学士課程教育の質的転換と私立大学の課題

H25.10.16 私大協研修会
学士課程教育の質的転換と私立大学の課題
佐々木
雄太
(名古屋経済大学長/中教審大学分科会大学教育部会長)
本日は、このような貴重な研修会にお招きをいただき、大変光栄に存じます。
これほど大勢の方々を前に、しかも 90 分のレクチャーをいたしますのは久しぶ
りです。ペース配分がうまくできるかどうか不安ですが、どうか最後までお付
き合いください。
私に期待されているのは、主として昨年 8 月に公表されました中教審大学分
科会の答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」
(以下「答
申」と略記)の解題であると心得ております。しかし、かの答申から既に 1 年
以上を経ておりますし、その間に、私も自分の大学で教育改革の試みを進めて
おります。そこで、本日は、答申の内容そのものを忠実にご紹介するというの
ではなく、私見を含め、経験を踏まえて、「大学教育の質的転換」の課題につい
て私なりの問題提起をさせていただきます。
■はじめに――何が問われているか
最近、しきりに「大学の国際化」、「グローバル人材の養成」、あるいは「国際水
準の大学」が説かれます。その一方で、1 年ほど前でしたか、1 枚の電車のつり
広告が目に飛び込んできました。そこには「“偏差値測定不能”の大学、授業内
容はアルファベットの書き方・読み方、辞書の使い方、使用教材は『中1英文
法』。これこそ学力崩壊時代の覚悟の真剣教育なのだ」とありました。どこかの
大学に関する週刊誌のレポートのようでしたが、このような状況は決して特定
の大学のみの話ではないと思います。尐なからぬ大学で、内容はさまざまであ
っても、「覚悟の真剣教育」が進められているのが実情です。
大学進学率が 50%を超え、大学の新設が続いた結果、大学は多様性を極め、
「偏差値」で示される学生の学力差の大きな隔たりと、全体的な学力低下が生
じました。そして、企業からも国際社会からも、日本の大学卒業生の「学士力」
に不信が投げかけられているわけです。大学生の学力低下の原因を高校までの
「ゆとり教育」に求めたり、あるいは「就活の早期化・長期化」に求めるのは
間違ってはいないと思います。それらの問題はそれとして解決する方策が必要
です。しかし、大学人がしっかり見据えなければならないもっと根本的な問題
があることも事実です。
そのひとつは、
「答申」でも指摘されたところですが、日本の大学生の学修時
間の問題です。彼らの 1 日の平均学修時間は 4.6 時間。これは学生が受講する
1 日の総授業時間数にしかなりません。他方で、日本の大学が卒業要件を認定
する「単位制度」の形骸化の問題です。設置基準は、1 時間の授業の前後に 2 時
間(2時間の授業の場合はその前後にそれぞれ 2 時間)の予習・復習を想定し
たうえで、45 時間に相当する学修を 1 単位としています。しかし、実際には 1
1
コマの授業は 2 時間ではなく 90 分が最近の一般的なあり方です。しかも、学生
たちは 90 分の授業の前後に 2 時間ずつの予習・復習を求められることは滅多に
ないといっていいでしょう。つまり、本来ならば学生たちは 90 時間の学修を求
められるところ、実際には 1 週 90 分の授業 15 週すなわち合計 22.5 時間で、講
義の場合は 2 単位の認定を受けているのです。
私自身、振り返ってみますと、講義そのものの工夫やそのための準備は他人
に負けないくらいに周到にやってきたという自負はありますが、さて、学生に
予習・復習を促すような授業を行ってきたかと問われますと、内心忸怩たるも
のがあります。学生の学修時間の尐なさは、学生の怠慢という問題ではない、
制度の問題であり、大学の授業を担当する教員の姿勢の問題だと言わなければ
なりません。
さて、2008 年中教審答申「学士課程教育の構築について」(以下「学士課程答
申」と略記)以来、「学士力とは何か」が問われ、「学士力の質保証」が課題と
されてきました。2011 年 2 月に発足した第 6 期中教審大学分科会は、その前の
第 5 期に引き続き「中期的な大学教育の在り方」を検討いたしました。主要な
検討事項は、①教育の質の保証・向上、②大学の「機能別分化」・「個性化」と
連携、③以上を進めるための大学の「ガバナンス」の強化、でありました。こ
の諸問題の検討に当たって大学教育部会では、ほぼ次のような二つの問題意識
を共有いたしました。
第一に、大学生の「学力の低下」と、大学卒業生の「社会人基礎力」の不足
に向き合わねばならないという点です。私たちには、この 10 年余り、従来にな
く教育改革に取り組んできたという自己認識がありました。文部科学省の教育
改革支援プログラム(GP)を通して、多くの大学で学長を含めて組織的な教
育改革の取組がなされ、様々な成果を生み出したと考えました。しかし、産業
界を含む社会全体や、当事者である学生自身の大学教育に対する評価は、依然
として低いという現実があります。朝日新聞社の世論調査(2011 年)によれば、
日本の大学は世界に通用する人材を育てているかという問いに Yes とした回答
は 26%、企業や社会が求める人材を育てているかという問いに Yes とした回答
は 25%にとどまったということです。
第二に、予測不可能な変化の時代が到来しているという時代認識です。今日、
経済を中心にした「グローバル化」の進展や高度情報化に伴う社会の急速な変
容は、将来予測をきわめて困難にしています。その中で、世界的な経済危機・
金融危機が生じ、日本の社会構造、産業構造、雇用形態が大きく変わりつつあ
ります。中小企業を含めた日本企業の海外進出が勢いを増しています。くわえ
て、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災と原発の大事故は、日本経済に大きな負
荷をもたらすと同時に、産業を含めた人間社会の在り方や価値観を根本的に問
い直すことを求めています。このように、先が見えず、価値観の根本的な転換
が生じようという時代は、この新しい状況に対応できる人材の育成を差し迫っ
た課題としている。これは未来を担う若者にとって切実な問題であると同時に、
企業を含めた社会全体にとっても抜き差しならない課題である。このような社
会の要請に応え、若者の未来を保証するために、学士課程教育の質的転換に早
急に取り組むことが大学の責務である――第 6 期の大学教育部会は、以上のよ
2
うな問題意識を共有しながら議論を進めました。
■求められる「学士力」とは何か
「グローバル人材」と言う時、たくさんの知識をひたすら頭に詰め込んだ、学
力偏差値の高い頭でっかちの若者をイメージすることはないと思います。むし
ろ、もっと逞しい人材像を描きます。東京大学も先頃、学力偏差値偏重の入学
試験を改めなければならない、そうしなければ 21 世紀の世界で通用する人材は
育たない、と表明しました。学力偏差値の象徴的存在である「センター入試」
の見直しも議論の俎上に載せられています。いったい求められる「学士力」と
は何か――これが最初の問題だと思います。
大学分科会や大学教育部会では、国立大学や大きな私立大学の委員の発言や
意見に対して、中小の私立大学の委員から「先生はいったいどんな大学をイメ
ージしてお話になっているのですか?」という疑義が投げかけられることがよ
くありました。今日、800 近くを数える大学の「学士力の質」について一律の
基準や水準を示すことは困難です。そうだとすれば、
「学士力」をどう考えるべ
きなのか、「学士力の質保証」とはどういうことなのか。
手掛かりは「学士課程答申」の「学士課程共通の学習成果に関する参考指針」
に求めることができると思います。同答申は「参考指針」を以下のように示し
ています。
① 知識・理解:専攻する特定分野における基本的な知識を体系的に理解すると
ともに、その知識体系の意味と自己の存在を歴史・社会・自然と関連付けて
理解する。
② 汎用的技能:知的活動、職業生活、社会生活で必要な技能。
③ 態度・志向性:自己管理力、チームワーク、リーダーシップ、倫理観、市民
としての社会的責任、生涯学習力。
④ 統合的な学習経験と創造的思考力:これまでに獲得した知識・技能・態度等
を総合的に活用し、自らが立てた新たな課題にそれらを適用し、その課題を
解決する能力。
2005 年の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」(以下「将来像答申」と
略記)が大学の 7 つの機能を示し、「機能別分化」の推進を説いて以来、「機能
別分化」は大学の差別化や序列化をもたらす概念であるとして、嫌われた向き
がありました。しかし、第 6 期の大学分科会・大学教育部会では、大学の「機
能別分化」を大学の「個性化」とほぼ同義に捉えて、むしろ今日の大学が進め
るべき選択として議論されるようになりました。そこで、大学教育の「質保証」
にかかわって申しますと、第一に、すべての大学に一律に「学士力」の基準を
設けることが不可能であるとして、それぞれの大学は、例えば前掲の「参考指
針」に基づいて、それぞれの「機能」あるいは「個性」に応じた「学士像」を
提示し、そこに近づく努力を行うことが求められる――それが「質保証」だと
考えることができるということです。
いまひとつ、今日の大学教育の「質保証」という場合に重要な点があります。
大学教育の目的は、学生がいずれかの専門分野にかかわる学びを通して社会人
としての能力を獲得し、習得した専門的知識と技術をもって社会に貢献する人
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材として育成されることにあります。そこで、科学技術が急速に発達し、社会
が大きく変容する時代にあって重要なのは、たくさんの知識を頭に詰め込むこ
とではなくて、
「参考指針」が示しているように「専攻する特定分野における基
本的な知識を体系的に理解する」ことであり、また「獲得した知識・技能・態
度等を総合的に活用し、自らが立てた新たな課題にそれらを適用し、その課題
を解決する能力」の涵養であるというべきだと考えます。
グローバル化の加速のもとで社会の仕組みが大きく変容し、それまでの価値
観が根本的に見直される時代には、想定外の事態に遭遇した場合に、そこに存
在する問題を発見し、それを解決する筋道を見定める能力が求められるのです。
言い換えれば「どんな環境においても“答のない問題”に最善解を導くことが
できる能力」
(2012 年 3 月「審議まとめ」)が、求められる「学士力」だと言わ
ねばなりません。
それでは、このような能力はどうすれば獲得できるのか――これが次の問題
です。
「受身の学び」から「主体的な学び」への転換が必要である、というのが
大学教育部会の議論の行き着いた先です。
■「主体的な学び」への転換
東京大学の研究センターの調査によれば、今日の大学生の4人に3人までが、
「大学でも、教室で先生が全部教えて欲しい」と望んでいるのだそうです。こ
れは困ったことです。なぜなら、大学における学びは「教師が語ったことを手
掛かりにして自ら学ぶ」のが本質だからです。もちろん、大学における学びに
も、語学力やコンピュータ・リテラシーの習得や、社会や自然を理解するため
の基本的な知識の習得など、
「教えられて学びとる」ことが必要な側面も存在し
ます。しかし、
「学び」の本質はそれだけではない、そこにとどまらないという
ことを、私たち教員はしっかり共有しなければならないと思うのです。重要な
のは、知識やスキルの習得作業が、主体的な学びの課題に結びついて、意欲を
持ってなされる学修プロセスが生まれることなのです。
「教室で先生が全部教えて欲しい」という受け身の学びは「たくさんの知識
を教え込み、覚え込む」学び、すなわち学力偏差値重視の「受験教育・受験勉
強」と不可分なのです。多くの大学進学を目指す高校では、教師は大学合格に
必要な知識や問題を解くスキルを一生懸命教え込みます。生徒は教えられたこ
とを一生懸命覚え込みます。家に帰ってからの「自主的な学習」も多くの場合、
教えられたことをしっかり覚え込むことが目的になります。じつは、ざっと 100
万人の高校生の中で、このような「受身の学び」が得意だ、好きだという人は
1 割、せいぜい 2 割というところだと思います。
多くの生徒はこのような「受身の学び」の習性を引きずったまま大学に入学
しています。しかし、じつはそのような「受身の学び」では、これからの時代、
予測不可能な時代に対応する力は育たないと思うのです。
「受身の学び」を通し
て注入された知識は、往々にしてすぐ忘れてしまいますし、たとえ記憶に残っ
ていても、社会が大きく変動する時代には役に立たなくなる可能性があります。
そこで、必要なのは「主体的に考える力」を育てる「主体的な学びの経験」
なのです。第 6 期大学教育部会の「審議まとめ」が、
「生涯学び続ける力の育成」
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が今日の学士課程教育の課題だとし、
「主体的な学びの回復」が必要だと結論し
た理由はここにあります。もし、
「教え込まれて覚え込む」学びから「主体的な
学びを通して学ぶ力を学び取る」教育への転換が実現するならば、学力偏差値
偏重の「受験教育」に馴染めなかった大多数の若者に新たなチャンスを提供で
きると思います。
大学教育部会は、この「主体的な学び」を回復する「始点」として、学生の
「学修時間」に着目しました。この「主体的な学び」への「始点」としての「学
修時間」という表現は、概念規定がいささか不十分なこともあって、
「答申」に
対する誤解や批判の元になりました。大学教育部会の委員の間でも、その理解
に差があったように思います。ひとつには、
「学修時間」を回復しなければ何も
進まないという意味で、これを文字通り「始点」と考える理解があったと思い
ます。他方で、
「主体的な学びの回復」という問題を考える取っ掛かりという意
味で「学修時間」が「始点」となりうるという理解もありました。私はどちら
かといえば後者に傾きながら、しかし「学修時間」の回復が「学ぶ力」の獲得
の要件であろうと解釈していました。「答申」が示された直後には、「中教審は
いまさら学生にもっと勉強しなさいというしかないのか」とか、
「授業時間を増
やしたり、宿題を課すことが主体的な学びなのか」といった、
「答申」の趣旨を
理解しない論評もありました。
じつは、この「主体的学びの時間の増加」は、
「学修時間を増やそう」という
学生への呼びかけでもありませんでしたし、学生への呼びかけによってただち
にそれが実現するなどと考えていたわけではありません。
「学修時間の増加」を
提言した「審議のまとめ」や「答申」は、学生へのメッセージというより、教
育に携わる大学教員へのメッセージなのです。教員が、学生の「主体的な学び」
を促す教育上の工夫をしなければならない。教員が、学生に「主体的な学び」
の必要性を気づかせなければならない、教員にあるいは教育組織としての大学
に、学生の「主体的な学び」を喚起する教育上の工夫を求めたい、という呼び
かけに他ならないのです。
以上をまとめて申しますと、大学分科会の提言は、変化の時代に生きる若者
たちにとって必要なのは「生涯学び続ける力」の修得であり、
「生涯学び続ける
力」の獲得には、専攻分野の違いを問わず、充実した「主体的学びの経験」が
必要であること、そして、そのために「主体的な学びの時間の回復」が不可欠
であり、そのための教育改革を大学に求めたい、という趣旨でありました。
■「主体的な学び」を導く教育改革
そこで、学生の「主体的な学び」を導くにはどのような教育改革が必要なの
か、という問題です。ここからは、私自身の大学における未完の、というより
始めたばかりの教育改革の試みも素材にしながら、私見を披露させていただき
ます。
私は昨年 4 月に名古屋経済大学学長に就任いたしました。本学は、4 学部(経
済学部、経営学部、法学部、人間生活科学部)、収容定員 2,500 人ほどです。大
学の教員の中には、私が中教審答申の実験をするために着任したという穿った
見方があったようですが、まったくそうではありませんで、着任の後に、これ
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は「答申」の提言に従って早急に改革が必要だと感じたのでした。
人間生活科学部の二つの学科(教育保育学科、管理栄養学科)は、指定規則
に縛られてタイトなカリキュラムが実施されており、にわかに改革の手を付け
る余地が見えませんでした。他方、社会科学系 3 学部のカリキュラムや時間割
を見た時、まず、授業科目数がやたらに多すぎると感じました。授業科目数が
多いのは欧米の大学と比べて日本の大学の一般的な傾向だそうです。学問の進
化に伴って授業科目数が増えるそれなりの理由は理解できます。学術研究の専
門化が進み、領域の細分化が進めば進むほど、教育の場で授業科目が増加する
でしょうし、また学際化が進めばそれに伴って新しい授業科目が登場すること
が当然考えられます。
しかし本学の場合、このような合理的な理由で授業科目数が増えたというよ
り、一定数の授業担当を超えると手当てが支給されるという制度の存在も手伝
って、授業科目の設定が教員個人に委ねられた結果、科目数が膨れ上がったと
いうことのようでした。私は、
「本学の学生に、何を、どこまで学ばせるか」と
いう観点に立って、授業科目を精査し、科目数を削減することを提案しました。
法学部だからといってすべての大学の法学部が東京大学法学部と同じように、
憲法、民法、刑法に始まり手続法や外国法のあらゆる領域を網羅した授業科目
を設置する必要があるのでしょうか。経済学部や経営学部についても同様のこ
とが言えます。それぞれの大学は、他大学をまねるのではなく、目の前にいる
自大学の学生に、何を、どこまで学ばせるべきかを判断する必要がある、とい
うのが私の考えです。くわえて、社会のあり方や価値観が大きく変わり、科学
技術が著しく進歩していく時代にあって、知識自体はやがて役に立たなくなる
ものであることを考えると、大学教育の中で「教える事柄」は精選されてよい
と思うのです。先にも述べたように、求められるのは、それぞれの学問領域に
かかわる「基本的な知識の体系的な理解」ではないでしょうか。
日本の大学では、往々にして教育が教員のプライベートな領域と考えられ、
教育内容はもとより、授業科目の設定までが個々の教員の裁量に委ねられがち
です。教員は自分の専門領域に即して、あえて言うならば自分にとって得意で
楽な授業科目を開設したがります。私の提案は、このような授業の「属人性」
を改め、「教員本位の授業科目」から、「学生本位のカリキュラム」へ転換する
という趣旨でありました。時間割についても同様の観点から改善を求めました。
教員の都合によって開講の曜日・時限を定めるのではなく、学生の履修にとっ
て合理的であるかという観点から、時間割の全面的な見直しを求めました。時
間割の策定に当たって、教員の自己都合は排除するという方針を提起し、権限
を与えた委員会にその策定を委ねました。
まとめて申しますと、大学は、目の前の学生をどのような人材として育てる
かという観点で、まず明確な教育目標を持ち、それに基づいてカリキュラムを
体系的に構築し、その体系の中での個々の授業科目の位置づけを行い、これを
シラバス(授業概要) 等を通じて学生に明示することが必要です。カリキュラ
ムの体系、言い換えれば目指す人材像に到達するプロセスを、
「ナンバーリング」
というツールを使って提示する方法もあります。
そこで、カリキュラムを体系化し、それに沿って目標とする学士力を育成す
6
るには、教員の教育活動が組織的でなければなりません。カリキュラムの体系
化と授業の構成や達成目標の設定等を学部・学科等の組織的な活動とすること
が求められるのです。したがって、教学にかかわる大学の意思決定や運営シス
テムの改革も必要となるわけです。
■専門基礎の重視
「本学の学生に、何を、どこまで教えるか」という観点で重視したのは、
「専
門基礎」の徹底した教育を行うカリキュラム改革です。先に述べました授業科
目の精査と同時に進めたのは、社会科学系 3 学部の「専門共通基礎科目」の新
設でした。
「共通基礎科目Ⅰ」には、市民生活と法、市民生活と経済、市民生活
とビジネス、市民生活と教育、市民生活と健康、市民生活とキャリア形成とい
った科目が並びます。これらを社会科学系 3 学部の学生の必修科目とし、マス
プロ教育にならないように学生を 3 クラスに編成し、個々の科目を 3 名の教員
が担当し、それぞれの守備範囲の講義を 3 クラス持ち回って行うこととしまし
た。この方式によって授業のコンテンツを個々の教員に丸投げせず、関係教員
の協議に基づいてそれを組み立て、また、クラスによって講義内容に差異が生
じないように図ることができると考えたのです。
「共通基礎科目Ⅱ」は法、経済、経営の専門領域に尐し踏み込んだ科目群で
すが、いずれもそれぞれの専門領域の「基本的な知識を体系的に理解する」こ
とを狙いとしています。3 学部の学生は自学部関連の全科目を必修科目として
履修するだけでなく、隣接の 2 領域から尐なくとも 2 科目ずつを履修すること
としました。
「専門共通基礎科目」新設の基本的な狙いは、専門の基礎領域の教育を手厚
くすることに他なりません。法学部の学生であれば、ⅠとⅡの法学関連科目の
履修によって、法に関する基本的な知識と法というものの考え方をしっかり修
得できる。くわえて経済、経営という隣接分野の基本的な知見を学ぶことによ
って、社会を多角的に理解する力も付加できる、という期待を込めております。
■教育方法改善の課題
学生に「主体的な学び」を促すためには、カリキュラムの体系化など制度の
改善とともに、教育方法の工夫や改善が不可欠だと思います。今日、多数の学
生にとって、教壇からの一方通行的な講義や教科書はなかなか「学びのきっか
け」にならないのが実情です。学生に主体的な学びを促すためには、教室では、
一方通行的な講義ではなく、双方向的な授業の展開が求められます。また、学
生の学びのきっかけを作り、あるいは学びにつながる問題意識を喚起するため
には、フィールドワークをはじめ、いわゆるアクティブ・ラーニングが有効だ
と言われます。これは、この 10 年来の教育改革の取組(GP)の中で多くの大
学で試みられ、さまざまな成果を挙げています。私の大学も、このような先例
に学び、
「主体的な学び」へのきっかけづくりをフィールドワークに求めること
にしました。
私たちは、今年度から 1 年生向けに「体験型探究」という授業科目群を開設
して、学生を教室の外へ、キャンパスの外へ出すことにしました。私たちの大
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学は犬山市にあります。犬山市は、国宝犬山城で知られていますが、お城を取
り巻く伝統的な文化とともに、多彩な特徴を備えた地域であることがわかりま
した。この地域は木曽川沿いの尾張平野の一角ですから、産業についていえば、
観光とともに農業が中心で、これと工業、商業との連携を課題にしているよう
です。木曽川といえば水、水についていえば、犬山市には大小さまざまの 150
の溜池が未だに残っています。犬山市の上水は、その半分以上を地下水から、
残りの半分を木曽川と白山水系から取水しています。なぜ溜池なのか、なぜ地
下水なのか、興味深い探索のテーマが見えてきました。私は犬山市から委嘱さ
れた仕事に関わる中で、上水の問題とともにゴミやし尿処理にかかわる行政の
実態を知る機会を得ました。学生たちが環境保全をテーマにゴミやし尿の処理
工程を追跡していくと、びっくりするようなその処理工程や、行政が果たして
いる多様な役割に突き当たるはずです。
本学は犬山市で唯一の大学ですので、日頃から犬山市や市の商工会議所に大
事にしていただいています。そこで、市や市民、市民団体の協力を得ながら、
市域全体をフィールドとする「体験型探究」を展開して、そこに学生の主体的
な学びの体験、そのきっかけと求めようと構想したわけです。
このように、
「本学の学生に何をどこまで」という観点に立ったカリキュラムの
再編、あるいは学生の「主体的な学び」を喚起する「体験型探求」など、新し
い試みを始めたのですが、まだ半年の経験で、その成否はまったく判りません。
しかも、すでに大きな問題、大きな壁にぶつかりました。それは、
「教員の教育
力」の問題です。
■教員の教育力が課題
私たち大学の教員にとって、自分のごく専門の領域の話をすることは易いこ
とです。私の専攻は「国際政治」ですが、自分の専門的な研究領域は国際政治
史、特にイギリスの政治外交史です。ですから、国際政治の歴史やイギリス帝
国の興亡の話であれば、15 週でも 30 週でも講義を進めることにたいして苦労
はありません。しかし、「歴史とは何か」という原理的なテーマ、「国際政治の
仕組とその動態」などといった基礎的・基本的なテーマについて語ること、ま
してやそれを大学 1 年生にわかり易く語ることは容易ではありません。もちろ
ん、これはできないことではありません。いずれの基礎的・原理的問題も一度
は通ってきた道であり、いつも頭のどこかに貼りついている問題だからです。
しかし、これを分かり易く語るには、おそらくあらためて周到な準備が必要に
なると思います。
一方、学生を教室から連れ出して、大学キャンパス内外をフィールドとする
学修も、簡単なことではありません。これには別の負担がかかります。たとえ
ば犬山市の水を追跡するにしても、そこから学生にどんな発見をさせ、どのよ
うに自らの学びの課題を引き出させるかについて、教員の側にあらかじめ構想
がなければなりません。そうでなければ、精々のところ「見学と体験」に終わ
ってしまうからです。フィールドワークを、特に社会科学の学びの課題に結び
付けるには、教員が構想力を発揮し、あらかじめ勉強しなければなりません。
教員の教育負担が増えるのは間違いありません。
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私は、本学の学生にとって「専門基礎」の徹底した教育が必要だと考えます。
また、「体験型探究」を「主体的な学び」につなげることが重要だと考えます。
そうであれば、教員の力をそこに全力注入すべきだと思うのです。授業科目の
精査と削減は、
「本学の学生にとって必要な教育」に、教員の力を集中するため
の方策でもあります。
「中国会社法」を開講していた教員には、そうではなくて
「商法」の基本的な考え方、
「市民法」の基本的な仕組をわかり易く徹底して講
義して欲しいと考えるのです。基本的な仕組みや考え方がしっかり理解できて
いれば、将来、外国の会社法がどう変わろうと、これを理解することが可能に
なると思うからです。
この研修会の明日のセッションに、教員の教育力の向上の課題が取り上げら
れていますが、今日、大学教員の教育力を高めること、特に学生をしっかり理
解して彼らとのコミュニケーションをどう上手に作るかという観点から、教授
法を磨くことがきわめて重要になっていると思います。教育力開発のための専
門家や専門的セクションを置く大学も増えてきているようです。本学は、残念
ながら自前でこれを進める力や備えがありませんので、外部の講師に委嘱して
教員研修を進めているところです。多くの大学が実施している「FD研究会」
が、教員の教育力をブラッシュアップする実質的な機会になることを期待した
いものです。
■教育改革を進める体制
次に、教育改革を進めるための大学の「ガバナンス」、言い換えれば学内の意
思決定や運営の体制について、大学分科会の議論の現状と併せて私見を述べさ
せていただきます。先にお話しましたように、第 6 期の大学教育部会は、教育
の質の保証・向上を進めるための大学の「ガバナンス」の強化という課題を前
期から引き継ぎました。しかし、この点には充分な議論が及ばず、第 7 期の課
題として持ち越されました。今期、大学分科会に「組織部会」が新設され、こ
の問題はそこで扱われています。私はこの部会の委員ではありませんが、伝え
聞いたところでは、この部会では大学の「ガバナンス」すなわち管理運営にか
かわる学長のリーダーシップや権限の強化をめぐって議論が戦わされているそ
うです。おそらく、経済界出身の委員の方々が組織合理性の観点から学長のリ
ーダーシップ・権限の強化を主張なさるのに対して、大学の委員が防戦を余儀
なくされているという構図ではないかと推察します。
私は、教育改革に限らず大学の改革には、学長等のリーダーシップが不可欠
だと考えています。しかし、リーダーシップが発揮されるためには、サポータ
ーが必要だという点を強調いたしたいと思います。思い切った改革の発想が既
存の組織から生まれることは滅多にありません。ボトムアップによって大胆な
改革が行われることも滅多にありません。改革には、学長あるいは学部長等に
よるリーダーシップが不可欠だというのが、私の経験的な結論です。しかし、
大学の主要な機能である教育と研究については、一方的なトップダウンは適切
ではないと考えます。なぜならば、教育、研究はいずれも究極のところ現場の
教員の主体性に委ねられる営みだからです。改革案あるいは学長のリーダーシ
ップに対する現場の教員の理解や納得がなくては、よい結果は生まれないと思
9
います。これは、じつはなかなか大変なことではあります。
私は、先に述べたカリキュラム改革や新時間割の策定を進めるに当たって、
副学長や学部長と相談しながら、構想を共有できるような人材を指名して尐人
数の「タスクフォース」を組織しました。学部教授会から選ばれ、多くの場合、
順番に教員を貼り付けたような既存の委員会には依存しないことにしました。
企画はもっぱらタスクフォースで進めました。この間、学部長会をほぼ毎週招
集し、タスクフォースの議論を伝達し、理解を求めました。改革案がまとまっ
たところで、これを学長提案として学部長会及び評議会に提示し、学部教授会
の承認を得るように要請しました。
幸い大きな反対もなく、いささか拙速ではあったのですが、今年度 4 月から
の実施にこぎつけました。既存の諸委員会には、決定事項の「実施委員会」と
しての機能を担ってもらいました。半年が経過したところで、企画に当たった
タスクフォースを再召集して、現在、実情の点検と改善策を検討しているとこ
ろです。
次に、本日の研修会には教務部関係の事務職の方々がたくさん参加なさって
いますので、
「教職協同」について一言触れたいと思います。私は、大学教育に
とって、教員と事務職員とくに教務部の職員は、文字通り車の両輪でなければ
ならないと思っています。事務職の方々には、学生支援を含めて大学教育の一
端を担っているという自覚を是非強く持っていただきたいと思います。教務・
学務関係の学内委員会には、事務職も、陪席ではなく委員として参画し、役割
と責任を担うべきだと考えています。事務職の方々にも教育改革の一端をしっ
かり担っていただきたいと考えます。
私は、前任の県立大学でも、そして現在の大学でも、事務組織の「タテワリ」、
「マニュアル主義」、「従来どおり」に悩まされています。学務関係の中で、た
とえば入試や教務についてはその領域に精通した専門職を育てる必要がありま
す。しかし、学務関係の職員は、入試、教務、学生支援等、学生の教育と生活
支援にかかわる仕事を一通りまんべんなく身につけておいていただきたいと思
います。カウンターにやってくる学生をたらいまわしにすることがあってはい
けないと、職員には機会あるごとに言っているところです。教員と同様に、あ
るいはそれ以上に、学生と日常的に接しているのが教務の職員ですから、その
現場から教育改革・大学改革の提案がどんどん出てきて不思議ではないと思っ
ています。
■おわりに
最後に、残されたいくつかの問題に簡単に触れることといたします。
現在、大学教育部会では、質の向上を目指す教育改革の成果をどのように評
価すべきか、という問題を検討しています。この場合の「評価」には、まず学
習成果にかかわる学内での達成度評価をどう行うかという問題があります。く
わえて、認証評価における教育改革の評価のあり方の問題があります。既にお
話しましたように、大学教育の質的転換を目指す教育改革は、それぞれの大学
がそれぞれの実情を踏まえて主体的に進めるべき課題ですから、その課題や手
法は多様であってよいと思います。大学分科会の「答申」はひとつの提言であ
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って、唯一の答を示しているわけではありません。むしろ、これを「問題提起」
と捉えて、それぞれの大学が「個性的な教育改革」を進めるべきではないでし
ょうか。そこで、認証評価は、尐なくとも教育にかかわる側面については、定
性的・外形的な一律の評価にとどまらず、大学の「個性」をしっかり評価でき
るようにしなければならないと思います。大学教育部会の議論は始まったばか
りですが、これからの議論にご注目いただきたいと思います。
昔、「文部省唱歌、校門を出でず」という揶揄がありました。私は、「中教審
答申、文科省の門を出でず」ではないかとずっと思っていました。中教審の議
論や答申が大学の現場に伝わって、例えば教授会や評議会での議論の対象にな
るというような事例は尐なかったのではないか。大学の現場は「中教審答申」
を「管理強化の政策」と見て批判の対象にすることはあっても、自らの教育改
革への問題提起として受け止めて議論するということは、滅多になかったので
はないのか――このように感じていました。
第 6 期の大学分科会は、
「答申」をまとめていく課程で、広く大学関係者や市
民の意見を聞く「教育改革地域フォーラム」を、おそらく通算すると約 20 箇所
で実施してきました。特徴的であったのは、学生の積極的な参加と率直な発言
です。
「答申」が言いっ放しにならないように、今後もこれを俎上に載せて、尐
なくとも大学内で議論が重ねられることを期待したいと思います。本講演のレ
ジュメに「熟議に基づく教育改革」、「提言から実践へ」と書きましたのはこの
ような趣旨です。
長時間にわたるご静聴に感謝申し上げます。
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