被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) 北アイルランドにおける宗派抗争と戦没者慰霊 京都大学大学院農学研究科博士後期課程 酒井朋子 1.研究の目的 本研究の目的は、熾烈な宗派対立を長く経験してきた北アイルランドにおいて、過去の戦争を記 念し記憶にとどめようとする行いが有してきた意味を明らかにすることにある。 1920 年代にアイルランド南部 26 州と分割され、イギリス連合王国統治下に残った北アイルラン ドでは、その帰属をめぐる熾烈な争いが過去数十年間にわたって繰り広げられてきた。アイルラン ド/イギリスという国家的・国民的すなわちナショナリティの区分と、カトリック/プロテスタン トという宗派の区分が複雑に絡み合いながら展開してきたこの争いは、 60 年代末から激化し数千人 規模の死者を出すにいたった。その後 30 年以上に渡って継続した紛争状態は近年の和平プロセス の中で比較的沈静化したが、現在もなお北アイルランド社会は一触即発の緊張を抱えている。 この対立の中で時として見られたのが、文化的・宗教的な行事の場で両コミュニティの対立が顕 在化する現象である。本研究がとりあげる世界大戦の記念もそのひとつで、プロテスタント・コミ ュニティ側の象徴と見なされてきたものである。その背景には、両世界大戦(とりわけ第一次世界 大戦)が北アイルランドのプロテスタント社会から多数の戦没者を出した歴史的経緯があるが、実 際には両大戦でカトリックも多く死亡していたことが近年注目を集めるようになってきた。本来な らば両宗派に共有されてもおかしくないはずの大戦記念が、いかにしてカトリック住民を排除する ものとなり、さらには宗派衝突のきっかけともなっていったのか。また、過去の戦争の戦没者を想 起しようとする行いは、現在進行形の対立や抗争への人々の姿勢といかなる関わりを有しているの か。本研究はこうした課題に応えるために、北アイルランド社会における戦没者慰霊行事の形成過 程を追うとともに、現在における戦没者の想起のありかたを調査し、考察を行ったものである。 2.研究活動の方法と実施経過 まず、プロテスタント社会における戦没者慰霊行事の形成過程を、歴史資料を通じて分析した。 主に用いた資料は第一次大戦前後の新聞である。 また、大戦記念や戦没者表象と紛争との関連を分析するために、紛争激化以降の時期の新聞資料 や政治的パンフレットを参照した。プロテスタント社会において大戦や戦没者に付与された意味の 多様性と、その多様性の背景にある社会条件との関連を調べるために、社会統計資料も用いた。 また、現地調査を行い、慰霊行事や慰霊碑、街頭で見られる政治的ディスプレイなど、戦没者を 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 1 of 7 記憶にとどめようとする営みを観察調査し、また地元住民に聞き取り調査を行った。加えて、北ア イルランドの最大都市・ベルファストの近郊にある大戦記念博物館、ソンム・ヘリティジ・センタ ーを訪問し調査を行った。 なお、当初の予定では 2004 年秋に現地調査を行う予定であった。しかしこれを 2005 年の初夏 に変更した。その主な理由は、慰霊行事の形成と変遷にまつわる資料を読み進めるうちに、その複 雑性と多様な慰霊のあり方が見えはじめ、現地調査を実施する前に一定の考察を進めておくことが 重要と思われたためである。また、ヨーロッパで広く世界大戦記念が行われる 11 月(第一次大戦 の終戦記念日がある)よりも、むしろ 6 月前後のほうが慰霊の営みが活発化することが、調査を進 めていくうちにわかってきたためである。 具体的な実施経過としては、2004 年の 8 月から 12 月までは戦没者慰霊行事の形成過程や変遷の 様子を分析した。なお 2004 年 8 月末から 9 月はじめにかけて、関連資料を所蔵する北海道大学図 書館で資料の閲覧と複写を行っている。 2005 年の 1 月から 3 月までは主に 1960 年代末以降につい て調査した。ここまでの成果を申請者の従来の研究成果と照らし合わせ、考察内容の一部を以下の 二本の論文にまとめた。 ・ 「北アイルランド・ユニオニズムにおける第一次大戦の記念と表象——名誉革命期ボイ ン戦との記憶の接合をめぐって」 『宗教と社会』第 11 号、2005 年 6 月、43-62 頁。 ・ 「虐げられた経験としての第一次世界大戦——1970 年代のアルスター・ロイヤリストに おける」 『ソシオロジ』第 50 巻第 1 号、2005 年 5 月、51−67 頁。 2005 年の 5・6 月には現地調査を行った。 ベルファストとデリーでフィールド調査を行ったほか、 イギリスのロンドンとアイルランド共和国のダブリンに滞在し、図書館や公文書館で関連資料を閲 覧・複写した。帰国後は、研究成果のまとめと報告書の作成に従事した。 3.研究の内容および成果 3.1 戦没者慰霊行事の形成過程 以下、本研究の具体的な内容と成果を概説していくこととする。本節と次節では、大戦戦没者を 慰霊する行いが、北アイルランドのプロテスタント社会の中でどのように定着していったのか、そ して紛争期になってそれにどのような変容が見られたのかを報告したい。 そもそも、北アイルランドとアイルランド共和国では、大戦を記念する行いの頻度が大きく異な っている。これは、イギリス連合王国統治下にとどまる北アイルランドにおいては、アイルランド 人がイギリス軍の一員として戦争に関与した第一次・第二次大戦が国民的偉業として語られやすい ためである。他方でアイルランド共和国においては、第一次大戦とほぼ同時期にアイルランド独立 をめざして行われた蜂起や対イギリス戦争のほうが、国家の基盤となる歴史的事件として取り上げ られやすい。しかし北アイルランドにおける大戦記念に絡んでいるのは、こうしたナショナリティ の理屈上の問題だけではない。強調しておくべきは、プロテスタント=イギリス派、カトリック= 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 2 of 7 アイルランド派という二項対立的構造はけして自明のものではないにもかかわらず、それをたえず 再生産し、固定化し、大多数の一般住民をその構造の中に組み入れていく社会的装置が存在したと いうことである。結論から言ってしまえば、戦没者慰霊もまた、ある独特な形態をとることによっ て、その社会的装置の一つとして機能してきたのである。その独特な形態とは、北アイルランドで は主要な戦没者慰霊行事が他のプロテスタント文化行事と複合的に行われるという点である。これ は大戦記念がカトリック住民の介在しがたいものになっていった一つの理由と考えられよう。 戦没者慰霊と複合的に行われるその行事とは、17 世紀末の名誉革命の記念である。周知の通り名 誉革命はイングランドの王座をめぐってプロテスタントのウィリアム三世軍がカトリックのジェ イムズ二世軍を打ち破ったものであるが、なかでもアイルランドで展開した一連の戦いについては、 1690 年のボイン戦記念を筆頭として、現在でも毎年さかんに北アイルランド各地で記念パレード が行われている。その主催団体であるプロテスタント組織オレンジ会は、幅広い階層に会員を有し、 政治・社会・経済面において巨大な影響力を行使してきた団体である(たとえば、地方内閣の歴代 構成員の大半がこの団体の会員であった) 。それゆえ、オレンジ会の年次行事であるボイン戦記念 パレードがプロテスタントによる政治権力独占の象徴と見なされることとなり、紛争においてたえ ずコミュニティ衝突の契機となってきたのである。 オレンジ会は毎年大規模な戦没者慰霊行事をも主催するが、これは記念礼拝とパレードという、 ボイン戦記念と酷似した形態で行われる。また名誉革命の記念行事で大戦が、大戦記念において名 誉革命期の出来事が同時に想起されることも珍しくない。行われるパレードや礼拝が、名誉革命と 大戦のどちらを記念したものなのかを判断し分別することは時として難しいとすら言える。 この記念の複合状態がどのように形成されたのかを理解するためには、第一次大戦より前の 19 世紀末から 20 世紀初頭、アイルランド自治法がイギリス議会で論議されていた時期に遡って考え る必要がある。当時、プロテスタントの多い東北部アルスター地方ではこの自治法に反対しイギリ スとの連合継続を求める運動が活発化していたが、その主要なデモンストレーションの場が、入植 者であるプロテスタントの支配確立の契機となった名誉革命の記念パレードだったのである。その 後、1914 年に第一次大戦が勃発すると、アイルランドからも北部・南部、カトリック・プロテス タントを問わず多くの人々がイギリス軍に従軍した。ただし 4 年間継続した第一次大戦の中で、こ んにち北アイルランドで突出して言及されるのは 1916 年のソンム会戦である。イギリス・フラン ス連合軍とドイツ軍とのあいだで戦われたこの戦闘で、開始直後にアルスター出身のプロテスタン トからなる師団は壊滅的な打撃を受けた。初日と翌日の二日間だけで師団の戦死・負傷・行方不明 者は 5000 人以上と言われている。そしてこの戦闘開始の日が、奇しくもボイン戦の旧暦の記念日 と同じ 7 月 1 日であった。 この大量死は北部アイルランド社会に大きなショックを与えたと予想される。彼らの死はその直 後から劇的なイメージを付与されることになった。新聞等のメディアにおいては数日後から、兵士 たちが 7 月 1 日、名誉革命時代のものとして伝えられるプロテスタント軍の合言葉を叫びつつ、パ レードしながら敵軍に立ち向かっていったという噂が繰り返された。当時アルスター・プロテスタ ントの象徴と見なされていた名誉革命記念を自分自身の戦いのなかで想起しようとする人々、すな 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 3 of 7 わち地方的かつ宗派的な英雄として、兵士たちは描写されたと言える。以後、プロテスタント社会 においては、ボイン戦と結びつけられたソンム戦初日のイメージが毎年反芻されることになり、オ レンジ会は名誉革命記念と戦没者慰霊を複合的に行っていくようになった。そのなかで、四ヶ月継 続したソンム戦の後半に投入されたカトリック兵の存在はあまり言及されないままであった。また 終戦直後には、イギリス軍への従軍を拒否した勢力が自治・独立派のあいだで支配的になったため、 自分をアイルランド人と見なしつつイギリス軍に従軍していた多くのカトリック兵やその遺族は、 連合継続派にも独立派にも受け入れられることがないまま、自分たちの戦争経験を想起するパブリ ックな場所を見失っていったのである。 その後のアイルランド分断と南部 26 州独立をへて、南のアイルランド国家化、北のプロテスタ ント国家化は政策的にもさらに押し進められていった。第二次大戦では南部が公的には中立を保っ た一方、北アイルランドでは多くの人間がイギリス兵となり、またベルファストは空襲による大規 模な被害を受けた。第二次大戦後オレンジ会は両大戦の戦没者慰霊を名誉革命記念と複合的に行っ ていくようになる。こうした経緯を経て、世界大戦を記念し想起する行いは、 「北アイルランドの プロテスタントのもの」としての色合いを濃くしていったのである。 では、こうして形成された戦没者慰霊行事や戦没者像は、紛争激化の時期を迎えてどのように変 化したのだろうか。それを次節で見ていくこととしたい。 3.2 紛争期——「非業の英雄」としての戦没者 1960 年代は、それまで「プロテスタント住民のためのプロテスタント国家」という路線を継承 しつづけていた北アイルランド自治政府が、より穏健的な姿勢に転じた時期である。1963 年に自 治政府の首相に就任した T.オニールは、自身もオレンジ会員でありながら、宗派対立を乗り越えた 「近代的」な北アイルランド社会を展望した。オニールはそのための礎のひとつとして、両宗派の 住民に共有された歴史である第一次大戦に着目し、これをプロテスタントとカトリックが共闘した 出来事と位置づけようと試みた。またこのころには、第一次大戦後 50 年が経とうとしていたこと もあってか、英雄の輝かしい戦いとしてソンム戦や大戦を称えるのではなく、戦死の惨めさ、ある いは戦場の残酷さや不条理を想起する元兵士の語りなどが、新聞等のメディアにおいても登場する ようになっていた。 しかし 60 年代後半以降、戦争を想起する営みは再びアンチ・カトリック的な文脈の中に位置づ けられていく。穏健派政府の政策は一部のプロテスタント住民の強い反発を招いたが、その強硬派 グループが自分たちのシンボルのひとつとして過去の戦争を用いはじめるのである。当時拡大しつ つあったカトリック公民権運動への反発のなかでグループを形成していった強硬派は、あちこちで カウンター・デモンストレーションとして挑発的なプロテスタント・パレードを行っていく。この ころには強硬派の政治家も急速に支持をのばし、挑発的パレードを先導していた。 そしてこの時期に特徴的だったことは、プロテスタント社会内部において名誉革命記念や大戦記 念などの営みが多様化したことである。従来、これらの記念を主として動かしてきたのは、リスペ クタビリティを有するものとして(すなわち格式ある社会的権威として)公認されたオレンジ会な 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 4 of 7 どの組織であった。しかし宗派間の緊張が高まりを見せるにつれて、特定の歴史的事件を描いて宗 派的アイデンティティやナショナル・アイデンティティを強調するような街頭デコレーションが 様々な方向へと発展していくようになる。庶民階層の人々がみずから歴史の表象を行いはじめるな か、とくに戦没者像について、従来とは異なるイメージが現れてくるようになっていった。たとえ ばプロテスタント強硬派、なかでも労働者地区で勢力を伸ばした集団においては、大戦はけして単 純な栄光として想起されていたわけではなかった。それ以前から少しずつパブリックな場に出現し ていた悲惨で不条理な戦死のイメージをむしろ積極的に引き受けながら、かつそこに独特の英雄像 を見いだしていったことに強硬派の特徴があった。この背景には、彼らが労働者階級としてのアイ デンティティのなかで集団形成を行い、穏健派の政治的方向性を上流階級のものと見なして自分た ちとは明確に区別していたことがある。さらに穏健的政策を支持するイギリス政府にも彼らは敵意 をあらわにしていた。彼らの自己表象とは、プロテスタント富裕層とイギリスとに裏切られ、 「怠 惰な」カトリック住民にその地位を脅かされる存在というものだった。そこにおいてかつての大戦 の兵士たちは、イギリスへの忠誠を誓ったにもかかわらず惨めな死に追いやられた非業の英雄とし て、敵意と怨恨の源泉になるべく想起されていたのである。こうした特異な歴史認識のありかたが、 当時抗争に身を投じていく人々の行動の背景にひとつの価値観として横たわっていたものと思わ れる。 3.3 現地でのフィールド調査 以下、本節と次節では、2005 年の初夏に行った現地調査の成果を概説する。そのうえで前節ま での成果と総合して考察をしてみたい。 街頭の慰霊碑 ベルファストやデリーなど都市部では、プロテスタントとカトリックのそれぞれの居住区が、さ まざまな歴史的人物を描いた壁画やイギリス/アイルランド国旗で多彩にデコレーションされて いる。プロテスタント居住区では名誉革命で勝利したウィリアム三世王の巨大な肖像が公営住宅の 壁に見られると思えば、カトリック居住区においては、1916 年の独立蜂起の指導者の肖像が描か れている。こうしたデコレーションは、それぞれの地区をプロテスタントの/カトリックのテリト リーとして、そしてイギリスとの連合継続派の/アイルランド統一派のテリトリーとしてマーキン グする効果を持っていると言えるだろう。大戦をテーマとした壁画や慰霊碑も、ウィリアム王の肖 像とならんでプロテスタントの主要なマーキングである。主要なプロテスタント居住区の街角では、 非公式に創られたものと思われるいくつもの慰霊碑や、第一次大戦で死地に向かう兵士を描いた壁 画などを見ることができた。 こうした壁画や慰霊碑には、1960 年代末以降に IRA などアイルランド統一派との武力抗争で死 んだ人々をも想起させようとするものが多い。たとえば第一次大戦当時のイギリス軍服を着た兵士 と、 70 年代以降のプロテスタント武装組織の制服を来た人物とを並立して描いた壁画がある。 また、 70 年代後半に死んだ強硬派メンバーの名を刻んだ慰霊碑の多くは赤いポピーの造花で装飾されて いた(赤いポピーはイギリスにおいて大戦戦没者慰霊に用いられる代表的な花である) 。このよう 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 5 of 7 な営みを通じて、過去の世界大戦は北アイルランドのローカルな抗争の文脈に読み替えられている のである。 ではこうした街頭のモニュメントは、人々の生活にどのような影響を持っているのだろうか。た とえばあるカトリック住民は、それまで緊張感を持ちつつも日常通過していた通りの近くにプロテ スタント強硬派が戦没者慰霊碑を創ったので、以後その通りを歩かないことにしたという。戦没者 慰霊碑がプロテスタント・テリトリーのシンボルと見なされ、心理的脅威を喚起することで人を動 かす装置として働くことがこの事例からうかがえる。さらに、ひとつの政治的ディスプレイが登場 することによって、はじめてある場所が片方の宗派のテリトリーとして認知されることが考察でき る。誰かが壁画を描くという行為を通じて、そして描かれたその壁画を通じて、以後その場所は特 定集団の所有地に「なる」のである。このようにしてテリトリーの線引きはたえず揺れ動いている。 また、プロテスタントの勝利を記念するディスプレイの中に大戦従軍兵の壁画や慰霊碑が並立して 創られ、人々の目に触れつづけることで、宗派とナショナリティの区分はたえず重なり合ったもの として再構成されていると言えよう。 ソンム・ヘリティジ・センター 1990 年代の後半、ベルファストの近郊にソンム・ヘリティジ・センターという戦争博物館が建 設された。主として第一次大戦について展示を行っている博物館である。アイルランドでは長らく アルスター・プロテスタントと結びつけられてきたソンム戦の名を冠してはいるが、博物館はその 趣旨として、プロテスタントとカトリック双方の世界大戦の経験を記憶にとどめることを謳ってい る。こうした博物館の建設が、長期にわたる宗派分断の超克をねらったものであることに疑いはな いだろう。筆者が調査に訪れた日も、地元の中学校が見学を行っていた。 この博物館では、実物大の塹壕内部のレプリカなどが多用され、当時の軍服や装備を見学者が試 着できるようになっている。やはり実物大の無人地帯の戦場展示では両端を土手で囲まれた狭い道 が作られ、真っ暗な中に激しい銃の音や叫び声などが飛び交い、前線での閉塞感や焦燥感を見学者 に想起させることが試みられている。また別の部屋では、十代の若さで死んだ兵士の家族への手紙 などが展示されていた。 総じて言えばソンム・ヘリティジ・センターにおける展示は、戦争の意義を称えるものというよ り、大戦における個々の人々に視点をあて、その経験の辛さを見る者に想像させようとするもので あった。ある意味で「戦争のリアル」の表現をねらったものだったと言える。また、筆者がインタ ビューを行った一人の館員は、第一次大戦中に前線の不潔な環境のために大量の兵士が死んだ事実 を知り、大戦に興味を持ったという。彼は戦争の不条理さや残酷さはけして忘れられてはならない、 次世代に伝えるべき歴史であると話した。 しかし話題がプロテスタント強硬派集団に及ぶと、館員は自分をプロテスタントでイギリスとの 連合継続主義者だと明言した上で、彼らを単なるギャングであり、自分たちとはなんら価値観を共 有していないと述べた。ここからわかるのは、かつての戦争の「リアル」を思慮深く注視しようと する人であっても、現在の抗争に身を投じる人々が、その背後にいかなる社会的・経済的諸問題を 抱えているのかを感知するのは難しいということである。しかし前節で見たように、強硬派集団は 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 6 of 7 ソンム・ヘリティジ・センターが訴えるような戦争の不条理や悲惨さを隠蔽するのではなく、むし ろ強調し、それによって自分たちの抱える経済的辛苦をそこに投影していった。このような、過去 と現在を横断する「リアル」のなかで敵意や暴力が再生産されていることに、北アイルランド問題 の難しさの一端があると言えよう。 4.今後の課題 第一節でも触れたとおり、北アイルランドでは 6 月から 7 月はじめにかけて、大戦戦没者を慰霊 するパレードが催される。助成期間中に実施した今回の調査においては、より小規模な戦没者慰霊 パレードは観察したものの、インタビュー相手との日程調整などの事情で調査期間を 6 月はじめま でとしたため、最も大きな 6 月末のパレードを観察することができなかった。これが今後に残した 課題である。また、今回の研究においては主としてプロテスタント社会における営みと表象に的を 絞ったが、戦没者を悼むパブリックな場を長いあいだ得られなかったカトリックの側をも、やはり 集中的に検討していく必要があるだろう。今後さらなる調査を進める所存である。 被助成研究の報告(コード番号:04-R-026) Page 7 of 7
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