常盤台通信 no.11 - Y-GSC Studio

常盤台通信
no.11
都市と芸術
則定彩香
湧川依央理
糸数かれん
松尾祐樹
丹羽梓
吉田野土香
松崎綱司
常盤台通信は横浜国立大学大学院都市イノベー
ション学府建築都市文化コース(Y-GSC)の学生
が年 3 回発行する小冊子です。
11 号目である今回のテーマは「都市と芸術」
。
書評とエッセイというかたちでそれぞれが
「都市と芸術」について考えていきます。
松尾裕樹、元気に修行中!!!!!
次号をお楽しみに。
書評
都市の中にあるべき芸術とはなにか
﹃未完のモニュメント まちのアートは誰のもの?﹄今井祝雄 樹花舎 (2004)
湧川依央理
個もの巨大な石を積み重ねたタイムストー
20
という作品を新大阪駅前にパブリックアートとして設置した。その石の中に市民から集めたメッセー
400
1982
年に、
著者であり彫刻家の今井祝雄が﹁時の石﹂と呼ばれる
ンズ
個目の石は積まれなかった。予算等の関係で﹁完成﹂しないままパブリッ
21
年に石を新たにもう一つ積み上げるというプロジェクトを計画していた。しかし約
2002
年になっても
2002
年後の
ジを入れ、 20
束の年である
クアート作品として残されているのである。本書は、いつまでたっても積み上げられない石への疑問を作者に
の計画が中止になってしまったのを発端に、街にあふれるパブリックアートに、
400
投げかけたメールと、それに対する返信のやり取りによって始まる。
著者はタイムストーンズ
近年それに代わって台頭してきた﹁コミュニティアート﹂と呼ばれるものと対比させつつ、言及している。アー
個のパブリックアート作品を挙げながら考察している。
トは都市の中でどうあるべきなのか、 40
年代にはファーレ立川などに大規模な
90
年以降、
﹁コミュニティアート﹂や﹁参加型アートプロジェクト﹂
2000
年代から現れ
パブリックアートとは、
﹁公共芸術﹂と訳され、 1970
作品が登場し、一般的になった。また
と呼ばれる、参加者やその地域とのつながりそのものを作品の一部とするアート作品が数多く登場する。それ
らはもともと、サイトスペシフィックな作品として制作され、その舞台として美術館の外の公共空間が設定さ
れたものだったが、作品展示の問題だけにとどまらずに、作品展示にいたるまでのプロセスやそこにおける様々
な人との関わりを重視しながら都市の中のアートとして台頭するようになった。しかしこれらのアート作品に
は、参加者の中でしか伝わらない文脈が存在し、外部からの批評や介入を拒否する性質︵=
﹁マイクロユートピ
ア的性質﹂︶があると指摘されている。本書は、芸術文化とは﹁時間をかけて育てなければならないもの﹂とし
たうえで、一時的なコミュニティアートよりも恒久的に設置できるパブリックアートの中に、住民やその地域
の﹁記憶﹂や﹁歴史﹂を吹き込むことが重要だと述べる。
パブリックアート作品が多くの人の目に触れることは確かだ。しかしパブリックアートの中にもコミュニティ
アートと同じような問題点があるのではないだろうか。住民の﹁記憶﹂や﹁歴史﹂等を用いたコンセプチュア
ルなパブリックアート作品も、同じ記憶を持つ者にしか共有できないマイクロユートピア的性質を持っている
と思われる。著者の言うパブリックアートのあるべき姿の中にも、コミュニティアートとパブリックアートの
どちらにも起こりうる問題があるように思う。私たちは﹁都市と芸術﹂という問題に立ち向かう時、古くから
あるものと新しく台頭してきたもののどちらかを否定するだけであってはならない。本書は恒久的でコンセプ
チュアルなパブリックアート作品を中心に論考を進めているが、都市の中にある芸術︵それがパブリックアー
トであろうがコミュニティアートであろうが︶を考えるうえで重要な一冊になるのではないだろうか。
書評
都市とファッション
ファッションの愉しみを都市にみる糸数かれん
――
南谷えり子・井伊あかり﹃東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論﹄︵平凡社、 2004
年︶
ファッションと都市は密接な関係にある。パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨークといっ
た都市は、それぞれが﹁ファッション都市﹂として雑誌で特集を組まれたり、互いの都市に
おける着こなしやトレンドの違いを指摘されたりする。ファッションというフィルターを通
してそれらの都市をみてみると、各都市の内部では価値観を共有する愉しみが流行として現
れ、都市と都市の間には価値観の違いによる着こなしの差異が現れる。
﹃東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論﹄は、ファッションを切り口に、東京・
パリ・ニューヨークの3つの都市を比較することで、最終的に東京という都市の文化的特質
を明らかにすることを試みている。都市とそのファッションを特徴づけることを目指してい
るが、その過程では、各都市におけるファッション分野の歴史的発展の経緯や、産業システ
ムの違いなどが十分に踏まえられている。
まず初めに、﹁ファッションの都﹂として名高いパリが取り上げられる。ファッションを重
要産業とし、﹁ファッションの都﹂という地位を維持すべく、行政をあげて新しいトレンドの
発信とその担い手の育成に奔走するパリは、﹁クリエイション﹂の都市である。それでいて、
パリに住まう人々は、不変の自分らしさである﹁スタイル﹂を持ち、そのスタイルが実現さ
れた﹁シック﹂な装いを良しとする。このように、ファッションを通してみたパリには、常
に新しさを求めて変容するファッションのダイナミズムと、
﹁シック﹂の美学との共存という、
矛盾した二重構造を見出すことができると筆者らは言う。
ニューヨークもパリと同じくファッションを贅沢産業と見なしているが、作り手の﹁クリ
エイション﹂を重視するパリ・ファッションに対し、ニ ¬¬
ューヨークにおけるファッショ
ンは受け手、つまり消費者志向であることが特徴だ。筆者らは、ニューヨークのファッショ
ンが盛り上がりを見せ始めた契機をキャリアウーマンの台頭に見出し、裕福な彼女たちの希
望に沿って商品の提案を行うというマーケティングの手法が、ニューヨーク的なファッショ
ンの在り方として定着したと説明している。また、ニューヨークのファッションはそのマー
ケティング対象として常に富裕層を意識していることも強調されている。
古くはたけのこ族などか
――
これら2つの都市に対して、東京はあらゆる意味の重さから解き放たれた﹁浮遊都市﹂で
あると筆者らはいう。ストリートから生まれる独自のスタイル
らまだ記憶に新しいコギャルまで ――
が東京的ファッションの源流にあることを指摘しなが
ら、﹁カワイイ﹂という言葉で全て形容されてしまうような意味の無さ・軽さが、古着もブラ
年だ。当時の﹁いま﹂のファッションをもとに執筆さ
2004
ンド物も一緒くたにコーディネートされるような、軽やかで移り気な東京ファッションを可
能にしている。。
本書の初版が発行されたのは
れた本書を、ファッションの有り様も都市の有り様もいくらか変容してしまった 2016
年現
在に読むとなれば、当然多少の違和感を感ぜざるを得ない。しかし本書を読む意義は、ファッ
ションの差異化と模倣︵価値観の共有による流行など︶の仕組みを、都市の規模で再認識す
ることにある。誰かの装いを真似したり皆と装いを同じくする模倣あるいは共有の愉しみと、
その中で他人とは自分との間に微妙な差異を作りだす差異化の愉しみ。ファッションを享受
する人々の繊細で矛盾した愉しみは、都市の輪郭さえもつくりだしていることを、本書は気
づかせてくれる。
書評
音楽を出来事として
理解するために
丹羽梓
諏訪淳一郎﹃パフォーマンスの音楽人類学﹄︵勁草書房
︶
, 2012
昔聴いたことのある音楽を、改めて聴き返してみると、こんな
曲だったかなと以前と違う印象をもつことがある。曲そのものに
は変化がないのにも関わらず、異なる感覚になるのは何故だろう。
﹃パフォーマンスの音楽人類学﹄は、音楽を︿音楽作品﹀という概
念だけで捉えるのではなく、パフォーマンスという概念で捉えて
いる。そのパフォーマンスには、会場の雰囲気、演奏者の演奏の
仕方、聴取者の反応など、音楽が鳴り響く空間で起きている出来
事全てが含まれており、それらの全ての事象が関連しながらパ
フォーマンスを作り出している。そして、エスノグラフィーの手
法を用いて、パフォーマンスを考察することで、それぞれのパ
フォーマンスを固有のものとして立ち上がらせる。タイトルにあ
る音楽人類学とは、音楽学にフィールドワークの詳細な分析を行
う文化人類学を取り入れたもので、︿パフォーマンスとしての音楽﹀
を考察するのに適している。
筆者は、音楽と、空間や時間の関係について、ドゥルーズとガ
タリの﹁脱領域化﹂と﹁再領域化﹂という理論を用いて説明して
いる。声やただの音として認識されていたものは、日常から切り
分けられることで、音楽として認識される。また、音楽が鳴り響
くと同時に、その空間や時間は日常から切り分けられ、つまり﹁脱
領域化﹂され、音楽が鳴り響く空間や時間として認識される、つ
まり﹁再領域化﹂される。切り分けられる音楽、空間、時間は、
日常から﹁脱領域化﹂され、パフォーマンスとして﹁再領域化﹂
されるのだ。
音楽をパフォーマンスとして定義することで、︿今=ここ﹀でし
か起こりえない音楽を、固有のものとして詳細に記述することが
できる。パフォーマンスには、空間や時間だけでなく、演奏者と
聴取者の関係性も含まれるからだ。演奏者の演奏に聴取者がどの
ように反応したか、そしてその聴取者の反応を演奏者がどのよう
に受け取ったかなどがパフォーマンスに含まれるので、パフォー
マンスにおいて、演奏者と聴取者の関係性は重要な要素である。
パフォーマンスという概念を使うことで、お祭りで演奏されるお
囃子や、五線譜に表すことが難しい民族音楽などを、一つ一つ異
なるパフォーマンスとして語ることが可能になる。
私たちが生きている社会には、音楽が至る所に溢れている。ほ
ぼ毎日のように開催されているライブやコンサート、レストラン
、そして一時停止した車から漏れ聞こえる音楽ま
で流れる BGM
で、都市に存在するあらゆる音楽は、パフォーマンスと捉えるこ
とができる。音楽人類学の視点を取り入れることで、別の角度か
ら都市を眺めることができるのではないだろうか。
エッセイ
綱司
小エッセイ﹁早川義夫のライブを観る﹂
松
さて、今日は10月21日である。そして、常盤台通信の原稿締め切りも間近だ。今回の常盤台
通信のお題は﹁都市と芸術﹂である。そこで、私はある事を思い出した。すっかり失念していたが、
今日はシンガーソングライター・早川義夫のコンサートのその日だった。これは原稿テーマとして
使えるのではないか。場所は吉祥寺 MANDA-LA2
である。時刻は既に午後の5時を過ぎていたが、
電話でライブハウスにチケットの有無を問い合わせ、当日券がある事を確認すると、早速私は東横
線に飛び乗り一路、吉祥寺へと向かったのである。
6時半過ぎには京王井の頭線を降り、吉祥寺に到着した。そこから会場である MANDA-LA2
ま
では徒歩で3分程の距離である。南口から東へしばらく歩くと会場へ到着した。階段を下りて中に
入り、チケットを購入しドリンクを頼む。席を確保し、7時半の開演まで酒を飲みながら、しばし
の休憩である。
今回のコンサートは、1960年代にロックバンド、ジャックスとして活動したシンガーソング
ライター早川義夫と、ミュージシャン・イラストレーター・声優として活動する原マスミの共演で
行われた。当日の公演は石川県、沖縄県と巡って来たツアーの最終日である。会場は数十人程度が
入る空間で、観客の中には顔に見覚えのある作家などもおり、そのような小さな会場は何となく親
密で、くつろぎを感じさせた。
定刻の7時半を少し過ぎた頃、会場の照明が消え早川義夫が舞台に登場した。ピアノの前に座り、
も挟まずに数曲歌い、少し話した後、また歌いステージを去る。そして休憩を挟み、原マスミ
MC
が登場する。彼はギター一本で弾き語り、客席と掛け合いをした後、早川が再び登場し共演した。
そして、ダブル・アンコールの後、10時前には終演になった。
終演後、外に出て久しぶりに街を歩いた。高校生や大学生らしい集団、留学生など驚くほどに学
生率が高い。夜の商店街や井の頭公園を歩きながら、あれこれぼんやりと考えてみた。通り過ぎて
ゆく人たちは各々の目的地に向かっており、考えている事も何もかも人それぞれだろう。彼らのほ
とんどは先ほど近くでコンサートがあったことなど知りもしない。コンサートの存在を知らなけれ
ば、あるいは興味がなければ、ただ通り過ぎてゆくだけである。つまり、知らないものや興味のな
いものは、その人にとっては存在しないも同じということだ。もう少し考えて見れば、我々は自分
の知識や関心という色眼鏡を掛けて世界を見ているということだろう。ならば自分にも見えていな
い︵というか目に入っていない︶物事は街中に溢れているはずである。しかし、私の眼鏡を通すと、
この日は吉祥寺 MANDA-LA
2で早川のコンサートをやっているのが目に入った。コンサートには、
似た様な眼鏡を掛けた人々がひととき一つの空間に集まっていた。彼らは時間と空間を共有して、
またそれぞれの日常に戻ってゆく。その日常もまた、各々の眼鏡によってあり方も見え方も異なる
だろう。そのような日常生活の集積として都市・街が出来上がっているのかもしれない。
どこかで読んだ都市論のようなものを語ってしまったが、改めて自分の体験として都市
論的な感覚が腑に落ちると、また違ったものの見方ができるような気もするのである。
﹁親密な都市、街、空間﹂
吉田野土香
﹁どんなに古く醜い家でも、人が住むかぎりは不思議な鼓動を失わないものであ
略 …
︶はじめての家に移り住むと、私はたいてい最初の数日、長いときに
る。︵ …
は数ヶ月のあいだ、違和感を忘れることができなかった。日が経って多くのさま
よっていた物たちが手軽なところにおさまった頃になると目に見えない変化が起
こり、私が住むことの秩序がいつしか支配的になる。家が住み手である私の経験
に同化し、私がそれに合わせて変化し、この相互作用に家は息をつきはじめ、ま
るで存在の一部のようになりはじめるのである。﹂ (*1)
私はこの文を読むと、学部一年の頃、浪人していた時の学生アパー
トを出て、別の場所で一人暮らしをした時の部屋を思い出す。1年で
出て行ってしまったその部屋には、最後まで違和感をなくすことがで
きなかった。部屋は﹁住み手である私の経験には同化﹂できなかった
のだろうか、また、﹁私はそれに合わせて変化﹂できなかったのだろうか。
私はその部屋と親密になれなかった。耐えきれなくなって後半はほとん
どその部屋にはおらず、終電に乗って、かつて住んでいた街で夜中じゅう
過ごしたりした。
内田隆三は、街と都市を﹁抵抗なく歩ける距離である︿街﹀、その外
側の領域である︿都市﹀﹂という二つに分けている。︿街﹀について、
内田は﹁地下鉄やバス、地図やカーナビなどのメディアを媒介
しなくても、不安や抵抗を感じることなく自己の身体だけで歩
き、活動することができる場として人々が埋め込まれている
範囲のこと﹂と定義している︵ 2*︶。浪人の頃に
私が住んでいたのは︿街﹀だった。そして、親密
になれなかった部屋は一年で引き払って、私はま
た住む場所を︿街﹀に戻した。私はなぜあの部屋
と親密になれなかったか、今になって振り返ると
その部屋のあった場所は︿街﹀ではなかったから
かもしれない。あの場所は、ほとんどが戸建住宅
であり、国道沿いにはチェーンの大型スーパーやド
ラッグストアが並び若い家族連れの住むようなところだった。中心部から電車
分のところにあり、通勤快速の電車も止まる。そこは私にとっては、元
で 15
いた︿街﹀の把握しきれない外側でしかなかったのかもしれない。
最初に引用した文は家に関するものであるが、家の部分を︿街﹀に置き換え
ても成り立つのではないだろうかと思う。﹁日が経って多くのものが手軽なと
ころにおさまった頃になると目に見えない変化が起こり、私が住むことの秩序
がいつしか支配的になる。街が住み手である私の経験に同化し、私がそれに合
わせて変化し、この相互作用に街は息をつきはじめ、まるで存在の一部のよう
になりはじめるのである﹂と。
私の住んだ都市︵浪人の時に住んだ街、 年
1 しか住めなかった部屋のある場所、
その後住み続けた街のある都市︶と対比すると、東京という都市には︿街﹀がたく
さんあるな、と思う。どの駅でおりてもその駅周辺に︿街﹀が小さく広がっている。
駅同士が近い距離で隣り合っていても、駅ごとに︿街﹀があり、それぞれの︿街﹀は違っ
ている。私の住んでいた都市には、︿街﹀が一体いくつあっただろうか。
多木浩二﹃生きられた家﹄ 1984 (3
頁 )
*1:
内田隆三﹃現代思想﹄﹁都市のトポロジー序説 ̶
メディアの中の都市﹂ 1982
年 151-15
頁
*2
若林幹夫﹃ 10+
1 no.25
都市の境界、建築の境界﹄﹁現代都市の境界線﹂ 2001
年 142̶150
頁
エッセイ
映画を巡る旅の風景
則定彩香
のなかでも東京という都市の空気を吸いこんだ映画
とは違って雑然としているが、そんなつまらぬ風景
それまで彼は、映画館の外の東京は映画の中の東京
に見える風景と映画の中で見る風景が同じなのだ。
を発見する。パリでは、映画を見る場所へ通うとき
画の中で見る風景との間に決定的な差異があること
の映画狂生活では映画館への道のりで見る風景と映
移り住んだ。この移動によって彼は、東京とパリで
一は、そうした東京での映画狂生活ののちにパリへ
﹃映画旅日記 パリー 東京﹄の著者である梅本洋
なっただろう。
見する東京という都市の風景は忘れられないものに
うした﹁映画のための小さな旅﹂の道中に彼らが発
一望できる歩道橋。当時の映画狂たちにとって、そ
に遭遇するカフェ、渋谷の複雑に絡み合った線路を
ある美味しいカレー屋、必ずと言っていいほど友人
小さな発見がある。ミニシアターへの近道の途中に
も不便なだけではない。映画館を巡って街を歩く度、
京の街を西へ東へと走り回ったらしい。しかしそれ
映画狂たちは映画を見るために、情報誌を片手に東
インターネットで検索すれば済むことだが、当時の
方法がなかった。現在はレンタルショップへ行くか
数十年前まで、映画を見るには映画館に行くしか
で記録した。﹃映画旅日記﹄は彼の﹁映画のための
れば映画に撮っただろう。梅本は日記というかたち
呼吸を、ヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画監督であ
めの小さな旅﹂だ。そこで生活し感じ取った都市の
規模は違えど東京での映画狂生活と同じ﹁映画のた
どんな人物と出会い、何を見聞きしたか。この旅は、
ヴァー﹄を通じて東京へ帰ってくる。どんな風景と、
後にオリヴィエ・アサイヤス監督﹃デーモン・ラ
﹁映画を︵東京から︶連れ出して﹂パリへ行き、最
画祭へ、そして当時無名だった黒沢清と青山真治の
マルセイユと山形で開催されたドキュメンタリー映
述から始まる。その後梅本は﹁映画に連れられて﹂
この書籍は映画狂たちの聖地・パリについての記
きていたパリの風景である。
葉書のようなパリの風景ではなく、彼らが実際に生
た。そこで捉えられたのは私たちがよく目にする絵
れぞれのパリの風景を収めながら映画を作りだし
大通り ……
。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちはそ
ル塔、ジャン=リュック・ゴダールのシャンゼリゼ
景が映り込む。フランソワ・トリュフォーのエッフェ
のである。映画を街中で撮影すれば、当然都市の風
た寒々とした冬のパリの街中で映画を作りはじめた
暖かな場所から飛び出し、自らの生活の一部であっ
のフランス映画が引きこもっていたスタジオという
書評
を作ることが出来ると信じていた。パリに行ってそ
小さな旅﹂の記録である。
梅本洋一﹃映画旅日記 パリー 東京﹄︵二〇〇六年、青土社︶
れを確信に変えた。
ヌーヴェル・ヴァーグという映画史の転換点と
なったある潮流は、映画と都市の関係をより強固な
ものにした。パリの若き映画監督たちは、それまで
常盤台通信 No.11
発行日 :2016 年 11 月
執筆 :松尾祐樹 湧川依央理 糸数かれん 丹羽梓 松崎綱司 吉田野土香 則定彩香 誌面デザイン :湧川依央理 丹羽梓 吉田野土香
監修 :彦江智弘 中川克志 大井央
発行 :横浜国立大学大学院都市イノベーション学府
建築都市文化専攻 建築都市文化コース 文芸メディア創作スタジオ