも,信仰を弱めないようにするにはどうすればよいで
しょうか。
スペンサーは熱心に努力して学んだ
生徒に自分の目標について考えるように言います。スペンサー・W・キンボールは14歳の
ときに,教会指導者の勧告に従って聖文を読むことを決意しました。生徒用手引きから
「スペンサーは少年時代に聖書を読むことについて目標を立てた」
(199ページ)を復習しま
す。次の質問をします。少年時代から聖文に関心を持ったことは,彼の将来の召しにとっ
てどのように備えとなったでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
165
生徒に,これまでの人生の中で,決断をしなければならない機会が訪れたときのことを
考えさせます。以下の文章を紹介します。
「1910年,スペンサーは8学年を修了しようとしていたときに,サッチャーのLDS
アカデミーへ進学することについて考え始めました。2階建ての大きな建物で,多少
の威圧感がありました。卒業時期を間近に控えていた生徒たちは互いにこう尋ねまし
た。『アカデミーへ行くつもり?』ほとんどの生徒は進学しない予定でした。結婚や
就職の予定の生徒もいましたし,進学するお金のない生徒もいました。しかし,スペ
ンサーと数人の生徒は『勇敢にも,高校へ進学することを決意していました。』」(キ
ンボール,キンボール共著,Spencer W. Kimball,59)
生徒用手引きから「スペンサーは学業とスポーツで優秀な成績を残した」(199−200ペ
ージ)を読んでから,スペンサーは進学の決意により人生でどのような祝福を受けたかに
ついて話し合います。.
スペンサーは高校の卒業式で自分が宣教師に召されることを知った
帰還宣教師に,召しを受けた日のことを話してもらいます。その日のためにどのような準
備をしていたか,召しを受けたときにどのように感じたか,召しの手紙を開いたときにだ
れが一緒にいたかを説明するよう勧めます。スペンサー・W・キンボールが伝道に出るこ
とを知ったときに経験した以下の話を紹介します。
「1914年にスペンサーは,卒業式に出席しました。秋になったらクラスのほかの何
人かと一緒にアリゾナ大学に通うことを考えていました。卒業式で,スペンサーはク
ラスの代表として答辞を述べ,カルテットのメンバーとして歌い,さらに『静かな平
原』
(The Plains of Peace)のバリトン独唱を行いました。教育委員長を務めていた
アンドリュー・キンボール〔スペンサーの父親〕が祝辞を述べました。その話の中で,
スペンサーがその年の秋に大学へ行かずに,伝道に行くと言いました。同級生のリ
ラ・ユードルはそのときのことを思い出してこう話しました。『わたしはスペンサー
が気絶すると思いました。
』スペンサーは日記の中にもう少し穏やかな表現を使って,
受けたショックについてこう記しました。『父は卒業式の中で,出席者全員の前でわ
たしが伝道に召されることを発表した。わたしは大学へ行く計画を立てていたので,
この発表には驚いた。』けれども,スペンサーは召しを受けるつもりでした。伝道に
出ることについて異議はありませんでした。ただ,不意に召しがやって来ただけでし
た。
卒業式から4日後に,彼は西へ80マイル(130キロ)離れたグローブで働いていまし
た。そこで働くことは以前から決まっていました。2年前の夏以来,父は財政的に困
難な状態に陥っていました。このため,スペンサーは父の紹介で,食事と住居代込み
の月47ドル50セントの給料で,アンダーソン・ブレイク酪農場で働いていたのでした。
2年目と3年目の夏はグローブのほかの酪農場で働いて,月に62ドル50セントの給料を
もらいました。什分の一と『たまにぜいたくを楽しんだ』5セントのアイスクリーム
とチョコレートバーを除いた全額を,冬季にギラアカデミーで必要となる書籍代,衣
類,小遣いに充てるため,貯金していました。けれども今やそのお金は伝道資金とな
るのです。
」
(キンボール,キンボール共著,Spencer W. Kimball,68−69)
以下の質問をします。
• スペンサー・W・キンボールの模範によると,経済的な自立によってどのように生活
の安定と安心感がもたらされるでしょうか。
• 経済的な自立は,福音にあって奉仕するためにどのように役立つでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
• 進んで伝道に行くスペンサー・W・キンボールの姿勢から,どのようなことを学べる
でしょうか。
スペンサーは献身的な宣教師だった
生徒用手引きから「スペンサーは献身的な宣教師だった」(200−201ページ)を復習しま
す。次の質問をします。キンボール長老の任地がスイス・ドイツ伝道部から合衆国の伝道
部に変更されたのはなぜでしょうか。
キンボール長老は伝道の初期にさまざまな問題に出遭ったため,少し落胆していたこと
を生徒に話します。父親のアンドリュー・キンボールは次のような励ましの手紙を息子に
書き送りました。
「おまえが経験している苦難は末日聖徒として払うべき犠牲のほんの一部であり,
おまえの父や祖父が苦労して歩んできた道の一端を知るのに役立つだろう。雄々しく
立ち向かう精神を持ち続けなさい。耐え切れないほど大きな苦難であると考えてはな
らない。すべては良い方へ向かい,いつの日かおまえの子孫に話して聞かせられるよ
うな経験となるだろう。
」
(キンボール,キンボール共著,Spencer W. Kimball,76)
次の質問をします。福音に従う決意は,苦難や犠牲を経験することによって,どのよう
に強められるでしょうか。
スペンサー・W・キンボールは信仰をもって不確かな時期を生き抜いた
帰還宣教師に,伝道から戻った直後,自分の将来についてどのように考えていたか話して
もらいます。たとえ理想的な状況に置かれているとしても,帰還宣教師は少なからず不安
を抱くことを生徒に話します。スペンサー・W・キンボールは1917年1月,第一次世界大
戦のさなかに伝道から戻ったことを説明します。才能豊かな学生だったにもかかわらず,
彼は教育を続けることも職業に就くこともできませんでした。軍隊の召集命令が待ってい
たからです。この間に,スペンサーはカミラ・アイリングに恋をし,二人は1917年11月16
日に結婚しました。1918年11月11日の停戦協定が締結されるまで,スペンサーとカミラは
安定した生活設計を立てることができませんでした。以下の段落を読み,不安定な時期に
あっても大切な決断を下さなければならないことについてスペンサー・W・キンボール大
管長が語った勧告に耳を傾けるように言います。
「皆さんは,自分の仕事や職業,生涯の仕事をまだ選んでいないかもしれません。
しかし,たとえ将来弁護士や医師,教師,技師,その他いずれになるか分からなくて
も,人生の大方のことは定めることができます。すでに下しているべき決断もあり,
また現在下すべき決断もあります。今から結婚までの間に,皆さんは何をしようと計
画しているでしょうか。
」
(
「目標を立て,進歩する」
『聖徒の道』1985年7月号,51)
次の質問をします。あなたは自分の将来にとって極めて大切などのような決断を今すべ
きでしょうか。
スペンサー・W・キンボールは若いころから指導する機会に恵まれた
生徒用手引きから「指導者として働く機会が使徒職への準備となった」(202−203ページ)
を復習して,スペンサー・W・キンボールの指導力の際立った特徴を見つけるように言い
ます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
167
スペンサーとカミラは主を信じる信仰と互いへの信頼によって人生のチャレンジに立ち
向かった
スペンサーとカミラ・キンボールが受けた最も大きな試練の一つは幼い息子エドワードが
ポリオに感染して,治療のためにカリフォルニアへ運ばれたときだったことを生徒に話し
ます。カミラはカリフォルニアでエドワードの看病に当たり,スペンサーはアリゾナに残
った家族の世話をしました。この時期に,カミラがスペンサーに書き送った1933年11月14
日付けの手紙から以下の抜粋を紹介します。
「あなたがこの手紙を受け取るころにわたしたちの16回目の結婚記念日を迎えます。
結婚記念日に離れ離れになるのは初めてのことですね。これまで何度も言ってきたこ
とだと思いますが,もう一度,わたしがあなたをどれほど愛し,感謝しているかをお
伝えしたいと思います。あなたへの愛と尊敬の気持ちは年々高まっています。別々に
暮らさなければならないことは確かに辛いですが,わたしがどれほどあなたに感謝し
ているかをこれまでになくしみじみと感じています。知り合ってから疑いや不信の念
を一度も抱いたことがないという事実は,わたしたちの結婚生活の真の幸福と安らぎ
が築かれる土台の一つになっていると思います。異性を引きつける魅力やそのほかの
ことが重なり合って完全な一致が生まれるのはもちろんですが,信頼がなければ何も
永続しません。
この問題によって,わたしたちは一時的に離れているとはいえ,気持ちのうえでは
これまで以上に近づいたと感じています。
わたしたちの家族の一致が失われることのないよう,そして近いうちにまた全員が
一緒に暮らせるよういつも神に祈っています。その日に感じる喜びは計り知れないも
のとなるでしょう。
あなたへの想いはつのり,あなたのすばらしい人格から受ける力を切望しています。
これ以上にすばらしく,また偽りのないものはありません。
あなたをひたむきに愛する妻,カミラより。」(キンボール,キンボール共著,
Spencer W. Kimball,140−141)
次の質問をします。スペンサー・W・キンボールの模範から,逆境に立ち向かうために
どのようなことを学べるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き l
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第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
第2部――壮年期,青年期
歴史的背景
1973年にスペンサー・W・キンボールが大管長に召されたとき,教会は630のステーク
と108の伝道部に約330万人の会員を擁し,15の神殿を持っていました( 2003 Church
Almanac 〔2003年〕,473,632参照)。1974年,ワシントンD.C.神殿が奉献されました。
1976年4月3日,二つの啓示(現在,教義と聖約137章と138章となっている)が標準聖典
に加えられました。1978年,公式の宣言二が正式な主の言葉として受け入れられました。
1979年,イリノイ州ノーブーステークが教会の1,000番目のステークとして組織されまし
た。1979年と1981年には,聖典の改訂版が出版されました。キンボール大管長が他界し
た1985年,教会は1,582のステークと188の伝道部に590万人の会員を擁し,37の神殿を持
っていました(2003 Church Almanac〔2003年〕,473,632参照)。
出来事,特筆事項,教え
スペンサー・W・キンボールは使徒に召された
生徒に,教会の奉仕の業の召しを受けて,自分がその召しにふさわしいか疑わしく思った
ことがあるかどうか尋ねます。スペンサー・W・キンボールはヒーバー・J・グラント大
管長の指示の下,J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長によって使徒に召されたとき,
そのような気持ちを抱いたことを生徒に話します。一人の生徒に,生徒用手引きから「ス
けんそん
ペンサー・W・キンボールは召しを通して謙遜になった」(203ページ)を読んでもらいま
す。キンボール長老は自分がふさわしくないという思いを克服するために,どのように主
に頼ったかを見つけるように言います。次の質問をします。主は使徒に召されたキンボー
ル長老をどのようにして強められたでしょうか。
生徒用手引きから
「使徒はキリストの特別な証人である」
(204−205ページ)
を復習します。
スペンサー・W・キンボールはリーハイの子孫を愛した
スペンサー・W・キンボールは祝福師の祝福の中で,リーハイの子孫に影響を及ぼすこと
になると告げられたことを生徒に話します。父親アンドリュー・キンボールは合衆国南西
部のインディアン特別保護区で宣教師として働き,また同地域の伝道部会長を務めました。
スペンサーが成長期を過ごしたアリゾナで,家族はアメリカ先住民と接触する機会が時々
ありました。キンボール長老は使徒に召されてから約3年後に,教会インディアン委員会
委員長に任命されました。ジョージ・アルバート・スミス大管長から,アメリカ先住民の
子孫を支援する召しを受けたのです。キンボール長老は1946年9月13日の日記にこう記し
ています。
「ジョージ・アルバート・スミス大管長から呼ばれて大管長の事務所を訪れた。……わた
したちは伝道部内のナバホ族について語り合った。そして大管長からこう言われた。
『ところで,あなたにインディアンを見守り,助けてほしいと思っています。彼らはこれま
で疎んじられてきました。すべてのインディアンを見守ってください。島々に住んでいるイ
ンディアンを含めて世界中のインディアンを見守り,助ける責任をあなたに引き受けて
もらいたいのです。
』
わたしは全力を尽くして果たすつもりであること,また,この任務は……まさしく
祝福師の祝福の成就であることを大管長にお話しした。……スミス大管長は,この委
員会を指導して,全世界に住むすべてのインディアンのために力強くプログラムを展
開してほしいと言った。」(ボイド・K・パッカー「並の人にあらざるスペンサー・
W・キンボール」
『聖徒の道』1974年7月号,294−295)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
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一人の生徒に,生徒用手引きから「スペンサー・W・キンボールはリーハイの子孫に対
して大きな愛を抱いていた」(203−204ページ)を,声を出して読んでもらいます。以下
の質問をします。
• リーハイの子孫に与えられた約束を成就させるのを助ける責任はだれに与えられてい
るでしょうか。
• キンボール大管長はインディアンのために何をするよう教会員に要請したでしょうか。
• 「養父,養母」になるとはどのような意味だと思いますか。
キンボール長老は父親の模範に従った
スペンサー・W・キンボールの父親アンドリューがアリゾナでステーク会長を務めていた
ときに示した愛と奉仕を物語る以下の文を紹介します。
「仕事や教会,家族の問題を抱えた人々が,父のもとに昼夜を問わず一日中やって
来ました。スペンサーは当時を振り返ってこう話しました。『わたしたちが干し草を
積み上げている農場へ彼らはやって来ました。乳絞りをしている牛舎にも,朝食の前
に庭や花畑で作業をしているときにもやって来て,いつも祝福を受けて帰って行きま
した。』キンボール家の食事はアンドリューが戻って来るまで待たなければならない
ことがしばしばありました。アンドリューは問題を抱えた人々を助けるためにフロッ
クコートの内ポケットにハンカチを2枚入れておくようになりました。1枚は自分のた
め,ほかの1枚は相談に来た人のためでした。」(エドワード・L・キンボール,アン
ドリュー・E・キンボール・ジュニア共著,Spencer W. Kimball: Twelfth President of
,24)
The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints〔1977年〕
「似た者親子」ということわざがあることを生徒に告げます。(黒板に書き出す。)十二
使徒定員会会員だったニール・A・マックスウェル長老がスペンサー・W・キンボール大
管長について語った以下の言葉から,親(アンドリュー)と子(スペンサー)の間に見ら
れる共通点を見つけるように言います。
「家や病院にいる病人をしばしば見舞ったことは有名でした。開胸手術を受けて精
神的に動揺していたある入院患者は,キンボール大管長の訪問を受けて驚きました。
この兄弟はニコチン中毒でした。彼は『それまでに本数を減らしていましたが,預言
者の手を握った瞬間からタバコに手を出すことはなくなりました』と言っているそう
です。……
険しい悔い改めの道を歩んでいるどれだけ多くの人が,キンボール大管長の執筆し
ゆる
『奇
た『赦しの奇跡』を読んで助けられ,逆境のただ中にいるどれだけ多くの人が,
跡に先駆ける信仰』
(Faith Precedes the Miracle)を読んで心を落ち着かせたかわか
りません。
」
(
“Spencer, the Beloved: Leader-Servant,”Ensign,1985年12月号,13)
生徒が家族から受け継いだ,あるは学んだ優れた特質について考えるように言います。
キンボール長老は教会員に赦しの奇跡について教えた
大管長や十二使徒定員会会員が執筆した有名な書物を3,4冊見せます(『キリスト・イエ
ス』,『不思議な驚くべきわざ』など)。スペンサー・W・キンボールは同僚たちの執筆に
よる,福音を中心とした書物が教会員をどれほど祝福したかを認め,感謝していたことを
生徒に話します。キンボール長老は書物の執筆については自分よりも才能に恵まれたほか
の人々に任せておこうと考えていました。キンボール長老は十二使徒定員会会員を務めて
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
いた間に,膨大な時間を費やして,悔い改める必要があることに気づいた人々を面接し,
励まし,助言を与えました。以下の文を読みます。
「悔い改めと赦しを大いに必要とする人々と接したこれらの経験は,最終的に書物
の執筆へと発展していきました。キンボール長老はまず人々が研究すべき聖文を書き
出し,次に繰り返し起きる問題の一覧を作りました。キンボール長老は1959年までに,
教会における『悔い改めに関する詳しい研究書』の必要性があるとの結論に達しまし
た。それからの10年間,中央幹部に特別な割り当てがなく,休息を取る期間として与
えられていた夏季やクリスマスの時期に,キンボール長老は多くの時間をこの作業に
充てました。執筆のために通常の務めをおろそかにすることはありませんでした。執
筆は余暇の活動でした。
」
(キンボール,キンボール共著,Spencer W. Kimball,383−
384)
あわ
もし入手できれば,
『赦しの奇跡』を見せて,この書物を読んだ多くの人々が憐れみにあ
ふれる主の赦しを受けたことを話します。
スペンサー・W・キンボールは第12代大管長に召された
多くの教会員はハロルド・B・リー大管長が比較的若かったため(70代前半)
,リー大管長
の管理は長く続くと考えていたことを生徒に話します。けれどもリー大管長が早く世を去
ったことに教会員は驚き,ショックを受けました。1973年12月に起きた予想外の変動につ
いてニール・A・マックスウェル長老が語った以下の言葉を読みます。
「末日の他の預言者はほとんどの場合,管理者としての役割を担うことを教会員の
間で予期されていましたが,スペンサー・W・キンボールが大管長になったのはほと
んどの人が予期していない突然のことでした。しかしながら,完全な権能の衣は素早
くスペンサー・W・キンボールにかけられたのです。
」
(Ensign,1985年12月号,10)
次の質問をします。マックスウェル長老はどのような意味で「完全な権能の衣は素早くスペン
サー・W・キンボールにかけられた」
と語ったと思いますか(列王下2:9−15参照)
。
管理者の交代がどれほど素早く行われたかを生徒に理解させるために以下の記事を読み
ます。ハロルド・B・リー大管長の秘書を務めたD・アーサー・ヘイコックはリー大管長
の死後の出来事をこう語りました。
「この悲しい出来事の中で……わたしは神権と教会の管理について基本的で非常に
重要な教訓を学びました。……〔マリオン・G・〕ロムニー管長は大管長会の一員であり,
キンボール会長は十二使徒定員会の会長でした。ロムニー管長が〔リー大管長が亡くな
る前,病院に〕到着するとすぐに,キンボール会長は彼に向かってこう言いました。
『ロム
ニー管長,わたしは何をしたらよいでしょうか。
』そのときは,祈って待つしか,だれもほと
んど何もできない状態でした。しばらくして,医師がやって来ました。そしてリー大管長
が亡くなったという恐ろしい知らせを伝えました。その瞬間に大管長会が解散され,権
能の衣がキンボール会長にかけられたことを知ったロムニー管長は,キンボール会長に
向かってこう言いました。
『キンボール会長,わたしは何をしたらよいでしょうか。』
(“No
Ordinary Man,
”New Era,1982年12月号,14)
リー大管長の葬儀でスペンサー・W・キンボール大管長が語った次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
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「リー大管長は次の世界へ旅立ちました。このようなことが起きるとは考えていま
せんでした。そのようなことが起きないように心から願っていました。カミラとわた
しほど,リー大管長の長寿と幸せを熱心にまたいつも祈ってきた教会員はいないので
はないかと思います。わたしに功名心はありません。わたしはリー兄弟より4歳年上
です(二人ともまったく同じ誕生日,3月28日でした)
。わたしは彼よりもずっと前に
次の世へ行くと思っていました。わたしの心はリー大管長をしのんで泣いています。
わたしたちはリー大管長をどれほど愛していたことでしょうか!」
(
“A Giant of a
Man,
”Ensign,1974年2月号,86)
主はキンボール大管長の健康と強さを回復された
いんとう
がん
全員に,生徒用手引きから「キンボール長老は咽頭と声帯の癌に侵された」(205ページ)
を読むように言います。1972年に,医師たちは当時十二使徒定員会会長代理を務めていた
スペンサー・W・キンボール長老に対して,以前の心臓発作によって受けた損傷部分を治
すために開胸手術を受けるよう勧めました。キンボール長老は長期にわたって抱えてきた
健康上の問題と衰弱した状態についてよく考えた末に,大管長会に助言を求めました。以
下の記事を紹介します。
「勧められた手術を受けるかどうかを検討していたときのことです。それは1972年
に起きた,感動的で厳粛なエピソードです。ラッセル・M・ネルソン長老(当時,心
臓外科医)はその劇的な瞬間をこう説明しました。
『3月に,わたしはキンボール長老夫妻と大管長会が集まっている席に呼ばれまし
た。キンボール長老はこう言いました。「わたしは年老いています。いつでも死ぬ覚
悟ができています。もっと若い人が定員会に入って,わたしにはもはやできなくなっ
た務めを果たす時が来ました。」リー大管長はそれを遮って,こぶしで机を叩くと,
こう言いました。「スペンサー,あなたは死ぬためではなく,生きるために召された
のですよ。
」するとキンボール長老は謙遜にその言葉に従って言いました。
「それなら,
手術を受けます。
」キンボール姉妹は泣いていました。決断が下されたのです。
』
」
(ニ
ール・A・マックスウェル,Ensign,1985年12月号,10)
キンボール長老はこの手術を受けてから長い年月を生きたことを生徒に話します。2年
後に大管長に召されたとき,主はキンボール大管長の健康と強さを回復されました。そし
てキンボール大管長は権能と権威を持つ者として教えました。スペンサー・W・キンボー
ルが大管長となって間もなく,教会指導者との集会で起きたことについて,七十人のウィ
リアム・グラント・バンガーター長老が語った以下の話を読みます。
「大管長が語り始めて間もなく,会衆は急に新しい世界が開かれたように感じまし
みたま
た。わたしたちは強い御霊の訪れに驚きました。これまでの集会とは違う特別な力強
い言葉が聞こえてきたのです。わたしたちの霊が震えるような強烈な感動を受けまし
た。耳に響いてくるこの世を超越したメッセージに,わたしたちは驚嘆し,心に生気
があふれてきました。新しい視界が開け,キンボール大管長が霊の窓を開き,永遠の
計画を一緒に見るようわたしたちを招いているのが分かりました。それはあたかも大
管長が,全能者の目的を覆い隠している幕を開けて,福音の行く末と福音の教えのビ
ジョンを一緒に見るように,わたしたちを招いているかのようでした。」(「教会史上
に残る特別な日」
『聖徒の道』1978年2月号,38)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
174
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
御自分の預言者と,主に仕え,戒めを守るすべての人に,主が新たな生命力を与えられ
あかし
ることについて,あなたの証を述べます。
キンボール大管長はこの世の富を愛することについて警告した
全員に,生徒用手引きから「この世の富を愛することについて警告した」(206−207ペー
ジ)を読むように言います。この世の物は究極的にはだれの物かについてキンボール長老
が問いかけたことに注目させます。それから次の質問をします。キンボール長老によれば,
主はわたしたちに下さった物をどのように使うことを望んでおられるでしょうか。
の
キンボール大管長は福音を宣べ伝えるよう教会員に強く求めた
一人の生徒に,マタイ28:19−20を読んでもらいます。それから次の質問をします。この
戒めは回復された教会に対してどのように当てはまるでしょうか。
バンガーター長老が述べた上記の集会で,スペンサー・W・キンボール大管長は福音を
分かち合う教会員の責任について教え,「歩幅を広げる」よう勧告したことを生徒に話し
ます。当時十二使徒定員会会長だったエズラ・タフト・ベンソン会長はキンボール大管長
の話を聞いてこう語りました。
「キンボール大管長,わたしたちはこのすばらしい話を聞くことができて感動して
います。わたしたちは,今だかつてこのようなセミナーで語られた話の中で,これほ
どすばらしく,時宜にかなった話を聞いたことがないと申し上げて差し支えないと思
います。……わたしたちは皆,声をそろえて申し上げます。あなたに神の祝福があり
ますように,またあなたに感謝しております。今朝このメッセージを聞いたわたした
ちは申し上げます。まさしくここにイスラエルの預言者がおられます。」(ニール・
A・マックスウェル,Ensign,1985年12月号,10)
生徒用手引きから「『この世が改心するとき』」(208ページ)を読み,キンボール大管長
がマタイ28:19−20をどのように現代に当てはめているかを見つけるように言います。そ
れから以下の質問をします。
• 教会員がキンボール大管長の勧告に従ったことについて,どのような証拠が見られる
でしょうか。(ステークの数が9年間で2倍に増えた。多くの国々で新たに福音が宣べ
伝えられるようになった。全世界で成長を続ける教会の必要を満たすために新しく神
殿が建設された。)
• 福音を分かち合うというこの戒めを守るためにあなたは何を実行しているでしょうか。
能力のあるふさわしい若者は皆,伝道に出るべきである
幾らかのお金を見せて,スペンサー・W・キンボール大管長の話と伝道活動にお金がどの
ように結びついているか生徒に尋ねます。キンボール大管長は世界中の会員たちを訪れた
とき,時々少年たちにお金を渡して,伝道のための貯金を始めるよう奨励したことを生徒
に話します。キンボール大管長は全世界の聖徒に対してしばしば,息子を伝道に送り出す
ことの大切さについて教え,こう明言しました。「能力のあるふさわしい末日聖徒の若者
は皆,伝道に出るべきです。」(Conference Report,1974年4月,126。または Ensign,
1974年5月号,87)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
175
スペンサー・W・キンボール大管長が語った以下の話を読んで話し合います。
「究極の目的を心に抱いて,ずっと以前から心に決めていれば,正しい決断を下す
ことはいたって簡単です。疲れていて,大きな誘惑にさらされるようなときがあって
も,このような準備をしていれば,選択に迷って悩み苦しむことはないのです。……
伝道に出ることを早くから決意しておけば,伝道かスポーツの奨学金か選択を迫ら
れても,決心は揺らぎません。神殿結婚することを決意していれば,その目標を持っ
ひ
ていないボーイフレンドやガールフレンドに心を惹かれるときがあっても迷いませ
ん。どのようなときにも正直であると心に決めておくなら,店員からおつりを多く手
渡されても,動じません。違法な薬物に手を出さないと決意しておけば,親しい友達
おくびょう
から臆病だとか,信心深いとからかわれることがあっても,心を動かすことはありま
せん。御父と永遠に生活することに結び付かないことをすべて退けるよう決意する時
は今です。このように,究極の目標を達成するために何物にも妨げさせないと決意す
ることは,わたしたちのあらゆる選択に影響を及ぼすのです。」( Teachings of
,164−165)
Spencer W. Kimball,エドワード・L・キンボール編〔1982年〕
次の質問をします。キンボール大管長によれば,教会員はなぜ若いときに伝道に出るこ
とを決意する必要があるのでしょうか。
神権と神殿の祝福が教会のすべてのふさわしい会員に差し伸べられた
一人の生徒に,生徒用手引きから「『すべての忠実でふさわしい教会の男性は聖なる神権
を受けることができる』」(212−213ページ)を,声を出して読んでもらいます。次の質問
をします。この啓示は福音が全世界へ広まることにどのような影響を与えたでしょうか。
公式の宣言二を読んで聞かせるとよいでしょう。この宣言に関連してスペンサー・W・
キンボール大管長が深く考え,祈ったことに注目します。
聖典の改訂版が完成した
一人の生徒に,エゼキエル37:15−17と2ニーファイ3:12を,声を出して読んでもらいま
す。次に,以下の質問をします。
• ヨセフの木とユダの木はそれぞれ何を表しているでしょうか。
• これらはどのように成長して,一つになったでしょうか。
もしあなたの言語で聖書の末日聖徒版と合本を入手できれば,それらを見せて,キンボ
ール大管長の時代に完成したことを生徒に話します。キンボール大管長はトーマス・S・
モンソン長老,ボイド・K・パッカー長老,ブルース・R・マッコンキー長老を十二使徒
定員会聖典出版委員会のメンバーに任命し,「全教会の教義的研究の改善を図るために」
聖典の新しい版の形態を定める責任を与えました(ブルース・T・ハーパー“The Church
Publishes a New Triple Combination,
”Ensign,1981年10月号,9)この大事業は1979年
に聖書の末日聖徒英語版,1981年に合本(英語)の出版をもって完成しました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
176
第 1 2 章 ―― ス ペ ン サ ー ・ W ・ キ ン ボ ー ル
ボイド・K・パッカー長老が語った以下の言葉を紹介します。
「ユダの木すなわちユダの記録(新旧約聖書)
,それにエフライムの木すなわちエフ
ライムの記録(モルモン書――イエス・キリストについてのもう一つの証)はこのよ
うな過程を経て一つに合わせられたのです。一方を熟読すれば,他方も読みたくなり,
一方から学べば,他方からも啓発されます。2本の木は,ほんとうにわたしたちの手
の中で一つになりました。こうして今日,エゼキエルの預言が成就したのです。
みこころ
年月を経るにしたがって,これらの聖典は,主イエス・キリストを知って主の御心
に従う忠実なクリスチャンを代々生み出すでしょう。
古き世代の人々は,これらの聖典を知らずに育ちました。しかし,次の世代の人々
が成長しており,彼らには歴史上かつてだれも目にし得なかった啓示が開かれます。
今や,ヨセフの木とユダの木が彼らの手に置かれました。彼らには,過去の人々には
あかし
できなかった福音の研究ができるのです。彼らはイエスがキリストであるという証を
持ち,主を宣言し擁護する力を持つようになるでしょう。
」
(
「聖典」
『聖徒の道』1983
年1月号,92−93)
み こ と ば
次の質問をします。わたしたちが主の御言葉を理解するうえで,これらの聖典はどのよ
うに助けとなっているでしょうか。(充実した章の前書きと脚注,聖句ガイド,改訂され
た地図,など。
)
二つの啓示が教会の標準聖典に加えられた
合本を見せて,スペンサー・W・キンボール大管長が管理した時代にどのような啓示が標
準聖典に付け加えられたか尋ねます。教義と聖約第137章と第138章は最も新しく聖文とし
て認められた啓示であり,公式の宣言二は一つの啓示についての声明であることを生徒に
話します。
ボイド・K・パッカー長老が語った以下の言葉を紹介します。
「聖典出版事業の非常に直接的な成果として,教義と聖約の中に新しい啓示が二つ
加えられました。このようなことは,100年以上もなかったことでした。それに,こ
の作業が終わらないうちに,神権に関する栄光ある啓示が与えられ,この時満ちる神
権時代に主が聖徒たちにお与えになったその他のすべての啓示に加えられ,合本とな
るよう間に合ったのです。
」
(
「聖典」
『聖徒の道』1983年1月号,93)
教義と聖約第137章と第138章は死者の救いに関する教義を聖文に基づき明確にしている
ことを生徒に話します。主は教義と聖約137:7の中で,「この福音を知らずに死んだ者で,
もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆,神の日の栄えの王
国を受け継ぐ者となる」ことを教えておられます。教義と聖約第138章では,主は死と復
活の間に霊界で伝道の業を組織されたことが明らかにされています。
締めくくりとして,スペンサー・W・キンボール大管長について,またキンボール大管
長が教会に対して果たした大きな貢献は世界中の会員たちに現在も影響を及ぼしているこ
とについて,あなたの証を述べます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
177
第13章
エズラ・タフト・ベンソン
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第13代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
178
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
そ う そ ふ
エズラ・タフト・ベンソン大管長の曽祖父であるエズラ・T・ベンソンは,預言者ジョ
セフ・スミスの死後,十二使徒定員会に召された最初の使徒であり,最初の開拓者隊に加
わって,1847年7月24日にソルトレーク盆地に入りました。エズラ・タフト・ベンソンの
祖父であるジョージ・T・ベンソンは1846年にアイオワ州ガーデングローブで生まれまし
た。ジョージ・T・ベンソンの息子ジョージ・T・ベンソン・ジュニアがエズラ・タフ
ト・ベンソンの父に当たります。エズラ・タフト・ベンソン大管長はこの力強い開拓者の
受け継ぎに,主への奉仕と献身という自らの遺産を付け加えたのです。
1899年8月4日,アイダホ州ホイットニーでエズラ・タフト・ベンソンが誕生したとき,ハロルド・
B・リーは生後まだ数か月であり,スペンサー・W・キンボールは4歳でした。当時の大管長は
ロレンゾ・スノーでした。6年前にソルトレーク神殿が奉献され,ユタは3年前に州に昇格した
ばかりでした。
出来事,特筆事項,教え
エズラ・タフト・ベンソンは神権の祝福によって命を助けられた
エズラ・タフト・ベンソンはアイダホ州南部の小さな農村で生まれました。出産について
家族が心配していたことを生徒に説明してください。難産であったため,医師には赤ん坊
が生き延びられるとは思えませんでした。エズラの命が助かったのは,父から受けた神権
の祝福と祖母の霊感あふれる行為のおかげでした。以下の話を紹介します。
「ベンソン大管長は1899年8月4日,アイダホ州ホイットニーでジョージ・T・ベン
ソン・ジュニアとサラ・ダンクレー・ベンソンを両親として誕生しました。彼は11人
きょうだいの中で最初に生まれた子供でした。
ひんし
エズラは瀕死の状態で誕生しました。医師は母親の命を助ける努力はするけれども,
子供の命の助かる見込みはほとんどないと言いました。
けれどもベンソン大管長自身が説明したように,『父の信仰,神権の儀式,それに
冷たい水とお湯の入ったたらいに交互にわたしを浸してくれた二人の祖母の迅速な行
動,これらが力強い産声を上げさせ,出産を手伝ってくれたすべての人に大きな喜び
をもたらしました。
』
」
(マーク・E・ピーターセン「エズラ・タフト・ベンソン――高
潔の人」
『聖徒の道』1975年5月号,202)
あつ
両親は信仰篤く有能な人だった
生徒用手引きから「エズラ・タフト・ベンソンはすばらしい家族の中で育てられた」(217
ページ)を復習して,ベンソン家の特質と習慣を黒板に書き出します。以下の質問をしま
す。
• あなたはベンソン家のどのような特質と習慣を自分の家庭にも取り入れたいと思いま
すか。
• ベンソン家において家族が一致するために,レクリエーションはどのように役立って
いたでしょうか。
エズラ・タフト・ベンソンは自分の両親の努力を理解し,感謝していたこと,愛と思い
やりにあふれる家庭に感謝を表していたことを生徒に話します。後にベンソン大管長はこ
う教えました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
179
「わたしたちをこの世に誕生させてくれた両親は尊敬に値します。さらに,幼少期
を通してわたしたちを養い育て,ほとんどいつも計り知れない犠牲を払ってくれまし
た。また,生活に必要なものを与え,病気のときや悩み多き成長期に,わたしたちを
看病し慰めてくれました。また多くの場合,両親はわたしたちに教育の機会を与え,
また自ら教えてくれることもありました。わたしたちは多くを両親の模範から学んだ
のです。両親に対して常に感謝し,その気持ちを示すことができますように。」(「教
会の高齢の方々へ」
『聖徒の道』1990年1月号,6)
エズラの父は息子に大きな影響を与えた
以下の話を紹介します。
「少年時代に『T』というニックネームで呼ばれていたエズラは歩けるようになっ
てからはずっと,父親が何をするときも一緒に行動しました。馬に乗るとき,畑で働
くとき,馬車を駆って集会に出席するとき,ボール遊びをしたり,小川で泳いだりす
るとき,いつも一緒でした。エズラ・T・ベンソンの初めてのひ孫だった彼は,生ま
れながらにして曾祖父から豊かな受け継ぎを受けていました。しかし,そのような受
け継ぎは,心から敬愛する父親からも与えられ,幼いころから自分の血筋に対して深
い安心感と誇りを抱いていました。後にジョージ・T・ベンソン・ジュニアが他界し
たときに,ホイットニーに住む少数のモルモンでない人々の一人がこう語ったのをジ
きょう
ョージの長男は耳にしました。『今日わたしたちはキャッシュバレーで最も偉大な影
響力を持つ人物を失った。』言うまでもなく,ジョージ・ベンソンは自分の長男の生
活に対しても力強い影響を及ぼしたのです。」(シェリー・L・デュー,Ezra Taft
,14)
Benson: A Biography〔1987年〕
次の質問をします。子孫に良い影響を及ぼすために,あなたはどのようなことができる
でしょうか。
誠実なホームティーチャーがベンソン家族を力づけた
幼いころから教会員だった生徒に,ホームティーチャーから受けた訪問について,幼いこ
ろの思い出を話してもらいます。両親の家庭を訪れたホームティーチャーの思い出を語っ
たエズラ・タフト・ベンソン大管長の以下の話を紹介します。
「わたしたちは,ホームティーチャーが毎月来ると知っていました。来なかった月
を思い出すことができません。訪問はいつもすばらしいものでした。ふたりはいすの
後ろに立って,家族に話しました。そして輪になって座っている子供たち一人一人に
近づき,元気でやっているか,自分の務めを果たしているか尋ねるのでした。わたし
たちが正しく答えられるように,ときどき母や父がワード〔ホーム〕ティーチャーの
来る前に準備をさせてくれたものです。それはわたしたち家族にとって貴重な時間で
した。彼らは常にメッセージを携えてきて,それらは必ず役立つものでした。
ホイットニーでのこうした初期の時代から,ホームティーチングはかなり改善され
てきました。しかし基本的な点では今なお変わっていません。そこには同じ原則が見
みたま
られます。思いやりを示し,手を差し伸べ,御霊によって教え,毎月大切なメッセー
ジを伝え,家族の一人一人に愛と関心を寄せることです。
」(「教会のホームティーチ
ャーへ」
『聖徒の道』1987年7月号,56)
一人の生徒に,ホームティーチャーまたは訪問教師としての個人的な良い経験を話して
もらいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
180
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
エズラの父は伝道に召された
エズラ・タフト・ベンソンが12歳のとき,祖父のジョージ・T・ベンソン・シニアビショッ
プは息子のジョージ・T・ベンソン・ジュニア(エズラの父)が宣教師として奉仕するよ
う会衆の前に提議しました。後にベンソン大管長はこの出来事と,父親が伝道に召された
ことによって家庭にもたらされた祝福についてこう語りました。
「信仰をどのように示すかについて考えると,必ず父の模範が思い浮かんできます。ど
のようにしてわたしの生活に伝道の精神が満ちるようになったのかはっきりと思い出すこ
とができます。父が伝道の召しを受けたのは,わたしが13歳のころでした。……
〔集会から〕家に帰る途中,手綱を取る父のわきで母が封筒を開けました。すると,
驚いたことに,ソルトレーク・シティーの伝道管理部からの手紙でした。伝道の召し
が来たのです。準備はできているのか,意志はあるのか,能力はあるのかといったこ
とはだれも尋ねませんでした。それは当然ビショップが知っているはずのことでした。
ビショップはわたしの祖父ジョージ・T・ベンソン,つまりわたしの父の父だったの
です。
父と母は馬車の上で泣きながら,庭に入って来ました。それは,これまでわたした
ちが家族の中で見たことのない光景でした。当時7人いた子供全員が馬車に駆け寄り,
周りを囲んで,
『どうしたの』と尋ねました。
『何でもないよ』と両親は言いました。
『じゃあ,なぜ泣いているの』とわたしたちは聞きました。
『居間へおいで。説明してあげるから。
』
わたしたちが,居間の古いソファの周りに集まると,父は伝道の召しが来たことを
話してくれました。すると母が言いました。『お父さんが伝道に出るのにふさわしい
と認められて,誇りに思っているわ。二人とも少し泣いたけれど,それは2年間お父
さんと会えないからなの。お父さんとお母さんは,結婚以来,2日以上離れたことが
なかったんですものね。それはお父さんが,材木やくい,まきを取りに山へ行くとき
ぐらいだったわ。
』
こうして父は伝道に出ました。そのときわたしは,父の決意の深さがどれほどのも
のであったのか,あまりよく分かりませんでしたが,今では,父が進んでこの召しを
受け入れたということは,大きな信仰の表れだったことがよく分かるようになりまし
た。神権者は皆老若を問わず,そのような信仰を育てていくべきでしょう。
」(「神の
性質」
『聖徒の道』1987年1月号,51−52)
「わたしは教会の偉大な伝道プログラムに感謝しています。わたしの父には,11人
の子供がいました。そして,一人残らず伝道に出ました。わたしの妻も帰還宣教師で,
最後の半年間は,夫に先立たれた母親と一緒に伝道する機会に恵まれました。長男の
わたしは,父が伝道中にアメリカ中西部の伝道地から送ってくれた手紙を今でもよく
覚えています。それによって,わたしの家庭は伝道の精神に満たされ,それが失われ
ることは決してありませんでした。そのことに心から感謝しています。
」(「福音を分
かち合う責任」
『聖徒の道』1985年7月号,8参照)
次の質問をします。家族が伝道の精神を代々受け継ぐにはどうすればよいでしょうか。
エズラ・タフト・ベンソンは非難を乗り越える方法を学んだ
生徒用手引きから「エズラ・タフト・ベンソンは学校での経験から多くのことを学んだ」
(218ページ)を復習します。以下について話し合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
181
• エズラ・タフト・ベンソンは曇りのない良心を持っていたことが,不当な非難を乗り
越えるうえでどのように役立ったでしょうか。
• ベンソン大管長が語った「疑問視される行動は,たとえそのようなそぶりすらも慎し
む」こととはどのような意味でしょうか。また,「見た目だけで他人の行動を裁いては
ならない」こととはどのような意味でしょうか。
エズラ・タフト・ベンソンは優れた労働観によって才能を伸ばしていった
エズラ・タフト・ベンソンが語った以下の思い出とその解説を読みます。
「わたしは16歳のときに,近所の人から1エーカー〔0.4ヘクタール〕のビート畑を
間引きする仕事を依頼されました。これは経験豊富な大人でもかなり大変な作業でし
た。腰をかがめて,約8インチ〔20センチ〕の柄のついた刃の広いくわでビートを刈
っていくという重労働です。わたしは夜明けとともに作業を始めました。そして太陽
が沈んだころにはくたくたになりました。しかし1エーカーを間引く作業はすべて終
わりました。雇い主はたいへん驚いた様子でした。後から聞いた話によると,作業に
2,3日かかると思っていたというのです。そこで,5ドル金貨2枚と1ドル銀貨2枚をく
れました。人生であのときほど金持ち気分を味わったことはありません。また,ほか
の大人と同等の体力があることをあれほど強く確信したことはありませんでした。
わたしはほとんどの農家の少年と同じように,農業を成功させる基本は働く意欲と
かぎ
能力にあると信じて成長してきました。勤勉に,また賢明に働くことが鍵です。勤勉
に働いていれば,どんなことでも成功する可能性が高くなります。この原則は大人に
なってからもわたしの生活の基本となっています。
」
(Cross Fire: The Eight Years
,15−16)
with Eisenhower〔1962年〕
「エズラのいとこであるウィリアム・プールはその離れ業の持つ意味をこう説明し
ました。
『わたしが4分の3エーカー〔0.3ヘクタール〕のビート畑の間引きをするとし
たら,太陽が昇る前に起きて,日没まで働かなければ終わりません。わたしの記憶で
は,1エーカーのビート畑を1日で片付けたのは「T」が最初でした。
ジョージおじさんは少年たちに熱心に働くよう教えました。わたしの父は干し草を
積み上げるとき,好んで「T」を雇っていました。
「T」はよく働くからです。わたし
は「T」と組んで干し草を踏み固めるのが好きでした。彼はちょうどいい場所に干し
草を放り投げることができたからです。
』
エズラは10代のときに近くの泉からベンソン家まで水を引くためのパイプを埋めた
り,ホイットニーへ電気を引く電線を補強するために柱を地中に埋める溝を掘ったり
しました。また父と一緒に馬車に乗り,やぐらや柵にする木材を切り出すため近くの
森へ出かけました。積み荷の木材の下で悪天候を避け,そのまま夜を明かしたことも
ありました。
」
(デュー,Ezra Taft Benson,41)
エズラ・タフト・ベンソンは生涯,ボーイスカウト活動を好んだ
生徒用手引きから「スカウト活動は生涯の活動となった」(219ページ)を復習してから,
次の事柄について話し合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
182
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
• エズラ・タフト・ベンソンはどのようにしてスカウトたちと良い関係を築いたでしょ
うか。
• 指導者としての責任を果たすためにその関係はどのように役立ったでしょうか。
エズラはイギリスで伝道した
エズラ・タフト・ベンソンがアイダホ州プレストンのオネイダステーク・アカデミーを卒
業した後,ユタ州ローガンのユタ州立農業単科大学(現在のユタ州立大学)に入学したこ
こんにち
とを生徒に話します。今日の教会の多くの青年たちと同じように,彼は伝道の召しを受け
たため学業を中断しました。エズラ・タフト・ベンソンは1921年にイギリスに召されまし
た。伝道期間中の一時期にデビッド・O・マッケイ伝道部会長の下で働きました。福音が回
復されてから最初の数十年間,初期の宣教師は福音をすぐに受け入れる人々を大勢見つけ
ました。けれどもベンソン長老の時代になると,そのような状況は見られなくなっていま
した。宣教師たちは多くの苦難に出遭いました。後に十二使徒定員会会長となったベンソ
ン長老はイギリスの人々が教会に対して抱いていた反感と誤解についてこう語りました。
「1922年,若い宣教師だったわたしは,イングランド北部にいました。教会への敵
対心が激しさを増してきたため,伝道部会長は街頭伝道をすべて中止するよう指示ま
した。ある地域では戸別訪問も中止せざるを得ない状況でした。この対立の気運は主
としてほかの教会の聖職者たちの間から広がり始め,非常に激しいものとなりました。
彼らは取り立てて言うほどわたしたちについて何も知りませんでした。ある日戸別訪
問をしていたときのことです。一人の美しい婦人が戸口に出て来て,わたしたちは彼
女と気持ちよく話をしていました。ところが同僚がモルモンという名を口にすると,
海軍の制服を着た彼女の夫が出て来て,こう言いました。『あのモルモンの連中のこ
となど一切口にするな。わたしはイギリス海軍に20年勤めているが,ソルトレーク港
(訳注――ユタに海はない)へ入港したとき,連中はわたしたちを上陸させようとさえ
しなかった。』当時彼らがわたしたちについて知っていたことといえば,大体その程
度のことでした。
せいさんかい
同僚とわたしは北西海岸にあるサウスシールズに行き,聖餐会で話をするよう招待
されていました。
招待状には,聖餐会に教会員でない人が大勢出席する予定であることが記されてい
ました。そして次のようにも書かれていました。『わたしたちの友人の多くは,教会
について書かれたでたらめな記事など信じておりません。
』
わたしたちは心から断食して祈り,その聖餐会に出かけて行きました。会場はいっ
ぱいでした。同僚は福音の第一の原則について話すように計画し,わたしの方は,背
数について話すために一生懸命準備をしていました。集会は御霊に満ちたものでした。
まず,同僚が話し,すばらしい霊的なメッセージを伝えました。続いて話したわたし
も,いまだかつてないほど自由に,思っていることを話すことができました。ところ
が,席に戻ってから背教について話さなかったことに気がつきました。預言者ジョセ
フ・スミスのことについて話し,彼の神聖な使命とモルモン書が真実であることにつ
いて話したのです。わたしは涙を抑えることができませんでした。
集会が終わると,たくさんの人が前に出て来ました。教会員でない人も何人かいて,
あかし
こう言いました。『今晩わたしたちはモルモニズムの真実性について証を得ました。
バプテスマを受ける準備ができたと思います。
』
これはわたしたちの祈りに対する答えでした。求道者の心に触れることだけを話せ
の
るようにと祈っていたからです。」(「福音を全世界に宣 べ伝える使命」『聖徒の道』
1984年7月号,81−82)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
183
次の質問をします。教会員は福音を分かち合うときに,どうすれば御霊に頼れるように
なるでしょうか。
ベンソン長老と同僚が断食し,祈り,熱心に研究した後に霊感を受けたことを指摘しま
す。これらのことが福音を宣べ伝え,御霊の導きを受けるためにどのような助けとなるか
について話し合います。
エズラ・タフト・ベンソンはソルトレーク神殿でフローラ・スミス・アムッセンと結婚した
はんりょ
生徒用手引きから「エズラ・タフト・ベンソンは生涯の伴侶フローラ・アムッセンと結婚
した」(220−221ページ)を復習します。次の質問をします。ベンソン兄弟姉妹は婚約期
間を過ごしている若い男女に対してどのような模範を示したでしょうか。
エズラ・タフト・ベンソンは残る生涯を農場で暮らすことに満足していた
1927年6月にアイオワ州立大学で学位を取得して卒業すると,エズラとフローラ・ベンソ
ンはアイダホ州ホイットニーの80エーカー〔32ヘクタール〕の農場へ戻り,1929年まで農
業に従事したことを生徒に話します。ベンソン長老は後に,当時を思い出してこう語りま
した。「故郷に戻ったわたしたちは,そこで終生暮らすと思っていました。」(デュー,
Ezra Taft Benson,41)
エズラ・タフト・ベンソンは農業の分野ですばらしい能力を発揮したため,郡の理事か
ら郡農事顧問として働くよう求められました。結局その仕事を受けて,農業従事者の収穫
と農業経営を改善するために熱心に働きました。後に,アイダホ州ボイシのアイダホ大学
しょうへい
で働くよう招聘されました。また,ボイシではステーク会長会の顧問を務め,後にボイシ
ステークの会長に召されました。さらに1939年に約160万の農業従事者を代表する全国組
織の書記長としてワシントンD.C.でその任に就きました。1940年には,新しく組織された
ワシントンD.C.ステークで再びステーク会長に召されました。
次の質問をします。エズラ・タフト・ベンソンは教育を受け,職業に従事しながら献身
的に教会で奉仕しました。わたしたちは彼の模範に従うにはどうしたらよいでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
184
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
第2部――壮年期,青年期
歴史的背景
エズラ・タフト・ベンソンが大管長に召された1985年に,教会は1,582のステークと188
の伝道部に約590万人の会員を擁し,36の神殿を持っていました。1994年にベンソン大管
長が他界したとき,教会は2,008のステークと303の伝道部に約900万人の会員を擁し,46の
,474,632参照)
。 ベンソン大
神殿を持っていました (2003 Church Almanac〔2003年〕
管長が管理した間に,世界の政治情勢に大きな変革が起きました。多くの国は共産主義を
廃して,さまざまな形体の民主主義と市場経済を取り入れました。1989年にベルリンの壁
が崩壊し,冷戦は終わりを告げました。多くの新しい国で,伝道部が組織され,多くの人
が改宗し,新しい支部,ワード,ステークが組織されていきました。ほかに世界で起きた
出来事として,1986年にスペースシャトル「チャレンジャー」が離陸1分後に爆発し,
1991年にイラクのクウェート侵攻によって湾岸戦争が始まり,1992年にインターネットが
個人の利用者にも使えるようになりました。
教会では,1986年にステーク七十人定員会が廃止されて,七十人はワードの長老定員会
または大祭司グループに吸収されました。また1989年にブリガム・ヤング大学中近東研究
エルサレムセンターが奉献されました。
出来事,特筆事項,教え
エズラ・タフト・ベンソンは44歳のときに使徒に召された
1943年7月26日,エズラ・タフト・ベンソンはヒーバー・J・グラント大管長から会いたい
との意向を伝えられたことを生徒に話します。エズラは,自宅で療養していた高齢の大管
長に会いに行きました。するとグラント大管長はエズラが十二使徒定員会に召されること
を告げました。生徒用手引きの「エズラ・タフト・ベンソンは使徒に召された」(221−
222ページ)から,ベンソン長老が日記に記したそのときの気持ちを読み返します。エズ
ラ・タフト・ベンソン長老が十二使徒定員会会員として初めて行った説教の中から抜粋し
た以下の話を読んで,話し合います。
「わたしに与えられた祝福,特に最も弱い者の一人であるわたしに与えられたこの
大いなる栄誉に言い表せないほどの感謝を覚えています。……
正直に申し上げると,わたしはこの召しをまったく予期していませんでした。一瞬
たりともです。……
この召しに伴う大きな責任と義務について考えると体が震えます。……わたしがほ
かの何よりも望んでいることは,……この教会の神権者から愛され,信頼されること
です。そしてその愛と信頼にふさわしくなれる力を与えてくださるよう主に祈ってい
ます。
」
(Conference Report,1943年10月,19,21)
ベンソン長老は大戦後のヨーロッパで伝道部を再開した
教会がこれまで,緊急支援物資を届けてきた世界の地域を挙げるよう生徒に言います。そ
れから,生徒用手引きの「ベンソン長老はヨーロッパで苦しんでいる聖徒を助ける任務を
果たした」(222−223ページ)の段落4までを読み,次の質問をします。ベンソン長老の働
きは全世界で展開されている伝道活動をどのように助けてきたでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
185
ベンソン長老は合衆国農務長官を務めた
生徒用手引きから「ベンソン長老は合衆国農務長官に就任した」
(223−225ページ)を復習
します。エズラ・タフト・ベンソン長老は合衆国政府で働いていた間に,人々に良い影響
を及ぼすどのような機会を経験したかを見つけさせます。教会員の責任について語ったベ
ンソン長老の以下の教えを紹介します。
「積極的に参加し,奉仕することによって,地域社会の向上に努めてください。……神
から授かった自由を擁護するために,意義あることを行ってください。」
(「独身の兄弟た
ちに」
『聖徒の道』1988年6月号,51)
「わたしたちは皆,市民として特別な責任を持っています。預言者ジョセフ・スミ
スが述べたように,『健全で正しいことを広め,不健全なことがなくなるよう全力を
尽くすことがわたしたちの義務です。
』
〔History of the Church,第5巻,286〕わたし
たちは,単に投票されることよりもっと高い使命感を持った人々を公職に選ばなけれ
ばなりません。この大切なテーマについて主が教義と聖約第98章で語っておられるこ
とを読み,それから霊感によって起草された憲法について教義と聖約第101章で語ら
れたことを読んでください。将来,自由を守ろうとするならば,わたしたち一人一人
がまじめに取り組むことを求められ,チャレンジを受け,最善を尽くさなければなら
,
ない時がやって来ることでしょう。
」
(The Teachings of Ezra Taft Benson〔1988年〕
674)
ベンソン長老は家族の必要を優先させた
一人の生徒に,生徒用手引きから「ベンソン家は仲の良い家族だった」(225ページ)を読
んでもらい,以下の質問をします。
• ベンソン長老は大切な夕食への招待を断ることによってどのようなメッセージを伝え
たでしょうか。
• 家族を最優先するにはどうすればよいでしょうか。
一人の生徒に,生徒用手引きから「『お父さんのために祈って』」(225−226ページ)を
声に出して読んでもらいます。次の質問をします。家族を強めて人生で直面するチャレン
ジを乗り越えられるようになるために,わたしたちはどのようなことができるでしょうか。
生徒用手引きから「ベンソン長老は家庭の大切さについて教えた」(226ページ)を読み
ます。次の質問をします。ベンソン長老によれば,家庭を守り強めるために,わたしたち
は社会でどのようなことができるでしょうか。
ベンソン長老はしばしば自由の価値について語った
生徒が現在享受している自由を列挙してもらいます。使徒に召された翌年の1944年10月にエ
ズラ・タフト・ベンソン長老は自由について説教を行い,教会員がその説教に大きな感銘を受
けたことを生徒に話します。その説教から抜粋した以下の話を読んで,話し合います。
「わたしたちの先祖は信教の自由と良心の自由を手にするという共通の目的をもっ
てアメリカにやって来ました。ピルグリムファーザーズ,ニューイングランドの清教
徒,ペンシルベニアのクエーカー教徒,メリーランドのカトリック教徒,ジョージア
のルーテル教徒,バージニアのカルビン派新教徒,彼らは皆,神を求め,永遠の原則
に基づいて,神から与えられた自明の権利を求めてやって来ました。聖典に親しんで
たまもの
いた彼らは自由が天から与えられた賜物であると信じていました。……クリスチャン
として,教えられていた原則に対して謙虚な信仰を持ち,一身をささげていた彼らは,
自分たちが神に依存していることを認めていました。……
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
186
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
〔合衆国憲法〕という重要な文書を起草するに当たって,……建国当初の指導者た
ちは慈悲深い神の導きを求めました。憲法制定会議が採択したこの文書は後に,神の
霊感によって制定された憲法と呼ばれました。彼らは自分たちがよく知っている聖典
に定められた永遠の原則をその条文に織り込みました。それは『公正かつ聖なる原則
に従ってすべての肉なるものの権利と保護のために』制定されました。後に主は自ら
こう宣言されました。『わたしはこの国の憲法を制定する賢人たちを立てて,彼らの
手によってその憲法を制定し……たのである。
』
〔教義と聖約101:80〕……
この地に住んでいた大いなる国民の記録が霊感により記されたことは科学的調査に
よって確認されています。これらの民は神に従うときに栄えました。彼らは強大な権
力をも手にしました。物質的にも豊かな恵みを受けました。しかし,彼らは神を忘れ
てしまいました。中央,南,北アメリカに現存する古代の廃虚は彼らの破滅を物語る
沈黙の証拠となっています。偉大なこの国の未来はどうなるでしょうか。『その神が
主である』国だけが祝福を受けることを,人類と国民の歴史は明確に教えています。
」
(Conference Report,1944年10月,128−130,134)
以下の質問をします。
• ベンソン長老によれば,主はなぜ合衆国憲法を制定されたのでしょうか(教義と聖約
98:5−6;101:77,80も参照)
。
• ベンソン長老は自由を維持するために何が必要だと語ったでしょうか。
エズラ・タフト・ベンソンは大管長に召された
エズラ・タフト・ベンソンが1985年11月10日に大管長となったことを生徒に思い起こさせ
ます。大管長として述べた最初の大会説教の中で,ベンソン大管長はこう語りました。
「今は,プログラムを変えるよりも人を変える必要性が高いときです。」(「器の内
側を清める」
『聖徒の道』1986年7月号,4)
次の質問をします。この勧告はどのような意味だと思いますか。生徒用手引きから「エ
ズラ・タフト・ベンソンは大管長に召された」(227ページ)を読みます。それから,以下
の質問をします。
• ベンソン大管長が強調した「教会の3つの使命」は,すべての人をキリストのもとへ導
くという大きな使命を達成するために,どのように役立つでしょうか。
• この使命を成し遂げるためにわたしたちは個人としてどのように貢献できるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
187
「モルモン書は,わたしたちの民の思いと心の中で再び王座を占めなればなりません」
エズラ・タフト・ベンソン大管長が語った以下の言葉を読んで,話し合います。
「主は,わたしたちがモルモン書を読み,その教えを心に留めなければ,全教会が
罪の宣告を受けると教義と聖約第84章の中で言われました。
『この罪の宣告はシオン
の子ら,まことにすべての者のうえにある。
』
(教義と聖約84:56)主はさらにこう続
けておられます。『彼らが悔い改めて,新しい聖約,すなわち「モルモン書」と,わ
たしが彼らに与えた以前の戒めを思い起こし,そしてただ口にするだけでなく,わた
しが記してきたものに従って行動するまで,彼らは依然としてこの罪の宣告の下にあ
る。
』
(教義と聖約84:57)……
わたしたちはこれまでも,そして現在もなおモルモン書を中心として聖文を学んで
いません。モルモン書を使って家族に教えることも,福音を宣べ伝えることも,伝道
活動を行うこともしていないのです。この点についてわたしたちは悔い改めなくては
なりません。……
わたしたちはこれまでに,すばらしい歩みを進めてきました。そして将来,さらに
歩みを大きく進めていきます。それにはまず,目を覚まして奮い立ち,また道徳的に
けんそん
正しい生活をし,神に罪の宣告を除いていただくためにモルモン書を用い,謙遜にな
って高慢を克服し,器の内側を清めなければなりません。
」
(
「器の内側を清める」
『聖
徒の道』1986年7月号,5,7)
以下の質問をします。
• ベンソン大管長はどのような理由から,教会は罪の宣告を受けていると語ったのでし
ょうか。
• この罪の宣告を取り除くために重要なことは何であるとベンソン大管長は述べたでし
ょうか。
モルモン書を示してから,モルモン書はどのように生活を祝福しているかについて,あ
なたの証を分かち合います。次に,モルモン書に関する以下の言葉を読んで,モルモン書
が生徒の生活に祝福をもたらす具体的な事例を見つけさせます。大管長会で顧問を務めて
いたマリオン・G・ロムニー管長の言葉を引用して,ベンソン大管長はこう語りました。
「家庭の中で両親が,夫婦で,そして子供たちと一緒に定期的に祈りの気持ちでモ
ルモン書を読むならば,このすばらしい書物の持つ霊的な力が家中にみなぎり,その
けいけん
家に住む一人一人の心の中にあふれるに違いありません。敬虔の念,お互いの尊敬と
思いやりの念がさらに深められ,争う気持ちが姿を消すようになります。また両親は
よりいっそうの愛と知恵をもって子供たちを教え,子供たちも親の助言にいっそう素
直に聞き従うようになります。そして,正義を愛する精神が高まり,信仰,希望,慈
愛,すなわちキリストの純粋な愛が家の中にあふれ,安らぎ,喜び,幸福感に満ちた
生活ができるようになります。
」
(
「器の内側を清める」
『聖徒の道』1986年7月号,6)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
188
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
後にベンソン大管長はこう語りました。
「モルモン書で地と自分自身の生活を洪水のごとく満たすために努力している,忠
実な聖徒の皆さんを褒めたいと思います。わたしたちは画期的な方法で,モルモン書
を世に広めるだけでなく,このすばらしいメッセージを自分自身の生活に,さらに地
の隅々にまで浸透させるよう大胆に前進しなければなりません。
この神聖な書物は現代のわたしたちのために書かれました。その聖文は『自分たち
に当てはめ』るべきものです(1ニーファイ19:23参照)
。
」
(
「高ぶりを心せよ」
『聖徒
の道』1989年7月号,4)
ありさま
生徒用手引きから「
『わたしはモルモン書で洪水のごとく地を満たす有様を思い描いてい
ます』
」
(228−229ページ)を復習します。以下の質問の答えについて話し合います。
• モルモン書で洪水のごとく地を満たすためにどのような方法を用いたらよいでしょうか。
• モルモン書のどのようなことがイエス・キリストについていっそう正しい理解を人々
に与えるのでしょうか。
生徒用手引きから「ベンソン大管長は豊かな理解と識別の祝福を与えた」(228ページ)
を読んで,ベンソン大管長が最後の段落で与えている約束と条件を指摘します。
ベンソン大管長は教会員に勧告を与えた
クラスを5つのグループに分けて,各グループに生徒用手引きから以下の項目の一つを研究
する割り当てを与えます。
「ベンソン大管長は若人に対して清くあるよう勧告した」
(229ペ
ージ),「ベンソン大管長はシングルアダルトの男性に対して日の栄えの結婚を目標として
追求するよう勧告した」
(229−230ページ)
,
「ベンソン大管長はシングルアダルトの女性に
対して日の栄えの結婚を目標として追求するよう勧告した」
(230−231ページ)
,
「ベンソン
大管長は父親に対しその永遠の召しについて勧告を与えた」(231ページ),「ベンソン大管
長は母親に対してその高貴な働きについて勧告を与えた」
(231−232ページ)
。
エズラ・タフト・ベンソン大管長が教会員に与えた勧告を短くまとめて発表する準備を
するよう生徒に求めます。各グループの一人にそのまとめを発表してもらいます。適切で
あれば,ベンソン大管長の勧告の詳細について全員で話し合います。
ベンソン大管長は高慢に気をつけるよう教会員に勧告した
生徒用手引きから「ベンソン大管長は高慢に対して警告を発した」(232−233ページ)を
復習して,エズラ・タフト・ベンソン大管長が述べた高慢の徴候を黒板に書き出します。
以下の質問をします。
• どの徴候が最も一般的に見られると思いますか。
• どの徴候が最も危険だと思いますか。
• 高慢を抑えるためにベンソン大管長はどのような方法を提案しているでしょうか。
ベンソン大管長はキリストについて証を述べた
生徒用手引きの「わたしたちはキリストを信じている」(233ページ)からエズラ・タフ
ト・ベンソン大管長の証を読みます。以下の質問の答えについて話し合います。
• なぜキリストに従うことが世の諸問題を解決する答えとなるのでしょうか。
• ベンソン大管長が教えているように,心を神に向けて生活するにはどうすればよいで
しょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 3 章 ―― エ ズ ラ ・ タ フ ト ・ ベ ン ソ ン
189
ハワード・W・ハンター大管長はベンソン大管長への賛辞を述べた
生徒用手引きから「預言者の死」(234ページ)を読みます。エズラ・タフト・ベンソン大
管長が他界したとき,ハワード・W・ハンター大管長が語った以下の賛辞を紹介します。
「愛する預言者エズラ・タフト・ベンソン大管長が他界し,わたしの心は今,重く
そうめい
閉ざされています。わたしたちは愛する友,教会の管理評議会にあって聡明で豊かな
経験を持つ同僚,霊感あふれる神の預言者を失いました。
今日,ベンソン大管長に最後のお別れをするために集まっているわたしたちは,心
から寂しさを感じています。特にわたしは個人的に大きな喪失感を味わっています。
わたしたちは35年近く十二使徒評議会で一緒でした。彼はいつもわたしや兄弟たち全
員に対して気を配り,親切でした。わたしたちはすばらしい交わりを持ってきました。
これまでの10年間,ベンソン大管長は十二使徒定員会を管理してきました。彼の指導
にわたしたちは感動を覚えてきました。彼は才能豊かな指導者であり,最高の管理者
でした。わたしたちは皆,彼の鋭敏な知性,神権の力によって導かれていることを感
じてきました。
わたしは預言者として導く衣が彼の肩にかけられるのを目にしました。聖なる職に
けんそん
就くために進み出たとき,彼の謙遜な思いと主に頼る心を感じました。霊的にいっそ
う力強く,神の言葉を語る声を聞きました。もう,その力強い声を聞くことはできま
せん。その沈黙をすべての教会員とともに嘆き悲しんでいます。」(“A Strong and
Mighty Man,
”Ensign,1994年7月号,41)
レッスンの締めくくりとして,エズラ・タフト・ベンソン大管長の預言者の召しと,
今日の教会員に与えた大きな影響力と勧告について,あなたの証を述べてください。
こんにち
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
190
第14章
ハワード・W・ハンター
busath.com
第14代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
191
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
1907年11月14日ハワード・W・ハンターがアイダホ州ボイシで誕生したとき,彼の父親
はまだ教会員ではありませんでした(父親ジョン・ウィリアム・ハンターは1927年に教会
に加入した)。母親のネリー・ハンターは教会に活発に出席し,子供たちに福音を教えま
した。ウィリアム・ハンターはこのような妻の努力を支援し,時々教会に出席していまし
た。
ハワード・W・ハンターが生まれたとき,ジョセフ・F・スミスが大管長を務めていま
した。ハワードが誕生する前の年,サンフランシスコで地震が起きて,多くの地域が壊滅
的な被害を受けました。1906年,南アフリカではガンジーが政府の圧制に対して非暴力に
よる抵抗を宣誓しました。1908年,ヘンリー・フォードがT型フォードを発表し,自動車
時代が幕を開けました。
出来事,特筆事項,教え
少年時代のハワード・W・ハンターは哀れみを示した
少年時代のハワード・W・ハンターに関する以下の話を紹介します。
「妹のドロシー・ハンター・ラスマッセンは……子供のころ兄とともに過ごしたと
きの,心温まる出来事を思い出して,次のように記しています。『ハワードはいつも
善い行いをし,良い子になりたいと思っていました。わたしの面倒をよく見てくれる
とても良い兄でした。両親に対しても思いやりがありました。また,動物が好きで,
かんがい
捨てられた動物をよく家に連れて帰りました。』家のそばには灌漑用水路があり,あ
る日,近所の教会員でない少年たちが数人で,子猫をその水路に落として遊んでいま
した。子猫がはい上がって来ると,また落とすのです。彼らはこの遊びを飽きるまで
何度も続けていました。『そこへハワードが通りかかると,彼は〔子猫を〕拾い上げ
ました。死にかけて横たわっていたのを,家へ連れて帰りました。もう死んでいるの
ではないかと思いましたが,母はハワードと二人で毛布にくるみ,温かい暖炉のそば
に置いて,看病しました。』子猫は息を吹き返し,それから何年も家で飼われること
になりました。
『兄はとても……親切でした。わたしは兄が間違ったことをするのを,
これまで一度も見たことがありません。
』
」
(ジェームズ・E・ファウスト,「空を飛ぶ
わし
鷲のように」『聖徒の道』1994年9月号,56参照)
次の質問をします。この話からハワード・W・ハンターについてどのようなことを学べ
るでしょうか。ハワード・W・ハンター大管長が語った以下の言葉を紹介します。
「世界の歴史上のこの時期にあって,……わたしたちは,……救い主が弟子たちに
望んでおられるとおりに行動しなければなりません。あらゆる機会に,『イエスだっ
たらどうなさるだろうか』と自らに問うてみる必要があります。そしてその答えに従
い,さらに大きな勇気をもって行動してください。
」(「神の御子に従う」『聖徒の道』
1995年1月号,97)
ハワードは教会に入りたいと思った
生徒用手引きから「ハワードの人格は両親により,また少年時代に形成された」(237−
238ページ)を復習します。それから,次の質問をします。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
192
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
• ハワードと教会指導者は,ハワードの父が果たした,人々を助ける責務について,ど
のように理解していたでしょうか。
• ハワードはなぜ神権を受けることをしきりに願ったのでしょうか。
ハワードは10代のときに,新しく建設されるタバナクルのために自分も献金すると約束した
教会歴史のほとんどの時期を通じて,各地域で礼拝堂や神殿を建設する際に地元の教会員
は財政的な支援をしてきたことを生徒に話します。会員たちは献金するだけでなく,建物
を建てるために時間をささげることもしばしばありました。しかし,教会が大きくなるに
つれて,請負業者を使うようになりました。1960年に地元の資金負担率は70/30でした
(教会が70パーセントを支払い,地元の会員は30パーセントの資金を調達することを求め
られた。会員たちは神権指導者から面接を受けて,「建築資金」を献金するよう求められ
た。)1982年にはその比率が96/4となり,1990年には教会が100パーセント負担するように
なりました。
ハワード・W・ハンターが15歳のときに,アイダホ州ボイシ地域に会員のためのタバナ
クルを建設する計画が発表されました。以下の情報を紹介します。
「ボイシの聖徒たちはステークと新しいワードの中心として使われるタバナクルを
建設する計画について話し合うために集会を開きました。献金するよう求められたと
き,ハワードは手を挙げて,一番に献金することを約束しました。彼が申し出た25ド
ルという金額は,特に10代の少年にとってかなりの大金でした。『わたしは約束した
金額をすべて支払うまで働いて,貯金しました』とハンター長老は当時を思い出して
語りました。
タバナクルは2年後に完成し,ヒーバー・J・グラント大管長によって奉献されまし
,41)
た。
」
(エレノア・ノールズ,Howard W. Hunter〔1994年〕
以下の質問をします。
• 教会に進んで献金することは,なぜ信仰の試しとなるのでしょうか。
• 献金することによってどのような満足感が得られるでしょうか。
• 建築資金に直接献金したり,建物の建築を手伝ったりすることを求められていない現
在,会員たちは教会の建物を維持するためにどのように貢献できるでしょうか。
ハワードは熱心に働くことの大切さを学んだ
生徒が8歳を過ぎてから,仕事を幾つ経験したかを数えるように言います。それから以下
の質問をします。
• 経験した中で最も珍しい仕事は何だったでしょうか。
• 最も難しい仕事は何だったでしょうか。それはなぜですか。
ハワード・W・ハンターは生涯を通じて,信頼に足る勤勉な働き者として知られていた
ことを生徒に話します。ハワードが21歳までに経験した仕事や定期的に果たした務めを記
した以下の一覧を紹介します。
• 鶏にえさをやり,鶏小屋を掃除する
• 家で缶詰作りを手伝う
• 庭仕事をする
• 果樹とイチゴ類の手入れをする
• 芝刈りと庭の手入れをする
• 出納係の補佐として働く
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
193
• 電報を配達し,新聞を売る
• ゴルフ場でキャディーとして働く
• ホテルで働く
• 工芸品店の店員として働く
• 幾つかのオーケストラで演奏する
• 薬局のアシスタントマネージャーとして働く
• 自分の楽団を結成し,指導する
• 新聞社で働く
• 靴を売る
• ビルを買って,ディナー・ダンスホールに改造する
• 楽譜を売る(ノールズ,Howard W. Hunter,42−61を基にリストを作成)
次の質問をします。この一覧について最も強い印象を受けたのは何でしょうか。それは
ハワード・W・ハンターについてどのようなことを示しているでしょうか。
生徒用手引きの「青少年時代の様々な経験にハワードの決意と強さが表れていた」の最
後の二つの段落,「ハワードはイーグルスカウトになった」,「ハワードは若くして企業家
となった」(238−239ページ)を復習します。これら3つの話に共通するテーマを探させま
す。それから次の質問をします。青少年時代のハワードは,どのようにして時間を効率的
に使っていたでしょうか。
父親が教会に加入した
生徒用手引きから「ハワードはハンターズ・クルーネイダーズを結成した」
(239−240ペー
ジ)を復習します。ハワード・W・ハンターは高校生のときに,「ハンターズ・クルーネ
イダーズ」と呼ばれた自分のオーケストラを結成したことを指摘します。このオーケスト
ラはハワードの故郷であるアイダホ州ボイシで多くの高校の催しに招かれて演奏しまし
た。高校を卒業して数か月後の1926年6月に,ハワードのオーケストラは日本,中国,フ
ィリピンを訪れる旅客船で演奏する仕事を受けました。ハワードがその仕事で出かけてい
る間に,父はバプテスマを受けました。
親のバプテスマに立ち会ったことがあり,その経験を話してくれる生徒がいれば,話し
てもらいます。
ハワードは日曜学校で人生の転機となる経験をした
霊的な光が心に差し込み,福音が生活の中で以前よりも大切なものとなったときのこと
を思い出せるかどうかを尋ねます。もし差し支えなければ一人か二人の生徒にその経験
を分かち合ってもらいます。生徒用手引きから「ハワードは日曜学校のレッスンから祝
福師の祝福を受けることを思い立った」(240ページ)を何人かの生徒に順に読んでもら
います。以下の質問をします。
• 何がハワード・W・ハンターの生活に霊的な目覚めをもたらしたのでしょうか。
• このような霊的な目覚めを経験するためによりよい準備をするにはどうしたらよいで
しょうか。
ハワードは結婚,家族,福音に献身した
公演グループに所属して,世界中を巡りたいと考えたことのある生徒がいるかどうかを尋
ねます。それから,ハワード・W・ハンターは音楽家としての才能に恵まれ,大きな成功
を収めたことを生徒に話します。彼は楽器の演奏を生涯の仕事にできる可能性を持ってい
ました。演奏家として経験したことについて,ハンター長老はこう語りました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
194
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
「それは幾つかの点で魅力的でしたし,かなりの収入もありました。けれども,ミ
ュージシャンとの付き合いは,ほとんどの場合,楽しくありませんでした。なぜな
ら彼らは酒を飲むだけでなく,道徳的な標準も低かったからです。」(ノールズ,
Howard W. Hunter,91)
一人の生徒に,生徒用手引きから「ハワードはクララ・ジェフスと結婚した」(240−
241ページ)を読んでもらいます。それから,次の質問をします。ハワードはなぜ,結婚
と,音楽を職業とすることが相いれないと考えたのでしょうか。
現在直面している選択の中で,福音の標準,結婚生活や家族生活と相容れないものがある
かどうか生徒に考えてもらいます。結婚に関してハンター長老が語った以下の言葉を紹介し,
ハンター長老は自分が与えた勧告にいかに忠実だったか注目するよう生徒に言います。
「独身の兄弟の皆さんへ。職業面でまだ成功していないとか,経済的に望ましい状
況ではないからという理由で結婚を引き延ばさないでください。ただし,将来に対す
る見通しもなく,霊感も受けないまま急いで結婚してはなりません。よく祈って,主
の導きを求めましょう。主の助けが得られるように,ふさわしい生活をしてください。
はんりょ
神権者である皆さんには,永遠の伴侶を求めるに当たって模範を示す義務があること
を忘れないようにしてください。
」
(「あらゆる人々のための教会」『聖徒の道』1990年
8月号,44)
「結婚生活での振る舞いは学習により身に付けるものです。本能ではなく,意識的
な努力が成功を生み出します。幸せな結婚生活に駆り立てる力は親切,真の愛情,互
いの幸せと福利への関心から生じるのです。
結婚する前は,自分の視点から生活を眺めますが,結婚すると,相手の立場からも
眺めるようになります。安心感を与え,愛を表すと同様,犠牲を払い,調整を図るこ
とが必要です。
結婚生活を幸せと成功に導くには,たいていの場合,ふさわしい相手を選ぶよりも,
自分がふさわしくなることのほうが大切だとよく言われます。高い離婚率を示す統計
は,賢明ではない選択が原因であることを示しているとも言えるでしょう。もしほか
の人と結婚していたら,特定の問題はなくなるかもしれません。しかし,必ずほかの
問題が浮上してきます。賢明な選択は幸せな結婚のための大きな要因です。けれども,
最大の要因は夫婦がそれぞれの務めを果たすために意識的に努力することなのです。
」
,
(The Teachings of Howard W. Hunter,クライド・J・ウィリアムズ編〔1997年〕
130)
ハワード・W・ハンターとクレア・ジェフスは結婚に向けて準備していたとき,二人の
じゅうぶん
生活の中で守っていく事柄を決めました。その一つは什分の一の律法を守ることでした。
ハンター長老は後に,当時を思い出してこう語りました。
「わたしたちは結婚生活を通してこの律法を守り,何よりもまず什分の一を納める
ことを決意しました。
」
(ノールズ,Howard W. Hunter,81)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
195
ハワードとクレア・ハンターは結婚後間もなく大きな悲しみを経験した
1934年3月20日に,ハワードとクレア・ハンターに最初の子供が生まれたことを生徒に話
します。その息子はハワード・ウィリアム・ハンター・ジュニアと名付けられました。そ
れから,以下の話を紹介します。
「その年の夏,ハワードは仕事と学校を行き来する日課に慣れてきたとき,幼い息
子ビリーの無気力な様子に気づきました。医師の診断から貧血症であることが明らか
になりました。ハワードからの輸血で,ビリーはしばらくの間小康状態を保っていま
したが,しばらくすると病状がぶり返しました。9月の初旬に精密検査のために入院
し,再びハワードから輸血を受けました。
それでも回復するきざしが見られなかったため,悩んだ両親はビリーを末日聖徒小
けいしつ
かいよう
児病院へ連れて行きました。検査の結果,腸の憩室が潰瘍化しており,そこから出血
していることが分かりました。医師たちは手術を勧めました。
『この分野で優れた外科医が執刀するので大丈夫だと言われ,わたしたちは手術に
同意しました』とハワードは記しています。『わたしは手術中,息子の横のベッドに
寝て,血液を息子に補給し続けました。手術を終えたとき,医師たちは浮かない顔を
していました。
その後72時間は非常に危険な状態であると医師に言われ,わたしたちはずっと息子
に付き添っていました。3日目の夕方,わたしたちは家に帰って,少し体を休めるよ
うに言われました。けれども,帰宅して間もなく,症状がさらに悪化したため病院に
呼び戻されました。その晩遅く,1934年10月11日に,わたしたちがベッドの横で見守
っている間に,息子は静かに旅立って行きました。わたしたちは悲しみに打ちひしが
れ,感覚がまひしたようになって病院を後にしました。
』
2日後,『美しく,また慰めを与える葬儀』が終わると,幼いハワード・ウィリア
ム・ハンター・ジュニアの遺体は祖父のジェイコブ・エルズワース・ジェフスの墓
の隣に埋葬されました。
」
(ノールズ,Howard W. Hunter,86)
次の質問をします。愛する息子を失って悲しみに暮れているハンター夫妻は,福音のど
の原則から慰めを受けたでしょうか。
法律学校で勉強する時間を見つけることがチャレンジとなった
ハワード・W・ハンターは結婚後に,法律を勉強する決意をしたことを生徒に話します。
生徒用手引きから「ハワードは法律に関心を持った」(241−242ページ)を復習します。
彼は猛烈な勢いで勉強しました。息子のジョンが生まれたとき,ハワードは教科書を持っ
て病院へ行きました。以下の出来事を紹介します。
「二人目の子供の誕生を待っていたとき,クレアはある日曜の晩に,病院へ行くと
きが来たと言いました。ハワードは1冊の教科書『ブラックストーンの法律に関する
注釈』 (Blackstone’
s Commentary on the Law)をつかむと,急いで南カリフォル
ニア・メソジスト病院へ妻を連れて行きました。クレアはそのまま入院することにな
りました。ハワードは妻が投薬を受けて眠るまで付き添っていました。それから勉強
に戻りました。
」
(ノールズ,Howard W. Hunter,90)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
196
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
ハワードは当時を思い出してこう語りました。
「日中は働いて,夜は学校へ通い,そのうえ時間を見つけて勉強することは,生易
しいことではありませんでした。……自分の家族に会って話す以外に,ほかの人との
付き合いはほとんどありませんでした。
」
(ノールズ,Howard W. Hunter,91)
次の質問をします。忙しい生活の中でバランスをとるにはどうしたらよいでしょうか。
ハワード・W・ハンターの両親はすばらしい誕生日の贈り物をした
生徒に,これまで誕生日にもらったお気に入りのプレゼントは何かを尋ねます。ハワー
ド・W・ハンターは1950年から1959年までパサディナステークのステーク会長を務めたこ
とを生徒に話します。1953年にステークの会員たちと一緒にアリゾナ州メサ神殿に参入し
ていたとき,ハワードの両親は46回目の誕生日(11月14日)を迎えたハワードを驚かせま
した。以下の経験を紹介します。
「わたしが参入者に向かって話をしていたとき,……両親が白い服に身を包んで礼
拝堂に入って来ました。母はいつか夫婦そろって神殿に入ることを熱心に願っていま
したが,父が神殿の祝福を受けるために準備をしていたとは知りませんでした。わた
しは感激のあまり,話を続けることができませんでした。ピアス神殿会長がわたしの
横に来て,突然両親が入って来たわけを説明してくれました。その日の朝,父と母は
神殿にやって来ると,二人が神殿へ来たことを内緒にしておいてほしいと言いました。
誕生日を迎えるわたしを驚かせるつもりだったのでした。この誕生日はわたしにとっ
て忘れられない日になりました。その日に両親はエンダウメントを受け,わたしは二
人の結び固めの証人となる特権を与えられ,それから,両親に結び固められたからで
す。
」
(ハワード・W・ハンター,ノールズ,Howard W. Hunter,135)
後に,ハワード・W・ハンターの妹ドロシーはカリフォルニア州ロサンゼルス神殿で両
親に結び固められました。そのことについてハワードは「わたしたち家族の永遠のきずな
。
が完成した」と語りました(ノールズ,Howard W. Hunter,135)
大きくなってから両親との結び固めを受けた生徒がいるかどうか尋ねます。そのような
生徒がいれば,両親との結び固めを受けたときの気持ちを話してもらえるかどうか尋ねま
す。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
197
第2部――壮年期,青年期
歴史的背景
ハワード・W・ハンターが大管長になった1994年,教会は2,008のステークと303の伝道部に
約900万人の会員を擁し,46の神殿を持っていました
(2003 Church almanac〔2003年〕474,
632参照)。教会は1994年に家族歴史のためのウェブサイトを開設しました。ハンター大管長
は大管長を務めていた間に,二つの神殿を奉献しました。1994年のフロリダ州オーランド神
殿と1995年のユタ州バウンティフル神殿です。これらの神殿は世界で稼動する46番目と47番
目の神殿となりました。1994年12月には2,000番目のステークがメキシコ・シティーで組織され
ました。ハワード・W・ハンターが大管長の職にあったのはわずか9か月で,ほかのどの大管長
よりも短期間でした。ハンター大管長が他界した1995年に,教会員は2,150のステークと307の
伝道部に約930万人を数えるまでになり,47の神殿を持っていました
(2003 Church Almanac
〔2003年〕
,474,632参照)
。 ハンター大管長は1995年3月3日に他界しました。
出来事,特筆事項,教え
ハワード・W・ハンターは使徒に召された
ハワードとクレアがカリフォルニア州に住んでいたとき,ハワードは法科大学院に通い,
その後弁護士になったことを生徒に話します。法科大学院を卒業した後,ハワードはビシ
ョップに召されて,1940年から1946年まで働き,その後1950年から1959年までステーク会
長を務めました。生徒用手引きから「ハワードは監督に,その後ステーク会長に召された」
(242ページ)を復習するとよいでしょう。
一人の生徒に,生徒用手引きから「ハワードは使徒に召された」と「使徒として働くこ
とについてハンター長老は思いを述べた」(243−244ページ)を読んでもらいます。それ
から,以下の質問をします。
• 使徒の召しを受けたときに見せたハンター長老の態度にはどのような特徴が見られる
でしょうか。
• 召しの正しい受け方について,ハンター長老はどのような模範を示しているでしょう
か。
ハンター長老は自分の信念に従って行動するよう教会員に教えた
クリスチャンにはどのような特徴があるかを生徒に尋ねます。ハワード・W・ハンター長
老は,行動は信念に基づき,それを確認するものでなくてはならないことを教えました。
一人の生徒に以下の言葉を読んでもらいます。それから,この言葉はわたしたちの生活に
どのように当てはまるかを話し合います。
「信念は個人の業績において実現されなければなりません。まことのクリスチャン
は,イエス・キリストの福音が単なる信念でなく,行動が伴うことを理解しなければ
なりません。キリストの福音は戒めから成る教えであって,行動を求めることをその
本質としています。キリストは,わたしの福音を『形式的に守る』ようにと言われた
のでなく,『実践する』ように言われました。『その美しい構成と形に注目しなさい』
と言われたのでなく,『行って,行い,見て,感じて,与えて,信じなさい』と言わ
れました。イエス・キリストの福音は,戒めに満ちており,決意と行動を求める言葉
にあふれています。
」
(Conference Report,1967年4月,115)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
198
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
ハンター長老は迷い出てしまった子供を持つ親に慰めと助言を与えた
あつ
信仰篤い親が経験することの中で最も心を痛めるのが子供の反抗であることを生徒に話し
ます。親が忠実に福音を教えているにもかかわらず,時々子供たちは反抗します。子供が
ざせつかん
福音に従うことを拒否したために,しばしば親は挫折感と罪悪感に打ちのめされてしまい
ます。生徒用手引きから「ハンター長老は悩みを持つ両親に語った」(249−250ページ)
を読みます。
次の質問をします。ハンター長老は立派な親をどのように定義したでしょうか。
ハンター長老は脳血栓を起こした妻のクレアをいたわった
クレア・ハンターは長年,闘病生活を過ごした後,1983年に他界したことを生徒に話しま
す。ハワード・W・ハンター長老は闘病中の妻を優しくいたわりました。生徒用手引きか
ら「妻が他界した」
(249ページ)を読みます。
次の質問をします。ハンター長老は妻に対してどのような方法で愛情を表したでしょうか。
妻が他界してから数年後に,ハンター大管長はこう記しました。
「もし生きているとしたら妻は今日で85歳になる。わたしは事務所を早く出ると,
市の墓地に向かって車を走らせた。よく晴れた,寒い日だった。草の上には4インチ
〔10センチ〕ほどの雪が積もっていた。雪を踏みしめながら歩いて,妻の墓の前に立
ったとき,孤独感を味わった。そして,愛する家族や孫たちから離れてしまった妻は
どれほど寂しい思いをしているだろうかと考えた。家に戻って,妻の面影を残すもの
を目にし,その思いをぬぐい去ることができなかった。」(エレノア・ノールズ,
Howard W. Hunter〔1994年〕
,275−276)
次の質問をします。妻に対するハンター大管長の姿勢について,あなたはどのような印
象を受けましたか。
妻が他界してから約7年後にハンター会長は,再婚することを十二使徒定員会に発表し
たことを生徒に話します。生徒用手引きから「ハンター会長はイニッシ・バーニス・イー
ガンと再婚した」(252ページ)を読んだ後に,次の質問をします。人生のこの時期にイニ
ッシと結婚したことはハンター会長にとってどのような祝福となったでしょうか。
ハンター会長はキリストを生活の中心に据えなければならないことを教えた
キリストを生活の中心に据える妨げになる事柄を生徒に挙げてもらいます。生徒用手引き
から「キリストを生活の中心に据えなければならない」(252ページ)を読んでから,「最
終的に義とされる」ために何を行わなければならないかについて話し合います。それから,
次の質問をします。ハンター会長の教えによれば,キリストを生活の中心に据える妨げと
なる「成功」とは何でしょう。
末日聖徒イエス・キリスト教会は主の教会であって,主が教会を導いておられること,
あかし
わたしたちは主と主の選ばれた指導者に導きを求めていることについてあなたの証を分か
ち合います。忠実な会員はキリストを中心に据えて生活し行動しており,それによって永
遠の祝福を受けると信じていることを生徒に話します。
ハワード・W・ハンター会長が語った次の話を読みます。生徒に,聞いている間に「善
いこと」とは何かについて話し合う準備をするように言います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
199
「善いことの多くは,世の中の悪を正すために援助する個人や組織の働きによるも
のです。皆さんが聖典に記された助言に従い,教会,隣近所,地域社会で,さらには
全世界で,熱心にまた積極的に善いことに従事してくださるよう,お勧めします(教
義と聖約58:27参照)。ただし,もしキリストに従った生活をせずに,福音を受け入
れないならば,また福音がもたらす救いの儀式と聖約にあずからないならば,現世,
あるいは来世において真の可能性を実現することはできません。」(「教会の姉妹たち
へ」
『聖徒の道』1993年1月号,109)
以下のハワード・W・ハンター長老の話を紹介してから,この話はわたしたちが偉大な
事柄を成し遂げる方法とどのように関連づけられるかを話し合います。
「わたしたちの周りには,わたしたちを最終的に偉大にしてくれる,多くの単純で
小さなことを行う機会が無数にあります。……世の中のごくありふれたことを行い,
自分はどれほど価値のある働きをしたのだろうかと考えている人,地味であっても有
わざ
意義な方法で主の業を推し進め,教会の中で熱心な働きをしている人,また地の塩,
この世の力,国の礎として働いている人,そのような人々に,わたしたちは心から称
賛の意を表したいと思います。最後まで堪え忍び,イエスの証に雄々しくあるならば,
皆さんは真の偉大さを身に付け,天の御父とともに住むことができるでしょう。」
(
「真の偉大さ」
『聖徒の道』1982年7月号,35参照)
中近東研究エルサレムセンターが設立された
教会が後援する教育のプログラムと機会を挙げるよう生徒に言います。それから,次の質
問をします。なぜ教会において教育はそれほど重要なのでしょうか。
聖地にブリガム・ヤング大学エルサレムセンターを建設する許可を得るためにハワー
ド・W・ハンター会長は大きな影響力を及ぼしたことを生徒に話します。クラスを4つの
グループに分けて,各グループに生徒用手引きから以下の項の一つを読んで報告する割り
当てを与えます。「ハンター長老は使徒として世界中を訪れた」(244ページ),「オーソ
ン・ハイド記念公園が建造された」(245−246ページ),「『すべての人が神にとって等しい
存在なのである』
」
(246ページ)
,
「エルサレムセンターが建設される」
(246−247ページ)
。
報告の準備をしている生徒に,エルサレムセンターの建設に際し教会が直面した困難な
問題について,またハワード・W・ハンター長老,ジェームズ・E・ファウスト長老,当
時ブリガム・ヤング大学の学長だったジェフリー・R・ホランド長老の才能と決意がその
問題を解決するためにどのように役立ったかを見つけるように言います。
ハンター会長は命の危機にさらされた
1993年2月7日にブリガム・ヤング大学構内で開かれたファイヤサイドにおいて,ハワー
ド・W・ハンター会長が並々ならぬ勇気を示した出来事を採り上げます。生徒用手引きの
ひん
「命の危機に瀕したときハンター会長は冷静だった」(253ページ)に記されたその経験と
エルサレムでのもう一つの出来事を復習してから,以下の質問をします。
• そのような危機にさらされたにもかかわらずハンター会長が落ち着いていたのはなぜ
でしょうか。
• チャレンジにどのように立ち向かうかについて,わたしたちはハンター会長からどの
ようなことを学べるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
200
第 1 4 章 ―― ハ ワ ー ド ・ W ・ ハ ン タ ー
ハンター大管長は神殿を愛するよう教会員に強く勧めた
生徒用手引きから「ハワード・W・ハンターの生涯におけるおもな出来事」(236ページ)
を復習して,ハワード・W・ハンターはいつ大管長になり,どれほどの期間,大管長を務
めたか(9か月)を確認するように言います。大管長として短期間務めた中で,おもなテ
ーマとしたのは神殿の大切さでした。生徒用手引きから「すべての会員は神殿に参入する
ふさわしさを身に付けなければならない」
(254ページ)を読みます。
ハンター大管長はイエス・キリストの特別な証人として証した
「イエス・キリストの特別な証人」をどのように定義したらよいかを生徒に尋ねます。こ
かぎ
れはイエス・キリストについて世に証するために聖任され,その鍵 を持つ主の使徒に固
有の呼称であることを生徒に話します。当時十二使徒定員会会員を務めていたハワー
ド・W・ハンター長老が語った以下の証を紹介します。
「わたしたちの時代に,主は再び使徒を召されました。この使徒たちは,全世界に
対するキリストの特別な証人として聖任されています。彼らはキリストの実在と
しょくざい
みたま
贖罪 の真実性を,御霊によって確かに知っています。
わたしは聖任された使徒,キリストの特別な証人として,イエス・キリストが実際
に神の御子であられることを謹んで証いたします。キリストは,旧約聖書の預言者た
ちが預言し,待ち望んだメシヤです。アブラハム,イサク,ヤコブの子孫が,何世紀
にもわたって定められたとおりに礼拝し来臨を祈り続けたイスラエルの望みです。
イエス・キリストはゲツセマネの園で苦しみ,十字架上で亡くなられ,この世に生
まれるすべての人のために身代わりとして罪のない命をささげられたのです。イエス
はそれから3日目にまさしく死者の中からよみがえり,復活の初穂となって死に打ち
勝たれました。
わたしは,聖霊の力によって証を述べています。わたしはあたかも自分の目で見,
耳で聞いたようにキリストの実在を知っています。また,聖霊は,信仰の耳をもって
聞くすべての人の心に,わたしの証が真実なことを教えてくださることを知っていま
す。
」
(
「使徒が語るキリストの証」
『聖徒の道』1984年8月号,8−9参照)
次の質問をします。
「信仰の耳をもって聞く」とはどういう意味でしょうか
生徒用手引きから「ハンター大管長はキリストについて揺るぎない証を述べた」(254−
255ページ)を読みます。「今この時期に,神の目的が果たされる」ために,生徒はどのよ
うなことができるかを深く考えるように言います。
生徒用手引きから「ハワード・W・ハンター大管長に最後の賛辞がささげられた」(255
ページ)を,声を出して読んだ後に,あなたの証を述べて締めくくります。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
201
第15章
ゴードン・B・ヒンクレー
busath.com
第15代大管長
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
202
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
第1部――幼年期,青年期
歴史的背景
ゴードン・B・ヒンクレーは1910年6月23日に誕生しました。その当時の大管長はジョセ
フ・F・スミスでした。教会の会員数は約40万人で,儀式を執行している神殿は次の4か所
でした。ソルトレーク神殿,ユタ州セントジョージ神殿,ユタ州ローガン神殿,ユタ州マ
ンタイ神殿。
ゴードン・B・ヒンクレーの祖父アイラ・ヒンクレーは10代のときイリノイ州ノーブー
で教会に入り,1850年に開拓者とともにユタへ向かいました。アイラはユタのコーブフォ
ートを築く割り当てを受け,後にユタ中部のミラードステークの会長を務めました。ゴー
ドンの父ブライアント・ヒンクレーはソルトレーク・シティーのリバティーステークでス
テーク会長会顧問を約18年間務めた後,11年にわたってステーク会長を務めました。
出来事,特筆事項,教え
ゴードン・B・ヒンクレーの両親と祖父母は信仰の模範を示した
以下の資料を使ってワークシートを作ります。生徒二人につき1枚のワークシートを配っ
て,生徒用手引きから以下の質問の答えを見つけさせます。全員で答えを検討します。
)
(正解はカッコ内に記されています。
生徒用手引きから「ゴードン・B・ヒンクレーの生涯におけるおもな出来事」,「ゴード
あつ
ンは開拓者の受け継ぎを持つ」,「ゴードンの父は頑健で,信仰の篤い人だった」,「ゴード
ン・B・ヒンクレーが誕生した」(257−259ページ)を参考にして,以下の質問の答えを見
つけるように言います。
1. ゴードン・B・ヒンクレーの簡単な家系図の空欄を埋めてください。
父方の祖父:(アイラ・ナサニエル・ヒ
ンクレー)
父:(ブライアント・S・ヒン
クレー)
父方の祖母:(アンジェリン・ウィルコ
ックス・ノーブル)
ゴードン・B・ヒンクレー
母方の祖父:(ブレンマン・バー・ビト
ナー)
母:(エイダ・ビトナー)
母方の祖母:(サラ・アン・オスガソー
プ)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
203
2. ゴードン・B・ヒンクレーの先祖であるトーマス・ヒンクレーは初期のマサチューセッツでど
のような指導的役割を果たしていたでしょうか。
(プリマス植民地の総督)
3. ユタの南北を縦断する幹線道路を行き来する聖徒たちにとって,ゴードン・B・ヒン
クレーの祖父アイラ・ヒンクレーはなぜ大切な存在だったのでしょうか。(アイラは
とりで
旅人に宿泊,食糧,安全を提供する砦を築いて,管理していた。)
4. ブライアント・ヒンクレーが受けた教育と就いた職業を説明してください。(ブライ
アントはユタ州プロボのブリガム・ヤング・アカデミーを卒業後,ニューヨーク州
ポーキプシーのイーストマンビジネスカレッジで学んだ。ブリガム・ヤング・アカ
デミーで教えた後,ユタ州ソルトレーク・シティーのLDSビジネスカレッジの学長
を務めた。)
5. 1908年7月にブライアントの最初の妻に何が起きたでしょうか。そのとき二人には何
)
人の子供がいたでしょうか。
(妻は他界した。二人には8人の子供がいた。
6. ブライアントは再婚相手にどこで会ったでしょうか。彼女は何という名前だったでし
)
ょうか。(LDSビジネスカレッジ。彼女はエイダ・ビトナーという名前だった。
7. ブライアントとエイダの間で最初に生まれた息子の将来にはどのように特別な務めが
)
待っていたでしょうか。
(教会の大管長となった。
8. 母が他界したとき,ゴードンは何歳でしたか。
(20歳)
9. ゴードンは何歳のときユタ大学を卒業しましたか。
(21歳)
10. ゴードンは大学を卒業した後,何をしましたか。
(イギリスへ伝道に行った。
)
ゴードン・B・ヒンクレーは大管長に召された後まもなく,自分が両親と先祖から受け
継いだものについて語っていることを生徒に話します。
「祖父は,まだ少年だった1836年の夏にカナダのオンタリオ州でバプテスマを受け
ました。祖父の母親は夫に先立たれ,後に二人の子供を連れてイリノイ州のスプリン
グフィールドへ移りました。祖父はそこからさらに徒歩でノーブーへ行き,そこで預
言者ジョセフ・スミスの話を聞きました。1846年に教会員が西部への移動を始めたと
き,祖父は体力,能力,信仰を備えた18歳の若者になっていました。彼は大型の荷馬
か じ
車を作る腕のよい職人で,鍛冶の技術も持っていました。祖父は,西へ向かう人々を
助けるためしばらくアイオワにとどまるようにと,ブリガム・ヤングから頼まれた
人々の一人でした。1848年に結婚し,1850年の春にこの峡谷に向けて出発しました。
しかし,この過酷な旅の途中に,彼の若い妻は病気にかかり,他界しました。彼は
自分の手で墓穴を掘り,丸太をひいてひつぎを作りました。そしてねんごろに妻を葬
ると,涙ながらに生後11か月の子供を腕に抱き,この峡谷へ向かう旅を続けたのです。
この山間の峡谷へ教会員を入植させるために,それに伴う数々の困難な仕事を行う
よう,ヤング大管長から繰り返し召された人々がいましたが,祖父もその一人でした。
彼はシオンのミラードステークの会長を務めました。ステークの数がごくわずかな時
代で,祖父はユタ中部の広大な地域を含むミラードステークの中を,ある時は馬や馬
車で,何千キロも旅し,責任を果たしました。学校を設立するために惜しみなく私財
を投じたために,かつてはかなりあった財産も,他界したときにはわずかばかりにな
っていました。
祖父同様に,父も信仰の篤い人で,ゆだねられた多くの責任を果たし,教会のため
に惜しみない奉仕をしました。父は長年にわたり,会員数1万5,000人以上の,当時の
教会では最大のステークを管理しました。母と祖母も同じように信仰篤い人でした。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
204
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
教会からの様々な要請もあって,二人の生活は必ずしも楽なものではありませんでし
たが,不平を口にすることはありませんでした。二人とも明るく,また献身的に責任
を果たしました。
」
(
「主のみ業」
『聖徒の道』1995年7月号,75)
両親はゴードンにイエス・キリストを信じる信仰を教えた
ゴードン・B・ヒンクレーの両親はゴードンに義の模範を示しただけでなく,イエス・キ
リストを信じる信仰を教えたことを生徒に話します。ヒンクレー大管長は後に,自分の生
涯で霊的な成長を始めたこの時期についてこう語りました。
「記憶をたどると,わたしが最初に霊的なものを感じたのはまだ5歳くらいのとき
でした。わたしは耳が痛くてよく泣いていました。当時は特効薬のようなものはあり
ませんでした。85年も昔のことです。母は食塩を袋に入れ,それをストーブにかざし
て温めました。父はわたしの頭にそっと手を置いて,聖なる神権の権能とイエス・キ
み な
しっせき
リストの御名によって祝福を与え,痛みと病を叱責しました。それから父はわたしを
やさしく両腕に抱いて,温かい塩の袋を耳の上に置いてくれました。痛みは治まり,
去っていきました。わたしは父に抱かれながら安心してまどろんでいました。眠りに
いや
入ろうとしたときに,癒しの祝福で言われた言葉が心の中でこだましていました。主
の御名によって神権の権能が行使されたことについて,これが記憶に残っている最も
古い経験です。
10代の半ばごろまで,わたしは弟と一緒の寝室を使っていました。その部屋は冬で
も暖房がありませんでした。その方が健康的だと考えられていたからでした。暖かい
ベッドに入る前に,わたしたちはひざまずいてお祈りをしました。簡単に感謝の気持
ちを述べ,イエスの御名によって終えました。当時の祈りでは,キリストの称号をは
っきりと言葉に出して言うことはあまりありませんでした。
アーメンと言ってから急いでベッドに飛び込むと,首まで毛布を引き上げて,御子
の御名によって天父に話したことについて考えました。福音の知識はたいしてありま
せんでしたが,主イエスを通して天と交わりを持ったことについて平安と安心感が心
あかし
『リアホナ』2000年7月号,83−84)
に残るのを感じていました。
」
(
「わたしの証」
次の質問をします,親はどのような機会を活用して子供に教えることができるでしょう
か。続いて,生徒用手引きから「ヒンクレー家では家庭の夕べを開いていた」
(260ページ)
を読みます。機会をとらえて,少なくとも一度は家族に証を述べるか,福音を大切にして
いる気持ちを伝えるように励まします。
大管長会で顧問を務めていた時代にゴードン・B・ヒンクレー管長が語った以下の話を
読みます。
「福音を伝えるのに最も説得力があるのは,忠実な末日聖徒の模範的な生活です。
ニーファイは,多くの者が『少しばかり偽りを言い,人の言葉に付け込んで欺き,隣
人を陥れる穴を掘り……価値のないもののために正しい者を退け,善いことをののし
って,それは何の価値もないと言う者は,災いである』と指摘していますが(2ニー
ファイ28:8,16)
,わたしたちは,このような状態にいとも簡単に陥ってしまう,誘
惑の多い困惑した時代に住んでいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
205
山上の垂訓で主はこう言われました。『そのように,あなたがたの光を人々の前に輝
かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父
をあがめるようにしなさい。
』
(マタイ5:16)
もしもわたしたちが誠実な人生を歩み,正直で徳高い行いをし,黄金律という簡潔
で基本的な,すばらしい原則を実践するならば,それを見て人々は興味を持ち,もっ
とよく知りたいと思うことでしょう。わたしたちは,明かりを隠すことのできない山
の上の町のようにならなければなりません(マタイ5:14参照)
。
」
(
「教会員数500万人
到達――発展への道しるべ」
『聖徒の道』1982年7月号,83−84)
子供たちの生活において親はどのようにして「福音を伝えるのに最も説得力がある」存
在となることができるかについて話し合います。
ゴードンは少年時代に熱心に働くことの価値を学んだ
生徒用手引きから「ゴードンは少年時代に教訓を学んだ」(259−260ページ)を読んで,
以下の質問の答えを見つけさせます。
• ゴードン・B・ヒンクレーは「怪物のような暖房設備」からどのような教訓を学んだの
でしょうか。
• 熱心に働く彼の能力は教会指導者としての功績に,どのように役立っていると思いま
すか。
大管長会で顧問を務めていた時代にゴードン・B・ヒンクレー管長が語った以下の経験
を紹介します。
「1週間前,わたしは興味深い経験をしました。正式な割り当てではなかったので
すが,ユタ州南東部の農村地帯のあるステーク大会に出席しました。そこのステーク
会長ご夫妻が,わたしたち夫婦を自宅に泊まるように招待してくださったのです。ス
テーク会長が土曜の午後の部会の指導をしている間に,ステークの中の小さな町を6
つほど回りました。どこの町にも教会堂があります。建物は皆小さく,中には年月の
たっているものもありましたが,どこも芝生が美しい緑色で,建物もきちんと手入れ
されていました。さらに車を走らせて,町の家並みを見ると,どの家も質素ではあっ
ても,ほとんどの場合手入れが行き届き,家の周囲には草花が美しく咲いていました。
訪問の割り当てのなかったこの土曜日と日曜日,わたしは人々の信仰と忠実さに感謝
の気持ちを表し,そうした人々にわたしの愛を伝えたいという,ただそれだけの思い
でこの旅行を計画しました。その住民の大部分は,一生懸命に働き,わずかな収入を
得ている農家の人々です。しかし,偉大な真理を知っている人々であり,『あなたが
たは,何であろうとまいたものをまた刈り入れるからである』という収穫の律法を知
っている人々なのです(教義と聖約6:33)
。
農家の人々はオート麦をまいて小麦を刈り入れることなどあり得ない……ことを知
っています。そして,立派な次の世代を育てようとするなら,将来に対する展望と信
仰をもって働かなければならないことも知っています。人は,夢を抱いて計画し,奉
たまもの
仕をして犠牲を払い,祈って働く必要があるのです。」(「あなたの内なる神の賜物を
伸ばしなさい」
『聖徒の道』1990年1月号,95)
ヒンクレー家では書物と教育を大切にした
わたしたちは若いときに,働くことを学ぶだけでなく,生涯を通じて祝福となる学問を愛
する気持ちをはぐくむことができます。このことを生徒に説明します。学ぶ意欲と働く能
力は結びついていることが多いものです。生徒用手引きから「ヒンクレー家では家庭で学
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
206
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
ぶことを大切にした」
(260−261ページ)を復習します。学問を奨励するためにヒンクレー
家ではどのような機会が与えられていたかを見つけさせます。それらを黒板に書き出しな
がら,この項を教えるとよいでしょう。それから以下の質問をします。
• 子供たちに読書を奨励するために,家に良書を置くことはどのように役立つでしょうか。
• 預言者や偉大な思想家の著書はゴードン・B・ヒンクレーにどのような影響を与えたと
思いますか。
ゴードン・B・ヒンクレーは青年時代に,ジョセフ・スミスについて強い証を得た
生徒に,ジョセフ・スミスが神の預言者であることを初めて知ったときのことを覚えてい
るかどうか尋ねます。生徒は,ゴードン・B・ヒンクレー大管長など教会の指導者たちが
どのようにして,預言者ジョセフ・スミスについての証を得たかを知りたいと思っている
ことでしょう。生徒用手引きから「ゴードンはジョセフ・スミスについて強い証を得た」
(262ページ)を復習して,話し合います。賛美歌を通して同じような経験をしたことのあ
る生徒がいるかどうかを尋ねます。
ゴードンは難しい質問に答える方法を学んだ
多くの教会員と同じように,ゴードン・B・ヒンクレーは若いころ教会や福音について分
からないことがたくさんありました。ゴードンは答えを見つけたいと真剣に願い,そして
疑いの気持ちを克服しました。生徒用手引きから「ゴードンは信仰によって疑問を解消し
た」(263ページ)を復習します。ブライアント・ヒンクレーは息子の疑問にどう答えたか
に注目させます。
ゴードン・B・ヒンクレーは両親から学んだ方法が後の人生で役立ちました。自分の子
供や教会員,メディアから受ける質問に対して丁寧に答えてきました。あるとき,ニュ
ーヨークのマンハッタンにあるミッドタウンの誉れ高いハーバードクラブに招かれまし
た。そこには新聞やテレビの編集者を含む著名人が集まっていました。そのときの様子
を記した以下の話を紹介します。
「30人くらいの有識者が意見を交わしやすい形にいすを並べて座っていました。昼
食が終わると,マックスウェル長老は,ヒンクレー大管長が若い宣教師だったころ,
ぶらいかん
ロンドンのハイドパークで無頼漢に教えを説いた経験を紹介しました。……その話を
きっかけとして,なごやかで,時にはユーモアを交えた話し合いの雰囲気になりまし
た。ヒンクレー大管長は教会の世界的規模の活動を概説し,伝道,人道支援,教育活
動について話してから,質問に応じることになりました。
質問された事柄の一部は予想がつくものでした。女性と神権の問題,破門と教会内
の意見の相違についての質問がありました。さらに教会が家族歴史の探求に力を入れ
ていることについて発言がありました。メディア関係のある役員は教会と会員を取り
巻く誤解について大管長に詳しい説明を求めました。ヒンクレー大管長は一つ一つの
みじん
質問に率直に答えました。ためらいやぎこちなさは微塵も感じられませんでした。話
し合いの時間が終わろうとするころに,一人の出席者がこう言いました。『ヒンクレ
おく
ー大管長,難しい質問にも臆することなく答えておられますね。以前わたしは,教会
には秘密主義のようなところがあると感じていました。ここに出席いただいたことに
よって,あなたは率直な方であることが分かりました。教会は以前に公開してこなか
った面を公開していくという新しい方針を取っているのでしょうか。』ヒンクレー大
管長はこう答えました。『わたしたちが話さない事柄が一つだけあります。それは神
殿の中で行われる神聖な業です。……わたしたちはそこで聖約を交わし,儀式を行い
ます。それは神聖であって,人前では話さない性質の事柄なのです。……ほかのこと
については何でもお話しします。
』
」
(シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith:
,537−538)
The Biography of Gordon B. Hinckley〔1996年〕
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
207
以下の質問の答えについて話し合います。
• 他人を不快な気持ちにさせずに,福音を率直に伝えるにはどうすればよいでしょうか。
• 答えを知らない質問を受けた場合は,どう対応すればよいでしょうか。
ゴードンはイギリスで伝道した
生徒に,ゴードン・B・ヒンクレーがどこで伝道したか知っているか尋ねます。(イギリ
スのロンドンに本部を置いたヨーロッパ伝道部。)伝道費用をどのようにして工面したか
を説明できる生徒がいるか尋ねます。生徒用手引きから「母の死」と「ゴードンはイギリ
スで伝道する召しを受けた」の段落2(264ページ)までを復習します。次に,ヒンクレー
長老はどのようにして落胆に打ち勝ち,優れた宣教師となったかを,「ゴードンはイギリ
スで伝道する召しを受けた」の残りの段落(264−265ページ)から一人の生徒に読んでも
らいます。以下の質問をします。
• 「伝道に打ち込む」とはどういう意味だと思いますか。
• ゴードン・B・ヒンクレーの伝道経験は,すばやく考える能力や「当意即妙の話術」を
身に付けるのにどのように役立ったでしょうか。
ゴードンはマージョリー・ペイと結婚した
マージョリー・ペイとゴードン・B・ヒンクレーの求婚と結婚について知っていることを生
徒に話してもらいます。必要であれば,生徒用手引きを参照します。(「ゴードンは永遠の
はんりょ
伴侶を見つけた」,「結婚生活には調整を必要とする時期があった」,「ゴードンは家を建て
た」266−267ページ参照。
)以下の質問の答えについて話し合います。
• ゴードンとマージョリーはいつ出会い,ゴードンはマージョリーのどのようなところ
ひ
に最も惹かれたでしょうか。
• ヒンクレー大管長には出会ったころのマージョリーについてどのような思い出がある
でしょうか。
• 結婚生活を始めたころ,マージョリーは新しい生活に適応するためにどのようなこと
について苦労したでしょうか。
• 家族は初めて建てた家での生活はどのようなものであったと述べましたか。
ヒンクレー大管長が妻のマージョリーにあてて書き送った以下の称賛の言葉を紹介しま
す。ヒンクレー姉妹は具体的にどのような方法で夫を支えたかに注意して耳を傾けるよう
に言います。
「子供たちがまだ幼かったころ,あなたと一緒に旅をすることはほとんどありませ
んでした。時には2か月間も家を留守にすることがありました。当時,家に電話する
ことは許可されていませんでしたから,お互いによく手紙を書きましたね。あなたは
決して不平を漏らしませんでした。家に帰って,あなたや子供たちから温かく抱かれ
るのは至福の思いでした。
最近は,遠く広い地域を一緒に訪れています。全大陸を訪れました。世界の大都市
で,また多くの小さな町でも集会を開いてきました。世界の著名人と会いました。数
百万の人々に語りかけてきました。彼らはあなたに感謝を表しました。あなたの打ち
解けた話し方が,聞くすべての人の愛を勝ち取ってきたのです。現実に則した良識,
才知きらめくさわやかな機知,物静かで,尽きることのない知恵,そして並外れた揺
るぎない信仰が,あなたの言葉に耳を傾けるすべての人の心をとらえるのです。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
208
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
あなたはわたしの批評家であり,審査員でした。靴が汚れていないか,スーツにア
イロンがかけられているか,ネクタイがまっすぐかどうかに気を遣ってくれました。
公の場で受けるお世辞をわきに押しのけ,正直で愛のある友の誠実な言葉を選んでく
れました。へつらいという昔からの欺きを遠ざけ,わたしがしっかりと地に足をつけ
られるようにしてくれました。あなたに心から感謝しています。
」
(バージニア・H・
,194)
ピアス,Glimpses into the Life and Heart of Marjorie Pay Hinckley〔1999年〕
ヒンクレー姉妹が夫に与えた影響について語った十二使徒定員会のデビッド・B・ヘイ
ト長老とL・トム・ペリー長老の以下の話を活用するとよいでしょう。
「ヒンクレー長老は,最愛のマージョリー・ペイ姉妹と結婚してから,その霊的な強さと
主の業を進める望みがさらに高揚しました。ヒンクレー姉妹は,……霊的な励ましを与え
てきました。
(
」
「新しい預言者への支持」
『聖徒の道』1995年7月号,41参照)
「ヒンクレー大管長については,今後大管長の任期中に多くが語られ,そして書か
れるでしょう。しかし,大管長の愛する妻,マージョリー姉妹について書かれること
は,それほど多くはないはずです。……教会の姉妹たちにとって,そして世の女性す
べてにとって,ヒンクレー姉妹はすばらしい模範でした。これからもそれは変わらな
いでしょう。ヒンクレー姉妹は,忠実で協力的な,大管長にとってかけがえのない伴
侶なのです。……
恵まれて,妻とわたしは教会の仕事で,長年ヒンクレー大管長夫妻と旅を共にして
ほが
きました。旅行中,ヒンクレー姉妹はいつも前向きで,朗らかです。姉妹のそんな熱
心で協力的な姿勢が,大管長の励みになっているのは明らかです。わたしたちの旅行
の多くは,長くて体力的につらいものです。理想的とは言えないスケジュールもしば
しばです。宿泊先も四つ星ホテルどころか,ずっと格下げの場合もあります。しかし,
どんな混乱や不便,チャレンジのさなかでも,ヒンクレー姉妹はいつもの朗らかな性
格そのままに平静さを保っています。目的地に着き,飛行機のタラップを降りて聖徒
たちにあいさつする度に,ヒンクレー姉妹の優しい愛にあふれた心が周囲に伝わって
いくようでした。姉妹は,神権指導者の夫を支持して長所を引き出すための規範を作
ったのです。
」
(
「選ばれた婦人」
『聖徒の道』1995年7月号,78−79)
ゴードン・B・ヒンクレーは多くの任務を通して主から教えを受けた
ゴードン・B・ヒンクレーが中央幹部に召されるまで携わっていた仕事にはどのような特
徴があったかを生徒に尋ねます。彼は長年にわたって教会本部で働き,様々な役職に就い
たことを生徒に話します。それらの任務を通して教会員に対する思いと理解を深めたこと
を説明します。十二使徒定員会会員のボイド・K・パッカー長老の以下の言葉を読んで話
し合い,「心を痛める人々のための委員会」とは何かを説明する準備をしておくよう生徒
に言います。
けんそん
「神の王国で謙遜にまた大いなる働きをなす人には,自己の不十分さに気づかせてく
れる特別な性質や特質が賜物として与えられていることが不可欠だと思われます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
209
しかし,そのような『賜物』はそう度々表面に出て来るものではありません。それ
は,普通は奥深く隠れているものです。しかしその賜物を持っている人を見ていると,
ふとしたときに,モーセが偉大な示現を通して学んだ教訓を,その人もすでに学んで
いることが分かります。その示現を見た後でモーセはこのように言っています。『今
これで,わたしは,人は取るに足りないものであることが分かった。このことは,思
ってもみないことだった。
』
(モーセ1:10)
ゴードン・B・ヒンクレーの性格にもそのようなところがあります。本人も認めて
いるように,少年時代に内気だったというところにそれがうかがえます。この『賜物』
がなかったら,高い地位のゆえに,一般の人々の感情や必要なものに対して,また夫
に先立たれた人や,子供,貧しい人々に対して関心を示すことはなかったかもしれま
せん。しかし彼は,そのような人々の必要に気づき,常に心にかけているのです。
『わたしには一般の教会員の気持ちがよく分かります。わたしもその一人ですから。』
彼はこう語っています。
ヒンクレー兄弟は,非公式に『心を痛める人々のための委員会』と呼ばれていた委
員会で数年間働きました。この委員会では,重大な罪を犯した人々の問題が取り扱わ
れていました。彼は,罪の意識にさいなまれている人々に対して,また特にその罪の
犠牲となった無実の人々に対して,心からの同情を寄せています。
弱い立場の者へのそうした思いやりは,権威の乱用や横柄な重役,学歴偏重社会,
家庭生活での無分別な行動,この世的な見せかけといったものに対してヒンクレー兄
弟が述べた不満にも表れています。」(「ゴードン・B・ヒンクレー第一副管長」『聖徒
の道』1986年10月号,11参照)
いかり
ゴードン・B・ヒンクレーは家族にとって錨のような存在だった
ゴードン・B・ヒンクレー大管長の息子が語った,父親が家族に及ぼした影響についての
以下の言葉を紹介します。ヒンクレー大管長の証と模範がこの息子にどのような影響を与
えたかについて生徒に考えさせます。
「わたしの関心事について父とあまり話した覚えはありませんが,父が福音は真実
であると知っていることは,心の中で分かっていました。それがわたしにとってはと
ても大切なことでした。父は錨のような存在でした。それは,父が自分の気持ちをは
っきりと語ったからではなく,ただ父は知っているんだ,とわたしが感じていたから
です。父にとって神は実在し,個人的なつながりのある存在でした。父の祈りから信
仰の深さが分かりました。父はわたしたちのために,また踏みつけられ虐げられた
人々や,孤独で恐れおののく人々のために祈りました。父はよく,『悔いなく生きら
れるようにお祈りします』と言いました。」(リチャード・ゴードン・ヒンクレー,
M・ラッセル・バラード共著「ゴードン・B・ヒンクレー第一副管長」『聖徒の道』
1994年10月号,15参照)
以下の質問をします。
• ヒンクレー大管長はどのような言葉をよく口にしていたでしょうか。それはあなたに
とってどのようなことを意味していますか。
• 両親は,たとえ頻繁に口にしなくても,福音の証を持っていることを子供たちに知ら
せるために,どのようなことができるでしょうか。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
210
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
第2部――壮年期,青年期
歴史的背景
ゴードン・B・ヒンクレーは大管長に召されるまでに,約14年間大管長の顧問を務めました。
彼が神殿を奉献した数は,過去の大管長が奉献した数の合計を超えています。ヒンクレー管
長が1981年に大管長会の顧問に召されたとき,それまでに奉献された神殿は,カートランド神
殿とノーブー神殿を含めて21でした。しかしヒンクレー大管長は,1983年6月から2004年6月ま
でに,儀式を執行している120のうちの84以上の神殿を奉献または再奉献しました。この期間
は,現在の神権時代において神殿建設が最も集中して行われた時期となっています。ヒンクレ
ー大管長は神殿のほかに,教会の重要なプロジェクトを数多く手がけました。たとえば,2万
1,000席を持つカンファレンスセンターが建設されて,2000年10月に奉献されました。この施設
には歴史的に由緒のあるソルトレーク・タバナクルよりも多くの会衆を総大会の際に収容するこ
とができます。
ゴードン・B・ヒンクレーが大管長となった1995年に,教会は2,150のステークと307の
伝道部に930万人以上の会員を擁し,47の神殿を持っていました(2004 Church Almanac
〔2004年〕,444,582参照)。2003年末までに教会は2,624のステークと337の伝道部に1,198
万人の会員を擁し,116の神殿を持つまでになりました(『リアホナ』2004年5月号,26参
照)
。
教会はヒンクレー大管長の霊感あふれる指導の下で,教会歴史上最も意欲的に神殿建設
に取り組んだだけでなく,重要なプログラムを展開してきました。能力が十分でないため
に貧困から抜け出せない人々を救済することを目的として,ヒンクレー大管長は永代教育
基金を設立しました。この基金によって,「高い理想を持った男女は,その多くは帰還宣
教師ですが,学校に通い」,就職に役立つ技術を身に付けるための資金を借りることがで
きます。(
「永代教育基金」『リアホナ』2001年7月号,61)
2003年1月11日には,教会で増え続ける新任の指導者たちの訓練をいっそう効果的に実
施するため,初めての世界指導者訓練集会が衛星中継により世界中のステークセンターで
行われました。そして2004年4月には教会の発展に伴い,七十人第6定員会が組織されまし
た。
出来事,特筆事項,教え
ゴードン・B・ヒンクレーは使徒に召された
生徒用手引きから「ゴードン・B・ヒンクレーは使徒に召された」(267−268ページ)を
復習して,話し合います。また,ゴードン・B・ヒンクレー長老が使徒として初めて総大
会で行った以下の説教を読みます。
「昨日の朝,ロムニー姉妹と話していたときに,目の表情からわたしがこの責任に
召されたことが分かったそうです。そのことを,午後になってからロムニー姉妹に言
われました。実を言うと,わたしは涙を流し,祈っていたのです。
主を受け入れようとしない世界を前にして主イエス・キリストの証人として立つこ
の責任に少し重圧感を覚えています。
『主イエスの愛にただ驚いています。
』主の預言
者から寄せられた信頼とこれら中央幹部の兄弟たちが表してくださった愛に圧倒され
ています。……わたしは力を与えられるよう祈っています。また助けを求めて祈って
います。信仰と従う意思を求めて祈ります。この業が定められているように前進する
ためには,わたしを含めたすべての人が訓練される必要があると感じています。」
(Conference Report,1961年10月,115−116)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
211
以下の質問をします。
• ゴードン・B・ヒンクレーは使徒に召されたとき何歳で,それまで何年間教会本部で働
いてきたでしょうか。
• 使徒の召しに対するヒンクレー長老の気持ちに祖父と父親の生活はどのような影響を
及ぼしていたでしょうか。
• この「大いなる業を前進させる」ためにわたしたちはどのような方法で自分を訓練す
る必要があるでしょうか。
ヒンクレー大管長は世界の人々を愛している
次のことを生徒に尋ねます。多くの帰還宣教師は自分が働いた地域や人々に対する気持
ちをどのように述べるでしょうか。任地の文化や生活環境への順応がたとえ非常に困難
であったとしても,奉仕した人々に対して強い親近感を持つことが多いのはなぜか話し
合います。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は教会へ奉仕した間,世界中を訪れ,行く
先々で聖徒に対する愛をはぐくんできたことを生徒に話します。特にアジアの人々を深
く愛するようになりました。
この手引きの219ページにある香港,日本,韓国,台湾,フィリピンを含む東南アジア
の地図を見せます。ゴードン・B・ヒンクレーは使徒に召される以前,十二使徒定員会補
助としてこれらの国々をはじめアジア地域における教会活動を監督する責任を果たして
いたことを生徒に話します。この地域を監督するよう依頼されたときに,当時のわずか
な知識について述べた以下の説明を紹介します。
「アジアとそこに住んでいる人々についてヒンクレー長老が知っていたことといえ
ば,百科事典に書かれている内容程度のものでした。すなわち,地球を半周したかな
たにあること,広大な地域であること(世界の陸地の約30パーセント),世界で最も
人口密度の高い都市が幾つかあり,世界の人口の約半数が住んでいること,英語とは
まったく異なる様々な言葉を話すことなどにすぎませんでした。過去に東洋系の人と
親しくした経験がなく,アジアの人に対して特定の感情は何ら抱いていませんでし
た。
」
(シェリー・L・デュー,Go Forward with Faith: The Biography of Gordon B.
,210)
Hinckley〔1996年〕
次の質問をします。奉仕する地域も人々もほとんど知らないヒンクレー長老になぜこの
召しが与えられたと思いますか。
ヒンクレー長老は1960年代初頭にアジア諸国を頻繁に,また数週間にわたり旅行したこ
とを生徒に話します。これらの地でヒンクレー長老が行った以下の事柄を黒板に書き出し
ます。伝道部会長を教え導いた。宣教師を励まし,指導した。聖徒たちを教え,必要を満
たすために力を尽くした。教会建物の用地購入を助けた。指導者を訓練した。
以下の説明を読んで,ヒンクレー長老はともに働いたアジアの人々に対してどのような
思いを抱いていたかを生徒に聞き取るように言います。
「ヒンクレー長老はアジアの人々に親近感を抱いていました。不屈の精神を持った
これらの人々の誠実さ,才覚,勤勉さに敬服していました。幾分形式張っていました
が礼儀正しく親切な態度に魅せられていました。教会はまだ小さく,苦難の道を歩ん
でいましたが,わずかな人数ながらも,会員たちに秘められている可能性をヒンクレ
ー長老は見抜いていました。
」
(デュー,Go Forward with Faith,220)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
212
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
次の質問をします。ヒンクレー長老がアジアの教会を監督する責任を受けて以来,教会
はこれらアジアの国々でどのような進歩を遂げてきたでしょうか。(本書の220ページにあ
る,神殿とステークの数を示した地図を見せるとよいでしょう。
)
1987年にヒンクレー管長はアジアの国々における教会の成長とアジアの会員たちの信仰
について次のように語りました。
「今から27年ばかり前の1960年に,わたしは大管長会からアジア地域の伝道部会長,
宣教師,聖徒とともに働くという責任を頂きました。当時のアジアの教会は弱く,小
規模でした。忠実な末日聖徒の軍人たちによって日本,台湾,韓国などに種がまかれ
ましたが,それはまだまだ小さく,不安定なものでした。教会所有の建物は一つもな
く,賃貸の建物にわずかな数の人々が集っていました。冬になると寒くて居心地がよ
くありませんでした。改宗して教会に入っても,信仰が弱いためにすぐに離れ去って
しまう人もいました。しかし,当座の難儀にめげずに将来へ目を向けた,証の強いす
ばらしい兄弟姉妹が残っていました。彼らは自分たちの力は,建物ではなくメッセー
こんにち
ジの中にあることを理解していたのです。彼らは今日まで信仰を守り続け,その数は
何倍にも増えていきました。
数週間前の日曜日に,わたしたちは東京で地区大会を開きました。大きなホールが
満員になるほど多くの人が集いました。今朝ソルトレーク・タバナクルに集っている
みたま
方々とほぼ同じくらいの数の人が出席しました。主の御霊が注がれ,大勢の会衆の心
が信仰の精神で満たされました。まだ力もなく,会員数も少ないころの教会の様子を
知っているわたしにとって,その光景はまさに奇跡でした。わたしはそのことを主に
感謝しています。
香港でも同じような経験をしました。今香港にはシオンのステークが4つ組織され
ています。
また韓国のソウルでも,市内で最も大きなホールのすべての座席が末日聖徒イエ
ス・キリスト教会の会員とその招待客で埋め尽くされているのを見て大きな感動を覚
えました。320人編成のすばらしい合唱団の歌う『麗しき朝よ』(『賛美歌』18番)に
よって集会が始まりました。預言者ジョセフ・スミスの最初の示現を感動的に歌い上
げてくれました。
わたしはあの恐ろしい戦争の後の貧困と再建の時代の韓国を知っています。わたし
が最初に韓国に行ったときは,ソウルに6人,プサンに2人の宣教師がいるだけで,そ
のうちの幾人かは肝炎を患っていました。それが今では目覚ましい発展をしている伝
道部が4つあり,地元韓国出身の多数の宣教師も含めて,約600人の宣教師が働いてい
ます。地元出身の宣教師の中には,信仰の光を心に燃えたたせている,明るく美しい
姉妹たちもいますし,伝道のために休学している兄弟たちもいます。この韓国の若い
男性たちには,教育を受ける義務のほかに,兵役の義務もあり,かなり大きなプレッ
シャーがかかっています。しかし,彼らの心の中には信仰があります。
わたしが最初に韓国を訪れたときには,2,3の小さな支部があるだけでしたが,今
ではワード,支部合わせて150のユニットがあります。当初は,北部極東伝道部の片
隅にある小さな地方部で,教会所有の集会所もありませんでした。それが現在では14
のステークが組織され,教会所有の集会所は47,賃貸の建物は52,ほかにも建築中の
建物を幾つか持つまでに成長しているのです。
心に深い感動を覚えた3週間前のあの集会で,わたしは御霊を感じ,信仰が結んだ
ま
すばらしい実を目の当たりにすることができました。わたしは世の人々にまったく知
られることのなかった教会の当初の苦闘を知っていますし,当時の人々の貧しい生活
も知っています。しかし今では力を蓄え,想像もつかなかったほどの繁栄を見ていま
す。温かなフェローシップの精神があふれ,献身的な両親が善良でかわいい子供たち
に囲まれて,家庭生活を営んでいます。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
213
わたしはその信仰のゆえに彼らを愛しています。彼らは知性があり,高い教育を受
けています。また勤勉で進歩的であり,謙遜で絶えず祈りを欠かすことがありません。
彼らは全世界の人々への模範です。」(「主よ,わたしたちの信仰を強めてください」
『聖徒の道』1988年1月号,58−59)
以下の質問をします。
• 教会における成長についてヒンクレー大管長が語った事柄を考えると,あなたの地域
の教会はどのように成長してきたでしょうか。
• あなたにとって忠実な末日聖徒の模範となる人はだれですか。
ゴードン・B・ヒンクレーは3人の大管長の顧問を務めた
以下の質問をします。
• ゴードン・B・ヒンクレー大管長の前に大管長を務めた3人はだれでしょう。(スペンサ
ー・W・キンボール,エズラ・タフト・ベンソン,ハワード・W・ハンター)
• ゴードン・B・ヒンクレー大管長はどのような召しを受けてこの3人の大管長に直接仕
えたでしょうか。
(それぞれの大管長の顧問を務めた)
ゴードン・B・ヒンクレーは約14年間にわたって顧問を務めたことを生徒に話します。3
人の大管長に仕えたことにより,教会の運営についての理解を深めました。大管長やほか
の顧問が健康を害したとき,大管長会の責任の多くがヒンクレー管長にかかってきました。
「それは非常に重く,圧倒されるほど大きな責任でした。……時には恐ろしいほどの重荷
でした」とヒンクレー管長は語りました。生徒用手引きから「ヒンクレー長老は副管長に
召された」(268−269ページ)を読み,以下の質問をします。
• ゴードン・B・ヒンクレーの,大管長の顧問としての召しは,後に教会の大管長として
奉仕するためにどのように役立ったでしょうか。
• 特に困難なとき,ヒンクレー管長にとって「安らかにしていて,わたしが神であるこ
とを知りなさい」(教義と聖約101:16)という主の言葉はどのような意味を持ってい
たでしょうか。
• ヒンクレー管長の祈りの答えとなったこの言葉はあなたにとってどのような助けにな
るでしょうか。
「家族――世界への宣言」が発表された.
末日聖徒イエス・キリスト教会では,大管長会と十二使徒定員会が時々,
「宣言」と呼ばれ
る公式な声明を発表してきたことを生徒に話します。このほかに「公式の宣言」や「教義
の解説」と称した公式な声明があります。教会の指導者によるこれらの公式な見解はすべ
て,教会員と世界の人々にとって厳粛で重大な意味を持っています。
1995年9月23日,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は中央扶助協会集会において「家族
――世界への宣言」を読み上げ,これを発表する理由を説明しました。生徒用手引きから
「ヒンクレー大管長は家族の宣言の必要性を説明した」(274ページ)を復習します。それ
から,以下の質問をします。
• この宣言はだれに向けられたものでしょうか。
(標題を参照)
• 家族についての宣言は世界の人々にとってどのように役立つでしょうか。
ヒンクレー大管長が語った次の言葉を紹介して,話し合います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
214
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
「わたしたちはなぜ今,このような家族の宣言を出すのでしょうか。それは,家族
が今危機にさらされているからです。世界中,どこを見ても家族が崩壊しています。
社会の改善を始める場所は家庭の中にあります。子供は,おおかた,教えられるとお
り行動するものです。わたしたちは,家族を強めることによって,世界をより良いも
のとする努力をしているのです。
」
(
「大管長会メッセージ――霊的な思い」
『聖徒の道』
1997年8月号,5)
「国家が,家庭の持つ力以上に,強くなることはありません。もし国家を改革した
いと思うなら,家庭から始める必要があります。親が前向きで肯定的な原則や価値観
を子供たちに教え,やりがいのある働きへと子供たちを導く必要があります。……親
には,この世において,子供を正しく育てることほど,大きな責任はありません。そ
れに,後に子供たちが誠実で正直な人になり,人生で有意義なことをやり遂げるのを
見ることほど,大きな喜びをもたらしてくれることはほかにありません。
」
(
「それは,
片すみで行われたのではない」
『聖徒の道』1997年1月号,58)
ヒンクレー大管長は家族の大切さについて教えた
クラスを5つのグループに分けて,生徒用手引きから以下の項を読んで話し合う割り当て
を与えます。「ヒンクレー副管長は母親の果たす役割の大切さについて教えた」(270−271
ページ),「離婚の最大の原因は利己心である」(271ページ),「結婚は永遠に続くものであ
る」
(271−272ページ)
,
「『母親の皆さんに神の祝福がありますように』
」
(274−275ページ)
,
「『福音によって子供を育てなさい』」(275ページ)。それぞれの項で教えられている原則に
ついて話し合う時間を3分から5分与えます。それから,これらの原則を実行できる方法に
ついて,短い要約を各グループの代表者に発表してもらいます。
イリノイ州ノーブー神殿の奉献はヒンクレー大管長の父親の夢を実現させた
もし入手できれば,イリノイ州ノーブー神殿の写真を見せます。2002年6月に奉献された
ノーブー神殿は,奉献までの経緯がほかの神殿とは異なっていたことを生徒に話します。
次の質問をします。ノーブー神殿はなぜほかの神殿と異なっているのでしょうか。(聖徒
たちはかつてノーブーに神殿を建てたが,迫害によって追放された。建物は後の1848年に
起きた火災によって崩壊した)
。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長の父親にかかわるもう一つの特別な状況があったこと
を生徒に話します。1930年代にゴードン・B・ヒンクレーの父ブライアント・ヒンクレー
は北部諸州伝道部の伝道部会長を務めていました。ヒンクレー伝道部会長はノーブー地域
の土地の取得と復元計画に着手するために同地を訪れました。ブライアント・ヒンクレー
は当時のノーブーの状態を説明してから,回復計画についてこう語りました。
「かつて繁栄と美しい景観を誇っていたノーブー市とその周辺地帯は,人口1,000人
にも満たない忘れられた村に落ちぶれてしまっていました。昔のモルモンの家屋は何
軒かがしっとりと落ち着いた色に塗り替えられて美しく残されていました。しかし多
くの家屋は跡形もなくなり,緑に覆われた丘陵とミシシッピ川があるだけでした。そ
こには消え失せた栄光の残すわびしい空気が漂っていました。この美しい国の中でこ
の地点ほど魅力的で劇的な歴史を持つ場所はほかにありません。……
この小さな中心地からアメリカの開拓と移民の偉大な物語の新しい歴史が始まりま
した。略奪され,迫害されたこれらの民は不幸を嘆く暇もなく,災いを忘れて働いた
のです。……
ノーブーはアメリカでも屈指の美しい聖地となり,教会の強力な伝道拠点となる定
めにあるのです。
」
(
“The Nauvoo Memorial, ”Improvement Era,1938年8月号,458,
511)
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
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ブライアント・ヒンクレーは1961年に他界したことを生徒に話します。ゴードン・B・
ヒンクレー大管長は1999年の総大会でノーブー神殿が再建されることを発表しました。後
の大会でヒンクレー大管長が語った以下の話を紹介します。
「御霊の促しがあり,また,わたしの父の願望がありました。父はかつてその地域
の伝道部会長を務め,その後ノーブー100年祭を記念する神殿の再建を願いながら,
それを果たすことはできませんでした。わたしたちは1999年4月の大会において,こ
の歴史的な建築物の再建を発表しました。
人々は感激しました。男女を問わず多くの人が力を貸したいと申し出ました。たく
さんの献金や技術が提供されました。今再び,惜しみない犠牲が払われ,預言者ジョ
セフを記念し,また神へささげる物として主の宮を再建することになりました。今年
6月27日の午後,158年前にカーセージでジョセフとハイラムが銃弾に倒れたのとほぼ
同じ時刻に,まばゆいばかりの新しい建物が奉献されました。非常に美しい建物です。
元の神殿が建っていたのとまったく同じ場所に建っています。建物の外寸は元の神殿
と同じです。この神権時代の偉大な預言者である,聖見者ジョセフを記念するのにま
さしくふさわしい建物です。」(「おお,わたしが天使であって,わたしの心の願いを
遂げることができればよいものを」
『リアホナ』2002年11月号,6参照)
ヒンクレー大管長は教会員に神殿を活用することを強く勧めた
ゴードン・B・ヒンクレー大管長が奉献した神殿の数はそれ以前の預言者が奉献した数の
合計をしのいでいることを生徒に話します。ヒンクレー長老が1958年4月に中央幹部に召
されたとき,儀式を執行していた神殿は10しかなく,デビッド・O・マッケイ大管長が11
番目の神殿をニュージーランドのハミルトンで奉献しようとしていました。ヒンクレー管
長が1981年に大管長会で働く召しを受けたとき,この神権時代に奉献された神殿はカート
ランドとノーブー神殿を含めて21でした。ヒンクレー大管長は1983年6月から2004年6月ま
でに,儀式を執行する120の神殿のうち84以上の神殿を奉献または再奉献しました。
生徒用手引きから「『教会は神殿なしに完成されません』」と「ヒンクレー大管長は2000
年までに100の神殿を建設することを計画した」(275−276ページ)を復習します。それか
ら,次の質問をします。ヒンクレー大管長は世界中に神殿を建設することをなぜそれほど
強調してきたのでしょうか。
教会員に神殿を活用することを強く促したヒンクレー大管長の次の言葉を紹介します。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
「様々な規模と建築デザインを持つこれらのすばらしい建物は今や地上の国々に散
在しています。神殿が建てられてきたのは民が全能者の業を進めるためです。神は人
の不死不滅と永遠の命をもたらすために神殿をお与えになりました(モーセ1:39参
照)。神殿は使用されるために建てられました。わたしたちは神殿を活用することに
よって神をあがめるのです。
この大会を始めるに当たって,わたしは兄弟姉妹に教会の神殿を活用するよう強く
お勧めします。
神殿に行って,天の神がわたしたちのために用意してくださった大いなる驚くべき
業を前進させてください。神殿で神の道と神の計画を学びましょう。義と無私の心と
真理の道へ導く聖約を交わしましょう。神権の権能によって執り行われる永遠の聖約
の下で家族を一つに結びましょう。
神殿に行き,わたしたちが受けるのと同じ祝福を過ぎ去った世代にも及ぼすことが
できますように。先祖はわたしたちが今行える奉仕を待っているのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん,皆さんのうえに天の祝福がとどまりますように。エリヤ
の霊が皆さんの心に触れ,皆さんを促し,皆さんなしでは先へ進めない人々のために
働けますように。わたしたちに与えられた栄えある特権から喜びを得られますように。
イエス・キリストの御名により,へりくだってお祈りします。アーメン。」(「おお,
わたしが天使であって,わたしの心の願いを遂げることができればよいものを」『リ
アホナ』2002年11月号,6)
神殿の業についてあなたの証を分かち合ってください。
ヒンクレー大管長は常に前向きで,楽観的である
ゴードン・B・ヒンクレー大管長をどのような人物であると説明するかを生徒に尋ねます。
ヒンクレー姉妹が夫について話した言葉を紹介してから,ヒンクレー大管長の勧告を分か
ち合います。
「〔ヒンクレー姉妹は〕ヒンクレー大管長はどんなときでも楽天的で,悩んでいる
人々にいつも,いつかよくなる時が来ると安心させていると述べています。」(「ゴー
ドン・B・ヒンクレー副管長――霊的な視点から描くその高潔な人格」『聖徒の道』
1982年10月号,17)
「物事はうまくいきます。努力し,祈り,働き続けるなら,物事はうまくいくので
す。必ずそうなります。もし早死にしたければ,悲観的であってください。良い面に
目を向けていれば,長生きすることでしょう。
」
(デュー,Go Forward with Faith,
423)
次の質問をします。この楽観的な考え方は,ヒンクレー大管長が行うように召された業
の中で,どのように反映されていると思いますか。
ヒンクレー大管長は教会を明るみに出した
生徒用手引きから「ヒンクレー大管長は余裕をもってメディアに対応した」
(273ページ)を
読んで,話し合います。ヒンクレー大管長が国内外のメディアとの間で行ったインタビュ
ーや話し合いによって,教会に対する否定的な態度と見方が解消されてきました。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
217
ヒンクレー大管長は悲しみの時を迎えた
2004年4月総大会の締めくくりにゴードン・B・ヒンクレー大管長が語った以下の話を紹介
します。
「ヒンクレー姉妹が出席していないことにお気づきの方もいらっしゃるでしょう。
わたしが中央幹部に召されて46年になりますが,姉妹が総大会に出席しなかったのは
初めてのことです。わたしたちは今年の初めにアフリカに行き,ガーナ・アクラ神殿
を奉献しました。そこからサルという大西洋の孤島に飛び,地元の教会員と会いまし
た。次にカリブ海諸島のセントトーマス島に行き,何人かの教会員と会いました。妻
が過労で倒れたのは,その帰路のことでした。それ以来,体調が思わしくありません。
彼女は現在92歳,わたしより少し年下です。どうやら時計のぜんまいが緩んできてい
るようで,どうやって巻き戻したらいいか分かりません。
寂しい思いをしています。今月で結婚して67年になります。妻は,才能や能力に恵
そ う そ ぼ
まれた5人の子供の母親,25人の孫の祖母,そして増え続けるひ孫の曾祖母です。わ
あらし
たしたちは長年にわたり,嵐の日も晴れの日も,パートナーとして,伴侶として,手
に手を取って歩んできました。彼女はこれまで,遠く,広く旅をして,この業に対す
る証を述べてきました。どこに行っても愛と励ましと信仰を伝えてきました。」(「結
びの言葉」
『リアホナ』2004年5月号,104)
2日後の2004年4月6日,ヒンクレー大管長の妻マージョリー・ペイ・ヒンクレーは他界
しました。彼女の死後に書かれたEnsignの記事を紹介します。
「夫のゴードン・B・ヒンクレー大管長とともに67年間にわたって世界各地を訪れ
てきたマージョリー・ペイ・ヒンクレー姉妹は,2004年4月6日にこの世の旅を終えた。
ヒンクレー姉妹は家族と愛する人々に見守られながら,老衰のため,静かにこの世に
別れを告げて次の世界へ旅立った。1911年11月23日生まれのヒンクレー姉妹は92歳だ
った。
人生の中で度々驚きを表したヒンクレー姉妹は,よく冗談交じりにこう言っていた。
『わたしのようなすてきな女性がどうしてこんな大変な目に遭わなければならないの
でしょう。』他界する数か月前に行われた教会機関誌のインタビューの中では『予想
していた以上に良い人生でした。すばらしい人生でした』と語った,思いやりの心と
機知に富んだ才能で知られるヒンクレー姉妹は,こうも語った。『人生を笑って過ご
すことができたら,大きな問題はなくなるでしょう。』(「ヒンクレー夫妻が歩んでき
た道」
『リアホナ』2003年10月号,32−37)葬儀の席では,
『慈愛を具現した人』と称
賛された。
」
〔
「マージョリー・ペイ・ヒンクレー姉妹,92歳で死去」
『リアホナ』2004
年5月号,124〕
)
ヒンクレー大管長,救い主について証する
預言者は主であり救い主であるイエス・キリストの神性について証することを生徒に話し
ます。彼らは救い主の特別な証人です。次にある,ゴードン・B・ヒンクレー大管長がエ
ズラ・タフト・ベンソン大管長の顧問を務めていたときに述べた証を紹介します。生徒に,
あがな
「わたしたちの信仰の中で最も大切なもの」と贖い主がわたしたちにもたらしてくださっ
たものを見つけるように言います。
歴 代 大 管 長 ―― 教 師 用 手 引 き
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第 1 5 章 ―― ゴ ー ド ン ・ B ・ ヒ ン ク レ ー
「わたしたちの信仰の中で最も大切なものは,生ける神,すべての人の御父に対す
る確信であり,その愛子,世の贖い主に対する確信です。わたしたちが今こうしてい
られるのは,御子の生涯と犠牲のおかげです。御子の犠牲による贖いがあればこそ,
神の息子娘が皆,主の救いにあずかることができるのです。『アダムにあってすべて
の人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのであ
しょくざい
る。』(1コリント15:22)世の救い主がなされた犠牲の贖罪のゆえに,わたしたちは
永遠の福音の偉大な計画がもたらす恵みを受け,主にあって死ぬ者は死を味わうこと
なく,日の栄えの永遠の栄光に進んでいく機会を授けられるのです。
主は無力なわたしたちに,助けを与え,破滅から救い,永遠の命へと導いてくださ
います。
失意のとき,孤独と恐れのときに,主はわたしたちのそば近くにいて,助けと慰め,
確信と信仰を授けてくださいます。キリストはわたしたちの王にして救い主,解放者,
主,神であられます。
」
(
「人を救うわたしたちの使命」
『聖徒の道』1992年1月号,63)
生徒用手引きから「『わたしは知っています……』」(279−280ページ)を復習して,ヒ
ンクレー大管長が知っている事柄を列挙します。それから,次の質問をします。ヒンク
レー大管長がこれらのことについて語った証を知って,あなたはどのように力づけられ
ましたか。
「主は生けりと知る」
賛美歌「贖いの主」(『賛美歌』73番)の歌詞はゴードン・B・ヒンクレー大管長が作詞し
ました。全員でこの賛美歌を歌って,自分の証を分かち合いたいと思えるような原則か教
義を見つけるように言います。
人々をイエス・キリストのもとへ導くために前任の預言者の働きを補完し,教会を導い
てきた末日の預言者たちに神から与えられた召しについて,あなたの証を分かち合ってく
ださい。
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