バウンス 訳者解説

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訳者解説
10.1 概略
本書は Matthew Syed Bounce: Mozart, Federer, Picasso, Beckham, and the Science
of Success (Harper Collins, 2010) の全訳である。訳は著者からの MS-Word 草稿で着手
し、その後、かなり加筆修正された pdf 版がきたので、それをもとに仕上げた。本書は英
米独で同時発売予定だが、日本でも同時の発売となる。
10.2 本書の主張
本書の基本的な主張は単純明快。この世には遺伝的に決まる「才能」なんてものはな
い、すべては努力(と運)だ、というものだ。天才や神童と呼ばれ、天与の才を持ち、何の
努力もなしに常人にはとうてい不可能に見えることを楽々と成し遂げるとされる人々がい
る。でもその人々もよく調べると、実はすさまじい努力をしている。ゴルフのタイガー・
ウッズもテニスのウィリアムズ姉妹も、モーツァルトもピカソも、実はものすごい英才教
育を受けてものすごい練習を積んでいる。
それだけなら「才能があってもそれにおぼれずに努力をすることが必要」というありが
ちな話だが、本書はさらに、生まれつきの才能という概念自体がそもそもまちがっている
という。反射神経や身体能力と言われるものは、実は生まれつきの能力などではない。そ
れは脳の情報処理の結果でしかなく、したがって後天的に習得されたものだ、ということ
をかれは脳科学の知見を活用して示す。それどころか、才能という発想、生得的に決まっ
た限界があるのだという発想そのものが、人々のやる気を失わせて世界の発達を阻害して
いるのだ!
さて、これらの知見は著者独自のものではない。幾多の科学者による発見を元に、それ
をまとめたのが本書だ。そして、アンダース・エリクソンを筆頭にそうした科学者たちの
発見に注目し、一般向けに広めたのも、著者が初めてではない。謝辞にあるように、邦訳
のある本だけを見ても、かのマルコム・グラッドウェルやキャロル・ドゥエックなどがす
でに主張している。
だが本書のおもしろさと特異性は、特に「才能」や「身体能力」が大事だとされるス
ポーツの世界を一つの核として展開していること、そして著者自身がかつてイギリス代表
としてオリンピックにまで出た、傑出した運動選手だったことだ。努力がすべて、といっ
た本の中には「そんなこと言うならあんたが世界チャンピオンになってみろ」と言いたく
なるものも多いが、本書についてはそういう突っ込みはしにくい。そしてかれ自身のエピ
ソードや、チームメイトおよび知り合った他の選手たちの話が、本書の至る所できわめて
有効に使われている。かのフェデラーがテニス以外だとまったく鈍いこと、卓球ではすさ
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訳者解説
まじい反射神経を持っていたはずの自分が、テニスでは弾丸サーブに一歩も動けなかった
ことから、実は反射神経というものはなくてパターン認識がすべてなのだ、という議論を
引き出すあたりは、本書の白眉ともいえる。
そして一方でそうした経歴にあぐらをかかず、脳の情報処理についての知見をきちんと
ちりばめて自分体験を一般化しているのも立派だ。これまた一流選手などが自分の人知れ
ぬ努力について書いた本は「いやそれはあなたが才能あっただけで、他の人は同じ努力を
してもダメだったんじゃないの」と言いたくなるものも多い。が、本書はそういう落とし
穴からも逃れている。そのバランスの見事さが本書の手柄だ。各種研究と自分の傑出体験
とをからめつつ、著者は非常に明解で強い議論を打ち出す。がんばって練習すれば、必ず
成功する! みんながんばれ!
この明解な結論と、それに伴う爽快感こそが、本書を実に魅力的なものとしている。そ
して、後半の、スポーツにおけるあがり症や錯覚、宗教やジンクスの小話も楽しいし、ドー
ピングや遺伝子操作、人種とスポーツの関わりを論じた最後の二章は、本書の基本的な議
論を援用しつつ、きわめて重たい話題について率直な̶̶だがおそらく意見のわかれる̶
̶議論を非常にクリアに述べている。
10.3 著者について
著者マシュー・サイドは、一九七〇年生まれのスポーツ・ジャーナリストだ。イギリス
系パキスタン人の父とウェールズ人の母親の間に生まれた。卓球のイギリス代表として二
回にわたりオリンピック(バルセロナとシドニー)に出場し、ますます攻めが重視される
ようになってきた卓球の世界で、守備の卓球をスタイルとする最後の一人などと評されて
いる。卓球選手として活躍しつつ、オックスフォード大学の哲学政治経済学部を首席で卒
業し、現在は試合からは引退して「タイムズ」でコラムを書くとともに、スポーツマーケ
ティング会社を経営している。また二〇〇一年には労働党から国会議員選に出馬したが落
選。多才な人物である……と言うと本書の主張に反するので、多方面で努力を怠らない人
物である、と評しておこうか。
本書はかれの処女作となる。タイトルがなぜ「バウンス」なのかは、実はよくわからな
い。特に本書の中の主張をうまく要約しているとか、そういうわけでもない。著者はマー
ケティングもやっているので、何かしら理由があるのだろうが、どこにも何の説明も出て
いないので、読者のみなさんがそれぞれ考えていただければと思う。
10.4 本書への疑問:「才能」はそんなに悪いものか?
本書のよいところは、その明解さであり、非常にすっきりした主張だ。すべては努力と
練習量である。才能なんてものはないどころか、それこそ人が努力をあきらめてしまう諸
悪の根源である!
だがこれに違和感を覚える人もいるはずだ。そして、それまた本書のいいところだ。あ
る意味で、この明解さは非常に単純化した議論によって実現されている。それ故に、本書
の議論はについて、読者が疑問を投げかけるのも容易だ。本書は、「才能と努力」という
われわれのだれしも直面した問題に対して、非常に割り切った議論をする。だがそれは、
読者がそれに反論し、その問題について考えるきっかけを与えてくれるのだ。
10.4 本書への疑問:「才能」はそんなに悪いものか?
たとえば、たぶん読者の中にもそれなりに多いと思われるナマケモノ諸賢は、本書(あ
るいは上に書いたその要約)を読んで「ウヒー」と居心地の悪い思いをしたのではないか。
だって、すべてはとにかく練習したかしないかで決まる、というのですもの。たとえば著
者が大きく依拠するアンダースのバイオリン学校の調査では、努力をしないでトップクラ
スになれた人はいない。また練習をたくさんしたのにトップクラスになれなかった人もい
ない。挫折した人というのは、すべてその人が悪い。頑張ったけれど武運つたなく破れま
した、という人は、この図式では存在しないのだ。
うーん、もちろんこれは実際の調査結果なのだから、そういうものとして受け入れなく
てはならないのだが、その一方でこれがあまりに極端だと言う気は、少なくともこのナマ
ケモノの訳者にはしてしまう。がんばった人がすべて傑出し、成功をおさめるというの
は、ホントにホントにホントなんですか??!! それに才能って何、という議論は昔か
らいろいろあって、天才というのは練習をまったく苦痛に思わず努力し続けられることな
のだ、という説もある。著者は一方で、成功や傑出にあたり、運や偶然が重要な役割を果
たすことも指摘している。かれは、運とか偶然というのは、要するにもっと練習したくな
るような環境や心構えを作ってくれるものだという。でもそれが単なるやる気や努力より
勝る成果を出すのであれば、本人のがんばりを越えた力が成功や傑出性を左右するのだと
考えるべきではないの? そのもやもやした部分に才能ってのもあるのでは? というよ
り、そうでないとおまえのあらゆる失敗はおまえが悪いのだ、と言われていることにな
り、逃げ場がなくて大変につらいんですけど。
実は著者が参照するドゥエックの書いた通俗書『「やればできる!」の研究』には、「努
力が大切なのは確かだが、だからといって努力ですべてが解決するわけではない」「努力
で同じように報われるわけではない」とはっきり書かれている(邦訳 p.73-4)。すると、
努力が必要十分条件だという本書の主張をどこまで真に受けるべきだろうか。
また著者は、ドゥエックの研究をもとに、なぜ人が努力しなくなるのか、というのを論
じる。それは、才能というまちがった発想のせいなのだ、と、才能を信じている人は、自
分が変われないと思い込み、努力を怠るようになり、己の天性の才能を疑われるようなこ
とを避け、失敗を恐れ、結果をごまかそうとするようになる。人が努力しないのは、そう
いう才能神話のせいなのだ!
だが、これまたいささか極端に思える。読者のみなさんも、ご自身の三日坊主歴をふり
かえってほしい。ぼくやあなたが、ダイエットに失敗したり、勉強をさぼったりするの
は、才能神話にとらわれて、自分なんか才能がないから努力してもしょうがない、と思っ
ているからなのだろうか? あと五キロやせたり、宅建試験に受かったりするくらいのこ
とは、十分に自分の生得的な能力の範囲内だというのは、だれでも十分に承知している。
世界チャンピオン目指して努力している人なんかほとんどいない。でもみんな、挫折して
努力をやめる。それは自分に才能がないと思うからではない。努力そのものが、それ自体
として面倒できついから続かないだけなのだ。少なくともこの訳者はそうだ。その言い訳
として、才能を持ち出すことはある。「いやオレ、筋肉がつきにくい体質で」とか「暗記
はもともと向いてないんだよ」とか。でもそのせいで努力しなかったわけじゃない。才能
神話がなければ、ほかの口実を持ち出してきただけだろう。
そしてまた、自分は才能があると思うからこそ頑張る、という人もたくさんいるのだ。
才能がある=寝ていても成功する、でないことくらいほとんどの人は知っている。素質は
(それが実在するとしても)磨かないと光らない。それどころか「おまえは才能あるんだ
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からもっとがんばれ」というのは、練習させるための方便でもある。それが成功して実際
に成功する人だってたくさんいるのだ。それは読者のみなさんも、身の回りでごらんに
なったことがあるのではないか。
実はこれまたドゥエックの本にはちゃんと書いてあるのだ。「才能というのを信じてい
るのに、いっぱい努力して成功している人はたくさんいるんですけど」という批判に対し
て、そういう人は才能神話を信じていても、行動様式はすべて自分の努力を信じる心構え
と同じになっているのだ、というお答えが出ている (p.76-7)。これはさりげなく書かれて
いるが、よく考えたらドゥエック自身の議論をすべて否定する話ではないか。才能を信じ
ているかどうかは、実は関係ないんじゃないの? 才能の話だって「おまえは才能がない
からやっても無駄」という形であらわれない限り、結局そんなに悪くないということで
は? ついでながらもう一つ、ぼくたちは「才能」というとき、常に持って生まれた生得
的な能力という意味で使っているだろうか。才能重視だったので失敗したとされるエンロ
ンは、別にその能力が生得的だろうと後天的だろうと気にしていなかった。著者は本書
で、才能(タレント)というとすべて生得的だと解釈しているのだが、それってちょっと
乱暴では?
これをどう解釈するかは、読者のみなさん次第。その解釈にもとづいてどんな行動をこ
れからとるかも、あなた次第ではある。ただ、生まれながらの才能はないんだと思うにし
ても、やっぱりあるよと思うにしても、努力は(いまより)それなりにしなくてはいけな
い、という結論は変わらないようだし、あまり楽できる近道もないようで。本書を読んで
みなさんが、もうちょっとがんばって、もうちょっと上のステージに(どの分野であれ)
行けるようになれば、この上ない幸せではある。
10.5 専門家? 遺伝?
卑近な話ながら、本書はそれ以外の面でもこの訳者にとってかなり考えさせられるとこ
ろの多いものではあった。これまで訳したり読んだりしてきたことと正反対のことが、し
ばしば書かれているのだ。
たとえば本書は第一章で、長時間の練習=経験の重要性を述べ、それがスポーツだけで
なく、チェスやビジネスや医学などにも当てはまることを指摘する。そしてそこから、専
門家の優秀性を述べる。コンピュータですら扱いきれないすさまじい変数群を、わずかな
パターンに落とし込んで処理できる専門家の知見は無敵である、と。
しかし拙訳のエアーズ『その数学が戦略をつくる』(文藝春秋社)には、その正反対の
ことが書かれているのだ。多くの専門家の知見は、実はあてずっぽうと同じ程度の成績し
かなく、高度に専門的とされる最高裁の裁判官でも、その判決は実は五つほどの変数で説
明できてしまうことが実証されている、と。両者の言っていることは正反対のようだが、
どっちが正しいのか?
また、本書は各種能力の生得性をかなりはっきり否定する立場だ。どんな人でもすべて
は練習量次第で、それ以外の要因なんかない、と。でも近年では、どんな人にでも後天的
にどんな能力でも刷り込めるというブランク・スレート説は結構評判が悪い。スティー
ブン・ピンカーなどの進化心理学者の多くは、この説をはっきり否定する(たとえばピン
カー『人間の本性を考える』参照)。人間の能力に生得的な部分はある。もちろんそれが
すべてというのではない。でも練習すれば何でもできるというものではない。それを裏付
10.6 謝辞
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けるような研究もかなりある。一方で本書の主張にも裏付けはある。さてどっちが正しい
のか?
これはどっちかがイデオロギー的に偏向したウソを述べている、という話ではない。
どっちの議論にも一理ある。特にさっき述べたように、才能というのは労せずして努力で
きる能力なのだ、といった立場にたてば、生まれつきの才能と後天的な努力(または環境)
との区別をつけるのは至難の業となる。こうした問題についても、本書をきっかけに読者
諸賢が考える一助となれば幸いである。
10.6 謝辞
本書の翻訳は、山形が第一章と第十章をおおむね訳し、その他の部分は守岡が訳したも
のに山形が手を入れる形で行った。著者の文章はきわめてわかりやすく、また主張も論の
濁らない潔いものであったため、翻訳において苦労したところはなかった。ただし、訳者
ふたりともスポーツ方面では必ずしも才能が恵まれず……もとい努力が足りず、各種ス
ポーツ用語についてはいささか付け焼き刃である。ゴルフ関連については会社の同僚のゴ
ルフマニアである三崎房雄と原正一郎の両氏にご教示いただいた。ありがとう。その他ス
ポーツ関係にとどまらず、何かまちがいやお気づきの点があれば、ご連絡いただきたい。
ネット上のサポートページに反映させるので。http://cruel.org/books/bounce/
また本書の編集を担当されたのは柏書房の川村力氏であった。ご鞭撻による努力の結果
として、無事翻訳が原著と同時発売を実現できたことは喜びにたえないものがある。
二〇一〇年四月 大阪にて
訳者代表 山形浩生