『長崎国際大学論叢』 第7巻 2007年1月 67頁〜84頁 文学の文法的読み方 ― 『吾輩は猫である』をめぐって― 中 野 はるみ (長崎国際大学 人間社会学部 国際観光学科) 要 約 文学作品は、作者が「ことば」の特性を最大限に使いこなして創作したものである。本稿では、 「こ とばのしくみ=語彙選択や文法」によって、その文学作品を読み解く方途を探っている。書き手が選ん だ「ことばのしくみ」の特質が明らかになれば、読み手は、作品のイメージを明確に捉えることができ る。素材として、日本の文豪、夏目漱石の最初の小説であり、誰もが一度は読んだことがある『吾輩は 猫である』を取り上げた。 キーワード 語彙、文法、再創造、漱石、猫 目 次 はじめに Ⅰ.語彙・文法分析の手法 Ⅱ.『猫』の語彙・文法解釈 Ⅱ1. 『猫』第1部第1段落 Ⅱ2. 『猫』第1部第2段落前半 Ⅱ3. 『猫』第1部第2段落後半 Ⅲ.語彙・文法分析 Ⅲ1. 「文の部分」構成 Ⅲ2. 述語の品詞構成(文末表現) おわりに はじめに る名高い日本文学は、漱石を一躍「有名にした 2) である。しかし、優れた芸術家 第一の作物」 本稿では、書き手が読み手に「ことば」を用 いてはっきりとイメージさせるためにどのよう の例によらず酷評の憂き目3) にもあっている。 な手法をもちいたのかを語彙選択や文法の切り 高浜虚子から同人誌『ホトトギス』の写生文の 口から分析を試みる。そのばあい、日本の文 一種として書くことを勧められ、掲載されたの 豪、夏目漱石の最初の小説である『吾輩は猫で は、明治38年(1905年)1月であった。漱石は ある』(以下『猫』と略称する)を取り上げる。 この第1部だけのつもりであったが、小山内薫 とりわけ、その第1部の導入部を取り上げ、 「写 が『七人』で誉めたり、虚子の勧めもあって第 生文」 として書かれた文のあり方を探ってい 11部まで書き進めている4)。同年2月、4月、 く。 6月、7月、翌年1月、3月、4月、8月の掲 1) 「吾輩は猫である。名前はまだ無い」で始ま 載で、『ホトトギス』の部数も毎号増していっ 67 中 野 はるみ た5) のである。漱石は、 「この書は趣向もなく、 る差異」の「価値体系」であるという Ferdinand 構造もなく、尾頭の心もとなき海鼠のような文 de Saussure の基本概念が活かされているので 6) 章である」 と謙遜しているが、その上編の自 ある。 序や『猫』第2部でつぎのように記しているこ 単語の認定である形態論と文の部分のくみあ とから、ずいぶんと喜んでいることがわかる。 わせである構文論とからなる文法手法は、いわ 「自分が今まで『吾輩は猫である』を草 ゆる学校文法にはない。ここでは、奥田靖雄を しつつあったさい、一面識もない人が時々 中心にした研究グループの歴史的産物といえる 書信または絵葉書などをわざわざ寄せて意 テキスト(高橋太郎他『日本語の文法』ひつじ 外の褒辞を賜ったことがある。自分が書い 書房10))を基に分析していく。 たものがこんな見ず知らずの人から同情を 学校文法は単語の認定で大きく誤っている。 受けているということを発見するのは非常 今だに義務教育の教科書の付表には「口語活用 7) 表」が掲載され、「口語動詞活用表」「口語形容 に有難い」 「吾輩は新年来多少有名になったので、 詞活用表」「口語形容動詞活用表」「口語助動詞 猫ながらちょっと鼻が高く感ぜられるのは 活用表」などが載っている。動詞活用表には 8) ありがたい」 「未然形」 「連用形」 「終止形」 「連体形」 「仮定 このように、虚子や寒川鼠骨などと同人の仲 形」「命令形」の活用があり、活用の種類は、五 間うちで楽しんだ写生文が、徐々に明治の代の 段活用・上一段活用・下一段活用・変格活用で 9) 人々に受け入れられていくさま は、その年の ある。この学校文法では例えばつぎのようにし 10月に単行本の体裁を整えたという早急さが物 か文を分析しない。 語っている。また、近代文学を読まなくなった ・あるところに おじいさんと おばあさんが いました。 修飾語 主語 述語 といわれる平成を生きているわれわれにとって も、その面白さは依然存在する。読み手に先を 読んでみたいという想いをつぎつぎに抱かせ、 胸をスカッとさせる活劇っぽさは『坊ちゃん』 「おじいさんとおばあさんが」という主語が と同様である。漱石の文学研究者としての底力 「いました」という述語にかかり、さらに、「あ が『猫』を生みだしたといえるだろう。 るところに」という修飾語が「いました」とい う述語にかかるという修飾・被修飾の観点から Ⅰ.語彙・文法分析の手法 分析されるのである。 現実のできごとやありさまや考えは、本来ひ 「いました」という述語は、表1のように動詞 とまとまりのものであるが、それを認識し伝え 「い」助動詞「まし」同じく助動詞「た」とい る「ことば」は、単語に区別され、文としてく う3つの単語に分類され、「い」は動詞の連用 みたてられる。そして、音声や文字のかたちを 形、「まし」は丁寧の助動詞の連用形、「た」は とって線条につたえられる。 完了過去の助動詞の終止形となり、それで形と 本稿では、文を分析する手法として、語彙 意味の分析は終わる。それがすべてである。こ (単語)と文をくみたてる方法である文法のふた のような分類で何が明らかになるだろうか。こ つの分析方法を使用する。単語の分析は、ひと のようなことを分析する表が今だに載せられて つひとつの単語が個々ばらばらな存在ではなく いるということは何をいみするのだろうか。 語彙として存在しており、それが示すものは他 鈴木康之・高木一彦が編集に加わった国語教 との差異である点を主眼にする。言語は体系と 科書では巻末の付表にかかわらず、表2を掲 して存在し、関係づけられ、「対立を生ぜしめ げ、言語学の研究成果を盛り込んで「いまし 68 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって 表1 「いました」の学校文法分析表 種類と用法 名 上一段活用 いる い 用 丁寧 ます ませ ましょ 法 完了 過去 た だ 動 詞 助 動 詞 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形 い いる いる いれ いろ まし ます ます ますれ た だ た だ たろ だろ (ませ) たら だら (『現代の国語3』三省堂、2001. 付表より作成) 表2 「いました」の意味・機能表 命令 いろ いるな いなさい 意志・ 誘いかけ いよう 推量 過去 いただろう (いまい) いましょう 断定 現在・未来 いるだろう 過去 いた 現在・未来 いる 肯 定 いなかっただろう いないだろう いなかった いない 否 定 いたでしょう いるでしょう いました います 肯 定 否 定 (いなさるな)(いますまい) いなかったでしょう いないでしょう いませんでした いません 普通の言い方 丁寧な言い方 (『現代の国語3』三省堂、2001. p. 54.) た」がもつ機能を表示していた。言語研究の成 むことができす、不都合がおきるのである。 果が国語教育に活かされていたのである。彼ら 上記からわかるように、本稿の分析文法で が退いた2006年2月初版の教科書では、付表で は、学校文法の助詞や助動詞を品詞として立て はなく本文の中に学校文法の表が印刷されてい ていない。そうせずにむしろ名詞や動詞とセッ る。研究成果は後退してしまっている。 トで説明するほうが有用だからである。助詞や 本稿の基準にする文法では、 「いました」の意 助動詞を立てないからといって、これまでのこ 味・機能を分析するばあい、この表にあるよう れらの研究をないがしろにしたわけではない。 に、語彙・文法の対立関係を基準に規定する。 これまでの日本語の文法研究は、万葉集などの 11) においては「断定」、テン 和歌研究を中心に発展してきたといっていいだ スにおいては「過去」 、みとめ方においては「肯 ろう。1500年におよぶ研究は日本語の意味・機 定」、丁寧さにおいては「丁寧」をあらわす終 能を深化させるという大きな功績を残してき 止形だと規定するのである(波線は筆者) 。 た。だからといって、表1に用いられている文 すなわち、ムード また、いわゆる名詞につく助詞は連用格をハ 法用語が有用とはいいがたい。日本語全体をみ ダ カ 格・ガ 格・ヲ 格・ニ 格・ヘ 格・デ 格・ト わたせる体系になっていないからである。特に 格・カラ格・マデ格・マデニ格に分類し、連体 現代日本語の文法を分析する手法において使用 格は、ノ格・ヘノ格・デノ格・トノ格・カラノ することはできない。本稿で使用する文法のほ 格・マデノ格に分類する。この音声による格名 うが科学的かつ体系的であり、分析に向いてい は、意味・機能をあらわす名称だけでは分類で るといえる。コンピュータを使った語彙研究12) きないからである。たとえば、「僕はパンを食 においても助詞や助動詞を単語と認定するより べる」では、「パンを」というヲ格は対象(目 も、名詞の格や動詞の活用形態としたほうが有 的)をあらわすのだが、「飛行機は空を飛ぶ」 用のはずである。 では、「空を」は、場所をあらわすヲ格なので、 現実のできごとやありさまを描写するばあ 目的格という名称を使用すると「場所格」を含 い、大切なものに 5W1H がある。「いつ・どこ 69 中 野 はるみ で・だれが・なにを・どのように・どうする」 「よびかけ」 「うけこたえ」 「あいず」 「あいさつ」 である。この重要な文の部分が、主語と述語と 「接続詞」がはいる。側面語19) は、「ゾウはは 修飾語だけに限定されているのが学校文法であ なが長い」の「はなが」の部分である。題目 る。本稿では、「文の部分」を、主語・述語・ 語20) とは、「は」による「とりたて」で、文頭 補語・修飾語・状況語・規定語・陳述語・独立 におかれるばあい話の中心になる語をいう。 21) 、テンス さらに、動詞は、ブォイス(態) 語・側面語・題目語に分類して説明する。 「日 本語には主語がない」などという人々がいる 22) 、アスペクト23) にかかわっているし、 (時制) が、 「主語」という部分は省略されるばあいもあ いわゆる形容詞と形容動詞は、機能的な働きを るが、どのような言語にも存在する文の部分で みると同類なのでイ形容詞とナ形容詞と呼ぶ。 ある。「主語」とは、「文ののべるものごと」で このような文法は現在、世界中で学習されて あり、述語とは、 「文ののべる部分」である。つ いる一言語としての「日本語」教育の現場では まり、「何がどうする」「何がどんなだ」という 常識となってきている。本稿で基準にした高橋 タイプの文であれば、主語は「何が」の部分で 太郎他『日本語の文法』も中国語や韓国語での あり、述語は「どうする」や「どんなだ」の部 翻訳がすでに出版されている。学校文法では、 13) 分である。補語 には、1.うごきの対象(例: 外国語として学習するには不都合なことが多い 次郎が太郎をなぐった)2. かかわり場所(例: からである。日本語教育は、奥田をはじめ三上 父が会社から帰ってきた。 )3. 状態や性質がな 章、寺村秀夫など新しい文法を模索した研究者 りたつための基準(わたしは蛇がきらいです。) の先導によって発展してきたといえる。国語文 14) などがある。修飾語 とは、程度や量をあらわ 15) 法同様、研究者の数だけ文法用語があり統一は は、ときや場所をあら 難しい。たとえば、動詞を1例にとると、 『日本 わすことばや原因や目的をあらわすことばであ 語の文法』に使用されている用語と日本語教育 す副詞である。状況語 16) る。規定語 とは、いわゆる連体修飾をするこ 17) とばである。陳述語 の1テキストとの区別は表3のとおりである。 は、いわゆる「陳述副詞」 18) のたぐいである。独立語 には、「さけび」、 表3 『日本語の文法』用語 強変化(五段活用) 弱変化(一段活用) 特殊変化 終止形24) のべたて形 断定形 推量形 非過去形 過去形 さそいかけ形 命令形 連体形 中止形(第1なかどめ) 中止形(第2なかどめ) やりもらい動詞 表3でブランクになっている部分には対応す る名称がないことを意味する。日本語を研究す 文法用語対照表 日本語教育用語 1グループ 2グループ 3グループ 普通形 辞書形 た形 意向形 命令形 ます形 て形 『日本語の文法』用語 日本語教育用語 条件形(バ条件形) 条件形 条件形(ナラ条件形) 条件形(タラ条件形) 条件形(ト条件形) 譲歩形(テモ譲歩形) 譲歩形(タッテ譲歩形) ふつう体 ふつう形 ていねい体 ていねい形 みとめ形式(動詞) 肯定 うちけし形式(動詞) ない形・否定形 例示形(ならべたて形) タリ形 可能動詞 可能形 うけみ動詞 受身 敬語動詞 尊敬 使役動詞 使役 (『日本語の文法』p. 62. p. 97. p. 284.『新日本語の基礎Ⅰ・Ⅱ』より作成) 70 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって るばあい、 「名づけ」の必要性は研究がすすめば し」を使用しているし、別の箇所では「吾人」 すすむだけあるわけだが、初級文法を教えるに を用いているばあいもある。 ついては上記の名づけで十分なのであろう。 「ま そのような尊大な人称名詞主語と「〜であ す形」「た形」「て形」などのように、その音声 る」というコピュラとのくみあわせは自然なの に「形」をつけた名づけになっていることが多 だが、「猫」とういう動物名詞が不自然なので、 い。これは、その「形」の意味が多様だからで のっけから滑稽である。「猫も杓子も」という ある。意味機能が複雑であればひとつの意味だ ことばにあるように、 「猫」は動物の中でもどこ けを混入した名づけは誤りになる。その意味で にでもいるたいしたことのないもののひとつで は、本稿で扱っている『日本語の文法』の用語 あった。今でこそあまり見かけないが当時はあ より日本語教育用語のほうが名づけの妥当性は ちこちにいたであろう。「わたしは猫だ」とす 高いだろう。このように、日本語文法研究も充 れば、 「猫」という動物名詞に相当する表現にな 分な分析法をもつには致っていない。 る。 28) しかしながら、 「猫」という動物名詞は、 「馬」 それにしても、日本人の義務教育部門の言語 教育に遅れが目立つ。国語教育は、近代国家に や「犬」よりも小さく、視点が低い動物である。 とって重要課題であったがゆえに、明治以来、 「吾輩」 (語り手であり登場人物である)が「猫」 国家は日本語の標準化を推し進め、共通語の普 という素性を明かしたところに、漱石のこの写 及が早急に図られたのだが、そこに不足してい 生文の視点が明確になっている。「視点の低さ たのは、日本語という言語の特質まで織り込ん は、子規や虚子の『低徊趣味』とつながってい だ言語教育だったのである。 る」という猪野謙二の指摘29) にあるように、 視点の大切な写生文では、映像芸術同様にアン グルが重要なことから「猫」を語り手として登 Ⅱ.『猫』の語彙・文法解釈 Ⅱ1. 『猫』第1部第1段落 用させたにちがいなかろう。そして、 「猫」が自 第1段落はつぎのとおりである。 分を称するのに最も不似合いな「吾輩」を組み 合わせるという「意外性」で1文目を始めた。 「猫」が当時ちょうど家に住み着いていたとい 吾輩は猫である。名前はまだ無い。 う記述30) がある。その影響は描写表現にでる にちがいなかろうが、単に住み着いていただけ 第1文の名詞述語文は、タイトルにもなって で語り手を決める漱石ではなかろう。 いる。このタイトルは、漱石が『猫伝』として いたのを虚子が変更したものである。ここで使 漱石は、 「語り手」について「歴史的現在と 用されている「吾輩」は、英語には I’ という 並立して吾人の注意を要求すべきは空間短縮法 一人称単数主語の記号しかないが、尊大さをあ 31) とする「空間短縮法」を『文学論』 にして」 らわすばあい、口頭ではイントネーションで区 で説明している。『文学論』は、明治36年9月〜 I AM’25) とあらわ 38年6月の英文学の講義を中川芳太郎に整理さ される。日本語の一人称単数主語は、位相に せて出版したものである。「猫」がナレーター 別するだろうし、文字では 26) よってさまざまであり、4 0種にものぼる 。そ になるという着想は『文学論』でも展開されて の中から、わざわざ選ばれた人称名詞である。 いる。 「吾輩」 小宮豊隆が『漱石襍記』でいうように27)、 「思ふに普通の作物に在っては、著者の と自分自身を呼ぶのは「偉い」つもりの横柄な 紹介を待って始めて、篇中の事物、人物を 輩 で あ る。ち な み に 漱 石 は、『文 学 論』で は 知るを例とす。著者の彼と呼び彼女と称す 「余」、書簡では「僕」、講演・講義では「わた るものは必ず著者に対して一定の間隔を保 71 中 野 はるみ つを示すのもの、而して、其著者と吾人読 このように、人称名詞をどのように駆使する 者とは亦一定の間隔に立つが故に、吾人と のかということが作家にとっては致命的であ 篇中の人物との間には二重の距離を控へた る。『猫』が100年の歳月35) を過ぎても色あせな るは明らかなり。 (中略)是に由って是を いという事実は、漱石が「吾輩」という人称を 観れば空間短縮法の一方は中間に介在する 紡ぎだし、 「吾輩」に自由自在に「ことば」を 著者の影を隠して、読者と篇中の人物とを 紡がせている文学性に由来している。 して当面に対座せしむるにあり。之を成就 2文目の「名前はまだ無い」に関しては、 「無 するに二法あり。読者を著者の傍に引きつ 名性」がよく取りざたされるようである36)。通 けて、両者を同立脚地に置くは其一法な 常において「吾輩は」とくれば自己紹介するこ り。(中略)或は読者を著者の傍らに引く とを期待し、名前が明かされるはずなのだが、 に代ふるに、著者から動いて篇中の人物と 「猫」という動物の種別が明かされただけであ 融化し、毫も其介在して独存するの痕跡を る。「吾 輩」で も 名 前 を 明 か す 必 要 は 重 々 わ 留めざるが如き手段を用ふ。比時に当って かっているのだが、明かせない。その理由は、 其著者は篇中の主人公たり、若しくは副主 「まだ」という修飾語が「無い」という述語に 人公なり、もしくは篇中の空気を呼吸して くみあわせられていて、「言いたいのだがまだ 32) 無い」というのである。 「まだ」という副詞は さらに、「彼」や「彼女」という人称名詞に 時間をあらわす副詞で、発話時を基準にして使 下記のように言及し、 「篇中の人物」の位置の変 用される。あってしかるべき「とき」なのに 生息する一員たり」 更、すなわち、人称名詞が「彼」「彼女」から 「まだ無い」のである。 「汝」そして「我」へと変化することが、作者 「吾輩」に固有名詞である「名前」がまだつ と読者との親密度を増し、読者との距離が最も けられていないということは、漱石の大きな意 短くなることであると断言する。 図のひとつである。「〈他とのちがい〉をきわだ 「彼とは呼ばれたる人物の現場に存在せ たせ、それが唯一無二である、特定の『もの』 ざるを示すの語なり。彼を以て目せられた 37) が固有名詞だからである。 につけた名づけ」 る人物の、呼ぶ人より遠きは言語の約束上 ナレーターとしての「猫」には、固有名詞はむ 然るなり。比故に彼を変じて汝となすと しろないほうがいい。第1部に登場する人物に き、現場に存在せざる人物は忽然として眼 は、下女の「おさん」を除いて名前がついてい 前に出頭し来る。然れども汝とは我に対す ない。名前は名づけ親なくしては存在しないの るの語なり。呼ぶに汝を以てするとき彼是 だ。他の人物には、 「書生、主人(教師)、子供、 の間に猶一定の距離あるを免かれず。彼に 細君、友人(美学者) 、車屋」という「ひと名 比すれば親密の度を加ふる事一級なるも遂 詞」や「職業名詞」がつけられている。また、 に個々対立の姿を維持するに過ぎず。只汝 猫には、 「白君」や「黒」という体の特徴を表 の我に変化するとき、従来認めて以て他と す名前がある。「吾輩」がつけたものである。 せるものは俄然として、一体となって些の これは、 「隣の猫」とか「車屋の猫」という客 33) 籬藩に隔てらるる事なし」 (下線は筆者) 観的な呼び名よりも、ずっと「吾輩の命名」だ 「汝」と す る 方 法 は「所 謂 書 簡 文 体(Epis- という響が濃厚である。このような「ひと名 tolary Form)」小説によって出現し、 「読者は 38) であ 詞・職業名詞」は、 「固有名詞的な名詞」 汝と呼ぶ人を通じて、汝と呼ばれたる人と対 る。「ある境遇のもとでは、固有名詞に準じて 座」し、脚本においてはこの形式が十二分に首 39) のである。だから、境遇の設定 使用される」 尾よくいっていると記されている34)。 が意味をもつことになる。 72 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって 『猫』が『アララギ』という仲間うちの発行 られた「あわせ部分」で述語の部分になってい 雑誌に掲載予定であり、しかも、 「山会」とい る。例えばつぎの2文はその部分のくみあわせ う研究会で朗読されたという性格を考えると頷 が異なっている。 けるものがある。滑稽感もコミュニケーション ① 太郎は やさしい も意思疎通の深さが深いほど重厚になる。固有 ② 太郎は やさしい性質だった。 学生だった。 名詞をつけるまでもなかったのである。普通名 ①②はともに、 「太郎は」が主語なのだが、 詞で足りる趣向と指向・思考を兼ね備えたメン ①の述語は「学生だった」で、「やさしい」と バーが参集している「山会」でのデビューは漱 いう規定語で文を拡大している。②の述語は、 石にとって幸いであった。そしてまた、その時 「性質だった」ではなく、 「やさしい性質だった」 代の社会的成熟度も、『猫』を受け入れるほど である。これが「あわせ部分」である。 「見当 に熟していたことが窺える。 がつかぬ」は、②と同様であろう。「とんと」は、 「ちっとも・すっかり・まったく」と類義だが、 Ⅱ2. 『猫』第1部第2段落前半 「見当がつかぬ」という「現実認識的なムード の程度」を強調している語である。「まったく 第1部第2段落前半はつぎの文章である。 見当がつかぬ」よりもユーモアを醸し出してい る。「とんと」は、日本昔話などでよく使用され どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何 ている語でもある。 でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー 泣いていた事だけは記憶している。吾輩は 4文目の「何でも薄暗いじめじめした所で ここで始めて人間というものを見た。しか ニャーニャー泣いていた事だけは記憶してい る」は、 「とんと見当がつかぬ」とはいうものの、 もあとで聞くとそれは書生という人間中で どうあく いちばん獰悪な種族であったそうだ。この 「〜だけは記憶している」と、吾輩の面目を保っ 書生というのは時々我々をつかまえて煮て ている。しかし、あやふやであることをあらわ 食うという話である。しかしその当時は何 しているのが、「何でも」である。「何でも」は という考もなかったから別段恐ろしいとも 「〜らしい」というコピュラ41) とくみあわせら 思わなかった。ただ彼の手のひらに載せら れる陳述副詞(ムード副詞)である。「〜らしい」 れてスーと持ち上げられた時何だかフワフ は「推定」をあらわす。しかし、この文では 「らしい」が記されていない。「推定」ではなく、 ワした感じがあったばかりである。 述語が「記憶している」と断定した表現を使っ 「生ま 3文目は、自己紹介の例40) に漏れず、 ている。「あやふやさ」と「断定」とが無理や れ」を明かすのだが、これも氏素性がわからな りにくみあわせられていて、 「吾輩」の尊大さを いから、「どこで生れたかとんと見当がつかぬ」 表現しているといえる。しかし、記憶している になる。元来「吾輩はどこで生れたかとんと見 情報内容、すなわち「何でも薄暗いじめじめし 当がつかぬ」とすべきところ、この文には主語 た所でニャーニャー泣いていた事だけは」を分 が省かれている。この主語の省略は通常ダイア 析すると、「薄暗いじめじめした所で」という、 ローグの場面に多く、 『猫』が「読み手」に直 「薄暗い」と「じめじめした」という規定語と 接語りかけているように思わせる巧妙な手法で くみあわせられた「所で」という状況語(場所) あろう。読み手と猫が対峙し、語りかけられて と、「ニャーニャー」という情態副詞(オノマ いるような錯覚に陥る。「どこで生まれたか」 トペ[擬声語] )とくみあわせられて「泣いて は「見当がつかぬ」という述語の補語になって いた」というのである。「泣いていた」は、「泣 いる。「見当がつかぬ」は、2単語がくみあわせ く」という動作動詞が「シテ形42) の過去」と 73 中 野 はるみ くみあわせられて、継続相のアスペクトをあら 学校出身の「書生」が下宿していた。 わし、テンスでは過去をあらわしてペーソスを 第7文目の「この書生というのは時々我々を 誘いだしている。それを「〜事だけは」という つかまえて煮て食うという話である」では、 「そ 「は」によってとりたてるので、ペーソスと笑い の」や「あの」ではなく、 「この」という指示 がない交ぜになる。「薄暗い・じめじめした・ 代名詞を使用し、読み手にはまだよく理解され ニャーニャー・泣く」という4単語と「吾輩」 ていないと認識させる表現を使っている。そし とが、ちぐはぐなために生みだされる妙味なの て、 「書生というのは」は、 「人間というものを」 である。 の表現と同様、説明をしっかりしなければ「書 そして5文目で、 「吾輩はここで始めて人間 生は」だけでは、まだとりたてることができな というものを見た」として、人間との遭遇場面 いことをあらわしている。「我々をつかまえて に転ずる。 「ここで」と「始めて」は、場所と 煮て食うという話である」と「我々をつかまえ 時間の状況語で、前文の暗いじめじめした場所 て煮て食う」を比べてみると、 「話である」が が「人間というもの」との遭遇場面になるので 付いていると、 「伝聞」が明らかになる。それも ある。ここでは、 「人間を」ではなく「人間と 「時たま」でもなく「時おり」でもなく「時々」 いうものを」を使っている。「〜というものを」 であり、 「獰悪な種族」であることの説明になっ という表現は、 「人間を」とくらべると、 「未知」 ている。 のものごとを補語にするばあい使用する頻度が 第8文目の「しかしその当時は何という考も 高いといえよう。説明する必要があるので使用 なかったから別段恐ろしいとも思わなかった」 するのである。「猫」の視点であることを読み では、 「しかし」という逆説の接続詞が旨く機能 手に意識させることになる。 している。この文は、複文であり、先行節が それは、6文目「しかもあとで聞くとそれは 「〜から」という原因や理由をあらわす状況語節 書生という人間中でいちばん獰悪な種族であっ になっている。 「その当時は何という考もな たそうだ」へと続く。「しかも」は、 「並立」の かったから」と、「吾輩」の考えを表現し、後 接続詞である。「並立」の接続詞は、 「まえの文、 続節「別段恐ろしいとも思わなかった」の主観 または語へのつけくわえやおぎないであること 的な理由になっている。この文が、 「ので」で結 43) をあらわす」 のだから、前文の「人間という びつけられないのは、 「ので」節になると客観的 もの」が、詳細に説明されることになるのであ な関係性が強くなるからである44)。「その当時 るが、 「あとで聞くと」という挿入句が入り、 は何という考もなかった」のは、 「我々をつかま 「〜そうだ」という「伝聞」をあらわす述語文 えて煮て食うという話」を聴く以前であったこ になっている。「書生という」「人間中でいちば とを示している。 「別段恐ろしいとも思わな ん獰悪な種族であった」という表現は、「獰悪 かった」という表現は、 「別段」という「評価 な」というむずかしい漢語表現の規定語が用い 副詞」を用いて「吾輩」の価値評価をあらわし られ、「荒々しさ」が勝っている。そして、「い ている。すなわち、 「書生」に対して「何とも ちばん」や「種族」という表現では、「書生」 思わなかった」ことを強調している。書生が猫 以外の「種族」の存在を匂わせ、これも「猫」 をつかまえて食うという話などは、山会のメン の視点から観る分類の滑稽さを表現している。 バーには具体的にイメージできて愉快だったに ちがいない。 「書生」という語は、近代をよくあらわしている ことばである。現代通常は使用されないのだ 第9文目は、 「ただ彼の手のひらに載せられ が、 「書生のようにちょろちょろしやがって」な てスーと持ち上げられた時何だかフワフワした どと使う人がいる。漱石の家にも旧制第五高等 感じがあったばかりである」だが、この文は 74 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって 「ときをあらわす状況語節」をもつ複文である。 見始めであろう」だが、この文は、 「〜のが、 この文では、先行節は、うけみ構造になってい 〜であろう」という「のだ文」を主語にもって て、「スーと」彼に持ち上げられたのであり、そ きて説明調の文にしている。通常は、「人間と して、その後続節には「フワフワした」という いうものの見始めは、手のひらの上で少し落ち オノマトペが使用されて「吾輩」のその時の感 ついて書生の顔を見たときだろう」といった文 じが表出されている。漱石が『文学論』で「感 であろう。それが、「手のひらの上で少し落ち 覚上の経験が文学的内容の重要項目を構成する ついて書生の顔を見た」を強調するために、主 45) と記しているこ 語でさしだしている。述語は推量のかたちに と の 証 左 に な る 表 現 で あ る。 「触、温、味、 なっていて「猫」の認識の曖昧さを表現してい 嗅、聴、視の六種」が文学内容にとって重要で る。「手のひら」という語は、前文でも使用され あることは、英文学を修めた漱石にとって自明 ていて、作者にとって重要な語だということが なことであった。ここでは、 「触」の感覚を中心 窺える。つぎの3段落の1文目にも「この書生 に「ただ〜フワフワした感じがあったばかりで の手のひらのうちで」と用いられている。最初 ある」と表現されている。「ただ」は、「とりた が「手のひらに」で、つぎが「手のひらの上で」 て副詞」で、 「ばかり」とともにくみあわせられ、 で、最後が「手のひらのうちで」というふうに、 ことは疑いもなき事実なり」 「フワフワした感じが」だけをとりあげる。前 場所をあらわすニ格・デ格だけではなく、「の 文から類推される他の「感じ」つまり、 「恐ろ 上で」「のうちで」といった「吾輩」(自分)の しい感じ」とか「獰悪な感じ」などを排除し、 位置を特定する場所詞を用い、述語の「落ち付 前文を補強している表現である。「ただ」の位 いて」や「座っておった」の意味を詳しくして 置が初頭にきているのは、「何とも思わなかっ いる。いずれにしろ、 「手のひら」という場所の た」を早く打ち消したいという思いを表現する 居心地よさが伝わってくる表現なのである。そ 意図が漱石にあったためであろう。 れは、 「薄暗いじめじめした所」とはまったく異 なった場所としてあらわされている。4段落で Ⅱ3. 『猫』第1部第2段落後半 は、「藁の上」や「笹原の中」という場所の状 第1部第2段落後半はつぎの文章である。 況語がでてくるのだが、そのような場所と比較 すると「手のひら」が3度まで用いられている 手のひらの上で少し落ちついて書生の顔 ことが明らかになろう。「人間の手のひら」は を見たのがいわゆる人間というものの見始 「猫」にとって「少し落ち付」ける場所だった めであろう。この時妙なものだと思った感 のである。 じが今でも残っている。第一毛をもって装 第11文目「この時妙なものだと思った感じが 飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで 今でも残っている」であるが、この主語節には、 や かん 薬罐だ。その後猫にもだいぶ会ったがこん 主語も補語もない。「吾輩は」という主語と、 かた わ な片輪には一度も出くわした事がない。の 「書生の顔を」という補語が省略されている。 みならず顔の真中があまりに突起してい この省略によって、 「妙なものだと思った感 る。そうしてその穴の中から時々ぷうぷう じ」だけが印象付けられる。「少し落ち付いて」 と煙を吹く。どうもむせぽくて実に弱っ 見たら、書生の顔は「妙なものだ」ったのであ た ば こ た。これが人間の飲む煙草というものであ る。「今でも」は、「でも」によるとりたてで、 る事はようやくこのごろ知った。 はなはだしい例をあげる用法であるから、「こ 第10文目は「手のひらの上で少し落ちついて の時」はもちろんであるが、 「今」にいたって 書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの もそのときの印象が残っているということを強 75 中 野 はるみ 調している。 「残っている」という継続相のアス 稽感をだしている。「人間にはもちろんあって ペクト使用で持続過程を表現しているのである。 いる」という言外の意味が不自然でおかしい。 第12文目「第一毛をもって装飾されべきはず 「片輪」は差別用語であるが、文学作品ではわざ や かん の顔がつるつるしてまるで薬罐だ」は、前文を わざ使用するばあいがないわけではなかろう 受け、「妙なもの」の説明をしている。「第一〜 し、時代状況の反映でもある。前文の「顔」を だ」という自分の判断の理由付けをしている名 規定していた「毛をもって装飾されべきはず」 詞述語文である。「まるで」という陳述副詞を ということばが「猫」の視点であることを明ら 用いて、顔を薬罐にたとえている。「まるで」 かにしている。この表現は、 「ことば」が認識を は、比況の陳述副詞だが、 「ようだ」とのくみ 表現していることの証左であろう。 あわせがない。だが、 「第一」という副詞と対応 第14文目「のみならず顔の真中があまりに突 し、「薬罐だ」と決めつけた口調が「妙なもの」 起している」では、 「のみならず」という明治 と符合していて滑稽感をかもしだす。「つるつ 時代でさえ古典的であろう和語を使用し、「妙 るして」というオノマトペ[擬態語]を修飾語 なもの」の説明がつづき、 「顔の真中が突起して として、 「薬罐」を名詞述語に使用したところが いる」というのである。しかも、「あまりに」 庶民的生活を連想させ身近な笑いを誘うのであ である。「あまりに」は、「すこし・だいぶ・う る。また、「顔」の規定語が、「毛をもって装飾 んと・ずいぶん・ひじょうに」などと類義語関 されべきはずの」であるから、 「猫」の視点が 係にある程度副詞である。これらの副詞も話し 明示されているのである。「はずの」は、形式名 手の判断をあらわしていて、 「吾輩」の突起の基 詞のノ格で、 「当然そうなるであろう」という表 準に照らして「あまりに」なのである。 「突起 現である。「毛をもって装飾されべき」という している」も漢語表現で、通常、動物の「顔の 表 現 に お い て は 、「 毛 を も っ て 」 は 「 毛 で 」 真中のもの=鼻」をあらわす表現ではない。こ という表現よりもおおげさな「格的な意味をも の誇張された漢語表現が、 「妙なもの」という印 46) であり、漢語表現で仰々しい「装 象を表現するのにぴったりなのである。しかも 飾されべき」とうまく対応し、それがまた傑作 「突起」ということばは、科学的な用語であるか つ後置詞」 な感じを読み手に抱かせるしくみになってい ら「猫」が使用しているのもユーモラスである。 る。 第15文目「そうしてその穴の中から時々ぷう 第13文目「その後猫にもだいぶ会ったがこん ぷうと煙を吹く」においては、 「そうして」と な片輪には一度も出くわした事がない」におい いう契機の接続詞を用いているのだが、何かで て、 「その後」は、2 文前の「この時」に対応 きごとが前文にあるわけではない。ただ、「突 する状況語である。この文は、くいちがうこと 起」物を連想させておいて、「その穴の中から」 をふたつならべた重文である。「会った」と と続いているだけである。「時々」 「ぷうぷうと」 「出くわした」は類義語であり、先行節は肯定 がまたユーモラスである。「ぷうぷう」という 形、後続節は否定形を使用している。しかも先 オノマトペ[擬声語]は、通常、楽器の音をあ 行節では、 「だいぶ」という程度副詞で「猫に らわすが、煙は音が出ないものであるにもかか 会った」回数を強調し、後続節では、「一度も」 わらず、音(擬声語)で「煙を吹く」という述 という陳述副詞で「ない」ことを強調している。 語をくわしくあらわしているのは、子猫の思考 この対応が重文使用の効果をあげている。さら にふさわしく幼稚で滑稽である。幼児の日本語 に、 「猫にも」は、 「猫に」ではなく、 「猫」以外 表現47) にことさら興味をもっていた漱石なら =人間にはもちろん会っているがと「猫にも」 ではの使い方であろう。「穴の中から煙を吹く」 と、とりたての格「も」をわざわざくわえ、滑 は「穴から煙を吹く」よりも、 「吹く」空間が 76 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって た ば こ 広がる表現である。何か機械的な突起物の穴の 「知った」の補語であり、「人間の飲む煙草とい 中のほうから煙が音とともに吹きあがるような うものである事を」というヲ格になるべきであ イメージを読み手に与える。この文は「猫」の るが、それを「は」で「とりたて」ている。 「よ 視点を強調した表現になっていて、後文の原因 うやく」は、 「知った」を修飾する副詞で、 「やっ をあらわしている文である。 と」と類義語関係にあり、 「待ち望んでいた事態 第16文目「どうもむせぽくて実に弱った」に が長い時間かかったが実現した」ということを おいては、「どうもむせぽくて」は、「実に弱っ あらわし、 「妙なもの」から吹きだす「むせぽ た」の原因である。形容詞のテ形は、「から」 い」ものの正体を知りたかったことを表現して や「ので」よりも自然な理由表現である。 「ど いる。「このごろ」は、ときをあらわす状況語 うも」は非常に多くの意味をもった陳述副詞だ で、第8文目の「その当時は」という状況語に が、ここでは、推定のムード副詞ではなく、 「ど 対応して時間の経過をあらわしている。 うも〜ぽい」という表現から評価的な副詞と Ⅲ. いっていいだろう。「むせぽくて」や「弱った」 語彙・文法分析 Ⅲ1. 「文の部分」構成 という語が、子猫のひ弱さをあらわしている。 た ば こ 第17文目「これが人間の飲む煙草というもの Ⅱで具体的に見てきた第1文から第17文まで である事はようやくこのごろ知った」における を「文の部分」の構成という視点から筆者が分 「これが」という指示語によって、はっきりと指 析したのが表4である。 示された語は見あたらない。しいていえば、 表中の数字は、それぞれの「文の部分」の数 「むせぽい煙」といったところであろう。「人間 である。○は単文・複文の別である。 「重」は た ば こ の飲む 煙草 というものである事は」は、本来 重文の意味である。 表4 『猫』導入部の「文の部分」構成 文 主 述 補 番 号 語 語 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 1 1 1 1 1 2 2 1 2 1 2 2 2 3 1 2 1 1 1 3 合計 10 28 1 1 1 1 1 1 1 語 1 1 1 1 1 2 2 9 修 状 規 陳 独 側 題 飾 況 定 述 立 面 目 語 語 語 語 語 語 語 1 1 1 1 1 1 2 3 2 1 3 1 1 2 2 1 24 単 複 文 文 ○ ○ 1 1 1 2 1 2 1 ○ 2 1 ○ 1 1 1 1 1 1 2 3 1 2 1 1 1 1 1 ○ ○ ○ ○ ○ 1 1 1 ○ 1 1 1 重 ○ ○ ○ 1 1 10 ○ ○ 1 1 15 77 6 4 1 5 ○ 8 9 中 野 はるみ Ⅲ2. わずか17文の「文の部分」にすぎないのだが、 述語の品詞構成(文末表現) 4表において、明らかなように修飾語の多さが 述語の品詞は動詞・形容詞・名詞の3種類で 目立つ。修飾語とは、本稿の文法では形容詞や ある。日本語は文末が単調で韻も踏まず雑駁な 副詞で作られた「文の部分」で、述語の状態や 言語であるように考えるむきが多いが、漱石の ようすを詳しくした部分のことである。また、 『猫』に文末の単調さはみられない。下記の表 オノマトペが4文目の情態副詞をはじめ、程度 5のとおりである。 副詞、時間副詞、陳述副詞(ムード副詞、評価 膠着語の文は述語が文末にあるのは必然的で 副詞、とりたて副詞)などとしてちりばめられ いたしかたがない。動詞が「ウ」「ル」 「タ」 「ヌ」 ている。それが、 「猫」の語りに独自の視点をも 「ウ」という音で終わり、形容詞が「イ」「ダ」 たせることになり、それがまた読み手に漱石の 「タ」である。「タッタッタッタ」とタ形がつ 描いた世界をイメージさせやすくする吸引源に づく妙味もないではないが、変化の点では見劣 なっているのであろう。規定語(名詞を修飾す りがするのである。ことばの基本を「音声」に る語:どんな)よりも修飾語(述語《動詞・形 置いた漱石は多種多様に文末表現をつかいこな 容詞・コピュラ》を修飾する語:どのように) している。文末表現に多様な品詞と活用を自由 のほうが多いという点に、語り手の視点や性格 自在に使いこなし、みごとに変化させている。 を活き活きと描き出し、動的でスピード感のあ 連続して同じ音を繰り返していないのである。 る表現を好む漱石の特徴がでていて、それが読 それが動的なリズムを作りだしている。朗読で み手を魅了するのだといえる。また、題目語に 好評を得たことが納得できる。 よる「とりたて」で文にバラエティをもたせて いる。 表5 『猫』導入部17文の述語の品詞構成(文末表現) 文番号 動詞 形容詞 1 断定・非過去・みとめ形(である) 2 否定(ない) 3 否定(つかぬ) 4 第二なかどめ(している) 5 過去形(見た) 6 断定・過去・みとめ形(であったそうだ) 7 8 名詞(コピュラ) 断定・非過去・みとめ形(である) 過去形(思わなかった) 9 断定・非過去・みとめ形(である) 10 推量・非過去・みとめ形(であろう) 11 第二なかどめ(残っている) 12 断定・非過去・みとめ形 13 否定(ない) 14 第二なかどめ(している) 15 非過去形(吹く) 16 17 合計 過去(弱った) 過去形(知った) 8文 3文 78 6文 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって 言った。これらは具体的には、画家であれば おわりに 「絵」に、文学者であれば「文」に表出される 明治40年(1907年)4月の東京美術学校にお のである。 ける講演に手を加えたものが「文芸の哲学的基 加えて、「写生文」については、「文章の差異 礎」という論文である。その中で、漱石は「区 51) としてい は此視察の立場の差異に帰着する」 別」について以下のように述べている。 る。こ の 漱 石 の 思 想 は Ferdinand de Saus- 「例えば感覚的なものと超感覚的なもの sure を彷彿させる。 に分類する。其感覚的なものを又眼で見る 色やかたち、耳で聴く音や響、鼻で嗅ぐ香、 「表現と意味の合体したシーニュは、自 舌でしる味抔に区別する。此の如く区別さ 然のなかにあらかじめ与えられているもの れたものを、また段々に細かく割って行 ではないのだから、『さまざまな視点から く。分化作用が行われて、感覚が鋭敏にな 考察できる』ような実体ではなく、逆に ればなる程此区別は微精になって来ます。 『視点が生み出す対象』である。指向とは、 のみならず同一に統一作用が行われるから コトバによる言語外世界の一つの解釈であ して、一方は草となり、木となり、動物と 52) り、差異化である」 なり、人間となるのみならず、草は菫とな 漱石の蔵書には、Saussure の書籍はみあた り、蒲公英となり、桜草となり、木は梅と らない。しかし、漱石が1867年〜1916年、Saus- なり、桃となり、松となり、檜となり、動 sure が1857年〜1913年を生きているので、二人 物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、 は同時代を生きたといえるのである。ヨーロッ 商、或は老、若、男、女、もしくは貴、賎、 パの言語を学んだ漱石は意識していたかどうか 長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐 にかかわらず、すでに20世紀の人間諸科学を用 して来ます。 (中略)それも何の為めかと 意していたのであろう。 云えば、元に還って考えて見ると、つまり 彼らのいう「視察の立場」や「視点」をいか は、うまく生きていこうの一念に、此分化 に表現するかは、話し手の意識・認識のありか を促されたに過ぎないのであります。(中 たそのものであることを、上村幸雄53)はつぎの 略)或る評価の語に吾人が一色を認むる所 ように強調する。 に於てチチアンは五十色を認めるとありま 「今ここに三枚の絵があるとする。第一 した。是は単に画家だから重宝だと云うば の絵はきのこ雲の絵であって、1945年8月 かりではありません。人間として比較的融 6日の広島での出来事を描いている。第二 通の利く生活が遂げらるると云う意味にな の絵は二本の高いビルに飛行機がぶつかっ ります。意識の材料が多ければ多い程、選 ていく絵で、2001年9月11日のニューヨー 択の自由が利いて、ある意識の連続を容易 クを描いたものだ。第三の絵は2003年の3 に実行できる、―即ち自己の理想を実行し 月20日のバグダッドを描いていて、真ん中 易い地位に立つ―人と云わなければならぬ に標的をしめす+印、そのまわりに爆発を から、融通の利く人と申すのであります」 しめす煙が描かれているだけである。いず 48) (下線は筆者) れも人類が現代の世界史を理解するために さらに漱石は、ものを区別・識別するという はきわめて重要な出来事を描いているが、 ことについて、画家であれば「同じ白色でも白 絵に描かれているこれらの出来事につい 紙の白さと、食卓の布の白さを区別する位な視 て、われわれは日本語で、日本語の文法に 49) 覚力」 のことであり、文学者においては「微 50) 妙な区別を認める位な眼光」 従いながら日本語の単語を使って、たとえ のことであると ばそれぞれの絵について、「原子爆弾が爆 79 中 野 はるみ 発した。」「飛行機がビルに衝突した。」「戦 ばのしくみ」をうまく駆使して作品を作りあげ 争がはじまった。」などのように云うこと ているかを見てきた。作品の「読み」に役立つ ができる。 (中略)しかしこれらの事件に 「日本語文法研究」がいっそう望まれる。 ついて語るには、人間を、さまざまな立場 注 から事件にかかわった人、あるいは人々を 1)「写生文」について,吉田精一は『夏目漱石全 あらわす「ひと名詞」を文の主語にするこ 集9』(筑摩書房,1971, p. 327.)の語注で,つぎ ともできる。たとえば、第一の事件に関し のような説明をしている. て私の場合なら、広島でなくなった私の知 「正岡子規が写生説をとなえて俳句,短歌を革 人を主語にして文を作ることもできる。ま 新し,さらに散文にも適用して写生的小品を た事件の関係者としてトルーマンという固 作ったことにはじまる.子規没後は高浜虚子 有名詞を主語に選ぶこともできる。このお が運動を推進,ホトトギス派の俳人・作家たち の間にさかんに行われ,漱石もこのころまでは なじ固有名詞は3番目の事件では航空母艦 この系列の作家であった.文壇からは「俳諧 の名前として再登場することになるが、そ 派」「余裕派」ともいわれた」 れはこれらの3つの事件が世界史の中で なお,ここで「これまでは」と吉田がとりたて まったく関係のない事件ではないことを暗 ているのは,漱石が明治4 0年(1907年)1月20日 示する。あるいは、主語として国家や政 読売新聞へ発表した「写生文」は, 「『写生文』作 府、軍隊、都市など、社会組織をあらわす 家の領域から脱出している」と考えているからで 名詞をもってくることも可能である。そし ある. (『夏目漱石全集9』p. 360.) また,遠藤好英は,「写生文の語彙」において, て述語には、(中略)「を格」のいろいろな 写生文の特徴を, 「言文一致文」 「題材の範囲は狭 名詞を要求する他動詞を持ってくることが く,身近なもの」としている.そして,語彙の特 できるし、さまざまな使役動詞や受身動詞 徴として「日常の口頭語を多く含む」「事物の直 をもってくることもできる。 (中略)さま 接示す語が多く,その形状・大小や色彩などを表 ざまな立場にある人が、たくさん違った文 す感覚に訴える語も多い」とした(遠藤好英「写 生文の語彙」 『近代の語彙 54) をつくることができるのである」 講座日本語の語彙6』 明治書院, 1982,pp. 241262.).その意味では, ひとまとまりの現実のできごとやありさま 漱石の『猫』は虚子の依頼に添っているといえよ は、何を主語にするかによってことなってく う. る。主語にともなって述語とのくみあわせもこ 2)『猫』は,『ホトトギス』への掲載中,上編(明 となってくる。それは、現実のできごとやあり 治38年10月)中編(明治39年11月)下(明治40年 さまを誰がどのように切り取って認識し、どの 5月)の三巻仕立てで服部書店のち大倉書店から 出版された.その「中編の自序」で子規にこの ような場でいつ誰にどのように伝えるのかとい 『猫』を捧げると下記のように書かれている. う「ことばのしくみ」とかかわってくる。第二 「子規がいきていたら「猫」を読んでなんと言 言語学習者だけではなく、母語話者にとって うかしらん.あるいはロンドン消息は読みた も、体系的かつ客観的な「ことばのしくみ」= いが「猫」は御免だと逃げるかも分からない. 文法に関する知識が必要となるといえよう。そ しかし「猫」は余を有名にした第一の作物であ の「ことばのしくみ」=文法は、話し手(書き る.有名になったことがさほどの自慢にはな 手)の認識にかかわるだけではなく、読み手 らぬが,墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故 (聞き手)とのコミュニケーションを豊かにする 人に対しては,この作を地下に寄するのが,あ るいは恰好かもしれぬ.季子は剣を墓にかけ 手法なのである。 て,故人の意に酬いたというから,余もまた 本稿では、日本文学を代表する『猫』を素材 「猫」を碣頭に献じて,往日の気の毒を五年後の にして、書き手がいかに「語彙選択」と「こと 80 文学の文法的読み方 今日に晴そうと思う」 (『吾輩は猫である』以下 『吾輩は猫である』をめぐって 8)『猫』角川文庫 p. 27. 『猫』角川文庫 p. 553.) 9)このありさまは,以下の文章でわかるように, なお,ここでいう「気の毒」ということばには, 値上げ前は5,500部発行されていたことをあらわ 「書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉 している. エ」という美濃紙へ行書で書いてあった子規から 「漱石は,価格の値上げには反対で,明治39年4 の手紙に対して, 「書きたいことは書きたいが,忙 月1日付で編集人の高浜虚子に次のような書 しいから許してくれたまえ」という返事をだした 簡を送っている.『雑誌五十二銭とは驚ろい 漱石の悔恨がある(下線は筆者). た.今迄雑誌で五十二銭のはありませんね. 3)藤代禎輔博士はホフマンが「カーテル・ムル」 夫で五千五百部売れたら日本の経済も大分進 が『猫』の趣向と同じであることを,雑誌『新小 歩したものと見て是から続々五十二銭を出し 説』で指摘した(『猫』角川文庫 p. 554.).また, たらよからうと思ひます.其代りうれなかつ 中村真一郎や片岡良一などの否定的見解もある たら是にこりて定価を御下げなさい』 .漱石の (『漱石作品論集成 第一巻 吾輩は猫である』p. 懸念通り,残部が生じたらしく(略)」 27.).しかし,山本健吉は, 「笑ひは既存のものに (http://www.library.tohoku.ac.jp/collect/ 対するもっとも強力な武器であり,男性的な揶揄 soseki/exhibition̲room̲novelist.html) 文学として『猫』は読者に新しい小説の場所を教 10)奥田靖雄の研究グループ出身の研究者による研 へた」としている( 『漱石作品論集成 究成果には,鈴木重幸『日本語文法・形態論』や 第一巻 鈴木康之『日本語文法の基礎』などもあるが,ま 吾輩は猫である』p. 21.). とまり,詳しさ,新しさで高橋太郎他『日本語の 4)「文学談」座談『文芸界』明治39年9月(『猫』 角川文庫所収 pp. 561 562.) 文法』を選んだ. 11)ムードの定義は以下のとおりである. 5)高浜虚子「吾輩は猫である」『俳句の五十年』 ムードは,動詞のしめす運動を,はなし手が現 (『猫』角川文庫所収 p. 5 65.) 実と関係づけることにかかわる文法的なカテゴ 6)この発言は,漱石が1897年に著した『トリスト リーである.(『日本語の文法』p. 64.) ラム,シャンディー』で,その著者ローレンス, 12)中村 スターンにたいしてなした下記の論評と相似して 明「夏目漱石の語彙」(『近代の語彙 講 座日本語の語彙6』明治書院,1 982,pp. 263 いる. 「去りとて「シャンデー」の如く乱暴なるもの 296.)では, 『行人』と『硝子戸の中』の頻出語彙 に あ ら ず,可 憐 な る「ア ミ リ ヤ」 ,執 拗 な る を調査した結果がでているが,品詞分類が不適格 「シャープ」,順良敦朴(とんぼく)なる「ドビ なため作品語彙・作家語彙ともに特徴が不明確に なっている. ン」より傲岸不屈の老「オスバーン」に至るま 13)補語の定義は以下のとおりである. で,甲乙顕晦(けんかい)の差別こそなけれ, 均しく走馬燈裏の人物にして,皆一点の紅火を 補語は,主語と述語があらわすことがらのくみ 認めて,此中心を廻転するに過ぎざれば,仮令 たてをあきらかにするために,そのなりたちに参 (たとい)主人公なきにせよ,一巻の結構あり, 加するものをおぎなって,文を拡大する文の部分 である.(『日本語の文法』p. 9.) 錯綜変化して終始貫通せる脈絡あり, 「シャン 14)修飾語の定義は以下のとおりである. デー」は如何,単に主人公なきのみならず,又 結構なし,無始無終なり,尾か頭か心元なき事 修飾語は,できごとやありさまを詳しくのべる 海鼠(なまこ)の如し,彼自ら公言すらく,わ ために,述語のさししめすうごきや状態のようす れ何の為に之(これ)を書するか,須(すべか) や程度をつけくわえて.文を拡大する文の部分で らく之を吾等に問へ,われ筆を使ふにあらず, ある.(『日本語の文法』p. 11.) 筆われを使ふなりと,瑣談小話筆に任せて描出 15)状況語の定義は以下のとおりである. し来れども,層々相依り,前後相属するの外, 状況語は,できごとやありさまのなりたつ状況 一毫の伏線なく照応なし,」(下線は筆者.) をのべるために,ときや場所,原因や目的をしめ (http://www1.gifuu.ac.jp/˜masaru/soseki/) 7)『吾輩は猫である』上編 して,文を拡大する文の部分である.(『日本語の 自序(『猫』角川文庫 文法』p. 13.) 所収 p. 5 50.) 16)規定語の定義は以下のとおりである. 81 中 野 はるみ 規定語は,ものをあらわす文の部分にかかって *伝統的な国文法の「終止形」は,文の終止の機 いて,そのものがどんな特徴をもつかということ 能をもつ「命令形」を排除している.(『日本語 をかざりつけながら(特徴の付与),そのものがど の文法』p. 63.) のようなものであるかをきめつける(ものの限 25) 『研究社 新英和大辞典』第五版,研究社,1980, 定)文の部分である.(『日本語の文法』p. 14.) p. 1042. 17)陳述語の定義は以下のとおりである. 英翻訳本:Soseki Natsume. Aiko Ito, Grae- 陳述語は,文のあらわすことがらのくみたてに me Wilson I AM a CAT(Tuttle Publishing) はくわわらないで,述語といっしょに,文ののべ 26)「あ,あれ,わ,われ,わし,まろ,それがし, かたをあらわす文の部分である.(『日本語の文 わらは,わたくし,おれ,わたし,わちき,あた 法』p. 1 5.) し,あたくし,あたい,あっし,こちとら,みど 18)独立語の定義は以下のとおりである. も,余,僕,それがし,うぬ,手前,自分,おの 独立語は,ほかの文の部分と直接むすびつかな れ,こちら,こっち,わて,うち,おら,おいら, い文の部分である.(『日本語の文法』p. 15.) 吾人,拙者,小生,不肖,愚生,小弟,当方,吾 19)側面語の定義は以下のとおりである. 輩,朕」など. 側面語は,述語のあらわす属性が,主語のあら 27)「吾輩,吾輩と称へる人間に,滑稽を,或いは わすもののどの側面の属性であるかをあらわすた 威壓を,或いは不快を,或いは憧憬を感じるに論 めに,文を拡大する文の部分である.(『日本語の なく,比所ではその吾輩が,人間ではなく,一匹 文法』p. 16.) の猫によって,いかにも偉らさうに用ひられるの 20)題目語の定義は以下のとおりである. だから,それを聴く人は誰でもすぐに吹き出した 題目語は,さしだしの機能をもつ文の部分であ くなる程の突梯滑稽を感じるに違ひない.」(小宮 豊隆『漱石襍記』pp. 65 66.) り,文の内容的なくみたてにも参加しているが, 述語との関係が直接的でないものである.(『日本 28)人間以外の動物を主人公にしたことでよく引き 語の文法』p. 16.) 合いに出されるスウィフト「フウイヌム国渡航 21)ヴォイスの定義は以下のとおりである. 記」『ガリバー旅行記』には「馬」が登場する. ヴォイスは,述語動詞のさししめす動作をめぐ 29)『漱石作品論集成 る,主体,対象などの動作メンバーと,主語・補 第一巻 吾輩は猫である』 p. 82. 語などの文メンバーとの関係にかかわる文法的カ なお,「低回趣味」ということばは,漱石が虚 テゴリーである.(『日本語の文法』p. 71.) 子の小説にたいして評したことばで,下記のとお 22)テンスの定義は以下のとおりである. り虚子の『鶏頭』の序にある. 動詞のテンスは,動詞のしめす運動が(基本的 文章に低回趣味という一種の趣味がある.是は には)はなしのときを基準にして,それよりかま 便宜の為め余の製造した言語であるから他人 えか,あとか,同時かをあらわしわけることにか に解り様がなかろうが先ず一口に云うと一事 かわる文法的カテゴリーである.(『日本語の文 に即し一物に倒して,独特もしくは連想の興味 法』p. 6 5.) を起して,左から眺めたり右から眺めたりして 容易に去り難いと云う風な趣味を指すので 23)アスペクトの定義は以下のとおりである. ある.(下線は筆者。高浜虚子著『鶏頭』序, 動詞のあらわす運動は,時間とともに進行する ものであって,はじまりとおわりがある.この, 所 収『夏 目 漱 石 全 集1 0』筑 摩 書 房,1 972,p. はじまりとおわりのある運動をどのようにとらえ 181.) 30)夏目鏡子松岡譲筆録『漱石の思い出』角川文庫, るかということにかかわる文法的なカテゴリーを 1966,pp. 141 143. アスペクトという.(『日本語の文法』p. 80.) 31)夏目漱石『文学論』岩波書店,1939,p. 384. 24)終止形の定義は以下のとおりである. 終止形は,述語になって文を終止させるはたら 32)夏目漱石『文学論』p. 384. きをうけもつ語形である. (『日本語の文法』p. 33)夏目漱石『文学論』p. 387. 63.) 34)夏目漱石『文学論』p. 388. 35)漱石は,森田草平あての書簡(明治39年10月22 さらに,つぎのように補足説明がなされてい 日)でつぎのように述べている. る. 82 文学の文法的読み方 『吾輩は猫である』をめぐって ただ眼前に汲々たるが故に進む能わず.かくの 46)高橋太郎他『日本語の文法』p. 1 85. 如きは博士にならざるを苦にし,教授にならざ 47) 「こどものことばちがい」に関する記述が, 『猫』 るを苦にすると一般なり.百年の後百の博士は (角川文庫,1962)p. 379. にある. 土と化し千の教授も泥と変ずべし.余は文を以 48)「文芸の哲学的基礎」『夏目漱石全集9』筑摩書 て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり. 房,1971,p. 168. (中略)ただ一年二年もしくは十年二十年の評判 49)「文芸の哲学的基礎」『夏目漱石全集9』p. 169. や狂名や悪評は毫も厭わざるなり.(三好行雄 50)「文芸の哲学的基礎」『夏目漱石全集9』p. 169. 編『漱石書簡集』岩波書店,1990,p. 1 71.) 51)「写生文」『夏目漱石全集9』p. 153. また,『夢十夜』の「第一夜」は,100年という 52)丸山圭三郎「ソシュール理論の基本概念」『ソ ことばがキーワードであろう. シュール小事典』(大修館書店,1985,p. 80.) 36)古閑章「登場人物名称考」『漱石作品論集成 53)沖縄言語研究センター代表の上村幸雄は,言語 第一巻 吾輩は猫である』pp. 164 180. 学研究会のメンバーであった. 37)中野はるみ『名詞連語「ノ格の名詞+名詞」の 「奥田が強力な指導力を発揮した言語学研究会 研究』海山文化研究所,2004,p. 1 6. の毎週木曜日夜の定例研究会には,国立国語研究 38)中野はるみ『名詞連語「ノ格の名詞+名詞」の 所に勤めていた宮島達夫,鈴木重幸,高橋太郎, 研究』p. 17. そして沖縄へ移る前の筆者などもながく足しげく 39)中野はるみ『名詞連語「ノ格の名詞+名詞」の 通った」 (「言語,その過去,現在,未来(その3)」 研究』p. 18. 『国文学解釈と鑑賞』 866第68巻7号,2003,p. 22.) 40)「フーテンの寅次郎」や「清水次郎長」の「森 54)「言語,その過去,現在,未来(その3)」『国 の石松」でお馴染みであろう. 文学解釈と鑑賞』866第68巻7号,2003,p. 17. 41)コピュラ(copula,むすびつけるもの,繁辞, 連辞)は,もともと論理学の用語であるが,文法 参考文献 的な観点からは, 「名詞を述語にするためにくみ ・夏目漱石『文学論』岩波文庫,1939. あわせる補助的な単語である」という定義にな ・夏目漱石『吾輩は猫である』角川文庫,1962. る.しかし, 「ある」 「ない」 「あった」 「なかった」 ・夏目漱石『夏目漱石集(ニ)』筑摩書房,1970. だけではなく,推定をあらわす「らしい・よう ・夏目漱石『夏目漱石全集9』筑摩書房,1971. だ・しれない・ちがいない」まで含めて, 「むす ・夏目漱石『夏目漱石全集10』筑摩書房,1972. びとは,それ自身では独立の文の部分にならず, ・浅野洋・大田登編『漱石作品論集成 他の単語とくみあわさって,その単語が述語とし 第一巻 吾 輩は猫である』桜楓社,1991. てはたらくのをたすける補助的な単語である」 ・上 村 幸 雄「言 語,そ の 過 去,現 在,未 来(そ の (鈴木重幸『日本語文法・形態論』p. 4 13)という 3)」『国文学 定義ができた. (高橋太郎他『日本語の文法』pp. 文堂,2003. 183 184.) 解釈と鑑賞』866第68巻7号,至 ・小田切秀雄「笑いのなかから作家が生まれる―夏 42)日本語教育では, 「て形・テ形」といい,そし 目漱石『吾輩は猫である』―」『明治大正の名作 て,高橋太郎他『日本語の文法』用語では中止形 を読む』むぎ書房,1983. (第2なかどめ)というのだが(p. 3. 第3表参照), ・小宮豊隆『漱石襍記』小山書店,1935. 筆者は「シテ形」という用語を用いる.「シ」は, ・助川徳是「『吾輩は猫である』―その時間」『国文 動詞をあらわしている. 学 解釈と鑑賞』838第66巻3号,至文堂,2001. 43)高橋太郎他『日本語の文法』p. 1 63. ・鈴木重幸『日本語文法・形態論』むぎ書房,1972. 44)田渕幸親「接続助詞『から』の機能―日本語の ・鈴木康之『日本語文法の基礎』三省堂,1977. 精神構造―」『福岡大学日本語日本文学』第3号, ・高橋太郎他『日本語の文法』ひつじ書房,2005. 1993,pp. 123 135. ・田渕幸親「接続助詞『から』の機能―日本語の精 田渕幸親「接続助詞『ので』の位相―日本語の 神構造―」『福岡大学日本語日本文学』第3号, 変容過程―」『宮崎産業経営大学研究紀要』第11 1993. 巻第1号,1998,pp. 1 22. ・田渕幸親「接続助詞『ので』の位相―日本語の変 45)夏目漱石『文学論』p. 48. 容過程―」『宮崎産業経営大学研究紀要』第11巻 83 中 野 はるみ 第1号,1998. ・日本語文法研究会編『文学作品の言語学的な研 ・中野はるみ『名詞連語「ノ格の名詞+名詞」の研 究』海山文化研究所,2004. 究』海山文化研究所,2004. ・中村 明「夏目漱石の語彙」 『近代の語彙 ・府川源一郎「文学教育の危機」『国文学 講座 日本語の語彙6』明治書院,1982. ・夏目鏡子 解釈と 鑑賞』806第63巻7号,至文堂,1998. ・丸山圭三郎『ソシュール小事典』大修館書店, 松岡譲筆録『漱石の思い出』角川文庫, 1985. 1966. ・三好行雄編『漱石書簡集』岩波書店,1990. 84
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