E gtaa N g

1
5
1
インカ期アンデス地域の交通・通信
はじめに
原
隆
治
あり、各地の生産物など物資の輸送を円滑にし、反乱に備え、軍隊がすぐにどこへでも出動できる態勢を整えておく
あらゆる情報がすみやかにクスコに集中し、 かつクスコからの命令が直ちに各地方に行きわたることを重視したので
万平方キロメートルといわれる版図の末端までを支配するための連絡手段にあった、と集約していうことができる。
g
) から二00
まず建設目的であるが、 インカ帝国(タワンティンスlュ、叶担当
gtaaロ)の首都クスコ(ロロN
いては別稿(みに譲るが、まずはインカの道についての概略だけは触れておきたい。
さらにはどのような形態的特徴を有しているのかについて詳述する紙幅を本稿では許されていない。それらの点につ
ロメートルにもなっていたとされている。そのようなインカの道が、どのような目的でまた手段で建設されたのか、
なった第一一代のワイナ川カパック(出
の同沼田口)の治世(一四九二一i 一五二九)には総延長が二万五OOOキ
EE
可
ベル lアンデスを中心に、今日もその一部が地表面に鮮やかに刻印されているインカの道は、帝国の版図が最大と
梅
1
5
2
コロンビア
ボ
リビア
太平洋
ー一一一ー明確なインカ道
四ー『ー不明確なインカ道
o
2
0
0
4
0
0
km
6
0
0
J
o
h
n Hyslop原図 (
1
9
7
6年)
図 1 イシカ主道分布図
1
5
3 インカ期ア γ デス地域の交通・通信
必要があったのである。
F
M
g百
。
agu己 H北方、 。
そのような目的にしたがって、 クスコから四つの地方︿の}同町ロロr
N南
方、
。
ロ
ロ
昨
日
田
口コ
川西
u H
L
Z
H農民共同体)であり、
方、﹀ロ昨日g
u己日東方)に向けて道路が建設された。建設主体は各地のアイユウ(﹀u
ロロ回目自宅。﹀から南緯三五度二五分のチリのリオ・マウレ
kF
エルドゥマンハるが述べている ﹁王道には唯一のタイプというものはない。実
が、チャスキと呼ばれる飛脚が公的な伝言や物品の移送にあたっていた事実とも相関しよう。道路そのものの直線性
インカの道においてタンボと呼ばれる宿駅が営まれ、公人の旅行に便宜を与えていた事実と相関し、また馬ではない
がうかがい知れよう。たとえば帝都から五畿七道諸国へ官道がつけられ、駅家が設置され置駅馬されていた事実は、
このように簡略にインカの道について概観しただけでも、それが日本の古代律令期の官道と近似の関係にあること
ためのみに道を建設したことをものがたつている。
そのためには急勾配の所で階段を用いているが、このことは、 インカは馬やラバ、車輸を知らず、歩行者とリャマの
地点聞を最短距離で結ぶという基本方針はあったようで、可能な限り一直線で走る道をいたるところで観察できる。
際に役に立つように建設されているので、環境が変れば形状も変る﹂という表現がもっとも的確であるう。ただ、二
インカの道の形態的特徴であるが、
に到る約三八00キロメートルのコスタ(ロggu海岸)の道路が中核をなす。
g﹀
ェラ(田町四月回目高原)の道と、南緯三度付近のペルlのツンベス(叶戸Brg﹀から南緯三六度のチリのタルカ(吋包
初
日
。
E
'
m
Z﹀ 地 方 の リ オ ・ ア ン カ ス マ l ヨ
ては図 1で示した分布のようになり、北緯一度付近のコロンビア南部パスト (
(EoE白己目﹀に到る約五六00キロメートルのシ
長クラカ(の日開口問)の指揮のもと、ミタ(冨宮) と呼ばれる農民の公共労働によってなされたのである。 結果とし
そ
の
1
5
4
にしても、日本古代におけるその実証は、数多くの先学の研究でなされている。
そのような観点から、小稿ではインカの道を往来したであろう人と物に注視してみた。すなわち、 インカの王道に
沿って建設された宿泊所のタンボについて、 また、それよりはるかに短い間隔で置かれた飛脚のためのチャスキワシ
について、そして重要な公的任務をはたしたチャスキと呼ばれる飛脚の制度について、若干の考察を試みるものであ
る
。
Z
S
σ 。と書かれ、 ケチュア語でz
s
z ・2Bσ 巳o とも表現されるタンボは、 イ ン カ 王 道 に 沿 っ て
タンボ(宿駅)制度
スペイン語で
一六世紀にピサロの一行が侵入してきた頃も、そのほとんどが健全に機能していた
徒歩での一日行程の間隔で設置された倉庫をともなう宿泊所であると要約できる。この施設がインカ期の交通・通信
にはたした役割は計りしれない。
ょうであり、今日でもその一部はほぼ完壁な形状で残存している。その事例調査研究と、 スペイン侵入当時に書かれ
たクロニカ(ロBESH年代記)の研究を通して、 インカ期の宿駅制度について以下の小項でまとめてみたい。
タンボの所在
(RS日伯仲白川年代記作者) のサラテハ 3﹀は、﹁軍隊の一日行程区間ごと
たタンボをたどって行くと、自然村に入ることなく歩くことができる﹂としている。ガンボア自身、がどのくらいのタ
し遅れて副王トレドの命を受けインカ史を編さんしたガンボアハろは、﹁インカ王道上回l 五 レ グ ア ご と に 設 置 さ れ
に、とてつもなく大きな建物や大軍のすべてをまかなえる家々を整えさせていた﹂と記している。また、それより少
征服後の渡来者で一六世紀中葉のクロニスタ
付
1
5
5 イ γ ヵ期ア γ デス地域の交通・通信
ンボを確認したのか定かでないが、 おおむね三0 キロメートルに一タンボがあったようで、この点でサラテの説とそ
う差異はない。さらにガンボアのいう﹁自然村に入ることなく﹂という点は、先述のごとく、まさにインカの王道そ
(5)
と
、
その頃、 ベル lに滞在し一七世紀中葉に著わしたイエズス会土のコボハ立
のものが自然発生集落を無視してまでも最短距離を重視し、直線的に作為でなされたものであることを裏付けている
といえよう。
タンボの構造
は﹁カピタンや副王のためにもすばらしく維持さ
一六世紀の軍人年代記作者ピサロハ 7)
れていた﹂と記しており、 インカ帝国滅亡後も、 しばらくは十分に機能していたようである。
完全に美しく保たせていた。
。同自宅 on) の指導のもとにタンボへ糧食を補給し、派遣インディオを定められた期間で交替させ、たえずタンボ内を
抜し、奉仕者としてタンボへ派遣する義務を負っていたようである。各地のグラカは、中央から派遣の役人︿叶m
gHE
の記述によると、タンボ自体の建設は、各在地の農民共同体アイユウが請け負い、その長のクラカがインディオを選
一七世紀初頭の年代記作者エレラ
タンボの維持・管理
。
BZ のo-05・
トル東へ入った扇頂付近の、海抜約五00メートルの右岸河岸段丘上に位置するコロラドのタンボ(叶回
写真 1は
0 キロメ l
、 リマの南方二三0 キロメートル付近を西走するピスコ川 (EoE8
凹) を 太 平 洋 岸 か ら 約 五
に応じてさまざまな部屋が用意されていたことがわかる。
あるが、側面には等間隔に出入口がある﹂と興味ある記述をしている。これらから、 タンボを利用する側の身分階層
前出のエレラは﹁宿泊棟は数多くの小部屋をもっている﹂とし、 コボは﹁ときおり間仕切りのない大部屋の建物も
同
1
5
6
円同。)である。写真手前は、数多くの小部屋に仕切られたこのタンボ
の中心地で山側に位置し、各部屋が同一平面上にはなく段やスロ l
oi 一五センチメートルの高
プで結ばれている。部屋の内部には一
みをもっベッド跡が残り、外壁には赤・緑・白の太い波形の縞模様
が描かれていた痕跡が残存している。それにひきかえ、写真で広場
をはさんだ後方部は間仕切りのない単調な大型建築物で、おそらく
は兵士が滞留した建物であろう。
タンボにおける保管物・サービス
分に養うための保存物だといわれている。キリスト教徒たちは
た。梱包された衣類でいっぱいの建物もみつかった。軍隊を充
カハマルカのタンボでは、天井まで荷が積み上げられてい
ルカの町のタンボについて、次のように記している。
主主は、最後の皇帝アタワルパが好計によって幽閉されたカハマ
ピサロに従軍し、 インカ帝国を目撃した征一服時の記録者へレ
帥
インカは戦争を非常におそれていたから、必ず莫大な量の補給物資を用意させておき、何か足りないものがあった
でにみたどのインディオのものよりも良いものであった。
好んでそれらを手に入れた。それらはいっぱいで、足りなくなることなどないように思えた。それらは、これま
筆者撮影〕
写真 1 ピスコ川中流域のタンボ・コロラド C
1
5
7 インカ期アンデス地域の交通・通信
りすると管理者を罰した、
と信頼のおけるグロニスタのレオンす﹀は記しているが、
こういった管理がヘレスがいう
ような状態を生み出していたのであろう。軍人ピサロの﹁タンボの村々を通過するときには大いに平安を感じた。み
ずからが直接働きかけなくても食事が用意されたからであり、衣服や履き物、それに地方で用いられた武器や必要と
される全てのものが保管されていたからである﹂という述懐は、まさに利用者側からその実態を指摘したものだとい
えよう。
a
uは、タンボの保管物として大軍のための糧食・武器・着衣・
一五三九年にクスコで生まれた混血の記録者ベガ
ι ・ひょうたん・オカ守口同日かたばみそうの芋﹀・アヒ
ZEロ。
履き物の四点を挙げている。ベガの記述や近代のクロニカ研究書を通してタンボの保管物を列挙すると、次のように
なる。
。寝具(就寝用の毛皮や寝台かけ)
。かまどや台所用具
。糧食│!とうもろこし・じゃがいも・キノア
(&廿とうがらし)
N石投げなわ)
(0o
い guリャマのなめし反のサンダル)
Z ロ含
梶棒・オンダハ
。武器1ll
。草履
。衣服
これまで述べてきた諸点からタンボ像をまとめてみると次のようになる。
1
5
8
。 。 。
タンボは、徒歩で一日行程ごとに設置された倉庫をともなう宿泊所である。
一般的に大きな建造物で、二カ所以上の井戸、付属の囲い場(裏庭)をともなっている。
大規模なタンボにはさまざまな部屋がそろっており、上級の旅行者へのサービスのため、寝室は個々に仕切ら
れていた。
タンボは国庫の倉庫でもあり、王や太陽の神の土地の農産物が貯蔵され、軍隊の武器や地方の工芸品も保管さ
れていた。
チャスキの風貌と運搬物
SBσo を冠
(
n
r
g
o巳)と呼ばれた人々である。 ここでは
図2はインディオの記録者で、文章内容よりも描かれた線刻画で評価の高いグァマン日ポl三巴の描いたチャス
け
チャスキがどのような人達で、何をどの程度の速さで運んでいたのかを、 グロニカを通してまとめてみたい。
あった。その大役を任じていたのが選抜されよく訓練されたチャスキ
ら、地方の出来事をつぶさにかつ迅速に首都のグスコへ伝え、そしてクスコからの命を直ちに末端へ連絡するためで
広大なインカ帝国の版図のすみずみにいたるまで王道が建設された目的は、軍事的見地や徴税目的もさることなが
チャスキ(飛脚)制度
した地名も多く、王道の解明と表裏一体となった調査が必要であろう。
インカの王道自体の分布すら満足に確認されていない現状であるからやむをえないわけであるが、
このようなタンボがかなり多く経営されていたはずであるが、今日、調査ならびに復原されているものはわずかであ
。
る
イ γ ヵ期ア γ デス地域の交通・通信
1
5
9
キ像である。このイラストのチャスキは、右手にプトゥト
(匂己己。﹀と呼ばれる大きなかたつむりのラッパを、左手に
(GZ6
ロ﹀らしきものを持ち、両足にはリャマのなめし
は魚を入れたのであろうかごと武器としての根棒、それにキ
ー
。
フ
皮製のサンダル・オホタをはき、背中にも荷を背負ってい
る。このイラストそのものがいくつかのことを教えてくれる
が、しかしチャスキがいつもこのようなスタイルであったわ
]戸仲戸
EnrgAE と呼ばれる
己けではない。チャスキには円rE
O
E
n
r
g
G己 と 呼 ば れ る
己 B
のようなチャスキが、前者のチュルムIリョチャスキにあたる。
一方平時においては、 クスコ在住のインカや貴族たちが、 かなり私的にチャスキを利用したようである。
らは魚はもちろん自己宮と呼ばれる美しい具、がらを、
アマゾン上流域にあたるモンタlニヤ源流方面からは熱帯性
年から一五八六年までイエズス会の布教のためベル lに滞在していたアコスタ白﹀の記述によると、太平洋岸の村落か
一五七O
った日時や員数など)には、 キlプと呼ばれる結縄をバトンのように持ってリレl形式で引き継いだのであろう。こ
のチャスキに知らせるプトゥトだけを持っていればよいことになり、何らかの数量を示す場合(たとえば反乱のおこ
すなわち、文字を持たなかったインカにとって、火急の伝言は暗語文であったわけで、この場合は自分の接近を次
荷物を運ぶチャスキがいたようで、その両方のケ l スを合わせて描いたものだと思われる。
単なるメッセンジャー(走伝者)と、
図 2 ポーマの描いたチャスキ
1
6
0
の果実類や宝石類を、その他、上等な刺しゅう細工のほどこされた織物を、 グスコの一部の人々は手に入れていたよ
うであり、これにたずさわったのが後者のハトゥチャスキということになろう。この点について、﹃インカ帝国の道
路網﹄を著わしたエルドゥマンは、﹁チャスキの制度を厳密に拘束する必要はなかった。だからインカ(王)やオレホ
ン(貴族﹀達が、とりわけコスタから生産物を手に入れるためにチャスキを役立てたことは論理的である﹂と記して
いる。
チャスキの身分と生活
るトウモロコシからつくった濁り酒やアロハ
(同︼
一日に一度以上飲食することなしに育てら
﹄白)と呼ばれる蜂蜜酒のようなアルコール分を含んだ冷たい果汁
O
る在地の長ク一フカの管理のもとで、とりわけ過飲過食をたしなめられていた。たとえば、 チチャ(ロEnE﹀と呼ばれ
チ'ナ'
同
、 チャスキがそうあるためには、ある程度の節制・禁欲生活を余儀なくされていたようである。かれらの属す
r
-
ことができ、どのような目的のためにも、軽快にすばやく行動できるようになった。
れた、という説もある。その結果として筋骨たくましく成長したチャスキは、大きな坂道でも休まずに走つてのぼる
こ な わ れ た 。 ア ム カ 色25戸川妙ったトウモロコシ﹀という食物だけで、
特別に身の軽い者がチャスキに選抜されたであろうが、小さいときから勢いよく走る練習や暗請の練習が厳しくお
者のインディオかクラカの息子たちではなかったか、 と推測するラビネスハロ)の根拠もその点にあるといえよう。
知しており、環境にもよく適応しているからである﹂という記述はそのことを指摘しており、 チャスキが忠実な納税
ない。アコスタの﹁一般的には近隣地の村の中から選ばれ、 よく訓練された。地元の人聞はさまざまな自然条件を熟
伝達する内容の重大さや珍重がられる運搬物のことを思えば、当然チャスキになるものは慎重に選抜されねばなら
(
:
:
:
:
)
1
6
1 インカ期アンデス地域の交通・通信
類のとりすぎを注意されたり、舞踊に興ずることを戒められたりしたことがそれにあたる。しかし一方では、 チャス
キが妻や子といっしょに生活することは許されていた。その任にあるときは当然納税の義務も負わないし、道路の傍
にあるタンボあるいはチャスキワシを家族の住居として利用でき、 チャスキおよびその家族の食料などの生活必需品
チャスキの速さ
は、すべてインカのデポジットから支給されたのである。
品
w
さて、昼夜をわかたずインカの道を疾走していたであろうチャスキの速度であるが、複数のクロニスタが共通の区
Hピサロは、この幹線道路をチャスキが五日で走ったとしている。これがもっとも速い記録で、
コボは
聞で表現しているのは、現エクアドルの首都キト!とタワンティンス l ユの首都クスコを結ぶシェラの道についてで
ある。ベドロ
表はクスコl キト l聞の距離をそれぞれの説で二四時
往復に二一日を、 レオンは片道一週間、そして一五四八年からクスコにコレヒド l ルとして滞在し基本的資料を集め
たオンデガルド(きは往復で二O 日以内を要したとしている。
間疾走したとして割り算し、その時速とキロメートルあたりに要する時聞を記したものである。クスコ J キト I聞の
距離を三通り記したが、 インカの道そのものの分布が地形図上に完全に落としえていない現状において、実際の距離
一レグアは約五・六キロメートル
一六世紀の一レグアは約六・四キロメートルであったとする
は確定しえない。多くのクロユスタは、その二地点聞を五OOレグアとしている。
であり、 その場合が約二八00キロメートルとなるが、
説もあり、その場合は約三二00キロメートルとなる。近代の研究者の中にはクスコl キト l聞の緯度間隔の二二度
三O分を用いてそれに一一 0 キロメートルを乗じ、坂道や経線のズレを考慮してその三分の一を加えて約二OOOキ
ロメートルとしているものもある。ただ現在の道路マップから海抜三四0 0メートルのクスコと海抜二七五O メ1ト
1
6
2
クスコ キトー聞のチャスキの速さ
表
2
.
6
2
.
2
3,
200kmとした場合
ルのカハマルカとの最短コ l スで距離を読みとると二二三三キロメートルとなり、
り距離の長いキトーまでで二000キロメートルとする説は受け入れがたい。
一方、今日の陸上界における五000メートルの記録は、世界記録で約一三分、日
本記録で二二分三O秒弱、高校記録で一四分一 O秒強である。このことから、 いくら
厳しい訓練をうけたチャスキといえども、五キロメートルを一五分前後で走ったので
はないかと考えるべきであろう。 つまりキロメートルあたり三分台から四分強ぐらい
である。この点を考えると、 ベドロ日ピサロの説はもちろんコボの説まで容認しがた
ぃ。クロニカの記述自体、莫然とした当時の聞さ書き程度のものであろうが、その中
ではオンデガルドとレオンの記述がもっとも信頼できそうで、 クスコi キト I聞も片
一キロメートルを四
道で一週間から一 0 日間のあいだでチャスキによる連絡がなされていたと考えるのが
妥当な線であろう。 つまり、時速で大体一七キロメートル前後、
分ぐらいでシェラの道を走っていたのではなかろうか。
また、海岸地域からクスコまでのチャスキの行程をしめす記述を検索すると、次の
二つがある。まずオンデガルドは、 リマークスコ聞の一一一O レグアをチャスキは四日
聞で走破した、としている。 一レグアを約五・六キロメートルで計算すると、時速は
ルとなる。今日の最短バス道路は一一一一二キロメートルであって、この場合だと時速
七
・0 キロメートルに、 約六・四キロメートルで計算すると、 時速は八・0 キロメ lト
よ
1
6
3 イシカ期アンデス地域の交通・通信
が一一・六キロメートルとなる。もう一人のクロニスタのアコスタは、﹁クスコでは一 OOレグアも離れているのに、
一つにはリマークスコ聞の距離の
一レグアを五・六キロメートルで計算して時速は一一・七キロメートル、六・四キロメートルで計算し
海の新鮮な魚を二日かそこらで手に入れることができた。かれらは夜を日についで五O レグアも走った﹂と記してい
る。この場合、
て一三・三キロメートルとなる。このように、両者の聞でかなり速度が異なるのは、
過小評価、さらには所要時間の表現のあいまいさ、そしてル Iトによる起伏や勾配の差などが考えられる。しかし、
いずれにしても、 シェラの道を往くチャスキの速度よりもそれが約三分の二程度に減じている。これは、 いかに海抜
高度が高いとはいえ、三000メートル前後で比高差のさほど大きくないアンデス地溝帯を縦走するシェラの道の場
合と、海岸のほぼ0 メートル付近から急激な登り勾配に入り、四千数百メートルの峠を越えてプlナ(高原盆地)の
白墨田寄富山)
(nF
クスコに到る勾配・起伏・開析ともに大きい地域を通過する場合との聞で生ずる当然の差であるといえよう。
チャスキワシ
二一分の一レグア説││aガンボア・レオン
。一四分の一レグア説││サンティリャ三日・ベガ
か、を示唆してくれるグロニカを検索すると、次のようにまとめられる。
(nrgE-cg﹀とか、
チョフリョ
このチャスキワシがどの程度の間隔で設置されていたのか、ひいては一人のチャスキがどの程度の距離を走ったの
(
口
r
o︺出。)と呼ばれていたものである。
傍に設けられたチャスキの滞留所のことであり、 ア イ マ ラ 語 圏 で は チ ャ ス キ ウ タ
ケチュア語(インカの公用語)でワシは﹁家﹂や﹁小屋﹂を意味する。 つまり、 チャスキワシとはインカ王道の路
同
こレグア説││ベドロ
Hピサロ
。一・五レグア説
llアコスタ・エレラ
ベガの一七世紀初頭の記述を除けばすべてが一六世紀のグロニカであり、
二分の一レグア説で一 OOOカ所、
二ハ世紀の一レグアを約六・四キロメ 1
一レグア説で五OOカ所、 そ し て て 五 レ グ ア 説 で 三 三
トルとしてクスコl キト l聞の五OOレグア、すなわち三二00キロメートルを分子に計算していくと、 四分の一レ
グア説で二OOOカ所、
Nピサロは前表にあらわれている通り
一一一カ所のチャスキワシが営まれたことになる。各々のクロニスタがタワンティ γスl ユ内のどのあたりの王道を歩き
またチャスキワシを目撃したのか明らかではない、が、少くともレオンとペドロ
クスコ1 キト l聞を考察の対象としていたはずである。また、征服後ベルーを訪れ、 インディオの人権の擁護者とし
OO人 の チ ャ ス キ が 配 置 さ れ
Hカサス白)は、﹁キト!とクスコの聞には一五
一人のチャスキが大体五キロメートル弱の距離を約
クスコl キト I聞に関しては約四分
一チャスキワシに二人一組のチャスキが常駐していたことから、 クスコl キト1聞には七五
て知られる歴史家のクロニス夕、ラス
ていた﹂と記しており、
ある。
数少ないクロニカの断片的な記事を基にした考察であるが、
みたい。 レオンの﹁道路が険しい山中や雪原、岩石砂漠の上を、また有腕のヤブの中を通っているにもかかわらず、
ロメートル弱の間隔でチャスキワシが営まれ、その聞を約一五分で連絡しあう飛脚制度が運用されていた、と考えて
一六世紀初頭の幹線道路であるシェラの道には約五キ
五分かけて全力疾走したことになる。前項を、陸上界の五000メートルの記録を意識してまとめた提拠もこの点に
の三レグア毎に一チャスキワシが設置されていたことになり、
O カ所程度のチャスキワシが配置されていたことがうかがえる。この計算では、
1
6
4
1
6
5 インカ期ア γデス地域の交通・通信
スペイン人の馬やラバよりもはるかに速く、 しかもたえず一定の速度を保ち、それら動物の三日の行程を一日で達し
ていた﹂という記述は、抽象的ではあるが、多種多様な地形や気象の条件ゆえ平均化して把えがたいインカのすぐれ
た飛脚制度を、的確に表現したものと受けとめたい。
おわりに
の妨げさえなければ日中は煙を、夜間には火を用いた通信手段があった、 とベガは記している。この方法だと、
一時間に一 000キ ロ メ ー ト ル 程 度 の 通 信 が 可 能 で あ っ た 。 ま
タンボという壮大な建築物が、残存しやすい遺構としてインカの道を指し示してくれることはいうまでもない。し
歩みの現状であればこそ、 タンボやチャスキワシに関する調査・研究が重要な意味を持つのではなかろうか。
インカの道はどこを通っていたのか。その全容を解明しようとする道桂は、遅々としている。しかし、そのような
されている。
号に用いており、 アンティス l ユ (東﹀方面では、 インカ期にもある種の打楽器が通信手段に使われていた、と推測
た、アマゾン上流域のモンタlニャ源流地域のインディオは、今日でもマウアレ(自問rロ島町﹀と呼ばれる打楽器を信
コーキトl聞は二 j 三時間で連絡がついたとされ、
ク
かし、それにもまして、人為的な構築物としての路傍のタンボが、建設され維持・管理されてきた背景として、どの
ス
キという人を介しての通信が、もっとも重要かっ一般的な手段であったが、その他にも急ぎの伝達のため、気象条件
え運搬したチャスキを介して、 インカ期におけるアンデス地域の交通・通信体系を概観してきた。このようなチャス
これまで、 インカ王道の路傍に存在したタンボやチャスキワシを中継し、暗語文やキ lプ、地方の特産物などを伝
四
1
6
6
ような後背地を有していたのか、 つまり、近在の自然発生的集落と計画にもとづくタソボとの関わりを研究すること
は、今後の課題としても重要であろう。
方を横切るのはインカ道) [筆者撮影〕
円のそれは約四メートル、二01三O セシチメートルほどの石で
七0 センチメートルほどの比較的大きな石が用いられており、内
距離の場所に位置している。外円の直径は約八メートル、四01
ている。その交点から北へ一一一四メートルの所で両者の道から等
で、二本のインカの道が南北とも二O度の聞きで X字型に交叉し
メートルにある保養都市アンコンの北東約六キロメートル付近
いる。写真 2がその代表的なものである。リマの北方約四0 キロ
道路に沿って数カ所、 チャスキワシらしき石組の遺構を観察して
そのような現状ではあるが、筆者はこれまでにコスタの砂漠の
かったものと考えられる。
しれないが、小規模な構築物ゆえ、使用されなくなると消誠も早
いた杭がひき抜かれ、燃料として利用されたりした)が理由かも
る征服)の時期による破壊(たとえば道路の両側に打ちこまれて
報告がなされていない現状である。 コンキスタ(スペイン人によ
また、 インカの道に沿って、平均五キロメートル間隔で存在したであろうチャスキワシについては、 ほとんど研究
写真 2 アンコ γ付近のチャスキワシらしきスト{ンサ{グル(彼
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j唄2ま慾主L~~0 付心.f2荷主趨 0\ト +κ4ト~,
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