口 學 院 大 學 第 32輯 博物館学課 程開設50周年記 念号 2007笠 F月護 國學院大學博物館学研究室 Dulletin olMuseology, ifohugalruin University HAKUBUTUKANGAKU‐ KIYO 2007,No.32 CONTENTS A "Museumskunde"of Dr. Kuroita Katsumi . AOKI yutaka . . . . . . ' . .1 A Study on the "Period Room" - Someissuesand outlook O"-"::::i:iI::Ii::TY::]T::::::: ....-....7 SHIMOYU NAOKi rheAdmin::::i:l:::j:T *::::l 1l3T::::::i:l: Y:::li'%NUKrHideaki .........21 The purposeand functionof Literary museum ........ WATANABE Mai A Study of Children'sMuseum -Based on Tanahashi and Koba- ....... FUKUDA Fumi A Study of the RoadStation Open Air Museum- OCHIAI Tomoko wet Rubbing - .....,,..41 . . . . . . . . . , 40 ITo Daisuke - . ' . . . . . - 7 1 The considerationabout the saveof the photograph consideratiol :: :::::T::: "".'"'JJ fac*ities i: ::i:i:i::il :'"'"rvation ........ HIRASAWA Yukako . . . . . . . . . 7 9 The Histry and rechnique - .. UCHIKAWA Takashi . . . - . . . . . 8 7 The Possibilitiesof Museum Educationand HistoricalMateriaison Education - The Connectionbetween HistoricalStudy and History Education1■ ∩ v HIGUCHI Masanori 00 ︐ ″ A Studyof FloorDisplayand UnderFloorDisplay ....."....'........' KOJIMA yukiko 90 1 一 The Museum Display and Letter "School'sexhibition"and museums -'ll in ?TT:i: ::i'lT: T:::: ::: :"* museums """" TAMAMIZU RecordPreservationof Exhibition - from the Aspectof the Exhibitionevaluation- Hirotada ' . . . . . 1 3 9 SUGIYAMA Masashi....-. l4T A Study of Out-doorMuseumsand Preservationof Historic and Natural Heritages ( 2 ) - The Term of the Museum Activities of National Parks in America before Participationof American Associationof Museums'・KONNO Yutaka S/SO-Memories of KokugakuinMuseology........ YAMAMOTO Tetsuya The Museum Study Room KOKUGAKUINUNIVERSITY Shibuya,Tokyo, Japan '.....155 博物館 学課 程 開設 50周 年 記 念号 國學院大學博物館学研 究室 黒板勝美博士の博物館学思想 A "Museumskunde"of Dr. Kuroita Katsumi 青 木 豊 申 ̲ AOKI Yutaka 出 目と略歴 大村 藩 士黒 板 黒板 勝 美先 生遺文 』 に よる と黒板 勝美 は、 明治 7年 (1874)に 20石取 りの 1日 『 要平 の 長男 と して誕生 した。本籍 は長 崎 県東彼杵 郡下波佐 見村 (現、波佐 見 町)田 ノ頭 435番 で あ った と記す。 明治 23年 (1890)長崎県大村 中学校 を卒業 し、明治26年第 五 高等 中学校 を経 て、 帝 国大学文 科大学 国史科 に入学 し、明治29年 7月 に同大学 を卒業後 、直 ちに大学 院 に入学す る。 同年 9月 群書類従J校 勘 出版 を担 当す る。 に経済雑誌社 に入社 し、 田口卯吉博士 を助 け て 「国史大系」、 「 明治 35年 (1902)に東京帝 國大学文科大学講 師 とな り、 明治 38年助教授、大 正 8年 (1919)教 授 とな り、昭和 13年 (1938)に定年 に よ り退官 し、東京帝 国大学名誉教授 となる。 この 間、明治 38年よ り資料編纂 官 を兼 ね、 同年 11月には、 「日本古 文書様 式論」 に よ り文学 博 士 の学位 を取得 して い る。 また、黒板 は精力 的 に数多 くの社 会活動 に参画 し、古社 寺保存会 委員、史蹟名勝 天念記念物調査会委員、朝鮮 史編修会顧 間、東 山御 文庫取調掛 、 国費保存 委員 会、帝室博物館顧 問等 々 を歴 任 し、昭和 9年 (1934)に は 日本古文化研 究所 を設立 して所 長 と な ってい る。 群 馬県下 史蹟 調 査並 に臨 時 陵墓調 査委 員会」 の用務 に よ り出張先 の 高 昭和 11年11月11日、 「 崎市 に於 い て脳溢 血 を発病 し、 同年 12月20日に高崎市 よ り帰京 し療養 に専念 したが、昭和21年 (1946)12月21日、 東京都渋 谷区栄通 2丁 目 6番 地 の 自宅 に於 い て逝 去 された。享年73。法名 文耕 院虚心 日勝大居士 。 黒板博士 の 学術 的功績 黒板 は、19世紀終末 か ら20世紀前半 にか け ての約 40年 間 に互 り、東京帝 国大学 で 国史学 と古 文書学 を講 じた。黒板 の 学 問的特 長 は、 「日本古 文書学」 の確 立 と、 日本 国史学 の発 展 に貢献 した もので、石 井進 は、 「国史学 にお け る大 日本 帝 国 の 官学 ア カデ ミー 派 の代 表者 の役 割 を果 た した。」 と評 した よ うに、確 か に南 朝 正統 論 を主張 し大 日本 国体擁 護 団へ の参加 や、皇 国史 観 の 中心 的主張者 と して知 られ東京帝 国大学助教授 となった平泉澄 を門下生 として育 てた こ と な どか らは肯 定 され よ う。 しか し、 また 門下生 で あ った坂 本太郎 は、 「 性 質 は一 面豪放 であ る とともに一 面細心 であ り、活動 の場 は体 制側 にあ るこ とが 多 か ったが、 性格 として は在野 的 な 傾 向が強か った。」 と も記 して い る。 ― ‑ 1 ‑ ― 黒板勝美博 士の博物館学思想 更にまた、本論で黒板 の博物館的思想の基礎資料 として取 り扱 う 『 西遊弐年 欧 米文明記』 の序文 には、 余 は国民的自負心 に於 いて敢 えて人に譲 らぬ と思ふが、未だ 『 誤れ る愛国者』たること を欲せぬ、欧米諸国に遊んで もまず痛切 に感 じたのは猶ほ多 く彼 に学 ぶべ きものがあるこ とであ った、我が国の精華 を保存 じ助長すると同時に、彼 の特徴 にして採 るべ きものの更 に少か らざるを信 じたことである、過去数十年間に輸入 された文 明 は多 く物質的に偏 し僅 にその皮相 を得たるに過 ぎなかったではあるまいか、光明ある精神的方面に至っては今後 欧米に遊 ぶ ものが一層注意すべ きことではなかろ うか、 この点に於 いて余が力めて績述せ るところは、恐 らく世 のショウヴィニ ス トに満足せ しむるを得 ぬか も知れぬ。 と記 してい るなどの ところか ら、 当該期に於 いては極 めて大 きな視野に立つ学者 であ ったこ とが窺 い知れるのであ り、それ故 にであ ろ うほぼ同時期 を生 きた (棚橋明治 2年 生れ ・黒板明 治 7年 生れ)現 代博物館 の父 と尊称 される棚橋源太郎 よ りも早 く、博物館学に着眼 し得 た もの と看取 されるのである。 黒板の博物館学思想 学位論文 で あ る 「日本古文書 様式論」 に よ り古文書学 の体系 を確 立 した翌 年、明治39年 (1906)に黒板 は古文書学研究 の場 として公 開を可能 とす る古文書館 の必要性 を提唱 した こと を晴矢 とし、黒板 の博物館学思想 は着実に増大強化 してゆ くのであ る。 中で もその画期 となっ たのは明治41〜43年 (1908〜 1910)の 丸二年間の欧米留学 によるものであることは、帰朝後著 した 『 西遊弐年 欧 米文明記』か らも明白であるし、その後 の文化財保存や博物館 に関す る論 文 の多数か らも看取 されよう。 以下、史跡整備、遺物 の保存等 々を含めた博物館学に関する論著 を列記すると次の通 りであ る。 1.明 治39年 (1906)1月 「古書館設立の必要」 『 歴史地理』第 8巻 第 1号 〜 明治41年 2月 43年 2月 (1908・2〜 1910。2)欧 米留学 2.明 治44年 (1911)9月 『西遊弐年 欧 米文明記』文会堂 3。 明治45年/大 正元年 (1912)5月 「史蹟遺物保存に関する意見書」 『 史学雑誌』第23編第 5号 4.明 治45年/大 正元年 (1912)7月 「史跡保存 と歴 史地理学」 『 歴史地理』 5。 明治45年/大 正元年 (1912)秋 『郷土保存 に就て』 東京朝 日新聞紙連載 6.大 正 2年 (1913)1月 「博物館 に就 て」 『 歴史地理』第21巻第 1号 〜 7.大 正 4年 (1915)1月 7月 「史蹟遺物保存 に関す る研究 の概況」 『 史蹟名勝天然記念物』第 1巻 第 3号 〜第 6号 8。 大正 6年 (1917)2月 「史蹟遺物保存実行機関と保存思想 の養成」 大阪毎 日新聞 9。 大正 7年 (1918)5月 「國立博物館 について」 『 新公論』第33号第 5号 昭和 2年 5月 〜昭和 3年 6月 (1972、 2〜 1928、3)欧 米各田出版 10。昭和 4年 (1929)1月 「保存事業 の根本的意義」 『 史蹟名勝天然記念物』 ‑2‑ 黒板勝美博士の博物館学思想 考古学雑誌 』第26巻第 8号 「 史跡保存 と考古学」 『 上 記 の11編の論著が黒板 の博物館 学思想 を論述 した代 表 的著作物 であ る。 これ らの著作 の博 11.昭 和 11年 (1936)8月 博 物館 学」 なる名称 物館 学 的詳細 を記す前 に、先ず記 して置 かね ばな らな いの は、 「 の使 用 は 黒板 を濫腸 とす る こ とであ る。 博物館学」の呼称名の使用 「 言 キ5 「 博 物館 学」 の 呼称 の歴 史 に 関 して は、 山本哲 也 の 詳細 な先行研 究が あ る。 当該論 の 中 で 山 博 物館 学」 の 名称 の使用 及 び学 としての意識が、従来 よ り棚橋 源太郎 に よる1 9 5 0 年の 本 は、 「 大 い な る勘違 い」 と記 し、 山本 自身 の発 見 に よ 博 物館 学綱 要] 6 でぁ る と した所 謂定説 を、 「 『 る文献 であ る 『 新美術 』第 2 1 号〜 第 2 3 号を実例 として、昭和 1 8 年 ( 1 9 4 3 ) まで遡 る こ とをつ き とめたのであ った。 博物館 学」 な る用語 の み 新美術 』 に連載 され た大森敬助 に よる文章 は、 「 再 度確 認す る と 『 の使用 で はな く、 さ らに博物館学 の大系 を明記 した もので あ った 一 方、 「 博 物館 学」 の 名称 の み の使 用 と して は、大正 7 年 ( 1 9 1 8 ) まで遡 及す る こ とは米 田 耕 司 の指摘 に よ り知 られて い る ところであった。 西 遊 弐 年 欧 米文 明記』 の 中 で か か る状 況 に於 い て、 落 合知 子 に よ り、黒板 勝 美 が著 す 『 「 博物館 学」 の使用 が検 出 された ので あ った。 これ に よ り用語 の使用例 は明治4 4 年 ( 1 9 1 1 ) ま で遡 るこ とにな り、使 用及 び博物館 学 の 意識 は黒板 が嗜矢 となるこ とになった。 西遊弐年 欧 米文 明記』 には、 明治 4 4 年 ( 1 9 1 1 ) 『 三三 伯 林 の博物館 ( 上) 博物館事業 につい て、 最 もよ く理論的 に研 究 せ られて居 る ところは獨逸 であ る、博物館 の経営 か ら、建築 陳列 方法等 に関す る参考書類 も、他 の諸 国 で は公 に された もの極 めて少 いの に、獨 逸 で は い ろ い ろ有益 な ものが 出版 されて居 るのみ な らず 、 ミュ ンヘ ン大学 の如 き、博 物 館 学 な る一 講座 を有 す る程 で あ る、 伯林 に於 け る斯 道 の オ ー ソ リテ イー は カ イ 一 ザ ー、 フ リー ドリッ ヒ博物館 長 ボ ー デ ー氏 で、確 か に 隻 眼 を備 へ た る者 として尊敬 せ ら れて居 る、 そ して伯林 ほ ど博物館 の種類 が 多 く分かれ て居 る ところ も他 の都市 に見 るべ か らざる こ とで、 伯林 は博物館 の研 究上最 も適 当 した ところであ る、例 へ ば或 る種類 の もの を、歴 史的 に若 しくは地理 的 に分類 し陳列 した る方法 な ども中 々手 に入 った もので あ る し、 大室小室 の 区分法 な ど、 光線学 上 最 も有効 に出来て居 る点 は敬服 の価値 があ る、併 し悲 し い か な新興 の都 府 であ るが ため に、美術 や歴 史考古学 の 陳列 品そ の物 に至 って は、 ル ー ヴ ル又 は大英博物館 に及 ばざるこ と遠 しとい わねばな らぬ 。 (傍線筆者) 大正元年 (1912)「 博 物館 に就 て」 で は、 意義 の あ る博物館 とは どんな もの を指すか と云 へ ば、唯 だ い ろ いろ凡百 の 品物 を雑然 と 集 め、之 を出来 るだけ多 く陳列す るな ど云ふの は、 最早博物館 の役 目で は無 くな ったので あ る。過去 十余年以来、欧州 に於 ける博物館学 とも称す べ きものの研 究 は種 々 の 方面 に著 しい進歩 を遂 げ た、 現 に ミュ ンヘ ンの大学 の如 きは、之 を一科 の学 問 として 数 へ て居 る。 音 に之 を建 築 の点 か ら云 って も、 ひ と り防火 の 設備 とか、 永久 的建築物 とか云ふ ものだ け ‑3‑ 黒板勝美博士の博物館学思想 ︱ ︱ l l l l l l l l I I I I I I I I と黒板 は、博物館学 を明 らかに理解 した上で、原語は不明であるがそれを 「 博物館学」 と邦訳 したことになる。 この点に関 しては、昭和 5年 (1930)の棚橋源太郎 による 『 眼に訴へ る教育 機 関』 の 中に、「ミュ ンヘ ン大学 にはムゼ ウムス ・ク ンデ (博物館学)の 講座 があった と聞 く。 」 と記 されてい るところか ら、黒板が 「 博物館学」 と著 した原語 は、ムゼウムス ・ク ンデ ︱ 時代 と地方 との文化的ア トモフェアを後現せ しむるや うにするのである。 もし陳列品の二 つ一つ を散慢 に並べ て、其間に何等 の連絡 を付 けて置かず、観客 をして箇 々別 々の 陳列品 々 を別 の離れた意義で見 るや うな感 じを考へ させるならば、それは大 いなる失敗 である。 ︱ 於 いて、その陳列品 と陳列品 との連絡 を如何 にすべ きやの点 を細かに注意 し、 陳列館 に、 ︱ 云ふ点について研究せねばならぬ。意義ある博物館 とは、例へ ば普通教育に用ゐる場合 に ︱ は、 どう云ふ風 にするが宣 いか、又 は室 内に於 いての換気法、湿度の具合が如何 とか 、換 気法には日本 の障子 を利用するが よい とか、又陳列 の点か ら考へ て見て も、骨董 らしい も の をただ雑陳せるだでは満足すべ きで無 く、 いかにすれば意義ある博物館 を作 り得 るか と ︱ り入 れ るのが 最 も品物 の保存 及 び視線 に適 当 で あ るか、 た とへ ば古画 に対 しては、 透 明 なる窓 を通 して 来 る光線 は、擦跛璃 を通 して 来 る光線 よ りも、 どれだ け害が多 い か、或 は屈折光線 を用 ゐる 場合 に ︱ で は満足 せぬ 、進 んで 光線学 を応 用 して、 如何 なる光線 を室 内 に採 I I であらた と看取 されるのである。 I I I I 識にもとづいて博物館学 の名称 を使用 したのが黒板 であ り、現在 の ところ明治44年 (1911)が その嗜矢 となるのである。 I 年 (1943)の大森啓助であ り、ド イツに於ける博物館学 をある程度咀疇吸収 した上で博物館意 I したがって、 山本が指摘するように博物館学 を大系 として記 したのは現在 の ところ、昭和18 I I I 著作 に著 された博物館 学意識 I I I I ■ 西遊弐年 欧 米文明記』 『 I 事」 である.故 に、 まだまだ遺漏 もある ことは十分承知 してい る。 I な く、内容 に応 じ筆者 が判断 して記 した もので あ り、厳密 にはすべ て 「 ○○○○ に関す る記 I 論著 に記載 された博物館学的事項 は、博覧強気 であるがゆえに多種多様で実にその数 も多 い が、以下代表的事項 を列記 してゆ くもの とす る。ただ、下記 の事項 は章 ・節 ・項 による名称 で ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 頁 動 物 園 372頁 動 物園 に人 間を展示 374頁 安 本亀 八郎 生人形 446頁 農 業博物館 の 必要性 446頁 ビ ブ リオテー ク ・ミュー ジアム 512頁 野 外博物館 513頁 博 物館的公園 514頁 陳 列 の基本 514頁 野 外博物館 の必要性 520頁 町 並み 586頁 模 造 597頁 案 内板 ・史蹟整備 の技術 622頁 ミ ュー ジアム ・ショップ 822頁 ■ 博物館建築 としての古建築 176頁 大 学付属博物館 188頁 陳 列 につい て 234頁 古 文書 館 252頁 動 植物園教育 266頁 観 覧料 (上野 ・小石川)268頁 大 使館付学芸研究員 334 ︱ ミ ュー ジアムの対訳 と しての、博物館 の不適当 72頁 博物館教育 73頁 博 物館活動 75頁 ジ オラマ 76頁 植 物園 140頁 大 英博物館 151頁 文化財 の保存 (海外流出)58頁 ■ ■ ■ 史跡遺物保存 ・賞行機関と保存思想の養成」 (以下記す頁数は、『 「 虚心文集』第 4巻 を示す) ■ ■ ■ ■ ‑4‑ ■ ■ 黒板勝美博士 の博物館学思想 博 物館 の 設 置 な き保 存 事 業 は無 効 4 4 4 頁 博 物館 は史蹟 の近 くに建 設 4 4 5 頁 学 校博 物館 448頁 歴 史的建物利用博物館 448頁 史 跡保存 の意義 453頁 ︱︱︱︱︱︱トーーーーーlllllllll⁚⁚日︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱■■■■■■■■■■■■■■■ 「史蹟保存 と考古学」 保存 の 目的 と意義 460頁 敬 神崇祖 462頁 郷土保存 について」 「 郷土保存思想 467頁 ク ラスマ ン方式 470頁 博物館 二就て」 「 博物館 ・コス 博物館」 の訳語 476頁 博 物館 の良 き理解者 478頁 野 タト 町田久成 による 「 チ ュー ム ・スタッフ 480頁 博 物館学 480頁 文 化的風気 の復元 482頁 古 社寺保存法ヘ の批判 484頁 火 災 486頁 史 蹟保存 487頁 地 域博物館 488頁 学 校教育 と博物館 489頁 博 物館 の必要性 490頁 図 書館 と博物館 491頁 野 外博物館 492頁 陳 列法 495 頁 案 内 目録 496頁 公 開講演 497頁 博 物館 498頁 国立博物館 について」 「 ー 博物館 とは 502頁 町 田久成 503頁 ミ ュ ジアムとは 505頁 理 想的陳ダ1場 506頁 展示環境 508頁 博 物館 の附札 509頁 陳 ダ1目録 510頁 国 立博物館 の必要性 520頁 . 1 1 2 ー と多 岐 に亙 る論 を展 開す るので あ る ところか ら、博 物館学思想 の 論 として は 「パ リ 通信 」、 ・ 「ロ ン ドン通信] ざ「人類 学教 室標 本展 覧会 開催趣 旨 設計 及 び効 果」 を著 した坪 井 正 五 郎 や 学 の博 覧会 か 物 の博 覧会 か] を記 した前 田不 二三 らの明治 「 博 物館 二 就 キテ] B の箕作佳 吉、 「 3 0 年代 の博物館 学思想 の確 立者 に続 く人物 として把握 し得 るのであ る。 これ ら明治時代 の博物館 学思想 を持 つ 人物 に共通す る特徴 は、 前 田不 二三 を除 きい ずれ もが 欧米留学者 であ る点 であ る。黒板 は前述 した如 く明治 4 1 年 ( 1 9 0 8 ) 2 月 か ら明治4 3 年の 2 月 ま での 二 ヶ年 と、 昭和 2 年 ( 1 9 2 7 ) 5 月 か ら翌昭和 3 年 6 月 まで の 2 回 の 欧米渡航経験 を有 して い る。 か か る博 物 館 学 思想 の 論 者 で あ る黒 板 は、 そ の 学術 的思 考 ・思 想 は極 め て進 取 で い か に漸新 で あ った かが 理解 で きる の で あ る。 註 1 . 黒 板勝 美 先 生 生誕百年記念 会 1 9 7 4 『 黒板 勝美先 生遺 文』 吉 川弘文館 2.石 井進 20世紀 の歴 史家 たち (2)』 刀水書房 1999「 黒板勝美」 『 3.坂 本太郎 1984「黒板勝美」 『 国史大辞典』第 4巻 吉 川弘文館 4.黒 板勝美 1911『西遊弐年 欧 米文明記』 文会堂 5。 山本哲也 2007「『博物館学』 を遡 る」 『 博物館学雑誌』第33巻第 1号 6.棚 橋源太郎 1950『博物館学要綱』 理想者 7.大 橋啓助 1943「 ミューゼ オグラフイー 博 物館学 ^J『新美術』第21号 二 は第22号、三は第23号の連載 春 島会 8。 米田耕司 2004「学芸員 をめざす若者へ」『 國学院大学博物館学紀要』第28輯 國学院大学博物館研究室 黒板勝美博士の博物館学思想 9.落 合知子 2008「道の駅野外博物館」 『 國学院大学博物館学紀要』第32輯 國 学院大学博物館研究室 10。黒板の 「 博物館学」使用の発見に関 しては下記の経過がある。2007年7月 初旬頃、筆者 は研究室 関係者及び大学院生へ 黒板 による 「 博物館 に就てJを (『 虚心文集』所載版ではな く、新 聞原本 ー の コピ )配 布 (大学院生伊藤大祐君が筆者 の依頼で入手)。した ところ、大 学院生下湯 直樹君 が早速 に 「 博物館学」 なる語 を発見 した との話があった。 とすれば、『 西遊弐 年 欧 米文明記』 に必ずあると二人で話 し別れた。夏休みに入 り、9月 に合 った時には、筆者 も下湯君 も 欧米文 『 明記』の中よ り発見 していた。後期が始 まり、落合氏 よ り夏休み前にお預か りしていた本研究室 の紀要へ の投稿原稿 (2007年6月 30日脱稿)を 査読 していた ところ、 『 西遊弐年 欧 米文明記』 にお ける 「 博物館学」使用が指摘 されていた。たまた ま、野外博物館 の論致 の文献渉猟の中での 発見であったとい う。 したがって、 明治44年刊 『 西遊弐年 欧 米文明記』での発見第一 は、落合 知子氏であ り、明治45年の 「 博物館 に就て」での発見は下湯直樹君である。 11.棚 橋源太郎 1930『眼に訴へ る教育機関』賓文館 12.坪 井正五郎 1889、1890「パ リー通信」『 東京人類学会雑誌 』第 5号 第46・47号 13.坪 井正五郎 1890「 ロン ドン通信」『 東京人類学会雑誌』第 5巻 第50号 14.坪 井正五郎 1904「人類学教室標本展覧会開催趣 旨 ・設計及 び効果J 『 東京人類学会雑誌』第19巻219号 15。箕作佳吉 1899「 博物館 二就キテ」『 東洋学芸雑誌』第215号 16。前田不二三 19o4「学 の展覧会か物の展覧会か」『 東京人類学会雑誌』第119巻第219号 (國學 院大學教授) 時代 室 の研究 一 歴史的変遷 か らみた課題 と展 望一 Period Roonf'一 Some issues and outlook A Study on the fron■a vie、r point of its historical transition― 下湯 直 樹 SHIMOYU Naoki 1 は じめ に つ 博 物館 展示 は、周 知 の 如 く資料 を雑然 と並 べ た もので はな く、 「モ ノ」 が本 来持 芸術 的価 値 または学術情報 を引 き出す ための手法 であ り、そ れは 日進 月歩 の勢 いで新 たな展示法が誕生、 展示 あ って展示学 な し」 (新井 重 三 1981p. 改 良が進 め られて い るのが現状 であ る。 しか し、 「 6)、 「 言語学 は知 らな くて も言葉 は話せ る。展示学 は解 らな くて も展示 はで きる」 (新井 重 三 1981p.24)と い つた言葉 が あ る よ う に博物館 学 の父 と尊称 され る棚橋 以後、長 い 間、展示学 の学 問的体系化 は図 られて こ なか った。 近年、新 井重 三や 青 木豊等、諸先学者 に よ り展示学 の 原則論 の体系化 が進 め られ、博物館 学 ・ の 中にあ って 「 学 ・論」 として市民権 を得 て い る。 とは い え、博物館展示論 展示手法 、 中 で も手法 は多岐 に亙 り、更 に専 門的 な こ とも相侯 って展示業者 主 導 で博物館展示 は展 開 されて き 展 示 学」技 術 論 の 体系 化 は まだ まだ たのが 現 状 で (青木 豊 2006p.3)、 展 示 手法、 つ ま り 「 充分 とは言 えない もの と看取 され る。 展示学」技術 論 の体系化 に向けた試金石 として、 時代室 の歴 本稿 で は、博物館 学 にお け る 「 史的変遷 を辿 る とともに、時代室 の持 つ 課題 につ い て迫 り、 そ の解 決策 の試案 として拙稿 で提 示 した分類基準 に則 り、定義分類 を実施す る もので あ る。 2 日寺代 室 とは MANUAL FOR SMALL 1927年発行 の 『 当用語 は コー ルマ ン (Laurence Vail Coleman)が )(Group Exhibitions)の 一 つ と して挙 げ てお の 中 で Period roomを組合 せ 展ポ MUSEUMS』 り、 それ を棚橋 が 「時代 陳列室」 とい う訳語 を付 した こ とに端 を発す る もので あ る。 眼 に訴 へ る教育機 関』 中 で以下 の如 く定義 棚橋 は この 「時代 陳列室」 を、1930年に著 した 『 して い る。 実際 に行 はれて居 た其 当時 の儘 に、 事物 を組合せ る こ とが即 ち博物館 に於 け る組合 せ 陳 列 で あ るのであ る。 陳列 品 として は美 しい机 、 陶器、絵 画及毛離 の類 を組合せ て、 何 れか の 隅 に置 くこ ともあろ う、又古 い 時代 の調理用具 を取揃 へ て殖民 時代 の炉辺 へ 配置 して見 せることもあらう。さう云つた組合せが、所謂時代陳列室の根本義を成すのである。時代 ‑7‑ 時代室の研究 陳列 室 とは或 時代 に於 け る物 品 を取 揃 へ て 見せ る室 若 くは小 屋 を云 ふ の で あ る。 つ ま り、 「 時代」 とい う一種 の時間軸での再現 を展示課題 に した もので あ り、動植 の 物 生 「 態」、つ ま り生物 と環境 との相互関係 を再現する上で用 い られる生態展示 とは 、手法 としては 類似 してい るものの、その展示課題において一線 を画す展示である。 3 時 代室成立史 3‑1 19世 紀半 ば〜 20世紀初頭 時代室 の起源 は、 諸説 あ り 「19世紀初 め、ド ゥ 。ソ ム ラー ル に よるク リニ ー 博物館 の展示 と して作 られ た 「フ ラ ン ソ ヮ 1世 の 部屋」」 で あ る と す る も の や、 1 8 6 7 年の パ リ 万 博 で の 「ブ ロ ー ules Verreaux)のら くだ に乗 った ア ラブ人 輸送 (」 隊が 二 頭 の ライオ ンに襲 われた よ うす」 の展示 とす る もの があ るが、 はっ き りと博物館 での 時代室 と確 認 出来 る もの と して は1873年に ハ ゼ リウス ,ア ー サ ー ・エ マ ニ ュエ ルが ス カ ンジナ ビア民族学博物 館 (現在 のス カ ンセ ン野外博物館 )で 製作 した 時代 室 が 挙 げ られ る 〔 図 1〕。棚 橋 に よれ ばそ の展 示特 徴 は以 下 の如 くで あ る。 図 1 ス カンジナ ビア民族学博物館 時代室 ※A l e x a n d e r 1 9 8 3 よ り転載 収 集 品 の主 要部分 は瑞典農民 の生 活状 態 を示 した もので、 これが 収集 は一 に 同博 士 の倉1 意 と熱意 とに基 い た もので あ るさ 一 人八〇年 に はこれが為 めの協会 も出来、 漸 く博物館 として形態 を具 へ 、名称 も北方博物 館 ( ノル デ ィ ス カムゼ ー) と 改 め られた。 博 士 の 意見で は、 音 の生 活状態 を示 す には、 陳列 ケ ー ス 内 に 物 品 を羅 列 した り、或集 団式 の 時代 陳列室 を設 けた りしただけで は充分 で ない 、宜 し く館 外 の 適 当 な土地 に昔 の建物 を移 築 して、 それへ 当時使用 して い た本物 の家具、調 度、衣服 、 器物 の類 を配 し、 取 り付 けなければな らぬ と云ふので あ つ た。 ( 棚橋 1 9 4 7 p . p 4 9 ‑ 5 0 ) つ ま り、 当展示 は屋 内 に空 間的 な再現手 法 を採 る形 態 の 時代室 で はな く、屋外 に まるでその 場 に い るかの よ うな感覚 を引 き起 こ させ る空 間 を作 り出 した イマ ー ジ ョン型 の 時代室 であった 。 それ を可能 に したのが、 適 当な場所 の 選地 と古民家 の移築、 また屋 内 には 「当時使用 して い た 本物 の家具、調度、衣服 、器物 の類 を配 し、 取 り付 け」 る とい う空 間再現 の徹底 さにあ る。 こ のハ ゼ リウス が構 想 し、 実現 したス カ ンセ ン野外博物館 の展示 は非常 に画期 的 な展示 で あ り、 そ の 手法 は次 第 に世 界 中に波及 して い った。 ヽ ー ニ そ して、1 8 8 8 年に登 場 したのが ュ ル ンベ ル クのグ ルマ ン民族博 物館 での 時代室 で あ った。 棚橋 に よれば展示特徴 は以下 の如 くであ る。 一 八八八 には、 この 年 窮状 を打 開す る篤 め、 昔 の真 のグ ルマ ン式 の、連続六室 か ら成 る 一 部建物 の 増築 を行 つ た。 この室 は十 五 世紀 のチ ロー ル小 農民室か ら、十七 世紀 ニ ュル ン ベ ル グ貴族室 に至 る代 表的 な もので 、 各室 ともその 時代 に於 ける適 当 な設備 を施 してあ る: 即 ちその当時用 ひ られてゐた古色蒼然 た る本物 の天 丼板 や、壁 紙 の古材料 を取 附 けて、 そ ‑8= 時代 室 の研 究 の を適 の時代 そつ くりの様相 を呈す るや うにし、それへ その当時 の装飾品や、家具調度 類 とそつ くりの代 い 当に配置 したのであるが、若 し本物が どう して も手に入 らな ときはそれ る。筆者 は、一九一 用品 を使用 して、その真偽が区別出来 ない程度 に仕上げ られたのであ 一年 に同館 を訪れたが、今 日尚記憶 に明かに残つ てゐるのは、室 の中央 に炉 を切 り、炭火 の の上へ 天丼か ら湯沸 しが吊されて、炉辺 の正面 には等身大 の農夫 の人形 が、その当時 様 の壁 式 の服装 を纏 ひ、装身具を身 に着け、あ ぐらをかいてゐた ことで、その背景 を成す室 の 面 には、装飾 の絵額や職業用 の器具がかけ られ、室 の隅 々には家具調度 の類がそ 当時あ で りしままに配置 されて、その生活状態 を十分 に想像で きるや う、所謂文化史的陳列様式 出来上つ てゐた ことである。 ( 棚橋 1 9 4 7 p . p 1 2 2 ‑ 1 2 3 ) 当時代室 は先述 のスカ ンジナ ビア民族学博物館 の展示 と異な り、 まず屋内であ り、その屋 内 に時代 ごと系統的 に六室配置 した展示 である。その空 間的な形態でい えば、再現 は室内全体 に 及ぶ ものではな く屋内のある部分 を限定的に区切 って再現す る形態 を採 るようであ る。 また、 「 若 し本物が どう しても手に入 らない ときはそれ とそつ くりの代用品 を使用 して、その真偽 が 区別出来 ない程度 に仕 上 げ られたので あ る。J と い う ように本物か どうかは当時代室での要件 ではない よう 文化史的陳列様式」、 であ り、上記 の如 く時代室 を 「 言 い換 えれば文化史的時代 室 と言 えよう。 さらに、1 9 0 4 年には ドイツのフリー ドリヒ博物館 で 上記の如 く文化 史的時代陳列室 とは、異なる時代陳列 図 2 〕 その成立には 室が登場 した。 〔 大 きい室や長 い廊下 に、絵画ばか りを長 々と展 示 してお くのは、兎角単調に陥 り易 く、ために観 図 2 フ リー ドリッヒ博物館 の時代室 ※棚橋 1 9 5 7 より転載 覧者 をして心身の疲労倦怠 を覚 えじめる傾があ るか ら、陳列 に変化 を加 えて単調か ら救 う ため、絵画室へ も彫刻や工藝品 を持ち込んで、綜合的 グルー プ陳列 に改むべ きではないか と云 う感 を生 じて来た ( 棚橋 1 9 5 7 p 4 6 ‑ 4 7 ) とい う背景 を持 って い た。 これ は従 来、時代様式展示法 と呼 ばれて いた もので あ ったが、 そ の 展示特徴 か ら時代 室 として捉 えるべ きもの として、様式 的時代 室 と言 い換 えるべ きで あ ろ う。 ー ー また、 「この 点 に早 くも着 目した の は、 ベ ル リ ンの フ リ ドリ ッ ヒ博 物館 の有力 な館 長 ボ デ あ る。博 士 は同美術 館絵 画室 に展 示 されて い る絵 画 の 間へ 、掛 博士 ( D r o W i l h e l m B o d e ) で 布 。木彫 。家具 な どを取 入れ、美術館 としては最 も興味 の あ る新展 示法 を考案実施 した」 もの で あ り、ド イツで は1 8 8 8 年に登 場 した ニ ユー ル ンベ ル クのゲ ルマ ン民族博 物館 の 時代 室 同様 に 1 9 0 4 年にボ ー デが フ リー ドリッ ヒ博物館 の館 長 に就任 してか ら、 この様式 的時代室 が採 り入 れ 工 藝博 物館 に於 け る この綜合 的新展示法 は、 これ まで の もの よ りは興 味豊 か られた よ うで、 「 なばか りで な く、観 覧者 の疲労軽減 の故があ る として全 ドイツを風靡 し、展示法 の模 範 と仰が れてそ の 影響 は大 きか った。」 ( 棚橋 1 9 5 7 p . p 4 6 ‑ 4 7 ) また、1 9 0 5 年に 開館 した フラ ンス 、 パ リの装飾 工 芸博物館 にお い ては そ の大 さ、採 光 な どの点 で、 博物館 の 陳列室 として最 も適 当 と認 め られ る諸室 の壁面 を、 ‑9‑― 時代室の研究 それぞれその時代 の本物 の壁紙 の類 を以 て被 ひ、 それへ 吊毛藍画 額 を掲 げ、彫刻 や家 具 を室 内 に 配置す る外、更 に数個 の ケ ー ス を も室 内へ 持 ち 込 んで 、それへ 陶磁 器、跛 璃 器 、 青銅器、 象牙 細工、エナメル細工のや うな小 さい ものを、適 当に組合せ陳列 し、在来の文化史的集団陳列の や うに、その時代 の本物 のや うな錯覚を観衆に 起 こ させ るや う に してあ る。 ( 棚橋 1 9 4 7 p . 126) 上 記 の 如 く、 様 式 的 時代 室 とは、 時代 区分 に よって 室 を 分 け、 空 間再 現 にお い て は パ ノ ラマ ( 3 6 0 ° ) の 形 態 を採 図 3 ド イツ博物館 ※矢 島 1996よ り転載 るが 、 文化 史 的時代 室 と同等 とい う わ け で は な い が 、 ま ご■│1事■■.、̲ るでその場 にい るかのような感覚 を引 き起 こさせ る、 臨 剛鐵翼 爾響灘癬鮮│ 場感を創 出するもので、 なおかつ色調や採光に注意 して、 特 に審美性 を重ん じるようである。 この ように、1 9 世紀後半か ら2 0 世紀初頭 においての時 代室には文化史的時代室 と様式的時代室の二種 の時代室 が誕生することとなった。 3 ‑ 2 2 0 世 紀初頭〜2 0 世紀半ば ■│ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ■ │ │ ■│ │ ││‐ 20世紀初頭 を過 ぎると、時代室 はさらなる変貌 を遂 げ 図 4 ア メ リカ赤十字博物館 ※博物館研 究 1 9 9 6 より転載 る こ とになった。 まず、専門博物館の増加 によ り、その ニーズに沿 った、一 目瞭然たる時代室が登場することとなっ た。 例 えば1903年にで きた ドイッ博物館では、屋内のウオーキ ングタイプの文化史的時代室が登場 した。 〔 図 3〕 その時代 室 を見学 した黒板勝美は以下 の如 く、感想 を述べ ている。 地下室 には石炭坑 の大型模型があつ て 自由に出入 して 坑内の有様が分かるとい う風 に、その規模 の大なる、そ の設備 の完全せる、殆んど実地その境 に臨んで説明を聴 くや うな感がする (黒板勝美 191l p.408) また この ような大型 の時代室ばか りでな く、博覧会か らの 図5 1936 影響 もあ り、ミ ニチ ュア模型が流入す ると、 中小規模 の博物 日本 赤 十字参考館 館 で も容易 に製作可能な小型の時代室が作 られるようになっ た。その中で もスケールが 自在 に変えられ、電灯照明を用 い ※宮 崎 1 9 9 2 よ り転 載 て前景 と曲面背景画 とを巧 に繋 ぎ合せ るとともに曲面背景 とい う見学者 の視点を限定せ しめる 透視 の法則 を最大限に生か した空 間再現 の手法であるジオラマ展示が台頭するようになった。 〔 図 4、 5〕 ―‑10‑― 時代 室 の研 究 の が叫 ばれるようにな 我 が国では、1 9 世紀後半 になる と自然系 の研究者 か ら生態展示 必要性 の が叫ばれ るようになった。 り、 それに遅 れること数十年後 に人文系 の研究者 か ら時代室 必要性 一 マ の形態的特 一 その代表 的な人物 の 人、後藤守 は時代室 の中で も、 より効果的 なジオラ 展示 徴、 またその必要性 を以下 の如 く述べ てい る。 ゐる。殊 にデ 自然科学博物館及 び土俗博物館 には、此 の集団陳列が よ く利用 させ られて し、 オラマ式陳夕1 によって、動植物 の 自然界 に生活する状態 のカッ トを試 み、之を順序陳列 いて好 んで用ゐ また土俗 において土人の生活す る状態 を示す工夫 は、獨逸 または米国 にお べ られてゐるところであ る。 このデオラマ式陳列 は、当然歴史博物館 にも応用 させ らる き 一 であるが、 ロン ドン博物館 を除いては大陸諸国 にこれあるを知 らないのは、 は経費の為 ヽ もあ らうが、一 は部員の熱心 の足 りない に因ること 思ふ。 デオラマ ( D i o r a m a ) 式陳列 は、陳列室 の周壁 に全 を作 り、近景 には多 くの実物大 に人 ー ル ・ラ 物 ・動物其 の他 を配 し、而 して漸次遠 ざかる随つ て豊面 となし、ア テイフイ シヤ ・ イ ト人為光線 によつ て示す もので、 自然界 の背景 に活動す る人物 動物等 を具体的に示す もの として、吾 々の学 ぶべ きものが あ る。 いわゆる時代扮装 の人形 を陳列箱 の中に雑然 と 混出 し、 また獨 り姿 をさび しく露出 してお くが如 きは、其細部を仔細 に究めん とす るもの 一 に対 して こそ多少 の効果 こそあれ、 般大衆 には興味索然 たるものがある といふてよかろ 一 う。デオラマ式陳列 こそ、歴史博物館 において最 も必要な陳列法 の といふて よい。 ( 後 藤守‑ 1 9 3 1 ) このような指摘 を受け、 ジオラマ展示式の時代室 は2 0 世紀前半か ら1 9 8 0 年代 までに隆盛 を極 め、わが国では経済成長期 に伴 い博物館展示 に大 きな予算が投 じられる中で、折か らの自治体 の博物館建設 ブームとも相挨 って新設 される人文系博物館 には必ず といってよいほど設置 され 一 るようになった。その要因 として種 々あるが、その つ として地方 の後発 の博物館 は 「目玉展 示」 の一つ として時代室、中で もジオラマ展示 の手法 を採 らざるをえなか った実情 があった と 思われる。なぜ なら、それ らの館では国立の博物館 とは異な り、資料 それ 自体が価値 を有する 一 資料 を自館で形成出来 てお らず、 日見 て、楽 しみなが らその状況が理解 で きる、ひ ときわ教 育的価値 が高 い時代室 を目玉展示 にするしかなか ったか らであろう。 しか し、同時期には様 々な研究者か ら様 々な問題点 も指摘 されるようになった。例 えばアメ 三次元 の絵 にす ぎない」 ( 新井 重 三 1 9 8 1 p . 2 9 ) と い リカ自然史博物館展示部長 R e e k i e の 「 みるもののイメー ジを固定 して しまって、 自由な想像力 をはた らかせ る 忠 夫の 「 う指摘 や梅lI・ 余地 をな くして しま う とい う点 で も、問題が あ る」 ( 梅樟忠夫 1 9 8 7 p . 1 6 8 ) と い う批判 が ー あ った。そ して、その反動 として形態論だけで終始せず、時間のファクタ をも兼ね備 えた映 民博J で は、新たな博物館展示 像展示 や、詳 しくは後述す るが、特 に、梅樟忠夫が主導 した 「 立てた。 のモデル として構造展示 ( S t r u c t u r a l d i s p l a打ち y)を また、1 9 7 0 年代後半 にもなると、時代室は、ボ ックス型のジオラマ展示 か ら、秋田県立博物 館 を皮切 りに従来の視点を限定 させ る方式 か ら、 開口部 を広 く取 り、多視点で見る形態の時代 ニ 室が登場す ることになった。 さらに1 9 8 0 年代 にもなると、博覧会ブ ムによる大規模 なイベ ン トの数 々や東京デイズニー ラ ン ドなどの大型娯楽施設 の登場 もあ り、博物館展示 を取 り巻 く環 ‑11‑ 時代室の研究 境 は大 きく変化 した。時代室でい えば、時代室の静止 性 を補 うために映像展示 を取 り込んだ ものや、大型の テーマパ ー クで用 い られる空 間造形の手法が博物館の 展示 にも流入 し、広島県立歴 史博物館の 「よみがえる 草戸千軒」や深川江戸資料館 の 「 町の姿 。深川 の件 ま い」 とい った空 間全体 を展示空間に見立てた時代室が 多 く見受けられるようになった 3‑3 現 在 の時代室 現在では大手の新聞社 との共催で行 う国立博物館の 図 6 特 別展 での時代室の 一例 ( 横浜市歴 史博物館) 特別展では、会期が短期 間であるの にも関わ らず、展 示室 の一角 に時代室が設置 されるケースがあ り、昨今 の例で い えば、 国立新美術 館 「アムス テ ル ダム国立美術館 所蔵 フ ェルメー ル 《牛乳 を注 ぐ 女》 とオランダ風俗画展」での時代室、東京国立博物館 「 大徳川展」での時代室など、その展 ー 示主題に合わせ、展示品の理解補助 ツ ル として設置 されてい る。 〔 図 6〕 また、 この時代室 の教育性 の高 さか ら、現在では小学校 の空 き教室 を資料室等に転用 した学 校博物館 に時代室は多 く見受けられるようになった。 これ は映像展示では代用で きない三次元 的な、空間再現 による展示効果によるところが大 きく、当時代室 のほとん どが、 その空 間内に 入 り、臨場感 を味 わい なが ら実際にモノに触れた り、扱 うことが出来るものである。 また、 こ の時代室内に展示 される資料 は主 として民俗資料であ り、生活用具に加 え、農具や漁具などを 実際に触 ることが可能 となっている。 この学校博物館 の設置理由として出生率 の低下 と少子化 の傾向などによる児童数 の減少に よる空 き教室増加 を懸念 して、文部省が余裕教室の活用手段 の一つ に郷土資料室 として利用する こ とを指針 の中で示 した ところが大 きい。県立博物館のよ うに周年記念事業の一つ として設置 されるこの学校博物館 に関 しては多 くの点 で問題 を抱えて い るが、 当時代室は高度情報化が進んだ現代社会において、実体験か ら得 られる身体的 ・感覚 的行動が不足がちである社会事情 を空 間再現 の中で実体験することによ り、克服 しうる有効な 学習形態 として取 り入れ られてい るのは紛れ もない事実 である。 そ して、愛知県西春 日井郡の師勝町では、旧来か らの師勝町歴史民俗資料館 に加 え、師勝町 回想法 セ ンターでは新 たな取 り組み として旧加藤家住宅 と外観 を調和 させた木造平屋建ての施 設で、昔風 の学校教室 をイメー ジした時代室 を配置する ことによ り、回想法事業 を行ってい る。 の 回想法事業 とは新 たな介護予防事業 として、地域 ケアの実践 の (tansei.net 20 2005)こ 場 として介護予防、認知症防止 を図ることを 目的にした事業 である。時代室 には教育性 の高 さ だけでな く、 この ような認知機能 の改善 とい った効果 も認め られてお り、今後 の進展が予想 さ れる。 4 時 代室の課題 と展望 4‑1 構 造展示 の課題 「 展示学J技 術論において、 まず一つ の変革 として拙稿 で課題 としたジオ ラマ展示が挙げ ら ―‑12‑― 時代室の研究 y ) が る こととなった。当展示 は、 れ るが、1 9 8 0 年代 には構造展示 ( S t r u c t u r a l d i s p l a登場す と呼称 時代室 と形態的特徴 において共通する部分が多 く、現在 では時代室 を指 して、構造展示 って される場合 がある。 しか し今 回、時代室 の 出現契機 か らその発展 まで の歴 史的変遷 を辿 いったことにより、新 たな視点が生 じ、展示学 の観点で構造展示 について捉 え直す必要性 を感 じたのでここで述べ るものである。 この構造展示 の発案者 である梅悼忠夫 は 「ジオラマの功罪」 の 中で以下 の如 く述 べ て い る ( 梅樟 1 9 8 7 p . 1 6 8 ) 。 。 つ 個 々の展示品 は、それぞれの ものの機能的 構造的連関 をた ぐって展示 される。 ひと の器具 はそれ といっ しよにもちい られる器具類 とともに展示 されるか、あ るい は、同種 の もののバ リエー シ ヨンを、横 にた ぐつて展示 されるかであ る。 いわゆるリアリズムか らは とお くなるが、かえつて、みるものの 自由な想像力 をか きたて、頭 の なかに現実 の再構成 をうながす ことになるだろ う。 このような手法 のほ うが、文化 の理解 とい う点では、 よ り ふ さわ しい とかんがえたのである。 このような手法 を、わた したちは構造的展示 とよんだ。 梅樟 が述べ るとお り、構造展示 ではあえて完璧 な再現方法 を採 らず、背景画や人物模型な どの 二次資料 を用 いず に一次資料 である資料 と資料 とを組み合 わせ、そのモノとモノとの関連性 の 中で見る者 の想像力 をか きたて、頭 の中で再構成 させ る意図を持つ展示 であ るとい えよう。 こ れは一 見、「ジオラマの功罪」 とい う題 目の通 り、 ジオラマ展示 の対 立概念 として出現 した展 示用語 の ように思えるが実はそ うではない。現在 で もそ うだが、当時において生態展示 ( 時代 室含む) = ジ オラマ展示 とい うことが通念で、展示用語が錯綜 していた とい うこともあ り、そ の実態 を掴みに くくなってい る。 しか し、その実際は人物 の模型、動物 の剥製 などを用 い、見 る者 に具体的なイメー ジを直観的 に享受 させる生態展示や文化 史的 ・様式的時代 室 の対立概念 として出現 した展示用語である とい えよう。 上記の点を整理 し、改めて構造展示 を捉 え直す と、 まず、課題展示が展示 企画者 の意図や構 想 で表現 される展示その ものである と定義 した場合、 この構造展示 とは空 間再現展示 ではな く ・ 課題展示 に含 めることが出来る。なぜ ならば生態展示が生態学 の成果を、文化史 様式的時代 室が歴史 ( 美術 史含む) 学 の成果 を具現化するものであるの と同様 に構造展示 とは民博 に端 を 性を明 らかにす ることを目的 とした文化人類学 の学術性 を保障する手段であ 発 し、文化 の多様′ る 「 構造 主義」的 な発想 を具現化 した もの とい えるのである。 さらに、構造展示 は文化の多様性 を空間的に再現する ことには変わ りな く、時代室 の歴史的 変遷 の中でみて も、形態的 には時代室 であるため構造展示 は独立 した課題展示 とはな らず、あ くまで も文化史的時代室、様式的時代室 と同様 に、その思考 の差異に よって派生 した展示であ るとい えよう。つ ま り、構造展示 は時代室 の一つ として、 「 構造的時代室」 と言 い表す ことが 出来ると考えられ る。 4 ‑ 2 展 望一 展示 の形態的分類― 上記 の課題、拙稿 で課題 としたジオラマ展示 を踏 まえ、 この解決策 の試案 として、拙稿 で も 一 課題 と方式J の 差異で大 きく課題展示 と空 間 提示 した組合せ展示 の分類基準 を 部改変 し、「 いかなる展示 にも展示す 再現展示 に分類する こととしたい。 まず、新井 の言葉 を借 りれ ば、 「 ‑13‑― 時代室の研究 る意 図が あ り、展示企 画者 の構 想が あ る。 その構 想 が よ り具体化 された ものが展 示課題 ( テー マ) で 、 それぞれの展 示 ケ ー スの見 出 し ( 表題) と して大文字 で描 かれ る。 この提示 された課 題 に よって展 示 表現 は多様化 され る。 」 ( 新井重 三 1 9 8 1 ) こ れが 課題展示 で あ り、 この提示 さ れた課題 を三 次元的 に具体化す る手法 こそが今 回提 唱す る空 間再現展示 で あ る。 そ して、 この空 間再現展示 とは、 ジォ ラマ展示 が従 来 もって い た 固有 の 方式 をその ままに、 空 間構成 ( 視点) の 差異 に よ り、1 9 7 0 年代後半以 降 のめ ざま しい展示技術 の発展 に よ り登 場 し た 「オー プ ンジオラマ」や 「 スルー ジォラマ」、 「イマー ジョン型 ジオ ラマ」 といった展示用語 に対 し、改めて正確 な名称 をそれぞれに付 したものである。 分類するにあた り、拙稿 の通 り青木豊 の展示論に依拠 して考えてみたい。氏 は展示 を分類 す るに当たって、以下の如 く述べ てい る。 多数 の展示 とはその形態上の異な りである ことは言 うまで もない。 また、そこには一形 態 で成立 してい る展示 もあれば、二形態 。三形態 の展示形態が重複す ることによ り完成 し てい る展示 もある。 さらに、博物館展示では専門領域である学術内容 を基本 とす るもの も あれば、当該資料 の性格、内容、規模等 に起 因 し展示 の形態が決定づ け られる場合 もある。 氏 は上記 の如 く視点で1904年に発行 された 「 學 の展覧会か物 の展覧会」 の筆者 である前田不 二 三の展示理論か ら始 まり、棚橋 の展示理論は勿論のこと新井重三や佐 々木朝登等 の展示理論 を 咀唱、集約 し、12項目にも及ぶ精級な展示分類基準 を設 けた。それ らを列挙する と 「1資 料 の 基本性格 による分類」、「2展 示意図の有無による分類」、「3展 示 の学術的視座 による分類」、 「4見 学者 の展示へ の参加 の有無による分類」、 「5展 示 の動感 の有無 による分類J、「6資 料 の 配列法による分類」、「7資 料 の組み合わせ による分類J、「8展 示課題に よる分類」、 「9展 示 の 多面 。多重性 による分類J、「 10レベ ルの差異 による分類」、「 11展示場所 による分類」、「 12展示 期 間による分類」、以上12項目である。今回、取 り扱 いたいの は 「8展 示課題 による分類」で あ り、氏の当分類 に該当する展示が、 ジオ ラマ展示、部分パ ノラマ展示、建造物復元展示、室 内復元、歴史展示、科学展示、比較展示 となっている。 以下、今 回筆者が行 った分類であ り、氏 の分類 と重複す る比較展示 ・歴史展示 ・科学展示 に ついては割愛 し、それ以外 の展示 の定義 を個 々に述べ てい く。 展示課題 による分類 空間再現 による分類 組合 せ 展 示 2 生態 展示 (原地 ・連続生態群) 時代室展示 (文化 史的 ・様式的 ・構造的時代室) ジオ ラマ展 示 3 比較 展 示 部分 パ ノ ラマ 展 示 4 歴 史展示 パ ノ ラマ 展 示 5 科学展示 イマ ー ジ ョン展示 1 課題展示 ○生態展示 主 として動植物 の生態が具体化 された ものが、生態展示 であ り、博物館展示 においては現在 まで以下の二つの生態展示が確認 されてい る。 ―‑14‑― 時代 室 の研 究 。原地生態群 (Habitat group)〔 図 7〕 動物学雑誌』 川村 多賓 二の 著 した1920年発行 の 『 米国博物館 の生態陳列」 によれば 「 一 若干 の群 の動物 を取 り合せて、 場面 の陳列 と 云 ふ名 を以つ て す る様 にな り、Habitat groupと 之 を呼ぶ様 になつ て来 た。従 つ て場面 に現 はれた 景観なるもの も、数年前 の様 に或地方に賞在す る 景観 を一木一石寸分 の相違 な く模写 した ものでは 雨頭脳 によつ て、数箇所 の賞 な くて、製作者 の技イ 景材料 を用 ひて、人工 の臭みを残 さぬ までに巧 に 組み合 わせた、理想上 の景観なのである。 図 7 ア メ リカ自然史博物館 エ ー ク レー ホー ルのアフ リカライオ ン ※Q u i n n 2 0 0 6 より転載 は、 とい う よ うに、原地生態群 (Habitat group)と 原地 の環境 を動植物 の剥製や模型 を群 として組み合 わ せ、その棲息状況 を示す ことを課題 とした展示 であ る。 ・連続生態群 (Cyclorama group)〔 図 8〕 日本 の博物館展示 では81染みが薄いが、当手法 を我 が国で最初 に紹介 したのは川村多賓 二 であ り (川村 1920)、Cyclorama groupに 連続 生態群 とい う訳語 を 付 したのは木場 一夫である (木場 1949)。川村 によれ ば、 カ ンサ ス大學 には米 国 の 哺乳類 を、熱帯 か ら極 北 へ 、平地か らロ ッキ ー 山頂 まで に亘 つ て分布 及 び生態 愛化 を併せ示す ため に、 一 場面 に組合 わせ た ものが あ つ て、 少 し無理 で はあ るが、 兎 も角 も 図 8 連 続生態群 ー ※ ト タルメデ ィア開発研 究所 1 9 9 7 より転載 新式 で あ る。 これ を C y c l o r a m a g r o u p と呼 ぶ 。 とい うように地理的分布 によって動物 の生態変化がする様 を、一場面 に盛 り込む ことを課題 と した展示である。 ○時代室展示 ( P e r i o d r 0 0 m ) 2 7 年発行 の 『 MANUAL FOR SMALL 当用語 は コールマ ン ( L a u r e n c e V a i l C o l e m a n1)9が M U S E U M S 』 の 中で P e r i o d r o o m を 組合 せ展示 の一つ として挙 げてお り、それを棚橋が 「 時 代陳列室」 とい う訳語 を付 した ことに端 を発す るものであ る。 棚橋 はこの 「 眼に訴へ る教育機関』中で以下の如 く定義 し 時代陳列室」 を1 9 3 0 年に著 した 『 てい る。 実際に行 はれて居 た其当時の儘 に、事物 を組合せ ることが即 ち博物館 に於ける組合せ陳 列 であるのである。 陳列品 としては美 しい机、陶器、絵画及毛藍 の類 を組合せて、何れか の隅に置 くこともあろう、又古 い時代 の調理用具を取揃へ て殖民時代 の炉辺へ 配置 して見 せ ることもあ らう。 さ う云つ た組合せが、所謂時代陳列室 の根本義 を成すのである。時代 ―‑15‑― 時代室の研究 陳列室 とは或時代 に於 け る物 品 を取揃 へ て見 せ る室 若 くは小屋 を云ふ ので あ る。 また、 時代室 はその 時代 に於 ける歴 史性 に重 きを置 く文化 史的時代室 と、 その 時代 にお ける 様式 に重 きを置 く様式 的時代室、 一 次資料 のみ を 「 構 造主義」 的 な思考 の もとに組 み合 わせ た 展示 の構 造 的時代 室 の三 つ に分 類 す る こ とが 出来 る。 ・文化 史的時代 室 〔 図 9〕 1 8 7 3 年に スカ ンジナ ビア民族学博物館 ( 現在 のス カ ンセ ン野外博物館) で 、1 8 8 8 年に ニ ュ ー ル ンベ ル クのゲルマ ン民族博物館 で登場 したのが この 時代 室 で あ る。棚橋 に よれば その展示 特 徴 は以下 の如 くで あ る。 一 八八八 には、 この 年 窮状 を打 開す る篤 め、 昔 の真 の グ ルマ ン式 の、連続六室 か ら成 る 一 部建物 の 増築 を行 つ た。 この室 は十五 世紀 のチ ロー ル小 農民室 か らt 十 七世 紀 ニ ュル ン ベ ル グ貴族室 に至 る代 表的 な もので 、各室 ともその 時代 に於 ける適 当 な設備 を施 してあ る。 即 ちそ の 当時用 ひ られてゐた古色蒼 然 た る本物 の 天丼板 や、壁 紙 の古材料 を取 附 け て、 そ の時代 そ つ くりの様相 を呈す るや うに し、それへ そ の 当時 の装飾 品や、家具調度の類 を適 当に配置 したのであ るが、 若 し本物が ど う して も手 に入 らない ときはそれ とそ つ くりの代 用 品 を使用 して、 そ の真偽 が 区別 出来 な い程度 に仕 上 げ られたのであ る。 筆者 は、 一 九 一 一 年 に同館 を訪 れたが、 日尚記憶 に 今 明か に残 つ てゐ るの は、室 の 中央 に炉 を切 り、炭 火 の上 へ 天丼 か ら湯沸 しが 吊 されて、 炉辺 の正 面 には等 身大 の農夫 の 人形が、 そ の 当時 の様 式 の服 装 を纏 ひ、装 身具 を身 に着 け、 あ ぐら をか い て ゐた こ とで、その背景 を成 す室 の壁 面 には、装 飾 の絵額 や職 業用 の器具がか け ら れ、室 の 隅 々 には家具調度 の類 が そ の 当時 あ りしまま に配 置 されて、 その生活状 態 を十 分 に想像 で きるや う、所 謂文化 史的陳列様式 で 出来上 つ て ゐた こ とで あ る。 ( 棚橋 1 9 4 7 p . p122‑123) つ ま り、 一 次資料 のみで構 成 された ものでは な く、 図 9 リ ヴァプール市立博物館の時代室 ※棚橋 1957より転載 背景画や人物模 型 な ど二 次資料 を用 い、見 る者 に具 体 的 なイ メー ジを直観 的 に享受 させ る展示 で あ る。 ・様 式的時代 室 〔 図 10〕 当用語 は従 来、 「 時代様 式 陳列 法Jと 呼 ばれ て い た もので あ ったが 、そ の展示特徴 か ら時代室 として捉 え るべ きもの として、 筆者 が この 度、提 唱す る用 語 で あ る。 摯itttt筆 よる撃熙置筑彙半務筆 =■ ,■ 当展示 は1904年には ドイツの フ リー ドリヒ博物館 で、 1905年には フラ ンス 、 パ リの装飾 工 芸博物館 で登 場 し た。 そ の展示特徴 は、 様式 的時代 室 とは、 時代 区分 に ‑16‑ 図 1 0 パ リの装飾 工 芸博 物館 ※棚 橋 1 9 5 7 よ り転 載 時代室の研究 よって室 を分 け、 様 式 を示 す のが 目的 で あ るか ら、 同時代 の もの で 統 一 す る。 また、 文化 史 的 時代 室 と同 等 とい うわ け で は な い が 、 まる で そ の 場 に い るか の よ うな感覚 を引 き起 こ させ る、 臨場 感 を創 出す る もの で、 なお か つ 色 調 や採 光 に注 意 して、特 に 審美性 を重 ん じる時代 室 で あ る。 ・構 造 的 時代 室 〔 図1 1 〕 構 造 展 示 」 を この 度 、 時代 室 の ・ 忠 夫 や佐 々木 朝 登 らに よって提 唱 され た 「 当用 語 は、梅 l● 一 つ として含 め、言 い換 えた用語 であ る。 当展示 は、 厳密 に言 えば文化 の多様性 を明 らか にす る こ とを 目 的 とした文 化 人類学 の学術性 を保 障す る手段 であ る 「 構 造主義」 的 な発想 を具現化 した もので あ る。 構 造 的時代 室 で はあ えて完璧 な再現方法 を採 らず、 一 背景画や人物模 型 な どの 二 次資料 を用 い ず に 次資 料 で あ る資料 と資料 とを組 み合 わせ 、そ のモ ノ とモ ノとの 関連性 の 中 で見 る者 の 想像力 をか きた て、 頭 の 中 で再構 成 させ る意 図 を持 つ 展示 であ る とい え よ 図 11 小 学校博物館 の時代室 の 一例 う。 空 間再現 展示 ○組合せ展示 当展示 は、広義 にお け る組合せ 展示 で はな く、狭 義 の 意味 と して、特 定 の方式や名称 を持 た ない縮小模型群や露 出組合 せ 展示 を指す もので あ る。 。露 出組合 せ 展示 〔 図1 2 〕 コー ルマ ンに よれ ば 然 し組 合 せ 物 に は、 ケ ー ス を用 ひぬ こ と もあ る。 補 助 物が簡単堅固で普通 一 般 の もので あ り、塵が附かず、手 で鯛つ て も差支ない性質である時は、之を露出す る。 とい うよ うに、ガラス越 しに展示 品 を見るのではな く、来観 図 1 2 露 出組合 せ 展示 者 に展示品 をはっ き りと、臨場感 を持 たせ なが ら観せ るため ※草刈 ほか2 0 0 1 よ り転 載 の手法 である。 ・縮小組合 せ展示 ( M i n i a t u r e g r o u p ) 動物 の生 態や歴史的場面等 を再現す るな どの展示課題 また は、展示予算、 スペ ー ス等 に合 わせ て、縮小 化 された組合せ 展示 である。 ○ジオラマ展示 ( D i o r a m a ) 〔 図1 3 〕 ジオラマ展示 とはジオラマ とい う形態的名称 を使 う以上、 あ くまで もダゲ ー ルの考案 した展示物 で あ るが如 く、光学的 手法 を用 い て、前景 の立体物 と後景 の背景 との繋 ぎ目を無 く し、芸術的に幻想空間を創 出する展示物でなければならない。 ‑17‑ 図13 ジ オラマ展示 ※草刈 ほか2001より転載 時代室の研究 また、 そ れ を可 能 に した のが 臨場 感 を創 出す る 曲面 背 景 で あ り、見 学 者 の 視 点 を限 定 せ しめ る 工 夫 が な され て い な い展 示 物 は ジオ ラ マ 展 示 で は な い と考 えね ば な らな い の で あ る。 ○部分パノラマ展示 〔 図14〕 ー 当用語 は、従来 「オ プ ンジオラマ」 と呼称 され ていたものを青木豊がジオラマ展示 とパ ノラマ展示 との決定的な視点 の差異か ら提唱 した展示名称であ 全周ではな くジオ ラマ状 に一部 のみ取 り出 し り、「 た」空間再現展示である。 ○パノラマ展示 〔 図15〕 スルー ジオラマ」 と呼称 されて 当用語は、昨今 「 図 14 部 分 パ ノ ラマ展示 いた ものを従来あったパ ノラマ展示 に再 度置 き換 え た ものである。 当展示 は屋 内、屋外問わず、空 間の全周 (360° )を 展示空間に見立てた空間再現展示 であるが、展示物の 保護 のため、展示物がケースに入 っていた り、柵が敷 かれているなど完璧 な空間再現ではない もの とい える。 ○イマージ ョン展示 〔 図16〕 図 1 5 パ ノ ラ マ 展示 当用語 は、液体 に浸 るとい う意味であるイマー ジ ョ ※草刈 ほか2 0 0 1 より転 載及 び改 変 ン (immersion)か ら、環境 の中 に浸 る展示 とい う意 味に置 き換 えられたものである. 当展示 は屋 内、屋外問わず、パ ノラマ式 (360° )に 空間全体 を展示空間に見立て、展示物 と周景が上手 く 調和 してい ることによ り見学者が再現 した空間に浸 る ことの出来る展示手法である。 5 お わりに 前稿 にてジオラマ展示、 またそれを包括する組合せ 図16 イ マージ ョン展示 ※草刈 ほか2001より転載 展示 について纏 めたが、生態展示中心 の組合せ展示で あ ったため、 時代室 につ い て多 く触 れ る ことが 出来 なか った。 そ のため 、 当論文 で は時代室 に つ い て考察 し、拙稿 で提示 した課題 を踏 まえ、用語 の統 一 を図 る試 案 として、新 し く分類基準 を設 け、 そ の範疇 に入 る展示手法 を当て はめた。 しか し、 博物館展示 の 中 で生 態展示や時代室 とい った組合 せ 展示 は、 多 岐 に互 る展示手法 の 一 手法 に過 ぎず、それ も展示学史 の 一 端 か らの アプローチであるため、大所高所か らとい うわけではないが、展示技術論 の体系化 に向け、一 石 を投 じられれば幸 いであ り、大方の御批判 と御指導を仰 ぎたい と念願するものであ る。 末尾なが ら、本稿 をまとめるに当たって常 日頃か ら厚 く御指導賜 っている國學院大學教授青 木豊先生 には、 この場 を借 りて深 く御礼 申し上 げます。 ―‑18‑― 時代室の研究 註 組合 せ 展示 とは端的 に述 べ る と、 資料 を単 に集合 させ た展示 ではな く、対象 とす るモ ノの本来置 れる空間や環境 を再現す るために、空間の中で モ ノを複合 的 また、有機的に組み合 わせ、その状 況や事柄 を提示す る展示 である。現在では、 この よ うな展示手法 は多岐 に互 り、例 えば、生態展 示、 または ジオラマ展示、 さらには時代室 な どがその範疇 に入 る。 ダゲ ー ルの発 明 した ジオラマ と博物館 における 「ジオラマJと を区別 し、後者 をジオラマ展示 と 呼称す ることに した。 筆者 自身 も前稿 にて、構造展示 をジオラマ展示 の対 立概念 として捉 えて い たが、実際 には後述す る通 りであ り、前 回提示 した分類基準 を当論文で一 部改変 した。 ― 國學 院大學博物館學紀要』 拙稿 2007年 「ジオ ラマ展示考― ジオ ラマの舶載 とその展 開史 」 『 博物館學雑誌』第33 組合 せ 展示 の研 究― 歴史的変遷か らみた課題 と展望― 」 『 第31輯 、2007年 「 巻第 1号 引用参考文献 青木 豊 2003年 『 博物館展示 の研 究』雄 山閣 2006年 「 学芸 員養成科 目として の 「 博物館展示論J の 提 唱J 『全博協 研 究紀要』 第 9 号 新井重 三 ・佐 々木朝登他 1 9 8 1 年 『博物館学講座 展 示 と展示法』第七巻 青木 豊 一記者 1 9 2 9 年 『博物館研究』「 博物館 の組合 せ 陳列法」第 二 巻 第 六号 博 物館事業促進会 梅悼忠夫 1 9 8 7 年 『メデ イア としての博物館』 金 山喜昭 1 9 8 2 年 「 博物館展示法 の一 考察」 『 博物館学雑誌』第七巻 第 二 号 川村多賞 二 1 9 2 0 年 「 米 国博物館 の生 態陳列」 『 動物学雑誌』第3 8 0 号 西遊 二 年 欧 米文明記』文含堂書店 黒板勝美 1 9 1 1 年 『 草刈清 人 ・榛 澤吉輝 2 0 0 1 年 『 展示学』「イマ ー ジ ョン展示 考― 宮崎県総合博物館 ス ーパ ー ジオラマ か ら考 える一 J 第 3 2 号 草刈清 人 ・榛 澤吉輝他 2 0 0 2 年 『 展示学』 「イマ ー ジ ョン展示考 そ の 2 ‑ 歴 史民俗系 の博物館展示 を中心 に一 J 第 3 4 号 草刈清 人 ・榛澤吉輝他 2 0 0 6 年 『 展示学』「ジオラマ展示考」第4 2 号 倉 田公裕 。矢 島國雄 ほか 1 9 9 6 年 『 博物館学事典』東京堂出版 国立科学博物館 1 9 7 7 年 『 国立科学博物館百年 史』 ‑ 1 9 3 1 年 欧米博物館 の施設』 後藤守 『 木場 ^ 夫 1 9 4 9 年 『 新 しい博物館』 日本教育出版 二 教 育媒体 としての展示J 金 子書房 本場 = 夫 1 9 5 2 年 『 見学 ・旅行 と博物館』「 ― 下湯直樹 2 0 0 7 年 「ジオ ラマ展示考 ジオラマの舶載 とその展 開史― 」 『 國學 院大學博物館學紀要』 第3 1 輯 ド湯直樹 2 0 0 7 年 「 組合 せ 展示 の研 究一 歴 史的変遷 か らみた課題 と展望一 」 『 博物館學雑誌』第3 3 巻 第 1号 高田 順 。高橋雅弥 1 9 7 9 年 「 環境復元 ジオ ラマ か らオー プ ンジオラマヘ 」 『 秋 田博研報』N O . 4 ―‑19‑― 時代室の研究 高橋信裕 。西尾時 ‑ 1 9 9 6 年 『 展示学辞典 』「ジオ ラマ ・パ ノ ラマJ p . p . 2 0 6 ‑ 2 0 7 高橋雄造 2 0 0 5 年 「 博物館史序説― 科学技術博物館 を中心 として」 『 博物館学雑誌』第3 1 巻第 1 号 棚橋源太郎 1 9 3 0 年 『 眼に訴へ る教 育機 関』賓文館 棚橋源太郎 1 9 4 7 年 『 世界 の博物館』講談社 棚橋源太郎 1 9 5 0 年 『 博物館學綱要』理想社 棚橋源太郎 1 9 5 7 年 『 博物館 ・美術館史』長谷川書 房 丹青研 究所 2 0 0 3 年 「 感動す る展示 i n M u s e u m ( 7 ) 」 『 丹青研究所 レポー ト』 トー タルメデ ィア開発研究所 1997年 『ミュー ジアム ・ディレク トリー』「 ユニバ ー シティ ・ミュー ジアム」V01。 l p.14 日本博物館協会編 1983年 『ジオラマ展示実態調査報告書』 日本博物館協会編 1992年 『 博物館 の効果的な展示法 の開発 に関する調査研究報告書 (ジオラマ展示 の現状 と効果的な展示例)』 博物館事業促進会 1928年 『 博物館研究』「 内タト 博物館 ニ ュース」第一巻 第 一号 博物館事業促進会 1928年 『 博物館研究』「 雑録J第 一巻 第 四号 宮崎惇 1992年 『 棚橋源太郎― 博物館 にか けた生涯― 』 若生謙二 1999年 「 動物園における生態展示 とラン ドスケー プイマ ー ジ ョンの概念について」『 展示 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されるのか、そ してその意図は何かを把握で きない まま会議は終了 した。 博物館 の多様化 に応 えるとして、登録館でない博物館法 の枠外 に位置する類似施設 の多様化 を例示 し、法改正 して登録 の範囲 を拡大すべ きであるとか、採用時に学芸員資格 を必須 とす る 例 は50%以 下にす ぎない とす る統計 か ら、学芸員の職位 を上 げ るため として、法改正すべ きと す る報告や議論 に、ついて行 くことはで きなかった。 何故 こ うした内容 を主眼 とす る法改正が検討 されることとなったのか、改正が 目指す博物館 像 はどの ようなもの なのか、 また改正によって住民 の学習が どのように豊かになるのか、理解 で きなか った。 首都圏 にある地方 自治体 の職員 として、博物館づ くりと文化財保護行政 に携 わって きた者 と して、 さらには住民 に開かれる博物館運営 を目指す者 として、公立の地域 (総合)博 物館運営 の立場か ら博物館法改正論議に一文 を投 じたい。 2 博 物館登録制度 の改正 について 在 り方」と記す)は 、第 1章 1の 「(2) 「 新 しい時代 の博物館制度 の在 り方 について」 (以下「 登録又は相当施設 の指定 を受 けてい る公立博物館 は、類似施設 博物館登録制度 の現状」 で、 「 」 とし、 これは国の補助金が廃止 も含めた合計数4,023館の うち667館 (16.6%)に す ぎない。 登録博物館 の対 された結果、登録博物館 になる ことの イ ンセ ンティブが働 きに くい状況や、「 象外 である地方公共団体 の長が設置す る博物館が約 1,000館以上 にのぼる こと等 が背景 にあ るJと す る。 まず この点へ の疑間であ るが、類似施設が多 く登録館や相当施設 の数が少ないことが、 どう して改正理由の一つ に挙げ られるのだろ うか、博物館行政 の怠慢 を指摘 してい るようにも取れ るが、指摘 は正 しいのだろ うか。 ―‑21‑― 博物館 の運営 と博物館法 の改正 結論 として、 この指摘 は的外れなもの と言えよう。博物館法が対象 としているの は、教育基 本法 の理念 を受 けた社会教育機 関 (「 教育基本法」は博物館 を社会教育施設 とす るが、 「 地方教 育行政の組織及び運営 に関する法律」 は教育機関 とす る。機関には人 の組織 を知 ることがで き るが、施設には人の活動 を窺 うことがで きないこ とか ら、筆者 は法 の引用以外は、機関の語 を 使用する。 )で あ り、 これを登録博物館 とし、法の規定 には合わないが類す る事業 を行 う施設 を相 当施設 としているに過 ぎない。 教育機関 としての性格 を持たない、法の枠外 にあ り、見せか けや名称が博物館 である類似施 設が多様であった として も、その事例 を持 って法改正 しようとす るのは、 あたか も学校教育法 第 1条 が掲げる学校以外の もの とす る学習塾や、駅前留学 で話題 ともなってい る語学校 などが 多様化 してい るので、学校教育法 の学校規定を見直そ うとす るに等 しい。 博物館登録制度の意義 については、 「これか らの博物館 の在 り方に関す る検討協力者会議」 第 1回 配布 資料資料 3‑(1)に 、「 博物館登録制度は、博物館が資料 の収集、保管、展示 とと もに我が国の教 育 。文化 。学術 の水準向上に重要な役割 を担 うものである。 しか しなが ら、何 人で も博物館 を設置 し、名乗 ることがで きることか ら、一定の水準 を満 たす施設 のみを博物館 法上の 「 博物館」 として登録す ることによ り、行政 として奨励 ・支援すべ き対象 を明 らかにし、 博物館 の振興 を図るために設け られた ものである。 Jと 整理 されてい るとお りである。登録制 度 の枠外 にあ り、行政対象 としない施設 の態様か ら、登録要件 を改正す るとい う意図 は、的外 れ と言 うほかない。 「 在 り方」 は 「 登録 申請資格 の設置主体 の 限定 を撤廃」 す るとしてい る。そ してその考察 と し「 別紙3Jを あげ 「 首長が所管 し、地域活性化や公園、観光等 の点における役割 と同時に、 博物館法 の登録要件が満 たされてい るのであれば、当然、登録博物館 の対象 とすべ きである」 とす る。 しか し首長 (知事や市長な ど自治体 の長)が 、 これ らの展示施設を設置 ・運営するのは、社 会教育機関として設置 してい るわけで も、運営 しているわけで もないのである。博物館法の登 録要件 を満 たす以前 の ものであることが、把握で きてい ない といわざるを得 ない。観光施設 と して位置付 ける各種記念館や水族館、公園施設 として位置付 ける動物園や ビジターセ ンター は、 夕Jえばダム事業 を記念 しダム事業 の役割 を紹介す ることを目的 とする記念館であ り、 自然に親 しみ 自然 をは ぐくむ ことを目的 とす る 自然保護 セ ンターであ り、文化財 を生か した観光 の拠点 として地域 の活性化 を図る ことを目的に設置 された資料館 なのである。 住民 の学習権 を保障す る社会教育機関ではな く、住民 の 自主 的 。自発的学習の機会 を整備す ることを目的 とした施設ではないのである。そ してそれ らの 目的は、それぞれ条例 に明示 し、 住民 の理解 の もと運営 されてい るのである。 したがって、 これ らの施設の設置構想や計画作 り に教 育委員会が関わることはな く、管理するわけで もな く、教育専門職 としての学芸員 を配置 す ることもない。そ してその ことは住民 も理解 して、観光や レク リェー シ ョンの場 に活用 して い るのである。 「 在 り方」 は、教育委員会が管理す る施設にも類似施設 は多 い としてい る。確 かに教育委員 会が管理す る施設にも類似施設はある。それは、文化財 の保存 と活用 を目的 とす る歴 史民俗資 ―‑22‑― 博物館 の運営 と博物館法の改正 ー ー 料館 であ り埋 蔵文化財 セ ン タ であ る。 しか し歴 史民俗 資料館 や埋蔵文化財 セ ン タ は、文化 ・ 財保 護行 政 を所掌す る教 育委員会 が設置 運営 して い るが、社会教育機 関 で はな い 。文化財保 。 い 護施設 は、住民 の 自主的 自発 的学習 の機会 として整備 す るわけで はな く、文化 財保護 と う 特 定 の行政課題 を 目的 に設置 ・運営 して い るのであ る。 したが って教育委員会 が管理 しよう と、 これ ら施設 で、 住民 と学芸員 が協働 で タ ンポポや蝉 ー の調査 を し、生活課題 で あ る二 酸化炭素 や温 暖化 をテ マ とす る展示事業 を実施す る こ とはな ー い。 また石仏調査 をま とめ、地域課題 として コ ミュニ テ イー をテ マ とす る教 育事業 を実施す る こ とな どはな い 。 さ らに言 えば、住民 の 自主的 。自発 的 な資料調査 や教育事業 に対 して、資 料 の整理 や研 究成果 の発表 の場 を提供 した り、そ れ らの事業 を物 的 。人的 に支援 す る こ とを業 務 とす る こ ともない 。社 会教育機 関 として位置付 け てはお らず、博 物館 と名 の るこ ともな い 。 住民 もまた、 そ の こ とは理 解 した̲Lで、地域 の文化財 を学 ぶ 施設 として活用 して い るのであ る。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ︱ ︲ ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱llll1111111111111111111111■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 首長が所管す る博物館 的施設 の登録博物館化 に賛成す る意見 もあ る。 た とえば、高井健 司氏 は、 「 登 録 申請 の 参加 資格 を拡大 し、館 ご との 実態や活動状 況 に基 づ いて 審査 す る方 向 を示 し 首長部局 の所 管」 で あ る こ とを理 由 に門前払 い だ っ た もの と言 える.公 立施設 に 関 して は、 「 た 多 くの館 に登録 申請 の 資格 が与 え られ るこ とは歓迎 で、 定量 的な部分 よ りも中身 を重視す る 審査基準 に も賛 同 で きる。」 とす る。 繰 り返す こ ととなるが、 博物館 が社会教育機 関 であ るこ とは、教 育 関係学会 の 反対 に もかか わ らず改 正 された教育基本法 の 第 12条に も、削除 され る ことな く明示 されて い る。 教育基本法 与 党教 育基本法改 正 に関す る協 議会」最終 報告 (2006年4月 13日)に お いて 改正 の 経緯 で、 「 は 「図書館 、博物館 、公民館」 とい う社 会教 育施設名 は削 除 されて い た とい うが、政府案 で復 活 し法制化 された。 社 会教育機 関 として設置 した もので な い首長 の管理す る公 園や観光施設、教育委員会 の施設、 別 け て も社会教育 の振興 を任務 とす る 自治体 の首長が、社会教育機 関 としての位置付 け を意識 的 に避 け て設置 した、公設 ・民営 (財団運営)の 名 だ け の博物館 を、登録 の対 象 とす る ことは 後 にその理 由 は詳述す るが反対 であ る。博物館 法が規 定す る博物館 を、 国民 の教 育享受権 、 国 ・ 。 民 の学習権 を保 障す る とい う公 的社 会教 育 の理 念 か ら押 さえず、資料 を調査 収集 し、保管 展示す る施設 で あれ ば、 博物館登録 した方が よい とす る とい う意見 には組 しない 。 博物館 は、憲法や教育基本法 の理念 を受 け、社会教育 の振興 を図 るため、首長か ら独 立 した 教育委員会 が管理す る教育機 関 なので あ る。 そ して博物館事業 に 関 して は、教育委員会 の コ ン トロ ー ル を受 け るこ ともな く、館 長 の も と博物館協議会 とい う附属機 関 の協力 と学芸員集 団 に よ り運営 され るこ とを国民 は期待 して い るのであ る。 3 学 芸 員制度 の改正 につ いて 大学 で修得 す べ き博物館 に 関す る科 目 「 在 り方」の 第 1章 1の 「(3)学 芸 員制度 の現状」 は 「 は、8科 目12単位 で、 この科 目と単位数 は、他 の社 会教 育 関係 の 資格 であ る司書 (14科目20単 位)、社 会教 育 主 事 (4科 目24単位)と 比 べ 科 目数 ・単位 数共 に少 な い」 とす る。 また、年 間 約 1万 人 の学 生 が学芸 員有 資格 者 となって い るが、学芸 員 の採 用者数 は少 な く、 「この よ うな ―‑23‑― ― ― 司 博物館の運営と博物館法の改正 したが って公立博物館 は、 学校教育 にお ける公立学 校 と同様 、憲 法や教 育基本法 の理念 を受 け、 改正教育基本法 は、 教育 を受 ける と言 う受動 的 な権利 ばか りで な く、学習す る主体 としての 国民 の学習す る権利 を、 第 3 条 ( 生涯学習 の理念 ) に 「国民 一 人 一 人が、 自己 の 人格 を磨 き、 豊か な人生 を送 る こ とがで きる よ う、 その生涯 にわたって、 あ らゆる機 会 に、 あ らゆる場所 に お い て学習す るこ とがで き、 そ の 成果 を適切 に生か す こ とので きる社 会 の 実現が 図 られな けれ ば な らな い。」 と した。 そ して国民 の教育 を受 け る権 利 と、 学 習権 を保 障す る 国及 び 自治体 の 役 割 を、 第 1 2 条 ( 社会教育) で 「 個 人の要望 や社 会 の要請 に こた え、社 会 にお い て行 われ る教 育 は、 国及 び地 方公共 団体 に よって奨励 され なけれ ばな らな い 。J と し、 第 2 項 で は 「国及 び 地方公 共 団体 は、 図書館 、博物館 、公民館 その他 の社 会教育施設 の 設置、 ( 中略) そ の他 の 適 当 な方法 に よって社 会教育 の振興 に努 め なけれ ばな らな い。」 と、社 会教育振興 にはた す博物 館 の役割 を例 示 して い る。 加 えて社 会教育法 は、 第 5 条 ( 市町村 の教 育委員会 の事務) 4 号 で 「図書館、博物館、青 年 の家 そ の他社 会教育 に 関す る施 設 の設置及 び管理」 を教 育委員会 の事務 と定 め、 第 9 条 ( 図書 館 及 び博 物館) で 「図書館 及 び博 物館 は、社 会教育 の ための機 関 とす る。」 と、博 物館 は教 育 委員会が設置 し管理 す る、社 会教育機 関 で あ るこ とを明 らか に して い る。そ して地 方教育行政 の組織 及 び運 営 に関す る法律 の 第2 3 条 ( 教育委員会 の 職務権 限) 第 1 号 は、 教育機 関 の設置、 管理及 び廃止 に関す る ことは教育委員会 の職務権 限であ る と し、 第3 0 条 ( 教育機 関 の 設置) で 「 学校 、 図書館 、博物館、公 民館 そ の他 の教育機 関 を設 置す る」 と、 教 育機 関 で あ る博物館 の 設置 と管理 は、教 育委員会 の 職務権 限 に属す こ とを明 らか に して い る。 こ う した法 の理念か ら明 らか な こ とは、 公立博物館 を教 育委員会以外 が設置 し管理 す るこ と は あ りえな い とい うこ とで あ る。 しか しなが ら、 一 部 自治体 の首長が、 こ う した法 の理念 を無 視 し、教 育機 関 とは位置付 けな い公 開施設 を 自 らの 部局 に設置 し、 あ まつ さえその施設 に博物 館 の名 を冠 し、 住民 を惑 わす行為 を して い るので あ る。 さ らには人 件費抑制 の手段 として、 そ の 運営 を第三 セ クター ( 財団) に 委託 し、本 来 は人件 費 と して議会 の承認 を得 るべ き予算 を、 委託料 と言 う物件費に組み込み転嫁 し、職員定数 に表 れない隠 し定数 と も言 うべ き非公務 員 ( 身分不安定な財団職員) を 生み出す策を取 ったのである。 法 の理念 を承知 の上で、地方公共団体 の代表者 である首長が、法 を無視 した非博物館 を博物 館 として設置 し、財政再建 と経営 の合理化 と称 して、第三セクターによる運営 を推 し進め、第 三セクターが破綻す るや、お荷物 となるや、民間資本 による指定管理者へ の移行、財団職員の 切 り捨 て と言 う現状 を生み出 してい るのである。 「 在 り方」 は、第 5 章 博物館運営 に関する諸問題 の中で、 「 公立博物館 においては、館種 を問 ―‑26‑― ︱ 域住民 に限 るこ とな く来館 す るす べ ての 人 々 に対 して、その学習や調査 ・研 究 に対 し便 を図 る こ とを求 め られてい る。 ︲ な くては な らな い。公立 博物館 は、博物館 資料 を国民 の共有財 産 として保存 す る とと もに、地 ︱ 公教 育 としての基本 的原則 を踏 まえて設立 し運 営 され るこ とを国民 か ら求 め られてい る。 公教 育 としての基本 的原則 の 一 つ は、 機 会均等 の 原則 で あ る: 博 物館 は、 憲法第2 6 条の 国民 の 「 能力 に応 じて、 ひ とし く教 育 を受 け る権利 を有 す る。」 を受 け国民 の教 育享受権 を保 障 し 博物館の運営 と博物館法の改正 (:」 い と して ぃ る。 しか しこ る となって の が る 目下 関心事 の に 入 問題 関す わず、指 定管理者 導 の指定管理者 問題 は、元 は とい えば、博物館 法 の理 念 を無視 した首長 の政 策判断結果 で あ り、 首長 の メモ リア ルホ ー ル よろ しき巨大 なア ミュ ー ズメ ン トパ ー ク博 物館 の、 住民 と職員 に対す る付 けに他 な らない 。法 の理念 に則 った博物館 を健全経営 して い る 自治体 に とって は、指定管 理者 の話題 は大 きな もの となる こ とはな い。 2006年9月 まで に直営 に戻 す か指定管理者 に移行 一 す るかが、課題 となった博物館 が あ る とす れば、それ は公教 育 の原則 の つ 、機会均等 を保 障 す る、公共性 、全体 の奉仕者性 としての公 的教育機 関 の公 設公営 の理念 を無視 した結果 であ る。 さ らに言 うな ら、 こ う した課題 を持 つ 非公 立博物館 を、登録博物館 の対象 とす る こ とは、 法 の理 念 にか なわぬ もの を法 の枠組 み に組 み込 もう とす る ことに他 な らず 、博物館 法 そ の ものの 制定 の意義 を失 わ しめ る もの となる。 公教育 の原則 の二 つ 日は、無償 の 原則 であ る。納税 者 として国民 は、公教育 を無償 で 受 け る ことがで きる とい う原則 で ある。学校教育 で は、 義務教育 の授 業料 が無償 である。 しか しなが ら教 科書 の無償 配布 につ いては、毎年文部科学省 と財 務省 の 間 で予算折衝 が繰 り返 されて い る の も実状 であ る。 しか しこ う した学校教 育 に比 し、公的社 会教育 は、 無償 の原則 を法律 で 明示 して い る。 図書館 法 第 17条 (入館料 等)「公 立 図書館 は、入館料 そ の他 図書館 資料 の 利用 に対 す る い か な る対価 を も徴 収 して はな らな い。J、博 物館 法第 23条 (入館料 等)「公 立 博 物館 は、入館料 そ の他博物館 資料 の利用 に対す る対価 を徴収 して はな らな い。4旦し、博物館 の維持 運営 のため に や む をえな い事情 の あ る場 合 は、必要 な対価 を徴収す る ことが で きるJが そ の規 定 であ る。 国 民 の教育 享受権 、学習権 を保 障す る きわめて明快 な条文 であ り、 自治体 に重 い役 割が科 せ られ て い る。 しか しなが ら 「 在 り方」 は第 5章 博 物館 運営 に関す る諸 問題 の 中 で、 「入館料 は無料 な い し で きるだけ低廉 な価格 に設定す る こ とが望 ま し く、少 な くとも児童 生 徒 につ い て は、無料 とす るこ とが望 ま しい」 と、 現法 の規定 を後退 させ る提案 を して い る。 法 の理 念 に沿 った健全 な博 財政が厳 しい 中 で も、博 物館法 の趣 旨 を踏 まえ て、 い まなお入館 料 を 物館経営 自治体 には、 「 無料 として い る登録 博物館 、相 当施設が都 道府県立博物館 だけで も17館、市 (区)立 の博物館 で も94館もあ る ことは少数派 であ る とは言 え、特筆す べ き ことJと 消極 的評価 を下 して い る。 特筆 とされては困 るのであ る。公教育 の 原則が なぜ守 られ な いの か、 そ の現況 を分析 し、実 態 の背後 にあ る もの を把握 し、無償 の 原則 を徹底 させ る方策 を提案す べ きであ る。 国民 の学習 在 り方」 は示 す べ きであ る。 先 に見 た 権 を守 るための提 言 を 「 一 部 の 首長が設置 した非博物館 、 親子 4人 の観 覧料が 4千 円 を超 え、食事 を取 ろ うもの な ら 1万 円に近 い金額 を要す る とい う、 ア ミュー ズメ ン トパ ー クさなが らの公立博物館 を、登録 させ よ う とす る提案 には賛 同 で きな い。 国民 の権利 を保 障す る公教育 の原則 の二 つ 日、無償 の原則 を曲げ る提 案 は、公 的社 会教育機 関 としての公立博物館 を支援す る とした博物館法 の立 法 の趣 旨を損 な うもので あ る。 公立博物館 の現場 にい る者 として は、 国民 の権利 を守 る とい う立 場 か ら、や む を得ず観 覧料 を徴収す る場合 は、 料金徴 収 の場 にお い て、入 館者がそ の事情 が理 解 す るこ とがで きる よ う掲 示す るこ とな どの法制化 を提 言 した い くらいで あ る。 ―‑27‑― 博物館の運営と博物館法の改正 公教 育 の原貝1の三 つ 目は、 中立 の原則 で あ る。公教 育 は、 国民 が受 ける教育 の利益 のため 、 特 定 の政 党や宗教 な どの イデオ ロギ ー を排 除す る とい う原則 で あ る。 教 育基 本法 第 16条 (教育行政)は 、 「 教育 は、 不 当 な支配 に服 す る こ とな く、 この 法律 及 び 他 の法律 の 定 め となる ところに よ り行 われ るべ きものであ り、」 と改正 された。 「 与党教育基 本 法改正 に 関す る協議会」 の 「中間報告J(2004年 6月 )で は、主 語 を教 育行 政 に置 き換 えて示 されて い たが、 最終 的 には旧法 の規定 「 教育 はJが 復活 した。 しか し 「国民全体 に対 し直接 に 責任 を負 ってJは 削 除 され、 「この 法律 及 び他 の 法律 の 定 め となる ところに よ り1°と置 き換 え られた。 最 高裁大法廷 学カ テス ト判決 (1976年5月 21日)の 解釈 問題 には、 紙幅 の都合上 ふ れ ない が、 平成 18年11月24日参 議 院教 育特 別委員会 にお け る福 山哲郎氏 (民主 )の 質疑 「「 不 当 な支配」 の主 体 は何 か。 国や知事 も不 当な支配の主体 とな りうる の か。Jに つ い て伊 吹文部科学大 臣は、 「国 で あ ろ う と、 例 えば二 部 の政党 を陥れ よ う とか 、 一 部 の 宗教 的、 その考 えを もって国が 教 育行政 を行 う とい う こ とになれば、 それ は不 当 な支配 になる可 能性 が あ る とい う こ とは言 って い るわ け で す よ。 ま して都道府県知事 にお い てはで す よ、 それ は 当然 の こ と じゃな い ですか:」 と答弁 して い る。 国会答弁 も教 育 へ の 首長 の不 当 な支配 を認 め な い と して い る。 しか し近 年 の地方分 権 改革が進 む状況下で は、 住民 の直接 選挙 で選 ばれ る 自治体 の 首長 の権 限が、教 育 の財 産や予算 な どに留 め られて い るの はおか しい と、 首長が直接教育行政 に 関 わろ う とす る試 み も各地 で 見 られ る。 教育委員会の事務 の一 部 を、首長 部局 の 職員 に補助 執行 させ た り、地方教育行政 の組織 及 び運 営 に 関す る法律 の 一 部改正 (平成 20年 4月 1日 施行)に よ り、 ス ポ ー ツ及 び文化 (文化財保護 を除 く)に 関す る事務 の所掌 の弾力化 に よ り、条例 の定 めが あ れ ば首長が これ らを管理 し、 執行す る こ とが で きる よ うに もな った。 個性 の 強 い首長が、文部科学 省 の下請 け機 関 と して教 育委員会行政 を批判 し、 社会教育部 門 を 自らの 部局 に補助 執行 させ る例 は古 くか ら見 られ る。 嘗 ての飛 鳥 田横 浜市政がその典型例 と もい える。近 年 の教 育委員会不 要論 は、 教育委員会 は、建前 で は首長か ら独 立 しては い るが、 内実 は予算 や人 事 な どは 固有 の権 限 もな く、文部科 学省、都 道府県教 育委員、市 町村教 育委員 会 とい う縦割 り行政 を作 り出 し、 自治体 の総合行政 を損 なって い る とす る。 個性 の 強 い首長 の行政執行 が、 法 の理念 を無視 した施設 作 りにつ なが る事例 は先述 した。 し か し、教 育委員会存在 の 意義 の 一 つ で あ る、 選挙 の結果 で変 わ るこ との な い安 定的 な教 育行政 の確保が、住 民 か ら評価 を受 け て い る こ と も事実 で ある。 また多 くの 市 区町村 長 は、 教育委員 会 制 度 を是 認 して い る こ と も事 実 の よ うで、小 川 正 人 氏 は2001年 (市長 悉 皆 調 査、 回答 率 57.2%)と 2004年 (都道府県 、 市 。特 別 区、東京都 は悉皆、 町村 は人 口層化 別半数抽 出、 回答 率 60.4%)の 市 区町村長 ア ンケ ー ト調査結果 をま とめ、 市 区町村 長 は教育委員会制度 に対 して 「 現行制度 の維持 やそれ を前提 に制 度改革 を支持 して い る市 区町村長が大勢 で あ る こ と も紛 れ もない事 実 で あ る」 とまとめてい る。 稗 貫俊文氏 は、 「図書館 、博物館 と住民 の市民 的権利」 の 中で、 「 文化教育行政 は、 一 種 の給 付 的行政 で はあって も、他 の社 会福祉 行政、資金助成行政、公企 業 に よる生 活必需財 のサ ー ビ ス提供行政 とは異 なる性 質 を持 ってい る。それ は、 学習権 の 自由権 的 な性 質 と関 わ りを もつ こ ―‑28‑― 博物館 の運営 と博物館法の改正 とで あ る。 す な わ ち、 そ れ は、 ま さに住 民 の 精 神 的 自由権 ( 思想 及 び良心 の 自由、信 教 の 自由、 表現 の 自由、 学 問 の 自由) に よって確 保 され て い る内面 的 な領 域 に対 し何 等 か の 意 味 で、 間接 的 にで はあれ、 関与 あ る い は交渉 を もつ とい う こ とで あ る。 (中略)博 物館 にお いて 、地域社 一 会 の 自然破壊 や公害 を示す展示企画が地域社 会 の 部勢力 の圧力 で 中止 され る とい う事態 は、 もし現実 に生ず れば、精神 的 自由権 に よって保 護 され る個 々の住民 の精神 的、 内面 的 な活動 に 対 す る、 そ して、そ れ に よって達成 され るべ き自由 な人格 形 成 に対 す る冒涜 とい う ほか はな い :『 とし、博物館 中立 の意義 を示 して い る。 また、 「 職 員集 団 の専 門的知識 と技 能 に基 づ くサ ー ビス は、 あ る限度 にお け る 自律 的権 限 を 保 障 され る こ とな しには、そ の 十全 な働 きを期待 す る こ とはで きな い 。」 とし 「図書館 にお い て は、 資料 の 選択、収 集、提 供、廃 棄 の 権 限 で あ り、博 物館 にお い て は、 資料 の 収 集、保 管 (育成)、展 示、研 究 で あ ろ う。教 育 委員会 の社 会教 育機 関 に対 す る権 限 は、 この よ うな専 門 的判 断 の介在 す る領域 に まで及 ぶ べ くもな く、 む しろ、それ は、任 意 に設置 され る図書館協議 会 と博物館協議会 が、意見 を述 べ る とい うかた ちで確保 され る領域 となって い るJと す る。 博物館 が 守 る公教 育 としての 中立 の 原則 は、学芸員 の 自立 的権 限 の保 障 と、任 意設置 とされ る博物館協議会 の必置化 に よる社 会教育機 関 としての 自立 な くしては、その十全 な働 きを期待 す るこ とはで きな い。そ して学芸員 の 自立 的権 限 を保 障す るには、 学芸 員 を教育公務員特例法 の専 門的教育職員 に位置付 け る必要が あ る。 教育 を通 じて国民全体 に奉 仕 す る教 育公 教 育公務員特例 法 第 1条 (この 法律 の趣 旨)は 、 「 務員 の職務 とその責任 の特殊性 に基 づ き、教育公務 員 の任免、給与、分 限、懲戒 、服務及 び研 修 等 につ い て規 定す る。」 とし、 第 2条 (定義)で 適用 す る教 員 の 範 囲 を定 め、5号 で は 「こ の 法律 で 「 専 門的教 育職 員」 とは、 指 導 主 事 及 び社 会教 育 主 事 を言 う。」 と して い る。 しか し 残念 な こ とに、司 書 も学芸 員 も教 育 を通 じて国民全体 に奉仕す る教 育公務 員 として は位 置付 け 専 門的教 職員 の採用 及 び昇任 は、 られては い な い。 さ らに第15条 (採用及 び昇任 の方法)で は 「 選考 に よる もの とし、 そ の 選考 は、 当該教 育委 員会 の教 育長 がお こ な う。」 と して い る。 とこ ろが、 ほ とん どの公立博物館 の学芸 員 は、 首長 の 人事権 下 (一般行政職)に おかれ、常 に異動 の 内示 を頭 に描 きつつ 事業運営 を して い る。 学芸員 の職位 の 向上 は、大 学 で修得す べ き単位 の増 強や、学芸員資格 の 高度化 に よる学芸員 配置 の推進 で はな く、法制 上 の位 置付 け を明 らか にす る こ とが急務 であ る。社 会教育 主事 資格 の 単位数 や 1年 以上 の 実地研修 を課題 とす るな ら、社会教 育 主 事 同様 の扱 い を提案す べ きであ る。 法整備 も無 い なか、京都市 は教育委員会事務局職員 の採用 か ら人事異動 まで局独 自で行 い、 住民 のための教育行政 の実現 を図 ってい る。 また埼 玉 県鶴 ヶ島市教育委員会 で は、社 会教 育 の 鶴 ヶ島市教育委 員会社会教育 充実 のため、 教育 の専 門職員 の任用 と配 置転換 に関す る規 定 を 「 一 部 門 にお ける専 門職員 に関す る規定」 として定 めて い る。 しか しこ う した例 も、 部 の個性 的 な首長 の政策 とも言 えるので あ り、学芸 員 の 自立 と博物館 の 中立 を図 るため には、 法 的 な身分 の位置付 けが必要 なので あ る。 教育機 関 としての博物館 の 自立 と中立 は、 学芸員 を 「 専 門的教育職 員Jと して位置付 け る こ とに始 ま り、博物館協議会 の必 置 を博物館法上 に条文化 し、学芸員集 団 の専 門的サ ー ビスの 方 ―‑29‑― 博物館の運営と博物館法の改正 針 や、その 成果 を住民が きちん と評価 し、検 証 で きる仕組 み を作 る こ とに よって果 た され る。 5 ま とめ 公立の地域総合博物館 の運営 と言 う視点か ら、 「これか らの博物館 の在 り方に関する検討協 力者会議Jに よる 「 新 しい時代 の博物館制度の在 り方について」 をもとに、博物館法 の改正 に ついて私見 をまとめた。 これまで何 回も議論 されて きた課題であるだけに、筆者な りの思 い にも熱 い ものがあ り、諸 先輩方に不快 な文言 も多 々あ った と反省する。 しか し、公立博物館 の名 を掲 げなが ら、財 団運 営 を許 し、その結果 として指定管理者 とい う新たな課題 を招 き、そこに働 く仲間 にその解決を 迫 り、挙句は、職員の身分保障に大 きな課題 を持 つ地方独立行政法人化へ の希望 を耳にするな ど、 あ ってはな らない意見が聞かれた博物館会議であった。 博物館法にダブルス タンダー ドはあ りえない、非公立博物館 を登録 させ ることは、 これまで 憲法や教育基本法に基 づ く公共性や、公教育 の原則 を守 って きた公立博物館 の存在 をも危 うく させ ることとなるに違 い ない。法改正 に関わる諸氏 の再考 を願 うものである。 註 ( 1 ) 平 成1 9 年6 月 1 3 日、全 国博物館長会議 にお い ての配布資料 「 新 しい時代 の博物館制度 の在 り方 に つい て」右肩 に 「 最終校正 中版J と 付記がある。平成1 9 年6 月 こ れか らの博物館 の在 り方 に関 す る検討協力者会議 ( 2 ) 註 1 の 2 頁 ( 第 1 章 博物館 をめ ぐる昨今 の動 向) ( 3 ) 文 部科学省 のホ ー ムペ ー ジ 「これか らの博物館 の在 り方 に関す る検討協力者会議」 第 1 回 配布資 料資料 3 ‑ ( 1 ) 「 博物館 に係 る過去 の検討結果 につい て ( 総括) 」地方分権推進計画 ( 平成 1 0 年 5 月 2 9 日閣議決定) に よる平成 1 1 年博物館法改正 の 際 の整理 (4)註 1、9頁 ( 第 3 章 博物館登録制度 の在 り方 につい て) ( 5 ) 註 1 、 2 8 頁 ( これ まで博物館登 録 の対象外 であった博物館 につい ての考察) ( 6 ) 高 井健司 2 0 0 7 . A u 「 博物館制度 の見直 しと公立博物館」1 0 頁 『考古学研究5 4 ‑ 2 』 ( 7 ) 長 澤成次 2 0 0 7 . 7 「 社会教育」8 2 頁 『「 改正J 教 育基本法 を考 える一 逐条解説』l ■ l 北樹 出版 (8)註 1、 2頁 (9)註 1、 3頁 00 註 1、 14頁 「 第 4 章 学芸員制度 の在 り方 につい て」 「1 現 状 にお け る学芸員制度 の 問題点J 「 ( 2 ) 大学 の学芸員養成課程 につい てJ C D 青 木豊 2 0 0 7 . A u 「 博物館法改正 へ の経緯 と望 まれる学芸員 資格 と学芸員養成」 7 頁 『 考古学研 究5 4 ‑ 2 』 ) ⑫ 「平成 1 1 年度滋賀県学芸職員採用選考第一 次考査実施公告J O 日 本学術 会議 平 成1 9 年 ( 2 0 0 7 年 )5月 24日 「 声 明 博 物館 の危機 をの りこ えるため にJ 5 〜 6 頁 1 1 4 ) 著作権者い 日本法律情報 セ ンター 文 献番号 0 8 9 7 7 6 転任処分取消等請求控訴事件 ―‑30‑― 博物館 の運営 と博物館法 の改正 ⑮ 0 0 0 職情報サイ ト:学芸員配転、権利の乱用 退職 の財 団女性職員勝訴 HP blog.Ivedoor.jp転 河野和清編著 2006年11月 『教育行政学』 い ミネルヴァ書房 第 5章博物館運営に関する諸問題について」 1. 指定管 理者制度等 につい て 註 1、20頁 「 註 1、22頁 「 第 5章博物館運営に関する諸問題についてJ2. 公立博物館 の原則無料規定 の扱 い につ い て 09 い 註 1 、 2 1 頁 「第 5 章 博 物 館 運 営 に 関 す る諸 問 題 に つ い て 」 2 . 公 立 博 物 館 の 原 則 無 料 規 定 の 扱 につ い て 一 改正」教育基本法 を考 える 逐条解説』い 北樹 出 勝野正章 2 0 0 7 . 7 「 教育行政」 9 7 〜9 8 頁 『「 ① ② ④ ⑭ 版 文部科学省 ホ ー ムペ ー ジ 小川正人 2 0 0 6 年 6 月 『市町村 の教育改革が学校 を変 える』2 8 〜2 9 頁 m 岩 波書店 小川正人 2 0 0 6 年 6 月 『市町村 の教育改革が学校 を変 える』5 0 〜5 3 頁 m 岩 波書店 ・ 稗貫俊文 1 9 8 6 . 3 「 図書館法 ・博物館法」 2 2 2 頁 『文化 学術法 現 代行政法学全集2 5 』い ぎよ うせ い 疇ツ OV ・ 稗貫俊文 1 9 8 6 . 3 「 図書館法 ・博物館法」 2 7 0 頁 『文化 学術法 現 代行政法学 全集2 5 』m ぎ よ うせ い 小 川正人 2 0 0 6 . 6 5 2 〜 5 3 頁 『市町村 の教育改革が学校 を変 える』m 岩 波書店 0 9 第 4 章 学芸員制度 の在 り方 につい て」 註 1 、 1 7 〜1 8 頁 「 0 8 行政民 間化 の公 共性分析 』い 日本 豊島明子 2 0 0 6 年 5 月 「地方独 立行政法 人制度 と地 方 向治」 『 評論社 ( 相模 原市 立 博 物館 長 ) ―‑31‑― 文学博物館 の 目的 と機能 The purpose and function of Literary museum 渡邊 真 衣 WATANABE Mai 1.文 学博物館 とは 全 国文学館協 議会 の調 査 に よる と2007年現在、 日本 には約580の文学館 が 存在 す るが、 この 中 には作 家 の顕彰 を 目的 と した個 人 の記念館 をは じめ、地域 の 文学 を紹介す る文学館 、更 に特 一 集 した文 献資料 を保存 管理す る文庫 、資料 の 部 として文学 資料 を扱 う博 定 の個 人や 団体 が1又 物館 な ども含 まれ る。現在 の 日本 にお い て は、広義 的な文学 に関す る博物館 及 びその類似施設 は全 て 「 文学館」、 「 文学博 物館」、 「 文学系博物館」 な どの 名称 で 呼 ばれて い る よ うで あ る。 こ の 内、最 も一 般 的 に用 い られて い る 「 記念館」 に対 文学館」 はそれ以 前 か ら存在 した個 人 の 「 して、地域縁 の 文学作 品 。文学者 を扱 う 「 文学館」 とい う意味 で用 い られ、 これ らの施設全 般 を呼 ぶ 際 は 「 文学博 物館」 の 文学博 物館」 「 文学系博 物館」 を用 い る場 合 が多 い。本論 で は 「 名称 を用 い る。 文学 とい う広大す ぎる主題 を扱 う以上、文学博物館 とい う施設が多様化す ることは寧 ろ当然 とい える。文学 。文芸 の作品及 び作者や研究者 を対照 とした博物館活動 の内、文学博物館で特 に強調 されるのは、文学者 の顕彰、文学資料 の散逸 の防止、地域全体 の文学活動 の振興 などで あ り、 また近年では文学 。文化 を中心 とした地域おこしを目的 とす る観光資源 としての役割が 期待 され、特定 の作家や作品のファンを対象 としたテーマパ ー ク的なサ ー ビス を行 う例 も増加 してい る。 このような現状 を鑑みるに、文学博物館 とい う施設それ 自体が未だ試行錯誤 の状態にあると いわざるをえず、統一 された基準 や評価 を定 めるには相当の困難が予想 されるのである。例 え ば故人の遺品や文書など貴重史料 の保存 を中心 とす る施設 と、 出版 された資料の体系的な収集 を第一 とす る施設、観光客 に対す るサー ビス を充実 させてい る施設 をすべ て同列 に評価 す るこ とは難 しく、文学館 を論 じる上ではまず、 この漠然 とした分野 の内容 を整理 し、明 らかにす る 事が必要ではないか と考えるに至った。本論においてその糸口な りとも掴 めれば幸 いである。 2.文 学博物館 の成立 近代博物館成立の更に後か ら付 け加 えられた文学博物館が現行の博物館分類 に組み込 まれて い ないことは、既 に複数 の研究者か ら指摘 されてい る。 『 全国博物館総覧』 (ぎょうせ い,1986 ‑)を 見 ると、文学 を扱 う博物館 は総合博物館、郷土博物館、美術館、歴史博物館、 自然史博 物館、理工博物館、動物園、水族館、植物園の 9部 門の内、主に歴史博物館 に分類 されてい る ―‑33‑― 文学博物館の目的と機能 が、 この傾 向 は歴 史 に名 を残 した人 物 (文筆家)の 記念、 または地域 の 文学 史 を明 らか にす る 主 題 に よる もので あ ろ うか。 この他、絵本、 漫画、 アニ メ ー シ ョンな どは美術館 、郷土 資料 の 一 部 として 文学 資料 を収 集 して い る場合 は郷土博物館 に分類 されて い る。 文学博物館 の施設 は大別す る と、① 資料 の収集 に偏 った文庫 、 ②個 人 の 文学者 (作家、研 究 者 な ど)を 対象 とす る もの、 ③特 定地域 の文学 を対 象 とす る もの、④ 地域 な どの 限定 を設 けず に文 学全般 を対象 とす る もの に分 かれ るが、 これ らの施 設が誕生 した時期 はそれぞれ に異 なっ て い る。 ① 文学博 物館 の初期形態 我 が国 にお ける博 物館 史上、明治以前 に成立 した博物館 的施設 は博物館 を受 け入 れ る基盤 を 育 てた とい う こ とはで きて も、西洋文 明 の移入 に伴 って成立 した近 現代 の博物館 それ 自体 とは 別 の もので あ る と考 え られて い るが、 文学博物館 に も同 じこ とが 言 えるのであ る。 文学が博物 館 資料 として取 り上 げ られ る よ うになった大正期 か ら文 学博物館 の成立 に至 る史的変遷 は駒見 和 夫 の研 究 に詳 しい が、前提 となるだろ う活動 はそれ以 前 か ら存在 して い たので あ る。 文学博物館 の主 要 な資料 は図書、記録 な ど文献 の類 だが、それ らを収 集保管す る行為 自体 は 古 くか ら行 われて い る。 日本 で は、 漢学、仏教 な ど大 陸文化 の渡来 した 5〜 6世 紀 まで遡 るこ とがで きる。請来 された典籍類 は朝廷 を始 め とす る豪族 に献 上 され、 また仏教 の流行 に伴 い多 数 の 寺 院が建 立 され る と主 要 な大寺 院 に は経 蔵 や 学 寮 文庫 が 設 置 され た。701年の大 宝令 に よって制度化 された太政官 中務省 の 図書寮 (現宮 内庁書 陵部 の前 身)は 、 国史、法典 の編纂 の 他 に、 国家 の事業 として文献 。記録 の収集保管 を行 った官設文庫 の始 ま りである。 個 人で は奈 良時代 の 末 に石上宅嗣が 邸 内 に設 け公 開 した芸 亭 が あ り、更 に菅原道真 の紅梅殿 な ど公 家 階級 の知識人 に よる文庫 が設置 されたが、火 災、戦乱 な どの被 害 にあ い、 また応仁 の乱以 降 は経済 の 困窮 か ら経営 困難 に陥 り、殆 どが消 えて い った 。 公家、僧侶 に よって始 め られた 図書 の収集 は鎌倉 、室 町 にか け て武家 に も引 き継 が れた。代 表 的 なの は、北 条実時創建 (が有力 な説 で あ る)以 降、顕時、貞顕 の三代 に渡 って収集 を行 っ た漢 書、 国書 の コ レクシ ョンは称名寺 に よって管理 され、北 条氏 の減亡後 も同寺 の蔵書 ととも に保 存管理 された。 そ の後 か な りの部分が散逸 した ものの、1930年には神 奈川県 に よ り県 立金 沢文庫 として現在 の場所 で復興 されて い る。 江戸 時代 に入 る と世相 の 安定 に よって出版活動 も盛 ん にな り、家康 以来 の文治政策 に後押 し されて幕府 や諸大名 の 文庫 が設置 された。 この代 表 的 な ものが 家康 自ら江戸城 内富士 見亭 に設 置 した富士見 亭文庫 で あ る。1940年に城 内紅葉 山霊廟 の境 内 に移 転 された こ とか ら紅葉 山文庫 と呼 ばれ、 寄贈 お よび幕府 に よる1又 集 で発展 した これ らの蔵書 は、 現在宮 内庁書 陵部 に収 め ら れて い る。家 康 は駿府城 中に も駿 河文庫 を設 け て い るが、 こ ち らは没 後 に紅葉 山文庫 、徳川御 三 家 に分与 されて い る。 また財 力 の あ る武士 や庶民 な どの個 人文庫、神社 に奉納 された書籍 に よる神社 文庫 も江戸 時代 に増加 した。 また明治 中期 以 降 は公 共 図書館 が整備 され る一 方、古美術 、古文化財保 護 の方針 に則 り、 旧 家 に伝 え られた蔵書 の保存 や富 豪 に よる貴重 図書 の収集が盛 ん に行 われた。 駿河文庫 の御譲本 を元 に藩祖 義 直 よ り収 集 した尾 張徳 川 の 旧蔵書 を公 開 した蓬左 文庫 (1935年に 目白 で公 開。 ―‑34‑― 文学博物館 の目的と機能 1950年名古屋 市 に譲 渡 され、翌年公 開)、鶴 彦大倉 喜 八 郎 が維新 以来収集 した漢籍、浄瑠璃 本 を含 む文化財 を公 開す る大倉 集古館 (1917年開館)、 三 菱 財 閥 の 岩崎弥 之助、小 弥太 に よって 日清戦争前後 か ら収集 された古美術 ・古典籍 を元 に した静嘉 堂文庫 (1940年よ り専 門図書館 と して活動)な どは、 この よ うな背景 か ら発生 した もの と考 え られ る。 この よ うな文庫 は個 人や特 定団体 の コ レクシ ョンを保存管理 し提供す る専 門図書館 であ り、 図書館 史 で は 日本 にお け る図書館 の原型 と位置付 け られて い る。 また収集す る資料 が必ず しも 一 文献 に限 らな い と言 う点 で は、博物館 の 原型 であ る個 人 コ レクシ ョンの 部 と観 る こと もで き るのであ る。 作 家、文学研 究者 の蔵書、手稿、愛用 品な どが 然 るべ き時 に本 人や親族 に よって 自治体 に寄 ○○記念館J力 '生まれ る、 若 しくは既 にあ る文 学博物館 、 図 贈 され、 そ の 資料 を中心 とした 「 ○○文庫」 と して活用 され る例 は現在 で も少 な くな いが、 これ らも本 をた 書館 、大学 な どで 「 だせ ば文学活動 のための 「 文庫」 と言 えな くもな い。従 って 文学博物館 の核 は文庫 だ と言 う こ ともで きる。 接 ただ し特 定 の個 人 または団体 の コ レクシ ョンとして始 まった文庫 の場合、必ず しも文学が直 の 目的 で はな く、学 問や美術 品1 又 集 の 一 環 として古書、古典籍 の類 が収集 され るのが特徴 で あ る。文 学専 門 の展示機能 を持 た ない場合 も多 い ため、 一 般 の利用者 か ら見 ればそれ こそ、貴 歴 史系博物館J 、 または 「 文学 美術館 」 や 「 専 門図書館」 で あ り、 「 重な 「 文庫J を 所有す る 「 博物館」 だ とは認識 され に くい だ ろ う。 ② 人物記念館 一 方 日本 の 近代博 物館 は 「 文 明 開化J 「殖 産興 業」 の 一 手段 として流 行 した万 国博 覧会 の流 れ を汲 む 自然 史系 の博物館 と、 文化財保 護思想 の 高 ま りか ら寺社 な どで所有す る古器宝物類 を 公 開 した ことに始 まる歴 史 ・美術系 の博物館 か ら始 ま り、博物館学 の立 ち上 げにあ たって も、 人類学、考古学、 自然科 学 な どの専 門家 が 中心 となって い る。 ゆえに抽象 的 な分野 で あ る文学 が博物館 に取 り入 れ られ る まで時 間 を要 した こ とは指摘 され続 け てい るが、 これ に加 えて 「 近 代文学J 自 体 が近代 以 降 に成立 した物 で あ る こと も、成立 の 遅 れ に無 関係 とは言 えな いの で あ る。 文学博物館 の主 題 として選 ばれ るの は近 現代 の小説家 が圧倒 的多数 を占め るが、 福沢諭吉 ら 明六社 の啓 蒙活動 に代 表 され る実用 、実学本位 の風 潮 に押 された為 に近 代 文学 の成立 はやや 遅 れ、実 質 的 な出発点 は二 葉亭 四迷 の 『 浮雲』が発表 された明治2 0 年代 の初頭が通説 で あ る よ う だ。近代 文学 の研 究史 は坪 内逍遥 の 『 小説神髄』 まで遡 れ るが、逆 に言 えば こち らもせ いぜ い 明治 2 0 年前後 まで しか遡 れ ない 。そ の思 想が定着す る まで には更 に時 間がかか るの は言 うまで もな く、近代 文学 の研 究が本格化 す るの は第 二 次世界大戦 の後 で あ る。 博物館 の枠組 みが作 られた時期 は近 代 文学 もまた形成途 中にあ り、文学研 究 の発展 に伴 って 博物館 設 立の機運 も高 ま った と考 え られ る。 近代 の 文学博物館 は文学 の研 究 よ りも、個 人 の 文学者 を記念、顕彰す る記念館 か ら始 まった。 『日本博物館 沿 革要 覧』 に見 える最 も古 い記念館 は招魂社 陳列場 ( 1 8 7 9 年 設 立。1 8 8 2 年よ り靖 国神社 附属遊就館 として 開館) が 維新後 の戦没者 の 遺 品や記念 品 を展示 した こ とに始 ま り、文 ―‑35‑― 文学博物館の目的と機能 学者個人の記念館が設置 された例は駒見和夫が 「 文学その もの を博物館資料 に位 置づ け、作者 や作品を土台 に活動 を行 う文学系博物館の晴矢Jと 評価する小泉八雲記念館 (ヘル ン記念館) (1933年 開館)が 初 である。隣接する小泉八雲旧居 (松江時代数 ヶ月居住)は 1913年頃か ら公 開されてお り、 また個人の業績 を記念 す る例では国学者 である本居宣長 の書斎であった鈴屋 を 保存する目的の鈴屋遺跡保存会 (1906年 設立プ の例があるが、 これ らは歴 史的旧跡の保存 を目 的 とした もので、文学 お よび文学者 の業績 を伝 えようとい うものではなかった。 戦後経済の復興期に当たる1950年代以降には各地で博物館の設置が流行 し、文学者に関する 記念館 も藤村記念館 (1947‑1952年にか けて完成)芭 蕉文庫 (1951年 設置)を 元にした芭蕉翁 記念館 (1959開 館)な どが相次 いで設置 されてい る。 これ らは出生地、活動 の場、作品の舞台 など縁の地に設けられ、「 己念館」 の名 の通 り人物 の業績 を記念す るのが特徴 である。 言 ③狭義 の文学館 早稲 田大学坪内博士記念演劇博物館 (1928年 設立)は 、総合的な研究を行 う文学博物館 の魁 とい える。 『シェー クスピア全 集』の翻訳完成 と坪内逍遥 の古希 を記念 した この博物館 は、坪 内の旧蔵品を中心 とした記念館 と呼ぶ こともで きるが、収集者本人ではな く演濠1を主題 とする 博物館 である。 個人の文学者 に留 まらず、広 く近代文学全般 を対象 として活動 を行 う機能 を備 えた 日本初 の 「 文学館」 は、 日本近代文学館 (1967年 開館)で あ り、 これより後 に地域の文学 を対象 とす る 近代文学館が各地 に設置 されるようになった。 日本近代文学館 は、成立趣 旨では十分な整備 をされない内に震災、戦争、政府 による抑圧 な どによる被害を受けた近代文学の資料 を保存 し、散逸 を防 ぐ 「 近代文学 の関係資料 を保存する 一 図書館」であ り、資料 の保存 と利用 を第 とす る図書館的な活動 を中心 としてい るが、文学者 の遺品など生活資料 をも収集 し、 また同年に開館 した展示機能を主 とす る東京都近代文学博物 館 (2002年に閉館)と 連携することで博物館的な機能を補強 したものであった。 近現代 を中心 に俳句 に関す る資料 (主に図書、雑誌)の 1又 集保存 を行 う俳句文学館 (1976年 一 開館)な ど、文学 の 分野に限って地域 を越 えた活動 を行 う専門的な研究、情報提供機関的な 文学館 もこれ以降増加 してい る ④近年 の傾向 近年 の傾向では、文学 に含 まれる対象 が更に広がって大衆文学、 ノンフィクシ ョン、児童文 学、絵本、漫画、アニ メー ションなども取 り上 げ られるようになった こと、娯楽要素 の強い文 学 のテーマパ ー ク的な博物館 が作 られるようになった ことも挙げ られるだろ う。 一例 を挙げると池波正太郎記念真田太平館 (1998年 開館)は 真田氏縁 の長野県上田市 に設置 され、作者のの遺品 も展示 されてい るが、 中心 となるのは 『 真田大平記』 を中心 とす る池波作 品 (特に真田物)の 紹介 と解説、挿絵 の展示 などである。 また 『 源氏物語』 を核 とした地域起 こ しの基盤 として宇治市 に作 られた宇治市源氏物語 ミュー ジアム (1998年 開館)は 作品世界 の 再現が中心 であ り、作者 (紫式部)お よび 『 源氏物語』 に関す る解説が殆 ど存在 しない。 これ らは 「 記念館」、「 文学館」 などに分類 されるが、あま り堅苦 しい ものを感 じさせ ない。 このように設立の経緯 か ら見れば文学博物館 は、 明治以前か ら存在 した蔵書 コ レクションの ―‑36‑― 文学博 物館 の 目的 と機 能 流れを汲 む文庫が今 に続 いたもの、地域 に縁 のある文学事業 の顕彰 を目的 とす る記念館 、時代、 地域、 ジャンルなど様 々な切口か らの文学研究 とその支援 を目的 とす る文学館 に分ける ことが で きる。 こ ういった 目的はその他 の機能 を疎かにする ことを意味せず、 また例 えば研究 と言 う機能が 資料 の収集 を無視 して成 り立たない ように、それぞれの 目的を達成す るための機能は重複す る。 しか しどの機能が中心 とな り博物館 の活動 を支えてい くか とい う指標 にはなるのではないだろ うか。 3 . 文 学博物館 の機能 博物館」 である。 文学」 に関す る 「 元 を辿れば図書館 と結 びつ くとは言え、文学博物館 は 「 博物館 の持 つ具体的 なモノの収集機 実態なき試作 の集積」 であ るために 「 中川成美 は文学が 「 (13) 能 は著 しく損なわれ る」 と、博物館機能 と文学 の相性 の悪 さを指摘するが、それでは文学博物 館 の本来的 目的 とあ るべ き機能 とはどのようなものだろ うか。 文学博物館 の主だった機能 としては、博物館 の主要機能である収集、整理保管、調査研究、 教育普及のほかに、文学者 の記念お よび顕彰、資料 の公開 と提供、文学活動 の振興、文学風土 を中心 とした観光資源 の掘 り起 しなどが挙げ られる。 ①記念 お よび顕彰 文学博物館 の設 立 目的 として、作家 の記念 ・顕彰 を挙げ る場合が非常 に多 い。 これ らは皆 記念 記念館」 と呼ぶ ことがで きるだろうが、実際には特定の作家個人を対象 とす るものを 「 「 文学館」 と呼ぶ ことが多 い ようで 館」 と呼 び、地域ゆか りの文学者複数 を対象 とす る場合 は 「 ある。文学は人の手 で生み出されるものであ り、作品世界 と作者、時代 や社会 とい った背景 は 切 り離せ ない。 しか し人間がいずれ死亡す る以上 いずれ文学者 の存在 は忘れ去 られ、文学作品 もご く一部 の 「 不朽 の名作」 を除けば、現代 の情報 の氾濫 に紛れて消 えてい くことになる。作 者、作品両方 か らの文学的業績の保存 とい う点で、文学博物館 の役割 は決 して小 さい ものでは ない。 ②資料 の公開 と提供 文学館 の公開活動は、主に展示 を中心 としたもの と資料 を使用す るもの (作品の鑑賞、研究 の為 の資料提供 を含む)に 分 かれる.博 物館 の機能 として展示が欠かせ ないこ とは事実 だが、 文学博物館 においては度 々言 われるように文学 とい うものが展示 で表現 しに くく、実際 に作品 を鑑賞 した ことがなければ理解することが困難であるとい う問題が存在す る。 このために文学 館 の展示 は地域縁 の文学又 は文学史の展示、 または文学者 の人生を辿 る展示 になるのが殆 どだ が、 この種 の展示 は一歩間違 うと文学史の叙述や文学者 の人物解説 じみた ものにな りかねない。 もちろん文学博物館 とは、文学者 の顔 と略歴、生涯で著 した作品の概略 を丸覚 えさせ るため にあるのではない。 この問題で よ く引 き合 い に出されるのは美術館で、即 ち過去 の巨匠が描 い た素描やデ ッサ ンは芸術品 として鑑賞す る価値 を持 つが、文学作品の原稿 をい くら眺 めて も作 品の理解 には繋 が らない と言 うのであ る。 また特 に企画展 などでは一般的な知名度や人気に偏 り、近代 の文学史を偏 りな く紹介す ることは難 しい と言 う問題 もある。従 って文学博物館 の展 ―‑37‑― 文学博物館の 目的と機能 示 には、主に作品や作者へ の興味を喚起 し利用者 を文学 に結 びつ ける役割が期待 され、利用者 が実際に作品に触れてみるための切欠作 り、又は文学 ・文学者 に対する新たな視点を 提供する 狙 いが強 く、 いずれにして も実際に作品を手に取 ることが前提 となってい る。 利用者 の求 めに応 じて個人の学習や研究の為 に所蔵資料 の一部 (特に二次資料)を 提供する のは、規模の大 きい博物館であれば大抵行 ってい ることだが、文学博物館 においては 資料その ものの提供が特 に重要視 される。 この傾向は日本近代文学館 の設立以来定着 し、本来の機能が 図書館 に近 い といわれる由縁 で もある。 また この ように提供 される文献、記録等の資料 は活用 のため に資料紹介、書誌 の作成、全集 の刊行、復刻本の刊行、知 られてい ない作家や作品の紹介などを行 うことも、文学博物館 の重 要な活動である。 ③文学活動 の振興 これ も日本近代文学館 の提唱によるが、文学者 を対象 とする館は須 く、文学活動の振興 を最 終的な目的 としていると言 って も良いだろ う。上記 の活動 に加 えて、読書会、座 談会、講演会、 文学散歩、文学の旅 などの開催、文学賞 の制定などが挙げ られる。 展示 のみでは不十分な部分 を伴 う意味 で も、利用者 を養成 し文学博物館 自体 の活動 を活発 に す る意味で も、 この 目標 は重要である。 1995年に日本近代文学館 の主唱によって全 国文学館協議会が設立 されて以来、各館が蓄積 し て きた経験や情報 を共有することによって、更に新 しい可能性、あるべ き姿 を探 る試みがなさ れるようになってい る。 ④観光資源 の掘 り起 し 有名な作家お よび作品には出版事業 の展開に よ り地域 に偏 らない知名度を持ち、潜在的な利 用者 と言 うべ き愛好者が全 国 に存在するとい う強みがあるために、観光資源 として取 り上 げや す い。従 って郷土資料館 などに比べ れば、観光客 の興味 を引 く可能性 は遥かに高 い と考えられ る。 利用者に迎合 し、肝心の調査研究機能を疎かにしてい ると言 う点 で観光に偏 った博物館 には 冷ややかな目が向け られることも多 いが:地 域起 こ しや観光の 目玉 として文学博物館が作 られ る例は枚挙 に暇がない。 4.お わりに 博物館 の中で も比較的新 しい大正 〜昭和初期 に誕生 した文学博物館 は、成立 して以来幾つか の転機 を経 て活動 の幅を広げて きた。本論では主に 「どの ような目的で」、 とい う視点か ら文 学博物館活動 の位置づ けを試みたが、文学は時代 と世相 に合わせて変化するものであ り、それ を対象 とす るか らには文学博物館が今後新たな変化 を迎 え、発展す ることも十分 に考 えられる。 社会全体 の文学的関心が薄れてい ると言 われる今 日だが、文学が過去に呆 た して きた役割は 大 きく、今後文字 を媒体 とす る文化、即 ち文学が消滅す るとも考えに くい。文学博物館 はこれ か らも時代 と時 々の文学 と共に活動 し発展す るものであ り、 またそ うであってほ しい と切 に願 うものである。 ―‑38‑― 文学博 物館 の 目的 と機 能 漕 全 国文学館 ガイ ド』小学館 , 2 0 0 5 ( 1 ) 全 国文学館協議 会編 『 全 国文学館 一 覧表 ( 補遺) J 『全 国文学館協議会会報』3 7 , 2 0 0 7 本原直彦 「 文学 ( 2 ) 「文学館J の 名称 は1 9 6 2 年の財 団法人 日本近代文学館 の成立、 1 9 6 7 年の 開館 以来定着 した。 「 東京都近代文学博 物館」 が初である 博物館」 は同 じく1 9 6 7 年に開館 した 「 北 九州市立大学 文学」 がであ う ときJ ( 「文学博物館 とい う メデ ィア」 『 博物館 と 「 ( 3 ) 重 信幸彦 は 「 博物館学総論』 ( 雄山閣, 1 9 9 6 ) を 引 いて、 文学部紀要』 6 7 , 2 0 0 4 ) で 加藤有次 の 『 美術博物館J に 分類 歴 史博物館」 「 科学博物館」 「 これ まで博物館 は専 門分野 によ り、大 き く 「 されて きたが、そ の下 位分類 のなか に文学 は、 どこに も無 いので あ る。 と述 べ て いる。 和洋國文研 究』4 0 ( 4 ) 駒 見和夫 2 0 0 5 「 文学系博物館小考」 『 ( 5 ) 加 藤有次 1 9 9 6 『 博物館学総論』雄 山閣 ( 6 ) 中 川成 美 1 9 8 3 「 ア ジアの 文学博 物館 とそ の 課 題 ― イ ン ドの場 合」 『 M o u s e i o n 』2 9 、重 信 ( 前 掲) な ど ( 7 ) 倉 内史郎 ほか編 1 9 8 1 『 日本博物館沿革要覧』野 間教育研究所 ( 8 ) 駒 見 ( 前掲) ( 9 ) 1 9 6 7 年市 に移 管 し、本居宣長記念館 の 一 部 として公開 0 0 1 9 6 2 「 日本近代文学館設 立の趣意 」 0 1 9 6 5 『 日本 近代文学館 ニ ュ ー ス』 6 、 槌 田満文 2 0 0 2 「 東京都 近代 文学博 物館 の 閉館 をめ ぐっ てJ 『 日本近代文学館』 1 8 8 、な ど 東京都近代文学博物館 は1 9 6 3 年ごろか ら図書、雑誌以外 の以 降、遺品、そ の他資料 の収集展示 を 行 う施設 として企画 された 1 2 1 図書室 な ど教 育 。研 究部 門は存在す る。入館者の側か ら不満 が出たために、 リニ ュー アルの際 は 改善予定 0 中 川 ( 前掲) 全 国文学館協議会会 共 同討議 。文学館 の展示 に関す る諸 問題」 につ いて」 『 (И ) 生 田美秋 1 9 9 7 「 「 報』 5 、 宮 瀧交 二 1 9 9 8 「 文学館 にお け る展示 につ いて : さ い た ま文学館 の企 画展 を事例 とし て」 『 M o u s e i O n 』な ど 紀要」創刊」 『日本古書通信』9 1 4 , 2 0 0 5 ⑮ 紅 野敏郎 「日本近代文学館 の 「 0 ‑例 を挙 げ る と、玉川薫 は、 一 観光 と一 口にいって もそ の 内容 は千差万別である ことを思 えば、 概 には否定 しきれないが、 芸能人 の記念館 と同列 に置かれ るのは、や は りどんな ものか と思 う。 と、疑間 を提示 して い る。 ( 1 9 9 4 「地方文学館 の難 しさ」 『日本古書通信 』7 8 1 ) ( 國學 院大學 大 学 院丈 学研 究科 博 士 課 程 後 期 ) ―‑39‑― こども博物館 について 一 棚 橋 源 太 郎 と木 場 一 夫 の 論 を参 考 に一 A Study of Children′ s Museum 一 Based on Tanahashi and Koba― 福田 ふ み FUKUDA Fumi 1 は じめ に 子 ども博物館 が わが 国 にお いて研 究 され る よ うになってか ら久 しい 。博物館研 究 にお い て数 多 く取 り立 た され る よ うになって来 て い る子 ども博物館 に 関す る先行研 究 は、棚橋源太郎 を晴 矢 と し、次 いで 木場 一 夫 に よって論 じられて い る。 そ もそ も子 ども博 物 館 の 語 源 はア メ リカ の Children's museumから来 て い るので あ るが、 これ を 日本 で 始 めて訳 した の は、棚 橋 源太郎 で あ った。棚 橋 は、Children's museumを児 童 博物館 と訳 し、 日本 にお い て も普及 させ るべ きだ と述 べ て きた。 家庭教育 、学校教 育 が懸念 されて い る今 、博物館 とい う社 会教 育機 関 で、 子 どもに経験学習 、 体験 学習 を体験 させ る こ とこそ現在 求 め られて い るので はな い だ ろ うか。 昨今 に於 い ては子 ども博物館 。子 どものため の博物館 に関す る著作物 は多数認 め られ るが、 子 ども博物館 につい ての歴 史的見解 を加 えた論著が あ ま り多 くない とい う ことに着 目し、棚橋 一 源太郎 と木場 夫 の児童博物館 の理論 を参 考 に、子 ども博物館 を考察 し、 また韓 国 のチ ル ドレ ンズ 。ミュー ジア ム につ い て紹介 しなが ら、子 ども博物館 の展示 につ いて も考察す る もので あ る。 2 棚 橋源太郎 の 子 ども博 物館理論 一 棚 橋 源 太郎 は、大正 五 年 (1916)の 日本 児童 学 会 第十 回総 会演 説 にお い て 「児童 と博 物 館」 につ いて述 べ てい る。 まず アメ リカの博物館事情 にう い て触 れ、 日本 の博物館事情 が遅 れ て い る こ とにつ い て述 べ て い る。欧 米 の博物館 は、 ただ座 って観客 を待 って い るので はな く、 自ら進 んで、講演貸 出そ の他 の方法 で進 んであ らゆる教育方面 に活躍 しつつ あ る として い る。 それ に対 して 日本 は、 ただ座 りなが ら観客 を待 ってい る とし、 甚 だ遺憾 であ る と、 日本 の博物 館教育 の遅 れ を嘆 い て い るのであ る。 そ して、 日本 には水族館 や、動物 園 の卵子 や、宝物展 覧 所、小 陳列所等 の博物館 の 萌芽 が な くもな い として、教 育行政 の任 の あ る人等 に これ らの萌芽 の保護培養 を懇願 して い る。 そ して、 本邦 で は この博物館 が不備 であ るため にわが 国 の 児童 は、博物館 か らの恩恵 を欠 い て い る。何 卒 一 日も早 く世界位 に此重要 な社 会教育 の機 関 を完備 し特 に又児童教育 の見地 か ら ―‑41‑一 こども博物館について も斬新 の 設備 を して彼等が要 求 を満 たす事 に した い。 と、 早 い段 階か ら博物館教育 にお け る児童教育 の重要性 を述 べ て い る。 しか しこの段 階で は、 つ い 児童博物 館 に てはアメ リカの ブル ック リ ンの児童博物 館 につ い て触 れ るだ けであ って、児 童博物館 自体 を日本 に も設置 しようとい うことは、暗に述べ られている ものの、明 には述べ 確 い な 。 それは、 この時代 においての 日本の博物館 の数や運営事態が希薄であったこともあ り、 この こ とは、 この演説 の 冒頭 において も、窺 い知れる。 本邦 の博物館 と云 う問題は、先ず似て教育会 とか、又は貴衆両院 とか政府会 などに於 い てヽ十分研究討議 し我が邦相富の施設の完成 を急 ぐ事が寧ろ先決問題である。故に今我か 一歩飛びの に之を本会の問題 にす ると云 う事 はWilか 感覚があって どうか と思 うが、 兎に角 卑見 の概要 を述べ て見る事 にする: 大正五年の段階では、児童博物館 の設置 とい う名言を避けた棚橋 であったが、昭和 5年 に掲 .T3 載 された論文 には、 明確 にその故が述 べ られて い る。 1 理 科 地理歴 史及 び美術 の如 き、 一 国 の 産業 の基礎 を成 し、 海外発展 に至 大 の 関係 あ る 重要教科 の教授が、かふ云 う施設に依 り補充 され完成 されることは、わが国の現状 に顧み て最 も望 ましい点である。本邦現在 の博物館乃至将来都 市 に建設せ られるべ き博物館 をし て、 国民 の教育上真 に効果あるものた らしめん とす るならば、ぜ ひこの児童博物館の施設 を見過 ごさぬ様 にして貰 いたい。 2児 童博物館設置 の場合 は、 これを独立 の館 とすべ きか、他の博物館 の一部 にこれを附 設するべ きか と云ふ問題 に対 しては、私は附設説に賛成す るものである。その理 由は公 開 の博物館 に附設 した方が、設備上管理上便利 で、且つ経済的である。 3教 育博物館 は二つの意義がある。即 ちその第一 の意義は教師のため に教 具校具 の類 を 収集 してその参考 に資す ることである。第二の意義は各学校 に対す る共同的教具室 として、 各学校児童 の見学、教具の貸 し出 しに応 ず ることである。若 しそれこの第二の意義 の教育 博物館建設 の場合 は、私は児童博物館 と合体せ しめて一巻 としたい。そ うすれば、全ての 設備 を児童本位に して、正課時間中はもちろん放課後 も休 日もこれを利用せ しめる ことが で きて経済的であるか らである。 このように棚橋 は児童博物館 の理想 を明確 に名言 してい る。 また この論文において棚橋 は、 児童博物館 について興味深 い意見 を述べ てい る。 児童博物館 には二つの異 なった意義がある。その一つ は児童 を研究す るに必要な資料 を 収集 して置 く博物館 である。今一つ は児童 を直接教育す るための博物館 と云 う意味である。 第一 の解釈 の下に出来てい る児童博物館 は比較的少ないが、 この種 の博物館 には、児童心 身の発育教育に必要な材料、児童 の比較研究に要する人類学的の資料並 に児童 の養護及び 教育方法に関する参考資料等が収集 され、随って児童が本能的に製作 した図書や手工 品を 始め、各民族の児童服、玩具、児童用品、学用品、教具、校具及び家庭学校 にお ける児童 の製作品等、広 い範囲に渡 って参考品が集め られてい る。ハ ンガ リーの首都部ブダベス ト には児童博物館 (Das Pad010gishes Museum)と 云 うものが あ るが、 師範、大学や児童 ―‑42‑― こ ども博 物館 につ い て い 学会 などには、 こうい うように児童 を研究 の対象 にした特殊 の博物館 があ って も良 筈 で あ る。 児童 を直接教育す る ことを 目的 としてい る児童博物館 では、児童 を教育するてめに使用 集品 を備 え、幼燈や活動写真 の設備 を行 い、特別な指導者 を置 いて児童 を教育する。 す る1 又 この児童博物館 には普通 の博物館 の一 部 に設 け られてい る児童室 ( C h i l d r e n ' s R o o m ) と u n i o r m u s e u m ) との二種類 があ (」 少 独 立の児童博物館 ( C h i l d r e n ' s m u s e u m )年博物館 る。 前記 の二つの異なった意義 の児童博物館 の関係 は、恰 も教育博物館 が二つの異なった意 義があ る ことに似 てい る。即 ち教育博物館 には教育家 の参考 に資す るために校舎、家庭及 び学校衛 生 し関する参考資料や校具、教具 の類 を集めてい る独逸式 の教育博物館 と、各学 校か ら引率 して来る学級に収集陳列 の品を見学 させた り、 また各学校 に対 し教授用具 を貸 し出 してい る米国式 の教育博物館 との二種類があって、児童博物館 のそれに該当 してい る。 児童博物館 には此れの如 く二つの異なった種類 があるが、今 日漸 く盛 んに施設 されんとし あ る。 て居 るのは、寧 ろ第二の意義に属す る児童博物館 (Children's museum)で ここで、注 目したい点 は、棚橋 が児童博物館 の意義 を二つ に分けた点 である。つ まり簡単 に 一 言 うと、一つが児童 を研究する博物館。 つが所謂現在で言 う子 ども博物館 である。そ して こ の、意義が二つ ある ことを棚橋 は、教育博物館 の意義が二つ あ るの とよく似 てい ると述べ てい るのである。 棚橋 は教育博物館 について二つの意義を提唱 してい るようである。それは、所謂児童用 の博 物館 と教師用の博物館 といった ところである。そ して、棚橋 は教師用 の博物館 を中央の教育博 物館 とし、それに順ず る形で児童用 の学校博物館 を建設 した ら良い といった考えを提唱 してい る。 つ ま り両者 は両 々相挨 ってい る関係であるのである。無論教育博物館 の二つ の意義 に酷似す る児童博物館 の二つ の意義 もこ ういった関係 であるべ きだと、棚橋 は考 えていたのだろ う。 こ のことか ら察す るに、つ まり、児童 の研究が成 されるか らこそ、子 ども博物館 は発展 し、子 ど も博物館が発展す るか ら、児童 の研究が発展する。 この定義 はお互 い に相乗効果を生むのでは ないだろ うか。 棚橋が児童博物館 の意義 を二つ に分けてか ら、かれ これ80年近 く経つ。現在 の 日本において も、数多 く取 り上 げ られるのは、棚橋 の言 う児童博物館であ り、現在で言 う子 ども博物館 であ るのである。 しか し、 まだ80年しか経 ってい ない と言 うべ きなのであろ うか。現在わが国のこ ども博物館 とい うものは、その名称 の呼 び方や、独 立 して建てるのか、 附設 して建てるのか等、 その研究歴史 も若 い とい うところか ら、あま りしっか りと定義づ け られてい ないのが現状であ る。 わが 国の子 ども博物館 は、 まだまだ発展途上である。それ故一般市民に子 ども博物館 は、あ ま り知 られない ところとなってい るのであろ う。 しか し子 ども博物館 の紹介者 である棚橋 の論文 は、単なる海外 の事例 の紹介 だけではな く、 寧 ろ明確 な定義が うちだされてい るのであった。 ―‑43‑― こども博物館について 棚橋 の理想 とす る児童博物館 論が、現在 の子 ども博物館 に どの よ うに働 きか けるのか につ い ては、 まだ まだ考察す る必 要があ る。 だが現段 階で述 べ られ るこ とは、棚橋 の理想 としてい る 児童博物館 論 は、 わが 国 の子 ど も博物館 研 究 において、最 も重要視 され る考 え方 で あ る と評価 で きよ う。 3 木 場 ― 夫 の 子 ども博物館 の理 論 海外 の子 ど も博物館 の事 例 を通 して、 児童博物館 を研 究 した人 物 と して木場 一 夫が い る。 木 場 の 考 える児童博物館 とは児童博 物館 は、六 歳 ぐらい か ら十六 歳 ぐらい までの少 年少女 たちが 芸術 及 び科学 につ い て、かれ らの 自然 的興 味 を満足 させ る こ とがで きる場 所 で あ って、 これ ら の年少者 に対 す る教育 的 なサ ー ビス を使 命 とす る博物館 で あ り、児童博物館 は児童 の生 活 の 場 として考慮 す るこ とが もっ とも重 要 な こ とで、 ここで児童 は、 い ろいろの施設 を容易 に使 う こ とに、最大 の 自由が許 されてお り、 また他 人が して い る行為 に邪魔 を しな い とい う事 にお い て、 児童 に責任 と協力 の精神 を発 展 せ しめ るの に役立 ってい る と して い る。そ して児童博物館 にお い て重 要 な こ とは、 一 般 の博物館 とは異 な り、児童 に対 す る展示物及 び教授 が形 式 的 なわ くの 中か ら取 り出 され、かれ らの活動 と実際 に関連 して現 され、か つ 取 り扱 わ なければな らない事 を指摘 して い る。 博物館 を訪 れた児童 に、 この愛着 と誇 を持 つ こと を吹 き こむため には、博物館 がかれ らのた め に造 られ、かれ らのため に存在 し、 かれ らのため に計算 されてあって、 そ して、 最上 の もの が提供 されてお り、 これ らはす べ て児童本位 の もので あ る こ とを無理 な く自然 的 に感 ぜ しめね ばな らな い と、 児童本意 の博物館 を提 唱 して い る。 また木場 は、 児童博物館 にお ける展示 品 と 展示 の基本要 素 を以下の四つ に分 類 して い る: 一 、児童 のため に選 した 択 展示 品 二 、児童 のための展示。 三 、児童が りか いす る もの 四、児童 のため に特 に用 意 された場所 に展示 す るこ と。 また、 展示 をなす にあた っては、 ケ ー スの位置 につい て特別 の注意 を払 う ことが 要求 されて お り、例 えば、高 い ケ ー スは室 の 中央 にお くこ とをさけ、 そ の部屋全体 が付 き添 い 人 の位置 か ら見 渡 せ るこ とが 最 上 とされてい る。 そ して、 ケ ー ス は床 に組 み入 れた り、動 かす ことがで き な い よ うに接 着 して は い けな い。 なおそれ を配置 す るにあた って は、採光 を十分 に考慮 せ ね ば な らな い。展示 品 を最 も魅力 の あ る もの にす る一 つ の工 夫 は、色 彩 の使 い方 で あ って、注意 し 選択 した背景 に見 える こ とに よって、 展示 品 自身 に魅 力 な い もので も、 印象 的 にす る こ とはで きるな どと、 児童博物館 にお ける展示 の細 か い 定義 も述 べ て い るのであ る。 児童博物館 の構 成 につ い て も木場 は、 触 れて い る。建 物 は展示 品だけで な く、児童 のための クラブ室 。図書室 ・読書室 。講義室 な どを備 え、館 内 に豊 富 な事務室 も備 えた い としている。 館 につ い て は、 児童博物館 の職員 は、 第 一 に児童 を理解 し、愛 す るこ ととし、 更 には、教 育 の 一 般理論 ・ さ理学 ・教授法 な どの基礎 的訓練 を受 け た人で あ るこ とが 要求 され る としてい 児童 ′ る。 多 くの アメ リカ博物館 の職員 には ドッセ ン トを含 んで い て、ド ッセ ン トとは、 案 内人 と教 ―‑44‑― こども博物館 について 師 との 中間 にあ る者 で これ は案 内講義人 にあては まる言葉 で あ るそ うであ る。 児童博物館 の教育活動 につい て 木場 は、児童 に対す る教育上 の もてな しは、児童博物館 の最 上 の 目的 で あ り、展示 資料 の理 解 だ け で な く、 そ こにい きい き とした興 味 をつ くりあげ る よ う 組織 しな けれ ば な らな い と して い る。 また館外 の 活動 と して、学校 の 学 習 を補足 す る特有 の サ ー ビス も考慮 しなけれ ばな らな い と述 べ て い るのであ るが、そ して前者 を、学校 か らの博物 ー 館訪 間、児 童 と博物館 の つ なが りと し、後者 を、学校 へ のサ ビス として木場 は分 け て言及 し て い る。 木場 の 見解 としては、学校 との協力 が なけれ ば、 この種 の博 物館 は成 り立 た ない とい う こ と であ る。棚橋 もそ う述 べ て きた通 り、学校 との連 携 こそが、子 ども博物館 の主 軸 であ るのか も しれ ない 。 棚橋 にいたっては、児童博物館 の意義 を、児童 を直接教育する博物館 と児童博物館 (子ども 博物館)の 二う に分けていたが、木場 に至っては、そういった分類 は、広義 の意味に於 いては、 以下の ようにされてい る。 一、学校博物館一 各学校 で管理 してい る博物館。 二、学校 システム博物館一教育委員会あ るい は市 で管理 してお り同一地域内の学校 に サー ビス を行 う博物館。 三、児童博物館一 それ 自体 の委員会 で管理 してお り、児童 を対象 とす る博物館。 四、一般博物館 の一部 として附設 された少年少女 を対象 とす る博物館。 しか し、あ くまで も児童 を対象 とした博物館 とい う広義 の意味なのであ って、棚橋 の ように 児童博物館 自体 の意義を分類 してい ないのであ る。そ して、棚橋 の言 う、児童 を研究するに必 要な資料 を収集 して置 く博物館 は、木場 の論 で見 ることは出来なかったが、木場 は、学校 シス テム博物館 と児童博物館 が将来の新 しい教育 の上によい地位 を占めるであろうと述べ てい る。 そ して、対象年齢 を六歳〜十六歳 と述べ てい るにもかかわ らず、三 と四を分けて考えてい るこ とか らも、木場 は、棚橋 とは違 い、児童博物館 は独立 して建てるべ きだ と考えてい るようであ る。 また木場 は、児童博物館 が発展するためには、他 の各種 の機関または個人 との掛け合 いが 必要 で あ るとし、た とえば、地 方教育委員会 ・広報機 関 。PTA・ 母 の会 な どどの連絡が 緊密 にとられる ことが要求 されると言及 してい る。 4 韓 国中央博物館 のチル ドレンズ 0ミ ュージアムとの比較 一提示 と説示 一 先 にまで、棚橋源太郎 と木場 一夫 の児童博物館 について言及 して きたが、 この項 では、現在 の子 ども博物館 に於 いて、二人 の意見が どのように反映 されてい るのかを見て行 きたい と思 う。 しか し現在 日本には国立 の子 ども博物館 とい うものがない と言 って も過言 ではない。 ここでは、 韓国のテル ドレンズ ・ミュー ジアムを題材 として、 まとめてい きたい と思 う。 まず韓国チ ル ドレンズ ・ミュー ジアムが 附設 されてい る中央博物館 の概要 は以下の通 りであ る。 1 。 開館 時 間 火 。木 。金曜 日 : 午 前 9 時 〜 午後 6 時 、水 ・土曜 日 : 午 前 9 時 〜 午後 9 時 =‑45‑― こども博物館について 日曜 日 ・祝 日 : 午 前 9 時 〜 午 後 7 時 、休 館 日 : 毎 月 1 日 、 毎 週 月 曜 日 , 観 覧料 区 分 個 人 団 体 備 考 一 般 19〜 64歳 2000ウ ォ ン 1500ウ ォ ン 団体 1 0 名以上 上小 中学生 1000ウ ォ ン 500ウ ォ ン 無料 6 歳 以下 子 ど も博物館 500ウ ォ ン 500ウ ォ ン 6 5 歳以上 。 映像 ・音 声 ガ イ ド 展示遺物 に対 す る説 明 と観覧 な どに 関す る情報 を提供。 ォ ン/映像案 内機 (PDA):3000ウ 音声案 内機 (MP3):1000ウ ※ イ ン ター ネ ッ トか ら予約 ォン 4 .ベ ビー カー /車椅子 レンタル 5 .観 覧時 の注意事項 展示物 には手 をふれ な い。 遺物 の保 護 と快 適 な環境 を維持 す るため、 フラ ッシュ ・三 脚 を利用 した写 真撮 影、 喫煙 、飲酒、 ペ ッ トの持 ち込み は禁止 6。 展示 内容 考古、歴 史、美術 、 寄贈物 、 ア ジア な ど多岐 にわたって い る。 7. そ の他施設 ① 子供博物館 ② 企画展示室 ③ 図書室 ④ 講堂/ 講義室/ 体験室 ⑤ 劇場 ⑥ ミュージアムショップ ⑦ レス トラン/ カフェ と、大 まかに紹介 したが、大切 なのは、韓国のテル ドレンズ 。ミュー ジアムは、中央博物館 に附設 されてい るとい う点 である。つ まり、 博物館設置 の場合 は、 これを独立の館 とすべ きか、他の博物館の一部 にこれを附設する べ きか と云ふ 問題に対 しては、私は附設説に賛成するものである。その理由は公開の博物 館 に附設 した方が、設備上管理上便利 で、且 つ経済的である。 とい う、棚橋 の意見 の具現 である。設備上管理上便利 とい うの も、子 ども博物館 を一般 の博物 館 に附設 させ る面においては、利点であることもちがい ないのであるが、青木豊が言 うように、 二元展示 として十分 な り得 る」 とい うことも利点 の一つ に挙げ られるだろ う。つ ま り、附設 「 せれているテル ドレンズ ・ミュー ジアムは、本体の博物館の一形態 の展示施設 と捉 えることが、 で きるのである。 そ もそ も展示 とは、英語 の d i s p l a y に 比定 されて い る。d i s p l a y を 英和辞書 で調べ る と、そ の語源はラテ ン語 の d i s p l i c a r eあ でり、d i s p l i c a r e、「 は折 り重なっている ものを広げる」 とい う意味 で ある。p l a y 「たたむ」 の否定後 であ り、そ こか らd i s p l a y は 、「 広 げて見 せ るJ と い う意味に変 わっていった とされている。 「 見せ るJ と い う行為 は、他者 の存在 を暗 に認識 させ る意味にあ り、展示 とは、他者へ の行 ―‑46‑― こ ども博 物館 につ いて モノ に した観覧者 為 と捉 える ことがで きるだろ う。つ まり、博物館 での展示行為 は 「 」 を媒体 へ の コ ミュニケー シ ヨン行為であ ると言えるのであ る。博物館 の展示 について、新井重三は、 「 展示 と展示法」 で、 博物館 における展示 とは展示資料 ( もの) を 用 いて、ある意図の もとにその価値 を提示 の考 えや主張 を表現 ・説示 ( I n t e r p r e t a t i o n ) す ( P r e s e n t a t i o n )るとともに展示企画者 す 。 ることにより、広 く一般市民 に対 して感動 と理解 発見 と探求 の空 間 を構築す る行為 モノ」 を選択 し、展示する とい うことであ る。展示 とい う としてい る。つ まり展示 に適 した 「 行為 の中には、選択が必要 になって くるのである。 川添登 は、 『 展示学事典』 で、展示 のことを、 展示 は、陳列 と違って個 々の物品 を対象 にするのではな く、多種多様 な物たちが本来 ど のような環境 に存在 し、それ らが相互に関連 し合 って どのような意味世界 を作 り出 してい るかを考え、ある限定 された空間の中 にそれを再構成 して表現するもの モノ」が呼応 し合 って、初めて成 り立つ ものなのである。その呼 と述べ て い る。展示 とは、 「 モノ」 だけで出来る横 の呼応 だけではないのであ る。それは、 も 応 は、何 も展示 されてい る 「 ちろん来館者や、あ るい は、附設 された子 ども博物館 について も言 えるのである。 つ まり、子 ども博物館 は子 どもだけの対象 であると捉 えるべ きではな く、大人 も十分楽 しめ る子 ども博物館 として受け止めた らよいのではないだろ うか。韓国の中央博物館 と附設 のテル ドレンズ ミュー ジアムは、説示 と提示 の関係 であると見 ることもで きるのである。 ー 筆者 は、実際 に韓国の中央博物館 を訪れてみて感 じたのであるが、テ ル ドレンズ ミュ ジア ムは、分か りやすいのであ る。韓国語 が全 く出来ない筆者 にとっては、木場が提唱 したように 色彩豊かで、理解 しやす いハ ンズ 。オ ンの展示 は、外国人の筆者 で も韓国の歴 史を大 まかにで はあるが、理解で きたのである。 これは、本館 の博物館展示 の足懸けにもなる入門的概 説展示 であ り、 まさに二元展示 の特質 を帯びてい ると言えるのである。 11■ 11 1 │ヽ: 1 1 1 1 1 妙 11■ │││ 綺 │:書 111 ―‑47‑― こ ども博物館 につい て 註 ( 1 ) 棚 橋源太郎 昭 和 5 年 「 博物館研 究 第 二 巻第五号J 博 物館事業促進会 ( 2 ) 青 木豊 2 0 0 3 年 『 博物館展示 の研 究』雄 山閣 ( 3 ) 棚 橋源太郎 昭 和 5 年 博 物館研 究 第 二 巻第四号J 博 物館事業促進会 ( 4 ) 『 博物館基本文献全集 第 1 2 巻』大空社 1 9 9 1 年 ( 5 ) 新 井重 三 1 9 8 1 年 「 展示 と展示法」 『 博物館学講座 第7 巻』 雄 山閣 ( 6 ) 日 本展示学会 1 9 9 6 年 『 展示学事典』 きょうせ い ―‑48‑― 道 の駅野外博物館 の研究 -A Study of the Road Station Open Air Museum- 落合 知 子 OCHIAI Tolrloko 1.道 の駅博物館 の 提唱 道 の駅 は平成 3年 10月〜 4年 4月 の期 間、 山口県 ・岐阜県 ・栃 木県 にお い て試験 的 に設置 さ れ、 そ の 後平成 5年 4月 に 第 1回 の登録 が全 国 103箇所 で 実施 された。平成 19年 6月 現在 全 国 に858箇所 の 道 の 駅 が登録 されて い る。 毎年40〜50箇所 の 増加 が 見込 まれ、 そ の 数 は増 えつづ け て い るのであ る。 道 の駅 は路線 に駅が あ る よ うに、 一 般道路 に も駅 を とい う発想 か ら生 まれた もので 、人 と街 の交流 ステ ー シ ョンとな ってい る。 休憩 のための駐車場 としてのみ な らず、地域 の 文化 や歴 史、 名所 や特 産物 を紹介す る情報交換 の場 として個性 豊か な道 の駅 が建設 されて い る。 道 の駅 の ニ ー ズは休憩 。情報発信 ・地域 の連携 で あ り、そ の 中 で も情報発信 の ニ ー ズ は道 の 駅 の利用者 の大半 を占めてお り、地域 の 道路情報 のみ な らず、歴史 。文化 ・観光等 の情報発信 の公 的 な施設 と して の役割 が評価 されて い る。 この よ うな観 ′ 点か らも情報発信 の役 割 を担 う博 物館 施設 の重 要性 は高 い もので あ り、施設 の充実 を図る とと もに学芸員 の必要性 を考 えなけれ ばな らな い。 今 日、我 が 国 の津 々浦 々 に道の駅 が設 置 され、そ の利用者数 も年 々増加す るなかで道 の駅 自 体 も各 々の地域 の特 質 を打 ち出 し、 質 の 高 い施設が多 くな って きて い る。 日本 国民 の 意識 の 向 上 もあ り、単 なる休憩所 としての利用 だ け ではな く、家族連 れの旅行客 であれば子供 たちにそ の土地 の歴 史 ・芸術 を知 見 させ る場 として、 休憩 の つ い で に手軽 に立 ち寄 る ことが で きる こ と か らその利用価値 は高 い もの となって い る。 す で に 当該地域 の 文化 に触 れ る ことが で きる施設 として博物館 や美術館 を設置 して い る ところ も相 当数見 られ、その在 り方 も様 々 な形式 になっ て い る。 道 の駅 はその地域 文化 の情報発信 としての役割 を持 つ もので あ り、そ の地域 の特色 あ る博物 館施設が設置 されて い る こ とが 多 い。著名 な人物 を輩 出 した地域 で あれば、そ の功績 を称 えて 一 市 町村 全 体 が 丸 となって記念館 を建 設 した り、 そ の地域 の特色 あ る工芸 品 に 関す る資料館 や 民俗 ・芸 能 に 関す る歴 史資料館 を設置 して い る。 また、 国 の重要文化財 であ る民家 を中心 とし て、それ を観光 資源 として利用す るため に道 の駅 を建 設す る こ と もあ る。 い ずれ の場合 も地域 に深 く関わ りの あ る密着 した内容 の ものが 多 く、文化 の伝 承、情報発信 の場 として非常 に価値 の高い ものといえよう。 このようなことからも郷土博物館 しての役割を充分呆たし得 る施設で あ り、内容の充実を図る必要が求められるのである。 ―‑49‑― 道の駅野外博物館の研究 博物館 学 的見 地か ら、 この道 の駅博物館 は郷土 資料館 と しての意 義存在 を充分発揮 で きる も ので あ り、道 の駅博物館 施設 の調査 ・分類 を図 り、博物館 としての位置付 け、 さ らには専 門職 員 の 充実 を図 る こ とが 求 め られて くる。 道 の駅博物館 につ い て は、 す で に全 国大学博物館学講 座 協議会研 究紀要 第 10号に述 べ た とお りで あ るが、 本稿 で は道 の駅博物館 の 中 で も野外博物 館 を取 り上 げ て紹介す る とと もに、今後 の課題 を考 察 し、再 度専 門職員 で あ る学芸員 を置 くこ と の必要性 を提 唱す る もので あ る。 また、道 の駅野外博物館 に 関連 して、 本稿 の 中心 となる史蹟整備 の原点 とも言 える黒板勝美 の 理論 を取 り上 げ、 ひ い て は郷土 保存 とい う概 念か ら道 の駅博物館 を考 察 して い くもので あ る。 2.道 の駅博物館 の分類 道 の駅博物館 の 内訳 は博 物館 ・美術館 ・資料館 。記念館 ・郷土館 。デ ジ タル ミュ ー ジアム ・ 情報館 。科学館 ・ビジ ター セ ン ター ・野外博物館 ・植物 園 。薬草 園 。水族館 ・動物 園 ・移築民 家 。生 家 ・史蹟整備 。時代村 。町並 み復 元 ・学校博物館 ・エ コ ミュ ー ジアム ・埋 蔵 文化財 セ ン ター ・ギ ヤラ リー等 に分類 で きる。 また図書館及 び 図書館 との複合施設 もみ られ る。 平成 19年度 5月 現在、博物館施設分類 の割合、県別 にみた道 の駅 の 総数 と、その うち博物館 施設が併設 されて い る道 の駅 の数 を次 表 に、 さ らに全 国道 の駅博物館 一 覧表 は末尾 に掲載す る もので あ る。 (平成 19年 6月 現在) 道 の駅 博 物館 の分 類 猫 1 ‐ 1 存 1 需1含 1園 究所︱ テーマ館 1 2 2 情 報館 1 ? 3 一 ―‑50‑― 動物園 3一 6 水族 館 4 7 セ ンタ1 5 民家 会館 書 館 9・ 2 伝 承館 1 4 博物館 1 5 示館 1 5 ギ タ フリ︲ ︲ 8 術館 1 8 念館 2 料館 ︲ 4 4 5 睡西薮 〜館 0 道の駅野タト 博物館 の研究 都 道府 県 諄物 館 数 道の駅総数 北海道 北海道 33 100 新潟 15 33 岐阜 12 48 青森 9 26 青森 兵庫 8 29 兵庫 秋 田 8 25 秋田 愛媛 杏 り│ 7 22 7 18 fl里予 7 36 香川 埼玉 7 17 fミ里予 群馬 7 18 埼玉 17 静 岡 6 19 6 28 群馬 18 岩手 大分 20 静岡 19 5 ロ i矢 5 21 岩手 島 5 13 大分 20 広 島 5 13 5 18 高知 21 石川 富山 5 13 徳島 厨木 5 15 広島 福島 5 15 石り ‖ 本 4 18 長崎 4 8 島根 4 菖井 4 千葉 新潟 岐阜 26 29 25 22 愛媛 富山 栃木 15 8 福島 15 熊本 18 21 4 20 1〕 甲 多 4 17 J口 3 18 日歌 山 奈良 3 17 島根 3 12 福井 ,中糸 電 鹿児 島 2 5 千葉 2 17 岡山 2 15 滋賀 2 14 山口 18 二重 2 15 和歌山 17 愛知 2 10 奈良 山梨 宮城 2 16 宮崎 1 14 鹿児 島 福岡 1 9 岡山 鳥取 1 9 滋賀 14 大阪 1 5 二重 15 長崎 20 17 山形 12 沖縄 2 15 愛知 山梨 宮城 宮崎 19 福岡 鳥取 大阪 ‑51‑ 19 1 5 道 の駅野外博物館 の研究 以上の分類 は 『 道 の駅 旅 案内全国地図 平 成19年度版』をもとに作成 した ものであ り、施 設名称か らの判断によるものである。 したがって資料館 と名乗 っている施設 も単なる展示 コー ナー にす ぎない もの も含 まれる。実 際に本稿 の事例 として挙 げた岐阜県 日本 昭和村 。史蹟整 備 。現地保存型建造物等 は博物館施設 としては捉 えられてお らず、博物館が箱物 とい う日本人 の固定観念 を象徴す るもの とい えよう。 したがって今後 の調査 で野タト 博物館 は もとより、博物 館施設を併設する道の駅博物館 の数 は増える もの と思われる。現時点では厳密な分類 になって お らず、今後 の調査で明確 な分類が必要 とされる ものである。 3.道 の駅野外博物館の事例紹介 道 の駅野タト 博物館 は、移築復元型野タト 博物館、創造建設型野外博物館、史蹟整備、現地保存 型建造物、町並み復元、薬草園、植物園等があ り、本稿では岐阜県 日本昭和村の移築復元型野 外博物館 を中心 に種 々の事例 を挙げて考察するものである。 ①道 の駅 日本昭和村 (野外博物館) 日本昭和村 は2003年4月 、岐阜県美濃加茂市に昭和初期 の里 山をイメー ジして造 られた野外 博物館 である。敷地面積 はお よそ160ha、岐阜県が整備 し、管理運営 は株式会社 ファーム によ る公 設民営型 となってお り、 ここに道の駅 「日本昭和村」が併設 されてい る。入館料 は大人 800円 (冬期は半額)、開館時間は 9:00〜 18:00、 年中無休 となっている。 広大な土地は、正面広場 ゾー ン ・昭和村 ゾー ン 。自然ふれあいゾー ン ・野外活動 ゾー ンの 4 つ のゾー ンか らな り、 さらに細か く里 エ リア ・街 エ リア ・村 エ リアか ら構成 されてい る。昭和 30年代 とい う時代 を限定 した ところに特徴があ る施設 であ り、博物館明治村 とその規模 ・理念 は異 なるものの、昭和初期の建築物 を移築 し活用 してい ることか ら充分に野外博物館 として捉 えることがで きるものである。 4つ のゾー ンの構成か ら理解 で きるように、子供の遊びを中心 とした施設が多 く、家族連れ が一 日楽 しめるテーマパ ー ク的要素が強 い。 しか し、その中で も次に挙げる昭和期の建造物 を 移築保存 じ公開活用 してい ること、 どん ぐりの森、棚 田、茶畑、蛍や メダカが生息す る渓谷等 の里 山を意識 して整備 してい ること、土産物、食堂 も昭和 をテーマ に した もので構成 されてい るなど、博物館学的な意図を感 じ取 ることがで きるものである。 しか し館内にはそれぞれに料 金がかかる施設 もある ことか ら、入館料 は無料 にす ることが望 まれる。次 に博物館学的施設 を 紹介す るものである。 (移築建造物〉 ・朝 日村 旧庁舎は昭和13年に建築 され、平成15年4月 に新庁舎が完成するまで使 われていた も ので、現在 は 「 平成記念公園 。日本昭和村」 に移築 されてい る。オー プ ンした旧庁合 は当時 の ままに再現 され、1階 には古 い資料 などが展示 され、2階 には会議室がある。 ・旧宮小学校 は明治31年岐阜県大野郡宮村 (現在 の高山市)の 宮小学校 の校舎 として建築 され た ものである。昭和53年に校舎 としての役 目を終え、宮村民俗資料館 として利用 されていた が、その後 日本昭和村 に移 築 され、「 や まび こ学校」 として公 開されてい る。1階 には木工 ‑52‑― 道の駅野外博物館の研究 室があ り、体験学習 の場 として活用 され、2 階 には昔 の教室風景 を再現 し当時 の 資料 が展示 され て い る。 。双六学校 は昭和 6 年 築 の建造物 で旧上宝村 か ら移築 され、現在 は昔 の遊 び道具 が置 かれ、子 ども達 の遊 びの場 として活用 されて い る。 ・山之上 商店 は岐阜 県 中津 川市加子母 か ら移築 され た築 1 0 0 余年 の 民家 であ り、 ここで 自家 製 どぶ ろ くの 製造 ・販 売 を して い る。 (体験学習〉 昭和座」 では、昭和 の映像やイベ ン トが 開催 され、昭和村名物 の紙芝居 芝居小屋 や映像館 「 をするスタッフがいる。 また、陶芸教室、竹 とんぼ ・和凧 。お手玉などを作 る創作体験館、木 工体験館 、そばうち教室、パ ン ・バ ター ・豆腐 。こんにゃくなどを作 る食の体験 「なつか し工 房Jが ある。 ー ・ゴー カー ー そ の他、昭和 の時代 とは無関係 であるが、乗馬 。トレッキ ング ・ア チ ェ リ ト ・じゃぶ じゃぶ池 。ボー ト ・動物広場 。蛍 の観察 ・農業体験 などの施設があ る。土産物屋 に は、むか し懐か しい品 々が置かれ、食堂では昭和 の郷土食が味 わえる。 一般 に移築 された建築物 はそれが置かれていた環境 を失ってい るため、臨場感 に乏 しい傾向 があるが、昭和村 における移築は里 山復元 された環境 の中へ の移築 となってい るため、上記の 建築物 はさほど違和感がない とい える。 また、ボラ ンテ ィア等 による施設案内人が子 ども達 を 誘導 し、活気 のある施設 となってい る。 日本昭和村 は道 の駅野外博物館 の中で、現在 の調査時 点 で最大規模 の施設 である。 召禾叫寸に移 築 ) 朝 日本寸1日庁舎 (日 本 日 旧宮小学校 (日本昭和村 に移築) 山之上 商店 ( 日本 昭和村 に移 築 ) 昭和初 期 の里 山復 元 道の駅野外博物館 の研究 ②道 の駅月夜野矢瀬親水公園 ( 史跡整備) 道 の駅月夜野矢瀬親水公園は、平成 9 年 3 月 に目指定史跡 となった矢瀬遺跡 と隣接 してい る。 矢瀬遺跡 の入館料 は無料、道の駅の営業は1 0 : o o 〜1 8 : 0 0 、年末年始 を除 く年中無休、学芸員 はい ない。本来 この ような史蹟整備 は野外博物館 として捉 えられるものであるが、① の昭和村 と同様 に、博物館施設 としての格付 けがないために、「 道 の駅 旅 案内全 国地図」 には記載 さ れてい ない。 道 の駅 と史跡矢瀬遺跡縄 文 ム ラは、縄文 の道 ( 地下道) で つ ながってい るが、案内が不明瞭 なために暗 い地下通路の意味が理解で きず、史跡 を見学せ ず に帰 って しまう観光客 を見か けた。 通路内の縄 文土器 の展示 も改善が望 まれるものである。 道 の駅 の役割 のひとつ として情報発信があるが、矢瀬遺跡縄文 ム ラ及びみなかみ町月夜野郷 土歴 史資料館 に関す るリー フレッ ト等 の案内書は目立つ場所 に置 くこと、 また明確 な案内板の 設置が必要 とい える。 (矢瀬遺跡) 矢瀬遺跡 は平成 4年 に発 見 された縄 文後 晩期 の遺跡 で、 水場 、 祭祀場 を中心 に住居 や墓地 な どの 集落構 成が よ く残 されて い る。 四隅袖付炉、 巨大木柱根 、人 口の水場 、石敷 祭壇 の ほか、 土器、 石器、耳飾 り、翡翠 の首飾 りも多 数 出土 して い る。 (史跡矢瀬遺跡縄 文 ム ラ) 史跡 内 の 史跡総合案 内施設 はめ くり型 と回転型 の解説 パ ネルが設置 されて い るが、屋 外 のた め、 本 の枝葉が延 びて見 づ らい もの となってい る。 史跡 の 四時期 集落変遷復 元全体模 型 は理 解 し易 い。 また縄 文時代 に 関連 した樹 木 で あ る栗、栃 、胡桃 、 団栗、接骨木、木苺、匂辛夷、 山法 師、 山吹、萩、楓 、錦木等が植 栽 されて い る。 復元 された ム ラ全 体 はウ ッ ドチ ップが 敷 かれて い る ため、 とて も歩 き易 い。野外博物館 での ウ ッ ドチ ップの利用 は若干み られ るが、 史跡整備 にこ れ を利用す るの は珍 しい。 復元住居 内 は人 形 を使 った縄 文家族 が展示 されて い る。 矢瀬遺跡 (月夜野矢瀬親水公園 の 史跡整備 ) 史跡総合案内施設 (めく り型 パ ネル ) 一‑54‑― 道の駅野外博物館の研究 (みなかみ町月夜 野郷 土歴 史資料館) 矢瀬遺跡 の近 隣 にみ なかみ町月夜 野郷土歴 史資料館 が あ る。 また この 資料館 に隣接 して県指 定史跡 の 梨 の木平遺跡 が現 地保存 され、遺構 露 出保護展示施設 内 で公 開 されてお り、深沢遺跡 は移築 され て覆屋施設 で展示 されて い る。 郷土資料館 には矢瀬遺跡 か ら出土 した遺物が展示 されて い る。 この よ うに遺跡 に隣接 して展 示施設 ・情報発信施設 で あ る博物館 が建設 され る こ とが望 ま しい 。 ③道 の駅おかべ (史跡整備) この道 の駅 の開館時間は 7:00〜 22:00、 年中無休 、道 の駅建物内の情報館 は入館無料、隣 一 接す る中宿歴史公園 も無料 となってい る。物産店奥 の展示 室 の 角が のぞ き窓になってお りt 中宿歴史公園に復元 されてい る倉庫群 が見えるようになってい る。岡部町の遺跡や文化財 の展 示室 を設けてい る点は評価で きるが、展示内容 の改善が望 まれる。 また賽銭箱 のように小銭が投げ込 まれてい る模型な ど、展示物 に対 してのいたず らも見受け られ、 これなどは学芸員 を置 くことで防げ ることであ り、 また質 の向上 も図れ よう。言 うまで もな く道 の駅博物館 には学芸員がい ないのが通常であ り、道 の駅博物館 に付帯す る道の駅に情 報館 が な いの が現状 であ る。 史跡整備 の場合 は多 くが野外展示 であ るた め、 そ の情報 を得 るため には屋 内展示 に よる 情報伝 達が必要 となる。単 に校倉造 り倉庫群 を復 元展示 して も、見学者 にその具体 的 な情 報 を与 えなけれ ば意 味 を持 たな い もの となっ て しまうので あ る。折角展示室 を設置 して い るの で あ るか ら、史蹟 の 情 報 とな る リ ー フ レッ トを置 き、展示 内容 も質 の 高 い もの にす れば郷土資料館 としての役割 を十分果 たす も の となるであろ う。 中宿遺跡 (史跡整備 ) そ して、すべ ての施設が無料 とい うことと 開館時間が早朝か ら夜 10時までの設定 は道の 駅 として理想的なのである。 (中宿歴史公園〉 中宿遺跡 は 7世 紀後半か ら9世 紀 にかけて の倉庫群 で、律令国家 の郡衛 の正倉 と推定 さ れる。県指定史蹟 になってお り、1号 建物跡 と2号 建物跡 の二棟 を校倉造 りで復元 してい る。 この他 に方形周溝墓 の盛土、埋 め戻 した 建物跡 の柱穴 に コンクリー ト柱 を設置する整 備がなされ、校倉造 りの復元 には青森産の桧 ‑55‑― 道 の駅 の展示室 か ら倉庫群 が見 える 道の駅野外博物館の研究 葉材 や国産杉材 が用 い られてお り、総工費 にお よそ 1 億 5 千 万 円費や して い る。 公 園 の には 池 古代蓮が咲 き、柿 の 本が植 栽 されて い る。 一 般 に 史跡整備 に植 え られ る作為 的 な枝垂 れ が な 桜 いの が 自然 で あ る。 周辺 では夏祭 りが執 り行 われてお り、 この地域 一 帯 が祀 りの場 で あ った こ とが 想像 で きる地 域 で あ る。 ここ には郷土文化 を伝 承す る郷土 資料館 の建設が望 まれ よ う。 ④道 の駅上州おにし (現地保存小学校) 道 の駅 は開館時間 9:00〜 17:00、 毎週火曜 日及び祝 日の翌 日が休館 となってお り、施設内 のMAGホ ー ル は 3D映 像が体験 で きる もので あるが、入館 料300円 (小人200円)と 有料 で あ る。遺跡か らの出土 品や三波石 を展示 してい る展示 ホールは無料である。 この道 の駅 の特徴 は野外部に旧譲原小学校が現地保存 されていることと、譲原石器時代遺跡 が遺構露出保護展示施設内で現地保存 されていることである。 (旧譲原小学校) 明治 7年 か ら昭和50年の廃校 になるまでの間、昭和 9年 にこの建物 に建 替えられた。その時 の新築造成工事 の際に縄文時代 の土器 ・土偶が多数出土 し、昭和 12年に隣に保存 されている住 居跡が発見された。 校舎 の前面には校庭 も残 され、石 の門柱 も保存 されてい る。網走 の旧丸万小学校 の事例 と同 様 に、校舎 を郷土民具等 の展示室 として活用すれば、 よ リー層 の価値観が上がるものであろ う。 (譲原石器時代衆落跡〉 この付近 の神流川流域 は縄文時代の遺跡が点在 してい る地域であるが、 この譲原石器時代衆 落跡 は県 の指定史跡 となってお り、特 にこの道 の駅 に保存 されてい る住居跡は国の指定史跡 と なっている。中央 の石組みは囲炉裏跡 といわれ、炭 も出土 してい る。今 日においては国指定 と なるほど大規模 なものではないが、昭和 12年当時 は珍 しい遺跡であ り、国の指定になった もの と思われる。住居跡 は八角形 の覆屋建物 に現地保存 され、一般公開されてい る。 このように現 地保存 された二つの事例 を持つ道 の駅であるが、道の駅内にある展示 コーナー には小学校 に関 する情報伝達がな く惜 しまれる。 したがって前述 した如 く、小学校 自体 を廃校活用 。歴史の公 開の意味を兼ねて、展示施設にする ことが理想的 とい えるのである。 旧譲原小学校 (現地保存 ) 譲原石器時代衆落跡 (現地保存) ―‑56‑― 道 の 駅 野外 博物館 の研 究 ⑤道 の駅龍勢会館 (町並み復元) 開館時間は 9:00〜 16:30、 火曜 日が休館 日、入館料 は300円、学芸員 はい ない。龍勢 とは10月第 2日 曜 日の椋神社祭 りに奉納す る 神事 として代 々伝承 されて きた農民に よる手 作 リロケ ツ トのことである。 この龍勢 の展示 と、それ らを映画、 ビデオな どで紹介す る資 料館 である。 この施設 に隣接 して秩父事件資 料館井上伝蔵邸、大宮郷 の町並 み復元が野外 旧大宮郷 の町並み復元 展示 されて い る。 (井上伝 蔵邸〉 一 一 秩 父事件 の リー ダー の 人井上伝 蔵 の家が道 の駅 の 角 に復元 され、秩 父事件 資料館井 上伝 草 の乱」 の オ ー プ ンセ ッ トとして活用 蔵邸 として公 開 され て い る。 復元 された井上邸 は映画 「 された。 丸井」 とい われた上蔵 井 上は明治17年 (1884)の秩 父事件 で会 計長 を務 めた人物 で、通商 「 造 り と木 造 2階 建 て270ぶが復 元 され て い る。展 示 資料 井 上 伝 蔵 関係 資料 の ほか 撮 影 時 の 衣 装 ・小道具が展示 されて い る。 秩 父事件 に関す る実物 資料 は近 隣 にある歴 史民俗 資料館 と旧石 間小学校 を廃校 利用 した石 間 交流学習館 に展示 されて い る。 (大宮 郷 の 町並 み復元 〉 映画 の オ ー プ ンセ ッ トとして作 られた大宮郷 (現秩 父 市)の 町並 みが移築保存 されて い る。 これ らの建 築物 は時代 的 に新 しい もので あ り実物 資料 で はな い が、地域 の歴 史 を伝 える情報発 信 の場 としての意義 は大 きい もので あ る。惜 しむ ら くは、 博物館 同士 の横 の連携 が乏 しいため に歴 史民俗 資料館 お よび石 間交流学習館 の案 内が な く、実物 資料 や 身近 な情報 を知 らず に帰 る こ とが 多 いので あ る。映画 のセ ッ トを見 るだけで満足 す るので はな く、それ を導入部 として博 物館 を訪 れ、 さ らに実物 資料 に触 れ る こ とで知識 も深 ま り、価値 の あ る本来 の教育 がで きよう̀ 子供 た ちが遊 びの中か ら学 んで い くとい う教育 の基本 で もあ ろ う。 4.道 の駅博物館 の 問題 と課題 道 の駅博物館 に関す る問題点 は全 国大学博物館学講座協議会紀要 第 10号に論 じたが、 それ に 野外博物館 的概 念 を加 えて考察す る もので あ る。 ① 開館 時 間 まず道 の駅 とい う本来 の 意義か ら考 えてみて も、9時 か ら 5時 まで とい う短 い 開館 時間 に大 きな問題 が あ る。来館者 の多 くが旅行等 の ドライブで訪 れ る こ とか らも、5時 閉館 は早す ぎる もので あ り、博物館 施設 の み な らず そ の 閉館 時 間 に合 わせ て道 の駅 自体 も 5時 に閉めて しまう こ とは改善 を必要 としな けれ ばな らない。 それ と同様 に観光客 に とって早朝 の 利用 も考 えなけ れ ばな らない 。道 の駅 の 開館 時 間が 10時や11時とい う ところ もあ り、 せ っか く立 ち寄 ったに も ―‑57‑― 道の駅野外博物館の研究 かかわ らず利用で きなのが現状である。 また、通常 の博物館 にならって月曜 日を休館 日に している施設や、 さらにそれに 使乗 して道 の駅 の他 の施設 まで もが閉まっているこ とが ある。 この ように観光客相手の 施設が一般社会 と 同 じ9時 か ら5時 の営業 で、且つ定期的な休館 日を設 けてい るようではリピー ト客 の 確保 は難 しい もの となって くるであろ う。お役所的発想 を捨てて国民へ のサー ビス意識の 上が望 向 まれ る ものである。 ②入館料 次に入館料であるが、無料館 もあれば、高 い入館料 をとるところ もあ リー律 ではない。その ほとんどが展示内容 の質の面か らみて も高す ぎる館が多 いのである。一般 に野外博物館 は日 本 昭和村 のようなア ミューズメン ト的要素の強 い ものは別 として、史跡整備、移築建造物、町並 み復元 といった内容か らも入館料 を取 らないこ とが多 い。それに対 して屋 内にある展示施設は 料金がかかるところが多 くなっている。 自分たちの住 まう郷土の文化 を知ってもらう、 自分た ちの村 でこの ような偉人が生 まれ育ったとい うことを伝 えることは町お こ しにもつ ながるもの であ り、その地域の活性化 を図る うえで も重要なものと考えられる。 したがって我が国の博物館すべ てに言える ことで もあるが、道の駅博物館 はこれか らの 日本 社会 を担 ってい く子供たちの情操教育 を育む場であ り、遊びの 中か ら科学 ・歴史 。文化 の芽 を 育 てる意味か らも無料 にす るべ きである。仮 に家族全員 の入館料 を払 うのが高 い とい う理由か ら、せっか く立ち寄 った道の駅 に附帯する博物館施設を通 り過 ぎて しまうことがあるならば、 楽 しい思 い出 となる家族旅行 の記憶 の中には当該地域の文化 は残 らない もの となって しまうの である。その子供たちが成長 し、将来家族 を持 った ときに次世代 の子供たちを連れて再び訪れ ることも期待で きない もの となろ う。 ③資料 の保存管理 道 の駅 は観光地に点在 していることか ら、そこに訪れ る層 は特定で きないのである。つ まり 博物館 に関する知識 を持 っている人 もいれば、博物館 を訪れたことのない人 も利用する ことに なる。 さまざまな危険を想定する必要があるが、多 くは資料 の保存 とい う概念が低 いのが現状 である。 観光地 とい う点か らアミューズメン ト的施設が多 く、それ らは映像展示 のみに始終す る もの や、パ ネル、 レプ リカ、人形 とい うように資料保存 を考える必要 のない展示 になってい ること もその一 因 と考え られる。 しか しこの ようなア ミューズメ ン ト的施設 はハ ンズオ ン型の体験学 習 の一面 も持 つ ものであ るので一概 に否定 で きるもので もな く、学びと遊びの観点か らは得 る もの もあるか と思われる。 史跡整備 ・移築建造物等の場合 は屋外 とい う性質上、劣化す る資料 の展示 はな く、多 くがハ ンズ オ ンタイプ、参加型 の もので資料保存 の配慮 はあまり必要 としない。その反面それ らの施 設整備 の充実 を図 らなければならない。矢瀬遺跡の展示案内板 のように、野晒 し状態で木の枝 が伸 びて案内板 の役 目を果た していない例 もあ り、専門職員 の配置が望 まれるのである。 ―‑58‑― 道 の駅 野外博 物館 の研 究 ④専 門職員 の配置 以上述べ た問題点 を解決す るにはまず、専門職員である学芸員を置 くことが必須 と考 えられ い である。 る。特 に③ で述べ た資料 の保存管理 は学芸員がすべ きであ り、 しなけれ ばならな 業務 学芸員 を置 くことにより、来館者 に対す るサ 充実、文化 の伝承 を可能 とす るのである。 ー ビス提供 のみならず、資料 の情報発信、展示 の つ 本稿 では道 の駅野外博物館 における学芸員 の必要性 を考察す ると、資料は次 の二 に分け ら 一 れる。先ず現地保存 の遺跡、遺構 、建築物お よび他 の場所 か ら移築 して きた 次資料 と実物資 料 でないあ くまで も倉1造復元 した二次資料 が考えられ る。 一次資料 に関 してはその もの 自体 が資料 であ り、保存意識 をもって管理 しなければならない。 移築 された理由は種 々考え られるが、取 り壊 される寸前 の建築物が難 を免れて新 たな土地で活 ・ 用 されることも少な くない。活用 は展示 だけでな く、生涯学習 体験学習 に役立 てた り幅広 く 利用 に供 されるのであ る。 また、現地保存 の場合 も保存す るだけでな く、下般公開に供 される ため、その管理 は所管 の市町村 であって もその場 に常駐 していなければ手薄 になるのは避け ら れないであ ろ う。 創造復元 された二次資料 は実物資料 と比較 した場合、その保存意識 は希薄にな りがちである が、③ で述べ た野晒 しの展示案内板 の整備 などは改善 されなければならない。学芸員が ひと り い るだけで改善 されるものであ り、内容 の充実 も図れるものであ る。 。 学芸員が必要 であ る最大 の理 由は、それぞれの施設 資料 の専門知識 を持つ学芸員が い なけ れば訪れた人へ の情報提供 がで きないか らである。道 の駅博物館が単 に観光で訪れ たついでに 立ち寄 る程度の展示施設 として捉 えずに、文化施設 としての質の高 い博物館 の位置付 けがなさ れるようにす るには専門職員である学芸員 の配置が必須なのである。 このように博物館的意識 をもった博物館施設 は勿論 のこと、ア ミューズメン ト的要素が強 い 博物館施設 において も学芸員の存在 は必要不可欠 なものであ ることを提唱するものである。 5.完 成 された郷土資料館 ー 昨今建設 される美術館 などには、 自館 の コ レクションを持たずに貸 しギヤラリ 的な感覚 で 展覧会が催 されてい ることが多 くなって きてい る。入館者 の数 だけを重視 し、経営 目的が優先 されてい る傾向が見受け られる。美術館 も博物館 も文化施設なのであ る。その四大機能は資料 の収集 ・保存 。調査研究 ・教育 であ り、営利 目的ではない はず であ る。道 の駅博物館 は、その 理念に基づ き地域 の郷土 の博物館 でなければならない。道 の駅に隣接、あ るい は道の駅内にあ るとい う性質か らも郷土博物館 としての機能が重視 されるのであ り、 これ らの施設 の質 を向上 させ ることが、地域振興に繋が ってい くのであ る。 したが って折角 のこの文化施設 を活用 しな い とい うことは惜 しまれる。 また道 の駅 の博物館 は博物館的概念 の強い ものが含 まれてお り、単なる休憩所 としての道の 駅 とい うイメー ジを払拭 させる力 を持つ もの もあ る。勿論 もともと博物館意識 をもって建設 さ れた館 に道の駅が後付 けされる こともあ ることか ら、観光 と博物館 の面 か らの研究 も必須 と なって くる。道の駅は当該地域 の特産物 を販売 し、その地方 の郷土料理 を食す ることが出来る ―‑59‑― 道の駅野外博物館の研究 場所 で もあ る。 また、 情報 セ ン ター も設置 され観光等 の情報 も得 るこ とが 可能であ る。 『 史蹟 整備 と博 物館 』 の 中で、古 い 町並 みが 保存 されて い る全 国 の 重要 伝 統 的建 造物群保 存 地 区 にお い て、 食文化 こそがその地 方 の特色 をあ らわす もので あ り、 そ の 地方 の郷土料理 を提 供す る施設 の 充実、及 び その地 方 の歴 史 。文化 。芸術 ・民俗 。風 土 等 の情報伝 達手段 で あ る郷 土 資料館 の 設置 を提 唱 した。 この よ うなllL念 か ら道 の駅博物館 は郷土料理 を提供 し、 特産 品 の 土産 物 を購 入す るこ とがで き、 さ らに当該地域 の歴 史 。文化 の情報伝 達 の としての 場 郷土資料 館 として確 立 させ るな らば、 これ こそ完成 された郷土資料館 となるのであ る。 また、立 地環境 も駐 車場 の 近 くが好 ま しい と論 じた もので あ るが 、 この 観 点 か らも人 々 が 集 まる 場 所 であ る パ ー キ ングで あ り、休憩所 で あ る道 の駅博物 館 は郷土博物 の 館 完成 された もの とい え よ う。 したが って 、 まず 専 門職員 としての学芸 員 を置 き、施設 ・展示 。内容 の 充実 を図 り、資料 の 拡大 に心 が け、地域振 興 に努 め、 道 の駅博物館 としての特色 あ る研 究 をす る必 要が求 め られ る。 道 の駅 の学芸 員制度が確 立 され る こ とに よ り、学芸員課程 で 資格 を取 った学生 の就職 の もか 場 な り拡張 され、全 国各地 の生 まれ育 ったふ る さとで 活躍 す るこ と も可能 となって くるので あ る。 この ような学芸員がい ることによ り、訪れた観光客 の知的欲求 も満たされ、その地方の 評価 も 上が り道 の駅 のみならず、その地方を訪れるリピー ト客 の増加 にも繋がるものであろう。 近年道の駅 は観光客 を集 めるために さまざまな催 しをおこない、施設 もかな り充実 した もの とな り、活気ある地域の交流 の場 となって きてい る。その情報伝達 の内容は観光に力を入れる ものであるが、道の駅博物館 にお ける歴史 。文化 ・芸術等 の学問的情報伝達 を充実 させること が、 これか らの時代 には必要 と思われる。国民全体 の知的欲求 の レベ ルが上昇 していることか らも、博物館 の質の向上 を見直 さなければならない。そのため にも観光地 と博物館 のあ り方、 地域文化の発掘調査、情報発信 の場 として発展 させ、文化 の伝承 を担 う学芸員制度 の確 立を提 唱するものである。 6.黒 板勝美の郷土保存思想 國學院大學博物館学紀要第31輯 「 野外博物館の歴 史」 の中で、南方熊楠、白井光太郎、黒板 勝美たちが、欧米諸 国 と対比 させなが ら社叢 は人 々の集 まる拠 り所 であ り、 まさに愛国心 を育 む場であ り、それ故 いかに社叢 の保存が重要であるかを論 じたことを述べ た。 黒板勝美は 「史蹟遺物保存 に関する研究の概 説Jの 中で国家 として保存すべ き史蹟や遺 物 の範囲を限定 してい る。 第二類 祭 祀宗教 に関するもの これは申す迄 もな く神社が第一、佛 寺が第二 です。次に楔板の奮llL、 邊舞所の趾の是等 は信仰風教 の上か ら特 に保存 を願 ひたいのであ ります。是 については内務省令 の神社併合 はこの保存 の精神 に背反 した ものであることを一言附け加へ て置 きます。 黒板 は史蹟保存 の立場か ら神社 の保存 を述べ ているが、神社合祀については白井 と同様 に批判的であった。 このように後に博物館学 と繋が りを持 つ ことになる人物が社叢 の重要 性 を論 じた ものであ った。 この ような考え方は、神社合祀反対運動 ・史蹟名勝天然記念物保存思想 とい う当時の風潮 に ―‑60‑― 道 の駅野外博物館 の研究 博物館」 とい う語 を用 いて論 じた南 野タト よるところが大 きい ものであ った。我が国に始 めて 「 方熊楠 は、その後 の 日本に大 きな影響 を与え偉業 を成 し遂げた人物 であるが、黒板 は具体的に 博物館 西遊 二年欧米文明記』 の中で ミュンヘ ン大学 の 「 博物館 の必要性 を説 き、明治44年、『 博物館学」 とい う語 の使用 の先駆 をなす ものであ り、特筆 学」講座 を紹介 してい る。 これは 「 すべ きである。 公園的博 博物館 的公園」「 野天 ミューゼ アム」「 黒板 は野外博物館 に相当する施設について 「 西遊二年欧米文明記』 にはスカンセ ンについての詳 動植物園的公園」 を用 いている。『 物館」「 述 も含 まれているが、 この時点では我が国にそのような博物館 の必要性 について断定的な意見 は述べず に、あ くまで止めて置 くといった言葉 を使 ってい るのである。 一 後 に皇國史観的歴史学者 であった黒板 は、昭和 15年頃皇紀2600年記念事業 の 環 として、政 府内部 において民俗学博物館 の建設 を進めていた澁澤敬三たち と方法論 の相違 で対立す ること になる。 この構想 には野外展観が大 きく加 わったものであ り、今和次郎が描 いた鳥敵図 は正 に スカンセ ンに酷似 したものであ った。結果的 にこの構想 は黒板の皇国史観 に基づ く国史館計画 に統合 されたの ち、戦争 の切迫 もあ り実現 しないのであ るが、当の澁澤 は国史館 との統合 を拒 んでいた ものであ った。 しか し、 これまで博物館学 では採 り上げ られなかったが、 この著書 は 一 博物館 に関する先駆的な論述 であ り、その後 の博物館学者 たちに影響 を与えた 冊 であ ること が想像で きるものであ る。その論体 には黒板 の博識が至 る所 に現れてお り、棚橋源太郎が発表 した海外 の博物館 や遺蹟 について も、重複 した事項が含 まれてい ることか ら、棚橋 に少なか ら ず影響 を与えた と見 ることもで きよう。 ①野天 の ミュー ジアム ・博物館的公園 (公園的博物館)。 動植物園的博物館 西遊二年欧米文明記』 の中で論 じた野外博物館 は次 の如 くであ る。 先ず 『 我が回で博物館 といふの は、元来 ミューゼアムといふ欧洲語 の翻詳 で、恰 か もライブラ ー リ又は ビブリオテー クを単 に固書館 と詳 した誤謬 とその誤謬 を同 じくして居 る、ミ ュ ゼ アムといふのは単 に品物 を陳列する場所 で、その種類が百般博物 に互るべ きもの と定まら ぬ、それが獨 立 した一 の建築物 であ らうが、 また或 る一室であ らうが、或は数多 の建築物 か ら成つ た一廓 であ らうが、皆或 る物 を陳列 して縦列 して縦覧せ しむるところ を指す ので ある、余 は陳列所 とか列品場 とか命名す ることが最 も富れるであ らうと思 う。欧洲 に於 て も単 に ミューゼアム といへ ば、は じめ古物 または動植破物等 の標本 を陳列す る建築物な ど を名づ けたのであるが、 ミューゼ アムの研究次第 に進んで、その陳列法はいふ に及ばず、 その組織 にす ら大愛動 を来すに及び、 ここに博物館的公園 といふ もの も起 り、動植物園的 博物館 といふ もの も創め られ、今は ミューゼアムを博物館 と詳す ることが全 く妥営 でない こととなつ た。 前者 の好例 はクリスチ ャニヤの附近 ビグ ドー にある諾威国民博物館で、後者 の模範 はス 一 トックホルムなるスカンセ ンであ る、一 は公園的設備が また博物館 とも観 らるべ く、 は 一 動植物園の設備 に博物館 を合わせた もの といふべ く、 しか も建築物その ものが既 に 箇 の 陳列品 と縮すべ きである。 ―‑61‑― 道の駅野外博物館の研究 元 来博 物 館 の 陳列 法 で 第 一 に注 意 す べ き こ とは、 そ の 陳列 品 の 出来 た 時代 と の そ 場所 の ア トモス フェャ とが、成るべ くその陳列品の上に現 はれ、その陳列室 の内に溢れるや うに せなければならぬ、観 るもの をして何 とな くその時代 の人 とな り、その遺跡やその土地に あるや うな感を起 さしめねばならぬ、ただ古物 を列べ、標本を陳ぬるだけで滞足 すべ きも のではない、若 しここに一回の風俗 を示 し、習慣 を示 し、 また美術工藝 を示 さん とならば 、 その如何 なる服装 をな し、如何 なる家屋 に住 し、如何 なる家業に勤努 し、如何 なる遊戯 を 楽 しみ しかを、一 日の下に分明ならしむるや うに、その陳列法 を考へ ねばならぬ、 これが ビグ ドーの博物館 とな り、 スカンセ ンとなった理由である。 (中略) スカンセ ンはス トックホルムなるデ ュルガル ド大公園の西部を劃 して、一千八 百九十一 年ハ ゼ リウス博士 によつ て創立 された野天 の博物館 ともいふべ き大仕掛の ものである、そ の廣 さは凡そ七十エ ー カー にも及ぶであ らう、峨 々たる巌山もあれば、清冽なる湖水 もあ り、彼方 の森林、此方 の牧場田畝 ここに瑞典一 國を凝集 し縮篤 した もの といふ も過言では ない、天然の花井草木はいふ に及ばず、虎 々に鳥獣魚贔 を飼養 してよく馴れ じめたるなど、 大動植物園の設備完 きと共に、各州 の風俗習慣 はその地方地方か ら移住 し来た人民 によつ て示 され、地方特有 の服装で、各その家業 を誉 める様、 この大公園の景趣 を添ゆること幾 千ぞや、 カール十二世時代 の軍服 を着けた番人に過 ぎ去 つ た国民的 自負 の名残 を留めたの は瑞典人がせめて もの慰藉 なるべ く、ブ レダブ リックの塔上 よ リス トックホルム全市 を眺 望 しなが ら、一杯 のカフェー に渇 を讐するは観光 の客が最 も喜ぶ ところであ らう。 各地 の風俗 で特 に珍 しいの はラップの部落である、冬 と夏 との家 をは じめ、91鹿の飼養 場 など宛然 としていてその故郷 に入るが如 き心地がする、 また十七世紀 の哲學者エマヌエ ル、 ス ヴェデ ンボルグの遺物 を博へ たるスヴェデ ンボルグ亭、ヘ ルシング州 よ り持来れる 十六世紀 ごろの建築等 をは じめ、古色蒼然たる諸州の建物 に往音 を回顧するに足 るもの多 く、その廣大 なる余は二 回 ここに遊んで、遂 に全證 を観 ることが出来なかつ た程 であつ た。 この種 の博物館的大公園は、果 して我が回に必要なる設備の一 でないであ らうか、 また 古建築 の保存すべ きもの必ず しも寺社 に限るべ きことであ らうか、現今 に於ける古社寺保 存法 は更に大に改革すべ き餘地がないであ らうか、我が営局者は このスカンセ ン及 びビグ ドーの博物館 を参考 し、且つ西欧諸国の施設 しつつ あるところを観て、公 園や博物館 の設 備 について研究すべ きであ らう。余 はここにただ一言 この種 の設備 をなすべ き我が國の大 公園が奈良の春 日公園たるべ きことを提供 す るに止めて置 く。 このようにノルウェーのビグ ドー とスウェーデ ンのスカンセ ンの事例 を挙げて、博物館的公 園 ・野天博物館 を述べ てい る。古 い建物 自体が陳列品であ り、その陳列方法 はただ単 に並べ て 見せ るのではな く、その陳列品の置かれていた空気が必要であ り、その時代、その土地に自分 があたか もい るかの如 く錯覚するようでなければならないこ とを論 じ、一 回の風俗 ・習慣 ・美 術 を公 開す る方法 として、 このような タイプの博物館が出現 したことを述べ たものであ った。 ビグ ドー博物館 の移築建築物 には、其 々の時代 の空気が室に満ちてい ることを述べ てお り、 路傍 に立てた一里塚 の石札 に払 う注意力や観察力 などは、博物館学意識 を持 った見方であろう。 また、 スカンセ ン博物館 については植物 の植栽 ・動物 の飼育 ・コシュチュームス タッフか ら受 ―‑62‑― 道の駅野外博物館 の研究 べ け る印 象 を、 そ の 故 郷 に入 るが如 き心 地 が す る と述 て い る。 いの か を、 これ 結論 として野外博物館 が我 が 国 に必要 か、古建築保存 が寺社 に限 る こ とで よ べ らの博物館 を参考 に して研 究す べ きであ る としてお り、前述 した よ うに断定 的 な意 見 は述 て い ない。 次 に他 の 文献資料 に見 られ る野外博物館 を考察 して い くと、 ー 野天 の ミュー ゼ ア ムが あ る。 それ に近 頃 は野 天 の ミュ ゼ ア ム、換言すれ ば博物館 的公 園 とい う者 も出来 た、 諾威 の ク リスチヤ ニ ヤ府 の 附近 なる ドグ ドウや、瑞典 ス トックホ ル ー ムのス カ ンセ ンにあ る ミュー ゼ ア ムが其 よい賓例 で あ る。 そ して此等 の ミュ ゼ ア ムで は 一 古物 な どを陳列 した建物 それ 自身が古 い 時代 の建築 で、 既 に の 陳列 品 となつ て居 るばか りで な く、百花妍 を争 ふ植物 も培養 してあ る、優 悠 自適 せ る動物 も飼養 してあ る。 甚 だ し きに至 つ て はその 一 部 にあ る喫 茶店 の給仕女 が地方特有 の服装 で御茶 を汲 む、番人 中古武 士 の服 を着 け て槍 な ど提 げ て居 るの を親 れば、彼等 もまた賞 に陳列 品 なるが如 き心地が せ らるる。 (博物館 に就 て (一)大 正元 年 八 月 二 十四 日 第 九千 三 百六十 三 号) 一 一 ー 公 園的博 物館 初 め に 寸述 べ た野天の ミュ ゼ ア ム に就 て、今 度 ここに言 は して貰 ー ひた い、諾威 の ビ グ ドウに して も、瑞典 のス カ ンセ ンに して も、野天 の ミュ ゼ ア ム であ るが、 同時 に また一 の公 園 を成 して居 る、それで公 園的博物館 ともいへ るが、是 に動物 や 植物 が 自然 の まま養 はれ植 られてあ るの を観 れ ば、更 に動植 園的公 園 とも称す る こ とが 出 来 るであ らう、 これ は 中 々大仕掛 け の もので 、無論 國立 た るべ き性 質 を有す るのであ るが、 そ の 目的 はその回 自身 の縮篤 を ここに示 さん とした もので あ る、例 へ ばス カ ンセ ンは瑞 典 國 の縮 固 で、 山川渓谷 の有様 か ら動植物 の主 なる分布 を賞物 で示 す のみ な らず、北方 に住 む ラプ ラ ン ド人 の天 幕 生活 も観 る こ とが 出来れ ば、 ス トックホ ルム 附近 の風俗 も知 るこ と が 出来 る、 そ してそ の 内 なる建 築物 、建 築物 の 中な る古代 の工 藝 品等 は また歴 史的 に瑞典 を語 つ て居 るのであ る。そ して此等 の建築 は また遺物 として保 存 す べ き必要 か らここ に移 して来た ともいふ こ とが 出来 るので、 この種 の ミュ ー ゼ ア ムは 史蹟遺物保存 の 一 法 として 賞行 せ られた もの と して も可 い。 (博物館 に就 て (六)大 正 元年八 月 三 十 日 第 九 千 三 百 六十九号) 「 博物館 に就 て」 は、大正元 年 の東京朝 日新 聞 に連 載 された もので あ り、 この 考 え及 び知識 は欧 米 の博物館 施設 を実際 に見 聞 した こ とに よる もので あ る こ とは、 前述 した とお りで あ る。 博物館 資料 は、其 々の 時代 。文化 的風 氣 の復現 が伴 なわなければな らない こ とを強調 し、建 築 物 をそ の まま保存活用す るこ とが重要 で あ るこ とを説 い た。 そ の 中 で も野外博物館 は、その国 の風 俗 。風 土 。文化 を表す もので あ り、 まさに当該 国 の 縮 図 とい え る もの と解 釈 した もので あ った。 しか し、黒板 の主 張 は史蹟整備 を主軸 とした もので あ り、野外博物館 はあ くまで も史 蹟整備 に活用 す るための もので あ った。 ② 史蹟整備 博物館 と史蹟遺物 (略)国 家が 史蹟遺物 の保護 をそ の 一 部 に限定す るは、理 論 上全然賛 成す べ か らぬ こ とであ るのみ な らず、之 を指定 しなが ら、 そ の保管 の 方法 を立 てず して之 ―‑63‑― 道の駅野外博物館の研究 を寺社 の手 に委す るは甚 だ危 険千 高 にて、 寺社 に取 りて も迷惑至 極 の で る 事 あ 。仮 に一 歩 を譲 りそ の 指定が正 営 とす る も、 そ の保管 につ い て は、 ど う して も博物館 を建 てて 、 安全 に之 を保存す るので なければ、 そ の 目的 を達 す るこ とが 出来 ぬ 、換 言すれば 博物館 の設立 一 に伴 はぬ 史蹟遺物 の保存事 業 は少 くと もその効果 の 半以上 を失ふ ものであ る。 伊 大利、 希臓 そ の他 の 欧洲諸国で は何 れで も平行せ られて居 るばか りでな く、 中 には 國立博物館 で 史蹟 遺物 の保存事業 を監 督す るや う になつ て居 る、 (博物館 に就 て (三)大 正 元 年 八 月 二 十七 日 第 九千 三 百 八 十六号 ) 次 に 「史蹟 遺物保存 に 関す る意 見書 第 九章保存法令 と監 督局及 び博物館」 の 中 で博物館 の 必要性 を説 い て い る。 (略)史 蹟 遺物 の保存 事業 が博 物館 の 設立 と伴 は ざるべ か ざる を主 張す、蓋 し博物館 の 設立 に伴 は ざる 史蹟 遺物 の保存事業 は、 賞 に また保存 その ものの 意義 に戻 る といは ざるべ か らず、何 となれば、 史蹟 の一 部及 び遺物等 は、その保存上博物館 の如 き、完全堅 牢 なる 建築 の 中 に陳夕1せ らるべ き必要 を認 むる こと多 ければな り、素 よ り史蹟 の 一 部及 び遺物等 は、 能 ふ だ けそ の奮地 に保存 す べ きを原 則 とす るは いふ を待 たず (明治 四十五 年 五 月史蹟 雑誌第十編 第 5号 ) 同様 に 「史蹟遺物保存 に 関す る研 究 の概 説」 の 中で も博物館 の必要性 を述 べ て い る。 (略)博 物館 の 設 立 に伴 はな い 史蹟保存 を しよ う と云ふ の は、 員 の保 存 の 意味 を没 却 し て居 る と思ふ 。 (略)特 別 の 史蹟 遺物 が 一 緒 にあ る場合 には成 るべ くそ の 史蹟 に博 物館 を 置 くの も一 の案 で、希臓 のデ リフ ォイ とか、 オ リ ンピア とかの小博物館 に倣 ひたい と同時 に、 中央 の 國立博物館 が、 中央監督局 の下 に出 来、各地方 の監督 局 の下 にその地 方 の博物 館 が 出来 ます な らば、 ここ に始 めて理 想 的 に保存事業が完成 さるるので あ ります。 それが 出来 なければ完全 なる史蹟遺物 保存事業 は出 来 ない と思 ひます。 (略)第 一 現状保存 、現状 保存 と云 ふ の は、 史蹟遺物保存 の 最 も主要 なる もの と思 ひ ま す。現状保存 は、 前 に も申 しま した通 り、 史蹟 は唯軍 に現状 の儘 に保 存 せ らるべ きもの な りと云ふ 第 一 の根 本義 を基 に したので あ ります。若 し現状 を保存 す るこ とが 出来 な い こと が あ ります れば、 私 は現状 の 一 部分 に属す べ きもので も宜 い か ら保存 した い と思 ひ ます。 (略)模 型保 存 は史蹟 の大 きな場 合 に全 般 を一 日に見 る上 に於 い て便 利 で あ ります、 國 民教 育 に於 い て應用 す る もよい こ とで あ ら う と思ふ 。 (大正 四年 一 月史蹟名勝 天然記念 物 第 一 巻 第参号) また、 「史蹟遺物保存 の賞行機 関保存思想 の養成Jに は (略)博 物館 の 設置 な き保 存事 業 は、 丁度龍 を書 い て 晴 を粘ぜ ぬ や うな もので あ る。 折 角 の保存事業 も遂 に無 効 に帰す る とい はねばな らぬ 。我 が回の古社寺保存含が その美 を済 す能 は ざるは、その根 本 的方針 の誤 れ るに よる といへ ども、 また 一 は博物館 を有 せ ざるに 因 る こと も忘 れてはな らない 。 い はば この博物館 は一 方 に於 て遺 物 の保存所 であ る と同時 に、他 方 に於 て は 史蹟遺物 の保存 を計豊 し賞行す る場所 となるので あ る。 博物館 は従 来各国 と もそ の首都 に置 くの が普通 で あ つ た けれ ど、近 来 の傾 向 は成 るべ く 史蹟 に近 い、 出来 べ くん ば史蹟 の 中 に之 れ を設立 す る こ ととなつ て 来 た、 (略)つ い で な ―‑64‑― 道の駅野外博物館の研究 が ら博 物館 と して古 い 建築物 を用 ひる こ とが 出来れ ば、 それが 一 番理想 的 で あ る。 (大正 六 年 二 月大 阪毎 日新 聞) この よ うに黒板 の論 じた博物館 学 は 史蹟整備 を主軸 とした もので あ ったが、 それ は現代 の博 物館学 に引 き継 がれて い る理念 も多 く見 られ る。 史蹟整備 の範疇 に学校保存 を含 め るな ど、そ の着 目点 を見 る限 りで は、 今 日の 史蹟整備 の理念 とさほ ど変 わ りはな く、寧 ろ黒板 の理念 を基 に今 日の 史蹟整備 が成 り立 って い る と言 って も過言 で はな い。 まさに史蹟整備 には博物館 が必 要 で あ るこ とを強調 し、 それが郷土保存 に繋 が って い くこ とを早 くか ら訴 えて い たのであ る。 ③郷 土保存 更 に注 目す べ き点 は郷土保 存 につ いて述 べ て い る点 であ る。 ハ イマ ー ト、 シュ ッツ」 (Heimatschutz)を詳 され た る も 郷 土保 存 なる語 は獨 逸語 の 「 ハ イ マ ー ト、 の な るが、 一 鎧 「シ ュ ッツJな る語 は 寧 ろ保 護 と詳 す べ き も の に して 「 シュ ッツ」 は郷 土保 護 と翻訳 す る方可 な る を覚 ゆ保存 といふ 意 味 は獨 語 に はプ フ レー ゲ ege)と い う語 に存す るが如 し。 され ど保存 もまた保 護 の 中に包含 さるべ けれ ば、 余 (P■ は ここに郷 土保存 な る語 に封 して特 に異議 を提 出せ ず、 (略)こ の 報告 に接 した る我 が 國 の學 者有識者 は學 間 の研 究 上 よ り、将 た国民道徳上 よ ります ます郷土保存事業 を講究 して、 そ の 賞 行 の 途 に上 るべ き必 要 あ る を信 ず る な り。 (大正 三 年 一 月歴 史 地理 第廿 一 巻 第 一 号) この よ うな郷 土保存 の 意識 こそが、か つ ての博物館学者 たちが唱 えた思想 の真髄 であ り、理 念 で あ った とい える。現代社 会 にお け る博物館学 は細分化 され、その専 門分野 も多岐 に亘 る も の になったが、博物館学 の根 底 には郷 土 とい うものが 常 に存在 して い たのである。 この郷土保 存 を強 く訴 えた のが 黒板 で あ り、南方 で あ った。 博物館 学 はつ ま り郷 土学 なので あ る。 本稿 は道の駅野 外博物館 の 中 で も史蹟整備 。学校保存 。郷土保存 につ い て述 べ て きたが、黒 板 はす で に、お よそ100年前 に史蹟整備 と博物館 の 関係 を詳細 に論 じて い たのであ る。 様 々 な タイプの博物館 か ら成 り立 って い る道 の駅博物館 は、 郷土 に根 ざ した郷土 の核 となる もの として発展 す る可能性 を持 つ もので あ り、今後 の整備 の 充実 と専任 学芸員 が配属 され る こ とが必 須 で あ る ことを再度提 唱す る もので あ る。 参考文献 道 の駅 旅 案内全国地図 平 成19年度版』道路整備促進期成同盟会全国協議会 2007 『 建築設計資料 53道 の駅』Lll形 耕 一 。地域交流 セ ンター 建 築思潮研究所編 建 築資料研究社 『 1995 『 史跡整備 と博物館』 「9 重 要伝統的建造物群 に求 め られる博物館」落合知子 雄 山閣2006 全国大学博物館学講座協議会紀要第10号』全国大学博物館学講座協議会 道 の駅博物館 の研究」『 「 落合知子 2008 「 廃校利用 の収蔵展示施設」全 日本博物館学会 ニ ュースNo.74 落 合知子 2005 野外博物館 の歴史J國 學院大学博物館学研究室紀要第31輯 落 合知子 2007 「 ―‑65‑― 道の駅野外博物館の研究 西遊 二 年欧米文明記』文会堂書 店 黒 板勝美 1 9 1 1 『 「史蹟遺物保存 に関す る研 究 の概説」史蹟名勝天然 記念物第 1 巻 第 3 号 黒 板勝美 1 9 1 5 「史蹟遺物保存 に関す る意 見書」史学雑誌 黒 板勝美 1 9 1 1 「 史蹟遺物保存 の賞行機 関 と保存思想 の養成」大阪毎 日新 聞 黒 板勝美 1 9 1 6 「 博物館 に就 て」東京朝 日新 聞 黒 板勝美 1 9 1 2 大震火災後 に於 ける東京市 の 史蹟保存 に就 い て」 『 「 東京 の 史蹟』東京市編 東 京市公刊 図書 第七号 黒板勝美 1 9 2 5 (國學 院大學 兼任 講師) 全国道の駅 博物館 一覧表 都道府 県 施設名 住所 三 笠 市 岡 山 10561 農 の館 (農業 資 料 館 ) 2 スタープラザ芦別 芦 別 市 北 4条 東 11 星 の 降 る里 百 年 記 念 館 3 か びら、 中 川郡 美 深 町 字 大 手 307 チョウザ メ館 4 忠 類 (ちゆうるい) 中川 郡 幕 別 町 忠 類 白銀 町 384番 地 12 ナウマン象 記 念 館 5 足寄 湖 (あしょろこ) 足 寄 郡 足寄 町 中矢 6734 6 かみゆうべ つ温 泉チュー リップの湯 紋 別 郡 上 湧 別 町 字 中湧 別 30211 改道 資 料館 ・ 漫 画美 術館 7 いわ なし 岩 内郡 岩 内 町 字 万 代474 本田金 次 郎 美 術館 8 厚岸 (あっけし)グルメパ ーク 厚 岸 郡 厚 岸 町 字 住 の 江 町 3164 ニ水 族 館 ミ よつてけ !島 牧 オホーツク紋別 島牧郡島牧村字千走111 島牧 知 ろう館 紋 別 市 元 紋 別 116 ケホ ー ツク流 氷 科 学 センター GIZA おんねゆ温泉 ルー ト229元 和台 (げんなだい) 北 見 市 留 辺 菓 町松 山 14 山の 水 族 館 ・ 郷 土館 爾 志 郡 乙部 町 字 元和 169 郎土 文 化 保 存 伝 習 施 設 おび ら鰊 (にしん )番屋 留萌郡 小平 町字鬼 鹿広 富 日花 田家番 屋 お こつペ 紋別 郡 興部 町幸 町 交通 記 念 館 「 ア ニュウ」 阿寒 丹頂 の里 釧路 市 阿寒 町上 阿寒舌 辛 原野 1ヒ 緯 43° 美 術 館 ・ 炭 鉱 と鉄 道館 「 雄鶴 J 上 ノ国 (かみ の くに)もん じゅ 檜 山郡 上 ノ国 町 字 原 歌 3 毎の 図書 館 なかさつない 河 西 郡 中札 内村 大 通 南 714 樹 海 ロー ド日高 沙 流 郡 日高 町 本 町 東 1298 日高 山脈 館 横 綱 の 里 ふ くし法 松 前 郡 福 島 町 字 福 島 1431 黄綱 千 代 の 山 ・ 千代 の 富士記 念館 9 11 17 北海 道 道の駅 名称 三笠 1 サラブレッドロー ド新冠 (にいかっぷ ) 新 冠 郡 新 冠 町 字 中央 町 120 チー ズ エ 房 エー デ ル ケ ー ゼ館 ―ンズ邸 (豆資料館)・開拓記念館 ・ コー ド館 田園 の 里 うりゅう 雨 竜 郡 雨 竜 町 字 満 寿 283 雨竜 沼 自 然 館 み たら室 蘭 室蘭 市 祝 津 町 41615 ヨ鳥 大橋 記 念 館 スペース ・ アップルよいち 余 市 郡 余 市 町 黒 川 町 641 粂市 宇 宙 記 念 館 「スペ ー ス童 夢 」 つ公 園 さるら、 宗 谷 郡 猿 払 村 浜 鬼 志 別 2147 軋雪 の 塔 ・ 農 業 資 料 館 ・日口友 好 記 念 館 たきかわ 滝 川 市 江 部 乙町 東 11133 直の 駅 ギ ャラリー だて歴 史 の社 伊 達 市 梅 本 町 571 ヂ達 市 開拓 記 念 館 ・ 宮尾 登美 子 文学記 念館 オ ー ロラタウン93りくべ つ 足寄郡 陸別 町大通 り 調寛 斎 資 料 館 むかわ四季の館 勇 払郡 む か わ 町 美 幸 33・ 1 図書 館 あいおい 旧走 君F津 別 町 字 本目生 83‑1 旧生 鉄 道 公 園 しか おい 河 東郡 鹿 追 町 東 町 32 伸田 日勝 記 念 館 ―‑66‑― 道 の駅 野外 博物館 の研 究 青森 県 40 岩手 県 あしょろ銀河ホール21 足寄 郡 足 寄 町 北 1条 13 松 山 千 春 ミニギ ャラリー サ ー モンパ ー ク千 歳 千 歳 市 花 園 2丁 目 るさと館 千歳 サ ケの ら、 ー 真狩 フラワー センタ 虻 田部 真 狩 村 字 光 83 佃川 たか し記 念 コー ナ ー しちの ヘ 上北 郡 七 戸 町 字 荒 熊 内6794 産山 宇 ― 記 念 美 術館 わきの さわ む つ 市 脇 野 沢 七 引2015 ギヤラリー かわうち湖 む つ 市 川 内 町福 浦 山314 時 実 新 子 コー ナ ー なみ おか 青森 市 浪 岡 女 鹿 沢 字 野 尻 23 こみ せ 横 丁 ・ ら、 くろう館 浅 虫温 泉 ゆ 〜さ浅虫 青 森 市 浅 虫字 螢 谷 34119 美 術 展 示ギ ヤラリー いか りが せ き 平 川市 掟 ヶ関掟 石 131 御 関所資料館 いなかだて 南 津 軽 郡 田舎館 村 大 字 高 樋 字 八 幡 10 埋蔵 文 化財 センター みんまや 東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜99 青函 トンネル記念館 みさわ 三 沢 市 谷 地 頭 4298652 六 十 九種 草 堂 先人 記 念館 ・ 石 鳥 谷 (いしどりや ) 花 巻 市 石 鳥 谷 町 中寺 林 第 7地 害1173 歴史民俗資料館 ・ 農業伝承館 菊部杜氏伝承館 ・ のだ 九 戸郡 野 田村 大 字 野 田第 31地 割 311 塩 の 道 展 示 コー ナ ー まやちね 花巻 市 大 迫 町 内 川 目第 10地 割 30113 石神 の丘 宮城 県 秋 田県 山形 県 61 福 島県 栃木県 群馬 県 埼玉 県 岩手 郡 岩 手 町 大 字 五 日市 1012120 リーワインの博 物 館 ) ィノテーク オーストリア(オースト 石 神 の丘 美 術館 雫石あねっこ 書手 郡 雫 石 町橋 場 坂 本 11810 日本 ハ ー ブ園 藪美渓 (げんびけい) ― 関 市 厳 美 町 字 沖 野 々2201 ― 関市 博 物 館 津 山 登米 市 津 山町横 山字 細 屋 24 郷 土 文 化保 存 伝 習館 三本木 大 崎 市 三 本 木 字 大 豆 坂 6313 亜 炭 記 念館 たか の す 北秋 田市 綴 子 字 大 堤 道 下 621 大 太 鼓 の館 たつい ら、 熊 代 市 ニ ツ丼 町 小 繋 字 中 島 10910 ニ ツ丼 町 歴 史 資 料 館 かづの 鹿 角 市 花 輪 字 新 田町 114 シネラマ館 祭 り展 示館 ・ かみこあに 北秋 田郡上小阿仁村小沢 田字向川原661 生 涯 学 習 センター ・(郷土 資 料 館 、図 書 館 併 設 ) なか せ ん ドンパ ン節 の 里 大 仙 市 長 野 字 高 畑 951 こめこめプラザ (米資料展示コーナー等) てん の う 潟 上 市 天 王 寺 江 川 上 谷 地 1092 八 坂 の館 」・ 潟 の 民俗 展 示室 伝 承館 「 野 外復 元 ・ おおうち 由利 本 荘 市 岩 谷 町 字 西 越 36 出羽 伝 承館 五城 目 南秋田郡五城目町富津内下山内字上広ヶ野761 自然 観 察 園 月 山 ( がつさん ) 鶴 岡 市 越 中 山字 名 平31 アマゾン自然 館 ・ 文 化創 造館 寒 河 江 (さが え) 寒 河 江 市 大 字 八 鍬 字 川 原 9196 さくらん ぼ会 館 いいで 西 置 賜 郡 飯 豊 町 大 字 松 原 1898 飯 豊 町テ ー マ館 とざわ 最 上 郡 戸 沢 村 大 字 蔵 岡30081 民俗 文 化館 り1俣 伊 達 郡 川 俣 町 大 字鶴 沢 字 東 131 おりもの展示館 安 達 (あだち) 二 本 松 市 下 川 崎 字 上 平331 和 紙 伝 承館 喜 多 (きた)の 郷 喜 多方市 松 山町 鳥見 山字 三 町歩55981 載の まち四 季 彩 館 会 津柳 津 河 沼 郡 柳 津 町 大 字 柳 津 字 下 平 乙 179 齊藤 清 美 術 館 尾 瀬 街 道 み しま宿 大 沼 郡 三 島町 大 字 川 井 字 天 屋 原 610 会津 桐 タンス展 示室 ・ 写 真 展 示 ギ ヤラリー 湯 の 香 (か)しお ば ら 那 須 塩 原 市 関 谷 442 郷土 資 料 館 明治 の 森 ・ 黒磯 那須 塩 原 市 青 木 272455 Lちぎ明治 の 森 記 念 館 ・1日 青 木 家那須 別邸 東 山道 伊 王 野 那 須 郡 那 須 町 大 字 伊 王 野 459 伊 王 野 まつ り伝 承 館 にしなす の 那 須 塩 原 市 三 島 51 那須 塩 原 市 男「須 野 が 原 博 物 館 思 川 小 山市 大 字 下 国府 塚 251 小 山評 定館 上野 多摩 郡 上 野 村 大 字 勝 山 118 森林 科学館 上 州 おにし 藤 岡 市 議 原 10892 三 波 石 の ら、 るさと・ 遺 跡館 ・ 学校 保存 水上 町 水 紀 行 館 利根 郡 み なかみ 町 湯 原 16811 淡水 魚 の 水 族 館 草津運 動茶屋 公園 吾 妻 郡 草 津 町 大 学 草 津 21 ベ ルツ記 念 館 ・日独 ロマンチック街 道 資 料 館 月夜 野 矢 瀬 親 水 公 園 利根 郡 み なか み 町 月夜 野 矢瀬遺 跡 史蹟 整 備 みょうぎ 富岡市妙義町岳3227 妙 議 町 立 ら、 るさと美 術館 富広 美術館 み どり市 東 町 草 木86 菖広 美 術館 おがわまち II ETフ │11220 上ヒイ ≧君Б′ Jヽ り ヽ「 書′ ]ヽ り 埼 玉伝 統 工 芸 会 館 道 の駅野外博物館 の研究 千葉 県 新潟 県 川 口・ あんぎょう 川 国 市 安 行 領 家8442 川 口緑 化 センター 大滝 温 泉 秩父 市 大 字 大 滝 42772 至史 民俗 資 料 館 なか ベ 深 谷 市 岡6881 憂史 コー ナ ー ・中宿 遺 跡 史 蹟 整 備 龍勢 会 館 秩 父市 吉 田久 長 32 追勢 会 館 ・ 井上伝 蔵 資料館 ・ 秩 父事 件 街 並 み 復 元 め ぬま 熊 谷 市 弥 藤 吾 720 こつぱん女性第 一号資料ギャラリー きたかわ ベ 北 埼 玉 郡 北 川 辺 町 大 字 小 野 袋 1737 遊 水 池 ギ ャラ リー きょなん 安 房 郡 鋸 南 町 吉 浜 5161 菱 川師宣 記念館 ふれあいパ ーク・ きみつ 君津 市 笹 子 字 椿 17663 片倉ダム記念館 オライはすぬま 山武 市 蓮 沼 人 の4826 産 業会 館 南 房 パ ラダイス 館 山市 藤 原 字 平 砂 浦 1495番 地 フラワー ′くビリオン 調日 岩船 郡 朝 日村 大 字 猿 沢 1215 日本 玩 具 歴 史 館 新潟 ら、 るさと村 新 潟 市 西 区 山 田23071 アピー ル館 能生 (のう) 糸 魚 川市 大 字 能 生 小 泊 35962 毎の 資 料 館 「 越 山丸 」 関川 岩 船 郡 関 川 村 大 字 上 関 12521 せきかわ歴史とみちの館 ・ 渡違邸 阿 賀の里 東 蒲 原 郡 阿 賀 町 石 間 4301 阿賀野 川文 化 資料館 笹 川流 れ 岩 船 郡 山北 町 大 字 桑 川 89255 サンセットギ ャラリー 越 後 出雲 崎 天 領 の 里 三 島郡 出雲 崎 町 大 字 尼 瀬 657 天 領 出雲 崎 時 代 館 ・ 出雲 崎 石 油 記 念 館 胎 内 ( たいな い ) 治内市 下 赤 谷387 郷 土 文 化伝 習 館 良寛 の 里 わ しま 長 岡市 島崎 57132 良寛 の 里 美 術 館 ・ 菊盛 記念 美術館 ・ 歴 史 民俗 資料館 まつだいら、 るさと会 館 十 日町 市 松 代 3816 鍋 立 山 トンネル 資 料 展 示 クロス 10(テ ン)十 日町 十 日町 市 字 宇 都 宮 7126 展示ギャラリー 漢 字 の 里 しただ 三 条 市 大 字 庭 月 4511 諸橋 轍 次記念 館 西 山ふ るさと公 苑 柏 崎 市 西 山町 坂 田7174 田 中角 栄 記 念 館 ・ 西遊館 ・ 西 山 あ、 るさと館 芸 能 とトキ の 里 佐渡 市 吾 潟 18391 能 楽館 親 不 知 ピアパ ー ク 糸 魚 川 市 大 学 外 波 9031 細入 (ほそいり) 彗山市 片 掛 35 ヨ 身翠ら、 るさと館 マルチギャラリー たい ら 菊 たいら郷 土 館 ・ 五 箇 山和 紙 の 里 うな づ き 黒部 市 宇 奈 月 町 下 立 687 宇 奈 月友 学 館 カモンパ ー ク新 湊 村水 市 鏡 宮 296 新湊 博物館 110 ウェーブパークなめりかわ 滑川 市 中川 原 410 アクアポケット」・ ほたるいかミュージアム 深層水分水施設 「 111 とぎ海街道 ]1昨郡 志 賀 町 富 来領 家 町 甲 ‑35 岩 壁 の 母 資料 展 示 室 112 ころ柿 の 里 しか 羽昨 郡 志 賀 町 字 末 吉 新 保 向 102 地域 の 文 化 館 113 ― 向 ― 揆 の 里 せ せ らぎ 白山市 出合 町 甲36 ― 向 ―揆 歴 史 館 農 村 文 化伝 承 館 ・ つとじま 七尾 市 能 登 島 向 田町 12214 石 川 県能 登 島ガラス 美 術 館 ・ 能 登 島ガラスエ 房 すず塩 田村 朱洲 市 仁 江 町 1字 121 奥能 登 塩 田村 ・ 揚 浜館 九頭竜 (く ずりゆう) 大 里予市 朝 日 26‑30‑1 青葉 の笛資料館 ・ 穴 馬 民俗 館 ・ 郷 土 資料館 名田庄 (なたしょう) 大飯 郡 おおい町 名 田庄 納 田終 10941 替会 館 みくに 坂井市 三 国 町 山岸 6731 らつきょ資米斗館 昔狭 熊 川 宿 三方 上 中郡 若 狭 町 熊 川 11号 摯 頭 11 四季 彩 館 資 料 館 佗かげの郷まきおか 山梨 市 牧 丘 町室 伏 2120 枚丘 郷 土 文 化 館 富士 り1眺 、 る さと工 芸 館 南 巨摩 郡 身 延 町 下 山 1578 彗士 川 陶房 、和 紙 と歌 舞 伎 の館 他 塩 尻 市 大 字 塩 尻 町 1090 自然 博 物 館 佐 久 市 甲21771 郷土 資 料 館 91 富 山県 石川 県 福井 県 117 119 山梨 県 長野県北吉│ Jヽ 坂 田 (おさか だ)公 園 まっとぱ 〜く・ 浅科 アルプス安曇野ほりがねの里 安 曇 野 市 堀 金 鳥 川 2696 日井 吉 見 文 学 館 ケアシスおぷ せ 上 高 井 郡 小 布 施 町 大 字 大 島 601 千 曲 川 ハ イウェイミュー ジアム 雪電 くる み の 里 東 御 市 滋 野 乙45241 雪電 展 示 室 (江戸 時 代 の 天 下 無 双 の 力士 ) 塩 尻 市 大 字 木 曽平 沢 22727 アー トギ ヤラリー 下 伊 那 郡 阿南 町 新 野 2700 姜村 文 化伝 承 センター 長野 県南割 本曽ならか わ 言州 新 野 千 石 平 岐阜 県 ラステンほ らど 関 市 洞 戸 菅 谷 5393 ラステンほ らど情 報 館 白鳥 (しらとり) 郡 上 市 白鳥 町 長 滝 40219 白山文 化博 物 館 ヽ 博物館の研究 道の駅野夕 132 静岡県 コック・ ガーデンひちそう 加茂 郡 七 宗 町 中麻 生 11763 日本 最 古 の 石 博 物 館 じは し る里 ら、 星 の ら、 揖斐 郡 揖 斐 川 町 東 横 山2641 白川郷 大 野 郡 白川 村 飯 島 411 歴 史 民俗 資 料 館 藤橋 城 ・ ー ・ 道 の駅 白川郷合掌 ミュ ジアム 本物 の合掌造 りを展 示 富 有 柿 の 里 い とぬ き 本 巣市 上 保 182 古 墳 と柿 の館 織 部 の 里 もとす 本 巣市 山 口676 織 部 展 示館 古 今 伝 授 の 里 や まと 郡 上 市 大 和 町 剣 164 ギヤラリー 日本 日 召禾日本寸 美濃 加 茂 市 山 之上 町 2292‑1 野外 博 物館 細良 郡上 市 和 良 町 宮 地 1155 和 良歴 史 資 料館 壌母 (しず も) 中津 川市 山 口114 宙ドーム ・ ネ 申岡 飛騨 市 神 岡町 夕陽 ヶ丘 6 東山魁夷心 の旅路館 スーパーカミオカンデ展示室 花 の 三聖苑伊 豆松 崎 加 茂 郡 松 崎 町 大 沢 201 三 聖会 堂 大沢 学 舎 ・ フォー レなかかわね茶著館 榛 原 郡 川根 本 町 水 川 711 川根 茶 資 料 館 天城 越 え 伊 豆 市 湯ヶ島 8926 伊 豆 近代 文学博 物館 蘇林 博 物 館 ・ 音 の 体 験 ミュー ジアム 奥大 井 音 戯 の郷 調国下 田みなと 下 田市 外 ヶ岡 11 ハ ー バ ー ミュー ジアム テ豆 の へそ 伊豆 の 国 市 田京 1952 伊 豆 ロケミュー ジアム 伊 良湖 クリスタル ポ ル ト 田原 市 伊 良湖 町 宮 下 300065 や しの 実 博 物 館 どんぐりの里いなぶ 豊 田市 武 節 町 針 原 221 ちゅ〜 ま」 郷 土 資 料館 「 古橋懐 古館 ・ 紀 宝 町 ウミガメ公 園 南 牟 婁 郡 宝 町 井 田5687 飼育棟 ウミガメ資 料 館 ・ 奥 伊 勢 木 つつ 木館 度 会 郡 大 紀 町 滝 原 87037 大 宮 昆 虫館 びわ湖大橋米プラザ 大 津 市 今 堅 田311 ファー マー ズテ ー ブル 湖 北 み ず とリステ ー シヨン 東 浅 井 郡 湖 北 町 大 字 今 西 17311 ー 琵 琶 湖 水 鳥 湿 地 センタ 胡北 野 鳥センター ・ 大阪 府 ちはやあかさか 南 河 内郡 千 早 赤 阪 村 大 字 二 河 原 辺 7 村立郷 土 資料館 兵庫 県 は が 穴 栗 市 波 賀 町 原 149 防 災 資 料 館 メイプル ル R427か み 多可 郡 多可 町 加 美 区 鳥 羽 7331 杉原紙 研 究所 ちおがき 丹 波市 青 垣 町 西 芦 田541 丹 波布伝 承 館 愛知 県 二重 県 滋賀県 160 奈 良県 みき 三 木 市 福 井2426番 地 先 金 物 展 示館 播 磨 いちのみ や 六栗 市 ― 宮 町 須 行 名 5101 郷 土 芸能展 示 室 東 浦 ター ミナル パ ー ク 淡 路 市 浦 648 猫 美術館 北 は りま エ コミュ ー ジ ア ム 西 脇 市 寺 内字 天 神 池 5171 ヨ園 空 間 博 物 館 (地域 まるごと博 物 館 ) 但 馬 のまほろば 朝 来 市 東 町 大 月字 北 山926 里蔵 文 化 財 センター 吉 野 路 大 塔 (おおとう) 五 条 市 大 塔 町 阪 本 2256 大塔 郷 土館 ら、 たかみ パ ー ク営 麻 (たいま) 葛 城 市 新 在 家4021 捻もちゃ館 資 料 館 十津 川 郷 吉 野 郡 十 津 川 村 小 原 2251 むか し館 日高 郡 み な べ 町 谷 口5381 悔資 料 展 示 室 和 歌 山 県 みな べ うめ 振 興 館 配州 備 長 炭 記 念 公 園 田 辺 市 秋 津 川 14911 紀州備 長 炭 発 見 館 水の 郷 日高 川 龍 滸 田辺 市 龍 神 村 福 井 511 木工館 鳥取 県 ポー ト赤碕 〈 あかさき) 末伯 郡 琴 浦 町 別 所 255 韓 国 江 原 道 交 流 記 念 碑 ・日韓 友 好 交 流 資 料 館 島根 県 大社 ご縁 広 場 出雲 市 大 社 町 修 理 免 7355 吉 兆館 広瀬 ・ 富 田 (とだ)城 奏来 市 広 瀬 町 町 帳 7751 歴 史 資料館 湯 の川 簸 川 郡 斐 川 町 大 字 学 頭 8252 花 丼 展 示 ハ ウス レクウェイにちは ら シフ 琵足 郡 津 和 野 町 池 村 19974 シル ク染 め織 り館 あわくらんど 英 田郡 西 粟 倉 村 影 石418 ギヤラリー彩 鯉 が 窪 (こいが くば ) 新 見 市 哲 西 町 矢 田35851 文化伝習館 リス トアステ ー ション 庄 原 市 総領 町 下 領 家 13 光 の ドー ム 豊 平 どんぐり村 山 県郡 北 広 島 町都 志 見 2609 とよひ らウィング ア リス トぬ まくま 福 山市 沼 隈町 常 石 字 岩 端 1805 山本 瀧 之 助 記 念 館 ら、 おレス ト君 田 (きみ た) 二 次 市 君 田町 泉 吉 田3113 は らみ ちを美 術館 クロスロー ドみつぎ 尾 道 市 御 調 町 大 田33 図書 館 阿武町 (あぶちよう) 阿武 郡 阿武 町大 字奈古 発祥 交 流 館 171 173 ー ト29 岡 山県 広 島県 177 山 口県 道の駅 野外博物館 の研究 徳島県 香川 県 萩 往 還公 園 萩 市 大 字 椿 鹿 背 ヶ坂 1258 松 陰記念館 みとう 美祢郡美 東町大字大 田字 近光54801 都市と農村交流の館 ビなり 呵波 市 土 成 町 宮 川 内字 平 間282 もてなしの館 │1温泉 もみ じり 那賀 郡 那 賀 町 大 久保 字 西 納 野 47 美術 館 呈泉の里 神山 名 西 郡 神 山町 神 領 字 西 上 角 1511 ギヤラリニ (2F) 藍 ランドうだつ 美 馬 市 脇 町 大 字 脇 町 55 吉 田邸 第 九の里 鳥門 市 大 麻 町 桧 字 東 山 田53 賀川 豊 彦 記 念 館 ・ ドイッ館 瀬 戸 大橋 記 念 公 園 ヽ 吸出市 番 の り ‖緑 町 613 瀬 戸 大橋 記 念 館 ・ プリッジシアター ことひき 観 音 寺 市 有 明 町337 世 界 の コイン資料 館 ・ 観音 寺市 立郷 土資料館 小豆 島ら、 るさと村 小 豆 郡 小 豆 島 町 室 生20841 手延 そうめ ん館 ・ 小 豆 島 町 池 田現 代 美 術 館 空 の 夢 もみ の 木 パ ー ク 仲 多郡まんのう町追上4241 二宮 忠 八 飛 行 館 滝 宮 (たきの み や ) 綾 歌 郡 綾 川 町 滝 宮 1578 綾 川 町 うどん 会 館 うたづ臨海公園 綾 歌 郡 宇 多津 町 浜 一 番 丁 4 宇 多津 町 産 業 資 料 館 大坂城 残 石記 念公 園 小 豆 郡 土 庄 町 小 海 甲9091 大坂城 残 石資料館 瀬 戸農 業公 園 西宇 和 郡 伊 方 町 塩 成 乙293 モデ ル 温 室 マイントピア別 子 訴居 浜 市 立 川 町 7073 鉱 山観 光 (テー マパ ー ク) ら、 たみ ヂ予 市 双 海 町 高 岸 甲2326 夕日のミュージアム り方きらら館 西宇 和 郡 伊 方 町 九 町越 伊 方 原 子 力 発 電 所 ビジター ズ ハ ゥス LIの 森 公 園 まつの 北 宇 和 郡 松 野 町 大 字 延 野 々 1510‑1 なさか な館 小松 オアシス 西 条 市 小 松 町新 屋 敷 乙2229 百鎚 展 示館 ・ 石鎚写 真 美術館 み ま (コスモス館 ) 宇 和 島 市 三 間 町 務 田 1801 珪地 梅 太 郎 記 念 美 術館 ・ 井 関邦 三郎 記念館 四 万 十 ( しま ん と) 大 正 高 岡郡 四 万 十 町 大 正 171 大正 町 郷 土 資 料 館 ゆすはら 高 岡郡 梼 原 町 太 郎 川 37993 きつつ き学 習館 美 良布 (びらら、 ) 香 美 市 香 北 町 美 良布 1211 アンバンマンミュージアム ・ 詩とメルヘン絵本館 ・ 吉井勇記念館 キラメッセ室 戸 室戸 市 吉 良 川 町 丙89011 鯨 館 鯨 の郷 土佐和 紙工 芸村 吾川 郡 いの 町 鹿 敷 1226 ギヤラリー ばたにか 福岡県 うきは うきは市浮羽町山北7292 うきはの 郷 家 宝 資 料 館 長崎 県 生 月大橋 (いきつきおお は し) 平戸市 生 月 町南 免 43751 平 戸 市 生 月 町 博 物 館 「島 の館 」 みずなし本陣ふかえ 南 島 原 市 深 江 町 丁 6077 火 山学 習館 彼杵 の荘 東 彼 杵 郡 東 彼 杵 町 彼 杵 宿 郷 7472 埜史 民俗 資 料 館 遣 唐 使 ら、 るさと館 五 島 市 三 井 楽 町 濱 ノ畔 3150番 地 1 万葉 シアター 愛媛県 200 高知 県 206 熊本 県 大分 県 宮崎 県 力 を里予 阿 蘇 市 波 野 大 字 小 地 野 1602 神 楽館 清和文楽 邑 上 益 城 郡 山都 町 大 平 152 清和 文楽館 通 潤橋 上 益 城 郡 山都 町 下 市 1841 矢部 町 民俗 資料 館 ・ 資料 館 (通潤橋 に関す る資料 館 ) 子守唄の里五木 球 磨 郡 五 木 村 甲267254 かやぶき古 民家 宇 目 ( うめ ) 佐 伯 市 宇 目大 字 南 田原 25135 森 の 学 園展 示館 竹 田 ( たけ た ) 竹 田市 大 字 米 納 6631 民工 芸 館 耶 馬 (や ば )トピア 中津 市 本 耶 馬 渓 町 曽木 21931 耶 馬渓風 物館 や よし 左伯 市 弥 生 大 字 上 小 倉 8981 番 匠 おさか な館 (河川 資 料 館 ) 鯛生金 山 日田市 中津 江 村 合 瀬 3750 地 底 博 物館 Jじ甫 延 岡市 北 浦 町 古 江 33371 塩 田・ 資料館 奄美 市 住 用 町 大 字 石原 478 マング ローブ館 鹿 児 島 県 奄美 大 島住 用 223 沖縄 県 225 おおすみ弥五郎伝説の里 曽於 市 大 限 町 岩 川5718¬ 称五 郎 まつ り館 ゆいゆい国頭 (くにがみ) 国 頭 郡 国頭 村 字 奥 間 1605 民具 及 び小 動 物 資料 館 かでな 中頭 郡 嘉 手 納 町 字 屋 良 10263 学習 展 示室 写真 の保存 について の考察 The consid.erationabout the save of the photograph 伊藤 大 祐 ITO Daisuke は じめに 近年、 モ ノク ロ フイル ム に限 らず、 フ イルム を取 り巻 く状 況 は厳 しい こ とになって きた こ と ・ は周知 の通 りであ る。2005年にアグ フア フ オ トは破 産 し、2006年に は コニ カ ミノル タが フ ォ ー ト事業 を終 了 し、2007年に は コ ダ ックの コ ダク ロ ムが 日本 国内販売 と現像 を終 了 した。 デ ジ タルステ ルカメラの 普及 に よる、 ここ数年 にお け る大幅 な需要 の 落 ち込み に よる もので あ る。 ー ー デ ジ タルステ ル カメラの 台頭 は、 コ ンシュ マ 用、 プ ロ フ エ ッシ ョナ ル用 問 わず、画質 の 向 ー ー 上 とその運用 の 利便性 か らであ る。 数年前 まで は、 コ ンシュ マ 用 は画素数が少 な く画質 も コ あ ま り良 い とは言 えず、 プ ロ フエ ツシ ヨナ ル用 は価格 が非常 に高価 であ ったが、最近 で は、 ンシュ ー マ ー 用 で あ って も画質 も良 くな り、 プ ロ フエ ッシ ョナ ル用 の 製 品 の価 格 もデ ジ タル バ ックを除 け ば、廉価 になって きてお り、写真 が趣 味 の アマ チ ュ アで も手が届 く価格帯 になっ て い る。 これ に よ り、 アマ チ ュ アはラ ンニ ング コス トと運用性 の よさか ら、 フ イルムか らデ ジ ー タルに乗 り換 え、 プ ロ も以前 はデ ジ タル を使用す るの は、 写真 の運用 にス ピ ドが必要 であ っ た 報 道 関係 が 主 で あ ったが、 これ以外 の 分 野 の プ ロ も、 プ ロ フェ ッシ ョナ ル用機材 が廉 価 に な った こ とに加 え、 フ イルム と遜色 の な い画質が得 られ る よ うになった こ とか ら、 フ ィルム か らデ ジ タル を主 として使用す る ものが 増 えて い る。 ー また、 フイル ムの需要低 下 とともにフ イルム に対 す るサ ビス も以前 と比 べ 、利用 しに くく な って い る。 一 般 向 け のサ ー ビスで は、DPE(Development Printing Enlargement)シ ヨッ プが、 フ ィ ル ム市場 の 縮小 と と もに、店舗 数 は減 少傾 向 にあ る。 さ らに、DPEシ ヨップ にお け るプ リ ン トはか な り以前 か ら、 デ ジ タル になって い る。 プ ロ フ ェ ッシ ョナ ル用 途 で は、 フ イ ルムか ら良質 の銀塩 プ リ ン トを作 る ラボ、 プ リ ン ター は確 実 に減 りつつ あ る。 おそ ら くフィル ムの 需要が あ るの は、 レンズ付 フ イルム と、 中判 カメラで ネイチ ャー フ ォ トを撮 るアマ チ ュ ア、 広告等大型 デ ィス プ レイを作成す る必要 の あ るプ ロが主であ ろ う。 この状況 を鑑 み る とフイル ムの将 来 に悲観 的 にな らざるを得 な い 。今後 もフイル ム市場 は縮小 し続 け て い くだろ う。 こ う した中、博物館 にお け る資料 写真 は、 デ ジタルー 眼 レフカメ ラや デ ジ タルバ ックの導入 に よ り、従 来通 りのモ ノク ロ 。ポ ジフ ィルム にデ ジ タル を加 えた体 制 で写真 が撮 られて い る。 ライ ンナ ップの縮小等、 フ イルム供給 に不安 が あ る 中、 資料写真 の作成 は現状 の体 制 で よいの か、慣 習 的 にモ ノク ロ フ イルムに よる撮 影 が続 け られて い るが、情報量 にお いてポ ジフ イルム に大 き く劣 るモ ノク ロ フィルム を用 い た撮影 を続 け て い く必要 はあ るのか。資料 写真 として残 ‑71‑ ■■■■■■︱日︱日︱︱︱︱︱︱日︱︱︱︱︱︱︱ロロローーーーーーーillillllllllllllllllll 写真 の保 存 につ い ての 考察 していくにあたり、フィルムとデジタルどちらが、優れているのかを主に保存性の観点から論 ず る もの で あ る。 資料写真 とは 古写真 や作家 もの として収集 された フォ トグ ラフ ァー の 手 に よる もの を除 い られ る写真 は二 次資料 で あ る。 二 次資料 は、 一 次資料 の くと、 博物館 で用 ・ 保有す る形態 形態 ・性 質 を記録 し た ものであ り、主 として博物館 にお ける研 究 ・展示 を 目的 と した 情報媒体 で ある。 博物館 にお け る資料写真 は文化財 写真 同様 に 「 劣化無 く永久 に保存 し、 後世 にわた っていつ で も利用 で き る こ と」 が 求 め られ る。 これ は、 展示 資料 と しての写真 に通 じる ことで あ る 。 博物館 の 資料 は、 さまざまな理 由か ら展示 が 困難 で あ るこ とが あ る。 よ く問題 になるのは、 博物館 の有す る保存 の機 能 との矛盾 か ら、 資料 の展示が 困難 になるこ とで あ る。 展示 と保存 は 博物館 の有す る機能 で あ りなが ら、 矛盾 した ものであ り、資料 の展示 を行 うな らば、 劣化 は避 け られず、 また 資料 の保存 に徹 す るな らば、 資料 の展示 は絶対 に行 う こ とはで きない 。 また保 存 の観点 か ら資料 の展示 になん ら問題が な くとも、 資料 が巨大 で あった り、或 い は非常 に小 さ す ぎた りとい った、物理 的 な条 件、環境 的 な条件 に よ り展示技術 上、 展示 が困 難 な こ とは多 々 あ る。 それ以外 に も無形文 化財等、写 真 や映像 で なければ展示 で きな い もの もあ る。 展示資料 と しての 写真 が 求 め られ るので あ る。 展示 資料 と しての 写真 に求 め られ る要素 は、 「そ の 時 の 画像 を出 来 うる限 り高品質 に記 録 す る こ と」 に通 じる、 実物 資料 を再 現す る色 再現性 、精細 さ と適 切 なサ イ ズの プ リ ン トを作成す るこ とが で きる解像 度 であ る。 フ ィルム について ここで は、 モ ノク ロ フ ィルム とポ ジフィルム につ い て触 れ る。 モ ノクロフ ィルム は、 ハ ロゲ ン化銀 の感光性 を利用 して 画像 を黒 と自の濃淡 で表す フ ィルム で あ る。通 常 のモ ノクロ現像 を 行 う タイプ とカ ラー ネ ガ テ ィブ フ ィルム現像処 理 (C‑41処 理 )を 行 う タイプが あ るが、C― 41処理 を行 う タイプは、通常 のモ ノクロ現像 を行 う タイプに対 し、 耐久性 に劣 り、 あ ま り用 い られ る こ と もな いの で ここで は取 り挙 げ ない。 モ ノクロフ ィルム は、色 素 を用 い て い な い ため 非常 に耐久性 が高 くまた、粒 子が細 か い ため非常 に解像 度が高 い。 ポ ジフ ィルム は、 リバ ー サ ル フ ィルム ・ス ライ ドフイル ム と もいい 、現像後 に色 彩 と譜調が、 の 実際 見た 日と同 じよ うにな り、 印刷 原稿 と して適 した フィルムで あ る。 ポ ジフ ィルム には、 乳剤 層 中 に カプ ラー (発色剤)を 含 まな い 外 式 フ ィル ム と、 乳剤 層 中 に カプ ラー を含 む内 式 フィルムが あ る。 外式 フィルムは 内式 フ ィルム に対 して、 カプ ラー を含 まな い ため、 乳剤 の層 が薄 く粒状性 と解像感 に優 れ、 また現像後 に不 要 な カプラー が残 らな い ため変退色 に強 く、耐 久性 に優 れ る。 現在 、外式 フィルムは コ ダ ック社 の コ ダク ロー ムの みであ る。 フィルムの保存性 は、概 ね色素 の有無 とフ ィルムベ ー スの材 質 に依存 す る。モ ノクロフ ィル ム はハ ロゲ ン化銀 の還元 に よる金 属銀 で像 を作 るために画像 は堅 牢 で あ るが、 ポ ジフ ィルム は 発色現像後、金属銀 とハ ログ ン化銀 は漂 白 されて、色 素 で像 が形成 されて い るため、 時 間 の経 過 とと もに、色素が壊 れて退色 や変色がお きる。最近の フィルムは改 良 され、色 素が壊 れ に く ―‑72‑― 写真の保存 についての考察 とした とき、色素 の破壊 は温 度 と湿 度 くな ったが、確実 に劣化 は起 こる。暗所 での保存 を基本 ジフ イル ム は、保 存性 に優 れた に依存 し、富士 フ イル ム に よる と現行 の ベ ル ビ ア1 0 0 F 等の ポ ー 1 0 0 年、2 5 ℃相 対湿 度 7 0 パ 発色 色 素 の使 用 に よ り、室 内暗所保存 で、2 5 ℃相対湿 度4 0 % で 約 で防 げ る とし セ ン トで約3 0 0 年の 画像保存性 が あ る と して い る。 また、色 素 の破壊 は冷凍保 存 のエ ク タク て、W i l h e l m l m a g i n g R e s e a r c h に 社 よ る と、 相 対 湿 度4 0 % の 暗 室 にE ‑ 6 処 理 ロー ム を保存 した場合、色素 の1 0 % が 壊 れ るの に2 4 ℃で5 2 年、7 . 2 ℃で5 0 0 年、 1 . 7 ℃で1 , 1 0 0 年、 ‑ 2 0 度 で2 1 , 6 0 0 年、 同条件 で コ ダク ロ ー ム を保存 した場合、色 素 の1 0 % が 壊 れ るの に2 4 ℃で9 5 年、 7 . 2 ℃で9 0 0 年、1 . 7 ℃で1 , 9 0 0 年、 ‑ 2 0 度 で3 9 , 5 0 0 年かか る として い る。 ただ これ らともに べ 促 進試験 の結果 であ り、 か な り控 えめ に保存性 を評価 す る きであ る。 ー フィルムベ ースの材質 は、 コダツク社製 と富士 フイルム社製 ともにロ ルフイルム ( 1 3 5 、 ー ー ー 1 2 0 ) は セル ロース トリアセ テー ト ( 三酢酸 セル ロ ス、ト リアセチ ルセル ロ ス) で 、 シ ー トフィルム ( 4 × 5 、 8 × 1 0 ) は 、ポ リエ ステル ( ポリエチ レンテ レフタラ ト) で ある。 セ ルロース トリアセテー トは、残留 してい る可塑剤 と溶剤 の蒸発 により縮む傾向があ り、 フイル ー ムベ ースが しわになるとともに、 ゼ ラチ ン乳剤層 にしわが寄 り、 フイルムベ スか らの剥離や、 こ 画像へ の悪影響 を及ぼす ことがある。 また、高湿度の環境下 に保管 される と、加水分解 を起 ー ー ベー し、酢酸 を放出 し、それ とともに可塑剤がセルロ ス トリアセテ トか ら離 れ、 フイルム スが縮小、破壊 され、結果画像 が破壊 される。ポリエステルは強度、化学的安定性、強固性 、 ベ ー スとして、 引 き裂 きに対す る抵抗性、柔軟性、寸度安定性 、平面的安定性 に優 れ、 フイルム 非常 に優れてい る。 シー トフイルムに対す る使用な らば、巻 いた状態 で保存 される映画用 フイ ルムのような表面 の剥離 やひび割れに よる問題 は起 こ りに くいだろ う。 色素 ベ ー ス材質 保存性 備考 モ ノ ク ロ フ イル ム ( ロー ル ) × セ ル ロ ー ス トリ アセ テー ト ○ 画像 は堅 牢 であ るが、 フイル ム 自体 は劣化 しやす い モ ノク ロ フ イルム ( シー ト) × ポ リエ ス テ ル ◎ 画像 、 フ イルム ともに堅牢 ○ セルロー ス ト アセ テ ー ト ○ 画像 は内式 に比 べ て堅 牢 だが、 フ イ ルム 自体 は劣化 しやす い 内 式 ポ ジ フ イル ム ( ロー ル ) ○ セ ル ロ ー ス トリ アセ テー ト △ 画像 は色 素 を用 いてい るため劣化 す る。 フ イル ム も劣 化 しやす い 内式 ポ ジフ イルム ( シー ト) ○ ポ リエ ス テ ル ○ 画像 は色 素 を用 いてい るため劣化す るが、 フイル ム は堅牢 外式 ポジフイルム ール (ロ ) デジタル写真 について ー ー デジタル写真 とは、画像 をデジタルデー タ化 した ものである。デ ジタルデ タはデ タを量 ー ー 子化 して整数値 で表現 して、離散的なデ タにした ものである。離散的なデ タを用 いて画像 ー を表現 した ものがデジタル写真 であ る。デジタルデ タは、離散値 として数値化 してい るため ・ に劣化 しに くい とい う特性 を持 ってい る。フイルムに記録 した画像が、加工 編集 に手間がか ―‑73‑― ■■ ■ ■ ■ ■ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ロ ロ ロ ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 写真の保存についての考察 か り、複製 を作 るたび に画像 が 劣化す るの に対 し、 デ ジタル 写真 は コ ンピュ ー タに よ り容易 に ・ 加 工 編集が で き、 画像 の複製 を して も劣 化 しない。 デ ジタル 写真 の保存性 は保存 す るメデ ィ ア (記録媒体 )に 依存 し、 保存 に際 して従来 の フ ィルム に よる 保存 に比 べ て 実績が な く、機械 読 み取 り式 の情報 で あ るために、実 際 にモ ノ としての 画像 が な い こ とと 技術 の進歩 に よるハ ー ドとソフ トの変化が 早 い こ とか らその保存性 に対 して疑 の 間 声 もあ るが 、汎用 性 の 高 い形式、 或 い は可逆圧 縮式 の 形式 でデ ー タを保存 し、 その 時 に もっ と も普 して い るメデ 及 ィァにバ ック ア ップ を取 り続 けれ ば保存性 に 問題 はない もの と考 える。 一 方、 デ ジタル デ ー タなので、 フ ィ ルム や プ リ ン トな どと違 い経年変化 に よる退色 な どの 劣化 は発 生 しな いが、 機械 読み取 り式 で ー あ るため にキ ャリブ レ シ ョン (調整)を したモ ニ ター 同士 を用 い なければ正 しい 色 が再 現 さ れ な い とい った欠点 もあ る。 た とえば、 キ ャ リブ レー シ ョンを施 したモ ニ ター を い 用 て、 デ ジ タル画像 の色補正 を し、その 画像 を、 キ ャリブ レー シ ョンを施 して い な いモニ ター で表示 した ときに、意図 した色 で 表示 され な い。 デ ジタル画像 を得 るには 2つ の 方法が あ る。 デ ジ タルス チル カメ ラを用 い る方法 とあ らか じめ銀塩 カメ ラ (デジ タルス テ ル カメ ラが普 及す る とと もに 従 来 の カメ ラをさす語 として銀塩 カメ ラ、 あ るい は フィルム カメ ラ とい う語が用 い られ る よ う になった)で 撮 った フィルム をス キ ャナで読 み取 る方法 で あ る。 デ ジタルス テ ルカメ ラの原理 は、 従 来 の カメ ラが レンズ に通 ってで きた光 の像 をフ ィルム に 記録す る とい うもので あ ったの に対 して、 これ をフ ィルムの換 わ りに CCD、 CMosと いっ た撮像 素子 と記録媒体 の 置 き換 えた もので あ る。撮像素子 に よって光 の像 を電気信号 に変 し、 換 それ を記録媒体 に記録 す る とい うもので あ るが、 これ は光 の像 を撮像素子 に よって標本化 しA /D変 換 に よって量 子化 され る とい うプ ロセス を経 て、 デ ジ タルデ ー タとして記録 され る。撮 像素子 は画 素数が多 い ほ ど被写体 の情報 を細 か く捉 える こ とがで き解像度が大 き くなる。 一 般 的 に撮像 素子 は色 分解 を行 う こ とが で きな いの で、 色分解 フ ィル ター (主に赤 (R)、緑 (G)、 青 (B)の原色 フィル ター)を 用 い て一 度 の撮 影 で カ ラー 画像 を得 るか、三 原色 を別 々 に撮影す るこ とに よって カラー画像 を得 る。 また撮像 素子 は規 貝1性を持 った 画素 で構 成 されて い るため 特 定 の高周波成分 があ る被 写体 を撮 影す る ことでモ ア レと偽色 が発生 す る。 これ を抑 えるため に 高周 波成分 を抑 え る ロ ー パ ス フ ィル ター が用 い られ る。 これ は画像 をぼか す ための フ ィル タ ー で あ り、解 像 感 に 影 響 を与 え る。 そ の た め、 業 務 用 の デ ジ タル ス テ ル カ メ ラで は コ ン ピュー タ上 でモ ア レを解消す るこ とを前提 に ローパ ス フィル ター を用 い て い ない もの もあ る。 また上記 した三原色 を別 々 に撮影す る タイプは原理 的 に ローパ ス フ ィル ター の必要 はな い。 主 なデ ジ タル カメ ラの種類 は コ ンパ ク トタイプ、 一 眼 レフ、 中判大判 カメ ラ (デジ タルバ ッ ク)等 があ るが、 コ ンパ ク トタイプは撮像素子が小 さ く、 一 眼 レフ、 中判大判 カメ ラ (デジタ ルバ ック)の 順 に撮像素子が大 き くな り、撮像素子が大 きい と画素 ピ ッチ も大 き くな りS/N 比 とダイ ナ ミック レンジが 向上 し、 画質が向上す る。 デ ジ タルスチル カメ ラには撮 影 した画像 をす ぐに確 認 で きる、 は じめか らデ ジ タル画像 で出力 され るため に中間工 程 を省 くこ とがで き る、撮像素子 の S/N比 が高 い ものは フ ィルム と比 べ て 高感度 で も高 い画質が得 られ る、 色温 度 を 自由 に設定で きるため に、 銀塩 カメ ラの よ うにデ ー ライ トタイプや タ ングステ ン タイプ と い った フ ィル ムの使 い 分 けや、 フ ィル ター を用 い て色 温 度 を調整 す る必 要 が な い とい った メ ―‑74‑― 写真 の保存 についての考察 のフイル リッ トがある。画質 に関 して、 フイルムでは起 こ りえないモ ア レや偽色 を生 じ、従来 ー ムで得 られる画像 と違 うとい う意見 もあ るが、デ ジタル 眼 レフ以上のデジタルステルカメラ を用 いれば、十分 に実用可能な画像 が得 られる。 スキャナはフイルムに光 をあて、 フイルム を通った透過光 を読み取 って画像 として処理する ンセ 装置である。 フイルムの読み取 りに特化 したスキヤナを、 フイルムスキャナ とい う。 ライ ンサ型 といって撮像素子が直線 に並んだイメー ジセ ンサを動か しなが ら原稿 をスキャ ンす るタ イプが一般的であるが、ド ラムスキャナ とい うガラスの筒 に原稿 を貼 り付 けて回転 させ、 固定 したイメー ジセ ンサでスキヤンす る装置 を利用す るとより高精度な画像 が得 られる。 スキャナ ー を利用す るメリッ トとしては過去 に撮影 した資産 をデジタルデ タにで きる、デ ジタルステ ル カメラに比べ 、ブローニー フイルムやシー トフイルムのスキヤンにより、比較的安価 に高画質 が得 られるといった特徴 がある。 結論 ー フィルムによる保存 を考えた とき、画像 を半永久的に保存 しようとす るならば、シ トフイ ルムを用 い るべ きである。特 にモノクロシー トフイルム による写真 の記録 は、色素 を用 いてい ー ないため、画像その ものの劣化が しに くいこ と、 フイルムベ スがポリエ ステルで劣化 に強 い こと、 シー トフィルムであ るがゆえに、 フイルム面積が大 きく、画像が高精細 である点があげ られる。 カラーでないため情報量でポ ジフイルムに大 きく劣 るが、画像 を出来 うる限 り永久的 に保存する とい う姿勢 にかなうものであ る。 また、モノクロネガである とい う欠点 はあるが、 4× 5判 であれば98mm× 123mm、 8× 10判であれば197mm× 248mmと サ イズ及 び面積が大 きく、その ままで も閲覧することが可能である。 一方、 ポジシー トフイルムは、色素 を用 いてい るため画像が劣化するが、 フイルムベ ースが ー ポリエステルであ るために長期保存性 に優れ、得 られる画像 も高精細 であ り、 カラ であるた ー めモノクロに対 して色彩 の記録 の点での情報量 に優 れてい る。 また、ポ ジであ リシ トフイル ムでサイズが大 きいため、その ままで も閲覧に適す るとい う利点がある。 ロールフイルムに関 ・ しては、フィルムベ ースが セルロース トリアセテー トであることか ら、長期保存 半永久的な 保存 に際 しては適 さない。特 に近年になってポジフイルムの色素が強 くなったことを考えると、 モノクロロールフィルムによる保存 はフイルムベ ースが劣化することか ら中途半端 であ り、 モ ー ノクロロー ルフ ィルムで写真 を記録す ることは、特殊 な理由が ない 限 り不要 であ り、 ロ ル フィルムで撮影す るならばポジフイルムのみで良いだろ う。 ポジフイルムの欠点 であ る色素 の 促進試験 で、冷凍保存 に よ り、長期 的な保存 が 劣化 に関 して Wilhelm lmaging Researchの ー 可能 であるとしているが、冷凍保存 は、維持費が高額 になる ことと収蔵スペ スを考えると、 大量 のフイルム を保管す るために冷凍保存 をするのは現実的な選択肢 にはな りえない もの と考 えられ る。冷凍保存 をしない まで も、 フイルムの保存 には低温低湿度であ ることが求め られる が、 これで も収蔵 スペ ー スの都合 を考えると難儀な条件 である。保存性 に関 してフイルムは、 ー 適切 なフイルムを選べ ば、デジタルに劣 ってい ないが、収蔵 スペ スや保存 コス ト、今後起 こ りうるフイルムの ライ ンナ ップの整理やモデルチェンジに伴 う仕様 の変化 により、再現性が不 ―‑75‑― 写真の保存についての考察 利 な こ とが、 フ ィルムで 資料写真 を保存 して い くにあたっての 問題点 で あ る。 前述 したようにデジタル写真 の保存性 はメディァに依存 している。 このメディァに関 して、 耐久性 と将来新たな規格 のメディアが現れることによる再 生装置が無 くなるのではないか とい う点である。耐久性 に関 しては、デジタルデー タの劣化 を伴わず複製 (コピー)が 容易な こと か ら複数のメデ ィアに保存 してお けばよいだけである。新 たな規格のメディアが 現れるのは歓 迎すべ きことである。新 たなメディアは、 それ以前 に使 われているメディアに対 して、 容量 の 増加 は確実であるし、耐久性や保存性 の増加が期待で きるか らである。新 たなメデ ィアが登場 したならば、そのメディアにデー タを移 し変えればよいだけである。新 たなメデ ィアが以 の 前 メディアに互換性があればそのまま読み込めばよ く、互換性が無ければ、以前か ら用 いている 装置 を使 って移 してやればよい。ある日突然規格の変更によって以前 まで使 っていたメディア が読み込め な くなるとい うことはあ りえないのであるか ら、新 たなメディアの出現 は、歓迎す べ きこ とであ り、憂 うることではない。現 に過去 のメディアである磁気テー プや、 各 サイズの フロ ッピーディスクは現在 で も問題な く再生することがで きる。 メデ ィアや再生装置が壊れる 前 に複製 を行 って置けばよい だ けで ある。新 たな規格 の 出現 によ り、デ =夕 が読み込めな く ならたのならば、それは保存 に対する姿勢が怠惰 であった証拠 である。 またデジタル写真 の保 存形式について、ハ ー ドやソフ トの進化 によ り、将来 Jpegや Ti∬等、それに各種 デジタルス テ ルカメ ラの Rawデ ー タが読み込めな くなるとい う意見 もあるが、 これ も起 こ りえないこ と で ある。 これ らはソフ トゥェアの対応 の問題 であ るが、今後 HD― PHOTO等 の新 しい形式が 広 まって も、ソフ トウェア側でこれだけ汎用的に用 い られてい る形式 に対応 しない とい うこと は考えられない。既存 の ライブラリをその まま使 うか、少 し手 を加 えれば対応 で きるか らであ る。Rawデ ー タに関 して も少な くともサ ー ドパ ー ティー製 の Raw現 像 ソフ トやオー プ ンソー スで開発 されてい るソフ トに関 しては、既存 の ライブラリを流用 して、古 い Rawデ ー タに も 対応 してい くはず である。 また、デジタルデー タが容易 に改貨 で きる ことを問題 とす る声 があ るが、 これは、利用段階における改貨 に対 しては、画像デー タベース を作成す るときに、画像 のハ ッシュ値 (MD5や SHA)を 作成 してお けば対応で きる。ハ ッシュ値 はハ ッシュ関数 を 一定範囲の数値 である。異なる複 のデー 用 いてデー タを計算す ることによって生成 された■ タ 数 一 ー ハ の ッシュ値が 致することは稀 で、デ タの真偽 の判別に用 い られる。 また、NikOnのデジ タルー眼 レフの上位機種 は画像真正性検証 ソフ トウェアによって、撮影 した画像 ファイルの真 正性が保障で きるとしていて、こ うい った対応が広が りにより、容易に解決 される問題 だと思 われる。 上述 したデジタルの特性 は研究用途に供するならば、最適 であ り、 コンピュー タによる画像 の加工 ・編集が容易であ り、劣化 な く複製 (コピー)力 Sでき、画像 をデー タベ ース化 してお け ば、 コンピュー タによる検索で 目的の画像見つ けるのが容易 である。LANや イ ンター ネッ ト で画像 を共有や伝達 も容易である。何 よ りも画像 の閲覧 に際 して、劣化が無 いのが良い。 フィ ルムの場合 は利用 に際す る劣化が著 しい。フィルムの最大 の欠点は、 フィルムの扱 い に不慣れ なものが扱 うことによって起 こるフィルムの損傷である。た とえば、手袋 を用 いず にフィルム に触れ、指紋 をつ けて、 さらには慌 てて指紋 を拭 ってフィルムに傷 をつ けて しまった り、フィ ―‑76‑― 写真の保存 についての考察 ル ムの 表面 に付 着 した埃 や 糸 くず を息 で 吹 き飛 ばそ う と して、唾 液 を付 着 させ て、 さ らに唾 液 を拭 お う として フイルム を傷 つ け て しまった りとい った こ とが起 こ りえるのであ る。 い 現段 階 で は、将来 へ の対応 を考 えて資料写真 の作 成 にはデ ジ タル を主 にす るのが望 ま し よ ー うに思 われ る。古 い ポ ジや ネ ガは、 フ イルムスキ ャナ を用 いて デ ジ タルデ タ化す るこ とで対 ー 応 し、新 しい 資料写真 は主 にデ ジ タル ステ ル カメ ラに よる撮 影 を基 本 とし、 デ ジ タル デ タが モ 保存 の実績 が少 な く、信頼感 や安心 感 に乏 しい とい う意 見が あ る こ とか ら、必要 に応 じて ノ ク ロシー トフ イルムや ポ ジ シー トフイルムを用 い た撮影 を行 い、 さ らに必要があれ ばポ ジフ イ ルムの冷凍保存 を行 う とい うのが、 現実 的 な資料写真 の保存 法 で あ る と考 え られ る。 参考文献 青木豊 1997『博物館映像展示論 視 聴覚 メディアをめ ぐる』雄山閣 加藤雄 二 1 9 9 6 『 博物館学総論』雄 山閣 日本写真学会 2 0 0 4 『 写真 と文化財 のかかわ り』 一 大野信, 甲 田謙 , 内 藤明, 豊 田堅 二 2 0 0 5 『 デ ジタル写真 の基礎』 コロナ社 日本色彩学会 1 9 9 8 『 新編色彩科学 ハ ン ドブ ック』東京大学 出版会 Ho Wilhelm(lⅣ ilhelm lmaging Research),A.C.Hartman,K.」 ohnStOn,E.Rijper(Corbis),T.Beniamin (Iron Mountain)IS&T Archiving Conference 122 4/20‑232004 Bettman zero Cold Storage for the Permanent Preservation of the Corbis― High―Security,Sub― 『 ̲Archive photography collection』 写真 の手入れ、取 り扱 い、保存』 日本図書館 M a r k R o o s a , A n d r e w R o b b立 国国会図書館訳2 0 0 6 『 協会 ―‑77‑― 伝統的保存施設 として の土蔵 の考察 Consideration of storehouse as traditional preservation facilities 平澤 佑 加子 HIRASAIVA Yukako 1 は じめに 土蔵は日本の伝統的な収蔵 ・保存施設 で あ る。古来 日本人は、その内部に、漆器 ・ 陶磁器 。刀剣類 。書画 。衣類 。人形 など、 主 として普段 の簡素な生活に豊かさや季節 感 を添 えるようなものを仕舞 った。 これ ら は非 日常的なもの とい え、正月や祭 り、特 別な客人が来 る際に取 り出され、用が済む とす ぐ戻 された。上記 のような日本 の工芸 の多 くは、西洋絵画 のように通常展示す る 目的では作 られてい ない。湿度 ・温度の変 我が国の伝統的 な土蔵 化や光 に弱 く、 また虫 もつ きやす く、埃 な どにも非常 に繊細で、仕舞われた状態が通常 の姿 であると言え よう。 日本人たちは鬱金裂な ど 防虫効果が期待 で きる染布 で美術工芸 品を大事 に包み、火に強 い桐製或 い は防虫効果が高 い針 葉樹製 の箱 に入れ、土蔵 とい う収蔵空間に保存 していた。 土蔵のその塗 り籠 め られた壁の内部は温度 ・湿度 を一定 に保 つ効果がある。 また温度 ・湿度 を良い状態 で一定 に保つ ため、防虫や防徴 にも優 れてい る。遮光性 に優れるために内部に光は 届 かない。 よってモノの保存 には非常 に適 した空間を作 り出す ことがで きる。更に、その強固 な壁や複雑 な仕組みの鍵 は横行 した盗賊などの襲撃 も妨げ、防犯 にも役 立った。 以上のように土蔵はモノを保存するのに非常 に優 れてい るが、 いずれの機能 も二次的なもの で、土蔵 にまず求め られたのは防火機能であ った。 日本の伝統的建築 は木造 であ り、失火 。放火或 は落雷な どの天災 など、原因はいず れにせ よ 一度火災 になった らすべ て燃 え尽 きて しまう可能性 があった。つ ま り伝統的 な日本人の保存 は 常 に火 との闘いであ った ともい える。古代 。中世時代 もさることなが ら、 とくに都 市 の発達 し た近世では火災は非常 に大 きな問題あった。冬期 の乾燥 した風 の 日ともなると、一所 で も火が お こると町 はたちまち火の海 になって しま う。例 えば百万都市 の江戸 は維新 までの2 5 0 年間 に 2 キ ロ を越 える大火が1 0 0 回近 く起 っていて、 しか もその多 くは日本橋 ・京橋 などの繁華街 で あ り、 この近辺だけでみると1 0 年間に約 4 回 の割合 で火事が起 っている。 この ような近世 の火 ―‑79‑一 伝統的保存施設としての土蔵の考察 災事情 の 中 で土 蔵が多 く造 られ、 活用 された。 保存施設 「クラJの 変遷 を追 い なが ら、 耐火性 を持 ち合 わせ た保存施設 「 土 蔵」 の成立、 そ してその 中で行 われた伝統 的 な保 存 につ い て考察 した い 。 2 土 蔵 の考察 2‑1 保 存施設 「クラ」 の語 の 考察 我が国では土蔵 を含む保存施設 を伝統 的に 「クラJと し、今 日の博物館 における収蔵庫 もそ うであるが、あ らゆる倉庫 を 「クラ」 と呼ぶ。字は 「 倉」「 蔵」「 庫Jの 字 を当てる。 いずれの 字 も中国にお ける漢字 としての成立は古 いが、 日本では 「 倉」 を集めた年貢な どを収蔵する施 設、「 蔵」 を貢物な どの収蔵する施設、「 庫」 を武器や兵器 を保管する施設 とい うふ うに使 い分 けて きた。 クラとい う言葉の語源は正確 には不明であるが、川添登 によればこの語 の源は、「 馬 の鞍や、 身分 をしめすクライ、あるい は胡坐などの語が示す ように、元来は、座 を意味する言葉であ り、 岩座 などの言葉か ら考えて、 と くに神 の座 を指す ことが多か ったのではないだろ うか。穀倉が、 クラとよばれたの も、そ こが穀霊 の座せあるとされて、神聖視 されていたか らであろ うJと し てい る。つ ま り稲 を中心 とした穀類 を重要視 して きた 日本人にとって、それ らを保管す るクラ は重要な施設で、このことか らクラは神 の居 る場所 として非常 に重要なもの として考えていた とい うことである。現在で も穀物 を保管 してお くためのクラに、大黒神 などの豊穣神 を祀って い ることがある。 2‑2 日 本 での保存施設 の出現 我国ではまず木を主に用 いたクラが現れた。弥生時代 の高床式倉庫 などがそれであ り、収穫 した穀類 を保存す る目的で作 られた。そのため風通 しが いい ように床が高 く、鼠 の害 を防 ぐた めに 「 鼠返 し」が施 されてい る。現在 も伊豆 ・南西諸島には高床式倉庫の流れをもつ 「 高倉」 が見 られ、そのほか 木造 の クラには 「 板倉」や 「 井籠倉」 な ど現在 も各地 で見 られ る。 「 板 倉Jは 1〜 1.5尺ごとに柱 を建てて、その間に分厚 い板 を落 としこんだ もので、「 井籠倉」は板 をせ いろのように積 み重ねていった ものである。角柱 を隙間無 く建て込んだ 「 角倉Jと い う木 造 のクラもある。同 じく穀類や農具 を収 めるのに使用 した。 このようなクラは今 日まで伝 わる ものであ り、穀類保存や防鼠に有効であるかが理解 で きる。 そ して校倉造 りの正倉院は木造 のクラの代表 であるが、価値ある文物 を良い状態で、千二百 年以上経 った今 日まで守 り伝 えてい る。つ まり木造 のクラで高い水準 のモノの保存がで きるこ とが分かる。そ して木造のクラは、正倉院ほど大規模 なものは例外 として、土蔵 を構 えるより、 あるいは石造 りのクラを構 えるよりもはるかに容易 で安価 に造 ることが可能である。 ただ し、本造 であることは火災 を前にして、 まった く無防備 とい うほど弱 い欠点 も持 つ。 2‑3 火 災に強い保存施設 火災に強 い クラは、石造 り 。煉瓦造 りの ものである。或は、骨組みは木造であって も壁 を泥 土 ・粘土 ・漆喰などで塗れば火災に強 くなる。 石造 り 。煉瓦造 りの建築物 は素材 自体が不燃物であ り、耐熱に優れてい るのはい うまで もな ―‑80‑― 伝 統 的保存 施 設 と して の土 蔵 の 考察 い。 この ような素材 を主 として用 い る建物は、構造 自体が木造 の もの と異なる。積み上げ られ た素材 で出来 た壁その ものが屋根 を支えるものであ り、その ような壁 を耐力壁 とい う。それに 一 対 し伝統的 日本建築 のような木造建築は、校倉造 りなど 部 を除 き梁や柱 などの骨組 みが屋根 ー を支える構造 で、その場合の壁 は非耐力壁 (カーテ ンウォ ル)と い う。土蔵における壁 もこ れに該当する。素材 はもちろん建造物 の強度 として も、非耐力壁 の建造物 よ りも耐力壁 の建造 物 のほ うが強度 もあ って火に強 く、 さらに風雨にも強い。 どちらの技法 も日本 には早 くか ら伝播 していたのであるが、浸透 しなかったようで、本格的 に造 られは じめたのは、明治時代か らである。特 に赤煉瓦は文明開化 の象徴 として もてはやさ れた。クラだけを見 た ときに明治時代 以前では、落雷で炎上 した大阪城 (大坂城)の 焔硝蔵 な どを除いてほとん ど見 られない。石造 りが少ないのは、 まず石 を切 り出 し運 ぶ とい う行為 だけ をとって も費用が莫大なものであったために簡単に行えなかったとい うことは言 うまで もない が、或 い は地震 に関係 があったのではないか とされる。 明治期 か ら入った赤煉瓦 の倉庫群が関 東大震災で激 しく瓦解 した ことは有名 である。 なお穴蔵 は、天丼以外 は土であ ることか らもちろん火に強い施設である。穴蔵 は中世頃か ら 造 られていたが、本格的 に造 られ始めたのは江戸時代 の明暦 の大火以降である。江戸では裏長 屋 の民衆か ら三井などの大店 まで穴蔵 をもった。小沢詠美子によれば、穴蔵は土蔵 と同 じくら いの防火が期待 で き、そ して 「 火事が発生 した場合 にその中に 普段 はカラの状態」 で置 かれ 「 家財道具や金銭 などを入れ、 しっか り蓋 を閉 じて渋紙 を敷 き、その上に砂 をか き降 らせてム ラ の ない ようにし、 よ く踏みつ め、 さらにその上に水分 を含 ませた畳 を一枚敷 き、その真 ん中に 」 とされる。大店 では金庫 として も使用 した例があるが、穴蔵 は基 水 を満杯 にした桶 を置 く。 本的 に火災に備 えた ものであ って、湿度などの問題か ら保存施設 とす るには莫大な工事費用が かか り、土蔵 のように普段か らの保存す るための空間として用 い られたわけではなかった。 2‑4 土 蔵 の成立 まで 木造建築 であ りつつ も火に強い クラにす るためには、壁 に泥土 。粘土 。漆喰な どを塗る必要 がある。 日本 において壁 に土、粘土或 い は漆喰を塗 る行為が いつ始 まったかは不明であるが、 おそ らく飛鳥時代 に伝 わった仏教建築技術か らとされてい る。 もっとも土壁 の耐火性が広 まっ たのは時代が下 ってか らである。 いず れにせ よ古 くか ら日本の文化 の中心 は畿内であ り、中央 の潤沢な資金の下、多 くの社寺や貴族 の住宅 の建築な どがなされ、その技術が全国 に広 まって い くのである。塗籠蔵造 りは平安時代 に京都 で始 まり、それを完成 させたのは江戸 である とさ れる。 土屋」 を設け防 『 延暦交替式』 に、延暦 二年 (783)、 奈良時代 の官営 のクラで ある正倉 に 「 火対策 とせ よとい う記載がある。屋根 まで土 を塗ってい るため、 日本 の伝統的な防災保存施設 の先駆け とされるが、延暦九年にこの方法 をとることをやめるようにとい う記載が現れる。 こ れ らの施工が どのようなものであ ったかは正確 ではない ものの、おそ らく荒壁 のような施工 を していたのであろ う。防火 に期待す ることがで きなかったようで、対策 としてはクラ同士 の間 隔をあけることや水辺 に設置することなどで行 っていた。 明 らかに財産 を火災か ら守 る施設 で館か ら独立 した建物 であるクラ としては、平安末期 ころ ‑81‑ 伝統的保存施設としての上蔵の考察 の蔵書家 で あ った藤原頼 長 ( 1 1 2 0 ‑ 1 1 5 6 ) の 「 文倉」 で あ った とされ 、彼 の 日記 『 台記] いに よ れ ば、 板 に牡蠣 の灰 を塗 り、扉 まで塗 り籠 めて、瓦 を葺 い て い る とい う ことになる。 このほ か に も中世 にお け る防火施設 として は、正 宗竜統 が建仁寺霊泉 院 の傍 に建 てた もの が あ る1 壁 を 五 一六寸 の厚 さに塗った土蔵造 りで 「 四面上下皆土」 の言葉が示す ように今 日の土蔵 に近 い も の とい える。 さらに延慶 2年 (1309)に春 日大社 に奉納 された 『 春 日権現験記』 の なかには京 都 の街中を逃げ惑 う人 と、焼失 して しまったために屋根 の無 い、塗 り籠 め られた 白い壁の構造 物が見え、 この頃には現在で言 う土蔵 にほぼ近い建物が存在 していたことが分かる。 しか しこ ういった耐火性 を持つ保存施設は貴族の中で もそ う広 く用 い られなかったようで、五摂家 の一、 一条兼良の代か ら続 く重要書 3万 物 巻 を蔵書 していた文倉 は応仁 の乱 で焼失 して しまった。そ の うちの瓦 を葺 いて土を塗った壁 をもつ書庫 に入 っていた七百合 の うち百合 は辛 くも焼け残 っ たとい うことが文書 に残 ってい るl 一方で、貴族 のイ 国人的な保存施設以外 をみた ときに、倉庫業 の発達 を述べ な くてはいけない。 平安時代末期頃か ら 「 宋銭」が 日本 にもた らされるようにな り、貨幣経済 も発達 して きた。荘 園に関す る港湾 などで倉庫業が発達 し、鎌倉 ・室町期 には金融業 を営む者が担保物 を保管す る ため、 防火防犯 を意識 した現在 の土蔵のようなクラを築 いたので 「 土倉」 と呼 ばれるようにな る。 この頃は上記 のような有力な貴族や大 きな社寺 など、経済的 に非常 に豊かな層 の更にご く 一部 しか耐火性 を持つ保存施設 「 土蔵」 を持たなかった。 2‑5土 蔵 の火災 に対す る有効性 土蔵が現在 の形に成立 したのは、安土桃 山時代か ら江戸時代 にかけてである。安土桃 山時代 といえば豪奢な城郭 。社寺 などの桃 山建築であるが、土蔵 に関す るような左官 の壁塗 り技術 は 豊かな武士 ・商人の館等 の下に向上 してい ったとされる。例 えば安土桃 山時代 に堺 は住宅の豪 奢が文化 として栄えた町であるが、商人の 日比屋了珪は三 階建ての土蔵 だけではな く、三階建 ての土蔵 も構 えてい る。 民間に移行 して きた とはいえ、土蔵造 りは非常 に費用がかか った。そのため贅沢 の対象 とさ れ、初期の江戸時代 に幕府 はこれを造 ることを禁止 してい る。その一方で世情が安定すると人 口が増加 し、都市部などに人口が集中 し始めると、密集 した家屋立ち並び火事 の要因は増 える。 このように近世 の諸都市 では火災が多発 し、 と くに江戸 では日常化す るほど火事が多か った。 江戸城 の城郭 の一部 も消失 した明暦の大火以降、庶民 は穴蔵 を造 るなどして財産の保存 を目的 に火事 に備 えた ことは前記 した。幕府 の建物 の不燃化 などによる防火措置は徳川吉宗 (在1716 ‑1745)の 治世 になってか らで、享保 五年 (1720)、 それ まで贅沢 を理由に禁上 してい た庶民 の瓦葺 の屋根 ・塗屋造 りや土蔵造 りを防火対策 として許可 した。 これ以降幕府は建物の不燃化 を図る施策 を数 々打 ち出 した。新築 。改築 に関わらず土蔵 を構 えるのには莫大な費用がかか っ たためにす ぐに普及 しなかった ものの、徐 々に広 ま りは じめた。 火事 の多発 した江戸 においてその悲惨 な状況を 「 何棟 の土蔵が焼けた」 として伝 える文書は 土蔵の何棟 が焼 け残 った」な どの数字 は無 く、土蔵が どの程度 の役割 を果 た したか あるが、「 は正確 には定かになってい ない。 しか し土蔵 の耐火性 は信頼が高 く、火事 の際に土蔵 を持たな い民衆 は土蔵持ちに財産を預け、 また彼 ら自身 も土蔵 の中へ避難 した。 また 「 大火事 ノデキッ ―‑82‑― 伝統的保存施設 としての土蔵 の考察 玉滴隠見』 )と 江戸 の庶民 が歌 った よ うに、 ル方 ヲ眺 ム レバ、 タダヌ リダ レノ蔵 ゾ残 レル」 (『 その防火性 は広 く認識 されていたようである。 防火 には土蔵 を構 えるとい う流 れは明治時代 になってか らも続 き、幕府 による規制がな く なったため、黒漆喰 ・鼠漆喰な ど色 つ きの壁 はもちろん細部 も多様 なデザイ ンが本格的になさ れは じめた。例 えば、土蔵造 りの店蔵 の立 ち並 ぶ川越 などは明治二十六年 の火災 のあ と防火を 意識 して出来た ものであ る。だが明治 も後半に差 し掛か ると煉瓦製のクラなど洋風 の ものに押 されて徐 々に造 られることが少な くなってい き、そ して大正 。昭和 と減 り続け、土蔵 よ りも容 ー 易 で安価 でかつ耐火性 も期待 で きる鉄筋 コンクリ トの倉庫 などが主流 になってい き、今 日で は殆 ど新 しく造 られることはな くなって しまってい る。 しか しなが ら、関東大震災後 の写真や、 空襲後 の焼け野原 の写真 などでみえる白い建物、つ まり焼け残 った土蔵 か ら、 日本 の伝統的防 災建築 の技術 の高 さを知る ことが出来る。 3 土 蔵 の特質 蔵 の外部構造 の特質 前述 したように、土蔵の持つその塗 り籠 め られた壁は火災に対 し非常 に有効 であ る。主要な 3‑1 土 ものは柱 と貫 に木舞 を組んでさらに荒縄 を打 つ などしたその上に土 を塗るものであるが、板倉 に上を塗った もの もあ るい は土蔵 ・土蔵造 りな どと呼ぶ場合 もある。なお土蔵 と日本 の伝統的 家屋 の作法 の塗屋造 りとの差は、壁 を更に厚 くしたことと、窓や出入 り口を火の入 らない よう に工夫 した点である。 土居塗 り」 といって上部 も塗 り籠 めて しまうの もその特徴 であ 土蔵 は側面だけではな く、 「 豆腐蔵」な どと呼 ばれる。 いかに火災に強 くとも、素材 る。 この状態 での屋根 の無 い土蔵 は 「 は泥土 ・粘土であるため風雨には弱 い。それを解消するために漆喰上塗 りを施すが、上部 は最 も日に当 り、雨風 にも曝 される部分である。火には強 い ものの、土塗 りである以上、 日に当 り 風雨に曝 される環境 は温度湿度が保 たれに くく、塗 った部分 の劣化 を招 く。そのため屋根 を被 せ るのであるが、屋根の構造的 に 2種 類 に分け られる。 上 げ屋根」「 土蔵 の上部 に台を組み浮かせてい る屋根 を 「 鞘屋根」「 置屋根」な どとい う。 こ れは古 いス タイルの土蔵であ り、近世農村部 の土蔵 はこれが多 い。 この場合 の屋根 は可燃性 の 素材、例えば萱を葺 いてい る場合 も多 くあ る。火事 の際 は屋根 だけ燃 え、万が一上部 に何 らか のひび割 れがあった場合にも屋根 に接触 してい ないので、土蔵内部 に火が侵入 しない仕組みで ある。 また、大風 の時 は屋根 だけ飛 ばされる。一方、土居塗 りした部分 に直接瓦 を葺 くことを 土居葺 きJま た 「 瓦屋根」 と呼 び、 このような土蔵は都市部で多 く見 られる。呼称 には地方 「 によってば らつ きがあ り、例えば群馬県勢多郡旧大間々町では前者 を 「ヤ ロウグラ (野郎蔵)」 、 後者 を 「アゲヤ ネ (上げ屋根)」上 げ屋根 で更 に天丼部 に梁 の ない もの を 「オ ンナグラ (女 蔵)」 と呼 んでい る。 次に壁 であ るが、地面 に近 い部分 は直接 かかる雨水 、上部か ら伝 う雨水 また跳ね返 りの雨水 などで脆 くな るために、「 羽 目板」や瓦 と漆喰 で作 腰巻」 とい う部分 を設 ける。板 を嵌めた 「 る 「 海鼠壁」な どがその代表あ る。羽 目板 は西 日本 の土蔵で比較的に見 ることが出来る。 また ―‑83‑― 伝統的保存施 設 としての土蔵 の考察 板 を焼 いた焼 き板の羽 目板 も存在 す る。海 鼠壁 は雨仕舞 いのための貼 り瓦の一種 であ る。前述 したが、瓦 は非常 に高価 なもので あ り手に入 りに くく、 さらに海鼠壁用 の瓦 は屋根瓦 のように流通 していたわけではな いので、都市部あるいは瓦の産地が近 い場 所 の富裕層が用 いたようである。 また高知 県な ど多雨な場所ではタト 壁に 「 水切 り瓦」 が取 り付 けられ、雨水が同 じところを通 ら ない工夫が されてい る。 こうい った壁 は何 土蔵 の窓扉 (煙返 し) もなされてい ない ものよ りも剥離 などがみ られない。 また、万が一火事 になった場合、 窓扉 や扉 を粘 土や 味噌 で 目塗 りす る ことで完全密 閉 し、内部に火が入 るのを避 けるのであるが、 この場合 窓 に 目塗 りし易 い よ うに工 夫 されて い るものが多 い。 扉、及 び窓扉 は観音 開 きであ り、扉 とその枠 には階段状 の 凹凸 ( 煙返 し) が 見受 け られ、 こ のため 閉時 に密 閉度 を高 め る仕組 み になって い る。 3‑2 土 蔵 の 内部 に どの様 な もの を保存 したか 伝統 的 な土蔵 は三 階建 てが基 本 で あ る。その大 きさは、地域 に よってば らつ きも存在す るが、 桁 行 3 〜 4 間 、梁 間2 . 5 間、 床 面積 が1 0 〜1 5 坪 ( 約3 3 〜4 5 ご) で あ る。 内部 は もちろん木造 り で あ る。気温 は季節 に よってゆ るゆる と変化 し一 定 に保 たれ、 湿度 は約5 5 〜6 0 % で あ る。光が 入 らない ため にモ ノの劣化 を防 ぎ、保存 す るのに非常 に適 して い る空 間 を作 り出す こ とが 可能 で あ る。土 蔵 内部 で も床 に近 い場所 と三 階で は若干 の湿度 に差 が存在 して い る。 後述す るが、 この よ うな差 はモ ノの 配置 に よって解 決 して い る。 中世な どと比べ近世には土蔵が庶民 にも持 てるようになった とはいえ、土蔵 を構 えることが で きたのは商人、豊かな町民、豪農な どある程度の富裕層 であったことは前記 した。 彼 らは土蔵 には主 としていわゆるハ レの 日に使用する食器や、花器、茶道具、刀剣、鎧兜、 掛軸、屏風 、衣類、雛人形、武者人形、鯉登等、普段 の生活 では使用 しない もの を保存 した。 このようなモノは状況に応 じて出され、そ して用が済 むとす ぐに土蔵 の中にしまわれるのが普 通であ った。或 い は、 日常 の生活 に直接使用 しない先祖伝来 のモノを保存 した。使用 しな く なった古 い箪笥、戸棚、行李、衣服 などで、例えば広 島県御調町下山田の小川家 の土蔵には、 何代かまえの花嫁が婚礼 に乗 って きた赤 い座布団の付 いた鞍な どが収蔵 してあったのであるが、 このようなものは価値があ るものの、他 に使用す る場面 は殆 ど無 い とい える。箪笥や戸棚 は土 蔵内を有効活用するために、再利用 された。 土蔵は日常 と非 日常のモ ノで母屋 の生活が混乱 しないためのス トックとしての役割 を果た し ていたといえる。 それ以外の使用頻度の高 い ものは箪笥や、ナ ン ドなどの施設に収蔵 されていた。或 いは米 ・ 味噌 ・漬物 などの普段の生活で使用す るものを保存する施設 として も豊かな家では土蔵 を用 い、 ―‑84‑― 伝 統 的保 存 施設 として の上 蔵 の 考察 この場合 の土蔵は、米蔵、味噌蔵、漬物蔵な どとい う。蔵 を開 く回数が多 く、生活 に密着 して い いるため鍵が無 い場合 も多 い。 このような生活に密接 なクラには使用す る回数が比較的多 食 器 や道具類 を納めてある。用途 としてはナ ン ドに近 い。 また神棚 を設けている場合 もあ る。 日本 の宗教観 として当然土蔵にもカ ミが存在 し、地方差 はあるものの土蔵 に対 して信仰 のようなものが あ る。例 えば東京都世田谷区の旧秋山家 土蔵で 歳徳神」 を祀 っていて、 これ らの カ ミをむやみに移動 しては家 に祟 りがあると は 「 土公神」「 されていた。そのため移築す る際 に祭祀 を行ってい る。土蔵 は近年忘れ去 られ、風雨 に朽 ち果 一 ててい る場合 が多 いが、地方 ごとの民俗 の 端 を知る上 の重要な資料 にもな り得 る。 4 伝 統的保存 の一考察 前述 したが、 日本 の伝統的工芸は収蔵 してお くことこそが基本 であ り、例 えば西洋絵画 のよ うに常に壁 にかけてお くとい う目的で作 られてい ない。そのために、 まず箱 に収め、 さらにク ラに入れる必要がある。先人たちはあ らゆる文物 に対応 した保存 を行って きた。例えば、掛 け 軸 であ るなら、箱に仕舞 う前 に湿度 を調整す る紙 を入れ、次に使 うためを考えて釣上げ紙を巻 き、絵 を傷めない防虫剤 を入れて箱 を閉 じた。虫が付 きやす い木の製品 には鬱金裂や紅絹な ど で大事 に包んで箱 に収 めた。箱 は桐 の ものが最上 とされている。 さらに漆、柿渋、弁柄 などを 木 に塗る ことで防虫 と箱 の乾燥 を防 ぎ、引 いては収め られてい るモノの保存 にも役 に立つ。 一 土蔵の内部 は、床 に近 い部分 は若千湿度が高 い。 階 は漆器類 など湿度の比較的高 い保存 が 必要なものを置 き、二階 には衣類や書画など湿度が低 い保存が望 ましい ものを置 いた。 優 れた保存機能を持 ってい るとい って も、梅雨や気温 が下が り始 める秋 はモノが湿気 を帯び 曝涼」 を行 う。 こうしてモノを乾燥 させ るとと るため、乾 いた 日に、 クラか らモノを出 して 「 一 もに、虫害がないかを確認 した。正倉院の曝涼 は秋 に 度 であるが、土蔵収蔵 のモノの場合 も 同様 で、湿気 の多 い地方では数回行 う場合 もある。 こう してみてみる と、 日本 の伝統的な保存 とい うのは 自然や環境 に逆 らって行 うものではな く、それを上手 く利用 しなが らなされた とい うことが分かる。 こう した取 り組み と環境のなか で、 日本 の伝統的なモノは非常 に良い状態 で今 日まで残 されて きた とい える。 注 (1)川 添登 「日本人と蔵J(『蔵』東京海上火災保険株式会社、1979年) お江戸 の経済事情』 (東京堂出版、2005年) (2)小 沢詠美子 『 (3)山 田幸 一 『もの と人間の文化史45/壁 』 (法政大学出版局、1981年) 同じ (4)注 (3)に (5)『類衆 三代格』 (6)『台記』天養二年四月二 日。 五山文学新集』四) 秘密蔵記」 (『 (7)『禿尾長柄〒』上 「 (8)『筆 のす さび』 (9)『御触書寛保集成』巻二 九、一六五三、享保五年四月二十 日。 ―‑85‑― 伝統的保存施設 としての上蔵 の考察 ⑩ 贅 沢禁止や 身分統制 を目的 とした幕府 による三 階 の禁止 と、庶民の佃 1 の遠 慮が背景 にある。慶 安 二 年 。江戸 「町触」 ( 「 三 階仕 間敷事J ) 、万 治元年大坂 ・ 「 大坂 町中諸法 度並 追加」 ( 三階不可仕 併 身上 二過結構成作事仕 間敷事) な ど。以来 三 階建 てが伝統 的な ものになった とさ れる。 ( 國學 院大 學 大 学 院博 士 課程 前期 ) ―‑86‑― 拓 本 ― そ の歴 史 と技法 (通史編)一 ヽ Vet Rubbing 一―The Histry and Technique一 内川 隆 志 UCHIKAWA Takashi 序 中国古代 に淵源が求 め られ る拓本技法 は、碑 に刻 された銘文 を碑 法 帖 として仕 立 て、学 問伝 道 の 手段 として 中国国内 は もとよ り、広 く東 アジア地域 に伝 え られた。 わが 国 で は、 古 く江戸 の金 石文研 究家 、考証家 に よって利用 され、今 日にお いて も考古学、鏡鑑 な どの金工 資料研 究 一 には欠 くこ との出来 な い 資料化 の 手法 で あ る。 特 に歴 史考古学 の分野 で は鏡 や梵鐘 な どの文 様採拓 は もとよ り、そ こに刻 まれた陽鋳、追刻 の紀年銘 や 図像 を資料化 した り、風化 著 しい石 碑 や板碑 の銘文 な どを解 読す る有効 な手段 として用 い られて い る。 また美術 品、鑑賞対象 とし て も広 く愛玩 されて きた歴 史が あ る。古代 中国 で生 まれ、 わが 国に伝 来 し進化 して きた拓本 は もはや 一 つ の 文化 として根 づ い て い る とい って も過言 で はな く、 この先 人 の残 して くれ た芸 術 文化 、技術 を正 しく伝 える必要性 を感 じる ところであ る。 しか しなが ら、文化財保護 の観点 か ら採拓行為 自体 を汚損 の 原 因 として危 険視す る向 きも強 く、所蔵者が汚損 を気 にす るあ ま り、 頑 なに採拓 を拒 否 され る よ うな事態 も多 々見 られ るの も事実 であ る。 国指定文化財 の採拓 な ど につ いて は文化 財保 護法 第 1 8 4 条第 2 項 に則 って、 予 め文化庁 に現状 変更届 を提 出 し、許可 を 得 る手続 きを取 らねばな らず 、拓本 には被拓物汚損 の危 険性 が つ きまとう ことを認識 してお く 一 必要が あ る。 本論 は、歴 史的、技術 的観点か ら拓本 を今 度再考 し、新 たな視点 で拓本 を見 直 す こ とを 目的 とした もので あ る。 中国 拓本 とは書 の 手本 として碑 法帖 とした折本 を意味す る用語 で あ るが、 今 日で は墨 を もって あ 法 帖譜系 』 には、拓 本 の 文字 が らゆ る器物 か ら写 しとられた紙 資料 を拓本 と総称 して い る。 『 見 えるが揚法 事 揚 な どの用 語 が 一 般 に用 い られ、 わが 国 にお い て も江戸 時代 以来、石揚が拓 本 を示 す言葉 と して普遍 的 に用 い られて きた。拓本 の起 源 につ い て は、 定 かで はない が、後漢 末 の喜平 4 年 ( 1 7 5 ) 茶昌によって造立 された喜平石経 にその起源がある とい う。洛陽の大学 講堂門外 に建 て られた石経は、国家 の権威 によって石 に刻 まれた儒教 の教典 であ り、官蔵流伝 の一形式 で、蔵書の整理 ・校訂 の成果 としての標準 テキス トとしての性格 を有 し、後の経典印 三健石経残巻」 に 「 それ伝拓 の本 を相受け、 隋誌』 の 「 刷 の濫腸 ともい えるもので あ った。『 ―‑87‑― 拓 本 猶秘府 にあ り 。・」 と、 既 に拓本 の技術 が記 されて い る。 唐 の封演 の 『 封氏見 聞記』 に よる と、 「 始皇帝 は繹 山に於 て石 に刻 し功 を紀 したが、 そ の文字 は李斯 の小象 で あ った。後魏 の 太武 帝 が 山に登 って これ を排 倒 せ しめた。 しか し、歴 代 事拓 して以 て楷則 とした。村 人 は 余 りに多 い お偉 方 の ご用命 に悲 鳴 をあ げ て、 石 の 下 に薪 を積 んで 野火 で焚 き壊 して しまった。 この ため 残 欠 は事写 に堪 えぬ よ うになった。 それ に も拘 らず お偉 方 の ご用 命 は絶 えな い。 ます ます行 李 が 拓本 を求 めて登 山 したので、村 人 も村役 人 もす っか り困 じ果 てた。 そ こで県 の長官が古拓 本 を 石碑 には りつ け彫刻せ しめ、 これ を県庁 に置 い て、 御用命 があれば これ を拓 取す るこ ととした。 これで もって山下の村 人、村 役 人 は安堵 した。 現在 まま繹 山の碑 の拓 本 とい うもの を見 るが、 皆新 刻 の碑 の 拓本 で あ る。」 こ とが 記述 され、六 朝 時代 (5〜 6世 紀)複 製法 と しての拓本 が 存在 した こ とが 記録 され る1カ『1日 二 十 二 年、 真徳 遣其弟 回相、伊 賛千金春 唐 書』東夷伝 には 「 秋及其子文王 末朝。詔授春秋 篤特 進、文王篤左 武衛落 軍。春秋 請詣國學 槻 澤奥貧及講論、太 宗 因賜 以所温湯及晉祠碑 井新撰晉書。路掃 國、令三 品以上宴餞 之、優祀 稀 …」 とあ り、貞観22年 (684)に 唐 に朝 貢 した新 羅使 節 の 帰 国 に際 し、太 宗 が 自か らも序 文 を書 い て い る 『 晋書』 と 『 温湯及晉祠 碑 』 を贈呈 して い る ことが 記 されて い る。 温湯 は、 後述 す る とお り現存最古 の紀 年銘 を有す る 『 温泉銘 』 で、 晉祠碑 は山西省 太原 の晋祠 に伝 え られ る晉祠碑 を指 し、状 況か ら 判 断 して碑 の実物 を贈 ったので は な く碑 を拓 し帖 に仕立 てた ものが想定 され る] 法帖 としての拓本が広 まるの は大宗 が王 義 之 の書 を学 ぶ こ とを奨励 した ことに よる。唐 の何 延之の 『 蘭亭記』 には、王 義之 の傑作 『 蘭亭序 』 を入 手 した太 宗 は、 響揚 人 の趙模 、韓道政、 凋承 素、諸葛禎 な どに命 じて複製 を作 らせ た こ とが 記 され て い る。 『 蘭亭序 』 は大 宗 の 死後 共 に昭陵 に埋 葬 され、伝 え られ るの は響揚本 と欧陽詢 や猪 遂 良 の 臨本 で あ り、 これ らが石碑 に仕 立 て られ多 くの 『 蘭亭序』カミ 伝 え られたので あ る。 刻本 と しては宋代 に定武 (河北省定県)に お い て発 見 された 『 定武本』、宋拓 内藤湖南 旧蔵 『 神龍本』、明嘉 八 年頴水 県 の井戸 の 中か ら発 見 された 『 頴水本 』、巻 末 に 開皇 十 三 年 十月 と楷 書 の題記 が あ るこ とに よる 『開皇本』 は、 随 の 開皇年 間 に刻 された もの とされ 最 も古 い。空海 の 『 性 霊 集』巻 四 には、 「 古今 文字 の 讃、右 軍が蘭亭碑 、及 び梵字悉曇等 の書、都 て一 十巻、敢 て以 て奉進す」 とあ り、空海 も蘭亭碑拓 を 持 ち帰 っていた ことが知 られて い る。 前述 した よ うに拓本 は、 書誌学 の研 究 で は漢代 ま で遡 る ものの 、現存 す る最古 の拓本 は、 20世紀初頭 に敦連 の莫高窟 第 17窟蔵経洞 で発 見 された敦燈文 書 の 中 に含 まれ て い た唐 の 太宗 皇 帝 の 「 温 泉銘」 (パ リ国立 図書館)(図 1)、 欧陽詢 の 「 化 度寺碑J断 簡 。 (パ リ国 立 図 書 館 大 英 博 物 館)で あ る。 「 温泉 銘」拓 の 末尾 には 「 永徽 四年 (653八月 園谷府 果穀 児」 の 墨 書 が あ り653年以 前 に採 拓 され た もの で あ る こ とが 知 られて い る。 欧陽詢 の化 度寺碑拓 につ い て は、 書誌学 の観点か ら唐拓 としての蓋然性 が低 い 可能性 が指摘 されて い る。 現在 、西安碑林 第 一 室 に ―‑88‑― 図 ‑1 温 泉銘 拓 本 納 め られ る開成石経 は、 唐 の文宗皇帝李昴 が 国子監 ( 文部大 臣) 鄭 軍 の建議 に よ り、文宗 の 大 和 4 年 ( 8 3 0 年) か ら開成 2 年 ( 8 3 7 年) ま で に支居梅 と陳 王 界 らに よって楷書 で刻 まれた もの ・ ・ ・ であ る。 ここには、 周易 。尚書 ・儀礼 。詩経 ・周礼 ・礼 記 春秋左 氏伝 春秋公羊伝 春秋殻 梁伝 ・論語 ・孝経 ・爾雅 ・孟子 の 十 三 種 の儒教経典 が記 され、刻文 の 内容 は中国の古 い封建制 度 の 道徳 の倫理 で、 これ に したが って官僚 を養成す るのが 当時 の支配者 の 目的 であ り、地理 資 。 。 料 ・民 間詩歌 ・貴族 の冠婚葬祭 の制度 名人 の 問答談話 の収録 歴 史文献 な ど、 数多 くの典籍 の精華 が網羅 されて い る。 この石経 を長安城務本坊 の 中 に置 き、大学生 と文 士 た ちに勉 強 させ、 書写 による誤 りを防 ぐため、碑面 の文字 をその まま写 し取 る拓本技法 が広 く普及す るように なった と考え られてい る。野外 に造立 された碑褐は、永年 に互 る風化や天災 による損壊、亡失 によって原碑 はすでにな く孤本 となって伝承 される唐拓 ・宋拓 は、 と りわけ貴重 なもの となっ てい る。 ・ 中国における碑碍拓本蒐集の歴 史 は古 く、伝来す る古拓碑帖 に加 えられた多数 の題跛 印記 。 。 がその事実 を物語 る。南宋の高官、買以道 ・元 の趙孟順 ・郡文原 ・侃雲林、明の華夏 安国 ・ ・ 。 。 項元ツ ト・王鐸、清 の孫承沢 。安儀周 ・王文治 ・成親王 ・朱葬尊 伊乗綬 何紹基 王理 李宗 石鼓文』 は戦国 渤 な ど各時代 に互 って、 これ らの蒐集家が今 日に守 り継 いで きたのである。『 時代秦中期 の もので初唐 に陳西省鳳翔府天興県南方2 0 里の田野か ら発見 され、流転 の後、1 0 個 の破片 となって北京故宮博物院 に保管 されている。そ こには7 0 0 余字が刻 されていたが、現在 では2 7 2 字のみ を遺 し、伝存す る旧拓 は希少 である、旧拓十種 を蒐 めて十鼓斎 と称 した明代 の 。 。 。 安国の ものが天下の最佳拓本 として周知 されてい る。その うち先鋒本 中権本 後頸本 安国 第三本 の宋拓 4 件 が聴氷閣旧蔵 の所蔵品 となってい る。先鋒本 は大正1 0 年 ( 1 9 2 1 ) 三井高堅が で購入 した ものであ る。 さらに、三井記念美術館所蔵 の聴氷閣旧蔵の碑法帖 に含 まれ 42,000円 る祐遂 良 ・孟法 師碑 (図 2)は 、清代 の蒐集家、李宗渤 の 「 李 )の 氏 四宝」 一 つ で あ る。 本碑 は、北宋 末期 に長安 の 国子監 (大 学)に 在 っ た と い わ れ るが、 そ の 後 亡 失 し、:清の 道 光 3年 (1823)李宗渤 が孤本 を入手 す る ところ となった。帖首 に清 朝 帖学 の雄 、王文治 ・王 河 の 内題答並 びに李宗渤 の題字が あ り、 帖後 に王世 貞 。王世恋 ・王河 ・王 文治 ・陸恭 ・李宗渤 ら名家 の 諸跛 が加 え られて い る。帖 中に は、 明 の画家 陳道復 の鑑蔵 Fp、 元 明間 の諸家 の1又 蔵 を経 て 明代末期 に黄熊が収蔵 し、曹縄 武 の 入 手 す る と こ ろ と な り清 代 に な っ て 李 宗 渤 に、大 正 1 3 年 ( 1 9 2 4 ) 三井高 堅 の 入手す る ところ となった。 わが 国に伝 存す る宋拓 は1 0 0 件を越 える。 『 宋拓華厳経』 な ど室 町頃 に将来 され た もの も知 られ るが、そ の 多 くは近 代 以 降 に蒐 集 され、殊 に 1 9 1 1 年よ り勃発 した辛亥革命 に よる 中国国内 の混乱 に よって、 多 くの名帖 が 国外 に放 出 された状況下 で購入 された もの が多 い 。 拓 本技術 の 点か らその変遷 を見 てみ る と、 温泉銘 に代 表 され る莫高窟第 1 7 窟蔵経洞 出土 の唐拓 は、す で に完成 された湿拓法 ―‑89‑― 図‑2 孟 法師碑 『 聴氷閣旧 蔵碑拓名帖撰』所載、部分 拓 本 で上 紙 され擦拓 法 で上 墨 されて い る。 擦拓 とは、 表面 の平滑 な碑 文 な どの拓本 に適 し、 対象物 に水 で湿 らした紙 を上紙 し、木 の棒 に巻 い た墨 を染 み こ ませ た毛 能 で 表面 を擦 る技 法 で あ り、 唐 時代 には確 立 し、以 降拓本 の基本技 法 として清 末民 国時代 まで続 い た。 しか し、 今 日中国 に お い て も正 しい擦拓技 法 を伝 習す る者 はほ とん ど無 く、 日本 と同 じ く拓包 を使 った撲拓 が 一 般 的 な方 法 とな ってい る。 碑褐拓 を中心 に発達 した拓 本 も清代 には、様 々 な技 法 を駆使す る者が現 れた。 清 末 の著名 な 金石 蒐蔵家 で拓 本 の 名手、 陳介祓 (字は寿卿)は 、 多 くの青銅器 をは じめ とす る文物 を蔵 し、 中で も 『 毛公鼎 』 を第 一 と し数 千 の三 代 や秦 漢 の古 印 は特 に知 られていた。 2 8 歳の時、陳西蘇兆年か ら求 めた漢代 の鐙皿 の全形拓、 『 小楷題記』 に名手 としての技量が 見て とれる ( 図3 ) 。 著書 には、彼が 自らの経験 に基 づいて青銅器等 の採拓 を詳述 した 『 伝古 別録』などがある。達受 ( 1 7 9 1 〜 1 8 5 8 ) は、字 を六舟、俗姓 を銚氏 と名乗 り古器碑版の鑑 別 に 金石僧」 と呼 ばれた。古代青銅器の全 形拓 を採 ることに巧 みで、 『 精 しく 「 六 舟手拓銅器拓 (註11) 本』には程木庵所蔵の銅器 を全形拓 に仕上 げ、題記 を付 し、その後に当時の金石家 の跛文 ・題 記 。肖像画 な どを加 えて い る (図 4)。 巻末 には陳介棋 の跛文が寄せ られて い る。穎拓 (韻 拓)は 、清代末期の〃ヒ 1930)が 、絵画技 法 の 白描双鉤法 と書法 の双鉤填墨法 を合 わ 華 (1878〜 せて考案 した もので、禿筆 と濃墨 を用 いて実際に拓 したように文字や絵画 を創作する技法であ る。実際には拓本ではないが、拓本技法か ら派生 した絵画技 法 として認識 してお きたい。 難 酔 紺紺 一 ま鶴 一 ″ 一 打一 鷲 = 一″ 一¨ ウ 絆︐ 一一 一 一 i薔 書 :::│:│‖ ││:│‡ ││‡ :薔 │:│‡ ljl:1,薔 ‡ 薔 ‡ 薔 薔 縦│ 樗 ││ 露 露 孟 詈 i3)震 孵摯幣 寝 1幕 フ =暮プ 零 鰊 図‑3 陳 介祓 ・鐙皿の全形拓 沸墨春秋』所載、部分 『 図 ‑4 達 受 ・古代青銅器 の全 形拓 『 滸墨春秋 』所載 、部分 ―‑90‑― 拓 本 日本 わが国 に拓 本 が将来 された時期 は定かで はな いが、先 に記 した とお り空海 の蘭亭碑 拓 以外 に、 喪乱 唐 との交流 の 中 で 奈 良時代 に将 来 され た宮 内庁 三 の 丸 尚蔵館 蔵、 王 義 之 の 双釣 填 墨本 『 孔侍 中帖』 な どが 現存 す る よ うに、恐 らく多数 の拓本類 が もた らされ 帖』 や前 田育徳 会蔵 の 『 た はず で あ る。前述 した とお り貞観 2 2 年 ( 6 8 4 ) 唐に朝 貢 した新 羅使 節 の 帰 国 に際 し、大宗 が 温湯及晉祠碑』 を贈呈 してい る点な どか らして も、遣唐使節が拓本文化 に触れた 『 晋書』 と 『 蓋然性 は高 い もの と思われるが、拓技 をもの に した ものは存在 してい ない ようである。先学が 元亨 指摘す るように採拓 を記 した最初 の例 として、元享 2 年 ( 1 3 2 2 ) 成立の国師虎関師錬著 『 義空伝」 をあげる。すなわち、朝皇太后橘氏 は、黄金宝物 を慧専 に托 し最上 の禅 釈書』巻六 「 宗 をわが国に伝 えるべ く杭州霊池院斎安國師 に参謁 させた。その 旨を聞入 れた斎安國師 は、上 首 の義空を遣わ した。義空は、慧専 と共に太宰府 に到着 した後、東寺西院 に住 し、 さらに太后 は義空 のために檀林寺 を建立 し庇護 し、人 々はその教えを乞 うたのである。再度入唐 した慧専 は、蘇州開元寺 の沙門契元 に乞 い、その法要 を書 き記 しこれを坑淡 ( 婉淡 は、文章を金石に刻 ・ 記すを云ふ) に 刻み、題号 「日本国首博禅宗記」 して船 に乗せて将来 した。内容は、慧専 義 嵯峨代 間繹名慧専奉 皇太后命渡 空 の徳 に触れた もので、次 の如 きものであ った事 を伝 える。「 海求法堕官斎安國師使繹義空倶以婦朝后檀林蘭若虎之後半再返於彼土刻石以為豊碑詳記其事婦 置本朝題 曰日本国首博禅宗記然綿歴歳月寝而不俸J こ の碑文 は、東寺羅城門の側 に建 っていた が、永詐元年 ( 9 8 9 ) の大風 によって倒壊 した羅城門 と共 に破損 した事実 を記 し、 さらに当時 にあって東寺講堂東南隅 に見在す る ことを知 り、虎関師錬 自ら採拓す るのである。 故老伝 えて曰 く、此義空の事 を、文字に離付 たる碑 こそ、そのかみ羅城門の側 に、峙 てあ 一 りしが、門檻 の倒伏 ぬる時、その碑 も、 度に倅 しな り、今 に於て も其碑 は、東寺講堂東南 の隅に、見在せ るな り、賛曰 く、予碑刻 を求 むるに無 し、乃 ち東寺 に如ひて親 ら之模印す、 其碑破 れて存する者四片、大なるもの二尺余 り、小 さき者尺 に盈たず、額 の左右 の幡龍偉如 た り也、頭角完 か らず と雖 も、鱗甲燦然 た り、其 の文 の残欠、句読成 らず、而 も其 の字画 の 存ず る者、亦甚だ鮮明な り、妙筆 に非ず と雖 も頗 る楷正 と為す、予便 ち四片の者 を印 して帰 へ る、之を上にし、之 を下にし、之を左 にし、之を右 にす、百計票J 閲、少 し明 きらめつ可 な り、世言 う、橘后 の密法 を弘法に問ふ、法盛んに之構す、后 曰 く、更 に法 の之に邁 ぎたる者 有 りや、法 曰 く、大唐 に仏心宗有 り、是 れ達磨の伝 え来る所也、熾 に彼地に行す、空海又少 し之 を聞 くと雖 も、之耳究む るに暇 い とま未ず、姦 に因て后 して専 を霊池に抑問使 しむ、今 一 一 碑文句成 らず と雖 も、斑斑或は見ゆ、世 の伝 ふる所徒然不ず な り、昔、六 居士 に集古録 千篇有 り、周秦 の碑刻之多 く載す、況や隋唐 おや、惜 しいかな、此方 に古 を好む君子に乏 し、 今猶碑 の全 文 を見ず、此書 を修す るに因て残碑 を見 る、予 が之の賛詞跛尾 に得 ざるを得ず ( 以下略、原漢文) とある。四片 になった残碑 を記録 した 「 模印」 とは、すなわち拓本の ことであ ろ う。 1 8 世紀 になると、拓本 を金石文研究 に生か した学者 も数多 く輩出 した。 1 7 9 7 ) は、京都仏光寺中の坊 の院家久遠院主の子 として生 まれ、1 1 歳で得 藤原貞幹 ( 1 7 3 2 〜 度す るが、1 8 歳で還俗。和歌 は 日野資枝、有職故実 は高橋宗直 ( 図南) 、書 は持明院宗時に、 ‑91‑ 拓 本 儒 学 を後 藤 芝 山、 柴 野 栗 山 に 学 ぶ 。 そ の 後 市 井 の 一 町 人 学 者 と して、歴 史 。古 記 録 。有 職 故 実 。金石 。古 瓦 ・古 器 物 ・貨 泉 ・度 量 な ど様 々 な分 野 の 考 証 を行 い 、多 大 な る業績 を挙 げ た 一 方 で、 没 後 は、 贋 作 家 と して 芳 し くな い 評価 を受 け て い る。 中 で も天 明元 年 ( 1 7 8 1 ) に 出 した 『 衝口発』に対す る本居宣長 の 『 鉗狂人』は徹底 した論駁 であった。学者 としての功名 を得 ん がため証拠 として採用 した 「 或る記」や 『日本決釈』などの偽書 を捏造 し、 さらに 『 古瓦譜』 ( 図5 ) に 所載 された古瓦 の拓本にも偽造 された ものを所載するなど偽証が 目的化 してい ると 言 って も過言ではない: 同 時代 を生 きた西洋 にも知 られた コ レク トマニ ア、難波 の木村兼蔑堂 や近江の石 の長者、木内石亭などとの親交 の中で学者 として高 まるプライ ドと生来 の好古趣味 が高 じた結果であろ うと推定 される。 しか し、一方 では高 い美的感性 を持 った人物であったこ とが窺 える。 貞幹 の手に よる軸に仕立て られた拓本 ( 図6 ) を 見ればその感性 と技術が偲ばれ よう。 1820)は 、上 州 に生 まれ、林 述 斎 お よび 柴 野 栗 山 に 師事、寛 政11年 市 河 寛 斎 (1749〜 (1799)、 書塾小 山林堂 を開設。その後、富 山藩、加賀藩 に仕 えた。数千人 もの 門人をもち、 ・ 巻菱湖 貫名海屋 とともに幕末三筆 と呼 ばれた。 また、渡辺華山や頼 山陽 と親交があった。詩 に最 も長 じ、江戸 の詩風 を一変 させた事 で名高 い。著書 に 『日本詩紀 』 。『 全唐詩逸』な どが 。 あ り、特 に 『 金石摺本考』 『 金石私志』は、 日本各地 を跛渉 し、金石文 を採拓、考証 を加 え た大著である。明治初年に台風 による被害で一部が欠失 した山形県立石寺 (山寺)の 如法経所 碑 は、文化年間に寛斎が採拓 した原拓 (図7)が 東京国立博物館 に所蔵 されていたことによっ て、欠損部分が判読 で きた例は、古拓が今 日の金石文研究に益 した代表的なものである『 1829)編 纂 による 『 松平定信 (1758〜 集古十種』は、全国の神社仏閣や諸家に伝 わる名品を 模写蒐集 した、工芸分類図鑑 として名高 い。屋代弘 賢 ・柴野栗山 ・書写は谷文晃 。大野泉祐 。 僧 白雲達 らに古書画 ・古物器 を国内各地に調査 させ、所在地 。材料 ・法量 ・特色 を記録 し模写 艤鬱 一 は一 図‑5『 図‑6 古 古瓦譜』部分 ―‑92‑― 瓦 の軸 部 分 ( 個人蔵 ) 拓 本 ・鐘銘部 ・兵 させ た。 この作業 に よって蒐集 された資料 は、本版 に彫 られ刊行 された。碑 銘部 ・扁 額 部 。肖像 ・ ・ ・ ・ 。 ・ 器 部 ( 甲冑 。施 旗 弓 矢 刀 剣 馬 具) ・銅 器 物 楽 器 物 文 房 具 印 章 部 。 ・ ・ か らな る書籍 に 部 。古書 画 部 ( 名物古 画 牧 渓玉瀾 八 景 七祖 賛 法帳) の 1 0 種1 7 部1 , 8 5 9 点 ・ は、各 々実測 図形式 が とられ、実物 を正確 に写 して い る。 また、碑 銘 に分類 され る佛足石 図 で きる。 い の 佛足石前面 刻文 ( 図 8 ) 。 多賀城碑 の よ うに拓本 に よって記録 され て る も も確認 1 8 3 5 ) は 、江戸下谷池 之端 の書卑青裳 堂 で生 まれ、津軽藩 の御用商人狩谷 狩谷液斎 ( 1 7 7 5 〜 の 氏 の養子 となる。松 崎慄 堂 に学 び、綿密 な学風 を もって 日本古代 文化 の研 究、 と くに制度 考 註和 名 証 につ とめた。和書漢籍 の 善本 の 蒐集 、考古遺 品 の集蔵 の面 で も有名 だ った。主著 に 『 古京遺文』 は金石研究 の集大成 として全 類衆砂』『日本霊異記孜証』 などがあ り、なかで も 『 国各地に遺 された諸工芸、碑文な どを採拓 し詳細 に考証 してい る ( 図9 ) 。 1 8 3 5 ) は、藩儒 の井上周徳 の学僕 とな り、後 に江 福 岡 に生 まれた国学者、青柳種信 ( 1 7 6 6 〜 戸 に出仕 し、井戸南山に儒学 を学んだ。寛政元年 ( 1 7 8 9 ) 江戸 か らの下向の途中、伊勢 の本居 宣長 を訪ね同人に入門、やがてそ の弟子 となって研鑽 を重ね文化1 1 年 ( 1 8 1 4 ) には、「国学家 業城代組」 とな り御右筆記録方 にな り十三石四人扶持 の切米 を給せ られた。貝原益軒手 になる 宗像宮略 筑前続風土記拾遺』の編纂 をは じめ 『 ところの地誌 『 筑前風 土記』 の補完書 であ る 『 後漢 香椎廟宮記』 などの郷土誌な ど多数 の著作 をものにした。考古学的 な書物 では、 『 記』 ・『 金印考』 ・『 和 同開跡銭型記』 な どが知 られ、中で も三雲南小路遺跡、井原鑓溝 遺跡 の説明 と 柳 園古器略考』な どは、遺跡 を考証、考 出土遺物 について実測図 と拓本 ( 図1 0 ) で 詳述 した 『 :16) (語 古遺物 を採拓 し学 問的視 点 で 記録 に残 した事例 として極 めて高 く評価 す べ きもので あ る。 さて、18世紀後半 にあ って、 当時 の拓本技術 に関 して詳述 した もの に賀茂真淵 の 門人 で あ る 村 田春海 (1746〜1811)の 随筆 が 知 られて ぃ る。 春海 は、江 戸 の干鰯 問屋 に生 れ、幕府連歌 師 の坂 昌周 の養子 となる。 後 に本家 を相続 したが 身代 を傾 け、 隠居後 は風雅 を事 とした。 漢籍 を 服 部 白貢 に、 国典 を賀茂真 淵 に学 び江戸派歌人 の領袖 として名 を馳せ、松 平定信 の 寵遇 を受 け た。 著書 『 打碑 の法」 には、拓本技術 につ い てその具体 的 な方法 につ い 織錦 舎随筆』所収 の 「 て記 されて い る。 ○打碑 の法 最初板 の上 を、本綿 へ 少 し油 をつ け てぬ ぐひ、 さて紙 へ 水 をうす く引、水 引 きた る方 を板 につ け て は るな り。 さて ふ の りをはけ につ け て、 其 上 をむ らな くひ き、 い と うす きれ をあ て ゝ、はけにて上 よ りうち、 また其 きれをとりてただちにもうち、 いかにもよく文字 を打 い る ゝな り。 さてなまなまに干 したる時、玉壱 つ に筆 にて墨 をつ け、 い まひとつの玉 と打合 て うつ な り、 これを蝉翅揚、蝉翼摺な どいふ な り。墨 はあまり濃か らぬを、少 しつ ゝけて幾度 も打つが よろ し。此法 にて打 ちたる唐本 に、 い とうす きもあ り。 また鳥金摺 のごと く濃 きも あ り、 うす くな さんには墨をうす くす り、少 しづ ゝつ けて うす墨 を幾度 もうつ し濃 くなさん にも、墨 を少 しづ ゝ幾度 も打べ し。すべ て急 になさん とすれ ば、字 の うち墨 い りてあ し ゝ、 さて前 にいへ るふの りは、茶碗 に水二杯 ほどならば、ふの り二寸三歩四歩 ほど入れてよく煎 じて、す いの にて こ して用るな り。 はけは毛つ よきが よし。はけわろき時は字 い りがた し。 玉は大 さわた り二寸内外 ほどなるニ ツ用 るな り。 うちにまろき板 を入、其上にわたをお き、 ―‑93‑一 拓 本 沸足″ま す 衝刻え 図 ‑7 如 法経所碑 (立石寺 ) 『 拓本入門事典』所 載 図 ‑8 佛 足石図 ・佛足石前面刻文 『 集古十種』碑銘一所載 ││││:│││││:1111,11:││││││││││││││││││││1111111111:│:││││̀│││││'││││:│││││:│: 図 ‑ 9 多 賀城碑 拓 『 古京遺文』所載 図‑10『 柳園古器略考』井原鑓溝出土鏡拓 路載 ―‑94‑― 拓 本 つ つ 其 上 をあ ぶ ら紙 にて つ ヽみ、 さて地 の 糸 の め の あ らき木綿 にて上 をつ み、 そ れ に墨 を く 一 るな り。其 木 綿 の め に む らあれ ば わ ろ し、 地 を え らむ べ し、 度 用 ひた る玉 をか さね て 用 ゐ る時 は、 は じめ はた ゞ水 にばか り少 し筆 にて しめ して うつ べ し。 そ れ にて墨 の つ きか た まれ るが と くるな り。 さて其後墨 をつ け て用 べ し。 さて又紙 は こ う らい、唐 紙、 白紙 な どをよ し とす。す べ て うす くつ よ き紙 よろ し。紙 のほ しや う、蝉翅 は まなび、烏金 は よ くか はか す な り。鳥 金摺 にな さんには、 ふの りを用 る所 を水 にか はを用 るな り。 さて よ くか は きた る上 に てわた をまろ くな し、 それ に墨 の濃 をつ け て、 手 に もちて字 の横 よ りす るな り。又 もめんに 一 わた をつつ みて もよ しと。す りあげ た る時、甚少 し蝋 を きれ につ ゝみて、 通 りの紙 の上 を なづ るな り。又す りた る後 にか び を出 さんには、す りあげ て い まだか はか ぬ うち に蝋 を少 し ぬ るな り。 か び を出す は蝉翅 にて も同 じ。 また唐 本 に鳥金 をたて にす りた る も り。 こは韓大 年数年 の工 夫 を もて制 し出 した る法也。 この 一 文 に は、 当時 の 拓 本技 法 が よ く記 され てお り、興 味深 い 。例 えば図解 され て い る拓 包 (図11)の 製作技法 に よれ ば、 丸 い板 目の上 に綿 を置 き、そ の上 を油紙 で包 み 目の粗 い木綿 で 包 んで作 る とあ る。油墨 の無 か った 当時 の拓墨 は墨汁が主流 で あ るため、余分 な墨 を布 に吸 わ せ な い工 夫 が な された拓包 の作 り方 であ る。実際 の採拓 につ いて は、蝉翅拓 には布 海苔 の煎 じ 汁 を用 い 、鳥金拓 には水 膠 を用 い て上 紙 し、良 く乾 か して文字 の横 か ら摺 り上 げ て上墨 し、 さ らに摺 り上 げ た後 に蝋 を もって紙 の上 か らなぞ る こ とで徽 の発 生 を予 防す る ことが 記 されて い る。 この 記述 は、墨止拓包 を用 い た墨 汁 に よる採拓 が普遍 的 であった事 を示 して い る。 文 中 にみ られ る拓本技法 を工夫 した韓大年 (通称 中川精 三 郎 1727〜1795)と は、松坂 中町、 岡寺 山継松 寺横 にあ った両替業 田丸屋 の主 人であ り、江戸 時代 を代 表す る書家、画家 で あ る。 ・ 池大雅、高芙蓉 らと親交 し、 不惑 を過 ぎて書 の研 究 に専念、 二 王 (王義子 王 献子)の 遺風 を 慕 い 、 中国か ら渡来 した墨帖 を集 めその覆 刻 に努力 し、 岡寺版 と知 られ る墨 帖 を刊行、墨帖 出 宝暦 咄 し』 に 「中川長 四郎、手 を能書 天寿 と世 間へ 名 を上 た る人、 版 の新 しい技術 を開発 した 『 息子蔵 三 郎是 も後 は大雅堂のあ とを受、 陳明 とや ら世 間へ 名 を上 た り、 町人 の そ なへ には入 ら ぬ事 、身上 は百分 一 とな りた り、是 もお ご りの うち也」 と記 されて い る よ うに書画 に没頭す る 余 り財産 が無 くな って しまったのであ る。 魚拓 の創始 直接対象物 に墨 を付 け て採拓す る魚拓 は、大正 時代 頃か ら釣 り人 の 間 で採 られ る よ うになった と言 われて い るが、 そ の歴 史 は以 外 に古 く、江戸時代後期 に遡 る。 「 勝負絵 図」 と 摺形」 。 「 呼 ばれた魚拓 を軸 な どに仕 立 て釣果 の 記念 とした もので 、そ の 始 ま りと考 え られ る魚拓 は庄 内地方 に伝 わ る。 日光廟修復 費用 三 万両 を幕府 に献納 した功績 に よって江 戸城溜 間詰格 となった 1 8 5 4 ) 、あ る い は そ の 子 忠 発 庄 内藩 主 十代 酒 井 忠 器 (1790〜 図‑11 拓 包 『 織錦舎随筆』 『日本随筆大成』 第一期 5所 載 ( 1 8 1 2 〜1 8 7 6 ) が 、天保 十年 ( 1 8 3 9 ) 二月 に江 戸錦糸堀 で釣 り 上 げ た鮒 の魚拓 ( 図1 2 ) で あ る。 鶴 岡市 に所 在す る致道博物館 の展示解説文 に も明記 されて い る とお り、魚 に上紙 した後 、拓 ‑95‑― 拓 本 ヽ ● 澪 て採拓 されて い るこ とが 理解 で ― │ きる。庄 内藩 で は、 延竿 の庄 内 ■ 札= t機 包 で上 墨 した所 謂 間接 法 に よっ 1鷺 ヽ ト 竿 に代表 され るご と く磯釣 りが 古 くか ら武芸 の 一 つ として位置 づ け られてお り、広 く武士 階級 │ 全体 に行 き渡 っていた。宝永 4 1 年 (1707)、 温 海 組 大 庄 屋 、本 │ 間八 郎兵衛 の覚書 きで、松 山藩 │ の 藩主が温海 に湯 治 の折、釣 り を楽 しんだ こ とを晴矢 として、 図 ‑12 錦 糸堀 の鮒 の魚 拓 、鶴 岡郷土資料館 蔵 享保 元年 (1716)庄内藩藩士豊原重軌 の 日記 『 流年記』 に記 された釣 り三 味 の 日々 の記述 な ど に も認 め られ る よ うに、年 を追 って 藩内 で磯釣 りが盛 ん となって ゆ く。忠器 は まさに磯 釣 りを 武道 と同様 に 「 釣道」 と して位 置 づ けた人物 で あ り、釣果 の記録、 まさに獲物 の大 きさを競 う 「 勝負絵 図」 として この地 にお い て魚拓 の技術 も発達 した こ とが 窺 える。 近代 以 降 の拓 本 近代 にお い て、金 石文研 究 の 中 での拓本 の重要性 を語 るため には、 と りもなお さず好 太王碑 と酒匂 影信 を取 りあげねばなるまい。言 うまで もな く好太王碑 とは、 高句麗 第 19代好太王 (在 位 391〜412)死 後 2年 目の414年、第20代長 寿 王 の 手 で王 の 功績 を称 え造 立 され た顕 彰碑 で あ る。 明治 13年 (1880)に発見 され、 明治 15年 (1882)頃、大 日本 帝 国陸軍砲 兵大尉 酒匂 影信 は、 一 辺数十 セ ンチ ほ どの に、 紙 数文字 か ら十 数文字 を表 した碑 文 の 墨水 廓填 本 131枚一 式 を入手、 明治 16年 (1883)日本 へ 持 ち帰 り、 これ を明治23年 (1890)帝室博物館 に納 めた もので あ る。 酒匂 が入 手 した墨 水廓填本 は、碑 面か ら直接採択 した原 石拓本 を原版 として、 それ を淡墨 に よ る点描 ふ うの細密 な筆使 い で 原版 に被 せ た別紙 に写 し取 り、 そ の後 に荒 い筆致 の濃墨 で字画 を なぞ り、文字 の周 囲 を墨 汁 で塗 りつ ぶ して拓 本 の よ うな体 裁 に仕 立 てた もので あ る。 このため 、 黒地 に自字が鮮 明 に浮か び あが り読みやす い 。 さ らに彼 が 持 ち帰 った墨 水廓填本 を臨 写 した も の と推 定 されて い る資料 が あ り、墨水廓填本 を比較 的忠実 に写 した文字 と、 楷書風 に表 した文 字が見 られ複 数 の手 に よって 臨写 されて い る。 明治前半 に もた らされた一枚 の拓本 が、東 アジ アの古 代 史 の なかで今 日に至 って もなお議論 の 的 となってお り、金石 文研 究 にお け る拓 本資料 の奥深 さを感 じず には い られ な い。 わが 国 にお け る近 代 考 古学 の父 、Eo S。 モ ー ス に よって 明治 12年 (1879)に 出版 され た大 森 貝塚 の発掘調査報告 で あ る 『 大森介墟古物編 』 で は、 縄 文土器 を細密 な ス ケ ッチで描写す る 実測 の技 法 が 採 られた。 東京大学 人類 学教室 の坪 井 正五 郎 に よって主 催 された東 京 人類学会、 集古 会 の機 関誌 に も拓本類 が多数所 載 され るが、 多 くは、江 戸時代 と何 ら変 わ らぬ 金 石 、碑銘 が主 た る もので あ る。 さ らに湖 る可 能性 はあ るが、 管 見で はモ ー ス以 降 の近代 考古学 の 中 で 考 古遺物 の実測や遺構 の記録 に拓本 を用 い る よ うになるの は明治 の 中期 以 降か らで、その晴矢 は 朝鮮 出土 の上 器片 を拓本 で示 した若林勝邦 に よる報告 で あ る。拓 本 に よる記録が考古学 の学術 ―‑96‑― 拓 本 報告 の中で 一 般 的 とな るの は、 京都 大 学 に就任 した濱 田耕 作 博 士 に よって、大 正 5 年 (1916) に考古 学教 室 が置 か れ、 熊 本 県 な どで 本 格 的 な学 術 調 査 を軌 道 に乗 せ て以 降 とな る。 大 正 6 年 肥 後 に於 け る装 飾 あ る古墳 及 ( 1 9 1 7 ) 京都 帝 國大學 文學 部 考 古學 研 究報 告 と して 出版 され た 『 一 横 穴 』1 こは、 井寺 古墳 石 室榔 壁 彫 刻 拓 本 、 大村 及京 ケ峯横 穴 装飾 彫 刻 拓 本 ( 図1 3 ) や 今 日 般 河 内 國府 石 的 で あ る土 器 片 の 拓 本 に 断面 を並 列 させ る方 法 で 縄 文 土器 片 ( 図1 4 ) を 掲 載 した 『 (.119) 図 ‑ 1 3 井 寺古墳石 室椰壁彫刻拓本 ( 左) 。大村及京ケ峯横 穴装飾彫刻拓本 所載 │ 壽ユ│■議=1第 ││■│││││■ ││■蘇琴1撃レ●罐攣■1興甲1筆 1融纂工1紋 ‑14 河 図 内國府石器時代遺跡縄文土器拓影 所載 図 ‑15 縄 文土器 の拓本 『日本原始繊維 工 藝史原始編』所載 ―‑97‑― 拓 本 器時代遺跡発掘報告』などによって考古学 の学術報告 に拓本が多用 されるようになった。昭和 になって、 山内清男博士による縄文原体の発見後、飛躍的に進んだ縄文土器研究 の中で、展開 図な どを積極的 に取 り入れた大山柏や、特 に異彩 を放ったのが杉 山壽榮男 による原始繊維 の研 究である。杉 山は、縄文土器 などの原始工芸 としての繊維 の説明に多数 の拓本 を採 って研究 を ( 註2 1 ) 進め、中で も立体的な縄文土器 の全体拓や展開拓本 など新 たな手法 を考案 した ( 図1 5 ) 。つ ま り、縄文土器 の文様 を説明するには何 よ りも拓本が有効である ことを示 したのである。 金石文研究の中で、拓本その もの を技術 的な視点か らいち早 く研究対象 としたのが篠 崎四郎 である。篠 崎 は、大正末年頃か ら帝室博物館へ 出入 りし後藤守一や石田茂作 とい った歴 史考古 学 の重鎮達の指導に よって拓本技術 を会得 し、金石文研究に没頭 した。昭和 9 年 ( 1 9 3 4 ) には 2)を 考古学会 の長老であった柴田常恵 の序文には じまる拓本 の専 門書 『 拓本 と金石文の話』 上梓、 中で も長年の経験か ら上墨に最適な 「 篠崎墨」 とい うチ ュー ブ入 りの練 り墨を考案 したことに よって、斯界 に名 を駆せたのである。篠崎はその後 も拓本に関する多数 の著述 をものにしてお り、金石文研究における拓本の泰斗 として位置づ け られ よう。 (2) 註 一 工藤 郎 2 0 0 7 『 中国 の 図書情報文化史』 つ げ書房新社 p p . 5 4 〜 5 5 馬子雲 薮 田嘉 一郎訳 1 9 7 7 『 拓本 の作 り方』綜芸舎 p p . 1 5 〜 1 6 (3) 二松 学舎大学東 アジア学術総合研 究所集刊』第3 6 集 二 松学 伊藤滋 2 0 0 6 「 書道 と碑 法帖」 『 (1) 会大学東 アジア学術総合研究所 p p . 1 7 3 (4) 主(4) pp.172 日 (5) 内田弘慈 1 9 9 2 『 拓本 のすす め』国書干U 行会 p p . 1 6 (6) 角井博 1 9 9 8 「 聴氷 閣旧蔵 の碑法帖 につい て」 『 三 井記念美術館蔵品図録 聴 氷 閣旧蔵碑拓名帖 撰新 町三井家』 三井記念美術館 p p . 8 ( 7 ) 樋 ロー 貫 1 9 9 8 「 三 井高堅 と聴氷 閣拓本 コ レクシ ョンの形成」 『 三 井記念美術館蔵 品図録 聴 氷 閣旧蔵碑拓名帖撰新 町三 井家』 三 井記念美術館 p p . 1 1 0 ( 8 ) 丁 道護 。啓法寺碑、虞世南 。孔子廟堂碑、祐遂良 。孟法師碑、魏栖 梧 ・善才寺碑 の 四件 を指 し、 そ の全 てがわが 国に将来 されて い る。丁道 護 。啓法寺碑以外 は、聴氷 と号 した新町家九代 三 井高 堅 ( 1 8 6 7 〜1 9 8 6 ) の 蒐集 によ り、 三井記念美術館蔵 品 となっている。 (9)註 (4)pp.173〜 174 ⑩ 伊 藤滋編著 2002『 瀞墨春秋』 pp.216所載 (11) 主 言 (11) pp.69 ⑫ 註 (3)pp.5〜 6 1131 根 曽正人 2002『 続神道大系論説編元亨釈書和解 (一)』 神道大系編纂会 pp.357〜359 114)阪本是丸 2005「 好古へ の情熱 と逸脱 宣 長を怒 らせた男 ・藤貞幹」春季公開学術講演 『近世 学問を検証す る 近 代 ヨー ロ ッパ Archaeology日 本上陸以前 の考古学的学問 ・国学者 に光 をあ てる』第 3回 『 國學院大學 日本文化研究所紀要』第96輯 國 學院大學 日本文化研究所 ⑮ 篠 崎四郎 1991『 図録拓本入門事典』柏書房 pp.38〜 39 ―‑98‑― 拓 本 ⑩ 近世 柳 田康雄 2 0 0 6 「 拓本 と正確 な実測 図 で論証 した青柳種信 の考古学J 秋 季 公開学術講演 『 。 ー 学問 を検証す る 近 代 ヨ ロ ッパ A r c h a e o l o g y 日本 上 陸以前 の 考古学 的学 問 国学者 に光 をあ てる』第 4 回 『 國學 院大學 日本文化研究所紀要』第9 7 輯 國 學 院大學 日本文化研 究所 一 け) 村 田春海 「錦織舎随筆」巻之下 『 日本随筆大成』第 期第 三 巻 1 9 2 7 日 本随筆大成刊行会註 ⑬ ( 1 6 ) p p . 2 5 〜 2 6 所載 ⑬ 若林勝邦 1 8 8 7 「 朝鮮 土器、固入J 『東京人類学会報告』第 二 巻十四琥 濱 田耕作 。梅 原末治 1 9 1 6 『 肥後 に於 け る装 飾 あ る古墳 及横 穴』京都帝 國大學文學 部考古學研 究報告第 一冊 京 都大學考古學教室 濱田耕作 1917『 河内國府石器時代遺跡発掘報告』京都帝國大學文學部考古學研究報告第二冊 京都大學考古學教室 D O 杉 山壽榮男 1942『 日本原始繊維工藝史 原 始編』雄山閣 D C 篠崎四郎 1934『 拓本 と金石文 の話』 (研究 開発推進機構 准教授) ―‑99‑― 博物館教育 と教育史料 の可能性 一 歴 史学 と歴 史教育 を接続す る回路― The Possibilities of h71useuln Education and Historical NIaterials on Education ― ― The Connection betttreen Historical Study and History Education― 會田 康 範 AIDA Yasunori l.は じめに 〜 「 博学連携」論の現在〜 ) は 全国大学博物館学講座協議会設立5 0 周年 の節 目を迎え、それを記念 して博 昨年 ( 2 0 0 7 年 物館学 の発展 に寄与する ことを目的 とす る文献 目録が上梓 された。筆者 のような初学者にとっ ては、博物館学研究 の今後 を展望す る先行研究の整理に便宜が図 られる学恩 を得たわけだが、 この 「 内容分類編」 には これまでの研究成果が1 4 項目に大分類 され、分厚 い研究史がテーマご とに網羅 されてい る。なかで も本稿 に関連す る 「 教育 。普及J の 分野 では9 0 0 点以上の論考が 収録 され、博物館学界における教育 。普及活動 に対する関心の高 さが窺える。 また昨年1 2 月に 学校 博物館学雑誌』 ( 第3 3 号第 1 号 、通巻4 7 号) で は、 図 らず も古庄浩明 の 「 手元 に届 いた 『 ̀モ 'を 。 ノ における博物館活動 の提案」、中畑充弘 の 「1 つ の 通 じての総合的 学際的学習 に 一 関す る 試論」 など、筆者 の問題関心 に通底 す る論考を拝読す る機会 も得た。 このように現在 の博物館学研究 における教 育普及活動論 は、 いわゆる 「 博学連携」論 とい う 一 視座 をもち、学校教育 の中での教科学習の 環 としてのみならず、その枠 を越 えた総合学習や 特別活動な ど、学校 の教育活動全般 と関連づ けた研究 ・実践 に高い関心 が示 されてい るのであ る。その事例 は枚挙 にい とまな く、大 い に注 目を集めてい る主題の一つ とい えるだろう。 ここ でその背景 を詳細 に検討 して論ずる ことはで きないが、博物館 を取 り巻 く経済状況 や2 0 0 3 年に 改正 された地方 自治法 による指定管理者制度導入な ど博物館 の存 立基盤に関わる問題群がある ことを指摘 してお きたい。 一 方、教育学 や 「 博学連携」推進 の一翼 を担 う学校教育 の現場サイ ドな どか らも 「 博学連 一 携」 を論 じた研究や実践事例 の報告が多数確認で き、その 部門であ る歴 史分野 では、歴史学 や歴 史教育か らの報告が注 目される。 この よ うに研究史 の蓄積 の上 に立 ち、現在 の 「 博学連 携」論 を鳥跛 してみると、留意 しなければならない点 として、 この議論 の学際性 を指摘する こ とがで きるであろう。つ ま り、社会教育機関である博物館 と学校教育 とい う両者 の関係 を学問 的に考察する上 では、 これ らの どち らか一方 に重心 を置 くので な く、博物館学的見地 と教育学 的見地 ( 学校教育論) 双 方 のパ ラ レルな関係 を踏 まえることは 自明で、その上で実践 レベ ル と 基礎研究 レベ ルで さらに関係深 い隣接諸科学 との協業関係 を構築 し考察する姿勢が必要である といえるのであ る。 ‑101‑ 博物館教育と教育史料の可能性 ところで、金 子淳 は、 現在 の 「 連携 論」 を検 討す る際、 そ の系 譜 を歴 史的 に考察す るこ とが 重要 で あ る と説 い て い る。 そ して椎 名仙卓 ら多 くの先学 に よって指摘 されて い る視 点 を踏 まえ、 明治期 の博物館 が倉1設当時か ら学 校教育 と近 い位 置 関係 にあった こ とを強調 した1ま た 落合知 子 も前近代 の博物館類似施設 も含 め、 そ の前史か ら近代 にお け る教育実践 レベ ルでの博物館 資 料 の活用 を歴 史的 に考察 して い るt 現代 の学校教 育 (とりわけ歴 史教育)で は、金 子 や落合 が 指摘 す る歴 史的視点 に連 なる博物 館 と学校 の接続 回路 を形成 す る上 で、 「 新学力観」 の 浮 上、 学校 5日 制、 「 総合学習」 の広が り など幾つかの重要な画期 をみることがで きるだろ う。その検証素材 として学習指導要領 の変遷 や教 育実践史の分析が有用であるとい えるが、 これについては他 日、詳細 な分析 を加 えたい。 以下では、現行 の学習指導要領に即 して取 り組 まれてい る 「 総合的な学習 の時間」 などにおい て、既存 の教科学習 の枠 を超 えて活発 に実践 される博物館 を活用 した教育が、それを教科指導 としての歴史教育 と如何 に交流 させ、 よ り豊かな教 育実践 を実現することが可能であるか、そ の有効性 とともに、筆者 の若干 の実践事例 にも触れなが ら実践 レベ ルでの私見 を中心 に述べ る こととする。 2 . 歴 史学 ・歴史教育 と博物館 2‑1 歴 史学 と歴 史教育 の対話 日本 の学校教育史 とい う側面か ら現代 の歴 史研究 と歴 史教育 の関係 を考える際、1 9 4 5 年の敗 戦 を契機 に、従来の国史教育 と歴 史研究 の断絶関係か らの転換が図 られたことが起 点 となる。 これは誰 しも異論を唱えることがで きないであろう。戦後、 日本 を間接続治 したG H Q は 、占 領政策の中で教育改革指令 を出 し、軍国主義教育、超国家主義的教育 の禁止や教職追放 などと ともに学校教育における修身 。国史 。地理の授業 を停止 し、 日本の学校教育が再スター トした。 その翌年 には国史の授業が再開され、1 9 4 7 年には教科 としての社会科 の新設 とともに文部省 よ り戦後最初 の 『 学習指導要領社会科編 ( 試案) 』が発行 された。 こ うして社会科 の中に位置づ け られた歴 史教育が、それまでの国史教育 とは一線 を画 して始 まったのである。 その実践史 の 中で重視 されたのは、戦前 ・ 戦中の歴 史研究 と歴 史教育 の関係 を省みた遠山茂 樹 ら歴 史研究者が指摘 した 「 科学性」 と 「 系統性」 であ った。それは、1 9 4 9 年に設立 された民 間の教育研究団体である歴史教育者協議会の設立趣意書か らも看取 で きる。すなわち、その第 一に 「 歴史教 育 は、 げんみつ に歴史学 に立脚 し、正 しい教育理論にのみ依拠すべ きものであ っ て、学問的教育的真理以外 の何 ものか らも独立 してい なければならない。 」 と示 されてい るよ うに、科学 としての歴 史学 と歴 史教育 との対話関係が謳われてい るのである。 また遠山の歴史 教育論 を解説 した加藤文三は、遠 山を 「たえず歴史教 育 に関心 をよせ、歴史教育に学 んで歴 史 研究を発展 させていった」歴史研究者 と評 し、加藤 自身 もその 「 学問 に学 び、それを批判 し、 それか ら抜 けだ して」 自らの実践基盤 を形成 してい ったのであ った。 ところで、学習指導要領 は1 9 4 7 年以来数次の改訂 を経 て現在 に至ってい るが、その変化 の歴 史は大雑把 に数期 に分けることがで きるとされる。歴史教科書叙述 の変化 と授業実践 の変化 の 要因について学習指導要領 を軸 に考察 してい る河崎か よ子 は、 これに基づいて 「 戦後約6 0 年間 博物館教育 と教育史料の可能性 各期 の典型 的 な授業実践 を検討」 の教育 を三期 に分 け て小 学校 歴 史教科 書 の記述 の変化」 と 「 一 して い る。す なわち河崎 はその第 期 を社会科新 設 の1 9 4 7 年か ら1 9 5 4 年として、 この 時期 を問 題解 決型学習 が進 め られた時期 とす る。次の第 二 期 は、1 9 5 5 年か ら1 9 8 8 年までで、 この 時期 を 系統 的学習期 とす る。 また第 三 期 は1 9 8 9 年の学習指導要領改訂 か ら現在 とし、問題探 求型授業 子 ども自身 の 期 として い る。 そ して各 時期 の代 表 的 な授業実践例 を示 し、第 三 期 の現在 は、 「 問題 の追 及 か ら社会科 の枠組 を超 えた総合学習 的 な授業実践 が 多 く生 み 出 され」 た 時期 と紹介 して い る。 この指摘 に従 えば、学習 の あ り方 が問題解 決学習 → 系統 的学習 → 問題探 求型学習 と多様性 を 総合学習」 は初等教育及 び 中等教育 の諸学校 に導入 帯 びて い く中 で、 第 二 期 に注 目を集 め る 「 され、 この数年 間 で 幅広 い 実践 が積 み重 ね られた分野 とい えるだろ う。実 は、 これ まで筆者 も 歴 史研 究 ・教 育 を実践 す る立 場 か ら高等学校 の総合学習 プラ ンを構想 ・実践 して きた経験 を も つ 。 そ こで 重視 した こ とは歴 史学 と歴 史教育が恒常 的 に対話 し続 け る協業 関係 で あ り、両者 を 学校歴 史」 にお け る博物館 接続 す る回路 としての博物館教育 の有効性 で あ る。そ こで、次 に 「 教 育 の あ り方 につい て検討 して い きた い。 2‑2 「 学校 歴 史」 と博物館教 育 学校歴 史」 として把握 し、 そ の特色 が検討 され 社会科教育学 で は、学校 で学習す る歴 史 を 「 て い る: ま た、 そ の学習方法 も通 史的系統学習 や問題解決学習 な どが あ り、 それぞれ の特 質 に つ い ての 議論が あ るこ とは よ く知 られ る ことで あ ろ う。本稿 は この考察 を直接 の 課題 としてお らず、紙幅 の都合 もあ るので これ に言及す るこ とは割愛す るが、 一 方 の博物館教育 につ い て は、 行 論 の必要上、仮説 の域 を出な い が簡 単 に概念規定 を してお きた い 。 一 。 守井典子 は、博物館学 にお け る教 育概 念 につ い て、 代 表的 な論者 として棚橋 源太郎 木場 夫 ・鶴 田総 一 郎 ・倉 田公裕 の博物館教 育論 をあげて整理 して い る。 それ に よれば、戦 後 しば ら 鶴 田 に よる 教 育活動 と して紹介 され る ものの範 囲 もあ い まいJ で 、 「 くの 間、博 物館教 育 は 「 教 育 の概 念 が 機 能 主 義 的整理 の段 階 を経 て、 倉 田 に よって初 めて 明確 な位 置」が与 え られ、 「 体系化 されて」 υヽった とされて い る。 また、守井 は博物館教育論 の研 究 史的整理 の 課題 として 実際 の博物館活動 にお け る収集や教 育 の変遷 へ と対象 を広 げ て い く 教 育概念 のみ」 で な く 「 「 ことが今後 の 課題」 であ る とし、 そ の 方策 として 「 博物館活動 の全 体 を包摂 す る教育理念 と、 個 々 の教 育普及活動 とを明確 に区分 して論 じ」 るこ とを説 い てお り、 この 守井 の指摘 は筆者 も 同感 で あ り、 正 鵠 を得 た もの とい えるであろ う。 ち なみ に注 1 で 示 した 目録 に よれ ば、 「 博 物館 教 育」 を論 文 タイ トル に含 めて い る論考 は二 十数編 を数 える こ とがで きる。 さ らに論文 タイ トル には含 まれ ない ものの 内容 的 に近 い と思 わ れ る論 考 も含 めれ ば、 相 当 な論 考 が あ る とい え るだ ろ う。 「 博 博 物館教 育」 とは、 もちろん 「 教育」 の複合語 で あ るが、論者 に よ りこの語が示す 内容 には幾分 かの幅が み られ る。 物館」 と 「 それ を学校教育 の枠 内 に限 り大雑把 に分析 す る と、 広義 には博物館 にお け る教育活動全般 を指 し、 学校教育 と関連 づ け た文脈 で取 り上 げ られ る こ とが 多 い と認 め られ る。 だが狭 義 には、博 物館独 自の活動 、学校独 自の活動、両者 の協 同 に よる活動が、 内容 的 には個別 の博物館 にお け る具体 的 な展示 に関す る解 説、講演会 、 ギ ャラリー ・トー クな どにわた り、 さ らには博物館 学 ‑103‑― 博物館教育 と教育史料の可能性 的な博物館機能やその業務 を学習内容 として学校教育に取 り入れる ことを提 案するもの まで含 まれてい るのである。実践 レベ ルで比較的多 く見 られるのは展示資料 の利用 を中心 とす る前者 の例であるが、後述す る筆者 の実践事例は後者 に含 まれる部分が多 く、その構想 は博物館教育 を学校の教科学習 に還流 させ ようとい う意図を有する。 また、小 島道裕 は、博物館教育について、その先進国であるイギリスの事例 をあげて紹介 し てい る。それによれば、イギリスの博物館では 「イ ンフォーマルな教育の場Jと して 「 専任 の 教育員 (エデ ュケー ター)Jに よ り 「 学校 団体へ の対応 と、 それ以外の一般向けの活動」が機 能的に幅広 く行 われているとされる。その中で も特 に注 目されるのは、 「 計画段階か ら教 育部 門が展示 に関」わ っている事例や 「 博物館 の裏側 (ビハ イ ン ド ・ザ ・シー ンズ)」 と称 される 「 博物館活動 自体 の理解 を図る工 夫」 である。 リヴァプールのコンサヴェー シ ョン・ セ ンター の実践では、資料の修復 。保存 の問題 を 「 実験 ・観察 ・体験 を交えて展示」 し、 ロン ドンの 自 然史博物館では 「 化石が発見 されてか ら、処理 され記録 され復原 されて公 開されるまでの一連 の過程が、それぞれの場面 で使 う道具 などとともに展示 されてい るな ど、 「 裏」 での活動 自体 を展示」 してい るとい うのである: 1999年3月 29日に告示 された現行 の高等学校学習指導要領 におけ る 「 地理歴史科」 では、そ の科 目として 日本史Aと 日本史Bが 設け られてい るが、そこでは 「 歴史 と生活」 (日本史 A)。 歴 史の考察」 (日本史 B)が その内容 として盛 り込 まれてい る。筆者 はかつ てこれに関する 「 検討 を行 ったことが あるが、そ こでは特 に日本史 Bに お いて、歴 史学的専 門性 を尊重 し、「 史 料 をどう読むか、 とい う史料批判 まで含 めた 「 歴史の考察」」 を学習内容 に位置づ ける ことを 通 じて科学的な歴史認識は育成 されるもの として捉 え、歴史研究者 の史料 にアプローチする方 法論的な側面 を具体的 に教材化する意義 を提言 した。先 に触れたイギ リス における博物館教育 の事例 は、 この筆者 の考え と共鳴するものであ り、現在の歴史学習の中に応用 して積極的 に取 り入れることを検討 したい と考 えてい る。 さらには、注 2で 触れた古庄 も博物館学的な学習内 容 を教育実践 の中に取 り込む ことを述べ てい るが、今後、 これ らを精査、整理 して 「 博物館教 育機能論」 を発展 させる必要があることを指摘 してお きたい。それ と同時に青木豊が言及する ように、大学 の学芸員養成段階では 「 博物館教育活動論」 の内容的充実が図 られる必要がある とい えるだろ うし、教 員養成課程 で も同様 のことが いえるもの と考える。 3.高 校総合講座 における授業展開案 とその取 り組み事例 3‑1 「 総合的な学習 の時間」 における 「 博学連携」 の模索 現行 の学習指導要領が施行 されるにあた り、筆者 の勤務校 ではカリキュラム上の位置づ けを 時間をかけて検討 した結果、その全体理念 として旧来既存 の教科 の枠組み にとらわれず学際的 かつ豊かな内容 を少人数単位 で提供することが全教員 の共通了解 とされた。 このこ とは筆者 ら が博物館教育 を行 う上で絶好 の機会 とな り、 これに基づ き2005年度か ら実践 を進めることと なった。その実践 の一部 は既 に公表 の機会 を得 て、それに関 して幾つかの意見や批判 を戴 くこ とがで き、学校教育現場か ら議論 の場 を提供 す ることがで きた と考えてい る。 次 に事例 として示す内容 は、その後 の実践 において取 り入れた ものである。 ここでは、博物 ―‑104‑― f 能性 博物館教育 と教育史料の● 館学芸員 が通常行 って い る業務 全般 を可能 な範 囲 で直接 的 に学習す る こ とを教育 内容 とし、 そ の経験 を通 して歴 史教育 が主眼 をお くそ の科学性 や系統性 を学 ぶ場 としての博物館教育 の役 割 を期待 した ので あ る。 す なわち、学芸 員 の諸活動 を歴 史研 究者 の活動 と同様 の もの と見 立 て、 と りわけ後述 す る よ うに展示活動 を歴 史叙述 であ る と捉 え、 それが学 問的 な諸手続 きを経 た科 学 的 な歴 史認識 に基 いて成 り立 って い るこ とを、 学習 を通 じて体得 す る学習方法論 として位置 づ けた い と考 えて い るのであ る。 3‑2 「 教育 史料」 としての教育用理化学機器 を利用 した授業構想 と実践事例 博物館 を知 ろ う」 と命名 した高校 ・総 以下 で は、2 0 0 5 年度 よ り筆者 らが実際 に行 って きた 「 合講座 の 実践事例 の 中か ら、2 0 0 7 年度 に実際 に行 った授業 プ ラ ンを取 り上 げ る。 なお、 この 講 座 は、 筆者 とともに これ まで 3 年 間 にわた り実践 を続 け て い る学習 院大学文学部哲学科 及 び 同 ー ー 大学 史料館 の教 員 。学芸員 が高大接続 を視 野 に入 れ、 テ イ ム テ ィ チ ングの形式 を とった実 践 であ る。 ① 授 業構想 の意図 。目的 キャンパスの再開発や学内諸施設 の改築 ・リフォーム、あるい は用途変更などの際、非現用 の校具 ( 備品) ・教材 ・教具 。学習用具 ・紙媒体 の資料や帳票等が大量 に廃棄処分 となる。 こ モ ノ」 につい て、教 育史研究 の領域 では、 これ まで の 関心 の比 重 の高か った教育内 う した 「 容 ・制度 。思想 などに対 し、新たな視野 をもた らす可能性が検討 されてい る。すなわち、辻本 教育 の物的条件 の変化 は、教育内容やそれを支える教育観 と無縁 ではない」 と言及 し 雅史 は 「 空間軸、時間軸 における具体 的な形や具体 的な展 開の た。 また、添 田晴雄が い う よ うに、「 モ ノ」あ るい は 「コ ト」 は、学問研 究 における 「 理論証明 の証拠 として必須で 姿」 で あ る 「 臨場感」 。 「 現実感 を伴 って論者 の理 論J を 展 開す ることにつ ながるので ある。そ あ」 り、「 分析 も抽象的側面 に留 まっ して文献史料 とい う抽象性 の高 い 史料 に依拠 した歴 史研究 では、 「 て しまう傾向があ」 り、 このことは歴史教育 の陥穿 と指摘す ることがで きるだろう。 こうした 博物館教育」 の有効 諸点 よ り、歴史学 と歴 史教育 の接続 を図る回路 として博物館 と連携 した 「 教育史料」 の可能性が注 目されるのである. 性や 「 ところで、 ここでい う 「 教育史料」 とい う概念 については、現在、それほど社会的には定着 をみてい ない ように思われる。 しか し、学校 における校具 ・教具 ・教材 などは学校沿革史にお 教育史料J そ の ものであ り、博物館資料 とな りうるも ける具体的な教育活動 の営 みを伝 える 「 のであ るが、現在、 こう した視点で これ らの 「 教育史料」 を系統的 に保管 してい る学校 はそれ ほ ど多 くない とい える。その結果、大藤修 らによって以前か ら指摘 されてい るように、 と りわ 教育史料」 は散逸 を余儀 な くされているといっても過言 ではない。 このよ け中等教育段 階の 「 博物館 を知ろ う」 では、その一単元 として戦前 の古 い教育用理 うな状況 を鑑み、2 0 0 7 年度 の 「 化学機器 を利用 し、博物館資料論 とも関連す る授業 プラ ンを考案実践 したのである。 す でに科学史の分野 では永平幸雄や河合葉子 の仕事 で も知 られてい るように、比較的早 くか 19、 ら1 9 世紀お よび2 0 世紀 の科学機器 の保存が国際的に訴え られてい る。永平 ・河合 らは、「 2 0 世紀 の科学機器が失われつつ あ り、その科学史的な意味が後世 に伝達 で きな くな りつつ ある とい う危機感 が、国際的な科学機器 に関す る歴 史研究者 と共通 した もので ある ことを確認 し ―‑105‑― 博 物館 教 育 と教 育 史料 の 可 能性 た」 と述べ た。 こ うして現在 の京都大学 につ なが る旧制第三 高等学校 の物理実験機器が、調 査 。研究、デ ジタルデー タ化 を済 ませ 「 第三高等学校物理実験 機器 コ レクシ ョン」 (三高 コ レ クション)と して公 開されたのである:本 学習プラ ン作成に当たっては、 この京都大学や神戸 大学 の 「旧制姫路 高等学校物理実験機器 コ レクシ ョンJの 事例 (神戸大学ホー ムペ ー ジ参照 http://www.kobe̲u.ac.jp/info/histOry/宙 rtual― museum/index.html)などを参考 に し、資料 の 。 へ 調査 研究か ら展示発表 と続 く体験的学習を組織 した。 ② 準備 本単元に入 る前に、4時 間ほどの講義 を実施 した。 ここで は博物館 の概要、その諸機能に対 す る概説 と実際に博物館で展覧会が 開催 されるまでの学芸員 の業務内容 をそのプロセスに添 っ た形で学習院大学史料館学芸員が解説 した。 これによって本単元に入 る動機づ けが整 えられた と考えてお り、 これまでの学習経験 の中で未経験である学習分野へ の関心 を高める効果 を期待 した。 次に受講生 を数名ずつ 2グ ルー プに分け、予め見学可能な状態 にしておいた保管室に収蔵 し てい る実験機器 を見学 した。その後、 グループごとに調査 を担当す る機器 を選択 させ、調べ学 習に入 るための学習環境 を整備 した。 1点 ずつ割 り当てた理化学機器 は、現在 の学生にとってはすべ てが初 めて 目にするものばか りで、その使用 目的 も使用方法 も一切不明な状態である。 これ らの機器が戦前期か らの来歴 を もつ ことなど、 ご く簡単に説明 した後 は、それぞれのグルー プごとに調査計画を立て、順次作 業 に入 るよ うに指示 した。受講生が調査 を進めるにあたっては、筆者 の勤務校 では大学図書 館 。理学部な ど関連資料 の所蔵が想定で きる部署が同 じキャ ンパス内にあるため、それ らとの 連携 も図 り必要に応 じて資料提供や助言 を依頼 した。 ③ <展 開 1> 資 料調査 。研究活動 としての調べ学習 社会科教育などで行われる調べ学習 は、博物館における資料調査 ・研究に相当するとい える だろ う。博物館 では資料化 される 「 モノ」 を収蔵 した後、調査 ・研究 を経て博物館資料 となっ てい くことを具体的に理解するため、 これに要する時間は十分に確保 した。 <実 際 に教材 として利用 した理 化学機器 > 写真 1 ア ラ ゴ円盤 写真 2 ウ ―‑106‑― ォーム歯車 博物館教育 と教育史料 の可能性 < 今 後利 用 が 考 え られ る理化 学機器 類 の 一例 > まず は法量 や形状 ほかの特徴 を記録す るな ど資料調書 を作 成 し、その次 に文 献 資料 の博捜 や ー 聞 き取 り調査 に入 った。その過程 の 中 で グル プ毎 の調査 の進捗状 況 に差がみ られた り、 なか なか進 まな い こ ともあ ったが、 これ は調査 ・研 究 の実際 を体験 的 に学習す る好機 となった と考 えて い る。還元す れば、通常、与 え られて い る情報が多 くのプロセ ス を経 て生成 された もので あ る こ とを経験 的 に学習す るこ とになった とい えるだろ う。 そ の 具体 的 な一例 として、次 の事例 を紹 介 してお きた い。す なわち、調査対象 の制作 年代 を ー ー 推定す るため、 資料 自体 に添付 されて い る 「島津 製作所」 の ネ ム プ レ トに海外拠 点 として の 「 大連」 の 文字 が記 されて い る こ とに注 目した受講 生 は、 そ こか ら島津 製作所 の社 史 な どを 通 じ大連 に営業所 が 開設 された時期 を制作 年代 の上 限 と見極 めて い る。 この事例 は、 学習 を通 じて経験 的 に歴 史的思考力 を培 った事例 とい える もので あ り、 そ の作業 自体 が正 し く歴 史研 究 にお け る実証過程 そ の もの とい える活動 で あ ろ う。 なお、 聞 き取 り調査 で は、 国立科学博物館 な ど学外 の施設 へ の 問 い 合 わせや訪 問 も実施 した。 ― ④ < 展 開 2 > 展 覧会へ の準備 ― 展示パ ネル ・解説 の作成 調べ学習終了後 には、資料 としての展示及 び展覧会 を構想 してギャラリー ・トー クのための 学習 を進めた。展示パ ネルの作成 では、デジタルカメラで撮影 した資料 をパ ネル化す るために 実際 に史料館 などで使用 されてい る糊 つ きパ ネル を用 いて作成 した。 また、展示資料 を解説す るキャプシ ョンについては、 どの ような説明が観覧者 にとって望 ま ―‑107‑― 博物館教育と教育史料の可能性 しい か な どを配慮 させ、その文章量 や平 明 さな どに配慮す る こ とを強調 した。 この過程 で留意 した ことは、普段 の学習 な どで レポ ー トを書 く経験 な どが あ るが、 近年 で はイ ン ター ネ ッ トな どで得 た情報 をその まま引用 す るな どの 問題が指摘 されて い る ことで あ る。それ を避 け るため に も、 資料 か らの 直接 の 引 き写 しは認 め ず、受 講生 自身が観 覧者 の立 場 となってそ の キ ャプ シ ョンを読 む ことを想定 し、 オ リジナルでわか り易 い文章 を作成す るこ とを重視 させ た。 なお、 キ ャプシ ョンの工 夫 につ い て は、 管 見で は板橋 区立美術館 の展示 パ ネ ル にみ られ るキ ャプシ ョ (21) ンが注 目され る。 これ に関 しては、2 0 0 6 年度 の本講座 で は受講生 とと もに現 地見 学 を実施 で き たが、2 0 0 7 年度 は時 間 の都 合上実施 で きず、 日頭 での説 明 の み になって しまった。 ⑤ <展 開 3> 展 覧会開催 とギャラリー ・トー ク 展示パ ネルが完成 した後 は、 史料館実習室において史料館職員 らを対象 に簡単な展覧会 を実 施 した。その際、実際に博物館で実施 されてい るようにグルー プごとで展示資料 に関す る説明 をギャラリー ・トー クと題 して行 った。通常の歴 史学習 の中では、 自らが調査 ・研究 した内容 を発 表 (プレゼ ンテー ション)す る機会を十分保障す ることは困難であ り、それを補 う上で も 効果があった と思われる。 さらに発表学習その ものは 「 総合的な学習 の時間」 の本質的なね ら ー い にも通 じるもので、事後 レポ トなどか らは、本実践が概ね好評であった と見受け られた。 ⑥ 授 業後 の反応 と展望 モノ」が博物館資料化 してい くプ ロセス を実際の作業 を通 じ 本授業 プランは、与えられた 「 て学習するものであ った。それは文献調査や聞 き取 り調査等 を踏 まえ価値付 け してい くことを 体験的に学習するもので、 これによ り、学習者は、あ らゆる 「 モノ」 に対 し、学問的な手続 き を経 ることで博物館資料や文化財 となる可能性があることに気づ くことになった と思われる。 さらに、 こ うした学習経験 は、歴 史教育 の 1つ の柱 で もある文化財 を大切 にする態度 を涵養す ることにも繋が るもの と確信 した。 また、 この単元を学習 してい る期間には作業的学習 とともに複数 の博物館 を見学 したが、そ の一つである東京大学駒場博物館 では 「自然科学博物館所蔵品展測る人 ・画 く人」展が開催 さ れてお り (2007年3月 24日〜 6月 5日 )、東京大学教養学部 の前身で ある第一高等学校 の図画 学 に関連する資料 を見学す る機会 に恵 まれた。 この見学は受講生 の学習意欲 をさらに高 めるこ とに繋が り、 さらに受講生たちの取 り組みを先方に相談 した ところ、調査 してい る資料 の製造 元である 『 島津製作所』 の 目録 の所在 など関連情報 を提供 していただ くことがで きた。そ して 後 日には、先方 の職員の好意 で東京大学大学院総合文化研究科 の科学史 。科学哲学研究室に所 属す る専門の研究者 による特別講義 の場 を設けていただ くことにもなった。 このような事後学 習 の経験 は、博物館教育 の奥行 きの広 さを象徴す るものであった とい えるであろ う。 4.博 物館教育の可能性 4‑1 歴 史叙述 としての展示 以上、歴 史学 と歴 史教育 を接続す る回路 としての博物館教育に対する関心 の もとに、高校総 合講座 にお ける実践事例 を素材 にその可能性 について論 じて きた。「 博学連携」論 については、 冒頭 で触れたように博物館学サイ ドか らの大 きな注 目を集めてい る主題の一つであるが、内容 T‑108‑― 博物館教育 と教育史料 の可能性 的にみ ると博物館 のアウ トリーチや学校 における博物館利用 とい った教育実践面 で論 じた もの 一 がほとん どである。むろん博物館 の機能 はそれのみでな く、それは四大機能 の つ にす ぎず、 「 博学連携」 を論 じる際、他 の機能について も連携 の可能性 を検証す る余地は残 ってい るとい えるだろう。すなわち、教育博物館 や学校博物館、歴史系博物館であれば、学校沿革史や地域 の教育史、教育文化 を接点 として資料 の収集や保管、調査 。研究分野 で も連携 回路接続 の可能 性 をよりいっそ う模索す ることが求 め られるであろ う。 また、教育 ・普及活動 の中で もその中 核 となる展示活動 に関 して も同様で、松岡葉月が歴史展示 の主体的利用 について検討 してい る が、 こう した研究はまだ端緒についたばか りとい えるだろう。 黒田 日出男 も指摘する ように、博物館展示 は一つ の歴 史叙述 とす ることがで きる。黒田は、 展示 は一種 の<歴 史叙述 >に ほかならない。展示可能な<も の>(文 化財)の 配列 による<叙 「 展示 は① 述 >で あ り、<も の>と は、基本的 にはそれぞれの時代の<も の>で ある」 とし、 「 ・ ・ いかなるテーマで、② <も の>を どの ように選択 し、③配列 し (分類 区分 関連付 け)、そ して④置 く (飾る)こ とが、シナ リオ作 りか ら始 まる実際の作業 によってなされるのであるか ら、そ うした展示は、考えれば考えるほ ど<歴 史叙述 >そ の ものである と言わなけれ ばならな い。 <も の>の 配列 。関連付 けに よって、そこに、ある歴史が確 かに提示 され、物語 られてい るか らである」 と指摘 してい る。そのため 「 展示 =<叙 述 >の あ り方 をめ ぐっては、全 国的な 意見交換や論争が成 り立Jち 、「 展示 =<叙 述 >方 法論 の提起、観覧者 =読 者論、実験的な展 示 の試み とその批判 といった経験 の蓄積 を踏 まえた議論 を、 日本史叙述 のあ り方 と関連付けて <歴 史叙述 >の 実践 主体 (博物館学芸員)た ちに 展開 して欲 しいのであ る」 とす る。 さらに 「 よる方法論的な成果 の提示が、 日本 史叙述 に影響 を与 えて しかるべ きJで あ り、そ の関係 は 「 本来、図書館学 ・展示学 とい った枠組みを超えた ところで議論 されるべ き点 であろうJと 述 べ てい る。 さらに吉田伸之は、 よ り積極的 に博物館 における展示 を 「 展示叙述」 と定義 し、そ の 「 特殊性 にもかかわ らず、 これはあ くまで も歴史叙述 の一形態」 としたのである。 この よ うな立場か らは、「 博学連携」論 は、 まさしく博物館学固有 の世界か ら教育学 と接続 す る議論 として学際的 に論 じられなければならない課題 であるとい えるだろう。 またそれは歴 史系博物館 ならば、歴史学 と歴 史教育 との相互 関係 の視座 をもって取 り組むべ き課題なのであ る。現在 の社会科教育学 とい う学問領域 では、教科書叙述 をめ ぐる議論 の高 まりがある。黒田 の所論 を敷行すれば、社会科教育学が教科書叙述 を検討す ることと同様 に博物館学が展示 を検 討す ることは、歴史叙述 の位相 を考察対象 とす る共通の土台 に立ってい るともい えるだろう。 4‑2 教 育文化資源 としての 「 教育史料」 現在、筆者 の勤務校 では、紹介 した授業実践事例で触れたように旧制学習院の教育活動の営 みを現在 に伝 える様 々な 「 教育史料」が残存 してい ることが確認 されてい る。その一部 はす で に学習院大学史料館 による調査 を経 て、 目録化 された状態で利用者 の便宜 が図 られる状態 に なってい る。 しか しそれはまだほんの一部 に過 ぎず、全容は未解明のままであるとい えるだろ モノ」 については、散逸 を防 ぐためにも早急 な対策 を講 じる必要があることは う。未調査 の 「 言 うまで もない。そ こで最後に提案 として、学校 の沿革史 を伝 える非現用 の物品を教育文化資 源 として把握 し、 これか らの教育活動 に活用 してい く手立てを考える必要性 を指摘 したい。 ―‑109‑― 博物館教育 と教育史料の可能性 周知 の ように1995年には文部省学術審議会学術情報 資料分科会学術資料部会が、「 ユニバ ー シテ ィ ・ミュー ジアムの設置について」中間報告 し、そこでは学術標本 の保存 と二次的活用が 「 創造的探究心 を育 む学生の教育にとって究めて重要な環境 を提供する」 とされている。西野 嘉章がその 「 再利用 を図 り得 るなら、資源 としてのそれ らの価値 をよ りいっそ う高めることが で きるJと 指摘する ように、標本管理史などとも連動 し 「 教育史料」 の教育文化資源 としての 活用が期待 され、今後 はその具体的な提案が求め られてい るといえるだろ う。 5.お わ りに 〜 今後 の展望 と課題 〜 紙幅が尽 きて きたので、 これまで述べ てきたことを繰 り返 して総括す ることは割愛す るが、 最後に今後 の展望 と課題 を簡潔に述べ て筆 をお きたい。 現在 の博物館が抱 えてい る課題は多岐にわたるが、その中で も 「 博学連携Jに よる教育普及 活動 は、博物館諸機能 の中で もこれまで以上 に充実 させ る必要があるだろ う。そのためには、 博物館 と学校教育 との協業関係 をいかに構築するかが大 きな鍵 となることはい うまで もない。 今回紹介 した実践事例 は、ひとつの学校法人内 とい う協業関係が成立 しやす い環境 での実践で ある。実際には移動 ひとつ とって も諸条件が整わない とい う現実があ り、 こう した面では国 レ ベ ルで博学連携 の可能性 を広 げ るための基盤 を整備する必要が求め られてい るといえるだろ う。 また、学校法人の事業 として学園の沿革史を伝 える関連資史料 を系統的 に整理 してい る先行事 例 も散見するので、 この ような取 り組みを体系化 ・普遍化 してい く努力が求 め られてい るとい えるだろう。本稿で績 々述べ たことも、 このような体系化 の一助 につ ながれば幸甚 であると考 えてい る。 注 ( 1 ) 全 国大 学博 物館 学講座協 議会編 2 0 0 7 『 博 物館 学 文献 目録 』 ( 2 ) 古 庄 は、 こ こで 「 学 校 博 物 館 活 動」 とは、 「テ ー マ の 決 定 、調 査 研 究、 な どの 博 物 館 学 芸 員 が 行 ってい る活 動 を学校 教 育活動 中で行 う ものJ と して い る。 と りわ け、 「 教 室 の 後 ろの掲示板 で」 の活動 を 「 展示」 そ の もの とし、 具体的なプラ ンを示 して い る。 即 ち 「 学級 内展示」 。 「 学 ・ 級外展示」 で、児童 生徒 を 「 学芸員」 として博物館活動 を理解 させ よ う とす る提案 を行 った。 モ ノ」 であ る 「 また、中畑 は、1 つ の 「 鉄J を 題材 と して学 際 的 に学習す る授業案 を 「出張授 業」 として実践す る学習指導案 を示 して い る。 ( 3 ) 例 えば、牛 島薫 ・小宮孟 。高桑祐司 ・藤原真 。田代英俊 の 「 博物館運営 にお け る連携 の戦略的利 用 の一例― 博物館 同士お よび学校 との連携 によるデ リバ リー キ ッ トの 開発― 」 ( 『 日本 ミュー ジア ム ・マ ネー ジメ ン ト学会研 究紀要』第 7 号 、2 0 0 3 年) で は、 中学 ・高校 の学習 ( 総合学習 な ど) バ イオ ・デ リバ リー キ ッ ト」 を近 で利用可能 な生物お よび生 命 に関連 した貸 し出 し学習キ ッ ト 「 隣 の博物館 3 館 と学校が連携 して製作 ・利用す ることに よって博物館 にお け る科学教育活動 の機 能性 向上 を 目的 とす る実践が紹介 されてい る。そ こでは実践 のね らい が 「 新 しい 時代 に博物館が 対応す るための一 つ の戦略 にな り得 るJ と され、博物館 同士 の連携 とともに学校 との連携 の 目的 が 「 戦略」 として明確 かつ 端的に示 されたのである。 また、東京都 三多摩公 立博物館協議会 で も ‑110‑ 博物館教育 と教育史料の可能性 同会が発行す る会報 『ミュー ジアム多摩』第27号 (2006年)で も指定管理者制度が特集 され、地 域 の博物館が おかれて い る現況 を垣 問見 ることがで きる。 (4)管 見 の 限 りこの 5年 間 ほ どで も多数 の実践報告 な どに接 したが、そ の 中か ら幾 つ かの事例 を紹介 高等学校 の現状 と博物館J ・岩城 してお く。福 島克彦 「 博物館 と歴 史教育 の あ い だ」 ・吉村健 「 ― 新 しい歴 史学 のために』第250・ 251合 併号、 2003年 )、今 田晃 ・ 遠 い博物館」 (以上 は 『 卓二 「 触 れ る」展示資料 を 学校教育 における博物館 の活用一 国立民族学博物館 の 「 手嶋滑博 。青木務 「 博物館 と連 携 した歴 史 中心 として一 J(『文教大学教育学部紀要』第37集 、2003年 )、熊本秀子 「 村 田安穂先生古 総合 的な学習 の 時間」 にお ける実践 か ら一 」 (日本 史孜究会編 『 教育 の試み― 「 博物館 の体験学習 における児 稀記念論集 日 本史孜究 と歴 史教育 の視座』、2004年 )、松 岡葉月 「 社会科教育研 昔 の くらし」か らの考察― 」 (『 童 の歴 史意識 の発達的変容一 小学校 第三 学年単元 「 究』第97号 、2006年 ) 連携 論」 の 系 譜 とその 位 相J『 くに た ち郷 土 文化館研 究紀 (5)金 子 淳 1996「 博 物館 と学校 教育 「 要』第 1 号 國學 院大學博物館學紀要』第 ( 6 ) 落 合知子 2 0 0 1 「博物館 資料 にお け る教 育 的活用 の歴 史的研 究」 『 25輯 /www.iCa.apc.org/rekkyo/) 歴 史教育者協議会 ホー ムペ ー ジ ( h t t p ノ 歴 史学か ら歴 史教育 へ 』岩崎書店 、2 6 7 頁、2 7 4 頁 加藤文 三 1 9 8 0 「 解説J 遠 山茂樹 『 叙述 のス タイル と歴 史教育― 教授 河崎か よ子 2 0 0 3 「 日本 の歴 史教授法 の変遷」渡辺雅子編著 『 法 と教科書 の 国際比較』 三 元社 ⑩ この指摘 は今野 日出晴 の ご教示 による ところが大 きい。今野 は 「 歴 史叙述 と教科書」 ( 『 社会科教 学校歴 史」が 固定性 。標 育研 究』第9 6 号、2 0 0 5 年、1 頁 ) の 中 で、吉川幸男 の研 究 を引用 し、「 準性 ・権威性 に特徴 づ け られて い ることを紹介 して い る。 (lll 守井典子 1 9 9 6 「 博物館学 にお ける教育概念 の変遷― 博物館教育論 の構築 に向けて一 」 『日本社 会教育学会紀要』第3 2 号 02 小 島道裕 2 0 0 1 「 イギ リスにおける博物館 の現状― 特 に博物館教 育 につ いて― 」 『国立歴 史民俗 博物館研 究報告』第9 0 集。 また、 日本 国内で も2 0 0 6 年に東京 国立博 物館 で教育普 及そ の もの を テ ー マ に した国際 シ ンポ ジウムが 開催 されて い る。 『国際 シンポジウム報告書 世 界 の現場 か ら 今、博物館教育 を問 う一 家族 。学校 ・地域 に 向け ての取 り組 み― 』 ( 独立行政法 人国立博物館発 行、2 0 0 6 ) に よれば、そ こでは イギ リスの ヴイク トリア ・ア ン ド ・アルバ ー ト美術館教育部長 に よる基 調講演 のほか、鈴木み ど りに よる東京 国立博物館 の事例紹介、 ア メ リカ、韓 国 の事例 な ど が報告 され、 日本 国内 の多 くの事例 もポ ス ター発表 された。 歴 史 の学 び方」 と高校 日本 史一 高校新学習指導要領 の 内容 ( 1 ) を ど うみ るか― 」 拙稿 2 0 0 0 「 「 歴 史教育 ・社会科教育年報2 0 0 0 年版』 三省堂 『 (14) 青木豊 2 0 0 7 「 博物館法改正 に伴 う資質 向上 を 目的 とす る学芸 員養成 に関す る考察」 『 博物館学 雑誌』第3 3 巻第 1 号 、7 1 頁 l151 歴 史地理教 拙 稿 2 0 0 6 「 高校 「 総合J に お け る博 学 連携 の 試 み― そ の理 念 ・実践 ・展 望 ― 」 『 一 歴 育』第6 9 5 号、 同 2 0 0 6 「 博学連携 の構 築 のため に 本誌6 9 5 号の事例 に関す る補足 説 明一 」 『 ‑ 1 1 1 ‑ 博物館教育 と教育史料の可能性 m m o 史地理教育』第7 0 5 号。 なお、 この 2 編 はいずれ も藤 賞久美子 との共著 で ある。 教育史学会編 2 0 0 7 『 教育史研究 の最前線』 日本図書 セ ンター 注 ( 1 6 ) に同 じ 「 教育 史料」 につい ての概念規定 はあ ま り明確 でないが、 島崎直人 は 「 学校 資料保存 の現状 と課 題J ( 『歴 史評論』第4 9 5 号、1 9 9 1 年) の 中 で学校 文書 を中心 に概説 して い る。 また国立情報 学研 究所 の学術 コンテ ンツ 。ポ ー タルの 「 科学研究費補助金採択課題 ・成果概要デ ー タベ ー ス」 に よ れば、平井 孝 一 の 「 教育史料 の整理 と分類」 ( 1 9 7 8 年度採択) が 検索 で きるが、その内容 は不 詳 である。 09 101 大藤修 「 学校 史料 と社 会教育 史料 の保存 を」 『日本教育 史往 来』第3 4 ・3 5 号、1 9 8 5 年、1 9 8 6 年、 のち大藤修 。安藤 正人著 『 史料保存 と文書館学』 に再録、 吉川弘文館、 1 9 8 6 年 永平幸雄 ・川合葉子編者 2 0 0 1 『 近代 日本 と物理実験機器― 京都大学所蔵 明治 。大正期物理実験 機器』京都大学学術 出版会 D 2 0 0 安村敏信 2004『美術館商売― 美術 なんて …・と思 う前 に一 』勉誠出版 松岡葉月 2006「歴史展示の主体的利用に関す る考察一 国立歴史民俗博物館 を活用 した構成主義 ④ ② ⑮ に基づ く学習プログラムの評価― 」『日本 ミュー ジアム ・マ ネー ジメン ト学会研究紀要』第10号 黒田日出男 1994「展示 とい う<叙 述 >の 条件J『歴史評論』第526号 歴 史評論』第526号、60頁 吉田仲之 1994「展示叙述 について」『 長佐古美奈子 1997「「旧制学習院歴 史地理標本室移管資料」について」『 学習院大学 史料館紀 要』第 9号 、及び学習院大学史料館発行 1998『旧制学習院歴史地理標本室移管資料 目録』 861 西野嘉章 1996『大学博物館― 理念 と実践 と将来 と』東京大学出版会、19〜20頁 ‑112‑ 博物館展示 と文字 一 文字展示論 へ の試み一 The LIusёum Display and Letter 樋口 政 則 HIGUCIII LIasanori 1 は じめ に 博 物館 での展示 と文字 の 関係 には、少 な くともつ ぎの異 なる 2 つ の側面が あ る。 展示 資料 が 文字 資料 で あ る場合 と、 展示 資料 の 内容 にかか わ らず文字 を使 って展示 をお こな う場合 とで あ る。 文字資料 の展示 は、 書料 = 「 モ ノ」 の展示 であ る。 書 かれた文字やそ の 内容 を主 た る 目的 と した展示 で あ って も、 そ の書料 の実体 を捨 てては展示 が成立 しな い もので あ る。 象嵌鉄剣銘 の 展示 は、 そ の 文字 を活字化 した解説 パ ネ ルだ け で は展示 とはい えず 、実物展示が 困難 な場合 で も レプ リカや透視 写真 な どに よる象嵌 文字 の視認が で きて は じめて成立す る。木簡 や墨書土器 等 も同様 で あ る。 そ の よ うな文字資料 の 実物展示 で も、言語 に よる解説 が必要 で あ る。 多 くの場合 、それは文 字 に よってお こ なわれ る。 資料 の名称 や計沢1 デー タだ け で な く、伝 来事情 や調査経過、 さ らに は資料 の 意義付 けな どを伝 達す る必 要 も皆無 で はな い。展示意 図 を 「モ ノ」 のみ に よって実現 させ るこ とが 容易 で はな い か らであ る。 資料 の 意義 の よ うな抽象概念 = 解 釈 の伝 達 は、通 常 は言語 に よってお こなわれ る。画 像 や音 声 に よって言語 を表現 し、 それ に よって伝 達が可能 な場合 もあ るが、 多 くの場合、抽象概念 の 伝 達 は文 字 を必要 とす る。 それは決 して資料 に随伴 して い る もので はな く、展示 を企画 し、実 施す る側 = 展 示 製作者 の行為 として付 与 され る もので あ る。人 文系 の博物館 の展示、 と りわ け 歴 史展示 で は文字 へ の依存度が高 い 。 本稿 は、展示 と文字 の 関係 に存 す る異 なる 2 つ の側面 の うち、文字 を使 ってお こな う展示 の 方法 上 の 課題 を明 らか に しよ う とす る もので あ る。 この場合 の言語 は 日本語 であ り、文字 は漢 字お よび ひ らが な とカタカナであ る。 また、論 旨を明瞭 にす るため文字 へ の依存 度が きわめて 高 い展示 の ひ とつ で あ る歴 史展示 に限定す る。 2 展 示 と文 字 文字 を使 ってお こ な う展 示 の 形態 は、 つ ぎの 3 つ の段 階が考 え られ る。 まず、資料 固有 の基礎情報が あ る。 名称、法量、 出土地、 出 自、伝 来 。所有 関係 、年代、作 者 、材 質 とい った表示 で あ る。 ―‑113‑― 博物館展示と文字 は記号 その もので はな く、記号 に よって表 され よ う とす る実体 のほ うで あ る: ど の よ うな記号 で 表すか よ りも、何 を表現 して い るかが、 よ り本質 で あ る。歴 史が解釈 に基 づ く叙述 だ とす れ ば、 表現す べ き ことは歴 史 を叙述 す るための 「 事 実」 にほ か な らな い 。博物館 の歴 史展示 が発 ー して い るメ ッセ ジ も、歴 史上 の 「 事 実」 に よって構成 されて い る とい える。 以前、先住 アメ リカ人の言語や人類学 を研究 してい るアメリカの作家 スー ・ハ リソ ン氏 の 『アリュー シャン黙示録』 (第 1部 。第 2部 )を 読 んだことが ある。紀元前7000年とい う途方 もない過去 の、極北アリュー シャン列島での人びとの愛 と生 きるための闘いが描かれた作品で あ った。内容 は省 くが、そ の第 2部 『 姉 なる月』 を翻訳 した行方昭夫氏 による 「 訳者あ とが 一 き」 に、次の 文がある。 殺人、近親相姦、皆殺 し、決 闘、強姦、姦通、 クジラ狩 り、噴火な ど外面的な出来事 の連 「 続する作品であるが、その描写には、先史時代 の衣食住、風俗習慣 についての作者 の長年 の調 査研究の成果がふんだんに生か されてい る。魚 の釣 り方、調理法、保存法、アザ ラシ、クジラ などの狩 りの用具 と方法、石刀 の作 り方、彫像 の意義、 カヤ ックや家 の構造、 リー ダーの交代 など、博物館でなければ得 られぬ知識が生 身の生 きたモデ ルを用 いて、具体的に示 されてい る。 ……作中人物 の心 の中の描写には女性作家 らしい繊細 さが発揮 されてい る。彼女は人物 の 内面 を、作者 の説明や解説な しに、そのまま地の文章 の中に組み込 んで叙述す る描出話法 を用 いて い る。 これによって読者 は直接人物 の心 をのぞ き込める。《 誰》や 《ナイフ》や 《血》 の気持 が手に取 るように伝 わって くる。風俗習慣 はちがっていて も、心 の中は現代入 と同 じではない か ? そ れがわかると、作中人物 は読者に とってご く親 しい存在 になる。 」 ( 行方昭夫、1 9 9 6 年) 。 先史時代 の世界 と並べ るのはやや突飛な組み合わせであるが、 もうひ とつ別 の本 の中か ら例 ニ クソ ン』 とい う映画の を紹介 しよう。映画 『J F K 』 で知 られたオリバ ー ・ス トー ン氏 の 『 ための注釈付 きシナ リオである。言 うまで もな く、 ニ クソ ンは第三七代 アメリカ大統領 だった リチャー ド ・ニ クソ ンである。 シナ リオを出版する際の編者であるエ リック ・ハ ンブルグ氏が その前書 きでニ ュー ヨー クタイムズのカー リン ・ジェームス氏 の コラムか ら次のような一節 を 引用 してい る。 映画 で歴 史 を語 る ことは、単純 な ことで も、新 しいこ とで もない……歴史は事実 の解釈 で 「 あ り、表面的には 〈 客観的な) 歴 史 で も何 らかの見解 を含んでいる……本当 に問題になるのは、 歴史 を語るのに映画を利用する ことではな く、一般的 になった歴 史見解 に挑 むために物語 を利 用することだろ う……存在 しない幻想 の ( 真実) を 、映画が引 き起 こす ことを人は期待 してい るのだ。 」。 歴 史の 「 真実」 は幻想 であって実際に存在 しない、あるのは解釈 だけだとい うのであ る。映 歴史見解」 に対 して、 よ り 「 画 は、 ある種 の常識化 した 「 真実」 に近 い解釈 を引 き起 こそ うと ニ クソ ン』 だけでな く、ベ ルナル ド ・ベ ル トル ッチ氏が す るものであるとい う。 これは この 『 映画化 した エ ドワー ド ・ベ ア氏 の 『ラス ト ・エ ンペ ラー』 ( 田中昌太郎訳、ハ ヤ カワ文庫、 1 9 8 7 年) や ステイァブン ・スピルバ ー グ氏が映画化 した トマス ・キニー リー氏 の 『シンドラー ズ 。リス ト』 ( 幾野宏訳、新潮文庫、1 9 8 9 年) な どにもあてはまるだろ う。 歴史」が 「 共通 してい るのは、 「 解釈」 だ とい うことで あ る。紀元前7 0 0 0 年のア リュー シ ャ ‑116‑― 博 物館 展示 と文字 ー ・ハ リソ ンがそ 現代入 と同 じ」であ つたとい うのは、書 き手 ス 「 叙述」 うい う解釈 をした とい うことであ って、 自己の解釈 を小説 として叙述 したので あ る。「 によって、 は じめて解釈 の伝達 が可能 になる。歴 史 は、その よ うに して現代 に存在す るので ンの人 び との 「 心 の中Jが あ って、た とえば土の中か ら出現 した土器 や、文字 の書 かれた紙 自体 が歴 史ではない。そ の 歴 歴史」が発見 され、叙述す ることによって 「 モノ」 を解釈することによって、は じめて 「 「 史」が存在す る。 文字禍』 とい う短編がある:古 代 メソポタミアの若 い歴史家あ るい は宮 中島敦氏 の小説 に 『 歴 史 とは、何 廷 の記録係 とい う青年が登場 して、老成 した歴史学者 に質問す る場面がある。「 歴史 とは昔在 った事 をい うのか、 です かJと 質問 したのだが、老歴史家 が黙ってい るので、「 それ とも粘土板 に書かれた文字 をい うのかJと 質問 を変えた。当時は紙がなかったか ら、文字 は粘上板 に彫 られていた。老歴 史家 は言った。歴 史 とは、昔在 った事柄 で、粘上板 に誌 された ことを言 うのだ。 このふたつ は同 じ事だ と。青年 はさらに書 き漏 らしはどうなのか と尋ねた。 書かれなかった ことは、なか ったことだ」 と。 す ると、老歴史家は こう言 ったのである。 「 こ うした解釈や叙述 は、その叙述 してい る時代 の、叙述す る者 の常識が反映せ ざるをえない。 歴 言 い換 えれば叙述す る者 の常識 しか これを縛 ることはで きないのだ と思 う。 したがって、「 書 かれた もの」 を理解する場合 にも、それを書 い 史」 は常に書 き換 えが可能であ り、過去 に 「 た者 の常識 にしたがって読 まなければならない。 渡邊華山の逆贋作考』 (河出書房新社 、1996年)の 紹介が朝 日新 聞の書評lld 月山照基氏 の 『 にあった。評者 の黒川創氏 は、つ ぎの ように述べ てい る。 約 三万年前、 ニ ング ンは、は じめて洞 くつ の壁 に絵 を描 いた。 この とき、 (贋作)の 歴 さ打 たれた 自然 を、模倣する 史 も、同時に始 まった。なぜな ら、絵 を描 くこととは、人が′ 行 いだったか らである。―― はるかのち、近世 までの 日本で も、模倣が背徳 だとは考え ら れてい なかった。絵師は既存 の絵 を模写することで技 を磨 き、芝居や歌 は先行 の作品をも オリジ じる ことか ら生みだされていたか らだ。 (贋作)が 罪悪視 されるようになるのは、 〈 "が 発見 され、それが金銭や社会的地位 に結びつ く、近代 に入 ってか ナル)と い う 価値 らのことだ。(真作)と (贋作)の 明確 な分かれ 目を、《近代》が必要 とした とも言えるだ ろ う。 (1996年 3月 24日 朝刊) 渡邊華山の逆贋作考』を通読 してい ないので断定 は差 し控 えるが、 遺憾 なが ら、その後 も 『 渡邊華山は贋作 に罪悪感の存在 してい なかった江戸時代 を生 きたか ら、模倣 もした し、後世贋 真作」 の人でなけ 作 と見なされ る作品 も描 いた。 しか し、明治以降の人びとにとって華 山は 「 真実 のね じまげ」がお こな ればならなかったか ら、華山の模倣 した相手 を逆に贋作家 とす る 「 われたとい うのが月山氏 の推論 らしい。 この推論か らもわかるように、江戸時代 の事象 を、それ以後 の時代 の常識 で解釈す ることは、 事実 のね じまげ」 をも見失 う結果 に 「 事実」 を見誤 り、場合 によっては後の時代の人による 「 なる。 もちろん、 この場合 は江戸時代 には贋作へ の罪悪感 の なかった ことを実証する必要があ る。贋作 に対する罪悪感欠如 の実証 を根拠 として、模倣 =贋 作 とす る 「 事実 のね じまげ」がお こなわれた ことを指摘するのが 「 解釈」 であ り、 もしか した らやは り贋作 を意図 したのだとい ―‑117‑― 博物館 展示 と文字 う別 の解釈 も成 り立 ち うる。 よ く 「 真実」 はひとつ で あるとい うが、歴史 にたったひ とつ の 「 真実」 は存在 しない と私 は考えている。 藪 の 中』を語 るまで もな く、複数の観察者が い た場合、彼 らが述べ た観察結果の どれが事 『 実なのか とい う問題が起 こる。すべ てが異なる観察結果 を述べ たとき、唯一の事実 とい うもの は存在 しない。同 じ事実 も、その発生時つ まり観察時点で述べ ることと、 その後に述べ るとき のあいだに整合性 は希薄である。書かれた ものが 固定 された時点 の ものであるのに くらべ、述 べ る行為 は、常 にその述べ た時点 での状況に規制 される。川田順造氏 は、日 頭伝承 によって語 られる歴 史は現在か らの絶 えざる過去 の再解釈の結果 として語 られると指摘 してい る ( 川田、 (18) 2004生 F)。 歴 史展示 は、 同 じ資料 を提示 しなが らも、 こ う した再 解釈 の可能性 を手 んでい る。 しか し、 展 示 で あ るか らに は無 制 限 に解 釈 を許容 す る もの で は あ りえ な い 。 「資料 が 内蔵 す る学術 情 報」 を研 究す る ことに よ り導 き出 し、 その成 果 をふ まえて 「 教育」 す る ことが博物館展示 の理 念 で あ るか らだ: なん らかの 抽象概 念 を伝 達 す る際 には、 言語 が必要 で あ る。 抽象概 念 の伝 達 とは、 「自分 が 頭 の 中 に抱 い て い る (抽象 的)な 広 義 の思考 内容 の コピー を相手 の頭 の 中 に も創 り出す行為」 (20) で あるとい う。そのため には、 「 頭 の 中」 の ものを 「 何 らかの方法 でその存在 を知覚 で きるよ うなものに直 さな くてはならない」 のである:メ ッセー ジ =叙 述である。それは観覧者 と共通 の了解 にもとづいた決 まりにしたがった記号によってなされることになる。 それが、展示資料 (モノ)と ともにある文字である。 4 展 示 と経験 展示 を媒介 とした コ ミュニケー ションは、展示 を経験す ることによって果 たされる。 「 展示 をつ くる側が何 も考えなかった として も、観覧す る側 はそこか ら勝 手に何 らかのメ ッ セー ジを受け取 るのだ。 J(K.マ ックリー ン、2003年)。 それが経験である。文字による情報があたえられれば、 それは 「 勝手に」ではな く、ある意 図に応 じた経験 を誘発す ることが可能になる。歴史展示 において、展示意図を実現す るには、 誘発 と誘導が必要である。 「 博物館関係者 は、展示 を製作物 だ と考えがちだが、それを利用 (観覧)す る側 にとっては 展示 は経験 である。展示場で人 々が どのような行動 をと り、 どう感 じるかは、何 を学 んでいる か と同 じように重要であ り、それ らは展示 のデザイ ン、メディア、時間配分 (ペース)と 深 く マ ックリー ン、2003年、35頁)。 関わっている。 」 (K。 展示 は展示資料 =「 モノ」 によってお こなわれるか ら、「 モノJの 語 る内容が多 ければ、文 字 によって表現す る内容は少 な くなるはずである。 ところが、実際 はそ うはならない。 展示 としては不適当ではあるが、わか りやす い例 として、現代人がふつ うに読 める新聞の任 意 の 1面 を展示 したとしよう。 だれ もが読めるか らといって、その紙面 の情報か ら全員が展示 意図通 りの読み方 (理解)を して くれるとはか ぎらない。 どこを読 んで、何 に気がついてほ し いのか。そ う した思 考 を誘 導す る案内が必要である。その部分 がわかるよ うな表示 (矢印な ―‑118‑― 博 物館展 示 と文 字 のはむず ど) を くふ う した として も、そ こか ら何 を汲み取 ってほしいのか とい う情報 を与 える =文 か しい。言葉 によって、文字 によって補 うことになろ う。 この ようにして、展示 には言葉 ` のではな く、伝 えたい 字 による導 き ( ガイ ド) 力 不可欠 となる。その量は資料 によって決 まる の量 も増大す 情報 の内容 によつて選択 される。伝 えたい内容が大量 で複雑 になれば、文字解説 ・ の解説 を別に る。そのすべ てを展示 によって実現す る ことが 困難 にな り、印刷物や映像 音声 (24) 用意す る ことをせ まられ る。それで も、展示 か ら文字 を切 り離せないのであ る。 歴史展示 に文字が不可欠であるのであれば、展示製作者 は、展示デザイ ンにどのようにして 文字 を組み込むか を考えなければな らない。 言葉 で しか説明で きず、物質的 に示す ことが不可能であれば、その K。マ ックリー ン氏 は、「 コンセ プ トは展示 に不向 き」 だが、それは展示 に解説文がい らない とい う意味ではない とい う マ ックリー ン、2003年)。む しろ、解説 によって展示 されるモノを支持 した り、その質 を (K。 高 めることがで きる と主張す る。だか らこそ、「テクス トも容易 に利用 しやす くす るとともに、 ー ・ 要 も得ていることが きわめて重要になる」 とい うのである (リンダ ファ ガソンほか、2002 年、 9 頁 ) 。 モノ」か ら直 短時間 に、即物的にお こなわれる経験 に、言葉 は過剰 で あ ってはな らない。「 モノ」 を提示す る価値 を減 じ 接得 てほ しい情報 は、それを導 くだけでよい。過剰 な解説 は、「 かねない。 書 の至宝」展が 開催 された。私 にとってたいへ ん関心 の 2 0 0 6 年1 月 に、東京国立博物館 で 「 高 いテーマであ ったが、遺憾 なが ら、観覧の機会 が得 られず無念 の思 い を抱 いていた。 しか し、 最近古書卑 でその大部の図録 をもとめて、念願 を果た したのである。 もちろん、実物 を観覧で きなか った憾み は残 るが、 これを歴史展示 とす れば図録で充足 されるもの も多 く、閲覧 の 自由 度 の高 さか らも、展示 を補 って有効 である。その最大 の利点 は、解説 に費や された文字 の多 さ とていねい さ、そ して利用 の 自由度であ る。 しか し、 この図録 は書籍 であ って、 もはや展示 で はない。 5 お わりに 歴史展示 は、資料 の調査研究 に基づ く解釈 の提示 であ る。展示製作者 自身が資料 の研究を通 じてある歴史事象 を理解 した よ うに、観覧者 を導 くので ある。展示 の構成 は、 資料 の状態 に よって制約 されるが、総体 としては自由度の高 い ものである。 しか し、博物館展示 では、展示 製作者 自身が体験 した紆余曲折 を省 き、最 も効率 のよいガイ ドが求 め られる。文字は、そのた めに活用 される。展示資料 とともにある文字は、経験 を誘発する導 き= ガ イ ドであ る。 文字展示論 とはい えない思 いつ きであるが、導 きとしての文字展示 の概念 と方法 にどのよう な規範が求め られるか、 さらに考察 を深 めたい と思っている。 ―‑119‑― 博物館展示 と文字 註 (1)展 示意図に よって異 なるが、展示 を構成 す る媒体 に文字 を用 い る場合 をい う。展示 資料 とは別 に 供 されるパ ンフレッ ト、 日録、図録、解説図書 な どはふ くまない。 (2)後 藤和民氏 は、歴 史展示 を、 「 特定 な歴史 的観点 (史観)に もとづい て、歴 史的価値 あ りと認 め た資料 (史料)を 駆使 して、 ある特定 な歴 史事象 を明 らかにす る とと もに、そ こに、 ある特 定 な 歴 史的意義 を把握 し、それ を公 衆 の 前 に提 示す る」展示 と定義す る。 後藤 1981「 歴 史系博物 館」、 『 博物館学講座 』第 7巻 、雄 山閣出版、175頁。 (3)後 藤和民 1981「 歴 史系博物館」、 『 博物館講座 』第 7巻 、雄 山閣出版、148頁。 (4)博 物館展示が 「「もの」 それ 自体 を見せ ることに始終す るのではな く、「もの」が 内蔵す る学術情 報 をそれぞれの学問分野の研 究成果 を基 に、思 想 ・考 え方 ・史観等 を伝達 す ることを命題 にす る 行為 であ るこ とは、現在 までの博物館展示 の命題 に関す る研 究か らも自明であ ろ う。」 (青木豊 『 博物館展示 の研 究』、雄 山閣出版、2003年、169頁)。青木豊氏 は、 「もの」 を一 次資料 だけでな く二 次資料 もふ くんだ観念 で使用す べ きだ と述 べ て い る (172頁)。 (5)展 示資料 も展示製作者 の発す るメ ッセ ー ジを伝達す る機能 をもつ か ら、展示 資料 の提示 のみで展 示 を完 結 させ る可 能性 を否 定 はで きない。 (6)K.マ ック リー ン 井 島真 知 ・芦谷美奈子訳 2003『 博物館 をみせ る人 々 のための展示 プ ラ ンニ ング』、玉川大 学出版部、145頁。 (7)三 浦篤氏 に よって紹介 された マ ネの 「オ ラ ンピアJ(EDo Manet、 1863、オルセ ー 美術 館)の 解 釈 の変遷 が興 味深 い。美術 史学 は美術作 品 の意味 の解 明が 目的で、「 他 の 画像 資料 や文 字資料 の み な らず、歴史事象 そ の もの もまたデ ー タとして用 い る」 とい う (三浦篤 2006「《オラ ンピ ア》 の変貌―― 美術 史学 と歴 史記述」、甚野尚志編 『 歴史をどう書 くか』 、講談社、132頁)。 (8)新 井重三 1981「展示 の形態 と分類」、『 博物館学講座』第 7巻 、雄山閣出版、12頁。 (9)青 木豊 2003『博物館展示 の研究』、雄山閣出版、280頁。 ⑩ 村 上義彦 1992『博物館の歴史展示 の実際』 、雄山閣出版、27頁 OD 村 上義彦 1992『博物館の歴史展 示 の実際』、雄山閣出版、26頁。 ⑫ K。 マ ックリー ン 井 島真知 ・芦谷美奈子訳 2003『博物館 をみせ る人 々のための展示 プラ ンニ ング』 、玉川大学出版部、143頁。 ⑬ 川 田順造 2001『口頭伝承論』下、平凡社、230頁。 14)池 上嘉彦 1984『記号論へ の招待』岩波新書、2頁 。 ⑮ ス ー ・ハ リソ ン 行 方昭夫訳 1996『姉なる月』下、晶文社、106頁。 m エ リック ・ハ ンブルグ編 1996『ニ クソン』、池谷律代 ・土田宏訳、竹書房文庫、16頁。 m 1976『 中島敦全集』第 1巻 、筑摩書房。 181 川田順造 2004「口頭伝承文化 のシス テム としての伝聞」、川田 『コ トバ 。言葉 。ことば』 、青土 社、183頁。 09 青 木豊 2003『博物館展示 の研究』 、雄山閣出版、23頁。 00 池 上嘉彦 1984『記号論へ の招待』、岩波新書、37頁。 2D 池 上嘉彦 1984『記号論へ の招待』、岩波新書、38頁。 ―‑120‑― 博物館展示 と文字 ヽ″ わし ニ K . マ ック リー ン 井 島真知 ・芦谷美奈子訳 2 0 0 3 『博 物館 をみせ る人 々の ための展示 プ ラ ン ング』、工川大学 出版部、 3 3 頁。 80 展示意図 を実現す るための誘導であ って、展示製作者 の主 観 や恣意 を押 し付 け るため の誘導 で は あ りえない。 ∽ ー 博物館 の言語 ポ リシ 」 を 梅樟忠夫氏 は、『メデ イア としての博物館』 (平凡社、1987年)で 、「 博物館 とい うものは、実物 を展示 して、なに ごとかをみる人たちにわか らせ る装 論 じてい る。「 置 である。 しか し、実物がならんでい るだけですべ てがわかるとい うものではない。そ こには、 よ りふかい理解 をうながすために、言語 のたすけは不可欠である。文字言語、音声言語両方 をふ くめて、博物館内ではおびただ しい言語 が使用 されているのである。博物館内で、その言語 をい ー かに使用す るかについて も、デザイ ンポ リシー同様に、 しっか りした言語ポ リシ がなければな らない。 どの言語 を使用す るか、 どのような文体 にするか、表記法 をどうするのか、字体 はどう かなどの問題であ る。 このような点 にふかい注意をはらうことは、入館者 に展示物 の意味を理解 して もらうためにも必要であるし、展示 をうつ くしく構成す るためにもおろそかにはで きないこ とである。博物館 における言語ポ リシー は、ふか く意をはらわなけれ ばならない事項 のひとつ で CD ある。 」 (137頁 )。 K . マ ックリー ン 井 島真知 ・芦谷美奈子訳 2003『 博物館 をみせ る人 々の ための展示 プ ラ ンニ ング』、玉川大学出版部、3 3 頁。 (江戸 川 区郷土資料 室学芸員) ‑121‑ 一 床展示 0床 下展示 についての 考察 ― 博物館建築 か ら見 た床展示 ・床下展示― A Study of Floor Display and Under Floor Display 小 島有紀子 KOJIMA Yukiko 1 は じめに 學の 東京人類學會雑誌』 に記 した 「 博物館 における展示 は、明治三十七年に前田不 二三が 『 展覧會か ものの展覧含 か」の論文 を初め として、今 日に至 るまで数多 くの研究が成 されてい る。 博物館展示 の研究』 と 博物館 の 中で重要 な役割 を担 う展示 を、青木豊は展示学 として捉 え、『 い う研究書 の 中で博物館 における展示 をまとめてい る。 この研究書 では、それまでまとめ られ てい なか った展示形態 に展示分類基準 を設けて、展示 の形態 の分類 を体系的に明記 してい る。 その中で、展示分類 基準 の一つ として展示場所 による分類がなされてい るが、今 日見 られるよ 一 うになった床展示 ・床下展示 は展示形態 の つ で、屋内展示 の 中に含 まれるもの と看取 される。 ー 展示室内の展示 は、主に絵画は壁 に展示 され、それ以外 の資料 のほ とん どが展示台か展示 ケ ス内へ の展示 となるのが一般 で、床及 び床下展示 は異例 の展示場所 とも言えるものである。 「 展示す る」 とい う意図 に基づいた床展示 ・床下展示 は近年行われる様 になって きた展示 で あ り、床展示 ・床下展示 についての研究は現在 の段階では先行研究は見当た らない。 床展示 ・床下展示 は、博物館建築設計 の段階で確実 に設計図に組み入れなけれ ば成立 しない 展示 である。そのため、特別展示や企画展示 では現在 の ところ床下 に展示が されることはな く、 一 ー 床展示 もご く稀 なケー スであ る。 また、床 と 体 になってい る形式の展示 ケ ス を使用 した展 示 のため、通常 の建築 よ りも床 の仕上げ材 の選択 をする際に、展示資料へ の保存科学 か らの諸 ・ 問題 を考慮 に入れなければならない。そ して、展示学や資料展示後 の保存科学 来館者へ の配 慮 を含めた人間工学 の問題 も検討 しなければならない。そのため、展示 の形態 のひとつ とい え ども展示学 か らだけでは床展示 ・床下展示 については考察が難 しく、博物館建築や展示学、保 存科学等 のい くつ もの研究 を集合 させて考察を行わなければ、結論 を導 き出す ことが出来ない。 今回の考察 は、その中の博物館建築 か ら展示室内の床展示 ・床下展示 を捉 えた考察 とす るもの である。 2 床 展示 0床 下展示 の定義 来館客が立ち歩 く床 と同 じ表面 を、資料展示 に使 う展示形態」 と 展示室内での床展示 は、 「 定義付 けることがで きる。 この場合 の資料 は、物理学的 に捉 えた場合 の二次元 もしくは三次元 と installation】 の資料 となる。 ここで明確 に分類 してお きたい ものが、イ ンス タレー ション 【 い う展示形態 を持つ資料 についてである。イ ンス タレー ションは日本語 (カタカナ英語)で は ―‑123‑― 床展示 ・床下展示 についての一 考察 設置 。装置 の意味であ り、英語では取付 け 。据付 け 。架設 もしくは据 え付 けられた装置や設備 の意味を持 つ。博物館展示では主に現代美術 に対 して使 われる言葉であ り、 々な物 。 様 体 道具 を配置 してある状況 を設定 し、その展示空間全体 を作品 とする手法 。またはその作品 自体 を指 す言葉である。 これは1960年代以降一般化 した とされる展示形態である。インス タレー ション の形態 をとっている作品 。資料 の場合 は床が作品の一部 となるため、床がない と作品 として 成 立 しない。床 を、資料 を展示す るために使 う床展示 とは全 く別 の もの となるので、イ ンス タ レー ションは床展示には含 まない。 次に床下展示 であるが、展示室内外 を問わず 「 来館客が立ち歩 く床 の表面 よ り下に掘 り下げ られた空 間に資料 を展示する展示形態」 と定義付 けがで きる。 この展示 の場合 も二次元か三次 元 の資料 となるが、ほとん どのケースが三次元の資料 を展示 してい る。 3 床 仕上げ材 からの床展示 ・床下展示 3‑1 床 仕上げ材の種類 と特徴 博物館 の館内で床展示及び床下展示が行 う際 には、設計 の段階で組み込 まなければならない とい うことは先に述べ た通 りである。床展示は、床仕上 げ材 に直接資料 を展示す る。 また、床 下展示は床下の空 間に展示ケース を設置 した場合 と、空 間自体 を一つ の展示ケース と見立てて 資料 を仕上 げ材 に直接展示する場合がある。 その為、床仕上げ材 の選択が資料保存に直接 関係 す るのである。博物館で使用 されてい る床仕上げ材 は①木質素材②軟質素材③弾性 素材④石材 ⑤ タイルの 5種 類 に分類が出来 る。 ①木質素材 は、無垢 フロー リ ング (単層 フロー リ ング)。 複合 フ ロー リ ング ・化粧 ハ ー ド ボー ドの 3種 類で、国産 もしくは輸入素材 である。 また、収蔵庫 などによく使用 されるのが、 この本質素材 である。 ②軟質素材 は主にカーペ ッ トであるが、素材 は天然繊維か化学繊維の どちらかである。博物 館内で使用 されるのはほとん どが天然素材 のウールか化学繊維 のアク リル系繊維 である。 ③弾性素材は コル ク床材 。リノリウム ・ビニル床材 ・ゴムの 4種 類 であるが、 コル クが使用 されてい ることはほとん どない。通常P― タイル と呼 ばれるビニルの床材が最 も多 い と看取 さ れる。 ビニルとリノリウムは見た 目がほとん ど変わ らない加工が施 されてい る場合が多 い。 リ ノ リウムは現在国内で生産が されてお らず、全て輸入 されてい る。 ゴムに関 しては、テラゾー 風 ・エ ンボス風 といった視覚障害者用の順路指示 などに使用 されてい る場合が多 く見 られる。 ④石材 は硬質素材 で大理石 ・石灰岩 。砂岩 ・粘板岩 (スレー ト)。 テラゾーが使用 されてい る。石材 は90%を 輸入に頼 ってお り、更に高価である為、床一面 での使用 はほとん ど見 られず、 エ ン トラ ンス付近等 の一部 の使用 にとどまっているケースが多 く見 られる。 ⑤ タイル も硬質素材で陶器質 タイル ・磁器質 タイル ・テラコ ッタ 。モザイクタイル ・レンガ の 5種 類である。 タイルは国内での生産がほとん どであ り、又、 日本 の各企業の技術 。生産力 が非常に高 いの も特徴の一つ である。 床仕上 げ材 を選択するにあた り、各素材 の特徴 を一 覧にしたのが次 の表 1で ある。 ―‑124‑― 0さ 讐 ︵ 熙黎 ´ど ヽ 十 半 ﹃ ● ■ さ ド ヽ 十■ L■ C や ヽ ヽ ︶ ヽ ﹁ヽ ミ ン Hミ ヽヽ卜 К ヽ E ︑卜 ヽ く︐ さ く 一 二こ﹈﹁Ⅲミ ヽムヽ十 やヽ キ 晋一 平 H ヽ﹁ さ S ヽ 十 ■ 日 ︑ mヽ ︐ ︑ 日 ヽ卜 К ヽ ︑ ト ヽ ニ ミ ヽミ ヽく︐ ゼ く ヽヽ ヽ 上■一 ´ ︑´十 ■ 日 こ КI て 工ヽ ヽN К ヽ ︑ ト ゞ潔 ヽ ミ ヽ︐ 中 晋 ヽキ半 H 全 工ヽ x型 仁 KX ミ ヽミ 中 ヽ 二 m 3当 日 ︐ 懸 t CH ミ ミ ヽヽ ロ ポ ヽ i而 ● 0 組 掏 コ 響 ξ L 一緊 ︶ っ ヽ ミW 一■ 嶺 ︶ ● D ポ ︶ ■ D丼 終 ョ R .0ぺ 卦 .●ト ヨ 黎 掏 留モ ︶ ヨ 躍 ´ ご に型 ポ﹂ L ■ 督 暉 さ 翌 t ゛ぎ 鰤 0■ ﹁ ﹁ ︶t 鰹 !U 響 C 澤 習 .ヾS 条 Rぶ 単 ゛ 卜ヽ S ︻■■ く ざ ■鴫 ´ ヾ . ●く ヽ R 単 ´ Lヽ ま 一■■ く さ ′ 0● ゛■ ´椰 卜 t壇 ■ 墨 雲 塊 ● . 肛 終 畳 く驚 ︶ 螺0 ヽ ヽヽ ト ト ヽ 終= く さ 郎ミ ︶ 準 糧 S C く ′﹀ぜ. ぎ ■菫 ■ ヨ . ´i r J 岸 S 薫 製 ●● 虐 . f ヽu鶏 S置 製 . ヽ ﹁ ■ Кヽ ト ト ヽ姜 Ξ 瑳 . f ユ 雄 世 ︶ 郎 岸 ヽ ゛蒻 E ■イ ー ー量 ゛ ● ヽK ぎ ′v紅 終 回 彗 ︶ 椰 さ . o´ F 一﹂ ミC 翌﹂ 姜 世 口 ﹁ヨ ≪ 虐 ︑ ヽヽ ′Ot ■ に 轟ヽ ﹀ コ黎 ´ 襦 終 製捩 里 選 C Sヨ .0´一︶ 製章 St立 に 即 ■県 脚 C ヽ ヽ卜 ヽ 曜マ ゛堅 u 翠 F ■亡 Ю ︶く 莉脚 日 ■ エー ヽ ミ 語 ︶ミ 撃 里ま ミ 嘩 ド ヽ ′ ′卜 ヽ■ 彙 壼 ロニ ´ ′ ■ エー ヽ 翠 ●製 ¨紫 メ 里 嘔 ヽ ︒で ︶彙 連 つ!土 籠 錮 ■ 薫 事T O C ヽ ミ よ ︶ 硼 神 O ´う ち 涸 ! K pt 刊堅 矧 終 さ 翠 ′v忙 ヽ ヾ雀 ● H 熙 一リ コ 市 卜 ヽ 一 ● 一﹁ ゛ 判 ゛ ヽ ヽ 集 個 嗜 C 旺伸 興 智軍 ´ ポ ﹁ v黎 . £■肛菫 ヾ . . Sく ヽ К ミ £ ︶当 せ掟 ■ ﹀●濠 ■ ヽ準 晏 ︶ 暉 忙 ハ+ 卜 ヽ ヽミ 製 ュ望 くこI 圭 く t エー ヽヽヽ ﹁枷 弩 C ︐護 K . ヾ一一 ≪ ﹈一 ●■ユtr ﹁ ヽt .ヾt 終 半 K さ 中 ざ い N ■ ヤ !L ミ 炒S ぶ ミ ヽヽ ニ ヤ 3L ■ξ ^ . v■ 一 き ■肛 ヽ畔ミ ヽヽ 卜 0 . 匡f ヽ■ 面 倒 ︶ ﹀¨ К ′iC t i く t や 0 ● 6 幸 掏 含 CC 怪 C ︐ . L 華 恒 . ぎ ヽョ ヽこr 土ヽ . t案 こ 黎 ゛£ ■ R 直 ′v■ ヤ ミ ■ ■ 壼 ︶ ゛ ! H 三 口 稲 . ヽr ︐怒 エ 々 集 土亀 黎 ■■ ︶ 9 ﹁■ 昼 覆 ′vト ヤ 彙 集 一 当 さ ゛t ︶ e t て £ ヽヨ 饂畔 芭 翠 ● ■護 こ ■ ′ 習 ●ミ ー ー﹁ ︐ 製 OC ● 製 く 響 ミ C t R . t ●薫 ヾ 匈コ ミ 朴 単 ト ヤ ●翼 撻 . 0 姜 製 ︐ 嘔 終 皿く ヽ■三鳴 . tC■ C t 掏 ≪t C バ よ 8 2 ﹁ cに ゛ 軍 き ● 円 . ヾ■ 翠 留 !J 壊 終 劇 ︶ 翠 R 準 ﹀ぎ 終世 墾 . . 枷 ■ ■ 夕 ゛ 最 K 沢 怒 ■ . ヾ ti ■ 日 ヽか堅 楓遷 ′ り 工^翼 基 ミ 留 t 3 千 r O ヽ■ Oc ︶ C 刹 翠 ヽ 終u ︶ L 型 . 患世 8 ● 終 ヽ 口 0■ ュ r史 . 壼 終 絆 ギ 蜜 C I 計ミ ー ● ヽく . Iヽ ﹁ ︐ O S ヽ K 蒻● 装 ヽ さ ミ L ヽ ま 2 ■ K 伸 ヾ 0■ 事 塾 撃 量 ■ ぐ︐■ つ ヽ 日 3当 .゛ ︶ヽ 室 ユ 翌 ヽ ′﹀■ 夕 ヽ 理 . ■ ■ヤ ● ヽ ︱ 卜 ■ 歴 掏製 S ヨ . コ≦ 終 口 鬱 L 事 ﹀ヽ一 ヽ理 L ヤ ●智 絆 終 ︱ P sぎ エ 軍 一 ﹀ ︵ ︐ ︱ヽ ﹁ ミ ヽ日 二 ヽ︱ 卜電 F一 下押 ヽ 十卜 H ヽ 爆や ﹁ 製 や ヽ ゝ ミ畔 製 +r ■3 絆 Ⅲ習 ヽ ﹁ヽ ミ ・黎 K 案Cに 3 ● に追 0 岨 ﹁ 兵 S ´ 翠 ´ ﹀つ ゛ ︶3 2 ヽ ヽ卜 Sミ ヽ ヽ日 業 B O R一 ヽ 信 0・ o︐ 一C ● ︱午 ■ド ● 0訳´ 譜穏 ヽ コ 準誕 K К ︱´ 尊黎 ヽ金 2 ︱ ヽ К︶ ﹁ さ 早 ︱ヽ いト ミ ヽヽ回 誰 樫 ︐κ К 卜護 К Cく C ´ ヽ﹁ ︵ 求さ 黎 ︶ ︐ 髯 К 謡 当 ≦ 理ュ よ 業 更 エー ーヽ ︐ ヽ 重 C ユ ヽ0 ﹁ ︐一 当 ヽ き C■ビ 0 案く 撃誕 回 鷺 F 草ヽ L 0目 ︶ ︐卜 ヽ お 当華 ヽ ヽ 贅 室 ︶ ● ●冬 壺 p3 032 黎 撃 日 ︶ £ 櫂 り朝 や 黎 ヨ 轟 ミ 掏 ︶ぐ 草 ヽ ﹂ 督 準 ヨ ︶ £性 ユ計 遂 れ 日 粂 ミ 掏 ︶↑ 車 ヽい ぷ ミ籠 ヽ さ ユ ぶ 挙 0準優 ヽ投 ゼ彗 ¨ エ ーよ や ヽヽ証 誰 里 ν3 営 0・ 08 ¨ ︐9 一 ポ + C湿 K コ督 ヽ コヽ ミ K 墾 S︐■ ● に 工 ︐ 暉 ヽ性 り酎 壇 さ ポ ′ ヽ +¨ 莱C 逓 Ⅲ習 ヽ 一ヽ R K K 墾 Sに ■■ ︐墾 0■ 賀0 鴫ト ′・ 」 ヽ 個熙 曙゛ 雷暉 怪 黎 ● 一︑ ツヽ︱︐ミ ´製や 臭 ● 3事 掏 製樫 日 判Щに ヽ ︶ ヽ ヽ ﹁︱ 口ヽ 四鯉 ︵ S ︐製 つ 回糎 ユ E十 龍遷 匡 慟 卜 型 コ0 黒 C u 土 I し い ● 図 一ヽ 融 ゼ 輩 ︶ ヽヽ ︱ ︶ ヽヽ 一︱ 口ヽ 理■ 野瓢 ミ憔 郎 ヽ 尊 黎 量慕 半郎 部 憔却 K 果余 125‑― ↑さ 聖僣 ヽ聟 ●さ 当 魁午 ●贅当 ● 奎壇 選苦 雲一 墾ヽ ヤ H ︑ ﹁ヽ ミ ッ Hκ ミ ー ー● 彗 遮 £ ﹁覇 坤郎 t﹁魔 ● C コ ミ ヽミ 牌さ r図 ヽ 塁 型● Vユ :=撻 ヽ碇 留や I‐ 回菫 ヽ■ ,= (」 К製 ごヽ 岬ミ ミ│ ││ ト ヽ /:」 │´[ ミ ヽ経 留輩 3 │ │ ■ト 屎ヽ │ │ ■讐 卜 ヽ │ │ │ ヽ性 ヽ珈 ヽ留 壼0 ■ツ ヤ■ J J ,ヽ γS ≦ , 計選 霞 ヽヽ中一 ヽ﹁卜ヽ一 = r 彗L 二 鶴 菫 ︐ i↓ 醸 │ │ │ 回罪 ■ ざ 攣 謂 │ 証 輩 Cヽし 引 J 低 占 徴 螢 達計 一 床下展示 についての 考察 床 展示 床展示 ・床下展示についての一考察 次 に、 床 下展 示 に使 用 され る強 化 ガ ラ ス に つ い て述 べ て い きた い 。 ⑥硬質素材 Ⅲ 強 化 ガ ラス 床下展示 に使用 されてい るのは強化 ガラスである。ガラスは硬質材 として分類 されてい る。 ガ ラスは、紀元前79年にベ スビオ火山の噴火 で埋没 したポ ンペ イの住宅に使用 されていたよ う にガラスが建築に使用 される歴 史は古 い。基本的な材質はその当時か らさほどの変化はない よ うだが、現在 では技術 の進歩によ り、種類 。面積共 に豊富 になって きてい る。 強化 ガ ラスの特徴及び製造方法 を旭硝子電子 カタログよ り以下の ようにまとめた。 現在、通常の板 ガラス と呼ばれるフロー トガ ラスは、熔解 したガラスを溶解 した金属 に浮か べ て製板する。熔解槽内で熔解 された高温 ガラス素地 を一定温度に調節、連続的にフロー トバ ス に流 し込み成形 してい く。温度は約1,600℃で、 この熱 で熔解 されたガラスは熔解 された金 属 (錫)の 上 を浮かびなが ら広が り、流れてい く過程で温度の降下 と共に固化 し、均 一 な板 幅 と厚みを持 った帯状 の板 ガラス となる。 . \ 口原亀 フ 爾 ― 卜′ヽス 卜鮨 盤 熔解緊 白 切断 購︷ T 自 摯爾気ガス 1 熔融金属 (3) 図 1 フ ロー ト板 ガラス製造工程図 ガラスは壊 れや す い材 質 の代 表 と言 える。宅配 等 の こわ れ ものの表示 に もグラス が使 われて い る程 で あ る。金 属 な どの建材 は、 外 部 か らの力 が作用 す る と、その力 に応 じて変形 し、 同時 にその力 に対抗 す る よ うに、 建材 内部 に力 が生 じる。工 学 的 に、その変形 の割合 を 「ひず み」 と呼 び、 単位面積 当た りの 内部 の力 を 「 応力」 と呼 ぶ 。外 部か らの力が小 さい時 には応 力 とひ ず みの値 は小 さ く、外 部か らの力 が大 き くなれば応力 とひず みの値 は大 き くなる。最終 的 にあ る限界 を超 える と、 素材 が破 壊 され る。 ガ ラスの場合 は、破壊 す る までの応力 とひずみ の値 が 比例 してお り、力 を加 え続 ける と、 不 意 に破壊 す る性 質 を持 っている。 ガラスの破壊 は、 ガ ラ ス を構 成す る原 子 と原子 の結 び付 きを引 き離す事 で起 こる現象 であ る。 床下展示 に使用 され るガ ラス は、 建築用 強化 ガラス もしくは、建 築用合 わせ 強化 ガ ラスで あ る。強 化 ガ ラ スの 製 造 方 法 は 2種 類 あ り、1つ 目は 「 化 学 強化 (イオ ン交換)」で 2つ 目が 「 物理 強化 (風冷 強化)」であ るが、 床下展示 で使用 されて い るの は 「 物理強化 (風冷 強化)」 で 製造 された強化 ガ ラスで あ る。 これ は、 フ ロー ト板 ガ ラス を強化炉 に入 れ、 ガ ラスの軟化温 度 に近 い 約 700℃まで過 熱 した後、 ガ ラス両面 に空 気 を一 気 に吹 きつ け、均 一 に急 冷 した ガ ラ スで あ る。 この工 程 を踏 む こ とに よ り、表面が先 に 固化 し、 安定 した圧縮応力 の層が 出来、耐 圧 強度が 同 じ厚 さの フ ロー ト板 ガ ラスの 3倍 になる。 ―‑126‑― 一 床展示 ・床下展示 についての 考察 取 ↓ 洗浄 ・ 乾燿 ↓ マーク打ち 切 断 ↓ 素板受入 れ ̲面 ̲ 平面 ,強 fヒ 炉 検 → 包→ 出 (r>t^t&0*A) g S 6 図 2 建 築用強化 ガラス製造工程図 建築用合 わせ 強化 ガラスは、 強化 ガラスに更 に加工 を施 した もので 、2 枚 またはそれ以 上 の ガ ラスの 間 に、透 明 で接着力 の 強 い エ ポキ シ樹脂 中間膜 を挟 み、油圧 または空気圧 の圧力窯 に い れて、1 2 0 〜1 3 0 ℃で圧着 した もので あ る。 圧 力窯 (オニトクレープ) 出 ・ 荷 切 . 断 ↓ 素板受入 れ ガ ラ スの間 に 申間膜 を挿 入 1慶勤 1理 ‐ 汗 ‐ 手 疑 亜 ∃ 睡 □ {壼酢 竃蠣 │ ヾ ち (5) 図 3 建 築用合わせ強化 ガラス製造工程図 以上、強化 ガ ラスの 製造 工 程 と特徴 を まとめたが、強化 ガ ラスは通常 の フ ロー ト板 ガ ラ スの 強度 の 3倍 であ るが 割 れ な い わ け で はない 。硬 く尖 ってい る もの な どの衝 撃 や溶接 の 火花 、飛 来物 な どの外力 に よって出来 る傷 で粉砕す る。 また外力 が加 わ ってい な い状態 で も、 ご くまれ にガ ラス 中に残存す る不純物 が光 な どに よる熱 で体積 変化 を起 こす こ とに起 因す る傷 で も粉砕 す る。 但 し、割 れた場合 には通 常 の フ ロー ト板 ガ ラス に比 べ 、破 片 は丸み を帯 びた形状 になる。 また、合 わせ 強化 ガ ラスの場合 は床 として使用 されて い る第 一 層 のみの破損 となるため、 す ぐ に床 に落下 しな い。 写 真 1 フ ロ ー ト板 (6) ガラスが割 れた状態 写真 2 強 化 ガラス 写真 3 実 際 の床下展示 での (7) 粉砕状態 ―‑127‑― ガラスの破損 床展示 ・床下展示についての 一考察 強化 ガ ラス で床下展示 を施工 す る場 合、金属製 の 支持枠 にガ ラス をはめ込 み、 ね じ等 で 固定 す る方法 を とってい る。 支持枠 はガ ラ スの 4辺 全 て に支 持材 が あ る 4辺 支持 の 固定 で あ る。 (写真 3参 照)合 わせ 強化 ガ ラ ス を使用 して い なか った場合 は、 ガ ラス が砕 けて粉 砕 したガラ ス が下 に落下 し、展示 してあ る資料 が破 損す る可能性 が大 き 。更 に、 ガ ラス に人 vヽ 間が乗 って いた場合 には、人 も落ちて しまうため、い くら丸みを帯びた形状での粉砕 とはい え、 を負 傷 う 可能性は否めない。 では、強化 ガラスの耐荷重が どれ くらいであるか とい う点が問題である。今回、参考 にした 旭硝子では 4 mmから19mmまでの厚 さの強化 ガ ラスが製造 されてい る。 国立科学博物館 の新館 3 階で行われてい る床下展示 は、旭硝子 の製造 したガラスを使用 してお り、12mmの強化 ガ ラス を 2枚 使用 した合わせ 強化 ガ ラス を使用 してい る。 この12mm厚さの強化 ガラス 1ぶ の耐荷重は一 枚 で約 100kgである。国立科学博物館 の合 わせ 強化 ガラスは 1枚 が0。 64ゴで、耐荷重 は200kg との回答 を頂 いた。 また建築完成段 階では、 この一枚 に大人二人 ・子供 一人が乗 った状態で衝 撃に耐えられるとい うことであ った。但 し、それ以上の人数が乗った場合や先 の尖 った もので の衝撃が加わった、 もしくは与えた場合 は 「 割れます」 との回答 も頂 いてい る。博物館及 び美 。 術館 は作品 資料保護 のため、傘 の持ち込みが規制 されてい るので、先 の尖 った物 での衝撃は 起 こ りに くいが、女性が履 いてい るピンヒール等 の衝撃が外部か らの力 になって しまう恐れは 充分 にある。旭硝子 で も、12mm厚 さの強化 ガラス 1ゴ の耐荷重は一枚 で約100kgと回答 を頂 い たが、 あ くまで も目安であって保障ではない とのことであ った。 次 に、 ガ ラスの光 の 反射 に 関 してであ るが、 1 2 m m の厚 さの 強化 ガラスの反射率 は7 . 4 % で あ 7 % で あ る。 こ れ は通 常 の フ り、透 過 率 は8 5 。 ー ロ ト板 ガ ラス と変 わ らない 。そ のため、展示 ケ ー ス も同 じ反 射率 で あ るため、展示環境 と し て は 同 じであ る。 但 し、照 明 の 向 きに よって は 展示 資料 が見 難 い場合 が 多 い。 以上、 ガ ラス につ い て述 べ て きたが、床下 展 写真 4 ガ ラスに映 る非常灯 示 の仕 上 げ材 として アク リルガ ラス ( アク リル パ ネ ル) が 使 えるので はな い か と も考 え、 アク リル ガ ラ ス につ い て も述 べ てお きた い 。沖縄 の 美 ら海水 族館 で厚 さ60cm高 さ8.2cm幅 22.5m の アク リルパ ネ ルで 総重量7500tの 海水 お よび生 物 を展示 して い る水槽 が作 製 。設置 されて い る。主 な原材料 はアク リル樹脂 とエ ポキ シ樹 脂 で あ るが、 特殊 製作法 のため 製造方法 は公 開 さ れて い ない 。特徴 は、透 明度 。耐久性 。加 工 の しやす さであ るが、 高温 で変形 して しまい、非 常 に燃 えやす い性 質 を持 って い る.ガ ラス が700℃までの 耐 火性 であ るの に比 べ 、 ア ク リル ガ ラスは60℃か ら80℃で変形 し400℃で着火 の恐 れが あ る。 割 れ に くいの も特徴 の 一 つ で あ るが、 硬 度 はフ ロー ト板 ガラスの三 分 の 一 で あ る。 つ ま り、床下展示 に応用 す る場合 、厚 さ1211mの 強 化 ガ ラス と同 じ強度 を作 り出す ため には、120mmの厚 さが必要 となる。 国 立 科 学博物館合 わせ ガラス方式 で飛散 防止措置 をす るため には、 その倍 の厚 さが必要 にな り、床下展示 をす るため ―‑128‑― 一 床展示 ・床 下展 示 につ い ての 考 察 には240mmの空 間 を余計 に確保 しな くて はな らない 。 この後 に述 べ るが、樹 脂系 は資料 に有 害 な影響 を及 ぼす ため なるべ く使用 しな い ほ うが良 い 建築材料 であ る。 また、耐火性 に劣 り資料 の展示環境 には向か ない 。耐 久性 も強化 ガラスの10 分 の 1し か な く、床 材 と して使 用 す る には厚 くな って しまい、資料 との距離 が離 れ て しま う 等 々の不都合 が生 じる。そ のため、 床下展示 を行 う際 には、合 わせ 強化 ガ ラス を使用 したほ う が良 い と看取 され る。 館 者 の快 。不快 度か らの建築仕 上 げ材 の 評価 一 展示室 の床仕 上 げ材 を選 ぶ上 で、必 要 な条件 の つ が利用者 の使 い やす さであ る。佐 々木朝 登 は展示室 の 条件 ・展示 と保存 を以下 の よ うに述 べ て い る。 3‑2 来 床 は、展示 を見 るため に、見 る こ とのみ に集 中 で きる よ うに、 まず滑 らな い こ と、 平 ら で つ まずか ない こと、 靴 の音が しな い こ と、吸音性 が高 い こ と、 弾力 が あ る ことな どが必 ー 要 であ る。 つ ま り、石張 り、 プラスチ ツク タイ ル張 りよ りも、 ゴム タイ ル、 カ ペ ッ ト、 ジュ ー タ ン張 りの 方が良 い ことに なる。展示室 の 中 で ガ ラス ケ ー スが多 い祭 には、 ガラス は完全 に音 をは じくので 、吸音 は、天 丼 と床 しか な い。 同様 に、視 界 に占め る大 きさも天 井 と共 に大 き く、色彩等 は充分 に配慮 す べ きで あ る。 歩行 をす る上 で、床仕 上 げ材 に求 め られ る条件 は 岡島達雄 の仕上 げ材 の諸研 究 に よ り、 以下 に ま とめ る事 がで きる。歩行時 の弾力性 ・吸音性 。発音性 ・保温性 ・耐熱性 ・粗 滑感 の 6種 類 が必要 であ る。 この歩行 の 条件 を床仕上 げ材 と対比 させ た ものが 表 1で あ る。 弾力性 は歩行 時 の感触 で 歩 きやす い か ど うかで評価 されて い る。○ は歩 きやす い もの 、 △ は歩 きやす い疲 れ る もの 、 ×は歩 きに くい もので記入 した。吸音性 は空 間 で発 生 した音 が響 か な い か ど うかで判 断 し、○ は吸 収す る もの、 ×は吸収 しな い もので記入。発音性 は歩 行 時や物 を落 とした 時 の音 の 発生 を評価 し、○ はあ ま り発 生 しな い もの、× は音 が す る もので記入 した。保温性 で は、空 間 内 の温度変化 で触感 が変化す るかの評価 で、 ○ は確 実 に とらえて変化す る、 △ は あ る程度変化 す る、 ×は変化 しな い で 記 入。耐熱性 は耐 火性 も入 れ、○ は500℃以上、 ×はそ れ以下 で 記 入 した。最後 に粗 滑感 だが、 歩 くための滑 らか さで評価 し、○ は歩 きやす い もの、 △ は加 工 方法 に よってか わる もの 、 ×はひっかか りやす い もので 記入 した。 表 2 床 仕 上 げ材 と使 用 者 の使 いや す さの比較 弾 力性 床材 吸音性 発 音性 保 温性 耐熱性 粗 滑感 フロー リング △ X × ○ × △ 化 粧 ハ ー ドボ ー ド △ X × ○ × △ カーペ ッ ト ○ ○ ○ × × × =/vt × ○ ○ × × × リノ リウム ○ ○ ○ △ × ○ V'.-,1 ○ ○ ○ × × ○ ○ ○ ○ × × ○ ゴ ム , ―‑129‑ 床展示 ・床下展示 についての一考察 石材 × × × × ○ △ タイル × × × × ○ ○ ガ ラス × × × × ○ ○ 表 2よ り、○ を 1点 。△ を0.5点 ・×を 0点 で換 算 す る と、 リノ リウ ム が4.5点で 来館 者 の 快 ・不快感 か らの評価 で は一番歩 くの に適 した素材 で あ るこ とが 分 か る。 3‑3 博 物館経営 か らの床仕上 げ材 の 評価 床材 を選択 す るに当 た っての二 つ 目の条 件 が、 博物館経営 の観点か ら考 えた条件 であ る。経 営 には様 々 な要素が必要 になって くるが、今 回は経 営 の細 か い収支 には触 れ ず、床材 を選 択 す る上 で必 要 な経営上 の条件 のみ を抜粋 し、 こち らもそれぞれ 岡島達雄 の仕 上 げ材 の 諸研 究 に よ り、建築仕上 げ材 と対比 させ た。 今 回、対比 に挙 げ た条件 は 同 じ面積 分 を購 入す る際 の価格 ・耐久性 ・日頃の手入 れの しや す さ 。張替 えが可 能か ど うか の 4 点 となる。 まず、価 格 の基 準 は絶対 数値 での評価 で あ り、○ は 1 ぶ 2 5 0 0 円以下、 △ は 1 ピ 2 5 0 0 円以上5 0 0 0 円以下、 ×は5 0 0 0 円以上 で 評価 した。 仕 上 げ材 の価 格 は、 それぞれの価 格 の平均値 で算 出 した。 耐久性 は、 人 の 出入 りを考 えた上 での 耐久性 で、 ○ は1 5 年以上、 △ はl o 年以上 1 5 年未満、 ×は1 0 年未満 で 評価 した。手入れ は清掃 に 関 しての評 価 で、 ○ は一 日 5 分 以 内、 △ は 5 分 以上 1 0 分以 内、 ×はl o 分以上 で記 入 した。次 に張替 えであ るが、 ○ は張替 え可能、 △ は張替 え可能 だが 容易 出で な い場合、 ×は張替 えが厳 しい もので 評 価 記入 した。 表 3 床 材 と博物館経営上 の条件の比較 床材 耐 久性 手入れ 張替 え × ○ △ △ × ○ △ カーペ ッ ト × × × ○ =1)v2 × × ○ ○ リノ リ ウ ム △ ( 国内 で 生 産 され れ ば ○ とな る) ○ ○ ○ 価格 フロー リン グ △ 化 粧 ハ ー ドボ ー ド L'- -- rt. ○ △ ○ ○ ゴ ム △ △ △ ○ 石材 × ○ ○ × タイル × ○ ○ × ガ ラス × ○ × ○ 表 3 よ り、○ を 1 点 。△ を0 . 5 点 ・×を 0 点 で換 算す る と、 リノ リウ ム ・ビニ ルが共 に3 . 5 点 で博物館 経営 か らの評価 に適 した素材 で あ る ことが分 か る。 存科 学か らの床仕上 げ材 の評価 展示室 内 で 資料 が劣化す る要 因 の 一 つ が、 建材 か らの影響 で あ る。 この 3‑4 保 ―‑130‑― 影響 は一 時的 な もの 一 床展示 ・床下展示についての 考察 す なわち新 し く建 設す る場合 か改装 。改修 工 事 を行 う場合 、 もし くは一 定量 が常 に放 出 され る 半永 久的 な場合 の どち らかであ る。 化学物質 が発散す る こ とに よ り資料 の材料 が変化 した場 合 は、元素が結 び付 い て結 晶成長 を伴 う事 もあ り、物理 的 な破損 な どの被 害 が生 じる こ ともあ る。 保存 を考 えた場合 、化学物 質 の発散が ない床仕 上 げ材 を選 ぶ 必要が あ るため、 これが 3 つ 目 の 条件 であ り、最 も重要 な要素 で もあ る。 表 4 は 床仕 上 げ材 の原材料 と化学物 質、 そ の影響 と発 生 期 間 を表 に した もので あ る。次 い で、 表 5 は 床仕 上 げ材 と保存 化学観点 か らの対比 表 で、 化学物 質 と耐 薬 品性 は、 あ る もの は〇、 な い もの は ×で記入。 生 物被害 、帯電性 はない ものが 〇、 あ る もの は ×で記入。加工 は、 二 次元 展示 で 印刷 ・貼 り付 けが可能 な もの は○、 あ る程 度加 工 で きるが細 か い物 がで きな い もの は△ 、 加 工 で きな い ものは ×で記入 した。 (11) 表 4 原 材料 と化学物質 ・影響 。発生期間 化 学物 質 建材 コ ン ク リー 発生期 間 影響 一時 的 ア ンモ ニ ア アル カ リ性 物 質 油絵 の褐 変 ・緑 青 の 変 質 アル デ ヒ ド 還 元性 物 質 有機 物 質 の硬 化 ・脆 化 、染 料 の 退 色 ギ酸 ・酢 酸 酸性 物 質 含硫 黄化 合 物 含 硫 黄化 合 物 約 2ヶ 月 ト 木 材 V" - tl, 接着材 ゴム 系 ‐ 時的 約 3ヶ 月 金 属腐 食 、貝標 本 の 白色 粉 状 物 質 成 形 、鉛 一時的 顔 料 の変 色 数年 銀 の 黒化 恒久的 金 属腐 食 、貝標 本 の 自色 粉 状 物 質成 形 、鉛 一時的 顔 料 の 変色 約 3週 間 恒久的 ギ酸 ・酢 酸 酸性 物 質 含硫 黄化 合 物 含硫 黄 化 合 物 銀 の黒化 還元性 物 質 有機 物 質 の硬 化 ・脆 化 、染 料 の 退 色 接着材 濯寸月旨 アル デ ヒ ド 一日 寺自 勺 約 3ヶ 月 表 5 床 仕上 げ材 と保存化学観点の対比 加 工 帯電性 薬 性 耐 品 生物 発 揮 性 有機 化 合 物 床材 被害 アル カ リ物 質 酸性 物質 性 中′ アル デ 物質 ヒ ド系 硫黄 ・ 硫 炭酸 勿 化牛 ガス 有機 酸 フ ロー リン × × ○ × × ○ × × ○ × × × × ○ × × 〇 × × ○ × × カー ペ ッ ト × × × ○ × × × × × × = /vt ○ × × ○ × × × × ○ × × リノ リウム ○ × × X × × × ○ 〇 ○ ○ グ 化粧ハ ー ド ボー ド ―‑131‑― 床展示 ・床下展示 についての 一考察 ○ ○ × × × × × ○ × × △ ゴ ム ○ × × × × × × ○ × × × 石羽 ○ ○ × × × × × ○ ○ × × タイ ル ○ ○ × × × × × ○ ○ ○ △ ガ ラス × × × × × × × ○ × × △ 以上 で、 表 5か ら生 物被 害以下 を○ は 1点 ・△ を0。 5点 ・×を 0点 で換 算 し、発 揮 性 有機化 合物 の点数 を 同 じ く○ を 1点 ・△ をo.5点 ・×を 0点 で換 算 した もの を引 くと、 リ ノ リウ ム が 3点 で保存化学 か らの評価 に適 した素材 で あ るこ とが 分 か る。 但 し、展示室 に何 を展示 す るか に よって保存化学観 点か らの評価 は変化 す る。今 回は、建物 を建築す る とい った観 点か ら導 き 出 した、 床仕上 げ材 の評価 であ る。 4 建 築人間 工 学 か らの床 展示 ・床下展示 4‑1 建 築 人間工学 とは 建 築人 間工 学 は人 間工 学が建 築 に応用 された もので あ る。人 間工 学 は、人 間 の 能力 や特性 に 合 った機械 や システムを作 るための学 問 で、 第 二 次世界大戦 中 の アメ リカで軍 事 開発 を 目的 と して研 究が は じめ られた。 終戦後、軍事 関係 のみ に限 られ る事 が な くな り、 日本 で も昭和3 0 年 頃か ら研 究が 開始 され、広 く一 般 の 産業 に まで普 及 す る。 「 人 間 の特性 を知 り、 これ を工 学 的 にアプライす る こ と」 と定義 されて い る。建 築人 間工 学 は これが建築 に応 用 された もので あ り、 機械 や シス テ ム に限 らず 「 人 間 の特性 を知 り、それ を有効 に適用 す る事 を 目的 として、 建築 と 人 間、空 間 と人 間 とのかか わ りに関す るす べ ての事 を扱 う学 問」 と定義 されて い る。 建築人間工学 は、人 間の姿勢 ・動作 ・知覚 。行動 ・習性 。心理 ・生理 といった人間的側面か ら、空 間量 。生理的環境 。心理的環境 ・スケール ・特殊環境 を分析 して割 り出 してい る。建築 設計 は主 として 「 外 か ら内へ」 とい うプロセスか、「 内か ら外 へ」 とい う遠心的な方法 の どち らかである。博物館 の設計建築 では、 内に来るのは資料 と人 間である。博物館建築は 「内か ら 外へ」 の建築 プロセスが最 も必要なものの一つである。 日本で建築人間工学の研究が行 われるようになったのは、1981年か らであるが、その当時は 「 建築学に とっては人間工学は必要条件ではあるけれ ども、十分条件 ではない」 とい う認識 を 基盤 とす るところか らス ター トした。現在 で も、「 人間工学はある範囲を示 す には有効 な武器 であるが、決定的な一つ の数値 で条件 を限定す る事 は難 しい 1面 がある。それにも関わ らず、 しば しば人間工学 か ら出た と称する数値だけが一人歩 きをして、 いかにも正 しそ うな錯覚 を与 えて しま う。それが 自由な発想 の足 を引っ張 る恐れがある。 」 との注意が促 されてい る。展示 方法 で もこの 自由な発想が視覚効果を生む場合 も多 いが、検討の材料 としてはやは り必要な条 件 の一つ である。展示資料 を見 る場合、知覚 と姿勢が重要な要素 となる。 4‑2 人 間の知覚 知覚 とは、外界 の物事 によって起 こされた様 々な事象 を、その受容器 を用 いて把握す る事及 びその過程 をい う。知覚 には視覚 。触覚 ・聴覚 。味覚 ・嗅覚 に加 えて、運動知覚 ・平衡知覚 。 ―‑132‑― 一 床展 示 ・床 F 展 示 につ い ての 考 察 時間知覚 ・内臓知覚 ・空間知覚があ る。 この中で も視覚 は、短時間に広範囲の多 くの情報が得 ることが出来るため、人間が必要 とす る情報の80%以 上 を占めてい る。 しか し、視覚か ら得 ら れた情報は、正確 さや確信 において劣 る事があ るため、その情報 の不足部分 を触覚 で補 うので あ る。そのため、視覚 の次に大切 なのが、触覚 である。触覚 に関 しては、それぞれの密度 の違 い はあるものの、全 身の皮膚 に触覚 セ ンサーが分布 してい る。物体表面 の把握 は、主に視覚 と 触覚 によって決 まる とい われている。物体か ら離れたところか らは色だけが色別 される。近づ 。 くにつれて表面 の模様 。凹凸が分かる ようになる。物体 に触れるほど近づ くと、視覚 触覚 に よる認識 の違 い は少な くなって くる。 つ まり資料 の情報 を資料か ら得 るためには視覚 と触覚が必要 で、展示資料 に近づ く程、視覚 と触覚 の情報 のす り合わせが出来、資料か らの情報が伝 わ り易 い とい うことであ る。 4‑3 人 間の動作 ・姿勢 ざ ひ ︲︲ ︲ ︲ ´ K ユ らニ ︐ あ 赳︱ 四つ んば い 長き 立 位 軽休虐、 休 息姿勢 姿勢 │ │ 伏臥 ・ ひ じ立 て 1」 目 臥・ ひ し立て 臥 位 (16) 図 4 人 間 の 姿勢 図 4は 人間が生活 の中で取 る姿勢 を表 したものである。姿勢は、時間に よらず 一定の形態 を 保 ってい る静的姿勢 と、歩 くとい うような時間によって変化す る動的姿勢 に分かれる。 この図 は静的姿勢 を、足 の裏 で地面に接 して身体 を支持する立位姿勢、臀部 と下肢 で身体 を支持する 座位姿勢 (椅座位 。平座位)、頭部 と体幹部 。四肢で身体 を支持する臥位 に分かれる。 重力 に抗 して姿勢 を保持する事 は、 身体 に負荷 を与える ことと同 じである。それぞれの姿勢 を保持 してい る時の生体負荷 は、エ ネルギー代謝 ・筋活動量 ・椎間板内圧 。心拍数 ・呼吸量 で 一 測定 されてい る。その結果、立位が 番負荷が大 きいこ とが明 らかにされてい る。 図 5は 日常生活 の中でよ くとられる代表的な姿勢 について、主要な筋肉の活動度 を調べ た結 果 であ る。床展示 ・床下展示 を見 る場合 の姿勢 であ るが、資料その ものの情報 をよ り得 ようと した場合、知覚か ら考察す ると、浅 い前かがみ 。深 い前 かがみ 。浅 い中腰 ・深 い中腰 の どれか の姿勢 をとるケースが考 え られる。図 5で は、直立が100で基準 となってい るが、床展示 ・床 下展示 を見る際の姿勢代表的な 4種 類 は負荷が120から170程度である事 も明 らかにされてい る。 通常 の展示 を見る際は、表 5の 弛緩直立で 日線が少 し下 に下がるように展示 されているため、 負荷 は31である。 この数値 では、床展示 ・床下展示 を通常の展示 と同 じ時間見ると、身体へ の ―‑133‑― 床展示 ・床下展示 についての一 考察 0 0 0 9 負荷 は 3倍 以上になるとい う事 で 0 8 Hぴ 陶∴ 見星見護鮫揮椰 『 I鮮 瘍 1祀 平 ある。 0 7 妾 直 :王季 野 Ⅲ 0 5 起慈漣 0 6 ここで もう一点考察 したいのが、 0 4 天丼へ の展示である。博物館 の展 示室におけるスペ ースは、壁 と展 0 3 0 2 0 1 示ケース を除けば、床か天丼にな る。では、なぜ天丼 ではな く床 に 展示 されるケースが多 いのであろ 姿勢番 図 5 生 活姿勢 と筋 の活動度 うか。理由の一つ として考えられ ) るのは、知覚 の問題である。床 は 真下 を見下ろす場合で も自分の身長分 の距離 しかないため しゃがむ事 も出来るが、天丼 の場合 は近づ く事が出来ないため、情報が床 に比べ得 に くい。 もう一つの問題が姿勢 に関 してだが、 上 を見上 げるとい う姿勢 は周 りの空間が把握 で きに くくなる為、 身体 のバ ラ ンス をとる中心軸 が取 りづ らくなる。又、姿勢保持が難 しく、保持す るための負荷が直立の倍程度 とされている。 これが、天丼 よ りも床へ の展示が行われることが多 い理由の一つであると考えられる。 4‑4 姿 勢 の変換が行われる生理 的理由 静的姿勢 を長 く保持で きない理由は、4つ に絞 られる。一つ 目は、ある姿勢 を保持するため に使 っていた筋肉が疲れた ら交代する為 におこる、筋疲労部位 の交代である。二つ 目は支持点 に相当する部位 の皮下組織が、血行 障害や神経 の麻痺 をおこす ために交代する、圧迫部位 の交 代 である。三つ 目が、心臓 を中心 にして身体が重力方向に狭 い範囲に収 まっていたほ うが、血 液 を循環 させ る心臓へ の負荷 は小 さいので、負荷 を減 らす ために起 こる血液循環系器官へ の負 荷 の軽減 である。最後が静脈筋のポ ンプ作用 で、静脈 の内側 に付 いてい る心臓 に戻 る血液の逆 流 を防止する弁 の筋運動 によって、静脈が圧迫 されると静脈 自体が血液 を循環 させるポ ンプの 働 きをするためである。 これが、同 じ姿勢 でず っといるよ りもうろ うろ歩 き回っていたほ うが楽に感 じる由縁 である。 つ まり動かずにいるとい う行為 は体 に負担がかか り、更に床 を見る行為 は直立 よ りも体 に負担 がかかる。注 目 ・興味を集 めて も体 の負担が大 きい為、長 く保持す る事 が難 しく、又、車椅子 では床下展示 の鑑賞は難 しい。 5 実 際の床展示 ・床下展示の事例 5‑1 博 物館 にお け る展示 とは 博物館 にお ける展示 は、博物館 の機能 の中で最 も重要なもので、展示がなければ博物館 とし "と ては機能 しない。展示 は早 い段階で 「 知的展覧會は學術の展覧會 でなければならぬ」 い う考 えの下に展開されて きた。現在 は 「 展示 とはある一定 の意図に基づ き、資料 を媒体 とした情報 展示 の手段。即 ち展示は コ ミュニケー ションの一形態であ り、あ くまで も教育 を基本 目的 とす るもので なければならない。 」 とい う考えの下で行われてい る。 これ らよ り、資料か ら情報が伝 わ らなければ展示ではな く陳列 であるとの解釈が出来る。つ ―‑134‑― 一 床展示 ・床 下展示 についての 考察 ・ まり、情報が伝 わる展示でなけれ ばな らない とい う事 であ る。 これまで建築か ら見た床展示 。 わるのか どう 床下展示 を述べ て きたが、実際に建築 人間工学 を考慮 に入れた上で、情報が伝 かを事例 を取 り上げて考察す るものであ る。 5‑2 床 展示 とその 目的 と 床展示 をす る際、 目的 として展示物 の展示 の 目的を増大 させるために床 に展示す る場合 展 示 スペー スが無 く床 に展示す る場合 の二つが考 えられ る。 ー ここで事例 として取 り上 げたい展示が、岡山市デ ジタル ミュ ジアムであ る。 岡山市 デジタ 〜 ル ミュー ジアムは 「 過去 と現在 を未来へ 〜 ここにはデジタルが叶えた夢 と感動がある 」 を コ ンセプ トとしてお り、岡山市 の歴 史 と今 をデ ジタルで記録 ・保存 し展示 してい る。 写真 で と りあげてい る展示 は 5 階 の常設展示 で、「岡山情報宝庫」 と命名 されてい る。展示 ・ 分類 は演示 で、 展示形態 は映 像展示 能動 的展 示 であ る。床 に展示 されて い るの は、 岡山市 と そ の周辺地域 の5000分の 1の 航空写真 で あ り、 7000枚のICタ グ を埋 め 込 ん で あ る。 来館 客 が 操作 して い る機械 は 「ころっ と」 と呼 ばれ る機 械 で、移動式情報端 末 であ る。航空写真 上 を こ ろ っ とで 移 動 す る とICタ グが 反 応 し、 ころ っ ー 写真 5 岡 山市 デジタル ミュ ジアム とに画面が 表示 され る。 そ の 画面 を指 で操作 し、 縮小 。拡大 やお宝情報 を閲覧す る事 が 出来 る仕 組 み になって い る。 情報 は継続 的 に追加 されて い る。 この形式 の展示 の場合、資料 は張替 えが出来 るため人 間 に合 わせ た床仕 上 げ材 が選択 で き、 前 かがみや 中腰 になる必要 もな いの で、 身体 へ の負荷 が少 な い 。又、床 に展示 されて い る資料 の 目的が、移動式情報端末機 に よ り達成 され、視覚 で十分 に情報 を得 る事 がで きる。 5‑3 床 下展示 とその 目的 床 下展示 を行 う際、 目的 として展示物 の展示 の 目的 を増大 させ るため に床 下 に展示す る場合 、 ー 展示 ス ペ ー スが無 く床下 に展示す る場合、展示 ス ペ ス が大 きす ぎる為 に、そ の距離 を縮 め よ う とした場合 の展示 の三 つ が 考 え られ る。 火山 次 に事例 として取 り上 げ た い展示 が、雲仙岳 災害記念館 であ る。雲仙岳 災害記念館 は 「 ー を見 る 。遊 ぶ 。学 ぶ 。憩 う 全 国初 の火 山体験 ミュ ジア ム」 を コンセ プ トとしてお り、平成 の大 噴火 を含 めた、雲仙岳 と島原地 区 の歴 史 を体験 型展示 で再 現 して い る。写真 6で 取 り上 げ (22) てい る展示 は 「 火砕流 の道」 と呼 ばれる展示で、展示分類 は象徴 、展示形態 は動態展示 である。 床下 に展示 されてい るのは、実際に平成 の大噴火で火砕流 に飲 まれた周辺 にあった流木である。 その周辺 には、火砕流 にあった状況 を再現するように、石が置 かれてい るが、 この石 はレプリ カである。 ガラス面 の平面積 は4 0 m × 2 m で 、2 0 0 7 年1 2 月現在 では、 日本最大 の床下展示 であ ー る。壁面に展示 されてい る雲仙普賢岳か ら、火砕流が流れ下るスピー ドとイメ ジを再現す る ために、床下 に設置 されてい る赤 い照明の高速点灯 で火砕流 を再現 してい る。 ―‑135‑― 床展示 ・床下展示 についての一考察 この形式 の展 示 の場合 は、床 下 に展示 されて い る 資料 で 情 報 を伝 え るの で は な く、資料 を 使 ってス ピー ドとィメ ー ジを感 じて もらう展示 ので あ る。 この展示 を見 る際 は前 かがみや 中腰 になる必要 が な く、 身体 へ の負荷 が少 な い。実 際 に写真 で も、展示 を見 る際 の姿勢 は弛緩直立 が ほ とん どで あ る。 また、 床仕上 げ材 はガラス を使用 して い るため安全性 の考慮 も必要 で あ る 写真 6 雲 仙岳災害記念館 が、 資料 自体 の展示 が 目的で はないた め、 ガ ラ ス面 に直接 立 つ 必要が な く、 ガ ラス が割 れ る と い つた よ うな事故が起 こ りに くい。 6 考 察 6‑1 床 展示 につい て 床展示 を行 う際 の床仕 上 げ材 に 関 して は、 リノ リウ ムの使用 が 来館者 。経営 ・保 存化学 か ら 考 えて一 番有効 で あ る。 床展示 は資料 へ の距離が非常 に近 く、視覚 で得 た情報 と触 れ る場合 は 触 覚 の す り合 わせ が可 能 な展示 形態 で あ る。 そ の ため、展 示 の 目的が 資料 そ の ものの 情報 で あ って も、有 効 な展示形 態 で あ る。 但 し、 姿勢負担 は通 常 の展示 よ りも大 きい ため、 床 1面 で 情報 を100%開 示 で きる資料 に限 り、更 に、 身体 に負担 の かか らない 資料 の展示 が望 ま しい。 ただ資料 を陳列 して い る場合 の床展示 は、 姿勢負担 を考 えて、展示 ケ ー ス 内へ の展示 に変 更 したほ うが良 い と考 える。 6‑2 床 下展示 につ い て 床 下展示 を行 う場合、床材 につ い てはガ ラス を使 う しか な い。使用 す るガ ラス は、 飛散 防止 措置用 の加 工 が施 されて い る樹 脂 シー トを挟 んだ合 わせ 強化 ガラスが最低 条件 となる。床 にガ ラスを張 らず に、柵 や ガラス な どで床下展示 空 間 を三次元 に 囲 い 、横 か ら見 て もらうとい う方 法 も考 え られ るが、 床下 に展示す る資料 の性 質 に よって異 なって くる。 床下展示 は視覚 で得 られ る情報 の範 囲が上 か ら見下 ろ した 1面 に限 られ るため、 情報量が通 常 の展示 の 1/2か ら 1/4程 度 にな り、触覚 か らの情報 は得 られ な い。資料 の性 質 で 考察す る と、 資料 の あ る 1面 か らの情報 で、 そ の 資料 の情報全 てが伝 わる もので あ るな らば、 有効 な展 示法 で あ る。 また、安全性 の観点 か らは、 ガラス面 に立 つ 必要が な く、腰 を曲 げ る こ とな く見 下 ろ した状態 で情報が伝 わる展示 な らば、床 下展示 は有効 な展示形態 であ る。 ただ単 に情報 を伝 える資料 を展示 した い場合 は、展示 ケ ー ス 内 で も同 じ条件 で あ るため、 安 全性 。姿勢負担 を考慮 に入れ、床 下展示 で はないほ うが良 い。 また、ス ペ ー スが 無 く床 下 に展 示 した場合 も、情報量が 減 って しま うため床 で はな い展示場所 での展示が望 ま しい。 ―‑136‑― 一 床展示 ・床 F 展示 についての 考察 7 お わ りに の 床展示 ・床下展示 については、定義付 けを実施す るところか らの始 まりとな り、以上 考察 ・ ・ を導 き出 した。本来 ならば、床展示 床下展示 の発生 と歴 史、 ガラスの素材 自体 ガラス面か ついて研究 を実 らの距離 。ガラス 1 枚 の大 きさに関す る心理学 と展示後 の保存科学や展示学 に この 4 点 を 施 しなければ結論は導 き出せ ないため、今後 の課題 として この 4 点 が挙げ られる。 含 めた研究に関 しては、改 めて行 ってい く次第である。 註 (1)東 賢一 、他 2006『 建材 に使 われ る化学物質辞典』い風 土社 京都 造形芸術大学 (編)2002『 文化財 のための保存科学入門』角川書店 建築材料実 用 マ ニ ュ ア ル委員会 (編)1991『 建築材料実 用 マニュ ア ル事典』産調調 査会 デ ニ ス ・ジ ェフェ リー ズ 2005『 床材 フ ロアマ テ リア ル』産調 出版株式会社 日本建築学会編 2006『 建築材料用教材』 日本建築学会 一 一 ・ 日本建築学会編 2003『 建築設計資料集 成 展示 芸能 』丸善株 式会社 一 ・ ― 。 ・ 半澤重信 1991『 博物館建築 博物館 美術館 資料館 空 間建築 』鹿 島出版社 CONFORT増 刊 2006『 素材 ・建材 ハ ン ドブ ック』m建 築資料研究社 SD編 集部編 『ガラス建築』 1999 鹿 島出版利 (2)旭 硝子電子 カタロ グ httpノ/www.agc.co.jp/index2.html (3)註 2と 同 じ (4)註 2と 同じ (5)註 2と 同じ (6)註 2と 同じ (7)註 2と 同じ 展示室 の条件 ・展示 と保存」1 9 8 1 『博物館学講座 7 展 示 と展示法』雄 山閣 ( 8 ) 佐 々木朝登 「 ー ( 9 ) 岡 島達雄 、他 1 9 9 1 「 触覚 セ ンサ による建築仕上 げ材料 の触覚定量化」 『日本建築学会構造系論文報告集N o . 4 2 5 』 ・ 40 No.456』 岡島達雄 、他 1 9 9 1 「 触覚 に よる建築仕上げ材 の快 不快感 の定量化J 『材料 V o l 。 心理効果」 岡島達雄 、他 1 9 8 9 「 距離 による建築仕上 げ材料 の見 えの変化 と′ 『日本建築学会構造系論文報告集N o . 4 0 1 』 岡島達雄 、他 1 9 9 2 「 体温近辺 における建築仕上 げ材 の触覚的評価」 『日本建築学会構造系論文報告集N o . 4 4 1 』 一 ― 建築仕 上 げ材 の感覚的評価 に関す る研 究 触角 による温冷感 の定量化 」 岡島達雄 、他 「 『日本建築学会論文報告集N o . 2 4 5 』 岡島達雄、他 「人間一 環境材料系 の触情報」 1 9 9 3 『日本建築仕上学会論文報告集』 建築仕 上 げ材料 の触覚的特性 の総合的評価法J 1 9 8 6 岡島達雄 、他 「 『日本建築学会構造系論文報告集N o . 3 6 1 』 建築材料 の触覚的特性J 1 9 8 4 『 建築雑誌』 日本建築学会 武 田雄 二 「 ―‑137‑― 床展示 ・床下展示 についての一考察 ⑩ 註 9と同じ l11)三浦定俊、他2004『文化財保存環境学』い朝倉書 店 い丹青総合研究所 『 文化財 ・保存科学 の原理』199o m丹 青社 ⑫ 岡田光正 1993『建築人間工学 空 間デザイ ンの原点』理工学社 0 小原二郎、他 2000『インテ リアの計画 と設計』彰国社 0 日本建築学会編 1999『建築人間工学辞典』い 彰国社 0助 註 1 4 と同 じ l161註 1 4 と 同 じ m 註 1 4 と同 じ 81 小 原 二 郎 、他 任 1980「人体寸法の動的計測に関する研究」『日本建築学会論文報告集NO.297』 1191前 田 不 二 三 1904「學 の展覧會か物の展覧含か」『 東京人類學雑誌 第19巻第219号』 10 青木豊 2 0 0 3 『 博物館展示の研究』雄山閣 011 註2 0 と 同 じ eD 註2 0 と 同 じ (國學 院大學 大学 院博士課程前期) ―‑138‑― 「 学校展示」 と博物館 一 ― 「 学校展 示」 は中核 とな りえるか "School′ s exhibition"and lnuseums 一一Can"School′ s exhibition"become the core in lnuseums?一 一 玉水 洋 匡 TAMAMIZU Hirotada はじめに 学校展示」 博物館 に於ける 「 学校展示」 を考察するために、先 に小考 「 博物館学 における 「 一 一 問題点 と展 望一 」 を著 した。そ こでは 「 学校展示」 の 例 を取 学校展示」全体 の検討 と、 「 り上 げて展望 を示 した。 しか しなが ら十分な資料 を提示する こともで きず、多分 にひとりよが 学校展示J全 体 の検討 といい なが ら、十分 りの考察 になって しまった ことは否 めない。 また 「 に考察で きて もい なかった。 一 学校展 以上 の よ うな反省 を踏 まえた ものが 本稿 である。本稿 ではまず第 節 にお い て、 「 示」 を分類 し、分類 ごとに特徴や意義 を確認 してい くことにす る。その際にはで きる限 り自分 自身が見学 した ところを取 り扱 い、展示 の様子 を紹介 してい くことにす る。第二節 では前節 を 一 学校展示」 の展示 における問題点 を今 度考察 してい くことにす る。第二節では 踏 まえて、「 学校展示」全体 を捉 えてい くことにす る。 「 学校展示」 における展示以外 の活動 を分析 し、「 学校展示Jの 可 最後 に第四節 においては、現在博物館 全体が抱 える問題点 を踏 まえなが ら、「 学校博物館)と な りうるのか、考え 学校展示」 は 〈 能性 を探 ってい くことにしたい。そ して 「 てい くものである。 1「 学校展示」 とは 一 分類ごとの特徴 と意義― ・ 「 学校展示」 とは、博物館 において主に旧学制下 の当該地域 における教育 の状況、教室 学 校 の様子な どを展示 した ものであ る。新 しい学校制度 に変わ ってか ら60年以上た った今、新制 学制 における学 学校展示」 も見 られるようになってはきたが、やは り中心 は1日 度下 における 「 学校展示」 だが、博物館 の種類 などに よって、幾 校 が基になってい るのである。その ような 「 つかに分類することがで きる。 1‑1 博 学校展示」 物館 の歴 史展示 としての 「 一 学校展示」 は見 ることがで きる。近代 の展示 の 中で つ の まず博物館 の歴史展示 の 中に 「 学校展示」 はなされてい る。写真 Iは 宮城県仙台 テーマが当て られて、或 いはこ じんま りと 「 近代教育 と教科書」 とい うテー 学校展示」 であ る。仙 台市立博物館 は 「 市立博物館 における 「 マで 「 学校展示」 の中心 は典型的なもので、教科書 と学校 学校展示」 を行ってい る。 ここの 「 ―‑139‑― 一 躍檸 「 学校展示」と博物館 の 様 子 を写 した 写真 で構 成 され て い る。 もう一 つ 例 を紹 介 してお く。写 真 Ⅱは 長 野 県 立 歴 史館 にお け る 「 学校展示」 で あ る。歴 史館 の場 合は 「 信 州教育」 とい う小 テ ー マ をつ け、 一 つ の コー ナ ー にお い て 「 学校展示」 を して い るので あ る。 こち らの場合 は、 黒板 、 当時使 っ て い た机 とイス、ォ ルガ ンが 中心 の 資料 となって い るので あ る。 つ あ 3 東 二 番 「Ⅲヽ 学 な の 遠1 足 吉 城 , 1 原 叫 1 汁, ■, 年頃 ま リモ ノ 中心 の展示 になってい る 2 6 4 明 治初 期 の うヽ 学校 長 の 制 服 ‐│ ■■■│ │ │ のが特徴 で あ る。 写真 I 仙 台市立博物館 1‑2 学 仙台市博物館編 1986F仙 台市博物館展示図録』七九から八〇頁 自 刊 校 にお ける 「 学校 展示」 次 に学校 の 中 にあ る学校博物館 にお い て、 「 学 校 展 示」 は見 る こ とが で きる。 この場合 は 当該地域 の 教育全体 に関 す る展示 とい う よ りは、 当該学校 に特化 した展 示 と なって い るケ ー スが 多 い 。写真 Ⅲ は埼 玉 県 立熊 谷 高等学校 にあ る、 同窓会館 の写真 で あ る。 厳密 には 学校博物館 で はないのだ が、 この 中で 「 学校展示」が行 われて い る 写真 Ⅱ 長 野 県立歴史館 ので あ る。その展示 の 内容 は 当時 使 っていた教科 書 な どは もちろんの こ と、 当時 の教務 日誌 や当時の学校 で使 われて い た瓦 な どが展 示 されて い た。 この例 か ら考 えてみ て も、学校 の 中 にお け る 「 学 校展示Jは そ の学校 史 の展示 と もなって い る。 もう一 つ の例 が、写真 Ⅳに示 した渋谷 区立猿楽小学校 の校歴 資料室 で あ る。 ど の よ うな展示が為 されて い るのか、 詳 し 写真 Ⅲ 埼 玉県立 熊谷高等学校 く ぬぎ会 館 ―‑140‑― くは 判 別 で きな い が、 教 科 書 や 写 真 と い った典型 的 な展示 で あ るか と思 われ る。 「 学校展 示」 と博 物館 このように学校博物館 を所有 してい る学校 で は、必ず といつていいほど当該学校 に関す る 「 学校展示」がな されているのであ る。 1‑3 学 学校展 校 建 築 内 にお け る 「 示」 学校 最後 に学校建築 の中で行 われている 「 展示」 である。 これは先に示 した学校博物館 における 「 学校展示」が重なる部分 があるよ うに、感 じられる方 もい ることだろ う。 しか 写真 Ⅳ 渋 谷 区立猿 楽小 学校 校 歴 資料 室 いがある。それは学校建築 の場 hOme.h01 lsCOm net/sarugaku/200g01/10し根本的な違 猿楽小学校」 hlp:〃 「 合は、その大半が独 立 した博物館 として機能 してい る ことであ る。例 えば安積歴 史博物館 であ る。写真 Vで 示 したような展示 が行われてい 学校展示」 の最大 の特徴 としては、文献資料 と実物 (モノ)資 料が る。 この博物館 における 「 双方 とも展示 されていることである。 また中野小学校旧校舎 (信州中野銅石版 画 ミュー ジアム)の ように、絵画 を展示 し なが ら、一方 で 「 学校展示」 を行ってい る ケース もある。 この博物館 の場合 にも、写 真 Ⅵに示 したような実物 (モノ)資 料 と、 教科書 の ような文献資料 とが展示 されてい る。ただ し当時 の学校建築 をそのまま使用 してい るために、展示状態は決 して良好 と はい えないのが現状 の ようであ る。 さらに これは 「 学校展示」 とはい えない 写真 V 安 のか もしれないが、国立科学博物館 のよう 積歴史博物館 に、当時学校教育で用 い られていた実験道 具 な どを展示 した場 合 も認 め られ る。小 テーマ も教育 の文字が入ってい ることか ら、 学校展示」 と捉 えることが あ る意味 では 「 で きるだろう。 この ように専門的な分野 と 学校展示」 が 教育 とのつ なが りによ り、「 行 われてい るケース も存在す るのである。 2「 学校展示」 のあり方 学校展示Jを 博物館 の 前節 にお いて、「 写真Ⅵ 中 野小学校旧校舎 種類 を中心 して分類 し、それぞれの展示 の 特徴 をまとめた。そ こには様 々な問題点が ( 信州中野銅石版画 ミュージアム) ‑141‑ 「 学校展示J と 博物館 潜 ん で い る と と もに、 様 々 な可 能性 もまた 秘 め て い る と考 え られ る。 本 節 で は 「学校 展 示 」 の 展示 につ い て考察 して い くこ とにす る。 第 一 に展示 す る資料 につ い て考 えて い く。主 に展 示 されて い る資料 は、 学校 の様子 な どを撮 影 した写真、以前 に使 われ て い た教科 書 ・副教材 。校 友会誌 ( 生徒 会誌) 、当時 の机 ・椅 子 。 黒板 。オルガンとい うように、非常 に パ ター ン化 してい る。実験道具などが 展示 されてい る場合 もあるが ご く少数 で あ る (写真 Ⅶ)。 この よ うな資料 は 多 く見 られるのだか ら、 よ り広がる可 能性 を秘めてい る ものである。 また写 真 Ⅷは先ほ ど紹介 した安積歴史博物館 と同敷地内にある、福島県立安積高等 学校図書館 (桑野文庫)の 一室に保管 されていた ものである。箱の題箋には 装束標本」 と書かれてい る。 中には 「 写真Ⅶ 理 科 で使 われた実験道具 狩衣 な どの布切 れ と、靴 な どの ミニ チ ユア、男女 の人形が入れ られている。 こ の 「 装束標本」 は同校が旧制中学校 であ っ たとき、おそ らくは古典か何かの授 業で用 い られていた もののようである。 このよう な資料 は未だ 「 学校展示」に取 り込 まれる ことな く、見捨て られてい る。言 い換 えれ ば 「 学校展示Jに おける資料 は、 まだまだ 活用 されてい ない ものが多 いのである。そ のため 「 学校展示」 はパ ター ン化 して し まってい るのではないだろ うか。 もちろん パ ター ン化 を抜 け出すため とはい え、実物 資料 を一切用 い ることな く、テー マパ ー クのように学校 の教室 を再 現 しただけのような ところは、 と うてい 「 学校展示」 とは呼ぶこと はで きない。 第二 に展示の方法 である。 まず パ ター ン化 と関連 して言えば、展 示 の入れ替 えがほとん どなされて 写真 Ⅷ 装 東標本 いない といっていい。教科書 など の文献資料だけを扱 っているとこ ‑142‑― 「 学校展示」 と博物館 ろは、展示 して い る もの をただ変 えたか らとい って、それで は十分 に展示 の入 れ替 えが な され 一 再現展示」 の場合 、 度展示 を作 って し て い る とは言 い が た い。 また机 。椅子 な どを用 いた 「 まう と入れ替 えは非常 に困難 であ る。 そ のため展示 の入 れ替 えが な されて い な いの が現状 なの であ る。 しか しこれ は、十分 に克服 が可能 であ る。それ は よ り資料 を収集 し、定期 的 に入 れ替 えす るようにす ればいいのである。具体的 には教科書な どの文献資料 だけを展示 してい るので あれば、実験道具 や博物 の時間 に用 い られた景1製な どの資料 も展示す るようにすれば よい。 再現展示」 のため、大幅な入れ替えが不可能なのであれば、ただ机 と椅子 と黒板 を並べ てい 「 再現展示」 を行 なうなどといつた工夫 をすれば るのではな く、例 えば週 ごとに様 々な授業 の 「 いいのである。 学校展示」 は殊更 に博物館 の種類 、施設 と深 く 第三に、展示 と施設 の係 わ り合 いがある。「 学校展示」 はやは り十分な環境 の下で展示 さ 結 びついてい るのである。総合博物館 における 「 れている。照明やケー ス、空調な どが整 えられてい るのである。それに比べ て学校博物館 や学 校建築 の場合、それ らは十分 とは言 いがたい。場所 によっては自然光がその まま入 って くるよ うな展示室であ った り、虫が展示物 に止 まっていた りする ようなところさえある。 これは資料 の保存 の観点か らいって も問題がある。民俗 の展示物 のように、壊れた ら取 り替 えればいい と 学校 い うようにはいかない。現在はまだまだ十分 に資料 は残 されてい るものの、旧制学校 の 「 使 い捨 て展示」 をしていて は、今後 さら 展示」 に関す る資料 は減少 し続 けてい るのである。「 学校展示」 を模索 してい なる問題が発生 して くるだろ う。つ ま り資料 の保存 も考 えなが ら、 「 かな くてはならないのであ る。 また施設 とのかかわ りで言えば、バ リアフリーの困難 さも挙げられる。学校建築 を生か した 「 学校展示」 の場合、 まず この困難に直面す ることになる。例 えば車椅子 の方 にとっては、入 り口か ら困る ことになる。 また古 い階段 は急であるし、ツルツル していてすべ りやす い。 しか しこれ らを全て改築 して しまっては、学校建築 を生か した ことにはならない。 またスロープや エ レベー タ、その他の設備 をつ けるだけの予算 もない。では学芸員が展示 をみるのに付 き添 え ばよいのか もしれないが、たいていの場合 このような博物館 には学芸員 は一人 しかお らず、ボ ラ ンティアなどでまかなうといって も限界がある。 この問題 は学校建築 ばか りだけでな く、総 合博物館 で も同様である。教科書 などの展示 は上か ら覗かなければ見る ことはで きず、車椅子 の方や子 どもは非常 に見づ らい。 また 「 再現展示」 の場合 は一段高 くなっていて、危険性 も秘 めてい る。ユニバ ーサ ルデザイ ンを博物館 で も考えてい くことは、現在必須 の事項 となってい る。博物館 の展示、 ひいては存在その ものが排他的であってはならないか らである。 どのよう な人で も来館 して もらい、展示 を見て もらうように努 めていかなければならないのである。そ してその問題 を一番抱 えてい るのが、「 学校展示」 を扱 ってい る博物館 なのである。 以上か ら 「 学校展示」 は、展示 に関 して言 えば資料 の問題 ・展示法 の 問題 ・施設 の 問題 と いった難問 を解決 していかなければならない。 しか も少ない予算 の中で、少 しで も工夫 して行 学校展示」 ばか りでな く、少 な なっていかなければならないのである。そ して このことは、 「 学 か らず 日本 の博物館全体 に当てはまることで もあるのだ。 しか し、 これ らの問題点 は逆 に 「 校展示」 の可能性 で もある。資料 はまだまだ生かされてい ない ものが存在する。展示法 は他 の ―‑143‑― 「 学校展示J と 博物館 博物館の方法 も取 り入れながら、考えてい くの も可能である。施設 も見つめなお し工夫 してみ ることは可能なはずである。つ まり 「 学校展示」は様 々に可能性を秘めたもので もあるのだ。 3「 学校展示」 の活動 「 学校展示」 に関す る活動 は何 も展示 ばか りではなセ)。他 の活動 も重要 なのである。本節 で は 「 学校展示」 にお ける、展示以外 の活動 を考察 してい きなが ら、 「 学校展示」 を考えてい く ことにする。 まず 「 学校展示」 の収集について見てい く。収集は 「 学校展示」 の活動 の中で も、非常 に重 い 要な位置 を占めて る。なぜ なら資料の収集な くして 「 学校展示」 は成 り立たない し、資料 の ー 収集によって 「 学校展示」 のパ タ ン化 はある程度防げるか らである。資料 に関 して現在 の ま まで満足 してい ると発展 を望むことはで きない。そのため にも資料 の収集は重要なのである。 では収集 は可 能 なのであろ うか。他 の領域 ・分野 の資料 の場合収集が困難 なときもあるが、 「 学校展示Jの 資料 の場合収集は容易であると言える。それはほとんどの人が学校 に通ってい た経験 を有 していること、 そ して学校 。同窓会や個人の家 などで保管 されてい る可能性が高 い ためである。 しか し、ただ同 じような資料だけを収集 して しまうと、展示 のパ ター ン化 に陥 って しまう。 つ ま り様 々な資料 を発見 。収集す る必要があるので ある。そのために も 「 学校展示J、ひいて は学校 に関す る調査 ・研究 も必要 となって くるのであ る。資料 に関 して言えば、学校 の備品ば か りを調査 。研究す るのではな く、学校行事で用 い られた道具や寄宿舎 での生活、学校で提供 された給食や寄宿舎 での料理 の レシピなど、様 々なものが調査 。研究 の対象 とな りうるのであ る。 また調査 。研究 を進めることは、教育学 ・歴史学な どか らの視点に固定 されて しまいやす い学校が、博物館学 。民俗学 など様 々な分野か らの視点 を入れやす いこともあるのである。 さらに調査 。研究 し、収集 した資料 は保存 しなければならない。そ うしなければ、先 に述べ たように資料が使 い捨て となって しまうであろ うし、収集 した資料 を使 った更なる研究 も困難 になる。 この保存 の方法 は、 「 学校展示」が行われてい る施 設 と大 きく関わって くる。総合博 物館 であれば、他 の資料 と同 じように保存 を行 っていけばいい。問題は学校博物館や学校建築 内における 「 学校展示」 などの場合 である。予算や設備が十分ではないため、総合博物館 のよ うに保存 を行 うことは不可能 に近 い。 したがってよ り綿密 に保存 を考えていかな くてはならな いのである。例 えば学校建築の場合、 自然光がその まま入 って きて しまう造 りになっている。 一方 「 学校展示」に関わる資料 のほとん どは 自然光では劣化 を来たす ことは周知 の通 りである。 しか しなが ら単 に窓をつぶ して しまっては、タト 観的に損 なわれるとともに、学校建築その もの を変 えて しまうことになる。 この ような点 を踏 まえて 「 学校展示」 を考えていかな くてはなら ないだろ う。 最後に 「 学校展示」 を通 した教育 について も、考えなければならない。博物館 にお ける教育 は年齢 ・性別などを超 えた、あ らゆる人を対象 にして教育 は行 われなければならない。 といっ て もすべ ての人に共通 の 目的 ・方針 によって、教育が行われるとは考えづ らい。つ まり様 々な 対象 を想 定 しなが ら、それぞれの対象 に向けたアプ ローチを念頭 においておかなければならな ―‑144‑― 「 学校展示」と博物館 ー いのであ る。 「 学校展示」 の場合 は、大 まかに分 けて三つ のパ タ ンに分け られる。 まずお年 をめされた方に対 しては、音 を回顧 して もらい、 どのような状況であったのかを知 っていただ 語 り部」 となって もらうことがで き、それをきっか け として自分 自身の経験 を語 って もらう 「 学校展示Jを 通 して、当該地域 の学 きるので ある。大人 に対 しては、特 に教師に対 しては、「 校 の様子 を知って もらうとともに、教材化へ のヒン トをつ かんで もらうことにつ ながるのであ る。子供 に対 しては、音 を学んで もらうともに、現在 の 自分 たちの学校生活 を見直 して もらう きっかけ となるはず である。 4「 学校展示」 は中核 となりえるか ここまで 「 学校展示Jに ついて、様 々な観点か ら考察 して きた。その時 に考 えて きた、資料 ー のパ タ ン化 の問題、施設 と展示 の係 わ り合 いの問題、展示以外 の活動 の問題 といった ものは、 「 学校展示」 ばか りではな く、現在博物館全体 が抱 える問題 に他 ならない。それ らを何 とか克 学校展示」 自体 で問題 を解決 して 服す るため、各博物館 で努力が続 け られてい るのである。 「 い くことで、博物館全体 に広 げていけるのではないだろ うか。或 い は逆 に様 々な分野で試み ら れた ことが、「 学校展示」 において応用 され、問題解決 の糸口 となることがあるか もしれない。 「 学校展示」 はまた、それ 自身で発信 してい くことが必要なのではない だろ うか。総合博物 館 などの場合 は、 自身のサイ トを所有 してお り、その場 において様 々な情報 を発信 してい る。 さらに情報誌 なども出 し、人 々の 関心 をひきつ け よう としてい るのである。 「 学校展示」 の場 合、そのような情報 の発信 とい うものが少ない ように思われる。 しか しなが ら、やは り情報 の 発信 は不可欠 なのである。情報誌 を出 した り、サイ トを開設 しその場で情報 を提供 した り、そ の ような活動 も現在重要な博物館 における活動 となってい るのではないだろ うか。 これ らは何 も資金 をかける必要はない。情報誌 とい って も、展示物 を紹介 した り、テーマ を決めて小考 を 書 いた り、それだけで も違 うはず である。 またサイ トに関 しては、パ ソコンを導入 してい ない ところはい ささか大変か もしれない。ただパ ソコンが普及 した今 日、様 々な作業はパ ソコンで 行 われてい る ことだろ う。パ ソコンがあればサイ トを開 くことは難 しくない。 またサ イ トをす でに所有 してい るところは、 こまめに更新 をするべ きである。 こまめに更新 をする ことで、誰 かの 目にとまり足 を運んで もらえるか もしれないのだ。更新が一年間もな されていないようで は、 関心 は持 たれないだろ う。以上 の ように、 「 学校展示」 において発信 は必要なのである。 「 学校展示」 とはその名 が表す よ うに、教 育 の状況、学校 の様子 などを 「 展示」 した もので ある。 しか しなが ら本稿 を通 してみて きたように、その存在 ・活動はもはや展示 のみに留 まる ものでは ない。す般 の博物館 と同 じよ うに、調査 。研究、収集、展示、保存、教育 とい った 様 々な活動 によって、構成 されてい るものなのである。つ まり 「 学校展示Jは す でに (学校博 物館)と なって もよい存在 だ といえる。 この場合 の (学校博物館〉 とは、教育機関であ る学校 に置かれてい る博物館 とい う意味ではない。「 学校展示」 のみを専 門に行 う博物館 のことを意 味 してい るのである。現在 玉川大學教育博物館 のような博物館 はあるが、十分 とはいいがたい。 教育は どの都道府県 で も行われていたのだか ら、一つの都道府県 に一つ あ って もおか しくない のである。そ して (学校博物館)は その存在 の可能性か ら、博物館の中核 とな りえるか もしれ ―‑145‑― 「 学校展示」と博物館 ないのである。 おわりに 前回の小考 を踏 まえなが ら、 「 学校展示」 について 自分 の見て きた経験 も取 り入れなが ら考 察 して きた。三年間博物館学で学んだことも生か して きたつ もりであるが、結局一人 よが りの 論 となって しまったか もしれない。そ こはぜひご指摘 いただ きたい。それを取 り入れなが ら、 今後 も 「 学校展示」 の研究 を続けてい きたい と考えてい る。 また今回 「 学校展示」 の分類 も試みたわけであるが、私 自身が行った り知 っていた りして も の を挙げて分類 したに過 ぎない。 これか ら全国的に博物館 を見学することで、 よ り分類 を完全 なものに し、それ もきっかけとして 「 学校展示」 を考えてい きたい と思っている。最後に 「 学 校展示」 は先 に述べ たように、展示だけではな くな り、それ 自体が博物館的存在 となっている。 そ して今後 (学校博物館〉力Sできるであろ うことを、切 に願 ってや まない。 (國學 院大學 文学部 日本文 学科 四年) ―‑146‑― 示記録保存 ― 展 示評価 の 視 点 か ら一 Record Preservation of Exhibition 一―from the Aspect of the Exhibition evaluation― 一 杉山 正 司 SUGIYAMA Masashi 1 は じめに 博物館学 は、理論 を構築 し実践する ことにあ り、机上の学問 としては完結 しない。博物館学 は、実践が重要であることはい うまで もないこ とで、現場 の博物館 と学芸員が中心 にならなけ ればならないの は当然 のことである。 ただ博物館学 を意識 しなが ら学芸員 として仕事 をしていて も、 自らの思 い とは裏腹 になかな か実践 に移せず、性促たるものが あ る。 自戒 の念か ら、拙 い原稿 であって も少 しずつ で も文字にして、 まとめてい くことが必要であ ると考えてい る。そ して、学界の方 々か らの御批判や御教示 を受ける ことによって、 自分 を奮 い立たせて、 日ごろの博物館活動、すなわち実践 に結び付け られた らと念願 してい るところで ある。 小稿 も、その ような日ごろ 自ら実践 したい と考えてい ることを、拙稿 にまとめた もので、諸 兄の御批判、御教示 をお願 いいた します。 2 展 示 の評価 に向けて 現在、全国の博物館 ・美術館 の多 くで博物館評価 が実施 されてい るか、導入が検討 されてい るのではないだろ うか。博物館評価 については、既 に優 れた論考が 日々発表 されてお り、 また 本稿 の 目的ではないので改めて述べ ないが、展示評価 に関連す る部分 について簡潔 に触れてお きたい。 おそ らく博物館評価項 目には、例外 な く展示評価項 目が挙げ られてい るのではないだろ うか。 展示評価 については、多 くの指摘があ るように入館者数が主要な指標 とされてい ることが問題 点 であ る。入館者数 は、展示 の質 に関わ りな く、マスコミとのタイアップ展 などパ ブリシテイ の関係が大 きく左右 して しまう。経営者 。運営者側か らみれば、入館者数 の増減が経営や予算 に直結す るため主要な評価項 目であ り、 また単純 に数字で見 ることがで きる ことか ら展示の質 に関与 しない人たちにとって も客観的に評価 で きる指標 として中心 に据 えざるをえない項 目で ある。 しか し、学芸員 にとっては、 ここに展示評価 の危 うさを感 じるのである。冒頭で も述べ たよ ―‑147‑― 展示記録保存 うに、展示 の質 につい てなか なか客観 的に表す こ とが 難 しい。各博物館 では、見学者 の ア ン ケー ト調査 を実施 して、展示 の理解度、 関心度、満足度、総合評価 などか ら展示 の良 し悪 しを 判断する材料 としている。展示 は誰 のため にするか、 とい う常にある命題では、見学者 のため であ り、博物館学を含む学術的な進展のためにあるわけで、 この うち学術的部分 の評価 は脱落 して しまう。展示 は、入館者 の多寡にかかわ らず評価 されるべ き点がある。 すなわちテーマ設定、展示構成、資料選択、展示方法、ポスターや図録などの印刷物、関連 事業や運営方法、先に挙げたアンケー ト調査などによる見学者 の動向調査、総括など多岐にわ たる。 ところが、見学者の動向調査以外、数値化 す ることは困難 である。 いわば抽象化 された 項 目であ り、例え展示 の評価項 目であって も、評価者の主観に左右 される ことになる。 もちろ ん、見学者ア ンケー トに これ らの項 目を設間 として入れる ことはで きよう。 だが、一般 の見学 者が これ らの項 目について関心 を持 って見学 し、設 間に回答 で きるであろ うか。 また、仮 に設 間に加 えるにしても、他 に基本的な設問 もあ り、限 られた紙面 での作成 は困難であろう。 さら に付 け加 えるな らば、博物館 によってアンケー トの筆記場所 は、 限 られたスペースゃ、椅子が 無 い状態での記入な どもあろうし、多 くの設問へ の回答は難 しい。 この うち博物館 として聞 き たい項 目のみ を設間 として聞 く方法はあるが、展示構成や資料選択、展示方法、運営方法など 多 くは無回答 となって しまうのではないだろ うか。小生のささやかな経験か らも、わず かに こ の業界関係者 と思われる回答があるが、 こ うした項 目の多 くは無回答 となって しまってい る。 それでは主観 を排除 して、 これ らを評価す ることはで きないだろ うか。それは実際 の ところ 不可能であろう。ただ、不可能であるといって手 をこまねいている ことはで きない。そのため には、学術的な評価が不可欠である。評価 には、第三者機関や評価委員会が組織 されているで あろう。評価す る委員 たちは、博物館学 の学識経験者 も含 まれていようが少数であ り、博物館 学的な評価が充分 である とは言 い難 い。 そ こで将来に向けては、博物館学界 において博物館学的な視点か ら評価 し、それが社会的認 知 されるような体制作 りがで きない ものだろ うか。博物館学 自体 について も、社会 の認識が必 ず しも充分 とはい えない と思 う。 まず、 こうした取 り組みを通 して博物館学 の認知度を高め、 同時に博物館評価へ の体制作 りがで きない ものだろ うか。 話 は大 きな問題 の方へ それて しまったが、 ここでは先ず取掛か りとして多岐 にわたる評価項 目について、側面か らで も各博物館 の展示評価 の一助 とで きないか、 とい う提案が小稿 の 目指 す ところである。 なお、小稿 におけ る 「 展示」 は、常設展示 も含むが、特別展示や企画展示が中心 になること を申し添える。 3 展 示評価 への取組 の欠陥 展示評価 は、展示 の企画段階か ら開始 されなければならない と思 う。 これは評価委員会な ど では、展示 を知ってい る委員 ばか りではない。一般 の市民 の委員 もい る。評価 の判断にあたっ て も、既 に展示 として完成 された姿、あるいは展示 を実際に見る機会がな く、評価 をまとめる 年度末や年度初 めなどに、入館者数 の結果や、ア ンケー ト結果な どを記 した書面か、展示図録 ―‑148‑― 展 示記録保存 などに よってのみ判断 されてい ることはないだろ うか。 入館者数 を例 にとる と、一般 の見学者 の受けが よく入館者が多いが、専門家 には評判が良 く 一 ない、あるいはその反対 に専門家 には評価が高 いが、 般 には受けずに入館者数が伸 びないこ ともあ り、展示評価 上では展示 の質 に直結 しない。 つ 展示 は、企画 を館内で持ち上 げて、館 の総意 として決定 されて準備が開始 される。展示 に 資料 を借 りて きて、 いては、博物館職員であって も事務系 の職員や ボラ ンティアなどか らは、「 飾 るだけで簡単 だと思っていたが、実際は大変なんだJと い う言葉 をよく聞 く。それ は これま で完成 された展示 を見ていただけであ り、内部に入 って展示準備 か ら完成 まで触れては じめて、 ー 展示 の一部を知 ることなる。 こうした展示 の実際 を、我 々学芸員 は、対外的にア ピ ルす るこ ー とを怠 って きた のではない だろ うか。閉鎖的 とは言 えないが、積極的にオ プ ンに して こな かった とい える。 ー 展示準備 の煩雑 さは、同 じ学芸員であっても展示 にあたった学芸員にしか分か らない。テ マや理念や趣 旨に沿 った資料調査 か ら展示資料選択 までの過程 など、研究紀要や館報などでは 一 断片的 に報告 されることはあるが、 これは自戒 の念 で もあるが、なかなか 連の流れまで取 り 上 げ る ことはで きなか った、 とい うよ りしてこなかった とい える。確かに結果 は大事である こ とは否定 しない。結果に至 るまでの、表面 に見えて こない過程があ り、過程 があっての結果 で あることを忘れてはならない。 このような一連の展示 の流れを明 らかにし、展示評価 につ なげてい くことこそが、正 しい評 価 につ ながってい くのではないだろ うか。 4 展 示 の記録保存 それでは、何 をどうすれば、いいのだろ うか。その試案 として展示 の記録保存 を提案 したい。 一 展示、 と くに特別展 などは 過性 の もので、会期が終 わって しまえば記憶 と図録以外、何 も 残 らない。記憶 も担当者 には強 く残 るが、それ以外の人たちは次第に薄れてい く。そのために 同 じ博物館 で も同様 な企画が提案 され、別な博物館 で も会場 と時間が違 うだけの展示 が開かれ て しまうこともあるのではないだろ うか。十年以上経過すれば、同一館 で も同様 な展示が企画 されることもあ ろ うが、それは単なる焼 き直 しに終わって しまうこともあ る。先行す る展示 の イ ンパ ク トが強ければ強いほど、後発 の展示 は霞んで しま う。何事 も後発す るものは、先行す るものを超 えなければならない とい う、宿命がある。場合 によっては、先行展示で起 きた同 じ 失敗 さえ繰 り返す ことに もな りかねない。公立博物館 の多 くは、人事異動が行われるため、担 当 した学芸員が別 の部署 に配属 されて多忙 で話 も聞けない、時間が経過 して既 に退職 して し まっている、時には記憶 が薄れて しまっていた りな ど、様 々な事態が考えられる。そのような 場合 は、過去の失敗 の学習経験が生か されない危険性 が考 えられる。 また学芸員は、企画や準備、あるい は調査 の段階で、先行す る同様 な展示 の図録 を参考にす ることがある。それは、 どのような資料 が展示 されたか、 どの ような情報 をもってい るかだけ ではな く、展示構成、 いわゆる切 り口などを参考 にして見る。模倣することはないが、 これを 参考 に新 たな切 り口で構成 してい くことが学芸員に求め られてい る。だが、展示 を見ていれば ―‑149‑一 展示記録保存 まだ しも、 図録 の 中だけでは分 か らな い 部分 も多 い。 図録 は、 入 口 と しての アイテム として 活 用すべ きである。 良 い展示であって も、図録などによ り展示資料の記録 は残 るが、展示の記憶が欠如 して しま うのである。そのため館報や研究紀要など、展示 による新 たな研究成果だけでな く、記録 とし ` て残すべ きであると考える。次へ のステップ 。アップのために も、展示記録保存 は必 要である。 ささやかなが ら、筆者 もこれか ら述べ るような ことを念頭 において、わずかずつ拙稿 にまとめ る取 り組みを行 ってい る1こ の取 り組みが学界 にお いて認知 されてい るかは別にして、最近に なって同様 な取 り組みがみ られるようになって きてお り、意を強 くしてい る。 そ こで、 日ごろの業務 の中か ら考えている展示記録 の試案 を、3点 に絞って述べ てみたい。 示 プロセス 展示 は、テーマが違 うように内容が異 (1)展 なる。そ して、展示 の流れ も変わって くる。例 えば、 館単独主催の場合 と共催展、巡回展では、それぞれ展示のプロセスが異なる。共催展や巡回展 では、展示 までの流れが重要になって くる。比較的大規模 な博物館では、毎年や数年お きに共 催展や巡回展が催 されることもあろ うが、そのような博物館ばか りではない。学芸員が 1回 、 あるい はまった く経験 しない場合 もあ りうるが、現在 の博物館 の置かれた状況か らすれば、予 算面か ら共催展 などによ り負担軽減 を図る うえか らも、積極的に受け入れる方向にあるとい え るのではないだろ うか。 企画や趣 旨、運営方針 などの検討過程 について、 時間経過 を追って記 してお くべ きである。 共催展 の場合 には、双方 の主張、調整など多 くの検討過程 を経 て準備が進 め られる。 この経験 は、将来にわたって貴重であ り、引 き継 いでい く必要がある。実際の展示 で も、 この過程が明 らかにされることはな く、開催趣 旨が主催者のあい さつ文や図録 の巻頭論文で触れ られるにす ぎない。 また、展示が 開催 されるまでの過程 も、当然なが ら記 しておかなければならない。 どのよう な展示で も、同 じ経過で進む展示 はないはず で、経験 の少 ない学芸員に とっては参考 となるで あろ う。 (2)図 面 。写真 展示 は、前述 の とお り、終 わって しまうと記憶 しか残 らない。 しか し、その レイアウ トや資 料 の展示方法 といった ものは、学芸員 の苦心 の跡が うかがえる ものである。 最近 の展示 では、 リー フレッ トなどに大 まかな コーナーの配置図が掲載 されてい る例が増 え て きてい る。 もちろん常設展示な どの場合 は、入館時に手渡 される見学案内な どに掲載 されて い ることが多 いが、特別展 などでは僅かである。 これ らは、資料 目録 とともに展示 を見る うえ で参考にな り、展示 の規模 を知 る うえで役立っている。大規模 な展覧会では、資料 目録が配布 されてお り、あ とどれ くらい展示があるのか、お 目当ての資料 はどこに展示 されてい るのかな ど、参考 になるものである。 しか し、一般 の見学者には有効 な図面ではあるが、展示 に直接 か かわる学芸員には物足 りない。 ケース配置はどうなってい るのか、パ ネルやグラフイックはどのようなデザイ ンで どの位置 に取 り付 けたのかワイヤーで吊下げたのか、個 々の展示資料 はどのように配置 して展示 したの ―‑150‑― 展 示記録保存 ︱ ︱ か、展示台の形状 とクロスの材質や色 やサイズ、資料に よつては特注 の演示具 の形状等、多 く の情報 を知 りたい。館内だけでな く他館 であ って も参考 になる ことは多 々あ り、特注 の演示具 ︱ ︱ ︱ は大 い に参考 となる。個別 の演示具 までが記録 されれば申 し分ないが、それ も記録 としての文 言表記 だけでは、充分 に伝わ らない。 ︱ ︱ ︱ ︱ そ こで図面 が最 も有効 な手段 と考える。おそ らくどこの博物館 で も、少な くとも平面図は作 図す るであろう。ケース、パ ネルや展示資料 の レイアウ トなどを記載す るはずであ る。 これだ 一 けで もあ る程度有効ではあ るが、で きればもう 歩進 んで、立面図があ るとよい と思 う。常設 ︱ l l 展示 は勿論、展示業者が デイスプレイ図面 を引 いた場合 にはあるものである。立面図が あれば ー 二次元化す ることがで き、学芸員に とっては充分 とい える。 さらにパ ス まであ ると申 し分な l l l いが、なかなか手が回 らないのが現実ではないだろ うか。 これ らの図面は、展示前 と展示後 の二通 りがある ことが望 ましい。当初 の展示計画が、計画 I I I l 通 りに完成 されればいいが、実際に展示 をして不都合が出 ることもあ り、当初 の計画 よ りもい い展示 に仕上げることが出来た工夫な どを反映 させた結果 の変化が必要 である。終わって しま ー えばディスプレイの状態が不明である。立面図やパ スがある場合は、完成後 の写真 と比較す l E ることもで きる。 E I I しか も、展示飾 り付 けでは、現場合 わせ となる こともあ る。そのような変更がある場合 を考 えて も記録保存 として図面や写真 は有効 とい える。 I I I 写真 については、展示評価 を考えた場合 には、後発 の展示 の参考になるだけでな く、既 に述 べ たように展示 を見てい ない評価委員な どへ の説明資料 として有効 な手段 であ るのは言 うまで I もない。評価 のためにも、展示図録 ではあ らわす ことがで きない完成 した展示 の姿 の記録 とし I I て写真 は必要である。 I (3)関 連事業 I I I 関連事業 として行 われる講演会や、 シンポジウムなどについての記録保存 も忘れてはならな い ものであ る。講演会は、展示 を一層意義深 い もの とす るための必須 の事業 であ る。 I I I ■ ■ ■ 講演録 は、研究紀要 などに掲載 される ことが ある。 だが、掲載には講演者 の許諾が必要なた 一 め場合 によっては煩雑 な事務が生 じ、 また録音やテープお こ しなど時間と手間がかか る。 方、 時間 と手間を節約 で きる業者に委託す る方法 もあるが、委託には経費がかかるとい う欠点 はあ る。 しか し、講演は展示 に則 して第一人者に依頼す るため、定説はもとより最新 の学説な どを ■ ■ ■ 披露 して もらえることもある。講演会 の評価 も、展示評価 に直結す る。 この講演録 の記録 も展示記録 とい うべ きものである。一例 として大田区立郷土博物館 におい ■ ■ ■ て特別展 「 武蔵国造 の乱」や特別展 「トイレの考古学」 の終了後、会期当初 の展示図録 と講演 録 を元にした ものを出版社か ら刊行 した。図録部分 の重複 も、展示 を知 らなかった人や見 る機 ■ ■ ■ 会 のなかった人、図録が入手で きなか った人にとってはあ りがたいことである。だが、既購入 者 か らすれば二重 の負担 とな り不必要 の感があ る。出版社が印刷 にあたってい るため、図録部 ■ 分 を付 けない と講演録単独 の製作販売 は難 しいのだ と思 う。当初発行 の図録部分 に、展示 によ ■ ■ ■ 載 で きれば問題 はない と思 う。本来な らば館独 自で講演録 を印 り新 たに発見 された情報等が1又 刷発行す ることが望 ましい と思 うが、公立博物館では限 られた予算 で、 しか も事業終了後 の事 ■ ■ ■ ‑151‑ ■ ■ ■ 展示記録保存 業予算獲得 は困難 で あ り、最良の選 択 とい える。 また講演会 に限 らず、実演会や 見学 会 な どの 関連事業 は一 過性 の事 業 のた め、 記録 と して残 い りに く 。担 当す る学芸員 に とって も、幅広 い展示 の運営 の なかで 関連事業 の重要 は 性 認識 し なが らも、 記録 の保存 まで手が 回 らな い の が実 情 で はないだ ろ うか。 しか し、 折角企画 して 開催 した 関連事 業が、 ポス ター の デザ イ ンの一 部 で終 わって しま う。 依頼 した講 師や 出演者 に とって も失礼 な こ とで あ る。 そ のた め 講演 の抄録 や記 録写真 な どの 結 果報告 を、館 報 や研 究紀要 に掲載す べ きであ ろ う。 これ らは代 表的 な点 を取 り上 げ た に過 ぎず、 さ らに各館 、博物 館学界 にお い て 検討 を加 えな が らオ ー ソラ イズ され るこ とが 望 ま しい。 5 展 示記録保存 に向 けて 「 展示J は 、無形なもの とい える。確 かに展示室 にお いて見学者 の 目に触れてい る時 は、資 料が飾 り付け られて形 となって見えてい る。 しか し、繰 り返 しになるが これは 「 展示」 の中の 一部分 にす ぎず、 表面的に見 える部分 にす ぎない。入館者数 も、 この見える部分でのみのデー タである。企画構想か ら総括 までが、 「 展示」である。 この 「 展示」 を、本 来的な展示評価、 い ひ ては博物館評価 につ なげてい く必要がある。 「 展示」 は、完結 して しまえば展示 の一部 にす ぎない図録以外、記憶 に しか残 らず、 ここに 記録 の重要性がある。 しか し、展示記録保存 を過去 の遺物 に してはならない。博物館 なのだか ら、学芸員なのだか ら歴 史資料 として活用 を図っていかなければならないの は当然である。特 に巡回展や シリーズ 展 などの記録保存 は有益 である。 これ らは会場 の移動により、同一資料が、同 じ構成 で展示 さ れるか らである。学芸員に とっては、同 じ展示が会場 によ り、 また担当する学芸員 の展示手法 によ り異なる展示 となる。会場 の規模や展示ケースの制約 も大 きいが、担 当する学芸員 の腕 の 見せ どころであ り、展示の工夫が うかがわれることになる。 さて、展示記録 の保存 は、学芸員の発揮 した力量 を検証で きる。だが、利用 には特 に注意 し なければならないのは、学芸 員や展示 の優劣 をつ けることではない。それぞれの限 られた条件 下で、 どのような展示 をしたかを検証 して、将来に向けて活用す ることにある。 学芸員にとっては、 フィー ドバ ックして、今後 の反省 と次へ の活用 を図 らなければ意味がな い。 また、 この保存 された記録 は、新 たな展示へ のヒン トとな り、 自分 の博物館だけでな く他 館 で も利用で きる。悪 い ? 展 示、評価が低 い展示であって も、反面教師 として今後 の反省 に繋 げることがで きる。 これは博物館学的には大変興味深 いこ とで、展示論 の進展 に寄与すること になる。 こうした地道な一つ ひとつの活動 の積 み重ねが、学芸員に対する認識 を改めることにな り、 学芸員の地位向上 につ ながるのではないだろ うか。 以上、展示記録 の保存 の必要性 をまとま りの ない拙 い文 で述べ て きたので、意図す るところ が伝 わらなかったか も知れない。近 い将来、博物館学界で展示記録保存が当た り前 とな り、そ れが展示評価、そ して博物館学的評価 につ ながる ことを念願す る。 ‑152‑― 展示記録保存 注 ( 1 ) 「交通 史展示 の 一 試論」 『 埼玉県 立博物館紀要』第25号 2000年 博物館 にお 埼 玉 県 立博物館、「 企画 埼 玉県立博物館、「 一 地域博物館 の視点 県 立 埼 玉県 立歴 史資料館、「 埼 玉 県 立博物館紀要』 第27号 2002年 け る史料展示 の 限界 と可能性」 『 研究紀要』第27号 2005年 展示 と事業展 開」 『 共催展 における地域 博物館研 究』第31輯 2007年 國 學 院大學博物館学研 究室 、 「 館 の取組一 」 『 埼 玉 県 立歴 史 と民俗 の博物館 な ど マ ーオ リ マ ー オ リー 楽 園 の神 々― 」展 に関す る所感J、 自井克也 「 東京 国立博物館 「 深 山直子 「 一 一 一 第608号 2007年 美術展 の実現過程 国際交流展 の 例 として J『 MUSEUM』 ー ー ー 東京 国立博物館、国立歴 史民俗博物館 やサ ン トリ 美術館 な ど、展示室 おける コ ナ や主 な資 料 の配置図 を掲載 した リー フ レッ トを作成配布 して い る。 紀要』第 2号 2008年 展示」 『 武蔵 国造 の乱』 1996 東 京美術 、同 『トイ レの考古学』 1997 東 京美術 な 大 田区郷土博物館編 『 ど (埼玉県 立歴 史 と民俗 の博 物 館 学 芸 主 幹 ) ―‑153‑― 呆護 に関す る研 究 (2) 野外博物 館 と文化 ― ア メ リカ の 国 立 公 園 にお け る博 物 館 協 会参 画 以 前 の 博 物館 活 動 一 A Study of Out― door k71useulrls and Preservation of Historic and Natural Heritages(2) 一 The Terin of theゝ Iuseurl Activities of National Parks in America before Participation of Alrlerican Association of NIuseums― 今 野 農 KONNO Yutaka は じめに わが 国 にお い て、 アメ リ カ合衆 国 の 国立公 園 にお け る博物館活動 につ いて は、充分 な検討が 0) ー" の 教 ー 成 されて い る とは言 い難 い 。造 園学 の分野 で は、 当該 国家 にお け る ビジ タ セ ンタ 育活動 に 関 し、油井正 昭 の研 究事例 が挙 げ られ る ものの、 博物館 学 の分野 で は看過 されて い る のが状 況 で あ る。 先行研 究 にお いて 、拙 著 はアメ リカにお い て 「自然保 護」思想 の 萌芽 か ら、 国立公 園制度が 一 成立 した過程 を検討 し、野外博物館が展 開 した つ の基盤 として位 置付 け た。本稿 で は、 自然 保 護 教 育、 お よ び理 科 教 育 の 思 潮 を叙 述 した後、1 9 0 6 年に創 立 した ア メ リ カ博 物 館 協 会 ( A m e r i c a n A s s o c i a t i o n o f M u s e u m参画 s ) がし、具体 的 な事 業 が実施 され る以 前 の 国立公 園 にお け る博物館活動 につ いて緒論 を呈す る もので あ る。 一 本稿 には、 部 に考古学系 の公 園 も含 めて い るが、 国立公 園制度以前 に も、個 人的、 もし く は民 間 団 体 の 活 動 に よ っ て 建 造 物 の 保 存 が 成 され て い る。1 8 5 0 年、N e w b u r g h に お け る George Washingtonの 軍事本部、 1 8 5 9 年、M o u n t V e r n o n にお け る W a s h i n g t o n 別邸が、 この t o n 市 制 の歴 史地 区が制 定 例 で あ る。 また、1 9 2 4 年か らは、S o u t h C a r o l i n a t t C h a r l e sで地域 されて い るが、 これ らに関 して は、歴 史系 の遺産 を中心 に、 国 立公 園制度 とは別 の保 護事夕1 と して後 に稿 をま とめ る予 定 で あ る。 Museum curatorship in the National Park Service,1904 本稿 は、 特 に R . H o L e w i s の著 書 『 ‑ 1 9 8 2 . 』 ( 1 9 9 3 ) 参考 とし、 事実記載 に 関 して特 に注記が ない場合 は、 同著 に拠 って い る。N 。 」. B u r n s の 著 書 『F i e l d M a n u a l f o r M u s e u m s 』 ( 1 9 4 1 ) 、H o C . B r y a n t 。 他 『R e s e a r c h a n d Twenty一 Years Ago(No。 1〜 6)」 E d u c a t i o n i n t h e N a t i o n a l P a r k s( 』 1 9 3 2 ) 、C o P . R u s s e l l 「 (15) (9〜14) ー ー ( 1 9 4 9 ) 等の 著 書 で 補 った。 また、 国 立公 園局 関連 の 人物像 につ い て は、 同局 ホ ム ペ ジ N a t i o n a l P a r k S e r v i c e : T h e F i r s t 7 5 Y e a r s ; B l o g r a p h i c a l Vを参員 i g n e薇した。 ttes』 『 1 ア メ リカにお ける博物館教育 とその周辺 アメ リカにお け る博物館 の展 開 に関 し、倉 田公裕 は、 第 1 期 、1 7 ・1 8 世紀、第 2 期 、1 9 世紀 か ら1 9 2 0 年代 、第 3 期 、1 9 3 0 年代 以 降 に区分 し、 この過程 にお け る博物館 造 りの基 本理念 とし ―‑155‑― 野外博物館 と文化財保護 に関す る研究 ( 2 ) て 「 地域 の利益」 と 「 公共 の教 育」 の 2点 を挙 げて い る。以 下 で は、 本稿 と関わ りの深 い 第 1 期 か ら第 2期 に 関 して、 この 区分 に従 い アメ リカの博物館 史 を概 観 す る。 1‑1)第 1期 、17・18世紀 の博物館 第 1期 は、South carOlina州。Charleston市の CharlestOn博物 館 (1773年)、Philadelphia の Pealeギ ャラ リー (1780年)が 成立 した時代 で あ る。Charleston博物館 は、 地元有志 の コ レ クシ ョン活動 と して始 ま り、 「 South Carolinaの自然 を研 究 し、 振興 す るための」 自主 的委員 会組織 を設 け、収集、研 究、展示活 動 が 開始 された。 Pealeギ ャラ リー は、 画家 の Charles Willson Pealeが 肖像 画 と併 せ て 自然物 を 自宅 で展示 し た こ とに始 まる。Pealeは、Carl vOn Linneの自然分類 学 に 関心 を持 ち、それ に沿 った名前 を 付 した展示 を行 い、1782年11月には、 自宅 を改 造 して天窓採 光 による展示 室 を設 け、 一 般公 開 (3) した。 博 物館 の 人物 誌 を ま とめた 『 Museum Masters』の著 者 で あ る E.P.Alexanderは 、 一 Pedeが 博物館 を 「 博物館 は 般男女の学校」、「 公衆全体 の道徳 と幸福 を促進す る施設」 と見 倣 していた もの とし、初期 の民主主義精神に合致 してい る点 を掲げた1: 一般へ の啓蒙」 を これ らの活動 に触発 され、 「 使命 として、 自然史、歴史、美術 に関す る地 域 の協会や学会が中心 とな り、東か ら西へ と博物館思潮が広 まっていった。倉田 は、 「わが 町 へ の愛着」か ら始 まった組織 は、 「 地域や町の教育文化度のシ ンボル として、 また地域の調査、 一 産業振興の つ の拠点 として」、博物館 は不可欠なものであ った としてい る1 1‑2)第 2期 、19世紀 の博物館 第 2期 は、大資本家による博物館や コ レクションが成立 した時代 であ り、初 の国立博物館で あ る Smithsonian lnstitution(1857年 )や ア メ リ カ 博 物 館 協 会 (American AssOciation Of Museums)も この期 に創設 された。なお、SmithsOnian博物館 に関 しては、詳細 な文献が他 数存在するため、 ここでは割愛することとす る。 さらに、 この時代において、後 の博物館学に多大な功績 を残 した George Brown Goodeを排 出 した。G.Goode(1851‑1896)は 、1851年、Indiana tt New Albanyに 生 まれ、Wesley大 学 で学 んだ後、Harvard大 学 の Lewis Agisizの 下で 自然史を学び、Agisizによって、Wesley 大学 の Orange」udds Hall自然史博物館 学芸員に推薦 された。その後、Smithsonianに招聘 さ れ、博物館 に関す る論考 を発 表 した。 1895年に イ ギ リ ス の New Castelで 開催 され た イギ リ ス 博 物 館 協 会 (British Museum Association)年 次会議 にお い て、Goodeは 、「 博物館管理 の基本 (The Principles of Museum Administration)」 と題 された73ペー ジに及 ぶ事前報告 を提 出 した。 この論考 にお い て、博物 館を 「自然 と人工の現象 を最 も良 く描出するもの を保存するため、知識 の増加や、文化や人 々 の啓発するものを利用するための施設」 として定義 し、 さらに基本要件 を掲 げた1こ の要件 と は、①政府や教育関連施設、施設 自体が財政的に確 立 されてい る施設 によって支えられた恒久 的な組織であること、②明確 に定義 された計画、お よび特化 した計画を最低 で も一つ はを備 え てい ること、③優 れた コレクシ ョンを備 えてい ること、④聡明で、進歩的で、良 く訓練 された ―‑156‑― 野タト博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 (2) 高度な市 学芸員 を備 えてい ること、⑤耐 火構造 の建物 で あ ること、の 5 点 で あ る。 さらに、「 が不可欠 である とも y ) 」 公共博物館 p u b l i c m u s e u m 」 民共 同体 ( c i v i l i z e d c o m m u n i tには、「 述べ てい る。 1‑3)19世 紀 の公 教育 と実物教育 1 9 0 3 年に、ド イツ宮廷博物館 の マ イヤ ー は、 アメ リカの 自然 史博 物館 は美術系博物館 に対す る優 良性 を報 告 して い る。 さ らに、倉 田 は、 「プ ラグマ テ イズ ム」 を提 唱 した W i l l i a m J a m e s の 思想 を紐解 き、 「 実物 教育 を と り入 れ、 自発 的行動 をか り立 て る」必 要が説 か れ た こ とは、 この 時代 の博物館思想 と根底 にお い て 関連す る可能性 を示 唆 した。倉 田 の説 で は、それ以上 に 言及 され なか ったが、 環境教 育 にお ける実物教 育 の先駆 として、 先 に掲 げ た L e w i s A g a s s i z が 挙 げ られ る。 ス イ ス の M O t i e r 一e n ―V u l y で 生 ま れ、 )は 」e a n L o u i s R o d o l p h e A g a s s i z ( 1 8 0 7 ‑ 1 8 7 3、 Zurich,大 学 で 学 び、N e u c h a t e l 大学 で 自然 史 の 教 授 ( 1 8 3 2 ‑ 4 6 ) と な り、 学、 H e i d e l b e r g 大 1 8 4 7 年に H a r v a r d 大 学 の動物学 と地 質学 の教授 となった。 A g a s s i z の教 授 法 は、 「自然 そ の ものか ら指導 す る こ と」 を強調 した もの であ り、 1 8 7 3 年、 B u z z a r d s 湾沿岸 の P e n i k e s e 島で教 師 のため に 開設 された夏期学校 は、 科学教育 の基 本 となる もの として著名 であ る。 そ して、 多 くの 高弟 を育成 し、先 の G o o d e 他 、E o S . M o o s e とい った 博 物 館 に 関 わ りの 深 い 人 物 も含 まれ て い た。1 8 5 9 年に は、比 較 動 物 学 博 物 館 ( M u s e u m O f Comparative Zoology)設 を 立 したが、 一 方 で A g a s s i z の教 授 法 や博 物 館 観 は、 「 専 門家」 を 意 図 した もので あ った とい う。 New Yorkの セ ン トラル ・パ ー クにおいて、アメリカ 自然史博物館が設立 された際、計画段 博物館 は第 一 に科学者 と専 門家 に従 事す べ 階 にお い て Agassizは参画 して い るが、彼 の 「 町に とっての偉大 な教育 システム」 とい き」 とい う考 えは否定 され、Andrew H.Greenの 「 0 1mstedが仕掛 けた民主主義 の戦場 う考 えが採用 された。 セ ン トラル ・パ ー ク自体 も、Fo L。 の よ うな場であ ったが、公 園 とい う 「 公有地」 にお いて、 「 公教育」 の施設 を設置す るとい う 術館 にお いて、労働者が 日曜 考 え方が実践 された。ア メ リカ 自然史博物館や Metropolitan美 ー 開館 を巡 って論争 を起 こすな ど、セ ン トラル ・パ クの計画にあっては、博物館 もその民主性 が試 された。 Study)運 動」が起 こ り、実物教育 その後 の19世紀末、 アメリカでは 「自然学習 (Nature― の思想な ども、一部 この運動 に引 き継がれる。 れば、 運動Jを 担 い、 自然学習協会 会長 に就任 した Liberty Hide Baileyよ 自らも この 「 Agassizによって提唱 された自然 の教育手法 は 「 研究者あ るい は専 門家 の観点 に行われたので あ り、主 として大学生 と成人 とのために意図され た もの」 であ り、「自然学習運動」 とは、複 数 の潮流 の 中 で小 学校教育 か ら始 まった もの と して、Agassizの関与 を否定 した。 また、 Baileyは 、「自然学習」 は 「 教科課程 の一部分 とい う形式」 を持 つ ものではな く、「その本質 は 精神 的な もの」 で あ り、「自然へ の共感 (Sympathy)」である と説明す る。 「自然学習運動」 は、農村 を中心 に展 開 され、農務省林務局長 Go Pinchotの 示 唆 を受 けた大統領 To Roosevelt ―‑157‑― 野外博物館 と文化財保護に関する研究(2) に も支持 され、大 きな勢力 となった: 阿部治 は、 「自然学習協 会 の 目的 は、 野外 での簡便 な経験 を通 して 自然 の 尊重 や理 解 の発達 を助 け る、 自然地域 の保全 を支持 し、 自然教 育 での利用 を奨励 す るこ とな どで あ り、米 国で の 自然教 育確 立 に多大 な貢献 を した」 とす る:た だ し、 宇佐 美寛 は、都市 にお い て 「自然 を描 写 す る芸 術 的 。観照 的方法 を とる傾 向」 か、 「 公 園 ・運動場 。街 路樹 の 市民生活 に対 す る価値 を 知 り、 これ を保 護 し、美 化 す る学習運動 となる傾 向Jが あ り、 「自然学習 の 目的 を、 具体 的 な 対応物 としての 自然 その もの と関連 させ て構 想す る ことは 困難」 で あ った 点 に言 及 し、 自然 と は、 「 都市 にお い て農村 ほ どの意味 を持 ち得 なか った」 と考察 した。 後者 の よ うな、 「 公民 的」 ー ・ パ ン のセ ル は、 自然観 トラ 先 クや、 本稿 で主 題 とす る国立公 園 の理念 にお い て顕 著 で あ っ た。 この 時期 にお い て、 後 の 国立公 園用地 を舞台 とす る、 自然 をフィー ル ドとした教育活動 も展 開 された。 1899年、Chicago大 学 地 質学教 室 の Rollin Do Salisbury教 授 が、 後 に Glacier国立公 園 と な る地 域 に お い て 講 習 を行 っ た 事 例 が 挙 げ られ る。そ の 後、 Thomas C.Chamberlin教 授 、 Wallace Wo Atwood教 授 、J . P a u l G o o d e 教 授 も そ の 例 に 倣 い、H a r v a r d 大 学 の W i l l i a m Morris Davis教 授、Columbia大 学 の Douglas W.」OhnsOn博 士 等 に よって も試み られた: 一 般 の 自然 史 に 対 す る 関心 を促 進 させ た活動 と して は、」Ohn Muirと sierra Clubによる研 究、普及活動 や、Enos.A.Millsに よる Rocky Mountainの イ ン ター プ リテ ー シ ョンが挙 げ ら れ る。 この 内、」ohn Muirと Sierra Clubによる活動 につ い て は、先行研 究 で触 れた:以 上 は、 大学 の授 業 で あ るため、Agssizが 試 みた よ うな専 門家養 成 を 目途 とす る活動 の一 環 で あ る。 他 方、Enos Ao Millsは、Rocky Mountainを 国立公 園 とす るため に活動 し、その過程 で一 般 に対 す る ガ イ ドに も従事 した。 この ガ イ ドは、1880年代 か ら開始 され、専 門職 と しての イ ン ター プ リテ ー シ ョンを確 立 した。」Ohn Muirや Sierra Clubによる、 ガイ ド、調査、 出版物 も、 大衆 の 自然 に対 す る興 味 を喚起 した。 これ らの 自然教 室や ガイ ドは、 博物館事業 とは直接 的 な関わ りはな い ものの、 自然 に対す る 興 味、 関心 を拡大 す るの に一 定 の役割 を果 た した。 そ の後、 1929年に巻 き起 こった世界恐慌 の 影響 で、公 的機 関 の援助 に頼 らざる を得 な い状 況 とな り、 1930年代 頃か らは 「 住 民 に役 立 つ 機 関 と して事業 内容 や活動 を拡大」 し、 「 教育機 関 として の博物館」 が促 進 された。 2 国 立公 園 にお ける初期 の博物館 活動 2‑1)Yosemie国 立公 園 今 日、 国立公 園 の領域 内 で初 めて博物館 的 な活動 が実施 されたの は、Yosemite国 立公 園 の Wawonaと い う地 域 に お け る 植 物 園 (Arboretum)"で あ る。 この 地 域 は、 陸 軍 のA.E. Wood駐 屯 地 か ら、Marcedり ││の上流、 南岸 に位 置 し、公 園監督代 理 の John Bige10w」r。陸軍 少佐 に よって 設 置 され た。1904年の 時点 で、Wawonaは 、 国立公 園 内 に含 め られて い なか っ たが、J.Bigelowは 、Yosemite保 護 の 目的 を以下 の よ うに掲 げ て い る。 ―‑158‑― 野タト 博物館 と文化財保護 に関す る研究 ( 2 ) 一 般大衆 に無料 で 自然 の偉大 な博物館 を提 供す るため。 樹 木 の み な らず 、 自然 の 中 でそ れ らを構 成す る全 て を保 存す るため。公 園 を構 成す る植物相、 動物相 、動物生態、鉱物学 的 ・地質学 的な土地 の特徴 を保存 す るため。 Bigelowは、 植 物 を愛好 した 人物 で あ り、 1904年の レポ ー トには、75か ら100エー カー 程 の 36 要 して い た こ と、お よび 「 面積 を持 ち、Marcedり││に沿 った 自然観 察路 (Nature Trail)を ー 本 に ラベ ル添付 済 み、20本以上 が鑑 定 済 み、 四辺 を二 重 に コ トした ラベ ル は、 厚 さ 1イ ン チ」 であ った こ と等が記 されて い る。 "が 1904年末 に Bigelowは 退 職 した後、 この 植 物 園 維 持 され る こ とは 無 く、 1929年、 No Morrisに発 見 され る まで忘 れ去 られ る。そ の Yosemite国 立公 園 の レ ンジ ャー で あ った 」。 訪 れた際 には、 ラベ ル に関 し、規格 は 9× 14イ ンチ、 後、 同 じ く レンジ ャー の O.Lo Wallisが 英名 と学名 を表記 、 その他、草本用 には金 属 タグが用 い られ、 案 内や注意書 き等 の設備 を確 認 し、簡 単 な図面 を提示 した。 Ned」.Burnsは 、Bigelowが さ らに博 物館 と図書館 の 設置 を望 んで い た こと、 それが実現す "を る こ とが なか った こ とを示 した後、公 園用地 で はなか った この 植物 園 国立公 園最初 の博 物館 とは認定 して い ない 。 上記 の他 は、 内容 につ い ての 詳細 を知 り得 な い が、Bigelowが 「 保存」 と 「 活用」 の 中 で博 物館 (植物 園)活 動 を構想 して い た こ と、お よび、それが 局 の指示 で はな く、 自発 的 な活動 で あ った こ とは確 認 し得 る。 その後 、Yosemiteに お い て、 次 の博物館 的活動 は比較 的早期 に再 開 され る。 1908年、California大 学 Berkeley校 に 脊椎 動 物 博 物 館 (Museum Of vertebrate Zoology) が創 設 され、1914年には Yosemite国 立公 園 の 動 物調査 が 開始 され た。 この 調 査 で は、4,354 点 にお よぶ 資料 が提 供 され、Yosemiteの研 究 的方面 のみ な らず、利 活用 し得 る知見 と資料 を もた らした。 oseph Grinnellは 、 動物 学者 で あ る一 方、教 育者、 か つ 博 物館 学 同博物館 デ イ レク ター の 」 の展 示 が 者 で もあ り、彼 の 影 響 に よって、 管 理 本 部棟 内 の 案 内部 (InfOrmation Bureau)で 1915年よ り開始 された。 この展示 内容 は、 多 くの 四足動物 と′ 鳥類 の標本、 お よび水彩 ス ケ ッチ を伴 った錯 葉標 本 で あ り、 ラベ ル を備 えて い た。1916年か ら、Yosemite国 立公 園 の主 任 レン ジ ャー となった Forest S.Townsleyは 、 当時普及 して い た剥製技術 の 図書 で学 び、Grinnellも そ れ を助 け たが、博 物館 の 設 立 には重 要 な関 わ りをせ ず 、 そ の役 割 は1919年に イ ンフ ォメ ー シ ョン ・レ ンジ ャー とな った Ansel F.Hallが 果 た す こ ととなった 。Hallにつ い て は、 後述 す るこ ととす る。 Y o s e m i t e 国立公 園 での博 物館 活 動 は、G r i n n e l l の 教 示 を得 て い た ものの 、現場 に学芸員 が 不在 であ り、確 た る予算 も存在せず、建物 も展示 のための施設 で はなか ったのであ る。 2‑2)Yellowstone国 立公 園 。Mammoth Hot Springs公園本部博物館 Y e l l o w s t o n e立 国 公 園 で 自然 ガ イ ドや ホ テ ル で の 講 演 活 動 に 従 事 して い た M i l t o n P . ―‑159‑― 野タト 博物館 と文化財保護に関する研究(2) Skinnerは、 「 政府 の公 的事業 に、 ガイ ド、講習、情報提供 部局 と博物館 を含 め るべ き」 とし、 1913年か ら翌14年にか け ての冬 の 時期、 内務省 に対 して請願書 を提 出 した。 1919年、 国立 公 園 局 副 局 長 で あ り Yellowstone国立 公 園 監 督 も兼 任 した Horace Marden Albrightは、Matherに 劣 らず、 国立公 園 の教育活動 に関心 を抱 い て い た人物 で あ り、公 園制 度 にお い て 初 め て教 育 サ ー ビス を専 門 とす る レ ンジ ャ ー ・ナ チ ュ ラ リ ス ト職 を設 け、M. Skinnerを登 用 した。 1920年には、MammOth Hot Springs付近 に立地 す る Ye1lowstone国立公 園本部 の イ ンフ ォ メ ー シ ョン事 務 室 にお い て 展 示 を 開始 し、翌 年 に は Fort Yellowstoneに あ る事 務 員宿 舎 で あ った建物 に移 転 した。 この建物 は、 今 日、Ho M.Albrightビジ ター ・セ ン ター となって い る。 収 蔵 資料 は、 「 植 物 資料 80点以 上、 動 物 資料 数 点、来 訪 者 の 観 点 か らラベ ル に は特 別 な配 工 夫 に富 んだ岩石 製 ケ ー ス に 慮」 が な された。Albrightによる1922年9月 の 報告 に よれ ば、 「 47点、Geyseriteケー ス に43点、 木 製 ケ ー ス に41点、 動物頭 部 の 剥 製 2点 、 ワシの 最1製 1点 、 1ケ ー ス に 4つ の展示 を含 めた ビーバ ー の生 活描写、歪 曲 した樹 木、鉱物 の 2資 料 、押 し花 と 乾燥標本80点」 とい う内容 であ った。 そ の後 、記者 で あ り、公 園 に長期 滞在 して い た Emerson Houghに よって歴 史的 な項 目を追 加す る よ うに薦 め られ、Matherも それ を指示 した。 さ らに、Albrightは、1920年の 定期 報告 にお い て 「 情 報 サ ー ビスの 価値 あ る特 色 と旅行 者 に賞賛 され るべ きもの」 を推 し進 め る考 えを提示 し、Isabel Bassett Wassonを 雇用 した。 Io Wassonは、Wellesley大と Columbia大 の 卒業 生 で あ り、 1919年の夏、 間欠泉 と温 泉 に関 す る話 が Albrightへの 好 印象 を 与 え る きっ か け とな っ た。 講 演 を専 門 とす る 季 節 的 レ ン ジ ャー は公 園制 度初 の 職 目で あ り、1日 に 3回 、30分程 の 頻 度 で 実 施 され、無 料 で あ った。 1920年の 題 目は、 「 Yellowstoneがどの よ う に してで きた のか」 であ り、平易 な言葉 で地 質学 A History of Administrative Development in 構 成 を 講 演 し た も の で あ っ た。ま た、 『 Ye1lowstone National Park,1872‑1965』 の 記 録 に よれ ば、1921年に は、Mary Rolfが 講 演 を 担 い、Mammothホ テ ルの 玄 関 で83回、Mammothキ ャ ンプ (駐屯 地)で 77回、公 共 キ ャ ンプ 用 地 で54回、 そ の他 の地点で66回を数 えて い る。 さ らに、 ガイ ド旅行 も実施 され、93日間の 開 催 にお い て、703回の ツアー を32,068人が 利用 して い る。 2‑3)そ の他 、 自然系 の博物館 Yosemite、Yellowstone国立 公 園 以 外 に は、Sequoia、Mto Rainie、 Rocky Mountai国 立 公 園 にお い て博物館 的 な活動が実施 されてお り、 Lewisの 著書 に基 づ い て概 略 を記 す。 Sequoia国 立公 園 の 監督 で あ った Walter Fryは、1917年か ら博物館 資料 の収 集 を始 めて い た。 自宅 兼 公 園 本 部 事 務 室 を火 災 で 焼 失 し、そ の 際、 Sequoia国 立 公 園、 お よ び General Grant国 立公 園 に関す る資料 4,000点を失 った 。そ の 後、事 務 室入 り口 にお ける野生植物 の展 示 は、植物学 的側面 お よび維持 ・管理 的側面か ら教育的価値 は賞賛 に値 す る もので あ った とさ れ る. Mt.Rainie国 立公 園 の 監督事務所 に設置 された情報提供 部 にお い て、1918年か ら若干 の展示 一‑160‑― 野外博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 ( 2 ) が 開始 された。そ の1 0 年後 に、 管理棟 が新 設 された際、 この監督 事務所 がそ の まま博物館 に転 用 された。 R o c k y M o u n t a i n では、1 9 1 8 年以来、公 園事務所 内 にお い て 一 般利用 のための植物標 本 フ ァ イ ルが設置 され、G r a n d C a n y o n 国立公 園 で は、1 9 2 2 年か ら情 報提供 部 で展示す るための 資料 と して、公 園内 の 野生植物 と鉱 物 の標本 、お よび他 の 国 立 子 園 に 関す る写真 を収 集 した。 2‑4)Casa Grande遺 跡 国立記念物 と M e s a V e r d e 国立 公 園 の博物館 人 文 系 の 公 園 に 関 し、Lewisは 、 「 歴 史学公 園 考 古 学 公 園 (archae010gical park)」と 「 の 二 系 統 に 分 類 し、前 者 は 白 人 に よ る 入 植 以 前 の 「 (historical park)」 有 史以前公 園 歴 史学公 園」 につ い て は、 「 (prehistorical park)が意 図 され、後 者 の 「 入植 以 降 の 遺跡」 が 意 図 されて い る。 そ のため、 スペ イ ン入植 時代 の 遺跡 であ る Gran Quiviraや Tuma Cacoriの よ う に、 「 歴 史学公 園」 と して位 置付 け られて い て も考古 学 的発 掘 の 調査手法が用 い られ る場 合 が あ る。 また、1917年 まで に、 国立 記念物 として 4件 の 「 歴 史学公 園」 が指定 されて い るの みであ り、 20世 紀初頭 にお い て は 目立 った博物館活動 も少 ない 。 さ らに、先 に述 べ た地域 性 の 保 護制度 に拠 る場合や、 国立首都公 園 にお け る Lincoln博 物館 の よ うに、先 に私 人 に よって博 物館 が成立 し、後 に国立公 園制度 に組 み込 まれた場合 もあ るため、 「 歴 史学公 園」 に 関 して は、 後 に稿 を ま とめ る こ ととし、 ここで は Lewisの 著書 に基 づ き、 「 考古学公 園」 の Casa Grande 国立記念物遺跡 と Mesa Verde国 立公 園 の例 を取 り扱 う。 Casa Grande遺 跡 は、1890年 か ら91年 にか け て、地 質調査 会 に よって最初 の保存活動 が成 さ れ、 そ の後 は公 有地事務 局 (GLO)に 引 き継が れ る。1901年 に Frank Pinkleyを 雇用 し、見学 者 ガ イ ド ・ツア ーが始 め られた。1903年 、Casa Grande遺 跡 に覆屋 を掛 けた建物 内 で展 示 と解 説が成 され る。 1906年 になる と、 内務 省 は 2シ ー ズ ンにまたが る発掘 調査 を開始 し、1906年 か ら翌 年 にか け て C a s a G r a n d e 遺跡 が、1 9 0 8 年か ら 翌 年 に か け て M e s a V e r d e 遺跡 が 選 出 さ れ た。 Smithsonian国立 博物館 の 、Walter Fewkesが調査 を担 当 し、 そ の成果 は、博物館計画 を産 ん だが、 遺物 の保管 は SmithsOnian国立 博物館 が担 う こ とになって い た。遺 物 を現 地 で保管 した い と考 えて い た Pinkleyに対 し、Smithsonianは、 「 合 衆 国連邦 政府 の研 究 団 に よ り 。・・、 岩石 、鉱物、土壌 、化石 、 そ して、 自然 史や考古学、民俗 学 の 資料 の収集 品 は、全 て 国立博 物 館 に預 け られ る もの」 とい う法規 の 条文 を引用 して返 答 した。 「国 立博 物館 の 支部 とす べ き」 との構 想 を抱 い て い た Pinkleyは、展 示 と解 説 を継続 し、将 来 的調査 のための博物館建 設、お よびその 費用 と して2000ドル を要 求 した。展示 と解説 は1915 年 まで継 続 され、 一 時 中断期 間 を挟 むが、1918年に Casa Grande遺跡 が 国 立 記念物 に指 定 さ れた後 に再 開 された。 局長 の Matherも 、 コ レクシ ョンのため に210ドル を私 費 で供 出 した。 1921年になる と、 国立公 園局 は博物館 と管理棟 の建 設 に対 して1200ドル を捻 出 し、翌 年 には 建設 された。施設 は、50×22フ イー トの面積 を持 ち、収蔵庫 、展示室、 図書室、地 図室、小休 憩室 を備 える もので あ り、翌年 には、 博物館 は新 方針 を採 り、管理棟 と しての機 能 よ りも、博 物館 関連 の施設が建物 の大部分 を占め るに至 った。 また、来場者 の 関心 を得 るため に、 さ らな ‑161‑ 野外博物館と文化財保護に関する研究(2) る発 掘調査 を要望 した。 Mesa Verde遺 跡 は、他 の 「 考古学 公 園」 と異 な り、遺跡発 見直後 か ら即座 に博 物館 資料 の 源 となった。19世紀 末 か ら資料 収 集 は始 ま り、地元 カ ウボ ー イや、Colorado州歴 史協 会、 ス ウ ェー デ ン人科 学者 の Gustaf Nordenskiold等 がその役割 を担 った。 そ の一 方 で、Colorado州 の女性 団体 に よって、1906年、遺 跡 は 国立公 園 に指定 され た。 1907年に は、 発 掘 調 査 が 開始 され、W.Fewkesと 共 に ア メ リ カ 考 古 学 学 校 の Edgar Lee Hewettが 携 わった。Pinkeleyと同様 に、Hewettも 遺跡 にお け る博物館 で保存 され る とき、 「 遺物 は最 も効果 的 であ る」 との信 条 を抱 き、博物館 の創 設 に努 めた。 Mesa Verde国 立公 園監督 の Thomas Ricknerも 、1915年、Colorado州議員 に博物館建設 を 打 診 した も の の 実 現 す る こ とは な く、So Matherに タ ー ゲ ッ トを移 行 した。 こ れ に対 し、 Matherは 、 「 資料 が 現 地 に存 在 しな い こ とは、 来場 者 に とっ て の 疑 間 と失 望 を招 く問題 と なって い る」 との 見解 を示 した。 さ らに、1916年の内務 長官 に対 す る報告 で は、Mesa Verde 国立公 園 にお ける博物館建設、 お よび公 園か ら運 び出 された資料 の返 還計画 を検討 した。 同年、 Ricknerは 展示 ケ ー ス と公 園 レンジ ャー であ る Fred」eepの コ レク シ ョンか ら陶製瓶 と石斧 の寄贈 を依頼 し、 ケ ー スの代 金 と して22ド ルが計上 され、 ケ ー ス は レンジ ャー ・ス テ ー シ ョンに設置 された。翌1917年には、 レンジ ャー ・ス テ ー シ ョンか ら博物館 へ 移管す べ く、副 局長 の Albrightが訪 問 し、Ricknerも それ を促進 させ た。 1918年の春、博物館 は完成 し、1つ の展示室 に二 種類 の展示 ケ ー ス を備 え、有 史以前 の遺物 が 展 示 され た。 も う一 方 の 部屋 は、来館 者 の 小 休 憩 室 で あ り、写 真 12点が 展 示 され た 他、 Fewkesの 講演活動 も始 め られた。 国立公 園局 に よる教育活動 の生 徒 で あ った C.Frank Brockmanは 、 「国立公 園局史 にお け る 重要事項 の 一 つ 」 であ る とした 一 方(「資料 の収 集、展示、解 説 に 関 して専 門性 を欠 くもの」 で あ った との評価 を加 えて い る。 そ の後、公 園監督が Ricknerか ら Jesse Nusbumに 交代 す るこ とで、 専 門性 の 問題 も解消 さ れて い く。Jo Nusbumは 、 アメ リカ考古学学校 や New Me対 co博 物館 で Hewettと 共 に働 き、 1921年に Hewettの 指示 に よって監 督 に就任 した。Nusbum夫 妻 に よって近代 的博物館 手法 が 導入 され、施設 の完備 や 資料 の収集、分類が 図 られた。 同年、San Franciscoからの 来 園者 で ある S.M.Le宙 stonか ら、 ゲ ー トの建設 に1,000ドル、 お よび他 の展 示施 設 (第一 ウ イ ング)建 設 の ため に1,000ドルが 寄贈 され た。 この 施設 は、耐 火構 造 と して設 計 され、 これ に よって、Smithsonianか らの遺物 返却 が実現 し、新展示 室 は、 1925年に一 般公 開が始 め られた。 3 東 西 の教育事業 3‑1)国 立公 園局 Washington本 部 1916年に 国立公 園局が設 立 された直後 の Washington本 部 にお ける動 向 につ い て は、 先行研 究 で叙述 したため、 ここで は略述 に留 め る。 1917年、教 育部 門が創 設 され、Roberto S.Yard(1861‑1945)が 主 任 に就任 した。翌 年 の 6 ‑162‑― 野タト博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 ( 2 ) 月 には、W a s h i n g t o n 公園局本部 の外 郭組織 と して、 国立公 園教 育委員会 が設立 され る こ とと な り、 R . Y a r d は 委員会創 設 のため 国 立公 園局 を離 れ る。 さ らに、1 9 1 9 年5 月 には、 国立公 園 教育委員 会が 国立公 園協会 となった。 、先 に示 した 」. G r i n n e l l の 活 動 に も関 国 立公 園局局長 S t e p h a n T o M a t h e r ( 1 8 6 7 ‑ 1 9 3 0 ) は "と い う形式 で、 後 の博 物館 活 動 の基 盤 心 を示 し、1 9 1 8 年には L a n e か ら M a t h e r へ の 手紙 となる よ うな公 園政策 が示 された。 最 も熟 1 9 2 0 年には、前述 した よ うな博 物館 活動 を受 け、第 4 回 内務 省定期報告 にお い て、 「 一 一 慮す べ き重要事項 の つ は、全 ての国立公 園 にお い て 件 の適切 な博物館 を早期 に設立す る こ とで あ る ( 傍線筆者) 」 との声 明が発表 された。 1 9 2 4 年、M a t h e r は 、実行計画 を開発 す るため、主任 ナチ ュ ラ リス トであ る H a l l との共 同 で 教育事業 の調査 す る よ う、F r a n k R o O a s t l e r士博を任 命 し、調査 には夏 の 4 カ 月半が費や され 教育 た。 この 調査 結 果 は、主任 ナチ ュ ラ リス トとパ ー ク ・ナチ ュ ラ リス トの責務 を定 義 し、 「 発 を提 唱 し た。 「 教 育 活 動 計 画 (educational 活 動 計 画 ( e d u c a t i o n a l w o r k i n g p lの a n開 )」 必要 な建 working plan)に 」 は、 「ス タ ッフの訓 練 と資格 に関す る声 明」、 「 教 育活動 の概 要」、 「 各公 園 は、全 体 の教 育 の 分 野 を網羅 しよ う と 物 計画、設備 、予算J が 含 まれ るべ きとされ、 「 す る よ りも、 む しろそれ 自身 の個 々の現象 を特 集す るべ きであ るJ 旨 を推薦 した。 3 ‑ 2 ) A n s e l F . H a l l と Y o s e m i t e 国立公 園 での活動 一 東岸 の W a s h i n g t o n 本部 に対 し、 方 の 西 部 で は、Y o s e m i t e 国立公 園 を先駆 と して教 育事 業 が展 開 され、 アメ リカ博物館協会 の参画 に繋が る活動 が展 開 され る。 本項 で は、 まず この 間 の流 れ を追 い 、 そ の後、具体 的 な展示等 の活動 を叙述す る。 Ansel Fo Hall(1894‑1962)は 、1917年に 林 学 の 学 位 で Califonia大 学 を 卒 業 し た 後、 Sequoia国立公 園 で イ ンフ ォメ ー シ ョン ・レンジャー としてのキ ャ リアを始 めた。 第 一 次世界 大戦 時 には フラ ンス に赴 き、1919年に Yosemite国 立公 園 レンジ ャー、1920年か ら1923年まで 同パ ー ク ・ナチ ュ ラリス トとして博 物館 の創 設 に努 めた。 そ の後 も国立公 園局 の教 育事業 に関 し、主 導 的 立 場 につ く。 なお、Yosemite国 立公 園 にお い て、 パ ー ク ・ナチ ュ ラ リス トは常 勤 で はなか ったが、1921年7月 1日 か ら常勤職が設 け られ る よ うになった。 イ ンフ ォメ ー シ ョン ・レンジ ャー として、 本部棟 での展示 に対す る来園者 の熱心 な反応 を受 け、 Hallは、博物館 設置 の必要性 を実感す る。 1920年には、Yosemite国 立公 園 は、 局長 Matherに よって 本 部建物 の新 設 を認可 され、画 ス タジオ を利用 して レンジ ャー の宿舎 と展示施設 を併せ た形 式 を採用 し、 家 Chris JorgenSenの 1921年には展示準備 が 開始 され、翌年 6月 17日に公 開 された。 1920年8月 の 時点 で、Hallは Yosemite国立公 園監督か ら、展示 のための準備 を認可 されて い るが、 予算 に関 して は執行 されず、寄付 に依 存 せ ざる を得 なか った。 そ の ため、 ケ ー ス や テ ー ブルは手作 りに よる もので あ ったが、 資料 の収集計画 は成功 し、寄贈 と借用 に よって ドル 30,000程の価値 を有 す る コ レクシ ョンを作 り上 げ た。 ―‑163‑― 野外博物館 と文化財保護に関する研究 (2) 博 物館 は Sentinel橋の付 近 に立 地 してお り、 1922年6月 17日に 開館 、6部 屋 の 展示 室 に、 歴 史、民俗 、地 質学、 自然 史、植 物、地域 の樹 木が振 り分 け られ、6月 の 来館 者 は9,631人で あ った。 そ の後 、7月 には協会誌 『 Yosemite Nature Note』 の倉1刊に至 る。 一 方 で は、1920年、Hallが 展示準備 の 認可 を受 け たの と同時期 に、California釣 猟 委 員会会 員、お よび California大 学 Berkeley校の Harold C.Bryantと同大学 Los Angeles校の Lbye H. Millerによ り、 自然 ガ イ ドサ ー ビス が 開始 された。 Harold C.Bryant(1886‑1968)は 、脊椎 動物博物館 に在籍 し、California大 学 Berkeley校 か ら動物学 の博 士 号 を受 け た。公 園 に対 し、1921年の夏 にガイ ドを指 揮す べ く専 門 の ス タッフ を置 くよ う指示 しそれ を受 けた Hallは、 ガ イ ド事 業 を実行 に移 す。翌年 の 春 か ら夏 にか け て の 間、か け て無料 自然 ガ イ ドを実施 した。博物館創 設以 降 は、 この ガイ ドの本 部 もこの施設 に 置かれ る こととなった。 この 間、 Yosemite教 育 部 門が創 設 され、Hallは、 更 なる博物館活動 を模 索 し、私 費 を投 じ て 寄付 を募 るが、 個 人 的 な活動 に限界 を感 じたためか、Central Valley新 聞、California科 学 院、California大 学 な どが 協力 し、博物館活動 を支援 す る 団体 の創 設 に取 り掛 か る。その結果、 1923年8月 4日 、 国立 公 園初 の 非 営 利 支援 団体 で あ る Yosemite博 物 館 協 会 (the Yosemite Museum Association)が 創 設 さ れ た。 翌 年、 同 協 会 の 名 称 は、Yosemite自 然 史 協 会 (Yosemite Natural History Association)と 改 め られ、 当 初 は 国 立 公 園 局 が 発 行 して い た Yosemite Nature Note』を、1925年か ら引 き継 い だ。 最終 的 に、 協会 は9,000ドルの 基 金 が 『 設立 され るに至 ったが、 新 しい博物館 の準備 、建 設 には未 だ不十分 な額 で あ った。 さ らに、 同 年 8月 、Washingtonの 国立公 園局 は、公 園 システム全体 を司 る主任 ナチ ュ ラ リス ト職 を新 設 し、H」1が就 任 した。 以 上 の 過 程 か ら も察せ られ る よ う に、Yosemite本 部棟 で成 され た展 示 は、 キ ユ レー タ ー シ ップに基 づ くもので は なか った。Ro Lewisは、 当時 の 写真 か ら、 資料 が 雑然 と過 度 に展 示 され て お り、資 料 保 存 面 で の 関 心 を欠 い て い る 点 を指 摘 して い る。 さ ら に、 『 Yosemite Nature Note』誌 の記事 か ら、博物館手法 につ い て評価 を加 えてお り、 以下 はその 要点 で あ る。 なお、Lewisの 著書 にお い て は出典が記 されて い な い ため、 彼 が参 考 に した と考 え られ る記 事 を示 した。 また、創刊 か ら暫 くの 間、 同誌 は無記名 の記事 が大 多数 を占め るため、 これ らにつ い て は、編 者 であ る Hallの 記事 として注記 を記 した。 ・来園者 が野外 の所 々 で黒 曜石片 を発 見 し、 そ こか ら生 じた質問 を受 け、博物館 内 で 黒曜石 に よる鏃 の 製作 工 程 に 関す る展示 が試み られてお り、野外 の特徴 と館 内 の展示 を連動 させ る努力 を して い る。 ・公 園内 で傷 つい た ピ グ ミー ・オ ウルが、即 時 に展示 資料 となってい るな ど、展示 は面 白味 があ る もので あ った。 ・学芸員手法 と しての交渉力 を欠 い て い るため、Yosemiteの 専 門領域 を超 える籠 の 寄贈 資 料 を大量 に受 け入 れて しまった。 以上 の指摘 のみで は、 同館 の叙述 と して不 十分 と考 え られ るため、 同誌 の記事 に よって補足 を加 える。 ―‑164‑― 野外博物館 と文化財保護 に関す る研究 ( 2 ) まず、館 内 の展示 に関 しては、鳥 の巣や、 パ ー ク ・ナチ ュ ラ リス トが 二 年が か りで 制作 した レ リー フ模 型 ( r e l i f e m O d e l )記事 の が見 受 け られ る。 そ の 後、 ア メ リカ博 物館 協 会 が参画 す 科 院付 属 博 物 館 の 主任 剥 製技 術 士 で あ る る以 前 で あ る1 9 2 4 年3 月 の 記 事 で は、C a l i f o n i a 学 F r a n k T o s e による協力 に よ り、 ジオ ラマ ( h a b i t a t g r o u p )製作 が され るに至 った。 同記事 に ー よれ ば、 テ マ として 「 公 園内 で普遍 的 に見受 け られ る小 動物家族 の生 態」が選択 されてお り、 野外 での生 態観察 に対 す る良 い機会 を提供 して い る」 とされ る。 そ の他 、館 内 で は、 リクエ 「 ス トに応 じ、 ヘ ビの捕食 デ モ ンス トレー シ ョンが成 され る等 の プ ロ グラ ムが実行 され、 人気 を 博 した。 野外観 察 の 案 内記事 も数多 く取 り上 げ られ、Y o s e m i t e 渓谷 V i c i n i t y のドー ム頂 上 で しか確 t に る もの や、熊 の ね ぐらに関す る ものが 挙 げ られ 認 で きない とい う Y o s e m i t e B i t t e r R o o関す る他 、 自然 ガ イ ドに関す る記事 と併 せ た内容 で紹介 され る こ ともあ る。 先 に 6 月 の 来館者 数 を示 したが、 同月 の 自然 ガイ ドには、博 物館 来館 者 を上 回 る1 , 0 0 0 人以 上 が 参 加 し、 回路 沿 い の 鳥類 や、樹 木、花 に つ い て 学 習 した と され る。 講演 に 関 して は、 、 L o y e H o M i l l e r名 のが最 も 1 巻 1 号 に掲載 され、 「 初期生物 の形態 に関 す る記録 ( 6 月 1 1 日) 」 、 「鳥類 の化石 ( 1 4 日) 」 とい う、進化論 の加熱振 りを窺 わせ る演 目 「 有 史以前 の動物 ( 1 3 日) 」 で あ った。 また、通常 の 講演以外 に も、 キ ャ ンプ フ ァイヤ ー を囲んで聴講す る 「キ ャ ンプ フ ァ イヤ ー ・トー ク ス」 の イベ ン トも始 め られ、1 9 2 3 年の統計 に拠 れば、6 、 7 、 8 月 に この地 を 訪れた人数 は1 0 0 , 0 4 3 人に及 んだ。 講演 とキ ャ ンプフ ァイヤ ー ・トー クス (69回):来 館 ・聴講者等人数 (49,195) 個人 的 に指揮 された 自然散策 (226回):来 館 ・聴講者等 人数 (3,566) Ysemite博 物館 :来 館 ・聴講者等 人数 (47,282) 以上が、 そ の 内訳 であ る。 他方、展示 資料 で はな く、野外 の 自然 につ い ての 「 保存」面 に関 しては、花 の摘 み取 り禁 止 を喚起 した もの等 が あ るが、研 究成果や計画、実施 して い る方策等 にす る記事 は見受 け られ な い。 3‑3)国 立公 園局 とアメ リカ博物館協 会 との接 触 H a l l 自身 も、 ス タジオでの博物館活動 、特 に耐火性 の建物 で な い ことに不満 を感 じてお り、 の Muir Trailの り 移 転 先 を模 索 して い た 最 中、 1 9 2 1 年8 月 、P a l i s a d e s‖ 調 査 に訪 れ て い た C h a u n c e y L . H a m l i n アメ リカ博 物館 協 会会長 と偶然 に出会 った。H a l l は、 自身 の博 物館 に対 す る構 想 を H a m l i n に 語 ったが、望 み は即座 に叶 え られ る こ とはなか った。 しか し、1 9 2 3 年に C . H a m l i n が 息子 を ヨー ロ ッパヘ の旅行 に出す こ とを考 え、 そ の付 き添 い となる人材 を模索 し て い た 際、 H a l l がそ の役 目を依 頼 され た。 この 間 の 詳細 な顛 末 は、H a l l の手紙 と して、C . P . Russellが 引用 して い るため、 そ ち らを参照 された い。 この と き、H a l l は、 ヨー ロ ッパ の博 物 館 と野外 学習 を見学す る機会 を得 た こ とになる。 ヨー ロ ッパ 旅行 のため、H a l l は公 園局主任 ナチ ュ ラリス トを休職 し、C a r l P . R u s s e l lそ がの ―‑165‑― 野タト 博物館 と文化財保護に関する研究 ( 2 ) と、 1 9 2 3 年6 月 に H a l l がレ ンジ ャ ー ・ナチ ュ ラ リス ト職 と して 後 を引 き継 い だ。C o R u s s e l l は 雇 った 人物 で あ り、 そ れ以 前 は 高校 教 師 の 職 に就 い て い た。 この 時 の 雇 用 は、 一 時 的 な ア シス タ ン トとい う形態 で あ ったが 、後 に常勤 の役 職 を獲 得 し、公 園局 に博物館 部 門が新 設 された際、 初代 主任 となるが、彼 に関 す る詳細 は後 の稿 とす る。 Hallが不 在 の 間、 Hamlinは Yosemiteに 博 物館 を創 設 す べ く行動 を開始 す る。そ して、 協 会 の用件 で Laura Spelman Rockefeller記 念財 団に出向 い た際、 Yosemiteにお け る博物館設 立 事 業 に対 す る寄付 を取 り付 け た。 さ らに、 そ の まま Washingtonの アメ リカ博物館協 会本部 に 向 か い、 国立公 園博物館 委員会 (Committee On Museumsin National Parks)を 設立 した。 1924年4月 には、財 団か ら、 まず50,000ドルが寄付 され、最 終 的 に75,500ドル を博物館協 会 は 受 領 し た。 さ ら に、Matherの 指 示 に よ っ て 野 外 教 育 委 員 会 (Committee on Outdoor Education)に改称 された。その 際 の メ ンバ ー は以 下 の通 りで あ る。 Chauncey」.Hamlin:議 長 Clark Wissler博 士 :ア メ リカ 自然史博物館副議長 。人類学学芸 員 Robert Sterling Yard:国 立公 園協 会最高代理 JOhn B.Burnham:ア メ リカ狩猟保 護協会会長 H.C.Bumpus博 士 :BrOwn大 学 Laurence Vail Coleman:ア メ リカ博物館 協会代 理 A.Ro Crook博士 :Illinois州 立博物館 主任 Vernon Kellogg博士 :国 立 調査 諮問委員会代理 Frederic A.Lucas博 士 :ア メ リカ 自然史博物館名誉 デ イレクター 究 所 (Institution)所 」Ohn Co Merriam博士 :Washington o Carnegie研 長 George Do Pratt:Brooklyn美 術 科 学博物館副館 長 Charles Lo Richards教 授 :ア メ リカ博物館協会 デ イレク ター 同年 6月 、野 外 教 育 委 員 会 会 議 を開催 し、Rockefeller記 念 財 団宛 に レポ ー ト提 出 した。 Hall等は、 7月 に帰航 した際 に寄付 が成 され た とい う朗 報 を受 け、 そ の足 で Massachusetts 州 Duxburyに あ る Hermon Cary Bumpus宅 を訪 れて初 の対面 を呆 たす ことになるのであ る。 以 降、 国立公 園 にお け る博物館 の創 設 は、 国立公 園局 とアメ リカ博物館協会 の 共 同事業 となる ので あるが、 この共 同 は新 たな問題 を生 む こ ととなった。 この点 に 関 して は、 後 の稿 に譲 る こ ととす る。 4 ま とめ と考察 アメ リカの 国立公 園 にお け る博物館協会参 画以前 の博物館活動 につ い て論 じた。以下 に、諸 点 をま とめ る。 ・アメ リカの博物館 思想 は、19世紀 末 には一 定 の 水準 に達 し、 「 公教 育」 を重視 した もので あ った。 ・自然保護教 育 な どの面 で、顕 著 な活動が存在 した。 。国立公 園 にお い て、初期段 階 に展 開 された博物館活動 は、 国立公 園局 か ら トップダウ ン式 ―‑166‑― 野外博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 (2) 学 博 物館 の例 を除 け ば、既存 の 地元博物館 に成 され た もので はな く、 また、California大 が参画 した もので もな く、 レンジ ャーや ガイ ド、調査 に携 わった研 究者 に よって展 開 され た もので あ った。 。多 くは、 個 人 的 な活動 に終 始 す る こ とな く、個 人 間 の 連携 や協 会 の 設 立 とい ったバ ック ア ップに も恵 まれて い た。 ・確 認 し得 た範 囲 で、 一 連 の活動 を担 った人 々 は、 国立公 園 の 「 保存 と活用」 とい う理念 を 認識 し、活動 の 原理 に反映 させ て い る。 。一 連 の活動 か ら、博 物館 設置 の 必要 に気付 い た 国立公 園局、お よび局長 Mather、副局長 Albrightは、 これ らの活 動 を積極 的 に支援 した。 ・Yosemite、Yellowstone国立公 園 は、教 育事業 の先駆 的 な役割 を呆 た した。 。Ansel F.Hallは 、最 も積極 的 に活 動 し、 ア メ リカ博 物館 協 会 との接 点 を獲 得 す る に至 っ た。 。初 の 国立公 園支援 団体 は、博物館 の設 立、運 営 を 目的 とす る組織 で あ った。 ・野外 と屋 内 の展示 を関連 させ る とい った工 夫 は成 され て い たが、 「 野外博 物館」 とい う同 時 の理念 に基 づ い た活動 に よる もので はなか った。 。施設、設備面 に比 して、 「 保存」面 に対す る議論、 お よび政 策 は乏 しい 。 以上 の 点 に関 し、考察点 を述 べ る。 19世紀後半 の博物館 界 は、G.Goodeを 輩 出 し、博物館 に必要 な 5点 が示 された。 1903年に、 ドイツ宮廷博物館 の マ イヤ ー は、 アメ リカの 自然史博物館 は美術 系博物館 に対 す る優 良性 を報 告 して い る。 一 方、 この 時期 に展 開 した公 園 での活動 は、 レンジ ャー や ガイ ド、調査 に携 わっ た研 究者 であ り、 キ ュ レー タシ ップに則 った もので はな く、継続 的 な資金 の 目処 も立 ってい な か った。 この こ とか ら、 国 立公 園 で展 開 された博物館 は、 当時 の 自然 史博物館水準 か らは数段 野外」 の解 説 や組織 間 の 連携 とい った野外博 物館 で生 劣 った もの とか んが え られ る。 また、 「 じ易 い 問題 に関 して も、 この 時点 で は未 だに直面 して い な い。故 に、実際 の活動 内容 に 関 し、 前 史」以 上 には、評価 を与 える こ とは不可能 であ る。 拙著 は 国立公 園 にお ける博物館論 の 「 ただ し、ト ップ ダウ ン式 で はな く、 「 大衆 的教 育」 のため に 「 博 物館 が必 要」 とい う認識 に 基 づ き、現場 サ イ ドか ら実行 され てお り、 この こ とは、 「 博 物館」 とい う教 育手法が、博物館 一 関係 者 以 外 の 人 々 に も 定 の普遍性 を持 っていた こ とが 窺 われ る。 一 連 の博 物館 的活動 が生 じた要 因 につ い て、Ro Lewisは、 「ア メ リカ史 にお い て最 も自然 史 へ の 関心 が 高 まっ た10年」 の 間 に展 開 され た 「自然 学 習 (Nature Study)運動 の 結 実」 と 進化 論熱」 を掲 げ、それ以 上 の 考察 は成 されて い な い、本稿 で も確 認 した よ うに、 「自然保 「 一 公教育」 や実物教育 の推進 は、 国 立公 園 にお い て 「 護」 に対す る 「 博物館 的」活動 が生 じた つ の 要 因 として納得 し得 る もので あ る。 保存 のため には、人 々の 来 園が必要」 とい う信 念 に基 づ き、 先行研 究 にお いて 、Matherの 「 ツー リズ ム との協 力 の 下、公 園政 策 が実行 され た こ とを示 した。 「 公 共 に奉仕 す る 国 立公 園」 公教 育 の ための博物館」観 は、非 常 に合 致 して い た こ とが 伺 われ る。 また教 政 策 に とって、 「 呼 び物」 として 自然 史や博物館 の価値 を認識 し、政 策 中 育 的側面 のみ な らず、集客 のための 「 ―‑167‑ 野外博物館と文化財保護に関する研究 (2) の重点 に位 置付 け られた もの と考 え られ る。 2003年の 時点 にお い て、 国立公 園 の 支援 団体 は全 体 で65件存在す るが、初 の公 園支援 団体が 博物館 の建 設、運営 を 目的 とす る もので あ った こ とは、公 園 にお け る博物館 の必要性 が強 く認 識 されて い た点 を物語 る もので あ る。 A.Hallは 、 キ ュ レー ター と しての側 面 は評価 す る こ とは不 可 能 で あ る。 しか し、 博 物館 設 ー 置 に向け最 も積極 的 に活 動 し、 パ ク ・ナチ ュ ラ リス トの学芸 員職務 を拡大 し、 博物館協会 の 参 画 とい う次代 の布石 を敷 い た 点 は、 「 前史」 にお い て、 最 も重 要 な役割 を呆 た した人 物 と し て、 評価 し得 る もので あ る。 た だ し、 パ ー ク ・ナチ ュ ラ リス ト本 来 の 森 林保 護 官 とい う、 Hallの 「 保存」面 での 活動 は 低 調 で あ った。Syracuse大学 の生 態学 者 で あ る Charles C.Adamsは、1925年に、 「 公 園のナ チ ユ ラ リス トは技術 的 な調査 で な く、初等教育事業 に専心 し、 自然 史 の 関心 を生態 的保存 で は な く、公共 の 楽 しみ に 向 けた」 との批 判 を加 えて い る。公 園局 と Hallが、 保 護政 策 に も力 点 を置 き始 め るの は、1925年以 降 の こ とで あ る。 おわ りに アメ リカにお け る野外博物館 の実態、 国立公 園指定地域 にお ける博物館建 設計画 の経緯 と具 体 的内容、教育行政 につ い て言及 した。 特 に Ansel F.Hallにつ い て は、 これ まで論 を割 かれ る こ とが な く、本論 にお い て、 多少 な りと も評価 を加 えた。 アメ リカ博物館協会 が 国立公 園 の 事業 に参画す るのは、1925年頃か らであ る。 そ の経過 につ い て は、 後 に充分 な議論 を展 開 した 0ヽ 。 尚、本稿 の執筆 にあた り、青木豊教授 の御教唆 を賜 った。末筆 とな りま したが、 記 して御礼 申 し上 げ ます。 補註一覧 。は じめ に ( 1 ) 本 稿 で掲 げ る ビジ ター セ ン ター "と は、 キ ュ レー ター シ ップに則 った博 物館 活動 が成 されて い る施 設 を意 図 して い る。 アメ リカ内務 省 の 国立 公 園局 に よる博 物館養 成 に関 して は、 国立公 園局 の 調 査 ・解 説 部 門 。博 物 館 支 部 主 任 を務 め た R a l f H . L e w i s の論 考 が あ る。L e w も , R . H . 1 9 6 3 . ″ ⅣIuseum Training in the National Park Service,Curator,ヽ ol.4.No。1.The Arnerican A/1useum of Natural IIistory. pp.7‑13. ( 2 ) Y u i , M 。1 9 9 4 . A S t u d y o n t h e V i s i t o r C e n t e r o f N a t i o n a l P a r k o f t h e W e s t i n t h e U n i t e d S The Technical Bulletin of the Faculty Of HOrticulture,Chiba University.No.49.Chiba University. pp.131〜 141. ( 3 ) 今 野農 ( 2 0 0 8 ) 「野外博 物館 と文化 財保 護 に 関す る研 究 ― アメ リカにお け る国立公 園制 度 の 成 立 過程 を中心 に一 」 『國學 院大學 大学 院紀要 一 文学研 究科 一 』 第 3 9 輯 國 學 院大學 大 学 院 (4)Ⅵ rhite,H.E.」r.1963.The Police Power,Eminent Domain,and the Preservation of Historic Properties, Columbia Law Revie、 v ,Vol.63 No。4 Columbia l」 n iversityo pp.708〜709 ―‑168‑― 野外 博物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 ( 2 ) Ibid。, pp.713´〜714. Lewis,R.H.1993.NIuseum Curatorship in the National Park Service,1904‑1982.ヽ Vashington DC i Curatorial Services Division,National Park Service,United States Departinent of the Interior。 (7)Burns,N。 」.1941.Field Manual br Museums.UoS.Govt.Print.Off. (8)Bryant,Ho C.and Atwood,W.ヽ V.」r.1932.Research and Education in the National Parks. United States Government Printing Office Washington. (9)Russell,C.P.1949.Twenty一 Years Ago(No。 1〜 6).Yosemite Nature Note.Vol.28.No.2〜 13,(No。 2)pp。 19〜 20,(No。 3) 5,7,11.Yosemite Natural History Association。 (No。1)pp.9〜 pp。30〜 32,(No。 4)pp.33〜 100,(No.6)pp.135〜 34,(No.5)pp.98〜 139. 00 National Park Service:The First 75 Years;Biographical Vignettes ※ 国立公 園局URL;httpノ l 19世 /www.nps.gov/history/history/online̲books/sontag/sontagbo htm 紀 中葉 か ら20世 紀 初頭 にか け ての博 物 館 (1)倉 田公裕 (1988)『 博 物館 の風 景』 六興 出版 pp.56〜 (2)同 上 pp.48〜 57. 72. (3)Alexander,Op.Cit.,p.51. (4) Ibid。, p.72. ( 5 ) 前 掲 、倉 田 p . 6 0 . ( 6 ) A l e x a n d e r , E o 1P 9。9 5 . M u s e u m M a s t e r s A l t a M i r a P r e s s . p . 2 8 2 . (7) Ibid., p.296. (8) Ibid。, p.297. (9) Ibid. ⑩ 前 掲 、倉 田 p . 6 8 . l l l 同上 p . 6 2 . 理 科 教 育事 典 ( 教育 理 論 編) 』大 日本 図書 株 式 会社 ⑫ 東 洋 ・他 「ア メ リカ合 衆 国 の理 科 教 育」 『 p p . 3 5 7 〜3 5 8 . 2.The Parks and the People,A History of Central Park. ( 1 0 R o s e n z w e i g , R . a n d B l a c k m a r1 ,9 E9 。 Cornell University Press. pp.353. に) 前 掲 、今 野 ( 2 0 0 8 ) 、 p p . 3 1 7 〜3 1 8 . OD Rosenzweig,R.,Op.Cit。 ― ア メ リカ進歩主義教育運動 の農本主義 的恨1 面― 」 L . H . ベ イ リの「自然学習」 0 0 宇 佐 美寛 ( 1 9 6 9 ) 「 『 千葉大学教育学部研 究紀要』第 1 8 巻 千 葉大学教育学部 p . 4 4 . 自然 学 習 の 思 想』明 治 図 書 出 版 m B a i l e y , L . H . 宇佐 美 寛 ・訳 ( 1 9 7 2 ) 『 p p . 2 0 〜2 6 . ※ 原 典 は acmillan Company. B a i l e y , L . H 1。9 1 1 . T h e N a t u r e ― S t u d y l d e a . T h e IⅣ ailey p.27. 0 前 掲、B ・ 参照。 統領については、前掲、今野 (2008)、 09 G.PinchotとTo Roosevelt大 p .322を 一 アメリカにおける環境教育の歴史 と現状 その 1‑行 政の取組を中心 として 90 阿 部治 (1992)「 ―‑169‑― 野外博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 (2) ① ② ―」『 埼 玉大学紀要 教 育学部 ( 人文 。社会学 Ⅱ) 』第4 1 巻第 1 号 埼 玉大学教育学部 p 。1 0 8 。 前掲、宇佐美 p . 5 0 . ④ ⑭ Bryant,Op.Cit. 前掲 、今 野 ( 2 0 0 8 ) p p 。 3 2 4 〜3 2 5 . Bucllholtz,C.W.1983.Rocky Ⅳlountain National Park a History.Published by Colorad0ssociated 2へ University Press ※ 国立公 園局U R L : h t t p : / / w w w . n p s . g O v / h i s t o r y / h i s t o r y / o n l i n e ̲ b o o k s / r o m o / b u c h h o l t z / i n d e x . h t m 2 国 立公 園 にお け る初期 の博 物館 活動 (1)Wallis,0。 L.1951.Yosemite's Pioneer ArbOretum.Yosemite Nature Note.Vol.30.No。 9.The Yosemite Naturalist Division and The Yosemite Natural HistOry Association.INC. p.83. A n 0 1 d N a t u r e T r a i l s F o u n d N e a r W a w o n a . Y o s e m i t e N a t u r e N o t e . VNool.. 9 。 (2)MOrris,J.N.1930。 3. p。 17. ( 3 ) W a l l i s , O p . C i t 。, p p . 8 3 〜 8 4 . (4)Burns,NoJ.1941.Field Manualfor Museums.National Park Serviceo p.4. (5)Lewis,1993.Op.Cit.,p.2. (6) Ibid. (7) Ibid., p3. (8)Rydell,K.L。 2006。A History of Administrative Development in Yellowstone National Park,1872 ‑1965。 National Park Service. p.98. (9) Ibid。 10 Lewis,1993.Op.Cit., p.10. (11) Ibid。 , p.26. 021 Rydell,Op.Cit。 , p.98. l10 1bid. l14)Ibid. 051 1bid., p。99 0 Lewis,1993.Op.Cit. pp.9〜 11. Oη lbid。, p.18. 10 1bid., pp.23‑24 ao lbid。 , pp.11‑18 3 国 立公 園局 とア メ リカ博 物館 協 会 との接触 ( 1 ) 前 掲 、今 野 ( 2 0 0 8 ) 、p p . 3 2 5 〜3 3 0 . (2)Bryant.,Opo Cit. ※ 国立公 園局URL;http://www.nps.gOv/histOry/history/online̲books/resedu/index.htm ( 3 ) 今 野農 ( 2 0 0 6 ) 「野外博 物館 と国 立 公 園 に 関す る一 考 察」 『國學 院大學 博 物館 学紀 要 』 N o 。3 1 國 學 院大學博 物館 学研 究室 p . 3 5 . (4)Burns.,Op.Cit. p.5. ―‑170‑― 野外博 物館 と文化 財保 護 に関す る研 究 ( 2 ) (5)Bryant.,Op.Cit. ( 6 ) ヽV i l l i a m C o a n d W i n k l e r , M . H . 1 9 9 0 . A n s e l F , H a l l 1 8 9 4 ‑ 1 9 6 2 . N a t i o n a l P a r k S e r v i c e : T h e F i r s t 75 Years. ※ 国 立 公 園 局 URL;httpノ (7)Lewis,1993.Op.Cit。 /www nps.gov/history/history/online̲books/sontag/hall.htm ,p.4. (8)Hall,A.F.1922.Popularity of the Yosemite Museum.Yosemite Nature Note.Vol.1.No。 1.National Park Servlce. p.2. お い て 、 同 協 会 の 創 立 を1 9 2 2 年と して い る が 、 本 稿 Y o s e m i t e N a t u r e N o tに e』 『 ( 9 ) C o P o R u s s e l、 lは ive Years Ago で は、 Y o s e m i t e 協会 の 記 事 に よ っ た 。 R u s s e l l , C . P . 1 9 4 ,9 O。p o c i t . , T w e n t yF一 3.The Yosemite Association:80 Years お よ び T h e Y o s e m i t e A s s o c i a t i2o0n0。 (No.6).p.135.、 yoselniteo The Yoselllite Association. p10. of Support for` ⑩ Lewis,1993:Op.Cit., pp.5〜 6. (11) Ibid. O② Hall,A.F.1922.How the lndian Made There Arrow Points.Yosemite Nature Noteo Vol.1.No.5. National Park Service. p.1. 131 Hall,A.F.1922.Specimen of Pigmy Owl Secured.Yosemite Nature Note.Vol.1.No.1.National Park Service. p.2. に) H a l l , A . F . 1 9 2 2 . L a r g e C o l l e c t i o n o f l n d i a n B a s k e t s R e c e i v e d b y T h e M u s e u m o Y o s e m i t e N a t Note.Vol.1.No.1.National Park Service. p.4. OD Hall,A.F.1922.Kinglet's Nest Displayed Museum.Yosemite Nature Note.Vol。 1.No.1. 1. National Park Service. p。 O Hall,A.F.1922.Yosemite Relief Model Almost Completed.Yosemite Nature Note.Vol.1.No。 1. National Park Service. p.3. O Russell,C.P.1924.Natural History Groups for Yosemite Museum.Yosemite Nature Note.Vol.3. No. 3. NationalPark Service. p. 2. ⑩ Hall,A. F. 1923.Snake Room at Museum Popular.Yosemite Nature Note.Vol. 2. No. 12. NationalPark Service. p.2. l19 Hall, A. F.1922.Rare BlossomsExhibited at Flower Show.YosemiteNature Note. Vol. 1. No. 1 NationalPark Service. p.3. CI0)Hall,A. tr.7922.Wild Bear May be Seenat the Bear Pit.Ibid.,p.2. CID Hall,A. tr.1922.Nature GuideServiceReportsRecordat Attendance.Ibid. , p. 4. QZ) Hall,A. tr.1922.Well Known NaturalistVisits the Valley.Ibid., p.4. CI$ Hall,A. F. 1923.Education Work in Yosemite.Yosemite Nature Note.Vol. 2. No. 13.National Park Service.p.1. AA Hall,A. F.\922. Do Your Botanizingat the Flower Exhibits.YosemiteNatureNote.Vol.1. No.5. NationalPark Service. p.1. 0E Russell,C. P. 1949., Op. cit. , Twenty Five YearsAgo (No.S). p. 31. ‑171‑ 野外博物館 と文化財保護に関する研究 ( 2 ) 2 0 1 9 2 3 年 にお け る Y o s e m i t e N a t u r e N o t e の 編 集 は、 8 月 2 3 日 号 はA . H a l l 、9 月 2 9 日号 は 無 記 名 、 1 0 月3 1 日号 か ら C . R u s s e n に 交代 す る。 2つ Burns.,opo Cit, p.6. 4 考 察 (1)Lewis,1993.Op.Cit。 ,p.4. ( 2 ) 前 掲 、 今野 ( 2 0 0 8 ) 、p p . 3 2 5 〜3 3 0 . ( 3 ) S e l l a r s , R .Vヽ 。1 9 9 7 . P r e s e r v i n g N a t u r e i n t h e N a t i o n a l P a r k s : A H i s t o r y . Y a l e U n i v e r s i t y P r e s s p . 86. (4)Yosemite Association.2003.A HistOry ofFirsts"as a Cooperating AssociatiOn.The Yosernite Association. p15. (國學 院大學大学 院博士課程後期 ) ―‑172‑― 50分 の5… 國學院博物館学 の思 い 出か ら S/SO-Memoriesof Kokugakuin Museology 山本 哲 也 YAMAMOTO Tetsuya 國學院大學 の博物館学研究室 に助 手 として在籍 したのは、平成 7年 度か ら平成11年度 までの 5年 間である。 これまでの回學院博物館学 の半世紀 とい う長 い歴史の中 にあって、50分の 5、 つ まり、わずか 1割 ではあるものの、母校の博物館学講座 を陰で支 える役 目を担わせていただ いたことになる。 私 自身に とっては、本当に貴重 な 5年 間であ った。 この 5年 間がなければ、間違 い な く博物 館 の現場 に立つ とい う今の 自分 はあ り得 なか った し、 もしかする と全 く畑違 いの分野に進 んで いた可能性 も、実 はあったのである。 そ こで、私が國學院の博物館学研究室 に在籍す るに至 る経緯 の中での思 い出や、在籍 した間 のエ ピソー ドをい くつか ここに披露 し、記録 として とどめてお きたい と思 う。 平成 5年 。博物館学研究室 の助手に就任す る 2年 前 になるが、その時私 は千葉県 の木更津市 に住んでいた。埋蔵文化財行政に関わる仕事 (発掘 の調査員)を してお り、その仕事 に就 いて 7年 目のことだったのだが、埋 蔵文化財行政 のあ り方 にどうも疑間が わ き、ある意味不信感 を 持つ ようなところにまで行っていた。その詳細 をここで書 くわけにはいかないが、それが原因 で考古学その ものに も、ある意味嫌気 をさしていたのがその 7年 目だった。 もう埋蔵文化財行 政はもちろん、考古学 もやめて しまい、全 く違 う勉強を新 たに始めてみ ようと思っていた時期 が実際にあったのである。 自分 の判断でやめて しま うことはで きるが、それではあま りにも自分勝手 であ り、それまで 育 てて くれ、見守 って くれた両親を本当 に裏切 る ことにもなって しま うと思 い、 とにか く両親 にだけは相談 してみた。たまたま両親が北海道か ら上京 していたその時 に、である。 自分 の考古学 に対す る気持ちや、埋蔵文化財行政へ の不信感、新たに別 の分野 で勉強 を始め てみようと考えてい ることを話 した ところ、父は意外 にもあっさ りとそれを認 めて くれたので ある。そのかわ り、 もう 1年 だけ我慢 してみて、それで も気持 ちが変わ らないの なら思 った と お りにしてみるといい と言 うではないか。なん とも拍子抜 けす るような感 じではあったが、 こ の瞬間、お よそ 2年 後 にその時の職場 を去ってい ることだけは確 かなもの となった。そ して、 運命 の 8年 目を迎えたのである。 その 8年 目のあ る日、正確 にはいつ だったか記憶が定 かではないが、博物館学 の助手 として 戻 って くる気 はないか とい う話 を加藤有次先生か ら頂 いた。その話 は私 にとって、 とにか く驚 ―‑173‑― 50分の 5…國學院博物館学の思い出から く以外 の何物 で もなか った。 そ の 当時、博物館学研 究室助 手 の粕 谷崇氏 の任期が最後 で あ るこ とは認識 して い た。 そ して、次 は大学 院生 の 中か ら誰が助 手 になるのか …、 と も思 っていた。 しか し、 で あ る。 大学 院 に も進 んで い な い私が、それ も一 旦 学外 に就職 し何 年 も経 ってい る者が助手 になるな どとは、 前代 未 間 の ことだ。全 く信 じられず、 こん な私 で もいいの か加藤先生 に何 度 も確 かめ たが、それでいい と言 うではないか。 しか し、なかなか即答 はで きない。 しばら く考 えさせて もらい、その後、 これ も何かのタイ ミングが そうさせたのではないか と思 い、お受けさせて頂 くこととしたのである。父の 「もう 1 年 だけ我慢 して」 とい う言葉が無ければ、その 8 年 目は 無か ったのであ り、助手に着 くことなどなかったはず である。全 く不思議 なめ ぐり合 わせの人 生なのかな、 と思った りもしてい る。 助手になることが教授会 で認め られた と加藤先生か ら報告 を頂 いたのは、平成 7 年 になって 2 月 初めだった と記憶 してい る。それまでは誰 にも言 わず に、 もちろん、両親にも秘密 にして いた。 さて、先生か らの報告 の直後 に、従妹 の結婚式で故郷 ・旭川に帰 る機会があった。食事 をしなが ら、助手 として認 め られたことを両親に打 ち明けた。すると父は、なんとも言えない 喜 びを顕わにして くれたのである。 いろいろな喜 びが混 ざ り合 っていたのではないか と思 うが、 いずれ に して も、本当に喜んで くれた。なん とな く親孝行が で きたかな、 と思った りもした も のである。今は亡 き父 との大 きな思 い出の一 シー ンであることは間違 い ない。助手になって良 かった と思える一瞬であった。 さて、そ うして助手に就任 し、その 2 年 目に本紀要第2 1 輯で 「 博物館 のバ リアフリー計画」 を執筆 したのだが、実 は博物館学 の助手 になるなど夢 にも思わない頃か ら、バ リアフリーには 非常 に強 い関心 を寄せ、 いず れはバ リアフリー について どんな形で もいいか ら論 じてみたい と 思 っていた。 これ も何か の縁 と思 って、博物館 を題材 にバ リアフリー について論 じる機会 を 作 ったのである。その結果、当初4 0 0 字詰 め原稿用紙2 4 0 枚分 の長大な論文 を書 き上げたのだっ た。 だが加藤先生には、 これは福祉 の論文 であるか ら本紀要 には向かない とか、長 いか ら少な く とも削 った上で、何回かに分ける ように とも言われた。そ こを粘 りに粘 って、3 0 枚分 だけ削 っ て、1 回 での掲載 の許可を頂 いたのである。結局7 2 頁を使 い、人には私物化 してい るとも言 わ れた。 しか しその 1 回 で全てを掲載 で きたとい うのが、実は後 々大 きな意味を持 つ ことに気づ か された。 発行 は平成 9 年 2 月 である。そ してその年 の 9 月 に、父が亡 くなって しまったのである。 も しも分けて掲載す ることにしていた ら、父には一部分 だけ活字化 されたもの を目にするだけで、 全て世に出た ことを確認 して もらうことはで きなかった ことになる。 この論文 の全文を読 んだ 父は、バ リアフリーの課題に取 り組む私 を一人の人間として認めて くれるかのように感想 を述 べ て くれた。家業 も継がずにいた私 にとって、 これ も恩返 しのようなものであったのか もしれ ない。そ もそ も 「 博物館 のバ リアフリー計画」 を書 くに当た っては、父の存在が大 きかった。 とい うの も、肺病 を患 い、車椅子で生活 をす ることがほとん どとなっていた父であ り、父はま ―‑174‑ 5 0 分の 5 …國學院博物館学の思い出から さにバ リアフ リー を考 える上 での絶好 の研 究材料 だ ったのであ る。 さて、 そ の論文 を大仰 な形 で掲載 した こ とも手伝 ってなのか、 そ の後、講演 や シ ンポ ジウム な ど、 さまざまな機会 にバ リア フ リー を話す こ とが で きた。 今、私 が博 物館学 を研 究す るにあた って、 この論文 の持 つ 意味 は大 きい。 しか し、 そ の よ う に無理 を押 して も大部 な論文 として仕 上 げ られ、掲 載 で きた の は、博物館学研 究室 の助手 とい う立場 があってで きた ことと思 う。その立場 がなければ、些細 な論文で終 わった可能性 は高 い。 バ リアフリーばか りや ってるん じゃない」 などと言 また。加藤先生 も加藤先生 で、その後 も 「 今 日、山本君はバ リアフリーの講演 のた われていたのだが、陰では、例 えば大学院の授業 で 「 めにい ないんだ」な どとうれ しそ うに話 していたことを学生か ら聞いた りしていて、今 は亡 き 加藤先生 も、実 はちゃん と理解 して くれていたのだ と、 うれ しく思ってい るところである。 * また、國學院の博物館学 の助手 であるとい うことは、当時は全 日本博物館学会 と全 国大学博 物館学講座協議会 ( 略称 ・全博協) と い う 2 つ の事務局 を仰せつかることとなっていた。決 し てこなしたとは言えない ような感 じで仕事 をしたのだが、 これ らの学会 の仕事 も、今に確実に つ ながってい る。事務局担当であるのだか ら、多 くの人が 「山本哲也」 とい う名前 を自然 と覚 えて くれ るのである。何 とも有 り難 いことではないか。全博協 の 5 年 に 1 度 の博物館学講座実 態調査報告書 を作成 した時は、編集に携わった大学 の事務 レベ ルの方 々 と、今 で も上京 の折 に 集 まって飲んだ りす ることがあるほど、 いい関係 を続けられてい るの も有 り難 いこ とである。 さて、エピソー ドとい うのは、笑ったり泣いた りなどいろいろとあるものである。今 となっ ては笑い話で済ませ られるエピソー ドもた くさんある。 ここでは博物館実習旅行の中から、そ ういったエ ピソー ドを少 しだけ披露 してみたい。 * あ る年、近畿 か ら北 陸地方 を中心 に回 る実習 を計画 し、 そ の 出発 点 を滋賀県立琵琶湖博物館 とした 時 の こ とであ る。実 習旅行 は最寄 り駅 に午前 9 時 現地集合 を基本 としてお り、 もしも時 間に遅 れた ら、行程表 を見 て追 いつ くよ うに、 学 生 には事前 の オ リエ ンテ ー シ ョンの 際 に指示 す るのが 常 であ った。そ の 時 は最寄 り駅 が 「 草津駅」 で あ る。 そ の 実習旅行 で は 1 名 が時 間 ま で に来 な くて、通例 に よ り待 たず に 1 名 減 の状態 で出発 した。 そ して、 博物館 に到着 し、学芸 員の方から説明を受けていた。そ うしたところ、別の学芸員が部屋 に入ってきて、何を言 うか と思えば 「 学生さんか ら連絡があって、群馬の草津 に行っちゃったそ うです よ」 と少々笑い気 味に言 うではないか。当時はまだ携帯電話など普及 していない時代 で、連絡を博物館 自体に入 れるしかなかったのである。驚 きとともに、なんとも情けない気分で、改めてかけて くるとい う電話を待 たせてもらうことにした。そして、電話を受け、その晩泊まる予定の福井まで来る ように指示 し、その通 り、福井までたどり着いたのであった。なぜ群馬の草津 に行 ったのか聞 いたところ、滋賀県なのに、なんで群馬集合なのか不思議だったと言う。確かに草津は草津で あるが、まさか これほどの間違いを犯す とは到底思 っていなかった。 とりあえず は合流 して く れたので、その後は無事に実習旅行をこなしたのであった。 しかし、 これを教訓として、同様 ―‑175‑― 5 0 分の 5 … 國學院博物館学の思 い出から の コースの事前 のオ リエ ンテニ シ ョンの際に、「 みんなを馬鹿 にしてい るわけ じゃないけ ど」 と前置 きした上で、 「 群馬 の草津 じゃあ りません」 と説明す るよ うになったので ある。なん と も情けない話 ではあるが、 もはや仕方のないことであ った。 … と、 これで話が終わった と思 っ た ら、その後 さらにオチがついた。 とい うの も、その学生がなんと、旅行会社 に就職 したとい うのである (その後輩か らの伝)。草津 を取 り違 えるような者が旅行会社 に就職 して しま うの だか ら、笑 い話 と言 うほかない。 また、彦根駅出発 の実習旅行 の時であるが、それが 3月 で前夜か ら朝にか けて大雪が降 り、 道路 はどこ も大渋滞。つい にバ スが時 間通 りに到着で きない とい う事態 になった。お怒 りの加 藤先生だ ったが、 こればか りはどうしようもない。結局、彦根城博物館 まで皆重 い荷物 を抱 え なが ら、雪の中を歩 いてい くことになったのである。終わって しまえば懐か しい思 い出なので あるが、その時は辛 い気分 だけだったことを覚 えている。 ほかに も実はきりがないほどあるのだが、取 り敢 えず これ くらい にしてお こう。 自分 自身の専門を考古学か ら博物館学へ と移行する ことにな り、今、新潟県立歴 史博物館 で 博物館学 の専門職 として採用 され仕事 をしてい るのだか ら、なんとも不思議な気持 ちである。 ち よっとした巡 り合わせが この ような ことになるのだか ら、人生 とはわか らない ものだ。 しか し、回學院大學 に入 らなければ、 このような ことなどあ り得 なかったはず だ し、そ して、 助手 にな らなければ、全 く違 った人生 の レー ル に乗 っかっていただろ う。博物館 は 「 冬 の時 代」 と言われ、 とにか く厳 しい世 の中であるが、私 自身にとっては、今、博物館 にい られると い う事 だけで恵 まれてい ると言えるのではないか と思ってい る。 * 私 自身、 まさしく國學院博物館学 に支えられる人生 を送ってい るわけだが、今後 も多 くの学 生 を輩出 してい くことになるであろ う國學院博物館学が、 ます ます発展 されることを切 に望む 次第である。 (新潟県 立歴 史博物館 主 任研 究員) ―‑176‑― 國學院大學 博物館學紀要 第 32輯 博物館学課程開設50周年記念号 発行 日 平 発行所 成 20 年 31 日 3 月 0 1 5 0 8 4 4 0 東 京都渋谷 区東4 1 0 ‑ 2 8 電話 (03)54660251(直 通) 國 學 院 大 學 博 物 館 学 研 究 室 編集権代表者 印 刷 株 式会社 青 秀 木 飯 豊 舎 國學 院大學 博物館學紀要 博物館学課程 開設5 0 周年記念号 2007年 度 第 32輯 目次 黒板勝美博 士 の博物館学思想 ……………………… …………………………・ 青 木 時代室 の研 究― 歴史的変遷か らみた課題 と展望― …………………………下 湯 直 樹 ……… 7 博物館 の運営 と博物館法 の改正 …………………… …………………………・ 大 貫 英 明 …… 21 ………………… …・ ……………………… ……・ 文学系博物館 の 目的 と機能 ・ 渡 邊 真 衣 ……… 33 こど も博物館 につい て一 棚橋源太郎 と木場 一 夫 の論 を参 考 に一 …………福 田 ふ み …… 41 ……………… ……………………… 道 の駅野タト 博物館 の研 究 ………………・ 落 合 知 子 …… 49 写真 の保存 につい ての考察 …………………… …………………………… …・ 伊 藤 大 祐 ……… 71 ……………………… ……………… 伝統 的保存施設 としての土蔵 の考察 …・ 平 澤 佑 加 子 …… 79 拓本一 そ の歴 史 と技法 (通史編)一 ………………… ………………………… 内 川 隆 床展示 ・床下展示 につい ての一 考察 ― 博物館建築か ら見 た 床展示 ・床下展示― ………………………………小 回 博物館展示 と文字一 文字展示論へ の試み― ……………………… …………樋 田 博物館教育 と教育 史料 の可能性 ― 歴史学 と歴 史教育 を接続 る回路― …………………………… ………・ す 會 豊 …… 1 志 …… 87 康 範 ……1 0 1 ・ …・ 113 政 則 ・ 島 有 紀子 ……1 2 3 「 学校展示」と博物館 ― 「 学校展示」は中核 とな りえるか― ………………玉 水 洋 匡 ……1 3 9 展示記録保存― 展示評価 の視′ 点か ら一 …………………………………………………………杉 山 正 司 …… 1 4 7 野外博物館 と文化財保護 に関す る研 究 (2) 一 アメリカの国立公 園における博物館協会参画以前の博物館活動― …………。 今 野 50分の 5… 囲學 院博物館学 の思 い 出か ら ……………………………… ……・ 山 本 哲 農 …… 1 5 5 也 …… 1 7 3
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