関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) ジャック・ロンドンのロマンティシズム 深 沢 広 助 要 旨: ジャック・ロンドンはアメリカ文学史上自然主義に属する作家である。しか し、彼の代表作『野性の呼び声』では、第 6 章までのリアルで生々しい描写に 較べ、最後の第 7 章では、主人公バックや「伝説的な失なわれた金鉱」につい て、「幻想的」、 「神秘的」な描写が認められる。 また、 『白い牙』では、逆境、弱肉強食、適者生存などの自然主義的要素が多 く見られるものの、やはり最後の部分で、主人公「白い牙」が人間に飼われ、 人間に依存するというストーリーの展開になると、 「白い牙」と飼い主の愛情溢 れる描写が中心となっている。 さらに、 『海の狼』 、 『バーニング・デイライト』にも男女の愛情を中心にした 部分がある。 ロマンティックな面と自然主義的な面が、混然一体となってロンドンの作品 は形成されているが、全体的にはロマンティックな色調が優っているという印 象を受ける。 キーワード: ロマンティック、自然主義、愛情 ジャック・ロンドン(Jack London, 1876−1916)は文学史では自然主義 作家として扱われているが、ロマンティシズムの色彩の濃い作家でもある。 しかし、そのロマンティシズムは一様ではなく、作品によって異った形で 提示されている。本稿ではロンドンの代表的作品を通して、彼のロマンテ ィシズムを探ってみたい。 ― ― 29 ジャック・ロンドンのロマンティシズム 1 ロンドンの最大傑作『野性の呼び声』 (1903)の最終章(第 7 章)は、前 章までのリアルで生々しい描写とはかなり趣を異にしている。ロンドンは、 この小説の結末についてあれこれ考えを巡らしたであろうが、結局、周知 のように、主人公バック(Buck)の人間や人間社会からの自由解放、そし て野性化といった形でストーリーを閉じている。 第 6 章の終りでは、1, 000ポンドの荷物を積んだそりをバックが引っ張っ て1, 600ドルを獲得し、飼い主のジョン・ソーントン(John Thornton)が 1) それで借金を返済した、となっている。 そして第 7 章の初めでは、ソーン トンが仲間のピート(Pete)とハンス(Hans) 、それにバックと他に 6 匹の 犬を伴って伝説の金鉱を求めて東部(the East)に旅立っている。ここでこ の物語を終らせてもよかったのである。その後、ソーントン一行の旅がど んな風に展開したのか、その伝説の金鉱を探り当てたか否かなどは、まさ に読書の想像に委ねるというやり方である。つまり、ハッピー・エンド的 な結末ということになる。2 ) ハッピー・エンドとするなら、ストーリーをもう少し延ばして、この伝 説の金鉱をうまく探り当てた 3 人が、採掘した金塊を山分けにする。ソー ントンはピートやハンスと別れ、バックを連れてそのまま山の適当な場所 に、あるいはどこか街に出て豪邸を建てて暮らす。暖炉の火が燃え盛る部 屋で、ガウンを着たソーントンが葉巻をくゆらせ新聞を読んでいる。その 足元でバックがウトウト居眠りをしている・・・という結末も考えられぬ わけでもなかった。この場合は、どんな逆境にあってもそれに屈せず、一 生懸命努力すれば必ず金銭的にも恵まれいい暮しができるという、非常に 3) 俗っぽい教訓を含んだ作品になる。 さらに考えられるのは、イーハット族 や (the Yeehats)に襲撃されピートやハンスや犬たちは殺られるが、ソーント 4) ンとバックは助かり原生林の奥深くへ姿を消してしまう。 やがてバックは 狼のリーダーとなってアラスカの山々を駆け巡る。ソーントンもバックと 共に狼の群れの中で暮らしている。その姿が時折イーハット族など土地の 人間の目に触れる・・・位で終ってもよかったのかもしれない。この場合 は、ソーントンとバックは強い絆で結ばれているので、どうしても切り離 せない間柄と考えられる。もちろん、インディアンの襲撃から逃がれるの が精一杯で、砂金や金塊などは放棄せざるを得なかったことになる。この ― ― 30 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) 結末の場合、バックの野性化という目的は一応達成されるので、前述の大 邸宅でゆったり暮している、という結末よりは多少ましであろう。 しかし、ロンドンはバックの人間からの、あるいは人間社会からの自由 解放、そして野性化というエンディングを意図していた。そのため、バッ クを命の恩人として深い愛情を注いできたソーントンからどうしても切り 5) 離さざるを得なかった。 そこで、既述のように作者は「伝説的な失なわれ た金鉱」 (a fabled lost mine)を求めて東部に旅立つという筋書きを考え出し た。以下は第 7 章の冒頭である。 ・・・この金鉱の伝説はその地方の歴史と同じ位古く、多くの人々 が探索に出掛けたが、それを探し当てた者はほとんどいなかった。探 索に出掛けたまま二度と帰らない者もかなりの数に上った。この失な われた金鉱は悲劇に彩られ神秘に包まれていた。金鉱の最初の発見者 については誰も知らなかった。最も古い話を辿ってみても発見者が誰 なのか分からなかった。最初から古い壊れかかった小屋があったらし く、死にかかった人たちがその小屋は確かに存在し、それが金鉱の目 印であると誓い、その証拠として、北部地方では決して見られないよ うな多量の金を含む鉱石の塊がそこでは見られると伝えられている。6 ) (下線は筆者) 「死にかかった人たち」 (dying men)というのは、この金鉱を発見しそれ を採掘しているところをイーハット族に襲撃されて「死にかかった」状態 になったのである。これらの「死にかかった人たち」は結局死んでしまう ので、ここの金を実際に手に入れ持ち帰った者は誰もいない。つまり、そ ういう悲劇のまつわる金鉱を求めてそれを探り当て発掘する者は必ず死ぬ というのである。従って、ソーントンの一行も同じ運命を辿ることになる、 と作者は暗示している。この「伝説の失なわれた金鉱」というものを設定 することによって、作者はバックとソーントンの切り離し、すなわちバッ クを人間と人間社会からの自由解放を図ったのである。 「失なわれた」という言葉はいろいろな意味に解釈できるが、人間の手か ら失なわれた、すなわち「絶対に人間の手には入らない」と解釈するのが 妥当であろう。また、 「伝説的」と言う位だから、この金鉱は所せん、うわ さ、風説の類のものであり、人間の欲望、願望、夢などをシンボリックに ― ― 31 ジャック・ロンドンのロマンティシズム 表わしているとも考えられる。これは一つの解釈にすぎない。他にも種々 の解釈が可能であろう。それだけにこの金鉱はまさに「神秘的」且つ「不 可解」と言わざるを得ない。 第 7 章では、主人公のバックもまたかなり伝説めいた犬になってくる。 あれほど強い絆で結ばれ深い愛情を注いだソーントンが死んで、以後人間 と人間社会とのつながりをきっぱり断って原生林の奥深くへ入り、狼を従 えてアラスカの山々を駆け巡る。そのバックの話はイーハット族によって 伝えられるだけである。例えば、狼の群れを率いて走っている「ゆうれい 犬」(a Ghost dog)がいるという話、非常に狡猾なこの犬が厳しい冬にイ ーハット族のキャンプ地から食料をかすめ、罠をかすめ取り、そり犬を殺 し、最も勇敢なイーハット族のハンターたちもこれを退治することができ ないという話、イーハット族のハンターたちがのど笛をむごたらしくかみ 裂かれたり、その周りに狼のにしては大きすぎる足跡が残っていたりする という話・・・。 これらの話は、イーハット族がバックの行為そのものを目撃したという よりも、行為の結果を伝えている部分が多い。それほどバックの姿は滅多 に人目に触れることがない。バックの姿はまるで影絵の様な幻想性を帯び てくる。その現実性は徐々に薄らぎ、人間からは遠い存在、つまり人間の 手の決して及ばない神秘的な存在になってくる。あの「伝説的な失なわれ た金鉱」にならえば、バックは「伝説的な失なわれた犬」となってくる。 前に、金鉱が「伝説的」であるというのは、その金鉱が「うわさ、風説の 類であり、人間の欲望、願望、夢などをシンボリックに表わしている・・・」 と述べた。バックが「伝説的」というのは、大衆を支配するような超人的 な力に対する作者自身の願望とか夢が、このバックに託されていると考え られるからである。以上のように第 7 章は、きわめて神秘的幻想的な色調 が強くなっている。 但し、イーハット族に関して言えば、このインディアンは紛れも無く現 実的な存在である。彼等は一つの重大な役割を担っているからである。そ れは、 「ジョン・ソーントンが死んで最後の絆が断たれ、人間や人間の権利 にもはや束縛されることがなくなった」7 )バックの話を伝える、という役割 である(この話の例は既に述べてある) 。つまり、イーハット族は、その後 のバックの様子を伝えてくれる一種の「語り部」としての役割を担ってい ると解釈できる。 ― ― 32 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) しかしロンドンは、このイーハット族も知らない一つのエピソードを記 してこの物語を閉じている。そのエピソードとは、 「夏になるとその谷間を ただひとり訪れるものがいる。それは他の狼とは違った狼である。そこに は朽ちはてたムース(moose)の皮の袋から流れ出した黄色い流れが土に 埋もれ、その間に雑草が生えその上を腐植土が黄色い色を日光から隠して いる。ここで狼はしばらく佇んだ後に、一声長く悲しげな遠吠えをして立 ち去る」という内容である。 この谷間は、かつてソーントンたちが金鉱を発見し砂金や金塊を掘り出 していた所で、イーハット族に襲撃されて死んだ谷間である。その時ムー スの皮の袋に入れた金塊が今も袋から流れ出たままになっている。実際に この谷間に降りてバックの姿を見た者はいない。イーハット族もかつて部 や 族の多くの人間がバックに殺られた悲劇的な場所なので、彼等も決してこ の谷間に立ち入らない。従って、この谷間を訪れる伝説的な犬バックの姿 を作者自らが語っているのである。同時にこの最後の部分は、その後のロ ンドンの作品を特徴づける一つの大きな要素となった。バックはソーント ンが死んでも決してソーントンを忘れてはいなかった。すなわち、バック と死後のソーントンとの間には、生前のソーントンとの間と同じ深い情愛 が認められるのである。いわば「精神性に根ざした愛情」とでも言うべき ものである。これは人間同士であろうと、人間と動物の間であろうとロン ドンが非常に大切にしたもので、 『野性の呼び声』以後の作品にもよく見ら れるが、これについては後述する。 2 『野性の呼び声』がかなり好評だったのに勢いを得たロンドンは、1906年 に『白い牙』 (White Fang)を発表する。内容は『野性の呼び声』と正反対 で、荒野で生まれた子狼が生きるためのさまざまな試練を経て、最後は愛 情溢れる人間の飼い犬になって平和に暮らす、というものである。 この最後の愛情溢れる人間ウィードン・スコット(Weedon Scott)に 出会うまでの「白い牙」には、時間的な間隔をおいて 2 人の飼い主がいた。 1 人はグレイ・ビーバー(Grey Beaver)、もう 1 人はビューティ・スミス (Beauty Smith)である。「白い牙」には 4 匹の兄弟姉妹がいたが、生後ま もなく餓死し、 「白い牙」だけが強い生命力を授かり逞ましく成長する。や がて父親(狼)が死に、 「白い牙」は母親(狼と犬の混血)と荒野をさまよ ― ― 33 ジャック・ロンドンのロマンティシズム っているうちに、あるインディアンの露営地に辿りつき、そこでグレイ・ ビーバーという青年に飼われることになる。 (彼がこの子狼に「白い牙」と 名付けた) グレイ・ビーバーの「白い牙」に対する扱い方の特徴は激しい殴打であ る。彼は屈強な男だったので、その殴打はかなり厳しいものだった。子供 にすぎない「白い牙」は、グレイ・ビーバーに歯向かうことなど到底でき ない。殴打を嫌ってインディアンの露営地を逃げ出し、荒野でひとり暮す こともやはりできない。いくら殴られてもそれを受け入れざるを得ない。 その結果、 「白い牙」は幼いながらも、いや幼いからこそ、人間には絶対服 従することを学ぶのである。人間への服従は心底からのものであり、どん なに激しい殴打を受けても、 「白い牙」はこの飼い主に愛情さえ抱いている。 人間の傍にいて人間に服従している限り、食物に不自由することがなく、 外敵に襲われることもない。ただ殴打に耐えてさえいればよいのである。 2 番目の飼い主ビューティ・スミスは風貌も性格も醜悪な人間である。 「白い牙」が初めてこの男を見た時、その印象はすこぶる悪かった。ビュー ティ・スミスの歪んだ体とねじけた心から体内の不健全さが滲み出ていて、 その醜悪さを「白い牙」は感じ取っている。この男は成長した「白い牙」 の優れた体力と喧嘩の強さに目をつけ、犬や狼や山猫と闘わせるために無 理やりグレイ・ビーバーから譲り受けたのだった。そして服従を強いるた めグレイ・ビーバー以上の激しい殴打を「白い牙」に浴びせる。「白い牙」 が苦痛の叫び声をあげる姿を眺めて、ビューティ・スミスは快楽を覚える。 この両者の間には憎悪の感情しか存在しない。 「白い牙」は闘獣として次第 に強い相手と闘うようになる。そして、ブルドックとの闘いで劣勢に陥り 死の直前に 3 番目の飼い主ウィードン・スコットに救われる。 グレイ・ビーバー、ビューティ・スミスに飼われていた頃のストーリー の展開には、弱肉強食、適者生存の法則、あるいは醜悪で暴力的な人間に よる支配など、きわめて自然主義的な要素を含んでいたが、ウィードン・ スコットが登場し、「白い牙」が彼の下で暮すようになると物語は一変し、 ロマンティックな雰囲気が濃厚になってくる。 ところでこの小説におけるスコットの役割は、 「白い牙」をビューティ・ スミスから譲り受け、その醜悪な元飼い主の下で極端なまでに歪曲された 心を癒すことである。ビューティ・スミスは金を生み出す「白い牙」を容 易に手放そうとはしない。それがしぶしぶ譲ることにしたのは、スコット ― ― 34 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) が普通の人間と違って、この土地ではかなりの人物だからである。ある土 地の人間がスコットについて次のように語っている。 ・・・(スコットは)腕のいい鉱山師なんだ。偉い人とは皆知り合 いでね。面倒なことに関りたくないなら、あいつを避けた方がいいよ。 役人ともきちんとやっている。それに金山監視官とは特別に仲がいい んだ。8 ) 「相当な奴」 (somebody)であるスコットに、ビューティ・スミスなど到 底逆えるものではない。つまり、スコットのように絶対的な力を有する者 でなければ、 「白い牙」をその悪しき環境から救うことができないというわ けである。 『野性の呼び声』におけるバックが疲労困憊し動けない状態であ るのに、飼い主にしたたか根棒で打たれていたところを救ってくれたのは ジョン・ソーントンであった。ソーントンはスコットのように土地の有力 者ではないにしても、非情な飼い主の前に立ちはだかり毅然としてバック を守ろうとする態度に圧倒されて、飼い主は仕方なくバックを手放したの である。ここで自然に即して生きてきたソーントンが登場し、その自然人 の精神に触れることは、やがて原始の世界で生きることになるバックにと ってまさに時宜を得たものであった。同様に、人間社会で権力を持つスコ ットの登場と、その下で暮すことは、やがて文明社会で本能的に人間に依 存して生きることになる「白い牙」にとって、真に都合のいいことだった のである。 スコットの下で暮すようになったものの、極悪の環境で日々を過ごして きた「白い牙」は子狼時代と違って容易に人間に服従することができない。 なにかにつけ歯を剥き出し、唸り声をあげてスコットに近付こうとはしな い。そんな「白い牙」のことを、スコットの使用人であるマット(Matt) はこう述べている。 この犬は地獄をくぐってきたんですよ。すぐに真っ白に輝く天使を 9) 望んでも、それは無理ですよ。しばらく時間を与えてやらなきゃあ。 スコットは、敵意を顕にした「白い牙」に手を噛みつかれ傷をつけられ ても決して諦めず、穏やかな優しい声で慰めるように話しかけ絶対に危害 ― ― 35 ジャック・ロンドンのロマンティシズム を加えない。それは、ソーントンがバックや他の犬たちに対するのとまっ たく同じ行為である。これによって犬たちはソーントンを信頼しソーント ンに愛情を抱くようになる。作者は同じ手法で、 「白い牙」がスコットを信 頼し愛情を抱くように描いている。バックがソーントンの姿が見えないと 落ち着かなくなったように、 「白い牙」もスコットがどこかへ出掛けること を察知すると落ち着かなくなり、スコットの傍を離れようとはしない。バッ クと酷似してはいるものの、 「白い牙」の場合は、その本性が人間への依存 であり、人間と人間社会から離れて生きることはできない。この点で、人 間と人間社会からの自由解放を目指したバックとは根本的に異なっている。 この小説も、 「白い牙」がスコットの飼い犬になり、彼との強いつながり の中で共に暮すことになった、という所で終りにしてもよかったように思 われる。しかしロンドンのロマンティックな趣向はこれでは満足できなか った。これだけでは、 「白い牙」の人間への依存が十分に達成されたとは思 えなかった。それで彼は、その目的を適えるために最後の第 5 部(Part V)を 設けたのである。 第 5 部には、 「白い牙」がスコットと共にサンフランシスコを経て、スコ ットの家があるサンタ・クララ渓谷(Santa Clara Valley)のシュラ・ヴィ スタ(Sierra Vista)に到着し、スコットの家族と一緒に暮らし、人間社会 のさまざまなルールを学びその社会に適合して行く様子が描かれている。 例えば、荒野では生きている動物が周りや鼻先で動き回っているのを見る と、それに襲いかかって食べても構わなかった。またそれが荒野で生まれ 育ったものの衝動でもあった。しかし、スコットの屋敷ではそれは許され ない。にわとりという格好の獲物がうろつき回っていても、それはスコッ トの所有物であって勝手に食べることはできない。また、主人の領土は広 くこみ入っていたが、そこにはきちんとした境界と限界がある。それを越 えて他の人間の領土に勝手に入り込むことは許されない。こうした無数の 掟があり、 「白い牙」は経験によって複雑な掟を一つ一つ憶えて行く。ロン ドンはその様子を、バックが原始の世界で「根棒と牙の掟」を学ぶ以上に 細々と描いている。それは作者が『白い牙』に寄せる熱意と期待の大きさ 10) を表わしていると言ってもよい。 尤も、原始的な荒野よりも人間社会の方 がはるかに複雑なため、 「白い牙」が学ばなければならない事柄が多く、必 然的に描写が細かくならざるを得ないという面もあるのだが。 バックが荒野へ適応して行く過程には、幾度も命を危険にさらされる場 ― ― 36 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) 面があった。「白い牙」の人間社会への適応にはそうした危険は一切ない。 ルールに背く行為をした時は、主人のスコットから厳しい声で叱られるか、 軽く手で叩かれる程度である。きわめて安全に保護されながら、自分の置 かれた環境に順応していけばよい。最後に、ある脱獄囚が判事であるスコ ットの父親に復讐にやってきて、 「白い牙」にのどを噛み切られて死ぬエピ ソードまで付け加えられている。この際に重傷を負った「白い牙」がスコ ット一家の手厚い看護を受けて回復する所でこの物語は終っている。 『白い牙』の最後の部分は同じロマンティシズムと言っても、『野性の呼 び声』の第 7 章と比較するとまったく異質のものである。 『白い牙』の場合 はあまりに感傷的過ぎて、作品を劣化させたきらいがある。この小説が作 者の期待通りに受け入れられなかった大きな理由は、このあたりにあった と言えよう。 3 『海の狼』 (The Sea-Wolf, 1904)には 2 人の主要な人物が登場する。あざら し漁船ゴースト号(the Ghost)の船長ウルフ・ラーセン(Wolf Larsen)と、 学者でひ弱なハンフリー・ヴァン・ウエイデン(Humphrey Van Weyden) である。ラーセンは12歳で船乗りになって以来、独力で航海術、科学、文 学を学んできた独立独行の人物である。彼の船室の書架にはシェイクスピ ア、テニスン、ポーなどの作品や、ティンドール、プロクター、ダーウィ ンなどの著書が並べられており、なかなかの読書家であることを想像させ る。また、ラーセンは巨大な力の持主で、それは原始的な力、あるいは野 性的な力と言ってもよい。だが、その大いなる力が何か有効に使われてい るのではなく、乗組員に対して自暴自棄的な暴力を振うだけでただ無意味 に発散しているにすぎない。ヴァン・ウエイデンはこの暴力船長を「蛮性 の極致」と、キャビンボーイのジョージ・リーチ(George Leach)は「悪 魔」と呼んでいる。 ヴァン・ウエイデンは友人を訪れるためサンフランシスコ湾を航行中、 濃霧のために彼の乗った船が他船と衝突し水中に放り出される。漂流して いるところをゴースト号に救助され、ラーセン船長に有無を言わさずキャ ビンボーイにさせられてしまう。ラーセン船長は言うに及ばす、他の乗組 員も非情な男たちばかりである。それまで安定した平穏無事な生活を送っ てきたヴァン・ウエイデンは、こうして冷酷な暴力のはびこるゴースト号 ― ― 37 ジャック・ロンドンのロマンティシズム というそれまでとはまったく異質な環境へ放り込まれる。この船では他者 に頼ることは不可能で、 「自分に頼るしかない」11)世界である。自分の力だ けが唯一の生活手段なのだが、肉体労働とは無縁だったヴァン・ウエイデ ンの筋肉は小さく柔弱でまるで子供のようである。 しかし、ゴースト号の荒くれ者の中で日々を過ごしているうちに、ヴァ ン・ウエイデンは肉体的にも精神的にも次第に逞しくなって行く。とりわ けモード・ブルースター(Maud Brewster)という女性の詩人がやはりゴ ースト号に救助され、彼女と恋仲になり、彼女に言い寄るラーセン船長か らその身を守っているうちに、彼はより強くより大胆になって行く。それ に伴って自分の身内に宿る原始的な力を意識するようになる。 私の性格の深部に潜む原始性が動き出したのだ。私は自分の力が逞 しく、弱者を擁護し闘う男であることを感じ取った。とりわけこのい 12) としい人の身を守る男であると感じた。 一方、ブルースターも救助された当初はか弱い女性だったが、ヴァン・ ウエイデンと力を合わせてラーセン船長と闘っているうちに、彼女もまた 肉体と精神の両面においてすこぶる力強い女性に変貌する。物語の最後で はアメリカの税関監視船に 2 人は救助される。 ヴァン・ウエイデンとブルースターの逆境克服は、既に述べた『野性の 呼び声』のバックやスティーヴン・クレイン(Stephen Crane, 1871−1900) の『赤い武功章』 (The Red Badge of Courage, 1895)の主人公ヘンリー・フ レミング(Henry Fleming)にも認められる。いわゆるアメリカ型の自然主 義の典型である。ただ、バックやフレミングと異なるのは、 『海の狼』のこ の 2 人の場合はお互いの中に愛を意識し合いそれが逆境克服の大きなエネ ルギーになっているという点である。ヴァン・ウエイデンが 1 人だけなら ば、あるいはブルースターと出会ってもお互いに愛を感じなければ、これほ ど強く逞しくはなれなかったであろう。ブルースターについて、ヴァン・ウ エイデンは次のように思っている。 「私に分かるのは、彼女を愛しているこ とと、彼女のお蔭で世の中に戻る力が自分のものになったことである」。13) 一方ブルースターも、あなたは自分が勇気ある人間だと分かっていたのか、 というヴァン・ウエイデンの質問に対して、 「私は決して勇気ある人間では なかった。あなたを知るまでは。私を勇気ある人間にして下さったのはあ ― ― 38 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) なたなのよ」14)と答えている。つまり、2 人はお互いを力の源と考えてい て、その裏に「愛」という感情が存在している。これは人間の若い男女の 愛なので、バックとソーントン、あるいは「白い牙」とスコットの間にあ る愛情とは異質のものである。しかし、こういう感情を抱く男女を中心と してストーリーを展開して行けば、どうしても甘いロマンティックな趣向 にならざるを得ない。あの攻撃的で野蛮なラーセン船長が、脳の病で視覚 も聴覚も声も失なわれ生命の灯が次第に薄れて行くとあっては尚更である。 この作品で、ブルースターの登場と、ヴァン・ウエイデンが彼女と恋愛 15) 関係に陥るくだりは多くの批評家の批判を浴びることになった。 ロンドン の言によると、彼は当時 2 番目の妻になるチャーミアン・キトリッジ (Charmian Kittrege)に恋をしていて、その女性をモデルとしてこの作品に 描いたということである。作品の前半で、ゴースト号という野蛮極まりな い世界の中で暴力的な男たちの姿を描きながら、後半になって野蛮、暴力 の象徴であるラーセン船長が一転して病に苦しみ息も絶え絶えの果てに死 去してしまう。その一方で、初めか弱かったヴァン・ウエイデンとブルー スターが愛を育み合い、海とかエンデバー島(Endeavor Island)という原 始の世界で自立できるまでに力をつけて行くという筋立ては、いささか不 自然な感じがしないでもない。それは、 「適者生存というダーウィン理論の 代弁者であり事実上の実行者」と見なされるウルフ・ラーセンが極めて好 感度の高い創造人物であったことも理由の一つに上げられるだろう。そう いう強烈な個性を有する人物の登場に感嘆した読者にとっては、ラーセン の衰弱と死去(それが何を意味していようとも)は大きな失望であり、こ の作品への関心を半減させたと言ってもよいだろう。 『海の狼』の後半部は 2 人の男女の恋愛感情が前面に出されているが、同 時に 2 人がゴースト号の破損部を修理し、逆境を克服して窮地を脱すると いう結末になっている。「やったぞ!やったぞ!自分自身の手でやったん だ!」16)というヴァン・ウエイデンの心の叫びが象徴するように、ゴース ト号に乗船するまでは絶対に不可能だったことを今 2 人は成し遂げている。 従って後半部は環境にうまく適応した男女の「自立」をテーマにした展開 になっている、と解釈すれば納得もできるし、それなりの意義も十分に認 めることができよう。 一部男女の愛を描いた作品に『バーニング・デイライト』( Burning Daylight, 1910)がある。もちろん、男女の愛が主なテーマではない。主人 ― ― 39 ジャック・ロンドンのロマンティシズム 公エラム・ハーニッシュ(Elam Harnish)は、クロンダイク(the Klondike: カナダ北西部の地域で金産地)やアラスカでは非常に有名な30歳の資産家 である。彼が現れるとその場が暖い雰囲気に包まれる。 「バーニング・デイ ライト」は彼のあだ名である。この名は、以前、太陽が燃えるように輝い ているのにいつまで寝ているんだと言って、仲間の毛布をはぎ取る習慣が あったので付けられたものである。この名前の方がよく通っていて、本名 を知っている人は少ない位だ。ほかにも、 「クロンダイクの王様」とか、 「エ ルドラド・キング」とか、 「ボナンザ・キング」などの称号でも呼ばれてい る。彼は極北の大地で育ち成功した人物である。 この彼がやがて大都市サンフランシスコに進出して手広く事業を行い、 ここでも成功を納める。その勇壮果敢な活躍ぶりから、「闘士」、「悪魔」、 「虎」などと呼ばれるまでになる。ここまでは、ハーニッシュの精力的な活 躍を通して、いわゆるアメリカン・ドリームの具現を活写しており、ハー ニッシュという人物の活力溢れる超人的な姿が映し出されている。 しかし、文明社会でも実業家として成功を納めたものの、人間的にはか なり非情な面も表れてくる。そのためアラスカ時代と違ってハーニッシュ を恐れ、彼を忌み嫌う人間も出てきて人間関係にも支障を来すようになる。 また、その精力的な活動の裏で種々の苦労が重なって、精神と肉体が蝕ま れ健康を害してしまう。こうなると、ハーニッシュはしばしば田園地帯に 赴き、そこの空気を一杯吸い込んでひとときの安らぎを得るようになる。 このあたりからストーリーの展開が変わってくる。すなわち、ビジネスの 魅力も金銭的欲望も失せて、ひたすら健康の回復だけを願うようになる。 具体的にはカリフォルニア州ソノーマ郡(Sonoma County)のグレン・エ レン(Glen Ellen)の農園で生活することになるのだが、ここで作者はディ ード・メイスン(Dede Mason)という女性をハーニッシュの相手として登 場させている。彼女と結婚して農園で暮すことが彼の夢となる。 ・・・僕は自分の欲しいものが何か分かっている。それを手に入れ ようとしているんだ。君と野外での生活がしたい。敷石から足を離し 電話から耳を遠ざけたい。神様が造ってくれた一番美しい田園地帯に 小さなランチハウスを持ちたい。そのランチハウスの周りでいろんな 仕事をしたいんだ―牛の乳を搾ったり、薪を割ったり、馬にくしをか けたり、畑を耕したり、そんなことを全部したいんだ。ランチハウス ― ― 40 関東学院大学文学部 紀要 第104号(2005) には君も一緒にいて欲しい。ほかのことはすっかり厭になった。疲れ 切ってしまった。でも僕は一番幸運な男だよ。だって金で買えないも のを手に入れたんだから。君を手に入れたんだから・・・。17) こうして、ハーニッシュはディード・メイスンを伴って田舎暮しを始め、 疲弊した肉体と精神の回復を図ることに専念する。そこにはかつての 「・・・キング」とか「闘士」とか呼ばれた面影は微塵もない。『バーニン グ・デイライト』は前述の 3 つの作品と異って、全体がロマンティックな 雰囲気の漂う作品である。 * * * 「人生の真実」を書くことを目指したロンドンは、確かに、当時の政治や 経済に目を向け、社会主義や階級闘争を扱った、現実をえぐり出すような、 あるいは未来を予言するようなエッセイや小説を多く書いている。その一 方で、ロマンティックな性情が醸し出す政治経済機構に寄せる理想主義、 また、立身出世や支配的立場や金銭に対する願望などが作品の中に強く感 じ取られる。これらの要素が渾然一体となってロンドンの作品は形成され ているのだが、敢えて言うならば、全体としてはやはりロマンティックな 色調が優っているという印象を受ける。 注 1 )バックが、1, 000ポンドの荷物を積んでいる凍りついたそりを動かして、100ヤ ード引っぱれるかどうか、という賭けが行なわれた。 2 )後述する『白い牙』 、『海の狼』、『バーニング・デイライト』などは、まさに この種の結末である。 3 )但し、この結末では、バックの先祖返りの描写や、焚火の傍にうずくまって 原始人の幻を見る描写などはまったく意味を失ってしまう。 4 )実際のストーリーでは、ソーントンの一行が伝説の金鉱を探り当て、砂金や 金塊を採掘している時にイーハット族に襲撃され、バックを除いて人間も犬も 全部殺される。 5 )バックは、その頃の飼い主に根棒で激しく殴打されているところをソーント ンに救われた。 6 )Jack London, The Call of the Wild(London: Heineman Educational Books Ltd., 1967) , p. 92. ― ― 41 ジャック・ロンドンのロマンティシズム 7 )Ibid., p. 109. , p. 171. 8 )Jack London, White Fang(New York: E. P. Dutton & Co. Inc., 1971) 9 )Ibid., p. 174. 10)ロンドンは“I like White Fang better than I do The Call of the Wild”と言い、 『白い牙』の創作にはかなり情熱を注いだ。 11)Jack London, The Sea-Wolf(Boston: Houghton Mifflin Co., 1964),p. 36. 12)Ibid., pp. 203−4. 13)Ibid., p. 257. 14)Ibid., p. 259. 15)深沢広助『ジャック・ロンドン―人・文学・冒険』 (北星堂書店、2001) 、p. 71 参照。 16)The Sea-Wolf, p. 278. , p. 328. 17)Jack London, Burning Daylight(New York: Manor Books Inc., 1973) ― ― 42
© Copyright 2025 Paperzz