2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 所沢エスペラント 会 Organo de Tokorozaŭa Esperanto-Rondo (TOER) エスペラントとは、ザメンホフによって創始された自然 で学びやすい国際語です。エスペラントの学習はネイティ ブの口真似ではありません。創造的にかかわっていくこと ができます。例会においでください。新しい仲間をいつで も歓迎しています。 Funebra Ceremonio de s-ro Mizuno 目次/Enhavo 水野先生を送る paĝo 1 Funebra Ceremonio de s-ro Mizuno / 水野先生 を送る paĝo 2 Adiaŭ, s-ro Mizuno / さ よなら、水野さん Prof. Mizuno, ELK kaj TEK/ 水野先生と関東連 盟および TEK 柴田健 / SiBaTa Ken En la 24-a de junio okazis la funebra ceremonio de la prezidanto de TOER, profesoro MIZUNO Yoshiaki. En la akceptejo super kelkdek homoj kunvenis, kaj estis ĉirkaŭ dek konatoj, kiuj estas espeantistoj. Kaj la kunvenantoj sidiĝis en la ceremoniejo. Dum budhana pastro legis sutron, la kunvenantoj laŭ vice salutis adiaŭon laŭ la tradicio. Poste lia malnova amiko stariĝis kaj legis kondolencon kaj rakonton de sia memoro pri li. Sekvante s-ro HORI Yasuo faris same. Sekve mi stariĝis kaj legis la kondolencon de Changzhou-a Esperanto-Asocio, kiu estis tradukita en la japana. En Postmorta Mondo / 死後の世界 Dankon, sinjoro Mizuno / 水野先生、ありがとう ございました。 paĝo 4 Rememoro pri prof. Mizuno / 水野先生を偲 びながら paĝo 3 paĝo 5 Adiaŭ, prof. Mizuno / 水 野先生、さようなら paĝo 6 Neforgesebla Memoro / 忘れえない思い出 Kondolenco / 弔辞 paĝo 7 Postskribo / 編集後記 水野先生の略歴 TOER 所沢エスペラント会 連絡先 柴田健 〒359-1142 所沢市上新井 5-45-35 ホームページ http://www.toer.sakura.ne.jp E メール:[email protected] 2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 Adiaŭ, s-ro Mizuno. で賛成した。県西部から県東端の岩槻まで来てい た人達はやがて埼玉県立所沢青年の家で会合す ることになった。「所沢エスペラント会」の創設であ る。殷さんと私はしばらく所沢と岩槻の会合に両方 出ていた。やがて殷さんは亡くなり、私も疲れて所 沢の会合から脱落した。 いつだったか、水野さんが狭山から所沢に転居し て間もなくのこと、所沢の例会のあと私は水野さん のお供をして新居を訪れて、奥様をはじめご家族 の皆様と初めてお会いした。そして、書架に並ぶ本 の多さに驚嘆した。 関東エスペラント連盟の会長を 25 年なさったそう だが、ほんとうに御苦労さま。わたしもその会の役員 をしていたので水野さんと度々お会いできたが、田 舎住まいの私が老齢のため役員をやめてからはあ まりお会いする機会はなくなった。でも関東大会な どで旧交をあたためあっていた。もうそれができな い。再び云う、神は非情だ! 水野さん、さようなら!やすらかに眠りたまえ! さよなら、水野さん 遠井国夫 / TOI Kunio もう 30 年以 上だろうね、私 達 の交友 がつ づいたのは! それが、今年 の関東エスペ ラント大会(箱 根)から私が電 車で家路を急 ぐ時、無残に断 ち 切 ら れ よ うと は! 神は非 情だ。 入院後だい ぶ危険な状態 が続いたが幾 分快方にむかっているようだと堀さんのメールから感 じ、関東大会が終わってから病院へ行けばゆっくり 話し合えると思っていたのに! 未知の我々を結びつけたのはエスペラントだ。ドイ ツ人のシミッド、韓国人の殷武巌、ほか埼玉の仲間 たちと「埼玉エスペラント会」の会合を埼玉県立岩槻 青年の家で続けていた。インターネットのあまり普及 していない時代のこととて、月例会の予告を私は、 朝日・毎日・読売各紙の埼玉版に毎月掲載してもら っていた。お陰で新しい仲間が増えた。 私が驚いたのは県東部の岩槻市(現さいたま市岩 槻区)まで県西部の狭山市から 3 人の仲間が常連と して参加してくれたことである。水野義明・川辺健 一・白石健の 3 氏である。 こうして私は水野さんと知り合った。やがて柴田健 氏も加わって県西部からの常連さんが 4 人になっ た。この人達が毎月熱心に参加してくれることに私 は心から敬服していた。 何年こんな状態が続いたろう。やがて彼等が地元 へ会をつくって独立したいと漏らした。私達は喜ん Prof. Mizuno, ELK kaj TEK 水野先生と関東連盟および TEK 大庭篤夫 / OOBA Acuo 水野義明・関東連盟会長は、6 月 17 日逝去され た。エスペラント界にとって非常に貴重な方を失い ました。水野先生と最初にお会いしたのはおそらく 1970 年に中央線の新大久保駅近くの居酒屋だっ たとおもいます。なぜ新大久保だったかというと、大 久保駅の近くにエミネンタ会というエスペラント会を 故渡辺則夫氏や藤井幾雄氏、五十嵐岳男氏、故高 田聖史氏、沖野雅子氏(グロスマン・雅子氏)などと 立ち上げていたからです。そのときは水野先生を私 に紹介してくれた古関吉雄先生という水野先生と同 じ明治大学の教授ともう一人、山際先生という方が いました。古関先生は、JEI の理事をしたり TEK の 役員をしたりし、後に調布エスペラント会で講師を長 年務めた熱心なエスペランチストです。 この当時の TEK の会長は故川上憲一という実業 2 2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 家で日大講師も勤め英語を教えていました。川上氏 は若手のエスペランチストを TEK に集めました。私も そのうちの一人として役員になりました。まもなく川上 会長が故人となり、各県の関東連盟の構成メンバー (ほとんど JEI の支部)は組織が弱くなりました。そして TEK が関東大会の開催を中心となって引き受けるこ とが決まりました。このような状況のとき TEK の会長を 引き受けたのが私です。関東大会を大宮で開き、そし て水戸でそれから前橋、調布で開きました。大宮や水 戸にはエスペラント会がなかったのですが、そこで開 きました。私の意見は熱心なエスペランチスト数人い れば 200 人位の大会は開けるということで、実行に移 したのです。当時 JEI は忍岡氏が専従者でした。初 級講習会が開かれ、故人の村松氏などは熱心に講 師を務め、講習生のなかから有望な人に役員になっ てもらいました。水野先生に TEK・関東連盟の役員 になっていただいたのは、大宮大会ごろではないかと 思います。このとき遠井国男氏に手伝ってもらいまし た。そして埼玉エス会・所沢エス会が盛んになったよ うです。故和田誠一、植木国雄、高橋桂子、故井川 幸雄、故大原喬などの各氏が講習会から平山、山 野、手塚、大場、故水野の各氏がさまざまなグループ から役員となり、TEK・関東連盟は盛況となりました。 1986年12月の終わりから1987年1月の初めにかけて TEK主催でハンガリー、ポーランド、ソ連の各地を水 野先生と旅行をしました。1984年4月から1年、水野会 長が明治大学からの休暇を使っての旅行の体験がエ スペラントで"Vojaĝo de Amikeco"という小冊子で出 版されていますが、この体験を生かして、この東欧旅 行は組み立てられました。日本語では、新『エスペラ ント国周遊記』です。この旅行には、故人となった玉 井つる子、中村実郎などの各氏、私、大庭篤夫も参 加しました。これがTEKと関東連盟の平和裏の分離 のお別れ旅行となりました。その後、関東連盟は毎年 関東大会、秋の合宿などを行っています。水野会長 はマージョリー・ボウルトンの『エスペラントの創始者ザ メンホフ』の翻訳など精力的に翻訳や著作活動を行 ってエスペラントに貢献されました。水野先生のご冥 福をお祈りするとともに、先生亡き後も所沢エスペラン ト会の一層の活躍をこころから希求します。 En Postmorta Mondo 死後の世界 市村志郎 / IĈIMURA Ŝiroo 宗教は必ず「死後の世界」を想定するという文章を 読んだことがあります。水野義明氏の訃報に接してこ の言葉が頭に浮かびました。TOERでお会いしてか ら、25 年もたってしまいました。私も 80 歳を超え死を 身近に感じるのですが、死後の世界を信じないもの の、もしそのような処があるなら、いろいろ教えてもら いたい人、談笑したい人が年を追うにつれ増えてい きます。エスペラントというものに接してそういう方々 にお会い出来たことを幸せに感じています。S-ro Mizuno もその一人。 (Resumo) Se ekzistus postmorta mondo, mi renkontis en esperantujo personojn, kun kiuj mi volas babili gaje kaj distre tie. S-ro Mizuno estas unu el ili. Dankon, sinjoro Mizuno. 水野先生、ありがとうございまし た。 原川安喜子 / HARAKAWA Akiko 水野先生が亡くなられた。 一月たってもまだ現実とは思えない。 およそ30年前、昭和56年だと思うが、狭山市の智 光山でエスペラント達の集まりがあることを市のお知 らせで知った。私は結婚や子育てで忘れかけていた エスペラントをまたやってみようと思った。それが所 沢エスペラント会入会だった。 何回お話を聞いても飽きない経験をお持ちの素晴 らしい先輩たちがたくさんいた。 当時会長さんの川邉さん、老酒を好まれた白石さ ん、人間の尊厳を大事にされた殷さん、有馬さんは 満州鉄道にお勤めだったとか、家の中に同居されて いたもののけ?のおはなしなど所沢の例会は興味が 尽きなかった。ほかにもユニークな方々がいました。 また例会の後の二次会が特に楽しかった。 3 2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 水野先生はいつも穏やかで、新人が入ると早速特 別レッスンがあった。当時は初級とベテラン組に分か れて学習した。 怠け者の私はさっぱり上達しないのに、世界大会に は大きな顔をして参加した。またそれもエスペランチス トの役目と自分を納得させて。 水野先生の世界周遊記は心躍るものがあった。準 備段階の各地のエスペランチストへの手紙の書き方、 現地での出会い、食事の内容などを本になる前の原 稿段階でお話を聞いた。 まるで自分もそこにいたかのように感じられた。どこ の国だったか?豚肉の煮込み料理の話は食べてもい ないのに今でもよだれが出そうになる。 おうちでは食事係だったという先生の本領発揮とい うところでしょうか。 数年前お母様が亡くなられてから、さびしそうにされ ていた。何歳になっても母親がいなくなる喪失感は大 きいものです。今頃はきっとお空の上でお母様をはじ め多くの同志とニコニコお話をなさっていることでしょ う。 私は例会では先生の辞書を自分のもののように使 い、先生が直してくれるからと甘えて貧しい作文をして いた。今、水野先生がもっとしっかりエスペラントを学 習しなさいと言っているように思います。覚えの悪くな った脳細胞を大事にして、これからもエスペランチスト として活動します。水野先生ありがとうございました。 Rememoro pri prof. Mizuno 水野先生を偲びながら 真下蕗子 / MAŜIMO Fukiko トウコと私は5月21日に、水野先生の6月1日の80 歳のお祝いのカードをお送りしました。その後、6月1 2日に水野先生の奥様から、おはがきをいただき、 事の次第を知りました。水野先生が意識を戻された 際に、私たちのお祝いのカードをお見せしたら、頷 いていらっしゃったとのことでしたので、再び、先生 のあの笑顔を見られるものと思っておりました。 6月17日、私たちは船でエストニアの首都タリンに 向かいました。約2時間の船旅でした。そこからバス で約2時間、130kmほど南方に、人口4万人ぐらい のパルヌという小さな町があります。私たちは、その 町を流れるパルヌ川のほとりにあるスパ・ホテルに8 日間滞在しました。 午前中は、医師の診断により、医師と話し合いで決 めたケアを3,4種類受けました。水中体操、マッサ ージ、パラフィン・ケア、薬草湯、足のケア等々。午後 は、パルヌの町を散歩したり、ウインドー・ショッピング をしたり、博物館、図書館などに行ったりして過ごし ました。トウコは、5月から6月にかけてヘルシンキの 夏期大学で、エストニア語の講習会に参加し、最高 の評価5をもらいました。それで、売り子さんやら、道 で出会った人やらとおしゃべりを楽しんでいました。 町には松や菩提樹などの木々で覆われた8つもの 公園があります。また、近くには海水浴場もあります ので、夏には10万人ぐらいの観光客で賑わうそうで す。 6月24日、パルヌのホテルを発ち、タリンの港から、 ヘルシンキに帰って来ました。 水野先生は私たちがパルヌに出発したその日に亡 くなってしまったのでした。もう、あの笑顔は、再び見 られなくなってしまいました。30年以上にもわたって、 所沢エスペラント会を静かに支えてくださいました。 私たちのエスペラント語の先生であると同時に、先生 の深い教養と人格に魅了されておりました。 私が毎年暮れにお送りしておりました「1 年間の報 葬儀で弔辞を読み上げる堀泰雄さん 4 2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 告」の拙文もきちんと読んでくださり、毎回私を支えて くださるようなお返事をくださいました。もう、先生から の、あのようなお便りをいただけないと思いますと、悲 しくなります。先生!どうもありがとうございました。 色々な面で深く感謝しております。 私がエスペラントに出会ったのは、60年以上前、 小学3年で担任の先生から、うさぎが羽根突きをして いるイラストに"FELIĈAN NOVAN JARON"の年賀 状をもらい、スペイン語を専攻した兄に見せたら、そ れはエスペラントだとよと教わったのが最初です。そ の後成人してから、大島義夫著『エスペラント4週間』 を読み、単語や文法の知識を得ました。その程度で した。 40歳を過ぎ所沢に住んでから、新座の「ステリード イ」や大宮の「埼玉エスペラント会」に何度か顔を出 していました。 その頃、新聞で水野先生の紹介があり、エスペラン トを使って、ソ連・東欧を旅行した『新エスペラント国 周遊記』を刊行したのを知り、すぐ買って読みまし た。とくに、英語の先生であるのにエスペラントが国 際交流で実際に役に立ち、それを広めることに熱心 であることに感銘を受け、それがきっかけで当時の 埼玉県立所沢青年の家(元生涯学習センター)の例 会に参加するようになりました。 当時の例会には、個性あふれるそうそうたるメンバ ーの話題豊富な会話にあふれ、小柄で控えめな水 野先生は特に中心人物という風には見えませんでし た。しかし、語学の知識・経験・人格などで皆から尊 敬されていることは明らかでした。英語・ロシア語・フ ランス語・ドイツ語・中国語・朝鮮語など語学の天才 なのですが、そんなことを奥にしまい、新人の初心者 にも優しく指導しておられたことを思い出します。 所沢エスペラント会の会誌に毎月エスペラント文 (raporteto)を載せていますが、いつも水野先生に添 削をお願いし、先生にはいつも快く引き受けていた だいていました。今後はそれも叶わなくなりました。 2年前に、所沢市と姉妹都市の常州世界語協会の 訪問団5人を東京と所沢に案内したときも、出迎えか らバンケードやホテルの面倒や東京エスペラント会 (TEK)との交流や所沢市長との会見まで、親身にな って世話をされました。それは訪問団員の良き思い 出となり、今回の件についても、心からのお悔やみを いただいています。 先生の飾らない気さくな人柄、優しい笑顔にはもう 会えません。お世話になるばかりで、なんのお返しも できませんでした。水野先生、さようなら。 参列者全員で水野先生の棺に花を捧げた。 Adiaŭ, prof. Mizuno. 水野先生、さようなら 柴田健 / SiBaTa Ken 今年(2012 年)5 月 6 日の例会で、所沢エスペラント 会の「総会」を持ち、水野先生が従来からの会長に加 え総務を兼務し、私が会計を担当することになりまし た。 いままで原川さんが管理していていた「振替口座」は 解約されており、新たな「ゆうちょ振替口座」を申請す るためには、代表者の証明が必要でした。水野先生と 私の家のほぼ中間にある「新所沢郵便局」に決め、5 月 8 日に2人でその郵便局で会ったのが最後になっ てしまいました。 次の週、奥様から電話で先生が緊急に入院されたこ とを聞きました。病状はかなり悪いらしく、もっと回復さ れたから、お見舞いに行こうか、それとも退院されてか ら快気祝いでも、と思っていました。その後の電話で 人工呼吸から酸素マスクに替わったことを伺いました が、6月の TOER 例会でも、もっと良くなってからお見 舞いに行った方が、などと迷っていました。 5 2012年7−8月号 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 Neforgesebla Memoro 向こうを一人歩いている後ろ姿がありました。 先生、さようなら。そして、ありがとうございました。 忘れえない思い出 Kondolenco de Changzhou-a Esperanto-Asocio 徳原誠司 / TOKUHARA Seiĝi 常州世界語協会からの弔辞 Kun granda malĝojo ni informiĝis pri la forpaso de prezidanto de Tokorozawa Esperanto-Rondo, prof. Mizuno Yoshiaki en la17a de junio, 2012. Prezidanto Prof. Mizuno profunde amis Esperanton kaj faris grandan kontribuon al la Esperanta movado. Li ankaŭ donis grandan helpon al la Changzhou-a Emovado kaj pro tio li estas alte respektata kaj amata de Changzhou-aj esperantistoj. Ni bone memoras ke ni renkontiĝis en Tokio kaj Tokorozawa, kvankam tio estis unua foja sed ankaŭ estas eterna por ni. Liaj rideta vizaĝo kaj ĝentila konduto ĉiam restas en niaj koroj. Lia forpaso estas granda perdo ne nur por Tokorozawa Esperanto-Rondo, sed ankaŭ por la tutmonda Esperanta movado. Bonvolu transdoni nian koran kondolencon al liaj familianoj. 参列者にお礼を述べる水野先生の奥様とご遺族 水野先生との付き合いは諸先輩方に比べれば微々 たるものですが、そのわずかの思い出は忘れえないも のになっています。 10年ほど前、所沢エスペラント会の面々と知り合い、 僕の店で例会を2回ほど行った後、しばらくして突然フ ィンランドのトーコさん、蕗子さん夫妻を連れて先生が 来店したときのこと。横浜世界大会の会場でホームス テイに来ていたブルガリアのネデコさんと僕と先生が 鉢合わせし、紹介したときのこと。2年前の調布での関 東大会の際、会場へ行く途中鉢合わせし、エレベータ のの中でしどろもどろでエスペラントで話すと、それは こうなんだよと、優しく教えてくれたこと。夜の懇談会の 締めに先生が音頭をとって歌ったこと。身体を使って 指揮を執っている姿が忘れられません。 そして5月、何年かぶりに僕は所沢エスペラント会の 例会に参加しました。店の定休日を変え、さあこれか らは例会に参加できるぞと意気込んでの出席でした。 少人数にもかかわらず、議事はたんたんと進められ、 新役員の選出の際も総務をやる人がいない、じゃあ私 が兼任するからと会長兼総務を引き受けられました。 些細なことにこだわらない、悩まない。すべては順調 にものごとは決まっていく。そして、最後のエスペラント 文の読み合わせでは、先生の名アドバイスが光りまし た。時間が来ると、「じゃあ私はこれで」と次がまたある かのごとくスッと去って行かれました。振り返ると、道の 所沢エスペラント会の水野義明・会長が 2012 年 6 月 17 日にお亡くなりになられたとの報に接し、悲し みに耐えません。水野先生はエスペラントを深く愛さ れ、エスペラント運動に多大なる貢献をしてこられまし た。また、先生は常州エスペラント運動に惜しみない 支援をしてくださり、常州のエスペランティストから深 い尊敬と敬愛を受けてこられました。私たちは東京と 所沢で先生とお会いしたときにことをいまもよく覚えて います。お会いしたのはそのときだけでしたが、私た ちにとっては永遠の一時でした。先生の笑ったときの 姿、丁寧な立ち振る舞いは、いつまでも私たちの心 の中に残っています。先生がお亡くなりになったこと は、所沢エスペラント会だけでなく世界のエスペラント 運動にとって大きな損失です。私たちの弔意をご遺 族の皆様方にお伝えいただけるようお願い申し上げ ます。 6 N-ro 253, julio-aŭgusto 2012 2012年7−8月号 ●7月1日13:00〜16:00、所沢 東公民館で、所沢エスペラント会の例会が 開かれました。水野先生の思い出やらお葬 式でのことなどから始まり、真下さんとス カイプ電話で話したことなど、先生の追悼 特集の原稿のこと、狭山例会の復活構想や 所沢例会場の変更などを話し合いました。 エ ス ペ ラ ン ト 学 習 は HORO Yasuo 著 、 Raportoj el Japanio 14から13. Kiel Hatojama Perfides la Popolanojn?を音読・和訳。(柴 田) ●私が水野先生に出会ったのは、2006 年のことでした。私の本業は日英通訳者で すから、英語が世界で隆盛を極めるのは商 売上好ましいことなのですが、昔から英語 一辺倒の世の中に違和感を覚え続けてきま した。そんなとき、所沢にもエスペラント 学習サークルがあるのをインターネットで 知り、月例会に出かけていったのが、水野 先生と知り合うきっかけでした。会うのは初 めてでしたが、名前を伺ったとき、「あっ、 あの人だ」と思い出しました。どういうわけ か、水野先生の書いた『新エスペラント国周 遊記』のことを覚えていたのです。エスペラ ントにそれまでそんなに関心がなかったにも かかわらず、水野先生の名前とあの著作のこ とを知っていたのです。不思議な出会いでし た。 その後、私は仕事にかまけてエスペラント 学習を怠り、不良学習者を続けてきました が、東日本大震災のあと、仕事が暇になり、 その時期を利用して集中的にエスペラントを 勉強しました。そのとき水野先生のご自宅ま で伺って、私のようなレベルでも読める本を ドッサリといただいたのです。それから、ま た仕事が忙しくなり、再び不良学習者に戻っ てしまいましたが、私の手元に残った本たち は、「エスペラントを勉強しなさい」と水野 先生の代わりに語りかけてきます。(池内) 水野先生の略歴 主要著作は以下の通り。 『エスペラント語の位置測定』(C.ピロン) 『新エスペラント国周遊記』(自著) 『言語の発展』(F.ジャコモ) 『エスペラントの創始者ザメンホフ』(M.ボウルト ン) 『リディア』(W.ヘラー) 『ザメンホフの生涯』(E.プリファー) 『国際共通語の探求』(A.ラージ) 『国際共通語の思想』(ザメンホフ論説集) 1932年6月1日生まれ。東京大学文学部卒、同 大学院修士課程卒。専攻英語学。元明治大学教 授、日本エスペラント協会参与。関東エスペラント 連盟会長。2012年6月17日逝去。 <振替口座> 次回例会のお知らせ 9月の所沢例会は、9月2日(日曜日)13:00〜 16:00、新所沢コミュニティ・センター(所沢市緑 町 3-16-7)で開かれます。 00140-3-512769(年会費 2000 円) 加入者名「所沢エスペラント会」(新所沢郵便局)
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