6 ( ) 秋 季 大 会 発 表 要 旨 特集 拡張する︿作家/作者﹀イメージと 実証性のありか いて最終的に到達する目標とするのではな 明らかにすることだ。これまでの研究成果を く、作家という指標の向こうに何があるかを げた中で見えてくる︿作家/作者﹀のイメー ふまえながら、本特集では、新たに視野を広 ジと、作家を中心とする実証研究の価値の再 検討をはかり、その方法論を現在の近代文学 る︿作家/作者﹀の存在があったといってよ 試されてきたが、その都度、新たに立ち上が 貌を見せるに至った。以降、様々な方法論が とその位置を移し、これまでとは異なった相 /作者﹀は、テクストから構成される概念へ スト論の出現から一定の期間を経て、︿作家 ﹁作者の死﹂の宣言とともに始まったテク たすものと言えよう。こうした視点で近代文 用は、文学受容の場を活性化させる役割を果 ラ︶を持つが、作家ゆかりの地の積極的な活 る文学館や文学碑は現在も大きな意味︵オー られる。起源としての作家の存在を感じさせ 者﹀の概念枠を軽やかに乗り越えた例も認め る。 サ ブ カ ル チ ャ ー の 世 界 で は、︿ 作 家 / 作 サークルをテクストの基盤と見なす研究もあ ら に、 作 家 を 社 会 的 交 流 の 場 と 捉 え、 そ の テクスト生成論の観点から行われている。さ れるような肉筆原稿や草稿を用いた研究が、 例えば、従来なら作家研究の枠内で捉えら おきたい。 も成立するものであることをおことわりして にあたるが、これ自体で独立した企画として 行ったところである。本特集はその第二回目 でおり、関西支部春季大会でシンポジウムを 家/作者﹀とは何か﹂︵全四回︶に取り組ん 部大会より連続企画﹁文学研究における︿作 なお、関西支部では、二〇一三年度春季支 研究の中に位置づけることを企図する。 い。一方で、作品解釈の根拠を作家に求める 学史を再点検してみれば、従来の︿作家/作 ないだろうか。 社会的・文化的ニーズは今なお強力に存在す 目指すべきは、作家の存在を作品解釈にお 者﹀像が修正を迫られる場合もあるはずだ。 ︻特集の趣旨︼ るが、そのような磁場にとらわれない、新た 関西支部 な作家研究・実証研究の地平を探るべきでは 7 ( ) ﹁こころ﹂論争における︿作者﹀ の問題 内 藤 由 直 動的なイデオロギー装置と化した﹃こころ﹄ と い う︿ 作 品 ﹀ を 打 つ ﹂︵﹁﹁ こ こ ろ ﹂ を 生 成 す る﹁ 心 臓︵ ハ ー ト ︶﹂﹂﹃ 成 城 国 文 学 ﹄ 一九八五年三月︶と明言しているように、批 判対象である︿作者﹀の向こう側には、資本 の再生産の諸条件を保証する国家のイデオロ テクスト論者が個人学会にこだわ る理由 田 口 律 男 おいて、︿作者/作品﹀を通して体現される し か し、﹁ こ こ ろ ﹂ 論 争 の そ の 後 の 展 開 に か。テクスト派なるものがあるとして、各人 利一文学会にも深入りしている。矛盾だろう ト論者を以て任じている。その一方で、横光 人がどう見るかは知らないが、私はテクス を読み直し、日本近代文学研究における︿作 の好みはいろいろだろうが、私は﹁言葉の自 ギーが見据えられていたはずだ。 者﹀とは何であったのかを再検討した上で、 国家イデオロギーの問題は十分に検討されて 本発表は、一九八〇年代の﹁こころ﹂論争 作 家 研 究・ 実 証 研 究 の 方 途 を 探 る も の で あ れる傾向にある。言葉の手ざわりや物質性に 立﹂を志向する︵狭義の︶モダニズムに惹か 興味があるからだろう。それを探っていった こなかった。このことは、テクスト論の理念 約でもあり帰結でもある実証主義﹂︵ロラン・ に備わっていた﹁資本主義イデオロギーの要 ト 論 的 解 釈 が 衝 突 し た 論 争 で あ る。 そ こ で バルト﹁作者の死﹂﹃物語の構造分析﹄みす ﹁こころ﹂論争は、作品論的解釈とテクス は、テクスト論の実践によって、漱石の言葉 テクストと作者とをつなぐ隘路を否定したく る。 として自明視されていた﹁こころ﹂の言語が ず書房 一九七九年︶に対する批判という目 的意識が、論争の過程で見失われてしまった はない。 によって構成されたものとなるだろう。︵言 ただこの場合の作者は、実体ではなく言説 ら、横光利一に到達したとはいわない。が、 読者の解釈に委ねられる言葉として捉えら ことを意味するのではないか。 説のなかには年譜なども含まれる。むろん文 発表では、論争の経過を辿りながら、読者 れ、作者の意図に還元されない多様な読みの の解釈を巡る議論の中で、上記の批評意識が 可能性が切り開かれた。作品の意味を保証し ていた︿作者﹀の特権性が穿たれ、読者によ の で あ る。︶ よ り 正 確 に い え ば、 言 説 の 束 に 学理解に年譜を参照する習慣は、歴史的なも よって構成され、一般に流通した結果、もは 忘却されていったことを指摘する。そして、 批判を再度、議論の俎上に載せることで、今 や実体と見分けがつかなくなったものが﹁作 で は、 本 論 争 で 批 判 の 対 象 と な っ た︿ 作 ﹁こころ﹂の読みに賭けられたイデオロギー なお近代文学研究の場で機能する︿作者﹀イ る読みの自由が前景化されたのである。 者﹀とは、作品の意味を統御し、読者の読み メージの転換を図る。 論争の端緒において小森陽一が﹁国家の反 を阻害するだけの存在であったのだろうか。 8 ( ) 者﹂ではないだろうか。︵﹁日本﹂﹁近代﹂﹁文 学﹂といった概念とほぼ同様だろう。︶しか し、どんなに堅固な作家像も、それが構成さ れたものである以上、その言説の配置の仕方 によってパラダイム転換が生じるのは周知の ことである。とはいえ私たちは、つねにすで たのである。昭和期の教養の問題は、大衆が 射程に入っていたゆえに、﹁教養﹂の語との 習 合 が 自 然 で あ っ た と い え る が、 と す れ ば 書き手と作家の境界 若き女性の教養誌﹃新女苑﹄をめ 作家とは、誰によって認定されるのであろ あった。これらは、この時期の教養が︿単な な が ら、 そ の 職 業 化 だ け は 阻 止 す る も の で ての文学﹀は、文学への門戸を開くようでい ︱ つつ、それを隠蔽していたことになる。文学 ﹁教養﹂もまた、おなじみの二重基準を含み うか。例えば川端康成は、昭和一二年創刊の る知識ではない﹀とされるゆえに労働にすり ︱ ぐって の領域でも、作家の教養が説かれる時期にお されている。それは原稿、ヴァリアント、断 かわる事態や、政治や科学の重視による文学 いて、女性たちに差し向けられた︿教養とし で及ぶ。文学研究もこの制度を下支えしてき ﹃新女苑﹄において、女性たちの文章を指導 簡零墨、その暫定的集大成としての全集にま ず、彼の指導は一貫して、作家になろうと思 していた。投稿者たちの熱心さにもかかわら 小 平 麻衣子 た。この制度を支持するか否かは、だれも声 の周縁化などとも複雑に絡み合い、文学にお に作者の固有名が刻印されたテクストに包囲 高には語らないが、じつは当事者の政治的な うな、というものであった。これは投稿欄と 立場とどこかでリンクしているはずである。 齬を浮かび上がらせる。川端の指導も、これ いう欄の性質とばかりは言えない。﹃新女苑﹄ ける大衆と女性の階級的同視と、その実の齟 は、︿若き女性の教養﹀を目指していたから では実証研究は、こうした状況にどのよう 性の書き手を作家にさせない構造の分析を行 にかかわるだろうか。ここからは具体的な事 背景には、マルクス主義に代り、昭和一〇 本 発 表 で は、﹃ 新 女 苑 ﹄ の 投 稿 を 扱 い、 女 年代に復活した教養主義がある。復活という う。既定の作家の追認にとどめないという意 らと無縁であるわけではない。 題にしたい一節を挙げておく。﹁間断もなく 味で、作家イメージの再検討を側面から試み である。 白日を呪ふ地獄の様に渦巻を漲らした煤煙の のは、むろん大正教養主義が念頭に置かれる たいと考えている。 例にそくして議論するに如くはない。当日問 中 に 立 体、 そ し て 又 立 体。﹂︵﹁ 第 五 学 年 修 学 の意 Bildung 味を﹁教養﹂という語で表すことが一般化し 横光利一にまっ い。 大 正 期 に は、﹁ 教 養 ﹂ は、 知 識 や 社 会 階 た の は、 昭 和 期 で あ る こ と は 注 意 さ れ て よ からであるが、ドイツ語でいう ︱ 旅 行 記 ﹂ 一 九 一 六・三 ︶ たく興味がない人たちのためにも、なるべく 広範な話題につなげたい。 層が下の者への教化の意味で主に使われてい 作者と訳者の境界で 野 崎 歓 常に意識するのはまさしく作者の意図であ る。翻訳者とは作者との自己同一視に支えら れた存在だとすらいえるかもしれない。とい うことは翻訳は、バルト・フーコー以前の旧 態依然たる作者観に支えられた、作者温存の 作者の意図をどう考えるかという問題であ はなお変わらぬ重要さをもつ。その一つが、 きはあるにせよ、そこに含まれる批評的観点 影響を及ぼした。その行きすぎを是正する動 フーコーの﹁作者とは何か﹂とともに甚大な ﹁ 作 者 の 死 ﹂ は、 翌 年 発 表 さ れ た ミ シ ェ ル・ して訳者が新たな作者として立ち現れる場合 している。注目すべきは、そのプロセスを通 ていく作品の運命を、翻訳という営為は象徴 る変容を被りつつ﹁後熟﹂︵ベンヤミン︶し に過ぎるだろう。だが、作者の意図とは異な そは作者の死であるといったら誇張がさすが 訳の本質にひそむ重要な要素である。翻訳こ だが、訳者による作者の裏切りもまた、翻 営みなのだろうか。 る。作者の意図を最終的に到達すべき真実と だ。 一九六八年に発表されたロラン・バルトの して作品を﹁説明﹂しようとする旧来の発想 まさにそうした、翻訳を通して原作者と入 井荷風や森鷗外といった名前はいずれも、作 れ替わる形で新たな作者が誕生するという力 者と訳者の境界において出現する文学のあり て広がる意味作用の働きを探る﹁解釈﹂の可 そうした議論の枠内に、バルトらにとって 方を示す指標である。彼らの仕事を、作者の 動性を鮮烈に描き出している点に、日本近代 は関心外だった﹁翻訳﹂の問題を投じてみる 観念を流動化させる契機をはらむものとして 能性をバルト以降の批評は強調した。そのと とどうなるか。翻訳者とはできるかぎり綿密 再評価しうるのではないか。 き、 作 者 に テ ク ス ト が 取 っ て 代 わ る の で あ に作品の意味を探りながら、別の言語でそれ 文学の際立った特徴がある。二葉亭四迷や永 を再構築しようとする者である。そこで彼が る。 に対し、作品自体のうちに作者の意図を超え 9 ( ) 10 ( ) 研究発表 第一会場 ︵B一〇一教室︶ パネル発表 ※今回は応募者多数のため、五会場で開催します。発表時間は、個 人の場合が発表三〇分・質疑一〇分、パネルの場合は二時間三〇 分︵質疑含む︶です。なお、第三会場・第四会場・第五会場は、 の名篇は広津、 西等の﹃奇蹟﹄派や豊島、 ﹃決闘・生活の河﹄︵大一︶に収録された珠玉 宇 野、 芥 川、 志 賀 等 の 若 い 世 代 を 魅 了 し、 年一一月の死去前後の動静を広く国民に紹介 た。一方、杜翁晩年の出家穏遁の顛末や四三 ﹁文学の教科書﹂︵谷崎精二︶として耽読され 獨歩、花袋等に与えた影響はよく知られてい した。翌年一月啓蒙書﹃偉人トルストイ伯﹄ 言葉は近代日本文学史上における﹁翻訳の時 曙夢の時代﹂があったと述懐している。この ﹄のなかで﹁昇 年、武者小路実篤が﹃還暦記念六人集と毒の ︱ 和三三年鎌倉市稲村ヶ崎において永眠した。 附文壇諸家感想録 明治末から大正・昭和前半にかけてロシア文 代﹂、即ち外国文学移植の時代を照らす好個 ︱ 園 学及びロシア学︵含旧ソ連邦︶研究の最高権 明治文学研究の先駆者、岩城準太郎は名著 の証言である。 曙夢、瀬沼夏葉等の新進の露国文学者が輩出 ﹃明治文学史﹄︵昭二・修文館︶のなかで﹁昇 して近年特に旺盛な活躍を見せ﹂﹁わが国の る方面にめざましい変化を起こしている。こ ツェフ等に代表される﹁ロシアモダニズム﹂ 文学に影響して、詩歌、小説、戯曲、あらゆ レ ー エ フ、 ソ ロ グ ー プ、 ク プ リ ー ン、 ザ イ 曙夢は明治四二年頃から同時代のアンド る。 故か正当に評価されないままに忘れられてい 威であった。しかし、彼の歿後その業績は何 昇曙夢は明治一一年奄美大島に生まれ、昭 捉え方に重大な欠落と偏向が生じている。 究されていない。それゆえ近代日本文学史の ︵春陽堂︶を刊行。彼の旺盛な文学活動は後 る。が、二葉亭以後のことは従来ほとんど研 三人目の発表後に一〇分程度の休憩を設けます。 加藤百合・源 貴志 宮越 勉・大東和重 ︵司会︶和田芳英 昇曙夢について 昇曙夢研究の現状 ︱ れは近頃の文壇の著しい現象である﹂と記述 諸問題と課題 の 芸 術 至 上 主 義 的 作 品 を 精 力 的 に 翻 訳・ 紹 している。また、吉田精一博士は﹃自然主義 ︱ 介。﹃趣味﹄や﹃早稲田文学﹄、﹃文章世界﹄、 の 研 究 下 巻 ﹄︵ 昭 三 七 ︶ の な か で﹃ 六 人 集 ﹄ 和 田 芳 英 の 翻 訳 集﹃ 六 人 集 ﹄︵ 易 風 社・ 明 四 三 ︶ や ロシア文学が近代日本文学に重要な役割を ﹃新小説﹄等の雑誌や新聞に発表した。曙夢 はたしていることは学界の定説だ。明治草創 期における二葉亭四迷の翻訳と実作が藤村、 ﹃毒の園﹄︵新潮社・明四五︶、クプリーンの ﹃毒の園﹄などの影響を重要視しているもの の、 晩 年 の﹃ 吉 田 精 一 著 作 集 ﹄︵ 桜 楓 社 ︶ で 本発表は国文学界における初の企画であ は何故か省いている。 る。 昇 曙 夢 の 偉 大 な 文 学 的 功 績 を 検 証 し た い。 曙夢明治期における訳業 ︱ 昇曙夢 近代日本知識人の矛盾と問題意識 源 貴 志 ︻要旨︼厖大な量からなる昇曙夢の仕事 は、ロシア民族の文化の全体像に迫ろうとす るものである。それはひろくロシア・フォー ザイツェフ、ソログーブなどの作品からの影 響問題を考察したい。 昇曙夢の紹介・翻訳を中心に 中国における日本を経由したロシア文学の ︱ 受容 大 東 和 重 場から、近代日本の知識人、そしてなにより 発表では、曙夢の仕事を総合的に評価する立 ︻ 要 旨 ︼ 明 治 時 代 の 曙 夢 の 翻 訳﹃ 六 人 集 ﹄ つづけたことと矛盾するようにも見える。本 まで及ぶ。ときとしてそれは、正教徒であり しての受容が多かった。その過程で昇曙夢の めて重要である。また英・独・日本語訳を通 帰国後旺盛な文学活動を展開したゆえに、極 ら留学生が多く来日、ロシア文学にも触れ、 あった。中でも日本経由の受容は、明治末か 受 容 以 外 に、 欧 米 や 日 本 を 経 由 し た 受 容 が クロアから、ソビエト芸術の精力的な紹介に ︻要旨︼中国のロシア文学受容には、直接の は、ロシア正教会によってロシア語教育を受 ﹃毒の園﹄などの意義と影響を考える。曙夢 も文学者の一人としての曙夢の問題意識が、 加 藤 百 合 け、ロシアの同時代文学に触れ、ロシアン・ 合誌︻東方雑誌︼に曙夢の著作が訳載される の著作に触れ、また一九二二年には代表的総 果たした役割は大きく、魯迅や周作人は曙夢 いかに存立し得ていたかについて考察する。 た。それはヨーロッパを経由して紹介され鼓 吹された大作家よりはるかに身近で、世紀末 介・翻訳を中心に考えてみたい。 などした。本発表では、中国における日本経 宮 越 勉 け ロ シ ア 文 学、 ト ル ス ト イ、 ド ス ト エ フ ス た。ロシアの雑誌などから自身の感性で発見 キー、チェーホフ、ゴーリキー、ガルシンな 由 の ロ シ ア 文 学 受 容 に つ い て、 昇 曙 夢 の 紹 勢は、﹁文豪による世界文学の翻訳﹂という の、アンドレーエフ、アルツィバーシェフ、 四 三・五 ︶ や﹃ 毒 の 園 ﹄︵ 明 四 五・六 ︶ 収 録 ど の ほ か、 昇 曙 夢 の 翻 訳﹃ 六 人 集 ﹄︵ 明 明治翻訳のかたちを決定的に否定していた。 した作品を直接訳する、という曙夢の翻訳姿 ︻要旨︼志賀直哉における外国文学、とりわ の不安は明治末期の青年の心情に強くひびい 志賀直哉におけるロシア文学の受容と影響 シンボリズムをいちはやく見出して翻訳し 11 ( ) 第二会場 ︵B一〇二教室︶ 個人発表 森茉莉﹁月の光の下で﹂と アルトゥル・シュニッツラー ﹃恋愛三昧﹄ 読み換え/書き換えの欲望 映画﹃恋ひとすじに﹄︵監督・脚本ピエール・ を通じて、第二に﹃恋愛三昧﹄を原作とする ことができるのではないか。 異なるレベルの﹁翻訳﹂を行ったと評価する して示した点に着目したとき、森が鷗外とは わたしたちの応答として 森茉莉が男性同性愛小説を書いた女性表現 ては﹁演技﹂が複数のレベルで書き込まれて われることからも分かるように、本作におい 優、女優であることや、物語内で寸劇が行な 年代後半にはじまった第二波フェミニズムで いうスローガンで知られるように、一九六〇 ﹁個人的なことは政治的なことである﹂と ︱ フェミニズム文学批評のフロン ティア パネル発表 ガ ス パ ー ル = ユ イ、 一 九 五 八 年 ︶ を 通 じ て ﹃恋愛三昧﹄を受容したと推察される。﹃恋愛 三昧﹄の男性たちはホモソーシャルな絆で結 ばれているが、﹁月の光の下で﹂においてこ の関係は﹁男同士の絆﹂を隠れ蓑にした恋人 関係として変奏されている。本作のヒロイン は、男性たちの関係に気づくことなく異性愛 の物語を全うしているのだが、この異性愛の 者の最も早い例であることはよく知られてい いる。このような観点から、本発表では﹁月 は、政治的な制度や、それらを担う個人の認 ︱ 物語は男性たちの﹁演技﹂に支えられたもの る。森が発表した男性同性愛小説は六編ある の光の下で﹂が﹃恋愛三昧﹄の中で強固に機 に 過 ぎ な い。 ま た、 作 中 人 物 た ち が 全 て 俳 が、物語構造や人物造形が似通っているため 能していた異性愛の神話作用を失効させるパ 上 戸 理 恵 か、個々の作品が十分に検討されているとは 識まで含めて、わたしたちの生を可能にする 岩川ありさ・陳 晨・ Emanuela Costa 田 祐 子 言 え な い。 特 に﹁ 月 の 光 の 下 で ﹂︵﹃ 小 説 現 ロディとなっていることを考察する。 表では、本作をアルトゥル・シュニッツラー されることのなかった作品である。今回の発 愛の物語を同性愛の物語に読み換え/書き換 いたことは知られている。父が翻訳した異性 三昧﹄を読み小説を書く上での示唆を受けて また、森茉莉が鷗外の翻訳を通じて﹃恋愛 ても、人種、民族、年齢、階層、階級、セク 多くある一方で、フェミニズムの内部におい フェミニズムの運動によって得られたものが 制 度 の 変 革 を 求 め た。 け れ ど も、 そ う し た 条件そのものを問い直し、ラディカルな社会 ︵ディスカッサント︶飯 代﹄一九六六年一〇月︶は従来ほとんど言及 ﹃恋愛三昧﹄︵一八九六年︶の受容という観点 え、異性愛の物語を﹁演技﹂に満ちた寸劇と 森茉莉は、第一に父親である森鷗外の翻訳 から検討する。 12 ( ) 13 ( ) してきた理論や批評によってしか読みえない ムを必要とするのは、これらの経験を言語化 がることへの希求。わたしたちがフェミニズ て、愛し、生きて、死してゆく他者へとつな と、異性愛主義、人種差別と民族差別、そし テ ィ、 経 済 的 な 不 均 衡 の 中 で 生 き 延 び る こ グローバル化する世界と人々のアイデンティ 力の問題、高度化するテクノロジーと身体、 リベラリズムと新保守主義の台頭、欲望と暴 うことの表明である。世界規模で広がるネオ ジショナリティ︶に無自覚でいたくないとい は、わたしたちが置かれている立ち位置︵ポ 明を含む言葉をわたしたちが手放さないの ニズムという、政治的なコミットメントの表 で、日本語文学研究が行われる中で、フェミ ついて話しあいたい。国境を越え、世界規模 ミニズム文学批評が行いうる可能性と限界に 歴史を引き継ぎながら、現在において、フェ パネルにおいては、そうしたフェミニズムの る必要があるという指摘がなされてきた。本 シュアリティなどの無数の差異について考え 諸問題について考察する。 おいて問われてきた、﹁愛と喪失﹂をめぐる 多和田葉子の文学を対象にして、フェミニズ 著作から指摘している。本発表においては、 ラーは、フェミニズムに影響を与えた初期の 同 性 愛 タ ブ ー と 連 動 し て い る の だ と、 バ ト は、まさしく、社会的・文化的に働いている を 区 分 す る よ う な 枠 組 み を つ く っ た。 そ れ に値する生﹂と﹁嘆かれるに値しない生﹂と で、 何 の 対 策 も と ら ず、 い わ ば、﹁ 嘆 か れ る 男性らをリスクグループとして設定する一方 危機において、アメリカ合衆国政府は、ゲイ は、現在、あまり顧みられていない。エイズ 失われた生の問題を念頭においていたこと 論者が、一九八〇年代のエイズ危機によって K・セジウィックら、クィア理論を牽引した 議論を行う。ジュディス・バトラーやイヴ・ てきた、﹁愛と喪失﹂をめぐる問題について トを対象として、クィア批評において問われ の眼﹄、﹁時差﹂、﹃雪の練習生﹄などのテクス 巡る今日的な位置づけを行いたい。 ムを基礎の一つとして出発したクィア批評に ﹁性的な身体﹂にこだわる視点とその意義を 若い世代が語るという視点を提示しながら、 識を抱えて、日中フェミニズム批評の現状を ばよいのか。本発表では、そのような問題意 れる表現を今日的な視点からいかに解釈すれ 波に巻き込まれて、当事者の立場で言語化さ 性という身体の経験を、爛熟した消費社会の ティを担保できにくくなる時代において、女 な か で、 即 ち、﹁ 女 ﹂ と い う ア イ デ ン テ ィ 代から差別の重層化の問題が前景化している 的かつ国際的に捉えることを試みる。九〇年 の﹁退潮﹂をいかに理解すべきなのか、横断 えて、二〇〇〇年代以降のフェミニズム批評 年層の女性作家のテクストの分析に焦点を与 フェミニズム批評の現状を提示しながら、若 く欧米フェミニズム思潮の受容側にある中国 る言説の整理と考察を行う。その上で、同じ 評理論としてのフェミニズム批評の現状を巡 メディアの社会的背景として見直し、文学批 という事情をふまえ、それを文学作品と文化 ルの対立から成り立っている今日において、 ならず社会全体から現れている﹁フェミ嫌﹂ ニズムの位置を検討し、グローバルとローカ 陳晨は、二〇〇〇年代以降、若い世代のみ は ト ラ ン ス ナ シ ョ ナ ル・ Emanuela Costa フェミニズムの視点から日本におけるフェミ 文学テクストがあるという出発点に立ってい 岩川ありさは、多和田葉子の﹃旅をする裸 るからである。 14 ( ) 日本のフェミニズムがどのような知的影響力 をもつのか、そして海外における他のフェミ ニズム、および国内におけるマイノリティ女 性のフェミニズムの経験とどのような関係を もつのかという点について考察したい。﹁近 代﹂の制度的虚構性が意識されてきた現在に おいてフェミニズムが問うべき問題は男女差 別だけでなく、国民国家のイデオロギーから 生み出される潜在的差別であることは明らか になってきたが、フェミニズムと人種差別・ 第三会場 ︵B二〇一教室︶ 個人発表 工 を 施 し た、 と も 考 え ら れ る。 し か し、﹁ 世 間師﹂における﹁木賃宿﹂の描写と、その居 住者の人物描写の特質は、それだけでは説明 明 治 三 九 年、 作 家 遍 歴 に つ い て 語 る 風 葉 がつかない。 は、下関の木賃宿で﹁まるでチエルカツシユ の中にある若い農夫のやうな男﹂や﹁ゴルキ イの作品にある猶太人ソツクリ﹂の蝙蝠傘の ﹁木賃宿﹂という舞台、﹁放浪者﹂ という存在 小栗風葉﹁世間師﹂におけるゴー 張替屋に出会った、と﹁木賃宿﹂の体験を、 ゴーリキー文学の影響が映し出される作品の も、 こ の 読 書 体 験 が 強 く 作 用 し た こ と は、 ︱ リキーの影響 小 栗 風 葉 の﹁ 世 間 師 ﹂︵ 明 治 四 一 ︶ は、 九 随所から読み取れる。 る。 そ し て、﹁ 世 間 師 ﹂ の 執 筆 過 程 に お い て ゴーリキー文学の読書体験と重ねて語ってい 成立していないところが多いと思われる。本 州 に 旅 行 し た 若 き 風 葉 が、 下 関 付 近 で 遭 難 るあらゆる社会基準を一切排斥し、放縦に世 ブルナ ルカーシュ 発表では、日本における越境文学を中心に分 し、数日間木賃宿に泊まった、という実体験 の中を渡り歩く 階級差別との関連については議論がなかなか 析し、アジアの女性に対する意味作用の実践 台を、風葉は幾多の作品の中で繰り返し描い し た﹁ 放 浪 者 ﹂ の 姿 は、﹁ 世 間 師 ﹂ の 主 役 を ゴーリキーが描いたこう 相、 ま た、 こ の 舞 台 の 上 に あ ら わ れ る 人 物 つ と め る 銭 占 屋 の 人 物 像 の 中 に 吸 収 さ れ、 ︱ 法律や道徳の規制など、個人自由を束縛す ︵ Stuart Hall ︶、オリ としてのステレオタイプ エンタリズムと反オリエンタリズムをめぐる を強調するトランスナショナル・フェミニズ は、そのたびごとに著しく変わっている。各 をもとに書かれている。﹁木賃宿﹂という舞 作品について考察することによって、﹁連帯﹂ ているが、﹁木賃宿﹂という空間の細かい様 ムの可能性と限界について考えていきたい。 本発表は、ゴーリキー文学による感化は、 えている。 作品において﹁木賃宿﹂に託された役目が異 ﹁木賃宿﹂という空間に全く新しい色調を加 なるため、舞台設定と人物造形上のポイント は変えられている。また、貧民窟探訪記から のか、テキスト分析を踏まえて明確にし、明 得た情報を通して、風葉は薄れる記憶を補足 ﹁世間師﹂の中でどのように表出されている し、﹁ 木 賃 宿 ﹂ と い う 舞 台 に﹁ 現 代 性 ﹂ の 加 治末期の日本文学に強い影響を与えなかった ジャンル の︿ 作 法 ﹀ の 流 行 と 同 時 に、﹁ 文 ﹂ と い う た経緯をまず確認する。それは、他ジャンル ﹁ 小 説 即 文 章、 文 章 即 小 説 ﹂ ものとして、従来殆ど注目されなかったゴー から独立し芸術の地位を得ようとする る落合浪雄﹃小説著作法﹄︵明治三十六年︶、 る。そして、先行する﹁小説作法﹂としてあ ︿小説﹀の脈動があったことによると思われ ︱ ︵ 川 端 康 成﹃ 新 文 章 読 本 ﹄ 昭 和 二 十 五 年 ︶ ︱ リキーが、この時期の日本文学に与えた刺激 について考察する。 田山花袋﹃小説作法﹄における ﹁作法﹂ 木下杢太郎と夏目漱石 ︱ ﹃唐草表紙﹄における夏目漱石序文 の意味 ︱ 権 藤 愛 順 大 正 四 年 二 月、 木 下 杢 太 郎 の 第 一 小 説 集 日本文章学院編﹃小説作法﹄︵明治四十一年︶ ﹃唐草表紙﹄︵正確堂︶は森鷗外と夏目漱石の 書﹂第二十四巻として、田山花袋著﹃小説作 明治四十二年七月、博文館の﹁通俗作文全 や文学史認識の提示からなる︿先行小説の相 うジャンルの地位向上の企て﹀、文範の排除 判や科学主義との結びつけによる︿小説とい る。本発表では特に、他ジャンルの文章の批 における、創作指南言説のありようを考察す 明らかにすることを目標とする。 る﹁気分象徴﹂の概念の受容と展開について 石の序文に着目することから明治末年におけ との比較を交えながら、花袋の﹃小説作法﹄ 序文を掲げて出版された。本発表は、夏目漱 法︵ し ょ う せ つ さ く ほ う ︶﹄ が 刊 行 さ れ た。 山 本 歩 雑誌﹁文章世界﹂での小説指南記事をまとめ ︶ は、︿ 新 ウ ィ ー ン 派 ﹀ や ド 対化﹀の面を重点的に述べる予定である。ま ︵ 独・ Stimmung イツ美学に影響を受けた杢太郎らが目指した いことを指すものであり、当時の各文章ジャ 一文を掲げた。その一文は小説に﹁型﹂がな ﹁小説に作法などと謂うことは無い﹂という についても言及する。 育﹀と︿芸術家育成﹀の二項の間での足掻き を得なくなったジレンマ、すなわち︿国語教 という作家の個性と響き合うことで抱えざる た、﹁小説作法﹂というメディアが田山花袋 ﹃文学論﹄︵明治四〇年五月︶において、主体 つまり主客融合の表現が重視された。漱石は れた客体から主体の情調が漂うということ、 新たな表現の方法であった。ここでは、描か 調 ﹂・﹁ ム ー ド ﹂ を 評 価 し て い る。﹁ 情 調 ﹂ 序文で漱石は、杢太郎の小説における﹁情 た︿ 作 法 書 ﹀ で あ る 本 書 は し か し、 冒 頭 に ンルにおいて存在した︿作法﹀を否定し、小 本発表では、今日まで存在する、こうした と定義したが、主体の﹁感じ﹂が織り込まれ じ﹂を表現するものが﹁文芸上の真﹂である の﹁ 情 緒 ﹂ を 客 体 に﹁ 投 出 ﹂ し、 そ の﹁ 感 小説創作を指南する︿作法書﹀が生み出され たように思われる。 説のための規範を再編成する目的から書かれ 15 ( ) た﹁客体﹂を描写することを重視する点で、 杢太郎と漱石は非常に近い。杢太郎らの目指 し た 情 調 表 現 は﹁ 気 分 象 徴 ﹂ と も 言 わ れ た が、その源には主客融合を重視したドイツの 感情移入美学からの影響がある。一方、漱石 の周辺でも阿部次郎や大塚保冶らが感情移入 ︱ 評論から戯曲を読み解く 長谷川如是閑の描く﹁社会﹂ ︱ 小田切 璃 紗 歩深く読み解くうえで有効であると考える。 官憲から睨まれ、言論の自由が脅かされてい る時代に培われた一種の複眼的視点をもつ長 谷川の論評をみると、劇作などの虚構の世界 と評論の対象である実世界との間の境界は曖 昧であり、実際の論評の中でも﹁それを芝居 国企業の史実に着想を得ながら、甥の後見人 にすると﹂などといった表記とともに社会批 となったことで得た資産と、ガソリンの生産 判がなされることが少なくない。今回、採り 長谷川如是閑の戯曲の中から、大正一四年 一九二〇年代に実際に米国でおこった社会問 により巨万の富を持つ主人公・粟地の傲慢ぶ を唱えた美学者リップスを象徴主義者として る杢太郎評価を通して両者の象徴概念の相違 題を基に創作されたと考えられるものであ 上げる﹃エチル・ガソリン﹄においては、米 とその背景を明らかにする。 り、 作 品 に 描 か れ る 大 正 時 代 に お け る﹁ 公 ガソリン﹄を採り上げ考察する。本作品は、 次に﹁気分象徴﹂が実際にはどのような表 りと無慈悲さを描くとともに、粟地の娘の恋 認識している。本発表ではまず、漱石におけ ﹃ 我 等 ﹄ 一 月 号 に 発 表 さ れ た 戯 曲﹃ エ チ ル・ 現を生んだのか、﹃唐草表紙﹄所収の作品を 人︵主人公の甥︶のいたずらにより、彼の栄 粟地の傲慢さと甥のいたずらをスリリングに 害﹂に対する社会認識とともに、同様に本作 描き、結末に至らせている。本発表では、評 通 し て 明 ら か に す る。 写 生 文 の 側 で も﹁ 情 文学作品である戯曲とて、何らかの社会的 論家としては直接的な論客であった長谷川 華が一瞬にして消えるまでを描いている。長 文化的事象の具象化を前提に存在し、演劇は が、戯曲においては批判精神を社会的﹁笑﹂ 品 の 伏 線 と な っ て い る﹁ 結 婚 ﹂ 問 題 を 中 心 感 じ ﹂︵﹁ 余 が﹃ 草 枕 ﹄﹂ 明 治 三 九 年 一 一 月 ︶ いわば社会の鏡であることは論を俟たないも に置き換え作品を描き構築している点も合わ に、 本 戯 曲 を 長 谷 川 の 論 評 と と も に 読 み 解 が漂う写生文と、杢太郎の小説表現がいかな の の、 劇 作 と し て の 面 白 さ を 優 先 す る な ら 調﹂はこの時期のキーワードのひとつであ る交錯をみせるのかを明らかにする。 ば、主張は間接的にならざるを得ない。そこ せて考察する。 り、そこでも主客融合の表現が目指された。 杢太郎と漱石は共に人間の深層心理に高い で、長谷川の視点や考え方をより直接的に表 谷川は、作品中、直接的な批判は一切せず、 関 心 を 持 っ た 作 家 だ が、﹁ 情 調 ﹂ あ る い は 出していると考えられる論評と併せて複眼的 く。 ﹁ 感 じ ﹂ を 重 視 し た 両 者 の 表 現 が、 い か に に読み解くことは、長谷川の戯曲をさらに一 実作分析を通して、漱石が定義した﹁美しい にすることも本発表の目標である。 ﹁深層﹂の表現にまで達し得たのかを明らか 16 ( ) ﹃花花﹄における﹁相続問題﹂ ︱ ﹁純粋小説論﹂に関連して 辛 西 永 有閑ブルジョアの女性たちも、社会的使命 ジョアの︻相続︼の問題であると論じる。 も職業意識もなく、︻家︼を単位として動い て︻家︼と︻家︼との結合という︻結婚︼に よって︻相続︼を受けるための策略を図るこ とにとどまる。女性たちは︻相続︼によって 第四会場 ︵B二〇二教室︶ 個人発表 西善蔵と古木鐡太郎 する。八重子は有閑ブルジョアの伊室とは結 ︻家︼で八重子が女中として家事労働を担当 す有閑ブルジョアである。このような伊室の ︻家︼を舞台として、土地の︻相続︼で暮ら て い た。﹃ 花 花 ﹄ で の 各 人 物 た ち は、 伊 室 の 続︼の問題が﹃婦人之友﹄の誌面構成になっ る。 伊 室 の 転 向 は、︻ 相 続 ︼ で 生 き る 階 層 に 中で八重子が伊室の︻家︼から逃げて以来、 自分の︻家︼を維持しようとする。だが、作 る。夏子も伊室と恒子との結婚で傾いている 養 子 を 受 け 入 れ て︻ 家 ︼ に い ら れ る と 伝 え る夏子は輝子に、伊室が︻廃嫡︼になれば、 八・一〇︶に関しては否定的な見解を述べて 小林秀雄は古木の﹁其の後﹂︵﹃文学界﹄昭和 所 ︼ へ 職 業 を 変 え て 経 済 的 な 自 立 を 実 践 す ﹃文芸首都﹄昭和八・五︶と称賛しているが、 女 中 か ら︻ 私 生 児 ︼ が 生 ま れ る︻ 産 婆 講 習 い る︵﹁ 古 木 鐡 太 郎 氏 の﹁ 其 の 後 ﹂﹂﹃ 東 京 日 の 戸 を 叩 く 文 学 ﹂︵﹁﹁ 心 を 打 つ 文 学 ﹂ よ り ﹂ 妻 ﹂︵﹃ 麒 麟 ﹄ 昭 和 八・四 ︶ と い う 小 説 を﹁ 心 宇野浩二は古木鐡太郎の﹁子の死と別れた 虚構のプライバシーという方法 婚できない社会的環境におかれているにもか 対する反発を意味すると見られる。このよう 日 新 聞 ﹄ 昭 和 八・一 〇・二 ︶。 そ し て、 時 代 が ︱ か わ ら ず、 妊 娠 に よ っ て そ の 境 界 を 破 壊 す な﹃花花﹄の設定は当時の﹃婦人之友﹄とつ 一 九 三 一 年﹃ 花 花 ﹄ が 発 表 さ れ た 際、︻ 相 ︻家︼で浮遊しようとする。伊室の親戚であ る。 伊 室 の 八 重 子 と の 妊 娠、 結 婚 の 問 題 が なげて考えれば、八重子というプロレタリア 伊 室 が 両 親 の 反 対 を 押 し 切 っ て︻ 家 を 捨 て 女 性 に 焦 点 を 絞 っ て 有 閑 ブ ル ジ ョ ア の︻ 相 集﹁﹃紅いノート﹄を私は手放すことができ 下ってからになるが、中野重治は古木の短編 刊読書人﹄昭和四〇・八・二︶と述べ、古木文 な い。 私 は 手 放 さ な い ﹂︵﹁ 古 本 の 作 法 ﹂﹃ 週 学への愛着を直截に表明している。しかし、 続︼の問題を批判したものであるととらえ 子供を育てることは、伊室において︻一時的 今日、古木鐡太郎とその文学が昭和文学史に る。 な苦痛ではなく、死ぬまで続く︼というもの る︼ことは︻廃嫡︼になって経済力がなくな である。これは社会的な意味として有閑ブル るということである。このような状況の中で 伊 藤 博 対立関係におかれる。八重子の妊娠によって ︻廃嫡︼の原因になって︻家︼の︻相続︼と 17 ( ) 18 ( ) 位置づけられているとは言い難い。 西文学を一 本発表では今や、ほとんど忘れ去られてい 本発表を通じて、私小説︵作家︶を単純に 破滅型と調和型に類型化できない所以につい ても言及したいと考えている。 検 閲 に 何 ら 抵 触 し な か っ た 初 出 版﹃ 雨 ﹄ ある。 は、単行本に収められる際、織田自身によっ て大幅に改稿を施された。それは織田が同人 るようにも思われる古木文学が 誌﹁海風﹂の編集作業を通して、検閲に対す 内務省検閲により削除処分を受けたことにな に も 拘 わ ら ず、﹃ 夫 婦 善 哉 ﹄ 所 収 の﹃ 雨 ﹄ は こうしていわば作者の自主検閲がなされた にしたい。 テクストの機構及びモチーフの変容を明らか が、本発表ではこの作業の結果として生じた で目立つ特徴は性的な表現の緩和と削除だ 因ると考えられる。この改稿において内容面 る身の処し方を経験的に︿学習﹀したことに 部、継承する側面を有していることを論証す 織田作之助﹃雨﹄への改稿と検閲 ︿学習﹀する同人誌作家 ︱ る。最初に、古木鐡太郎が作家として出発す 西善蔵が深く関与してい る際の状況を追尋し、その経緯に大正期を代 表する私小説作家 た事実を再確認する。その上で、彼らの小説 が 伊 藤 整 い う と こ ろ の﹁ 虚 構 の プ ラ イ ヴ ァ 一九三一年の満州事変以後、内務省検閲を 尾 崎 名津子 めぐる諸制度は新局面を迎えた。その展開は シ ー﹂︵﹁ 私 小 説 と モ デ ル ﹂﹃ 毎 日 新 聞 ﹄ 昭 和 西 の﹁ 湖 畔 手 記 ﹂︵﹃ 改 造 ﹄ 大 正 三 七・一・八 ︶ を 方 法 と し て 描 い て い る と 捉 一 三・一 一、 当 初 の タ イ ト ル は﹁ 日 光 湯 本 に ﹁ 内 務 省 警 保 局 図 書 課 の 段 階 的 な 再 編 成 ﹂、 る。本発表では処分上問題化された点を精査 え、 対する司法権の行使﹂の三点に要約できる。 ︱ ﹂︶と古木の﹁日光 ︱ ﹂︵﹃ 雄 鶏 ﹄ 昭 和 する。さらに、﹃紅いノート﹄︵校倉書房、昭 文体に志賀からの影響が強かったことを立証 の最初の読者であったことに注目し、古木の ことから﹃暗夜行路﹄の原稿を受け取り、そ 造社の編集者として志賀直哉の担当であった 六・六 ︶ を 比 較・ 検 討 す る。 ま た、 古 木 が 改 の 短 篇﹃ 雨 ﹄︵ 初 出 は﹁ 海 風 ﹂ 一 九 三 八 年 月 ︶ を 受 け た。 そ の う ち、﹃ 夫 婦 善 哉 ﹄ 所 収 説 ﹄ へ の 発 売 頒 布 禁 止 処 分︵ 一 九 四 一 年 七 処 分︵ 一 九 四 〇 年 九 月 ︶、 単 行 本﹃ 青 春 の 逆 の結果として、単行本﹃夫婦善哉﹄への削除 時期に織田作之助はデビューし、内務省検閲 にも変質を招いたと考えられる。このような 制度の再編は、文学作品に対する検閲の傾向 の折衝という︿学習﹀によって、﹃夫婦善哉﹄ えていた。一方で、数度に亘る内務省検閲と 哉﹄の作者﹂とは懸隔のある文学的主題を抱 に イ メ ー ジ さ れ る で あ ろ う﹁ 短 篇﹃ 夫 婦 善 をめぐる認識に関わる。 したい。それはおそらく、小説の内容と形式 誤って︿学習﹀していた織田との差異を考察 し、内務省検閲が持っていた視線と、それを 都の妻へ 田舎の妻へ ︱ ﹁出版警察に関する新法規の成立﹂、﹁処分に ︱ て。 和三四・一一︶所収のいくつかの短編小説を 一一月︶は次のような来歴を持つテクストで 湯本にて 取り上げ、その表現方法の特徴を明らかにす 小説を書き始めた頃の織田は、現在一般的 る。 19 ( ) 十年代に作家として世に出ようとした場合、 が用意されたと言うことも可能だろう。昭和 を探求する手段として︿堕落=デカダンス﹀ 成され、何が達成され得なかったのか。考察 定 を 与 え る 手 段 で あ る、 と。 新 た な︿ 自 我 ﹀ を表明するならば、﹁いづこへ﹂には何が達 学制度を批判する。曰くそれは︿自我﹀に限 負 は、 全 く、 私 に は、 な い。﹂ と 自 ら の 不 在 いかに振舞う必要があったのかを問うことに なる自伝として読まれて来た。しかし安吾が ﹃人民文学﹄という場 ︱ ﹃真空地帯﹄論争と﹃新日本文学﹄ 大西巨人・野間宏における ﹁大衆﹂の戦争関与に対する 意識の比較 したい。 を 掲 げ た 安 吾 は、︿ 告 白 ﹀ を 峻 拒 し つ つ、 一 その嚆矢となる作品である。 た。﹁いづこへ﹂︵﹁新小説﹂昭二一・一〇︶は 連の﹁自伝的な意味を持つ作品﹂を書き上げ したい。 ﹁いづこへ﹂、無責任な安吾 自らの生に形而上的理念を設けながら、不 本意な生活に陥ってしまう過去の﹁私﹂を表 企図したのは、新たな︿自我﹀を﹁発見﹂す 象する﹁いづこへ﹂は、一般的には作家の単 ﹁過去のすべてをいつも生き生きと思ひう 福 岡 弘 彬 かべること、それを統一して一本のくさりに 争責任﹀追及の中で要求される統一的主体 は、 複 数 化 す る 自 己 を 体 現 す る こ と で、︿ 戦 橋 本 あゆみ 昭二一・四︶を要求したなかのしげはるの言 編 む こ と ﹂︵﹁ く さ 〴〵 の 思 ひ ﹂、﹁ 朝 日 評 論 ﹂ るための、﹁賭け﹂としての文学である。﹁私﹂ が表すように、戦争に何らかの形で関与せざ の、不可能性へと逢着する。さらに﹁私﹂が ︵一九五五年二月︶にあたっては、﹃新日本文 と断罪する言説︵山室静︶を布置したとき、 塚となった。同批評で大西は、軍隊は一般社 託﹂に始まる﹃真空地帯﹄論争が重要な一里 ここ﹀に統一し、自身の場 ﹁ 性 的 衝 動 に 引 き ず ら れ る ﹂ 様 を﹁ 無 責 任 ﹂ 学﹄一九五二年一〇月号掲載の﹁俗情との結 大西巨人が代表作﹃神聖喜劇﹄を起筆する るを得なかった多くの文士にとって、過去の ︱ 営為を︿いま 所 を 確 立 す る こ と は、 戦 後 に お け る 急 務 と 肉体﹀の統一をも要求する戦後の ︱ に自らの主体を設定し、我が身の負った罪を という手法である。複数の因果関係の結節点 のか。やがて安吾が﹁書きすてゝきたものゝ 中で﹁私﹂が切り開いた領野とはいかなるも ﹁責任﹂をめぐる主体編成ポリティクスの 政治力学に﹁いづこへ﹂は抵触するだろう。 の大衆追随主義﹂と批判した。﹁一方に被圧 命的主体と見る﹃真空地帯﹄の語りを﹁一種 一等兵をその無頼漢的な言行にも関わらず革 観に反論するとともに、貧困農家出身の木谷 会と切り離された場であるという野間の軍隊 なった。その際有効に機能したのは︿告白﹀ ︿観念 披瀝するその態度は、︿戦争責任﹀追及に対 中に私が在るかと云へば、さういふ確たる自 同時期、坂口安吾はこの︿告白﹀という文 する応答として相応しい。 ターン﹂の集合体であるこの世界を正しく捉 評価した。しかし、その後発表した﹁表現の えたものとして評価する一方で、筒井﹁脱走 変容﹂︵﹃群像﹄一九七七年九月︶において、 空地帯﹄を一九五〇年代前半の政治と連動し と追跡のサンバ﹂︵﹃SFマガジン﹄一九七〇 と、 同 時 期 の﹃ 新 日 本 文 学 ﹄﹃ 人 民 文 学 ﹄ 誌 迫階級があり、他方に人民以外の人間から成 軍隊観への大西の違和感は、﹃神聖喜劇﹄で た文学場の所産という観点から比較し、位置 つかこうへいを﹁ドラマトゥルギー﹂や﹁パ も庶民的な人間味と中国大陸で残虐行為を づけることを目指したい。 整 理・ 考 察 す る こ と で、﹃ 神 聖 喜 劇 ﹄ と﹃ 真 行った過去を併せ持つ大前田軍曹の造形など 立する軍隊がある、と主張しているような﹂ 上での﹁大衆﹂と戦争に関わる言説の傾向を にも継承されており、平凡な﹁大衆﹂が戦争 年十月∼一九七一年十月︶を、それらを嘲笑 本発表では、このような栗本=中島の両義 と批判した。 そのものの限界﹂に行き当たった作品である し う る﹁ 主 体 性 ﹂ の 存 在 ゆ え に、﹁ 対 置 構 造 ﹁主体性﹂と﹁ドラマトゥルギー﹂ の加害主体となりうるという問題への大西の ﹃真空地帯﹄論争から﹃神聖喜劇﹄起筆ま 中島梓と筒井康隆 の雑誌で重要な役割を果たしていた。﹃人民 学﹄の編集委員会議長兼寄稿者として、各々 筒井康隆の世界﹄一九七六年︶によって文筆 筒井康隆論﹁パロディの起源と進化 悲壮な 不 ま じ め さ、 献 身 的 な 不 謹 慎 ﹂︵﹃ 別 冊 新 評 中島梓=栗本薫は、栗本薫名義で発表した えた影響として論じているが、筒井は﹃東海 マトゥルギー﹂の世界を、テレビが文学に与 考えてみたい。中島はつかこうへいの﹁ドラ が 持 つ 問 題 を、 筒 井﹃ 四 八 億 の 妄 想 ﹄︵ 早 川 ︱ 強い関心がうかがえる。 では、日本共産党の五〇年問題に端を発する 的 な 筒 井 評 価 を 中 心 に、 中 島 の 言 う﹁ 主 体 文学﹄は、労働者の文学サークル活動を積極 業デビューしたのち、中島梓名義で発表した 性﹂と﹁ドラマトゥルギー﹂の内実とそれら 的に支援するなど、﹁人民に仕える文学﹂を 杉 本 未 来 強く打ち出すことで﹃新日本文学﹄との差別 道戦争﹄︵﹃SF マガジン﹄一九六五年七月︶ 体として﹁大衆﹂をどう捉えるかという戦略 れが主に身を置いた雑誌における、政治的主 パロディ作家としての﹁悲壮﹂さを評価し、 群像新人文学賞を受賞した。前者では筒井の 主題とした物語を多数書いている。﹁ドラマ をはじめとした初期作品で、すでにテレビを むしろ批判と抵抗を主題として描いた 後者ではつかこうへい﹃小説熱海殺人事件﹄ トゥルギー﹂への無自覚的な従属ではなく、 は な い か。 本 発 表 で は、﹃ 真 空 地 帯 ﹄ 論 争 ﹁フィード・バック機能﹂を持つ作品として ﹃ 四 八 億 の 妄 想 ﹄ は、﹁ 主 体 性 ﹂ と﹁ ド ラ マ 隊の関係をめぐる思考にも影響を与えたので ︵角川文庫、一九七六年︶を、文学に対する /欲望の違いは、両者の﹁大衆﹂と戦争・軍 書房、一九六五年︶を中心としてあらためて 化を図った雑誌である。大西と野間、それぞ ﹁文学の輪郭﹂︵﹃群像﹄一九七七年六月︶で 学会中央委員となり、一方の野間は﹃人民文 と重なる。大西は一九五二年四月に新日本文 ﹃新日本文学﹄と﹃人民文学﹄の分裂の期間 20 ( ) が 登 場 し た の は そ の よ う な 状 況 の 最 中、 代の﹁モダン﹂系雑誌が遭遇していた﹁昭和 ジャンルといった枠組みを超えて一九三〇年 ン ﹂ 系 雑 誌 を 比 較 対 象 に し て 分 析 を 行 い、 のように、大衆文化雑誌と同人雑誌といった 領域から﹁モダン・モダニズム﹂をテーマと 藤という視角を提供するこ トゥルギー﹂の す る 雑 誌 が 刊 行 さ れ 始 め た。﹃ モ ダ ン 日 本 ﹄ ジャンルが異なる同時代に刊行された﹁モダ 一九三〇年のことである。 モダン﹂への理想とその限界について考察し 藤の物語を取り出し、のちに ﹃モダン日本﹄は菊池寛が創刊号︵一九三〇 そのような とになるだろう。 ﹁超虚構﹂を提唱することになる以前の、筒 年一〇月︶に書いたように、﹁モダン﹂な生 たいと思う。 井の初期作品について再考したい。 活様式のみならず﹁刻々に変化して行く現代 日本を表現﹂しようとした。当時、様々な雑 誌が氾濫する中、人々に忘れられた他の﹁モ ︱ ﹁語ることをしない﹂チェーホフの 中原中也︿道化調﹀の諸相 吉 田 恵 理 化 調 ﹀ 詩 に 注 目 す る。﹃ 新 編 中 原 中 也 全 集 ﹄ 本発表は、一九三〇年代の中原中也の︿道 ﹁含羞み﹂ ︱ 0 ダ ン ﹂ が 付 く 雑 誌︵﹃ モ ダ ン 東 京 ﹄ や﹃ モ ダ ン・ ウ ー マ ン ﹄ な ど ︶ に 対 し て、﹃ モ ダ ン 日 本﹄は現在にも語り継がれている代表的な ﹁モダン﹂大衆雑誌として位置付けられてい る。創刊後、しばらく低迷し続けた﹃モダン 日本﹄が甦生できた裏には一九三一年に新し 0 第五会場 ︵B三〇一教室︶ 個人発表 一九三〇年代における﹁モダン﹂ を語る雑誌 ︱ ﹃モダン日本﹄と同時代雑誌の比較 を中心に ︱ 本発表では、馬海松が編集長になる前後の く編集長になった馬海松の存在があった。 0 て行った。﹁モダン﹂は芸術や文学において 広まり、速い速度で﹁昭和モダン﹂を形成し 化の一断面は関東大震災を起点として急速に などの新興芸術派メンバーが作った同人雑誌 様を考察する。また、中村武羅夫や浅原六朗 とで大衆が求めていた﹁モダン﹂系雑誌の有 系雑誌と﹃モダン日本﹄を比較分析をするこ 生させ、何がしかの含みを暗示する言葉の身 レベルと意味内容のレベルの間にねじれを発 調﹂の問題に収まるものではなく、語り口の と指摘するが、この︿道化調﹀は単なる﹁口 的変化を分析した上で、同時代の﹁モダン﹂ ﹁道化た口調の詩篇を数多く制作﹂している で あ る﹃ 近 代 生 活 ﹄︵ 一 九 二 九 年 四 月 創 刊 ︶ 振りとして、詩の構造に深く関わるものと考 のみならず大衆文化全般において現れ、﹁モ いわゆる﹁モダン﹂と呼ばれる日本近代文 ﹃モダン日本﹄における形式的変化及び内容 ︵ 角 川 書 店 ︶ は、 特 に 一 九 三 四 年 に 中 原 が 張 ユ リ 0 ダン﹂を求めていた文学者によって、または ﹁モダン﹂を待っていた大衆のために様々な 21 ( ) 22 ( ) シェストフに向けられた批判とチェーホフへ 安の文学﹂をめぐりて﹂における、ジイド、 ヂイ﹂について語っている。そこでは、サン Lettre a un inconnu 原始へのミユヂツク﹂ において、北園は自らの﹁原始へのノスタル ﹁不 ﹁ 研究史的な中原の位置づけと評価は、モダ の評価、特にチェーホフに与えられた﹁語る ︱ ニズムと﹁四季﹂派的な﹁抒情﹂との間の危 ことをしない﹂﹁含羞み﹂を︿道化調﹀との れることはなかった。そこで本発表では、ま 研究では、この点についてあまり取り上げら て生じたものであるのかを明らかにする。そ するある一つの運動﹂であることを示すもの の上で、こうした関心が、北園の詩や詩論の として、戦後詩の可能性をめぐる議論に参与 そこで本発表では、詩の具体的な分析を通 ず北園の︿原始﹀への関心が、何を媒介とし して、中原の︿道化調﹀が詩の構造にどのよ 形成にどのように作用しているのかについて し得ると思われるからである。 うに関わり、どのようなことを問題化してい 例 え ば、 一 九 三 二 年 に 発 表 さ れ た 評 論 の考察を行う。 さらにはアンリ・ルソーの絵画やムルナウの 術における︿プリミティヴィズム﹀を媒介と このように北園は、ヨーロッパの文学・芸 ある﹂と論じている。 絵画の方法に依つて組織し発展せしめる事で アスな計画は吾吾のアイデヤそのものを更に することであり、吾吾が試みる更にアンビシ 吾の多角的なアイデヤを絵画的に鮮明に表現 成しつつある実験はかくの如き座標に於て吾 し て 理 解 し た ﹂ と し、﹁ 吾 吾 が 今、 詩 に 於 て ﹁ ﹂ と い う 評 論 で は、 さ ら に 論 を 進 め NOTE て、﹁古代に於て人類は物を絵画的に考へそ だ と 述 べ て い る が、 一 九 三 八 年 発 表 の 進むべき方向として、﹁象形文字で書くべき﹂ また同じ評論の中で、北園は、今後の詩の とが指摘できる。 ミティヴィズム﹀を背景としたものであるこ めのヨーロッパの文学・芸術における︿プリ から北園の︿原始﹀への関心が、二〇世紀初 ﹁タブウ﹂等への言及がなされており、そこ 0 つけられた﹁文壇に与ふる心願の書 うい場所に設定されながら、そのいずれでも 関わりを通じて考えたい。 えられる。 ないといった形で特殊化されてきた側面があ 北園克衛の︿原始﹀への接近 ︱ う観点から 一九三〇年代初頭、北園克衛は、しばしば 大川内 夏 樹 ︱ ︿プリミティヴィズム﹀の受容とい 0 るのかを考察する。その方法の意味と射程の 検討に際して、一九三四年七月の日記に書き ドラールの詩やゴーギャンの﹁ノアノア﹂、 る。しかし、そうした詩史的な位置づけより も重要であると思われるのは、戦後詩の﹁主 体﹂をめぐる議論から見た中原中也である。 というのも、﹁荒地﹂派を主軸とする戦後詩 の﹁ 歴 史 的 実 践 ﹂ が、﹁ 語 り 得 ぬ ﹂ こ と の 表 現の為の﹁発話行為の主体と被発話態の主語 との分裂﹂の企て︵酒井直樹﹃日本思想とい う問題﹄一九九七︶として理解されるなら ば、中原の︿道化調﹀の身振りは、まさに詩 0 指示されるさまざまな位置の間をずれ、移動 ︿原始﹀について論じているが、これまでの における表現の主体が﹁人称指示詞によって 0 フィクションとしての、火野の戦争文学につ き彫りにしながら、多角的に作品を分析し、 抄﹄をとりあげ、﹃従軍手帳﹄との違いを浮 て、一九三〇年代半ばに北園が創刊した雑誌 ﹁海と兵隊﹂︵﹃毎日新聞﹄夕刊・一九三八年 いて考察していきたい。 く る。 本 発 表 で は、 火 野 葦 平 の﹃ 広 東 進 軍 ∼三九年︶というタイトルであり、兵隊三部 が、 本 発 表 で 扱 う﹃ 広 東 進 軍 抄 ﹄︵ 一 九 三 九 作の連作のイメージで発表されたが、それを して︿原始﹀への関心を高め、そこに新しい 改題して﹃広東進軍抄﹄として発刊された。 年 ︶ で あ っ た。﹃ 広 東 進 軍 抄 ﹄ は、 発 表 時 は ﹄には、人類学に関する記事が多数掲 ﹃ VOU 載されることになるが、こうした人類学への 詩 の 可 能 性 を 見 出 し た と 考 え ら れ る。 そ し 接近もまた、︿原始﹀に対する関心の高まり 十五年戦争下の﹁文学館運動﹂ た。 そ の た め、 火 野 の 所 属 す る 第 一 八 師 団 九 月、 大 本 営 御 前 会 議 は 広 東 攻 略 を 決 定 し 作戦、徐州作戦などに従軍する。一九三八年 第一八師団に入隊する。その後、杭州湾上陸 火野葦平は、一九三七年九月に召集され、 は 間 違 い な い。 し か し、﹃ 従 軍 手 帳 ﹄ と﹃ 広 の﹃従軍手帳﹄をもとに作品を構想したこと 二 〇 一 一 年 ︶ で あ り、﹃ 広 東 進 軍 抄 ﹄ は、 こ 支那事変の記録 戦﹄従軍手帳翻刻 ︱ 陸軍報道班員の記した ︱ ﹂関西大学﹃文学論集﹄ れは、広東作戦﹃従軍手帳﹄︵拙稿﹁﹃広東作 聞一切を記述した記録資料が残っている。そ ている。広東作戦でも、報道班員としての見 ルをもっているため、多くの記録資料が残っ 考えることが多い。そのような創作のスタイ んど存在しなかった。 てはその歴史的起源を問うような視点はほと す る も の で あ り、﹁ 文 学 館 ﹂ の﹁ 過 去 ﹂ ひ い まり明るいとは見えない︶﹁未来﹂を問題と 年︶などに関連して文学館の﹁現在﹂と︵あ 大阪府立国際児童文学館閉鎖問題︵二〇〇九 年のことである。しかし、その場合も多くは 館﹂への関心が芽生えてきたのはようやく近 ど、その研究資料のアーカイブである﹁文学 において、初版本や文芸雑誌、原稿や書簡な ﹁日本近代文学﹂を研究対象とする諸学会 大 木 志 門 は、広東に向かうことになった。第一八師団 東進軍抄﹄を比較検討すると、火野が何を事 た﹃手帳﹄、﹃日記﹄、﹃創作ノート﹄をもとに は、作品を構築する際、概ね、自身が記録し 論 じ ら れ て こ な か っ た の で あ る。 火 野 葦 平 争文学の代表作であるが、これまでほとんど 言うまでもなく火野の、兵隊三部作に続く戦 火野葦平﹃広東進軍抄﹄論 ︱ は、バイヤス湾から侵攻する。ちょうど同時 実として使い、何を描かなかったのかがより フィクションとしての戦争文学 期 に、 兵 隊 三 部 作 が 発 刊 さ れ て ミ リ オ ン セ 鮮明となり、作品の虚構性が浮かびあがって 増 田 周 子 ラーとなり、火野は、戦争作家として知られ 世界大戦後の一九六二年︵昭和三十七年︶五 わが国の文学館運動は、一般的には第二次 るようになった。このすぐ後に刊行されたの ︱ によってもたらされたと言える。 23 ( ) 24 ( ) の前身となった運動︶に始まるとされてい が結成された日本近代文学館創設︵およびそ 月に高見順・小田切進らを中心に設立準備会 用していた様々な文脈を考察する。 についての同時代の言説を収集し、そこに作 芽と考えて良いのではないだろうか。これら る。それ自体は誤りでないが、実は戦前にも 文学者たちの間から文学資料を収める施設の 創設を求める声がわきおこったことは知られ ていない。それは一九三四年︵昭和九年︶に 時の警保局長・松本学が主導した﹁帝国文芸 院﹂設立運動の成果である﹁文芸懇話会﹂の 活動の中で提言されたのであった。設立間も ない懇話会は同年九月十九日から日比谷公会 堂で﹁物故文芸家慰霊祭﹂を開催、続いて翌 二十日から日本橋三越本店で四十九名の文学 者 の 遺 品 を 展 示 す る﹁ 物 故 文 芸 家 遺 品 展 覧 会﹂を開いた。この我が国でおそらく初の本 格的な文学展を契機に、それらの資料を恒久 的に保存する施設の必要が主張され始め、島 崎藤村・徳田秋聲らが早稲田大学の坪内逍遙 記念演劇博物館、靖国神社の遊就館などを視 察し、翌年六月の﹁文芸懇話会﹂の席上で、 藤村が﹁文芸記念館﹂の創設を主張したので 結果として﹁文芸記念館﹂は実現しなかっ あった。 たが、この一連の出来事は、文学館運動の萌
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