MONK Vol 7 東海大学 JAZZ 研究会 OB 会機関誌 2004/5/31発行 山南 慎之介/38期・Gui 今回で3回目のOB総会が終わりました。出席いただいた皆さんありがとうございました。全く役立たずの役員でし たが、僭越ながら代表してお礼の言葉を述べさせていただきます。昨年に続いて六本木サテンドール、おいしいお酒 と料理、そして最高の音楽…毎回幹事、司会として尽力いただいている田先輩に感謝、感謝でございます。 さて、総会におきましては、会長挨拶(鉾立勝先輩)、会計報告(7期/摩中田豊先輩)、会計監査報告(1期/川辺 卓郎先輩)、役員会業務報告(5 期/加藤英雄先輩)と、定例式次第どおり無事終了いたしました。また、石垣島から 駆けつけていただきました1期/曽我定治先輩のジャズ研創設期のお話も、「先輩方あってのジャズ研なのだなあ」 と感慨もひとしおでした。 昨年は 前座 だったOBビッグバンド、私も端っこで参加させていただきましたが、いかがだったでしょうか。今 回は曲数も大幅アップ!もちろん内容も大幅向上!と隅っこでギターをかき鳴らしながら、先輩方の演奏に聴きほれ てしまいました(だからコード間違え…スンマセンでしたぁ〜)。 バンマスとして個性派ぞろいのメンバーをまとめる渡辺正二先輩、連絡、譜面手配、もちろん練習後の反省会(??) などなどバンド運営の要!倉田仁先輩、そして影のコンマスとして活躍(暗躍?)、演奏ではロック小僧と化しノリ ノリのギターサウンドを披露された澤和雄先輩、まだまだいっぱい書ききれない先輩の皆様、お疲れさまでした!今 後ともよろしくお願いします。 また昨年に続き数々の巨匠、大先輩方の前、 (無神経に?)緊張もせず素敵な演奏を聴かせてくれた現役「Swing Beats Jazz Orchestra」の皆さん、僕ですら知らない若手も入り、更なる躍進を遂げてくれると信じて疑いません。オープ ン前からウェルカムミュージックで会を盛り上げてくれた事も書き記したいと思います。 そしてOBプロの先輩方、まぢシビレマシタ!本当に素敵な演奏をありがとうございました。個人的に、最近ジャズ から遠ざかってしまっていた私なのですが、ジャズ研に入部して先輩方の演奏を目の当たりにし興奮していた頃の感 情を思い出しました。 「あージャズってやっぱ凄いなー、素敵やなー」と。来年もまたすっごい演奏をお願いします!! 前回、 「ネバーランドはあるのか、ないのか?」というような事を書きました。 「おのれはピーターパンシンドローム か?」といった冷めた自問自答もありますが…。あの日あの時間だけでも現役の頃の感情に戻ってる自分がいたこと も確かです。答えはよくわかりません(う〜ん…) 。とにかく、素敵な時間をすごせたことは間違いないのでした。 また来年、お会いできる日を楽しみにしております!!! 私のジャズ研ヒストリー 岡田 英樹/31 期・Tp 皆様はじめまして。また、ご無沙汰しております。私は現役時代tpを吹いておりました、岡田英樹と申します。 今回この様な原稿の依頼を頂き、自分のような者お役に立てるのか、非常に悩みましたが、皆様が過ごした大学生活 と同じ様に、私にとってもジャズ研での大学生活はまだまだ短いとはいえ、今まで人生の中でも非常に大切なひと時 でした。そこで今回原稿を書かせて頂く事となりました。何分未熟な上、乱筆等ございますがお許し下さいませ。 全ては説明会から始まった 私は高校まで吹奏楽部に入っていました。しかし、何か心の中で煮え切らないものがあり、何か他のジャンルで演 奏をしてみたいと思っていました。ジャズを殆ど知らなかった自分でも、今考えれば当然だったのかもしれないと思 いますが。そんなこんなで私はすぐにジャズ研の門を叩いたのでした。 たまたま同じ学部の同じクラスにジャズ研に入りたいという飯塚君(tp)がいましたので、一緒に説明会を受け に行きました。新しい物好きの私には非常にインパクトがあり、即決でジャズ研に入りました。 黒いベレー帽をかぶった、変わった人 私がジャズ研に入って、初めに印象的だった方が、2 つ上の赤埴さん(tp)という方でした。この方はいつもセッ ションを強要してくる。しかも、リズムセクションが無くても(!)セッションしてくる。本当にセッション好きな 方でした。でもこの方に会った事で、私のジャズに対する想いは日増しに強くなり、当時新さん(tp)や、加藤さん (tb)に借りた、クリフォードブラウンの「スタディ イン ブラウン」などを聞いて、頭が爆発しそうになりなが ら、ジャズの魅力に没頭していきました。生意気な事は良く言っておりましたが、本当に赤埴さんを尊敬をしていま した。(本当です!) 生意気な若僧 今考えると、本当に私は生意気で自分のことを棚に上げた若僧でしたが、その時は結構必死でした。当時は北村君 (as)(以降キタム)とバンドを組み、オーディションや学園祭にはいつも参加しておりました。自分で先頭を切っ て何かしたいという想いが強かったので、今考えると回りのことを考えられない馬鹿な奴でしたが、本当に一途でし た。そんな所で勘弁してやって下さい。すいません。 西尾さんとの出会い ある日いつもの様に部室に行くと、めちゃめちゃトランペットの上手い方がいました。性格もムチャムチャな方に 初めから見えましたが(西尾さん、すいません!)僕にとって、憧れの人が一人増えました。それから、西尾さんの ライブには行き、ラッパも教えてもらい、どんどんジャズに夢中になりました。 マイルス デイビス 当時良く聞いていたのが、マイルスのアルバムばかりでした。なかでも 60 年代のモードが流行っ ていた時期のアルバムは大好きで、いつも豆鉄砲に行ったら懲りずに「フォア アンド モア」の A面ばかり聞いていました。特にマイルス デイビスの生き方に共感し、自分もいつも前に進んで いたい、もっと前に!と思っていました。 あの頃の音楽を、キタムと、バクさん(山口新語(ds))とか、草刈君(wb)とか、橋本君(pf)とか、もも ちゃん(荒木桃子(ds))とか、国分君(wb)とか、多田君(ds)とか・・・と一緒にやってました。セッション では「フット プリンツ」、とか、マイナーブルースの曲を好んでやっていたように思います。 和気バンド 自分がリーダーで組んでいたバンドとは別にとっても面白かったバンドが「和気バンド」でした。和気さん(as) の強力なサックスに飲み込まれながら、「サム スカンク ファンク」をやっていました。松木君(eb)にワウと か借りて、出来もしないイコライザーをラッパにかまして、少しでも原曲に近づけたいと思いながら吹いてました。 今考えると、良くあんな曲やったなぁ〜って思いますが、あの曲は本当に難しかったので、学祭の噴水前ステージで 出来た事は本当に良かったです。平塚のスタジオでオールナイト練習はいつも恒例行事の様になっていました。本番 では確かイントロの最後の 7/8 拍子のところでつまづいてしまいましたが・・・ そんなこともあり、4 年生最後には電気マイルスの曲をやっておりました。 あれも楽しかったぁ〜 仲間との出会い 今でこそ仕事柄、なかなか連絡も取っていませんが、本当に良い仲間が一杯出来ました。一緒にセッションし、一 緒にバカをやって、一緒に飲みに行き・・・本当に楽しい時間でした。あの当時のあんな気持ちには(一応最近はもう 少しだけ大人になったので)もうなれないと思いますが、今でも大切な思い出であり、大切な仲間だと思っておりま す。 またいつか、仕事も落ち着き、趣味に精を出せればと思っております。 長々とお読み頂きありがとうございました。 OBビッグレポート 伊藤 達也/19 期・Bass その年最も無責任だった楽団員が、罰として書かなくてはならない OB ビッグ反省文。 S コンマスの厳命により、今年は、私 19 期の伊藤(Bass)が担当させて頂くことに相成りました。 さて、5 月 16 日の OB 総会、OB ビックリバンドの演奏はいかがでしたでしょうか? 来られなかった方の為に説明しますと、曲目はエリントンありベイシーありロックありチキンありテクなし体力もな しの全 8 曲!質の方はともあれ、前年やっとこ2曲だったことを思えば、相当な怪挙、といわせてもらいます。 それを実現できたのは諸先輩方の遊び心あるリーダーシップのおかげ。…というわけで 今回は感謝の意をこめて、S コンマスのメールを軸に、そのへん振り返ってみましょう。 ♪2003.5.14 『総会でのデビューステージ、お疲れさまでした。問題点は多々ありますが… ハッキリ言って、レパートリーさえあればずーっと演奏していたかった。』 このメールでもう決まってしまったわけです2年目は。そう、テーマは「質」より「量」、最初の新曲は 市 川秀男氏作曲「水祭り」。事前に MP3 でサンプル音源もメール配信され、「初見なんで」の言い訳もできな い親切さでございました。 ♪2003.7.02 『メロディくずしやチョットしたフェイクでもかまいません。 少しずつセッションに慣れれば楽しいと思っております。 』 約束事だけでなく自由なアドリブもやるべし、という親心からセッションも復活。 果たして OB ビッグに向いているのは、トルシエなのかジイコなのか…。 (私の場合、音程くずれやリズムばしりは得意なんですけど) ♪2003.7.22 『まるまる一ヶ月、間があいてしまいましたが、やはり月一くらいは音を出したいと思う 今日この頃。練習曲目は「水祭り」「FUN TIME」…… はりきって演りませう。 』 このころから毎月最終日曜日に練習出来るようになりました。 場所を提供頂いている高田馬場 Lone Star ★ Cafe さんには、ホントに感謝です。 ♪2003.9.25 『9月の練習曲は、エリントン2曲、ベイシー2曲、 セッション曲は BYE BYE BLACKBIRD SUMMER SAMBA …』 なんか、いきなり増えているんですが…。 ♪2003.11.19 『…新曲で8ビート?物が入りました。私はストラトにディストーションをかます予定です・・・』 さらに増える課題曲。しかも 8 ビート。 当初管の人の中には「つまらん(K 倉)」という意見もあり…、でも本番ではノってたよ。 次ページへ … ♪♪ ♪♪ ♪2003.12.11 『練習曲は下記ですが… IT DON'T MEAN A TIHNG SATIN DOLL MOONLIGHT SERENADE APRIL IN PARIS MIZUMATURI FUN TIME Switch in Time HEY BURNER STRAIGHT A HEAD BIKINI BEACH SOPHISTICATED LADY CHICKEN … セッション曲は、DONA LEE。テーマは出来たらユニゾンでお願いします…』 す、すごい。で、この間、折にふれて忘年会やら飲み会やら団員の親ぼくも深めつつ、 春の練習に励み(私は消えてました)臨んだ結果が、総会での演奏です。 8 曲もやるのに1曲目から思いきり前がかったホーンセクションの気合いの背景には、 こんな長〜い1年があったんです。 こうして振り返ると、強力な牽引役あっての OB ビッグであると、あらためて思います。 バンマス、コンマス、ジャーマネはじめ団員の皆様。おかげで1年間、音楽で遊ばせて頂けたこと、 この場をお借りしてお礼を申し上げます。 そしてもうひとつ、飲み会の席の話です。 「おめえら…(酔)OB ビッグだからって毎年同じやつが同じ事やるんじゃダメなんだよ(恐) 。どんどん変わってい くんだよ。じゃないと面白く無いよ。な(眠)…な」 現役は、卒業するけど、OB ビッグはなんとなく変わらないようなイメージを持っていた自分にとって、この言葉はち ょっと新鮮でした。 3年めを迎えた OB ビックリバンド。若い女の子にモテたいがために音楽スクールに通いだした50代がいる初々し いバンドです。余裕をもって参加して楽しむバンドですから、メンバーが多い程、ゆとりも遊び心もノリも豊かにな るはずだと思います。OB、現役 OB の皆様、ぜひ、一度のぞきに来ていただければ、幸いです。 (ピアノ、ベース、そ れからボーカル!?も急募!!) 第3回OB総会・サテンドールにて 2004.5.16 USAジャズレポート(2) 伊東 忍 10期/Gui <巨匠が一生かかっても成し遂げられないサウンドをこの几帳面なスタイリストはたったの一音で創ることが出来 る>と言う見出しでニューヨーカーと言う雑誌にギタリスト・ビル フリゼールが最近大きく取り上げられた。 <80年代初頭からジャズシーンにおいてもっとも注目すべき、そして非常に多く真似をされたギタリスト>とも。 雑誌ダウンビートでも彼の作品を<この10年間で録音されたなかで最高の作品>と賞賛しているし、コンテンポラ リー ワールド ミュージックックの分野で最近グラミー賞の候補ともなった。 この人のスタイルは独特であるために非常に好きな人と嫌いな人に意見が分かれるタイプ のギタリストであろう。数年前にラジオでかかっている彼の演奏を聞いたときに、確かブ ルースであったと思うが、一瞬迷いながら弾いたそのフレーズが、いわゆる本当にその瞬 間にひらめきで出てきたものであることが感じ取れたときに初めて、すごい才能のある芸 術家だな、、、と感じたことを今でも覚えている。私はかれの CD を一枚も持ってないし、お そらくこれからも入手することはないと思う。何故なら私の考える<ギターを弾く>とい う観念からはかなりかけ離れているスタイルであるからである。が、しかし70年代以降 から現在にいたるまで出現してきたギタリストの中で私は、彼がもっとも才能のある音楽 家、芸術家兼ギタリストであると思っている。 彼はバークレー音楽校時代、実はいわゆる普通のその他大勢のギタリストと変わらない、どちらかと言うとジム ホ ールに傾倒しているような演奏スタイルであった。自分自身のスタイルを、そしてアメリカ生まれの白人としてのル ーツを模索していてエフェクター類を接続していろいろなサウンドを試しているときに、ポールモチアンに大きく勇 気付けられ今のスタイルとなったようだ。彼がこのアメリカ社会で白人の家庭で生まれ育ち、世代的にもジャズ、ポ ップス、サーフィン ミュージックその他、彼が育った時代に影響された全ての音楽が彼の中で見事に消化され芸術 表現となっている。いくら同じアメリカの土地で生まれ育っても、アフリカの血の流れを持つ黒人、南米のラテンの 血を持つスパニッシュ系の人間とは違うルーツを持つ一人の白人音楽家が、他の人種の音楽をコピーするのではなく、 自分自身のルーツに正直な表現として昇華した事をこのアメリカの音楽界は賞賛し、そして認めた訳である。もう一 人パット メセニーと言うギタリストもアメリカ中西部で生まれ育ったルーツ、つまり黒人がルーツであるジャズに 彼はカントリーミュージックのフレイバーを初めて取り入れたのである。 いまだにやはりジャズで偉業を成し遂げたミュージシャンはそのほとんどが数の上でも黒人で占められている。歴史 に残っている白人は数人であろうか?スタンゲッツ、ビル ー シングス、ナウ ヒー エバンス、、? 60年代にチックコリアが<ナウ ヒ ソブズ>でデビューしたときもアメリカのジャズ界では<マッコイタイナーのやったこ とを一オクターブ上で弾いているだけ、、>と当時は酷評されたぐらいです。それから随分と時代が変わり、ビルや パットを始めその他の白人ミュージシャンたちもやっと最近になり黒人のやってきた音楽のコピーではなく<白人 >としてのルーツを保ちながらジャズ音楽にかかわりはじめて来たと思う。ヨーロピアンジャズは ECM サウンドに代 表されるように、彼らなりの一聴してそれとわかるサウンドスタイルをすでに築いた。さあ アフリカの流れもラテ ンの血も持ち合わせていない我々日本人はどうするかな? 鈴木 寿男 /8期・鑑賞会 渋谷のジャズ喫茶は、道玄坂から右に入った百軒店の坂の路地に集中していた。途中にあるストリップ劇場をチラッ、 チラッと横目に見ながら、路地の奥にあった「スウィング」 「デュエット」 「ありんこ」によく通った。しばらくして できた「ジニアス」 「音楽館」にもよく通った。いずれも本格的なジャズ喫茶であった。音もよく鳴っていた。 「ジニ アス」では、当時、発売されたばかりのビル・エバンスの「ホワッツ・ニュー」をよく聴いた。 小田急沿線では、向ヶ丘遊園にあった「ガロ」にもよく通った。マル・ウォルドロンがよくかかっていた。 「レフト・アローン」がかかると、無性にアルコールが欲しくなり、オン・ザ・ロックをよくたのんだものだ。 ママが美人であった。マクリーンの泣き節が、酔いを増長させ、よけいにアルコールを進ませた。 下北沢は、「マサコ」である。ファッツなママでいつもムームースタイルだった。ピアフ、モンタ ン、のシャンソンやニーナ・シモン、ビリー・ホリディ、がよくかかっていた。たっぷりとした、 深みのあるソファーとココアが美味しかった。摩中田さん、映研の世良さんと「マサコ」でよく待 ち合わせをしたものだ。「マサコ」を出ると、裏にあった定食屋にもよく行った。ニラレバ炒めラ イスが美味しくて、いつも食べた後は、皆んなでシーハー・シーハーしていた。それから、私たちは、ニラレバ炒め ライスを、シーハー定食とよぶようになった。こんなことを書いていると、私たちが少し、オカシク思われるかもし れないが、時々は、その隣にあった白樺書院で真面目な本を買って読んでいた。 日本のジャズ喫茶の草分けとも云うべき、横浜の「ちぐさ」にも何回か行った。木枠のガラス戸の入り口で、木の床 で、椅子も堅い木の、割りとせまい店であったように思う。コーヒーが美味しくて、吉田マスターが何とも粋でモダ ンな親父さんだった。この店にいると、聴いたこともないレコードがよくかかって、大いに勉強になった。 銀座に行って「並木座」で映画を見た帰りに「ろーく」によく行った。 「69」で「ろーく」。 思わずニタッとしてしまう。何というネーミングであろう。さすが銀座である。これが新宿 であると、チョッと入りづらい。しかし、ここは銀座である。私は、すました顔で堂々と入 った。まさしく、しっかりした正統派ジャズ喫茶であった。 私は、古書店めぐりが大好きで、神保町によく行った。水道橋の駅を降りて、たまに気が向くと「スイング」に入っ た。「スイング」は当時でも珍しいニューオリンズ・ジャズとスウィング・ジャズを聴かせる専門店であった。 「スイング」で初めて聴いた、ジャック・ティーガーディンの「セント・ジェームズ・インファーマリィ」は、胸に ジーンときていつまでも忘れられず、都内のレコード店を探しまわって、ようやく新宿西口の「オザワ・レコード」 で見つけて買った。確か800円位だったと思う。そのときに一緒に買った、モンローのレコードと共に、今でも私 の愛聴盤である。神保町といえば、何といっても「響」である。スピーカーが、やたら大きかったのと、とにかく音 が大きく、良く鳴っていたのを覚えている。モンクの「ブリリアント・コーナーズ」とロリンズの「ヴィレッジ・ヴ ァンガード」がよくかかっていた。帰りは、御茶ノ水に出て「ナル」に寄るのが、いつものコースであった。 上野の池之端の仲見世通り、鈴本演芸場の向かいにあったのが「イトウ」である。間口二軒位の奥行きのある 細長い店であった。確か、当時中年の品の良いママさんだったと思う。今は亡き、志ん朝や、小三治をよく見かけた。 その奥にあった「本牧亭」にも行った。さらにその奥の通りは、夕方薄暗くなってくると、何となく艶っぽくなり、 そして怖いくらいの緊張感が漂う時空間であった。学生の私は、行きたさ半分、怖さ半分で、結局は金がないことを 悟り、すごすごと、帰るのであった。 新宿、渋谷、銀座、上野、ときて、次に続くのといえば、当然、山の手線内周りで、池袋とこなければならない。 ところで、池袋にジャズ喫茶はあったっけ?おそらくは、あったのだろうが私は行ったことがない。 池袋といえば、私の記憶には、 「文芸座」と「文芸地下」しかない。いわゆる名画座といわれた B 級映画館である。 一階の「文芸座」は洋画専門、地下にある「文芸地下」は邦画が専門であった。私は 10 回の内、8回は「地下」に もぐった。ションベンの香りが漂う、まさしく映画を見るにふさわしい空間であった。年に 300 本位は見ただろうか。 毎週土曜のオールナイトは、9 時から朝まで一挙 5 本立てで、7 時位から並ばないと見れないほどの大入りだった。 当時、名古屋から新幹線に乗って見にきたというバカみたいな奴がいっぱいいた。「網走番外地」「昭和残侠伝」 「日本侠客伝」 「緋牡丹博徒」「内田吐夢・宮本武蔵」「内田吐夢・飛車角と吉良常」「山下耕作・総長賭博」 「加藤泰・遊侠一匹」 ・・・・・・・・。数え上げたらキリがない。魔法ビンのアツカンをチビチ ビ飲りながら見たものだ。とにかく健さんはカッコよかった。 「男はこうあるものだ。」を教えて くれた。今でも時々、深夜に見て涙している。ワルのイヤガラセに耐えに耐えて、ついに立ち上 がり、殴り込みに行く場面では、館内から「ヨシッ」という掛け声と共に大拍手が沸き起こり、 健さんが、斬られそうになると「健さん!!うしろがアブナイ!!」という大声がアチラ・コチラか らかかるという、良くいえばスクリーンと客席が一体となった、しかし、今思えば、笑い話のよ うな情景が、実際に毎週、毎週、くり返されていたのだから、まったくおかしな時代であったと しかいいようがない。見終わると、駅まで皆んな、両手をポケットにつっこみ、肩をすぼめ、左右にゆすりながら、 主題曲を口づさみ歩いていた。始発の電車に乗り、新宿で降りて、西口に出ると、ガード脇のションベン横丁に入っ て二軒目の右側の店で、100 円の天ぷら定食か鯨カツ定食を食べて帰るのが、お定まりのコースであった。池袋は、 私にとっては、ジャズとは無縁の、映画の街であった。 OB会事務局 *東海大JAZZ研OB会機関誌「MONK」は年4回(2,5,8,11月)の発行予定です。 この機関誌はメールアドレスのある方にはMM(メールマガジン)として、 NETを利用されていない方には封書にてお送りいたしております。 *2003年度の会計報告を添付しました、ご査証ください。 *2004年度のOB会費未納の方は振込み納入をお願いいたします。 OB会費は年¥2,000で振込先は下記です。 みずほ銀行白金支店(044) 普通 1462395 東海大学 JAZZ 研究会OB会事務局 加藤英雄 *第3回OB総会/5月16日(日)はメチャ盛況でした、ご参加くださった方々ありがとうございます。 *現役ジャズ研/夏合宿(西湖・民宿東村)の日程は8月9日から8月12日までの4日間です。 今年の山野コンテストの日程は8月21日、22日の2日間ですが、先日のテープ審査の結果、落選となりました。 送った曲はコルトレーンの「LAZY BIRD」だったそうです、来年に期待しましょう!!!。 この MONK 掲載の記事、レポート等へのご意見、ご感想、ご質問は、下記OB会事務局、ならびにOB会ホー ムページの「情報掲示板」にて承っております。 OB会事務局では皆様のレポートをお待ちしております。特にプロでご活躍されている方、アマチュアバンドで活動 されている方、ご一報をお寄せ下さい。 *住所、メールアドレス等を変更された方は忘れずにご連絡願います。 東海大学JAZZ研究会OB会事務局 東京都目黒区目黒3−3−18 モウリアートワークススタジオ内 FAX 03−5704ー0880 OB会ホームページアドレス http://jazz‑ken.hp.infoseek.co.jp/ ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 訃報 朝日茂さん(9期・Gui)のこと 10期の松本亮(ds)と申します。先日のOB会総会に初めて参加しました。 その時皆さんにお伝えすれば良かったのですが、その場の雰囲気もあり、この紙面をお借りして伝えさせていただき ます。 私も3年前まで現役でタイコを叩いていましたが、私をこの道に導いてくれたのは朝日茂さんでした。忘れもしない 川口の「大統領」というキャバレーが初仕事でした。 それ以来30年間ずっとタイコを叩き続けてきました。(最終的にはカントリー音楽) 平成2年に私の父が他界し、その時、朝日さんのお母様と私の父が教員仲間で知り合いだった事もあり、お宅を訪ね て初めてその事を知りました。 亡くなられた年ははっきりとは記憶に無いのですが、その時、2,3年前にJR飯田橋駅の構内で事故により、お亡 くなりになったと記憶しています。 今でも 「松本君〜・君〜・日本人にジャズはできないんだよ〜ヘッヘッ!」 とても優しくて奥ゆかしい方でした。 ご冥福をお祈りします. と現れそうな気がします。
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