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497 中国歴史 中国歴史班 雲南南部の生態環境史の構築に向けて

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2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
雲南南部の生態環境史の構築に向けて
クリスチャン・ダニエルス(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
キーワード:時期区分、環境保全措置、地域住民の役割
Towards the Construction of an Environmental History of Southern Yunnan
Christian Daniels
(Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies)
Keywords: Periodisation, Measures for Environmental Conservation, Role of Local People
要旨
本稿では、生態環境史に対する基本的な見方を述べた後、雲南南部生態史の時期区分をして、18・19 世紀に
おいて地域住民が人口増加と土地開発に対して採択した環境保全措置について論じる。
1 .はじめに
本班では雲南の一地域の事例研究から生態史モデルの構築を目指しているが、その主たる作業は歴史史(資)
料に基づいて、400年という時間軸で雲南の生態がどのように変容したかを解明することである。研究対象と
いる。ここはラオス北部とビルマ(ミャンマー)のシャン州と連続する地域であり、もともと非漢族が居住して
いたが、14 世紀から 20 世紀までの間、そこの生態環境が入植してきた漢族移民によって徐々に改変させられた。
当該地域の生態環境が具体的にどのような要因によって改変されたか、人間社会がどのように生態環境の変化に
対処したかを解明することが本班の基本作業の一つである。
この分析作業は、生態環境史が以下三つの側面から構成されているという前提のもとに実施している。
[1 ]人口の歴史 (自然災害や疫病などを含む)
[2]開発の歴史(人間移動、商品経済の浸透、交易の増大、国家政策、漢族移民による土地開発、栽培面積の
変遷、寺院建立などの要因)
[3]自然認識の歴史(人間の自然観が変われば、野生動物や植物に関する人間の対応も変化する)
これまで地方志及びフィールドで収集した碑文史料の分析から、16 世紀以降、雲南南部の生態環境を改変さ
せる要因として、人口増大、漢族移民による土地開発、商品経済の浸透及び漢族の商業活動が確認された。また、
ダニエルスが 2004 年度報告で指摘したように、漢族による全体経済活動が生態環境に及ぼした影響は自然災害
や王朝国家政策からも読み取れる。
本報告書では班員の清水享が碑文という基本史料について、野本敬が人口データ、西川和孝が土地開発につい
て、立石謙次が水源の保護について、増田厚志が商人の進出についてそれぞれ論じている。ここで筆者はこれら
上記の諸要因を概観した後、地域住民が自然災害や生態環境の改変に対して講じた対応策を取り上げる。
2.基本的発想
歴史的変化を理解する視点として、長いタイムスパンで見るマクロと短いタイムスパンで見るミクロの二つが
ある。しかし、短期間内に起こる変化を解釈するのはしばしば困難を伴なう。短期間の変化は特有のものと見る
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中国歴史
なる地域は雲南省南部一帯を含む。東は紅河から玉渓地区、思茅地区まで、西は徳宏州までの広い地域に及んで
2005 年度生態史プロジェクト報告書
べきか、あるいは歴史上しばしば繰り返されるパターンに属するのかとの判断が必要だからである。すなわち、
ミクロの変化を理解するために、長期間に亘って起こった変化のパターンも解明していなければならない。本班
は、雲南南部の生態環境が長期にわたりどのように変化したかを解明することを目的としている。そうすること
によって、研究者が短期間の個別事例を長期的傾向の中に位置づけて雲南南部の生態史を再構築することができ
ると考える。
生態環境は人間社会の営為によって常に改変されているのは事実である。長期的にみれば、人的要因によって
作り出された如何なる新しい生態環境であっても、自然界と人間社会の均衡がそれを持続させる前提条件と言え
る。均衡保持というのは、人間社会による管理に大きく左右される。自然界と人間社会のバランスが崩れた際、
災害が発生しやすいことがその好例である。人間が改変したばかりの生態環境に豪雨が降れば洪水になるのは、
水を制御する措置が不充分なためと見做すことができる。つまり、災害が頻発する時代は、人間社会の生態環境
に対する管理に問題が生じたと考えるべきである。総じていうならば、生態史では人間による生態環境の管理能
力が要点であると言えよう。
3 .雲南南部生態史の時期区分
雲南南部における生態環境の管理を理解するために、そこの生態史の長期的な流れを知っておく必要がある。
14 世紀から 20 世紀までの 700 年の間に、生態環境の変化を時期によって区分すれば、生態環境を改変させた
要因が確認しやすくなり、いくつかのパターンを浮きぼりにすることができる。人間による生態環境の管理はこ
表1.
雲南南部生態史の時期区分
時期
政治
開発などの特徴
形態
14 世紀から
王朝
王朝国家と民間による開発(軍事移民と経済移民 )。 王朝は村落
1911 年
国家
の末端までは充分に統制できない。 1800 年以降外部市場のため
の土地開発が進行する(茶)
1911~1949年
中華
雲南省は中華民国の政治体制の中で半独立状態―独自な政策を展
民国
開。錫の開発
1950 年代半
中華
タイ族土司の廃止によって、中国政府は国境線沿いの地域の行政
ば~ 1970 年
人民
権を完全に獲得。社会主義の公有制(国有と集団所有)が施行さ
代末
共和
れ、国際市場から隔離された時代だったが、国家は村落の末端ま
国
で統制できた。国家主導型開発、例として西双版納における国営
農場建設:国防とゴムを確保する目的
1980 年代初
め~現在
中華
経済の自由化・市場化が進展して、所有制が私営企業、自営業、
人民
外資系企業(外資 100 %企業、合弁企業、合作企業)へと多元化
共和
する。土地が農民に分配され、経済作物栽培の増加、国際市場と
国
の関係が深化し、あらゆる資源の商品化が進行中。西双版納の観
光地としての開発
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2005 年度生態史プロジェクト報告書
のような枠組みの中で行なわれてきたので、ここでそれを簡単に述べておきたい。
雲南南部の生態史はおよそ四つの時期に分けられる(表 1)。各時期は政治形態と開発の方式によって特徴づ
けられる。
(1)14 世紀から 1911 年までは、王朝と民間による開発の時期であった。王朝は 16 世紀まで軍人を雲南に送
り込み、駐屯地の維持に努めた。このような移民は一種の軍事移民であるが、彼らの手によって行なわれた開
発は王朝国家の主導によるものであったが、18 世紀以降、新天地を求めて雲南に移住した経済移民が多くなり、
この漢族移民による開発は民間主導型であった。1800 年以降、国内市場に茶や薬剤などの品目を提供するため
に、山地での土地開発が進行したが、森林伐採や山地でのトウモロコシ栽培などの活動によって、生態環境が改
変された。しかし、王朝は行政の末端である村落までは充分に統制できないため、自然界と人間社会の均衡は村
人の自己管理に任されていた。
(2)1911 年から 1949 年までは、雲南省は中華民国の政治体制の中で半独立状態であったが、さまざまな方
面において雲南省は独自な建設政策を展開する。箇旧の錫の輸出量を増加させるため、錫の高水準な精錬に成功
した。しかし、生態環境の管理は王朝時代の(1)と同様村人の管理に委ねられていた。
(3)1950 年代半ばから 1970 年代末までの時期。中華人民共和国が成立してから、タイ族土司が廃止され、
中国政府は国境線沿い地域の行政権を獲得した。社会主義の公有制(国有と集団所有)が施行されたが、これは
市場経済が充分に機能せず国際市場から隔離された時代だった。しかし、国家は行政の末端である村落まで統制
できるようになり、政府が人民一人一人をきめ細かく管理するようになった。雲南南部においては、国家主導型
開発が実施され、国防問題の解決とゴム確保を兼ねた目的で建設された西双版納の国営農場がその好例である。
(4)1980 年代初めから現在に至るまでの時期。これは経済の自由化・市場化が進展して、所有制が私営企業、
自営業、
外資系企業(外資 100%企業、
合弁企業、合作企業)へと多元化する時代である。土地が農民に分配され、
特殊な作物は国際市場との関係で栽培されるようになり、化学肥料の利用も増えて、あらゆる資源の商品化が進
行中である。経済が自由化されてから、雲南南部の国境線地帯へと移動する漢族も増え始めた。
このような時期区分を見ると、雲南の開発は一貫して中国内地からの漢族移民の到来と外部市場への関わりと
いう条件によって大きく変化してきた。雲南の人口は 14 世紀末の 120 万人から 2000 年現在では 4,236 万人
環境の改変は不可避となる。
4.地域住民の対応
雲南南部の住民が生態環境の改変に対してどのように考えていたか、またどのような措置を採用したかは碑文
や史料から読み取れる。住民は生態環境を破壊する行為を目の当たりにして、しばしば破壊を防止する規制を石
に刻んで掲示した。これらの規制から破壊の原因や住民が採用した防止策を知ることができるため、碑文は当時
の人間の生態環境に対する管理方法を伝える貴重な史料であると言えよう。
18 世紀後半から 19 世紀初期にかけては、雲南南部の生態環境が大きく変化した時期である。1776 年から
1826 年の間に雲南人口は 788.4 万人から 1,030 万人にまで急増した。この人口増加の大きな原因として漢族
の経済移民の絶えざる入植が想定できるが、生態環境を改変させた具体的要因として土地開発と商業生産の導入
も確認されている。思茅地区と紅河州にまたがる山間部において増加した茶葉栽培の影響が特に大きかったと考
えられる。
移民が山地で行なった開発によって、さまざまな自然災害が引き起こされた。このような災害の再発を防止す
るために、地域住民は共同で開発を禁止・制限する取り決めをした。この取り決めを禁約というが、禁約は地域
住民が自発的に環境を保全する措置であった。
地域住民の取り決めは、住民の生活に必要な資源や生態環境の悪化を引き起こす原因に対処するためのもので
ある。取り決めは、水源を保護したり山地での樹木伐採・農耕活動を禁止するなどを対象としており、違反者に
対する罰則規定を盛り込んでいる。以下の事例を見てみよう。
「もし禁約に遵わず、引き続き後山に通って薪や樹木を伐採し、あるいは山地を砍種する人がいれば調べ
出して報告せよ。頭人と郷耆の論議をへて銀陸両の罰金を科して、廟の経費に充当せよ。もし協議の上
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中国歴史
に増えており、600 年間で 35.3 倍の増加になる(表 2)。このような人口増加と商品経済の浸透につれて、生態
2005 年度生態史プロジェクト報告書
表2
雲南省全人口の変遷
年
1393 年
(推定)
登録人口
備考
軍籍・民籍人口約 70 万人
推定総人口 120 万:民籍
84 万人・軍籍 36 万
1521 年
軍籍・民籍人口約 118 万人
1776 年
788.4 万人
1820 年
1,030
万人
1865 年
1,337
万人
1872 年
1,123
万人
推定総人口 170 万
回民戦争と鼠疫によって
214 万人が死亡
1953 年
1,762
万人
2000 年
4,236
万人
典拠:曹樹基著『中国人口史』弟四巻明時期、上海、復旦大学出版社、 2000 年、 185 ~
191 頁;曹樹基著『中国人口史』弟五巻清時期、上海、復旦大学出版社、 2000 年、 214
~ 245 頁
決めた罰則規定に遵わない人がいれば、ただちに官に申し上げて取り調べ、処分をして頂くことにせよ。
ここにまた禁約を立てて告知する。
(嘉慶 13[1808]年 9 月21普洱県把邊郷の「砍樹禁約碑」)」
この事例では、徴収した罰金が地域住民の共同施設である廟の運営に充てられた。罰金は地域住民の共同生活
の維持に活用されていたのである。
このような取り決めは、地域住民による自発的な環境保全措置であるようにも見えるし、民間主導型環境保全
とも解釈しうる。取り決めには構成員全員の合意の元で作成されたと読み取れる文面があるからである。しかし、
構成員全員が同意しているかどうかを疑問視する学説やデータもある。
第一に、禁約と呼ばれるこれらの取り決めは、そもそも自発的に行われていないとする法制史の研究が存在
する。寺田浩明「明清法秩序における「約」の性格」(溝口雄三等編『アジアから考える[4]社会と周辺国家』
東京大学出版会、95頁)によれば、禁約は約束行為である。自然発生の結集ではなく、呼びかけ人の主張に触
発されて、皆の衆が参与する。参与者の意志の統一性は参与者相互の議定によって作られたという。
「頭人▲かしら▲と郷耆▲きょうき▲の立ち会いのもとで、衆人が合議した結果、後山▲しゅたるやま▲
附近のいずれのところにおいても、伐採し山地を掘って耕してはならないと警告する内容の禁約が寫▲
か▲き立▲た▲てられた。
」
(嘉慶 13[1808]年 9 月 21 日 普洱県把邊郷の「砍樹禁約碑」)
寺田氏の研究に照らして分析すると、
この禁約の規定は自発的に集合した人々によって決定されたのではなく、
頭人と郷耆という村役人の呼びかけに応じて集まった人々によって合議された。取り決める過程には、有力者で
ある村役人の圧力がはたらいていることも考慮に入れる必要がある。
第二に、このような取り決め方では規定がどの程度効力を発揮していたかが問題となる。先ず、自己の意に反
して村役人の圧力に屈して合意した構成員がいたとすれば、その中から違反者が出るのも必定である。以前に合
意した規定を遵守しないため、再び取り決めをしたと明記する禁約さえある(嘉慶 13[1808]年 9 月 21 日 普洱県把邊郷の「砍樹禁約碑」
)
。また、構成員以外にも禁約の強制力が及んでいたかどうかは今後検討すべき課
題である。
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2005 年度生態史プロジェクト報告書
第三に、地域住民による生態環境管理規定の取り決めには、村落レベルの役人が立会人となっている場合があ
る。これらの村役人が行なう業務の中に生態環境も含まれていたことが知られる。郷約と呼ばれる村役人につい
ては、王朝政府が発給した辞令に次のような記述がある。
「…里内の郷約は昔時から年ごとに交替することになっている。今、四里老民の畢香等によれば、王相が
公選によって道光 23(1846)年の郷約一名に充当されたので、執照を発給することにした。ここに王相
に執照を支給するので保管するように。役職に就任したのち、官庁のすべての公事労役に供する人馬な
どの公務は必ず気をつけて引き受けなければならない。もし命令どおり忠実に任務を遂行すれば、本庁
は必ず奨励する。謹んで遵守して違えないようにせよ。右御照会まで。….(蒙化府直隷庁が道光 23(1846)
年 12 月 16 日に発給した執照)
」
以上から郷約は、当局が地域住民によって選ばれた人物を任命した官職であり、辞令(執照)と印鑑も受領し
ていたことが分かる。王朝国家の権威に裏付けられた郷約が参与する取り決めは、対等関係にある人々の議定に
よるとは言い難いのである。
以上を総括すると、18・19 世紀雲南南部において、王朝国家政府は統一的な生態管理政策を実施できなかっ
たが、地域住民の中には王朝国家の権威や有力者の力を利用して生態環境保全の措置を設置する人々がいたと言
える。
5 .最後に
現在の中国では環境保全は 18・19 世紀と違って、国家主導型になっている。中央政府で決定された環境保全
政策が確かに各省の郷政府・鎮政府を通して村政府まで伝達されている。行政指導がこのように行き届いている
のは、中央政府には行政の末端まで統制できる能力が備わっているからである。しかし、政府による強制では、
地域住民の一人一人には環境保全思想が果たして徹底しているだろうか。経済利益の追求が政府によって奨励さ
れる現在の中国では、個人の利益と国家の環境保全政策が対立する場合、個人が国家の政策に対してどのような
対策をとるかというのが今後重要な課題であると言えよう。
history, then divides the history of southern Yunnan into four periods and finally discusses the measures for
environmental conservation taken by local people during the 18th and 19th centuries.
501
中国歴史
Synopsis: This paper begins by explaining the basic ideas that the author holds about environmental
2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
生態環境史関連碑文の立地と地域社会におけるその機能について
清水 享(日本大学)
キーワード:碑文 村落 立地 森林 水利
Concerning the Location of Eco-historical Stone Inscriptions and the Function in Local Society
SHIMIZU Toru(Nihon University)
Keywords: Stone Inscriptions, Village, Location, Forest, Irrigation
要旨
本報告は雲南省南部紅河流域を中心とした地域の生態環境関連碑文について、その立地と地域社会との関係か
ら初歩的な分析を試みた。いくつかの事例より碑文がどのような場所に立ち、その存在が村落などの地域社会に
おいてどのような役割や効果があるのか概観し、現在における森林資源の保護の機能や灌漑分配の証拠としての
役割などの可能性について指摘する。
1.はじめに
雲南省は中国の南端に位置し、その地理的、歴史的環境は中国の他の地域と異なる性格を示す。それは変化に
富んだ複雑な地形や中国世界と周辺世界との交接点といった特徴から知ることができる。元来、雲南省は中国最
奥部のイメージで捉えられがちな地域であったのだが、実際は東南アジア世界への連続性を有し、特に元江(紅
河)流域以南は本プロジェクトのテーマのようなアジア熱帯モンスーン地域としての繋がりを見ることも可能な
のである。
このような雲南省であるが、もちろん中国世界の一部として漢字による文字資料も多く残されている。そのた
め、これらの史料から漢人移民やその移民にともなって拡大してゆく商品経済がいかに生態環境へ影響したかな
ど、生態環境の変移を長期的スパンで分析することが可能なのである。中国班はこのような文字資料を活用し、
アジア熱帯モンスーン地域の北辺に位置する雲南省南部、主に元江 ( 紅河 ) 流域以南の生態史モデルの再構築を
目指している。400 年という長期的スパンの時間軸に目を向けることは、20 世紀後半のアジア熱帯モンスーン
地域の生態史モデルを再構築する際において、その背景としてより深い陰影をもってそのモデルを描き出せるの
である。
このアプローチでは主に 2 種類の史料が用いられる。ひとつは地域の概要を「官」の立場から記してある地
方志であり、もうひとつは地域社会に残されている各種の生態史関連碑文である。前者からは開発や人口の歴史
などマクロな視点からのアプローチが、後者からは地域社会がどのように生態環境を利用、保護していたのか、
ミクロな視点からのアプローチが可能となっている。
本報告では生態環境に関する碑文より地域社会と生態環境との関わりを見ていく。しかしそれは碑文の詳細な
内容分析による手法でなく、碑文そのものがどのようにその地域社会のなかに存在し、関わっていたのか、とく
にその立地に注目し、現在的な視点よりその機能的な効用の有無など、いくつかの事例を取り上げ、初歩的な分
析を試みようとするものである。
2.雲南省南部における生態史関連碑文
502
2005 年度生態史プロジェクト報告書
1]概況
雲南省南部を西北から東南方向へ元江(紅河)が貫流する。その流域に位置する紅河ハニ族イ族自治州(以下、
紅河州)とその東部に位置する文山チワン族ミャオ族自治州(以下、文山州)を中心に生態環境に関連する碑文
について、中国班では分析を進めてきた。生態史に関連する碑文は大まかに分類すると、(1)森林保護に関わ
る碑文、
(2)水利施設に関わる碑文、
(3)生態環境に関する取り決めの記載のある民約碑文、(4)鉱山開発な
ど鉱工業開発に関する碑文、(5) などに分けられる。
現在まで分析した生態関連碑文の総数は約 50 基を数える。その内訳は(1)森林保護に関わる碑が約 25%、
(2)
水利施設に関わる碑が約 30%、
(3)生態環境に関する取り決めの記載のある民約碑が約 25%、(4)鉱山開発
など鉱工業開発に関する碑が 5%、(5) その他の生態史に関する記述のある碑や森林保護と水利の両者に関わる
碑が約 10%という割合だった。
2]地理的分布
生態環境に関する碑文はやはりその多くが漢人の居住している地域に分布している。しかし、それは安定的に
漢人が居住している地域は当然のことであるが、非漢民族であるであるイ族やハニ族との交接地帯に分布してい
ることも少なくない(紅河州元陽県嘎娘郷下嘎娘村「関聖宮碑」など)。なかにはイ族やハニ族の土司の支配地
域に立てられている碑文もあった(紅河州元陽県攀技花郷猛品村「猛弄水利碑」など)。特にこうした地域では、
碑文の内容に漢族の移民と非漢族あるイ族やハニ族との地域社会でのせめぎ合いの記述も見られる(紅河州元陽
県嘎娘郷大伍寨村「禁砍森林碑」など)
。また文山州などでは、漢文化の受容度の高いチワン族の地域において
生態環境に関する碑文が立てられているのが確認できた(文山州広南県旧莫湯盆寨「護林告白碑」)。
地理的分布で興味深いのが、紅河州元陽県嘎娘郷の例である。元陽県は紅河の南岸に位置し、東西に尾根を持
つ山々が連なり、その南北斜面に棚田が広がっている。嘎娘郷付近の北側斜面にはその棚田に水を配分するため
の水路が多く掘削されており、
その掘削の来歴や水路の使用の取り決めに関する碑文が集中的に分布している
(紅
河州元陽県嘎娘郷龍克寨「糯咱水溝碑」
、
「龍克水溝碑」など)。また紅河の北岸に位置する紅河州石屏県では盆
地に位置する宝秀鎮において水利に関する碑文が集中的に見られた。ここは盆地の水田を潤すための水路開発活
営民水碑」など)
。
3.生態史関連碑文の立地
1]碑文の位置について
碑文は元来いずれかの場所に立てられていたものである。それは村落の中心的な場所であったり、関聖宮など
の廟堂内の壁面であったり、碑文によりさまざまである。そしてその碑文は立てられた当時よりそのままの位置
に存在している場合もあれば、中華人民共和国成立以降、政治的な理由で撤去され、他の場所に保管してある場
合もあった。時には碑文は撤去後、破損してしまった例も少なくない。また、撤去された碑文は後に元の場所に
もどされることもあれば、新たな場所に立て直されることもあった。本節ではその碑文の立地状況と村落との関
係を見ていきたい。特に現在の状況、すなわち現在の村落において碑文がどのような位置を占めているのか、い
くつかの事例を見ながら考察する。
2]護林碑
その多くは村落内に位置している。村落の中央、村の人々にとって目に付く場所に立ててあることも多い。
文山州広南県旧莫湯盆寨「護林告白碑」はチワン族の村落内の中心的な存在で廟堂兼集会所である「老人庁」
の前に位置しており、いつでも碑文の内容を村落内の人々が参照できる状態だった。文山州広南県派播郷壩洒村
「護林告示碑」もチワン族の村落の中央に位置し、「寨宝(村の宝)」として認識されている。また紅河州元陽県
嘎娘郷大伍寨村「禁砍森林碑」はやはり村の中心に位置する公所(村役所兼集会所)の門柱に埋め込まれていた。
これは 1980 年代以降改めて埋め込まれたものと推測される。この碑文の文字自体は漆喰等が塗り込められてい
て判読しづらいものだったが、公所の門柱という村落の人々の目に付きやすい場所に置かれたのは、この碑文が
503
中国歴史
発になされ、それに関する碑文が立てられたのである(紅河州石屏県宝秀鎮呉営村「水班碑」、鄭営村「清理鄭
2005 年度生態史プロジェクト報告書
現在においてもこの村落にとって少なからず何らかの価値を持っていることを物語っている。
この他、寺廟のなかに位置するもの少なくない。紅河州元陽県嘎娘郷下嘎娘村の「関聖宮」にも護林の内容が
記された「関聖宮碑」があった。この碑は一度廃棄され、家の床石にされていたものを数年前に村落のリーダー
が改めて保管したのである。その保管状況はよいとは言えないが、それでもこのことは村落内の人にとって碑文
は一定の文化的な価値を有するということに気がついたのである。また寺廟では石屏県宝秀鎮秀山寺内にも「秀
山護林碑」があり、山門の壁に埋め込まれた碑文は現在でも十分にその内容を読み取れる。少なくとも寺院と山
林と村落がその資源保護に関わり、
現在でもその周囲の人々がその森林保護の来源を知ることができるのである。
こうした護林の碑文で注目されるのは紅河州石屏県老旭甸村の例である。ここには2基の護林碑が存在するが、
1基は村落内に位置し、護林のための決め事が記され、村落の人々のとても目に付く場所に位置している。もう
1基は村落西北後方の山上、耕作地の背後の墳墓群の最後方に位置している。碑には簡単に「封山護林」と紀年
銘があるのみである。そしてこの碑の後方に保護されている森林が実際に広がっている。村落内の決め事が記さ
れた碑、森林の境界を示す碑、そして背後の森林というセットは他には見られなかった。この2基の護林碑はこ
の村落にとって現在でもその機能を果たしており、山上の護林碑の背後の森林はそのことを如実に示していた。
3]水利碑
水利碑は灌漑の開鑿、堰の建設などによって立石されることが多い。また、水源の近くにはその水の分配に関
して内容を記した碑文が見られる。
灌漑の開鑿に関する碑文は、その開鑿の由来と水の分配の取り決めの両者を記し、その取水口に立石している
ことが多い。紅河州元陽県嘎娘郷龍克村「糯咱水溝碑」、「龍克水溝」の例を見てみると、いずれもその取水口付
近に立石している。これら2本の水路の取水口は 100m も離れていない。現在、この 2 本の水路に水は流れて
いない。龍克村村民の証言では2年前までこれらの水路は使われていたが、水源が枯渇したため現在は使われて
いないとのことだった。
紅河州石屏県宝秀鎮に広がる壩子(バーツ)と呼ばれる盆地には村落内での水路の利用の規定に関する碑文の
例も見られた。鄭営村「清理鄭営民水碑」などはそのような碑文であり、現在は陳氏祠堂内に保管されていた。
陳氏祠堂は比較的大規模な祠堂であって、現在も集会所的な役割がある。そのためこの碑文も水の分配などで揉
め事があった際には証拠として利用される可能性がある。
この他、紅河州蒙自県多法勒郷布衣透村には2基の「黒龍潭分水碑」があり、蒙自の壩子(バーツ)の灌漑に
関する内容が刻まれている。盆地東端の山の斜面の水源近くに碑文は立っており、現在も水源からは滾々と水が
湧き出し、近隣の田畑を潤している。この碑文はこの水源に関しての紛争の裁決と利用にかんする取り決めに言
及しており、現在もこの取り決めに則って水が利用されているようだった。
堰の建設によっても、碑文が立てられている。文山州硯山県阿舎郷巨美村「魚沢坡壩護壩護林碑」も「魚沢坡
“ 壩(堰)”」を建設した際に立てられた碑文であり、堰によってできた貯水池とその周囲の森林の保護に関する
決め事が記されている。現在、碑文は堰の上にはなく、貯水池の管理事務所に丁重に保管され、その保管状態か
ら現在でもその内容が有効であることがうかがい知ることができた。
水資源にとってその公平な分配は最も重要なことであり、灌漑に関する水利碑が現在でも比較的良好な状態で
残されていることが多いのは、やはり現在の時点においてもその取り決めが有効であることを示唆している。
3]民約碑、鉱工業に関する碑などその他の生態環境関連碑
民約碑は関聖宮などの廟内に立石していることが多い。すなわち村落内の宗教的な施設、あるいは集会所的な
施設に位置し、村落内の人々にとって随時に参照可能であることを示している。蒙自県十里舗郷龍頭寨「龍頭全
寨公議碑」は近くの湖「大屯海」の泥の利用規約に関する内容のある民約碑であったが、この碑も関聖宮内の壁
面に位置していた。また、
お茶の税に関しての取り決めを記したシーサンパンナ州孟カ臘県武易郷武易街「茶案碑」
は関聖宮に、塩商人の専横を取り締まる文山州馬関県八寨鎮八寨街「取締非法哄抬塩価告示碑」は土地公廟内に
位置していた。これらはいずれも漢人の移住に関わってくる碑文であり、漢人が将来した廟内に位置していた。
文山州馬関県馬白鎮西布甸村「厳禁私事開採硝鉱告示碑」は硝石採掘の禁止を規定下碑文であったが、この村
504
2005 年度生態史プロジェクト報告書
はチワン族の村であり、
この碑文は村の廟堂兼集会所である「老人庁(現地は神農寺と呼ぶ)」内に位置していた。
チワン族においても生態環境に関する民約碑はこうした宗教的、あるいは集会所的な位置にあり、人の目に付く
ようなところにあった。
4]生きている碑文:村落内での碑文の存在
碑文は立てたその地に、立てた当時からそのままの状態のものが何点もあった。これらの碑文の多くは、やは
りずっと元来の位置にあるだけあって、現在でもその内容が効力を持ちえていることが多い。また、村落の人々
にとって碑文の内容の詳細は読まれなくなったとしても、その碑文が存在していることで、その森林や水利など
周囲の生態環境を直接的にしろ、間接的にしろ、保護・管理の一端を担う機能があると言えよう。このように生
態環境への働きかけが見られるのは撤去された碑文を再び元来の位置にもどすといった事例でも同様の意味合い
を持つこともある。
また、立石していない碑文でも、よい状態で保管されている場合は、何かその碑文に関して、たとえば水の利
用や森林の管理において揉め事などが起きたときに活用される可能性が高い。碑文が保管されていることはすな
わち今後何かあったときに参照できるためになされていると言える。
このような碑文は現在においても活用されており、言わば「生きている碑文」といえよう。
生きている碑文があるとすれば、その逆に「死んだ碑文」も多い。中華人民共和国の成立以後、文化大革命な
ど多くの政治運動によって伝統的な文化財の破壊が進められ、生態環境に関する碑文も同様に巻き込まれた。ま
さしく破壊の憂き目に遭ってしまったのであって、これらの碑文は文字通り「死んだ」のである。こうした碑文
も実際に少なくない。また現在では各地の文化関係の単位に収蔵され、生態環境に関わるような内容を直接人々
に伝えられることもなくなり、その役目を終えた碑文もあり、これも「死んだ碑文」であると言えよう。
こうした「死んだ碑文」とその年代は比例しない。清代中頃に立てられた碑文がそのままの状態で立って生き
ながらえていることもあれば、民国時代後半に立てられたものが、すでに破壊されたり、文字が削られ内容が判
読できずに死んでしまった碑文もある。
「生きている碑文」と「死んだ碑文」の違いは碑文がその村落において
生態環境としての森林や水路など、時代を通じて継承してきたかどうかということの違いであると言える。すな
生態環境に関連する碑文は、普段、公的機関や団体の建築物の近くに放置されているようなものも見られるが、
一旦生態環境に関する揉め事が発生した場合、先人の取り決めとして、村の人々によって運び出され、紛争を解
決するための証明として活躍する可能性、すなわち碑文が「生き返る」可能性も指摘できる。
5.小結
現代において村落内に立石している碑文はその村落内あるいはいくつかの村落間において生態環境の管理、保
護に関して一定の影響力を持っている可能性が指摘できる。それは碑文そのものの文化的価値を認めるというこ
ともさることながら、過去の記憶をただ単に記した遺物として存在するのでなく、現在でも生態環境の維持・管
理や発生しうる紛争の解決、あるいは抑止のための証拠として碑文が存在しているのである。もちろんそれは現
在の近代法治国家において法的な拘束力があるわけではない。しかし村落内外の人々にとって現地の生態環境を
好ましい状態で維持管理していく上で、碑文は心理的な働きかけとなり、いまだ有効であることも少なくない。
場合によっては碑文の内容、すなわち書かれている禁止事項などより、碑文が存在していることそのものが重要
となってくる。それは村落の先人が生態環境の維持や管理の努力の記憶を表象し、現在の村落の人々にも多かれ
少なかれ、人々の生態環境への意識に影響を与えている。
碑文の内容分析解読は本班の中心的課題であり、当然重要な作業である。それにも増して、現地での地域社会
と生態環境の維持管理やその変移を知る上で、現在の碑文と地域社会の関係についてもさらなる分析を進めなけ
ればならない。
505
中国歴史
わち生きている碑文は現在でも森林の保護や水利の利用を映す鏡であると言えよう。
2005 年度生態史プロジェクト報告書
参考文献
(日本語)
クリスチャン・ダニエルス 2004「ダニエルス歴史班 班全体の報告」『アジア熱帯モンスーン地域における
地域生態史の統合的研究:1945 ~ 2005 2003 年度報告書』総合地球環境学研究所・研究プロジェクト
4-2 (352-354)
清水 享 2005「紅河州・文山州地域における調査の概要及び現地における生態史関連碑文の現状」『アジア熱
帯モンスーン地域における地域生態史の統合的研究:1945 ~ 2005 2004 年度報告書』総合地球環境学
研究所・研究プロジェクト 4-2 (531-541)
(中国語)
国家文物局主編 2001『中国文物地図集 雲南分冊』雲南科技出版社
Synopsis: This report aims of make a preliminary analysis of stone inscriptions concerning to the ecology in
the south yunnan from the viewpoint of what they on located and their relationship with local society. Using a
few examples the report provides an overview of the location of stone inscriptions functioned in local society
especially villages. It also deals with the function of the management and protection of forest resources at
present and the role of evidence concerning the judgment of the irrigation distribution dispute.
506
2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
碑文からみた、人々の水資源利用、環境保護の観念について
立石謙次 (国士舘大学)
キーワード:水資源、環境保護、碑文
The Use of Water Resources and the Concept of Environmental Protection from Inscriptions
TATEISHI, Kenji(Kokushikan University)
Keyword: Water Resources, Environmental Protection, Inscription
要約
本報告で紹介する「清理鄭營民水碑記」
、
「水溝碑」は、雲南地方の人々がどのように、農業用水を分配してき
たかという水利にかかわる碑文である。従来、水利にかかわる碑刻史料は、主にその土地で、どのような水利慣
行が行われていたかという問題について、多く法制史の立場から考察されてきた。しかし、一方で水利にかかわ
る碑刻史料の多くには、農業用水分配にいたる、経緯、方法そして彼らが自然資源をどのように利用してきたか
という問題についても記されている。これまで、本調査で収集されてきた碑刻史料は、その内容が今回初めて明
らかになったものも多い。このため、これら碑刻史料に対する考察は、人々が自然資源をどのように利用してき
たかという生態史上において、新たな知見を与えると考えられる。
石碑は、中国の地域社会において、土地利用、水源確保などに関する紛争を防ぐよりどころのひとつとなって
おり、それは、その時代、その場所である問題が発生、あるいは起きようとしているとき立てられる。その意味
において、これら碑刻史料は当時の歴史的状況をよく反映している。
本報告で問題とする水利碑は、その名称のとおり、人々が公共資源である水資源を以下に分配するのかという
水利慣行、そしてどのように森林資源を保護したかということに関して記されている。ところで、従来このよう
な問題について、法制史の立場から研究が行われてきた。しかし、これら石碑の価値は、法制史からの立場から
にとどまらない。それは、これら碑文には、現地の人々が問題としている当時の環境に関する事件について書か
れているからである。
また、これら石碑の記述は、従来史料としてみなされることがなかった。さらにいえば、このような碑文に見
られる内容は、現地の知識人や官僚の手による歴代の地方志に載せられることはない。このため、これは碑刻史
料を環境史の立場から、再検討していくことは非常に意義がある。
2.水利碑からみた自然観
[ 1] 水利慣行と共同体による水資源の共有―「清理鄭營民水碑記」
上述したように、水利慣行が記される水利碑は法制史の関連から研究が行われてきた。ただし、水資源をいか
に確保し、いかに分配するかという問題につていえば、これらはそれぞれの地域における生態環境の変化、およ
びそれぞれの民族の自然観に根ざしていると考えられる。
たとえば、石屏県宝秀鎮鄭営村で発見された「清理鄭營民水碑記」には、同地域での具体的な水資源の分配の
状況のみならず、分配に至るまでの経緯・過程が詳細に記されている。
507
中国歴史
1. はじめに
2005 年度生態史プロジェクト報告書
この『清理鄭營民水碑記』によれば、水資源を「份」という単位に分けて、村の構成員に分配していた。この
分配方法については、中国の伝統的な分配方法である。同地域では、従来から伝統的な中国の方法に基づいて水
資源を分配していた。ところが、
その水資源分配の権利である「份」の分配状況時代が経るにつれが混乱していっ
た。
たとえば、相続の際に「份」が兄弟の数だけ不当に増加されて分配された。また、借金の抵当として、負債者
が「份」を貸主に、譲ったのにもかかわらず、そのまま負債者が水資源を利用しける。そして貸主も負債者が借
金を返済したにもかかわらず水を利用し続けるという状況が出現した。このため、本来の水資源の要領を上回る
水量が使用されることになった。ここで、同地域の顔役たちが自発的に、水資源を再分配し、この分配を明記し
たのが同碑である。
このように同碑からは、水資源利用に破綻をきたした際、共同体の中で自発的に水資源を再分配、整理してい
こうという動きが見られる。これは、官側が作る地方志などにはまず記載されることのない情報である。
[2] 碑文に見られる自然景観・生態環境の変化-「水溝碑」を例に
また、
元陽県戛娘郷の糯咱村で発見された「水溝碑」
(原碑に題名なし、碑名は報告者が仮につける)には、龍坎、
糯咱、繳緬という三村が、共同で資金と労働力を出しあい、水田に農業用水を引くための水路を開いた状況及び
その後の共同管理に関する情報が記されている。
同地域は、現在棚田が広がる地域であるものの、同碑文によれば同地には本等水田がなかったと述べている。
このように、同地の用水路の開通を契機に、この地域ではそれまでの自然景観および生業形態も一変したと考え
られる。ただし同碑文には、彼らがどのような経緯で、どのようにその資金・労働力を集め、そしてどのように
自然を作り変え、それをどのような方法で保護しようとしたのかということが記されている。
「水溝碑」の内容は、それほど多くの内容を記しているわけではない。しかし、同碑の内容は、現在の元陽県
に広がる棚田、ひいてはその背後に広がる水源である森林が歴史的にどのように利用され続けてきたかというこ
とについて新たな知見を与えると考えられる。さらに、現在の自然資源の利用方法とそれ以前の方法とが、歴史
的にどのような関係を持っているのかという問題について重要な情報を備えている。
3. おわりに
以上述べたように、従来水利にかかわる碑刻史料は、主にその土地で、どのような水利慣行が行われていたか
という問題について、多く法制史の立場から考察されてきた。しかし、一方で水利にかかわる碑刻史料の多くに
は、農業用水分配にいたる、経緯、方法そして彼らが自然資源をどのように利用してきたかという問題について
も記されている。これまで、本調査で収集されてきた碑刻史料は、その内容が今回初めて明らかになったものも
多い。このため、これら碑刻史料に対する考察は、人々が自然資源をどのように利用してきたかという生態史上
において、新たな知見を与えることは間違いない。
Synopsis
This article introduces inscriptions that explain the situation concerning the distribution of water for
agricultural use in Yunnan province. In the past, such inscriptions about irrigation practices have mostly been
studied from the perspective of legal history. This article shows that many of them record the methods of
distributing agricultural water and how people used natural resources, and are important for the history of the
environment.
508
2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
雲南南部地域の環境変遷と地域社会
野本 敬 (学習院大学人文科学研究科史学専攻博士後期課程)
キーワード : 地域社会、人口変動、石碑
A Note on Local Society and Environmental transition of South Yunnan
NOMOTO Takashi (Gakushuin University Graduate School of Humanities Doctoral Course in History)
Keywords:Local Society, Population Movement, Stone Inscriptions
要旨
本稿では雲南南部地域の環境変遷について、地域社会に起こった変化を石碑の建立と内容から検討する。清朝
の統治下で一時相対的に安定した雲南南部の地域社会は、19 世紀以降全中国的な人口圧力の結果、大量の移動
人口を誘引し、それは地域社会の従来の秩序の崩壊と新たな再編を必要とした。環境保護に関する取り決めもそ
の例外ではなく、石碑に書かれた記述からは新来住民も合わせて新たな秩序確立をめざすものが見られる。こう
した環境の持続的利用と地域秩序再編の試みは 20 世紀まで継続され、巨視的な環境変遷史を考える上で多くの
示唆を与えるものであろう。
本班では生態史を考える材料としてはこれまで注目されてこなかった碑文資料の収集・利用による再構成を目
指して活動してきた。本稿ではその生態史研究において碑文資料の物語る歴史性を検討したい。
1.地域社会の変動と人口
これまでもしばしばふれられてきたことだが雲南省全体の人口の動向は2つの画期を有し、1つは 14 世紀以
図
雲南全省人口変動
人 700
口
600
万
500
400
300
200
100
0
1510
1540
1570
1600
1630
1660
509
1690
1720
1750
1780
1810
西暦(年)
中国歴史
はじめに
2005 年度生態史プロジェクト報告書
降の明朝による政治的入植、もう一つは 18 世紀以降中国全土で起こった爆発的人口増加及びその結果としての
経済移民の流入といえる。数量的にみれば、16 ~ 17 世紀を通じて微増傾向であった人口が、18 世紀半ばから
急カーブを描いて上昇し、その結果雲南の地域社会に与えた影響は非常に大きいことが窺い知れよう。
こうした傾向は中国全土に共通するものであり、清朝中期には中国全土で山間地への流民の移動が盛んとなっ
た。例えば中国南部の広範な地域では山に簡素な小屋がけをするところから「棚民」と呼ばれた人々が森林伐採
とともに当時山間地での移住を可能とした新大陸産作物-トウモロコシなど-を植え、あるいは商品作物の栽培
を通して「山区経済」の展開を図ったりした。しかしこうした移住民の到来やその後の生産活動はしばしば先住
の地域社会の秩序に抵触するものであり、
また移住先の環境にも多大な影響を与えしばしば紛争の火種となった。
[ 渋谷 2000]
こうした移動人口の山地への移動は 18 世紀半ばにはじまり、結果生態系の激変を招くことになった。秦嶺山
脈の事例では土地の経営権を借り、木材を伐採して売却すると続いてトウモロコシの傾斜地での栽培に移り、更
に軽工業や商品作物の栽培などいわば掠奪的ともいうべき環境負荷の高い生産活動を展開したのである。[ 上田
1994]
2.地域秩序再編の試みとしての石碑
ではここで環境やそれに関連する地域社会の取り決めについての碑文について検討しよう。
まず以下にこれまで採取した環境及び環境に関連する内容を含む地域社会の規約についての碑文のリストを示
す。現段階ではまだ分析の途上であるため、点数はこれまで採取したうちのごく一部に過ぎないが、その傾向の
一端を推測することは可能であろう。
表
No.
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
名称
封山護林碑
薬禁碑(残欠碑)
斫樹禁約(仮)
封禁碑
封山禁樹碑
署臨安府石屏州…(仮)
關聖宮碑
盖聞朝廷有律法(仮)
紅土塞水井碑
臨安府告示碑
龍頭全塞公議碑文
護林告示碑
告白碑
五普六寨産業訟争碑
創建水閘校舎食厫造林碑
値生水閘記碑
棺材山護林告示碑
護壩護林告示碑
環境及び関連規約碑文
採録地
普洱県
普洱県
普洱県
石屏県
石屏県
石屏県
元陽県
元陽県
元陽県
元陽県
蒙自県
広南県
広南県
麻栗坡県
馬関県
馬関県
硯山県
硯山県
立碑年代
乾隆60(1795)
光緒20(1894)
嘉慶13(1808)
道光29(1821)
嘉慶22(1817)
嘉慶4(1799)
道光13(1833)
咸豐1(1851)
乾隆51(1786)
嘉慶12(1807)
道光17(1837)
道光18(1838)
道光4(1824)
民国22(1933)
1946
1946
嘉慶17(1812)
光緒7(1881)
内容
水源林保護規定
漁労の際の毒使用禁止
水源林保護規定
山林保護規定
山林保護規定
水源林保護規定
土地境界設定と山林保護
森林保護
共同水利事業
水源管理規定
肥料利用規定
山林保護
山林保護
土地紛争
治水管理
治水管理
森林保護
樹木保護
※石碑調査リストより抜粋。
ここで一見して明らかな点はその立碑年代が 18 世紀後半以降の時代に集中し、特に 19 世紀前半より各地で
軒並みこうした碑文の成立が増加するという点である。更に現在までの内容の分析によれば、例えば No.5 の碑
文については明朝萬暦年間 (16 世紀末~ 17 世紀初頭 ) にその起源が記され、その後 18 世紀後半に一度取り決
められた内容を更に 19 世紀初頭に再度取り決める必要が生じて立てられたものであり、これは他の碑文の成立
時期もほぼ重なる一定の背景が生じた傍証とはいえないだろうか。例えば No.6 や No.8 では森林の乱伐を行っ
て従来の地域秩序に縛られない移住民の存在が記載され、No.11 では地域資源の乱獲/転売といったかたちで商
510
2005 年度生態史プロジェクト報告書
品経済の浸透が伺えるのであり、更に No.14 にある「元来非漢族の地に入植した漢族が 18 世紀前半に土地の侵
奪を行い、その結果生じた土地紛争は結局 20 世紀まで係争が続いた」という記述などは、この時期各地で地域
の規約を再度確定する必要に迫られた社会変動を物語るものと言えるであろう。無論現存する石碑の時代的制約
という点も考慮すべきではあるが、その内容に着目した場合こうした傾向は一定の社会的背景を反映していると
みなすことができると考える。
またこうした人間活動は環境にも大きな影響を与えた。18 世紀後半以降、上掲表に見られる碑文リストが物
語るように、実際に荒廃した環境に起因する災害が、当時の人間にとってもはっきりと認識できるようになった
のがこの時代だったのである。一例を挙げれば当時雲南の地方官であった黄夢菊は『滇南事実』という本の中で、
雲南東北部のそれではあるものの森林破壊・はげ山化とそれに伴う水土流出と災害とを明確に関連した事柄とし
て理解しており、災害予防のための大計としての植林事業を推進した。
また同時に移住民の流入による社会的な変化は、地域社会のレベルでも新たに新来者も含めたかたちで地域社
会の秩序=規約を再編成することを必要としたのである。こうしたせめぎあいは 20 世紀まで継続され、ある意
味環境の持続的利用と地域秩序再編は今日まで継続する問題となっている。
おわりに
以上のとおり初歩的検討ではあったが、石碑の年代と内容は雲南南部地域社会及び環境の長期変動とその具体
的様相を解明する有力な手がかりであることが理解できよう。中国では人間活動の環境負荷が高く、自然環境は
人間社会の活動に大きく影響される、いわば人間活動との間のせめぎあいであり、環境変遷史を考える際は人間
活動、地域社会の長期変動を考慮することが不可欠なのである。
【参考文献】
渋谷裕子 2000「清代徽州休寧県における棚民像」,山本英史編『伝統中国の地域像』慶応大学出版会所収 :211-250
上田信 1994 「中国における生態システムと山区経済 -秦嶺山脈の事例から」,『アジアから考える [6] 長期社
会変動』
,東京大学出版会 :99-129
中国歴史
Synopsis: This paper examines the change in Local society and the environmental transition of southern Yunnan
on the bases of stone inscription. Although the local society of southern Yunnan was relatively stable under
the rule of the Qing dynasty, after the 19th century, due to explosive expansion of population in whole China,
the conventional order started to collapse, and these changed conditions demanded reorganization of local
communities. The social agreements concerning environmentalism are no exception, and the stone inscriptions
shows that attempts to restore order were made with the arrived of new residents.
Attempt to the continually utilize the environment and restore the local order continued into the 20th
century, and provides us with material to studying history of environmental transition from the broad
perspective.
511
2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
19 世紀の元陽県一帯における人口流入とその生態的影響
西川和孝(中央大学大学院文学研究科東洋史学専攻)
キーワード:漢人流入、生態的影響、碑文
The Increase of Population Inflow and Ecological Influence at Yuanyang Prefecture region in the 19thCentury.
NISHIKAWA Kazutaka(Doctor Student in the History Course at Chuo University)
Keyword:Immigration of Han People, Ecological Influence, Stone Inscription
要旨
18 世紀半ばから 19 世紀後半にかけて元陽県一帯には、多くの漢人が流入した。
清朝政府は関所を設けるなどの措置を施したが、漢人の流入を阻止することは出来なかった。その結果、当該
地域で人口の増加が生じ、それにともない開発が行なわれ、生態環境に大きな影響を与えることとなったのであ
る。
はじめに
ここで扱う、紅河州元陽県一帯は、今の雲南省の省都昆明より 300 キロ南に下った場所であり、元陽県を中
心に紅河県・金平県の一部も含む。時間的には、当該地域に人口が流入し始めたと考えられる 18 世紀半ばから、
「改土帰流」を挟み、人口増加の割合が安定してくる 19 世紀後半までの約 100 年間とする。主な論点としては、
清朝期に起こった新大陸からのジャガイモやとうもろこしなどの新作物流入に伴う人口増加と中国西南部への漢
人の流入、そしてそれによって引き起こされた様々な変化である。
1.漢人流入の流れ
当該地域では、清朝期の人口爆発とその影響が 1800 年前後から史料上で確認される。江濬源は、乾隆五十八
年(1793 年)から嘉慶八年(1803 年)まで、臨安府の知府を務め、当地民と漢人との接触によって引き起こ
される問題に対して善後策を提言した。これは、江濬源が残した『介亭文集』に「條陳稽査所属夷地事宜」とし
てまとめられている。そこには、数年来湖南・湖北・広東・貴州・四川の各地から多くの漢人が一族を連れてき
て住みつき、ある者は、土地を借りて耕作しお金を貯め、それを元手に高利貸しを行い、地元民を騙して財産を
奪う、またある者は一人身で当該地域に行商で訪れ、地元の女性と結婚をし、土地の人々と交流を深めていき、
高利貸しとなり当地民を苦しめる、この他にも地元民が文字を読めないことに漬け込み、裁判に持ち込み、漁夫
の利を得る者もいる、とある。こうした問題に対し、江濬源は、関所の設置などを行い、商人の監視、流入漢人
の戸籍作成、ごろつきの流入禁止、さらには当地民との通婚の禁止等の対策を取ったのである。しかし、こうし
た措置もあまり効果を発揮することもなく、当地民と漢人との摩擦を防ぐこと出来なかった。
漢人と当地民との間に起こった矛盾は、
嘉慶 22 年(1817)高羅衣の反乱として一気に表面に現れた。高羅衣は、
ハ
ニ
現在の元陽県宗巧村の窩泥(現在の民族分類ではハニ族)出身で、暴利をむさぼる江西、湖広の漢人商人に憤り、
ハ
ニ
自ら窩泥王と称し、
部下に大都督、
軍師等の官職を与え、漢人排除をかかげて蜂起したのである。反乱は最初 2,300
人規模のものであったが、2 か月足らずで 1 万人を超える規模にまで膨れ上がり最終的には、1 万 6 千人に達し
た。反乱自体は、雲貴総督伯麟により平定され、首領の高羅衣が自刃することで収束した。ただし、この度の反
512
2005 年度生態史プロジェクト報告書
乱では、多くの者が現在の金平やラオス国境付近へ逃げ延び、嘉慶 23 年に高羅衣の従弟高老五が再び乱を起こ
すなど、その余震は最初の高羅衣の乱発生より 1 年以上続いた。
高羅衣の反乱が収束した後、再び漢人流入を禁止する対策が取られた。その内容は、関所を設けて漢人の出入
りを監視すること、漢民が密かに当該地域に入る事を禁止し、交易に赴く者には証明書となる腰牌を支給する、
土司地域で起こった訴訟事件はそれぞれの付近の州県に送り、処理を行う等であり、江濬源が取った措置とほと
んど変化はなかった。結局、反乱の後に行われたこうした処置も効果が上がることはなく、漢人の流入は続き、
当該地域に大きな社会的変化と開発に伴う生態的影響をもたらしたのである。
2.碑文から見る開発
中国歴史班では 2004 年から 2006 年にかけて当該地域で 4 度にわたり碑文調査を行い、開発や生態環境の変
化に関係する碑文を 9 枚見つけることが出来た(下表参考)。この地域に関しての具体的な開発や生態環境の変
化を記した記述は、他の史料上では全く見られず、碑文資料発見はこのような意味で非常に大きな収穫といえる。
これらの碑文の中で 7 枚が用水路の掘削と土地の開発に関係するものであり、碑文の記載から用水路の掘削
は乾隆末期から道光年間にかけて行われたことがわかる。このような地域単位で立てられた碑文史料は、内容が
非常に具体的であり、同時代史料として信用性もあるが、一般的にその内容を広い地域に当てはめることは出来
ない。しかし、嘉慶 22 年(1817)伯麟等の上奏文には、この地域には棚田があり、昔は人が少なく食べてい
くのに苦労しなかったが、最近では人口が増え、当地民が貧しくなり生計を立てるのが難しくなった。それゆえ、
こうした人々に開墾を勧め、物産を増やせ、との記載があり、こうした開発が、碑文の立てられた狭い地域に限
らず元陽県一帯で行われたことが推測される。
また、残りの二枚は、漢人の流入やそれによって引き起こされた環境への影響が、具体的に記述されている。
このうち元陽県嘎娘郷大伍寨にある「郷里禁規碑」には、嘉慶初年(1896)から咸豊年間の約 50 年間におい
ての村の開発の記録が記載されており、その内容は、ヤオの人々による焼畑や、貴州や四川からの流入漢人によ
る開発の結果、森林が破壊され、水源が枯れ、農作物の収穫に大きな影響が出た、そのため、碑を立てて永遠に
「公山」での森林伐採は禁止する、というものである。また、「関聖宮碑」には、漢人による土地の転売の過程が
以上のように、碑文には、用水路の掘削による開発、漢人流入、それに伴う生態環境の変化などの記載が見られ、
その内容や碑そのものが立てられた年代から、開発や漢人の流入が 18 世紀末から始まったことがわかり、前章
碑文名称
立碑年代
採録地
内容
郷里禁規碑
感豊 1 年(1851)
元陽県
漢人流入と森林保護
関聖宮碑
道光 13 年(1833)
元陽県
漢人流入と土地の転売
元陽県
水利用
猛弄司興脩長源水碑記
中華民国30 年代(1940 年
代)
紅土塞水井碑
乾隆 51 年(1786)
元陽県
共同水利事業
臨安府告示碑
嘉慶 12 年(1807)
元陽県
水源管理規定
水溝碑記
道光 6 年(1826)
元陽県
用水路掘削事業の来
歴
水溝碑
不明
元陽県
水利用の規定
修溝碑記
嘉慶 15 年(1810)
元陽県
不明
趙波薩墓
乾隆 54 年(1789)
元陽県
用水路掘削等の功績
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中国歴史
記されている。
2005 年度生態史プロジェクト報告書
の史料上の記載と対応している。
小結
紅河州元陽県一帯において 18 世紀半ば以降から漢人流入が始まったと推測され、当地民との間で多くの摩擦
が生じた。清朝は、こうした問題を防ぐため関所の設置や漢人の戸籍作成などの措置を行うが、漢人の流入を防
ぐことは出来なかった。人口の増加は、この地域に大きな変化をもたらした。その結果、多くの人口を養うため
に用水路の掘削、開墾、森林伐採が行われ、当地の生態環境に大きな変化が起こったのである。
Synopsis: From middle in the 18th century to the latter half of the 19th century, a lot of Han people migrated
to Yuanyang Prefecture region. Qing dynasty set up barriers to prevent the outside population from coming
in, but it was not successful. As a result the population there grew and the subsequent, development had a big
influence on the ecology.
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2005 年度生態史プロジェクト報告書
中国歴史班
雲南における漢人移民の流入と会館
増田厚之(学習院大学院人文科学研究科史学専攻博士課程後期)
キーワード:会館・商業・環境改変
The Influx of Han Chinese Immigrants and Merchant Guilds in Yunnan
MASUDA Atsushi(Doctor Student in the History Course at Gakushuin University)
Keyword: merchant guilds, commerce, Change of environment
要旨
漢族商人が雲南省で商業を行なう際にその拠点としていたのが会館である。雲南省蒙自県に存在する江西会館
に関する碑文を見てみると、会館には不法占拠という問題が存在していたと記録されていた。会館は、自らの活
動によってその経営資金を獲得していたが、同時にその資金を狙って会館を簒奪せんとする遊民の標的ともなっ
ていたのである。これは、漢族商人による商業活動の大きさや、商品開発の積極性を示すものであり、大規模な
商品開発が環境に大きな負担を強いていたことを表す一つの証明である。
1.はじめに
碑文資料集、
『蒙自文史資料』を発見した [ 蒙自県文史資料委員会 2003]。この碑文資料集には、採録場所や
調査日時といった基本情報が全く掲載されていない上に、校注がほとんどなされていないものの、商業において
重要な役割を果たしたと考えられる会館の碑文が多く含まれていた。この内、江西商人が建設した会館(碑文ご
と呼称が異なるため、以下「江西会館」と呼称する)に関する碑文が五基、福建商人が建設した会館(碑文の記
載から、以下「天上宮」と呼称する)に関する碑文が一基、掲載されている。蒙自県は、雲南省の中でも南方に
位置しているが、会館の設立数は、雲南省で1、2を争っている [ 藍勇 1997:527]。蒙自県の隣にある箇舊から
は、銀・錫をはじめとした鉱産資源が特に豊富であり [ 張増祺 2000:104-114,199]、それゆえに、商業拠点と
しての会館も数多く存在していたと考えられる。明代末から鉱産資源、特に銅の不足は非常に深刻であり、一時は、
古銭を鋳直して新しい貨幣を鋳造するという事態にまで発展したことを考えれば、蒙自・箇舊の鉱産資源は、魅
力的かつ重要な商業市場であるということができる。しかし、商業的にはプラスに働く鉱山開発も、環境という
点において考える場合には大きなマイナス面の影響が浮かび上がってくる。すなわち、それまで少数民族が細々
と行なっていた採掘と異なり、漢人が入り込んで新たな市場を開発することにより、それまでとは比べ物になら
ない大規模な採掘が行なわれるようになる。それは、大規模な生態改変・環境破壊を引き起こし、様々な悪影響
をもたらす結果となった。このように、雲南省以北から移ってきた漢人が雲南省で行なう商業活動は、環境面で
は大きなストレスをかけることになってしまった。今年度報告書では、商業市場開発とそれに伴う環境破壊の基
盤となった会館について述べ、この調査で新たに発見した、蒙自県の会館における不法占拠問題について言及し
たい。
2.蒙自県会館の様相
蒙自県には、先に述べたように非常に多くの会館が存在している。碑文から確認できるものの中で最も古いも
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中国歴史
今年度の調査においては、自ら調査・発見した碑文に加えて、中国雲南省紅河州蒙自県文物管理所が調査した
2005 年度生態史プロジェクト報告書
のは、正確な年代こそ不明であるが、江西会館の一つである「蕭公祠碑」に記載された明代末というものである。
江西商人に関する先行研究を見ると、雲南省に入って最も早く商業活動を始めたのは江西商人であると言われて
いる [ 方志遠 1992:97]。雲南省の中でもかなり南に位置している蒙自県において、明代末に江西会館が建設さ
れているということは、それを裏付ける証明の一つと言えるだろう。一方、福建商人は、康煕年間の時点で既に
蒙自県に進出して商業を開始していたことが「福建天上宮碑」から確認できる。蒙自県が中国からベトナムへ抜
ける主要交通路の途上に位置しているとは言うものの、雲南省の南という地理的条件から見れば、比較的早い段
階から商人が入って活動を行なっていると言えるだろう。
蒙自県城内で最も多い会館は、江西会館である。この江西会館碑文を確認すると、雲南省以外の地域における
会館研究には存在しない、会館の不法占拠という問題が存在している。この碑文に基づいて、江西会館の不法占
拠事件を見ていく。
「蕭公祠碑」
「奉縣主示禁遊民占宿碑」の内容を確認してみると、江西会館を占拠したのは、
江西省内の異なる府出身者、
「無職の遊民」
、そして「遠来の遊民」であった。この「遊民」というのは、辞書的
な意味と細部のニュアンスが異なるが、
「無職」
「遠来」という言葉があえて使われていることを考えると、この
碑文では、
「本籍地(ここでは、
江西省を指す)を離れて流れてきたもの全般」を指していると思われる。つまり、
会館占拠の犯人は、江西省出身で、蒙自県及び隣の箇舊で採掘を行なっているものか、同省異県または異なる省
出身の商人であった可能性が非常に高い。しかし、確実な実証は未だ終わっておらず、別の機会で問題の解決を
図りたい。
占拠方法は、江西省出身者であると称して江西会館に入り込み、仲間を集めて力ずくで占拠する場合と、江西
会館の建設や修築の際に寄付を行って自らの権利を主張しようとするものの二種類が記録されている。前者の場
合、
江西会館に付随する宗教施設で祭祀を行うということを名目に入り込む場合と、江西省出身者であると名乗っ
て会館に宿泊する場合とが碑文に記載されている。先に述べたとおり、会館占拠を行なうものは、江西省出身で、
蒙自県及び隣の箇舊で採掘を行なっているものか、同省異府または異なる省出身の商人であった可能性が高いが、
他省出身者だけでなく、同じ江西省出身であるにも関わらず、異なる府の出身であるものが会館占拠を行なって
いる。ここから、
会館利用者における「同郷」というものの認識が非常に重要かつはっきりとしたものであり、府・
県単位で会館が建てられている場合には、同省出身者が建てた会館であるからといって無条件に利用できるわけ
ではなかったことが確認できる。
不法占拠の目的は、
「蕭公祠碑」によると「店舗の賃貸料を奪わんと図っていた」とされている。同碑文を見
ると、会館運営の資金は、店舗・旅館の賃貸料および農地の貸付が主であると書かれている。江西商人研究でも
言われている通り、雲南省に存在する江西商人は、清代初期、雲南省内の商業利益を一時的とは言え独占してい
た時期がある。そのため、他省で活動している江西商人よりも大きな利益を生み、他省では存在しなかった大商
人が現れていた [ 方志遠 1993:57]。したがって、旅館・店舗を建てるための土地を多く購入でき、会館の規模・
資産も他省のそれと比べて大きかったと言える。それゆえに、会館運営に関しては、非常に細かく規定が定めら
れており、
「江西五府會館條規碑」には、経営・管理者の選挙方法、資金を使う際の注意、江西会館に援助を求
めてきた者への対処といった内容が細かく記されている。ここからも、雲南省の江西会館は、資金的に規模が大
きく、遊民に狙われる対象であったことがわかる。
3.おわりに
このように、蒙自県では、他省地域の研究に見られない会館の不法占拠という問題が存在していた。会館自体
は、商人からの援助をほとんど受けておらず、会館経営のための資金を自らの商業活動でまかなっていた。会館
及び商人が行なっている商業活動は、ともに大きな利益を挙げていたことがここから見えてくるだろう。このこ
とから、それだけの利益をあげられるだけの積極的な商品開発、市場開発が行なわれていたことは容易に想像で
きる。これまで、少数民族によって行なわれてこなかった大規模な開発は、自然環境に対して大きなストレスを
強いるものであったことは間違いない。今後は、雲南省に入って最初に商品作物として注目された茶、薬剤といっ
た個々の生産品に注目する。そして、その開発過程の中で、どのような環境破壊がもたらされたのかという問題
について、明・清代にわたる歴史的変遷を追っていく。
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2005 年度生態史プロジェクト報告書
文献リスト
単行本
張増祺 2000 年『雲南冶金史』雲南美術出版社
蒙自県文史資料委員会 2003 年『蒙自文史資料』第七輯
藍勇 1997 年『西南歴史文化地理』西南師範大学出版社
論文
方志遠・黄瑞卿 1992 年「江右商的社会構成及経営方式―明清江西商人研究之一―」『中国経済史研究』第一
期 :91-103
方志遠・黄瑞卿 1993 年「明清時期西南地区的江右商――明清江西商人研究之三」『中国社会経済史研究』第
四期 :54-62
Synopsis: The Hui-guan (merchant guild) was the base from which Han Chinese merchants practiced
commerce in Yunnan. A stone inscription concerning the Jiangxi Hui-guan in Mengzi Prefecture recorded the
case of an illegal occupation of the guild premises. The Hui-guan, which covered its own running expenses by
its own activities, attracted the unemployed people who sought to rob the funds of the guild. This shows the size
of the commercial activities of Han Chinese merchants and their aggressiveness in developing commodity trade,
as well as providing proof that large-scale commercial development placed a great burden on the environment.
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