ーー一ー2世紀ロシアのチェリ ヤジと捕虜

奈良教育大紀要 第24巻 第1号(人文・社会)昭和50年
Bull. Nara Univ・ Educ, Vol. 24, No. 1, (cult. & soc.) 1975
11-12世紀ロシアのチェリャジと捕虜
-ソビェト史学の論争に寄せて石 戸 谷 重 郎
(歴史学教室)
(昭和50年4月25日受理)
ま え が き
われわれはすでに10余年前にチェリヤジについて、グレコフ説(1)に対する批判を中心にギリシ
ア人との条約、ロシア年代記、ルースカヤ-プラーヴダなどの史料を検討しながら、考察を試み
た(1963年)(2│ そのときは10-15世紀という大きな枠で考察し、 14-15世紀ごろにはチェリヤジ
が隷属民一般を指さすよ・うになったが、 10-12位紀のキエフ時代にはギリシア人との条約あるい
はルースカヤ-プラーゲダではまさに奴隷そのものとしてのチェリャジが示されており、 ll-12
世紀についての年代記記事においてもほぼ同じであると考えた。いま再びチェリャジについて、
とくに11-12世紀を中心にチェリャジを捕虜との関係で再検討しようとするのには、いくつかの
理由がある。
その最も大きなものは、その後10余年の間にソビェト史学界においてチェリヤジ、とくに1112世紀のそれについて論争が展開されてきているからである。論争の下地は、チェリヤジについ
てのグレコフ説を受けついでいるともいえるチェレブニンの論文「ルーシにおける封建的隷属農
民階級の形成の歴史から」 (1956年)(3> に用意されていたが、論争の直接の発端はフロヤノフの
論文「キエフ-ルーシの奴隷について」 (1965年)叫こあったoこのときフロヤノフは、チェレブ
ニン説だけを批判したのではない。チェレプニンのほか、グレコ7、ジミンその他多くの研究者
をあげて、何れもが注目しなかった新説を提唱したのである。それは一口にいえば、ホローブが
現地社会の零落者としての奴隷であったのに対し、チェリヤジは捕虜を起源とする奴隷であった、
と見て、両者を区別しようとしたのである。フロヤノフ新説に対する反論はまずジミンによって
行なわれた。 「ロシア法記念碑第1巻t所収ルースカヤ-ブラ-ヴダについての自分の注釈5)を
批判されたジミンは、フロヤノフ論文の出された年の末、はやくも論文「古代ルーシのホロープ」
(1965年)(6)において、チェリヤジとホロープがその起源を異にすると主張したフロヤノフ説に反
対の立場を明らかした。ジミンとフロヤノフの対立は、その後スヴェルドロフ論文「古代のルー
シにおける社会的カテゴリー"チェリャジ"について」(1971年)17)でも指摘され、またビヤンコフ
論文「中央集権国家形成以前のルーシにおけるホロープ」 (1970年¥18)もフロヤノフがグレコフ説
を拒否したことに同意しながらもチェリャジの起源を捕虜のみに限ったことに疑問をいだいてい
る。
論争というには物足りないこの段階で、われわれはソビェト史学におけるホロープ研究の動向
を展望した(1972年)(9l プロヤノフ、スヴェルドロフ、ビヤンコフの上記諸論文にふれてはおい
たが、これを論争としては把えていなかった
ところがその直後に入手したチェレプニン労作
にひきっづいて、ジミン、フロヤフ、これら三人の応答を読むにいたって、論争という感を強く
したo まず、チェレプニンは共著「封建制発達の途」 (1972年)のなかで「ルーシ、 9-15世紀
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石戸谷重郎
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封建的土地所有史の論争諸問題」を担当し、 《チェリャジ》 と題する1項を設けて、上記のフロ
ヤノフ論文を批判したのである11110 この1項は内容的にはさきの論文「形成の歴史」の一部分
をほとんどそのままとっているのであるが、新たにフロヤノフを名ざして、かれが論拠とした
「事例は何も証拠立てていない」と激しく反対し、チェリヤジが捕虜のみから構成されたという
結論は史料からは導き出されなし.、、と反論したoチェレブニンが自分の旧論文の内容を繰り返し
ているということは、同時にまた、10世紀は別として11-12世紀のチェリャジを奴隷でなく隷属民
一般と見ている点で変っていないことに注目しておきたい。一方ジミンはその翌年に、既発表の
諸論文の増補を中心に単行本「ルーシのホロープ(最古代より15世紀末まで) 」 (1973年) (1功を
公にした。チェリャジについての部分だけに関していえば、フロヤノフの結論に反対する態度は
上記の論文と変っていないが、全巻を通して感ぜられることは、年代記の読み方についてはジミ
ンはフロヤノフをむしろ肯定しており、チェリヤジが11-12世紀に奴隷であったと見る点ではグ
レコフ-チェレプニンの隷属民説を否定しているのであるO
ジミンにいわせれば、フロヤノフは主に年代記に拠った,そしてルースカヤ-プラーゲダの読
み方を誤った、だからチェリヤジとホロL-プを別々のものとしチェl)ヤジを捕虜-奴隷に限って
しまった、というのである。ジミンの論述で特徴的なことの一つは、チェレプニンが論文でも共
著単行本でも、年代記記事の引用においてきわめて稀な例外もあるが刊行本のページを示す古土と
どまるのに対し、年代記のテクストをその都度具体的に引用していることであるo プラーゲダの
限られた条項と異なってぼう大な量の年代記については、これはわが国の研究者にはとくに有益
かつ説得力をもっているO
さて、最後に論争の中心フロヤノフであるが、かれも既発表の諸論文を基礎に単行本キエフルーシ、社会経済史概説」 (1974年)(19 を出したo そのなかの1章「チェリヤジとホロープ」に
おけるかれのチェリャジ論は、さきの論文におけるのと論旨は勿論変っていないD ジミンの上記
単行本を引用してチェT)ヤジとホローブの区別のし方に依然として反対しているが14 ,批判の鉾
先は主にチェレプニンに向けられている。上述のように、チェレプニンのチェリヤジ論はその論
文(1956年)と共著単行本(1972年)とでは内容的にほとんど変っていない。フロヤノフは自分
のはじめの論文ではとくにチェレプニン批判に重点をおいたわけでもないのに、この単行本「キ
エフ-ルーシ」ではチェレプニンの共著単行本を放り上げて、そのチェリャジ論をいちいち反駁
している。とくに年代記記事の読み方については全面的な反対論を展開している0 -方のチェレ
プニン、さらにはジミンも、プロヤノフ説を論ずるときはその論文(1965年)について批判して
いるということもあり、フロヤノフを理解するためは、かれの論文と単行本の両方を必要とする。
以上がソビエト史学におけるチェリャジ論争の今日にいたるまでの大要であるが、われわれは
上にふれたソビェトのホローブ研究紹介に際しては、フロヤノフ論文を「筆者未見」とせざると
得なかった(咽o その後、天理大学八重樫喬任教授のご厚意でこれを入手した。また、さきのチュ
リャジに関する旧稿執筆の際、充分利用できなかった「ロシア年代記、第1-2巻」もその復刻
版(1962年)をその後に入手したus とはいえ、年代記をテクストそのままで読むことは、古代
ロシア語の専門家でもないわれわれには容易なことではない。現代ロシア語訳からの除村吉太郎
氏の邦訳がわれわれに役立ったとともに(1㌦ 京都大学植野修司教授のロシア古写本略字法一覧(
(1963年)(鴫 がきわめて高い価値をもつことを思い知らされたのである0 -方、フロヤノフ新説
はすでにわが国にも影響を見せはじめている(1功。
およそ上のような理由で、ここに再びチェリヤジについて11-12世紀を中心に考察してみたい
ll-12世紀ロシアのチュリヤジと捕虜
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と思うO ソビェト学界のチェリヤジ研究はけっして年代記とルースカヤ-プラーゲダのみを史料
としているのではない。しかし、上述の論争はこの二つの読み方あるいは解釈をめぐってなされ
ているし、限られた紙面ではとうてい全部を取り上げることはできないので、本稿の考察もこれ
ら二つの史料の再検討に中心をおくつもりである。年代記記事の解釈に当っては、そのテクスト
を必要個所の前後にわたって、かつわれわれの試訳のみならず原文もそえて引用することが適切
と考え、いったんはこれを試みたのであるが、紙面の制限をはるかに超えるので、やむなく割愛
した。それにもまして恐れるのは、ソビェト学界における立場を異にする論者のそれぞれの主張
とその論拠を充分にかつ誤りなく伝え得るかどうかである。その意味で本稿は、わがロシア史学
が直接に年代記その他の史料に当たり、直接にソビェト学界の諸成果を検討するための-一つの参
考になればという期待以上に出るものではない。なお、チェリャジについての旧稿との重復はで
きるだけ避けるつもりであるが、論の展開上一部重復することもあり、また旧稿で論じたことを
本稿に省略する際その都度その旨を指摘することをやめるので、読者諸賢のご諒承を得ておきた
い。
1 基本的立場のちがい
フロヤノフはすでに論文において多くの年代記記事のほかアラブ人の著作や「ザコンニスドヌ
イ」 (「(人民に対する)裁判法」)などを引用したのち、次のように述べている: 「上掲の史料
は、術語《チェリャジ》 (チェリャジン》が術語(奴隷》 (( pa6》)に等しいものとして出
ていることを証している。術語《チェリヤジ》 のこのような意味は、たんに10-11世紀にわたっ
てのみでなく、 12位紀を通じても保持されたo それとともに、捕虜がチェリャジの唯一の源泉で
あったことを特に指摘しなければならない。奴隷の源泉、したがってまた労働力の源泉としての
捕虜は、文献的記念碑にいく度となく兄いだされる。これらの史料、なかんずく諸年代記におい
て、捕虜の大量捕捉の記事は普通になっているo 多くの年代記記事においてチェリヤジと捕虜と
は相互に取り換え得る概念として使われているi<i;
これに対してチェレプニンは真向から反対したのである。いわく、 「これらの事例は何も証拠
立てていない。というのは、それらは捕虜がチェリヤジに特化されたことを念頭においているの
ではない。チェリャジが捕虜にされたこと、もしくはチェリヤジが捕虜から返されたことを念頭
においているのである。」(21
つまり、 「チェ1)ヤジを捕えた」というとき、チェレプニンにあっては特定の社会階層として
のチェリャジ(チェレプニンは11-12世紀では封建的隷属民一般とする)が捕えられたのであるO
これに対してフロヤノフは、捕虜が捕えられた、捕えられた者は捕虜なるが故にまた奴隷でもあ
る、これがチェリャジであって、チェリャジ-捕虜-奴隷という図式を考える。
捕虜になったという状況またはその結果からして「チェリヤジを捕えた」のである、これがフ
ロヤノフの論理である。フロヤノフは、単行本で上のチェレブニン発言をそのまま引用した上で
次のように述べている: 「しかしながら捕虜はそれ自体でまたチェリャジ、すなわち奴隷-捕虜
でもあった、それ故に捕虜をチェリャジに特化する必要はなかったのである。捕虜になった瞬間
から人はチェリヤジ-奴隷になったのである。」(3)
このようなフロヤノフの立場からすれば,年代記記事が戦争についてチェリャジをあげている
とき、ただそれが捕虜であることさえ分れば充分なのである。したがってまた、捕えられた者が
石戸谷重郎
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「リュ-ジー」といわれていても、また「ボロン」 (本来は捕虜の意)と呼ばれていても、すべ
てチェリヤジ-奴隷なのである。だからフロヤノフはまたいう、 「年代記作者にとってチェリャ
ジと捕虜が同義であったこと、これは容易に理解されるo 降伏するあらゆる者が捕虜にされた。j(41
あらゆる者という表現のなかに、降伏以前の社会的地位を問わない、という姿勢が見られる。他
方のチェレプニンは、チェリヤジは一つの社会階層であって(フロヤノフも捕虜になった後では
これを認める) 、これが年代記記事の戦争に関する部分に登場する、と考えるのである。
チェリヤジは、しかし、年代記その他で戦争にかかわりなく登場する。村に住んでいる場合も
あるo これについてチェレプニンは、だから封建的隷属民である、という(5) しかし、フロヤノ
フにいわせれば、 「チェリャジの社会的性格は居住の場所によって決まるのではない」(6)のであ
るO この場合、両者の対立は捕虜論争をはなれて、チェリヤジの社会的カテゴリーを論じている
のであって、フロヤノフは奴隷を主張しつづける。フロヤノフもチェリャジが特定の社会階層を
形成したことを否定しているのではない。例えば後掲〔3〕の事例について、いわく、 「ミンス
クの住民としてはさまざまな社会的地位があったが、住民を捕虜にしたモノマフは、かれらをチ
ェリャジ-奴隷-捕虜に、つまり-つの社会的グループに韓化したのであるoJm
ところで、ジミンの立場はどうか。後掲〔15〕 〔16〕の事例について、かれはグレコフがその
著作「キエフ-ルーシ」の初版における発言を後に削除したことをとくに指摘している(8) ジミ
ンはこの削除された部分に賛成なのである。それは、 「戦いのさなかに自分たちの獲物の社会的
地位を選別し得たとは思われない。f っまり、ジミンもまた社会的地位にかかわらず、捕虜は捕
虜という立場をとっていっているのであるOフ。ヤノフが「捕虜は人を姦議首鼠。移した」(ldと
述べているのに呼応するかのごとく、ジミンは次のようにいっている二「年代記作者にとっては
捕虜がその出身において何者であったか、農民か手工人かそれともホロープかはどうでもよかっ
たのである。捕虜は捕虜、捕虜は奴隷ではないのかoJ仙 ジミンはまたいう、 「チェリャジ成員の
補給の主要な源泉は捕虜であったO」(Zオ「主要な」といってはいるが、 「すべての」源泉と断定し
ない点にフロヤノフ見解とのちがいがある。後掲〔3〕の事例について、捕虜にされたのがミン
スク市の住民一般であったというグレコフ見解を認めながらもー なおかつフロヤノフ説に近く次
のように述べている:しかし、 《チェリヤジ》 と呼ばれたのは、捕虜になった、すなわちホロー
プになったが故のみである」(1功。住民が捕虜になった故にチェリャジと呼ばれた、という点では
ジミン見解はフロヤノフと一致している。しかし、チェリヤジ-ホローブと見る点で、フロヤノ
フと決定的に対立するのであるO
フロヤノフは、チ=リヤジとホローブとの関係について研究史をべつ見した上で、問う「何故
古代の奴隷はときにチェリャジンときにホローブと呼ばれているのか」 。答えていわく、 「これ
ホロープストウオ
にはそれなりの理由がある、主な理由は《チェリャジン》 と 《ホロープ》 という術語が奴隷身分
イストチニク
の異なった源泉を反映したということにある。前者ではそれは捕虜であり、後者ではそれは社会
の内部基盤の崩壊、その内部における零落者の出現であって、これはまた11世紀までには明白に
あらわれた社会経済的変化の結果である。jM そしてルースカヤ-ブラーヴダの関係条項を検討し
てそこに二つの術語が併用されていることについてそれぞれの特殊性が反映しているとし、次の
プロイスハジジエニエ
ように述べている、 「それは社会的地位の特殊性ではなくて(ともに奴隷である) 、その起源の
特殊性であるO 思うに、それ故《ルースカヤ-プラーヴダ》は《チェリャジ》 と 《ホロープ》 と
いう概念を厳密に区別しているのであるo」(咽 「古代ル-シの奴隷所有者はホローブという形の労
働力を血栽鋲から汲み取ったo一方かれらは戦争という手段でチェリャジを得た、戦争はチェ
ll-12世紀ロシアのチェリャジと捕虜
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リヤジ成員の補給源でもあった捕虜の捕促を伴った.」(1g とくにルースカヤ-プラ-ヴダ拡大編集
第110条についてそこにホローブ源泉として捕虜があげられていないことを重視して、いわく、
「ホローブ-の途は捕虜からはじまるのではないC捕虜はチェリャジンストウオの源泉であった
が、ホロープストウオの源泉でなかった。j"'刊
フロヤノフはその論文の結語の部分でくりかえして次のように述べている、 「捕虜の熔印をも
ってすなわち外部から発生したチェリヤジと異なって、ホロープはウオチナに隣接する地域住民
から発生した.JO串このフロヤノフ結論の一部をそのまま引用した上で、ジミン論文は反対意見を
述べていう、 「しかし、ルースカヤ-プラーゲダには捕虜のみをチェリヤジンストウオの源泉と
見なすを許すような資料はない。著書のこの結論は年代記およびギリシア人との条約のみに基づ
いている。しかしそこでは資料の特殊性そのものによってチェリャジ成員補給の他の源泉につい
ては語られていないのであるoJO堵 ジミンによるフロヤノフ批判のこの部分は「主に年代記の資料
に基いている」と若干修正されて単行本にもくり返されている印。これに対してフロヤノフは単
行本でジミン論文のこの批判をそのまま引用して次のように反論している、 「ルースカヤ-プラ
ーゲダにはおよそチェリャジンストウオ源泉についてのいかなる資料もない。この点に、もっぱ
ら国内の難問を扱っている記念碑の独自性が反映しているのである。対外的事件が前景におかれ
ている条約および年代記は事情を異にする。チェリャジンストウォの源泉がまさに条約と年代記
において,ルースカヤ-プラーゲダにおいてでなく,示されていること自体がとりもなおさず捕
虜問題-キエフ-ルーシにおけるチェリャジ補給の唯一の源泉-についてのわれわれの立場
を確認させるのであるO」el)
フロヤノフとジミンのこの応答を読むとき、年代記に拠ればチェリヤジ源泉は捕虜のみと結論
せざるを得ないことをジミンも認めていることが知られる。それとともに、ジミンはフロヤノフ
がルースカヤ-プラーゲダを考慮に入れていないかのようにいっているが、上に述べたようにフ
ロヤノフもブラーヴダの諸条項を検討しているのであるo 両者の対立はブラ-ヴダの読み方のち
がいから来ているのである。しかし、ブラーヴダの問題はその条項の検討だけで解決されるもの
ではない。ジミンが10世紀のチェリャジについてさえ捕虜以外の源泉を確かめようとしているの
もこの故である物。
以上、フロヤノフ、チェレブニン、ジミンのチェリヤジについての見解の対立を概観したので
あるが、年代記記事の解釈のし方および社会階層の一つとしてのチェリャジの把え方については
フロヤノフとチェレブニンが対立し、ルースカヤ-プラーゲダのチェリヤジ-ホロープ条項の理
解のし方についてはフロヤノフとジミンが対立している。見解の分れめになっている史料を具体
的に検討しながら、考察をすすめたい。
2 三つの年代記記事について
ソビェト史学がチェリャジ論に関連して最もしばしば引用する年代記記事は次の三つである。
〔1〕 1095年、ポロヴェツ人を攻めて、 「家畜、馬、騎舵およびチェリャジを捕えた」(1)
〔2〕 1130年、ポロヴェツ人を攻めて,「家畜、羊、馬、騎舵を、また幕舎を財産およびチェリ
ャジとともに奪った。そして、ペチェネグ人とトルコ人を幕舎とともに奪った」12)
〔3〕ウラジミル-モノマフの「教訓」のなかの記事。ミンスクのグレプを攻めたときの指示
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石戸谷重郎
「町を占領し・。ク頭のもとに1人のチェリヤジをも1匹の家畜をも残さない」 (3'
チェレブニンはすでに論文(1956年)においてこれら〔1〕 〔2〕 〔3〕の事例を示して次の
ことを主張している、 「術語《チェリヤジン》 《チェリヤジ》は、領主に隷属する全住民を意味
するものとしての呼称《リュ-ジー》 と融け合って、その最初の意味を失っているO 術語《チェ
リヤジン》は、額主に隷属するリュ-ジーという広い概念ですでに最古のプラーゲダに想起され
ているといえる。この意味での(広義の-引用者)術語《チェリヤジン》 《チェリャジ》は、 ll
13世紀の封建戦争についての話にも出てくるのであって、それらの戦争のとき諸侯は敵の隷属民
を捕えたのである14)ブラーゲダにおけるチェリャジは奴隷としての特質を最もよくあらわして
おり、これを端的に「奴隷」と認めないことに強く反対せざるを得ない。とともに注目すべきは
チェレブニンはこれら〔1〕 〔2〕 〔3〕ではチェリヤジが「最初の意味を失っている」という。
「最初の意味」とは何か。チェレプニンは10世紀については「原初年代記もまた(ギリシア人と
の条約と同様に-引用者) 《チェリャジ》のもとに奴隷を考えている」(5)と述べて、その事例として
かれ自らもあげているのが、これまた周知の次の三つである。
〔4〕 945年。イ-ゴリはギリシア(ビザンツ)の使者たちに贈った「毛皮、チェリヤジ、臓
を」16)
〔5〕 955年。オーリガは以前にギリシアの皇帝にいった、 「ルーシに帰ったら、多くの贈物
、チェリャジ、塊および毛皮、そして援助の戦士を送る」 (7)
〔6〕 966年。ぺレヤスラヴリには各地から「あらゆる富j が集まるが、ルーシからは、 「毛
皮、蟻、蜂密およびチェリヤジ」 (8)
毛皮、娘などと並べられて「贈物」 「富」とされているチェリヤジが奴隷であり贈与・売買の
対象であったことは何びとも疑うことができないであろう。ジミンは上の〔5〕 〔6〕を引用し
て「10-11世紀には《チェリャジ》の概念は疑もなく売買の対象と結びついていた」 (91 といい
、ギリシア人との条約によって「チェリャジは主に売買の対象であった」叫と述べている.ギリ
シア人との条約についてはチェリャジ も「チェリャジンは売買の対象として出てくる」紬とい
っている。ではこのような商品-奴隷としてこのチェリャジはどのようにして入手されたのか。
これについて当のチェレプニンさえ、あるいは「捕虜がチェリャジの著しい部分を形成した」 (19
といい、あるいは「なかんずくチェリャジの歴史の初段階において捕虜がチェリャジの著しい部
分を形成したことは疑を容れない」粗銅と述べているのである。つまり、チェレプニンは10世紀の
チェリャジをまさに奴隷と見なしているのである。 11世紀のチェリヤジを隷属民一般とするチェ
レプニンの根拠はさきの〔1〕 〔2〕 〔3〕のみでないが、いま少なくとも〔1〕 〔2〕 〔3〕
によって諸侯が敵の隷属民-チェリャジを捕えたとするチェレプニン説に同調することはできな
い。捕虜にされたが故に住民一般がチェリヤジと呼ばれている、と見るべきであろう.この点を
ソビェト史学についてみよう。
フロヤノフは,チェレプニンに反対して、 「 (かれの)立場に立っならば、征服者は敵領土に
侵入して隷属民のみを捕え、自由人には手を触れなかったことを認めざるを得なくなろう」仕叫と
述べている。スヴェルドロフは10世紀前半のチェリャジを、ギリシア人との条約にこのほかに捕
虜という語があることから、捕虜と厳別してジミンの批判を受けているが鴫、しかもなお「1112世紀に捕虜はチェ1)ヤジと呼ばれた」 (lqといい、かつその事例として上の〔1〕 〔2〕 〔3〕
をあげているのである。スヴユルドロフ論文はその結論の一つとして次のように述べている、
「11-13世紀に術語《チェリャジン》は、捕虜になる前の自由人と非自由人とを含む捕われた者
ll-12世紀ロシアのチェリヤジと捕虜
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を意味するために用いられた」。(lqこれは上のフロヤノフ見解と同じであり、 「《チェリャジ》 と
呼ばれたのは捕虜になったからである」 (10というジミン見解にも通ずる。ジミンが、チェリャジ
補給の主要な源泉は捕虜、というとき、かれもまた〔1〕 〔2〕 〔3〕の事例に拠っているので
あるvia
チェレプニンが〔1〕 〔2〕 〔3〕について領主の隷属民を捕えた、ここにいうチェリヤジは
捕虜-奴隷(その前身にかかわらず)でない、と主張するのは、 ll-12世紀ロシアの封建的性格
をいうためであろうか。しかし、封建制と奴隷の存在とはつねに矛盾し対立するとは限らない。
ホロープが奴隷としてその後数世紀にわたって存続したことを想起すべきであろう。チェレブニ
ン自らも14-15世紀のホロープを「主人の完全な所有物」つまり奴隷と認めている榊。ジミンは
初期封建国家において奴隷が大きな役割を果たしたことを全ヨーロッパ的規模で考えようとして
おり糾、コロリュクも「封建初期の段階でも奴隷所有のウクラードは発達しつづけた」叫と見て
いる。キエフ・ルーシの封建的性格を強調するの余りチェリャジの奴隷としての性格を無視ある
いは軽視することは、かってのグレコフ路線の轍をふむことである。チェリャジとホロープとの
関係および捕虜以外にチェリヤジ源泉がなかったかの検討を別にすれば、少なくとも〔1〕 〔2
〕 〔3〕のチェリャジについては、チェレプニン説(奴隷でなくて隷属民一般)よりはフロヤノ
フ説(捕虜-奴隷)がとらるべきであろう。
3 社会階層としてのチェリヤジ
住民一般が捕虜の故にチェリャジと呼ばれた〔1〕 〔2〕 〔3〕の事例については、何故捕虜
が「ボロン」あるいは「ポロニヤニク」などの語で示されなかったのか、と問われるであろう。
それは、チェリャジが奴隷を意味したからであり、捕虜が奴隷につながったからである。その奴
隷としてのチェリャジは一つの社会階層である。
チェレブニンは「敵の隷属民を捕えた」事例として、既掲〔1〕 〔2〕 〔3〕のほかになおい
くつかの年代記記事をあげている。これらについてフロヤノフは、そのうち三つだけは「捕えら
れたチェリヤジが主人に属していたことを示す」 ll)として、チェレプニンに若干の譲与を示すが
ごとくであるが、結論的にはその属し方を封建的隷属ではなくて奴隷であったと見なし、 「チェ
リヤジを奴隷と見なすことを妨げるいかなる資料も年代記にはない」 (2)として、チェレプニンの
隷属民説をしりぞけている。社会階層としてのチェリャジは、われわれからすればルースカヤプラーゲダに最もよく示され、それはまさに奴隷であるが、いま問堰にされている三つの事例と
は次のごとき年代記記事である。
〔7〕 1149年。イジャスラフは叔父たちと和した、すなわち「もしペレヤスラグリの軍隊で何
かが、畜群またはチェリャジが略奪されているならば、 〔それを〕何びとかが自分のも
のと認めるとき、現物で取り戻す」と。イジャスラフは「自分の財産と畜群のために」
家来とチウンを遣わした(3)
〔8〕 1159年。キエフに入ったムスチスラフは、 「イジャスラフの従士団の、多くの財産を、
金、銀、チェリャジ日馬、家畜を奪った」 (4)
〔9〕 1282年。ロシアの諸侯はヴィシェゴロドの近くでポーランドのボレスラフと戦い、 「多
数のチェ.)ヤジと家畜と馬を捕えた」 (5j
上掲事例のうち、 〔7〕のチェリャジは「軍隊のチェリャジ」である15-16世紀のホローブ
石戸谷重郎
38
-奴隷は主人に随行して出征に参加し、あるいは武具さえも支給されていることがあった(6!軍
隊から畜群またはチェリャジが略奪されているというのは、上に示したようにそれが、「財産と畜
群」ともいわれていることからして、財産視された奴隷-チェリヤジを指さしていると見得る。
住民一般の捕虜ではない。 〔8〕では、 「従士団の財産」のなかに、金銀、馬などと並べられて
いるので、ここでのチェリャジを奴隷と見なすことは妥当である。 〔9〕については若干の疑問
がのこるが、軍隊同志の戦いでチェリヤジを捕えflと解すれば〔7〕 〔8〕に準じて考えられよ
う。
このほかに、ジミンがユシコフ見解をいれて「奴隷」と見ている(7)チェリャジに次の例がある。
〔10〕 1146年。イジャスラフらはプチブリのスビヤトスラフを破り、 「スビヤトスラフのやし
き〔の財産〕を四つに分けた、金庫、倉庫、財産も。 -侯のものは何ものこさず全部を
700のチェT)ヤジをも分けた」 (8)
〔11〕 1146年。 (上のつづき)イジャスラフはキエフに帰ってからいった、 「その郷における
イ-ゴリのものはチェリャジにせよ財産にせよ自分のものである。スビヤトスラフのチ
ェリヤジと財産は分けよう」 (9)
〔10〕における「侯のもの」 、 〔11〕における「スビヤトスラフのチェリヤジ」などは、住民
-捕虜よりは、ともに侯が所有した奴隷と見なした方がよい。 〔7〕 〔8〕 〔10〕 〔11〕で注目
しておくべきは、これが諸侯の争いの記事であることで、諸侯間の内証では捕虜はどちらかとい
えば住民一般の意で「T)エージ-」と呼ばれている(後述) o
以上は、戦争記事における社会階層の一つとしてのチェリヤジであるが、戦争に直接関係ない
記事にチェリヤジがあらわれてくることがある。その最も代表的なものが、次の寄進についての
記事であるO
〔11〕 1158年。グレプ侯妃(未亡人)は修道院に「五つの村をチェリャジとともに、頭巾にい
たるまで寄進した」 (lq
いうところの「チェリャジとともに」は、グレコフによって「奴隷も隷属スメルドも」と解釈
された紬。この解釈はチェレプニンに強い影響を与えているが、ジミンはこれを拒否しているO
ジミンはポロニン見解(lqをもあげて、ここにいうチェリヤジは奴隷である、ただし「土地に定着
させられている」と解釈しだ(1功。ジミンは「リュ-ジーとともに」についてのグレコフ見解につ
いて、リュ-ジーは「多義」であるが、 「隷属民」と規定する必要はない、 「自由人も、隷属民
も、ときにはたんにホローブ(奴隷-引用者)も」意味されていたと自説を述べている(14)っま
り、土地にリュ-ジーがっけられて寄進されたときは、奴隷と見なし、同様に〔11〕の「チェリ
ャジとともに」を解釈したのである。事例〔11〕との関係でしばしば引き合いに出されるのが年
代記のなかでなく独立してのこされている「ワルラームの寄進状」 (12世紀末) (lqであるo ここ
でも土地が「チェリヤジとともに」寄進されているが、 「家畜とともに」といわれ、またチェリ
ャジの内容が具体的に示されていることもあって、 〔11〕よりはいっそうよく奴隷としてのチェ
リヤジを示している。フロヤノフは勿論これを「奴隷」と断定しているが咽、チェレブニンは「
奴隷かもしれない、そうでないかもしれない」 (lnとして、チェリャジ-奴隷にふみ切っていない。
ところで、チェレプニンのチェリヤジ-隷属民論は、 「チェリャジが村に住んでいる」ことを
論拠の一つにしている(1功。チェレプニンにとっては「村に住んでいる」ことは封建的隷属民のシ
ンボルの一つである(1功。これに対してフロヤノフは、居住の場所は「チェリャジの社会的性格を
決定しない」として、チェレプニンに反対している榊。チェレプニンは、チェリヤジが村に住ん
ll-12位紀ロシアのチェリヤジと捕虜
39
でる事例を三つあげており、その一つが〔11〕で、もう一つは次の〔12〕である。
〔12〕 1209年。ノヴゴロド人は代官たちに反坑して、 「かれらのやしきを略奪し、 ・-やしきを
焼き、かれらの財産を奪い、かれらの村々とチエリヤジを売り払った」軸
ここでもチェリャジが村に住んでいたことを否定できないO しかし、戦争で敵の住民一般を捕
虜にし、かれらを奴隷にするのと異なって、ノヴゴロドの市民が代官に反感をもっていたにして
も村民一般を売り払ったとは考え難い。ジミンが次のように述べているのは妥当であろう、 「ノ
ヴゴロドのチェリヤジは、われわれに周知のホローブである。かれらは売買されたoJ物この「赤
ロープ」を「チェリヤジ」におきかえれば、フロヤノフもこれに同意するであろう.チェレプニ
ンのあげる第3の「村に住む」チェリャジの事例は:
〔13〕 1258年。ウラジミルの部下たちは、 「村からの道を占領した。チェリヤジが林に向って
逃げたとき、かれらを追いかけた」醐
このチェリャジをチェレプニンのように封建的隷属民と見なすべき根拠は充分でない。ジミン
は、この〔13〕のチェリャジについて断定を避けてはいるが、封建的隷属民とは考えず、二・三
の仮説を提案するにとどめている。すなわち、村には奴隷だけが住んでいたのかもしれないし、
あるいは年代記作者の眼には「逃亡者が捕虜すなわちチェリャジと映ったのかもしれない」とい
うのである幽
以上、年代記にチェリャジが社会階層の一つとして登場する場合について検討したが、これを
チェレプニンの解釈のように封建的隷属民と見なすべき理由は見当らない。むしろ奴隷と考えた
方が妥当な場合が多いのであるO ルースカヤ-プラ-ヴダのチェリャジ、本節に見たチェリャジ
、これが社会階層の一つとしてのチェリヤジ-奴隷であって、この概念が前提になって捕虜は奴
隷、したがってチェリヤジ、と考えられ、戦争についての記事に前節に見たようにチェリヤジと
して記されているのであろう。
4 捕虜を示すその他の術語
年代記には戦争記事が多いだけに、捕虜その他の分捕り物について多く語られている。その分
捕り物のなかで目立っのが人間-捕虜と家畜や馬である。第2節では事例を多くは示さなかった
が、チェリヤジが敵の特定階層でなく、人間-捕虜の意で使われている例は他にもあり、その典
型的な場合を二・三示しておこう。
〔14〕 1229年。ロシア人とポーランド人はお互に宣誓した、 「もし今後かれらの間に争いが起
ってもポーランド人はルーシのチェリャジを取らない、ルーシ人もポーランドのを取ら
ない了1)
〔15〕 1279年。ウラジミルはポーランドのコンラトと戦って、 「多くの痛pJiを捕えたo後、ウ
ラジミルは和を結び、 ‥・軍隊が取ったチェリヤジを返した」 (2)
〔16〕 1281年o 「ポーランド人にはチェリヤジを捕えないし殺さないが、略奪をするという錠
がある」(3j
〔17〕 1282年。ウラジミルはポーランドのレシク(侯)に申し入れた、 「かれにチェリャジを
返すように。しかし、かれはチェリヤジをかれに返さなかった」 (4)
これらの事例におけるチェリヤジは特定階層としてのチエリャジ、つまり奴隷ではない。奴隷
だけを(チェレプニン式にいえば隷属民だけを) 「取る」 「取らない」 「返す」 「返さない」と
石戸谷重.郎
40
いっているのではないO いわれているのは捕虜であり、その前身からいえば住民一般である.と
ポロン
ころが、上の〔15〕に見られるように、捕虜はまた文字通り「捕虜」と呼ばれていること、けっ
して稀ではない。戦争で捕えられた人間-捕虜を示す語のなかで、チェレプニンとフロヤノフの
間で異なった解釈をされている術語として、チェリャジのほかにリュ-ジーがある。
チェレプニンは「チェリャジを捕えた」と「リュ-ジーを捕えた」とを対応させ、リュ-ジー
は封建的隷属民である。だからチェリヤジもそうである、という図式を立てる。この種の事例を
チェレブニンは10あげている(5)これに反論したフロヤノフは10のうち8まではポロヴェツ人に
粒致されたロシア人であり、 2はロシアの諸侯間の内証についての記事にあらわれるリュ-ジー
であると指摘している。フロヤノフがこの指摘によって何を主張しようとしたのかは、かれの論
述には充分明らかにされていない(6)フロヤノフ流に考えてみれば、封建的隷属民だけが、例え
ばポロヴェツ人に捕えられたとは思われない、といいたいのであろう。われわれからすれば、フ
ロヤノフのこの指摘は、ロシア人の立場からして非ロシア人なる捕虜をチェリャジあるいはボロ
ンと呼び、自国人なる捕虜についてはこれらの語を避けようとした態度が年代記作者にあったの
ではないか、と思われる。この点をもう少し考えてみよう。
まず、ポロヴェツ人侵入の記事におけるT)ユージーを具体的に示せば:
〔18〕 1159年. 「大なる悪をなし、村々を焼き、リュ-ジーを取った」 (7)
〔19〕 1169年O 「村々を残らず、リュ-ジー、夫と妻とを捕え、馬と家畜と羊をポロヴェツに
追い立てた」 (8)
〔20〕 1171年。 「キエフ近郊の多くの村々を、リュ-ジー、家畜、馬とともに取り、多くの分
捕り物をもってポロヴェツに去った」 (9)
年代記作者が住民-捕虜を示すのに、自国人についてチェリャジなる語を避けてリュ-ジーと
いっているのは、これらの捕虜を直ちに奴隷-チェリャジに結びつけて考えたくなかったからで
あろう。これに対して、ロシア人がポロヴェツ人その他の非ロシア人を捕虜にしたときは、かれ
お
らがその故に奴隷にされる現実を眼のあたりに見ており、またこれを期待したが故に、自らチェ
リャジなる語を用いたと考えてよいのではないか。諸侯間の内証でも、チェリャジなる語を用い
るときは既述のように特定階層としてのチェリャジ-奴隷を指し示すのであって、捕虜というだ
けでこの語を用いることはなかった。むしろ、リュ-ジーなる語を用いることも稀であって次の
ように記している場合が普通である。
〔21〕 1066年。フセスラフは「ノヴゴロドを、妻と子らもろともに取った」 (10
〔22〕 1148年o イジャスラフはa-y-を改めて、 「ヴォルガ沿岸の6都市を占額し、 -7千人
を捕えた」帥
〔23〕 1168年o ロマンはトロペツを攻めて、 「かれらの家々を焼き、多数の人々を捕虜にした
(地名)
」(18
これらでは、捕虜がチェリヤジともボロン(捕虜)ともいわれていない。上の〔18〕 〔19〕 〔20〕
におけるリュ-ジーと同じである。これに対して、ロシア人が非ロシア人なる捕虜を捕えたとき
は、チェリャジという術語を使わないとすれば、端的に「ボロン」を用いた。例えば:
-i- " .
〔24〕 1116年o ヤロボルクはポロヴェツ人を攻めて「多くの捕虜を取った」 (1頚
h :l
〔25〕 1186年。ポロヴェツ人の「多くの捕虜を取り、妻と子らを〔取った〕 」 04
ポロン
〔26〕 1117年。チュ-ジ人を攻めて、 「熊の頭という名の都市を取り、 -多くの捕虜をもって
帰ってきた」 (1頭
ll-12位紀ロシアのチェリヤジと捕虜
41
ポロン
〔27〕 1120年O ボルガル人を攻めて、 「多くの捕虜を取った」 (咽
非ロシア人なる捕虜をチェリヤジまたはボロンと呼んだといっても、勿論例外もあるのであっ
て、例えば、
〔28〕 1142年O ポーランド人と戦い、「戦士よりも平和なリャフ人を多く捕えた」的
というがごとくである。捕虜についての用語がロシア人と非ロシア人とで原則として異なると
いうことは、それぞれの捕虜をどのように見なしていたかに関係があるのではなかろうか。つま
り、非ロシア人なる捕虜にチェリャジ-奴隷の主な補給源を求めていたことを示すものではなか
ろうか。 〔28〕は、用語よりは内容において、 「平和な」ポーランド人を奴隷にしようとした企
てを表現しているように思われる。
要するに、 ll-12世紀年代記記事を読めば、捕虜が当時なお奴隷の主要な源泉であったことを
認めざるを得ない。この点では、われわれもジミンとともにフロヤノフ説に与したいと思う。し
かし、さらに進んで、捕虜がチェリャジの唯一の源泉、捕虜以外の理由で奴隷になった者はホロ
ープと呼ばれてチェリヤジと区別された、とフロヤノフが論じていることについては、慎重に考
えざるを得ないのである。 (本節で少しく言及したロシア諸侯間の内戦による捕虜の問題につい
ては、 14-15世紀の史料はしきりに送還協定のことをいい、かつ「ボロン」なる術語も用いてお
り、改めて考察の必要があると考えている。)
5 チェリヤジの源泉
フロヤノフはいう、 「古代ルーシでは奴隷-捕虜はチェリヤジと呼ばれた」(l) 、 「チェリャジ
はたんに奴隷というだけでなく、奴隷-捕虜である」 (2㌦ そしていっそう決定的にいう、 「捕虜
はチェリャジの唯一の源泉であった」 (3)、 「捕虜はチェリャジ補給の唯一の手段である」 (4)
フロヤノフに対する反対論といってもニュアンスは異なる。既述のように、チェレブニンは、
チェリャジの歴史の初期(10世紀とそれ以前)にチェリャジの「著しい部分を形成した」のは捕
虜であった、またチェリャジは奴隷であったことを認めながら、 11世紀からチェリヤジは封建的
隷属民になったという 11-12世紀のチェT)ヤジは奴隷である、これがわれわれの見解である。
一方、ジミンは10-12世紀のチェリャジを奴隷と認め、かつチェリヤジの「主要な源泉」が捕虜
であった、といいながら、 「捕虜のみ」がチェリヤジの源泉ではなかった.、としてフロヤノフに
反対している(6) 。スヴェルドロフは具体的な史料をあげての考察ではないが、 ll-12世紀に捕虜
はチェリヤジと呼ばれたといいながら、また「捕虜または他の方法で(チェリャジンストウォ)
におちた」者がチェリャジと呼ばれたともいっている(7)っまり、スヴェルドロフは捕虜をチェ
リヤジの「唯一の源泉」と認めていないのである。ビヤンコフも、 「最古のブラーヴダ」のチェ
リャジを隷属民一般でなく奴隷とし、グレコフをしりぞけフロヤノフに与しながらも、フロヤノ
フがチェリャジを捕虜による「奴隷のみ」に限ったことに批判的態度を示している(S)
こう見てくると、チェレプニンは別として、フロヤノフ批判の大勢は、かれがチェリヤジの源
泉を捕虜に限ったことに向けられている、といえよう。何を根拠にフロヤノフは捕虜をチェリャ
ジの「唯一の源泉」としているのか。われわれがこれまで具体的史料(年代記)によって検討し
てきたように、 ll-12世紀に捕虜は多かった、そして捕虜はまたチェリャジとも呼ばれた.ルー
スカヤ-プラーゲダにおいてチェリャジが物として扱われていること、つまり文字通り奴隷とし
て扱われていることを想起しても、チェリヤジの主要な補給源が捕虜であったといってよいと思
'蝣H戸谷重郎
42
う。しかし、いかに捕虜が多かったにしても、捕虜がチェリヤジの「唯一の源泉」であったと断
定してよいのか。フロヤノフはいかなる論拠を提示しているのか。かれの論文と単行本を改めて
読み直してみると、三つにまとめられそうである。一つは11世紀からロシア人社会の内部に零落
者が出てきたこと。天災、人災をとくに12世紀の年代記から克明に検出して、だから農民-共同
体員のなかには独立して生活を営むことができなくなり、他人に頼らざるを得なくなる者も出て
きたo これがホロープ-奴隷であり、チェリヤジ-捕虜-奴隷とは区別されたという(9) この論
理では、 10世紀には(フロヤノフはホロープの出現を10世紀末とするhq)天災・人災がないか、
あっても零落者を出さなかったことになる。もう一つは、 「大領主経済」の11世紀からの形成で
あるill)侯や貴族の領主経済がロシア人社会の内部から奴隷労働力を吸収したことは考えられる、
しかし、 10世紀あるいはそれ以前にチェリヤジが商品-奴隷としてでなく、あるいは家内奴隷と
してあるいは農耕奴隷として使用されたことを択定的に否定し得ないと同様に、ロシア人にして
他人の奴隷になった者あることを全面的に拒否してよいのであろうか。フロヤノフ論拠の第三は
ルースカヤ-プラーゲダにおいてチェリャジとホロープとが区別されている、とする見解である
チェリャジ論争では、われわれがいちおう分けたこれら三つのうち、とくにプラーゲダの分析が
問題にされている(後述) 。
ところで、フロヤノフに対する反対論者は、果たして確たる論拠をもっているのか。スヴェル
ドロフとビヤンコフは全くこれを示していない。チェレプニンは、年代記の読み方でフロヤノフ
と立場を異にし(既述)また、キエフ-ロシアの経済発展の把え方でフロヤノフを批判している
が1㌧ チェリャジの源泉が捕虜以外にもあったことをとくに示そうとしていないO チェレプニン
は主に、チェリヤジが奴隷でなく隷属民一般である、という主張でフロヤノフに対立しているか
らである。結局、反対論者のなかで、捕虜がチェリヤジの唯一の源泉でないことを、具体的に示
そうとしているのはジミンだけ、といえるのである。
ジミンは、ギリシア人との条約の時代、すなわち10世紀にすでに「奴隷の主要部分が出征のと
き捕えられた捕虜と買われた奴隷」であったことを認めながら、ミュラーの研究もとりいれて、
ポラポシチェニエ
「国内に奴隷化源泉があらわれている」と見るo 勿論, 「10世紀ルーシにおける奴隷源泉を直接
に物語っている証拠はきわめて乏しい」 。しかし、外国人の証言により、あるいは後のロシアの
史料によって探ることができる。例えば、イブン-ファドランは書いている、 「逃亡した指揮者
の妻と子は奴隷にされた」と。 10世紀の奴隷源泉は恐らく身売り、商人の負債一般であったろう。
ルースカヤ-ブラーゲダ拡大編集第110にいう自由人ホロープ化の源泉は、すでに10世紗こあっ
たと見るのが妥当である。ザコンニスドヌイによれば、自由人を盗みまたは奴隷にする者は、罰
として自らが奴隷にされた。これは自由人出身の奴隷があったしるLである。 「10世紀には以前
に知られていなかった自由壷違窟員の奴隷-の特化露点蕗p-,くられている」 0 10世紀からとい
うのは「現象」としてであって、個々には条件によってそれ以前でもあり得た。といっても、 「
捕虜と奴隷からの出生が奴隷の主要な源泉であった時代には、自由人奴隷化の途の発展は弱かっ
mm
以上がジミン所説のきわめて簡略な要旨である(1功。見らるる通り、ジミンは11世紀からではな
くて10位紀からすでにロシア人社会の内部に自由人にして奴隷になる者があったと見ている。フ
ロヤノフによれば、 11世紀からロシア人-自由人の奴隷化がはじまり、これがホローブと呼ばれ
た。ホロープは以前からありそして11-12世紀にもつづいた捕虜-奴隷としてのチェリヤジと区
別された、という。一方のジミンの論調はかなり控えめである。それは自由なロシア人の奴隷化
ll-1211璃己ロシアのチェ1)ヤジと捕虜
43
を語る史料が欠乏しているからである。しかし、奴隷がチェリヤジと呼ばれた10世紀に、このチ
ェリャジのなかに自由なロシア人がおちこまなかった、と断定してよいであろうか。きわめて疑
問である。とくにわれわれの関心を惹くのは、上にあげたザコンニスドヌイのなかの1項であっ
て(14、フロヤノフは自由人を奴隷にすることは禁ぜられた、だからこれがなかった、と考えてい
る(咽o Lかし、禁じているのは現実に行なわれていたことを示すのみならず、禁を犯す者が罰と
して奴隷にされたこと自体すでに自由人奴隷化の一つの事実を物語っているのでないのか。ホロ
ープなる語が出てくる10世紀末(全体としては11世紀)以前にはロシア人の自由共同体員の奴隷
化がなかったと主張するフロヤノフが、ルースカヤ-プラーヴダのほかにあげている根拠の主要
なものが、このザコンニスドヌイの1項であるだけに、いまこの点だけに限っていえば、フロヤ
ノフ説に反省すべきものがあると思う。ジミンは、ザコンニスドヌイに奴隷におとされるいくつ
かの罪が列挙されていることを指摘している(蛸o
要するに、ホロープなる語が登場してくる11世紀以前に、奴隷-チェリャジの源泉は捕虜のみ
であった、とするフロヤノフ見解は、いささか行き過ぎのように思われる。やはり、 「主要な源
泉」と見るにとどむべきであろう。しかもなお、フロヤノフは主張する:n-12世紀にルースカ
ヤ-プラーゲダにおいてチェリヤジは捕虜-奴隷として、ホロープは自由人零落者-奴隷として
区別されている、と。節を改めてこのフロヤノフの主張を検討しよう。
6 ルースカヤ-プラーヴダにおけるチェリヤジとホロープ
チェリヤジとホローブとをその起源において異なるものとして区別しようとするフロヤノフが
ルースカヤ-プラーヴダ1)にその論拠を求めるとき、それは大別すると三つになる、すなわち第
一に二つの術語が同じルースカヤ-プラーゲダに併用されていること、第二に拡大編集(以下に
「拡」と略記するときはこれを指さす)第110条にホロープの源泉を列挙しながら捕虜があげら
れていないこと、そして第三にチェリャジよりもホロープの方が法的地位において高いこと.、以
上3点である。これらの検討に入る前に、年代記記事検討に際して留保しておいたルースカヤプラーゲダにおけるチェリヤジの奴隷としての性格を明らかにしておこう0
-般原則としてプラーゲダ拡大編集は同簡素編集(以IIFに「簡」と略記するときはこれを指さ
す)を改訂増補したものであるが、拡第38条は簡第16条を受けて、 「盗まれたチェリヤジン」を
所有者が、次々と特売されたあとをたどって、取戻すときの手続を定めている。 「盗まれた」と
いういい方および特売されているという状況設定がすでにチェリャジが商品-奴隷であることを
思わせるが、さらに2点を指摘しておきたい。特売されたあとをたどるときチェリヤジに陳述さ
せるが、このとき同条は「チェリャジは家畜でない」といっているが、実は物をいうことによっ
てのみ家畜と区別されているのである(後述、拡第99条参照)。さらにこの拡第38条の配列された
条項順序に注目されたい(プラーゲダのテクストには第何条という区分はない、われわれも現行
通用の区分に従っている)。拡・第34条から拡・第39条までは何れも、 「失い」または「盗まれた」
品物を後に所有者が見つけて、これを自分の手にとりもどすときの手続の規定であって、とくに
特売されている場合が中心になっている。品物として具体的に例示されているのは、 「馬、衣服、
家畜」であるO 年代記においてチェリヤジがとくに馬および家畜と並列されていることが想起さ
れるが、いまプラーゲダのこの条項群の共通した目的を見れば、チェリャジがまさに「物」とし
て扱われていることは明白であるo また、拡・第99条は未成年者の財産を管理する後見人は、そ
5E!
イ4,H谷塵郎
の財産がふえたときこれを取得するとして、 「チェリャジまたは家畜に増殖があるとき」といっ
ているo ここでもチェリャジが家畜に比較されている0 ll-12世紀のチェリヤジを奴隷でなくて
隷属民一般とするチェレプニン説が受けいれられないこと、いよいよ明らかであろう。
さて、ルースカヤ-プラーゲダにおけるチェリヤジとホロ-プについてのフロヤノフ所説の第
-の問題o二つの術語の関係については、フロヤノフも指摘するーように、研究史上多くの発言が
なされてきた(2)フロヤノフがチェリヤジを捕虜-奴隷、ホロープを社会内部の零落者として区
別するとき、かれはホロープが現地社会につなfi¥っていることを、例えばザ-'クプが逃亡したり
(拡・第56条) 、`盗みをするとき(拡・第64条) 、あるいはザ-クプを売ってはならない (紘
・第61条)などの条項について考える。二つの術語のうち、チェリャジがより古く、ホロープが
より新しいことはフロヤノフも認めており、かつ「ともに奴隷である」とさえいっている。奴隷
についての法が時代とともに次第に詳しくなってくるのは当然であり、詳しくなるということは
その社会内部での位置づけがいっそう整えられてくることである。奴隷について・の法がこのよう
に変ってくる過程の/なかで、新しい術語ホロープを使ってそれが整えられていったからとて、チ
ェリヤジにかかわりがないとはいえないであろう。また、フロヤノフがあげる上の3か条のうち
拡・第56条と拡・第61条とは端的にホロープとはいっていない、 「オーペソ」 (完全)なる語で
奴隷を示しているにすぎない。チェリヤジにする、チェリャジに売る、と解釈しても差支えない
のである0 -方、チェリャジは現地社会から果たして切り離されているかo 簡・第16条、拡・第
38条からいい得る特売にしても現地社会の内部での特売である。簡・第11条にいうワリヤーグ人
についても、 「ワリヤーグのもとに逃げる」 「ワリャ-グ人のもとから逃げる」の何れの解釈を
するにせよ、ワリャ-グ人を奴隷商人と見るか、ワリャ-グ人の特権を保障しているのか、問題
はのこるのである。拡・第99条の財産としてのチェリャジにしても、もはや外国に商品として売
られるチェリャジではない。夫婦生活を主人のもとで営んでいるチェリャジ-奴隷である。後見
人(財産管理人)についてのこの新しい条項に古い術語チェリャジが使われていることは、ジミ
ンが指摘するように、チェリャジとホロープとが厳密に区別されていなかったことを示すもので
はないのかo 奴隷を示すために術語チェリヤジが使われなくなっても捕虜が依然として奴隷源泉
としての役割を果たしつづけたことは、フロヤノフも明白に認めている.ホロープ源泉としての
捕虜を後の時代に認めてル-スカヤ-プラーゲダの時代(ll-12世紀)については拒否するとい
うのは、妥当であろうか。捕虜が重要な奴隷源泉であった時代に奴隷を意味したのがチェリヤジ
であったからといって、これに並行して新たに登場したホロープを捕虜と無関係ときめてよいの
か。
これに答えようとしてプロヤノフがあげるのが、第二の問題、拡・第110条についてである。
同条は自由人という語を用いていないが、まさに自由人が(1)身売りするとき、 (2)ローバ(女奴隷)
と結婚するとき.(3)チウンあるいはクリュ-チニクになるとき、かれはホロープになる、と定め
ている13)。フロヤノフはいう、これはホロープの源泉である、当然あげらるべき捕虜がない、だ
から捕虜はチェリャジの源泉であったがホロープの源泉ではない、つまり捕虜を源泉とする奴隷
はチェ1)ヤジで、ホロープはこれと区別された、と.この論理は第-前提に問題があるO 第110
条はホロープ源泉のすべてをあげているのであろうか。ルースカヤ-プラーゲダによってさえも
ほかに破産した商人(拡・第54-55条) 、逃亡を企てたザ-クプ(拡・第56条) 、奴隷の子とし
て生れた者(拡・第99条)が確認される。拡・第110条は奴隷-ホローブのすべての源泉をあげ
ようとしたものではけっしてない。自由人が自分の意志で奴隷になる場合をあげているにすぎな
ll-12世紀ロシアのチェ')ヤジと捕虜
45
いのである。身売りはいうに及ばず、女奴隷との結婚およびチウン・クリュ-チニクに就くとき
に主人との蘭武によって奴隷にならずにすむ場合を示しているのもこの故である。同条に捕
虜があげられていないからホロープの源泉に捕虜が入らない、という論理は成り立たないO捕虜
はもっと後でも奴隷源泉たりつづけた、とフロヤノフはいう(41 しかし、もっと後の、チェリャ
ジなる語が奴隷を指さすために使われなくなり術語ホロープのみが生きのこった15-16世紀に、
1497年法典も1550年法典も奴隷-ホロープの源泉についていうとき、捕虜については何も述べて
いない。捕虜は捕虜たることによって奴隷であったからであり、ブラーゲダ拡・第110条に捕虜
があげられていないのもこのためである。第110条は、チェリヤジとホロープが起源を異にする
というフロヤノフ説の論拠として役立っものではない。
第三にチュリャジとホロープの法的地位のちがい。チェリヤジが奴隷としての性格を強くもっ
ていることについてはわれわれも指摘した。フロヤノフはこれに注目した上で、ホロープは一面
プラウオスパソフノスチ
において「行為能力」を剥奪されているとともに、他面では若干の権利を享受していた、とする£5)
例えば証言権の問題。拡・第66条は「ホロープに証言させない」という原則をうたいながら「必
要あれば、貴族のチウン(身分はホロープ-引用者)にさせる」と例外を認め、また拡・第85
条は「自由人なる証人をもって裁判する」としながら原告の責任でホロ・-ブに証言させることを
許している。ルースカヤ-プラーゲダのなかの拡・第110-第121条にはもっぱらホロープにつ
いての条項のみが集中されているので、一般に「ホロープ法令」とも呼ばれているが、そのなか
にはホロープを主人が商業に代理として使っていることを示す条項があるO すなわち、ホロープ
の行為に主人が責任をもつと規定しているが、ホロープが「詐欺」をしたり(拡・第116条) 、
「負債」を負う虜合(拡・第117条)が想定されているOまた、 13世紀に属するが、かのLスモレ
ザトニツア
ンスクとリガとの条約(1229年)第7条は侯や貴族のホロープに「遺産」 (ペクリウムとしての
財産)ある場合を暗示し、同第12条は「ローバ」 (女奴隷)をドイツ人の暴力から罰金によって
守っている(6)このようなことはフロヤノフ以前に多くの研究者によって指摘されていたことで
あるo われわれはこのようなホロープの一面をホロープが封建的隷属民に近づいてきた証拠とす
るグレコフ見解をフロヤノフとともに拒否する(7) しかし、フロヤノフの解釈はこうである:周
囲との結びつきを保った自由人がしばしばホロ-プにおちた、自由人はホロ「プ予備軍でもあり
そのために自由人自らもホロープの法的地位が無権利にならないように圧力をかけた、 「チェリ
ャジの絶対的無権利とホロープの行為能力とは、ホロープストウオが社会の内部で形成されたと
いう結論を下すことをまたもや許すのである」 (8㌦ つまり、自由人が自らもやがてその地位にお
ちるであろうホロープの法的地位の向上に努めた、捕虜-奴隷たるチェリヤジについては社会が
その法的地位の向上に無関心であった、というのであるo しかしながら、キエフ-ロシアでは自
由人と非自由人-奴隷とに分れており、チェリヤジのみならずホロープも最下層にあった。この
ことはフロヤノフもザ-クプとの比較で認めている(9)ホロープがチェリヤジと同様に売買され
たことは、拡・第118条が「他人のホロープを〔それと知らずして〕買うとき」について規定し
ていることからも明らかである。理由があってホロープを殺しても「人命金」を支払う必要がな
く(拡・第89条) 、ホロープが自由人を殴打したときはその主人がかれを失わないために被害者
-自由人に12グリーヴナを支払ったにしても、その後かれがそのホロープにであうときホロープ
を殺すことが(簡・第17条)縛って殴打の復讐をするように改められたにすぎない(拡・第65条)
自由人とホローブとの間に明確な一線があったことを忘れてはならないだろうO勿論、現実には
この一線がぼやける場合もあったと思う。とくに主人の側近に日常はべっていたホローブ、とり
46
石戸谷重郎
わけチウンやクリュ-チニクの特権層にはそれがあったことは史料が充実してくる15-16世紀の
事実からも想像されるのである(10)原則として自由人と・JF自由人-ホローブとが対立していた社
会構造のなかで、自由人があるいは自分もいつかはという懸念からホロープの地位向上に努めた、
というフロヤノフの推定には同意できない。理由はともあれ、ホロープが単なる「物」でなくな
っていることをフロヤノフとともに認めようo Lかし、それは奴隷がたどる必然的な途ではない
のかo フロヤノフも認めているように、 17世紀後半にいたるまで捕虜はホロープの源泉たり続け
た(ll)数世紀にわたる間、ロシアのホローブ制は捕虜出身の者に特に苛酷な法をっくっていたかo
むしろ、逆の場合さえあって一つの研究テーマになりつつあるではないか(1功o奴隷の地位が単な
る「物」でなくなりはじめたころに奴隷を示す術語が現われ、古い術語と併用され、やがてこれ
を法用語の範囲から駆遂しまった、という事実を、二つの術語「チェリヤジ」 「ホロープ」の起
源・出身に結びつけるフロヤノフの新説は、その着想において斬新さをもっているが、現段階で
は一つの思いつきのすばらしさにすぎない、とせざるを得ないであろう。
む す び
チェリャジがロシア史において奴隷を示す術語として使われていた11世紀に、このほかに新た
にひとしく奴隷を意味する術語としてホローブが登場し、ロシアの長い奴隷の歴史では結局後者
が公私において普及した10-12世紀に焦点をあわせたフロヤノフは、チェリヤジはもっぱら捕
虜を起源とする奴隷、ホロープはロシア人社会内部の零落者が奴隷になった者、と両者を区別す
る所説を提唱し、ソビェト学界に論争をひきおこした。論争参加者が史料として利用している主
なもの、つまり年代記とルースカヤ-プラーゲダを検討し、論者の主張に耳を傾けながら考察し
てきた本稿の要旨をきりつめてまとめれば次のようにいえるであろう0
「チェリャジを捕えた」は「捕虜を捕えた」と同義で、捕えられた結果チェリャジになり、捕
虜になり、そして奴隷になったが故に、年代記には「チェリャジを捕えた」という叙述がしばし
ば見られるのである。このような立場をとる点ではフロヤノフとジミンは一致しており、われわ
れも同じ見解である。チェリヤジは捕虜の意味をもつとともに、社会の内部では最下層の階層つ
まり奴隷であった。リュ-ジーを捕えた、村に住んでいるなどからこれを奴隷でない、あるいは
奴隷のみでない・封建的隷属民である、もしくはこれと奴隷とを含む、などと解するチェとブニ
ンやグレコフの所説は納得し難いO まして、 「チェリヤジを捕えた」を敵の特定の階層のみを捕
えたと解釈することはできない11-12世紀の年代記記事は、チェリヤジ-奴隷の源泉として当
時捕虜が主要なものであったことを思わせる。しかし、捕虜のみがチェリャジの源泉、捕虜がチ
ェリヤジの唯一の源泉と主張するフロヤノフ説は、極端にすぎるであろうo チェリヤジの「主要
な源泉」というにとどむべきであろう。ルースカヤ-プラ-ヴダにチェリヤジとホロープと、二
つの術語が使われていることをもって、前者を捕虜-奴隷、後者を社会内部の零落者として赦別
できるであろうか。両者はともに主人の所有物であり、物である。ホロープの一部がこの物とし
ての性格から脱しはじめているといっても、奴隷の歴史もまた不動のものでない、前進するもの
であることを想起するならば、起源による区別とは断定できないであろう。
本稿でも少しは言及してきたが、ロシアのホローブとホロープ制度のこの後数世紀にわたる歴
史のなかで、捕虜がどのような役割を果たしていったか、あるいはもっと本質的に奴隷源泉の一
つとしての捕虜の問題を、買戻しや送還協定、あるいはギリシア正教-の改宗などともからませ
47
ll-12世紀ロシアのチェリヤジと捕虜
て検討すべき必要を痛感しながら、筆をおくことにする。
まえがきの注
(1) B.A.rperaもKpecTb托曲HBPyCH C押eBaem耶speM軸flO XVII B6K8,肌I,糊, 2, M., 1952, (脚ee-Tpe王のB.
KpecTbH叫) , OtP. 126- 140; Oh恥. KiieBCKafl Pycb. FocflojimH3A8T. 1953, CTD. 158- 171.
両著作ともに《 lejiHfli, 》 と題する1節がここに当てられている。ただし内容はほとんど同じであ
蝣y.-
(2)拙稿「チェリヤージ考」 (奈良学芸大学紀要,人文・自然科学, 11号, 1963年)O当時われわれは、
《 Tenaflb》 を「チェリヤージ」と読んだが、その後「チェ-リヤジ」と力点が前にあることを八
樫喬任教授より指摘された。本稿ではこの旧稿の題名以外は「チェリャジ」に統一する。
(3) JI. B. Hepeim肌M3 HCTOpiIH如pMIipOB組HMjiacca如qmH0-3aBHCHMOrO岬CTbHHOTBa Ka Pycm 《H3≫ ・T・
56, 1956, <5TP- 235- 264. ( aajiee- HepenmiH. ◎opM叩jBaHiie!
(4) H. fl. <Dp0月hob. 0 paficTBe KiieBCKo血Pyc臥紬ecTHiiK JleHimrp叫CKoro rooy卵ipCTBBHHrO yHHBepCHTBT誠, 1965
減, cip. 83- 93. ( fltuiee- OpoflHOB. 0 paScTBe.)
(5) n?n. Bun. i. n細別hhkh npaBa KneBCKoro rooy,卯pcTBa -XE BB. COc-HTenb A. A. 3hmhh.M.,1952, cxp. 9
90,93.
ここでジミンはチェリャジを11-12位紀から封建的隷属民としているO 後にこの見解は影をひそめ、
奴隷としてのチェリャジを強調している(後述)0
(6) A.A. 3hmhh.XoJionu耶B且8屯Pyc臥紬cTOPHH GGGP,》 , 1965,潤, cTp. 39- 75. (nanee-3KM∬h. Xojionu)
(7) M. E. GBepAJioB. 06 06meCTaeHHO血KaTeropHH 《tM耶h) B瑚氾BH6故Pycn 《Jlpo&xe叫u此Topm旺eeoAaJibHoa
Pocchh. G6. cTaTe血k 60 -jieTHK) B. B. MaBpoAHH諺, Han一湘Jlemmrp叫PKoro yHHBepcmゥTa, 1971. CTp. 5
53- 58. (ォ<uiee- C加PPR 《iea叫b》 )
(8) A. II. IlbHHKOB. Xo刀OI把Tlm且a PycH no o6p舶obbhhh iieHTpajinaoBaHHoro rocyflapcTBa礁EmeroflHiiK no arpapぱ0血
Hcropmi Boctotoo且EBpon臥1965 r.》M., 1970, cTp. 42-48. (只anee-IIi>hhkob. Xojioiictbo)
(9)拙稿「最近のソビエト史学におけるホロープ研究(1)」 「同(2)」 (史学雑誌, 81の10・11号, 1972年)
(10)拙稿「ホロープ研究(1)」 75ページ。
(ll) JI. B. Hepen即だ. Pycb. Cnop;awe Bonpocti郎TOpiIH中eoflMbHO故aeiuejibHofl coSctbbhhocth b IX
XV BB., B KH.
: A. II. HoBoce叫eBb,B. T. Ila叩to, JI. B. HepenHHH.紬yiii paaB耶Hfl申eo脚uiaMa ( 3aKaBKasbe, Cp岬A3卵, Pycb, IIpHStuirHKa)≫, M., 1972, (najffie-Mepei班hh. Ily
).本書でチェレプニンは 《JIK>AH≫ (oTp.
168-170), 《qOJl叫b) (oTp. 170-175) , 《cwep,恥[≫ (crp. 176-182), 《aaitynH》 (ctp. 182-186), 《Ⅹo皿・
onti≫) ctP. 186-7)などの諸項を設けている。
A. A. 3h叫hb. Xtwionu Ha PycH (c mesEe敢max BpenieH ro KOima XV b.) , M., 1973, 391 cTp. (jjajiee-3ahmhh. Xojionu Ha Pycu)
(13) H. H. OPoHHOB. K班eBCKafl Pycも. OiepKH co叩aJlbH0-3KOHOMIiqeCKO且HCTOpHH. H8fl-BO JleHHHrp叫CKoro yHH班P・
c耶era. 1974. 159 cip. (月anee-OpoiiHOB. KiieBCKafl Pycb)
(14) TaM ate. cTp. 108, komm. 58.
(15)前掲拙稿「ホロープ研究(1)」 81ページ,注W。
ITCPJI. t. I. JIaBpeHTLeBCKaH jietoinicb h CysntuibCKa兄jieToniicb no Ak叫eMHiecROMy ciracKy. Msa-bo BocTOT琵0且jiHTepaxypu M., 1962. (IIGPJI, t. I , Bun. 1, IIoBeCTb甲e池eHHBix jieT, h叩, 2, JI.,1926; nCPJI,
48
t. I , Bun. 2, Cya只tuibCKSUi JieTomicb,那.ォ. 2, JI.,1927; nCPJl, t. I , Bim. 3, npH舶9K6HHH, H叫, 2, Jl., 1」
28); nCPJI, t. H , HnaTbe加- jjeTomicb. M叩-BO BOcTOIHO血jiHTepatypti. M., 19 2. (nCPJI, t. II , HnaTbeBCKan jieTon耽6, H3ォ. 2, CIIE., 1908
(17)除村吉太郎訳「ロシャ年代記」第3版, 1946年。 (以下に「除村訳」と略記)
(咽 植野修司「古写本における略字法」 (古代ロシア研究, 3号, 1963年,日本古代ロシア研究会)
(19)松木栄三「古代ロシア国家と奴隷貿易」 (一橋論叢, 72の6号, 1974年)。松木氏はとくにフロヤノ
ノフ名をあげていないが、石戸谷-の私信でこの旨を伝えられた。
1の注
(1) Opohhob. 0 paScTBe, crp. 88.
(2) HepenHHh rly叫cm 172.
(3) <I>pohhob. KneBCKaH Pyob, CTp. 107.
(4) Tbm are, ctd. 105.
(5) HepenHHH. Oopniiipo姐Hue, CTp. 242; Oh Hie. Ily叩, cip. 174.
(6) OpoflHOB. KiieBCKaa Pyob, cTp. 106.
7) TaM y肘, crp. 103.
(8) 3hmhm XoJ【onu E8 PyOii, CTp. 256.
(9) B. fl. TpeKOB. KMゥBCKaH PycB. M.-JI. 1944, cip. 100.
<Dp0月hob. Kiie即R的Pycb, ctd. 107.
(ll) 3hmhh. Xojioiih Ha Pyca, cTp. 257.
Tact -ォe, ctd. 75.
Tajj Hse, ctd. 76.
(14)や月ROR 0 pa&TBe, crp. 90.
(15) Tani i鮒, cip. 91; Oh me. KneBCKa Pyob, cm 110.
(16) OpOhhob. KiieBCKan Pycb, ctp. 110.
(17) Taia at;e, crp. 110; Oh拭:e, 0 pa6cT齢, CTp. 91.
(18) Opo兄hob. 0 pa6cTBe, OTp. 92.
3hXhh. Xojionu, cm 58.
位 Oh耶:e. Xojionu hbPycn, dp. 75.
QpoflHO丑. KH6批Kan PycB, CTp. 108, komm. 58.
位 3hmhh. Xojionu Ha Pyca, ctd. 43-46.
2の注
(1) nCPJI, t. I , ct6. 228; i. II, 6. 21号;IIBJI, q. I , cip. 149;除村訳174ページo
(2) Tan. j鵬, t. I , ct6. 248; IIBJl,q. I , ctd. 160.
(3) TaM >鵬, t. I , ct6. 279; t. II, ct6. 255; IIBJT,i.I , CTp. 185;
除村訳210ページ。旧稿でこの記事を1116年の条としたことを訂正しておく。
(4) HepenHHH. OOpMHpOBaH耳e, dp. 242; 0且-. IlyTH, cip. 173.
49
(51 0I王Ke. ◎opMiipoBaHHe, cTp. 240; Oh me. Ily
, cip. 171.
(6) IICPJI, t. I , ct6. 54; t. II, ct6. 42; riBJI, i. I , CTp. 39;除村訳34ページO
(71 TaM 派;e, t. I , ct6. 62-63; t. II, ct6. 51; IIBJI, q. I , cTp. 45;除村訳45ページ。
(8) Ta.M 捕:e, t. I , ct6. 67; IIBJI, i. I , cTp. 48;除村訳49ページO
(9) 3hmhh. Xojionu hb Pyc班, OTp. 28.
Tain ㌶サ, ctd. 33.
(ll) Hepeim故h. OopMHpoBaHHe, CTp. 240; Oh ate- Hym, cip. 171.
(12) Oh拭el OopMKPOB8H班e, ctd. 240.
(13) Oh雅:e. IlyTH, CTp. 171.
(14) ◎dohhob. 0 paGcTBe, ctd. 106.
(15) GBepォJIOB. 《HejiHfl凄, CTp. 56; 3iimhh. Xononu Ha Pycii, cxp. 30.
CBe圃OB. 《HejiflA凄, dp. 57.
(17) TaM ate, cip. 58.
3i川hh. XojionH Ha Pycn, cTp. 76.
(19) Tain ate, cip. 75.
位 JI. B. HepenHHH. OSpaaoBRHHe pyccKOro i;e-pmHsoBaHHoro rooynapcTBa b XIV- XV 恥Kax, M., 1960.
cip. 254 (tji. II , 隻 10, 《XojioncTBo), CTp. 253-263).
(21) 3hmhh. XoJionu Ha Pycn, dp. 269-373.
B. ^ KopoJiioK. HeKOTopiJe cnopHue h HepeiueHHue部OpOCbl HCTODHH C皿Zl兄hckhx HapoAOB B paHH坤e叫SUIbHLI功 nepHOH (YH-XI BB. ) - 《KpaTK封e coo6岬HHH HHCTHTyTa CJBU3月HOBenemi吟, Bun. 33-34. M., 1961,
crp. 108-109. (3hmhh.丈ojionu Ha Pycn, cTp. 372, komm. 14).
3の注
(1) OpOHhob. KaeBCKa只Pycb. cTp. 106.
(2) Taia ate, cm. 106.
(3) IICPJI, t. II, ct6. 393;除村訳331ペ-ジ。
(4) Taia me. t. II, ot6. 502;除村訳421ページ。
(5) Taiame, t. II, ct6. 608;除村訳463ペ-ジ。
(6)拙稿「15・6世紀ロシアにおける非自由人(ホロープ)の労役」 (史学雑誌, 70の7号, 1961年)
の1節「ホロ-プの従軍」参照
(7) 3∬mhh. Xojionu朋Pyc刀, CTD. 255, KO班m. 118; G・ B. K)叩くOR Oeofla恥HbE OTHOmeHHH B K甥6BCKO放Pycm 《YeHLie aamiCKM oapaTOBCKoro rocyaapcTBeHHOro yHHBepc耶eTa), t. Ill , Bun. 4, 1925, cTp. 25.
(8) IICPJI, t. II, ot6. 333-334;除村訳227ページ.
(9) TaM 冗:e, t. II, ct6. 337;除村訳280ページ。
TaM棚, t. II, ct6. 493.
(ll) TpeRob. KpecTbHHe, kh. I , cxp. 136.
(12 3hm∬h. Xoaonti Ha PycH, ctd. 255, ko附*. 110; H. H. Bopo軸H. K HCTODI川cejitCKoro nocejiemifl d>eo;jajn>HO色PycH. - 《H3BecTHH TAHMK≫, Bun. 138. JI., 1935, ctp. 44.
(13) 3hm珂h. Xojioiuj HaPycH, oTp. 255.ジミンは14-15世紀にこの種のケースが多い、としている。
(14) TaM拭:e. ctd. 257.
50
(19 rBHnll, J4104; npn, Bun. 2, ctp. 108.
Odohhob. Kiie批Kan Pycb, dp. 106.
HepenHiiH. UyTH, OTp. 174.
(18) TaM拭e, cm 174; Oh拭e. OopMiipoBaHiie, CTp. 242.
Jl. B. HepenHHH. Us減CTOpH班pyccKOro KpecTbHHCTBa X V b.綱OKJI叫bi ii cooBmeHHH MhcmTyTS HCTOpH掛
Bun. 3, M., i954, cm 118. 「村に住む」ことはそのまま封建的隷属民につねにつながるものではない、
拙稿「15-16世紀ロシアにおけるホロープと農耕」 (奈良教育大学紀要, 21巻1号, 1972年)とく
にその1節「直営地奴隷としてのホロープ」参照。
<l>p0月hob. KiieBCKaH Pycb, dp. 106.
(21) HIM, ctd. 51, 248.
3hmhh. Xojionu Ha Pyon, cn>. 263.
位 nCPJI, t. II, ct6. 887;除村訳628ページ。
3hmhh. Xononu Ha PycH, CTp. 256.
[・<」嗣
(1) nCPJI, t. II, ct6. 757;除村訳545ページ。
(2) TaM ㌫サ, t. II, ct6. 880;除村訳622ペ-ジ。
(3) Taia拭a, t. II, ct6. 883;除村訳625ページ。
4) Tsmサ鮎, t. II, ct6. 889-890.
(5) MepenHH臥OopMHpoBamie, cm 242; Oh ate. IlyTH, dp. 174.
(6) <DpoHHOB. KneBCKan Pycb, CTp. 106-107.
(7) nCPJI, t. I, ct6. 349; t. II, ct6. 506 (IIoォ1160r. ).
(8) Ta池me, t. I, ot6. 358; t. II,ct6. 556 (Ho,六1172 r.).
(9) TaM芯サ, t. I, ct6. 362-363; t. II, ct6. 562 (IIo,凡1173r.・
HIM,dp.17.
(ll) TaM ate, oTp. 28.
(12) TaM *鵬, CTD.33.
nCPJI, t. I , ct6. 291.
(14) Tsm湖e, t. I, ct6. 397.
15 TaM柵, t. II, ct6. 283.
Tain m:e, t. II, ot6. 286.
(17) Taiti ate, t. I, ct6. 310; t. II, ot6. 313;除村訳259ページ。
5の注
(1) OpoHHOB. 0 pa6cTBe, ctp. 85.
(2) TaM加, CTD. 86.
(3) TaM柵, c- 88; Oh拙. KnescKaH Pyct, ctd. 108.
(4) 0耳拭:e. KiieBCK的Pycb, ctd. 108. komm. 58.
(5) HepenHHn OopinpoBaHiie, ctp. 240, 242; Oh柵. IlyTH, dp. 171, 173- 174.
(6) 3hmhh. Xononu Ha Pyc滋, cm 75.
51
(7) CBepnjioB. 《HejTHHb≫, cTp. 57.
(8) IlbHHKOB. XOJIOIICTBO, CTp. 43, KOMM. 10.
(9) Opohhob. 0 pa6cTBe, CTp. 92-93.
Tain ate, CTp. 88; 0班拭O. K故6BCK8H Pycb, CTp. 109.
(ll) Oh机:e. 0 paficT坤, dp. 91, 92; 0冗拭;e. KneBCKaH Pycb, cip. 110.
(12) MepenHHH. Tlyra, cm 172, 187.
(13) 3班mhh. Xojionti Ha Pyca, ctd. 43-46.
(14)われわれは「ザコンニスドヌイ」のテクストとして、 HnJI,oTp.498-507を利用した。ジミンやフ
ロヤノフの利用している次のテクストは未見: 3aKOH GyォH舶jiiofleM npocTpaHHO血Ⅲ c加耶0故pe卵qI川・
lion peォーan叫, M. H. TaxoMiipoBa. M., 1961.
(15) Op0月hob. 0 paScTBe, CTp. 90.
(16) 3班mH. XOJIOIIu Ha PycH, ctd. 77.
6の注
(1)ルースカヤ-プラ-ヴダのテクスト,注釈,邦訳,独・英訳などについては、拙稿「ルス法典にお
けるスメルドとホロープ」(西洋史学, 56号, 1963年)の注および付記を参照されたい。その後、今
日にいたるまでのソビェト学界におけるプラーヴダ研究としては、本稿引用の3iimhh. Xojionu Ha
Pyc叫HepenHHH. IlyTH.の他に、 H. H.スミルノフのOiepKH. (前掲拙稿「ホロープ研究(1)」の注15 ・
16参照)およびHepenHHH. OSmecTBeHHO-noJiHTHiec…e othou伽Hm HpeBHe故PycH h PyccKaH Ilpa耶&.一
A. II. HoBocejibueB h ap. 《IIpeBHepycciのe rocynapcTBo h ero Me岬HapoRHOe 3HaieHiie》, M., 1965, cTp.
128-278.がとくに重要である。プラーヴダの各条項の解釈、全体の構成等々については諭ずべき
問糧が多いが本稿ではとくに考察しない。また条文引用に当ってのテクスト引用および試訳は紙数
の都合上一切割愛する。
(2) OpoHEob. 0 pa6cTBe, cip. 83, 88-90.
(3)第110条のこれら三つのうち、自由人がローバ(女奴隷)と結婚するときについては、拙稿「ロシ
ア史における自由人とホロープとの結婚について」(史学雑誌, 84編11号に掲載される予定)参照O
(4) OpOHBOB. Kh6耽KSH Pycb, CTp. 107, KOMM. 51.ここでフロヤノフがあげているA. H. HitoBjieB, A.T.Mahbkob, E. H. KymeBaの17世紀ロシアにおける捕虜とホロープとの関係論については、1649年法典の
捕虜条項とともに、われわれも他日を期して考察しようと思っている。
(5) TaM me. CTp. 110-111.
(6) nprl, Bbin. 2, CTp. 60-62.
(7) OpOHHOB. KaeBCKaH Pyct, ctd. 112.
(8) Tain we, cTp. 112-113.
(9) Ta舛me,cm 109.
(10)前掲拙稿「非自由人(ホロープ)の労役」参照。
(ll)上の注(4)参照。
(12) E. H. KojiuqeBa. XoJincTBO h KpenocrmnecTBO (koh6u XV - XVIb.), M., 1971. ra. I , § 《IIoJIOH只K吟,
cxp. 33-48.コルイチェワは16世紀中葉の捕虜についての法令を論じている。なお、ジミンの次の
発言に注目しておきたい: 「(15世紀に)多くのホロープが捕虜から出身した」(Xojioiibi HaPyc∬ cTp.
280)、 「15世紀ホロープ源泉としての捕虜は、捕虜交換協定によってすでに制限を受けていた。そ
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の代りホロ-プ購入が普及していた」(Ta-Mme,cTp.280)いま、 ll-12世紀についても、ジミンの
「▼121帰山T)はTJめには捕虜-奴隷が稀にな-'た1 !Xonon班, cTp.741いう発言とこれれに反論するプ
ロヤノブ KiieBCKan月ycb,cip. 108)との対立は、 15-16世紀の年代記にもまた捕虜についての記事
がきわめて多いこと(IIGPJI, t. XXVI, t. XXIX)を念頭において検討すべきであろう。
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×åëÿäü è ïîëîíÿíèêè
â Ðóñè XI---Õii ââ.
-Ê ñïîðàì â Ñîâåòñêîé èñòîðèîãðàôèè Æþðî Èñèäîÿ
Èñòîðè÷åñêèéôàêóëüòåò, Íàðà ïåäàãîãè÷åñêèé èíñòèòóòà, Íàðà, ßïîíèÿ
(Ïîëó÷åíî 25/N 1975 Ã.)
 Ñîâåòñêîé èñòîðèîãðàôèè
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ñîñåäñòâóþùåãî ñ âîò÷èíîé
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Âñå ïîëîíÿíèêè
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È. ß. Ôðîÿíîâ,
ò. å. èçâíå, õîëîïû
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áûë åäèíñòâåííûì
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Óòâåðæäåíèå
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÷åëÿäè ? Êîíå÷íî,
ñîñòàâà ÷åëÿäè áûë ààõâàò ïëåííûõ.
ïðåæäå âñåãî â Ðóññêîé Ïðàâäå íåò äàííûõ,
è . ((õîëîï))
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ëþäåé ïðîòèâíèêà.
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áûë åäèíñòâåííûì
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ââ. êíÿçÿ çàõâàòûâàëè çàâèñèìûõ
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