マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 合評会 長澤壮 平 Nagasawa Sōhei 2010 年 2 月に刊行された、マルセル・ゴ るように、本書の前半では、ライシテの歴 ーシェ『民主主義と宗教』(伊達聖伸・藤田 史とその原理が解明されている。現代のフ 尚志訳)の合評会が 2010 年 2 月 2 日、南 ランス(そして他の民主主義諸国)は、政 山宗教文化研究所会議室において行われた。 治と宗教が一体であった時代から、神授説 合評会には対象書の訳者である伊達聖伸(東 の段階、分離の段階を経て、それ以降の第 北福祉大学講師)、藤田尚志(九州産業大学 3 の段階にあるという。そして本書の後半 講師)の両氏が招かれ、評者として粟津賢 は、時代診断学として、民主主義体制下に 太(本研究所研究員)、および丸岡高弘(南 ある現代社会における表象空間の変容の分 山大学教授)の両氏が参加した。ほか本研 析に充てられている。本書は哲学の書であ 究所員、研究員ならびに 10 名の一般の方々 が参加し、活発な議論が交わされた。 まず本会を組織した本研究所の奥山倫明 研究員が開会のあいさつを述べ、ついで粟 津研究員が書評を行った。その原稿を以下 に掲げる。 粟津賢太氏による書評 私たちは、天なしで行なう人間の政治を学 んでいるところなのだ――天とともにでも、 天の代わりにでも、天に逆らってでもなく。 この経験は、とまどいに満ちている。(本書、 103 ページ) 本書は、フランスにおけるライシテの歴 史的展開と現在の変容を題材として、民主 主義社会における統治原理(政治的なるも りながら、社会学、とりわけ宗教社会学に とっても見逃すことのできない業績である。 そこで本稿では、まず宗教社会学の観点か ら本書の評価を行い、次に社会学における 位置づけを行う。もうひとつ、本書を特徴 づけているのは論述の構造である。経済や 技術によって引き起こされる現象から性急 に解釈を引き出すのではなく、常に原理的 な問いを投げかける構造を持っている。見 かけに惑わされてはいけない、ものごとは 目に見えることがすべてではない。これは、 本書の中で繰り返される問いのスタイルで ある。そこで最後に、本書を貫いているこ の問いのスタイルが隠蔽するものについて 評価を試みる。 脱呪術論と世俗化論:共同性への問い の)の変容を解明するものである。冒頭に 宗教と国家という問題系はまだ十分に解 引用した文章が的確かつ美しく要約してい 明されたとは言えない研究領域である (Fox 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 43 200)。宗教社会学においては、20 世紀を通 「世界を呪術から解放するという宗教史上 して「近代化―世俗化」理論が優勢であった。 のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤ 近代社会においては、宗教の果たす政治的 の預言者とともにはじまり、ギリシアの哲 役割や社会的な重要性はますます失われて 学的思考と結合しつつ、救いのためのあら いくという議論は社会科学においては広く ゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥 受け入れられ、それは問われることのない したあの呪術からの解放の過程は、ここに 前提でもあった。 完結をみたのだった」( ウェーバー 199: 1) 世俗化論の一方の雄であるブライアン・ 合理化を促進し、付随的に世俗化を引き ウイルソンにおいて、世俗化は次のように 起こす論理が、そもそも宗教そのものに内 捉 え ら れ て い る。 世 俗 化 と は「 宗 教 の 社 在していたという立論については、その資 会的重要性が減少してきたことと関連があ 料操作について大きな疑義が持たれている る」( ウィルソン 2002: 19) とし、「宗教的 (羽入 2002)が、我が国でも受け入れられ な諸制度や行為および宗教意識が、社会的 てきた(例えば井門 194 など)。 意義を喪失する過程」( 同 10) である。さ もちろん、世俗化論は各文化圏あるいは らに「世俗化は、社会組織それ自体が、共 国家社会における固有性も認め、例えばベ 同体に基盤を置いたシステムから、大規模 ルギーにおける柱状化 (pillarization) の事例 な契約社会的なものに基盤を置いたシステ のように、世俗化に抗する社会的な過程を ムへと変化する過程と連動して生起する」( 認めはする(ドベラーレ 199)が、合理化 同 14) ものと認識されている。「共同体や を不可避の人類史の流れとして捉え、その 個人の集合体が、それらの役割遂行が合理 付随現象として世俗化を構想する限り、論 的に分節化されている複雑な相互依存関係 の構成からいって単線的なものにならざる へと引き込まれていく過程が、契約社会化 を得ない。 (societalization)」の過程である。この過程の 本書では、世俗化や私事化というこれま 中で、「人間生活は次第に、地域的にではな で宗教社会学において使用されてきた用語 く、社会全体と網の目のように絡み合い、 をまずは意図的に使用せず、この過程を「宗 組織化されるようになる(そうした社会の 教からの脱出」と位置付けている。政治的 中で、唯一ではないがもっとも明確なもの なるものが宗教から脱出する過程、それを は国民国家である)。こうした契約社会化の 他律の政治から自律の政治への脱出と捉え 過程に付随して起こるのが『世俗化の過程』 られているのである。そうすることによっ である」( 同 14)「契約社会の組織は、それ て、本来、宗教社会学が持っていた「共同 自体が合理化過程の帰結である」( 同 1)。 性への問い」という根源的な問いを救い出 このように、「近代化―世俗化」理論の したところに本書のもつ卓越性がある。合 前提にあるのはマックス・ヴェーバーの提 理化の過程という、いわば不問のグランド・ 示した、人間社会における合理化テーゼで セオリーから新たな問いを導き出したので あろう。これは「魔術からの解放」として、 ある。 しかもそれを促したのはユダヤ―キリスト 「市民であることと私的な個人であるこ 教における神の超越性であったとして、次 との分離こそ、民主主義における政治的な のように理解されている。 ものと神学的なものの関係を示す公式」(9) 44 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 であり、民主主義と宗教はひとつの「関係項」 ィ」、ベックの「リスク社会」、バウマンの「リ であるという理解が提示される。そして現 キッド・モダニティ」「コミュニティ」等々 在、一方の危機が他方の弱体化によって招 の業績と、考察の対象が重なり合っている。 かれていると捉えられるのである。ここで 注目すべきは、これらの諸論が主に社会主 本書は、世俗化を世界の合理化の付随理論 義体制の崩壊という時代的契機を受けて生 としてではなく、歴史的なダイナミズムを 起した現象を理解しようという意図をもっ 捉える対象とするのに成功している。政治 て書かれていることだ。そして、本書では、 的なるものへの問い、共同性への問いにお これらの知的努力がなされているという構 いて、ライシテは宗教社会学における重要 図自体も、自らの論理構成に取り込むこと な研究対象たりうる。著者の言葉によれば、 が可能である。つまり、一方の崩壊が、他 「政教関係は公私の変動を知る試金石」(113) なのである。 時代診断学として 知 識 社 会 学 は 時 代 診 断 学 (soziologische Zeitdiagnostik) であらねばならぬと主張され て 久 し い( マ ン ハ イ ム 19=200) が、 本 書も同じ役割を果たしているようにみえる。 方の危機をもたらしている。その危機を測 定する知的営為であるとみることもできる。 宗教からの政治の分離は民主主義ととも に全体主義や国家主義をも産み落とした。 また、世俗宗教としてのマルクス主義を産 み落とした。民主主義は、これらと対立す ることによって生気を得ていたのである。 「民主主義世界の変貌の核心にあるのは、 訳者によればゴーシェはフランスにおける その対極にあったもの [ 他律を軸とする政 「時代の観察者たち」の思想的潮流にあると 治 ] が消滅したために課せられた、民主主 いう。その意味では本書を、知識社会学の 成果の一つとして評価することもできるで あろう。 社会学における近年の業績でいえば、ギ 義自体のとらえ直しである」(11) 本書後半では、「社会主義体制の崩壊」 (102)、 「個人化、技術、経済」(10-10)、 「個 人の諸権利の保障」(110)、「市場原理社会」 デンズの「再帰的近代化」「ハイ・モダニテ における「市場モデルの真の内面化」(133) 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 4 など、魅力的な見解や概念が謎解きのよう た。市民社会は、その構成要素に至るまで、 に提示されてゆく。しかし、ここで指摘す アイデンティティの原理によって再定義さ べきは多元的な社会における多文化主義の れており、政治社会は、自己を正当化する 問題(第 章)と、宗教的信念の置かれた 際にすら、共存の原理によって再定義され 位置の変化(第 章)であろう。 ている」(12) ここでは、多文化主義の問題を指摘する 「公権力はこれまでにないほどの中立性 他の論者と同様に、「すべての個人的な差異 =中性性を余儀なくされている」(13) と指 を私的空間に限定するという浄化的な禁欲」 摘されている。つまり、諸価値が競合し、 (センプリーニ 2003: 149)が立ちゆかなく それぞれが承認を求める状況においては、 なっており、人びとは、市民ではなく、私 それらの諸価値から等しく距離を置くこと 的な個人として、公共空間に承認を求める によってのみ、政治の超越性は担保される 状況が描き出されている。それは公的なも のである。かくして、宗教は民主主義の中 のが力を失ったために突如として「押しつ に招き入れられ、「諸宗教は完全に俗なる他 けられた個人主義」(119) であり、その個人 の思想と横並びになる」(1)。 主義は「個人を市民に変換する機構、仲介 さらに、こうした状況において、宗教の 物」(123) なしに、公的空間において承認を 位置づけも変わっている(信じることの革 求める。アイデンティティは「選択的な帰 命)。「宗教がアイデンティティ問題に引き 属」(140) であり、またそれは個であるがゆ つけられて再定義される」(143) こととなっ えに「多様な多様性」(122) の主張であって、 た。つまり、道徳や宗教が再び自己構築に それらは原理的に矛盾しており、すべてに とって中心的なものとなる状況が訪れてい 対応した一貫した政策などは不可能である。 る。いわば社会化が個人に投げ返されたの それゆえ、政治は「共生」という「一貫性 である。そこでは、宗教に求められている なしのやりくり」(120) を余儀なくされてい ものが、意味の供給から需要へと変貌する。 る。 つまりは買い手市場となっているのである。 「公共空間は今や、原理的には、私的な特 アイデンティティに正当性と根拠を与える 徴を公にすることだけで成り立って」(13) ものとして、宗教は「再利用」されている おり、「ここから緊張や不安定性が生じてく という。 ることは、即座にわかる。アイデンティテ 「今や宗教的な行動の核心をなすのは、探 ィが織りなす新たな社会空間と、個人の差 究であって受容ではなく、自分のものにす 異に基づくその組織化は、矛盾に貫かれて る動きであって無条件の自己犠牲ではない。 いる」(139) と指摘されている。こういった 信仰が模範的であるか否かは、その信念が 状況を招いたものも、先に述べたように、 堅固かどうかよりも、不安が正真正銘のも 民主主義が対立項を失ったからなのである。 のであるかどうかにあり、既存の宗教もそ 「民主主義の容貌が変わったのは、まさに の例に漏れない」(1) 啓蒙主義が勝利を収めたからである。その 「私事化」という、これも宗教社会学の用 ために、戦闘的な啓蒙主義が虚脱状態に陥 語は使わずに、本書では宗教的意識のもつ ってしまったのだ。これによって、市民社 位置を描き出す。また本書で指摘されてい 会と政治社会の表象関係もすっかり変容し る「俗世化」(19) は、世俗化論においては 4 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 「内的世俗化」と表現される概念である。し 化的な」限界を示すものであるとも考えら かし、私事化が宗教意識の行方の終着点で れるからである。その限界は、歴史的な偶 あるかどうかの断定は本書では留保されて 有性や「歴史の遺産」を一方では認めながら、 いる (11)。 問いは常に原理的であらねばならないとい フランスにおける他者、あるいは他者表 象の問題 訳者は、本書が「特殊フランス的なもの」 としてのみ読まれてしまう危険について鋭 く警告している。そのこと自体に評者も賛 成である。それには言葉どおりの意味の他 にもう一つ別の意味もある。近代社会と その原理はひとりフランス革命にのみ、そ の起源が求められるものではないと考える からである。たとえば近代官僚制などは中 国の科挙制度にその起源があり、啓蒙思想 家が「シナ」から学んだものである(平川 19)。他者の存在は近代社会とその表象空 間の成立において大きな影響を与えている。 ビッグバン仮説のようにフランス革命を う彼の問いのスタイルの中に、実は構造的 に織り込まれている。 本書におけるイスラームに関する言及は 極度に少ない。またアフリカについては皆 無である。もちろん、訳者のひとりが解説 するように、本書はフランスを対象とし、 またフランス読者に向けて著されたもので あることも、その大きな理由であろう。 しかし、本書では、ライシテにおいて現 代フランスで問題化される「イスラーム」 や宗教的熱狂の現象は「本質的に外側から やってきている」() ものと認識されてい る。では、そもそも何故イスラム教徒がフ ランスに存在するのだろうか?これは植民 地主義に言及せずには答えられない問題の はずである。つまり、本書の問いが持って 捉えることには、世俗的な一種の創世神話 いるのは、事象や状況を、フランス固有の、 が忍び寄っている。神は一度だけこの世界 あるいはフランスに内在する原理や論理に を創造したが、それ以降はこの世界とは関 よってのみ解明するというスタイルなので わらないとする、一種の理神論 (deism) 的な ある。このスタイルをとる限り、「外部」は フランス革命観を本書にもみることができ 常に捨象されてしまう。移民の存在と、近 る。もちろん、このことは社会学の伝統か 年におけるその問題化はアイデンティティ・ らすれば驚くにあたらない。社会学、とり ポリティクス(ゴーシェのいう「承認の政 わけフランス社会学はその発生の当初から )の問題としてのみ捉えられるものでは 治」 革命後の社会的な混乱をいかに制御し収拾 なく、やはり経済的動因や産業構造の変化 するかという使命感を帯びていた。社会学 が大きな動因となっているはずである。工 という「知」そのものが、フランス革命の 業化の時代に労働力として必要とされた旧 落とし子であったともいえるであろう。あ 植民地からの移民が、ポスト産業化の現在 たかも、社会学という営みそれ自体が、フ ランス革命を確認し顕彰する数世紀にも渡 では不必要になっているのは明白である。 「事象というものの中身は、その大部分が人 って営々と続けられている長い讃美歌であ の抱く表象でできている」(124) としても、 るかのようだ。しかし、 (ゴーシェに倣って) 結局のところすべてを表象レヴェルの問題 この問いはもう一歩、深められる必要があ として回収してしまう方法には、(確かに鋭 るだろう。それは、ゴーシェの立論の「文 くかつ感嘆すべき著者の力量が示されては 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 4 いるが)社会科学としては不十分さを感じ ざるを得ない。 State, Cambridge University Press, 200. タラル・アサド『世俗の形成―キリスト教、 同時に、フランサフリック La Françafrique の問題(ヴェルシャヴ 2003)に代表される ような、過去のみならず、現在における植 民地主義の問題についても言及されること イスラム、近代』中村圭志訳、みすず書房、 200 年。 フランソワ = グザヴィエ・ヴェルシャヴ『フ ランサフリック―アフリカを食いものにす はない。「文明」を主張するための「野蛮」、 るフランス』大野英士、高橋武智訳、緑風 近代の市民は他者表象を必要とする。これ 出版、2003 年。 は、文化人類学における批判理論がもたら した共通の認識である。また、現代フラン スの産業構造自体がアフリカの資源の利用 抜きには考えられないのは事実である。 こうした問題は、問われることのない近 代(そして現代)フランスの暗黙の前提で あるのだろうか。だとすれば、その前提に は危うさが内包されている。つまり本書も また、事実を覆い隠す目隠しの役割を果た してしまうことになる。世俗国家体制はヨ ーロッパにおける編成プロジェクト(アサ ド 200)のひとつに過ぎないという指摘も 考え合わせる必要があろう。本書が扱う近 代には、「キリスト教文化圏における近代」 と但し書きが付け加えられるべきであろう。 以上、3 点に渡って本書の評価を試みた。 すでに述べたように、宗教と国家の関係性 を巡る問いは宗教の持つ「共同性への問い」 であり、人間に関する根源的な問いでもあ る。人類が社会的な存在であり続ける限り、 今後も、さらなる研究の深化がのぞまれる 研究領域である。現在の日本の学的状況に おいて、広い視野と新しい問いを提示して みせる本書が邦訳出版されたことには、宗 教社会学の再生のために計り知れない価値 があるだろう。 粟津賢太(あわづ・けんた) 南山宗教文化研究所研究員 【参考文献】(順不同) Jonathan Fox, A World Survey of Religion and the 4 ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フラン ス―フランスは「住めば都」か』鳥取絹子訳、 集英社、2003 年。 アンドレア・センプリーニ『多文化主義とは 何か』三浦信孝・長谷川秀樹訳、白水社、 2003 年。 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫 理』論文における資料操作の詐術と「知的 誠実性」の崩壊』、ミネルヴァ書房、2002 年。 井門富二夫『神殺しの時代』日本経済新聞社、 194 年。 平川祐弘『西欧の衝撃と日本』講談社学術文庫、 19 年。 ブライアン・ウイルソン『宗教の社会学―東 洋と西洋を比較して』中野毅・栗原淑江訳、 法政大学出版局、2002 年。 カレル・ドベラーレ「ヨーロッパにおける宗 教と政治」『東洋学術研究』第 3 巻第 1 号、 (42-1 ページ )、199 年。 ジグムント・バウマン『政治の発見』中道寿 一訳、日本経済評論社、2002 年。 ジグムント・バウマン『リキッド・ライフ― 現代における生の諸相』長谷川啓介訳、大 月書店、200 年。 ジ グ ム ン ト・ バ ウ マ ン『 コ ミ ュ ニ テ ィ ― 安 全と自由の戦場』奥井智之訳、筑摩書房、 200 年。 ウルリッヒ・ベック、スコット・ラッシュ、 アンソニー・ギデンズ『再帰的近代化―近 現代における政治、伝統、美的原理』松尾 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 精文、叶堂隆三、小幡正敏訳、而立書房、 歴史的経緯から移民系社会にイスラーム系 199 年。 の人々が高い割合を占めているのだが、産 アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己ア 業構造の変化のために現在、移民系社会で イデンティティ―後期近代における自己と 失業が多く、それが原因となって社会問題 社会』秋吉美都、安藤太郎、筒井淳也訳、 が多発している。そうした問題が起こる度 ハーベスト社、200 年。 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズ ムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、 岩波書店、199 年。 カール・マンハイム『イデオロギーとユート ピア』鈴木二郎訳、未来社、19 = 200 年。 に、フランスではライシテをめぐる議論が 再 燃 し、 沸 騰 状 態 と な る。199 年 に 出 版 された本書の原著書名は La Religion dans la démocratie: Parcours de la laïcité( 『民主主義に おける宗教—ライシテの道程』)であり、書 名が示すとおりフランスにおけるライシテ の史的展開を詳細に分析した本書がフラン 粟津研究員による書評の後、丸岡氏による 書評がおこなわれた。以下にレジュメを掲 げる。 スにおけるこうしたライシテ議論の高まり と無関係であるはずもないことは言うまで もない。 本書ではゴーシェ自ら冒頭で述べている とおり、主著 Le Désenchantement du monde: 丸岡高弘氏による書評 フランスにおいてごく最近まで「ライシ テ」という概念はとりわけ教育問題をめぐ るカトリック教会との確執という枠の中で 議論されることがもっぱらであった。しか し近年、様相は一変し、ライシテとはなに よりもとつぜん可視性を増したイスラーム をどのようにフランス社会に位置づけるか という問題であると意識されるようになっ た。 周 知 の と お り 199 年 に お こ っ た「 イ スラームのスカーフ事件」がこうした問題 を急速に前景化させるきっかけとなったの だが、以来、ライシテ論争は一転して性格 を変え、「 政教分離をうけいれようとしな い 」 イスラームに対抗して「フランスの国 une histoire politique de la religion (『世界の脱 魔術化——宗教の政治史』、Gallimard, 199) で展開された議論の特殊例としてフランス のライシテ原則の歴史が述べられているの だが、ゴーシェのライシテの現状分析は彼 の中心的なテーマである「宗教からの脱出」 という総体的な概念と関連づけて初めて意 味がある。ゴーシェの議論の射程はきわめ ておおきく、それが展開される時間的スケ ールも広大なものである。その中心テーマ は一言で言えば「いかにして政治的空間が 組織されるか」ということであるが、それ は同時に「いかにして人間はあるか」とい う問題でもある。ゴーシェは自らの設定す る課題をしばしば「超越論的人間社会学」 是」であるライシテを擁護すべきであると と表現している。ゴーシェにとって「人間 か、あるいは逆に、新しい宗教的要素であ である」ということは「社会的存在である」 るイスラームをフランス社会に調和的に受 ということと表裏一体である。つまりルソ け入れるためにライシテを柔軟化すべきだ ーの自然人のように社会以前の自然状態の という形で議論が展開されるようになった。 人間がまずあって、それが次に自然状態を フランスに限らずヨーロッパ各国において 脱して社会を形成するといった論理構成を 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 49 ゴーシェはとらない。しかし「社会的存在 者性を排除することである。それによって としての人間」も「自然にある」わけでは 人間は「自律的主体」となり、社会も自分 なく、「社会的存在」として自分自身を構成 自身のなかに存在の根拠をもった自律的社 する。あるいはそれはこうも言えるだろう 会となる……。 ——「自然的にある」わけではない社会的 しかし「他律性から自律性へ」というシ 存在としての人間は自分自身の存在の根拠 ェーマから進歩主義的な歴史観を連想する を常に探し求めなければならない。そして とゴーシェを完全に誤解することになるだ それが最初は宗教だったわけである。 ろう。というのもゴーシェは自律性の確立 こうしたゴーシェの立論においてまず強 を人間=社会の疎外からの解放、本来的な 調すべき点は二点ある。第一はゴーシェに 自己への回帰という形で構想してはいない おける人間の二重性、個人であることと集 からである。ゴーシェは 2003 年に出版さ 団を構成する存在であるという二重性であ れた La Condition historique(『歴史的条件』、 る。その結果、ゴーシェの議論は集団性の Stock, 2003)というインタビュー形式の本 成立可能性(=「政治的なるもの」)と人間 の中で、宗教から脱出し、人間が主体とし 的主体のあり方の変化(=「心理的なるも て自己を措定した後の状況について次のよ の」)の二つの問題を平行して扱うという うに語っている。「しかし人間が主体になる スリリングな展開をすることになる。第二 のは極めて意外な道・方法を通ってである。 はゴーシェの宗教という概念の規定の仕方 つまりそれは自分自身との一致とは正反対 の特殊性である。ゴーシェは宗教の本来的 である。フォイエルバッハ風の自己回復と な機能を「人間的なるもの=社会的なるも いう図式に従えば、人間は疎外から解放さ の」にたいして存在論的根拠をあたえると れることによって自分自身にたいする透明 いう側面に限定して把握している。ゴーシ さを獲得する。しかしおこったことはそれ ェの言う「宗教からの脱出」とは宗教がそ とは正反対のことである。(……)つまり人 のような機能を喪失するに至ったことを示 は自分自身の内部に内的他者を発見するの すのであり、それ以外のことを意味しない。 だ。(……)かつて超自然的他者が人間の自 だから「宗教から脱出」した社会において、 分自身との機能的同一性を生みだしていた。 社会的意味をもたない個人的な精神救済の 自律性という形而上学的アイデンティティ 方途としての宗教が隆盛をきわめても、そ がうみだされたとき、人間の自分自身に対 れはゴーシェのテーゼにまったく矛盾しな する関係は機能的他者性となった。」(2) い。社会的存在でもある人間存在は自分自 この「内的他者」という観念は理解が容易 身のなかに根拠をもたない、無根拠な存在 ではないが、これは構造主義隆盛時代によ である。だから原始の時代において人間(= く論じられた「私ではなく言語(あるいは 社会)は「構成的他者」に自らの根拠を求め、 階級意識や無意識)が語る」といった類の それによって人間はアイデンティティを獲 議論ではない。実際、ゴーシェは「主体の 得する。つまり始原の人間(=社会)は宗 消滅」論者とは一線を画し、それを明確に 教という外在的な原理に依存した他律的存 否定している。だからこの表現はむしろ人 在であったわけだが、「宗教からの脱出」と 間存在の無根拠性がもたらす状況を指示し は人間(=社会)の定義・自己把握から他 ていると考えられるべきであろう。人間= 0 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 社会は自存的ではなく、他者によってしか シェによればライシテが活力をもっていた 根拠づけられない。従って、もし自分の外 のは教会と国家の緊張関係があったからで 部にある他者によって規定されることをや あり、公共空間が宗教との対抗関係の中で めて、自分自身の中に根拠をもとうとする 自らが価値創造の中心的主体となりえてい と自分自身の中に他者を発生させるしかな たからである。つまり公共性・集団性が個 いのだ。 人の狭小さを超えて価値あるものを実現す つまりゴーシェにおいて「自律性」とい る場であるという意識が共有されていたの う言葉の価値はきわめて両義的であり、そ である。しかし現在、教会の圧力が低下し、 の獲得は必ずしも肯定的な意味での人間 国家自体が緊張感を喪失したために、公的・ の「自己解放」を意味しない。というかゴ 集団的なるものの地位が低下する。その結 ーシェにとって、個人であると同時に社会 果、公的空間が超越性を喪失し、私的空間 的存在でもあるという二重性をもった人間 が自己の存在を主張し始める。ひとびとは は永遠に「政治的なるもの」によって拘束 集団的目標に価値が感じられなくなり、集 されているのであり、その拘束から解放さ 団的なものに参加するよりも個人の自由の れ自由になれると考えるのは幻想にほかな 保護が中心課題になる。要するに生きるこ らないのだ。これは本書に展開されたフラ との意味が公的空間から私的空間に移行し ンスにおけるライシテの変遷と現状の評価 てしまうのである。かつては個人的な差異 についても明白にみられる。ゴーシェにと は無意味であり、自己をのりこえて普遍的 って国家の誕生以降、人類の歴史は紆余曲 なものと一体になることによって真の自分 折を経ながら「宗教からの脱出」の増大の になることができると考えられていた。し 方向に確実に向かっていることになるのだ かし今、それは逆転する。抽象的な「人間 が、本書では議論は近代に限定され、それ 性」から解放されて本当の「あるがままの が三つの時期、(1)絶対王政時代(大革命 自分」に戻ること、これが現代のアイデン まで)、(2)大革命以来の「共和主義的分 ティティのありかたである。こうした「個 離」、(3)「現代」に分類されている。王権 別性」の自己主張の媒介となるのが、かつ が宗教的権威に依存した「他律的な政治権 ては「市民社会」のなかに閉じ込められて 力」の理論であるように思える王権神授説 きた宗教などの「個別的」集団性である。 の絶対王政時代が、国家による宗教的権威 しかし、先ほど引用した『歴史的条件』の からの独立を意味するという一見逆説的に 一節を想起すればこの「あるがままの自分」 見える議論や、第三共和政時代が公的空間 が「本当の自分」の「再発見」とはほど遠 と私的空間のあいだに「市民社会」という いものであることは容易に想像できるだろ 第三の空間を設定し、そのなかで教会とい う。そして実際、ゴーシェにおいてそれは う個別的集団性が展開されることを許容し ある種の不毛さを刻印されたものとして提 たなどの議論のそれぞれは非常に興味深く 示されるのである。 説得的であるのだが、ここでは第三の時期 ゴーシェがここで論じている個別的集団 (現代)における教会の弱体化によるライシ 性や個別主義的アイデンティティが、フ テ自体の弱体化という議論についてすこし ランスでは通常「共同体主義」として批 詳しく見てみることにしよう。つまりゴー 判の対象となっているものであることは見 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 1 やすいことである。それは典型的には哲学 ものの神聖化をもたらす。ボベロはウェー 者のフィンケルクロートの『思考の敗北』 バーの表現を借りてこう述べる。「社会の脱 (Défaite de la pensée, Gallimard, 19) などに見 魔術化は世俗主義の魔術化をもたらす」。た られるものである。フィンケルクロートは とえば医学である。旧体制下、宗教が死を その中で文化的出自に拘束された精神のあ 管理していた。人は重病になるとなにより り方を「思考の敗北」と名づけ、啓蒙主義 も終油の秘蹟をうけることが重要視されて 的理性によって人間が所与の条件を絶えず いた。しかし徐々に魂の救済より患者の治 のりこえる努力を継続することの必要性を 療が優先されるようになり、結果的に終油 主張した。こうした彼の思想的立場からす の秘蹟を受けないで死んでしまうものも多 れば、一つの社会のなかで複数の文化が併 くなる。さらに医療行為の国家統制(免許 存することを容認し、さらにはその自律性 制、医療提供義務化、種痘など医療措置強 を尊重することを主張する多文化主義は「共 制化)など、実際には治療の実効性がほと 同体主義」として否定されることになる。 んどなく医学がまだ魔術的段階にあるにも 所与の文化的アイデンティティはのりこえ かかわらず、共和主義的制度の中に確固と の対象なのであって保護の対象ではない。 した位置づけが医学に対して与えられるよ それは精神の牢獄であるばかりではなく、 うになる。つまり死が世俗化されると同時 共通の場での対話を阻害し、公共空間—— に死と対面するための世俗的手段が魔術化 ひいては共和国——の成立そのものを危う される。医学・医療が共和国の神聖な(強 くする危険をはらんだものである。 制的な)制度の一環となるのである。そし ゴーシェとフィンケルクロートの公的空 てボベロによれば近代的ライシテの第三段 間=私的空間をめぐるトポグラフィーは必 階である現代はこうした魔術化した共和主 ずしも同一ではなく、それ自身、興味深い 義的公的制度それ自体の脱魔術化の時代と 問題をはらんでいるように思われるのだが、 して規定される。それは具体的には医学に ここではとりあえずゴーシェが近代ライシ 関しては安楽死など「治療を受けない権利」 テの第三期たる現代について社会のアノミ や患者の「告知をうける権利」として表現 ー化の危険をかぎとっているという点をと される。つまり宗教からの解放を実現した くに強調しておきたい。 公権力がそれ自身、拘束的幻想となったわ このことはゴーシェの議論をフランスの けだが、ボベロ風に表現されたライシテの ライシテ研究者ジャン・ボベロと対比する 第三期たる現代はこうした拘束的幻想から ことでいっそう明らかに見えてくるように のさらなる覚醒を意味しているのだ。 思われる。ボベロは 2004 年に出版された 先に引用した『歴史的条件』の主体性に Laïcité 1905–2005 (Seuil, 2004) という著作のな 関する議論でもみられるとおり、ゴーシェ かでゴーシェと同じように近代を三つの段 は無限後退的な「拘束的幻想からの解放」 階に分類している。正確な時代区分は両者 に一切の幻想を抱いていない。ある所でゴ で必ずしも完全に一致しているわけではな ーシェは次のように語っている。「脱構築 いのだが、ボベロは第一期、第二期を政治 の哲学者達は自分より上から来る(=超越 権力による教会権力コントロール拡大の時 的な存在)呼びかけの背後にどんな抑圧・ 期とする。しかしそれは同時に世俗的なる 支配・決定論的思考が隠されているかを示 2 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 し、そうした病から未来の人類を治療しよ 教からの出口となる宗教」と規定し、ゴー うとするだけだ。彼らは要するにわれわれ シェのキリスト教に関する評価を換骨奪胎 に思慮深いエゴイズムを教育しようとして した形の議論を展開していることを見ても いるのだ、まるでわれわれにそういう教育 ゴーシェの論考が現代社会の宗教をめぐる が必要であるかのように……。」(Le Religieux 状況と符合するように見える点が多いこと après la religion『宗教後の宗教的なるもの』、 は明らかである。管見するかぎり、ゴーシ Grasset, 2004, ) ゴーシェは「歴史の終焉」 ェがヨーロッパにおけるイスラームを正面 など信じない。現在はもちろんのこと、未 からとりあげた論考は未だひとつもないよ 来においても。そうした意味でゴーシェは うであるが、ゴーシェがこの問題について 確かにポスト・マルクス主義時代の思想家 もその分析の腕をふるうことを期待したい。 なのだ。 丸岡高弘(まるおか・たかひろ) 南山大学 最後に本書における注目すべき一つの不 在について言及しておきたい。それはイス ラームである。実際、本書でゴーシェはフ 丸岡氏の発表ののち会場の参加者の自己 ランスにおけるイスラームについては脚注 紹介がおこなわれ、 分ほど休憩が取られた。 で一度言及するのみであり、それもヨーロ ついで訳者である伊達聖伸氏によるリプラ ッパ社会にとっては「外から移入された」、 イがおこなわれた。内容を以下に掲げる。 「周縁的な現象」にすぎないと語っているの である。これは現在のフランスの状況を考 えると極めて特異な事態である。イスラー ムがヨーロッパにとって近年になって「外 伊達聖伸氏のリプライ 粟津氏は、ゴーシェの「宗教からの脱出」 から移入された現象」であるとしても、そ というテーゼを、世俗化論と現代社会論の れは現在では「周縁的な現象」であると言 地平において検討し、さらに植民地主義の えないことは明白である。この不在がとり 観点から批判的な論点を提出した。丸岡氏 わけ奇妙に思えるのは、フランスにおける は、ゴーシェのテキストを綿密に分析しな イスラームの現状をゴーシェの議論の延長 がら、近現代社会における人間の主体形成 上でとらえることは決して不可能ではない という主題に肉薄した。粟津氏のコメント ように思われるからである。確かに一見す が手際の良さと明快さを特徴としていたと るとイスラーム信仰を梃子にしてフランス すれば、丸岡氏のコメントは襞に分け入る の政治的空間に参入しようとするイスラー ような繊細さと慎重さを特徴としていたよ ム主義運動の存在はゴーシェの「宗教から うに思う。 の脱出」というテーゼに逆行するものに見 えるかもしれない。しかしそれも「市民社会」 両氏からコメントをいただいて感じてい るのは、訳者のリプライというのは立場上 (宗教団体)を媒介とした集団的個別主義の 微妙だということだ。粟津氏からの批判に 活発化という枠内で十分理解可能なもので 対しては、訳者として著者を擁護したい思 あろう。また本書でも批判的に言及されて いに駆られる部分もないではない。だが、 いるアラブ世界の専門家・社会学者ケペル そのような読み方をされること自体は、と が『ジハード』においてイスラーム主義を「宗 てもよく理解できる。ここでは私は、著者 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 3 の弁護をするよりも、議論をより多角的に 書からはなかなか伝わってこないところが するような発言をしたい。丸岡氏は、ゴー あるかもしれない。丸岡氏の言うゴーシェ シェの個々のテキストを言葉として理解す の難しさとは、そのあたりに一因があるの ることはできるが、全体像とのかかわりに ではないか。 おいて理解することが難しい、という趣旨 本書においてゴーシェが種明かしをして のことをおっしゃったと思う。私には、ゴ いる「からくり」のひとつは、近代民主主 ーシェの全体像をぼんやりと理解したつも 義に大義を与えていたのは、他律志向の宗 りになっているところがあるが、丸岡氏の 教であったということだ。しかし、ヨーロ 指摘は、実際には非常に繊細な部分を突い ッパの民主主義は、自己意識を補強するよ たものであり、私がこの場で、あたかも著 うな他者像を植民地に求めることからも、 者になり代わったかのようにして答えるこ その大義の養分を得ていたのではないか。 とは不可能だと感じている。 粟津氏のコメントは、この点を思い起こさ そこで、(1)アプローチの異なる両氏の せてくれる。 コメントの共通点と思われるものを、やや 自律の政治の企てが、宗教という他なる 強引に抽出し、共有されるべき大きな論点 ものとの対決によって支えられていたのな を確認する。(2)各論として、丸岡氏のコ ら、その対戦のさなかに、他なるもののあ メントの一部を拾いあげつつ、粟津氏の問 り方がどう変容したのかが、ひとつの大き 題関心につながるような論点を提出する。 なポイントである。ゴーシェは本書におい (3)ゴーシェの議論を日本の宗教史に応用 て、政治の場における宗教的なものについ するとすれば、どのようなことが言えるか、 ては、非常にうまく説明しているが、自律 提言を試みる。以上 3 つのことについて述 社会における他なるもの、(植民地に象徴さ べることで、与えられた任務を果たすこと れるような)自律社会の自己イメージの強 にしたい。 化のために表象される他なるものを、必ず (1)粟津氏が指摘した植民地主義の問題 は、近代フランス(あるいはキリスト教的 0 0 ヨーロッパ)の他者表象の問題にかかわる。 丸岡氏が分析した近代以降の主体形成の問 0 0 題は、他者性のゆくえの問題と切り離せな い。 ゴーシェは、宗教がもともと人間社会の しも網羅的にカバーしているわけではない。 私の理解では、お二人のコメントはこの点 を穿つものだったと思う。自律社会と他な るものの関係をどう考えるかという問題は、 非常に大きなものだが、さまざまなフィー ルドにおいて具体的に考察され、深められ ていくべきだろう。 外部にある他なるものであったこと、宗教 (2)丸岡氏はコメントのなかで、ジャン・ から脱出した社会においても他なるものが ボベロの「ライシテの 3 つの段階」に触れ 操作概念として長いあいだ機能してきたこ とを、本書において説得的に示している。 ている。私は、ボベロ『フランスにおける ラ イ シ テ 脱 宗教性の歴史』(白水社、2009 年)の翻 だが、近代における政治的なものの宗教性 訳にも携わっているので、ボベロとゴーシ を明確に指摘していることに比べれば、近 ェのものの見方を比べてみたい。 代社会における人間の主体形成に根拠を与 ゴーシェによれば、ライシテの第一段階 えている他なるものの具体的な諸相は、本 は絶対王政期、第二段階はフランス革命収 4 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 束の時期から 190 年頃までである。ボベロ られるようになってきている。これにちな の第一段階は、フランス革命をくぐり抜け み、ゴーシェ流の三段階という見方でとら る時期で、第二段階は第三共和政初期(10 えてみたら面白そうな現象として、死者と 年代から 1900 年代)だから、両者で時期設 生者の関係を挙げることができよう。ゴー 定が異なっている印象を与えるかもしれな シェのモデルに従えば、宗教から脱出する い。だがゴーシェは、1900 年頃に集合性の 以前の他律社会で生者が行なうのは、死者 了解についての変化があったことを考慮に 崇拝(culte des morts)である。参照される 入れており、これはボベロの第二段階と時 重要な時間軸は「過去」である。生者に求 期的に対応する。ボベロも、もちろんフラ められるのは、しきたりどおりに物事を運 ンス革命以前の状況を考慮に入れていない ぶことであって、新しいことを編み出すこ わけではない。そう考えると、時期区分の とではない。これに対し、宗教からの脱出 点で両者のあいだに大きな齟齬があるわけ を遂げつつある近代国民国家において、死 ではない。 者に向き合う態度を最もよく象徴するのは、 しかしそれは、何らかのニュアンスの違 いを反映してはいるだろう。ゴーシェは、 宗教と政治の相関関係に注目して、第一段 階(政治に対する宗教の従属)と第二段階 (共和主義的・自由主義的分離)を見分け る。これに対してボベロは、ライシテを要 素的にとらえ、画期となる歴史的出来事の 意義を複眼的に測定しようとする。たとえ ばボベロは、19 年のナントの勅令に、信 教の自由の進展を認め、それをライシテの 一要素として評価する。信教の自由という 観点からすると、ルイ 14 世のナントの勅令 記念=顕彰行為(commémoration)である。 過去という時間軸を参照しているようだが、 生者の関心はむしろ「現在」や「未来」に あるとゴーシェは指摘する。では、ここ 30 年くらいで民主主義のあり方が変化してい るように、生者が死者に向き合う態度も変 化しているのだろうか。死者の記憶という テーマが、粟津氏のご専門のひとつである ことを意識しつつ、ゴーシェ的な図式はこ のような局面においてどれくらい有効で、 どれくらい説得的か、問いかけてみたい。 (3)今日では、日本に西洋の理論を直輸 廃止は、ライシテの後退を表わしているよ 入することを考える人はあまりいない。私 うに見えるかもしれないが、ボベロはここ が考えているのも、当然そのようなことで に、宗教に対する国権の強化という別の面 はない。それでも、ゴーシェが描き出した でのライシテの要素を見出している。この ように、1 世紀から 1 世紀にかけて宗教が ようにボベロは、複数の尺度を用いながら、 社会における宗教のあり方が歴史的に大き 政治に「従属」していったこと、19 世紀に 「分離」が課題になったことは、それなりに く変化した時点を画定するアプローチを取 世界史規模の構造転換だったのではないか。 っている。 少なくとも、日本の政教関係史をそのよう 丸岡氏は、ボベロの三段階が、医療のあ な観点から見直すことで、有意義な国際比 り方の変化を説得的に描き出していると述 較の糸口が見えてくるのではないか。以下 べている。すなわち、終油の秘蹟を優先し に述べることは、現段階では思いつきのレ ていた時代から、治療優先の時代へと移り、 ベルに留まるものだが、もっと真剣に考え 今日では患者が治療を拒否する権利が認め てよい問題だと思っている。 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 ヨーロッパで宗教改革が起こり絶対王政 人物がいる。この脱出は、彼に一種の解放 が確立していく時期は、日本では戦国末期 をもたらしたはずだが、その一方で、彼は から江戸初期の時代に当たる。当時の政権 権威の不在にどう対処するかという新たな は、一向一揆や島原の乱の鎮圧、仏教の「葬 問題に直面したように思われる。その点を 式仏教化」などを通して、まさに宗教を政 綿密に分析していけば、あるいは戦後日本 治に「従属」させる課題を遂行していたと の民主主義の特徴の一端が浮かび上がって 言える。 くるかもしれない。 源了圓は「日本思想における国家と宗教」 伊達聖伸(だて・きよのぶ) 東北福祉大学 (1992 年)のなかで、日本の政教関係史にお いて、政治優位という現象が起こったのは 1、1 世紀だと指摘したうえで、19 世紀の 政治優位は「ある種の宗教が絡まっている 政治優位」だと述べている。もちろん国家 以上の伊達氏のリプライについで、藤田 尚志氏による書評へのリプライがおこなわ れた。内容を以下に掲げる。 神道の形成を意識したうえでの言明であろ う。ここで、ゴーシェの議論を参照するな らば、宗教からの脱出がしばしば新たな政 治的な宗教の再構成につながっている、と いう指摘は意味深長である。もうひとつ、 藤田尚志氏のリプライ 細部への眼差しから哲学的核へ (方法論の問題) ゴーシェとともに考えてみたいのは、19 世 原理的な問い 粟津氏が鋭く指摘してみせ 紀の政教関係の課題であった「自由主義的 たとおり、ゴーシェ思想の特徴の一つは、 分離」という考え方が、日本ではどう受容 その論述の構造にある。「経済や技術によっ されたのかという点である。島地黙雷は、 て引き起こされる現象から性急に解釈を引 ヨーロッパの視察旅行で「信教の自由」の き出すのではなく、常に原理的な問いを投 着想を得た。ところが、黙雷が唱える「分 げかける構造を持っている。見かけに惑わ 離」は神道非宗教論につながるもので、仏 されてはいけない、ものごとは目に見える 教者である彼の議論がのちの国家神道の論 ことがすべてではない。これは、本書の中 理をお膳立てした面もある。だとするなら で繰り返される問いのスタイルである」。こ ば、西洋的な「自由主義的分離」は、輸入 のようなゴーシェの立論がもつ「『文化的』 の過程で内容が変質してしまったのではな な限界」、それは「歴史的な偶有性や『歴史 いか――このような仮説を立ててみること の遺産』を一方では認めながら、問いは常 ができるだろう。 に原理的でなければならないという彼の問 思いつきついでに、最後に触れてみたい いのスタイルの中に、実は構造的に織り込 ことがある。ゴーシェは、西洋近代の民主 まれている」。ともすれば、植民地主義の問 主義を、キリスト教からの脱出によって特 題、経済的動因や産業構造の変化など、「結 徴づけている。この壮大な議論のスケール 局のところすべてを表象レヴェルの問題と に比べれば、あまりにマイナーだが、第二 して回収してしまう方法」には「社会科学 次世界大戦後の日本のキリスト者に、「キリ としては不十分さを感じざるを得ない」。こ スト教からの脱出」を唱えた赤岩栄という の「原理的な問い」に関する指摘は、ゴー 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 シェ思想の特徴を見事に突いており、これ のでしょうか、と問われたゴーシェ自身、 からも繰り返し指摘され続けるであろう方 こう答えている。 法論的な問題を提起している。したがって ここではっきりとさせておく価値がある。 哲学の書 何よりもまず最初に強調しなけ それだけはありません。というのも、あな たが指摘されたように、私は実に異なるさ まざまな領域に入り込んできたからです。 ればならないのは、原理的な問いかけが必 それらを全体化(totalisation)しうる可能性 然的に私たちを形而上学的な次元の考察へ があるとは思いません。私の仕事に一貫性 と誘うとしても、それが必ずしも悪いこと であるとは限らないということである。あ る考察が社会学的な基準に照らして不十分 である――植民地主義や経済的・産業的・ 科学技術的動因といった、いわゆる「下部 構造」的なもの、その意味で「形而下的」 なものへの関心が希薄である――というこ とと、その考察が形而上学的(哲学的)な 価値をもつか否かということは別問題だか らである。「形而上的なもの」と「形而下的 なもの」、「哲学的なもの」と「社会学的な もの」の間で優劣があるわけではない。大 切なのは、それぞれのよい点を掬い取り、 救い出すことである。粟津氏も強調してい るように、「社会学、とりわけ宗教社会学に とっても見逃すことのできない業績である」 としても、本書はまずもって「哲学の書」 であるという点をもう一度確認しておこう。 神は細部に宿る 形而上学にとって最も難 しいのは、ある哲学的思惟を極限にまで進 めることではなく――極限にまで進むこと が形而上学の無意識的な欲望なのだから― ―、思考を「現実」と触れ合う地点に留め 置くことである1。重要なのは、問いが原理 的な地点に絶えず引き戻されるか否かでは なく、その原理的な問いが「現実」と触れ 合う可能性をいかに確保しようとしている かである。精神病院の歴史、無意識の歴史、 (cohérence)がないと思っているわけではあ りませんよ。もちろん重なり合う部分はあ ります。ただ、それらがある体系の中で本 当に結び合わされ、精神が己自身になるよ うな、完全で包括的な整合性(consistance) が与えられることはありません。毎回個別 的な経路を辿らねばならないのです。個別 的な経路を辿るたびに[…]、ひとはこれま で気づかなかった次元を発見します。[…] 個別的な歴史の細部に関わり合うのは、博 識ぶりたいからではなく、ただ単に包括的 なヴィジョンを与えるなどということを信 2 じていないからです 。 ゴーシェは、絶えず歴史という迂回路を 経て、小さな視点を積み重ね、完全で包括 的な整合性を断念し全体化を拒みつつも、 一貫性のある「単独複数存在」(ナンシー) の思考を織り上げることで、 「原理的な問い」 の「現実的なもの」との接点を確保しよう としているのである。「私が絶えず気に懸け てきたのは、マルクス主義へのオルタナテ ィヴとなる歴史の思考を練り上げることで 3 す」(2) 。したがって、ゴーシェの歴史的 な考察は一定程度評価するが、彼の「原理 的な問い」は拒絶するという仕方で評価を 下すことはできない。それらは切り離せな い、ゴーシェ独自の方法論の表裏なのであ る。 宗教の政治的歴史を書き継いできたマルセ 方法論の争点=賭け金 このようなゴー ル・ゴーシェの著作群の歴史を辿ると、あ シェの方法論の中には、時代との対決、す る歴史哲学ないし歴史の科学が演繹される なわち「構造主義/歴史主義という偽の対 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 立」(3)への批判がある。すなわち、歴 語の最も強い意味での、つまり思索や、意 史 の 歴 史 性・ 出 来 事 性 の 軽 視 と、 社 会 構 志、自由を備えた存在としての「個人」は、 4 4 4 造の厳然たる存在の軽視を同時に に批判 いかにして個々の望みを達成するに至るの す る の で あ る。「 歴 史 の 中 に は 確 定 事 項 か?両者の間に混淆があるわけでもなけれ (déterminations)がありますが、[…]決定 ば、それらを引き離す可能性があるわけで 論(déterminisme)はありません」、あるい もないのに。これが問いの方向性です」 (34)。 は「歴史は確定事項からなっていますが、 「人間と社会の解きがたい結びつきのうちで 未規定的(indéterminée)です」(id.)。表面 それらの可能性の条件を考え抜く」、これこ だけを見れば、両立不可能とも見える〈歴 そゴーシェの言う「超越論的人間社会学」 史と構造〉の対立にも表裏一体の関係や共 (anthropo-sociologie transcendantale)に他な 犯関係を見出す視点は、必然的にある学問 らない(3)。 分野の枠を飛び越えようとする――「あな 〈宗教的なものの回帰〉と〈宗教からの脱出〉 たの著作はある新たな学問的なアプローチ を形成しているのではないでしょうか?」 という問いに、 「それは学問分野(discipline) ではなく、研究姿勢(démarche)です」と ゴーシェは答えている(id.)。観念論と唯物 論の同時的な批判、形而上的なものと形而 下的なものへの同時的な注視を強く求める 眼差しは、遠くから見たとき、観念論に近 く、形而下的なものの軽視に見える。だが、 では最後に、超越論的人間社会学は、現在、 宗教をどのように見るのか。この点で参考 になるのが、『世界の脱魔術化』に対して提 起された疑問・批判へのリプライ集に他な らない『脱魔術化された世界?』の序文「宗 教の政治的歴史から人間学的歴史へ」(2004 年)である4。代表作『世界の脱魔術化』 (19 年)刊行から約二十年間に生じた文脈の変 動――すなわち、①イスラム教のみならず、 それこそが、哲学の脆さであるとともに強 ユダヤ教やヒンズー教にも見られる「原理 さでもあるのだ。ゴーシェが自身の歴史的 主義の伸張」、② 9.11 以後「十字軍精神」や な思考の「哲学的」ないし「思弁的」な次 「神権政治(テオクラシー)」といった言葉 元を十分に自覚していることをあらためて が飛び出すまでに至った「アメリカ的特異 強調しておこう(3)。 性」、そして③教会の権威が持続的に低下す 宗教の政治的歴史から人間学的歴史へ (分析対象の問題) 超越論的人間社会学 このように相次いで 異なる領域を探索し、その都度一つの小さ な視点を与えるにすぎない異なる道を経る ことを通じて、ゴーシェはどこへ向かい、 何に到達しようとしているのだろうか。彼 の目指す「哲学的な核」、それは、「個人と る中でスピリチュアルなものへの関心の恒 常的な高まりが見られる「ヨーロッパ的例 外」などに見られる、宗教の位置の持続的 な上昇――はいずれも、宗教的なものの再 活性化と再活用ではあっても、「宗教的なも のの回帰」、すなわち宗教に基づいて再び世 界を組織しようとする試みではない。この 意味で「宗教からの脱出」は今なお継続中 なのである。 いう存在と集団的な次元の連結部分」であ 宗教の超越論的人間社会学 宗教的な影響 る。「人間社会はいかにして凝集力を保って 力からかつてないほど遠ざかってしまった いるのか?そして、その共同空間の内部で、 社会における宗教的次元の現代における再 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 浮上、名誉回復には次のような三つの主な (3)人間学的理由: 個人主義の進んだ 理由が考えられる。歴史的理由、政治的理由、 社会で、個人は自己・他者・世界の謎への そして人間学的理由である。 感受性の新たな発露形態として、スピリチ (1)歴史的理由: 0 年代までヨーロ ュアルなもの、宗教的なメッセージに耳を ッパ社会は決定的に進歩主義的であった。 傾けるようになる。19 世紀・20 世紀の偉大 ところが、0 年代に「未来の危機」(crise なる希望(ヘーゲル流の歴史哲学、マルク de l’avenir)が生じ、もはや未来を見通せな ス主義)の退潮、大文字の「科学」の権威 いという意識が浸透する。こうして新たな 失墜――ゴーシェはこれを「科学の脱魔術 社会、新たな歴史観が生まれる。もはや「こ 化」 (désenchantement de la science)とも呼ん れから」によってではなく、「これまで」に でいる(1)――といった 190 年代以降の よって自己規定するというのである。「これ 知的風景の激変は、より深い地殻変動の一 まで」の中で最も自己規定にとって意義深 つの表れに過ぎない。時代の最も根源的な いのが宗教であった。このような宗教的な 変化とは、人間関係の解体による人間の自 ものの再評価は、例えば、宗教的事実を学 己規定の根底的変化であり、ゴーシェが「自 校で教えることへの幅広い社会的支持や、 己責任化」(responsabilisation d’eux-mêmes) 欧州憲法制定時のキリスト教の位置づけを と呼ぶものである。もはや他の人々のよう めぐる激しい議論などに見られる。こうし に、他の人々のために生きることは完全に て、宗教的な要因が社会のアイデンティテ 意識的な選択としてしか存在せず、「自分の ィ形成において、ゆっくりとではあるが着 ことを気遣わずにいることは不可能であり、 実に、再び重要な役割を果たすようになっ てきている。 自己の問題から逃れることは不可能である」 (1)。個人主義化の果てに現出したこのよ (2)政治的理由: 現代民主主義は、公 うな状況がスピリチュアルな次元の不安の 権力の中立性を増し、道徳臭・精神性を消 源となる。幸福・消費・アミューズメント す一方、個々の市民にとって参照基準とな を追求する文化が伝統宗教の言説を自由に る役を宗教にますます求めている。広い意 折衷的に再利用する一方で、きらびやかな 味での政教分離原則の勝利は、真に寛容な 文化の裏面、影もまた、現状批判的宗教性 民主主義的国家において公法の基盤である という形で、宗教へと向かう。革命期の言 ことは事実だが、他方で、ひとたび手続き 説がブルジョワ社会とその観念論を唯物論 民主主義が確立し、政教分離が貫徹される の旗の下に批判したように、現代文明批判 と、宗教は絶えずより大きな敬意をもって は、スペクタクル社会とその唯物論をスピ 扱われることになるというのも事実である。 リチュアルと宗教性によって攻撃する。い 統治者に求められているのは、諸領域の公 ずれにしても、個人の経験の最も親密で最 的(officiel)な分離の徹底と、敬意に満ち も秘密のレベルで宗教的なものが再起動さ た密かな(officieux)結合のデリケートな均 せられているという事態が意味するのは、 衡を見出すことなのである。宗教的なもの 宗教的なものの人間学的な基礎が剥き出し に対する敬意は、他の共同体的思想以上に にされたということである。似非語源学的 というわけではないが、逆に追放されるわ に言われるように、「宗教」(religion)はも けでもない。 はや「結びつける」(relier)ものではない。 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 9 社会的な凝集力のレベルで作用するのでは あるだろう。そしてそれこそが、私たちが ない。したがって宗教はこれまで宗教と見 ごく単純に「ゴーシェの哲学」と呼ぶもの なされてきたものの形で現れるとは限らな に他ならない。 い。これが宗教の政治的歴史(すなわち『世 界の脱魔術化』)だけでは不十分である理由 であり、宗教の人間学的歴史が要請される 理由である。 この人間学的な核は、そのポテンシャルを、 必ずしも明確に宗教的な領野において表現 するとは限らない。他のさまざまな表現が ありうるし、それらがいかなる宗教的内容 からも完全に独立していることもありうる。 もちろん、根底的なところでは、古典的に は宗教的経験として、不可視のものと身体 と真理の結節点において与えられてきたも のに似ているとしても、である。 […]一方で、 宗教は純粋に個人的なものとなった。これ は宗教の歴史における甚大な出来事である。 他方で、宗教は抗いがたく自己批判の意識 に苛まれることになった。その行き着くと ころはどこか、未だ見通しはない。[…]宗 注 1.「人権」評価の違いに反映された、ゴーシェとル フォールの「民主主義」観の違いの哲学的な淵源は 究極のところ、ここに求められるだろう。〈野生の 民主主義〉の名の下に、民主主義の〈内部〉からで はなく、〈周縁〉から投げつけられるラディカルな 批判はすべて是とする、ルフォールの〈反逆主義〉 (révoltisme)、そしてそれに基づく「民主主義的創出」 (invention démocratique)の妥当性には「最大限の懐 疑を抱いています」とゴーシェが言うとき、見逃し てならないのは、彼が「原理的な問い」と「現実的 なもの」との接点を探り当てようとしているという ことである。 2. “Entretien avec Marcel Gauchet”, Le Philosophoire, n°19: “L’Histoire”, hiver 2003, 33. 以下、本稿で括弧内に 数字だけが与えられる場合、すべてこのインタヴュ ーの頁数である。 3. 丸岡氏の指摘するとおり、フランスの思想界は 左右の軸だけで整理することは困難であり、「共和 教が支配する時代は終わったが、宗教が終 主義的普遍主義」と「多文化主義的個別主義」とい わったわけではない。一つの歴史が終わり、 った軸を設定せねばならない。ただし、歴史的なも また別の歴史が始まる。宗教の政治史はあ る意味では、少なくとも近代の先端におい ては、閉じられた。だが、宗教の人間学的 な歴史は始まったばかりである(19–20)。 ゴーシェによる近代の三つの時期の区分 は、宗教にも当てはまる。その第三期、す なわち 190 年代後半以降の現代は、これま でゴーシェが行なってきた歴史的観点から のアプローチだけでも、またとりわけ『世 界の脱魔術化』に見られる政治的観点から のアプローチだけでも捉えきれない。人間 のを経る迂回路の広がりにしても、「現実的なもの」 と切り結ぶ「原理的な問い」の深さにしても、ゴー シェは、トドロフやフィンケルクロート、ドゥブレ といったそれ以外の「共和主義的反動」(西川長夫) たちと、本性の差異ではないとしても、厳然たる程 度の差異をもつ。 4. “Avant-propos: De l’histoire politique à l’histoire anthropologique de la religion”, Le monde désenchanté?, éditions de l’Atelier/éditions Ouvrières, 2004. 以下の記述 は、おおよそこの序文の要約であることをお断りし ておく。 藤田尚志(ふじた・ひさし) 九州産業大学 学的なアプローチが必要とされるのであり、 これらの結合――全体化なき断片の積み重 以上に掲げた書評とそれに対する訳者の ね――こそ、ゴーシェが「超越論的人間社 リプライが発表形式で提示され、4 名すべ 会学」と呼ぶものの、最も包括的な表現で ての発表が終わったのちに 30 分ほどディス 0 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 カッションが行われた。まずは訳者のリプ らの柔軟な観点が提示されたことも印象深 ライに対する評者の応答が行われ、その後 いものがあった。他にもさまざまな論点を にフロアを交えたディスカッションへと展 めぐって参加者たちのあいだで議論が交わ 開した。 されたが、結果としてこの合評会は、取り この合評会においては、全体として経験 科学と哲学との立場の違いを見て取ること ができ、両者のスリリングな折衝があった。 また、本書の問題点としてフランスの固有 性が挙げられるなかで、植民地主義やイス ラームの不在が指摘され、日本の研究者か 南山宗教文化研究所 研究所報 第 20 号 2010 年 上げた著書の見直しもさることながら、現 代宗教をめぐる重要な問題について意見を 交換する場として貴重な機会であったよう に思われる。 ながさわ・そうへい 南山宗教文化研究所非常勤研究員 1
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