憎悪の連鎖を断ち切った画家 - a-bombsurvivor.com

1997.憎悪の連鎖を断ち切った画家
山陰中央新報「明窓」2013.7.7.
(傍線:吉田祐起引用)
もうじき梅雨が明けると終戦から68年目の夏。とどまることのない時の流れの中で戦中、戦
後の歴史の証言は風化にさらされる
▼その中で太平洋戦争に関連し7月6日、フィリピンの日本人戦犯の赦免から60年という節目
を迎えた。1953年の同日、キリノ大統領の恩赦を受け死刑囚56人を含む日本人105人が無
事帰国した
▼赦免の背景には、安来市広瀬町布部出身の洋画家・故加納莞蕾(かんらい)(本名・辰夫)の
平和を願う情熱と尽力があった。同所の加納美術館で企画展を見て感動した。戦時中、妻と3
人の子どもを日本兵に殺害されたキリノ大統領が日本人戦犯を許したのだ
▼莞蕾は49年から大統領へ41通、ローマ法王らを含め約200通の助命嘆願書を送付。許せ
ないものを許すことが恒久平和の教訓となり、憎しみの連鎖を断ち切り次世代で平和を築く重
要性を粘り強く主張。これに応える形でキリノ大統領も赦免の声明で「憎悪を国民に受け継がせ
ない」と述べている
▼莞蕾を突き動かした源は戦場での体験だった。従軍画家として中国の山西省を訪れ、その時
に見聞きしたことから「戦争は残酷で無残なものだ。人間を狂気にする」が口癖。終戦の日に非
戦に尽力することを誓っている
▼ところが、赦免された日本人とその家族の大半が莞蕾の貢献を知らないという。莞蕾は宗教
的実践と芸術的創造、哲学的思索のために行った個人的な活動として公にしていない。60年
の節目を機に世界の恒久平和を願い続けた精神と功績を伝え、語り継ぎたい。(道)
ヨシダコメント:
本日7月7日(日)夕方のこと、例により、多くのインタネット情報収集をする中で、ふと、思ったこ
と。それは「今日は日曜日だ。長文のコラム「人物探訪:野口英世、黄熱病との戦い」を掲載した
ことだし、もう今日はやめよう・・・」と思いながら、あれでもと最終段階の山陰中央新聞コラム「明
窓」をクリックしてヒットしたのが「憎悪の連鎖を断ち切った画家」に書かれたモンテンルパ刑務
所死刑囚釈放嘆願に関する記事でした。
奇しくも同日7日付で発信した「フィリピン発メルマガ第82信」では、「モンテンルパ刑務所に収
容されていた56名の死刑囚を含む日本人105名については、「減刑・釈放に合意した日」と書
いていましたが、それが同記事では「無事帰国した」となっているではありませんか!思わず、
エッと文字に釘づけになりました!
「減刑・釈放に合意した日」と「帰国した」ではドエライ差異です。真実はヨシダが正解ですが、折
角の機会なので、同メルマガに言及しそびれた歴史的事実として、本コラムを編集する次第で
す。後日、一層の確認をする所存です。
ヨシダが得た情報では、釈放に至るプロセスが歌手の渡邉はま子さんが主役になった形で、本
記事にある「洋画家・故加納莞さん」の実に驚異的な尽力が報じられていないことを知らされま
した。当該メルマガを発信した立場にあって、まことに申し訳ない心境です。お詫びの意をこめ
つつ、本記事の主人公「洋画家・故加納莞(かんらい)(本名・辰夫)さん」の偉業に深甚の敬意と
尊敬の念をもこめて本記事を編集した次第です。
-1-
洋画家・故加納莞蕾さん名義でグーグルしましたら、下記のサイトにヒットしましたので、コピー
したものを下記に掲載します。なお、同文中の朱文字・青文字はサイトのままです。
加納美術館
加納 莞蕾(本名:辰夫)(かのう かんらい)
明治 37 年島根県能義郡布部村(現:広瀬町布部)に生まれる。
岡田三郎助に師事、本郷洋画研究所に学び、前田寛治、佐伯祐三と交友、その影響を受ける。
独立美術協会創立にあたって二科展を脱し、これに参加、出品を続け独立美術協会会友とな
る。
昭和13年京城師団指令部付の従軍画家として中国、山西省に渡り山西省の大自然から「墨に
五彩あり」という言葉の真髄を発見する。
終戦によりフィリピン刑務所に戦犯として収容されていた日本兵108名の釈放助命嘆願をおこ
し、ついに目的を達成させた。
布部という村からたった一人で送った嘆願の手紙は、キリノ大統領、マッカーサー元帥、インド
ネール首相、ローマ法王等へ300通以上に及び、ついに全員釈放の一助となった。
キリノ大統領自らが、妻や子や兄弟を日本兵に殺されながら世界の友好・平和という崇高な宗
教的哲学論に根ざした結論は、莞蕾の文章にもあふれており、その往復書簡も作品と共に公開
している。
嘆願書
閣下
第一嘆願書を奉呈してから200日の間、日本人であるが故に負わなければならない戦争の
極悪と罪の意識を反省してまいりました。厳粛な罪の意識と神への深い信念の履行から、裁き
の前にある己を認識いたしました。そして「肉体で 生きている生活は、神の子としての信念での
生活」ということを悟りました。「許し難きを許す」という奇跡によってのみ人類に恒久の平和をも
たらし、「目には目を」ということでは決して達成し得ないということを、これまで以上に強く感ず
る次第であります。
閣下
閣下の手から残虐にも奪い取られた愛児の名においてー許し難きを許すーこの奇跡が現れ
-2-
ることを待ち望むところであります。何人といえども閣下の胸中に過ぎる悲しみと、怒りと、憎し
みの深さを計ることはできないでしょう。私が新たに抱くに到った信念によれば、キリストの如く
十 字架にかけられる異教徒や不信心者をキリストの足元に寄せ、「主」に感謝し賞賛せしめる
慈悲の偉大なる奇跡を顕現させるために努力しているのは、天国にいます閣下の愛児たちで
ありましょう。
この崇高なる奇跡の成就のあかつきには、神にささげられた閣下の愛児の姿を救いの天子
として 画布の上に不朽にとどめたい所存であります。それこそ貴国とわが国との平和と一致を
生み出す最良の貢献でありましょう。
私は自ら請願することによって共に裁かれ、神の許しをこう立場にあります。この苦行には絵
を描くことは出来ません。全戦犯が古瀬と共に許され復活したその日に新しい画家として出発
する決意であります。(一部抜粋)
1949年 10月 加納辰夫
キリノ大統領声明
私はフィリピン服役中の日本人戦犯にフィリピン国会の賛同を必要とする大赦ではない赦免を
及ぼした。私は妻と三人の子供とその他五人の家族を日本人に殺されたため、彼等を赦そうと
はよもや思ってもみなかった。私は私の子供や、国民がやがてはわが国の恒久の利益の友と
なるかもしれない国民に、私から憎悪をうけつがめしないことを欲するが故に、これを行うので
ある。結局運命が私達を隣人となさしめた。 (これはキリノ大統領がそのとき発した声明の一部
である。)
1953 年(昭和 28 年)7 月 6 日フィリピン大統領エルビディディオ・キリノがモンテンルパにある
ニュービリビット刑務所に服役していた日本人戦犯 108 名(うち死刑囚 59 人)の釈放または減
刑を通告したとき、入院していたアメリカ、メリーランドのボルチモアにあるジョン・ホプキンス病
院の病床からとマニラの大統領府からと、同時に世界に公表されたステートメントである。
「襖 柿とざくろ」
「黒牡丹」
「朝靄」
加納美術館
No.1(1-300) No.2(301-400) No.3(401-500)
No.4(501-700)
No.8(1101-1300) No.9(1301-1500) No.10(1501-1700)
-3-
No.5(701-900)
No.7(996-1100)
No.11(1701-1900) No.12(1901-2000)